INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2012/03

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2012年03月29日(Thu)▲ページの先頭へ
母権と父権における連続的自我の様態:同一性による差異共振支配の克服のための聖霊主義へ向けて
テーマ:manichaeism: 哲学

母権的自我における連続的自我と父権的自我におけるそれとの区別が不分明になっているようなので、検討したい。
 母権的自我とは、原始差異共振と連続的自我の極性的二重性をもつ。
 それに対して、父権的自我は、原始差異共振を否定して、連続的自我中心となっている。ここには、分裂、亀裂がある。
 問題は連続的自我における否定される他者凹iの様態である。
 母権的自我においては、連続的自我において否定される他者凹iは、原始差異共振があるために、言わば、完全には否定されず、肯定的な側面があると考えられる。
 それに対して、父権的自我においては、連続的自我において否定される他者凹iは完全に否定されるのであり、そのために、他者凹iは否定的感情、反感、反動的衝動等になっていると考えられる。
 ヤハウェについての分析で、母権的一神教と考えたが、結局、それを翻した形になり、齟齬の状態に留まっている。
 ヤハウェはやはり、父権的自我の究極性のようなものと見るべきであろう。
 つまり、ヤハウェとは超越的な、絶対的な純粋自我であり、超越的な、絶対的な純粋他者凹iを否定すると考えられるのである。
 故に、後者の否定が前者に付随して、「我は嫉妬深い神なり」という様態になると考えられる。
 とは言え、問題は、その超越性が何処から生まれているかである。
 凸iだけなら、純粋自我であり、そこには超越的絶対性はないだろう。
 先に、凸(+1)⇒凸i*凹iを思考実験的に提起した。
 凸(+1)が真の光であり、「神」であるとすると、これが、超越的絶対性の根源であると考えられる。
 だから、ヤハウェの父権主義は凸(+1)、真の光、「神」から発生していると考えられる。
 ただし、凸iに極大化したものである。そう、ここで陰陽力学の役立つ。つまり、凸i*凹iは陰陽として、変動しているのであり、母権主義のときは、凹iが主で、凸iが従であり、凹iが極大化したときが、完全母権主義と考えられ、また、父権主義はその逆である。
 ということで、ヤハウェは凸iの極大化の様態と考えられるのである。【そうすると、陰陽力学の力の根源は凸(+1)となる。先にも簡単に指摘したが、おそらく、凸(+1)を「父」と考えることができるだろう。】
 以上の視点から現代社会、現代世界の問題が解明できよう。
 日本民族であるが、やはり、これまで既述したように、基本的には二つの民族、母権的民族と父権的民族が併存しているのであり、おそらく、明治維新以前には、両者のある種の、つまり、古代ギリシア的な結合、融合があったが、明治維新後、父権的民族が支配的になり、それが、今日現代まで続いていると考えられる。
 しかし、この父権的民族は狡猾であり、母権的民族の裏に言わば、隠れて、支配しているように思われるのである。例えば、官僚はそのようなものに思われる。民主主義の隠れ蓑に隠れて、日本国民を支配、操縦しているように推測されるのである。
 天皇制は母権的民族文化と見るべきである。それが明治維新で父権的民族に利用されたと見るべきである。(そして、この隠れた狡猾な父権的民族は某国の権力と繋がっていると推測される。)
 先に指摘したように、大半である母権的民族の日本人は新父権化して、自我と個において覚醒すべきである。(このためには、是非、外国語、とりわけ、欧米語を学ぶべきである。)
 次に、中国人であるが、既述したように、やはり、母権的民族と父権的民族の並立があるが、両者が古代ギリシアや明治以前の日本においてあったような結合が稀であったのではないだろうか。もっとも、老子や易、等はそのような結合を感じさせるのであるが。
 思うに、母権的民族のベースに強力な父権的民族(遊牧民族)が侵入して生まれたのが、中国(支那)のように思えるのである。だから、父権的民族が母権的民族を暴力的に支配する形をとったように思えるのである。(私見では、父権的民族としての中国人は、父権的民族のユダヤ人や欧米人と類似するのである。)
 東アジア、ひいてはアジアの問題の核心にはこの力学あると推察される。
 最後に簡単に資本主義の問題に触れると、やはり、ヤハウェ的一神教が根源に存すると考えられる。
 それは、上述した超越的絶対的純粋自我の同一性形式が根源のように思われるのである。
 しかしながら、以前何度も述べたように、資本主義は差異共振主義を内在しているのである。つまり、資本主義とは、内在する固有の差異共振主義(母権主義)と超越的絶対的純粋自我的同一性形式の絶対的矛盾の結合であると考えられるのである。宗教で言えば、ユダヤ教とキリスト教の結合に相応しよう。
 しかしながら、この結合(おそらく、複合ないしは混合と言う方が的確であるかもしれない)において、主であるのは、後者であり、前者は従である。つまり、いわば、「父」が「子」を支配しているのである。
 言い換えると、同一性資本主義と差異共振資本主義の複合が今日の資本主義(同一性/差異共振複合資本主義とでも呼べよう)であるが、前者は後者を支配して、世界的暴力(戦争等)を引き起こしていると考えられる。
 だから、逆転する必要があるのである。それは、言うならば、聖霊資本主義であろう。PS理論的には、media point capitalismである。
 純粋自我と純粋他者を差異共振させる資本主義である。それを実現するための方法等については、後で検討したい。(もっともそれについては多くのことが既述済みであるが。)


2012年03月27日(Tue)▲ページの先頭へ
物質とは何か:その2:凸i*−凹i⇒凹(−1):凹(−1)が物質である
物質とは何か:その2:凸i*−凹i⇒凹(−1):凹(−1)が物質である

テーマ:Neo-PS理論

先に、物質とは差異共振事象の同一性的仮象ではないかと述べたが、今、それとは異なる視点が生じたので、それを簡単に記したい。
 結局、media pointにおいて、同一性化と差異共振事象が同時生起する。両者はなんらか結合して、いわば、複合体を形成していると考えられる。この複合体を仮に同一性的差異共振体ないしは同一性的差異共振複合体と呼んでおく。あるいは、生命体で言えば、同一性的差異共振有機体である。
 問題はこの体、複合体、有機体の結合モードである。つまり、結合のmedia pointの様態である。(先には、比喩的に、メビウスの輪や三日月の光と影を提起したが。)
 根源的に考察する。「母権」的認識様態においては、凹i主導であり、原始差異共振様態と連続的同一性様態が併存している。この初期様態が重要である。
 この二重様態を精緻明晰に捉える必要がある。結局、凸iの様態がポイントである。凹i主導の差異共振体があり、同時に、凸i主導の連続的同一性体(連続的自我体)がある。つまり、両極性(対極性)に拠る二つのモードがここには存している。
 即ち、凹i主導の差異共振体と凸i主導の連続的同一性体である。つまり、凹iと凸iの極性による複合体がここには存する。極性的複合体と呼べよう。あるいは絶対矛盾的複合体ないしは即非的複合体である。これが「母権」的認識様態である。
 では、「父権」的認識様態になるとどうなるのだろうか。それは、完全に凸i主導、凸i支配となる認識様態である。
 そう、簡単に言えば、極性的様態が「抑圧」されると考えられる。では、「抑圧」とは何であろうか。それは、隠蔽である。
 この「抑圧」、隠蔽力学を把捉する必要がある。
 しかし、この力学は「母権」的認識様態の凸i主導性による連続的同一性体という視点で捉えることができよう。
 既述したように、同一性力学は凸i同一性を凹iの他者に押し付ける、押印することである。つまり、同一性型を他者(差異:正確に言えば、絶対的差異、絶対矛盾的差異)に押印することである。論理的に言えば、他者否定である。つまり、同一性力学は他者(差異)否定力学であるということである。
 「母権」的認識様態は極性的様態で説明できたが、この「父権」的同一性支配的認識様態はどう解明できるのか。
 思うに、ここには、分裂様態があると考えられる。本来(「母権」的認識様態においては)、極性的様態である凸iと凹iであるが、「父権」的認識様態になると、同一性支配によって極性的様態が否定されて、同一性体と差異共振体の二つに分裂すると考えられる。つまり、同一性と差異共振性を分裂させるなんらかの分離帯が形成されると推測されるのである。
 この分離帯を同一性デバイドととりあえず呼ぶ。この同一性デバイドが「母権」的認識様態には存在しなかったものである。
 そして、この同一性デバイドが物質を形成する原因であると考えられるのである。
 この同一性デバイドとは結局、カントの感性的形式ならびに純粋悟性(形式)と考えられる。つまり、「父権」的認識様態とは感性的形式且つ純粋悟性(形式)支配の認識様態であると考えられるのである。とりあえず、両者をまとめて、同一性形式と呼ぶ。
 だから、同一性形式が物質形成原因である。
そのように考えると、宇宙・自然世界と人間世界において、同一性形式支配があり、それが、物質現象を構築していると考えられる。
 しかし、同一性形式イコール物質ではない。物質を形成するには、同一性形式と同時に押印される他者(差異)が必要である。前者を凸iとすれば後者は当然凹iである。
 結局のところ、これまで既述したような同一性方程式を変形した、

凸i*−凹i⇒凹(−1)

が物質認識方程式と考えられる。
 そう、端的に、凹(−1)が物質である。(これは、連続的自我でもあるが。)
 ということで、現段階の結論が出たので、ここで終える。

追記:ルドルフ・シュタイナーの精神学で言えば、同一性形式とは悪魔アーリマンである。また、彼はそれをヘーゲルの「精神」であると述べてい





四次元座標としての人間認識構造?

