INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2012/04

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2012年04月29日(Sun)▲ページの先頭へ
同一性と模倣欲望:同一性暴力力学・父権的暴力と民主主義的資本主義社会
視覚と感覚物質同一性世界

テーマ:manichaeism: 哲学

以前、視覚や視覚的美はどうして、自我(同一性自己)と結びつくのか、疑問を呈した。
 視覚的美については後で述べるが、私の疑問は一種愚問であった。何故なら、視覚と感覚物質同一性世界が密接に結びついているからである。視覚は物質世界と同一性の点で親和的なのである。
 では、視覚的美との結びつきはどう説明できるのか。
 やはり、これも、感覚物質同一性世界との結びつきでほぼ説明できよう。ただし、美的感覚は、media pointと結びついているのである。media pointは単に感覚だけではなく、感情と深く結びついている。つまり、凹iの側面である。
 しかしながら、凸iの同一性的側面が強いので、視覚的美も自我と結びつきやすいと考えられる。





同一性と模倣欲望:同一性暴力力学・父権的暴力と民主主義的資本主義社会

テーマ:manichaeism: 哲学

リマスターされ、ブルーレイになった映画の古典『太陽がいっぱい』を見た。
 これは実に理論的な作品である。自分のライバルを模倣し、且つ、ライバルを否定する(殺す)ストーリーである。
 ルネ・ジラールの模倣欲望という理論に適合する作品である。
 これをPS理論から解明したい。
 同一性主義は他者を否定するということで、わかりやすいが、この場合の他者模倣と他者否定をどう説明するのかである。
 PS理論から丁寧に見てみよう。凸i(同一性、自我)は、凹i(他者m差異)を知覚する。しかし、同一性・自我は他者・差異を自己自身に取込むことがで きない。そこで、前者の後者への対応の主要な一つは、後者を同一性化することである。つまり、後者を同一性的に否定することである。他者・差異の否定であ る。これは極端に言えば、破壊である。とまれ、これで、他者否定は説明できた。
 次に、他者模倣についてである。
 これは、劣等感コンプレックスと関係するだろう。つまり、同一性・自我Aより、他者Bがなんらかの点で強者、優れている者である場合を考えよう。
 このとき、AはBに対して、嫉妬を感じる。そして、悪化すれば、敵意、さらに殺意を感じる。また、逆に、Bに対する支配欲も生じよう。
 とまれ、もう少し条件が必要である。AとBはライバル的な横並びの関係がなくてはならないだろう。最初から、上下、高低の隔たりがある場合は、否定的になることは少ないだろう。言い換えると、AとBとの存在としての同一性が存することが必要である。
 結局、同一性同士の関係の中に、他者・差異が現われるときに、ライバルへの嫉妬等の否定的感情・欲望・意志が生まれてくると考えられる。(『太陽がいっ ぱい』で言えば、当然、トムとフィリップの関係であり、フィリップの強者性(他者・差異性)はマルジュという恋人やボート等を持っている点である。)
 ここで他者模倣であるが、出発点において、AとBとの同一性があるので、AとBは自分を相互に重ねると言えよう。つまり、A=Bである。
 しかしながら、Bには、Aにはない有利さがあるのである。それ故に、AはBを否定しようとするのである。つまり、ここで、同一性模倣(他者模倣)と他者・差異否定が同時生起するのである。
 つまり、ライバルを否定して、ライバルの他者・差異性を模倣する(横取る)という事態が生じるのである。
 これで解明できた。結局、同一性否定にしろ、他者模倣にしろ、根本は同一性力学、同一性暴力力学のしからしめる事態である。これは父権的暴力と言い換えることもできる。
 政治・経済的に言えば、民主主義化された資本主義社会は、この同一性暴力力学・父権的暴力が支配的に発現する場であると考えられる。

