INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2012/06

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2012年06月24日(Sun)▲ページの先頭へ
超無双PS哲科学ガウス平面図解説:陰陽均衡作用の解放の為に:MPを介して光の神が到来する
正しい図は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11285790892.html

超無双PS哲科学ガウス平面図解説:陰陽均衡作用の解放の為に:MPを介して光の神が到来する

テーマ:超無双PS哲科学

         陰・凹i(-i)・光子:「天」
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−1________MP________+1
無機物          |           有機体・生命体
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         陽・凸i(i)・重力子:「地」


        超無双PS哲科学的ガウス平面

尚、無双原理に倣って、陰・凹i(-i)・光子を上に、陽・凸i(i)・重力子を下に布置している。そして、MPは原点であり、media pointである。
 また、ガウス平面に直交する超越軸z軸や、z軸とy軸の虚軸が形成する超越円、超越界が本来存しているが、上図では、作図が難しいので、省略している。

検討問題:凸(+1)や凹(−1)とは何か:有機体、生命体的物質と無機物的物質
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11284973493.html


先に以上のように作図したが、補足説明をしたい。
 簡単にするために、凹iを陰、又は-i、凸iを陽、又はi、凸(+1)を+1,凹(−1)を−1で表記する。
 陰(-i)には、純粋悟性が機能している、簡単に言えば、知性である。それは、頭、頭脳である。カント哲学では、空間である。
 陽(i)には、自我が機能している。それは、感情や意志をもつのである。それは、肚である。カント哲学では時間である。
 そして、MP(media point)、原点は、胸であり、霊愛をもつ。ここには、超越界からの聖霊が作用しているのである。
 そう、ここで先に述べたことは一面的であり、訂正する必要がある。即ち、自然円において、基本的には超越性はないのであるが、MP(media point)、原点が超越界に通じる唯一点であると述べ、それは、自然界では、現象太陽であると述べたが、それは外界、外在、外面的には正しいが、内界、内在、内面的には誤りである。
 人間の内面においても、胸、心胸において、MP(media point)が存するのであり、そこが、超越界へと通じていると考えられるのである。
 魂という呼ばれるものもそれと考えられる。
 結局、MP(media point)は二つの点に存するのであり、一つの点は、外在的点である現象太陽であり、もう一つの点は、内在的点である胸・心胸である。
 次に、重要な変更を述べる必要がある。つまり、差異や他者の問題である。
 これまで、無双原理に接するまでは、ずっと、他者、差異を陰(-i)で考えたが、無双原理に接して、他者、差異は陽(i)になると予想してきた。
 しかし、それも違うと考えられる。
 いったい、そうすると、他者、差異は何処に存するのか。
直観で言えば、他者、差異を胸、MP(media point)で感じるのではないのか。
 自我、陽(i)は他者、差異に反発、反感、嫉妬する。そして、悟性(知性)、陰(-i)は、他者、差異を知的に認識しようとする。しかし、それは、悟性は言語認識であるから、同一性的に他者、差異を認識するので、他者、差異自体を受容していない。
 他者、差異を受容するのは、陽である自我と陰である悟性を抑制し、均衡させるMP(media point)、胸・心胸だと考えられる。
 何故なら、陽の自我は反発し、陰の悟性は同一性的把握(言語的把握)であり、両者は他者、差異を真に受容していないのであり、両者を抑制するMP(media point)、胸・心胸・魂こそ、そうできると考えられるのである。
 そう、他者、差異自体は、言わば、カントの述べた物自体であり、それは、絶対的には把握できないと考えられる。だから、不可知のものとして、他者、差異をMPは受容すると考えられる。
 また、単に、不可知のものばかりでなく、他者、差異への「共感性」が生じると考えられる。それはどういう力学に拠るのだろうか。
 それは、鈴木大拙の即非の論理のもつ力学と考えられる。
 陽の自我は自己求心性をもつので、他者、差異を否定する。陰の悟性は遠心性をもつので、他者、差異を放置、放散させる。
 しかし、両者は陰陽であるから、牽引作用があるのである。この牽引作用がMP(media point)、胸・心胸・魂に作用すると考えられるのである。
 というか、陰陽牽引作用がMP(media point)、胸・心胸・魂の作用ではないだろうか。
 ここは実に微妙な問題点である。
 陰陽の均衡作用は自然においては、常に為されていると考えられる。
 しかし、人間の場合は、自我に傾斜しているので、不均衡的なのである。言い換えると、自我同一性や悟性同一性の二つの同一性が支配的であると考えられる。
 言い換えると、自然本来の陰陽均衡牽引作用は人間には、一般的には作用していないと考えられる。
 だから、陰陽均衡作用を自ら形成しないといけないことになるのである。
 以前述べたことだが、人間には原始の陰陽均衡作用が潜在すると考えられるのである。
 それが、MP(media point)、胸・心胸・魂として、配備されていると考えられるが、それは、陽・自我、陰・悟性によって抑圧され、埋没していると考えられる。
 しかしながら、それは、人間の精神の故郷であり、諸芸術の源泉であり、端的に霊愛の源泉である。
 この埋れたMPを開化させることによって、人間において、陰陽均衡作用を復活させることができると考えられる。
 ただし、問題は、陽・自我と陰・悟性のもつ枠組みを否定しないようにしないといけないのである。そうでないと、物質的世界・社会には合わない、逸脱、倒錯したものになってしまうと考えられる。
 だから、十分に陽・自我と陰・悟性を準備して、MP(media point)、胸・心胸・魂を開発すべきということになるのである。
 その一つの重要な方策はPS哲科学の前身である不連続的差異論である。
 それは、陽・自我と陰・悟性の癒着、連続性を立ち切って、陽・自我と陰・悟性との均衡をもたらす働きあると考えられるのである。
 しかし、連続性を切断するものは、実は、MPの作用であると考えられる。
 結局、陰陽均衡作用を形成するには、準備として、優れた芸術・文化によって、MPを陶冶・涵養しておく必要があるのである。
 優れた文学、音楽、美術、哲学、宗教等、そして、豊かな自然等に接する必要があるのである。
 しかし、物質科学である近代合理主義は、陽・自我と陰・悟性の形成をもたらしたが、MP(media point)、胸・心胸・魂の陶冶・涵養はまったく疎かにしてしまい、言わば、自我悪魔を形成したのである。
 そう、近代主義は物質文化を形成したが、精神文化を衰退させてしまったのである。
 とまれ、抑圧され、埋没したMPを発掘して開発することで、新たに、超越界を通じることができるようになるのである。新しい宗教が生まれるのである。それは、聖霊宗教であるが。
 とまれ、それは、トランス・モダン、イントラ・モダンであるが、物質的基礎を介して、形成されると考えられる。
 思うに、時代的に、超越エネルギーが強化されていると思われるのである。それは、人間の内面のMP、そして、自然界の外在の現象太陽のMPに強くはたらきかけていると推測されるのである。
 この超越エネルギー、神霊エネルギーは、陰陽均衡の開化を刺激的に促進するが、陽・自我と陰・悟性に囚われた近代人は、そのエネルギーを積極的に摂取することができないので、反動的になり、病理化したり、凶悪・犯罪化したりするであろう。
 とまれ、MP、胸・心胸・魂の解放が必要である。そう、太極である光の神が到来するのである。

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Ver2:検討問題:凸(+1)や凹(−1)とは何か:有機体、生命体的物質と無機物的物質
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11284973493.html

検討問題:凸(+1)や凹(−1)とは何か:有機体、生命体的物質と無機物的物質

テーマ:超無双PS哲科学

いつか、緻密に議論したいと思っているが、凹i☯凸i、乃至は、凹j☯凸jの陰陽において、積の凸(+1)や否定の積凹(−1)は何を意味するのか。
 先に、凸(+1)は自然・宇宙界、凹(−1)は物質ではないかと示唆したが、それでいいのだろうか。
 簡単にするために、便宜的に、+1と−1で考えると、ここには、確かに、陰陽の氣である凸i(陽)と凹i(陰)がないのであるから、物質界に関係することは推測できる。
 しかし、問題は、凸iを重力子、凹iを光子としたとき、陰陽の氣は物質的になってしまうという齟齬が生じることである。
 思うに、重力子や光子は物質ではない自然エネルギーと見た方がいいのではないだろうか。光子には質量がないことを考慮してもそのようなことが言えよう。それを作業仮説としよう。
 次に、+1は、有機体、生命体の物質、−1は無機物的物質と作業仮説したい。
 以上で、一応、齟齬は解消できている。
 以下、簡単に図示する。


         陰・凹i(-i)・光子:「天」
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−1________MP________+1
無機物          |           有機体・生命体
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         陽・凸i(i)・重力子:「地」


        超無双PS哲科学的ガウス平面

尚、無双原理に倣って、陰・凹i(-i)・光子を上に、陽・凸i(i)・重力子を下に布置している。そして、MPは原点であり、media pointである。
 また、ガウス平面に直交する超越軸z軸や、z軸とy軸の虚軸が形成する超越円、超越界が本来存しているが、上図では、作図が難しいので、省略している。

追記:尚、陰・凹iを重力子(ないしは重力波)とするのも作業仮説である。

追記2:以下のオイラーの公式における「単位円」を上図に加えると、自然円となる。
 超越円は、z軸とy軸の面における「単位円」である。上図のガウス平面には直交している。分かりやすく言えば、直交する円盤がy軸(虚軸)に屹立するとというイメージとなる。


resurrectionのブログ


追記3:易経の太陽でなく、現象太陽はMP(media point)の、言うならば、表面に存するのではないだろうか。内面は太極ではないだろうか。これは検討課題である。(補記:宗教の世界は、超越界であるから、上図には基本的には属さない。しかし、media point が超越界へと通ずる現象界における唯一点と考えられる。それは、現象太陽である。その内部、ないしは、裏面・背面には、太極が存すると思われる。それが、シュタイナーの説くアフラ・マズダ=キリストと言えよう。それは、マニ教の光の世界である。結局、太極=宗教的光の世界=神界である。)

追記4:象限の考え方は、虚軸y軸の符号が逆になったので、従来通りには使用できないだろう。
 あえて従来通りの位置・領域を用いれば、第一象限は、可視的現象界(光の現象界)、第四象限が不可視的自然界(闇の自然界)、第二象限は物質科学的世界、第三象限はダーク・マターの世界ではないだろうか。
 これも検討課題である。

参照:

resurrectionのブログ
http://content.edu.tw/competition/96year/web/works/B020040/teaching/1-3-2.htm

追記5:オイラーの公式

e^{i\theta} = \cos\theta + i \, \sin\theta

から、以前、Kaisetsu氏と生成門氏が行なったように、ある事象の定置化が考えられるように思う。もっとも、以前は私はそこまで理解が行かなかったが。
 しかしながら、易経にあるように、陰陽は6元あるのである。だから、以下参照2にあるように、掛け算の連鎖が重要なのではないだろうか。
 簡単にするために、凹i、凸iを-iとiとする。すると、

