INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2011

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




[PR]



2011年12月27日(Tue)▲ページの先頭へ
悪、詐欺・ペテン、騙し等とは何か:第一象限の自我と第四象限の物質的欲望の癒着
テーマ:evilness, egotism

悪は腹黒い。言うことと行なうことが真逆である。言葉ではAと言い、行為は反Aである。
 問題は利己主義である。これは、人間認識図では第四象限に属する。
 結局、精神が物質化したとき、人間は物質的欲望に捉えられる。それが、第四象限に属するだろう。
 しかしながら、自我凸iは悟性作用から、自己を「善」として捉える。この「善」意識は、思うに、差異共振のもつ善かに基盤があるだろう。しかしながら、自我的「善」に、即ち、独善になってしまっているのである。
 とまれ、物質世界の人間は、第四象限の物質的欲望と第一象限の自我(独善的自我)をもつのである。
 後者は独善的なので、前者のために、嘘言を吐くことに良心の呵責はないのである。むしろ、自己は正しいと考えているのである。
 これが悪、詐欺・ペテン、騙しの様態の解明である。
 MS党はこれらのタイプの人間の巣窟である。

追記:では、精神はどこに存するのか。media point、差異共振性に存する。これを覚醒させるのが「教養」である。知的魂の養成が必要なのである。理系的文系、文系的理系、文理融合教養が必要なのである。
 この教養がないために、M党は狂っているのだ。とりわけ、魂の養成を怠った輩の巣窟である。そう、端的に言えば、優れた芸術を体験してこなかったのである。また、宗教にも触れてこなかったのである。
 そして、何よりも哲学を経験しなかったのである。

追記2:また、自然・宇宙的体験が欠落していると考えられる。M党員は都市型であり、自然・宇宙的精神体験がないはずである。


言葉とは何か:差異共振的同一性作用としての言語
テーマ:language

PS理論から、本件はどう捉えるのだろうか。これまで、この点についてはあまり論じてこなかった。
 しかし、基本的には凸iに言語、ないし、原言語があるとは仮定してきた。
 つまり、同一性を形成する凸iに言語作用があると見てきたのである。
 ここで具体的に想像してみよう。眼前に「山」があるとしよう。それを「わたし」は感覚知覚する。しかし、それは「他者」であるから、凹iである。凹iを凸iに取込もうとするところに言語作用があると考えられる。
 それは凹i⇒凸iであり、凸i⇒凹iであろう。聴覚と視覚の衝突、差異共振と言えよう。「山」はyamaである。
 だから、言葉とは単に凸iの同一性作用だけではなく、凹iとの共振作用が働いていることになる。
 差異共振作用を同一性側、凸i側に取込んだものが言葉であると考えられる。
 構造主義が有名になったソシュールのシニフィアンとは一見、凸iのように思えるが、そうではなく、凹iの記号であると言えよう。そして、シニフィエが同一性概念、悟性的なものであると考えられる。
 しかし、ソシュール側に寄るのではなく、PS理論の概念から読み直すことで、新たな言語哲学が生まれると考えられる。
 とまれ、ここで差異共振同一性作用としての言語概念を得た。だから、言葉の深層には差異、他者、個があると言えよう。それが、表層では同一性、物質性、自我を帯びているということである。
 後で更に検討したい。

追記:いろいろ言うべきこと、述べたいことがあるが、一言付け足せば、言語は第二象限に属するだろう。第二象限は一つの光の領域ではあるが、実は深層に闇があるのを忘却しているのである。これはデカルト哲学にも言えよう。その闇をフッサールは現象学でほぼ解明したと言えよう。

追記2:精神的フィルターsemantic filterの悟性フレームが言語と言えるかもしれない。


2011年12月25日(Sun)▲ページの先頭へ
精神振動7分節の順序:二重らせん的上昇的宇宙的進化:精神的色彩・光と物質的色彩・光:霊的日輪存在
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11116806982.html

精神振動7分節の順序:二重らせん的上昇的宇宙的進化:精神的色彩・光と物質的色彩・光:霊的日輪存在

先に(精神振動の7分節化:七元=三元と三元とmedia pointの一元 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11115479961.html)精神振動7分節の原理について簡単に仮説したが、次は順序を考えたい。
 作業仮説として、凸i/凹iの三元⇒media pointの一元⇒凹i/凸iの三元の順序をもつとする。
 可視光線(虹の七色)で言えば、最初の三元が赤、橙、黄の順であり、media pointが緑であり、最後の三元が青、藍、紫である。
 そして、この虚軸の7分節は当然、二重らせんを形成すると直観される。だから、螺旋的に赤から紫へと上昇(シュタイナーがゲーテの上昇を指摘したことに注意)するのである。
 そして、これが、「宇宙」進化の順序であると思われる。そうすると、それは必然を意味する。では、自由、個の自由はどこから出てくるのか。それは、この「宇宙」進化から独立していることに、個、個の自由が存すると思われる。
 つまり、個と一般性は異なるということである。つまり、「宇宙」進化とは一般的進化であり、個のそれとは区別されるということである。もっとも、個と一般的環境のある程度の相関性は考えられる。
 ここで注意すべき点を言うと、自然における色彩と物質的に形成される色彩は異なると考えられることである。
 自然における色彩は高振動の精神エネルギーを背後にもつのに対して、物質的色彩低振動の精神エネルギーを背後にもつと思われる。これは、氣と電磁波との違いに類似すると言えよう。つまり、一見似た現象においても、高振動のものと低振動のものがあるということになる。
 わかりやすく言えば、精神的背景のある色彩とそれのない色彩があるということになる。
 この違いの原因は何かと言えば、端的に、日、太陽の光の有無にあると言えよう。
 日光、陽光は、日輪「存在」のもつ超越性を帯びていると思われる。言い換えると、超越光を帯びているということである。
 それに対して、物質的色彩にはそれがないということである。
 つまり、日輪「存在」は第三象限性をもつのに対して、物質的光は第一象限性をもつということになろう。
 そう、端的に言えば、日輪とは精神・霊的存在、つまり、「日の神」、「天照大神」、「アフラ・マズダ」、「キリスト」である。霊的太陽である。D. H. ロレンスが唱えたdark sunがこれに通ずると言えよう。
 このように考えてくると、近代都市物質的生活のもつ、没精神性が浮き彫りにされると言えよう。自然・宇宙環境の乏しい、近代都市は明らかに精神・魂を喪失する環境であり、人間は悪魔・獣的にならざるを得ないのである。
 だから、近代世界は近代的唯物都市から崩壊していくと言えよう。日本はとりわけ東京から崩壊するのである。
 結局、ポスト近代として、自然・宇宙的ポリス(共同体)、多元的なローカルな自然・宇宙的ポリス・ネットワークの時代が考えられてくるのである。
 しかしながら、民族性は創造的に保持されるのであるから、没民族的になることはない。だから、多元的ナショナル・ローカルな自然・宇宙的ポリス・ネットワークのエポックである。
 では国家はどうなるだろうか。これまでの国家は父権主義であった。新時代は母権主義であるから、父権的国家は衰退、消滅するだろう。
 民族的多元的ポリス・ネットワークをコントロールする中枢機能が当然必要になるだろう。それが、新国家であろう。しかし、それは、国家というより、スーパー・ポリスであろう。超共同体である。
 今はここで留める。
  

参考:

虹の七色とスペクトル型



虹の七色

赤 橙 黄 緑 青 藍 紫
に じ の な な い ろ

電磁波は、波長によっておおよそ以下のように呼ばれます。

電磁波の波長
波 長 〜1nm 1nm〜380nm 380nm〜780nm 780nm〜100μm 100μm〜
名 称 エックス線 紫外線 可視光線 赤外線 電 波
波長は目安で、決まっているわけではありません。

人間の目に見える光を可視光線と言います。
可視光線域はおよそ380nm〜780nmです。

可視光線
波長 (nm) 380〜430 430〜460 460〜500 500〜570 570〜590 590〜610 610〜780
色 相 紫 藍 青 緑 黄 橙 赤
波長は目安で、決まっているわけではありません。 1nm = 1ナノメートル = 10-9 m

 太陽の光をプリズムにあてると、きれいな光の帯ができます。これは、1668年にニュートンによって発見され、 スペクトルと名づけました。
 星からの光にも赤から紫までの虹の7色が含まれています。星の色は、表面温度の違いによって決まります。 この原因は、表面から放出される光の波長の分布が温度によって異なるからです。赤い星は、赤い光だけを 出しているのではなく、波長がより長い光を多く出しているので赤く見え、青い星は波長がより短い光を 多く出しているので青く見えます。

スペクトル型
スペクトル型 表面温度 (K) 色 例
O 30000 〜 50000 青 オリオン座の三ツ星
B 10000 〜 30000 青 スピカ、レグルス
A 7500 〜 10000 青白 シリウス、ベガ
F 6000 〜 7500 白 北極星、プロキオン
G 5300 〜 6000 黄 太陽、カペラ
K 4000 〜 5300 橙 アルクトゥールス、アルデバラン
M 3000 〜 4000 赤 アンタレス、ベテルギウス


 表面温度の単位は、K (ケルビン)です。これは、国際単位系 (SI) の基本単位のひとつで、 絶対温度のことです。摂氏 0度は 273.15K です。

--- 虹の七色とスペクトル型 ---

http://www1.odn.ne.jp/haru/data-other/rainbow.html




クンダリニー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索
クンダリニーを象徴化した絵
ナーディーとチャクラの位置を表した図
ヒンドゥー教
HinduismSymbolWhite.PNG
基本教義
輪廻 、解脱 、業 、梵我一如
神々
ブラフマー
シヴァ (パールヴァティー )
ヴィシュヌ (クリシュナ )
アスラ 、ヴァルナ 、
ヴィローチャナ 、ヴリトラ
ラーヴァナ 、インドラ
ナーガ 、ナーガラージャ
ジャガンナート
聖典
ヴェーダ
(ウパニシャッド )
プラーナ文献
マハーバーラタ
(バガヴァッド・ギーター )
ラーマーヤナ
六派哲学 の諸経典
法典・律法経
マヌ法典
ヤージュニャヴァルキヤ法典
宗派
ヴィシュヌ派 、シヴァ派
シャクティ派 、スマルタ派
人物
シャンカラ 、グル
修行法
ヨーガ
地域
インド 、ネパール
バングラデシュ
スリランカ 、モーリシャス
バリ島 、マレーシア
社会・生活
カースト 、ヴァルナ 、ジャーティ
不可触民 、サティー 、アーシュラマ
文化・芸術
寺院一覧 、遺跡一覧
表 ・話 ・編 ・歴

クンダリニー(クンダリーニ、Kundalini, कुण्डलिनी, kuṇḍalinī)は、悟り を得るために必要なシャクティ (性力)のこと。クンダリニーの活性化を念頭においたヨーガ は、「クンダリニー・ヨーガ 」と呼ばれる。クンダリニーを象徴化したものとしては、密教の軍荼利明王 がある。

「螺旋 」「コイル 」「巻き毛」「環」などを意味するサンスクリット の kundala(クンダラ)から派生した、「螺旋を有するもの」を意味する kundalin(クンダリヌ)の女性形主格が、Kundalini(クンダリニー)の語源である。

クンダリニーは、普段は尾てい骨付近のムーラーダーラチャクラ に眠っているが、ヨーガ の実践や宗教 の各種修行によって活性化し始め、生涯をかけ各チャクラを開花させグランティ(=結節。ブラフマー 結節、ヴィシュヌ 結節、ルドラ 結節の3種類がある)を破壊し、最終的には頭頂のサハスラーラを押し開け解脱 に至る。今世で解脱できる魂 は極一部といわれている。性欲 を昇華 させたものがクンダリニーとなるため、梵行(性的な事柄を避ける)修行が重要となる。
ナーディーとの関係 [編集 ]

体内(霊体)にあると言われるナーディー (en:Nadi (yoga) ) (気道)の中でも代表的なものは、動的で男性的性質のピンガラー・ナーディー(別名・太陽の回路)、静的で女性的性質のイダー・ナーディー(別名・月の回路)、そして身体の中央を貫いており、調和をもたらすスシュムナー・ナーディーの3つがある。ピンガラー・ナーディーとイダー・ナーディーの調和のとれた活性という条件の下、瞑想 時にスシュムナー・ナーディー内をクンダリニーが上昇した結果訪れるサマーディ に入定することが、サマーディより出定後も安全に高い霊性を維持していくための条件となる。
クンダリニー症候群 [編集 ]

科学的根拠がみあたらないために、人によって考え方がまちまちである。体感異常や心身症のことを自分でクンダリニー症候群だと思い込んでいるだけのケースや、逆にクンダリニー症候群であるにもかかわらず単なる精神病と誤解されるケースもあるようである。

クンダリニーを思い通りに、意図的に上昇させようとするクンダリニー・ヨーガ を激しく修行し実践する場合、その「思い通りに、意図的に」とは真我 ではなく個我にとってのそれであるため、クンダリニーが動的なナーディーであるピンガラー・ナーディーのみを通ってサマーディに入定してしまうことがある。そうなるとサマーディから出定後、クンダリニー症候群(英:Kundalini syndrome 中:走火入魔 )と呼ばれる症状が現れ、程度の深浅こそあれ、自律神経系 のうち交感神経系 の暴走からくる自律神経失調症 を呈し、そこから全身の激しい脈動、心拍数の増加と血圧の上昇、片頭痛 、慢性疲労症候群 、統合失調症 、うつ病 、神経症 などを発症するおそれがあり、最悪のケースでは脳溢血 や自殺 などを招いてしまうという考え方もある。よってイダー・ナーディーを強力に活性化させる技法を知らぬままクンダリニー・ヨーガを行うことは無謀ということができる。

また、クンダリニー・ヨーガを実践するつもりでなくても、急進的な解脱願望を抱いた状態または神 への絶対帰依 を欠いた状態での修行の継続の結果や、さらには人生の困難、交通事故、出産などによるショックなどによっても上記のような現象が起こる場合が稀にあるという説がある。

元々人格障害 (ボーダー、反社会性等)や精神病を潜在的に抱えている患者にクンダリニー覚醒に先立って、元々の病が押し出されるという説もある。カルマ の浄化プロセスとも考えられる。

このため、クンダリニー覚醒を目指す実践者はベジタリアニズム を実践し、刺激物の摂取を避け、過食、不規則な食事、わがままで否定的な態度を避けるべきである。

安全な隠遁生活がなかなか難しい現代社会において、社会生活を営みながら安全にクンダリニー覚醒を得るためにはどうしたらよいかは課題である。
イマジネーションの拡大 [編集 ]

クンダリニー覚醒が一定のレベル以上に達すると、人間に果てしない「イマジネーション」の拡大がもたらされるといわれており、実際その事例を見ることも多い。クンダリニーの覚醒者と自称する人(その多くは覚醒者とはいえないレベルではあるが)は多くいるが、彼らの中の一部に「空想的世界観」を見ることができる。人間が自分を”実際以上”のものである(あるいは実際以上のものでありたい)と思うたびに、イマジネーションの力がそこで働いている。イマジネーションの力は、過去において不可欠であったのであり、さらに人類にとって今後もまだまだ必要な力である。あまりに現実を見てしまうと、世界の進歩が阻害されてしまうのであり、クンダリニーにより神の夢を個々の人間の器に応じて実現させることができるのである。しかし、修行者がイマジネーションの拡大に溺れてしまい、それを自分の力だと思い込み「欲望」のままに行動してしまうならば、「悟り」への道を逸脱することになってしまう。
クンダリニーに関する逸話 [編集 ]

グルジェフ の著作『ベルゼバブの孫への話』の中に神話的な人類創生の話が出てくるが、その中にクンダリニーが人間の尾てい骨のあたりに取り付けられた経緯が語られている。人間が地球上に存在する目的を知られることがないように、安全装置として取り付けたということである。
近年の研究 [編集 ]

臨死体験 (NDE)経験者が最もクンダリニー上昇に近い経験をしているという主張が欧米の研究者を中心になされている。この分野の学術研究をトランスパーソナル心理学 ・精神医学という。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%BC


2011年12月24日(Sat)▲ページの先頭へ
精神振動の7分節化:七元=三元と三元とmedia pointの一元
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11115479961.html

精神振動の7分節化:七元=三元と三元とmedia pointの一元

直観で言うと、凸i*凹iは易的に言えば、三元*三元である。それにmedia pointの一元を入れると、七元になる。
 それは、凸i主導の場合の三元性(「三位一体)と凹i主導の三元性があり、それにmedia pointの一元性があり、合わせて七元性になるということだろう。
 思うに、7とは女神の数である。古代オリエントの女神イナンナ、イシュテルの数である。
 そして、3という「根元数」がここにある。3と7である。また、差異共振、Vector Modeは黄金比で、正五角形を形成する。すなわち、5である。そうすると、精神振動はmedia pointを介して、3,5,7という最も重要な秘数(聖数)を所有すると言えよう。
 当然、2もあるし4もあるし6もある。そして、大根元の1がある。すると、1,2,3,4,5,6,7という数列がきれいに出てくる。
 後で検討したい。

追記:media pointが0であろう。また、8は2^3で、9は3^2で説明できるだろう。2^3や3^2は易から考えられる。また、10であるが、それは、1+2+3+4、つまり、テトラクテュスで説明できよう。
 後でさらに検討したい。

参照:
古代ギリシアの旅
― 創造の源を訪ねて ―
高野義郎著
(新赤版780)





◎思索的で高踏と感じていた古代ギリシアが身近になりました……

 自然哲学の元祖タレースは「万物の根源は水である」と言いました。ぼくは、よくこんな大胆なことをいうものだ、さすが思索的なギリシア人だなと思っていました。ヘーラクレイトスも「万物の根源は火だ」と言いましたが、「ええっ、何で?」と感じていました。

 著者の高野先生は、タレースの故郷ミーレートス、ヘーラクレイトスの故郷エペソスを訪ねて、その意味を考えたのです。ミーレートスを流れていたマイアンドロス河のもたらす影響(豊かな土壌をもたらすプラス&洪水のマイナスなど)の大きさと、エペソスの象徴であるアルテミスの神殿に掲げられた不断の聖火(ヘーラクレイトスはそれを毎日見ていた)とに、それぞれの自然哲学の起源を見出しました。

 高野先生の説を読んで、「そんなに身近なものから発想したのか」と感じました。同時に、「よく、そんなに身近なものを万物の根源とするには、理論構築が大変だろうな」とも思いました。

 そして、いまは廃墟となっているミーレートスやエペソスにぜひ行ってみたいと強く思いました。高踏で近寄りがたいと感じていた古代ギリシアが、この本をつくることで急に自分の感覚に近づいてきたのです。

 そんな感じを読んでくれる人にもっていただける本だと思っています。

◎ピタゴラス学派の聖なる数は「10」だったのですね……

 ピタゴラスの正確な読み方は「ピュータゴラース」、ピュータゴラース学派のシンボルマークは「テトラクテュス」(図A)です。上から点が1、2、3、4と重なる正三角形のマークです。点の数は1+2+3+4=10です。じつにきれいなマークなんですが、どうしてこれをシンボルにしたのかも、この本で解いています。2章で存分に解説がありますから、ここでは説明しません。ぼくも「なるほど」と思いました。

図A

 ピタゴラスは「ピタゴラスの定理」や「ピタゴラスの数」でも知られる数学者であるほかに、哲学者でも宗教家でもありました。では、宗教との接点はどこにあったのでしょうか。これも「テトラクテュス」と同じ根っこなのです。

 あちこちで、なんと謎解きの多い本なのだろうと感じられるでしょう。けっこう楽しめますよ。

◎楽しめるのは地図と写真も……

 古代ギリシア全域とはどこからどこまででしょう? いまのトルコ西部から南イタリア・シチリアまでとほんとうに広い範囲です。その全域はもちろん、各地の地図がたくさん入っています。だから、アリストテレースが生まれたスタゲイラ、ピュータゴラースの生まれたサモス、オリンピック競技発祥の地オリュンピアーなどが、どこにあったのかが、あらためてよくわかります。

アポローン、アルテミス誕生の地を守るライオン像。デーロス島


夕日のポセイドーンの神殿。スーニオン岬

 写真はすべて、著者の高野先生が撮ったものです。日本ではほとんど見たことのない写真もたくさんあります。なにしろ観光ツアーでは行かないようなところを、自分でわざわざ調べて訪れたのですから。もちろんプロのカメラマンではありませんが、かなり上手で、しかも撮る位置を探して撮ったものなので、いい写真ばかりです。モノクロームでしか見られませんが、ぜひ現地の空気を感じてください。

 地図も写真も多かったので、正直言って本づくり作業は大変でした。でも、その分、読んでくださるみなさんは、楽しめるし、新たな発見も多いだろうと思います。
(編集部 森光実)


■著者紹介
高野義郎 たかの・よしろう
 1925年大阪生まれ、1948年京都大学理学部卒業。京都大学湯川研究室副手、横浜国立大学教育学部,工学部教授を経て、現在は、横浜国立大学名誉教授。理学博士。専攻は、理論物理学。
 著書に『力学』(朝倉書店)、『物理学の再発見T物質から空間へ U素粒子と時間空間』(講談社ブルーバックス)、『ヨーロッパ科学史の旅』(NHKブックス)など。

■目次
 古代ギリシア地図/古代東エーゲ海地図/古代アテーナイ周辺地図
 古代ギリシア史年表
1 哲学のふるさとミーレートス ― その都市計画に秘められたもの
2 ピタゴラス学派の聖なる数10
3 万物の根源を求めて
4 古典文化の花咲く都市アテーナイ
5 時計回りにめぐるペロポンネーソス
6 悲劇の舞台 ― オイディプースとイーピゲネイア
 地名索引/人名索引

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0204/sin_k63.html

ピュタゴラス派の「霊魂数」の解明
2011
07-08
0_473c2_ 64b677df_orig


by Carel Willink



ピュタゴラス派についての本を何冊か借りて、西洋における「輪廻思想」の源流にまで遡行しようとしているが、実はピュタゴラス本人に帰属される資料自体が著しく欠損していることを知って当惑している。
ピュタゴラスは既に生前から伝説化されているらしく、おそらく極めてカリスマ性の高い宗教的側面を持っていたものと推測されている。
このページでは、イアンブリコス、ポルピュリオス両者によるピュタゴラス伝と、おそらくピュタゴラス研究において避けては通れない大家と思われるピサ大学の古代哲学史の専門家であるブルーノ・チェントローネの本の三冊を読んで、私が重要だと思った要点を巧くまとめておきたい。
先に述べた、ピュタゴラス本人の教説が謎に包まれているということは、チェントローネも「ギリシア哲学の中で、最も議論の絶えない一章をなす」という表現を彼に与えていることからもその一端が窺える。
残されているピュタゴラス派のものと思われる資料も、「偽ピュタゴラス派」や数知れない偽作などで膨大な量に及び、何を信頼すべき正統的典拠とするかで専門家も非常に悩んでいるような印象を受けた。
チェントローネは、やはりアリストテレスの『形而上学』と、プラトンの『ピレボス』や『パイドロス』などでの、ピュタゴラスに関する言及には一定の信頼を置いているようである。
まずはじめに、ピュタゴラス派がどういう思想を展開したのか、錯綜する本の解説からまとめなおす作業が必要だろう。
私には、チェントローネの研究書ですら、やはりどこか錯綜して重要なその「思想」の骨子とはあまり無関係な言述にページを割いている気がするからである。
そこで、まずは一定の信頼度を寄せても良いと思われる、ディカイアルゴスによるピュタゴラス派の教えのポイントをまとめておく。

・霊魂は不死である。
・肉体の死後、人は別種の生物へ移ることがある。
・ある周期で、かつてあったものは再生し、絶対的に新しいものは何一つ無い。
・全て、霊魂を有する存在者は同じ種に属している。



以上が、ピュタゴラス派の教えとして現在にも伝わっているものの、ごく簡単な概略であるが、どれも突出して謎めいているという他無い。
ピュタゴラス派とは無関係かもしれないが、ピュタゴラス以前に、アナクシマンドロスも「無数の宇宙が同時に互いに独立して存在する」という、17世紀バロック時代のライプニッツの「可能的世界」説を先取りした思想を展開していたようで、これもまた非常に神秘的で興味深いところである。
我々の目下の関心は、ピュタゴラスである。
彼は、仏教的な「業報輪廻」(悪いことをすればその報いとして下等な生物に転生する)を信じていたとされている記述が、プラトンの『パイドロス』に存在し、こうした輪廻観は「アドラステイアの掟」と呼称されていたようだが、実はプラトンがピュタゴラスに帰したこの考え自体も本当に彼本人の思想なのか不明である。
アイリアノスの『ギリシア奇談集』には、「口伝」として伝わる彼の教えが残っている。
これらは、どれもその内容においては正確であるようなので、確実性は高いと思われる。