追記:A=Bについてもう少し説明が必要である。同一性の一致とは、他者凹iの位置に凸iが来ることを意味する。
 この他者凹iの位置がポイントである。A=Bにおいて、BはAにおける他者凹iの位置を占めているのである。そうでないならば、同一性暴力力学は作動しない。
 では、凹iの位置にA=Bを置く同一性力学とは何かを考える必要がある。
 本来、他者・差異であるBを同一性化(同一化)する力学とは何か。それは端的に、Aのもつ同一性力学であろう。他者・差異凹iを否定して、他者・差異凹iを同一性化しているのである。
 つまり、他者・差異であるBをそもそも同一性化している暴力力学がそこにはあるのである。父権的同一性暴力力学と呼ぶことができよう。カント哲学的に言えば、悟性暴力である。
 結局、模倣欲望とは、端的に、同一性暴力力学が原理であると言えよう。他者・差異の否定とは、他者・差異の模倣なのである。
 簡潔に言えば、否定とは模倣であるということになる。これは、偉大な法則ではないだろうか。

参考:
太陽がいっぱい (映画) - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/太陽がいっぱい_(映画) - キャッシュ 類似ページ
太陽がいっぱい』(たいようがいっぱい、仏:Plein soleil)は、1960年のフランスとイタリアの合作映画。主演:アラン・ドロン、監督:ルネ・クレマン。 パトリシア・ハイスミスの小説「才人リプレイ君」(原題。邦訳本の題名は『太陽がいっぱい』、『リプリー』)を原作と ...

ルネ・ジラール - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/ルネ・ジラール - キャッシュ 類似ページ
ルネ・ジラール(René Girard、1923年12月25日 - )はフランス出身の文芸批評家。アメリカ合衆国のスタンフォード大学やデューク大学で比較文学の教授を務めた。いわゆるミメーシス(模倣=擬態)の理論を考案し、欲望のミメーシスな性格の発見によって ...





PS理論の生命への応用へ向けて

テーマ:biology

今は余裕がないので、詳述できない。
 結局、生命とは何かを、PS理論的に明快にしたい。簡単に予備考察をすれば、凸i*凹iが生命魂である。これで、植物、動物、人間の生命を説明できよう。
 問題は物質的生命体の形成や意義である。
 物質は凹(−1)で説明できる。では物質的生命体ないしは生命有機体はどう説明できるのか。
 ここで作業仮説であるが、凸i*凹凹i⇒凹(−1)という物質方程式であるが、凸iによる凹iの否定が凹凹iであるが、この否定に対して、凹iからの反発があるはずである。それは端的に、差異共振志向、光形成志向である。
 この志向が物質を巻き込んで物質生命体、生命有機体を形成するのではないのか。
 その巻き込み力学は、media pointに存するのではないだろうか。そう、凸iと凹iが共振するとき、渦巻きや螺旋が形成されると推測できる。このmedia pointでの渦動、螺旋的力学が、物質凹(−1)を巻き込んで、螺旋形態の物質的生命体、生命有機体を形成するのではないだろうか。
 そうならば、生命本体の核とは差異共振性である。そして、それが物質的形態を持っているのであり、その物質的形態を維持するために、食、その他の生命体の活動があると思われる。
 結局、生命も光を志向しているのである。
 今は以上で留める。



2012年04月18日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:光の問題:光と物質:視覚とは何か:視覚としてのmedia point
(画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11226208712.html



凸i*凹i⇒凸(+1)     ・・・・・ A

において、右辺が光である。つまり、光とは同一性(「物質」)と差異(「精神」)によって形成されているのである。
 しかし、自我(凸i)は、光を物質(光子)としてのみ捉えるのである。
 
