INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2012/02

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2012年02月28日(Tue)▲ページの先頭へ
回転(スピン)の問題:精神子(凹j∞凸j⇒)と氣子(凹i∞凸i⇒)の問題:注意:今回も∞は陰陽記号の代替である
回転(スピン)の問題:精神子(凹j☯凸j⇒)と氣子(凹i☯凸i⇒)の問題
テーマ:Neo-PS理論

精神子ないし氣子の回転(オイラーの公式に規定されたガウス平面における)は、連続的ではなく、不連続的、端的に言えば、(1/2)nπ回転ないし、(nπ+1/2π)回転ではないだろうか。簡単に言えば、90度回転ではないのかということである。
 オイラーの公式のsinθ±icosθは、理論的には当然存するものであるが、果たして、精神子(精神的双極子)と氣子(自然的双極子)において、それ以外の回転をもつのか疑問に思っている。
 確かに、理論的にa+biは考えられるのであるが。

参照:
• 【人間認識図】 クリーネの3値論理とNull + 真偽(意義、意味)の反転
• Adele – Rolling In The Deepを人間認識図の観点から詳細分析してみる。
• 【人間認識図】 実軸に波動関数の存在確率「密度」を導入するので、精神濃度と共に精神「密度」の概念も用いる。
• 波動関数の「存在確率の計算」の辺りのメソッドを真円人間認識図の実軸分析に応用してみる。

【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図
【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図

 実は、真円の人間認識図の提示と同時に、楕円形の双極系人間認識図も発案していたのであるが、楕円は真円と比較して格段に複雑になり、さらに、双極間の 相互作用など、込み入った説明が不可避であり、その上、真円の人間認識図だけでも非常に難解な解明作業が必要であると判断して、紹介を保留してきた。

 今回、本日の日付で公開する。

d posted by (C)天花一海

 双極作用による相互影響の結果、直観的には、陰陽図のような「光」と「闇」の分化・分領域化が起きると想定して、その図解も挿入した。真円の時のように、直線的な領域分化にならずに、曲線的な領域分化、media point line になるだろうという想定である。

但し、真円の人間認識図も、未だ、未解明な部分が多くあり、楕円双極になると、より高度な分析を必要とするので、今の所、真円の人間認識の解明に重点を置きたい。

 但し、必要に応じて楕円の研究も進める。本来、人間認識は双極構造であろうと思われる。

海舌
http://blog.kaisetsu.org/?eid=813449
• 【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図
海舌 SeaTongue@Kaisetsu

参考:


スピン角運動量
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索
スピン角運動量(スピンかくうんどうりょう、spin angular momentum)は、電子 やクォーク などの素粒子 、およびそれらから構成されるハドロン や原子核 や原子 などの複合粒子が持つ角運動量 で、量子力学 的な自由度の 1 つである。単にスピンと呼ばれることもある。スピン角運動量は、軌道角運動量 とともに、粒子の全角運動量に寄与する。
基本変数を「粒子の位置 と運動量 」とする量子論 ではスピンを記述することができないため、粒子が持つ「内部自由度(固有角運動量、内部角運動量とも呼ぶ)」としてスピンを基本変数に付け加える。この「位置と運動量とスピンなどの足りないもの」を基本変数とする量子論が「量子力学 」である。基本変数を「場 とその時間微分または共役運動量」に選ぶ量子論、つまり「場の量子論 」では電子は粒子ではなく「電子場」として記述され、電子場は電磁場の「偏光 」(電磁場の向きが右回りに回転するか左回りに回転するか)に似た属性を持つ。これがスピンであり、場の自転 のようなものなので、角運動量を伴う。その角運動量ベクトルで、スピンの向きと大きさを表す。このスピンの例でわかるように、古典的に場であったもの(電磁場 など)だけでなく、電子のような古典的には粒子とみなされてきた物理系であっても、場を基本変数にしたほうが良く、適用範囲も広いことが判っている。[1]

スピン角運動量演算子 [編集 ]
スピン角運動量は、3 つのエルミート演算子 sx, sy, sz で表される物理量である。これらの演算子の間には、軌道角運動量 と同様の交換関係 が成り立つ。



ここで、 であり、h はプランク定数 である。ただし軌道角運動量 と異なり、空間座標とその共役運動量との外積 として表される必要はなく、したがってその大きさは を単位として整数値のみでなく半整数値をもとりうる。
スピン角運動量の大きさの二乗を
s2 = sx2 + sy2 + sz2
と定義すると、これは各成分 sx, sy, sz のいずれとも交換する。一方各成分同士は交換しないので、s2 と各成分 sx, sy, sz のうちいずれか一つとを同時に対角化できる。多くの場合同時対角化する成分を sz とする。s2 の固有値 は 、sz の固有値は (ms = - s, - (s - 1), ..., s - 1, s) となる。ms をスピン磁気量子数という。s は、0 以上の整数 または半整数 の値をとる。素粒子の場合、s は素粒子の種類ごとに定まった値をもつ。
スピン 1/2 [編集 ]
s = 1/2 の場合を考える。このとき、s2 の固有値は であり、sz の固有値は の 2 つが存在することとなる。従って対応する固有状態も 2 つであり、それぞれ上向きスピン、下向きスピンと言うことが多い。
スピン角運動量の各成分 (sx, sy, sz) はパウリ行列 (σ = (σx, σy, σz)) を使って以下のように表される。



以上は、sz に関して対角となるようにしてある。
スピンと統計性 [編集 ]
s が半整数の値をもつような粒子はフェルミ粒子 であり、s が整数値をとる粒子はボース粒子 であることが知られている。s の値と統計性の間のこのような関係は、相対論 的な場の量子論 によって説明できる。
脚注 [編集 ]
1. ^ 清水明 『新版 量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために―』 サイエンス社 、2004年。ISBN 4-7819-1062-9 。
関連項目 [編集 ]
• 角運動量
• 量子力学
「http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%B3%E8%A7%92%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F&oldid=41279740 」より作成
カテゴリ :
• 量子力学
• 量子数
• 回転





3D media pointの混融性:3D media point complex
テーマ:media point

今は一言言うだけだが、三次元のmedia point(3D media point)の意義は計り知れない。
 凸j*凹j⇒凸(+1)であるが、実は、3D media point(z軸とy軸とx軸が交差する原点)では、凸j*凹j⇒凸iというような混合的融合が生じていると思われるのである。
 また、易であるが、その2^6=64の卦であるが、それも、
3D media pointを考えると納得できるように思う。
 つまり、凸j*凸i*凸*凹j*凹i*凹が3D media pointで生じ、それぞれの要素は凸凹(±)の転換が可能であると考えられるのである。詳細は後で検討したい。
 また、英語では9という数字が一種の完全数であるが、それも、易の上部の3項と下部の3項の積であるように思える。
 今は直観的指摘(思いつき)のみである。





光とは何か:自然の光と精神の光と物質の光:三種類の光?
テーマ:Neo-PS理論

Neo-PS理論から、改めて、光とは何か検討する必要がある。
 自然の光は氣的差異共振エネルギーの発光現象のように思えるが、精神の光(マニ教の光)は、原初差異共振では、凹j☯凸j⇒凹(−1)の⇒と考えられる。
 しかし、新しい差異共振は凸j☯凹j⇒凹(−1)ということになる。つまり、凸jの支配の下、凹jが不連続化して、差異共振するということである。
 私がこれまで述べてきた超越光とはこの新しい差異共振光のことのように思える。
 しかしながら、それは、氣の光を帯びているのである。この氣の光と精神の光の融合が、新しい差異共振光には生じると思う。
 そう、正確に言うと、自然の光は微妙である。それは、氣の光でもある。しかしながら、凸jの同一性支配によって、それは、同一性化される。物質的光になると思われる。
 だから、三つの光があるように思われる。一つは自然の光、一つは精神の光(超越光)、一つは物質の光である。
 現象光という場合、自然の光と物質の光が混淆しているように思える。
 ところで、D. H. ロレンスのdark sunとdark Godであるが、これまで、ほぼ同一視していたが、前者は自然の光、氣の光であり、後者は精神の光ではないのだろうか。
 以上は問題提起であり、後で検討したい。



2012年02月27日(Mon)▲ページの先頭へ
Neo-PS理論の言語発生論:凸j同一性力学に拠る母と自然の内外的イメージ支配的四元的言語論
テーマ:language

先に、初期PS理論(PPS理論)を用いて展開した以下の言語発生論をNeo-PS理論(原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11175759478.html)によって、説明し直す必要がある。


言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11171075010.html

しかし、これは簡単に移行できる。
 即ち、凸i支配を凸j支配にすればいいのである。そして、母権的イメージ音声言語であるが、それは、原初差異共振、凹j☯凸j⇒凹(−1)で説明できる。その後の文字言語は同様に説明できる。
 表音文字言語は、だから、凸j同一性力学支配に拠るものであり、それは、凸j*凹i⇒凸(+1)の自我様態と結びつくのである。
 そして、表音文字言語-自我(自己同一性、父権的自己)は、3D-media pointにおいて、氣の差異共振(自然的差異共振)、凹i☯凸i⇒凹(−1)における凹iと同一性力学(父権的人間主義)における凹jに、その表音文字言語を刻印するように思われる。
 この点は先のもののようには簡単に考えられないのである。
 精緻に言うと、凹j☯凸j⇒凹(−1)の原初差異共振(今気づいたが、新しい差異共振凸j☯凹j⇒凹(−1)であろう)を凸jによって同一性支配するのであるが、その原初差異共振とは、思うに、母との原初差異共振イメージであり、それに対して、凸jは同一性支配し、表音文字言語化するように思う。そう、原初において、凹jは母と考えられる。原初差異共振は内外的(内的且つ外的)に母のイメージに刻印すると考えられる。
 それに対して、氣の差異共振(自然的差異共振)については、凸jの同一性支配は、凹i☯凸i⇒凹(−1)に刻印すると言えよう。即ち、氣的内外的(内的且つ外的)イメージに刻印すると思える。
 結局、原初差異共振の場合は主に、母のイメージに内外的に刻印し、氣的差異共振主義(自然的差異共振主義)の場合は、氣の内外的イメージに刻印すると考えられる。
 氣の内外的イメージとは、例えば、内的イメージは「元気」や生命感であろうし、外的イメージは端的に外的現象、外界のイメージと考えられる。
 そうすると、3D-media pointにおいて、母と自然の内外的イメージに凸jの同一性支配の表音文字言語は刻印するということになる。つまり、四元性(四相性)になるのである。
 そして、この視点によって、D. H. ロレンスの無意識論、四元的無意識論が解明できるように思うのである。

商品の詳細
Psychoanalysis and the Unconscious and Fantasia of the Unconscious D. H. Lawrence (ペーパーバック - 2006/1/4)
新品 : ¥ 1,172


Product Details
Psychoanalysis and the Unconscious and Fantasia of the Unconscious by D. H. Lawrence (Paperback - Jan 2012)
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2012年02月26日(Sun)▲ページの先頭へ
新しい差異共振は凹i∞凸i⇒凹(−1)なのか凹j∞凸j⇒凹(−1)なのか:注意:陰陽記号がタイトル欄では出ないので、仮に∞を使用した
先に以下のように書いた。

原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11175759478.html

ふと、ガウス平面で足りるのではないかと思ったので、少し検討したい。
 問題は新しい差異共振の位置である。これまでのPS理論の考え方から言えば、新しい差異共振とは、凸i*凹i⇒凸(プラス1)の凸i支配の連続性から、不連続化された凹iが主導する凹i*凸i⇒凹(−1)に存するのである。
 しかし、これは、私見では、氣の差異共振であり、精神の差異共振ではないのである。あるいは、両者が区別がつかないのである。
 私説では、1.原初差異共振⇒2.同一性力学⇒3.新差異共振というように推移するのであるが、

