INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2011/11

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2011年11月30日(Wed)▲ページの先頭へ
「わたしich」とは何か
シュタイナーの霊学を読むと、結局、「わたし」ichとは何かが究極の問題であるのがわかる。
 先に、アストラル体は凹i、エーテル体は凸iではないかと示唆した。問題は「わたし」である。
 今想起したのは、以前、Kaisetsu氏が説いた分数公理である。

凹(−1)⇔凸i/凹i

が成立するのではないだろうか。というか、これを作業仮説としよう。
 思うに、これが「わたし」、ich、I である。あえて言えば、右辺である。
 そして、重要なポイントは凹i(陰)である。これがベースである。
 とまれ、これが意味するのは、「わたし」(自己)が根源から発生する最初期の存在であり、アストラル体(凹i)とエーテル体(凸i)はそれの派生であるということ、ないしは、同時期であるということである。
 また、思うに、これこそ、ウパニシャッド哲学の「汝はそれなり」を意味するのではないだろうか。即ち、汝は凸i/凹iであり、それが凹である。
 今はここで留める。

追記:

凹(−1)⇔凸i/凹i

ではなく、

凹(−1)⇒凸i/凹i

の方が正確ではないだろうか。「わたしich」は超越的存在凹(−1)を感じるが、それは、D. H. ロレンスが言うように、正に、Unknown Godであろう。凹(−1)は不可知であると言うべきだろう。
 とまれ、右辺の「自己」は第三象限に属すと考えられる。

参考:

《ガウス平面で表した人間認識の図》

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)

http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


「木にだにも御形を移すありがたや 法の御音は谷のひびきか」 円空。
テーマ:新母権的社会:差異共振共同体

「木にだにも御形を移すありがたや 法の御音は谷のひびきか」 円空。

008-01-22 心の闇:現代日本人に感じられる心の暗黒:死せる魂と不気味な闇CommentsAdd Star

心の闇:現代日本人 に感じられる心の暗黒:死せる魂と不気味な闇

テーマ :ニッポン亡国の凶相

現代日本は、暗い。心の闇が広がっている。あるいは、せいぜい灰色の心があるだけである。

 不気味な闇、灰色の心、これは、心の「神」を否定した結果である。戦後 の近代合理主義/民主主義が、心を魂を凍らせているのである。そう、凍って闇になっているのである。心が冷たい石のようになっているのである。

 これは、アメリカ 的近代合理主義から来ている闇である。金の亡者 の心の闇から来ているのである。自らの心の動きを信ぜず、ただ数量化された数字から判断する冷たい闇の心から発しているのである。

 これが、戦後 日本を襲ったのである。冷たい体である。超越光=御神火がないのである。

 火の復活が必要である。超越光の新生 が必要である。そう、光とは火である。火かりである。

火かりを亡くした日本人 の心の闇

深い不気味な心の闇

冷たい灰色の心

冷たい身体

ご神火・超越光をともす必要がある。

おそらく、現代世界 は滅びる必要があるのだろう。

新大 洪水 の時代である。

誰がこんな日本にしたのか

こんな闇の日本にしたのか

それは日本人 に勇気 がないからである

怯懦であるからである

死せる魂の日本人

心の神を否定した日本人

神無国

心の神の音楽 を聴くのを忘れた日本人

心の神の光を見つめるのを忘れた日本人

そう、心の神は、計量・自我 化できない。それは、ただ、あるのである。

心の神はただそれを認めるしかない存在 である。

心の神を迎えること、心の神がマレビトである。

そう、心の神を排除しているから、日本人 は、

権力 を恐れているのである。怯懦なのである。

心の神の否定と奴隷 ・家畜とは一体である。

心の神を恐れているので、権力 を恐れているのである。

心の神の影が権力 なのである。

心の神が復興 力である

端的に、何が、心を冷たくしているのか、闇にしているのか

心の冷暗は何が生んでいるのか

そう、三島の言った断絃の時、

心の音楽 の喪失 があるのである。

心の音楽 とは何か

それは、神仏の音楽 である。

心の御音が聞こえないのである。

「木にだにも 御形を移すありがたや 法の御音は 谷のひびきか」


円空 円 空

http://www.vill.tenkawa.nara.jp/sightsee/tenkikawa/yukari.html


「木にだにも 御形(みかた)を移す ありがたや 法(のり)の御音(みおと)は 谷のひびきか」

http://www.econavi.org/weblogue/special/30.html


http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20080122

PS理論講座


2011年11月28日(Mon)▲ページの先頭へ
恥毛(恥舌)軍門勝利について:ルサンチマン力学と父権主義:新母権的共同体へ向けて
恥毛(恥舌)軍門勝利について:ルサンチマン力学と父権主義:新母権的共同体へ向けて

テーマ:manichaeism: 哲学

resurrection
neomanichaeist resurrection

7)父権主義とは物質文明を意味し、母権主義は精神文明を意味するが、西洋父権文明は物質文明、資本主義文明を発達させたのであり、その帰結が原発爆発放射能汚染であり、TPPであり、民主党、恥毛(恥舌)悪魔軍門の勝利である。以下を参照されたい。 sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-176…

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resurrection
neomanichaeist resurrection

6)これで終えるが、恥毛(恥舌)問題は、結局、精神文化、精神社会、精神政治、精神経済の問題である。唯物論に染め上げられた現代日本人の思考を超克する必要、必然性がここに示唆さていると言える。これは言い換えると、父権的近代主義から母権的脱近代主義、母権的共同体主義への大転換を意味する
1分前 お気に入りに登録 返信 削除

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5)恥毛問題であるが、最初に述べたように、ルサンチマン力学は頭脳、合理主義では解決できないのである。何故、プラトンが『国家』でイデア論を説いたか考える必要がある。古代ギリシアは直接民主制の弊害に悩まされていた。大哲学者プラトンは物質界を超える魂の次元の必要を提唱したのである。
5分前 お気に入りに登録 返信 削除

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4)某国は恥毛(恥舌)の独裁主義の勝利にほくそ笑み、民主党に続く、日本支配の道具に使用するだろう。某国の走狗となるのは目に見えている。愚民は墓穴を掘ったのであり、自らを断頭台に送ったのである。悪汚詐禍塵に葬送の言葉を贈るしかないだろう。オウンゴールお目出度う。愚民人口削減ができた
13分前 お気に入りに登録 返信 削除

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3)恥毛(恥舌)のルサンチマン力学であるが、単に破壊主義だけではなく、利己主義であるから、背信することなぞ気にかけないのである。彼を信頼した人間はすべて裏切られるだろう。とまれ、経済的には彼は新自由主義者であり、社会的絆、共同体性、民主主義は完全に否定される。愚民の暴挙でもある。
17分前 お気に入りに登録 返信 削除

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2)恥毛(恥舌)のルサンチマン(怨恨、怨嗟)の由来は育ちによる差別や環境が大きいと言えよう。(本来は内在的)このルサンチマン力学は権力、権威あるものを単純に否定することを目指しているのであり、単に破壊主義で、創造が欠落しているのである。破壊欲であり、破壊すれば満足なのである。続く
24分前 お気に入りに登録 返信 削除

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resurrection
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1)恥毛(恥舌)の問題は、頭脳では解明、解決はできない。これは無意識ないし魂の次元の問題だからだ。愚民、衆愚政治の問題も同じである。先述したように、俗人・凡人にはルサンチマン(怨恨、怨嗟)が生じるのであり、自分よりすぐれたもの(誰かの説明では少し上位)を憎悪し、否定するのだ。続く

参考:

橋下徹氏・大阪維新の会と公明党が裏取引 なにが維新の会と既成政党の戦いだ

維新の会は自民党出身者で作り、国民新党やみんなの党の支援も受けて、その上公明党とも取引しているなんて、ちゃっかり自分は既成政党と持ちつ持たれつなんじゃないですか。

http://ameblo.jp/don1110/entry-11091475758.html
donのブログ


天皇制と母権制:二つの天皇制:三つの母権的民族とユダヤ民族的父権民族の衝突・対立としての古代日本
テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

以下、スロー人氏は、百済文化と天皇制の符合を示唆しているが、その問題をさておき、私が興味があるのは、既述したように、母権と父権の問題である。
 私見では、ツングース系民族は母権的である。だから、その天皇的文化は母権的である。母権的天皇文化である。(とは言え、天皇が女性であるというのではなく、母の子としての天皇であり、男性が天皇になると考えられる。これは母権神話では普通のことである。)
 また、既述したように、日本には三つの母権民族が存すると考えられる。縄文的母権(沖縄、アイヌ)、弥生的母権(中国南部)、そして、ツングース的遊牧民族的母権である。
 それに対して、ある父権的民族が参入(侵入?)して、古代日本が生まれたと考えている。
 飯山一郎氏は父権的民族を中国に存した見ているが、私が知る限り、父権的民族が中国へ到来したのは「史実」である。
 ここから私の推定であるが、この進入した父権的民族が記紀を編纂したのである。三つの母権民族の神話を父権的民族に都合いいように編集したと思われる。
 いわゆる、天孫降臨神話であるが、それは、ツングース系天皇神話をその父権的民族が都合いいように書き替えて、軍事的神話、軍政的神話にしたように思えるのである。
 私は日本民族は古代ギリシア民族に似たように形成されたと考えている。つまり、古代ギリシアはベース・基底に母権的民族があり、それに軍事的な父権的民族が進入して、母権的民族の神話をゼウス中心のギリシア神話に書き替えたと思っているのである。(そう、神話学者のジョゼフ・キャンベルに拠ると、ゼウスには母権的神話、女神的神話の要素が見られるのである。)
 繰り返すが、ツングース系天皇神話は母権的で平和的であったが、進入した父権民族がそれを軍事・軍政的なものにしたということになるのである。(だから、記紀をキャンベル的な差異的に解読する必要があるのである。)
 だから、思うに、記紀の好戦性が後の日本人の思考に影響して、日本人の性格の基底的な平和志向が捩じ曲げられて、虚勢的な好戦性をもったようになったのではないだろうか。
 問題は具体的にこの父権的民族、大陸的父権的民族とは何なのかである。以前は日ユ同祖論を作業仮説して、ユダヤ民族ではないかと提起した。
 それをここでも採用すると、三つの母権民族の混成である古代日本に父権的ユダヤ民族が進入して、古代ギリシアに相似した母権ベースの父権的民族である日本民族が誕生したということになる。
 そのとき、ユダヤ民族はツングース系母権天皇神話を、好戦的な父権的天皇神話に書き替えたと推量されるのである。
 これが、結局、天皇制といわれるものの起源である。言い換えると、二つの天皇制があるのである。母権的天皇制と父権的天皇制である。
 そして、現代の日本人、あるいは、これまでの日本人はこれを区別していない、又は、区別して来なかったと考えられるのである。
 さて、ここで明治維新を考えると、これまで述べてきたように、坂本龍馬らの母権的志向と尊王攘夷の父権的志向があり、後者が前者に勝利して、明治国家を形成したと考えられる。そのとき、当然、記紀の父権的好戦性、父権的天皇制が利用されて、母権的天皇制は否定されたと考えられるのである。
 そして、この父権的好戦的路線が近代日本の基軸になり、日本民族、日本文化を歪めて、世界大戦の大惨禍、そして、今日放射能汚染の亡国的大惨禍を舐め、またTPPによってもたらされると考えられる大惨禍を舐めると考えれるのである。
 もっとも、ユダヤ民族的なものがただ悪いものだけではない。日本人の知性(最近は怪しいが)は、おそらく、ユダヤ民族由来ではないだろうか。しかしながら、あまりに、父権主義に傾斜して、母胎・基盤の母権性を否定してきてしまったのである。(そう、父権的資本主義に傾斜してしまったのであり、新自由主義に毒される前にもっていた母権的資本主義を否定してしまったと言えよう。前者が同一性資本主義、利己的資本主義であり、後者が差異共振資本主義、共同体的資本主義である。)
 今日現代の超悲惨な日本国の様態を見るに、土台の母権文化に螺旋的に回帰する必要があると言えよう。それは、新母権的進化である。これしか、日本の命脈はないと言えよう。
 政治的には、日本母権民族党(日本母民党)、日本なでしこ党を創設することを意味する。
 母権の大地へと回帰する必要があるのである。

