INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2012

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2012年03月23日(Fri)▲ページの先頭へ
光のmedia point plane mode:闇が「光」となり、光が「闇」となる
光のmedia point plane mode:闇が「光」となり、光が「闇」となる
テーマ:manichaeism: 哲学
media pointにおける光のモードについて閃いたので、簡単に記す。
 以下の三日月の映像が役立つ。月の光った部分に接している暗い線が、凸iの同一性反射に相当するだろう。
 そして、明るい部分が凹i*凹i⇒凸(+1)の右辺である。
 しかしながら、現象界、物質界においては、この明るい部分は不可視になっている。D. H. ロレンス的に言えば、dark, unseenなのである。
 そして、暗黒部分を一般には視覚しているのである。つまり、思うに、三日月を容器として考え、弧を底とすると、光の容器が闇を包容している(光が闇を包 んでいる)のが、真実の世界と考えられる。つまり、現象界、物質界とは闇なのである。闇を光と見ているのが、一般の人間である。
 もう少し丁寧に言うと、現実に見る光、現象光は、闇なのである。そして、真の光は不可視、dark, unseenなのである。(これが、ロレンスのdark sun, dark rayと考えられる。)
 プラトンの洞窟の比喩における太陽は、現象界の太陽ではなく、精神界の太陽と見るべきである。
 そう、ロレンスが我々は光の背中を見ているに過ぎないと述べたが、それは正鵠を射ているのである。本当の光の背中の闇を見ているに過ぎないのである。
 この闇である現象光は物質的光と言えよう。しかしながら、先に述べたように、真の光が闇である現象界に漏れ出る、沁み出ることがあるだろう。
 現象の太陽から沁み出る真の太陽、精神の太陽が「見られる」ときがあるだろう。
 真の太陽が正面を向ける時である。それはいつなのだろうか。
 そう、簡単に言えば、差異共振精神という内的精神的光をもつべきである。その光によって、現象の太陽において、真の太陽、精神の太陽を見ることができよう。
 そう、凸iが凹iに設ける同一性面、同一性鏡を突き抜けて、凹iの領域に測深すべきである。
 それは、東洋的瞑想等に関係しよう。また、ロレンスの『無意識の幻想曲』に。
 media pointの同一性面、三日月で言えば、明るい部分に接する暗い弧を突き抜けて、明の部分に達することである。
 しかしながら、大事なのは、凸iの純粋悟性、純粋自我を伴うことである。それによって、凹iと凸iが差異共振して、真の内的光、超越光を生むのである。
 今は簡単な指摘に留める。
 
追記:真の太陽が沁み出ると言ったが、思うに、三日月の二つの尖端から漏れ出るようにも思える。二つの両端とは何か。夜明けと日没時だろうか。もしそうなら、どうしてなのか。
 思うに、夜の闇は凸(+1)の真の太陽を内在しているのではないだろうか。そして、夜明けのとき、光が到来するが、実は現象光と真の光が接するときではないのか。
 日没の時は、逆に、闇が到来するが、その闇の中の真の光が現象光に接するのではないだろうか。
 今はここで留める。






画像は三日月 - Wikipedia から




ファシモティズム:現代のファシズム・全体主義
テーマ:日本亡国の凶相
こういう踏み絵みたいな善悪二元論の発想がファシズムの根源である。そして、愚民は没思考的なので、それに追従するのである。
 共産主義や全体主義は母権的民族の反動と考えられる。新父権主義が母権的民族には必要である。
橋下市長、入れ墨・地下鉄喫煙で全庁調査指示
読売新聞 3月21日(水)23時3分配信
 大阪市の児童福祉施設職員が子どもに入れ墨を見せて停職処分になるなど、市職員に不祥事が相次いでいることを受け、市の服務規律刷新プロジェクトチーム(委員長=橋下徹市長)が21日、発足した。

 初会合では、入れ墨の有無などについて全庁調査を行うことを決めた。

 チームは、職員が覚醒剤の使用容疑で逮捕された水道局や、全面禁煙の地下鉄駅構内での喫煙が明らかになった交通局などの幹部らで構成。橋下市長は「公務 員の職場で入れ墨が合うか、誰が考えてもわかる。ダメなものはダメという雰囲気が欠けている」と指摘し、「僕はやるといったらとことんまでやる」と、不祥 事根絶に意欲を示した。

 チームは入れ墨以外にも、勤務時間中の喫煙やマイカー通勤など禁止事項に関する実態を調査。このほか、弁護士ら第三者委員が不祥事の実態解明に当たる調査チームも新設する。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120321-00001218-yom-pol




光とは何か:二つの光:同一性(物質)の光と差異共振光

テーマ:manichaeism: 哲学
思うに、光は同一性光と差異共振光に分離するのではないだろうか。当然、media pointにおいて、分離するのであるが、media pointでの両者の関係が微妙である。
 今は精緻に論じられないので、思いつきに留まるが、凸iの主導性に対して、当然、凹iは一種反発をすると思われるのである。
 つまり、凸iの支配は凹iを同一性化する。これは、凸iは凹iに自己反射するのであり、この自己反射の光が同一性光(物質光)のように思えるのである。言い換えると、凸iの反射光が同一性光(物質光)であり、可視の光である。
 それに対して、凸iの支配に反発する凹iは独自に、凸iを包含、内包して、差異共振光を形成するように思われるのである。
 両者はまったく共約(通約)不可能であると考えられる。不連続である。
 D. H. ロレンスがdark sunないしはdark rayと呼んだものは後者であり、前者の視点から後者はまったく感知できないと考えられる。(media pointの二元性と言えよう。あるいは、media pointの絶対的間隙性である。)
 神話学的に見ると、父権的太陽は前者であり、母権的太陽は後者であると思われる。
 しかしながら、凹iは凸iを取込むのであるから、実は、凸iは凹iと共振しているのである。
 つまり、凸iの主導性(父権)は、絶対的ではなく、凹iの差異共振の影響を被っていると考えられるのである。(凸iを「父」とすれば、凹iが「子」であ り、差異共振は「聖霊」であろう。kaisetsu氏的にいうと、このとき、ガウス平面に直交するz軸が形成される。超越軸、聖霊軸である。)
 先に絶対的間隙性と言ったが、実はそうではなく、接触面があると言えよう。
 凸iの主導性によって、media pointに同一性面ができるだろう。しかし、この同一性面の、いわば、裏面は差異共振面である。同一性と差異共振が接触しているのである。
 とまれ、この接触面が重要である。ここで、同一性と差異共振が交差するのである。(だから、交差面とも言えよう。)
 これは、思うに、揺動面とも言えよう。常に、揺らいでいるのではないだろうか。
 また、浸透面とも言えるだろう。
 とまれ、この接続面をどう捉えるかが重要である。それを同一性中心にすると、精神的病気になると考えられる。また、差異共振を中心にすると、神秘主義になるように思われるのである。
 現実的には、同一性(物質)と差異共振(精神)のバランスが必要である。
 このバランスは両者を不連続化したときもたらされるのではないだろうか。もっとも、絶対的不連続化ではないが。
 今はここで留める。
 
追記:以前、私はしきりに超越光が現象光において可視であると述べた。思うに、現象光はやはり、同一性(物質)の光であり、超越光は差異共振(精神)の光と見るべきであろう。
 現象光において超越光が見えるというのは、上述したmedia pointにおける接触面において、現象光と超越光がいわば、融合しているということだと考えられる。
 そう、正確に言うと、超越光は氣の光でもあり、精神の光でもある。氣と精神の光である。
 精神の光、真の超越光は、シュタイナー的に言えば、アフラ・マズダ=キリストになるだろう。日本神話で言えば、天照大御神である。

追記2:media pointは上記の分離と融合(一種の即非性)を考えると、いわば、メビウスの輪のような構造ではないだろうか。(もっとも、メビウスの輪はいわば比喩であるが。)
 だから、∞の記号をmedia pointに使用してもいいかもしれない。即ち、凸i∞凹i⇒凸(+1)+凹(−1)=ゼロとなるのだろうか。それとも凸i∞凹i⇒凸(+1)*凹(−1)=凹(−1)となるのだろうか。
 後者の場合、凹(−1)=e^iπではないだろうか。
 今はここで留める。
 

参照:
天照大神 - Wikipedia


参照2:
メビウスの帯 - Wikipedia





父権と母権について再考
テーマ:新母権的社会:差異共振共同体
私は一神教は母権から生まれると考え、母権的一神教という用語を提起した。
 どうもまだ、不分明である。連続的同一性を形成するのは、最初、父権であると述べたが、先に母権であると判断したのである。
 同一性を形成するのは、基本は父権である。凸iの主導性であろう。
 しかし、凸i主導は凹凹iを生む。つまり、内的他者である凹iを否定するのである。この他者否定が否定的感情を生むのであり、それが、同一性の感情的基盤になるように思える。
 つまり、同一性主義である。だから、母権からではないのである。結局、最初の考察に戻ることになる。即ち、同一性主義を形成するのは父権主義であるということである。
 では、ヤハウェ的一神教はどう説明できるのだろうか。やはり、父権的同一性主義でいいのではないだろうか。
 後でより厳密に検討したい。





差異共振精神の形成の様態
テーマ:media point
どうして、人間によって、道徳・倫理の有無が生じるのか。
 差異共振精神は真善美をもたらすものであるが、精神的感情は、スピノザが説いたように、歓喜になると思われる。
 例えば、モーツァルトの音楽を聴いたとき、この歓喜の情が生起する。
 だから、差異共振精神形成のためには、すぐれた芸術体験が必要であり、また、自然体験も必要である。また、知性を確立させないと、感情中心になり、ロマン主義的になる。(もっとも、ロマン主義が悪いというのではなく、感情中心主義になることを問題視しているのである。)
 悪的傾向をもつ人間は、この差異共振精神形成が為されなかったと考えられる。歓喜の精神が欠落しているのである。
 思うに、今日、うつ病やその他の心の病等は、この問題に関係していよう。差異共振精神の欠落があると考えられるのである。
 今はざっと指摘するに留める。
 
追記:差異共振精神とは光の精神である。即ち、

凸i*凹i⇒凸(+1)

である。右辺が光(光子)である。左辺の双極子から差異共振によって、右辺の歓喜である光が誕生するのである。
 それに対して、差異共振のない、連続的同一性の自我は、闇、無明である。

凸i*凹凹i⇒凹(−1)

である。内的他者凹iを否定して、闇である自我凹(−1)が生まれるのである。
 ここで、純粋自我凸iと連続的自我凹(−1)を峻別する必要がある。前者はきわめて重要なものである。純粋悟性を内在していると考えられる。
 では、差異共振によって誕生した光は、何であるのか。現象光なのかマニ教の光なのか。
 直観では同じである。現象の光とは本来、精神の光であるが、それを連続的自我凹(−1)は物質的、同一性的に視ているのである。
 そう、凸i*凹凹i⇒凹(−1)の右辺は物質的光とも言えるように思える。凸(+1)が精神的光であるのと対照的に。
 E=mc^2とは、思うに、物質的光の公式ではないだろうか。差異共振エネルギー(差異共振光)は、E = hνの方に近いのではないだろうか。
 即ち、E=h(凸i*凹i)である。
 とまれ、二つの光がある。闇(物質、同一性)である光(凹、−1)と純粋な(精神、差異である)光(凸、+1)である。
 尚、本追記は、思考実験である。

追記2:キリストが言った二種類の人間は以上の区別で説明できよう。この世の人間は凹(−1)の人間であり、地の塩である人間は凸(+1)の人間である。闇の人間と光の人間である。前者は後者が見えないのである。





純粋悟性問題
テーマ:manichaeism: 哲学
純粋悟性は既述したように、凸iでいいと思う。これは純粋自我でもある。
 これは、内的他者凹iに対しては同一性的に作用するので、凸i*凹凹i⇒凹(−1)となると考えられる。
 これが人間の自然的一般的精神様態と言えよう。つまり、純粋悟性的精神様態である。
 ここでは、自我が他者を同一性的に支配するのであり、自我は他者、自己を認識していない。無明である。
 もっとも、これは、連続的同一性においてである。母権的自我においてである。
 真の父権的自我は、凸iと凹iを自然的に分離するのである。換言すると、真の純粋悟性、純粋自我は、凹iと不連続的であり、他者・差異である凹iをなんらか認識しているのである。
 思うに、カント哲学の物自体とは、先に述べたとこととは異なり、凹iでないかと思う。カントは凹iを感じていたが、合理的には説明できなかったと思える。
 途中。





光と物質:再考
テーマ:manichaeism: 哲学
先に、光と物質は凸(+1)ということにしたが、どうも違うと思う。
 凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺を光(光子)とすれば、物質は正反対、即ち、凸i*凹凹i⇒凹(−1)と考えた方がいいように思う。
 即ち、光を自我的同一性によって捉えたものが物質ではないだろうか。
 言い換えると、光とは差異共振エネルギーをもつ現象であるが、物質とは、それを自我的同一性的に見たものである。
 だから、果たして、自然界に物質があるのかどうか問題視されよう。物質は仮象のように思える。もっとも、物質とは、差異共振エネルギーの同一性的仮構のように思える。
 言い換えると、差異共振エネルギーの同一性的切り口に過ぎないように思える。本体は差異共振エネルギーである。
 そうすると、オイラーの公式を組み込んだガウス平面の単位円において、右半円(虚軸を含めて)は光の世界、本体の世界であり、左半円(虚軸を含めない)は闇の世界、仮現の世界と思われる。
 つまり、現象的には、光と闇は真逆になっていると考えられる。D. H. ロレンスのdark sunは実は凸(+1)であり、現象世界(物質世界)は凹(−1)と思われるのである。
 今はここで留める。





消費税増税とは何ぞ哉?:権力と愚民:新父権主義へ向けて
テーマ:manichaeism: 哲学
消費税増税政策はオウンゴール策である。これは、単純にわかることである。
 金持ちは貧乏人から金を取りたいのである。そう、民主主義は建前に過ぎない。ブルジョワとプロレタリアがいるに過ぎない。
 前者は金・資本一神教だと思う。これは、母権主義であり、真の父権主義が欠落していると考えられる。
 真の父権主義とは何か。つまり、一神教が母権主義の裏返しと考えられるので、それは逆さまの母権主義であり、真正な父権主義ではないのである。
 思うに、古い母権主義がもっていた原初差異共振主義に、父権主義の原型が存するのではないだろうか。
 私が想起するのは、大国主命である。これが、私にとって、父権主義の原型である。
 するとどういうことになるのだろうか。
 これまで述べたように、母権主義は二重である。即ち、原初差異共振主義と連続的同一性(母権主義的同一性)があるのである。そして、一神教は後者が極まったものと考えられる。つまり、一神教は前者を排除していると考えられる。
 前者はいわゆる多神教的要素ではないだろうか。これを排除したのが、母権主義である一神教ではないだろうか。
 そう、多神教的要素とは端的に原初差異共振主義と言えよう。
 結局、母権主義とは二重であり、原初父権主義と連続的同一性主義があるのである。だから、母権主義という言い方は問題があるが、今はこのままで留めておく。
 とまれ、今日の問題、「トランス・モダン」とは、母権主義の原初父権主義を今日的に復活することを意味しよう。
 それは新父権主義である。
<民主党>消費増税法案了承は19日以降
毎日新聞 3月16日(金)22時3分配信

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民主党厚生労動・財務金融・総務部門・社会保障調査会・税務調査会合同会議冒頭にあいさつする前原誠司政調会長=東京都千代田区の衆院第2議員会館で2012年3月16日、藤井太郎撮影
 民主党の前原誠司政調会長は16日夜、国会内で開かれた党税制調査会、社会保障と税の一体改革調査会などの合同会議で、消費増税法案を党として了承する 手続きを週明けの19日以降に先送りする考えを示した。民主党執行部は16日の了承を目指す方針を示していたが、野田佳彦首相の明言している月内の閣議決 定・法案提出には日程にまだ余裕があり、小沢一郎元代表のグループを中心とする反対派との決定的な対立を避けるため議論に時間をかけることにした。

 会議は午後6時過ぎに始まり、前原氏は「政治家同士で議論しながら、よりいい法案にまとめる努力をしたい」とあいさつ。民主党執行部は16年度にさらなる増税へ向けた法整備を図る「追加増税条項」の修正によって反対派に配慮する方針で会議に臨んだ。

 しかし、反対派は景気悪化時に増税を停止する「弾力条項」に「名目成長率3%」などの数値目標を設定することも強く要求。これには安住淳財務相が16日 の記者会見で「具体的な数字で規定するのは難しい。さまざまな要因を勘案して政治が判断するのが基本だ」と拒否を明言しており、同日中の決着は難しい情勢 となっていた。

 会議は具体的な修正論議に入れないまま2時間近くが経過。野田グループの近藤洋介衆院議員が「きょう決めるべきだ」と発言したのに対し前原氏は「きょうは決めない。中小企業対策など論点を全部出すためにとことん議論してもらいたい」と先送りを明言した。

 もともと週内の決着は難しいとの認識は党執行部側にもあり、野田首相は16日の参院予算委員会で「個別にいろいろ議論があると承知しているが、意見集約 できると思っている」と一定の時間をかけて意見集約を図る姿勢を示した。同時に「法案成立が私の大きな政治目標だ。不退転の決意で責任を果たしたい」とも 述べ、法案を月内に提出したうえで法案成立に政権の命運をかける決意も強調した。【木下訓明、光田宗義】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120316-00000124-mai-pol
消費税法案、決着持ち越し=再増税規定の削除検討―民主
 民主党は16日夜、衆院議員会館で社会保障と税の一体改革に関する政策調査会の合同会議を開き、消費増税関連法案に関する3日目の事前審査を行った。執 行部は、反対論が強い追加増税規定の削除を含め修正する方針を固めた。ただ、会議では小沢一郎元代表グループを中心とする反対派から法案への異論が続出。 執行部は当初予定していた同日中の了承取り付けを断念、決着を19日以降に持ち越した。(時事通信)
[記事全文]

◇2つの焦点
・ [図解]消費税増税関連法案の焦点と意見 - 産経新聞(3月15日)
◎追加増税
・ <消費増税法案>「追加増税」修正へ…政府・民主 - 毎日新聞(3月16日)
・ 再増税時期、明記せず…消費税法案の付則 - 読売新聞(3月16日)
◎景気弾力条項
・ <安住財務相>消費増税法案弾力条項「数値、非常に難しい」 - 毎日新聞(3月16日)
・ [政治クローズアップ]検証消費税 景気によっては増税凍結? - 景気条項について。Yahoo!みんなの政治





いかにして差異を認識するか:同一性認識と差異認識
テーマ:manichaeism: 哲学
母権的自我が主導の父権的自我の場合、その意識は同一性主義になると考えられる。
 つまり、母権的自我のもつ凹iの感情が〜主義を作り出すから、父権的自我の同一性が主義化して、同一性主義になると考えられる。
 では、父権的自我(同一性に傾斜する)はどのように差異を認識できるだろうか。
 ある事柄、事象をXとすると、それは、端的に差異であるが、父権的自我はそれを言語化して、同一性化する。しかしながら、Xは差異(カントの物自体)として、存するのである。
 ここで、母権的自我が重要となるだろう。凹iの存在である。つまり、父権的自我が母権的自我の凹iを直観することがポイントである。これが、差異である。凹iという差異を直観することで、事象Xは、差異として、認識されるようになるのである。
 結局、内観の問題になると言えよう。外在的認識のままであると、Xは同一性のままであるが、内的認識を基盤にすると、Xは差異化されるのである。
 そう、空間認識のベースに時間認識を置くのである。
 簡単に記すに留める。





カントの外的感覚(外官)と内的感覚(内官)
テーマ:manichaeism: 哲学
カントの述べる外的感覚とは凸iに、内的感覚とは凹iに基盤があるのではないだろうか。
 当然、純粋形式もそれらにあると考えられる。つまり、空間形式は凸iに、時間形式は凹iに存すると考えられる。
 問題は、差異共振化である。時間と空間の差異共振化とは何か。つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)なのか、それとも、凸i*凹凹i⇒凹(−1)なのか、である。
 時間と空間の差異共振化は前者以外にはありえないだろう。それが、自然の摂理である。
 しかし、時空四次元とはどうなのだろうか。それは、差異共振様態なのだろうか。
 途中。





光と物質
テーマ:manichaeism: 哲学
凸i*凹i⇒凸(+1)において、凸(+1)が光で、凸i*凹凹i⇒凹(−1)において、凹(−1)が自我ならば、物質はどこにあるのだろう。
 この点で、Neo-PS理論が意味があると考えられる。つまり、ガウス平面に直交するz軸がいわば自我軸であり、y軸は、生命軸(氣の軸)のように考えるとわかりやすい。
 とまれ、私説は混乱を含んでいる。端的に、凸i*凹i⇒凸(+1)は何であるのかである。
 積を同一性化と考えると、凸(+1)は、自我化であり、商凹(−1)は差異共振化である。自然(氣)の場合、凹(−1)が自然の物質(物自体)である。
 そう、やはり、凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺が物質ではないだろうか。つまり、差異共振を人間は認識できないので、凸iの純粋悟性=同一性の視点から自然を認識するので、物自体が物質になるのではないだろうか。
 すると、光は差異共振であり、凹(−1)ということになる。それでいいだろうか。
 以上はまったく不整合状態である。
 積をどう捉えるのかが問題である。それを差異共振に捉えるならば、それが光を意味する。そして、光は物質を意味するだろう。E=mc^2である。
 では、商は何か。それは、・・・。

どうも、ひどく混乱しているので、後で整理したい。
 
追記:問題の核心は同一性力学をどう捉えるのかである。
 同一性と物質はどう関係するのか。同一なのか、異なるのか。
 同一性とは自我の事態であり、それから、外的対象を捉えたときに、物質が生起すると考えられる。
 つまり、凹(−1)を自然とすると、それを自我は凸(+1)と捉えるのである。凹(−1)がカントの物自体である。(自我とは純粋自我凸iが外的に純粋他者凹iを認識するときの主観性である。)
 つまり、凸i⇒凹i⇒凸(+1)が物質である。また、光である。
 それに対して、凹i⇒凸i⇒凹(−1)が物自体である。氣的身体である。
 凸(+1)の光とは現象光である。それに対して、凹(−1)の光とは、いわば、氣の光である。(おそらく、D. H. ロレンスのdark sunとはこれである。)
 しかしながら、ここで正確に言えば、ガウス平面に直交するz軸における凸jが本来の純粋自我(アートマン)であり、凹jが純粋他者である。
 「イデア」というとき、自然的「イデア」と人間的「イデア」の区別があると思われる。
 結局、Neo-PS理論の見地である。即ち、ガウス平面の右半円が人間的現象界であり、左半円が自然現象界である。そして、ガウス平面に直交するz軸において、凸jが純粋自我であり、凹iが純粋他者である。
 そのように見たとき、不明なのは、y軸とz軸との関係である。その力学である。
 これは検討課題とする。

追記2:どうも、やはり、はっきりとしない。自我が⇒凹(−1)であり、光が⇒凸(+1)ではないのか。つまり、左半円が自我世界、闇の世界である。右半円が自然世界、光の世界である。
 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)の左辺は積、差異共振を意味し、凸i*凹凹i⇒凹(−1)の左辺は同一性力学を意味するということの方がいいように思う。
 後でさらに検討したい。 





重力問題
テーマ:manichaeism: 哲学
次の私の論考に対して、コメントといただいた。興味深いので、検索したら、以下のような記事があった。


「2012-01-30 重力とは何か:光と物質の反作用としての重力?:闇としての重力作業 編集
重力 とは何か:光と物質 の反作用 としての重力 ?:闇としての重力 作業仮説

テーマ :science

今は直観 だけを言う。空間 を歪めるはたらき、光を曲げるはたらきをするということから 、どうも、media point に関係すると直観 される。
 以前も私見を書いたが、もし、物質 が⇒のエネルギー 方向をもつなら、重力 はそれとは反対に←のエネルギー 方向をもつの ではないだろうか。光が⇒の方向ならば、重力 は←の力の方向である 。
 もし、そうならば、重力 は⇒の反作用 的なもの となろう。凸i*凹i⇒凸の反作用 として、凸i*凹i←凸が形成され、その←が重力 ではないだろうか。
 簡単に言えば、重力 はmedia point の方向を示していると考えられる。そして、ブラック ・ホール もこの方向にあると言えよう。そう、ブラック ・ホール はmedia point から 第三象限ないし凹を指すのかもしれない。
 とまれ、以上から 考えられるのは、重力 と光は対蹠的であり、ある意味 で両極的である 。
 作業仮説である が、実MPにおいて、光と物質 が発出されるならば、その裏面に重力 が形成されるのではないだろうか。やはり、反作用 の法則 、エネルギー 保存則である 。
 だから 、光(現象光)に対して、闇である 。虚MPや第三象限等を志向 しているのではないのか。
 あるいは、光、物質 の表面(現象)に対する裏面、背後である 。その不可視 の世界 、精神 の世界 に、重力 は通じているのではないのか。
 言い換えると、現象太陽 の裏面、背後の闇の太陽 dark sun 、ないしは、霊的太陽 を意味 しているのではないのか。
 光と物質 の第一象限の現実 世界 に対して、重力 は、精神 と闇の光(超越光、マニ教 の光)の霊的世界 を意味 しているのではないのか。
 今はここで留めたい。

追記:先に、凸iの光(原光)と実MPの光(現象光)は異なると言ったが、そう考えなくても説明できるだろう。
 即ち、現象光を同一性 の光とすれば、それは、凸iの光と一致すると思われる。
 そのときは、凸iが主導となって、凹iを同一性 化しているのである 。
 しかるに、凹iが主導のときが考えられる。そのときは、光ではなく、凹iの闇(原闇)が生起すると考えられる。
 それは、当然、不可視 である 。闇である 。これが、重力 なのではないだろうか。方向性は、光凸iの反対であり、下降↓である か、物質 化⇒の反対の←である 。
 とまれ、闇としての重力 である 。さらに後で検討 を続けたい。」
http://d.hatena.ne.jp/antares/20120130#c

コメント
「 gavity man 2012/03/12 02:52 「太陽は地球を引き回す」
重力作用を考えてみると、私見では質量に2種の 働きがあるような気がする。一方は質量の最小構成要素から発生する波と他方は質量がその波と共鳴する時、質量体は飛来した反対方向に光子を排出すると光子 同志の摩擦で波の飛来した方向に力が働く、丁度光子ロケットのように、即ちこれが万有引力ではないだろうか。例として太陽と地球の引力は地球軌道の接戦方 向に作用する、太陽はあたかも地球を引き回すように。詳しくは是非URLを参考にして欲しい。」

MEBIUS - Gravity man さんのサイト(再掲、追記)

MEBIUS Gravity man さんのサイト(再掲、追記) - MEBIUS - FC2

MEBIUS Gravity man さんのサイト(再掲、追記) - MEBIUS - FC2

MEBIUS - 重力とは何だろう その2

1.重力の謎

電荷のエネルギー



2012年03月13日(Tue)▲ページの先頭へ
「イデア(エイドス)」とは何か:原像・純粋像問題
「イデア(エイドス)」とは何か:原像・純粋像問題
テーマ:manichaeism: 哲学
直観で言うと、凸iに「イデア(エイドス)」、原像があると思う。
 凸iとは私説では、純粋自我であるし、純粋言語能力(チョムスキー)である。
 これは、父権的自我である。男性(凸i)が女性(凹i)に見るものは、凹iに投影した凸iの鏡像であろう。つまり、男性は女性を見ても、女性を見ているのではなく、女性に投影した自己自身を見ているのである。つまり、女性としての男性自身である。
 では、女性はどうなのだろうか。女性は凹i自身であり、それは、凸iを包摂すると思う。つまり、女性は男性を男性自身として見るのではなく、男性を包み込んでしまうのである。つまり、内包化である。言い換えると、母権的自我化である。
 だから、女性も男性を男性自体としては見ていないのである。
 とまれ、本題に戻ると、「イデア」は男性的知性であろう。プラトンが説いた「コーラ」とは女性的感性凹iであろう。
 思うに、凸i(「イデア」)が主導的であると、⇒凸(+1)であり、凹i(「コーラ」)が主導的であると⇒凹(−1)となるのではないだろうか。
 前者は積であり、後者は商ではないのか。光と闇の二重世界である。
 今閃いたが、第一象限が男性世界であり、第三象限が女性世界ではないだろうか。以下の左のグラフとなるのではないだろうか。


y=12/x の2つのグラフは、左の図のようになります。2つの曲線になるので、双曲線といいます。

   

 一般に、y=a/x で、0<a なら左の図、a<0 なら右の図になります。

http://mtf.z-abc.com/?eid=415437
反比例のグラフ | 中学から数学だいすき!





「見る」とは何か:凸iと・・・:nudeとnaked: ケネス・クラークの識別
テーマ:art & design
いったい、「見る」とは何なのか。直観では、経験性と超越論性が併存していると思う。
 しかし、本質は超越論性ではないのか。つまり、凸iの純粋自我である。あるいは、超越論的感覚(視覚)である。
 また、直観では、聴覚は凸iというよりも、凹iに関係する。これはおいておこう。
 思うに、純粋視覚と経験視覚を区別すべきではないだろうか。美術とは当然、前者に関わるのであるが、現代、認識が混乱してそれが、わからなくなっていると考えられる。
 ヌードとネイキッド(裸体)の区別がわからなくなっていることと同じ事態と考えられる。
 ヌードは純粋視覚に関わると考えられる(例えば、古代ギリシア美術)。しかし、ネイキッド(裸体)はポルノと関わると言えよう。それは、物質的身体である。
 性(sex)の問題も同様である。D. H. ロレンスが唱えた性とは、純粋視覚における純粋精神(凹i)であると思われる。(この点は検討したい。)
 そう、純粋視覚(凸i)とは古代ギリシアのアポロであり、純粋精神(凹i)とはディオニュソスではないだろうか。
 絶対的純粋視覚において、絶対的純粋精神が生起するのであり、古代ギリシア人はそれは端的に把捉した民族ではなかったか。
 今はここで留める。
 
追記:プラトンの黒い馬(欲望)と白い馬(精神)の区別であるが、これも、経験的自我と純粋自我の区別で説明できよう。
 D. H. ロレンスは、前者から後者への転移を説いたと思われる。





母権的自我と父権的自我について再考
テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)
後で検討したい。
 ところで、PS理論であるが、私は先にNeo-PS理論を唱えたが、それまでのPS理論(後期PS理論)で十分対応できるので、一種のコンパクト化ということで、従来のPS理論、即ち、オイラーの公式を組み込んだガウス平面上の数学・哲学を継続したい。





cosθ+isinθとは実在的に何を意味するのか
テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論
以下のKaisetsu氏の論考は興味深い。問題は、私の直観では、cosθ+isinθが実像として浮ばないのである。私の想像力不足かもしれないが。
 とまれ、一言述べてみよう。
 わかりやすく、θ=π/3(60度)としよう。そして、
P=cosθ+isinθとする。
 すると、

P=1/2 +i(ルート3)/2

である。実軸1/2と虚軸(ルート3)/2である。
 このPとは実在的に何を意味するのか。私説では、純粋自我(凸i)の要素が(ルート3)/2あるのであり、物質の要素が1/2あるということになる。
 これは何なのか。思うに、これは、自我の様態の一つではないのか、ということである。
 ここで明確に区別すると、凸iは自我ではなく、先に、原自我と呼んだものであるが、改めて、純粋自我と呼びたい。
 そして、θがゼロのとき、P=凸(+1)となり、絶対的物質的自我になるということだろうか。しかし、そのとき、純粋自我はi(ゼロ)=ゼロになっている。
 そうならば、無思考ということになる。(ひょっとすると、現代日本人の精神様態はこれかもしれない。)言い換えると、唯物論である。
 そして、θがπ/2のとき、純粋自我状態になり、絶対的自我はゼロである。思うに、これは、同時に、θ=3π/2の位置を対蹠点としてもつのではないだろうか。端的に、凹iである。
 そう、だから、P=cosθ+isinθは、他者として、対極点のQ=cos(θ+π)+isin(θ+π)を具備すると思えるのである。
 これが、双極子と考えられる。
 今はここで留める。
 

【プランク単位系表示の人間認識図】 シュレーディンガー方程式の一般化と、存在性と精神性の関係とフェルミ粒子、及び双極構造への助走(鏡像関係)
海舌 SeaTongue@Kaisetsu
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モダン・アート(セザンヌ、ピカソ)とKaisetsu氏の【プランク単位系表示の人間認識図】
テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論
いろいろ述べたいことがあるが、一点に絞って簡単に予備考察を述べたい。
 私の発想は、ピカソの絵画の切断的進展についてである。青の時代は確かに、繊細で、憂愁・悲哀があり、デッサンがきれいである。
 実は知人からピカソの実人生での女性問題が赦せないほど杜撰であったことを聞かされたのでである。ピカソの女性問題は一般的に知られているが、それ以上のものがあり、知人は赦しがたいというものであった。
 とまれ、今は道徳・倫理問題には触れないでおく。
 私は想起したのは、果たして、ピカソの絵画は具象から抽象への転移において、不連続的進展があったのか否かである。ピカソのデッサン力は正に天才的であるが、キュービスム等のデフォルメの時期において、その古典的美学が継続したのか否かということである。
 最初、具象的美学が抽象的美学にも継続していると私は考えたが、果たして、連続性を見ていいいのか疑問に思ったのである。
 私は生で、ピカソの『ゲルニカ』を見て、魅了された。それは、音楽的であった。
 その美学は青の時代と共通するのかである。
 これは難しい問題である。今の直観では、共通するものと、不連続のものがあるように思えるのである。
 調和という点では共通だと思う。
 しかし、質がなにか異なるように思う。
 キュービスム以降は、連続的同一性を破壊した「フォルム」による絵画をピカソは描いたでのである。
 つまり、現象の否定である。ここがポイントである。否定された現象による「フォルム」による絵画、それが、キュービスム以降のピカソの絵画である。
 思うに、イデア的美学にピカソ(あるいは、モダン・アート)は近づいたのではないだろうか。
 イデアとしての「デフォルメ」である。その美学をピカソは表現したのではないのか。
 端的に言えば、差異共振美学がピカソの根源にあり、それが、連続的な青の時代の絵画を形成した。
 しかるに、キュービスム以降、連続性を否定して、不連続的な差異共振の美学、「デフォルメ」の美学を追求したのではないのか。
 どうも、そう思われるのである。
 ここで、ピカソの不道徳性・没倫理性を考えると、世間的な連続的「道徳」・「倫理」をピカソは否定したということかもしれない。この問題はここで留める。
 ただし、ピカソはイデア的絵画には完全には到達していないと思う。彼は直観的であったが、哲学・理論的ではなかったと思う。
 思うに、これは、結局、モダニズムの問題である。イデア的根源と経験的執着の絶対的矛盾様態をもつモダニズムとして。
 とまれ、今はここで留める。

追記:肝心なことを言うのを忘れていた。以上の問題とKaisetsu氏の指摘【プランク単位系表示の人間認識図】 シュレーディンガー方程式の一般化と、存在性と精神性の関係 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11186274828.htmlとの関連である。
 どうも、モダン・アートとKaisetsu氏のオイラーの公式的に説明された人間認識図は関係するように直観されるのである。これは、後で、検討したい。

参照:


http://blog.goo.ne.jp/herbie600033/e/9642a096966ba2e0ee91dc914a40cbae


http://img374.imageshack.us/img374/5968/guernica1937pradomadryt3bx.jpg


es posted by (C)天花一海

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11186274828.html



2012年03月07日(Wed)▲ページの先頭へ
自我に関する整合的視点:父権的自我と母権的自我
自我に関する整合的視点:父権的自我と母権的自我

テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

自我の捉え方が、あいまいになっているので、ここで整理したい。
 凸iは原自我であり、超越論的同一性認識(主に悟性、言語能力)をもつ。外的な志向をもつ。外的感覚(五感)をもつようになると考えられる。
 凹iは内的他者、感情感性欲望である。これは内的志向をもっている。内面に関係する。
 問題は、連続化である。

1)先ず、父権主義化以前の母権主義における連続化を見ると、原初差異共振と連続的同一性(自我)の形成がある。前者が精神的認識であり、後者が自我的同 一性的認識である。しかし、両者は連続的な関係となるだろう。言い換えると、未分化的な結合関係である。原初差異共振が弱化すると、凹iの感情・欲望が強 化されて、連続的同一性(自我)は同一性主義へと向うと考えられる。

2)父権主義化したときは、つまり、凸iが主導的になったときは、凹iが否定される。凸iの悟性文化、文字言語文化が創造される。いわゆる、文明が生起する。
 問題は凸i主導性と自我の関係である。凸i主導の自我が生起すると考えられる。これは、母権主義における自我とは様態が異なると考えられる。何故なら、 母権主義においては、凹iと凸iとの連続性が強いからであるのに対して、父権主義では、凸i主導で、凹iを否定する方向で作用するからである。(もっと も、古代ギリシア文化のように、基底の母権主義に対して、上層の父権主義がいわば、融合する形をとり、初めて差異共振文化が生まれたと考えられる。)
 
