INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2011/12

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2011年12月27日(Tue)▲ページの先頭へ
悪、詐欺・ペテン、騙し等とは何か:第一象限の自我と第四象限の物質的欲望の癒着
テーマ:evilness, egotism

悪は腹黒い。言うことと行なうことが真逆である。言葉ではAと言い、行為は反Aである。
 問題は利己主義である。これは、人間認識図では第四象限に属する。
 結局、精神が物質化したとき、人間は物質的欲望に捉えられる。それが、第四象限に属するだろう。
 しかしながら、自我凸iは悟性作用から、自己を「善」として捉える。この「善」意識は、思うに、差異共振のもつ善かに基盤があるだろう。しかしながら、自我的「善」に、即ち、独善になってしまっているのである。
 とまれ、物質世界の人間は、第四象限の物質的欲望と第一象限の自我(独善的自我)をもつのである。
 後者は独善的なので、前者のために、嘘言を吐くことに良心の呵責はないのである。むしろ、自己は正しいと考えているのである。
 これが悪、詐欺・ペテン、騙しの様態の解明である。
 MS党はこれらのタイプの人間の巣窟である。

追記:では、精神はどこに存するのか。media point、差異共振性に存する。これを覚醒させるのが「教養」である。知的魂の養成が必要なのである。理系的文系、文系的理系、文理融合教養が必要なのである。
 この教養がないために、M党は狂っているのだ。とりわけ、魂の養成を怠った輩の巣窟である。そう、端的に言えば、優れた芸術を体験してこなかったのである。また、宗教にも触れてこなかったのである。
 そして、何よりも哲学を経験しなかったのである。

追記2:また、自然・宇宙的体験が欠落していると考えられる。M党員は都市型であり、自然・宇宙的精神体験がないはずである。


言葉とは何か:差異共振的同一性作用としての言語
テーマ:language

PS理論から、本件はどう捉えるのだろうか。これまで、この点についてはあまり論じてこなかった。
 しかし、基本的には凸iに言語、ないし、原言語があるとは仮定してきた。
 つまり、同一性を形成する凸iに言語作用があると見てきたのである。
 ここで具体的に想像してみよう。眼前に「山」があるとしよう。それを「わたし」は感覚知覚する。しかし、それは「他者」であるから、凹iである。凹iを凸iに取込もうとするところに言語作用があると考えられる。
 それは凹i⇒凸iであり、凸i⇒凹iであろう。聴覚と視覚の衝突、差異共振と言えよう。「山」はyamaである。
 だから、言葉とは単に凸iの同一性作用だけではなく、凹iとの共振作用が働いていることになる。
 差異共振作用を同一性側、凸i側に取込んだものが言葉であると考えられる。
 構造主義が有名になったソシュールのシニフィアンとは一見、凸iのように思えるが、そうではなく、凹iの記号であると言えよう。そして、シニフィエが同一性概念、悟性的なものであると考えられる。
 しかし、ソシュール側に寄るのではなく、PS理論の概念から読み直すことで、新たな言語哲学が生まれると考えられる。
 とまれ、ここで差異共振同一性作用としての言語概念を得た。だから、言葉の深層には差異、他者、個があると言えよう。それが、表層では同一性、物質性、自我を帯びているということである。
 後で更に検討したい。

追記:いろいろ言うべきこと、述べたいことがあるが、一言付け足せば、言語は第二象限に属するだろう。第二象限は一つの光の領域ではあるが、実は深層に闇があるのを忘却しているのである。これはデカルト哲学にも言えよう。その闇をフッサールは現象学でほぼ解明したと言えよう。

追記2:精神的フィルターsemantic filterの悟性フレームが言語と言えるかもしれない。


2011年12月25日(Sun)▲ページの先頭へ
精神振動7分節の順序:二重らせん的上昇的宇宙的進化:精神的色彩・光と物質的色彩・光:霊的日輪存在
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11116806982.html

精神振動7分節の順序:二重らせん的上昇的宇宙的進化:精神的色彩・光と物質的色彩・光:霊的日輪存在

先に(精神振動の7分節化:七元=三元と三元とmedia pointの一元 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11115479961.html)精神振動7分節の原理について簡単に仮説したが、次は順序を考えたい。
 作業仮説として、凸i/凹iの三元⇒media pointの一元⇒凹i/凸iの三元の順序をもつとする。
 可視光線(虹の七色)で言えば、最初の三元が赤、橙、黄の順であり、media pointが緑であり、最後の三元が青、藍、紫である。
 そして、この虚軸の7分節は当然、二重らせんを形成すると直観される。だから、螺旋的に赤から紫へと上昇(シュタイナーがゲーテの上昇を指摘したことに注意)するのである。
 そして、これが、「宇宙」進化の順序であると思われる。そうすると、それは必然を意味する。では、自由、個の自由はどこから出てくるのか。それは、この「宇宙」進化から独立していることに、個、個の自由が存すると思われる。
 つまり、個と一般性は異なるということである。つまり、「宇宙」進化とは一般的進化であり、個のそれとは区別されるということである。もっとも、個と一般的環境のある程度の相関性は考えられる。
 ここで注意すべき点を言うと、自然における色彩と物質的に形成される色彩は異なると考えられることである。
 自然における色彩は高振動の精神エネルギーを背後にもつのに対して、物質的色彩低振動の精神エネルギーを背後にもつと思われる。これは、氣と電磁波との違いに類似すると言えよう。つまり、一見似た現象においても、高振動のものと低振動のものがあるということになる。
 わかりやすく言えば、精神的背景のある色彩とそれのない色彩があるということになる。
 この違いの原因は何かと言えば、端的に、日、太陽の光の有無にあると言えよう。
 日光、陽光は、日輪「存在」のもつ超越性を帯びていると思われる。言い換えると、超越光を帯びているということである。
 それに対して、物質的色彩にはそれがないということである。
 つまり、日輪「存在」は第三象限性をもつのに対して、物質的光は第一象限性をもつということになろう。
 そう、端的に言えば、日輪とは精神・霊的存在、つまり、「日の神」、「天照大神」、「アフラ・マズダ」、「キリスト」である。霊的太陽である。D. H. ロレンスが唱えたdark sunがこれに通ずると言えよう。
 このように考えてくると、近代都市物質的生活のもつ、没精神性が浮き彫りにされると言えよう。自然・宇宙環境の乏しい、近代都市は明らかに精神・魂を喪失する環境であり、人間は悪魔・獣的にならざるを得ないのである。
 だから、近代世界は近代的唯物都市から崩壊していくと言えよう。日本はとりわけ東京から崩壊するのである。
 結局、ポスト近代として、自然・宇宙的ポリス(共同体)、多元的なローカルな自然・宇宙的ポリス・ネットワークの時代が考えられてくるのである。
 しかしながら、民族性は創造的に保持されるのであるから、没民族的になることはない。だから、多元的ナショナル・ローカルな自然・宇宙的ポリス・ネットワークのエポックである。
 では国家はどうなるだろうか。これまでの国家は父権主義であった。新時代は母権主義であるから、父権的国家は衰退、消滅するだろう。
 民族的多元的ポリス・ネットワークをコントロールする中枢機能が当然必要になるだろう。それが、新国家であろう。しかし、それは、国家というより、スーパー・ポリスであろう。超共同体である。
 今はここで留める。
  

参考:

虹の七色とスペクトル型



虹の七色

赤 橙 黄 緑 青 藍 紫
に じ の な な い ろ

電磁波は、波長によっておおよそ以下のように呼ばれます。

電磁波の波長
波 長 〜1nm 1nm〜380nm 380nm〜780nm 780nm〜100μm 100μm〜
名 称 エックス線 紫外線 可視光線 赤外線 電 波
波長は目安で、決まっているわけではありません。

人間の目に見える光を可視光線と言います。
可視光線域はおよそ380nm〜780nmです。

可視光線
波長 (nm) 380〜430 430〜460 460〜500 500〜570 570〜590 590〜610 610〜780
色 相 紫 藍 青 緑 黄 橙 赤
波長は目安で、決まっているわけではありません。 1nm = 1ナノメートル = 10-9 m

 太陽の光をプリズムにあてると、きれいな光の帯ができます。これは、1668年にニュートンによって発見され、 スペクトルと名づけました。
 星からの光にも赤から紫までの虹の7色が含まれています。星の色は、表面温度の違いによって決まります。 この原因は、表面から放出される光の波長の分布が温度によって異なるからです。赤い星は、赤い光だけを 出しているのではなく、波長がより長い光を多く出しているので赤く見え、青い星は波長がより短い光を 多く出しているので青く見えます。

スペクトル型
スペクトル型 表面温度 (K) 色 例
O 30000 〜 50000 青 オリオン座の三ツ星
B 10000 〜 30000 青 スピカ、レグルス
A 7500 〜 10000 青白 シリウス、ベガ
F 6000 〜 7500 白 北極星、プロキオン
G 5300 〜 6000 黄 太陽、カペラ
K 4000 〜 5300 橙 アルクトゥールス、アルデバラン
M 3000 〜 4000 赤 アンタレス、ベテルギウス


 表面温度の単位は、K (ケルビン)です。これは、国際単位系 (SI) の基本単位のひとつで、 絶対温度のことです。摂氏 0度は 273.15K です。

--- 虹の七色とスペクトル型 ---

http://www1.odn.ne.jp/haru/data-other/rainbow.html




クンダリニー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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クンダリニーを象徴化した絵
ナーディーとチャクラの位置を表した図
ヒンドゥー教
HinduismSymbolWhite.PNG
基本教義
輪廻 、解脱 、業 、梵我一如
神々
ブラフマー
シヴァ (パールヴァティー )
ヴィシュヌ (クリシュナ )
アスラ 、ヴァルナ 、
ヴィローチャナ 、ヴリトラ
ラーヴァナ 、インドラ
ナーガ 、ナーガラージャ
ジャガンナート
聖典
ヴェーダ
(ウパニシャッド )
プラーナ文献
マハーバーラタ
(バガヴァッド・ギーター )
ラーマーヤナ
六派哲学 の諸経典
法典・律法経
マヌ法典
ヤージュニャヴァルキヤ法典
宗派
ヴィシュヌ派 、シヴァ派
シャクティ派 、スマルタ派
人物
シャンカラ 、グル
修行法
ヨーガ
地域
インド 、ネパール
バングラデシュ
スリランカ 、モーリシャス
バリ島 、マレーシア
社会・生活
カースト 、ヴァルナ 、ジャーティ
不可触民 、サティー 、アーシュラマ
文化・芸術
寺院一覧 、遺跡一覧
表 ・話 ・編 ・歴

クンダリニー(クンダリーニ、Kundalini, कुण्डलिनी, kuṇḍalinī)は、悟り を得るために必要なシャクティ (性力)のこと。クンダリニーの活性化を念頭においたヨーガ は、「クンダリニー・ヨーガ 」と呼ばれる。クンダリニーを象徴化したものとしては、密教の軍荼利明王 がある。

「螺旋 」「コイル 」「巻き毛」「環」などを意味するサンスクリット の kundala(クンダラ)から派生した、「螺旋を有するもの」を意味する kundalin(クンダリヌ)の女性形主格が、Kundalini(クンダリニー)の語源である。

クンダリニーは、普段は尾てい骨付近のムーラーダーラチャクラ に眠っているが、ヨーガ の実践や宗教 の各種修行によって活性化し始め、生涯をかけ各チャクラを開花させグランティ(=結節。ブラフマー 結節、ヴィシュヌ 結節、ルドラ 結節の3種類がある)を破壊し、最終的には頭頂のサハスラーラを押し開け解脱 に至る。今世で解脱できる魂 は極一部といわれている。性欲 を昇華 させたものがクンダリニーとなるため、梵行(性的な事柄を避ける)修行が重要となる。
ナーディーとの関係 [編集 ]

体内(霊体)にあると言われるナーディー (en:Nadi (yoga) ) (気道)の中でも代表的なものは、動的で男性的性質のピンガラー・ナーディー(別名・太陽の回路)、静的で女性的性質のイダー・ナーディー(別名・月の回路)、そして身体の中央を貫いており、調和をもたらすスシュムナー・ナーディーの3つがある。ピンガラー・ナーディーとイダー・ナーディーの調和のとれた活性という条件の下、瞑想 時にスシュムナー・ナーディー内をクンダリニーが上昇した結果訪れるサマーディ に入定することが、サマーディより出定後も安全に高い霊性を維持していくための条件となる。
クンダリニー症候群 [編集 ]

科学的根拠がみあたらないために、人によって考え方がまちまちである。体感異常や心身症のことを自分でクンダリニー症候群だと思い込んでいるだけのケースや、逆にクンダリニー症候群であるにもかかわらず単なる精神病と誤解されるケースもあるようである。

クンダリニーを思い通りに、意図的に上昇させようとするクンダリニー・ヨーガ を激しく修行し実践する場合、その「思い通りに、意図的に」とは真我 ではなく個我にとってのそれであるため、クンダリニーが動的なナーディーであるピンガラー・ナーディーのみを通ってサマーディに入定してしまうことがある。そうなるとサマーディから出定後、クンダリニー症候群(英:Kundalini syndrome 中:走火入魔 )と呼ばれる症状が現れ、程度の深浅こそあれ、自律神経系 のうち交感神経系 の暴走からくる自律神経失調症 を呈し、そこから全身の激しい脈動、心拍数の増加と血圧の上昇、片頭痛 、慢性疲労症候群 、統合失調症 、うつ病 、神経症 などを発症するおそれがあり、最悪のケースでは脳溢血 や自殺 などを招いてしまうという考え方もある。よってイダー・ナーディーを強力に活性化させる技法を知らぬままクンダリニー・ヨーガを行うことは無謀ということができる。

また、クンダリニー・ヨーガを実践するつもりでなくても、急進的な解脱願望を抱いた状態または神 への絶対帰依 を欠いた状態での修行の継続の結果や、さらには人生の困難、交通事故、出産などによるショックなどによっても上記のような現象が起こる場合が稀にあるという説がある。