陰の位置は、

e^(-iθ)=cosθ−isinθ   ・・・ A

であり、

陽の位置は

e^(iθ)=cosθ+isinθ    ・・・B

となるのではないだろうか。
そして、単純化して、陰陽はA×Bとなるのではないだろうか。
 しかし、正しくは、6元であるから、

(A1 or B1)×(A2 or B2)×(A3 or B3)×・・・×(A6 or B6)

となると考えられる。
 今は問題提起で留める。

修正:先ほど、思いついたのであるが、螺旋的6回転を考えるとかなり明解になるように思われる。つまり、易における、6元であるが、各元を1回転と見るのである。だから、6元だから、6回転である。
 具体的には、第1回転では、陰・凹iから始めると、1回転は、陰に戻り、半回転は陽となる。ただし、半回転であっても、それは1回転のコースに含める。
 以下、同様に、第2回転、第3回転、・・・第6回転まで、螺旋的に回転するということである。そして、
 各回転の陰陽の様相をかけ算するのである。即ち、

1st cycle(陰-i、陽i)×2nd cycle(陰-i、陽i)×3rd cycle(陰-i、陽i)×・・・×6th cycle(陰-i、陽i)

である。

以下参照:
陰陽はどう機能するのか
テーマ:超無双PS哲科学

凹j☯凸jは同時に、凹i☯凸iを意味しよう。(☯は極性共振を意味する)二重の極性原理を意味しよう。
 問題は、現実においてはどのように作用するのかである。
八卦に則して、考えた方がいいかもしれない。
 例えば、1,凹i(陰)、2.凹i、3.凹iと4.凸i(陽)、5.凸i、6.凸iの順列を考えるのである。
1は凹iと凸iの2通り、以下同様で、
2^6=64通りである。
 問題は、6が何を意味するのか、どのように構造化されるのかである。
 思うに、6つの単位円を考えて、それをmedia pointで共振させることが考えられる。つまり、

1)凹i or 凸i
2)凹i or 凸i
・・・
6)凹i or 凸i

の6つの陰陽様態を「共振」させると、64通りの様態が結果として生起するとは考えられる。

* 64卦一覧
* 64卦配列


 そうすると、6つの陰陽円(自然円に一応限定する)の共鳴が基本的自然様態ということになる。
 思うに、これは、超越円でも考えられることである。そうすると、超越円でも64通りがあるのである。
 自然円と超越円をどう関係づけるのかすぐにはわからないが、思うに、精神の64様態と物質の64様態の組み合わせが考えられるのである。思うに、精神があるのだから、それは、人間になるのではないだろうか。精神の64様態は神々、精霊等々ではないだろうか。
 今は示唆に留める。

参照:
八卦とは | 易経ネット
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11280408121.html
 
参照2:
オイラーの公式の使い方
大学に入ると次のような式を学びます。

オイラーの公式
(e:自然対数)

この式はオイラーの公式と呼ばれています。この式を知っていると計算の見通しが良くなるので高校生でも知っておくと良いと思います。そこで、オイラーの公式を複素数に使いオイラーの公式の使い方について考えてみます。

複素数は、
Z=|Z|(cosθ+i sinθ)
と極座標(距離と角度)の形式で表すことができます。

このとき、Z1とZ2の積を考えると、
Z1×Z2=|Z1|(cos(θ1)+i sin(θ1))|Z2|(cos(θ2)+isin(θ2))
=|Z1||Z2|(cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2))
となります。
この式の図形的意味を考えると、
(Z1にZ2を掛ける)=(Z1を|Z2|倍に拡大)+(Z1をθ2回転)
というように解釈できます(これは複素数を図形的に考えるときに重要です)。

さて、ここからオイラーの公式を使うと役に立つ理由を説明します。
上で積を考えたときに,計算で気になるのは、
(cos(θ1)+i sin(θ1))×(cos(θ2)+isin(θ2)) =cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2)
の部分です。 この式は、本来なら加法定理を利用して整理すべきものですよね。
しかし,オイラーの公式を使えば、
(cos(θ1)+i sin(θ1))×(cos(θ2)+i sin(θ2)) =(eiθ1)×(eiθ2)
=ei(θ1+θ2) (ea×eb=ea+bを使った)
=cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2) (オイラーの公式を使った)
このように指数関数の性質を使い簡単に計算することができます(加法定理の計算を指数関数の積にすることができた) 。

http://doraneco.com/physics/lecture/math/eular.html
オイラーの公式の使い方
doraneco.com/physics/lecture/math/eular.html - キャッシュ 類似ページ
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2005年3月15日 – オイラーの公式 (e:自然対数) この式はオイラーの公式と呼ばれています。この式を知っていると計算の見通しが良くなるので高校生でも知っておくと ... そこで、オイラーの公式を複素数に使いオイラーの公式の使い方について考えてみます。

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2012年06月23日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:凸(+1)や凹(−1)とは何か:有機体、生命体的物質と無機物的物質
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11284973493.html

いつか、緻密に議論したいと思っているが、凹i☯凸i、乃至は、凹j☯凸jの陰陽において、積の凸(+1)や否定の積凹(−1)は何を意味するのか。
 先に、凸(+1)は自然・宇宙界、凹(−1)は物質ではないかと示唆したが、それでいいのだろうか。
 簡単にするために、便宜的に、+1と−1で考えると、ここには、確かに、陰陽の氣である凸i(陽)と凹i(陰)がないのであるから、物質界に関係することは推測できる。
 しかし、問題は、凸iを重力子、凹iを光子としたとき、陰陽の氣は物質的になってしまうという齟齬が生じることである。
 思うに、重力子や光子は物質ではない自然エネルギーと見た方がいいのではないだろうか。光子には質量がないことを考慮してもそのようなことが言えよう。それを作業仮説としよう。
 次に、+1は、有機体、生命体の物質、−1は無機物的物質と作業仮説したい。
 以上で、一応、齟齬は解消できている。
 以下、簡単に図示する。


         陰・凹i(-i)・光子:「天」
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−1________MP________+1
無機物          |           有機体・生命体
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         陽・凸i(i)・重力子:「地」


        超無双PS哲科学的ガウス平面

尚、無双原理に倣って、陰・凹i(-i)・光子を上に、陽・凸i(i)・重力子を下に布置している。そして、MPは原点であり、media pointである。
 また、ガウス平面に直交する超越軸z軸や、z軸とy軸の虚軸が形成する超越円、超越界が本来存しているが、上図では、作図が難しいので、省略している。

追記:尚、陰・凸iを重力子(ないしは重力波)とするのも作業仮説である。

追記2:以下のオイラーの公式における「単位円」を上図に加えると、自然円となる。
 超越円は、z軸とy軸の面における「単位円」である。上図のガウス平面には直交している。分かりやすく言えば、直交する円盤がy軸(虚軸)に屹立するとというイメージとなる。


resurrectionのブログ


追記3:易経の太陽でなく、現象太陽はMP(media point)の、言うならば、表面に存するのではないだろうか。内面は太極ではないだろうか。これは検討課題である。(補記:宗教の世界は、超越界であるから、上図には基本的には属さない。しかし、media point が超越界へと通ずる現象界における唯一点と考えられる。それは、現象太陽である。その内部、ないしは、裏面・背面には、太極が存すると思われる。それが、シュタイナーの説くアフラ・マズダ=キリストと言えよう。それは、マニ教の光の世界である。結局、太極=宗教的光の世界=神界である。)

追記4:象限の考え方は、虚軸y軸の符号が逆になったので、従来通りには使用できないだろう。
 あえて従来通りの位置を用いれば、第一象限は、可視的現象界(光の現象界)、第四象限が不可視的自然界(闇の自然界)、第二象限は物質科学的世界、第三象限はダーク・マターの世界ではないだろうか。
 これも検討課題である。

参照:

resurrectionのブログ
http://content.edu.tw/competition/96year/web/works/B020040/teaching/1-3-2.htm

追記5:オイラーの公式

e^{i\theta} = \cos\theta + i \, \sin\theta

から、以前、Kaisetsu氏と生成門氏が行なったように、ある事象の定置化が考えられるように思う。もっとも、以前は私はそこまで理解が行かなかったが。
 しかしながら、易経にあるように、陰陽は6元あるのである。だから、以下参照2にあるように、積ないしは累乗が重要なのではないだろうか。
 簡単にするために、凹i、凸iを-iとiとする。すると、

陰の位置は、

e^(-iθ)=cosθ−isinθ   ・・・ A

であり、

陽の位置は

e^(iθ)=cosθ+isinθ    ・・・B

となるのではないだろうか。
そして、単純化して、陰陽はA×Bとなるのではないだろうか。
 しかし、正しくは、6元であるから、

(A1 or B1)×(A2 or B2)×(A3 or B3)×・・・×(A6 or B6)

となると考えられる。
 今は問題提起で留める。

修正:先ほど、思いついたのであるが、螺旋的6回転を考えれるとかなり明解になるように思われる。つまり、易における、6元であるが、各元を1回転と見るのである。だから、6元だから、6回点である。
 具体的には、第1回転では、陰・凹iから始めると、1回転は、陰に戻り、半回転は陽となる。ただし、半回転であっても、それは1回転のコースに含める。
 以下、同様に、第2回転、第3回転、・・・第6回転まで、螺旋的に回転するということである。そして、
 各回転の陰陽の様相をかけ算するのである。即ち、

1st cycle(陰、陽)×2nd cycle(陰、陽)×3rd cycle(陰、陽)×・・・×6th cycle(陰、陽)

である。

以下参照:
陰陽はどう機能するのか
テーマ:超無双PS哲科学

凹j☯凸jは同時に、凹i☯凸iを意味しよう。(☯は極性共振を意味する)二重の極性原理を意味しよう。
 問題は、現実においてはどのように作用するのかである。
八卦に則して、考えた方がいいかもしれない。
 例えば、1,凹i(陰)、2.凹i、3.凹iと4.凸i(陽)、5.凸i、6.凸iの順列を考えるのである。
1は凹iと凸iの2通り、以下同様で、
2^6=64通りである。
 問題は、6が何を意味するのか、どのように構造化されるのかである。
 思うに、6つの単位円を考えて、それをmedia pointで共振させることが考えられる。つまり、

1)凹i or 凸i
2)凹i or 凸i
・・・
6)凹i or 凸i

の6つの陰陽様態を「共振」させると、64通りの様態が結果として生起するとは考えられる。

* 64卦一覧
* 64卦配列


 そうすると、6つの陰陽円(自然円に一応限定する)の共鳴が基本的自然様態ということになる。
 思うに、これは、超越円でも考えられることである。そうすると、超越円でも64通りがあるのである。
 自然円と超越円をどう関係づけるのかすぐにはわからないが、思うに、精神の64様態と物質の64様態の組み合わせが考えられるのである。思うに、精神があるのだから、それは、人間になるのではないだろうか。精神の64様態は神々、精霊等々ではないだろうか。
 今は示唆に留める。

参照:
八卦とは | 易経ネット
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11280408121.html
 
参照2:
オイラーの公式の使い方
大学に入ると次のような式を学びます。

オイラーの公式
(e:自然対数)

この式はオイラーの公式と呼ばれています。この式を知っていると計算の見通しが良くなるので高校生でも知っておくと良いと思います。そこで、オイラーの公式を複素数に使いオイラーの公式の使い方について考えてみます。