1と2から、二つの自我、母権的自我と父権的自我が存することがわかった。
 先に自我方程式は凸i・凹i=+1としたが、こうすると、二つの自我の区別できないことになる。
 二つの自我の様態について、その力学の細部を検討したい。
 自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)であるが、このときは、凸iが自身を凹iに反射させて、凹iを同一性化すると考えたのである。このとき、凸iが主導的であり、凹iは受動的であり、凸iの同一性化を受けているのである。
 この凸i主導は父権的自我を形成すると考えられる。つまり、凸iが支配的であり、凹i(差異、他者)が否定されるのである。
 では、それに対して、母権的自我とはどういう様態なのだろうか。
 母権的自我とは言え、人間は外界の認識のために、なんらかの連続的自我を形成する。それは、凸i主導の自我である。だから、これは、原父権的自我と言うことができよう。
 しかし、母権的自我の場合、凹iの主導性があるのであるから、単純な原父権的自我ではない。
 凹iの「感性」(ここには、精神、感情、欲望が入る)が作用した自我である。
 だから母権的連続的自我とは原父権的自我が凹i主導性を帯びているということになる。
 これは一種の分裂した自我である。父権的同一性はあるものの、それに対する母権的主導性が根強く作用しているのである。一言で言えば、感情作用が強いのである。
 故に、凸iの形成する同一性であるが、それは、感情負荷が強いのである。
 これが先に述べた同一性主義、同一性中心主義の基盤と考えられるのである。
 それに対して、父権的同一性は二項対立的な同一性であり、超越論的である。
 簡単にまとめると、父権的自我は自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)において、凸i主導で凹iを同一性化する力学において生起する凸i+1の自我である。
 それに対して、母権的自我は連続的自我=原父権的自我(凸i+1)に対して、凹i主導の「感性」の負荷強度が高い自我であり、両者の両面性、二面性、二重性のある、分裂的な自我ということになる。
 西洋人の自我は一般に前者であり、日本人の自我は後者であると言えよう。
 (自我から自己・個への変容力学については既述してあるが、後で簡単に述べる。)
 日本人が建前と本音を使い分けるのは、母権的自我で説明ができると言えよう。即ち、世間的には凸i+1の同一性自己を言うが、本心は凹i+1(物質的欲望)に存するのである。
 また、これは凸iのもつ悟性を否定するので、思考の一貫性が欠落することになるのである。没論理的な日本人。
 とは言え、果たして、日本人の自我を母権的自我としてだけ捉えいいのだろうか。
 ある種の父権主義があるのはわかるだろう。それは、母権的自我をベースにした同一性主義による父権主義である。これは、感情色が強いので、独善的な父権 主義である。つまり、同一性知性=悟性に基づくのではなく、同一性主義、同一性中心主義の独善に基づくのである。これが、日本の上層部に支配的であり、正 確な真理を認識することなく、同一性主義の疑似父権的自我の思い込みが主導するのである。狂信、盲信、妄想等に陥りやすいのである。
 さて、最後に母権的自我から自己・個へと変容するための方向性を書いてみよう。
 この点では、近代科学や現代科学を学習することはいいことである。それは、父権的自我に拠るものだから、凸iが独立するのである。
 さらには、哲学や数学を学ぶのがより重要である。なぜなら、哲学は凸iを介して、凹i主導のカオスに凸iの知のコントロールをもたらすと考えられるからである。
 数学は凸iの超越論的知性が思考をいわば、純粋知性へと変換させて、凹iのカオスを秩序化するように思えるのである。
 また、すぐれた芸術を通して、凹iが潜在する精神性へと向うことも必要である。もっとも、宗教・神話に触れることも重要である。
 とまれ、一言で言うならば、凸iの知性の強化が必要である。ただし、哲学、数学的知性ももつ必要がある。
 最後に一言言うと、また、直観力を形成することが必要である。
 これは、凸i☯凹i⇒凹(−1)の差異共振から生まれるものと考えられる。人間認識図では第三象限に存する。

追記:直観は原初差異共振能力に潜んでいる。これは、賦活させる必要があるのである。凹i☯凸i⇒凹(−1)である。
 母権的自我の凹iは凸i+1と癒着していて、原初差異共振性、凹iと凸iとの共振性を退化させているのである。
 先に述べたように、凸i指導によって、凹iを独自に認識する必要がある。他者としての凹iを認識する必要があるのである。これはまったき他者である。肚である。また、コスモスである。ミクロコスモスである。新たな差異共振の開化(開花)である。


参考:人間認識図
ガウス平面で表した人間認識の図

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208







PS理論の根本的修正へ向けて

テーマ:manichaeism: 哲学

私のこれまでのPS理論的ジェンダー且つ自己論的文化論は単純過ぎたようだ。
 先に、第四の軸、α軸(超越軸)を想定したが、ここでは、便宜的に後期PS理論(オイラーの公式を組み込んだガウス平面を基盤とする差異/同一性理論)を使用する。
 重大の問題の一つは、「自我」である。
 これまで、凸i+1と捉えたが、これは単純過ぎるのである。
 また、「自我」と同一性の問題がある。
 いわゆる自我は凹iが基盤となり、連続化による同一性主義に拠って形成されると考えられる。
 問題は、連続性である。凹iと凸iが連続化されて、同一性化された自己、即ち、自我が生まれるのである。
 だから、自我と同一性は一致する。しかしながら、凸iや凹iが自我というわけではない。
 凹i・凸i=+1が自我、同一性自己である。
 問題は、凹i・凸iの連続体の切断、不連続化である。不連続的差異論は、連続性である「・」を切断したのである。
 その結果、凹i✕凸i⇒凸(+1)となったのである。(✕を不連続化の記号とする。)
 この時、自我・同一性は解体するのである。だから、凹i✕凸i⇒凹(−1)である。凹i✕凸i⇒凹i☯凸i⇒凹(−1)である。これは、イデア化であろう。
 とまれ、ここでは、凸iと凹iとの共振が最重要であり、それが、自己ないし個を形成すると言えよう。
 これは、思うに、常時変動している様態をもつのである。変動自己・個、揺動自己・個である。
 ここでは、凸iの知と凹iの感性の両方が重要であり、両者を陶冶的に発展させる必要があると考えられる。
 もっとも、ここで、どうして連続性の切断、不連続化が生じ得るのか考えるべきである。
 ここに真の教養の働きがあるように思える。あるいは、真の芸術の作用である。とりわけ、言語芸術や哲学である。
 教養は、個的精神的活動を意味する。それは、凹i*凸iの連続的同一性体を解体し、質的に変容させると考えられる。即ち、なんらかの凹i✕凸i⇒凹i☯凸i⇒凹(−1)の作用をもたらすと思われるのである。(現代日本の劣化、退化は教養的喪失に拠ると言えよう。)
 ここで、シュタイナーが自我(「わたし」ich)を強調した理由を考えてみよう。
 思うに、彼の自我は上述の同一性・自我ではなく、凹i*凸iないし凸i*凹iの様態に存すると思われる。
 つまり、差異としての自我、個としての自我である。それは、同一性の自我ではない。
 結局、連続化した自我と不連続の自我との混淆・混合・混在が一般的な自我の様態と考えられる。
 不連続的差異論はこの混淆性を解体して、不連続の自我をもたらしたのである。
 とまれ、今日の知的問題は、不連続の自我の形成にある。それが欠落しているために、同一性主義に陥っているのである。それは、利己主義であり、唯物論であり、全体主義である。
 最後にカント哲学に触れると、超越論性とは、端的に、不連続的自我の精神に存するだろう。凸i*凹iである。
 今はここで留める。
 
追記:先に、第四の軸を想定したが、第三軸z軸において、差異共振を考えると、それは、凹(−1)でいいのではないだろうか。つまり、第四の軸α軸は必要ないのではないだろうか。

追記2:肝心なことを書くのを忘れた。
 つまり、先に述べたことに関係するが、母権主義凹i主導が同一性主義を生んだことに対して、父権主義凸i主導のもつ凸iの重要性である。
 つまり、母権主義の文脈における父権主義の意義である。凸iによって、凹i主導が解体されて、凸iと凹iの差異共振が可能になるのである。
 しかし、今日、ベースの凹iが劣化して、凸iが中心化し、支配的になっているのであり、母権主義の文脈が弱化していると言えよう。
 だから、凸iの指導下で、凹iを新たに開拓する必要があるのである。つまり、頭凸iをもって、肚凹iを開発することである。そして、胸media pointを賦活させるのである。

追記3:母権的同一性主義の視点から、D. H. ロレンスの王冠哲学=聖霊論を考え直すことでできる。
 獅子=「父」=闇であるが、それは、実は凸i主導である。そして、一角獣=「子」=光は凹i主導である。
 両者の相克は、連続性におけるそれと見るべきである。そして、王冠=「聖霊」はそれを超克した様態である。それは、凸i☯凹i⇒凹(−1)である。
 とまれ、一角獣=「子」=光を凹iと見ることで、ロレンスのキリスト教批判が意味が解明できる。
 ロレンスは一角獣=「子」=光=凹iが連続性において、同一性主義となるのを見たのである。その帰結が機械文明なのである。それをロレンスは非自己と見 たのである。何故、非自己であるかと言えば、凹iは他者であるからである。自己ないし自我は凸iに存するのであるからである。
 このような意味でロレンスの近代西欧文化、キリスト教的精神、機械文明批判は正しい。
 また、獅子=「父」=闇=凸iであるが、それをロレンスは重要視したが、何故なら、それこそ、差異に通じるからである。
 ただし、ロレンスは、凸iが凹iに通じることを直観していたが、連続性に囚われていたので、凸i優位と凹i劣位の二項対立に陥ってしまったのである。
 しかしながら、晩年において、(新)差異共振化、凸i☯凹i⇒凹(−1)に到達したのである。
 





「聖霊」の力学

テーマ:manichaeism: 哲学

フィオーレのヨアキムの宗教哲学に似たD. H. ロレンスの王冠哲学をPS理論から見ると、「聖霊」はz軸に相当するように思えるのである。
 「父」は凹iをベースにした凸iであり、「子」は凹iであると考えると、「聖霊」は両者の統合であるmedia pointであるが、それは、ガウス平面から屹立したz軸を意味するように思えるのである。
 つまり、z軸は聖霊軸であるということになるのである。
 今は指摘で留める。

追記:先に述べたように、私のこれまでの「ジェンダー」的文化論は練り直す必要がある。
 母権は凹iが中心であるが、連続化によって、同一性中心主義となる(唯物論は母権主義から生まれたと考えられる)。しかし、父権は凸iが中心であり、凹iを排除する。これは悟性主義となる。超越論的同一性主義である。
 文明、父権文明は凸i主導に拠るのである。帰結が西洋文明である。凹iを排除してきたのである。
 だから、ポスト父権文明は新たな凹iと凸iとの共振文明である。つまり、「聖霊」文明である。
 ここで、「聖霊」について、さらに考えると、それは、Neo-PS理論に拠ると、思うに、第四の軸に属するのではないだろうか。
 後期PS理論では第三の軸、z軸となるが、Neo-PS理論では、第四の軸、α軸(仮称)になるのではないだろうか。そう、第四次元である。これが真の超越軸、ないし、超越論軸ではないだろうか。
 これは内的時間軸とも言えるのではないだろうか。
 とまれ、聖霊軸、霊軸、超越軸、精神軸、等である。それは、凸kと凹kの軸である。思うに、凹k☯凸k⇒凹(−1)であるが、media point mixによって、凸k*凹k⇒凸j, or 凸iとなるのではないだろうか。 



2012年03月02日(Fri)▲ページの先頭へ
男性が女性を見ると?!?!、女性が男性を見ると!?!?:男性は凸i優位、女性は凹i優位
男性が女性を見ると?!?!、女性が男性を見ると!?!?:男性は凸i優位、女性は凹i優位

テーマ:media point

男性は女性の言動を見ると、不合理、異常、病的に思うことがあるが、女性が男性を見ると、馬鹿と思うのではないだろうか。
 結局、昔から言われていることは間違ってはいない。
 女性は凹iの感性感情欲望が優位なのであり、男性は凸iの原自我、同一性志向が優位であると考えれば、簡単に解明・解決できる。(尚、本稿では、後期PS理論に基づいている。Neo-PS理論の場合は三次元になるが、後期PS理論はガウス平面が知的インフラである。)
 だから、女性はその意味で不合理の塊と言えようし、男性は直観力の乏しい愚物である。
 凸iと凹iは互いに絶対的差異であり、絶対的矛盾である。これは、そのままでは、コミュニケーションは不可能である。
 しかしながら、PS理論はこれを差異共振、media pointによって簡単に解決するのである。
 そう、母権と父権の相克していたD. H. ロレンスは、晩年の『逃げた雄鶏(死んだ男)』で、この矛盾をPS理論を先取りするように解決したのである。
 女性は知性や理性の存在ではなく、感性、感情、直観の存在であり、男性は同一性的知性の存在である。共役不可能(通約不可能性 - Wikipedia )な存在であるが、PS理論がこの問題を解決・解明したのである。

追記:上述のことは実はそれほど重要なことではない。ある意味で陳腐な真理である。
 実はそこからの発展が実に重大なのである。
 即ち、私が先に自我について問題にしたが、実は同一性主義の根因は凸iではなく、凹iではないかと思われるのである。つまり、単に凸iが優位ならば、それは、悟性を意味するので、同一性を志向しても、同一性主義、同一性中心主義にはならないと考えられる。
 凹i優位があるために、それが同一性に感情固着をもたらして、同一性主義、同一性中心主義になると思われるのである。
 つまり、連続性が生起する時、精神的フィルターによって、同一性化が生じるが、そのとき、凸iに凹iが連続化、接着化して、凹iのもつ感情性が同一性に加わり、同一性主義、同一性中心主義になると考えられる。
 ここで、飛躍して言うと、日本文化は母権主義と父権主義の結合から生まれたとこれまで述べてきたが、思うに、前者は凹i主義で、後者は凸i主義である。両者のバランスが優れた日本文化を生んできたと考えられる。そう、古代ギリシア的である。
 そして、これまで、明治維新以降の近代日本、現代日本は、父権主義に傾斜してしまい、母権主義を喪失したと述べたが、本稿の視点からするとそれは、間違いである。
 明治維新は一見父権主義的だが、本稿の視点から見ると、実は、ベースの凹iが強く作用して、同一性主義、同一性中心主義を生んだと考えなくてはならない。
 つまり、明治維新は母権主義的なのである。これまでの考えと真逆である。
 実は父権、凸iが足りないのである。そのために、凹iに支配された同一性主義が近代日本、現代日本に支配的になったのである。これで日本人の没思考性、没個性等が説明できる。
 この視点をさらに敷延すると、一神教の謎も解明できる。実はルドルフ・シュタイナーがヤハウェは「キリスト」がいわば、陰化したものであると述べている を以前から不思議な考えと思っていたのであるが、本稿の凹i支配の同一性主義の視点からすると、ヤハウェの基盤は凹iに存するのであり、それが、連続化に よって、同一性主義、同一性中心主義になったと考えられるのである。
 つまり、ヤハウェの本性は光(陽、凸i)ではなく、闇(陰、凹i)なのである。それが、凸iと連続化して、同一性的神、唯一神を産んだと考えられるのである。
 つまり、ヤハウェは母権的なのである。女性的なのである。「我は嫉妬深い神である。」「復讐するは吾にあり。」
 そして、イエス・キリストとはその連続的同一性を切断する不連続性の神であると考えられる。
 つまり、凹iと凸iの癒着を断ち切ったと考えられるのである。
 それは実際どういうことなのだろうか。連続的同一性の自我感情を否定して、他者への共感を説いたのである。そう、他者主義を説いたのである。
 この場合、凹i−1を説いたと考えられる。第三象限である。
 核心は思うに凸iによる認識を介して、他者凹iの発見することである。それまで、凹iは同一性化されて、他者ではなく、自我化されていたと考えられる。
 これは、正に、差異共振、精神的差異共振、自己差異共振である。
 だから、その意味では、PS理論の先駆者はイエス・キリストであると言うことが可能である。
 とまれ、重要なポイントはヤハウェ(「父」)は、凹iに存するであるが、キリスト(「子」)は、人間的差異共振原理を覚醒させたと言えよう。それは、media pointの新生である。
 つまり、ヤハウェは凹iに基づく、同一性原理をもたらした。それに対して、キリストは凹i☯凸i⇒凹(−1)の差異共振原理をもたらしたということになる。ヤハウェの同一性、連続性原理に対して、キリストは差異・他者原理をもたらしたということになる。
 ヤハウェが母権原理ならば、キリストは父権原理を強化して、母権原理の差異・他者性の発見を説いたと思われるのである。言い換えると、父権と母権の均衡を説いたのである。だから、その意味で、キリストとは古代ギリシアの延長であると言えよう。
 とまれ、今はここで留める。
 
追記:「聖霊」について述べていなかったが、それはどう定式化されるだろうか。
 キリストが他者原理凹i⇒凹(−1)ないし凹i−1を説いたとすれば、「聖霊」は既述したように、やはり、media pointである。そう、media pointの新生的覚醒である。
 Neo-PS理論で言えば、3D media pointの開花である。このとき、精神と自然と人間が融合し調和するのである。





自我(凸又は+1)の他者排除性と人間認識図

テーマ:media point

本件は検討問題ということにしておく。
 一つは自我の他者排除主義について、再考したい。これは、自我、自己同一性によって簡単に説明できるが、一体、自我に拠る他者排除の意味を考えたいのである。
 もう一つは、人間認識図において、自我的様態をどう位置付けることができるのかという問題である。
 生成門氏のa+biの考え方に、先に疑問符を付けたが、今の感じでは、π/2回転やπ回転以外にも、自我的様態がありえそうである。
 とまれ、自我は、凸i⇒凸(+1)である。凸iが原自我であり、凸(+1)が自我である。(尚、今の段階では、Neo-PS理論ではなく、ガウス平面を基盤としたPS理論を使用するが自我は凸又は+1とする。)
 とまれ、凸i⇒凸(+1)はもっともタイトな自我様態である。(これを1で問題にすることになるのである。)
 実際は緩い自我が一般的である。心的緩さとは、つまり、media pointないし凹iが意識的にしろ、無意識的にしろ、活動しているということである。
 つまり、凸iの強度と凹iの強度が併存しているのであるが、一般的には凸iが主導的である。
 だから、自我一般方程式はa凸i*b凹i⇒Ego Modeとなるのではないだろうか。つまり、二つの虚数、凸iと凹iが、自我的様態を数式化するとき必要なのである。(先には、精神は双極子であると述べたが、それは、二つ虚数が必要ということと同じ事柄である。)
 そのように定式化したとき、問題は、オイラーの公式との関係である。
 これは難しい問題だと思う。例えば、

a凸i⇒cosθ+i・sinθ

となるように、aを工夫する必要があるだろう。端的に計算すれば、

a=(cosθ+i・sinθ)/凸i=cosθ/凸i+sinθ/凸

=cosθ/凸i+sinθ

となるのではないだろうか。この妥当性は今は問わないでおく。
 次に、b凹iであるが、これは、

b凹i⇒cosθ−i・sinθ

と見ていいだろうか。これだとb凹iは共役複素数になる。それでいいのだろうか。
 私の先の直観では、凹iは凸iを反時計回りに、π/2回転させたものであるから、b凹iもなんらか、π/2回転と関係しそうなのである。
 だから、仮定として、b凹iはa凸iを反時計回りにπ/2回転した位置にあるとする。
 そうすると、

b凹i⇒cos(θ+π/2)+i・sin(θ+π/2)

ということになる。
 共役複素数がいいのか、それともπ/2回転した双極子と見た方がいいのか、それとも、別の考え(不明)がいいのだろうか。
 今は問題提起だけに留める。
 




美と自我:美術的美の自我的傾斜

テーマ:art & design

この問題は以前からの課題である。
 美的感覚には、道徳心が欠落するような感じがするのであるが、それを定見にはしていない。
 もっとも、私の美的認識では、美と倫理は離れていない。この齟齬をどう考えるべきか。
 思うに、美的認識は差異共振認識であり、それは基本的には誰にでも内在している。
 しかし、美術的美の場合、とりわけ、凸jの志向が強いと考えられる。つまり、精神的自我の光が強いということである。
 そう、このために、精神的差異共振主義を欠くので、道徳心・倫理が欠落する傾向にあるということと考えられる。

追記:しかしながら、感動を与える美術は、やはり、根本的に、差異共振主義が存すると考えられる。つまり、音楽的調和性である。
 すぐれた美術は音楽性がある。これは例証するまでもない。







個的自己(造語で個己、個自、あるいは個自己)とは何か

テーマ:manichaeism: 哲学

私は個とは他者凹jであると述べてきた。個=他者とはどういうことなのだろうか。つまり、「わたし」は「わたし」であるという個の視点から見て、これは齟齬する思考である。
 思うに、人間は自我(原自我凸j)に傾斜している存在である(今日において)。
 だから、他者凹jをそれとして認知するとき、凹j☯凸j⇒凹(−1)の精神事象が生起するのである。(シュタイナー的に言えば、「キリスト」である。)
 しかし、それは、同時に、凸j☯凹j⇒凹(−1)ということである。これが、一般の自然界にはあり得ない事象である。
 結局、原自我でありつつ、他者であるという即非的事象がここにある。それが、個的自己の事象であると思われる。
 つまり、個=他者とは、ベースに原自我が存しているのである。確かに、自我【凸(+1)】ではないが、原自我は存するのである。それが、知性の基盤である。
 今はここで留める。

追記:原自我凸jとはウパニシャッド哲学のアートマン(大我)であろう。





「イデア」ないしエイドスとは何か

テーマ:manichaeism: 哲学

「イデア」は原像として捉えた方がいいのではないだろうか。理念や観念ではなく。
 今は一言言及するのみだが、差異共振のもつ原イメージがそれではないだろうか。即ち、

凹i☯凸i⇒凸(+1)

の氣的自然形成ならば、左辺に「イデア」(エイドス)が存するように思う。また、

凹j☯凸j⇒凸(+1)

の精神的差異共振においても、左辺に存すると思う。この場合は、「霊魂」、「魂」、「個」性のように思える。
 



2012年02月28日(Tue)▲ページの先頭へ
回転(スピン)の問題:精神子(凹j∞凸j⇒)と氣子(凹i∞凸i⇒)の問題:注意:今回も∞は陰陽記号の代替である
回転(スピン)の問題:精神子(凹j☯凸j⇒)と氣子(凹i☯凸i⇒)の問題
テーマ:Neo-PS理論

精神子ないし氣子の回転(オイラーの公式に規定されたガウス平面における)は、連続的ではなく、不連続的、端的に言えば、(1/2)nπ回転ないし、(nπ+1/2π)回転ではないだろうか。簡単に言えば、90度回転ではないのかということである。
 オイラーの公式のsinθ±icosθは、理論的には当然存するものであるが、果たして、精神子(精神的双極子)と氣子(自然的双極子)において、それ以外の回転をもつのか疑問に思っている。
 確かに、理論的にa+biは考えられるのであるが。

参照:
• 【人間認識図】 クリーネの3値論理とNull + 真偽(意義、意味)の反転
• Adele – Rolling In The Deepを人間認識図の観点から詳細分析してみる。
• 【人間認識図】 実軸に波動関数の存在確率「密度」を導入するので、精神濃度と共に精神「密度」の概念も用いる。
• 波動関数の「存在確率の計算」の辺りのメソッドを真円人間認識図の実軸分析に応用してみる。

【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図
【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図

 実は、真円の人間認識図の提示と同時に、楕円形の双極系人間認識図も発案していたのであるが、楕円は真円と比較して格段に複雑になり、さらに、双極間の 相互作用など、込み入った説明が不可避であり、その上、真円の人間認識図だけでも非常に難解な解明作業が必要であると判断して、紹介を保留してきた。

 今回、本日の日付で公開する。

d posted by (C)天花一海

 双極作用による相互影響の結果、直観的には、陰陽図のような「光」と「闇」の分化・分領域化が起きると想定して、その図解も挿入した。真円の時のように、直線的な領域分化にならずに、曲線的な領域分化、media point line になるだろうという想定である。

但し、真円の人間認識図も、未だ、未解明な部分が多くあり、楕円双極になると、より高度な分析を必要とするので、今の所、真円の人間認識の解明に重点を置きたい。

 但し、必要に応じて楕円の研究も進める。本来、人間認識は双極構造であろうと思われる。

海舌
http://blog.kaisetsu.org/?eid=813449
• 【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図
海舌 SeaTongue@Kaisetsu

参考:


スピン角運動量
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索
スピン角運動量(スピンかくうんどうりょう、spin angular momentum)は、電子 やクォーク などの素粒子 、およびそれらから構成されるハドロン や原子核 や原子 などの複合粒子が持つ角運動量 で、量子力学 的な自由度の 1 つである。単にスピンと呼ばれることもある。スピン角運動量は、軌道角運動量 とともに、粒子の全角運動量に寄与する。
基本変数を「粒子の位置 と運動量 」とする量子論 ではスピンを記述することができないため、粒子が持つ「内部自由度(固有角運動量、内部角運動量とも呼ぶ)」としてスピンを基本変数に付け加える。この「位置と運動量とスピンなどの足りないもの」を基本変数とする量子論が「量子力学 」である。基本変数を「場 とその時間微分または共役運動量」に選ぶ量子論、つまり「場の量子論 」では電子は粒子ではなく「電子場」として記述され、電子場は電磁場の「偏光 」(電磁場の向きが右回りに回転するか左回りに回転するか)に似た属性を持つ。これがスピンであり、場の自転 のようなものなので、角運動量を伴う。その角運動量ベクトルで、スピンの向きと大きさを表す。このスピンの例でわかるように、古典的に場であったもの(電磁場 など)だけでなく、電子のような古典的には粒子とみなされてきた物理系であっても、場を基本変数にしたほうが良く、適用範囲も広いことが判っている。[1]

スピン角運動量演算子 [編集 ]
スピン角運動量は、3 つのエルミート演算子 sx, sy, sz で表される物理量である。これらの演算子の間には、軌道角運動量 と同様の交換関係 が成り立つ。



ここで、 であり、h はプランク定数 である。ただし軌道角運動量 と異なり、空間座標とその共役運動量との外積 として表される必要はなく、したがってその大きさは を単位として整数値のみでなく半整数値をもとりうる。
スピン角運動量の大きさの二乗を
s2 = sx2 + sy2 + sz2
と定義すると、これは各成分 sx, sy, sz のいずれとも交換する。一方各成分同士は交換しないので、s2 と各成分 sx, sy, sz のうちいずれか一つとを同時に対角化できる。多くの場合同時対角化する成分を sz とする。s2 の固有値 は 、sz の固有値は (ms = - s, - (s - 1), ..., s - 1, s) となる。ms をスピン磁気量子数という。s は、0 以上の整数 または半整数 の値をとる。素粒子の場合、s は素粒子の種類ごとに定まった値をもつ。
スピン 1/2 [編集 ]
s = 1/2 の場合を考える。このとき、s2 の固有値は であり、sz の固有値は の 2 つが存在することとなる。従って対応する固有状態も 2 つであり、それぞれ上向きスピン、下向きスピンと言うことが多い。
スピン角運動量の各成分 (sx, sy, sz) はパウリ行列 (σ = (σx, σy, σz)) を使って以下のように表される。



以上は、sz に関して対角となるようにしてある。
スピンと統計性 [編集 ]
s が半整数の値をもつような粒子はフェルミ粒子 であり、s が整数値をとる粒子はボース粒子 であることが知られている。s の値と統計性の間のこのような関係は、相対論 的な場の量子論 によって説明できる。
脚注 [編集 ]
1. ^ 清水明 『新版 量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために―』 サイエンス社 、2004年。ISBN 4-7819-1062-9 。
関連項目 [編集 ]
• 角運動量
• 量子力学
「http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%B3%E8%A7%92%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F&oldid=41279740 」より作成
カテゴリ :
• 量子力学
• 量子数
• 回転





3D media pointの混融性:3D media point complex
テーマ:media point

今は一言言うだけだが、三次元のmedia point(3D media point)の意義は計り知れない。
 凸j*凹j⇒凸(+1)であるが、実は、3D media point(z軸とy軸とx軸が交差する原点)では、凸j*凹j⇒凸iというような混合的融合が生じていると思われるのである。
 また、易であるが、その2^6=64の卦であるが、それも、
3D media pointを考えると納得できるように思う。
 つまり、凸j*凸i*凸*凹j*凹i*凹が3D media pointで生じ、それぞれの要素は凸凹(±)の転換が可能であると考えられるのである。詳細は後で検討したい。
 また、英語では9という数字が一種の完全数であるが、それも、易の上部の3項と下部の3項の積であるように思える。
 今は直観的指摘(思いつき)のみである。





光とは何か:自然の光と精神の光と物質の光:三種類の光?
テーマ:Neo-PS理論

Neo-PS理論から、改めて、光とは何か検討する必要がある。
 自然の光は氣的差異共振エネルギーの発光現象のように思えるが、精神の光(マニ教の光)は、原初差異共振では、凹j☯凸j⇒凹(−1)の⇒と考えられる。
 しかし、新しい差異共振は凸j☯凹j⇒凹(−1)ということになる。つまり、凸jの支配の下、凹jが不連続化して、差異共振するということである。
 私がこれまで述べてきた超越光とはこの新しい差異共振光のことのように思える。
 しかしながら、それは、氣の光を帯びているのである。この氣の光と精神の光の融合が、新しい差異共振光には生じると思う。
 そう、正確に言うと、自然の光は微妙である。それは、氣の光でもある。しかしながら、凸jの同一性支配によって、それは、同一性化される。物質的光になると思われる。
 だから、三つの光があるように思われる。一つは自然の光、一つは精神の光(超越光)、一つは物質の光である。
 現象光という場合、自然の光と物質の光が混淆しているように思える。
 ところで、D. H. ロレンスのdark sunとdark Godであるが、これまで、ほぼ同一視していたが、前者は自然の光、氣の光であり、後者は精神の光ではないのだろうか。
 以上は問題提起であり、後で検討したい。



2012年02月27日(Mon)▲ページの先頭へ
Neo-PS理論の言語発生論:凸j同一性力学に拠る母と自然の内外的イメージ支配的四元的言語論
テーマ:language

先に、初期PS理論(PPS理論)を用いて展開した以下の言語発生論をNeo-PS理論(原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11175759478.html)によって、説明し直す必要がある。


言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11171075010.html

しかし、これは簡単に移行できる。
 即ち、凸i支配を凸j支配にすればいいのである。そして、母権的イメージ音声言語であるが、それは、原初差異共振、凹j☯凸j⇒凹(−1)で説明できる。その後の文字言語は同様に説明できる。
 表音文字言語は、だから、凸j同一性力学支配に拠るものであり、それは、凸j*凹i⇒凸(+1)の自我様態と結びつくのである。
 そして、表音文字言語-自我(自己同一性、父権的自己)は、3D-media pointにおいて、氣の差異共振(自然的差異共振)、凹i☯凸i⇒凹(−1)における凹iと同一性力学(父権的人間主義)における凹jに、その表音文字言語を刻印するように思われる。
 この点は先のもののようには簡単に考えられないのである。
 精緻に言うと、凹j☯凸j⇒凹(−1)の原初差異共振(今気づいたが、新しい差異共振凸j☯凹j⇒凹(−1)であろう)を凸jによって同一性支配するのであるが、その原初差異共振とは、思うに、母との原初差異共振イメージであり、それに対して、凸jは同一性支配し、表音文字言語化するように思う。そう、原初において、凹jは母と考えられる。原初差異共振は内外的(内的且つ外的)に母のイメージに刻印すると考えられる。
 それに対して、氣の差異共振(自然的差異共振)については、凸jの同一性支配は、凹i☯凸i⇒凹(−1)に刻印すると言えよう。即ち、氣的内外的(内的且つ外的)イメージに刻印すると思える。
 結局、原初差異共振の場合は主に、母のイメージに内外的に刻印し、氣的差異共振主義(自然的差異共振主義)の場合は、氣の内外的イメージに刻印すると考えられる。
 氣の内外的イメージとは、例えば、内的イメージは「元気」や生命感であろうし、外的イメージは端的に外的現象、外界のイメージと考えられる。
 そうすると、3D-media pointにおいて、母と自然の内外的イメージに凸jの同一性支配の表音文字言語は刻印するということになる。つまり、四元性(四相性)になるのである。
 そして、この視点によって、D. H. ロレンスの無意識論、四元的無意識論が解明できるように思うのである。

商品の詳細
Psychoanalysis and the Unconscious and Fantasia of the Unconscious D. H. Lawrence (ペーパーバック - 2006/1/4)
新品 : ¥ 1,172


Product Details
Psychoanalysis and the Unconscious and Fantasia of the Unconscious by D. H. Lawrence (Paperback - Jan 2012)
2 used from £35.93


2012年02月26日(Sun)▲ページの先頭へ
新しい差異共振は凹i∞凸i⇒凹(−1)なのか凹j∞凸j⇒凹(−1)なのか:注意:陰陽記号がタイトル欄では出ないので、仮に∞を使用した
先に以下のように書いた。

原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11175759478.html

ふと、ガウス平面で足りるのではないかと思ったので、少し検討したい。
 問題は新しい差異共振の位置である。これまでのPS理論の考え方から言えば、新しい差異共振とは、凸i*凹i⇒凸(プラス1)の凸i支配の連続性から、不連続化された凹iが主導する凹i*凸i⇒凹(−1)に存するのである。
 しかし、これは、私見では、氣の差異共振であり、精神の差異共振ではないのである。あるいは、両者が区別がつかないのである。
 私説では、1.原初差異共振⇒2.同一性力学⇒3.新差異共振というように推移するのであるが、

1. 凹i☯凸i⇒凹(−1)

2. 凸i*凹i⇒凸(+1)

3. 凹i☯凸i⇒凹(−1)

という方程式になる。
 問題は2から3への推移である。あるいは、1から2への推移である。後者を考えると、氣から精神へと転化できるのかという問題である。
 純粋に氣を考えると、凹i☯凸i⇒凹(−1)であり、凸i*凹i⇒凸(+1)はありえないのではないか。もし、それが可能ならば、氣が硬直化することになるのである。氣は常に変動しており、「陽」が「陰」を支配することはありえないのではないだろうか。言い換えると、常に差異共振様態としての氣と考えられるのである。
 だから、1から2への転移は不可能と思われるのである。また、それは、2から3への転移の不可能性でもある。何故なら、それは、精神から氣への転換となるからである。
 故に、先に作業仮説したように、精神軸としてのz軸を提起することは、問題解決の意味をもつと考えられるのである。
 故にやはり、新しい差異共振は凹i*☯凸i⇒凹(−1)ではなく、凹j☯凸j⇒凹(−1)と現段階では考えられるのである。
 整理すると、

1. 氣の差異共振方程式:凹i☯凸i⇒凹(−1)

2. 自己同一性力学方程式:凸j*凹j⇒凸(+1)

3. 新しい(自己)差異共振方程式:凹j☯凸j⇒(−1)

となる。但し、凸i*凹i⇒凸(+1)は成立しないことになる。
 最後に、ルドルフ・シュタイナーの精神学の四元的体との関連を言うと、自我は凸(+1)であり、エーテル体(生命体、氣)は、凹i☯凸i⇒であり、アストラル体(感情欲望体)は、凹jであり、物質体は凹(−1)ということになるように思える。そして、「悪魔」であるが、アーリマンは凸j優位、ルシファーは凹j優位、そして、「キリスト」は自己である凹j☯凸j⇒凹(−1)と考えられる。


原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図
これまで、原始差異共振と呼んだものを原初差異共振primary difference(co-difference?) resonanceと呼び直す。これは凹i主導のもので、まだ、凸i支配の同一性は形成されていない。虚軸上のmedia point(imaginary axis media point)での事象である。凹i優位(凹i superiority)があるのである。言い換えると、凸i劣位(凸i inferiority)があるのである。これはまた、原初母権文化的意識primary matriarchal culture senseということもできよう。
 そして、連続性、凸i支配の力学が生起する。これは、人間固有の連続性支配である。凸i優位、凹i劣位の力学である。同一性力学の支配である。実軸上の media point(real axis media point)における連続性様態である。ここに、精神的フィルターがあるし、また、カント哲学の超越論的「精神」が存するだろう(後で再検討。純粋理性は原初差異共振と新差異共振の両方に関わるようだ。これも再検討)。
 問題は原初差異共振、虚軸上のmedia pointの様態の方程式である。
 後期PS理論において、凸i*凹凹i⇒凹(−1)とそれを方程式化したが、差異共振は凹凹iというような凹iの否定ではなく、あくまで、凹iの肯定でなくてはならないから、それは間違いと考えられる。
 凸i*凹i⇒凸(+1)の*であると、凸i支配の力学と勘違いするので、原初差異共振を凹i☯凸iと表記する。この虚軸上のmedia pointの事象であるが、これはどういうベクトルを形成するのか。それとも、そのままなのか。
 また、問題は、凹(−1)の意味である。果たして、それが、差異共振のベクトルの方向の終点でなければ何なのか。
 今想起したのは、☯は積ではなく、商ではないのかということである。つまり、凹i÷凸iないし凸i÷凹iである。そうすると、当然、⇒凹(−1)になる。だから、凹i☯凸i⇒凹(−1)となる。(これは作業仮説である。)
 以上のようにPS理論を再確認すると、初期PS理論ではなく、後期PS理論の妥当性、整合性が明らかになる。結局、差異共振と同一性との区別が凸i*凹 i⇒凸(+1)の場合、不明瞭であるので、疑問が生じたわけであるが、原初差異共振を凹i☯凸i⇒凹(−1)としたので、区別が判明となり、疑問が解消したのである。
 そうすると、先に、差異共振を表記するのに、想定したz軸は不要となる。
 そうすると、オイラーの公式と統合したガウス平面(仮称:Euler's formula integrated Gaussian plane:EGP)上の円において、左半円(虚軸を含めて)は光(マニ教の光)の様態であり、右半円は闇(無明)の様態となる。(凸iは陽、原光であり、凹iは陰、原闇と見るのがいいだろう。しかし、これは紛らわしい。後で用語を考えたい。)
 では、物質はどう表記されるだろうか。これまで、凸(+1)としてきた。思うに、自然現象は差異共振現象であり、それは、⇒凹(−1)を意味しよう。Vector Modeはこちらに生起しよう。
 ならば、⇒凸(+1)は何か。これは、同一性ではないだろうか。凸iが超越論的同一性精神とするなら、その力学の結果の⇒凸(+1)は同一性でないのか。あるいは、自我(自己同一性)である。(今はそう作業仮説する。)
 ここで、氣を考えると、やはり、それは、差異共振様態と考えられるが、そうすると、精神、光と同一体になってしまうだろう。
 先に述べたように、氣と精神を区別したいのである。すると、z軸が必要になるのである。
 氣を凹i☯凸i⇒凹(−1)とすると、精神は凸j☯凹j⇒凹(−1)と考えられないだろうか。jはz軸という第二の虚軸の虚数記号とする。
 そうすると、これまでの考え方を変更しないといけない。つまり、原初差異共振とは凹j☯凸j⇒凹(−1)であり、同一性力学は凸j*凹j⇒凸(+1)となる。そして、当然、凸iは氣の陽であり、凹iは氣の陰である。
 だから、三重、三次元のmedia point(three-dimensional media point)において、精神と氣と原自我(凸j)の混合することになるように思われる。
 しかし、そのように作業仮説したとき、問題は、氣が物質を生み出すこと(造化)はいいとしても、精神も物質を生むことになるが、それでいいのだろうか。
 それは正しいと思う。精神様態によって身体、肉体は変化するのは当然である。ストレスを考えればいいのである。ということで、この点もクリアされた。
 最後に、凸jの支配からの脱却である不連続化に拠る新しい差異共振についてであるが、それは、凹j☯凸j⇒凹(−1)と考えられる。そう、精神と氣と物質が一体となっているのである。
 今はここで留める。