元々人格障害 (ボーダー、反社会性等)や精神病を潜在的に抱えている患者にクンダリニー覚醒に先立って、元々の病が押し出されるという説もある。カルマ の浄化プロセスとも考えられる。

このため、クンダリニー覚醒を目指す実践者はベジタリアニズム を実践し、刺激物の摂取を避け、過食、不規則な食事、わがままで否定的な態度を避けるべきである。

安全な隠遁生活がなかなか難しい現代社会において、社会生活を営みながら安全にクンダリニー覚醒を得るためにはどうしたらよいかは課題である。
イマジネーションの拡大 [編集 ]

クンダリニー覚醒が一定のレベル以上に達すると、人間に果てしない「イマジネーション」の拡大がもたらされるといわれており、実際その事例を見ることも多い。クンダリニーの覚醒者と自称する人(その多くは覚醒者とはいえないレベルではあるが)は多くいるが、彼らの中の一部に「空想的世界観」を見ることができる。人間が自分を”実際以上”のものである(あるいは実際以上のものでありたい)と思うたびに、イマジネーションの力がそこで働いている。イマジネーションの力は、過去において不可欠であったのであり、さらに人類にとって今後もまだまだ必要な力である。あまりに現実を見てしまうと、世界の進歩が阻害されてしまうのであり、クンダリニーにより神の夢を個々の人間の器に応じて実現させることができるのである。しかし、修行者がイマジネーションの拡大に溺れてしまい、それを自分の力だと思い込み「欲望」のままに行動してしまうならば、「悟り」への道を逸脱することになってしまう。
クンダリニーに関する逸話 [編集 ]

グルジェフ の著作『ベルゼバブの孫への話』の中に神話的な人類創生の話が出てくるが、その中にクンダリニーが人間の尾てい骨のあたりに取り付けられた経緯が語られている。人間が地球上に存在する目的を知られることがないように、安全装置として取り付けたということである。
近年の研究 [編集 ]

臨死体験 (NDE)経験者が最もクンダリニー上昇に近い経験をしているという主張が欧米の研究者を中心になされている。この分野の学術研究をトランスパーソナル心理学 ・精神医学という。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%BC


2011年12月24日(Sat)▲ページの先頭へ
精神振動の7分節化:七元=三元と三元とmedia pointの一元
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11115479961.html

精神振動の7分節化:七元=三元と三元とmedia pointの一元

直観で言うと、凸i*凹iは易的に言えば、三元*三元である。それにmedia pointの一元を入れると、七元になる。
 それは、凸i主導の場合の三元性(「三位一体)と凹i主導の三元性があり、それにmedia pointの一元性があり、合わせて七元性になるということだろう。
 思うに、7とは女神の数である。古代オリエントの女神イナンナ、イシュテルの数である。
 そして、3という「根元数」がここにある。3と7である。また、差異共振、Vector Modeは黄金比で、正五角形を形成する。すなわち、5である。そうすると、精神振動はmedia pointを介して、3,5,7という最も重要な秘数(聖数)を所有すると言えよう。
 当然、2もあるし4もあるし6もある。そして、大根元の1がある。すると、1,2,3,4,5,6,7という数列がきれいに出てくる。
 後で検討したい。

追記:media pointが0であろう。また、8は2^3で、9は3^2で説明できるだろう。2^3や3^2は易から考えられる。また、10であるが、それは、1+2+3+4、つまり、テトラクテュスで説明できよう。
 後でさらに検討したい。

参照:
古代ギリシアの旅
― 創造の源を訪ねて ―
高野義郎著
(新赤版780)





◎思索的で高踏と感じていた古代ギリシアが身近になりました……

 自然哲学の元祖タレースは「万物の根源は水である」と言いました。ぼくは、よくこんな大胆なことをいうものだ、さすが思索的なギリシア人だなと思っていました。ヘーラクレイトスも「万物の根源は火だ」と言いましたが、「ええっ、何で?」と感じていました。

 著者の高野先生は、タレースの故郷ミーレートス、ヘーラクレイトスの故郷エペソスを訪ねて、その意味を考えたのです。ミーレートスを流れていたマイアンドロス河のもたらす影響(豊かな土壌をもたらすプラス&洪水のマイナスなど)の大きさと、エペソスの象徴であるアルテミスの神殿に掲げられた不断の聖火(ヘーラクレイトスはそれを毎日見ていた)とに、それぞれの自然哲学の起源を見出しました。

 高野先生の説を読んで、「そんなに身近なものから発想したのか」と感じました。同時に、「よく、そんなに身近なものを万物の根源とするには、理論構築が大変だろうな」とも思いました。

 そして、いまは廃墟となっているミーレートスやエペソスにぜひ行ってみたいと強く思いました。高踏で近寄りがたいと感じていた古代ギリシアが、この本をつくることで急に自分の感覚に近づいてきたのです。

 そんな感じを読んでくれる人にもっていただける本だと思っています。

◎ピタゴラス学派の聖なる数は「10」だったのですね……

 ピタゴラスの正確な読み方は「ピュータゴラース」、ピュータゴラース学派のシンボルマークは「テトラクテュス」(図A)です。上から点が1、2、3、4と重なる正三角形のマークです。点の数は1+2+3+4=10です。じつにきれいなマークなんですが、どうしてこれをシンボルにしたのかも、この本で解いています。2章で存分に解説がありますから、ここでは説明しません。ぼくも「なるほど」と思いました。

図A

 ピタゴラスは「ピタゴラスの定理」や「ピタゴラスの数」でも知られる数学者であるほかに、哲学者でも宗教家でもありました。では、宗教との接点はどこにあったのでしょうか。これも「テトラクテュス」と同じ根っこなのです。

 あちこちで、なんと謎解きの多い本なのだろうと感じられるでしょう。けっこう楽しめますよ。

◎楽しめるのは地図と写真も……

 古代ギリシア全域とはどこからどこまででしょう? いまのトルコ西部から南イタリア・シチリアまでとほんとうに広い範囲です。その全域はもちろん、各地の地図がたくさん入っています。だから、アリストテレースが生まれたスタゲイラ、ピュータゴラースの生まれたサモス、オリンピック競技発祥の地オリュンピアーなどが、どこにあったのかが、あらためてよくわかります。

アポローン、アルテミス誕生の地を守るライオン像。デーロス島


夕日のポセイドーンの神殿。スーニオン岬

 写真はすべて、著者の高野先生が撮ったものです。日本ではほとんど見たことのない写真もたくさんあります。なにしろ観光ツアーでは行かないようなところを、自分でわざわざ調べて訪れたのですから。もちろんプロのカメラマンではありませんが、かなり上手で、しかも撮る位置を探して撮ったものなので、いい写真ばかりです。モノクロームでしか見られませんが、ぜひ現地の空気を感じてください。

 地図も写真も多かったので、正直言って本づくり作業は大変でした。でも、その分、読んでくださるみなさんは、楽しめるし、新たな発見も多いだろうと思います。
(編集部 森光実)


■著者紹介
高野義郎 たかの・よしろう
 1925年大阪生まれ、1948年京都大学理学部卒業。京都大学湯川研究室副手、横浜国立大学教育学部,工学部教授を経て、現在は、横浜国立大学名誉教授。理学博士。専攻は、理論物理学。
 著書に『力学』(朝倉書店)、『物理学の再発見T物質から空間へ U素粒子と時間空間』(講談社ブルーバックス)、『ヨーロッパ科学史の旅』(NHKブックス)など。

■目次
 古代ギリシア地図/古代東エーゲ海地図/古代アテーナイ周辺地図
 古代ギリシア史年表
1 哲学のふるさとミーレートス ― その都市計画に秘められたもの
2 ピタゴラス学派の聖なる数10
3 万物の根源を求めて
4 古典文化の花咲く都市アテーナイ
5 時計回りにめぐるペロポンネーソス
6 悲劇の舞台 ― オイディプースとイーピゲネイア
 地名索引/人名索引

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0204/sin_k63.html

ピュタゴラス派の「霊魂数」の解明
2011
07-08
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by Carel Willink



ピュタゴラス派についての本を何冊か借りて、西洋における「輪廻思想」の源流にまで遡行しようとしているが、実はピュタゴラス本人に帰属される資料自体が著しく欠損していることを知って当惑している。
ピュタゴラスは既に生前から伝説化されているらしく、おそらく極めてカリスマ性の高い宗教的側面を持っていたものと推測されている。
このページでは、イアンブリコス、ポルピュリオス両者によるピュタゴラス伝と、おそらくピュタゴラス研究において避けては通れない大家と思われるピサ大学の古代哲学史の専門家であるブルーノ・チェントローネの本の三冊を読んで、私が重要だと思った要点を巧くまとめておきたい。
先に述べた、ピュタゴラス本人の教説が謎に包まれているということは、チェントローネも「ギリシア哲学の中で、最も議論の絶えない一章をなす」という表現を彼に与えていることからもその一端が窺える。
残されているピュタゴラス派のものと思われる資料も、「偽ピュタゴラス派」や数知れない偽作などで膨大な量に及び、何を信頼すべき正統的典拠とするかで専門家も非常に悩んでいるような印象を受けた。
チェントローネは、やはりアリストテレスの『形而上学』と、プラトンの『ピレボス』や『パイドロス』などでの、ピュタゴラスに関する言及には一定の信頼を置いているようである。
まずはじめに、ピュタゴラス派がどういう思想を展開したのか、錯綜する本の解説からまとめなおす作業が必要だろう。
私には、チェントローネの研究書ですら、やはりどこか錯綜して重要なその「思想」の骨子とはあまり無関係な言述にページを割いている気がするからである。
そこで、まずは一定の信頼度を寄せても良いと思われる、ディカイアルゴスによるピュタゴラス派の教えのポイントをまとめておく。

・霊魂は不死である。
・肉体の死後、人は別種の生物へ移ることがある。
・ある周期で、かつてあったものは再生し、絶対的に新しいものは何一つ無い。
・全て、霊魂を有する存在者は同じ種に属している。



以上が、ピュタゴラス派の教えとして現在にも伝わっているものの、ごく簡単な概略であるが、どれも突出して謎めいているという他無い。
ピュタゴラス派とは無関係かもしれないが、ピュタゴラス以前に、アナクシマンドロスも「無数の宇宙が同時に互いに独立して存在する」という、17世紀バロック時代のライプニッツの「可能的世界」説を先取りした思想を展開していたようで、これもまた非常に神秘的で興味深いところである。
我々の目下の関心は、ピュタゴラスである。
彼は、仏教的な「業報輪廻」(悪いことをすればその報いとして下等な生物に転生する)を信じていたとされている記述が、プラトンの『パイドロス』に存在し、こうした輪廻観は「アドラステイアの掟」と呼称されていたようだが、実はプラトンがピュタゴラスに帰したこの考え自体も本当に彼本人の思想なのか不明である。
アイリアノスの『ギリシア奇談集』には、「口伝」として伝わる彼の教えが残っている。
これらは、どれもその内容においては正確であるようなので、確実性は高いと思われる。

「デルポイの神託とは何か。数秘三角形なり」

「最も智恵あるものは何か。数なり」

「至福者の島とは何か。太陽と月なり」



これに、付記しておかねばならないもう一つの重要な教えがある。
それは、「霊魂とは、自己を動かす数である」という教えである。
ピュタゴラス派は、人間の肉体に宿る霊魂も、「数」に還元して思考していたと考えられる。
彼らがアリスモロジー(数理学)を実在する全ての存在と一体化させて考えていたことは、まず間違いない。
そもそも、ピュタゴラスというその名前なのだが、実はこれは「アポロン」の枕詞から生成されているのである。

「ピュティオス」(アポロンの枕詞)+「アゴレウエイン」(述べる)
=「ピュタゴラス」(アポロンに劣らず真理を述べる者)



ピュタゴラスをアポロン神と、あるいはその神官の末裔と同一視する資料は、いわば彼を「伝説化」する人々の著作に顕著な特徴である。
私がここでどうしても記録しておきたいのは、むしろ彼らの「数秘術」である。
これについても、私が読んだ本が三冊に過ぎない点と、それらの本自体でも資料性の少なさを自覚し合っているので、なかなか一筋縄にはいかない。
しかし、まとめておく意義は十二分にある。
(何故なら、これらについてボルヘスは一言も言及していないのだから)。

先ほど、「霊魂も数である」という説を紹介したが、実はフィロポノスが『デ・アニマ注釈』の中で、霊魂が何故、数であるかに言及している。
フィロポノスの以下の解説がピュタゴラス派に属するか、またピュタゴラス本人に属するかは不明であるが興味深いのは事実である。
彼によると、霊魂は4つの基本的性質から構成されており、それらの性質全てが「数」に還元できるという。

1・・・ヌース(直知)
2・・・エピステーメー(学術的知識)
3・・・ドクサ(意見)
4・・・アイステーシス(感覚)



こうしたことから判るように、霊魂を四つの基本的性質に分解し、それぞれに数を振り当てるという思想が存在していたものと考えられる。
ここからが面白いのだが、実はこれらの総和、すなわち「霊魂数」は、1+2+3+4=10であり、この10は「調和数」であると同時に、ピュタゴラス派が「真理」そのものと同義であるとした、名高い「テトラクテュス(数秘三角形)」を構成する数10と一致するという事実である。
テトラクテュスとは、10の点を正三角形に並べて配置した図として示され、ピュタゴラス派によって神聖視されたものである。
来歴を述べると、それまでの古代ギリシアでは宗教的儀礼において「動物犠牲」が多く、それも三つの異なる動物を三副対にして神に捧げるという、いわゆる「トリクテュス」が支配的であったという。
血を好まず沈黙と瞑想を愛するピュタゴラスは、これに反対して「動物」を媒介にして神に接近するのではなく、幾何学的図形が持つ力を信じて神へ接近できるような新しいシステムを考案した。
彼らが万物を数に還元するのは、全ての事物は、「数を持つ」ということを信じていたためである。
彼らにとって存在論とは、まさに数学と一体化していたわけだ。
では、何故ピュタゴラス派はそれほどまでに、この10という数字を崇拝したのだろうか?
これには幾つかの説が存在する。