「デルポイの神託とは何か。数秘三角形なり」

「最も智恵あるものは何か。数なり」

「至福者の島とは何か。太陽と月なり」



これに、付記しておかねばならないもう一つの重要な教えがある。
それは、「霊魂とは、自己を動かす数である」という教えである。
ピュタゴラス派は、人間の肉体に宿る霊魂も、「数」に還元して思考していたと考えられる。
彼らがアリスモロジー(数理学)を実在する全ての存在と一体化させて考えていたことは、まず間違いない。
そもそも、ピュタゴラスというその名前なのだが、実はこれは「アポロン」の枕詞から生成されているのである。

「ピュティオス」(アポロンの枕詞)+「アゴレウエイン」(述べる)
=「ピュタゴラス」(アポロンに劣らず真理を述べる者)



ピュタゴラスをアポロン神と、あるいはその神官の末裔と同一視する資料は、いわば彼を「伝説化」する人々の著作に顕著な特徴である。
私がここでどうしても記録しておきたいのは、むしろ彼らの「数秘術」である。
これについても、私が読んだ本が三冊に過ぎない点と、それらの本自体でも資料性の少なさを自覚し合っているので、なかなか一筋縄にはいかない。
しかし、まとめておく意義は十二分にある。
(何故なら、これらについてボルヘスは一言も言及していないのだから)。

先ほど、「霊魂も数である」という説を紹介したが、実はフィロポノスが『デ・アニマ注釈』の中で、霊魂が何故、数であるかに言及している。
フィロポノスの以下の解説がピュタゴラス派に属するか、またピュタゴラス本人に属するかは不明であるが興味深いのは事実である。
彼によると、霊魂は4つの基本的性質から構成されており、それらの性質全てが「数」に還元できるという。

1・・・ヌース(直知)
2・・・エピステーメー(学術的知識)
3・・・ドクサ(意見)
4・・・アイステーシス(感覚)



こうしたことから判るように、霊魂を四つの基本的性質に分解し、それぞれに数を振り当てるという思想が存在していたものと考えられる。
ここからが面白いのだが、実はこれらの総和、すなわち「霊魂数」は、1+2+3+4=10であり、この10は「調和数」であると同時に、ピュタゴラス派が「真理」そのものと同義であるとした、名高い「テトラクテュス(数秘三角形)」を構成する数10と一致するという事実である。
テトラクテュスとは、10の点を正三角形に並べて配置した図として示され、ピュタゴラス派によって神聖視されたものである。
来歴を述べると、それまでの古代ギリシアでは宗教的儀礼において「動物犠牲」が多く、それも三つの異なる動物を三副対にして神に捧げるという、いわゆる「トリクテュス」が支配的であったという。
血を好まず沈黙と瞑想を愛するピュタゴラスは、これに反対して「動物」を媒介にして神に接近するのではなく、幾何学的図形が持つ力を信じて神へ接近できるような新しいシステムを考案した。
彼らが万物を数に還元するのは、全ての事物は、「数を持つ」ということを信じていたためである。
彼らにとって存在論とは、まさに数学と一体化していたわけだ。
では、何故ピュタゴラス派はそれほどまでに、この10という数字を崇拝したのだろうか?
これには幾つかの説が存在する。

・「数える」という作業は、世界中ほぼどこの民族においても1から10までで完了する。11以上はその反復に過ぎない。

・10は、奇数1、3、5、7、9と、偶数2、4、6、8、10をそれぞれ5つずつ包含する。

・10は素数1、2、3、5、7と、複合数4、6、8、9、10をそれぞれ5つずつ包含する。

・点を1、二点から生じる線を2、線から生じる平面図形を3、平面図形から生じる幾何学的立体を4とすれば、世界に存在する全ての点、線、図形、立体は、1+2+3+4=10で表現可能である。



こうした10が「調和数」であり、全ての宇宙を包含しているという特異な数秘観は、スペウシッポスやセクストス・エンペイリコスも伝えている。
私はここで、彼らが「数える」というその単純な行為に、もしかすると「祈り」に近い何か宗教的観念を持っていたのではないか、という仮説を提示しておきたい。
というのは、キリスト教においても「祈り」は極めて重要な宗教生活の基礎であるが、宗教的結社を組織していたとも伝えられているピュタゴラス派が、「数える」ことや、「図形を描くこと」に安らぎを見出していたことは、テトラクテュスに対する信仰心からしても、平易に想像できるものだからである。
ピュタゴラス派についての言及も多いアリストテレスであるが、実は彼には内部向け書物である『形而上学』以外に、『ピュタゴラス派について』という重要な書物があったとされている。
不幸なことにこの書は現存しない。
しかし、アリストテレスは『形而上学』の中で、ピュタゴラス派の特質を「事物を離れて単独で存在している数はない」ことを信じる点や、「事物のそれぞれは、それに内在する数のある情態である」と考える点などに認めている。
10に並んで重要な数字は、1と216である。
1については最後に記すが、216を重視したのはなかなか興味深いエピソードである。
というのは、実はピュタゴラスは伝承上では前世において猟師ピュロンだったとされており、彼が死んでピュタゴラスが生まれるまでの期間が、ちょうど216年であるとされているからである。
216とは何であるのか?
これは、一辺が3、4、5の立方体にそれぞれ水を入れて、全て合わせた容積である。(3の三乗+4の三乗+5の三乗)
3、4、5を各辺に持つ図形といえば、直角三角形であるが、216はこの図形の各辺の三乗の和である。
正三角形と同じく、3、4、5の辺の長さを持つ直角三角形は古代ギリシアにおいて神聖視された図形であった。
例えばプラトンは『国家』の中で、「完全な国家」が衰滅するまでの総期間は36000年であると予言している。
この36000の数字の算出方法は既に知られており、やはり直角三角形をモデルにしているのである。
プラトンによれば3、4、5の辺を持つ三角形は「国家」を象徴している。
その面積3×4×5=60は、「国家」を意味している。
というのは、彼によれば3は「政治家」を、4は「市民」を、5は「法律」を意味し、図形全体で「共同体社会」を象徴化するからだ。
そして、面積60の4乗である12960000は、国家の存続日数を意味する。
これを年数に直すと、先の36000年になるのである。
何故、ピュタゴラスが216を10と並んで神聖視したのかというと、それが「国家を象徴する直角三角形」の各辺の三乗の和だからである。
216にこめられた意味を読み解くコードはまだある。
それはピュタゴラス派に伝わる「結婚数」6の存在である。
これは女性数2と男性数3の積である。
そして、女性数2の立方体の体積と、男性数3の立方体の体積をかけた数(2の三乗×3の三乗)は、216である。
上記のような理由からしか、ピュタゴラス派がなぜ216を神聖視したのかは判らない。
本の解説を精密に照らし合わせた結果、こうした「数に意味を象徴的に賦与する」作業が前提になっていたとしか考えられないのである。
ゆえに、ピュタゴラスは216年の歳月を経て、前世ピュロスから転生したのである。
最後に、「1」について記しておかねばならない。
「1」こそは、起源にして終焉であり、最も簡潔にして最も謎めいた数字である。
プラトンは『ピレボス』の中で、以下のように記している。

「およそ過去にも未来にもいつでも<ある>といわれるものは、<一>と<多>からできているのであり、しかも有限も無限も自己自身のうちに、本来的な同伴者として備えている」



これは、私には極めて重大な教えである気がしてならない。
というのは、ここでプラトンはピュタゴラス派の教えを参照しているのであるが、そこでは<ある>という存在論的な状況の根本を担うコードが、<一>であり、また<多>であるとされているからである。
<一>はギリシア語で「ヘン」、無限は「アペイロン」と呼ばれるが、スペウシッポスの解釈によると、両者は本質において同一である。
というのは、「ある」とは、結局のところ、「一」であり「多」だからだ。
これはキリスト教神学に関心のある者には、すぐさま神の属性であることが思い出されるはずだ。
ただ唯一の一者にして、同時に宇宙に余すところ無く遍在するのはキリスト教神学における「神」の属性である。
プラトンがピュタゴラスの思想の影響を極めて顕著に受けていたことは、アリストテレスも認めている。
したがって、ピュタゴラスもこれに類縁的な思想を持っていたと同定することは自然なのである。
だとすれば、これはまさにピュタゴラス派の数学的神学論といえるだろう。
彼は「1」という数字に、「無限」を見ていた。
これはテトラクテュスである10との類比的な関係性でも述べられるべきだろう。
10は、いわば1でもあるのではないか。
すなわち、1から始まり9へと至り、10にまで達することは、再び1へと回帰することである。
これこそが、ピュタゴラス派が「霊魂」をも「数」に還元した究極の意味内容だったのではないか。
霊魂数10は、「一」であり「多」である超越的存在の前で再び1へと戻るのである。
輪廻の数秘的解釈とは、このようなものになるのではないだろうか。
私には、どうしても霊魂数を10だとしたフィロポノスの意見と、ピュタゴラス派がテトラクテュスの数10にこめた意味が、重なり合って、「輪廻」を示そうとしていたように思えて仕方ないのである。
人間は、前世の人間の死後、216年の歳月を経て現世に転生する。
そして現世で成長するに連れて、霊魂数は10に達する。
すると、肉体を離れた霊魂はピュタゴラス派が想定したであろう死後の世界で、1となる。
しかしこの1は、かつての10を潜在させているのである。
この1には、かつての10の全てが記憶されている。
こうすることで、カルデックやフラマリオンが提唱した「輪廻」における、霊魂の前世記憶の蘇生(いわゆるアナムネーシス)は説明できるだろう。
ピュタゴラスと、フィロポノスの功績とは、まさに霊魂を数に還元し、テトラクテュスとして「完全数10」を示した上で、神を10ではなく「一」と「多」と規定することにより、霊魂の旅のプロセスにおける「霊魂数の変容」を示唆したものと想定される。

以上の考察を踏まえた上で、再び「霊魂数の変容」を整理しておこう。
まず、10という数字には、テトラクテュスを構成する点の数に等しいので「完全数」や「調和数」という意味が存在する。
この10は、それだけではなく、フィロポノスによると霊魂数でもある。
そして、プラトンの『ピレボス』にあるように、「ある」という「存在」そのものは、(聖書では、神がアブラハムに対して、自分を「ある、というものである」と告げたことを思い出そう)「神」を意味し、それは「一」であると同時に「多」として宇宙に遍在する。
1はいわば、霊魂数10が神に合一する瞬間に生起する減法ではないか。
死後の世界において、霊魂数10は神と合一することで、宇宙と等しい「多」=「無限大」になると同時に、「一」=「1」となる。
そうして、再び新しい肉体へと転生するのである。
その転生に必要な期間が、ピュタゴラス派の伝承では216年で、これは考え方を変えると、ピュタゴラスですら216年を要したということに他ならない。
こうした「霊魂数の輪廻による変容」については、私が読んだどの本にも記されてはいない。
しかし、資料の少なさを、研究者から信頼度の高いテクストに従って「輪廻」を基軸に「数」に還元して読み解くと、やはりこのような帰結に達するのである。
最後に私は、エンペドクレスが『カタルモイ(浄め)』の中でピュタゴラスを称賛して記した言葉を引用しておきたい。

「まことに彼がひとたびその全精神をあげて自分をさしのべる時は、彼はおよそ存在する全てのものの一つをやすやすと見て取った――十たびも二十たびも繰り返された人間の生涯において」





「参考リスト」

ピュタゴラス派―その生と哲学 ピュタゴラス派―その生と哲学
(2000/01/24)
ブルーノ チェントローネ

商品詳細を見る



ポルピュリオス『ピタゴラスの生涯』―付録:黄金の詩 ポルピュリオス『ピタゴラスの生涯』―付録:黄金の詩
(2007/09)
水地 宗明

商品詳細を見る


ピュタゴラス伝 (叢書アレクサンドリア図書館) ピュタゴラス伝 (叢書アレクサンドリア図書館)
(2000/01)
イアンブリコス、Iamblichi 他

http://borges.blog118.fc2.com/blog-entry-1043.html
† VANILLA PLIEST †



2011年12月23日(Fri)▲ページの先頭へ
個霊と遺伝子:精神と身体:高振動の精神と低振動の物質:精神振動とチャクラ
個霊と遺伝子:精神と身体:高振動の精神と低振動の物質:精神振動とチャクラ

テーマ:シュタイナー精神学

シュタイナーは霊が母胎の胎児に到来すると述べている。つまり、霊と身体は絶対的に区別されるということである。
 PS理論ではこの問題をどう捉えるだろうか。自己は凸i*凹iの屈折した形に存すると先に述べた。結局、虚軸と実軸は不連続であり、絶対的に区別されるという考えた方がここでは役に立つ。
 端的に言えば、精神が身体を形成するのである。しかしながら、遺伝の問題をどう捉えたらいいだろうか。才能は遺伝しないのである。
 純粋差異共振によって身体が形成されると考えられる。ならば、遺伝子とはそれの物質的表現である。つまり、MP1の物質的表現である。二重らせんである。
 では、それと個、自己はどう関係するだろうか。先に述べた自己式をとりあげて考えよう。

 (凹i/凸i)*(凸i/凹i)⇒凸(+1)

簡単にするため、凹i/凸iをA、凸i/凹iをBとしよう。すると、

A*B⇒凸

である。思うに、AとBは個々において、差異があると考えられる。つまり、ある1という人は、

A1*B1⇒凸

となる。だから、

Ak*Bk⇒凸

で任意の人を記述できる。
 では、この差異はいったいどういう力学をもつのか。
 ここで強度という概念を導入しよう。すると、個々において、AとBの強度が異なると考えられる。
 例えば、父権的タイプAがBよりも強いと考えられるし、母権的タイプはBがAより強いと考えられる。
 問題はこの強度の式である。どう記述されるのか。
 強度はエネルギーと言い換えてもいいだろう。だから、精神エネルギーの問題である。
 E = hν
を利用すれば、個の差異は振動数の問題となるだろう。
 簡単に言えば、陰陽の振動数の差異が個の根拠である。
 高い振動数が精神的差異を意味するだろうし、低い振動数が物質形成を意味するのではないだろうか。
 ここで本題に返ると、個の精神は高振動数をもち、遺伝子は低振動数をもつということになる。
 思うに、氣の考え方もこれで説明できる。一般の電磁波よりも高振動なのが氣として説明できるだろう。
 では、振動数の差異は何から生じるのだろうか。それは、精神形成の違いによると考えられる。
 つまり、精神的活動をする人は、精神の振動数が高くなるのであり、それが、時代を超えて伝わると思う。
 唯物論的発想は精神の振動数を低くし、獣的、悪魔的にすると言えよう。
 今はここで留める。

追記:精神の振動から、ヨガのチャクラを想起した。チャクラは振動をもっている。また、7つのチャクラがある。これは虹の七色と共通である。あるいは、オクターブと。
 つまり、差異共振、陰陽は7分節を形成すると考えられる。どうして、7なのか。今の段階では不明であるが、ここでは、精神振動とチャクラの関係と7分節形成を提起するに留める。
 ちなみに、シュタイナーは7分節が進化、発展等の段階であると述べている。

参照:

チャクラ(cakra, chakra, cakkra, चक्र)は、サンスクリット で「車輪・円」を意味する語。漢訳は「輪」(りん)、チベット語では「コルロ」(khorlo)という。インド起源の神秘的身体論における、物質的な身体(粗大身)と精微な身体(微細身)にある複数の中枢を指す[1] 。

各チャクラの位置

チャクラが描かれたヨーガ行者の図
19C初頭の彩色写本、大英図書館所蔵


ヨーガでの用法 [編集 ]

ヒンドゥー教 のヨーガ では、人体の頭部、胸部、腹部で、輪または回転する車輪のように光っているように感じられる箇所を言う。数は6または7箇所と言われるが、それとは別に8箇所あるという説もあるなど、一定ではない。画像 では光る蓮華 で表現される。猿であったときの尻尾の名残の尾てい骨から発生する蛇を、チャクラを通じて頭から出すのが目的といった見解がある。

第1のチャクラ
ムーラーダーラ・チャクラ (mūlādhāra-cakra) と呼ばれ、脊柱の基底にあたる会陰(肛門と性器の間)にある。「ムーラ・アーダーラ」とは「根を支えるもの」の意である。ヒンドゥー・ヨーガの伝統的なチャクラの図では、赤の四花弁をもち、地の元素を表象する黄色い四角形とヨーニ(女性器)を象徴する逆三角形が描かれている。三角形の中には蛇の姿をした女神クンダリニー が眠っている[2] 。
第2のチャクラ
スワーディシュターナ・チャクラ (svādhişţhāna-cakra) と呼ばれ、陰部にある。「スヴァ・アディシュターナ」は「自らの住処」を意味する。朱の六花弁を有し、水の元素のシンボルである三日月が描かれている[2] 。
第3のチャクラ
マニプーラ・チャクラ (maņipūra-cakra) と呼ばれ、腹部の臍のあたりにある。「マニプーラ」とは「宝珠の都市」という意味である。青い10葉の花弁をもち、火の元素を表す赤い三角形がある[2] 。
第4のチャクラ
アナーハタ・チャクラ (anāhata-cakra) と呼ばれ、胸にある。12葉の金色の花弁をもつ赤い蓮華として描かれ、中に六芒星がある。風の元素に関係する。「アナーハタ」とは「二物が触れ合うことなくして発せられる神秘的な音」を指す[2] 。
第5のチャクラ
ヴィシュッダ・チャクラ (viśhuddha-cakra) と呼ばれ、喉にある。くすんだ紫色をした16の花弁をもつ。虚空(アーカーシャ )の元素と関係がある。「ヴィシュッダ・チャクラ」は「清浄なる輪」を意味する[2] 。
第6のチャクラ
アージュナー・チャクラ (ājñā-cakra) と呼ばれ、眉間にある。インド人はこの部位にビンディ をつける。2枚の花弁の白い蓮華の形に描かれる。「アージュニャー」は「教令、教勅」を意味する。「意」(マナス)と関係がある[2] 。
第7のチャクラ
サハスラーラ (sahasrāra) と呼ばれ、頭頂にある。sahasra は「千」、ara は「輻」〔や〕で、1000葉の花弁を有する蓮華で表象される。一説に千手観音 の千手千眼はこのチャクラのことという。他の6チャクラとは異なり身体次元を超越しているとも考えられ[1] 、チャクラの内に数え入れられないこともある。その場合、サハスラーラはチャクラに含まれず、チャクラは6輪あることになる。

簡易的には背骨の基底部から数えて第1チャクラ、第2チャクラ……という呼び方もする。

チベット仏教の指導者であるダライ・ラマ14世 は、その場所に心を集中すると何かしらがあるという反応が得られると述べている[3] 。
仏教タントラにおけるチャクラ [編集 ]

インド仏教の後期密教 のタントラ 経典でもチャクラへの言及がある。チャクラの数や位置についてはいくつか異説があるが、一般に臍、心臓、喉、脳の4輪があるとされる。最上位はヒンドゥー・ヨーガのサハスラーラに相当する「ウシュニーシャ・カマラ」(頂蓮華)または「マハースッカ・カマラ」(大楽蓮華)である。他の3つは臍にある「変化身」(ニルマーナ・カーヤ)のチャクラ、心臓にある「法身」(ダルマ・カーヤ)のチャクラ、喉にある「受用身」(サンボガ・カーヤ)のチャクラであり、仏身の三身 に対応している[1] 。

インド密教を継承したチベット仏教 の無上瑜伽タントラでは以下のチャクラがあるとされる[4] 。

* 大楽輪(頭頂)
* 受用輪(喉)
* 法輪(胸)
* 変化輪(臍)
* 守楽輪(秘密処=下丹田にあたる)

一説には、インド密教ヨガのタントラ 経典やチベット密教 カギュ派 のタントラ経典などでは、身体には主要な7つのチャクラ(または6つのチャクラと1つの門)と、身体のあちこちにあるその他の小さなチャクラとがあるとされている。主要な7つのうち、会陰 と頭頂を除く5つのチャクラは、脊髄 に沿った5つのチャクラと、身体前面に沿った5つのチャクラとはそれぞれが対 になって繋がっているとされている(「タントラ密教経典」参照。なお、密教経典は門外不出とされている[要出典 ])。

* 下位幽体のチャクラ(会陰)
* 上位幽体のチャクラ(臍下約3cm)
* 応身(変化身)のチャクラ(臍上約3cm)
* 法身のチャクラ(胸)
* 報身のチャクラ(喉)
* 本性身のチャクラ(額)
* 金剛身のチャクラ(頭頂)

チベット仏教ニンマ派 のナムカイ・ノルブの説明によれば、タントラ経典によってチャクラの数が異なるのは一貫性に欠けているわけではなく、基本的なプラーナのシステムの概念は共通しており、さまざまなタントラの修行においてそれぞれに異なったチャクラを使うため、それぞれのテキストでは必要なチャクラだけが書かれているのだという[5] 。
中国 [編集 ]

中国の道家 や内丹術 の伝統的な身体論には、インドのチャクラに比すべき丹田 という概念があるが、近代の内丹術の中でも清 代の閔小艮の一派はヨーガの七輪の概念を取り入れている[6] 。
西洋への伝播 [編集 ]

ヨーガ の伝播と共にチャクラの概念も伝播した。数は7箇所で内臓 の各部に充てられるようになった。また、その振動の周波数などを解明したとする研究者もいる。他の行法である近代西洋儀式魔術 などにも概念が取り入れられた。
神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ [編集 ]

チャクラは脊椎に関連するエーテル体 にあるエネルギー・センター(渦)で、肉体の7つの内分泌腺及びメンタル体 、アストラル体 、肉体の調整と活性化を司り、意識の中枢と各身体の中継点としての役割をはたしている。

現在のヒーリングなどの分野では、各チャクラに対応する体表のツボのことを指して「チャクラ」と呼んでいる。体表のツボは単にチャクラからのプラーナ (気 )の出入口としての役割を果たしているにすぎず、チャクラではないが、ここでは便宜上体表のチャクラと呼ぶことにする。一方、伝統的なヨーガが伝えている「チャクラ」は、体表のチャクラではなく、人間のエーテル体に存在するほぼ脊柱に沿った7つのチャクラで、ここではこれを脊髄のチャクラと呼ぶことにする。しかし時代が下るにつれ、この脊髄のチャクラとは異なるチャクラの記述が現われるようになる。ここではこれを神経叢のチャクラと呼ぶことにする。実のところ主要な7つのチャクラのいずれのチャクラも、これら神経叢のチャクラと脊髄のチャクラが対をなして存在している。しかし現在に至るまで、この2つのチャクラの系統は明確な区別がなされていない。

古代のヒンドゥー教のヨーガでは、脊髄のチャクラが「チャクラ」とされてきた。不滅の身体をもち今も老いることなくヒマラヤで生き続けていると言われているマハー・アヴァター・ババジ が、弟子たちに伝授したクリア・ヨガの伝統では、脊髄のチャクラに関する知識が伝わっている。20世紀前半、クリア・ヨガを初めて西洋に伝えたパラマハンサ・ヨガナンダ は、著書『あるヨギの自叙伝』(森北出版)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を『心臓の後にある胸椎中枢』としている。ヨガナンダの言うチャクラが脊髄のチャクラであることが分かる。またババジのクリヤー・ヨーガ(ヨガナンダのクリア・ヨガと本質的に同じものと思われる)の普及活動をしているマーシャル・ゴーヴィンダンは、著書『ババジと18人のシッダ』(ネオデルフィ)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を「心臓の高さに当たる脊柱内にある」としており、ヨガナンダと同様である。

6-7世紀以降、タントラ教典が編纂された後の近代のヨーガ では、神経叢のチャクラについて言及するようになった。近代のヨーガの指導者として著名なスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの著書『魂の科学』(たま出版 )にはアナーハタ・チャクラの位置について、「このチャクラは、別名、心臓のチャクラとも呼ばれていますが、胸部の両肺に挟まれた心臓内にある微細な空間の中に位置しています。」という記述があり、ヨーゲシヴァラナンダの言うチャクラが神経叢のチャクラであることが分かる。

また、サマエル・アウン・ベオールの著書『完全なる結婚』(ノーシス書院)には、神経叢のチャクラと脊髄のチャクラの存在について、「原始ヒンズーヨギたちは、脊髄のチャクラとクンダリニー にすべての注意を払い、神経叢のエーテルチャクラには、ほとんど無関心であった。このことはにせ秘教家を驚かせた。」という記述がある。

以上からも、各々のヨーガ行者あるいは神秘家がチャクラの性質及びその位置について言及する場合、神経叢のチャクラあるいは脊髄のチャクラのいずれか一方についてのみ言及しており、各々のチャクラが、これら2つのチャクラと対をなして存在していること、及び、それらの位置と機能の違いについて、明確に区別し、自覚されていたとは考えにくい。