追記:人間認識図であるが、それは、人間・自然認識立体図となるだろう。

追記2:光や量子はどう記述されるのだろうか。凹i☯凸i⇒凹(−1)の⇒が光ではないだろうか。そう、マニ教の光は凹j*凸j⇒凹(−1)の⇒ではないだろうか。前者が現象光であり、後者が精神光(霊光)である。
 しかしながら、3D media pointにおいて、それらは、融合しよう。
 では、量子はどうなるのかと言えば、それは、光の⇒の振動数、波動の違いで説明できるかもしれない。思うに、ここで濃度概念を使用できるだろう。凹iの最高濃度(凸iが最大強度)の場合と凹iの最低濃度(凸iの最小強度)の場合の両極における中間値(極大の場合も含めて)をもつように思える。

追記3:そうすると、円ではなく、球ないし球面が人間・自然認識立体図の主要な空間となる。


不連続的差異論とPS理論を再検討する:自我と同一性と物質
不連続的差異論とPS理論を再検討する:自我と同一性と物質
テーマ:不連続的差異論とPS理論

不連続的差異論のポイントは、ある自己差異が他者を認知するとき、通常は他者を自己同一性化してしまい、他者の差異を無視することである。
 自己差異A、他者差異Bとすると、AはBの認識に当たり、AをBに投影してしまうのであり、Bは否定されるのである。
 この場合、Aは自我であり、また、自我同一性である。AによってBは否定されるのである。
 しかし、不連続的差異とは、B自体を肯定することである。だから、AはBであり、同時に、Aである。いわゆる、即非様態である。
 このとき、Aは自我ではなく、自己である。
 そう、Aが自我となり、他者Bを自己同一性化するとき、それが、A*B⇒+1であろう。+1が自己同一性、自我となるだろう。
 Aは原自己ないし原自我であり、+1が自我である。しかし、それは、また、自己同一性である。
 例えば、Bを樹木としよう。Aは樹木を認識する。それは、自己同一性化であり、その+1はB=樹木である。だから、Bは物質ということではないだろう。Bは現象である。
 では、物質とはどうなのか。
 端的に言えば、ある数量化が必要である。他者Bを数量化ないし、抽象的数量化する必要がある。
 だから、A自体に数量的認識、抽象的認識が必要である。
 それは、先の言語についての検討からわかることは、凸iの分析的認識性に拠るということである。
 つまり、A自体は、単に、感覚的に現象認識するだけでなく、現象を抽象的数量的に認識するということになる。
 だから、自我と物質とは⇒+1として重なるようになるとは言えよう。
 しかしながら、感覚的具体的同一性認識と抽象的数量的同一性認識は異なるのではないだろうか。
 端的に言えば、感覚と数量の違いがあると思える。
 感覚は具体性をもっているが、数量はあくまで、抽象性である。
 そう、正に、具体的同一性と抽象的同一性の違いである。
 だから、問題は、⇒+1としたとき、両者の違いが区別できないことである。
 思うに、凸i*凹i⇒凸(+1)と凸*凹⇒凹(−1)があるのかもしれない。
 これは作業仮説的であるが、前者が具体的同一性、後者を抽象的同一性と考えることができるかもしれない。
 だから、感覚的現象は+1であり、抽象的現象である物質は−1となる。光は+1であり、闇は−1である。
 では、そうしたとき、精神はどう記述できるのだろうか。つまり、差異共振精神、即非精神である。
 それは、今の直観では、ガウス平面に直交する垂直軸(z軸)で表記されるように思われる。
 同一性はx軸の+1と−1で表記され、差異共振、即非様態はz軸の凸jと凹jで表記されるのではないだろうか。
 思うに、差異共振、即非様態であるが、凸iが主導的な場合は凸jに、凹iが主導的な場合は凹jになるのではないだろうか。
 そう、つまり、差異共振、即非様態でも凸i主導と凹i主導がありえるように思えるのである。つまり、差異共振とは本来、凹i主導であるが、それが一端成立すると、凸i主導と凹i主導の両面があるように思えるのである。そう、差異共振の極性論理(即非論理)である。
 今はここで留める。







差異1*差異2*差異3・・・差異nの連結
テーマ:media point

不連続的差異論からPS理論(ガウス平面的複素数精神理論)に移行したとき、本件の多重差異の連結の様態が見落とされるような印象をもった。
 もっとも、media resonanceの概念でそれは説明できるように感じたが。
 とは言え、少し、多重差異の問題を少し考えたい。直観では、これこそ、双極子としての多重差異の問題ではないだろうか。
 cosθk+i*sinθkとcos(θ+π)k+i*sin(θ+π)kの双極子において、多重化が生じるのではないだろうか。
 すなわち、

{cosθ1+i*sinθ1, cos(θ1+π)+i*sin(θ1 +π}*{cosθ2+i*sinθ2, con(θ2+π)+i*sin(θ2+π}*
・・・・・{cosθn+i*sinθn, cos(θn+π)+i*sin(θn+π}

となるのではないだろうか。
 どうも、これが有機体や生命体を形成する要素ではないだろうか。
 今は提起だけである。 







初期PS(PPS)理論から見た人間認識図の様態
テーマ:media point

今は簡単に記すに留める。
 凸i*凹i⇒+1であるが、先に+1が光と述べたが、⇒が光であり、+1が物質かもしれない。
 そして、凸iの支配による自我方程式は凸i*凹凹⇒−1であり、−1が自我である。
 そのように見ると、第一象限が自然界であり、第二象限が自我的言語生活世界である。
 そして、第三象限が腹黒い世界、悪の世界である。そして、第四象限は、直観の世界である。




2012年02月22日(Wed)▲ページの先頭へ
言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移
言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移
テーマ:language

先に、連続性に関して、それは凸iによる凹iの力学であると述べたが、それから帰結的に、本件の主題が生じる。
 これまで、何回か本件について述べてきたが、結論ないし結論というものに到達していなかったので、あらためて検討したい。
 言語の問題は、正に、イデア論、PS理論における本質的問題である。
 初期PS理論(Premier PS Theory、PPSとする。それに対して、後期PS理論をLate PS Theory、LPSとする。)に拠って考察する。
 明らかに、言語は凸iの支配に関係している。史的に見ても、父権文明が文字文明であり、それ以前の母権文明は口語はあったろうが、無文字文明と言えよう。(シュメール文明の問題がある。)
 だから、正確に言えば、口語と文字言語を区別する必要がある。
 では、最初、口語、話し言葉について考えよう。それは、史的には、前父権文明の母権文明について考察することでもある。
 即ち、D. H. ロレンスが『黙示録論』
黙示録論 (ちくま学芸文庫)/D・H ロレンス

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で明らかにしたように、それは、イメージの文明である。感覚知覚におけるイメージ中心主義の文明である。
 この背景において、口語について考察する必要がある。イメージとしての口語である。つまり、詩的言語的な口語ということが想起される。そう、口承文芸、 吟唱詩人、語りというようなことが想起されるのである。(古代ギリシアのホメーロス、日本では、記紀の元になった口承神話が考えられる。また、平家物語は 本来、吟唱されるものである。)
 イメージを喚起する音楽的言語としての母権文明的口語ということが考えられるのである。
 そうすると、それは、当然、凹iと凸iの差異共振イメージに拠ると考えられる。つまり、凹i*凸i⇒+1の光の言語ということになる。これはここで今は留めておく。
 次に、文字言語について考察しよう。それは上述したように、父権文明における、凸iによる凹iの支配力学から「創造」されたものと考えられるのである。
 これは同一性言語となる。そう、象形文字(表意文字)と表音文字を区別しないといけない。
 では、先ず、象形文字について考察しよう。
 それは、母権文明のイメージ言語を文字化したもののように思える。即ち、凹i*凸iの共振イメージを凸iで写し取ったものと考えられる。漢字が例をあげ るまでもなくそのように考えられる。(絵文字も考える必要がある。エジプト文字である。それは、象形文字以前のものであり、それが差異共振イメージを最も 凸iで写したものであろう。詳細についておいておく。)
 差異共振イメージを凸iで写すとはどういうことなのだろうか。それは、精神的光(凹i*凸i⇒+1)を現象的光(凸i)で写しとることではないだろうか。(精神的光を大光、現象的光を小光と簡略化する。)
 大光を小光に写しとること、内的感覚(内的視聴覚)を外的感覚(外的視聴覚)に書写することである。
 つまり、ここには、ハードではないものの、凸iの凹iに対する支配がはたらいていると考えられる。
 では、次に、表音文字である。(史的にはフェニキア文字がアルファベットの始原である。)
 これは、もう基盤には差異共振イメージはほとんどないと言えよう。もっとも、これもベースは差異共振イメージ、象形文字(表意文字)であったが。
 基盤の差異共振イメージを消去されて、抽象化された表意文字である表音文字が父権文明を精神的に形成すると言えよう。(思うに、象形文字、表意文字の形 成力学において、デリダのエクリチュールの概念はそれなりの意義をもつが、しかし、デリダは口語のイメージ言語と文字言語は混同しているように思われる。 これについては検討課題である。)
 では、抽象化された表意文字である表音文字(例えば、アルファベット)の形成力学とは何か。
 ここには、分析的知性がはたらいていると考えられよう。分析化された音声が表意文字化されるのである。
 この分析抽象化作用であるが、これは、正に、凸iの本性の作用であると考えられる。
 思うに、表意文字的認識は凸iの本性である。そう、正に、同一性作用である。思うに、正確に言えば、超越論的同一性認識作用である。これは、カントの悟性に相当しよう。
 つまり、人間は他の生命体とは異なり、先天的、先験的に、超越論的同一性認識作用=悟性を具備、内在していると言えよう。(一時流行したチョムスキーの 生成文法論であるが、それは、この視点から考えれば、基本的には妥当性をもつと言えよう。しかし、実際は構造主義になってしまった。つまり、二項対立論に なってしまった。)
 以上で、簡単ではあるが、本件の問題を基本的には解明したと考えるが、最後に構造言語学【構造言語学 とは - コトバンク 】(構造主義【構造主義 - Wikipedia 】)について簡単に触れて終わりにしたい。
 構造言語学はソシュール(フェルディナン・ド・ソシュール - Wikipedia )のものが源泉である。ソシュールの有名なシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)【シニフィアンとシニフィエ - Wikipedia 】との対立と融合について考えよう。
 ここでは簡明にするために、表音文字で考えよう。そこでは、シニフィアンは音声ないし表音文字である。そして、シニフィエであるが、思うに、ここには、 混濁がある。つまり、意味されるものは概念とイメージの両方があるからである。ソシュールは両者を混淆、混同していると考えられる。
 概念の場合は当然、凸iの悟性作用に拠るのであるが、イメージの場合は微妙であり、差異共振イメージ(内的イメージ)と現象的イメージ(外的イメージ)の両方が考えられるのである。
 だから、ソシュール構造言語学とは、一面では、凸iの言語学であり、他面では凸iと凹iの差異共振言語学の側面をもつと考えられる。
 その構造主義とは、シニフィアンとシニフィエの対立に拠ると言えようが、それは果たして、二項対立なのだろうか。例えば、前者が後者に対して、優位であると言えるのだろうか。そのように考えたのは、ラカンであるが、ソシュールではないだろう。
 だから、ソシュールの構造言語学とは二項対立の構造主義とは異なると言えよう。とまれ、二項構造をもつという意味での構造主義ではある。
 そして、ソシュール言語学の差異共振言語学的側面があるからこそ、あるいは、凸iの同一性言語学と差異共振言語学の混同があるからこそ、ソシュールはその後、低迷して、最後、アナグラム(アナグラム - Wikipedia )に関わるようになったと考えられる。
 アナグラムとは一種の言葉遊びで、文字の順番を変えたりして、意味の変化を楽しむものであるが、それは正に、差異共振イメージに拠ると言えよう。例えば、godを順序を逆にすると、dogになるというようなことである。
 つまり、差異共振は、対立するものが共振するということであるから、godと順番が逆という意味で対立するdogを引き出すのである。つまり、アナグラムを生み出すのである。
 ここで留める。






光とは何か:二つの光:差異共振光と同一性光
テーマ:manichaeism: 哲学

マニ教の光とは、初期PS理論モデルに拠れば、凸i*凹i⇒+1の+1に相当しよう。そう、オイラー・ガウス平面の右半円が光の世界である。
 では、一般の光、陽光とは何であろうか。それは、マニ教の光ではない。マニ教の光は、差異共振の光である。凸iと凹iの共振に拠る光である。いわば、霊的光である。
 一般の光、陽光とは何であろうか。これは、実は凸i主導の同一性の光ではないのか、と思った。
 思うに、自我様態と同質の光ではないだろうか。私が想起しているのは、父権的神話である。父権的太陽である。それは、太母を殺戮する父権的な英雄の太陽である。
 思うに、これは、客観的事象というよりは、主観的事象、精神的事象ではないだろうか。
 つまり、差異共振の光(霊的光)を父権的同一性の光で抑圧しているということである。
 これが、凸i主導の光ということになる。凹iと凸iの差異共振の光(霊的光)はいわば閉鎖されているのである。
 だから、一般の光、陽光とは、凸iの光と言えよう。原光である。(そして、これが後の一神教の神となるだろう。)
 まとめると、光は二種類あるのであり、一つは、凸iと凹iの差異共振光(マニ教の光、霊的光)であり、一つは、父権的同一性の光(凸i)である。
 D. H. ロレンスが「我々は光の背中を見ているに過ぎない」と言ったのは正に、この事態を指していると言えよう。光は差異共振光でありながら、いわば、裏返しにされた光凸iになっているからである。
 そう、これは、精神的フィルターの光と言えよう。同一性の反射の光、鏡像の光とも言えよう。
 言い換えると、物質の光と精神の光があるのであり、後者が今日、否定されてしまっているのである。
 マニ教の光は絶対的に後者である。これは、凹iと凸iの原始差異共振を不連続化することで形成されよう。
 ところで、私は先に、自然界は+1であると述べたが、この点どうだろうか。
 つまり、自然界は差異共振によって形成されているということを意味したのである。
 そう、自然界は、精神的光から創造されたと言えよう。しかしながら、人間の同一性的自己、自我は、それを同一性の光で遮断して見えないのである。
 自然的精神の光を同一性の自我の光で排除して、物質的光のみを見ているのである。







連続的複素数精神と不連続的複素数精神:双極子としての複素数精神の連続性と不連続性
テーマ:media point

生成門氏のガウス平面精神マップ(GPS:Gaussian plane Positioning System)は興味深いが、指摘したいのは、精神は双極子であり、cosθ+i・sinθとcos(θ+π)+i・sin(θ+π)が精神の双極子の位置であろうということである。
 次に、精神が連続性のままであるときは、つまり、凸iが凹iを支配しているときは、すべての精神複素数双極子は、当然ながら、連続様態であると考えられることを指摘したい。
 私は現段階では、初期PS理論モデルに従っているが、そこにおいて、凸iによる凹iの支配の状態では、精神複素数双極子は、左半円に属し、それらはすべて、連続態ということになる。
 そして、不連続化が為されたとき、即ち、凹iが独立したとき、精神複素数双極子は、右半円に属するのであるが、それは、すべての位置、点において、不連続態であると考えられる。
 言い換えると、左半円(闇)の自我領域は連続的同一性の領域であり、右半円(光)の自己領域は不連続的差異共振の領域であるということである。
 尚、虚軸は左半円ではなく、右半円に含まれると考えられる。
 今は簡単に指摘するに留める。

追記:精神は双極子と言ったが、そうすると、例えば、右半円の円弧の一つに属するとき、対極は、虚軸の場合を除いて、左半円に属することになり、矛盾することになるのである。
 思うに、凸iと凹iの差異共振の強度(濃度)に応じて、右半円の上部と下部に精神複素数が形成されるのかもしれない。つまり、共役にあるということである。即ち、a±biである。
 そして、連続性の場合(左半円)も同様であるように思う。
 今、ふと思ったが、私が勘違いしているかもしれない。凸iと凹iは双極原理であるが、それをベースに、双極子ではなく、点として、複素数精神が動くのかもしれない。
 そうならば、生成門氏の考えは正しいのである。そうだとしても、連続性と不連続性(差異共振性)は区別されなくてはならない。
 初期PS理論モデルでは、虚軸を除いて、左半円は連続性の領域(自我、闇)であり、虚軸を含めて右半円は不連続性(差異共振性)の領域(自己、光)と考えられる。
 思うに、凸iと凹iの極性原理において、人間では、左半円と右半円が併存している。つまり、自我と身体(氣的身体)である。そして、自我を不連続化すると、右半円に自己形成が起こるのである。つまり、精神の光化である(正に、マニ教的事象)。
 否、正確に言えば、原始差異共振と連続的精神があるのである。つまり、前者は右半円に属しているが、後者は左半円に属しているのである。
 だから、やはり、精神は二重なのである。凸i主導と凹i主導の二重性があるのである。だから、精神は単に一点としては位置付けられないだろう。凸i主導の点と凹i主導の点の両点を把捉しないといけない。
 途中であるが、ここでおく。
 



2012年02月19日(Sun)▲ページの先頭へ
プラス1とマイナス1の本性の根本問題:初期PS理論への回帰の試み
プラス1とマイナス1の本性の根本問題:初期PS理論への回帰の試み

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

先の論考『連続性(連続的同一性)とは物質的様態ではなく、認識的同一性(言語)様態を意味する:修正版 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11169036692.html』において次のように述べた。

「 連続性は自我化ではあっても、物質化ではない。この場合、物質化は違うレベル、端的に、身体のレベルの問題である。
 凸iの支配が、人間のメルクマールである。これは、人間以外の自然にはありえないと考えられる。サルには、自我がないのである。
 この凸iの支配が連続的同一性をもたらすのであるが、この同一性は物質の同一性とは異なる。何故なら、それは、知覚的認識的同一性であるからである。端的に、それは、言語である。
 ならば、物質的同一性は何か。それは、端的に、凸、+1である。
 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺の+1は、物質だけでなく、認識的同一性、言語を意味するということである。
 ただし、気をつけるべきは、物質を帰結する自然現象の場合、左辺は差異共振を意味するが、人間の場合は連続的同一性力学、凸iに拠る凹iの同一性支配を意味するという点である。」(色文字・下線は本稿での筆者の強調)

上記のように考え直したが、そうすると、だいぶ以前にPS理論の初期にKaisetsu氏が提起したプラス1が光であり、マイナス1が闇であるという視点に回帰するのがいいように思われるのである。
 その場合、凸iは陽/原光(「アポロ」)であり、凹iは陰/原闇(「ディオニュソス」)である。原光と光、原闇と闇は異なる。
 だから、自己認識方程式凸i*凹i⇒+1において、+1は物質ではなく、光、自己である。凸i*凹凹i⇒−1における−1は、闇、あるいは、自我である。
 これは、認識上の事象である。
 人間以外の自然事象において、自己認識方程式において、+1は自然的身体を意味しよう。それは、氣を本質にもつ物質的身体である。そう、単なる物質は−1と思われる。
 仏教的に言えば、−1は無明の世界である。そして、人間認識図は、これまでのものとは左右逆転(言わば、「鏡の国」化)になるだろう。
 即ち、第一象限が道徳・倫理、法等の世界であり、第二象限が物質的言語的生活世界であり、第三象限が物質的欲望、唯物論の世界であり、第四象限が直観の世界であろう。哲学、数学、芸術は第一象限と第四象限の境界、+1の線分領域に存するのではないだろうか。また、科学であるが、近代科学は凸iに近い第一象限ではないだろうか。そして、相対性理論や量子力学は、凸i*凹iの世界、虚軸の世界に属するのではないだろうか。つまり、精神的世界と一致するのである。
 以上、PS理論読み直しの試みであるが、人間認識図の領域区分はまだ暫定的で未確定なので、当然、再考したい。

追記:以上のように考えると、e^iπ+1=0のオイラーの等式を変形させた、e^iπ=−1の−1は、超越的存在ではなく、自我を意味するだろう。
 自我は人間特有・固有の本性である。ルドルフ・シュタイナーは自我(「わたし」)ichを最重視した。
 もっとも、それを+1の自己に変容することが人間存在の基本的課題であるが。

追記2:上記の初期PS理論において、オイラーの公式に規定されたガウス平面(オイラー・ガウス平面と仮称する)の右半円が光の世界、左半円が闇の世界ということになる。あるいは、右半円が自然界であり、左半円が人間・人工界である。
 思うに、虚軸を含めて右半円は精神界とも呼べよう。だから、虚軸を含まない左半円は世俗界(娑婆)とも呼べよう。




連続性(連続的同一性)とは物質的様態ではなく、認識的同一性(言語)様態を意味する:修正版

テーマ:media point

先に、『仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11168826166.html』において以下のように述べた。

「結局、連続性とは物質(自我)化を意味するのであり、これが、人間の自然的原理である。しかしながら、鉱物、植物、動物においては異なるだろう。
 例えば、松の木の生成に、凸iの支配が必要だったのか。そうではなく、それは、Vector Modeと考えられる。
 とまれ、ここは微妙な問題である。
 今の段階では、人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれたのに対して、鉱物、植物、動物においては、差異共振のVector Modeが支配的であると考えられる。
 ならば、連続性とは人間において、生起したものである。正確に言えば、人間の精神において生起したものである。身体は差異共振的であると考えられる。」

上述の「連続性とは物質(自我)化を意味する」と「人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれた」の箇所は両者ともに、不正確である。
 連続性は自我化ではあっても、物質化ではない。この場合、物質化は違うレベル、端的に、身体のレベルの問題である。
 凸iの支配が、人間のメルクマールである。これは、人間以外の自然にはありえないと考えられる。サルには、自我がないのである。
 この凸iの支配が連続的同一性をもたらすのであるが、この同一性は物質の同一性とは異なる。何故なら、それは、知覚的認識的同一性であるからである。端的に、それは、言語である。
 ならば、物質的同一性は何か。それは、端的に、凸、+1である。
 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺の+1は、物質だけでなく、認識的同一性、言語を意味するということである。
 ただし、気をつけるべきは、物質を帰結する自然現象の場合、左辺は差異共振を意味するが、人間の場合は連続的同一性力学、凸iに拠る凹iの同一性支配を意味するという点である。



連続性とガウス平面複素数精神様態マップ
先の考察は、以下の生成門氏のかなり難解な、例えば、以下、赤文字と下線で強調した箇所、即ち「第1象限のG(0.7,0.7)の左側、つまり、述語優位の認識」という考え方について述べなかったので、連続性の問題の視点から、一言述べたい。
 先に、連続性とは凸iによる凹iの支配、凸i自体の同一性による凹iの支配であると述べた。(仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11168826166.html)
 連続性力学(凸iによる凹iの支配力学)の視点から見ると、第一象限とは、基本的には連続性(連続的同一性)の領域に思える。
 ただし、a+biの複素数精神様態をどう見るのか、問題である。そう、私見では、a±biの方が実際的に思える。
そして、aがゼロのときに、±bi、即ち、凸i、凹iが生起する。つまり、不連続化が起こるような感じがする。
 では、aがゼロでないときは、どうなのだろうか。そのときは、純粋な凸iと凹iは生起していないのではないだろうか。
 そうならば、やはり、連続性のままであるように思えるのである。
 ただし、一端、不連続化が生起したとき、不連続態を保持したまま、a±biの様態はあり得ると思う。
 暫定的であるが、今の段階では、私見では、第一象限は、連続性(連続的同一性)の領域に思えるのである。だから、果たして、そこに述語優位の領域があるのか疑問である。(連続性とは先述したように、凸iに拠る凹i支配力学であり、凸iの支配とは、端的に、主語優位になると考えられる。)
 最後に第四象限について簡単に触れよう。それは、一種の連続性の領域、ないし逆連続性の領域に思える。
 強度の凸iの支配があるとき、原始差異共振性は衰滅し、反動的な凹iが生起する。それは、当然、同一性=物質と結びつき、物質欲となるのである。凹i+1の世界である。
 補足的に、原始差異共振について一言述べておこう。先に、それは、新しい差異共振によって乗り越えられると述べたが、それはそれで正しいが、内的メカニズムを捉えていないと思う。
 原始差異共振は凹i主導の差異共振であり、凸iは覚醒化していないのである。しかしながら、凸iの支配力学にあって、深層的に、原始差異共振のもつエネルギーは凹i中心に蠢いていると考えられる。
 凸i支配下にあって、原始差異共振エネルギーを不連続化すること、それが、新しい差異共振の創造を意味すると考えられるのである。
 
資料:

第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0)

『モナドの視点とはなんでしょうか?

「おーい」と呼ぶと「おーい」と帰ってくるのが「こだま」です。そのときどう感じますか?

大人なら知識がありますから、それは音の反射ださ!などと物知り顔で言うことになりますが、子供はそうではありません。そこには何か不思議な力が働いているように感じるでしょう。

「響く」感じです。

これがイデアなのです。イデアと言えば犬のイデアとか、リンゴのイデアということになるのが普通ですが、そういうイデアは自己同一イデアであり、自我形成の源泉です。

しかし、ここでは動詞のイデアを考えます。これを述語イデアと呼ぶことにします。子供が感じた不思議な力とは述語イデアだったのです。

これを大人は「山彦」という形に主語化したのです。「山彦」の中に、[響く]を閉じ込めたのです。「山彦」には光は見えません。[響く]には光が見えます。

「山彦」は闇であり、[響く]は光なのです。

述語と主語の認識

ここで、疑問が出てきたと思います。

第1象限は光の認識であって、山彦が闇なら、第4象限になるのではないかと言うことです。ところが、第1象限は述語優位(響く)から主語優位(山彦)に移っていきますから、第1象限に闇が入ってきてしまいます。これはおかしなことです。

そうです。これが認識の段階が螺旋的だという意味の難しいところです。

子供に大人の認識が入って来るので混同しているのです。

子供はまだ闇を知りません。ですから「響く」だけです。つまり、第1象限のG(0.7,0.7)の左側、つまり、述語優位の認識であって、そこから勝手には右にはいかないのです。

大人はG(0.7,0.7)右、つまり、主語優先の位置に行きます。それは何故でしょうか?

大人は知識を持っています。知識というのは、「帰ってきた、おーい」は「山彦である」という知識です。

しかし、知識は「物」ではありませんから目では見えません。つまり、知識は闇の認識なのです。言い換えると、闇とは他者の知識(認識)なのです。知識とは誰かの先祖とか、科学者、お婆さんの知恵なのです。それが言い伝えられてきた文化伝統の類です。

ですから、その他者の知が私という自己の中に侵入して来なければ、闇は生まれないのです。

子供がこの知識を始めて知ったとしましょう。その瞬間、子供が大人になったときであり、闇が生まれたときなのです。つまり、他者が私に中に入ってきたのです。他者とは、私の中に無断では入って来るのですから、ウィルスのようなものなのです。

このとき子供に凹i(他者)が生成され、第4象限のG(0.7,0.7)から右側の認識が生まれるのです。第4象限の凹iからG(0.7,0.7)を経由して、−1に向かうのが自分で理解したときです。

親から教えてもらうようなケースでは、途中からG(0.7,0.7)が発生するのです。

第4象限のウィルスのように侵入した他者の知による闇の認識:G(0.7,0.7)と、既に発生している第1象限のG(0.7,0.7)との間に共役が生まれます。こうして、第1象限の認識がG(0.7,0.7)から右に移動して+1に向かうのです。これはまるでウィルスによる乗っ取りです。

つまり、第4象限から第1象限へ反転するのです。しかし、ただ、同じGPを渡ることはありません。GPは螺旋的に回転しているのですから、GP1(述語優位)→GP2(主語優位)という渡りになるでしょう。

GP2(主語優位)とは二枚目のGPであり、しかもその半分が主語優位となって出てきたのですから、他者(ウィルス)によって乗っ取られたようなものです。

一枚目GPS(a,-b):a>0,7.b<0 .7→二枚面のGP(a,b):a>0.7,b<0.7

これが自我の発生という瞬間の実況中継です。

http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100108516663

シムダンス「四次元能」


2012年02月18日(Sat)▲ページの先頭へ
仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである
仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである
テーマ:media point

生成門氏のガウス平面マップにおける思考(第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0) http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100108516663 )について、即ち、複素数精神様態とは何であるのかと考えていたら、連続性とは何かという問題になった。それについて述べたい。
 PS理論の前身の不連続的差異論は、連続的差異=微分の脱却から始まった。
 いったい、連続性とは何であろうか。これまで、数え切れないくらい論じてきた。
 結局、今の結論(仮説)を言えば、それは、MP2(実MP)における同一性(自我)=物質形成の根本的力学である。それは、凸iが主導する、そして、凹iを支配する原理である。
 この問題は当然、不連続的差異論初期の段階に戻るものである。
 即ち、連続的同一性の力学である。これは、端的に、凸iが主導する力学であり、差異(絶対的差異・内的他者)である凹iを同一性で支配するのである。
 つまり、連続性とは同一性力学のことである。同一性がmedia pointを支配するのであり、そのとき、被支配の差異凹iは、個的自由を求めつつも、同一性支配下にあるために、純粋差異になることができないのであ る。言い換えると、常に、同一性に付きまとわれているのである。
 この差異と同一性の混淆状況を見事に捉えたのが、デリダ哲学と言えよう。差延という用語に表象されていると言えよう。
 しかしながら、これは、連続性、連続的同一性力学の支配下の様態に過ぎないのである。
 この事態において、不連続化が至高の意義をもつのである。それは、凸iの支配を断ち切る、切断することである。そのとき、もはや、凸iが凹iを支配することはなくなり、凹iは差異(純粋差異、絶対的他者、個)自身に回帰するのである。
 ここにおいて、凹iと凸iの共生、棲み分けが生起したと言ってもいい。
 凸iは+1との連携において、第一象限を探究するのである。
 そして、凹iは自身の主導化によって、新たな差異共振をもたらし、第四象限へと開けたのである。
 即ち、物質的世界と精神的世界の併存、共生が可能になったのである。
 結局、(差異の)不連続化とは、PS理論で明らかになったように、凸iと凹iとの差異共振(media point)をもたらしたのである。それは、凸i*凹凹i⇒凹(マイナス1)である。あるいは、第四象限への参入である。
 結局、連続性とは物質(自我)化を意味するのであり、これが、人間の自然的原理である。しかしながら、鉱物、植物、動物においては異なるだろう。
 例えば、松の木の生成に、凸iの支配が必要だったのか。そうではなく、それは、Vector Modeと考えられる。
 とまれ、ここは微妙な問題である。
 今の段階では、人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれたのに対して、鉱物、植物、動物においては、差異共振のVector Modeが支配的であると考えられる。
 ならば、連続性とは人間において、生起したものである。正確に言えば、人間の精神において生起したものである。身体は差異共振的であると考えられる。
 結論が出たので、ここで留める。





述語優位と主語優位

テーマ:media point

以下、生成門氏が述語優位と主語優位について興味深いことを書いているので、少し考えてみたい。

第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0)

『モナドの視点とはなんでしょうか?

「おーい」と呼ぶと「おーい」と帰ってくるのが「こだま」です。そのときどう感じますか?