・「数える」という作業は、世界中ほぼどこの民族においても1から10までで完了する。11以上はその反復に過ぎない。

・10は、奇数1、3、5、7、9と、偶数2、4、6、8、10をそれぞれ5つずつ包含する。

・10は素数1、2、3、5、7と、複合数4、6、8、9、10をそれぞれ5つずつ包含する。

・点を1、二点から生じる線を2、線から生じる平面図形を3、平面図形から生じる幾何学的立体を4とすれば、世界に存在する全ての点、線、図形、立体は、1+2+3+4=10で表現可能である。



こうした10が「調和数」であり、全ての宇宙を包含しているという特異な数秘観は、スペウシッポスやセクストス・エンペイリコスも伝えている。
私はここで、彼らが「数える」というその単純な行為に、もしかすると「祈り」に近い何か宗教的観念を持っていたのではないか、という仮説を提示しておきたい。
というのは、キリスト教においても「祈り」は極めて重要な宗教生活の基礎であるが、宗教的結社を組織していたとも伝えられているピュタゴラス派が、「数える」ことや、「図形を描くこと」に安らぎを見出していたことは、テトラクテュスに対する信仰心からしても、平易に想像できるものだからである。
ピュタゴラス派についての言及も多いアリストテレスであるが、実は彼には内部向け書物である『形而上学』以外に、『ピュタゴラス派について』という重要な書物があったとされている。
不幸なことにこの書は現存しない。
しかし、アリストテレスは『形而上学』の中で、ピュタゴラス派の特質を「事物を離れて単独で存在している数はない」ことを信じる点や、「事物のそれぞれは、それに内在する数のある情態である」と考える点などに認めている。
10に並んで重要な数字は、1と216である。
1については最後に記すが、216を重視したのはなかなか興味深いエピソードである。
というのは、実はピュタゴラスは伝承上では前世において猟師ピュロンだったとされており、彼が死んでピュタゴラスが生まれるまでの期間が、ちょうど216年であるとされているからである。
216とは何であるのか?
これは、一辺が3、4、5の立方体にそれぞれ水を入れて、全て合わせた容積である。(3の三乗+4の三乗+5の三乗)
3、4、5を各辺に持つ図形といえば、直角三角形であるが、216はこの図形の各辺の三乗の和である。
正三角形と同じく、3、4、5の辺の長さを持つ直角三角形は古代ギリシアにおいて神聖視された図形であった。
例えばプラトンは『国家』の中で、「完全な国家」が衰滅するまでの総期間は36000年であると予言している。
この36000の数字の算出方法は既に知られており、やはり直角三角形をモデルにしているのである。
プラトンによれば3、4、5の辺を持つ三角形は「国家」を象徴している。
その面積3×4×5=60は、「国家」を意味している。
というのは、彼によれば3は「政治家」を、4は「市民」を、5は「法律」を意味し、図形全体で「共同体社会」を象徴化するからだ。
そして、面積60の4乗である12960000は、国家の存続日数を意味する。
これを年数に直すと、先の36000年になるのである。
何故、ピュタゴラスが216を10と並んで神聖視したのかというと、それが「国家を象徴する直角三角形」の各辺の三乗の和だからである。
216にこめられた意味を読み解くコードはまだある。
それはピュタゴラス派に伝わる「結婚数」6の存在である。
これは女性数2と男性数3の積である。
そして、女性数2の立方体の体積と、男性数3の立方体の体積をかけた数(2の三乗×3の三乗)は、216である。
上記のような理由からしか、ピュタゴラス派がなぜ216を神聖視したのかは判らない。
本の解説を精密に照らし合わせた結果、こうした「数に意味を象徴的に賦与する」作業が前提になっていたとしか考えられないのである。
ゆえに、ピュタゴラスは216年の歳月を経て、前世ピュロスから転生したのである。
最後に、「1」について記しておかねばならない。
「1」こそは、起源にして終焉であり、最も簡潔にして最も謎めいた数字である。
プラトンは『ピレボス』の中で、以下のように記している。

「およそ過去にも未来にもいつでも<ある>といわれるものは、<一>と<多>からできているのであり、しかも有限も無限も自己自身のうちに、本来的な同伴者として備えている」



これは、私には極めて重大な教えである気がしてならない。
というのは、ここでプラトンはピュタゴラス派の教えを参照しているのであるが、そこでは<ある>という存在論的な状況の根本を担うコードが、<一>であり、また<多>であるとされているからである。
<一>はギリシア語で「ヘン」、無限は「アペイロン」と呼ばれるが、スペウシッポスの解釈によると、両者は本質において同一である。
というのは、「ある」とは、結局のところ、「一」であり「多」だからだ。
これはキリスト教神学に関心のある者には、すぐさま神の属性であることが思い出されるはずだ。
ただ唯一の一者にして、同時に宇宙に余すところ無く遍在するのはキリスト教神学における「神」の属性である。
プラトンがピュタゴラスの思想の影響を極めて顕著に受けていたことは、アリストテレスも認めている。
したがって、ピュタゴラスもこれに類縁的な思想を持っていたと同定することは自然なのである。
だとすれば、これはまさにピュタゴラス派の数学的神学論といえるだろう。
彼は「1」という数字に、「無限」を見ていた。
これはテトラクテュスである10との類比的な関係性でも述べられるべきだろう。
10は、いわば1でもあるのではないか。
すなわち、1から始まり9へと至り、10にまで達することは、再び1へと回帰することである。
これこそが、ピュタゴラス派が「霊魂」をも「数」に還元した究極の意味内容だったのではないか。
霊魂数10は、「一」であり「多」である超越的存在の前で再び1へと戻るのである。
輪廻の数秘的解釈とは、このようなものになるのではないだろうか。
私には、どうしても霊魂数を10だとしたフィロポノスの意見と、ピュタゴラス派がテトラクテュスの数10にこめた意味が、重なり合って、「輪廻」を示そうとしていたように思えて仕方ないのである。
人間は、前世の人間の死後、216年の歳月を経て現世に転生する。
そして現世で成長するに連れて、霊魂数は10に達する。
すると、肉体を離れた霊魂はピュタゴラス派が想定したであろう死後の世界で、1となる。
しかしこの1は、かつての10を潜在させているのである。
この1には、かつての10の全てが記憶されている。
こうすることで、カルデックやフラマリオンが提唱した「輪廻」における、霊魂の前世記憶の蘇生(いわゆるアナムネーシス)は説明できるだろう。
ピュタゴラスと、フィロポノスの功績とは、まさに霊魂を数に還元し、テトラクテュスとして「完全数10」を示した上で、神を10ではなく「一」と「多」と規定することにより、霊魂の旅のプロセスにおける「霊魂数の変容」を示唆したものと想定される。

以上の考察を踏まえた上で、再び「霊魂数の変容」を整理しておこう。
まず、10という数字には、テトラクテュスを構成する点の数に等しいので「完全数」や「調和数」という意味が存在する。
この10は、それだけではなく、フィロポノスによると霊魂数でもある。
そして、プラトンの『ピレボス』にあるように、「ある」という「存在」そのものは、(聖書では、神がアブラハムに対して、自分を「ある、というものである」と告げたことを思い出そう)「神」を意味し、それは「一」であると同時に「多」として宇宙に遍在する。
1はいわば、霊魂数10が神に合一する瞬間に生起する減法ではないか。
死後の世界において、霊魂数10は神と合一することで、宇宙と等しい「多」=「無限大」になると同時に、「一」=「1」となる。
そうして、再び新しい肉体へと転生するのである。
その転生に必要な期間が、ピュタゴラス派の伝承では216年で、これは考え方を変えると、ピュタゴラスですら216年を要したということに他ならない。
こうした「霊魂数の輪廻による変容」については、私が読んだどの本にも記されてはいない。
しかし、資料の少なさを、研究者から信頼度の高いテクストに従って「輪廻」を基軸に「数」に還元して読み解くと、やはりこのような帰結に達するのである。
最後に私は、エンペドクレスが『カタルモイ(浄め)』の中でピュタゴラスを称賛して記した言葉を引用しておきたい。

「まことに彼がひとたびその全精神をあげて自分をさしのべる時は、彼はおよそ存在する全てのものの一つをやすやすと見て取った――十たびも二十たびも繰り返された人間の生涯において」





「参考リスト」

ピュタゴラス派―その生と哲学 ピュタゴラス派―その生と哲学
(2000/01/24)
ブルーノ チェントローネ

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ポルピュリオス『ピタゴラスの生涯』―付録:黄金の詩 ポルピュリオス『ピタゴラスの生涯』―付録:黄金の詩
(2007/09)
水地 宗明

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ピュタゴラス伝 (叢書アレクサンドリア図書館) ピュタゴラス伝 (叢書アレクサンドリア図書館)
(2000/01)
イアンブリコス、Iamblichi 他

http://borges.blog118.fc2.com/blog-entry-1043.html
† VANILLA PLIEST †



2011年12月23日(Fri)▲ページの先頭へ
個霊と遺伝子:精神と身体:高振動の精神と低振動の物質:精神振動とチャクラ
個霊と遺伝子:精神と身体:高振動の精神と低振動の物質:精神振動とチャクラ

テーマ:シュタイナー精神学

シュタイナーは霊が母胎の胎児に到来すると述べている。つまり、霊と身体は絶対的に区別されるということである。
 PS理論ではこの問題をどう捉えるだろうか。自己は凸i*凹iの屈折した形に存すると先に述べた。結局、虚軸と実軸は不連続であり、絶対的に区別されるという考えた方がここでは役に立つ。
 端的に言えば、精神が身体を形成するのである。しかしながら、遺伝の問題をどう捉えたらいいだろうか。才能は遺伝しないのである。
 純粋差異共振によって身体が形成されると考えられる。ならば、遺伝子とはそれの物質的表現である。つまり、MP1の物質的表現である。二重らせんである。
 では、それと個、自己はどう関係するだろうか。先に述べた自己式をとりあげて考えよう。

 (凹i/凸i)*(凸i/凹i)⇒凸(+1)

簡単にするため、凹i/凸iをA、凸i/凹iをBとしよう。すると、

A*B⇒凸

である。思うに、AとBは個々において、差異があると考えられる。つまり、ある1という人は、

A1*B1⇒凸

となる。だから、

Ak*Bk⇒凸

で任意の人を記述できる。
 では、この差異はいったいどういう力学をもつのか。
 ここで強度という概念を導入しよう。すると、個々において、AとBの強度が異なると考えられる。
 例えば、父権的タイプAがBよりも強いと考えられるし、母権的タイプはBがAより強いと考えられる。
 問題はこの強度の式である。どう記述されるのか。
 強度はエネルギーと言い換えてもいいだろう。だから、精神エネルギーの問題である。
 E = hν
を利用すれば、個の差異は振動数の問題となるだろう。
 簡単に言えば、陰陽の振動数の差異が個の根拠である。
 高い振動数が精神的差異を意味するだろうし、低い振動数が物質形成を意味するのではないだろうか。
 ここで本題に返ると、個の精神は高振動数をもち、遺伝子は低振動数をもつということになる。
 思うに、氣の考え方もこれで説明できる。一般の電磁波よりも高振動なのが氣として説明できるだろう。
 では、振動数の差異は何から生じるのだろうか。それは、精神形成の違いによると考えられる。
 つまり、精神的活動をする人は、精神の振動数が高くなるのであり、それが、時代を超えて伝わると思う。
 唯物論的発想は精神の振動数を低くし、獣的、悪魔的にすると言えよう。
 今はここで留める。

追記:精神の振動から、ヨガのチャクラを想起した。チャクラは振動をもっている。また、7つのチャクラがある。これは虹の七色と共通である。あるいは、オクターブと。
 つまり、差異共振、陰陽は7分節を形成すると考えられる。どうして、7なのか。今の段階では不明であるが、ここでは、精神振動とチャクラの関係と7分節形成を提起するに留める。
 ちなみに、シュタイナーは7分節が進化、発展等の段階であると述べている。

参照:

チャクラ(cakra, chakra, cakkra, चक्र)は、サンスクリット で「車輪・円」を意味する語。漢訳は「輪」(りん)、チベット語では「コルロ」(khorlo)という。インド起源の神秘的身体論における、物質的な身体(粗大身)と精微な身体(微細身)にある複数の中枢を指す[1] 。

各チャクラの位置

チャクラが描かれたヨーガ行者の図
19C初頭の彩色写本、大英図書館所蔵


ヨーガでの用法 [編集 ]

ヒンドゥー教 のヨーガ では、人体の頭部、胸部、腹部で、輪または回転する車輪のように光っているように感じられる箇所を言う。数は6または7箇所と言われるが、それとは別に8箇所あるという説もあるなど、一定ではない。画像 では光る蓮華 で表現される。猿であったときの尻尾の名残の尾てい骨から発生する蛇を、チャクラを通じて頭から出すのが目的といった見解がある。

