INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2011/01

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




[PR]



2011年01月31日(Mon)▲ページの先頭へ
北魏と馮太后の母権文化:ソグド人とツングース民族:母権天皇文化:マニ教とシャーマニズム
テーマ:日本伝統文化:神話・宗教祭礼・民俗・芸能

先に、飯山一郎氏の卓抜な北魏の馮太后論に対して、馮太后は母権天皇文化を体現するのではないのかと直観を述べた。2のKaisetsu氏による北魏とソグド人の関係の指摘が実に意義深いと言えよう。何故なら、ソグド人が北魏に一つの母権文化をもたらしたと考えられるからである。すなわち、先に、孝文帝の「帝国」は父権と母権の折衷であると仮説したが、その母権文化の一面はソグド人的なものと考えられるのである。
 そうすると、ソグド人の母権とツングース系馮太后の母権の複合と仮説できる北魏の母権文化が、やはり、天皇母権文化の起源とみることができるだろう。
 しかしながら、北魏の父権と母権との折衷における父権的要素が、ユダヤ的要素と結びついて、父権的「天皇制」を形成したということかもしれない。
 また、ソグド人がマニ教と関係することも興味深い。思うに、日本に入ってきたアジア母権複合文化とは、基礎がマニ教的なのかもしれない。しかし、イデオロギー的にはツングース的な母権天皇文化ではないだろうか。
 後で整理したい。

追記:本日、飯山氏の新しい記事が掲載されたので、最後に転載する。
 

1)

*

馮太后とは何か:私の直感では、母権天皇文化を体現する:卑弥呼に似る

コメント(0)

Sun, January 30, 2011 new

http://ameblo.jp/renshi/entry-10784652738.html

*

天皇制の問題:北魏の母権と父権の折衷主義と日本の父権的「天皇制」と母権天皇文化

コメント(0)

Sat, January 29, 2011

http://ameblo.jp/renshi/entry-10783394450.html
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

2)

北魏政権とソグド人
http://blog.kaisetsu.org/?eid=812501
涼州安氏と李将軍の死
1 user このエントリーをはてなブックマークに追加
kaisetsu kaisetsu
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile

3)以下、強調はrenshiによる。

◆ 2011/01/30(日) 金王朝の “深い深い謎” −64−

『 馮太后いでずんば今日の中国・日本は、なし! 』
北魏の馮太后。
彼女は、出自こそ『北燕国』の王族だが、『北魏』では政治犯の娘だった。
この最悪・最低の身分であった彼女が、宮中に下女として入り、やがて…、
『北魏』の皇后にまで登りつめることができた、その秘密を一言で表現すれば…、
シャーマニズム!
ツングースのシャーマニズムである。
この凄まじさを、彼女は、遼寧省のどこかで身につけていたのであろう。
http://grnba.com/iiyama/

◆ 2011/01/31(月) 金王朝の “深い深い謎” −65−
めぐみさん 金正恩
目もと、鼻のつくり、小さな口…、たしかに…、
めぐみさんの写真はココから
馮太后1 馮太后2
馮太后は天性のシャーマンだった! ( “漢流ドラマ”『北魏馮太后』から )
『 28年で滅亡した流れ星のような国家「北燕」が、カギ! 』
皆さん、こんにちは! 飯山一郎です。今週もよろしくお願いします。
先週は『北魏』の話が長々と続きました。ほとんど1週間、『北魏』の話をしました。
『北魏』という国は、それほど重要なのです。
中国も、日本も、『北魏』から歴史が始まった!! こういっても過言ではない。
ただし歴史を語る際、人間=人物を抜きに語ってはいけない。
歴史は、人間=人物=権力者=支配者によってつくられるのですから。
マルクス史観の「下部構造論」は経済学としては有効だろうが、上部構造に属する
権力者・支配者が、下部構造を激変(革命)させる場合が多い。これが歴史の魅力
なのだが、マルクス主義の歴史学者は人物を描こうとしない。
マルクス主義経済学が面白くないのは、魅力ある歴史上の人物が不在だからだ。

『北魏』の歴史も幾多の評者によって語られてきたが、馮太后という人物抜きの話
だった。馮太后いでずんば今日の中国・日本は、なし! という視点は皆無だった。
さらに『北魏』と『馮太后』と『北燕』の重要な関係に気づいた評者もいなかった。
『北燕』は、わずか28年で滅亡した流れ星のような国家だったから仕方ないが…。

それにしても、『北燕』という“流星国家”の輝きは、日本にとっては “国生みの灯”
とも言うべき、神の後光がさしたように煌(きらめ)く 灯(あかり)だった。

『北燕』の歴史は、『北燕帝紀』に詳説されているが、驚愕の表現がある。
 409年後燕の将軍馮跋〔漢人〕 は、燕王慕容雲が近臣に殺されると、自ら天王の位
につき、国を同じく燕と号し、また竜城 を都とした。初めは綱紀の粛正につとめ、契丹族
を宣撫し、また租税を軽くし、農業を奨励したが、のちには邪教を信じ 、諫臣をしりぞけ、
国勢はふるわなかった。
この「邪教を信じ…」の部分を読んで、私は度肝を抜かれ、腰も抜けた!
『北燕帝紀』は漢人によって書かれた。
それで「邪教を信じ…」の部分は、「後燕の将軍馮跋〔漢人 〕」を非難した」ものだ。
つまり漢人が、鮮卑の地、竜城=柳城で、鮮卑の邪教を信じたことを非難した…、
というワケなのだ。
これは、「卑弥呼の鬼道」と同じ感覚だ。つまり、漢人からみると…、
烏丸も鮮卑も匈奴も扶余も、異郷の異教は、「邪教」であり「鬼道」なのだ。

しかし…、
この「邪教」や「鬼道」。これこそが、シャーマン・ツングースの証(あかし)、秘儀…、
すなわち『ツランの秘儀』に連なるシャーマン(霊媒)の秘密の扉(とびら)なのだ。

そして…、
『北燕』の王家の娘 『北魏の馮太后 』は シャーマン(霊媒)の秘密の扉(とびら)
その奥の奥で展開された『ツランの秘儀』。それを確実に見ていた!
卑弥呼 のように。
そして…、
1600年後の横田めぐみ のように。

色棒1
たたかう老人! 飯山一郎の ハッタリなしの 口演会場 _


2011年01月28日(Fri)▲ページの先頭へ
現代日本人の意識は相互反射自我主義だ:相互自我主義の力学:封建・父権的被植民地主義的近代的自我
現代日本人の意識の自我意識は、社会的に相互自我主義というべきものであるが、この基礎は何だろうか。
 当然、鏡像があるのである。自我を他者に映しているのである。つまり、凸iが凹iを認識しないで、凹iに凸iを反射させているのである。つまり、自我同一性化である。
 凸iは優位性を凹iに対してもつのである。理由は既述したように、父権的人間は凸iに傾斜しているからである。それは、優位性をもっていると先験的に自惚れている(ここで、悪魔アーリマンとルシファーの問題がある。これは後で検討。憾首相の空虚、虚栄心、妄想自我はこれで説明ができよう。つまり、凸iが他者凹iに優位だと自惚れているのである。しかし、真理は凹iにあるのであり、凸iの意識は、自己中心的である。)。
 この反射力学はどう数式化できるのか。この反射は、いわば、他者差異凹iを自我同一性凸iのフィルム、膜、カバーで覆うのである。つまり、ここには、自我凸iによる投影力学があり、それを解明する必要がある。
 凸i↘凹iにおける↘を投影を意味するとする。だから、↘は、自我投影、自我映写である。他者差異の「スクリーン」に自我を映写・投影・射影するのであり、真実は他者差異であるのに、そこに自我を見ているのである。
 これが、相互自我主義の力学であり、Media Pointの精神的フィルターの事象であるが、数式はどうなるのか。
 差異共振して、⇒凸(+1)となり、物質界、現象界が成立して、その外界凸(+1)と自我凸iが一致することになる。しかしながら、⇒凸は差異共振に拠るのであり、そこには、凸iだけではなく、凹iも存しているのであるが、それは無意識化されるのである。(付記:悪魔アーリマンが凸iで、悪魔ルシファーが差異共振ではないだろうか。)
 そう、ここには、自我盲目(他者盲目でもあるが)という事態が生起していると言えよう。結局のところ、自我同一性の数式は、凸i↘凹i⇒+1となるのではないだろうか。↘は*であり、又、自我傾斜という意味でもある。
 最後に、相互自我主義(間自我主義)が支配的になったことの力学を考えたい。これは、明らかに、近代合理主義ないし近代的自我が社会的に受容されたことを意味する。これは、当然、戦後社会に当てはまるのである。何故なら、戦前は、教養として、仏教や哲学等があり、また、素朴な母権主義を保持していたと考えられるからである。
 近代合理主義の社会的受容とは、当然、連合国(米国)の支配的意志に拠るものであり、帝国主義・植民地主義的な権力意志(覇権意志)である。
 つまり、ここには、権力的な強制があるということであり、それは、個に基づくものではなく、正に、近代合理主義イデオロギーである。
 これを受け入れた日本国民とは、やはり、個(絶対的差異)を喪失した、父権的「天皇制」(父権的中央集権主義)の支配下にあると言えよう。まだ、封建主義的なのである。だから、封建的近代主義なのである。
 個であるためには、凹iの存在を確認する必要があるが、それは母権的日本人の原基にかなり強く存するものであるが、それが、認識されないように洗脳され、マインドコントロールされていると言えよう。
 そう、凹iと東洋的身体的精神は密接に関係しているのであり、その東洋・日本伝統的文化が否定されているのである。
 ここには、現代日本人の脆弱さがあると言えよう。封建・父権的集団主義(世間主義)なので、個であることを恐れるのである。
 そう見ると、やはり、日本史において、父権的日本(父権的「天皇制」)が長く、母権的日本(母権的天皇文化)を支配してきて、後者を抑圧して、歪曲してきたことが考えられる。
 思えば、不連続的差異論の段階で、高貴な差異と劣弱な差異の存在を指摘したが、これは、母権的差異と父権的差異と言い換えることができるだろう。
 父権的差異とは、実は、父権的自我を生み出すのであり、それが、支配して、母権的差異、母権的個を排除してきたと言えるだろう。
 アジア的日本が「ユダヤ」・印欧語族的日本に支配されてきたのである。
 とまれ、凹iを意識化する肚を取り戻すべきである。それは、超越的存在と通じているのである。当然、近代的合理主義は解体するのである。