大人なら知識がありますから、それは音の反射ださ!などと物知り顔で言うことになりますが、子供はそうではありません。そこには何か不思議な力が働いているように感じるでしょう。

「響く」感じです。

これがイデアなのです。イデアと言えば犬のイデアとか、リンゴのイデアということになるのが普通ですが、そういうイデアは自己同一イデアであり、自我形成の源泉です。

しかし、ここでは動詞のイデアを考えます。これを述語イデアと呼ぶことにします。子供が感じた不思議な力とは述語イデアだったのです。

これを大人は「山彦」という形に主語化したのです。「山彦」の中に、[響く]を閉じ込めたのです。「山彦」には光は見えません。[響く]には光が見えます。

「山彦」は闇であり、[響く]は光なのです。


http://www.c-player.com/ad00178?rf=notice&pf=pc
シムダンス「四次元能」

直観で言おう。木霊の「おーい」が述語優位ということであるが、「おーい」は、差異共振なのである。自己と一体化している。つまり、凸iを介しつつ、凹iで「響き」を捉えているのである。
 思うに、述語優位とは凹i優位と言えるかもしれない。しかし、凸iが媒介になっている。
 次に、「おーい」を「山彦」にしたのが、主語優位ということであるが、これは、凸i優位と言えそうである。
 ただし、第一象限の事象でのことである。凸i+1である。
 述語優位ないし凹i優位とは、第四象限に帰属するのではないだろうか。
 今はここで留める。





一神教(超越神)と父権主義の力学
テーマ:media point
Z軸において、凸j*凹j⇒凸iになると作業仮設する。ただし、j*j⇒-iとする。
この数式が一神教、超越神を意味するのではないだろうか。
 では、凸j*凹凹j⇒凹iとなる。この凹iが多神教、母権主義ではないだろうか。
 つまり、

凸j*凹j⇒凸i=the Father=Heaven

凸j*凹凹j⇒凹i=the Mother=Earth

ではないだろうか。
 そして、凹(マイナス1)は、物質を形成するための、原型(イデア)、あるいは、氣、生命体=エーテル体ではないだろうか。
 「原父」は凸j、「父」は凸i、「子」は凸i⇒+1ではないだろうか。(しかし、凸jが「父」、凸iを「子」とする見方もあるだろう。これについてはおいておく。)
 ならば、「聖霊」はどうなるだろうか。端的に、media pointではないだろうか。凸iの支配下において、凹iが開けるとき、media pointが「開花」する。
 そのとき、個において、二つの差異共振エネルギーが流入するのではないだろうか。即ち、凸j*凹凹jと凸i:凹凹iの差異共振エネルギーである。
 前者は垂直的超越エネルギー(「神」)であり、後者は水平的超越エネルギー(氣)である。
 二つ合わせれば、語呂合わせ的であるが、神氣となる。
 ただし、前者の「神」は、「原父」と「原母」の共振であるから、超神、あるいは、新神とか呼ぶべきだろう。
 ならば、超神氣、ないし、新神氣のエネルギーが流入する。そう、media pointとこのエネルギーを併せて、「聖霊」と呼ぶべきであろう。
 以上は思考実験である。

追記:凸j*凹j⇒凸(+1)の方がいいのではないかという考えも浮かぶ。
 思うに、Z軸とY軸は不連続かもしれない。その場合、二つの超越界が存することになる。
 後でさらに検討したい。





検討問題:1)一神教(超越神)とは何か。2)資本とは超越論的同一性ではないのか
テーマ:検討問題
今はざっと述べる。
 1)に関してだが、これは、ガウス平面に直交するZ軸の「存在」に拠るものである。これについては後で詳述したい。
 2)であるが、今はこの問題の方が重要である。
 これまで、資本を同一性として捉えてきた。しかし、優れた資本家は、感性欲望凹iよりも、抽象的知性凸iが優越しているのである。
 この凸iが資本を管理し、活用するのである。
 同一性は凸i+1である。それに対して、凸iは超越論的同一性と考えられよう。
 ここが資本ないし資本家の存する位置である。
 だから、本来、物質主義的ではないのである。それは、物質を活用する精神である。
 そう、資本家は超越論的同一性精神をもつのである。
 では、これとカントとヘーゲルの哲学はどう関係するだろうか。
 思うに、超越論的同一性とは正に、カントの超越論的形式と一致しよう。
 ヘーゲルであるが、弁証法で言うと、その精神とは、正に、カントの超越論的形式と一致すると思う。
 故に、
 
超越論的同一性=カント超越論的形式=ヘーゲルの精神

となろう。
 これが資本、資本家の精神である。
 これは決定的に唯物論とは異なるのである。マルクス、エンゲルス、レーニンはまったく理解していなかったのである。
 さて、この超越論的同一性精神であるが、これは、1)の一神教の問題、ないしは父権主義の問題と通じるように直観される。
 つまり、Z軸の+の精神に関係しているのである。これが、凸iを支配しているように思えるのである。
 とまれ、言い換えると、一神教、父権主義の誕生がなければ、資本主義は生まれなかったと考えられる。
 とまれ、超越論的同一性=資本(主義)の問題点は明らかに、他者凹iの無視である。
 他者凹iを認知したときに、資本主義はトランス資本主義となるだろう。
 それは何だろうか。それは、自由共同体的資本主義である。
 今はここで留める。





凹i の視覚と凸iの視覚:ディオニュソスとアポロ:二つの視覚とそれらの芸術・アート
テーマ:art & design
私は洋楽ポップス、とりわけ、多くの人と同様に、ビートルズに没入し、また、学生のとき、クラシック音楽に魅せられて以来、自分が音楽的人間だと思ってきた。 
 そして、つい数年前から、私の自己認識は大変化したのである。つまり、私は美術的視覚主導の人間であったという認識である。
 以前述べたが、ある坂道の途中から下の方の景色を見て、スケッチしたいと思ったのである。そう、絵心が「芽生えた」である。
 そして、最近、視覚美に忽然と目覚めたのである。
 考えると、実は私は、小学生のとき絵を描くのが好きで、親に将来は、絵描きになりたいと述べたのである。貧乏人の家庭であったから、即座に否定された。 そして、それから、ビートルズがやってきた。また、思うに、それ以前に私の精神的感性の変化があった。超越的精神が消えてしまったのである。
 結局、視覚美に目覚めたというは、実際は、小学生の頃の絵画志向が再生・新生・復活したと見るのが的確であろう。
 私は文学がそれなりに好きであったので、それに惹かれた。
そして、その後、哲学等に惹かれた。
 思うに、文学は凹i主導、闇主導の芸術である。そう、音楽もそうである。
 しかし、絵画、美術は微妙なところがあり、凹iが土台にありながら、凸iが主導的なのである。
 そう、ニーチェの『悲劇の誕生』の視点は実に天才的であったと言えよう。
 そう、音楽はディオニュソスで、美術はアポロである。これは、前者は凹i的であり、後者は凸i的であると言えよう。
 結局、芸術の極性があるということである。それは、闇と光の極性である。
 しかしながら、先述したように、近代は凸i、そして、凸i+1が主導であり、凹iを喪失したと言えよう。
 あるいは、両者の分裂が生起したと言えよう。
 思うに、T. S. エリオットが「感性の乖離」で述べたことはこの事態と言えよう。凹iと凸iの分裂である。
 そして、美術は凸i主導なので、科学に「伴われて」進展したと言えよう。
 それに対して、音楽や文学は凹i主導なので、科学からは分離したと言えよう。
 これは、C.P. スノウの述べた、「二つの文化」の事態を意味しよう。
 結局、この乖離・分裂した事態は超克されなくてはならないのである。それは、PS理論では、media point(差異共振)を意味する。
 そう、凸iの支配によって、凹iは弱化させられていて、凹iを取り戻すのは難しい。とりわけ、日本において。
 端的に、闇の視覚・凹i・ディオニュソスと光の視覚・凸i*アポロの極性、media pointを復活させるべきでなのである。
 そう、闇の光と光の光があるのであり、今日、光の光が独裁しているのである。
 そして、美術の復活とは、実は、闇の光の復活に拠ると言えよう。ディオニュソスがなければ、アポロは浅薄・皮相なのである。
 そして、音楽・文学も同様である。それらの根源である闇の光を取り戻さなければ、アポロ・科学の文明の支配に屈して、滅びるしかない。
 とまれ、二つの視覚、闇の視覚と光の視覚、それらの共振的視覚を取り戻さないといけない。


参考:ルネ・マグリット『光の帝国』







Z軸の差異共振:凸j*凹j⇒凸(+1)
テーマ:media point
先に、j*j⇒-iとした。
 即ち、

凸j*凹j⇒凸i

とするためである。
 しかし、単純にj*j⇒-1としていいように思う。
 即ち、

凸j*凹j⇒凸(+1)

となるのである。
 これが、例えば、イエス・キリストの現象物質界への顕現を意味するように思えるのである。物質的身体となった神霊である。
 そのとき、左辺の凸jが「父」ではないだろうか。そして、凹jが「母」である。
 そして聖霊とは、凸i*凹iの虚MP(MP1)の差異共振エネルギー、即ち、氣=生命エネルギーではないだろうか。
 ガウス平面が氣を含めて自然界である。そして、Z軸の世界が精神界ということになろう。
 そして、ガウス平面をY軸を中心に1/4π回転したものが、いわば、精神平面となるのではないだろうか。
 こここそ、霊界、天国も地獄があるのではないだろうか。
 とまれ、微細には今は考察できない。






2012年02月14日(Tue)▲ページの先頭へ
三次元的media point:差異共振は垂直的超越性に通じる?
三次元的media point:差異共振は垂直的超越性に通じる?
テーマ:media point

差異共振は⇒凹(−1)に通じると言った。それは、水平的超越性である。
 しかし、ふと思ったのは、即非共振(「わたし」は「川」であり、且つ、「川」ではない現象)が起こったとき、超越的気分があると言い、それは、水平的超越性的であると述べたが、果たして、それだけでなく、垂直的超越性も入っているのではないかということである。
即ち、差異即非共振様態において、未知の超越性が進入しているということになる。
 思うに、水平的超越性と垂直的超越性をこれまで、人類は混同してきたのかもしれない。
 私がコスモスというとき、それは、超越的宇宙であるが、それは、垂直的超越性を含んでいるだろうが、氣から見ると、凹(−1)の水平的超越性になる。
 とまれ、作業仮説として、差異即非共振において、単に、水平的超越性(凹)が喚起されるだけでなく、垂直的超越性(Z軸)が喚起されるということを提起したい。
 そのように考えると、media pointは三重、三次元になると考えられる。Z軸のmedia point、Y軸(虚軸)のmedia pointである。
 正確に言えば、Z軸とY軸の形成するmedia pointとY軸とX軸の形成するmedia pointである。それだけで見れば、二重、二次元的になるが。
 三重、三次元であるということは、Z軸主体のmedia point、Y軸主体のそれ、X軸主体のそれの三つのそれが考えられるからである。
 ところで、先に、Z軸からY軸へと転換するように考えたが、実は、Z軸からX軸へとダイレクトに転換する場合があるのではないかということを思ったのである。
 超越的精神がダイレクトに物質界に参入することである。今思ったのは、イエス・キリストの場合である。あるいは、預言者の場合である。あるいは、シャーマンの場合である。あるいは、モーツァルトのような天才の場合である。
 そのように見ると、Z軸は超越軸、精神=霊軸である。霊界というのは、おそらく、Z軸に存するのである。
 都合により今はここで留める。





−1(凹)とは何か:水平の超越性と垂直の超越性:存在の超越性と精神の超越性:凸j*凹j⇒凸i?

テーマ:media point

 かつて、「わたし」は「川」(「木」、「山」)であり、且つ、「川」ではないと言い、その後、「わたし」と「川」は一如(いちにょ)であり、同時に、「わたし」は「わたし」、「川」は「川」と言った。
 この差異即非共振様態は、media pointで発現するものである。このとき、凸i*凹凹i⇒凹(−1)が発出しているように思えるのである。つまり、media pointの即非共振態は同時に、凹(−1)を志向していると思えるのである。
 凹(−1)は物自体かもしれない。私が個物に感じる特異性はそれではないだろうか。つまり、超越的個物である。そして、それは、超越的存在である。ある いは、氣的存在と言えるかもしれない。氣の宇宙である。【先に、「浅い平面と深い平面」について述べたが、深い平面は凹(−1)を内在しているのではない だろうか。例えば、セザンヌのリンゴの絵である。これはおいておく。浅い平面と深い平面:実MP(MP2)の現象光と虚MP(MP1)の精神光 )http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11164064137.html
 問題はそれが「神」なのだろうか、ということになる。思うに、凹(−1)は水平的存在であり、垂直的と考えられる「神」とは異なるのではないだろうか。「神」だとしても、低位の「神」ではないだろうか。
 ここで上述の差異共振現象を再度考えよう。「わたし」(凸i)は「川」(凹i)である。あるいは、「わたし」と「川」は一如であり、同時に、「わたし」は「わたし」であり、「川」は「川」である。
 この即非態にあるとき、一種の超越的精神(気分)にあるのは否定できないだろう。
 この超越的気分は果たして何か。それは、⇒凹(−1)の志向性なのだろうか。思うに、超越的存在がそこに感じられているのではないだろうか。ならば、そ れは、⇒凹(−1)への志向性である。一(いつ)の超越的存在である。(ところで、ロレンスが考えた「父」への志向は一への志向であり、この方向ではない だろうか。)
 とまれ、⇒凹(−1)への志向性を超越的一への志向性、水平的超越性の志向性と呼んでおこう。
 では、垂直的超越性とは何か。
 これは感知が難しいものである。外的存在、内的存在に囚われる限り、感知されないと考えられる。
 垂直的超越性とは超存在性である。純精神性である。そう、超越的精神性である。
 ここがシュタイナーの精神学の本拠地ではないだろうか。シュタイナーの主著の一つの難解な『神秘学概論』を読むと多様な根元霊が存して、それらが、情報 的エネルギーを注入して史的に森羅万象、宇宙を形成していく姿が描かれているのである。ファンタジーのような世界である。
 ガウス平面に直交する垂直軸Z軸を考えて、虚数を凸izと凹izとする。簡略化して、凸zと凹zにする。あるいは、凸jと凹jだろう。
 凸j*凹jを凸iとしたいのだが、凸j*凹j⇒凸(+1)となるだろう。だから、j*j=-iと作業仮説しよう。すると、
 凸j*凹j⇒凸iとなるだろう。
 ここで想像であるが、凸jが天の父であり、凹jが地の母ではないだろうか。しかし、天の父凸jは地の母凹jの投影であろう。
 今はここで留める。以上、思考実験である。




浅い平面と深い平面:実MP(MP2)の現象光と虚MP(MP1)の精神光

テーマ:art & design

いかにも平面的な作品がある。そこには深さ、厚み等がない。表層的である。(ドゥルーズ似非哲学は表層を説くが、それは、いかにもポスト・モダンであり、皮相であった。)
 結局、現象・物質光の様相のイメージであり、media point本来の深さ、高さはない。
 これは凸i主導による凹iの排除が原因と考えられる。
 結局、ハイパー・モダンである。トランス=サブ・モダンはないのである。
 現代日本人の精神的な最大の危機はここに存するだろう。凹i(陰=肚)を測深できていないのである。
 光=自我でありつつ、闇=他者を取込まないといけないのである。
 闇=他者が欠落しているために、イメージは実MPの現象光のレベルとなり、平面に留まるのである。精神の垂直性が欠落しているのである。
 今は余裕がないので、十全に述べられないが、近代の光は発生源には、本来、凹iの闇があったはずである。
 ルネサンスは凹i⇒凸iのベクトルがあったはずである。そして、デカルト主義によって、凸i+1の近代合理主義(唯物論)の世界が形成される。そう、根元の凹i=闇=肚が否定されたのである。
 デカルト主義はルネサンスの精神の光を現象=物質の光の変容してしまったのである。
 この結果が上記の浅い平面の作品であると考えられる。
 日本における凹i=闇=肚の否定は歴史的には、戦後の米国主導の近代合理主義に拠るだろう。日本人は自己文化を棄てたのである。
 しかし、近代の根底には、凹i⇒凸iのベクトルがあるのであり、凹i=闇=肚が潜在しているのである。
 それを現代日本人は認識し、精神陶冶すべきなのである。
 ここに回帰しない限り、日本人には滅亡しかないだろう。それは、自己文化に近代の光を介して回帰することである。
 今はここで留める。





母神(女神・母権)の光と父神(男神・父権)の光

テーマ:media point

神話学者のジョーゼフ・キャンベルの視点から、母権的神話の太陽(光)と父権的神話の太陽(光)が異なることが了解できた。
 これは決定的な視点である。前者はPS理論から言えば、media pointの光を意味しているのであるが、後者は凸iの光である。的確に言えば、凸i→+1の光である。
 それは現象光である。物質的光である。
 それに対して、母権的神話の太陽(光)は、差異共振の光である。虚MP(MP2)の光である。私の言葉では、超越光である。
 わかりやすく言えば、母権的神話の光は内的光(内的太陽)であり、父権的神話の光の外的光(外的太陽)である。
 結局、西洋文明において、父権的光=太陽が支配的になったである。
 しかしながら、西洋文明は母権的光=太陽を内在しているのである。それが個の原理である。この問題はおいておこう。
 父権的光=外的光が主導的になると唯物論が生まれる。精神が外化するのである。そして、それが、西欧近代文明の基本的原理である。
 問題は、否定された母権的光(太陽)である。先にそれを原始差異共振と捉えた。そして、その反動的復興がロマン主義であることを述べた。
 そう、母権的光の単純な復興は反動的である。父権的光(外的光)の支配の下において、新たな差異共振(media point)を探究しないといけないのである。
 凸iの支配原理において、他者である凹iを新生しないといけないのである。
 凸iは自我の原理である。それが、凹iと結びついて、自己原理となる必要があるのである。それが個化である。
 もっとも、凹iを見出すのは至難の業である。もっとも、私見では、凹iが今日普遍的に活動しているので、以前よりは、知覚しやすいだろう。
 結局、凹iの発見は西洋と東洋の結合を意味する。それは、新しい東洋である。
 そして、そこで生まれる光(新光)は、いわば、父権的光と母権的光の結合したものである。New lightである。絶対的高濃度の光である。
 そして、思うに、そこに「父」の原理が存すると思われる。キリスト教三位一体の「父」は凸iに過ぎなかったと思う。そして、「母」は凹i、凹である。
 この新しい「父」は聖霊だろう。
 後でもう少し述べたい。
 




神話学者ジョセフ・キャンベル:シュメール・ケルト・アジア・環太平洋母権大文明圏

テーマ:mythology

私が神話学だけでなく、知的にもっとも影響を受けた学者の一人はジョセフ(発音はジョゥゼフが正しいが)・キャンベル(私に前父権文明として大女神・母 神・母権「文明」があることを知らしめ、目を開かせてくれた、知的大恩人である)であるが、美術史家のケネス・クラークと同様に、直観でケルト系と思った が、やはり、そうだった。
 キャンベルCampbellという姓がスコットランド系である。
 そう、ケネス・クラークは両親がスコットランド人である。
 アングロ・サクソンとはまったく異なり、ケルト民族の血=知は、私見では、今日的には現代日本人のそれよりも、高濃度にアジア的である。
 PS理論との関係から言うと、ジョセフ・キャンベルは、永遠の極性eternal polarityという概念を神話から取り出している。これは、正に、陰陽、凸i*凹i、差異共振=media pointである。

The Power Of Myth - The Heros Adventure (Part 1)


参考:
ジョー ゼフ・キャンベル(Joseph Campbell、1904年3月26日 - 1987年10月30日)とは、アメリカの神話学者、文学者、講師である。 比較神話学や比較宗教学でよく知られる。彼の作品は広大で、人間の経験に基づく多面的なものである。彼の人生観は、しばしば「至上の幸福に従え」という一 文に要約される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB

Joseph John Campbell (March 26, 1904 – October 30, 1987) was an American mythologist, writer and lecturer, best known for his work in comparative mythology and comparative religion. His work is vast, covering many aspects of the human experience. His philosophy is often summarized by his phrase: "Follow your bliss."[1]
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Campbell


参照:
Campbell Family Crest and History
http://www.houseofnames.com/campbell-family-crest

参考1:
スコットランドの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索

ス コットランドの歴史(英語表記:The History of Scotland、スコットランド・ゲール語表記:Rìghrean na h-Alba)は、およそ10,000年前、デヴォンシャー氷期の終わりごろに人類が初めて移住してきた時期に始まる。スコットランドはヨーロッパ最古の 歴史をもつ王国とされるが、1707年以降ブリテン連合王国の一部の地位に甘んじてきた。しかし、近年自治が拡大されてきており、連合王国からの分離を求 める声も少なくない。

石器時代・青銅器時代および鉄器時代に存在したスコットランドの文化は、多くの遺跡や出土品を残したが、文字史料は 皆無である。スコットランドの歴史時代(文字史料の存在する時代)はおおよそローマ帝国のブリテン島侵攻の時期からである。ローマはイングランド・ウェー ルズにあたる地域を属州として支配したが、カレドニアとよばれた北方地域にまでは及ばなかった。カレドニアにはピクト人が勢力を張っていた。以前は、ス コットランドは高度な文明の存在しない周縁地域であり、地中海発祥の文化がゆっくりと浸透していったと考えられていた。しかし、相次ぐ考古学的発見から、 独自の高度な文化をもっていたことが明らかになった。特に北欧など外洋との関係はスコットランド史に大きな影響を与えた。

スコットランド の歴史はまた、比較的強大な南の隣国すなわちイングランドとの争いの歴史でもあった。イングランドとの間でたびたび戦争がおこり、このことがフランスなど ヨーロッパ列強との同盟や交易をさかんにした。合同法によるイングランドとの合同、啓蒙思想の普及や産業革命をへて、スコットランドはヨーロッパのなかで も有数の商業地域となった。第二次世界大戦後スコットランドの経済的凋落は著しかったが、北海油田からの収入などがあって近年ふたたび盛り返してきてお り、ブレア政権の地方分権政策のもと1998年、スコットランド議会がおよそ300年ぶりに復活した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2





物質的半円と氣的半円:精神的世界としての虚軸世界とZ軸世界

テーマ:media point

今は単に思いつきだけであるが、人間認識図の右半円は物質的世界であり、左半円は氣的世界ではないだろうか。
 一応、これを作業仮説として少し考えたい。
 私はこれまで、氣は虚MP(MP1)に存すると考えてきた。虚MP(MP1)
は、同時に、マイナス1(凹)と通ずる領域である。
 そして、自己とは、氣の変化したものと捉えた。即ち、

(凹i/凸i)*(凸i/凹i)⇒凸(+1)

である。
 しかし、氣は凸i*凹i⇒で表現される。そして、これは、

凸i*凹凹i⇒凹(−1)

と変化する。
 以上から、私はこれまで、氣=精神と捉えてきた。
 しかしながら、精神は氣以外である。
 シュタイナー精神学は、氣=エーテル体(エーテル身体)とし、精神的感性をアストラル体、自己知性を自我としている。
 私は氣の変容で自己を説明しようしたのであるが、果たして、それは可能であったのか。やはり、氣は氣であり、純然たる精神の世界ではないように思えるのである。
 そこで、上述した作業仮説を述べることになるのである。即ち、PS理論的オイラーの公式/ガウス平面において、右半円が物質的身体(物質的世界)であり、左半円が氣的身体(氣的世界)であるということである。
 そうならば、生物的身体において、神経は+1の線分、経絡は−1の線分になるのではないだろうか。
 そうすると、ヨガのチャクラはどうなるのだろうか。チャクラは氣にも関わるが、基本は精神(霊)性である。
 そうすると、それはどこに位置するのか問題である。これまで、私は、虚MP(MP1)、つまり、虚軸の差異共振において考えてきた。
 しかしながら、これでは、氣と区別がつかないのである。
 やはり、ガウス平面に直交するZ軸=超越軸=精神軸(霊軸)を設置した方が適切だと思われるのである。
 そうならば、Z軸は自己軸でもある。また、それは、個軸とも言えるだろうか。当然言えるはずである。だから、Z軸=超越軸=精神(霊)軸=自己軸=個軸(=他者軸)となる。
 私はシュタイナー精神学とPS理論を合わせる為、凸iの極限にアーリマン、凹iの極限にルシファーを考えたが、それは、Z軸=精神軸にあると見るべきで はないだろうか。その方が、自己精神を規定しやすいだろう。Z軸のアーリマンという超越的存在のために、凸iの極限化が生起し、原自我(純自我)が存し、 Z軸のルシファーという超越的存在のために、凹iの極限化が生起して、原他者(純他者)が生起したと見ることはできないことではないだろう。
 そう見ると、Z軸的世界が真の精神的世界・次元となるだろう。そして、それがシュタイナーの説く霊的世界ということになるだろう。
 思うに、右半円が物質世界ならば、左半面は生命的世界ととなるあろう。植物的世界である。
 そして、シュタイナーに従えば、+Zが自己体であり、−Zが動物体となるのかもしれない。前者が超光で後者は超闇なのだろうか。
 そう、シュタイナーが説いたゾロアスター=キリストとは、この+Zのことかもしれない。
 今はここで留める。


参照:人間認識図
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


 



2012年02月07日(Tue)▲ページの先頭へ
原始(初期)差異共振とトランス・モダン的差異共振
原始(初期)差異共振とトランス・モダン的差異共振
テーマ:manichaeism: 哲学

先に、近代教育(正しく言えば、近代合理主義=唯物科学教育)を受ける以前には、連続性(連続的自己=自我)と原始差異共振が併存していると述べたが、後者はまだ明確にしていないので、検討したいが、今は予見のみである。
 原始差異共振とは未だに、凹iの主導性が残っている精神における共振様態(media point:以下、差異共振とmedia pointをほぼ同一視している)であると考えられる。
 逆に言えば、近代主義は明らかに、凸i+(プラス1)であり、凹iの主導性を否定するのである。つまり、近代主義は凸iに主導性があるのである。
 だから、明らかに、近代主義とは精神的価値逆転を意味するのである。近代的精神進化と言えよう。
 少しまとめると、近代以前においては、凹iの主導性があり、それによって原始差異共振(primitive media point:以下、pmp)が生起し、それが一般自然的な連続性(連続的自己)と併存した精神様態であったのであるが、近代的精神進化によって、凹iの主 導性が失われて、凸iが主導的になり、凸i+(プラス1)の近代的自我(近代合理主義的精神)が形成されたということである。
 近代進化によって原始差異共振pmpは失われたと言ったが、それは、否定され、排除され、潜在的様態になったと考えられる。
 そして、凸i+1の近代合理主義の邁進が起こったのであるが、文化史的には、それに対する反動の神秘的ロマン主義が起こったのである。これは、反動というのが的確である。何故なら、それは、原始差異共振pmpの後れた様態の再生であるからである。
 結局、凸i+1、ないし凸iの主導性において、新しい差異共振が起こらなければいけないのである。
 トランス・モダンとは、正にこのことである。凸i+1の支配において、新たに凹iを開拓することを意味する。
 この新しい凹iの開拓において、超越的理念(超越的精神)が形成されることになるのである。それが、復活したプラトン主義(超越論哲学)である(カントやフッサールがこの系譜である)。
 つまり、トランス・モダンとは、近代合理主義の支配における超越的理念、超越論哲学の形成を意味するのである。しかし、それは、新しい差異共振、超越論的差異共振、ないし、transcendental media point(以下、TMP)をもつのである。
 だから、この新たな差異共振、TMPは、原始差異共振とはまったく異なると言えよう。
 つまり、前者は知的な差異共振であり、原始差異共振の感情主導性とはまったく異なるということである。丁寧に言うと、知的差異共振は感情を包摂した超越 論的差異共振ということである。換言すると、凹iの主導性と凸iの主導性が結合した様態、即ち、絶対的即非共振であるということである。原始差異共振のと きは、凹iのみが主導的であったのである。
 さらに言い換えると、トランス・モダン差異共振とは、凸iと凹iとの完璧な調和的な、結晶的な共振を意味するということである。黄金の光がここにはあるだろう。そう、新しい太陽である。
 今はここで留める。






ハイパーな凸iから凸i(純光)へと移行したD. H. ロレンス文学・哲学:母権的父権主義
テーマ:media point

先に以下のように、ロレンスの中期までを解明したが、肝心の後期(晩年期)について述べていないので問題であるので、ここで簡単に触れたい。
• D. H. ロレンスの「王冠」哲学の父権的傾斜力学:凸iの父権的自我の支配原理
先にロレンス中期のリーダーシップ小説期において、父権主義に傾斜したと述べたが、その後、ロレンスの思考は急展開して、母権主義へと傾斜するのである。それが、『死んだ男(逃げた雄鳥)』に表出されているのである。
 つまり、凸iの+1への傾斜を乗り越えて、凸iの含む、凹iへとロレンスは帰還したと考えられる。 つまり、純光の凸iへとロレンスは帰還・回帰したのである。
 これは、『黙示録論』の最後の言葉Start with the Sunに集約されていると言わざるをえない。
 凸iの超出(これは、全体主義に通じよう)を乗り越えて、ロレンスは、凸iの意味する凹iへと回帰したのである。
 まぁ、正に、驚くべき思考の成就である。ゲーテ/シュタイナーは、凸iの奢りを知らないのである。
 そう、光の奢りである。しかし、同時に闇の奢りである。この揺らぎは、今日的である。ゲーテ/シュタイナー路線は、優等生的で民衆的ではないのである。
 ロレンスの発想はゲーテのものに近いが、何故ロレンスがゲーテを嫌っていたのか、今や理解できる。
 即ち、ゲーテはいわば健全的過ぎたのである。民衆のもつ、「揺らぎ」が欠落しているのである。
 ロレンスのように、凸iにおいて揺らぐ方が本来的であると言えよう。
 揺らぎのないゲーテ/シュタイナーは実は胡散臭いのではないだろうか。






D. H. ロレンスの「王冠」哲学の父権的傾斜力学:凸iの父権的自我の支配原理
テーマ:manichaeism: 哲学

D. H. ロレンス文学・哲学は、前期において、三位一体論を創造的に活用した「王冠」哲学を構築した。それは、先に述べたように、ライオン(父)VSユニコーン(子)の極性対立とそれを超克する王冠(聖霊)の力学をもつ。
 しかし、中期(リーダーシップ小説期)において、ロレンスは強く父権主義に傾斜するのである。哲学的には、「王冠」哲学とは、陰陽的な原理であり、それ の特異点において、両者の相克が超克されて「聖霊」状態になるというものであり、あくまで、バランスを志向していたのであるが、中期において、バランス的 原理が崩壊して、父権主義、つまり、ライオン(父)へと傾斜して、ユニコーン(子)は否定されるようになるのである。
 私はこの原因を明確にはこれまで把握できなかった。しかしながら、先の生成門氏の鋭敏な洞察によって、道が開けたのである。(参照:感覚の至高体験凸iと凹iの関係:極限の凸iは凹iと共振する:ロレンスの光と闇の王冠哲学について
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11150299525.html)
 つまり、ロレンスのライオン=父=感覚=闇とは、実は凸iの純光がベースにあるものと考えられるのである。そうすると、それは、当然、自我的になり、父権的なのである。
 故に、王冠哲学とは、精神性(ロレンスの闇)と物質性(ロレンスの光)の相克を意味することになるのであるが、物質主義、唯物論を憎んでいたロレンスで あるから、第一次世界大戦の大惨禍等を衝撃的に体験して、その力学が強く精神性に傾斜したということが十分納得のできることなのである。
 思うに、ロレンスの問題点は、一角獣=子=精神=光を中期において、物質主義に結びつけてしまった点にあると思う。
 思うに、本来、それは凹iの他者であるべきなのである。しかしながら、凸iによる同一性化を受けた凹i(物質)をロレンスはそこに見ていると考えられる。
 つまり、おそらく、初期哲学、王冠哲学においては、ユニコーン=子=精神=光はまだ、物質主義とは強固に結びついてはいなかったと思われる。単に精神的原理だった思われる。
 しかしながら、凸iの支配(自我支配)をもつロレンスであるから、当然、ユニコーン=子=精神=光の原理が物質主義、物質科学、機械文明に結びつくのは必然性があったと言えよう。
 そう、結局、王冠哲学の問題、ロレンス哲学の問題は、凸iの支配にあると言えよう。それは純光であり、また、純自我である。その自我は当然父権的であるからこそ、中期において、ロレンスは父権主義に傾斜したことの力学がここで解明されたことになるのである。 







色彩とは何か:純色彩と濁色彩:虚数(精神)的色彩を解放せよ!
テーマ:art & design
今は簡単に述べる。
 先に色彩を解放せよと提唱したが、その色彩は単なる色ではない。私のファッション・センス(あればの話だが)から言うと、一般に現代日本人の色彩感覚は濁っているのである。
 私の言う色彩はいわば純色彩である。清澄な色彩である。つまり、純光と純闇の共振による「純色」的色彩である。
 言い換えると、精神的色彩である。あるいは、魂的色彩である。ルドルフ・シュタイナーが多くの色彩論を述べているが、私の直観は少し異なる。
 おそらく、イタリア人は私のいう色彩、純色彩をほぼ理解するだろう。しかし、やはり、少し違う。
 基本的には自然にある色彩である。それは澄明で美しいのである。しかし、今日の日本人の多くの色彩感覚は濁ったものである。
 PS理論から言えば、凸iの純光と凹iの純闇の共振した「光」の色彩、その「光」のスペクトラムである。
 つまり、陰凹iと共振した陽凸iの光の色彩なのである。この色彩感はルキノ・ヴィスコンティが映画で表出していると思う。彼の色彩感の深さ、高濃度は、驚異的である。
 思うに、ここでも、虚数(精神)濃度が使用できる、すべきであろう。あるいは、生成門氏のオイラーの公式/ガウス平面的精神マップが使用できよう。
 つまり、純粋虚数濃度、実数絶対ゼロ度のガウス平面である。
 しかし、マイナスの実数は純度が増すのではないだろうか。これは検討課題である。
 結局、虚数(精神)的色彩を解放せよというのが私の本意・真意である。

参考:

ルキノ・ヴィスコンティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2012年02月01日(Wed)▲ページの先頭へ
純光と現象光:凸i(純光)*凹i(純闇)⇒凸(+1)の⇒起点が純光で終点が純闇である:仮説
ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11150288276.html

先に以上のように生成門氏の独創のGPS(ガウス平面位置数式)を提示したが、これは、凸iの純光と実MPが起点の現象光との連関を提示できるものではないかと思う。
 つまり、実MPにおいて、現象光が発出するが、それと純光凸iとの関係が明確ではなかったからである。
オイラーの公式

 e^iθ=cosθ±sin θ

を生成門氏は

e^iθ=a+bi

に変化させている。
 これを利用すると、純光はi、ないし凸iであり、現象光は、a又はbiではないかと考えられる。
 最初、現象光はaではないかと思ったが、思うに、aは物質成分ではなかろうか。
 つまり、

e^iθ=a+bi=物質成分+光成分(精神成分)   ・・・ A

ではないだろうか。
 もし、そうなら、問題は、光成分biの意味合いである。これは、現象光としての光成分ではないかと思われるのである。
 純光は凸iであり、biではないのである。このbの係数が、いわば、不純成分であると思われるのである。(つまり、実数は-1から、+1の間である。ただし、ゼロは除外する。)
 だから、A式は、

e^iθ=a+bi=物質成分+現象光成分(精神成分) ・・・ B

となるのではないだろうか。 
 言い換えると、現象界においては、光は現象光へと変容していて、精神の光である純光はほぼ不可視であることになろう。
 思うに、夜明けや日没が純光に近いのではないだろうか。つまり、曙光は、闇から光への転換時であり、凸i、純光に近く、また、夕日は光から闇への転換時であり、凹i、純闇に近く、そのため、逆に、純光を示唆するのではないのか。
 少し整理すると、凸i*凹i⇒凸(+1)において、⇒の起点は純光であるが、終点・尖端は現象光であると言えるのではないだろうか。
 今はここで留める。


自己と自我:虚数(精神)濃度と連続/不連続概念
自己と自我:虚数(精神)濃度と連続/不連続概念

テーマ:media point

最近、自我病とでもいうべき問題を抱えている人が多いと感じたので、この点を復習になるが簡単に述べたい。
 端的に、問題点は連続性にあるのである。つまり、原精神、本精神、純精神の凸i*凹i(陽*陰)の二元性が実MP(精神的フィルター)によって、連続化されて自我が形成されるのである。
 本来、凸iと凹iは不連続であるが、それが、現象化したときに、連続態となるという倒錯を帯びるのである。つまり、現象存在としての人間は本来、本来の自己精神を喪失した存在なのである。これは、仏教等や哲学が説いてきたことであるが。
 ここでだいぶ以前に述べたユング心理学批判を再説するのは意味がある。
 ユング心理学のキー・ポイントは自我と自己(無意識、魂)との融合、結合、統合を説き、それが、個性化であるという点である。
 しかし、自我と自己との融合は、PS理論の視点からは、連続性を意味するのである。自我と自己という本来、不連続なものを連続化するのがユング心理学なのである。それは、精神を分裂させたままにするだろう。批判はここで留める。
 さて、PS理論では、自我と自己(ないし個)との不連続性を説くのであり、また、自己精神の凸i*凹iの陰陽的二元論、極性論を本来的なものとして考えている。
 前提は不連続性である。それは、自我と自己(個)とを能動的に切断することを意味している。これは、精神力学である。
 だから、PS理論的精神様態とは、自我的側面(物質的側面)と自己(個)的側面の二面性が併存しているのである。しかし、これは分裂ではない。
 何故分裂ではないかと言えば、自己本来の基盤、差異共振性を基礎して、その上に自我機能をもつからである。主は自己(個)であり、従は自我である。
 以上、簡単にPS理論的自己哲学を説明した上で、今日蔓延する自我病(造語)について簡単に述べよう。もっとも、以上の説明に既に答えは出ているが。
 結局、自我病とは、精神の極性を否定して、自己が連続化していることにある。つまり、自己の自然の現象態のままであり、自己陶冶を行っていないのである。
 他者である凹iが原自我・純自我の凸iに連続的に服しているのである。そのために、他者を暴力的に自我同一性化してしまうのである。つまり、他者を否定するのである。
 これは、ホッブズの万人の万人に対する戦争状態である。現代日本の社会生活、日常生活は完全にこのようなものとなっている。もっとも、少数の目覚めた(「ブッダ」)人たちがいるが。彼らが地の塩である。
 自我病の人が他者を自我中心的に攻撃するのである。それで、社会関係がささくれ立つのである。そして、自我(複数)がバラバラに存在して、社会はもはや共同体としての機能を喪失して、「民主主義」的権力が自我利益を出汁にして支配しているのである。
 自我人(造語)は、基本的には愚劣なので、自我を支配する権力者を選ぶのである(典型が小泉元首相)。そう、自我は正に、無明なのである。真理が見えていないのである。
 とまれ、連続性の誤謬と不連続性と差異共振性の基本的真理を説いたが、これとKaisetsu氏の虚数(精神)濃度概念はどういう関係になるだろうか。
 結局、不連続性/差異共振的自己の人間は虚数(精神)濃度が高い人(高濃度)であり、連続性の自我の人間はそれが低い人(低濃度)と言えるだろう。
 しかし、両者にはアルカリ性と酸性の違いがあるように、決定的な質的差異がある。
 不連続性/差異共振的自己(個)の人間はいわば、絶対的的高濃度人間と言えるのではないだろうか。あるいは、超越的高濃度人間である。
 水の三態で言えば、気化した人間であり、氣的高濃度人間とも言えよう。
 あるいは、光のモードで言えば、純光(*純闇)の人間と闇の人間の違いとなるだろう。
 とまれ、時代は明白に黙示録的様相を呈してきた。光の人間と闇の人間に明確に分かれてきた。
 最後に一言言うと、女性は本来、凹iをベースにしているので、不連続性/差異共振性を先天的にもっていると考えられる。しかし、男性主義・父権主義支配のために、それを否定して、自我主義に染まっている女性が今日多数であると思われる。
 しかし、本来的なものはいつまで否定されているわけではない。それは時代の力によって、新たに目覚めると考えられるのである。
 そう、女性ルネサンスである。
 
追記:自我病についてもう少し説明する必要がある。それは、うつ病とも関係する。つまり、自我的同一性が強力で、精神(精神魂)を否定すると、その否定された精神が反動的に自我を突発的に発作的に、そう狂気的に襲うと考えられるのである。近代的自我、近代合理主義がハイパーになった今日、否定、排除された精神(精神魂)が否定的衝動となって自我を襲うのである。それは端的に狂気である。
 その反動的精神力学であるが、それは、精神の極性力学が否定されているために、その極性力学が否定的エネルギーとなって自我を襲うと考えられるのである。
 うつ病の場合は、積極的な精神極性力学が否定されたままで、氣的エネルギーを喪失していると考えられる。しかし、今言ったことからわかるように、うつ病は攻撃的エネルギーを潜在していると考えられるのである。あるいは、鬱状態と反動的衝動が併存していると考えられる。
 結局、時代は精神の覚醒を要請していると言えよう。大都市はきわめて危険である。それは、物質支配であるからだ。
 自然のもつ精神エネルギー(氣)の環境に生きるべきである。機械物質文明は精神エネルギーを排除しているので、自我病を蔓延させている要因である。


追記2:不連続的切断に関してであるが、思うに、私が問題にしている自我病はとりわけ近代教育を受けた人間の陥る症状(広義の精神病)ではないだろうか。もっとも、連続的様態は自然状態であるが、同時に、差異共振の「光」の種子もあるだろう。つまり、精神の自然状態は、原始差異共振様態と連続態が併存しているのではないだろうか。
 しかし、近代教育を受けると、原始差異共振様態が否定されて、連続態が一般的になり、自我病を発症するのではないだろうか。
 結局、この場合、精神を不連続化させて、新たに差異共振精神を形成する必要があるだろう。これは、いわば、トランス・モダン的精神形成である。
 これは虚数(精神)濃度を高くするものではある。しかしながら、高濃度と低濃度には上述したように、質的差異がある。これをどう捉えるのか。
 どうも、閾値があるのではないだろうか。例えば、水の三態において、一気圧では、ゼロ℃で氷結し、百℃で気化する。この場合、ゼロと百が閾値である。
 虚数濃度の場合にはpH7(中性)が閾値と考えられないだろうか。それより高い濃度が精神的人間で、低い濃度が物質的人間である。
 というより、不連続化/差異共振化とは、最高虚数(精神)濃度ではないだろうか。
 そして、生成門氏のオイラーの公式的複素数精神マップ(と呼ぶことができよう)で実数部ゼロのときが不連続化/差異共振化様態と言えるだろう。
 とまれ、不連続化/差異共振化は極限化であり、絶対化、超越化であると言えよう。それは、Kaisetsu氏の唱えるZ軸=超越軸の形成と通じるのではないだろうか。純光と純闇が即非的に共振する純粋様態である。超越光様態である。



