INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2011/04

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2011年04月19日(Tue)▲ページの先頭へ
水素:原子方程式(仮説):陽子(凸i)*電子(凹i)⇒水素(凸:+1)
テーマ:科学研究

水素は陽子と電子から成る。
 ここで、閃きから言うと、陽子は陽電荷をもち、電子は陰電荷をもつので、陽子を凸i、電子を凹iと作業仮設する。
 
陽子(凸i)*電子(凹i)⇒水素(凸:+1)

ということになる。
 ならば、陰陽論における「陽」を陽子、「陰」を電子と仮説することができる。
 問題は、中性子であり、中間子である。
ウィキペディアには次のように書かれている。

「中性子は、電荷 がゼロ(中性)の原子より小さな粒子で、質量 は1.674 927 211(84)×10-27kg (939.565 346(23)MeV)[[1] ] であり、同じ核子である陽子 よりわずかに大きいだけである。そこで、陽子と中性子をあわせて、アイソスピンが1/2の核子 と呼び、+1/2の状態が陽子、-1/2の状態が中性子であるとする。

直径は約1fm。原子核の外ではわずかな例外を除いて中性子は不安定であり、陽子と電子 および反電子ニュートリノ に崩壊する。平均寿命 は886.7±1.9秒(約15分)、半減期 は約10分。

\mathrm{n}\rightarrow\mathrm{p}+\mathrm{e}^-+\bar{\nu}_e + 0.78\,\mathrm{MeV}

同様な崩壊(ベータ崩壊 )が何種類かの原子核においても起こる。核内の粒子(核子)は、中性子と陽子の間の共鳴 状態であり、中性子と陽子は互いにパイ中間子 を放出・吸収して移り変わっている。中性子はバリオン の一種であり、ヴァレンス・クォーク模型 の見方をとれば、2個のダウンクォーク と1個のアップクォークで構成されている。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%80%A7%E5%AD%90


「中性子は不安定であり、陽子と電子 および反電子ニュートリノ に崩壊する」と書かれている。

 これから推察できるのは、中性子とは水素の変異体ではないかということである。

 そうならば、基本、原型は水素であるということになるのではないだろうか。しかし、問題は、反電子ニュートリノである。これはいったい何か。

 直観では、PS理論の凹に関係するのではないだろうか。これは留めておく。

 とまれ、中性子を作業仮説的に、水素に還元するならば、水素以外の原子は水素の変容と見ることができるのではないだろうか。それも作業仮説とする。

 直観では、水素と水素の変容としての中性子との結合が水素以外の諸原子となる。この力学については今はおいておく。

 そうすると、結局、原子は水素に還元される。だから、やはり、


陽子(凸i)*電子(凹i)⇒水素(凸:+1)


が基本となる。

 では、これは何を意味するのか。

 少し視点を変えると、原子核はどう説明されるのか。当然、陽子(凸i)が原子核となる。これを帰納すると、すべての原子核は凸iで記述される。

 ならば、自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)は、原子方程式とも見ることができる。

 では、media pointは何になるとかと言えば、それは中間子ではないだろうか。

 そうならば、中間子=media pointにこそ、超越的存在が作用していることになるだろう。

 そう、『気』とはこの中間子を指しているのではないだろうか。

 今はここで留める。

 


2011年04月15日(Fri)▲ページの先頭へ
media pointの二つの様態:凹i主導の陰陽と凸i主導の自我的同一性
media pointの二つの様態:凹i主導の陰陽と凸i主導の自我的同一性

テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1) Thu, April 14, 2011

先に、凹⇒凹i*凸i⇒凸i*凹i⇒凸という創造の数式を提起し、凹i*凸iにおいては、凹iが主導的であり、凸i*凹iにおいては、凸iが主導的であると述べた。
 これは、一般的に自然のことではなく、人間についてである。なぜなら、自然の場合は凸iと凹iの極性バランスがとれていると考えられるからである。
 思うに、人間の精神現象における二重性を公理として説く必要があるだろう。即ち、凹i*凸iの母権的差異共振であり、凸i*凹iの父権的差異共振である。前者は差異共立を含んでいるが、後者は連続的同一性を帰結すると考えられる。
 日本の伝統文化である『肚』というものは、前者を意味していると考えられる。
 とまれ、確認したいのは、凹i主導の陰陽性と凸i主導の連続的同一性の絶対的相違のことである。そう、両者は不連続であり、一致点はないのである。
 私はこれまで、直観・直感と呼んだもの、前者の差異共振に存すると考えられる。閃きの「光」は、差異共振の光だと思う。直観の「観」は、凸iに、直感の「感」は凹iに存するのではないだろうか。
 日常意識においては、後者の連続的同一性が支配しているのであり、その連続的同一性様態における凸iが視覚となって、可視界を視覚していると思う。
 しかし、ここに視覚の不思議な二重性が生じると考えられるのである。
 私が以前、通常の光に超越光を感じると言ったが、それは、これで説明できるだろう。
 即ち、凸iにおいては、凹iとの差異共振(母権主義)に拠る、いわば、超越的光が出現するのであり、同時に、差異共振(父権主義)から生まれる連続的同一性体においては、通常の光を凸iが感知されると考えられるのである。
 つまり、凸iとは第三象限の超越光と第一象限の現象光の二つを同時に視覚するということになると考えられる。
 今はここで留める。