体表のチャクラは、先に述べたように本質的にチャクラではなく、チャクラからのプラーナ (気 )の出入り口である。しかし、そのルートが浄化されていることが心身の健康とチャクラの覚醒の上で重要であるため、ヒーリングの分野において重視されている。一方、本来のチャクラは神経叢と脊髄のチャクラであり、神経叢のチャクラは、身体の交感神経系を支配するナディーと関連し、身体の運動的な活動を司っている。一方、脊髄のチャクラは、身体の副交感神経系を支配するナディーと関連し、精神的な活動を司っている。神経叢のチャクラと脊髄のチャクラは対になっており、意識の拡大の過程を通じて、下位のチャクラから順に覚醒していく。
フィクションでのチャクラ [編集 ]

以下は、夢枕獏 の小説「キマイラ・吼 」シリーズに登場するチャクラ。

アグニ
仙骨 にあり鬼骨などとも呼ばれ、この1つのチャクラで、7つのチャクラを合わせたよりも更に大きな力を持つとされ、生命進化の根元を司るとも言われる。あまりに強大な力を持つゆえに、このチャクラを開眼させたまま放っておくと人は獣や鬼に変じてしまうなどという話もあるが、現代のヨーガ実践者でそれを開眼させた者はおらず、眉唾的なものではある。ただ、古代中国に赤須子(せきしゅし)がそのチャクラを開眼させてしまい、獣(的なもの)に変じた赤須子が村人を数十人喰い殺し、見かねた老子 が赤須子を封じたという記録が唯一残っている。
ソーマ
月のチャクラなどとも呼ばれ、アグニチャクラの開眼により暴走を始めた肉体(生命力)を統べ得る唯一のチャクラと言われるが、アグニチャクラの存在自体が定かでないため、更にその存在は疑問視されることがある。ソーマの身体上の位置を、頭頂の更に上(要するに虚空)と主張している。これは人間の身体を肉体だけでなく、エーテル体なども含めた上での見解である。

ヴァレリー・ハントによるチャクラの部位の電位変動測定 [編集 ]

カリフォルニア大学ロサンゼルス校 の生理学名誉教授ヴァレリー・ハント (Valerie V. Hunt) は、人体のオーラ の電気的研究において、チャクラと人体の電位変動の相関を調べた。ハントは被験者の体表でチャクラに相当する部位に筋電図 用の電極をあてて、人体の微弱な電位変動の波形を記録した。

この研究においてハントは、それまでに記録も報告もされたことのない、サインカーブを描いて変化する規則的な高周波信号を発見したと主張した。その報告によれば、チャクラの部位で測定された波形はつねに100-1600Hzの範囲であり、正常な脳波 、筋電図、心電図 での電位変動が示す電気信号をはるかに超える高周波であったという[7] 。
脚注 [編集 ]

1. ^ a b c ミルチャ・エリアーデ 『エリアーデ著作集 第10巻 ヨーガ 2』 立川武蔵 、訳、せりか書房、1975年。ISBN 4-7967-0087-0 。
2. ^ a b c d e f 立川武蔵 『ヨーガと浄土 ブッディスト・セオロジーV』 講談社〈選書メチエ〉、2008年。
3. ^ F・J・ヴァレーラ 、J・W.・ヘイワード 『徹底討議 心と生命』 山口泰司・訳、山口菜生子・訳、青土社、1995年、109頁。ISBN 4-7917-5382-8 。
4. ^ 平岡宏一 『ゲルク派版 チベット死者の書』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。ISBN 4-05-901032-4 。
5. ^ ナムカイ・ノルブ 『虹と水晶』 永沢哲訳、法蔵館、1992年。
6. ^ 道教と仙学 第4章 各派の丹法の要訣
7. ^ リチャード・ガーバー 『バイブレーショナル・メディスン』 日本教文社、2000年。

参考文献 [編集 ]

* 竹下雅敏 神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ ユニティ・デザイン
* C・W・リードビーター 『チャクラ』 本山博 、湯浅泰雄 (共訳)、平河出版社、1978年。ISBN 4-89203-023-6 。 - チャクラ、リードビーターの理論が概観できる。 PDF
* スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ『魂の科学』たま出版。ISBN 978-4884811105
o ラージャ・ヨーガ のサマディー(三昧 )で霊視したチャクラについて、一覧表とともに各チャクラの解説が書かれている。
* 比較文化研究室( 島岩 )訳『十六ニティヤー女神の海』、『ジュニャーネーシュヴァリー』等

関連項目 [編集 ]

* マルマ - インドの伝統武術医学に伝わる人体の急所(伊藤武 『図説 ヨーガ大全』 ISBN 4333024714 参照)。
* 経絡
* 如意輪観音 (手にチンタマニ(Cintamani cakra チンタ=如意、マニ=宝珠)とチャクラ(法輪 、チャクラム が変化したものという)を持つため中国仏教 では如意輪と訳した。)
* オーラ

外部リンク [編集 ]

* 七つのチャクラの意味
* 無料チャクラの壁紙
* チャクラ (チャクラとは、「気」とチャクラ、チャクラの活性化の方法など)
* チャクラについて (各チャクラの位置とそれが司る体の領域、意味、色)
* Evolutio Rodurago - チャクラ テスト (英語)
* クラ派の南の伝承におけるシュリー・チャクラの構造 (PDF )
* シャークタ派の密教 シュリー・チャクラの構造を中心として (PDF )
* 人生の中でのチャクラの活動レベル (チャクラのバランシング方法、活性法、過去生の情報など)

執筆の途中です


この項目は、インド に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などしてくださる協力者を求めています 。(プロジェクト:南アジア )




「http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%A9&oldid=39369482 」より作成
カテゴリ :




参考:
調和振動子 - Wikipedia
EMANの物理学・量子力学・調和振動子


2011年12月19日(Mon)▲ページの先頭へ
ルネサンスの精神における光と闇:光への希求が闇と出会う:光と闇の即非合一
ルネサンスの精神における光と闇:光への希求が闇と出会う:光と闇の即非合一

テーマ:media point

既述したが、D. H. ロレンスは西洋において、イタリア・ルネサンス以降、「光への努力」Striving for Lightがあると言った。
 ルネサンスの精神とは語り尽くされたものであるが、私説を言うと、それは闇から光への希求である。根源に闇があるのである。それが光を求めたのである。
 闇からの光への志向であるので、そこには、media point、ないし、超越光があった。しかしながら、光は外界と結びつき、根源の闇が忘却されて、光の志向は外界、物質界へと閉じられていった。
 西洋の個人の個とは、この力学から生まれたと思う。光の志向の帰結がデカルト哲学と考えられる。個から自我(近代的自我)へと展開したのである。
 結局、根源の闇、個が忘却されて、光と自我が残ったのが、現代である。
 これは虚である。同一性の機械の世界であり、自動人形の世界である。機械仕掛けの人間の世界である。
 近代合理主義は闇、個を嫌い、光と自我の世界を構築した。しかしながら、根源の闇と個は否定しようがなく、「実存」するのである。
 思うに、西洋中世とは、光への希求はなく、闇の世界だったのだ。個も闇の世界の個である。
 とまれ、ルネサンスの光の志向とは、凹i⇒凸i、ないし、凸i/凹iという式になろう。
 物質的世界の希求であり、今日の世界はその帰結である。しかし、思うに、光のヴィジョンが形成されたのである。単に物質世界のヴィジョンだけが形成されたのではない。
 いったい、光のヴィジョンとは何だろうか。これは美的ヴィジョンである。美術的ヴィジョンである。
 いったい、これと闇のヴィジョンはどう関係するのか(先に結論づけたが)。
 今現在の私の印象を言えば、光のヴィジョンは闇のヴィジョンへと突き抜けるのである。光と闇が重なるのである。
 重なるという語に語弊があるなら、光と闇が一致する、即なのである。そう、光と闇の即非態である。
 これは、光への志向がなければ、到達しなかった事態であろう。光へと突き進み、闇と出会ったのである。言い換えると、media point meeting, media point fusionである。
 dark sunを唱えていたD. H. ロレンスが最晩年、『黙示録論』でStart with the sun. (光とともに始めよ)と述べたのは、その意味があるのではないだろうか。
 光は光へと成り切り、闇と通じたのだと思う。易で言えば、陽極まりて、陰に転ずである。
 光と闇の合一と言ってもいい。そう、潜在していた超越光であるが、今や光と一致したのである。
 光のヴィジョンは闇のヴィジョンとなったのである。

光の帝国、特設ページ
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/1175/theempireob.html



光と闇:アポロとディオニュソス:dark sunとしてのアフラ・マズダ=キリスト=天照大神

テーマ:media point

先に 二つのヴィジョン:光のヴィジョンと闇のヴィジョン: media point twilight http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11110349350.htmlを書いたが、論点がやや曖昧なので、ここで補足したい。
 光のヴィジョンとは端的に美術であり、闇のヴィジョンとは音楽である。ニーチェの用語で謂えば、アポロとディオニュソスである。
 そう、この区別を端的に述べたかったと思う。つまり、明らかに、絶対的に異なる二つの世界が存しているのである。光の帝国があり、闇の王国があるのである。絶対的間隙が両者の間にあるのである。これは、コミュニケーション不可能である。
 西田哲学の用語で言えば、絶対矛盾である。
 そう、光の帝国は闇の王国を感知しないのであり、闇の王国は光の帝国を知らないのである。これは絶対的平行である。
 まったく異質な二つの世界が存しているのであり、両者は他者を全く知らないのである。二元論の事象である。
 しかし、両者が出会うときがあるのである。それが、media pointの意味である。
 光は闇に出会い、闇は光に出会うのである。(思うに、これが天地開闢だろう。)
 これは即非事象であり、螺旋形象を生むのである。合一しつつ、それぞれ独一の事象である。
 media pointの事象とは結局、アポロとディオニュソスの即非的合一であり、それは美術と音楽の即非合一である。
 ニーチェはそれをギリシア悲劇に見たが、それは誤りではない。(ただし、以前述べたが、ニーチェのアポロの概念は誤謬が入っている。つまり、物質的に捉えている点が間違いである。)
 アポロとディオニュソス、光と闇の即非合一とは、端的に、何だろうか。それこそ、D. H. ロレンスの言うdark sunではないだろうか。光であり、闇の太陽である。
 そう、それは私の体験にも適合する。私は若い時、真夏の海辺で太陽を見て、闇を感じたのである。光が頭上、煌々と照るが、同時に、それは闇であった。光は闇だった。
 そう、光は闇なのである。それが、media pointの事象である。dark sun である。
 では、美術と音楽の即非合一のdark sunとは何だろうか。それこそ、真の光である。超越光である。
 光である闇、闇である光、このdark sunこそ、真光、超越光である。アフラ・マズダ=キリストである。そう、天照大神も同じである。だから、
 
アフラ・マズダ=キリスト=天照大神

という公式になる。
 思うに、戦後の日本人は折口信夫の新神道論を無視して、結局、今日の大悲劇に見舞われていると言えよう。
 そう、ここでウィリアム・ブレイクの箴言を述べよう。

All Religions are One.

 

二つのヴィジョン:光のヴィジョンと闇のヴィジョン: media point twilight

テーマ:media point

ヴィジョン(直観、心的イメージ)は普通、一つ、一重と捉えられているだろう。
 しかし、既述からわかるように、光と闇の二つの「光」があり、また、交差がある。だから、少なくとも三重である(cf. 三位一体、三つ巴、三女神、他)。
 今は簡単に指摘するに留めるが、光のヴィジョンだけでは、物質世界に留まってしまい、唯物論的になってしまうのである。
 光は闇に、謂わば、裏打ちされているのである。しかしながら、近代は光のみを追求して、闇を忘却してしまったのである。D. H. ロレンスが述べていた通りである。
 そう、闇のヴィジョンがある。それは本当の直観ではないだろうか。光のヴィジョンは知覚・感覚的イメージであるのに対して、闇のヴィジョンは不可視の世界の「イメージ」だと思う。あるいは、心、魂の世界のイメージである。
 そう、直観というとき、光の直観と闇の直観があるのであるが、前者は外界的直観であり、後者は内界的直観であり、深いもの、本質的なものは後者であると考えられる。換言すると、前者は物質的直観であり、後者は精神的直観である。
 カント哲学の直観はまったく前者のみであり、後者が忘却されているだろう。
 問題は、両者を肯定することである。啓蒙主義は前者を求め、ロマン主義は後者を求めたが、それぞれ、排他的であったために一面的になったと考えられる。
 とまれ、両者は矛盾的力学をもたらすのであり、近代的人間はこれに耐えられなかったのである。
 既述したように、相互浸透があるため、光は闇を志向し、闇は光を志向するのであり、結局、知的魂は第二象限と第三象限を志向すると思われる。
 ゲーテ/シュタイナーの精神学は第二象限を経由した第三象限への志向であると思われる。実に知的なのである。
 それに対して、D. H. ロレンスは直接、第三象限の闇を志向したと考えられる。そのため、光に対する反動性が生じることになったと考えられる。ロレンスの身体への執着はその意味合いがあるだろう。また、父権と母権の混乱もそれに拠るだろう。
 とまれ、今や、闇のヴィジョンを取り戻す必要があるのである。魂、精神のヴィジョンであり、それが、政治や経済も賦活するのである。
 どうも、閃きを受けて、すぐ書かなかったので、論点が復習的になっている。


2011年12月18日(Sun)▲ページの先頭へ
精神と物質:氣と自己:オイラーの公式と回転:自然精神・自己精神の数学精神哲学的力学
お断り:画像付きは以下の母サイトで見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11109976638.html

シュタイナーの名著『自由の哲学』を読みながら、精神が物質を生んだことに明確に得心したが、では、精神の様態はどうなのだろうかと思った。
 結局、量子は氣である。エーテル体である。それは、物質ではなく、物質を生むものである。
 ならば、精神自体はどうなのだろうか。
 私は以前、自我としての凸iは凸iの極大化、アストラル体としての凹iは凹iの極大化と考えたと思う。前者は、シュタイナー的にはアーリマンであり、後者はルシファーであろう。
 言い換えると、同一性主義と、反同一性主義(反動的差異主義)であると考えられる。
 とまれ、問題は自己を形成している精神エネルギーとは端的に何か、である。
 シュタイナーは『自由の哲学』(34才!の著書)では、自己(「自我」)における思考と意志と感情の三位性を説いている。
 思うに、自己の精神エネルギーは氣の変容したものと考えていいのではないだろうか。氣は植物や宇宙を形成する。それは、差異共振エネルギーである。
 それが、人間の場合、屈折していて、独特の凸iと凹iの相互作用が形成されていると考えられる。(凹i/凸i)*(凸i/凹i)⇒凸(+1)と先に提起したが。そう、これは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一の公式となろう。とまれ、問題は、これと氣の場合と異なるのか、否かである。凸i*凹i⇒凸も様態はそのようではないのかという疑問である。凹i/凸iは凸iと似ているが、前者には後者にはない志向性が明確に存しているので異なると言えよう。氣は純粋な差異共振であるが、自己精神エネルギーは屈折した差異共振と考えられる。氣ではあるが、特異な氣、特化した氣である。
 これで、一応、本題は解明した。
 次に、問題は、オイラーの公式の意味する事象である。それは、回転を意味するが、それは端的にどういうことなのか。
 それは自然精神(自己精神)の根源的回転(円運動)を意味すると直観で思う。プラトンは円運動を宇宙の根本的運動と捉えた。
 ならば、そのエネルギーはどういう力学なのか。自然精神、自己精神の力学である。
 差異共振(凸i*凹i⇒)は、端的に回転運動と考えられる。つまり、⇒凸(+1)とは、虚数から実数への転換であり、ガウス平面ではπ/2の回転と考えられる。
 思うに、それは数学的力学である。物理的力学以前に数学的力学である。ならば、精神(氣)とは端的に数学的力学をもっているのである。(PS理論からは自明であるが、明確にする必要がある。)
 つまり、数学的精神(氣)が根源的に存するということである。シュタイナー的に言えば、数学的霊mathematical spiritが存するということである。これは、ピュタゴラス/プラトン主義(数学的哲学主義)でもある。
 結局、自然精神、自己精神とは数学的精神(氣)、数学的霊であり、その力学をもつということである。数学精神的力学、数学霊的力学である。それはまた、直観的哲学でもある。だから、数学・哲学的力学が根源に存することになる。それは狭義に言えば、Kaisetsu氏が説くように、第三象限に属すると言えよう。しかし、広義には人間認識図全体に属すると言えよう。
 今はここで留める。


resurrectionのブログ

 
resurrectionのブログ

ガウス平面で表した人間認識の図
ガウス平面で表した人間認識の図
original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)

《ガウス平面で表した人間認識の図》

http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


オイラーの公式
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%85%AC%E5%BC%8F
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索

数学 、特に複素解析 におけるオイラーの公式(オイラーのこうしき、Euler's formula、オイラーの恒等式とも)とは、指数関数 と三角関数 の間に成り立つ等式

e^{i\theta} = \cos\theta + i \, \sin\theta

オイラーの公式の幾何的な表示

をいう。ここに、θ は幾何学的には弧度法 に従う角と見なされる実変数 である。三角関数を複素変数に関する解析的関数と考えることで、この等式は θ を複素変数 と見ても成立している。レオンハルト・オイラー に帰せられるためこの名がある。この公式ははじめ、ロジャー・コーツ によって1714年 に提出されたが、その証明は曖昧なものだった。その後オイラーによって1748年 に再発見され、有名になった。

この公式は複素解析をはじめとする純粋数学の様々な分野や、電気工学 ・物理学 などであらわれる微分方程式の解析において重要な役割を演じる。物理学者のリチャード・ファインマン はこの公式を評して「我々の至宝」かつ「すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式」[1] だと述べている。

また、θ = π のとき、オイラーの等式 と呼ばれる

eiπ + 1 = 0

が導かれる。



角運動量
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


固定された回転軸をもつ系に対して、力を作用させた時の物理量の関係。力のモーメント \vec{\tau} と位置ベクトル \vec{r} と力 \vec{F} との関係(上の式)、および角運動量 \vec{L} と位置ベクトル \vec{r} と運動量 \vec{p} との関係(下の式)。

角運動量(かくうんどうりょう、英語 :angular momentum)とは、運動量 のモーメント を表す力学 の概念である。

位置 \vec{r} において、速度 \vec{v} で運動している質量 \,m の質点の、原点のまわりの角運動量 \vec{L} は、次式で定義される。

\vec{L} \equiv \vec{r} \times \vec{p} = \vec{r} \times m \vec{v} = m \vec{r} \times \frac{d \vec{r}}{dt}

ここで、\,\timesは外積 を表す記号であり、\vec{p} = m \vec{v} は質点の運動量 である。方向は他のモーメント同様\vec{r}から\vec{p}に回転するとき、右ねじの進む方向である。外積であるので、角運動量の大きさ\,Lは次のように表される。

L=rp\,\sin \theta

ここで、\,\thetaは\vec{r}と\vec{p}のなす角を示す。

角運動量の単位時間当たりの変化量 \tfrac{d\vec{L}}{dt}は力のモーメント \vec{N} \equiv \vec{r} \times \vec{F} に等しい。

\frac{d\vec{L}}{dt}=\frac{d(\vec{r}\times \vec{p})}{dt}=\frac{d\vec{r}}{dt}\times \vec{p}+\vec{r}\times \frac{d\vec{p}}{dt}=\vec{r}\times \vec{F}\equiv N

ここで次の関係を使った。

\frac{d\vec{r}}{dt}\times \vec{p}=\frac{d\vec{r}}{dt}\times (m\frac{d\vec{r}}{dt})=0 ,\frac{d\vec{p}}{dt}=\vec{F}

このことから、力が動径方向(\vec{r}方向)にあるか、あるいは力が働いていないときは\vec{N}=0となり、したがって、このとき角運動量は時間とともに変化しなくなる。このことを角運動量保存の法則(角運動量の保存則)という。

詳細は「角運動量保存の法則 」を参照

保存則が成り立っている物体に加わっている力、すなわち動径方向(\vec{r}方向)と同じ向きにある力は、その大きさを\,f(r)とすると、次のように表すことができる。

\vec{F}=f(r)\vec{\hat{r}},\,\,\,\,\,\hat{r}\equiv \frac{\vec{r}}{r}

この力は中心力と呼ばれる。

惑星間に働く万有引力は中心力であり、したがって、惑星の角運動量は保存される。保存則は、ケプラーの第2法則「面積速度一定」 と密接な関わりがある。単位時間当たりに惑星の掃く面積は、次のように表され、

\frac{dS}{dt}\fallingdotseq \frac{1}{2}r\frac{ds}{dt}=\frac{1}{2}rv=\frac{1}{2m}L

したがって、掃かれる面積の時間による変化率が一定ならば、角運動量も一定の値をとる。

\frac{dS}{dt}=h\Leftrightarrow L=2mh
等速直線運動 においてはベクトル量 である運動量 \vec{p} が時間によらず一定であるのに対し、等速円運動 においては、運動量の大きさは一定であるが、向きは時間により変化する。外力 \vec{F} が加わらないとき、力のモーメント \vec{N} は \,0 であり、角運動量は等速直線運動でも等速円運動でも時間によらず一定のベクトル量となる。


2010-10-24 仮説:フェルミオンは(n+1/2)π回転で⇒+1となる。ボゾンはnπ回転で 編集 このエントリーを含むブックマーク CommentsAdd Star

仮説:フェルミオン は(n+1/2)π回転で⇒+1となる。ボゾンはnπ回転で双極子を形成する

直観では、フェルミ ン(フェルミ 粒子)が物質 を形成する。つまり、⇒+1である。それに対して、ボゾン(ボース粒子)は、⇒である。即ち、双極子、凸i*凹iである。

 そう考えると、ボゾンである光子 が質量 がないのがうまく説明がつくだろうし、フェルミ ンである電子 が質量 をもつのも説明できるのではないだろうか。

 問題はボゾンの「粒子」性をどう説明するかである。これは、直観では、同一性志向 性である。つまり、粒子志向 性であり、粒子自体ではないのではないだろうか。つまり、「波動 」と見た方がよいのではないだろうか。

 後で再検討 したい。

追記:同一性志向 性は、粒子(物質 )のように「見える」であり、実際は粒子ではないと考えられる。それは、双極子であり、それ自体は粒子ではない。いわば、エネルギー 子である。

 問題は、粒子と「波動 」とは何かの問題になっている。いったい、双極子凸i*凹iとは何か。それは、根源的には、-1の超越的物質 から発するだろう。だから、超越的双極子と言えるかもしれない。つまり、「ダーク・マター」の極性である。

 とまれ、問題は何故、双極子が粒子に見えるのかである。観測装置 の対象が粒子(物質 )を基準としているので、そうなるというのは、一理である。

 しかしながら、本質的 理由があるだろう。そう、やはり、Media Point である。それは、穴である。その穴を粒子として取り違えているのではないだろうか。


参考:

素粒子

出典: フリー 百科事典 『ウィキペディア (Wikipedia )』

移動: ナビゲーション , 検索

曖昧さ回避 この項目では、物質 を構成する最小の単位 について記述 しています。その他の用法については「素粒子 (曖昧さ回避 ) 」をご覧ください。

物理学 において素粒子 (そりゅうし)とは、物質 を構成する最小の単位 のことである。

最小の単位 であるということは、それより小さな存在 がないということであり、従って内部構造 を持たず空間 的な大きさを持たない・または空間 ・長さ自体が最小単位 の大きさ(空間 最小単位 の候補の例としてはプランク長 等)とされるのだが、超弦理論 においては全ての素粒子 は有限な大きさを持つひもの振動状態であるとされる。

現在 のところ物質 を構成する素粒子 と考えられているものは、クォーク とレプトン である。だが、これらに内部構造 が存在 することが発見 されれば、その内部構造 を構成するもののほうが素粒子 と呼ばれ、クォーク やレプトン は素粒子 ではないということになる。クォーク やレプトン の大きさはわかっていないが、仮に有限の大きさがあるとしても陽子 のスケール においても点とみなすことができる大きさである。

たくさんの粒子が、実は自然 界にそのまま安定的に存在 しているわけではないので、宇宙線 の観測や加速器 による生成反応により発見 ・研究 された。素粒子 の様々な性質を実験 で調べ、それを理論 的に体系化していくこと、及び理論 的に予言 される素粒子 を実験 で探索していくことが、素粒子物理学 の研究 目的 である。

素粒子 の分類 [編集 ]

ボソン (ボース統計 に従う粒子) [編集 ]

* ゲージ粒子 - 素粒子 間の相互作用 (力)を伝搬する粒子

o 光子 - 電磁気 力 を媒介 する

o ウィークボソン - 弱い力 を媒介 する。 W+, W−, Z0 の3種類。

o グルーオン - 強い力 を媒介 する。8種類存在 する。

o 重力子 - 重力 を媒介 する(未発見 )。

* ヒッグス粒子 - 粒子に質量 を与える(未発見 )。

フェルミオン (フェルミ 統計 に従う粒子) [編集 ]