参照:

「悲しみの森」木と共存した女系文化だった日本とブータン


『世界的に珍しい森と女系制社会の日本』

ユーラシア大陸では洋の東西の違いが無く基本的に父系制社会なのですが、我が日本国は武士の世の中になった鎌倉時代でも女性にも同等な財産権があったように、世界的に珍しい女系制の残る社会だった。
戦国時代に来日した宣教師は故国とは大きく違う日本の女性の地位の高さに驚いていたのです。
男系社会では例外なく女性に厳格な貞節を要求する。豪華絢爛な結婚式なと婚姻制度も実に大袈裟なのですが女系社会ではそれ程拘らない。
ブータン国王夫妻が新婚旅行で日本を訪問して話題になっていましたが流石に王様は正式な結婚式をあげるが、一般の庶民層では結婚式はあげないで同棲に近い実質婚が主流である。
結婚が厳格だった封建制の男系文化と違い、女系日本の平安時代の妻問婚では矢張り結婚式の風習が無くて『結婚している』と周りが認める一夫多妻の実質婚。日本も昔はブータン状態だったのです。
ブータンでも一夫一婦の単婚が基本なのですが、なんと日本の平安時代的な一夫多妻だけではなくて今でもチベットなとと同じ一妻多夫も認めているのですから、なんとも大らかですね。

http://ameblo.jp/don1110/entry-11091473293.html

donのブログ

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橋下氏が市長に選ばれ、大阪維新の会の松井一郎氏が府知事に選ばれた。日本史に衝撃が走るか?


ちょうど、天孫と自称する人々が天皇の血筋につながっているように。


 その頃を見ると、天孫を誇った種族が朝鮮半島にもいた。それがツングース系の扶余(プヨ)族であり、穢貊(イエメク)族であり、百済の王朝の血筋とされている。その百済が滅ぶのが660年と言われているが、このころ日本では中大兄皇子(後の天智天皇)らが蘇我入鹿を暗殺したのが「大化の改新」であり、それが646年のことだ。


 この天皇制の創生期、古墳などからの出土品には、仏像など多くが、半島から伝わったと思われるものが多い。国宝中の国宝ともいえる逸品、石上神宮(物部氏)の「七支刀」も百済が伝わったものらしい。


http://ameblo.jp/adco/entry-11091550858.html


スロー人ロハス




氣霊の世界への飛翔:氣霊世界旅行の夢:大変革期と東日霊の時代
テーマ:manichaeism: 哲学

最近はよく眠れるようになった。そして、「霊界」へ魂が移動していると考えられる夢を見ることが増えた。
 わかりやすく言うと、氣の降りる場所への旅行の夢である。バスの中で、ある中年の女性が、満たされた表情で、旅行した場所で何日も留まってしまったということであった。私が「居るだけでも気持ちよかったでしょう」というと首肯いていた。
 また、途中、車中、広島の病院の最上階や屋上が、氣に優れていて療養する人が多いという情報もあった。
 もっと夢を見たが、今思い出せないが、言いたいことは、おそらく、この魂の氣霊界(氣霊海)への飛翔は私個人に限定された事象ではなく、一般的な事象のことのように思える。つまり、多くの人に氣霊界が積極的に訪れているように思えるのである。
 そう、氣霊の何かが人間の魂にはたらきかけているのだろう。
 聖霊力学から言うと、陽凸iへの傾斜が終わり、陰凹iへの傾斜が形成され出したと思われるのである。
 陰凹iへの道が開けたのである。それは、不可視の穴のようなものである。ブラック・ウィンドウ、ダーク・ウィンドウ、black windows, dark windows, black doors, dark doors, dark holes, dark burrows, etc.
 夢とは氣霊界(第三象限)の映しであると考えられるが、それは、凸iの光のイメージを活用するのだろう。つまり、media pointで夢映像が形成されると思われるのである。media point dreamsである。いわゆる、霊的ヴィジョンとは、これで説明できよう。聖書の預言書のヴィジョンもそうであるし、中世、鎌倉時代に見られる宗教的ヴィジョンもそうである。
 そう、やはり、氣霊界が開かれる時代があるのである。それは、根本的変革期である。今の時代は、新たな時代への大変革へ向っていると言えよう。
 近代の終焉は当然であるが、西洋の終焉であると推測される。以前、アイオーンの時代と言ったが、日本的霊性の時代でもあるし、さらに、東洋的霊性の時代でもあると考えられる。
 東霊の時代、日霊の時代、東日霊の時代。


2011年11月23日(Wed)▲ページの先頭へ
カント哲学の連続性と不連続性の未分化
カント哲学の連続性と不連続性の未分化

テーマ:manichaeism: 哲学

D. H. ロレンスの連続性と不連続性の揺動力学
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11086583581.html
の論点から、カント哲学の本質的意義が明瞭になると考えられる。
 つまり、カント哲学はMP1(虚軸点)とMP2(実軸点)が未分化なのであり、それ故に、純粋理性のアンチノミー(背理、パラドックス)が生じるのである。
 しかし、カント哲学は凸iが優位であるため、あるいは、MP2(実軸点)が優位であるために、ロレンスとは異なり、第二象限の理論になっているのである。
 ロレンス文哲学の場合は、本質的には第三象限に根源をもっていると考えられるのである。
 思うに、ロレンス文哲学はマニ教的と言えるだろう。諸宗教の普遍化への志向が見られるからである。



D. H. ロレンスの連続性と不連続性の揺動力学

テーマ:literature

D. H. ロレンス文学哲学(略して、文哲学)のいちばんの問題点は、先に述べたように、母権と父権の混淆である。未分化とも言えるが、それより、連続性と不連続性の混淆と言うべきである。
 直観で言えば、ロレンスは凸iへの傾斜と凹iへの傾斜が揺らいでいるのである。だから、primitive media point dynamicsがロレンス文哲学力学と言えよう。
 PS理論は、凸iと凹iの闘争、衝突、拮抗、対立、矛盾等のダイナミクスを説いているとは言え、ロレンス文哲学力学の様態とは異なる。
 これは芸術と哲学・理論との違いに拠るとも言えよう。
 しかしながら、やはり、違いは不連続性の様態にあると思う。即ち、ロレンス文哲学の場合、凸i主導の連続性へ傾斜したり、凹i主導の不連続性へ傾斜したりする、極端な揺らぎがあるのである。
 それに対して、PS理論は凸i主導性は同一性主義として、批判して、基本的には凹iを基礎とするmedia pointの様態を肯定するのである。
 つまり、PS理論は脱連続性の理論であり、不連続性を基礎とする理論であるということになる。
 これで、ロレンス文哲学とPS理論の違いは明瞭である。もっとも、ロレンスはPS理論の一つの先駆と考えられるので、その点で評価すべきであるが。
 ロレンス文哲学の問題は、凸iの連続性へ傾斜したときであるが、いったい、それは何を意味するのか。
 端的に、反動性への傾斜を意味するだろう。主体がなんらかの攻撃を受けて、主体的精神が反動的様態になったとき、凸iの連続性への傾斜が生じると思われる。
 外部からの強い攻撃にあったとき、精神は反動化しやすいのである。
 ロレンスにおいても、このような事態が生起して、凸iの連続性へと傾斜したと思われるのである。
 具体的には、妻フリーダとの関係が否定的になったことが根因のように思えるのではあるが、実際は社会的事件等も大きく関わっているのである。そう、重層・複合的反動化があると言える。


コスモス:宇宙と精神:マクロコスモスとミクロコスモスの照応とフラクタル

テーマ:manichaeism: 哲学

この問題は長年検討中であるが、未だに導きの糸が見出せない。
 直観では、MP1(虚軸点)にコスモスの原動力が存するのであり、それがMP2(実軸点)へと展開して、宇宙現象となるのである。
 問題はコスモスの原動力の力学なのである。私は占星術、古代宇宙論のマクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙:人体)の照応を正しいと直観しているのであり、その力学、コスモス力学を打ち立てたいのである。
 そう、マクロコスモスとミクロコスモスの照応とは、結局、フラクタルで説明できよう。 
 しかし、問題はフラクタルの質的力学なのである。
 正五角形はVector Modeで説明できる。これは自然事象である。黄金比の事象である。
 思うに、ここから帰納させれば、自然事象には、比率が支配していると言えるだろう。プラトンの比例がそのような視点である。
 とまれ、比率が西洋文明の理性になったのは哲学的常識である。(理性の問題はそれが量化されてしまったことにあると言えよう。つまり、科学、物質科学、近代科学の問題である。)
 ここで簡単な作業仮説を立てよう。すなわち、MP1(虚軸点)において、実数による等分割が為されるというものである。
 ということは、MP1において、つまり、一(いつ)において、等分割原理が支配するということになる。
 2等分割、3等分割、4等分割、5等分割、6等分割、7等分割、・・・n等分割である。
 ということは、端的に、凹(−1)は虚数原理において、実数分割原理を内在、内包、包摂しているということではないだろうか。いわば、虚数的実数等分割原理である。あるいは、簡単に虚軸的等分割原理である。
 そう、直観では、凹(−1)は卵である。これが、等分割するのである。
 さらに作業仮説を行なうと、等分割原理において、質的差異が生じるということである。
 これは、陰陽原理から説明できるだろう。明らかに、2等分割において、陰と陽は質的差異をもつのであるから。その他の等分割においても同様と考えられるが、ただし、陰陽の差異的比率が異なると考えられよう。
 この陰陽的差異比率原理については、検討課題としよう。しかし、陰陽的比率ということで、既に、予測、予見はできる。