1. 凹i☯凸i⇒凹(−1)

2. 凸i*凹i⇒凸(+1)

3. 凹i☯凸i⇒凹(−1)

という方程式になる。
 問題は2から3への推移である。あるいは、1から2への推移である。後者を考えると、氣から精神へと転化できるのかという問題である。
 純粋に氣を考えると、凹i☯凸i⇒凹(−1)であり、凸i*凹i⇒凸(+1)はありえないのではないか。もし、それが可能ならば、氣が硬直化することになるのである。氣は常に変動しており、「陽」が「陰」を支配することはありえないのではないだろうか。言い換えると、常に差異共振様態としての氣と考えられるのである。
 だから、1から2への転移は不可能と思われるのである。また、それは、2から3への転移の不可能性でもある。何故なら、それは、精神から氣への転換となるからである。
 故に、先に作業仮説したように、精神軸としてのz軸を提起することは、問題解決の意味をもつと考えられるのである。
 故にやはり、新しい差異共振は凹i*☯凸i⇒凹(−1)ではなく、凹j☯凸j⇒凹(−1)と現段階では考えられるのである。
 整理すると、

1. 氣の差異共振方程式:凹i☯凸i⇒凹(−1)

2. 自己同一性力学方程式:凸j*凹j⇒凸(+1)

3. 新しい(自己)差異共振方程式:凹j☯凸j⇒(−1)

となる。但し、凸i*凹i⇒凸(+1)は成立しないことになる。
 最後に、ルドルフ・シュタイナーの精神学の四元的体との関連を言うと、自我は凸(+1)であり、エーテル体(生命体、氣)は、凹i☯凸i⇒であり、アストラル体(感情欲望体)は、凹jであり、物質体は凹(−1)ということになるように思える。そして、「悪魔」であるが、アーリマンは凸j優位、ルシファーは凹j優位、そして、「キリスト」は自己である凹j☯凸j⇒凹(−1)と考えられる。


原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図
これまで、原始差異共振と呼んだものを原初差異共振primary difference(co-difference?) resonanceと呼び直す。これは凹i主導のもので、まだ、凸i支配の同一性は形成されていない。虚軸上のmedia point(imaginary axis media point)での事象である。凹i優位(凹i superiority)があるのである。言い換えると、凸i劣位(凸i inferiority)があるのである。これはまた、原初母権文化的意識primary matriarchal culture senseということもできよう。
 そして、連続性、凸i支配の力学が生起する。これは、人間固有の連続性支配である。凸i優位、凹i劣位の力学である。同一性力学の支配である。実軸上の media point(real axis media point)における連続性様態である。ここに、精神的フィルターがあるし、また、カント哲学の超越論的「精神」が存するだろう(後で再検討。純粋理性は原初差異共振と新差異共振の両方に関わるようだ。これも再検討)。
 問題は原初差異共振、虚軸上のmedia pointの様態の方程式である。
 後期PS理論において、凸i*凹凹i⇒凹(−1)とそれを方程式化したが、差異共振は凹凹iというような凹iの否定ではなく、あくまで、凹iの肯定でなくてはならないから、それは間違いと考えられる。
 凸i*凹i⇒凸(+1)の*であると、凸i支配の力学と勘違いするので、原初差異共振を凹i☯凸iと表記する。この虚軸上のmedia pointの事象であるが、これはどういうベクトルを形成するのか。それとも、そのままなのか。
 また、問題は、凹(−1)の意味である。果たして、それが、差異共振のベクトルの方向の終点でなければ何なのか。
 今想起したのは、☯は積ではなく、商ではないのかということである。つまり、凹i÷凸iないし凸i÷凹iである。そうすると、当然、⇒凹(−1)になる。だから、凹i☯凸i⇒凹(−1)となる。(これは作業仮説である。)
 以上のようにPS理論を再確認すると、初期PS理論ではなく、後期PS理論の妥当性、整合性が明らかになる。結局、差異共振と同一性との区別が凸i*凹 i⇒凸(+1)の場合、不明瞭であるので、疑問が生じたわけであるが、原初差異共振を凹i☯凸i⇒凹(−1)としたので、区別が判明となり、疑問が解消したのである。
 そうすると、先に、差異共振を表記するのに、想定したz軸は不要となる。
 そうすると、オイラーの公式と統合したガウス平面(仮称:Euler's formula integrated Gaussian plane:EGP)上の円において、左半円(虚軸を含めて)は光(マニ教の光)の様態であり、右半円は闇(無明)の様態となる。(凸iは陽、原光であり、凹iは陰、原闇と見るのがいいだろう。しかし、これは紛らわしい。後で用語を考えたい。)
 では、物質はどう表記されるだろうか。これまで、凸(+1)としてきた。思うに、自然現象は差異共振現象であり、それは、⇒凹(−1)を意味しよう。Vector Modeはこちらに生起しよう。
 ならば、⇒凸(+1)は何か。これは、同一性ではないだろうか。凸iが超越論的同一性精神とするなら、その力学の結果の⇒凸(+1)は同一性でないのか。あるいは、自我(自己同一性)である。(今はそう作業仮説する。)
 ここで、氣を考えると、やはり、それは、差異共振様態と考えられるが、そうすると、精神、光と同一体になってしまうだろう。
 先に述べたように、氣と精神を区別したいのである。すると、z軸が必要になるのである。
 氣を凹i☯凸i⇒凹(−1)とすると、精神は凸j☯凹j⇒凹(−1)と考えられないだろうか。jはz軸という第二の虚軸の虚数記号とする。
 そうすると、これまでの考え方を変更しないといけない。つまり、原初差異共振とは凹j☯凸j⇒凹(−1)であり、同一性力学は凸j*凹j⇒凸(+1)となる。そして、当然、凸iは氣の陽であり、凹iは氣の陰である。
 だから、三重、三次元のmedia point(three-dimensional media point)において、精神と氣と原自我(凸j)の混合することになるように思われる。
 しかし、そのように作業仮説したとき、問題は、氣が物質を生み出すこと(造化)はいいとしても、精神も物質を生むことになるが、それでいいのだろうか。
 それは正しいと思う。精神様態によって身体、肉体は変化するのは当然である。ストレスを考えればいいのである。ということで、この点もクリアされた。
 最後に、凸jの支配からの脱却である不連続化に拠る新しい差異共振についてであるが、それは、凹j☯凸j⇒凹(−1)と考えられる。そう、精神と氣と物質が一体となっているのである。
 今はここで留める。

追記:人間認識図であるが、それは、人間・自然認識立体図となるだろう。

追記2:光や量子はどう記述されるのだろうか。凹i☯凸i⇒凹(−1)の⇒が光ではないだろうか。そう、マニ教の光は凹j*凸j⇒凹(−1)の⇒ではないだろうか。前者が現象光であり、後者が精神光(霊光)である。
 しかしながら、3D media pointにおいて、それらは、融合しよう。
 では、量子はどうなるのかと言えば、それは、光の⇒の振動数、波動の違いで説明できるかもしれない。思うに、ここで濃度概念を使用できるだろう。凹iの最高濃度(凸iが最大強度)の場合と凹iの最低濃度(凸iの最小強度)の場合の両極における中間値(極大の場合も含めて)をもつように思える。

追記3:そうすると、円ではなく、球ないし球面が人間・自然認識立体図の主要な空間となる。


不連続的差異論とPS理論を再検討する:自我と同一性と物質
不連続的差異論とPS理論を再検討する:自我と同一性と物質
テーマ:不連続的差異論とPS理論

不連続的差異論のポイントは、ある自己差異が他者を認知するとき、通常は他者を自己同一性化してしまい、他者の差異を無視することである。
 自己差異A、他者差異Bとすると、AはBの認識に当たり、AをBに投影してしまうのであり、Bは否定されるのである。
 この場合、Aは自我であり、また、自我同一性である。AによってBは否定されるのである。
 しかし、不連続的差異とは、B自体を肯定することである。だから、AはBであり、同時に、Aである。いわゆる、即非様態である。
 このとき、Aは自我ではなく、自己である。
 そう、Aが自我となり、他者Bを自己同一性化するとき、それが、A*B⇒+1であろう。+1が自己同一性、自我となるだろう。
 Aは原自己ないし原自我であり、+1が自我である。しかし、それは、また、自己同一性である。
 例えば、Bを樹木としよう。Aは樹木を認識する。それは、自己同一性化であり、その+1はB=樹木である。だから、Bは物質ということではないだろう。Bは現象である。
 では、物質とはどうなのか。
 端的に言えば、ある数量化が必要である。他者Bを数量化ないし、抽象的数量化する必要がある。
 だから、A自体に数量的認識、抽象的認識が必要である。
 それは、先の言語についての検討からわかることは、凸iの分析的認識性に拠るということである。
 つまり、A自体は、単に、感覚的に現象認識するだけでなく、現象を抽象的数量的に認識するということになる。
 だから、自我と物質とは⇒+1として重なるようになるとは言えよう。
 しかしながら、感覚的具体的同一性認識と抽象的数量的同一性認識は異なるのではないだろうか。
 端的に言えば、感覚と数量の違いがあると思える。
 感覚は具体性をもっているが、数量はあくまで、抽象性である。
 そう、正に、具体的同一性と抽象的同一性の違いである。
 だから、問題は、⇒+1としたとき、両者の違いが区別できないことである。
 思うに、凸i*凹i⇒凸(+1)と凸*凹⇒凹(−1)があるのかもしれない。
 これは作業仮説的であるが、前者が具体的同一性、後者を抽象的同一性と考えることができるかもしれない。
 だから、感覚的現象は+1であり、抽象的現象である物質は−1となる。光は+1であり、闇は−1である。
 では、そうしたとき、精神はどう記述できるのだろうか。つまり、差異共振精神、即非精神である。
 それは、今の直観では、ガウス平面に直交する垂直軸(z軸)で表記されるように思われる。
 同一性はx軸の+1と−1で表記され、差異共振、即非様態はz軸の凸jと凹jで表記されるのではないだろうか。
 思うに、差異共振、即非様態であるが、凸iが主導的な場合は凸jに、凹iが主導的な場合は凹jになるのではないだろうか。
 そう、つまり、差異共振、即非様態でも凸i主導と凹i主導がありえるように思えるのである。つまり、差異共振とは本来、凹i主導であるが、それが一端成立すると、凸i主導と凹i主導の両面があるように思えるのである。そう、差異共振の極性論理(即非論理)である。
 今はここで留める。







差異1*差異2*差異3・・・差異nの連結
テーマ:media point

不連続的差異論からPS理論(ガウス平面的複素数精神理論)に移行したとき、本件の多重差異の連結の様態が見落とされるような印象をもった。
 もっとも、media resonanceの概念でそれは説明できるように感じたが。
 とは言え、少し、多重差異の問題を少し考えたい。直観では、これこそ、双極子としての多重差異の問題ではないだろうか。
 cosθk+i*sinθkとcos(θ+π)k+i*sin(θ+π)kの双極子において、多重化が生じるのではないだろうか。
 すなわち、

{cosθ1+i*sinθ1, cos(θ1+π)+i*sin(θ1 +π}*{cosθ2+i*sinθ2, con(θ2+π)+i*sin(θ2+π}*
・・・・・{cosθn+i*sinθn, cos(θn+π)+i*sin(θn+π}