第1のチャクラ
ムーラーダーラ・チャクラ (mūlādhāra-cakra) と呼ばれ、脊柱の基底にあたる会陰(肛門と性器の間)にある。「ムーラ・アーダーラ」とは「根を支えるもの」の意である。ヒンドゥー・ヨーガの伝統的なチャクラの図では、赤の四花弁をもち、地の元素を表象する黄色い四角形とヨーニ(女性器)を象徴する逆三角形が描かれている。三角形の中には蛇の姿をした女神クンダリニー が眠っている[2] 。
第2のチャクラ
スワーディシュターナ・チャクラ (svādhişţhāna-cakra) と呼ばれ、陰部にある。「スヴァ・アディシュターナ」は「自らの住処」を意味する。朱の六花弁を有し、水の元素のシンボルである三日月が描かれている[2] 。
第3のチャクラ
マニプーラ・チャクラ (maņipūra-cakra) と呼ばれ、腹部の臍のあたりにある。「マニプーラ」とは「宝珠の都市」という意味である。青い10葉の花弁をもち、火の元素を表す赤い三角形がある[2] 。
第4のチャクラ
アナーハタ・チャクラ (anāhata-cakra) と呼ばれ、胸にある。12葉の金色の花弁をもつ赤い蓮華として描かれ、中に六芒星がある。風の元素に関係する。「アナーハタ」とは「二物が触れ合うことなくして発せられる神秘的な音」を指す[2] 。
第5のチャクラ
ヴィシュッダ・チャクラ (viśhuddha-cakra) と呼ばれ、喉にある。くすんだ紫色をした16の花弁をもつ。虚空(アーカーシャ )の元素と関係がある。「ヴィシュッダ・チャクラ」は「清浄なる輪」を意味する[2] 。
第6のチャクラ
アージュナー・チャクラ (ājñā-cakra) と呼ばれ、眉間にある。インド人はこの部位にビンディ をつける。2枚の花弁の白い蓮華の形に描かれる。「アージュニャー」は「教令、教勅」を意味する。「意」(マナス)と関係がある[2] 。
第7のチャクラ
サハスラーラ (sahasrāra) と呼ばれ、頭頂にある。sahasra は「千」、ara は「輻」〔や〕で、1000葉の花弁を有する蓮華で表象される。一説に千手観音 の千手千眼はこのチャクラのことという。他の6チャクラとは異なり身体次元を超越しているとも考えられ[1] 、チャクラの内に数え入れられないこともある。その場合、サハスラーラはチャクラに含まれず、チャクラは6輪あることになる。

簡易的には背骨の基底部から数えて第1チャクラ、第2チャクラ……という呼び方もする。

チベット仏教の指導者であるダライ・ラマ14世 は、その場所に心を集中すると何かしらがあるという反応が得られると述べている[3] 。
仏教タントラにおけるチャクラ [編集 ]

インド仏教の後期密教 のタントラ 経典でもチャクラへの言及がある。チャクラの数や位置についてはいくつか異説があるが、一般に臍、心臓、喉、脳の4輪があるとされる。最上位はヒンドゥー・ヨーガのサハスラーラに相当する「ウシュニーシャ・カマラ」(頂蓮華)または「マハースッカ・カマラ」(大楽蓮華)である。他の3つは臍にある「変化身」(ニルマーナ・カーヤ)のチャクラ、心臓にある「法身」(ダルマ・カーヤ)のチャクラ、喉にある「受用身」(サンボガ・カーヤ)のチャクラであり、仏身の三身 に対応している[1] 。

インド密教を継承したチベット仏教 の無上瑜伽タントラでは以下のチャクラがあるとされる[4] 。

* 大楽輪(頭頂)
* 受用輪(喉)
* 法輪(胸)
* 変化輪(臍)
* 守楽輪(秘密処=下丹田にあたる)

一説には、インド密教ヨガのタントラ 経典やチベット密教 カギュ派 のタントラ経典などでは、身体には主要な7つのチャクラ(または6つのチャクラと1つの門)と、身体のあちこちにあるその他の小さなチャクラとがあるとされている。主要な7つのうち、会陰 と頭頂を除く5つのチャクラは、脊髄 に沿った5つのチャクラと、身体前面に沿った5つのチャクラとはそれぞれが対 になって繋がっているとされている(「タントラ密教経典」参照。なお、密教経典は門外不出とされている[要出典 ])。

* 下位幽体のチャクラ(会陰)
* 上位幽体のチャクラ(臍下約3cm)
* 応身(変化身)のチャクラ(臍上約3cm)
* 法身のチャクラ(胸)
* 報身のチャクラ(喉)
* 本性身のチャクラ(額)
* 金剛身のチャクラ(頭頂)

チベット仏教ニンマ派 のナムカイ・ノルブの説明によれば、タントラ経典によってチャクラの数が異なるのは一貫性に欠けているわけではなく、基本的なプラーナのシステムの概念は共通しており、さまざまなタントラの修行においてそれぞれに異なったチャクラを使うため、それぞれのテキストでは必要なチャクラだけが書かれているのだという[5] 。
中国 [編集 ]

中国の道家 や内丹術 の伝統的な身体論には、インドのチャクラに比すべき丹田 という概念があるが、近代の内丹術の中でも清 代の閔小艮の一派はヨーガの七輪の概念を取り入れている[6] 。
西洋への伝播 [編集 ]

ヨーガ の伝播と共にチャクラの概念も伝播した。数は7箇所で内臓 の各部に充てられるようになった。また、その振動の周波数などを解明したとする研究者もいる。他の行法である近代西洋儀式魔術 などにも概念が取り入れられた。
神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ [編集 ]

チャクラは脊椎に関連するエーテル体 にあるエネルギー・センター(渦)で、肉体の7つの内分泌腺及びメンタル体 、アストラル体 、肉体の調整と活性化を司り、意識の中枢と各身体の中継点としての役割をはたしている。

現在のヒーリングなどの分野では、各チャクラに対応する体表のツボのことを指して「チャクラ」と呼んでいる。体表のツボは単にチャクラからのプラーナ (気 )の出入口としての役割を果たしているにすぎず、チャクラではないが、ここでは便宜上体表のチャクラと呼ぶことにする。一方、伝統的なヨーガが伝えている「チャクラ」は、体表のチャクラではなく、人間のエーテル体に存在するほぼ脊柱に沿った7つのチャクラで、ここではこれを脊髄のチャクラと呼ぶことにする。しかし時代が下るにつれ、この脊髄のチャクラとは異なるチャクラの記述が現われるようになる。ここではこれを神経叢のチャクラと呼ぶことにする。実のところ主要な7つのチャクラのいずれのチャクラも、これら神経叢のチャクラと脊髄のチャクラが対をなして存在している。しかし現在に至るまで、この2つのチャクラの系統は明確な区別がなされていない。

古代のヒンドゥー教のヨーガでは、脊髄のチャクラが「チャクラ」とされてきた。不滅の身体をもち今も老いることなくヒマラヤで生き続けていると言われているマハー・アヴァター・ババジ が、弟子たちに伝授したクリア・ヨガの伝統では、脊髄のチャクラに関する知識が伝わっている。20世紀前半、クリア・ヨガを初めて西洋に伝えたパラマハンサ・ヨガナンダ は、著書『あるヨギの自叙伝』(森北出版)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を『心臓の後にある胸椎中枢』としている。ヨガナンダの言うチャクラが脊髄のチャクラであることが分かる。またババジのクリヤー・ヨーガ(ヨガナンダのクリア・ヨガと本質的に同じものと思われる)の普及活動をしているマーシャル・ゴーヴィンダンは、著書『ババジと18人のシッダ』(ネオデルフィ)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を「心臓の高さに当たる脊柱内にある」としており、ヨガナンダと同様である。

6-7世紀以降、タントラ教典が編纂された後の近代のヨーガ では、神経叢のチャクラについて言及するようになった。近代のヨーガの指導者として著名なスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの著書『魂の科学』(たま出版 )にはアナーハタ・チャクラの位置について、「このチャクラは、別名、心臓のチャクラとも呼ばれていますが、胸部の両肺に挟まれた心臓内にある微細な空間の中に位置しています。」という記述があり、ヨーゲシヴァラナンダの言うチャクラが神経叢のチャクラであることが分かる。

また、サマエル・アウン・ベオールの著書『完全なる結婚』(ノーシス書院)には、神経叢のチャクラと脊髄のチャクラの存在について、「原始ヒンズーヨギたちは、脊髄のチャクラとクンダリニー にすべての注意を払い、神経叢のエーテルチャクラには、ほとんど無関心であった。このことはにせ秘教家を驚かせた。」という記述がある。

以上からも、各々のヨーガ行者あるいは神秘家がチャクラの性質及びその位置について言及する場合、神経叢のチャクラあるいは脊髄のチャクラのいずれか一方についてのみ言及しており、各々のチャクラが、これら2つのチャクラと対をなして存在していること、及び、それらの位置と機能の違いについて、明確に区別し、自覚されていたとは考えにくい。

体表のチャクラは、先に述べたように本質的にチャクラではなく、チャクラからのプラーナ (気 )の出入り口である。しかし、そのルートが浄化されていることが心身の健康とチャクラの覚醒の上で重要であるため、ヒーリングの分野において重視されている。一方、本来のチャクラは神経叢と脊髄のチャクラであり、神経叢のチャクラは、身体の交感神経系を支配するナディーと関連し、身体の運動的な活動を司っている。一方、脊髄のチャクラは、身体の副交感神経系を支配するナディーと関連し、精神的な活動を司っている。神経叢のチャクラと脊髄のチャクラは対になっており、意識の拡大の過程を通じて、下位のチャクラから順に覚醒していく。
フィクションでのチャクラ [編集 ]

以下は、夢枕獏 の小説「キマイラ・吼 」シリーズに登場するチャクラ。

アグニ
仙骨 にあり鬼骨などとも呼ばれ、この1つのチャクラで、7つのチャクラを合わせたよりも更に大きな力を持つとされ、生命進化の根元を司るとも言われる。あまりに強大な力を持つゆえに、このチャクラを開眼させたまま放っておくと人は獣や鬼に変じてしまうなどという話もあるが、現代のヨーガ実践者でそれを開眼させた者はおらず、眉唾的なものではある。ただ、古代中国に赤須子(せきしゅし)がそのチャクラを開眼させてしまい、獣(的なもの)に変じた赤須子が村人を数十人喰い殺し、見かねた老子 が赤須子を封じたという記録が唯一残っている。
ソーマ
月のチャクラなどとも呼ばれ、アグニチャクラの開眼により暴走を始めた肉体(生命力)を統べ得る唯一のチャクラと言われるが、アグニチャクラの存在自体が定かでないため、更にその存在は疑問視されることがある。ソーマの身体上の位置を、頭頂の更に上(要するに虚空)と主張している。これは人間の身体を肉体だけでなく、エーテル体なども含めた上での見解である。

ヴァレリー・ハントによるチャクラの部位の電位変動測定 [編集 ]

カリフォルニア大学ロサンゼルス校 の生理学名誉教授ヴァレリー・ハント (Valerie V. Hunt) は、人体のオーラ の電気的研究において、チャクラと人体の電位変動の相関を調べた。ハントは被験者の体表でチャクラに相当する部位に筋電図 用の電極をあてて、人体の微弱な電位変動の波形を記録した。

この研究においてハントは、それまでに記録も報告もされたことのない、サインカーブを描いて変化する規則的な高周波信号を発見したと主張した。その報告によれば、チャクラの部位で測定された波形はつねに100-1600Hzの範囲であり、正常な脳波 、筋電図、心電図 での電位変動が示す電気信号をはるかに超える高周波であったという[7] 。
脚注 [編集 ]

1. ^ a b c ミルチャ・エリアーデ 『エリアーデ著作集 第10巻 ヨーガ 2』 立川武蔵 、訳、せりか書房、1975年。ISBN 4-7967-0087-0 。
2. ^ a b c d e f 立川武蔵 『ヨーガと浄土 ブッディスト・セオロジーV』 講談社〈選書メチエ〉、2008年。
3. ^ F・J・ヴァレーラ 、J・W.・ヘイワード 『徹底討議 心と生命』 山口泰司・訳、山口菜生子・訳、青土社、1995年、109頁。ISBN 4-7917-5382-8 。
4. ^ 平岡宏一 『ゲルク派版 チベット死者の書』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。ISBN 4-05-901032-4 。
5. ^ ナムカイ・ノルブ 『虹と水晶』 永沢哲訳、法蔵館、1992年。
6. ^ 道教と仙学 第4章 各派の丹法の要訣
7. ^ リチャード・ガーバー 『バイブレーショナル・メディスン』 日本教文社、2000年。

参考文献 [編集 ]

* 竹下雅敏 神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ ユニティ・デザイン
* C・W・リードビーター 『チャクラ』 本山博 、湯浅泰雄 (共訳)、平河出版社、1978年。ISBN 4-89203-023-6 。 - チャクラ、リードビーターの理論が概観できる。 PDF
* スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ『魂の科学』たま出版。ISBN 978-4884811105
o ラージャ・ヨーガ のサマディー(三昧 )で霊視したチャクラについて、一覧表とともに各チャクラの解説が書かれている。
* 比較文化研究室( 島岩 )訳『十六ニティヤー女神の海』、『ジュニャーネーシュヴァリー』等

関連項目 [編集 ]

* マルマ - インドの伝統武術医学に伝わる人体の急所(伊藤武 『図説 ヨーガ大全』 ISBN 4333024714 参照)。
* 経絡
* 如意輪観音 (手にチンタマニ(Cintamani cakra チンタ=如意、マニ=宝珠)とチャクラ(法輪 、チャクラム が変化したものという)を持つため中国仏教 では如意輪と訳した。)
* オーラ

外部リンク [編集 ]

* 七つのチャクラの意味
* 無料チャクラの壁紙
* チャクラ (チャクラとは、「気」とチャクラ、チャクラの活性化の方法など)
* チャクラについて (各チャクラの位置とそれが司る体の領域、意味、色)
* Evolutio Rodurago - チャクラ テスト (英語)
* クラ派の南の伝承におけるシュリー・チャクラの構造 (PDF )
* シャークタ派の密教 シュリー・チャクラの構造を中心として (PDF )
* 人生の中でのチャクラの活動レベル (チャクラのバランシング方法、活性法、過去生の情報など)

執筆の途中です


この項目は、インド に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などしてくださる協力者を求めています 。(プロジェクト:南アジア )




