INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2012

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2012年06月24日(Sun)▲ページの先頭へ
超無双PS哲科学ガウス平面図解説:陰陽均衡作用の解放の為に:MPを介して光の神が到来する
正しい図は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11285790892.html

超無双PS哲科学ガウス平面図解説:陰陽均衡作用の解放の為に:MPを介して光の神が到来する

テーマ:超無双PS哲科学

         陰・凹i(-i)・光子:「天」
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−1________MP________+1
無機物          |           有機体・生命体
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         陽・凸i(i)・重力子:「地」


        超無双PS哲科学的ガウス平面

尚、無双原理に倣って、陰・凹i(-i)・光子を上に、陽・凸i(i)・重力子を下に布置している。そして、MPは原点であり、media pointである。
 また、ガウス平面に直交する超越軸z軸や、z軸とy軸の虚軸が形成する超越円、超越界が本来存しているが、上図では、作図が難しいので、省略している。

検討問題:凸(+1)や凹(−1)とは何か:有機体、生命体的物質と無機物的物質
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11284973493.html


先に以上のように作図したが、補足説明をしたい。
 簡単にするために、凹iを陰、又は-i、凸iを陽、又はi、凸(+1)を+1,凹(−1)を−1で表記する。
 陰(-i)には、純粋悟性が機能している、簡単に言えば、知性である。それは、頭、頭脳である。カント哲学では、空間である。
 陽(i)には、自我が機能している。それは、感情や意志をもつのである。それは、肚である。カント哲学では時間である。
 そして、MP(media point)、原点は、胸であり、霊愛をもつ。ここには、超越界からの聖霊が作用しているのである。
 そう、ここで先に述べたことは一面的であり、訂正する必要がある。即ち、自然円において、基本的には超越性はないのであるが、MP(media point)、原点が超越界に通じる唯一点であると述べ、それは、自然界では、現象太陽であると述べたが、それは外界、外在、外面的には正しいが、内界、内在、内面的には誤りである。
 人間の内面においても、胸、心胸において、MP(media point)が存するのであり、そこが、超越界へと通じていると考えられるのである。
 魂という呼ばれるものもそれと考えられる。
 結局、MP(media point)は二つの点に存するのであり、一つの点は、外在的点である現象太陽であり、もう一つの点は、内在的点である胸・心胸である。
 次に、重要な変更を述べる必要がある。つまり、差異や他者の問題である。
 これまで、無双原理に接するまでは、ずっと、他者、差異を陰(-i)で考えたが、無双原理に接して、他者、差異は陽(i)になると予想してきた。
 しかし、それも違うと考えられる。
 いったい、そうすると、他者、差異は何処に存するのか。
直観で言えば、他者、差異を胸、MP(media point)で感じるのではないのか。
 自我、陽(i)は他者、差異に反発、反感、嫉妬する。そして、悟性(知性)、陰(-i)は、他者、差異を知的に認識しようとする。しかし、それは、悟性は言語認識であるから、同一性的に他者、差異を認識するので、他者、差異自体を受容していない。
 他者、差異を受容するのは、陽である自我と陰である悟性を抑制し、均衡させるMP(media point)、胸・心胸だと考えられる。
 何故なら、陽の自我は反発し、陰の悟性は同一性的把握(言語的把握)であり、両者は他者、差異を真に受容していないのであり、両者を抑制するMP(media point)、胸・心胸・魂こそ、そうできると考えられるのである。
 そう、他者、差異自体は、言わば、カントの述べた物自体であり、それは、絶対的には把握できないと考えられる。だから、不可知のものとして、他者、差異をMPは受容すると考えられる。
 また、単に、不可知のものばかりでなく、他者、差異への「共感性」が生じると考えられる。それはどういう力学に拠るのだろうか。
 それは、鈴木大拙の即非の論理のもつ力学と考えられる。
 陽の自我は自己求心性をもつので、他者、差異を否定する。陰の悟性は遠心性をもつので、他者、差異を放置、放散させる。
 しかし、両者は陰陽であるから、牽引作用があるのである。この牽引作用がMP(media point)、胸・心胸・魂に作用すると考えられるのである。
 というか、陰陽牽引作用がMP(media point)、胸・心胸・魂の作用ではないだろうか。
 ここは実に微妙な問題点である。
 陰陽の均衡作用は自然においては、常に為されていると考えられる。
 しかし、人間の場合は、自我に傾斜しているので、不均衡的なのである。言い換えると、自我同一性や悟性同一性の二つの同一性が支配的であると考えられる。
 言い換えると、自然本来の陰陽均衡牽引作用は人間には、一般的には作用していないと考えられる。
 だから、陰陽均衡作用を自ら形成しないといけないことになるのである。
 以前述べたことだが、人間には原始の陰陽均衡作用が潜在すると考えられるのである。
 それが、MP(media point)、胸・心胸・魂として、配備されていると考えられるが、それは、陽・自我、陰・悟性によって抑圧され、埋没していると考えられる。
 しかしながら、それは、人間の精神の故郷であり、諸芸術の源泉であり、端的に霊愛の源泉である。
 この埋れたMPを開化させることによって、人間において、陰陽均衡作用を復活させることができると考えられる。
 ただし、問題は、陽・自我と陰・悟性のもつ枠組みを否定しないようにしないといけないのである。そうでないと、物質的世界・社会には合わない、逸脱、倒錯したものになってしまうと考えられる。
 だから、十分に陽・自我と陰・悟性を準備して、MP(media point)、胸・心胸・魂を開発すべきということになるのである。
 その一つの重要な方策はPS哲科学の前身である不連続的差異論である。
 それは、陽・自我と陰・悟性の癒着、連続性を立ち切って、陽・自我と陰・悟性との均衡をもたらす働きあると考えられるのである。
 しかし、連続性を切断するものは、実は、MPの作用であると考えられる。
 結局、陰陽均衡作用を形成するには、準備として、優れた芸術・文化によって、MPを陶冶・涵養しておく必要があるのである。
 優れた文学、音楽、美術、哲学、宗教等、そして、豊かな自然等に接する必要があるのである。
 しかし、物質科学である近代合理主義は、陽・自我と陰・悟性の形成をもたらしたが、MP(media point)、胸・心胸・魂の陶冶・涵養はまったく疎かにしてしまい、言わば、自我悪魔を形成したのである。
 そう、近代主義は物質文化を形成したが、精神文化を衰退させてしまったのである。
 とまれ、抑圧され、埋没したMPを発掘して開発することで、新たに、超越界を通じることができるようになるのである。新しい宗教が生まれるのである。それは、聖霊宗教であるが。
 とまれ、それは、トランス・モダン、イントラ・モダンであるが、物質的基礎を介して、形成されると考えられる。
 思うに、時代的に、超越エネルギーが強化されていると思われるのである。それは、人間の内面のMP、そして、自然界の外在の現象太陽のMPに強くはたらきかけていると推測されるのである。
 この超越エネルギー、神霊エネルギーは、陰陽均衡の開化を刺激的に促進するが、陽・自我と陰・悟性に囚われた近代人は、そのエネルギーを積極的に摂取することができないので、反動的になり、病理化したり、凶悪・犯罪化したりするであろう。
 とまれ、MP、胸・心胸・魂の解放が必要である。そう、太極である光の神が到来するのである。


Ver2:検討問題:凸(+1)や凹(−1)とは何か:有機体、生命体的物質と無機物的物質
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11284973493.html

検討問題:凸(+1)や凹(−1)とは何か:有機体、生命体的物質と無機物的物質

テーマ:超無双PS哲科学

いつか、緻密に議論したいと思っているが、凹i☯凸i、乃至は、凹j☯凸jの陰陽において、積の凸(+1)や否定の積凹(−1)は何を意味するのか。
 先に、凸(+1)は自然・宇宙界、凹(−1)は物質ではないかと示唆したが、それでいいのだろうか。
 簡単にするために、便宜的に、+1と−1で考えると、ここには、確かに、陰陽の氣である凸i(陽)と凹i(陰)がないのであるから、物質界に関係することは推測できる。
 しかし、問題は、凸iを重力子、凹iを光子としたとき、陰陽の氣は物質的になってしまうという齟齬が生じることである。
 思うに、重力子や光子は物質ではない自然エネルギーと見た方がいいのではないだろうか。光子には質量がないことを考慮してもそのようなことが言えよう。それを作業仮説としよう。
 次に、+1は、有機体、生命体の物質、−1は無機物的物質と作業仮説したい。
 以上で、一応、齟齬は解消できている。
 以下、簡単に図示する。


         陰・凹i(-i)・光子:「天」
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−1________MP________+1
無機物          |           有機体・生命体
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         陽・凸i(i)・重力子:「地」


        超無双PS哲科学的ガウス平面

尚、無双原理に倣って、陰・凹i(-i)・光子を上に、陽・凸i(i)・重力子を下に布置している。そして、MPは原点であり、media pointである。
 また、ガウス平面に直交する超越軸z軸や、z軸とy軸の虚軸が形成する超越円、超越界が本来存しているが、上図では、作図が難しいので、省略している。

追記:尚、陰・凹iを重力子(ないしは重力波)とするのも作業仮説である。

追記2:以下のオイラーの公式における「単位円」を上図に加えると、自然円となる。
 超越円は、z軸とy軸の面における「単位円」である。上図のガウス平面には直交している。分かりやすく言えば、直交する円盤がy軸(虚軸)に屹立するとというイメージとなる。


resurrectionのブログ


追記3:易経の太陽でなく、現象太陽はMP(media point)の、言うならば、表面に存するのではないだろうか。内面は太極ではないだろうか。これは検討課題である。(補記:宗教の世界は、超越界であるから、上図には基本的には属さない。しかし、media point が超越界へと通ずる現象界における唯一点と考えられる。それは、現象太陽である。その内部、ないしは、裏面・背面には、太極が存すると思われる。それが、シュタイナーの説くアフラ・マズダ=キリストと言えよう。それは、マニ教の光の世界である。結局、太極=宗教的光の世界=神界である。)

追記4:象限の考え方は、虚軸y軸の符号が逆になったので、従来通りには使用できないだろう。
 あえて従来通りの位置・領域を用いれば、第一象限は、可視的現象界(光の現象界)、第四象限が不可視的自然界(闇の自然界)、第二象限は物質科学的世界、第三象限はダーク・マターの世界ではないだろうか。
 これも検討課題である。

参照:

resurrectionのブログ
http://content.edu.tw/competition/96year/web/works/B020040/teaching/1-3-2.htm

追記5:オイラーの公式

e^{i\theta} = \cos\theta + i \, \sin\theta

から、以前、Kaisetsu氏と生成門氏が行なったように、ある事象の定置化が考えられるように思う。もっとも、以前は私はそこまで理解が行かなかったが。
 しかしながら、易経にあるように、陰陽は6元あるのである。だから、以下参照2にあるように、掛け算の連鎖が重要なのではないだろうか。
 簡単にするために、凹i、凸iを-iとiとする。すると、

陰の位置は、

e^(-iθ)=cosθ−isinθ   ・・・ A

であり、

陽の位置は

e^(iθ)=cosθ+isinθ    ・・・B

となるのではないだろうか。
そして、単純化して、陰陽はA×Bとなるのではないだろうか。
 しかし、正しくは、6元であるから、

(A1 or B1)×(A2 or B2)×(A3 or B3)×・・・×(A6 or B6)

となると考えられる。
 今は問題提起で留める。

修正:先ほど、思いついたのであるが、螺旋的6回転を考えるとかなり明解になるように思われる。つまり、易における、6元であるが、各元を1回転と見るのである。だから、6元だから、6回転である。
 具体的には、第1回転では、陰・凹iから始めると、1回転は、陰に戻り、半回転は陽となる。ただし、半回転であっても、それは1回転のコースに含める。
 以下、同様に、第2回転、第3回転、・・・第6回転まで、螺旋的に回転するということである。そして、
 各回転の陰陽の様相をかけ算するのである。即ち、

1st cycle(陰-i、陽i)×2nd cycle(陰-i、陽i)×3rd cycle(陰-i、陽i)×・・・×6th cycle(陰-i、陽i)

である。

以下参照:
陰陽はどう機能するのか
テーマ:超無双PS哲科学

凹j☯凸jは同時に、凹i☯凸iを意味しよう。(☯は極性共振を意味する)二重の極性原理を意味しよう。
 問題は、現実においてはどのように作用するのかである。
八卦に則して、考えた方がいいかもしれない。
 例えば、1,凹i(陰)、2.凹i、3.凹iと4.凸i(陽)、5.凸i、6.凸iの順列を考えるのである。
1は凹iと凸iの2通り、以下同様で、
2^6=64通りである。
 問題は、6が何を意味するのか、どのように構造化されるのかである。
 思うに、6つの単位円を考えて、それをmedia pointで共振させることが考えられる。つまり、

1)凹i or 凸i
2)凹i or 凸i
・・・
6)凹i or 凸i

の6つの陰陽様態を「共振」させると、64通りの様態が結果として生起するとは考えられる。

* 64卦一覧
* 64卦配列


 そうすると、6つの陰陽円(自然円に一応限定する)の共鳴が基本的自然様態ということになる。
 思うに、これは、超越円でも考えられることである。そうすると、超越円でも64通りがあるのである。
 自然円と超越円をどう関係づけるのかすぐにはわからないが、思うに、精神の64様態と物質の64様態の組み合わせが考えられるのである。思うに、精神があるのだから、それは、人間になるのではないだろうか。精神の64様態は神々、精霊等々ではないだろうか。
 今は示唆に留める。

参照:
八卦とは | 易経ネット
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11280408121.html
 
参照2:
オイラーの公式の使い方
大学に入ると次のような式を学びます。

オイラーの公式
(e:自然対数)

この式はオイラーの公式と呼ばれています。この式を知っていると計算の見通しが良くなるので高校生でも知っておくと良いと思います。そこで、オイラーの公式を複素数に使いオイラーの公式の使い方について考えてみます。

複素数は、
Z=|Z|(cosθ+i sinθ)
と極座標(距離と角度)の形式で表すことができます。

このとき、Z1とZ2の積を考えると、
Z1×Z2=|Z1|(cos(θ1)+i sin(θ1))|Z2|(cos(θ2)+isin(θ2))
=|Z1||Z2|(cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2))
となります。
この式の図形的意味を考えると、
(Z1にZ2を掛ける)=(Z1を|Z2|倍に拡大)+(Z1をθ2回転)
というように解釈できます(これは複素数を図形的に考えるときに重要です)。

さて、ここからオイラーの公式を使うと役に立つ理由を説明します。
上で積を考えたときに,計算で気になるのは、
(cos(θ1)+i sin(θ1))×(cos(θ2)+isin(θ2)) =cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2)
の部分です。 この式は、本来なら加法定理を利用して整理すべきものですよね。
しかし,オイラーの公式を使えば、
(cos(θ1)+i sin(θ1))×(cos(θ2)+i sin(θ2)) =(eiθ1)×(eiθ2)
=ei(θ1+θ2) (ea×eb=ea+bを使った)
=cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2) (オイラーの公式を使った)
このように指数関数の性質を使い簡単に計算することができます(加法定理の計算を指数関数の積にすることができた) 。

http://doraneco.com/physics/lecture/math/eular.html
オイラーの公式の使い方
doraneco.com/physics/lecture/math/eular.html - キャッシュ 類似ページ
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2005年3月15日 – オイラーの公式 (e:自然対数) この式はオイラーの公式と呼ばれています。この式を知っていると計算の見通しが良くなるので高校生でも知っておくと ... そこで、オイラーの公式を複素数に使いオイラーの公式の使い方について考えてみます。


2012年06月23日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:凸(+1)や凹(−1)とは何か:有機体、生命体的物質と無機物的物質
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11284973493.html

いつか、緻密に議論したいと思っているが、凹i☯凸i、乃至は、凹j☯凸jの陰陽において、積の凸(+1)や否定の積凹(−1)は何を意味するのか。
 先に、凸(+1)は自然・宇宙界、凹(−1)は物質ではないかと示唆したが、それでいいのだろうか。
 簡単にするために、便宜的に、+1と−1で考えると、ここには、確かに、陰陽の氣である凸i(陽)と凹i(陰)がないのであるから、物質界に関係することは推測できる。
 しかし、問題は、凸iを重力子、凹iを光子としたとき、陰陽の氣は物質的になってしまうという齟齬が生じることである。
 思うに、重力子や光子は物質ではない自然エネルギーと見た方がいいのではないだろうか。光子には質量がないことを考慮してもそのようなことが言えよう。それを作業仮説としよう。
 次に、+1は、有機体、生命体の物質、−1は無機物的物質と作業仮説したい。
 以上で、一応、齟齬は解消できている。
 以下、簡単に図示する。


         陰・凹i(-i)・光子:「天」
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−1________MP________+1
無機物          |           有機体・生命体
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         陽・凸i(i)・重力子:「地」


        超無双PS哲科学的ガウス平面

尚、無双原理に倣って、陰・凹i(-i)・光子を上に、陽・凸i(i)・重力子を下に布置している。そして、MPは原点であり、media pointである。
 また、ガウス平面に直交する超越軸z軸や、z軸とy軸の虚軸が形成する超越円、超越界が本来存しているが、上図では、作図が難しいので、省略している。

追記:尚、陰・凸iを重力子(ないしは重力波)とするのも作業仮説である。

追記2:以下のオイラーの公式における「単位円」を上図に加えると、自然円となる。
 超越円は、z軸とy軸の面における「単位円」である。上図のガウス平面には直交している。分かりやすく言えば、直交する円盤がy軸(虚軸)に屹立するとというイメージとなる。


resurrectionのブログ


追記3:易経の太陽でなく、現象太陽はMP(media point)の、言うならば、表面に存するのではないだろうか。内面は太極ではないだろうか。これは検討課題である。(補記:宗教の世界は、超越界であるから、上図には基本的には属さない。しかし、media point が超越界へと通ずる現象界における唯一点と考えられる。それは、現象太陽である。その内部、ないしは、裏面・背面には、太極が存すると思われる。それが、シュタイナーの説くアフラ・マズダ=キリストと言えよう。それは、マニ教の光の世界である。結局、太極=宗教的光の世界=神界である。)

追記4:象限の考え方は、虚軸y軸の符号が逆になったので、従来通りには使用できないだろう。
 あえて従来通りの位置を用いれば、第一象限は、可視的現象界(光の現象界)、第四象限が不可視的自然界(闇の自然界)、第二象限は物質科学的世界、第三象限はダーク・マターの世界ではないだろうか。
 これも検討課題である。

参照:

resurrectionのブログ
http://content.edu.tw/competition/96year/web/works/B020040/teaching/1-3-2.htm

追記5:オイラーの公式

e^{i\theta} = \cos\theta + i \, \sin\theta

から、以前、Kaisetsu氏と生成門氏が行なったように、ある事象の定置化が考えられるように思う。もっとも、以前は私はそこまで理解が行かなかったが。
 しかしながら、易経にあるように、陰陽は6元あるのである。だから、以下参照2にあるように、積ないしは累乗が重要なのではないだろうか。
 簡単にするために、凹i、凸iを-iとiとする。すると、

陰の位置は、

e^(-iθ)=cosθ−isinθ   ・・・ A

であり、

陽の位置は

e^(iθ)=cosθ+isinθ    ・・・B

となるのではないだろうか。
そして、単純化して、陰陽はA×Bとなるのではないだろうか。
 しかし、正しくは、6元であるから、

(A1 or B1)×(A2 or B2)×(A3 or B3)×・・・×(A6 or B6)

となると考えられる。
 今は問題提起で留める。

修正:先ほど、思いついたのであるが、螺旋的6回転を考えれるとかなり明解になるように思われる。つまり、易における、6元であるが、各元を1回転と見るのである。だから、6元だから、6回点である。
 具体的には、第1回転では、陰・凹iから始めると、1回転は、陰に戻り、半回転は陽となる。ただし、半回転であっても、それは1回転のコースに含める。
 以下、同様に、第2回転、第3回転、・・・第6回転まで、螺旋的に回転するということである。そして、
 各回転の陰陽の様相をかけ算するのである。即ち、

1st cycle(陰、陽)×2nd cycle(陰、陽)×3rd cycle(陰、陽)×・・・×6th cycle(陰、陽)

である。

以下参照:
陰陽はどう機能するのか
テーマ:超無双PS哲科学

凹j☯凸jは同時に、凹i☯凸iを意味しよう。(☯は極性共振を意味する)二重の極性原理を意味しよう。
 問題は、現実においてはどのように作用するのかである。
八卦に則して、考えた方がいいかもしれない。
 例えば、1,凹i(陰)、2.凹i、3.凹iと4.凸i(陽)、5.凸i、6.凸iの順列を考えるのである。
1は凹iと凸iの2通り、以下同様で、
2^6=64通りである。
 問題は、6が何を意味するのか、どのように構造化されるのかである。
 思うに、6つの単位円を考えて、それをmedia pointで共振させることが考えられる。つまり、

1)凹i or 凸i
2)凹i or 凸i
・・・
6)凹i or 凸i

の6つの陰陽様態を「共振」させると、64通りの様態が結果として生起するとは考えられる。

* 64卦一覧
* 64卦配列


 そうすると、6つの陰陽円(自然円に一応限定する)の共鳴が基本的自然様態ということになる。
 思うに、これは、超越円でも考えられることである。そうすると、超越円でも64通りがあるのである。
 自然円と超越円をどう関係づけるのかすぐにはわからないが、思うに、精神の64様態と物質の64様態の組み合わせが考えられるのである。思うに、精神があるのだから、それは、人間になるのではないだろうか。精神の64様態は神々、精霊等々ではないだろうか。
 今は示唆に留める。

参照:
八卦とは | 易経ネット
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11280408121.html
 
参照2:
オイラーの公式の使い方
大学に入ると次のような式を学びます。

オイラーの公式
(e:自然対数)

この式はオイラーの公式と呼ばれています。この式を知っていると計算の見通しが良くなるので高校生でも知っておくと良いと思います。そこで、オイラーの公式を複素数に使いオイラーの公式の使い方について考えてみます。

複素数は、
Z=|Z|(cosθ+i sinθ)
と極座標(距離と角度)の形式で表すことができます。

このとき、Z1とZ2の積を考えると、
Z1×Z2=|Z1|(cos(θ1)+i sin(θ1))|Z2|(cos(θ2)+isin(θ2))
=|Z1||Z2|(cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2))
となります。
この式の図形的意味を考えると、
(Z1にZ2を掛ける)=(Z1を|Z2|倍に拡大)+(Z1をθ2回転)
というように解釈できます(これは複素数を図形的に考えるときに重要です)。

さて、ここからオイラーの公式を使うと役に立つ理由を説明します。
上で積を考えたときに,計算で気になるのは、
(cos(θ1)+i sin(θ1))×(cos(θ2)+isin(θ2)) =cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2)
の部分です。 この式は、本来なら加法定理を利用して整理すべきものですよね。
しかし,オイラーの公式を使えば、
(cos(θ1)+i sin(θ1))×(cos(θ2)+i sin(θ2)) =(eiθ1)×(eiθ2)
=ei(θ1+θ2) (ea×eb=ea+bを使った)
=cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2) (オイラーの公式を使った)
このように指数関数の性質を使い簡単に計算することができます(加法定理の計算を指数関数の積にすることができた) 。

http://doraneco.com/physics/lecture/math/eular.html
オイラーの公式の使い方
doraneco.com/physics/lecture/math/eular.html - キャッシュ 類似ページ
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2005年3月15日 – オイラーの公式 (e:自然対数) この式はオイラーの公式と呼ばれています。この式を知っていると計算の見通しが良くなるので高校生でも知っておくと ... そこで、オイラーの公式を複素数に使いオイラーの公式の使い方について考えてみます。





再考:同一性と差異:小我(自然円)と大我(超越円)に関係させて

• 同一性と差異:無双原理を包摂したPS哲科学の視点から (06/18)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1830.html

• 超越界とガウス平面:自我と自然:超越円と自然円 (06/17)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1829.html

