INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2011/02

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




[PR]



2011年02月27日(Sun)▲ページの先頭へ
精神と自然:「わたし」と気:内的な灯火と否定=不連続化による超越化その2
精神と自然U:「わたし」と気:内的な灯火と否定=不連続化による超越化

テーマ:ゾロアスター教とマニ教:「光」VS「闇」

結局、元の木阿弥になったので、新たに考えたい。
 結局、人間的陰陽論と自然的陰陽論の衝突があり、それが齟齬となっているのである。
 別々に考えると、整合性があるが、統一しようとすると、齟齬が生じるのである。難問である。
 しかしながら、シュタイナー自身の考え方とは異なるとは言え、「わたし」=「悪魔」とすると先の結論(http://ameblo.jp/renshi/entry-10814991505.html )のように明快になるのである。
 別の考え方も可能であろうが、今はこの見方を作業仮説にしたい。
 結局、悪魔的自己認識方程式とは、

凸i*凹i=アーリマン*ルシファー⇒凸(物質)

となる。
 そして、これに均衡調和(キリスト)をもたらすには、否定する必要があるのではないだろうか。否定を凹とすると、

凹(凸i*凹i)=凸i*凹凹i=凸i*凸i⇒凹

or

凹(凸i*凹i)=凹凸i*凹i=凹i*凹i⇒凹

となるのではないだろうか。すなわち、超越的存在へと向かうのである。
 思うに、この否定とは、不連続化のことではないだろうか。そのままの積では、連続化、連続的同一性化するのであるから。
 思うに、人間以外の造物においては、連続化が自然の過程ではないだろうか。ただし、無意識、本能として、連続化以外に、差異共振領域、media pointが作用しているのではないだろうか。これが、造物の光の粒子である。
 人間の場合は、悪魔が支配しているので、積極的な、否定、不連続化の行為が必要である。
 整理すると、人間以外の自然の作用においては、陰陽の連続的作用が一般的であり、物質現象をもたらす。しかしながら、その連続化の影には、差異共振領域があり、そこにおいて、光の粒子、media pointがあると言えよう。
 人間の場合は、「二つ」の「わたし」=「二人」の「悪魔」なので、連続化は破壊的な作用をもたらすと言えよう。そして、それを乗り越えるには、積極的な否定=不連続化の精神的行為が必要とされるのである。
 では、否定=不連続化の精神的行為のためには、具体的にはどうするのか。それは、内的な光・灯火を個的に肯定することが前提であろう。これを連続化から切断すれば(否定=不連続化)、超越的均衡調和(キリスト)=超越光がもたらされると言えよう。
 内的な灯りが人間に存する光の粒子である。これが、闇の物質的身体を克服するのである。欲望が昇華して、元々の精神エネルギーへ帰還するのである。これは実用的に言えば、心身の健康を増進させると言えよう。

 性の消費とは、精神の消費であり、破壊である。
 
今はここで留めたい。





精神と自然:マニ教の視点と陰陽の視点との交流

テーマ:ゾロアスター教とマニ教:「光」VS「闇」

今は簡単に触れるだけである。
 マニ教ないしグノーシス主義は、自然を悪と見るだろう。しかし、陰陽論は、自然に対してはニュートラルである。
 問題を簡単にしよう。自然は精神に基づくものである。東洋では、気が形成因である。この気をどう見るかが重要である。やはり、精神である。気の精神、気霊である。
 では、気とマニ教ないしグノーシス主義とはどう関係するのだろうか。ここでは、マニ教との関係をみよう。マニ教は物質という悪の中にも、善、光の粒子があると考えれる。この善=光の粒子は、気と通じるのではないだろうか。
 そう、気ないし気霊体は、確かに、差異共振光である。一つの超越光である。だから、マニ教の善=光の粒子に入ると言えよう。そう、気と精神は関係しているのである。何故なら、気は、精神の凹iで感知されるものであるからである。
 
 さて、次に、先の問題である精神と気の力学について検討したい。
 先に、z軸を考えたが、それから、y軸の差異共振を考えるのは、不整合であるから、とりあえず、それは考察対象から外す。
 問題を分かりやすくするために、感情ないし情感と気の関係について考察しよう。
 今、私は肚に気を感じている。つまり、凹iに気を感じている。つまり、凹iが気を感知するのである。また、よい音楽を聴くと、凹iやmedia pointが感銘を受ける。つまり、情感が凹iやmedia pointに存すると思われる。
 端的に、凹iは精神器官であるが、気は必ずしも、情感ではないので、気は精神よりも低位と考えられる。
 とまれ、ここで思考実験すると、陰陽において、太陽と太陰がある。前者は完全な陽で、後者は完全な陰である。これを、シュタイナー的に、固定された場合を考えると、前者がアーリマンで、後者がルシファーと考えることが可能であろう。
 これが「わたし」、「二つ」の「わたし」の根拠と考えられる。そうすると、それ以外の陰陽においては、生々流転、変動・流動が常におこっていると考えられる。それは、気の変化と見ることになる。
 そうすると、陰陽のベースには、気、気霊体の生々流転的変化・変動があり、それ以外に、特殊の、変化をしなくなった、静止した陰陽、双極体があるのであ り、それが、アーリマンとルシファーであり、それが、「二つ」の「わたし」の根拠ということになる。つまり、"凸i"(アーリマン)と”凹i”(ルシ ファー)の「二つ」の「わたし」が存することになる。
 思うに、陰陽は常に、変動以外にも、差異共振点、media pointをもっていると考えられる。差異均衡調和点である。それが、シュタイナー的に言えば、キリストである。それは、本来の超越的な光と一致するだろう。
 つまり、常に、キリスト=超越光は内的に、内面に存するのである。だから、「わたし」=自己(個)とは、内的に沈潜することで、キリスト=超越光に接することができるのであり、差異均衡調和精神に触れることができることになるだろう。
 さて、以上のように考えて、本題について考察するならば、人間以外の森羅万象においては、気霊体による生成で説明がつくが、人間の場合、「二つ」の「わ たし」が作用して、特異な精神様態が成立していると考えられる。この特異な精神(自己的精神)と気との関係であるが、やはり、連続的ではなく、不連続的だ と思う。
 しかしながら、上記したように、z軸を考える必要はなく、y軸に精神をおいて考えることができると言えよう。ガウス平面のままで正しいのである。
 とまれ、以上から、気霊体において、「二つ」の「わたし」ないしは「二人」の悪魔が組み込まれているのが、人間であるということになる。そして、これで、これまでの、PS理論の数式、
凹⇒(or ⇔)凸i*凹i⇒凸が維持される。
 では、問題は、特異なアーリマンとルシファーの形成とはいかなる力学に拠るのか。シュタイナーは、本来、善であったものが、進化を停止させたために、悪になったと述べているのである。この点については、新たに検討したい。

追記:以上において、私は、「わたし」と「悪魔」を同一視しているが、それは、シュタイナーの霊学からみると、極端である。確かに、「わたし」に「悪魔」が深く関わっているが、「わたし」=「悪魔」ではないのである。
 故に、再度、精神と自然について考察する必要がある。

シュタイナーノート 23●ルシファーとアーリマン

シュタイナーノート 21-30





「新時代」とは、ポスト・オクシデント=ニュー・オリエントと言うべきであろう

テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教的西洋文明

今や、近代は崩壊した。非近代の時代であるが、考えると、それは、西洋の歴史に拠る考え方である。
 文明サイクルを考えると、西洋文明のサイクルが終焉を迎えていると考えられる。故に、ポスト・オクシデントの新文明サイクルが生まれつつあるのだ。それは、新母権的文明と考えられる。私はこれまで、新東洋文明と言ってきたが、同じことである。
 日本の問題は、男性のエゴイズムのシロアリに国家の大黒柱が食われてしまっていることである。日本において、魂が失せてしまったのである。
 やはり、戦後の連合国支配が利いているのである。魂を抜き取ったのである。支配としては、見事である。また、簡単に洗脳される国民も国民である。封建時代の因習が続いたのである。
 思うに、日本文化がある意味で、袋小路に陥ったのだろう。確かに母権文化であるが、それが創造的に発展せずに、デカダンスになり、超越的エネルギーを喪失してしまったのだろう。
 日本文化の場合、精神が(物質的)自然に拘束され過ぎている面が強い。結局、新しい超越的な母権文化を生み出すことができなかったのが、最大の弱点であろう。
 そう、感性が物質に拘束されているのである。それは、第四象限であろう。悪性である。
 シュタイナー的に言えば、ルシファーが足りないのである。ルシファーは個の原理である。これは、絶対的差異である。
 どうも、日本文化は母権文化と父権文化の二つに分裂しているような感じがある。言い換えると、二つの民族が存しているのではないだろうか。
 この点で、日ユ同祖論は棄てがたいと言えよう。母権的民族の日本と父権的民族の日本である。
 また、脱亜入欧イデオロギーが利いていると思う。また、それ以上のものが戦後の連合国の民族文化破壊戦略である。



「わたし」とは何か:「二つ」の「わたし」:差異共振の光における超越的存在
「わたし」とは何か:「二つ」の「わたし」:差異共振の光における超越的存在

テーマ:Media Point:MP1⇒MP2

先に、虚実ラセン体(気霊体と物質体の二重構造)の提示まで言ったが、知性と感性については、課題となっていた。
 以前、シュタイナーの翻訳における「自我」とは大誤訳ではないかと指摘した。何故なら、シュタイナーはichと言っているからである。
 とまれ、今は、「わたし」を問題にしたい。これは、自我に限定できない。
 端的に言えば、「わたし」とは個である。しかし、自我的側面はある。しかし、自我主義ではない。
 そう、「わたし」は少なくとも「二つ」あると思う。一つは、他者の「わたし」であり、一つは、自我としての「わたし」である。ならば、言い換えると、自我と非自我(他者)の「わたし」が存するのである。
 しかし、非自我(他者)の「わたし」とは、明確な「科学」(哲科学)的な規定ではない。
 とまれ、「二つ」の「わたし」が即非関係を形成するのである。
 そう、あえて言えば、二つの「知」があるのである。これが的確だと思う。
 PS理論から言えば、凸iの「知」と凹iの「知」があるのである。これは重要である。「知」と設定するのが重要である。これまで、凹iは感性的なものと 見られてきたからである。凹iを感性と見るのは、平凡、凡庸な発想である。二つの「知」(以下、鍵括弧を外す)が存すると見るのが、的確だと思う。
 これは、「光」の知と「闇」の知、陽の知と陰の知と言い換えられる。
 思うに、哲学とは本来のこの二つの知を扱ってきたと考えられる。しかしながら、近代科学は、「闇」の知を否定して、「光」の知のみを扱ってきたと考えられる。物質主義科学である。
 ロマン主義、神秘主義、深層心理学等は、「闇」の知を探究したと言えようが、一種反動性をもっているだろう。
 さて、「闇」の知とは直観、直観知、あるいは、内的知・触知ではないだろうか。それに対して、「光」の知とは、対象知、ロゴス知、あるいは、外的知・分離知ではないだろうか。
 そして、両者が共振して、即非様態、いわば、即非認識が形成されよう。
 問題は、「闇」の知である。これは、「光」の知とは異なり、直截な知である。いわば、「物自体」の知である。
 本題にもどると、結局、「二つ」の「わたし」とは、いうならば、「光」の「わたし」と「闇」の「わたし」である。
 自我においては、通常、両者が連続的同一性体となっていると考えられる。故に、自己は自己に無知の状態である。
 さて、問題は、media pointにおける「二つ」の「わたし」の意味である。ここで、作業仮説として、両者の共振、差異共立・共振が、超越光・大光、簡単にして、光を発生させるとする。
 いったい、それは何なのだろうか。それは、現象光(外的光)ではないだろう。内的光だろう。
 この根源は、超越的存在凹であると考えられる。凹⇒凸i*凹iである。問題は、この光に対する認知である。
 思うに、この光は、いわば、神秘的な光である。霊光である。これは、通常の視覚では知覚できない。
 このとき、凸iは不可知論的になるだろうが、なんらか言語化しようとするだろう。つまり、言語的秩序化である。
 そして、凹iは、この神秘の光と一体化するだろう。正に、神秘感があると言えよう。神秘を触知しているのである。いうならば、「神」に接触しているのである。
 この差異共振はMP1、虚軸のmedia pointである。そして、凸iの「光」の「わたし」は、第二象限世界を構築(ロゴス化、秩序化)し、凹iの「闇」の「わたし」は、第三象限世界を直観していると言えよう。
 凸iに傾斜していれば、合理主義を生むだろう。しかし、凹iが活性化しているならば、神秘主義を生むだろう。あるいは、超越主義を生むだろう。
 整理すると、MP1、虚軸のmedia pointにおいて、超越的存在凹が関与しているということになる。以前、述べたが、凹⇔凸i*凹iの循環数式がここには成り立っているのではないだろうか。
 結局、凹iは超越的存在凹を直観しているのであり、その事象は第三象限の事象であり、それが、超越的な光の認知に通じるのだろう。というか、差異共振が超越的光ではないのか。それを、凹iは直観しているということではないだろうか。それが、第三象限の事象ではないのか。
 とまれ、超越的存在に直截に接しているのは、凹iである。そして、いわゆる、霊Spiritiとは、ここで感知できるものであろう。思うに、凹と凹iと 凸iを三一体と捉えることができるのではないだろうか。根源的三一性である。これを作業仮説とすれば、敷延して、凸iの三一性、凹iの三一性、そして、凹 の三一性、凸の三一性が考えられるのではないだろうか。凸iの三一性と凹iの三一性は、易の上部の三元性(三爻)、下部の三元性(三爻)と通じるのではな いだろうか。また、それは、六芒星形を形成するのではないだろうか。また、4×3=12で、黄道十二宮の十二に通じるのではないだろうか。
 また、7のサイクル数であるが、それは、凸iの3と凹iの3とmeidia pointの1を足したもので説明できないか。
 とまれ、以上、思考実験であり、整理しつつさらに検討したい。

追記:先に、気の身体、名づけて、気霊体(シュタイナーのエーテル体)を差異共振体で説明し、上記では、「わたし」の体の解明を、やはり、差異共振体によって試みた。
 そうすると、問題は、気と「わたし」の関係をどうするかである。今のままでは、気と「わたし」は重なってしまい、区別がつかない説明に留まっているからである。
 そこで、これまた、作業仮説であるが、気霊体を敷延して、それを三重身体、三重気霊体と想定するのである。そして、そこには、「わたし」の気霊体があり、シュタイナーの言うアストラル体(感情身体)と本来の気の身体があるとするのである。
 しかしながら、アストラル体は、凹iで説明できそうである。
 ならば、二重気霊体で済みそうである。とまれ、今は思考実験の段階なので、自由に発想していきたい。
 上述では、「二つ」の「わたし」を説いた。凸iの「わたし」と凹iの「わたし」である。自我は前者で説明ができよう。そして、アストラル体は、後者で説明ができるのではないだろうか。これは、動物的本能に関係するように思われる。
 すると、本来の気の身体はどう説明できるだろうか。「二つ」の「わたし」の差異共振が気の身体を形成するということなのだろうか。
 これまでの、論理の展開からはそうなるのである。しかしながら、これでは、森羅万象、人間になってしまうだろう。
 やはり、差異共振を多重化する必要があると思われる。
 今は、シュタイナーの精神科学の視点を借りて、暫定的に説明してみると、やはり、三重の気霊体と差異共振に見る。一つは、「わたし」の気霊体であり、一つは、アストラル体の気霊体であり、一つは、本来の気の身体とする。
 そうすると、私の考えと齟齬をきたすが無視して続けると、結局、先の気霊体の虚実二重体と合わせると、シュタイナーが説くように、「わたし」の体、アストラル体、エーテル体、物質体の四重体としての人体が説明できる。
 そして、思うに、霊とは「わたし」の体であり、魂とはアストラル体になる。
 以上は暫定的な説明である。
 私の直観では、凹と凸iと凹iの三一体が霊魂である。これが不滅である。そして、凸iと凹iが差異共振して活性化したときが生命の誕生であり、差異共振 が停止したときが、死である。そして、その三一体が「霊界」に向かうのである。端的に言えば、第三象限が「霊界」かもしれない。
 さて、ここで、齟齬について考えると、私はアストラル体は、凹iではないかと考えていることから生じるのである。
 だから、三重体は必要ないのである。つまり、「二つ」の「わたし」の気霊体と本来の気の身体の二つの体で済むのである。
 言い換えると、精神体と気的身体をどう関係づけるのか、ということになる。
 両者は連続的なのか、不連続なのかが重要である。とまれ、簡単にすると、精神と気との関係である。
 ここで、迂回して考えよう。例えば、大地の気、森の気、山の気、川の気を感じることができる。これは、当然、大気と関係するが。
 それは、直感では、凹iとmedia pointで感知するものである。そうすると、気と精神はいわば、繋がっているが、それは、果たして、連続的なのか、否かである。
 また、作業仮説すると、精神は気を包摂する高次元のものと考える。そうならば、精神が気を感知してもおかしくないのである。
 そうすると、高次元の精神が、ある展開によって、気に転化するという考え方はありうるのである。PS理論は基本的に精神から物質が生起すると考えるのだから、精神から気への転化という考えは、合理的である。
 そうならば、精神⇒気⇒物質という図式になる。そうすると、以前考えたように、ガウス平面の原点、media pointにおいて、直交する第三の軸を想定する必要が出てくるのではないだろうか。その軸をz軸とすると、z軸に精神があり、それが、差異共振した結 果、気の陰陽をy軸に生む。そして、それが、差異共振して、x軸に物質を形成するという説明が生まれる。この三次元はいわば、ガウス立体である。
 そうならば、z軸に「二つ」の「わたし」が、陰陽的に、双極的に存する。そして、それが、展開して、y軸に気の陰陽を生起するということになる。
 そう仮定すると、「二つ」の「わたし」の根源は何になるだろうか。やはり、x軸の凹でいいのではないだろうか。つまり、凹が自己分割して、z軸に「わたし」の双極性を形成する。そして、その後、y軸に気の双極性を形成するという順序になる。
 今はここで留める。



超越的精神と自然:media pointの「体」:気霊体と物質体:精神霊体(精霊体)?

