INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2010/10

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2010年10月31日(Sun)▲ページの先頭へ
否定としての差異共振MP2⇒+1と肯定としての差異共融MP1⇒-1
テーマ:Media Point:MP1⇒MP2

ネグリとハートの『帝国』の「植民地的主権の弁証法」の中の「植民地主義の弁証法」は鋭敏な洞察である。
 ここには、差異共振としての植民地主義が明確に解明されていると考えられる。今は詳述できないので、割愛するが、そこで、直観したことは、先に簡単に触れたが、差異共振とは、差異の否定であるということである。つまり、

凸i*凹i⇒+1

における*の積は否定の意味をもっているということである。これをネグリとハートの図式で言えば、

白人*植民地化された他者⇒白人の同一性

ということになろう。例えば、黒人は凹iであり、白人凸iに否定される他者である。この力学によって、白人凸iの同一性+1が形成されるということになるだろう。
 結局、差異共振は差異否定の力学であるということである。
 それに対して、差異肯定の力学が差異共融であると思ったのである。それは、凹iを肯定するものである。
 肯定は凹凹iではないか。即ち、

凸i*凹凹i⇒-1

となると考えられるのである。
 つまり、凹i自体は凸iにとっては否定的なものなのである。だから、凹iを肯定するとは、否定の否定で、凹凹iということになるだろう。
 それが正しいならば、これまで明確にならなった差異共立ないし差異共融の問題が解決されたことになるだろう。
 自己認識方程式において、初め、他者否定を凹凹iとして捉えて、その否定は⇒-1となり、肯定である凹iは⇒+1になるとしたのであるが、その後の理論的進展で、いわば、「肯定」としての積が⇒+1になることが明確になったのであった。
 そう、*の積がどうしても、差異の肯定に見えたのであるが、実は、差異共振であり、それは、同一性への変換なのである。
 また、さらなる進展によって、-1が超越界であることが判明してたのであり、-1への数式をどう理解するのかがずっと不明確であったのである。
 私は商を考えて、-1への帰結を考えたが、それは、直観的には不明瞭であり、判然としないものであった。
 しかし、今、肯定を凹凹iと捉えることで、明確に-1への数式が明らかになったと考えるのである。
 差異肯定(他者肯定)とは、差異共立を形成するが、さらには、差異共融となる考えられるのである。

凸i*凹i⇒+1   ・・・ A

凸i*凹凹i⇒-1 ・・・ B

Aにおいて、左辺は差異共立や差異共振を意味する。
Bにおいて、左辺は差異共融を意味すると思う。差異の相互浸透とは、差異共融で説明できると思われる。
 私が経験した一如感覚とは、差異共融であろう。そして、「神」の存在を感じたというのは、⇒-1であろう。
 ここで、スピノザ哲学について触れると、スピノザは差異共融に近い経験をもっていたと思われる。神=自然というのは、-1を指していると思われる。そして、属性である思惟・精神は凸iであり、延長・身体は凹iであろう。そして、後者を肯定して、凹凹iになったと思う。これが有名な心身平行論を意味しよう。
 しかしながら、問題は延長・身体にあると考えられる。即ち、延長とは端的に言えば、外界であり、物質である。つまり、スピノザは物質的身体を意味していると考えられるのである。
 そうすると、実は、延長・身体は凹iではなくなるのである。それは、+1である。つまり、スピノザは凹iと+1を混淆ないし連続化していることになるのである。
 『エチカ』を読んで、身体性があいまいであると感じたのは、おそらく、この混淆・混同にあると思う。
 つまり、身体が感性ないし感情になっているのである。これは、実は精神である。つまり、スピノザの身体とは、物質と精神が未分化であると考えられるのである。
 ということで、精神的側面においては、差異共融が生起したであろうが、物質的側面では差異と同一性との混合が生起したと思われるのである。
 以前、私はスピノザ哲学は連続的なのか、不連続的なのか、あいまいであると述べたが、それはここに原因があるのではないだろうか。
 スピノザ哲学は確かに、他者的肯定の側面があり、画期的なものではあるが、実は、精神と物質との未分化性があり、その他者性も不十分であるということになろう。
 今はここで留めたい。


2010年10月29日(Fri)▲ページの先頭へ
左派唯物論者が用いる内在性という概念の問題:内在性と超越性
テーマ:ポスト近代合理主義/ポスト・モダン批判

左翼唯物論者/マルキスト、ネグリとハートの『帝国』で使用される、気になる概念は、ドゥルーズの内在性である。
 彼らは、ドルーズ主義者なので、それを正当のように使用しているが、PS理論から見ると、その概念はまったくの錯誤・誤謬である。
 マルチチュード(世界的プロレタリアートの混成体)の内在性を、「革命」の原動力と見ているようだが、それは、結局は反動となると考えられる。
 超越性(内的超越性:これは又、外的超越性でもある)をもたない限り、物質的内在性は、同一性へと帰結するのであり、それが反動である。
 結局、個・差異の共立・共振、また、差異共融の超越的視点をもたない限り、政治活動は反動化するのである。
 マルチチュードではなく、差異共立が政治を切り開くと言えよう。
 差異共立は国家にあっては、national individuality になるべきだと考えている。民族的個である。
 民族性が、個にとっての、超越性の具体的様相であると思われる。
 日本人ならば、神道や仏教が超越性の民族的具体性である。この民族性については、新たに検討したいが、一言いうと、個の超越性を形成するのは、個の超越的根である。その根は民族的固有性をもっていると考えられる。
 そして、個の根源はMP(Media Point)であるので、MPは民族固有の双極子的様相をもっていると思われる。
 つまり、民族的MPがあるのであり、個はそれを帯びているのである。即ち、超越性⇒民族的MP⇒個である。
 今はここで留める。

追記:内在性の概念はスピノザ哲学に基づく。スピノザ哲学については、以前、問題点を述べた。即ち、連続性の理論なのか、不連続性の理論なのか、あいまいであるという点である。強いて言えば、連続性の理論である。神⇒属性(精神・思惟と身体・延長の心身平行論)⇒様態という発想をもっているのであり、⇒が連続性になっていると考えられるのである。 
 ドゥルーズは、ここに内在性の概念を見たと言えよう。しかし、これは、同一性の理論である。神という同一性が、個物の同一性へと帰結すると考えられるからである。
 思うに、PS理論の視点から、スピノザ哲学を新たに批判することが可能である。余裕のあるとき論じたい。

マルチチュード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



マルチチュード(Multitude)とは、マキャベリ によって最初に使用され、その後スピノザ が用いた政治 概念である。最近では、アントニオ・ネグリ とマイケル・ハート の帝国 論を契機として再び注目を集めている。マルティテュード、ムルチチュードとも。ラテン語 では“多数”“民衆”などの意味を持つ概念である。 「多数性」「多性」「群衆性」などの訳語もあてられる。
ネグリ=ハートのマルチチュード論 [編集 ]

マルチチュードとは、政治哲学 者で元パドヴァ大学 政治社会科学研究所教授 であるアントニオ・ネグリとデューク大学 文学部准教授であるマイケル・ハートが、共著『帝国』および『マルチチュード』において地球 規模による民主主義 を実現する可能性として、国境 を越えるネットワーク 上の権力 として提唱している概念 のことである。

ネグリはマルチチュードを、近代 以降に登場した超大国 の覇権 によるグローバル な世界秩序である帝国主義 に対抗し、これからの世界を変革し得る存在としてそれぞれの国家 の国民 や企業 を含む超国家的なネットワーク上の権力として位置付けている。

ネグリはマルチチュードについて、いわゆる19世紀 以降の社会主義 に代表される革命 に見られた多様性 と差異 性を無視したこれまでのありかたとは異なり、統合 されたひとつの勢力 でありながら多様性を失わない、かつ同一性 と差異性の矛盾 を問わぬ存在としている。
参考文献 [編集 ]

* アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『マルチチュード(上・下)』日本放送出版協会[NHKブックス]、2005年。

執筆の途中です この「マルチチュード」は、共産主義 に関連する書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています 。(ポータル 政治学 /ウィキプロジェクト 政治 )
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Multitude
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Look up multitude in Wiktionary , the free dictionary.

Multitude is a political term first used by Machiavelli and reiterated by Spinoza . Recently the term has returned to prominence because of its conceptualization as a new model of resistance against the global capitalist system as described by political theorists Michael Hardt and Antonio Negri in their international best-seller Empire (2000) and expanded upon in their recent Multitude: War and Democracy in the Age of Empire (2004). Other theorists which have recently used the term include political thinkers associated with Autonomist Marxism and its sequelae, including Sylvère Lotringer , Paolo Virno , and thinkers connected with the eponymous review Multitudes .

http://en.wikipedia.org/wiki/Multitude


Empire (book)
From Wikipedia, the free encyclopedia
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For other uses, see Empire (disambiguation) .
Empire
Swedish edition (Imperiet) cover
Swedish edition (Imperiet) cover
Author Michael Hardt and Antonio Negri
Country United States
Language English
Subject(s) Globalization , geopolitics
Publisher Harvard University Press
Publication date 2000
Media type Print
ISBN ISBN 0-674-25121-0 (hardcover) ISBN 0-674-00671-2 (paperback)
OCLC Number 41967081
Dewey Decimal 325/.32/09045 21
LC Classification JC359 .H279 2000
Preceded by Labor of Dionysus: A Critique of the State-Form
Followed by Multitude: War and Democracy in the Age of Empire

Empire is a text written by Marxist philosophers Antonio Negri and Michael Hardt . The book, written in the mid 90s, was published in 2000 and quickly sold beyond its expectations as an academic work.[1] In general, the book theorizes an ongoing transition from a "modern" phenomenon of imperialism , centered around individual nation-states , to an emergent postmodern construct created amongst ruling powers which the authors call Empire (the capital letter is distinguishing), with different forms of warfare:

If, according to Hardt and Negri's Empire, the rise of Empire is the end of national conflict, the "enemy" now, whoever he is, can no longer be ideological or national. The enemy now must be understood as a kind of criminal, as someone who represents a threat not to a political system or a nation but to the law. This is the enemy as a terrorist.... Hardt and Negri get this absolutely right when they say that in the "new order that envelops the entire space of... civilization", where conflict between nations has been made irrelevant, the "enemy" is simultaneously "banalized" (reduced to an object of routine police repression) and absolutized (as the Enemy, an absolute threat to the ethical order"[2] ).[3]

They proceed to elaborate a variety of ideas surrounding constitutions, global war, and class. Hence, the Empire is constituted by a monarchy (the United States and the G8 , and international organizations such as NATO , the IMF or the WTO ), an oligarchy (the multinational corporations and other nation-states) and a democracy (the various NGOs and the United Nations ). Part of their analysis deals with "imagine[ing] "resistance to it", but "the point of Empire is that it, too, is "total" and that resistance to it can only take the form of negation - "the will to be against"[4] . The Empire is total, but economic inequality persists, and as all identities are wiped out and replaced with a universal one, the identity of the poor persists[5]

This description of pyramidal levels is a replica of Polybius ' description of Roman government, hence the denomination "Empire". Furthermore, the crisis is conceived as inherent to the Empire. Negri & Hardt are also heavily indebted to Michel Foucault 's analysis of biopolitics [6] and Gilles Deleuze 's philosophy. Before that book, Negri was best known for having written The Savage Anomaly (1981), a milestone book in Spinozism studies which he wrote in prison. Empire is thus, unsurprisingly, also influenced by Spinoza . The ideas first introduced in Empire (notably the concept of multitude , taken from Spinoza) were further developed in the 2004 book Multitude: War and Democracy in the Age of Empire and the 2009 book Commonwealth, which were also written by Negri and Hardt.

Empire has created important intellectual debates around its arguments. Many scholars have compared the evolution of the world order with Hardt and Negri's world image that they pictured in the "Empire".[7]

It was published by Harvard University Press in 2000 as a 478-page hardcover (ISBN 0-674-25121-0 ) and paperback (ISBN 0-674-00671-2 ).

http://en.wikipedia.org/wiki/Empire_%28book%29

Multitude: War and Democracy in the Age of Empire
From Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Multitude:_War_and_Democracy_in_the_Age_of_Empire

バールーフ・デ・スピノザ

バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632年 11月24日 - 1677年 2月21日 )はオランダ の哲学者 、神学者 。一般には、そのラテン語 名ベネディクトゥス・デ・スピノザ (Benedictus De Spinoza) で知られる。デカルト 、ライプニッツ と並ぶ合理主義哲学 者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論 と考えられてきた。また、ドイツ観念論 やフランス現代思想へ強大な影響を与えた。

彼の肖像は1970年代 に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。

・・・・・
存在論・認識論 [編集 ]

ここでは、形而上学的な第1部と第2部の概要を主に記述する。

デカルト は神を無限な実体[3] として世界の根底に設定し、そのもとに精神と身体(物体=延長)という二つの有限実体 を立てた。しかし、スピノザによれば、その本質に存在が属する実体は、ただ神のみである。スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む[4] 神は、自己の完全性の力によってのみ作用因である[5] ものである(自己原因)[6] 。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである[7] 。神とはすなわち自然である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神 における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。また、神の本性は絶対に無限であるため、無限に多くの属性を抱える。この場合、所産的自然としての諸々のもの(有限者、あるいは個物)は全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることのできないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになる[8] 。

スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」[9] と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は神の属性の変状である[10] 」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる[11] 人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており[12] 、この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6


2010年10月28日(Thu)▲ページの先頭へ
《個》独立宣言:トランス・デモクラシーの新国民主義へ:大資本的民主主義から差異共立・共振主義へ
今は余裕がないので、詳述できないが、結局、民主主義、代表制民主主義、間接民主主義、代議制は、大資本、大企業、グローバリズムの利益が中心となる制度ではないかと考えられる。
 アメリカの独立宣言にある、God created us equal.[
神は我々を平等(対等)の存在として創造した]であるが、これは、当時、宗主国の英国と戦っていた植民地米国の人間が、独立を勝ち取るために、形成した大義である。
 聖書にこの言葉はないだろう。これは創作であろう。とまれ、宗主国と植民地の主従のヒエラルキーを打破するための、「大義」として形成されたと思う。
 しかしながら、私見では、「我々」は、この場合、個を指していると思う。植民地米国の人間の個である。この独立的尊厳を認めよということではないだろうか。
 だから、平等・対等とは、個の原理と見るべきではないか。個としての平等・対等というのは理解できることである。言い換えると、矛盾した言い方であるが、差異として平等・対等ということである。だから、個人主義、individualismの宣言と見ることができよう。(追記:「差異としての平等・対等」という表現は問題がある。思うに、アメリカ独立宣言の「平等」とは、差異の共立を意味していると察せられる。つまり、宗主国英国の人間という差異と植民地アメリカの人間の差異の共立を「平等」と表現したのではないだろうか。だから、民主主義とは、差異共立原理と見るのが本来的であると考えられる。)
 しかしながら、既述したように、西洋の個人主義は、個と自我が混淆、連続化しているのであり、真の「個」主義・差異主義ではないのである。凸iの傾斜が強いために、そうなると考えられる。
 その視点から見ると、民主主義は、自我の原理をもつのであるから、資本主義にあっては、大資本、大企業、グローバル資本の「自我」が中小資本、諸民の「自我」を凌駕するのは当然である。つまり、「自我」は互いに争うものであるから、両者の「自我」の闘争は、当然、強大な権力をもつ前者の「自我」が勝利することは、火を見るより明らかであるということである。
 故に、民主主義を真の《個》の原理に基づいて乗り越える必要がある。つまり、自我的民主主義、同一性的民主主義、近代的民主主義から、個的、差異的民主主義、トランス・モダン民主主義へと転換する必要がある。それは、差異共立・共振主義である。
 ただし、日本の場合、半封建/半近代主義なので、複雑であるが、ともかく、個的還元が為される必要がある。個的還元とは、PS理論から言えば、超越性を認識することに存するのである。
 後で、個と民族的特有性について検討したい。

追記:以前述べたが、参政権に関してであるが、参政権資格制度を設置すべきである。それに合格しない人間には、参政権を与えないことにするのである。政治に関して適格な認識をもつ者に参政権を与えるというのは、合理的である。無知蒙昧な愚民に参政権を与えるというのは、気狂いに刃物である。
 だから、今日の愚民には参政権は付与されないということになる。愚民的民主主義から賢民的民主主義へ。

追記2:結局、差異的位階を認めよということになるだろう。人間は平等ではないのである。差異的なヒエラルキーがあるのである。確かに、もっとも根源的には同一であろうから、その点では、平等である。否、同一である。
 個々人の差異を認めることこそ、実質的平和への大前提であると考えられる。差異を認めないことから、争いが起るのである。西洋文明の東洋文明、その他の文明に対する暴力的干渉は、そこから来ていると言えよう。


マガジン9

* それでも消費増税は必要なのか - どん・わんたろう 10月27日14時43分
* 報道の原点を見失うな - 柴田鉄治 10月27日14時43分
* 何でも「悪いのは小沢」で片付ける大手メディア - 岡留安則 10月27日14時43分
* 議員って自分の給料を自分で決めるんだよ - どん・わんたろう 10月20日17時07分
* 国際貢献のウソ - 芳地隆之 10月20日17時07分


アメリカ独立宣言
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アメリカ独立宣言

アメリカ独立宣言(アメリカどくりつせんげん、The Unanimous Declaration of the thirteen United States of America)とは、イギリス (グレートブリテン王国 )によって統治されていた13の植民地 が、独立したことを宣言する文書である。1776年 7月4日 大陸会議 (the Continental Congress)によって採択された[1] [2] 。このため、7月4日はアメリカ合衆国 の独立記念日 として毎年盛大に祝われる。

沿革 [編集 ]
「独立宣言への署名」(ジョン・トランブル 画)
この絵は、2ドル紙幣 の裏面図版に使用されている。

1763年 2月、フレンチ・インディアン戦争 が終結すると、イギリス国王ジョージ3世 とグレンビル内閣は、植民地アメリカへの課税と支配を強化した。この本国政府による植民地圧迫策は、次第に植民地住民の本国に対する不満を鬱積させ、本国からの離反機運の醸成をもたらす(詳細は、アメリカ合衆国の歴史 の項目と、アメリカ独立戦争 の項目を参照)。

それぞれに独自の発展を進めていた13植民地 は、1772年 11月、連絡組織として通信連絡委員会を発足させる。この委員会は、1774年 9月、第1回大陸会議 (ジョージア植民地 を除く12の植民地代表の集会)に発展し、本国政府との和解策を練った。1775年 4月、レキシントン・コンコードの戦い で、イギリス軍と植民地民兵 隊の間に銃火が交えられ、独立戦争の火蓋が切られた。翌5月、第2回大陸会議が開かれ(全13植民地代表がそろう)、ここ武力衝突に至っても本国政府との和解の道を探っていた。しかし、情勢は日増しに悪化し、翌1776年 1月、独立論を訴えるトマス・ペイン の著書『コモン・センス 』が刊行されてベストセラーになると、住民の間でも植民地代表者の間でも、独立論は最高潮に達した。