複素数は、
Z=|Z|(cosθ+i sinθ)
と極座標(距離と角度)の形式で表すことができます。

このとき、Z1とZ2の積を考えると、
Z1×Z2=|Z1|(cos(θ1)+i sin(θ1))|Z2|(cos(θ2)+isin(θ2))
=|Z1||Z2|(cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2))
となります。
この式の図形的意味を考えると、
(Z1にZ2を掛ける)=(Z1を|Z2|倍に拡大)+(Z1をθ2回転)
というように解釈できます(これは複素数を図形的に考えるときに重要です)。

さて、ここからオイラーの公式を使うと役に立つ理由を説明します。
上で積を考えたときに,計算で気になるのは、
(cos(θ1)+i sin(θ1))×(cos(θ2)+isin(θ2)) =cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2)
の部分です。 この式は、本来なら加法定理を利用して整理すべきものですよね。
しかし,オイラーの公式を使えば、
(cos(θ1)+i sin(θ1))×(cos(θ2)+i sin(θ2)) =(eiθ1)×(eiθ2)
=ei(θ1+θ2) (ea×eb=ea+bを使った)
=cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2) (オイラーの公式を使った)
このように指数関数の性質を使い簡単に計算することができます(加法定理の計算を指数関数の積にすることができた) 。

http://doraneco.com/physics/lecture/math/eular.html
オイラーの公式の使い方
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2005年3月15日 – オイラーの公式 (e:自然対数) この式はオイラーの公式と呼ばれています。この式を知っていると計算の見通しが良くなるので高校生でも知っておくと ... そこで、オイラーの公式を複素数に使いオイラーの公式の使い方について考えてみます。





再考:同一性と差異:小我(自然円)と大我(超越円)に関係させて

• 同一性と差異:無双原理を包摂したPS哲科学の視点から (06/18)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1830.html

• 超越界とガウス平面:自我と自然:超越円と自然円 (06/17)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1829.html

以上の考察以前においては、超越軸、超越界、超越円抜きのガウス平面で、同一性と差異について考察してきたが、上記の状況は新たな緻密な考察を要求しているので、考察を深めたい。
ガウス平面/オイラーの公式に基づくPS理論において、同一性と差異についての考察はそれなりに明快・明解であった。それを簡単に復習しよう。
それは、自我である凸iが差異・他者である凹iを否定するというのが同一性主義であり、差異・他者の凹iを肯定することで、凸iと凹iの差異共振が生じるというものである。
これは実に簡潔明快であるが、超越軸・超越界・超越円を導入すると、新たな思考が必要になるのである。
議論を明快にするために、小我(自然円)と大我(超越円)の視点から述べたい。
結局、問題は、大我がどう小我に関係するかということである。思うに、人間においては、当然、大我が小我に浸透している。しかしながら、人間は、小我において、自我性ないしは物質性に傾斜している。(微妙な点であるが、いちおう、そのような発想で議論を進める。)
これは、父権主義と母権主義の違いの点でもある。
父権主義とは、大我の「太陽」の傾斜によって形成されたと思われる。それは、小我の小陽に傾斜すると考えられる。言い換えると、同一性主義である。
母権主義とは、反対に、大我の「太陰」の傾斜によって形成されたと思われる。それは、小我の小陰に傾斜すると考えられる。それは、差異主義(個主義)である。
いちばんの問題は、父権主義である。大我の「太陽」と小我の小陽が結合している状態である。
 これは、いわば、究極的な同一性主義、同一性中心主義、同一性絶対主義である。
これは、差異を当然否定するのである。そして、差異を自己の同一性へと取り込むのである。
この帰結が近代合理主義、近代的自我、唯物論と言えよう。そして、この事象・事態をPS哲科学では、連続性と呼ぶのである。
それに対して、不連続性とは、連続的同一性を否定し、抑圧された太陰、小陰である差異を積極的に肯定することである。これは、同時に、同一性と差異との差異共振を意味し、母権主義ということである。
以上から、母権主義とは多元主義であり、父権主義とは一元主義であることが判明した。換言すると、前者は多神教であり、後者は一神教である。
そして、文明的問題は、父権主義が主導したとき、差異主義・多元主義・母権主義・多神教が父権主義へと連続化されることである。後者による究極的様態においては、前者のまったき否定となるが、一般的には、両者が未分化的に揺れ動いていると考えられる。
そして、この揺動は、未分化であり、二元論である。また、絶対的矛盾である。
この、いわば、分裂的二重性はカオスであり、本来、超克すべきものである。そして、この超克とは、不連続性の積極的肯定に拠ると考えられるのである。脱連続性である。
このとき、源泉の太極は、自然円的に、太極陰陽性を真に実現したことになる。父権的傾斜を超克した真母権的太極陰陽性を実現したと言えよう。

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2012年06月18日(Mon)▲ページの先頭へ
同一性と差異:無双原理を包摂したPS哲科学の視点から
テーマ:超無双PS哲科学

超越界とガウス平面:自我と自然:超越円と自然円
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11280185452.html

以上の無双原理を包摂したPS哲科学の視点から、同一性と差異はどう説明できるだろうか。
 調和点=ゼロ点=media pointを発達させていない人は、自然円の小我状態にほぼ留まると言えよう。
 それは、ほぼ同一性の世界、つまり、物質の世界に留まると言えよう。物質主義の小我(自我)と世界に留まるのである。
 しかし、調和点=ゼロ点=media pointが強く作用している人は、超越円が作用するのであり、小我の世界に留まることはできない。小我の制限が苦悩・苦痛をもたらすと言えよう。
 超越円の作用は大我、精神、神霊の作用である。
 それは、調和点=ゼロ点=media pointにはたらきかけると考えられる。つまり、小我・小陰の凹iと小我・小陽の凸iに大我・太陰の凹jと大我・太陽の凸iがはたらきかけると思われる。
 それを考察する前に、小我において、差異は無いのか考えたい。
 小我においては、純粋悟性と欲望・感情が作用するのであり、それは、本質は同一性であるが、考えられる差異は物質的他者、外的他者であり、精神的差異・他者ではないから、本来の差異はないと考えられる。
 では、大我が作用する小我について考えると、同一性に差異(超越的差異)が作用するのであるが、小我的同一性は、それを抑圧・否定・排除しようとするのである。つまり、小我主義は、大我性を抑圧・否定・排除する作用を行なうのである。
 殊に、凸iの傾斜があると、同一性中心主義となり、それは、父権的二項対立主義となると考えられる。そう、一神教とは、大我の凸jが凸iに作用した超越的同一性主義と言えよう。
 ついでに言えば、大我の凹jが凹iに作用したものが多神教と言えよう。
 とまれ、一般的に大我の作用を考えると、凸iに傾斜すると同一性主義となり、凹iに傾斜すると差異主義になると考えられる。
 問題の核心は、連続性と不連続性である。前者は凸i傾斜(同一性主義)において、後者は凹i傾斜(差異主義、差異共振主義)において生起すると考えられる。
 しかしながら、太極原理は、両面をもっているから、凸i傾斜と凹i傾斜の二面性をもつのであり、結局、連続性と不連続性が併存する形になり、言うならば、絶対的矛盾が生起するのである。
 これが人間一般のカオスと言えよう。そして、このカオスの超克は、不連続性の選択的肯定によって、連続性を克服したときに為されると考えられる。即ち、大我の調和、太極的調和、太陰と太陽の均衡調和がもたらされるのであり、小我を包摂する大我が形成されると言えよう。

参考:
「ゆえに、論理的必然性から、戦争が始まります。イノチがかかっていますから、戦争になります。内乱です。それに値する事件です。3.11事故と、再稼動は。」by
http://www.k2o.co.jp/blog2/2012/06/post-720.php

新井信介 「京の風」

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2012年06月17日(Sun)▲ページの先頭へ
超越界とガウス平面:自我と自然:超越円と自然円
超越界とガウス平面:自我と自然:超越円と自然円

テーマ:無双原理とPS哲科学

先に、無双原理を見て、ガウス平面を直交する垂直軸(超越軸)が不要であると述べたが、果たしてそうだろうか。
 問題は、自我原理(小我原理と大我原理)をどう捉えるかである。
 一般に、自然(植物、動物、鉱物、その他有機体や無機物)には、人間のような自我原理はないのだから、それらと一様に人間を扱っていいのか、これまで述べたように、問題である。
 やはり、一般の自然とは超越した原理として、自我原理を見るべきならば、やはり、ガウス平面に直交する超越軸が必要となる。
 そうならば、根源の太極が超越円にあり、その回転によって、ガウス平面の単位円が形成されるということになるだろう。
 そうすると、二重の円、超越円と自然円を考える必要があるのである。
 これは、無双原理に引かれる前の考えに戻ることになる。
 そうなると、太極、太陰・太陽の考え方はどうなるだろうか。
 超越円=太極であり、太陰が超越軸凹j、太陽が超越軸凸jとなるのではないだろうか。では、虚軸凹iと虚軸凸iは何になるのか。
 仮に、凹iを小陰、凸iを小陽としよう。光(光子)は凹iであり、空間形式であり、闇(重力子)は凸iとなり、時間形式である。前者に太陰凹jが重なり、純粋悟性となり、後者に太陽凸jが重なり、感情・欲望となるのではないだろうか。
 つまり、超越円は宇宙・神霊的次元であり、自然円は現実・日常的次元となる。
 そう、カントの超越論的形式とは、超越円が自然円に重なった様態を意味していよう。そして、カント哲学では、超越円への志向が純粋理性批判という限界を もっているのである。言い換えると、重なった様態においてのみ、カントは、超越円への超越性を示唆するのみで、超越円に飛翔できないと考えられる。
 超越円の世界とは、プラトンのイデア界である。

追記:以上のように考えると、小我は自然円に、大我は超越円に存すると言えよう。
 では、小我の自然円から大我の超越円への飛翔はどのように可能になるのだろうか。
 問題は、小我=自然円に存するmedia point(調和点)を重視することによってであろう。それは、超越点と言うことも可能である。その超越点を重視することは、超越円に通じることとなると考えられる。
 思うに、心、精神、魂と呼ぶものは、小我=自然円のmedia point=調和点=超越点であると思われる。その涵養・陶冶によって、超越円=超越界=神霊界へと飛翔できると考えられる。
 近代・現代日本人は、唯物論化されて、これを喪失していると考えられる

追記2:PS哲科学は無双原理を包摂するものになると言えよう。





トランスからイントラへ?:トランス・モダンからイントラ・モダンへ?

テーマ:trans-modern:超近代的進化

近代を超える意味でトランス・モダンという用語を使用しているが、思えば、近代・モダンの内在的超越を問題としているのであるから、イントラ・モダンが正しいと思う。 inner-transcendenceである。

追記:内在的は、immanentやintrinsic等があり、超越的は、transcendentである(超越論的がtranscendental:以上カント哲学から)。

追記2:イントランス・モダンの方がいいかもしれない。日本では、内超近代である。


参考:
「超越的」と「超越論的」≪超越論的な真理は本当か2 - 独今論者のカップ ...
sets.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/2-45b3.html - キャッシュ 類似ページ
sets.cocolog-nifty.com の結果をすべてブロック
2010年7月19日 – 超越的」と「超越論的」≪超越論的な真理は本当か2≫. 認識の考察の仕方について、カントは「超越論的」という言い方をする。 実在の側に「物自体」が存在し、しかしそれは、人間という観察者には決して到達しえないという。 その世界を構成し ...