以上の考察以前においては、超越軸、超越界、超越円抜きのガウス平面で、同一性と差異について考察してきたが、上記の状況は新たな緻密な考察を要求しているので、考察を深めたい。
ガウス平面/オイラーの公式に基づくPS理論において、同一性と差異についての考察はそれなりに明快・明解であった。それを簡単に復習しよう。
それは、自我である凸iが差異・他者である凹iを否定するというのが同一性主義であり、差異・他者の凹iを肯定することで、凸iと凹iの差異共振が生じるというものである。
これは実に簡潔明快であるが、超越軸・超越界・超越円を導入すると、新たな思考が必要になるのである。
議論を明快にするために、小我(自然円)と大我(超越円)の視点から述べたい。
結局、問題は、大我がどう小我に関係するかということである。思うに、人間においては、当然、大我が小我に浸透している。しかしながら、人間は、小我において、自我性ないしは物質性に傾斜している。(微妙な点であるが、いちおう、そのような発想で議論を進める。)
これは、父権主義と母権主義の違いの点でもある。
父権主義とは、大我の「太陽」の傾斜によって形成されたと思われる。それは、小我の小陽に傾斜すると考えられる。言い換えると、同一性主義である。
母権主義とは、反対に、大我の「太陰」の傾斜によって形成されたと思われる。それは、小我の小陰に傾斜すると考えられる。それは、差異主義(個主義)である。
いちばんの問題は、父権主義である。大我の「太陽」と小我の小陽が結合している状態である。
 これは、いわば、究極的な同一性主義、同一性中心主義、同一性絶対主義である。
これは、差異を当然否定するのである。そして、差異を自己の同一性へと取り込むのである。
この帰結が近代合理主義、近代的自我、唯物論と言えよう。そして、この事象・事態をPS哲科学では、連続性と呼ぶのである。
それに対して、不連続性とは、連続的同一性を否定し、抑圧された太陰、小陰である差異を積極的に肯定することである。これは、同時に、同一性と差異との差異共振を意味し、母権主義ということである。
以上から、母権主義とは多元主義であり、父権主義とは一元主義であることが判明した。換言すると、前者は多神教であり、後者は一神教である。
そして、文明的問題は、父権主義が主導したとき、差異主義・多元主義・母権主義・多神教が父権主義へと連続化されることである。後者による究極的様態においては、前者のまったき否定となるが、一般的には、両者が未分化的に揺れ動いていると考えられる。
そして、この揺動は、未分化であり、二元論である。また、絶対的矛盾である。
この、いわば、分裂的二重性はカオスであり、本来、超克すべきものである。そして、この超克とは、不連続性の積極的肯定に拠ると考えられるのである。脱連続性である。
このとき、源泉の太極は、自然円的に、太極陰陽性を真に実現したことになる。父権的傾斜を超克した真母権的太極陰陽性を実現したと言えよう。


2012年06月18日(Mon)▲ページの先頭へ
同一性と差異:無双原理を包摂したPS哲科学の視点から
テーマ:超無双PS哲科学

超越界とガウス平面:自我と自然:超越円と自然円
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11280185452.html

以上の無双原理を包摂したPS哲科学の視点から、同一性と差異はどう説明できるだろうか。
 調和点=ゼロ点=media pointを発達させていない人は、自然円の小我状態にほぼ留まると言えよう。
 それは、ほぼ同一性の世界、つまり、物質の世界に留まると言えよう。物質主義の小我(自我)と世界に留まるのである。
 しかし、調和点=ゼロ点=media pointが強く作用している人は、超越円が作用するのであり、小我の世界に留まることはできない。小我の制限が苦悩・苦痛をもたらすと言えよう。
 超越円の作用は大我、精神、神霊の作用である。
 それは、調和点=ゼロ点=media pointにはたらきかけると考えられる。つまり、小我・小陰の凹iと小我・小陽の凸iに大我・太陰の凹jと大我・太陽の凸iがはたらきかけると思われる。
 それを考察する前に、小我において、差異は無いのか考えたい。
 小我においては、純粋悟性と欲望・感情が作用するのであり、それは、本質は同一性であるが、考えられる差異は物質的他者、外的他者であり、精神的差異・他者ではないから、本来の差異はないと考えられる。
 では、大我が作用する小我について考えると、同一性に差異(超越的差異)が作用するのであるが、小我的同一性は、それを抑圧・否定・排除しようとするのである。つまり、小我主義は、大我性を抑圧・否定・排除する作用を行なうのである。
 殊に、凸iの傾斜があると、同一性中心主義となり、それは、父権的二項対立主義となると考えられる。そう、一神教とは、大我の凸jが凸iに作用した超越的同一性主義と言えよう。
 ついでに言えば、大我の凹jが凹iに作用したものが多神教と言えよう。
 とまれ、一般的に大我の作用を考えると、凸iに傾斜すると同一性主義となり、凹iに傾斜すると差異主義になると考えられる。
 問題の核心は、連続性と不連続性である。前者は凸i傾斜(同一性主義)において、後者は凹i傾斜(差異主義、差異共振主義)において生起すると考えられる。
 しかしながら、太極原理は、両面をもっているから、凸i傾斜と凹i傾斜の二面性をもつのであり、結局、連続性と不連続性が併存する形になり、言うならば、絶対的矛盾が生起するのである。
 これが人間一般のカオスと言えよう。そして、このカオスの超克は、不連続性の選択的肯定によって、連続性を克服したときに為されると考えられる。即ち、大我の調和、太極的調和、太陰と太陽の均衡調和がもたらされるのであり、小我を包摂する大我が形成されると言えよう。

参考:
「ゆえに、論理的必然性から、戦争が始まります。イノチがかかっていますから、戦争になります。内乱です。それに値する事件です。3.11事故と、再稼動は。」by
http://www.k2o.co.jp/blog2/2012/06/post-720.php

新井信介 「京の風」


2012年06月17日(Sun)▲ページの先頭へ
超越界とガウス平面:自我と自然:超越円と自然円
超越界とガウス平面:自我と自然:超越円と自然円

テーマ:無双原理とPS哲科学

先に、無双原理を見て、ガウス平面を直交する垂直軸(超越軸)が不要であると述べたが、果たしてそうだろうか。
 問題は、自我原理(小我原理と大我原理)をどう捉えるかである。
 一般に、自然(植物、動物、鉱物、その他有機体や無機物)には、人間のような自我原理はないのだから、それらと一様に人間を扱っていいのか、これまで述べたように、問題である。
 やはり、一般の自然とは超越した原理として、自我原理を見るべきならば、やはり、ガウス平面に直交する超越軸が必要となる。
 そうならば、根源の太極が超越円にあり、その回転によって、ガウス平面の単位円が形成されるということになるだろう。
 そうすると、二重の円、超越円と自然円を考える必要があるのである。
 これは、無双原理に引かれる前の考えに戻ることになる。
 そうなると、太極、太陰・太陽の考え方はどうなるだろうか。
 超越円=太極であり、太陰が超越軸凹j、太陽が超越軸凸jとなるのではないだろうか。では、虚軸凹iと虚軸凸iは何になるのか。
 仮に、凹iを小陰、凸iを小陽としよう。光(光子)は凹iであり、空間形式であり、闇(重力子)は凸iとなり、時間形式である。前者に太陰凹jが重なり、純粋悟性となり、後者に太陽凸jが重なり、感情・欲望となるのではないだろうか。
 つまり、超越円は宇宙・神霊的次元であり、自然円は現実・日常的次元となる。
 そう、カントの超越論的形式とは、超越円が自然円に重なった様態を意味していよう。そして、カント哲学では、超越円への志向が純粋理性批判という限界を もっているのである。言い換えると、重なった様態においてのみ、カントは、超越円への超越性を示唆するのみで、超越円に飛翔できないと考えられる。
 超越円の世界とは、プラトンのイデア界である。

追記:以上のように考えると、小我は自然円に、大我は超越円に存すると言えよう。
 では、小我の自然円から大我の超越円への飛翔はどのように可能になるのだろうか。
 問題は、小我=自然円に存するmedia point(調和点)を重視することによってであろう。それは、超越点と言うことも可能である。その超越点を重視することは、超越円に通じることとなると考えられる。
 思うに、心、精神、魂と呼ぶものは、小我=自然円のmedia point=調和点=超越点であると思われる。その涵養・陶冶によって、超越円=超越界=神霊界へと飛翔できると考えられる。
 近代・現代日本人は、唯物論化されて、これを喪失していると考えられる

追記2:PS哲科学は無双原理を包摂するものになると言えよう。





トランスからイントラへ?:トランス・モダンからイントラ・モダンへ?

テーマ:trans-modern:超近代的進化

近代を超える意味でトランス・モダンという用語を使用しているが、思えば、近代・モダンの内在的超越を問題としているのであるから、イントラ・モダンが正しいと思う。 inner-transcendenceである。

追記:内在的は、immanentやintrinsic等があり、超越的は、transcendentである(超越論的がtranscendental:以上カント哲学から)。

追記2:イントランス・モダンの方がいいかもしれない。日本では、内超近代である。


参考:
「超越的」と「超越論的」≪超越論的な真理は本当か2 - 独今論者のカップ ...
sets.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/2-45b3.html - キャッシュ 類似ページ
sets.cocolog-nifty.com の結果をすべてブロック
2010年7月19日 – 超越的」と「超越論的」≪超越論的な真理は本当か2≫. 認識の考察の仕方について、カントは「超越論的」という言い方をする。 実在の側に「物自体」が存在し、しかしそれは、人間という観察者には決して到達しえないという。 その世界を構成し ...





小我と大我の連続性が一神教的であり、両者の不連続性が多神教的では?:ultra-modern

テーマ:無双原理とPS哲科学

小我と大我:凸iと凹i:物質的自我と宇宙的自我
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11279267349.html

先に以上のように述べたが、再考したい。
 復習すると、凹iが太陰であり、小我であり、多である。凸iが太陽であり、大我であり、一である。
 しかしながら、凹iは純粋悟性であり、それは、同一性を意味する。凸iは宇宙的意識であり、根源であり、他者である。
 問題は、小我の同一性と大我の一性である。大我の一性とは、他者性であるから、実は、多を意味する。一即多である。
 小我と大我が連続化すると、小我のもつ同一性が大我の他者=多性を否定して、いわば、一神教的志向性をもつのではないだろうか。言い換えると、同一性中心主義、二項対立主義、父権主義である。
 両者を不連続化したとき、小我と大我の差異共振が起こり、純粋悟性と宇宙的意識の均衡性を生じるだろう。

追記:太陰は物質の光であり、太陽は太陽/超太陽の光である。light とdarknessである。
 太陽はultra-sunを意味する。
 純粋悟性は唯物的知性であり、宇宙的意識は内在-超越的意識である。両者の極性均衡は、ultra-modern、neo-orientalismを意味する。

追記2:小我と大我の連続性が凹i*凹凸i⇒凹(−1)では?
というか、凹i*凸i⇒凸(+1)+凹(−1)ではないのか。
 つまり、太陰凹iと太陽凸iの連続性は、物質的認識凸(+1)と同一性的認識凹(−1)を生むのではないだろうか。両者は双子のようなものと考えられる。連続性のもたらす双子である。

追記3:超太陽とは、太極ではないのか。後で検討したい。





小我と大我:凸iと凹i:物質的自我と宇宙的自我

テーマ:無双原理とPS哲科学

凹iが陰(太陰)、凸iが陽(太陽)だろう:自我とは陽だろう。

先に以上のように述べたが、どうも、自我は二種類あって、凸iの陽が大我であり、凹iの陰が小我ではないのかと考えてみた。
 そうならば、大我と小我の連続性が近代的自我であり、近代合理主義を生むのである。
 両者を分離するのが、不連続的差異論、そして、両者を共振させるのが、PS哲科学である。
 小我とは、純粋悟性的自我であり、大我とは、宇宙的自我、神的自我である。
 両者を不連続化したとき、「ポスト・モダン」が始まる。
 とまれ、思うに、大我は一(いつ)の志向をもち、小我は多の志向をもつのではないだろうか。
 しかし、両者が連続化すると、大我が小我を支配して、統一主義、二項対立、全体主義になるのではないだろうか。
 というか、大我と小我で揺れ動くであろう。

以下、専門的な独創的内容になるので、割愛する。





凹iが陰(太陰)、凸iが陽(太陽)だろう:自我とは陽だろう。

テーマ:無双原理とPS哲科学

無双原理・易―「マクロビオティック」の原点/サンマーク出版

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一部を除き、ざっと読んだが、これは、無双原理のスケッチというべき著書だと思う。たいへん洞察力に満ちたものであるが、粗削りである。
 もう八十年以上も前の著書であり、その後、無双原理を発展させたものを管見で知らない。もっとも、PS哲科学は陰陽原理に基づくので、無双原理の一種の無意識の後継者になるかもしれない。
 とまれ、先の私の指摘は早とちりだった。凹iが陰で、凸iが陽であるが、無双原理では、凹iが上方であり、凸iが下方である。ここが一つのポイントである。
 私は純粋悟性は凹iであると考え、また、自我もそのように思ったが、どうやら、純粋悟性と自我は切り離すべきように思えてきた。
 自我は、凸iの陽の原理ではないかと思えてきたのである。つまり、凸i=陽の傾斜が自我原理である。それに対して、凹i=陰の傾斜は悟性原理となるだろう。
 とまれ、問題は、近代的自我とは、この対極的原理が結合していることだろう。凸i=陽が凹i=陰と結合しているのである。そう、これこそ、連続性ではないだろうか。
 そして、不連続的差異論は凸i=陽と凹i=陰を切り離したと考えられるのである。つまり、自我原理と悟性原理を切断したことになるのである。だから、「ポスト・モダン」である。
 無双原理的に言えば、陽と陰を区別したことになるのである。
 そして、PS理論は、陰と陽との差異共振極性原理を数学化したものである。
 問題は、自己認識方程式にあるかもしれないが、これは、今はおいておく。
 とまれ、近代的自我(コギト主義と呼んでおく)は、陽のもつ同一性と陰の差異(個)を連続化してしまっているのである。絶対的矛盾を一体化してしまっているのである。
 ところで、凸i=陽=自我同一性原理、凹i=陰=純粋悟性原理とすれば、超越軸は不要であり、ガウス平面と円(オイラーの公式)だけで済むことになる。
 ただし、無双原理のように、凹i=陰を上部、凸i=陽を下部とする必要があるだろう。

追記:自己認識方程式(凸i*凹i⇒凸[+1])であるが、*の積とは、連続化の意味となるのではないだろうか。つまり、近代的自我ないしは近代合理主義を意味するのではないだろうか。
 凸(+1)とは、物質的認識(近代合理主義)を意味するのではないだろうか。
 そして、凸i*凹凹i⇒凹(−1)とは無自我的認識のことではないだろうか。(不連続的差異的様態を意味するのかもしれない。)
 本来の自己認識は、ガウス平面上の単位円に存するのではないだろうか。それは、オイラーの公式で表現されるだろう。
 後でさらに検討したい。





太陽は太極で、media point

テーマ:無双原理とPS哲科学


周氏太極図


先に、太陽を陰(光)*陽(闇)⇒太陽と図式化したが、そうではなく、太極=太陽⇒陰(光)*陽(闇)⇒宇宙・自然ではないだろうかと思った。初めに、太極=太陽ありきである。
 それは、超・超越界ではないだろうか。media pointとしての太極=太陽から、超越円と超越軸z軸が生まれたのではないだろうか。そこから、また、陰陽が生まれたということではないのか。
 後で検討したい。
太極図 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/太極図 - キャッシュ 類似ページ
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太極図が文献として確認されるのは北宋の周敦頤の著した『太極図説』(11世紀)が最初である。『易経』繋辞上伝における「太極 - 両儀 ... 黒色は陰を表し右側で下降する気を意味し、白色は陽を表し左側で上昇する気を意味する。魚尾から魚頭に向かって領域が ...
五層 - 陰陽魚 - 円図 - Unicode

太極 - Wikipedia

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道教のシンボルともなった陰陽魚の太極図 · 周敦頤『太極図説』に描かれた最初の太極図。朱子学によって重視された。 太極(たいきょく、簡体字:太极 ピンイン:tàijí、タイチー)とは、『易』の生成論において陰陽思想と結合して宇宙の根源として重視された概念で ...
太陰大極図とは何か?
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ところが実は、この太極図の説明の仕方は、モナリザを追求した結果、出来上がったものなのです。 「モナリザの背景は、四つの場所をつなぎ合わせたものだった。」 これは06'05/20フジテレビ系列放映の『ダ・ヴィンチ=コード ミステリースペシャル』で紹介された、 ...





無双原理の陰陽哲学について:凸iが陰で、凹iが陽なのか、どうか

テーマ:無双原理とPS哲科学

以下の著書を半分弱読んだが、思った通り、実に興味深い、魅力的である。確かに、PS哲科学に似ているが、根本の点でまったく正反対なのである。この点がいちばんの問題である。
 即ち、PS哲科学では、これまで、凸iを陽、凹iを陰としていたが、無双原理に即せば、凸iが陰、凹iは陽とならなくてはならない。言い換える と、光が陰、闇が陽とならなくてはならない。これは、最大の問題である。光を陽、闇を陰とするのは、語義からみても、直観から見ても妥当であるが、それを 逆転することが可能なのだろうか。
 凸iを悟性(知性)と取ると、無双原理の陰陽性がわからないでもない。悟性(知性)はクールであり、冷であるから、確かに、無双原理からすると、陰となる。
 それに対して、魂はホットであり、暖であるから、確かに、無双原理からは、陽となる。
 そうすると、凹iが陽で、凸iが陰となることになるが、それでいいのだろうか。
 具体的に言うと、女性が陽で、男性が陰である。それは、確かにわからないことはない。
 どうも、無双原理の方へなびきつつある。
 ここで、参考として、D. H. ロレンスの王冠哲学を考えると、獅子=「父」が闇であり、一角獣=「子」が光であり、両者の「止揚」として、王冠=「聖霊」が存する。
 闇は陽であり、凹iとなり、光は陰であり凸iとなる。
 確かに、それはロレンスの思考に合致するだろう。
 無双原理を肯定すると、PS哲科学の凸i*凹i⇒凸(+1)の方程式は陰(光)*陽(闇)⇒自然・宇宙ということになる。
 仮にこれを肯定した場合、光のもつ明朗感、歓喜感は陰で説明ができるのだろうか。
 太陽が陰でいいのだろうか。思うに、太陽は、本来、陰と陽の結合によって生まれたものではないのか。ならば、光は、太極的であろう。
 ならば、陰を光とするのが、誤りである。陰*陽⇒光とすべきように思う。そして、太極⇒陰*陽⇒光という根本図式が考えられる。
 そのようにしたとき、カント哲学の悟性原理はどのように説明できるだろうか。これまで、凸iの光の原理としてきたのである。
 それは、今は、反対となり、凸iの陰の原理とすれば、説明できることになる。
 どうも、無双原理の陰陽論の方が的確のようである。
 後で更に検討したい。
追記:ロレンスの説くdarknessとは、上述の視点からは、闇ではなく、陽となる。でも、このように説明すると明らかに混乱する。
 結局のところ、根本の問題は光とは何かということになるだろう。いわば、光は光であって、光ではない。
 人間は一般に、陰凸iを介して、光を知覚する。それは、同一性の光、物質の光である。しかし、それは光を同一性のフィルターを介して見たものに過ぎない。それを物質光と言ってもいいだろう。あるいは、陰光である。
 それに対して、本来の光は、陰陽共振結合によって生じるものと考えられるのである。つまり、陽極をもっているのであるが、人間は、陰極から見ているのである。
 陽極から見た光がdark sunというものではないだろうか。
 結局、一般に人間は本来の光、太陽を見ていないのである。同一性、物質、陰凸iの眼鏡を介して、見ているに過ぎないのである。
 そう、人工的な光・照明は、物質光(凹、−1)と見ないといけない。それは、本来の光、太陽ではない。
 ロレンスのdarknessに戻ると、それは、陽凹iであり、本来の光に通ずるものである。それは、魂(内在)から霊(超越)へと通ずるものである。
 結局、問題は言葉の問題である。所謂、光が光でないために、混乱するのである。
 そう、明快にするならば、通常の光を光と呼ぶならば、darknessは確かに、闇である。そして、光(陰)と闇(陽)の共振結合から生まれるのは、以前述べたように、超光である。
 マニ教その他宗教の光は、超光と見るべきである。それは、dark sunである。
 それは、また、プラトンの洞窟の比喩における洞窟外の太陽である。ここで、ロレンスとプラトンは一致するのである。
 日常言語を混乱させるのはよくないので、光(陰)*闇(陽)⇒超光(dark sun)という図式(PS哲科学では、凸i*凹i⇒凸(+1)という自己認識方程式)を肯定したい。
 ここで一言、無双原理の視点から、日本の文化・社会状況を述べると、明らかに、凸i(光・陰)化しているのである。凹i(闇・陽)が衰退しているのである。
 更に、『無双原理・易』を読み、検討を続けたい。
 
無双原理・易―「マクロビオティック」の原点/桜沢 如一

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超日本人への進化:眠っている母権極を覚醒開発し、神秘・超越的精神へと「止揚」すること

テーマ:新母権的社会:差異共振共同体

先に、日本民族文化は母権極と父権極の極性をもつと述べたが、今日は、父権極に傾斜しているために、日本人の精神が無秩序状態になっていると考えられる。
 そう、基底に多重多層の母権極があるために、父権極傾斜では、母権極の力に対応するために、知的精神は歪んだもの、奇形的なものになってしまうと考えられる。
 そう、日本民族文化の母権極を覚醒させる必要がある。それは、神秘・超越的精神である。近代合理主義、唯物論、物質科学・技術を信奉している現代日本人 にとって、それを受け入れることは、実に恐ろしいことであろうが、それを受容しないと日本は滅亡するしかないのである。眠っている母権極を開発する必要が あるのである。

No駄背犬は、国学化された日本父権主義の末裔である:新母権的個的民主主義へ
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11274522210.html

日本父権主義とは何か:無意識の母権極と封建的同一性・自我主義の複合的バイアス
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11273779168.html





No駄背犬は、国学化された日本父権主義の末裔である:新母権的個的民主主義へ

テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

以下の一番目の記事に「合理的思想体系はなく、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を振りまいているが、このままやらせていたら必ず国が滅びる」と述べられているが、「合理的思想体系はなく、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を振りまいている」 という点であるが、これは、正に、先には触れなかったが、日本父権主義の国学化された精神であると考えられる。私の明治維新批判もこの国学的精神に向けら れている。それは、二項対立であり、他者を否定排除するが、独特なのは、ここで述べられているように、「感情に訴え」る点である。有名な本居宣長の「敷島 の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」は正に、情緒論であり、感情主義なのである。日本父権主義は国学化して、二項対立主義であると同時に、感情主義な のである。つまり、反合理主義なのである。同時に、当然、利己主義である。
• 2012/06/11 : 政治・権力・陰謀 : 危機感なき言論と知識人に警告 野田首相は典型的なファシストだ 「日刊ゲンダイ」 H.24/6/9
• 2012/06/11 : 政治・権力・陰謀 : [怒りの検証] 枝野と菅 「原発事故調」の偽証を告発する! 「週刊ポスト」 H24/6/15号





無双原理とPS哲科学:比較考察検討の必要

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

無双原理もPS哲科学も易の陰陽論(陰陽相補哲学)を基盤としている。PS哲科学は輪郭はほぼできているが、細部になるとまだ不明瞭である。桜沢如一(ゆきかず)氏の無双原理を読んで、視野を広げたい。
 考えてみたら、陰陽の根源の太極については、これまで、PS哲科学では、ほとんど論究していないのに気づいた。陰陽極性の二重性とその中間点のmedia pointを中心に考えてきて、太極という超越性は考えてこなかった。ここに発展の糸口の一つがあるだろう。

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桜沢如一

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桜沢 如一(さくらざわ ゆきかず、生来はにょいち。1893年 10月18日 - 1966年 4月24日 )は、思想家 ・食文化 研究家。
マクロビオティック の提唱者として有名で、海外ではジョージ・オーサワ(George Osawa)の名で知られている。
経歴 [編集 ]
和歌山県 新宮市 (当時の東牟婁郡 )の貧しい武士 の家系 に生まれる。14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、二十歳の頃、食養家・後藤勝次郎を通して[1] 石塚左玄 の「食養生」に触れ、健康を回復する。その後貿易商 として活動する傍らで、石塚の主宰していた大日本食養会 に参加。1924年 には同会会長となり、石塚の死後伸び悩んでいた同会の復興・指導に専念する。1939年 、大日本食養会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退、翌1940年 、無双原理講究所 を滋賀県 大津市 に開設する。
その傍ら執筆活動を続け、石塚の唱えた「夫婦アルカリ 説」「ナトリウム ・カリウム のバランス論」を易経 の陰陽 に当てはめた無双原理 を提唱。1929年 に単身シベリア鉄道 経由でパリ に渡り、ソルボンヌ大学 に留学。次いで、同年、フランス語 にてパリ のVrin 社より『Le Principe Unique de la Science et de la Philosophie d'Extreme-Orient (東洋哲学及び科学の根本無双原理)』を上梓、東洋思想 の紹介者としてヨーロッパで知られる様になり、アンドレ・マルロー などと親交。1937年 に帰国すると『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を実業之日本社 から刊行。たちまち300版余を重ねるベストセラー となる。
戦時中は夫人で食養料理研究家の桜沢里真 の実家のある山梨県 に疎開。戦後は世界連邦運動 に取り組む傍ら、再びインド ・アフリカ ・欧米 など世界各地を訪ね、マクロビオティック の普及に注力する。1955年 には、アフリカ・仏領ガボン にてアルベルト・シュバイツァー 博士と会見し、西洋医学 、栄養学 の限界とその改善を進言するが受け入れられなかった。
1960年代 初頭、原子転換に係る研究者であるルイ・ケルヴラン はパリにおいて桜沢の主催する東洋哲学 講演会に出席し、強い感銘を受けた。2人の交流は、相互に影響を与えたが、特に、桜沢は、その後の活動の主力を原子転換 にシフトすることになる。 1964年 6月21日 、桜沢は、自ら考案の装置にて、Na →K の低温低圧原子核転換の成功を述べている(客観 的な真偽不明)。
後進の育成にも努め、無双原理講究所からは奥山治 、その後身である戦後の真生活協会(メゾン・イグノラムス、略称MI。現在の日本CI協会)からは、久司道夫 、大森英桜 、岡田周三 、菊池富美雄 らが育った。桜沢の元で一番長く師弟関係であったのは松岡四郎(前正食協会会長)である。
死因は心筋梗塞 。
脚注 [編集 ]
1. ^ 太田竜 『日本の食革命家たち』柴田書店、1984年。58頁
参考図書 [編集 ]
• ルイ・ケルヴラン 著/桜沢如一訳 『自然の中の原子転換』 日本CI協会 。
• 桜沢如一著『無双原理・易』 日本CI協会 、1971年 2月。
関連項目 [編集 ]
• 常温核融合
外部リンク [編集 ]

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• 正食協会
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• 食養
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• 京都府出身の人物
• 1893年生
• 1966年没
• 生物学的元素転換
• マクロビオティックの人物

1 桜沢如一氏のこと
www.matsuihsp.or.jp/shokunai/html/.../mansei_v02_01.ht... - キャッシュ 類似ページ
ここに桜沢如一氏について書いた文章を紹介します。これは「新栄養」という雑誌に昭和60年の10月、11月、12月と3カ月にわたって連載されたものです。これを書いたクレマン・S・Kという人は河内省一先生です。河内先生と日野先生はどちらも桜沢氏の指導を ...