追記:自我主義とは又、当然、暴力的である。それは、他者凹iを否定するからである。自我暴力である。
 この自我暴力の数式はどうなるのだろうか。言い換えると、自我の押しつけの力学である。
 やはり、凸i↘凹i⇒+1の左辺でいいのではないだろうか。凸iの自惚れた優越性があるのであり、自己の「半身」である凹iの意識を排除しているのである。
 そう、凹iの意識(肚の意識)であるが、それは、はやり、形成されなくてはならないだろう。とりわけ、男性にとってであるが、今日では、女性も必要である。
 では、凹iの意識(肚の意識)とは何だろうか。それは、正確には、超越的意識である。超越的個の意識であると思う。とまれ、形成について考えよう。
 通常の自我凸iは他者凹iを無視し、それを見つめようとはしない。そう、凹iの世界を知るには、精神の知恵が必要であるが、近代合理主義ではそれが欠落しているのであり、そのため、近代主義においては、他者凹iを排除すると言えよう。外的知識教育があるが、内的知識教育がないのである。
 肚を意識するとはどういう力学なのか。思うに、ここに悪魔ルシファーが関係しているのかもしれない。即ち、凸i傾斜を悪魔アーリマンとすると、意識エネルギーが悪魔ルシファーではないだろうか。
 とまれ、この意識エネルギーが凸iに傾斜しているときに、自我主義となるのであるが、この意識エネルギーは、凹iにも向かわせることができるのである。

 【以下は一つの思考実験:あるいは、意識エネルギーとは、陽エネルギーと陰エネルギーの両極があるということかもしれない。通常、陽エネルギーが使用されていて、陰エネルギーが否定されて、「うっ積」されているのではないだろうか。
 そう、陰エネルギーとは、正に、凹iのエネルギーではないだろうか。肚の意識とは、この陰エネルギーの自覚、覚醒ということではないだろうか。
 そう考えると、自我は陽エネルギーの作用であり、肚は陰エネルギーの作用であり、Media Pointで陰陽エネルギー、双極エネルギーが作用しているということになる。
 これは、また、現代物理学、宇宙論に関係するだろう。陽エネルギーが物質を形成し、陰エネルギーが反物質ないしは暗黒物質を形成するのではないだろうか。
 量子力学は思うに、凸iを視点で見ているのであり、まだ、凹iの視点を獲得していないのではないだろうか。
 とまれ、陽エネルギーと陰エネルギーは作業仮説であり、説明する必要があるが、今はここで留める。】
 
意識エネルギーが凹iに向かうとはどういうことなのだろうか。これは意志(又は志向性)の問題である。自己意志、個的意志がある。そう、これは、本来、自我意志かもしれない。
 とまれ、意志は、通常、自我様態に固持する。しかしながら、意志を肚に向けることができるのである、例えば、瞑想等によってである。
 つまり、意志を自我から肚へと志向させるのである。そのとき、肚と意志が衝突して、融合が起るのである。ここで、陰エネルギーが考えられるかもしれない。潜在していた陰エネルギーが意志と結合して、いわば、爆発するのである。ここで、自我「帝国」が破壊されて、脱自我の自己(個)が発生するのである。それは、宇宙的な自己でもある。また、超越的な個でもある。
 しかし、逆にそれへと傾斜すると、バランスを失い、外的自我認識が疎かにされると言えよう。(ならば、これが、ルシファーかもしれない。凸iが悪魔アーリマンで、凹iが悪魔ルシファーとなる。)
 だから、自我凸iと個凹iとの均衡が必要なのである。外的自己と内的自己とのバランスである。
 とまれ、意志(志向性)の肚への下降によって、肚の意識が形成される。それは、いわば、個意識(個識)であり、自我意識と対立する。
 ここで、人間は二重人格的になるのである。二重自己性が成立するのである。
 しかしながら、根底の自己は凸iに存しよう。つまり、逆転がここにはあるのである。自我は仮装・擬装・仮面であることがわかるのである。
 これはどういうことなのか。人間の本質は本来、凹iに存すると思われる。これが、どうして、凸i傾斜に転移するのか。
 どうも、陰から陽への転換が誕生において生じるのではないだろうか。換言すると、凹(-1)⇒凹i*凸i⇒凸i*凹i⇒凸(+1)という数式力学があるのではないだろうか。(最初の⇒は⇔とも書けるように思う。)
 ならば、どうして、陰から陽へと転換する必要があるのか、である。それは、精神から物質への転換が必要だからとういことではないだろうか。
 「必要」とはこの場合、問題を含む。言い換えると、精神から物質へと転換する力学がなんらか形成されたのであり、本来は、陰で留まっていたのではないだろうか。それが、陰から陽へと変じたことになるのである。しかし、これは、陰陽力学で説明できよう。陰が最初であるが、変転して、陽へと転化するということでいいのではないだろうか。
 つまり、人間の精神は元陰(凹)から、陰*陽の陰化(精神化)がなされ、その後、陽*陰の陽化がなされて、物質化・自我化が生起したということではないだろうか。
 この陰から陽への転換が人類史において、もっとも決定的であったと考えられる。これがゾロアスター教において、表現されていることと考えられるし、また、陰(凹i)を保持する精神主義として、マニ教が考えられよう。それは、陽化を否定するのである。
 ここで父権的一神教を考えると、それは、陰から陽へと転換する際に発現したものと思われるが、そのとき、原初的には、超越性が残るが、その後、自我・物質化に帰結すると考えられるのである。
 人類史は父権的一神教が成立して、また、西洋文明が形成されて、資本主義、唯物科学・技術が形成され、今日を迎えているのである。
 しかしながら、今や、陽の時代は過ぎ、新たな陰の時代になったと考えられるのである。物質・自我・凸iから精神・個・凹iへの大転移である。自我・物質文明から個・精神文明への進化である。
 個・精神が主となり、自我・物質が従となると言えよう。その霊主体従主義にあって、自我・物質は意味を変容させるだろう。それは、個・精神のための手段・ツールの位置に変ずるだろう。
 当然、資本主義も意味を失い、個的精神的共同体communionismの創造のための道具として経済が存するようになるだろう。
 この精神の大進化の時代にあって、一方では、個・精神・共同体が成長するが、他方では、自我・物質・資本主義が反動的力をもち、両者相克過程にあることになる。光と闇の闘争である。
 さて、ここで、復活してきたマニ教を考えるとどうなるのだろうか。陰が陽に反発したものが、マニ教と考えられる。

 【以下も思考実験:
これは、凹i*凹凸i⇒凹(-1)を意味するのではないだろうか。凹凸iの否定凹はわかりやすいだろう。思うに、凸i自体に否定性があり、ここではそれを凹が否定することになるのである。この場合の否定とは、同一性ということである。つまり、*の積は否定的同一性を意味すると考えられるのである。凸i↘凹 i⇒凸(+1)であり、他者差異凹iを自我凸iが否定的同一性で「取り込む」ということのように思われる。】

言い換えると、凹i、陰が賦活されると、それは、凸i、陽に反対するようになると考えられるのである。そして、それが、マニ教復活を意味するのではないだろうか。
 それは、凹i、陰の世界を肯定して、凸i、陽の世界を縮小させていくだろう。自我・物質・資本主義文明は収縮していくと考えられる。
 個的精神的共同体文明が生まれることになるだろう。


