INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2013/02

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2013年02月28日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:プラズマと気
テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

プラズマ現象と気は関係しているように直観された。
 プラズマとは、原子と電子を分離させて、プラス・イオンとマイナス・イオンに遊離させられた状態とざっと言えようが、それは、実は、気に近いと思う。
 陰陽があり、それらは、牽引と反発の相反する極性をもつ。陰陽が牽引が主導的になると、陰陽共振となり、物質化すると思う。これが、例えば、原子である。
 しかし、その原子をまた、引き離すと、陰陽に回帰するように思えるのである。
 つまり、プラスの原子とマイナスの電子を均衡させている力が気ないし陰陽力であると思われるのである。
 プラスとマイナスのイオンは牽引するが、プラズマ化は、両者を引き離す力も存する場合と考えられる。
 この引き離す力と気ないし陰陽力が関係すると思われる。
 つまり、直観ではこうである。

 陰*陽⇒原子(ないし分子)+エネルギー

(尚、*は結合を意味する)

原子を形成するとき、エネルギーが放出されている。
 しかし、このエネルギーに相当するものを原子に当てると、それは、逆反応を起こすと思われる。即ち、

原子(ないし分子)+エネルギー⇒陰*陽

である。
 この右辺の陰*陽が、マイナス・イオンとプラス・イオンの電離、つまり、プラズマ化に相当すると思われるのである。
 無双陰陽原理で言えば、プラズマに相当する陰*陽は当然、陰陽様態ないし気である。
 以上、直観像である。後で、精緻に検討したい。

追記:以上では、原子と分子を区別していないが、原子における陰陽は、分子においても考えられると思う。

参考:

イオン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3

ja.wikipedia.org/wiki/イオン - キャッシュ - 類似ページ
物理学、化学物理学の分野では、気相のイオンに対して、陽イオンの代わりに正イオン(
せいイオン、英: positive ion、カチオン)、陰イオンの代わりに負イオン(ふイオン、
negative ion、アニオン)が多く用いられる。大気電気学では、気相のイオンを大気
イオン(た ...

作用抑制メカニズム

自然界と同じイオンで空気を健康にする、そのメカニズムを詳しく解説します。

http://www.sharp.co.jp/plasmacluster/mechanism/


プラズマクラスター - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC

ja.wikipedia.org/wiki/プラズマクラスター - キャッシュ - 類似ページ
プラズマクラスター(Plasmacluster)は、家電メーカーシャープによる造語であり、
プラズマ放電により活性酸素を発生させ+(プラス)と−(マイナス)のプラズマクラスター
イオンを作り空気中に放出するプラズマクラスター技術(特許第3680121号)を総称する
もの ...


放電プラズマにより生成したクラスターイオンを用いた 気中 ... - シャープ
httt://www.sharp.co.jp/corporate/rd/21/pdf/86-03.pdf - キャッシュ - 類似ページ
10. シャープ技報. 第86号・2003年8月. 論 文. * A1229 プロジェクトチーム. 放電
プラズマにより生成したクラスターイオンを用いた. 気中ウイルス不活化技術. Airborne
Viruses Inactivation with Cluster Ions Generated in a Discharge Plasma. 西 川 和
男 * ...

プラズマについての基礎知識
http://www2.kanazawa-it.ac.jp/sakudo-l/beginer.htm

www2.kanazawa-it.ac.jp/sakudo-l/beginer.htm - キャッシュ - 類似ページ
作道研HP内コンテンツです! *フレームが表示されてない方はこちらから入りなおして
ください。 *お願い 本文・画像の無断引用はおやめ下さい(連絡頂ければご相談に応じ
ます). プラズマの基礎知識 この世にある全ての物は 1原子と呼ばれる非常に小さな粒 ...
プラズマ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%9E

ja.wikipedia.org/wiki/プラズマ - キャッシュ - 類似ページ
プラズマ(英語:plasma、英語発音: /ˈplæzmə/)は固体・液体・気体につづく物質の第
四の状態の名称であって、通常は「電離した気体」をイメージに持つ。ここではまず、
プラズマの一般的解説を与え、ついでそれを巡るいろいろな話題について記す。
プラズマの ...

プラズマボール。繊維状の構造はプラズマの複雑性を表している。電子が励起状態 から低いエネルギー準位 に緩和 するとき、エネルギーの差に対応した光が放出される。

プラズマとは?
http://p-grp.nucleng.kyoto-u.ac.jp/plasma/

p-grp.nucleng.kyoto-u.ac.jp/plasma/ - キャッシュ - 類似ページ
一方,人間の手によって生み出されたプラズマは,放電現象として,蛍光灯をはじめと
する照明器具や,溶接,エッチング,薄膜形成等の加工技術に広く利用されています.
さらには,核融合反応によるエネルギー生成の実現を目指して, 1 億度以上の超高温 ...

Plasma (physics) - Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Plasma_%28physics%29

en.wikipedia.org/wiki/Plasma_(physics) - キャッシュ - 類似ページ
Plasma (from Greek πλάσμα, "anything formed") is one of the four fundamental
states of matter (the others being solid, liquid, and gas). Heating a gas may ionize
its molecules or atoms (reducing or increasing the number of electrons in them), ...

Physics of Plasmas
http://pop.aip.org/

pop.aip.org/ - キャッシュ - 類似ページ
Invited talks given at the 54th annual APS Division of Plasma Physics meeting
held in Providence, Rhode Island are now ... Physics of Plasmas congratulates
Liu Chen who is the recipient of this year's James Clerk Maxwell Prize for Plasma ...


2013年02月27日(Wed)▲ページの先頭へ
少・粗・減・絶・断食の意味するもの:ポスト・ユダヤ/キリスト教文明としてのマイナス・減法の新文明
テーマ:マイナス・減法の新文明:ポスト聖書文明

1日2食にしてみよう:今日はお昼を抜こう:せいぜい野菜サラダか
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11478244621.html

先に、以上のように、飯山一郎氏の放射能時代の小(少)食・減食・粗食・断食等の推奨・提唱を転載したが、今日、実際、お昼をほぼ抜いてみて、体調がいいのが、感じられた。
 そこで、ふと思った。これは、マイナスの新文明であると。
 聖書では、ヤハウェが「生めよ、増(殖)やせよ」(産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。創世記9章1〜19 | 布忠.com )とのたまったが、それが、経済成長主義のイデオロギー的大本と言えようか。
 残念ながら、今は余裕がないので、他日、詳述したいが、マイナス、あるいは、引き算こそ、新しい文明の要点ではないかと思うのである。
 食べることを減らすことが、免疫力の強化につながるとは、驚き桃の木山椒の木(実ではなかった)である。
 そう、痩せた土地で、植物は育つ。かつて、ジャンボ・トマト(なんとか、ジャポニカ)のことを読んで、頭では理解していたが、減食主義までは至らなかった。
 この減食・断食主義によって、マイナス主義、引き算主義の新文明が浮んだのである。
 これは、以前、よく考えたマイナス利子通貨、減価通貨、消滅貨幣の視点と一致すると思われる。
 これまで、成長主義、成長中心主義であった。しかし、マイナス、引き算に、生命、共生の価値があることがわかったのである。脱成長主義、ポスト成長主義である。言い換えると、成長という増量主義から、マイナス成長という減量主義への転換であり、それは、質的構築への進化を意味する。
 思うに、これは、新しい自然主義である。免疫主義である。質的発展主義である。
 今はここで留める。

追記:当然、ポスト資本主義を意味する。マイナス自然的共生経済主義である。

追記2:マイナス自然主義の視点から、気はどうなるのだろうか。気は、マイナス的自然に深く関係すると言えよう。気は、マイナス的自然力ではないのか。実に興味深い点であるが、後で検討したい。

追記3:マイナスということでは、PS理論のときの、マイナス1を想起する。再度、マイナスの問題を哲学数学的に検討すべきである。

参照:
創世記(口語訳) - Wikisource
第9章
[編集 ] 9:1

神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。
[編集 ] 9:2

地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、
[編集 ] 9:3

すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。
[編集 ] 9:4

しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。
[編集 ] 9:5

あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。
[編集 ] 9:6

人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。
[編集 ] 9:7

あなたがたは、生めよ、ふえよ、地に群がり、地の上にふえよ」。
[編集 ] 9:8

神はノアおよび共にいる子らに言われた、
[編集 ] 9:9

「わたしはあなたがた及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。
[編集 ] 9:10

またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。

http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%89%B5%E4%B8%96%E8%A8%98%28%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3%29#.E7.AC.AC9.E7.AB.A0


参照2:

ベジタリアンと喫煙と映画「ライフオブパイ」


実は、医食同源ですから、口に入れるものは、何でも食物であり薬物です。

私達は、食物と薬物と医薬品とを区別して考えるので、判断が混乱します。

ニコチンも、コカインも、脱法ハーブも、糖尿病薬も、降圧剤も、ビタミン剤も、ヨーグルトも、風邪薬も、肉も、野菜も、漢方も、カフェインも、砂糖も、塩も、アルコールも、放射性ヨード剤も、超極微量の放射能も…

私たちが暮らす社会には、気持ち良ければ、少々害があろうと、何でも自由で、気にしないという論理空間があって、何でも食べて肥満し、糖尿病薬も、降圧剤も、放射能も、なんでもドンドン…です。


逆に、イスラム社会には、自然の倫理を守るために、ニコチンやアルコールどころか、ブタさえも食べない人々がいます。彼らは、自由を失っているんでしょうか…

はて?、食物では、どこに善悪の境界線を引いたら良いんでしょう?


http://ameblo.jp/u-sa-kichi/entry-11477620246.html
クラスタ民主主義システム研究室

 
参考:
減価貨幣についてのメモ - 楽天ブログ - 楽天市場
plaza.rakuten.co.jp/epocha/diary/200703280000/ - キャッシュ - 類似ページ
2007年3月28日 ... コインで減価貨幣を実現するには、中世ヨーロッパのデマレージ通貨のように、期限を
区切って回収(通用しなくする)しなけれ .... 基礎金利と融資金利○減価貨幣は、お金が
お金を産む「基礎金利」を消滅させるが、実物経済のための繋ぎ融資や ...

第2章 地域通貨の歴史的背景 - 和歌山社会経済研究所
www.wsk.or.jp/work/b/h14-b-01/02.html - キャッシュ - 類似ページ
... 貨幣もまた劣化しなければならない」として、貨幣が劣化する市場経済の構築を目標
として自由貨幣(スタンプ貨幣、消滅貨幣)を提唱した。物と等価である貨幣であれば
時間とともに減価するはずである、ということから、プラスの金利よりむしろマイナスの
金利により減価し、蓄財しない貨幣を目指した。 ... また、アルゼンチンのデフレ政策を
見抜き「アルゼンチンの通貨問題」を刊行した。1900年スイスのレゾート・ジュネヴィ−に
移住し、6 ...

お金って何だ?I減価する貨幣の意味
sekaibank.net/okane001-10.htm - キャッシュ - 類似ページ
そのため地域通貨を紙幣として発行すれば、その紙幣は自然と減価する貨幣になる。 B
数字はけして老化しないし、消滅はしない. でも、紙幣で書かれた数字を電子マネー化
したら、それは老化しない。お金に書かれた数字自体はけして変わらないからだ。数字
の ...