2012年06月10日(Sun)▲ページの先頭へ
日本父権主義とは何か:無意識の母権極と封建的同一性・自我主義の複合的バイアス
テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

再考:日本民族における母権と父権の極性:父権的傾斜と母権的均衡
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11272909996.html

上述における日本父権主義の説明を整理する必要がある。
 少し復習すると、日本民族は、ベースの母権的民族に大陸からの父権的民族が進入し、初期において後者が前者を支配するが、その後、両者の混淆・結合・融合が進み、その結果形成された(言わば、多民族融合民族)。
 その融合の結果、日本民族文化は、母権極と父権極の両極をもつ極性性を帯びた。
 日本父権主義は、その父権極の傾斜をもつものであるが、母権極を無意識的にもっている。
 江戸時代において、日本父権主義は封建制のイデオロギーを強く帯びた。つまり、封建的父権主義となった。
 まとめると、日本父権主義は無意識的母権極をもつ封建的父権主義となった。
 そして、父権主義とは、自我の同一性主義を帯びているから、結局、日本父権主義は、無意識的母権極をもつ封建的父権的自我・同一性主義ということになる。
 ここで、先の論点を当てはめると、無意識的母権極には、アニミズム、シャーマニズム等の非合理性があり、封建的父権性は中央集権的権威主義があり、自我・同一性主義は合理主義への志向はあるが、また、利己主義があるということになる。つまり、日本父権主義は、

1)非合理性:アニミズム、シャーマニズム、等の原始的宗教性
2)封建性:中央集権的権威主義
3)自我・同一性:合理主義と利己主義

の三点の複合体であると考えられる。
 この日本父権主義に近代西洋文明(簡単に近代合理主義としておく)が導入されたときどうなるのか。
 近代合理主義は、個の覚醒と近代的自我に拠る合理主義であるが、日本父権主義には、両者を欠いているので、近代合理主義は、自我・同一性における合理主義において一面・一部は受容されるが、非合理性、封建性、利己主義によって歪められ、捩じ曲げられて、奇妙キテレツな、グロテスクな、戯画的な似非近代合理主義になったと考えられる。
 自我・同一性における合理主義は機械的な合理主義、同一性主義のことであり、個や差異に基づく合理主義ではないので、集合的なものであり、封建的体制によって、全体主義化すると考えられる。
 近代西洋文明を導入した日本父権主義において、近代主義に値するものは、機械的合理主義=同一性主義と利己主義であり、その他は、前近代的な、無意識の原始的宗教性、封建的権威主義・ヒエラルキー体制で、それらは複合的に、いわば、狭隘閉鎖的な部族的「村」的な集団・集合主義、日本的全体主義を形成したと考えられる。
 後で、さらに整理したい。

追記:大本教や日月神示では、「大洗濯」、「大峠」と黙示録的視点を提示するが、思うに、日本人は心、精神、意識の「大洗濯」が必要である。明治維新、戦後主義において、否定排除された、日本母権主義、新母権主義へと回帰すべきである。
 肚・魂という基底への回帰である。それは、また、超越性の肯定である。つまり、超近代、トランス・モダンである。もっとも、日本の場合、同時に、トランス・プレ・モダンでもあるが。そう、日本民族文化は、近現代において、複雑骨折して、正に、無秩序、カオス状態なのである。

比較参照:
【フクシマ原発事故】 国会事故調に”極悪人”清水前社長が登場 〜今、真に問うべきこと〜

昨日(6/8)、フクシマ原発の事故原因を調べる国会・事故調査委の”大トリ”を務めるかたちで、”極悪人”清水正孝前社長が登場した。

清水正孝については、事故当時、東電の最高責任者の立場にありながら、事故の初動対応もロクにせず逃げ回っていたことは記憶に新しいが、以下のゲンダイ記事からわかるように、相変わらず”己の保身”と”責任逃れ”に終始したクズっぷりさ加減全開である。

この”極悪人”たる清水正孝が、無責任にも、炉心溶融を起こし制御不能となったフクシマ原発からの「全面撤退」の意思表示をした事実については、大手マスゴミ報道では「不明確」とされているが、ほぼこれに等しいことを口にしたことは想像に難くない話であろう。

しかし、先日のエントリーのエントリーでもコメントしたとおり、大手マスゴミどもは官邸の中でも特に菅直人に責任を負わせるべく、偏向報道を繰り返している始末である。

以下の日経記事をみれば、その姿勢に何ら変わりないことが読み取れることであろう。

”菅直人叩き”の根底にあるのは「”原発利権ムラ”に同調する人間を助け、ムラを売った人間をくじく」という実にわかり易い構図であるが、実際には、菅直人は勿論、枝野幸男、海江田万里、勝俣恒久、清水正孝、佐藤雄平ら全員が同罪であり、こやつらが今も主要なポストを務め、のうのうとシャバの空気を吸っているのは、まったく摩訶不思議な話である。

今回の国会事故調の報告・総括を待つなどと言わず、本来であれば、警察権力・検察らがこれら”極悪人”どもに対して家宅捜査をおこない、指揮権発動がなされて然るべき話であろう。


と、色々言ってはみたが、実際に必要なのは「この中の誰が悪いのか?」といった犯人の特定などではなく、事故の教訓を活かした原発監視体制の見直し・再構築であろう。

誤解しないで頂きたいのは、小生は何も原発の再稼動前提の話をしているのではなく、例えこのまますべての原発が目出度く廃炉の方針となったとしても、廃炉が完了するまでには相当の年月を要するということである。

http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/a988dcf53b385a3fa74236f558d5d722


暗黒夜考〜崩壊しつつある日本を考える〜


2012年06月09日(Sat)▲ページの先頭へ
再考:日本民族における母権と父権の極性:父権的傾斜と母権的均衡
私は既述のように、日本民族は、ベースは母権的民族で、それに父権的民族が進入して、両者が混淆して、形成されたと考えている。母権的民族は、沖縄・アイヌに残ると考えられる縄文的民族と、中国から移動した弥生的民族と、ツングース系民族、他である。父権的民族は、いまだよくわからないが、中国からやってきた民族ないしは失われたイスラエルの十支族やその他である。
 母権的民族と父権的民族の混淆で著しい例は、古代ギリシアである。それは、ギリシア神話に見事に表現されている。
 そして、日本民族の混淆はやや性質は違うものの、ある意味で類似していると考えている。
 問題点は、混淆の性質である。思うに、三種類のパターンが考えられる。即ち、

1)母権的傾斜型
2)父権的傾斜型
3)母権・父権的均衡型

の三つの型である。
 日本民族文化を考えたとき、この三つの様態があるように思われる。
 とまれ、確認すべきは、母権極と父権極があり、この極性の陰陽的様態において、日本民族文化を見る視点である。
 言い換えると、初めは、母権的民族が存在し、その後、父権的民族が到来して、後者が支配的になったが、時代が経つにつれて、両者が混じり合い、母権/父権的極性的民族・文化が形成されたと考えられる(仮説)。
 私がアニミズムと機械・物質文明の連続性について述べたが、そのとき、自我は弱いと述べた。その意味はこの極性的様態から考えるべきである。つまり、ストレートな父権主義ではなく、母権的極性をもっている父権主義なので、自我が、純粋父権主義の自我から見ると、「弱い」ものとなるのである。しかしながら、「弱い」とは言え、父権極的自我は存在するのである。
 とまれ、アニミズムと機械・物質文明の連続化は、ベースにある母権極にアニミズムがあり、それが、「弱い」父権的自我を介して、機械・物質文明と繋がったと考えられるのである。
 ここで、明治維新以降の「近代化」を考えると、そのような精神様態をもつ日本人であるから、近代合理主義は、欧米のものとは当然、異なるものとならざるをえない。
 つまり、西洋における近代合理主義は近代的自我(デカルトのコギト)と結びついたものであるが、日本の場合、近代的自我は、独立したものではなく、ベースの母権極のために、半近代的自我にならざるを得なかったと考えられる。
 そう、母権極の非合理性(アニミズム等)があるために、近代合理主義は、形式的なものとなり、非合理性によって歪曲されたものとなったと考えられるのである。
 明治維新以降の日本支配層は、私説では、父権主義であるが、今述べたように、非合理性をもつので、欧米の合理主義文明が非合理性によって染められたものとなったと見ても、間違いではないだろう。
 導入された「近代合理主義」、機械・物質文明は非合理性によってねじ曲げられて、無分別に、盲目・狂信的に戦争の道へ進み、「太平洋戦争」の大惨禍を引き起こしたと考えられる。
 また、戦後であるが、この非合理性をもつ父権主義は当然、清算されずに存続したのであり、それは、米国をいわば宗主国とする植民地・属国的日本をもたらしたと考えられる。
 また、敷延すれば、原発の林立も結局は、この非合理性をもつ父権主義のしからしめるものと言えよう。
 これも持論であるが、明治維新は母権的勢力を父権的勢力が制圧して生まれたものである。坂本龍馬、西郷隆盛らの母権的勢力が弾圧され、力を失ったのである。
 近世・近代の母権的勢力であるが、上述から見ると、非合理性をもつのではないかと言われるであろう。確かに、非合理性をもつが、実は、その非合理性に徹しているので、非合理性の「理性」をもつ文化をもっているのである。それが、東洋・日本的身体文化、肚の文化である。つまり、近世・近代の母権的勢力は、伝統的な東洋・日本文化を体現していた勢力であり、新たな西洋の知見をもった文明的勢力であったと考えられるのである。
 だから、母権的勢力とは実は、母権極/父権極の均衡性をもった勢力でもあったと言えるのである。そして、そこにこそ、正統な日本の未来があったと言えるのであるが、残念ながら、父権的勢力が支配して、非合理衝動である過信・盲信・狂信、慢心・傲慢、狂気・妄想、攻撃衝動のために、自暴自棄の自滅の道を辿ったのである。
 その今日的帰結が、福島第一原発の爆発による放射能汚染地獄であり、日本の経済を破滅させようとする民死倒の政権である。
 日本父権主義は、自己の基底の非合理性を確認できないために、不合理極まりない、悪魔的に利己主義的な方策・行動・態度をとってしまうのである。
 この日本父権主義の型は国民にも蔓延しているのであり、日本民族国家のいまや衰亡の瀬戸際にあると言えるのである。
 とまれ、以上から私が新母権主義を提唱する理由がいくらかはお分かりになれたのではないだろうか。
 最後に何故、母権主義に個があり、父権主義は没個であるのかを説明したい。
 つまり、母権主義は肚=魂を基底にするために、自我との意識的極性が形成されるために、他者と自我の均衡という個が形成されることになるのであるが、父権主義は肚=魂が無意識であり、賦活されないので、その無意識の衝動に支配されてしまい、自我は独立せずに、なんらかの力に支配されるのである。故に、没個なのである。

追記:上記の三種類の型であるが、結局、1の母権的傾斜型と3の母権・父権的均衡型は極性論理のために、一致することになるのである。

追記2:日本父権主義の非合理性が元凶のように述べたが、それは不正確である。非合理性と同時に、父権主義のもつ同一性・自我主義(利己主義)も極度の不合理性を引き起こす重要なファクターである。もっとも、同一性・自我主義は、本来、純粋悟性に関わり、合理主義精神に関係するのであるが、日本父権主義の場合は、その封建的権威意識が強力なために、同一性・自我主義に関係する合理主義精神の形成がはななだ未成熟であると言えよう。
 それに対して、西洋の場合、イタリア・ルネサンスや宗教改革(プロテスタンティズム)等によって個の覚醒があるために、父権主義の同一性・自我主義は、封建的権威主義を脱した為に、合理主義精神に繋がったと考えられるのである。


追記3:非合理性として、アニミズムをあげたが、当然、シャーマニズムも入れていいのである、そう、というより、入れるべきである。

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魂と自我の結婚:魂の闇と自我の光:闇と光の螺旋結合
テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

以下の先に書いた叙述と参照の叙述は齟齬を来しているので、整合性のある説明が必要である。後で、考察を行いたい。

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母権主義と父権主義:魂の意識と自我の意識
テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

私が説く母権主義と父権主義は女性主義と男性主義ではない。母権主義は、男性においてもあるし、父権主義は女性においてもあるのである。
 母権主義と父権主義は人間の根本的な質的差異を意味する。前者は魂を基底にしているし、後者は自我を基底にしているのである。
 日本人は母権主義と父権主義の混淆であると考えているが、明治維新以降、後者が支配的になり、前者が抑圧されたと考えられるのである。
 とりわけ、戦後の米国による一種の植民地的支配によって、日本の母権主義は否定されて、日本民族は衰滅の危機にあるのである。
 そう、母権主義とは、個に基づくのである。もっとも、正確に言えば、自我の基礎にある魂に基づく個である。
 父権的集団主義に染まって、母権的個を埋没させているのが、現代日本人である。

参照:

アニミズムと機械・物質文明
テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論
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アニミズムと機械・物質文明4:両者が日本人の精神において結合しているとすると、問題は厄介であるが、PS理論によってこの問題を解明している。即ち内面の魂と近代科学・技術の切断。両者が不連続であることを日本人は認識する必要がある。 両者の無意識の連続体が日本人を束縛している。擱筆
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アニミズムと機械・物質文明3:無意識の受動的魂と近代科学・技術が、日本人の精神において、結びついたというのは確かに考えられることである。故に、「浜岡原発反対氏」(仮称)が指摘したことは正鵠を射ていると言える。
15分前 お気に入り 返信 削除
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アニミズムと機械・物質文明2:日本人の場合、デカルト的自我は希薄である。端的に言えば、自我は弱い。おそらく、内面の魂の側面が作用しているのであるが、無意識である。おそらく、この魂の受動性が、近代科学(物質科学・技術)と結んだのではないのか。続く。
18分前 お気に入り 返信 削除
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アニミズムと機械・物質文明1:先に、両者通じるというコメントを戴いたので、答えたい。 アニミズムは魂の感覚に拠る。機械・物質文明は、当然、近代合理主義を前提にする。本来、デカルトの自我=存在があるが、日本の場合、それが欠落する。続く。


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狂気の複合権力。日本民族は母権民族と父権民族の混合。古代は前者がベースで後者と結合したが、江戸時代で衰退し、新父権と新母権が生成した。明治維新は後者に拠るが前者が権力を簒奪し、父権封建的中央集権国家を確立するが、優越妄想独善狂信のために戦争で破滅、そして、今日、福島原発事故で、

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-10875456067.html

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11271794452.html


2012年06月03日(Sun)▲ページの先頭へ
精神と現象:精神(霊魂)が現象化して、自我意識等が生まれた?:超越界と超越論界と現象界
テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

超越軸をもつガウス平面、つまり、ガウス平面をいわば底面としてもつ立体座標においてであるが、どうも、超越軸z軸と虚軸y軸との関係が不明解である。
 そこで、考え直したのである。これまで、自我(頭)を凸i、魂(肚)を凹iとし、前者に悟性、後者に感情・欲望を見たのであるが、そうすると、凸iは光子(電磁波)であり、凹iは闇子(重力波:仮説)であるから、宇宙・自然現象一般と人間が一致してしまうことになる。有り体に言えば、植物、動物、鉱物等と人間が区別されないことになってしまうのである。確かに、身体的には、植物、動物、鉱物等と共通するが、人間の精神・認識性はそれらにはないだろう。そう、簡単に言えば、自我は植物、動物、鉱物にはないだろう。(とは言え、動物には、小自我ないしは前自我のようなものはあるかもしれないが。)
 そこで、これまでの仮説を変更して、自我の根源は凸jであり、魂の根源は凹jであるとするのである。つまり、自我と魂は神霊と等しくなるのである。(ここで、ウパニシャッド哲学の「汝はそれなり」を想起する。)
 では、神霊である自我と魂(両者併せて、以下、自己魂)がどうして、現象における自己魂(一般的に自我に傾斜しているので、自我魂)となり、神霊である自己を忘却ないしは喪失しているのだろうか。
 この理由・原因は分かりやすく説明できる。即ち、神霊的自己魂は、現象化して、物質界/身体界に組み込まれて、物質/身体の制限を受けるからと考えられるのである。
 つまり、根源は神霊的自己であるが、それが、虚軸の凸iと凹iへと転化するのが現象化、言い換えると、誕生である。つまり、虚軸の凸i=光子(電磁波)と凹i=闇子(重力波:仮説)の極性を帯びるのである。悟性は神霊的自我の凸jが凸iに、魂は神霊的魂の凹jが凹iにそれぞれ折り重なったものと考えられるのである。
 同一性とは凸iに関係するのであり、その同一性的認識を介して、人間は物質を認識するのである。そう、カントの超越論的形式は正に、凸iに折り重なった凸jで説明ができると考えられる。
 それは、空間形式であるが、時間形式は、凹iに折り重なった凹jで説明できよう。カントの内的感覚(内官)である。空間形式は外的感覚(外官)に関わるのである。
 そして、この超越論的形式(そう、凸iと凹iをそれぞれ、超越論的空間形式、超越論的時間形式と言えよう)が真に物質的現象化するのが凸(+1)と凹(−1)で説明できよう。つまり、凸i化された凸jと凹i化された凹jが結合して、純物質凹(−1)と宇宙・自然現象凸(+1)となると考えられるのである。
 わかりやすく言えば、虚軸y軸は、胎児の世界であろう。そして、実軸x軸が現象世界(いわゆる現実世界)である。
 そう、睡眠とは、実軸x軸(存在軸)から離脱して、虚軸y軸へと回帰して、さらには、media pointを介して、超越軸z軸の神霊世界に触れることではないだろうか。つまり、睡眠において、現象的自己は、神霊的自己に回帰しているということになる。つまり、霊魂に戻っているということになる。
 さて、ここで思考実験であるが、虚軸化作用を受けた神霊的自己の数学的記述であるが、凸j・凸iと凹j・凹iと積で記すことができるのか、それとも、明快に凸j⇒凸iと凹j⇒凹iとした方がいいのか。
 前者を使用するなら、結合は(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸(+1)と凹(−1)となる。
 結合という用語であるが、これは、同一性化作用と差異共振化作用の二重性を意味している。
 自然現象の場合は、差異共振化だけでいいのであるが、人間の場合は、自我凸iに傾斜しているので、同一性化作用を組み込む必要があり、その為に、二重性をもつ意味として結合という用語を用いたのである。
 ところで、結合式(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸(+1)と凹(−1)は整理して、

(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸凹(±1)

と記述したい。凸凹は凸と凹の併存を意味しているのである。
 ここで、ルドルフ・シュタイナーの精神哲科学を考えてみると(もっとも、上述の睡眠事象はその視点に拠るのであるが)、超感覚(霊的感覚)的世界とは、自己から凸i*凹iの拘束から離脱させることで得られると言えよう。そう、同一性・物質の被拘束から精神意識を離脱させることである。
 ただし、シュタイナーは科学的合理精神を重んじていた。つまり、同一性・物質的な思考を重視していたのである。
 超感覚(霊的感覚)的世界を同一性・物質的言語で表現することを重視していたのである。その表現は、絶対的には不可能であるが、いわば、相似的に可能であるということである。
 同一性・物質的思考、科学合理的精神を重視するのは、現実離れをして、精神が混乱するのを防ぐためである。
 しかしながら、同一性・物質的思考、科学合理的精神は、悟性的精神であり、自我と結びつくので、自我の欲望を抑制する必要があるのである。そうでないと、合理的精神が自我欲望によって捩じ曲げられてしまうのである。
 言い換えると、同一性的自我を抑制する必要があるのである。つまり、差異(他者)、差異共振の思考が必要となるのである。具体的に言えば、頭脳中心の思考を抑制する肚の思考が必要なのである。そして、両者の中間に胸の思考(media point thinking)を形成すべきなのである。優しさや「愛」とは、そこから生まれるが、それを道徳・倫理として確立すべきである。そう、フィオーレのヨアキム的に言えば、それは「聖霊」的思考である。頭脳的思考が「父」であり、肚的思考が「子」であり、胸的思考が「聖霊」ということになる。(今や、「聖霊」のエポックであるが。)
 言い換えれば、同一性と差異とのバランスを保持するということである。
 以上から、これまでの不明であった超越軸z軸(超越界、神霊界、イデア界)と虚軸y軸(光・光子と闇・重力子)と実軸x軸(純物質と現象)の関係が明快になったと言えよう。
 最後に、⇒凸(+1)をこれまで、超光と仮説してきたが、この点を再検討する必要がある。
 原光・光と原闇・闇の差異共振が創産(造語)する凸(+1)は、宇宙・自然現象であるが、それを超光であると見ていいのか。
 それは、力ではないのか。powerないしはforceではないのか。
そう、宇宙・自然現象を形成する実際の力ではある。
 だから、超光というより、超力の方が相応しいのかもしれない。
 現時点では、訂正して、超力としたい。
 宗教的光であるが、それは、やはり、超越界に存すると言えよう。それは、凸j*凹jのmedia pointに存するのではないだろうか。そこに本当の超光があるのではないだろうか。それが現象的に発出すると超力になるのではないだろうか。
 今はここで留める。

参考:
意識と本質。 | 芸術生理学研究所(仮)
2005年1月30日 – この著作もすでに1991年に中公文庫より刊行されていたが、このご時世、新たに「TAT TVAM ASI(汝はそれなり)」という ... Tat tvam asi(「汝はそれなり」)は、ウパニシャドの宗教的・哲学的思想の精髄(エッセンス)を一文に収約したものと ...
http://green.ap.teacup.com/april/8.html

参照:
自分が主人公だった

ある有名人が、「世の中は、不公平なのが真理です」と発言されていました。
この言葉は、聞く人の心の深さによって、何を思うのかが変わります。
この世だけで、すべてが終わり完結すると思い込んでいる人には、この世が不公平に見えるようです。
しかし、私は「この世は、完全なる公平」であり、これが真理だと知っています。

1日には、昼と夜の時間帯があり、2つ合わせて丸1日なのです。
昼間とは、物が見える時間帯です。これは私たちが、この世で生きている間の時間帯(人生)でもあります。
そして、人は必ず死んで、夜の時間帯へと移行するのです。
つまり、この2つを経験して初めて、魂の1つの区切りと成るのです。