* レプトン (6種類)

o 荷電レプトン - 電荷 −1 を持ち、それぞれに反粒子 が存在 する。

+ 電子 - 原子 の構成要素として一般に良く知られる。電子 の反粒子 は陽電子 と呼ばれる。

+ ミュー粒子

+ タウ粒子

o ニュートリノ

+ 電子 ニュートリノ

+ ミューニュートリノ

+ タウニ ュートリノ

* クォーク - ハドロン の構成要素とされる(6種類)。

o 上系列 - 電荷 +2/3 を持ち、それぞれに反粒子 が存在 する。

+ アップクォーク

+ チャームクォーク

+ トップクォーク

o 下系列 - 電荷 −1/3 を持ち、それぞれに反粒子 が存在 する。

+ ダウンクォーク

+ ストレンジ クォーク

+ ボトムクォーク

クォーク とレプトン の分類表 [編集 ]

クォーク とレプトン は以下のように、世代によって分類される。傾向として、世代数 が大きいほど質量 が大きいとされている。

電荷 第1世代 第2世代 第3世代

クォーク

1. 2/3 アップクォーク (u) チャームクォーク (c) トップクォーク (t)

−1/3 ダウンクォーク (d) ストレンジ クォーク (s) ボトムクォーク (b)

レプトン

−1 電子 (e) ミュー粒子 (μ) タウ粒子 (τ)

0 電子 ニュートリノ (νe) ミューニュートリノ (νμ) タウニ ュートリノ (ντ)

関連項目 [編集 ]

* 標準模型

* 基本粒子

* 素粒子物理学

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E7%B2%92%E5%AD%90
http://d.hatena.ne.jp/antares/20101024


2011年12月12日(Mon)▲ページの先頭へ
植物と人間
光の問題。端的に、凸iの傾斜はあるのかどうか。
 現象界において、光の知覚が基本である。故に、光、凸iへの傾斜は植物、動物、人間も共通ではないだろうか。
 そうならば、連続的同一性とは人間だけでなく、一般的に存することになる。後で詳述したい。

追記:光、凸iの傾斜はなくても、差異共振だけで、同一性は説明できるだろう。つまり、「知覚」とは光の行為であるから、光が差異共振によって同一性を形成するということが可能である。
 この方が整合性があるだろう。


2011年12月11日(Sun)▲ページの先頭へ
同一性と物質:植物の差異共振と人間の場合の二重差異共振
これも既述済みだが、復習である。
 凸i主導性は差異凹iに自己反射(投影)して、同一性自己を形成するのである。これは、物質的自己(自我)である。
 しかし、人間以外はどうだろうか。例えば、植物の場合は。
 これは人間と同様に、凸i主導性があり、それで物質体が形成されると見ていいのではないだろうか。
 しかしながら、植物の場合は自我凸iはないから、少し視点を変える必要がある。
 先に述べたように、MP1(虚軸の原点)で差異共振(氣、エーテル体、生命力)が形成される。そして、これが、media pointから螺旋状に物質的生命体を形成すると考えられるのである。Vector Modeである。
 ここでは、人間の場合のように、凸i主導性はないと考えられる。
 人間の場合は、

(凹i/凸i)*(凸i/凹i)⇒凸(+1) ・・・ A

だと先に述べた。これを展開すると、

(凹i*凸i)/(凸i*凹i)⇒凸(+1) ・・・ B

となるのではないだろうか。(参考:
超越的存在とプラトンの善の太陽:マニ教の光とmedia point twilight (12/04)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1768.html)
 今は作業仮説であるが、凹i*凸iが自己性をもたらし、
凸i*凹iが物質性を導くということではないだろうか。
 単に植物の場合とは異なり、人間の場合は、二重の差異共振が関係していると思われるのである。
 思うに、Aの式の方が明快であろう。凹i/凸iは物質志向であり、凸i/凹iは精神志向であるように思える。
 Bの式で見ると、凹i*凸iが精神志向であり、凸i*凹iが物質志向であるように思える。
 とまれ、人間の場合、植物と異なるのは以上のような屈折が方程式に入るからではないだろうか。
 思うに、私が言う人間における(連続的)同一性志向とは、A式では、凹i/凸iであり、B式では凸i*凹iであると思われる。
 それに対して、差異志向(精神志向)はA式では凸i/凹iであり、B式では凹i*凸iであるように思えるのである。
 今はここで留める。


悪とは何か:第四象限と他者:不連続化、純粋差異化と第三象限
悪とは何か:その2:第四象限と他者:不連続化、純粋差異化と第三象限

テーマ:evilness, egotism

先に(悪とは何か http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11103585697.html)悪の根拠について考察してみたが、同一性の問題と結びつける必要がある。
 しかし、これは自明である。media pointからの連続化によって、自己同一性(自我)が形成されるが、そのとき、凸iと凹iは一致しているからである。即ち、悪の根拠の凹iは凸i(同一性)と結合しているということである。
 結局、他者性(魂)の有無が悪の問題の一つの中核的問題である。
 悪は同一性主義によって、他者(差異)を否定するのであり、他者は利己主義の対象となるのである。言い換えると、他者は物体化、物質化するのである。
 問題は、他者とは何かである。これまで、他者は凹iとしたが、これが凸と結合すると、悪になるのである。しかし、他者は単に凹iでいいのだろうか。
 所謂、道徳は第二象限に存する。それは規範的な倫理である。
 それに対して、第三象限の道徳・倫理があると考えられる。それは内在的な個的道徳・倫理である。
 他者性は根本的にはここに関係すると推察されるのである。
 ここで、不連続性の問題に戻って考えると、不連続的差異(絶対的差異)とは、端的に、凹iである。つまり、連続性(連続的同一性)である凸(+1)からの切断によって、凹iが独立することである。言い換えると、凸iと凹iが分離するのである。
 このとき、凸i(知性)の立ち位置が微妙である。それは、同一性(凸)、物質、外界との関係をもつと同時に、凹iと極性を形成して、差異共振作用をもつ のである。(思うに、カントの純粋理性とはこの凸iの二重性を問題にしているだろう。しかし、カントは凹iの視点をもたなかったので、アンチノミー、背理 しか見なかったと考えられる。)
 とまれ、不連続化によって、凹iが独立し、第三象限への道が開けるのである。東洋・日本の道である。
 だから、他者凹iとは第三象限と結びつく存在と考えるべきである。
 しかしながら、例えば、「心」、「良心」、「善意」、「心情」、「魂」という場合、それは、まだ、第三象限へは達していない前段階と考えられる。言い換 えると、不連続化以前である。一種未分化である。不連続化できて、他者凹iは第三象限(内在的超越性領域)へと結びつくのである。
 では、端的に、不連続化とは何であろうか。それは認識行為である。精神の領域での行為、観念的行為である。認識的進化と言ってもいいだろう。それは、純粋差異化と呼んでもいいだろう。
 では、純粋差異化の仕組みはどういうものだろうか。これも結局は既述済みである。即ち、自己は凸i主導的であり、そのために、凹iは連続化を被っているのである。
 つまり、凸iがもつ連続的志向が凹iに作用して、凹iとの連続性を保持しているのである。しかし、純粋差異化によって、凸iの主導性が覆り、凹iの独立性が形成されるという事態が生起することである。
 言い換えると、価値転換、自己のコペルニクス的転回である。あるいは、価値の東洋化、ないし、母権化である。
 政治的に言うと、真の民主主義、経済的に言うと、真の自由主義の形成の出発点である。
 そして、自由主義は、差異共振化をもつために、自由共同体主義となるのである。それは差異共振的資本主義であろう。そう、新しい民主主義も差異共振的民主主義となるだろう。




悪とは何か
テーマ:evilness, egotism

今は、簡単に指摘するに留める。
 本件の問題は、人間認識図から言えば、第四象限に属する。つまり、凹iと凸が結合した領域である。
 私の直観は、凹iはシュタイナーの説くアストラル体(感性体)と等価であるので、凹iが陶冶されない場合、それが、物質凸と結合して悪となるのではないということである。
 つまり、凹iは粗野のままでは、欲望の渦であり、それが、物質と結合して、第四象限を形成するように思えるのである。
 もし、凹iが教化されるならば、それは、他者性をもち、media point形成への出発点となると考えられる。
 とまれ、悪とは粗野な凹iが物質凸と結びつくのであるが、凸iはこの場合、凹iに隷属しているように思える。
 凸iが形成する同一性は粗野な凹iに従属して、都合のいい、つまり、一時的なもののように思える。
 つまり、嘘、詐欺、虚偽である。利己的欲望のために、同一性を利用して、欺すのである。
 そうならば、悪とは、「教養」を欠落した存在であると言えるのではないだろうか。
 そう、凹iを教化する「教養」の欠落である。「教養」とは、本来、知恵、叡知、文化の謂いである。
 近代「文化」は物質文化であるために、この「教養」を欠落するのである。故に、人間は悪へと傾斜すると考えられる。
 資本主義が新自由主義ないし国家資本主義になるのも、「教養」の欠落、言い換えると、魂の欠落に拠ると
考えられるのである。
 言い換えると、精神の貧困、心の貧しさに拠るのである。
 民主主義も結局、「教養」がなけられば、愚民主義、衆愚政治になるほかないのである。
 今はここで留める。


参照:
ガウス平面で表した人間認識の図

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)

http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208

http://googleads.g.doubleclick.net/aclk?sa=l&ai=BbLAmwCzkTtb5EYPrkAXksoCVCLSptuACtPnS0jq8idTthgGA_qwNEAEYASDeppQKKAM4AFCT1dzk_P____8BYInrx4T4E6AB5K2J2AOyAQlhbWVibG8uanDIAQHaATZodHRwOi8vYW1lYmxvLmpwL25lb21hbmljaGFlaXNtL2VudHJ5LTExMTAzNTg1Njk3Lmh0bWyAAgGpAoM7to2-qUs-wAIFyALUqugWqAMB6APFCOgDDugDiAT1AwAAAMT1AwAAQBA&num=1&sig=AOD64_0DPkxjAiEUT5AX6SenrZ0gZILNcw&client=ca-cyberagent-ameblo_js&adurl=http://wimax-toppa.jp



2011年12月06日(Tue)▲ページの先頭へ
日本近代の超克:日本的個(魂)の覚醒に向けて:ツイッターへの一連の投稿
Mon, December 05, 2011
日本近代の超克:日本的個(魂)の覚醒に向けて:ツイッターへの一連の投稿
テーマ:日本輪廻転生
以下は即興で述べたので、誤植、言葉のミス等があるが御容赦されたい。

resurrection
neomanichaeist resurrection

日本近代の超克8)収まりが悪いので、もう一言言うと、内身体にある魂を覚醒させるとき、獣性も覚醒されるのである。そう、前者がプラトンの白い馬であり、後者が黒い馬である。ここで、前者を精神的に強化させる必要がある。後者の暴走を抑える必要がある。とまれ、魂(他者)と意識の結合で個となる
3分前 お気に入りに登録 返信 削除

»
resurrection
neomanichaeist resurrection

日本近代の超克7)今日は余裕がないので、ここで留めるが、個の覚醒のために、心的意識的測鉛を内身体へと垂下させることにより、魂が燃えるように目覚め、活性化されるのである。そう、魂の覚醒である。ここに個の覚醒の意味がある。魂は実は他者である。ここに精神性がある。しかし、獣性もある。

»
resurrection
neomanichaeist resurrection

日本近代の超克6)これで問題の在り処が判明したと言えよう。個の覚醒が必要なのである(ツイッターの良識ある人には当てはまらないが)。では個をどうしたら覚醒されることができるのか。これは実は東洋・日本的身体論に回帰することで可能である。心的意識的測鉛を内身体へ垂下させることが必要だ。
9分前 お気に入りに登録 返信 削除

»
resurrection
neomanichaeist resurrection

日本近代の超克5)民主党、東電、経団連、知事・市長、役人・官僚(一部)他の大醜態は、この半封建・半近代的没個的自己によってもたらされていると言える。権力と金に従属するだけの魑魅魍魎たちに過ぎない。そして、民衆・国民も俗世に溺れて愚民化しているのであり、悪賢い権力複合体に騙される。
12分前 お気に入りに登録 返信 削除

»
resurrection
neomanichaeist resurrection

日本近代の超克4)権力に盲従する集合的自己であるために、個に内在する善・道徳・倫理が形成されないまま日本近代は形成された。そのために、資本主義は国家資本主義となり、自由主義を否定した。そして、民主主義も形式ばかりの建前に過ぎなかった。個の土台の上に、自由主義、民主主義は存する。


»
resurrection
neomanichaeist resurrection

日本近代の超克3)欧米的個の不確立と言ったのが、欧米文化を真似することはできない。日本的個(母権的個)というものが伝統的にあったが、明治以降ほぼ否定されてきたのである。つまり、伝統・民族文化に即した個の形成の失敗があるのである。結局、権力に盲従した半封建・半近代的自己が形成された
19分前 お気に入りに登録 返信 削除

»
resurrection
neomanichaeist resurrection

日本近代の超克2)日本の心性も問題は大きく二つある。一つは封建的心性の遺制であり、一つは近代合理主義/近代的自我である。あるいは意味で両者は矛盾するが、日本近代において、前者のベースの上に後者が形成されたみていいだろう。言い換えると半封建・半近代主義である。欧米的個の不確立である
21分前 お気に入りに登録 返信 削除

»
resurrection
neomanichaeist resurrection

日本近代の超克1)放射能汚染と経済崩壊の二つが日本を滅亡させんとしている。私は生まれ変わる為にはいったん滅亡がよいと既述した。滅亡は現実的となったが、はたして生まれ変わるかははなはだ疑問である。そこで、生まれ変わるための視点を説きたいと思う。これは心性の問題が基本である。続く。


小沢の限界。結局、民主党の枠の中の人間。つまり、権謀術数。
テーマ:悪魔に魂を売った売・亡国民主党政権
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
小沢の限界。結局、民主党の枠の中の人間。つまり、権謀術数。 @troussier100 もう無理だと思う。 RT @headline : 【政治】民主党・小沢元代表「民主党を立て直したい」: j.mp/rPzr4C


差異的民意と同一性的民意。前者が本体、後者は仮構だ。民主主義的擬制
テーマ:politics:democracy
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
差異的民意と同一性的民意。前者が本体、後者は仮構だ。民主主義的擬制@neomanichaeist 民意とは何?現実の民意と選挙での民意がある。二つの民意。後者だけを肯定するのは無謀乱暴。 @nanaironotsuki 電話に出た男性は、松井と橋下は瓦礫受け入れしたいとちゃんと


»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
民意とは何?現実の民意と選挙での民意がある。二つの民意。後者だけを肯定するのは無謀乱暴。 @nanaironotsuki 電話に出た男性は、松井と橋下は瓦礫受け入れしたいとちゃんと新聞などにハッキリと公表して市長と知事に当選したので、大阪に瓦礫受け入れても良いというのが府民の答え


Tue, December 06, 2011
滅亡・絶滅に瀕している日本の救世主は精神・理論的にはPS理論:生命・物質的には乳酸菌・光合成最近
テーマ:Japan Resurrection
»
resurrection
neomanichaeist resurrection

滅亡・絶滅に瀕している日本の救世主は精神・理論的にはPS理論であり、生命・物質的には乳酸菌・光合成細菌である。ただし、霊主体従主義だプラトニック・シナジー理論のページ sophio.blog19.fc2.com 飯山一郎のLittleHP grnba.com/iiyama/


2011年12月04日(Sun)▲ページの先頭へ
超越的存在とプラトンの善の太陽:マニ教の光とmedia point twilight
画像は以下で見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11097347185.html

テーマ:manichaeism: 哲学

オイラーの公式

−1=e^iπ

これをPS理論は

凹(−1)=e^iπ

とする。
 そして、凹(−1)は超越的存在である。私はこれに四大の火を当てた。
 思うに、プラトンの洞窟の外に存する太陽、善の太陽は、凹(−1)を指していると考えられる。
 ただし、どちらかいうと、第二象限的な太陽だと思う。しかしながら、洞窟の外部なので、第三象限性を確かにもっていると考えられる。
 思うに、凹(-1)の元太陽の発現様態が問題である。それは、凸iの光と凹iの闇の差異共振様態として、発現するのであり、二つの要素に分離するのである。
 だから、二つの太陽がある意味で生起すると言えよう。光の太陽と闇の太陽である。
 しかしながら、両者の関係は微妙である。なぜなら、前者は後者と交わり、後者は前者と交わると考えられるからである。相互浸透があるのである。つまり、光の太陽は闇の太陽を志向し、闇の太陽は光の太陽を志向すると考えられるからである。
 二重の太陽、三重の太陽がそこにはあると言えよう。そ三重の太陽はmedia point sunと言えるだろう。
 ここでD. H. Lawrenceのdark sun, dark Godを考えると、dark sunは闇の太陽を指していると見ていいだろう。そして、dark Godは凹(−1)である。あるいは、第三象限である。
 しかしながら、ロレンスは最晩年、太陽とともに始めよStart with the sunと唱えたのである。それ以前のロレンスはdark sunを説いていたのであり、これは何を意味するのか。
 これは、二重の太陽、ないし三重の太陽で説明できよう。光の太陽は闇の太陽や相互浸透を意味しているからである。
 また、ルドルフ・シュタイナーの説く物質的太陽と霊的太陽であるが、前者は光の太陽の物質的映像と見ていいだろうし、霊的太陽とはmedia point sunであり、さらに、第三象限へと連なる太陽であろう。
 いわゆる、精神・霊界spiritual worldとは、media pointの虚軸点MP1に既に存すると言えようし、狭義では凹i(−1)であろうし、広義では、media point の虚軸点MP1を含んだ第三象限であろう。
 次にマニ教の光について少し触れたい。この光は先に超越光であると述べた。ほぼmedia point lightと言っていいだろう。そう、media point twilightとも言えよう。正確に言えば、凹(−1)と結びついた第三象限を含む「光」である。
 さて、ここで問題が生じている。先にエーテル体とはmedia pointの差異共振によって形成されると述べたのであるが、MP1は超越光を意味するのであるから、エーテル体(氣)=超越光になってしまうのである。
 ここで先に図式を少し変容させて考えよう。先には次のように述べた。

光とエーテル体(氣)

「整理すると、自己・個とは凸i/凹i(凹i⇒凸i)且つ(即非)凹i/凸i(凸i⇒凹i)であり、アストラル体が凸i/凹i(凹i⇒凸i)であり、エーテル体が凸i共振凹i(MP1)であり、物質体が凸ということになる。」
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11096912752.html

自己・個凸i/凹i(凹i⇒凸i)且つ(即非)凹i/凸i(凸i⇒凹i)を

凸i/凹i(凹i⇒凸i)*凹i/凸i(凸i⇒凹i)⇒凸(+1)

と変換させる。
 思うに、この自己・個の差異共振が超越光を意味するのではないだろうか。正確に言えば、凸i/凹i(凹i⇒凸i)にとりわけ超越光が属するであろう。
 しかしながら、左辺全体に超越光が属すと言うべきだろう。
 結局、超越光は単純なMP1の差異共振ではなく、それは、自己・個的差異共振によって発生すると言うべきなのである。それでこそ、ウパニシャッド哲学の梵我一如『汝はそれなり』(tat tvam asi タット・トヴァン・アスィ)と一致しよう。つまり、梵が超越光ということであり、それが「我」=自己・個ということである。
 以上の考察(思考実験)で問題点がかなり整合化されたと言えよう。
 そう、シュタイナーがキリストとはアフラ・マズダのことであると述べていた。アフラ・マズダとはPS理論では凹(−1)と考えられる。ならば、キリストとは凹(−1)の超越的存在ということになる。ウパニシャッド哲学で言えば、汝とキリストは一致するということになるだろう。神人一致である。


追記:正しくは善の太陽ではなく、善のイデアの比喩としての洞窟外の太陽である。

resurrectionのブログ

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4270/imanishi/natuphy.html

自然哲学:その1


《ガウス平面で表した人間認識の図》

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


参考:

汝はそれなり
(2006.09.26/00:04) CM:4 | TB:0

『汝はそれなり』(tat tvam asi タット・トヴァン・アスィ)という言葉があります。

これは、ウパニシャッドの宗教的・哲学的思想の中で、ウッダーラカ・アールニが語った有名な格言『我はそれなり、汝はそれなり、全てはそれなり』の一部で、この言葉は、ウパニシャッド哲学のエッセンスを一文に凝縮したものであると言われています。

では、『汝はそれなり』とは、いったい何を意味しているのでしょうか?

一般に「汝」=「アートマン」であり、「それ」=「ブラフマン」であると言われています。

「アートマン(atman 真我)」とは、意識の最も深い内側にある個の根源で、個の中心にあり認識自体を司るもので、真我は「知るもの/知られるもの」の二元性を超越しているため、「真我」自体を認識の対象にすることはできません。つまり、知覚すること自体ができないのです(笑)。デカルトの非常に有名な言葉『我思う、故に我あり』(cogito, ergo sumコギト・エルゴ・スム)は、この掴み所のない「真我」の残した足跡を捉らまえて、間接的に存在性を表現したものなのですね。

また、「ブラフマン(Brahman 梵天)」は、全存在世界の根源的リアリティ、つまり、宇宙の根源原理、宇宙の源のこと指しており、神聖な知性としても考えられています。

要するに、『汝はそれなり』の意味することは、究極的には個人の真我と宇宙原理は一致し、全く同じものであることを言っているのです。

このことを、『梵天一如』とも表現されます。

自分の心の中を深く深く入り込んでいくと、自己認識している核の部分にまで至るが、でもそれは、途轍もなく広大な全宇宙存在のソースでもあった。更に、先に先に進むと宇宙空間となり、最も遠い所、つまり、自分の周囲に行き着いてしまうというわけです。

画像

このことは、かなり前の記事「現実世界って? 」にも書いたのですが、自己と宇宙は、まるで「クラインの壷」状の構造になっているのですね。

では、これを確かめるにはどうしたらいいのでしょうか?

