INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2011/07

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2011年07月29日(Fri)▲ページの先頭へ
「気」(エーテル体)と物質体:生命と物質:media point cycle
シュタイナーはエーテル体が生命の本体であり、それが物質体である身体を保持していると説いている。
 生物が死ねば、死体を残す。当然、それは生命のない物質体である。
 では、生命体とその違いは端的に何かを問いたい。今は予備考察だけであるが。
 直観では、media pointのエネルギーが生命を保持している。それが、生命体の物質体のエントロピーの増加に対して、マイナス・エントロピーを創造していると考えられよう。
 そう、遺伝子の「アーカイブ」であるmedia pointは賦活されて差異共振エネルギーをもち、それが生命を形成して、新たな物質体を構築するのである。それが死滅する物質体に取って代わると考えられる。死滅する物質体は、カス、二酸化炭素、糞等として排泄、排出されるのである。
 そう考えると、media pointは死生・生死のメカニズムをもっていると言えよう。思うに、そこには、サイクルがあるのである。そう、media point cycleと名づけよう。それが一つの生を規定すると言えよう。


2011年07月22日(Fri)▲ページの先頭へ
PS理論的自己様態と連続的自己様態:新母権的自己様態と父権的自己様態:「わたし」とは何か
今はざっと言う。
 PS理論は不連続的差異論からの発展・進展である。根本は不連続性である。
 では、これはPS理論的にはどういうことなのか。もっとも復習になるが。
 凸i*凹iが凸(+1)になるが、それが連続的自己(=自我)である。本来、極性であるものが、同一性化されるのである。
 そこにおいて、凹i(他者)が開けても、連続化されているので、差異化されずに、同一性を引きずるのである。つまり、純粋差異、純粋差異共振は生起しないのである。
 思うに、誤まれる神秘主義はそれであるし、ポスト・モダン(ポスト構造主義)もそれであると考えられる。
 ここにおいて、不連続化の意義があるのである。不連続化、切断によって、差異と同一性が絶対的に分離するのである。すなわち、差異共振様態と連続的同一性様態に分離するのである。それらは言い換えると、精神様態と物質様態である。
 では、本件の問題を考えると、自己とは当然、両者をもつものである。自我とは後者である。
 では個とは何か。私はこれまで、個=他者であると言ってきた。すると、個とは純粋差異における凹iのことであると考えられる。つまり、自己における他者というlことになる。
 最後に、シュタイナーのichであるが、それは、自我というよりは、自己であるが、正確に言うと、差異共振様態と連続的様態の並立であろう。
 物質世界に生きる為には、自我(連続態)は必要であるが、それは、仮象的である。根本、本質は差異共振様態である。
 
追記:問題の一つは、凸iとは具体的に何かということである。
 連続的自己において、凸iと凸が一体化する。同一性的自己である。
 では、純粋な凸iとは何かである。凸(+1)とは分離している凸iとは何か、である。凹iは他者であるにのに対して、凸iとは何か、である。
 これは、父権的自己ではないだろうか。それに対して、凹iは母権的自己ということではないだろうか。
 プラトンのコーラとは後者ではないだろうか。
 男性的自己の尊大さは、凸iに拠るだろう。そして、それが、凸(+1)と連続化して、同一性自己(自我)となる。それは又、近代合理主義の原型と思われる。
 次に、個について再考したい。直観では個は確かに、凹iを指すものの、凸iが存在が微妙である。
 しかし、今、凸iを父権的自己としたのだから、個である凹iは凸iとは直接関係をもたないのではないか。
 個は凸i的な尊大さを否定するものである。つまり、凸i*凹iにおいて、凹iに傾斜があると思われる。
 凹iに傾斜をもたせることによって、脱父権的自己になると思われるのである。
 直観では、凸iは存するが、静止的、空的になっているのである。単に容物的である。同一性の容物である。そして、主体は他者