音楽と超越性

テーマ:music

思えば、音楽を視覚の事象のように論じてきたが、音楽を音、聴覚の事象として捉える必要があるので、簡単にコメントしたい。
 結局、感覚とは何か。知覚とは何か。これが問題である。
 これまでの考察から、感覚器官とは超越性によって、あるいは、虚軸性によって形成された物質的器官ということになる。
 しかしながら、同時に、そこにはmedia pointが存するのであり、media pointの「感覚」によって、本来の超越性を直覚すると考えられる。
 では、すぐれた音楽の事象とはどういうことなのか考察しよう。
 精神性の感覚的表現がすぐれた音楽である。(もっとも、これは音楽に限定されないが。)
 結局、感覚には先に考察したように精神性が存するのである。
 しかしながら、感覚器官は同時に物質的器官である。この点で、感覚を物質的感覚として限定しまうことになる。
 感覚を物質的感覚として捉えるのは、明らかに、物質科学(近代科学)が原因である。何故なら、感覚事象を物質事象として把捉するからである。
 そう、確かに感覚は物質的感覚ではあるが、それだけではない。
 これは先に述べたように、実軸点(MP2)における事象・事態である。ここでは、精神性があると同時にないのであり、物質的感覚、同一性感覚が生起するのである。
 物質科学(近代科学)はこの実軸点(MP2)における物質性を特化した科学と言えるのである。
 本題に戻ると、音楽は実軸点(MP2)における聴覚事象であり、そこに反映される精神性を表現していると言えよう。
 では、音、音響、音波とはどうして、精神性を表現できるのか考えてみよう。
 結局、空気自体が単に物質ではないと言えよう。そこには、差異共振エネルギー、つまり、氣が存するのである。その氣を活性化するのが音楽であり、氣的聴覚的現象が音楽であると言えよう。
 だから、単に、音、音響、音波ではないのである。氣的サウンドなのである。


2011年11月19日(Sat)▲ページの先頭へ
凸i中心父権的民族と凹i中心母権的民族:ヤハウェとエローヒーム:一神教と多神教:マニ教の光の教会
テーマ:manichaeism

これは既述済みで復習である。
 父権的民族は凸i中心主義なので、他者凹iを否定する力学をもつ。具体的に言えば、西洋文明は東洋文明他を否定する。
 凸i中心主義は同一性主義であり、超越神であるヤハウェからわかるように、超越性をもった同一性主義である。基盤は第二象限である。
 この超越的同一性主義は、他者・差異凹i(-i)を自己同一性化して止まない。同一性化が極大化すれば、他者の殲滅を志向する。
 つまり、自己を脅かす他者は殲滅させる力学(暴力力学)をもっているのである。これは容赦のないものであり、いわば、悪魔的である。
 この同一性主義は結局、ゾロアスター教のアーリマンと重なるだろう。(思えば、グノーシス主義は旧約の創造神を邪神と見たのである。でも、シュタイナーは実に興味深いことを述べている。ヤハウェはキリストの裏返しであるというのである。キリストの光を第三象限に置けば、ヤハウェの光は第二象限に属すると言えよう。あるいは、キリストの光をD. H. ロレンス的に闇と呼ぶことも可能だろう。凹iである。)
 さて、父権主義は既述したように、明治以降の「近代」日本国家の支配層に基本的に見られるものである。
 だから、権力者は国民に酷いのである。国民のlifeのことなど、一顧だにしないのである。また、封建的心性があるために、集合的であり、個がないために、的確な判断ができないのである。主従関係があるので、主の権力に服従するのである。(思うに、ここに西洋的父権主義と日本的父権主義の違いが見られるだろう。前者はルネサンスやプロテスタンティズムを経ているために、個的自我を基盤とするが、日本は日本的個・母権的個を否定してしまったのである。また、日本の愚民であるが、やはり、封建的心性、主従性があるので、主に対して盲従して、無・没思考的になっていると考えられる。)
 今日、明らかに、父権的文明の終末を迎えているのである。PS理論から言えば、決定的に他者・差異を欠損した文明の終焉であり、当然、他者・差異を肯定する新文明が必須である。
 ここでマニ教の光の粒子、光の教会の概念を導入するとどうなるだろうか。
 これは世界普遍的に作用する理論である。多様性の中に普遍性を見る理論である。そう、正に、他者・差異の理論である。
 このマニ教の光であるが、それは、media point、差異共振を意味するのであり、私の言葉では超越光である。
 これは、光であり、また、闇である。しかし、基本は闇凹i(-i)であると考えられる。
 闇が光と共振する超越光がマニ教の光であると思われる。第三象限に属するのである。確かに、第二象限にも光がある。これは西洋文明ないし父権主義の光である。所謂、理性の光である。(ヘラクレイトスの万物の根源の「火」とはそれではなく、超越光であると思う。そう、超越火である。陰と陽の闘争・衝突のエネルギーとしての「火」と考えられる。「万物は流転する」とは正に、media pointの本質である。)
 第二象限の光、理性の光とは、実は当為、格率にしか過ぎない。その実体は強制なのである。到達できない超越的存在を同一性で強制するための「暴力装置」である。(超越神のことを言うと、原同一性である凸i(i)からは凹(−1)は絶対的に把捉できない彼岸に存するものであり、凸i(i)中心主義からこそ、超越神が生まれたと言えよう。正確に言えば、超越的唯一神である。凹i(-i)がベースの母権主義は内在的超越的多神教を産むと考えられる。この問題は課題としよう。)
 ということで、マニ教の光、光の粒子は第三象限の光、超越光(超越火)ということになる。
 では、光の教会とは何か。(そう、私は「父」の時代⇒「子」の時代⇒「聖霊」の時代と進展するフィオーレのヨアキムの精神・霊的史観は、マニ教に起源があるのではと直観している。)
 光の教会とは、今日では、一つの中心として、インターネット世界ではないだろうか。
 インターネットは母権主義のメディア、他者・差異のためのメディアと言えよう。だから、それは光の教会と呼べるのである。また、あえて言えば、マニ教的であるPS理論を伝播するので、ネットこそ、正に、光の教会と言えよう。


ニュートリノは光より速いのか -光の粒子と闇の粒子の「差延」作業仮説
以前の実験には問題があると指摘されていたが、それが解消されたのだろうか。
 とまれ、もし、ニュートリノが超光速であるなら、原理的に何を意味するのか。
 考えられるのは、闇の粒子説、あるいは超越光の粒子説等である。
 闇の粒子とは、凹i(-i)、陰の粒子と想定できる。凹iが主導的ならば、凸i(i)、陽はそれとはずれる。つまり、遅れが生じるのではないだろうか。いうならば、「差延」(デリダの用語の敷延)である。光が闇より遅れるということである。
 だから、闇は光よりも速いことになる。この闇の粒子がニュートリノの可能性があるだろう。
 次に、超越光の粒子であるが、これは以前示唆したことがある。しかしながら、この超越光説はうまく機能しないようだ。
 故に、今の段階では、もしニュートリノが超光速ならばという仮定で言えば、それは闇の粒子で説明できるかもしれないということになる。

追記:まだ、超越光の粒子説も可能性は残っている。超越光の反映がMP2(実軸点)に生起するとき、それは、光より速いのではないだろうか。その物質化がニュートリノかもしれない。これは以前示唆したことである。
 
 
ニュース記事:
「光より速い」ニュートリノ、再実験でも光速
(CNN) スイスにある欧州合同原子核研究機関(CERN)の国際共同研究グループOPERAは18日、素粒子ニュートリノが光より速く飛んだとする実験を再度実施し、同一の結果が得られたと発表した。

今年9月の最初の実験結果を受け、科学界で疑問が出たことなどを踏まえ再び行ったもので、実験装置を厳密に点検したほか、速度測定に工夫を加えるなどした。これらの実験結果が事実なら、光より速いものはないとするアインシュタインの相対性理論を覆す大発見で、現代物理学の根底を揺るがす可能性がある。

ただ、OPERAは再実験の結果が同じだとしても、実験の正しさなどの最終証明には中立的立場のほかの科学者の立証が必要であることに変わりはないとしている。

9月の実験では、1万5000個以上のニュートリノを使い、スイス・ジュネーブ郊外にあるCERNと730キロ離れたイタリアのグランサッソ研究所の間の地中で粒子加速器を用いて実施。ニュートリノが飛んだ距離と時間などを10億分の1秒単位まで厳密に計算した結果、光より速かったことが判明したとしていた。

再実験では、1個のニュートリノが作られる時間をより厳密に知るための工夫などを施して測定した。米ボストン大学のコーヘン物理学教授によると、この工夫はニュートリノ20個を対象にしたもので、各1個の速度測定が出来るなら、精密な実験結果につながるという。9月の実験では、特定のニュートリノの速度測定はしていなかった。同教授はOPERAには加わっていない。

イタリア国立核物理学研究所・グランサッソ研究所のボターノ責任者は、ニュートリノは今回の実験で光より62.1ナノ秒(ナノは10億分の1)速く到達したと述べた。

コーヘン教授は、再実験は最初の実験よりはるかに信ぴょう性のある結果となったとしながらも、解明が必要な部分がまだ多数あるとも指摘した。グランサッソ研究所のボターノ責任者は、実験結果の最終証明にはほかの科学者の新たな実験が必要とし、結果が確認されたとしてもアインシュタイン理論が全て否定されるわけではないとも説明。同理論を取り込んだより広がりのある理論が創出される可能性に言及した。

OPERAのような実験が出来る世界の加速器施設にはこのほか、各国が参加してT2Kプロジェクトを進めている日本のJーParcや米イリノイ州のフェルミ研究所がある。

スイスにある欧州合同原子核研究機関(CERN)の国際共同研究グループOPERAは18日、素粒子ニュートリノが光より速く飛んだとする実験を再度実施し、同一の結果が得られたと発表した。実験結果が事実なら、光より速いものはないとするアインシュタインの相対性理論を覆す大発見で、現代物理学の根底を揺るがす可能性がある

http://www.cnn.co.jp/fringe/30004648-2.html


ニュートリノは光より速いのか - 相対性理論を覆す可能性をCERNが提示 [2011/9/25]

ニュートリノ振動を検証する国際共同実験(OPREA実験)の研究グループは2011年11月17日、arXiv.orgに2011年9月22日に報告したニュートリノが光よりも早い可能性があるとした研究論文の第2版を掲載した。

SPS/CNGS(CERN Neutrino to. Gran Saaso)のレイアウト図

第2版では、OPERA検出器などを前回の研究に比べて高精度化を図ることで、CERN(欧州原子核研究機構:the European Organization for Nuclear Research)のニュートリノビーム源から、約730kmはなれたOPERA検出器までのニュートリノの速度を再度測定した結果を掲載した。