まだ半日しか生きていない人間が、「この世は不公平」だと思うのです。
物語を「途中で切り取れば」、話のつじつまが合わないのはアタリマエなのです。これを不公平だと、錯覚しては生けません。
人間は、この世では、まだ半分しか生きていないと言うことを知るだけでも、この短い人生の生き方が改善されます。
この半分の世界だけで終わると思い込めば、不公平、あやまち、不平不満、我良し、やった者勝ち・・・などと、感謝の心(内在神)から離れた行動と思考をします。

http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/bca3505a93808fef75fe69b83d7d1d8f

伊勢ー白山 道






日ユ同祖論と母権文化的原日本:父権と母権

テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

日ユ同祖論が正しいと仮説すると、タイトな父権主義の「ユダヤ」文化が豊饒なる母権文化の原日本に「侵入」したとすると、それは、私が唱えている母権と父 権の衝突に拠る古代ギリシア的なタイプの文化が古代日本において形成されたことを意味することになる。もっとも、私は中国からの父権民族の侵入を想定した が。
 思うに、両極端の文化の衝突と融合が古代日本で生じたことになる。天皇がその中心(media point)である。
 しかしながら、江戸時代になり、古い結合融合(略して、結融)文化が崩壊して、父権と母権に分裂した。明治維新はこの両面をもっていたが、結局、父権が勝利して、全体主義的近代日本が形成された。
 今日、新しい融合を目指すべきである。それは、超日本となるだろう。近代を超克するトランス・モダン・ジャパンである。
 余裕のあるとき、丁寧に説明したい。

追記:新しい融合は、母権凹iが土台となり、父権凸iを取り込むように、それと共振して、形成されるのである。

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「天」と「地」について再考:凸iが「天」で、凹iが「地」ではないか

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

先に、「天」の方向は、凸(+1)であり、「地」のそれは、凹(−1)であると述べたが、端的に考えれば、凸iが「天」の方向であり、凹iが「地」のそれ である。つまり、凸iは「頭」であり、凹iは「肚」であるから、単純に、当然、凸iが上昇の方向であり、凹iが下降の方向である。
 そうならば、凸(+1)と凹(−1)は何を意味するのか。
 前者は差異共振による現象界(宇宙・自然)を意味するだろう。後者は物質界である。
 また、前者は超光であり、後者はいわば、超闇である。
 また、凸iは実体としての光であり、凹iは実体としての闇である。
 ところで、先に、氣と電磁波は異なると述べたが、そうすると齟齬が生じる。何故なら、凸iは光・光子(電磁波)であり、陽の氣であるからである。(もっとも、凹iは闇・闇子であり、陰の氣であるが、それは、重力波ないしは重力子[作業仮説]であり、電磁波ではないが。)
 そう、先の説明を修正しないといけない。氣ではなく、超氣と電磁波は異なると言わなくていけないのである。超氣とは、凸(+1)の超光である。





物質が先か、それとも生命体が先か:生命体の解体から物質が生じたと考える

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

PS哲科学は、新イデア論であり、精神が根源にあると仮説している。そう、精神から物質が発生したと考えている。
 しかし、説明が必要である。精神から、最初、生命体が生まれたと考えているのである。その生命体は当然、物質性を帯びている。しかしながら、生命体の衰退によって、生命有機体は解体して、物質が生起したと考えるのである。
 つまり、精神(神霊・霊魂)⇒生命体⇒物質の順である。
 しかるに、物質科学=唯物科学は、逆に、物質⇒生命体⇒精神という順に発生を考えるのである。
 確率論的に言えば、後者の可能性は極めて低いのであり、仮説に過ぎないと言えよう。
 この問題の一つのキーポイントは、氣であると思う。氣を認めるか否かで、決定的に異なる結果となる。何故なら、氣は物質科学で説明できないからである。せいぜい、電磁波を氣と考えることができるくらいである。
 しかし、氣は生命の生成力であるから、それを単純に電磁波と捉えることは不可能である。

追記:上記の氣は超氣と訂正する。そうでないと齟齬を来すからである。即ち、凸iの光・光子は、陽の氣であり、電磁波であるからである。もっとも、凹iの闇・闇子は、陰の氣であるが、重力波(作業仮説)であり、電磁波ではないが。
 以下参照。

「天」と「地」について再考:凸iが「天」で、凹iが「地」ではないか
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11265898435.html






唯物科学から生命有機体科学へのパラダイム・シフト

テーマ:trans-modern:超近代的進化

飯山一郎氏の唱える乳酸菌ないしは光合成細菌による新農業ないしは、脱原発路線は、結局、近代の唯物論を超える、生命有機体論科学の提唱であると言えよう。
 端的に、物質と生命とは異なるのであるが、近代科学=唯物科学は、前者から後者が生まれると考えたのである。
 しかし、その結果は、例えば、福島第一原発の崩壊による放射能汚染である。
 原発は近代科学=唯物科学の帰結と言えよう。物質ではなく、生命有機体を基にした科学ならば、このような事態はありえなかったと言えよう。
 結局、脱近代科学=脱唯物科学として、トランス・モダン科学=生命有機体科学というものが必然となるのである。


6月2日(土)京都のえびす屋で講演会。 6月24日には東京でミトラについても話します。
新井信介 「京の風」


母なる海が人間を産んだ

伊勢ー白山 道  





不連続的差異論からPS哲科学への移行の問題について

テーマ:不連続的差異論とPS哲科学

不連続的差異論は、哲学理論であったが、それに数学を導入して、PS哲科学(哲学-数学-科学理論〔仮説〕)へと発展した。
 この数学-科学への発展の妥当性について、後で、再検討したい。
 言い換えると、不連続的差異論は、精神的哲学であるが、その精神性を数学で記述するのは、どういう意味をもつのか等を検討したいのである。
 精神を数学で記述できるとは、結局、精神自体が数学的であるということになるのである。これは、ピュラタゴラス/プラトン哲学路線ではある。
 それは、結局、精神は数理的存在であるということである。しかしながら、私の疑問は、精神は精神の様態をもっているのであり、その様態は単に数理ではすべては捉えられないのではないのかということである。
 今の予備考察では、やはり、二重性があるのではないのかということである。即ち、精神的様態と数理的様態の二面を哲学はもっているのではないのかということである。
 だから、PS哲科学とは、精神-数理的哲科学ということになる。
 しかしながら、根本は精神であると考えられる。精神の科学的側面が数理的に記述されるのであり、精神の認識的側面が哲学的に記述されるということではないだろうか。
 以上、とりあえず、予備考察としておく。

追記:補足すると、根源は精神である。そして、それが、意識的側面では哲学となり、数理的側面では、数学-科学になるということである。
 しかしながら、意識的側面が中心であり、数理的側面は補完的側面であると考えられる。
 つまり、精神の意識様態が直観的表象であり、それの数学ー科学的表象があるということになる。
 精神の意識様態が基本であり、数理ー科学的記述は、知的様態であると言えよう。
 意識様態とは、知性、感情、意志を含むものであり、数理ー科学的記述は単に客観的知性による表象と言えよう。
 だから、数理的記述は、確かに、進展的ではあっても、意識様態に取って代わることはできないのである。
 故に、数学主導で、不連続的差異論からPS理論へと進展したことは、意識様態を客観的知性が取って代わったことになり、それは、一面的であり、そのために、本末転倒の状況が生じたのである。
 意識様態こそ、基本であり、数理的記述はその補完的知的表現と見なさないといけない。
 そう、意識的合理性と知性とは異なるのである。前者から哲学が、後者から科学が生じる。
 思うに、意識科学というものが考えられそうである。それは、端的に哲科学(哲学-科学)である。





肚の鍛練と頭脳の学習:肚と胸と頭の陶冶・涵養に向けて:新母権的自己形成へ

テーマ:新母権的社会:差異共振共同体

現代日本は魔境に入ってしまった。自我、父権的自我である利己的人間が蔓延してしまって、他者への認識、同時に、自己への認識が喪失されている。
 何度も述べたが、明治維新は、父権的封建的自我(一般的に長州勢力)が母権的個主義(坂本龍馬、西郷隆盛らの勢力)に勝利して、集団的中央集権国家が形 成された。そして、狂気の引き起こした「太平洋・東/東南アジア戦争」という大惨禍を経て、戦後は、米国的近代合理主義が主流となり、伝統的日本・東洋的 価値観は否定された。
 後者を象徴するものは、肚の喪失である。肚の鍛練の喪失である。
 思うに、西洋人は実は、無意識的に肚をもっているのであり、それを知らず、悟性、知性、合理性云々をいうのである。
 この無意識の肚を日本人は見落としているのである。
 この肚への回帰は瞑想とも関係しているかもしれないが、私は、瞑想は苦手である。
 とまれ、日本人の意識改造が必要である。意識構造改革である。

参照:
「天皇制」と封建制:近代日本の封建的国家体制:父権的自我優越妄想主義
sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1686.html - キャッシュ
2011年3月27日 – 天皇制」と封建制:近代日本の封建的国家体制:父権的自我優越妄想主義:トランセンデント・モダン. 以下、東海アマ氏は持論の「天皇制」批判を唱えているが、この問題については既述したので、繰り返さない。 ただ、今度の大震災における ...

精神世界の叡智アーカイブス:身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生
blog.livedoor.jp/longpa/archives/11396692.html - キャッシュ 類似ページ
blog.livedoor.jp の結果をすべてブロック
2004年12月17日 – 齋藤 孝/著 NHKブックス ◆ 日本は「腰肚(こしはら)文化」 日本の伝統的な文化は「腰肚文化」に集約されるのではないでしょうか。 腰や肚は精神的なことも含んでいますが、その基盤には腰や肚の身体感覚が実際にあるのです。





一体的感応性と個的独立性:コスモスと個

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

私は子供の頃、田んぼと畑と防風林と林野のまったくの田舎に住んでいた。今思えば、別天地である。車も一日数えるくらいしか、町道を通らなかった。
 とまれ、水田の苗が大きくなり、緑のマットが敷かれたようになる頃、自転車通学していた私は、水田や防風林の緑の世界と神秘的に、そう官能的に一体化したものである。
 この環境との一体的感性はいかなるものであろうか。
 そして、反対に、個であるという意識のメカニズムはいかなるものであろうか。
 直観で言えば、環境的一体感とは、凹i(肚)が主導となった精神の様態ではないだろうか。そこでは、凸i(頭)の従の状態にあるのではないだろうか。(追記:正確に言うと、凹i(肚)は無意識的であり、それが胸・心胸に作用して、環境的一体感をもたらしたと思われる。)
 正確に言うと、凸i*凹iの未分化・連続的様態における凹iの主導的様態が環境的一体感(神秘官能感)を生むのではないだろうか。
 D. H. ロレンスの説くコスモスとはそのような様態を意味するのではないだろうか。
 では、それに対して、「わたし」は個であるという意識はどのような力学をもつのだろうか。
 これまで、個とは凹i、肚に基盤が存すると述べてきたのであるから、それは、環境的一体感と通じるものとなってしまうかもしれない。
 内的体験的には、個とは、肚=凹iと自我=頭=凸iとの均衡に存するように思われる。言い換えると、他者(肚=凹i)であり、且つ、即ち、即非的に、自我(頭=凸i=「わたし」)である。その対極が共振していると言ってもいいだろう。

 (お断り:実は、以下論述はかなり続くのであるが、専門的な独創的な知見なので、ここでの発表を差し控える。)





「天」は⇒凸(+1)の方向で、「地」は⇒凹(−1)の方向だろうか?

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

私の内的経験では、コスモスの光は肚から天へと上昇する。コスモスの光は、今の概念で言えば、超光である。これは、肚=闇=凹iと目=光=凸iとの共振によって、発出される。ベースは前者、肚=闇=凹iである。
 そうすると、「天」の方向とは、⇒凸(+1)になる。これはほぼ確定である。
 では、それに対して、「地」の方向はどうなるのか。単純に考えると、反対方向となる。即ち、⇒凹(−1)である。
 どうだろうか。そう、これも内的体験的に考えると、「地」とは、頭から肚へと意識が移動して、肚から「力意識」を大地へと向けた方向にあるだろう。それは、一種、凸i*凹凹i⇒凹(−1)で数式化されるのではないだろうか。
 少し違う感じもあるが、とりあえず、そう想定すると、「地」の方向は、⇒凹(−1)となる。そう、ここでPS哲科学(PSフィロソフィエンス:PS- Philosophience)的トーラス論で考えると、凸(+1)が「天」の極、即ち、天極で、凹(−1)が「地」の極、地極となろう。
 現時点での結論(仮説)としておきたい。


2012年05月26日(Sat)▲ページの先頭へ
超越軸における回転による超越円の形成と超越円をマトリクスとする現象螺旋形成
テーマ:映画ThriveのトーラスとPS哲科学

先に、ガウス平面において、凸i(+i)と凹i(-i)との揺動によって、回転が生じることを述べた。
 問題は時間現象である。私は先に、凸iが空間形式で、凹iが時間形式ではないかと言った。カント哲学的には、前者は、外的感覚(外官)であり、後者は内的感覚(内官)である。
 差異共振現象という自然現象は、当然、時空間の発現を意味するから、凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺の凸(+1)が時空間現象を意味するかもしれない。
 しかし、螺旋運動こそが、自然現象であるから、凸(+1)は自然現象自体ではない。
 それは、これまでの考えでは、超光エネルギーである。あるいは、超氣である。
 思うに、⇒凸(+1)の活動において、螺旋運動が形成されるのであるから、螺旋を空間とすれば、運動が時間と関係すると言えよう。ここで作業仮説であるが、⇒凸(+1)の超光のベクトルが時間ベクトルと一致するとしよう。つまり、凸(+1)は時間を意味することになる。
 そう、時間は内的なものであり、不可視であるから、それは、考えられることである。
 これで、現象螺旋運動の説明は済んだとしよう。
 次に、超越軸における回転・螺旋運動である。
 凸j*凹jも揺動しているとすると、超越円において、回転すると考えられる。(ここで説明しておかないといけないのは、凸i*凹iが形成する螺旋運動であるが、その三次元は現象空間三次元であり、超越軸をもつ三次元ではない。つまり、ここで、現象三次元空間と超越軸を区別する必要があることである。
 結局、ガウス平面に直交する二つの軸があることになる。一つは超越軸であり、一つは、現象空間の第三次元の軸である。)
 しかしながら、果たして、超越円の回転は、螺旋運動を形成するだろうか。
 運動となるには、時間が必要であるが、超越円は時間を形成するだろう。そう、凸j*凹j⇒凸(+1)と形式化したのであり、右辺は時間を意味するのであるから、超越円も螺旋運動を形成することになろう。
 ここで整理したい。
 順序から言うと、超越軸における凸jと凹jの共振的揺動があり、それが回転をもたらし、超越円を形成する。
 この超越円の意味するものは、虚軸y軸の形成ではないだろうか。
 つまり、超越軸z軸と直交する虚軸y軸の形成である。これで、超越界からの凸i(光)と凹i(闇)の形成が説明できると言えよう。
 そして、凸i(光)と凹i(闇)の共振からの現象創造の説明もできる。
 そうすると、上述した超越軸と現象空間第三軸は異なるということはどうなるだろうか。
 つまり、超越軸と虚軸における超越平面と超越円が現象螺旋運動(時空四次元)を形成する基盤、マトリクスであり、それは、現象時空間とは一致しないと考えられる。
 そう、超越円はイデア界と言ってもいいだろう。それは、現象界からは不可視の存在であるが、現象創造の超越的根源ということになる。
 超越円(言わば、イデア・サークル)から可視の螺旋的現象界が形成されるということになる。
 そう、一見、超越軸と現象第三軸は重なるように見えるが、やはり、根本的には別物である。
 つまり、こう言ってもいいだろう。超越軸z軸と現象第三軸は表面的には重なるが、それは、見掛け上のことに過ぎないのであり、両者はまったく別個のものとして存在するのである。(追記:そのように区別したものの、凸j*凹j⇒凸(+1)であるから、media pointにおいて、両者は重なることになるだろう。思うに、media pointは、この重なりにおいて、超越軸の情報を受け取り、それを物質化するのである。そう、いわば、超越情報[イデア情報]を受け取り、それを物質・現象的に具現化すると考えられる。
 さて、そういうことで、超越円(イデア・サークル)から螺旋形状が形成されるが、それは、黄金比を基本的にもっていると言えよう。だから、五芒星形がなんらかの超越円において、形成された可能性が考えられる。(ピュタゴラス派)
 そうすると、超越軸には何らかの超越的意志が考えられないだろうか。超越的意志によって、現象形成が決められているのではないだろうか。
 しかし、そのように考えると、超越軸を超越した超-超越界を想定する必要があるのではないだろうか。
 この問題は難しいので保留しておき、一応、超越軸における超越円の創造に留めておきたい。
 最後に凸jと凹jについて簡単に考察してみたい。凸iが光、凹iが闇ならば、凸jは原光、凹jは原闇ということになるのではないだろうか。
 原闇と原光が共振して、闇と光の宇宙世界が生まれる。
 原闇が原母であり、原光が原父ということになろう。
 問題は、原父が主導的な場合である。最初期は、原母が主導性をもっていたと考えられるが、あるとき、原父が主導的になったと思われる。
 もし、原父が決定的に自身を原母に押し付けるならば、凸j*凹凹j⇒凹(−1)となり、それは、質料となるのではないだろうか。
 一神教がこのような性格をもっていると考えられる。そう、原母を質料化して、卑賎化するのである。「父」が上位であり、「母」が下位である。そして、それの極端化したものがユダヤ教、ないしは、旧約聖書であり、「母」はほぼ不在となっているのである。
 ここで簡単に日本神話について触れると、それは、原母による原父との共振による現象創造を語っていると思われる。
 天之御中主神とは、原母と原父との共振を意味するのではないだろうか。そう、超越的media pointである。
 そして、高産霊神と神産霊神は凸iと凹iを意味するのではないだろうか。
 では天照御大神とは何であろうか。それは、超光であろう。単に光ではなく、原母と原父との共振、光と闇との共振による超光を意味しよう。
 マニ教の光はそれであろうし、アフラ・マズダ、キリストもそれであろう。
 今はここで留める。後で、再考したい。


2012年05月23日(Wed)▲ページの先頭へ
不連続的差異とはいったい何か:不連続的差異論の再検討:闇と光の共振造化作用
テーマ:不連続的差異論とPS哲科学

もう一度、不連続的差異論に立ち返って、根底から再検討したい。基本は、自我的意識と他者的意識が一般には、連続的(未分化)であるが、両者を意識において切断することで、後者が不連続的差異になるのである。
 この自我的意識から切断され、独立的になった他者的意識(他者性)、不連続的差異は、実際、どういう事象を形成するのか。
 この点については、当然、既に考察して、それは、差異共振様態を形成すると考察しているが、それを今、再検討するのである。
 わかりやすく具体的に言えば、他者的意識=不連続的差異とは、肚の意識である。それに対して、自我的意識とは、頭の意識である。そして、その中間に胸(心胸)の意識があり、それは、media pointと考えている。
 では、独立した肚の意識とは何であろうか。直観では、他者を映す鏡である。他者をダイレクトに受容する鏡である。そう、優れた芸術家は、この能力をもっている。(英国の詩人、ジョン・キーツは、否定的能力negative capabilityを説いたが、これは、言わば、自我を無、空にして、他者を肯定する能力と考えられる。)
 かつては、そこで、「コスモス(宇宙)」を直感したが、今は感じなくなっている(「コスモス」はどこに行ったのか? おそらく、内在化して、一体化して、感じなくなっているということではないだろうか。)。
 とまれ、この他者の鏡の認知力と自我の意識が結合して、思考、認識が形成されるのである。
 そう、両者の間に存する胸(心胸)の意識はmedia pointであり、それは、媒介的な役割をするだろう。一面では他者的意識(肚)であり、他面では自我的意識(頭)である。中継的存在である。
 ということで、独立した他者的意識=不連続的差異は、結局、自我的意識=同一性的意識と対話的協働の関係をもつに至ると考えられる。両者は対話的であるから、常に変動する様態をもつと考えられる。
 不連続的差異は、自我と差異共振するとこれまで考察してきたが、この対話的協働が一つの差異共振であるとは言えよう。
 しかしながら、対話的協働だけでは、差異共振が発出すると考える超光(超光エネルギー)が考えられない。
 そう、ここで陰陽の視点が必要となるのである。即ち、他者的意識(肚)=不連続的差異は、闇darknessであり、自我的意識(頭)=同一性的意識は光lightであるということになる。
 闇と光の「対話」が生起すると考えられる。ここでは、物理学的視点も提起されているのである。
 言い換えると、闇の宇宙dark universeと光の宇宙light universeの交叉がここで形成されているのである。
 そう、闇宇宙は光宇宙に作用して、光宇宙を「侵略」する。光宇宙を闇宇宙に染めようとする。しかし、光宇宙は、それに対して(抗して)、光宇宙を闇宇宙に浸透させようとする。
 ここでは、両者の鬩(せめ)ぎ合いがあるのである。永遠の鬩ぎ合いである。闘争と言ってもいい。しかし、これは弁証法ではない。極性力学である。
 しかしながら、両者のバランスが形成される時点があるだろう。闇の宇宙と光の宇宙の調和均衡点である。
 D. H. ロレンスはそれを聖霊=王冠と呼んだのである。鈴木大拙の即非の論理学と一致しよう。
 ここで整理しよう。闇宇宙と光宇宙の争闘があるが、それは、それなりに、差異共振であり、「波動」を発出すると考えられる。そう、差異共振波動と呼んでいいだろう。
 闇宇宙に揺れたり、光宇宙に揺れたりするのである。闇と光の揺動する波動である。
 これは、数学的に見れば、ガウス平面において、円運動を形成すると見ていいだろう(ここでオイラーの公式が役立つのである)。そして、時間軸を考えれば、円運動は螺旋運動となるのはわかりやすいことである。
 そう、時間軸は、実軸の+1(凸)の領域に相当するだろう。つまり、螺旋運動はガウス平面の実軸の+1の方向に形成されるということになる。
 では、実軸の−1(凹)の領域はどういうことになるだろうか。
 ここが一つの重要なポイントである。ここで躓きやすいのである。光宇宙は自我的意識=同一性的意識であり、それは、他者的意識(闇宇宙)を否定するのである。
 これは上述した闇と光の争闘、差異共振波動とは異なると考えられるのである。
 何故なら、波動ではなく、言わば、凝固・固体化があると考えられるからである。
 そう、ここで、対話的協働と否定を理論・哲学的に区別する必要がある。換言すると、闇と光の闘争、差異共振における対立と他者的意識(闇宇宙)に対する否定を区別しないといけない。
 対立において、「否定に見えるもの」と自我的意識における否定との区別である。そう、前者の「否定に見えるもの」とはいったい何であるのか、これが、重大なポイントである。
 そう、これは、端的に矛盾と言われるものである。論理的は、パラドックス、背理、アンチノミーである。あるいは、鈴木大拙の即非である。
 しかし、これを厳密に詰める必要がある。
 今閃いたが、対立とは極性原理の問題である。極性とは考えたら、対立ではあるが、牽引するのでる。
 異質な、対極的なものは対立するが、同時に、牽引するのである。ここがポイントと考えられる。
 そう、対立的牽引があるのである。造語して、これを対引(ついいん)性と呼ぶことができよう。否定ではなく、対引である。
 元々一体である対立性である。対一性である。
 とまれ、暫定的に、闇と光の闘争、差異共振における「否定に見えるもの」を対引と呼びたい。
 これはまったく否定と異なるものである。それが、自然の生成力学の原理である。
 しかしながら、人間においては、否定が強く存しているのである。つまり、自我的意識=同一性的意識のもつ他者的意識=差異共振意識への否定である。
 つまり、人間においては、光宇宙へ傾斜して、バランスが崩れているのである。端的に言えば、自我・同一性原理の傾斜によって、極性原理がある意味で崩壊しているのである。もっとも、抑圧されていると言った方が正確であると考えられる。
 自我・同一性原理とは、ほぼ物質原理と言っていいだろう。何故なら、それは他者を同一性化するからである。つまり、本来、闇である他者を光化して、モノと捉えるからである。
 そう、ここには、対引性ではなく、否定性が作用しているのである。
 ここで、物質とは何かと考える必要がある。上述の思考から見ると、宇宙・自然は、闇と光の極性原理から形成されるのである。宇宙・自然には物質が形成されるのであるから、闇と光の極性原理は、物質を産出すると考えられる。
 思うに、極性原理の対引力とは、氣と見るといいと考えられる。(ルドルフ・シュタイナーならば、エーテル体である。)
 氣が宇宙・自然を創造形成する根源力と考えられる。
 では、氣と物質との関係はどうなるのだろうか。これも最重要な問題点の一つである。
 直観で言えば、極性、差異共振が「有機体」的宇宙・自然を形成するのである。つまり、基本は無機的な物質ではなく、「有機体」的な物質が形成されるのである。つまり、氣の生命体的形成原理によって物質が形成されるのである。しかし、この物質は生命体に付属するものであり、無機的物質ではないのである。
 闇と光の共振が生命体を形成し、そこに「有機体」的物質が付属すると考えられる。闇と光の共振における氣・対引力が、外在的に螺旋的に物質を形成するのである。内在的には氣・対引力が存しているのである。
 問題は、この外在性である。この形成原理はどういうものだろうか。
 直観では、光が闇と共振する時、物質を形成するのである。つまり、光と闇の共振において、氣的形成が為されるが、そこにおける光の要素が物質を形成すると考えられるのである。
 つまり、共振体における光の要素が物質体を形成すると考えられるのである。光が物質に転化しているのである。
 ならば、闇は共振体において、どうなっているのだろうか。
 直観で言えば、共振体の不可視の部分である。それは何か。思うに、端的に、氣の内在部分ではないだろうか。つまり、氣の外在部分としての物質は光が転化したものであるのに対して、氣の内在部分に闇は転化したと考えられる。
 では、氣の内在部分とは何か。
 どうも、短絡的になったようだ。闇と光の共振であるが、それを氣とするのは、勘違いのようである。そうではなく、それは、宇宙・自然形成力(造化力)と見るべきである。その形成力の外在・外部が物質であり、内部が氣であると考えた方が適切であると考えられる。
 つまり、造化力の外在・外部の物質を形成するのが、光の原理であり、造化力の内在・内部の氣を形成するのが闇の原理であるということになる。陰陽論で言えば、陽が物質を、陰が氣を形成することになる。
 もっとも、陰陽において、陽も氣であるから、陽が物質を、陰が氣を形成するというのは、齟齬である。
 だから、氣という用語を使用すると混乱することになる。
 だから、闇と光、陰と陽との共振作用とは、これまで述べたように、超光形成作用であると見た方がいいだろう。この超光エネルギーが造化力であり、光=陽の転化したものが、その外在の物質であり、闇=陰の転化したものがその内在の不可視の力であると言うことができよう。
 そう、一般には、後者の内在する不可視の力を氣と述べていると考えられるが、上述したように、陽も陰も氣であるから、それを氣とすると、混乱するのである。もし、氣という用語を使用するなら、内在する不可視の力は超氣、合氣、結氣とか呼ぶべきである。そう、超氣がとりあえずいいだろう。
 そうすると、闇と光の共振創造造化作用において、光=陽は、その外在的物質へと転化し、闇=陰はその内在的超氣へと転化するということができる。(ルドルフ・シュタイナーのエーテル体とは、後者の内在的超氣のことと言えよう。)
 最後に、カント哲学の視点から言うと、純粋悟性とは、自我的意識=同一性的意識であり、それは、他者・差異を否定して、同一性化=物質化するのであるが、それは、闇と光の差異共振体を同一性化するものと言える。つまり、それは光=陽の原理であり、闇と光の共振体である宇宙・自然という「有機体」を同一性という物質に断片化する原理である。無機性の原理である。
 それは近代の原理であり、今や、光の原理ではなく、闇と光の共振原理へと立ち返る必要があるのである。そう、トランス・モダンの哲科学へと進化する必要があるのである。
 以上のことは、これまで行なったように、数学的に説明できる。即ち、闇と光の差異共振作用は、