2011年01月26日(Wed)▲ページの先頭へ
マニ教とケルト教とグノーシス主義:超越絶対的普遍的光:マニ教とPS理論
宗教の混乱は、本来、言語化できない超越性を言語化して、実体化してしまったことにあるだろう。(禅仏教はこの点を説いたが、レトリック的固執が強くなってしまった。)PS理論で言えば、第三象限を第二象限で表現しようとしたとになる。言語化は凸i凸である。脱言語化は凹i凹である。
ところで、今、そのことについてではなく、マニ教とケルト宗教(馴染みのない呼び方であるが、ケルト文化やケルト神話では、意味が充分つたわらないので、そうする。以下、ケルト教)とグノーシス主義について触れたい。
 先の考察から、ケルト教とアジア文化は深く関係しているとわかったし、Kaisetsu氏の視点から、海洋性と深く関係しているのも推察できる。あえて言えば、陸のシルクロードと海のシルクロードの両方にケルト教は関係していると思われる。
 おそらく、ここで、ケルト教とマニ教は関係が生じたと思われる。しかしながら、年代的には、ケルト教の方が古い。
 また、マニ教とグノーシス主義は、年代的には近い。シュタイナーは、グノーシス主義と初期キリスト教との関係を説いているが、キリスト教はローマ帝国の国教となり、グノーシス主義を排除していくのである。そして、また、キリスト教はミトラ教と欧州において、覇権を争ったであるが、どちらも、本来太陽神崇拝である。
 直観では、ケルト教もマニ教の形成に与ったと思うし、根源的にはケルト教からマニ教が発達した可能性もあるだろう。
 しかし、問題は、超越絶対的普遍性の問題なのである。この超越絶対的普遍性を人間は「神」と呼んできたのである。ユダヤ教では本来、「神」を名指すことを禁じられてきたのである。超越性を物質界と関係する言語で表現することは、物資的実体化になるから当然である。
 とまれ、グノーシス主義の神界と物質界の二元論は、マニ教と通じると言えよう。問題は、ケルト教とマニ教の関係である。端的に言えば、自然の問題なのである。あるいは、自然と精神との問題である。
 二元論は精神と自然を対立させる傾向にあり、それが、実際には、キリスト教に現われている。
 しかしながら、本当の問題は、精神と物質の対立である。ケルト教はキリスト教を受け入れて、希有の自然的キリスト教を形成したと言えよう(もっとも、ケルトのカトリック教会が正しいということではない)。
 もっと突き詰めれば、精神と物質主義との闘争の問題である。自然と物質主義は当然、異なるのである。自然は物質を含むが、物質主義ではないのである。
 結局、マニ教的二元論にとって、問題なのは、精神/自然に対する物質主義である。これによって、マニ教とケルト教が結びつくと言えよう。
 しかし、さらに問題は、父権的宗教以前の母権的宗教(例えば、古代オリエントの宗教:シュメール文化も関係しよう)である。ここにおいては、精神と性は結びついていたのである。D. H. ロレンスはいわば、これを探究したと言えよう。
 端的に言えば、それは、精神が身体へと顕現している宗教である。思うに、父権的宗教の意義は、以前述べたが、母権的宗教がデカダンスとなり、物質主義に堕落してしまったことに対して、新しい超越性を啓示したことである。
 だから、マニ教的二元論の視点から、母権的宗教の精神/自然性は本来肯定できるものであるが、その堕落した様態は否定することになるのである。ここで、マニ教と母権的宗教が結びついた。
 さて、今日、父権的一神教が唯物論に堕してしまったことが大問題である。極言すれば、父権的一神教が資本主義の原理であるが、それは、短絡的である。何故なら、初期においては、超越性が発現していたからであり、それを「父」として、捉えたのである。しかし、その後、同一性主義(凸i凸:第一象限領域)の進展によって、唯物論化したのであり、資本主義を準備したとは言えよう。
 そう、西洋文明とは、強力な父権主義であり、凸iないし凸i凸が強大なために、超越性を連続化して物質と結合させてしまって、近代物質文明を形成したと言えるだろう。これを乗り越えるべく、西洋文化において、多様な領域で、様々な試みが行われきた。それは、一言で言えば、脱近代主義である。
 しかしながら、ある少数者を除いて、失敗したと言えよう。問題は、新しい超越性の発見にあったと考えられるのである。哲学において、それに近づいた、フッサールでさえ、超越性ではなく、超越論性という用語に留まったのである。西洋においては、ウスペンスキーは新しい超越性に気づいていたと言えようし、日本では、鈴木大拙、西田幾多郎がそれに気づいたのである。
 父権的超越性から生まれた西洋文明であるが、近代主義によって、超越性を排除してしまい、また、脱近代主義の試みのはずであったポスト・モダンもそうであったのである。いかに、近代西洋において、同一性主義(唯物論)が強固であるかがわかるのである。
 しかし、日本において、新しい超越性を説くPS理論が生まれたのである。これとマニ教との関係を見る必要がある。
 これまで述べたように、日本文化は本来、母権的文化であり、それに父権的文化が参入して、新しい古代日本文化、二元論文化が生まれたと考えられる。それは極性文化である。
 しかしながら、ベースの母権文化が衰退して、表層の父権文化が強化されていき、終には、父権的「天皇制」が形成されて、狂信的な父権的物質主義文化が生まれてしまったのである。
 しかしながら、その父権的物質主義に対する闘争から、PS理論は生まれたと言っても過言ではないだろう。超越的精神性を追求していたのである。日本文化は母権主義であるということは、本来、感性、共感性が強いということであり、それは、凹iないし、凹i凹の文化であるということである。「水」の文化である。
 思うに、私に関する限り、この母権主義的性向によって、超越的精神を感受したと言える。つまり、言うならば、日本におけるマニ教的な志向が復活したと考えられる。それは、母権的マニ教と呼べるものである。それは、神道や仏教と結びついて、自然的性向をもつマニ教であり、物質主義を排するのである。
 そう、ここで、感覚、身体の問題があるが、霊的・精神的感覚、霊的・精神的身体は肯定されるが、物質主義的感覚、身体は否定される。
 言い換えると、ここで、芸術が問題になっているのである。そう、新しい芸術の可能性がここにはあるのである。新芸術日本の可能性があるのである。おそらく、日本の生きる道は、新芸術的文化・政治・経済を形成することではないだろうか。
 とまれ、以上で、マニ教とPS理論の関係がいくぶんわかってきたと言えよう。

補記:上記の古代日本における母権的原基と父権主義の極性であるが、単純化して述べている。先の考察では、母権と父権の極性的文化以外に、父権主義的文化、ユダヤ・印欧語族的父権一神教文化が参入して、衝突し、それが、記紀に表現されているということであったのである。
 日本においては、おそらく、母権・父権的極性文化と父権主義文化との均衡があったが、明治近代化以降、後者が支配的になったと考えられる。これは、母権・父権的極性文化が衰退したことと考えられよう。つまり、やはり、上述したように、母権的原基が衰退したということである。
 思うに母権・父権的極性という言い方はまだ矛盾がある。母権的戦闘性を表現したいのである。これが的確に表現できないのである。とまれ、母権・父権的という表現は止めた方がよさそうである。とまれ、仮に、母権・「父権」的極性文化としておきたい。後でこの点で検討したい。
 
The Light That Has Lighted The World - George Harrison
 

Living in the Material World by George Harrison 


日本国家資本主義(社会主義)と財政瓦解・国家崩壊
テーマ:日本崩壊亡国凶相:売国奴と愚民:衆愚政治

日本国家資本主義というか、日本社会主義が存しているので、財政が崩壊したのである。
 つまり、国家資本家が権限をもっているので、どんどん支出を増やすのである。結局、国家権力の問題ではあるし、また、自我、父権的悪魔自我の問題でもある。それは、また、父権的「天皇制」の問題でもある。
 二つの日本、二種類の日本人、即ち、母権日本(人)と父権日本(人)が存しているのである。
 後者が日本を狂わせているのである。根本的には、前者を復活させる必要がある。後者の洗脳があり、前者を眠らせているのである。
 父権主義は同一性主義、自我主義・自己中心主義、唯物論であり、差異、精神を破壊するのである。
 とにかく、母権的個・差異主義に覚醒する必要がある。ただ一人、犀の角のように歩め!
 明治維新の問題がある。母権主義と父権主義の相克があったのであり、前者が後者に敗れた歴史が明治近代である。そう、明治維新を成し遂げたのは、前者(坂本龍馬ら)であるが、維新が成立すると、後者が前者を排除していったのである。この点では、革命過程である。母権的天皇文化が父権的「天皇制」に敗れたのである。
 思うに、PS理論の前身である不連続的差異論を理解すると、母権主義と父権主義との混淆・混乱・連続化からの脱却の意識改革ができるだろう。
 有り体に言えば、精神と自我とが連続化しているのが、現代人である。精神と自我を不連続化すれば、精神の独立が達せられるのである。
予算関連法案が成立しないとどうなるの?
 ■子ども手当停止/中小に一転増税/巨額の歳入欠陥

 24日開会した通常国会では、平成23年度予算案の執行に必要な予算関連法案や税制改正法案の成立が最大の焦点となる。予算案そのものは、憲法の規定で与党が過半数を握る衆院の可決が優先され、参院で否決されても成立する。だが関連法案は、野党が多数を占める参院で否決されると、成立しない。子ども手当の支給停止や中小企業の法人税が増税になるなど、国民生活や経済に深刻な影響が及ぶ恐れがある。(産経新聞)
[記事全文]