仮説:二つの民族の混成としての日本:原基のアジア複合的母権民族と遊牧民的父権民族

テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本 Thu, April 14, 2011

日本の政治、そして、それを支える愚民を見ると、やはり、日本は二つの民族の混成であるとほぼ確信するようになった。
 古代日本は母権民族・文化が強く、父権民族を制御して、創造的な国であったと思う。
 この二つ民族・文化の様態が時代とともに、変容するが、父権民族・文化の硬直の後には、母権民族・文化の新たな発動があったと思う。例えば、鎌倉時代の宗教の勃興はそういうものと考えられる。
 しかしながら、江戸・徳川時代となると、原基の母権性が衰退し、父権主義が独立的に力ももつようになったと思う。
 もっとも、先に述べたように、母権と父権の均衡した両権制は衰退して、母権と父権が分離して、それぞれ、発展するようになったと思われる。つまり、新母権路線と新父権路線が生じたのであり、その対立的状況から明治維新が生まれ、結局、後者が前者を駆逐される過程で、「近代日本」が生まれたと思われる。
 この父権民族・文化の支配化が、今日の日本を作ったと思われる。それは、父権的自我優越妄想主義であり、愚劣・愚鈍なのである。
 ここで欧米民族・文化について言うと、確かに父権的民族・文化であるが、これまで述べたように、イタリア・ルネサンスを経ているので、『個』の自由がベースにあるのである。だから、父権的自我があるとは言え、『個』的意識がベースにあるので、合理・科学的判断ができるのである。
 しかるに、日本の場合は、統合が分裂して、父権主義が分離・独立して、父権的自我優越妄想主義が支配的になったと考えられるのである。
 そして、この帰結が、今日の菅・民主党政権に発現していると考えられるのである。
 今はここで留める。

参考:

☆「天皇制」と封建制:近代日本の封建的国家体制:父権的自我優越妄想主義:トランセンデント・モダン

☆父権的自我が資本主義と連続する:父権的自我の資本主義的被洗脳:新母権的個的「内臓」精神へ

☆自我と個について:「わたし」とは何か:凹⇒凹i*凸i⇒凸i*凹i⇒凸


2011年04月12日(Tue)▲ページの先頭へ
仮説:『科学』とは何か:その2:凸iに傾斜する(父権化)と絶対性が連続化され、合理性が歪曲される
テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

直近において、『科学』について考察した。(仮説:『科学』とは何か:物質的法則は絶対的であり、基準値はそれに準拠するものと考えるべきである )
 そこでは、凸i*凹i⇒が絶対的法則を意味すると述べた。
 しかし、そう述べる前には、直観では、凹iが絶対的法則ではないかと思ったのである。この点に関連して考察を行ないたい。
 差異共振エネルギーは法則的であり、その根源は虚軸に存するのである。
 それは、ジェンダー論的に言えば、母権的なのである。何故なら、凸iの自我(父権的)傾斜がそこにはないからである。
 ここで注意すべきは物質世界の法則と人間認識の相違である。物質世界の根源は差異共振であると言えるし、人間の認識の根源もそうであるが、人間認識の場合、物質世界と異なり、凸i(陽)に傾斜している点を確認しないといけないと考えられるのである。
 つまり、凸iの傾斜を押さえる為、凹iを重視して均衡を取る必要があると考えられるのである。
 その点から見ると、私が絶対的法則は凹iにあるのではないかと言ったことは、人間認識に関しては正しい。しかしながら、法則は差異共振であり、凸iと凹iとの均衡に存すると言える。
 さて、以上で、前提が整ったので、本題に入ると、『科学』とは二重性をもつことがわかる。即ち、差異共振的法則と人間的認識の二重性である。
 もし、後者において、父権的自我、凸iの傾斜をもつと、それは、連続的同一性を生み出すので、法則と自我とが一体化してしまうと言えよう。
 それは、法則と自我とが混同されているのであり、正しく法則を認識できないことになる。つまり、現実的には、自我の都合で、利己主義的に、法則を歪曲することが起ると考えられるのである。
 故に、科学者は認識において、凹i(陰)に基盤をおくべきと考えられるのである。
 そのような意識がないと、自我と連続化しているので、法則の独立性が保てなくなると言えよう。
 ここで、『科学』を研究する人間が父権的自我の持ち主であったとすれば、それは、『科学』を必然的に捩じ曲げることになるだろう。
 そして、あえて言えば、それが、今日、現代、日本の『科学』領域に起っていることではないかと考えられるのである。
 つまり、『科学』が自我的志向(利己主義)によって、反『科学』あるいは似非『科学』にされるということである。
 カントは超越論的形式という物質界への認識様式を説いたが、差異共振とは超越的法則ということができるのであり、それは、自我的認識・意識から独立するものなのである。
 この『科学』の超越性を認識しないならば、それは、『科学』を邪道化するものと言えよう。
 利己主義によって、絶対的法則を都合よく解釈することに帰結すると考えられるのである。
 この点で、資本主義の利己主義と『科学』が結びついたのは不幸であったと言えよう。また、その物質的手段として、『技術』があるのであるが、それは、本来、『科学』とは異質なものであると言えよう。
 『技術』は『科学』に拠るものとは言え、それは、『科学』の物質的応用と言えよう。つまり、『科学』から『技術』への転換において、自我、利己主義が入ってくることが考えられるのである。
 そう、ここでも、『科学』が偏向すると言えよう。
 とまれ、日本においては、母権的個と父権的自我の二つの「精神」があるが、明治維新以降、とりわけ、戦後以降、父権的自我が支配的であり、『科学』を『技術』と結びついた資本主義に癒着させてきたのであり、そのために、『科学』本来の超越性が無視されてきたと考えられるのである。