テーマ:哲学と精神科学:コスモス精神科学の構築

今は簡単に問題に触れるだけである。
 Media Pointにおいて、虚的な(二重)ラセンが発生する。これが、精神的フィルターを介して、物質化すると考えられるつまり、ここには、虚的なラセンと実的 なラセンの二重体があると思われるのである。これを二重ラセンと呼ぶと、DNAと間違えるので、紛らわしい。
 とりあえず、虚実ラセン体と呼んでおこう。結局、自然の造物は、この虚実ラセン体ではないだろうか。これは、生命体にも、非生命体にも当てはまると考え られる。言い換えると、虚実ラセン体とは、ベクトル・モードであり、渦巻き星雲にも、樹木にも、人体等にもあてままると考えられる。つまり、森羅万象にあ てはまると考えられる。
 思うに、虚ラセン体とは、東洋の気の身体ではないだろうか。造語すれば、気霊の身体、気霊体である。シュタイナーの精神科学で言えば、エーテル体と考えられる。
 そうならば、人間の精神はどう説明できるだろうか。感性や知性はどう説明できるだろうか。
 シュタイナーの悪魔論の解明のときの考え方から言えば、なんらかの虚ラセン体、変異、特異な虚ラセン体で説明できないだろうか。これは、問題としておく。
 
 次に、黄道十二宮や太陽系の発生について考えたい。今は、前者に限定すると、これは、地軸の傾斜による歳差運動から説明されているが、12という数に注目したい。
 ここで、思考実験であるが、双極子が四極性(凹、凸i、凹i、凸:あるいは、四大=地水火風)をもつとすると、各極に三元性があれば、4×3=12とい う数が生まれることになる。また、作業仮説であるが、各極を三一体と考えられれば、12元性は考えられることになる。つまり、たとえば、凹を根源的に、三 一体と見るのである。そして、三一体が凸i、凹iにも、そして、凸にも発生するとみるのである。
 以上、予備考察である。

参考:

歳差
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索
歳差(さいさ、precession)または歳差運動(さいさうんどう)とは自転 している物体の回転軸が、円 をえがくように振れる現象である。歳差運動の別称として首振り運動、みそ すり運動、すりこぎ運動の表現が用いられる場合がある。
物理現象としての歳差 [編集 ]


地球ゴマ の歳差運動。
一般に剛体 が角運動量 を持つとき、その回転軸が慣性主軸 で無いならば外力が無くても回転軸は慣性主軸のまわりを振れ回るような動きをする。これを自由歳差運動 という(地球 の自転運動では、これは極運動 の自由章動成分として現れる)。
回転軸が重心 を通る慣性主軸 であれば回転 は安定的だが回転軸をひねるような向きのトルク を与えると、自転軸が円を描くように振れる。典型的な例は回転するコマ の首振り運動である。歳差運動をする物体の自転軸はすりこぎ を擦るように両端が円を描いて回転する。
コマがこのような運動をするのはコマの自転の角運動量 ベクトル に対してコマに働く重力 によるトルクが軸を倒す方向に継続的に加わる結果、自転の角運動量ベクトルが大きさを変えずに向きだけ回転するためである。これは、中心力 によって等速円運動している物体が継続的に加わる中心力によって運動量 ベクトルの大きさを変えずに向きだけを回転させているのと同じ関係である。
天文学における歳差 [編集 ]


歳差運動。地球が公転する際にコマが首を振るように約25800年かけて自転軸が回る。
天文学 においては地球 の歳差運動、すなわち地球の自転軸がコマの首振り運動のような回転をしているために春分点 ・秋分点 が黄道 に沿って少しずつ西向きに移動する現象のことを指して歳差と呼ぶことが多い。この歳差の周期は約25,800年である。
この地球の歳差運動の原因は地球の形状が赤道 部分の膨らんだ回転楕円体 であるため、太陽 や月 の重力による潮汐力 によって赤道部分の膨らみを黄道 面と一致させようとする方向にトルクを受けているためである。これを日月歳差という。日月歳差によって天の北極や赤道が動く。
また地球の公転 運動に対しては、惑星 の引力がわずかではあるが影響を及ぼしている。これによって、地球の軌道つまり黄道 が動く。この変化は春分点 の移動と、黄道の傾斜角度の変化となって現れる。これを惑星歳差という。惑星歳差は日月歳差に比べてきわめて小さい。
この歳差のために、天の北極 は天球 上で黄道北極 を中心とする円を描く。現在の北極星 はこぐま座 α星(ポラリス )だが、紀元前2000年 頃には天の北極はりゅう座 α星(トゥバン )の近くに位置していた。西暦14000年 頃には天の北極はこと座 のベガ 近くに移動する。
歳差による春分点の移動を最初に発見したのは、紀元前150年 頃のギリシャ の天文学者 ヒッパルコス である。彼は黄経180度・黄緯0度にほぼ近い位置にあるおとめ座 のスピカ を使い、皆既月食 の時に月とスピカの角距離 を測った。日食や月食は黄道と白道 の交点でしか起こらないので、日食・月食時の月や太陽は必ず黄道上にいる。従ってこの時のスピカとの角距離は、そのままスピカと月または太陽との黄経 の差になる。ヒッパルコスはこの黄経の差を、彼の時代より約150年前のティモカリス が作った星表 と比較して黄経の値が変わっていることを発見した。彼はスピカ以外の恒星についても同様にずれていることを見つけ、このずれは恒星の運動によるものではなく黄経の基準である春分点自体が移動しているためであると結論した。
関連項目 [編集 ]

ウィキメディア・コモンズ には、歳差 に関連するカテゴリがあります。
• 章動
• ジャイロ効果
• ラーモア歳差運動

この項目「歳差」は、地球 以外の天体 や天文学 に関連した書きかけの項目 です。加筆・訂正 などをして下さる協力者を求めています (天文学CP /天体PJ )。
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%B7%AE 」より作成
カテゴリ : 天体力学 | 力学



http://plaza.rakuten.co.jp/saga1221/diary/200909010000/
☆嵯峨奇行☆


http://lab.seikousya.org/seiyou/base/sign1.html
24’占いオンライン


《黄道12宮の象徴と12か月の労働》
高さ:7.47m 幅:2.07m
 「シャルトル大聖堂のステンドグラス」

http://www.hitsuzi.jp/news/2010/05/1659sheep.html
ひつじnews



2011年02月24日(Thu)▲ページの先頭へ
コスモス精神科学の構築へ向けて:占星術を越えて:その1
占星術は流行っているが、通俗なものは度し難い。卑俗である。
 私は占星術の参考書を見たことがあり、ホロスコープの見方を研究した。しかし、それは、論理的ではないのである。杜撰なのである。結局、占い師の勘に頼っているのである。
 つまり、占星術は、論理以前であることを確認しないといけない。(科学以前というと問題がある。何故なら、近代科学は物質科学であり、精神科学ではないからである。量子論は、両者の過渡的存在である。因みに、ケプラーは科学者であると同時に、占星術師でもあった。後者は身過ぎ世過ぎのためでもあったが。)
 さて、先ず、コスモス精神科学を考える前に、PS理論の基礎を確認したい。
 問題は、media pointである。ここでは、精神差異共振事象があり、同時に、物質的現象が形成される。
 イデア論的に言えば、前者が本体であり、後者は仮象である。インド哲学的に言えば、マーヤー(幻像)である。
 前者はMP1(虚軸のmedia point)に基づき、後者はMP2(実軸のmedia point)に基づく。
 結局、実体は、前者の精神事象であり、後者の物質的現象とは、いわば、映像に過ぎない。つまり、「現実」とは映像に過ぎないのである。物質的映像である。
 しかし、この物質的映像は、Kaisetsu氏が明らかにしたようにベクトル・モードに拠るのである。
 これは不思議な現象である。つまり、物質的現象において、精神事象の力学が反映しているからである。比喩的に言えば、デジタル事象を考えればいいだろう。本体はデジタルであるが、出現は映像である。
 問題は、MP1の事象の力学である。これは直観では、人間認識図の第三象限と関係する。
 とまれ、MP1の事象の力学を解明することが重要である。ここで、差異共振、双極的共振が生起しているのである。言い換えると、陰陽事象である。
 これはいったい何なのか。
 思うに、虚軸のラセンが発生するのである。それは、霊的ラセンであり、物質的ラセンではない。それは、凸iと凹iの二重ラセンではないだろうか。これは、また、ほぼ、ベクトル・モードと同じであろう。
 そして、ここで、黄金比が発生するのである。つまり、五芒星形ないし正五角形が形成されると推測される。そう、ピタゴラス派のシンボルである五芒星形である。
 直観では、宇宙は聖数5によって形成されているのである。
 そして、聖数5によるフラクタルによって、森羅万象が結びつけられているのではないだろうか。
 そこで、宇宙と人間との対応を考える古代宇宙論が生まれたのではないだろうか。「上にある如く、下も」という宇宙と人間との対応、ないし、前者の後者への影響という考え方が生まれたのではないだろうか。そして、これが、占星術という「占い」にいわば堕落したのではないだろうか。
 今はここで留める。以下のブログ記事を参考にして、考察を続けたい。

 
参考:

五芒星形(Pentacle)

pentacle.gif リンゴ を輪切りに したとき、その芯が 形造る五荘星形は、 女神コレ の象徴であ った。この五芒星形 (ペンタクル、ペンタ グラム)は、ピタゴ ラス学派の神秘主義者に崇拝され、彼らはこれをペンタルファ(「5回交錯する生誕 -文字」)と呼んだ[註1] 。五芒星形は「生命」あるいは「健康」を意味するとされた[註2] 。あるものはこれを「イシュタル (あるいはアセト〔イシス〕、あるいはアセトの冥界の双子ネベト=ヘウト〔ネフティ ス〕)の星」と呼んだ。エジプトでは5つの 鋭い先端を持つ星は冥界の子宮 を表し た[註3] 。

 守護あるいは治癒の護符として五芒星形 を用いることは、バビロンではごく普通に 行われ、しばしば中味を保存するため壼 に描かれた。「7つの印章」として知られる 護符は、聖なるしるしの第1に五芒星形を 挙げている。ユダヤ-キリスト教の伝承によ ると、印章は神の秘密の名を表すと考え られ、五芒星形はそれらの中の主要なもの で、ソロモン王の魔法の指輪にも彫られて いた[註4] 。そのため五芒星形は、ときには誤っ てソロモンの印章と呼ばれた。

 しかし、五芒星形はユダヤの神よりも、 異教の神々とより密接に結びついていた。 鋭い先端の1つが真下にある五芒星形は 「角のある神」を表し、新プラトン主義の 哲学者は、これをペンタモルフ(「5つの姿 を持つ神」)と呼んだ[註5] 。この神は、4種の角 のある動物、雄ウシ 、雄ヒツジ 、雄ヤギ、 雄ジカの姿をとるとともに、人間の姿にもなって現れた。

 異教徒のケルト族は、エジプト人同様、 五芒星形を、彼らがモーガンと呼ぶ冥界の 女神のしるしとして崇めた。太陽英雄ガー ウェインは、女神に敬意を表して、彼の血 のような赤い色の盾に五芒星形をつけた[註6] 。

 錬金術の魔術師は、小宇宙である人間の 模型として五芒星形を用いた。男性の像は 宇宙を表す円の内部に置かれた。手と足 と頭は、描かれた五芒星形の示す各先端で 円と接し、生殖器はまさに円の中央に位置 した[註7] 。このイメージは、人間は「5つの星」 に支配される小宇宙であるというフィルミ クス・マテルヌスの見解に関連があった[註8] 。

 他の一筆描きで構成される図形と同様に、 五芒星形は悪霊を防ぐ力があると信じられ た。霊は線の切れ目である「門」を必要と したからである。したがって五芒星形はし ばしぱ呪術的な封じ込めを仕切る際、とく に祈祷のときに用いられた。その結果、中 世のキリスト教側の人々は、「悪魔のしる し」、「魔女の十字架 」、「魔法使いの星」、「悪 鬼の十字架 」、「魔女の足」などの名で、五 芒星形を呼ぶようになった[註9] 。オオカミ人 間 は足のかかとやてのひらに五芒星形をつ けていると考えられた。この考え方はプッ ダのてのひらに現れる五弁のハスの花 と 比較できるかもしれない[註10] 。

 魔術の書物に絶えず記されている五芒星形はおそらくスラヴ民族の魔女にも影響を 与えたと思われる。スラヴの魔女は、患者 の身体の「五芒星形を測る」ことによって 病を治そうとした。病に苦しむ者は立って 「小宇宙としての人間」を表す姿勢(大の字型)をとり、1本の糸が足からあごへ、 両手の中指から中指へ、それぞれの手から反対側の足へ張りめぐらされた。「測定値の 差から病気の診断と見通しが行われ、測定したのちにはナイフで麻紐を切断することによって、病が除去された。麻紐の1片は焼かれて、患者はその煙を吸い込んだ。 灰は新鮮な水に入れて、患者はそれを薬として飲んだ」[註11] 。

 五芒星形を用いる魔術のまじないは今も 存在する。ジプシーは今もなお、リンゴ を 輪切りにし、コレ 、すなわち「処女の五芒 星形」を顕現させ、それを「知恵の星」と 呼んでいる[註12] 。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/pentacle.html



五芒星形と薔薇と人間

昨日、ホメオパシーの自主勉強会がありまして。
それからずっと心を占めているのは、「星」

でもね〜勉強したのは、海のレメディー達(^_^;)
有名処ではNut-m.(岩塩)Calc.(カルシウム)Sep.(イカ墨)Ambr. (竜涎香)。
あとSpongia(海綿)とかMurex(紫貝)Asterias runbens(赤ヒトデ)とか。
そう!ヒトデに前から注目していて(キム先生の講座から)気になっていた〜
因みに、Asterias runbensは乳ガンで有名なレメディーです。


写真お借りしたサイト。他の写真もある。

たとえば5本の腕をもつヒトデは、「星」のようなかたちをしています。
棘皮動物のからだは基本的に中心から5方向に放射状に伸びたつくりをしています。
ナマコをうしろから見てみると(え!)いぼのような足が5列に並んでいるのがわかります。ヒトデを丸めてみるとウニの形になるのです(わっはは)

ウニの棘とか5の倍数だそうで、棘皮動物のテーマ数字は「5」なのだ。(たまに8とか6とかもあるそうな・・・)

勉強会はホメオパシーそっちのけで五芒星形(=いわゆる星型)とか
六芒星形(ダビデの星)とかの話でもりあがってしまいました。
五角形と黄金比 はフィボナッチ数 と密接な関係がありますよね。(最近ではダヴィンチコードで有名?になりましたね)以下wikipedia引用。

「また、自然界にも表れ、植物の葉の並び方や巻き貝の中にも見つけることができる。
また、黄金比で長さを分けることを黄金比分割または黄金分割という。
また、優れた絵画や建築作品には多く黄金比が見られる。」

ぜひ、オウムガイの螺旋 や黄金四角形 をみてください!!