個通貨はマイナス利子通貨(減価通貨、消滅貨幣) - なんでも哲学する ...
sophiology.jugem.jp/?eid=120
個通貨を管理する個通貨共同体銀行が必要:個通貨はマイナス利子通貨(減価通貨、
消滅貨幣)になろう. 2012.11.02 Friday | category:通貨・貨幣論. 先に以下のように
述べたが、個通貨は個が発行する通貨であるが、個的共同体で使用するものであり、 ...

金貸しは、国家を相手に金を貸す | 減価する貨幣を導入すればどうなる!?
www.kanekashi.com/blog/2009/12/001113.html - キャッシュ
2009年12月8日 ... それを見た風辺の200以上の都市が減価する貨幣の導入を検討し始めましたが、これ
は金貸しにとって不都合なシステムだったのでしょう。1933年に ... B国が、製品を輸出
した場合に受け取る通貨がA国通貨(減価)であれば、前述通り受け取りを拒否するで
しょう。 ... 但し、1970年に貧困は消滅し物欲は衰弱し続ける一方であり、また昨今の
デフレ現象が象徴的なように、大前提として生存圧力克服→物欲が衰弱して ...


2013年02月22日(Fri)▲ページの先頭へ
陰陽を正負・NSに変換する中間力学:次元変換子:陰陽の現象化としての電子と磁気
陰陽を正負・NSに変換する中間力学:次元変換子:陰陽の現象化としての電子と磁気

テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

余裕がないので、ポイントだけ簡単に(追記:簡単に、ではなかった。)指摘する。
 陰陽とは、以前述べたように、牽引と反発の二つの相反する力が働いているという極性をもっている。
 しかしながら、電気や磁気は、正負、NSの極性があり、それは、単に牽引力をもつ。勿論、同じ極は、反発するが。
 とまれ、陰陽から電気、磁気(まとめて、電磁波)が生成するには、陰陽の相反する極性を変換させる必要がある。
 その変換力をとりあえず、中間牽引力と呼ぶ。
 それは、無双陰陽原理では、MPに相当するものである。
 先の陰陽身体三元論から言うと、身体意識・理性に相当するものである。
 ここで簡単に図式化すると、

陰ー中間牽引力ー陽

陰ー身体理性ー陽

である。
 ここで、正負を考えると、例えば、陰側がマイナス、陽側がプラスになるとすると、

陰(マイナス)ー中間牽引力ー陽(プラス)

となる。
 しかし、陰は本来、マイナスではなく、陽も、プラスではない。
 だから、

「陰」(マイナス)ー中間牽引力ー「陽」(プラス)

とでも表記すべきである。
 思うに、中間牽引力を次元変換子と見てもいいだろう。つまり、陰陽の霊的次元から電気・磁気の物質的次元へと変換するものだからである。
 ここで以前簡単に触れた、牽引化と反発化の分離・乖離を考えるといいかもしれない。
 つまり、陰*陽⇒±1を考えるのである。これは、かつての、PS理論の自己認識方程式ではない。何故なら、プラス1とマイナス1が生起しているからである。
 とまれ、牽引化によって、プラス1が、反発化によってマイナス1が生じると考える。
 四元(しげん)数によると、プラス1の他に、三つの虚数が生じることになるが、今は、それをおいておこう。
 とまれ、牽引化が物質化を意味するのであり、そのとき、陰は「陰」=マイナスに、陽は「陽」=プラスに変換しているのである。
 今ふと思ったが、これをガウス平面に見ていいのかもしれない。つまり、ガウス平面の−1がマイナスであり、+1がプラスである。つまり、実軸で、牽引することになるのである。
 しかし、私の最初の考えは、物質化は、+1の側に存するのであり、−1の側ではない。
 −1の側は、物質化の反対であり、脱物質化なのかもしれない。
 そう、以前、THRIVEのトーラスに関して述べたように、+1は、生の側であり、−1は死の側のように思えるのである。
 ということで、次元変換子による陰と陽のマイナスとプラスへの変換は、+1と−1ではないことになる。
 (そう、ここで不連続的差異論の考え方を導入すると、次元変換子とは、連続的同一性化と非連続的非同一性化の二つの過程を意味し、前者が生であり、後者が死となる。
 フロイト精神分析を使えば、前者がエロスで、後者がタナトスかもしれない。追記:この箇所は問題があるので、保留である。)
 さて、ここで、気について考えるとどうなるだろうか。
 これまでの考え方では、気は、+1である。それは、生の力である。
 ここで、陰と陽について、分節化しておこう。
 次元変換子によって、陰ー次元変換子ー陽となるが、このとき、陰は、牽引/反発(以下、牽/反)の牽を、陽も牽/反の牽を見せていて、牽引するというように考えよう。
 つまり、陰と陽、それぞれ、牽の極を見せているとするのであり、そして、反の極を背にしているのである。つまり、

反/陰/牽ー次元変換子ー牽/陽/反

となっていると考えるのである。
 言い換えると、陰の半面と陽の半面が牽引し合うのであり、他の半面はいわば隠れているのである。
 これを陰と陽の反転による牽引化=物質化と呼んでいいかもしれない。
 つまり、陰陽次元では、陰と陽は、牽引/反発の即非的極性であるが、次元変換子によって、それぞれ、反転して、牽引化=物質化するのである。つまり、電子化=正負化、磁気化=NS化である。
 ここで、気について考えると、それは、次元変換子によって、生成される電子や磁気のエネルギーが衰退に対して、新たな電子や磁気の生成をもたらす力ではないのだろうか。
 つまり、陰と陽の反転=牽引化と気が関係するのではないだろうか。つまり、次元変換子の作用が気ではないだろうか。
 どうも議論が錯綜してきたので、発想を変える。
 初めに、太極ありき、である。それが陰陽に分極化する。そして、両者は牽引と反発が存する。しかし、太極へ回帰しようとするために、反発から牽引へと進展するのではないだろうか。
 つまり、

太極⇒陰陽分極化(反発と牽引)⇒陰陽共振(牽引化)⇒再合一化

というプロセスがあるのではないだろうか。
 気はこの陰陽共振の力ではないだろうか。言い換えると、太極へと再合一化する力が気ではないだろうか。
 これは、極言すれば、太極の力、太極の根源的力ではないだろうか。プラトン的には、エロースである。
 そう、超越的力である。現象的には、物質的であるが、本質は、超越的力と言えよう。
 そうすると、やはり、先に述べた次元変換子と関係しよう。
 簡単に数字化すると、

1(太極)⇒2(陰陽分極)⇒1(再合一=再太極)

である。
 ただし、最後の1は、最初と同一の1ではなく、螺旋的回帰した1で、質的に向上していると考えられる。
 なにか弁証法を想起するが、あくまで、陰陽極性であることを想起する必要がある。
 思うに、上図式は、現象化がないようだ。だから、現象化を入れよう。

1⇒2⇒現象⇒1

である。現象を3とすると、

1⇒2⇒3⇒1

となる。
 本題に戻ると、陰陽は現象化⇒1と変換するとき、正負化ないしNS化すると考えられる。
 そうならば、電子や磁気は、陰陽の現象化・物質化と言うことができるかもしれない。
 今はここで留める。

追記:電子、磁気は陰陽の現象化・物質化としても、それらは、そのまま、陰陽ということではない。
 本体は陰陽、太極であり、その現象として、電子、磁気、あるいは、粒子があるということになるのである。
 極論すると、陰霊と陽霊が電子と陽電子になっているということになる。つまり、現象界とは、霊界の現象世界ということになる。





奈良桜井市はなつかしい:もう、20年前のことになる

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

約20年前によく、奈良へ遊んだ。桜井市は、大神神社や山の辺の道があり、今でも、情景が浮ぶ。石仏がゆかしい。私が精神的危機に陥った時期に、訪れたものだった。
 思うに、私の精神は、陰と陽で葛藤していたのである。陽の唯物論と陰の神秘主義が争っていたのである。
 そして、その時は、後者に傾斜したのである。私は死に怯えて、救いを求めた。結局、思い過ごしであったと思う。
 しかし、無意識に、陰が作用したと思う。そう、陽へと傾斜して、完結しつつあった私に、陰の急襲があったのである。
 陰と陽の衝突・激突、20年過ぎて、ようやく、解決に至ったと思う。(参照:陰=魂(肚)と陽=自我(頭)をつなぐ身体意識(理性):無双陰陽原理は陰陽身体三元論へ進化する (02/18) http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1925.html)

箸墓古墳で現地調査 土器など確認 NHK
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130220/k10015655321000.html






英語学習のこつを無料で教えましょう:単に英語だけでない、語学学習のために

テーマ:education

最近、英語学習ないし語学学習のこつはなにかがはっきりとしてきた。
 それを、今、無料で教えましょう。
 
1)先ず、文法を知る必要がある。それには、体系的視点が必要である。総体を見る視点が必要なのである。ただ、個々だけを憶えようとすると、憶え切れない。
 秩序立った視点をもって、文法を学ぶと記憶できるのである。

2)NHK講座がダウンロードできるので、それを使われたし。無料である。
 リスニングも大事であるが、発音をよくする必要がある。これは、私の経験から言うが、自分の発声器官(咽喉、舌、唇等)をクラシック音楽の楽器と思って発生すると、きれいな音声になる。今日の日本語は、実に聞き苦しい音になっているので、日本語もきれいになるだろう。
 堅苦しいリスニングが嫌な人は、YouTubeで歌を聴くといいだろう。

3)記憶の問題であるが、これは、結局、何ということはない。繰り返しの問題である。繰り返しと反復は異なるのである。
 繰り返すことは、忘れたことを憶えたり、また、憶えていることを強化することであり、また、言葉の仕組みが見えてくることである。(追記:つまり、繰り返すと、言葉の形が見えてくるのである。言葉の有機化と言えよう。後でもう少し考えたい。)
 これは、期間と関係するが、3ヶ月継続できれば、なんとか形ができるのである。3ヶ月の辛抱である。

4)後は、語源を憶えるといいのである。それと同時に、イメージ(ある人は、感覚というが)で捉えることが役立つのである。
 例えば、onは、「〜の上に」ではなく、「〜に接して」というイメージで捉えるのである。そうすると、「彼女の家はあの通りにある。」の「あの通りに」の「に」は、onであることはわかる。つまり、通りに「接して」存するということだからである。
Her house is on that street.
 あるいは、embraceは、抱くであるが、em(inと同じ意味)が中へ、brace(braceletを参考)が腕であるから、腕の中へという意味である。転義して、取り囲むという意味になる。

5)英語はアングロ・サクソン語(ゲルマン系言語)とフランス語(アングロ・ノルマン)のハーフである。いわば、大和言葉と漢語が同居し混淆(悪く言えば、雑居)しているようなものである。
 だから、何がゲルマン系であり、何がフランス語系かがわかると、視点が見事に拡大する。当然、それ以外のものもあり、世界最多の語彙ではないだろうか。

6)基礎英文法書として、総合英語Forestをあげおく。これは、実にわかりやすく、説明している独習用書である。
総合英語Forest 6th edition/桐原書店