2011年04月11日(Mon)▲ページの先頭へ
仮説:『科学』とは何か:物質的法則は絶対的であり、基準値はそれに準拠するものと考えるべきである
放射能の基準値を日本政府は変化させたし、また、食品に関して、米国と日本では数値が1ケタことなるのである。
 基準値を簡単に変更できるものなのだろうか。それは、原則としては、絶対的基準ではないだろうか。
 ここで、科学を哲学してみよう。
 物質科学を対象とする。例えば、水の氷点と沸点は、それぞれ、零度と百度であることは常識である。勿論、気圧が関係するが、ここでは無視する。
 その物質科学の法則は、物質領域においては、絶対的である。それは、相対的なものではない。
 PS理論から見てみたい。
 いったい、物質世界の法則とは何か。物質は凸ないし+1とPS理論では表記する。
 では、そこに法則があるのだろうか。それは当然、違う。凸、+1は、物質的現象であり、法則ではない。法則は、数式を使って、表記される。
 水の例を考えよう。化学記号はH20である。これは、物質であり、凸、+1に属する。
 しかし、氷点や沸点は、凸、+1からは説明できないだろう。水とは、PS理論では、Hプラス・イオンとOマイナス・イオンが差異共振したものである。それは、虚軸に存するのである。即ち、Hプラス・イオンは凸iとなり、Oマイナス・イオンは凹iとなる。これは、虚数である。
 氷点や沸点とは虚軸において形成されるものと考えられる。即ち、差異共振エネルギーが減衰すると、氷点となり、結氷して個体になるのであり、差異共振エネルギーが増加すると、沸点となり、水蒸気という気体になるのである。
 だから、法則は差異共振エネルギーが発動する、虚軸に存することになる。即ち、凸i*凹i⇒が法則である。
 そして、これは、一種の超越数であろう。当然、実数ではないのである。
 これは、差異であり、絶対的ということである。
故に、放射能汚染に関する基準値であるが、それは、当然、物質的法則に基づくものであるから、絶対的なものでなくてはならない。もっとも、知見の発展によって、絶対的数値は変動するだろうが、性格はあくまで、絶対的である。
 故に、日本政府のように基準値を簡単に、便宜的に変更するというのは、反科学的ということになるだろう。
 まったく、恣意的、ご都合主義である。これは、自己保身に根差した、利己主義的態度であり、科学を辱めるものであり、また、人命の軽視、無視につながるものと言えよう。


参考:
170ベクレル以上で輸入規制=食品中のヨウ素検出で―米国

2011年3月29日16時55分


 【ワシントン時事】米食品医薬品局(FDA)の広報担当者は28日、福島第1原発の事故に関連し、日本からの輸入食品について、1キロ当たり170ベクレルを上回る放射性ヨウ素131を検出した場合には輸入を差し止めるとの規制方針を明らかにした。生鮮食品など保存期間が短いものは業者側に引き取りを求め、冷凍食品などについては一時保管し、基準を下回った場合には米国内での流通を認めるケースもあるとしている。

 FDAによると、米国では放射性ヨウ素131に対する規制として、食品については1キロ170ベクレルを政府による「介入レベル」と規定、国民が大量摂取しないようにするための保護措置を講じる。ただ、この介入基準を上回る量を摂取した場合に健康に影響が出ると認定しているわけではないという。

 日本はヨウ素131について、飲料水は1キロ当たり300ベクレル、野菜類は同2000ベクレルを暫定規制値としている。 



[時事通信社]

http://www.asahi.com/international/jiji/JJT201103290068.html


【DOL特別レポート】
放射能汚染を巡る日本人の誤解と政府の説明責任――チェルノブイリの惨状を知る被曝治療の権威ロバート・ゲイル博士に聞く   2011.04.06
http://diamond.jp/articles/-/11772




きゃな
AmberSambo きゃな

『避難の指示もなく「安全」と言い続けた政府が、事故から1カ月もたって突如出した、あいまいな指示』(安全)と(大丈夫) ←聞けば聞くほど不安になる言葉になっちゃった… 悲しいね。
http://twitter.com/#!/AmberSambo


2011年04月09日(Sat)▲ページの先頭へ
自我と個について:「わたし」とは何か:凹⇒凹i*凸i⇒凸i*凹i⇒凸
テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