同年6月7日、バージニア植民地 代表のリチャード・ヘンリー・リー は大陸会議に『独立の決議』を提案し、これに基づいて同月10日、独立宣言起草委員会が発足した。この委員会は、トーマス・ジェファーソン 、ジョン・アダムズ 、ベンジャミン・フランクリン 、ロジャー・シャーマン 、ロバート・R・リビングストン の 5人で構成されたが、ジェファーソンが宣言案を起案(起草)し、フランクリンとアダムズがわずかに修正して委員会案とされた。委員会案は大陸会議に提出されて、さらに多少の推敲がなされた。そして、1776年7月2日、リチャード・ヘンリー・リーの『独立の決議』がまず可決され、『アメリカ独立宣言』は7 月4日に採択された。
内容 [編集 ]

独立宣言は、基本的人権 と革命権 に関する前文、国王の暴政と本国(=イギリス)議会・本国人への苦情に関する28ヶ条の本文、そして独立を宣言する結語の3部から成る。

中でも、「全ての人間は平等に造られている」と唱え、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文は、アメリカ独立革命の理論的根拠を要約し、後の思想にも大きな影響を与えた。その理論は、名誉革命 を理論的に正当化したジョン・ロック の自然法理論 の流れを汲む。
日本への影響 [編集 ]

宣言公布当時、日本 は江戸時代 の鎖国 中であったため、直接の影響は見られない。
学問ノススメ [編集 ]

江戸時代末期から明治時代 にかけて、西欧文明が押し寄せてくるのに先立ち、福澤諭吉 はその著書『西洋事情 』で、「千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文」としてアメリカ独立宣言の全文を和訳して紹介した。

天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テス。即チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモス可ラサルモノナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナリ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ

– 『西洋事情 』初編 巻之二

このうち、冒頭の章句および思想は、後の『学問のすすめ 』初編冒頭、に引用され、人々に広く知られるところとなった。
日本国憲法 [編集 ]

1946年に公布された日本国憲法 の第13条にも、その影響は見られる。

第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

関連項目 [編集 ]

* アメリカ合衆国憲法
* アメリカ独立戦争
* 独立記念館 (アメリカ)
* アメリカ合衆国建国の父
* アーブロース宣言

脚注 [編集 ]

1. ^ jpeg版“In Congress, July 4, 1776. The unanimous declaration of the thirteen United States of America ”. 2009年9月8日閲覧。アメリカ議会図書館
2. ^ テキスト版“In Congress, July 4, 1776. The unanimous declaration of the thirteen United States of America. ”. 2009年9月8日閲覧。アメリカ議会図書館

外部リンク [編集 ]
ウィキソース
ウィキソース にアメリカ独立宣言(和訳) の原文があります。
ウィキソース
ウィキソース にアメリカ独立宣言(英文) の原文があります。

* In Congress, July 4, 1776. The unanimous declaration of the thirteen United States of America. アメリカ議会図書館
* 福澤諭吉 訳 『アメリカ独立宣言 』(青空文庫 )
* 福澤諭吉訳 『西洋事情 巻之二 合衆国 』(近代デジタルライブラリー )
* 福澤諭吉訳 『福沢全集 巻1「西洋事情(初編)」 』(近代デジタルライブラリー)
* katokt訳 『独立宣言 』(プロジェクト杉田玄白 )

執筆の途中です この「アメリカ独立宣言」は歴史 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています (P:歴史 /P:歴史学 /PJ歴史 )。
執筆の途中です この「アメリカ独立宣言」は、アメリカ合衆国 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています (P:北アメリカ /PJアメリカ合衆国 )。
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カテゴリ : アメリカ独立戦争 | アメリカ合衆国の歴史 | 民主主義 | フィラデルフィア


2010年10月27日(Wed)▲ページの先頭へ
物質的身体形成エネルギーと精神的エネルギー:フェルミオン型とボソン型:半整数スピンと整数スピン
差異(精神)から同一性(物質)へと変換する連続的エネルギーとそれを切断することから生起する不連続的エネルギーのことをこれまで述べてきた。
 しかしながら、物質的身体を形成するエネルギーは連続的エネルギーであり、もし、すべてのエネルギーが不連続化されたならば、人間は死ぬであろう。(言い換えると、死とはエネルギー全体の不連続化であると言えよう。)
 だから、物質的身体を形成する連続的エネルギーと精神の独立・自由を形成する不連続的エネルギーを区別することができる。
 では、その区別をどう力学的理論化できるのだろうか。問題は、MP総体が連続化(同一性化)されること、言い換えると、MPの精神や心魂が同一性化(物質化・世俗化)されることが問題なのである。
 つまり、こういうことだろう。出生後、乳児・幼児・小児は、物質的身体器官の形成の過程に入り、そこで、精神・意識は物質的器官化されるのである。これが、連続的同一性過程である。即ち、凸i*凹i⇒+1である。つまり、+1の物質的身体器官に精神(凸i*凹i⇒)が嵌入されるのである。端的に、精神の物質化である。
 しかし、精神は精神であり、物質ではないのである。物質ではない精神が物質化されるのであるから、ここには、大矛盾があるのである。
 精神は物質的身体的感覚器官に変換するのであり、この同一性的器官にいわば、妥協するのである。正確に言えば、Media Pointの実軸における同一性変換は実質的なものであり、そこで、精神は同一性化されるのであり、それは、積極的なものである。
 しかるに、同一性化されない精神(凸i*凹i)が当然、「実存」(虚存?)するのである。(追記:以下の視点に加えて、幼児・小児・児童に対する精神文化教育の必要を強調しないといけない。そこには民族文化教育も入る。当然、それは、精神科学的な教育である必要がある。PS理論はこの点で定礎となるものである。)
 ここで、私は、先に区別した、素粒子論を敷延した、精神のボソン・タイプBoson Type: BT(「光」タイプ)とフェルミオン・タイプFermion Type: FT(「闇」タイプ)の視点を導入したいのである。
 即ち、精神は二通り、二種類あり、フェルミオン・タイプFTが、同一性化するのであり、ボソン・タイプBTが、Media Point、ないしは、本源的精神として、存すると考えられるのである。
 ここで、シュタイナー精神科学の視点を借りると、フェルミオン・タイプFTはエーテル体(「気」)に、ボソン・タイプBTは自我体*アストラル体(凸i*凹i)に相当すると考えられる。
 この「精神的素粒子」の二元性ないし二重性によって、精神⇒物質という謎の説明ができると考えられる。
 結局、根源的精神凸i*凹iの二種類の回転、整数スピンと半整数スピンによって、知的生命体、精神的身体が形成されると考えられるのである。
 ということで、本題にもどると、連続的エネルギーとは、フェルミオン・タイプに拠るのであり、不連続的エネルギーとは、ボソン・タイプに拠るということになる。だから、本来的には、人間の認識は、物質と精神の調和が可能である。そして、それが実現した時代が、過去の女神の時代、新石器時代あるいは青銅器時代であると推察される。
 しかしながら、父権的世界が誕生すると、その調和が破壊されて、フェルミオン・タイプに傾斜したと考えられるのであり、その究極が一神教であり、その帰結として、今日のグローバルな超巨大金融資本主義があると言えよう。
 では、フェルミオン・タイプへの傾斜とは何を意味するのか。これは、明らかに、不均衡である。ボソン・タイプをなんらか抑圧するメカニズムが生じたと思われる。
 シュタイナー精神科学では、それが悪魔とされている。アーリマンとルシファーである。同一性の悪魔は前者である。ゾロアスター教で言えば、アンラ・マンユである。
 この説明であるが、これは、陰陽の変動を考えればいいのではないだろうか。つまり、陰陽は常時、円環的に変動しているのであり、陰から陽へ、陽から陰へと変動しているのである。
 つまり、陰から陽へと傾斜したときが、フェルミオン・タイプが増加・拡大するのであり、その結果、ボソン・タイプを支配するようになったと考えることができる。
 しかしながら、陰陽宇宙は常時、円環的に変動するのであるから、陽から陰への転換が生じることになるのである。そうすると、今度は、ボソン・タイプが増加し、フェルミオン・タイプの支配を打破すると考えられるのである。いわば、「光」が「闇」を打ち負かすのである。
 思うに、リーマン・ショックとは、フェルミオン・タイプの極大点であり、今や完全に、ボソン・タイプが増加する時代、トランス・モダンの時代に突入していると思われるのである。螺旋的回帰と言えよう。
 日本は、未だに、時代錯誤、倒錯的なフェルミオン・タイプが支配しているのである。これは、当然、逆行・反動・退化であり、その継続的支配は日本の滅亡である。
 新たな天照の時代へと踏み込む必要がある。内的太陽を復活させる必要があるのである。
 
追記:天照大神、内的太陽の復活の端緒とは如何なるものであろうか。
 思うに、瞑想的に心の海に潜水して、心のマグマ(肚)に触れることである。それが、dark sunである。それは、遍在している超巨大根源的エネルギーである。それに打ち当たると、精神的核融合を起こすのである。それが、天照大神の復活であり、内的太陽の新生である。

追記2:スピンの問題であるが、上記では、双極子を根源として論究している。それが半整数スピンならば、(n+1/2)π回転であり、⇒+1となり、整数スピンならば、nπ回転であり、双極子が再帰すると考えている。


参考1:
素粒子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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曖昧さ回避 この項目では、物質を構成する最小の単位について記述しています。その他の用法については「素粒子 (曖昧さ回避) 」をご覧ください。

物理学 において素粒子(そりゅうし)とは、物質 を構成する最小の単位のことである。

最小の単位であるということは、それより小さな存在がないということであり、従って内部構造を持たず空間的な大きさを持たない・または空間・長さ自体が最小単位の大きさ(空間最小単位の候補の例としてはプランク長 等)とされるのだが、超弦理論 においては全ての素粒子は有限な大きさを持つひもの振動状態であるとされる。