Living In The Material World


George Harrison - The Light That Has Lighted The World (demo / Living In The Material World)



2012年01月30日(Mon)▲ページの先頭へ
感覚の至高体験凸iと凹iの関係:極限の凸iと凹iは共振する:ロレンスの光と闇の王冠哲学について
感覚の至高体験凸iと凹iの関係:極限の凸iと凹iは共振する:ロレンスの光と闇の王冠哲学について

テーマ:manichaeism: 哲学

以下の生成門氏の「凸iの至高体験、陶酔、没入といった光の強度が高く、対象との一体感の高い位置」(強調はResurrectionによる)は、D. H. ロレンスの感覚的絶対的体験を解明するものだと直観した。
 私はこれまで、ロレンスのその意味がよくわからなかったのである。確かに、生成門氏のように捉えれば、明晰である。
 また、それで、「わたし」の至高性であるともロレンスが言っていたことも理解できる。
 しかしながら、ロレンスはそれを感覚の「闇」と表現しているのである。これが謎である。
 少し説明すれば、ロレンスの王冠哲学は、ライオンとユニコーンの相克的闘争に基づくが、前者が感覚で、後者が精神である。そして、それぞれ、闇と光なのである。
 今の私の説明は、凸iの至高体験、光の最高強度であるが、思うに、対象との一体感とは、実は他者凹iとの一体感であり、虚MPの差異共振ないし凹を指していると思えるのである。
 だから、最強度の凸iとはとりもなおさず、最強度の凹iとの一致を意味すると考えられる。だから、光=闇の至高体験ということになるだろう。
 つまり、対象との一体感には、凹iとの共振が入っているということである。また、それは、超越的存在(凹、マイナス1)的だるということである。
 そうならば、ロレンスのユニコーンの光、精神はどうなるなのだろうか。ロレンスはそこに、非自我を見て、他者だけの世界としている。つまり、凹iの世界である。
 しかし、そこには、もはや一体感はなく、外部の他者がいるのである。だから、それは、生成門氏の視点では、身体凸(+1)となると考えられる。だから、それは、現象光の光の世界と言えよう。
 つまり、ロレンスはユニコーンの光=精神で凸(+1)を意味しているのであり、凸iの光、あるいは、凸i*凹iの差異共振の超越光を意味しているのではないということになる。
 以上のようにざっと考えて、ロレンスの王冠哲学の長年の謎が解明されたように思う。獅子(感覚=闇)VS一角獣(精神=光)の絶対的矛盾の相克は、実 は、凸iの最強度、最高度と凸(+1)との相克だったのである。そして、凸iの最強度とは、凹iを含むものであり、差異共振化、即非共振化であり、 media point化であり、第三象限や凹を指すものと考えられる。
 また、さらに、ロレンスがキリスト教と近代科学を結びつけて考えていたこともこれで判明する。キリスト教は、王冠哲学では、一角獣=精神=光に当たるの であるが、それは凸(+1)の物質体なのである。だから、近代科学に結びつくことになるのである。(あるいは、ロレンスの光は生成門氏の視点から言えば、 凸iの強度が弱化した位置のもの、凸の強度が増加した位置のものとも考えられる。)
 とまれ、整理すると、ロレンスの感覚=闇(ライオン)は、凸iの最強度による対象=他者との一体性(即非共振)に拠るものであり、最強度の凸iを指していることになる。つまり、最強度の光である。
 それに対して、ロレンスの精神=光(ユニコーン)は、最強度の光はなく、凸(プラス1)が強度も帯び出したときのものである。極限では、凸の最強度の場合である。物質主義である。
 それは、言い換えると、同一性化された凹iであり、物質となった他者のことである。これこそ、正に、近代科学=唯物科学の対象に相応しいと言える。
 結局、ロレンスの闇=超越光だったのである。そして、ロレンスの光=(現象光=)物質的対象・物質体であったのである。
 最後に強度の衰えた光であるが、それは、生成門氏の第一象限の光であり、ロレンスの光に通じるものと考えられるが、それと私が考える現象光との関係について考えてみたい。
 今のところ、二つの考え方がある。一つは、実MPにおいて、超越光が現象光=可視光へと変換されるというものである。これは、差異共振光=超越光とは絶対的に区別される。
 そうならば、この現象光=可視光がロレンスの光に当たると言えよう。(そして、ロレンスの闇は当然、超越光=差異共振光である。)
 もう一つの考えは、実MPにおいて、差異共振は凸i主導性によって作用しているので、凸iの光が現象光=可視光になるというものである。この場合、凸iの光が凹iの闇に衝突して、自己反射して、同一性の光=現象光=可視光を発出すると考えられる。
 この二つ目の場合であるが、現象光は、凸iの原光とは異なると見ないといけない。(先には、同一であると述べたが、訂正する。)
 つまり、凸iの光は差異的光であり、現象光のような同一性的光(物質的光)ではないと考えられるということである。換言すると、差異的光の凸iの光は、 実MPで、同一性の光=物質的光=現象光=可視光に変換するということであり、二つの光の区別が為されなくてはならないということである。
 ここで飛躍して、二つ目の光について考察すると、これはこれまで、原光と呼んだが、純光と呼んでもいいだろう。そして、対の原闇であるが、それも純闇と呼ぶことができる。
 つまり、純光凸iは常に、対極の純闇凹iと極性を形成しているのであり、純光・即非・純闇、極言すれば、純光=純闇である。
 そして、繰り返すことになるが、生成門氏の凸iの至高の光は、正に、純光であり、それは、即、純闇との差異共振=超越光を意味すると考えられる。
 二つ目の考えに戻ると、凸iの純光が主導性となる場合とは逆に、凹iの純闇が主導性の場合がありえるだろう。その結果は当然、光ではなく、「闇」である。問題は、純闇が純光と同様に、自己反射するのか否かである。
 直観では、純闇は純光に当たり、自己反射はしないで、受け止めるのである。純光を受容するのである。つまり、差異共振化するのである。だから、純闇が主 導的な場合は、純光が主導的な場合とは異なり、差異共振=超越光が生起して、第三象限に向うと考えられるのである。(やはり、これが、重力、dark matter, dark energyと関係しそうだ。)あるいは、精神の形成である。あるいは、マニ教の光の種子である。
 まとめると、二つ目の考えをとるとき、即ち、凸iの純光の主導性の場合と凹iの純闇の主導性の場合の二つの場合を想定するとき、おそらく、同時生起的に、同一性光=物質光=現象光=可視光と超越光=精神光=不可視光が発出するのである。
 以上全体を整理すると、一つ目の視点では、超越光と現象光の不連続性を認めて、実MPにおいては、現象光の発出を見ると考える。そのとき、純光凸iは現象光の裏面に隠れているだろう。
 二つ目の視点は、純光凸iの主導性のときは、同一性光=物質光=現象光=可視光が発出し、純闇凹iが主導的な場合は、差異共振光=超越光=精神光=不可視光が同時生起するということになる。
 二つの考えは、結局、一つに収斂するだろう。即ち、純光凸iが主導的な場合は、実MPから現象光が発生するが、現象光にいわば裏面に純光が隠れている。
 そして、純闇が主導的な場合は、実MPは、空となるが、差異共振が生起して、超越光=精神光=不可視光を内発するのである。
 結局、純光凸iと純闇凹iの主導性の変化であるが、基本的には、常時交替していると思われるが、ある時代には、純光が支配的であり、ある時代には純闇が支配的であると言えよう。前者が例えば、近代であり、父権的時代であり、後者は前近代や母権的時代と言えよう。
 結局、問題であった、純光凸iと現象光(実MPの光、又は、⇒凸の⇒の終点の光)は全く異なるということである。
 だから、超越光(超光)と純光と現象光の三種類の光があるということになるのである。それは既述したことに合致する。
 

参考:
[805] 人間は再現性の足りない部分を想像力で補う

From: 生成門
人間は再現性の足りない部分を想像力で補う
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

45度の位置の基準を示そうとしてきたのですが「乾燥したワカメは蘇る」、「外が内になる」、「絶対位置はない」という探求の結果、なんとも頼りのない「曖昧なノンフィクション」という結論になってしまいました。

「写真の認識を位置づける」「写真は自己を表出させる」「プロの写真家の自己表出」「写真も表現された内容で位置が変わる」では、第1象限の特徴を浮き彫りにしました。

気になるのは、「曖昧なノンフィクション」という中間の位置の問題です。もっとましな基準の示し方はないのでしょうか。

第1象限は「私」の認識です。

凸iの至高体験、陶酔、没入といった光の強度が高く、対象との一体感の高い位置から、次第に、言語の認識になると光の強度が弱くなって自己表出が出てきます。自己表出の最大の位置は+1であり、物質化(現象)です。

どんな認識も固定されることはないので、凸iから+1移動したように、その逆の+1から凸iへ移動することもあるでしょう。又、他の象限に飛び火することもあるでしょう。今は第1象限を中心に探求しています。その第1象限の探求も終わりに近づいてきています。

第1象限の探求を終わりにするためには、やはりなんと言っても中間の認識の位置を極めなければなりません。

中間とは強度が(0.7,0.7)の位置です。

光の強度:100%とは光による虚軸(凸i)であり、陽の精神性・関心度最高・視線強度最高・対象との完全一体感、無言語・感動と至高の無距離と無時間の 4次元世界を示すバロメータでしたが、それが右にシフトして中間(0.7)になると、光の強度が下がった分、身体性の強度が上がってきて、強度が (0.7,0.7)で釣り合います。

身体性の強度:100%とは外部世界と繋ぐ出入り口でもあり、実軸(+1)であり、対象再現性最高・自己表出度最高・対象との完全分離、言語による表現、距離と時間の3次元の現実、日常の物質世界(ノンフィクション)を示すバロメータです。

第1象限の認識を極めるためには、凸iでもなく+1でもなくその中間を極めることが必要でしょう。その中間を象徴的に「曖昧なノンフィクション」という言い方をしたのですが、言語による表現の特徴をそう認識したものです。

http://www.c-player.com/ad00178?rf=notice&pf=pc








ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)
(画像付きは以下を見られたい)
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11150288276.html

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

以下、生成門氏のガウス平面上の認識位置特定システム(GPS : Gaussian Plane Positioning System)は画期的である。オイラーの公式を用いて、単位円上の複素数で多様な認識を数学的表記できるのである。

[788] 日常言語の限界を補う言語(複素数)

From: 生成門
日常言語の限界を補う言語(複素数)
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

人間の認識を複素化する前に、人間自体を複素化しておきましょう。

人間は精神と身体が混成した複素数的存在であると言いましたので、人間を複素化することには何も問題があるようには見えません。

人間を複素化することと人間の認識を複素化することはまったく同じ次元の問題だと思うのです。

しかし、デカルトでさえ、人間を精神(我思う存在)だと認識したのですから、安易に考えては危険です。デカルトの認識は片手落ちだったのです。四次元能では、同じ轍を踏まないように、注意していきましょう。

四次元能では人間を精神的身体と認識します。これを複素化すれば良いことになります。

つまり、<人間>を<精神的身体>と<認識>するということですので、これをe^iθ= a+ibを使って表現すれば良いということになります。

人間=精神的身体=認識=e^iθ= a+ibです。認識=e^iθ= a+ibを分解すると、
認識=実数的認識(見える)+虚数的認識(見えない)となります。

分解しても、二元的に分離はされていません。+で結合されているし、矢印(⇒)という方向と力を持っているのでe^iθは失われていません。

aとbに分解しても、いつでも、+で合成ができるということです。

複素化するということは、言い換えると、複素数として認識するということであり、実数として認識することと虚数として分解して認識し、合成することです。

つまり、

複素化された認識=実数化された認識+虚数化された認識

です。

一方、人間の認識を複素化すると、

人間を精神的身体と認識したのですから、これを実数化された認識と虚数化された認識に分解すると、実数化された認識とは身体的認識であり、虚数化された認識とは精神的認識となり、これを合成すれば、

人間の認識=精神的身体の認識ですから、

精神的身体の認識=身体的認識+精神的認識となります。

認識されたものと認識には平行関係(認識→認識されたもの)にありますので、

精神的身体=身体性+精神性

となります。

纏めると

e^iθ       =   a      +    ib
――――――――――――――――――――――――――
複素化された認識  = 実数化された認識 + 虚数化された認識
認識       = 実数的認識   +  虚数的認識
精神的身体の認識 = 身体的認識     +   精神的認識
精神的身体    =   身体性     +    精神性


これで、人間自体の複素化と人間の認識は、対応しているので、あまり、区別しなくてもよさそうです。


この対応関係を複素平面(ガウス平面)上の認識位置システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)の原理1と呼ぶことにしましょう。


さて、ここで、まだ明らかにして来なかったものがあります。

それは認識するには誰か(主体)ということと何を認識するのかという二つの側面です。

自明のことですが、認識する主体とは私(後で自己と他者に分離しますが)であり、と認識するものは、つまり、対象(私も対象になります)です。

これが暗黙の前提ですが、これを暗黙の前提にしたままでは、先に進むことができなくなります。後で、言及します。

今の段階では、私が認識するためには、私の観察が必要であり、他者が認識するためには表現が必要であり、そのためにはどちらも言語(記号)が必要だということです。

日常言語では、精神と物質を融合するためには、限界があると言ったと思います。

その限界を乗り越えるためにわざわざ複素数を持ち出してきたのですが、ここで、また言語必要だと言いました。矛盾していると思うでしょうか。

精神と物質を融合するための言語(複素数)と、人間の有り様を表現するために言語(日常)は別ものです。

複素数は必要条件ですが、言語(日常)は、十分条件なのです。ですから、両方を用いることは理にかなっており、併用することは矛盾しないのです。

人間の有り様を表現する言語とは、生き様であり、人間そのものを特徴付けるものです。

人間は言語によって人間(精神的存在)になったとも言えるのであり、それを言語が促進したとも言えるのです。

それを証明するためには、生きる現場において言語がどのようにして生まれたか、認識する道具としてどのように貢献したのかを明らかにすることです。

それが言語の進化を知ることであり、その進化の様子をGPSに位置づけることです。

当然ですが、言語水準には低い段階から高い段階までありますから、それをGPSに明確に位置づけることで、人間がどのようにして生きてきたか、どのように認識能力を獲得してきたかが分かるということです。

言い換えれば、人間の生き様の変化や認識能力の獲得は、言語の進化と一致しているということです。
言語の進化を日常言語だけで説明してしまうと、又ジレンマ陥ってしまいますが、今やGPSを使うところまできましたので、日常言語の限界を心配する必要はありません。

むしろ、言語の進化を複素化することで、日常言語の限界も明らかになるでしょう。

そこで、言語がどのようにして発生したのかを探求(複素化)して見ましょう。複素化という方法は、これまでの言語学が出来なかった新たな認識の地平を浮き彫りにしてくれるでしょう。

続く
[786] 人間の認識の基本に迫る

From: 生成門
人間の認識の基本に迫る
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>



人間の認識の基本構造、GPSの原型を使って、人間がどのように認識するのかをしっかりと理解しておきましょう。

表現された物には、「指し示し」が含まれているということ原則を忘れないようにして下さい。

「指し示し」は複素数で示すことが出来るのですが、それは見えるものと見えないものが含まれているからです。見えないというのは虚軸に向く意識が含まれているということです。

又、陥りやすい間違いは、凸i,凹i,+1,−1の特別な場所だけに偏って解釈することです。確かに、この四つは特別な場所だけに認識の特徴を表しています。

しかし、そこだけに絞ると、認識の本質を見失ってしまうのです。
認識の本質とは見えるものと見えないものとの混成なのですから、複素数の本来の姿a+ibで解釈すべきだということです。

解釈とは認識の仕方のことですから、認識の基盤をしっかりとしておかないと、親亀がこけたら小亀もこけるのは目に見えています。

そこまで考慮して探求しなければ、従来のアニメが何故、第2象限で、実写アニメが第1象限なのか、又、マネキンが第1象限で、ガガの写真が何故、第1と第2に跨っているのかについて正しく理解することできないのです。

確かに、+1を現実的、−1を非現実的と想定すれば、従来のアニメが非現実(現実とは遠い表現)であり、実写アニメは現実的(まるで現実のように見える)ですから、この解釈は簡単であるように思えてしまいます。

しかし、ガガの場合(第1と第2象限に跨る)はどうでしょうか。現実的と非現実的な中間にあると解釈もできるのですが、やはり、後付(そう説明されたから納得できる)のような気がするのです。

もっと複雑な対象の認識や第3、第4象限の認識についてはどうでしょうか。数学が何故、第3象限なのかをどう説明したらよいのでしょうか。これは簡単ではありません。

何故、そこに位置づけできるのかの合理的な説明ができなければ、森羅万象についての応用など、とてもできないだろうと思うのです。

ですから、GPSの原型が必要なのです。

もう一度、「人間の認識の基本構造:GPSの原型」を良く見てみましょう。


GPSの原型は、複素平面上の単位円を見たものを認識したものとしてあたかもプラネタリウムのスクリーンに映し出したかのように喩えた図です。

上半分は光によって見えたものを認識したものとして、下半分は光によらないで認識したものという区分けをしています。

この認識の図は、ある認識の瞬間の断面を描いた図であり、スナップショットのようなものです。

実際は、超光速で回転していると考えてください。

この回転しているイメージを式で表現すると、e^iθとなります。この表現は複素数の波であるという意味になります。

つまり、認識とは波であるという理解です。
もっと、言えば、認識をe^iθで表現するということは、認識を複素化することであり、指数化(指数関数)するということの意味でもあります。

この指数関数の性質は、いわゆるねずみ算に増える複利や人口の増加を示すマルサスの法則と呼ばれ、森羅万象を説明する上で重要な性質なのです。



一方、複素数はa+ibと表現することもできます。

e^iθと表現方法が異なるだけで、実質はまったく同じ(e^iθ= a+ib)ですが、応用面ではそれぞれにメリットがあります。

e^iθの場合、θの値を決めると原点と円の間を結ぶ矢印(⇒)どこにいるかが決まり、特に、四つの値(凸i,凹i,+1,-1)を特別な位置として意味づけることが出来ます。

a+ibは矢印(⇒)を二つの要素(実数と虚数)に分解することですので、これに意味(見える・見えない)を与えことができます。



又、e^iθ=cosθ+isinθ(オイラーの公式)でもありますので、a+ib=cosθ+isinθからa=cosθ,b=sinθとなり、θの値が決まると自動的にa,bも決まります。

ちなみに、

θ=0:cos0+isin=cos0=1   (a=1,b=0)
θ=1/2π(90度):cos1/2π+isin1/2π= I  (a=0,b=1)
θ=π:cosπ+isinπ= cosπ=-1 (a=-1,b=0) 
(これが有名なオイラーの公式:e^iπ=-1)
θ=3/2π(270度):cos3/2π+isin3/2π=- i (a=0,b=-1)

となり、複素平面の特別な位置(i,-i,+1,-1)の値が決まります。

これらの四つの値(i,-i,+1,-1)をどのように意味づけるかで、解釈が違ってきますので、「意味づけ」が複素化する場合の最も重要な作業です。

既に、PS理論では、iを虚軸、自己、光、陽の精神、-iを他者、闇、陰の精神、+1を実存、存在、-1を超越的存在などと決めています。

では、特別な位置(i,-i,+1,-1)以外はどう扱えばよいのでしょうか。

もちろんθを決めれば、e^iθの位置も、それと同時に(a,b)のセットも決まります。

森羅万象に対する認識は特別な位置(i,-i,+1,-1)だけに現れることはありえません。認識は波なのですから、全ての領域に現れるはずです。

それを便宜的に四つの象限で区分けしますが、θはいくらでも無限に分割できますので、認識もいくらでも無限に表現できるということになります。

実際、海舌氏は易の64パターンを認識のパターンに重ねた表現をしています。


ここまで行くには時間がかかりますので、当面は四つの象限でいきます。
続く
http://www.c-player.com/ad00178/message/201201?page=3&format=time
シムダンス「四次元能」



2012年01月29日(Sun)▲ページの先頭へ
重力とは何か:光と物質の反作用としての重力?:闇としての重力作業仮説
重力とは何か:光と物質の反作用としての重力?:闇としての重力作業仮説
テーマ:science

今は直観だけを言う。空間を歪めるはたらき、光を曲げるはたらきをするということから、どうも、media pointに関係すると直観される。
 以前も私見を書いたが、もし、物質が⇒のエネルギー方向をもつなら、重力はそれとは反対に←のエネルギー方向をもつのではないだろうか。光が⇒の方向ならば、重力は←の力の方向である。
 もし、そうならば、重力は⇒の反作用的なものとなろう。凸i*凹i⇒凸の反作用として、凸i*凹i←凸が形成され、その←が重力ではないだろうか。
 簡単に言えば、重力はmedia pointの方向を示していると考えられる。そして、ブラック・ホールもこの方向にあると言えよう。そう、ブラック・ホールはmedia pointから第三象限ないし凹を指すのかもしれない。
 とまれ、以上から考えられるのは、重力と光は対蹠的であり、ある意味で両極的である。
 作業仮説であるが、実MPにおいて、光と物質が発出されるならば、その裏面に重力が形成されるのではないだろうか。やはり、反作用の法則、エネルギー保存則である。
 だから、光(現象光)に対して、闇である。虚MPや第三象限等を志向しているのではないのか。
 あるいは、光、物質の表面(現象)に対する裏面、背後である。その不可視の世界、精神の世界に、重力は通じているのではないのか。
 言い換えると、現象太陽の裏面、背後の闇の太陽dark sun、ないしは、霊的太陽を意味しているのではないのか。
 光と物質の第一象限の現実世界に対して、重力は、精神と闇の光(超越光、マニ教の光)の霊的世界を意味しているのではないのか。
 今はここで留めたい。

追記:先に、凸iの光(原光)と実MPの光(現象光)は異なると言ったが、そう考えなくても説明できるだろう。
 即ち、現象光を同一性の光とすれば、それは、凸iの光と一致すると思われる。
 そのときは、凸iが主導となって、凹iを同一性化しているのである。
 しかるに、凹iが主導のときが考えられる。そのときは、光ではなく、凹iの闇(原闇)が生起すると考えられる。
 それは、当然、不可視である。闇である。これが、重力なのではないだろうか。方向性は、光凸iの反対であり、下降↓であるか、物質化⇒の反対の←である。
 とまれ、闇としての重力である。さらに後で検討を続けたい。
 
参考:
重力波望遠鏡の愛称は「かぐら」に決定
2012.1.29 16:15
 アインシュタインが存在を予言しながら発見されていない「重力波」をとらえようと、岐阜県飛騨市神岡町の地下に建設が進んでいる「大型低温重力波望遠鏡(LCGT)」の愛称が「かぐら」と決まった。東京大宇宙線研究所が29日までに発表した。
 建設地の地名のカミオカと、重力を意味する英語「グラビティ」の一部を組み合わせた。ほかに神に奉納される「神楽」の意味も込めたという。
 重力波は、非常に重い物体が激しく運動するときにできる空間のゆがみ。ブラックホールが生まれる瞬間や、宇宙誕生直後の様子を調べられると期待されている。
 かぐらは、ニュートリノ観測装置スーパーカミオカンデなどがある神岡鉱山の地下に、長さ約3キロのL字形のトンネル2本をつくって設置。交差部分から両端の鏡にレーザー光を照射して、空間のゆがみを検出する。
http://sankei.jp.msn.com/science/news/120129/scn12012916170002-n1.htm

重力 - Wikipedia


重力
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この項目では、質量に働く力全般について記述しています。質量間に働く引力については「万有引力 」をご覧ください。
重力(じゅうりょく)とは、
• 地球上で物体が地面に近寄ってゆく現象や、それを引き起こすとされる「力 」を呼ぶための呼称[1] 。人々が日々、物を持った時に感じているいわゆる「重さ」を作り出す原因のこと。
• 物体が他の物体に引きよせられる現象の呼称。および(その現象は《力 》が引き起こしていると見なす場合の)その「力 」に対する呼称。
英語 の gravity (グラヴィティ)の頭文字を取って、俗にG(ジー)と略されることがある。ただし、物理学の専門書や教科書においては、地球の重力は小文字のg、万有引力定数 は大文字のGというように区別される。
概説 [編集 ]
重力という表現は、宇宙論 などの領域では万有引力 と同一として扱われることがある[2] 。
地球上のことについて論じている場合は、地球上の物体に対して働く地球の万有引力と地球自転による遠心力 との合力を指している[2] 。また、人工衛星 のように、地球の自転とは無関係な物体の運動について論じている場合は、遠心力の成分は除いて扱うことになる[2] 。
重力の大きさは、単位「ガル (Gal)」を用いて表すことができる[2] 。
地球上で質量 が 1 kg の物体に作用する重力の強さというのは約 9.8 N でほぼ一定である[2] 。だが、精密に調べてみると重力は地球上の場所により、あるいは時間によっても変化している[2] 。
歴史 [編集 ]
重力や重さに関する議論というのは、古代ギリシャのしかも初期の段階から行われていた形跡があるという[3] 。
影響力の大きかったのはアリストテレス である[3] 。彼は『自然学 』を著し、物の運動等についても体系的に論じた。彼の宇宙観では、天界と地上はまったく別世界であり、天体はエーテル でできていて、地上の物体は四元素 でできていると見なした。そして《重さ》と《軽さ》というのは、地上界にある物体に特有の一対の内在的な性質だと見なした[3] 。古代ギリシャでは、コスモス (世界 、宇宙 )の中心に地球があると考えられていたので、アリストテレスもそう考えていた(地球中心説 )。アリストテレスにとって、物の落下するということはコスモスの中心へ接近することであり、上昇するということはコスモスの中心から離れてゆくことを意味した[3] 。 《火元素》を含むものが《軽さ》を内在しており、地中から離れ天へと向かいたがり、石などには《土元素》が含まれており、《土元素》はコスモスの中心に帰 りたがる性質を持っているのだ、とした。その《土元素》をより多く含んでいるものが、より大きな《重さ》を内在している、とした。またその速さについて は、《土元素》を多く含むものが速く落ちる、とした。


ペトルス・アピアヌス (Petrus Apianus )のCosmographia (アントワープ 、 1539年刊)に描かれた中世のコスモス像。アリストテレスの宇宙観の延長上にある。
ヨーロッパ中世の人々は、以下のように考えていた[4] 。
地リス や鳥 などの生き物がそれぞれ巣穴や巣という本来の位置を持っていて一時的に理由があってそこを離れることがあっても結局本来の位置に帰るように、物も、それぞれの性質に応じて本来の位置を持っている。たとえば小石 はその本来の位置を地に持っている。焔 はその本来の位置を天上に持っている[4] 。
例えば、小石を空中に投げれば、小石は本来の位置から離されることになり、小石は一旦は抵抗を示しながら上に上がるが、結局はできるだけすみやかに、その本来の位置である地に戻ってこようとする[4] 。
(太陽中心説というのは一応アリスタルコス も唱えていたとされはするが[5] )16世紀にヨーロッパでコペルニクス (1473 - 1543)によって太陽中心説 が唱えられると、(それがすぐに受け入れられたわけではないが)もしこれを受け入れた場合、アリストテレス的な《重さ》《軽さ》の概念は根底から考え直さざるを得ない、ということになった[3] 。
コペルニクスは、重力というのは、各天体の部分部分が球形になりたがり一体化しようとする自然的な欲求だ、とした。一方《軽さ》というのは、重さの少ない物体が持つ“偶有的性質”だとされた[5] 。
「重力を説明する古典力学的理論 」も参照
フランスのデカルト(1596年–1650年)は、著書『哲学の原理 』(1644年)と『世界論 』(1633ころから執筆、死後1656刊行)において渦動説 を展開し重力を説明した。世界にはエーテル が満ちており、ちょうど渦に木切れが吸い寄せられるように、エーテルに渦が起きるとその渦 の中心に物体は引き寄せられる、こうして物体は地球に引き寄せられる、と説明した。
ドイツのケプラー (1571年–1630年)は、重力というのは似たもの同士が引き合う力(引力)であり、この引力は潮の満ち引きという(月の変化の周期と連動する)現象から推察するに、地球と月との間にも作用している、と見なした[3] 。
ガリレオ・ガリレイ (ユリウス暦1564年–グレゴリオ暦1642年)は重さと落下の速さとは無関係であることを実験で見出した。
オランダのホイヘンス (1629年–1695年)は1669年から1690年にかけてデカルトの渦動説を検討し精密化した。ライプニッツ も渦動説の流れを汲んだ理解をしていた。
アイザック・ニュートン (1642 - 1727)は、天体の運動も地上の物体の運動もひとつの原理で説明できる、とする説(万有引力)を『自然哲学の数学的諸原理 』で発表した。天界と地上の区別がとりはらわれており、宇宙全域の物体の運動を同一の原理で説明しており、地上のgravityというのも万有引力のひとつの現れとされている。
また(上でも述べた)ホイヘンス は、遠心力 の公式を発見した。地球の自転 はすでに明らかになっていたので、重力は万有引力そのものではなく、万有引力と地球の自転による遠心力との合力 だということになった。
エルンスト・マッハ (1838 - 1916)は、慣性の力 というのは他の物体との相互作用 である、とした。地球外の回転せずに止まっている、つまり、地球から見れば超高速で回転している全宇宙との相互作用が遠心力を生む[要出典 ]、と述べたのである(マッハの原理 )。
マッハの原理は、アルバート・アインシュタイン の一般相対性理論 により体系化された。一般相対性理論によれば、万有引力も慣性の力も等価(等価原理 )であり、共に、時空の歪み による測地線 の変化である。ただ、万有引力と慣性の力とでは歪みの原因が異なるにすぎない。

アインシュタイン方程式 からは、時空の歪みの源は質量ではなく、エネルギー と運動量 からなるエネルギー・運動量テンソル で決まることがわかる。つまり、質量(エネルギーに比例)だけでなく運動量も時空を歪め、重力を生む。質量は引力を生むのに対し、運動量が生む重力は、引力でも斥力でもない慣性系の引きずり という形を取る。慣性系の引きずりは自転するブラックホール であるカー・ブラックホール で顕著である。慣性力も、地球外の全宇宙による慣性系の引きずりで説明できるとの見方が強い[要出典 ]。ただし、いまだ近似計算のみで、厳密な計算はなされていない。
素粒子物理学 では、重力は自然界に働く4つの力 のうちの1つとして扱われており、電磁気力 、弱い力 、強い力 との統合が試みられている。だが、その試みがうまくゆくのかどうか定かではない。なお、2010年にアムステルダム大学 理論物理学院のエリック・ベルリンドにより、重力は存在しないという説も提唱された。
近年では、一般相対性理論での重力を量子化 し、量子重力理論 にしようとする試みもなされている。ここでの重力とは、万有引力に限らず、慣性の力なども含めた重力の意味である。量子化された重力は重力子 と名づけられている。
地球表面の重力値の相違と重力加速度 [編集 ]
概説で述べたように、同じ地球上でも場所によって重力の大きさ(重力値)が異なっている[2] 。それは以下のような理由からである。
• 測定点の標高 が場所ごとに異なっていること[2]
• 周囲の地形の影響が場所により異なっていること[2]
• 地球が完全な球形 ではなく、回転楕円体 のような形状をしていること[2]
• 自転による遠心力 が緯度 により異なっていること[2]
• 地球の内部構造が一様ではないこと[2]
高度が増加するとゆるやかに重力値が減少してゆくわけであるが、その減少の度合いというのは地表付近では1mあたり0.3086mGal(ミリガル)程度である[2] 。ただしこれも場所により1割程度の変動はある[2] 。
2番目の「地形の影響」というのは、険しい巨大な山岳などのふもとでは、山が上向きの引力(万有引力)を及ぼしていることなどを意味しており、山岳地帯ではこうした影響は数十mGalに達する[2] 。
5番目の地球の内部構造(地下構造)に起因する重力値の過大や過小を重力異常 と言う[2] 。
単に重力加速度といった場合は、地球 表面の重力加速度を意味することが多い。重力加速度の大きさは、緯度 や標高 、さらに厳密に言えば場所によって異なる。
ジオイド 上(標高0)の重力加速度は、赤道 上では 9.7799 m/s2と最も小さくなり、北極 、南極 の極地では 9.83 m/s2と最も大きくなる。赤道と極地 との差の主な理由は自転による遠心力であるが、自転以外にも地殻 の岩盤 の厚さ、種類、地球中心からの距離などによる影響も若干受ける。このため、重力を精密に測定し、標準的な重力と比較することで地殻の構造を推定することができる。測定手法には絶対重力測定と相対重力測定があり、日本では国土地理院 が日本重力基準網として基準重力点を設定している。
国際度量衡会議 では、定数として使える標準重力加速度 の値を g = 9.80665 m/s2と定義している。

・・・・・

関連項目 [編集 ]

ウィクショナリーに重力 の項目があります。

ウィキメディア・コモンズには、重力 に関連するカテゴリがあります。
• 重力を説明する古典力学的理論
• en:Earth's gravity (地球の重力 )
• en:Standard gravity (標準重力 )
• 自由落下
• 重力加速度
• 加速度
• 質量 (重力質量 )
• 重さ (重量)
• 重力ポテンシャル (位置エネルギー ・ポテンシャル )
• 重力圏
• 重力異常
• 重力単位系
• 重力式コンクリートダム ・重力式アーチダム
• 重力波 (流体力学)
• 潮汐力
• 無重量状態
• 反重力
• 万有引力 およびその関連用語
o 一般相対性理論 (重力崩壊 ・重力波 (相対論) ・重力子 ・重力レンズ )
o 統一場理論 (超重力理論 ・量子重力理論 ・ループ量子重力理論 )
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カテゴリ :
• 重力
• 力学



凸i*凹iの自然状態は、凹iが反感的になる:凸凹凹(i*i)⇒凹が差異共振の道だろう
凸i*凹iの自然状態は、凹iが反感的になる:凸凹凹(i*i)⇒凹が差異共振の道だろう
テーマ:media point
先に、凸i*凹凹i⇒凹(マイナス1)を提起したが、これは、凹iを凹化して、精神を差異共振化することと考えられる。
 今日の人間は凸i主導であるので、ある不利な事態において、凹iは連続化しているので、その凸iの否定性を受けて、反感的になるのである。それは、凸i*凹i⇒に示されているだろう。
 思うに、凸凹(i*i)⇒となるのではないだろうか。凸凹の凹が反感ではないだろうか。否定的感情ではないだろうか。あるいは、敵意、攻撃性ではないだろうか。反動性と言ってもいいだろう。
 このとき、凹iが凹化していれば、凸凹凹(i*i)⇒となるだろう。それは、凸凹凹(i*i)⇒凹となるだろう。これが、差異共振の道と考えられるのである。
 哲学的には、スピノザが歓喜の感情を肯定したが、思うに、凹凹iは歓喜の精神を含むと言えるだろう。しかし、単純に歓喜ではないだろう。ただし、肯定の精神と言えよう。
 これは、ヘーゲルの否定の精神とは正反対である。
 しかしながら、肯定の精神とは言え、批判はあるのである。肯定を保留しながら、批判するのである。
 後で再考したい。





現象光と凸iの原光の結合としての近代主義:凹iへと潜水して光と闇を融合させて超越光を点火する
テーマ:manichaeism: 哲学
簡単に予見を言う。
 実MPで現象光(可視光)が発生する。この可視光と凸iの光(原光)の関係はいかにである。
 私見では、虚MPの超越光が実MPの現象光へと転化するのである。超越光の成分は凸iと凹iであり、現象光も基本的には同じである。
 では、現象光において、成分の凸iと凹iはどうなっているのか。(今、思ったのは、超越光を凹iに、現象光を凸iとする考え方であるが、これは今はおいておく。)
 現象光(物質光)においては、もはや、成分の凸iと凹iは消えていると考えられる。現象光に変化したと言ってもいいだろう。(もっとも、丁寧に言えば、現象光はmedia pointをもつのであり、その点では、凸iと凹iの成分はあるのである。)
 そう、正に、量子論的絶対的矛盾が生じる領域である。一方では、現象光であり、他方では超越光的である。
 とまれ、そうすると、現象光の「内部」には、凸iと凹iの共振が存するのであり、原光と原闇が存しているのである。もっとも、それらは、超越光的な存在となっている。
 以上から、実MPの現象光と凸iの原光は異なることが判明した。
 では、凸iの原光、凹iの原闇とはいったい何であろうか。
 それは、原外部と原内部であろう。外部への志向と内部への志向とも言えよう。感覚と精神であろう。脳で言えば、大脳皮質と間脳であろうか。あるいは、頭部と内臓部である。
 現代日本の病巣は、現象光と凸iの原光が結びついていることであり、凹iの原闇が排除されていることである。わかりやすく言えば、凹iという魂が排除されているのである。そのために、真の精神、生命、そして、個がないのである。
 近代主義は、現象光の外部性と凸iの原光との結合に拠るとも言えよう。 
 そして、その光の志向性は意味があったのであるが。とまれ、近代は凸iに強く傾斜しているのであり、そのために、凹iを認知することが困難なのである。
 もっとも、単に凹iへの志向は、あしき神秘主義になるだろう。問題は、光と闇の拮抗である。
 光を志向しつつ、闇へと「潜水」しないといけない。光と闇との結合によって、超越光を点灯することになるのである。それが、マニ教の光の種子の目覚めである。
 今はここで留める。





現象とは何か:光による反映としての現象
テーマ:森羅万象
一体、現象とは何か。当然ながら、光が当たって、「物質」が可視化するのである。
 予見を言えば、凸i⇒凸が現象である。しかしながら、対象物は単に「物質」凸でいいのか。私は対象的物質体には、以前指摘したように特異性があるのであ る。つまり、media pointである。つまり、光が対象に当たったとき、その対象物は、media point性を帯びるのである。
 つまり、やはり、凸i*凹i⇒凸と見るべきである。現象的対象には、凹iも関与しているのである。
 あえて言えば、凹も背後で関与していると思われるのである。そう、正に、イデア論である。
 だから、現象と単に物質現象と見るのは、誤謬である。物質現象は仮象にすぎない。
 現象にはmedia pointと差異共振エネルギーが関与し、又、根源では超越的存在凹が関与していると見るべきである。
 以上は予見であり、後で具体的に緻密に検討したい。





検討問題諸々
テーマ:検討問題
1)虚MPと実MPは不連続。精神子と遺伝子は不連続。有り体に言えば、才能は遺伝しない。長嶋監督親子。

2)ロレンス言語芸術speech artの存在表現(表象)とは何か。また、その存在とは何か。
 D. H. ロレンスのSons and Loversを読んで、まるで自分の真正面に生々しく登場人物が存在し、語っているかのように感じて、驚愕した。このようなことは他の文学ではなかったことだ。
 基本的にリアリズムとは、第一象限のものを第二象限にうつすことである。しかし、ロレンスの場合はそれでは語り尽くせないない絶対的存在性が感じられる。
 先に述べたが、ロレンス文学・哲学の場合、虚MPにおける光をベースにして、凸iの(外的)感覚を表象していると思う。
 通常のリアリズムは凸iの感性で映しているに過ぎない。しかし、ロレンスの場合、凸iと凹iの差異共振の光において、第一象限を映していると考えられる。
 つまり、第三象限の背景のもとに、第一象限を第二象限化、つまり、感覚表象化していると考えられる。
 第三象限のバックグランドが存在を喚起させると思われるのである。これは、他の作家ではほとんどないものである。ほぼ類を見ないのである。
 思うに、古代的な神話に類縁性があるだろう。

3)今や、精神世界の主導性が判明したのであり、物質世界主義は滅びたと言えよう。精神の共振が新世界を生むのである。目に見えない精神氣の世界が主導するのである。

4)おそらく、広義的にみると、明治維新とは、古代ギリシアの現代版に評価させるだろう。もっとも、あまりに父権化してしまった。しかり、PS理論が誕生 した今、明治維新は、古代ギリシアに匹敵する世界的大変革・大進化を意味しよう。そう、近代・現代日本は古代ギリシアのラセン的回帰である。

5)D. H. ロレンスの性の表現について:それは、端的に、精神の表現である。民衆にわかりやすいように性的表現をしたのである。結局、プラトンのエロースと一致する。

6)色彩とは何か。現代日本人は伝統的色彩感を暴力的に抑圧されている。色彩は自由である。これを解放する必要がある。そう、端的に、色彩とは精神である。氣である。生命である。

7)現代は、ポスト・モダン、トランス・モダンというより、トランス・オクシデントと呼ぶべきであろう。

8)セックスとは、精神の物質化である。これは既述事項である。

9)イエス・キリスト、これが、最高の謎であろう。しかし、今や、聖霊の時代であるから、その問題は克服されている。
 
10)これまでの教育、近代教育は、第一象限、第二象限の領域であった。これは、真理に反する。第三象限こそ、真理である。

11)資本主義とは何か。同一性に駆り立てられた差異の経済である。あるいは、貨幣に駆り立てられた個の経済である。
 この主従関係を逆転すればいいのだ。差異や個(他者)を主とし、同一性、貨幣を従とすればいのである。
 つまりトランス資本主義である。

12)肝心なことを言うのを忘れていた。mitreである。これは、以前から知っているが、昨日、ジョゼフ・キャンベルのPrimitive Myothologyを読んでいて見つけたものである。それは、アステカ神話の箇所である(p. 222)。直観では、正に、ミトラである。太陽神である。どうも、古代アメリカ大陸は、ミトラ的文化であったようである。つまり、太陽神文化である。即 ち、シュメール・ケルト・アジア母権・母系・母神大文化圏に通ずるということである。

引用:
At a great festival in September, which was preceded by a strict fast of seven days, they sanctified a young girl of twelve or thirteen years, the prettiest they could find , to rrepresent the Maize Goddess Chicomecohuatl. They invested her with the ornaments of the goddess, putting a mitre on her head and maize-cobs round her neck and in her hands, ・・・ (p. 222)


参照:

mi・ter, 《英》 mi・tre /m#### | -t#(r/→#
#n.
1 司教冠, 主教冠, ミトラ, マイター《bishop や時に abbot が祭式の際に戴く冠; その頂上に横の深い溝があって二つの山形を成し, 後ろに 2 本の長ひもが垂れている》.
・confer [bestow] a miter upon… …に司教冠を授ける, …を司教の位につける.
2 司教の職[位] (bishopric).
3 (古代ユダヤの)大司祭 (high priest) のかぶり物.
4a (古代ギリシャの女性が着けた)髪ひも, リボン (fillet).
b 見返しや裾などの角の始末, ななめはぎ, 額ぶち始末.
5 【木工】
a 留形包(とめがたつつみ)打付継ぎ; =→miter joint.
b =→miter square.
6 【海事】 斜め縫合せ《三角帆の角などで額縁のように帆を斜めに縫い合わせる》.
#vt.
1 …に司教冠を授ける; 司教に任じる.
2 【木工】 留め継ぎ[斜め継ぎ]する; 留め継ぎ[斜め継ぎ]面に切る.
〜・er /-##r# | -t#r#(r/ n.
#《c1303》 mitre # (O)F # L mitra cap # Gk mitr# belt, headband, headdress#
図 miter 【挿絵】

[株式会社研究社 新英和大辞典第6版]

 
参考:

Mitre
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This article is about religious headgear. For other uses, see Mitre (disambiguation) .