CNGSのビームライン(ニュートリノ発生装置)のレイアウト

再測定の結果、 真空時の光の速度を計算した場合に比べてニュートリノの到達時間は(57.8±7.8(stat.)+8.3-5.9(sys.))nsほど、早く到達したことが確認されたという(前回は60.7±6.9(stat.)±7.4(sys.)ns、ここでのstatは統計誤差、sysは系統誤差)。


LNGSのOPERAタイミング・システムのイメージ図(左)と、測定における各種の統計誤差(右)

これは、前回の実験とほぼ同じで、光の速度に対するミューニュートリノ速度との相対比率が(v-c)/c =(2.37±0.32(stat.)(sys.))×10-5ということに対応するという(前回は2.48±0.28(stat.)±0.30(sys.)×10-5)。また、この結果の信頼度は6.2σとなっている。


左図の左列が1回目、右列が2回目の測定で、下段が、ニュートリノの検出数(黒点)と陽子ビーム出力波形(赤線)を飛翔時間1043.4nsとして重ね合わせたもの。一方、右図は測定器の遅延時間。この飛翔時間から遅延時間を差し引いた結果が、今回の測定時間57.8nsが得られた

なお、研究グループは第2版の最後に、結論として、今回の解析結果は大きな衝撃となるが、まだ未知なる影響などが考えられることは依然変わっておらず、今後も研究を継続して行っていく必要がある、としている。

http://news.mynavi.jp/news/2011/11/19/001/


ニュートリノも素粒子 - 5分で理解する素粒子の基礎 [2011/11/2]

ヒトも物質も、分子でできており、その分子も原子の組み合わせで構成され、その原子も…とドンドン細かく分解していくと最後はどこに行き当たるのか。言葉通り、「それ以上分割できない粒子」のことを素粒子と呼びます。

例えば脆い石を壁に投げつけると粉々になります。その中の1つの粒をさらに拾い、その大きさに見合った小人がまた壁にぶつけるとやはり粉々になり、さらに小さな小人がまた壁にぶつける…この分割作業を繰り返していくと、逆にやがて硬い粒が出てきます。この粒はどんなに力自慢の小人が壁にぶつけても割れません。この粒を素粒子と言います。素粒子ほど硬くないものは単に粒子と呼びますが、石ぐらいの脆さだと、粒子とも言いません。

二酸化炭素の化学式はCO2で、炭素(C)が1つと酸素(O)が2つから構成されていることを表しています。Cは人体にもたくさん含まれている粒子で、体重70kgの人の場合16kgくらいの炭素があると言われています。16kgの炭素というと、粒子の数にすると1兆の1兆倍以上となるので、もしヒトを、素粒子レベルまで粉々にしようと思ったら、膨大な回数、小人の投手を登板させないと達成できないのです。

さて、素粒子はそれくらい小さいものなので想像がしにくいかもしれないが、実はいくつか種類があります。CやOでもヒトからすれば十分小さいですが、それでも違う名前がつけられているのはそれぞれに個性(役割や特徴)が違うためです。H2Oをたくさん集めると水として、CO2をたくさん集めると二酸化炭素として人間の生活に関わってきます。この2つは水素(H)とCが違うだけなのに、見た目や性質はまったく異なります。素粒子も同じで、個性が違うものがいくつもあります。
素粒子は大きく分けると2種類のみ!

一番身近な素粒子は「電子」と「光子」、そして最近、光よりも早いかもしれない、と話題になっている「ニュートリノ」があげられます。電子とニュートリノは「フェルミ粒子」と呼ばれる仲間で、光子はウィークボソンなどとともに「ボーズ粒子」と呼ばれる仲間です。

ヒトの身近に存在する"モノ"はだいたいフェルミの仲間と思ってよく、見えない力を伝えるのがボーズの仲間と思ってよいです。例えばレントゲンに使われるX線やセンサに使う赤外線など、すべての電磁波は光子で、可視光も光子です。これらは、どう見てもモノっぽくはないですね。電子もモノっぽくないかもしれませんが、電子機器はもちろん、ヒトの体の中にも電子はたくさんありますから、れっきとしたモノであると言えます。

ニュートリノはちょっと変わっていて、モノっぽくないけど、電子の仲間という変わり種の存在です。なぜ、電子の仲間に分類されるかを解説しようと思うと、それだけで話ができてしまうので省略しますが、1つ言えることは、「ニュートリノは力を伝えない」ということです。
"力"、それはメッセージの解釈

我々が平和に地球上で暮らせているのは、HやOといった粒子がさまざまな効果を発揮するほか、さまざまな"力"が存在するおかげです。

例えば、地球と人体の間には万有引力が働いています。これは超常現象でもなんでもなく、ちゃんと「重力子」という素粒子が力を伝えているために発生します。敢えて例えるならばボーズ粒子は「手紙」で、地球とヒトの体は、「私、こういった者なのですが、ご都合よろしければ引き合いましょう」という手紙を絶えず交換し続けている間柄ということになる・

手紙といっても、ビジネスレターから時節のあいさつ、ラブレターまで、いろいろ幅広いですが、素粒子のように小さいと手紙の内容は4種類に絞られます。その4種類の手紙はそれぞれ「重力」「電磁気力」「核力」「弱い力」という4つの力に対応しています。

それぞれに対応した手紙の内容は、簡単に表すと重力が「重力で引き合いましょう」、電磁気力が「電気の力で引き合う、もしくは遠ざかりましょう」、核力が「電気のことは気にせずにくっつきましょう」、弱い力が「くっついているところ悪いんだけど、別れよう」というものになります。単純な内容で、味気ないつまらない話に思えますが、素粒子も大きなモノも、手紙の内容を読まずにいると大変なことになるのは身に覚えがある人も居るでしょう。

極端な話、重力(万有引力)が存在しなければヒトもモノも宇宙空間に放り出されることになります。また、前述のように、ヒトの体には無数のCが含まれてますが、それは大雑把にいうと、陽子が6個集まったものです*。

陽子が集まっている近辺には中性子という粒子があり、この集まりを原子核という。この集まりから(粒子的に)かなり離れた位置に6個の電子が飛んでおり、この原子核と電子の距離がすなわち、炭素原子の大きさを表す

陽子はプラスの電気を持っているので、一般的な常識からすればプラス同士が近づけば反発してバラバラになろうとしますが、CはCとして存在し続けます。

磁石のSとS(もしくはNとN)を近づけても反発してずれてしまうのと似ている

これは、陽子と陽子の間に"核力"、つまり一種の引力が働いているためです。この核力の手紙に書かれた「電気のことは気にせずくっつきましょう」という内容は「グルーオン」と呼ばれます。
粒子によって、興味を示す対象(手紙)が違う

粒子はその種類により、力の感じ方が変わってきます。例えば仮定の話ですが、バスケットボールくんは地球さんが大好きですが、電気は嫌いなので電子さんから「光子」と書かれた手紙 (光子メール。以降、めんどうなので、電磁気力を電気メール、重力子を重力メール、グルーオンを核メール、ウィークボソンを別れメールとしましょう)が送られてきても読みません。しかし、大好きな地球さんから届く「重力子(重力メール)」という手紙は喜んで読み、その結果、そこに書かれている「電気の力で引き合いましょう」ということに興味を示し、お互いに引き合います。

一方、電子さんは電子さんで地球さんとは好きでも嫌いでもない関係なので、地球さんからの重力メールは、目を通し、「重力で引き合いましょう」と書かれていれば、一応読むには読みますが、それよりも大親友である陽子さんに「電気の力で引き合いましょう」と書かれた手紙をもらうと、そっちのほうが興味があるのでそちらに目が行き陽子さんと引き合うために喜んで動き出します。
独立独歩で我が道を行く"ニュートリノ"

ではニュートリノはどうでしょう。ニュートリノは非常に軽いフェルミ粒子で、電気メールも核メールも興味を示さず読みません。重力メールもたまに興味を示しますが、ほぼ読みません。こうした手紙を読まないということは、送っても返事をくれる相手がいないので、書かないということでもあります。ニュートリノが人体に向かって飛んできても、(人体を構成する無数の粒子は)誰もニュートリノに止まれという手紙を出さない(出しても読まれない)し、ニュートリノもニュートリノで人体(を構成する無数の粒子たち)に対して、動け、という手紙を出すこともありません。それ故に、人体をそのまま突き抜け、何らかの影響を及ぼすことがない無害な存在となっています。

え、中性子爆弾ってあるじゃないか、という人も居ると思いますが、これは中性子が電気メールを読まずに核メールを読むという性質を利用したもので、中性子が人体に入ると「中性子放射化」という現象が生じるために人体に影響が出てきます。

自分に興味をまったく示さないものが、たまたま自分の目のはしに映って、気になってきて逆に興味を持ってしまうというのが人間です。小柴昌俊氏がノーベル賞を受賞した理由は「天体物理学、特に宇宙ニュートリノの検出へのパイオニア的貢献」とされていますが、この検出とは、筆不精のニュートリノと手紙のやりとりをすることに他ならず、その手紙をやり取りするための装置が「カミオカンデ」であり、「スーパーカミオカンデ」です。

ただし、カミオカンデで送ったこちらからの手紙の返答を残念ながらニュートリノから直接もらうことはない。ニュートリノと水分子の衝突が「チェレンコフ光」と呼ばれる電気メールを誘発し、検出装置はそれを受け取って反応を示すためだ

2011年9月23日、ニュートリノをジュネーブのCERNから約730km離れたグラン・サッソのイタリア国立物理学研究所研究施設に飛ばしたところ、 2.43ms後に到着し、光速より速いことが計測されました。 ただし、この計測結果に対し、多くの人はニュートリノそのものに対する興味としてではなく、相対性理論に対する興味として話題にしています。

ニュートリノが光より早いかどうかと、相対性理論を直接つなげて話をすることは、追証の結果が出てからになるでしょう。その追証も、そんな数週間で出てくるわけがありません。1-2年は猶予を見る必要があるでしょう(2010年6月に小惑星探査機「はやぶさ」が持ち帰った小惑星イトカワの微粒子の研究も、ようやく基礎的な部分の1部が成果として出てきただけで、これから世界各地で本格的な研究が開始されることを考えれば、その成果がどの程度後から出てくるか想像できるでしょうか)。

こうした世界的な科学に関するニュースが出た時は、その事象に対するアンテナだけは張っておくことに損はありませんが、焦ってもすぐにさらに細かな情報が出てくることは残念ながらありません。次の情報が出るまで、ヤキモキして待つのも良いですが、自分の興味のある分野の研究や科学技術の動性など、そうした話題が出る前から追いかけてきたものをもう一度見直してみると、また、新しい発見や考察が出てくるかもしれません。

http://news.mynavi.jp/news/2011/11/02/003/index.html


ダブルショー実験が近距離での反電子ニュートリノの消失現象を報告

http://news.mynavi.jp/news/2011/11/09/090/index.html


2011年11月17日(Thu)▲ページの先頭へ
大地とは何か:第三象限、凹i(陰)、「地」とコスモス
参照の画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11080788428.html