凸i*凹i⇒凸(+1)

であり、

光の同一性的他者否定作用は

凸i*凹凹i⇒凹(−1)

である。
 また、光は光子、電磁波であり、闇は闇子(造語したもの)、重力波(作業仮説)である。

追記:ヘーゲル哲学について一言述べておこう。
 思うに、ヘーゲル哲学とは、上記の闇と光の極性共振原理と光の同一性原理の混淆であり、後者が前者を取り込んでいる形になっていると考えられる。
 つまり、同一性原理が極性共振原理を支配している様態にヘーゲル哲学がなっていると考えられる。
 また、ヘーゲル弁証法の正反合であるが、正は光の同一性原理、そして、反は否定性、そして、合は否定を媒介として、同一性の確定と考えられる。
 つまり、ヘーゲル哲学一般は、かなり、極性共振原理的視点がある。つまり、矛盾によって成長するというような思考においてである。しかし、ヘーゲル弁証法は、同一性原理が中心になって、極性共振原理は後退して、その形骸が正反合になっていると考えられる。

追記2:極性原理における対引(ついいん)であるが、反引、対反(ついはん)と呼んでもいいだろう。


2012年05月22日(Tue)▲ページの先頭へ
PS理論批判:PS哲科学:数学主導のPS理論に換えて哲学主導のPS哲科学
テーマ:PS哲科学(PS哲学-科学)

PS理論批判の批判は、カントの純粋理性批判の批判と同じ意味で使用する。
 結局、PS理論の前身の不連続的差異論は、端的に哲学的理論(仮説)であったが、その後、数学を導入して、プラトニック・シナジー理論(PS理論)となったのである。
 問題は、数学の導入の意義である。ここで、批判が入るのである。この問題について、これから、検討考察したい。
 端的に言えば、哲学に数学を導入したとき、つまり、哲学が数学化されるとき、哲学は数学的構築をもつようになる。
 問題は、果たして、数学的構築と哲学とが等しいのかということである。ベースには哲学があるが、それに数学的構築が付与されるのである。つまり、ここで、理論は哲学と数学の二重性をもつのである。つまり、哲学-数学理論である。
 この哲学-数学理論は、基本的には、主は哲学であり、数学は従である。つまり、あえて言えば、哲学のための数学であり、数学のための哲学ではないのである。哲学を質的に、ないしは、科学的に拡張するために数学を導入するのであり、本体は哲学である。
 結局、PS理論とは、哲学理論であり、数学理論ではないのである。この点はいくら強調してもし過ぎることはない。
 とまれ、数学を導入し、数学的構築をもったPS理論、あるいは、PS哲学(この呼び方の方が、明快である)は、数学の論理を借りて、飛躍的に展開したのは事実である。
 端的に言えば、科学的要素を哲学に組み込むことができるようになったのである。現代物理学等に適用することができるようになったのである。
 また、さらには、宗教等の超越性にも対応できる超越論的哲学にもなったのである。
 結局、森羅万象に対応できる哲学になったのである。
 しかしながら、数学的構築、数学的体系をもったPS理論であるが、やはり、基本的な二重性があるのであり、哲学と数学の間には、仮説があることを確認する必要があるのである。
 具体的に言えば、純粋悟性ないしは自我を凸i(わかりやすく言えば、虚数i)とし、また、それを光子や現象太陽としているのが、それは一つの仮説ないしは仮構に過ぎず、絶対的に一致するとは言えないのである。
 簡潔に言えば、果たして、自我を虚数凸i(i)とすることは、絶対的に正しいのかは問題である。自我ないしは純粋悟性を虚数に対応させて、計算した結果が、哲学的帰結と一致するように考えられる(仮説される)ので、哲学に数学を組み込んだのである。
 つまり、ここには、普遍的真理は、哲学だけではなく、数学にも発現するのであり、哲学に数学を組み込むことで、普遍的真理の認識が単に哲学では届かないものに達したということになるのである。
 しかしながら、上記の条件へと戻るが、数学を組み込んだものの、あくまで、性格は哲学である。このベースを忘れた時、数学が独走し、哲学が置いてきぼりになるのである。
 つまり、哲学が主で、数学が従であったのが、数学が主であり、哲学が従となるのである。
 そう、普遍的真理と言ったが、基本、根本は哲学的真理であり、数学的真理ではないのである。何故なら、哲学には、数学にはない、精神、意識、内面性等があるからである。数学はそれをもたないのである。
 だから、数学が主となり、独走すると、PS理論は、いわば、本末転倒となり、単に、数学的理論になってしまうのである。
 数学に拠る哲学の、言わば、隷属化が生じるのである。哲学が数学に支配されるのである。
 ここでは、PS理論は、もはや、本来の哲学ではなくなり、数学的理論になってしまっているのである。
 これが、PS理論批判の眼目である。
 具体的に、私の思考における問題点を言うと、端的に、自己認識方程式、即ち、

凸i*凹i⇒凸(+1)     (*は積を意味する)

において、オイラーの等式を適用するときである。オイラーの公式

e^iπ+1=0

を変形させて、

−1=e^iπ

となるとき、この−1を凹(−1)と見て、これが、根源であると考えたのである。そして、凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺を物質と見たのである。
 これは、オイラーの公式の簡潔さに魅かれて、哲学を数学に合わせたことになるのである。
 しかしながら、哲学的思考では、同一性の思考は、凹(−1)を導くであり、差異の思考こそ、凸(+1)を導くのである。
 この点は、理論を展開する上で、大いに悩んだ点であるが、結局、オイラーの公式に服する形で、凹、−1を根源とし、凸、+1を
物質としたのであった。つまり、ここで哲学が数学に服したのである。
 しかしながら、最近、PS理論を再検討し、反省した結果、それが、間違いであることが判明したのである。
 これは、PS理論にとって、言わば、致命的な誤りである。ある意味で、決定的な誤謬である。
 そう、端的に言えば、PS理論はその点で破綻したのである。
 この誤謬は、結局、本来、哲学が主で数学が従であるべきことに反して、数学を主、哲学を従としたことに拠るのである。
 ここで、PS理論は終わったと言うべきである。そして、私は、本来の哲学的思考を基盤として、数学を導入し、また、ガウス平面を超えた超越軸をもつ新しいPS理論(NPS理論)を提唱することになったのである。
 思うに、新しい名前が必要である。明快な名前は、PS哲学である。あるいは、明確に言えば、Platonic Synergy Philosophy Assisted by Mathematics、即ち、数学によって支援されたプラトニック・シナジー哲学である。
 以上で、PS理論批判は明快になったと考えられる。

追記:PS哲学より、PS哲科学(PS哲学-科学)の方が適切である。PS philosophic science、又は、 PS philosophienceである。
 

参照:

オイラーの等式(オイラーのとうしき、英 : Euler's identity)とは、解析学 における等式

e^iπ + 1 = 0

であり、その名はレオンハルト・オイラー にちなむ。ここに、

e: ネイピア数 、すなわち自然対数 の底
i: 虚数単位 、すなわち2乗すると −1 となる複素数
π: 円周率 、すなわち円 の直径 と円周の比

である。

オイラーの等式 - Wikipedia
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この項目では、オイラーの公式の特別な場合について記述しています。オイラーの ... オイラーの等式(オイラーのとうしき、英: Euler's identity)とは、解析学における等式 ... オイラーの等式は、その数学的な美によって特筆すべきものと多くの人に認識されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%AD%89%E5%BC%8F


2012年05月18日(Fri)▲ページの先頭へ
超越平面、超越円と虚軸y軸:現象太陽(電磁波)とdark sun(重力波):前物質的エネルギー体
テーマ:manichaeism: 哲学

今は指摘だけ。
 超越平面ないしは超越円は物質を超越していると述べたが、虚軸y軸において、それは、光子と闇子と接するのであるから、厳密には、物質を完全に超越しているとは言えないのではないのかという問題がある。
 即ち、凸iが光子であり、凹iが闇子であり、前者は現象太陽、後者はdark sunを形成しているのである。
 問題は、光子や闇子を物質と見るのか、否かである。先には、現象太陽には物質体があると考え、また、dark sunにはそれに対応するような物質体があると考えた。
 思うに、現象太陽に物質体があるというは、凸i*凹凹i⇒凹(−1)においてであり、凸i自体は光子であり、それは、いわば、前物質、つまり、一種の精神体であると思われるのである。
 闇子の場合も同様に前物質の一種の精神体であると考えられる。
 思うに、光子や闇子、あるいは、電磁波や重力波は、霊魂の前物質的エネルギー体と言えるのではないだろうか。
 しかしながら、根源の凸jや凹jは、超越的エネルギーをもっているだろう。そして、共振して、超光エネルギーを創出すると思われる。

追記:原子とは何か:電子と光子と陽子(原子核)のトーラス体(仮説) http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11249166480.html
において、陽子、原子核を凸(+1)と仮説したが、それは、物質であるのか、否か。
 これは微妙である。前物質・精神体の凸iと凹iの差異共振によって陽子、原子核が形成されるのであるから、物質ではないように思われるかもしれない。
 しかしながら、物質(この場合は、電子)を外装した存在であるから、単純に非物質とは言えない。あるいは、電子が離脱して、イオン化することがあるのであるから、微妙である。
 思うに、凸(+1)は陽子という物質と見た方がいいのかもしれないが、前物質の精神体である凸iと凹iによる差異共振の超光と陽子の関係がどうなるのかが問題となる。これまでの考えでは、超光=陽子となり、齟齬となる。
 そうすると、超光の位置付けを変更する必要があるようだ。思うに、凸j*凹j⇒凸(+1)と凸i*凹i⇒凸(+1)の二つの凸(+1)の形成があるが、果たして、両者の右辺は同一なのかである。
 常識的には、同一であるので、やはり、超光と考えたい。ならば、凸(+1)=陽子説はどうなるのだろうか。
 思うに、凸(+1)=超光=陽子と考えるのは、おもしろい。とまれ、そう作業仮説すると、陽子、原子核は、物質ではなく、超光であり、超光エネルギーをもつことになるからである。言い換えると、陽子、原子核は精神体の一種になるのである。
 そうすると、物質であるとした電子凹(−1)との関係はどうなるのだろうか。また、電荷、電気とは何かという問題にもなる。
 とまれ、以上の作業仮説からすると、原子とは、物質と精神体との合成体であることになる。言わば、半物質半精神体である。そう、キメラとしての原子である。
 これは、思考実験である。後で、本件に関して、再考したい。


2012年05月17日(Thu)▲ページの先頭へ
作業仮説:z軸とy軸の超越平面と超越円を前提とする
作業仮説:z軸とy軸の超越平面と超越円を前提とする

テーマ:manichaeism: 哲学

z軸の原回転もうまく説明できないので、超越軸(z軸)と虚軸(y軸)による超越平面と虚数の単位円(超越円)を前提とする。また、超越円は回転していると前提する。
 そして、凸j*凹j⇒凸(+1)ないしは凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺のベクトルは回転していると考えられる。つまり、原螺旋運動が存すると考えられる。
 問題は、以下のトーラス像における渦巻星雲をどう説明するのかである。
 つまり、超越円において、どのように渦巻が形成されるのかを明らかにする必要がある。
 凸(+1)のベクトルが原螺旋的に回転しているというのであるから、media pointにおいて、原螺旋、つまり、渦巻形状が存すると考えることができるだろう。それが、トーラス像における渦巻星雲を説明できると直観される。
 結局、前提である超越平面、超越円を根源的に説明できるのかどうかが問題である。
 言い換えると、始めから、超越軸z軸と虚軸y軸が存したのか、それとも、始めは超越軸だけであり、それから虚軸が派生したのか、ということである。
 始めに、超越平面ないしは超越円ありきとすれば、問題はないのであるが。
 現時点では、両者の可能性を残しておく。もっとも、前者の方に今は傾いているが。

追記:やはり、後者の可能性も有力である。ならば、どうやって、虚軸y軸が形成されたのかが一番の問題である。
 先に、フレミング左手の法則や右手の法則から、作業仮説的に導き出したが、それでは、磁力と電気力の直交の説明が必要となり、複雑になってしまうのである。
 今閃いたが、最初に超越軸ありき、としよう。そして、それが、原点(原始media point)を中心にして、実軸x軸とは垂直に回転、円運動すると仮定するのである。
 当然、その時、虚軸y軸が発生するだろう。つまり、凸iと凹iの両極、双極、対極が発生するのである。
 ならば、この回転、円運動の力学は何か、である。
 これは謎である。もし、実軸x軸が回転していれば、超越軸の回転(超越円)は可能であるが、果たして、実軸x軸は回転しているのか。
 やはり、超越平面、超越円を大前提とした方がいいのだろうか。そうならば、超越軸z軸は霊軸(霊界)であり、虚軸y軸は魂軸(意識軸)である。霊と魂は異なることになる。
 しかし、陰魂凹iは、超越軸、霊界に通じていると直観されるのである。というか、media pointに通じていて、そこで、超越軸による差異共振による超光を直観するというような感じである。
 コスモスは、⇒凸(+1)と思われる。また、マニ教の光の世界もそこだと思われるのである。
 とまれ、霊z軸と魂y軸の直交による超越平面ないしは超越円、これは、霊魂平面ないしは霊魂円と呼んでもいいだろう。
 プラトンのイデア界はそこに属すると考えられる。
 また、カント哲学における純粋理性は、超越軸を想定できない状態にあると言えよう。そのために、批判限定されると考えられる。
 フッサールの超越論的主観性であるが、それは、虚軸y軸における差異共振までには達したが、超越軸までには達していないように思えるのである。しかし、予感はあったであろう。

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内在平面と超越平面

テーマ:manichaeism: 哲学

ドゥルーズ(&ガタリ)が内在平面を説いたが、これは、物質と連続的な平面であり、超越平面とは当然異なるものである。
 ドゥルーズ「哲学」の基本は、不連続的差異論の段階で説いたように、差異=微分であり、連続的差異を基礎とするものである。
 この連続性の背景に内在平面をドゥルーズは考えたと言っていいだろう。
 しかし、超越平面は、物質を超越した平面であり、純粋精神平面と言えるものである。
 宇宙、自然、物質の根底に存するものであるが、現象界からは、演繹的には、証明できない世界である。
 プラトンのイデア界と通ずると言っていいだろう。ただし、超越平面の「イデア」は動的なものである。
 ところで、超越平面について後で、具体的に解明したい。
 まだ、発想、着想段階に過ぎない。超越平面とは、想定では、z軸とy軸(虚軸)に作る平面である。それが、z軸の原回転によって形成されると直観したのであるが、果たして、それで合理的に説明できるのか。





作業仮説:超越軸z軸の原回転

テーマ:manichaeism: 哲学

なんとか、回転力学を見つけようとしたが、うまくいかない。
 そこで発想・視点を変えて、超越軸z軸の根源的回転があると仮定すれば、円盤の回転、螺旋運動、渦巻の形成、言い換えると、トーラス・モデルの形成は論理的に説明できる。
 また、それは先に触れた、超越的平面と現象的三次元(四次元)も説明できる。即ち、超越軸z軸と虚軸y軸の直交によって形成される平面が超越的平面(以 下、超越平面)であり、超越平面のmedia pointから発出する螺旋運動が現象的三次元(現象三次元)を形成すると考えられるからである。
 ルドルフ・シュタイナーは、霊界は平面、二次元であると言っていたのを想起するのである。超越平面は霊的平面と言ってもいいだろう。
 後で、さらに検討したい。




超越的平面における根源的回転:超越的平面と現象的空間(時空間)

テーマ:manichaeism: 哲学

5次元ないしは6次元で考えたい。
 最初に根源的超越的2次元を想定する。それが、現象3次元空間ないしは現象4次元時空間を形成すると仮定する。
 根源的超越的2次元(簡略化して、超越的平面)において、根源的回転(円運動)が存するとする。
 そして、それが、現象空間において、螺旋形状ないしはトーラス形状を形成すると想定する。
 超越的平面の回転は、プラトンのイデア界の円に通じるだろう。そして、その現象的反映が螺旋運動、乃至は、トーラス形態とするのである。
 今は発想だけである。その力学は後で検討したい。

追記:超越的平面の直交する二つの軸をα軸とβ軸ととりあえず呼んでおく。(α軸とω軸としてもいいだろうが。)
 そして、現象的3次元空間の軸をx軸、y軸、z軸とする。尚、時間については、保留しておく。


2012年05月13日(Sun)▲ページの先頭へ
原子とは何か:電子と光子と陽子(原子核)のトーラス体(仮説)
テーマ:science

これも思いつきであるが、簡単に記したい。
 いちばん単純な水素原子を考えたい。電子は物質であるから、凸i*凹凹i⇒凹(−1)の右辺である。そして、光子は太陽光と一致させて、凸iである。問題は陽子、原子核である。それは直観では、media pointである。そして、凹i(dark sun)、つまり、作業仮説では重力波ないしは重力子は、一般の量子論では、考慮されていないように思われる。
 あるいは、凹iを陽子、原子核と仮定できるかもしれないが、今は、陽子、原子核をmedia pointと作業仮説して、考察する。
 水素原子は、電子と陽子の間で光子を交換しているということであるが、先のトーラス・モデルで考えると、凹(−1)の電子は、超光エネルギーで外装的に螺旋形状となる。そして、コアとして、陽子、原子核があるが、それは、media pointである。そして、外装としての電子と中核としての陽子、原子核、media pointの間には、確かに、光子、凸iが、差異共振の一つの極として存しているのであり、外装(外皮、外殻)の電子と中核の陽子、原子核、media pointの中間に位置すると見ることができるのである。
 しかし、光子、凸iが両者の間で交換されているという事象をPS理論はどう見るかである。(以上をA説とする。)
 ここで、発想を変えてみると、陽子、原子核をmedia pointではなくて、凸(+1)と見るのである。それならば、電子凹(−1)に対して、陽子、原子核は凸(+1)で、電荷的に釣り合うと言えよう。
 この作業仮説でも、電子と陽子(原子核)の間に、光子を置くことは可能であるし、さらに、電子と陽子を繋ぐものとしての光子の位置が明快になると考えられる。というのは、電子凹(−1)の形成に光子凸iが積極的に作用し(光子の自乗としての電子?)、また、電子凹(−1)を牽引する陽子凸(+1)の力動に光子が差異共振において、作用しているからである。電子と陽子の形成の両面に光子は重要な作用をしているのである。(以上をB説とする。)
 現時点では、B説を採用するが、PS理論的解明に拠るトーラス・モデル仮説(凸(+1)を転換点とする脱物質体化・差異共振純粋超光過程 (05/06) http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1819.html)から見ると、きわめて、不十分なことがわかる。何故なら、凹i(闇、dark sun、又は、作業仮説に拠る、重力波、重力子、あるいは、造語して、闇子[あんし])の存在がまったく看過されているからである。
 つまり、量子論的原子論は、光子凸iの対極となる闇子凹iを欠いているので、まったく「片手落ち」なのである。
 PS理論的トーラス・モデル仮説に拠れば、陽子、原子核を形成しているのは、光子と闇子の差異共振の超光エネルギーということになるのである。量子論において、重力の処理が問題になるのは、この闇子の存在が抜けているからではないのか。
 また、先に述べたように、闇子(「重力波」、「重力子」)を仮定すれば、dark matter, dark energyの存在も解明できるのである。
 そのように考えると、今日、考えられている量子論の正しさとは、近似値的正しさということになるだろう。重力を無視できるような、ミクロの世界では、量子論は正しいのであるが、宇宙大のマクロの世界では、重力の問題は重大になり、dark matter, dark energyという仮説が必要になり、量子論は限界に達しているのではないだろうか。
 そう、古典力学を相対性理論や量子力学が超克したように、相対性理論や量子力学はPS理論的トーラス・モデル仮説で超克される可能性が考えられるのである。
 今は作業仮説で留める。

追記:水素原子にはない中性子であるが、それは、思うに、media pointと関係していそうである。何故なら、media pointは陽子凸(プラス1)の正電荷と電子凹(−1)の負電荷の均衡点にあり、中性子の電荷ゼロに対応できるからである。
 故に、作業仮説的に、media pointを中性子か、又は、その位置と考える。あるいは、トーラス・モデルの渦巻星雲に相当するのが、中性子かもしれないが。どうも、後者の方がいいような気がする。何故なら、media pointは粒子というよりは、差異共振の領域、力の衝突が起る領域だからである。その結果、中性子、陽子の核子が生成すると考えるのは、合理的である。
 下のトーラス像から言うと、最下部が電子であり、渦巻星雲が中性子であり、最上部が陽子であり、中心がmedia pointである。そして、凸i(光子)と凹i(闇子)の同一性的物質を外装化する差異共振・超光エネルギーの螺旋形状は、電子が牽引された様態であると考えられる。

中性子 - Wikipedia

中性子(ちゅうせいし、neutron)は、バリオンの一種。原子核の構成要素の一つ。陽子1 個でできている水素の最も一般的な同位体1Hを唯一の例外として、すべての原子の 原子核は、陽子と中性子だけから構成されている。陽子と中性子を核子と呼ぶ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%80%A7%E5%AD%90

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2012年05月06日(Sun)▲ページの先頭へ
凸(+1)を転換点とする脱物質体化・差異共振純粋超光過程
凸(+1)を転換点とする脱物質体化・差異共振純粋超光過程