凸i*凹凹i⇒凹(−1)      ・・・・・ B

の自我方程式(と呼ぶことにする)において、右辺は物質主義、利己主義、合理主義、自我主義等を意味すると考えられる。近代・現代人はこれに陥っているのである。
 問題は物質である。物質はどう記述されるのか。
 同一性凸iを「物質」と上記している。問題は、同一性凸i=物質としていいかどうかである。先にはそう考えたのであるが。
 直観で考えると、同一性凸iが内的他者凹iに否定的に接するときに、物質化が為されるのである。
 つまり、凸i*凹凹i⇒凹(−1)である。だから、物質は右辺の凹(−1)であると思われる。
 そうすると、自然は単に差異共振しているだけではなく、同一性主導があることになる。ここが極めて重要なポイントとなる。
 もし、自然が差異共振事象だけならば、すべては光となり、物質は形成されないだろう。
 だから、これまで、自然は差異共振現象であるとした私の考えを訂正しないといけない。
 結局、自然現象とは、差異共振現象=光と同一性現象=物質の両面をもっていることになる。簡単に言えば、自然現象とは光と物質の複合体である。
 ところで、このように考えると、z軸は不要になり、再び、ガウス平面だけで説明できるようになる。
 では、自我凸iはどのようにして、光を認識するのか。media pointが原点であり、そこが差異共振事象の起点である。同時に、当然、同一性事象(物質事象)の起点でもある。
 問題は視覚とは何かである。
 ゲーテが光が視覚の原因であると述べていたと思う。そうならば、視覚は、差異共振事象が形成したものである。
 直観では、視覚とは差異凹iの、同一性凸iにおけるいわば飛び地である。つまり、凸iと凹iのなんらかの連結において視覚が形成されると考えられる。
 同一性凸i主導だけでは、視覚は形成されないし、差異凹i主導だけでも、視覚は形成されない。両者のなんらかの結合が視覚形成のために必要である。
 この結合力学はいかなるものか。
 というか、端的に、media pointが視覚ではないのか。結合力学は必要ないのである。
 media pointは同一性凸iの極と差異凹iの極、両極、双極、対極をもっているのであるから、これを視覚として捉えるのは的確であると考えられるのである。端的に、視覚は正に特異点である。聴覚はそれに対して、より差異に傾斜しているだろう。いわば、視覚の裏側である。(ついでながら、古代ギリシアのアポロとは正に、media pointの表現であろう。ディオニュソスとは、同一性にとらわれない、正に、差異共振現象を指しているだろう。つまり、アポロから同一性側面を取ったものであろう。ニーチェの混乱は両者の二元論化にあるだろう。D. H. ロレンスのdark sunとは正に、差異共振事象としての光である。そう、視覚であるが、media pointの同一性側面としての視覚は、光を差異共振事象としてではなく、同一性のフィルター[精神的フィルター]を通して見ていると言えよう。思えば、以前、超越光と私がしきりに述べたが、それは、media pointの差異側面から見た差異共振事象=光[dark sun]のことであると言えよう[dark Godは凹iであろう]。光はルドルフ・シュタイナーから言えば、アフラ・マズダ=キリストである。)
 とまれ、以上から、自我凸iがどのように光を知覚するのか解明できた。つまり、自我は視覚であるmedia pointを介して、光を主に同一性的に、従的には差異的に、知覚するのである。
 ここで、プラトンの有名な洞窟の比喩に言及すると、洞窟とは正に、同一性であり、その壁の影像とは、正に、凹(−1)である。そして、洞窟外の太陽(善のイデア)とは、正に、凸(+1)である。そして、洞窟の穴がmedia pointである。
 最後に光と宗教の関係に簡単に触れよう。
 いったい、差異共振事象の起因である凸i*凹i(的確には、凹i*凸i)の「存在」はどういうものなのか。始めから存するのか、それとも形成されたものなのか。
 ここで、凹(−1)の問題が出てくる。凹(−1)の平方根が凸iと凹iである。そうすると、物質である凹(−1)が差異共振事象の起源であることになるだろう。
 これはどういうことなのだろうか。いわば、摩訶不思議である。もし、そうならば、唯物論である。光も宗教も物質が根源になるのである。
 しかし、そうではないだろう。
 凸i*凹iを産出するのは、なんらかの超越性であろう。ここで、ガウス平面に直交する軸が必要になるのかもしれない。Kaisetsu氏の言う超越軸である。
 先にフレミング右手の法則の視点を提起したが、ここではフレミング左手の法則を上記の視点から適用すべきだろう。
 即ち、磁界の方向をz軸、導体にかかる力をx軸の凹(−1)、そして、電流の流れる方向をy軸の凹iに見るのである。
 導体にかかる力を物質の力(重力)とすれば、光はその正反対の方向に位置する。(これで、重力が光を曲げることが説明できよう。そう、導体にかかる力の方向はブラックホールの方向であろう。そして、おそらく、dark matterは存在しないかもしれない。それに対して、dark energyは明らかに存するだろう。それは正に、差異共振事象としての光を意味しよう。つまり、今日の科学は、光の同一性的側面、物質的側面しか見ていないので、光の差異共振本体を捉えていないということになるのである。)
 ということで、超越軸を仮説してそこが凸i*凹iの起源であると考えたい。超越軸の差異共振方程式(と呼びたい)は、