この螺旋・・・実は、薔薇の花にも関係しています。
五芒星形、黄金律、フィボナッチ数、・・・・オウムガイ、螺旋、黄金四角形、
薔薇、金星、人間、エーテル体・・・・?
これをみて、ピンときたひとはかなりのツウ(オタク?)です。

ここから、シュタイナーさんの出番なんですけど〜
(私も全てわかっているわけではないのですが、とにかくワクワクする〜♪)
長いし、濃い〜のでまた次回の記事に続けます。
http://mirokuai.exblog.jp/5469610/


『こんなこと あんなこと』


六芒星と螺旋と宇宙について

今度も投稿に間が開いてしまいました。仕事が忙しくて… …というのは、言い訳ですかねー。

さて、今回は六芒星と螺旋と宇宙というお話です。

英国占星学協会に所属している全感覚認知能力者ジェニファー(Jennifer)さんによると、「高次元の情報を伝達していただく場合に六角形か六芒星という形を見る」のだそうです。「六芒星(ヘキサグラム)というのは未知なるエネルギーが集まる形なので、六芒星を見ていると真ん中に白い点のビームが見えたりします」。また、「六角形というのは非常に均整のとれた形」で「調和」を意味します。色でいうと「青緑の色」も「調和」を表すのだそうです。
六角形を眺めていると、周波数の違いを感じ取れる勘が強くなり、ますます感覚が磨かれていくようになる。自分と六角形の形との親和性というラポールが確立されたら、それを眺めているうちに高い次元からインスピレーションが与えられるようになるそうです。「六角形の形は創造性という意識の力を引出す力がある」と言われています。
「力がある、パワーのある形とは空間にある(偏在)パワーを引出す機能を持つ形とも言え、人がそれらパワーを取入れるときに媒体として支援機能を持つ形」とも表現できる。

ジェニファーさんによると、三次元のものは物理的なものと目に見えない世界が合わさって一つになっているとのこと。これも見えないものと見えるものの組合せであり六芒星、六角形が機能する六芒星原理が働いていると表現できる。高次元の方(神)が物を作るときは見えない高次元世界で構想されているもの(コンセプト)があって、コンセプトから概念設計(図)に落とされたものを元に、三次元世界で実際に物を作る基礎(土台)となるのが六角形。
ですから、「三次元の物理世界は、正六角形を中心とした『六芒星原理』で形成されていて、六芒星原理は三次元の結晶構造をも意味する」のだそうです。

さて、正十二面体は三次元空間を隙間なく埋め尽くす立体であり、これは横から見ると「正六角形」であります
正十二面体はで正多面体であり『黄金比』に支配されているとも表現できる。
正十二面体を横から見ると「正六角形」でありますが、上から見ると「正十角形」があり、その中になにがあり、何が見えますか。
それが見えることから言えることは、これは三次元には現れ1個、2個と数えられる存在であるが、実は全体的につながっている多次元空間の要素である。

『黄金比』とは何でしょう。黄金比はAとBとの割合がA:B=B:(A+B)の関係をいいます。その比率はA:B=1:1.618です。 黄金比は古代エジプト時代にも応用され使用されていました。有名なクフ王のピラミッドの底辺と高さの比率も黄金比になっています。
この黄金比の値(ファイ)は、X2×1=0の正数解(1+√5)÷2≒1,618とも表現されます。
縦と横の長さの比率が1対1.618となっている黄金比の長方形は「黄金矩形」と言います。少し横が長い長方形ですね。人間はこれを見ると美しいと感じ、心が安定し安心するのだそうです。なんと身近な名刺も黄金矩形となっています。
また、黄金比は人が見て美しいと感じるために人造物であるヨーロッパの建築物の設計、絵画や写真の構図、彫刻などに幅広く利用されています。

「黄金矩形」の中に入れ子のように、もう一つの小さな「黄金矩形」をはめ込むと、1対1の正方形と1対1.618の小さな黄金比が現れます。これを黄金分割といい、小さな「黄金矩形」に、さらに小さな「黄金矩形」をはめ込むと、全く同じパターンで1対1の正方形と1対1.618の小さな黄金矩形が現れ、これは無限小まで同じパタターンが(フラクタル図形のように)繰り返されます。
矩形の角を結ぶように曲線でつなげて行くと、なんとアンモナイトのような対数螺旋が現れます。

Photo_9 この黄金比による螺旋は自然界の台風の渦巻きや動植物の成長する形態すべてに当てはまります。
「Golden proportion」(黄金比率)と関連して生み出される「FIBONACCI SERIES」(フィボナッチ数列)を引き出す形とも言われています。
生物の個体が細胞分裂して増殖する際の有様(例えば巻貝の成長過程の変化)、を数学的観点から見た場合に、そこに理論上の数列を見ることが出来、その増加率はやがて黄金比を示すようになることが知られている。この数列は13世紀にピザの数学者「フィボナッチ」により示されました。

三次元地球上の自然界は多種多様であっても基盤として共通するシンプルな形があります。それは『黄金比』に支配されている正多面体の正十二面体に見える六角形とも言え、黄金比で出来上がる黄金矩形の組合せで出来上がる、渦や螺旋と言える。生物の生長の基礎である、細胞分裂を引起すDNAも螺旋ですね。

http://silicon-kid.cocolog-wbs.com/blog/2009/05/post-eb5c.html
シリコンキッド
探求の旅


珪素とメタンの分子構造は、四面体(三角錐)をしている。
(量子ドットも相似形と予想できる)


この理論でいけば、根本・根拠になる位置に日本はあります。

この事が重要な意味を持つのです。

これから意識を科学的、数学的に解明し「意識の形を示す」という試みをします。

結論から言いますと、意識の形は水分子と珪酸水、つまり、「H2O」と「SiOH」とは同じ形(相似形)、言い換えますと「フラクタル」です。

「フラクタル」とは、自己相似構造を持つ図形です。

つまり、細胞膜の自己相似形が水分子と言えます。

この水分子の形が自然界の根本にある形で、この自己相似の連続構図で自然界は成り立っているのです。(図5参照)
 
見えない「五次元宇宙」を発表したアメリカの理論物理学者リサ・ランドール女史は「この世に存在し、物事を構成する要素はそれぞれ別のルールで動いている訳ではなく、全ての要素がきちんと統合される原則が存在するはずである」と述べています。

「存在するはずである」とは、まだ分かっていないという事ですが、そのきちんと統合される原則が、水(H2O)と珪酸水(SiOH)の形の中に組み込まれている、つまり、水と珪酸水はフラクタルの構図を持っていると考えられるのです。




そこで、高尾・いよの説、物事を構成する要素を一つの形・一つのルールに統合して宇宙と心( 言葉) と身体はどのように繋がりどのような形をしているのか述べていきます。

高尾・いよの説の「螺動ゼロ点模式図」は(図6)のような形をしています。

つまり、宇宙の始まりには回転があります。

今までは、私達の宇宙は四次元宇宙と言われていました。

四次元とは
一次元 . 線
二次元 . 面
三次元 . 高さ
四次元 . 時間と空間です。


五次元宇宙
一次元 . 線
二次元 . 面
三次元 . 高さ
四次元 . 時間と空間
この四次元に螺旋運動(回転)を加えて五次元宇宙
五次元宇宙の螺旋回転運動の形が「絶対の法則」となっている。


この四次元にもうひとつ螺旋運動・つまり回転運動を加えた五つの次元を五次元宇宙と言います。

本来この次元はゼロ次元で、数学では、角・円・螺動は次元なし、つまりゼロ次元と言いますが、これを加えて五次元と考えられます。

五次元宇宙を発表されたリサ・ランドール女史も五次元は極端にねじ曲がっている通路であると述べられています。

つまり、この五次元宇宙の螺旋回転運動の形が生命の源であり、水と珪酸水の形へ自己相似形を作り人体にまで繋がっているのです。

この形こそが、「絶対の法則」となっています。

螺動回転の模式図を上から見ますと、五角形又は、五芒星形を内在する対数螺旋形をしています。
(図7参照)



この対数螺旋形が自然界に出現したものです。

全て螺旋運動の形をしています。
(図8参照)
 


自然に潜む螺動ゼロ点の証し(2)
ナノバブルの破裂
金電極螺旋状折異種金属出物電子の螺旋状運動電子・陽電子の対発生

 



この五角形は、ピタゴラスの直角三角形が一対となり、その一対の角度108°が5個、そして、対角線を結ぶと中に回転した五角形が生まれます。
(図10参照)



これが回転の原理で小.大、大から小へ五角形が回転しています。
(図10参照)

宇宙の始まりで対数螺旋の形、五角形の規範(カノン)が生まれます。

この対数螺旋の影が日時計のグノーモンです。
(図7参照)

この五角形が回転して小さくなった中心が、ゼロ点です。

そして、ゼロ点で回転が逆転して虚(マイナス)回転となります。

(この説明は、数学の複素平面という数理で得られる構図です)(図11-3参照)


 
よって、このゼロ点を中心に生まれる渦巻は右巻と左巻という回転渦になりますが、この二つは一対です。
(図11-3参照)

丁度人の右手と左手のような関係の構図で、手袋や靴が片方だけでは用を成さないように、この渦巻も右巻だけでも左巻だけでも役に立ちません。

精神と物は一体である「物神一元論」

仏教では「あの世を実在界」

この世を「あの世の写し世」と説きます。

数学では、見えない世界を虚数( i )で表現します。

実在の見える物質世界を実在界といいます。

そして、この右巻・左巻という関係は、虚・実の関係といえ、虚と実は、一対です。

つまり、見えない精神世界と見える実在界は一対で、切り離すと、片方の手袋、或は、片方の靴や足袋で生活しているのと同じ事であり、片肺飛行、片翼飛行のように飛べないのです。

この考え方を高尾征治氏は「物神一元論」と唱えておられます。

『虚と実図』


仏教では、この世は仮の世、あの世が本来の実在界と説いています。

見えない精神世界が本来の姿であり、そこから物質が生まれているという事です。

ですから、物質は精神、つまり、見えない虚空から五角形原理の渦巻によって生まれると言えます。

繰り返しますが、聖書では「初めに言葉があった」「光は言葉であった」と説きますので、神の光が言葉を話す人間にまで転換された事になります。
http://iyonoishi.com/inochinokotoba/view.php?p=9


Words of Life

黄金比とメディア界:五芒星形と聖数5|Japonesian Trans-Apocalypse ...
これは、五芒星形に関するラセンを形成するのだろう。そして、これが、現象界の基本の形状・原形なのだろう。(参照:「 フィボナッチ数列(Fn+1=Fn+Fn-1)と,黄金分割(χ2
−χ−1=0)と,等角らせん(指数関数y=eχ)が同じことの証明」 ...



評価者・考課者研修番外編-タウ(τ)の話:webインソース
2010年5月14日 ... 正五角形の頂点を対角線で結ぶと五芒星形ができ、この五芒星形の中に小さな正五角形ができ、無限にこの繰り返しが .... 例えば、宇宙の渦巻く銀河は「黄金らせん」です。他にも、ヒマワリの種子の配列、昆虫の体の分節、植物の茎の葉の ...


2011年02月19日(Sat)▲ページの先頭へ
MANICHAEIST or Manichaeist World:超越界/MP/差異即非共振
画像つきは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10805835793.html
http://d.hatena.ne.jp/antares/20110219

テーマ:ゾロアスター教とマニ教:「光」VS「闇」

《光は闇であり、闇は光である。
Light is darkness, and darkness is light.》

悪魔ルシファーに関して、帰宅途中考えていたが、結局、不連続的差異論の基本的概念に戻れば、簡単に説明できることが判明した。
 即ち、悪魔アーリマンは凸iの変異体であり、悪魔ルシファーは凹iの変異体である。そして、両者がMedia Pointで、共振して、⇒+1の同一性体を形成するのである。この同一性体は、自我であるし、物質でもある。
 とまれ、Media Point の精神的フィルターによって、差異即非双極体は連続的同一性化されるのであり、悪魔アーリマンと悪魔ルシファーが連続的同一性化されて、自我を形成するのである。近代ならば、悪魔アーリマンが支配的であり、唯物論、近代合理主義を形成すると考えられる。
 では、一般には、この連続的同一性体(二重悪魔の連続的同一性体)の自我をもっているのであり、自我は他の自我と常に争うである。これが娑婆である。俗世間である。そう、万人の万人に対する闘争である。
 しかしながら、差異共振性が潜在するのであり、それが、賦活されるとき、人は神秘を感じるのである。そう、√凹⇒凸i*凹iの神秘が生起するのである。霊感、直観である。
 しかし、自我、連続的同一性体である自我はその神秘を怪しむであろう。何故なら、その世界、物質世界では、説明がつかないからである。せいぜい、心の表現と言うに留まるだろう。
 しかし、この差異共振の霊感、直観を独立さえさせればいいのである。これが不連続化である。(脱構築主義の失敗は、単に、差異と同一性の連続性を説くに留まったことである。)
 そして、精神世界が独立するのである。そして、ここに、マニ教的世界が生まれると言っていいだろう。マニ教的人間、 Manichaeist(Kaisetu氏に拠る)、マニキイスト(又は、マニキスト)は、精神世界の光に帰属する人間であり、物質現象世界においては二重世界に生きていると言える。しかし、物質現象世界がマーヤー(幻像)であることを知っているのである。
 優れた芸術家、アーティストは、マニキストである。そう、私はバッハの対位法に魅了されているが、結局、対位法とは、言うならば、差異共振法、差異共振術である。ここに秘密、エッセンスがあるのである。そう、マニキスト(マニキアン)・アーティスト(マニキアーティスト、マニキアンアーティスト)たちがいるだろう。
 美術では、ルネ・マグリットがそうであるし、文学では、ウィリアム・シェイクスピア、ルイス・キャロル、D. H. ロレンスがそうである(思うに、美術、文学でマニエリスムと呼ばれたものは、マニキスト的、マニキアンであろう。)。   
 ポップスでは、ビートルズ、初期のジョージ・ハリスン、レディー・ガガである。
 そして、数学では、ガウスやオイラーがそうであろう。数学のマニキスト。
 哲学では、当然、プラトンである。禅では、鈴木大拙がマニキストである。当然、易、老子がマニキアンである。
 物理学では、アインシュタイン、量子力学の科学者たちがそうであろう。
 そう、マニキスト(マニキアン)・ワールドがあるのである。
 とまれ、これで、シュタイナーの悪魔論をPS理論から解明することができた。
 さて、後の問題は、第二象限と第三象限の関係である。
 超越性凹を凸iで捉えると、同一性化するのである。宗教で言えば、超越的存在を神として、名づけるのである。ヤハウェとかアッラーとか。しかし、これは、超越性を同一性に引き下ろす力学をもっているのであり、権力化すると言えよう。そう、宗教は教祖の後、権力化するのが常である。つまり、外的権威となってしまい、本来の内的志向を喪失するのである。
 だから、第二象限とは、一種虚構的構築であると言えよう。
 そう、禅を例にとれば、禅も当然、本来、第三象限を志向するものであり、言語のもつ同一性から脱却するために、言語的表現を否定する言語的表現、パラドクシカルな言語的表現となったのである。しかし、私見は、禅はその点で、過剰になり過ぎて、本来の第三象限を分かりにくくしたと思う。
 さて、最後に光の問題であるが、いったい、凹が超越光、大光なのか。それとも、第三象限がそれなのか。
 凹をダーク・マターとすると、第三象限がダーク・エネルギーであり、それが、超越光、大光ではないのだろうか。
 これは課題としておき、ここで留めたい。
参照1:人間認識図(by Mr Kaisetsu)