となるのではないだろうか。
 どうも、これが有機体や生命体を形成する要素ではないだろうか。
 今は提起だけである。 







初期PS(PPS)理論から見た人間認識図の様態
テーマ:media point

今は簡単に記すに留める。
 凸i*凹i⇒+1であるが、先に+1が光と述べたが、⇒が光であり、+1が物質かもしれない。
 そして、凸iの支配による自我方程式は凸i*凹凹⇒−1であり、−1が自我である。
 そのように見ると、第一象限が自然界であり、第二象限が自我的言語生活世界である。
 そして、第三象限が腹黒い世界、悪の世界である。そして、第四象限は、直観の世界である。




2012年02月22日(Wed)▲ページの先頭へ
言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移
言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移
テーマ:language

先に、連続性に関して、それは凸iによる凹iの力学であると述べたが、それから帰結的に、本件の主題が生じる。
 これまで、何回か本件について述べてきたが、結論ないし結論というものに到達していなかったので、あらためて検討したい。
 言語の問題は、正に、イデア論、PS理論における本質的問題である。
 初期PS理論(Premier PS Theory、PPSとする。それに対して、後期PS理論をLate PS Theory、LPSとする。)に拠って考察する。
 明らかに、言語は凸iの支配に関係している。史的に見ても、父権文明が文字文明であり、それ以前の母権文明は口語はあったろうが、無文字文明と言えよう。(シュメール文明の問題がある。)
 だから、正確に言えば、口語と文字言語を区別する必要がある。
 では、最初、口語、話し言葉について考えよう。それは、史的には、前父権文明の母権文明について考察することでもある。
 即ち、D. H. ロレンスが『黙示録論』
黙示録論 (ちくま学芸文庫)/D・H ロレンス

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で明らかにしたように、それは、イメージの文明である。感覚知覚におけるイメージ中心主義の文明である。
 この背景において、口語について考察する必要がある。イメージとしての口語である。つまり、詩的言語的な口語ということが想起される。そう、口承文芸、 吟唱詩人、語りというようなことが想起されるのである。(古代ギリシアのホメーロス、日本では、記紀の元になった口承神話が考えられる。また、平家物語は 本来、吟唱されるものである。)
 イメージを喚起する音楽的言語としての母権文明的口語ということが考えられるのである。
 そうすると、それは、当然、凹iと凸iの差異共振イメージに拠ると考えられる。つまり、凹i*凸i⇒+1の光の言語ということになる。これはここで今は留めておく。
 次に、文字言語について考察しよう。それは上述したように、父権文明における、凸iによる凹iの支配力学から「創造」されたものと考えられるのである。
 これは同一性言語となる。そう、象形文字(表意文字)と表音文字を区別しないといけない。
 では、先ず、象形文字について考察しよう。
 それは、母権文明のイメージ言語を文字化したもののように思える。即ち、凹i*凸iの共振イメージを凸iで写し取ったものと考えられる。漢字が例をあげ るまでもなくそのように考えられる。(絵文字も考える必要がある。エジプト文字である。それは、象形文字以前のものであり、それが差異共振イメージを最も 凸iで写したものであろう。詳細についておいておく。)
 差異共振イメージを凸iで写すとはどういうことなのだろうか。それは、精神的光(凹i*凸i⇒+1)を現象的光(凸i)で写しとることではないだろうか。(精神的光を大光、現象的光を小光と簡略化する。)
 大光を小光に写しとること、内的感覚(内的視聴覚)を外的感覚(外的視聴覚)に書写することである。
 つまり、ここには、ハードではないものの、凸iの凹iに対する支配がはたらいていると考えられる。
 では、次に、表音文字である。(史的にはフェニキア文字がアルファベットの始原である。)
 これは、もう基盤には差異共振イメージはほとんどないと言えよう。もっとも、これもベースは差異共振イメージ、象形文字(表意文字)であったが。
 基盤の差異共振イメージを消去されて、抽象化された表意文字である表音文字が父権文明を精神的に形成すると言えよう。(思うに、象形文字、表意文字の形 成力学において、デリダのエクリチュールの概念はそれなりの意義をもつが、しかし、デリダは口語のイメージ言語と文字言語は混同しているように思われる。 これについては検討課題である。)
 では、抽象化された表意文字である表音文字(例えば、アルファベット)の形成力学とは何か。
 ここには、分析的知性がはたらいていると考えられよう。分析化された音声が表意文字化されるのである。
 この分析抽象化作用であるが、これは、正に、凸iの本性の作用であると考えられる。
 思うに、表意文字的認識は凸iの本性である。そう、正に、同一性作用である。思うに、正確に言えば、超越論的同一性認識作用である。これは、カントの悟性に相当しよう。
 つまり、人間は他の生命体とは異なり、先天的、先験的に、超越論的同一性認識作用=悟性を具備、内在していると言えよう。(一時流行したチョムスキーの 生成文法論であるが、それは、この視点から考えれば、基本的には妥当性をもつと言えよう。しかし、実際は構造主義になってしまった。つまり、二項対立論に なってしまった。)
 以上で、簡単ではあるが、本件の問題を基本的には解明したと考えるが、最後に構造言語学【構造言語学 とは - コトバンク 】(構造主義【構造主義 - Wikipedia 】)について簡単に触れて終わりにしたい。
 構造言語学はソシュール(フェルディナン・ド・ソシュール - Wikipedia )のものが源泉である。ソシュールの有名なシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)【シニフィアンとシニフィエ - Wikipedia 】との対立と融合について考えよう。
 ここでは簡明にするために、表音文字で考えよう。そこでは、シニフィアンは音声ないし表音文字である。そして、シニフィエであるが、思うに、ここには、 混濁がある。つまり、意味されるものは概念とイメージの両方があるからである。ソシュールは両者を混淆、混同していると考えられる。
 概念の場合は当然、凸iの悟性作用に拠るのであるが、イメージの場合は微妙であり、差異共振イメージ(内的イメージ)と現象的イメージ(外的イメージ)の両方が考えられるのである。
 だから、ソシュール構造言語学とは、一面では、凸iの言語学であり、他面では凸iと凹iの差異共振言語学の側面をもつと考えられる。
 その構造主義とは、シニフィアンとシニフィエの対立に拠ると言えようが、それは果たして、二項対立なのだろうか。例えば、前者が後者に対して、優位であると言えるのだろうか。そのように考えたのは、ラカンであるが、ソシュールではないだろう。
 だから、ソシュールの構造言語学とは二項対立の構造主義とは異なると言えよう。とまれ、二項構造をもつという意味での構造主義ではある。
 そして、ソシュール言語学の差異共振言語学的側面があるからこそ、あるいは、凸iの同一性言語学と差異共振言語学の混同があるからこそ、ソシュールはその後、低迷して、最後、アナグラム(アナグラム - Wikipedia )に関わるようになったと考えられる。
 アナグラムとは一種の言葉遊びで、文字の順番を変えたりして、意味の変化を楽しむものであるが、それは正に、差異共振イメージに拠ると言えよう。例えば、godを順序を逆にすると、dogになるというようなことである。
 つまり、差異共振は、対立するものが共振するということであるから、godと順番が逆という意味で対立するdogを引き出すのである。つまり、アナグラムを生み出すのである。
 ここで留める。






光とは何か:二つの光:差異共振光と同一性光
テーマ:manichaeism: 哲学

マニ教の光とは、初期PS理論モデルに拠れば、凸i*凹i⇒+1の+1に相当しよう。そう、オイラー・ガウス平面の右半円が光の世界である。
 では、一般の光、陽光とは何であろうか。それは、マニ教の光ではない。マニ教の光は、差異共振の光である。凸iと凹iの共振に拠る光である。いわば、霊的光である。
 一般の光、陽光とは何であろうか。これは、実は凸i主導の同一性の光ではないのか、と思った。
 思うに、自我様態と同質の光ではないだろうか。私が想起しているのは、父権的神話である。父権的太陽である。それは、太母を殺戮する父権的な英雄の太陽である。
 思うに、これは、客観的事象というよりは、主観的事象、精神的事象ではないだろうか。
 つまり、差異共振の光(霊的光)を父権的同一性の光で抑圧しているということである。
 これが、凸i主導の光ということになる。凹iと凸iの差異共振の光(霊的光)はいわば閉鎖されているのである。
 だから、一般の光、陽光とは、凸iの光と言えよう。原光である。(そして、これが後の一神教の神となるだろう。)
 まとめると、光は二種類あるのであり、一つは、凸iと凹iの差異共振光(マニ教の光、霊的光)であり、一つは、父権的同一性の光(凸i)である。
 D. H. ロレンスが「我々は光の背中を見ているに過ぎない」と言ったのは正に、この事態を指していると言えよう。光は差異共振光でありながら、いわば、裏返しにされた光凸iになっているからである。
 そう、これは、精神的フィルターの光と言えよう。同一性の反射の光、鏡像の光とも言えよう。
 言い換えると、物質の光と精神の光があるのであり、後者が今日、否定されてしまっているのである。
 マニ教の光は絶対的に後者である。これは、凹iと凸iの原始差異共振を不連続化することで形成されよう。
 ところで、私は先に、自然界は+1であると述べたが、この点どうだろうか。
 つまり、自然界は差異共振によって形成されているということを意味したのである。
 そう、自然界は、精神的光から創造されたと言えよう。しかしながら、人間の同一性的自己、自我は、それを同一性の光で遮断して見えないのである。
 自然的精神の光を同一性の自我の光で排除して、物質的光のみを見ているのである。







連続的複素数精神と不連続的複素数精神:双極子としての複素数精神の連続性と不連続性
テーマ:media point

生成門氏のガウス平面精神マップ(GPS:Gaussian plane Positioning System)は興味深いが、指摘したいのは、精神は双極子であり、cosθ+i・sinθとcos(θ+π)+i・sin(θ+π)が精神の双極子の位置であろうということである。
 次に、精神が連続性のままであるときは、つまり、凸iが凹iを支配しているときは、すべての精神複素数双極子は、当然ながら、連続様態であると考えられることを指摘したい。
 私は現段階では、初期PS理論モデルに従っているが、そこにおいて、凸iによる凹iの支配の状態では、精神複素数双極子は、左半円に属し、それらはすべて、連続態ということになる。
 そして、不連続化が為されたとき、即ち、凹iが独立したとき、精神複素数双極子は、右半円に属するのであるが、それは、すべての位置、点において、不連続態であると考えられる。
 言い換えると、左半円(闇)の自我領域は連続的同一性の領域であり、右半円(光)の自己領域は不連続的差異共振の領域であるということである。
 尚、虚軸は左半円ではなく、右半円に含まれると考えられる。
 今は簡単に指摘するに留める。

追記:精神は双極子と言ったが、そうすると、例えば、右半円の円弧の一つに属するとき、対極は、虚軸の場合を除いて、左半円に属することになり、矛盾することになるのである。
 思うに、凸iと凹iの差異共振の強度(濃度)に応じて、右半円の上部と下部に精神複素数が形成されるのかもしれない。つまり、共役にあるということである。即ち、a±biである。
 そして、連続性の場合(左半円)も同様であるように思う。
 今、ふと思ったが、私が勘違いしているかもしれない。凸iと凹iは双極原理であるが、それをベースに、双極子ではなく、点として、複素数精神が動くのかもしれない。
 そうならば、生成門氏の考えは正しいのである。そうだとしても、連続性と不連続性(差異共振性)は区別されなくてはならない。
 初期PS理論モデルでは、虚軸を除いて、左半円は連続性の領域(自我、闇)であり、虚軸を含めて右半円は不連続性(差異共振性)の領域(自己、光)と考えられる。
 思うに、凸iと凹iの極性原理において、人間では、左半円と右半円が併存している。つまり、自我と身体(氣的身体)である。そして、自我を不連続化すると、右半円に自己形成が起こるのである。つまり、精神の光化である(正に、マニ教的事象)。
 否、正確に言えば、原始差異共振と連続的精神があるのである。つまり、前者は右半円に属しているが、後者は左半円に属しているのである。
 だから、やはり、精神は二重なのである。凸i主導と凹i主導の二重性があるのである。だから、精神は単に一点としては位置付けられないだろう。凸i主導の点と凹i主導の点の両点を把捉しないといけない。
 途中であるが、ここでおく。
 