このことは、瞑想を通して体験するしかないのですが、ブラフマンを体験するには、「無私」の状態にまで達しないと体験できないと言われています。

瞑想する場合には、例えば、マントラを唱える場合でいうと、マントラを唱えていることを知覚できている状態ではダメなのです。自分がマントラ自体にまでならないと「無私」とはいえないのです。(参照:幸せ天使さんのブログ )

これって、ななかか難しいです。

http://aioi.blog6.fc2.com/?mode=m&no=186

煩悩くん フルスロットル



とうとうコルマンインデックスが終了した4 (11/30)

コルマンインデックスが指摘する思想的な変化とは、以下のような長期の傾向が10月28日のコルマンデックスの終了で次第に現れるとする予言である。

「人間の外部に存在し、人間を支配する超越的な存在としての神の概念から、一人一人が神や仏の一部であることを実感する方向へとシフトする。」

このような変化が本当に起こるとするなら、それは我々が世界を感じたり認識したりする方法が転換する、人間と世界の関係の変化が伴うはずである。いわゆるパラダイムシフトと言われる現象となって現れるはずだ。
http://ytaka2011.blog105.fc2.com/blog-entry-229.html

ヤスの備忘録 歴史と予言のあいだ


2011年12月03日(Sat)▲ページの先頭へ
光とエーテル体(氣)
光とエーテル体(氣)
テーマ:検討問題

本件の問題を解明する必要がある。
 端的に言えば、光は当然、可視的であるが、エーテル体(氣)は不可視である。
 しかしながら、シュタイナー精神学をPS理論に引きつけると、光とエーテル体が同じものに、即ち、凸iになってしまうのである。この齟齬を解決する必要がある。
 少し整理しよう。私はシュタイナー理論を触れる前までは、氣とは、MP1(虚軸点)で形成されると述べた。そして、シュタイナーの発想からエーテル体=氣は凸iとなった。明らかに、齟齬、矛盾である。
 思うに、氣=エーテル体はやはり、MP1で発生する超越光とすべきだと思う。そして、光は凸iのままで済む。
 つまり、氣=エーテル体とは、光と闇の共振体ということになる。それが、Vector Modeを産み出し、物質体を形成すると考えられる。
 だから、現象体は光でありつつ、闇であるが、闇は当然不可視である。
 そうならば、さらに問題はアストラル体(謂わば、感性体)をどう見るかが問題である。
 私はアストラル体を凹iとしたのである。闇である。
 しかし、光と闇の共振が氣=エーテル体なので、アストラル体(感性体)を闇凹iにするのは、不具合である。
 思うに、media pointの感性がアストラル体ではないだろうか。同一性と差異がせめぎ合う点、それがアストラル体ではないか。ならば、media pointにアストラル体を、あえて言えば、media pointの凹i寄りにある。
 もう少し整理すると、自己(個)ichが凸i/凹iであるとすると、/がアストラル体になるだろう。凹i⇒凸iに対して、凸i⇒凹iが生じる。この衝突がアストラル体のように思える。
 つまり、凸i⇒凹iの自我(物質的自己)のベクトルが入るのである。それで、不調和を起こすのであり、それが、アストラル体と考えられる。つまり、自己と自我の不調和である。
 しかし、シュタイナーはアストラル体は動物のもつ体であると述べている。
 ならば、凸i⇒凹iはないのである。だから、凹i/凸i が自己・個ではなく、アストラル体かもしれない。
 整理すると、自己・個とは凸i/凹i(凹i⇒凸i)且つ(即非)凹i/凸i(凸i⇒凹i)であり、アストラル体が凸i/凹i(凹i⇒凸i)であり、エーテル体が凸i共振凹i(MP1)であり、物質体が凸ということになる。
 これで一応は整合性は保ったが。



直観学で哲学と芸術は括れる。科学は直観を数学化した?直観学に哲学、芸術、数学、科学が入る

テーマ:manichaeism: 哲学


neomanichaeist resurrection

直観学から見ると、物質科学、近代科学は、同一性主義であ り、現実(差異)ではなく、同一性の虚構を土台にしている。疫学がその帰結である。それは、資本主義権力に都合がよく、利己主義となっている。物質科学、 近代科学を打倒せよ!直観科学、差異科学こそ、正しい。似非科学、御用科学を唾棄せよ!


neomanichaeist resurrection
@
直観学で哲学と芸術は括れる。科学は直観を数学化した?直観学に哲学、芸術、数学、科学が入る @neomanichaeist 直観性は両者一致する。直観を概念化するのか、形象化するのか。 @neomanichaeist 哲学と芸術の差異は至上に興味深い。深い芸術は認識をもつ。哲学的。

お気に入りに登録 返信 削除

»

neomanichaeist resurrection
@
直観性は両者一致する。直観を概念化するのか、形象化するのか。 @neomanichaeist 哲学と芸術の差異は至上に興味深い。深い芸術は認識をもつ。哲学的。だから、両者の共通点はある。ただし、芸術は感覚・魂・想像力をベースにする。哲学は概念を。@Michael_Ende_jp
9分前 お気に入りに登録 返信 削除

»

neomanichaeist resurrection
@
哲学と芸術の差異は至上に興味深い。深い芸術は認識をもつ。哲学的。だから、両者の共通点はある。ただし、芸術は感覚・魂・想像力をベースにする。哲学は概念を。 @Michael_Ende_jp 芸術の形式は、認識とは違うものです。哲学者は芸術家ではない。たとえ創造的な哲学者だとしても。




»

Michael_Ende_jp ミヒャエル・エンデ

(シュタイナーなどは、芸術家ということになりますね?という問いに対して)いいえ、芸術の形式は、認識とは違うものです。哲学者は芸術家ではない。たとえ創造的な哲学者だとしても。 『芸術と政治をめぐる対話』
43分前 お気に入りに登録 リツイート 返信

»

Michael_Ende_jp ミヒャエル・エンデ

シュタイナーの著作を読むときには、決して彼を現代の大学教 授のように思って読んではならない。そんなことをしたら、シュタイナーのことを絶対に理解できませんからね。彼自身、再三それを警告しています。しかし現 実には、やっぱり彼の願ったのとは反対のことが行われている。 『エンデと語る』
1時間前 お気に入りに登録 リツイート 返信

»

Michael_Ende_jp ミヒャエル・エンデ

認識の所作とは反対の所作が、芸術の所作ということになりま す。芸術家は認識するものではありません。芸術はいまここで、もっとも広い意味において、むしろエロス的な原理と関係しているのです。エロス的原理は認識 の原理ではない。受肉と現実化の原理なのです。 『闇の考古学』



自然数の差異(質)と同一性(量)
テーマ:mathematics

一見、自然数はみな量的に見える。しかし、実際、数を数える場合、それは、差異である個体(個)を数えるのである。差異1を1,差異2を2,・・・差異nをnと数えるのである。
 しかし、自然数は当然、量的でもある。2=1+1
である。つまり、自然数概念は差異と同一性を併存・共立、同時生起させていることになる。
 思うに、自然数はmedia pointで形成されるのである。そこでは、凸iの同一性と凹iの差異が共振しているのであるから。
 ところで、吉田武氏の『オイラーの贈物ー人類の至宝e^iπ=−1を学ぶー』は実に名著であろう。文章が生きているのである。文理融合である。

オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ/吉田 武

¥1,890
Amazon.co.jp
オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ (ちくま学芸文庫)/吉田 武

¥1,575
Amazon.co.jp
オイラーの贈物/吉田 武

¥3,150
Amazon.co.jp

5つ星のうち 5.0 『我々の至宝』かつ『すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式』とまで言われているものを文系だから知らなくいいとは到底思えない。今日までゆっくり取り組んでみた, 2011/11/27
By
voodootalk - レビューをすべて見る
(VINE メンバー) (トップ10レビュアー)
レビュー対象商品: オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ (単行本)
新装版としては、2010年1月23日リリース。この本を手に取ったきっかけは、2011年7月27日放送の『クローズアップ現代 「大人がハマる"数学 ブーム"の謎」』で、数学を学び直すことがブームになっているという話題が非常に印象に残ったことだった。中学・高校で学んだ三角関数やら素数やらを再度 自身で鉛筆を持ちながら解き直す。この鉛筆を持ちながらの所を再度試みてみたくなった。

その中で取り上げられたのが『オイラーの贈物』 だ。レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler, 1707年4月15日 - 1783年9月18日)は数学者・物理学者であり、天文学者(天体物理学者)である。この人は視力障害があったらしく、フリードリヒ2世に『数学のサイク ロプス(単眼の巨人)』と讃えられた18世紀の歴史上最も多産な数学者と言われている人物である。この『オイラーの等式』に自力で挑戦する本である。

こ の『オイラーの等式』は、物理学者のリチャード・ファインマンにより『我々の至宝』かつ『すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式』と呼ばれている。 数学は高校二年生でストップしているので、ウン十年ぶりに数学をやるわけだ。この本を買って時間を費やすかを自問したところ、どうしてもやりたい。やりた くて仕方が無いと思っている自分に気がついた。

自分が理系だから法律・経済に疎くとていいというのはありえない間違いであるように、『我 々の至宝』かつ『すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式』とまで言われているものを文系だから知らなくいいとは到底思えない。挫折する気は毛頭な く、ゆっくりゆっくり並列読書法で読み解いて、この18世紀の偉大な数学者の思考に近づきたいと思い、今日までゆっくり取り組んでみた。

そして感じたこと。昔々の数学の知識が少しずつ蘇ってくる。積分とは不定形な面の面積を探すことだったか。

微分係数を求める=導関数に数値を代入
定積分を求める=不定積分に数値を代入・・・・・結果は数値

関数を微分する=導関数を求める
関数を積分する=原始関数を求める・・・・互いに逆演算、結果は関数

最も面白かったのは、フィボナッチ数列はパスカルの三角形と重なる、ということだった。

そ して日々考えている世界のマネーの動きにこの数式を当てはめてみた。頭の中にS lowの連続する棒グラフとS upの連続する棒グラフがy=xとして連なる。そして棒グラフの各々のピッチは極限を目指して狭まり、世界中を蠢くマネーの分母のように瞬く。その正しい 数値を導くべく推論すること、すなわちマネーを積分しているのだな、と気がつく。

数学だけでなく、様々なことを感じさせてくれる素晴らしい一冊だと思う。



2011年12月02日(Fri)▲ページの先頭へ
エーテル体と宇宙:光と氣:渦巻き宇宙、螺旋とVector Mode
テーマ:シュタイナー精神学

シュタイナーの精神学は実に興味深いことを述べる。例えば、宇宙とはエーテル体によって形成されると言うのだ。思えば、エーテル体は彼の霊学においては、生命の原理である。すると、宇宙と生命が結びつく。最近、生命体宇宙説があり、シュタイナーの論は先取りしていたことになる。
 PS理論から見ると、今の作業仮説では、エーテル体は凸i(i)、光の原理と結びつく。
 思うに、media pointにおいて光の渦巻き、螺旋が形成されるのではないだろうか。それが、渦巻き星雲を形成したり、地上では蔓植物を形成したりするのではないだろうか。
 そう、光のVector Modeである。
 思うに、光はほとんど氣(エーテル体)と言っていいのではないだろうか。ならば、光=氣=宇宙/生命形成原理(Vector Mode)ということになろう。
 そして、物質原理は当然、media pointの精神的フィルター作用であると言える。差異共振から同一性へと変換されるのである。
 しかしながら、物質は光=氣(エーテル体)のVector Modeの外皮、外殻のように創出されよう。
 言い換えると、物質体が光=氣のVector Modeを覆うように、包装するように形成されて、感覚では光=氣を知覚できなくなると考えられる。
 とまれ、これで物質現象は説明できる。
 では、闇である凹iはどう作動しているのだろうか。これは、シュタイナー霊学ではアストラル体である。それは、情感、身体的欲望等を意味するのである。簡単に言えば、感情体、感性体である。
 シュタイナーが説くように植物ではこれは作用していないだろう。動物や人間に関係するのである。
 では、宇宙形成においてはどうなのだろうか。シュタイナーは星に霊を見ているので、闇凹iが関係していると思う。また、天使等の存在を言うので、宇宙形成には、第三象限が作用しているように思われる。
 思うに、この闇凹i成分がdark matterやdark energyに関係するのではないだろうか。
 問題は闇凹iと物質界がどう関係するのかである。何度も言うように、D. H. ロレンスはdark sun、dark Godや暗い宇宙の薔薇を述べるのであるが、それを考えると、闇凹iはやはり、Vector Modeを形成するのではないだろうか。闇のVector Modeである。
 そう、闇の宇宙である。これが光の宇宙と関係しているのだろう。ここでもシュタイナーの霊学を活用すると、闇が光へと浸透するとき、青色が形成されるという。青空の青である。
 それに対して、光が闇へと浸透すると、赤色が形成されるという。夕日の赤である。
 それを考えると、光と闇の相互干渉があるのである。だから、光の宇宙は闇の宇宙の影響を受けていると言えよう。それがdark matter、dark energyと関係するように思えるのだ。
 また、分数公理を使うと、闇が分母で、光が分子であり、前者が土台で後者を支えるのではないだろうか。
 極論すると、闇が光を産み出しているのではないだろうか。太陽は暗い太陽がベースであり、それは不可視である。
 ロレンスは太陽はわれわれに背中を見せていると言うが、思うに、暗い太陽は闇凹iに位置するのではないだろうか。
 また、闇凹iは第三象限と深く結びついている。故に、高次元的である。超越的である。ロレンスのdark Godは正に、それを示唆しよう。
 また、自然科学であるが、それは、光の科学であり、闇の科学をほとんど無視していると言えよう。だから、ダーク・マターやダーク・エネルギーの問題が出てくると言えよう。
 とまれ、以上は思考実験である。

追記:マニ教の光の種子は、闇凹iに潜んでいるだろう。dark sunに潜むと考えられる。
 
追記2:生死の事象、死生の力学はどう説明できるだろうか。これは光のVector Modeのエネルギー生成消滅で説明がつくだろう。それは、ある決められたエネルギー量をもち、それが消尽すると、死となるのである。
 
追記3:シュタイナーは心臓と太陽を結びつけている。思うに、media pointが心臓=太陽となるのかもしれない。これはこれで新たに考察が必要である。

追記4:四大ないし五大を考えると、凸iが風、凹iが水、凹が火、凸が地を形成するのではないだろうか。また、空は当然、media pointとなる。
 思うに、この四大原理(地水火風原理)は、宇宙生命身体原理ではないだろうか。これは単に物質原理ではなく、精神原理、魂原理と本来見るべきではないだろうか。つまり、地霊、水霊、火霊、風霊となる。
 これは、人間の性質の原理ではないだろうか。これに自己原則が入ると、多様な性格が生まれるだろう。
 
追記5:ミクロコスモス(小宇宙)とマクロコスモス(大宇宙)の照応であるが、これは、光のエーテル体のVector Modeのフラクタルで説明できよう。
 つまり、人間というミクロなフラクタルは大宇宙というマクロなフラクタルと共振しているということになろう。この共振が照応ということになる。そう、共振波動があるだろう。それは、光=エーテル体の波動となるだろう。電磁波はその物質的反映であろう。


2011年11月30日(Wed)▲ページの先頭へ
「わたしich」とは何か
シュタイナーの霊学を読むと、結局、「わたし」ichとは何かが究極の問題であるのがわかる。
 先に、アストラル体は凹i、エーテル体は凸iではないかと示唆した。問題は「わたし」である。
 今想起したのは、以前、Kaisetsu氏が説いた分数公理である。

凹(−1)⇔凸i/凹i

が成立するのではないだろうか。というか、これを作業仮説としよう。
 思うに、これが「わたし」、ich、I である。あえて言えば、右辺である。
 そして、重要なポイントは凹i(陰)である。これがベースである。
 とまれ、これが意味するのは、「わたし」(自己)が根源から発生する最初期の存在であり、アストラル体(凹i)とエーテル体(凸i)はそれの派生であるということ、ないしは、同時期であるということである。
 また、思うに、これこそ、ウパニシャッド哲学の「汝はそれなり」を意味するのではないだろうか。即ち、汝は凸i/凹iであり、それが凹である。
 今はここで留める。

追記:

凹(−1)⇔凸i/凹i

ではなく、

凹(−1)⇒凸i/凹i

の方が正確ではないだろうか。「わたしich」は超越的存在凹(−1)を感じるが、それは、D. H. ロレンスが言うように、正に、Unknown Godであろう。凹(−1)は不可知であると言うべきだろう。
 とまれ、右辺の「自己」は第三象限に属すと考えられる。

参考:

《ガウス平面で表した人間認識の図》

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)

http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


「木にだにも御形を移すありがたや 法の御音は谷のひびきか」 円空。
テーマ:新母権的社会:差異共振共同体

「木にだにも御形を移すありがたや 法の御音は谷のひびきか」 円空。

008-01-22 心の闇:現代日本人に感じられる心の暗黒:死せる魂と不気味な闇CommentsAdd Star

心の闇:現代日本人 に感じられる心の暗黒:死せる魂と不気味な闇

テーマ :ニッポン亡国の凶相

現代日本は、暗い。心の闇が広がっている。あるいは、せいぜい灰色の心があるだけである。

 不気味な闇、灰色の心、これは、心の「神」を否定した結果である。戦後 の近代合理主義/民主主義が、心を魂を凍らせているのである。そう、凍って闇になっているのである。心が冷たい石のようになっているのである。

 これは、アメリカ 的近代合理主義から来ている闇である。金の亡者 の心の闇から来ているのである。自らの心の動きを信ぜず、ただ数量化された数字から判断する冷たい闇の心から発しているのである。

 これが、戦後 日本を襲ったのである。冷たい体である。超越光=御神火がないのである。

 火の復活が必要である。超越光の新生 が必要である。そう、光とは火である。火かりである。

火かりを亡くした日本人 の心の闇

深い不気味な心の闇

冷たい灰色の心

冷たい身体

ご神火・超越光をともす必要がある。

おそらく、現代世界 は滅びる必要があるのだろう。

新大 洪水 の時代である。

誰がこんな日本にしたのか

こんな闇の日本にしたのか

それは日本人 に勇気 がないからである

怯懦であるからである

死せる魂の日本人

心の神を否定した日本人

神無国

心の神の音楽 を聴くのを忘れた日本人

心の神の光を見つめるのを忘れた日本人

そう、心の神は、計量・自我 化できない。それは、ただ、あるのである。

心の神はただそれを認めるしかない存在 である。

心の神を迎えること、心の神がマレビトである。

そう、心の神を排除しているから、日本人 は、

権力 を恐れているのである。怯懦なのである。

心の神の否定と奴隷 ・家畜とは一体である。

心の神を恐れているので、権力 を恐れているのである。

心の神の影が権力 なのである。

心の神が復興 力である

端的に、何が、心を冷たくしているのか、闇にしているのか

心の冷暗は何が生んでいるのか

そう、三島の言った断絃の時、

心の音楽 の喪失 があるのである。

心の音楽 とは何か

それは、神仏の音楽 である。

心の御音が聞こえないのである。

「木にだにも 御形を移すありがたや 法の御音は 谷のひびきか」


円空 円 空

http://www.vill.tenkawa.nara.jp/sightsee/tenkikawa/yukari.html


「木にだにも 御形(みかた)を移す ありがたや 法(のり)の御音(みおと)は 谷のひびきか」

http://www.econavi.org/weblogue/special/30.html


http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20080122

PS理論講座


2011年11月28日(Mon)▲ページの先頭へ
恥毛(恥舌)軍門勝利について:ルサンチマン力学と父権主義:新母権的共同体へ向けて
恥毛(恥舌)軍門勝利について:ルサンチマン力学と父権主義:新母権的共同体へ向けて

テーマ:manichaeism: 哲学

resurrection
neomanichaeist resurrection

7)父権主義とは物質文明を意味し、母権主義は精神文明を意味するが、西洋父権文明は物質文明、資本主義文明を発達させたのであり、その帰結が原発爆発放射能汚染であり、TPPであり、民主党、恥毛(恥舌)悪魔軍門の勝利である。以下を参照されたい。 sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-176…

お気に入りに登録 返信 削除

»
resurrection
neomanichaeist resurrection

6)これで終えるが、恥毛(恥舌)問題は、結局、精神文化、精神社会、精神政治、精神経済の問題である。唯物論に染め上げられた現代日本人の思考を超克する必要、必然性がここに示唆さていると言える。これは言い換えると、父権的近代主義から母権的脱近代主義、母権的共同体主義への大転換を意味する
1分前 お気に入りに登録 返信 削除

»
resurrection
neomanichaeist resurrection

5)恥毛問題であるが、最初に述べたように、ルサンチマン力学は頭脳、合理主義では解決できないのである。何故、プラトンが『国家』でイデア論を説いたか考える必要がある。古代ギリシアは直接民主制の弊害に悩まされていた。大哲学者プラトンは物質界を超える魂の次元の必要を提唱したのである。
5分前 お気に入りに登録 返信 削除

»
resurrection
neomanichaeist resurrection

4)某国は恥毛(恥舌)の独裁主義の勝利にほくそ笑み、民主党に続く、日本支配の道具に使用するだろう。某国の走狗となるのは目に見えている。愚民は墓穴を掘ったのであり、自らを断頭台に送ったのである。悪汚詐禍塵に葬送の言葉を贈るしかないだろう。オウンゴールお目出度う。愚民人口削減ができた
13分前 お気に入りに登録 返信 削除

»
resurrection
neomanichaeist resurrection

3)恥毛(恥舌)のルサンチマン力学であるが、単に破壊主義だけではなく、利己主義であるから、背信することなぞ気にかけないのである。彼を信頼した人間はすべて裏切られるだろう。とまれ、経済的には彼は新自由主義者であり、社会的絆、共同体性、民主主義は完全に否定される。愚民の暴挙でもある。
17分前 お気に入りに登録 返信 削除

»
resurrection
neomanichaeist resurrection

2)恥毛(恥舌)のルサンチマン(怨恨、怨嗟)の由来は育ちによる差別や環境が大きいと言えよう。(本来は内在的)このルサンチマン力学は権力、権威あるものを単純に否定することを目指しているのであり、単に破壊主義で、創造が欠落しているのである。破壊欲であり、破壊すれば満足なのである。続く
24分前 お気に入りに登録 返信 削除

»
resurrection
neomanichaeist resurrection

1)恥毛(恥舌)の問題は、頭脳では解明、解決はできない。これは無意識ないし魂の次元の問題だからだ。愚民、衆愚政治の問題も同じである。先述したように、俗人・凡人にはルサンチマン(怨恨、怨嗟)が生じるのであり、自分よりすぐれたもの(誰かの説明では少し上位)を憎悪し、否定するのだ。続く

参考:

橋下徹氏・大阪維新の会と公明党が裏取引 なにが維新の会と既成政党の戦いだ

維新の会は自民党出身者で作り、国民新党やみんなの党の支援も受けて、その上公明党とも取引しているなんて、ちゃっかり自分は既成政党と持ちつ持たれつなんじゃないですか。

http://ameblo.jp/don1110/entry-11091475758.html
donのブログ


天皇制と母権制:二つの天皇制:三つの母権的民族とユダヤ民族的父権民族の衝突・対立としての古代日本
テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

以下、スロー人氏は、百済文化と天皇制の符合を示唆しているが、その問題をさておき、私が興味があるのは、既述したように、母権と父権の問題である。
 私見では、ツングース系民族は母権的である。だから、その天皇的文化は母権的である。母権的天皇文化である。(とは言え、天皇が女性であるというのではなく、母の子としての天皇であり、男性が天皇になると考えられる。これは母権神話では普通のことである。)
 また、既述したように、日本には三つの母権民族が存すると考えられる。縄文的母権(沖縄、アイヌ)、弥生的母権(中国南部)、そして、ツングース的遊牧民族的母権である。
 それに対して、ある父権的民族が参入(侵入?)して、古代日本が生まれたと考えている。
 飯山一郎氏は父権的民族を中国に存した見ているが、私が知る限り、父権的民族が中国へ到来したのは「史実」である。
 ここから私の推定であるが、この進入した父権的民族が記紀を編纂したのである。三つの母権民族の神話を父権的民族に都合いいように編集したと思われる。
 いわゆる、天孫降臨神話であるが、それは、ツングース系天皇神話をその父権的民族が都合いいように書き替えて、軍事的神話、軍政的神話にしたように思えるのである。
 私は日本民族は古代ギリシア民族に似たように形成されたと考えている。つまり、古代ギリシアはベース・基底に母権的民族があり、それに軍事的な父権的民族が進入して、母権的民族の神話をゼウス中心のギリシア神話に書き替えたと思っているのである。(そう、神話学者のジョゼフ・キャンベルに拠ると、ゼウスには母権的神話、女神的神話の要素が見られるのである。)
 繰り返すが、ツングース系天皇神話は母権的で平和的であったが、進入した父権民族がそれを軍事・軍政的なものにしたということになるのである。(だから、記紀をキャンベル的な差異的に解読する必要があるのである。)
 だから、思うに、記紀の好戦性が後の日本人の思考に影響して、日本人の性格の基底的な平和志向が捩じ曲げられて、虚勢的な好戦性をもったようになったのではないだろうか。
 問題は具体的にこの父権的民族、大陸的父権的民族とは何なのかである。以前は日ユ同祖論を作業仮説して、ユダヤ民族ではないかと提起した。
 それをここでも採用すると、三つの母権民族の混成である古代日本に父権的ユダヤ民族が進入して、古代ギリシアに相似した母権ベースの父権的民族である日本民族が誕生したということになる。
 そのとき、ユダヤ民族はツングース系母権天皇神話を、好戦的な父権的天皇神話に書き替えたと推量されるのである。
 これが、結局、天皇制といわれるものの起源である。言い換えると、二つの天皇制があるのである。母権的天皇制と父権的天皇制である。
 そして、現代の日本人、あるいは、これまでの日本人はこれを区別していない、又は、区別して来なかったと考えられるのである。
 さて、ここで明治維新を考えると、これまで述べてきたように、坂本龍馬らの母権的志向と尊王攘夷の父権的志向があり、後者が前者に勝利して、明治国家を形成したと考えられる。そのとき、当然、記紀の父権的好戦性、父権的天皇制が利用されて、母権的天皇制は否定されたと考えられるのである。
 そして、この父権的好戦的路線が近代日本の基軸になり、日本民族、日本文化を歪めて、世界大戦の大惨禍、そして、今日放射能汚染の亡国的大惨禍を舐め、またTPPによってもたらされると考えられる大惨禍を舐めると考えれるのである。
 もっとも、ユダヤ民族的なものがただ悪いものだけではない。日本人の知性(最近は怪しいが)は、おそらく、ユダヤ民族由来ではないだろうか。しかしながら、あまりに、父権主義に傾斜して、母胎・基盤の母権性を否定してきてしまったのである。(そう、父権的資本主義に傾斜してしまったのであり、新自由主義に毒される前にもっていた母権的資本主義を否定してしまったと言えよう。前者が同一性資本主義、利己的資本主義であり、後者が差異共振資本主義、共同体的資本主義である。)
 今日現代の超悲惨な日本国の様態を見るに、土台の母権文化に螺旋的に回帰する必要があると言えよう。それは、新母権的進化である。これしか、日本の命脈はないと言えよう。
 政治的には、日本母権民族党(日本母民党)、日本なでしこ党を創設することを意味する。
 母権の大地へと回帰する必要があるのである。

参照:

「悲しみの森」木と共存した女系文化だった日本とブータン


『世界的に珍しい森と女系制社会の日本』

ユーラシア大陸では洋の東西の違いが無く基本的に父系制社会なのですが、我が日本国は武士の世の中になった鎌倉時代でも女性にも同等な財産権があったように、世界的に珍しい女系制の残る社会だった。
戦国時代に来日した宣教師は故国とは大きく違う日本の女性の地位の高さに驚いていたのです。
男系社会では例外なく女性に厳格な貞節を要求する。豪華絢爛な結婚式なと婚姻制度も実に大袈裟なのですが女系社会ではそれ程拘らない。
ブータン国王夫妻が新婚旅行で日本を訪問して話題になっていましたが流石に王様は正式な結婚式をあげるが、一般の庶民層では結婚式はあげないで同棲に近い実質婚が主流である。
結婚が厳格だった封建制の男系文化と違い、女系日本の平安時代の妻問婚では矢張り結婚式の風習が無くて『結婚している』と周りが認める一夫多妻の実質婚。日本も昔はブータン状態だったのです。
ブータンでも一夫一婦の単婚が基本なのですが、なんと日本の平安時代的な一夫多妻だけではなくて今でもチベットなとと同じ一妻多夫も認めているのですから、なんとも大らかですね。

http://ameblo.jp/don1110/entry-11091473293.html

donのブログ

***********************

橋下氏が市長に選ばれ、大阪維新の会の松井一郎氏が府知事に選ばれた。日本史に衝撃が走るか?