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カテゴリ :




参考:
調和振動子 - Wikipedia
EMANの物理学・量子力学・調和振動子


2011年12月19日(Mon)▲ページの先頭へ
ルネサンスの精神における光と闇:光への希求が闇と出会う:光と闇の即非合一
ルネサンスの精神における光と闇:光への希求が闇と出会う:光と闇の即非合一

テーマ:media point

既述したが、D. H. ロレンスは西洋において、イタリア・ルネサンス以降、「光への努力」Striving for Lightがあると言った。
 ルネサンスの精神とは語り尽くされたものであるが、私説を言うと、それは闇から光への希求である。根源に闇があるのである。それが光を求めたのである。
 闇からの光への志向であるので、そこには、media point、ないし、超越光があった。しかしながら、光は外界と結びつき、根源の闇が忘却されて、光の志向は外界、物質界へと閉じられていった。
 西洋の個人の個とは、この力学から生まれたと思う。光の志向の帰結がデカルト哲学と考えられる。個から自我(近代的自我)へと展開したのである。
 結局、根源の闇、個が忘却されて、光と自我が残ったのが、現代である。
 これは虚である。同一性の機械の世界であり、自動人形の世界である。機械仕掛けの人間の世界である。
 近代合理主義は闇、個を嫌い、光と自我の世界を構築した。しかしながら、根源の闇と個は否定しようがなく、「実存」するのである。
 思うに、西洋中世とは、光への希求はなく、闇の世界だったのだ。個も闇の世界の個である。
 とまれ、ルネサンスの光の志向とは、凹i⇒凸i、ないし、凸i/凹iという式になろう。
 物質的世界の希求であり、今日の世界はその帰結である。しかし、思うに、光のヴィジョンが形成されたのである。単に物質世界のヴィジョンだけが形成されたのではない。
 いったい、光のヴィジョンとは何だろうか。これは美的ヴィジョンである。美術的ヴィジョンである。
 いったい、これと闇のヴィジョンはどう関係するのか(先に結論づけたが)。
 今現在の私の印象を言えば、光のヴィジョンは闇のヴィジョンへと突き抜けるのである。光と闇が重なるのである。
 重なるという語に語弊があるなら、光と闇が一致する、即なのである。そう、光と闇の即非態である。
 これは、光への志向がなければ、到達しなかった事態であろう。光へと突き進み、闇と出会ったのである。言い換えると、media point meeting, media point fusionである。
 dark sunを唱えていたD. H. ロレンスが最晩年、『黙示録論』でStart with the sun. (光とともに始めよ)と述べたのは、その意味があるのではないだろうか。
 光は光へと成り切り、闇と通じたのだと思う。易で言えば、陽極まりて、陰に転ずである。
 光と闇の合一と言ってもいい。そう、潜在していた超越光であるが、今や光と一致したのである。
 光のヴィジョンは闇のヴィジョンとなったのである。

光の帝国、特設ページ
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/1175/theempireob.html



光と闇:アポロとディオニュソス:dark sunとしてのアフラ・マズダ=キリスト=天照大神

テーマ:media point

先に 二つのヴィジョン:光のヴィジョンと闇のヴィジョン: media point twilight http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11110349350.htmlを書いたが、論点がやや曖昧なので、ここで補足したい。
 光のヴィジョンとは端的に美術であり、闇のヴィジョンとは音楽である。ニーチェの用語で謂えば、アポロとディオニュソスである。
 そう、この区別を端的に述べたかったと思う。つまり、明らかに、絶対的に異なる二つの世界が存しているのである。光の帝国があり、闇の王国があるのである。絶対的間隙が両者の間にあるのである。これは、コミュニケーション不可能である。
 西田哲学の用語で言えば、絶対矛盾である。
 そう、光の帝国は闇の王国を感知しないのであり、闇の王国は光の帝国を知らないのである。これは絶対的平行である。
 まったく異質な二つの世界が存しているのであり、両者は他者を全く知らないのである。二元論の事象である。
 しかし、両者が出会うときがあるのである。それが、media pointの意味である。
 光は闇に出会い、闇は光に出会うのである。(思うに、これが天地開闢だろう。)
 これは即非事象であり、螺旋形象を生むのである。合一しつつ、それぞれ独一の事象である。
 media pointの事象とは結局、アポロとディオニュソスの即非的合一であり、それは美術と音楽の即非合一である。
 ニーチェはそれをギリシア悲劇に見たが、それは誤りではない。(ただし、以前述べたが、ニーチェのアポロの概念は誤謬が入っている。つまり、物質的に捉えている点が間違いである。)
 アポロとディオニュソス、光と闇の即非合一とは、端的に、何だろうか。それこそ、D. H. ロレンスの言うdark sunではないだろうか。光であり、闇の太陽である。
 そう、それは私の体験にも適合する。私は若い時、真夏の海辺で太陽を見て、闇を感じたのである。光が頭上、煌々と照るが、同時に、それは闇であった。光は闇だった。
 そう、光は闇なのである。それが、media pointの事象である。dark sun である。
 では、美術と音楽の即非合一のdark sunとは何だろうか。それこそ、真の光である。超越光である。
 光である闇、闇である光、このdark sunこそ、真光、超越光である。アフラ・マズダ=キリストである。そう、天照大神も同じである。だから、
 
アフラ・マズダ=キリスト=天照大神

という公式になる。
 思うに、戦後の日本人は折口信夫の新神道論を無視して、結局、今日の大悲劇に見舞われていると言えよう。
 そう、ここでウィリアム・ブレイクの箴言を述べよう。

All Religions are One.

 

二つのヴィジョン:光のヴィジョンと闇のヴィジョン: media point twilight

テーマ:media point

ヴィジョン(直観、心的イメージ)は普通、一つ、一重と捉えられているだろう。
 しかし、既述からわかるように、光と闇の二つの「光」があり、また、交差がある。だから、少なくとも三重である(cf. 三位一体、三つ巴、三女神、他)。
 今は簡単に指摘するに留めるが、光のヴィジョンだけでは、物質世界に留まってしまい、唯物論的になってしまうのである。
 光は闇に、謂わば、裏打ちされているのである。しかしながら、近代は光のみを追求して、闇を忘却してしまったのである。D. H. ロレンスが述べていた通りである。
 そう、闇のヴィジョンがある。それは本当の直観ではないだろうか。光のヴィジョンは知覚・感覚的イメージであるのに対して、闇のヴィジョンは不可視の世界の「イメージ」だと思う。あるいは、心、魂の世界のイメージである。
 そう、直観というとき、光の直観と闇の直観があるのであるが、前者は外界的直観であり、後者は内界的直観であり、深いもの、本質的なものは後者であると考えられる。換言すると、前者は物質的直観であり、後者は精神的直観である。
 カント哲学の直観はまったく前者のみであり、後者が忘却されているだろう。
 問題は、両者を肯定することである。啓蒙主義は前者を求め、ロマン主義は後者を求めたが、それぞれ、排他的であったために一面的になったと考えられる。
 とまれ、両者は矛盾的力学をもたらすのであり、近代的人間はこれに耐えられなかったのである。
 既述したように、相互浸透があるため、光は闇を志向し、闇は光を志向するのであり、結局、知的魂は第二象限と第三象限を志向すると思われる。
 ゲーテ/シュタイナーの精神学は第二象限を経由した第三象限への志向であると思われる。実に知的なのである。
 それに対して、D. H. ロレンスは直接、第三象限の闇を志向したと考えられる。そのため、光に対する反動性が生じることになったと考えられる。ロレンスの身体への執着はその意味合いがあるだろう。また、父権と母権の混乱もそれに拠るだろう。
 とまれ、今や、闇のヴィジョンを取り戻す必要があるのである。魂、精神のヴィジョンであり、それが、政治や経済も賦活するのである。
 どうも、閃きを受けて、すぐ書かなかったので、論点が復習的になっている。


2011年12月18日(Sun)▲ページの先頭へ
精神と物質:氣と自己:オイラーの公式と回転:自然精神・自己精神の数学精神哲学的力学
お断り:画像付きは以下の母サイトで見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11109976638.html

シュタイナーの名著『自由の哲学』を読みながら、精神が物質を生んだことに明確に得心したが、では、精神の様態はどうなのだろうかと思った。
 結局、量子は氣である。エーテル体である。それは、物質ではなく、物質を生むものである。
 ならば、精神自体はどうなのだろうか。
 私は以前、自我としての凸iは凸iの極大化、アストラル体としての凹iは凹iの極大化と考えたと思う。前者は、シュタイナー的にはアーリマンであり、後者はルシファーであろう。
 言い換えると、同一性主義と、反同一性主義(反動的差異主義)であると考えられる。
 とまれ、問題は自己を形成している精神エネルギーとは端的に何か、である。
 シュタイナーは『自由の哲学』(34才!の著書)では、自己(「自我」)における思考と意志と感情の三位性を説いている。
 思うに、自己の精神エネルギーは氣の変容したものと考えていいのではないだろうか。氣は植物や宇宙を形成する。それは、差異共振エネルギーである。
 それが、人間の場合、屈折していて、独特の凸iと凹iの相互作用が形成されていると考えられる。(凹i/凸i)*(凸i/凹i)⇒凸(+1)と先に提起したが。そう、これは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一の公式となろう。とまれ、問題は、これと氣の場合と異なるのか、否かである。凸i*凹i⇒凸も様態はそのようではないのかという疑問である。凹i/凸iは凸iと似ているが、前者には後者にはない志向性が明確に存しているので異なると言えよう。氣は純粋な差異共振であるが、自己精神エネルギーは屈折した差異共振と考えられる。氣ではあるが、特異な氣、特化した氣である。
 これで、一応、本題は解明した。
 次に、問題は、オイラーの公式の意味する事象である。それは、回転を意味するが、それは端的にどういうことなのか。
 それは自然精神(自己精神)の根源的回転(円運動)を意味すると直観で思う。プラトンは円運動を宇宙の根本的運動と捉えた。
 ならば、そのエネルギーはどういう力学なのか。自然精神、自己精神の力学である。
 差異共振(凸i*凹i⇒)は、端的に回転運動と考えられる。つまり、⇒凸(+1)とは、虚数から実数への転換であり、ガウス平面ではπ/2の回転と考えられる。
 思うに、それは数学的力学である。物理的力学以前に数学的力学である。ならば、精神(氣)とは端的に数学的力学をもっているのである。(PS理論からは自明であるが、明確にする必要がある。)
 つまり、数学的精神(氣)が根源的に存するということである。シュタイナー的に言えば、数学的霊mathematical spiritが存するということである。これは、ピュタゴラス/プラトン主義(数学的哲学主義)でもある。
 結局、自然精神、自己精神とは数学的精神(氣)、数学的霊であり、その力学をもつということである。数学精神的力学、数学霊的力学である。それはまた、直観的哲学でもある。だから、数学・哲学的力学が根源に存することになる。それは狭義に言えば、Kaisetsu氏が説くように、第三象限に属すると言えよう。しかし、広義には人間認識図全体に属すると言えよう。
 今はここで留める。


resurrectionのブログ

 
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ガウス平面で表した人間認識の図
ガウス平面で表した人間認識の図
original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)

《ガウス平面で表した人間認識の図》

http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


オイラーの公式
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%85%AC%E5%BC%8F
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索

数学 、特に複素解析 におけるオイラーの公式(オイラーのこうしき、Euler's formula、オイラーの恒等式とも)とは、指数関数 と三角関数 の間に成り立つ等式

e^{i\theta} = \cos\theta + i \, \sin\theta

オイラーの公式の幾何的な表示

をいう。ここに、θ は幾何学的には弧度法 に従う角と見なされる実変数 である。三角関数を複素変数に関する解析的関数と考えることで、この等式は θ を複素変数 と見ても成立している。レオンハルト・オイラー に帰せられるためこの名がある。この公式ははじめ、ロジャー・コーツ によって1714年 に提出されたが、その証明は曖昧なものだった。その後オイラーによって1748年 に再発見され、有名になった。

この公式は複素解析をはじめとする純粋数学の様々な分野や、電気工学 ・物理学 などであらわれる微分方程式の解析において重要な役割を演じる。物理学者のリチャード・ファインマン はこの公式を評して「我々の至宝」かつ「すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式」[1] だと述べている。

また、θ = π のとき、オイラーの等式 と呼ばれる

eiπ + 1 = 0

が導かれる。



角運動量
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


固定された回転軸をもつ系に対して、力を作用させた時の物理量の関係。力のモーメント \vec{\tau} と位置ベクトル \vec{r} と力 \vec{F} との関係(上の式)、および角運動量 \vec{L} と位置ベクトル \vec{r} と運動量 \vec{p} との関係(下の式)。

角運動量(かくうんどうりょう、英語 :angular momentum)とは、運動量 のモーメント を表す力学 の概念である。

位置 \vec{r} において、速度 \vec{v} で運動している質量 \,m の質点の、原点のまわりの角運動量 \vec{L} は、次式で定義される。

\vec{L} \equiv \vec{r} \times \vec{p} = \vec{r} \times m \vec{v} = m \vec{r} \times \frac{d \vec{r}}{dt}

ここで、\,\timesは外積 を表す記号であり、\vec{p} = m \vec{v} は質点の運動量 である。方向は他のモーメント同様\vec{r}から\vec{p}に回転するとき、右ねじの進む方向である。外積であるので、角運動量の大きさ\,Lは次のように表される。

L=rp\,\sin \theta

ここで、\,\thetaは\vec{r}と\vec{p}のなす角を示す。

角運動量の単位時間当たりの変化量 \tfrac{d\vec{L}}{dt}は力のモーメント \vec{N} \equiv \vec{r} \times \vec{F} に等しい。

\frac{d\vec{L}}{dt}=\frac{d(\vec{r}\times \vec{p})}{dt}=\frac{d\vec{r}}{dt}\times \vec{p}+\vec{r}\times \frac{d\vec{p}}{dt}=\vec{r}\times \vec{F}\equiv N