2011年07月15日(Fri)▲ページの先頭へ
日本の政治は構造主義:背後の力は米帝国権力
日本の政治の二項対立の背後にある超越的力とは米帝国権力と考えられないだろうか。
 本来、独立国は「個」としての政治的意思をもたなくてはいけないが、「個」を喪失した日本国は、二項対立が常に政局的に変動しているように思える。
 これは、精神的フィルター的構造主義ではないだろうか。連続的同一性自我意識があり、それが二項対立なのである。しかしながら、無意識をコントロールしていないので、米帝国権力によって支配されているということではないだろうか。
 つまり、米帝国権力が日本国政治の無意識になっているということである。父権的傾斜の力学である。
 日本国の政治が自身の無意識の力と米帝国権力とを重ねているのではないだろうか。
 換言すると、政治のmedia pointを恐れて、それと米帝国権力と重ねているのではないのか。即ち、日本国政治は自己固有の東洋的政治権力を恐れているのではないのだろうか。それは、戦後の日本国の被支配的政治スタイルだろう。日本民族の固有的権力が奪われたのである。
 後で整理したい。
 
民主、支持率下落に危機・虚脱感=野党、即時退陣を重ねて要求−時事世論調査

 菅内閣の支持率が2009年9月の政権交代以降最低の12・5%にまで落ち込んだことで、民主党内では党の先行きへの危機感や菅直人 首相を退陣させる手だてが見当たらないことによる虚脱感が広がった。一方、野党側は、首相の即時退陣を改めて求めた。
 民主党の岡田克也 幹事長は14日の記者会見で「しっかりと与党議員としての責任を果たすことが求められている」と述べ、特例公債法案の成立など首相が挙げる「退陣3条件」の達成に引き続き全力で取り組む考えを示した。
 もっとも、6月2日に退陣表明しながら居座り続け、新たな政策課題を打ち出す首相だけに、仮に3条件が達成されても辞任する保証はない。党幹部は「議員一人一人が受け止めないと信頼回復はできない」と危機感をあらわにし、若手議員の一人は「首相は支持率に関係なく続投する気だ。森内閣での最低記録(9・6%)を抜けるよう頑張ってほしい」と、皮肉交じりに語った。渡部恒三 最高顧問は記者団に「党の国会議員も、一人か二人を除けば、『一日も早く辞めてほしい』と思っている」と指摘した。
 これに対し、自民党の谷垣禎一 総裁は14日の記者会見で「国民からレッドカードを突き付けられている状況。大胆な政策展開は不可能だ」と、首相の続投を認めない立場を強調した。その一方、党内では、特例公債法案の成立に抵抗し、不人気の菅首相を衆院解散に追い込む戦略もささやかれ始めている。別の党幹部は「菅首相に解散してもらうのがベストだ」と述べた。
 公明党の山口那津男代表は取材に「一刻も早い退陣」を迫りつつも、「被災者のため、政府・与党と協議していく」と、必要な協力には応じる姿勢を示した。共産党の志位和夫 委員長は「(国民は)この内閣では国難への対応能力がないと判定している」とし、みんなの党の渡辺喜美 代表は「国会が首相の首を切れないなら、解散・総選挙で国民に首切りをしてもらうしかない」と解散を求めた。(2011/07/14-20:42)