テーマ:manichaeism: 哲学

先に三次元座標を人間認識構造のモデルとして作業仮説したが、どうやら、四次元座標にした方が的確のように思えてきた。
 即ち、x軸、y軸、z軸以外にα軸を考えるのである。

x軸:存在軸:凹と凸
y軸:空間/時間軸:凸kと凹k
z軸:純粋悟性軸:凸jと凹j
α軸:純粋理性軸:凸iと凹i

とざっと思うところを書いた。
 y軸は、感覚に関係する。外的感覚(外官)凸kと内的感覚(内官)凹kである。
 z軸は、凸jが純粋悟性であり、凹jが純粋悟性の他者である。
 α軸は、凸iが純粋理性であり、凹iが純粋理性の他者である。
 以上、思考実験である。





物質とは何か

テーマ:manichaeism: 哲学

既述したことだが、ルドルフ・シュタイナーは彼の精神学は、究極的には物質の究明であると述べていた。霊学を提唱した人物の言であるから、重い。
 とまれ、物質とは差異共振エネルギー、差異共振事象を同一性の視点で捉えたものではないだろうか。
 ある物体の質量が1kgとする。その1kgとは、同一性、量である。これは空間的事象の観測に拠るのである。問題は空間的事象である。カントは物自体は認識できないと述べた。
 ここで思考実験するが、物自体を仮に凹iとすると、純粋悟性凸iは物自体凹iは把捉できない。それは、同一性を物自体凹iに押印するのである。
 だから、凸iに拠る凹iへの同一性の押印が、物質ないしは物体の形成を意味するのではないだろうか。
 しかし、他方では、凸i*凹iの差異共振事象がある。氣の事象、光の事象である。
 思うに、物質とは現象を同一性システムで捉えたものである。現象の本体は差異共振事象であるが、物質とは差異共振事象を同一性システムによって認識したものではないだろうか。
 つまり、現象、差異共振事象は同一性システムに呼応する機構をもっているということになるのではないだろうか。
 というか、差異共振事象を同一性の視点から認識する結果、現象は物質現象であるということになるのではないだろうか。(物自体であるが、それは、凹i、ないし凸i*凹iの差異共振事象の両方にあてはまることにする。今の段階では。暫定的に。)
 つまり、物質とは本来、物質ではなく、差異共振事象であるということになるだろう。差異共振事象の仮象であるということになるだろう。
 今は問題提起のみである。 





z軸凸iは純粋理性、y軸凸jは純粋悟性、x軸凸は純粋光

テーマ:manichaeism: 哲学

今は指摘のみに留める。
 ガウス平面の虚軸を凸iと凹iで表記したが、三次元化したとき、z軸に凸iと凹iをとり、y軸に凸jと凹jをとることにする(先にも述べたが)。
 カントの純粋悟性は凸jとなり、現象、物質、現象光は凹(−1)である。そして、凸(+1)は純粋光と考えられる。これは一般には不可視である。(dark energyはこれを指しているのかもしれない。dark matterもこれかもしれない。)
 そして、純粋悟性を超越する純粋理性はz軸の凸iということになる。
 とまれ、凹jや凹iは純粋他者であるが、どう異なるのか。これは作業仮説であるが、両者、直観ではないだろうか。
 凹jは現象的直観であり、凹iは精神的直観ではないだろうか。この問題は提起のみに留める。
 さて、別のことであるが、

凸i*凹i⇒凸(+1)

の根本自己認識方程式であるが、これは逆転できるのではないだろうかと思ったのである。即ち、

凸(+1)⇒凸i*凹i

である。
 凸(+1)は真の光であり、「神」であると考えると、それが、中軸の極性、双極子を創出したのではないだろうかと思ったのである。
 例えば、旧約聖書の預言者であるが、彼らは、凸(+1)の「神の呼びかけ」を聴いたのではないだろうか。
 とまれ、「父」は凸(+1)⇒凸i*凹iとすると、「子」は凸i*凹i⇒凸(+1)ではないだろうか。
 ならば、「聖霊」はどうなるのだろうか。それは、media pointではないだろうか。
 これも検討課題である。

Cartesian coordinate system - Wikipedia, the free encyclopedia





The coordinate surfaces of the Cartesian coordinates (x, y, z). The z-axis is vertical and the x-axis is highlighted in green. Thus, the red plane shows the points with x=1, the blue plane shows the points with z=1, and the yellow plane shows the points with y=−1. The three surfaces intersect at the point P (shown as a black sphere) with the Cartesian coordinates (1, −1, 1).



http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11204176098.html





過去から未来への動きと未来から過去への動き

テーマ:manichaeism: 哲学

凸i*凹凹i⇒凹(−1)と凸i*凹i⇒凸(+1)の光の方向であるが、前者は物質の世界であり、過去から未来へと時間が動くが、後者は精神の世界であるが、未来から過去へと時間が動くのではないだろうか。

参考:
スカラー波とは - 徹底検索、堀進 - Yahoo!ブログ
超光速が相対論によって無いことになっているのは、超光速であると因果律が逆転するからである。つまり過去から未来へ伝わる波だけでなく、未来から過去へ 伝わる波も存在することになるからである。しかし、云わば量子の内部で超光速であって、外部からこの量子の動きを見ると光速以下になるようになっているの で、その範囲では因果律の逆転は起きないのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/horisusumu8/11334501.html
徹底検索、堀進


Nikola Tesla - Wikipedia, the free encyclopedia

Longitudinal wave - Wikipedia, the free encyclopedia
Longitudinal waves, as known as "l-waves", which are waves that have the same direction of vibration as their direction of travel, which means that the movement of the medium is in the same direction as or the opposite direction to the motion of the wave. Mechanical longitudinal waves have been also referred to as compressional waves or compression waves.

Electromagnetic
Maxwell's equations lead to the prediction of electromagnetic waves in a vacuum, which are transverse (in that the electric fields and magnetic fields vary perpendicularly to the direction of propagation).[2] However, waves can exist in plasma or confined spaces. These are called plasma waves and can be longitudinal, transverse, or a mixture of both.[2] [3] Plasma waves can also occur in force-free magnetic fields.
In the early development of electromagnetism there was some suggesting that longitudinal electromagnetic waves existed in a vacuum. After Heaviside's attempts to generalize Maxwell's equations, Heaviside came to the conclusion that electromagnetic waves were not to be found as longitudinal waves in "free space " or homogeneous media.[4] But Maxwell's equations do lead to the appearance of longitudinal waves under some circumstances in either plasma waves or guided waves. Basically distinct from the "free-space" waves, such as those studied by Hertz in his UHF experiments, are Zenneck waves .[5] The longitudinal mode of a resonant cavity is a particular standing wave pattern formed by waves confined in a cavity. The longitudinal modes correspond to the wavelengths of the wave which are reinforced by constructive interference after many reflections from the cavity's reflecting surfaces. Recently, Haifeng Wang et al. proposed a method that can generate a longitudinal electromagnetic (light) wave in free space, and this wave can propagate without divergence for a few wavelengths.[6]


http://en.wikipedia.org/wiki/Longitudinal_wave





作業仮説:三次元座標としての認識世界

テーマ:manichaeism: 哲学

凸iと凹iをガウス平面に直交する軸(z軸)としたい。だから、ガウス平面での空間・時間方程式の記述は凸j*凹j⇒凸(+1)としたい。凸jが空間形式であり、凹jが時間形式である。それらはy軸を形成する。
 そして、凸iを純粋悟性(純粋自我)、凹iを純粋他者にしたい。
 凸iと凹iは時計回りにπ/2回転して、凸jと凹jに変換するとしたい。(この回転力学は後で検討したい。)
 z軸とy軸が超越論的軸である。x軸が経験軸(物質軸)である。そして、純粋理性とは、z軸におけるmedia pointの力学知性ではないだろうか。
 今は問題提起に留める。





現代日本人は他者凹iを排除するので、異常、病的、痴愚的になっている

テーマ:日本亡国の凶相

結局、現代日本の病巣とは凹iの排除にあると思う。即ち、内的他者(差異)、肚、魂の否定である。
 そう、日本伝統文化の廃棄である。これは、GHQやその後の米国の洗脳に拠ると考えられる。
 駄目な日本人。己の民族的文化を廃棄してしまっているのである。魂を棄てているのである。
 つまり、亡魂の民である。ロボット人間である。

追記:より精緻に言えば、凸iという純粋自我「わたしich」の喪失がある。
 凹iが廃棄されているのも、結局、「わたし」が存しないからである。集団我があるだけである。
 結局、純粋自我(純粋悟性)凸iを表わす主語のない日本語は致命的である。日本人は外国語、とりわけ、欧米語を学ぶ必要がある。
 日本語しか理解しない日本人は「未開」状態である。近代以前なのである。


2012年03月23日(Fri)▲ページの先頭へ
光のmedia point plane mode:闇が「光」となり、光が「闇」となる
光のmedia point plane mode:闇が「光」となり、光が「闇」となる
テーマ:manichaeism: 哲学
media pointにおける光のモードについて閃いたので、簡単に記す。
 以下の三日月の映像が役立つ。月の光った部分に接している暗い線が、凸iの同一性反射に相当するだろう。
 そして、明るい部分が凹i*凹i⇒凸(+1)の右辺である。
 しかしながら、現象界、物質界においては、この明るい部分は不可視になっている。D. H. ロレンス的に言えば、dark, unseenなのである。
 そして、暗黒部分を一般には視覚しているのである。つまり、思うに、三日月を容器として考え、弧を底とすると、光の容器が闇を包容している(光が闇を包 んでいる)のが、真実の世界と考えられる。つまり、現象界、物質界とは闇なのである。闇を光と見ているのが、一般の人間である。
 もう少し丁寧に言うと、現実に見る光、現象光は、闇なのである。そして、真の光は不可視、dark, unseenなのである。(これが、ロレンスのdark sun, dark rayと考えられる。)
 プラトンの洞窟の比喩における太陽は、現象界の太陽ではなく、精神界の太陽と見るべきである。
 そう、ロレンスが我々は光の背中を見ているに過ぎないと述べたが、それは正鵠を射ているのである。本当の光の背中の闇を見ているに過ぎないのである。
 この闇である現象光は物質的光と言えよう。しかしながら、先に述べたように、真の光が闇である現象界に漏れ出る、沁み出ることがあるだろう。
 現象の太陽から沁み出る真の太陽、精神の太陽が「見られる」ときがあるだろう。
 真の太陽が正面を向ける時である。それはいつなのだろうか。
 そう、簡単に言えば、差異共振精神という内的精神的光をもつべきである。その光によって、現象の太陽において、真の太陽、精神の太陽を見ることができよう。
 そう、凸iが凹iに設ける同一性面、同一性鏡を突き抜けて、凹iの領域に測深すべきである。
 それは、東洋的瞑想等に関係しよう。また、ロレンスの『無意識の幻想曲』に。
 media pointの同一性面、三日月で言えば、明るい部分に接する暗い弧を突き抜けて、明の部分に達することである。
 しかしながら、大事なのは、凸iの純粋悟性、純粋自我を伴うことである。それによって、凹iと凸iが差異共振して、真の内的光、超越光を生むのである。
 今は簡単な指摘に留める。
 