自我は凸i、個は凹iと言えるのではないか。とまれ、今は、自我とは何か、個とは何かを考えたい。
 私が考えるとは、直感的に考える、つまり、内省、省察するということである。(思うに、思考と内省・省察は異なるのではないだろうか。前者は頭で考えるのであり、後者は、内面的に考えるのであるから。だから、いわば、外考と内考があると言うことができる。近代主義は当然、前者に傾斜しているのである。哲学は後者である。)
 この問題で私が参照するのは、人智学のルドルフ・シュタイナーである。彼は、人間における自我を重視している。もっとも、彼の自我とはich(「わたし」)のことであるが。
 ここでは有り体に考えよう。いったい、自我とは何か。確かに、外界への視覚に留意し、頭で考える存在である。
 これはデカルト的自我と言っていいだろう。コギト・エルゴ・スム。
 物質現象世界を生きる「身体」としては、そのような視点になる。自我的視点である。
 しかしながら、自我と「わたし」は同じであろうか。これが大問題である。
 自我とは、物質的現象界を生きる上で、必要な「端末」である。
 そう、物質世界において、自我が主導化する。
 この自我とは物質的な「わたし」と言えよう。だから、物質的でない「わたし」が存するのである。それは当然であるが。
 端的に、精神的な「わたし」が存するのである。
 では、精神的な「わたし」と個とはどう関係するのかが、問題である。
 これまで、私は個とは凹iであると述べてきた。又、それは、同時に他者であると述べてきた。
 だから、自我と個とは対立・矛盾するのである。否、絶対的矛盾・対立である。つまり、やはり、自我は凸iであり、個は凹iであるということになる。
 ならば、「わたし」とは何か、という問題が生じる。
 結局、「わたし」とは、両極的、対極的、双極的観念ではないだろうか。
 ここには、三一性があると言えよう。自我、個、「わたし」である。しかしながら、「わたし」は曖昧な観念である。流動的である。何故なら、常に、自我極に向いたり、個極に向いたり、常時変動しているからである。
 ここで、都合がいいので、ユング心理学の個性化について考えよう。
 ユングは自我と魂(アニマ)との統合として、自己形成=個性化を説いていた。
 だから、私の論理の文脈では、魂とは個凹iになるだろう。
 では、ユングの個性化とは何か。それは、以前述べたが、自我と魂(個)との連続的統合化であると思う。それは、混乱していると言えよう。錯誤である。
 というのは、ユングは、自我と魂(個)とが不連続であることを考えずに、その連続的統一・結合化を個性化と考えているからである。
 PS理論から言えば、自我と個(ないしは魂)は不連続であり、連続的統一化が不可能である。
 PS理論では、自我凸iと個凹iとは、差異共立且つ差異共振するのであり、常に、自我凸i・即非*・個凹iという常時変動生成状態をもつと考えられる。
 とまれ、それが「わたし」の実態であるが、いったい、主導性は何であるのかが重大な問題である。
 自我凸iが主導的なのか、個凹iがそうなのか。
 PS理論から言えば、両者が主導的である。つまり、どちらも主導的ではないと言えよう。
 ただし、傾斜の問題がある。自我凸iに傾斜したときは、差異共振は第二象限に属するし、個凹iに傾斜したときは、それは第三象限に属すると考えられる。
 そういうように考えると、両者、平等、対等、均等である。果たして、そうなのか。自我凸iと個凹iは対等なのか。
 ここでは、直感で述べよう。対等ではない。主導性は後者にあると。
 根源は個凹iに存すると考えられるのである。
 自我凸iは、個凹iのエネルギーを受けて、成立しているように感じられるのである。
 ならば、不均衡がそこにあるのである。つまり、自我凸iと個凹iとの不均衡である。
 これはどういうことなのか。つまり、本来、個凹iが基礎であり、自我凸iは二義的ではないのかということである。
 ならば、個と差異共振とはどういう関係にあるのかが問題である。
 ここで、どうも袋小路に入ってしまったようである。この点については、以前、考えたことがあるので、それを利用してみよう。
 以前の考えとは、⇒凸(+1)においては、凸iが主導的であり、凹⇒凸i*凹iにおいては、凹iが主導的であるというものである。
 これは言い換えると、前者は父権的であり、後者は母権的であるということと考えられる。
 これが、事象の力学(秘密)なのであろうか。つまり、物質化のためには、凸iが主導的であり、脱物質化のためには、凹iが主導的であるということなのか。
 そうならば、端的に、事象において、不均衡、非対称が本質であるということになる。
 これも以前述べたことかもしれないが、超越的存在の凹が分化(自己分割)して、凹i*凸iを産出する。このとき、凹は直接的には、凹iに作用しているのではないだろうか。それから、主導性が凸iへと移り、次に、物質化するということになるだろう。
 言い換えると、最初は、第三象限(精神世界:光の王国)が成立し、次に、第一象限(物質世界:闇の世界)が形成するということになる。
 多くの神話で説かれる原初の混沌とは、第三象限を指しているのではないだろうか。あるいは、media pointがそうかもしれない。(これは課題とする。)そして、天地開闢ないしは天地創造は第一象限の発生を意味するのではないだろうか。
 思うに、根源の「闇」とは第三象限だと思う。それが、「闇」なのは現象世界の「光」から見てのことである。そして、混沌とはやはり、media pointだと思う。それは、「闇」と「光」の中間界であり、D. H. ロレンスのいう薄明twilightの世界(金星Venusで象徴される)である。
ということで、作業仮説的に、原初においては、凹iが主導的であり、現象発現においては凸iが主導的になるとしたい。
 言い換えると、母権が原初にあり、それから父権が生起するということであり、それは、神話学的説明にそぐうものである。
 つまり、多神教が根源にあり、その後、一神教が発生するという力学、宗教・神話力学があるということである。
 ここで、今日、現代の時代のことを考えると、今や、凸i=父権の支配は終わり、新たな凹i=母権主導になりつつあると考えられるのである。
 この力学はどう説明できるだろうか。
 思うに、新たなエポックが始まったと考えられる。これまでの支配的であった西洋文明のエポックの発動のエネルギーが枯渇して、新しいエネルギーが発動していると思われるのである。
 新たな第三象限の発動・起動・駆動である。
 では、そうならば、再び、母権から父権へと進展するのであろうか。否、そうではないだろう。これは螺旋的回帰であり、進展・進化と考えられる。
 再び、父権主義にはならないだろう。父権主義を超克した新母権主義、新母権的統合主義となろう。
 何故なら、今や、父権主義の力学が解明されて、それを克服する知恵があるからである。つまり、新たに、父権主義へ向おうとすると、母権、凹iの抑止がはたらいて、それは制御されると考えられるからである。
 今はここで留めたい。