http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&rel=j7&k=2011071400906


2011年07月10日(Sun)▲ページの先頭へ
「気」とは何か:東京の空気と田舎・郊外の空気:同一性体と多元差異共振体
後で考察を展開するが、一言言うと、経験・体験から、明らかに、田舎・郊外の空気と東京の空気は質的に異なる。
 私は1979年から2009年まで東京の区内に住んでいたし、その他、農業地帯の田舎には16年間、また、ここ十数年に頻繁に田舎に帰っているし、今2年間であるが、郊外(国道が近くにあるが、その向こうには、かなり大きな森や畑がある)に住んでいる。
 だから、長い経験・体験を経た実感、肌・皮膚の感覚で言うのである。一時の印象ではない。
 直観では、田舎・郊外の空気(以下、自然的空気)は有機体的、差異共振的であるのに対して、東京の空気(以下、都市的空気)は無機的、物質的である。
 思うに、自然的空気(以下、自然気)は、植物から排出される酸素や二酸化炭素や水蒸気が有機的、差異共振的である。多元的差異共振様態をもっていると思われるのである。つまり、単独で孤立しているのではなく、media pointで「つながりあって」いるのである。そう、media resonanceを形成しているのである。
 ということは、自然気とは、media pointによるmedia resonanceによって産出されるということではないだろうか。
 それに対して、都市的空気(以下、都市気)は、media resonanceがなく、単に、物質体としての酸素、二酸化炭素、水蒸気等が併存、混合しているように思える。
 差異共振様態が欠落しているのである。故に、感触は不快なのである(都市気は「痛く」感じる)。
 生命体、精神的生命体を考えると、それは、差異共振体であるから、当然、自然気と調和するのであり、都市気とは相反すると考えられる。
 健康から言うと、前者が肯定的であり、後者は否定的である。
 都市、大都市に住むと明らかに健康に悪い。
 後、問題点は物質的文化である。建築物や乗り物等である。そして、物質主義的な人間の集合である。
 これは、明らかに、差異共振波動がないので、精神を物質化するように思えるのである。この点は検討課題である。
 今、差異共振「波動」という言葉を単純に使用したが、これは、量子論的である。そう、何度も既述したが、量子は差異共振子と見るといいのである。差異双極子である。当然、PS理論的に見るのである。
 虚軸の領域は差異共振波動でいいように思えるのである。しかし、それは、端的に、気波動である。エーテル体である。それが、media pointを介して、粒子、物質を発現・形成すると考えられるのである。
 以前述べたように、長距離相関問題であるが、それは、虚軸の双極子を考えれば、疑似問題である。そう、量子力学は気(精神的双極子)と物質をまだ混同しているのである。
 量子力学は精神波動力学となるべきである。


2011年07月09日(Sat)▲ページの先頭へ
凹iの問題:連続的凹i(同一性体)と不連続的凹i(media point的極性)
【人間認識図】
by Mr. Kaisetu with Mr. Seiseimon's collaboration

人間認識図では、悪徳の領域は第四象限に置かれる。それは、凹iと凸によって形成される領域である。
 そして、最深の領域は第三象限であり、凹iと凹によって形成される領域である。
 つまり、最高の領域と最悪の領域の両方に凹iが関わるのであるが、この力学を明確にする必要がある。
 これは、結局、連続性と不連続性の問題である。連続性において、凹iは凸と結合するのであり、そこで自我感情・欲望(利己主義)が「発達」するのである。
 しかしながら、同時に、凹iは不連続的には凸iと純粋共振して、凹との融合を保持するのである。つまり、凹iとは連続性においては、エゴイズムを形成して、不連続性においては、利他主義を形成するのである。
 これで、一応、凹iの力学を説いたが、問題は近代主義である。それは、連続性中心なので、不連続性において、保持する精神世界を喪失してしまうのであり、物質世界、機械論的世界が中心化されるのである。
 さて、ここで、存在論について簡単に触れると、凸iが認識に関わるのであり、凹iが直観・直感に関わるとするならば、存在は当然、凹iに関わると言えよう。
 思うに、私が個体に特異性、絶対的差異性を認めるのは、結局、凹iと凹との結合においてであろう。
 物質体は凸であり、それは同一性体であり、存在ではない。存在は言い換えると、media pointに存すると言えるかもしれない。勿論、存在は超越的存在と関係するのである。
 ハイデガーの存在論の欠点は、物質体=同一性体を形成する存在を中心化していることであり、それは、連続的存在に過ぎないのであり、PS理論的には精神的フィルターを存在と呼んでいると考えられる。
 何度も既述したが、ポスト・モダン(ポスト構造主義を含む)はハイデガー存在論の影響が大きく、その連続的視点を継承してしまっているのであり、そのため、とりわけ、ドゥルーズ「哲学」は唯物論に捕らえられているのであり、また、デリダ「哲学」も物質主義から逃れられず、超越的精神世界を肯定することができなかったのである。
 フッサール現象学は実は、不連続論であるが、それを不肖の弟子のハイデガーは捉えられずに、現象学を連続論に堕させたのである。

