INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2012/01

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2012年01月30日(Mon)▲ページの先頭へ
感覚の至高体験凸iと凹iの関係:極限の凸iと凹iは共振する:ロレンスの光と闇の王冠哲学について
感覚の至高体験凸iと凹iの関係:極限の凸iと凹iは共振する:ロレンスの光と闇の王冠哲学について

テーマ:manichaeism: 哲学

以下の生成門氏の「凸iの至高体験、陶酔、没入といった光の強度が高く、対象との一体感の高い位置」(強調はResurrectionによる)は、D. H. ロレンスの感覚的絶対的体験を解明するものだと直観した。
 私はこれまで、ロレンスのその意味がよくわからなかったのである。確かに、生成門氏のように捉えれば、明晰である。
 また、それで、「わたし」の至高性であるともロレンスが言っていたことも理解できる。
 しかしながら、ロレンスはそれを感覚の「闇」と表現しているのである。これが謎である。
 少し説明すれば、ロレンスの王冠哲学は、ライオンとユニコーンの相克的闘争に基づくが、前者が感覚で、後者が精神である。そして、それぞれ、闇と光なのである。
 今の私の説明は、凸iの至高体験、光の最高強度であるが、思うに、対象との一体感とは、実は他者凹iとの一体感であり、虚MPの差異共振ないし凹を指していると思えるのである。
 だから、最強度の凸iとはとりもなおさず、最強度の凹iとの一致を意味すると考えられる。だから、光=闇の至高体験ということになるだろう。
 つまり、対象との一体感には、凹iとの共振が入っているということである。また、それは、超越的存在(凹、マイナス1)的だるということである。
 そうならば、ロレンスのユニコーンの光、精神はどうなるなのだろうか。ロレンスはそこに、非自我を見て、他者だけの世界としている。つまり、凹iの世界である。
 しかし、そこには、もはや一体感はなく、外部の他者がいるのである。だから、それは、生成門氏の視点では、身体凸(+1)となると考えられる。だから、それは、現象光の光の世界と言えよう。
 つまり、ロレンスはユニコーンの光=精神で凸(+1)を意味しているのであり、凸iの光、あるいは、凸i*凹iの差異共振の超越光を意味しているのではないということになる。
 以上のようにざっと考えて、ロレンスの王冠哲学の長年の謎が解明されたように思う。獅子(感覚=闇)VS一角獣(精神=光)の絶対的矛盾の相克は、実 は、凸iの最強度、最高度と凸(+1)との相克だったのである。そして、凸iの最強度とは、凹iを含むものであり、差異共振化、即非共振化であり、 media point化であり、第三象限や凹を指すものと考えられる。
 また、さらに、ロレンスがキリスト教と近代科学を結びつけて考えていたこともこれで判明する。キリスト教は、王冠哲学では、一角獣=精神=光に当たるの であるが、それは凸(+1)の物質体なのである。だから、近代科学に結びつくことになるのである。(あるいは、ロレンスの光は生成門氏の視点から言えば、 凸iの強度が弱化した位置のもの、凸の強度が増加した位置のものとも考えられる。)
 とまれ、整理すると、ロレンスの感覚=闇(ライオン)は、凸iの最強度による対象=他者との一体性(即非共振)に拠るものであり、最強度の凸iを指していることになる。つまり、最強度の光である。
 それに対して、ロレンスの精神=光(ユニコーン)は、最強度の光はなく、凸(プラス1)が強度も帯び出したときのものである。極限では、凸の最強度の場合である。物質主義である。
 それは、言い換えると、同一性化された凹iであり、物質となった他者のことである。これこそ、正に、近代科学=唯物科学の対象に相応しいと言える。
 結局、ロレンスの闇=超越光だったのである。そして、ロレンスの光=(現象光=)物質的対象・物質体であったのである。
 最後に強度の衰えた光であるが、それは、生成門氏の第一象限の光であり、ロレンスの光に通じるものと考えられるが、それと私が考える現象光との関係について考えてみたい。
 今のところ、二つの考え方がある。一つは、実MPにおいて、超越光が現象光=可視光へと変換されるというものである。これは、差異共振光=超越光とは絶対的に区別される。
 そうならば、この現象光=可視光がロレンスの光に当たると言えよう。(そして、ロレンスの闇は当然、超越光=差異共振光である。)
 もう一つの考えは、実MPにおいて、差異共振は凸i主導性によって作用しているので、凸iの光が現象光=可視光になるというものである。この場合、凸iの光が凹iの闇に衝突して、自己反射して、同一性の光=現象光=可視光を発出すると考えられる。
 この二つ目の場合であるが、現象光は、凸iの原光とは異なると見ないといけない。(先には、同一であると述べたが、訂正する。)
 つまり、凸iの光は差異的光であり、現象光のような同一性的光(物質的光)ではないと考えられるということである。換言すると、差異的光の凸iの光は、 実MPで、同一性の光=物質的光=現象光=可視光に変換するということであり、二つの光の区別が為されなくてはならないということである。
 ここで飛躍して、二つ目の光について考察すると、これはこれまで、原光と呼んだが、純光と呼んでもいいだろう。そして、対の原闇であるが、それも純闇と呼ぶことができる。
 つまり、純光凸iは常に、対極の純闇凹iと極性を形成しているのであり、純光・即非・純闇、極言すれば、純光=純闇である。
 そして、繰り返すことになるが、生成門氏の凸iの至高の光は、正に、純光であり、それは、即、純闇との差異共振=超越光を意味すると考えられる。
 二つ目の考えに戻ると、凸iの純光が主導性となる場合とは逆に、凹iの純闇が主導性の場合がありえるだろう。その結果は当然、光ではなく、「闇」である。問題は、純闇が純光と同様に、自己反射するのか否かである。
 直観では、純闇は純光に当たり、自己反射はしないで、受け止めるのである。純光を受容するのである。つまり、差異共振化するのである。だから、純闇が主 導的な場合は、純光が主導的な場合とは異なり、差異共振=超越光が生起して、第三象限に向うと考えられるのである。(やはり、これが、重力、dark matter, dark energyと関係しそうだ。)あるいは、精神の形成である。あるいは、マニ教の光の種子である。
 まとめると、二つ目の考えをとるとき、即ち、凸iの純光の主導性の場合と凹iの純闇の主導性の場合の二つの場合を想定するとき、おそらく、同時生起的に、同一性光=物質光=現象光=可視光と超越光=精神光=不可視光が発出するのである。
 以上全体を整理すると、一つ目の視点では、超越光と現象光の不連続性を認めて、実MPにおいては、現象光の発出を見ると考える。そのとき、純光凸iは現象光の裏面に隠れているだろう。
 二つ目の視点は、純光凸iの主導性のときは、同一性光=物質光=現象光=可視光が発出し、純闇凹iが主導的な場合は、差異共振光=超越光=精神光=不可視光が同時生起するということになる。
 二つの考えは、結局、一つに収斂するだろう。即ち、純光凸iが主導的な場合は、実MPから現象光が発生するが、現象光にいわば裏面に純光が隠れている。
 そして、純闇が主導的な場合は、実MPは、空となるが、差異共振が生起して、超越光=精神光=不可視光を内発するのである。
 結局、純光凸iと純闇凹iの主導性の変化であるが、基本的には、常時交替していると思われるが、ある時代には、純光が支配的であり、ある時代には純闇が支配的であると言えよう。前者が例えば、近代であり、父権的時代であり、後者は前近代や母権的時代と言えよう。
 結局、問題であった、純光凸iと現象光(実MPの光、又は、⇒凸の⇒の終点の光)は全く異なるということである。
 だから、超越光(超光)と純光と現象光の三種類の光があるということになるのである。それは既述したことに合致する。
 

参考:
[805] 人間は再現性の足りない部分を想像力で補う

From: 生成門
人間は再現性の足りない部分を想像力で補う
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

45度の位置の基準を示そうとしてきたのですが「乾燥したワカメは蘇る」、「外が内になる」、「絶対位置はない」という探求の結果、なんとも頼りのない「曖昧なノンフィクション」という結論になってしまいました。

「写真の認識を位置づける」「写真は自己を表出させる」「プロの写真家の自己表出」「写真も表現された内容で位置が変わる」では、第1象限の特徴を浮き彫りにしました。

気になるのは、「曖昧なノンフィクション」という中間の位置の問題です。もっとましな基準の示し方はないのでしょうか。

第1象限は「私」の認識です。

凸iの至高体験、陶酔、没入といった光の強度が高く、対象との一体感の高い位置から、次第に、言語の認識になると光の強度が弱くなって自己表出が出てきます。自己表出の最大の位置は+1であり、物質化(現象)です。

どんな認識も固定されることはないので、凸iから+1移動したように、その逆の+1から凸iへ移動することもあるでしょう。又、他の象限に飛び火することもあるでしょう。今は第1象限を中心に探求しています。その第1象限の探求も終わりに近づいてきています。

第1象限の探求を終わりにするためには、やはりなんと言っても中間の認識の位置を極めなければなりません。

中間とは強度が(0.7,0.7)の位置です。

光の強度:100%とは光による虚軸(凸i)であり、陽の精神性・関心度最高・視線強度最高・対象との完全一体感、無言語・感動と至高の無距離と無時間の 4次元世界を示すバロメータでしたが、それが右にシフトして中間(0.7)になると、光の強度が下がった分、身体性の強度が上がってきて、強度が (0.7,0.7)で釣り合います。

身体性の強度:100%とは外部世界と繋ぐ出入り口でもあり、実軸(+1)であり、対象再現性最高・自己表出度最高・対象との完全分離、言語による表現、距離と時間の3次元の現実、日常の物質世界(ノンフィクション)を示すバロメータです。

第1象限の認識を極めるためには、凸iでもなく+1でもなくその中間を極めることが必要でしょう。その中間を象徴的に「曖昧なノンフィクション」という言い方をしたのですが、言語による表現の特徴をそう認識したものです。

http://www.c-player.com/ad00178?rf=notice&pf=pc








ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)
(画像付きは以下を見られたい)
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11150288276.html

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

以下、生成門氏のガウス平面上の認識位置特定システム(GPS : Gaussian Plane Positioning System)は画期的である。オイラーの公式を用いて、単位円上の複素数で多様な認識を数学的表記できるのである。

[788] 日常言語の限界を補う言語(複素数)

From: 生成門
日常言語の限界を補う言語(複素数)
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

人間の認識を複素化する前に、人間自体を複素化しておきましょう。

人間は精神と身体が混成した複素数的存在であると言いましたので、人間を複素化することには何も問題があるようには見えません。

人間を複素化することと人間の認識を複素化することはまったく同じ次元の問題だと思うのです。

しかし、デカルトでさえ、人間を精神(我思う存在)だと認識したのですから、安易に考えては危険です。デカルトの認識は片手落ちだったのです。四次元能では、同じ轍を踏まないように、注意していきましょう。

四次元能では人間を精神的身体と認識します。これを複素化すれば良いことになります。

つまり、<人間>を<精神的身体>と<認識>するということですので、これをe^iθ= a+ibを使って表現すれば良いということになります。

人間=精神的身体=認識=e^iθ= a+ibです。認識=e^iθ= a+ibを分解すると、
認識=実数的認識(見える)+虚数的認識(見えない)となります。

分解しても、二元的に分離はされていません。+で結合されているし、矢印(⇒)という方向と力を持っているのでe^iθは失われていません。

aとbに分解しても、いつでも、+で合成ができるということです。

複素化するということは、言い換えると、複素数として認識するということであり、実数として認識することと虚数として分解して認識し、合成することです。

つまり、

複素化された認識=実数化された認識+虚数化された認識

です。

一方、人間の認識を複素化すると、

人間を精神的身体と認識したのですから、これを実数化された認識と虚数化された認識に分解すると、実数化された認識とは身体的認識であり、虚数化された認識とは精神的認識となり、これを合成すれば、

人間の認識=精神的身体の認識ですから、

精神的身体の認識=身体的認識+精神的認識となります。

認識されたものと認識には平行関係(認識→認識されたもの)にありますので、

精神的身体=身体性+精神性

となります。

纏めると

e^iθ       =   a      +    ib
――――――――――――――――――――――――――
複素化された認識  = 実数化された認識 + 虚数化された認識
認識       = 実数的認識   +  虚数的認識
精神的身体の認識 = 身体的認識     +   精神的認識
精神的身体    =   身体性     +    精神性


これで、人間自体の複素化と人間の認識は、対応しているので、あまり、区別しなくてもよさそうです。


この対応関係を複素平面(ガウス平面)上の認識位置システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)の原理1と呼ぶことにしましょう。


さて、ここで、まだ明らかにして来なかったものがあります。

それは認識するには誰か(主体)ということと何を認識するのかという二つの側面です。

自明のことですが、認識する主体とは私(後で自己と他者に分離しますが)であり、と認識するものは、つまり、対象(私も対象になります)です。

これが暗黙の前提ですが、これを暗黙の前提にしたままでは、先に進むことができなくなります。後で、言及します。

今の段階では、私が認識するためには、私の観察が必要であり、他者が認識するためには表現が必要であり、そのためにはどちらも言語(記号)が必要だということです。

日常言語では、精神と物質を融合するためには、限界があると言ったと思います。

その限界を乗り越えるためにわざわざ複素数を持ち出してきたのですが、ここで、また言語必要だと言いました。矛盾していると思うでしょうか。

精神と物質を融合するための言語(複素数)と、人間の有り様を表現するために言語(日常)は別ものです。

複素数は必要条件ですが、言語(日常)は、十分条件なのです。ですから、両方を用いることは理にかなっており、併用することは矛盾しないのです。

人間の有り様を表現する言語とは、生き様であり、人間そのものを特徴付けるものです。

人間は言語によって人間(精神的存在)になったとも言えるのであり、それを言語が促進したとも言えるのです。

それを証明するためには、生きる現場において言語がどのようにして生まれたか、認識する道具としてどのように貢献したのかを明らかにすることです。

それが言語の進化を知ることであり、その進化の様子をGPSに位置づけることです。

当然ですが、言語水準には低い段階から高い段階までありますから、それをGPSに明確に位置づけることで、人間がどのようにして生きてきたか、どのように認識能力を獲得してきたかが分かるということです。

言い換えれば、人間の生き様の変化や認識能力の獲得は、言語の進化と一致しているということです。
言語の進化を日常言語だけで説明してしまうと、又ジレンマ陥ってしまいますが、今やGPSを使うところまできましたので、日常言語の限界を心配する必要はありません。

むしろ、言語の進化を複素化することで、日常言語の限界も明らかになるでしょう。

そこで、言語がどのようにして発生したのかを探求(複素化)して見ましょう。複素化という方法は、これまでの言語学が出来なかった新たな認識の地平を浮き彫りにしてくれるでしょう。

続く
[786] 人間の認識の基本に迫る

From: 生成門
人間の認識の基本に迫る
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>



人間の認識の基本構造、GPSの原型を使って、人間がどのように認識するのかをしっかりと理解しておきましょう。

表現された物には、「指し示し」が含まれているということ原則を忘れないようにして下さい。

「指し示し」は複素数で示すことが出来るのですが、それは見えるものと見えないものが含まれているからです。見えないというのは虚軸に向く意識が含まれているということです。

又、陥りやすい間違いは、凸i,凹i,+1,−1の特別な場所だけに偏って解釈することです。確かに、この四つは特別な場所だけに認識の特徴を表しています。

しかし、そこだけに絞ると、認識の本質を見失ってしまうのです。
認識の本質とは見えるものと見えないものとの混成なのですから、複素数の本来の姿a+ibで解釈すべきだということです。

解釈とは認識の仕方のことですから、認識の基盤をしっかりとしておかないと、親亀がこけたら小亀もこけるのは目に見えています。

そこまで考慮して探求しなければ、従来のアニメが何故、第2象限で、実写アニメが第1象限なのか、又、マネキンが第1象限で、ガガの写真が何故、第1と第2に跨っているのかについて正しく理解することできないのです。

確かに、+1を現実的、−1を非現実的と想定すれば、従来のアニメが非現実(現実とは遠い表現)であり、実写アニメは現実的(まるで現実のように見える)ですから、この解釈は簡単であるように思えてしまいます。

しかし、ガガの場合(第1と第2象限に跨る)はどうでしょうか。現実的と非現実的な中間にあると解釈もできるのですが、やはり、後付(そう説明されたから納得できる)のような気がするのです。

もっと複雑な対象の認識や第3、第4象限の認識についてはどうでしょうか。数学が何故、第3象限なのかをどう説明したらよいのでしょうか。これは簡単ではありません。

何故、そこに位置づけできるのかの合理的な説明ができなければ、森羅万象についての応用など、とてもできないだろうと思うのです。

ですから、GPSの原型が必要なのです。

もう一度、「人間の認識の基本構造:GPSの原型」を良く見てみましょう。


GPSの原型は、複素平面上の単位円を見たものを認識したものとしてあたかもプラネタリウムのスクリーンに映し出したかのように喩えた図です。

上半分は光によって見えたものを認識したものとして、下半分は光によらないで認識したものという区分けをしています。

この認識の図は、ある認識の瞬間の断面を描いた図であり、スナップショットのようなものです。

実際は、超光速で回転していると考えてください。

この回転しているイメージを式で表現すると、e^iθとなります。この表現は複素数の波であるという意味になります。

つまり、認識とは波であるという理解です。
もっと、言えば、認識をe^iθで表現するということは、認識を複素化することであり、指数化(指数関数)するということの意味でもあります。

この指数関数の性質は、いわゆるねずみ算に増える複利や人口の増加を示すマルサスの法則と呼ばれ、森羅万象を説明する上で重要な性質なのです。



一方、複素数はa+ibと表現することもできます。

e^iθと表現方法が異なるだけで、実質はまったく同じ(e^iθ= a+ib)ですが、応用面ではそれぞれにメリットがあります。

e^iθの場合、θの値を決めると原点と円の間を結ぶ矢印(⇒)どこにいるかが決まり、特に、四つの値(凸i,凹i,+1,-1)を特別な位置として意味づけることが出来ます。

a+ibは矢印(⇒)を二つの要素(実数と虚数)に分解することですので、これに意味(見える・見えない)を与えことができます。



又、e^iθ=cosθ+isinθ(オイラーの公式)でもありますので、a+ib=cosθ+isinθからa=cosθ,b=sinθとなり、θの値が決まると自動的にa,bも決まります。

ちなみに、

θ=0:cos0+isin=cos0=1   (a=1,b=0)
θ=1/2π(90度):cos1/2π+isin1/2π= I  (a=0,b=1)
θ=π:cosπ+isinπ= cosπ=-1 (a=-1,b=0) 
(これが有名なオイラーの公式:e^iπ=-1)
θ=3/2π(270度):cos3/2π+isin3/2π=- i (a=0,b=-1)