小我と大我の連続性が一神教的であり、両者の不連続性が多神教的では?:ultra-modern

テーマ:無双原理とPS哲科学

小我と大我:凸iと凹i:物質的自我と宇宙的自我
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11279267349.html

先に以上のように述べたが、再考したい。
 復習すると、凹iが太陰であり、小我であり、多である。凸iが太陽であり、大我であり、一である。
 しかしながら、凹iは純粋悟性であり、それは、同一性を意味する。凸iは宇宙的意識であり、根源であり、他者である。
 問題は、小我の同一性と大我の一性である。大我の一性とは、他者性であるから、実は、多を意味する。一即多である。
 小我と大我が連続化すると、小我のもつ同一性が大我の他者=多性を否定して、いわば、一神教的志向性をもつのではないだろうか。言い換えると、同一性中心主義、二項対立主義、父権主義である。
 両者を不連続化したとき、小我と大我の差異共振が起こり、純粋悟性と宇宙的意識の均衡性を生じるだろう。

追記:太陰は物質の光であり、太陽は太陽/超太陽の光である。light とdarknessである。
 太陽はultra-sunを意味する。
 純粋悟性は唯物的知性であり、宇宙的意識は内在-超越的意識である。両者の極性均衡は、ultra-modern、neo-orientalismを意味する。

追記2:小我と大我の連続性が凹i*凹凸i⇒凹(−1)では?
というか、凹i*凸i⇒凸(+1)+凹(−1)ではないのか。
 つまり、太陰凹iと太陽凸iの連続性は、物質的認識凸(+1)と同一性的認識凹(−1)を生むのではないだろうか。両者は双子のようなものと考えられる。連続性のもたらす双子である。

追記3:超太陽とは、太極ではないのか。後で検討したい。





小我と大我:凸iと凹i:物質的自我と宇宙的自我

テーマ:無双原理とPS哲科学

凹iが陰(太陰)、凸iが陽(太陽)だろう:自我とは陽だろう。

先に以上のように述べたが、どうも、自我は二種類あって、凸iの陽が大我であり、凹iの陰が小我ではないのかと考えてみた。
 そうならば、大我と小我の連続性が近代的自我であり、近代合理主義を生むのである。
 両者を分離するのが、不連続的差異論、そして、両者を共振させるのが、PS哲科学である。
 小我とは、純粋悟性的自我であり、大我とは、宇宙的自我、神的自我である。
 両者を不連続化したとき、「ポスト・モダン」が始まる。
 とまれ、思うに、大我は一(いつ)の志向をもち、小我は多の志向をもつのではないだろうか。
 しかし、両者が連続化すると、大我が小我を支配して、統一主義、二項対立、全体主義になるのではないだろうか。
 というか、大我と小我で揺れ動くであろう。

以下、専門的な独創的内容になるので、割愛する。





凹iが陰(太陰)、凸iが陽(太陽)だろう:自我とは陽だろう。

テーマ:無双原理とPS哲科学

無双原理・易―「マクロビオティック」の原点/サンマーク出版

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一部を除き、ざっと読んだが、これは、無双原理のスケッチというべき著書だと思う。たいへん洞察力に満ちたものであるが、粗削りである。
 もう八十年以上も前の著書であり、その後、無双原理を発展させたものを管見で知らない。もっとも、PS哲科学は陰陽原理に基づくので、無双原理の一種の無意識の後継者になるかもしれない。
 とまれ、先の私の指摘は早とちりだった。凹iが陰で、凸iが陽であるが、無双原理では、凹iが上方であり、凸iが下方である。ここが一つのポイントである。
 私は純粋悟性は凹iであると考え、また、自我もそのように思ったが、どうやら、純粋悟性と自我は切り離すべきように思えてきた。
 自我は、凸iの陽の原理ではないかと思えてきたのである。つまり、凸i=陽の傾斜が自我原理である。それに対して、凹i=陰の傾斜は悟性原理となるだろう。
 とまれ、問題は、近代的自我とは、この対極的原理が結合していることだろう。凸i=陽が凹i=陰と結合しているのである。そう、これこそ、連続性ではないだろうか。
 そして、不連続的差異論は凸i=陽と凹i=陰を切り離したと考えられるのである。つまり、自我原理と悟性原理を切断したことになるのである。だから、「ポスト・モダン」である。
 無双原理的に言えば、陽と陰を区別したことになるのである。
 そして、PS理論は、陰と陽との差異共振極性原理を数学化したものである。
 問題は、自己認識方程式にあるかもしれないが、これは、今はおいておく。
 とまれ、近代的自我(コギト主義と呼んでおく)は、陽のもつ同一性と陰の差異(個)を連続化してしまっているのである。絶対的矛盾を一体化してしまっているのである。
 ところで、凸i=陽=自我同一性原理、凹i=陰=純粋悟性原理とすれば、超越軸は不要であり、ガウス平面と円(オイラーの公式)だけで済むことになる。
 ただし、無双原理のように、凹i=陰を上部、凸i=陽を下部とする必要があるだろう。

追記:自己認識方程式(凸i*凹i⇒凸[+1])であるが、*の積とは、連続化の意味となるのではないだろうか。つまり、近代的自我ないしは近代合理主義を意味するのではないだろうか。
 凸(+1)とは、物質的認識(近代合理主義)を意味するのではないだろうか。
 そして、凸i*凹凹i⇒凹(−1)とは無自我的認識のことではないだろうか。(不連続的差異的様態を意味するのかもしれない。)
 本来の自己認識は、ガウス平面上の単位円に存するのではないだろうか。それは、オイラーの公式で表現されるだろう。
 後でさらに検討したい。





太陽は太極で、media point

テーマ:無双原理とPS哲科学


周氏太極図


先に、太陽を陰(光)*陽(闇)⇒太陽と図式化したが、そうではなく、太極=太陽⇒陰(光)*陽(闇)⇒宇宙・自然ではないだろうかと思った。初めに、太極=太陽ありきである。
 それは、超・超越界ではないだろうか。media pointとしての太極=太陽から、超越円と超越軸z軸が生まれたのではないだろうか。そこから、また、陰陽が生まれたということではないのか。
 後で検討したい。
太極図 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/太極図 - キャッシュ 類似ページ
ja.wikipedia.org の結果をすべてブロック
太極図が文献として確認されるのは北宋の周敦頤の著した『太極図説』(11世紀)が最初である。『易経』繋辞上伝における「太極 - 両儀 ... 黒色は陰を表し右側で下降する気を意味し、白色は陽を表し左側で上昇する気を意味する。魚尾から魚頭に向かって領域が ...
五層 - 陰陽魚 - 円図 - Unicode

太極 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/太極 - キャッシュ 類似ページ
道教のシンボルともなった陰陽魚の太極図 · 周敦頤『太極図説』に描かれた最初の太極図。朱子学によって重視された。 太極(たいきょく、簡体字:太极 ピンイン:tàijí、タイチー)とは、『易』の生成論において陰陽思想と結合して宇宙の根源として重視された概念で ...
太陰大極図とは何か?
web-box.jp/dazake/honnbunn/taiintaikyokuzu.html - キャッシュ 類似ページ
web-box.jp の結果をすべてブロック
ところが実は、この太極図の説明の仕方は、モナリザを追求した結果、出来上がったものなのです。 「モナリザの背景は、四つの場所をつなぎ合わせたものだった。」 これは06'05/20フジテレビ系列放映の『ダ・ヴィンチ=コード ミステリースペシャル』で紹介された、 ...





無双原理の陰陽哲学について:凸iが陰で、凹iが陽なのか、どうか

テーマ:無双原理とPS哲科学

以下の著書を半分弱読んだが、思った通り、実に興味深い、魅力的である。確かに、PS哲科学に似ているが、根本の点でまったく正反対なのである。この点がいちばんの問題である。
 即ち、PS哲科学では、これまで、凸iを陽、凹iを陰としていたが、無双原理に即せば、凸iが陰、凹iは陽とならなくてはならない。言い換える と、光が陰、闇が陽とならなくてはならない。これは、最大の問題である。光を陽、闇を陰とするのは、語義からみても、直観から見ても妥当であるが、それを 逆転することが可能なのだろうか。
 凸iを悟性(知性)と取ると、無双原理の陰陽性がわからないでもない。悟性(知性)はクールであり、冷であるから、確かに、無双原理からすると、陰となる。
 それに対して、魂はホットであり、暖であるから、確かに、無双原理からは、陽となる。
 そうすると、凹iが陽で、凸iが陰となることになるが、それでいいのだろうか。
 具体的に言うと、女性が陽で、男性が陰である。それは、確かにわからないことはない。
 どうも、無双原理の方へなびきつつある。
 ここで、参考として、D. H. ロレンスの王冠哲学を考えると、獅子=「父」が闇であり、一角獣=「子」が光であり、両者の「止揚」として、王冠=「聖霊」が存する。
 闇は陽であり、凹iとなり、光は陰であり凸iとなる。
 確かに、それはロレンスの思考に合致するだろう。
 無双原理を肯定すると、PS哲科学の凸i*凹i⇒凸(+1)の方程式は陰(光)*陽(闇)⇒自然・宇宙ということになる。
 仮にこれを肯定した場合、光のもつ明朗感、歓喜感は陰で説明ができるのだろうか。
 太陽が陰でいいのだろうか。思うに、太陽は、本来、陰と陽の結合によって生まれたものではないのか。ならば、光は、太極的であろう。
 ならば、陰を光とするのが、誤りである。陰*陽⇒光とすべきように思う。そして、太極⇒陰*陽⇒光という根本図式が考えられる。
 そのようにしたとき、カント哲学の悟性原理はどのように説明できるだろうか。これまで、凸iの光の原理としてきたのである。
 それは、今は、反対となり、凸iの陰の原理とすれば、説明できることになる。
 どうも、無双原理の陰陽論の方が的確のようである。
 後で更に検討したい。
追記:ロレンスの説くdarknessとは、上述の視点からは、闇ではなく、陽となる。でも、このように説明すると明らかに混乱する。
 結局のところ、根本の問題は光とは何かということになるだろう。いわば、光は光であって、光ではない。
 人間は一般に、陰凸iを介して、光を知覚する。それは、同一性の光、物質の光である。しかし、それは光を同一性のフィルターを介して見たものに過ぎない。それを物質光と言ってもいいだろう。あるいは、陰光である。
 それに対して、本来の光は、陰陽共振結合によって生じるものと考えられるのである。つまり、陽極をもっているのであるが、人間は、陰極から見ているのである。
 陽極から見た光がdark sunというものではないだろうか。
 結局、一般に人間は本来の光、太陽を見ていないのである。同一性、物質、陰凸iの眼鏡を介して、見ているに過ぎないのである。
 そう、人工的な光・照明は、物質光(凹、−1)と見ないといけない。それは、本来の光、太陽ではない。
 ロレンスのdarknessに戻ると、それは、陽凹iであり、本来の光に通ずるものである。それは、魂(内在)から霊(超越)へと通ずるものである。
 結局、問題は言葉の問題である。所謂、光が光でないために、混乱するのである。
 そう、明快にするならば、通常の光を光と呼ぶならば、darknessは確かに、闇である。そして、光(陰)と闇(陽)の共振結合から生まれるのは、以前述べたように、超光である。
 マニ教その他宗教の光は、超光と見るべきである。それは、dark sunである。
 それは、また、プラトンの洞窟の比喩における洞窟外の太陽である。ここで、ロレンスとプラトンは一致するのである。
 日常言語を混乱させるのはよくないので、光(陰)*闇(陽)⇒超光(dark sun)という図式(PS哲科学では、凸i*凹i⇒凸(+1)という自己認識方程式)を肯定したい。
 ここで一言、無双原理の視点から、日本の文化・社会状況を述べると、明らかに、凸i(光・陰)化しているのである。凹i(闇・陽)が衰退しているのである。
 更に、『無双原理・易』を読み、検討を続けたい。
 