追記:連続的凹iによって、嫉み、怨恨、悪意、等が説明できる。犯罪はここから生まれる。思うに、シュタイナーが悪とはかつて善であったものが進化できなくなったものであると説いているが、凹iを不連続化することが進化と言えよう。とまれ、悪と善は凹iという共通点をもつのであり、悪も不連続化を為せば、善に変わるのである。マニ教の仁慈原則:悪を善に変容させる。

参照:

Wikipedia
マルティン・ハイデッガー
・・・
存在の意味と現象学的方法 [編集 ]

この著作でハイデッガーは、存在者と存在一般を区別した上で、存在の意味についての問い―存在者が存在する(Sein)という意味はどういうことなのか?―を明らかにしようとした。これは存在論の根幹をなす問いであり、存在者としての存在(「在るもの」として「在ること」)についての研究としてアリストテレス によって定義された(『形而上学 』)。この問題に関しては、命題論理的な見地から展開されたアリストテレスとカント 以来の(それぞれの哲学的立場は大きく異なるが)伝統があるにも関わらず、ハイデッガーはそこから離れたアプローチをとった。この伝統には、「理論的な知識はひとりの人間と彼を取り巻く(彼自身も含めた)世界内の存在との根源的な関係を意味する」という命題が内在しているためである。

この命題を峻拒してハイデッガーがとったのは現象学 的な方法である。この方法を徹底させることにより、現象学を定式化したフッサールのうちにすらなお見られたアリストテレス的/カント的な認知主義 の残滓を一掃しようと考えたのである。フッサールと同様に、ハイデッガーは志向性の現象を考察することから始めた。人間の行為は、何らかの対象や目的を(建築という行為ならば建物を、会話ならば話題を)目指す限りにおいて志向性をもっている。ハイデッガーは志向性を「関心(Sorge)」と呼ぶが、これは「不安(Angst)」の肯定的側面を反映している。ここでいう「関心」は志向的存在に関する基本的な概念であり、存在的 なあり方(ただ単にあるだけの存在)とは区別された存在論的 なあり方(存在という問題に向き合いながら存在すること)として、存在論的に意味付けられたものである。

註:存在者が存在することは前提的に了解した上でその性質や他の存在者との関係などを問う態度を存在的(ontischen)といい、自然科学 などがこれにあたる。存在論的(ontologisch)とは、存在者が存在することそのものを問う態度を指し、形而上学や現象学がこれにあたるが、ハイデッガーはこれらも不十分であるとの考えに立ちながら『存在と時間』を書いた。

理論的な知識が表現するのは志向的な行為のうちの一種にすぎず、それが基づいているのは周囲の世界との日常的な関わり方(約束事)の基本形態であって、それらの根本的な基礎である存在ではないとハイデッガーは主張する。彼は「実存的了解」(実存を実存それ自体に即して了解する)と、「実存論的了解」(何が実存を構成するかについての理論的分析)の二種類に分類した。これは、「存在的―存在論的」と呼応するものであるが、人間存在に範囲を限定したものである。ものは、それが日常的な約束事のコンテクスト(これをハイデッガーは「世界」と呼ぶ)の中に「開示される」限りにおいて、そのような存在者である(そのように存在する)のであって、そのコンテクストを離れても客観的に認められる固有性をもっているからではない。カナヅチがカナヅチであるのは、特定のカナヅチ的性質をもっているからではなく、釘を打つのに使えるからなのである。
デカルト批判と現存在 [編集 ]