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
参考:
日本は日本国成立(律令制期)以降20世紀後期まで一貫して「陰陽の専門家」が中央官庁内部に設置されてきた。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=812585
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile

参照2:以下のマグリットの「光」とは超越光、大光のことではないだろうか。第三象限の光。


【 光の帝国  − ルネ・マグリット作(1954年) − 】




 1954年に描かれたマグリットの代表作、「光の帝国」。
 この作品に、マグリットはこんな言葉を残しています。


 「 白昼の空の下に夜の風景が広がる。
   最初は判らないが、もう一度よく見て初めて、実写的に描かれた
  この舞台装置の超現実性が意識される。
   「光の帝国」の中に、私は相違するイメージを再現した。つまり、
  夜の風景と、白昼の空だ。風景は夜を想起させ、空は昼を想起させる。
   昼と夜のこの共存が、私達を驚かせ魅惑する力を持つのだと思われる。

   この力を、私は詩と呼ぶのだ。」
http://blog.goo.ne.jp/kibora-hiro/e/47f7c0b9b86769cd14867a9642fb7055

日々是日記


2011年02月15日(Tue)▲ページの先頭へ
今や日本は二流、三流国である:知的衰退の日本:国学的一神教的父権主義が日本の癌・元凶・諸悪の根源
今や日本は二流、三流国である:知的衰退の日本
日本の衰退は、知的レベルの衰退に拠ると考えられる。ゆとり教育という亡国教育があった。しかし、それに対して、どれだけ、自衛手段をとった個民がいただろうか。
 政府に依存しているのが誤りである。自分で生きる道を切り開く必要がある。だからと言って、社会保障を削減すればいいということでもない。民主主義ならば、国民の生活を守る義務がある。
 思うに、いったい、どこで、日本人はスポイルされてしまったのか。直観では、伝統文化が伝承されていないのである。ここに問題がある。
 三島由紀夫が問題にしたように、戦後文化の問題があるのである。
 これまで何度も述べたように、連合国は、日本文化を否定して、近代合理主義を植え付けたのである。この洗脳が利いている。
 そう、近代合理主義、言い換えると、近代的自我が日本人の精神を狂わせたと考えられる。唯物論、自我中心主義になったのである。
 とまれ、日本文化は基本的には母権文化であるが、それが、江戸・東京を中心とする父権文化に支配されてきたと考えられる。
 言い換えると、東京的自我・悪魔主義が日本文化を歪めているのである。それに対して、日本母権文化は、非力である。沖縄の問題もここにあると言えよう。
 いったい、どこで日本は狂ってしまったのか。私は、現代日本人の自我中心主義が狂っていると思っているが、その発端は何なのか。
 日本母権主義にその狂気をもたらすものがなかったのか。
 問題は超越性であると思う。本来、日本文化には、超越性があった。それが、根絶やしになったと言えよう。思うに、日本的超越性を喪失した根因は、教育者、知識人が近代的合理主義に染まったことにあると思う。それが、素朴な民衆を洗脳したのである。
 しかし、近代合理主義に染まる人間は基本的に個の貧弱な人間である。劣弱な人格である。
 私は、高貴な差異と劣弱な差異を指摘したが、前者は母権タイプであり、後者が父権タイプである。しかるに、後者が前者を排除して、近代日本を狂わせたと思う。悪魔が勝利したのである。そして、今や、日本は、悪魔の政治となったのである。

追記:やはり、国学に問題があると思う。私は本居宣長に対して強い疑念をもっている。
 先に述べたように、古代日本において、アジア的母権多元複合文化が形成されたが、同時に、ユダヤ的父権一神教的文化がもたらされたのではないだろうか。
 両者が交差するのが日本史ではないのか。そして、近世以降、ユダヤ的父権的一神教が伸張したのではないのか。それが、尊王攘夷主義を生んだと思われるのである。そして、それが、明治近代を形成して、日本を破滅させたのではなかったか。
 因みに、先に述べたように、坂本龍馬らに拠る明治維新は日本的母権主義に拠るものと考えられるのである。この日本本来の伝統文化が明治以降、否定されてきたと考えられるのである。
 そう、日本には二つの文化があるのであり、日本父権主義は最低・最悪のものである。自己中心的であり、売国・亡国的なのである。

追記2:日本伝統文化と戦後文化の違いを明晰にする指標は、思考のベースに肚があるか否かである。

追記3:上述の随想の主旨を、今の考えを入れて、整理すると、日本文化は、二重性、二面性の文化である。即ち、アジア的母権複合文化と父権文化(これは、一神教であるかどうかは不明であるとする)である。しかしながら、本来、前者が主であり、後者は従であり、それが、混淆して日本伝統文化を形成した。
 思うに、問題は、やはり、江戸時代である。ここで、国学において、キリスト教が入ってきて、一神教的文化がもたらされたと思われる。平田篤胤の神道は、キリスト教化されたものである。そして、本居宣長に拠る大和心と漢心の区別・差別が生まれた。これは、近世的自我主義である。
 そして、これらの国学から、尊王攘夷の狂信的な排外的なナショナリズムが生まれる。
 だから、本来、母権主父権従のヒエラルキーが、江戸時代において、崩壊して、父権が一神教化して伸張して、少なくとも、母権と父権が相並ぶようになったか、あるいは、父権が母権を凌駕する事態にまでなった。とにかく、日本伝統文化のヒエラルキーが崩壊して、父権が母権に対して、支配力を行使するようになったと仮説する。
 その後、江戸幕府が腐敗して行き、開国主義が広がる。その時、伝統文化の母権主義の覚醒と一神教的父権主義の尊王攘夷主義の二重構造が生じたのであるが、前者が主導して、明治維新を果たすのである。しかしながら、明治政府は、後者、狂信的な排外的ナショナリズムの一神教的父権主義が支配し、前者の覚醒した母権文化を排除していき、アジア、太平洋における侵略戦争をもたらして、 破滅したのである。
 そして、連合国に拠る支配の下に、近代合理主義が金科玉条となり、それ以前の日本伝統文化が排除されたのである。しかし、父権的形式は残存したのであり、それが、戦後の政治等の枠組みを作ったと考えられる。即ち、戦後日本は、日本伝統文化、アジア複合母権文化が徹底的に排除された時代となったと考えられる。
 そうすると、日本伝統文化の衰退は、二重の原因があるということになる。
 一つは、江戸時代から明治時代における父権主義の勃興。
 一つは、戦後における日本母権伝統文化の排除。
 これら二つの根因によって、日本伝統文化は根こそぎにされて、日本人は近代合理主義、唯物論的自我主義に染まってしまい、自己を喪失して、今や、亡国となったのである。
 有り体に言えば、優れた人間、民衆や指導者を含めて、きわめて、少なくなったのである。優れた人物が、残念ながら、日本に生まれなくなったのである。

追記4:果たして、二つの日本文化、即ち、母権文化と父権文化があると言っていいのだろうか。追記3に拠るならば、父権文化は導入されたキリスト教の影響が考えられるので、日本本来のものではないということになろう。
 そう、儒教文化もあるが、それが、母権文化と共存していたと思うので、儒教的一面主義はなかったと思う。
 また、考えるべき問題は、日ユ同祖論である。確かに、古代日本において、ユダヤ人が渡来した可能性はある。そこで、ユダヤ教的一神教をもたらした可能性は考えられるのである。
 しかし、そうではあっても、根源的アジア母権文化とユダヤ教的父権文化が、古代日本においては、「同居」、共存していたのではないだろうか。つまり、天皇が媒介になって両者を共存させていたのではなかったか。つまり、母権ベースに、天皇を中核とした、父権文化の取り込みである。
 これは、考えられうることである。この場合、父権文化は実に、母権的色合いをもつのである。そう、ギリシア神話を考えるといい。ゼウスには、母権的要素が濃厚なのである。やはり、古代日本は、古代ギリシアの母権ベースの父権的習合を対比させた視点で見るといいのではないだろうか。新しい母権文化がそこで生まれたということになる。
 しかしながら、上記で指摘した日本父権文化、キリスト教が導入された国学的父権文化は、その古代的母権ベースの父権的複合とは明らかに異なると考えられる。
 それは、明らかに、アジア的母権複合文化を排除しているからである。だから、やはり、日本父権主義の根因は、そこに見るのが的確だと思う。つまり、二つの文化が日本にあるのではなく、江戸時代において、異質な文化が日本に導入されたと見るべきである。本来、日本文化はアジア母権複合文化であり、一つの文化であるが、それが、江戸時代におけるキリスト教の導入によって、異質な父権主義が混ざり、日本文化のアジア母権的霊統・血統が蝕まれたと考えるべきである。
 そして、その異質な父権主義の勢力が、戦後においては、連合国=米国の支配に迎合・隷属して(売国奴となり)、近代合理主義を国民に洗脳したと考えられる。
 だから、日本の父権主義とは、日本本来のアジア母権複合文化とは異質なキリスト教的父権主義(一神教的父権主義)であり、それが、狂信的な排外的ナショナリズムを形成し、かつ、戦後は米国への従属の下、アジア母権複合文化である日本伝統文化を排除して、近代合理主義に拠って国民を洗脳してきたということになる。
 結局、今日の日本の亡国的状況は、国学的一神教的父権主義に根因があることになる。母権的な天皇文化はこれに利用されて、「天皇制」となったのである。
 ということで、日本父権主義の根因は古代ではなく、江戸時代にあったのである。
 そして、今や、近代合理主義を標榜する国学的一神教的父権主義によって徹底して排除・駆逐・追放された日本伝統文化のアジア母権多元複合文化を大新生させることが日本の復活に必須であることになる。
 己を取り戻すこと、自己回帰すること、これが、亡国日本の新生復活をもたらすと考えられる。コピー的に言うと、リターン・トゥ・ジャパン、リターン・トゥ・エイジャである。Return to Inner Self Japan with Asia!
 
 
参考:
小沢氏「欧州文明は限界に来ている」

産経新聞

2011年2月15日(火)8時0分配信 産経新聞  

-PR-

 民主党の小沢一郎元代表は14日、都内で開かれた自らが主宰する「小沢一郎政治塾」で講演し、今後の国際社会に関し「キリスト教は一神教だ。欧州文明は地球規模の人類のテーマを解決するには向いておらず、限界に来ている」と指摘した。一方で「日本人は他の宗教に非常に寛容だ。悪く言えばいいかげんで融通無碍(むげ)だが、うまく伸ばしていけば21世紀社会のモデルケースになる」と述べた。
http://news.nifty.com/cs/domestic/governmentdetail/sankei-snk20110215126/1.htm


2011年02月14日(Mon)▲ページの先頭へ
今や日本は二流、三流国である:知的衰退の日本
日本の衰退は、知的レベルの衰退に拠ると考えられる。ゆとり教育という亡国教育があった。しかし、それに対して、どれだけ、自衛手段をとった個民がいただろうか。
 政府に依存しているのが誤りである。自分で生きる道を切り開く必要がある。だからと言って、社会保障を削減すればいいということでもない。民主主義ならば、国民の生活を守る義務がある。
 思うに、いったい、どこで、日本人はスポイルされてしまったのか。直観では、伝統文化が伝承されていないのである。ここに問題がある。
 三島由紀夫が問題にしたように、戦後文化の問題があるのである。
 これまで何度も述べたように、連合国は、日本文化を否定して、近代合理主義を植え付けたのである。この洗脳が利いている。
 そう、近代合理主義、言い換えると、近代的自我が日本人の精神を狂わせたと考えられる。唯物論、自我中心主義になったのである。
 とまれ、日本文化は基本的には母権文化であるが、それが、江戸・東京を中心とする父権文化に支配されてきたと考えられる。
 言い換えると、東京的自我・悪魔主義が日本文化を歪めているのである。それに対して、日本母権文化は、非力である。沖縄の問題もここにあると言えよう。
 いったい、どこで日本は狂ってしまったのか。私は、現代日本人の自我中心主義が狂っていると思っているが、その発端は何なのか。
 日本母権主義にその狂気をもたらすものがなかったのか。
 問題は超越性であると思う。本来、日本文化には、超越性があった。それが、根絶やしになったと言えよう。思うに、日本的超越性を喪失した根因は、教育者、知識人が近代的合理主義に染まったことにあると思う。それが、素朴な民衆を洗脳したのである。
 しかし、近代合理主義に染まる人間は基本的に個の貧弱な人間である。劣弱な人格である。
 私は、高貴な差異と劣弱な差異を指摘したが、前者は母権タイプであり、後者が父権タイプである。しかるに、後者が前者を排除して、近代日本を狂わせたと思う。悪魔が勝利したのである。そして、今や、日本は、悪魔の政治となったのである。

追記:やはり、国学に問題があると思う。私は本居宣長に対して強い疑念をもっている。
 先に述べたように、古代日本において、アジア的母権多元複合文化が形成されたが、同時に、ユダヤ的父権一神教的文化がもたらされたのではないだろうか。
 両者が交差するのが日本史ではないのか。そして、近世以降、ユダヤ的父権的一神教が伸張したのではないのか。それが、尊王攘夷主義を生んだと思われるのである。そして、それが、明治近代を形成して、日本を破滅させたのではなかったか。
 因みに、先に述べたように、坂本龍馬らに拠る明治維新は日本的母権主義に拠るものと考えられるのである。この日本本来の伝統文化が明治以降、否定されてきたと考えられるのである。
 そう、日本には二つの文化があるのであり、日本父権主義は最低・最悪のものである。自己中心的であり、売国・亡国的なのである。

追記2:日本伝統文化と戦後文化の違いを明晰にする指標は、思考のベースに肚があるか否かである。

追記3:上述の随想の主旨を、今の考えを入れて、整理すると、日本文化は、二重性、二面性の文化である。即ち、アジア的母権複合文化と父権文化(これは、一神教であるかどうかは不明であるとする)である。しかしながら、本来、前者が主であり、後者は従であり、それが、混淆して日本伝統文化を形成した。
 思うに、問題は、やはり、江戸時代である。ここで、国学において、キリスト教が入ってきて、一神教的文化がもたらされたと思われる。平田篤胤の神道は、キリスト教化されたものである。そして、本居宣長に拠る大和心と漢心の区別・差別が生まれた。これは、近世的自我主義である。
 そして、これらの国学から、尊王攘夷主義の狂信的な排外的なナショナリズムが生まれる。
 だから、本来、母権主父権従のヒエラルキーが、江戸時代において、崩壊して、父権が一神教化して伸張して、少なくとも、母権と父権が相並ぶようになったか、あるいは、父権が母権を凌駕する事態にまでなった。とにかく、日本伝統文化のヒエラルキーが崩壊して、父権が母権に対して、支配力を行使するようになったという個と仮説する。
 その後、江戸幕府が腐敗して行き、開国主義が広がる。その時、伝統文化の母権主義の覚醒と一神教的父権主義の尊王攘夷主義の二重構造が生じたのであるが、前者が主導して、明治維新を果たすのである。しかしながら、明治政府は、後者、狂信的な排外的ナショナリズムの一神教的父権主義が支配し、前者の覚醒した母権文化を排除していき、アジア、太平洋における侵略戦争をもたらして、自滅したのである。
 そして、連合国に拠る支配の下に、近代合理主義が金科玉条となり、それ以前の日本伝統文化が排除されたのである。しかし、父権的形式は残存したのであり、それが、戦後の政治等の枠組みを作ったと考えられる。即ち、戦後日本は、日本伝統文化、アジア複合母権文化が徹底的に排除された時代となったと考えられる。
 そうすると、日本伝統文化の衰退は、二重の原因があるということになる。
 一つは、江戸時代から明治時代における父権主義の勃興。
 一つは、戦後における日本母権伝統文化の排除。
 これら二つの根因によって、日本伝統文化は根こそぎにされて、日本人は近代合理主義、唯物論的自我主義に染まってしまい、自己を喪失して、今や、亡国となったのである。
 有り体に言えば、優れた人間、民衆や指導者を含めて、きわめて、少なくなったのである。優れた人物が、残念ながら、日本に生まれなくなったのである。