テーマ:manichaeism

宇宙への志向、「天」への志向はわかりやすい。
 では、大地、「地」への志向とは何を意味するのか。
 PS理論では端的に、凹i、陰であろう。これは、第三象限と通じている。つまり、四大で言えば、地と水が存する。
 直観では大地の中心とは第三象限である。宗教は一般には「天」を志向するが、天才的宗教家は「地」を志向する。
 鈴木大拙は『日本的霊性』で正に、地、大地の霊性を説いたのである。
 ここで作業仮説であるが、情報、根源的情報、霊・精神的情報が第三象限ないし凹i(陰)に存するとしよう。これを凸i(陽)が取り込むのでないだろうか。しかし、合理性、論理性、そう、ロゴスに従って。プラトンのイデアはそのようなものだろう。一般に西洋文化はそのような知的原理をもっている。つまり、第二象限である。
 ここで飛躍するが、コスモス(宇宙、ないし、「天」)の根源は何であろうか。
 単純に言えば、media pointの虚軸点がそうだと思うが、上記の考えからすれば、第三象限、ないし、凹i(陰)に根源があると言えよう。言い換えると、大地、「地」に根源がある。
 だから、凸i(陽)、「天」とは凹i(陰)、「地」の反映、反照、投影ではないだろうか。(シュタイナーの考えがそうであるし、D. H. ロレンスもそうである。)
 物理学的に言わば、ダーク・エネルギー(おそらく、「ダーク・レイ」)がライト(光)を映出しているのである。
 闇が光を産み出しているということになる。(そのようなことがありえるのだろうか。)とまれ、光は現象界へと投影されるのである。
 では、第三象限、ないし、凹i(陰)、「地」にどのように、精神的情報が存するのだろうか。
 思うに、それは直観的情報、直観知である。不連続的差異論の段階で、知即存在という概念を述べたことがあるが、直観的情報、直観知はそのようなものではないだろうか。(あるいは、即非知と言えよう。)
 すると、直観知的源宇宙(コスモス)、即非知的源宇宙(コスモス)が存することになる。
 ダーク・マターはここに存すると言えようが、果たして、マターと呼んでいいか疑問ではある。
 結局、第三象限、凹i(陰)、「地」から開始され(天地開闢)、凸i(陽)、「天」が能動化するのではないだろうか。
 そう、それが、ゲーテ/シュタイナーの上昇ではないだろうか。
 西洋文明は根源にヤハウェが存したが、それが今や枯渇してしまったと言えよう。新たに、第三象限、凹i(陰)、「地」へと回帰すべきときである。
 これがロレンスが『黙示録論』で説いたことだろう。
 とまれ、以上はまったくの思考実験である。

参照:省略


2011年11月16日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:原子とmedia point:虚軸点の氣と実軸点の原子
テーマ:science

これまで、私は原子ないし原子核について、PS理論からほとんど論じてこなかった。理由は光と物質の関係の解明が支配的であったからだ。
 今、簡単に原子について思考実験してみたい。
 直観では原子はmedia pointの実軸(実軸点と呼ぶことにする)で形成されると思われる。凸i(i)と凹i(-i)が連続化し、物質化、粒子化すると考えられる。(以下、簡略化のため、凸iをi、凹iを-iとして考察する。)
 実軸点において、iが陽子となり、-iが電子となる。水素原子の場合、これで原子を構成する。
 それ以外の原子の場合、中性子が入るが、それは、実軸点自体と見るべきかもしれない。
 そう、実軸点において、media pointの一種収縮、物質的収縮が行われると思われる。それは原子化と言えるだろう。
 つまり、エネルギー(氣)が物質化、粒子化するのである。(量子化とも言えよう。)
 それは微小空間化とも言えよう。media pointの微小空間化である。そして、繰り返せば、iが陽子化し、-iが電子化し、実軸点が中性子化することになる。ただし、水素原子の場合は実軸点は空(φ)となる。
 直観では多様な原子はmedia pointの時間的ずれによる共振から形成されるのかもしれない。あるいは、実軸点の融合から生まれるのかもしれない。この点は後の問題としたい。
 とまれ、このmedia pointの微小空間化が原子ということであり、これが電磁的に融合して分子を形成し、いわゆる物質体を形成するのではないだろうか。それが、⇒+1の+1である。
 とまれ、簡単に整理すると、根源エネルギー(氣)がmedia pointにおいて、実軸変換すると、実軸点において、微小空間化=原子化が生じ、原子が形成される。iが陽子、-iが電子、そして、実軸点が中性子(水素原子では空)となる。原子核はiと実軸点の結合点、即ち、 実軸点のiの方向への近傍に存するのではないだろうか。
 とまれ、原子の基本はiと-iとの実軸点を中心とする『対立』ということになる。(これを均衡とすると限定されたものになる。)
 原子の生成への試論は以上であるが、原子生成以前の事態について考えると、当然、media pointの虚軸(虚軸点と呼ぶことにする)の様態のことになる。それは、いわば、差異共振点であり、私見では氣のエネルギーが存するのである。
 それは、超越的存在から派生する超越的エネルギーをもっていると考えられる。
 先にも述べたように、氣から物質への変換は即非的変換であり、実軸点は超越性・即非・物質性の様態である。とまれ、物質性の方が主であり、超越性は従であると考えられる。ついでに言えば、虚軸点においても、超越性・即非・物質性があるが、超越性が主であり、物質性は従であると考えられる。
 ここで免疫力について考えると、虚軸点の氣が免疫力の根源だと思われる。飯山一郎氏が乳酸菌のそれを説くが、乳酸菌とは虚軸点の氣を強くもつ細菌と考えられる。
 また、放射能を浄化する光合成細菌であるが、それは実軸点における対立から生じる放射性崩壊の物質エネルギーを生命保持に活用する生命体と言えよう。ここには、生命体の根源・原始的様態が見られるのではないだろうか。
 
参考1:

原子の構造

現在では、原子と電子の関係は量子力学によってほぼ解明されているが、原子核のことは今でもわからないことは多い。また、量子力学 の発展に伴い、当初の原子論が暗黙裡に含んでいた素朴な図式・世界観(球状の何かの想定、モノが絶対的に実在しているという素朴な観念、つまり非確率論的に実在しているという素朴な観念)は根本的に崩壊した。物理学の理論全体としては、原子論は当初となえられていたものとは極めて異質なものになっている。
原子の構造 [編集 ]

原子は、正の電荷 を帯びた原子核 と、負の電荷 を帯びた電子 から構成されると考えられている。原子核はさらに陽子 と電気的に中性な中性子 から構成される(ただし水素原子 の99.985%を占める1Hは中性子を含まない)。陽子と中性子の個数の合計を質量数 と呼ぶ。原子核の半径は原子の半径の約10万分の1(1 fm 程度)と小さい。なお、一般的な原子の模式図は原子核の大きさを原子に対して数分の1程度に描いているが、これは実態とはかけ離れたデフォルメである。原子は硬い球体というよりも、むしろ真空の中に存在する点状の原子核と電子である。但し、電子はしばしば描かれる模式図のように特定の軌道を描いて原子核のまわりを回っているのではなく、原子核のまわりに確率的に分布しており、原子核を電子雲が包むイメージのほうがより現実に近い。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90

放射性崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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放射性崩壊(ほうしゃせいほうかい、radioactive decay)は、不安定な原子核 (放射性同位体 )が様々な相互作用によって状態を変化させる現象である。放射性壊変(ほうしゃせいかいへん)、放射壊変(ほうしゃかいへん)、原子核崩壊(げんしかくほうかい)、あるいは、単に崩壊とも呼ばれる。
放射性崩壊の種類 [編集 ]

これらの現象の詳細は、個別の記事を参照のこと。

アルファ崩壊
アルファ粒子 を放出し、陽子 2個・中性子 2個を減じた核種 に変わる。核分裂反応の1つとして認識されることもある(例:226Ra →222Rn )。
ベータ崩壊
質量数 を変えることなく、陽子・中性子の変換が行われる反応の総称で、β-崩壊(陰電子崩壊)、β+崩壊(陽電子崩壊)、電子捕獲 、二重ベータ崩壊 、二重電子捕獲 が含まれる。
ガンマ崩壊
それぞれの崩壊を終えた直後の原子核には過剰なエネルギー が残存するため、電磁波 (ガンマ線 )を放つことにより安定化をしようとする反応である。
核分裂反応
非常に重く不安定な核種では、その核が質量の小さな原子核に分裂し、巨大なエネルギーを放つとともに、より安定な核種へと変化する。例えば、235U に中性子 を衝突させると、95Mo と139La に分裂し、2つの中性子 を放出し、欠損した質量 分のエネルギー が発生する。
自発核分裂
核分裂反応のうち、自由な中性子の照射を受けることなく起きる核分裂を指す。現象そのものは人為的な核分裂反応と変わらない。
核異性体転移
ITと略される。原子番号と質量数ともに同じで、エネルギー準位 が異なるような2つの核種を、核異性体 であるという。例えば、99Tcと99mTcは互いに核異性体である。エネルギー準位が高いほうは記号mを付けて区別するのだが、こちらは準安定状態 (メタステーブル)であり、余剰のエネルギーを放出して安定になろうとする。エネルギー準位が高いほうの核異性体がガンマ線を放出して、より安定な方の核異性体に変化することを、核異性体転移という。放出される放射線はガンマ線であり、原子核の原子番号と質量数はともに変化しない。

99mTc → 99Tc + γ (T1/2=6.01h)

一部の核異性体転移では、ガンマ線が軌道電子にエネルギーを与えてはじき出す。これを内部転換 という。電子がはじき出される点でベータ崩壊に似ているが、原子核は変化しておらず、自らの原子はイオン化される。

崩壊熱 [編集 ]

放射性物質 は、核爆弾 や原子力発電所 の運転中の炉心のような中性子の照射を受けることで大量、または多量のエネルギーを放出する連鎖反応を伴わない場合でも、放射性崩壊によってそれ自身が勝手に核種などを変えてゆくため、その過程で放出される放射線のエネルギーが周囲の物質を加熱し、崩壊熱 (decay heat) となって現われる。時間当たりに放出される崩壊熱のエネルギーは不安定な物質であるほど大きく、その大きさは元の放射性物質がしだいに放射線を放って比較的安定である核種や安定核種へと変化するに従って減少する。例えば原子炉の炉心では発電のための核反応を停止しても、その1秒後で運転出力の約7%ほどの熱が新たに生じ、時間の0.2乗に比例して減少しながら1日後でも約0.6%の熱が放出される[1] 。
半減期 [編集 ]