現在のところ物質を構成する素粒子と考えられているものは、クォーク とレプトン である。だが、これらに内部構造が存在することが発見されれば、その内部構造を構成するもののほうが素粒子と呼ばれ、クォークやレプトンは素粒子ではないということになる。クォークやレプトンの大きさはわかっていないが、仮に有限の大きさがあるとしても陽子 のスケールにおいても点とみなすことができる大きさである。

たくさんの粒子が、実は自然界にそのまま安定的に存在しているわけではないので、宇宙線 の観測や加速器 による生成反応により発見・研究された。素粒子の様々な性質を実験で調べ、それを理論的に体系化していくこと、及び理論的に予言される素粒子を実験で探索していくことが、素粒子物理学 の研究目的である。
素粒子の分類 [編集 ]
ボソン (ボース統計に従う粒子) [編集 ]

* ゲージ粒子 - 素粒子間の相互作用(力)を伝搬する粒子
o 光子 - 電磁気力 を媒介する
o ウィークボソン - 弱い力 を媒介する。 W+, W−, Z0 の3種類。
o グルーオン - 強い力 を媒介する。8種類存在する。
o 重力子 - 重力 を媒介する(未発見)。
* ヒッグス粒子 - 粒子に質量 を与える(未発見)。

フェルミオン (フェルミ統計に従う粒子) [編集 ]

* レプトン (6種類)
o 荷電レプトン - 電荷 −1 を持ち、それぞれに反粒子 が存在する。
+ 電子 - 原子 の構成要素として一般に良く知られる。電子の反粒子は陽電子 と呼ばれる。
+ ミュー粒子
+ タウ粒子
o ニュートリノ
+ 電子ニュートリノ
+ ミューニュートリノ
+ タウニュートリノ
* クォーク - ハドロン の構成要素とされる(6種類)。
o 上系列 - 電荷 +2/3 を持ち、それぞれに反粒子 が存在する。
+ アップクォーク
+ チャームクォーク
+ トップクォーク
o 下系列 - 電荷 −1/3 を持ち、それぞれに反粒子が存在する。
+ ダウンクォーク
+ ストレンジクォーク
+ ボトムクォーク

クォークとレプトンの分類表 [編集 ]

クォーク とレプトン は以下のように、世代によって分類される。傾向として、世代数が大きいほど質量が大きいとされている。
電荷 第1世代 第2世代 第3世代
クォーク
+2/3 アップクォーク (u) チャームクォーク (c) トップクォーク (t)
−1/3 ダウンクォーク (d) ストレンジクォーク (s) ボトムクォーク (b)
レプトン
−1 電子 (e) ミュー粒子 (μ) タウ粒子 (τ)
0 電子ニュートリノ (νe) ミューニュートリノ (νμ) タウニュートリノ (ντ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E7%B2%92%E5%AD%90


参考2:
素粒子とは何か CommentsAdd Starwacking 49Fenette

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予定が詰まるとこれだから困る。「今日こそは書こう」「いや、これを終わらせてから」と、ネタがガリレオ 温度計のように浮かんでは沈みはや2週間が経過した。*1

「ぷよぷよ のしょぼしょぼ対戦動画をあげる。」「ノーベル賞 の続き:素粒子 って何?」「水星 探査機メッセンジャー が世間的に無視されている件」「テトリス でひとり宇宙人いるよね」とオプション はいろいろあるが、とりあえず世間の話題から消えうせた感のあるノーベル賞 の続き。
素粒子 の大きさと位置づけ

f:id:active_galactic:20081029040346j:image

現時点で我々が実験的に確認している限りの範囲で、「素粒子 」は私たちの世界を構成する基本要素だ。それは力であり、物質であり、その振る舞いは素粒子 のもつ基本的な対称性によって説明される。

素粒子 は限りなく小さい。標準理論では大きさがゼロで構造をもたない点粒子として計算される。また実験上も完全な点とした模型からのズレは確認されていない。ZEUS実験では仮に大きさが存在したとしても、0.74E-18[m]よりは小さいことが確認されている。これはクォーク がせいぜいで水素 原子 の1億分の1以下であることを意味する。1億倍というのはだいたいCD-R と地球 の差に相当する。

f:id:active_galactic:20081028080152j:image

クォーク の大きさに関する実験:横軸は加速器 での衝突エネルギー、縦軸は点粒子模型からのズレ:クォーク に内部構造があると値が1から外れる。下に曲がっている青い曲線は0.74am(アトメートル)の直径を仮定したときのズレ

素粒子 の種類

素粒子 が何種類あるかについては数え方によって答えがいくつかある。カラー(色荷)の違いを別カウントにするか、左巻きの電子と右巻きの電子を別にするか、粒子と反粒子 を区別するかといった数え方の流儀による。カラーだとか巻き方については後ほど。

f:id:active_galactic:20081029121924g:image

素粒子 はまず大分類として、ゲージ粒子 (力の粒子)と物質粒子が存在する。

物質粒子はクォーク とレプトン という2種の粒子に大別される。クォーク は原子核 の奥に引きこもっているインドア派、原子核 の構成メンバーである陽子や中性子 あるいは中間子 をつくっている材料だ。レプトン は電子やニュートリノ のようにわりと外で遊びまわっているアウトドア派だ。原子核 を10mの家にたとえると、電子は日本列島 ぐらいの範囲が生活圏でこの生活圏を原子 という。日雇い でエネルギーをもらって原子 同士をくっつけたり切りはなす仕事をしている。ニュートリノ は宇宙のどこかをふらついている、仕事はたまにする。他の物質と会っても挨拶しないで素通りする。

ゲージ粒子 は力を媒介する粒子だ。ゲージ粒子 は、自然界を支配する4つの基本的な相互作用に対応して4種類存在する。

1. 光子(電磁気 力):原子 をつないだり、磁力だったり、電化製品を動かしたり忙しい。電荷に対して働く力。化学反応 もキーボードを押す力も電磁気 力のひとつの形だ。
2. グルーオン (強い力):クォーク 君の引きこもり パワー。原子核 の中にウヨウヨいて内弁慶 だが滅茶苦茶強い力だ。家出しようとするクォーク を恐ろしい形相で原子 の1/100000という狭い家に押しとどめる。電荷 に似た「色荷(カラー)」という量に対して働く力、カラーを持っていないレプトン は感じない。カラー(色荷)はR・G・Bの3種類存在して、1種類しかない電荷 よりすこし複雑な力だ。
3. Z/Wボゾン(弱い力):素粒子 をほかの素粒子 に変える。この世界は核反応で元素 レベルで移ろいゆく。ときどきしか仕事しないが重要な力だ。u・d・t・s・eといった素粒子 の状態(これをフレーバー という)を引数 にして働く。フレーバー は上の表にあるとおり、クォーク とレプトン で6種類づつ存在する。
4. グラビトン (重力):星々をつなぎとめる。ドバイ と恐竜 の敵。未発見。質量(広義にはエネルギー)に対して作用する。

リストアップするとこんな感じ。一番有名なのは電磁気 力をつかさどる光子だろう。光も電磁気 力も我々に身近な存在だ。

今までのまとめ:素粒子 にはゲージ粒子 (力の粒子)と物質粒子の2種類があり、物質粒子はクォーク とレプトン の2種、ゲージ粒子 は4種存在する。

素粒子 の間に働く力

力はゲージ粒子 によって媒介される。

「力の粒子」ってなにそれ?という疑問についてだが、「力」というものをミクロのレベルまで突き詰めてみると、素粒子 レベルでの運動量(エネルギー) の貸借に還元できる。素粒子 が他の素粒子 に運動量を譲渡することで互いの運動(量)が変化する。このとき運動量やエネルギーの決済に用いられる証券 が「ゲージ粒子 」だ。

f:id:active_galactic:20081029104206g:image

力の種類(ゲージ粒子 の種類)、つまりエネルギーの決済方法は前述の通り4種類ある。


http://d.hatena.ne.jp/active_galactic/20081029/1225217750
Active Galactic : 11次元と自然科学と拷問的日常