追記4:果たして、二つの日本文化、即ち、母権文化と父権文化があると言っていいのだろうか。追記3に拠るならば、父権文化は導入されたキリスト教の影響が考えられるので、日本本来のものではないということになろう。
 そう、儒教文化もあるが、それが、母権文化と共存していたと思うので、儒教的一面主義はなかったと思う。
 また、考えるべき問題は、日ユ同祖論である。確かに、古代日本において、ユダヤ人が渡来した可能性はある。そこで、ユダヤ教的一神教をもたらした可能性は考えられるのである。
 しかし、そうではあっても、根源的アジア母権文化とユダヤ教的父権文化が、古代日本においては、「同居」、共存していたのではないだろうか。つまり、天皇が媒介になって両者を共存させていたのではなかったか。つまり、母権ベースに、天皇を中核とした、父権文化の取り込みである。
 これは、考えられうることである。この場合、父権文化は実に、母権的色合いをもつのである。そう、ギリシア神話を考えるといい。ゼウスには、母権的要素が濃厚なのである。やはり、古代日本は、古代ギリシアの母権ベースの父権的習合を対比させた視点で見るといいのではないだろうか。新しい母権文化がそこで生まれたということになる。
 しかしながら、上記で指摘した日本父権文化、キリスト教が導入された国学的父権文化は、その古代的母権ベースの父権的複合とは明らかに異なると考えられる。
 それは、明らかに、アジア的母権複合文化を排除しているからである。だから、やはり、日本父権主義の根因は、そこに見るのが的確だと思う。だから、二つの文化が日本にあるのではなく、江戸時代において、異質な文化が日本に導入されたと見るべきである。本来、日本文化はアジア母権複合文化であり、一つの文化であるが、それが、江戸時代におけるキリスト教の導入によって、異質な父権主義が混ざり、日本文化の霊統・血統が蝕まれたと考えるべきである。
 


米国の世界トランス・モダン(自由共同体民主主義)戦略とエジプト維新
田中宇氏の以下の記事は私が先に書いた考察(エジプト政変とは何か:用意周到な戦略的動き:アジア・アフリカの帝国的民主化:トランス・モダン世界 )の一種の証左になる重要なものと考えられるので、全文転載させていただく。



やがてイスラム主義の国になるエジプト
2011年2月12日  田中 宇

 2月11日夜、エジプトのムバラク大統領が辞任した。ムバラクは辞任の前日、かねてから親しかったイスラエル労働党の国会議員ベンエリエゼル(Ben- Eliezer。元国防相)と電話で20分間話した。その中でムバラクは「米政府は中東の民主化を支持すると言うが、彼らは、自分たちが言っていることの意味を理解していない。中東を民主化すると、米国を敵視するイスラム過激派の国ばかりになってしまうのに、米政府はいつまでもそのことに気づかない」と述べ、米国を非難するとともに、自分が米国から疎んぜられていることを嘆いた。(Mubarak slammed U.S. in phone call with Israeli MK before resignation )

 米政府は1979年のイラン革命で、民衆が蜂起してイラン国王を追放することを「民主化」として支持したが、それは結局、ホメイニ師らイスラム主義勢力がイランの政権をとって親米的なリベラル派や軍幹部を粛清し、今に続く反米的なイスラム主義政権ができることにつながった。また米政府は2005年、ブッシュ政権が推進した「中東民主化」の一環としてパレスチナで民主的な選挙を行わせた。イスラエルやパレスチナ自治政府(PA)は「真に民主的な選挙をやれば、反米イスラム主義のハマスが勝ってしまう」と反対したが、米政府は聞かずにPAに選挙を実施させ、その結果ハマスが大勝した。事後になって、米国やPAは何とかハマスに政権をとらせまいと画策し、西岸の政権交代を阻止したが、ガザをハマスにとられてしまった。(イスラム共和国の表と裏(1)乗っ取られた革命 )(ハマスを勝たせたアメリカの「故意の失策」 )

 ムバラクは、これらの例をふまえて「米政府は、中東を本気で民主化するとイスラム過激派の国ばかりになることを、過去の教訓から理解できるはずなのに、理想主義にふけってそれに気づかず、今またエジプトの民主化運動を支援し、自分が大統領職から追い落とされることを容認しようとしている。エジプトの政権転覆を容認したら、政権転覆が他のアラブ諸国に飛び火し、エジプトだけでなく中東全域が反米的なイスラム過激派の国になってしまうのに、米政府はそんなこともわかろうとしない」と米国を非難したのだった。

 ムバラクは2月11日、エジプトの軍部によって大統領職を追われた。3週間におよぶ民衆の反政府運動がムバラクを追い落としたことになっているが、実際には、この50年間エジプトの権力を黒幕的に支えてきた軍部がムバラクを支持する限り、何百万人の群衆が集まろうが、ムバラクは無視して大統領にとどまり、そのうち群衆はあきらめて帰宅する。軍が反政府の国民運動に同調し、ムバラクに辞任を求めた結果、ムバラクは権力を失った。

 それでは、軍はなぜムバラクを追い出したのか。ムバラクの独裁に嫌気がさしたから?。民意を尊重したから?。いずれも違うだろう。独裁をやめて民主化したら、イスラム主義のイスラム同胞団が与党になり、革命後のイランのように、イスラム主義者が世俗的な軍部を潰しにかかるだろうことを、軍は良く知っており、軍幹部はムバラクと一緒にイスラム同胞団を弾圧し、選挙不正を良いことと考えてきた。

 軍部が民衆運動を支持してムバラクを追い出したのは、エジプトの軍隊を育成した「軍部の親玉」である米政府が民衆運動を支持し、エジプト軍に対し、民衆の味方をしろと裏で圧力をかけたからだろう。米オバマ政権は、エジプトの民主化を支持すると繰り返し表明し、そのたびに民衆運動は扇動されて大胆になり、ムバラクが辞めるまで運動をやめないと断言した。軍部はそれに引きずられ、最初はムバラクに政治改革を約束させ、それでも米国に扇動された民衆運動が納得しないので、最後には軍はムバラクを追い出した。ムバラクの追放は米国の差し金なので、ムバラクは米国を非難したのだった。

▼米国の理想主義でアラブ親米諸国政府は存亡の危機に

 イスラエルの議員はムバラクの愚痴の聞き役だったが、単なる聞き役ではなく、米国の頓珍漢な理想主義に迷惑しているのはイスラエルも同じであり、イスラエルもムバラクと同じ気持ちのはずだ。イスラエルのネタニヤフ首相は、エジプト革命について、79年のイラン革命のようにイスラム主義に席巻されていき、最後はイスラム同胞団が権力につくだろうと警告している。サウジアラビアやヨルダン、パレスチナ自治政府の権力者たちも、イスラエルやムバラクと同じ気持ちだろう。サウジ国王は「米政府は(民主化という理想主義にふけって)後のことを全く考えず、ムバラクの追放を支持しようとしている」と再三にわたり、米国の戦略を批判していた。(Back off Hosni Mubarak, Saudi King Abdullah warns Barack Obama )

 サウジ政府は「米国がムバラク政権を見捨てても、サウジが金を出してムバラク政権を助ける」とまで言っていたが、ムバラクの辞任が不可避になってきた2月10日以降、態度を「ムバラク支持」から「中立」に転換し、ムバラク辞任の巻き添えでサウジ王家のイメージが悪化することを避けた。(Riyadh rethinks stance on `popular revolt' )

 サウジやヨルダン、イエメン、クウェートなど、アラブの親米国の政府は、いずれも独裁的な王政か終身的な大統領の政権だ。エジプト革命の映像は、アルジャジーラやアルアラビアといったアラブ全域をカバーする衛星テレビ放送によって即時中継され、アラブ諸国の人々を「自分の国の独裁政権も転覆できるのではないか」という気持ちにさせている。米政府は、エジプトだけでなくアラブ全域の民主化を歓迎しており、アラブ諸国の反政府活動家は、自分たちも頑張れば米国に支持され、独裁政権を転覆できると奮起している。サウジやヨルダンなどの親米アラブ諸国の権力者たちは、米国の理想主義が自分たちを破滅させかねないと苛立ち、ムバラクやネタニヤフと全く同じ気持ちだろう。

 イスラエル政府は少し前まで「ムバラクが辞めたら、イスラム同胞団の政権が不可避となる」という見方をしていたが、米国の「専門家」の間では「エジプトでは今のところ、イスラム同胞団が最も良く組織された野党勢力であるのは事実だが、今後時間をかければリベラル派の野党が育ち、同胞団をしのぐ勢力になる。民主化してもイスラム主義の政権ができる懸念は低い」という見方が強い。「イスラエルは同胞団の脅威を過剰に見積もり、エジプトの民主化を阻害している」と、親イスラエルだったはずの米共和党系のネオコン(ブッシュ政権で中東民主化やイラク侵攻を推進した勢力)がイスラエル批判をしている。(In backing change in Egypt, U.S. neoconservatives split with Israeli allies )

 ネオコンに非難され、ムバラクの辞任も不可避と知ったイスラエル政府は、数日前から「ムバラクが辞めても軍部が政権を握る限り、エジプトがイスラム主義に陥ることはない」という言い方に変えた。しかし実際には、イスラム同胞団についての見立てについて、米国のネオコンは間違っており、従来のイスラエルの方が正しい。米政府は、エジプトで軍部がずっと政権を握ることを許さず、真に民主的な選挙を求めるだろう。そうなるとイスラム同胞団が与党もしくは連立与党の一角を占めることになる。

 イスラム同胞団は、エジプト政府によって政党組織になることを禁じられているが、同胞団員は無所属として議会に立候補できる。05年の総選挙では、投票の前半の段階で、イスラム同胞団系の勢力が改選議席165のうち88議席をとっていた。だがこの事態をみた当局は、同胞団の支持者が多い選挙区に警察を繰り出し、投票に行こうとする有権者を抑止して投票を阻害し、同胞団の当選者の増加を止めた。結局、エジプト議会の全454議席のうち88議席が同胞団となるにとどまったが、それでも同胞団は事実上の野党第一党となった。もし当局が選挙の後半戦で同胞団の支持者を抑止する不正をしていなければ、同胞団の議席は200以上になっていたかもしれない。(Tide turns in favor of Egypt's Muslim Brotherhood )

 ムバラク政権を支持してきた米政府は、長くイスラム同胞団を嫌っていたが、05年の選挙後、在エジプト米大使館がイスラム同胞団の議員らと交流を開始した。ムバラク政権は米政府に対し、イスラム同胞団と接触しないよう求めたが、米側は「野党議員との懇談はどこの国の米国大使館もやっていることで、やめるわけにはいかない」とうそぶいていた。今回のエジプト革命の勃発後、米政府は「エジプトの民主政権には、非世俗系の主要勢力も含まれる必要がある」と表明し、同胞団の政権入りを歓迎している。(U.S. reexamining its relationship with Muslim Brotherhood opposition group )

▼自分を弱く見せているイスラム同胞団

 イスラム同胞団は1928年に結成された、近代の政治的枠組みに沿った世界最初のイスラム政党だ。独立直後のエジプトで設立されたが、アラブ全体をイスラム主義の政治体制で統合して一つの国家(カリフ)にすることを目標に掲げ、すべてのアラブ諸国に支部組織を持っている。同胞団は、世界最大規模のイスラム政党でもある。ガザのハマスは、イスラム同胞団のパレスチナ支部の一派閥である。(Muslim Brotherhood From Wikipedia )

 エジプトを含む全アラブをイスラム主義政権にして統一するという同胞団の目標は、歴代のエジプト政府に警戒され、同胞団は弾圧され続けた。ムバラク政権では、先日副大統領になって権力を握ったオマル・スレイマンが、諜報機関のトップとして同胞団の弾圧と解体に注力した。同胞団は、当局による弾圧の中で組織を維持する戦略を身につけ、暴力を非難し、穏健な言動につとめ、イスラム主義を標榜していることすら強く打ち出さないようにしてきた。

 カイロの市街地にある同胞団の本部には、イスラム主義を象徴するものは何も置かれておらず、エジプトの多くのイスラム教徒の家庭の居間に飾ってある、メッカのカーバ神殿の写真すら掲げられていない。同胞団は、今回のエジプト革命における主要な推進役の一つだったが、彼らはイスラム主義のスローガンや横断幕を全く出さず、リベラル系の運動組織と同様、ムバラクの辞任と民主的な選挙を求めただけだった。エジプトのリベラル派は、同胞団の支持者数をエジプト国民の2−3割と概算しているが、同胞団自身は、非合法政党なので党員数を数えたこともないが400万人(国民の6%)ぐらいだろうと言っている。('We Are On Every Street' What the Future May Hold for Egypt's Muslim Brotherhood )

 エジプトにおける同胞団の支持率が、05年選挙の前半戦が示す「165議席中の88議席」つまり単独与党になれる規模なのか、それとも同胞団自身が言っている「6%」なのか、今は判然としない。だが、今回の革命の中で、同胞団が自分たちの力を意図的に小さく見せようとしていることは確かだ。

 報道によると、タハリル広場の入り口で武器持ち込み規制の検問をしていた同胞団員は、へジャブ(スカーフ)をかぶっていない女性たちが来ると歓迎し、積極的にテレビに映るようにしてくれと女性らに頼んでいた。デモ隊がへジャブ姿ばかりだと、同胞団の影響力が強いのだと世界の視聴者に思われかねないからだった。同胞団は、非常に良く組織され、都会の貧困層が多く住む地域に無償の病院や学校を建てて運営したり、食料支援をするなど地道な努力によって、広範な草の根の支持を得ている。(Muslim Brotherhood looks to gains in Egypt protest )

 エジプトの軍部は、イスラム同胞団の台頭を何とか抑えたいだろう。しかし米政府は「真の民主化」を求め続け、エジプト軍部に対し、同胞団を抑圧するなと求め続けるだろう。軍部が米政府の意に反して同胞団を弾圧したら、米政府はエジプト軍を公式に非難し、軍事援助の打ち切りなどの経済制裁をするだろう。エジプトの混乱が長引き、国民が困窮するほど、同胞団の貧困層に対する支援活動が重要なものとみなされ、同胞団に対する支持が増える。米国からの圧力に屈して、軍部が民主的な選挙を許すと、同胞団が与党または連立与党の重要構成員になる。イスラエルが懸念していた「エジプトの民主化はイスラム主義化になる」という事態が実現する。

 エジプトがイスラム主義化していくと、エジプトとガザを一体化しようとする動きが双方から強まる。エジプトとガザの国境には、幅500メートルのイスラエル領(フィラデルフィア・ルート)が挟まっており、イスラエルがそこからの撤退を拒否すると、エジプトとイスラエルの間が険悪になり、最悪の場合、戦争になる。ガザのハマスとイスラエルが戦争になり、そこにエジプトが巻き込まれる展開もあり得る。こうした紛争と平行して、パレスチナ自治政府やヨルダンの王政がイスラム主義勢力によって転覆させられるかもしれない。エジプト革命を受け、ヨルダンで国王が内閣を改造したが、国民の評判は悪い。(「ガザの壁」の崩壊 )

 米国が「中東民主化」を容認し続けると、ヨルダンとパレスチナがイスラム主義に転換し、イスラエルは戦争になり、政権転覆はサウジアラビアにも波及しかねない。サウジ王政が存続できるとしたら、米国を非難してイスラムの大義を支持することが必要だろう。これはサウジ王家が親米から反米に転向し、イスラム同胞団やイランと仲良くすることを意味する。イスラム勢力が原油価格を決める態勢になって相場が高騰し、1970年代の石油危機のように、イスラエルを支持する国に石油を売らないという宣言が出るかもしれない。

▼イスラム帝国が復活する?