ちょうど、天孫と自称する人々が天皇の血筋につながっているように。


 その頃を見ると、天孫を誇った種族が朝鮮半島にもいた。それがツングース系の扶余(プヨ)族であり、穢貊(イエメク)族であり、百済の王朝の血筋とされている。その百済が滅ぶのが660年と言われているが、このころ日本では中大兄皇子(後の天智天皇)らが蘇我入鹿を暗殺したのが「大化の改新」であり、それが646年のことだ。


 この天皇制の創生期、古墳などからの出土品には、仏像など多くが、半島から伝わったと思われるものが多い。国宝中の国宝ともいえる逸品、石上神宮(物部氏)の「七支刀」も百済が伝わったものらしい。


http://ameblo.jp/adco/entry-11091550858.html


スロー人ロハス




氣霊の世界への飛翔:氣霊世界旅行の夢:大変革期と東日霊の時代
テーマ:manichaeism: 哲学

最近はよく眠れるようになった。そして、「霊界」へ魂が移動していると考えられる夢を見ることが増えた。
 わかりやすく言うと、氣の降りる場所への旅行の夢である。バスの中で、ある中年の女性が、満たされた表情で、旅行した場所で何日も留まってしまったということであった。私が「居るだけでも気持ちよかったでしょう」というと首肯いていた。
 また、途中、車中、広島の病院の最上階や屋上が、氣に優れていて療養する人が多いという情報もあった。
 もっと夢を見たが、今思い出せないが、言いたいことは、おそらく、この魂の氣霊界(氣霊海)への飛翔は私個人に限定された事象ではなく、一般的な事象のことのように思える。つまり、多くの人に氣霊界が積極的に訪れているように思えるのである。
 そう、氣霊の何かが人間の魂にはたらきかけているのだろう。
 聖霊力学から言うと、陽凸iへの傾斜が終わり、陰凹iへの傾斜が形成され出したと思われるのである。
 陰凹iへの道が開けたのである。それは、不可視の穴のようなものである。ブラック・ウィンドウ、ダーク・ウィンドウ、black windows, dark windows, black doors, dark doors, dark holes, dark burrows, etc.
 夢とは氣霊界(第三象限)の映しであると考えられるが、それは、凸iの光のイメージを活用するのだろう。つまり、media pointで夢映像が形成されると思われるのである。media point dreamsである。いわゆる、霊的ヴィジョンとは、これで説明できよう。聖書の預言書のヴィジョンもそうであるし、中世、鎌倉時代に見られる宗教的ヴィジョンもそうである。
 そう、やはり、氣霊界が開かれる時代があるのである。それは、根本的変革期である。今の時代は、新たな時代への大変革へ向っていると言えよう。
 近代の終焉は当然であるが、西洋の終焉であると推測される。以前、アイオーンの時代と言ったが、日本的霊性の時代でもあるし、さらに、東洋的霊性の時代でもあると考えられる。
 東霊の時代、日霊の時代、東日霊の時代。


2011年11月23日(Wed)▲ページの先頭へ
カント哲学の連続性と不連続性の未分化
カント哲学の連続性と不連続性の未分化

テーマ:manichaeism: 哲学

D. H. ロレンスの連続性と不連続性の揺動力学
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11086583581.html
の論点から、カント哲学の本質的意義が明瞭になると考えられる。
 つまり、カント哲学はMP1(虚軸点)とMP2(実軸点)が未分化なのであり、それ故に、純粋理性のアンチノミー(背理、パラドックス)が生じるのである。
 しかし、カント哲学は凸iが優位であるため、あるいは、MP2(実軸点)が優位であるために、ロレンスとは異なり、第二象限の理論になっているのである。
 ロレンス文哲学の場合は、本質的には第三象限に根源をもっていると考えられるのである。
 思うに、ロレンス文哲学はマニ教的と言えるだろう。諸宗教の普遍化への志向が見られるからである。



D. H. ロレンスの連続性と不連続性の揺動力学

テーマ:literature

D. H. ロレンス文学哲学(略して、文哲学)のいちばんの問題点は、先に述べたように、母権と父権の混淆である。未分化とも言えるが、それより、連続性と不連続性の混淆と言うべきである。
 直観で言えば、ロレンスは凸iへの傾斜と凹iへの傾斜が揺らいでいるのである。だから、primitive media point dynamicsがロレンス文哲学力学と言えよう。
 PS理論は、凸iと凹iの闘争、衝突、拮抗、対立、矛盾等のダイナミクスを説いているとは言え、ロレンス文哲学力学の様態とは異なる。
 これは芸術と哲学・理論との違いに拠るとも言えよう。
 しかしながら、やはり、違いは不連続性の様態にあると思う。即ち、ロレンス文哲学の場合、凸i主導の連続性へ傾斜したり、凹i主導の不連続性へ傾斜したりする、極端な揺らぎがあるのである。
 それに対して、PS理論は凸i主導性は同一性主義として、批判して、基本的には凹iを基礎とするmedia pointの様態を肯定するのである。
 つまり、PS理論は脱連続性の理論であり、不連続性を基礎とする理論であるということになる。
 これで、ロレンス文哲学とPS理論の違いは明瞭である。もっとも、ロレンスはPS理論の一つの先駆と考えられるので、その点で評価すべきであるが。
 ロレンス文哲学の問題は、凸iの連続性へ傾斜したときであるが、いったい、それは何を意味するのか。
 端的に、反動性への傾斜を意味するだろう。主体がなんらかの攻撃を受けて、主体的精神が反動的様態になったとき、凸iの連続性への傾斜が生じると思われる。
 外部からの強い攻撃にあったとき、精神は反動化しやすいのである。
 ロレンスにおいても、このような事態が生起して、凸iの連続性へと傾斜したと思われるのである。
 具体的には、妻フリーダとの関係が否定的になったことが根因のように思えるのではあるが、実際は社会的事件等も大きく関わっているのである。そう、重層・複合的反動化があると言える。


コスモス:宇宙と精神:マクロコスモスとミクロコスモスの照応とフラクタル

テーマ:manichaeism: 哲学

この問題は長年検討中であるが、未だに導きの糸が見出せない。
 直観では、MP1(虚軸点)にコスモスの原動力が存するのであり、それがMP2(実軸点)へと展開して、宇宙現象となるのである。
 問題はコスモスの原動力の力学なのである。私は占星術、古代宇宙論のマクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙:人体)の照応を正しいと直観しているのであり、その力学、コスモス力学を打ち立てたいのである。
 そう、マクロコスモスとミクロコスモスの照応とは、結局、フラクタルで説明できよう。 
 しかし、問題はフラクタルの質的力学なのである。
 正五角形はVector Modeで説明できる。これは自然事象である。黄金比の事象である。
 思うに、ここから帰納させれば、自然事象には、比率が支配していると言えるだろう。プラトンの比例がそのような視点である。
 とまれ、比率が西洋文明の理性になったのは哲学的常識である。(理性の問題はそれが量化されてしまったことにあると言えよう。つまり、科学、物質科学、近代科学の問題である。)
 ここで簡単な作業仮説を立てよう。すなわち、MP1(虚軸点)において、実数による等分割が為されるというものである。
 ということは、MP1において、つまり、一(いつ)において、等分割原理が支配するということになる。
 2等分割、3等分割、4等分割、5等分割、6等分割、7等分割、・・・n等分割である。
 ということは、端的に、凹(−1)は虚数原理において、実数分割原理を内在、内包、包摂しているということではないだろうか。いわば、虚数的実数等分割原理である。あるいは、簡単に虚軸的等分割原理である。
 そう、直観では、凹(−1)は卵である。これが、等分割するのである。
 さらに作業仮説を行なうと、等分割原理において、質的差異が生じるということである。
 これは、陰陽原理から説明できるだろう。明らかに、2等分割において、陰と陽は質的差異をもつのであるから。その他の等分割においても同様と考えられるが、ただし、陰陽の差異的比率が異なると考えられよう。
 この陰陽的差異比率原理については、検討課題としよう。しかし、陰陽的比率ということで、既に、予測、予見はできる。



音楽と超越性

テーマ:music

思えば、音楽を視覚の事象のように論じてきたが、音楽を音、聴覚の事象として捉える必要があるので、簡単にコメントしたい。
 結局、感覚とは何か。知覚とは何か。これが問題である。
 これまでの考察から、感覚器官とは超越性によって、あるいは、虚軸性によって形成された物質的器官ということになる。
 しかしながら、同時に、そこにはmedia pointが存するのであり、media pointの「感覚」によって、本来の超越性を直覚すると考えられる。
 では、すぐれた音楽の事象とはどういうことなのか考察しよう。
 精神性の感覚的表現がすぐれた音楽である。(もっとも、これは音楽に限定されないが。)
 結局、感覚には先に考察したように精神性が存するのである。
 しかしながら、感覚器官は同時に物質的器官である。この点で、感覚を物質的感覚として限定しまうことになる。
 感覚を物質的感覚として捉えるのは、明らかに、物質科学(近代科学)が原因である。何故なら、感覚事象を物質事象として把捉するからである。
 そう、確かに感覚は物質的感覚ではあるが、それだけではない。
 これは先に述べたように、実軸点(MP2)における事象・事態である。ここでは、精神性があると同時にないのであり、物質的感覚、同一性感覚が生起するのである。
 物質科学(近代科学)はこの実軸点(MP2)における物質性を特化した科学と言えるのである。
 本題に戻ると、音楽は実軸点(MP2)における聴覚事象であり、そこに反映される精神性を表現していると言えよう。
 では、音、音響、音波とはどうして、精神性を表現できるのか考えてみよう。
 結局、空気自体が単に物質ではないと言えよう。そこには、差異共振エネルギー、つまり、氣が存するのである。その氣を活性化するのが音楽であり、氣的聴覚的現象が音楽であると言えよう。
 だから、単に、音、音響、音波ではないのである。氣的サウンドなのである。


2011年11月19日(Sat)▲ページの先頭へ
凸i中心父権的民族と凹i中心母権的民族:ヤハウェとエローヒーム:一神教と多神教:マニ教の光の教会
テーマ:manichaeism

これは既述済みで復習である。
 父権的民族は凸i中心主義なので、他者凹iを否定する力学をもつ。具体的に言えば、西洋文明は東洋文明他を否定する。
 凸i中心主義は同一性主義であり、超越神であるヤハウェからわかるように、超越性をもった同一性主義である。基盤は第二象限である。
 この超越的同一性主義は、他者・差異凹i(-i)を自己同一性化して止まない。同一性化が極大化すれば、他者の殲滅を志向する。
 つまり、自己を脅かす他者は殲滅させる力学(暴力力学)をもっているのである。これは容赦のないものであり、いわば、悪魔的である。
 この同一性主義は結局、ゾロアスター教のアーリマンと重なるだろう。(思えば、グノーシス主義は旧約の創造神を邪神と見たのである。でも、シュタイナーは実に興味深いことを述べている。ヤハウェはキリストの裏返しであるというのである。キリストの光を第三象限に置けば、ヤハウェの光は第二象限に属すると言えよう。あるいは、キリストの光をD. H. ロレンス的に闇と呼ぶことも可能だろう。凹iである。)
 さて、父権主義は既述したように、明治以降の「近代」日本国家の支配層に基本的に見られるものである。
 だから、権力者は国民に酷いのである。国民のlifeのことなど、一顧だにしないのである。また、封建的心性があるために、集合的であり、個がないために、的確な判断ができないのである。主従関係があるので、主の権力に服従するのである。(思うに、ここに西洋的父権主義と日本的父権主義の違いが見られるだろう。前者はルネサンスやプロテスタンティズムを経ているために、個的自我を基盤とするが、日本は日本的個・母権的個を否定してしまったのである。また、日本の愚民であるが、やはり、封建的心性、主従性があるので、主に対して盲従して、無・没思考的になっていると考えられる。)
 今日、明らかに、父権的文明の終末を迎えているのである。PS理論から言えば、決定的に他者・差異を欠損した文明の終焉であり、当然、他者・差異を肯定する新文明が必須である。
 ここでマニ教の光の粒子、光の教会の概念を導入するとどうなるだろうか。
 これは世界普遍的に作用する理論である。多様性の中に普遍性を見る理論である。そう、正に、他者・差異の理論である。
 このマニ教の光であるが、それは、media point、差異共振を意味するのであり、私の言葉では超越光である。
 これは、光であり、また、闇である。しかし、基本は闇凹i(-i)であると考えられる。
 闇が光と共振する超越光がマニ教の光であると思われる。第三象限に属するのである。確かに、第二象限にも光がある。これは西洋文明ないし父権主義の光である。所謂、理性の光である。(ヘラクレイトスの万物の根源の「火」とはそれではなく、超越光であると思う。そう、超越火である。陰と陽の闘争・衝突のエネルギーとしての「火」と考えられる。「万物は流転する」とは正に、media pointの本質である。)
 第二象限の光、理性の光とは、実は当為、格率にしか過ぎない。その実体は強制なのである。到達できない超越的存在を同一性で強制するための「暴力装置」である。(超越神のことを言うと、原同一性である凸i(i)からは凹(−1)は絶対的に把捉できない彼岸に存するものであり、凸i(i)中心主義からこそ、超越神が生まれたと言えよう。正確に言えば、超越的唯一神である。凹i(-i)がベースの母権主義は内在的超越的多神教を産むと考えられる。この問題は課題としよう。)
 ということで、マニ教の光、光の粒子は第三象限の光、超越光(超越火)ということになる。
 では、光の教会とは何か。(そう、私は「父」の時代⇒「子」の時代⇒「聖霊」の時代と進展するフィオーレのヨアキムの精神・霊的史観は、マニ教に起源があるのではと直観している。)
 光の教会とは、今日では、一つの中心として、インターネット世界ではないだろうか。
 インターネットは母権主義のメディア、他者・差異のためのメディアと言えよう。だから、それは光の教会と呼べるのである。また、あえて言えば、マニ教的であるPS理論を伝播するので、ネットこそ、正に、光の教会と言えよう。


ニュートリノは光より速いのか -光の粒子と闇の粒子の「差延」作業仮説
以前の実験には問題があると指摘されていたが、それが解消されたのだろうか。
 とまれ、もし、ニュートリノが超光速であるなら、原理的に何を意味するのか。
 考えられるのは、闇の粒子説、あるいは超越光の粒子説等である。
 闇の粒子とは、凹i(-i)、陰の粒子と想定できる。凹iが主導的ならば、凸i(i)、陽はそれとはずれる。つまり、遅れが生じるのではないだろうか。いうならば、「差延」(デリダの用語の敷延)である。光が闇より遅れるということである。
 だから、闇は光よりも速いことになる。この闇の粒子がニュートリノの可能性があるだろう。
 次に、超越光の粒子であるが、これは以前示唆したことがある。しかしながら、この超越光説はうまく機能しないようだ。
 故に、今の段階では、もしニュートリノが超光速ならばという仮定で言えば、それは闇の粒子で説明できるかもしれないということになる。

追記:まだ、超越光の粒子説も可能性は残っている。超越光の反映がMP2(実軸点)に生起するとき、それは、光より速いのではないだろうか。その物質化がニュートリノかもしれない。これは以前示唆したことである。
 
 
ニュース記事:
「光より速い」ニュートリノ、再実験でも光速
(CNN) スイスにある欧州合同原子核研究機関(CERN)の国際共同研究グループOPERAは18日、素粒子ニュートリノが光より速く飛んだとする実験を再度実施し、同一の結果が得られたと発表した。

今年9月の最初の実験結果を受け、科学界で疑問が出たことなどを踏まえ再び行ったもので、実験装置を厳密に点検したほか、速度測定に工夫を加えるなどした。これらの実験結果が事実なら、光より速いものはないとするアインシュタインの相対性理論を覆す大発見で、現代物理学の根底を揺るがす可能性がある。

ただ、OPERAは再実験の結果が同じだとしても、実験の正しさなどの最終証明には中立的立場のほかの科学者の立証が必要であることに変わりはないとしている。

9月の実験では、1万5000個以上のニュートリノを使い、スイス・ジュネーブ郊外にあるCERNと730キロ離れたイタリアのグランサッソ研究所の間の地中で粒子加速器を用いて実施。ニュートリノが飛んだ距離と時間などを10億分の1秒単位まで厳密に計算した結果、光より速かったことが判明したとしていた。

再実験では、1個のニュートリノが作られる時間をより厳密に知るための工夫などを施して測定した。米ボストン大学のコーヘン物理学教授によると、この工夫はニュートリノ20個を対象にしたもので、各1個の速度測定が出来るなら、精密な実験結果につながるという。9月の実験では、特定のニュートリノの速度測定はしていなかった。同教授はOPERAには加わっていない。

イタリア国立核物理学研究所・グランサッソ研究所のボターノ責任者は、ニュートリノは今回の実験で光より62.1ナノ秒(ナノは10億分の1)速く到達したと述べた。

コーヘン教授は、再実験は最初の実験よりはるかに信ぴょう性のある結果となったとしながらも、解明が必要な部分がまだ多数あるとも指摘した。グランサッソ研究所のボターノ責任者は、実験結果の最終証明にはほかの科学者の新たな実験が必要とし、結果が確認されたとしてもアインシュタイン理論が全て否定されるわけではないとも説明。同理論を取り込んだより広がりのある理論が創出される可能性に言及した。

OPERAのような実験が出来る世界の加速器施設にはこのほか、各国が参加してT2Kプロジェクトを進めている日本のJーParcや米イリノイ州のフェルミ研究所がある。

スイスにある欧州合同原子核研究機関(CERN)の国際共同研究グループOPERAは18日、素粒子ニュートリノが光より速く飛んだとする実験を再度実施し、同一の結果が得られたと発表した。実験結果が事実なら、光より速いものはないとするアインシュタインの相対性理論を覆す大発見で、現代物理学の根底を揺るがす可能性がある

http://www.cnn.co.jp/fringe/30004648-2.html


ニュートリノは光より速いのか - 相対性理論を覆す可能性をCERNが提示 [2011/9/25]

ニュートリノ振動を検証する国際共同実験(OPREA実験)の研究グループは2011年11月17日、arXiv.orgに2011年9月22日に報告したニュートリノが光よりも早い可能性があるとした研究論文の第2版を掲載した。

SPS/CNGS(CERN Neutrino to. Gran Saaso)のレイアウト図

第2版では、OPERA検出器などを前回の研究に比べて高精度化を図ることで、CERN(欧州原子核研究機構:the European Organization for Nuclear Research)のニュートリノビーム源から、約730kmはなれたOPERA検出器までのニュートリノの速度を再度測定した結果を掲載した。

CNGSのビームライン(ニュートリノ発生装置)のレイアウト

再測定の結果、 真空時の光の速度を計算した場合に比べてニュートリノの到達時間は(57.8±7.8(stat.)+8.3-5.9(sys.))nsほど、早く到達したことが確認されたという(前回は60.7±6.9(stat.)±7.4(sys.)ns、ここでのstatは統計誤差、sysは系統誤差)。


LNGSのOPERAタイミング・システムのイメージ図(左)と、測定における各種の統計誤差(右)

これは、前回の実験とほぼ同じで、光の速度に対するミューニュートリノ速度との相対比率が(v-c)/c =(2.37±0.32(stat.)(sys.))×10-5ということに対応するという(前回は2.48±0.28(stat.)±0.30(sys.)×10-5)。また、この結果の信頼度は6.2σとなっている。


左図の左列が1回目、右列が2回目の測定で、下段が、ニュートリノの検出数(黒点)と陽子ビーム出力波形(赤線)を飛翔時間1043.4nsとして重ね合わせたもの。一方、右図は測定器の遅延時間。この飛翔時間から遅延時間を差し引いた結果が、今回の測定時間57.8nsが得られた

なお、研究グループは第2版の最後に、結論として、今回の解析結果は大きな衝撃となるが、まだ未知なる影響などが考えられることは依然変わっておらず、今後も研究を継続して行っていく必要がある、としている。

http://news.mynavi.jp/news/2011/11/19/001/


ニュートリノも素粒子 - 5分で理解する素粒子の基礎 [2011/11/2]

ヒトも物質も、分子でできており、その分子も原子の組み合わせで構成され、その原子も…とドンドン細かく分解していくと最後はどこに行き当たるのか。言葉通り、「それ以上分割できない粒子」のことを素粒子と呼びます。

例えば脆い石を壁に投げつけると粉々になります。その中の1つの粒をさらに拾い、その大きさに見合った小人がまた壁にぶつけるとやはり粉々になり、さらに小さな小人がまた壁にぶつける…この分割作業を繰り返していくと、逆にやがて硬い粒が出てきます。この粒はどんなに力自慢の小人が壁にぶつけても割れません。この粒を素粒子と言います。素粒子ほど硬くないものは単に粒子と呼びますが、石ぐらいの脆さだと、粒子とも言いません。

二酸化炭素の化学式はCO2で、炭素(C)が1つと酸素(O)が2つから構成されていることを表しています。Cは人体にもたくさん含まれている粒子で、体重70kgの人の場合16kgくらいの炭素があると言われています。16kgの炭素というと、粒子の数にすると1兆の1兆倍以上となるので、もしヒトを、素粒子レベルまで粉々にしようと思ったら、膨大な回数、小人の投手を登板させないと達成できないのです。

さて、素粒子はそれくらい小さいものなので想像がしにくいかもしれないが、実はいくつか種類があります。CやOでもヒトからすれば十分小さいですが、それでも違う名前がつけられているのはそれぞれに個性(役割や特徴)が違うためです。H2Oをたくさん集めると水として、CO2をたくさん集めると二酸化炭素として人間の生活に関わってきます。この2つは水素(H)とCが違うだけなのに、見た目や性質はまったく異なります。素粒子も同じで、個性が違うものがいくつもあります。
素粒子は大きく分けると2種類のみ!