2011年04月08日(Fri)▲ページの先頭へ
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Japonesian Apocalypse:Trans-Modern Platonic Trans-Creation のブログは以下に移動しました。 resurrectionのブログ Japonesian Trans-Apocalypse:Manichaeistic Aeonの移動
Japonesian Apocalypse:Trans-Modern Platonic Trans-Creation

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resurrectionのブログ

Japonesian Trans-Apocalypse:Manichaeistic Aeon 新しい理論、プラトニック・シナジー理論を深化させています。哲学と数学が結びついた日本の独創的理論です。是非、学んでみてください。どの領域でも扱えるマスター・キーの理論です。

http://ameblo.jp/neomanichaeism


正に我が意を得たりだが:国学の一神教性:本居宣長と平田篤胤
テーマ:歴史と文化:古代日本とアジア母権複合文化

以下、Gun2氏の説明はきわめて興味深い。明治国家体制のイデオロギー基盤は国学にあるというのが持論であるからだ(国学以外には、封建的体質も当然考えるべきであるが、「近代日本」の優越妄想・狂信性の起源は国学的一神教性と見る方が的確である)。横井小楠、勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛らの開国派は母権主義であり、尊王攘夷の父権主義と対立していたのであり、その父権主義の基盤が国学であるのは見やすいことである。
 ただ、本居宣長に一神教性があったということは管見の為、初耳であった。
 私は作業仮説として、日ユ同祖論をとり、失われたイスラエルの十支族(あるいは、そのいくらか)が到来したと見ているが、その一神教性が潜在して、国学に顕在したという可能性もあるのである。
 勿論、母権文化の衰退、頽廃もそこに同時にあることを見るべきと考える。
 しかしながら、正確に言えば、江戸時代後期において、新しい母権主義の目覚めもあったと見なくてはならないだろう。
 つまり、旧い母権主義の衰退と同時に、一神教的父権主義の台頭と新母権主義の目覚めの両面が起ったと見るのが、史実に忠実なのではないだろうか。
 そう、単に父権主義の台頭だけではなく、今、私が唱える新母権主義もそこで始まっていたと見ると、日本史が変わるだろう。
 つまり、明治維新とは、新父権主義と新母権主義の絶対矛盾の衝突があり、前者が後者を駆逐していったのが、日本の「近代化」ということになる。
 そう、二つの「文化」、「民族」が平行しているのであり、父権主義の日本が母権主義の日本を支配しているのである。
 後で、整理したい。

追記:私は先に、母権制のベースに、父権制が「侵入」して、古代ギリシア的な二つの民族・文化の統合が古代日本にも生じたのではないかと述べた。これを仮に、両権制と呼んでおこう。
 その視点から言うと、両権制は、江戸時代中期以降、衰退して、いわば、解体分離し始めて、新たな父権主義、新たな母権主義が別々に勃興したのが、後期江戸時代と見ることができる。
 思うに、本来、両権制が基本であるから、明治維新は、新両権制になるべきであったが、国学且つ封建的父権主義勢力は、西欧近代の影響も受けて、原基の母権主義を駆逐していったのが、近代日本ということになる。
 正に、失われた母権制と両権制があるということになる。
 
***********************

本居宣長の国学

「そこで、遅ればせながら、ぼくは目下、この年になってこれまで遠ざけてきた江戸の国学について初歩のところから学び直している。


 そして、とても驚いたことが一つある。


 本居宣長こそ、江戸の国学の泰斗であると言えると思うが、彼が古事記などを通して解釈し直した天皇は、まさに一神教の神様としての天皇だったという事実である。


 日本は八百万の神々の国であるとこれまで当然のように思っていたが、そうではなく、近現代の日本を作り上げた精神的バックボーンは彼とともに一神教的解釈からスタートしたようなのである。」

http://ameblo.jp/adco/entry-10854337167.html


Gun2



国学(こくがく)は、日本 の江戸時代 中期に勃興した学問 で、蘭学 と並び江戸時代を代表する学問の一つである。和学・皇朝学・古学(古道 学)などの別名がある。


概要 [編集 ]