 こうした流れがどこまで進むか予測できないが、サウジアラビアがイスラム主義に傾くと、ペルシャ湾岸諸国やパキスタンやアフガニスタンもイスラム化の傾向が強くなり、アラブ全域がイスラム主義で統合的な動きを示す。イスラム同胞団の目標である「カリフ」に近いものが出現するかもしれない。インドネシアやマレーシアなど東アジアのイスラム諸国も、何らかの政治転換をするかもしれない。

 すでにイスラム的な協調をみせているイランとトルコという2大勢力と合わせ、中東はアラブ、イラン、トルコという3つのイスラム勢力が協調する新体制になりうる。米国の影響力は排除され(米議会で台頭する共和党の茶会派は、すでにイラクとアフガンの占領を無意味とみなし、撤退を求めている)、イスラエルは国家存続できない可能性が高くなる。

 このようにエジプトのムバラク辞任は、世界的に巨大な影響を与える事件である。欧米や日本の多くの人々が「エジプトがリベラルな民主主義に転換して欧米化し、みんなハッピー」と思っているかもしれないが、それは幻想だ。欧米人が嫌うイスラム主義が西アジアを席巻する可能性の方が高い。

 米国のマスコミや右派(ネオコン)は、同胞団は大したことないと分析している。だがそれは、03年のイラク侵攻の前後に、彼らが「米軍がフセイン政権を倒すだけで、イラクはリベラルな民主体制になっていく。イラクがイスラム主義化することはない」と言っていたのと同様の、少し考えればすぐにわかる大間違いである。米国のマスコミや右派の中には(ユダヤ人が多いだけに)中東情勢に詳しい人が多いのに、なんでこんな基本的な大間違いを繰り返すのか。(Fears of a Muslim Brotherhood Takeover are Overblown )

 それを「民主化という理想主義に目がくらんでいるから」と単純化して考える人が多いが、米国の上層部の人々は、非常に現実的な世界支配の体制を何十年と維持しており「中東民主化」の部分だけ過剰な理想主義に走ると考えるのは無理がある。間違いの大きさから考えて、プロならやるはずのない「未必の故意」に相当する。

 私はやはり、以前から分析してきたように「米政界が1970年代からイスラエルに牛耳られてきた事態をふりほどくための、親イスラエルのふりをした反イスラエルの、意図的な大間違い」だろうと思っている。もしくは、世界的な覇権体制として見ると、米国が英イスラエルによって縛られている、ユーラシア包囲網の世界戦略から米国と世界を解放し、米英に敵視されてきた地域の経済成長を誘発する多極化戦略の一環としての、意図的な米国覇権の解体再編策であると考えられる。
http://tanakanews.com/110212egypt.htm

憂国通信M版
2011/02/14 11:01

エジプト革命やはり中国に飛び火 ネット民VS政府当局 熾烈なコメント戦争(第四次世界大戦を読む4)



現在アメリカと中国は水面下で激しい経済戦争・情報戦争を展開している。この戦争はこの二カ国だけに限定されてはおらず、お互いに関係国を引きずり込んでいることにより世界規模で展開されている。このような状況はかつてのアメリカ・ソ連による「冷戦」と酷似している。全世界がブロック化し、多額の軍事費が動き、ブロック境界で現実に戦闘も行われたことを考慮に入れて「冷戦」を「第三次世界大戦」と位置づける学者も存在する。本ブログもその説を採用して、現在のアメリカ・中国間の状況を「第四次世界大戦」と呼ぶことにしている。ただし、こんな名称を付けているのは本ブログくらいしかない。この戦争はブロック境界線上に位置する日本も無関係ではない。普天間問題、尖閣問題などは全部第四次世界大戦の影響によって発生した事件なのである。そして今回のエジプト革命も同様だ。背景は中国のアフリカ進出である。急速にアフリカに対して進出した中国に欧米は危機感を抱いていた。アフリカで存在感高める中国、独裁政権支援や新植民地主義に批判―英メディア



http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110213-00000003-rcdc-cn




中国が目を付けたのは独裁政権だ。効率的に裏金が使えるので、落としやすかったのである。中国ほど気前よく奮発できない欧米は苦々しく思っていた。アフリカは元々欧米の縄張りである。中国のやっているのは殴り込み以外の何ものでもない。中国に対抗するためには、自分たちを裏切って中国になびいてしまった独裁政権を崩壊させる必要がある。そこでCIAが利用したのがネット通信である。YouTubeもFacebookもWikiLeaksも事実上背後で操っているのはCIAだ。中国の最大の弱点は「非民主化」である。アメリカだって自民党に相当する二大政党が適当に交代しているだけの事実上独裁国家なのだが、表向きは「民主政権」ということになっている。アメリカの貧富の差も酷いが、中国も酷い。中国国民はアメリカ国民ほど洗脳が進んでいないので、ちょっと工作してやればたちまち大混乱に陥るのである。





http://archive.mag2.com/M0061325/20110214110100000.html



極東ブログ

* エジプト争乱、後半戦について

 では私の推測を言おう。



 今回のエジプト争乱の、4日金曜日以降の後半戦の隠された主題は、「4月6日運動」のような親米的な

活動家が運動のグリップを握ることで、ムスリム同胞団など旧来の反政府活動を相対化させる点にあったのではないだろうか。つまり、後半戦は民主化の運動と

いうより、今後のエジプトのレジームへの水路付けだったのではないか。それを念頭に今回の件のオバマ大統領の声明(参照
・参照
)を読むと興味深いだろう。



 加えて、事態が再度緊迫すれば、集会者に惨事を惹起させることで革命のエネルギーとすることは革命家なら誰でも思いつく常套手段であり、それが実施される寸前でガス抜きされなければなかった。つまり、見事なガス抜きでもあった。



 エジプト軍部の内部は米国との関連があるのは旧知のことであり、「4月6日運動」運動もウィキリークスが暴露したように親米的な民主化運動であるなら、当面のエジプトの動向は、いずれにせよ、イラン革命といった道とは違う方向に向かうだろう。

http://news.livedoor.com/article/detail/5341668/?p=2



ウィキリークスがエジプト「4月6日運動」について暴露した2008年12月30日の公電


極東ブログ



グラミー賞 日本人受賞相次ぐ
2月14日 12時0分 twitterでつぶやく(クリックするとNHKサイトを離れます)

アメリカの音楽界で最も権威のあるグラミー賞の最優秀ポップ・インストゥルメンタル・アルバム賞に、人気ロックバンド「B’z」のギタリスト松本孝弘さんとアメリカのギタリストによる共作アルバムが選ばれたのをはじめ、最優秀インストゥルメンタル・ソリスト演奏賞にはピアニストの内田光子さんが選ばれるなど、日本人の受賞が相次ぎました。

B’zの松本さんは、アメリカのギタリスト、ラリー・カールトンさんとの共作アルバム「テイク ユア ピック」で、ポップ部門の楽器演奏で最も優れたアルバムに贈られる、最優秀ポップ・インストゥルメンタル・アルバム賞に選ばれました。また、クラシックのピアニスト、内田光子さんは、オーケストラとの共演で最も優れた演奏をした楽器の演奏家を選ぶ、最優秀インストゥルメンタル・ソリスト演奏賞に選ばれました。このほか、最優秀ニューエージアルバム賞には、大阪出身でカリフォルニア州在住の琴奏者、松山夕貴子さんが参加した、ポール・ウィンター・コンソートによるアルバム「ミホ:ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン」が、最優秀コンテンポラリー・ジャズ・アルバム賞には、静岡県出身のジャズピアニストで現在はアメリカで活躍する上原ひろみさんが参加したバンド「スタンリー・クラーク・バンド」が、それぞれ選ばれています。ことしのグラミー賞は、さまざまな音楽ジャンルで活躍する4人の日本人が相次いで受賞する受賞ラッシュとなりました。グラミー賞は、1958年に創設されたアメリカで最も権威がある音楽賞で、ポピュラー音楽からクラシックまで幅広い分野を対象にしています。アメリカの音楽関係者で作る団体「全米レコーディング芸術科学アカデミー」が主催し、会員による投票で決まります。授賞の対象は、ロックやジャズ、現代音楽やクラシックなど幅広く、全部で100以上の部門があり、このうち、▽年間最優秀レコード賞、▽年間最優秀アルバム賞、▽年間最優秀楽曲賞、▽最優秀新人賞の4つが「主要4部門」とされています。日本人では、▽1987年にデザイナーの石岡瑛子さんが「最優秀アルバム・パッケージ賞」を受賞したのをはじめ、▽1989年に坂本龍一さんが「最優秀映画音楽アルバム賞」を、▽2001年にシンセサイザー奏者の喜多郎さんが「最優秀ニューエージ・アルバム賞」を受賞しています。▽このほか、2008年に太鼓奏者の中村浩二さんが参加したグループが、「最優秀ニューエージ・アルバム賞」を受賞しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110214/k10014036601000.html


エジプト政変とは何か:用意周到な戦略的動き:アジア・アフリカの帝国的民主化:トランス・モダン世界
だんだん今度のエジプト政変(「革命」)の意味が見えてきた。やはり、米国による用意周到な計画に基づくと考えられる。田中宇氏的に言えば、多極化路線の進展である。(追記:オバマ大統領のカイロ宣言も伏線であろう。)
 これは、一言で言えば、世界経済発展の路線である。独裁主義を排して、民主化を進展させるのである。
 私は先に、最近のある米国映画(複数)に独裁者を打倒するテーマがあるのに気づいたが、どうやら、世界民主化路線に沿っていたと考えられる。
 そうなると、北朝鮮、中国はその対象にされるだろう。中国は民主化への対処を求められると言えようが、中国は、民主化したら、分裂するだろう。しかし、米国の狙いはそこだろう。(追記:思うに、米国や日本も対象となろうし、ロシアだってうかうかできないだろう。)
 思うに、これは一体、何をもたらすのだろうか。思うに、これは、米国本来の自由民主主義、自由共同体主義の志向である。理想主義である。
 しかし、これは、間違ってはいない路線と考えられる。
 これは、自由主義*民主的共同体主義を意味するだろう。正に、トランス・モダン自由共同体主義である。

追記:次の田中宇氏の言葉が、私の直観に親和的である。

やがてイスラム主義の国になるエジプト

私はやはり、以前から分析してきたように「米政界が1970年代からイスラエルに牛耳られてきた事態をふりほどくための、親イスラエルのふりをした反イスラエルの、意図的な大間違い」だろうと思っている。もしくは、世界的な覇権体制として見ると、米国が英イスラエルによって縛られている、ユーラシア包囲網の世界戦略から米国と世界を解放し、米英に敵視されてきた地域の経済成長を誘発する多極化戦略の一環としての、意図的な米国覇権の解体再編策であると考えられる。
http://tanakanews.com/110212egypt.htm

イスラエル「安保の要」失う…ムバラク辞任

特集 中東

 【エルサレム=加藤賢治】イスラエルにとって、エジプトのムバラク前大統領失脚は、自国の安全保障の要を失ったに等しい重大事だ。

 パレスチナとの中東和平交渉でも、親米穏健派のムバラク氏はアラブ諸国とイスラエルとの橋渡し役を務めてきただけに、イスラエルは外交戦略の大幅見直しを迫られることになる。

 エジプト軍最高評議会は12日の声明で、国際協定は順守すると述べ、イスラエルとの平和条約を堅持する姿勢を示した。ただ、イスラエルは、軍による暫定統治が終わった後の議会選ではイスラム原理主義組織「ムスリム同胞団」が台頭する可能性が高いと見ており、そうなった場合に平和条約の見直しを求める声が高まることを恐れている。エジプトで見直し機運が高まれば、やはりイスラエルと平和条約を結んでいるヨルダンの世論にも影響しかねない。
(2011年2月13日20時36分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110213-OYT1T00452.htm


tanakanews_com

新しい記事を公開しました。「やがてイスラム主義の国になるエジプト」 http://tanakanews.com/110212egypt.htm 約17時間前 webから

やがてイスラム主義の国になるエジプト
2011年2月12日  田中 宇

 2月11日夜、エジプトのムバラク大統領が辞任した。ムバラクは辞任の前日、かねてから親しかったイスラエル労働党の国会議員ベンエリエゼル(Ben- Eliezer。元国防相)と電話で20分間話した。その中でムバラクは「米政府は中東の民主化を支持すると言うが、彼らは、自分たちが言っていることの意味を理解していない。中東を民主化すると、米国を敵視するイスラム過激派の国ばかりになってしまうのに、米政府はいつまでもそのことに気づかない」と述べ、米国を非難するとともに、自分が米国から疎んぜられていることを嘆いた。(Mubarak slammed U.S. in phone call with Israeli MK before resignation )

 米政府は1979年のイラン革命で、民衆が蜂起してイラン国王を追放することを「民主化」として支持したが、それは結局、ホメイニ師らイスラム主義勢力がイランの政権をとって親米的なリベラル派や軍幹部を粛清し、今に続く反米的なイスラム主義政権ができることにつながった。また米政府は2005年、ブッシュ政権が推進した「中東民主化」の一環としてパレスチナで民主的な選挙を行わせた。イスラエルやパレスチナ自治政府(PA)は「真に民主的な選挙をやれば、反米イスラム主義のハマスが勝ってしまう」と反対したが、米政府は聞かずにPAに選挙を実施させ、その結果ハマスが大勝した。事後になって、米国やPAは何とかハマスに政権をとらせまいと画策し、西岸の政権交代を阻止したが、ガザをハマスにとられてしまった。(イスラム共和国の表と裏(1)乗っ取られた革命 )(ハマスを勝たせたアメリカの「故意の失策」 )

 ムバラクは、これらの例をふまえて「米政府は、中東を本気で民主化するとイスラム過激派の国ばかりになることを、過去の教訓から理解できるはずなのに、理想主義にふけってそれに気づかず、今またエジプトの民主化運動を支援し、自分が大統領職から追い落とされることを容認しようとしている。エジプトの政権転覆を容認したら、政権転覆が他のアラブ諸国に飛び火し、エジプトだけでなく中東全域が反米的なイスラム過激派の国になってしまうのに、米政府はそんなこともわかろうとしない」と米国を非難したのだった。

 ムバラクは2月11日、エジプトの軍部によって大統領職を追われた。3週間におよぶ民衆の反政府運動がムバラクを追い落としたことになっているが、実際には、この50年間エジプトの権力を黒幕的に支えてきた軍部がムバラクを支持する限り、何百万人の群衆が集まろうが、ムバラクは無視して大統領にとどまり、そのうち群衆はあきらめて帰宅する。軍が反政府の国民運動に同調し、ムバラクに辞任を求めた結果、ムバラクは権力を失った。

 それでは、軍はなぜムバラクを追い出したのか。ムバラクの独裁に嫌気がさしたから?。民意を尊重したから?。いずれも違うだろう。独裁をやめて民主化したら、イスラム主義のイスラム同胞団が与党になり、革命後のイランのように、イスラム主義者が世俗的な軍部を潰しにかかるだろうことを、軍は良く知っており、軍幹部はムバラクと一緒にイスラム同胞団を弾圧し、選挙不正を良いことと考えてきた。

 軍部が民衆運動を支持してムバラクを追い出したのは、エジプトの軍隊を育成した「軍部の親玉」である米政府が民衆運動を支持し、エジプト軍に対し、民衆の味方をしろと裏で圧力をかけたからだろう。米オバマ政権は、エジプトの民主化を支持すると繰り返し表明し、そのたびに民衆運動は扇動されて大胆になり、ムバラクが辞めるまで運動をやめないと断言した。軍部はそれに引きずられ、最初はムバラクに政治改革を約束させ、それでも米国に扇動された民衆運動が納得しないので、最後には軍はムバラクを追い出した。ムバラクの追放は米国の差し金なので、ムバラクは米国を非難したのだった。

http://tanakanews.com/110212egypt.htm


慶祝!! エジプト民主化革命
(02/12)