2010年10月25日(Mon)▲ページの先頭へ
+1凸i*+1凹i=+1:半封建/半近代的自我の日本人:唯物論的であり、精神界が欠損している
先に以下の感想を述べた。
「情けは情け、義は義である。」:森鴎外『阿部一族』の柄本又七郎
結局、この柄本又七郎の「情けは情け、義は義である」という発想は、基本には、やはり、自我、偽装自我+1凸iがあると見るべきである。そしてその偽装自我が偽装他者+1凹iを狡猾に知覚して、計算、打算的に行動を取るのである。これは、言うならば、半封建/半近代的自我である。以前も指摘したが、これが、「近代」日本人の類型になっているように思う。
 これは世間体に囚われる自己保身的、非個的人間である。ここには、物質界+1はあるが、精神界-1が欠損しているのである。
 問題は、いったいどうして、精神界-1を完全喪失するようになったのか。それとも、もともと希薄なのか。
 後者の可能性があるが、やはり希薄にさせられたように思う。一体何があったのか。What happened to Japanese?
 本来、誰でも、差異共立(共融)の精神をもって生まれるだろう。それは、精神界-1と通じている。
 しかし、誕生後は、物質界に母体から分離して生存することになり、⇒+1の+1が重要な意味をもつようになるのだ。ここに、物質的自我が生まれるのである。  
 思うに、自我の核は凸iである。いわば、原自我である。これは、知能を司るだろう。 
 そして、物質的自我+1凸iは、社会を認識する。それは、他者である。しかるに、日本社会は偽装他者+1凹iの社会である。そこで、物質的自我はそれを捉えて、偽装他者を利用するのである。それが、柄本又七郎である。そして、菅直人である。(以前は私はこれは官僚タイプだと言ったが、当たらずとも遠からずであろう。)思うに、愚民はこれをさらに劣化させたものである。偽造することすらできないのである。 
 では、肝心の精神界が喪失される力学を考えたい。これは簡単に言えば、社会に精神界が喪失しているので、個人が精神性を喪失すると言うことができる。日本の場合はとりわけ戦後である。近代合理主義、唯物論、近代民主主義が導入されたのである。
 しかしながら、外的な理由よりも、内的な理由の方が積極的、本質的である。個とは差異共立(共融)且つ差異共振に基づくだろう。ルネサンスとはそういうものであった。 
 しかしながら、日本文化は母権文化が基盤にある。それは、凹iの文化である。しかし、封建主義によって、それが、父権的傾斜を受ける。そうすると、+1 凹iになるだろう。これは、似非父権文化である。母権が捩れていると考えられる。(日本語に、主語が希薄なのと関係するのではないだろうか。)
 繰り返すと、ルネサンスは、差異共立(共融)であり、それは、-1凹i(第三象限)が根源にある。イタリア・ルネサンスで、新プラトン主義が起きたのも不思議ではない。それは、古代的な神秘主義に通じると言えよう。(日本において、禅仏教がそれに近い発想をもっているだろう。例えば、道元である。)問題は、ルネサンスの場合、差異共立から差異共振へと展開したことである。それは、西洋文化の凸iの傾斜に拠ると見ていいだろう。つまり、同一性へと傾斜したのである。そして、その帰結がデカルト哲学と考えられる。  
 日本文化においては、西洋文化のような凸iの強い傾斜はない。
 凹iの傾斜による物質化+1、即ち、+1凹iが生起すると考えられる。世間である。 
 問題は、凹i⇒+1のプロセスである。もし、凹i⇒-1の契機があれば、+1凹iへのプロセスは強固にならないはずである。しかるに、日本において、凹 i⇒-1の契機が乏しかったと言えよう。 しかし、「近代化」以前においては、神道、仏教、民俗祭礼等があり、それは、凹i⇒-1の契機をもっていたと考えられる。 明治維新によって、凹i⇒-1の契機は天皇制、国家神道が吸収したと考えられる。そして、戦後においては、その回路が断ち切られたと考えられる(三島由紀夫の「断絃のとき」)。  
 問題はやはり、凸iの原自我の希薄さではないだろうか。もし、強い凸iがあれば、天皇制や国家神道に吸収されることはなかったはずである。 
 では、天皇制、国家神道を形成した明治政府の力学とは何であったのか。それは、柄本又七郎的半封建/半近代的自我の力学ではないだろうか。確かに、凸 i⇒+1はあるが、それは、凹i⇒+1を顧慮する狡猾な自我に過ぎないのである。つまり、+1凹iに囚われる自我に過ぎないのである。(追記:これはあまりに一面的である。例えば、坂本龍馬や横井小楠などの考えは、封建制を脱している。それは、精神的民主主義である。私の唱えるトランス民主主義に近いだろう。) 
 すると、やはり、先に述べたように、日本母権文化のデカダンスが見えてくるのである。積極的な原自我凸iがあれば、凹iへの顧慮ではなく、凸i*凹iの差異共立(共融)が生起可能となり、-1の精神界が予感されるはずである。 
 私は先に、日本の父権文化はユダヤ教ではないかと言ったが、それは、まったく間違いだろう。ユダヤ教が導入されていれば、あるいは、キリスト教が入っていれば、強固な自我文化が生まれたはずであるが、それがなかったからである。(追記:正確に言うと、平田篤胤の神道には、キリスト教が導入されているのである。だから、国学には、一神教性があったと考えられる。父権的なものである。これについては検討課題である。) 
 日本母権文化のデカダンス、これが、現代日本の狂態を生んでいると考えられるのである。日本人が英語が苦手なのもこの点と関係しよう。英語は父権的言語(主語+動詞)であるからだ。 
 日本人を再生させるには、父権文化の導入が必要である。私は主語+動詞(述語)のある外国語を日本人は身に着けるべきであると思う。これは、思考を自我的論理にするからである。主語の希薄な日本語、述語的日本語は、差異欠損的であり、半封建/半近代的である。あるいは、未分化的である。差異未分化的ということである。それは究極のところ、菅直人的な二重人格的欺瞞論理となるのである。

* 菅首相、TPPの調整加速指示 「農業と両立可能」 共同通信 (21時48分)

(この点は別の機会に考察しよう。)
 思うに、戦後日本人が凹i⇒-1の第三象限へと展開するチャンスがあった。それが、折口信夫の新神道論であるが、戦後近代合理主義の狂信の中で、無視されたのである。
 また、オカルト・ブーム、精神世界の流行も、内因として、超越性を求める志向があるだろう。しかしながら、それは、一般には、自我が希薄なのである。その典型がオウム真理教事件である。 
 その点から見ると、シュタイナーの精神学は自我ichを基盤にしているので、それなりに考察に値するものである。(確かに、あまりに、内界に傾斜している難はあるが。)
 そう考えると、日本人に必要なのは、哲学的思考、哲学的知性であると言えよう。哲学は、知的に内的世界を探究するものであり、その点では、原自我凸iを介在させているのである。本質は直感的思考であると思うが、原自我凸iの知性を道具としているのである。(思うに、原自我凸iとは、フッサールの超越論的自我と一致しよう。)
 結局、現代日本人にとって、外国語研究、哲学研究が必要である。精神のインフラ、知のインフラが抜けているのである。そう、個となること、原始仏典にある「犀の角のように唯一人歩め」が必須である。集団、群れを成すな。

追記:国学が一つの問題である。本居宣長の「大和心」について解明する必要がある。それは、非合理主義でありつつ、且つ、自我的なのである。これをどう説明するのか。
 「漢心」(合理性ないし自我性)を排除するから非合理主義なのである。あるいは、情動主義である。しかるに、「漢心」を排除する二項対立論理があるのである。
 つまり、自我と非合理主義が結合した論理がそこにあるのではないだろうか。これは、ロマン主義に近い論理である。それは、第一象限と第三象限の混淆ではないだろうか。
 これは、-1凹i=+1凸iの短絡論理ではないだろうか。超越性・無我性と物質・自我性がショートしているのではないだろうか。これが、尊王攘夷の狂信の原理ではなかったのか。今はここで留める。後で、再考したい。

****************************
「偽装自我」と「真正な無我」:+1凹i*+1凸i=+1の民主党指導層?
テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ
以下、生成門氏の偽装自我VS真正の無我の視点は興味深い。
 これは、意識と無意識(潜在意識)にも関係しよう。私は民主党の左派的人間の自我とその反動性の力学をどう解明しようかとは感じていたのでもあった。
 言うことと為すことがまったく乖離し、正反対になっている民主党の指導部であるが、それは偽装自我の視点で説明できよう。他者、凹iが欠落しているのである。正確に言えば、-1凹i(第三象限)の他者である。だから、他者偽装するのである。「コンクリートから人へ」。
 思うに、純粋な(?)自我の人は、+1凸i(第一象限)であり、他者偽装しない。ストレートである。他者偽装するのは下心があるからである。それは、+1凹i(第四象限)であろう。これが、他者偽装するのである。
 そう見ると、民主党指導層は、+1凹i(他者偽装)と+i凸i(自我)の二重人格であると言えよう。選挙では、前者が前面に出て、後者を引っ込める。そして、選挙に勝つと、逆転して、前者が消えて、後者となる。
 かれらに「個」ないし真正の無我がないのは、-1の超越性が欠落しているからである。つねに、二重性を使い分ける、悪賢い人間なのである。しかしながら、真実、真理は、-1の領域ないし第二象限か第三象限に存するのである。故に、彼らは愚鈍・愚劣でもあるのである。
 意識と潜在意識で言えば、意識が自我であり、潜在意識が偽装他者である。
 ここから、ペテン師の真相がわかる。偽装他者(偽装自我)を使って、欺し、自我利益+1を獲得するのである。
 外交もこの面が強いだろう。ただし、常に、-1をもっていないと、見透かされ、馬鹿にされる、民主党指導層のように。小沢一郎が一目置かれるのは、あるいは、恐れられるのは、-1、ないしは、第二象限と第三象限があるからである。誠意、誠実さとは-1に拠るのである。
 ここから、政治教育がはっきり認識される。プラトン哲学も、-1の認識を目指したものと言えよう。

参照:人間認識図(by Mr Kaisetsu)

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
**************************

本来、+1凹iは自我の対称性である無我ですから、無我の心−1凹iの反転した現れのはずですが、+1凸iの自我から反動した+1凹iは、無我ではなく擬装自我なのです。つまり無我のように見えて真正の無我ではなく、恨みを抱えた自我なのです。

+1の反動

+1凸i=自我→(反動)→+1凹i=無我(擬装自我)

−1からの反転

−1凸i(凹i?)=無我の心→(反転)→+1凹i=真正の無我


擬装自我と真正の無我の心との戦いが、この物語の主人公チュモンの生き様であり、テーマでもあるのです。

無我の心とは−1凹iであり、それを反転した+1凹iが真正の無我の自己であり、自我+1凸iから反動したのが+1凹iの擬装自我なのです。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100098199050

* チュモンというベクトル・モード(1):恨みは進化の原動力 (1)

シムダンス「四次元能」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10682083204.html


2010年10月24日(Sun)▲ページの先頭へ
仮説:フェルミオンは(n+1/2)π回転で⇒+1となる。ボゾンはnπ回転で双極子を形成する
直観では、フェルミン(フェルミ粒子)が物質を形成する。つまり、⇒+1である。それに対して、ボゾン(ボース粒子)は、⇒である。即ち、双極子、凸i*凹iである。
 そう考えると、ボゾンである光子が質量がないのがうまく説明がつくだろうし、フェルミンである電子が質量をもつのも説明できるのではないだろうか。
 問題はボゾンの「粒子」性をどう説明するかである。これは、直観では、同一性志向性である。つまり、粒子志向性であり、粒子自体ではないのではないだろうか。つまり、「波動」と見た方がよいのではないだろうか。
 後で再検討したい。