凸j*凹j⇒凹i+凸(+1)   ・・・・・ C

である。これこそ、宗教的な光方程式(と呼びたい)と言えよう。
 では、凸jと凹jとは何か。あるいはどういう神霊なのか。先に述べたように、凸jは「父神」で凹jは「母神」と考えられよう。しかしながら、差異共振は、主導的根源は凹j、「母神」に存すると考えられるのである。
 そう、それが母権的文化、母権的世界である。本来のアジア、東洋の文化世界である。
 それに対して、一神教は「父神」の凸jが主導的になって形成されたものである。即ち、

凸j*凹凹j⇒凸i+凹(−1)   ・・・・・ D

ではないだろうか。(因み、創世記におけるヤハウェは凸jであり、エローヒーム[神の複数]は凹jと考えられる。)
 そして、この場合はフレミング右手の法則を手がかりすることができると思う。即ち、電流の流れる方向が凸iとなるのである。(ひょっとして、陽電子の流れと言えるのかもしれない。)
 だから、D式は父権的一神教方程式と呼べよう。そして、C式は母権的多神教方程式とも呼べよう。
 ということで、これまでの諸論考をだいぶ整理できたと考えられる。結局のところ、人間認識図は基本的には左右逆転にすればいいことになる(人間認識図の構成は左右逆転すれば、ほぼそのまま使用できよう)。また、ガウス平面に直交する超越軸z軸をつければ、ほぼ十全な認識図になると考えられる。それは、宗教的認識図と呼べよう。それは、超越論的ではなく、超越的認識図とも言えよう。


参照:


resurrectionのブログ


フレミングの左手の法則 - Wikipedia



resurrectionのブログ

フレミングの右手の法則 - Wikipedia



resurrectionのブログ
《ガウス平面で表した人間認識の図》


2012年04月14日(Sat)▲ページの先頭へ
四次元モデル:x軸、y軸、z軸、α軸:下降次元変換:凸α*凹α⇒凸(+1)⇒凹z、凹y
テーマ:Neo-PS理論

α軸:凸α*凹α⇒凸(+1)を凸k*凹k⇒凸(+1)とする。

z軸:凸z*凹z⇒凸(+1)を凸j*凹j⇒凸(+1)とする。ただし、これは自己差異共振という理想態である。自我主導が普通なので、凸j*凹凹j⇒凹(−1)が通常態である。

y軸:凸i*凹i⇒凸(+1)はこのままであり、陰陽の氣の方程式である。

x軸:これは、ただ、凸(+1)と凹(−1)の並立する実軸である。
 
そして、四元数からi 2 = j 2 = k2 = ijk = −1ということになる。
 問題は、四つの軸の関係である。media pointでは、交差するだろうが、そのとき、どういう力学が作用するのか。というか、もともと四つの軸が存するのか。それとも、根本のα軸のみが最初に存して、その後、残りの三つの軸が形成されたのか。
 凹(−1)が自我で、凸(+1)が自然自体(物質と精神の共振体)ならば、それは、当然、他の軸、超越論的な軸から形成されたものである。だから、派生態である。
 残りのy軸(氣軸:エーテル体軸)とz軸(自己軸)はどうなのだろうか。
 直観では、原初はα軸しかなかったように思える。そこから、z軸やy軸が派生したように思う。
 ならば、その力学はどうなるのだろうか。
 先に指摘したが、