核種ごとに一定時間内において崩壊 する確率 が異なっている。この確率 を計算 することにより半減期 を知ることができる。同じ化学的元素 であっても質量数の異なる同位体ごとに半減期は異なる。たとえば、質量数238のウラン の半減期は44億6800万年 であるのに対して、質量数239のウランの半減期は23.5分 である。たった1つ中性子の数が異なるだけで、これほど大きな違いが生じるのである。

極端に長い半減期を持つ核種が存在する。質量数115のインジウム の半減期は441兆年、質量数149のサマリウム では2,000兆年である。質量数209のビスマス は、2003年まではもっとも重い放射能を持たない核種として知られていたが、これは1.9×1019(1,900京)年に及ぶ半減期の放射性核種であると認められた。これらの極端に長い半減期を持つ核種は学術上、放射性物質に分類されるが、実質的には安定したものと考えて差し支えない。

超重元素 の分野では、1秒に満たない半減期の核種が多数を占める。たとえば質量数266のマイトネリウム の半減期は0.0034秒、質量数267のダームスタチウム の半減期は0.0000031秒である。簡単に言うならば、あまりにも原子核が大きくなりすぎて、その結合を保っていられる期間がこの程度の長さしかないということである。

半減期の短い核種は、どんどん崩壊していき放射能 を失っていくが、短時間に多量の放射線を放つため直接的な被曝 の危険度が高い。半減期の長い核種は、少しずつしか放射線を放たないので一時的に被曝する放射線量は小さいが、いつまでも放射線を放ちつづけるため長期的な問題を抱えることになる。特にウランやプルトニウムなどは最終的に放射能のない鉛 に到達するまでには約20回もの崩壊を経由せねばならず、全量が鉛となるまでの総時間は、現実的な思考の及ぶ範囲を超える長さである。放射性物質を平和 的に用いようが、軍事 的に用いようがこの問題はいっさい切り離すことができない。

特にかつては、半減期数万年の核種を数万年保管せねばならない事が、原子力発電のネックであった。しかし、最近、長半減期物質を分離して、加速器駆動未臨界炉 において中性子を照射して、自然崩壊ではなく、核分裂させて、短半減期核種に変換できる見通しが立てられた。これにより500年以下の保管で天然ウラン鉱石以下の放射線に低下させて廃棄/鉛やバリウムとして一般使用が可能になるとして開発がすすめられている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E5%B0%84%E6%80%A7%E5%B4%A9%E5%A3%8A

参考2:

【お勉強】 『光合成細菌と乳酸菌で放射能を浄化!』 …が最初から順番に読めるようになりました.

たたかう老人! 飯山一郎の ハッタリなしの 口演会場 .

http://grnba.com/iiyama/hikari.html


2011年11月14日(Mon)▲ページの先頭へ
光と物質:光と闇の共振エネルギー(氣=超越光)と物質現象
光と物質、これはイマジネーション、ないし、直観を刺激する。そう、虚軸に光があり、それが、発出して、物質を創る。思うに、光は闇と二重である。しかし、人間の視覚は光は知覚するが、闇は知覚しない。まるで放射能が知覚できないように。
 問題はやはり、media point(以下、mp)である。直観ではmp屈折があるのである。つまり、物質を形成する屈折である。それに対して、物質を形成しない投影がある。それが光そのものである。
 しかし、先に提起したように、光は超越光である。つまり、光と闇の共振である。いわば、光と闇の編み物、縒り糸、織物である。そう、光と闇の二重らせん。
 しかるに、人間の視覚は光しか見えず、闇は透明なのである。不可視である。
 物質も光と闇の二重らせんで創られていよう。光と闇のVector Modeである。氣のVector Modeである。(思うに、D. H. ロレンスが晩年の傑作『逃げた雄鳥』で述べた宇宙の暗い薔薇とはそれを指していよう。)
 問題は光と闇の共振エネルギーである氣と物質の関係である。
 前者のいわば外皮として後者があるだろう。外殻である。その物質の外殻に光が反映して視覚されると言えよう。
 正確にいうと、光と闇の共振エネルギー=氣の終点として、物質体があると言えよう。だから、氣がなくなれば、物質体は崩壊するのである。そう、有機体の無機体化と言えば、わかりやすいだろう。
 ここで根源の光と闇の共振エネルギー=氣について考えると、それは、可視的には光であるが、実は超越光であると考えられる。先に述べたように、それが諸宗教の説く「光」と考えられる。
 そして、それが現象界にも太陽光として発現しているのであるが、当然、光だけ視覚し、闇を看過するのである。
 そう、ロレンスが述べたdark sun (また、dark ray, dark God)とはこの闇のことではないだろうか。(dark energyもこれと関係するのではないだろうか。)
 結局、太陽光とは超越光の光であり、超越光の闇が通常の視覚では看過されるのである。
 そう、量子力学で言うと、光だけでは、「量子」は捉えられないと考えられるのである。上述のように、光と闇の共振エネルギーが本体としてあるのであり、闇を捉えない限り、量子力学は不十分なのである。
 そう、光は闇と二重らせんを形成しているのである。共起している闇を「科学」しなければ、まったくの片手落ちである。
 そう見ると、ダーク・マターとは、凹(−1)ではなく、この闇の形成する「物質」ではないのか。正に、闇の物質であり、不可視なのである。つまり可視の物質と不可視の物質があるということになろう。
 しかし、光と闇の二重らせんの外皮が物質であるから、実際は複合体ではないだろうか。この点はおいておきたい。
 ということで、凹(−1)は超越的存在であり、ダーク・マターとするのは問題があることを指摘しておきたい。
 とまれ、現実に闇があるのに、人間は視覚・知覚できないのである。ただし、それは、内身体的に感受できるものと考えられる。
 東洋文化は闇ないしは光と闇の共振エネルギー(超越光=氣)を捉える科学文化であったと考えられる。西洋は光のみである。
 思えば、ゲーテから学んだルドルフ・シュタイナーも闇の存在を明確に捉えていた。光と闇のシンフォニーが本当の自然・宇宙であり、それが精神なのである。
 そう、今や端的に言える。物質とは精神の外皮に過ぎないと。

追記:本稿はR. P. ファインマンの『光と物質のふしぎな理論:私の量子電磁力学』(岩波現代文庫)のタイトルを見て、浮かんだアイデア(直観)を基にしている。


resurrectionのブログ


光と物質のふしぎな理論―私の量子電磁力学 (岩波現代文庫) [文庫]
リチャード・P. ファインマン

(著), Richard P. Feynman (原著), 釜江 常好 (翻訳), 大貫 昌子 (翻訳)


参考:
『死んだ男』の圧巻の一つの「宇宙の大いなる薔薇」・「多くの花弁をもつ暗闇の一輪の華」

But the man looked at the vivid stars before dawn, as they rained down to the sea, and the dog-star green towards the sea's rim. And he thought: How plastic it is, how full of curves and folds like an invisible rose of dark-petalled openness, that shows where dew touches its darkness! How full it is, and great beyond all gods. How it leans around me, and I am part of it, the great rose of Space. I am like a grain of its perfume, and the woman is a grain of its beauty. Now the world is one flower of many-petalled darkness, and I am in its perfume as in a touch.
So, in the absolute stillness and fullness of touche, he slept in his cave while the dawn came. And after the dawn, the wind rose and brought a storm, with cold rain. So he stayed in his cave in the peace and the delight of being in touch, delighting to hear the sea, and the rain on the earth, and to see one white-and -gold narcissus bowing wet, and still wet. And he said: This is the great atonement, the being in touch. The grey sea and the rain, the wet narcissus and the woman I wait for, the invisible Isis and the unseen sun are all in touch, and at one.

The Escaped Cock(The Man who Died)
by D. H. Lawrence, The Complete Short Novels,
Penguin Books, 1990, p.597.

参考:今年発行された訳本から

「が、男は、夜明け前の生気に満ちた星々が海の上に雨のように降り注ぎ、天狼星が海の縁近くで緑色の雨のように降り注ぐのを眺めていた。そして、思った。「何という造形の妙だろう。何と曲線と襞にあふれていることか! まるで、露と暗闇が触れ合うところに、目には見えない黒い花弁を開くバラのようだ。何とあふれるほど充実していることか! 神々も及ばぬその偉大さ、それはわたしを取り巻くように傾き、わたしはその一部となる。この大いなるバラの宇宙の一部なのだ。わたしはその香料の一粒、そしてあの女はその美の一粒なのだ。今や、世界は多くの花びらを開いた一輪の暗闇の花であり、わたしはその香りのなかに、まるで肌を触れ合うように浸っている。」
 こうして、触れ合いの全き静寂と充足に浸ったまま、男は洞のなかで、夜明けとともに眠りに入った。夜がすっかり明けたころ風が吹き出し、冷たい雨をともなった嵐となった。それで男は洞のなかにとどまって、触れ合っている安らぎと歓びに浸って、海の音や、知を打つ雨の音を聞き、一輪の白と金に彩られた水仙が、雨に濡れてうなだれたまま、まだ今も依然として濡れているのを見て大喜びだった。彼はつぶやくーーこの「触れ合いのうちに身を浸すこと、これは、偉大な贖罪だ。灰色の海も、雨も、濡れた水仙も、わたしの待つあの女も、目に見ぬイシスの女神やあの太陽も、すべてが触れ合いのうちに、ひとつのものになっている。」

          岩田昇訳

『D.H.ロレンス短篇全集 5』大阪教育図書2006年 218〜219ページ

http://ameblo.jp/gaikokubungaku/theme4-10000376862.html


一つの世界文明、父権的物質文明の終焉:母権的個の螺旋的回帰と新共同体創造
一つの世界文明、父権的物質文明の終焉:母権的個の螺旋的回帰と新共同体創造

テーマ:manichaeism

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『一つの世界文明、父権的物質文明の終焉:母権的個の螺旋的回帰と新共同体創造』 amba.to/s1J4mi 一連のツイッターへ投稿したものをまとめたものです。思うがまま書いたので、荒削りのままです。とまれ、私のブログの名前を借りると、ヤポネシアの脱黙示録となります。
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8)これで止めるが、日本人は民族伝統の母権的個の原理に覚醒する必要がある。これこそ、日本が世界に誇るべき大文化である。とまれ、最初に述べたように一つ世界文明、父権的物質文明の終焉を迎えているのである。それは、母権的個の原理の螺旋的回帰であり、新共同体原理でもある。個的新共同体へ。

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7)今やグローバル戦争金融資本主義がその危機(おそらく断末魔)から、日本へと標的を定めて大襲来しているのである。それに対して日本政府は某国の出先機関と化して、その侵略の斧の下に、首を差し出し、切断されるのを甘受するだけである。これは、必然の結果である。民族文化を否定した帰結である