無双原理・易―「マクロビオティック」の原点/桜沢 如一

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超日本人への進化:眠っている母権極を覚醒開発し、神秘・超越的精神へと「止揚」すること

テーマ:新母権的社会:差異共振共同体

先に、日本民族文化は母権極と父権極の極性をもつと述べたが、今日は、父権極に傾斜しているために、日本人の精神が無秩序状態になっていると考えられる。
 そう、基底に多重多層の母権極があるために、父権極傾斜では、母権極の力に対応するために、知的精神は歪んだもの、奇形的なものになってしまうと考えられる。
 そう、日本民族文化の母権極を覚醒させる必要がある。それは、神秘・超越的精神である。近代合理主義、唯物論、物質科学・技術を信奉している現代日本人 にとって、それを受け入れることは、実に恐ろしいことであろうが、それを受容しないと日本は滅亡するしかないのである。眠っている母権極を開発する必要が あるのである。

No駄背犬は、国学化された日本父権主義の末裔である:新母権的個的民主主義へ
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11274522210.html

日本父権主義とは何か:無意識の母権極と封建的同一性・自我主義の複合的バイアス
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11273779168.html





No駄背犬は、国学化された日本父権主義の末裔である:新母権的個的民主主義へ

テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

以下の一番目の記事に「合理的思想体系はなく、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を振りまいているが、このままやらせていたら必ず国が滅びる」と述べられているが、「合理的思想体系はなく、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を振りまいている」 という点であるが、これは、正に、先には触れなかったが、日本父権主義の国学化された精神であると考えられる。私の明治維新批判もこの国学的精神に向けら れている。それは、二項対立であり、他者を否定排除するが、独特なのは、ここで述べられているように、「感情に訴え」る点である。有名な本居宣長の「敷島 の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」は正に、情緒論であり、感情主義なのである。日本父権主義は国学化して、二項対立主義であると同時に、感情主義な のである。つまり、反合理主義なのである。同時に、当然、利己主義である。
• 2012/06/11 : 政治・権力・陰謀 : 危機感なき言論と知識人に警告 野田首相は典型的なファシストだ 「日刊ゲンダイ」 H.24/6/9
• 2012/06/11 : 政治・権力・陰謀 : [怒りの検証] 枝野と菅 「原発事故調」の偽証を告発する! 「週刊ポスト」 H24/6/15号





無双原理とPS哲科学:比較考察検討の必要

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

無双原理もPS哲科学も易の陰陽論(陰陽相補哲学)を基盤としている。PS哲科学は輪郭はほぼできているが、細部になるとまだ不明瞭である。桜沢如一(ゆきかず)氏の無双原理を読んで、視野を広げたい。
 考えてみたら、陰陽の根源の太極については、これまで、PS哲科学では、ほとんど論究していないのに気づいた。陰陽極性の二重性とその中間点のmedia pointを中心に考えてきて、太極という超越性は考えてこなかった。ここに発展の糸口の一つがあるだろう。

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桜沢如一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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桜沢 如一(さくらざわ ゆきかず、生来はにょいち。1893年 10月18日 - 1966年 4月24日 )は、思想家 ・食文化 研究家。
マクロビオティック の提唱者として有名で、海外ではジョージ・オーサワ(George Osawa)の名で知られている。
経歴 [編集 ]
和歌山県 新宮市 (当時の東牟婁郡 )の貧しい武士 の家系 に生まれる。14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、二十歳の頃、食養家・後藤勝次郎を通して[1] 石塚左玄 の「食養生」に触れ、健康を回復する。その後貿易商 として活動する傍らで、石塚の主宰していた大日本食養会 に参加。1924年 には同会会長となり、石塚の死後伸び悩んでいた同会の復興・指導に専念する。1939年 、大日本食養会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退、翌1940年 、無双原理講究所 を滋賀県 大津市 に開設する。
その傍ら執筆活動を続け、石塚の唱えた「夫婦アルカリ 説」「ナトリウム ・カリウム のバランス論」を易経 の陰陽 に当てはめた無双原理 を提唱。1929年 に単身シベリア鉄道 経由でパリ に渡り、ソルボンヌ大学 に留学。次いで、同年、フランス語 にてパリ のVrin 社より『Le Principe Unique de la Science et de la Philosophie d'Extreme-Orient (東洋哲学及び科学の根本無双原理)』を上梓、東洋思想 の紹介者としてヨーロッパで知られる様になり、アンドレ・マルロー などと親交。1937年 に帰国すると『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を実業之日本社 から刊行。たちまち300版余を重ねるベストセラー となる。
戦時中は夫人で食養料理研究家の桜沢里真 の実家のある山梨県 に疎開。戦後は世界連邦運動 に取り組む傍ら、再びインド ・アフリカ ・欧米 など世界各地を訪ね、マクロビオティック の普及に注力する。1955年 には、アフリカ・仏領ガボン にてアルベルト・シュバイツァー 博士と会見し、西洋医学 、栄養学 の限界とその改善を進言するが受け入れられなかった。
1960年代 初頭、原子転換に係る研究者であるルイ・ケルヴラン はパリにおいて桜沢の主催する東洋哲学 講演会に出席し、強い感銘を受けた。2人の交流は、相互に影響を与えたが、特に、桜沢は、その後の活動の主力を原子転換 にシフトすることになる。 1964年 6月21日 、桜沢は、自ら考案の装置にて、Na →K の低温低圧原子核転換の成功を述べている(客観 的な真偽不明)。
後進の育成にも努め、無双原理講究所からは奥山治 、その後身である戦後の真生活協会(メゾン・イグノラムス、略称MI。現在の日本CI協会)からは、久司道夫 、大森英桜 、岡田周三 、菊池富美雄 らが育った。桜沢の元で一番長く師弟関係であったのは松岡四郎(前正食協会会長)である。
死因は心筋梗塞 。
脚注 [編集 ]
1. ^ 太田竜 『日本の食革命家たち』柴田書店、1984年。58頁
参考図書 [編集 ]
• ルイ・ケルヴラン 著/桜沢如一訳 『自然の中の原子転換』 日本CI協会 。
• 桜沢如一著『無双原理・易』 日本CI協会 、1971年 2月。
関連項目 [編集 ]
• 常温核融合
外部リンク [編集 ]

ウィキメディア・コモンズには、桜沢如一 に関連するメディアがあります。
• 日本CI協会
• 正食協会
• マクロビオティック オーサワジャパン 自然食品
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カテゴリ :
• 料理研究家
• 食養
• 菜食主義
• 京都府出身の人物
• 1893年生
• 1966年没
• 生物学的元素転換
• マクロビオティックの人物

1 桜沢如一氏のこと
www.matsuihsp.or.jp/shokunai/html/.../mansei_v02_01.ht... - キャッシュ 類似ページ
ここに桜沢如一氏について書いた文章を紹介します。これは「新栄養」という雑誌に昭和60年の10月、11月、12月と3カ月にわたって連載されたものです。これを書いたクレマン・S・Kという人は河内省一先生です。河内先生と日野先生はどちらも桜沢氏の指導を ...

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2012年06月10日(Sun)▲ページの先頭へ
日本父権主義とは何か:無意識の母権極と封建的同一性・自我主義の複合的バイアス
テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

再考:日本民族における母権と父権の極性:父権的傾斜と母権的均衡
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11272909996.html

上述における日本父権主義の説明を整理する必要がある。
 少し復習すると、日本民族は、ベースの母権的民族に大陸からの父権的民族が進入し、初期において後者が前者を支配するが、その後、両者の混淆・結合・融合が進み、その結果形成された(言わば、多民族融合民族)。
 その融合の結果、日本民族文化は、母権極と父権極の両極をもつ極性性を帯びた。
 日本父権主義は、その父権極の傾斜をもつものであるが、母権極を無意識的にもっている。
 江戸時代において、日本父権主義は封建制のイデオロギーを強く帯びた。つまり、封建的父権主義となった。
 まとめると、日本父権主義は無意識的母権極をもつ封建的父権主義となった。
 そして、父権主義とは、自我の同一性主義を帯びているから、結局、日本父権主義は、無意識的母権極をもつ封建的父権的自我・同一性主義ということになる。
 ここで、先の論点を当てはめると、無意識的母権極には、アニミズム、シャーマニズム等の非合理性があり、封建的父権性は中央集権的権威主義があり、自我・同一性主義は合理主義への志向はあるが、また、利己主義があるということになる。つまり、日本父権主義は、

1)非合理性:アニミズム、シャーマニズム、等の原始的宗教性
2)封建性:中央集権的権威主義
3)自我・同一性:合理主義と利己主義

の三点の複合体であると考えられる。
 この日本父権主義に近代西洋文明(簡単に近代合理主義としておく)が導入されたときどうなるのか。
 近代合理主義は、個の覚醒と近代的自我に拠る合理主義であるが、日本父権主義には、両者を欠いているので、近代合理主義は、自我・同一性における合理主義において一面・一部は受容されるが、非合理性、封建性、利己主義によって歪められ、捩じ曲げられて、奇妙キテレツな、グロテスクな、戯画的な似非近代合理主義になったと考えられる。
 自我・同一性における合理主義は機械的な合理主義、同一性主義のことであり、個や差異に基づく合理主義ではないので、集合的なものであり、封建的体制によって、全体主義化すると考えられる。
 近代西洋文明を導入した日本父権主義において、近代主義に値するものは、機械的合理主義=同一性主義と利己主義であり、その他は、前近代的な、無意識の原始的宗教性、封建的権威主義・ヒエラルキー体制で、それらは複合的に、いわば、狭隘閉鎖的な部族的「村」的な集団・集合主義、日本的全体主義を形成したと考えられる。
 後で、さらに整理したい。