凸α*凹α⇒凸z*凹z



凸α*凹α⇒凸y*凹y

のようなものが成立すれば、いいのである。(凸z*凹z⇒凸y*凹yはないと推測する。)
 このいわば、降下的次元変換は差異共振では形成されない。違う力学が必要である。
 差異共振によって形成されるx軸とα軸の形成する平面を直交する軸が形成されればいいことになる。
 以下の図のように、フレミング右手の法則に類似した力学ははたらけばいいのである。即ち、磁界の方向がα軸凸αで、導体の動いた方向がx軸凸(+1)であり、電流の流れる方向が凹zとなる。
 そして、それぞれの方向の反対(対極)を考えれば、α軸の凹α、x軸の凹(−1)、そして、z軸の凸zが形成される。
 興味深いのは、z軸においては、凸z(陽)ではなく、凹z(陰)が形成されることである。そう、電流は電子(負電荷)であるから、これなりに合理性、整合性があると言えようし、また、母権的自己ないしは原始差異共振を考えると、それは凹z主導なので、これに合致することになるのである。
 結局、

凸α*凹α⇒凸(+1)⇒凹z

というような数式になる。
 次に、y軸であるが、これも似たような視点でいいのではないだろうか。即ち、

凸α*凹α⇒凸(+1)⇒凹y

である。やはり、凹y(陰)が形成されるのである。陰陽の氣であるから、陰が先行するのはまことに的確である。
 今はここで留めるが、後で、精緻にこの力学の方程式を解明したい。
 

ファイル:Fleming's Right Hand Rule.png

フレミングの右手の法則


再考:陰陽の氣と自我/非自我の作用:自然における同一性と差異
どうも勘違いしているのかもしれない。
 先に、「光」の場合、粒子は⇒凹(マイナス)で、波動は⇒凸(+1)と述べた。
 しかしながら、自然状態では、差異共振が起るのであり、同一性は生起しないと考えられる。
 だから、「光」は⇒凸(+1)しかありえないと考えられる。ということなので、訂正である。
 問題は、自我作用、同一性作用である。自我・同一性作用において、⇒凹(−1)が生起すると考えられる。
 そして、それに抑圧され、排除される非自我は、裏面、背面で、どう作用するのだろうか。
 先には差異共振作用をすると述べたが、どうだろうか。これも勘違いのように思える。
 差異不共振ではないだろうか。否定された凹iの作用は反動作用になると思われる。否定的感情、否定的衝動になると思われる。それは、攻撃的衝動ではないだろうか。
 そう、問題は先に述べた原始差異共振である。これは、自我作用によって、無意識化されるだろう。
 とまれ、ここにおいてこそ、差異共振の原点があるのであるが、自我作用の支配の下、未発達な状態、あるいは、潜在的な状態に留まっていると考えられる。
 つまり、自我作用と原始差異共振作用は矛盾・齟齬の関係にあると言えよう。
 では、自我・同一性作用と自然現象との関係はどうなのだろうか。
 陰陽の氣の差異共振現象が自然現象とするならば、自我・同一性作用とどう関係するのか。
 凸zは純粋悟性になるが、また、外的感覚(空間)にもなるだろう。そして、否定された、また、抑圧された凹z(原始差異共振を含めて)は、それなりに、内的感覚(時間)であろう。
 そう、人間身体を考慮しないといけない。人間身体は当然、自然現象である。つまり、差異共振現象である。そこに、自我/非自我が組み込まれているのである。
 ここでは作業仮説であるが、こう考えたらどうだろうか。差異共振現象とは、当然、凸i*凹i⇒凸(+1)である。右辺が自然現象ないしは自然自体である。
 これは当然、凸iと凹iの共振から形成されているのだから、自然現象には凸iのなんらかの要素があるということではないだろうか。凸iと凹iの即非現象と言ってもいいのであるから、やはり、凸iを基本的構成要素としてもっていると言えよう。
 つまり、同一性の側面をもっているということになる。そして、それが、物質というものでないだろうか。
 そして、自我・同一性作用は自然のこの物質性を認識するということではないだろうか。
 この作業仮説の問題点は、果たして、凸iを凸zと同様に、同一性として見ていいのかということである。
 凸zは自我・同一性作用である。しかし、凸iは自我・同一性作用ではなく、自然のもつ陽極である。
 しかしながら、それを自我極ではなく、同一性極と見ることは可能ではないだろうか。
 ということで、作業仮説的に、凸iを同一性として見れば、それを自然身体において、自我は同一性=物質として認識するということは考えられるのである。
 では、もしそうならば、凹iは何か。凹zは非自我、内的他者、絶対的差異であるが。
 少なくとも、非同一性と言えよう。つまり、差異である。同一性を物質とするならば、非同一性、差異とは何であろうか。おそらく、一種の精神である。自然の精神ということになる。
 「わたし」は「山」であるというとき、「わたし」は凹zであり、「山」は凹iではないだろうか。凹zと凹iとの一種の共鳴、合一等がなければいけない。
 凹zは非自我的精神であるが、凹iは単に精神ということではないだろうか。
 とりあえず、そう仮定して考えたい。
 すると、自然現象、自然自体とは、同一性=物質、差異=精神の共振から形成されていることになる。
 そして、人間は自我・同一性(物質)作用と非自我・差異(精神)作用との二元体である。
 思うに、カントが現象における基体と見ていたものは、差異=精神ではないだろうか。
 そして、物質科学は、自然の物質的側面のみを捉えて、自然の精神的側面を看過していることになる。
 今はここで留めて、後でさらに検討したい。