テーマ:映画ThriveのトーラスとPS理論


映画THRIVEのトーラスとPS理論:その2:上部から下部への動き
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11242890795.html


以上において、次のように述べた。


「少なくとも、凸(+1)は転換点、折り返し点、回帰点と考えられる。
 超光エネルギーは宇宙を形成し、凸(+1)に到達するのであるが、その後の問題である。
 今、直観で言うと、凸(+1)までの動きは春から夏への成長の動きである、しかるに、凸(+1)から凹(−1)への外皮上の動きは秋から冬の動きである。言い換えると、生から死への動きである。つまり、成長から衰退への動きである。しかし、この衰退は内的成熟への動きである。そう、外的成長から内的成熟への動きである。
 思うに、簡単に言えば、超光エネルギーの衰退があり、それが、外皮的動きとなっているのではないだろうか。物質体の衰退であるが、内的「精神」の成長である。」


映画Thriveのトーラスにおける、上部極から下部極へ移動し、言わば、外殻、外皮、外面形成する力動について、それは、超光エネルギーの衰退を意味すると述べたが、それはある意味では正しく、ある意味では間違いである。
 というのは、螺旋的、乃至は、黄金比(白銀比もおそらく入れられよう)的物質体(身体)形成は確かに、そこ(凸[+1])からは衰退するから、それは、それまでの超光エネルギーから見ると、超光エネルギーの衰退を見ることは可能である。
 しかしながら、視点を変えてみると、凸(+1)に到達した、超光エネルギー、乃至は、差異共振エネルギーは実は、螺旋的物質体(身体)形成過程(Aプロセス)から脱螺旋的物質体(身体)過程(Bプロセス)へと転換するのではないだろうか。
 つまり、Aプロセスは同一性物質化を伴っていた、Bプロセスにおいては、同一性的物質化が消滅して、純粋な差異共振化、超光化が発生するのではないだろうか。これを聖霊プロセスと呼んでもいいだろう。
 つまり、超光エネルギーは衰退するのではなく、ただ、変態したと考えられるのである。喩えれば、蛹から蝶へと変態するようなものである。そう、それをヒントにして言えば、プシュケー・プロセスとも言えよう。
 思うに、それは、超越軸、超越界、神霊界、霊界における差異共振による超光形成と重なるように思えるのである。だから、聖霊プロセスなのでもあるが。
 結局、Bプロセスは物質体・身体形成としては衰退過程であるが、精神形成としては成熟過程である。
 さて、問題は、Bプロセスがどうして、凸(+1)からリンゴや梨のような外殻、外皮、外面である湾曲した球面を辿り、凹(−1)へと進行するのかである。その力学はどういうものか。
 これは単純に、磁界を考えればいいのではないだろうか。即ち、凸(+1)をN極とし、凹(−1)をS極とするのである。磁力がN極からS極へと作用するのであり、それとほぼ同様なことが、Bプロセスに起きている考えればいいのではないだろうか。
 つまり、下部極から上部極の螺旋的物質体化過程(Aプロセス)の方向、即ち、凹(−1)から凸(+1)への実軸x軸の左方から右方への方向を、純粋超光は取ることがもはやできないのであり、つまり、言わば、内的な方向を取ることはできないのであり、そのため、外的な方向を取ることになると考えられるのである。
 しかしながら、内的方向とは実は、外的物質体化の過程であり、外的方向とは内的精神化の過程であるというパラドクシカルな意味合いをもっているのである。
 しかし、外的方向=内的精神化の過程=Bプロセスは、凹(−1)という物質が終点であり、それは、死を意味すると言えよう。だから、その意味では、衰退消滅の過程なのである。純粋超光、純粋差異共振はそこで終了するのである。
 とは言え、それは、新生の過程に入ることである。新たな螺旋的物質体(身体)の過程に入ることになるからである。輪廻転生である。即ち、 凹(−1)の物質において、純粋超光、純粋差異共振、純粋精神を宿していた物質体・身体は消滅すると考えられるが、そのとき、純粋超光、純粋差異共振、純粋精神は完全に脱物質化するのであり、それは、超越軸=超越界=神霊界=霊界に帰還すると考えられるのである。
 そう、凸(+1)において、脱物質化すると言ったが、それは完全な脱物質化ではなく、脱物質化のプロセスの開始を意味するのであり、完全な脱物質化は、凹(−1)の物質において、為されると考えられるのである。説明すると、凹(−1)の物質とは無機的な物質、いわば、鉱物のようなものであり、生命的有機体はそこには存しないと考えられるのである。
 今はここで留める。


torus.jpg


(THRIVE Japanese) スライブ―いったい何が必要になるのか - YouTube
► 132:03► 132:03

www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI2012年4月5日 - 132分 - アップロード元: ThriveMovement
http://www.thrivemovement.com/ 詳細は http://www.thrivemovement.com/ まで 『 力強い成長』のDVDご購入を http://www ...
http://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI




物質的外装する超光エネルギー


テーマ:manichaeism: 哲学


「凹i*凸iの差異共振によって、物質を巻き込んで、螺旋的な宇宙・自然世界、あるいは、トーラス的な宇宙・自然世界が形成されると言えよう。
 ここで仮説であるが、差異共振によって物質を巻き込む超光(霊光)は螺旋的な力を発生させると考えるのである。そして、その螺旋力学を基体、下敷きとして、物質的螺旋が形成されると考えるのである。」
現象三次元化の力学へ向けて:超光(霊光)による螺旋的現象生成の力学についての思考実験
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11242135164.html

上記のように先に述べたが、「物質を巻き込む」という表現であるが、「物質を外装化する」内的超光エネルギーと表現する方がより適切であろう。言い換える と、精神が物質を螺旋的に、乃至は、黄金比的に外装化するのである。それは広義の生命体である。つまり、例えば、銀河系宇宙も一種の生命体と考えるのであ る。




映画THRIVEのトーラスとPS理論:その2:上部から下部への動き


テーマ:映画ThriveのトーラスとPS理論


• Zero-point energy:ゼロ・ポイント・エネルギー(ゼロ点エネルギー)
• 現象三次元化の力学へ向けて:超光(霊光)による螺旋的現象生成の力学についての思考実験
• 映画THRIVEのトーラスとPS理論
映画ThriveのトーラスとPS理論の比較論は以上において考察したが、まだ、トーラスのいわば外皮における動きについては述べていなかった。今は余裕がないので、簡単に予見を言うだけだが、少なくとも、凸(+1)は転換点、折り返し点、回帰点と考えられる。
 超光エネルギーは宇宙を形成し、凸(+1)に到達するのであるが、その後の問題である。
 今、直観で言うと、凸(+1)までの動きは春から夏への成長の動きである、しかるに、凸(+1)から凹(−1)への外皮上の動きは秋から冬の動きであ る。言い換えると、生から死への動きである。つまり、成長から衰退への動きである。しかし、この衰退は内的成熟への動きである。そう、外的成長から内的成 熟への動きである。
 思うに、簡単に言えば、超光エネルギーの衰退があり、それが、外皮的動きとなっているのではないだろうか。物質体の衰退であるが、内的「精神」の成長である。
 後で、精緻に検討したい。


2012年05月05日(Sat)▲ページの先頭へ
Zero-point energy:ゼロ・ポイント・エネルギー(ゼロ点エネルギー)
テーマ:energy


絶対零度において存するエネルギーのことであるが、これをPS理論から見るとどうなるだろうか。今は予見のみである。
 PS理論(三次元化されたPS理論、正確には四次元ないし五次元化されたPS理論)に拠ると、超越軸・超越界凹j*凸jが根源に存するのである。それは完全に物質や物質現象(生命を含めて)を超越した世界である。そう、神霊界、霊界である。
 凹j*凸j(母神*父神)はmedia pointを介して、宇宙・自然を創造するのである。この最初期のmedia pointは、物質のないゼロ点、ゼロ・ポイントと考えられるだろう。確かに、そこから宇宙創造が為されるのであるから、おそらく、無限の原エネルギー、超エネルギーが存すると考えられる。もっとも、最初は潜在的に存していたのであるから、ポテンシャル・原エネルギー(超エネルギー)である。
 それが、同一性化(物質化)を牽引する差異共振化(超光・霊光化)を発動させることで、超光エネルギーが発生し、宇宙・自然創造が為されると考えられるのである。
 そう、PS理論から言えば、premier media point energyがzero-point energyの正体となるだろう。
 日本神話では、それは天之御中主神であろう。


ゼロ点エネルギー
零点エネルギー検証:プランク式と単振動式の比較 に移動‎: プランクはまた、定性的に零点エネルギーhν/2を導入した。これは以下に示す単振動のエネルギーの式のn=0の場合に相当するエネルギーである。 1. En =(n+―――)hν0 2 プランクが ...
http://www.h5.dion.ne.jp/~antibody/zero%20point.htm

ゼロ・ポイント・フィールド - Skeptic's Wiki
ゼロ点エネルギー(ZPE). 「零点エネルギー」という言葉はごく普通に量子力学の教科書に登場する。電子などの素粒子の位置は不確定であり、「波動関数」を用いて確率論的にしか表せない。このことを古典論的に解釈すると、素粒子は静止することはなく、 ...
http://skepticswiki-jp.org/wiki.cgi?page=%A5%BC%A5%ED%A1%A6%A5%DD%A5%A4%A5%F3%A5%C8%A1%A6%A5%D5%A5%A3%A1%BC%A5%EB%A5%C9


真空からエネルギーを取り出せ | 日経サイエンス
正確にどれほどの量の零点エネルギー(ゼロ点エネルギー)が真空に存在しているかは不明だ。宇宙論研究者の中には,宇宙の始まりの時点では,どこもかしこもブラックホールの内部のようなありさまで,真空エネルギーが高く,それがビッグバンを誘発したと ...
www.nikkei-science.com/page/magazine/9803/zero.html


零点振動
零点振動 ・・・ 調和振動子モデルによる 1. 1次元調和 ... この第2項の係数が q → ±∞ で発散するから q = ±∞ がこの微分方程式の特異点である。 ... これを、零点振動(れいてんしんどう、Zero-point motion)といい、そのエネルギー を零点エネルギーという。
www.k2.dion.ne.jp/~yohane/000000utyuusouzou103.htm


声明:大衆レベルからフリー・エネルギー革命を開始しよう - nifty
この「フリー・エネルギーと代替エネルギー特集:パート?」は、私たち自身および私たちの愛しい惑星の存続にとって、私たちがこれまで .... しかし、零点エネルギーは、エネルギーが真空―――すなわちゼロ・ポイント―――内に含まれているという科学的理論に ...
http://homepage2.nifty.com/silverring/maatdrunvalofeb2editor.htm


Zero-point energy - Wikipedia, the free encyclopedia
Zero-point energy is the lowest possible energy that a quantum mechanical physical system may have; it is the energy of its ground state. All quantum mechanical systems undergo fluctuations even in their ground state and have an associated ...
http://en.wikipedia.org/wiki/Zero-point_energy


Zero Point Energy
Zero point energy (ZPE), some times described as:"Zero Point Vacuum Fluctuation" or the "quantum vacuum" is understood by researchers to be a permanent, inexhaustible energetic medium pervading through space time. The energy density ...
http://www.panacea-bocaf.org/zeropointenergy.htm


Zero-Point Energy
5 Feb 2009 – Quantum theory predicts, and experiments verify, that so-called empty space (the vacuum) contains an enormous residual background energy known as zero-point energy or ZPE. This energy derives its name from the fact that ...
www.halexandria.org/dward154.htm


Tesla The Race to Zero Point Free Energy - YouTube
► 109:39
From Google Videos. Lightworks Video&Audio Hosted by Bill Jenkins, formerly of ABC Radio, this ...
http://www.youtube.com/watch?v=aKWPht3fU-o


Free Energy - Zero-Point Energy Extraction from the Quantum Vacuum
► 70:32
This is Tom Valone's amazing video lecture Zero-Point Energy Extraction from the Quantum Vacuum (2004 ...
http://video.google.com/videoplay?docid=-5738531568036565057


現象三次元化の力学へ向けて:超光(霊光)による螺旋的現象生成の力学についての思考実験
映画THRIVEのトーラスとPS理論
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11241248426.html

A案:以下の渦巻星雲の画像において、垂直軸は、PS理論ではx軸(実軸、現象軸)である。そして、下部の極が凹(−1)であり、上部の極が凸(+1)である。
 ここまでは一致する。しかし、問題は、上部の垂直軸に絡まる螺旋と実際の渦巻星雲をどう捉えるかである。
 上部の垂直軸に絡まる螺旋は超光による螺旋であり、渦巻星雲は、その光/物質的螺旋形態と言えるのではないだろうか。
 つまり、超光(霊光)による螺旋の光・物質的現象体が渦巻星雲と考えるのである。

****************************

先に上記のように、A案が理論的にはいいと述べたが、この点についてさらに考察してみよう。
 問題は超光(霊光)のベクトルによって、物質的宇宙・自然世界、つまり、現象界が形成されると考えるが、その力学はいかなるものなのかということである。
 凸iを現象太陽、凹iをdark sunとしたが、それを形成する力学が問題である。だから、超越軸(超越界)、凸j*凹jから始めないといけないことになる。

凹j*凸j⇒凹i+凸(+1)  ・・・・・  A

A式が超光創造根源式と作業仮設する。
 凹jはいわば太母・母神であり、凸jは太父・父神である。
 とまれ、media pointにおいて、超光(霊光)凸(+1)が発出される。
 そう、これは、dark sunである凹iが創る超光である。ここでは、まだ、物質宇宙、現象宇宙は存在していないことになる。
 物質宇宙・現象宇宙が生まれるには、

凸j*凹j⇒凸i+凹(−1)  ・・・・・  B

B式が必要である。現象光の凸iが生まれ、また、物質凹(−1)が発生している。しかし、B式だけでは、光と物質だけであり、まだ、生命や螺旋形態はない。
 AとBが連携して、宇宙・自然世界が創造されると言えよう。即ち、凹iに凸iが共振し、また、凸と凹が牽引するのではないだろうか。
 凹i*凸iの差異共振によって、物質を巻き込んで、螺旋的な宇宙・自然世界、あるいは、トーラス的な宇宙・自然世界が形成されると言えよう。

(ここに映画Thriveのトーラス像が入る。以下参照。)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1817.html

 ここで仮説であるが、差異共振によって物質を巻き込む超光(霊光)は螺旋的な力を発生させると考えるのである。そして、その螺旋力学を基体、下敷きとして、物質的螺旋が形成されると考えるのである。
 この螺旋原理であるが、これも仮説となるが、凸i*凹iは回転、円運動すると考えるのである。それも、ガウス平面とは垂直方向に回転すると仮定するのである。
 分かりやすくするために、半径iの円盤を垂直にして、ガウス平面の虚軸y軸に置くのである。その回転する円盤の円弧に凸i*凹iは位置することになる。
 そして、超光(霊光)による直進(ベクトル)は、時間を伴うので(凹iを時間とも考えている)、円弧の運動は螺旋を描くことになるのである。
 これで、螺旋的物質体(宇宙・自然現象)の形成原理の説明がなんらかできた。
 また、螺旋形態的物質現象の中でも、黄金比をもつものが大半ということになるのだろう。だから、差異共振の比率(ratio)として、黄金比Φが代表的になるだろう。
 ところで、映画Thriveの渦巻星雲のトーラスであるが、中心を貫く下から上への流れにおいて、中間部の平面に、渦巻星雲が形成されているのである。
 これをどう説明するのかである。超光(霊光)のよる螺旋は説明できたが、渦巻については説明していないのである。
 上記の説明からでは、この渦巻、ないしは、渦巻星雲は、虚軸の円盤に相当するものである。
 これを原螺旋円盤と名づけたい。超光(霊光)による螺旋的物質化様式において、変数があると考えられる。ある数値においては、このように原螺旋円盤を形成し、あるときは、朝顔のように螺旋形態を展開すると仮説したい。
 以上で、本件の思考実験的考察を終える。

追記:現象三次元化と言ったが、時間も含まれるので、現象時空四次元化というのが正確ではある。

追記2:上のトーラス像の下方からも螺旋が生まれているようである。これをまだ説明していない。問題は物質形成において、⇒凹(−1)になり、ベクトルは左向きになるのであり、トーラス像にあてはめれば、中心から下方に向うのであり、下方から上方へではないのである。
 これは大きな齟齬である。今、作業仮説的に言うと、物質形成同一性力学よりも、超光形成差異共振力学の方が、はるかに強いということがあるのではないだろうか。これは、現代宇宙科学において、物質や光のエネルギーよりもダーク・マターやダーク・エネルギーがはるかに多い(両者併せて、宇宙全体の物質エネルギーの96%を占める)と考えられていることで裏付けられるのではないだろうか。
 つまり、差異共振の超光ベクトル⇒凸は物質ベクトル⇒凹よりも強力であるので、後者を前者の方向に牽引してしまうということではないだろうか。
 今はここで留める。

参考:
対数螺旋 - Wikipedia
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対数螺旋(たいすうらせん、logarithmic spiral)とは、自然界によく見られる螺旋の一種である。等角螺旋(とうかくらせん、equiangular spiral)、ベルヌーイの螺旋ともいい、「螺旋」の部分は螺線、渦巻線(うずまきせん)、匝線(そうせん)などとも書く。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%95%B0%E8%9E%BA%E6%97%8B

映画Thrive(日本語版)
http://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI&feature=player_embedded 


映画THRIVEのトーラスとPS理論
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11241248426.html


森羅万象、トーラスの形態(とベクトル平衡体:追記)が原形であると映画thriveでは主張されている。トーラスの問題点をPS理論から言うと、認識性がそこには反映されていないことだと思う。つまり、人間の自己認識性が見られないことである。
 とまれ、実に興味深いので、PS理論と結びつけてみたい。
 
A案:以下の渦巻星雲の画像において、垂直軸は、PS理論ではx軸(実軸、現象軸)である。そして、下部の極が凹(−1)であり、上部の極が凸(+1)である。
 ここまでは一致する。しかし、問題は、上部の垂直軸に絡まる螺旋と実際の渦巻星雲をどう捉えるかである。
 上部の垂直軸に絡まる螺旋は超光による螺旋であり、渦巻星雲は、その光/物質的螺旋形態と言えるのではないだろうか。
 つまり、超光(霊光)による螺旋の光・物質的現象体が渦巻星雲と考えるのである。

B案:以上の視点とは異なり、次のように考えるのも、可能性があるだろう。即ち、トーラスの垂直軸をガウス平面に直交する超越軸z軸を仮定する。だから、トーラスの下部極は、凹jであり、上部極は凸jとなる。そして、それが、ガウス平面上に渦巻星雲をもたらすと考えるのである。

C案:また、他の可能性としては、この二つの可能性を合わせたものもありえよう。

D案:四つ目の可能性としては、トーラスの垂直軸を虚軸y軸と見るものである。上部極が凸iであり、下部極が凹iである。そして、下部極から上部極への「流動」はベクトルである。そして、media pointで、実軸x軸へと展開するが、それは回転して、渦巻、螺旋を形成するのではないのか。

 以上、思いつきであるが少なくとも四つの可能性を想定したが、現段階では、A案かD案がより可能性がありそうである。しかし、理論的にはA案がいいが、直観では、D案がいいのである。肚凹iから頭凸iへと氣が流れ上がるが、上がった「氣」を呼吸を介して、下部へ下降させることを私はしているのであるからである。下部⇒上部⇒下部である。

Film review: Why 'Thrive' is best avoided » Transition Culture

resurrectionのブログ

http://transitionculture.org/2012/01/09/film-review-why-thrive-is-best-avoided/
Thriveを観る、トーラス、フリーエネルギー、舞踊による一体感|卵の中の ...
haitaka.blog19.fc2.com/blog-entry-1235.html - キャッシュ

Thriveを観る、トーラス、フリーエネルギー、舞踊による一体感. 2012-02-21. 話題になっている『THRIVE』の日本語版をyoutubeで見た。 最初にトーラスが出てきたので、これは最後まで見ねば・・・と思った。 トーラスとは、↓こういう形の内側と外側がつながった ...


2012年05月04日(Fri)▲ページの先頭へ
PS理論とシュタイナー精神学:自我とアストラル体とエーテル体と物質:超越軸と虚軸と実軸の3D世界
以前、本件について比較論を行なったが、PS理論からシュタイナー精神学を言わば、取り込みたい。
 今は直観で述べると、
 
自我=凸i ・・・・・ 純粋悟性、外的感覚、空間、電磁波

アストラル体=凹i ・・・・・ 感情、欲望、内的感覚、時間、(重力波)

エーテル体=凸(+1) ・・・・・ 生命、氣、超光、自然、宇宙

物質=凹(−1) 

以上のようになるが、それらはガウス平面に位置付けられている。
 問題は、超越軸z軸の意義である。それらは、いわば、神霊の領域であり、感覚的には、基本的には感知できない領域である。
 思うに、カント哲学の純粋理性の領域に近いが、端的にはそれを超えている。何故なら、純粋理性とは、純粋悟性と超越性との境界に存すると考えられるからである。超越軸と虚軸の交差するmedia pointに存すると考えられる。
 しかしながら、純粋理性は、その力学を単にパラドックスであるアンチノミーに限定していると考えられるのである。もっとも、この点は先になるが、厳密に検討したいと考えている。
 とまれ、超越軸z軸は神霊領域であり、所謂、霊界というものは、ここに存することになる。他界、異界、あの世、彼岸、天国・地獄、等はそこに存すると言えよう。
 そのように見ると、人間の魂、霊魂soul-spiritであるが、それは、自我である凸iとアストラル体の凹iの共存に基本的には存するだろうが、所謂、生きている間は、実軸x軸(現象界)に存しているが、死んだとき、あるいは、生まれる以前(前世)は、そこから脱して、純粋に虚軸y軸に回帰し、また、さらに、media point化して、超越軸z軸(霊界)に帰還するのではないだろうか。
 虚軸y軸はmedia pointを介して、永劫の情報を保持しているのではないだろうか。個的霊魂の情報のアーカイブのようなものではないだろうか。すると、それは、オカルティストの説くアカシャ年代記akashic records(アカシックレコード - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89
)に相当するだろう。
 そして、死後の浄化が超越軸z軸と虚軸y軸とのmedia pointで為されて、霊界への復帰するのではないだろうか。
 以上、思考実験、作業仮説である。


2012年05月03日(Thu)▲ページの先頭へ
差異共振の比率が黄金比ではないのか:精神の物質に対する比:原形としてのペンタクル
「闇」が「光」と共振するとき、「光」による物質を巻き込むが、その物質形態の比率が黄金比になるのではないだろうか。
 言い換えると、超光(霊光)が「光」の物質体を組織・秩序(コスモス)化するとき、発生するのが黄金比ではないのか。簡単に言えば、精神の物質に対する比率が黄金比ではないのか。そして、ピュタゴラス派がペンタクル(五芒星形)を最重要視したのは、黄金比を形成する象徴的な、典型的な図形だからと考えられる。
 そう、ペンタクルは、形態的には、精神の物質に対する、言うならば、プロト・パターン、原形、そう、根源的フラクタルと考えられるだろう。
 後で更に検討したい。

黄金比
http://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/museum/golden/page62.html

縦と横の比率が最も均斉のとれた長方形を想像してみて下さい。それは人によって様々かもしれませんが,黄金比と呼ばれる比が最も美しいと言われています。ところで,どうしてその比率がバランスよく見えるのでしょうか。もしかしたら,その中に何か神秘的な ...