2012年02月19日(Sun)▲ページの先頭へ
プラス1とマイナス1の本性の根本問題:初期PS理論への回帰の試み
プラス1とマイナス1の本性の根本問題:初期PS理論への回帰の試み

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

先の論考『連続性(連続的同一性)とは物質的様態ではなく、認識的同一性(言語)様態を意味する:修正版 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11169036692.html』において次のように述べた。

「 連続性は自我化ではあっても、物質化ではない。この場合、物質化は違うレベル、端的に、身体のレベルの問題である。
 凸iの支配が、人間のメルクマールである。これは、人間以外の自然にはありえないと考えられる。サルには、自我がないのである。
 この凸iの支配が連続的同一性をもたらすのであるが、この同一性は物質の同一性とは異なる。何故なら、それは、知覚的認識的同一性であるからである。端的に、それは、言語である。
 ならば、物質的同一性は何か。それは、端的に、凸、+1である。
 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺の+1は、物質だけでなく、認識的同一性、言語を意味するということである。
 ただし、気をつけるべきは、物質を帰結する自然現象の場合、左辺は差異共振を意味するが、人間の場合は連続的同一性力学、凸iに拠る凹iの同一性支配を意味するという点である。」(色文字・下線は本稿での筆者の強調)

上記のように考え直したが、そうすると、だいぶ以前にPS理論の初期にKaisetsu氏が提起したプラス1が光であり、マイナス1が闇であるという視点に回帰するのがいいように思われるのである。
 その場合、凸iは陽/原光(「アポロ」)であり、凹iは陰/原闇(「ディオニュソス」)である。原光と光、原闇と闇は異なる。
 だから、自己認識方程式凸i*凹i⇒+1において、+1は物質ではなく、光、自己である。凸i*凹凹i⇒−1における−1は、闇、あるいは、自我である。
 これは、認識上の事象である。
 人間以外の自然事象において、自己認識方程式において、+1は自然的身体を意味しよう。それは、氣を本質にもつ物質的身体である。そう、単なる物質は−1と思われる。
 仏教的に言えば、−1は無明の世界である。そして、人間認識図は、これまでのものとは左右逆転(言わば、「鏡の国」化)になるだろう。
 即ち、第一象限が道徳・倫理、法等の世界であり、第二象限が物質的言語的生活世界であり、第三象限が物質的欲望、唯物論の世界であり、第四象限が直観の世界であろう。哲学、数学、芸術は第一象限と第四象限の境界、+1の線分領域に存するのではないだろうか。また、科学であるが、近代科学は凸iに近い第一象限ではないだろうか。そして、相対性理論や量子力学は、凸i*凹iの世界、虚軸の世界に属するのではないだろうか。つまり、精神的世界と一致するのである。
 以上、PS理論読み直しの試みであるが、人間認識図の領域区分はまだ暫定的で未確定なので、当然、再考したい。

追記:以上のように考えると、e^iπ+1=0のオイラーの等式を変形させた、e^iπ=−1の−1は、超越的存在ではなく、自我を意味するだろう。
 自我は人間特有・固有の本性である。ルドルフ・シュタイナーは自我(「わたし」)ichを最重視した。
 もっとも、それを+1の自己に変容することが人間存在の基本的課題であるが。

追記2:上記の初期PS理論において、オイラーの公式に規定されたガウス平面(オイラー・ガウス平面と仮称する)の右半円が光の世界、左半円が闇の世界ということになる。あるいは、右半円が自然界であり、左半円が人間・人工界である。
 思うに、虚軸を含めて右半円は精神界とも呼べよう。だから、虚軸を含まない左半円は世俗界(娑婆)とも呼べよう。




連続性(連続的同一性)とは物質的様態ではなく、認識的同一性(言語)様態を意味する:修正版

テーマ:media point

先に、『仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11168826166.html』において以下のように述べた。

「結局、連続性とは物質(自我)化を意味するのであり、これが、人間の自然的原理である。しかしながら、鉱物、植物、動物においては異なるだろう。
 例えば、松の木の生成に、凸iの支配が必要だったのか。そうではなく、それは、Vector Modeと考えられる。
 とまれ、ここは微妙な問題である。
 今の段階では、人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれたのに対して、鉱物、植物、動物においては、差異共振のVector Modeが支配的であると考えられる。
 ならば、連続性とは人間において、生起したものである。正確に言えば、人間の精神において生起したものである。身体は差異共振的であると考えられる。」

上述の「連続性とは物質(自我)化を意味する」と「人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれた」の箇所は両者ともに、不正確である。
 連続性は自我化ではあっても、物質化ではない。この場合、物質化は違うレベル、端的に、身体のレベルの問題である。
 凸iの支配が、人間のメルクマールである。これは、人間以外の自然にはありえないと考えられる。サルには、自我がないのである。
 この凸iの支配が連続的同一性をもたらすのであるが、この同一性は物質の同一性とは異なる。何故なら、それは、知覚的認識的同一性であるからである。端的に、それは、言語である。
 ならば、物質的同一性は何か。それは、端的に、凸、+1である。
 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺の+1は、物質だけでなく、認識的同一性、言語を意味するということである。
 ただし、気をつけるべきは、物質を帰結する自然現象の場合、左辺は差異共振を意味するが、人間の場合は連続的同一性力学、凸iに拠る凹iの同一性支配を意味するという点である。



連続性とガウス平面複素数精神様態マップ
先の考察は、以下の生成門氏のかなり難解な、例えば、以下、赤文字と下線で強調した箇所、即ち「第1象限のG(0.7,0.7)の左側、つまり、述語優位の認識」という考え方について述べなかったので、連続性の問題の視点から、一言述べたい。
 先に、連続性とは凸iによる凹iの支配、凸i自体の同一性による凹iの支配であると述べた。(仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11168826166.html)
 連続性力学(凸iによる凹iの支配力学)の視点から見ると、第一象限とは、基本的には連続性(連続的同一性)の領域に思える。
 ただし、a+biの複素数精神様態をどう見るのか、問題である。そう、私見では、a±biの方が実際的に思える。
そして、aがゼロのときに、±bi、即ち、凸i、凹iが生起する。つまり、不連続化が起こるような感じがする。
 では、aがゼロでないときは、どうなのだろうか。そのときは、純粋な凸iと凹iは生起していないのではないだろうか。
 そうならば、やはり、連続性のままであるように思えるのである。
 ただし、一端、不連続化が生起したとき、不連続態を保持したまま、a±biの様態はあり得ると思う。
 暫定的であるが、今の段階では、私見では、第一象限は、連続性(連続的同一性)の領域に思えるのである。だから、果たして、そこに述語優位の領域があるのか疑問である。(連続性とは先述したように、凸iに拠る凹i支配力学であり、凸iの支配とは、端的に、主語優位になると考えられる。)
 最後に第四象限について簡単に触れよう。それは、一種の連続性の領域、ないし逆連続性の領域に思える。
 強度の凸iの支配があるとき、原始差異共振性は衰滅し、反動的な凹iが生起する。それは、当然、同一性=物質と結びつき、物質欲となるのである。凹i+1の世界である。
 補足的に、原始差異共振について一言述べておこう。先に、それは、新しい差異共振によって乗り越えられると述べたが、それはそれで正しいが、内的メカニズムを捉えていないと思う。
 原始差異共振は凹i主導の差異共振であり、凸iは覚醒化していないのである。しかしながら、凸iの支配力学にあって、深層的に、原始差異共振のもつエネルギーは凹i中心に蠢いていると考えられる。
 凸i支配下にあって、原始差異共振エネルギーを不連続化すること、それが、新しい差異共振の創造を意味すると考えられるのである。
 
資料:

第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0)

『モナドの視点とはなんでしょうか?

「おーい」と呼ぶと「おーい」と帰ってくるのが「こだま」です。そのときどう感じますか?

大人なら知識がありますから、それは音の反射ださ!などと物知り顔で言うことになりますが、子供はそうではありません。そこには何か不思議な力が働いているように感じるでしょう。

「響く」感じです。

これがイデアなのです。イデアと言えば犬のイデアとか、リンゴのイデアということになるのが普通ですが、そういうイデアは自己同一イデアであり、自我形成の源泉です。

しかし、ここでは動詞のイデアを考えます。これを述語イデアと呼ぶことにします。子供が感じた不思議な力とは述語イデアだったのです。

これを大人は「山彦」という形に主語化したのです。「山彦」の中に、[響く]を閉じ込めたのです。「山彦」には光は見えません。[響く]には光が見えます。

「山彦」は闇であり、[響く]は光なのです。

述語と主語の認識

ここで、疑問が出てきたと思います。

第1象限は光の認識であって、山彦が闇なら、第4象限になるのではないかと言うことです。ところが、第1象限は述語優位(響く)から主語優位(山彦)に移っていきますから、第1象限に闇が入ってきてしまいます。これはおかしなことです。

そうです。これが認識の段階が螺旋的だという意味の難しいところです。

子供に大人の認識が入って来るので混同しているのです。

子供はまだ闇を知りません。ですから「響く」だけです。つまり、第1象限のG(0.7,0.7)の左側、つまり、述語優位の認識であって、そこから勝手には右にはいかないのです。

大人はG(0.7,0.7)右、つまり、主語優先の位置に行きます。それは何故でしょうか?

大人は知識を持っています。知識というのは、「帰ってきた、おーい」は「山彦である」という知識です。

しかし、知識は「物」ではありませんから目では見えません。つまり、知識は闇の認識なのです。言い換えると、闇とは他者の知識(認識)なのです。知識とは誰かの先祖とか、科学者、お婆さんの知恵なのです。それが言い伝えられてきた文化伝統の類です。

ですから、その他者の知が私という自己の中に侵入して来なければ、闇は生まれないのです。

子供がこの知識を始めて知ったとしましょう。その瞬間、子供が大人になったときであり、闇が生まれたときなのです。つまり、他者が私に中に入ってきたのです。他者とは、私の中に無断では入って来るのですから、ウィルスのようなものなのです。

このとき子供に凹i(他者)が生成され、第4象限のG(0.7,0.7)から右側の認識が生まれるのです。第4象限の凹iからG(0.7,0.7)を経由して、−1に向かうのが自分で理解したときです。

親から教えてもらうようなケースでは、途中からG(0.7,0.7)が発生するのです。

第4象限のウィルスのように侵入した他者の知による闇の認識:G(0.7,0.7)と、既に発生している第1象限のG(0.7,0.7)との間に共役が生まれます。こうして、第1象限の認識がG(0.7,0.7)から右に移動して+1に向かうのです。これはまるでウィルスによる乗っ取りです。

つまり、第4象限から第1象限へ反転するのです。しかし、ただ、同じGPを渡ることはありません。GPは螺旋的に回転しているのですから、GP1(述語優位)→GP2(主語優位)という渡りになるでしょう。

GP2(主語優位)とは二枚目のGPであり、しかもその半分が主語優位となって出てきたのですから、他者(ウィルス)によって乗っ取られたようなものです。

一枚目GPS(a,-b):a>0,7.b<0 .7→二枚面のGP(a,b):a>0.7,b<0.7

これが自我の発生という瞬間の実況中継です。

http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100108516663

シムダンス「四次元能」


2012年02月18日(Sat)▲ページの先頭へ
仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである
仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである
テーマ:media point