追記:真の太陽が沁み出ると言ったが、思うに、三日月の二つの尖端から漏れ出るようにも思える。二つの両端とは何か。夜明けと日没時だろうか。もしそうなら、どうしてなのか。
 思うに、夜の闇は凸(+1)の真の太陽を内在しているのではないだろうか。そして、夜明けのとき、光が到来するが、実は現象光と真の光が接するときではないのか。
 日没の時は、逆に、闇が到来するが、その闇の中の真の光が現象光に接するのではないだろうか。
 今はここで留める。






画像は三日月 - Wikipedia から




ファシモティズム:現代のファシズム・全体主義
テーマ:日本亡国の凶相
こういう踏み絵みたいな善悪二元論の発想がファシズムの根源である。そして、愚民は没思考的なので、それに追従するのである。
 共産主義や全体主義は母権的民族の反動と考えられる。新父権主義が母権的民族には必要である。
橋下市長、入れ墨・地下鉄喫煙で全庁調査指示
読売新聞 3月21日(水)23時3分配信
 大阪市の児童福祉施設職員が子どもに入れ墨を見せて停職処分になるなど、市職員に不祥事が相次いでいることを受け、市の服務規律刷新プロジェクトチーム(委員長=橋下徹市長)が21日、発足した。

 初会合では、入れ墨の有無などについて全庁調査を行うことを決めた。

 チームは、職員が覚醒剤の使用容疑で逮捕された水道局や、全面禁煙の地下鉄駅構内での喫煙が明らかになった交通局などの幹部らで構成。橋下市長は「公務 員の職場で入れ墨が合うか、誰が考えてもわかる。ダメなものはダメという雰囲気が欠けている」と指摘し、「僕はやるといったらとことんまでやる」と、不祥 事根絶に意欲を示した。

 チームは入れ墨以外にも、勤務時間中の喫煙やマイカー通勤など禁止事項に関する実態を調査。このほか、弁護士ら第三者委員が不祥事の実態解明に当たる調査チームも新設する。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120321-00001218-yom-pol




光とは何か:二つの光:同一性(物質)の光と差異共振光

テーマ:manichaeism: 哲学
思うに、光は同一性光と差異共振光に分離するのではないだろうか。当然、media pointにおいて、分離するのであるが、media pointでの両者の関係が微妙である。
 今は精緻に論じられないので、思いつきに留まるが、凸iの主導性に対して、当然、凹iは一種反発をすると思われるのである。
 つまり、凸iの支配は凹iを同一性化する。これは、凸iは凹iに自己反射するのであり、この自己反射の光が同一性光(物質光)のように思えるのである。言い換えると、凸iの反射光が同一性光(物質光)であり、可視の光である。
 それに対して、凸iの支配に反発する凹iは独自に、凸iを包含、内包して、差異共振光を形成するように思われるのである。
 両者はまったく共約(通約)不可能であると考えられる。不連続である。
 D. H. ロレンスがdark sunないしはdark rayと呼んだものは後者であり、前者の視点から後者はまったく感知できないと考えられる。(media pointの二元性と言えよう。あるいは、media pointの絶対的間隙性である。)
 神話学的に見ると、父権的太陽は前者であり、母権的太陽は後者であると思われる。
 しかしながら、凹iは凸iを取込むのであるから、実は、凸iは凹iと共振しているのである。
 つまり、凸iの主導性(父権)は、絶対的ではなく、凹iの差異共振の影響を被っていると考えられるのである。(凸iを「父」とすれば、凹iが「子」であ り、差異共振は「聖霊」であろう。kaisetsu氏的にいうと、このとき、ガウス平面に直交するz軸が形成される。超越軸、聖霊軸である。)
 先に絶対的間隙性と言ったが、実はそうではなく、接触面があると言えよう。
 凸iの主導性によって、media pointに同一性面ができるだろう。しかし、この同一性面の、いわば、裏面は差異共振面である。同一性と差異共振が接触しているのである。
 とまれ、この接触面が重要である。ここで、同一性と差異共振が交差するのである。(だから、交差面とも言えよう。)
 これは、思うに、揺動面とも言えよう。常に、揺らいでいるのではないだろうか。
 また、浸透面とも言えるだろう。
 とまれ、この接続面をどう捉えるかが重要である。それを同一性中心にすると、精神的病気になると考えられる。また、差異共振を中心にすると、神秘主義になるように思われるのである。
 現実的には、同一性(物質)と差異共振(精神)のバランスが必要である。
 このバランスは両者を不連続化したときもたらされるのではないだろうか。もっとも、絶対的不連続化ではないが。
 今はここで留める。
 
追記:以前、私はしきりに超越光が現象光において可視であると述べた。思うに、現象光はやはり、同一性(物質)の光であり、超越光は差異共振(精神)の光と見るべきであろう。
 現象光において超越光が見えるというのは、上述したmedia pointにおける接触面において、現象光と超越光がいわば、融合しているということだと考えられる。
 そう、正確に言うと、超越光は氣の光でもあり、精神の光でもある。氣と精神の光である。
 精神の光、真の超越光は、シュタイナー的に言えば、アフラ・マズダ=キリストになるだろう。日本神話で言えば、天照大御神である。

追記2:media pointは上記の分離と融合(一種の即非性)を考えると、いわば、メビウスの輪のような構造ではないだろうか。(もっとも、メビウスの輪はいわば比喩であるが。)
 だから、∞の記号をmedia pointに使用してもいいかもしれない。即ち、凸i∞凹i⇒凸(+1)+凹(−1)=ゼロとなるのだろうか。それとも凸i∞凹i⇒凸(+1)*凹(−1)=凹(−1)となるのだろうか。
 後者の場合、凹(−1)=e^iπではないだろうか。
 今はここで留める。
 

参照:
天照大神 - Wikipedia


参照2:
メビウスの帯 - Wikipedia





父権と母権について再考
テーマ:新母権的社会:差異共振共同体
私は一神教は母権から生まれると考え、母権的一神教という用語を提起した。
 どうもまだ、不分明である。連続的同一性を形成するのは、最初、父権であると述べたが、先に母権であると判断したのである。
 同一性を形成するのは、基本は父権である。凸iの主導性であろう。
 しかし、凸i主導は凹凹iを生む。つまり、内的他者である凹iを否定するのである。この他者否定が否定的感情を生むのであり、それが、同一性の感情的基盤になるように思える。
 つまり、同一性主義である。だから、母権からではないのである。結局、最初の考察に戻ることになる。即ち、同一性主義を形成するのは父権主義であるということである。
 では、ヤハウェ的一神教はどう説明できるのだろうか。やはり、父権的同一性主義でいいのではないだろうか。
 後でより厳密に検討したい。





差異共振精神の形成の様態
テーマ:media point
どうして、人間によって、道徳・倫理の有無が生じるのか。
 差異共振精神は真善美をもたらすものであるが、精神的感情は、スピノザが説いたように、歓喜になると思われる。
 例えば、モーツァルトの音楽を聴いたとき、この歓喜の情が生起する。
 だから、差異共振精神形成のためには、すぐれた芸術体験が必要であり、また、自然体験も必要である。また、知性を確立させないと、感情中心になり、ロマン主義的になる。(もっとも、ロマン主義が悪いというのではなく、感情中心主義になることを問題視しているのである。)
 悪的傾向をもつ人間は、この差異共振精神形成が為されなかったと考えられる。歓喜の精神が欠落しているのである。
 思うに、今日、うつ病やその他の心の病等は、この問題に関係していよう。差異共振精神の欠落があると考えられるのである。
 今はざっと指摘するに留める。
 
追記:差異共振精神とは光の精神である。即ち、

凸i*凹i⇒凸(+1)

である。右辺が光(光子)である。左辺の双極子から差異共振によって、右辺の歓喜である光が誕生するのである。
 それに対して、差異共振のない、連続的同一性の自我は、闇、無明である。

凸i*凹凹i⇒凹(−1)

である。内的他者凹iを否定して、闇である自我凹(−1)が生まれるのである。
 ここで、純粋自我凸iと連続的自我凹(−1)を峻別する必要がある。前者はきわめて重要なものである。純粋悟性を内在していると考えられる。
 では、差異共振によって誕生した光は、何であるのか。現象光なのかマニ教の光なのか。
 直観では同じである。現象の光とは本来、精神の光であるが、それを連続的自我凹(−1)は物質的、同一性的に視ているのである。
 そう、凸i*凹凹i⇒凹(−1)の右辺は物質的光とも言えるように思える。凸(+1)が精神的光であるのと対照的に。
 E=mc^2とは、思うに、物質的光の公式ではないだろうか。差異共振エネルギー(差異共振光)は、E = hνの方に近いのではないだろうか。
 即ち、E=h(凸i*凹i)である。
 とまれ、二つの光がある。闇(物質、同一性)である光(凹、−1)と純粋な(精神、差異である)光(凸、+1)である。
 尚、本追記は、思考実験である。