追記:同一性志向性は、粒子(物質)のように「見える」であり、実際は粒子ではないと考えられる。それは、双極子であり、それ自体は粒子ではない。いわば、エネルギー子である。
 問題は、粒子と「波動」とは何かの問題になっている。いったい、双極子凸i*凹iとは何か。それは、根源的には、-1の超越的物質から発するだろう。だから、超越的双極子と言えるかもしれない。つまり、「ダーク・マター」の極性である。
 とまれ、問題は何故、双極子が粒子に見えるのかである。観測装置の対象が粒子(物質)を基準としているので、そうなるというのは、一理である。
 しかしながら、本質的理由があるだろう。そう、やはり、Media Point である。それは、穴である。その穴を粒子として取り違えているのではないだろうか。


参考:
素粒子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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曖昧さ回避 この項目では、物質を構成する最小の単位について記述しています。その他の用法については「素粒子 (曖昧さ回避) 」をご覧ください。

物理学 において素粒子(そりゅうし)とは、物質 を構成する最小の単位のことである。

最小の単位であるということは、それより小さな存在がないということであり、従って内部構造を持たず空間的な大きさを持たない・または空間・長さ自体が最小単位の大きさ(空間最小単位の候補の例としてはプランク長 等)とされるのだが、超弦理論 においては全ての素粒子は有限な大きさを持つひもの振動状態であるとされる。

現在のところ物質を構成する素粒子と考えられているものは、クォーク とレプトン である。だが、これらに内部構造が存在することが発見されれば、その内部構造を構成するもののほうが素粒子と呼ばれ、クォークやレプトンは素粒子ではないということになる。クォークやレプトンの大きさはわかっていないが、仮に有限の大きさがあるとしても陽子 のスケールにおいても点とみなすことができる大きさである。

たくさんの粒子が、実は自然界にそのまま安定的に存在しているわけではないので、宇宙線 の観測や加速器 による生成反応により発見・研究された。素粒子の様々な性質を実験で調べ、それを理論的に体系化していくこと、及び理論的に予言される素粒子を実験で探索していくことが、素粒子物理学 の研究目的である。
素粒子の分類 [編集 ]
ボソン (ボース統計に従う粒子) [編集 ]

* ゲージ粒子 - 素粒子間の相互作用(力)を伝搬する粒子
o 光子 - 電磁気力 を媒介する
o ウィークボソン - 弱い力 を媒介する。 W+, W−, Z0 の3種類。
o グルーオン - 強い力 を媒介する。8種類存在する。
o 重力子 - 重力 を媒介する(未発見)。
* ヒッグス粒子 - 粒子に質量 を与える(未発見)。

フェルミオン (フェルミ統計に従う粒子) [編集 ]

* レプトン (6種類)
o 荷電レプトン - 電荷 −1 を持ち、それぞれに反粒子 が存在する。
+ 電子 - 原子 の構成要素として一般に良く知られる。電子の反粒子は陽電子 と呼ばれる。
+ ミュー粒子
+ タウ粒子
o ニュートリノ
+ 電子ニュートリノ
+ ミューニュートリノ
+ タウニュートリノ
* クォーク - ハドロン の構成要素とされる(6種類)。
o 上系列 - 電荷 +2/3 を持ち、それぞれに反粒子 が存在する。
+ アップクォーク
+ チャームクォーク
+ トップクォーク
o 下系列 - 電荷 −1/3 を持ち、それぞれに反粒子が存在する。
+ ダウンクォーク
+ ストレンジクォーク
+ ボトムクォーク

クォークとレプトンの分類表 [編集 ]

クォーク とレプトン は以下のように、世代によって分類される。傾向として、世代数が大きいほど質量が大きいとされている。
電荷 第1世代 第2世代 第3世代
クォーク
+2/3 アップクォーク (u) チャームクォーク (c) トップクォーク (t)
−1/3 ダウンクォーク (d) ストレンジクォーク (s) ボトムクォーク (b)
レプトン
−1 電子 (e) ミュー粒子 (μ) タウ粒子 (τ)
0 電子ニュートリノ (νe) ミューニュートリノ (νμ) タウニュートリノ (ντ)
関連項目 [編集 ]

* 標準模型
* 基本粒子
* 素粒子物理学

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E7%B2%92%E5%AD%90


2010年10月21日(Thu)▲ページの先頭へ
想像力とは何か:想像力はどうやって培われるのか
私はあることがきっかけで、今日の日本社会は想像力が欠落しているのではないかと直感した。
 今は余裕がないので、詳述できないので、一言言うだけだが、想像力とは内的なもの、精神的なもの、心的なもの、魂的なものである。それをどうやって培うことができるのか。
 一つには、優れた音楽に接することである。また、文学(とりわけ古典)や神話に接することである。そして、豊かな自然に接することである。また、本物の美術に接することである。
 一言で言えば、多面的な芸術の体験が欠落していることから、想像力が欠落していると思われる。音楽、文学、美術、これらは、芸術三位一体である。

追記:あわてて、自然を入れるのを忘れた、四位一体である。(追記:自然については、問題がある。自然を認識するには、内的認識力が必要である。それがなければ、いくら、自然があっても、豚に真珠である。思うに、内的能力の開花と同時に、自然が内的になるのである。)

追記2:文部科学省が、想像力教育を行っていないのである。日本人が英語ができないのもそれと関係する。リスニングには、音楽能力が必要であるし、理解には文学的思考が必要である。
 また、英語の構成を理解するには、数学的思考が必要である。
 外国語は他者であり、生半可では身につかないのである。

追記3:後、日本の教育に足りないのは、哲学である。哲学は正に、内的思考を培うものである。これは、芸術の知性と言えるものである。思うに、美学は冗語であろう。

追記4:以上はいかにも文系に偏っていると言われるかもしれない。しかしながら、自然科学も、今や、いわば、内的科学である。量子論は正にそうである。
 医学においても、「気」が注目されているし、ケアの問題もある。
 ロボット作成にしろ、内的能力が問題になっているだろう。
 結局、トランス・モダン・サイエンスとして、内的科学が基礎であり、そこからの新たな構築・体系化が問題なのである。
 近代科学とは、外的科学、唯物論科学に過ぎなかったのである。
 科学が一つになる。


質量の発生:差異共振によって同一性から物質が形成される:超越的太陽⇒太陽⇒物質
これは、復習である。
 凸i*凹i⇒+1(凸)において、左辺では、差異共立が本来、存する。そこには、質量はないのである。
 そして、MP2の変換において、同一性が発生して、物質が形成される。しかし、同一性と物質は異なるのではないだろうか。これまで、私は同一性=物質と考えたのであるが。
 同一性は構造である。カントの超越論的形式、超越論的感性に相当しよう。思うに、構造という概念が曲者なのである。本来、超越論的形式であるが、それが、客観的な構造という概念に変化していると考えられるのである。とまれ、外界に傾斜した概念が構造とは言えよう。同一性はやはり、志向性なのである。そして、構造はそれが忘却された外界的概念ということになる。
 故に、MP2で生じる、同一性は同一性志向性というのが正確である。そして、これこそ、現象界、物質界の根因・起因・基因である。自我の原因もこれである。そして、資本主義の原因もこれである。
 とまれ、同一性志向性と物質は区別されることを確認しておきたい。
 そして、同一性志向性からの脱却を、東洋哲学は目指していると言えよう。禅仏教がとりわけ顕著である。
 結局、MP1に到達する身体論である。
 とまれ、以上から見て、光に質量がないというのは、どう見るべきなのか。光とは、同一性志向性ではないのか。なぜなら、それは物質を生み出す根因ではあっても、物質(質量)ではないからだ。いちおう、そう作業仮説する。
 そうならば、二種類の光があるように思える。即ち、MP1の光とMP2の光である。現象光は後者である。
 では、前者の光とは何か。これが、私が以前述べた超越光ではないだろうか。
 そして、それは、-1と関係している。もし、-1⇄MP1とすると、それは、超越的太陽である。プラトンの洞窟外の太陽に相当するのではないだろうか。
 言い換えると、超越的太陽から太陽が生まれ、それが、物質現象を形成するのである。
 そう、太陽はいわば、同一性志向的太陽である。しかし、超越的太陽は精神的太陽である。霊的太陽である。
 D. H. ロレンスのdark sunとは、そのことではないだろうか。言うならば、まったき明るさなので、暗闇darkに見えるのである。
 後で、さらに検討したい。

追記:前ソクラテス期の哲学者、アナクシマンドロスだったろうか、星は、宇宙の穴から洩れる炎であるというようなことを述べていた。MPを穴とすれば、炎は-1ではないだろうか。その炎がMPを介して、同一性志向性として視覚されるということではないだろうか。もっとも、精神的な人はMP1が開いているので、炎をも視覚すると思われる。精神的視覚である。あるいは、心眼である。

追記2:フィロラオスだったか。

宇宙の構造に関する考察 [編集 ]

ギリシアのフィロラオス 以前は、宇宙の中心は不動の地球であり、その周りを太陽、月、惑星、恒星が周回していると考えられていた。紀元前500年ごろ、フィロラオスは地球や太陽を含むすべての天体が目に見えない宇宙の中心の火の回りを回転していると考えた。ただし、フィロラオスの説は観測データに基づいておらず、根拠がないと考えられたため、これを受け継ぐ学説は生まれなかった。一方、ギリシャのヘラクレイデス は金星と水星の位置が太陽から一定角度以上離れないことを根拠として、水星と金星が太陽の周りを回っていると考えた。ヘラクレイデスは地球が不動であることは疑わなかったが、はじめて合理的な天体の運動体系を作り上げたと言える。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%AD%A6%E5%8F%B2 