一番身近な素粒子は「電子」と「光子」、そして最近、光よりも早いかもしれない、と話題になっている「ニュートリノ」があげられます。電子とニュートリノは「フェルミ粒子」と呼ばれる仲間で、光子はウィークボソンなどとともに「ボーズ粒子」と呼ばれる仲間です。

ヒトの身近に存在する"モノ"はだいたいフェルミの仲間と思ってよく、見えない力を伝えるのがボーズの仲間と思ってよいです。例えばレントゲンに使われるX線やセンサに使う赤外線など、すべての電磁波は光子で、可視光も光子です。これらは、どう見てもモノっぽくはないですね。電子もモノっぽくないかもしれませんが、電子機器はもちろん、ヒトの体の中にも電子はたくさんありますから、れっきとしたモノであると言えます。

ニュートリノはちょっと変わっていて、モノっぽくないけど、電子の仲間という変わり種の存在です。なぜ、電子の仲間に分類されるかを解説しようと思うと、それだけで話ができてしまうので省略しますが、1つ言えることは、「ニュートリノは力を伝えない」ということです。
"力"、それはメッセージの解釈

我々が平和に地球上で暮らせているのは、HやOといった粒子がさまざまな効果を発揮するほか、さまざまな"力"が存在するおかげです。

例えば、地球と人体の間には万有引力が働いています。これは超常現象でもなんでもなく、ちゃんと「重力子」という素粒子が力を伝えているために発生します。敢えて例えるならばボーズ粒子は「手紙」で、地球とヒトの体は、「私、こういった者なのですが、ご都合よろしければ引き合いましょう」という手紙を絶えず交換し続けている間柄ということになる・

手紙といっても、ビジネスレターから時節のあいさつ、ラブレターまで、いろいろ幅広いですが、素粒子のように小さいと手紙の内容は4種類に絞られます。その4種類の手紙はそれぞれ「重力」「電磁気力」「核力」「弱い力」という4つの力に対応しています。

それぞれに対応した手紙の内容は、簡単に表すと重力が「重力で引き合いましょう」、電磁気力が「電気の力で引き合う、もしくは遠ざかりましょう」、核力が「電気のことは気にせずにくっつきましょう」、弱い力が「くっついているところ悪いんだけど、別れよう」というものになります。単純な内容で、味気ないつまらない話に思えますが、素粒子も大きなモノも、手紙の内容を読まずにいると大変なことになるのは身に覚えがある人も居るでしょう。

極端な話、重力(万有引力)が存在しなければヒトもモノも宇宙空間に放り出されることになります。また、前述のように、ヒトの体には無数のCが含まれてますが、それは大雑把にいうと、陽子が6個集まったものです*。

陽子が集まっている近辺には中性子という粒子があり、この集まりを原子核という。この集まりから(粒子的に)かなり離れた位置に6個の電子が飛んでおり、この原子核と電子の距離がすなわち、炭素原子の大きさを表す

陽子はプラスの電気を持っているので、一般的な常識からすればプラス同士が近づけば反発してバラバラになろうとしますが、CはCとして存在し続けます。

磁石のSとS(もしくはNとN)を近づけても反発してずれてしまうのと似ている

これは、陽子と陽子の間に"核力"、つまり一種の引力が働いているためです。この核力の手紙に書かれた「電気のことは気にせずくっつきましょう」という内容は「グルーオン」と呼ばれます。
粒子によって、興味を示す対象(手紙)が違う

粒子はその種類により、力の感じ方が変わってきます。例えば仮定の話ですが、バスケットボールくんは地球さんが大好きですが、電気は嫌いなので電子さんから「光子」と書かれた手紙 (光子メール。以降、めんどうなので、電磁気力を電気メール、重力子を重力メール、グルーオンを核メール、ウィークボソンを別れメールとしましょう)が送られてきても読みません。しかし、大好きな地球さんから届く「重力子(重力メール)」という手紙は喜んで読み、その結果、そこに書かれている「電気の力で引き合いましょう」ということに興味を示し、お互いに引き合います。

一方、電子さんは電子さんで地球さんとは好きでも嫌いでもない関係なので、地球さんからの重力メールは、目を通し、「重力で引き合いましょう」と書かれていれば、一応読むには読みますが、それよりも大親友である陽子さんに「電気の力で引き合いましょう」と書かれた手紙をもらうと、そっちのほうが興味があるのでそちらに目が行き陽子さんと引き合うために喜んで動き出します。
独立独歩で我が道を行く"ニュートリノ"

ではニュートリノはどうでしょう。ニュートリノは非常に軽いフェルミ粒子で、電気メールも核メールも興味を示さず読みません。重力メールもたまに興味を示しますが、ほぼ読みません。こうした手紙を読まないということは、送っても返事をくれる相手がいないので、書かないということでもあります。ニュートリノが人体に向かって飛んできても、(人体を構成する無数の粒子は)誰もニュートリノに止まれという手紙を出さない(出しても読まれない)し、ニュートリノもニュートリノで人体(を構成する無数の粒子たち)に対して、動け、という手紙を出すこともありません。それ故に、人体をそのまま突き抜け、何らかの影響を及ぼすことがない無害な存在となっています。

え、中性子爆弾ってあるじゃないか、という人も居ると思いますが、これは中性子が電気メールを読まずに核メールを読むという性質を利用したもので、中性子が人体に入ると「中性子放射化」という現象が生じるために人体に影響が出てきます。

自分に興味をまったく示さないものが、たまたま自分の目のはしに映って、気になってきて逆に興味を持ってしまうというのが人間です。小柴昌俊氏がノーベル賞を受賞した理由は「天体物理学、特に宇宙ニュートリノの検出へのパイオニア的貢献」とされていますが、この検出とは、筆不精のニュートリノと手紙のやりとりをすることに他ならず、その手紙をやり取りするための装置が「カミオカンデ」であり、「スーパーカミオカンデ」です。

ただし、カミオカンデで送ったこちらからの手紙の返答を残念ながらニュートリノから直接もらうことはない。ニュートリノと水分子の衝突が「チェレンコフ光」と呼ばれる電気メールを誘発し、検出装置はそれを受け取って反応を示すためだ

2011年9月23日、ニュートリノをジュネーブのCERNから約730km離れたグラン・サッソのイタリア国立物理学研究所研究施設に飛ばしたところ、 2.43ms後に到着し、光速より速いことが計測されました。 ただし、この計測結果に対し、多くの人はニュートリノそのものに対する興味としてではなく、相対性理論に対する興味として話題にしています。

ニュートリノが光より早いかどうかと、相対性理論を直接つなげて話をすることは、追証の結果が出てからになるでしょう。その追証も、そんな数週間で出てくるわけがありません。1-2年は猶予を見る必要があるでしょう(2010年6月に小惑星探査機「はやぶさ」が持ち帰った小惑星イトカワの微粒子の研究も、ようやく基礎的な部分の1部が成果として出てきただけで、これから世界各地で本格的な研究が開始されることを考えれば、その成果がどの程度後から出てくるか想像できるでしょうか)。

こうした世界的な科学に関するニュースが出た時は、その事象に対するアンテナだけは張っておくことに損はありませんが、焦ってもすぐにさらに細かな情報が出てくることは残念ながらありません。次の情報が出るまで、ヤキモキして待つのも良いですが、自分の興味のある分野の研究や科学技術の動性など、そうした話題が出る前から追いかけてきたものをもう一度見直してみると、また、新しい発見や考察が出てくるかもしれません。

http://news.mynavi.jp/news/2011/11/02/003/index.html


ダブルショー実験が近距離での反電子ニュートリノの消失現象を報告

http://news.mynavi.jp/news/2011/11/09/090/index.html


2011年11月17日(Thu)▲ページの先頭へ
大地とは何か:第三象限、凹i(陰)、「地」とコスモス
参照の画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11080788428.html

テーマ:manichaeism

宇宙への志向、「天」への志向はわかりやすい。
 では、大地、「地」への志向とは何を意味するのか。
 PS理論では端的に、凹i、陰であろう。これは、第三象限と通じている。つまり、四大で言えば、地と水が存する。
 直観では大地の中心とは第三象限である。宗教は一般には「天」を志向するが、天才的宗教家は「地」を志向する。
 鈴木大拙は『日本的霊性』で正に、地、大地の霊性を説いたのである。
 ここで作業仮説であるが、情報、根源的情報、霊・精神的情報が第三象限ないし凹i(陰)に存するとしよう。これを凸i(陽)が取り込むのでないだろうか。しかし、合理性、論理性、そう、ロゴスに従って。プラトンのイデアはそのようなものだろう。一般に西洋文化はそのような知的原理をもっている。つまり、第二象限である。
 ここで飛躍するが、コスモス(宇宙、ないし、「天」)の根源は何であろうか。
 単純に言えば、media pointの虚軸点がそうだと思うが、上記の考えからすれば、第三象限、ないし、凹i(陰)に根源があると言えよう。言い換えると、大地、「地」に根源がある。
 だから、凸i(陽)、「天」とは凹i(陰)、「地」の反映、反照、投影ではないだろうか。(シュタイナーの考えがそうであるし、D. H. ロレンスもそうである。)
 物理学的に言わば、ダーク・エネルギー(おそらく、「ダーク・レイ」)がライト(光)を映出しているのである。
 闇が光を産み出しているということになる。(そのようなことがありえるのだろうか。)とまれ、光は現象界へと投影されるのである。
 では、第三象限、ないし、凹i(陰)、「地」にどのように、精神的情報が存するのだろうか。
 思うに、それは直観的情報、直観知である。不連続的差異論の段階で、知即存在という概念を述べたことがあるが、直観的情報、直観知はそのようなものではないだろうか。(あるいは、即非知と言えよう。)
 すると、直観知的源宇宙(コスモス)、即非知的源宇宙(コスモス)が存することになる。
 ダーク・マターはここに存すると言えようが、果たして、マターと呼んでいいか疑問ではある。
 結局、第三象限、凹i(陰)、「地」から開始され(天地開闢)、凸i(陽)、「天」が能動化するのではないだろうか。
 そう、それが、ゲーテ/シュタイナーの上昇ではないだろうか。
 西洋文明は根源にヤハウェが存したが、それが今や枯渇してしまったと言えよう。新たに、第三象限、凹i(陰)、「地」へと回帰すべきときである。
 これがロレンスが『黙示録論』で説いたことだろう。
 とまれ、以上はまったくの思考実験である。

参照:省略


2011年11月16日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:原子とmedia point:虚軸点の氣と実軸点の原子
テーマ:science

これまで、私は原子ないし原子核について、PS理論からほとんど論じてこなかった。理由は光と物質の関係の解明が支配的であったからだ。
 今、簡単に原子について思考実験してみたい。
 直観では原子はmedia pointの実軸(実軸点と呼ぶことにする)で形成されると思われる。凸i(i)と凹i(-i)が連続化し、物質化、粒子化すると考えられる。(以下、簡略化のため、凸iをi、凹iを-iとして考察する。)
 実軸点において、iが陽子となり、-iが電子となる。水素原子の場合、これで原子を構成する。
 それ以外の原子の場合、中性子が入るが、それは、実軸点自体と見るべきかもしれない。
 そう、実軸点において、media pointの一種収縮、物質的収縮が行われると思われる。それは原子化と言えるだろう。
 つまり、エネルギー(氣)が物質化、粒子化するのである。(量子化とも言えよう。)
 それは微小空間化とも言えよう。media pointの微小空間化である。そして、繰り返せば、iが陽子化し、-iが電子化し、実軸点が中性子化することになる。ただし、水素原子の場合は実軸点は空(φ)となる。
 直観では多様な原子はmedia pointの時間的ずれによる共振から形成されるのかもしれない。あるいは、実軸点の融合から生まれるのかもしれない。この点は後の問題としたい。
 とまれ、このmedia pointの微小空間化が原子ということであり、これが電磁的に融合して分子を形成し、いわゆる物質体を形成するのではないだろうか。それが、⇒+1の+1である。
 とまれ、簡単に整理すると、根源エネルギー(氣)がmedia pointにおいて、実軸変換すると、実軸点において、微小空間化=原子化が生じ、原子が形成される。iが陽子、-iが電子、そして、実軸点が中性子(水素原子では空)となる。原子核はiと実軸点の結合点、即ち、 実軸点のiの方向への近傍に存するのではないだろうか。
 とまれ、原子の基本はiと-iとの実軸点を中心とする『対立』ということになる。(これを均衡とすると限定されたものになる。)
 原子の生成への試論は以上であるが、原子生成以前の事態について考えると、当然、media pointの虚軸(虚軸点と呼ぶことにする)の様態のことになる。それは、いわば、差異共振点であり、私見では氣のエネルギーが存するのである。
 それは、超越的存在から派生する超越的エネルギーをもっていると考えられる。
 先にも述べたように、氣から物質への変換は即非的変換であり、実軸点は超越性・即非・物質性の様態である。とまれ、物質性の方が主であり、超越性は従であると考えられる。ついでに言えば、虚軸点においても、超越性・即非・物質性があるが、超越性が主であり、物質性は従であると考えられる。
 ここで免疫力について考えると、虚軸点の氣が免疫力の根源だと思われる。飯山一郎氏が乳酸菌のそれを説くが、乳酸菌とは虚軸点の氣を強くもつ細菌と考えられる。
 また、放射能を浄化する光合成細菌であるが、それは実軸点における対立から生じる放射性崩壊の物質エネルギーを生命保持に活用する生命体と言えよう。ここには、生命体の根源・原始的様態が見られるのではないだろうか。
 
参考1:

原子の構造

現在では、原子と電子の関係は量子力学によってほぼ解明されているが、原子核のことは今でもわからないことは多い。また、量子力学 の発展に伴い、当初の原子論が暗黙裡に含んでいた素朴な図式・世界観(球状の何かの想定、モノが絶対的に実在しているという素朴な観念、つまり非確率論的に実在しているという素朴な観念)は根本的に崩壊した。物理学の理論全体としては、原子論は当初となえられていたものとは極めて異質なものになっている。
原子の構造 [編集 ]

原子は、正の電荷 を帯びた原子核 と、負の電荷 を帯びた電子 から構成されると考えられている。原子核はさらに陽子 と電気的に中性な中性子 から構成される(ただし水素原子 の99.985%を占める1Hは中性子を含まない)。陽子と中性子の個数の合計を質量数 と呼ぶ。原子核の半径は原子の半径の約10万分の1(1 fm 程度)と小さい。なお、一般的な原子の模式図は原子核の大きさを原子に対して数分の1程度に描いているが、これは実態とはかけ離れたデフォルメである。原子は硬い球体というよりも、むしろ真空の中に存在する点状の原子核と電子である。但し、電子はしばしば描かれる模式図のように特定の軌道を描いて原子核のまわりを回っているのではなく、原子核のまわりに確率的に分布しており、原子核を電子雲が包むイメージのほうがより現実に近い。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90

放射性崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索

放射性崩壊(ほうしゃせいほうかい、radioactive decay)は、不安定な原子核 (放射性同位体 )が様々な相互作用によって状態を変化させる現象である。放射性壊変(ほうしゃせいかいへん)、放射壊変(ほうしゃかいへん)、原子核崩壊(げんしかくほうかい)、あるいは、単に崩壊とも呼ばれる。
放射性崩壊の種類 [編集 ]

これらの現象の詳細は、個別の記事を参照のこと。

アルファ崩壊
アルファ粒子 を放出し、陽子 2個・中性子 2個を減じた核種 に変わる。核分裂反応の1つとして認識されることもある(例:226Ra →222Rn )。
ベータ崩壊
質量数 を変えることなく、陽子・中性子の変換が行われる反応の総称で、β-崩壊(陰電子崩壊)、β+崩壊(陽電子崩壊)、電子捕獲 、二重ベータ崩壊 、二重電子捕獲 が含まれる。
ガンマ崩壊
それぞれの崩壊を終えた直後の原子核には過剰なエネルギー が残存するため、電磁波 (ガンマ線 )を放つことにより安定化をしようとする反応である。
核分裂反応
非常に重く不安定な核種では、その核が質量の小さな原子核に分裂し、巨大なエネルギーを放つとともに、より安定な核種へと変化する。例えば、235U に中性子 を衝突させると、95Mo と139La に分裂し、2つの中性子 を放出し、欠損した質量 分のエネルギー が発生する。
自発核分裂
核分裂反応のうち、自由な中性子の照射を受けることなく起きる核分裂を指す。現象そのものは人為的な核分裂反応と変わらない。
核異性体転移
ITと略される。原子番号と質量数ともに同じで、エネルギー準位 が異なるような2つの核種を、核異性体 であるという。例えば、99Tcと99mTcは互いに核異性体である。エネルギー準位が高いほうは記号mを付けて区別するのだが、こちらは準安定状態 (メタステーブル)であり、余剰のエネルギーを放出して安定になろうとする。エネルギー準位が高いほうの核異性体がガンマ線を放出して、より安定な方の核異性体に変化することを、核異性体転移という。放出される放射線はガンマ線であり、原子核の原子番号と質量数はともに変化しない。

99mTc → 99Tc + γ (T1/2=6.01h)

一部の核異性体転移では、ガンマ線が軌道電子にエネルギーを与えてはじき出す。これを内部転換 という。電子がはじき出される点でベータ崩壊に似ているが、原子核は変化しておらず、自らの原子はイオン化される。

崩壊熱 [編集 ]

放射性物質 は、核爆弾 や原子力発電所 の運転中の炉心のような中性子の照射を受けることで大量、または多量のエネルギーを放出する連鎖反応を伴わない場合でも、放射性崩壊によってそれ自身が勝手に核種などを変えてゆくため、その過程で放出される放射線のエネルギーが周囲の物質を加熱し、崩壊熱 (decay heat) となって現われる。時間当たりに放出される崩壊熱のエネルギーは不安定な物質であるほど大きく、その大きさは元の放射性物質がしだいに放射線を放って比較的安定である核種や安定核種へと変化するに従って減少する。例えば原子炉の炉心では発電のための核反応を停止しても、その1秒後で運転出力の約7%ほどの熱が新たに生じ、時間の0.2乗に比例して減少しながら1日後でも約0.6%の熱が放出される[1] 。
半減期 [編集 ]

核種ごとに一定時間内において崩壊 する確率 が異なっている。この確率 を計算 することにより半減期 を知ることができる。同じ化学的元素 であっても質量数の異なる同位体ごとに半減期は異なる。たとえば、質量数238のウラン の半減期は44億6800万年 であるのに対して、質量数239のウランの半減期は23.5分 である。たった1つ中性子の数が異なるだけで、これほど大きな違いが生じるのである。

極端に長い半減期を持つ核種が存在する。質量数115のインジウム の半減期は441兆年、質量数149のサマリウム では2,000兆年である。質量数209のビスマス は、2003年まではもっとも重い放射能を持たない核種として知られていたが、これは1.9×1019(1,900京)年に及ぶ半減期の放射性核種であると認められた。これらの極端に長い半減期を持つ核種は学術上、放射性物質に分類されるが、実質的には安定したものと考えて差し支えない。

超重元素 の分野では、1秒に満たない半減期の核種が多数を占める。たとえば質量数266のマイトネリウム の半減期は0.0034秒、質量数267のダームスタチウム の半減期は0.0000031秒である。簡単に言うならば、あまりにも原子核が大きくなりすぎて、その結合を保っていられる期間がこの程度の長さしかないということである。

半減期の短い核種は、どんどん崩壊していき放射能 を失っていくが、短時間に多量の放射線を放つため直接的な被曝 の危険度が高い。半減期の長い核種は、少しずつしか放射線を放たないので一時的に被曝する放射線量は小さいが、いつまでも放射線を放ちつづけるため長期的な問題を抱えることになる。特にウランやプルトニウムなどは最終的に放射能のない鉛 に到達するまでには約20回もの崩壊を経由せねばならず、全量が鉛となるまでの総時間は、現実的な思考の及ぶ範囲を超える長さである。放射性物質を平和 的に用いようが、軍事 的に用いようがこの問題はいっさい切り離すことができない。

特にかつては、半減期数万年の核種を数万年保管せねばならない事が、原子力発電のネックであった。しかし、最近、長半減期物質を分離して、加速器駆動未臨界炉 において中性子を照射して、自然崩壊ではなく、核分裂させて、短半減期核種に変換できる見通しが立てられた。これにより500年以下の保管で天然ウラン鉱石以下の放射線に低下させて廃棄/鉛やバリウムとして一般使用が可能になるとして開発がすすめられている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E5%B0%84%E6%80%A7%E5%B4%A9%E5%A3%8A

参考2:

【お勉強】 『光合成細菌と乳酸菌で放射能を浄化!』 …が最初から順番に読めるようになりました.

たたかう老人! 飯山一郎の ハッタリなしの 口演会場 .

http://grnba.com/iiyama/hikari.html


2011年11月14日(Mon)▲ページの先頭へ
光と物質:光と闇の共振エネルギー(氣=超越光)と物質現象
光と物質、これはイマジネーション、ないし、直観を刺激する。そう、虚軸に光があり、それが、発出して、物質を創る。思うに、光は闇と二重である。しかし、人間の視覚は光は知覚するが、闇は知覚しない。まるで放射能が知覚できないように。
 問題はやはり、media point(以下、mp)である。直観ではmp屈折があるのである。つまり、物質を形成する屈折である。それに対して、物質を形成しない投影がある。それが光そのものである。
 しかし、先に提起したように、光は超越光である。つまり、光と闇の共振である。いわば、光と闇の編み物、縒り糸、織物である。そう、光と闇の二重らせん。
 しかるに、人間の視覚は光しか見えず、闇は透明なのである。不可視である。
 物質も光と闇の二重らせんで創られていよう。光と闇のVector Modeである。氣のVector Modeである。(思うに、D. H. ロレンスが晩年の傑作『逃げた雄鳥』で述べた宇宙の暗い薔薇とはそれを指していよう。)
 問題は光と闇の共振エネルギーである氣と物質の関係である。
 前者のいわば外皮として後者があるだろう。外殻である。その物質の外殻に光が反映して視覚されると言えよう。
 正確にいうと、光と闇の共振エネルギー=氣の終点として、物質体があると言えよう。だから、氣がなくなれば、物質体は崩壊するのである。そう、有機体の無機体化と言えば、わかりやすいだろう。
 ここで根源の光と闇の共振エネルギー=氣について考えると、それは、可視的には光であるが、実は超越光であると考えられる。先に述べたように、それが諸宗教の説く「光」と考えられる。
 そして、それが現象界にも太陽光として発現しているのであるが、当然、光だけ視覚し、闇を看過するのである。
 そう、ロレンスが述べたdark sun (また、dark ray, dark God)とはこの闇のことではないだろうか。(dark energyもこれと関係するのではないだろうか。)
 結局、太陽光とは超越光の光であり、超越光の闇が通常の視覚では看過されるのである。
 そう、量子力学で言うと、光だけでは、「量子」は捉えられないと考えられるのである。上述のように、光と闇の共振エネルギーが本体としてあるのであり、闇を捉えない限り、量子力学は不十分なのである。
 そう、光は闇と二重らせんを形成しているのである。共起している闇を「科学」しなければ、まったくの片手落ちである。
 そう見ると、ダーク・マターとは、凹(−1)ではなく、この闇の形成する「物質」ではないのか。正に、闇の物質であり、不可視なのである。つまり可視の物質と不可視の物質があるということになろう。
 しかし、光と闇の二重らせんの外皮が物質であるから、実際は複合体ではないだろうか。この点はおいておきたい。
 ということで、凹(−1)は超越的存在であり、ダーク・マターとするのは問題があることを指摘しておきたい。
 とまれ、現実に闇があるのに、人間は視覚・知覚できないのである。ただし、それは、内身体的に感受できるものと考えられる。
 東洋文化は闇ないしは光と闇の共振エネルギー(超越光=氣)を捉える科学文化であったと考えられる。西洋は光のみである。
 思えば、ゲーテから学んだルドルフ・シュタイナーも闇の存在を明確に捉えていた。光と闇のシンフォニーが本当の自然・宇宙であり、それが精神なのである。
 そう、今や端的に言える。物質とは精神の外皮に過ぎないと。

追記:本稿はR. P. ファインマンの『光と物質のふしぎな理論:私の量子電磁力学』(岩波現代文庫)のタイトルを見て、浮かんだアイデア(直観)を基にしている。


resurrectionのブログ


光と物質のふしぎな理論―私の量子電磁力学 (岩波現代文庫) [文庫]
リチャード・P. ファインマン

(著), Richard P. Feynman (原著), 釜江 常好 (翻訳), 大貫 昌子 (翻訳)


参考:
『死んだ男』の圧巻の一つの「宇宙の大いなる薔薇」・「多くの花弁をもつ暗闇の一輪の華」

But the man looked at the vivid stars before dawn, as they rained down to the sea, and the dog-star green towards the sea's rim. And he thought: How plastic it is, how full of curves and folds like an invisible rose of dark-petalled openness, that shows where dew touches its darkness! How full it is, and great beyond all gods. How it leans around me, and I am part of it, the great rose of Space. I am like a grain of its perfume, and the woman is a grain of its beauty. Now the world is one flower of many-petalled darkness, and I am in its perfume as in a touch.
So, in the absolute stillness and fullness of touche, he slept in his cave while the dawn came. And after the dawn, the wind rose and brought a storm, with cold rain. So he stayed in his cave in the peace and the delight of being in touch, delighting to hear the sea, and the rain on the earth, and to see one white-and -gold narcissus bowing wet, and still wet. And he said: This is the great atonement, the being in touch. The grey sea and the rain, the wet narcissus and the woman I wait for, the invisible Isis and the unseen sun are all in touch, and at one.

The Escaped Cock(The Man who Died)
by D. H. Lawrence, The Complete Short Novels,
Penguin Books, 1990, p.597.