追記2:キリストが言った二種類の人間は以上の区別で説明できよう。この世の人間は凹(−1)の人間であり、地の塩である人間は凸(+1)の人間である。闇の人間と光の人間である。前者は後者が見えないのである。





純粋悟性問題
テーマ:manichaeism: 哲学
純粋悟性は既述したように、凸iでいいと思う。これは純粋自我でもある。
 これは、内的他者凹iに対しては同一性的に作用するので、凸i*凹凹i⇒凹(−1)となると考えられる。
 これが人間の自然的一般的精神様態と言えよう。つまり、純粋悟性的精神様態である。
 ここでは、自我が他者を同一性的に支配するのであり、自我は他者、自己を認識していない。無明である。
 もっとも、これは、連続的同一性においてである。母権的自我においてである。
 真の父権的自我は、凸iと凹iを自然的に分離するのである。換言すると、真の純粋悟性、純粋自我は、凹iと不連続的であり、他者・差異である凹iをなんらか認識しているのである。
 思うに、カント哲学の物自体とは、先に述べたとこととは異なり、凹iでないかと思う。カントは凹iを感じていたが、合理的には説明できなかったと思える。
 途中。





光と物質:再考
テーマ:manichaeism: 哲学
先に、光と物質は凸(+1)ということにしたが、どうも違うと思う。
 凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺を光(光子)とすれば、物質は正反対、即ち、凸i*凹凹i⇒凹(−1)と考えた方がいいように思う。
 即ち、光を自我的同一性によって捉えたものが物質ではないだろうか。
 言い換えると、光とは差異共振エネルギーをもつ現象であるが、物質とは、それを自我的同一性的に見たものである。
 だから、果たして、自然界に物質があるのかどうか問題視されよう。物質は仮象のように思える。もっとも、物質とは、差異共振エネルギーの同一性的仮構のように思える。
 言い換えると、差異共振エネルギーの同一性的切り口に過ぎないように思える。本体は差異共振エネルギーである。
 そうすると、オイラーの公式を組み込んだガウス平面の単位円において、右半円(虚軸を含めて)は光の世界、本体の世界であり、左半円(虚軸を含めない)は闇の世界、仮現の世界と思われる。
 つまり、現象的には、光と闇は真逆になっていると考えられる。D. H. ロレンスのdark sunは実は凸(+1)であり、現象世界(物質世界)は凹(−1)と思われるのである。
 今はここで留める。





消費税増税とは何ぞ哉?:権力と愚民:新父権主義へ向けて
テーマ:manichaeism: 哲学
消費税増税政策はオウンゴール策である。これは、単純にわかることである。
 金持ちは貧乏人から金を取りたいのである。そう、民主主義は建前に過ぎない。ブルジョワとプロレタリアがいるに過ぎない。
 前者は金・資本一神教だと思う。これは、母権主義であり、真の父権主義が欠落していると考えられる。
 真の父権主義とは何か。つまり、一神教が母権主義の裏返しと考えられるので、それは逆さまの母権主義であり、真正な父権主義ではないのである。
 思うに、古い母権主義がもっていた原初差異共振主義に、父権主義の原型が存するのではないだろうか。
 私が想起するのは、大国主命である。これが、私にとって、父権主義の原型である。
 するとどういうことになるのだろうか。
 これまで述べたように、母権主義は二重である。即ち、原初差異共振主義と連続的同一性(母権主義的同一性)があるのである。そして、一神教は後者が極まったものと考えられる。つまり、一神教は前者を排除していると考えられる。
 前者はいわゆる多神教的要素ではないだろうか。これを排除したのが、母権主義である一神教ではないだろうか。
 そう、多神教的要素とは端的に原初差異共振主義と言えよう。
 結局、母権主義とは二重であり、原初父権主義と連続的同一性主義があるのである。だから、母権主義という言い方は問題があるが、今はこのままで留めておく。
 とまれ、今日の問題、「トランス・モダン」とは、母権主義の原初父権主義を今日的に復活することを意味しよう。
 それは新父権主義である。
<民主党>消費増税法案了承は19日以降
毎日新聞 3月16日(金)22時3分配信

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民主党厚生労動・財務金融・総務部門・社会保障調査会・税務調査会合同会議冒頭にあいさつする前原誠司政調会長=東京都千代田区の衆院第2議員会館で2012年3月16日、藤井太郎撮影
 民主党の前原誠司政調会長は16日夜、国会内で開かれた党税制調査会、社会保障と税の一体改革調査会などの合同会議で、消費増税法案を党として了承する 手続きを週明けの19日以降に先送りする考えを示した。民主党執行部は16日の了承を目指す方針を示していたが、野田佳彦首相の明言している月内の閣議決 定・法案提出には日程にまだ余裕があり、小沢一郎元代表のグループを中心とする反対派との決定的な対立を避けるため議論に時間をかけることにした。

 会議は午後6時過ぎに始まり、前原氏は「政治家同士で議論しながら、よりいい法案にまとめる努力をしたい」とあいさつ。民主党執行部は16年度にさらなる増税へ向けた法整備を図る「追加増税条項」の修正によって反対派に配慮する方針で会議に臨んだ。

 しかし、反対派は景気悪化時に増税を停止する「弾力条項」に「名目成長率3%」などの数値目標を設定することも強く要求。これには安住淳財務相が16日 の記者会見で「具体的な数字で規定するのは難しい。さまざまな要因を勘案して政治が判断するのが基本だ」と拒否を明言しており、同日中の決着は難しい情勢 となっていた。

 会議は具体的な修正論議に入れないまま2時間近くが経過。野田グループの近藤洋介衆院議員が「きょう決めるべきだ」と発言したのに対し前原氏は「きょうは決めない。中小企業対策など論点を全部出すためにとことん議論してもらいたい」と先送りを明言した。

 もともと週内の決着は難しいとの認識は党執行部側にもあり、野田首相は16日の参院予算委員会で「個別にいろいろ議論があると承知しているが、意見集約 できると思っている」と一定の時間をかけて意見集約を図る姿勢を示した。同時に「法案成立が私の大きな政治目標だ。不退転の決意で責任を果たしたい」とも 述べ、法案を月内に提出したうえで法案成立に政権の命運をかける決意も強調した。【木下訓明、光田宗義】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120316-00000124-mai-pol
消費税法案、決着持ち越し=再増税規定の削除検討―民主
 民主党は16日夜、衆院議員会館で社会保障と税の一体改革に関する政策調査会の合同会議を開き、消費増税関連法案に関する3日目の事前審査を行った。執 行部は、反対論が強い追加増税規定の削除を含め修正する方針を固めた。ただ、会議では小沢一郎元代表グループを中心とする反対派から法案への異論が続出。 執行部は当初予定していた同日中の了承取り付けを断念、決着を19日以降に持ち越した。(時事通信)
[記事全文]

◇2つの焦点
・ [図解]消費税増税関連法案の焦点と意見 - 産経新聞(3月15日)
◎追加増税
・ <消費増税法案>「追加増税」修正へ…政府・民主 - 毎日新聞(3月16日)
・ 再増税時期、明記せず…消費税法案の付則 - 読売新聞(3月16日)
◎景気弾力条項
・ <安住財務相>消費増税法案弾力条項「数値、非常に難しい」 - 毎日新聞(3月16日)
・ [政治クローズアップ]検証消費税 景気によっては増税凍結? - 景気条項について。Yahoo!みんなの政治





いかにして差異を認識するか:同一性認識と差異認識
テーマ:manichaeism: 哲学
母権的自我が主導の父権的自我の場合、その意識は同一性主義になると考えられる。
 つまり、母権的自我のもつ凹iの感情が〜主義を作り出すから、父権的自我の同一性が主義化して、同一性主義になると考えられる。
 では、父権的自我(同一性に傾斜する)はどのように差異を認識できるだろうか。
 ある事柄、事象をXとすると、それは、端的に差異であるが、父権的自我はそれを言語化して、同一性化する。しかしながら、Xは差異(カントの物自体)として、存するのである。
 ここで、母権的自我が重要となるだろう。凹iの存在である。つまり、父権的自我が母権的自我の凹iを直観することがポイントである。これが、差異である。凹iという差異を直観することで、事象Xは、差異として、認識されるようになるのである。
 結局、内観の問題になると言えよう。外在的認識のままであると、Xは同一性のままであるが、内的認識を基盤にすると、Xは差異化されるのである。
 そう、空間認識のベースに時間認識を置くのである。
 簡単に記すに留める。





カントの外的感覚(外官)と内的感覚(内官)
テーマ:manichaeism: 哲学
カントの述べる外的感覚とは凸iに、内的感覚とは凹iに基盤があるのではないだろうか。
 当然、純粋形式もそれらにあると考えられる。つまり、空間形式は凸iに、時間形式は凹iに存すると考えられる。
 問題は、差異共振化である。時間と空間の差異共振化とは何か。つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)なのか、それとも、凸i*凹凹i⇒凹(−1)なのか、である。
 時間と空間の差異共振化は前者以外にはありえないだろう。それが、自然の摂理である。
 しかし、時空四次元とはどうなのだろうか。それは、差異共振様態なのだろうか。
 途中。