追記:大本教や日月神示では、「大洗濯」、「大峠」と黙示録的視点を提示するが、思うに、日本人は心、精神、意識の「大洗濯」が必要である。明治維新、戦後主義において、否定排除された、日本母権主義、新母権主義へと回帰すべきである。
 肚・魂という基底への回帰である。それは、また、超越性の肯定である。つまり、超近代、トランス・モダンである。もっとも、日本の場合、同時に、トランス・プレ・モダンでもあるが。そう、日本民族文化は、近現代において、複雑骨折して、正に、無秩序、カオス状態なのである。

比較参照:
【フクシマ原発事故】 国会事故調に”極悪人”清水前社長が登場 〜今、真に問うべきこと〜

昨日(6/8)、フクシマ原発の事故原因を調べる国会・事故調査委の”大トリ”を務めるかたちで、”極悪人”清水正孝前社長が登場した。

清水正孝については、事故当時、東電の最高責任者の立場にありながら、事故の初動対応もロクにせず逃げ回っていたことは記憶に新しいが、以下のゲンダイ記事からわかるように、相変わらず”己の保身”と”責任逃れ”に終始したクズっぷりさ加減全開である。

この”極悪人”たる清水正孝が、無責任にも、炉心溶融を起こし制御不能となったフクシマ原発からの「全面撤退」の意思表示をした事実については、大手マスゴミ報道では「不明確」とされているが、ほぼこれに等しいことを口にしたことは想像に難くない話であろう。

しかし、先日のエントリーのエントリーでもコメントしたとおり、大手マスゴミどもは官邸の中でも特に菅直人に責任を負わせるべく、偏向報道を繰り返している始末である。

以下の日経記事をみれば、その姿勢に何ら変わりないことが読み取れることであろう。

”菅直人叩き”の根底にあるのは「”原発利権ムラ”に同調する人間を助け、ムラを売った人間をくじく」という実にわかり易い構図であるが、実際には、菅直人は勿論、枝野幸男、海江田万里、勝俣恒久、清水正孝、佐藤雄平ら全員が同罪であり、こやつらが今も主要なポストを務め、のうのうとシャバの空気を吸っているのは、まったく摩訶不思議な話である。

今回の国会事故調の報告・総括を待つなどと言わず、本来であれば、警察権力・検察らがこれら”極悪人”どもに対して家宅捜査をおこない、指揮権発動がなされて然るべき話であろう。


と、色々言ってはみたが、実際に必要なのは「この中の誰が悪いのか?」といった犯人の特定などではなく、事故の教訓を活かした原発監視体制の見直し・再構築であろう。

誤解しないで頂きたいのは、小生は何も原発の再稼動前提の話をしているのではなく、例えこのまますべての原発が目出度く廃炉の方針となったとしても、廃炉が完了するまでには相当の年月を要するということである。

http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/a988dcf53b385a3fa74236f558d5d722


暗黒夜考〜崩壊しつつある日本を考える〜

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2012年06月09日(Sat)▲ページの先頭へ
再考:日本民族における母権と父権の極性:父権的傾斜と母権的均衡
私は既述のように、日本民族は、ベースは母権的民族で、それに父権的民族が進入して、両者が混淆して、形成されたと考えている。母権的民族は、沖縄・アイヌに残ると考えられる縄文的民族と、中国から移動した弥生的民族と、ツングース系民族、他である。父権的民族は、いまだよくわからないが、中国からやってきた民族ないしは失われたイスラエルの十支族やその他である。
 母権的民族と父権的民族の混淆で著しい例は、古代ギリシアである。それは、ギリシア神話に見事に表現されている。
 そして、日本民族の混淆はやや性質は違うものの、ある意味で類似していると考えている。
 問題点は、混淆の性質である。思うに、三種類のパターンが考えられる。即ち、

1)母権的傾斜型
2)父権的傾斜型
3)母権・父権的均衡型

の三つの型である。
 日本民族文化を考えたとき、この三つの様態があるように思われる。
 とまれ、確認すべきは、母権極と父権極があり、この極性の陰陽的様態において、日本民族文化を見る視点である。
 言い換えると、初めは、母権的民族が存在し、その後、父権的民族が到来して、後者が支配的になったが、時代が経つにつれて、両者が混じり合い、母権/父権的極性的民族・文化が形成されたと考えられる(仮説)。
 私がアニミズムと機械・物質文明の連続性について述べたが、そのとき、自我は弱いと述べた。その意味はこの極性的様態から考えるべきである。つまり、ストレートな父権主義ではなく、母権的極性をもっている父権主義なので、自我が、純粋父権主義の自我から見ると、「弱い」ものとなるのである。しかしながら、「弱い」とは言え、父権極的自我は存在するのである。
 とまれ、アニミズムと機械・物質文明の連続化は、ベースにある母権極にアニミズムがあり、それが、「弱い」父権的自我を介して、機械・物質文明と繋がったと考えられるのである。
 ここで、明治維新以降の「近代化」を考えると、そのような精神様態をもつ日本人であるから、近代合理主義は、欧米のものとは当然、異なるものとならざるをえない。
 つまり、西洋における近代合理主義は近代的自我(デカルトのコギト)と結びついたものであるが、日本の場合、近代的自我は、独立したものではなく、ベースの母権極のために、半近代的自我にならざるを得なかったと考えられる。
 そう、母権極の非合理性(アニミズム等)があるために、近代合理主義は、形式的なものとなり、非合理性によって歪曲されたものとなったと考えられるのである。
 明治維新以降の日本支配層は、私説では、父権主義であるが、今述べたように、非合理性をもつので、欧米の合理主義文明が非合理性によって染められたものとなったと見ても、間違いではないだろう。
 導入された「近代合理主義」、機械・物質文明は非合理性によってねじ曲げられて、無分別に、盲目・狂信的に戦争の道へ進み、「太平洋戦争」の大惨禍を引き起こしたと考えられる。
 また、戦後であるが、この非合理性をもつ父権主義は当然、清算されずに存続したのであり、それは、米国をいわば宗主国とする植民地・属国的日本をもたらしたと考えられる。
 また、敷延すれば、原発の林立も結局は、この非合理性をもつ父権主義のしからしめるものと言えよう。
 これも持論であるが、明治維新は母権的勢力を父権的勢力が制圧して生まれたものである。坂本龍馬、西郷隆盛らの母権的勢力が弾圧され、力を失ったのである。
 近世・近代の母権的勢力であるが、上述から見ると、非合理性をもつのではないかと言われるであろう。確かに、非合理性をもつが、実は、その非合理性に徹しているので、非合理性の「理性」をもつ文化をもっているのである。それが、東洋・日本的身体文化、肚の文化である。つまり、近世・近代の母権的勢力は、伝統的な東洋・日本文化を体現していた勢力であり、新たな西洋の知見をもった文明的勢力であったと考えられるのである。
 だから、母権的勢力とは実は、母権極/父権極の均衡性をもった勢力でもあったと言えるのである。そして、そこにこそ、正統な日本の未来があったと言えるのであるが、残念ながら、父権的勢力が支配して、非合理衝動である過信・盲信・狂信、慢心・傲慢、狂気・妄想、攻撃衝動のために、自暴自棄の自滅の道を辿ったのである。
 その今日的帰結が、福島第一原発の爆発による放射能汚染地獄であり、日本の経済を破滅させようとする民死倒の政権である。
 日本父権主義は、自己の基底の非合理性を確認できないために、不合理極まりない、悪魔的に利己主義的な方策・行動・態度をとってしまうのである。
 この日本父権主義の型は国民にも蔓延しているのであり、日本民族国家のいまや衰亡の瀬戸際にあると言えるのである。
 とまれ、以上から私が新母権主義を提唱する理由がいくらかはお分かりになれたのではないだろうか。
 最後に何故、母権主義に個があり、父権主義は没個であるのかを説明したい。
 つまり、母権主義は肚=魂を基底にするために、自我との意識的極性が形成されるために、他者と自我の均衡という個が形成されることになるのであるが、父権主義は肚=魂が無意識であり、賦活されないので、その無意識の衝動に支配されてしまい、自我は独立せずに、なんらかの力に支配されるのである。故に、没個なのである。

追記:上記の三種類の型であるが、結局、1の母権的傾斜型と3の母権・父権的均衡型は極性論理のために、一致することになるのである。

追記2:日本父権主義の非合理性が元凶のように述べたが、それは不正確である。非合理性と同時に、父権主義のもつ同一性・自我主義(利己主義)も極度の不合理性を引き起こす重要なファクターである。もっとも、同一性・自我主義は、本来、純粋悟性に関わり、合理主義精神に関係するのであるが、日本父権主義の場合は、その封建的権威意識が強力なために、同一性・自我主義に関係する合理主義精神の形成がはななだ未成熟であると言えよう。
 それに対して、西洋の場合、イタリア・ルネサンスや宗教改革(プロテスタンティズム)等によって個の覚醒があるために、父権主義の同一性・自我主義は、封建的権威主義を脱した為に、合理主義精神に繋がったと考えられるのである。


追記3:非合理性として、アニミズムをあげたが、当然、シャーマニズムも入れていいのである、そう、というより、入れるべきである。

**********************

魂と自我の結婚:魂の闇と自我の光:闇と光の螺旋結合
テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

以下の先に書いた叙述と参照の叙述は齟齬を来しているので、整合性のある説明が必要である。後で、考察を行いたい。

**********************

母権主義と父権主義:魂の意識と自我の意識
テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

私が説く母権主義と父権主義は女性主義と男性主義ではない。母権主義は、男性においてもあるし、父権主義は女性においてもあるのである。
 母権主義と父権主義は人間の根本的な質的差異を意味する。前者は魂を基底にしているし、後者は自我を基底にしているのである。
 日本人は母権主義と父権主義の混淆であると考えているが、明治維新以降、後者が支配的になり、前者が抑圧されたと考えられるのである。
 とりわけ、戦後の米国による一種の植民地的支配によって、日本の母権主義は否定されて、日本民族は衰滅の危機にあるのである。
 そう、母権主義とは、個に基づくのである。もっとも、正確に言えば、自我の基礎にある魂に基づく個である。
 父権的集団主義に染まって、母権的個を埋没させているのが、現代日本人である。

参照:

アニミズムと機械・物質文明
テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論
resurrection
neomanichaeist resurrection

アニミズムと機械・物質文明4:両者が日本人の精神において結合しているとすると、問題は厄介であるが、PS理論によってこの問題を解明している。即ち内面の魂と近代科学・技術の切断。両者が不連続であることを日本人は認識する必要がある。 両者の無意識の連続体が日本人を束縛している。擱筆
9分前 お気に入り 返信 削除
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resurrection
neomanichaeist resurrection

アニミズムと機械・物質文明3:無意識の受動的魂と近代科学・技術が、日本人の精神において、結びついたというのは確かに考えられることである。故に、「浜岡原発反対氏」(仮称)が指摘したことは正鵠を射ていると言える。
15分前 お気に入り 返信 削除
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resurrection
neomanichaeist resurrection

アニミズムと機械・物質文明2:日本人の場合、デカルト的自我は希薄である。端的に言えば、自我は弱い。おそらく、内面の魂の側面が作用しているのであるが、無意識である。おそらく、この魂の受動性が、近代科学(物質科学・技術)と結んだのではないのか。続く。
18分前 お気に入り 返信 削除
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resurrection
neomanichaeist resurrection