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6)この没個的無道徳的封建的利己主義の蔓延った日本の帰結が無謀な原発建設と原発爆発であり、無思慮な、封建的隷従的な自民党・民主党政権支配である。米国に隷従する没個的な封建的心性が政治家らを支配して、国民は没個的教育(狂育)や教養主義の崩壊によって、ますます無知蒙昧化していった。
5分前 お気に入りに登録 返信 削除
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5)没個的封建的心性があり、かつ戦後の米国近代合理主義が主導的となり、日本人の精神は近代以前かつ唯物論的になった。すなわち、精神的自立がまったくなされずに、封建的唯物主義が支配的なのである。ここには、個に基づく道徳・倫理はなく、無思考の利己主義が跋扈することになったのである。
12分前 お気に入りに登録 返信 削除
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4)戦後日本は米国中心主義となり、いわば脱亜入米が起こったと言えよう。それは、米国文明の刷り込み、洗脳である。自己民族伝統文化を否定し、米国文明が支配的になったのである。また、暴虐な戦争を生んだ「戦犯」は米国の戦略によって無罪放免となった。自ら「戦犯」処理できず、背徳人間を残した
15分前 お気に入りに登録 返信 削除
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3)日本的個の文化があるが、明治維新において、それを体現する龍馬や西郷らが排除されていってしまい、没個的封建的心性が支配的になり、無責任な、没合理的な大戦へと突き進み、大惨禍をもたらしたのである。それの反省もなく戦後はGHQ支配の下、日本文化破壊の戦後近代が始まった。精神文化否定
22分前 お気に入りに登録 返信 削除
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2)日本近代は私見では後期江戸時代の封建的心性を「発展」的に継続し、それが支配層の原理となった。未分化の半自我・半隷従的原理であり、森鴎外『阿部一族』の柄本又七郎の心性に表出していると思う。そこには、西洋近代の基本の個の原理が欠落しているのである。集団的自我の原理が支配した。
25分前 お気に入りに登録 返信 削除
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1)今一つの世界文明が終焉しつつある。それは父権・西洋的世界文明の終焉である。結局、父権的自我が母権的他者・差異・個を暴力的に否定・排除・消滅させる原理・力学がそれにある。グローバル戦争資本主義、超巨大資本的国家資本主義、反人間有機体的原発利権主義等々だ。アーリマン闇魔支配。


2011年11月13日(Sun)▲ページの先頭へ
感覚と魂:ver2:精神的光と現象光:虚点と実点の即非態
感覚と魂:ver2:精神的光と現象光:虚点と実点の即非態

テーマ:manichaeism

先の考察とは逆方向が本来の直観であったと思う。即ち、差異共振エネルギーが生じて、それが感覚界まで到達する。これは聴き手ではなく、創作者の視点である。
 とまれ、氣的エネルギーがあり、それが感覚へと下降する。この感覚には氣の情報が入っている。つまり、美的情報である。

(追記:「この感覚には氣の情報が入っている」という言い方は曖昧であると思う。というか、間違いだと思う。氣の情報はここにはないのである。虚点において氣の情報はあるが、実点においてはないのである。

追記2:追記に対して疑義が生じる。即非態ならば、虚点の性質が実点に反照するのではないのか。思えば、これは長らく気になっている点ではある。思えば、反照があると以前述べたのである。いったい、どちらなのだ。これは実に微妙な問題だ。やはり、即非様態である。つまり、実点には氣の情報はあると同時に無いのである。有であり、無である。だから、実点は虚点よりも不思議なものと言えよう。超越性があると同時に、不在なのである。思うにハイデガーが『存在と時間』で存在についてグチャグチャ言っているのは、この実点についてではないだろうか。しかし、虚点が把握されていないので、いわば、中途半端なのである。超越性であるような、物質性であるような一種未分化な発想に留まっているのだ。)

 これは、media pointの虚点(虚軸上の点をそう呼ぶことにする。次の実点も同様。)と実点(実軸上の点)の関係性をもつ。
 思うに、バッハ音楽を精神感覚で受容するというのは、虚点においてと考えられる。ここでは陽と陰が共振している。
 つまり、虚点の感覚、つまり、精神感覚があるということである。しかるに、実点においては、物質的感覚、現象的感覚があるだろう。これが通常の五感であろう。
 実点の感覚とは同一性感覚であり、ここには、芸術的感覚(美的感覚)はないと思われる。
 つまり、陽と陰が実点では連続的同一性化しているために、差異共振のもつ美が欠落すると言えよう。
 バッハ音楽を聴いて、精神を感覚するというのは、その音が虚点の様態をもっているということと考えられる。そう、結局、感覚とは陰と陽、凹iと凸iの極性によって形成されると言えよう。そして、差異共振から連続的同一性へと転化すると物質的感覚になるのである。
 感覚において勘違いしているのはこの点にあると考えられる。即ち、感覚は本来、精神様態なのであるが、それが実点において物質化作用を受けるのである。
 そして、それが一般的になっているのために、感覚本来の精神性を消失するのである。
 そう、私が光の超越光を感じるというのも同じことである。つまり、光は本来、精神光、超越光なのである。そのために、光を見ると爽快なのである。
 この精神的光、超越光は氣と言ってもいいだろう。氣的光、氣光である。
 これはまったく音の場合でも同じと考えられる。精神的音があり、それが物質的音として表出されるのである。
 これは先に述べた氣と電磁波と同じ関係であると考えられる。
 これで直観をほぼ表現できたようだ。
 ところで、後の課題は分割作用である。二等分、四等分、五等分はわかるが、三等分、六等分、七等分等の等分割はどうやって生まれるのか。これは今だによくわからないのである。

追記3:追記2のように考えると、その後の論と齟齬を来すので、修正しないといけない。
 結局、追記2が正しいのか、それともそれ以下が正しいのか。実点において、氣があるのか否かである。やはり、追記2が正しいだろう。つまり、そこには、氣があるが、同時に、無いのである。
 しかしながら、一般的には物質的世界に慣れてくると、つまり、大人になると、精神性、超越性を排除して生活するので、結局、実点には氣、精神、超越性がないようになってくると言えよう。これが今の解明である。




魂と感覚:光と闇の共振体と精神
テーマ:art & design

今は予見のみ。
 例えば、バッハの音楽を聴くと、すぐ精神を感じる。つまり、聴覚を介して精神に結びつく。ということは精神と感覚は結びついていることになる。
 しかし、一見連続的であるが、そうではない。精神と感覚とのつながりの力学をどう見るべきか。
 思うに、そもそも感覚とは何かが問題である。直観では、光と闇の共振が感覚を形成するのであり、それが外界の感覚的刺激を得て、感覚受容するのである。
 例えば、光を見るとしよう。光は視覚に入り、光と知覚される。しかしながら、視覚は光と闇の共振感覚とするならば、受容された光とは実は光且つ闇ではないのか。正確に言えば、光と闇の共振体ではないのか。
 つまり、もともと、光とは闇と一体ではないのか。それが、知覚されたとき、感覚器官は共振体を受容するのであり、それが、光だけでなく、闇をも感じ取るのではないだろうか。否、光と闇の共振体を感じ取るのではないだろうか。
 それは当然、光と闇の共振体であるから、精神として感受さるのではないだろうか。
 バッハの音楽に戻せば、それは、単に音響ではなく、音と非音の共振体ではないのか。それが、聴覚で感受されたとき、その共振体を感じて、精神を感じ取るのではないのか。
 あまりうまく言えていない。後で再考したい。




2011年11月06日(Sun)▲ページの先頭へ
悪の心性メカニズムについて
(人間認識図の画像は以下を見られたい。
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


人間認識図(参照:以下の図)では悪は第四象限に位置するが、悪の本質をシュタイナーの悪魔論を参考にして考察してみたい。
 今は予見だけだが、一言言うと、悪は当然エゴイズムであるから、他者の認識がネガティブなのである。他者否定の自我意識がある。
 PS理論ではmedia pointの喪失である。他者との均衡の喪失である。
 結局、凹i(-i)が他者であるが、それが他者ではなく、連続的同一性化されていることに問題があるだろう。つまり、自我凸i(+i)と他者凹i(-i)が精神的フィルターによって、連続同一性化されているのである。つまり、他者が自我化しているのである。
 そのため、他者に属すものを自我が横取りするのである。それが悪である。
 自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺がこの連続同一性化、連続同一性自我を意味する。
 凸(+1)は他者凹i(-i)を否定的に巻き込んでいるのである。他者を肯定するならば、それは、第三象限へ帰属するだろう。しかし、他者否定は連続同一性自我凸(+1)を意味するので、凹i(-i)が凸(+1)と融合させられた状態にあるだろう。だから、第四象限に位置するということではないだろうか。
 他者凹i のi回転が第四象限を影のように生むのではないだろうか。他者凹iの-i回転ならば、第三象限を生むことになるのではないだろうか。
 後で丁寧に検討したい。

追記:media pointの基本様態である差異共振と連続同一性は全く異なる。後者は前者を否定するのである。すなわち、自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺を意味し、凸i*凹i⇒を否定するのである。
 先ず、差異共振を見ると、それは凸iと凹iの拮抗、均衡である調和である。それは、母源凹(−1)からの創造エネルギーを受容するのではないだろうか。すなわち、凹⇒凸i*凹iである。ここには、氣が発生していると考えられる。
 しかるに、連続同一性の場合、それが否定される。差異共振ではなく、差異の同一性化である。
 思うに、同一性化とは、ガウス平面における右半円化ではないだろうか。極性が閉じられて、凸(+1)へと収束するのである。
 とは言え、その閉じられた自我、同一性自己は深部にmedia pointを秘めているだろう。media pointの「光の種子」を潜在させているのである。(これがマニ教の教義の根本にあるだろう。)
 しかし、連続同一性自己(自我)にとって、それは排除の対象である。
 とまれ、連続同一性自己は右半円領域を占めると考えられる。しかしながら、道義のある人間はmedia pointの差異共振性をもっているので、左半円領域をなんらか意識していると言えよう。
 唯物論が問題なのは、media pointを否定し、まったく左半円を否定してしまうことである。左派・左翼の問題はここにある。邪悪、悪魔的だ。近代合理主義もほぼ同様と言えよう。
 古典派経済では、まだ、道徳の余地があった。つまり、media pointが生きていたが、新自由主義となると、完全に道徳の領域が消えて、右半円中心となるのである。否、他者否定のために、第四象限的になると言うべきだろう。唯物論も同様だ。
 最後にもう一度、連続同一性の構造について考察しよう。
 同一性化とは、以前提起したが、凸i(i)が凹i(-i)に対して優位な場合の生じるのではないだろうか。つまり、凸i(i)傾斜があるということである。それが、他者凹i(-i)の差異を肯定できずに、同一性を押しつけて、所有化すると考えられる。この同一性の押しつけが、連続同一性であり、それが凸 (+1)に重なっているのではないだろうか。
 それに対して、凹i(-i)の傾斜が考えられるが、それは、差異をベースにする包摂を意味すると思われる。つまり、それは、凸i(+1) を包摂すると思われる。だからここでは、連続同一性化はなく、差異共振化が生じるのである。つまり、media pointの様態が生起することになる。
 ここから見ると、陰陽という命名は意義深い。陰が陽より先に来るのである。それに対して、欧米では陽が陰より先に来るのであり、そのため、連続同一性が形成されるのである。
 そして、それが結局、第四象限へと帰結するのである。つまり、欧米文明は邪悪、魔道であるということである。
 陰陽的東洋文明こそ、道徳的であり、正道である。
今はここで留める。