生成門氏のガウス平面マップにおける思考(第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0) http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100108516663 )について、即ち、複素数精神様態とは何であるのかと考えていたら、連続性とは何かという問題になった。それについて述べたい。
 PS理論の前身の不連続的差異論は、連続的差異=微分の脱却から始まった。
 いったい、連続性とは何であろうか。これまで、数え切れないくらい論じてきた。
 結局、今の結論(仮説)を言えば、それは、MP2(実MP)における同一性(自我)=物質形成の根本的力学である。それは、凸iが主導する、そして、凹iを支配する原理である。
 この問題は当然、不連続的差異論初期の段階に戻るものである。
 即ち、連続的同一性の力学である。これは、端的に、凸iが主導する力学であり、差異(絶対的差異・内的他者)である凹iを同一性で支配するのである。
 つまり、連続性とは同一性力学のことである。同一性がmedia pointを支配するのであり、そのとき、被支配の差異凹iは、個的自由を求めつつも、同一性支配下にあるために、純粋差異になることができないのであ る。言い換えると、常に、同一性に付きまとわれているのである。
 この差異と同一性の混淆状況を見事に捉えたのが、デリダ哲学と言えよう。差延という用語に表象されていると言えよう。
 しかしながら、これは、連続性、連続的同一性力学の支配下の様態に過ぎないのである。
 この事態において、不連続化が至高の意義をもつのである。それは、凸iの支配を断ち切る、切断することである。そのとき、もはや、凸iが凹iを支配することはなくなり、凹iは差異(純粋差異、絶対的他者、個)自身に回帰するのである。
 ここにおいて、凹iと凸iの共生、棲み分けが生起したと言ってもいい。
 凸iは+1との連携において、第一象限を探究するのである。
 そして、凹iは自身の主導化によって、新たな差異共振をもたらし、第四象限へと開けたのである。
 即ち、物質的世界と精神的世界の併存、共生が可能になったのである。
 結局、(差異の)不連続化とは、PS理論で明らかになったように、凸iと凹iとの差異共振(media point)をもたらしたのである。それは、凸i*凹凹i⇒凹(マイナス1)である。あるいは、第四象限への参入である。
 結局、連続性とは物質(自我)化を意味するのであり、これが、人間の自然的原理である。しかしながら、鉱物、植物、動物においては異なるだろう。
 例えば、松の木の生成に、凸iの支配が必要だったのか。そうではなく、それは、Vector Modeと考えられる。
 とまれ、ここは微妙な問題である。
 今の段階では、人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれたのに対して、鉱物、植物、動物においては、差異共振のVector Modeが支配的であると考えられる。
 ならば、連続性とは人間において、生起したものである。正確に言えば、人間の精神において生起したものである。身体は差異共振的であると考えられる。
 結論が出たので、ここで留める。





述語優位と主語優位

テーマ:media point

以下、生成門氏が述語優位と主語優位について興味深いことを書いているので、少し考えてみたい。

第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0)

『モナドの視点とはなんでしょうか?

「おーい」と呼ぶと「おーい」と帰ってくるのが「こだま」です。そのときどう感じますか?

大人なら知識がありますから、それは音の反射ださ!などと物知り顔で言うことになりますが、子供はそうではありません。そこには何か不思議な力が働いているように感じるでしょう。

「響く」感じです。

これがイデアなのです。イデアと言えば犬のイデアとか、リンゴのイデアということになるのが普通ですが、そういうイデアは自己同一イデアであり、自我形成の源泉です。

しかし、ここでは動詞のイデアを考えます。これを述語イデアと呼ぶことにします。子供が感じた不思議な力とは述語イデアだったのです。

これを大人は「山彦」という形に主語化したのです。「山彦」の中に、[響く]を閉じ込めたのです。「山彦」には光は見えません。[響く]には光が見えます。

「山彦」は闇であり、[響く]は光なのです。


http://www.c-player.com/ad00178?rf=notice&pf=pc
シムダンス「四次元能」

直観で言おう。木霊の「おーい」が述語優位ということであるが、「おーい」は、差異共振なのである。自己と一体化している。つまり、凸iを介しつつ、凹iで「響き」を捉えているのである。
 思うに、述語優位とは凹i優位と言えるかもしれない。しかし、凸iが媒介になっている。
 次に、「おーい」を「山彦」にしたのが、主語優位ということであるが、これは、凸i優位と言えそうである。
 ただし、第一象限の事象でのことである。凸i+1である。
 述語優位ないし凹i優位とは、第四象限に帰属するのではないだろうか。
 今はここで留める。





一神教(超越神)と父権主義の力学
テーマ:media point
Z軸において、凸j*凹j⇒凸iになると作業仮設する。ただし、j*j⇒-iとする。
この数式が一神教、超越神を意味するのではないだろうか。
 では、凸j*凹凹j⇒凹iとなる。この凹iが多神教、母権主義ではないだろうか。
 つまり、

凸j*凹j⇒凸i=the Father=Heaven

凸j*凹凹j⇒凹i=the Mother=Earth

ではないだろうか。
 そして、凹(マイナス1)は、物質を形成するための、原型(イデア)、あるいは、氣、生命体=エーテル体ではないだろうか。
 「原父」は凸j、「父」は凸i、「子」は凸i⇒+1ではないだろうか。(しかし、凸jが「父」、凸iを「子」とする見方もあるだろう。これについてはおいておく。)
 ならば、「聖霊」はどうなるだろうか。端的に、media pointではないだろうか。凸iの支配下において、凹iが開けるとき、media pointが「開花」する。
 そのとき、個において、二つの差異共振エネルギーが流入するのではないだろうか。即ち、凸j*凹凹jと凸i:凹凹iの差異共振エネルギーである。
 前者は垂直的超越エネルギー(「神」)であり、後者は水平的超越エネルギー(氣)である。
 二つ合わせれば、語呂合わせ的であるが、神氣となる。
 ただし、前者の「神」は、「原父」と「原母」の共振であるから、超神、あるいは、新神とか呼ぶべきだろう。
 ならば、超神氣、ないし、新神氣のエネルギーが流入する。そう、media pointとこのエネルギーを併せて、「聖霊」と呼ぶべきであろう。
 以上は思考実験である。

追記:凸j*凹j⇒凸(+1)の方がいいのではないかという考えも浮かぶ。
 思うに、Z軸とY軸は不連続かもしれない。その場合、二つの超越界が存することになる。
 後でさらに検討したい。





検討問題:1)一神教(超越神)とは何か。2)資本とは超越論的同一性ではないのか
テーマ:検討問題
今はざっと述べる。
 1)に関してだが、これは、ガウス平面に直交するZ軸の「存在」に拠るものである。これについては後で詳述したい。
 2)であるが、今はこの問題の方が重要である。
 これまで、資本を同一性として捉えてきた。しかし、優れた資本家は、感性欲望凹iよりも、抽象的知性凸iが優越しているのである。
 この凸iが資本を管理し、活用するのである。
 同一性は凸i+1である。それに対して、凸iは超越論的同一性と考えられよう。
 ここが資本ないし資本家の存する位置である。
 だから、本来、物質主義的ではないのである。それは、物質を活用する精神である。
 そう、資本家は超越論的同一性精神をもつのである。
 では、これとカントとヘーゲルの哲学はどう関係するだろうか。
 思うに、超越論的同一性とは正に、カントの超越論的形式と一致しよう。
 ヘーゲルであるが、弁証法で言うと、その精神とは、正に、カントの超越論的形式と一致すると思う。
 故に、
 
超越論的同一性=カント超越論的形式=ヘーゲルの精神

となろう。
 これが資本、資本家の精神である。
 これは決定的に唯物論とは異なるのである。マルクス、エンゲルス、レーニンはまったく理解していなかったのである。
 さて、この超越論的同一性精神であるが、これは、1)の一神教の問題、ないしは父権主義の問題と通じるように直観される。
 つまり、Z軸の+の精神に関係しているのである。これが、凸iを支配しているように思えるのである。
 とまれ、言い換えると、一神教、父権主義の誕生がなければ、資本主義は生まれなかったと考えられる。
 とまれ、超越論的同一性=資本(主義)の問題点は明らかに、他者凹iの無視である。
 他者凹iを認知したときに、資本主義はトランス資本主義となるだろう。
 それは何だろうか。それは、自由共同体的資本主義である。
 今はここで留める。





凹i の視覚と凸iの視覚:ディオニュソスとアポロ:二つの視覚とそれらの芸術・アート
テーマ:art & design
私は洋楽ポップス、とりわけ、多くの人と同様に、ビートルズに没入し、また、学生のとき、クラシック音楽に魅せられて以来、自分が音楽的人間だと思ってきた。 
 そして、つい数年前から、私の自己認識は大変化したのである。つまり、私は美術的視覚主導の人間であったという認識である。
 以前述べたが、ある坂道の途中から下の方の景色を見て、スケッチしたいと思ったのである。そう、絵心が「芽生えた」である。
 そして、最近、視覚美に忽然と目覚めたのである。
 考えると、実は私は、小学生のとき絵を描くのが好きで、親に将来は、絵描きになりたいと述べたのである。貧乏人の家庭であったから、即座に否定された。 そして、それから、ビートルズがやってきた。また、思うに、それ以前に私の精神的感性の変化があった。超越的精神が消えてしまったのである。
 結局、視覚美に目覚めたというは、実際は、小学生の頃の絵画志向が再生・新生・復活したと見るのが的確であろう。
 私は文学がそれなりに好きであったので、それに惹かれた。
そして、その後、哲学等に惹かれた。
 思うに、文学は凹i主導、闇主導の芸術である。そう、音楽もそうである。
 しかし、絵画、美術は微妙なところがあり、凹iが土台にありながら、凸iが主導的なのである。
 そう、ニーチェの『悲劇の誕生』の視点は実に天才的であったと言えよう。
 そう、音楽はディオニュソスで、美術はアポロである。これは、前者は凹i的であり、後者は凸i的であると言えよう。
 結局、芸術の極性があるということである。それは、闇と光の極性である。
 しかしながら、先述したように、近代は凸i、そして、凸i+1が主導であり、凹iを喪失したと言えよう。
 あるいは、両者の分裂が生起したと言えよう。
 思うに、T. S. エリオットが「感性の乖離」で述べたことはこの事態と言えよう。凹iと凸iの分裂である。
 そして、美術は凸i主導なので、科学に「伴われて」進展したと言えよう。
 それに対して、音楽や文学は凹i主導なので、科学からは分離したと言えよう。
 これは、C.P. スノウの述べた、「二つの文化」の事態を意味しよう。
 結局、この乖離・分裂した事態は超克されなくてはならないのである。それは、PS理論では、media point(差異共振)を意味する。
 そう、凸iの支配によって、凹iは弱化させられていて、凹iを取り戻すのは難しい。とりわけ、日本において。
 端的に、闇の視覚・凹i・ディオニュソスと光の視覚・凸i*アポロの極性、media pointを復活させるべきでなのである。
 そう、闇の光と光の光があるのであり、今日、光の光が独裁しているのである。
 そして、美術の復活とは、実は、闇の光の復活に拠ると言えよう。ディオニュソスがなければ、アポロは浅薄・皮相なのである。
 そして、音楽・文学も同様である。それらの根源である闇の光を取り戻さなければ、アポロ・科学の文明の支配に屈して、滅びるしかない。
 とまれ、二つの視覚、闇の視覚と光の視覚、それらの共振的視覚を取り戻さないといけない。


参考:ルネ・マグリット『光の帝国』







Z軸の差異共振:凸j*凹j⇒凸(+1)
テーマ:media point
先に、j*j⇒-iとした。
 即ち、

凸j*凹j⇒凸i

とするためである。
 しかし、単純にj*j⇒-1としていいように思う。
 即ち、

凸j*凹j⇒凸(+1)