* 日本は既に財政破綻している!?
* 【資料1】財政事情
* 【資料2】公債発行額の推移
* 【資料3】一般会計税収、歳出総額及び公債発行額の推移
* 【資料4】公債残高の累計
* 【資料5】一般会計歳出中に占める国債費等の割合の推移
* 【資料6】利払い費及び利払い比率の推移
★ワンポイントレッスン−金利上昇の恐怖 −
★ワンポイントレッスン−日本銀行が国債を引き受けるとハイパーインフレがおきる!?−
* 【資料7】国及び地方の長期債務残高
* 【資料8】国及び地方の財政収支
* 【資料9】国及び地方の債務残高
* バランスシートでも既に破産状態
* 国債を買い支える金融機関
★ワンポイントレッスン−第一の波は2008年に来る −
◎Column−個人金融資産1400兆円って誰が持っている?
* 日本は官制経済国家
★ワンポイントレッスン−財投の不良債権はどれくらいある?
◎Column−レント・シーカーたちの狂宴‐利権に巣くう魑魅魍魎−
* どうしてこんなことに−財政史からみる財政破綻の原因−
★ワンポイントレッスン−日本の財政は何故わかりづらい?
◎Column−国家破産の歴史 >
* 国家破産の方程式
★ワンポイントレッスン−インフレってなに?
* IMFは日本を救えるか!?
★ワンポイントレッスン−円高と円安
◎Column−米国を支え続ける心優しい国ニッポン−日本は米国の金蔓!?
* 出口なし!
◎Column−劣化ウラン弾は、原発の廃棄物処理!?
* 驚くほど簡単な財政破綻回避策−発想を転換しよう−

日本人が知らない 恐るべき真実

http://www.anti-rothschild.net/truth/part1/find.html

第二平成維新により菅直人反動政権を打倒
『日本の独立−主権者国民と「米・官・業・政・電」利権複合体の死闘』の刊行とベストセラー化を記念して、昨日、東京一ツ橋の日本教育会館で講演会が開催された。   日本の独立 著者:植草一秀 販売元:飛鳥新社 Amazon.co.jpで詳細を確認する  会場の定員の関係で、受付を早期に締め切らせていただかなければならず、多くの参加ご希望の皆様の意に沿うことができませず、お詫び申し上げます。    副島隆彦先生には、お忙しいところ、再びご登場賜り、この場を借りて改めて深く感謝申し上げます。    また、多くの皆様に拙著をご購読賜っておりますことに、改めて深く感謝申し上げます。    講演では、以下の諸点についてお話をさせていただいた。 @消費税問題 A菅政権の本質 B小沢一郎氏の「政治とカネ」問題 ...

» 続きを読む
植草一秀の『知られざる真実』


2011年01月24日(Mon)▲ページの先頭へ
備忘録:母権的天皇文化と父権的「天皇制」の二つの日本
先にスロー人氏の記事に触れたが、今想起したのは、やはり、古代日本において、母権的社会と父権的社会の衝突があったというずいぶん以前に考えたことである。(追記:記紀は、その表現ということになる。)
 先に、母権的父権と言ったが、紛らわしいので、母権にする。結局、思うに、土着的母権とアジア的母権が古代日本で融合したことと、それに父権社会が侵入して、父権的「天皇制」を形成したことの、二点がキーポイントと考えられる。
 つまり、母権文化と父権文化の二重構造が日本社会にはあるということではないだろうか。もちろん、両者が混淆した点もあるが、基本的には、二元的であると思う。
 有り体に言えば、二種類の日本人がいるということである。そして、父権文化の人間が主に、権力をとってきたのが、日本史ではないだろうか。というか、明治近代以降、端的に、そうではないのかということである。これが狂信的「文化」であり、アジアにおける第二次世界大戦を起こしたし、また、今日、民主党に発現しているのではないだろうか。
 思うに、この父権文化という点で、日ユ同祖論は考えられよう。つまり、一神教的父権文化が日本に入り、父権的「天皇制」を形成したということになる。
 後で、丁寧に検討したい。

****************************
尊王思想とは何か:父権的中央集権制が「天皇制」だと思う
テーマ:神道ルネサンス:気と東洋文明 尊王思想からの脱皮
ところで、乙巳の変(645年)は皇極天皇の皇子・中大兄皇子(後の天智天皇)が中臣鎌足(臨終の際に、天智天皇から藤原姓を賜る)と謀って、蘇我入鹿を暗殺して(6月14日)、蘇我一族を権力の座から追い落とし、19日に元号を大化に改め、そして翌年(646年)、大化の改新と呼ばれている中国にならって律令制を敷くという政治改革を行ったと言われる。


 この時をもって、この藤原一族がいわゆる後に天皇制と呼ばれる日本独特の政治システムを基礎づけたと言われる。
http://ameblo.jp/adco/entry-10776888002.html
スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節

*****************************


●それで、この「謎の4世紀」論争に波紋を投げかけ続けているのは、東京大学名誉教授の江上波夫氏である。彼は前期の古墳文化と中・後期の古墳文化とが根本的に異質であるということを挙げ、1948年に以下のような仮説を主張したのである。一般に彼の仮説は「騎馬民族征服王朝説」と呼ばれている。

「中・後期古墳文化が王侯貴族的・騎馬民族的文化であり、その広がりが武力による日本征服を暗示している。またその文化の濃厚な分布地域は軍事的要衝に多い。4世紀ごろ、古代日本に大陸の騎馬民族が大挙に侵入して、邪馬台国をはじめとする倭の国々は征服された。この征服王朝こそ大和朝廷である。」


●彼の仮説が翌年の1949年の機関誌『民族学研究』に掲載されるや、日本中に一大センセーションが巻き起こり、当然のこと、学会から総攻撃を受けた。

ある人が「騎馬文化は来たが、騎馬民族は来なかったんではないか」というと、江上氏は「文化は人とともにやってくるものである」と反論した。

もっとも、天皇家のルーツを大陸に求めること自体、戦前では「不敬罪」に値し、まだこの時期は終戦直後のことであり、皇国史観が根強く残っている時期でもあったので、非難ゴーゴーだったのは、当然といえば当然か。

しかし、時間とともに彼の仮説を補強する材料が多々発見されており、現在も根強い人気を誇っている。


●普通、彼の仮説を初めて耳にする人は、古代の日本には、国々を征服するほどの馬はいなかったんではないかと思いがちであるが、群馬県子持村の「白北中道遺跡」などから無数の馬の足跡が発見され、予想を上回る馬がいたことが証明されている。その後も馬具の発見が相次ぎ、数年前に話題になった奈良県の「藤の木古墳」からも北方騎馬民族の文化と共通する馬具が発見されている。

最近では、朝鮮半島南部の「伽耶(かや)諸国」の遺跡から、次々と馬具が発見され、注目を浴びているが、何よりも関係者を驚かしているのは、これらと全く同じものが日本からも出土されているという点であろう。(和歌山県の「馬面冑」など)

この伽耶諸国の発掘は、江上氏の騎馬民族説の“ミッシングリンク”ともいえる場所だっただけに、一度は葬られかけた江上氏の騎馬民族説が、恐ろしく現実味を帯びて浮上してきたといえよう。

http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb202.html



日本史における「謎の4世紀」とは?


「日ユ同祖論」の謎


2011年01月22日(Sat)▲ページの先頭へ
自然界の霊美性とベクトル・モード:レオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチの影像とMP Shadow
画像付きは以下で見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10776192796.html


テーマ:精神的フィルターとVector Mode

Kaisetsu氏のベクトル・モード論によって、黄金比をもつ自然美が解明された。
 思うに、自然には、たとえば、樹木の様態には、美があるのだが、そこには、生命の力、生命の渦、生命の影が潜んでいると思う。レオナルド・ダ・ヴィンチの風景のスケッチには、それが捉えられていると思う。また、水墨画も本来、そのようなものであろう。
 思うに、ベクトル・モード的美を産み出す潜在力があると考えられる。それは、当然、Media Pointである。これが、樹木や鳥の形姿等に潜んでいるということになるが、決して不可視ではなく、直感されるものだと思う。ただ、影、陰影的である。やはり、凹iに関わるのだろう。
 光の像とは異なる影の像があるのである。とりあえず、Media Point Shadowと呼ぼう。絵画はこれを描く必要があるだろう。それを入れれば、力のある描像になるのである。言い換えると、「気」を描き入れるのである。
 とまれ、これは、ベクトル・モードを形成する根源の映像的な力である。ゲーテが言った原植物のようなものに通じるかもしれないが、私が言いたいのは、なんらか可視的な影像となっているのであり、その様態の力学とその数式化を考えたいのである。
 思うに、それは、ベクトル・モードそのものかもしれない。何故なら、ベクトル・モードが物質化したものが現象であるからである。
 私には、それは、暗く渦巻いているようなものに感ぜられるのである。だから、ベクトル・モードでいいのかもしれない。(ならば、Vector Mode Shadowである。)
 そうすると、その影像性とはどういうことなのか。陽の光と陰の光の共振した「光」、二重光をもつのではないだろうか。
 あるいは、気と言ってもいいだろう。気の光、気の影像である。それが的確のようである。
 そう、通常の光とは別に、気の光があるのである。それが、自然の現象体に内在しているということではないだろうか。
 気の光、気の影像である。イタリアとは、東洋的であり、ダ・ヴィンチが気の影像を描き込んでも不思議ではないのである。 
 因みに、映画監督のルキノ・ヴィスコンティの映像にも気の影像が色濃く表れていると思う。それは、垂直的なのである。あるいは、心的深さである。






Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation



Star of Bethlehem and other plants
1505-07
Pen and ink over red chalk on paper, 198 x 160 mm
Royal Library, Windsor

http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/l/leonardo/
上画像をクリックすれば拡大します。
LEONARDO da Vinci
Italian painter (b. 1452, Vinci, d. 1519, Cloux, near Amboise)

* Paintings until 1480
* Paintings in the 1480s
* Paintings in the 1490s
* Late paintings (1501-20)
* Copies and workshop works
* The Battle of Anghiari
* Studies to paintings later executed (page 1)
* Studies to paintings later executed (page 2)
* Studies for the Last Supper
* Head studies
* Various studies
* Anatomical studies
* Studies of nature
* Drawings of engineering themes
* Maps
* Architectural studies
* Sculptures and studies to sculptures

http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/l/leonardo/

参照:
レオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチ
現在、六本木ヒルズでダ・ヴィンチのレスター手稿が公開されているのは皆さんご存知でしょうが、これは知ってました?