こうした方法はまた、デカルト 的な実体のない「われ」――純粋な思惟者としての「われ」――の否認を必要とする。デカルトが「われ思う」だけは疑いえないものとしたとき、思っている「われ」の存在様式は無規定のまま放置されたとハイデッガーは述べている。その一方でハイデッガーは、人間の行為に関するいかなる分析も「われわれは世界の中にいる」という事実から(世界を「抽象的に」見る風潮に則らずに)始めなければならない、したがって人間の実存に関して最も根本的な事柄はわれわれの「世界=内=存在(In-der-Welt-sein)」であると主張した。人間もしくは現存在 (Da- sein)とは、世界の中で活動する具象的存在なのだということをハイデッガーは強調した。したがって彼は、デカルト以来ほとんどすべての哲学者が自明のこととして依拠する「主観 ― 客観」という区別をも拒否し、さらには意識、自我、人間といった語の使用も避けた(ハイデッガーは「人間」の代わりに「現存在 (Da-sein)」という)。これらはいずれもハイデッガーの企図にはそぐわないデカルト的二元論 のもとにあるためである。

ものがわれわれにとって意味をなすのは、そのものがある特定のコンテクストの中で使用できるためであり、そしてこのコンテクストは社会的規範によって定義される。しかし、元来こうした規範はみな偶発的で不確定なものである。こうした偶然性は、不安という根源的な現象によって明らかにされる。この不安の中に、すべての規範が投げ出され、ものは本来の無意味さの中に、特になにものでもないものとして開示される(少なからぬ実存主義者によるハイデッガー解釈に反して、これは実存のすべてが不条理なものであるということを意味しない。正確にいうならば、実存がつねに不条理の可能性を抱えているということである)。不安の経験は現存在の本来的な有限性をあらわにする。

存在者が開示されうる(コンテクストにおいて有意味にであれ、不安の経験において無意味にであれ)という事実は、いずれにせよ存在者は開示されうるという先行する事実に基づいている。ハイデッガーはそうした存在者の開示を「真実」と呼んだが、これは正しさというよりは「隠れのなさ」と定義される。この「存在者の真実」(存在者による自己発見)は、より本源的な種類の真実を含む。すなわち「存在者の存在が隠されていない、明るみに出された存在者の発露」である。これはギリシア語で「アレテイア (αληθεια)」と呼ばれ、アリストテレスやヘラクレイトス からハイデッガーによって引き出された概念である。

ハイデッガーにとって、現存在を規定するのはこの存在の隠れなさである。ハイデッガーの用語「現存在」とは、おのれの存在を関心事とする存在者であり、また、おのれの存在をそのように開示させる存在者である。ハイデッガーが存在の意味についての探求を現存在の本質についての探求とともに始めたのはこうしたわけである。存在の隠れなさは基本的に現世的かつ歴史的な、非計測的な時のうちでの現象である(本書を『存在と時間』と題したのもこのためである)。われわれが過去・現在・未来と呼ぶものは本来この隠れなさの見地に照応するものであり、時計によって測定される均一的な数値化された時間における排他的な三区域のことではない(難解をもって知られるこの本の最終章においてハイデッガーが証明を試みたように、時計の時間もまた隠れのない本来の時間から派生したものではあるが)。
解釈学 [編集 ]

総体的な存在了解は、現存在固有の存在に関する潜在的な知識を説明することによってのみ到達できる。ゆえに哲学は解釈という形をとる。これが、『存在と時間』におけるハイデッガーの手法がしばしば解釈学 的現象学と呼ばれるゆえんである。『存在と時間』は未完に終わったため、全体的な計画に関するハイデッガーの宣言や、現存在とその時間内的な限界についての緊密な分析と解釈をなし遂げてはいるが、そのような解釈学的手法により「存在一般の意味」を解明するまでには至らなかった。しかし、その野心的な企図は後の著作において異なる方法によりながら執拗に追求されることとなる。