¥1,575
Amazon.co.jp

7)その他、「英語を生きている人」に教わるといい。これは、英語に限らない。結局、言葉は、単に、頭の言葉だけでなく、魂の、心の、血の言葉である。魂の言葉である。それがわかれば、語学学習は楽しいものになる。

8)今日、コミュニカティブな語学が中心である(コミュニカティブアプローチとは - Weblio辞書  さまざまな教授法 )が、私見では、それも大事であるが、日本人は、読むことから入った方がいいと思う。映画の英語が聴いてわかっても、それほどうれしくない。それより、本の英語が理解できた方が有意義である。

 私は定年退職後、古今東西の言語を学んで余生を過ごすつもりである。知ることは亦楽しからずや。

追記:上記を無双陰陽原理にあてはめると、文法は陽であり、イメージは陰である。この両者が結びついて、つまり、陰陽共振となって、語学が身に「着く」のである。そう、先の陰陽身体三元論から言えば、身体理性に言語のコアがあるのである。

追記2:陰について補足すると、陰は陽の知・認識に対して、存在を意味する。だから、言語においても、存在が重要と考えられる。言葉の存在とは何か。それは、言葉の魂、霊魂である。言霊と言えるかもしれない。
 とまれ、身体意識・身体理性によって、言葉の陽=知と言葉の陰=存在が結合して、言葉が生きたものになるのである。
 イメージの陰も、基本的には、存在領域に入ると言えよう。
 ところで、イメージの陰であるが、正確に言うと、微妙な点がある。確かに、陽=知・認識に対して、陰=感性側に存する。しかし、それは、視覚的であるから、陽領域に関係するのではないだろうか。
 そうすると、イメージは陰と陽の結合領域に存することになるのではないだろうか。それは、身体意識、身体理性の結合領域に存するということになる。後でさらに検討したい。
「第1回論語勉強会」

〜「学びて時にこれを習う」〜 瀬戸塾師範 瀬戸謙介

【原文】
学而
子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方夾、不亦欒乎、人不知而不慍、
不亦君子乎
【書き下し文】

      子曰わく、学びて時に之(これを)習(ならう、
          ) 亦(また)説(よろこばしからず)乎(や )
           朋有(あり)遠方(えんぽうより来きたる、
           亦た楽しからず)乎(や
           人知らずして)慍(うらみず、亦た君子ならず)乎


(や )
【解説】
子曰わくの子は先生と言う意味ですが、ここでは孔子を指しています。
学びて時に之を習うの「学び」はもちろん学問の事です。「時に習う」はほとんどの著書で「時々復習する」と訳しています。しかし時々では意味が釈然としません。
 孔子は学問を時々復習すればよい程度に軽んじているのではなく、学問こそが徳を身に付けるために不可欠なものと考えています。学問は学んだことをすぐに 復習し、実践することが大切です。実践することにより書から学んだ学問が生きた学問となり、学問が身に付いたことが実感出来ます。ですから「時に習う」の 時は時々ではなく「時に応じて」と訳すのが正しいと思います。常に復習し、時に応じて(必要に応じて)実践する。実践することにより生きた学問となり、よ り理解が深まり、そうすることにより自分の身に付く。と訳した方が正しいと思います。
「亦た説ばし【注三】からず乎」一生懸命勉強し身に付けた知識が、実践することにより世の中の役に立つという事が実感出来た時、それこそが人生のよろこびではないか。
 「朋有り遠方より来る」の朋はもちろん友人のことも指しますが、この場合には友人とは限りません、学問に対して同じ志を持つ人を指します。同じ志を持つ 人がわざわざ遠方から訪ねてきて学問について語り合い、時には意気投合し時には激論を交わし共に切磋琢磨する。そうして新たな考えを導き出す。「亦楽し 【注四】からず乎」なんと愉快で楽しいことではないか。
 「人知らずしてうら慍みず【注五】」学問の道は人に認められる為にするのではないから、世間が認めてくれないからといって人を恨んだり、天をとがめたりせず、そんなことは気にしないでただ自分を磨く為に勉学に励む。「亦た君子(くんし)ならず乎」 それでこそ君子ではないか。 といった意味です。

古英語 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/古英語 - キャッシュ - 類似ページ
古英語(古英語:Englisce sprǽc, 英語: old English)または古期英語、アングロ・
サクソン語(Engle-Seaxisce sprǽc)は、5世紀半ばから12世紀を中心にイングランドで
使われた、インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派に属し、現代英語の祖語にあたる言語。

アングロ=ノルマン語 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/アングロ___ノルマ___語 - キャッシュ - 類似ページ
アングロ=ノルマン語(アングロ ノルマンご、Anglo-Norman language)は、1066年の
ノルマン・コンクエストによりイングランドにノルマンディー地方で話されていたオイル語(
北フランスの言語のひとつ)の一種であるノルマン語がもちこまれて形成された言語。



2013年02月18日(Mon)▲ページの先頭へ
陰=魂(肚)と陽=自我(頭)をつなぐ身体意識(理性):無双陰陽原理は陰陽身体三元論へ進化する
テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

先に、食事哲学について触れた(世界の謎:食事哲学:地球生活の謎:身体と意識:ポスト唯物論としての逆ルネサンス http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11472263858.html)が、陰と陽を調和させるものは身体理性ではないかと思う。
 魂と自我の二元論がある。ロマン主義と物質主義である。
 一方は超越性を志向し、他方は現実性を志向する。
 魂=陰は身体を住処とし、自我=陽は物質的身体を維持する。だから、両者に身体は共通である。
 そう、魂―身体―自我の三元論があるだろう。無双陰陽原理は、陰陽の媒介として、MP(Media Point)を説くが、それは理念的である。
 しかし、身体ないし身体意識(身体理性)を置くと、明快明確になるだろう。MPだけでは、抽象的である。

 身体を住処とする魂は、魂の欲望を追求する。そして、物質的身体を維持する自我は、その欲望を満たす。

 しかし、魂の欲望は無限であり、自我の欲望もそれなりに無限である。陰=闇の無限と陽=光の無限である。そして、この衝突がある。二元論的衝突である。

 この調和を私は陰をベースに求めた。しかし、それでは、陰の無限に惹かれて、陽が犠牲になるのである。現実性=物質性が阻害されるのである

 この不均衡を解消するのが、身体意識(身体理性)である。

 これは、一方の極に陰=魂=肚をもち、他方の極に陽=自我=頭をもつ。そして、前者に健全に裨益しようとするなら、この身体意識(ないし身体感性)に基づく必要がある。

 ここで、食事哲学がキーポイントとなるのである。食事は気的食品によって、身体を介して、魂に裨益するのである。同時に、当然、食事は物質的身体を保持するのである。

 食事哲学によって、また、身体意識によって、陰=魂の生活と陽=自我の生活のバランスがもたらされるのである。

 身体であるが、これは、気的感性によって、霊と通じ、また、一般的感覚(五感)によって、自我と物質的現実に通じているのである。

 この身体意識は、丁寧に言えば、身体感性感覚意識理性と言うべきものである。そう、あえて言えば理性とは、抽象観念的なものではなく、陰陽身体バランスに存するのである。

 とまれ、以上から、無双陰陽原理を陰陽三元論として発展させることができた。

 理論名であるが、無双陰陽原理から無双陰陽身体原理へ変えようか。簡単にするため、単に陰陽身体原理にしようか。



追記:シュタイナー霊学に即して言えば、陰=ルシファー、陽=アーリマンであり、両者を均衡させるのは、キリストである。これまで、キリストに相当するものをMPにしたが、以上から、それは、身体意識(理性)ということになる。

 しかし、身体理性という視点は、もう単に霊的なものではなく、霊魂と物質の両面に渡るものであるから、キリストではなく、ポスト・キリストである。D.H.ロレンスの「死んだ男」の方がふさわしい。


2013年02月17日(Sun)▲ページの先頭へ
世界の謎:食事哲学:地球生活の謎:身体と意識:ポスト唯物論としての逆ルネサンス
テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

レタスを多く食べ、豆乳ヨーグルトを食し、そして、森気浴(森散策)を行ない、また、一食、玄米を抜いた(小断食)結果、生の謎が解けたように思えた。
 食事は実に深い。食事哲学がこれまで、なかったことが不思議である。もっとも、マイナーではあるだろうが。(追記:マイナーではなく、有名なものがある。ブリア=サヴァラン http://www1.accsnet.ne.jp/~terakoya/biographie/brillat-savarin.html ヴィリア・サヴァランの料理哲学http://stamasan.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-02b8.html 美味学の永遠の基礎−ブリア・サヴァラン「美味礼讃」http://www.pixy10.org/archives/8956358.html)とまれ、思ったことを述べよう。
 体調が悪く、酒を体が受け付けなくなり、断酒した。もっとも、付き合いの酒は飲むが。これまで、一ヶ月に一回である。
 そして、上記したように、レタスを食べ、また、小断食を行ない、コンディションのよい生活を行なうと、それまでの食事、食欲は、物質主義的であったと思う。量的食事、食欲だからである。
 しかるに、食事は小食で、また、野菜、穀物中心で大丈夫なのである。そう、レタス食、断食で、身体、身心の浄化が為されていると思うのである。この浄化が重要である。
 物質主義的食事、食欲では、この身体的浄化が為されないのである。
 物質主義的食事・食欲を唯物的食事・食欲とすれば、今の食事・食欲は、ポスト唯物論的食事・食欲と言えるだろう。
 これは単に、食だけのことではなく、社会全般にも関係することである。資本主義は、端的に、唯物論的経済であった。しかし、今や、ポスト唯物論の時代であり、そうすると、資本主義は、当然、衰退することになる。ポスト唯物論経済へと移行する必要があると考えられる。
 思うに、都市文明とは、唯物論的資本主義文明である。今や、それが、崩壊しつつあると思う。
 そう、ポスト唯物論的食事・食欲から見て、ポスト唯物論的世界が生まれつつあると思う。
 物質主義的文明の崩壊である。思うに、共同体的社会の文明が生まれると思う。創られるだろう。