大英図書館所蔵の「レオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチ」がネット上で閲覧できます(不思議の国のアリスも)。観てみれば、すぐ分かりますがこれがなかなかスゴイ!! 何がすごいかというと、全体像以外に拡大して部分が見れるのは普通ですが、あの鏡文字が読める。ミラーというボタンがあり、それを押すと反転して表示されるんですよ〜。これはちょってとした感動もの。

まあ、反転して文字として分かっても、言葉が分からないから正確には読めないんだけどね(苦笑)。でもでも、鏡文字ってのが実感できます。無料ですし、私のようになかなか行く機会の無い方は、是非お試しあれ! なかなか楽しいですよ〜。

以下のURLで”SKETCHES BY LEONARDO”と書かれたところをクリックして下さいね。
http://www.bl.uk/onlinegallery/ttp/ttpbooks.html

そして回線速度を選べばOKです。そういえば、先日HOTWIREDの記事で「インターネットは貧者の娯楽」と書かれていましたが、なんか実感してしまった。昔はステンドグラスが文字の読めない民衆にとっての聖書であり、「貧者の聖書」と呼ばれてましたが、なんか似てません? ふと、思っただけなんですけどね・・・。素直に技術の恩恵と思えばいいのですが。
http://library666.seesaa.net/article/8700989.html
叡智の禁書図書館<情報と書評>


2011年01月20日(Thu)▲ページの先頭へ
近代日本における母権原基的文化の喪失と父権的唯物論的自我形成:日本伝統文化ルネサンスへ向けて
テーマ:日本民族独立防衛救国救民戦線

以下は先に提起した(「日本の癌の父権主義の根源について」http://ameblo.jp/renshi/entry-10773790429.html )日本人の父権主義化の問題を考察したものである。

以前指摘したのは、古代日本は母権主義の基底をもち、それが、父権主義と均衡した二元極性文化をもっていたが、時代が進むにつれて、基底の母権文化が衰退して、父権主義が進展したのではないのかということであるが、どうも、この仮説が今は妥当ではないかと思う。
 結局、ベースに母権主義が衰退・堕落したまま、父権主義が進展して、とりわけ、戦後の近代合理主義洗脳の結果、父権的唯物論的自我(悪魔的自我)が形成されたということではないだろうか。
 母権的基底・元基が衰退・退廃・腐敗・堕落したまま、父権的上部が構築されたということになる。
 日本伝統文化は、東洋的身体的精神をもち、それが、母権文化を確立していたと考えられる。武士道もそのようなものと考えられる。母権的父権文化である。文武両道文化である。
 しかし、明治の脱亜入欧、戦後の近代合理主義によって、この伝統文化が排除されたのであり、その結果、東洋的身体的精神に基づくべき母権的原基が涵養されずに、父権的近代主義的制圧を受けているのが、現代日本人ではないだろうか。
 明治近代も問題があるが、やはり、戦後の近代合理主義的洗脳の方がこの母権的衰退のより大きな原因だと考える。
 即ち、近代合理主義は、唯物論であり、それは、精神の本体を否定するのであるから、母権的基底は無視されるようになり、父権的自我意識が肥大化したと考えられるのである。
 言い換えると、日本人の母権的原基は未発達のまま、無意識化されて、形成、構築された上部の父権的唯物論的自我に支配されていると考えられる。母権的父権文化であるべき日本文化が、父権的母権文化になってしまったということになる。
 結局、戦後日本社会は、伝統的東洋的身体的文化が洗脳的に排除されて、母権的原基が無意識化されて、未発達となり、唯物論的近代合理主義が父権的自我と結びつき、父権的唯物論的自我が形成され、無意識の母権的原基を規制的に制限・限定し、抑圧するようになったと考えられる。
 この自己否定というべき戦後日本人の意識様態は、正に、被植民地的意識様態であり、文化的奴隷状態と言えよう。日本民族としての精神が奪われ、また、それを喪失して、戦後以降の社会が形成されたのである。端的に、精神の土台、母権的原基を喪失しているので、個的自立・独立が形成されないのである。
 ここで、とりわけ、今日の政治家を見ると、これが、典型的に現われていると言えよう。菅直人という空前(又、おそらく、絶後)の超いい加減な、超軽の首相は、正に、母権的原基、東洋的身体的精神的原基が未発達で希薄なまま埋没的に喪失されているために、父権的唯物論的自我の利己主義、悪魔主義を行使しているのである。
 今日、日本伝統文化ルネサンスが必須である。


2011.1.19(その2)
森田実の言わねばならぬ【41】
平和・自立・調和の日本をつくるために[41]
《新・森田実の政治日誌》[従米政治・財務省支配・マスコミ主導の菅・与謝野体制の政治は危険である/これを阻止しなければ日本が危ない(1)]反大増税・反TPP・反菅政権の行動を起こさなければならない
「二葉にして絶たざれば斧を用うるに至る」(六韜)
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C07201.HTML


2011.1.19(その1)
森田実の言わねばならぬ【40】
平和・自立・調和の日本をつくるために[40]
《今日の論点》短期連載[菅改造内閣の七つの大罪(3)]菅改造内閣は世代交代に逆行する「自分さえよければ」主義者連合内閣だ
「枯れ木も山の賑わい」(日本の諺)

http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C07200.HTML


2011年01月18日(Tue)▲ページの先頭へ
輪廻転生とPS理論:同一性的資本主義から霊(差異)的資本主義への転換
図が出ないので、以下を参照されたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10772537655.html

テーマ:神話・神秘・民俗・霊性:ケルト、輪廻転生

輪廻転生はPS理論から、科学的に説明・解明できる。実に簡単である。今、ガウス平面を作図できないので、以下の直交座標で想像していただきたい。

直交座標系による平面上の点の座標と四つの象限

 
ガウス平面では、当然、y軸が虚数軸となる。
 簡単にするために、古いPS理論の+i, -i, +1, -1を利用する。そして、原点がMedia Pointである。
 精神(魂、霊魂)とは、-1と+iと-iを、言い換えると、-1とMedia Pointをもっている。
 しかし、通常は、+1の物質的知覚によって、精神を認識できないのである。正に、(+i)*(-i)⇒+1である。
 そして、左辺の*は、-1の「霊界」を潜在していると考えられるのである。 
 そこで、これを経済に適用すると、資本主義は、物質と連続化する同一性価値を追求しているのであり、それは、精神を喪失しているのである。というか、体主霊従なのである。
 だから、大資本家は今のままでは、あるいは、国家資本家は、来世では、悲惨である。
 資本主義のもつ共同主義を否定する同一性主義は、悪魔主義なのである。つまり、資本主義は天使と悪魔の同居する経済であり、後者を乗り越える必要があるのである。
 端的に言えば、霊的資本主義へと転換する必要があるのである。


追記:霊界(-1、凹ないしは第三象限)は*というよりは、-i(最新のPS理論では、凹i)に潜在していると言うべきである。

追記2:以下のKaisetsu氏の人間認識図(上図)と生成門氏の「心的エネルギーの流れ」の図(下図)が明確的確であり、明快明晰である。


2011年01月12日(Wed)▲ページの先頭へ
凸i=原光と凸=物質、又、凹i=原闇と凹=超越的存在:凹凸i*凹i⇒凹(-1/超越的存在)
凸i=原光と凸=物質、又、凹i=原闇と凹=超越的存在:凹凸i*凹i⇒凹(-1/超越的存在)

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

今は一言述べるだけだが、近代的意識において、凸iの自我が突出して、凹iの他者ないし無意識が忘却されていると言えよう。
 凸iは可視的に凸=物質に関わるが、無意識の凹iは不可視的であり、それは、凹=超越的存在に関係すると考えられるのである。いわゆる、神秘主義は、この側面が中心化したものだろう。
 凹=超越的存在は、神と言ってもいいし、霊と言ってもいいだろう。しかし、唯一神や多神教のように一や多が入るのは、凸iの計算が入っていると思われる。だから、第二象限的である。
 そう、凸iは原光であり、凹iは原闇であるが、超越的存在とは、どうも、凹iと強く関わっているように思えるのである。なぜなら、凸iは「光」的であり、物質へと傾斜するからである。
 私が以前、超越光と言ったのは、思うに、凹iを介して、直感した凹が凸iの視覚に感受されたものかもしれない。
 とまれ、凹iと凹との関係を厳密に解明する必要がある。瞑想は凸iの凸を外すことではないだろうか(参照:現象学的還元)。つまり、凹凸iとなることではないだろうか。ならば、凹凸i*凹i⇒凹(-1) となるだろう。つまり、凹iを主体にすると、現象学的還元、あるいは、身心脱落が生じて、超越的存在が直感・直観されるようになるということではないのか。
 近代以前の人間は、凸iの自我は発達していなかったので、そのような心的様態にあり、超越的存在を直感していたのではないだろうか。宗教心・信仰心、あるいは、超越的感性・神秘的感性(民俗学)をもっていたということである。
 しかし、近代となると凸iが拡大・肥大化して、凹iが忘却されるようになり、超越的存在も否定されるようになったということではないだろうか。
 近代合理主義・近代的自我の縛りである凸iの傾斜から脱却する必要があるのである。トランス・モダン・スピリットが形成されるのである。
 しかしながら、近代合理主義・近代的自我で「自己形成」した人間は、凹iを肯定することが恐怖となるだろう。それはまったくの異世界であるからである。絶対的他者である。
 そう、民主主義も資本主義も、トランス・モダン化によって、同一性や物質主義から脱却することになるだろう。共同体的民主主義、共同体的資本主義となるだろう。今はここで留める。