St. Zenon of Verona wearing a mitre.
The mitre ( / ˈ m aɪ t ər / ; Greek: μίτρα, "headband" or "turban"), also spelled miter, is a type of headwear now known as the traditional, ceremonial head-dress of bishops and certain abbots in the Roman Catholic Church , as well as in the Anglican Communion , some Lutheran churches, and also bishops and certain other clergy in the Eastern Orthodox churches , Eastern Catholic Churches and the Oriental Orthodox Churches .
Origin


Jewish High Priest wearing the mitznefet
[edit ] Judaism
In ancient Israel , the Kohen Gadol (High Priest) wore a headdress called the Mitznefet (Hebrew: מצנפת, often translated into English as "mitre"), which was wound around the head so as to form a broad, flat-topped turban . Attached to it was the Tzitz (Hebrew: ציץ), a plate of solid gold bearing the inscription "Holiness to YHWH "[1] (Exodus 39:14 , 39:30 ).
[edit ] Byzantine empire


Pope Gregory the Great wearing the camelaucum
The camelaucum (Greek : καμιλαύκιον , kamilaukion), the headdress both the mitre and the Papal tiara stem from, was originally a cap used by officials of the Imperial Byzantine court. "The tiara [from which the mitre originates] probably developed from the Phrygian cap, or frigium, a conical cap worn in the Graeco-Roman world. In the 10th century the tiara was pictured on papal coins."[2] Other sources claim the tiara developed the other way around, from the mitre. In the late Empire it developed into the closed type of Imperial crown used by Byzantine Emperors (see illustration of Michael III , 842-867).
In Western Europe, the mitre was first used in ancient Rome by the Salii and other priests, and outside of Rome about the year 1000. Worn by a bishop, the mitre is depicted for the first time in two miniatures of the beginning of the eleventh century. The first written mention of it is found in a Bull of Pope Leo IX in the year 1049. By 1150 the use had spread to bishops throughout the West; by the 14th century the tiara was decorated with three crowns.
[edit ] Christian clergy


Mitra simplex traditional style: White damask with its white lappets ending in red fringes.
[edit ] Western Christianity
In its modern form in Western Christianity , the mitre is a tall folding cap , consisting of two similar parts (the front and back) rising to a peak and sewn together at the sides. Two short lappets always hang down from the back.


The evolution of the mitre, from the Catholic Encyclopedia (1913)
In the Catholic Church, the right to wear the mitre is confined by Canon law to bishops and to abbots , as it appears in the ceremony of consecration of a bishop and blessing of an abbot. Cardinals are now normally supposed to be bishops (since the time of Pope John XXIII ), but even cardinals who are not bishops and who have been given special permission by the pope to decline consecration as bishops may wear the mitre. Other prelates have been granted the use of the mitre by special privilege , but this is no longer done, except in the case of an Ordinary of a Personal Ordinariate (even if he is a priest only). Former distinctions between "mitred abbots" and "non-mitred abbots" have been abolished.
Three types of mitres are worn by Roman Catholic clergy for different occasions:
• The simplex ('simple', referring to the materials used) is made of undecorated white linen or silk and its white lappets traditionally end in red fringes. It is worn most notably at funerals, on Good Friday and by concelebrant bishops at a Mass . Cardinals in the presence of the Pope wear a mitre of white linen damask.
• The pretiosa ('precious') is decorated with precious stones and gold and worn on Sundays and feast days. This type of mitre is rarely decorated with precious stones today, and the designs have become more varied, simple and original, often merely being in the liturgical colour of the day.
• The auriphrygiata is of plain gold cloth or white silk with gold, silver or coloured embroidered bands; when seen today it is usually worn by bishops when they preside at the celebration of the sacraments.
The proper colour of a mitre is always white, although in liturgical usage white also includes vestments made from gold and silver fabrics. The embroidered bands and other ornaments which adorn a mitre and the lappets may be of other colours and often are. Although coloured mitres are sometimes sold and worn at present, this is probably due to the maker’s or wearer’s lack of awareness of liturgical tradition.
On all occasions, an altar server may wear a shawl-like veil , called a vimpa , around the shoulders when holding the bishop's mitre. The vimpa is used to hold the mitre so as to avoid the possibility of it being soiled by the natural oils in a person's hand as well as symbolically showing that the person does not own the mitre, but merely holds it for the prelate. The person wearing a vimpa is also occasionally referred to as a vimpa. When a vimpa holds the crosier, he holds the crook facing inward, as another sign that the person does not hold the authority of the crosier.


Papal Arms of Pope Benedict XVI. The papal tiara was replaced with a bishop's mitre.
With his inauguration as pope , Benedict XVI broke with tradition and replaced the papal tiara even on his papal coat of arms with a papal mitre (containing still the three levels of 'crowns' representing the powers of the Papacy in a simplified form) and pallium . Prior to Benedict XVI, each pope's coat of arms always contained the image of the papal tiara and St. Peter's crossed keys, even though the tiara had fallen into disuse, especially under popes John Paul I and John Paul II . Pope Paul VI was the last pope to date to begin his papal reign with a formal coronation in June 1963. However, as a sign of the need for greater simplification of the papal rites, as well as the changing nature of the papacy itself, he abandoned the use of his tiara in a dramatic ceremony in Saint Peter's Basilica during the second session of Vatican II in November 1963. However his 1975 Apostolic Constitution made it clear the tiara had not been abolished: in the constitution he made provision for his successor to receive a coronation. Pope John Paul I, however, declined to follow Paul VI's constitution and opted for a simpler papal inauguration , a precedent followed by his two successors. Pope John Paul II's 1996 Apostolic Constitution left open several options by not specifying what sort of ceremony was to be used, other than that some ceremony would be held to inaugurate a new pontificate.
Pope Paul VI donated his tiara (a gift from his former archdiocese of Milan) to the efforts at relieving poverty in the world. Later, Francis Cardinal Spellman of New York received the tiara and took it on tour of the United States to raise funds for the poor. It is on permanent view in the Crypt Church in the Basilica of the National Shrine of the Immaculate Conception in Washington, D.C.
In the Church of England the mitre fell out of use after the Reformation, but was restored in the late 19th and early 20th centuries as a result of the Oxford Movement , and is now worn by most bishops of the Anglican Communion on at least some occasions.
The mitre has always been used in ecclesiastical heraldry to surmount the coats of arms of bishops in the Church of England (instead of a crest , which is not used by clergy). In 1969 the mitre was suppressed in all personal arms of bishops in the Catholic Church, and is since only found on diocesan coats of arms. In heraldry the lappets are depicted with red lining.
[edit ] Eastern Christianity


Golden mitre on Patriarch Maxim of Bulgaria .
The most typical mitre in the Eastern Orthodox and Byzantine Catholic churches is based on the closed Imperial crown of the late Byzantine Empire . Therefore, it too is ultimately based on the older καμιλαύκιον although it diverged from the secular headdress at a much later date, after it had already undergone further development. The crown form was not used by bishops until after the fall of Constantinople (1453).
The Eastern mitre is made in the shape of a bulbous crown, completely enclosed, and the material is of brocade , damask or cloth of gold . It may also be embroidered , and is often richly decorated with jewels. There are normally four icons attached to the mitre (often of Christ, the Theotokos , John the Baptist and the Cross ), which the bishop may kiss before he puts it on. Eastern mitres are usually gold, but other liturgical colours may be used.
The mitre is topped by a cross, either made out of metal and standing upright, or embroidered in cloth and lying flat on the top. In Greek practice , the mitres of all bishops are topped with a standing cross. The same is true in the Russian tradition . Mitres awarded to priests will have the cross lying flat. Sometimes, instead of the flat cross, the mitre may have an icon on the top.
As an item of Imperial regalia , along with other such items as the sakkos (Imperial dalmatic ) and epigonation , the mitre came to signify the temporal authority of bishops (especially that of the Patriarch of Constantinople ) within the administration of the Rum millet (i.e., the Christian community) of the Ottoman Empire . The mitre is removed at certain solemn moments during the Divine Liturgy and other services, usually being removed and replaced by the protodeacon .
The use of the mitre is a prerogative of bishops, but it may be awarded to archpriests , protopresbyters and archimandrites . The priestly mitre is not surmounted by a cross, and is awarded at the discretion of a synod of bishops.
[edit ] Oriental Orthodox Christianity
Oriental Orthodox bishops sometimes use mitres, either of the Western or Eastern style. In the past, Coptic bishops have worn the ballin, an omophorion wound around the head like a turban . The Coptic Patriarch of Alexandria will often wear an Eastern-style mitre. Coptic priests frequently wear a mitre, similar to a Western bishop's mitre.
Syriac Orthodox bishops wear the maşnaphto (literally, 'turban') when presiding at the Divine Liturgy . This is a large, richly embroidered hood, often depicting the Holy Spirit as a dove.
Armenian Apostolic bishops wear tall and distinctively tapered Western-style mitres. The Armenian bishop's mitre differs from its Western counterpart in that the points at the top are usually joined together. Armenian priests regularly wear Byzantine-style mitres (symbolizing the sovereignty of Christ). On certain solemn occasions, Armenian deacons will wear the mitre also, although the deacon's mitre is somewhat narrower than that of the priest.

ミトラ教 - Wikipedia

ミトラスと処女からの誕生 [編集 ]
ミトラス教学者ではないジョセフ・キャンベル はミトラスの誕生をイエスのそれのような処女からの誕生 であると記述した[14] 。彼はその主張に、古代の出典を与えていない。どの古代の原典においてもミトラスが処女から生まれたとは考えられていない。むしろ、洞窟の岩から自然に目覚めている[15] 。Mithraic Studies では、ミトラスは堅固な岩の中から大人の姿で生まれてきたと述べられている。「プリュギア の帽子を被り、岩の塊から生じた。今までのところではまだ彼の剥き出しの胴は見えない。めいめいの手で彼は灯された松明を高く掲げる。風変わりな細部として、ペトラ・ゲネトリクス(母なる岩)から彼の周りに赤い炎が吹き出る」[16] 。デイヴィッド・ウランジーはこれが鍾乳洞で生まれたとするペルセウス 神話から着想された信仰であると推測する[17] 。






検討問題:ケルト・アジア母権大文化圏とシュメール:高度母権文化と父権民族
テーマ:検討問題
1)血とは何か。精神と血の連関。氣と血の連関。予見では、血は、氣(精神)の物質的媒体である。民族の血を問題にするのは正しいだろう。

2)ケルト・アジア母神・母権・母系大文化圏とシュメールの関係を丁寧に考察する:ケルト文化の鹿と仏教の鹿。そして、奈良公園の鹿。等々。以前、ツングース系で共通点を見た?

3)シュメールに関して:問題は、アーリア民族と混淆しないことが必要なように思える。基盤にケルト・アジア母権大文化圏を見て、それとの関係を見ること。基底に母権文化があり、その後、父権的アーリア人が侵入したのが、基本的パターンである。

4)母権文化としてのシュメールを捉えるべきである。『ギルガメシュ叙事詩』からわかるように、その後、父権化されると思われる。

5)古代日本:思うに、ケルト・アジア母権大文化圏としての古代日本、とりわけ、沖縄があった。そして、また、北方系の母権民族もあった。
 しかしながら、その後、父権民族が日本に侵入した。それが記紀を形成したのでは? つまり、ギリシア神話的に、記紀を捉えるべきでは。

6)仮説:シュメール・ケルト・アジア大文化圏に父権民族が侵入して、父権文明が形成された。しかし、エジプト文明は父権文明ではなく、母権文明だろう。
 例えば、ジグラッド、ピラミッドの建築する高度の「科学・技術」はどこから来たのか。それは、母権大文化圏からだろうか。
 直観では、ベースに母権大文化圏、母神大文化圏、日神信仰文化圏があり、そこに、なんらかの知的文明が入ったのである。それは、父権文明だろうか。そう ではなく、滅びたアトランティス文明の知性ではないだろう。その高度知性と母権文化が結合して、高度な母権大文化圏が創造されたのではないのか。
 その後、父権民族(とりわけ、アーリア民族)がそれへ侵入して、高度母権民族文化を父権的に再編したのではないのか。それが、文字として、神話に残っているのでは?
 父権文明とは高度母権大文化圏の知を簒奪した、「パクッタ」のではないのか。典型がキリスト教文明であろう。
 古代日本においても、このパターンがあったと推察される。つまり、高度母権文化が基盤にあったのであるが、その後、父権民族が侵入して、それを父権的に改変したと思われる。それが、記紀のように思われる。
 沖縄周辺
(与那国島海底地形 - Wikipedia  
与那国町 - Wikipedia )
の海底にある古代の遺跡が、高度母権文化の名残のように思える。だから、なんらかの、自然的破壊があったのようにも思える。大洪水である。
 そして、沖縄文化はその高度母権文化の残照ではないだろうか。
 
7)仮説:古代日本の成立は、高度母権文化民族(シュメール・ケルト・アジア母権大文化圏)と父権文化民族の統合に拠る。後者は思うに、ユダヤ民族に近いものである。
 しかし、思うに、シャーマニズム的北方遊牧民族が侵入したのかもしれない。それは、父権なのか、母権なのか、わかりにくいのである。これとシュメール宗教・神話との関係があるかもしれない。
 思うに、南方的シュメール・ケルト・アジア母権大文化(海洋民族)と北方的シャーマニズム的文化(遊牧民族)の結合が古代日本文化かもしれない。
 ひょっとしたら、古代日本には、父権民族は入っていないかもしれない。失われたユダヤの十支族であるが、それは、父権民族であるが、背景は母権である。
 そう、もし、古代日本において、父権があるなら、それは、ユダヤ民族ないし中国民族の可能性がある。
 とまれ、古代日本=南方シュメール・ケルト・アジア海洋・母権民族+北方シャーマニズム遊牧民族+父権的ユダヤ民族・中国民族を作業仮説としたい。
 
8)女性の精神の問題:基本は凹iであるが、凹i⇒凸iとなり、この凸iが今日支配的になっているのでは。だから、女性は、根元の凹iに回帰する必要がある。ロレンスは『逃げた雄鶏(死んだ男)』でここに到達した。

9)凸i*凹i⇒凸(+1)
において、凹iを凹凹iにすると、凸i*凹凹i⇒凹となる。
これが、虚MPの事象ではないのか。差異共振とはこれであろう。凹iを凹化することが必要なのである。これが、自己の差異化、他者化である。個=他者化である。
 とまれ、これは何度か既述した。

10)今日の若者は、両極化しているのでは。一方では、個的であり、他方は自我中心的のように思える。善と悪。

11)ケルト・アジア母権・母系的大文化圏とシュメール民族・文化
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11142947671.html
において述べたことは粗いので、精緻化が必要である。即ち、次のように述べたことを緻密化する必要がある。

『とりわけ、「雄牛の角を持つ王冠はアヌを表している。」が意味深長である。牡牛の王冠は太陽神であろう。それが、アヌであろう。しかしながら、牡牛こそ、根源の大女神である。それが、王冠=アヌ=太陽神を産むと考えられる。先に、シュメールのテラコッタ「月の牡牛とライオン鳥」を指摘したが、王冠=ライオン鳥になるだろう。
 やはり、シュメールはケルト・アジア母権・母系大文化圏の源泉のように思える。すると、シュメール・ケルト・アジア母権・母系大文化圏が存したということになる。』

牡牛の角をもつ王冠がアヌだから、牡牛+王冠=アヌだから、全体で大女神(太母神)とそれが帯びる太陽神と見るべきであろう。つまり、大女神と太陽神はいわば未分化のような様態ではないだろうか。
 とまれ、太母神/日神の母権文化がシュメール文化にあったことは確かと考えられる。

12)感覚や精神は氣的であり、エネルギーをもっているだろう。とりわけ、視覚は氣エネルギーをもっていると思う。だから、ある空間物に対して、共感生命的に反応する場合と反感不健康に反応する場合がある。
 有り体に言えば、東京の町並みは後者であり、身心を害すると考えられる。それに対して、自然的景観は前者である。
 近代合理主義/近代的自我は同一性=物質主義なので、この点をまったく排除しているのである。
 氣・精神・生命的感覚を否定しているのである。芸術も本来、ここに根元があると考えられるのである。モーツァルトの音楽、あるいは、マーク・ロスコの絵画はそのようなものである。
 つまり、虚MPにおける差異共振エネルギー感覚を今日喪失しているのである。虚数濃度、精神濃度が極小値化しているのである。
 当然と言えば、当然である。氣・精神・生命エネルギーを認めると、物質科学、唯物論が崩壊するからである。
 しかし、今や、氣・精神・生命エネルギーの新時代である。あるいは、宗教の復活の時代とも言える。
 宇宙の氣・精神・生命エネルギーが今、活発に人間に働きかけていると察せられる。
 以前は氣霊という言葉を使用したがそれでもいいだろう。あるいは、氣的精神である。
 これと電磁波との関係であるが、確かに、現象としての氣的精神、氣霊は電磁波として作用するだろう。
 しかしながら、虚MPないし第三象限の、いわば、超電磁波、超越光をもっていると考えられる。





絵画と平面
テーマ:art & design
スクリーンセーバーで画面に曼荼羅のような模様が出てきて、きれいであるが、いかにも平面的、深みがないのである。
 優れた絵画なら当然、一種の深みがある。これは何か。それは、端的にmedia pointの表現を意味しよう。虚数濃度で言えば、pHの高い数値のものである。
 そう、いわゆる、写真と現実との違いもこれで説明できるのではないだろうか。下手な写真は平板であり、薄っぺらである。それに対して、現実はそれなりに 厚みがある。これは、現実の光、差異共振の光が生み出しているのではないだろうか。だから、ここにもmedia pointが関係するのである。
 今日の芸術が面白くないのは、この点を近代主義によって完全に喪失しているからと考えられる。
 だから、PS理論は芸術も復興させると言えよう。





虚数濃度(精神濃度)概念:精神的pH値:アルカリ性=母権=個・他者と酸性=父権=自我
テーマ:manichaeism: 哲学
以下のKaisetsu氏の新しい視点、概念は興味深い。画期的なのは、統一したレベルで精神様態が表記できることである。
 私は凹iは肚、凸iは頭、media pointは心・心臓・胸というように古典・伝統的にイメージするが、その場合、統一性、ないし、直観性が欠落するのである。
 リトマス試験紙のようなpH概念を使えば、確かに、直観的に明快である。
 思うに、虚MPから空孔MPを介して実MPへと光エネルギーが転移する。そして、究極的に物質化する。
 それが、自然のエネルギーの流れである。しかし、人間の精神においては、虚MPの強い人がいるのであり、その人は精神性が高いのである。以前述べた「高 貴な差異」である。それに対して、実MPの強い人、あるいは、虚MPの弱い人がいるのである。それが、精神性の低い人、「劣弱な差異」である。
 前者は確かに、凹iの強い人であり、pHが大きいと言えようし、後者は凸iの強い人であり、pHが小さいと言えよう。
 これをジェンダー文化論に適用すれば、母権主義は虚数濃度(精神濃度)が高いのであり、父権主義は低いということになる。
 思うに、母権をアルカリ性、父権を酸性とすれば、通常の社会は両者の混淆である。しかしながら、今日の社会は後者が支配的である。酸性が強く、アルカリ性が弱いという酸性の土壌になると言えよう。
 日本の場合が典型であり、アルカリ性が大都市ではほとんど消失しているのである。
 そう、酸性は自我、アルカリ性は個=他者とも言えよう。とまれ、光エネルギーの虚数濃度、精神濃度という概念が提起されたと言えよう。
 
**************************

【Mental Ph level】 虚数濃度(精神濃度)の概念提示

但し、虚数濃度(精神濃度)の概念は、ガウス平面上の認識とは、別途の基準であり、単に、外向きに虚数濃度が高いか、内向きの虚数濃度が高いか、についての基準である。

 このため、第1象限と第2象限、或いは、第3象限と第4象限との区別は困難である。

 丁度、リトマス試験紙のように、酸性濃度、アルカリ濃度のような感じである。

 PS理論では、外部の光も内部の光も、同じように、電磁関連作用と仮定しているので、虚数濃度(精神濃度)は一定の単位領域当たりの電磁関連作用の強さである。矢印の根元の部分と先の部分との相互作用の強さである。プラトニック・シナジー作用の強さである。

 やはり、リトマス試験紙の例が分り易いであろう。

 そこで、Ph濃度の方式を、便宜的に、活用する方法も可能である。

 凸i方向を酸性、凹i方向をアルカリ性と見做して、

 ガガの写真はPh3、一方、マニ教はPh12のような指標例である。中性、つまり、精神性ゼロはPh7である。

 マニ教の表現に従うと、「肉体の中に光の粒が単位面積当たりに大量に含まれている」場合、肉体の中の光の粒は「内なる光の粒」であるから、虚数濃度はマ イナス70%とか、精神Ph濃度は強アルカリ性で12(Ph12)のような表現方法になる。また、ガガの写真は、強酸性でPh3というような使用例であ る。
海舌 SeaTongue@Kaisetsu





ケルト・アジア母権・母系的大文化圏とシュメール民族・文化
テーマ:manichaeism: 哲学
Kaisetsu氏による、私論の心強い傍証というか、発展的見解である。
 また、シュメール神話(宗教)の最高神はアンAnuであり、天の神である。しかし、女神はイナンナinannaである。
 どうも、Anuにしろ、inannaにしろ、ANが共通である。これは、DANUと通ずるのはないだろうか。そう、ケルト民族の大女神ダヌと通じるように推測される。
 そう作業仮説すると、このケルト・アジア圏にシュメールも入ることになる。
 ところで、シュメールの最高神の天空神のアンであるが、これは、どうも、男性神ではなく、女神ではないだろうか。これは課題としたい。

追記:以下、参考1に次のように述べられている。

「人類最古の文明の担い手はシュメール人
最初にこの地に栄えたのは母系社会のシュメール人、・・・
シュメール初期王朝時代
雄牛の角を持つ王冠はアヌを表している。
シュメール神話。ウルとハランを中心に崇拝。三日月を武器とし、満月を王冠とする。邪な者達の悪事を、その光によって暴くとされている。

・・・

にヤーウェの原点はシュメール神話の中でも最も
古い神に属する、雄牛の角の王冠をかぶったアヌ(アン)神という線が妥当だという事になるだろう。 」

とりわけ、「雄牛の角を持つ王冠はアヌを表している。」が意味深長である。牡牛の王冠は太陽神であろう。それが、アヌであろう。しかしながら、牡牛こそ、根源の大女神である。それが、王冠=アヌ=太陽神を産むと考えられる。先に、シュメールのテラコッタ「月の牡牛とライオン鳥」を指摘したが、王冠=ライオン鳥になるだろう。
 やはり、シュメールはケルト・アジア母権・母系大文化圏の源泉のように思える。すると、シュメール・ケルト・アジア母権・母系大文化圏が存したということになる。

参照:

DANU 神は、「ケルト(欧州)、タミール(南インド)、ケダ・ペラク、沖縄、任那・日本府、坊津、奈良、伊勢、常陸」を結ぶ。
DANU 神は、「ケルト(欧州)、タミール(南インド)、ケダ・ペラク、沖縄、任那・日本府、坊津、奈良、伊勢、常陸」を結ぶ。
DANU 神は、「ケルト(欧州)、タミール(南インド)、ケダ・ペラク、沖縄、任那・日本府、坊津、奈良、伊勢、常陸」を結ぶ。

Resurrection氏が以前から提示されておられるケルト民族と 古事記などの倭人の民族伝承が似ていることについて、最近の海舌の沖縄の歴史や任那・日本府の研究によって、また、DANU 神について、これもResurrection氏のヒントに導かれたものであるが、DANU 神が「ケルト(欧州)、タミール(南インド)、ケダ・ペラク、沖縄、任那・日本府、坊津、奈良、伊勢、常陸」を結ぶ共通の母神である可能性が非常に高いと いう結論を海舌も提示したい。

ケルト民族の崇高な母神であるDeua Brigantiaの姓は、「Deua」である。

原型は太陽神であった、と思われる。

http://blog.kaisetsu.org/?eid=813407
海舌 SeaTongue@Kaisetsu

参考:

http://yamataitenku.progoo.com/bbs/yamataitenku_topic_pr_12.html のキャッシュ
邪馬台国天空掲示板


[12] シュメールの最高神アンの娘イシュタル Name:児島歴研会 2008/11/03(月) 18:49 [ 返信 ]

シュメールの最高神アンの娘イシュタルですが、2匹の獅子をしたがえて、2羽の
鳥(フクロウ)を従え、王冠を被り羽を付け神紋を持っています。

一般に「イシュタル」という名前で知られている太古の女神は元々のシュメールの地
では「イナンナ」と呼ばれていました。

このイシュタルは金星の女神である。
古文書でイシュタルについて語られているものは主として二つあります。一つ
が「イシュタルの冥界下り」と呼ばれているもので、もう一つが「ギルガメッ
シュ叙事詩」です。
イシュタルは巨大な牡牛を送りギルガ
メッシュ王を殺そうとしました。この牡牛は天の牡牛座を降ろしたものだと言
われています。
金星と牡牛座の関係
イシュタルは冥界に行かなければならないと考えた」という文章でこの物語は始まります。

第2の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの耳飾りをここでお預かりしま
す」といいます。そこでイシュタルは耳飾りを渡しました。

やがて第3の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの首環をここでお預かりします」
といいます。そこでイシュタルは首環を渡しました。

やがて第4の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの胸飾りをここでお預かりしま
す」といいます。そこでイシュタルは胸飾りを渡しました。

やがて第5の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの腰帯をここでお預かりします」
といいます。そこでイシュタルは腰帯を渡しました。

やがて第6の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの腕環と足環をここでお預かり
します」といいます。そこでイシュタルは腕環と足環を渡しました。

やがて第7の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの腰布をここでお預かりします」
といいます。そこでイシュタルは腰布を渡しました。

・・・

こまった天神エアは月の神シンと相談し、宦官アスシュルナミルを冥界に派遣
してエレキシュガルを説得、彼女はしぶしぶ生命の水をイシュタルにふりかけ
て蘇生させますが、彼女を地上に戻す代わりに誰か代わりの者を冥界に連れて
来るように、と要求し、認められます。

そこで冥界の侍従が地上に出て代わりの者を物色していたところ、イシュタル
の夫のドゥムジが妻が死んだというのに喪にも服さず遊びほうけているのを見
つけます。けしからん奴だというわけで、ドゥムジをイシュタルの身代わりに
冥界に捕らえておくことにし、イシュタルは解放されます。

・・・

イシュタルが地上に戻ると再び人間や動物は愛し合って子供を産むようになり、
植物も実をつけるようになりました。
性器を要求するというのはこの神が豊饒の神の要素を持っているということを示している。


[13] RE:シュメールの最高神アンの娘イシュタル Name:児島歴研会
2008/11/03(月) 19:05

河の神、女性. 父:? 母:? 豊穣、安産の女神でもあり、 百の星で飾られた王冠と
四角い金の髪飾りを付けている。

人類最古の文明の担い手はシュメール人
最初にこの地に栄えたのは母系社会のシュメール人、そこにやってきたのが野蛮な遊牧民のアッカド人(白人類)

シュメール初期王朝時代
雄牛の角を持つ王冠はアヌを表している。
シュメール神話。ウルとハランを中心に崇拝。三日月を武器とし、満月を王冠とする。邪な者達の悪事を、その光によって暴くとされている。

山羊は性的な多産のシンボルであった王冠の印にも使われ、国王を象徴する樹木とされています。

にヤーウェの原点はシュメール神話の中でも最も
古い神に属する、雄牛の角の王冠をかぶったアヌ(アン)神という線が妥当だという事になるだろう。


「世界ビール大百科」{シュメール・ビール}) などの形で言葉が残されている。 最初ビール造りは家庭内での女性の仕事

シュメール文明においては、シカル(ビール一般)、ビーカル(強いビール)、カッシ(黒いビール)、カッサグ(上等の黒いビール)、カッサガサーン(最上のビール)、カッシグ(赤いビール)などの名称があった。

シュメール天空の王鷲 太陽は偉大なる天空の王 ヨーロッパでは権力の象徴とされる
天の川。 仏項天空の王が金輪である。

ギルガメシュ (イラク・メソポタミア) シュメール,バビロニアの英雄神。 頭部に王冠をかざす。
牡山羊 シュメール初期王朝時代 前2600年頃 ウル出土 」「彩色土器の皿 ハラフ期 前4400年頃 アルパチャ(イラク)出土国立イラク博物館蔵」 32花弁。



[14] RE:シュメールの最高神アンの娘イシュタル Name:児島歴研会 2008/11/03(月) 19:20

シュメールはウルクの女神イナンナ
イナンナ神。別名「天の貴婦人」。
牛角付きの冠
像や絵を「女性」と判断するか「女神」と判断するか?
牛角付きの冠をつけているものは「神様」ということになる。

古代メソポタミアの都市国家シュメールで発明された戦車。四輪で車輪に輻がなく、ろばが牽く車体に乗った御者が女神と並んで座り、王冠を戴いている。

シュメール人による文明が誕生し、都市国家というものが初めて建設された。

多産系の安産タイプの女性はこのオキシトシンがわずかしか検出されない。すなわち前世の記憶を持った子が生まれる可能性高い。前世の記憶を持つ子供の分布は圧倒的に東南アジア、インド、中国、いわゆる多産系の民族に多い。

シュメールにおいては、月を司るとともに大地と大気の神として信仰されていた。
シュメール人の女性のように、口腔性交、または肛門性交を行うとき(男性優位の正常値。
シュメール人に文明を授けたオアネスである。このオアネスは魚の頭の下に
人間の頭があり、尾ヒレのある当たりに人間の脚が生えている。

「ギルガメシュ叙事詩」は、シュメールの王(スメラのミコト)として存在した。

シュメールのイナンナ、時には男装(武装)をして闘う女神の姿もある
これは相対している。

シュメールの文字および漢字は現在. 私達が使う 言語の起源といえる。
シュメール(メソポタミア(現在のイラク)南部を占めるバビロニアの南半分の地域)




参考2:
Sumerian religion - Wikipedia, the free encycloped
The Pantheon/the Annunaki
The majority of Sumerian deities belonged to a classification called the Anunna (“[offspring] of An ”), whereas seven deities, including Enlil and Inanna, belonged to a group of “underworld judges" known as the Anunnaki (“[offspring] of An” + Ki ).[citation needed ] During the Third Dynasty of Ur , the Sumerian pantheon was said to include sixty times sixty (3600) deities.[8]
The main Sumerian deities are as follows:
• Anu : God of heaven/the firmament .
• Enlil : God of the air (from Lil = Air); patron deity of Nippur .
• Enki : God of freshwater, male fertility, and knowledge; patron deity of Eridu .
• Inanna : Goddess of sexual love, female fertility and warfare; matron deity of Uruk .
• Ninhursag : Goddess of the earth.[9]
• Nanna , God of the moon; one of the patron deities of Ur .[10]
• Ningal : Wife of Nanna.[11]
• Ninlil : An air goddess and wife of Enlil; one of the matron deities of Nippur ; she was believed to reside in the same temple as Enlil.[12]
• Ninurta : God of war, agriculture, one of the Sumerian wind gods; patron deity of Girsu and one of the patron deities of Lagash .
• Utu : God of the sun at the E'barbara temple[13] of Sippar .