となるのである。
 これが、例えば、イエス・キリストの現象物質界への顕現を意味するように思えるのである。物質的身体となった神霊である。
 そのとき、左辺の凸jが「父」ではないだろうか。そして、凹jが「母」である。
 そして聖霊とは、凸i*凹iの虚MP(MP1)の差異共振エネルギー、即ち、氣=生命エネルギーではないだろうか。
 ガウス平面が氣を含めて自然界である。そして、Z軸の世界が精神界ということになろう。
 そして、ガウス平面をY軸を中心に1/4π回転したものが、いわば、精神平面となるのではないだろうか。
 こここそ、霊界、天国も地獄があるのではないだろうか。
 とまれ、微細には今は考察できない。






2012年02月14日(Tue)▲ページの先頭へ
三次元的media point:差異共振は垂直的超越性に通じる?
三次元的media point:差異共振は垂直的超越性に通じる?
テーマ:media point

差異共振は⇒凹(−1)に通じると言った。それは、水平的超越性である。
 しかし、ふと思ったのは、即非共振(「わたし」は「川」であり、且つ、「川」ではない現象)が起こったとき、超越的気分があると言い、それは、水平的超越性的であると述べたが、果たして、それだけでなく、垂直的超越性も入っているのではないかということである。
即ち、差異即非共振様態において、未知の超越性が進入しているということになる。
 思うに、水平的超越性と垂直的超越性をこれまで、人類は混同してきたのかもしれない。
 私がコスモスというとき、それは、超越的宇宙であるが、それは、垂直的超越性を含んでいるだろうが、氣から見ると、凹(−1)の水平的超越性になる。
 とまれ、作業仮説として、差異即非共振において、単に、水平的超越性(凹)が喚起されるだけでなく、垂直的超越性(Z軸)が喚起されるということを提起したい。
 そのように考えると、media pointは三重、三次元になると考えられる。Z軸のmedia point、Y軸(虚軸)のmedia pointである。
 正確に言えば、Z軸とY軸の形成するmedia pointとY軸とX軸の形成するmedia pointである。それだけで見れば、二重、二次元的になるが。
 三重、三次元であるということは、Z軸主体のmedia point、Y軸主体のそれ、X軸主体のそれの三つのそれが考えられるからである。
 ところで、先に、Z軸からY軸へと転換するように考えたが、実は、Z軸からX軸へとダイレクトに転換する場合があるのではないかということを思ったのである。
 超越的精神がダイレクトに物質界に参入することである。今思ったのは、イエス・キリストの場合である。あるいは、預言者の場合である。あるいは、シャーマンの場合である。あるいは、モーツァルトのような天才の場合である。
 そのように見ると、Z軸は超越軸、精神=霊軸である。霊界というのは、おそらく、Z軸に存するのである。
 都合により今はここで留める。





−1(凹)とは何か:水平の超越性と垂直の超越性:存在の超越性と精神の超越性:凸j*凹j⇒凸i?

テーマ:media point

 かつて、「わたし」は「川」(「木」、「山」)であり、且つ、「川」ではないと言い、その後、「わたし」と「川」は一如(いちにょ)であり、同時に、「わたし」は「わたし」、「川」は「川」と言った。
 この差異即非共振様態は、media pointで発現するものである。このとき、凸i*凹凹i⇒凹(−1)が発出しているように思えるのである。つまり、media pointの即非共振態は同時に、凹(−1)を志向していると思えるのである。
 凹(−1)は物自体かもしれない。私が個物に感じる特異性はそれではないだろうか。つまり、超越的個物である。そして、それは、超越的存在である。ある いは、氣的存在と言えるかもしれない。氣の宇宙である。【先に、「浅い平面と深い平面」について述べたが、深い平面は凹(−1)を内在しているのではない だろうか。例えば、セザンヌのリンゴの絵である。これはおいておく。浅い平面と深い平面:実MP(MP2)の現象光と虚MP(MP1)の精神光 )http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11164064137.html
 問題はそれが「神」なのだろうか、ということになる。思うに、凹(−1)は水平的存在であり、垂直的と考えられる「神」とは異なるのではないだろうか。「神」だとしても、低位の「神」ではないだろうか。
 ここで上述の差異共振現象を再度考えよう。「わたし」(凸i)は「川」(凹i)である。あるいは、「わたし」と「川」は一如であり、同時に、「わたし」は「わたし」であり、「川」は「川」である。
 この即非態にあるとき、一種の超越的精神(気分)にあるのは否定できないだろう。
 この超越的気分は果たして何か。それは、⇒凹(−1)の志向性なのだろうか。思うに、超越的存在がそこに感じられているのではないだろうか。ならば、そ れは、⇒凹(−1)への志向性である。一(いつ)の超越的存在である。(ところで、ロレンスが考えた「父」への志向は一への志向であり、この方向ではない だろうか。)
 とまれ、⇒凹(−1)への志向性を超越的一への志向性、水平的超越性の志向性と呼んでおこう。
 では、垂直的超越性とは何か。
 これは感知が難しいものである。外的存在、内的存在に囚われる限り、感知されないと考えられる。
 垂直的超越性とは超存在性である。純精神性である。そう、超越的精神性である。
 ここがシュタイナーの精神学の本拠地ではないだろうか。シュタイナーの主著の一つの難解な『神秘学概論』を読むと多様な根元霊が存して、それらが、情報 的エネルギーを注入して史的に森羅万象、宇宙を形成していく姿が描かれているのである。ファンタジーのような世界である。
 ガウス平面に直交する垂直軸Z軸を考えて、虚数を凸izと凹izとする。簡略化して、凸zと凹zにする。あるいは、凸jと凹jだろう。
 凸j*凹jを凸iとしたいのだが、凸j*凹j⇒凸(+1)となるだろう。だから、j*j=-iと作業仮説しよう。すると、
 凸j*凹j⇒凸iとなるだろう。
 ここで想像であるが、凸jが天の父であり、凹jが地の母ではないだろうか。しかし、天の父凸jは地の母凹jの投影であろう。
 今はここで留める。以上、思考実験である。




浅い平面と深い平面:実MP(MP2)の現象光と虚MP(MP1)の精神光

テーマ:art & design

いかにも平面的な作品がある。そこには深さ、厚み等がない。表層的である。(ドゥルーズ似非哲学は表層を説くが、それは、いかにもポスト・モダンであり、皮相であった。)
 結局、現象・物質光の様相のイメージであり、media point本来の深さ、高さはない。
 これは凸i主導による凹iの排除が原因と考えられる。
 結局、ハイパー・モダンである。トランス=サブ・モダンはないのである。
 現代日本人の精神的な最大の危機はここに存するだろう。凹i(陰=肚)を測深できていないのである。
 光=自我でありつつ、闇=他者を取込まないといけないのである。
 闇=他者が欠落しているために、イメージは実MPの現象光のレベルとなり、平面に留まるのである。精神の垂直性が欠落しているのである。
 今は余裕がないので、十全に述べられないが、近代の光は発生源には、本来、凹iの闇があったはずである。
 ルネサンスは凹i⇒凸iのベクトルがあったはずである。そして、デカルト主義によって、凸i+1の近代合理主義(唯物論)の世界が形成される。そう、根元の凹i=闇=肚が否定されたのである。
 デカルト主義はルネサンスの精神の光を現象=物質の光の変容してしまったのである。
 この結果が上記の浅い平面の作品であると考えられる。
 日本における凹i=闇=肚の否定は歴史的には、戦後の米国主導の近代合理主義に拠るだろう。日本人は自己文化を棄てたのである。
 しかし、近代の根底には、凹i⇒凸iのベクトルがあるのであり、凹i=闇=肚が潜在しているのである。
 それを現代日本人は認識し、精神陶冶すべきなのである。
 ここに回帰しない限り、日本人には滅亡しかないだろう。それは、自己文化に近代の光を介して回帰することである。
 今はここで留める。





母神(女神・母権)の光と父神(男神・父権)の光

テーマ:media point

神話学者のジョーゼフ・キャンベルの視点から、母権的神話の太陽(光)と父権的神話の太陽(光)が異なることが了解できた。
 これは決定的な視点である。前者はPS理論から言えば、media pointの光を意味しているのであるが、後者は凸iの光である。的確に言えば、凸i→+1の光である。
 それは現象光である。物質的光である。
 それに対して、母権的神話の太陽(光)は、差異共振の光である。虚MP(MP2)の光である。私の言葉では、超越光である。
 わかりやすく言えば、母権的神話の光は内的光(内的太陽)であり、父権的神話の光の外的光(外的太陽)である。
 結局、西洋文明において、父権的光=太陽が支配的になったである。
 しかしながら、西洋文明は母権的光=太陽を内在しているのである。それが個の原理である。この問題はおいておこう。
 父権的光=外的光が主導的になると唯物論が生まれる。精神が外化するのである。そして、それが、西欧近代文明の基本的原理である。
 問題は、否定された母権的光(太陽)である。先にそれを原始差異共振と捉えた。そして、その反動的復興がロマン主義であることを述べた。
 そう、母権的光の単純な復興は反動的である。父権的光(外的光)の支配の下において、新たな差異共振(media point)を探究しないといけないのである。
 凸iの支配原理において、他者である凹iを新生しないといけないのである。
 凸iは自我の原理である。それが、凹iと結びついて、自己原理となる必要があるのである。それが個化である。
 もっとも、凹iを見出すのは至難の業である。もっとも、私見では、凹iが今日普遍的に活動しているので、以前よりは、知覚しやすいだろう。
 結局、凹iの発見は西洋と東洋の結合を意味する。それは、新しい東洋である。
 そして、そこで生まれる光(新光)は、いわば、父権的光と母権的光の結合したものである。New lightである。絶対的高濃度の光である。
 そして、思うに、そこに「父」の原理が存すると思われる。キリスト教三位一体の「父」は凸iに過ぎなかったと思う。そして、「母」は凹i、凹である。
 この新しい「父」は聖霊だろう。
 後でもう少し述べたい。
 




神話学者ジョセフ・キャンベル:シュメール・ケルト・アジア・環太平洋母権大文明圏

テーマ:mythology

私が神話学だけでなく、知的にもっとも影響を受けた学者の一人はジョセフ(発音はジョゥゼフが正しいが)・キャンベル(私に前父権文明として大女神・母 神・母権「文明」があることを知らしめ、目を開かせてくれた、知的大恩人である)であるが、美術史家のケネス・クラークと同様に、直観でケルト系と思った が、やはり、そうだった。
 キャンベルCampbellという姓がスコットランド系である。
 そう、ケネス・クラークは両親がスコットランド人である。
 アングロ・サクソンとはまったく異なり、ケルト民族の血=知は、私見では、今日的には現代日本人のそれよりも、高濃度にアジア的である。
 PS理論との関係から言うと、ジョセフ・キャンベルは、永遠の極性eternal polarityという概念を神話から取り出している。これは、正に、陰陽、凸i*凹i、差異共振=media pointである。

The Power Of Myth - The Heros Adventure (Part 1)


参考:
ジョー ゼフ・キャンベル(Joseph Campbell、1904年3月26日 - 1987年10月30日)とは、アメリカの神話学者、文学者、講師である。 比較神話学や比較宗教学でよく知られる。彼の作品は広大で、人間の経験に基づく多面的なものである。彼の人生観は、しばしば「至上の幸福に従え」という一 文に要約される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB

Joseph John Campbell (March 26, 1904 – October 30, 1987) was an American mythologist, writer and lecturer, best known for his work in comparative mythology and comparative religion. His work is vast, covering many aspects of the human experience. His philosophy is often summarized by his phrase: "Follow your bliss."[1]
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Campbell