備忘録:感覚は凸iにあるのか、凹iにあるのか:視覚とは何か

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

凸iと凹iが共振して、光、⇒+1が生まれるというのは問題ない。
 問題は感覚、感性である。
 結局、凸iの感覚と凹iの感性があるのではないだろうか。近代は、前者に傾斜して、後者を軽視・無視していると思う。
 とまれ、差異共振によって生起した光を知覚するのは、凸iの視覚ではないだろうか。もっとも、これは、近代においてである。
 思うに、凹iによる視覚がありえるであろう。私が超越光と言ったものは、これが感知していると思う。
 整理すると、近代において、凸iの知覚に傾斜しているために、凹iの知覚が軽視・無視されると考えられるのである。
 例えば、光は差異共振様態であるが、凸iに傾斜した知覚は、外的知覚のみしかもたないだろう。
 しかし、凹iの「知覚」をもつなら、光は超越光となるのではないだろうか。そう、凹iの「感覚」はあるのであるが、それは、近代において、軽視、無視されていると思う。いわゆる、感情というのは、凹iの感覚ではないだろうか。
 とまれ、光とは原光と原闇との共振であるのであり、当然、凸iの知覚と凹iの知覚の二つの知覚が少なくともあるのであり、凸iの知覚は物質的視覚であり、凹iの知覚は精神的知覚であると言えるのではないだろうか。
 一般に「心」というとき、それは、この精神的知覚を意味しているのではないだろうか。
 しかしながら、凹iと凸iとは不連続であることを認識する必要がある。今日、凸iの主導によって、凹iが凸iと連続化されているのである。
 凹iと凸iの不連続化こそが、凹iが超越的存在と結びつくことを明確にすると考えられる。
 正に、これである。頭脳と感性の不連続化、これによって、凹iは凹と結びつくのである。


2011年01月08日(Sat)▲ページの先頭へ
日ユ同祖論問題と古代日本:日本人の起源が今や最大のミステリー:付録:両部曼荼羅とPS理論
安直な日ユ同祖論・期待論には納得がいかない
http://ameblo.jp/hex-6/entry-10759557988.html
HEXのブログ


# 古代、日本は朝鮮の植民地!?
http://ameblo.jp/adco/entry-10761032138.html
スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節


日本と倭は異なる。古代日本(7c以降)にとって百済人は居候
http://blog.kaisetsu.org/?eid=812377

任那日本府は任那加羅(任那加良)、安羅日本府、金官加羅、在安羅諸倭臣等任那諸國旱岐
http://blog.kaisetsu.org/?eid=812381
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile

私見では、先に述べたように母権文化がベースとなって、その上に父権文化が形成されたのが、日本であり、いわば、母父権文化が日本である。
 天皇制もこれがベースだと思う。しかし、日本史において、父権的要素が権力化して、ベースの母権文化を否定するような事態になったのではないだろうか。それが、たとえば、尊王攘夷的二元論である。
 思うに、本来の日本文化とは、感性(母権)をベースにした知性(父権)の文化ではないだろうか。
 しかし、父権性が独立的になるにつれて、この均衡文化は崩壊して、短絡的な文化、日本父権文化が生まれたのではないだろうか。
 そして、これが、日本社会主義、日本唯物論の起因ではないだろうか。


追記:父権的権力が母権文化を否定するような傾向はあったろうが、それより根源的に母権的心性が衰退、劣化する事態が史的に生じたのではないだろうか。折口信夫が日本人の宗教は鎌倉時代以降衰退し続けてきたと述べていたことは、この点と関係しそうである。
 神道的感性的精神と仏教の他者精神の融合が根源的日本文化だとすると、その母権的感性・心性・精神が、だんだん衰退していったと考えられる。
 宗教・神秘的に言えば、秘儀・密儀の精神、芸術的に言えば、象徴的視点が失われていったのではないだろうか。
 もっとも、秘教は陰陽道等に受け継がれたと言えようが、それが、迷信的なものと結びついていったのではないだろうか。
 日本において、秘教を発展させたのは、当然、空海である。その密教知性はすばらしい。
 思うに、空海から秘教的知性が停滞したのではないだろうか。というか、空海の偉業を発展的に継承する宗教「科学者」がいなかったのではないだろうか。
 最後に曼荼羅、両界曼荼羅について言及すると、この内的宇宙論は、PS理論で言えば、根源的Media Pointに関係すると言えよう。名づけるならば、Media Point Cosmosである。
 では、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅はどう説明できるだろうか。PS理論から見て、金剛界曼荼羅の幾何学的模様がより興味深いだろう。どうも、ガウス平面や単位円や人間認識図/メディスン・ホイールを想起する。
 そうならば、金剛界曼荼羅は、内界を直観で捉えた美術ではないだろうか。
 では、胎蔵界曼荼羅とは何か。これは、内界から外界へと展開するときの多様性を描いたものではないだろうか(以下の下線部赤文字の説明が裏付けになるだろう)。思いつきであるが。
後で検討したい。


ファイル:Kongokai.jpg

九会から成る金剛界曼荼羅



ファイル:Taizokai.jpg

胎蔵曼荼羅

両界曼荼羅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索
Dharma Wheel
密教
仏教
金剛乗仏教
時代・地域
初期 中期 後期
インド チベット 中国 日本
主な宗派(日本)
東密
※は、「真言宗各山会」 加入
- 古義真言宗系 -
※高野山真言宗
※東寺真言宗
※真言宗善通寺派
※真言宗醍醐派
※真言宗御室派
※真言宗大覚寺派
※真言宗泉涌寺派
※真言宗山階派
※信貴山真言宗
※真言宗中山寺派
※真言三宝宗
※真言宗須磨寺派
真言宗東寺派
- 新義真言宗系 -
※真言宗智山派
※真言宗豊山派
※新義真言宗
真言宗室生寺派
- 真言律 -
※真言律宗
台密
(〈日本〉天台宗 )
信仰対象
如来 菩薩 明王 天
経典
大日経 金剛頂経
蘇悉地経 理趣経
思想 基本教義
即身成仏 三密 入我我入
曼荼羅 護摩
東密
古義 (広沢流 小野流 ) 新義
関連人物
東密
金剛薩埵 龍樹
龍智 金剛智 不空 恵果
空海
真言律
叡尊 忍性 信空
台密
最澄 順暁 円仁 円珍
ウィキポータル 仏教

両界曼荼羅(りょうかいまんだら)は、密教 の中心となる仏である大日如来 の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅 である。大日如来を中心とした数々の「仏」を一定の秩序にしたがって配置したものであり、「胎蔵曼荼羅」(胎蔵界曼荼羅とも)、「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」または「両部曼荼羅」と称する。個々の「仏」の像を絵画で表したもののほか、1つの仏を1文字の梵字(サンスクリット を表記するための文字のひとつ)で象徴的に表したものもある。
両界曼荼羅の起源と日本伝来 [編集 ]

胎蔵曼荼羅(大悲胎蔵生曼荼羅)は「大日経 」、金剛界曼荼羅は「金剛頂経 」という密教経典をもとに描かれている。大日経は7世紀 の中頃、インド で成立したものと言われ、インド出身の僧・善無畏 (ぜんむい、637年 − 735年)が弟子の一行(いちぎょう、683年 − 727年)とともに8世紀 前半の725年 (開元13年)前後に漢訳(当時の中国語に翻訳)したものである。一方の金剛頂経は7世紀末から8世紀始めにかけてインドで成立したもので、大日経が訳されたのと同じ頃に、インド出身の僧・金剛智 (671 年 − 741年)と弟子の不空(705年 −774年)によって漢訳されている。なお、金剛頂経は、十八会(じゅうはちえ)、つまり、大日如来が18のさまざまな機会に説いた説法を集大成した膨大なものであるが、金剛智と不空が訳したのは、そのうちの初会(しょえ)のみである。この初会のことを「真実摂経」(しんじつしょうぎょう)とも言う。

いずれにしても、「大日経」と「金剛頂経」は同じ大日如来を主尊としながらも系統の違う経典であり、違う時期にインドの別々の地方で別個に成立し、中国へも別々に伝わった。これら2つの経の教えを統合し、両界曼荼羅という形にまとめたのは、空海 の師である唐僧・恵果 (746年 − 805年)であると推定されている。恵果は、密教の奥義は言葉では伝えることがかなわぬとして、宮廷絵師李真に命じて両界曼荼羅を描かせ、空海に与えた。空海は唐での留学を終えて806年 (大同 元年)帰国した際、それらの曼荼羅を持ち帰っている。