参考:今年発行された訳本から

「が、男は、夜明け前の生気に満ちた星々が海の上に雨のように降り注ぎ、天狼星が海の縁近くで緑色の雨のように降り注ぐのを眺めていた。そして、思った。「何という造形の妙だろう。何と曲線と襞にあふれていることか! まるで、露と暗闇が触れ合うところに、目には見えない黒い花弁を開くバラのようだ。何とあふれるほど充実していることか! 神々も及ばぬその偉大さ、それはわたしを取り巻くように傾き、わたしはその一部となる。この大いなるバラの宇宙の一部なのだ。わたしはその香料の一粒、そしてあの女はその美の一粒なのだ。今や、世界は多くの花びらを開いた一輪の暗闇の花であり、わたしはその香りのなかに、まるで肌を触れ合うように浸っている。」
 こうして、触れ合いの全き静寂と充足に浸ったまま、男は洞のなかで、夜明けとともに眠りに入った。夜がすっかり明けたころ風が吹き出し、冷たい雨をともなった嵐となった。それで男は洞のなかにとどまって、触れ合っている安らぎと歓びに浸って、海の音や、知を打つ雨の音を聞き、一輪の白と金に彩られた水仙が、雨に濡れてうなだれたまま、まだ今も依然として濡れているのを見て大喜びだった。彼はつぶやくーーこの「触れ合いのうちに身を浸すこと、これは、偉大な贖罪だ。灰色の海も、雨も、濡れた水仙も、わたしの待つあの女も、目に見ぬイシスの女神やあの太陽も、すべてが触れ合いのうちに、ひとつのものになっている。」

          岩田昇訳

『D.H.ロレンス短篇全集 5』大阪教育図書2006年 218〜219ページ

http://ameblo.jp/gaikokubungaku/theme4-10000376862.html


一つの世界文明、父権的物質文明の終焉:母権的個の螺旋的回帰と新共同体創造
一つの世界文明、父権的物質文明の終焉:母権的個の螺旋的回帰と新共同体創造

テーマ:manichaeism

resurrection
neomanichaeist resurrection

『一つの世界文明、父権的物質文明の終焉:母権的個の螺旋的回帰と新共同体創造』 amba.to/s1J4mi 一連のツイッターへ投稿したものをまとめたものです。思うがまま書いたので、荒削りのままです。とまれ、私のブログの名前を借りると、ヤポネシアの脱黙示録となります。
»
resurrection
neomanichaeist resurrection

8)これで止めるが、日本人は民族伝統の母権的個の原理に覚醒する必要がある。これこそ、日本が世界に誇るべき大文化である。とまれ、最初に述べたように一つ世界文明、父権的物質文明の終焉を迎えているのである。それは、母権的個の原理の螺旋的回帰であり、新共同体原理でもある。個的新共同体へ。

お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection

7)今やグローバル戦争金融資本主義がその危機(おそらく断末魔)から、日本へと標的を定めて大襲来しているのである。それに対して日本政府は某国の出先機関と化して、その侵略の斧の下に、首を差し出し、切断されるのを甘受するだけである。これは、必然の結果である。民族文化を否定した帰結である

お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection

6)この没個的無道徳的封建的利己主義の蔓延った日本の帰結が無謀な原発建設と原発爆発であり、無思慮な、封建的隷従的な自民党・民主党政権支配である。米国に隷従する没個的な封建的心性が政治家らを支配して、国民は没個的教育(狂育)や教養主義の崩壊によって、ますます無知蒙昧化していった。
5分前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection

5)没個的封建的心性があり、かつ戦後の米国近代合理主義が主導的となり、日本人の精神は近代以前かつ唯物論的になった。すなわち、精神的自立がまったくなされずに、封建的唯物主義が支配的なのである。ここには、個に基づく道徳・倫理はなく、無思考の利己主義が跋扈することになったのである。
12分前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection

4)戦後日本は米国中心主義となり、いわば脱亜入米が起こったと言えよう。それは、米国文明の刷り込み、洗脳である。自己民族伝統文化を否定し、米国文明が支配的になったのである。また、暴虐な戦争を生んだ「戦犯」は米国の戦略によって無罪放免となった。自ら「戦犯」処理できず、背徳人間を残した
15分前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection

3)日本的個の文化があるが、明治維新において、それを体現する龍馬や西郷らが排除されていってしまい、没個的封建的心性が支配的になり、無責任な、没合理的な大戦へと突き進み、大惨禍をもたらしたのである。それの反省もなく戦後はGHQ支配の下、日本文化破壊の戦後近代が始まった。精神文化否定
22分前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection

2)日本近代は私見では後期江戸時代の封建的心性を「発展」的に継続し、それが支配層の原理となった。未分化の半自我・半隷従的原理であり、森鴎外『阿部一族』の柄本又七郎の心性に表出していると思う。そこには、西洋近代の基本の個の原理が欠落しているのである。集団的自我の原理が支配した。
25分前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection

1)今一つの世界文明が終焉しつつある。それは父権・西洋的世界文明の終焉である。結局、父権的自我が母権的他者・差異・個を暴力的に否定・排除・消滅させる原理・力学がそれにある。グローバル戦争資本主義、超巨大資本的国家資本主義、反人間有機体的原発利権主義等々だ。アーリマン闇魔支配。


2011年11月13日(Sun)▲ページの先頭へ
感覚と魂:ver2:精神的光と現象光:虚点と実点の即非態
感覚と魂:ver2:精神的光と現象光:虚点と実点の即非態

テーマ:manichaeism

先の考察とは逆方向が本来の直観であったと思う。即ち、差異共振エネルギーが生じて、それが感覚界まで到達する。これは聴き手ではなく、創作者の視点である。
 とまれ、氣的エネルギーがあり、それが感覚へと下降する。この感覚には氣の情報が入っている。つまり、美的情報である。

(追記:「この感覚には氣の情報が入っている」という言い方は曖昧であると思う。というか、間違いだと思う。氣の情報はここにはないのである。虚点において氣の情報はあるが、実点においてはないのである。

追記2:追記に対して疑義が生じる。即非態ならば、虚点の性質が実点に反照するのではないのか。思えば、これは長らく気になっている点ではある。思えば、反照があると以前述べたのである。いったい、どちらなのだ。これは実に微妙な問題だ。やはり、即非様態である。つまり、実点には氣の情報はあると同時に無いのである。有であり、無である。だから、実点は虚点よりも不思議なものと言えよう。超越性があると同時に、不在なのである。思うにハイデガーが『存在と時間』で存在についてグチャグチャ言っているのは、この実点についてではないだろうか。しかし、虚点が把握されていないので、いわば、中途半端なのである。超越性であるような、物質性であるような一種未分化な発想に留まっているのだ。)

 これは、media pointの虚点(虚軸上の点をそう呼ぶことにする。次の実点も同様。)と実点(実軸上の点)の関係性をもつ。
 思うに、バッハ音楽を精神感覚で受容するというのは、虚点においてと考えられる。ここでは陽と陰が共振している。
 つまり、虚点の感覚、つまり、精神感覚があるということである。しかるに、実点においては、物質的感覚、現象的感覚があるだろう。これが通常の五感であろう。
 実点の感覚とは同一性感覚であり、ここには、芸術的感覚(美的感覚)はないと思われる。
 つまり、陽と陰が実点では連続的同一性化しているために、差異共振のもつ美が欠落すると言えよう。
 バッハ音楽を聴いて、精神を感覚するというのは、その音が虚点の様態をもっているということと考えられる。そう、結局、感覚とは陰と陽、凹iと凸iの極性によって形成されると言えよう。そして、差異共振から連続的同一性へと転化すると物質的感覚になるのである。
 感覚において勘違いしているのはこの点にあると考えられる。即ち、感覚は本来、精神様態なのであるが、それが実点において物質化作用を受けるのである。
 そして、それが一般的になっているのために、感覚本来の精神性を消失するのである。
 そう、私が光の超越光を感じるというのも同じことである。つまり、光は本来、精神光、超越光なのである。そのために、光を見ると爽快なのである。
 この精神的光、超越光は氣と言ってもいいだろう。氣的光、氣光である。
 これはまったく音の場合でも同じと考えられる。精神的音があり、それが物質的音として表出されるのである。
 これは先に述べた氣と電磁波と同じ関係であると考えられる。
 これで直観をほぼ表現できたようだ。
 ところで、後の課題は分割作用である。二等分、四等分、五等分はわかるが、三等分、六等分、七等分等の等分割はどうやって生まれるのか。これは今だによくわからないのである。

追記3:追記2のように考えると、その後の論と齟齬を来すので、修正しないといけない。
 結局、追記2が正しいのか、それともそれ以下が正しいのか。実点において、氣があるのか否かである。やはり、追記2が正しいだろう。つまり、そこには、氣があるが、同時に、無いのである。
 しかしながら、一般的には物質的世界に慣れてくると、つまり、大人になると、精神性、超越性を排除して生活するので、結局、実点には氣、精神、超越性がないようになってくると言えよう。これが今の解明である。




魂と感覚:光と闇の共振体と精神
テーマ:art & design

今は予見のみ。
 例えば、バッハの音楽を聴くと、すぐ精神を感じる。つまり、聴覚を介して精神に結びつく。ということは精神と感覚は結びついていることになる。
 しかし、一見連続的であるが、そうではない。精神と感覚とのつながりの力学をどう見るべきか。
 思うに、そもそも感覚とは何かが問題である。直観では、光と闇の共振が感覚を形成するのであり、それが外界の感覚的刺激を得て、感覚受容するのである。
 例えば、光を見るとしよう。光は視覚に入り、光と知覚される。しかしながら、視覚は光と闇の共振感覚とするならば、受容された光とは実は光且つ闇ではないのか。正確に言えば、光と闇の共振体ではないのか。
 つまり、もともと、光とは闇と一体ではないのか。それが、知覚されたとき、感覚器官は共振体を受容するのであり、それが、光だけでなく、闇をも感じ取るのではないだろうか。否、光と闇の共振体を感じ取るのではないだろうか。
 それは当然、光と闇の共振体であるから、精神として感受さるのではないだろうか。
 バッハの音楽に戻せば、それは、単に音響ではなく、音と非音の共振体ではないのか。それが、聴覚で感受されたとき、その共振体を感じて、精神を感じ取るのではないのか。
 あまりうまく言えていない。後で再考したい。




2011年11月06日(Sun)▲ページの先頭へ
悪の心性メカニズムについて
(人間認識図の画像は以下を見られたい。
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


人間認識図(参照:以下の図)では悪は第四象限に位置するが、悪の本質をシュタイナーの悪魔論を参考にして考察してみたい。
 今は予見だけだが、一言言うと、悪は当然エゴイズムであるから、他者の認識がネガティブなのである。他者否定の自我意識がある。
 PS理論ではmedia pointの喪失である。他者との均衡の喪失である。
 結局、凹i(-i)が他者であるが、それが他者ではなく、連続的同一性化されていることに問題があるだろう。つまり、自我凸i(+i)と他者凹i(-i)が精神的フィルターによって、連続同一性化されているのである。つまり、他者が自我化しているのである。
 そのため、他者に属すものを自我が横取りするのである。それが悪である。
 自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺がこの連続同一性化、連続同一性自我を意味する。
 凸(+1)は他者凹i(-i)を否定的に巻き込んでいるのである。他者を肯定するならば、それは、第三象限へ帰属するだろう。しかし、他者否定は連続同一性自我凸(+1)を意味するので、凹i(-i)が凸(+1)と融合させられた状態にあるだろう。だから、第四象限に位置するということではないだろうか。
 他者凹i のi回転が第四象限を影のように生むのではないだろうか。他者凹iの-i回転ならば、第三象限を生むことになるのではないだろうか。
 後で丁寧に検討したい。

追記:media pointの基本様態である差異共振と連続同一性は全く異なる。後者は前者を否定するのである。すなわち、自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺を意味し、凸i*凹i⇒を否定するのである。
 先ず、差異共振を見ると、それは凸iと凹iの拮抗、均衡である調和である。それは、母源凹(−1)からの創造エネルギーを受容するのではないだろうか。すなわち、凹⇒凸i*凹iである。ここには、氣が発生していると考えられる。
 しかるに、連続同一性の場合、それが否定される。差異共振ではなく、差異の同一性化である。
 思うに、同一性化とは、ガウス平面における右半円化ではないだろうか。極性が閉じられて、凸(+1)へと収束するのである。
 とは言え、その閉じられた自我、同一性自己は深部にmedia pointを秘めているだろう。media pointの「光の種子」を潜在させているのである。(これがマニ教の教義の根本にあるだろう。)
 しかし、連続同一性自己(自我)にとって、それは排除の対象である。
 とまれ、連続同一性自己は右半円領域を占めると考えられる。しかしながら、道義のある人間はmedia pointの差異共振性をもっているので、左半円領域をなんらか意識していると言えよう。
 唯物論が問題なのは、media pointを否定し、まったく左半円を否定してしまうことである。左派・左翼の問題はここにある。邪悪、悪魔的だ。近代合理主義もほぼ同様と言えよう。
 古典派経済では、まだ、道徳の余地があった。つまり、media pointが生きていたが、新自由主義となると、完全に道徳の領域が消えて、右半円中心となるのである。否、他者否定のために、第四象限的になると言うべきだろう。唯物論も同様だ。
 最後にもう一度、連続同一性の構造について考察しよう。
 同一性化とは、以前提起したが、凸i(i)が凹i(-i)に対して優位な場合の生じるのではないだろうか。つまり、凸i(i)傾斜があるということである。それが、他者凹i(-i)の差異を肯定できずに、同一性を押しつけて、所有化すると考えられる。この同一性の押しつけが、連続同一性であり、それが凸 (+1)に重なっているのではないだろうか。
 それに対して、凹i(-i)の傾斜が考えられるが、それは、差異をベースにする包摂を意味すると思われる。つまり、それは、凸i(+1) を包摂すると思われる。だからここでは、連続同一性化はなく、差異共振化が生じるのである。つまり、media pointの様態が生起することになる。
 ここから見ると、陰陽という命名は意義深い。陰が陽より先に来るのである。それに対して、欧米では陽が陰より先に来るのであり、そのため、連続同一性が形成されるのである。
 そして、それが結局、第四象限へと帰結するのである。つまり、欧米文明は邪悪、魔道であるということである。
 陰陽的東洋文明こそ、道徳的であり、正道である。
今はここで留める。

追記2:欧米の欧は西欧と見ないといけない。また、米であるが、それは、金融資本に買収された米国家である。


ガウス平面で表した人間認識の図
ガウス平面で表した人間認識の図
original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


2011年11月01日(Tue)▲ページの先頭へ
『光と闇の共振が形成する物質と超越光:media point (super)light seed』
『光と闇の共振が形成する物質と超越光:media point (super)light seed』

テーマ:manichaeism

光と闇の共振からmedia pointの実軸を介して、物質が形成される。しかし、それだけではなく、虚軸においてなにかが形成される。前者を創出、発出とするなら、後者は創入、発入とでも言うべきものである。
 思うに、これこそ、何度も既述した超越光ではないだろうか。先には、凹i=闇においてそれを想定したが。
 そして、ほとんどすべての宗教、神話、民話等が説く「光」はこの超越光ではないかと思う。当然、現象の光ではないのである。
 たとえば、キリストの光は超越光であり、正に、media point的である。(思えば、シュタイナーはキリストはアフラ・マズダであると述べているが、後者は結局、超越光である。)
 この視点から、マニ教の光の種子が意味が明瞭になるだろう。それは、media pointの虚軸(虚点と言おう)である。media point seedである。
 そう、万物はmedia pointにおいて、光の種子、超越光の種子をもっているのである。それは卵と言ってもいい。media point egg.
 先のゲーテの上昇であるが、それはmedia point seedへのアクセスと捉えることができよう。
 問題はこの光、超越光の種子を萌芽させ、成長させることである。それが魂の涵養、陶冶である。
 この光/超越光の種子の発芽・成長が心身を満たすようにはたらきかけるべきである。
 また、世の中にも当然、光/超越光の種子を見出し、発芽させ、成長させるべきである。(教育は本来、そういうものであるが、まったく倒錯している。)
 経済について言うと、資本主義においても、光/超越光の種子はあるのである。それは、差異共振経済である。そのための法形成が必要である。
 その他の領域についても言えるが、今はここで留める。



『ゲーテの「上昇」:media point twilight or orientation』

テーマ:manichaeism

R_Steiner_jp ルドルフ・シュタイナー

創造的な自然によって物質的なものの中から精神的なものが明確な形をとって現れてくる過程こそゲーテが上昇と呼んでいるものである。自然は絶えず努めて上昇するものの中で把握される。−ゲーテの自然観−


ゲーテ研究家であったシュタイナーは以上のように述べている。
 これはマニ教に通じる考え方であるが、PS理論ではどう捉えるだろうか。
 ツル植物の上昇は「天」を目指すものであるので、それはゲーテの「上昇」と通じるだろう。それは、「光」を目指していると思う。つまり、太陽を目指す。
 それに対して、根は下降であり、「闇」を目指す。
 思うに、端的に、凸iが「天」であり、「上昇」を意味しよう。そして、凹iが「地」であり、「下降」を意味するだろう。
 PS理論的には「上昇」も「下降」も、凹(−1)【大母源、ないし、母源と呼びたい】を指し示すだろう。
 思うに、「光」は「闇」へと浸透するのであり、「闇」は「光」へと浸透するのである。シュタイナー的に言えば、前者は赤であり、後者は青である。
 結局、それらはmedia pointを志向していると言えよう。だから、ゲーテの「上昇」とはmedia pointへの志向と言える。そして、結局は第三象限への志向と言えよう。
 では、母源と第三象限はどう異なるのだろうか。
 母源は超越的存在であるから、凸iの光より、凹iの闇で直感する方が適切である。
 故に、母源は第三象限に融け込んでいる、浸透していると言えるのではないだろうか。
 思うに、第二象限においては、母源は合理的知性で認識されようとするだろう。しかし、その場合は、正に、カント哲学の善の観念、実践理性になるだろう。合理的知性では仮構しかできないのである。
 凹iの直観性、直観的イメージ・ヴィジョンが母源を直覚するのである。
 おそらく、プラトンのイデアも母源を凸iで把握しようとしたものである。そう、ゲーテの上昇もそれに近いかもしれない。ならば、シュタイナーの精神もそのような向きがあるのではないだろうか。
 シュタイナーの瞑想は実に光的である。そうすると、彼の霊学は第二象限に属すことになる。
 それに対して禅の瞑想は第三象限であろう。



エネルギーと物質:media pointの非可逆性:脱西欧・media point epoch
PS理論では、宇宙は凹(−1)が起源であり、そこから陰陽エネルギー(氣)が創出されると考える。
 そして、陰陽エネルギー(以下、エネルギーと簡略化)は、media point変換によって、物質を発生させる。
 問題はmedia pointの物質発出機構、物質発出メカニズムである。
 エネルギーはmedia pointの実軸において、量子化されると考えられる。そう、ここに量子力学の領域があるだろう。
 問題はエネルギーとこの量子メカニズムの関係である。これは⇒の起点と終点で把捉できるだろう。先に指摘したように起点と終点は不連続であり、非可逆的である。ここに、宇宙創造の一つのエッセンスがあると言えよう。エネルギー⇒物質である。(E⇒mc^2であり、E=mc^2は誤りだ。思うに、ここに後の量子力学の壮大な誤謬の原点がある。)
 問題は量子メカニズムである。そのエネルギー/物質変換メカニズムにおいて、量子とはいったい何であるか。
 そう、量子とはエネルギーの物質的投影である。(あえて言えば、幻影、仮象、仮構である。)つまり、量子メカニズムはエネルギー機序の物質的仮構である。
 量子メカニズムを応用することは、宇宙創造の機序・秩序に介入することになる。言い換えると、量子力学以前において存在した宇宙創造の機序・秩序(「コスモス」)とは別の機制をもたらすことになるのである。
 ある意味で脱自然化である。人工的「自然」創造である。先に述べたように、有機体的宇宙・自然創造とは異質な「創造」が加わったのである。人類は第二の創造神になったと言ってもいい。
 しかしながら、この第二の創造は大根源(大母源)から発していないので、無機的なのである。一般的には有機体的宇宙・自然とは相容れない。端的に、それに対して破壊的だ。
 また、その操作が利己主義、自我中心主義に基づくならば、当然、悪魔的なものとなるのである。そして、それが現代において現実化したのである。(思うに、量子力学の誕生をもって、あるいは、20世紀初期ないし前期をもって脱近代の時代、トランス・モダンの時代の始まりと見るべきだろう。あるいは、ポスト・ヒューマンの時代の。別の命名もあるが。)
 そして、原発爆発による放射能汚染はその帰結である。
 問題は第二の創造のテクノロジーをもった人類の知性にある。知性が利己主義、自我中心主義に基づくならば、これによる悪魔的破壊は拡大して、人類は滅びるだろう。
 知性が凹iをベースとする精神性に基づくならば、第二の創造は積極的なものとなる。ここが核心的ポイントである。
 このような視点から、飯山一郎氏が提唱する、光合成細菌による放射能汚染の浄化作用とは何を意味するのだろうか。(参照:『光合成細菌』で放射能浄化!  http://grnba.com/iiyama/hikari.html )一般的には、自然、人間とは相容れない人工的な放射能であるが、自然の、原始的細菌がそれと適合して、放射能を無害に変換するのである。
 ここには放射能、正確には、放射線存在の問題がある。飯山氏が説くように、原始的には、光合成細菌が放射線を吸収する宇宙・自然のメカニズムがあったのである。光合成細菌にとっては、放射線は異質なものではないのである。
 故に、ここで上述の脱自然の視点は変更されなくてはならない。確かに、第二の創造は一般的には脱自然化であるが、原始的な光合成細菌にとってはそうではないのである。「自然」に適合するのである。
 ここで自然とは何かの問題が提起される。あるいは自然的進化、宇宙的進化の問題。
 そう、進化が正確な問題である。即ち、地球の原始的状態においては、生命体と放射能とは適合していた。しかし、その後の進化過程へ経て、高度な生命体は放射能とは不適応になっていったのである。言い換えると、光合成細菌のレベルを「脱ぎ捨てて」進化が進展したのである。(進化を低レベルを脱ぎ捨てるプロセスと見ることができよう。超剋である。)
 だから、進化の絶対的差異があるのであり、進化は非連続的段階をもつ。(プロセスという用語はあまり適切ではない。)だから、この点から上記の脱自然化は説くことができるのである。
  結局、量子力学的変革によって、人類は脱近代化、脱自然化したのであり、それまでの進化が終わったと言えるのである。そして、進化の初期段階に戻らないといけないような事態が生じたのである。生命体的にはそうなのである。
 しかしながら、知性においては、上述したように、精神の進展が必要になるのである。利己主義、自我中心主義となった知性を乗り越える精神的知性の陶冶・涵養が必要になったのである。
 これは取りも直さず、東洋的知性ないしは非西洋文明的知性への回帰を意味するのである。
 西洋文明、とりわけ、近代西洋文明は利己主義、自我中心主義へと強く傾斜して、その物質文明をもって悪魔的に破壊的になったのである。
 霊学のシュタイナーは「自我」ichの重要性を説くが、実は、問題は個、差異、絶対的他者、絶対的差異である。
 イタリア・ルネサンスはその発芽であると考えられる。しかしながら、西欧(追記:西洋では間違いなので、上述の西洋云々は訂正されなくてはならない)は自我、凸iに傾斜しているために、個=差異が利己主義、自我中心主義へと発展したのである。
 (だから、以前提唱したトランス・モダンという視点はあえて言えば、間違いなのである。モダンは二種類あったのであり、それが混淆・混合されて、曖昧になってしまったのが実態である。そう、トランス西欧というのが的確である。トランス・ウェストである。脱西欧である。)
 結局、知性の東洋回帰、精神化とは脱西欧化ということになる。脱欧入亜である。
 最後に、脱西欧化と量子力学の「脱近代」の関係をさらに考えると、結局、共通点はmedia pointであるのが了解される。
 西欧は知性のmedia pointを喪失したのであり、また、量子力学は自然におけるmedia pointのエネルギー様態の発見であるから、脱西欧と量子力学的「脱近代」は共通するのである。
 だから、今日、現代はmedia pointの時代、エポックと言えるのである。それは同時に、マニ教新時代でもある。


1 2 3 4 5    全126件




新着トラックバック/コメント


カレンダ
2011年12月
       

アーカイブ
2006年 (104)
7月 (9)
8月 (6)
9月 (7)
10月 (9)
11月 (39)
12月 (34)
2007年 (542)
1月 (48)
2月 (49)
3月 (67)
4月 (45)
5月 (44)
6月 (1)
7月 (33)
8月 (67)
9月 (47)
10月 (42)
11月 (49)
12月 (50)
2008年 (623)
1月 (40)
2月 (29)
3月 (26)
4月 (38)
5月 (32)
6月 (48)
7月 (49)
8月 (61)
9月 (68)
10月 (86)
11月 (86)
12月 (60)
2009年 (472)
1月 (82)
2月 (66)
3月 (58)
4月 (32)
5月 (27)
6月 (34)
7月 (35)
8月 (26)
9月 (36)
10月 (30)
11月 (28)
12月 (18)
2010年 (251)
1月 (19)
2月 (29)
3月 (29)
4月 (11)
5月 (25)
6月 (33)
7月 (28)
8月 (23)
9月 (15)
10月 (18)
11月 (8)
12月 (13)
2011年 (126)
1月 (11)
2月 (12)
3月 (13)
4月 (12)
5月 (6)
6月 (4)
7月 (5)
8月 (11)
9月 (15)
10月 (7)
11月 (16)
12月 (14)
2012年 (117)
1月 (10)
2月 (13)
3月 (6)
4月 (6)
5月 (14)
6月 (8)
7月 (11)
8月 (7)
9月 (3)
10月 (24)
11月 (9)
12月 (6)
2013年 (145)
1月 (12)
2月 (11)
3月 (9)
4月 (21)
5月 (10)
6月 (9)
7月 (17)
8月 (9)
9月 (5)
10月 (22)
11月 (13)
12月 (7)
2014年 (91)
1月 (6)
2月 (13)
3月 (18)
4月 (5)
7月 (4)
8月 (26)
9月 (7)
10月 (5)
11月 (6)
12月 (1)
2015年 (61)
1月 (6)
2月 (12)
3月 (8)
4月 (14)
5月 (10)
6月 (4)
7月 (6)
8月 (1)

アクセスカウンタ
今日:593
昨日:544
累計:4,625,739