光と物質
テーマ:manichaeism: 哲学
凸i*凹i⇒凸(+1)において、凸(+1)が光で、凸i*凹凹i⇒凹(−1)において、凹(−1)が自我ならば、物質はどこにあるのだろう。
 この点で、Neo-PS理論が意味があると考えられる。つまり、ガウス平面に直交するz軸がいわば自我軸であり、y軸は、生命軸(氣の軸)のように考えるとわかりやすい。
 とまれ、私説は混乱を含んでいる。端的に、凸i*凹i⇒凸(+1)は何であるのかである。
 積を同一性化と考えると、凸(+1)は、自我化であり、商凹(−1)は差異共振化である。自然(氣)の場合、凹(−1)が自然の物質(物自体)である。
 そう、やはり、凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺が物質ではないだろうか。つまり、差異共振を人間は認識できないので、凸iの純粋悟性=同一性の視点から自然を認識するので、物自体が物質になるのではないだろうか。
 すると、光は差異共振であり、凹(−1)ということになる。それでいいだろうか。
 以上はまったく不整合状態である。
 積をどう捉えるのかが問題である。それを差異共振に捉えるならば、それが光を意味する。そして、光は物質を意味するだろう。E=mc^2である。
 では、商は何か。それは、・・・。

どうも、ひどく混乱しているので、後で整理したい。
 
追記:問題の核心は同一性力学をどう捉えるのかである。
 同一性と物質はどう関係するのか。同一なのか、異なるのか。
 同一性とは自我の事態であり、それから、外的対象を捉えたときに、物質が生起すると考えられる。
 つまり、凹(−1)を自然とすると、それを自我は凸(+1)と捉えるのである。凹(−1)がカントの物自体である。(自我とは純粋自我凸iが外的に純粋他者凹iを認識するときの主観性である。)
 つまり、凸i⇒凹i⇒凸(+1)が物質である。また、光である。
 それに対して、凹i⇒凸i⇒凹(−1)が物自体である。氣的身体である。
 凸(+1)の光とは現象光である。それに対して、凹(−1)の光とは、いわば、氣の光である。(おそらく、D. H. ロレンスのdark sunとはこれである。)
 しかしながら、ここで正確に言えば、ガウス平面に直交するz軸における凸jが本来の純粋自我(アートマン)であり、凹jが純粋他者である。
 「イデア」というとき、自然的「イデア」と人間的「イデア」の区別があると思われる。
 結局、Neo-PS理論の見地である。即ち、ガウス平面の右半円が人間的現象界であり、左半円が自然現象界である。そして、ガウス平面に直交するz軸において、凸jが純粋自我であり、凹iが純粋他者である。
 そのように見たとき、不明なのは、y軸とz軸との関係である。その力学である。
 これは検討課題とする。

追記2:どうも、やはり、はっきりとしない。自我が⇒凹(−1)であり、光が⇒凸(+1)ではないのか。つまり、左半円が自我世界、闇の世界である。右半円が自然世界、光の世界である。
 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)の左辺は積、差異共振を意味し、凸i*凹凹i⇒凹(−1)の左辺は同一性力学を意味するということの方がいいように思う。
 後でさらに検討したい。 





重力問題
テーマ:manichaeism: 哲学
次の私の論考に対して、コメントといただいた。興味深いので、検索したら、以下のような記事があった。


「2012-01-30 重力とは何か:光と物質の反作用としての重力?:闇としての重力作業 編集
重力 とは何か:光と物質 の反作用 としての重力 ?:闇としての重力 作業仮説

テーマ :science

今は直観 だけを言う。空間 を歪めるはたらき、光を曲げるはたらきをするということから 、どうも、media point に関係すると直観 される。
 以前も私見を書いたが、もし、物質 が⇒のエネルギー 方向をもつなら、重力 はそれとは反対に←のエネルギー 方向をもつの ではないだろうか。光が⇒の方向ならば、重力 は←の力の方向である 。
 もし、そうならば、重力 は⇒の反作用 的なもの となろう。凸i*凹i⇒凸の反作用 として、凸i*凹i←凸が形成され、その←が重力 ではないだろうか。
 簡単に言えば、重力 はmedia point の方向を示していると考えられる。そして、ブラック ・ホール もこの方向にあると言えよう。そう、ブラック ・ホール はmedia point から 第三象限ないし凹を指すのかもしれない。
 とまれ、以上から 考えられるのは、重力 と光は対蹠的であり、ある意味 で両極的である 。
 作業仮説である が、実MPにおいて、光と物質 が発出されるならば、その裏面に重力 が形成されるのではないだろうか。やはり、反作用 の法則 、エネルギー 保存則である 。
 だから 、光(現象光)に対して、闇である 。虚MPや第三象限等を志向 しているのではないのか。
 あるいは、光、物質 の表面(現象)に対する裏面、背後である 。その不可視 の世界 、精神 の世界 に、重力 は通じているのではないのか。
 言い換えると、現象太陽 の裏面、背後の闇の太陽 dark sun 、ないしは、霊的太陽 を意味 しているのではないのか。
 光と物質 の第一象限の現実 世界 に対して、重力 は、精神 と闇の光(超越光、マニ教 の光)の霊的世界 を意味 しているのではないのか。
 今はここで留めたい。

追記:先に、凸iの光(原光)と実MPの光(現象光)は異なると言ったが、そう考えなくても説明できるだろう。
 即ち、現象光を同一性 の光とすれば、それは、凸iの光と一致すると思われる。
 そのときは、凸iが主導となって、凹iを同一性 化しているのである 。
 しかるに、凹iが主導のときが考えられる。そのときは、光ではなく、凹iの闇(原闇)が生起すると考えられる。
 それは、当然、不可視 である 。闇である 。これが、重力 なのではないだろうか。方向性は、光凸iの反対であり、下降↓である か、物質 化⇒の反対の←である 。
 とまれ、闇としての重力 である 。さらに後で検討 を続けたい。」
http://d.hatena.ne.jp/antares/20120130#c

コメント
「 gavity man 2012/03/12 02:52 「太陽は地球を引き回す」
重力作用を考えてみると、私見では質量に2種の 働きがあるような気がする。一方は質量の最小構成要素から発生する波と他方は質量がその波と共鳴する時、質量体は飛来した反対方向に光子を排出すると光子 同志の摩擦で波の飛来した方向に力が働く、丁度光子ロケットのように、即ちこれが万有引力ではないだろうか。例として太陽と地球の引力は地球軌道の接戦方 向に作用する、太陽はあたかも地球を引き回すように。詳しくは是非URLを参考にして欲しい。」

MEBIUS - Gravity man さんのサイト(再掲、追記)

MEBIUS Gravity man さんのサイト(再掲、追記) - MEBIUS - FC2

MEBIUS Gravity man さんのサイト(再掲、追記) - MEBIUS - FC2

MEBIUS - 重力とは何だろう その2

1.重力の謎

電荷のエネルギー



2012年03月13日(Tue)▲ページの先頭へ
「イデア(エイドス)」とは何か:原像・純粋像問題
「イデア(エイドス)」とは何か:原像・純粋像問題
テーマ:manichaeism: 哲学
直観で言うと、凸iに「イデア(エイドス)」、原像があると思う。
 凸iとは私説では、純粋自我であるし、純粋言語能力(チョムスキー)である。
 これは、父権的自我である。男性(凸i)が女性(凹i)に見るものは、凹iに投影した凸iの鏡像であろう。つまり、男性は女性を見ても、女性を見ているのではなく、女性に投影した自己自身を見ているのである。つまり、女性としての男性自身である。
 では、女性はどうなのだろうか。女性は凹i自身であり、それは、凸iを包摂すると思う。つまり、女性は男性を男性自身として見るのではなく、男性を包み込んでしまうのである。つまり、内包化である。言い換えると、母権的自我化である。
 だから、女性も男性を男性自体としては見ていないのである。
 とまれ、本題に戻ると、「イデア」は男性的知性であろう。プラトンが説いた「コーラ」とは女性的感性凹iであろう。
 思うに、凸i(「イデア」)が主導的であると、⇒凸(+1)であり、凹i(「コーラ」)が主導的であると⇒凹(−1)となるのではないだろうか。
 前者は積であり、後者は商ではないのか。光と闇の二重世界である。
 今閃いたが、第一象限が男性世界であり、第三象限が女性世界ではないだろうか。以下の左のグラフとなるのではないだろうか。


y=12/x の2つのグラフは、左の図のようになります。2つの曲線になるので、双曲線といいます。

   

 一般に、y=a/x で、0<a なら左の図、a<0 なら右の図になります。

http://mtf.z-abc.com/?eid=415437
反比例のグラフ | 中学から数学だいすき!





「見る」とは何か:凸iと・・・:nudeとnaked: ケネス・クラークの識別
テーマ:art & design
いったい、「見る」とは何なのか。直観では、経験性と超越論性が併存していると思う。
 しかし、本質は超越論性ではないのか。つまり、凸iの純粋自我である。あるいは、超越論的感覚(視覚)である。
 また、直観では、聴覚は凸iというよりも、凹iに関係する。これはおいておこう。
 思うに、純粋視覚と経験視覚を区別すべきではないだろうか。美術とは当然、前者に関わるのであるが、現代、認識が混乱してそれが、わからなくなっていると考えられる。
 ヌードとネイキッド(裸体)の区別がわからなくなっていることと同じ事態と考えられる。
 ヌードは純粋視覚に関わると考えられる(例えば、古代ギリシア美術)。しかし、ネイキッド(裸体)はポルノと関わると言えよう。それは、物質的身体である。
 性(sex)の問題も同様である。D. H. ロレンスが唱えた性とは、純粋視覚における純粋精神(凹i)であると思われる。(この点は検討したい。)
 そう、純粋視覚(凸i)とは古代ギリシアのアポロであり、純粋精神(凹i)とはディオニュソスではないだろうか。
 絶対的純粋視覚において、絶対的純粋精神が生起するのであり、古代ギリシア人はそれは端的に把捉した民族ではなかったか。
 今はここで留める。
 
追記:プラトンの黒い馬(欲望)と白い馬(精神)の区別であるが、これも、経験的自我と純粋自我の区別で説明できよう。
 D. H. ロレンスは、前者から後者への転移を説いたと思われる。