天動説では、宇宙の中心には地球があり、太陽を含めすべての天体は約1日かけて地球の周りを公転 する。しかし、太陽や惑星の速さは異なっており、これによって時期により見える惑星が異なると考えた。天球 という硬い球があり、これが地球や太陽、惑星を含むすべての天体を包み込んでいる。恒星 は天球に張り付いているか、天球にあいた細かい穴であり、天球の外の明かりが漏れて見えるものと考えた。惑星や恒星は、神 が見えない力で押して動いている。あらゆる変化は地球と月 の間だけで起き、これより遠方の天体は、定期的な運動を繰り返すだけで、永遠に変化は訪れないとした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8B%95%E8%AA%AC


追記3:やはり、アナクシマンドロスであった。


追記:以下、アナ クシマンドロスの宇宙論 はきわめて知的 刺激をもたらす。火の車輪 としての宇宙 観である。これは、Media Point で説明できそうである。また、穴が惑星 等になるということであるが、この穴もMedia Point で説明できるのかもしれない。

 イデア の振動数によって、諸惑星 等ができるのではないだろうか。太陽 のイデア 振動数があり、地球 のイデア 振動数があり、等々ではないだろうか。

 イデア 振動数によって、Media Point において、太陽 、諸惑星 、さらには、諸宇宙 ができるのではないだろうか。

 つまり、端的に言えば、星なり、星雲なり、「太陽系 」・惑星 なりは、イデア 振動数の多様性・差異に基づいて、発現・現象しているものではないだろうか。つまり、星々は、Media Point の多様な現象ということになるのではないだろうか。今はここで留める。


続追記:物理 的距離であるが、それは、ガウス 平面に垂直なZ軸で表わされるのではないだろうか。つまり、3次元 とは、Z軸である。そして、人間 の視覚 の原点の平面性とは、ガウス 平面に拠ると見ていいのではないだろうか。

 遠近法 は、だから、Z軸によって発生すると言えよう。後で、精緻 に検討したい。

参考:

ミレトス 学派

出典: フリー 百科事典 『ウィキペディア (Wikipedia )』

・・・・・

宇宙論

物質 の性質についても3人の哲学者 には意見 の相違があった。それぞれが異なる宇宙 観を持っていた。タレス は地球 は水の上に浮いていると、特定の星 の運動 に注目し、それらを惑星 と呼んだ。一方、アナ クシマンドロスは、地球 は宇宙 の中心にあり、宇宙 は中空の同心円の車輪 で、その外側は火に満たされ、さまざまな間隔で穿たれた穴から見えるその明かりが太陽 や月だとした。アナ クシメ ネス は、太陽 や月は、星々で充たされた天空の覆いの回りにある、平たい円盤 であるとした。(尚、赤色 文字等強調はrenshi)


***********************


アナ クシマンドロスの宇宙 観

テーマ :太陽系 /宇宙 /自然

先に、古代ギリシア で、太陽 が、天の穴であると述べた前ソクラテス 期の哲学者 の名前 を忘失したが、今日 、ジュンク堂 で以下の本をたまたま手に取り、立ち読み して、

それが、アナ クシマンドロスであることが、わかった。後で、彼の断片を引用 したいが、とても、興味深いものである。

『東と西の宇宙 観 西洋 編』 荒川 紘/著 、紀伊国屋書店

http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31592508


Anaximander (Ancient Greek : Ἀναξίμανδρος, Anaximandros) (c. 610 BC –c. 546 BC ) was a pre-Socratic Greek philosopher who lived in Miletus , a city of Ionia ; Milet in modern Turkey . He belonged to the Milesian school and learned the teachings of his master Thales . He succeeded him and became the second master of that school where he counted Anaximenes and Pythagoras amongst his pupils.

Little of his life and work is known today . According to available historical documents, he is the first philosopher known to have written down his studies,[2] although only one fragment of his work remains. Fragmentary testimonies found in documents after his death provide a portrait of the man.

Anaximander was one of the earliest Greek thinkers at the start of the Axial Age , the period from approximately 700 BC to 200 BC , during which similarly revolutionary thinking appeared in China , India, Iran, the Near East, and Ancient Greece. He was an early proponent of science and tried to observe and explain different aspects of the universe, with a particular interest in its origins, claiming that nature is ruled by laws, just like human societies, and anything that disturbs the balance of nature does not last long.[3] Like many thinkers of his time , Anaximander's contributions to philosophy relate to many disciplines. In astronomy , he tried to describe the mechanics of celestial bodies in relation to the Earth . In physics, his postulation that the indefinite (or apeiron ) was the source of all things led Greek philosophy to a new level of conceptual abstraction. His knowledge of geometry allowed him to introduce the gnomon in Greece. He created a map of the world that contributed greatly to the advancement of geography . He was also involved in the politics of Miletus and was sent as a leader to one of its colonies.

With his assertion that physical forces, rather than supernatural means, create order in the universe, Anaximander can be considered the first scientist. He is known to have conducted the earliest recorded scientific experiment.[4]

Cosmology and the apeiron

Anaximander's reputation is due mainly to a cosmological work, little of which remains. From the few extant fragments, we learn that he believed the beginning or first principle (arche , a word first found in Anaximander's writings, and which he probably invented) is an endless , unlimited mass (apeiron ), subject to neither old age nor decay, which perpetually yields fresh materials from which everything we can perceive is derived.

He never defined this principle precisely, and it has generally (e.g. by Aristotle and Augustine ) been understood as a sort of primal chaos . It embraced the opposites of hot and cold , wet and dry , and directed the movement of things, by which there grew up all of the host of shapes and differences which are found in the world .

Out of the vague and limitless body there sprang a central mass ― this earth of ours, cylindrical in shape, poised equidistant from surrounding orbs of fire , which had originally clung to it like the bark round a tree , until their continuity was severed, and they parted into several wheel-shaped and fire -filled bubbles of air .

Man himself and the animals had come into being by like transmutations. Mankind was supposed by Anaximander to have sprung from some other species of animals, probably aquatic. For this, even though he had no theory of natural selection , some people consider him to be evolutionary theory 's most ancient proponent.

Anaximander offered up the theory of the apeiron in direct response to the earlier theory of his teacher, Thales , who had claimed that the primary substance was water . Anaximander reasoned that water cannot embrace all of the opposites found in nature ― for example, water can only be wet, never dry ― and therefore, it can not be the one primary substance . Nor could any of the other candidates, so Anaximander postulated the apeiron as a substance that, although it could not be perceived directly, could explain the opposites he could clearly see around him .

The one surviving fragment of Anaximander's book may be translated like this :

Whence things have their origin,

Thence also their destruction happens,

As is the order of things;

For they execute the sentence upon one another

* The condemnation for the crime -

In conformity with the ordinance of Time.

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Interpretations

Nietzsche , in his Philosophy in the Tragic Age of the Greeks , claimed that Anaximander was a pessimist. Anaximander asserted that the primal being of the world was state of indefiniteness. In accordance with this, anything definite has to eventually pass back into indefiniteness. In other words, Anaximander viewed "...all coming-to-be as though it were an illegitimate emancipation from eternal being , a wrong for which destruction is the only penance." (Ibid., § 4) The world of individual objects, in this way of thinking, has no worth and should perish.

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Known Works

On Nature , circa ? (fragment survives)

Subject

Philosophy

Referenced in

Simplicus

Authenticity

Likely

Map , circa ? (lost )

Subject

(First?) Map of his Known World

Referenced in

Agathemerus , Geographie informatio

Authenticity

Likely

Some of Anaximander's ideas were also preserved in Theophrastus 's (lost ) history of philosophy, and re-quoted by later authors.

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Honors

* Anaximander crater on the Moon , at 66N, 48W, is named after him . For a picture, see:

* http://www.dirkcouprie.nl/Anaximander.html

* The asteroid 6006 Anaximandros is also named after him .

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References

Dirk L.Couprie, Roobert Hahn, and Gerard Naddaf, 2003. 'Anaximander in Context: New Studies in the Origins of Greek Philosophy', Albany N.Y.: State University of New York Press

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See also

* Milesian school

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External links

* "http://www.utm.edu/research/iep/a/anaximan.htm " Anaximander from The Internet Encyclopedia of Philosophy.

* "http://www.dirkcouprie.nl/Anaximander-bibliography.htm " for an extensive bibliography.