カント は『純粋理性批判 』の序文で、外的世界の存在に関する完全な証明がいまだなされていないことを「哲学のスキャンダル」だと嘆いた(自分の著書がそれを与えるのだと自負した)が、ハイデッガーにいわせればそのような証明ばかりが求められることこそ哲学のスキャンダルであった(本書第1篇第6章第43節)。同時に彼の企図は非常に野心的であり、生物学 、物理学 、心理学 、歴史学 といった存在的 なカテゴリーにおいて研究される特定の事物の存在には関心がなく、追求したのは存在一般についての問い、すなわち「なぜ何も無いのではなく、何かが存在するのか」(ライプニッツ )といった存在論的 な問いであった。われわれにとってあまりにも近く自明なものである「存在一般」への問いこそ何よりも困難なものである。

ハイデッガーはこうした問いに対し、「いかにしてわれわれは世界と具体的かつ非論理的な方法で遭遇するか」「いかにして歴史や伝統がわれわれに影響を与え、われわれによって形成されるか」「事実上いかにしてわれわれはともに生きているか」「そしていかにしてわれわれは言語やその意味を歴史的に形成するか」といったことに注視するという最も具体的な方法をもって取り組んだ。
存在の哲学 [編集 ]

ハイデガーの見地においては、行為に対する理論の伝統的優位が逆転される。彼にとって理論的な見解というものは人工的なものであり、関わり合いを欠いたまま事物を見ることによってもたらされるものであり、そうした経験は「平板化」(Nivellierung)されたものである。こうした態度は、ハイデッガーによって「客体的」(vorhanden=すでに手のうちにある)と呼ばれ、相互行為 のより根源的なあり方である「用具的」(zuhanden=手の届くところにある)な態度に寄生的な欠如態とされる。寄生的というのは、歴史のうちにおいてわれわれは、世界に対して科学的ないし中立的な態度をもちうるよりも前に、まず第一に世界に対する何らかの態度や心構えをもたなければならないという観念においてのことである。

客体的存在と用具的存在に加えて、現存在の第三の様態として「共同存在」(mitsein)があり、これが現存在の本質となる。他者とは、孤立して存在する単一の主体「私」を除いたすべての人びとのことではなく、たいていの場合はひとが自分自身とは区別していない(ともにある)人びとのことである。例えば、「私」が作物を踏み潰したり土を踏み固めてしまわないよう注意しながら畑の周りを歩くとき、この畑は「私」にとって道具的なものであるが、同時に「誰か」の所有地として、あるいは「誰か」に手入れされている(他の「誰か」にとっても道具的である)ものとしても現れる。この「誰か」たる農夫は、「私」が思考のうちでその畑に付け加えたものではない。なぜなら、畑が耕され手入れされているという事実を通してすでに農夫は自らを現しているからである。このようにしてわれわれは世界内において他者と出会うのであり、またこうして現存在が他者と出会いともにある存在の仕方が「共同存在」であるとハイデッガーは述べる。

「共同存在」には好ましからぬ側面もあり、ハイデッガーは「世間」という語を用いてそれに言及する。つまりニュースやゴシップでしばしば見られるように、「世間では〜といわれている」というとき、一般化して断定したり、一切のコンテクストを無視してそれをやり過ごそうとしたりする傾向があるということである。何が信頼に値し、何が信頼に値しないのかという実存的概念が「世間」という考えに依拠して求められるのである。たんに群集のあとを追って他の人々に習うだけでは何の妥当性も保証されないし、社会的・歴史的状況から完全にかけ離れたことが妥当なことだとみなすことなどできないにもかかわらず、「世間」がその平均性のみを妥当なものとして指示するのである(本書第1篇第4章第26 - 27節)。

* (百科事典)「マルティン・ハイデッガー」 - インターネット哲学百科事典 にある「マルティン・ハイデッガー」についての項目。(英語)

The Quest for the Meaning of Being


   




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