母権的自我と父権的自我について再考
テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)
後で検討したい。
 ところで、PS理論であるが、私は先にNeo-PS理論を唱えたが、それまでのPS理論(後期PS理論)で十分対応できるので、一種のコンパクト化ということで、従来のPS理論、即ち、オイラーの公式を組み込んだガウス平面上の数学・哲学を継続したい。





cosθ+isinθとは実在的に何を意味するのか
テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論
以下のKaisetsu氏の論考は興味深い。問題は、私の直観では、cosθ+isinθが実像として浮ばないのである。私の想像力不足かもしれないが。
 とまれ、一言述べてみよう。
 わかりやすく、θ=π/3(60度)としよう。そして、
P=cosθ+isinθとする。
 すると、

P=1/2 +i(ルート3)/2

である。実軸1/2と虚軸(ルート3)/2である。
 このPとは実在的に何を意味するのか。私説では、純粋自我(凸i)の要素が(ルート3)/2あるのであり、物質の要素が1/2あるということになる。
 これは何なのか。思うに、これは、自我の様態の一つではないのか、ということである。
 ここで明確に区別すると、凸iは自我ではなく、先に、原自我と呼んだものであるが、改めて、純粋自我と呼びたい。
 そして、θがゼロのとき、P=凸(+1)となり、絶対的物質的自我になるということだろうか。しかし、そのとき、純粋自我はi(ゼロ)=ゼロになっている。
 そうならば、無思考ということになる。(ひょっとすると、現代日本人の精神様態はこれかもしれない。)言い換えると、唯物論である。
 そして、θがπ/2のとき、純粋自我状態になり、絶対的自我はゼロである。思うに、これは、同時に、θ=3π/2の位置を対蹠点としてもつのではないだろうか。端的に、凹iである。
 そう、だから、P=cosθ+isinθは、他者として、対極点のQ=cos(θ+π)+isin(θ+π)を具備すると思えるのである。
 これが、双極子と考えられる。
 今はここで留める。
 

【プランク単位系表示の人間認識図】 シュレーディンガー方程式の一般化と、存在性と精神性の関係とフェルミ粒子、及び双極構造への助走(鏡像関係)
海舌 SeaTongue@Kaisetsu
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モダン・アート(セザンヌ、ピカソ)とKaisetsu氏の【プランク単位系表示の人間認識図】
テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論
いろいろ述べたいことがあるが、一点に絞って簡単に予備考察を述べたい。
 私の発想は、ピカソの絵画の切断的進展についてである。青の時代は確かに、繊細で、憂愁・悲哀があり、デッサンがきれいである。
 実は知人からピカソの実人生での女性問題が赦せないほど杜撰であったことを聞かされたのでである。ピカソの女性問題は一般的に知られているが、それ以上のものがあり、知人は赦しがたいというものであった。
 とまれ、今は道徳・倫理問題には触れないでおく。
 私は想起したのは、果たして、ピカソの絵画は具象から抽象への転移において、不連続的進展があったのか否かである。ピカソのデッサン力は正に天才的であるが、キュービスム等のデフォルメの時期において、その古典的美学が継続したのか否かということである。
 最初、具象的美学が抽象的美学にも継続していると私は考えたが、果たして、連続性を見ていいいのか疑問に思ったのである。
 私は生で、ピカソの『ゲルニカ』を見て、魅了された。それは、音楽的であった。
 その美学は青の時代と共通するのかである。
 これは難しい問題である。今の直観では、共通するものと、不連続のものがあるように思えるのである。
 調和という点では共通だと思う。
 しかし、質がなにか異なるように思う。
 キュービスム以降は、連続的同一性を破壊した「フォルム」による絵画をピカソは描いたでのである。
 つまり、現象の否定である。ここがポイントである。否定された現象による「フォルム」による絵画、それが、キュービスム以降のピカソの絵画である。
 思うに、イデア的美学にピカソ(あるいは、モダン・アート)は近づいたのではないだろうか。
 イデアとしての「デフォルメ」である。その美学をピカソは表現したのではないのか。
 端的に言えば、差異共振美学がピカソの根源にあり、それが、連続的な青の時代の絵画を形成した。
 しかるに、キュービスム以降、連続性を否定して、不連続的な差異共振の美学、「デフォルメ」の美学を追求したのではないのか。
 どうも、そう思われるのである。
 ここで、ピカソの不道徳性・没倫理性を考えると、世間的な連続的「道徳」・「倫理」をピカソは否定したということかもしれない。この問題はここで留める。
 ただし、ピカソはイデア的絵画には完全には到達していないと思う。彼は直観的であったが、哲学・理論的ではなかったと思う。
 思うに、これは、結局、モダニズムの問題である。イデア的根源と経験的執着の絶対的矛盾様態をもつモダニズムとして。
 とまれ、今はここで留める。

追記:肝心なことを言うのを忘れていた。以上の問題とKaisetsu氏の指摘【プランク単位系表示の人間認識図】 シュレーディンガー方程式の一般化と、存在性と精神性の関係 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11186274828.htmlとの関連である。
 どうも、モダン・アートとKaisetsu氏のオイラーの公式的に説明された人間認識図は関係するように直観されるのである。これは、後で、検討したい。

参照:


http://blog.goo.ne.jp/herbie600033/e/9642a096966ba2e0ee91dc914a40cbae


http://img374.imageshack.us/img374/5968/guernica1937pradomadryt3bx.jpg


es posted by (C)天花一海

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11186274828.html



2012年03月07日(Wed)▲ページの先頭へ
自我に関する整合的視点:父権的自我と母権的自我
自我に関する整合的視点:父権的自我と母権的自我

テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

自我の捉え方が、あいまいになっているので、ここで整理したい。
 凸iは原自我であり、超越論的同一性認識(主に悟性、言語能力)をもつ。外的な志向をもつ。外的感覚(五感)をもつようになると考えられる。
 凹iは内的他者、感情感性欲望である。これは内的志向をもっている。内面に関係する。
 問題は、連続化である。

1)先ず、父権主義化以前の母権主義における連続化を見ると、原初差異共振と連続的同一性(自我)の形成がある。前者が精神的認識であり、後者が自我的同 一性的認識である。しかし、両者は連続的な関係となるだろう。言い換えると、未分化的な結合関係である。原初差異共振が弱化すると、凹iの感情・欲望が強 化されて、連続的同一性(自我)は同一性主義へと向うと考えられる。

2)父権主義化したときは、つまり、凸iが主導的になったときは、凹iが否定される。凸iの悟性文化、文字言語文化が創造される。いわゆる、文明が生起する。
 問題は凸i主導性と自我の関係である。凸i主導の自我が生起すると考えられる。これは、母権主義における自我とは様態が異なると考えられる。何故なら、 母権主義においては、凹iと凸iとの連続性が強いからであるのに対して、父権主義では、凸i主導で、凹iを否定する方向で作用するからである。(もっと も、古代ギリシア文化のように、基底の母権主義に対して、上層の父権主義がいわば、融合する形をとり、初めて差異共振文化が生まれたと考えられる。)
 
1と2から、二つの自我、母権的自我と父権的自我が存することがわかった。
 先に自我方程式は凸i・凹i=+1としたが、こうすると、二つの自我の区別できないことになる。
 二つの自我の様態について、その力学の細部を検討したい。
 自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)であるが、このときは、凸iが自身を凹iに反射させて、凹iを同一性化すると考えたのである。このとき、凸iが主導的であり、凹iは受動的であり、凸iの同一性化を受けているのである。
 この凸i主導は父権的自我を形成すると考えられる。つまり、凸iが支配的であり、凹i(差異、他者)が否定されるのである。
 では、それに対して、母権的自我とはどういう様態なのだろうか。
 母権的自我とは言え、人間は外界の認識のために、なんらかの連続的自我を形成する。それは、凸i主導の自我である。だから、これは、原父権的自我と言うことができよう。
 しかし、母権的自我の場合、凹iの主導性があるのであるから、単純な原父権的自我ではない。
 凹iの「感性」(ここには、精神、感情、欲望が入る)が作用した自我である。
 だから母権的連続的自我とは原父権的自我が凹i主導性を帯びているということになる。
 これは一種の分裂した自我である。父権的同一性はあるものの、それに対する母権的主導性が根強く作用しているのである。一言で言えば、感情作用が強いのである。
 故に、凸iの形成する同一性であるが、それは、感情負荷が強いのである。
 これが先に述べた同一性主義、同一性中心主義の基盤と考えられるのである。
 それに対して、父権的同一性は二項対立的な同一性であり、超越論的である。
 簡単にまとめると、父権的自我は自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)において、凸i主導で凹iを同一性化する力学において生起する凸i+1の自我である。
 それに対して、母権的自我は連続的自我=原父権的自我(凸i+1)に対して、凹i主導の「感性」の負荷強度が高い自我であり、両者の両面性、二面性、二重性のある、分裂的な自我ということになる。
 西洋人の自我は一般に前者であり、日本人の自我は後者であると言えよう。
 (自我から自己・個への変容力学については既述してあるが、後で簡単に述べる。)
 日本人が建前と本音を使い分けるのは、母権的自我で説明ができると言えよう。即ち、世間的には凸i+1の同一性自己を言うが、本心は凹i+1(物質的欲望)に存するのである。
 また、これは凸iのもつ悟性を否定するので、思考の一貫性が欠落することになるのである。没論理的な日本人。
 とは言え、果たして、日本人の自我を母権的自我としてだけ捉えいいのだろうか。
 ある種の父権主義があるのはわかるだろう。それは、母権的自我をベースにした同一性主義による父権主義である。これは、感情色が強いので、独善的な父権 主義である。つまり、同一性知性=悟性に基づくのではなく、同一性主義、同一性中心主義の独善に基づくのである。これが、日本の上層部に支配的であり、正 確な真理を認識することなく、同一性主義の疑似父権的自我の思い込みが主導するのである。狂信、盲信、妄想等に陥りやすいのである。
 さて、最後に母権的自我から自己・個へと変容するための方向性を書いてみよう。
 この点では、近代科学や現代科学を学習することはいいことである。それは、父権的自我に拠るものだから、凸iが独立するのである。
 さらには、哲学や数学を学ぶのがより重要である。なぜなら、哲学は凸iを介して、凹i主導のカオスに凸iの知のコントロールをもたらすと考えられるからである。
 数学は凸iの超越論的知性が思考をいわば、純粋知性へと変換させて、凹iのカオスを秩序化するように思えるのである。
 また、すぐれた芸術を通して、凹iが潜在する精神性へと向うことも必要である。もっとも、宗教・神話に触れることも重要である。
 とまれ、一言で言うならば、凸iの知性の強化が必要である。ただし、哲学、数学的知性ももつ必要がある。
 最後に一言言うと、また、直観力を形成することが必要である。
 これは、凸i☯凹i⇒凹(−1)の差異共振から生まれるものと考えられる。人間認識図では第三象限に存する。