それまでの「四書五経 」をはじめとする儒教 の古典 や仏典 の研究 を中心とする学問傾向を批判し、日本独自の文化 ・思想 、精神世界を日本の古典や古代 史のなかに見出していこうとする学問である。

国学の方法論 は、国学者が批判の対象とした伊藤仁斎 の古義学 や荻生徂徠 の古文辞学 の方法から大きな影響を受けている。儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情 を押し殺すことを否定し、人間 のありのままの感情の自然な表現を評価する。

江戸時代に形骸化した中世 歌学 を批判するかたちで現れた。木下勝俊 ・戸田茂睡 らに始まるこうした批判は、下河辺長流 ・契沖 の『万葉集 』研究に引き継がれた。特に後者の実証主義 的な姿勢は古典研究を高い学問水準に高めた事で高く評価されている。続いて伏見稲荷 の神官 であった荷田春満 が神道 や古典から古き日本の姿を追求しようとする「古道論」を唱えた。一部において矛盾 すら含んだ契沖と荷田春満の国学を体系化して学問として完成させたのが賀茂真淵 である。真淵は儒教的な考えを否定して『万葉集』に古い時代の日本人 の精神が含まれていると考えてその研究に生涯を捧げた。

真淵の門人 である本居宣長 は『古事記 』を研究して、古い時代の日本人 は神 と繋がっていたと主張して「もののあはれ 」の文学論を唱える一方で『古事記伝 』を完成させた。この時点で国学は既に大成の域にあった。また、盲目 の学者である塙保己一 は和学講談所 を設立し、国史の講義と史料編纂に従事。「群書類従」は日本の古書を編集・刊行したものである。宣長の古典の考証的研究を継承して、近世考証学派の大家 となった伴信友 も「比古婆衣」を著した。

その後宣長門人の平田篤胤 に至って宣長の持つ「古道論」を新たな神道 である「復古神道 」に発展させた。彼の思想は江戸時代後期の尊皇攘夷 思想 にも影響し、日本固有の文化を求めるため、日本の優越性を主張する国粋主義 や皇国史観 にも影響を与えた。平田篤胤の弟子 である経世家 の佐藤信淵 の著作『垂統秘録 』や『混同秘策 』等にはその傾向がよく現れている。

だが、真淵の門人であった村田春海 らのように契沖以来の実証主義的な古典研究を重視する立場から平田国学に否定的な学派もあり、その内情は複雑であった。実証主義的な国学は明治期 の小中村清矩 らの手によって近代 以降の国文学 の研究や国語学 、民俗学 の基礎 となった。
主な国学者 [編集 ]

* 国学の四大人(うし)
o 荷田春満 - 賀茂真淵 - 本居宣長 - 平田篤胤
* 契沖
o 今井似閑
o 安藤為章
o 海北若沖
* 本居春庭
* 本居大平
* 鈴木朖
* 権田直助
* 敷田年治
* 萩原広道
* 矢野玄道
* 平田鐵胤
* 常世長胤
* 塙保己一
* 富士谷成章
o 富士谷御杖
* 五十嵐篤好
* 拝郷蓮茵
* 千家俊信
* 谷川士清
* 東条義門
* 増田宗太郎
* 石塚龍麿

関連項目 [編集 ]

* 神仏分離
* 復古神道
* 古道
* 和方医学
* 蘭学
* 漢学
* 中国学
* 国語学者
* 国文学者
* 万葉学者

外部リンク [編集 ]

* 国学関連人物データベース[1] (國學院大學デジタルミュージアム)
* (百科事典)「The Kokugaku (Native Studies) School」 - スタンフォード哲学百科事典 にある「国学」についての項目。(英語)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%A6


日本人こそは“失われたイスラエル10支族だ”
と主張するユダヤ人言語学者
ヨセフ・アイデルバーグ

http://hexagon.inri.client.jp/floorA3F_hb/a3fhb412.html


天皇家と失われたイスラエル十支族  秦氏・日本とユダヤ文化
クリックすると元のサイズで表示します
失われたイスラエル10支族


日本の天皇家は、現存する皇室としては世界最古の歴史を持ち、日本建国から同じ血統をひく一族で、まさに天皇家は日本の歴史そのものといっても過言ではありません。 

日本書紀によれば、神武天皇が帝国を創建したのが紀元前660年ですが、この時代は古代イスラエル王国がソロモン王の死(BC928年)後、北イスラエル王国(10支族)と南ユダ王国(2支族)に分裂し、北イスラエル王国はBC722年にアッシリア帝国に滅ぼされ、10支族はイスラエルの地から連れさられ、以後行方不明(失われたイスラエル10支族)になります。 南ユダ王国はバビロニアに滅ぼされ、2支族はバビロニアに連れさられますが(バビロン捕囚)、ペルシャ帝国がバビロニアを滅ぼし、ユダ王国の2支族は故郷に戻る事が許されました。


イスラエル12支族 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/260.html

http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1041.html
Renaissancejapan

本居宣長 - Wikipedia
本居 宣長(もとおり のりなが、1730年6月21日(享保15年5月7日) - 1801年11月5日(
享和 ...
生涯 - 思想 - 人物 - 作品