 ここで、また、無双陰陽原理に関わることを言おう。
 陽=頭=自我は過去(=死)である。そして、陰=肚=他者は現在というか、未来(=生)である。
 今日の文明は、過去の文明である。未来の文明をまったく見ていないだろう。
 創造は陰=肚=他者にあるが、陽=頭=自我はそれにまったく気づいていない。
 思うに、陽=頭=自我は、唯物論=資本主義=権力(暴力、国家)の文明であり、それは、悪魔の文明であり、世界、自然、人類を破壊する。そう、死の文明である。
 それに対して、生の文明は陰=肚=他者から生まれるのである。これは、ポスト唯物論の文明である。
 ポスト唯物論=共同体的経済=共存の文明である。
 陽=頭=自我とは、認識主義を意味するのであり、それは、陰=肚=他者の存在性を否定してしまうのである。(ハイデガーの存在論はこの点で画期的かもしれない。しかし、彼の発想は、まだ、物質主義的である。)
 思うに、陰=存在であるが、それは、根源の太極に通じていよう。超越的知的存在に通じているのである。それは、いわゆる、霊、神霊であろう。しかし、それは誤解されるので、超越的知的存在(陰陽円がそれ?)という方が、科学的である。
 ここで、飛躍的言うと、ダークマター(暗黒物質)とは、陰=存在ではないだろうか。また、ダークエネルギー(暗黒エネルギー)は、そこで喚起されるエネルギーではないだろうか。
 とまれ、陽=頭=自我=唯物論の文明は今や終焉を迎えていると言えよう。新しい陰=肚=他者=ポスト唯物論の文明へと移行しつつあると考えられる。
 そう、ポスト唯物論とは確かに、霊性を意味しよう。しかし、これは恐ろしく誤解される。
 思うに、身体を新たに把捉する必要がある。
 冒頭からの上述から、ポスト唯物論的身体と唯物論的身体があると言えよう。言い換えると、霊的身体と唯物的身体の二つがあるのであり、両者は混同されやすい。
 霊的身体にも当然、物質があるが、それは、霊主体従的物質である。それに対して、唯物的身体の物質は、体主霊従的それである。
 そう、思うに、霊に近い物質があるのであり、没霊の物質もあるのである。
 霊に近い物質とは、気をもつ物質だと思う。植物が主にそうだと思う。それに対して、没霊の物質とは、気の消失した物質である。
 ところで、また、飛躍するが、気は、思うに、これまで、陰陽共振に拠ると述べたが、ひょっとして、陰に存するのではないだろうか。陰陽共振は、正に、現象創造、宇宙自然現象創造を意味するのではないだろうか。不可視の陰=闇を背景にして、陽=光が存するのではないだろうか。例えば、太陽は背景に不可視の陰=闇【D.H.ロレンスの言葉では、ダーク・サンになるだろう】をもつことになる。また、陽=光が純粋物質を作るのではないだろうか。それは、生命的物質体は作らないと思う。生命的物質体とは、陰陽共振が生成すると考えられる。とまれ、この点はここで留める。
 本題に戻ると、霊的物質とは、陰的物質(生命体)であり、唯物論的物質とは、陽的物質(純粋物質)ということになるだろう。
 
 現在は過去を見ているようだ。
 物質的世界は滅びていく。
 陰の不可視の世界から、未来が生まれる。
 自我は、陰界を知らない。しかし、無意識はそれを知っている。
 無意識は、自我より、賢いのである。
 とまれ、霊的身体の新世界、新文明がやってくる。
 唯物論=資本主義=利己主義の旧世界は瓦解してゆく。
 そう、光は暗かったのである。
 陽光の中にある陰闇に本当の「光」があるのである。
 とまれ、陰闇に超越的知的存在=太極が内在するだろう。
 陰闇に神霊の「光」があるだろう。
 それこそ、アフラマズダ、キリスト、天照大神、他であろう。
 マニ教の光も当然、それである。
 闇の中に真の光があったのである。
 日常見ている光は、実は、闇であったのである。
 光は暗く、闇は明るい:私の19才のときの言葉。
 きれいはきたない、きたないはきれい:『マクベス』の魔女の言葉。
 思うに、ルネサンス(イタリア・ルネサンス)は、内在する闇から
 外在する光へと向った。
 今や、外在の光から内在する闇へと帰還して、
 超光へと向うべきであろう。
 逆ルネサンスである。
 
 思うに、陰はすべてを知っているのである。
 今日の唯物文明の必要な理由は、シュタイナー的に言えば、
 陽=頭=自我の覚醒のためである。
 それによって、真の自己=個が生まれるのである。
 
 とまれ、世界の謎が解けると、急激に、旧世界は瓦解していくだろう。
 陽=頭=自我=父権=唯物論=資本主義の旧文明の終焉である。
 
 光は闇であり、
 闇は光である。

 今や来るべきものが来たのである。

追記:性について言うのを忘れていた。
 
 性とは、太極の物質的分極化ではないだろうか。
 陰傾斜が雌となり、陽傾斜が雄となる。
 そして、両者、陽を介して、補完する分極を欲望するのである。
 陰傾斜は陽傾斜を、陽傾斜は陰傾斜を欲望する。
 この分極的欲望が性欲である。
 これは、太極が根源なので、合一へ志向するのである。
 ただ、物質的合一である。
 しかし、母権制においては、性交は太極的合一を
 真に意味しただろう。
 そう、性は聖であった。
 D.H.ロレンスはそれを希求した。
 しかし、ポスト唯物論の時代にあって、性は、プラトンのエロースに
 なるのではないだろうか。
 性はスピリチュアルになるのではないだろうか。


2013年02月13日(Wed)▲ページの先頭へ
生命とは何か:陰=生=主=優=女、陽=死=従=劣=男の対極的力学としての生命?
テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

最近、ソマチッドというものがあることを知ったが、まだ、完全には信じていないが、実在するとすれば、きわめて、挑戦的なものである。
 思うに、一般的生命以前の生命、いわば、原生命体である。気は原生命である。
 とまれ、第一に、生命とは何か、理論的に、定義する必要がある。
 今は余裕がないので、考察できないが、今、直観を述べるに留めたい。
 無双陰陽原理から言うと、陽とは利己的であり、他者を「食べる」ものである。陰は利他的というか、正に、他者であり、自己は「食べられる」ものとなる。
 陽は、必要悪であり、陰は、他者との共存・共生を目指す。
 前者は原父権であり、後者は原母権である。
 生命体はこの絶対的矛盾をもった存在である。
 思うに、陽が物質志向であり、陰が精神志向ではないだろうか。
 そして、陽は陰を「侵略」するのであり、そのため、生命体は、自身を破壊する傾向をもつのである。
 陽の破壊志向に対して、陰は共生志向をもち、未来的である。
 生命はこの両極をもっているだろう。しかし、陽と陰の力学を考えたとき、陽よりも陰の方が、本来、力が強いのではないだろうか。でないと、端的に、生命体は、陽の破壊力によって、滅亡するだろう。
 端的に、陰陽であり、陽陰ではないのである。
 結局、陰基底に拠る陽の冒険のようなものが生命体、生命である。思うに、初めに、陰在りきである。闇在りきである。
 その後、陽が生まれたのである。
 ジェンダー的に言えば、当然、初めに、女在りきである。これは、生物学的にも根拠のあることであるし、その他、神話学的にもそうである。
 つまり、陰という生命の根源の上に陽という死の力が作動しているのだろう。陰=生、陽=死である。この対極的力学が生命力学と言えよう。ただし、あくまでも、陰=生が根源である。
 そこから考えると、陰=生に相当する生命体、物質体があってもいいのかもしれない。それが、ソマチッドなのかもしれない。
 陰的生命体としてのソマチッドを作業仮説にできよう。
 それは、陰陽共振による気よりも以前の存在ということになる。というか、気を生み出す、陰霊と陽霊の共振以前の陰霊が生み出す生命体ということになる。
 今は以上の思考実験で留める。

* ソマチッドと陰陽:あるいは、ソマチッドと気

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11468770693.html

* ソマチッドとアカシックレコードとプラーナ呼吸

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11468558335.html

* ソマチッドとは何ぞ哉:胡散臭い感じもあるが、もう少し見てみよう

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11468523897.html


2013年02月11日(Mon)▲ページの先頭へ
<無双陰陽原理概念座標:Ver13.0.0>:自己を自我に変更する:陽は自我となる    
図は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11468440131.html


<無双陰陽原理概念座標:Ver13.0.0>:自己を自我に変更する:陽は自我となる    
 
テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

自我と知性のズレ:自己同一性の盲目と知性(悟性):父権的自我は知性 ...
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11463254471.html
先に以上で述べたことを受けて、以下のようにバージョンアップする。
つまり、自己が自我となったのである。陽原理は自我の原理であり、自己のではない。自己とは自我・陽と他者・陰との共振体が本当のものであり、それは、個ということである。

<無双陰陽原理概念座標:Ver13.0.0>

         陰陽(円)

          陽(✡):自我
          |
          |
          |
          |
          |
          ★
_______・_______実軸(気=天地軸)+1
          ☆
          |
          |
          |
          |
          |
         陰(✪):他者

【但し、・は太極点(内在的超越点、MP: Media Point)、★は陽における陰点、☆は陰における陽点である。
 そして、陰陽(円)は軸ではなく、多次元、無限次元、無次元であり、陽=自我と陰=他者で意識、精神、魂、自己=個を形成し、生命気螺旋とは区別される。
尚、実軸は気軸=天地軸とし、太極点から発出する生命気螺旋における四元数(1, i, j, k)の三つの虚軸(空間三次元)は記入していない。時間はエネルギーであり、以下の⇒に相当する。
 霊「数」、陽✡、陰✪を仮説して、また、陰陽共振を✇で表わし、以下のように公式化する。無双陰陽原理公式である。
✪✇✡⇒a + bi + cj + dk 
or
✪✇✡⇒+1 + i + j + k

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11468440131.html




英文法革命へ向けて:英語の補語Complementについて:日本人の英語能力を進化させる

テーマ:language

英語の5文型は周知である。
 それは主語Subject、動詞Verb、目的語Object、補語Complementからなるが、補語がどうもしっくり来ないのである。
 Complementは補足、補完という意味である。
 しかし、実際は、そのような意味ではないと「直感」するのである。

1)I am a boy.
2)She is beautiful.
3)I found it very interesting.

下線部が補語であるが、補足、補完しているのだろうか。していないと思う。
 ある主体、存在の存在様態を表現していると思う。
 例えば、1では、私という存在様態が少年ということになり、2では、彼女という存在様態が美しいということであり、3では、それという存在様態がとても興味深いということになるだろう。決して、主体、存在を補足、補完していない。
 だから、補語ではなく、存様語、存象語、存態語、等ではないのか。あるいは、思い切って言えば、現象語Phenomenonである。
 そうすると、

主語S+動詞V+補語C

は、

主語S+動詞V+現象語P

となる。
あるいは、

主語S+動詞V+目的語O+補語C

は、

主語S+動詞V+目的語O+現象語P

となる。
 こうすることで、明快明晰になり、非常にすっきりするのではないだろうか。
 ところで、be動詞であるが、これは、多くの人が言うように、存在動詞と見るといいだろう。

 She is a beauty.