追記:直観は原初差異共振能力に潜んでいる。これは、賦活させる必要があるのである。凹i☯凸i⇒凹(−1)である。
 母権的自我の凹iは凸i+1と癒着していて、原初差異共振性、凹iと凸iとの共振性を退化させているのである。
 先に述べたように、凸i指導によって、凹iを独自に認識する必要がある。他者としての凹iを認識する必要があるのである。これはまったき他者である。肚である。また、コスモスである。ミクロコスモスである。新たな差異共振の開化(開花)である。


参考:人間認識図
ガウス平面で表した人間認識の図

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208







PS理論の根本的修正へ向けて

テーマ:manichaeism: 哲学

私のこれまでのPS理論的ジェンダー且つ自己論的文化論は単純過ぎたようだ。
 先に、第四の軸、α軸(超越軸)を想定したが、ここでは、便宜的に後期PS理論(オイラーの公式を組み込んだガウス平面を基盤とする差異/同一性理論)を使用する。
 重大の問題の一つは、「自我」である。
 これまで、凸i+1と捉えたが、これは単純過ぎるのである。
 また、「自我」と同一性の問題がある。
 いわゆる自我は凹iが基盤となり、連続化による同一性主義に拠って形成されると考えられる。
 問題は、連続性である。凹iと凸iが連続化されて、同一性化された自己、即ち、自我が生まれるのである。
 だから、自我と同一性は一致する。しかしながら、凸iや凹iが自我というわけではない。
 凹i・凸i=+1が自我、同一性自己である。
 問題は、凹i・凸iの連続体の切断、不連続化である。不連続的差異論は、連続性である「・」を切断したのである。
 その結果、凹i✕凸i⇒凸(+1)となったのである。(✕を不連続化の記号とする。)
 この時、自我・同一性は解体するのである。だから、凹i✕凸i⇒凹(−1)である。凹i✕凸i⇒凹i☯凸i⇒凹(−1)である。これは、イデア化であろう。
 とまれ、ここでは、凸iと凹iとの共振が最重要であり、それが、自己ないし個を形成すると言えよう。
 これは、思うに、常時変動している様態をもつのである。変動自己・個、揺動自己・個である。
 ここでは、凸iの知と凹iの感性の両方が重要であり、両者を陶冶的に発展させる必要があると考えられる。
 もっとも、ここで、どうして連続性の切断、不連続化が生じ得るのか考えるべきである。
 ここに真の教養の働きがあるように思える。あるいは、真の芸術の作用である。とりわけ、言語芸術や哲学である。
 教養は、個的精神的活動を意味する。それは、凹i*凸iの連続的同一性体を解体し、質的に変容させると考えられる。即ち、なんらかの凹i✕凸i⇒凹i☯凸i⇒凹(−1)の作用をもたらすと思われるのである。(現代日本の劣化、退化は教養的喪失に拠ると言えよう。)
 ここで、シュタイナーが自我(「わたし」ich)を強調した理由を考えてみよう。
 思うに、彼の自我は上述の同一性・自我ではなく、凹i*凸iないし凸i*凹iの様態に存すると思われる。
 つまり、差異としての自我、個としての自我である。それは、同一性の自我ではない。
 結局、連続化した自我と不連続の自我との混淆・混合・混在が一般的な自我の様態と考えられる。
 不連続的差異論はこの混淆性を解体して、不連続の自我をもたらしたのである。
 とまれ、今日の知的問題は、不連続の自我の形成にある。それが欠落しているために、同一性主義に陥っているのである。それは、利己主義であり、唯物論であり、全体主義である。
 最後にカント哲学に触れると、超越論性とは、端的に、不連続的自我の精神に存するだろう。凸i*凹iである。
 今はここで留める。
 
追記:先に、第四の軸を想定したが、第三軸z軸において、差異共振を考えると、それは、凹(−1)でいいのではないだろうか。つまり、第四の軸α軸は必要ないのではないだろうか。

追記2:肝心なことを書くのを忘れた。
 つまり、先に述べたことに関係するが、母権主義凹i主導が同一性主義を生んだことに対して、父権主義凸i主導のもつ凸iの重要性である。
 つまり、母権主義の文脈における父権主義の意義である。凸iによって、凹i主導が解体されて、凸iと凹iの差異共振が可能になるのである。
 しかし、今日、ベースの凹iが劣化して、凸iが中心化し、支配的になっているのであり、母権主義の文脈が弱化していると言えよう。
 だから、凸iの指導下で、凹iを新たに開拓する必要があるのである。つまり、頭凸iをもって、肚凹iを開発することである。そして、胸media pointを賦活させるのである。

追記3:母権的同一性主義の視点から、D. H. ロレンスの王冠哲学=聖霊論を考え直すことでできる。
 獅子=「父」=闇であるが、それは、実は凸i主導である。そして、一角獣=「子」=光は凹i主導である。
 両者の相克は、連続性におけるそれと見るべきである。そして、王冠=「聖霊」はそれを超克した様態である。それは、凸i☯凹i⇒凹(−1)である。
 とまれ、一角獣=「子」=光を凹iと見ることで、ロレンスのキリスト教批判が意味が解明できる。
 ロレンスは一角獣=「子」=光=凹iが連続性において、同一性主義となるのを見たのである。その帰結が機械文明なのである。それをロレンスは非自己と見 たのである。何故、非自己であるかと言えば、凹iは他者であるからである。自己ないし自我は凸iに存するのであるからである。
 このような意味でロレンスの近代西欧文化、キリスト教的精神、機械文明批判は正しい。
 また、獅子=「父」=闇=凸iであるが、それをロレンスは重要視したが、何故なら、それこそ、差異に通じるからである。
 ただし、ロレンスは、凸iが凹iに通じることを直観していたが、連続性に囚われていたので、凸i優位と凹i劣位の二項対立に陥ってしまったのである。
 しかしながら、晩年において、(新)差異共振化、凸i☯凹i⇒凹(−1)に到達したのである。
 





「聖霊」の力学

テーマ:manichaeism: 哲学

フィオーレのヨアキムの宗教哲学に似たD. H. ロレンスの王冠哲学をPS理論から見ると、「聖霊」はz軸に相当するように思えるのである。
 「父」は凹iをベースにした凸iであり、「子」は凹iであると考えると、「聖霊」は両者の統合であるmedia pointであるが、それは、ガウス平面から屹立したz軸を意味するように思えるのである。
 つまり、z軸は聖霊軸であるということになるのである。
 今は指摘で留める。

追記:先に述べたように、私のこれまでの「ジェンダー」的文化論は練り直す必要がある。
 母権は凹iが中心であるが、連続化によって、同一性中心主義となる(唯物論は母権主義から生まれたと考えられる)。しかし、父権は凸iが中心であり、凹iを排除する。これは悟性主義となる。超越論的同一性主義である。
 文明、父権文明は凸i主導に拠るのである。帰結が西洋文明である。凹iを排除してきたのである。
 だから、ポスト父権文明は新たな凹iと凸iとの共振文明である。つまり、「聖霊」文明である。
 ここで、「聖霊」について、さらに考えると、それは、Neo-PS理論に拠ると、思うに、第四の軸に属するのではないだろうか。
 後期PS理論では第三の軸、z軸となるが、Neo-PS理論では、第四の軸、α軸(仮称)になるのではないだろうか。そう、第四次元である。これが真の超越軸、ないし、超越論軸ではないだろうか。
 これは内的時間軸とも言えるのではないだろうか。
 とまれ、聖霊軸、霊軸、超越軸、精神軸、等である。それは、凸kと凹kの軸である。思うに、凹k☯凸k⇒凹(−1)であるが、media point mixによって、凸k*凹k⇒凸j, or 凸iとなるのではないだろうか。 



2012年03月02日(Fri)▲ページの先頭へ
男性が女性を見ると?!?!、女性が男性を見ると!?!?:男性は凸i優位、女性は凹i優位
男性が女性を見ると?!?!、女性が男性を見ると!?!?:男性は凸i優位、女性は凹i優位

テーマ:media point

男性は女性の言動を見ると、不合理、異常、病的に思うことがあるが、女性が男性を見ると、馬鹿と思うのではないだろうか。
 結局、昔から言われていることは間違ってはいない。
 女性は凹iの感性感情欲望が優位なのであり、男性は凸iの原自我、同一性志向が優位であると考えれば、簡単に解明・解決できる。(尚、本稿では、後期PS理論に基づいている。Neo-PS理論の場合は三次元になるが、後期PS理論はガウス平面が知的インフラである。)
 だから、女性はその意味で不合理の塊と言えようし、男性は直観力の乏しい愚物である。
 凸iと凹iは互いに絶対的差異であり、絶対的矛盾である。これは、そのままでは、コミュニケーションは不可能である。
 しかしながら、PS理論はこれを差異共振、media pointによって簡単に解決するのである。
 そう、母権と父権の相克していたD. H. ロレンスは、晩年の『逃げた雄鶏(死んだ男)』で、この矛盾をPS理論を先取りするように解決したのである。
 女性は知性や理性の存在ではなく、感性、感情、直観の存在であり、男性は同一性的知性の存在である。共役不可能(通約不可能性 - Wikipedia )な存在であるが、PS理論がこの問題を解決・解明したのである。