となり、複素平面の特別な位置(i,-i,+1,-1)の値が決まります。

これらの四つの値(i,-i,+1,-1)をどのように意味づけるかで、解釈が違ってきますので、「意味づけ」が複素化する場合の最も重要な作業です。

既に、PS理論では、iを虚軸、自己、光、陽の精神、-iを他者、闇、陰の精神、+1を実存、存在、-1を超越的存在などと決めています。

では、特別な位置(i,-i,+1,-1)以外はどう扱えばよいのでしょうか。

もちろんθを決めれば、e^iθの位置も、それと同時に(a,b)のセットも決まります。

森羅万象に対する認識は特別な位置(i,-i,+1,-1)だけに現れることはありえません。認識は波なのですから、全ての領域に現れるはずです。

それを便宜的に四つの象限で区分けしますが、θはいくらでも無限に分割できますので、認識もいくらでも無限に表現できるということになります。

実際、海舌氏は易の64パターンを認識のパターンに重ねた表現をしています。


ここまで行くには時間がかかりますので、当面は四つの象限でいきます。
続く
http://www.c-player.com/ad00178/message/201201?page=3&format=time
シムダンス「四次元能」



2012年01月29日(Sun)▲ページの先頭へ
重力とは何か:光と物質の反作用としての重力?:闇としての重力作業仮説
重力とは何か:光と物質の反作用としての重力?:闇としての重力作業仮説
テーマ:science

今は直観だけを言う。空間を歪めるはたらき、光を曲げるはたらきをするということから、どうも、media pointに関係すると直観される。
 以前も私見を書いたが、もし、物質が⇒のエネルギー方向をもつなら、重力はそれとは反対に←のエネルギー方向をもつのではないだろうか。光が⇒の方向ならば、重力は←の力の方向である。
 もし、そうならば、重力は⇒の反作用的なものとなろう。凸i*凹i⇒凸の反作用として、凸i*凹i←凸が形成され、その←が重力ではないだろうか。
 簡単に言えば、重力はmedia pointの方向を示していると考えられる。そして、ブラック・ホールもこの方向にあると言えよう。そう、ブラック・ホールはmedia pointから第三象限ないし凹を指すのかもしれない。
 とまれ、以上から考えられるのは、重力と光は対蹠的であり、ある意味で両極的である。
 作業仮説であるが、実MPにおいて、光と物質が発出されるならば、その裏面に重力が形成されるのではないだろうか。やはり、反作用の法則、エネルギー保存則である。
 だから、光(現象光)に対して、闇である。虚MPや第三象限等を志向しているのではないのか。
 あるいは、光、物質の表面(現象)に対する裏面、背後である。その不可視の世界、精神の世界に、重力は通じているのではないのか。
 言い換えると、現象太陽の裏面、背後の闇の太陽dark sun、ないしは、霊的太陽を意味しているのではないのか。
 光と物質の第一象限の現実世界に対して、重力は、精神と闇の光(超越光、マニ教の光)の霊的世界を意味しているのではないのか。
 今はここで留めたい。

追記:先に、凸iの光(原光)と実MPの光(現象光)は異なると言ったが、そう考えなくても説明できるだろう。
 即ち、現象光を同一性の光とすれば、それは、凸iの光と一致すると思われる。
 そのときは、凸iが主導となって、凹iを同一性化しているのである。
 しかるに、凹iが主導のときが考えられる。そのときは、光ではなく、凹iの闇(原闇)が生起すると考えられる。
 それは、当然、不可視である。闇である。これが、重力なのではないだろうか。方向性は、光凸iの反対であり、下降↓であるか、物質化⇒の反対の←である。
 とまれ、闇としての重力である。さらに後で検討を続けたい。
 
参考:
重力波望遠鏡の愛称は「かぐら」に決定
2012.1.29 16:15
 アインシュタインが存在を予言しながら発見されていない「重力波」をとらえようと、岐阜県飛騨市神岡町の地下に建設が進んでいる「大型低温重力波望遠鏡(LCGT)」の愛称が「かぐら」と決まった。東京大宇宙線研究所が29日までに発表した。
 建設地の地名のカミオカと、重力を意味する英語「グラビティ」の一部を組み合わせた。ほかに神に奉納される「神楽」の意味も込めたという。
 重力波は、非常に重い物体が激しく運動するときにできる空間のゆがみ。ブラックホールが生まれる瞬間や、宇宙誕生直後の様子を調べられると期待されている。
 かぐらは、ニュートリノ観測装置スーパーカミオカンデなどがある神岡鉱山の地下に、長さ約3キロのL字形のトンネル2本をつくって設置。交差部分から両端の鏡にレーザー光を照射して、空間のゆがみを検出する。
http://sankei.jp.msn.com/science/news/120129/scn12012916170002-n1.htm

重力 - Wikipedia


重力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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この項目では、質量に働く力全般について記述しています。質量間に働く引力については「万有引力 」をご覧ください。
重力(じゅうりょく)とは、
• 地球上で物体が地面に近寄ってゆく現象や、それを引き起こすとされる「力 」を呼ぶための呼称[1] 。人々が日々、物を持った時に感じているいわゆる「重さ」を作り出す原因のこと。
• 物体が他の物体に引きよせられる現象の呼称。および(その現象は《力 》が引き起こしていると見なす場合の)その「力 」に対する呼称。
英語 の gravity (グラヴィティ)の頭文字を取って、俗にG(ジー)と略されることがある。ただし、物理学の専門書や教科書においては、地球の重力は小文字のg、万有引力定数 は大文字のGというように区別される。
概説 [編集 ]
重力という表現は、宇宙論 などの領域では万有引力 と同一として扱われることがある[2] 。
地球上のことについて論じている場合は、地球上の物体に対して働く地球の万有引力と地球自転による遠心力 との合力を指している[2] 。また、人工衛星 のように、地球の自転とは無関係な物体の運動について論じている場合は、遠心力の成分は除いて扱うことになる[2] 。
重力の大きさは、単位「ガル (Gal)」を用いて表すことができる[2] 。
地球上で質量 が 1 kg の物体に作用する重力の強さというのは約 9.8 N でほぼ一定である[2] 。だが、精密に調べてみると重力は地球上の場所により、あるいは時間によっても変化している[2] 。
歴史 [編集 ]
重力や重さに関する議論というのは、古代ギリシャのしかも初期の段階から行われていた形跡があるという[3] 。
影響力の大きかったのはアリストテレス である[3] 。彼は『自然学 』を著し、物の運動等についても体系的に論じた。彼の宇宙観では、天界と地上はまったく別世界であり、天体はエーテル でできていて、地上の物体は四元素 でできていると見なした。そして《重さ》と《軽さ》というのは、地上界にある物体に特有の一対の内在的な性質だと見なした[3] 。古代ギリシャでは、コスモス (世界 、宇宙 )の中心に地球があると考えられていたので、アリストテレスもそう考えていた(地球中心説 )。アリストテレスにとって、物の落下するということはコスモスの中心へ接近することであり、上昇するということはコスモスの中心から離れてゆくことを意味した[3] 。 《火元素》を含むものが《軽さ》を内在しており、地中から離れ天へと向かいたがり、石などには《土元素》が含まれており、《土元素》はコスモスの中心に帰 りたがる性質を持っているのだ、とした。その《土元素》をより多く含んでいるものが、より大きな《重さ》を内在している、とした。またその速さについて は、《土元素》を多く含むものが速く落ちる、とした。


ペトルス・アピアヌス (Petrus Apianus )のCosmographia (アントワープ 、 1539年刊)に描かれた中世のコスモス像。アリストテレスの宇宙観の延長上にある。
ヨーロッパ中世の人々は、以下のように考えていた[4] 。
地リス や鳥 などの生き物がそれぞれ巣穴や巣という本来の位置を持っていて一時的に理由があってそこを離れることがあっても結局本来の位置に帰るように、物も、それぞれの性質に応じて本来の位置を持っている。たとえば小石 はその本来の位置を地に持っている。焔 はその本来の位置を天上に持っている[4] 。
例えば、小石を空中に投げれば、小石は本来の位置から離されることになり、小石は一旦は抵抗を示しながら上に上がるが、結局はできるだけすみやかに、その本来の位置である地に戻ってこようとする[4] 。
(太陽中心説というのは一応アリスタルコス も唱えていたとされはするが[5] )16世紀にヨーロッパでコペルニクス (1473 - 1543)によって太陽中心説 が唱えられると、(それがすぐに受け入れられたわけではないが)もしこれを受け入れた場合、アリストテレス的な《重さ》《軽さ》の概念は根底から考え直さざるを得ない、ということになった[3] 。
コペルニクスは、重力というのは、各天体の部分部分が球形になりたがり一体化しようとする自然的な欲求だ、とした。一方《軽さ》というのは、重さの少ない物体が持つ“偶有的性質”だとされた[5] 。
「重力を説明する古典力学的理論 」も参照
フランスのデカルト(1596年–1650年)は、著書『哲学の原理 』(1644年)と『世界論 』(1633ころから執筆、死後1656刊行)において渦動説 を展開し重力を説明した。世界にはエーテル が満ちており、ちょうど渦に木切れが吸い寄せられるように、エーテルに渦が起きるとその渦 の中心に物体は引き寄せられる、こうして物体は地球に引き寄せられる、と説明した。
ドイツのケプラー (1571年–1630年)は、重力というのは似たもの同士が引き合う力(引力)であり、この引力は潮の満ち引きという(月の変化の周期と連動する)現象から推察するに、地球と月との間にも作用している、と見なした[3] 。
ガリレオ・ガリレイ (ユリウス暦1564年–グレゴリオ暦1642年)は重さと落下の速さとは無関係であることを実験で見出した。
オランダのホイヘンス (1629年–1695年)は1669年から1690年にかけてデカルトの渦動説を検討し精密化した。ライプニッツ も渦動説の流れを汲んだ理解をしていた。
アイザック・ニュートン (1642 - 1727)は、天体の運動も地上の物体の運動もひとつの原理で説明できる、とする説(万有引力)を『自然哲学の数学的諸原理 』で発表した。天界と地上の区別がとりはらわれており、宇宙全域の物体の運動を同一の原理で説明しており、地上のgravityというのも万有引力のひとつの現れとされている。
また(上でも述べた)ホイヘンス は、遠心力 の公式を発見した。地球の自転 はすでに明らかになっていたので、重力は万有引力そのものではなく、万有引力と地球の自転による遠心力との合力 だということになった。
エルンスト・マッハ (1838 - 1916)は、慣性の力 というのは他の物体との相互作用 である、とした。地球外の回転せずに止まっている、つまり、地球から見れば超高速で回転している全宇宙との相互作用が遠心力を生む[要出典 ]、と述べたのである(マッハの原理 )。
マッハの原理は、アルバート・アインシュタイン の一般相対性理論 により体系化された。一般相対性理論によれば、万有引力も慣性の力も等価(等価原理 )であり、共に、時空の歪み による測地線 の変化である。ただ、万有引力と慣性の力とでは歪みの原因が異なるにすぎない。

アインシュタイン方程式 からは、時空の歪みの源は質量ではなく、エネルギー と運動量 からなるエネルギー・運動量テンソル で決まることがわかる。つまり、質量(エネルギーに比例)だけでなく運動量も時空を歪め、重力を生む。質量は引力を生むのに対し、運動量が生む重力は、引力でも斥力でもない慣性系の引きずり という形を取る。慣性系の引きずりは自転するブラックホール であるカー・ブラックホール で顕著である。慣性力も、地球外の全宇宙による慣性系の引きずりで説明できるとの見方が強い[要出典 ]。ただし、いまだ近似計算のみで、厳密な計算はなされていない。
素粒子物理学 では、重力は自然界に働く4つの力 のうちの1つとして扱われており、電磁気力 、弱い力 、強い力 との統合が試みられている。だが、その試みがうまくゆくのかどうか定かではない。なお、2010年にアムステルダム大学 理論物理学院のエリック・ベルリンドにより、重力は存在しないという説も提唱された。
近年では、一般相対性理論での重力を量子化 し、量子重力理論 にしようとする試みもなされている。ここでの重力とは、万有引力に限らず、慣性の力なども含めた重力の意味である。量子化された重力は重力子 と名づけられている。
地球表面の重力値の相違と重力加速度 [編集 ]
概説で述べたように、同じ地球上でも場所によって重力の大きさ(重力値)が異なっている[2] 。それは以下のような理由からである。
• 測定点の標高 が場所ごとに異なっていること[2]
• 周囲の地形の影響が場所により異なっていること[2]
• 地球が完全な球形 ではなく、回転楕円体 のような形状をしていること[2]
• 自転による遠心力 が緯度 により異なっていること[2]
• 地球の内部構造が一様ではないこと[2]
高度が増加するとゆるやかに重力値が減少してゆくわけであるが、その減少の度合いというのは地表付近では1mあたり0.3086mGal(ミリガル)程度である[2] 。ただしこれも場所により1割程度の変動はある[2] 。
2番目の「地形の影響」というのは、険しい巨大な山岳などのふもとでは、山が上向きの引力(万有引力)を及ぼしていることなどを意味しており、山岳地帯ではこうした影響は数十mGalに達する[2] 。
5番目の地球の内部構造(地下構造)に起因する重力値の過大や過小を重力異常 と言う[2] 。
単に重力加速度といった場合は、地球 表面の重力加速度を意味することが多い。重力加速度の大きさは、緯度 や標高 、さらに厳密に言えば場所によって異なる。
ジオイド 上(標高0)の重力加速度は、赤道 上では 9.7799 m/s2と最も小さくなり、北極 、南極 の極地では 9.83 m/s2と最も大きくなる。赤道と極地 との差の主な理由は自転による遠心力であるが、自転以外にも地殻 の岩盤 の厚さ、種類、地球中心からの距離などによる影響も若干受ける。このため、重力を精密に測定し、標準的な重力と比較することで地殻の構造を推定することができる。測定手法には絶対重力測定と相対重力測定があり、日本では国土地理院 が日本重力基準網として基準重力点を設定している。
国際度量衡会議 では、定数として使える標準重力加速度 の値を g = 9.80665 m/s2と定義している。

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関連項目 [編集 ]

ウィクショナリーに重力 の項目があります。

ウィキメディア・コモンズには、重力 に関連するカテゴリがあります。
• 重力を説明する古典力学的理論
• en:Earth's gravity (地球の重力 )
• en:Standard gravity (標準重力 )
• 自由落下
• 重力加速度
• 加速度
• 質量 (重力質量 )
• 重さ (重量)
• 重力ポテンシャル (位置エネルギー ・ポテンシャル )
• 重力圏
• 重力異常
• 重力単位系
• 重力式コンクリートダム ・重力式アーチダム
• 重力波 (流体力学)
• 潮汐力
• 無重量状態
• 反重力
• 万有引力 およびその関連用語
o 一般相対性理論 (重力崩壊 ・重力波 (相対論) ・重力子 ・重力レンズ )
o 統一場理論 (超重力理論 ・量子重力理論 ・ループ量子重力理論 )
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• 重力
• 力学



凸i*凹iの自然状態は、凹iが反感的になる:凸凹凹(i*i)⇒凹が差異共振の道だろう
凸i*凹iの自然状態は、凹iが反感的になる:凸凹凹(i*i)⇒凹が差異共振の道だろう
テーマ:media point
先に、凸i*凹凹i⇒凹(マイナス1)を提起したが、これは、凹iを凹化して、精神を差異共振化することと考えられる。
 今日の人間は凸i主導であるので、ある不利な事態において、凹iは連続化しているので、その凸iの否定性を受けて、反感的になるのである。それは、凸i*凹i⇒に示されているだろう。
 思うに、凸凹(i*i)⇒となるのではないだろうか。凸凹の凹が反感ではないだろうか。否定的感情ではないだろうか。あるいは、敵意、攻撃性ではないだろうか。反動性と言ってもいいだろう。
 このとき、凹iが凹化していれば、凸凹凹(i*i)⇒となるだろう。それは、凸凹凹(i*i)⇒凹となるだろう。これが、差異共振の道と考えられるのである。
 哲学的には、スピノザが歓喜の感情を肯定したが、思うに、凹凹iは歓喜の精神を含むと言えるだろう。しかし、単純に歓喜ではないだろう。ただし、肯定の精神と言えよう。
 これは、ヘーゲルの否定の精神とは正反対である。
 しかしながら、肯定の精神とは言え、批判はあるのである。肯定を保留しながら、批判するのである。
 後で再考したい。





現象光と凸iの原光の結合としての近代主義:凹iへと潜水して光と闇を融合させて超越光を点火する
テーマ:manichaeism: 哲学
簡単に予見を言う。
 実MPで現象光(可視光)が発生する。この可視光と凸iの光(原光)の関係はいかにである。
 私見では、虚MPの超越光が実MPの現象光へと転化するのである。超越光の成分は凸iと凹iであり、現象光も基本的には同じである。
 では、現象光において、成分の凸iと凹iはどうなっているのか。(今、思ったのは、超越光を凹iに、現象光を凸iとする考え方であるが、これは今はおいておく。)
 現象光(物質光)においては、もはや、成分の凸iと凹iは消えていると考えられる。現象光に変化したと言ってもいいだろう。(もっとも、丁寧に言えば、現象光はmedia pointをもつのであり、その点では、凸iと凹iの成分はあるのである。)
 そう、正に、量子論的絶対的矛盾が生じる領域である。一方では、現象光であり、他方では超越光的である。
 とまれ、そうすると、現象光の「内部」には、凸iと凹iの共振が存するのであり、原光と原闇が存しているのである。もっとも、それらは、超越光的な存在となっている。
 以上から、実MPの現象光と凸iの原光は異なることが判明した。
 では、凸iの原光、凹iの原闇とはいったい何であろうか。
 それは、原外部と原内部であろう。外部への志向と内部への志向とも言えよう。感覚と精神であろう。脳で言えば、大脳皮質と間脳であろうか。あるいは、頭部と内臓部である。
 現代日本の病巣は、現象光と凸iの原光が結びついていることであり、凹iの原闇が排除されていることである。わかりやすく言えば、凹iという魂が排除されているのである。そのために、真の精神、生命、そして、個がないのである。
 近代主義は、現象光の外部性と凸iの原光との結合に拠るとも言えよう。 
 そして、その光の志向性は意味があったのであるが。とまれ、近代は凸iに強く傾斜しているのであり、そのために、凹iを認知することが困難なのである。
 もっとも、単に凹iへの志向は、あしき神秘主義になるだろう。問題は、光と闇の拮抗である。
 光を志向しつつ、闇へと「潜水」しないといけない。光と闇との結合によって、超越光を点灯することになるのである。それが、マニ教の光の種子の目覚めである。
 今はここで留める。