参考3:
Anann



Paps of Anu ; the western Pap from the eastern Pap
In Irish mythology , Anann (Anu, Ana, Anand) was a goddess . 'Anann' is identified as the personal name of the Morrígan in many MSS of Lebor Gabála Érenn . With Badb and Macha , she is sometimes part of a triple goddess or a triad of war goddesses .[1] As such, she may be a Celtic personification of death , and is depicted as predicting death in battle. As a goddess of cattle , she is responsible for culling the weak. She is therefore often referred to as "Gentle Annie", in an effort to avoid offense, a tactic which is similar to referring to the fairies as "The Good People".[2]
She may be identical with Danu or Aine .[citation needed ] She was a goddess of fertility , cattle, and prosperity, and was known for comforting and teaching the dying. Fires were lit for her during Midsummer .[citation needed ]

[edit ] Etymology
This name may be derived the Proto-Celtic theonym *Φanon-.[3]
[edit ] Paps of Anu
Anann has particular associations with Munster : the twin hills known as the Paps of Anu (Dá Chích Anann or the breasts of Anu), at 52°00′55″N 9°16′09″W , near Killarney ,[4] County Kerry are said to have been named after this ancient goddess.[1]

http://en.wikipedia.org/wiki/Anann

参考4:

ダヌ
ダヌまたはダナ (Danu/Dana)(またはアヌ またはアナ、(Anu/Ana ))は、アイルランド神話(ケルト神話 )に登場するトゥアハ・デ・ダナーン (ダーナ神族)の母であり、また生命の母神 ともされる。しかし、神話上には僅かにしかみられない。
ダヌのウェールズ語 (Welsh) の同意義語はドーン (Dôn)。 ブリギッド やアヌ とも同一視される。
ダグダ 、ディアン・ケヒト 、リル 、ゴブニュ 、ヌアダ の母でもある。
ダヌの認知の古さ [編集 ]
ドナウ川 (Danube) (ラテン語 :Danuvius)、ドニエストル川 (Doniester) 、ドニエプル川 (Dniepr) 、ドン川 (Don) のような地名の形跡を根拠として、ダヌは恐らくケルト全域で崇拝されていた。実際のところ、インド神話 に登場するダヌ (Danu )という名前を持つ女神が、水およびダナヴァス (Danavas ) という名の阿修羅 (アシュラ)の一族の母に関係していることが、この女神が非常に古い時代のインド・ヨーロッパ系神話 の起源をもつことを示しているとされている。
また、「dhanu」の名は「swift(迅速さ)」という意味を元来持つと見られる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8C

参考5:
12.シュメール民族の謎
メソポタミア地方に最古の都市文明を築いたシュメール民族は、突然この地方に都市文明を築いた。かれらは、自らを「黒い頭」と呼び、海からやってきたといっていた。イラクの高原からやってきたという説もある。それ以上はさかのぼることはできない。
  ここから話は飛躍する。
  高楠順次郎は仏典の研究から、メソポタミアのシュメール民族と、インド文明を築いたアーリア民族、あるいはポリネシア、メラネシア、マレーシアのマラ イ族、インドネシア太平洋海洋民族のルーツはただ一つ、中央アジアのコンロンの大平原のコタン文明を築いたシュメール族にあるとした。
  また、釈迦の出自も「世界最の知識民族であったシュメール族」王家の子孫であるとした。先祖に須彌(スメル)王が居たとして、仏典「仏本行集経」から系図も示している。
  また、伊勢などにつたわる「蘇民将来之子孫也」の護符をもたらしたのは、弓月の君に率いられてコタンから日本に移住した秦氏で、蘇民はシュメールのこ とであるとのことである。つまり、シュメール民族の流れは、秦氏として日本にも移住してきているとの説を唱えている。最近でも高楠順次郎の説を、岩田明、 太田龍、中丸薫などのシュメール民族中央アジア起源説の根拠としているようである。


  高楠順次郎など説にしたがえば、中央アジアのコンロン山脈の麓であるホー タンのあたりにいた世界最高の知識民族であったシュメール民族は、人口増加、天変地異や気候変動をうけて、各地に移住して文明を起こしていった。西にいっ てシュメール人となりメソポタミア文明を起こした。南下して、アーリア民族としてインド文明を起こした。また、海洋民族として東南アジアからポリネシア、 ミクロネシアの海洋文明をおこした。

http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/episode12.html








D. H. ロレンスの言語芸術speech artの存在的想像力について
テーマ:literature

狐・大尉の人形・てんとう虫/D.H. ロレンス

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死んだ男・てんたう虫 (1957年) (新潮文庫)/ローレンス

¥価格不明
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以下に付録として、福田恒存の『死んだ男』の名訳がある。本体はドゥルーズ夫妻によるロレンスの『黙示録論』の評論であるが、確かに啓発的な読みではあるが、PS理論からでないと本質は捉えられないと言えよう。
情動の思考―ロレンス『アポカリプス』を読む (ポストモダン叢書)/ファニー ドゥルーズ

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D. H. ロレンス文学・哲学の文学、というか、言語芸術(ロレンス自身はspeech artと呼んでいた。確かに、彼の文学は口語、話し言葉主導であり、また、映像性、視覚性が強いので、そう呼ぶのは適切である)の存在的喚起力は、他の作 家には見られないものである。映画的とも言えるのが、映画を見ているときの想像力に近い。だから、映画的というよりは、やはり、存在喚起的想像力的という 言うべきであろう。
 これについてPS理論から解明したい。今は予見だけを簡単に述べる。
 それは、media pointの光の共振エネルギーをロレンスは表現しているのである。そのために、読者は深く存在的に表象を形成するのである。
 言い換えると、第三象限からの光(dark sun, dark ray)の差異共振エネルギーから第二象限を形成するのである。つまり、感覚的表象世界を形成するのである。
 同時にロレンスは第三象限の直観知を作品に表現するのである。哲学的なのである。
 そう、光のエネルギー的表象と直観的知(グノーシス)において、ロレンスは第三象限を源泉にしていると考えられるのである。
 今はざっと以上で留める。
The Fox; The Captain’s Doll; The Ladybird: Camb.../D. H. Lawrence

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デーヴィッド・ハーバート・ローレンス - Wikipedia
デーヴィッド・ハーバート・ローレンス
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デーヴィッド・ハーバート・ローレンス

21歳の頃 (1906年)
誕生 1885年 9月11日
イギリス
ノッティンガムシャー 、イーストウッド
死没 1930年 3月2日 (44歳)
フランス
ヴェンス
職業 小説家
活動期間 1907年–1930年
ジャンル モダニズム
主題 性愛、社会、旅行小説、文学批評
代表作 小説: 白孔雀
短編: 菊の香り
戯曲: ホルロイド夫人
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デーヴィッド・ハーバート・ローレンス(David Herbert Richards Lawrence、1885年 9月11日 - 1930年 3月2日 )は、イギリス ノッティンガムシャー出身の小説家 ・詩人 。
1908年 ノッティンガム大学を卒業した後、小学校 の教員 となり、1911年 に小説 を出している。1912年 から1914年 にかけてドイツ に渡り、1914年 イギリスに帰国後結婚した。『息子と恋人』(1913年)、『虹』(1915年)、『チャタレー夫人の恋人 』(1928年)など人間の性と恋愛に関する小説を発表したが、発禁処分を受けたものもある。
ローレンスの作品は性を大胆に描写し、また、近代文明が人間生活にもたらす悪影響を主題としているものが多い[1] 。易しくぶっきらぼうな言葉で書かれているのが特徴である[2] 。
日本では第一次世界大戦 後の1920年代 頃に注目されはじめ、ローレンスが死んだ1930年代 には阿部知二 、伊藤整 、西脇順三郎 らによって広く紹介されるようになった[1] 。また、第二次世界大戦後には伊藤整が訳したローレンスの作品『チャタレイ夫人の恋人 』がわいせつだとして罪を問われたチャタレー事件 が発生している。

・・・・・

外部リンク [編集 ]


英語版ウィキソースにデーヴィッド・ハーバート・ローレンス 著の原文があります。

ウィキクォートにデーヴィッド・ハーバート・ローレンス に関する引用句集があります。
伝記 [編集 ]
• Biography from the Literary Encyclopedia
• Detailed biography, chronology and other resources at The University of Nottingham
• Audio interview with Mark Kincaid-Weekes, concentrating on the middle years of Lawrence's life
• Fyne Times Gay Great - DH Lawrence
作品 [編集 ]
• プロジェクト・グーテンベルク におけるデーヴィッド・ハーバート・ローレンスの作品
• Works by D H Lawrence at Project Gutenberg Australia
• Online editions of works , from eBooks@Adelaide
• D. H. Lawrence: Poems
• With the Guns, Lawrence's journalistic, and eerily prophetic, response to the start of the Great War
• Poetry Archive: 150 poems of D. H. Lawrence
• "The Deep End," a biographical essay by en:Benjamin Kunkel in en:The New Yorker
評論 [編集 ]
• "The Hostile Sun: The Poetry of D. H. Lawrence" by en:Joyce Carol Oates (1974)
• "Lawrence's Götterdämmerung: The Apocalyptic Vision of Women in Love" by Joyce Carol Oates (1978)
• "The Internal Travel Towards Jouissance" by Juliette Feyel
• "St Mawr: The Monk and the Beast" and "The Ending of Sons and Lovers" by Keith Sagar.
• The Prussian Officer and Other Stories 謎解きの魅力を持つ永遠の問題作 (宮脇孝雄 )
その他 [編集 ]
• D. H. Lawrence Museum and Heritage
• Illustrated history of Lawrence's life and death
• Frieda Lawrence Collection
• The paintings of D. H. Lawrence
• Online exhibition, 'A Literary Legacy: D H Lawrence at the University of Nottingham'
• D. H. Lawrence information and events website, endorsed by the University of Nottingham'
• Review of Michael Black's Lawrence's England: Thomas L. Jeffers, “Lawrence’s Major Phase,” Yale Review 90 (Summer 2002), 148-58.
• Review of John Worthen's biography of D. H. Lawrence, The Oxonian Review of Books
• "Mythic Patterns in 'The Plumed Serpent'" http://litscholar.net/plumed%20serpent/ThePlumedSerpent.htm
• "Memoirs of the Foreign Legion" http://gutenberg.net.au/ebooks03/0300711.txt
• Who’s Who in Gay and Lesbian History from Antiquity to World War II, Routledge; London, (2002), ISBN 0-415-15983-0



2012年01月18日(Wed)▲ページの先頭へ
光とは何か:虚MPの光(超越光、マニ教の光)、空孔(⇒)の光、実MPの光(現象光)
註:人間認識図の画像付きは以下を見られたい。
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1783.html

光とは何か:虚MPの光(超越光、マニ教の光)、空孔(⇒)の光、実MPの光(現象光)

テーマ:media point

これは再確認ないしは再考である。
 先に、量子論は、media pointの実軸点で精神子を捉えていて、光は超越光=超光であると述べた(仮説)。(PS理論とシュタイナー霊学:量子力学と精神子力学:超量子力学としてのPS理論 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11138777900.html)
 ならば、それは肉眼の光とは異なるので、後者を説明する必要がある。
 結局、media pointの虚軸点(MP1ないしImaginary MP=IMP=虚MP:以下、虚MPとする。尚、MP2=Real MP=RMPは実MPと表記する。)で発生しているのが、超越光=超光としての光であり、これが、マニ教等の光と考えられる。(もっとも、精緻に言うと少 し異なるが、今はそのままにしておく。)
虚MPの光が言わば、下降して、実MPへと到達して、そこで、現象の光が発生するというように思われる。そして、実MPからさらに展開して、物質凸(+1)へと帰結するということになる。
 そうすると、虚MPの光と実MPの光の間にもう一つの光が考えられる。それが、いわば、滝、瀑布のような光である。あるいは、即非様態の光である。これを空孔Vacuumの光と呼んでおきたい。
 思うに、量子力学で捉えている光がこの空孔の光ではないだろうか。また、凸i*凹i⇒凸の⇒がこの空孔の光ではないだろうか(作業仮説)。(そして、⇒ の領域を空孔MPとも呼びたい。)ならば、左辺が虚MPを指していると見ていいだろう。そして、⇒の先端が実MPとなるだろう。
 ところで、凸iも光であるが、それはこの図式において、どうなるのか。
 以前、凸iを原光と呼んだが、一応、そう捉えていていいのではないだろうか。原光凸iと原闇凹iとの差異共振が超越光=超光としての光(マニ教の光)を産み出すのである。
 残った問題は、相対性理論と量子力学との関係の問題である。アインシュタインの捉えた光は実MPの光なのか。それとも、空孔の光なのか。光速度一定の光 は前者を指しているように思える。それは物質界を前提にしているからである。そして、量子力学は当然、後者を問題にしていることになる。
 そして、空孔の光、あるいは、⇒の光とは、絶対的矛盾を呈しているのである。精神子(超越光)であり、物質的光(現象光)であるという矛盾である。そう、この点を実を言い方で既述したが、今日の量子論は解明できていないと考えられるのである。
 有り体に言えば、精神子は無限大の速度であり、超光速である。しかしながら、それは、物質界の基準に拠ればのことではあるが。精神界においては、当然、 もはや、物質界の基準は適用不可能である。(精神界は超時間的な、ないし、観念同時の世界であるから、所謂、速度は問題にならないだろう。しかし、違う概 念がありそうではある。それは課題である。)
 ニュートリノが超光速という結果(まだ、観測問題があるが)は、この点に関係していよう。つまり、精神界の要素が物質問題に入ってしまっている為に、問題化してしまっていると考えられるのである。
 ここで今や大問題の放射性物質について簡単に触れると、それは、当然、実MPの現象と考えられる。つまり、物質的光に関係すると考えられる。つまり、端 的に言えば、原子とは実MP事象を意味していると考えられる。そう、電磁波とは正に、実MP事象であると考えられるのである。この問題はここで留めてお く。
 さて、この視点から、氣の問題を考えたい。これまで、氣を差異共振事象と捉えてきた。そうすると、虚MPの事象となる。しかし、それで本当に正しいのか。
 思うに、おそらく、それでいいのである。(上記、保留にしておいたが、人間の精神、認識、意識は、凸iの極限点【アーリマン】と凹iの極限点【ルシファー】の極性に関係している。これは、シュタイナー霊学のPS理論的解明である。)
 だから、氣は精神子であるということである。そして、それが、宇宙・自然的身体bodyをVector Modeとして形成しているのである。
 以上の考察から量子力学、ないし、素粒子論を考えると、それは、虚MPと実MPの混同があることは明らかである。
 問題は原子は実MP事象であるが、いわゆる、量子は空孔の光、⇒の光の事象であり、この点においても混同があると言えよう。
 また、帰結的に、量子論は虚MPと空孔MPと実MPの三者を混同していると考えられる。
 思うに、この三者を人間認識図に当てはめると、虚MPは第三象限、空孔MPは第二象限、実MPは第一象限に帰属するのではないだろうか。(凸、物質はあえて言えば、第四象限に帰属していると言えよう。)
 こう見ると、Kaisetsu氏が芸術を第二象限に定置していることが明瞭になる。それは、精神と物質の中間領域なのである。
 しかしながら、芸術、深淵な芸術は、精神子を表現しているのであり、その点では、第三象限を志向していることになるのである。その意味では、芸術はmedia pointから凹への線分領域に属すると言えるかもしれない。
 後でさらに検討したい。




PS理論とシュタイナー霊学:量子力学と精神子力学:超量子力学としてのPS理論

テーマ:manichaeism: 哲学

これについては、以前比較論を行った。そして、今でもそれはほぼ有効だと思う。
 ただし、直観的になにか重要な点で異なると感じるので、それを簡単に記したい。
 端的に言えば、後者は直観学であり、近代科学を批判していることである。言い換えると、シュタイナーにとって科学とは、近代科学=物質科学であり、量子力学を知らなかったので、量子論と直観がPS理論におけるように相関することを知らなかったと言えよう。
 シュタイナー霊学にとり、修行は基本的実践項目であるが、PS理論は修行を説かないのである。
 だから、後者はよりグノーシス(霊知)的と言えよう。もっとも、修行に私見では意味を認めないわけではない。
 ところで、今の時点で問題に思える点を述べたい。それは、精神と「量子」の問題である。
 私は精神振動と「量子」とを同一的に先には捉えた。つまり、高振動が精神的で、低振動が物質的と捉えた。
 しかし、これでは単に量的ではないかという直観があるので、問題に思うのである。
 もっとも、私は精神振動は倍音的ではないかとも感じているのである。例えば、太陽光は、物質光にはない倍音的振動をもっているのではないか思ってみるのである。
 しかし、それでもやはり、量的ではないだろうかという疑問がある。
 今、思い浮かべたのは、以前述べた区別である。即ち、いわゆる、量子とは、media pointの実軸で捉えられた「精神子」であり、「精神子」が虚軸に存するものであるということである。だから、太陽の光とは本来は「精神子」であり、そ れが、現象界においては、 実軸的「精神子」になっているというように思われる。
 そして、「精神子」とは本来、第三象限に属するものであり、差異共振状態である。
 どうもこの説明の方が高振動と低振動の区別よりいいと思われる。
 つまり、量子力学とは、根本的には、精神子力学であるが、現段階では、精神子の実軸的観測を理論化しているということになるのである。
 そして、だから、ニュートリノが超光速ということになるのである。
 しかし、精神子=「光(超越光=超光)」は物質的には無限速(「観念的同時」)であると考えられる。
 ということで、以前の考えにもどったことになる。だから、いわゆる、量子とは精神子をmedia pointの実軸、MP2で観測したものということである。量子論は半精神半物質科学であるということである。
 だから、PS理論こそ、トランス量子論、精神子力学と考えられるのである。それは、また、トランス霊学とも言えそうである。
 そして、鈴木大拙の即非の論理は精神子の論理であるし、D. H. ロレンスの文学・哲学は精神子の文学・哲学であるし、モーツァルトの音楽は精神子の音楽であると言える。
 ならば、PS理論は以前述べたように超量子力学である。



2012年01月09日(Mon)▲ページの先頭へ
仮説:古代世界海洋の道:ケルト、タミール、東南アジア、琉球・沖縄
仮説:古代世界海洋の道:ケルト、タミール、東南アジア、琉球・沖縄
テーマ:history
Kaisetsu氏の、管見では、定説を覆す、日本古代史、沖縄論が継続されているが、とりわけ、以下は私見からは興味深い。
 即ち、古代の倭国連合の貿易範囲が東南アジアの海洋に及ぶことであり、また、タミール文化とのそれとの関係である。
 私が折口信夫の『古代研究』において、琉球の宗教がケルト神話に酷似したことに驚愕したことは既述した。
 ではどうして、二つは繋がったのか不明であったが、作業仮説的に、ケルト文化がインドまで伝わったことから、そこから何らかの接点があると考えていたのである。
 つまり、アナAna(ダナ)という女神がケルト神話にあるが、これは、ヒマラヤのアンナ・プルナのアンナに通じているのである。
 しかしながら、Kaisetsu氏のタミール文化との海洋貿易における融合を考えると、ケルトと琉球・沖縄が結びつくのは、現実的になるのである。
 また、思いつきであるが、Mimanaであるが、これは、
Mim+Ana、ないし、Min+Anaである。
 Mim、又は、Minを明とすると、明アナである。明はマニ教に通じる。日と月で、陰陽である。
 そうすると、任那はマニ教の女神に関係するかもしれない。マニ教の女神はどうやら、大女神、根元の女神である。そう、母権神である。
 以下、マニ教絵画(参照3)の女神がダエーナー女神ではないかという報告があるが、ダエーナーとダヌ(アヌ)は、音声的に近いだろう。(追記:ダヌはダナ、ダーナでもあるから、これで説得力が増すだろう。)
 興味は尽きないが、今はここで留める。


資料:

古代、倭国連合の最盛期の貿易範囲は、The Manila Galleonによって推測するべきだ。

古代の倭国連合には、フィリピン諸島やインドネシア諸島なども含まれていたと思われる。魏志倭人伝の記述も、このような前提で解釈するべきだ。

 次は、The Manila Galleon(1565年から19世紀初頭まで存在した)の貿易ルートであるが、

800px-16th_century_Portuguese_Spanish_trade_routes posted by (C)天花一海

 このManila Galleonは、古代から存在する、安全に航海できる海の道なのである。暗天時の帰航、水と食料の補給などを適時行えるノウハウが有れば、古代においても十分に交易ルートとして活用できたのである。

 倭国連合の主たる活動範囲は、日本列島、朝鮮半島、中国大陸沿岸部、東シナ海だけではなく、南シナ海も主たる貿易活動範囲と考えるべきであろう。

http://blog.kaisetsu.org/?eid=813387



任那を「Ni-Ma-Ra」「Ni-Ma-La」(Tamil:Nimalam)と読むべきこと及びマニ教との関連についての補強資料と大野晋先生の倭語クレオールタミル語説への支持

一般に日本語、ここでは白村江の敗戦前までの倭国連合の言語という意味で、倭語という名称を用いるが、この倭語とタミール語との関係は顕著な同質性を持つのである。

 さらに、弥生時代以降の文化的特徴も5世紀までの倭国連合時代とタミール文化は顕著な同質性を持つのである。

 さらに、この同質性が相互貿易共生システムによって成立していたことは次から容易に推測できる。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=813391
海舌 SeaTongue@Kaisetsu

参照:
ダヌ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索
ダヌまたはダナ (Danu/Dana)(またはアヌ またはアナ、(Anu/Ana ))は、アイルランド神話(ケルト神話 )に登場するトゥアハ・デ・ダナーン (ダーナ神族)の母であり、また生命の母神 ともされる。しかし、神話上には僅かにしかみられない。
ダヌのウェールズ語 (Welsh) の同意義語はドーン (Dôn)。 ブリギッド やアヌ とも同一視される。
ダグダ 、ディアン・ケヒト 、リル 、ゴブニュ 、ヌアダ の母でもある。
ダヌの認知の古さ [編集 ]
ドナウ川 (Danube) (ラテン語 :Danuvius)、ドニエストル川 (Doniester) 、ドニエプル川 (Dniepr) 、ドン川 (Don) のような地名の形跡を根拠として、ダヌは恐らくケルト全域で崇拝されていた。実際のところ、インド神話 に登場するダヌ (Danu )という名前を持つ女神が、水およびダナヴァス (Danavas ) という名の阿修羅 (アシュラ)の一族の母に関係していることが、この女神が非常に古い時代のインド・ヨーロッパ系神話 の起源をもつことを示しているとされている。
また、「dhanu」の名は「swift(迅速さ)」という意味を元来持つと見られる。

Danu (Irish goddess)
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In Irish mythology , Danu ([ˈdanu] ; modern Irish Dana [ˈd̪ˠanˠə] ) is the mother goddess of the Tuatha Dé Danann (Old Irish: "The peoples of the goddess Danu"). Though primarily seen as an ancestral figure, some Victorian sources also associate her with the land.[1]
Name
The theonym is of Proto-Indo-European age, and seems to have denoted a water goddess in origin. A goddess Dānu is attested in the Rigveda , and also the river names Danube (Latin : Danuvius), Dniestr , Dniepr and Don derive from the name.
The Rigvedic Danu was the mother of a race of Asuras called the Danavas . A shortened form of the name appears to have been Dā. This form survives in Greek Damater (Demeter, "mother Da"), in origin also a water goddess.[citation needed ] The Proto-Indo-European *dānu probably meant "fluvial water, running water",
The genitive form of Old Irish Danu is Danann, and the dative Danainn. Irish Danu is not identical with Vedic Dānu but rather descends from a Proto-Celtic *Danona, which may contain the suffix -on- also found in other theonyms such as Matrona, Maqonos/Maponos and Catona.[2] [3]
[edit ] In mythology
As the mother of the gods, Danu has strong parallels with the Welsh literary figure (or goddess) Dôn , who is the mother figure of the medieval tales in the Mabinogion .
Danu was considered as the mythic mother goddess of the Tuatha Dé Danann, the Celtic tribes that first invaded Ireland. The Celts , also on the continent, had several goddesses, also of war. "Apart from these goddesses of war, there were other Amazonian figures who led armies into battle. Often they were also endowed with legendary sexual prowess..."[4] "The Celts included the cult of the mother goddess in their rites, as archeological evidence testifies. Indeed, the Tuatha Dé were the descendants of the goddess Danu, and in some local instances, the ruler of the otherworld was a goddess, rather than a god, just as some folktales represented the otherworld as 'the Land of Women'. Danu may be connected with Bridget [clarification needed ], daughter of Kildare and of learning, culture and skills. She was known as Brigantia in northern England, and survived as St Bride in Christianity"[5]
[edit ] References
Constructs such as ibid. , loc. cit. and idem are discouraged by Wikipedia's style guide for footnotes, as they are easily broken. Please improve this article by replacing them with named references (quick guide ), or an abbreviated title. (October 2010)
1. ^ Squire, Charles Celtic Myth and Legend , p. 34: "Danu herself probably represented the earth and its fruitfulness, and one might compare her with the Greek Demeter. All the other gods are, at least by title, her children."
2. ^ Köbler, Gerhard, (2000). Indogermanisches Wörterbuch, (3rd Edition): p.181. Available at: [1]
3. ^ Julius Pokorny ’s Indogermanisches etymologisches Wörterbuch . Entry 313. Available at: [2]
4. ^ Veronica Ions 1974, 2005: The World's mythology in Colour, Bounty Books, London ISBN 978075371130 p. 150
5. ^ Ibid.

Danu (Asura)
From Wikipedia, the free encyclopedia
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Dānu, a Hindu primordial goddess, is mentioned in the Rigveda , mother of the Danavas . The word Danu described the primeval waters which this deity perhaps embodied. In the Rigveda (I.32.9), she is identified as the mother of Vrtra , the demonic serpent slain by Indra [1] . In later Hinduism, she becomes the daughter of Daksha and the consort of Kasyapa .
As a word for "rain" or "liquid", dānu is compared to Avestan dānu "river", and further to river names like Don , Danube , Dneiper , Dniestr , etc. There is also a Danu river in Nepal. The "liquid" word is mostly neuter, but appears as feminine in RV 1 .54.
As a Hindu goddess, Dānu has 2 temples in Bali , Indonesia : Pura Ulun Danu Temple on Lake Bratan, Bali and Ulun Danu Batur, near Penelokan.
[edit ] See also
o Danu (Irish goddess) , an Irish water goddess with many similar characteristics
o Rigvedic rivers
o Old European hydronymy
o Kamadhenu
[edit ] References
1. ^ Kinsley, David (1987, reprint 2005). Hindu Goddesses: Visions of the Divine Feminine in the Hindu Religious Tradition, Delhi: Motilal Banarsidass, ISBN 81-208-0394-9 , p.16

参照2:
中国におけるマニ教

続々と「発見」されるマニ教徒の村々
ところで、21世紀に入り中国の学者たちが本格的に調査に乗り出すと、福建省の各地でマニ教の神々を祀った廟や、摩尼光仏を信仰する村 が次々と発見されている。
例えば草庵に近い蘇内村にある境主宮という廟では、摩尼光仏に加えて明使(ミフルヤズド?)と霊相(イエス?)というマニ教の神が、観 音菩薩や福徳正神など仏教や道教の神々と並んで祀られ、村の人々が日常的にお線香を上げにやって来る。また村には木彫りの摩尼光仏像があり、「清浄光明  大力智慧 無上至真 摩尼光仏」という16文字を唱えながら手で印を結ぶ魔 除けの真言も伝わっていて(※)、2005年にやって来たイギリスやオーストラ リアの調査団が、「21世紀に現存するマニ教信仰」だとお墨 付きを与えることになった。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/yomimono/mani.html
どっこい生きてた中国のマニ教

文:吉田一郎(ヤジ研)

参照3:注:赤文字、下線強調はResurrectionによる。
2010年度 第2回 国内シンポジウム「中央アジアにおける仏教と異宗教の交流」

 吉田豊氏は,「マニ教絵画の世界」と題して,昨年初めて発表されたマニ教「宇宙図」を含む,日本に所蔵されるマニ教絵画とその重要性について報告した。 これまで「六道図」の1種と考えられていた大和文華館所蔵の絹絵が,実はマニ教の個人の終末論を描いた画であることが,報告者によって明らかにされたこと を契機に,栖雲寺蔵マニ教のイエス像に加え,日本で個人蔵を含め7点のマニ教画が新たに見つかった。その全てが元朝期ないし,その前後する時期に寧波を中 心とする中国江南地方で制作されたものと考えられる。この地域にマニ教徒が存在していたことは,マルコ・ポーロの『東方見聞録』や中国の編纂史料から知ら れている。吉田氏は,これらの絵画資料を現存するマニ教経典に記述される世界と比較して,絵画に描かれた内容を読み解こうとする。例えば,大和文華館所蔵 の絹絵では,死後の裁きの場面に雲に乗る女性像が認められる。吉田氏はこれをダエーナー女神とみる。マニ教では,信者が生前に行った善行が,女神の姿を 取って迎えに来ると考えられていた。またマニ教の世界観を示す「宇宙図」は,天界,十天,八地,太陽と月,光の流れ(船),大地にそびえたつ須弥山,黄道 十二宮,空中に据えられた裁判官,闇の国の表現により構成されており,これらの図像的特徴は,現存するマニ教文献が伝えるマニの宇宙生成論の記述に見事に 一致する。またマニ教の世界観には仏教の世界観との交流をうかがわせる点もあって貴重である。今後この作例と比較して,これまでトルファンで発見されてい たマニ教画,その他の断片についても再解釈する必要がでてきた。

吉田氏は,仏教とマニ教の関わりについて補足した。敦煌で発見される引路菩薩という尊格の図像は,雲に乗る点など上述のダエーナー像との類似点が注目され る。さらに魂を引導するという役割も含めて両者間に影響関係が考えられる。引路菩薩は仏教文献では確認されず,早くから外来文化の影響が問題となってい た。今回マニ教画に引路菩薩に酷似する図像が発見され,ダエーナーがゾロアスター教に起源をもつことを考慮すれば,影響はマニ教から仏教に及んだと考えて よいだろうと指摘した。これまでマニ教が中国で仏教に影響されたと想定される傾向にあったが,マニ教が仏教に与えた可能性も視野にいれる必要があると提言 をなした。
http://barc.ryukoku.ac.jp/activity/2011/03/2-1.html

龍谷大学アジア仏教文化研究センター

参照4:

天空の民ラピタ (01/07)

縄文人どころか、旧石器時代人も海を渡る能力を持っていたのは間違いないんだが、

建築とかあれこれ 呪いもあれこれ 




マネー狂気:Money-madness:第二象限から第三象限への深化:自然・精神通貨と光の経済
テーマ:貨幣・通貨論
民主党を狂わせているのは、唯物論であるが、結局、それは、マネー狂気に帰結するだろう。また、当然、世界を狂わせている大元凶である。
 マネー狂気はPS理論でどう数学・哲学化できるだろうか。そう、マネーを位置付ける必要がある。
 マネーは象徴的である。一つの中心である。それは、明らかに、第四象限に直結しているシンボル、メディアである。
 かつて何度も検討したが、差異を同一性に変換するメディアである。だから、一つの精神的フィルターである。言語もそうであるが、言語よりはるかに第四象限と直結する精神的フィルターである。
 結局、凸i⇒凹i、ないしは、凹i/凸iの志向性、同一性=父権的志向性の象徴、精神的フィルターのメディアである。それは、物質であったり、メンタルであったりする。
 そして、唯一神のような超一般性をもつ。
 そうすると、マネーは第二象限にも属しているだろう。
だから、第一象限の物質的経済のメディアであるが、それは、第二象限的作用と第四象限的衝動をもっているだろう。だから、善と悪の両面をもっていることになる。
 そう、また、一種の超越性をもっているのである。外在的超越性である。超越神性である。
 だから、簡単には、やはり、凸i⇒凹i、ないし、凹i/凸iである。父権主義=同一性的志向性のmedia pointである。
 結局、父権主義=同一性のmedia pointのシンボル、メディアであることになる。西洋文明、ユダヤ・キリスト教文明が続く限り、マネー病は治らない。
 結局、第三象限にマネー狂気の治療・治癒が存するのである。差異共振、純粋差異共振の「シンボル」、「メディア」がマネーを克服する。
 それは何か。
 個的経済である。個的共振経済である。個に「権威」があるのである。そして、マネーではなく、個的通貨であろう。個が発行する通貨である。
 それは減価通貨を活用するだろう。そして、その他になにかあるだろう。
 そう、自然や精神へと回帰する通貨、自然・精神通貨である。だから、自然・精神経済へと導くものである。マニ教的に言えば、光の経済である。
 今はここで留める。後で、詳しく検討したい。

追記:イスラム教は一神教であるが、第四象限を禁止しているのである。


参照1:
ガウス平面で表した人間認識の図

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


参照1:
Money-madness
テーマ:貨幣・通貨論
Money-madness

Money is our madness, our vast collective madness.

・・・

But it is not money we are so terrified of,
it is the collective money-madness of mankind.
For mankind says with one voice: How much is he worth?
Has he no money? The let him eat dirt, and go cold.--

・・・

We must have some money
to save us from eating dirt.

And this is all wrong.

Bread should be free,
shelter should be free,
fire should be free
to all and anybody, all and anybody, all over the world.

We must regain our sanity about money
before we start killing one another about it.
It's one thing or the other.

pp.486〜487 D. H. Lawrence Complete Poems, Penguin Books

D. H. ロレンスは詩人でもあった。私見では、前ソクラテス期の哲学者のような哲学的詩、ないしスケッチ的詩を書く詩人である。私の詩の好みとはずれるが。
 とまれ、その直言は鋭敏で実に今日を予見している。D. H.ロレンス文学・哲学が一般に知られていないのは実に残念である。
 思うに、20世紀初期ないし前期において、超越性の世界が出現したのであるが、それを物質的概念で閉じこめてしまうという誤りを犯したのだ。
 それは、芸術だけでなく、哲学も、自然科学もそうである。
 経済学はどうなのだろうか。ゲゼルの貨幣論は超越性につながるところがあるのではないだろうか。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11073086551.html

RESURRECTION: Japonesian
Trans-Apocalypse

参考:
マンモン

マンモン、マモン(Mammon)はキリスト教 における「七つの大罪 」の一つ、「強欲 」を司る悪魔 である(1589年、悪魔学者ペーター・ビンスフェルトの論による)。そもそもMammonとは、「富・財」を意味する古代 シリア語 であった。『マタイによる福音書 』に「汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず」(6:24)とあり、神との対比から聖書注釈者、並びに教父がこれを悪魔の一つとするに至った、というのが最も有力な説である。
アマイモン (Amaimon)などとの名前の相似から、アモン と混同されやすい。
悪魔像 [編集 ]

マンモン コラン・ド・プランシー 『地獄の辞典 』より
姿形は一般的に、人の胴体に鳥の双頭(普通はカラス)を持った、黒い悪魔として表現される。金銀財宝に対して非常に貪欲で、人間を誘惑して自らと同じように強欲にするという。
召喚術などで彼を呼び出すと主人の金銭欲を満たし、その代償に命を奪うという。そもそも彼から受け取った金銀の類はしばらくすると馬糞や灰に化すというから、さらさら人間の言う事を聞く気は無いのかもしれない。
堕天使 [編集 ]
J・ミルトン の『失楽園 』 では、マンモンは「堕天使のうち、これほどさもしい根性の持ち主も無かった」とされ、「天にあったときでさえ、彼は常に眼と心を下に……つまり、都大路に 敷き詰められた財宝、足下に踏みつけられた黄金を神に見える際に懇々と沸き出でるいかなる聖なる祝福よりも遥かに賛美」していたという。さらには、地獄に 落ちてなお、そこに金鉱を発見し、万魔殿を飾るためにと他の堕天使を指揮している。金銀を母なる大地から抉り出す術を人間に教えたのも彼だという(ただ し、失楽園 は聖書を始めとする当時の文献・伝説に忠実に準拠しているものの、それを踏襲した上でのミルトンの個人的想像による創作色が強いため、こういったオカルトの資料としては参考程度にしかならない)。
作られた悪魔 [編集 ]
中世ヨーロッパのカトリック教会は、免罪符 問題などに代表されるが、とかく教会の建築費(あるいは腐敗した聖職者の着服)等の金銭を必要としており、そこから御布施を出さない者を守銭奴として非難し、また、七つの大罪で貪欲を特に嫌っていた事実がある(実際の教義上、最も重いのは傲慢 とされていた)。つまり、マンモンとは皮肉ながら教父らが作り上げた悪魔なのである(ルシファー [そもそもは『金星 』の意]≒サタン の図式も教父ら、あるいは聖書の翻訳にあたった者たちが作り上げたものであるという説がある)。
アモンとの混同 [編集 ]
名が似通っているアモン (Aamon)との関係は、全く無いというわけではないらしく、アモンが他の神々を吸収することに関して強欲であったこと、人の胴体にふくろうの頭を持つ、という姿の相似など、二つの関連を指摘する説もある。
ちなみに、永井豪 のデビルマン で主人公に取り憑いたのは、悪魔の英雄アモンの方である。
また、ATLUS が1994年に発表したゲーム「真・女神転生if... 」の、悪魔アモンの肉体を奪いマンモンが力を増強するというストーリーも、この混同説を元にしている。
その他 [編集 ]
• ウェブブラウザ である、Mozilla Firefox やNetscape Navigator などで、URL としてabout:mozillaを入力するとThe Book of Mozillaが読める。ここではマイクロソフト のInternet Explorer をマンモンとしてなぞらえている。
• 拝金主義 は英語 で「マモニズム」(mammonism)と言うが、これはマンモンに由来する。
• ハリウッド映画「コンスタンティン 」では ルシファー (サタン ) の息子である。
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カテゴリ :
• 悪魔
• 聖書の語句

Mammon - Wikipedia, the free encyclopedia
Mammon is a term, derived from the Christian Bible , used to describe material wealth or greed , most often personified as a deity , and sometimes included in the seven princes of Hell .
Etymology
Mammon is the name of an ancient Deity worshiped by the Sumerians. He is the God of wealth and his name translates as "property". The Christians began to use the Holy Name of Mammon as a pejorative, a term that was used to describe greed, avarice, and unjust worldly gain in Biblical literature. It was personified as a false god in the New Testament.{Mt.6.24; Lk.16.13} The term is often used to refer to excessive materialism or greed as a negative influence.
Etymologically, the word is assumed to derive from Late Latin 'mammon', from Greek 'μαμμωνάς', Syriac 'mámóna' (riches),[1] and was an Aramaic loan word in Hebrew meaning wealth[2] although it may also have meant 'that in which one trusts'.[3]
The Greek word for "Mammon", μαμμωνάς, occurs in the Sermon on the Mount (during the discourse on ostentation ) and in the parable of the Unjust Steward (Luke 16:9-13). The Authorised Version keeps the Syriac word. John Wycliffe uses "richessis".
[edit ] Personifications

Mammon from Collin de Plancy 's Dictionnaire Infernal
Lay not up for yourselves treasures upon earth, where moth and rust doth corrupt, and where thieves break through and steal: But lay up for yourselves treasures in heaven, where neither moth nor rust doth corrupt, and where thieves do not break through nor steal: For where your treasure is, there will your heart be also. No one can serve two masters, for either he will hate the one and love the other; or else he will be devoted to one and despise the other. You can not serve both God and Mammon.
―Matthew 6:19-21,24
In the Bible, Mammon is personified in Luke 16:13, and Matthew 6:24, the latter verse repeating Luke 16:13. In some translations, Luke 16:9 and Luke 16:11 also personify mammon; but in others, it is translated as 'dishonest wealth' or equivalent. In some Spanish versions, it is said as "Mamón", but in others, as "Dinero" (Spanish for "money").
Early mentions of Mammon appear to stem from the personification in the Gospels , e.g. Didascalia , "Do solo Mammona cogitant, quorum Deus est sacculus"; and Saint Augustine , "Lucrum Punice Mammon dicitur" (Serm. on Mt., ii). Gregory of Nyssa also asserted that Mammon was another name for Beelzebub .
During the Middle Ages , Mammon was commonly personified as the demon of avarice , richness and injustice . Thus Peter Lombard (II, dist. 6) says, "Riches are called by the name of a devil, namely Mammon, for Mammon is the name of a devil, by which name riches are called according to the Syrian tongue." Piers Plowman also regards Mammon as a deity. Nicholas de Lyra (commenting on the passage in Luke) says: "Mammon est nomen daemonis" (Mammon is the name of a demon).
No trace, however, of any Syriac god of such a name exists, and the common literary identification of the name with a god of covetousness or avarice likely stems from Spenser 's The Faerie Queene , where Mammon oversees a cave of worldly wealth. Milton 's Paradise Lost describes a fallen angel who values earthly treasure over all other things.[4] [5] Later occultist writings such as De Plancy 's Dictionnaire Infernal describe Mammon as Hell's ambassador to England. For Thomas Carlyle in Past and Present, the 'Gospel of Mammonism' became simply a metaphoric personification for the materialist spirit of the nineteenth century.
Mammon is somewhat similar to the Greek god Plutus , and the Roman Dis Pater , in his description, and it is likely that he was at some point based on them; especially since Plutus appears in The Divine Comedy as a wolf-like demon of wealth, wolves being associated with greed in the Middle Ages. Thomas Aquinas metaphorically described the sin of Avarice as "Mammon being carried up from Hell by a wolf, coming to inflame the human heart with Greed".