は、

She主語+is存在動詞+a beauty現象語

であり、「彼女は美人という現象として、存在する。」ということになる。

追記:因みに、無双陰陽原理から言うと、主語は、「陰」であり、現象語は「陽」である。
 では、存在動詞は何だろうか。陰⇒陽、ないし、陽⇒陰の⇒ではないだろうか。これは、陰陽極性そのものではないだろうか。私の用語では、共振である。陰陽共振である。
 ならば、主語は陰、存在動詞は共振、現象語は陽となる。
 思うに、存在動詞は太極と言えるような感じがするのである。あるいは、少なくとも、太極と関係するように思えるのである。
 思えば、ヤハウェは、「我は『在りて、在り余れる』ものなり」とモーゼに述べたのである。そうすると、ヤハウェは、存在動詞の根源のようなもの、あるいは、太極のようなものと言えようか。
 とても興味深いが、今はここで留める。

追記2:「わたし」、自己の問題であるが、以上の視点から見ると、根源の 「わたし」、自己は、陰=肚(腹)=他者に存することになろう。自己=他者?!である。そして、一般に、自我とは、陽=頭のことで、これは、根源の「わた し」、自己の現象として存する、存在様態であるということになる。
 この現象としての「わたし」、自己、即ち、自我が、一般には、自分と思われているが、それは、単に現象に過ぎず、本体、本質、実体は、陰=肚=他者に存するのである。
 近代の狂気は、陽=頭=自己を中心としたことに拠る。デカルトの「コギト・エルゴ・スム:我思う故に我在り」はこの原理原則である。
 D.H.ロレンスがそれを逆にすべきであると述べていた。即ち、「スム・エルゴ・コギト:我在り故に我思う」であるが、正に、天才的洞察である。

追記3:結局、陽の光とは、陰の闇から生まれるのである。陰陽論が陰から始めるのは、正しいと言える。
 老子の説く玄牝は正しい。
 ついでに資本主義であるが、金融資本とは陽であり、協働資本とは陰である。今日は、陽が陰を食らっているのである。
 そう、陽が資本で、陰が労働とも言えよう。資本経済に関する無双陰陽原理の考え方は後で検討したい。

追記4:天候を表わすit(It is sunny. It is windy. It is raining. Etc.)であるが、それも、陰(闇)=肚=他者ととると実に明晰明快になるだろう。できれば、後で説明したい。


参照:
5文型とは - ELM英語学習教材研究所
英語5文型のまえがきと目次
3-1 基本五文型
英文法「第5文型」
なぜ日本では5文型論が生き残っているのでしょうか? - 英語と書評 de ...
be動詞、is, am, areについて。 - Yahoo!知恵袋 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11466674787.html
西田哲学の場所の論理と身体性 - 思考の部屋
blog.goo.ne.jp/.../e/a42af781a62afb871de6c45385ae73ce - キャッシュ
2012年5月12日 ... 西田の場所の論理は述語論理とも言えるものであり、中村(『西田哲学の脱構築』岩波
書店・一九八七年)が指摘するように、これはアリストテレス以来の西洋論理学の中枢を
なす主語論理を逆転させるものである。そして、西田の場所の論理の ...
時枝誠記 : Toward the Sea
yokato41.exblog.jp/tags/時枝誠記/ - キャッシュ
2012年5月23日 ... 時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。
それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「
補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である! (私はこの指摘を知っ ...







自我と知性のズレ:自己同一性の盲目と知性(悟性):父権的自我は知性・真理・科学を詐称する

テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

今は簡単に触れるだけだが、これまで、自我同一性(自己同一性)と知性とを結びつけて考察してきたが、両者は同じものではない。
 前者は後者の振りをする。自我は自分が知性であることを独断・独善的に主張する。
 この事象の力学は何であろうか。
 これは、これまでの理論で説明できるだろう。即ち、自我は他者を否定しようとする。これが、自我同一性(自己同一性)の志向である。これは、言わば、一種の悪意である。
 そして、この自我同一性は知性であることを主張する。つまり、自我が知・真であり、他者が反知・偽であると主張するのである。
 しかし、これは、独断、独善、臆断(憶測)でもある。
 何故なら、自我同一性の衝動の基本は、他者否定という欲望であり、真理への志向ではないからである。他者否定の欲望が真理を偽装(擬装)するのである。
 では、この他者否定の欲望の根因は何であろうか。
 思うに、他者への嫌悪・憎悪・反感等のルサンチマン(怨恨)があると思う。
 思うに、他者のもつ共感性の感性・精神への無意識の反感があるのではないだろうか。
 では、何故、共感性に反感をもつのだろうか。
 それは、共感性が自我同一性主義の力学を解体するからではないだろうか。
 つまり、自我同一性主義(有り体に言えば、自己中心主義である)とは、他者を排除することから発生するものである。言い換えると、自己自身の基底にある 他者への共感性を排除することによって、自我同一性主義(自己中心主義)が成立するのであるが、他者の存在(共感的、精神的、魂的存在)は、それを否定す ることになるのであり、そのために、自我同一性主義は他者へ反感・嫌悪・憎悪をもち、他者を否定する言動をとるように思える。
 その時、自我同一性主義は、同一性形式である言語において、他者を否定するように思われるのである。言い換えると、他者の言語(同一性形式)を否定するのである。
 そして、同一性形式(言語)は確かに知性に似ているのである。つまり、観念行為ということで、両者は似るのである。しかしながら、あくまでも似ているということに過ぎず、両者、別物である。
 自我同一性主義の同一性形式(言語)は知性を似せるのであり、真の知性ではないのである。疑似知性、似非知性、虚偽的言語である。
 ということで、本題を解明できたことになる。簡単ではなく、長くなったが。
 結局、これまで、自我同一性と知性が一致するような考えを私はもってきたが、それが誤りなのが判明した次第である。(これまでの私の理論の不十分さをここで明確に指摘する。理論と言っても、無双陰陽原理というよりは、それ以前の不連続的差異論である。そこでは、同一性が知性と一致していたのである。)
 以上のような解明から、父権的自我主義が近代科学、自然科学と関わるときわめて危険な事態になることがわかる。つまり、父権的自我主義は、「科学」の真 理を偽装するからである。自我自身は自分が真理をもっていると盲信(狂信)するが、実は、それは、妄想なのである。(原発や権力に関係する人間はこのタイ プが大半ではないだろうか。)
 そして、逆に言うと、真理(科学的真理や哲学的真理)とは、自我同一性主義(父権的自我主義)ではなく、共感性によってこそ、形成されるものではないだろうか。
 つまり、共感性とは、他者を感知するのであり、それが、自己とは別個の存在であることを知るものである。共感的他者性における思考こそ、真の知性、真理と考えられる。
 自我同一性とは異なる他者的思考が知性、真理であると考えられるのである。
 そう、共感的他者的思考とは、言い換えると、母権的思考である。知性、真理とは、母権的思考においてこそ、形成されると考えられるのである。
 今日の日本、世界が狂気的カオスなのは、父権主義が支配して、知性、真理を喪失しているからと考えられる。
 そう、父権主義、自我同一性主義とは、シュタイナーの霊学から言えば、アーリマンである。
 今日、アーリマンが人間、人類を狂わせていると言えよう。
 ある意味で、アーリマンはルシファーを抑圧しているのである。悪魔の対立があると考えられる。
 神秘・ロマン主義はルシファー主義である。それが、今日、アーリマンの唯物的自我主義によって、抑圧されていると考えられるのである。

追記:うつ病についてであるが、新型うつ病であるが、それは、自我同一性主義が肥大化したもののように思える。それは、他者を抑圧・排除しているので、生命・気の共振エネルギーが形成されず、生命力が弱化するものと思われるのである。
 陽が陰を抑圧して、陰陽共振による気エネルギー=生命エネルギーが喪失されるのである。
 思うに、単に、身体生命エネルギーだけでなく、情感エネルギー(アストラル・エネルギー:造語)も枯渇するのではないだろうか。
 そう、陰を私はアストラル体とも見ていると言えよう。この点は後で検討したい。

参考:以下のアポロとディオニュソスであるが、以上の自我同一性主義と知性との不一致の視点から見ると、アポロと自我を一致させている誤謬があると言えよう。アポロは知性とすべきであり、自我同一性主義とは別のものと見なくてならない。
 この点では、ニーチェの『悲劇の誕生』は明らかに、混乱していると言えよう。
 思うに、アポロの光と自我の光を私は混同したと考えられる。これはたいへんな誤りである。
 とまれ、以上の論考は新たな発見である。光について、新たに論考したい。

******************************
光・陽のもつ闇と闇・陰のもつ光:光の影を他者に投影し、他者と敵対する自我:万人の万人に対する戦争

テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス
以下、簡単に図示する。

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T:陽・光・頭(知)・父権・西洋・自我・同一性
    
              
             アポロ

     
     ↓   ↓   ↓   ↓   ↓   ↓
     影   影   影   影   影   影

ー⇅ーー⇅ーー⇅ー胸・境界・浸透膜ー⇅ーー⇅ーー⇅ー

     光   光   光   光   光   光
     ↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑


          ディオニュソス


U:陰・闇・肚(魂)・母権・東洋・他者・差異



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



Tの領域は、Uの能力がTとは一致しないので、Uの領域を抑圧するのである。
 つまり、Tは自我の光であり、それは、他者の闇を抑圧するのである。そこで、TとUの境界のTの面、あるいは、Tの底面に影が生じるのである。これは、 光の影(シャドウ)である。このシャドウが光のもつ闇なのであり、その影が光には見えないのである。自分の影に気づかず、返って、それを他者に投影するの である。
 言い換えると、光の影(スクリーン)を通して、自己は他者を見るのであり、他者は自分の影が映った存在となり、自己は他者に敵対的になるのである。
 では、光に生じた影(シャドウ)・闇を取り去るにはどうしたらいいのだろうか。
 それは、Uの領域を肯定する意識をもつことである。
 思うに、TとUとの境界は、言わば、浸透膜である。TはUに触れ、UはTに触れている領域である。
 この浸透膜的境界を介して、Tの光・陽・頭はUの闇・陰・肚を肯定し、TとUとの共振、つまり、陰陽共振を目指すべきである。
 しかし、最高に注意すべきは、Tの同一性でUの差異を認識することはできないということである。Tは認識ならば、Uは存在なのであり、相互に異質なので ある。ただし、TはUを否定するが、UはTを包摂することができるという非対称性があると考えられる。ジェンダー的に言えば、男性原理は女性原理に包摂さ れるということである。おそらく、生物的に、女性原理の方が先行していたことを証すように思われる。
 無双陰陽原理の原点である不連続的差異論がここで重要になる。
 即ち、Tにとって、Uとは不連続なものであるということであり、TはUを同一化できないのである。つまり、Uは絶対的差異、絶対的他者であるということである。
 この点を具体的に言えば、Tは知性とすれば、Uは性(セックス)である。Tの精神はUの身体を理解できないのである。そう、Tを西洋・父権で、Uを東洋・母権と見てもいい。
 今日の世界、日本の闇・悪は、実は、光・善から生まれたものであることがわかる。光の支配による暗黒化なのである。
 価値逆転的に、Uの陰・闇・肚をベースにすれば、光の悪の支配は終焉し、陰と陽との和解・調和が生じるのである。新しい母権の世界である。

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11457363068.html

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11463254471.html


2013年02月06日(Wed)▲ページの先頭へ
日本主義経営経済とは母権主義経営経済ということである:父権主義経営経済が日本をだめにした
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

以下、二つは、私が口を酸っぱくして提唱する日本母権主義の実像である。
 これは、肚=陰をベースにした個的共同体主義という日本伝統の叡知である。これは、直感的なもの、ほとんど本能的なもので、一般化されにくいことである。
 無双陰陽原理の経営・経済応用はこのような日本母権的経営・経済主義となるのである。
 日本人は己を知らない恥ずかしい民族である。自己喪失・自己忘却・祖先忘恩の民族である。