現象とは何か:光による反映としての現象
テーマ:森羅万象
一体、現象とは何か。当然ながら、光が当たって、「物質」が可視化するのである。
 予見を言えば、凸i⇒凸が現象である。しかしながら、対象物は単に「物質」凸でいいのか。私は対象的物質体には、以前指摘したように特異性があるのであ る。つまり、media pointである。つまり、光が対象に当たったとき、その対象物は、media point性を帯びるのである。
 つまり、やはり、凸i*凹i⇒凸と見るべきである。現象的対象には、凹iも関与しているのである。
 あえて言えば、凹も背後で関与していると思われるのである。そう、正に、イデア論である。
 だから、現象と単に物質現象と見るのは、誤謬である。物質現象は仮象にすぎない。
 現象にはmedia pointと差異共振エネルギーが関与し、又、根源では超越的存在凹が関与していると見るべきである。
 以上は予見であり、後で具体的に緻密に検討したい。





検討問題諸々
テーマ:検討問題
1)虚MPと実MPは不連続。精神子と遺伝子は不連続。有り体に言えば、才能は遺伝しない。長嶋監督親子。

2)ロレンス言語芸術speech artの存在表現(表象)とは何か。また、その存在とは何か。
 D. H. ロレンスのSons and Loversを読んで、まるで自分の真正面に生々しく登場人物が存在し、語っているかのように感じて、驚愕した。このようなことは他の文学ではなかったことだ。
 基本的にリアリズムとは、第一象限のものを第二象限にうつすことである。しかし、ロレンスの場合はそれでは語り尽くせないない絶対的存在性が感じられる。
 先に述べたが、ロレンス文学・哲学の場合、虚MPにおける光をベースにして、凸iの(外的)感覚を表象していると思う。
 通常のリアリズムは凸iの感性で映しているに過ぎない。しかし、ロレンスの場合、凸iと凹iの差異共振の光において、第一象限を映していると考えられる。
 つまり、第三象限の背景のもとに、第一象限を第二象限化、つまり、感覚表象化していると考えられる。
 第三象限のバックグランドが存在を喚起させると思われるのである。これは、他の作家ではほとんどないものである。ほぼ類を見ないのである。
 思うに、古代的な神話に類縁性があるだろう。

3)今や、精神世界の主導性が判明したのであり、物質世界主義は滅びたと言えよう。精神の共振が新世界を生むのである。目に見えない精神氣の世界が主導するのである。

4)おそらく、広義的にみると、明治維新とは、古代ギリシアの現代版に評価させるだろう。もっとも、あまりに父権化してしまった。しかり、PS理論が誕生 した今、明治維新は、古代ギリシアに匹敵する世界的大変革・大進化を意味しよう。そう、近代・現代日本は古代ギリシアのラセン的回帰である。

5)D. H. ロレンスの性の表現について:それは、端的に、精神の表現である。民衆にわかりやすいように性的表現をしたのである。結局、プラトンのエロースと一致する。

6)色彩とは何か。現代日本人は伝統的色彩感を暴力的に抑圧されている。色彩は自由である。これを解放する必要がある。そう、端的に、色彩とは精神である。氣である。生命である。

7)現代は、ポスト・モダン、トランス・モダンというより、トランス・オクシデントと呼ぶべきであろう。

8)セックスとは、精神の物質化である。これは既述事項である。

9)イエス・キリスト、これが、最高の謎であろう。しかし、今や、聖霊の時代であるから、その問題は克服されている。
 
10)これまでの教育、近代教育は、第一象限、第二象限の領域であった。これは、真理に反する。第三象限こそ、真理である。

11)資本主義とは何か。同一性に駆り立てられた差異の経済である。あるいは、貨幣に駆り立てられた個の経済である。
 この主従関係を逆転すればいいのだ。差異や個(他者)を主とし、同一性、貨幣を従とすればいのである。
 つまりトランス資本主義である。

12)肝心なことを言うのを忘れていた。mitreである。これは、以前から知っているが、昨日、ジョゼフ・キャンベルのPrimitive Myothologyを読んでいて見つけたものである。それは、アステカ神話の箇所である(p. 222)。直観では、正に、ミトラである。太陽神である。どうも、古代アメリカ大陸は、ミトラ的文化であったようである。つまり、太陽神文化である。即 ち、シュメール・ケルト・アジア母権・母系・母神大文化圏に通ずるということである。

引用:
At a great festival in September, which was preceded by a strict fast of seven days, they sanctified a young girl of twelve or thirteen years, the prettiest they could find , to rrepresent the Maize Goddess Chicomecohuatl. They invested her with the ornaments of the goddess, putting a mitre on her head and maize-cobs round her neck and in her hands, ・・・ (p. 222)


参照:

mi・ter, 《英》 mi・tre /m#### | -t#(r/→#
#n.
1 司教冠, 主教冠, ミトラ, マイター《bishop や時に abbot が祭式の際に戴く冠; その頂上に横の深い溝があって二つの山形を成し, 後ろに 2 本の長ひもが垂れている》.
・confer [bestow] a miter upon… …に司教冠を授ける, …を司教の位につける.
2 司教の職[位] (bishopric).
3 (古代ユダヤの)大司祭 (high priest) のかぶり物.
4a (古代ギリシャの女性が着けた)髪ひも, リボン (fillet).
b 見返しや裾などの角の始末, ななめはぎ, 額ぶち始末.
5 【木工】
a 留形包(とめがたつつみ)打付継ぎ; =→miter joint.
b =→miter square.
6 【海事】 斜め縫合せ《三角帆の角などで額縁のように帆を斜めに縫い合わせる》.
#vt.
1 …に司教冠を授ける; 司教に任じる.
2 【木工】 留め継ぎ[斜め継ぎ]する; 留め継ぎ[斜め継ぎ]面に切る.
〜・er /-##r# | -t#r#(r/ n.
#《c1303》 mitre # (O)F # L mitra cap # Gk mitr# belt, headband, headdress#
図 miter 【挿絵】

[株式会社研究社 新英和大辞典第6版]

 
参考:

Mitre
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This article is about religious headgear. For other uses, see Mitre (disambiguation) .


St. Zenon of Verona wearing a mitre.
The mitre ( / ˈ m aɪ t ər / ; Greek: μίτρα, "headband" or "turban"), also spelled miter, is a type of headwear now known as the traditional, ceremonial head-dress of bishops and certain abbots in the Roman Catholic Church , as well as in the Anglican Communion , some Lutheran churches, and also bishops and certain other clergy in the Eastern Orthodox churches , Eastern Catholic Churches and the Oriental Orthodox Churches .
Origin


Jewish High Priest wearing the mitznefet
[edit ] Judaism
In ancient Israel , the Kohen Gadol (High Priest) wore a headdress called the Mitznefet (Hebrew: מצנפת, often translated into English as "mitre"), which was wound around the head so as to form a broad, flat-topped turban . Attached to it was the Tzitz (Hebrew: ציץ), a plate of solid gold bearing the inscription "Holiness to YHWH "[1] (Exodus 39:14 , 39:30 ).
[edit ] Byzantine empire


Pope Gregory the Great wearing the camelaucum
The camelaucum (Greek : καμιλαύκιον , kamilaukion), the headdress both the mitre and the Papal tiara stem from, was originally a cap used by officials of the Imperial Byzantine court. "The tiara [from which the mitre originates] probably developed from the Phrygian cap, or frigium, a conical cap worn in the Graeco-Roman world. In the 10th century the tiara was pictured on papal coins."[2] Other sources claim the tiara developed the other way around, from the mitre. In the late Empire it developed into the closed type of Imperial crown used by Byzantine Emperors (see illustration of Michael III , 842-867).
In Western Europe, the mitre was first used in ancient Rome by the Salii and other priests, and outside of Rome about the year 1000. Worn by a bishop, the mitre is depicted for the first time in two miniatures of the beginning of the eleventh century. The first written mention of it is found in a Bull of Pope Leo IX in the year 1049. By 1150 the use had spread to bishops throughout the West; by the 14th century the tiara was decorated with three crowns.
[edit ] Christian clergy


Mitra simplex traditional style: White damask with its white lappets ending in red fringes.
[edit ] Western Christianity
In its modern form in Western Christianity , the mitre is a tall folding cap , consisting of two similar parts (the front and back) rising to a peak and sewn together at the sides. Two short lappets always hang down from the back.


The evolution of the mitre, from the Catholic Encyclopedia (1913)
In the Catholic Church, the right to wear the mitre is confined by Canon law to bishops and to abbots , as it appears in the ceremony of consecration of a bishop and blessing of an abbot. Cardinals are now normally supposed to be bishops (since the time of Pope John XXIII ), but even cardinals who are not bishops and who have been given special permission by the pope to decline consecration as bishops may wear the mitre. Other prelates have been granted the use of the mitre by special privilege , but this is no longer done, except in the case of an Ordinary of a Personal Ordinariate (even if he is a priest only). Former distinctions between "mitred abbots" and "non-mitred abbots" have been abolished.
Three types of mitres are worn by Roman Catholic clergy for different occasions:
• The simplex ('simple', referring to the materials used) is made of undecorated white linen or silk and its white lappets traditionally end in red fringes. It is worn most notably at funerals, on Good Friday and by concelebrant bishops at a Mass . Cardinals in the presence of the Pope wear a mitre of white linen damask.
• The pretiosa ('precious') is decorated with precious stones and gold and worn on Sundays and feast days. This type of mitre is rarely decorated with precious stones today, and the designs have become more varied, simple and original, often merely being in the liturgical colour of the day.
• The auriphrygiata is of plain gold cloth or white silk with gold, silver or coloured embroidered bands; when seen today it is usually worn by bishops when they preside at the celebration of the sacraments.
The proper colour of a mitre is always white, although in liturgical usage white also includes vestments made from gold and silver fabrics. The embroidered bands and other ornaments which adorn a mitre and the lappets may be of other colours and often are. Although coloured mitres are sometimes sold and worn at present, this is probably due to the maker’s or wearer’s lack of awareness of liturgical tradition.
On all occasions, an altar server may wear a shawl-like veil , called a vimpa , around the shoulders when holding the bishop's mitre. The vimpa is used to hold the mitre so as to avoid the possibility of it being soiled by the natural oils in a person's hand as well as symbolically showing that the person does not own the mitre, but merely holds it for the prelate. The person wearing a vimpa is also occasionally referred to as a vimpa. When a vimpa holds the crosier, he holds the crook facing inward, as another sign that the person does not hold the authority of the crosier.


Papal Arms of Pope Benedict XVI. The papal tiara was replaced with a bishop's mitre.
With his inauguration as pope , Benedict XVI broke with tradition and replaced the papal tiara even on his papal coat of arms with a papal mitre (containing still the three levels of 'crowns' representing the powers of the Papacy in a simplified form) and pallium . Prior to Benedict XVI, each pope's coat of arms always contained the image of the papal tiara and St. Peter's crossed keys, even though the tiara had fallen into disuse, especially under popes John Paul I and John Paul II . Pope Paul VI was the last pope to date to begin his papal reign with a formal coronation in June 1963. However, as a sign of the need for greater simplification of the papal rites, as well as the changing nature of the papacy itself, he abandoned the use of his tiara in a dramatic ceremony in Saint Peter's Basilica during the second session of Vatican II in November 1963. However his 1975 Apostolic Constitution made it clear the tiara had not been abolished: in the constitution he made provision for his successor to receive a coronation. Pope John Paul I, however, declined to follow Paul VI's constitution and opted for a simpler papal inauguration , a precedent followed by his two successors. Pope John Paul II's 1996 Apostolic Constitution left open several options by not specifying what sort of ceremony was to be used, other than that some ceremony would be held to inaugurate a new pontificate.
Pope Paul VI donated his tiara (a gift from his former archdiocese of Milan) to the efforts at relieving poverty in the world. Later, Francis Cardinal Spellman of New York received the tiara and took it on tour of the United States to raise funds for the poor. It is on permanent view in the Crypt Church in the Basilica of the National Shrine of the Immaculate Conception in Washington, D.C.
In the Church of England the mitre fell out of use after the Reformation, but was restored in the late 19th and early 20th centuries as a result of the Oxford Movement , and is now worn by most bishops of the Anglican Communion on at least some occasions.
The mitre has always been used in ecclesiastical heraldry to surmount the coats of arms of bishops in the Church of England (instead of a crest , which is not used by clergy). In 1969 the mitre was suppressed in all personal arms of bishops in the Catholic Church, and is since only found on diocesan coats of arms. In heraldry the lappets are depicted with red lining.
[edit ] Eastern Christianity


Golden mitre on Patriarch Maxim of Bulgaria .
The most typical mitre in the Eastern Orthodox and Byzantine Catholic churches is based on the closed Imperial crown of the late Byzantine Empire . Therefore, it too is ultimately based on the older καμιλαύκιον although it diverged from the secular headdress at a much later date, after it had already undergone further development. The crown form was not used by bishops until after the fall of Constantinople (1453).
The Eastern mitre is made in the shape of a bulbous crown, completely enclosed, and the material is of brocade , damask or cloth of gold . It may also be embroidered , and is often richly decorated with jewels. There are normally four icons attached to the mitre (often of Christ, the Theotokos , John the Baptist and the Cross ), which the bishop may kiss before he puts it on. Eastern mitres are usually gold, but other liturgical colours may be used.
The mitre is topped by a cross, either made out of metal and standing upright, or embroidered in cloth and lying flat on the top. In Greek practice , the mitres of all bishops are topped with a standing cross. The same is true in the Russian tradition . Mitres awarded to priests will have the cross lying flat. Sometimes, instead of the flat cross, the mitre may have an icon on the top.
As an item of Imperial regalia , along with other such items as the sakkos (Imperial dalmatic ) and epigonation , the mitre came to signify the temporal authority of bishops (especially that of the Patriarch of Constantinople ) within the administration of the Rum millet (i.e., the Christian community) of the Ottoman Empire . The mitre is removed at certain solemn moments during the Divine Liturgy and other services, usually being removed and replaced by the protodeacon .
The use of the mitre is a prerogative of bishops, but it may be awarded to archpriests , protopresbyters and archimandrites . The priestly mitre is not surmounted by a cross, and is awarded at the discretion of a synod of bishops.
[edit ] Oriental Orthodox Christianity
Oriental Orthodox bishops sometimes use mitres, either of the Western or Eastern style. In the past, Coptic bishops have worn the ballin, an omophorion wound around the head like a turban . The Coptic Patriarch of Alexandria will often wear an Eastern-style mitre. Coptic priests frequently wear a mitre, similar to a Western bishop's mitre.
Syriac Orthodox bishops wear the maşnaphto (literally, 'turban') when presiding at the Divine Liturgy . This is a large, richly embroidered hood, often depicting the Holy Spirit as a dove.
Armenian Apostolic bishops wear tall and distinctively tapered Western-style mitres. The Armenian bishop's mitre differs from its Western counterpart in that the points at the top are usually joined together. Armenian priests regularly wear Byzantine-style mitres (symbolizing the sovereignty of Christ). On certain solemn occasions, Armenian deacons will wear the mitre also, although the deacon's mitre is somewhat narrower than that of the priest.

ミトラ教 - Wikipedia

ミトラスと処女からの誕生 [編集 ]
ミトラス教学者ではないジョセフ・キャンベル はミトラスの誕生をイエスのそれのような処女からの誕生 であると記述した[14] 。彼はその主張に、古代の出典を与えていない。どの古代の原典においてもミトラスが処女から生まれたとは考えられていない。むしろ、洞窟の岩から自然に目覚めている[15] 。Mithraic Studies では、ミトラスは堅固な岩の中から大人の姿で生まれてきたと述べられている。「プリュギア の帽子を被り、岩の塊から生じた。今までのところではまだ彼の剥き出しの胴は見えない。めいめいの手で彼は灯された松明を高く掲げる。風変わりな細部として、ペトラ・ゲネトリクス(母なる岩)から彼の周りに赤い炎が吹き出る」[16] 。デイヴィッド・ウランジーはこれが鍾乳洞で生まれたとするペルセウス 神話から着想された信仰であると推測する[17] 。






検討問題:ケルト・アジア母権大文化圏とシュメール:高度母権文化と父権民族
テーマ:検討問題
1)血とは何か。精神と血の連関。氣と血の連関。予見では、血は、氣(精神)の物質的媒体である。民族の血を問題にするのは正しいだろう。

2)ケルト・アジア母神・母権・母系大文化圏とシュメールの関係を丁寧に考察する:ケルト文化の鹿と仏教の鹿。そして、奈良公園の鹿。等々。以前、ツングース系で共通点を見た?

3)シュメールに関して:問題は、アーリア民族と混淆しないことが必要なように思える。基盤にケルト・アジア母権大文化圏を見て、それとの関係を見ること。基底に母権文化があり、その後、父権的アーリア人が侵入したのが、基本的パターンである。

4)母権文化としてのシュメールを捉えるべきである。『ギルガメシュ叙事詩』からわかるように、その後、父権化されると思われる。

5)古代日本:思うに、ケルト・アジア母権大文化圏としての古代日本、とりわけ、沖縄があった。そして、また、北方系の母権民族もあった。
 しかしながら、その後、父権民族が日本に侵入した。それが記紀を形成したのでは? つまり、ギリシア神話的に、記紀を捉えるべきでは。

6)仮説:シュメール・ケルト・アジア大文化圏に父権民族が侵入して、父権文明が形成された。しかし、エジプト文明は父権文明ではなく、母権文明だろう。
 例えば、ジグラッド、ピラミッドの建築する高度の「科学・技術」はどこから来たのか。それは、母権大文化圏からだろうか。
 直観では、ベースに母権大文化圏、母神大文化圏、日神信仰文化圏があり、そこに、なんらかの知的文明が入ったのである。それは、父権文明だろうか。そう ではなく、滅びたアトランティス文明の知性ではないだろう。その高度知性と母権文化が結合して、高度な母権大文化圏が創造されたのではないのか。
 その後、父権民族(とりわけ、アーリア民族)がそれへ侵入して、高度母権民族文化を父権的に再編したのではないのか。それが、文字として、神話に残っているのでは?
 父権文明とは高度母権大文化圏の知を簒奪した、「パクッタ」のではないのか。典型がキリスト教文明であろう。
 古代日本においても、このパターンがあったと推察される。つまり、高度母権文化が基盤にあったのであるが、その後、父権民族が侵入して、それを父権的に改変したと思われる。それが、記紀のように思われる。
 沖縄周辺
(与那国島海底地形 - Wikipedia  
与那国町 - Wikipedia )
の海底にある古代の遺跡が、高度母権文化の名残のように思える。だから、なんらかの、自然的破壊があったのようにも思える。大洪水である。
 そして、沖縄文化はその高度母権文化の残照ではないだろうか。
 
7)仮説:古代日本の成立は、高度母権文化民族(シュメール・ケルト・アジア母権大文化圏)と父権文化民族の統合に拠る。後者は思うに、ユダヤ民族に近いものである。
 しかし、思うに、シャーマニズム的北方遊牧民族が侵入したのかもしれない。それは、父権なのか、母権なのか、わかりにくいのである。これとシュメール宗教・神話との関係があるかもしれない。
 思うに、南方的シュメール・ケルト・アジア母権大文化(海洋民族)と北方的シャーマニズム的文化(遊牧民族)の結合が古代日本文化かもしれない。
 ひょっとしたら、古代日本には、父権民族は入っていないかもしれない。失われたユダヤの十支族であるが、それは、父権民族であるが、背景は母権である。
 そう、もし、古代日本において、父権があるなら、それは、ユダヤ民族ないし中国民族の可能性がある。
 とまれ、古代日本=南方シュメール・ケルト・アジア海洋・母権民族+北方シャーマニズム遊牧民族+父権的ユダヤ民族・中国民族を作業仮説としたい。
 