ここで次の関係を使った。

\frac{d\vec{r}}{dt}\times \vec{p}=\frac{d\vec{r}}{dt}\times (m\frac{d\vec{r}}{dt})=0 ,\frac{d\vec{p}}{dt}=\vec{F}

このことから、力が動径方向(\vec{r}方向)にあるか、あるいは力が働いていないときは\vec{N}=0となり、したがって、このとき角運動量は時間とともに変化しなくなる。このことを角運動量保存の法則(角運動量の保存則)という。

詳細は「角運動量保存の法則 」を参照

保存則が成り立っている物体に加わっている力、すなわち動径方向(\vec{r}方向)と同じ向きにある力は、その大きさを\,f(r)とすると、次のように表すことができる。

\vec{F}=f(r)\vec{\hat{r}},\,\,\,\,\,\hat{r}\equiv \frac{\vec{r}}{r}

この力は中心力と呼ばれる。

惑星間に働く万有引力は中心力であり、したがって、惑星の角運動量は保存される。保存則は、ケプラーの第2法則「面積速度一定」 と密接な関わりがある。単位時間当たりに惑星の掃く面積は、次のように表され、

\frac{dS}{dt}\fallingdotseq \frac{1}{2}r\frac{ds}{dt}=\frac{1}{2}rv=\frac{1}{2m}L

したがって、掃かれる面積の時間による変化率が一定ならば、角運動量も一定の値をとる。

\frac{dS}{dt}=h\Leftrightarrow L=2mh
等速直線運動 においてはベクトル量 である運動量 \vec{p} が時間によらず一定であるのに対し、等速円運動 においては、運動量の大きさは一定であるが、向きは時間により変化する。外力 \vec{F} が加わらないとき、力のモーメント \vec{N} は \,0 であり、角運動量は等速直線運動でも等速円運動でも時間によらず一定のベクトル量となる。


2010-10-24 仮説:フェルミオンは(n+1/2)π回転で⇒+1となる。ボゾンはnπ回転で 編集 このエントリーを含むブックマーク CommentsAdd Star

仮説:フェルミオン は(n+1/2)π回転で⇒+1となる。ボゾンはnπ回転で双極子を形成する

直観では、フェルミ ン(フェルミ 粒子)が物質 を形成する。つまり、⇒+1である。それに対して、ボゾン(ボース粒子)は、⇒である。即ち、双極子、凸i*凹iである。

 そう考えると、ボゾンである光子 が質量 がないのがうまく説明がつくだろうし、フェルミ ンである電子 が質量 をもつのも説明できるのではないだろうか。

 問題はボゾンの「粒子」性をどう説明するかである。これは、直観では、同一性志向 性である。つまり、粒子志向 性であり、粒子自体ではないのではないだろうか。つまり、「波動 」と見た方がよいのではないだろうか。

 後で再検討 したい。

追記:同一性志向 性は、粒子(物質 )のように「見える」であり、実際は粒子ではないと考えられる。それは、双極子であり、それ自体は粒子ではない。いわば、エネルギー 子である。

 問題は、粒子と「波動 」とは何かの問題になっている。いったい、双極子凸i*凹iとは何か。それは、根源的には、-1の超越的物質 から発するだろう。だから、超越的双極子と言えるかもしれない。つまり、「ダーク・マター」の極性である。

 とまれ、問題は何故、双極子が粒子に見えるのかである。観測装置 の対象が粒子(物質 )を基準としているので、そうなるというのは、一理である。

 しかしながら、本質的 理由があるだろう。そう、やはり、Media Point である。それは、穴である。その穴を粒子として取り違えているのではないだろうか。


参考:

素粒子

出典: フリー 百科事典 『ウィキペディア (Wikipedia )』

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曖昧さ回避 この項目では、物質 を構成する最小の単位 について記述 しています。その他の用法については「素粒子 (曖昧さ回避 ) 」をご覧ください。

物理学 において素粒子 (そりゅうし)とは、物質 を構成する最小の単位 のことである。

最小の単位 であるということは、それより小さな存在 がないということであり、従って内部構造 を持たず空間 的な大きさを持たない・または空間 ・長さ自体が最小単位 の大きさ(空間 最小単位 の候補の例としてはプランク長 等)とされるのだが、超弦理論 においては全ての素粒子 は有限な大きさを持つひもの振動状態であるとされる。

現在 のところ物質 を構成する素粒子 と考えられているものは、クォーク とレプトン である。だが、これらに内部構造 が存在 することが発見 されれば、その内部構造 を構成するもののほうが素粒子 と呼ばれ、クォーク やレプトン は素粒子 ではないということになる。クォーク やレプトン の大きさはわかっていないが、仮に有限の大きさがあるとしても陽子 のスケール においても点とみなすことができる大きさである。

たくさんの粒子が、実は自然 界にそのまま安定的に存在 しているわけではないので、宇宙線 の観測や加速器 による生成反応により発見 ・研究 された。素粒子 の様々な性質を実験 で調べ、それを理論 的に体系化していくこと、及び理論 的に予言 される素粒子 を実験 で探索していくことが、素粒子物理学 の研究 目的 である。

素粒子 の分類 [編集 ]

ボソン (ボース統計 に従う粒子) [編集 ]

* ゲージ粒子 - 素粒子 間の相互作用 (力)を伝搬する粒子

o 光子 - 電磁気 力 を媒介 する

o ウィークボソン - 弱い力 を媒介 する。 W+, W−, Z0 の3種類。

o グルーオン - 強い力 を媒介 する。8種類存在 する。

o 重力子 - 重力 を媒介 する(未発見 )。

* ヒッグス粒子 - 粒子に質量 を与える(未発見 )。

フェルミオン (フェルミ 統計 に従う粒子) [編集 ]

* レプトン (6種類)

o 荷電レプトン - 電荷 −1 を持ち、それぞれに反粒子 が存在 する。

+ 電子 - 原子 の構成要素として一般に良く知られる。電子 の反粒子 は陽電子 と呼ばれる。

+ ミュー粒子

+ タウ粒子

o ニュートリノ

+ 電子 ニュートリノ

+ ミューニュートリノ

+ タウニ ュートリノ

* クォーク - ハドロン の構成要素とされる(6種類)。

o 上系列 - 電荷 +2/3 を持ち、それぞれに反粒子 が存在 する。

+ アップクォーク

+ チャームクォーク

+ トップクォーク

o 下系列 - 電荷 −1/3 を持ち、それぞれに反粒子 が存在 する。

+ ダウンクォーク

+ ストレンジ クォーク

+ ボトムクォーク

クォーク とレプトン の分類表 [編集 ]

クォーク とレプトン は以下のように、世代によって分類される。傾向として、世代数 が大きいほど質量 が大きいとされている。

電荷 第1世代 第2世代 第3世代

クォーク

1. 2/3 アップクォーク (u) チャームクォーク (c) トップクォーク (t)

−1/3 ダウンクォーク (d) ストレンジ クォーク (s) ボトムクォーク (b)

レプトン

−1 電子 (e) ミュー粒子 (μ) タウ粒子 (τ)

0 電子 ニュートリノ (νe) ミューニュートリノ (νμ) タウニ ュートリノ (ντ)

関連項目 [編集 ]

* 標準模型

* 基本粒子

* 素粒子物理学

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E7%B2%92%E5%AD%90
http://d.hatena.ne.jp/antares/20101024


2011年12月12日(Mon)▲ページの先頭へ
植物と人間
光の問題。端的に、凸iの傾斜はあるのかどうか。
 現象界において、光の知覚が基本である。故に、光、凸iへの傾斜は植物、動物、人間も共通ではないだろうか。
 そうならば、連続的同一性とは人間だけでなく、一般的に存することになる。後で詳述したい。

追記:光、凸iの傾斜はなくても、差異共振だけで、同一性は説明できるだろう。つまり、「知覚」とは光の行為であるから、光が差異共振によって同一性を形成するということが可能である。
 この方が整合性があるだろう。


2011年12月11日(Sun)▲ページの先頭へ
同一性と物質:植物の差異共振と人間の場合の二重差異共振
これも既述済みだが、復習である。
 凸i主導性は差異凹iに自己反射(投影)して、同一性自己を形成するのである。これは、物質的自己(自我)である。
 しかし、人間以外はどうだろうか。例えば、植物の場合は。
 これは人間と同様に、凸i主導性があり、それで物質体が形成されると見ていいのではないだろうか。
 しかしながら、植物の場合は自我凸iはないから、少し視点を変える必要がある。
 先に述べたように、MP1(虚軸の原点)で差異共振(氣、エーテル体、生命力)が形成される。そして、これが、media pointから螺旋状に物質的生命体を形成すると考えられるのである。Vector Modeである。
 ここでは、人間の場合のように、凸i主導性はないと考えられる。
 人間の場合は、

(凹i/凸i)*(凸i/凹i)⇒凸(+1) ・・・ A

だと先に述べた。これを展開すると、

(凹i*凸i)/(凸i*凹i)⇒凸(+1) ・・・ B

となるのではないだろうか。(参考:
超越的存在とプラトンの善の太陽:マニ教の光とmedia point twilight (12/04)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1768.html)
 今は作業仮説であるが、凹i*凸iが自己性をもたらし、
凸i*凹iが物質性を導くということではないだろうか。
 単に植物の場合とは異なり、人間の場合は、二重の差異共振が関係していると思われるのである。
 思うに、Aの式の方が明快であろう。凹i/凸iは物質志向であり、凸i/凹iは精神志向であるように思える。
 Bの式で見ると、凹i*凸iが精神志向であり、凸i*凹iが物質志向であるように思える。
 とまれ、人間の場合、植物と異なるのは以上のような屈折が方程式に入るからではないだろうか。
 思うに、私が言う人間における(連続的)同一性志向とは、A式では、凹i/凸iであり、B式では凸i*凹iであると思われる。
 それに対して、差異志向(精神志向)はA式では凸i/凹iであり、B式では凹i*凸iであるように思えるのである。
 今はここで留める。


悪とは何か:第四象限と他者:不連続化、純粋差異化と第三象限
悪とは何か:その2:第四象限と他者:不連続化、純粋差異化と第三象限

テーマ:evilness, egotism

先に(悪とは何か http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11103585697.html)悪の根拠について考察してみたが、同一性の問題と結びつける必要がある。
 しかし、これは自明である。media pointからの連続化によって、自己同一性(自我)が形成されるが、そのとき、凸iと凹iは一致しているからである。即ち、悪の根拠の凹iは凸i(同一性)と結合しているということである。
 結局、他者性(魂)の有無が悪の問題の一つの中核的問題である。
 悪は同一性主義によって、他者(差異)を否定するのであり、他者は利己主義の対象となるのである。言い換えると、他者は物体化、物質化するのである。
 問題は、他者とは何かである。これまで、他者は凹iとしたが、これが凸と結合すると、悪になるのである。しかし、他者は単に凹iでいいのだろうか。
 所謂、道徳は第二象限に存する。それは規範的な倫理である。
 それに対して、第三象限の道徳・倫理があると考えられる。それは内在的な個的道徳・倫理である。
 他者性は根本的にはここに関係すると推察されるのである。
 ここで、不連続性の問題に戻って考えると、不連続的差異(絶対的差異)とは、端的に、凹iである。つまり、連続性(連続的同一性)である凸(+1)からの切断によって、凹iが独立することである。言い換えると、凸iと凹iが分離するのである。
 このとき、凸i(知性)の立ち位置が微妙である。それは、同一性(凸)、物質、外界との関係をもつと同時に、凹iと極性を形成して、差異共振作用をもつ のである。(思うに、カントの純粋理性とはこの凸iの二重性を問題にしているだろう。しかし、カントは凹iの視点をもたなかったので、アンチノミー、背理 しか見なかったと考えられる。)
 とまれ、不連続化によって、凹iが独立し、第三象限への道が開けるのである。東洋・日本の道である。
 だから、他者凹iとは第三象限と結びつく存在と考えるべきである。
 しかしながら、例えば、「心」、「良心」、「善意」、「心情」、「魂」という場合、それは、まだ、第三象限へは達していない前段階と考えられる。言い換 えると、不連続化以前である。一種未分化である。不連続化できて、他者凹iは第三象限(内在的超越性領域)へと結びつくのである。
 では、端的に、不連続化とは何であろうか。それは認識行為である。精神の領域での行為、観念的行為である。認識的進化と言ってもいいだろう。それは、純粋差異化と呼んでもいいだろう。
 では、純粋差異化の仕組みはどういうものだろうか。これも結局は既述済みである。即ち、自己は凸i主導的であり、そのために、凹iは連続化を被っているのである。
 つまり、凸iがもつ連続的志向が凹iに作用して、凹iとの連続性を保持しているのである。しかし、純粋差異化によって、凸iの主導性が覆り、凹iの独立性が形成されるという事態が生起することである。
 言い換えると、価値転換、自己のコペルニクス的転回である。あるいは、価値の東洋化、ないし、母権化である。
 政治的に言うと、真の民主主義、経済的に言うと、真の自由主義の形成の出発点である。
 そして、自由主義は、差異共振化をもつために、自由共同体主義となるのである。それは差異共振的資本主義であろう。そう、新しい民主主義も差異共振的民主主義となるだろう。