追記:結局、持論では、日本民族は、大きく二つの民族から形成されているのである。即ち、ベースの母権民族とその上部に定着した父権民族である。
 日本民族は単一民族であるという「神話」、つまり、誤謬・イデオロギーに洗脳されていると言えよう。
 このまったく毛色の異なる民族が混成しているのが、日本民族である。つまり、日本多民族である。(母権民族は、私見では、縄文民族、弥生民族、ツングース系民族、海洋民族、そして、ケルト民族、他である。そして、父権民族は、ある中国民族と失われたイスラエルの十支族のユダヤ民族、他である。注意:これは仮説、作業仮説に過ぎない。当然、史的認識・思考・洞察が深まれば、修正したり、新たに仮説を立てることになる。これが、科学というものである。)
  わかりやすく二分すると、肚の精神文化民族と頭の自我文化民族である。
 本当の叡知は前者にあるのであり、後者は権力を奪ってきたのである。
 とまれ、今は簡単に持論を再説するに留める。

* 2013/02/05 : 美しき日本の心 : 「人件費倒産なら本望だ」  経団連の皆様、一読して、 爪の垢でも煎じて飲んだどうだ 「男たちの履歴書」 早坂茂三集英社文庫 


「男たちの履歴書 いかにして道をひらくか」 早坂茂三著 集英社文庫 

田中角栄元首相の敏腕秘書として誉れの高かった早坂茂三さんの本に、これぞ日本的経営!という素晴らしい文章がありました。

 山形で創業三百年余り、先祖代々の“諸国旅人御宿”を営んできた萬国屋という旅館の話です。

 会長いわく、 「人件費倒産なら本望だ!」
「私がいつも言っているのは『社員の幸福なくして企業の繁栄はない』ということです。

働く人が一番大切です。私は社員を倖せにしたくて経営してるようなものです。これは若いときの(社会主義思想、社会正義の)考えを経営者になっても役立たせたいと思ったからです」。
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-556.html

* 2013/02/05 : 明るい真実 : そうなんですね。日本企業の強さは企業と社員の絆だった。   Richard Koshimizu's blog H.25/02/05

正社員を減らして派遣だらけにすれば、人件費は下がるけれど、従業員の企業への帰属意識・モチベーションは下がる。

「製造業への派遣労働解禁」がユダ金による日本弱体化の手口であったわけです。

 おかげで、日本企業は「人件費の安さ」で三等国家と競うダメな国に落魄れたわけです。

 また、「年功序列」は社員の企業への帰属意識を高め、当然ながら、貢献度を引っ張り上げた。企業はその見返りに一生の生活を保証した。結果、多くの人が人生をひとつの企業で過ごした。みな、その企業の社員であることを誇りに思った。企業と濃密な関係をもつ社員は徹頭徹尾企業のために身を粉にしたから、戦後の高度成長が達成された。

 そして、三井物産や三菱商事や日商岩井に入るために一生懸命勉強していい大学に入ろうと皆が努力した。競争があるからこそ、日本人の知的水準が押し上げられた。

 ごく単純に日本人がモチベーションを取り戻せば、日本は簡単に世界一に回帰できます。

 大して難しいことではありません。何しろ、我々は日本人なのですから。
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-3349.html
『文殊菩薩(ブログ版)』


2013年02月04日(Mon)▲ページの先頭へ
気と生命物質体のメカニズムの解明へ向けて:序
気と生命物質体のメカニズムの解明へ向けて:序

2013.02.03 Sunday | category:無双陰陽原理

テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

今日(もう昨日だが)、帰宅途中で、気と物質の関係を精密に詰めたいと思った。物質とは言え、生命物質である。これまでは、ざっくりと関係について作業仮説を提起しただけであった(「無双陰陽原理と自然科学(量子論、宇宙論、生命科学等)との接点:陰陽子(陰陽双極子)と素粒子」http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11457559710.html )が、これからは、精緻に検討したい。
 フルボ酸と気のメカニズムを見るのもいいだろう。

* フルボ酸についての、正しい認識の進め・・・その@続き


キレート作用・・・
キレーション療法・・・
小難しく考える必要はない!
フルボ酸は天然のキレーション作用物質である?!



 つまり、『毒消し作用』物質だと言うことだ。

<キレーション療法>

Fig_bloodvessel



 もっと分かり易い言えば、デトックスDetox(毒を排出)という言葉が、巷にはやっているが、そう考えるのが分かり易いだろう。



 有毒な重金属を封鎖して体外に運び出す働きが、フルボ酸にはある。



 同時に、有用なミネラル(金属元素)を体内に取り込む働きもある。

 キレーション療法 というのは、化学兵器の有毒ガスに等にやられた兵士などを治療する方法である。

* フルボ酸についての、正しい認識の進め・・・その@

要するに、フルボ酸は地球のミネラルの運び屋である言うことである。

Gond

 ミネラル(金属元素)は、微量であるが、不可欠の元素であって、新陳代謝、エネルギー代謝、精神代謝(神経代謝)には、不可欠の元素であることは言うまでもない。

 核種も所詮ミネラルである。

 代謝不能と言うことは、体調不良を意味する。代謝不全は、死だ。
http://hyouhei03.blogzine.jp/tumuzikaze/
飄(つむじ風)



生命体の共生を考える(下) 究極のエネルギー源は水にマグネシウムの驚異の力
『ニューリーダー』2012年5月号
全体的宇宙像−ホロコスミクス
『月刊ザ・フナイ』2012年4月号
生命体の共生を考える(上) 地球環境の運命と東南アジアの役割
『ニューリーダー』2012年4月号
http://fujiwaraha01.web.fc2.com/
宇宙巡礼




●ルドルフ・シュタイナー 『エソテリック講義の内容から参加者の覚え書き』GA266
 (佐々木義之 訳) (2013.1.20登録)
・秘教講義 シュツットガルト1-29-1907

●『エーテル空間』ノートpdf (全データ)

●『エーテル空間』ノート (2013.1.16) *終了

《間奏あるいは幕間狂言》
note23:
・球は中心点に直角三角形をつくり出すだけではなく、天球周縁にも直角三角形をつくり出す
・プロセスとしての球形形成運動
・球形形成原理は、虚数に関わり、数エーテル(化学エーテル)として現象界に現れる
note24:
・霊的ー魂的な三つ組は、地上でと同じように天上でも作用し、
 宇宙の霊的根源においては思考、感情、意志の三つ組と関連している
・数学的に述べられてきた事柄は、超感覚的作用に関連して「質的ー理念的」に理解する必要がある
・「彫塑的空間」としてのエーテル空間
・形成諸力体としてのエーテル体
・人間を全宇宙から形成されているものとしてとらえる必要性
「IV.物質とエーテルの力と実体」
note25:
・物質空間:ポジティヴ(プラス)な実体とエーテル空間:ネガティヴ(マイナス)な実体の対極性
・空間世界に作用している物質的なものとエーテル的なものの諸力の対極性:重さと光の軽さ
・重さと光の軽さは、エーテル体と物質的体は互いに均衡を保っているが、死の際にはそれぞれの領域へと向かう
note26:
・ポジティヴな物質空間とネガティヴなエーテル空間の質的反転
・物質空間の容積としての球(点)とエーテル的な球の内部空間としての平面
・物質空間における球面外部の無限空間=エーテル空間の容積
・物質空間における球面内部の容積=エーテル空間的には空っぽ・内への空虚
note27:
・中心点から外へ向かい希薄になっていく物質的作用
・天球周縁から宇宙点に達し無限に拡がる球面面積を持つ点となるエーテル空間の作用
note28:
・エーテル空間においては、中心点(宇宙点)へと向かう規則正しい成長を
・物質的に見れば、宇宙点に向かって密集していくように見える。
・物質的表象としては、∞,1,1/2,1/3,1/4,1/5,・・・
(エーテル的感情としては、無限に続く規則正しいリズム:0,1,2,3,4,5,・・)
・物質的な成長像は、“相反半径による変換”を用いることでエーテル的な成長像へと変換することができる。
note29:
・物質的なものとエーテル的なものの振幅運動の理念
・内へと成長し宇宙点へと到るエーテル的なものはその瞬間に、その物質に新しい始まりをもたらす
・その点のなかで熱が放射し無限平面へ到りまた再びエーテルの活動力へと反転していく
note30:
・物質的なものとエーテル的なものにおける圧力及び吸引力
・エーテル球における「ネガティヴな重さ」と「空間をネガティヴに満たそうとする傾向」とのあいだのバランス
note31:
・エーテル空間の観点から観たホメオパシー作用
・物質を希釈すればするほどエーテル球面の力が周縁的に凝縮しエーテル作用が高められる
・質的な意味での純粋幾何学による「空間知の霊化」という課題

●『エーテル空間』ノート(2012.12.21)  *継続中
note14:ただひとつの宇宙点を起点とする反空間が存在する
    その反空間では、ひとつの点が“無限遠”となる
note15:死後、私たちは太陽の領域へ、星々の領域へ向かい周縁的なもののなかで生きる
note16:地球上の自然のなかでも、また人間の肉体を理解する上でも、
    反空間の作用に関する空間理念、空間感情を育んでいくこと
note17:ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の対象となる空間と
    アントロポゾフィー的な空間認識の違い
    地上的な空間に対して天上的な空間を見出すこと
note18:地上的物質的な空間と天上的な空間の相互作用
    物質的な空間は、エーテル的なものからその形態を受け取り過去へと向かわせる
    エーテル的な力は、ひとつの物質的な種子点(地球)へ向かい未来と関わる
note19:物質的な相における点が完全に球面のなかにあるように、
    エーテル的な相における平面は完全に球面のなかにある:空間の質的反転
note20:これまでの議論のイメージ的なまとめ:物質的な相を内的かつ積極的に乗り越えること
note21:球をつくり出していくエーテル的形態形成のプロセス
    エーテル的な側面と物質的な側面との相関と差異
note22:球の中心点から放射する物質空間の諸半径は、
    エーテル空間の中心平面を織り成す天球諸直線に対応している

●ルドルフ・シュタイナー 『エソテリック講義の内容から参加者の覚え書き』GA266
 (佐々木義之 訳) (2012.12.8登録)
・秘教講義 シュツットガルト1-20-1907
●『エーテル空間』ノート(2012.12.6)  *継続中
note0:導入
note01:幾何学と霊的認識
note02:人智学的幾何学と対極性
note03:太陽的(エーテル的)なものと地球的(物質的)なものとのあいだにある対極性
note04:点と平面との対極性
note05:無限遠点
note06:平面の縁はひとつの直線であり、空間全体はひとつの平面を持つ
note07:エーテル空間
内包的なものを外延的に、外延的なものを内包的に体験すること(点と平面)
note8:点と平面の対極性は直線によって媒介される・エーテル空間における直線と平面との関係
note9:射影/平面像への拡張と点への収縮/光の種子
note10:種子と像の対極性・リズミカルな交替
note11:周縁全体から作用する反空間を体験する能力を培うこと
note12:物質空間の反対の性質を持つ空間形態としての原空間
(ユークリッド幾何学が扱う一面的に物質的な空間との関係)
note13:「形成原理」は、個々の部分のプロセスと同時に全体のなかにも現れる
    その理念は時間においても空間においても見出すことができる

http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/Steiner.html

■シュタイナー研究室に戻る


自我と知性のズレ:自己同一性の盲目と知性(悟性):父権的自我は知性・真理・科学を詐称する
テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

