INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2011/11/01

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2011年11月01日(Tue)▲ページの先頭へ
『光と闇の共振が形成する物質と超越光:media point (super)light seed』
『光と闇の共振が形成する物質と超越光:media point (super)light seed』

テーマ:manichaeism

光と闇の共振からmedia pointの実軸を介して、物質が形成される。しかし、それだけではなく、虚軸においてなにかが形成される。前者を創出、発出とするなら、後者は創入、発入とでも言うべきものである。
 思うに、これこそ、何度も既述した超越光ではないだろうか。先には、凹i=闇においてそれを想定したが。
 そして、ほとんどすべての宗教、神話、民話等が説く「光」はこの超越光ではないかと思う。当然、現象の光ではないのである。
 たとえば、キリストの光は超越光であり、正に、media point的である。(思えば、シュタイナーはキリストはアフラ・マズダであると述べているが、後者は結局、超越光である。)
 この視点から、マニ教の光の種子が意味が明瞭になるだろう。それは、media pointの虚軸(虚点と言おう)である。media point seedである。
 そう、万物はmedia pointにおいて、光の種子、超越光の種子をもっているのである。それは卵と言ってもいい。media point egg.
 先のゲーテの上昇であるが、それはmedia point seedへのアクセスと捉えることができよう。
 問題はこの光、超越光の種子を萌芽させ、成長させることである。それが魂の涵養、陶冶である。
 この光/超越光の種子の発芽・成長が心身を満たすようにはたらきかけるべきである。
 また、世の中にも当然、光/超越光の種子を見出し、発芽させ、成長させるべきである。(教育は本来、そういうものであるが、まったく倒錯している。)
 経済について言うと、資本主義においても、光/超越光の種子はあるのである。それは、差異共振経済である。そのための法形成が必要である。
 その他の領域についても言えるが、今はここで留める。



『ゲーテの「上昇」:media point twilight or orientation』

テーマ:manichaeism

R_Steiner_jp ルドルフ・シュタイナー

創造的な自然によって物質的なものの中から精神的なものが明確な形をとって現れてくる過程こそゲーテが上昇と呼んでいるものである。自然は絶えず努めて上昇するものの中で把握される。−ゲーテの自然観−


ゲーテ研究家であったシュタイナーは以上のように述べている。
 これはマニ教に通じる考え方であるが、PS理論ではどう捉えるだろうか。
 ツル植物の上昇は「天」を目指すものであるので、それはゲーテの「上昇」と通じるだろう。それは、「光」を目指していると思う。つまり、太陽を目指す。
 それに対して、根は下降であり、「闇」を目指す。
 思うに、端的に、凸iが「天」であり、「上昇」を意味しよう。そして、凹iが「地」であり、「下降」を意味するだろう。
 PS理論的には「上昇」も「下降」も、凹(−1)【大母源、ないし、母源と呼びたい】を指し示すだろう。
 思うに、「光」は「闇」へと浸透するのであり、「闇」は「光」へと浸透するのである。シュタイナー的に言えば、前者は赤であり、後者は青である。
 結局、それらはmedia pointを志向していると言えよう。だから、ゲーテの「上昇」とはmedia pointへの志向と言える。そして、結局は第三象限への志向と言えよう。
 では、母源と第三象限はどう異なるのだろうか。
 母源は超越的存在であるから、凸iの光より、凹iの闇で直感する方が適切である。
 故に、母源は第三象限に融け込んでいる、浸透していると言えるのではないだろうか。
 思うに、第二象限においては、母源は合理的知性で認識されようとするだろう。しかし、その場合は、正に、カント哲学の善の観念、実践理性になるだろう。合理的知性では仮構しかできないのである。
 凹iの直観性、直観的イメージ・ヴィジョンが母源を直覚するのである。
 おそらく、プラトンのイデアも母源を凸iで把握しようとしたものである。そう、ゲーテの上昇もそれに近いかもしれない。ならば、シュタイナーの精神もそのような向きがあるのではないだろうか。
 シュタイナーの瞑想は実に光的である。そうすると、彼の霊学は第二象限に属すことになる。
 それに対して禅の瞑想は第三象限であろう。