悪とは何か
テーマ:evilness, egotism

今は、簡単に指摘するに留める。
 本件の問題は、人間認識図から言えば、第四象限に属する。つまり、凹iと凸が結合した領域である。
 私の直観は、凹iはシュタイナーの説くアストラル体(感性体)と等価であるので、凹iが陶冶されない場合、それが、物質凸と結合して悪となるのではないということである。
 つまり、凹iは粗野のままでは、欲望の渦であり、それが、物質と結合して、第四象限を形成するように思えるのである。
 もし、凹iが教化されるならば、それは、他者性をもち、media point形成への出発点となると考えられる。
 とまれ、悪とは粗野な凹iが物質凸と結びつくのであるが、凸iはこの場合、凹iに隷属しているように思える。
 凸iが形成する同一性は粗野な凹iに従属して、都合のいい、つまり、一時的なもののように思える。
 つまり、嘘、詐欺、虚偽である。利己的欲望のために、同一性を利用して、欺すのである。
 そうならば、悪とは、「教養」を欠落した存在であると言えるのではないだろうか。
 そう、凹iを教化する「教養」の欠落である。「教養」とは、本来、知恵、叡知、文化の謂いである。
 近代「文化」は物質文化であるために、この「教養」を欠落するのである。故に、人間は悪へと傾斜すると考えられる。
 資本主義が新自由主義ないし国家資本主義になるのも、「教養」の欠落、言い換えると、魂の欠落に拠ると
考えられるのである。
 言い換えると、精神の貧困、心の貧しさに拠るのである。
 民主主義も結局、「教養」がなけられば、愚民主義、衆愚政治になるほかないのである。
 今はここで留める。


参照:
ガウス平面で表した人間認識の図

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)

http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208

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2011年12月06日(Tue)▲ページの先頭へ
日本近代の超克:日本的個(魂)の覚醒に向けて:ツイッターへの一連の投稿
Mon, December 05, 2011
日本近代の超克:日本的個(魂)の覚醒に向けて:ツイッターへの一連の投稿
テーマ:日本輪廻転生
以下は即興で述べたので、誤植、言葉のミス等があるが御容赦されたい。

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日本近代の超克8)収まりが悪いので、もう一言言うと、内身体にある魂を覚醒させるとき、獣性も覚醒されるのである。そう、前者がプラトンの白い馬であり、後者が黒い馬である。ここで、前者を精神的に強化させる必要がある。後者の暴走を抑える必要がある。とまれ、魂(他者)と意識の結合で個となる
3分前 お気に入りに登録 返信 削除

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日本近代の超克7)今日は余裕がないので、ここで留めるが、個の覚醒のために、心的意識的測鉛を内身体へと垂下させることにより、魂が燃えるように目覚め、活性化されるのである。そう、魂の覚醒である。ここに個の覚醒の意味がある。魂は実は他者である。ここに精神性がある。しかし、獣性もある。

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日本近代の超克6)これで問題の在り処が判明したと言えよう。個の覚醒が必要なのである(ツイッターの良識ある人には当てはまらないが)。では個をどうしたら覚醒されることができるのか。これは実は東洋・日本的身体論に回帰することで可能である。心的意識的測鉛を内身体へ垂下させることが必要だ。
9分前 お気に入りに登録 返信 削除

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日本近代の超克5)民主党、東電、経団連、知事・市長、役人・官僚(一部)他の大醜態は、この半封建・半近代的没個的自己によってもたらされていると言える。権力と金に従属するだけの魑魅魍魎たちに過ぎない。そして、民衆・国民も俗世に溺れて愚民化しているのであり、悪賢い権力複合体に騙される。
12分前 お気に入りに登録 返信 削除

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日本近代の超克4)権力に盲従する集合的自己であるために、個に内在する善・道徳・倫理が形成されないまま日本近代は形成された。そのために、資本主義は国家資本主義となり、自由主義を否定した。そして、民主主義も形式ばかりの建前に過ぎなかった。個の土台の上に、自由主義、民主主義は存する。


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日本近代の超克3)欧米的個の不確立と言ったのが、欧米文化を真似することはできない。日本的個(母権的個)というものが伝統的にあったが、明治以降ほぼ否定されてきたのである。つまり、伝統・民族文化に即した個の形成の失敗があるのである。結局、権力に盲従した半封建・半近代的自己が形成された
19分前 お気に入りに登録 返信 削除

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日本近代の超克2)日本の心性も問題は大きく二つある。一つは封建的心性の遺制であり、一つは近代合理主義/近代的自我である。あるいは意味で両者は矛盾するが、日本近代において、前者のベースの上に後者が形成されたみていいだろう。言い換えると半封建・半近代主義である。欧米的個の不確立である
21分前 お気に入りに登録 返信 削除

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日本近代の超克1)放射能汚染と経済崩壊の二つが日本を滅亡させんとしている。私は生まれ変わる為にはいったん滅亡がよいと既述した。滅亡は現実的となったが、はたして生まれ変わるかははなはだ疑問である。そこで、生まれ変わるための視点を説きたいと思う。これは心性の問題が基本である。続く。


小沢の限界。結局、民主党の枠の中の人間。つまり、権謀術数。
テーマ:悪魔に魂を売った売・亡国民主党政権
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小沢の限界。結局、民主党の枠の中の人間。つまり、権謀術数。 @troussier100 もう無理だと思う。 RT @headline : 【政治】民主党・小沢元代表「民主党を立て直したい」: j.mp/rPzr4C


差異的民意と同一性的民意。前者が本体、後者は仮構だ。民主主義的擬制
テーマ:politics:democracy
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差異的民意と同一性的民意。前者が本体、後者は仮構だ。民主主義的擬制@neomanichaeist 民意とは何?現実の民意と選挙での民意がある。二つの民意。後者だけを肯定するのは無謀乱暴。 @nanaironotsuki 電話に出た男性は、松井と橋下は瓦礫受け入れしたいとちゃんと


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民意とは何?現実の民意と選挙での民意がある。二つの民意。後者だけを肯定するのは無謀乱暴。 @nanaironotsuki 電話に出た男性は、松井と橋下は瓦礫受け入れしたいとちゃんと新聞などにハッキリと公表して市長と知事に当選したので、大阪に瓦礫受け入れても良いというのが府民の答え


Tue, December 06, 2011
滅亡・絶滅に瀕している日本の救世主は精神・理論的にはPS理論:生命・物質的には乳酸菌・光合成最近
テーマ:Japan Resurrection
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滅亡・絶滅に瀕している日本の救世主は精神・理論的にはPS理論であり、生命・物質的には乳酸菌・光合成細菌である。ただし、霊主体従主義だプラトニック・シナジー理論のページ sophio.blog19.fc2.com 飯山一郎のLittleHP grnba.com/iiyama/


2011年12月04日(Sun)▲ページの先頭へ
超越的存在とプラトンの善の太陽:マニ教の光とmedia point twilight
画像は以下で見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11097347185.html

テーマ:manichaeism: 哲学

オイラーの公式

−1=e^iπ

これをPS理論は

凹(−1)=e^iπ

とする。
 そして、凹(−1)は超越的存在である。私はこれに四大の火を当てた。
 思うに、プラトンの洞窟の外に存する太陽、善の太陽は、凹(−1)を指していると考えられる。
 ただし、どちらかいうと、第二象限的な太陽だと思う。しかしながら、洞窟の外部なので、第三象限性を確かにもっていると考えられる。
 思うに、凹(-1)の元太陽の発現様態が問題である。それは、凸iの光と凹iの闇の差異共振様態として、発現するのであり、二つの要素に分離するのである。
 だから、二つの太陽がある意味で生起すると言えよう。光の太陽と闇の太陽である。
 しかしながら、両者の関係は微妙である。なぜなら、前者は後者と交わり、後者は前者と交わると考えられるからである。相互浸透があるのである。つまり、光の太陽は闇の太陽を志向し、闇の太陽は光の太陽を志向すると考えられるからである。
 二重の太陽、三重の太陽がそこにはあると言えよう。そ三重の太陽はmedia point sunと言えるだろう。
 ここでD. H. Lawrenceのdark sun, dark Godを考えると、dark sunは闇の太陽を指していると見ていいだろう。そして、dark Godは凹(−1)である。あるいは、第三象限である。
 しかしながら、ロレンスは最晩年、太陽とともに始めよStart with the sunと唱えたのである。それ以前のロレンスはdark sunを説いていたのであり、これは何を意味するのか。
 これは、二重の太陽、ないし三重の太陽で説明できよう。光の太陽は闇の太陽や相互浸透を意味しているからである。
 また、ルドルフ・シュタイナーの説く物質的太陽と霊的太陽であるが、前者は光の太陽の物質的映像と見ていいだろうし、霊的太陽とはmedia point sunであり、さらに、第三象限へと連なる太陽であろう。
 いわゆる、精神・霊界spiritual worldとは、media pointの虚軸点MP1に既に存すると言えようし、狭義では凹i(−1)であろうし、広義では、media point の虚軸点MP1を含んだ第三象限であろう。
 次にマニ教の光について少し触れたい。この光は先に超越光であると述べた。ほぼmedia point lightと言っていいだろう。そう、media point twilightとも言えよう。正確に言えば、凹(−1)と結びついた第三象限を含む「光」である。
 さて、ここで問題が生じている。先にエーテル体とはmedia pointの差異共振によって形成されると述べたのであるが、MP1は超越光を意味するのであるから、エーテル体(氣)=超越光になってしまうのである。
 ここで先に図式を少し変容させて考えよう。先には次のように述べた。

光とエーテル体(氣)

「整理すると、自己・個とは凸i/凹i(凹i⇒凸i)且つ(即非)凹i/凸i(凸i⇒凹i)であり、アストラル体が凸i/凹i(凹i⇒凸i)であり、エーテル体が凸i共振凹i(MP1)であり、物質体が凸ということになる。」
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11096912752.html

自己・個凸i/凹i(凹i⇒凸i)且つ(即非)凹i/凸i(凸i⇒凹i)を

凸i/凹i(凹i⇒凸i)*凹i/凸i(凸i⇒凹i)⇒凸(+1)

と変換させる。
 思うに、この自己・個の差異共振が超越光を意味するのではないだろうか。正確に言えば、凸i/凹i(凹i⇒凸i)にとりわけ超越光が属するであろう。
 しかしながら、左辺全体に超越光が属すと言うべきだろう。
 結局、超越光は単純なMP1の差異共振ではなく、それは、自己・個的差異共振によって発生すると言うべきなのである。それでこそ、ウパニシャッド哲学の梵我一如『汝はそれなり』(tat tvam asi タット・トヴァン・アスィ)と一致しよう。つまり、梵が超越光ということであり、それが「我」=自己・個ということである。
 以上の考察(思考実験)で問題点がかなり整合化されたと言えよう。
 そう、シュタイナーがキリストとはアフラ・マズダのことであると述べていた。アフラ・マズダとはPS理論では凹(−1)と考えられる。ならば、キリストとは凹(−1)の超越的存在ということになる。ウパニシャッド哲学で言えば、汝とキリストは一致するということになるだろう。神人一致である。


追記:正しくは善の太陽ではなく、善のイデアの比喩としての洞窟外の太陽である。

resurrectionのブログ

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4270/imanishi/natuphy.html

自然哲学:その1


《ガウス平面で表した人間認識の図》

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


参考:

汝はそれなり
(2006.09.26/00:04) CM:4 | TB:0

『汝はそれなり』(tat tvam asi タット・トヴァン・アスィ)という言葉があります。

これは、ウパニシャッドの宗教的・哲学的思想の中で、ウッダーラカ・アールニが語った有名な格言『我はそれなり、汝はそれなり、全てはそれなり』の一部で、この言葉は、ウパニシャッド哲学のエッセンスを一文に凝縮したものであると言われています。

では、『汝はそれなり』とは、いったい何を意味しているのでしょうか?

一般に「汝」=「アートマン」であり、「それ」=「ブラフマン」であると言われています。

「アートマン(atman 真我)」とは、意識の最も深い内側にある個の根源で、個の中心にあり認識自体を司るもので、真我は「知るもの/知られるもの」の二元性を超越しているため、「真我」自体を認識の対象にすることはできません。つまり、知覚すること自体ができないのです(笑)。デカルトの非常に有名な言葉『我思う、故に我あり』(cogito, ergo sumコギト・エルゴ・スム)は、この掴み所のない「真我」の残した足跡を捉らまえて、間接的に存在性を表現したものなのですね。

また、「ブラフマン(Brahman 梵天)」は、全存在世界の根源的リアリティ、つまり、宇宙の根源原理、宇宙の源のこと指しており、神聖な知性としても考えられています。

要するに、『汝はそれなり』の意味することは、究極的には個人の真我と宇宙原理は一致し、全く同じものであることを言っているのです。

このことを、『梵天一如』とも表現されます。

自分の心の中を深く深く入り込んでいくと、自己認識している核の部分にまで至るが、でもそれは、途轍もなく広大な全宇宙存在のソースでもあった。更に、先に先に進むと宇宙空間となり、最も遠い所、つまり、自分の周囲に行き着いてしまうというわけです。

画像

このことは、かなり前の記事「現実世界って? 」にも書いたのですが、自己と宇宙は、まるで「クラインの壷」状の構造になっているのですね。

では、これを確かめるにはどうしたらいいのでしょうか?