今は簡単に触れるだけだが、これまで、自我同一性(自己同一性)と知性とを結びつけて考察してきたが、両者は同じものではない。
 前者は後者の振りをする。自我は自分が知性であることを独断・独善的に主張する。
 この事象の力学は何であろうか。
 これは、これまでの理論で説明できるだろう。即ち、自我は他者を否定しようとする。これが、自我同一性(自己同一性)の志向である。これは、言わば、一種の悪意である。
 そして、この自我同一性は知性であることを主張する。つまり、自我が知・真であり、他者が反知・偽であると主張するのである。
 しかし、これは、独断、独善、そう、憶測でもある。
 何故なら、自我同一性の衝動の基本は、他者否定という欲望であり、真理への志向ではないからである。他者否定の欲望が真理を偽装(擬装)するのである。
 では、この他者否定の欲望の根因は何であろうか。
 思うに、他者への嫌悪・憎悪・反感等のルサンチマン(怨恨)があると思う。
 思うに、他者のもつ共感性の感性・精神への無意識の反感があるのではないだろうか。
 では、何故、共感性に反感をもつのだろうか。
 それは、共感性が自我同一性主義の力学を解体するからではないだろうか。
 つまり、自我同一性主義(有り体に言えば、自己中心主義である)とは、他者を排除することから発生するものである。言い換えると、自己自身の基底にある他者への共感性を排除することによって、自我同一性主義(自己中心主義)が成立するのであるが、他者の存在(共感的、精神的、魂的存在)は、それを否定することになるのであり、そのために、自我同一性主義は他者へ反感・嫌悪・憎悪をもち、他者を否定する言動をとるように思える。
 その時、自我同一性主義は、同一性形式である言語において、他者を否定するように思われるのである。言い換えると、他者の言語(同一性形式)を否定するのである。
 そして、同一性形式(言語)は確かに知性に似ているのである。つまり、観念行為ということで、両者は似るのである。しかしながら、あくまでも似ているということに過ぎず、両者、別物である。
 自我同一性主義の同一性形式(言語)は知性を似せるのであり、真の知性ではないのである。疑似知性、似非知性、虚偽的言語である。
 ということで、本題を解明できたことになる。簡単ではなく、長くなったが。
 結局、これまで、自我同一性と知性が一致するような考えを私はもってきたが、それが誤りなのが判明した次第である。(これまでの私の理論の不十分さをここで明確に指摘する。理論と言っても、無双陰陽原理というよりは、それ以前の不連続的差異論である。そこでは、同一性が知性と一致していたのである。)
 以上のような解明から、父権的自我主義が近代科学、自然科学と関わるときわめて危険な事態になることがわかる。つまり、父権的自我主義は、「科学」の真理を偽装するからである。自我自身は自分が真理をもっていると盲信(狂信)するが、実は、それは、妄想なのである。(原発や権力に関係する人間はこのタイプが大半ではないだろうか。)
 そして、逆に言うと、真理(科学的真理や哲学的真理)とは、自我同一性主義(父権的自我主義)ではなく、共感性によってこそ、形成されるものではないだろうか。
 つまり、共感性とは、他者を感知するのであり、それが、自己とは別個の存在であることを知るものである。共感的他者性における思考こそ、真の知性、真理と考えられる。
 自我同一性とは異なる他者的思考が知性、真理であると考えられるのである。
 そう、共感的他者的思考とは、言い換えると、母権的思考である。知性、真理とは、母権的思考においてこそ、形成されると考えられるのである。
 今日の日本、世界が狂気的カオスなのは、父権主義が支配して、知性、真理を喪失しているからと考えられる。
 そう、父権主義、自我同一性主義とは、シュタイナーの霊学から言えば、アーリマンである。
 今日、アーリマンが人間、人類を狂わせていると言えよう。
 ある意味で、アーリマンはルシファーを抑圧しているのである。悪魔の対立があると考えられる。
 神秘・ロマン主義はルシファー主義である。それが、今日、アーリマンの唯物的自我主義によって、抑圧されていると考えられるのである。

追記:うつ病についてであるが、新型うつ病であるが、それは、自我同一性主義が肥大化したもののように思える。それは、他者を抑圧・排除しているので、生命・気の共振エネルギーが形成されず、生命力が弱化するものと思われるのである。
 陽が陰を抑圧して、陰陽共振による気エネルギー=生命エネルギーが喪失されるのである。
 思うに、単に、身体生命エネルギーだけでなく、情感エネルギー(アストラル・エネルギー:造語)も枯渇するのではないだろうか。
 そう、陰を私はアストラル体とも見ていると言えよう。この点は後で検討したい。

参考:以下のアポロとディオニュソスであるが、以上の自我同一性主義と知性との不一致の視点から見ると、アポロと自我を一致させている誤謬があると言えよう。アポロは知性とすべきであり、自我同一性主義とは別のものと見なくてならない。
 この点では、ニーチェの『悲劇の誕生』は明らかに、混乱していると言えよう。
 思うに、アポロの光と自我の光を私は混同したと考えられる。これはたいへんな誤りである。
 とまれ、以上の論考は新たな発見である。光について、新たに論考したい。

******************************

光・陽のもつ闇と闇・陰のもつ光:光の影を他者に投影し、他者と敵対する自我:万人の万人に対する戦争

テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

以下、簡単に図示する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 


T:陽・光・頭(知)・父権・西洋・自我・同一性
    
              
             アポロ

     
     ↓   ↓   ↓   ↓   ↓   ↓
     影   影   影   影   影   影

ー⇅ーー⇅ーー⇅ー胸・境界・浸透膜ー⇅ーー⇅ーー⇅ー

     光   光   光   光   光   光
     ↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑


          ディオニュソス


U:陰・闇・肚(魂)・母権・東洋・他者・差異



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



Tの領域は、Uの能力がTとは一致しないので、Uの領域を抑圧するのである。
 つまり、Tは自我の光であり、それは、他者の闇を抑圧するのである。そこで、TとUの境界のTの面、あるいは、Tの底面に影が生じるのである。これは、光の影(シャドウ)である。このシャドウが光のもつ闇なのであり、その影が光には見えないのである。自分の影に気づかず、返って、それを他者に投影するのである。
 言い換えると、光の影(スクリーン)を通して、自己は他者を見るのであり、他者は自分の影が映った存在となり、自己は他者に敵対的になるのである。
 では、光に生じた影(シャドウ)・闇を取り去るにはどうしたらいいのだろうか。
 それは、Uの領域を肯定する意識をもつことである。
 思うに、TとUとの境界は、言わば、浸透膜である。TはUに触れ、UはTに触れている領域である。
 この浸透膜的境界を介して、Tの光・陽・頭はUの闇・陰・肚を肯定し、TとUとの共振、つまり、陰陽共振を目指すべきである。
 しかし、最高に注意すべきは、Tの同一性でUの差異を認識することはできないということである。Tは認識ならば、Uは存在なのであり、相互に異質なのである。ただし、TはUを否定するが、UはTを包摂することができるという非対称性があると考えられる。ジェンダー的に言えば、男性原理は女性原理に包摂されるということである。おそらく、生物的に、女性原理の方が先行していたことを証すように思われる。
 無双陰陽原理の原点である不連続的差異論がここで重要になる。
 即ち、Tにとって、Uとは不連続なものであるということであり、TはUを同一化できないのである。つまり、Uは絶対的差異、絶対的他者であるということである。
 この点を具体的に言えば、Tは知性とすれば、Uは性(セックス)である。Tの精神はUの身体を理解できないのである。そう、Tを西洋・父権で、Uを東洋・母権と見てもいい。
 今日の世界、日本の闇・悪は、実は、光・善から生まれたものであることがわかる。光の支配による暗黒化なのである。
 価値逆転的に、Uの陰・闇・肚をベースにすれば、光の悪の支配は終焉し、陰と陽との和解・調和が生じるのである。新しい母権の世界である。

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11457363068.html


2013年02月01日(Fri)▲ページの先頭へ
二つの義:外的義と内的義:超自我・格率(・キルケゴールの神)と内在的個的仁理
テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

先に以下のように(論理がたどたどしいが)、マスコミの原理的批判をしたが、この問題はさらに根本的な哲学的批判が必要である。それは、父権的自我批判に通じるのである。
 もっとも、だいぶ以前にこの問題について、考察したが、今一度、整理する意味でも検討したい。

「マスコミという組織はある利益集団であり、ある階層的集団であり、必ずしも、社会全体を代表していない。というか、極く、偏った階層による組織であるマスコミには、社会を代弁することは本質的にできないと考えられる。
 マスコミ利益特定階層集団というバイアスがあるのであるから、世論を代弁することは不可能である。
 だから、世論を代弁して語る社説は欺瞞的で、胡散臭いのである。
 マスコミ利益特定階層集団組織であるから、その利益に偏した報道するのは、目に見えているのである。
 ということで、マスコミは、偏向した報道機関であり、公正な報道機関ではありえないのである。」

欺瞞のマスコミの終焉と個によるミクロメディア・ネットワーク新時代へ
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11459669475.html