空海が持ち帰った彩色両界曼荼羅(根本曼荼羅)の原本 および弘仁12年(821年)に製作された第一転写本 は教王護国寺 に所蔵されていたが失われており、京都・神護寺 所蔵の国宝・両界曼荼羅(通称:高雄曼荼羅)は彩色ではなく紫綾金銀泥であるが、根本曼荼羅あるいは第一転写本を忠実に再現したものと考えられている。
胎蔵曼荼羅の構成 [編集 ]

胎蔵曼荼羅は、詳しくは大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)曼荼羅といい、原語には「世界」に当たる言葉が入っていないが、金剛界曼荼羅に合わせて、古くから「胎蔵界曼荼羅」という言い方もされている。 曼荼羅は全部で12の「院」(区画)に分かれている。その中心に位置するのが「中台八葉院」であり、8枚の花弁をもつ蓮の花の中央に胎蔵界大日如来(腹前で両手を組む「法界定印」を結ぶ)が位置する。大日如来の周囲には4体の如来(宝幢−ほうどう、開敷華王−かいふけおう、無量寿 −むりょうじゅ、天鼓雷音−てんくらいおん)と4体の菩薩(普賢菩薩 、文殊師利菩薩 、観自在菩薩 、慈氏菩薩 )、計8体が表される。

なお、通常日本に取り入れられた曼荼羅の呼称について胎蔵界曼荼羅・胎蔵曼荼羅の2つが併用されているが、密教学者・頼富本宏は『曼荼羅の美術 東寺の曼荼羅を中心として』において「曼荼羅の典拠となった大日経と金剛頂経のいわゆる両部の大経を意識したものであり、空海もこの用語(注:両部曼荼羅)のみを用いている」「即ち金剛頂経には、明確に金剛界曼荼羅を説くのに対して、大日経では大悲胎蔵曼荼羅もしくは胎蔵生曼荼羅を説くのにかかわらず、胎蔵界曼荼羅と言う表現は見られないからである」と書いている。また頼富本宏は、円仁・円珍・安然など天台密教(台密)が興隆すると修法のテキストにあたる次第類の中に「胎蔵界」と言う表現が用いられるようになり、両界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅の語が使われるようになったとする。
胎蔵曼荼羅
外金剛部院
文殊院



釈迦院







院 遍知院 金




中台
八葉院
持明院
虚空蔵院
蘇悉地院

中台八葉院の周囲には、遍知院、持明院、釈迦院、虚空蔵院、文殊院、蘇悉地(そしつじ)院、蓮華部院、地蔵院、金剛手院、除蓋障(じょがいしょう)院が、それぞれ同心円状にめぐり、これらすべてを囲む外周に外金剛部(げこんごうぶ)院、またの名は最外(さいげ)院が位置する。これは、内側から外側へ向かう動きを暗示し、大日如来の抽象的な智慧が、現実世界において実践されるさまを表現するという。

さらに、胎蔵曼荼羅は、中央・右・左の3つのブロックに分けて考えることが必要である。 図の中央部は大日如来の悟りの世界を表し、向かって左(方位では南)には聖観自在菩薩(観音菩薩)を主尊とする蓮華部院(観音院)、向かって右(方位では北)には金剛薩埵(こんごうさった)を主尊とする金剛手院(金剛部院。薩埵院)がある。蓮華部院は如来の「慈悲」を、金剛手院は如来の「智慧」を表すものとされている。
金剛界曼荼羅の構成 [編集 ]

日本で一般的に用いられる金剛界曼荼羅は、成身会(じょうじんえ)、三昧耶会(さまやえ)、微細会(みさいえ)、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会(ごうざんぜえ)、降三世三昧耶会の九会(くえ)から成る。これはひとつの曼荼羅の9つのブロックと考えるよりも、9つの曼荼羅の集合体と考えるべきものである。
九会から成る金剛界曼荼羅
チベット仏教 の金剛界曼荼羅
成身会一会のみから構成されている。


四印会

一印会

理趣会


供養会

成身会

降三世会


微細会

三昧耶会
降三世
三昧耶会

中心になる成身会の中尊は金剛界大日如来(左手の人差し指を右手の拳で包み込む「智拳印」をむすぶ)である。大日如来の東・南・西・北には阿閦 (あしゅく)・宝生如来 ・阿弥陀如来 ・不空成就如来 の4如来が位置する(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就を合わせて金剛界五仏あるいは五智如来 という)。各如来の東・南・西・北には四親近菩薩(ししんごんぼさつ)という、それぞれの如来と関係の深い菩薩が配されている。

三昧耶会、微細会、供養会は中央の成身会とほぼ同様の構成をもっており、四印会はそれをやや簡略化したもの、一印会は他の諸仏を省いて大日如来一尊で表したものと考えて大過ない。

曼荼羅画面向かって右に位置する三会の曼荼羅はこれとはやや構成が異なる。理趣会は金剛薩埵を中尊として、欲望を擬人化した菩薩がこれを取り囲む。これは、欲望を単に煩悩として否定するのではなく悟りを求める心に昇華 すべきだという理趣経 の理念を図示したものである。 降三世会は仏菩薩が憤怒の姿を現したものとされ、代表して金剛薩埵が恐ろしい形相をした降三世明王の姿で描かれている。降三世三昧耶会は降三世会を三昧耶形 で描いたものである。これらの諸尊もすべては大日如来の悟りが形を変えて現われたものであり、すべては大日如来一尊に由来するということを表現したものと思われる。
金剛界八十一尊曼荼羅

なお、金剛界曼荼羅でも九会ではなく一会のみからなるものもある。金剛界八十一尊曼荼羅とよばれるもので、主に天台宗 で用いられる。

その構成は九会金剛界曼荼羅の成身会にほぼ同じであるが、三昧耶会、微細会、供養会にあらわれる「賢劫十六尊」という菩薩を追加し、四隅に降三世会、 降三世三昧耶会にあらわれる明王を描いている。いわば一会をもって九会を代表する構成といえる。

胎蔵曼荼羅が真理を実践的な側面、現象世界のものとして捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理を論理的な側面、精神世界のものとして捉えていると考えられる。
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E7%95%8C%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85 」より作成
カテゴリ : 真言系仏教 | 曼荼羅


2011年01月04日(Tue)▲ページの先頭へ
『自然との共振・共鳴・一如感・融合感の力学について:凸iの感覚と凹iの魂覚(共覚):物質的科学=外的科学(凸i優位科学)と超越的科学=内的科学(凹i優位科学)』
『自然との共振・共鳴・一如感・融合感の力学について:凸iの感覚と凹iの魂覚(共覚):物質的科学=外的科学(凸i優位科学)と超越的科学=内的科学(凹i優位科学)』