このことは、瞑想を通して体験するしかないのですが、ブラフマンを体験するには、「無私」の状態にまで達しないと体験できないと言われています。

瞑想する場合には、例えば、マントラを唱える場合でいうと、マントラを唱えていることを知覚できている状態ではダメなのです。自分がマントラ自体にまでならないと「無私」とはいえないのです。(参照:幸せ天使さんのブログ )

これって、ななかか難しいです。

http://aioi.blog6.fc2.com/?mode=m&no=186

煩悩くん フルスロットル



とうとうコルマンインデックスが終了した4 (11/30)

コルマンインデックスが指摘する思想的な変化とは、以下のような長期の傾向が10月28日のコルマンデックスの終了で次第に現れるとする予言である。

「人間の外部に存在し、人間を支配する超越的な存在としての神の概念から、一人一人が神や仏の一部であることを実感する方向へとシフトする。」

このような変化が本当に起こるとするなら、それは我々が世界を感じたり認識したりする方法が転換する、人間と世界の関係の変化が伴うはずである。いわゆるパラダイムシフトと言われる現象となって現れるはずだ。
http://ytaka2011.blog105.fc2.com/blog-entry-229.html

ヤスの備忘録 歴史と予言のあいだ


2011年12月03日(Sat)▲ページの先頭へ
光とエーテル体(氣)
光とエーテル体(氣)
テーマ:検討問題

本件の問題を解明する必要がある。
 端的に言えば、光は当然、可視的であるが、エーテル体(氣)は不可視である。
 しかしながら、シュタイナー精神学をPS理論に引きつけると、光とエーテル体が同じものに、即ち、凸iになってしまうのである。この齟齬を解決する必要がある。
 少し整理しよう。私はシュタイナー理論を触れる前までは、氣とは、MP1(虚軸点)で形成されると述べた。そして、シュタイナーの発想からエーテル体=氣は凸iとなった。明らかに、齟齬、矛盾である。
 思うに、氣=エーテル体はやはり、MP1で発生する超越光とすべきだと思う。そして、光は凸iのままで済む。
 つまり、氣=エーテル体とは、光と闇の共振体ということになる。それが、Vector Modeを産み出し、物質体を形成すると考えられる。
 だから、現象体は光でありつつ、闇であるが、闇は当然不可視である。
 そうならば、さらに問題はアストラル体(謂わば、感性体)をどう見るかが問題である。
 私はアストラル体を凹iとしたのである。闇である。
 しかし、光と闇の共振が氣=エーテル体なので、アストラル体(感性体)を闇凹iにするのは、不具合である。
 思うに、media pointの感性がアストラル体ではないだろうか。同一性と差異がせめぎ合う点、それがアストラル体ではないか。ならば、media pointにアストラル体を、あえて言えば、media pointの凹i寄りにある。
 もう少し整理すると、自己(個)ichが凸i/凹iであるとすると、/がアストラル体になるだろう。凹i⇒凸iに対して、凸i⇒凹iが生じる。この衝突がアストラル体のように思える。
 つまり、凸i⇒凹iの自我(物質的自己)のベクトルが入るのである。それで、不調和を起こすのであり、それが、アストラル体と考えられる。つまり、自己と自我の不調和である。
 しかし、シュタイナーはアストラル体は動物のもつ体であると述べている。
 ならば、凸i⇒凹iはないのである。だから、凹i/凸i が自己・個ではなく、アストラル体かもしれない。
 整理すると、自己・個とは凸i/凹i(凹i⇒凸i)且つ(即非)凹i/凸i(凸i⇒凹i)であり、アストラル体が凸i/凹i(凹i⇒凸i)であり、エーテル体が凸i共振凹i(MP1)であり、物質体が凸ということになる。
 これで一応は整合性は保ったが。



直観学で哲学と芸術は括れる。科学は直観を数学化した?直観学に哲学、芸術、数学、科学が入る

テーマ:manichaeism: 哲学


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直観学から見ると、物質科学、近代科学は、同一性主義であ り、現実(差異)ではなく、同一性の虚構を土台にしている。疫学がその帰結である。それは、資本主義権力に都合がよく、利己主義となっている。物質科学、 近代科学を打倒せよ!直観科学、差異科学こそ、正しい。似非科学、御用科学を唾棄せよ!


neomanichaeist resurrection
@
直観学で哲学と芸術は括れる。科学は直観を数学化した?直観学に哲学、芸術、数学、科学が入る @neomanichaeist 直観性は両者一致する。直観を概念化するのか、形象化するのか。 @neomanichaeist 哲学と芸術の差異は至上に興味深い。深い芸術は認識をもつ。哲学的。

お気に入りに登録 返信 削除

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neomanichaeist resurrection
@
直観性は両者一致する。直観を概念化するのか、形象化するのか。 @neomanichaeist 哲学と芸術の差異は至上に興味深い。深い芸術は認識をもつ。哲学的。だから、両者の共通点はある。ただし、芸術は感覚・魂・想像力をベースにする。哲学は概念を。@Michael_Ende_jp
9分前 お気に入りに登録 返信 削除

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neomanichaeist resurrection
@
哲学と芸術の差異は至上に興味深い。深い芸術は認識をもつ。哲学的。だから、両者の共通点はある。ただし、芸術は感覚・魂・想像力をベースにする。哲学は概念を。 @Michael_Ende_jp 芸術の形式は、認識とは違うものです。哲学者は芸術家ではない。たとえ創造的な哲学者だとしても。




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Michael_Ende_jp ミヒャエル・エンデ

(シュタイナーなどは、芸術家ということになりますね?という問いに対して)いいえ、芸術の形式は、認識とは違うものです。哲学者は芸術家ではない。たとえ創造的な哲学者だとしても。 『芸術と政治をめぐる対話』
43分前 お気に入りに登録 リツイート 返信

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Michael_Ende_jp ミヒャエル・エンデ

シュタイナーの著作を読むときには、決して彼を現代の大学教 授のように思って読んではならない。そんなことをしたら、シュタイナーのことを絶対に理解できませんからね。彼自身、再三それを警告しています。しかし現 実には、やっぱり彼の願ったのとは反対のことが行われている。 『エンデと語る』
1時間前 お気に入りに登録 リツイート 返信

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Michael_Ende_jp ミヒャエル・エンデ

認識の所作とは反対の所作が、芸術の所作ということになりま す。芸術家は認識するものではありません。芸術はいまここで、もっとも広い意味において、むしろエロス的な原理と関係しているのです。エロス的原理は認識 の原理ではない。受肉と現実化の原理なのです。 『闇の考古学』



自然数の差異(質)と同一性(量)
テーマ:mathematics

一見、自然数はみな量的に見える。しかし、実際、数を数える場合、それは、差異である個体(個)を数えるのである。差異1を1,差異2を2,・・・差異nをnと数えるのである。
 しかし、自然数は当然、量的でもある。2=1+1
である。つまり、自然数概念は差異と同一性を併存・共立、同時生起させていることになる。
 思うに、自然数はmedia pointで形成されるのである。そこでは、凸iの同一性と凹iの差異が共振しているのであるから。
 ところで、吉田武氏の『オイラーの贈物ー人類の至宝e^iπ=−1を学ぶー』は実に名著であろう。文章が生きているのである。文理融合である。

オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ/吉田 武

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5つ星のうち 5.0 『我々の至宝』かつ『すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式』とまで言われているものを文系だから知らなくいいとは到底思えない。今日までゆっくり取り組んでみた, 2011/11/27
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(VINE メンバー) (トップ10レビュアー)
レビュー対象商品: オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ (単行本)
新装版としては、2010年1月23日リリース。この本を手に取ったきっかけは、2011年7月27日放送の『クローズアップ現代 「大人がハマる"数学 ブーム"の謎」』で、数学を学び直すことがブームになっているという話題が非常に印象に残ったことだった。中学・高校で学んだ三角関数やら素数やらを再度 自身で鉛筆を持ちながら解き直す。この鉛筆を持ちながらの所を再度試みてみたくなった。

その中で取り上げられたのが『オイラーの贈物』 だ。レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler, 1707年4月15日 - 1783年9月18日)は数学者・物理学者であり、天文学者(天体物理学者)である。この人は視力障害があったらしく、フリードリヒ2世に『数学のサイク ロプス(単眼の巨人)』と讃えられた18世紀の歴史上最も多産な数学者と言われている人物である。この『オイラーの等式』に自力で挑戦する本である。

こ の『オイラーの等式』は、物理学者のリチャード・ファインマンにより『我々の至宝』かつ『すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式』と呼ばれている。 数学は高校二年生でストップしているので、ウン十年ぶりに数学をやるわけだ。この本を買って時間を費やすかを自問したところ、どうしてもやりたい。やりた くて仕方が無いと思っている自分に気がついた。

自分が理系だから法律・経済に疎くとていいというのはありえない間違いであるように、『我 々の至宝』かつ『すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式』とまで言われているものを文系だから知らなくいいとは到底思えない。挫折する気は毛頭な く、ゆっくりゆっくり並列読書法で読み解いて、この18世紀の偉大な数学者の思考に近づきたいと思い、今日までゆっくり取り組んでみた。

そして感じたこと。昔々の数学の知識が少しずつ蘇ってくる。積分とは不定形な面の面積を探すことだったか。

微分係数を求める=導関数に数値を代入
定積分を求める=不定積分に数値を代入・・・・・結果は数値

関数を微分する=導関数を求める
関数を積分する=原始関数を求める・・・・互いに逆演算、結果は関数

最も面白かったのは、フィボナッチ数列はパスカルの三角形と重なる、ということだった。

そ して日々考えている世界のマネーの動きにこの数式を当てはめてみた。頭の中にS lowの連続する棒グラフとS upの連続する棒グラフがy=xとして連なる。そして棒グラフの各々のピッチは極限を目指して狭まり、世界中を蠢くマネーの分母のように瞬く。その正しい 数値を導くべく推論すること、すなわちマネーを積分しているのだな、と気がつく。

数学だけでなく、様々なことを感じさせてくれる素晴らしい一冊だと思う。



2011年12月02日(Fri)▲ページの先頭へ
エーテル体と宇宙:光と氣:渦巻き宇宙、螺旋とVector Mode
テーマ:シュタイナー精神学

シュタイナーの精神学は実に興味深いことを述べる。例えば、宇宙とはエーテル体によって形成されると言うのだ。思えば、エーテル体は彼の霊学においては、生命の原理である。すると、宇宙と生命が結びつく。最近、生命体宇宙説があり、シュタイナーの論は先取りしていたことになる。
 PS理論から見ると、今の作業仮説では、エーテル体は凸i(i)、光の原理と結びつく。
 思うに、media pointにおいて光の渦巻き、螺旋が形成されるのではないだろうか。それが、渦巻き星雲を形成したり、地上では蔓植物を形成したりするのではないだろうか。
 そう、光のVector Modeである。
 思うに、光はほとんど氣(エーテル体)と言っていいのではないだろうか。ならば、光=氣=宇宙/生命形成原理(Vector Mode)ということになろう。
 そして、物質原理は当然、media pointの精神的フィルター作用であると言える。差異共振から同一性へと変換されるのである。
 しかしながら、物質は光=氣(エーテル体)のVector Modeの外皮、外殻のように創出されよう。
 言い換えると、物質体が光=氣のVector Modeを覆うように、包装するように形成されて、感覚では光=氣を知覚できなくなると考えられる。
 とまれ、これで物質現象は説明できる。
 では、闇である凹iはどう作動しているのだろうか。これは、シュタイナー霊学ではアストラル体である。それは、情感、身体的欲望等を意味するのである。簡単に言えば、感情体、感性体である。
 シュタイナーが説くように植物ではこれは作用していないだろう。動物や人間に関係するのである。
 では、宇宙形成においてはどうなのだろうか。シュタイナーは星に霊を見ているので、闇凹iが関係していると思う。また、天使等の存在を言うので、宇宙形成には、第三象限が作用しているように思われる。
 思うに、この闇凹i成分がdark matterやdark energyに関係するのではないだろうか。
 問題は闇凹iと物質界がどう関係するのかである。何度も言うように、D. H. ロレンスはdark sun、dark Godや暗い宇宙の薔薇を述べるのであるが、それを考えると、闇凹iはやはり、Vector Modeを形成するのではないだろうか。闇のVector Modeである。
 そう、闇の宇宙である。これが光の宇宙と関係しているのだろう。ここでもシュタイナーの霊学を活用すると、闇が光へと浸透するとき、青色が形成されるという。青空の青である。
 それに対して、光が闇へと浸透すると、赤色が形成されるという。夕日の赤である。
 それを考えると、光と闇の相互干渉があるのである。だから、光の宇宙は闇の宇宙の影響を受けていると言えよう。それがdark matter、dark energyと関係するように思えるのだ。
 また、分数公理を使うと、闇が分母で、光が分子であり、前者が土台で後者を支えるのではないだろうか。
 極論すると、闇が光を産み出しているのではないだろうか。太陽は暗い太陽がベースであり、それは不可視である。
 ロレンスは太陽はわれわれに背中を見せていると言うが、思うに、暗い太陽は闇凹iに位置するのではないだろうか。
 また、闇凹iは第三象限と深く結びついている。故に、高次元的である。超越的である。ロレンスのdark Godは正に、それを示唆しよう。
 また、自然科学であるが、それは、光の科学であり、闇の科学をほとんど無視していると言えよう。だから、ダーク・マターやダーク・エネルギーの問題が出てくると言えよう。
 とまれ、以上は思考実験である。

追記:マニ教の光の種子は、闇凹iに潜んでいるだろう。dark sunに潜むと考えられる。
 
追記2:生死の事象、死生の力学はどう説明できるだろうか。これは光のVector Modeのエネルギー生成消滅で説明がつくだろう。それは、ある決められたエネルギー量をもち、それが消尽すると、死となるのである。
 
追記3:シュタイナーは心臓と太陽を結びつけている。思うに、media pointが心臓=太陽となるのかもしれない。これはこれで新たに考察が必要である。

追記4:四大ないし五大を考えると、凸iが風、凹iが水、凹が火、凸が地を形成するのではないだろうか。また、空は当然、media pointとなる。
 思うに、この四大原理(地水火風原理)は、宇宙生命身体原理ではないだろうか。これは単に物質原理ではなく、精神原理、魂原理と本来見るべきではないだろうか。つまり、地霊、水霊、火霊、風霊となる。
 これは、人間の性質の原理ではないだろうか。これに自己原則が入ると、多様な性格が生まれるだろう。
 
追記5:ミクロコスモス(小宇宙)とマクロコスモス(大宇宙)の照応であるが、これは、光のエーテル体のVector Modeのフラクタルで説明できよう。
 つまり、人間というミクロなフラクタルは大宇宙というマクロなフラクタルと共振しているということになろう。この共振が照応ということになる。そう、共振波動があるだろう。それは、光=エーテル体の波動となるだろう。電磁波はその物質的反映であろう。


   




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カレンダ
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