参照:
Campbell Family Crest and History
http://www.houseofnames.com/campbell-family-crest

参考1:
スコットランドの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ス コットランドの歴史(英語表記:The History of Scotland、スコットランド・ゲール語表記:Rìghrean na h-Alba)は、およそ10,000年前、デヴォンシャー氷期の終わりごろに人類が初めて移住してきた時期に始まる。スコットランドはヨーロッパ最古の 歴史をもつ王国とされるが、1707年以降ブリテン連合王国の一部の地位に甘んじてきた。しかし、近年自治が拡大されてきており、連合王国からの分離を求 める声も少なくない。

石器時代・青銅器時代および鉄器時代に存在したスコットランドの文化は、多くの遺跡や出土品を残したが、文字史料は 皆無である。スコットランドの歴史時代(文字史料の存在する時代)はおおよそローマ帝国のブリテン島侵攻の時期からである。ローマはイングランド・ウェー ルズにあたる地域を属州として支配したが、カレドニアとよばれた北方地域にまでは及ばなかった。カレドニアにはピクト人が勢力を張っていた。以前は、ス コットランドは高度な文明の存在しない周縁地域であり、地中海発祥の文化がゆっくりと浸透していったと考えられていた。しかし、相次ぐ考古学的発見から、 独自の高度な文化をもっていたことが明らかになった。特に北欧など外洋との関係はスコットランド史に大きな影響を与えた。

スコットランド の歴史はまた、比較的強大な南の隣国すなわちイングランドとの争いの歴史でもあった。イングランドとの間でたびたび戦争がおこり、このことがフランスなど ヨーロッパ列強との同盟や交易をさかんにした。合同法によるイングランドとの合同、啓蒙思想の普及や産業革命をへて、スコットランドはヨーロッパのなかで も有数の商業地域となった。第二次世界大戦後スコットランドの経済的凋落は著しかったが、北海油田からの収入などがあって近年ふたたび盛り返してきてお り、ブレア政権の地方分権政策のもと1998年、スコットランド議会がおよそ300年ぶりに復活した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2





物質的半円と氣的半円:精神的世界としての虚軸世界とZ軸世界

テーマ:media point

今は単に思いつきだけであるが、人間認識図の右半円は物質的世界であり、左半円は氣的世界ではないだろうか。
 一応、これを作業仮説として少し考えたい。
 私はこれまで、氣は虚MP(MP1)に存すると考えてきた。虚MP(MP1)
は、同時に、マイナス1(凹)と通ずる領域である。
 そして、自己とは、氣の変化したものと捉えた。即ち、

(凹i/凸i)*(凸i/凹i)⇒凸(+1)

である。
 しかし、氣は凸i*凹i⇒で表現される。そして、これは、

凸i*凹凹i⇒凹(−1)

と変化する。
 以上から、私はこれまで、氣=精神と捉えてきた。
 しかしながら、精神は氣以外である。
 シュタイナー精神学は、氣=エーテル体(エーテル身体)とし、精神的感性をアストラル体、自己知性を自我としている。
 私は氣の変容で自己を説明しようしたのであるが、果たして、それは可能であったのか。やはり、氣は氣であり、純然たる精神の世界ではないように思えるのである。
 そこで、上述した作業仮説を述べることになるのである。即ち、PS理論的オイラーの公式/ガウス平面において、右半円が物質的身体(物質的世界)であり、左半円が氣的身体(氣的世界)であるということである。
 そうならば、生物的身体において、神経は+1の線分、経絡は−1の線分になるのではないだろうか。
 そうすると、ヨガのチャクラはどうなるのだろうか。チャクラは氣にも関わるが、基本は精神(霊)性である。
 そうすると、それはどこに位置するのか問題である。これまで、私は、虚MP(MP1)、つまり、虚軸の差異共振において考えてきた。
 しかしながら、これでは、氣と区別がつかないのである。
 やはり、ガウス平面に直交するZ軸=超越軸=精神軸(霊軸)を設置した方が適切だと思われるのである。
 そうならば、Z軸は自己軸でもある。また、それは、個軸とも言えるだろうか。当然言えるはずである。だから、Z軸=超越軸=精神(霊)軸=自己軸=個軸(=他者軸)となる。
 私はシュタイナー精神学とPS理論を合わせる為、凸iの極限にアーリマン、凹iの極限にルシファーを考えたが、それは、Z軸=精神軸にあると見るべきで はないだろうか。その方が、自己精神を規定しやすいだろう。Z軸のアーリマンという超越的存在のために、凸iの極限化が生起し、原自我(純自我)が存し、 Z軸のルシファーという超越的存在のために、凹iの極限化が生起して、原他者(純他者)が生起したと見ることはできないことではないだろう。
 そう見ると、Z軸的世界が真の精神的世界・次元となるだろう。そして、それがシュタイナーの説く霊的世界ということになるだろう。
 思うに、右半円が物質世界ならば、左半面は生命的世界ととなるあろう。植物的世界である。
 そして、シュタイナーに従えば、+Zが自己体であり、−Zが動物体となるのかもしれない。前者が超光で後者は超闇なのだろうか。
 そう、シュタイナーが説いたゾロアスター=キリストとは、この+Zのことかもしれない。
 今はここで留める。


参照:人間認識図
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


 



2012年02月07日(Tue)▲ページの先頭へ
原始(初期)差異共振とトランス・モダン的差異共振
原始(初期)差異共振とトランス・モダン的差異共振
テーマ:manichaeism: 哲学

先に、近代教育(正しく言えば、近代合理主義=唯物科学教育)を受ける以前には、連続性(連続的自己=自我)と原始差異共振が併存していると述べたが、後者はまだ明確にしていないので、検討したいが、今は予見のみである。
 原始差異共振とは未だに、凹iの主導性が残っている精神における共振様態(media point:以下、差異共振とmedia pointをほぼ同一視している)であると考えられる。
 逆に言えば、近代主義は明らかに、凸i+(プラス1)であり、凹iの主導性を否定するのである。つまり、近代主義は凸iに主導性があるのである。
 だから、明らかに、近代主義とは精神的価値逆転を意味するのである。近代的精神進化と言えよう。
 少しまとめると、近代以前においては、凹iの主導性があり、それによって原始差異共振(primitive media point:以下、pmp)が生起し、それが一般自然的な連続性(連続的自己)と併存した精神様態であったのであるが、近代的精神進化によって、凹iの主 導性が失われて、凸iが主導的になり、凸i+(プラス1)の近代的自我(近代合理主義的精神)が形成されたということである。
 近代進化によって原始差異共振pmpは失われたと言ったが、それは、否定され、排除され、潜在的様態になったと考えられる。
 そして、凸i+1の近代合理主義の邁進が起こったのであるが、文化史的には、それに対する反動の神秘的ロマン主義が起こったのである。これは、反動というのが的確である。何故なら、それは、原始差異共振pmpの後れた様態の再生であるからである。
 結局、凸i+1、ないし凸iの主導性において、新しい差異共振が起こらなければいけないのである。
 トランス・モダンとは、正にこのことである。凸i+1の支配において、新たに凹iを開拓することを意味する。
 この新しい凹iの開拓において、超越的理念(超越的精神)が形成されることになるのである。それが、復活したプラトン主義(超越論哲学)である(カントやフッサールがこの系譜である)。
 つまり、トランス・モダンとは、近代合理主義の支配における超越的理念、超越論哲学の形成を意味するのである。しかし、それは、新しい差異共振、超越論的差異共振、ないし、transcendental media point(以下、TMP)をもつのである。
 だから、この新たな差異共振、TMPは、原始差異共振とはまったく異なると言えよう。
 つまり、前者は知的な差異共振であり、原始差異共振の感情主導性とはまったく異なるということである。丁寧に言うと、知的差異共振は感情を包摂した超越 論的差異共振ということである。換言すると、凹iの主導性と凸iの主導性が結合した様態、即ち、絶対的即非共振であるということである。原始差異共振のと きは、凹iのみが主導的であったのである。
 さらに言い換えると、トランス・モダン差異共振とは、凸iと凹iとの完璧な調和的な、結晶的な共振を意味するということである。黄金の光がここにはあるだろう。そう、新しい太陽である。
 今はここで留める。






ハイパーな凸iから凸i(純光)へと移行したD. H. ロレンス文学・哲学:母権的父権主義
テーマ:media point

先に以下のように、ロレンスの中期までを解明したが、肝心の後期(晩年期)について述べていないので問題であるので、ここで簡単に触れたい。
• D. H. ロレンスの「王冠」哲学の父権的傾斜力学:凸iの父権的自我の支配原理
先にロレンス中期のリーダーシップ小説期において、父権主義に傾斜したと述べたが、その後、ロレンスの思考は急展開して、母権主義へと傾斜するのである。それが、『死んだ男(逃げた雄鳥)』に表出されているのである。
 つまり、凸iの+1への傾斜を乗り越えて、凸iの含む、凹iへとロレンスは帰還したと考えられる。 つまり、純光の凸iへとロレンスは帰還・回帰したのである。
 これは、『黙示録論』の最後の言葉Start with the Sunに集約されていると言わざるをえない。
 凸iの超出(これは、全体主義に通じよう)を乗り越えて、ロレンスは、凸iの意味する凹iへと回帰したのである。
 まぁ、正に、驚くべき思考の成就である。ゲーテ/シュタイナーは、凸iの奢りを知らないのである。
 そう、光の奢りである。しかし、同時に闇の奢りである。この揺らぎは、今日的である。ゲーテ/シュタイナー路線は、優等生的で民衆的ではないのである。
 ロレンスの発想はゲーテのものに近いが、何故ロレンスがゲーテを嫌っていたのか、今や理解できる。
 即ち、ゲーテはいわば健全的過ぎたのである。民衆のもつ、「揺らぎ」が欠落しているのである。
 ロレンスのように、凸iにおいて揺らぐ方が本来的であると言えよう。
 揺らぎのないゲーテ/シュタイナーは実は胡散臭いのではないだろうか。






D. H. ロレンスの「王冠」哲学の父権的傾斜力学:凸iの父権的自我の支配原理
テーマ:manichaeism: 哲学

D. H. ロレンス文学・哲学は、前期において、三位一体論を創造的に活用した「王冠」哲学を構築した。それは、先に述べたように、ライオン(父)VSユニコーン(子)の極性対立とそれを超克する王冠(聖霊)の力学をもつ。
 しかし、中期(リーダーシップ小説期)において、ロレンスは強く父権主義に傾斜するのである。哲学的には、「王冠」哲学とは、陰陽的な原理であり、それ の特異点において、両者の相克が超克されて「聖霊」状態になるというものであり、あくまで、バランスを志向していたのであるが、中期において、バランス的 原理が崩壊して、父権主義、つまり、ライオン(父)へと傾斜して、ユニコーン(子)は否定されるようになるのである。
 私はこの原因を明確にはこれまで把握できなかった。しかしながら、先の生成門氏の鋭敏な洞察によって、道が開けたのである。(参照:感覚の至高体験凸iと凹iの関係:極限の凸iは凹iと共振する:ロレンスの光と闇の王冠哲学について
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11150299525.html)
 つまり、ロレンスのライオン=父=感覚=闇とは、実は凸iの純光がベースにあるものと考えられるのである。そうすると、それは、当然、自我的になり、父権的なのである。
 故に、王冠哲学とは、精神性(ロレンスの闇)と物質性(ロレンスの光)の相克を意味することになるのであるが、物質主義、唯物論を憎んでいたロレンスで あるから、第一次世界大戦の大惨禍等を衝撃的に体験して、その力学が強く精神性に傾斜したということが十分納得のできることなのである。
 思うに、ロレンスの問題点は、一角獣=子=精神=光を中期において、物質主義に結びつけてしまった点にあると思う。
 思うに、本来、それは凹iの他者であるべきなのである。しかしながら、凸iによる同一性化を受けた凹i(物質)をロレンスはそこに見ていると考えられる。
 つまり、おそらく、初期哲学、王冠哲学においては、ユニコーン=子=精神=光はまだ、物質主義とは強固に結びついてはいなかったと思われる。単に精神的原理だった思われる。
 しかしながら、凸iの支配(自我支配)をもつロレンスであるから、当然、ユニコーン=子=精神=光の原理が物質主義、物質科学、機械文明に結びつくのは必然性があったと言えよう。
 そう、結局、王冠哲学の問題、ロレンス哲学の問題は、凸iの支配にあると言えよう。それは純光であり、また、純自我である。その自我は当然父権的であるからこそ、中期において、ロレンスは父権主義に傾斜したことの力学がここで解明されたことになるのである。 