帰省先の田舎に居ると、自然と身体的心性との繋がりが感じられる。今更ながら、これは一体何なのであろう。すなわち、PS理論で解明するとどういうことなのだろうか。
 これまで、差異共振で説明してきた。たとえば、山や木との一如感をそれで説明してきた。「わたし」は「山」であり、また、「山」ではない。あるいは、「わたし」と「川」は一如である、「わたし」は「わたし」、「川」は「川」でありつつ。
 「わたし」が凸iであり、「山」や「川」が凹iであり、両者が共振する。すなわち、凸i*凹iであり、結果が⇒凸(+1)である。思うに、凸は物質であるが、⇒凸(+1)で一如感、一体感を意味させることも可能であろう。(ここで、主体、主語の問題があるが、とばしておく。)
これが従来どおりの説明であるが、結局、自然との一如感とは、差異共振に拠るのであるが、結局、これも既述したことであるが、内的な凹iと外的な凹iとが一致するという点に求められよう。だから、主体の凹iと客体の凹iは同一であるということになる。これは、どういうことを意味しているのか。
つまり、人間身体において、自然と同一のものが存しているということである。これは、常識的なことを述べているように聞こえよう。つまり、唯物論的科学で言えば、物質が、自然と人間で同一であるということになるのである。当然、私が指摘したいことはそうではない。自然と同じダイナミズムが、人間内に存するということである。これも、常識的に、物質的ダイナミズムと見られるかもしれない。しかし、このダイナミズムは少なくとも「気」のダイナミズムと言うべきである。なぜなら、視覚を介するが、一如感は、不可視の心性であるから、物質的とは言えないからである。また、端的に、これは、生命感、元気と結びついているのである。
とまれ、凹iは自然、人間の内的エネルギーに関係する、あるいは、それ自体ではないだろうか。思うに、凸iのエネルギーと凹iのエネルギーがあるのである。易で言えば、陽エネルギーと陰エネルギーということになるだろう。両者が共振して、物質的現象界が生起するということである。
物質的科学では、物質的現象界を、凸iに傾斜した、つまり、同一性(ロゴス)に傾斜した視点で捉えて、凹iの力学、あるいは、差異共振の力学を欠落させていると考えられるのである。これは、近代科学、唯物論的科学の大欠点、大欠陥であると言えよう。これは、また、父権的科学と呼ぶことできるのである。(PS理論は、端的に、凹iないし差異共振の科学である。)
結局、あえて言えば、凹iの科学が必要なのであるが、凸iの科学を物質科学と呼ぶなら、それは感性科学、心的科学、精神科学、内的科学ということになろう。
今日、物質科学、外的科学が支配的で、アカデミックには、感性科学、内的科学が排除されていると言えよう。
そう、正しくは、凸iの科学と凹iの科学、そして、両者の統一として差異共振の科学がなくてはならないと考えられる。
とまれ、端的に、凹iの科学とは何か。これは、超越性と結びつく科学である。凹、−1と結びつく科学であり、非物質的科学、脱物質的科学である。今日、この超越的科学の理論が、公的には、認められていないのであるが、PS理論が、正に、それである。
しかしながら、量子論や宇宙論等によって、現代科学は、実質的に超越的科学の領域に入っているのである。結局、唯物論という、悪魔の枠組みを乗り越える必要があるのである。換言すると、プラトニズム的転回が現代要請されているということである。精神が主であり、物質が従であるという視点である。これは、実は、霊的世界観であるが、PS理論は、現代科学をも説明できる、合理的な理論である。文化史的に言えば、トランス・モダン的転回、新古代的転回がここにはある。
ここで飛躍して、この転回の必然性について考えると、直観では、陰陽力学が根源で動かしていると思えるのである。端的に言えば、凸iの傾斜が起こり、それが、西洋文明を生み、物質科学を創出した。しかしながら、陰陽力学の視点では、凸iの傾斜、つまり、陽の傾斜の後には、凹iの傾斜、陰の傾斜が生起することになるのである。陽極まりて、陰に転ず。陽エネルギーが賦活された後、陰陽均衡原理から言えば、陰エネルギーが賦活されると考えられるのである。
では、凹iエネルギーの賦活によって、物質的世界観が乗り越えられて、新しい精神的世界観が創造されると考えられるのであるが、陽エネルギー、凸iエネルギーが⇒凸、+1と結びつくならば、陰エネルギー、凹iエネルギーは何と結びつくのだろうか。これは、自明である。既に、超越的科学と述べているので、それは、⇒凹、−1と結びつくと考えられるのである。人間認識図では、第三象限に当たる。思うに、差異共振の二つのタイプがあるのではないだろうか。陽・凸i主導の場合、⇒凸、+1となり、陰・凹i主導の場合、⇒凹、−1となるのではないだろうか。
以前述べたが、前者は凸i*凹i⇒凸(+1)で、後者は凹i*凸i⇒凹(−1)となるのではないだろうか。両者において、積の仕組みが異なるように思われるのである。(商も考えられるが、それはおいておく。)
 両者の違いは、回転にあるのではないだろうか。凸iが主導の回転とは、ベクトル・モードが凸、+1へと向かい、凹i主導のそれとは、ベクトル・モードが凹、−1へと向かうのではないのだろうか。これはまったくの作業仮説である。
前者は可視宇宙(現象界)を形成し、後者は不可視宇宙(仮に、ダーク・コスモス)を形成するのではないだろうか。
そう、今日、宇宙科学で問題になるダーク・マター(暗黒物質)、ダーク・エネルギー等は、この不可視宇宙に関るように考えられる。
文学的に言えば、D. H. ロレンスの『逃げた雄鶏(死んだ男)』の「暗い宇宙のバラ」とは、不可視宇宙を指しているように思える。
このように見ると、きれいにまとまるのであるが、作業仮説の力学がまだ解明できないのが、難点である。【ここで付け加えると、人間は、この二つの差異共振の結合体であると考えられる。脳(大脳)は前者により、内臓は後者であろう。そして、両者を視床下部が調整しているのではないだろうか。】
以前述べたのは、凹iが主導のときは、凹凹i=凸iとなるということである。これならば、凹i*凸i⇒凹凹i*凸i⇒凸i*凸i⇒凹、−1となるのである。
そして、逆に言えば、凸iが主導のときは、凸凸i=凸iであり、凸i*凹i⇒凸凸i*凹i⇒凸、+1である。

備考1:
思うに、一神教の一も、原点は共振の志向性にあるのではないだろうか。ただし、砂漠環境においては、「わたし」は岩だらけの山や砂漠とは共振せずに、自然を超越した何かと共振するということではないだろうか。これはとても興味深い点である。日本のような湿潤な自然環境の場合、共振する自然対象があるが【水の要素が重要であり、根源的物質の「水」について後で考察したい。参照:備考3】、その共振する志向性が砂漠環境の場合、対象が物質的ではなくなるということになろう。思うに、日本の場合、視覚を介して、共振する志向性は自然対象へと向かう、砂漠環境の場合、共振する志向性が自然を超越した何かに向かう。日本の場合、対象、凸、+1があるが、砂漠の場合、それがないことになろう。では、砂漠環境の場合、共振する志向性が向かう自然対象を越えた何かとは何か。PS理論では当然、凹、−1となる。思うに、日本においても、自然対象を越えた何かが感じられるのであり、それが、八百万の神々である。【神道は複雑であり、多様な神々が存し、独一神も存する。】しかし、私の経験では、なにか漠然とした不可視の超越感であり、それは、一つとも多数とも言えないような感じである。とまれ、砂漠環境の場合、共振する志向性が超越的であり、それが、唯一神(ヤハウェ、アッラー)へと向かったことは否定できない。共振する志向性が超越的一へと帰着するとはどういうことなのだろうか。やはり、ここには、凸iの傾斜があるのではないだろうか。一として、捉えるという認識は、知的であり、凸i的であるからである。だから、人間認識図で言うと、第二象限に相当する。それに対して、神道は、第一象限と第三象限の両義性をもっているのではないだろうか。
 
備考2:
哲学的には、凹凹i*凸i⇒凹とは、他者凹iの肯定であり、他者が自己になるのである。これは、個=他者、ひいては自由=共同である。しかしながら、ここで問題なのは、他者肯定が形式では、他者否定である符合凹がつく点で、どう齟齬を解消するのかである。【この他者肯定が「否定の否定」の形式をとるのは興味深い。この点は後で検討したい。】他者とは本来、凹iであり、それは、自我凸iに対して、否定的であるし、逆もそうである。この相互否定関係を転換するには、この相互否定性を否定すればいいのではないのか。それが、凹凹i=凸iである。あるいは、凹凸i=凹iである。いわば、「否定の否定」である。とまれ、相互否定の否定が相互肯定であるということであり、凹凹iは他者否定ではなく、逆に他者肯定であるということである。これで証明された。では、この「否定の否定」の意味をヘーゲル哲学と比較しよう。この「否定の否定」とは、正と反の否定的事態に対する否定であり、正と反との共立ないし即非である。ヘーゲル弁証法では、合(ジンテーゼ)であるが、ヘーゲル哲学は、精神が正で、反の物質的同一性を止揚して、同一性概念の合を形成するのであり、それは、同一性哲学なのである。PS理論は、弁証法の正⇒反⇒合ではなく、(正*反)⇒反(正*反)⇒正の二乗である。これは、いわば、反弁証法、差異融合法である。

備考3:エレメントしての水であるが、それは、凹iに関係しているだろう。では、凸iのエレメントは何か。それは火ないし風である。しかし、風の方がいいように思う。
 地水火風の四大をPS理論で考えると、地が+1、水が凹i、火が−1、風が凹iではないだろうか。以前述べたが、聖書の創世記の冒頭は、神霊が風であり、凸i、神霊が上を漂う水が凹iであると考えられる。そこから、天地創造が為されるのであるが、やはり、凸iに傾斜していると言えよう。確かに、東洋的図式ではあるが、水、凹iが劣位になっているので、父権・西洋的と言えよう。


   




新着トラックバック/コメント


カレンダ
2011年1月
           
         

アーカイブ
2006年 (104)
7月 (9)
8月 (6)
9月 (7)
10月 (9)
11月 (39)
12月 (34)
2007年 (542)
1月 (48)
2月 (49)
3月 (67)
4月 (45)
5月 (44)
6月 (1)
7月 (33)
8月 (67)
9月 (47)
10月 (42)
11月 (49)
12月 (50)
2008年 (623)
1月 (40)
2月 (29)
3月 (26)
4月 (38)
5月 (32)
6月 (48)
7月 (49)
8月 (61)
9月 (68)
10月 (86)
11月 (86)
12月 (60)
2009年 (472)
1月 (82)
2月 (66)
3月 (58)
4月 (32)
5月 (27)
6月 (34)
7月 (35)
8月 (26)
9月 (36)
10月 (30)
11月 (28)
12月 (18)
2010年 (251)
1月 (19)
2月 (29)
3月 (29)
4月 (11)
5月 (25)
6月 (33)
7月 (28)
8月 (23)
9月 (15)
10月 (18)
11月 (8)
12月 (13)
2011年 (126)
1月 (11)
2月 (12)
3月 (13)
4月 (12)
5月 (6)
6月 (4)
7月 (5)
8月 (11)
9月 (15)
10月 (7)
11月 (16)
12月 (14)
2012年 (117)
1月 (10)
2月 (13)
3月 (6)
4月 (6)
5月 (14)
6月 (8)
7月 (11)
8月 (7)
9月 (3)
10月 (24)
11月 (9)
12月 (6)
2013年 (145)
1月 (12)
2月 (11)
3月 (9)
4月 (21)
5月 (10)
6月 (9)
7月 (17)
8月 (9)
9月 (5)
10月 (22)
11月 (13)
12月 (7)
2014年 (91)
1月 (6)
2月 (13)
3月 (18)
4月 (5)
7月 (4)
8月 (26)
9月 (7)
10月 (5)
11月 (6)
12月 (1)
2015年 (61)
1月 (6)
2月 (12)
3月 (8)
4月 (14)
5月 (10)
6月 (4)
7月 (6)
8月 (1)

アクセスカウンタ
今日:121
昨日:903
累計:4,748,539