2012年04月11日(Wed)▲ページの先頭へ
差異と「差異」:内的他者としての差異と外的他者としての「差異」:陰陽の氣としての「光」と自己軸
後で検討したいが、結局、「わたし」は「山」であり、同時に、「わたし」は「わたし」であり、「山」は「山」であるという即非の論理において、「差異」の問題が生じる。
 私がこれまで述べてきた差異とは、「わたし」は「山」であるというときの「山」のことである。
 しかしながら、一般的には、「わたし」は「わたし」であり、「山」は「山」であるというときの「山」を「差異」と考えるだろう。
 何が異なるかといえば、前者は内的他者のことであり、それに「わたし」が一致することを意味し、後者は外的他者のことであり、それと「わたし」は異なることを意味する。後者は同一性としての他者と言えよう。
 思うに、内的他者への感知がポスト・モダンの最良の収穫ではないだろうか。これは、PS理論では絶対的差異である。
 結局、自己とは「わたし(自我)」であり、且つ「非わたし(非自我)」なのである。この二元論(極性)がPS理論の説くところである。
 そして、さらに、両者が(差異)共振するところがPS理論の核心である。
 ところで、今不明なのは、電磁波や量子の位置付けである。
 粒子であり、且つ、波動でもあるという、例えば、「光」の位置付けであるが、直観で言うと、粒子は⇒凹(−1)であり、波動は⇒凸(+1)である。
 両者は同時生起である。だから、即非的生起と言うこともできよう。
 そうすると、「光」とは、凸i☯凹i⇒凸(+1)、凹(−1)の左辺が本体と考えられる。そう、思うに、それは、氣と呼んでいいのではないだろうか。陰陽の氣が「光」であり、それが、粒子と波動を同時・即非生起させると考えられるだろう。
 そうならば、「光」は自己的であると言えるのではないだろうか。それは本当なのだろうか。どうも躊躇するのである。
 何故なら、自己とは自我且つ非自我(内的他者)であり、自我を陽、凸i、非自我を陰、凹iと見ていいのかすぐには首肯できないからである。
 つまり、人間において、自我の作用は非自我の作用よりもはるかに強いからである。とりわけ、父権主義において。
 だから、人間は陽に傾斜していると言えば済むのだろうか。陽に傾斜していても、陰陽の氣においては、陰は開いているのである。言わば、開放系である。それに対して、人間の自我は閉鎖系であり、非自我を排除しているのである。この違いが決定的であると考えられる。
 やはり、ガウス平面に直交するz軸を加えて、それを自己軸とすべきように思われるのである。
 この点はあらためて検討したいので、今はここで留める。