精神的光:二つの視覚感性:media pointの凹i視覚と凸i視覚:to sub-modern
二つの世界:精神界と物質界:「死」と「生」
テーマ:manichaeism: 哲学

物質界がすべてと思うと、一期一会という発想が生まれるだろう。
 しかし、精神界を考えると、当然そうではなくなる。
 結局、人間は、精神界と物質界の両界の住人であるが、前者を忘れているのである。
 物質界において死ねば、「霊魂」は、精神界へと帰還すると考えられる。つまり、個は絶対的には死なないのである。
 物質界は「霊魂」の修行の場であり、「死後」、「霊魂」は精神界へと帰還すると考えられる。
 「霊魂」である個は、物質界において、物質の衣を着ていると言えよう。物質界の原理に服しているのである。
 結局、物質界に存する場合、精神界はほぼ不可知である。人間は物質界の法則に服するのである。しかし、それは、同一性の法則に過ぎない。
 結局、物質界において、物質の衣が強固なため、独立した精神を認識することが困難だと言えよう。
 物質は精神を恐れると言えるのではないだろうか。これはジェンダー的に言えば、父権は母権を恐れるということになるのではないだろうか。そう、母権、女性は、基本的に、凹iであり、第三象限に近い存在である。否、第三象限の存在と言うべきかもしれない。
 ということで、物質界においては、精神界を認識することはきわめて困難であると言えよう。


精神的光:二つの視覚感性:media pointの凹i視覚と凸i視覚:to sub-modern
テーマ:manichaeism: 哲学
先に以下の論考を書いたが、
『光と視覚:「見る」とは何か:同一性的視覚と差異的視覚』http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11129804530.html
高振動の精神的光について補足したい。
 それはmedia pointにおける凹i⇒凸iにおける第三象限から発する光である。内的光、超越光である。D. H. ロレンス的に言えば、dark rayとなろう。
 結局、この超越光を感受する能力がmedia pointに存するだろう。明確に言えば、media pointにおける凹iに存するだろう。即ち、media pointに差異共振エネルギーが生起するのは(内的に拠るものであれ、外的に拠るものであれ)、凹iが主導的な場合であり、凹iに超越光の感受点がある と考えられる。
 では、そのとき、凸iの視覚はどうなのだろうか。
 結局、凹iが主導的であるとは言え、差異共振であるから、両者が作動しているのである。凹i⇒凸iであるから、闇=陰が光=陽へと浸入していると考えられる。そのときに、超越光=精神的光が感受されるのである。
 だから、より正確に言うと、超越光=精神的光の感受とは、media pointを媒介として、凹iをベースにして、凸iに(も)存するということになるだろう。そう、凹iをベースに即非的視覚感受と言ってもいいだろう。つ まり、media pointを介して、主導的な凹iと凸iの共振状態に超越光=精神的光の感受が存するだろう。当然、凸iの本来の光の視覚にも、超越光=精神的光は感受さ れるのである。
 では、同一性=物質的光はどのように感受されるのか。それは、凸iが主導的になった場合と考えられよう。そのときは、差異共振が同一性志向に脇へ追いやられ、超越光=精神的光は精神的フィルターに濾過された同一性=物質的光に変換していると考えられるからである。
 そして、戦後以降のように近代合理主義=唯物論が支配的になると、超越光=精神的光は完全に排除されて、同一性=物質的光が中心化されるのである。精神的盲目状態である。
 しかしながら、凸iの主導化、同一性=物質的光の支配は、積極的意味があると考えられる。それは先に述べたように、陽極まりて陰に転ずという事態である。
 光が極まったとき、そのとき、闇へと転換するのである。つまり、新たな差異共振が生起するのである。新しい日あるいはdark sunの誕生である。言い換えると、先験的な超越光=精神的光ではなく、真に個的な超越光=精神的光が誕生すると考えられるのである。
 ただし、そのためには、なにか引き金が必要だろう。なんらかのショックが必要だろう。とまれ、絶対的個=差異になることが条件ではあろう。
 また、積極的な関与が必要である。それは闇=陰=凹iの関与である。だから、単純にトランス・モダンではないのだ。光に徹して、闇の深みに測鉛を垂下して、闇を測深する必要があるのである。
 光であり、且つ、闇である。光と闇の即非共振、即一を達成するのである。
 だから、サブ・モダンsub-modernではないだろうか。モダンからサブ・モダンへと深降することで、新しい日を達成するのである。

追記:sub=trans-modern、サブ=トランス・モダンという語も浮んだ。しかし、トランスなのだろうか。


光と視覚:「見る」とは何か:同一性的視覚と差異的視覚
テーマ:manichaeism: 哲学
今は問題提起に留めるが、どうも、視覚は二種類あるように思える。
 私は直観的に対象を見るのであるが、一般には、直観的視覚が少ないように思える。例えば、顔貌、相貌、人相は直観的に「見える」ものであるが、今日の人はそれが見えていないと思う。
 例えば、性格は相貌に出るものであるが、それが今日の人は一般に見えないようである。あるいは、顔写真に、当人の性格が現われるものであるが、今日の人には見えないようだ。
 そう、心や性格は顔貌に現われるのであるが、この力学はどういうものなのか。
 今は簡単に言うが、media pointが心や性格の核であり、その精神振動が表情に出ると考えられる。
 顔は物質的身体だけでなく、精神的身体でもあり、精神が顔貌、相貌、人相となると考えられるのである。精神振動、精神波動が精神的形態を造形しているのである。
 そして、それは当然可視的なのである。精神的に可視的なのである。つまり、精神的視覚があるのである。(それも一種の霊視であろうが。)
 ということで、確かに、少なくとも二つの視覚があるのである。物質的視覚と精神的視覚である。
 だから、それに即せば、二つの光があるということになるのだろうか? つまり、物質の光と精神の光があるのだろうか?
 少し視点を変えると、以前、音楽の精神的感覚と物理的音響感覚について述べた。例えば、バッハの音楽の場合、氣的精神があり、それが、音楽的音響となっていると述べた。つまり、精神的振動を伴った物理的音響がバッハの音楽である。
 このことは視覚についても適用できよう。即ち、精神的振動、精神的光の振動があり、それが、物理・物資的光となるのである。それが、顔貌、相貌、人相の形態となるのである。ただし、粗雑な、粗野な視覚では、それは不可視である。
 では、顔貌の場合、音楽とは異なり、顔という物理的身体に相という精神的身体が重なるということなのだろうか。
 思うに、身体は少なくとも二重的だと思う。遺伝的身体と個的精神的身体がある。
 この二重的身体が人を混乱させるのではないだろうか。そう、美術の場合は、音楽と同様に考えられるが、身体、特に「顔」の場合はそうはならないようだ。
 結局、同一性的視覚と差異的視覚があるのだ。物質的視覚と精神的視覚と言ってもいい。
 結局、前者は光の同一性的相を見ているのであり、光の差異的相を見ていないと考えられる。
 しかし、まだこれまで述べてきたことと不整合、齟齬がある。つまり、物質的光と精神的光があると述べたこととまだ、整合性がない。
 これは、やはり、振動ないし振動の様態(波形)で説明できよう。物質的光は低振動であり、精神的光は高振動であると考えられる。(波形の問題はおいておく。これは検討問題とする。)
 ということで、いちおう、説明がついた。即ち、二つの視覚、同一性・物質的視覚と差異・精神的視覚があり、また、二つの光、物質的光(低振動の光)と精神的光(高振動の光)が存するのである。
 顔貌・相貌・人相について言うと、相とは、精神的光の表出であり、それは、差異・精神的視覚が知覚するのである。しかし、今日、高位の視覚が劣弱なため に、精神的光の表出が不可視になっているのである。丁寧に言うと、高次の精神的光と低次の精神的光がある。高貴な精神の光と劣弱な精神の光である。卑しい 人間はその卑しい精神の光が顔貌・相貌・人相となって表出されるのである。
 思えば、ルドルフ・シュタイナーはこれから、善的人間と悪的人間はその性質が相貌・顔貌・人相にはっきり表出されるようになると予言していた。認識が深化することを考えれば、それは、以上の説明から理解できることである。
 後で整理したい。

追記:一般的には、二つの視覚は混同されている。つまり、未分化的に一致してしまっているだろう。区別していないのである。




スィームルグ文化とシュメール文化:日神教、ミトラ教、マニ教の起源に向けて
スィームルグ文化とシュメール文化:日神教、ミトラ教、マニ教の起源に向けて


テーマ:manichaeism: 哲学

私は先に、ミトラ教に関して、資料1を書いた。
 ミトラの友の東條真人博士によると、イラン文化の全体的背景にスィームルグ文化が提唱されている。
 私は西方ミトラ教において、牡牛が生け贄に殺されているのを見て、それは、シュメール文化のテラコッタ(註:先に円筒印章と述べたのは勘違いであり、訂正する。また、次の牡牛の修飾語は聖なるではなく月のであり、これも訂正する。)の「月の牡牛とライオン鳥」の図像を想起して、ミトラ教の起源にシュメール文化を仮説した。
 資料2のスィームルグの語源

「スィームルグ †

Sīmurγ, Simurgh, Simurg, Semuru, Sīn bird

地域・文化:イラン、ゾロアスター教
 別名:セーンムルヴ(Sēnmurw, Sēnmurv)、セーノー・ムールーク(Sēnō mūrūk)、セーノー・ムールーウォ(Sēnō mūrūvo)、シーナムルー(Sīnamrū)など。」

を見て、スィームルグはシュメールと似ていると直観した。もし、それが一致するならば、イラン文化、スィームルグ文化とは、端的に、シュメール文化が起源になる。
 シュメール文化は未だに謎の文化・文明である。しかしながら、私の直観では、古代アトランティス文明の最良のものを受け継いだ精神文化である。そう、それも母権化されたアトランンティス文化である。
 後で検討したい。

追記:牡牛が重要なfigureである。これは明らかに女神文化である。占星術の牡牛座と関係する。牡牛の女神文化とアトランティス文明が結合してシュメール文化が生まれたのかもしれない。つまり、母権文化、月の文化と日霊文化が融合して、シュメール文化が生まれたのかもしれない。
 もっとも、私が考える日霊文化とは、基盤が女神文化であり、女神が日を産み出すのである。
 おそらく、この女神(月)の日霊文化とアトランティス文化の高度な霊知的文化が結合したのがシュメール文化かもしれない。
 とまれ、根源は日霊文化である。それは、母権的日霊文化である。凹i⇒凸iの文化である。
 その後、media pointの変化によって、凸i⇒凹iへと精神の動きが変化したと思われる。これは父権的同一性知性の文化への動きである。父権文明、一神教文明、西洋文明への動きである。自我への動きである。同一性=物質的光・視覚への動きである。
 思うに、母権的日霊文化に対して、父権的同一性=物質=自我的文明が台頭してきたということだろう。
 両者の鬩ぎあいが、これまでの文明史と言えようか。そして、西洋文明が支配的となり、母権的日霊文化はほとんど消失するようになった。
 しかしながら、今や、西洋文明は落日となり、ようやく、新母権的日霊文化が新生する進化的エポックになったと考えられる。マニ教的PS理論の誕生がそれを象徴していると言えよう。
 父権=同一性=物質=自我の光から母権=差異=精神=自己(個)の光へと大転換したのである。
 これは、宇宙的相転移と言えよう。すべて超大変容すると言えよう。
 PS理論から言うと、media pointの極性の変化が起きたのだ。これまで、世界、地球は凸i⇒凹iであったが、それが、凹i⇒凸iへとらせん的に回帰したと考えられる。
 新しい母権的日霊の時代である。第三象限の時代である。新しい東洋・アジアの時代である。差異共振がキーワードとなる。
 太陽精神の夜明けである。復活の時代である。
 思うに、インスピレーションが第三象限からmedia pointを介して、大洪水のように送信されてきていると考えられる。そう、宝瓶宮(水瓶座)の時代である。天才の時代である。
 人類新生、大進化の時代が到来したのである。超越光の時代となったのである。
 

資料1:
ミトラ教とシュメール文化とエトルリア文化:日の神キリストの西洋父権化とPS理論的マニ教的日の神
テーマ:manichaeism: 哲学

ミトラの密儀/フランツ・ヴァレリ・マリ キュモン

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ミトラ教の古典的名著と翻訳者が呼ぶ本書を拾い読みしているが、ミトラ教についてよく知らなかったので、新鮮な、実に興味深い内容である。
 想起したのは、シュメール美術の円筒印章に描かれた牡牛とライオン鳥の図像である。前者を後者が食べるのであるが、前者は微笑んでいる。これは、明らかに、女神文化である。どうも、ミトラ教はシュメール女神文化と関係すると推測される。
 次に思ったのは、イタリアの先住民のエトルリア文化である。D. H. ロレンスが『エトルリアの地』で、エトルリアの墓地の壁画を分析しているが、そこに宇宙・自然的な陰陽的均衡文化を認めているのである。どうも、直観では、それにはミトラ教が影響していると思われるのである。
 そうすると、シュメール⇒イラン・インド⇒エトルリア⇒西方ミトラ教という図式が見えてくる。
 そして、ローマ帝国において、キリスト教と「覇権」を争ったのであるが、敗れたのである。結局、宇宙母権的要素が否定されて、父権的なキリスト教が勝利したことになる。言い換えると、東洋的要素が否定されて、西洋的父権的キリスト教の覇権が明確になったことである。
 私見では、キリストは母権的なのであるが、「父」がヤハウェなので、母権的要素が抑圧されたキリストの宗教が生まれたことになる。母権的キリストならば、第三象限になるが、父権的キリストだと第二象限に属すると考えられる。
 結局、ミトラ教がキリスト教に敗北したということは、東洋母権的宗教(霊的日輪宗教、大女神宗教)が西洋父権的宗教に取り込まれるように敗北しことを意味する。つまり、キリスト教は東洋的な日の神であるキリストを取り込んでいるのである。父主母従、西主東従になっているのである。
 ここで少しマニ教について触れると、それは、光の神としてのキリストを説いていると考えられる。つまり、ミトラ教の母権的キリストを発展的に継続する形でマニ教が生起したように思われる。しかし、マニ教もキリスト教、その他に滅ぼされたのである。
 その後、西欧において近代合理主義という唯物論が発達するが、そのとき、ルドルフ・シュタイナーのマニ教的霊学、D. H. ロレンスの独特なやや反動性をもった東洋的母権的身体的霊学が生まれたのである。
 結局、東洋母権宇宙的霊的日輪グノーシスを創造する衝動が現代世界にあると考えられる。
 そして、PS理論の創造がある。これは、明らかに、この人類史的精神の流れの帰結と考えられる。これは大マニ教、超マニ教と言うべき理論、グノーシスである。日の国で、日輪教の国でこれが生まれたのはある意味で必然である。東洋と西洋の合流点である日の国でこそ生まれるべくして生まれた理論である。
 今はここで留める。

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11121426412.html


資料2:
スィームルグ †
Sīmurγ, Simurgh, Simurg, Semuru, Sīn bird

地域・文化:イラン、ゾロアスター教

 別名:セーンムルヴ(Sēnmurw, Sēnmurv)、セーノー・ムールーク(Sēnō mūrūk)、セーノー・ムールーウォ(Sēnō mūrūvo)、シーナムルー(Sīnamrū)など。
 アヴェスターでは、メレゴー・サエーノと呼ばれていた。

 中世ペルシア以降のイラン地域における、全ての鳥の王。長命。サエーナの木に棲んでいて、その木の実は全ての病気を癒やす力がある。しかしその木はダエーワたちによって切り倒され、枯れてしまった。そこで、スィームルグはアルブルス山に棲みついたといわれる。
 パフラヴィー語文献『ブンダヒシュン』などによると、スィームルグはどの鳥よりも巨大な存在であり、最初に創造された。ただ、それはこの世界のためではなく、この世界の鳥の王としてはカルシプト鳥が創造された。『マインヨー・イ・カルド』では、シーナムルー(スィームルグ)はあまりに巨大なため、とまっている樹は大迷惑であるという。この鳥が飛べば千の枝が折れて落ち、梢に止まればまた千の枝が壊れる。種はその大きな体の陰になってしまう。
 その姿は、アヴェスターによれば光輪に包まれている。また、『王書』には、子供を乗せるくらい大きく、人語を話し、英知を持っている、とある。また、全ての言葉も理解する。また、哲学者の様に議論することもあった。ササン朝時代のペルシアでは、犬の上半身に孔雀の下半身を持つ鳥の姿で表された*1 。2本の足はふさふさしているが、足の指は鳥のように3本ある。爪は出し入れできる。翼や尾は、燃え上がる炎のようになっていた。
 スィームルグは、英雄を乗せたり、爪で運んだりし、不思議な羽を渡すことがある。

関連項目 †

中央アジア/セムルグ 、../サエーナ鳥 、イスラーム、アラビア/アンカ 、../チャームローシュ 、西欧/キンナモルグス

キーワード/鳥

参考資料 - 資料/348 :; 資料/126 :


http://www.toroia.info/dict/index.php?%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%2F%E3%82%B9%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%82%B0


資料3:




イラン文化研究



大宇宙の三位一体 نهپروان گل و شمع :کاینات تریلژی

2008年5月に独自サイトに移行・強化しました。

http://www.shamogoloparvaneh.com/



文化・倫理・宗教 ―― نﻴد ،اخلاق ،فرهنگ Culture, Ethics, Religion

http://www.shamogoloparvaneh.com/farhang.html

スィームルグ文化 

ジャムシディ先生の講演 2009.08.08 Sat. 於大阪大学ペルシア語学科 第六回関西イラン研究会

「古代イラン神話の再発見−神話の近代的な解説の一試み− 」(日本語)

 −古代神話が現社会変革に役立つか?



http://www.shamogoloparvaneh.com/adabiyat.html

東條の論文: 下記の論文が掲載されています。

スィームルグ運動

「現代イランの新異教主義と現在のミトラ教 」 (日英)

Neo-Paganism of modern Iran and our Mithraism

歴史

「序論:東アジアにおけるスィームルグ文化とミトラ教」(英文) 2009.01.11 Sun.

An Introduction to the Simorghian Culture and Mithraism in the East Asia

「古代におけるイラン・日本の文化交流の歴史」

Part 1 Part 2-1 Part 2-2  (日英)

「禅とペルシア文化」(英文) 2010.04.19 Mon.

Zen Buddhism and Persian Culture

秘儀

「スィームルグの光の中の十牛図とローマ帝国のミトラの秘儀」(英文) 2009.02.01 Sun.

Ten Bull Pictures and Roman Mysteries of Mithta in the Light of Simorgh

神智学

「神智学:現代におけるスィームルグ文化の復活」(英文) 2009.02.01 Sun.

Theosophy: A Modern Revival of the Simorghian Culture

「明教・密教・東方神智学:その共通する存在論的図式」(英文) 2009.03.23 Mon.

Manichaeism, Esoteric Buddhism and Oriental Theosophy: Their Common Ontological Scheme

ミトラ教の秘教占星学

「ミトラの秘教占星術」(英文) 2009.10.18 Sun.

Mithra’s Esoteric Astrology





イラン文化の起源とアイデンティティー فرهنگ اصيل و هويت ايراني The root of Iranian culture & identities

スィームルグ協会 ――イラン Simorghian Society Ltd.

http://www.jamali.info/index.php

http://www.mahmag.org/philosophy.php

http://www.jamali-online.com/

http://www.farhang-asil-iran.com/

http://www.farhang-asil-iran.com/

    東條の論文も掲載されています。



http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraism_Links.html


ミトラ教天使七星教会.リンク集

資料4:
The Mother of the Minotaur


In mythology, the serpent or the bull are usually symbolic of the power that fecundates the earth. In the sacrifices of the bull in Mesopotamia, the death of the bull was giving life to the creatures of the earth. A terra-cotta plaque from ancient Sumer places the Moon-Bull at the center of this process, where it appears as the ever-dying, ever-living lunar bull, consumed through all time by the lion-headed solar eagle. The bull has its foot on the earth, and is thus linked directly to the earth. The symbol here seems to represent the plane of juncture of earth and heaven, who appear to be two but are in being one. As we know from ancient Sumerian myth, heaven (An) and the earth (Ki) were in the beginning a single, undivided mountain (Anki), of which the lower part (the earth) was female and the upper (heaven) male. But the two were separated (as Adam into Adam and Eve) by their son Enlil (in the Bible by their “creator” Yahweh), whereupon the world of temporality appeared. The state of the ultimate bull is invisibility, that is to say pitch black (which is the color of the bulls that were used in the Mesopotamian rites).



The enigmatically blissful, impassive expression of the bull on the terra-cotta plaque appears again on the masklike figure of the Indian symbolic form of the Dancing Shiva. Shiva holds a drum in his lifted right hand, the drumbeat of time, the beat of creation, while on the palm of his left is the fire of the knowledge of immortality by which the bondages of time are destroyed. Shiva is the Lord of Beasts; so too is the great Sumerian lord of death and rebirth Dumuzi-Tammuz-Adonis, whose animal is this beatific bull; so too is the Greek God Dionysus, known – like Shiva – as the Cosmic Dancer, who is both the bull torn apart and the lion tearing.



In the mythology of the god-king Pharaoh of Egypt, was called “the bull of his mother”. When dead within the mound of his tomb (the mound symbolic of the goddess), he was identified with Osiris begetting his son, and when alive, sitting on his throne (likewise symbolic of the goddess), he was the son of Osiris – Horus. These two, representing the whole mythic role of the dead yet reembodied King of the Universe, were in substance one. The cosmic cow-goddess Hathor (hat-hor: the house of Horus) stood upon the earth in such a way that her four legs were the pillars of the earth quarters and her belly was the firmament. The god Horus symbolized as a golden falcon, the sun, flying east to west, entered her mouth at the evening to be born again the next dawn. In this sense he was, in his night character, the “bull of his mother”, whereas by day – as a ruler of the world of light – he was a sharp-eyed bird of prey. Moreover, the animal of Osiris (the bull) was incarnate in the sacred Apis bull, which was ceremonially slain every twenty-five years – thus relieving the pharaoh himself of the obligation of a ritual regicide. (Ritual regicide was an integral part of ancient Sumerian and early Egyptian tradition.)



It may well be that the ritual game of the Cretan bull ring served the same function for the young god-kings of Crete. There are a number of representations of Cretan kings, and they always show a youth about twenty; there is none of an old man. So there may have been a regicide at the close of each Venus cycle. However, the prominence of the bull ring in the ritual art of Crete suggests that a ritual substitution may have been introduced at some time. In an old Cretan plaque there is the motive of a man-bull – a Minotaur – attacked by a man-lion. The analogy with the bull and lion-bird of Sumer seems clear. The lion as the animal of the blazing solar heat, slaying the bull as the animal of the moon by whose night dew the vegetation is restored. The matador with his sword, performing the same function as the lion-bird of Sumer, facing the bull in its role of the ever-dying, ever-living god: the lord of the goddess Earth (a role which in the classic Greek mythology was taken by Poseidon).



Cretan mythology has a preponderance of goddesses and female cult officiants, in contrast to the later Greek. The mythology of the Cretan world appears to represent an earlier stage of Bronze Age civilization than the kingly states of both Sumer and the Nile, which also sets them apart from these. It has a milder, gentler form, antecedent to the opening of the course of Eurasian history introduced by the wars and victory monuments of the self-interested kings. The invasions from the north and the east, with the Mycenaean heroic age of Agamemnon, Menelaus, Nestor and Odysseus, introduce the transition from the age of the goddess to the age of the warrior sons of god.

http://www.fredosor.com/the-consort-of-the-bull.html
Fredosor


2012年01月05日(Thu)▲ページの先頭へ
D. H. ロレンスの父権主義的志向性力学:同一性=父権的志向が差異=母権的志向を支配する反動化:後期、晩年は逆転して、純粋差異共振化=新母権主義へと到達する
D. H. ロレンスの父権主義的志向性力学:同一性=父権的志向が差異=母権的志向を支配する反動化:後期、晩年は逆転して、純粋差異共振化=新母権主義へと到達する

テーマ:literature

これは先に述べこと(D. H. ロレンス哲学の絶対的矛盾について:凸iと凹iの衝突と揺らぎ http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11126422047.html)
から、明らかであると考えられる。即ち、凸iが父権主義的志向性で、凹iが母権的志向性であると考えられ、ロレンス文学・哲学中期までは、後者が主導的、前者は補完的であり、中期以降のリーダーシップ小説期において、天秤が逆転して、前者が主導的なり、後者がそれに対して、均衡を目指すようになったと考えられる。
 PS理論から言えば、中期までは凹i⇒凸iが主導的で、中期以降のリーダーシップ小説期では凸i⇒凹iが主導的になったと考えられる。前者は差異共振志向であり、後者は同一性志向である。
 先に、ロレンスは即非の論理、乃至は、不連続化を知らなかったため、西欧の歴史的危機等に直面して、凸iと凹iを一致させようとしたと言ったが、それは、凸i*凹i=凸(+1)と数式化できよう。
 では、さらに考察を深めると、どうして、両者を一致させる、あるいは、一体化する力学が生じたのか解明する必要がある。
 それは、主に20世紀初期ないし前期における女性の存在の社会的台頭がきっかけとなり、ロレンスの内面、精神に、母権的原理への恐怖を起こさせ、そのために、ロレンスの凸iの父権的原理は、凹iの母権的原理を支配する方向にとりわけ傾斜したということで説明できるだろう。
 勿論、女性の台頭だけではなく、第一次世界大戦による文明破壊やロレンス個人における国家権力からの攻撃、あるいは、結婚生活における妻フリーダとの関係もそこに重なって、父権主義化への反動的エネルギーになったと考えるべきである。
 簡単にまとめると、ロレンスの内面において、凸i=父権主義と凹i=母権主義が元々衝突していたのであり、初期、中期において、後者が主で、前者が従であったが、中期以降のリーダーシップ小説期では、これが上記の理由で逆転したということになる。
 付け加えると、後期、いわば、ポスト・リーダーシップ小説期において、ロレンスの内面の力学は再び凹iへ と傾斜して、新母権的力学が誕生したと考えられる。代表的作品が中編小説の『逃げた雄鶏(死んだ男)』、紀行文『エトルリアの地』と評論『黙示録論』であ る。とりわけ、『逃げた雄鶏』に著しい。そこでは、女神イシスに仕える女性司祭、イシスの巫女が登場して、その母権主義と「死んだ男」=復活したイエスと のコスモスの超越的意識とが結合して、第三象限の世界を構築していると考えられるのである。
  ところで、リーダーシップ小説期のリーダー探求、ないし、新しい共同体(コミュニティ)の探求は、同時代のファシズムと関係があるように思える。ここで簡 単に示唆すれば、ファシズムは反動的同一性=父権主義志向と言えるのではないだろうか。もっとも、ロレンスの指導者探求をファシズムと一致させるのは強引 であるが、傾向においては類似性、共通性があると思われる。
 もっとも、忘れてはいけないのは、ロレンスの場合、父権主義的志向がある場合でも、それと対立する母権主義的志向に裏打ちされていることである。ファシズムにはこれはなかったと考えられる。

D. H. ロレンス哲学の絶対的矛盾について:凸iと凹iの衝突と揺らぎ
テーマ:manichaeism: 哲学

D. H. ロレンスは実に稀有な文学者である。作家と哲学者が並存しているのである。(三島由紀夫もその面があるが。) 明らかに、彼の哲学は絶対的矛盾を呈している。例を挙げれば、融合・一(いつ)の志向性と個・多の志向性があるからである。
 そして、この極性哲学がロレンス哲学である。
 しかしながら、中期以降、この極性哲学が破綻して、二項対立に傾斜するのである。言い換えると、極端に父権主義化するのである。
 これをどう見るか。ロレンスの精神は凸iと凹iの衝突、激突の戦場である。しかし、ロレンスは鈴木大拙の即非の理論を知らなかったために、常時、激しく揺れ動いていたのである。不思議の国のアリスのように、大きくなったり、小さくなったりしたのである。
 中期以降、ロレンスは精神の危機に陥った。極性バランスが崩れて、凹iでありつつ、凸iであろうとしたのである。差異でありつつ、同一性であろうとしたのである。即非の論理を知っていたなら、同一性であろうとはしなかったであろう。
 言い換えると、ロレンスは母権的でありつつ、父権主義化したのである。人間認識図で言えば、第三象限でありつつ、同時に、第二象限であろうとしたのである。
 そのため、ロレンスの作品は過度に混沌化したのである。それはリーダーシップ小説と呼ばれるものに、現れている。
 ロレンスの精神は凹iが天才的であり、第三象限に根ざしていた。しかし、凸iと凹iが不連続化していなかったため、あるいは、即非の論理を知らなかったために、時代の暗黒化等に触発されて、精神の混沌、混乱を起こしたのである。
 以上で、ざっとであるが、長年の謎の解明ができた。



2012年01月01日(Sun)▲ページの先頭へ
ポスト資本主義:物質的資本主義から霊的資本主義へ:量(実数)的貨幣から質(虚数)的貨幣へ
テーマ:貨幣・通貨論

ポスト資本主義:物質的資本主義から霊的資本主義へ:量(実数)的貨幣から質(虚数)的貨幣へ:差異共振経済体へ向けて

PS理論の成果から、近代合理主義=近代科学=唯物論は克服された。そこには、超越的精神振動の哲学・科学が生まれた。それは、言い換えると、差異共振哲学・科学であり、他者と共振する自己哲学・科学がある。
 この視点から見ると、資本主義は同一性=物質=自我主義に囚われた偏頗な経済であることがわかる。だから、同一性=物質=自我中心主義資本経済と言える。
 しかしながら、実は、差異=精神=他者としての個・自己が本質・本体であり、同一性=物質=自我はそれらの結果に過ぎない。つまり、霊主体従が本来であるのに、体主霊従になっているという本末転倒の状態になっているのである。そう、倒錯状態である。
 そこで、本来の状態にすると、近代資本主義は当然崩壊するのであるし、今や世界的崩壊の危機にあると言えよう。
 結局、精神主導の資本経済が生まれなくてならないのである。とりあえず、これを精神資本主義ないし差異資本主義と呼ぼう。
 問題は貨幣である。今日の物質貨幣ではなく、精神貨幣にする必要がある。あるいは、差異貨幣、差異共振貨幣である。
 これは他者との差異共振性を評価するものである。そして、これは経済主導者の創意工夫、アイデア、独創にも拠るものである。い
 だから、創造的差異共振資本経済である。ここでは、経済体は、個の物質的、且つ、精神的保存を維持する必要がある。だから、弱肉強食ではありえない。言い換えると、貨幣は自我のものではなく、個・自己=他者のものである。そのために、貨幣は差異共振体としての社会創造の資本にもならなくてならない。
 つまり、貨幣はもはや、量的なものではなく、質的なものとなるのである。利益ではなく、差異共振価値としての貨幣である。そう、差異共振メディアとしての貨幣である。
 そう、実数としての、凸(プラス1)としての貨幣で
はなく、虚数としての、凸i*凹iないし凸i*凹i⇒としての貨幣である。だから、「利益」は、虚数共振価値であり、量的なものではないのである。
 たとえば、りんごを一個の価値を100円とすると、価格は10凸i円であり、買い手は手持ちの10凹i円で購入することができる。即ち、

10凸i円*10凹i円⇒100円

となる。
 しかしながら、売り手が手にするのは、10凹i円であり、そのままでは、潜在価値に過ぎず、価値を生むには、差異共振化する必要がある。
 しかし、重要な点は売買の対象に凹i貨幣を禁止することである。貨幣は売買の対象にするのを禁ずるのである。
 また、融資する際であるが、差異貨幣銀行から融資するが、原則は無利子か、マイナス利子である。しかし、決して、利子をとらないということではない。手数料等が必要である。
 以上のような経済体であるが、それは差異共振経済体であり、個的自由共振経済体である。政治・行政の役割はあくまで経済体を補佐する役目であり、主導的になってはならない。これも禁止事項である。
 都合で今はここで留める。


ミトラ教とシュメール文化とエトルリア文化:日の神キリストの西洋父権化とPS理論的マニ教的日の神
ミトラ教とシュメール文化とエトルリア文化:日の神キリストの西洋父権化とPS理論的マニ教的日の神

テーマ:manichaeism: 哲学

ミトラの密儀/フランツ・ヴァレリ・マリ キュモン
¥3,262
amazon.co.jp

ミトラ教の古典的名著と翻訳者が呼ぶ本書を拾い読みしているが、ミトラ教についてよく知らなかったので、新鮮な、実に興味深い内容である。
 想起したのは、シュメール美術の円筒印章に描かれた牡牛とライオン鳥の図像である。前者を後者が食べるのであるが、前者は微笑んでいる。これは、明らかに、女神文化である。どうも、ミトラ教はシュメール女神文化と関係すると推測される。
 次に思ったのは、イタリアの先住民のエトルリア文化である。D. H. ロレンスが『エトルリアの地』で、エトルリアの墓地の壁画を分析しているが、そこに宇宙・自然的な陰陽的均衡文化を認めているのである。どうも、直観では、それにはミトラ教が影響していると思われるのである。
 そうすると、シュメール⇒イラン・インド⇒エトルリア⇒西方ミトラ教という図式が見えてくる。
 そして、ローマ帝国において、キリスト教と「覇権」を争ったのであるが、敗れたのである。結局、宇宙母権的要素が否定されて、父権的なキリスト教が勝利したことになる。言い換えると、東洋的要素が否定されて、西洋的父権的キリスト教の覇権が明確になったことである。
 私見では、キリストは母権的なのであるが、「父」がヤハウェなので、母権的要素が抑圧されたキリストの宗教が生まれたことになる。母権的キリストならば、第三象限になるが、父権的キリストだと第二象限に属すると考えられる。
 結局、ミトラ教がキリスト教に敗北したということは、東洋母権的宗教(霊的日輪宗教、大女神宗教)が西洋父権的宗教に取り込まれるように敗北しことを意味する。つまり、キリスト教は東洋的な日の神であるキリストを取り込んでいるのである。父主母従、西主東従になっているのである。
 ここで少しマニ教について触れると、それは、光の神としてのキリストを説いていると考えられる。つまり、ミトラ教の母権的キリストを発展的に継続する形でマニ教が生起したように思われる。しかし、マニ教もキリスト教、その他に滅ぼされたのである。
 その後、西欧において近代合理主義という唯物論が発達するが、そのとき、ルドルフ・シュタイナーのマニ教的霊学、D. H. ロレンスの独特なやや反動性をもった東洋的母権的身体的霊学が生まれたのである。
 結局、東洋母権宇宙的霊的日輪グノーシスを創造する衝動が現代世界にあると考えられる。
 そして、PS理論の創造がある。これは、明らかに、この人類史的精神の流れの帰結と考えられる。これは大マニ教、超マニ教と言うべき理論、グノーシスである。日の国で、日輪教の国でこれが生まれたのはある意味で必然である。東洋と西洋の合流点である日の国でこそ生まれるべくして生まれた理論である。
 今はここで留める。


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カレンダ
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