結局、倫理・道徳の問題である。
 先に、日本の父権的集団主義について述べた。そこには、内在的個の原理が欠落していると述べたと思う。
 私的情理はあるが、それは私的個人の情態に留まり、公的には、権力的権威に従属するあり方が、そこにはあるのである。没個の原理である。(何度も言うと、森鴎外の『阿部一族』の柄本又七郎の人格に典型的にこれが見い出せる。)
 思うに、日本人の伝統的倫理・道徳を形成したのは、神道、仏教、儒教等の宗教等(武士道等のエトスも含める)があるだろう。しかしながら、それがどれだけ内面化されたかは問題である。
 ある程度は内面化されたが、時代とともに、衰微してきて、日本人の倫理・道徳は希薄なものとなっていたのではないだろうか。これは、宗教的感性の希薄化とも言えよう。
 さて、本題であるが、父権的自我は善を外的なものとする。つまり、外在的なものである。一神教では、超越神が倫理・道徳の根拠となる。言い換えると、内在的感性を超越した道徳・倫理である。(キルケゴールの宗教は、このような超越的倫理・道徳性をもつ。)
 キリスト教で言えば、キリストないしは聖霊が唯一の超越神と人間を結ぶ媒介である。
 それに対して、日本仏教は内在的倫理・道徳性をもっていると言えよう。ジェンダー論的には、母権的倫理・道徳である。
 内在的倫理・道徳についてはここではこれ以上論じない。
 問題は父権的自我における倫理・道徳・義である。
 私は父権的自我には先験的善の意識があると見ている。言い換えると、独断的善意識があると見ている。つまり、独善的倫理・道徳性である。
 問題は、独善的であるにしろ、善の原因は何か、ということである。有り体に言えば、何故、父権的自我は善意識をもつのか、である。
 さらに根本的に言えば、いったい何処に善の原因があるのか。
 私が以前述べた説明に即すように言えば、自我は同一性志向なので、差異である他者をそのまま肯定できず、不満に感じるのである。否定的感情が生じるのであるが、自我は自我として、自己肯定したいので、他者を自我的同一性の下に取り込むのである。
 そう、それは、同化的感情と呼んでいいのではないだろうか。これは、自我のもつ同一性機能によってもたらされる感情である。
 とまれ、この同化作用によって、自我は自己同一性形成をすると考えられる。
 しかしながら、最初は、自我は他者への、言わば、劣等感があるのである。何故なら、同一性は差異である他者を取りこめないからである。自我の力を越えた存在として、他者が存するからである。
 しかし、同化作用によって、自己同一性価値が形成されると、自我は他者に対して、逆に、優位の感情をもつようになるのではないだろうか。
 このメカニズムは何か。
 思うに、最初は、自我は他者に対して、劣位である。しかし、同化することで、自己同一性が形成される。それは、他者を同一性のもとで取り入れたことになるのである。つまり、自我の同一性によって、他者を統合したのであるから、そこで、自我機能が支配しているのであるから、自我は他者に優位を感じると考えられる。
 つまり、同化作用によって、価値逆転が生じるのである。ここに自我が他者に対して優位である、優越するという意識が生じると考えられる。
 思うに、この同一性価値が善の原因ではないだろうか。自我同一性は価値あるものであり、善であるということではないだろうか。
 そして、そのような自我同一性に即さない他者は悪ということになるのではないだろうか。
 この自我的善とは、だから、正に、倒錯論理である。あるいは劣等感の裏返しの優越感論理である。
 では、この自我的同一性的善と本題の外在的善との関係は何だろうか。
 自我的同一性的善とは、差異である他者に対して、正に、外在的なものである。
 そう、自我とは、一般的に外界、物質的世界と関係するものであり、この意味でも外在的ものであり、だから、自我的同一性的善は、外在的善であると考えられるのである。
 つまり、二重の意味で自我的同一性は外在的なのである。一つは、内在的他者に対して、外在的であり、また、外界、物質的世界に関係するという意味で、外在的なのである。
 ということで、自我同一性的善とは外在的善であることがこれで証明できと言えるのではないだろうか。
 以上が父権的自我の善の分析である。
 では、私が肯定する内在的個的善とは何かと述べる。
 これは、以上の考察から示唆されることである。
 即ち、差異である内的他者の肯定こそが、内在的個的善であるということである。
 しかし、内的他者は絶対的他者(絶対的差異)であり、それは、自我的同一性では認識できないもの、不可知のものである。
 この点を押さえておく必要がある。
 ところで、今ふと思ったのであるが、キルケゴールの宗教性とは、外在的な超越的なものではなく、内在的もの(内在的他者、内在的絶対的差異である他者的なもの)ではないのかということである。
 そう、思うに、ここでは、もう外在的超越性と内在的絶対的差異・他者性とが一致するのではないだろうか。
 無双陰陽原理において、太極とは、内在的超越性である。
 思うに、内在的超越性とは、外在的超越性と一致するのではないだろうか。内在的にしろ、外在的にしろ、超越性であるから、それは、不可知である。
 しかしながら、外在的超越性とは、本質的に、絶対的超越性である。
 それに対して、内在的超越性とは、絶対的超越性ではなく、内在性において、直感できる超越性である。
 外在的超越性においては、直感ないし直観をも超越しているのである。
 だから、内在的超越性と外在的超越性は一致しないと言わなくてはならない。
 ならば、キルケゴールの神の場合はどうなのか。
 やはり、基本は外在的超越性であると思うが、しかしながら、いくばくかは、内在的超越性に近づいているように感じられるのである。
 というのは、内在的他者のもつ絶対的差異性が、外在的超越性に似ているからである。
 とは言え、外在的超越性と内在的超越性とは、異なるものであるとするのが妥当と考える。
 ということで、本題に戻すと、外在的善と内在的善はやはり、異質なものであり、前者は自我に関係するので、超越性が衰退すると、自我的側面、つまり、利己主義が支配的になり、正に、独善主義になるのではないだろうか。
 今日、権力が激しく腐敗しているのは、外在的超越性が衰退した父権的自我が利己主義になった結果ではないだろうか。とりわけ、現代日本の父権的自我は度し難いのである。
 そう、超越性とは、外在的にしろ、内在的にしろ、陰(肚)のエネルギーに拠ると思えるのである。
 陰のエネルギーが枯渇しているのが、現代日本人と言えるのである。

陰(肚)に帰れ!!!


参考:
「死に至る病」におけるキルケゴールの宗教観


三阪祐治:「死に至る病」の自己と絶望に関する考察



「キ ルケゴールの書物はキリスト教徒以外にも極めて興味深い」というヤスパースの言葉はいったい何を意味するのであろうか。そのまま考えれば、それはキルケ ゴールの宗教観をキリスト教以外の宗教にも当てはめることができる、ということである。ではどのような点でキルケゴールの宗教観が普遍性を持つのだろうか。

キ ルケゴールの宗教観の特徴は、信仰を徹底的に自己の問題として捉えていることである。では「自己の問題」とは何か。それは人がこの世界と関わって生きるた めに常に問題にしなければならない基本的かつ重要な問題である。キルケゴールは大衆を非難する。なぜなら、大衆において人は自己を失っているからである。大衆に埋もれることで生じる「主体性のなさ」や「群集心理」といった事態は、広い意味で自己の喪失を意味する。キルケゴールは、大衆に埋もれることなく 「単独者」としての自分を自覚し、主体的に生きることこそ真に人間らしい生き方と考える。キルケゴールでなくても、「個性」や「主体性を持つ」といった言葉は、現代において比較的ポジティヴな意味で使われている。人には、多かれ少なかれ、そういうものを求める傾向がある。しかし我々は「単独者」的な生き方 を求めると同時に常に何らかの集団・組織に属して生きている。だからこそいかにして自己とのバランスをとりながら社会の中で生きるのかが問題となるのである。(付け加えるなら、先のヤスパースの世代は、ヨーロッパがニヒリズムを露呈し、第一次世界大戦と第二次世界大戦を経験して現代よりも切実な意味で自己 が問題となっていた世代である。そのような時代にキルケゴールが求められたのも、ある意味では当然といえる。)

で は、キルケゴールにおいて自己とはどのように考えられているのかを具体的に見ていくと、まず『死に至る病』の冒頭において、「人間は精神である。しかし精 神とは何であるか。精神とは自己である」とある。ここでは人間と精神と自己が同じ様相として捉えられている。人間であることとはつまり自己であることと同義であり、さらにこのように人間を捉えることが人間であることの理由でもある。人間は精神の存在であり、精神によって規定されている。さらに人間を規定す る精神といっても、決してデカルト的コギトをさすのではない。「人は単独な人間を思惟することはできない、ただ人間という概念を思惟しうるばかりである」といわれるように、近代理性主義の「精神」が基礎づける人間存在とはあくまでも概念的な人間でしかない。キルケゴールにとっての自己はあくまでも有神論的 実存主義的な自己である。「信じるがゆえに我在り」なのである。信仰という具体的行為によってこそ人の生は可能になる。決して思惟に還元できない現実存在(事実存在)とは、シュリングに由来するテーゼであるが、シェリングにおいては現実に存在するもの一般をさす言葉であった実存が、キルケゴールにおいて人 間存在にその意味を先鋭化されることになる。つまり人間=自己は思惟することを根拠に、その存在を基礎付けられるようなあり方をするものではない。思惟ではなく神への信仰こそが人間存在を基礎付けるのである。

キ ルケゴールにおいて人間とは、抽象的思考の俎上にのせられるような抽象的人間ではなく、あくまでも今この時の「生」を生きる具体的人間である。そのような 具体的人間の存在を基礎付けるものも具体的なものでなくてはならない。思惟に還元できない具体的存在が思惟によって見出された抽象的なものによって基礎付けられるというのはひとつの矛盾ですらある。キルケゴールにとってその人間存在を基礎付ける具体的なものこそ、「信仰」なのである。ここで誤解してはなら ないのは、キルケゴールは決して抽象的思考を否定しようとしたのではないということである。問題は、抽象的思考が具体的人間存在を呑み込もうとする点にある(「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というヘーゲルのテーゼはその典型である)。ここが、キルケゴールのドイツ観念論批判の ひとつの要点であり、事実存在を顧みなかったというシェリングのヘーゲル批判を、実存の概念と同じく先鋭化したものである。

キ ルケゴールは先の引用に続いて、「自己とは何であるか、自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その 関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係することである」と述べている。これは、自己とは「関係そのもの」ではなくて「関係する」ことである、と要約できる。ここで自己とイコールで結ばれる「関係」とは、対立する二つの概念のあいだに ある停止した静的なもの(「主観と客観の関係」というように使われる関係)ではなく、動的な、自ら関係していくものである。自ら態度を決定し自己を決定していくこと、というような積極的な意味である。では何に対して態度を決定し、決定し、関係するのか。もちろんキルケゴールにおいては神である。さらに「神 の観念が増すにつれて、それだけ自己も増し、自己が増すにつれて、神の観念も増す」といわれるように、神への関係は自己への関係に相即する。では、自己へ関係することから神へ関係することへのシフトをどのように捉えればよいのか。

自 己に関係する、という事態を詳しくみていくと、「人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との統合、要するに、ひとつの統合 である」さらに「統合というのは、二つのもののあいだの関係である。このように考えたのでは、人間はまだ自己ではない」とされる。自己が対立する二項の弁証法的関係として捉えられているのであるが、問題は前者の「ひとつの統合」と後者の「二つのもののあいだの関係と定義される統合」との違いである。後者の 統合が、二つの対立する概念が「関係」に関係することで成立する弁証法の統合であるのに対し、その「関係」の方が二つの対立する概念に関係することで成立する弁証法の統合が前者のそれである。前述の「積極的な関係」とはこのような意味であり、これがキルケゴールのいう自己である。

こ のような自己は、決して自己自身に関係するだけであるのではない。自己は同時に自己を措定した他者に関係することで均衡を保つのである。もしそこに他者が いないなら、「その場合には、自己自身であろうと欲しない、自己自身から逃れ出ようと欲する、というただひとつの絶望の形式しか問題とはなりえず、絶望して自己自身であろうと欲するという形式のものは、問題になりえないであろう」。後者の絶望は、「あらゆる絶望が結局はこの絶望に分解され、還元される」よ うな本来的な絶望であり、よって前者の他者を考慮にいれない絶望は非本来的な絶望として後者に還元される。そしてそのような本来的な絶望が成立するのは、他者によってである。『死に至る病』のテーマであり、キリスト教徒にとって本来的な死であるとされる「絶望」は、その本来的な形式により他者の存在を保証 する。自己は自己自身(精神)によって規定されていると同時に他者によっても規定されているのである。

し かしなぜそのような本来的な絶望が成立しなければならないのか。一般的に考えれば、絶望などだれもしたくない。しかしキルケゴールの心理学的分析による と、絶望は短所であると同時に長所でもある。「この病(絶望)にかかりうるという可能性が、人間が動物よりも優れている長所なのである」とさえ言う。ではどのような点で絶望が長所になるのか。

我 々は普段の生活のなかで、様々な形で絶望する。近しい人の死であったり、目標の挫折であったり、その理由は様々であるが、これらは自己との関係を不均衡に させる。絶望という心理状態に人が陥るのは、このように自己への関係がバランスをとれなくなったときであり、さらに自己との不均衡とはつまり他者との不均衡である。

http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/misaka.htm


追記:以上の引用した下線部の箇所(ブログ管理人強調)が混乱していると思う。


   




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カレンダ
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