8)女性の精神の問題:基本は凹iであるが、凹i⇒凸iとなり、この凸iが今日支配的になっているのでは。だから、女性は、根元の凹iに回帰する必要がある。ロレンスは『逃げた雄鶏(死んだ男)』でここに到達した。

9)凸i*凹i⇒凸(+1)
において、凹iを凹凹iにすると、凸i*凹凹i⇒凹となる。
これが、虚MPの事象ではないのか。差異共振とはこれであろう。凹iを凹化することが必要なのである。これが、自己の差異化、他者化である。個=他者化である。
 とまれ、これは何度か既述した。

10)今日の若者は、両極化しているのでは。一方では、個的であり、他方は自我中心的のように思える。善と悪。

11)ケルト・アジア母権・母系的大文化圏とシュメール民族・文化
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11142947671.html
において述べたことは粗いので、精緻化が必要である。即ち、次のように述べたことを緻密化する必要がある。

『とりわけ、「雄牛の角を持つ王冠はアヌを表している。」が意味深長である。牡牛の王冠は太陽神であろう。それが、アヌであろう。しかしながら、牡牛こそ、根源の大女神である。それが、王冠=アヌ=太陽神を産むと考えられる。先に、シュメールのテラコッタ「月の牡牛とライオン鳥」を指摘したが、王冠=ライオン鳥になるだろう。
 やはり、シュメールはケルト・アジア母権・母系大文化圏の源泉のように思える。すると、シュメール・ケルト・アジア母権・母系大文化圏が存したということになる。』

牡牛の角をもつ王冠がアヌだから、牡牛+王冠=アヌだから、全体で大女神(太母神)とそれが帯びる太陽神と見るべきであろう。つまり、大女神と太陽神はいわば未分化のような様態ではないだろうか。
 とまれ、太母神/日神の母権文化がシュメール文化にあったことは確かと考えられる。

12)感覚や精神は氣的であり、エネルギーをもっているだろう。とりわけ、視覚は氣エネルギーをもっていると思う。だから、ある空間物に対して、共感生命的に反応する場合と反感不健康に反応する場合がある。
 有り体に言えば、東京の町並みは後者であり、身心を害すると考えられる。それに対して、自然的景観は前者である。
 近代合理主義/近代的自我は同一性=物質主義なので、この点をまったく排除しているのである。
 氣・精神・生命的感覚を否定しているのである。芸術も本来、ここに根元があると考えられるのである。モーツァルトの音楽、あるいは、マーク・ロスコの絵画はそのようなものである。
 つまり、虚MPにおける差異共振エネルギー感覚を今日喪失しているのである。虚数濃度、精神濃度が極小値化しているのである。
 当然と言えば、当然である。氣・精神・生命エネルギーを認めると、物質科学、唯物論が崩壊するからである。
 しかし、今や、氣・精神・生命エネルギーの新時代である。あるいは、宗教の復活の時代とも言える。
 宇宙の氣・精神・生命エネルギーが今、活発に人間に働きかけていると察せられる。
 以前は氣霊という言葉を使用したがそれでもいいだろう。あるいは、氣的精神である。
 これと電磁波との関係であるが、確かに、現象としての氣的精神、氣霊は電磁波として作用するだろう。
 しかしながら、虚MPないし第三象限の、いわば、超電磁波、超越光をもっていると考えられる。





絵画と平面
テーマ:art & design
スクリーンセーバーで画面に曼荼羅のような模様が出てきて、きれいであるが、いかにも平面的、深みがないのである。
 優れた絵画なら当然、一種の深みがある。これは何か。それは、端的にmedia pointの表現を意味しよう。虚数濃度で言えば、pHの高い数値のものである。
 そう、いわゆる、写真と現実との違いもこれで説明できるのではないだろうか。下手な写真は平板であり、薄っぺらである。それに対して、現実はそれなりに 厚みがある。これは、現実の光、差異共振の光が生み出しているのではないだろうか。だから、ここにもmedia pointが関係するのである。
 今日の芸術が面白くないのは、この点を近代主義によって完全に喪失しているからと考えられる。
 だから、PS理論は芸術も復興させると言えよう。





虚数濃度(精神濃度)概念:精神的pH値:アルカリ性=母権=個・他者と酸性=父権=自我
テーマ:manichaeism: 哲学
以下のKaisetsu氏の新しい視点、概念は興味深い。画期的なのは、統一したレベルで精神様態が表記できることである。
 私は凹iは肚、凸iは頭、media pointは心・心臓・胸というように古典・伝統的にイメージするが、その場合、統一性、ないし、直観性が欠落するのである。
 リトマス試験紙のようなpH概念を使えば、確かに、直観的に明快である。
 思うに、虚MPから空孔MPを介して実MPへと光エネルギーが転移する。そして、究極的に物質化する。
 それが、自然のエネルギーの流れである。しかし、人間の精神においては、虚MPの強い人がいるのであり、その人は精神性が高いのである。以前述べた「高 貴な差異」である。それに対して、実MPの強い人、あるいは、虚MPの弱い人がいるのである。それが、精神性の低い人、「劣弱な差異」である。
 前者は確かに、凹iの強い人であり、pHが大きいと言えようし、後者は凸iの強い人であり、pHが小さいと言えよう。
 これをジェンダー文化論に適用すれば、母権主義は虚数濃度(精神濃度)が高いのであり、父権主義は低いということになる。
 思うに、母権をアルカリ性、父権を酸性とすれば、通常の社会は両者の混淆である。しかしながら、今日の社会は後者が支配的である。酸性が強く、アルカリ性が弱いという酸性の土壌になると言えよう。
 日本の場合が典型であり、アルカリ性が大都市ではほとんど消失しているのである。
 そう、酸性は自我、アルカリ性は個=他者とも言えよう。とまれ、光エネルギーの虚数濃度、精神濃度という概念が提起されたと言えよう。
 
**************************

【Mental Ph level】 虚数濃度(精神濃度)の概念提示

但し、虚数濃度(精神濃度)の概念は、ガウス平面上の認識とは、別途の基準であり、単に、外向きに虚数濃度が高いか、内向きの虚数濃度が高いか、についての基準である。

 このため、第1象限と第2象限、或いは、第3象限と第4象限との区別は困難である。

 丁度、リトマス試験紙のように、酸性濃度、アルカリ濃度のような感じである。

 PS理論では、外部の光も内部の光も、同じように、電磁関連作用と仮定しているので、虚数濃度(精神濃度)は一定の単位領域当たりの電磁関連作用の強さである。矢印の根元の部分と先の部分との相互作用の強さである。プラトニック・シナジー作用の強さである。

 やはり、リトマス試験紙の例が分り易いであろう。

 そこで、Ph濃度の方式を、便宜的に、活用する方法も可能である。

 凸i方向を酸性、凹i方向をアルカリ性と見做して、

 ガガの写真はPh3、一方、マニ教はPh12のような指標例である。中性、つまり、精神性ゼロはPh7である。

 マニ教の表現に従うと、「肉体の中に光の粒が単位面積当たりに大量に含まれている」場合、肉体の中の光の粒は「内なる光の粒」であるから、虚数濃度はマ イナス70%とか、精神Ph濃度は強アルカリ性で12(Ph12)のような表現方法になる。また、ガガの写真は、強酸性でPh3というような使用例であ る。
海舌 SeaTongue@Kaisetsu





ケルト・アジア母権・母系的大文化圏とシュメール民族・文化
テーマ:manichaeism: 哲学
Kaisetsu氏による、私論の心強い傍証というか、発展的見解である。
 また、シュメール神話(宗教)の最高神はアンAnuであり、天の神である。しかし、女神はイナンナinannaである。
 どうも、Anuにしろ、inannaにしろ、ANが共通である。これは、DANUと通ずるのはないだろうか。そう、ケルト民族の大女神ダヌと通じるように推測される。
 そう作業仮説すると、このケルト・アジア圏にシュメールも入ることになる。
 ところで、シュメールの最高神の天空神のアンであるが、これは、どうも、男性神ではなく、女神ではないだろうか。これは課題としたい。

追記:以下、参考1に次のように述べられている。

「人類最古の文明の担い手はシュメール人
最初にこの地に栄えたのは母系社会のシュメール人、・・・
シュメール初期王朝時代
雄牛の角を持つ王冠はアヌを表している。
シュメール神話。ウルとハランを中心に崇拝。三日月を武器とし、満月を王冠とする。邪な者達の悪事を、その光によって暴くとされている。

・・・

にヤーウェの原点はシュメール神話の中でも最も
古い神に属する、雄牛の角の王冠をかぶったアヌ(アン)神という線が妥当だという事になるだろう。 」

とりわけ、「雄牛の角を持つ王冠はアヌを表している。」が意味深長である。牡牛の王冠は太陽神であろう。それが、アヌであろう。しかしながら、牡牛こそ、根源の大女神である。それが、王冠=アヌ=太陽神を産むと考えられる。先に、シュメールのテラコッタ「月の牡牛とライオン鳥」を指摘したが、王冠=ライオン鳥になるだろう。
 やはり、シュメールはケルト・アジア母権・母系大文化圏の源泉のように思える。すると、シュメール・ケルト・アジア母権・母系大文化圏が存したということになる。

参照:

DANU 神は、「ケルト(欧州)、タミール(南インド)、ケダ・ペラク、沖縄、任那・日本府、坊津、奈良、伊勢、常陸」を結ぶ。
DANU 神は、「ケルト(欧州)、タミール(南インド)、ケダ・ペラク、沖縄、任那・日本府、坊津、奈良、伊勢、常陸」を結ぶ。
DANU 神は、「ケルト(欧州)、タミール(南インド)、ケダ・ペラク、沖縄、任那・日本府、坊津、奈良、伊勢、常陸」を結ぶ。

Resurrection氏が以前から提示されておられるケルト民族と 古事記などの倭人の民族伝承が似ていることについて、最近の海舌の沖縄の歴史や任那・日本府の研究によって、また、DANU 神について、これもResurrection氏のヒントに導かれたものであるが、DANU 神が「ケルト(欧州)、タミール(南インド)、ケダ・ペラク、沖縄、任那・日本府、坊津、奈良、伊勢、常陸」を結ぶ共通の母神である可能性が非常に高いと いう結論を海舌も提示したい。

ケルト民族の崇高な母神であるDeua Brigantiaの姓は、「Deua」である。

原型は太陽神であった、と思われる。

http://blog.kaisetsu.org/?eid=813407
海舌 SeaTongue@Kaisetsu

参考:

http://yamataitenku.progoo.com/bbs/yamataitenku_topic_pr_12.html のキャッシュ
邪馬台国天空掲示板


[12] シュメールの最高神アンの娘イシュタル Name:児島歴研会 2008/11/03(月) 18:49 [ 返信 ]

シュメールの最高神アンの娘イシュタルですが、2匹の獅子をしたがえて、2羽の
鳥(フクロウ)を従え、王冠を被り羽を付け神紋を持っています。

一般に「イシュタル」という名前で知られている太古の女神は元々のシュメールの地
では「イナンナ」と呼ばれていました。

このイシュタルは金星の女神である。
古文書でイシュタルについて語られているものは主として二つあります。一つ
が「イシュタルの冥界下り」と呼ばれているもので、もう一つが「ギルガメッ
シュ叙事詩」です。
イシュタルは巨大な牡牛を送りギルガ
メッシュ王を殺そうとしました。この牡牛は天の牡牛座を降ろしたものだと言
われています。
金星と牡牛座の関係
イシュタルは冥界に行かなければならないと考えた」という文章でこの物語は始まります。

第2の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの耳飾りをここでお預かりしま
す」といいます。そこでイシュタルは耳飾りを渡しました。

やがて第3の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの首環をここでお預かりします」
といいます。そこでイシュタルは首環を渡しました。

やがて第4の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの胸飾りをここでお預かりしま
す」といいます。そこでイシュタルは胸飾りを渡しました。

やがて第5の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの腰帯をここでお預かりします」
といいます。そこでイシュタルは腰帯を渡しました。

やがて第6の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの腕環と足環をここでお預かり
します」といいます。そこでイシュタルは腕環と足環を渡しました。

やがて第7の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの腰布をここでお預かりします」
といいます。そこでイシュタルは腰布を渡しました。

・・・

こまった天神エアは月の神シンと相談し、宦官アスシュルナミルを冥界に派遣
してエレキシュガルを説得、彼女はしぶしぶ生命の水をイシュタルにふりかけ
て蘇生させますが、彼女を地上に戻す代わりに誰か代わりの者を冥界に連れて
来るように、と要求し、認められます。

そこで冥界の侍従が地上に出て代わりの者を物色していたところ、イシュタル
の夫のドゥムジが妻が死んだというのに喪にも服さず遊びほうけているのを見
つけます。けしからん奴だというわけで、ドゥムジをイシュタルの身代わりに
冥界に捕らえておくことにし、イシュタルは解放されます。

・・・

イシュタルが地上に戻ると再び人間や動物は愛し合って子供を産むようになり、
植物も実をつけるようになりました。
性器を要求するというのはこの神が豊饒の神の要素を持っているということを示している。


[13] RE:シュメールの最高神アンの娘イシュタル Name:児島歴研会
2008/11/03(月) 19:05

河の神、女性. 父:? 母:? 豊穣、安産の女神でもあり、 百の星で飾られた王冠と
四角い金の髪飾りを付けている。

人類最古の文明の担い手はシュメール人
最初にこの地に栄えたのは母系社会のシュメール人、そこにやってきたのが野蛮な遊牧民のアッカド人(白人類)

シュメール初期王朝時代
雄牛の角を持つ王冠はアヌを表している。
シュメール神話。ウルとハランを中心に崇拝。三日月を武器とし、満月を王冠とする。邪な者達の悪事を、その光によって暴くとされている。

山羊は性的な多産のシンボルであった王冠の印にも使われ、国王を象徴する樹木とされています。

にヤーウェの原点はシュメール神話の中でも最も
古い神に属する、雄牛の角の王冠をかぶったアヌ(アン)神という線が妥当だという事になるだろう。


「世界ビール大百科」{シュメール・ビール}) などの形で言葉が残されている。 最初ビール造りは家庭内での女性の仕事

シュメール文明においては、シカル(ビール一般)、ビーカル(強いビール)、カッシ(黒いビール)、カッサグ(上等の黒いビール)、カッサガサーン(最上のビール)、カッシグ(赤いビール)などの名称があった。

シュメール天空の王鷲 太陽は偉大なる天空の王 ヨーロッパでは権力の象徴とされる
天の川。 仏項天空の王が金輪である。

ギルガメシュ (イラク・メソポタミア) シュメール,バビロニアの英雄神。 頭部に王冠をかざす。
牡山羊 シュメール初期王朝時代 前2600年頃 ウル出土 」「彩色土器の皿 ハラフ期 前4400年頃 アルパチャ(イラク)出土国立イラク博物館蔵」 32花弁。



[14] RE:シュメールの最高神アンの娘イシュタル Name:児島歴研会 2008/11/03(月) 19:20

シュメールはウルクの女神イナンナ
イナンナ神。別名「天の貴婦人」。
牛角付きの冠
像や絵を「女性」と判断するか「女神」と判断するか?
牛角付きの冠をつけているものは「神様」ということになる。

古代メソポタミアの都市国家シュメールで発明された戦車。四輪で車輪に輻がなく、ろばが牽く車体に乗った御者が女神と並んで座り、王冠を戴いている。

シュメール人による文明が誕生し、都市国家というものが初めて建設された。

多産系の安産タイプの女性はこのオキシトシンがわずかしか検出されない。すなわち前世の記憶を持った子が生まれる可能性高い。前世の記憶を持つ子供の分布は圧倒的に東南アジア、インド、中国、いわゆる多産系の民族に多い。

シュメールにおいては、月を司るとともに大地と大気の神として信仰されていた。
シュメール人の女性のように、口腔性交、または肛門性交を行うとき(男性優位の正常値。
シュメール人に文明を授けたオアネスである。このオアネスは魚の頭の下に
人間の頭があり、尾ヒレのある当たりに人間の脚が生えている。

「ギルガメシュ叙事詩」は、シュメールの王(スメラのミコト)として存在した。

シュメールのイナンナ、時には男装(武装)をして闘う女神の姿もある
これは相対している。

シュメールの文字および漢字は現在. 私達が使う 言語の起源といえる。
シュメール(メソポタミア(現在のイラク)南部を占めるバビロニアの南半分の地域)




参考2:
Sumerian religion - Wikipedia, the free encycloped
The Pantheon/the Annunaki
The majority of Sumerian deities belonged to a classification called the Anunna (“[offspring] of An ”), whereas seven deities, including Enlil and Inanna, belonged to a group of “underworld judges" known as the Anunnaki (“[offspring] of An” + Ki ).[citation needed ] During the Third Dynasty of Ur , the Sumerian pantheon was said to include sixty times sixty (3600) deities.[8]
The main Sumerian deities are as follows:
• Anu : God of heaven/the firmament .
• Enlil : God of the air (from Lil = Air); patron deity of Nippur .
• Enki : God of freshwater, male fertility, and knowledge; patron deity of Eridu .
• Inanna : Goddess of sexual love, female fertility and warfare; matron deity of Uruk .
• Ninhursag : Goddess of the earth.[9]
• Nanna , God of the moon; one of the patron deities of Ur .[10]
• Ningal : Wife of Nanna.[11]
• Ninlil : An air goddess and wife of Enlil; one of the matron deities of Nippur ; she was believed to reside in the same temple as Enlil.[12]
• Ninurta : God of war, agriculture, one of the Sumerian wind gods; patron deity of Girsu and one of the patron deities of Lagash .
• Utu : God of the sun at the E'barbara temple[13] of Sippar .