放射能とは何ぞ哉:放射能と生命:放射能への耐性・免疫の形成
テーマ:マニ教とPS理論:光と闇の陰陽双極子

以下、飯山氏の説明は実に興味深い。
 この説明を読む前に、私は、これからの人間(もっとも、一般的には何十年、何百年の先のことだろうが)は、放射能に免疫があるようになるのではないかと思ったのである。
 というか、端的に言えば、放射能のを光合成細菌のように、吸収できる体質の人間が生まれるのではないかと想像したのである。
 今、想起したが、ヘッケルの反復説を借りて、飯山説を適用すれば、現在の人間にも、放射能への耐性が人間にあると考えられるし、それは潜在して、いわば、休眠状態であるということになろう。だから、この休眠状態から活性化すれば、放射能への耐性、光合成細菌的「食性」が再生するのではないだろうか。
 ヘッケルの反復説を借りなくても、PS理論的に言えば、他者である凹iに放射能を考えて、それに対する耐性的受容性の形成を考えることができるのである。それは、進化である。
 DNAには、未知の遺伝子が眠っているのである。それの活性化によって、放射能への耐性・免疫が形成される可能性はないとは言えないだろう。
 
追記:未知の遺伝子という考えとは別に、新しく遺伝子が創造されるということも当然、考えられる。
 
************************

◆ 2011/04/07(木) 放射能は生命誕生のエネルギーだった!

きょうは,中国人をはじめ来客が多く,接客に忙殺されている.
この間,メールやスカイプやツイッターに問い合わせが殺到していて整理がつかない.
光合成細菌による放射能の除去の話,中国大陸の砂漠緑化の話,廃乳処理の話.
話が錯綜しており,なかなか対応がむずかしい.
申し訳ない.

ここで,少々理屈っぽくなるが,「光合成細菌の放射能利用の原初形態」を述べる.
 1.原始地球には海水と岩石しか存在せず,有機的エネルギーがなかったので,
   地球最初の生命体は,宇宙からの紫外線や放射線をエネルギー源とした.
   当初,紫外線や放射線の破壊力を色素で減じさせ,無機的環境下で光合成
   を行うというシンプルな生命体であった.
 2.微生物や植物は,炭水化物・脂質・蛋白質等の有機物を必要とせず,紫外線や
   放射線をエネルギー源として,炭酸ガスと水から体細胞を合成している.
 3.光合成細菌は,水の代わりに硫化水素などの無機物を栄養源として紫外線や
   放射線の電磁粒子で炭酸同化して体細胞を合成できる.この際,放射性物質
   を体内に吸収すれば,電磁粒子のエネルギー受容率は格段に高まる.

ようするに…,
原始地球において,紫外線や放射線という強大なエネルギーが存在したからこそ,
最初の生命体が誕生できたのであり,紫外線や放射線という強大なエネルギーを
利用しつくす光合成細菌が誕生したからこそ,生命の進化の基礎が築かれた,と
いうことを,イメージングできるヒトは,私の仲間になれるのですが….

中国大陸の砂漠緑化の話,廃乳処理の話も,質問殺到です.
これは,順々に話をしていきますので,気ながに付き合って下さい.
今回は,面倒な理屈っぽい話ばかりしました.いったん置筆します.
御免.

たたかう老人! 飯山一郎の ハッタリなしの 口演会場 .


2011年04月06日(Wed)▲ページの先頭へ
福島第一原発破局は西洋文明、父権制、物質主義(唯物論)の終焉の烽火だ
テーマ:アイオーン・エポック:母権霊的ルネサンス

父権主義とはそもそも狂気なのである。それは、PS理論の自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)に提示されている。
 本来、差異共立(陰陽)であるものが、連続的同一性的転換(精神的フィルターあるいはmedia point transformation)によって、物質化、自我化されるのである。
 この物質化・自我化が父権主義の帰結なのであり、それは、源泉の差異共立(母権)を忘失しているので、錯誤状態に陥っているのである(仏教では無明むみょう)。
 また、単に、錯誤状態だけではなく、凸iに傾斜しているので、他者凹iに対して、意味なく、優越(同時に劣等感)を覚えるのであり、その点で、優越妄想を形成しているのである。
 いったい、凸iの傾斜、自我主義の意味とは何なのか。それは、既述したように、物質世界の形成であり、同時に、『個』の自覚である。
 差異共立が同一性自己=自我(物質的自己)となり、人間は疎外を覚えるのである。
 そう、物質的自己(自我)になることで、本来の差異共立(MP1)が芽生えるのである。
 自我から『個』への覚醒である。そして、この『個』とは、他者にほかならないのである。つまり、『個』において、共同主義が発生するのである。『個』即『他者』である。
 思うに、『個』的共同体であるが、『個』的共一主義と言ってもいいだろう。
 この共一主義とは、D. H. ロレンスの言うコスモス主義である。ここでは、差異共立体としてのコスモスがあるのである。
 それは、人間認識図では、第三象限である。
 今はここで留める。


参照:人間認識図

Japonesian Apocalypse:DAWN OF AEON EPOCH:


2011年04月05日(Tue)▲ページの先頭へ
父権的自我が資本主義と連続する:父権的自我の資本主義的被洗脳:新母権的個的「内臓」精神へ
画像付きは以下を見られたい。
http://d.hatena.ne.jp/antares/20110405