アニミズムと機械・物質文明1:先に、両者通じるというコメントを戴いたので、答えたい。 アニミズムは魂の感覚に拠る。機械・物質文明は、当然、近代合理主義を前提にする。本来、デカルトの自我=存在があるが、日本の場合、それが欠落する。続く。


»
resurrection
neomanichaeist resurrection

狂気の複合権力。日本民族は母権民族と父権民族の混合。古代は前者がベースで後者と結合したが、江戸時代で衰退し、新父権と新母権が生成した。明治維新は後者に拠るが前者が権力を簒奪し、父権封建的中央集権国家を確立するが、優越妄想独善狂信のために戦争で破滅、そして、今日、福島原発事故で、

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-10875456067.html

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11271794452.html

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2012年06月03日(Sun)▲ページの先頭へ
精神と現象:精神(霊魂)が現象化して、自我意識等が生まれた?:超越界と超越論界と現象界
テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

超越軸をもつガウス平面、つまり、ガウス平面をいわば底面としてもつ立体座標においてであるが、どうも、超越軸z軸と虚軸y軸との関係が不明解である。
 そこで、考え直したのである。これまで、自我(頭)を凸i、魂(肚)を凹iとし、前者に悟性、後者に感情・欲望を見たのであるが、そうすると、凸iは光子(電磁波)であり、凹iは闇子(重力波:仮説)であるから、宇宙・自然現象一般と人間が一致してしまうことになる。有り体に言えば、植物、動物、鉱物等と人間が区別されないことになってしまうのである。確かに、身体的には、植物、動物、鉱物等と共通するが、人間の精神・認識性はそれらにはないだろう。そう、簡単に言えば、自我は植物、動物、鉱物にはないだろう。(とは言え、動物には、小自我ないしは前自我のようなものはあるかもしれないが。)
 そこで、これまでの仮説を変更して、自我の根源は凸jであり、魂の根源は凹jであるとするのである。つまり、自我と魂は神霊と等しくなるのである。(ここで、ウパニシャッド哲学の「汝はそれなり」を想起する。)
 では、神霊である自我と魂(両者併せて、以下、自己魂)がどうして、現象における自己魂(一般的に自我に傾斜しているので、自我魂)となり、神霊である自己を忘却ないしは喪失しているのだろうか。
 この理由・原因は分かりやすく説明できる。即ち、神霊的自己魂は、現象化して、物質界/身体界に組み込まれて、物質/身体の制限を受けるからと考えられるのである。
 つまり、根源は神霊的自己であるが、それが、虚軸の凸iと凹iへと転化するのが現象化、言い換えると、誕生である。つまり、虚軸の凸i=光子(電磁波)と凹i=闇子(重力波:仮説)の極性を帯びるのである。悟性は神霊的自我の凸jが凸iに、魂は神霊的魂の凹jが凹iにそれぞれ折り重なったものと考えられるのである。
 同一性とは凸iに関係するのであり、その同一性的認識を介して、人間は物質を認識するのである。そう、カントの超越論的形式は正に、凸iに折り重なった凸jで説明ができると考えられる。
 それは、空間形式であるが、時間形式は、凹iに折り重なった凹jで説明できよう。カントの内的感覚(内官)である。空間形式は外的感覚(外官)に関わるのである。
 そして、この超越論的形式(そう、凸iと凹iをそれぞれ、超越論的空間形式、超越論的時間形式と言えよう)が真に物質的現象化するのが凸(+1)と凹(−1)で説明できよう。つまり、凸i化された凸jと凹i化された凹jが結合して、純物質凹(−1)と宇宙・自然現象凸(+1)となると考えられるのである。
 わかりやすく言えば、虚軸y軸は、胎児の世界であろう。そして、実軸x軸が現象世界(いわゆる現実世界)である。
 そう、睡眠とは、実軸x軸(存在軸)から離脱して、虚軸y軸へと回帰して、さらには、media pointを介して、超越軸z軸の神霊世界に触れることではないだろうか。つまり、睡眠において、現象的自己は、神霊的自己に回帰しているということになる。つまり、霊魂に戻っているということになる。
 さて、ここで思考実験であるが、虚軸化作用を受けた神霊的自己の数学的記述であるが、凸j・凸iと凹j・凹iと積で記すことができるのか、それとも、明快に凸j⇒凸iと凹j⇒凹iとした方がいいのか。
 前者を使用するなら、結合は(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸(+1)と凹(−1)となる。
 結合という用語であるが、これは、同一性化作用と差異共振化作用の二重性を意味している。
 自然現象の場合は、差異共振化だけでいいのであるが、人間の場合は、自我凸iに傾斜しているので、同一性化作用を組み込む必要があり、その為に、二重性をもつ意味として結合という用語を用いたのである。
 ところで、結合式(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸(+1)と凹(−1)は整理して、

(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸凹(±1)

と記述したい。凸凹は凸と凹の併存を意味しているのである。
 ここで、ルドルフ・シュタイナーの精神哲科学を考えてみると(もっとも、上述の睡眠事象はその視点に拠るのであるが)、超感覚(霊的感覚)的世界とは、自己から凸i*凹iの拘束から離脱させることで得られると言えよう。そう、同一性・物質の被拘束から精神意識を離脱させることである。
 ただし、シュタイナーは科学的合理精神を重んじていた。つまり、同一性・物質的な思考を重視していたのである。
 超感覚(霊的感覚)的世界を同一性・物質的言語で表現することを重視していたのである。その表現は、絶対的には不可能であるが、いわば、相似的に可能であるということである。
 同一性・物質的思考、科学合理的精神を重視するのは、現実離れをして、精神が混乱するのを防ぐためである。
 しかしながら、同一性・物質的思考、科学合理的精神は、悟性的精神であり、自我と結びつくので、自我の欲望を抑制する必要があるのである。そうでないと、合理的精神が自我欲望によって捩じ曲げられてしまうのである。
 言い換えると、同一性的自我を抑制する必要があるのである。つまり、差異(他者)、差異共振の思考が必要となるのである。具体的に言えば、頭脳中心の思考を抑制する肚の思考が必要なのである。そして、両者の中間に胸の思考(media point thinking)を形成すべきなのである。優しさや「愛」とは、そこから生まれるが、それを道徳・倫理として確立すべきである。そう、フィオーレのヨアキム的に言えば、それは「聖霊」的思考である。頭脳的思考が「父」であり、肚的思考が「子」であり、胸的思考が「聖霊」ということになる。(今や、「聖霊」のエポックであるが。)
 言い換えれば、同一性と差異とのバランスを保持するということである。
 以上から、これまでの不明であった超越軸z軸(超越界、神霊界、イデア界)と虚軸y軸(光・光子と闇・重力子)と実軸x軸(純物質と現象)の関係が明快になったと言えよう。
 最後に、⇒凸(+1)をこれまで、超光と仮説してきたが、この点を再検討する必要がある。
 原光・光と原闇・闇の差異共振が創産(造語)する凸(+1)は、宇宙・自然現象であるが、それを超光であると見ていいのか。
 それは、力ではないのか。powerないしはforceではないのか。
そう、宇宙・自然現象を形成する実際の力ではある。
 だから、超光というより、超力の方が相応しいのかもしれない。
 現時点では、訂正して、超力としたい。
 宗教的光であるが、それは、やはり、超越界に存すると言えよう。それは、凸j*凹jのmedia pointに存するのではないだろうか。そこに本当の超光があるのではないだろうか。それが現象的に発出すると超力になるのではないだろうか。
 今はここで留める。

参考:
意識と本質。 | 芸術生理学研究所(仮)
2005年1月30日 – この著作もすでに1991年に中公文庫より刊行されていたが、このご時世、新たに「TAT TVAM ASI(汝はそれなり)」という ... Tat tvam asi(「汝はそれなり」)は、ウパニシャドの宗教的・哲学的思想の精髄(エッセンス)を一文に収約したものと ...
http://green.ap.teacup.com/april/8.html

参照:
自分が主人公だった

ある有名人が、「世の中は、不公平なのが真理です」と発言されていました。
この言葉は、聞く人の心の深さによって、何を思うのかが変わります。
この世だけで、すべてが終わり完結すると思い込んでいる人には、この世が不公平に見えるようです。
しかし、私は「この世は、完全なる公平」であり、これが真理だと知っています。

1日には、昼と夜の時間帯があり、2つ合わせて丸1日なのです。
昼間とは、物が見える時間帯です。これは私たちが、この世で生きている間の時間帯(人生)でもあります。
そして、人は必ず死んで、夜の時間帯へと移行するのです。
つまり、この2つを経験して初めて、魂の1つの区切りと成るのです。

まだ半日しか生きていない人間が、「この世は不公平」だと思うのです。
物語を「途中で切り取れば」、話のつじつまが合わないのはアタリマエなのです。これを不公平だと、錯覚しては生けません。
人間は、この世では、まだ半分しか生きていないと言うことを知るだけでも、この短い人生の生き方が改善されます。
この半分の世界だけで終わると思い込めば、不公平、あやまち、不平不満、我良し、やった者勝ち・・・などと、感謝の心(内在神)から離れた行動と思考をします。

http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/bca3505a93808fef75fe69b83d7d1d8f

伊勢ー白山 道






日ユ同祖論と母権文化的原日本:父権と母権

テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

日ユ同祖論が正しいと仮説すると、タイトな父権主義の「ユダヤ」文化が豊饒なる母権文化の原日本に「侵入」したとすると、それは、私が唱えている母権と父 権の衝突に拠る古代ギリシア的なタイプの文化が古代日本において形成されたことを意味することになる。もっとも、私は中国からの父権民族の侵入を想定した が。
 思うに、両極端の文化の衝突と融合が古代日本で生じたことになる。天皇がその中心(media point)である。
 しかしながら、江戸時代になり、古い結合融合(略して、結融)文化が崩壊して、父権と母権に分裂した。明治維新はこの両面をもっていたが、結局、父権が勝利して、全体主義的近代日本が形成された。
 今日、新しい融合を目指すべきである。それは、超日本となるだろう。近代を超克するトランス・モダン・ジャパンである。
 余裕のあるとき、丁寧に説明したい。

追記:新しい融合は、母権凹iが土台となり、父権凸iを取り込むように、それと共振して、形成されるのである。

http://www.googleadservices.com/pagead/aclk?sa=L&ai=BibtCmkDLT9ayB4H9kAWs76CWBKHd4rACubf5hkDAjbcBwIHFURABGAEg3qaUCjgAUKmu5ZoHYInrx4T4E6AB74-w0QOyAQlhbWVibG8uanDIAQHaATZodHRwOi8vYW1lYmxvLmpwL25lb21hbmljaGFlaXNtL2VudHJ5LTExMjY1OTMzODE5Lmh0bWyAAgGpAqS6gSZTfUs-qAMB6AOuAegD2gP1AwAAAMb1AwAAQBCIBgE&num=1&cid=5GjkQKSNfClfdo1pk2rx4fw3&sig=AOD64_2EFo3jT7uceTE4DgN4WSHlIfkaww&client=ca-cyberagent-ameblo_js&adurl=http://www.coway.co.jp