現象太陽とdark sunの交差するmedia point:超越軸と虚軸と実軸の交差するMP
先に、凸iを現象太陽、凹iをdark sunとし、両者の共振から超光(霊光)が生まれると作業仮説した。
 そうすると、現象太陽とdark sunの発生が問題となる。しかしながら、既に、超越軸(ガウス平面に直交する軸)を想定している。それが、凸iと凹iを発生させると作業仮説したのである。
(思考実験:光の問題:光と物質:視覚とは何か:視覚としてのmedia point (04/18) http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1810.html)
即ち、超越軸に凸jと凹jを置き、

凸j*凹j⇒凹i+凸(+1)  ・・・・・T

凸j*凹凹j⇒凸i+凹(−1) ・・・・・U

という方程式を作業仮説したのである。
 だから、現象太陽凸iはU式から、生まれるのであり、dark sunは、T式から生まれるのである。即ち、超越的極性において、同一性力学から現象太陽凸iが、差異共振力学からdark sun凹iが誕生すると考えられるのである。
 以上のように仮説すると、media pointは超越軸とy軸(虚軸)とx軸(実軸)との三者交差が重要になる。
 とまれ、現象太陽とdark sunの交差におけるmedia pointを考えると、やはり、当然、同一性力学と差異共振力学があり、いわば、現象太陽とdark sunが「渦巻いている」と思われる。これは、比喩である。
 具体的に考えると、例えば、渦巻き星雲であるが、それは、dark sun主導の差異共振力学の螺旋的運動によって、現象太陽が巻き込まれて取る形態・形象ではないのか。(複数の現象太陽、複数のdark sunを一応想定する。しかし、dark sunは一つかもしれないが。)
そう、それは、弦巻植物の螺旋とフラクタルな関係が考えられる。
 差異共振力学とはdark energyに拠ると考えられるので、渦巻き星雲は超越的にdark energyを内在していると考えられる。
 これは、直観では、Vector Modeに関係すると思われるのである。
つまり、物質的平面に現象太陽の渦巻き(渦巻星雲)を現象化させるのであるが、精神的超越的内面において、dark sun主導の差異共振のdark energyが(直線的に)力動していると考えられるのである。つまり、現象太陽凸iとdark sun凹iの差異共振によるdark energyが超光を形成しているのである。そう、超光はdark lightと言ってもいいだろう。
 とまれ、現代物質宇宙科学は、dark sunを導入することで、進化するだろう。現象光だけでなく、不可視の闇の存在を肯定することで、進化するのである。そう、唯物論的科学は、精神的物質科学となるだろう。

追記:先にdark matterは存しないのではないのかと述べたが、dark sunを考えると存するのではないのか。つまり、現象太陽凸iは物質体をもっているのであるから、dark sunもそれに応ずる「体」をもっていると思われる。それが、dark matterではないのか。
 それとも、凸(+1)の超光をdark matterと見るのか。後で更に検討したい。

追記2:現象太陽凸iが電磁波ならば、dark sun凹iは対応するに何であろうか。重力波であろうか。もしそう仮説するならば、ブラック・ホールは、ここに位置するのかもしれない。とまれ、思考実験である。

参照:
■ フリーエネルギーに挑戦する現代の平賀源内たち:エマモーターの衝撃 ( 2012-05-02 15:20:18 )
http://quasimoto.exblog.jp/17902189/

Kazumoto Iguchi's blog


2012年05月02日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:電磁波と物質:現象光と超光:二つの太陽:現象太陽とdark sun
テーマ:manichaeism: 哲学

これまでの考えによれば、電磁波は物質形成力学と関係する。

つまり、凸i*凹凹i⇒凹(−1)の物質方程式と関係する。

私の考える光は実際のところ、超光であり、凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺である。これは精神的光である。

それに対して、物質的光、現象的光(電磁波)があり、それが、物質方程式と関係するということである。

そう、先にmedia pointが視覚であると述べたことをここで取り上げたい。

つまり、media pointにおいて、同一性の光(現象光)と差異の光(超光)が併存しているのであるが、物質感覚は同一性の光を基礎としているのであり、差異の光を感知、認知しないのである。

また、現象光凸iが自乗して、⇒凹(−1)の物質になると思われる。

E=mc^2は、このことと関係するように思われる。もっとも、cは現象光である。そして、Eは物質エネルギーである。

それに対して、凸i*凹i⇒凸(+1)の超光は、dark energyをもつように思われるのである。

 思うに、現象光凸iが現象太陽であり、凹iがdark sun、霊的太陽に相当する。そして、超光は現象太陽と霊的太陽の差異共振によって発生するということになる。「光」と「闇」、陽と陰との差異共振によって、超光(超越光)が誕生するのである。


追記:以下の現代物質科学による宇宙の解明であるが、やはり、唯物論ではその謎は解けないだろう。根源は精神である。「光」と「闇」であり、それが、差異共振して、超光を創り出す。そして、「光」の自乗で物質、物質エネルギーを産み出すのである。

 「光」は実に二面的なのである。一方では、超光、霊光を創出するが、他方、自乗して物質形成をするのである。その点で、「光」は善であり、悪である。

参考:

* 宇宙を解き明かす
神の素粒子

http://nationalgeographic.jp/nng/magazine/0803/feature04/


2012年04月29日(Sun)▲ページの先頭へ
同一性と模倣欲望:同一性暴力力学・父権的暴力と民主主義的資本主義社会
視覚と感覚物質同一性世界

テーマ:manichaeism: 哲学

以前、視覚や視覚的美はどうして、自我(同一性自己)と結びつくのか、疑問を呈した。
 視覚的美については後で述べるが、私の疑問は一種愚問であった。何故なら、視覚と感覚物質同一性世界が密接に結びついているからである。視覚は物質世界と同一性の点で親和的なのである。
 では、視覚的美との結びつきはどう説明できるのか。
 やはり、これも、感覚物質同一性世界との結びつきでほぼ説明できよう。ただし、美的感覚は、media pointと結びついているのである。media pointは単に感覚だけではなく、感情と深く結びついている。つまり、凹iの側面である。
 しかしながら、凸iの同一性的側面が強いので、視覚的美も自我と結びつきやすいと考えられる。





同一性と模倣欲望:同一性暴力力学・父権的暴力と民主主義的資本主義社会

テーマ:manichaeism: 哲学

リマスターされ、ブルーレイになった映画の古典『太陽がいっぱい』を見た。
 これは実に理論的な作品である。自分のライバルを模倣し、且つ、ライバルを否定する(殺す)ストーリーである。
 ルネ・ジラールの模倣欲望という理論に適合する作品である。
 これをPS理論から解明したい。
 同一性主義は他者を否定するということで、わかりやすいが、この場合の他者模倣と他者否定をどう説明するのかである。
 PS理論から丁寧に見てみよう。凸i(同一性、自我)は、凹i(他者m差異)を知覚する。しかし、同一性・自我は他者・差異を自己自身に取込むことがで きない。そこで、前者の後者への対応の主要な一つは、後者を同一性化することである。つまり、後者を同一性的に否定することである。他者・差異の否定であ る。これは極端に言えば、破壊である。とまれ、これで、他者否定は説明できた。
 次に、他者模倣についてである。
 これは、劣等感コンプレックスと関係するだろう。つまり、同一性・自我Aより、他者Bがなんらかの点で強者、優れている者である場合を考えよう。
 このとき、AはBに対して、嫉妬を感じる。そして、悪化すれば、敵意、さらに殺意を感じる。また、逆に、Bに対する支配欲も生じよう。
 とまれ、もう少し条件が必要である。AとBはライバル的な横並びの関係がなくてはならないだろう。最初から、上下、高低の隔たりがある場合は、否定的になることは少ないだろう。言い換えると、AとBとの存在としての同一性が存することが必要である。
 結局、同一性同士の関係の中に、他者・差異が現われるときに、ライバルへの嫉妬等の否定的感情・欲望・意志が生まれてくると考えられる。(『太陽がいっ ぱい』で言えば、当然、トムとフィリップの関係であり、フィリップの強者性(他者・差異性)はマルジュという恋人やボート等を持っている点である。)
 ここで他者模倣であるが、出発点において、AとBとの同一性があるので、AとBは自分を相互に重ねると言えよう。つまり、A=Bである。
 しかしながら、Bには、Aにはない有利さがあるのである。それ故に、AはBを否定しようとするのである。つまり、ここで、同一性模倣(他者模倣)と他者・差異否定が同時生起するのである。
 つまり、ライバルを否定して、ライバルの他者・差異性を模倣する(横取る)という事態が生じるのである。
 これで解明できた。結局、同一性否定にしろ、他者模倣にしろ、根本は同一性力学、同一性暴力力学のしからしめる事態である。これは父権的暴力と言い換えることもできる。
 政治・経済的に言えば、民主主義化された資本主義社会は、この同一性暴力力学・父権的暴力が支配的に発現する場であると考えられる。

追記:A=Bについてもう少し説明が必要である。同一性の一致とは、他者凹iの位置に凸iが来ることを意味する。
 この他者凹iの位置がポイントである。A=Bにおいて、BはAにおける他者凹iの位置を占めているのである。そうでないならば、同一性暴力力学は作動しない。
 では、凹iの位置にA=Bを置く同一性力学とは何かを考える必要がある。
 本来、他者・差異であるBを同一性化(同一化)する力学とは何か。それは端的に、Aのもつ同一性力学であろう。他者・差異凹iを否定して、他者・差異凹iを同一性化しているのである。
 つまり、他者・差異であるBをそもそも同一性化している暴力力学がそこにはあるのである。父権的同一性暴力力学と呼ぶことができよう。カント哲学的に言えば、悟性暴力である。
 結局、模倣欲望とは、端的に、同一性暴力力学が原理であると言えよう。他者・差異の否定とは、他者・差異の模倣なのである。
 簡潔に言えば、否定とは模倣であるということになる。これは、偉大な法則ではないだろうか。

参考:
太陽がいっぱい (映画) - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/太陽がいっぱい_(映画) - キャッシュ 類似ページ
太陽がいっぱい』(たいようがいっぱい、仏:Plein soleil)は、1960年のフランスとイタリアの合作映画。主演:アラン・ドロン、監督:ルネ・クレマン。 パトリシア・ハイスミスの小説「才人リプレイ君」(原題。邦訳本の題名は『太陽がいっぱい』、『リプリー』)を原作と ...

ルネ・ジラール - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/ルネ・ジラール - キャッシュ 類似ページ
ルネ・ジラール(René Girard、1923年12月25日 - )はフランス出身の文芸批評家。アメリカ合衆国のスタンフォード大学やデューク大学で比較文学の教授を務めた。いわゆるミメーシス(模倣=擬態)の理論を考案し、欲望のミメーシスな性格の発見によって ...





PS理論の生命への応用へ向けて

テーマ:biology

今は余裕がないので、詳述できない。
 結局、生命とは何かを、PS理論的に明快にしたい。簡単に予備考察をすれば、凸i*凹iが生命魂である。これで、植物、動物、人間の生命を説明できよう。
 問題は物質的生命体の形成や意義である。
 物質は凹(−1)で説明できる。では物質的生命体ないしは生命有機体はどう説明できるのか。
 ここで作業仮説であるが、凸i*凹凹i⇒凹(−1)という物質方程式であるが、凸iによる凹iの否定が凹凹iであるが、この否定に対して、凹iからの反発があるはずである。それは端的に、差異共振志向、光形成志向である。
 この志向が物質を巻き込んで物質生命体、生命有機体を形成するのではないのか。
 その巻き込み力学は、media pointに存するのではないだろうか。そう、凸iと凹iが共振するとき、渦巻きや螺旋が形成されると推測できる。このmedia pointでの渦動、螺旋的力学が、物質凹(−1)を巻き込んで、螺旋形態の物質的生命体、生命有機体を形成するのではないだろうか。
 そうならば、生命本体の核とは差異共振性である。そして、それが物質的形態を持っているのであり、その物質的形態を維持するために、食、その他の生命体の活動があると思われる。
 結局、生命も光を志向しているのである。
 今は以上で留める。



2012年04月18日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:光の問題:光と物質:視覚とは何か:視覚としてのmedia point
(画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11226208712.html



凸i*凹i⇒凸(+1)     ・・・・・ A

において、右辺が光である。つまり、光とは同一性(「物質」)と差異(「精神」)によって形成されているのである。
 しかし、自我(凸i)は、光を物質(光子)としてのみ捉えるのである。
 
凸i*凹凹i⇒凹(−1)      ・・・・・ B

の自我方程式(と呼ぶことにする)において、右辺は物質主義、利己主義、合理主義、自我主義等を意味すると考えられる。近代・現代人はこれに陥っているのである。
 問題は物質である。物質はどう記述されるのか。
 同一性凸iを「物質」と上記している。問題は、同一性凸i=物質としていいかどうかである。先にはそう考えたのであるが。
 直観で考えると、同一性凸iが内的他者凹iに否定的に接するときに、物質化が為されるのである。
 つまり、凸i*凹凹i⇒凹(−1)である。だから、物質は右辺の凹(−1)であると思われる。
 そうすると、自然は単に差異共振しているだけではなく、同一性主導があることになる。ここが極めて重要なポイントとなる。
 もし、自然が差異共振事象だけならば、すべては光となり、物質は形成されないだろう。
 だから、これまで、自然は差異共振現象であるとした私の考えを訂正しないといけない。
 結局、自然現象とは、差異共振現象=光と同一性現象=物質の両面をもっていることになる。簡単に言えば、自然現象とは光と物質の複合体である。
 ところで、このように考えると、z軸は不要になり、再び、ガウス平面だけで説明できるようになる。
 では、自我凸iはどのようにして、光を認識するのか。media pointが原点であり、そこが差異共振事象の起点である。同時に、当然、同一性事象(物質事象)の起点でもある。
 問題は視覚とは何かである。
 ゲーテが光が視覚の原因であると述べていたと思う。そうならば、視覚は、差異共振事象が形成したものである。
 直観では、視覚とは差異凹iの、同一性凸iにおけるいわば飛び地である。つまり、凸iと凹iのなんらかの連結において視覚が形成されると考えられる。
 同一性凸i主導だけでは、視覚は形成されないし、差異凹i主導だけでも、視覚は形成されない。両者のなんらかの結合が視覚形成のために必要である。
 この結合力学はいかなるものか。
 というか、端的に、media pointが視覚ではないのか。結合力学は必要ないのである。
 media pointは同一性凸iの極と差異凹iの極、両極、双極、対極をもっているのであるから、これを視覚として捉えるのは的確であると考えられるのである。端的に、視覚は正に特異点である。聴覚はそれに対して、より差異に傾斜しているだろう。いわば、視覚の裏側である。(ついでながら、古代ギリシアのアポロとは正に、media pointの表現であろう。ディオニュソスとは、同一性にとらわれない、正に、差異共振現象を指しているだろう。つまり、アポロから同一性側面を取ったものであろう。ニーチェの混乱は両者の二元論化にあるだろう。D. H. ロレンスのdark sunとは正に、差異共振事象としての光である。そう、視覚であるが、media pointの同一性側面としての視覚は、光を差異共振事象としてではなく、同一性のフィルター[精神的フィルター]を通して見ていると言えよう。思えば、以前、超越光と私がしきりに述べたが、それは、media pointの差異側面から見た差異共振事象=光[dark sun]のことであると言えよう[dark Godは凹iであろう]。光はルドルフ・シュタイナーから言えば、アフラ・マズダ=キリストである。)
 とまれ、以上から、自我凸iがどのように光を知覚するのか解明できた。つまり、自我は視覚であるmedia pointを介して、光を主に同一性的に、従的には差異的に、知覚するのである。
 ここで、プラトンの有名な洞窟の比喩に言及すると、洞窟とは正に、同一性であり、その壁の影像とは、正に、凹(−1)である。そして、洞窟外の太陽(善のイデア)とは、正に、凸(+1)である。そして、洞窟の穴がmedia pointである。
 最後に光と宗教の関係に簡単に触れよう。
 いったい、差異共振事象の起因である凸i*凹i(的確には、凹i*凸i)の「存在」はどういうものなのか。始めから存するのか、それとも形成されたものなのか。
 ここで、凹(−1)の問題が出てくる。凹(−1)の平方根が凸iと凹iである。そうすると、物質である凹(−1)が差異共振事象の起源であることになるだろう。
 これはどういうことなのだろうか。いわば、摩訶不思議である。もし、そうならば、唯物論である。光も宗教も物質が根源になるのである。
 しかし、そうではないだろう。
 凸i*凹iを産出するのは、なんらかの超越性であろう。ここで、ガウス平面に直交する軸が必要になるのかもしれない。Kaisetsu氏の言う超越軸である。
 先にフレミング右手の法則の視点を提起したが、ここではフレミング左手の法則を上記の視点から適用すべきだろう。
 即ち、磁界の方向をz軸、導体にかかる力をx軸の凹(−1)、そして、電流の流れる方向をy軸の凹iに見るのである。
 導体にかかる力を物質の力(重力)とすれば、光はその正反対の方向に位置する。(これで、重力が光を曲げることが説明できよう。そう、導体にかかる力の方向はブラックホールの方向であろう。そして、おそらく、dark matterは存在しないかもしれない。それに対して、dark energyは明らかに存するだろう。それは正に、差異共振事象としての光を意味しよう。つまり、今日の科学は、光の同一性的側面、物質的側面しか見ていないので、光の差異共振本体を捉えていないということになるのである。)
 ということで、超越軸を仮説してそこが凸i*凹iの起源であると考えたい。超越軸の差異共振方程式(と呼びたい)は、

凸j*凹j⇒凹i+凸(+1)   ・・・・・ C

である。これこそ、宗教的な光方程式(と呼びたい)と言えよう。
 では、凸jと凹jとは何か。あるいはどういう神霊なのか。先に述べたように、凸jは「父神」で凹jは「母神」と考えられよう。しかしながら、差異共振は、主導的根源は凹j、「母神」に存すると考えられるのである。
 そう、それが母権的文化、母権的世界である。本来のアジア、東洋の文化世界である。
 それに対して、一神教は「父神」の凸jが主導的になって形成されたものである。即ち、

凸j*凹凹j⇒凸i+凹(−1)   ・・・・・ D

ではないだろうか。(因み、創世記におけるヤハウェは凸jであり、エローヒーム[神の複数]は凹jと考えられる。)
 そして、この場合はフレミング右手の法則を手がかりすることができると思う。即ち、電流の流れる方向が凸iとなるのである。(ひょっとして、陽電子の流れと言えるのかもしれない。)
 だから、D式は父権的一神教方程式と呼べよう。そして、C式は母権的多神教方程式とも呼べよう。
 ということで、これまでの諸論考をだいぶ整理できたと考えられる。結局のところ、人間認識図は基本的には左右逆転にすればいいことになる(人間認識図の構成は左右逆転すれば、ほぼそのまま使用できよう)。また、ガウス平面に直交する超越軸z軸をつければ、ほぼ十全な認識図になると考えられる。それは、宗教的認識図と呼べよう。それは、超越論的ではなく、超越的認識図とも言えよう。


参照:


resurrectionのブログ


フレミングの左手の法則 - Wikipedia



resurrectionのブログ

フレミングの右手の法則 - Wikipedia



resurrectionのブログ
《ガウス平面で表した人間認識の図》


2012年04月14日(Sat)▲ページの先頭へ
四次元モデル:x軸、y軸、z軸、α軸:下降次元変換:凸α*凹α⇒凸(+1)⇒凹z、凹y
テーマ:Neo-PS理論

α軸:凸α*凹α⇒凸(+1)を凸k*凹k⇒凸(+1)とする。

z軸:凸z*凹z⇒凸(+1)を凸j*凹j⇒凸(+1)とする。ただし、これは自己差異共振という理想態である。自我主導が普通なので、凸j*凹凹j⇒凹(−1)が通常態である。

y軸:凸i*凹i⇒凸(+1)はこのままであり、陰陽の氣の方程式である。

x軸:これは、ただ、凸(+1)と凹(−1)の並立する実軸である。
 
そして、四元数からi 2 = j 2 = k2 = ijk = −1ということになる。
 問題は、四つの軸の関係である。media pointでは、交差するだろうが、そのとき、どういう力学が作用するのか。というか、もともと四つの軸が存するのか。それとも、根本のα軸のみが最初に存して、その後、残りの三つの軸が形成されたのか。
 凹(−1)が自我で、凸(+1)が自然自体(物質と精神の共振体)ならば、それは、当然、他の軸、超越論的な軸から形成されたものである。だから、派生態である。
 残りのy軸(氣軸:エーテル体軸)とz軸(自己軸)はどうなのだろうか。
 直観では、原初はα軸しかなかったように思える。そこから、z軸やy軸が派生したように思う。
 ならば、その力学はどうなるのだろうか。
 先に指摘したが、

凸α*凹α⇒凸z*凹z



凸α*凹α⇒凸y*凹y

のようなものが成立すれば、いいのである。(凸z*凹z⇒凸y*凹yはないと推測する。)
 このいわば、降下的次元変換は差異共振では形成されない。違う力学が必要である。
 差異共振によって形成されるx軸とα軸の形成する平面を直交する軸が形成されればいいことになる。
 以下の図のように、フレミング右手の法則に類似した力学ははたらけばいいのである。即ち、磁界の方向がα軸凸αで、導体の動いた方向がx軸凸(+1)であり、電流の流れる方向が凹zとなる。
 そして、それぞれの方向の反対(対極)を考えれば、α軸の凹α、x軸の凹(−1)、そして、z軸の凸zが形成される。
 興味深いのは、z軸においては、凸z(陽)ではなく、凹z(陰)が形成されることである。そう、電流は電子(負電荷)であるから、これなりに合理性、整合性があると言えようし、また、母権的自己ないしは原始差異共振を考えると、それは凹z主導なので、これに合致することになるのである。
 結局、

凸α*凹α⇒凸(+1)⇒凹z

というような数式になる。
 次に、y軸であるが、これも似たような視点でいいのではないだろうか。即ち、

凸α*凹α⇒凸(+1)⇒凹y

である。やはり、凹y(陰)が形成されるのである。陰陽の氣であるから、陰が先行するのはまことに的確である。
 今はここで留めるが、後で、精緻にこの力学の方程式を解明したい。
 

ファイル:Fleming's Right Hand Rule.png

フレミングの右手の法則


再考:陰陽の氣と自我/非自我の作用:自然における同一性と差異
どうも勘違いしているのかもしれない。
 先に、「光」の場合、粒子は⇒凹(マイナス)で、波動は⇒凸(+1)と述べた。
 しかしながら、自然状態では、差異共振が起るのであり、同一性は生起しないと考えられる。
 だから、「光」は⇒凸(+1)しかありえないと考えられる。ということなので、訂正である。
 問題は、自我作用、同一性作用である。自我・同一性作用において、⇒凹(−1)が生起すると考えられる。
 そして、それに抑圧され、排除される非自我は、裏面、背面で、どう作用するのだろうか。
 先には差異共振作用をすると述べたが、どうだろうか。これも勘違いのように思える。
 差異不共振ではないだろうか。否定された凹iの作用は反動作用になると思われる。否定的感情、否定的衝動になると思われる。それは、攻撃的衝動ではないだろうか。
 そう、問題は先に述べた原始差異共振である。これは、自我作用によって、無意識化されるだろう。
 とまれ、ここにおいてこそ、差異共振の原点があるのであるが、自我作用の支配の下、未発達な状態、あるいは、潜在的な状態に留まっていると考えられる。
 つまり、自我作用と原始差異共振作用は矛盾・齟齬の関係にあると言えよう。
 では、自我・同一性作用と自然現象との関係はどうなのだろうか。
 陰陽の氣の差異共振現象が自然現象とするならば、自我・同一性作用とどう関係するのか。
 凸zは純粋悟性になるが、また、外的感覚(空間)にもなるだろう。そして、否定された、また、抑圧された凹z(原始差異共振を含めて)は、それなりに、内的感覚(時間)であろう。
 そう、人間身体を考慮しないといけない。人間身体は当然、自然現象である。つまり、差異共振現象である。そこに、自我/非自我が組み込まれているのである。
 ここでは作業仮説であるが、こう考えたらどうだろうか。差異共振現象とは、当然、凸i*凹i⇒凸(+1)である。右辺が自然現象ないしは自然自体である。
 これは当然、凸iと凹iの共振から形成されているのだから、自然現象には凸iのなんらかの要素があるということではないだろうか。凸iと凹iの即非現象と言ってもいいのであるから、やはり、凸iを基本的構成要素としてもっていると言えよう。
 つまり、同一性の側面をもっているということになる。そして、それが、物質というものでないだろうか。
 そして、自我・同一性作用は自然のこの物質性を認識するということではないだろうか。
 この作業仮説の問題点は、果たして、凸iを凸zと同様に、同一性として見ていいのかということである。
 凸zは自我・同一性作用である。しかし、凸iは自我・同一性作用ではなく、自然のもつ陽極である。
 しかしながら、それを自我極ではなく、同一性極と見ることは可能ではないだろうか。
 ということで、作業仮説的に、凸iを同一性として見れば、それを自然身体において、自我は同一性=物質として認識するということは考えられるのである。
 では、もしそうならば、凹iは何か。凹zは非自我、内的他者、絶対的差異であるが。
 少なくとも、非同一性と言えよう。つまり、差異である。同一性を物質とするならば、非同一性、差異とは何であろうか。おそらく、一種の精神である。自然の精神ということになる。
 「わたし」は「山」であるというとき、「わたし」は凹zであり、「山」は凹iではないだろうか。凹zと凹iとの一種の共鳴、合一等がなければいけない。
 凹zは非自我的精神であるが、凹iは単に精神ということではないだろうか。
 とりあえず、そう仮定して考えたい。
 すると、自然現象、自然自体とは、同一性=物質、差異=精神の共振から形成されていることになる。
 そして、人間は自我・同一性(物質)作用と非自我・差異(精神)作用との二元体である。
 思うに、カントが現象における基体と見ていたものは、差異=精神ではないだろうか。
 そして、物質科学は、自然の物質的側面のみを捉えて、自然の精神的側面を看過していることになる。
 今はここで留めて、後でさらに検討したい。