参考3:
Anann



Paps of Anu ; the western Pap from the eastern Pap
In Irish mythology , Anann (Anu, Ana, Anand) was a goddess . 'Anann' is identified as the personal name of the Morrígan in many MSS of Lebor Gabála Érenn . With Badb and Macha , she is sometimes part of a triple goddess or a triad of war goddesses .[1] As such, she may be a Celtic personification of death , and is depicted as predicting death in battle. As a goddess of cattle , she is responsible for culling the weak. She is therefore often referred to as "Gentle Annie", in an effort to avoid offense, a tactic which is similar to referring to the fairies as "The Good People".[2]
She may be identical with Danu or Aine .[citation needed ] She was a goddess of fertility , cattle, and prosperity, and was known for comforting and teaching the dying. Fires were lit for her during Midsummer .[citation needed ]

[edit ] Etymology
This name may be derived the Proto-Celtic theonym *Φanon-.[3]
[edit ] Paps of Anu
Anann has particular associations with Munster : the twin hills known as the Paps of Anu (Dá Chích Anann or the breasts of Anu), at 52°00′55″N 9°16′09″W , near Killarney ,[4] County Kerry are said to have been named after this ancient goddess.[1]

http://en.wikipedia.org/wiki/Anann

参考4:

ダヌ
ダヌまたはダナ (Danu/Dana)(またはアヌ またはアナ、(Anu/Ana ))は、アイルランド神話(ケルト神話 )に登場するトゥアハ・デ・ダナーン (ダーナ神族)の母であり、また生命の母神 ともされる。しかし、神話上には僅かにしかみられない。
ダヌのウェールズ語 (Welsh) の同意義語はドーン (Dôn)。 ブリギッド やアヌ とも同一視される。
ダグダ 、ディアン・ケヒト 、リル 、ゴブニュ 、ヌアダ の母でもある。
ダヌの認知の古さ [編集 ]
ドナウ川 (Danube) (ラテン語 :Danuvius)、ドニエストル川 (Doniester) 、ドニエプル川 (Dniepr) 、ドン川 (Don) のような地名の形跡を根拠として、ダヌは恐らくケルト全域で崇拝されていた。実際のところ、インド神話 に登場するダヌ (Danu )という名前を持つ女神が、水およびダナヴァス (Danavas ) という名の阿修羅 (アシュラ)の一族の母に関係していることが、この女神が非常に古い時代のインド・ヨーロッパ系神話 の起源をもつことを示しているとされている。
また、「dhanu」の名は「swift(迅速さ)」という意味を元来持つと見られる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8C

参考5:
12.シュメール民族の謎
メソポタミア地方に最古の都市文明を築いたシュメール民族は、突然この地方に都市文明を築いた。かれらは、自らを「黒い頭」と呼び、海からやってきたといっていた。イラクの高原からやってきたという説もある。それ以上はさかのぼることはできない。
  ここから話は飛躍する。
  高楠順次郎は仏典の研究から、メソポタミアのシュメール民族と、インド文明を築いたアーリア民族、あるいはポリネシア、メラネシア、マレーシアのマラ イ族、インドネシア太平洋海洋民族のルーツはただ一つ、中央アジアのコンロンの大平原のコタン文明を築いたシュメール族にあるとした。
  また、釈迦の出自も「世界最の知識民族であったシュメール族」王家の子孫であるとした。先祖に須彌(スメル)王が居たとして、仏典「仏本行集経」から系図も示している。
  また、伊勢などにつたわる「蘇民将来之子孫也」の護符をもたらしたのは、弓月の君に率いられてコタンから日本に移住した秦氏で、蘇民はシュメールのこ とであるとのことである。つまり、シュメール民族の流れは、秦氏として日本にも移住してきているとの説を唱えている。最近でも高楠順次郎の説を、岩田明、 太田龍、中丸薫などのシュメール民族中央アジア起源説の根拠としているようである。


  高楠順次郎など説にしたがえば、中央アジアのコンロン山脈の麓であるホー タンのあたりにいた世界最高の知識民族であったシュメール民族は、人口増加、天変地異や気候変動をうけて、各地に移住して文明を起こしていった。西にいっ てシュメール人となりメソポタミア文明を起こした。南下して、アーリア民族としてインド文明を起こした。また、海洋民族として東南アジアからポリネシア、 ミクロネシアの海洋文明をおこした。

http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/episode12.html








D. H. ロレンスの言語芸術speech artの存在的想像力について
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死んだ男・てんたう虫 (1957年) (新潮文庫)/ローレンス

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以下に付録として、福田恒存の『死んだ男』の名訳がある。本体はドゥルーズ夫妻によるロレンスの『黙示録論』の評論であるが、確かに啓発的な読みではあるが、PS理論からでないと本質は捉えられないと言えよう。
情動の思考―ロレンス『アポカリプス』を読む (ポストモダン叢書)/ファニー ドゥルーズ

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D. H. ロレンス文学・哲学の文学、というか、言語芸術(ロレンス自身はspeech artと呼んでいた。確かに、彼の文学は口語、話し言葉主導であり、また、映像性、視覚性が強いので、そう呼ぶのは適切である)の存在的喚起力は、他の作 家には見られないものである。映画的とも言えるのが、映画を見ているときの想像力に近い。だから、映画的というよりは、やはり、存在喚起的想像力的という 言うべきであろう。
 これについてPS理論から解明したい。今は予見だけを簡単に述べる。
 それは、media pointの光の共振エネルギーをロレンスは表現しているのである。そのために、読者は深く存在的に表象を形成するのである。
 言い換えると、第三象限からの光(dark sun, dark ray)の差異共振エネルギーから第二象限を形成するのである。つまり、感覚的表象世界を形成するのである。
 同時にロレンスは第三象限の直観知を作品に表現するのである。哲学的なのである。
 そう、光のエネルギー的表象と直観的知(グノーシス)において、ロレンスは第三象限を源泉にしていると考えられるのである。
 今はざっと以上で留める。
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デーヴィッド・ハーバート・ローレンス - Wikipedia
デーヴィッド・ハーバート・ローレンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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デーヴィッド・ハーバート・ローレンス

21歳の頃 (1906年)
誕生 1885年 9月11日
イギリス
ノッティンガムシャー 、イーストウッド
死没 1930年 3月2日 (44歳)
フランス
ヴェンス
職業 小説家
活動期間 1907年–1930年
ジャンル モダニズム
主題 性愛、社会、旅行小説、文学批評
代表作 小説: 白孔雀
短編: 菊の香り
戯曲: ホルロイド夫人
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デーヴィッド・ハーバート・ローレンス(David Herbert Richards Lawrence、1885年 9月11日 - 1930年 3月2日 )は、イギリス ノッティンガムシャー出身の小説家 ・詩人 。
1908年 ノッティンガム大学を卒業した後、小学校 の教員 となり、1911年 に小説 を出している。1912年 から1914年 にかけてドイツ に渡り、1914年 イギリスに帰国後結婚した。『息子と恋人』(1913年)、『虹』(1915年)、『チャタレー夫人の恋人 』(1928年)など人間の性と恋愛に関する小説を発表したが、発禁処分を受けたものもある。
ローレンスの作品は性を大胆に描写し、また、近代文明が人間生活にもたらす悪影響を主題としているものが多い[1] 。易しくぶっきらぼうな言葉で書かれているのが特徴である[2] 。
日本では第一次世界大戦 後の1920年代 頃に注目されはじめ、ローレンスが死んだ1930年代 には阿部知二 、伊藤整 、西脇順三郎 らによって広く紹介されるようになった[1] 。また、第二次世界大戦後には伊藤整が訳したローレンスの作品『チャタレイ夫人の恋人 』がわいせつだとして罪を問われたチャタレー事件 が発生している。

・・・・・

外部リンク [編集 ]


英語版ウィキソースにデーヴィッド・ハーバート・ローレンス 著の原文があります。

ウィキクォートにデーヴィッド・ハーバート・ローレンス に関する引用句集があります。
伝記 [編集 ]
• Biography from the Literary Encyclopedia
• Detailed biography, chronology and other resources at The University of Nottingham
• Audio interview with Mark Kincaid-Weekes, concentrating on the middle years of Lawrence's life
• Fyne Times Gay Great - DH Lawrence
作品 [編集 ]
• プロジェクト・グーテンベルク におけるデーヴィッド・ハーバート・ローレンスの作品
• Works by D H Lawrence at Project Gutenberg Australia
• Online editions of works , from eBooks@Adelaide
• D. H. Lawrence: Poems
• With the Guns, Lawrence's journalistic, and eerily prophetic, response to the start of the Great War
• Poetry Archive: 150 poems of D. H. Lawrence
• "The Deep End," a biographical essay by en:Benjamin Kunkel in en:The New Yorker
評論 [編集 ]
• "The Hostile Sun: The Poetry of D. H. Lawrence" by en:Joyce Carol Oates (1974)
• "Lawrence's Götterdämmerung: The Apocalyptic Vision of Women in Love" by Joyce Carol Oates (1978)
• "The Internal Travel Towards Jouissance" by Juliette Feyel
• "St Mawr: The Monk and the Beast" and "The Ending of Sons and Lovers" by Keith Sagar.
• The Prussian Officer and Other Stories 謎解きの魅力を持つ永遠の問題作 (宮脇孝雄 )
その他 [編集 ]
• D. H. Lawrence Museum and Heritage
• Illustrated history of Lawrence's life and death
• Frieda Lawrence Collection
• The paintings of D. H. Lawrence
• Online exhibition, 'A Literary Legacy: D H Lawrence at the University of Nottingham'
• D. H. Lawrence information and events website, endorsed by the University of Nottingham'
• Review of Michael Black's Lawrence's England: Thomas L. Jeffers, “Lawrence’s Major Phase,” Yale Review 90 (Summer 2002), 148-58.
• Review of John Worthen's biography of D. H. Lawrence, The Oxonian Review of Books
• "Mythic Patterns in 'The Plumed Serpent'" http://litscholar.net/plumed%20serpent/ThePlumedSerpent.htm
• "Memoirs of the Foreign Legion" http://gutenberg.net.au/ebooks03/0300711.txt
• Who’s Who in Gay and Lesbian History from Antiquity to World War II, Routledge; London, (2002), ISBN 0-415-15983-0



2012年01月18日(Wed)▲ページの先頭へ
光とは何か:虚MPの光(超越光、マニ教の光)、空孔(⇒)の光、実MPの光(現象光)
註:人間認識図の画像付きは以下を見られたい。
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1783.html

光とは何か:虚MPの光(超越光、マニ教の光)、空孔(⇒)の光、実MPの光(現象光)

テーマ:media point

これは再確認ないしは再考である。
 先に、量子論は、media pointの実軸点で精神子を捉えていて、光は超越光=超光であると述べた(仮説)。(PS理論とシュタイナー霊学:量子力学と精神子力学:超量子力学としてのPS理論 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11138777900.html)
 ならば、それは肉眼の光とは異なるので、後者を説明する必要がある。
 結局、media pointの虚軸点(MP1ないしImaginary MP=IMP=虚MP:以下、虚MPとする。尚、MP2=Real MP=RMPは実MPと表記する。)で発生しているのが、超越光=超光としての光であり、これが、マニ教等の光と考えられる。(もっとも、精緻に言うと少 し異なるが、今はそのままにしておく。)
虚MPの光が言わば、下降して、実MPへと到達して、そこで、現象の光が発生するというように思われる。そして、実MPからさらに展開して、物質凸(+1)へと帰結するということになる。
 そうすると、虚MPの光と実MPの光の間にもう一つの光が考えられる。それが、いわば、滝、瀑布のような光である。あるいは、即非様態の光である。これを空孔Vacuumの光と呼んでおきたい。
 思うに、量子力学で捉えている光がこの空孔の光ではないだろうか。また、凸i*凹i⇒凸の⇒がこの空孔の光ではないだろうか(作業仮説)。(そして、⇒ の領域を空孔MPとも呼びたい。)ならば、左辺が虚MPを指していると見ていいだろう。そして、⇒の先端が実MPとなるだろう。
 ところで、凸iも光であるが、それはこの図式において、どうなるのか。
 以前、凸iを原光と呼んだが、一応、そう捉えていていいのではないだろうか。原光凸iと原闇凹iとの差異共振が超越光=超光としての光(マニ教の光)を産み出すのである。
 残った問題は、相対性理論と量子力学との関係の問題である。アインシュタインの捉えた光は実MPの光なのか。それとも、空孔の光なのか。光速度一定の光 は前者を指しているように思える。それは物質界を前提にしているからである。そして、量子力学は当然、後者を問題にしていることになる。
 そして、空孔の光、あるいは、⇒の光とは、絶対的矛盾を呈しているのである。精神子(超越光)であり、物質的光(現象光)であるという矛盾である。そう、この点を実を言い方で既述したが、今日の量子論は解明できていないと考えられるのである。
 有り体に言えば、精神子は無限大の速度であり、超光速である。しかしながら、それは、物質界の基準に拠ればのことではあるが。精神界においては、当然、 もはや、物質界の基準は適用不可能である。(精神界は超時間的な、ないし、観念同時の世界であるから、所謂、速度は問題にならないだろう。しかし、違う概 念がありそうではある。それは課題である。)
 ニュートリノが超光速という結果(まだ、観測問題があるが)は、この点に関係していよう。つまり、精神界の要素が物質問題に入ってしまっている為に、問題化してしまっていると考えられるのである。
 ここで今や大問題の放射性物質について簡単に触れると、それは、当然、実MPの現象と考えられる。つまり、物質的光に関係すると考えられる。つまり、端 的に言えば、原子とは実MP事象を意味していると考えられる。そう、電磁波とは正に、実MP事象であると考えられるのである。この問題はここで留めてお く。
 さて、この視点から、氣の問題を考えたい。これまで、氣を差異共振事象と捉えてきた。そうすると、虚MPの事象となる。しかし、それで本当に正しいのか。
 思うに、おそらく、それでいいのである。(上記、保留にしておいたが、人間の精神、認識、意識は、凸iの極限点【アーリマン】と凹iの極限点【ルシファー】の極性に関係している。これは、シュタイナー霊学のPS理論的解明である。)
 だから、氣は精神子であるということである。そして、それが、宇宙・自然的身体bodyをVector Modeとして形成しているのである。
 以上の考察から量子力学、ないし、素粒子論を考えると、それは、虚MPと実MPの混同があることは明らかである。
 問題は原子は実MP事象であるが、いわゆる、量子は空孔の光、⇒の光の事象であり、この点においても混同があると言えよう。
 また、帰結的に、量子論は虚MPと空孔MPと実MPの三者を混同していると考えられる。
 思うに、この三者を人間認識図に当てはめると、虚MPは第三象限、空孔MPは第二象限、実MPは第一象限に帰属するのではないだろうか。(凸、物質はあえて言えば、第四象限に帰属していると言えよう。)
 こう見ると、Kaisetsu氏が芸術を第二象限に定置していることが明瞭になる。それは、精神と物質の中間領域なのである。
 しかしながら、芸術、深淵な芸術は、精神子を表現しているのであり、その点では、第三象限を志向していることになるのである。その意味では、芸術はmedia pointから凹への線分領域に属すると言えるかもしれない。
 後でさらに検討したい。




PS理論とシュタイナー霊学:量子力学と精神子力学:超量子力学としてのPS理論

テーマ:manichaeism: 哲学

これについては、以前比較論を行った。そして、今でもそれはほぼ有効だと思う。
 ただし、直観的になにか重要な点で異なると感じるので、それを簡単に記したい。
 端的に言えば、後者は直観学であり、近代科学を批判していることである。言い換えると、シュタイナーにとって科学とは、近代科学=物質科学であり、量子力学を知らなかったので、量子論と直観がPS理論におけるように相関することを知らなかったと言えよう。
 シュタイナー霊学にとり、修行は基本的実践項目であるが、PS理論は修行を説かないのである。
 だから、後者はよりグノーシス(霊知)的と言えよう。もっとも、修行に私見では意味を認めないわけではない。
 ところで、今の時点で問題に思える点を述べたい。それは、精神と「量子」の問題である。
 私は精神振動と「量子」とを同一的に先には捉えた。つまり、高振動が精神的で、低振動が物質的と捉えた。
 しかし、これでは単に量的ではないかという直観があるので、問題に思うのである。
 もっとも、私は精神振動は倍音的ではないかとも感じているのである。例えば、太陽光は、物質光にはない倍音的振動をもっているのではないか思ってみるのである。
 しかし、それでもやはり、量的ではないだろうかという疑問がある。
 今、思い浮かべたのは、以前述べた区別である。即ち、いわゆる、量子とは、media pointの実軸で捉えられた「精神子」であり、「精神子」が虚軸に存するものであるということである。だから、太陽の光とは本来は「精神子」であり、そ れが、現象界においては、 実軸的「精神子」になっているというように思われる。
 そして、「精神子」とは本来、第三象限に属するものであり、差異共振状態である。
 どうもこの説明の方が高振動と低振動の区別よりいいと思われる。
 つまり、量子力学とは、根本的には、精神子力学であるが、現段階では、精神子の実軸的観測を理論化しているということになるのである。
 そして、だから、ニュートリノが超光速ということになるのである。
 しかし、精神子=「光(超越光=超光)」は物質的には無限速(「観念的同時」)であると考えられる。
 ということで、以前の考えにもどったことになる。だから、いわゆる、量子とは精神子をmedia pointの実軸、MP2で観測したものということである。量子論は半精神半物質科学であるということである。
 だから、PS理論こそ、トランス量子論、精神子力学と考えられるのである。それは、また、トランス霊学とも言えそうである。
 そして、鈴木大拙の即非の論理は精神子の論理であるし、D. H. ロレンスの文学・哲学は精神子の文学・哲学であるし、モーツァルトの音楽は精神子の音楽であると言える。
 ならば、PS理論は以前述べたように超量子力学である。



2012年01月09日(Mon)▲ページの先頭へ
仮説:古代世界海洋の道:ケルト、タミール、東南アジア、琉球・沖縄
仮説:古代世界海洋の道:ケルト、タミール、東南アジア、琉球・沖縄
テーマ:history
Kaisetsu氏の、管見では、定説を覆す、日本古代史、沖縄論が継続されているが、とりわけ、以下は私見からは興味深い。
 即ち、古代の倭国連合の貿易範囲が東南アジアの海洋に及ぶことであり、また、タミール文化とのそれとの関係である。
 私が折口信夫の『古代研究』において、琉球の宗教がケルト神話に酷似したことに驚愕したことは既述した。
 ではどうして、二つは繋がったのか不明であったが、作業仮説的に、ケルト文化がインドまで伝わったことから、そこから何らかの接点があると考えていたのである。
 つまり、アナAna(ダナ)という女神がケルト神話にあるが、これは、ヒマラヤのアンナ・プルナのアンナに通じているのである。
 しかしながら、Kaisetsu氏のタミール文化との海洋貿易における融合を考えると、ケルトと琉球・沖縄が結びつくのは、現実的になるのである。
 また、思いつきであるが、Mimanaであるが、これは、
Mim+Ana、ないし、Min+Anaである。
 Mim、又は、Minを明とすると、明アナである。明はマニ教に通じる。日と月で、陰陽である。
 そうすると、任那はマニ教の女神に関係するかもしれない。マニ教の女神はどうやら、大女神、根元の女神である。そう、母権神である。
 以下、マニ教絵画(参照3)の女神がダエーナー女神ではないかという報告があるが、ダエーナーとダヌ(アヌ)は、音声的に近いだろう。(追記:ダヌはダナ、ダーナでもあるから、これで説得力が増すだろう。)
 興味は尽きないが、今はここで留める。


資料:

古代、倭国連合の最盛期の貿易範囲は、The Manila Galleonによって推測するべきだ。

古代の倭国連合には、フィリピン諸島やインドネシア諸島なども含まれていたと思われる。魏志倭人伝の記述も、このような前提で解釈するべきだ。

 次は、The Manila Galleon(1565年から19世紀初頭まで存在した)の貿易ルートであるが、

800px-16th_century_Portuguese_Spanish_trade_routes posted by (C)天花一海

 このManila Galleonは、古代から存在する、安全に航海できる海の道なのである。暗天時の帰航、水と食料の補給などを適時行えるノウハウが有れば、古代においても十分に交易ルートとして活用できたのである。

 倭国連合の主たる活動範囲は、日本列島、朝鮮半島、中国大陸沿岸部、東シナ海だけではなく、南シナ海も主たる貿易活動範囲と考えるべきであろう。

http://blog.kaisetsu.org/?eid=813387



任那を「Ni-Ma-Ra」「Ni-Ma-La」(Tamil:Nimalam)と読むべきこと及びマニ教との関連についての補強資料と大野晋先生の倭語クレオールタミル語説への支持

一般に日本語、ここでは白村江の敗戦前までの倭国連合の言語という意味で、倭語という名称を用いるが、この倭語とタミール語との関係は顕著な同質性を持つのである。

 さらに、弥生時代以降の文化的特徴も5世紀までの倭国連合時代とタミール文化は顕著な同質性を持つのである。

 さらに、この同質性が相互貿易共生システムによって成立していたことは次から容易に推測できる。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=813391
海舌 SeaTongue@Kaisetsu

参照:
ダヌ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索
ダヌまたはダナ (Danu/Dana)(またはアヌ またはアナ、(Anu/Ana ))は、アイルランド神話(ケルト神話 )に登場するトゥアハ・デ・ダナーン (ダーナ神族)の母であり、また生命の母神 ともされる。しかし、神話上には僅かにしかみられない。
ダヌのウェールズ語 (Welsh) の同意義語はドーン (Dôn)。 ブリギッド やアヌ とも同一視される。
ダグダ 、ディアン・ケヒト 、リル 、ゴブニュ 、ヌアダ の母でもある。
ダヌの認知の古さ [編集 ]
ドナウ川 (Danube) (ラテン語 :Danuvius)、ドニエストル川 (Doniester) 、ドニエプル川 (Dniepr) 、ドン川 (Don) のような地名の形跡を根拠として、ダヌは恐らくケルト全域で崇拝されていた。実際のところ、インド神話 に登場するダヌ (Danu )という名前を持つ女神が、水およびダナヴァス (Danavas ) という名の阿修羅 (アシュラ)の一族の母に関係していることが、この女神が非常に古い時代のインド・ヨーロッパ系神話 の起源をもつことを示しているとされている。
また、「dhanu」の名は「swift(迅速さ)」という意味を元来持つと見られる。

Danu (Irish goddess)
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In Irish mythology , Danu ([ˈdanu] ; modern Irish Dana [ˈd̪ˠanˠə] ) is the mother goddess of the Tuatha Dé Danann (Old Irish: "The peoples of the goddess Danu"). Though primarily seen as an ancestral figure, some Victorian sources also associate her with the land.[1]
Name
The theonym is of Proto-Indo-European age, and seems to have denoted a water goddess in origin. A goddess Dānu is attested in the Rigveda , and also the river names Danube (Latin : Danuvius), Dniestr , Dniepr and Don derive from the name.
The Rigvedic Danu was the mother of a race of Asuras called the Danavas . A shortened form of the name appears to have been Dā. This form survives in Greek Damater (Demeter, "mother Da"), in origin also a water goddess.[citation needed ] The Proto-Indo-European *dānu probably meant "fluvial water, running water",
The genitive form of Old Irish Danu is Danann, and the dative Danainn. Irish Danu is not identical with Vedic Dānu but rather descends from a Proto-Celtic *Danona, which may contain the suffix -on- also found in other theonyms such as Matrona, Maqonos/Maponos and Catona.[2] [3]
[edit ] In mythology
As the mother of the gods, Danu has strong parallels with the Welsh literary figure (or goddess) Dôn , who is the mother figure of the medieval tales in the Mabinogion .
Danu was considered as the mythic mother goddess of the Tuatha Dé Danann, the Celtic tribes that first invaded Ireland. The Celts , also on the continent, had several goddesses, also of war. "Apart from these goddesses of war, there were other Amazonian figures who led armies into battle. Often they were also endowed with legendary sexual prowess..."[4] "The Celts included the cult of the mother goddess in their rites, as archeological evidence testifies. Indeed, the Tuatha Dé were the descendants of the goddess Danu, and in some local instances, the ruler of the otherworld was a goddess, rather than a god, just as some folktales represented the otherworld as 'the Land of Women'. Danu may be connected with Bridget [clarification needed ], daughter of Kildare and of learning, culture and skills. She was known as Brigantia in northern England, and survived as St Bride in Christianity"[5]
[edit ] References
Constructs such as ibid. , loc. cit. and idem are discouraged by Wikipedia's style guide for footnotes, as they are easily broken. Please improve this article by replacing them with named references (quick guide ), or an abbreviated title. (October 2010)
1. ^ Squire, Charles Celtic Myth and Legend , p. 34: "Danu herself probably represented the earth and its fruitfulness, and one might compare her with the Greek Demeter. All the other gods are, at least by title, her children."
2. ^ Köbler, Gerhard, (2000). Indogermanisches Wörterbuch, (3rd Edition): p.181. Available at: [1]
3. ^ Julius Pokorny ’s Indogermanisches etymologisches Wörterbuch . Entry 313. Available at: [2]
4. ^ Veronica Ions 1974, 2005: The World's mythology in Colour, Bounty Books, London ISBN 978075371130 p. 150
5. ^ Ibid.

Danu (Asura)
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Dānu, a Hindu primordial goddess, is mentioned in the Rigveda , mother of the Danavas . The word Danu described the primeval waters which this deity perhaps embodied. In the Rigveda (I.32.9), she is identified as the mother of Vrtra , the demonic serpent slain by Indra [1] . In later Hinduism, she becomes the daughter of Daksha and the consort of Kasyapa .
As a word for "rain" or "liquid", dānu is compared to Avestan dānu "river", and further to river names like Don , Danube , Dneiper , Dniestr , etc. There is also a Danu river in Nepal. The "liquid" word is mostly neuter, but appears as feminine in RV 1 .54.
As a Hindu goddess, Dānu has 2 temples in Bali , Indonesia : Pura Ulun Danu Temple on Lake Bratan, Bali and Ulun Danu Batur, near Penelokan.
[edit ] See also
o Danu (Irish goddess) , an Irish water goddess with many similar characteristics
o Rigvedic rivers
o Old European hydronymy
o Kamadhenu
[edit ] References
1. ^ Kinsley, David (1987, reprint 2005). Hindu Goddesses: Visions of the Divine Feminine in the Hindu Religious Tradition, Delhi: Motilal Banarsidass, ISBN 81-208-0394-9 , p.16

参照2:
中国におけるマニ教

続々と「発見」されるマニ教徒の村々
ところで、21世紀に入り中国の学者たちが本格的に調査に乗り出すと、福建省の各地でマニ教の神々を祀った廟や、摩尼光仏を信仰する村 が次々と発見されている。
例えば草庵に近い蘇内村にある境主宮という廟では、摩尼光仏に加えて明使(ミフルヤズド?)と霊相(イエス?)というマニ教の神が、観 音菩薩や福徳正神など仏教や道教の神々と並んで祀られ、村の人々が日常的にお線香を上げにやって来る。また村には木彫りの摩尼光仏像があり、「清浄光明  大力智慧 無上至真 摩尼光仏」という16文字を唱えながら手で印を結ぶ魔 除けの真言も伝わっていて(※)、2005年にやって来たイギリスやオーストラ リアの調査団が、「21世紀に現存するマニ教信仰」だとお墨 付きを与えることになった。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/yomimono/mani.html
どっこい生きてた中国のマニ教

文:吉田一郎(ヤジ研)

参照3:注:赤文字、下線強調はResurrectionによる。
2010年度 第2回 国内シンポジウム「中央アジアにおける仏教と異宗教の交流」

 吉田豊氏は,「マニ教絵画の世界」と題して,昨年初めて発表されたマニ教「宇宙図」を含む,日本に所蔵されるマニ教絵画とその重要性について報告した。 これまで「六道図」の1種と考えられていた大和文華館所蔵の絹絵が,実はマニ教の個人の終末論を描いた画であることが,報告者によって明らかにされたこと を契機に,栖雲寺蔵マニ教のイエス像に加え,日本で個人蔵を含め7点のマニ教画が新たに見つかった。その全てが元朝期ないし,その前後する時期に寧波を中 心とする中国江南地方で制作されたものと考えられる。この地域にマニ教徒が存在していたことは,マルコ・ポーロの『東方見聞録』や中国の編纂史料から知ら れている。吉田氏は,これらの絵画資料を現存するマニ教経典に記述される世界と比較して,絵画に描かれた内容を読み解こうとする。例えば,大和文華館所蔵 の絹絵では,死後の裁きの場面に雲に乗る女性像が認められる。吉田氏はこれをダエーナー女神とみる。マニ教では,信者が生前に行った善行が,女神の姿を 取って迎えに来ると考えられていた。またマニ教の世界観を示す「宇宙図」は,天界,十天,八地,太陽と月,光の流れ(船),大地にそびえたつ須弥山,黄道 十二宮,空中に据えられた裁判官,闇の国の表現により構成されており,これらの図像的特徴は,現存するマニ教文献が伝えるマニの宇宙生成論の記述に見事に 一致する。またマニ教の世界観には仏教の世界観との交流をうかがわせる点もあって貴重である。今後この作例と比較して,これまでトルファンで発見されてい たマニ教画,その他の断片についても再解釈する必要がでてきた。

吉田氏は,仏教とマニ教の関わりについて補足した。敦煌で発見される引路菩薩という尊格の図像は,雲に乗る点など上述のダエーナー像との類似点が注目され る。さらに魂を引導するという役割も含めて両者間に影響関係が考えられる。引路菩薩は仏教文献では確認されず,早くから外来文化の影響が問題となってい た。今回マニ教画に引路菩薩に酷似する図像が発見され,ダエーナーがゾロアスター教に起源をもつことを考慮すれば,影響はマニ教から仏教に及んだと考えて よいだろうと指摘した。これまでマニ教が中国で仏教に影響されたと想定される傾向にあったが,マニ教が仏教に与えた可能性も視野にいれる必要があると提言 をなした。
http://barc.ryukoku.ac.jp/activity/2011/03/2-1.html

龍谷大学アジア仏教文化研究センター

参照4:

天空の民ラピタ (01/07)

縄文人どころか、旧石器時代人も海を渡る能力を持っていたのは間違いないんだが、

建築とかあれこれ 呪いもあれこれ 




マネー狂気:Money-madness:第二象限から第三象限への深化:自然・精神通貨と光の経済
テーマ:貨幣・通貨論
民主党を狂わせているのは、唯物論であるが、結局、それは、マネー狂気に帰結するだろう。また、当然、世界を狂わせている大元凶である。
 マネー狂気はPS理論でどう数学・哲学化できるだろうか。そう、マネーを位置付ける必要がある。
 マネーは象徴的である。一つの中心である。それは、明らかに、第四象限に直結しているシンボル、メディアである。
 かつて何度も検討したが、差異を同一性に変換するメディアである。だから、一つの精神的フィルターである。言語もそうであるが、言語よりはるかに第四象限と直結する精神的フィルターである。
 結局、凸i⇒凹i、ないしは、凹i/凸iの志向性、同一性=父権的志向性の象徴、精神的フィルターのメディアである。それは、物質であったり、メンタルであったりする。
 そして、唯一神のような超一般性をもつ。
 そうすると、マネーは第二象限にも属しているだろう。
だから、第一象限の物質的経済のメディアであるが、それは、第二象限的作用と第四象限的衝動をもっているだろう。だから、善と悪の両面をもっていることになる。
 そう、また、一種の超越性をもっているのである。外在的超越性である。超越神性である。
 だから、簡単には、やはり、凸i⇒凹i、ないし、凹i/凸iである。父権主義=同一性的志向性のmedia pointである。
 結局、父権主義=同一性のmedia pointのシンボル、メディアであることになる。西洋文明、ユダヤ・キリスト教文明が続く限り、マネー病は治らない。
 結局、第三象限にマネー狂気の治療・治癒が存するのである。差異共振、純粋差異共振の「シンボル」、「メディア」がマネーを克服する。
 それは何か。
 個的経済である。個的共振経済である。個に「権威」があるのである。そして、マネーではなく、個的通貨であろう。個が発行する通貨である。
 それは減価通貨を活用するだろう。そして、その他になにかあるだろう。
 そう、自然や精神へと回帰する通貨、自然・精神通貨である。だから、自然・精神経済へと導くものである。マニ教的に言えば、光の経済である。
 今はここで留める。後で、詳しく検討したい。

追記:イスラム教は一神教であるが、第四象限を禁止しているのである。


参照1:
ガウス平面で表した人間認識の図

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


参照1:
Money-madness
テーマ:貨幣・通貨論
Money-madness

Money is our madness, our vast collective madness.

・・・

But it is not money we are so terrified of,
it is the collective money-madness of mankind.
For mankind says with one voice: How much is he worth?
Has he no money? The let him eat dirt, and go cold.--

・・・

We must have some money
to save us from eating dirt.

And this is all wrong.

Bread should be free,
shelter should be free,
fire should be free
to all and anybody, all and anybody, all over the world.

We must regain our sanity about money
before we start killing one another about it.
It's one thing or the other.

pp.486〜487 D. H. Lawrence Complete Poems, Penguin Books

D. H. ロレンスは詩人でもあった。私見では、前ソクラテス期の哲学者のような哲学的詩、ないしスケッチ的詩を書く詩人である。私の詩の好みとはずれるが。
 とまれ、その直言は鋭敏で実に今日を予見している。D. H.ロレンス文学・哲学が一般に知られていないのは実に残念である。
 思うに、20世紀初期ないし前期において、超越性の世界が出現したのであるが、それを物質的概念で閉じこめてしまうという誤りを犯したのだ。
 それは、芸術だけでなく、哲学も、自然科学もそうである。
 経済学はどうなのだろうか。ゲゼルの貨幣論は超越性につながるところがあるのではないだろうか。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11073086551.html

RESURRECTION: Japonesian
Trans-Apocalypse

参考:
マンモン

マンモン、マモン(Mammon)はキリスト教 における「七つの大罪 」の一つ、「強欲 」を司る悪魔 である(1589年、悪魔学者ペーター・ビンスフェルトの論による)。そもそもMammonとは、「富・財」を意味する古代 シリア語 であった。『マタイによる福音書 』に「汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず」(6:24)とあり、神との対比から聖書注釈者、並びに教父がこれを悪魔の一つとするに至った、というのが最も有力な説である。
アマイモン (Amaimon)などとの名前の相似から、アモン と混同されやすい。
悪魔像 [編集 ]

マンモン コラン・ド・プランシー 『地獄の辞典 』より
姿形は一般的に、人の胴体に鳥の双頭(普通はカラス)を持った、黒い悪魔として表現される。金銀財宝に対して非常に貪欲で、人間を誘惑して自らと同じように強欲にするという。
召喚術などで彼を呼び出すと主人の金銭欲を満たし、その代償に命を奪うという。そもそも彼から受け取った金銀の類はしばらくすると馬糞や灰に化すというから、さらさら人間の言う事を聞く気は無いのかもしれない。
堕天使 [編集 ]
J・ミルトン の『失楽園 』 では、マンモンは「堕天使のうち、これほどさもしい根性の持ち主も無かった」とされ、「天にあったときでさえ、彼は常に眼と心を下に……つまり、都大路に 敷き詰められた財宝、足下に踏みつけられた黄金を神に見える際に懇々と沸き出でるいかなる聖なる祝福よりも遥かに賛美」していたという。さらには、地獄に 落ちてなお、そこに金鉱を発見し、万魔殿を飾るためにと他の堕天使を指揮している。金銀を母なる大地から抉り出す術を人間に教えたのも彼だという(ただ し、失楽園 は聖書を始めとする当時の文献・伝説に忠実に準拠しているものの、それを踏襲した上でのミルトンの個人的想像による創作色が強いため、こういったオカルトの資料としては参考程度にしかならない)。
作られた悪魔 [編集 ]
中世ヨーロッパのカトリック教会は、免罪符 問題などに代表されるが、とかく教会の建築費(あるいは腐敗した聖職者の着服)等の金銭を必要としており、そこから御布施を出さない者を守銭奴として非難し、また、七つの大罪で貪欲を特に嫌っていた事実がある(実際の教義上、最も重いのは傲慢 とされていた)。つまり、マンモンとは皮肉ながら教父らが作り上げた悪魔なのである(ルシファー [そもそもは『金星 』の意]≒サタン の図式も教父ら、あるいは聖書の翻訳にあたった者たちが作り上げたものであるという説がある)。
アモンとの混同 [編集 ]
名が似通っているアモン (Aamon)との関係は、全く無いというわけではないらしく、アモンが他の神々を吸収することに関して強欲であったこと、人の胴体にふくろうの頭を持つ、という姿の相似など、二つの関連を指摘する説もある。
ちなみに、永井豪 のデビルマン で主人公に取り憑いたのは、悪魔の英雄アモンの方である。
また、ATLUS が1994年に発表したゲーム「真・女神転生if... 」の、悪魔アモンの肉体を奪いマンモンが力を増強するというストーリーも、この混同説を元にしている。
その他 [編集 ]
• ウェブブラウザ である、Mozilla Firefox やNetscape Navigator などで、URL としてabout:mozillaを入力するとThe Book of Mozillaが読める。ここではマイクロソフト のInternet Explorer をマンモンとしてなぞらえている。
• 拝金主義 は英語 で「マモニズム」(mammonism)と言うが、これはマンモンに由来する。
• ハリウッド映画「コンスタンティン 」では ルシファー (サタン ) の息子である。
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カテゴリ :
• 悪魔
• 聖書の語句

Mammon - Wikipedia, the free encyclopedia
Mammon is a term, derived from the Christian Bible , used to describe material wealth or greed , most often personified as a deity , and sometimes included in the seven princes of Hell .
Etymology
Mammon is the name of an ancient Deity worshiped by the Sumerians. He is the God of wealth and his name translates as "property". The Christians began to use the Holy Name of Mammon as a pejorative, a term that was used to describe greed, avarice, and unjust worldly gain in Biblical literature. It was personified as a false god in the New Testament.{Mt.6.24; Lk.16.13} The term is often used to refer to excessive materialism or greed as a negative influence.
Etymologically, the word is assumed to derive from Late Latin 'mammon', from Greek 'μαμμωνάς', Syriac 'mámóna' (riches),[1] and was an Aramaic loan word in Hebrew meaning wealth[2] although it may also have meant 'that in which one trusts'.[3]
The Greek word for "Mammon", μαμμωνάς, occurs in the Sermon on the Mount (during the discourse on ostentation ) and in the parable of the Unjust Steward (Luke 16:9-13). The Authorised Version keeps the Syriac word. John Wycliffe uses "richessis".
[edit ] Personifications

Mammon from Collin de Plancy 's Dictionnaire Infernal
Lay not up for yourselves treasures upon earth, where moth and rust doth corrupt, and where thieves break through and steal: But lay up for yourselves treasures in heaven, where neither moth nor rust doth corrupt, and where thieves do not break through nor steal: For where your treasure is, there will your heart be also. No one can serve two masters, for either he will hate the one and love the other; or else he will be devoted to one and despise the other. You can not serve both God and Mammon.
―Matthew 6:19-21,24
In the Bible, Mammon is personified in Luke 16:13, and Matthew 6:24, the latter verse repeating Luke 16:13. In some translations, Luke 16:9 and Luke 16:11 also personify mammon; but in others, it is translated as 'dishonest wealth' or equivalent. In some Spanish versions, it is said as "Mamón", but in others, as "Dinero" (Spanish for "money").
Early mentions of Mammon appear to stem from the personification in the Gospels , e.g. Didascalia , "Do solo Mammona cogitant, quorum Deus est sacculus"; and Saint Augustine , "Lucrum Punice Mammon dicitur" (Serm. on Mt., ii). Gregory of Nyssa also asserted that Mammon was another name for Beelzebub .
During the Middle Ages , Mammon was commonly personified as the demon of avarice , richness and injustice . Thus Peter Lombard (II, dist. 6) says, "Riches are called by the name of a devil, namely Mammon, for Mammon is the name of a devil, by which name riches are called according to the Syrian tongue." Piers Plowman also regards Mammon as a deity. Nicholas de Lyra (commenting on the passage in Luke) says: "Mammon est nomen daemonis" (Mammon is the name of a demon).
No trace, however, of any Syriac god of such a name exists, and the common literary identification of the name with a god of covetousness or avarice likely stems from Spenser 's The Faerie Queene , where Mammon oversees a cave of worldly wealth. Milton 's Paradise Lost describes a fallen angel who values earthly treasure over all other things.[4] [5] Later occultist writings such as De Plancy 's Dictionnaire Infernal describe Mammon as Hell's ambassador to England. For Thomas Carlyle in Past and Present, the 'Gospel of Mammonism' became simply a metaphoric personification for the materialist spirit of the nineteenth century.
Mammon is somewhat similar to the Greek god Plutus , and the Roman Dis Pater , in his description, and it is likely that he was at some point based on them; especially since Plutus appears in The Divine Comedy as a wolf-like demon of wealth, wolves being associated with greed in the Middle Ages. Thomas Aquinas metaphorically described the sin of Avarice as "Mammon being carried up from Hell by a wolf, coming to inflame the human heart with Greed".