エネルギーと物質:media pointの非可逆性:脱西欧・media point epoch
PS理論では、宇宙は凹(−1)が起源であり、そこから陰陽エネルギー(氣)が創出されると考える。
 そして、陰陽エネルギー(以下、エネルギーと簡略化)は、media point変換によって、物質を発生させる。
 問題はmedia pointの物質発出機構、物質発出メカニズムである。
 エネルギーはmedia pointの実軸において、量子化されると考えられる。そう、ここに量子力学の領域があるだろう。
 問題はエネルギーとこの量子メカニズムの関係である。これは⇒の起点と終点で把捉できるだろう。先に指摘したように起点と終点は不連続であり、非可逆的である。ここに、宇宙創造の一つのエッセンスがあると言えよう。エネルギー⇒物質である。(E⇒mc^2であり、E=mc^2は誤りだ。思うに、ここに後の量子力学の壮大な誤謬の原点がある。)
 問題は量子メカニズムである。そのエネルギー/物質変換メカニズムにおいて、量子とはいったい何であるか。
 そう、量子とはエネルギーの物質的投影である。(あえて言えば、幻影、仮象、仮構である。)つまり、量子メカニズムはエネルギー機序の物質的仮構である。
 量子メカニズムを応用することは、宇宙創造の機序・秩序に介入することになる。言い換えると、量子力学以前において存在した宇宙創造の機序・秩序(「コスモス」)とは別の機制をもたらすことになるのである。
 ある意味で脱自然化である。人工的「自然」創造である。先に述べたように、有機体的宇宙・自然創造とは異質な「創造」が加わったのである。人類は第二の創造神になったと言ってもいい。
 しかしながら、この第二の創造は大根源(大母源)から発していないので、無機的なのである。一般的には有機体的宇宙・自然とは相容れない。端的に、それに対して破壊的だ。
 また、その操作が利己主義、自我中心主義に基づくならば、当然、悪魔的なものとなるのである。そして、それが現代において現実化したのである。(思うに、量子力学の誕生をもって、あるいは、20世紀初期ないし前期をもって脱近代の時代、トランス・モダンの時代の始まりと見るべきだろう。あるいは、ポスト・ヒューマンの時代の。別の命名もあるが。)
 そして、原発爆発による放射能汚染はその帰結である。
 問題は第二の創造のテクノロジーをもった人類の知性にある。知性が利己主義、自我中心主義に基づくならば、これによる悪魔的破壊は拡大して、人類は滅びるだろう。
 知性が凹iをベースとする精神性に基づくならば、第二の創造は積極的なものとなる。ここが核心的ポイントである。
 このような視点から、飯山一郎氏が提唱する、光合成細菌による放射能汚染の浄化作用とは何を意味するのだろうか。(参照:『光合成細菌』で放射能浄化!  http://grnba.com/iiyama/hikari.html )一般的には、自然、人間とは相容れない人工的な放射能であるが、自然の、原始的細菌がそれと適合して、放射能を無害に変換するのである。
 ここには放射能、正確には、放射線存在の問題がある。飯山氏が説くように、原始的には、光合成細菌が放射線を吸収する宇宙・自然のメカニズムがあったのである。光合成細菌にとっては、放射線は異質なものではないのである。
 故に、ここで上述の脱自然の視点は変更されなくてはならない。確かに、第二の創造は一般的には脱自然化であるが、原始的な光合成細菌にとってはそうではないのである。「自然」に適合するのである。
 ここで自然とは何かの問題が提起される。あるいは自然的進化、宇宙的進化の問題。
 そう、進化が正確な問題である。即ち、地球の原始的状態においては、生命体と放射能とは適合していた。しかし、その後の進化過程へ経て、高度な生命体は放射能とは不適応になっていったのである。言い換えると、光合成細菌のレベルを「脱ぎ捨てて」進化が進展したのである。(進化を低レベルを脱ぎ捨てるプロセスと見ることができよう。超剋である。)
 だから、進化の絶対的差異があるのであり、進化は非連続的段階をもつ。(プロセスという用語はあまり適切ではない。)だから、この点から上記の脱自然化は説くことができるのである。
  結局、量子力学的変革によって、人類は脱近代化、脱自然化したのであり、それまでの進化が終わったと言えるのである。そして、進化の初期段階に戻らないといけないような事態が生じたのである。生命体的にはそうなのである。
 しかしながら、知性においては、上述したように、精神の進展が必要になるのである。利己主義、自我中心主義となった知性を乗り越える精神的知性の陶冶・涵養が必要になったのである。
 これは取りも直さず、東洋的知性ないしは非西洋文明的知性への回帰を意味するのである。
 西洋文明、とりわけ、近代西洋文明は利己主義、自我中心主義へと強く傾斜して、その物質文明をもって悪魔的に破壊的になったのである。
 霊学のシュタイナーは「自我」ichの重要性を説くが、実は、問題は個、差異、絶対的他者、絶対的差異である。
 イタリア・ルネサンスはその発芽であると考えられる。しかしながら、西欧(追記:西洋では間違いなので、上述の西洋云々は訂正されなくてはならない)は自我、凸iに傾斜しているために、個=差異が利己主義、自我中心主義へと発展したのである。
 (だから、以前提唱したトランス・モダンという視点はあえて言えば、間違いなのである。モダンは二種類あったのであり、それが混淆・混合されて、曖昧になってしまったのが実態である。そう、トランス西欧というのが的確である。トランス・ウェストである。脱西欧である。)
 結局、知性の東洋回帰、精神化とは脱西欧化ということになる。脱欧入亜である。
 最後に、脱西欧化と量子力学の「脱近代」の関係をさらに考えると、結局、共通点はmedia pointであるのが了解される。
 西欧は知性のmedia pointを喪失したのであり、また、量子力学は自然におけるmedia pointのエネルギー様態の発見であるから、脱西欧と量子力学的「脱近代」は共通するのである。
 だから、今日、現代はmedia pointの時代、エポックと言えるのである。それは同時に、マニ教新時代でもある。


   




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カレンダ
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