追記:上述のことは実はそれほど重要なことではない。ある意味で陳腐な真理である。
 実はそこからの発展が実に重大なのである。
 即ち、私が先に自我について問題にしたが、実は同一性主義の根因は凸iではなく、凹iではないかと思われるのである。つまり、単に凸iが優位ならば、それは、悟性を意味するので、同一性を志向しても、同一性主義、同一性中心主義にはならないと考えられる。
 凹i優位があるために、それが同一性に感情固着をもたらして、同一性主義、同一性中心主義になると思われるのである。
 つまり、連続性が生起する時、精神的フィルターによって、同一性化が生じるが、そのとき、凸iに凹iが連続化、接着化して、凹iのもつ感情性が同一性に加わり、同一性主義、同一性中心主義になると考えられる。
 ここで、飛躍して言うと、日本文化は母権主義と父権主義の結合から生まれたとこれまで述べてきたが、思うに、前者は凹i主義で、後者は凸i主義である。両者のバランスが優れた日本文化を生んできたと考えられる。そう、古代ギリシア的である。
 そして、これまで、明治維新以降の近代日本、現代日本は、父権主義に傾斜してしまい、母権主義を喪失したと述べたが、本稿の視点からするとそれは、間違いである。
 明治維新は一見父権主義的だが、本稿の視点から見ると、実は、ベースの凹iが強く作用して、同一性主義、同一性中心主義を生んだと考えなくてはならない。
 つまり、明治維新は母権主義的なのである。これまでの考えと真逆である。
 実は父権、凸iが足りないのである。そのために、凹iに支配された同一性主義が近代日本、現代日本に支配的になったのである。これで日本人の没思考性、没個性等が説明できる。
 この視点をさらに敷延すると、一神教の謎も解明できる。実はルドルフ・シュタイナーがヤハウェは「キリスト」がいわば、陰化したものであると述べている を以前から不思議な考えと思っていたのであるが、本稿の凹i支配の同一性主義の視点からすると、ヤハウェの基盤は凹iに存するのであり、それが、連続化に よって、同一性主義、同一性中心主義になったと考えられるのである。
 つまり、ヤハウェの本性は光(陽、凸i)ではなく、闇(陰、凹i)なのである。それが、凸iと連続化して、同一性的神、唯一神を産んだと考えられるのである。
 つまり、ヤハウェは母権的なのである。女性的なのである。「我は嫉妬深い神である。」「復讐するは吾にあり。」
 そして、イエス・キリストとはその連続的同一性を切断する不連続性の神であると考えられる。
 つまり、凹iと凸iの癒着を断ち切ったと考えられるのである。
 それは実際どういうことなのだろうか。連続的同一性の自我感情を否定して、他者への共感を説いたのである。そう、他者主義を説いたのである。
 この場合、凹i−1を説いたと考えられる。第三象限である。
 核心は思うに凸iによる認識を介して、他者凹iの発見することである。それまで、凹iは同一性化されて、他者ではなく、自我化されていたと考えられる。
 これは、正に、差異共振、精神的差異共振、自己差異共振である。
 だから、その意味では、PS理論の先駆者はイエス・キリストであると言うことが可能である。
 とまれ、重要なポイントはヤハウェ(「父」)は、凹iに存するであるが、キリスト(「子」)は、人間的差異共振原理を覚醒させたと言えよう。それは、media pointの新生である。
 つまり、ヤハウェは凹iに基づく、同一性原理をもたらした。それに対して、キリストは凹i☯凸i⇒凹(−1)の差異共振原理をもたらしたということになる。ヤハウェの同一性、連続性原理に対して、キリストは差異・他者原理をもたらしたということになる。
 ヤハウェが母権原理ならば、キリストは父権原理を強化して、母権原理の差異・他者性の発見を説いたと思われるのである。言い換えると、父権と母権の均衡を説いたのである。だから、その意味で、キリストとは古代ギリシアの延長であると言えよう。
 とまれ、今はここで留める。
 
追記:「聖霊」について述べていなかったが、それはどう定式化されるだろうか。
 キリストが他者原理凹i⇒凹(−1)ないし凹i−1を説いたとすれば、「聖霊」は既述したように、やはり、media pointである。そう、media pointの新生的覚醒である。
 Neo-PS理論で言えば、3D media pointの開花である。このとき、精神と自然と人間が融合し調和するのである。





自我(凸又は+1)の他者排除性と人間認識図

テーマ:media point

本件は検討問題ということにしておく。
 一つは自我の他者排除主義について、再考したい。これは、自我、自己同一性によって簡単に説明できるが、一体、自我に拠る他者排除の意味を考えたいのである。
 もう一つは、人間認識図において、自我的様態をどう位置付けることができるのかという問題である。
 生成門氏のa+biの考え方に、先に疑問符を付けたが、今の感じでは、π/2回転やπ回転以外にも、自我的様態がありえそうである。
 とまれ、自我は、凸i⇒凸(+1)である。凸iが原自我であり、凸(+1)が自我である。(尚、今の段階では、Neo-PS理論ではなく、ガウス平面を基盤としたPS理論を使用するが自我は凸又は+1とする。)
 とまれ、凸i⇒凸(+1)はもっともタイトな自我様態である。(これを1で問題にすることになるのである。)
 実際は緩い自我が一般的である。心的緩さとは、つまり、media pointないし凹iが意識的にしろ、無意識的にしろ、活動しているということである。
 つまり、凸iの強度と凹iの強度が併存しているのであるが、一般的には凸iが主導的である。
 だから、自我一般方程式はa凸i*b凹i⇒Ego Modeとなるのではないだろうか。つまり、二つの虚数、凸iと凹iが、自我的様態を数式化するとき必要なのである。(先には、精神は双極子であると述べたが、それは、二つ虚数が必要ということと同じ事柄である。)
 そのように定式化したとき、問題は、オイラーの公式との関係である。
 これは難しい問題だと思う。例えば、

a凸i⇒cosθ+i・sinθ

となるように、aを工夫する必要があるだろう。端的に計算すれば、

a=(cosθ+i・sinθ)/凸i=cosθ/凸i+sinθ/凸

=cosθ/凸i+sinθ

となるのではないだろうか。この妥当性は今は問わないでおく。
 次に、b凹iであるが、これは、

b凹i⇒cosθ−i・sinθ

と見ていいだろうか。これだとb凹iは共役複素数になる。それでいいのだろうか。
 私の先の直観では、凹iは凸iを反時計回りに、π/2回転させたものであるから、b凹iもなんらか、π/2回転と関係しそうなのである。
 だから、仮定として、b凹iはa凸iを反時計回りにπ/2回転した位置にあるとする。
 そうすると、

b凹i⇒cos(θ+π/2)+i・sin(θ+π/2)

ということになる。
 共役複素数がいいのか、それともπ/2回転した双極子と見た方がいいのか、それとも、別の考え(不明)がいいのだろうか。
 今は問題提起だけに留める。
 




美と自我:美術的美の自我的傾斜

テーマ:art & design

この問題は以前からの課題である。
 美的感覚には、道徳心が欠落するような感じがするのであるが、それを定見にはしていない。
 もっとも、私の美的認識では、美と倫理は離れていない。この齟齬をどう考えるべきか。
 思うに、美的認識は差異共振認識であり、それは基本的には誰にでも内在している。
 しかし、美術的美の場合、とりわけ、凸jの志向が強いと考えられる。つまり、精神的自我の光が強いということである。
 そう、このために、精神的差異共振主義を欠くので、道徳心・倫理が欠落する傾向にあるということと考えられる。

追記:しかしながら、感動を与える美術は、やはり、根本的に、差異共振主義が存すると考えられる。つまり、音楽的調和性である。
 すぐれた美術は音楽性がある。これは例証するまでもない。







個的自己(造語で個己、個自、あるいは個自己)とは何か

テーマ:manichaeism: 哲学

私は個とは他者凹jであると述べてきた。個=他者とはどういうことなのだろうか。つまり、「わたし」は「わたし」であるという個の視点から見て、これは齟齬する思考である。
 思うに、人間は自我(原自我凸j)に傾斜している存在である(今日において)。
 だから、他者凹jをそれとして認知するとき、凹j☯凸j⇒凹(−1)の精神事象が生起するのである。(シュタイナー的に言えば、「キリスト」である。)
 しかし、それは、同時に、凸j☯凹j⇒凹(−1)ということである。これが、一般の自然界にはあり得ない事象である。
 結局、原自我でありつつ、他者であるという即非的事象がここにある。それが、個的自己の事象であると思われる。
 つまり、個=他者とは、ベースに原自我が存しているのである。確かに、自我【凸(+1)】ではないが、原自我は存するのである。それが、知性の基盤である。
 今はここで留める。

追記:原自我凸jとはウパニシャッド哲学のアートマン(大我)であろう。





「イデア」ないしエイドスとは何か

テーマ:manichaeism: 哲学

「イデア」は原像として捉えた方がいいのではないだろうか。理念や観念ではなく。
 今は一言言及するのみだが、差異共振のもつ原イメージがそれではないだろうか。即ち、

凹i☯凸i⇒凸(+1)

の氣的自然形成ならば、左辺に「イデア」(エイドス)が存するように思う。また、

凹j☯凸j⇒凸(+1)

の精神的差異共振においても、左辺に存すると思う。この場合は、「霊魂」、「魂」、「個」性のように思える。
 



   




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カレンダ
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