精神的光:二つの視覚感性:media pointの凹i視覚と凸i視覚:to sub-modern
二つの世界:精神界と物質界:「死」と「生」
テーマ:manichaeism: 哲学

物質界がすべてと思うと、一期一会という発想が生まれるだろう。
 しかし、精神界を考えると、当然そうではなくなる。
 結局、人間は、精神界と物質界の両界の住人であるが、前者を忘れているのである。
 物質界において死ねば、「霊魂」は、精神界へと帰還すると考えられる。つまり、個は絶対的には死なないのである。
 物質界は「霊魂」の修行の場であり、「死後」、「霊魂」は精神界へと帰還すると考えられる。
 「霊魂」である個は、物質界において、物質の衣を着ていると言えよう。物質界の原理に服しているのである。
 結局、物質界に存する場合、精神界はほぼ不可知である。人間は物質界の法則に服するのである。しかし、それは、同一性の法則に過ぎない。
 結局、物質界において、物質の衣が強固なため、独立した精神を認識することが困難だと言えよう。
 物質は精神を恐れると言えるのではないだろうか。これはジェンダー的に言えば、父権は母権を恐れるということになるのではないだろうか。そう、母権、女性は、基本的に、凹iであり、第三象限に近い存在である。否、第三象限の存在と言うべきかもしれない。
 ということで、物質界においては、精神界を認識することはきわめて困難であると言えよう。


精神的光:二つの視覚感性:media pointの凹i視覚と凸i視覚:to sub-modern
テーマ:manichaeism: 哲学
先に以下の論考を書いたが、
『光と視覚:「見る」とは何か:同一性的視覚と差異的視覚』http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11129804530.html
高振動の精神的光について補足したい。
 それはmedia pointにおける凹i⇒凸iにおける第三象限から発する光である。内的光、超越光である。D. H. ロレンス的に言えば、dark rayとなろう。
 結局、この超越光を感受する能力がmedia pointに存するだろう。明確に言えば、media pointにおける凹iに存するだろう。即ち、media pointに差異共振エネルギーが生起するのは(内的に拠るものであれ、外的に拠るものであれ)、凹iが主導的な場合であり、凹iに超越光の感受点がある と考えられる。
 では、そのとき、凸iの視覚はどうなのだろうか。
 結局、凹iが主導的であるとは言え、差異共振であるから、両者が作動しているのである。凹i⇒凸iであるから、闇=陰が光=陽へと浸入していると考えられる。そのときに、超越光=精神的光が感受されるのである。
 だから、より正確に言うと、超越光=精神的光の感受とは、media pointを媒介として、凹iをベースにして、凸iに(も)存するということになるだろう。そう、凹iをベースに即非的視覚感受と言ってもいいだろう。つ まり、media pointを介して、主導的な凹iと凸iの共振状態に超越光=精神的光の感受が存するだろう。当然、凸iの本来の光の視覚にも、超越光=精神的光は感受さ れるのである。
 では、同一性=物質的光はどのように感受されるのか。それは、凸iが主導的になった場合と考えられよう。そのときは、差異共振が同一性志向に脇へ追いやられ、超越光=精神的光は精神的フィルターに濾過された同一性=物質的光に変換していると考えられるからである。
 そして、戦後以降のように近代合理主義=唯物論が支配的になると、超越光=精神的光は完全に排除されて、同一性=物質的光が中心化されるのである。精神的盲目状態である。
 しかしながら、凸iの主導化、同一性=物質的光の支配は、積極的意味があると考えられる。それは先に述べたように、陽極まりて陰に転ずという事態である。
 光が極まったとき、そのとき、闇へと転換するのである。つまり、新たな差異共振が生起するのである。新しい日あるいはdark sunの誕生である。言い換えると、先験的な超越光=精神的光ではなく、真に個的な超越光=精神的光が誕生すると考えられるのである。
 ただし、そのためには、なにか引き金が必要だろう。なんらかのショックが必要だろう。とまれ、絶対的個=差異になることが条件ではあろう。
 また、積極的な関与が必要である。それは闇=陰=凹iの関与である。だから、単純にトランス・モダンではないのだ。光に徹して、闇の深みに測鉛を垂下して、闇を測深する必要があるのである。
 光であり、且つ、闇である。光と闇の即非共振、即一を達成するのである。
 だから、サブ・モダンsub-modernではないだろうか。モダンからサブ・モダンへと深降することで、新しい日を達成するのである。

追記:sub=trans-modern、サブ=トランス・モダンという語も浮んだ。しかし、トランスなのだろうか。


光と視覚:「見る」とは何か:同一性的視覚と差異的視覚
テーマ:manichaeism: 哲学
今は問題提起に留めるが、どうも、視覚は二種類あるように思える。
 私は直観的に対象を見るのであるが、一般には、直観的視覚が少ないように思える。例えば、顔貌、相貌、人相は直観的に「見える」ものであるが、今日の人はそれが見えていないと思う。
 例えば、性格は相貌に出るものであるが、それが今日の人は一般に見えないようである。あるいは、顔写真に、当人の性格が現われるものであるが、今日の人には見えないようだ。
 そう、心や性格は顔貌に現われるのであるが、この力学はどういうものなのか。
 今は簡単に言うが、media pointが心や性格の核であり、その精神振動が表情に出ると考えられる。
 顔は物質的身体だけでなく、精神的身体でもあり、精神が顔貌、相貌、人相となると考えられるのである。精神振動、精神波動が精神的形態を造形しているのである。
 そして、それは当然可視的なのである。精神的に可視的なのである。つまり、精神的視覚があるのである。(それも一種の霊視であろうが。)
 ということで、確かに、少なくとも二つの視覚があるのである。物質的視覚と精神的視覚である。
 だから、それに即せば、二つの光があるということになるのだろうか? つまり、物質の光と精神の光があるのだろうか?
 少し視点を変えると、以前、音楽の精神的感覚と物理的音響感覚について述べた。例えば、バッハの音楽の場合、氣的精神があり、それが、音楽的音響となっていると述べた。つまり、精神的振動を伴った物理的音響がバッハの音楽である。
 このことは視覚についても適用できよう。即ち、精神的振動、精神的光の振動があり、それが、物理・物資的光となるのである。それが、顔貌、相貌、人相の形態となるのである。ただし、粗雑な、粗野な視覚では、それは不可視である。
 では、顔貌の場合、音楽とは異なり、顔という物理的身体に相という精神的身体が重なるということなのだろうか。
 思うに、身体は少なくとも二重的だと思う。遺伝的身体と個的精神的身体がある。
 この二重的身体が人を混乱させるのではないだろうか。そう、美術の場合は、音楽と同様に考えられるが、身体、特に「顔」の場合はそうはならないようだ。
 結局、同一性的視覚と差異的視覚があるのだ。物質的視覚と精神的視覚と言ってもいい。
 結局、前者は光の同一性的相を見ているのであり、光の差異的相を見ていないと考えられる。
 しかし、まだこれまで述べてきたことと不整合、齟齬がある。つまり、物質的光と精神的光があると述べたこととまだ、整合性がない。
 これは、やはり、振動ないし振動の様態(波形)で説明できよう。物質的光は低振動であり、精神的光は高振動であると考えられる。(波形の問題はおいておく。これは検討問題とする。)
 ということで、いちおう、説明がついた。即ち、二つの視覚、同一性・物質的視覚と差異・精神的視覚があり、また、二つの光、物質的光(低振動の光)と精神的光(高振動の光)が存するのである。
 顔貌・相貌・人相について言うと、相とは、精神的光の表出であり、それは、差異・精神的視覚が知覚するのである。しかし、今日、高位の視覚が劣弱なため に、精神的光の表出が不可視になっているのである。丁寧に言うと、高次の精神的光と低次の精神的光がある。高貴な精神の光と劣弱な精神の光である。卑しい 人間はその卑しい精神の光が顔貌・相貌・人相となって表出されるのである。
 思えば、ルドルフ・シュタイナーはこれから、善的人間と悪的人間はその性質が相貌・顔貌・人相にはっきり表出されるようになると予言していた。認識が深化することを考えれば、それは、以上の説明から理解できることである。
 後で整理したい。

追記:一般的には、二つの視覚は混同されている。つまり、未分化的に一致してしまっているだろう。区別していないのである。




スィームルグ文化とシュメール文化:日神教、ミトラ教、マニ教の起源に向けて
スィームルグ文化とシュメール文化:日神教、ミトラ教、マニ教の起源に向けて


テーマ:manichaeism: 哲学

私は先に、ミトラ教に関して、資料1を書いた。
 ミトラの友の東條真人博士によると、イラン文化の全体的背景にスィームルグ文化が提唱されている。
 私は西方ミトラ教において、牡牛が生け贄に殺されているのを見て、それは、シュメール文化のテラコッタ(註:先に円筒印章と述べたのは勘違いであり、訂正する。また、次の牡牛の修飾語は聖なるではなく月のであり、これも訂正する。)の「月の牡牛とライオン鳥」の図像を想起して、ミトラ教の起源にシュメール文化を仮説した。
 資料2のスィームルグの語源

「スィームルグ †

Sīmurγ, Simurgh, Simurg, Semuru, Sīn bird

地域・文化:イラン、ゾロアスター教
 別名:セーンムルヴ(Sēnmurw, Sēnmurv)、セーノー・ムールーク(Sēnō mūrūk)、セーノー・ムールーウォ(Sēnō mūrūvo)、シーナムルー(Sīnamrū)など。」

を見て、スィームルグはシュメールと似ていると直観した。もし、それが一致するならば、イラン文化、スィームルグ文化とは、端的に、シュメール文化が起源になる。
 シュメール文化は未だに謎の文化・文明である。しかしながら、私の直観では、古代アトランティス文明の最良のものを受け継いだ精神文化である。そう、それも母権化されたアトランンティス文化である。
 後で検討したい。

追記:牡牛が重要なfigureである。これは明らかに女神文化である。占星術の牡牛座と関係する。牡牛の女神文化とアトランティス文明が結合してシュメール文化が生まれたのかもしれない。つまり、母権文化、月の文化と日霊文化が融合して、シュメール文化が生まれたのかもしれない。
 もっとも、私が考える日霊文化とは、基盤が女神文化であり、女神が日を産み出すのである。
 おそらく、この女神(月)の日霊文化とアトランティス文化の高度な霊知的文化が結合したのがシュメール文化かもしれない。
 とまれ、根源は日霊文化である。それは、母権的日霊文化である。凹i⇒凸iの文化である。
 その後、media pointの変化によって、凸i⇒凹iへと精神の動きが変化したと思われる。これは父権的同一性知性の文化への動きである。父権文明、一神教文明、西洋文明への動きである。自我への動きである。同一性=物質的光・視覚への動きである。
 思うに、母権的日霊文化に対して、父権的同一性=物質=自我的文明が台頭してきたということだろう。
 両者の鬩ぎあいが、これまでの文明史と言えようか。そして、西洋文明が支配的となり、母権的日霊文化はほとんど消失するようになった。
 しかしながら、今や、西洋文明は落日となり、ようやく、新母権的日霊文化が新生する進化的エポックになったと考えられる。マニ教的PS理論の誕生がそれを象徴していると言えよう。
 父権=同一性=物質=自我の光から母権=差異=精神=自己(個)の光へと大転換したのである。
 これは、宇宙的相転移と言えよう。すべて超大変容すると言えよう。
 PS理論から言うと、media pointの極性の変化が起きたのだ。これまで、世界、地球は凸i⇒凹iであったが、それが、凹i⇒凸iへとらせん的に回帰したと考えられる。
 新しい母権的日霊の時代である。第三象限の時代である。新しい東洋・アジアの時代である。差異共振がキーワードとなる。
 太陽精神の夜明けである。復活の時代である。
 思うに、インスピレーションが第三象限からmedia pointを介して、大洪水のように送信されてきていると考えられる。そう、宝瓶宮(水瓶座)の時代である。天才の時代である。
 人類新生、大進化の時代が到来したのである。超越光の時代となったのである。
 

資料1:
ミトラ教とシュメール文化とエトルリア文化:日の神キリストの西洋父権化とPS理論的マニ教的日の神
テーマ:manichaeism: 哲学

ミトラの密儀/フランツ・ヴァレリ・マリ キュモン

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ミトラ教の古典的名著と翻訳者が呼ぶ本書を拾い読みしているが、ミトラ教についてよく知らなかったので、新鮮な、実に興味深い内容である。
 想起したのは、シュメール美術の円筒印章に描かれた牡牛とライオン鳥の図像である。前者を後者が食べるのであるが、前者は微笑んでいる。これは、明らかに、女神文化である。どうも、ミトラ教はシュメール女神文化と関係すると推測される。
 次に思ったのは、イタリアの先住民のエトルリア文化である。D. H. ロレンスが『エトルリアの地』で、エトルリアの墓地の壁画を分析しているが、そこに宇宙・自然的な陰陽的均衡文化を認めているのである。どうも、直観では、それにはミトラ教が影響していると思われるのである。
 そうすると、シュメール⇒イラン・インド⇒エトルリア⇒西方ミトラ教という図式が見えてくる。
 そして、ローマ帝国において、キリスト教と「覇権」を争ったのであるが、敗れたのである。結局、宇宙母権的要素が否定されて、父権的なキリスト教が勝利したことになる。言い換えると、東洋的要素が否定されて、西洋的父権的キリスト教の覇権が明確になったことである。
 私見では、キリストは母権的なのであるが、「父」がヤハウェなので、母権的要素が抑圧されたキリストの宗教が生まれたことになる。母権的キリストならば、第三象限になるが、父権的キリストだと第二象限に属すると考えられる。
 結局、ミトラ教がキリスト教に敗北したということは、東洋母権的宗教(霊的日輪宗教、大女神宗教)が西洋父権的宗教に取り込まれるように敗北しことを意味する。つまり、キリスト教は東洋的な日の神であるキリストを取り込んでいるのである。父主母従、西主東従になっているのである。
 ここで少しマニ教について触れると、それは、光の神としてのキリストを説いていると考えられる。つまり、ミトラ教の母権的キリストを発展的に継続する形でマニ教が生起したように思われる。しかし、マニ教もキリスト教、その他に滅ぼされたのである。
 その後、西欧において近代合理主義という唯物論が発達するが、そのとき、ルドルフ・シュタイナーのマニ教的霊学、D. H. ロレンスの独特なやや反動性をもった東洋的母権的身体的霊学が生まれたのである。
 結局、東洋母権宇宙的霊的日輪グノーシスを創造する衝動が現代世界にあると考えられる。
 そして、PS理論の創造がある。これは、明らかに、この人類史的精神の流れの帰結と考えられる。これは大マニ教、超マニ教と言うべき理論、グノーシスである。日の国で、日輪教の国でこれが生まれたのはある意味で必然である。東洋と西洋の合流点である日の国でこそ生まれるべくして生まれた理論である。
 今はここで留める。

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11121426412.html


資料2:
スィームルグ †
Sīmurγ, Simurgh, Simurg, Semuru, Sīn bird

地域・文化:イラン、ゾロアスター教

 別名:セーンムルヴ(Sēnmurw, Sēnmurv)、セーノー・ムールーク(Sēnō mūrūk)、セーノー・ムールーウォ(Sēnō mūrūvo)、シーナムルー(Sīnamrū)など。
 アヴェスターでは、メレゴー・サエーノと呼ばれていた。

 中世ペルシア以降のイラン地域における、全ての鳥の王。長命。サエーナの木に棲んでいて、その木の実は全ての病気を癒やす力がある。しかしその木はダエーワたちによって切り倒され、枯れてしまった。そこで、スィームルグはアルブルス山に棲みついたといわれる。
 パフラヴィー語文献『ブンダヒシュン』などによると、スィームルグはどの鳥よりも巨大な存在であり、最初に創造された。ただ、それはこの世界のためではなく、この世界の鳥の王としてはカルシプト鳥が創造された。『マインヨー・イ・カルド』では、シーナムルー(スィームルグ)はあまりに巨大なため、とまっている樹は大迷惑であるという。この鳥が飛べば千の枝が折れて落ち、梢に止まればまた千の枝が壊れる。種はその大きな体の陰になってしまう。
 その姿は、アヴェスターによれば光輪に包まれている。また、『王書』には、子供を乗せるくらい大きく、人語を話し、英知を持っている、とある。また、全ての言葉も理解する。また、哲学者の様に議論することもあった。ササン朝時代のペルシアでは、犬の上半身に孔雀の下半身を持つ鳥の姿で表された*1 。2本の足はふさふさしているが、足の指は鳥のように3本ある。爪は出し入れできる。翼や尾は、燃え上がる炎のようになっていた。
 スィームルグは、英雄を乗せたり、爪で運んだりし、不思議な羽を渡すことがある。

関連項目 †

中央アジア/セムルグ 、../サエーナ鳥 、イスラーム、アラビア/アンカ 、../チャームローシュ 、西欧/キンナモルグス

キーワード/鳥

参考資料 - 資料/348 :; 資料/126 :


http://www.toroia.info/dict/index.php?%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%2F%E3%82%B9%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%82%B0


資料3:




イラン文化研究



大宇宙の三位一体 نهپروان گل و شمع :کاینات تریلژی

2008年5月に独自サイトに移行・強化しました。

http://www.shamogoloparvaneh.com/



文化・倫理・宗教 ―― نﻴد ،اخلاق ،فرهنگ Culture, Ethics, Religion

http://www.shamogoloparvaneh.com/farhang.html

スィームルグ文化 

ジャムシディ先生の講演 2009.08.08 Sat. 於大阪大学ペルシア語学科 第六回関西イラン研究会

「古代イラン神話の再発見−神話の近代的な解説の一試み− 」(日本語)

 −古代神話が現社会変革に役立つか?



http://www.shamogoloparvaneh.com/adabiyat.html

東條の論文: 下記の論文が掲載されています。

スィームルグ運動

「現代イランの新異教主義と現在のミトラ教 」 (日英)

Neo-Paganism of modern Iran and our Mithraism

歴史

「序論:東アジアにおけるスィームルグ文化とミトラ教」(英文) 2009.01.11 Sun.