「天」と「地」について再考:凸iが「天」で、凹iが「地」ではないか

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

先に、「天」の方向は、凸(+1)であり、「地」のそれは、凹(−1)であると述べたが、端的に考えれば、凸iが「天」の方向であり、凹iが「地」のそれ である。つまり、凸iは「頭」であり、凹iは「肚」であるから、単純に、当然、凸iが上昇の方向であり、凹iが下降の方向である。
 そうならば、凸(+1)と凹(−1)は何を意味するのか。
 前者は差異共振による現象界(宇宙・自然)を意味するだろう。後者は物質界である。
 また、前者は超光であり、後者はいわば、超闇である。
 また、凸iは実体としての光であり、凹iは実体としての闇である。
 ところで、先に、氣と電磁波は異なると述べたが、そうすると齟齬が生じる。何故なら、凸iは光・光子(電磁波)であり、陽の氣であるからである。(もっとも、凹iは闇・闇子であり、陰の氣であるが、それは、重力波ないしは重力子[作業仮説]であり、電磁波ではないが。)
 そう、先の説明を修正しないといけない。氣ではなく、超氣と電磁波は異なると言わなくていけないのである。超氣とは、凸(+1)の超光である。





物質が先か、それとも生命体が先か:生命体の解体から物質が生じたと考える

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

PS哲科学は、新イデア論であり、精神が根源にあると仮説している。そう、精神から物質が発生したと考えている。
 しかし、説明が必要である。精神から、最初、生命体が生まれたと考えているのである。その生命体は当然、物質性を帯びている。しかしながら、生命体の衰退によって、生命有機体は解体して、物質が生起したと考えるのである。
 つまり、精神(神霊・霊魂)⇒生命体⇒物質の順である。
 しかるに、物質科学=唯物科学は、逆に、物質⇒生命体⇒精神という順に発生を考えるのである。
 確率論的に言えば、後者の可能性は極めて低いのであり、仮説に過ぎないと言えよう。
 この問題の一つのキーポイントは、氣であると思う。氣を認めるか否かで、決定的に異なる結果となる。何故なら、氣は物質科学で説明できないからである。せいぜい、電磁波を氣と考えることができるくらいである。
 しかし、氣は生命の生成力であるから、それを単純に電磁波と捉えることは不可能である。

追記:上記の氣は超氣と訂正する。そうでないと齟齬を来すからである。即ち、凸iの光・光子は、陽の氣であり、電磁波であるからである。もっとも、凹iの闇・闇子は、陰の氣であるが、重力波(作業仮説)であり、電磁波ではないが。
 以下参照。

「天」と「地」について再考:凸iが「天」で、凹iが「地」ではないか
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11265898435.html






唯物科学から生命有機体科学へのパラダイム・シフト

テーマ:trans-modern:超近代的進化

飯山一郎氏の唱える乳酸菌ないしは光合成細菌による新農業ないしは、脱原発路線は、結局、近代の唯物論を超える、生命有機体論科学の提唱であると言えよう。
 端的に、物質と生命とは異なるのであるが、近代科学=唯物科学は、前者から後者が生まれると考えたのである。
 しかし、その結果は、例えば、福島第一原発の崩壊による放射能汚染である。
 原発は近代科学=唯物科学の帰結と言えよう。物質ではなく、生命有機体を基にした科学ならば、このような事態はありえなかったと言えよう。
 結局、脱近代科学=脱唯物科学として、トランス・モダン科学=生命有機体科学というものが必然となるのである。


6月2日(土)京都のえびす屋で講演会。 6月24日には東京でミトラについても話します。
新井信介 「京の風」


母なる海が人間を産んだ

伊勢ー白山 道  





不連続的差異論からPS哲科学への移行の問題について

テーマ:不連続的差異論とPS哲科学

不連続的差異論は、哲学理論であったが、それに数学を導入して、PS哲科学(哲学-数学-科学理論〔仮説〕)へと発展した。
 この数学-科学への発展の妥当性について、後で、再検討したい。
 言い換えると、不連続的差異論は、精神的哲学であるが、その精神性を数学で記述するのは、どういう意味をもつのか等を検討したいのである。
 精神を数学で記述できるとは、結局、精神自体が数学的であるということになるのである。これは、ピュラタゴラス/プラトン哲学路線ではある。
 それは、結局、精神は数理的存在であるということである。しかしながら、私の疑問は、精神は精神の様態をもっているのであり、その様態は単に数理ではすべては捉えられないのではないのかということである。
 今の予備考察では、やはり、二重性があるのではないのかということである。即ち、精神的様態と数理的様態の二面を哲学はもっているのではないのかということである。
 だから、PS哲科学とは、精神-数理的哲科学ということになる。
 しかしながら、根本は精神であると考えられる。精神の科学的側面が数理的に記述されるのであり、精神の認識的側面が哲学的に記述されるということではないだろうか。
 以上、とりあえず、予備考察としておく。

追記:補足すると、根源は精神である。そして、それが、意識的側面では哲学となり、数理的側面では、数学-科学になるということである。
 しかしながら、意識的側面が中心であり、数理的側面は補完的側面であると考えられる。
 つまり、精神の意識様態が直観的表象であり、それの数学ー科学的表象があるということになる。
 精神の意識様態が基本であり、数理ー科学的記述は、知的様態であると言えよう。
 意識様態とは、知性、感情、意志を含むものであり、数理ー科学的記述は単に客観的知性による表象と言えよう。
 だから、数理的記述は、確かに、進展的ではあっても、意識様態に取って代わることはできないのである。
 故に、数学主導で、不連続的差異論からPS理論へと進展したことは、意識様態を客観的知性が取って代わったことになり、それは、一面的であり、そのために、本末転倒の状況が生じたのである。
 意識様態こそ、基本であり、数理的記述はその補完的知的表現と見なさないといけない。
 そう、意識的合理性と知性とは異なるのである。前者から哲学が、後者から科学が生じる。
 思うに、意識科学というものが考えられそうである。それは、端的に哲科学(哲学-科学)である。





肚の鍛練と頭脳の学習:肚と胸と頭の陶冶・涵養に向けて:新母権的自己形成へ

テーマ:新母権的社会:差異共振共同体

現代日本は魔境に入ってしまった。自我、父権的自我である利己的人間が蔓延してしまって、他者への認識、同時に、自己への認識が喪失されている。
 何度も述べたが、明治維新は、父権的封建的自我(一般的に長州勢力)が母権的個主義(坂本龍馬、西郷隆盛らの勢力)に勝利して、集団的中央集権国家が形 成された。そして、狂気の引き起こした「太平洋・東/東南アジア戦争」という大惨禍を経て、戦後は、米国的近代合理主義が主流となり、伝統的日本・東洋的 価値観は否定された。
 後者を象徴するものは、肚の喪失である。肚の鍛練の喪失である。
 思うに、西洋人は実は、無意識的に肚をもっているのであり、それを知らず、悟性、知性、合理性云々をいうのである。
 この無意識の肚を日本人は見落としているのである。
 この肚への回帰は瞑想とも関係しているかもしれないが、私は、瞑想は苦手である。
 とまれ、日本人の意識改造が必要である。意識構造改革である。

参照:
「天皇制」と封建制:近代日本の封建的国家体制:父権的自我優越妄想主義
sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1686.html - キャッシュ
2011年3月27日 – 天皇制」と封建制:近代日本の封建的国家体制:父権的自我優越妄想主義:トランセンデント・モダン. 以下、東海アマ氏は持論の「天皇制」批判を唱えているが、この問題については既述したので、繰り返さない。 ただ、今度の大震災における ...

精神世界の叡智アーカイブス:身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生
blog.livedoor.jp/longpa/archives/11396692.html - キャッシュ 類似ページ
blog.livedoor.jp の結果をすべてブロック
2004年12月17日 – 齋藤 孝/著 NHKブックス ◆ 日本は「腰肚(こしはら)文化」 日本の伝統的な文化は「腰肚文化」に集約されるのではないでしょうか。 腰や肚は精神的なことも含んでいますが、その基盤には腰や肚の身体感覚が実際にあるのです。





一体的感応性と個的独立性:コスモスと個

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

私は子供の頃、田んぼと畑と防風林と林野のまったくの田舎に住んでいた。今思えば、別天地である。車も一日数えるくらいしか、町道を通らなかった。
 とまれ、水田の苗が大きくなり、緑のマットが敷かれたようになる頃、自転車通学していた私は、水田や防風林の緑の世界と神秘的に、そう官能的に一体化したものである。
 この環境との一体的感性はいかなるものであろうか。
 そして、反対に、個であるという意識のメカニズムはいかなるものであろうか。
 直観で言えば、環境的一体感とは、凹i(肚)が主導となった精神の様態ではないだろうか。そこでは、凸i(頭)の従の状態にあるのではないだろうか。(追記:正確に言うと、凹i(肚)は無意識的であり、それが胸・心胸に作用して、環境的一体感をもたらしたと思われる。)
 正確に言うと、凸i*凹iの未分化・連続的様態における凹iの主導的様態が環境的一体感(神秘官能感)を生むのではないだろうか。
 D. H. ロレンスの説くコスモスとはそのような様態を意味するのではないだろうか。
 では、それに対して、「わたし」は個であるという意識はどのような力学をもつのだろうか。
 これまで、個とは凹i、肚に基盤が存すると述べてきたのであるから、それは、環境的一体感と通じるものとなってしまうかもしれない。
 内的体験的には、個とは、肚=凹iと自我=頭=凸iとの均衡に存するように思われる。言い換えると、他者(肚=凹i)であり、且つ、即ち、即非的に、自我(頭=凸i=「わたし」)である。その対極が共振していると言ってもいいだろう。

 (お断り:実は、以下論述はかなり続くのであるが、専門的な独創的な知見なので、ここでの発表を差し控える。)





「天」は⇒凸(+1)の方向で、「地」は⇒凹(−1)の方向だろうか?

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

私の内的経験では、コスモスの光は肚から天へと上昇する。コスモスの光は、今の概念で言えば、超光である。これは、肚=闇=凹iと目=光=凸iとの共振によって、発出される。ベースは前者、肚=闇=凹iである。
 そうすると、「天」の方向とは、⇒凸(+1)になる。これはほぼ確定である。
 では、それに対して、「地」の方向はどうなるのか。単純に考えると、反対方向となる。即ち、⇒凹(−1)である。
 どうだろうか。そう、これも内的体験的に考えると、「地」とは、頭から肚へと意識が移動して、肚から「力意識」を大地へと向けた方向にあるだろう。それは、一種、凸i*凹凹i⇒凹(−1)で数式化されるのではないだろうか。
 少し違う感じもあるが、とりあえず、そう想定すると、「地」の方向は、⇒凹(−1)となる。そう、ここでPS哲科学(PSフィロソフィエンス:PS- Philosophience)的トーラス論で考えると、凸(+1)が「天」の極、即ち、天極で、凹(−1)が「地」の極、地極となろう。
 現時点での結論(仮説)としておきたい。

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