ウクライナやグルジアの「民主化」がCIA主導でなされたのと違い、今回のエジプトの「民主化」の革命は草莽の民衆の真の革命であり、だから決してアメリカの要請、あるいは資金で始まったものではないにもかかわらず、オバマの姿勢は一貫してこの動きを支持するものだったことを見れば、オバマが実は、このようなエジプト国民の側に立っている、ということが理解できるのだ。ムバラクがエジプトにおけるアメリカの利権の保護者であるにもかかわらず、である。

 エジプト国民の願いは、パレスチナの同胞を支援することにあり、イスラエルの蛮行をエジプト国家として糾弾し、そのイスラエルのシオニスト的好戦的武断的姿勢を改善してもらう点にある。そして勿論、パレスチナ国家の「真」の独立を達成させることにある。

 そしてオバマ大統領の狙いも願いもそこにある。

 従って、次にできるエジプトの新政府は、今までのムバラク体制下で進められてきた「親」イスラエル姿勢の抜本的改善を進めるであろう。つまり、パレスチナ人の人権を無視するようなイスラエルの姿勢が改まらなければ、イスラエルとの外交関係を変更する、ということである。
 
 その可能性があることを知って、オバマ大統領は始めから今回のエジプト民衆の動きを支持してきた。そしてそれは、「民主化」という大義名分があるゆえ誰も反対できないのだ。CIA主導でないから、つまりこの民主化運動ではアメリカ(ユダヤ)の傀儡政権が生まれそうにないから支持できない、とは誰も言えないのだ。アメリカやヨーロッパにいるユダヤ人たちも、悔しいけれども文句を言えないのである。
http://rockway.blog.shinobi.jp/Entry/494/
ROCKWAY EXPRESS


2011年02月13日(Sun)▲ページの先頭へ
光と超越的存在(ダーク・マター):知霊と量子:√凹⇒凸i*凹i⇒凸:二重光としての光の神秘
今は余裕がないので、予見を書きたい。
 既述したように、光は、凸i陽と凹i陰の共振によって、形成される。それが、凸i*凹i⇒凸(+1)の意味である。⇒凸(+1)が光である。凸(+1)を取り出すなら、粒子としての光子である。
 問題は、凸の背後、超越的背後に凹(-1)が存することである。いわゆる、ダーク・マターである。
 私が問題にしたいのは、差異共振エネルギーというか、虚軸での双極子としての差異の様態である。
 固定した状態では、粒子ないしは物質ではないだろうか。しかし、賦活されると精神になるのではないだろうか。
 思うに、双極子の背後に凸(超越的存在)があり、それが、双極子的粒子を精神化しているのではないだろうか。
 わかりやすく言えば、凸が霊、スピリット、神である。これが、量子にいわば背後霊のように付いているのではないだろうか。だから、量子や素粒子とは、霊的粒子、あるいは、知霊的粒子ということになるだろう。
 「気」もそういうものだろう。精神的粒子である。とまれ、物質とは、端的に、知霊的粒子の固定化したものではないだろうか。あるいは、知霊が静止した状態に縮約したものが物質ではないだろうか。だから、賦活させると、知霊化すると考えられる。
 後で、丁寧に考察を行ないたい。

追記:以前、四極の双極子ということを述べた。即ち、凹、凸i、凹i、凸を四極とする双極子である。言い換えると、十字双極子である。クロス・ダイポールである。ただし、凹は超越的な不可視性をもつ。
 だから、光の場合、⇒凸の粒子性をもつし、⇒においては、波動性をもつだろう。しかし、共振・即非波動である。(量子論はこの点をうまく捉えていないと思う。)
 問題は、凹とMedia Pointの関係数式である。以下の追記2の虚事象と背景の関係の問題である。
 凹(-1)の平方根は、凸i(+i)と凹i(-i)である。だから、√凹⇒凸i*凹iと記述できるだろう。まとめると、

√凹⇒凸i*凹i⇒凸

である。しかしながら、凹iには、凹への回帰の志向性があるように思う。何故かと言えば、凸iは外的光を受容するが、凹iは内的光(「闇」)を受容すると考えられるからである。つまり、有り体に言えば、凸iとは外的認識性を、凹iは内的認識性をもつと考えられるのである。
 言い換えると、凹iは凹と接触しているのである。しかるに、凸iは凸と接触しているのである。凹の平方根でありながら、両者は非対称と考えられるのである。
 この点から光について考えると、⇒凸の光は外的光と言えよう。しかしながら、凸i*凹i⇒は二重光であると考えられる。原光と原闇の二重光である。しかるに、凸iに傾斜した一般に人間認識では、この二重光を感光できないのである。つまり、原光に傾斜しているのであり、原闇を捉えられないのである。何故なら、原闇は不可視的であるからである。いわゆる、無意識というものは、この原闇、凹iに存すると考えられる。
 とまれ、光とは本来、二重光であるが、一般的には一重の光としか捉えていないのである。それは、外的光、物質的光と言えよう。
 思うに、私が以前、超越光と呼んだものであるが、それは、超越界凹と原闇凹iと接触する領域から発する内的光と考えられる。そして、これこそ、霊的太陽であると言えよう。アフラ・マズダーである。
 近代主義は、光の二重性をまったく無視して、外的光、物質的光しか捉えていないのである。言い換えると、精神の光がまったく欠如しているので、人間は悪となるのである。
 とまれ、光が原光と原闇の二重光であるという真実は、深い。わかりやすく言えば、光とは、闇であり、闇とは光である。あるいは、光・即非・闇である。
 現代日本人は光の闇の光を失っているのである。ここで、D. H. ロレンスがdark sunと呼んだものであるが、それは、正に、闇の光である。内的光、超越光、霊的太陽である。
 
追記2:差異即非・共振と差異連続的同一性化を念のため、区別しておこう。前者は、凸i*凹i⇒凸であり、後者は凸i*凹i=凸である。後者は不連続的絶対的双極的差異が同一性に連続化されているのである。これが、微分であり、ドゥルーズの哲学である。
 しかるに、前者は不連続的双極的差異を保持しつつ、同一性・物質が形成される事象を表していると考えられる。
 光の事象も前者として明確に捉える必要がある。量子論が混乱しているのは、前者と後者を峻別していないからである。不連続性と連続性を混合しているのである。
 思うに、虚事象と実事象の区別が必要なのである。そして、虚事象は背景に超越性があるのである。

追記3:光が二重光ならば、端的に、外的光も実際は二重光である。つまり、外的光には、内的光が存するのである。それが、シュタイナーの説く太陽に内在するアフラ・マズダー(霊的太陽、太陽神)ということだろう。
 つまり、内的にも、外的にも、超越光、霊的太陽、太陽神が存すると考えられる。光の神秘である。


2011年02月10日(Thu)▲ページの先頭へ
凸i+凹i⇒Media Point(”0”)⇒・・・凹
テーマ:Media Point:MP1⇒MP2

積*の場合は、差異の否定となり、同一性・物質が生起するが、和+の場合は、差異の否定というより、一種の共立になるのではないだろうか。そして、Media Pointが発現するのではないだろうか。これは調和均衡点である。
 そして、ここから、超越的存在凹の感知が可能になるのではないだろうか。これは、凹iで凹を感知するということである。凸iの知覚は、物質的光、外的光の知覚となるので、超越的存在を感知することがおそらく、不可能ではないだろうか。
 そう、超越的存在凹は内的光、超越光の光源と考えられる。神秘主義とは、凹iと凹が相互浸透した様態ではないだろうか。凸iの物質的知覚を否定するのである。
 ところで、精神の初期は、凸iと凹iが未分化な様態にあるのではないだろうか。混淆、連続体と言えるのではないだろうか。
 両者を不連続にするのは、意識的行為だと思う。意識的に連続体を切断して、不連続体にしたときに、凸iと凹との均衡調和、Media Pointが確立するように考えられる。仏教、禅も、本来、そのような意味合いがあったと推察される。
 近代以前は、人間の意識は、凹i凹(第三象限)、又は、高次元界、神霊界を不明瞭ではあるが、感知していたと考えられる。宗教心の存在である。
 近代において、凸iが支配して、凹iを排除していった。もっとも、イタリア・ルネサンス自体は、東洋文化的であり、凹iが賦活されたのである。しかし、西欧文明の父権主義の凸i傾斜があるために、イタリア・ルネサンスの東洋性の理解を阻害したと考えられる。
 個の誕生であるが、個は凹iに存すると思う。自我は凸iである。凹i*凸iで、個我という言いかたはできるだろう。
 最後に、革命主義について考えたい。意識の未分化体において、近代化は凸iを突出させるが、同時に、凹iは無意識となり、「闇」となる。例えば、君主制、封建制の独裁的支配に個我は反発する。この反発は、凸iだけでなく、凹iの「闇」があると考えられる。
 凸iに否定された凹iが「闇」となり、無意識の、衝動的な否定的様態になった思われる。
 シュタイナー的に言えば、悪魔アーリマン凸iと悪魔ルシファー凹iとの合体したものがそこにあると考えられる。唯物論社会主義とは、そのようなものだと考えられる。
 革命思想とは実に恐ろしいものである。それは、悪魔主義であり、天使がいないのである。破壊主義である。
 ここで、菅政権を考えると、このような悪魔主義が支配していると考えられる。人間認識図では、第四象限である。

参考:人間認識図


2011年02月07日(Mon)▲ページの先頭へ
社会の未来ーシュタイナー1919年の講演録:社会三元的絶対的差異共立・共同体論
社会の未来ーシュタイナー1919年の講演録:社会三元的絶対的差異共立・共同体論

テーマ:トランス・モダン社会/新共同体創造的構築

持論の社会有機体三分節化論を展開している。精神領域、経済領域、法領域がそれぞれ独立し、かつ、社会有機体を構成するという社会哲科学である。
 例えば、政治が経済に介入することをシュタイナーは批判している。これは、一つの自由主義であるが、シュタイナーは、経済領域の連合体を提唱している。これは、差異共立・共振体と見ることできよう。つまり、経済差異共立・共振体、又は、経済差異共同体を構築するということになる。
 そして、国家(法領域)が精神領域に介入することを批判する。結局、精神絶対的差異領域、経済共同体絶対的差異領域、法(民主主義)絶対的差異領域の三つの絶対的差異領域が差異共立して形成される社会有機体、社会三元的共立共同体を説いていると考えられる。

追記:シュタイナーの社会有機体三分節論は、人間認識図(Kaisetsu氏)で説明できると思った。
 即ち、経済圏は第一象限であり、法律圏は第二象限であり、精神圏は第三象限である。そして、第四象限は悪徳であり、当然、排除されるものである。
 とまれ、人間認識図は社会三元共立体概念図となることになる。シュタイナー的にいえば、これまで、この社会三元性を連続化したために混乱、混迷し、混沌を生じさせたということになる。三元的絶対的差異圏(絶対的差異的三元体)を区別しなかったのである。【これは、立体でいうと、四面体(正四面体)になるのではないだろうか。】
 とまれ、社会三元共立体論は、国家の役割を著しく縮減させるだろう。いわゆる、小さな政府となるだろう。そして、自由主義が自由共同体主義となるだろうし、精神が独立して、豊かな文化社会を創造すると考えられる。
 そのとき、Media Pointは要となるだろう。これが、管制塔となり、三元共立体を基礎づけるだろう。

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

「人間認識図」 by Mr Kaisetsu


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

単なる神秘主義者でなく、社会思想家としてのシュタイナー, 2010/1/12

By
E=mc2 (岡山市北区) - レビューをすべて見る
(VINEメンバー)

シュタイナーの著作というと、神秘主義か教育学のいずれかのイメージが強いですが、本書は意外にも経済や社会思想の話が軸になっており、神秘主義的側面は稀薄です。その意味で、シュタイナー門外漢にもとっつきやすく、シュタイナー入門として読むことも可能でしょう。

帯のコピーには、なぜかベーシック・インカム論(労働の有無によらず、最低限の所得を保障する考え方)のルーツであることが強調されていますが、本文はベーシック・インカムの話が中心というわけではありません。むしろ、全体としては当時非常に強力な勢力となっていた社会主義と、そのベースにある「経済的視点によって世界や物事のすべてを斬っていこうとする単純化された思考法」への批判が強く打ち出されています。そもそもシュタイナーは、フィヒテ、ゲーテなどドイツ観念論の影響下から出発しており、当然とはいえ、ルソー、マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキーなど当時の社会思想に関する造詣が深いことに驚かされます。当時と現在では「社会主義」と「市場原理主義」の違いこそありますが、経済原理が至上の存在となってしまった今日の社会に対する警鐘ともいえる本書です。

第一次世界大戦の敗戦によるドイツ帝国の崩壊や、オーストリア=ハンガリー帝国の消滅、マルクス主義を標榜する勢力によるロシア革命政権の成立… といった当時の社会の大変化を踏まえ、なぜそうした事態を招いてしまったのか?どこに問題の原因があるのか?という問いかけから、シュタイナーは本書の元になった講演を開始します。そして、法=政治、経済、精神、さらに教育は、それぞれ固有の領域を持っており、各々の運営については各領域の専門家に委ねるほかないことをシュタイナーは指摘します。法や精神の領域は、決して経済の原則で動かすことはできないということです。そして最も強調されるのは、単なる知識に還元されない「精神」(Geist、霊)の領域の自立性、重要性です

シュタイナーが推進した人智学運動の背景に、このような当時の社会状況があったこと、またシュタイナーが労働者や企業家に向けて精力的に講演を行っていることを踏まえれば、人智学が個人の「解脱」のみならず、現実的なビジョンに基づく社会変革を目指したものであったことに気づくでしょう。


2011年02月04日(Fri)▲ページの先頭へ
マニ教文献リンク
マニ教文献リンク

テーマ:ゾロアスター教とマニ教の「光と闇」の対立

1)

マニ教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索
マニ教(-きょう、 摩尼教、英 : Manichaeism)は、サーサーン朝 ペルシャ のマニ (210年 - 275年 ごろ)を開祖とする宗教 。
ユダヤ教 ・ゾロアスター教 ・キリスト教 ・グノーシス主義 などの流れを汲む。 かつてはスペイン・北アフリカから中国にかけてのユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教 だったが、現在では消滅したとされる。マニ教は、過去に興隆したが現在では滅亡した(信者が消滅した)宗教のうちで、代表的なものである。
関連項目 [編集 ]
• マニ
• アウグスティヌス - キリスト教徒となる前はマニ教徒であった。
• グノーシス主義
• カタリ派
• ミトラ教 - マニ教と同じく一定の勢力を持っていたが消滅した宗教
外部リンク [編集 ]
• 国際マニ教学会(英語)
• マニ教 −消えた世界宗教−
• マニ教概説・序説
• 泉州歴史網−摩尼教(明教) 中国語
• 中国におけるマニ教
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99 」より作成
カテゴリ : マニ教 | グノーシス主義 | イランの宗教 | 中国の宗教



2)
 [PAGE ] マニ教概説 Index Page
   [ART ] マニ教概説・序説
   [ART ] マニ教概説

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/plist.html



3)

正典『マニの基本書』  ――東方ミトラ教の正典 
正典『新約文書より』  使徒たちの教え ――『マニの基本書』の続編です。 

http://homepage2.nifty.com/Mithra/

ミトレーアム・ジャパン(ミトラ教天使七星教会)−ミトラの友のための

4)

〜人生って素晴らしい!〜
マニ教 についてもっと知りたいと願う貴方の為に。

http://liblib.info/keyword/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99/

5)
マニ教(摩尼教、Manichaeism) ブログ・コミュニティ
http://philosophy.blogmura.com/tb_entry105499.html


6)