An Introduction to the Simorghian Culture and Mithraism in the East Asia

「古代におけるイラン・日本の文化交流の歴史」

Part 1 Part 2-1 Part 2-2  (日英)

「禅とペルシア文化」(英文) 2010.04.19 Mon.

Zen Buddhism and Persian Culture

秘儀

「スィームルグの光の中の十牛図とローマ帝国のミトラの秘儀」(英文) 2009.02.01 Sun.

Ten Bull Pictures and Roman Mysteries of Mithta in the Light of Simorgh

神智学

「神智学:現代におけるスィームルグ文化の復活」(英文) 2009.02.01 Sun.

Theosophy: A Modern Revival of the Simorghian Culture

「明教・密教・東方神智学:その共通する存在論的図式」(英文) 2009.03.23 Mon.

Manichaeism, Esoteric Buddhism and Oriental Theosophy: Their Common Ontological Scheme

ミトラ教の秘教占星学

「ミトラの秘教占星術」(英文) 2009.10.18 Sun.

Mithra’s Esoteric Astrology





イラン文化の起源とアイデンティティー فرهنگ اصيل و هويت ايراني The root of Iranian culture & identities

スィームルグ協会 ――イラン Simorghian Society Ltd.

http://www.jamali.info/index.php

http://www.mahmag.org/philosophy.php

http://www.jamali-online.com/

http://www.farhang-asil-iran.com/

http://www.farhang-asil-iran.com/

    東條の論文も掲載されています。



http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraism_Links.html


ミトラ教天使七星教会.リンク集

資料4:
The Mother of the Minotaur


In mythology, the serpent or the bull are usually symbolic of the power that fecundates the earth. In the sacrifices of the bull in Mesopotamia, the death of the bull was giving life to the creatures of the earth. A terra-cotta plaque from ancient Sumer places the Moon-Bull at the center of this process, where it appears as the ever-dying, ever-living lunar bull, consumed through all time by the lion-headed solar eagle. The bull has its foot on the earth, and is thus linked directly to the earth. The symbol here seems to represent the plane of juncture of earth and heaven, who appear to be two but are in being one. As we know from ancient Sumerian myth, heaven (An) and the earth (Ki) were in the beginning a single, undivided mountain (Anki), of which the lower part (the earth) was female and the upper (heaven) male. But the two were separated (as Adam into Adam and Eve) by their son Enlil (in the Bible by their “creator” Yahweh), whereupon the world of temporality appeared. The state of the ultimate bull is invisibility, that is to say pitch black (which is the color of the bulls that were used in the Mesopotamian rites).



The enigmatically blissful, impassive expression of the bull on the terra-cotta plaque appears again on the masklike figure of the Indian symbolic form of the Dancing Shiva. Shiva holds a drum in his lifted right hand, the drumbeat of time, the beat of creation, while on the palm of his left is the fire of the knowledge of immortality by which the bondages of time are destroyed. Shiva is the Lord of Beasts; so too is the great Sumerian lord of death and rebirth Dumuzi-Tammuz-Adonis, whose animal is this beatific bull; so too is the Greek God Dionysus, known – like Shiva – as the Cosmic Dancer, who is both the bull torn apart and the lion tearing.



In the mythology of the god-king Pharaoh of Egypt, was called “the bull of his mother”. When dead within the mound of his tomb (the mound symbolic of the goddess), he was identified with Osiris begetting his son, and when alive, sitting on his throne (likewise symbolic of the goddess), he was the son of Osiris – Horus. These two, representing the whole mythic role of the dead yet reembodied King of the Universe, were in substance one. The cosmic cow-goddess Hathor (hat-hor: the house of Horus) stood upon the earth in such a way that her four legs were the pillars of the earth quarters and her belly was the firmament. The god Horus symbolized as a golden falcon, the sun, flying east to west, entered her mouth at the evening to be born again the next dawn. In this sense he was, in his night character, the “bull of his mother”, whereas by day – as a ruler of the world of light – he was a sharp-eyed bird of prey. Moreover, the animal of Osiris (the bull) was incarnate in the sacred Apis bull, which was ceremonially slain every twenty-five years – thus relieving the pharaoh himself of the obligation of a ritual regicide. (Ritual regicide was an integral part of ancient Sumerian and early Egyptian tradition.)



It may well be that the ritual game of the Cretan bull ring served the same function for the young god-kings of Crete. There are a number of representations of Cretan kings, and they always show a youth about twenty; there is none of an old man. So there may have been a regicide at the close of each Venus cycle. However, the prominence of the bull ring in the ritual art of Crete suggests that a ritual substitution may have been introduced at some time. In an old Cretan plaque there is the motive of a man-bull – a Minotaur – attacked by a man-lion. The analogy with the bull and lion-bird of Sumer seems clear. The lion as the animal of the blazing solar heat, slaying the bull as the animal of the moon by whose night dew the vegetation is restored. The matador with his sword, performing the same function as the lion-bird of Sumer, facing the bull in its role of the ever-dying, ever-living god: the lord of the goddess Earth (a role which in the classic Greek mythology was taken by Poseidon).



Cretan mythology has a preponderance of goddesses and female cult officiants, in contrast to the later Greek. The mythology of the Cretan world appears to represent an earlier stage of Bronze Age civilization than the kingly states of both Sumer and the Nile, which also sets them apart from these. It has a milder, gentler form, antecedent to the opening of the course of Eurasian history introduced by the wars and victory monuments of the self-interested kings. The invasions from the north and the east, with the Mycenaean heroic age of Agamemnon, Menelaus, Nestor and Odysseus, introduce the transition from the age of the goddess to the age of the warrior sons of god.

http://www.fredosor.com/the-consort-of-the-bull.html
Fredosor


2012年01月05日(Thu)▲ページの先頭へ
D. H. ロレンスの父権主義的志向性力学:同一性=父権的志向が差異=母権的志向を支配する反動化:後期、晩年は逆転して、純粋差異共振化=新母権主義へと到達する
D. H. ロレンスの父権主義的志向性力学:同一性=父権的志向が差異=母権的志向を支配する反動化:後期、晩年は逆転して、純粋差異共振化=新母権主義へと到達する

テーマ:literature

これは先に述べこと(D. H. ロレンス哲学の絶対的矛盾について:凸iと凹iの衝突と揺らぎ http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11126422047.html)
から、明らかであると考えられる。即ち、凸iが父権主義的志向性で、凹iが母権的志向性であると考えられ、ロレンス文学・哲学中期までは、後者が主導的、前者は補完的であり、中期以降のリーダーシップ小説期において、天秤が逆転して、前者が主導的なり、後者がそれに対して、均衡を目指すようになったと考えられる。
 PS理論から言えば、中期までは凹i⇒凸iが主導的で、中期以降のリーダーシップ小説期では凸i⇒凹iが主導的になったと考えられる。前者は差異共振志向であり、後者は同一性志向である。
 先に、ロレンスは即非の論理、乃至は、不連続化を知らなかったため、西欧の歴史的危機等に直面して、凸iと凹iを一致させようとしたと言ったが、それは、凸i*凹i=凸(+1)と数式化できよう。
 では、さらに考察を深めると、どうして、両者を一致させる、あるいは、一体化する力学が生じたのか解明する必要がある。
 それは、主に20世紀初期ないし前期における女性の存在の社会的台頭がきっかけとなり、ロレンスの内面、精神に、母権的原理への恐怖を起こさせ、そのために、ロレンスの凸iの父権的原理は、凹iの母権的原理を支配する方向にとりわけ傾斜したということで説明できるだろう。
 勿論、女性の台頭だけではなく、第一次世界大戦による文明破壊やロレンス個人における国家権力からの攻撃、あるいは、結婚生活における妻フリーダとの関係もそこに重なって、父権主義化への反動的エネルギーになったと考えるべきである。
 簡単にまとめると、ロレンスの内面において、凸i=父権主義と凹i=母権主義が元々衝突していたのであり、初期、中期において、後者が主で、前者が従であったが、中期以降のリーダーシップ小説期では、これが上記の理由で逆転したということになる。
 付け加えると、後期、いわば、ポスト・リーダーシップ小説期において、ロレンスの内面の力学は再び凹iへ と傾斜して、新母権的力学が誕生したと考えられる。代表的作品が中編小説の『逃げた雄鶏(死んだ男)』、紀行文『エトルリアの地』と評論『黙示録論』であ る。とりわけ、『逃げた雄鶏』に著しい。そこでは、女神イシスに仕える女性司祭、イシスの巫女が登場して、その母権主義と「死んだ男」=復活したイエスと のコスモスの超越的意識とが結合して、第三象限の世界を構築していると考えられるのである。
  ところで、リーダーシップ小説期のリーダー探求、ないし、新しい共同体(コミュニティ)の探求は、同時代のファシズムと関係があるように思える。ここで簡 単に示唆すれば、ファシズムは反動的同一性=父権主義志向と言えるのではないだろうか。もっとも、ロレンスの指導者探求をファシズムと一致させるのは強引 であるが、傾向においては類似性、共通性があると思われる。
 もっとも、忘れてはいけないのは、ロレンスの場合、父権主義的志向がある場合でも、それと対立する母権主義的志向に裏打ちされていることである。ファシズムにはこれはなかったと考えられる。

D. H. ロレンス哲学の絶対的矛盾について:凸iと凹iの衝突と揺らぎ
テーマ:manichaeism: 哲学

D. H. ロレンスは実に稀有な文学者である。作家と哲学者が並存しているのである。(三島由紀夫もその面があるが。) 明らかに、彼の哲学は絶対的矛盾を呈している。例を挙げれば、融合・一(いつ)の志向性と個・多の志向性があるからである。
 そして、この極性哲学がロレンス哲学である。
 しかしながら、中期以降、この極性哲学が破綻して、二項対立に傾斜するのである。言い換えると、極端に父権主義化するのである。
 これをどう見るか。ロレンスの精神は凸iと凹iの衝突、激突の戦場である。しかし、ロレンスは鈴木大拙の即非の理論を知らなかったために、常時、激しく揺れ動いていたのである。不思議の国のアリスのように、大きくなったり、小さくなったりしたのである。
 中期以降、ロレンスは精神の危機に陥った。極性バランスが崩れて、凹iでありつつ、凸iであろうとしたのである。差異でありつつ、同一性であろうとしたのである。即非の論理を知っていたなら、同一性であろうとはしなかったであろう。
 言い換えると、ロレンスは母権的でありつつ、父権主義化したのである。人間認識図で言えば、第三象限でありつつ、同時に、第二象限であろうとしたのである。
 そのため、ロレンスの作品は過度に混沌化したのである。それはリーダーシップ小説と呼ばれるものに、現れている。
 ロレンスの精神は凹iが天才的であり、第三象限に根ざしていた。しかし、凸iと凹iが不連続化していなかったため、あるいは、即非の論理を知らなかったために、時代の暗黒化等に触発されて、精神の混沌、混乱を起こしたのである。
 以上で、ざっとであるが、長年の謎の解明ができた。



2012年01月01日(Sun)▲ページの先頭へ
ポスト資本主義:物質的資本主義から霊的資本主義へ:量(実数)的貨幣から質(虚数)的貨幣へ
テーマ:貨幣・通貨論

ポスト資本主義:物質的資本主義から霊的資本主義へ:量(実数)的貨幣から質(虚数)的貨幣へ:差異共振経済体へ向けて

PS理論の成果から、近代合理主義=近代科学=唯物論は克服された。そこには、超越的精神振動の哲学・科学が生まれた。それは、言い換えると、差異共振哲学・科学であり、他者と共振する自己哲学・科学がある。
 この視点から見ると、資本主義は同一性=物質=自我主義に囚われた偏頗な経済であることがわかる。だから、同一性=物質=自我中心主義資本経済と言える。
 しかしながら、実は、差異=精神=他者としての個・自己が本質・本体であり、同一性=物質=自我はそれらの結果に過ぎない。つまり、霊主体従が本来であるのに、体主霊従になっているという本末転倒の状態になっているのである。そう、倒錯状態である。
 そこで、本来の状態にすると、近代資本主義は当然崩壊するのであるし、今や世界的崩壊の危機にあると言えよう。
 結局、精神主導の資本経済が生まれなくてならないのである。とりあえず、これを精神資本主義ないし差異資本主義と呼ぼう。
 問題は貨幣である。今日の物質貨幣ではなく、精神貨幣にする必要がある。あるいは、差異貨幣、差異共振貨幣である。
 これは他者との差異共振性を評価するものである。そして、これは経済主導者の創意工夫、アイデア、独創にも拠るものである。い
 だから、創造的差異共振資本経済である。ここでは、経済体は、個の物質的、且つ、精神的保存を維持する必要がある。だから、弱肉強食ではありえない。言い換えると、貨幣は自我のものではなく、個・自己=他者のものである。そのために、貨幣は差異共振体としての社会創造の資本にもならなくてならない。
 つまり、貨幣はもはや、量的なものではなく、質的なものとなるのである。利益ではなく、差異共振価値としての貨幣である。そう、差異共振メディアとしての貨幣である。
 そう、実数としての、凸(プラス1)としての貨幣で
はなく、虚数としての、凸i*凹iないし凸i*凹i⇒としての貨幣である。だから、「利益」は、虚数共振価値であり、量的なものではないのである。
 たとえば、りんごを一個の価値を100円とすると、価格は10凸i円であり、買い手は手持ちの10凹i円で購入することができる。即ち、

10凸i円*10凹i円⇒100円

となる。
 しかしながら、売り手が手にするのは、10凹i円であり、そのままでは、潜在価値に過ぎず、価値を生むには、差異共振化する必要がある。
 しかし、重要な点は売買の対象に凹i貨幣を禁止することである。貨幣は売買の対象にするのを禁ずるのである。
 また、融資する際であるが、差異貨幣銀行から融資するが、原則は無利子か、マイナス利子である。しかし、決して、利子をとらないということではない。手数料等が必要である。
 以上のような経済体であるが、それは差異共振経済体であり、個的自由共振経済体である。政治・行政の役割はあくまで経済体を補佐する役目であり、主導的になってはならない。これも禁止事項である。
 都合で今はここで留める。


ミトラ教とシュメール文化とエトルリア文化:日の神キリストの西洋父権化とPS理論的マニ教的日の神
ミトラ教とシュメール文化とエトルリア文化:日の神キリストの西洋父権化とPS理論的マニ教的日の神

テーマ:manichaeism: 哲学

ミトラの密儀/フランツ・ヴァレリ・マリ キュモン
¥3,262
amazon.co.jp

ミトラ教の古典的名著と翻訳者が呼ぶ本書を拾い読みしているが、ミトラ教についてよく知らなかったので、新鮮な、実に興味深い内容である。
 想起したのは、シュメール美術の円筒印章に描かれた牡牛とライオン鳥の図像である。前者を後者が食べるのであるが、前者は微笑んでいる。これは、明らかに、女神文化である。どうも、ミトラ教はシュメール女神文化と関係すると推測される。
 次に思ったのは、イタリアの先住民のエトルリア文化である。D. H. ロレンスが『エトルリアの地』で、エトルリアの墓地の壁画を分析しているが、そこに宇宙・自然的な陰陽的均衡文化を認めているのである。どうも、直観では、それにはミトラ教が影響していると思われるのである。
 そうすると、シュメール⇒イラン・インド⇒エトルリア⇒西方ミトラ教という図式が見えてくる。
 そして、ローマ帝国において、キリスト教と「覇権」を争ったのであるが、敗れたのである。結局、宇宙母権的要素が否定されて、父権的なキリスト教が勝利したことになる。言い換えると、東洋的要素が否定されて、西洋的父権的キリスト教の覇権が明確になったことである。
 私見では、キリストは母権的なのであるが、「父」がヤハウェなので、母権的要素が抑圧されたキリストの宗教が生まれたことになる。母権的キリストならば、第三象限になるが、父権的キリストだと第二象限に属すると考えられる。
 結局、ミトラ教がキリスト教に敗北したということは、東洋母権的宗教(霊的日輪宗教、大女神宗教)が西洋父権的宗教に取り込まれるように敗北しことを意味する。つまり、キリスト教は東洋的な日の神であるキリストを取り込んでいるのである。父主母従、西主東従になっているのである。
 ここで少しマニ教について触れると、それは、光の神としてのキリストを説いていると考えられる。つまり、ミトラ教の母権的キリストを発展的に継続する形でマニ教が生起したように思われる。しかし、マニ教もキリスト教、その他に滅ぼされたのである。
 その後、西欧において近代合理主義という唯物論が発達するが、そのとき、ルドルフ・シュタイナーのマニ教的霊学、D. H. ロレンスの独特なやや反動性をもった東洋的母権的身体的霊学が生まれたのである。
 結局、東洋母権宇宙的霊的日輪グノーシスを創造する衝動が現代世界にあると考えられる。
 そして、PS理論の創造がある。これは、明らかに、この人類史的精神の流れの帰結と考えられる。これは大マニ教、超マニ教と言うべき理論、グノーシスである。日の国で、日輪教の国でこれが生まれたのはある意味で必然である。東洋と西洋の合流点である日の国でこそ生まれるべくして生まれた理論である。
 今はここで留める。


   




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カレンダ
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