テーマ:アイオーン・エポック:母権霊的ルネサンス

今は余裕がないので、簡単に触れるだけだが、以前、ヤハウェが唯物論の根源であると粗っぽく述べたことがある。
 今思うのは、父権的自我が資本主義的意識と連続化しているということである。
 近代の問題と言うよりは、父権的自我の問題である。PS理論では、凸iの傾斜問題である。
 そう、単純化して言えば、父権とは凸iであり、母権とは凹iと見ることができる。
 西洋文明は両者があるが、前者が支配的なことは言うまでもない。 
 日本は、本来、後者をベースに前者を取り込んでいるが、私見では、後者がデカダンスとなり、前者の暴走が始まったのが、江戸時代後期以降の日本である。とりわけ、明治以降の日本である。
 思うに、日本の母権主義はある意味で、坂本竜馬らの開国主義において、蘇ったが、無軌道な父権主義によって、葬り去られたと思う。
 ここで、有り体に言って、金儲けという利己主義的欲望は、父権的自我に自動的にセットされていることを問題視したい。
 これは、差異共振(母権精神)の連続的同一性体であり、貨幣・資本崇拝(カルト)となるのである。これは、優越的妄想・狂信・盲信性、ナルシシズムをもっているので、度し難いのである。
 原発路線も当然、この父権的自我の貨幣・資本崇拝に拠ると言えよう。
 結局、今日の日本の「黙示録」の意味することは、この父権的自我主義を超克する、新母権主義へとパラダイム・シフトすることと考えられる。
 伝統的東洋的日本文化に回帰する必要がある。脱亜入欧、戦後の被占領によって喪失した肚の文化を取り戻す必要がある。
 「内臓」が直観するのである。「頭脳」は単なる媒体に過ぎない。
 民主党が国賊・亡国的に無能なのは、「内臓」的精神がないからである。「頭脳」だけだからである。それは、単なる反射主義であり、積極・創造的自主性・主体性、臨機応変・創意工夫がまったくないのである。端的に、『個』的共同体性がないのである。
 「内臓」とは、実に、第三象限=光の王国に通じていると思われる。そして、「頭脳」は第四象限=闇の世界に通じていると思う。
 「内臓」はスピリチュアルである。
 今はここで留める。

追記:端的に言えば、グノーシス主義が否定する創造神とはヤハウェないしは父権神である。
 ヤハウェの根源には、母権神(おそらく、エローヒーム=神々)が存するのである。これが、グノーシス主義の至高神である。それは、第三象限に属するのである。


人間認識図

Japonesian Apocalypse:アイオーン・エポックを迎える
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208

Japonesian Apocalypse:アイオーン・エポックを迎える
黙示録論 (ちくま学芸文庫) [文庫]

参照:
「天皇制」と封建制:近代日本の封建的国家体制:父権的自我優越妄想主義:トランセンデント・モダン
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1686.html
プラトニック・シナジー理論(旧不連続的差異論)のページ


2011年04月02日(Sat)▲ページの先頭へ
光と物質:ならば、心(精神)が光である:肉体は闇である
後で検討したいが、簡単に所見に触れたい。
 物質界が闇ならば、物質界の光とは何かが大問題である。
 これは、「哲科学」的な最重要な問題の一つであろう。
 「光」とは物質なのか精神なのか?
 思うに、凸i*凹i⇒凸において、凸は物質である。そして、「光」は⇒である。
 故に、「光」は物質ではなく、前物質である。精神である。
 ならば、光子は何か。それは、media pointとしての「光」ではないか。media pointは点となるので、この点が光子という素粒子ではないか。
 以上のようであれば、「光」とは、第三象限の根本光に属するのである。
 ならば、この世は闇であり、光である。

追記:では、「気」と光との関係はどうなるだろうか。直観で言えば、「気」が光となって出現するのである。だから、「気」=光と考えていいのだろう。光の根源が「気」ということになる。

追記2:結局、物質界・現象界の「心」とは、media point(凸i*凹i⇒)と連続的同一性(⇒凸)が混淆・混濁・連続化しているのである。そう、ポスト・モダンないしポスト構造主義とはほぼこれに注目したと言えよう。
 しかしながら、media pointの超越性を排除してしまったのである。そう、やはり、近代主義=唯物論なのである。
 

Japonesian Apocalypse:日本黙示録
《ガウス平面で表した人間認識の図》http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208  


世の人の極め付けの愚かさは自分が生まれる以前、死んだ以降のことを考えないことだ:この世主義者
テーマ:マニ教とPS理論:光と闇の陰陽双極子

世人は、自分が生まれる前は何であったか、考えたことがあるのだろうか。あるいは、死んだ以降どうなるのかということを。
 もし、自己がこの世だけの存在ならば、いったい、誕生前は何であったのか自問すべきである。
 無から有、そして、有から無?
物質界に染まった人間は、物質界を越える視野をもたない。
 明らかに、精神は超越界、光の世界に所属する。それが、物質界という闇に包まれているのだ。
 この闇の支配が近代文明を生んだと言える。悪魔アーリマンの仕業である。
 物質界に支配されているので、「死」を恐れるのである。しかし、本体は、精神界=光の国(ウルトラマンみたいだ。光の王国と言うべきである。)に属するのである。
 そう、「わたし」は精神界=光の国から生まれ、そして、そこへと帰還するのである。


   




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カレンダ
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