追記2:欧米の欧は西欧と見ないといけない。また、米であるが、それは、金融資本に買収された米国家である。


ガウス平面で表した人間認識の図
ガウス平面で表した人間認識の図
original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


2011年11月01日(Tue)▲ページの先頭へ
『光と闇の共振が形成する物質と超越光:media point (super)light seed』
『光と闇の共振が形成する物質と超越光:media point (super)light seed』

テーマ:manichaeism

光と闇の共振からmedia pointの実軸を介して、物質が形成される。しかし、それだけではなく、虚軸においてなにかが形成される。前者を創出、発出とするなら、後者は創入、発入とでも言うべきものである。
 思うに、これこそ、何度も既述した超越光ではないだろうか。先には、凹i=闇においてそれを想定したが。
 そして、ほとんどすべての宗教、神話、民話等が説く「光」はこの超越光ではないかと思う。当然、現象の光ではないのである。
 たとえば、キリストの光は超越光であり、正に、media point的である。(思えば、シュタイナーはキリストはアフラ・マズダであると述べているが、後者は結局、超越光である。)
 この視点から、マニ教の光の種子が意味が明瞭になるだろう。それは、media pointの虚軸(虚点と言おう)である。media point seedである。
 そう、万物はmedia pointにおいて、光の種子、超越光の種子をもっているのである。それは卵と言ってもいい。media point egg.
 先のゲーテの上昇であるが、それはmedia point seedへのアクセスと捉えることができよう。
 問題はこの光、超越光の種子を萌芽させ、成長させることである。それが魂の涵養、陶冶である。
 この光/超越光の種子の発芽・成長が心身を満たすようにはたらきかけるべきである。
 また、世の中にも当然、光/超越光の種子を見出し、発芽させ、成長させるべきである。(教育は本来、そういうものであるが、まったく倒錯している。)
 経済について言うと、資本主義においても、光/超越光の種子はあるのである。それは、差異共振経済である。そのための法形成が必要である。
 その他の領域についても言えるが、今はここで留める。



『ゲーテの「上昇」:media point twilight or orientation』

テーマ:manichaeism

R_Steiner_jp ルドルフ・シュタイナー

創造的な自然によって物質的なものの中から精神的なものが明確な形をとって現れてくる過程こそゲーテが上昇と呼んでいるものである。自然は絶えず努めて上昇するものの中で把握される。−ゲーテの自然観−


ゲーテ研究家であったシュタイナーは以上のように述べている。
 これはマニ教に通じる考え方であるが、PS理論ではどう捉えるだろうか。
 ツル植物の上昇は「天」を目指すものであるので、それはゲーテの「上昇」と通じるだろう。それは、「光」を目指していると思う。つまり、太陽を目指す。
 それに対して、根は下降であり、「闇」を目指す。
 思うに、端的に、凸iが「天」であり、「上昇」を意味しよう。そして、凹iが「地」であり、「下降」を意味するだろう。
 PS理論的には「上昇」も「下降」も、凹(−1)【大母源、ないし、母源と呼びたい】を指し示すだろう。
 思うに、「光」は「闇」へと浸透するのであり、「闇」は「光」へと浸透するのである。シュタイナー的に言えば、前者は赤であり、後者は青である。
 結局、それらはmedia pointを志向していると言えよう。だから、ゲーテの「上昇」とはmedia pointへの志向と言える。そして、結局は第三象限への志向と言えよう。
 では、母源と第三象限はどう異なるのだろうか。
 母源は超越的存在であるから、凸iの光より、凹iの闇で直感する方が適切である。
 故に、母源は第三象限に融け込んでいる、浸透していると言えるのではないだろうか。
 思うに、第二象限においては、母源は合理的知性で認識されようとするだろう。しかし、その場合は、正に、カント哲学の善の観念、実践理性になるだろう。合理的知性では仮構しかできないのである。
 凹iの直観性、直観的イメージ・ヴィジョンが母源を直覚するのである。
 おそらく、プラトンのイデアも母源を凸iで把握しようとしたものである。そう、ゲーテの上昇もそれに近いかもしれない。ならば、シュタイナーの精神もそのような向きがあるのではないだろうか。
 シュタイナーの瞑想は実に光的である。そうすると、彼の霊学は第二象限に属すことになる。
 それに対して禅の瞑想は第三象限であろう。



エネルギーと物質:media pointの非可逆性:脱西欧・media point epoch
PS理論では、宇宙は凹(−1)が起源であり、そこから陰陽エネルギー(氣)が創出されると考える。
 そして、陰陽エネルギー(以下、エネルギーと簡略化)は、media point変換によって、物質を発生させる。
 問題はmedia pointの物質発出機構、物質発出メカニズムである。
 エネルギーはmedia pointの実軸において、量子化されると考えられる。そう、ここに量子力学の領域があるだろう。
 問題はエネルギーとこの量子メカニズムの関係である。これは⇒の起点と終点で把捉できるだろう。先に指摘したように起点と終点は不連続であり、非可逆的である。ここに、宇宙創造の一つのエッセンスがあると言えよう。エネルギー⇒物質である。(E⇒mc^2であり、E=mc^2は誤りだ。思うに、ここに後の量子力学の壮大な誤謬の原点がある。)
 問題は量子メカニズムである。そのエネルギー/物質変換メカニズムにおいて、量子とはいったい何であるか。
 そう、量子とはエネルギーの物質的投影である。(あえて言えば、幻影、仮象、仮構である。)つまり、量子メカニズムはエネルギー機序の物質的仮構である。
 量子メカニズムを応用することは、宇宙創造の機序・秩序に介入することになる。言い換えると、量子力学以前において存在した宇宙創造の機序・秩序(「コスモス」)とは別の機制をもたらすことになるのである。
 ある意味で脱自然化である。人工的「自然」創造である。先に述べたように、有機体的宇宙・自然創造とは異質な「創造」が加わったのである。人類は第二の創造神になったと言ってもいい。
 しかしながら、この第二の創造は大根源(大母源)から発していないので、無機的なのである。一般的には有機体的宇宙・自然とは相容れない。端的に、それに対して破壊的だ。
 また、その操作が利己主義、自我中心主義に基づくならば、当然、悪魔的なものとなるのである。そして、それが現代において現実化したのである。(思うに、量子力学の誕生をもって、あるいは、20世紀初期ないし前期をもって脱近代の時代、トランス・モダンの時代の始まりと見るべきだろう。あるいは、ポスト・ヒューマンの時代の。別の命名もあるが。)
 そして、原発爆発による放射能汚染はその帰結である。
 問題は第二の創造のテクノロジーをもった人類の知性にある。知性が利己主義、自我中心主義に基づくならば、これによる悪魔的破壊は拡大して、人類は滅びるだろう。
 知性が凹iをベースとする精神性に基づくならば、第二の創造は積極的なものとなる。ここが核心的ポイントである。
 このような視点から、飯山一郎氏が提唱する、光合成細菌による放射能汚染の浄化作用とは何を意味するのだろうか。(参照:『光合成細菌』で放射能浄化!  http://grnba.com/iiyama/hikari.html )一般的には、自然、人間とは相容れない人工的な放射能であるが、自然の、原始的細菌がそれと適合して、放射能を無害に変換するのである。
 ここには放射能、正確には、放射線存在の問題がある。飯山氏が説くように、原始的には、光合成細菌が放射線を吸収する宇宙・自然のメカニズムがあったのである。光合成細菌にとっては、放射線は異質なものではないのである。
 故に、ここで上述の脱自然の視点は変更されなくてはならない。確かに、第二の創造は一般的には脱自然化であるが、原始的な光合成細菌にとってはそうではないのである。「自然」に適合するのである。
 ここで自然とは何かの問題が提起される。あるいは自然的進化、宇宙的進化の問題。
 そう、進化が正確な問題である。即ち、地球の原始的状態においては、生命体と放射能とは適合していた。しかし、その後の進化過程へ経て、高度な生命体は放射能とは不適応になっていったのである。言い換えると、光合成細菌のレベルを「脱ぎ捨てて」進化が進展したのである。(進化を低レベルを脱ぎ捨てるプロセスと見ることができよう。超剋である。)
 だから、進化の絶対的差異があるのであり、進化は非連続的段階をもつ。(プロセスという用語はあまり適切ではない。)だから、この点から上記の脱自然化は説くことができるのである。
  結局、量子力学的変革によって、人類は脱近代化、脱自然化したのであり、それまでの進化が終わったと言えるのである。そして、進化の初期段階に戻らないといけないような事態が生じたのである。生命体的にはそうなのである。
 しかしながら、知性においては、上述したように、精神の進展が必要になるのである。利己主義、自我中心主義となった知性を乗り越える精神的知性の陶冶・涵養が必要になったのである。
 これは取りも直さず、東洋的知性ないしは非西洋文明的知性への回帰を意味するのである。
 西洋文明、とりわけ、近代西洋文明は利己主義、自我中心主義へと強く傾斜して、その物質文明をもって悪魔的に破壊的になったのである。
 霊学のシュタイナーは「自我」ichの重要性を説くが、実は、問題は個、差異、絶対的他者、絶対的差異である。
 イタリア・ルネサンスはその発芽であると考えられる。しかしながら、西欧(追記:西洋では間違いなので、上述の西洋云々は訂正されなくてはならない)は自我、凸iに傾斜しているために、個=差異が利己主義、自我中心主義へと発展したのである。
 (だから、以前提唱したトランス・モダンという視点はあえて言えば、間違いなのである。モダンは二種類あったのであり、それが混淆・混合されて、曖昧になってしまったのが実態である。そう、トランス西欧というのが的確である。トランス・ウェストである。脱西欧である。)
 結局、知性の東洋回帰、精神化とは脱西欧化ということになる。脱欧入亜である。
 最後に、脱西欧化と量子力学の「脱近代」の関係をさらに考えると、結局、共通点はmedia pointであるのが了解される。
 西欧は知性のmedia pointを喪失したのであり、また、量子力学は自然におけるmedia pointのエネルギー様態の発見であるから、脱西欧と量子力学的「脱近代」は共通するのである。
 だから、今日、現代はmedia pointの時代、エポックと言えるのである。それは同時に、マニ教新時代でもある。


   




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