色彩とは何か:純色彩と濁色彩:虚数(精神)的色彩を解放せよ!
テーマ:art & design
今は簡単に述べる。
 先に色彩を解放せよと提唱したが、その色彩は単なる色ではない。私のファッション・センス(あればの話だが)から言うと、一般に現代日本人の色彩感覚は濁っているのである。
 私の言う色彩はいわば純色彩である。清澄な色彩である。つまり、純光と純闇の共振による「純色」的色彩である。
 言い換えると、精神的色彩である。あるいは、魂的色彩である。ルドルフ・シュタイナーが多くの色彩論を述べているが、私の直観は少し異なる。
 おそらく、イタリア人は私のいう色彩、純色彩をほぼ理解するだろう。しかし、やはり、少し違う。
 基本的には自然にある色彩である。それは澄明で美しいのである。しかし、今日の日本人の多くの色彩感覚は濁ったものである。
 PS理論から言えば、凸iの純光と凹iの純闇の共振した「光」の色彩、その「光」のスペクトラムである。
 つまり、陰凹iと共振した陽凸iの光の色彩なのである。この色彩感はルキノ・ヴィスコンティが映画で表出していると思う。彼の色彩感の深さ、高濃度は、驚異的である。
 思うに、ここでも、虚数(精神)濃度が使用できる、すべきであろう。あるいは、生成門氏のオイラーの公式/ガウス平面的精神マップが使用できよう。
 つまり、純粋虚数濃度、実数絶対ゼロ度のガウス平面である。
 しかし、マイナスの実数は純度が増すのではないだろうか。これは検討課題である。
 結局、虚数(精神)的色彩を解放せよというのが私の本意・真意である。

参考:

ルキノ・ヴィスコンティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2012年02月01日(Wed)▲ページの先頭へ
純光と現象光:凸i(純光)*凹i(純闇)⇒凸(+1)の⇒起点が純光で終点が純闇である:仮説
ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11150288276.html

先に以上のように生成門氏の独創のGPS(ガウス平面位置数式)を提示したが、これは、凸iの純光と実MPが起点の現象光との連関を提示できるものではないかと思う。
 つまり、実MPにおいて、現象光が発出するが、それと純光凸iとの関係が明確ではなかったからである。
オイラーの公式

 e^iθ=cosθ±sin θ

を生成門氏は

e^iθ=a+bi

に変化させている。
 これを利用すると、純光はi、ないし凸iであり、現象光は、a又はbiではないかと考えられる。
 最初、現象光はaではないかと思ったが、思うに、aは物質成分ではなかろうか。
 つまり、

e^iθ=a+bi=物質成分+光成分(精神成分)   ・・・ A

ではないだろうか。
 もし、そうなら、問題は、光成分biの意味合いである。これは、現象光としての光成分ではないかと思われるのである。
 純光は凸iであり、biではないのである。このbの係数が、いわば、不純成分であると思われるのである。(つまり、実数は-1から、+1の間である。ただし、ゼロは除外する。)
 だから、A式は、

e^iθ=a+bi=物質成分+現象光成分(精神成分) ・・・ B

となるのではないだろうか。 
 言い換えると、現象界においては、光は現象光へと変容していて、精神の光である純光はほぼ不可視であることになろう。
 思うに、夜明けや日没が純光に近いのではないだろうか。つまり、曙光は、闇から光への転換時であり、凸i、純光に近く、また、夕日は光から闇への転換時であり、凹i、純闇に近く、そのため、逆に、純光を示唆するのではないのか。
 少し整理すると、凸i*凹i⇒凸(+1)において、⇒の起点は純光であるが、終点・尖端は現象光であると言えるのではないだろうか。
 今はここで留める。


自己と自我:虚数(精神)濃度と連続/不連続概念
自己と自我:虚数(精神)濃度と連続/不連続概念

テーマ:media point

最近、自我病とでもいうべき問題を抱えている人が多いと感じたので、この点を復習になるが簡単に述べたい。
 端的に、問題点は連続性にあるのである。つまり、原精神、本精神、純精神の凸i*凹i(陽*陰)の二元性が実MP(精神的フィルター)によって、連続化されて自我が形成されるのである。
 本来、凸iと凹iは不連続であるが、それが、現象化したときに、連続態となるという倒錯を帯びるのである。つまり、現象存在としての人間は本来、本来の自己精神を喪失した存在なのである。これは、仏教等や哲学が説いてきたことであるが。
 ここでだいぶ以前に述べたユング心理学批判を再説するのは意味がある。
 ユング心理学のキー・ポイントは自我と自己(無意識、魂)との融合、結合、統合を説き、それが、個性化であるという点である。
 しかし、自我と自己との融合は、PS理論の視点からは、連続性を意味するのである。自我と自己という本来、不連続なものを連続化するのがユング心理学なのである。それは、精神を分裂させたままにするだろう。批判はここで留める。
 さて、PS理論では、自我と自己(ないし個)との不連続性を説くのであり、また、自己精神の凸i*凹iの陰陽的二元論、極性論を本来的なものとして考えている。
 前提は不連続性である。それは、自我と自己(個)とを能動的に切断することを意味している。これは、精神力学である。
 だから、PS理論的精神様態とは、自我的側面(物質的側面)と自己(個)的側面の二面性が併存しているのである。しかし、これは分裂ではない。
 何故分裂ではないかと言えば、自己本来の基盤、差異共振性を基礎して、その上に自我機能をもつからである。主は自己(個)であり、従は自我である。
 以上、簡単にPS理論的自己哲学を説明した上で、今日蔓延する自我病(造語)について簡単に述べよう。もっとも、以上の説明に既に答えは出ているが。
 結局、自我病とは、精神の極性を否定して、自己が連続化していることにある。つまり、自己の自然の現象態のままであり、自己陶冶を行っていないのである。
 他者である凹iが原自我・純自我の凸iに連続的に服しているのである。そのために、他者を暴力的に自我同一性化してしまうのである。つまり、他者を否定するのである。
 これは、ホッブズの万人の万人に対する戦争状態である。現代日本の社会生活、日常生活は完全にこのようなものとなっている。もっとも、少数の目覚めた(「ブッダ」)人たちがいるが。彼らが地の塩である。
 自我病の人が他者を自我中心的に攻撃するのである。それで、社会関係がささくれ立つのである。そして、自我(複数)がバラバラに存在して、社会はもはや共同体としての機能を喪失して、「民主主義」的権力が自我利益を出汁にして支配しているのである。
 自我人(造語)は、基本的には愚劣なので、自我を支配する権力者を選ぶのである(典型が小泉元首相)。そう、自我は正に、無明なのである。真理が見えていないのである。
 とまれ、連続性の誤謬と不連続性と差異共振性の基本的真理を説いたが、これとKaisetsu氏の虚数(精神)濃度概念はどういう関係になるだろうか。
 結局、不連続性/差異共振的自己の人間は虚数(精神)濃度が高い人(高濃度)であり、連続性の自我の人間はそれが低い人(低濃度)と言えるだろう。
 しかし、両者にはアルカリ性と酸性の違いがあるように、決定的な質的差異がある。
 不連続性/差異共振的自己(個)の人間はいわば、絶対的的高濃度人間と言えるのではないだろうか。あるいは、超越的高濃度人間である。
 水の三態で言えば、気化した人間であり、氣的高濃度人間とも言えよう。
 あるいは、光のモードで言えば、純光(*純闇)の人間と闇の人間の違いとなるだろう。
 とまれ、時代は明白に黙示録的様相を呈してきた。光の人間と闇の人間に明確に分かれてきた。
 最後に一言言うと、女性は本来、凹iをベースにしているので、不連続性/差異共振性を先天的にもっていると考えられる。しかし、男性主義・父権主義支配のために、それを否定して、自我主義に染まっている女性が今日多数であると思われる。
 しかし、本来的なものはいつまで否定されているわけではない。それは時代の力によって、新たに目覚めると考えられるのである。
 そう、女性ルネサンスである。
 
追記:自我病についてもう少し説明する必要がある。それは、うつ病とも関係する。つまり、自我的同一性が強力で、精神(精神魂)を否定すると、その否定された精神が反動的に自我を突発的に発作的に、そう狂気的に襲うと考えられるのである。近代的自我、近代合理主義がハイパーになった今日、否定、排除された精神(精神魂)が否定的衝動となって自我を襲うのである。それは端的に狂気である。
 その反動的精神力学であるが、それは、精神の極性力学が否定されているために、その極性力学が否定的エネルギーとなって自我を襲うと考えられるのである。
 うつ病の場合は、積極的な精神極性力学が否定されたままで、氣的エネルギーを喪失していると考えられる。しかし、今言ったことからわかるように、うつ病は攻撃的エネルギーを潜在していると考えられるのである。あるいは、鬱状態と反動的衝動が併存していると考えられる。
 結局、時代は精神の覚醒を要請していると言えよう。大都市はきわめて危険である。それは、物質支配であるからだ。
 自然のもつ精神エネルギー(氣)の環境に生きるべきである。機械物質文明は精神エネルギーを排除しているので、自我病を蔓延させている要因である。


追記2:不連続的切断に関してであるが、思うに、私が問題にしている自我病はとりわけ近代教育を受けた人間の陥る症状(広義の精神病)ではないだろうか。もっとも、連続的様態は自然状態であるが、同時に、差異共振の「光」の種子もあるだろう。つまり、精神の自然状態は、原始差異共振様態と連続態が併存しているのではないだろうか。
 しかし、近代教育を受けると、原始差異共振様態が否定されて、連続態が一般的になり、自我病を発症するのではないだろうか。
 結局、この場合、精神を不連続化させて、新たに差異共振精神を形成する必要があるだろう。これは、いわば、トランス・モダン的精神形成である。
 これは虚数(精神)濃度を高くするものではある。しかしながら、高濃度と低濃度には上述したように、質的差異がある。これをどう捉えるのか。
 どうも、閾値があるのではないだろうか。例えば、水の三態において、一気圧では、ゼロ℃で氷結し、百℃で気化する。この場合、ゼロと百が閾値である。
 虚数濃度の場合にはpH7(中性)が閾値と考えられないだろうか。それより高い濃度が精神的人間で、低い濃度が物質的人間である。
 というより、不連続化/差異共振化とは、最高虚数(精神)濃度ではないだろうか。
 そして、生成門氏のオイラーの公式的複素数精神マップ(と呼ぶことができよう)で実数部ゼロのときが不連続化/差異共振化様態と言えるだろう。
 とまれ、不連続化/差異共振化は極限化であり、絶対化、超越化であると言えよう。それは、Kaisetsu氏の唱えるZ軸=超越軸の形成と通じるのではないだろうか。純光と純闇が即非的に共振する純粋様態である。超越光様態である。



Living In The Material World


George Harrison - The Light That Has Lighted The World (demo / Living In The Material World)



   




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