奄美のアマミちゃんお気楽ブログ:ミトラ教とマニ教(転載)
http://amamikyo.amamin.jp/e18626.html


7)
10.キリスト教の光と影 - 2. 最大のライバル「マニ教」と「グノーシス主義」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授
http://www.ozawa-katsuhiko.com/10christ_hikari/christ_hikari_text/christ_hikari02.html


8)
トゥルファンのマニ教遺跡
馬健 (北京大学考古文博学院博士課程)
http://dsr.nii.ac.jp/narratives/discovery/06/


9)

■ グノーシスの神話


神話10 マニ教の教説

http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth010.html


10)
チベットとペルシア 宮本神酒男 訳
第2章 ゾロアスター教と中央アジアのその他の宗教の伝来

2 吐蕃のマニ教信仰
http://nierika.web.infoseek.co.jp/tibetpersia122.htm


11)
【シナの変容】 世界宗教マニ教の東進

http://marco-germany.at.webry.info/200805/article_2.html
• 【シナの変容】 マニ教から明教へ
• (05/02)
【シナの変容】 マニ教と白蓮教
• (04/22)
【シナの変容】 弥勒殿に鎮座まします布袋様
丸幸亭老人のシナにつける薬

12)

• マニ教の宇宙図が日本にあった 2011-01-24 19:40

マニ教「宇宙図」国内に 世界初確認 - 中日新聞3世紀に誕生し、善悪二元論を教義として世界的な宗教に発展しながらも滅びたマニ教の宇宙観を描いたとみられる絵画が国内に存在することが、京都 大の吉田豊教授(文献言語学)らの調査で分かった。「10層の天と8層の大地からな・・・<br>
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation <br>
<br>
<br>
マニ教はPS理論的であり、ゾロアスター教は西洋的二項対立的である<br>
テーマ:ゾロアスター教とマニ教の「光と闇」の対立 <br>
<br>
マニ教は、非常に誤解されてきた「宗教」だと思う。学問的にも、マニ教的善悪二元論と言われるが、それは、ゾロアスター教に相応しい考えである、マニ教本来ではないと考えられる。<br>
 マニ教は正に、陰陽的発想をしているのであり、実に、東洋的である。<br>
 後で、ゾロアスター教とマニ教との関係の考察を行ないたい。<br>
<br>
第二章 ■四■ マニ教と薔薇十字会のクリスティアン・ローゼンクロイツ B<br>
 <br>
 (三)シュタイナーが語ったマニ教の本質<br>
 <br>
 マニの教えは、光神に闇の神が反抗するという経緯を語っており、その意味では先にご紹介したミトラ神話に類似しています。<br>
 <br>
 しかし、シュタイナーはマニ教ではこの世の起源は光の国の霊が自らの国の一部を取って、闇の物質の国に混ぜたことに起因するとしています。そ して、この光の国の霊が闇の中に光を混ぜたことは、闇の国の悪霊にとっては、光の国を侵略しようとしたことによって生じた「マイナスのカルマを清算する目 的」を兼ねているというのです。<br>
 <br>
 それによって、闇の世界は、その中に絶えず自分を消耗し、自分を破壊する芽を担うことになり、それに伴って生と死が生じたのだとしています。そして、人類はその闇を克服するために、光の国から善悪が混ぜられた国に送られる存在となったわけです。<br>
 <br>
 このことからマニ教では、 「光の一部が悪の中に入ることによって、闇の国は光の国によって罰せられるのではなく、むしろ寛大さによって征服されるべきである」 という洞察がなされたのだとシュタイナーは捉えています。つまり、人間においても「善者は悪を追放するのではなく、寛大さによって悪そのものを克服してしまうべきである」ということになります。<br>
 <br>
 例えば、シュタイナーは、こうした悪の寛容について次のようにも述べています。<br>
 「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に目を向けてみましょう。この絵を前にすると、地球の意識を目のあたりにしているようです。この絵にはキリストが描かれています。『最後の晩餐』の意味を理解するために、マタイ福音書の次の言葉を思い出しましょう。<br>
<br>
 <br>
 『供犠の死を避けて通ろうと思えば、私に全ての天使の長を呼び寄せられないこ とがあろうか。』(第二十六章・五十六)このとき、キリストが受け取ることができたものは断念されたのです。キリスト・イエスは断念を通して、裏切り者ユ ダを自分の領域に入らせました。ユダの中に見ることのできるものをイエスの中に見るとき、私たちは宇宙進化の中で供犠を断念した、断念を本性とする存在の 似姿を見なければなりません。<br>
<br>
 <br>
 ―――神々が太陽紀に断念を通じて敵対者(アーリマン)を生起させたように、 キリストはユダを使徒に加えていなければ避けられた死を、諦念のうちに受け入れるのです。断念という行為が繰り返されるのです。キリストは十二使徒ととも にあり、十二使徒の一人ユダが裏切り者として立ち上がるのです。<br>
 <br>
 あたかも、宇宙の諸力への反逆者の出現のようにです。人類の進化にとって非常に価値のあるものを導入するために、キリストは自らの敵対者を作る必要があったのです。」 (薔薇十字会の神智学)<br>
 <br>
 このように、マニの教えは悪に屈するのではなく、キリストがユダの裏切りを断念し受入れたように、悪を寛容し受け入れることによって悪を克服することを意図していたのです。<br>
 <br>
 では、キリストが敵対者を作り、悪を受入れることによって導入することができる 「人類の進化にとって非常に価値のあるもの」 と は何でしょうか。それは、神の光という恩恵を受けながらも、悪によって個我に自由を与えられ、その自由の中で悪に対する寛大さ、つまり「愛」と「赦し」を 学ぶことであるはずです。同時に、悪を克服して「愛」と「赦し」を獲得できるまで人間が無制限に悪に落ち込まないようにするためにカルマの法則があるとい えます。<br>
 <br>
 シュタイナーは次のようにも述べています。<br>
 「自由がなければ、愛の行為が崇高な在り方を示すことはできません。無条件的に衝動に従 わねばならない存在は、まさにそれに従って生きています。勝手なことを行うことのできる存在にとって、従わねばなぬ衝動はただ愛だけなのです。自由と愛 は、互いに結び合うことのできる両極です。<br>
 <br>
 私たちの宇宙の中で愛が成就すべきであるなら、それは自由を通してのみ、すなわちルツィフィル(ルシファー)を通してのみ可能なのです。そして同時にまた、人間の救済者であり、ルツィフィルの克服者でもあるキリストを通してのみ、可能なのです。」 (霊的宇宙論・進化の目標)<br>
<br>
 そうして、人間は善悪、正邪、美醜、真偽といった多様性を保持しながらも、自らの意志によって善悪を理解するようになり、自分の意志で善を愛し、道徳を重んじるようになり、最終的には善悪を超越した存在としての「大愛」なる神に近づいてゆくのだと捉えることができます。<br>
 <br>
 それでは、悪とは何なのかと問うならば、シュタイナーは悪に対する認識を次のようにも語っています。<br>
 <br>
 「ある時には非常に優れた善であるところのものが、さらに自己を保持し続けるならば、それは硬化したものになり、進歩を妨害することで善に反抗し、疑いもなく悪になってしまいます。<br>
 <br>
 たとえば、月紀の指導的な諸力が、その活動を排他的に行なうならば、その諸力は、その後の発展にも介入し、そのことによって地球紀の発展の中で、悪を現すことにちがいないのです。<br>
 <br>
 そのように、悪は神的なるもの以外の何ものでもありません。なぜなら、場違いな時の悪は、かつての時代においては、完全なるもの、神的なるものの表現であったものだからです。」<br>
 <br>
 ここで「月紀の指導的な諸力が、その活動を排他的に行なうならば……」というのは、月紀において運動霊ディナミスが、天上の戦いによって太陽と月の霊に分裂したことを示しています。<br>
(本ブログ:シュタイナーを読みために ・ シュタイナーの哲学体系【B】進化から逸脱したヒエラルキアを参照)。<br>
 <br>
 これによって、月紀には進化から取り残された霊が出現し、その霊が地球紀のレムリア時代から堕天使ルシファーという悪魔の働きをするようになったのです。同様にアーリマンも、太陽紀において堕天使となった存在なのです。<br>
 <br>
 一方、霊界物語十三巻の「モノログ」には、 「仁慈無限なる神様の方より、天 地間の万物を御覧になった時は、一さいの神人禽獣虫魚草木にいたるまで、一として善ならざるはなく、愛ならざるはないのであります。ただ、人間としての行 為の上において、誤解より生ずる諸多の罪悪が不知不識のあいだに発生しそれが邪気となり、天地間を汚濁し曇らせ、みづから神をけがし道を破り、自業自得的に災禍を招くにいたるものであります。」 としています<br>
 <br>
  そう考えることができるなら、ディナミス(運動霊)以上のヒエラルキアにとっては、こうした悪的存在は人間の個我を成長させ、愛と赦しによって真の自由を獲得させるための存在であり、究極的には至善至愛の神意が秘められているともいえるのです。<br>
 <br>
 それは、第一章で取り上げた素盞鳴尊の多様性が善であることをも意味しているはずなのです。王仁三郎は、昭和十九年三月に、 「神は偽悪だ。悪に見せて大善をなす。」と語ったといいますが、この言葉もこうした洞察によるものから発せられたのかもしれません。<br>
 <br>
 実際、シュタイナーも神と悪の存在について、次のようにも語っているのです。<br>
 「神々が断念していなかったらなら、ルツィフィル(ルシファー)は神々に反逆することができなかったでしょう。――中略――<br>
 <br>
  悪の原因は悪魔の中にではなく、神の中にあるのです。神が断念を行うことによって初めて、悪を世界にもたらす霊が出現したのです。――中略――<br>
 <br>
 神々は悪を斥けませんでした。悪のみが自由を与えることができるのです。神々 が悪を斥けていたなら、世界は単調な、変化に乏しいものになっていたでしょう。自由を賦与するために、神々は世界に悪を出現させねばなりませんでした。そ して、悪を再び善に戻す力を獲得しなければなりませんでした。この力は断念によってのみ得られるです。」 (薔薇十字会の神智学)<br>
 <br>
 そして、シュタイナーは、黙示録の講義の中で、マニについて次のように語っています。<br>
 「いつか偉大な教育の課題を解決するために、このような教えによって魂の準備をされた者たちが、マニ教という精神の方向の弟子たちです。<br>
 <br>
 マニ教は普通は誤って理解されています。マニ教について聞いたり、読んだりすると、紋切り型の話しを聞くことになります。マニ教徒たちは世界の初めから善と悪という二つの原理があったと信じていた、というのです。そうではありません。<br>
 <br>
 マニ教は未来において、悪を善に変えるためのものであり、マニ教の弟子たち は、将来の受肉において、その課題をなしとげることができるのです。マニはくりかえし地上に受肉する高次の人物であり、悪を改心させるために存在する人々 の指導者なのです。人類の偉大な導師たちのことを語るとき、悪の改心という課題を担ったこの人物のことも考えねばなりません。<br>
 <br>
 現在では、霊的なことがわずかしか理解されていないので、マニの原則は背後に引っ込んでいますが、精神生活に対する理解が深まれば、この偉大なマニ教原則は多くの弟子たちを獲得していくでしょう。」 (黙示録の秘密)<br>
 <br>
 この講義では、後アトランティス時代から、次の第六根幹人類期に移行するまでの間、霊的に善人が道徳性に貫かれ、悪人が内面的悪を外的な容貌として露呈させる時代が到来するとも語られています。<br>
 <br>
 さらに、マニとその弟子たちに代表される者たちは、この時代に「悪を善に改心させるための準備」をしている存在であるとしているのです。こう したシュタイナーのマニに関する洞察は、霊界物語の中で善と悪が繰り広げる一連のストーリーを連想させます。実際、霊界物語では神の教えを人々に伝える宣 伝使の言葉は、悪を善に変えるために改心を即すのです。<br>
 http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/63365673.html<br>
地球の救い方・・・R.シュタイナーの人智学に学ぶ <br>
<br>
シュタイナーのマニ教解説が興味深い:光を悪に混ぜて、寛大さによって悪を克服する<br>
テーマ:ゾロアスター教とマニ教の「光と闇」の対立 <br>
主権者国民と利権複合体の死闘が続く <br>
私たちはいま、主権者国民と「米・官・業・政・電」利権複合体の死闘のさなかにある。    2009年8月の総選挙で大勝利を獲得し、日本の歴史上初めて民衆の力による民衆のための政権が樹立された。    しかし、既得権益を維持しようとする利権複合体=悪徳ペンタゴンの抵抗はすさまじく、民主党に入り込んだ悪徳ペンタゴン勢力は昨年6月2日に反動クーデ ターを挙行し、主権者国民政権を破壊し、対米隷属の悪徳ペンタゴン政権を再樹立してしまった。    ウィキリークスが暴露したキャンベル米国務次官補による昨年2月3日のワシントンへの報告は、米国が小沢−鳩山ラインを切り捨て、菅−岡田ラインに乗り 換えるというもので、日本の政変の黒幕が米国であることを裏付けた。    小沢一郎氏を攻撃するための政治謀略が挙行され、まさ... <br>
» 続きを読む <br>
植草一秀の『知られざる真実』 <br>
<br>
<br>
第二章 ■四■ マニ教と薔薇十字会のクリスティアン・ローゼンクロイツ B <br>
このことからマニ教では、 「光の一部が悪の中に入ることによって、闇の国は光の国によって罰せられるのではなく、むしろ寛大さによって征服されるべきである」 という洞察がなされたのだとシュタイナーは捉えています。つまり、人間においても「善者は悪を追放するのではなく、寛大さによって悪そのものを克服してしまうべきである」ということになります。 <br>
<br>
<br>
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/63365673.html <br>
<br>
地球の救い方・・・R.シュタイナーの人智学に学ぶ <br>
<br>
	</div>
	<div class= Posted at 09:34 Comments/TrackBack(0) Permalink 日本民族とは:『日本書記』解読:二つの母権民族と二つの父権民族


   




新着トラックバック/コメント


カレンダ
2011年2月
   
         

アーカイブ
2006年 (104)
7月 (9)
8月 (6)
9月 (7)
10月 (9)
11月 (39)
12月 (34)
2007年 (542)
1月 (48)
2月 (49)
3月 (67)
4月 (45)
5月 (44)
6月 (1)
7月 (33)
8月 (67)
9月 (47)
10月 (42)
11月 (49)
12月 (50)
2008年 (623)
1月 (40)
2月 (29)
3月 (26)
4月 (38)
5月 (32)
6月 (48)
7月 (49)
8月 (61)
9月 (68)
10月 (86)
11月 (86)
12月 (60)
2009年 (472)
1月 (82)
2月 (66)
3月 (58)
4月 (32)
5月 (27)
6月 (34)
7月 (35)
8月 (26)
9月 (36)
10月 (30)
11月 (28)
12月 (18)
2010年 (251)
1月 (19)
2月 (29)
3月 (29)
4月 (11)
5月 (25)
6月 (33)
7月 (28)
8月 (23)
9月 (15)
10月 (18)
11月 (8)
12月 (13)
2011年 (126)
1月 (11)
2月 (12)
3月 (13)
4月 (12)
5月 (6)
6月 (4)
7月 (5)
8月 (11)
9月 (15)
10月 (7)
11月 (16)
12月 (14)
2012年 (117)
1月 (10)
2月 (13)
3月 (6)
4月 (6)
5月 (14)
6月 (8)
7月 (11)
8月 (7)
9月 (3)
10月 (24)
11月 (9)
12月 (6)
2013年 (145)
1月 (12)
2月 (11)
3月 (9)
4月 (21)
5月 (10)
6月 (9)
7月 (17)
8月 (9)
9月 (5)
10月 (22)
11月 (13)
12月 (7)
2014年 (91)
1月 (6)
2月 (13)
3月 (18)
4月 (5)
7月 (4)
8月 (26)
9月 (7)
10月 (5)
11月 (6)
12月 (1)
2015年 (61)
1月 (6)
2月 (12)
3月 (8)
4月 (14)
5月 (10)
6月 (4)
7月 (6)
8月 (1)

アクセスカウンタ
今日:1,090
昨日:1,086
累計:4,648,515