追記:自己軸であるz軸を考えると、仮に、「プラス」の軸に凸zを、「マイナス」の軸に凹zを置く。凸zが自我で、凹zが非自我となる。
 自我は同一性主義であり、それは、非自我を抑圧、排除する。
 とまれ、z軸のMedia Point(虚軸と実軸のmedia pointと区別する。もっとも、重なるのではあるが。)において、凸z側において、視覚や脳の原点があるのではないだろうか。思うに、第二ガウス平面(z軸とx軸の直交座標であるが、超越論的ガウス平面と言えるかもしれない。)において、凸zと凹の領域、第二象限に、脳の領域があるのかもしれない。視覚はMedia Pointの自我側に存するのではないだろうか。
 それに対して、凹zと凹の領域、第三象限は、内臓の領域ではないだろうか。聴覚はMedia Pointの非自我側に存するのではないだろうか。
 次に、凸zと凸の領域、第一象限であるが、それは、純粋理性、理念の領域ではないだろうか。因みに、純粋悟性は凸zの第二象限側に存するのではないだろうか。
 そして、凹zと凸の領域、第四象限であるが、それは、超越界、コスモス界、真のイデア界(これは、純粋理性、理念の世界とは区別される)ではないだろうか。
 ロレンスがdark sun、dark God、cosmosと呼んだものは、この領域の存すると思われる。
 そう、宗教の真の光(「神」)もここに存するように思われる。マニ教の光も当然、ここである。
 以上、作業仮説、思考実験である。後でさらに検討したい。


2012年04月10日(Tue)▲ページの先頭へ
カントの純粋悟性論と同一性世界:純粋理性と凸i主導のmedia pointにおける凹iの浸透様態
カントの純粋悟性論は明らかに、同一性、量、物質の世界を超越論的に捉えているものである。凸iの同一性が支配している世界である。だから、凸i*凹凹i⇒凹(−1)である。これは先にも述べたので、これ以上説明しない。
 問題は、凹iを凸iの同一性支配から解放したときに事態である。これは当然、不連続的差異論の事態であり、また、PS理論の事態である。
 これまで差異共振して、凸i*凹i⇒凸(+1)になると述べた。凸(+1)は精神である。
 思うに、解放された自由になった凹i(「時間」)がもし差異共振しない場合はありえるのだろうか。もし可能ならば、それはどういう事態なのだろうか。
 思うに、あり得るならば、それは、第四象限、コスモス、イデア界を意味するのではないだろうか。
 この問題はここで留める。
 次に、カントの純粋理性の問題について簡単に予見を述べたい。
 純粋悟性は凸i支配を意味する。それに対して、純粋理性はその超越論的なものである。つまり、それは、第一象限を意味するかもしれない。
 あるいは、簡単に言えば、凸iと凹iとの「差異」がアンチノミー、背理になっていると考えられる。もっとも、カントにおいて主導的なものは凸iであり、凹iが形成する差異共振をカントは認めていないと考えられる。
 しかしながら、先に述べたように、media pointにおいて、凸iに対して、凹iに拠る差異共振が浸透しているのであり、その浸透において、カントは差異共振の曖昧な像を予感して、純粋理性の問題を捉えているようにも思える。
 そう見ることができるならば、カントにおいて、ポスト・モダン、正確に言えば、構造主義抜きの同一性と差異の問題をカントは先駆的に扱っていたことになる。
 ポスト・モダンが混乱したのは、超越論的なもの、認識問題を、同一性、量的視点が排除してしまったからだと思われる。
 とまれ、カントの純粋理性とは、凸i主導のmedia pointにおける凹iが浸透するときの認識であると思われる。
 そうすると、PS理論ははるかに、カント哲学を超えていると考えられる。
 そう、以前述べたように、フッサール現象学の超越論的主観性は、カント哲学を超えて、凹iの浸透自体を捉えたように思える。しかし、完全に純粋化したかは疑問の余地がある。

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