2012年04月11日(Wed)▲ページの先頭へ
差異と「差異」:内的他者としての差異と外的他者としての「差異」:陰陽の氣としての「光」と自己軸
後で検討したいが、結局、「わたし」は「山」であり、同時に、「わたし」は「わたし」であり、「山」は「山」であるという即非の論理において、「差異」の問題が生じる。
 私がこれまで述べてきた差異とは、「わたし」は「山」であるというときの「山」のことである。
 しかしながら、一般的には、「わたし」は「わたし」であり、「山」は「山」であるというときの「山」を「差異」と考えるだろう。
 何が異なるかといえば、前者は内的他者のことであり、それに「わたし」が一致することを意味し、後者は外的他者のことであり、それと「わたし」は異なることを意味する。後者は同一性としての他者と言えよう。
 思うに、内的他者への感知がポスト・モダンの最良の収穫ではないだろうか。これは、PS理論では絶対的差異である。
 結局、自己とは「わたし(自我)」であり、且つ「非わたし(非自我)」なのである。この二元論(極性)がPS理論の説くところである。
 そして、さらに、両者が(差異)共振するところがPS理論の核心である。
 ところで、今不明なのは、電磁波や量子の位置付けである。
 粒子であり、且つ、波動でもあるという、例えば、「光」の位置付けであるが、直観で言うと、粒子は⇒凹(−1)であり、波動は⇒凸(+1)である。
 両者は同時生起である。だから、即非的生起と言うこともできよう。
 そうすると、「光」とは、凸i☯凹i⇒凸(+1)、凹(−1)の左辺が本体と考えられる。そう、思うに、それは、氣と呼んでいいのではないだろうか。陰陽の氣が「光」であり、それが、粒子と波動を同時・即非生起させると考えられるだろう。
 そうならば、「光」は自己的であると言えるのではないだろうか。それは本当なのだろうか。どうも躊躇するのである。
 何故なら、自己とは自我且つ非自我(内的他者)であり、自我を陽、凸i、非自我を陰、凹iと見ていいのかすぐには首肯できないからである。
 つまり、人間において、自我の作用は非自我の作用よりもはるかに強いからである。とりわけ、父権主義において。
 だから、人間は陽に傾斜していると言えば済むのだろうか。陽に傾斜していても、陰陽の氣においては、陰は開いているのである。言わば、開放系である。それに対して、人間の自我は閉鎖系であり、非自我を排除しているのである。この違いが決定的であると考えられる。
 やはり、ガウス平面に直交するz軸を加えて、それを自己軸とすべきように思われるのである。
 この点はあらためて検討したいので、今はここで留める。

追記:自己軸であるz軸を考えると、仮に、「プラス」の軸に凸zを、「マイナス」の軸に凹zを置く。凸zが自我で、凹zが非自我となる。
 自我は同一性主義であり、それは、非自我を抑圧、排除する。
 とまれ、z軸のMedia Point(虚軸と実軸のmedia pointと区別する。もっとも、重なるのではあるが。)において、凸z側において、視覚や脳の原点があるのではないだろうか。思うに、第二ガウス平面(z軸とx軸の直交座標であるが、超越論的ガウス平面と言えるかもしれない。)において、凸zと凹の領域、第二象限に、脳の領域があるのかもしれない。視覚はMedia Pointの自我側に存するのではないだろうか。
 それに対して、凹zと凹の領域、第三象限は、内臓の領域ではないだろうか。聴覚はMedia Pointの非自我側に存するのではないだろうか。
 次に、凸zと凸の領域、第一象限であるが、それは、純粋理性、理念の領域ではないだろうか。因みに、純粋悟性は凸zの第二象限側に存するのではないだろうか。
 そして、凹zと凸の領域、第四象限であるが、それは、超越界、コスモス界、真のイデア界(これは、純粋理性、理念の世界とは区別される)ではないだろうか。
 ロレンスがdark sun、dark God、cosmosと呼んだものは、この領域の存すると思われる。
 そう、宗教の真の光(「神」)もここに存するように思われる。マニ教の光も当然、ここである。
 以上、作業仮説、思考実験である。後でさらに検討したい。


2012年04月10日(Tue)▲ページの先頭へ
カントの純粋悟性論と同一性世界:純粋理性と凸i主導のmedia pointにおける凹iの浸透様態
カントの純粋悟性論は明らかに、同一性、量、物質の世界を超越論的に捉えているものである。凸iの同一性が支配している世界である。だから、凸i*凹凹i⇒凹(−1)である。これは先にも述べたので、これ以上説明しない。
 問題は、凹iを凸iの同一性支配から解放したときに事態である。これは当然、不連続的差異論の事態であり、また、PS理論の事態である。
 これまで差異共振して、凸i*凹i⇒凸(+1)になると述べた。凸(+1)は精神である。
 思うに、解放された自由になった凹i(「時間」)がもし差異共振しない場合はありえるのだろうか。もし可能ならば、それはどういう事態なのだろうか。
 思うに、あり得るならば、それは、第四象限、コスモス、イデア界を意味するのではないだろうか。
 この問題はここで留める。
 次に、カントの純粋理性の問題について簡単に予見を述べたい。
 純粋悟性は凸i支配を意味する。それに対して、純粋理性はその超越論的なものである。つまり、それは、第一象限を意味するかもしれない。
 あるいは、簡単に言えば、凸iと凹iとの「差異」がアンチノミー、背理になっていると考えられる。もっとも、カントにおいて主導的なものは凸iであり、凹iが形成する差異共振をカントは認めていないと考えられる。
 しかしながら、先に述べたように、media pointにおいて、凸iに対して、凹iに拠る差異共振が浸透しているのであり、その浸透において、カントは差異共振の曖昧な像を予感して、純粋理性の問題を捉えているようにも思える。
 そう見ることができるならば、カントにおいて、ポスト・モダン、正確に言えば、構造主義抜きの同一性と差異の問題をカントは先駆的に扱っていたことになる。
 ポスト・モダンが混乱したのは、超越論的なもの、認識問題を、同一性、量的視点が排除してしまったからだと思われる。
 とまれ、カントの純粋理性とは、凸i主導のmedia pointにおける凹iが浸透するときの認識であると思われる。
 そうすると、PS理論ははるかに、カント哲学を超えていると考えられる。
 そう、以前述べたように、フッサール現象学の超越論的主観性は、カント哲学を超えて、凹iの浸透自体を捉えたように思える。しかし、完全に純粋化したかは疑問の余地がある。

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2012年03月29日(Thu)▲ページの先頭へ
母権と父権における連続的自我の様態:同一性による差異共振支配の克服のための聖霊主義へ向けて
テーマ:manichaeism: 哲学

母権的自我における連続的自我と父権的自我におけるそれとの区別が不分明になっているようなので、検討したい。
 母権的自我とは、原始差異共振と連続的自我の極性的二重性をもつ。
 それに対して、父権的自我は、原始差異共振を否定して、連続的自我中心となっている。ここには、分裂、亀裂がある。
 問題は連続的自我における否定される他者凹iの様態である。
 母権的自我においては、連続的自我において否定される他者凹iは、原始差異共振があるために、言わば、完全には否定されず、肯定的な側面があると考えられる。
 それに対して、父権的自我においては、連続的自我において否定される他者凹iは完全に否定されるのであり、そのために、他者凹iは否定的感情、反感、反動的衝動等になっていると考えられる。
 ヤハウェについての分析で、母権的一神教と考えたが、結局、それを翻した形になり、齟齬の状態に留まっている。
 ヤハウェはやはり、父権的自我の究極性のようなものと見るべきであろう。
 つまり、ヤハウェとは超越的な、絶対的な純粋自我であり、超越的な、絶対的な純粋他者凹iを否定すると考えられるのである。
 故に、後者の否定が前者に付随して、「我は嫉妬深い神なり」という様態になると考えられる。
 とは言え、問題は、その超越性が何処から生まれているかである。
 凸iだけなら、純粋自我であり、そこには超越的絶対性はないだろう。
 先に、凸(+1)⇒凸i*凹iを思考実験的に提起した。
 凸(+1)が真の光であり、「神」であるとすると、これが、超越的絶対性の根源であると考えられる。
 だから、ヤハウェの父権主義は凸(+1)、真の光、「神」から発生していると考えられる。
 ただし、凸iに極大化したものである。そう、ここで陰陽力学の役立つ。つまり、凸i*凹iは陰陽として、変動しているのであり、母権主義のときは、凹iが主で、凸iが従であり、凹iが極大化したときが、完全母権主義と考えられ、また、父権主義はその逆である。
 ということで、ヤハウェは凸iの極大化の様態と考えられるのである。【そうすると、陰陽力学の力の根源は凸(+1)となる。先にも簡単に指摘したが、おそらく、凸(+1)を「父」と考えることができるだろう。】
 以上の視点から現代社会、現代世界の問題が解明できよう。
 日本民族であるが、やはり、これまで既述したように、基本的には二つの民族、母権的民族と父権的民族が併存しているのであり、おそらく、明治維新以前には、両者のある種の、つまり、古代ギリシア的な結合、融合があったが、明治維新後、父権的民族が支配的になり、それが、今日現代まで続いていると考えられる。
 しかし、この父権的民族は狡猾であり、母権的民族の裏に言わば、隠れて、支配しているように思われるのである。例えば、官僚はそのようなものに思われる。民主主義の隠れ蓑に隠れて、日本国民を支配、操縦しているように推測されるのである。
 天皇制は母権的民族文化と見るべきである。それが明治維新で父権的民族に利用されたと見るべきである。(そして、この隠れた狡猾な父権的民族は某国の権力と繋がっていると推測される。)
 先に指摘したように、大半である母権的民族の日本人は新父権化して、自我と個において覚醒すべきである。(このためには、是非、外国語、とりわけ、欧米語を学ぶべきである。)
 次に、中国人であるが、既述したように、やはり、母権的民族と父権的民族の並立があるが、両者が古代ギリシアや明治以前の日本においてあったような結合が稀であったのではないだろうか。もっとも、老子や易、等はそのような結合を感じさせるのであるが。
 思うに、母権的民族のベースに強力な父権的民族(遊牧民族)が侵入して生まれたのが、中国(支那)のように思えるのである。だから、父権的民族が母権的民族を暴力的に支配する形をとったように思えるのである。(私見では、父権的民族としての中国人は、父権的民族のユダヤ人や欧米人と類似するのである。)
 東アジア、ひいてはアジアの問題の核心にはこの力学あると推察される。
 最後に簡単に資本主義の問題に触れると、やはり、ヤハウェ的一神教が根源に存すると考えられる。
 それは、上述した超越的絶対的純粋自我の同一性形式が根源のように思われるのである。
 しかしながら、以前何度も述べたように、資本主義は差異共振主義を内在しているのである。つまり、資本主義とは、内在する固有の差異共振主義(母権主義)と超越的絶対的純粋自我的同一性形式の絶対的矛盾の結合であると考えられるのである。宗教で言えば、ユダヤ教とキリスト教の結合に相応しよう。
 しかしながら、この結合(おそらく、複合ないしは混合と言う方が的確であるかもしれない)において、主であるのは、後者であり、前者は従である。つまり、いわば、「父」が「子」を支配しているのである。
 言い換えると、同一性資本主義と差異共振資本主義の複合が今日の資本主義(同一性/差異共振複合資本主義とでも呼べよう)であるが、前者は後者を支配して、世界的暴力(戦争等)を引き起こしていると考えられる。
 だから、逆転する必要があるのである。それは、言うならば、聖霊資本主義であろう。PS理論的には、media point capitalismである。
 純粋自我と純粋他者を差異共振させる資本主義である。それを実現するための方法等については、後で検討したい。(もっともそれについては多くのことが既述済みであるが。)


2012年03月27日(Tue)▲ページの先頭へ
物質とは何か:その2:凸i*−凹i⇒凹(−1):凹(−1)が物質である
物質とは何か:その2:凸i*−凹i⇒凹(−1):凹(−1)が物質である

テーマ:Neo-PS理論

先に、物質とは差異共振事象の同一性的仮象ではないかと述べたが、今、それとは異なる視点が生じたので、それを簡単に記したい。
 結局、media pointにおいて、同一性化と差異共振事象が同時生起する。両者はなんらか結合して、いわば、複合体を形成していると考えられる。この複合体を仮に同一性的差異共振体ないしは同一性的差異共振複合体と呼んでおく。あるいは、生命体で言えば、同一性的差異共振有機体である。
 問題はこの体、複合体、有機体の結合モードである。つまり、結合のmedia pointの様態である。(先には、比喩的に、メビウスの輪や三日月の光と影を提起したが。)
 根源的に考察する。「母権」的認識様態においては、凹i主導であり、原始差異共振様態と連続的同一性様態が併存している。この初期様態が重要である。
 この二重様態を精緻明晰に捉える必要がある。結局、凸iの様態がポイントである。凹i主導の差異共振体があり、同時に、凸i主導の連続的同一性体(連続的自我体)がある。つまり、両極性(対極性)に拠る二つのモードがここには存している。
 即ち、凹i主導の差異共振体と凸i主導の連続的同一性体である。つまり、凹iと凸iの極性による複合体がここには存する。極性的複合体と呼べよう。あるいは絶対矛盾的複合体ないしは即非的複合体である。これが「母権」的認識様態である。
 では、「父権」的認識様態になるとどうなるのだろうか。それは、完全に凸i主導、凸i支配となる認識様態である。
 そう、簡単に言えば、極性的様態が「抑圧」されると考えられる。では、「抑圧」とは何であろうか。それは、隠蔽である。
 この「抑圧」、隠蔽力学を把捉する必要がある。
 しかし、この力学は「母権」的認識様態の凸i主導性による連続的同一性体という視点で捉えることができよう。
 既述したように、同一性力学は凸i同一性を凹iの他者に押し付ける、押印することである。つまり、同一性型を他者(差異:正確に言えば、絶対的差異、絶対矛盾的差異)に押印することである。論理的に言えば、他者否定である。つまり、同一性力学は他者(差異)否定力学であるということである。
 「母権」的認識様態は極性的様態で説明できたが、この「父権」的同一性支配的認識様態はどう解明できるのか。
 思うに、ここには、分裂様態があると考えられる。本来(「母権」的認識様態においては)、極性的様態である凸iと凹iであるが、「父権」的認識様態になると、同一性支配によって極性的様態が否定されて、同一性体と差異共振体の二つに分裂すると考えられる。つまり、同一性と差異共振性を分裂させるなんらかの分離帯が形成されると推測されるのである。
 この分離帯を同一性デバイドととりあえず呼ぶ。この同一性デバイドが「母権」的認識様態には存在しなかったものである。
 そして、この同一性デバイドが物質を形成する原因であると考えられるのである。
 この同一性デバイドとは結局、カントの感性的形式ならびに純粋悟性(形式)と考えられる。つまり、「父権」的認識様態とは感性的形式且つ純粋悟性(形式)支配の認識様態であると考えられるのである。とりあえず、両者をまとめて、同一性形式と呼ぶ。
 だから、同一性形式が物質形成原因である。
そのように考えると、宇宙・自然世界と人間世界において、同一性形式支配があり、それが、物質現象を構築していると考えられる。
 しかし、同一性形式イコール物質ではない。物質を形成するには、同一性形式と同時に押印される他者(差異)が必要である。前者を凸iとすれば後者は当然凹iである。
 結局のところ、これまで既述したような同一性方程式を変形した、

凸i*−凹i⇒凹(−1)

が物質認識方程式と考えられる。
 そう、端的に、凹(−1)が物質である。(これは、連続的自我でもあるが。)
 ということで、現段階の結論が出たので、ここで終える。

追記:ルドルフ・シュタイナーの精神学で言えば、同一性形式とは悪魔アーリマンである。また、彼はそれをヘーゲルの「精神」であると述べてい





四次元座標としての人間認識構造?

テーマ:manichaeism: 哲学

先に三次元座標を人間認識構造のモデルとして作業仮説したが、どうやら、四次元座標にした方が的確のように思えてきた。
 即ち、x軸、y軸、z軸以外にα軸を考えるのである。

x軸:存在軸:凹と凸
y軸:空間/時間軸:凸kと凹k
z軸:純粋悟性軸:凸jと凹j
α軸:純粋理性軸:凸iと凹i

とざっと思うところを書いた。
 y軸は、感覚に関係する。外的感覚(外官)凸kと内的感覚(内官)凹kである。
 z軸は、凸jが純粋悟性であり、凹jが純粋悟性の他者である。
 α軸は、凸iが純粋理性であり、凹iが純粋理性の他者である。
 以上、思考実験である。





物質とは何か

テーマ:manichaeism: 哲学

既述したことだが、ルドルフ・シュタイナーは彼の精神学は、究極的には物質の究明であると述べていた。霊学を提唱した人物の言であるから、重い。
 とまれ、物質とは差異共振エネルギー、差異共振事象を同一性の視点で捉えたものではないだろうか。
 ある物体の質量が1kgとする。その1kgとは、同一性、量である。これは空間的事象の観測に拠るのである。問題は空間的事象である。カントは物自体は認識できないと述べた。
 ここで思考実験するが、物自体を仮に凹iとすると、純粋悟性凸iは物自体凹iは把捉できない。それは、同一性を物自体凹iに押印するのである。
 だから、凸iに拠る凹iへの同一性の押印が、物質ないしは物体の形成を意味するのではないだろうか。
 しかし、他方では、凸i*凹iの差異共振事象がある。氣の事象、光の事象である。
 思うに、物質とは現象を同一性システムで捉えたものである。現象の本体は差異共振事象であるが、物質とは差異共振事象を同一性システムによって認識したものではないだろうか。
 つまり、現象、差異共振事象は同一性システムに呼応する機構をもっているということになるのではないだろうか。
 というか、差異共振事象を同一性の視点から認識する結果、現象は物質現象であるということになるのではないだろうか。(物自体であるが、それは、凹i、ないし凸i*凹iの差異共振事象の両方にあてはまることにする。今の段階では。暫定的に。)
 つまり、物質とは本来、物質ではなく、差異共振事象であるということになるだろう。差異共振事象の仮象であるということになるだろう。
 今は問題提起のみである。 





z軸凸iは純粋理性、y軸凸jは純粋悟性、x軸凸は純粋光

テーマ:manichaeism: 哲学

今は指摘のみに留める。
 ガウス平面の虚軸を凸iと凹iで表記したが、三次元化したとき、z軸に凸iと凹iをとり、y軸に凸jと凹jをとることにする(先にも述べたが)。
 カントの純粋悟性は凸jとなり、現象、物質、現象光は凹(−1)である。そして、凸(+1)は純粋光と考えられる。これは一般には不可視である。(dark energyはこれを指しているのかもしれない。dark matterもこれかもしれない。)
 そして、純粋悟性を超越する純粋理性はz軸の凸iということになる。
 とまれ、凹jや凹iは純粋他者であるが、どう異なるのか。これは作業仮説であるが、両者、直観ではないだろうか。
 凹jは現象的直観であり、凹iは精神的直観ではないだろうか。この問題は提起のみに留める。
 さて、別のことであるが、

凸i*凹i⇒凸(+1)

の根本自己認識方程式であるが、これは逆転できるのではないだろうかと思ったのである。即ち、

凸(+1)⇒凸i*凹i

である。
 凸(+1)は真の光であり、「神」であると考えると、それが、中軸の極性、双極子を創出したのではないだろうかと思ったのである。
 例えば、旧約聖書の預言者であるが、彼らは、凸(+1)の「神の呼びかけ」を聴いたのではないだろうか。
 とまれ、「父」は凸(+1)⇒凸i*凹iとすると、「子」は凸i*凹i⇒凸(+1)ではないだろうか。
 ならば、「聖霊」はどうなるのだろうか。それは、media pointではないだろうか。
 これも検討課題である。

Cartesian coordinate system - Wikipedia, the free encyclopedia





The coordinate surfaces of the Cartesian coordinates (x, y, z). The z-axis is vertical and the x-axis is highlighted in green. Thus, the red plane shows the points with x=1, the blue plane shows the points with z=1, and the yellow plane shows the points with y=−1. The three surfaces intersect at the point P (shown as a black sphere) with the Cartesian coordinates (1, −1, 1).



http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11204176098.html





過去から未来への動きと未来から過去への動き

テーマ:manichaeism: 哲学

凸i*凹凹i⇒凹(−1)と凸i*凹i⇒凸(+1)の光の方向であるが、前者は物質の世界であり、過去から未来へと時間が動くが、後者は精神の世界であるが、未来から過去へと時間が動くのではないだろうか。

参考:
スカラー波とは - 徹底検索、堀進 - Yahoo!ブログ
超光速が相対論によって無いことになっているのは、超光速であると因果律が逆転するからである。つまり過去から未来へ伝わる波だけでなく、未来から過去へ 伝わる波も存在することになるからである。しかし、云わば量子の内部で超光速であって、外部からこの量子の動きを見ると光速以下になるようになっているの で、その範囲では因果律の逆転は起きないのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/horisusumu8/11334501.html
徹底検索、堀進


Nikola Tesla - Wikipedia, the free encyclopedia

Longitudinal wave - Wikipedia, the free encyclopedia
Longitudinal waves, as known as "l-waves", which are waves that have the same direction of vibration as their direction of travel, which means that the movement of the medium is in the same direction as or the opposite direction to the motion of the wave. Mechanical longitudinal waves have been also referred to as compressional waves or compression waves.

Electromagnetic
Maxwell's equations lead to the prediction of electromagnetic waves in a vacuum, which are transverse (in that the electric fields and magnetic fields vary perpendicularly to the direction of propagation).[2] However, waves can exist in plasma or confined spaces. These are called plasma waves and can be longitudinal, transverse, or a mixture of both.[2] [3] Plasma waves can also occur in force-free magnetic fields.
In the early development of electromagnetism there was some suggesting that longitudinal electromagnetic waves existed in a vacuum. After Heaviside's attempts to generalize Maxwell's equations, Heaviside came to the conclusion that electromagnetic waves were not to be found as longitudinal waves in "free space " or homogeneous media.[4] But Maxwell's equations do lead to the appearance of longitudinal waves under some circumstances in either plasma waves or guided waves. Basically distinct from the "free-space" waves, such as those studied by Hertz in his UHF experiments, are Zenneck waves .[5] The longitudinal mode of a resonant cavity is a particular standing wave pattern formed by waves confined in a cavity. The longitudinal modes correspond to the wavelengths of the wave which are reinforced by constructive interference after many reflections from the cavity's reflecting surfaces. Recently, Haifeng Wang et al. proposed a method that can generate a longitudinal electromagnetic (light) wave in free space, and this wave can propagate without divergence for a few wavelengths.[6]


http://en.wikipedia.org/wiki/Longitudinal_wave





作業仮説:三次元座標としての認識世界

テーマ:manichaeism: 哲学

凸iと凹iをガウス平面に直交する軸(z軸)としたい。だから、ガウス平面での空間・時間方程式の記述は凸j*凹j⇒凸(+1)としたい。凸jが空間形式であり、凹jが時間形式である。それらはy軸を形成する。
 そして、凸iを純粋悟性(純粋自我)、凹iを純粋他者にしたい。
 凸iと凹iは時計回りにπ/2回転して、凸jと凹jに変換するとしたい。(この回転力学は後で検討したい。)
 z軸とy軸が超越論的軸である。x軸が経験軸(物質軸)である。そして、純粋理性とは、z軸におけるmedia pointの力学知性ではないだろうか。
 今は問題提起に留める。





現代日本人は他者凹iを排除するので、異常、病的、痴愚的になっている

テーマ:日本亡国の凶相

結局、現代日本の病巣とは凹iの排除にあると思う。即ち、内的他者(差異)、肚、魂の否定である。
 そう、日本伝統文化の廃棄である。これは、GHQやその後の米国の洗脳に拠ると考えられる。
 駄目な日本人。己の民族的文化を廃棄してしまっているのである。魂を棄てているのである。
 つまり、亡魂の民である。ロボット人間である。

追記:より精緻に言えば、凸iという純粋自我「わたしich」の喪失がある。
 凹iが廃棄されているのも、結局、「わたし」が存しないからである。集団我があるだけである。
 結局、純粋自我(純粋悟性)凸iを表わす主語のない日本語は致命的である。日本人は外国語、とりわけ、欧米語を学ぶ必要がある。
 日本語しか理解しない日本人は「未開」状態である。近代以前なのである。


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カレンダ
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