This article incorporates text from the 1911 Encyclopædia Britannica , which is in the public domain .

http://ameblo.jp/renshi/entry-10007228153.html

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


http://d.hatena.ne.jp/antares/20100626



「偽装自我」と「真正な無我」:+1凹i*+1凸i=+1の民主党指導層?
以下、生成門氏の偽装自我VS真正の無我の視点は興味深い。
 これは、意識と無意識(潜在意識)にも関係しよう。私は民主党の左派的人間の自我とその反動性の力学をどう解明しようかとは感じていたのでもあった。
 言うことと為すことがまったく乖離し、正反対になっている民主党の指導部であるが、それは偽装自我の視点で説明できよう。他者、凹iが欠落しているのである。正確に言えば、-1凹i(第三象限)の他者である。だから、他者偽装するのである。「コンクリートから人へ」。
 思うに、純粋な(?)自我の人は、+1凸i(第一象限)であり、他者偽装しない。ストレートである。他者偽装するのは下心があるからである。それは、+1凹i(第四象限)であろう。これが、他者偽装するのである。
 そう見ると、民主党指導層は、+1凹i(他者偽装)と+i凸i(自我)の二重人格であると言えよう。選挙では、前者が前面に出て、後者を引っ込める。そして、選挙に勝つと、逆転して、前者が消えて、後者となる。
 かれらに「個」ないし真正の無我がないのは、-1の超越性が欠落しているからである。つねに、二重性を使い分ける、悪賢い人間なのである。しかしながら、真実、真理は、-1の領域ないし第二象限か第三象限に存するのである。故に、彼らは愚鈍・愚劣でもあるのである。
 意識と潜在意識で言えば、意識が自我であり、潜在意識が偽装他者である。
 ここから、ペテン師の真相がわかる。偽装他者(偽装自我)を使って、欺し、自我利益+1を獲得するのである。
 外交もこの面が強いだろう。ただし、常に、-1をもっていないと、見透かされ、馬鹿にされる、民主党指導層のように。小沢一郎が一目置かれるのは、あるいは、恐れられるのは、-1、ないしは、第二象限と第三象限があるからである。誠意、誠実さとは-1に拠るのである。
 ここから、政治教育がはっきり認識される。プラトン哲学も、-1の認識を目指したものと言えよう。

参照:人間認識図(by Mr Kaisetsu)

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
********************

本来、+1凹iは自我の対称性である無我ですから、無我の心−1凹iの反転した現れのはずですが、+1凸iの自我から反動した+1凹iは、無我ではなく擬装自我なのです。つまり無我のように見えて真正の無我ではなく、恨みを抱えた自我なのです。

+1の反動

+1凸i=自我→(反動)→+1凹i=無我(擬装自我)

−1からの反転

−1凸i(凹i?)=無我の心→(反転)→+1凹i=真正の無我


擬装自我と真正の無我の心との戦いが、この物語の主人公チュモンの生き様であり、テーマでもあるのです。

無我の心とは−1凹iであり、それを反転した+1凹iが真正の無我の自己であり、自我+1凸iから反動したのが+1凹iの擬装自我なのです。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100098199050

* チュモンというベクトル・モード(1):恨みは進化の原動力 (1)

シムダンス「四次元能」

参考:
東明聖王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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曖昧さ回避 この項目では、歴史上の人物について記述しています。この人をモデルにしたドラマについては「朱蒙 (テレビドラマ) 」をご覧ください。
東明聖王
Goguryeo-monarchs(1-6).PNG
各種表記
ハングル : 동명성왕
現地における漢字 : 東明聖王
現地語読みの片仮名 表記: トンミョンソンワン
英語 : Dongmyeong-seongwang
表 ・話 ・編 ・歴

東明聖王(とうめいせいおう、(紀元前58年 - 紀元前19年 )は、高句麗 の初代国王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年 )であり、東明王とも呼ばれる。姓は高、諱 は朱蒙(しゅもう、주몽、チュモン)または鄒牟(すうむ、추모、チュム)、衆解(しゅうかい、중해、チュンヘ)とされる[1] 。天帝の子を自称する解慕漱 (かいぼそう、해모수、ヘモス)の子、または扶余 の金蛙王 (きんあおう、금와왕、クムワワン)の庶子とされる。扶余の7人の王子と対立し、卒本(チョルボン 遼寧省 本渓市 桓仁 )に亡命して高句麗を建国し、初代の王となった。
建国神話 [編集 ]

「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、扶余・高句麗・百済 に共通して見られるが、歴史的にみれば扶余建国神話の東明と高句麗始祖の朱蒙とは別の人物だと見当がつく。しかしながら東明伝説も朱蒙伝説も筋書が構造的に共通するところが多く、その特徴は檀君 神話と同じく、王の政治的権威の源泉を天に帰属させながら、農業生産を左右する水の神霊の権威を同時に主張することである。ここでは高句麗の建国神話を『三国史記 』に基づいて記述する。扶余の建国神話については後述。百済の始祖神話については、「温祚王#建国神話 」を参照。
天の神の子 [編集 ]

朱蒙は河伯 (ハベク、水神)の娘である柳花(りゅうか、ユファ)を、天帝の子を自称する解慕漱(かいぼそうヘ・モス)が孕ませて出来た子と言う。父の怒りを買って扶余 王の金蛙の所へ送られた柳花を金蛙王が屋敷の中に閉じ込めていると、日の光が柳花を照らし、柳花が身を引いて逃げても日の光がこれを追って照らし、このようにして柳花は身ごもり、やがて大きな卵を産んだ(古代朝鮮では卵は神聖なものとされており、この話は朱蒙を神格化するためのものであると考えられる)。金蛙王はそれを気味が悪いとし、豚小屋などに捨てさせるが、豚がおびえて近かづかなかった。金蛙王はあらゆるところに捨てようとしたが、鳥が卵を抱いて守った。終いには自らで壊そうとしたが硬くて壊せなかった。数日後卵が割れ、男の子が生まれた。それが朱蒙である。
金蛙王の7人の王子たちとの対立 [編集 ]

朱蒙の名の由来は東扶余の言葉で弓 の達人と言う意味である。朱蒙は名のとおり、弓の達人であったために7人の王子に睨まれた。

朱蒙が20歳になったとき烏伊・摩利・陝父(オイ・マリ・ヒョッポ)の家臣ができた。ある日その3人と一緒に狩に出かけた朱蒙は金蛙王(クムワ)の7人の王子と出会ってしまった。王子たちは1匹の鹿 しか捕まえられなかったが、朱蒙は6匹の鹿を捕まえた。王子たちは落ち込んだが、もう一度狩りをすることになった。王子たちは朱蒙たちの獲物を奪い、朱蒙たちを木に縛って王宮に帰ってしまった。朱蒙は木を引っこ抜き、縄を切って3人の家来たちを助け、王宮に帰った。これを知った、7人の王子たちは父である金蛙王に讒言し、朱蒙を馬小屋の番人にしてしまった。

母親である柳花は朱蒙を脱出させようと考え、良い馬を選ばせることを決心した。そして朱蒙はある馬屋に行って幾多の馬に鞭を振り回し、その中で一番高く飛び上がった馬の舌に針をさしておいた。その馬はまともに食べることができなくなり、痩せて格好悪くなってしまった。金蛙王がその馬を朱蒙に与えた後、朱蒙は馬の舌からやっと針を抜き出し、三日間にわたってその馬に餌を食べさせた。
亡命と建国 [編集 ]

朱蒙は烏伊・摩離・陝父らとともに旅に出た。淹D水(鴨緑江の東北)まで来たときに橋がなく、追っ手に追いつかれるのを恐れて、川に向かって「私は天帝の子で河伯(水神)の外孫である。今日、逃走してきたが追っ手が迫ろうとしている。どうすればいいだろうか」と言った。そうすると、魚や鼈(スッポン)が浮かんできて橋を作り、朱蒙たちは渡ることができた。朱蒙たちが渡り終わると魚たちの橋は解かれ、追っ手は河を渡れなかった。さらに進んで卒本に至って都邑を決め、漢 の孝元帝 の建昭 2年(西暦紀元前37年 )、新羅 祖の赫居世 21年の甲申歳(紀元前37年)に国を建て高句麗 とした。即位直後より辺方を侵略した靺鞨 族を討伐して高句麗の民とし、沸流国松譲王の降参を受け、太白山(白頭山 )東南の荇人(ヘンイン)国を征伐し、紀元前28年には北沃沮 を滅亡させた。
王位の継承 [編集 ]

紀元前19年5月、王子の類利(るいり、ユリ、後の瑠璃明王 )がその母(礼氏)とともに扶余から逃れてきた。朱蒙はこのことを喜び、類利を太子として後に王位を受け継がせた。同年9月に朱蒙は40歳で亡くなり、龍山に葬られて諡 号を東明聖王とされた。
建国の年 [編集 ]

『三国史記 』高句麗本紀に広開土王 は東明聖王の12世孫とするが、好太王碑(広開土王碑 )では好太王は鄒牟王の17世孫とする。このことから高句麗の建国となった甲申歳を紀元前277年にする説もある。また、『三国史記』は新羅 王室に連なる慶州金氏 の金富軾 が編纂したものであり、新羅中心主義的な記述とするために高句麗の建国年を新羅の建国よりも後にした、との見方もされている。
扶余の建国伝説との比較 [編集 ]

『後漢書 』夫余伝に見られる建国神話は、以下の通り。

昔、北方に索離国という国があり、王の婢が言われなく身籠ったため、王はこの婢を殺そうとした。婢は「天空に神聖なる気が立ちこめ、私に降り注いだために身籠ったのです」と答えた。王はこの婢を軟禁し、後に男子が生まれた。王はこの子を豚に食べさせようとして豚小屋の前に置いたが、案に相違して豚は息を吹きかけてその子を守ろうとし、死ぬことがなかった。王は今度は馬小屋に持っていったが、馬も同じようにその子を守ろうとした。王はこれは神意を表すものと思い、その母を許してその男子を東明と名づけた。東明は成長して弓術に優れたので、王は東明の勇猛振りを恐れて、これを殺そうと考えた。そこで東明は南方へ逃走し、掩D水に至った。川に向かって東明が弓を射ると、魚や鼈が浮かんできて橋を作り、東明はこれに乗って渡り逃れることができた。そして夫余の地に至って王となった。

「扶余の始祖としての東明」の伝説は、古くは『論衡 』吉験篇に見られる。また、『三国志 』夫余伝が『魏略 』からの孫引きとして伝えており、これらの史書の中の高句麗伝では、始祖伝説は見られない。『魏書 』に至って扶余伝はなくなり、代わりに高句麗伝のなかで高句麗の始祖伝説が伝えられるようになった。その伝説の骨子は、元来の東明伝説(扶余の建国神話)に、河伯(水神)の外孫であること、卵生であること、という要素が加わって、高句麗が扶余から出たこと、名を朱蒙とするというものである。また、東明伝説において東明が弓術に優れていたとするのと呼応するように、「朱蒙」という語は「善射」を意味する、とも書かれる。後に高麗 の時代になって、『三国史記 』(1145年 撰上)では、高句麗の始祖を「諱 が朱蒙、諡 が東明聖王」とするようになり、高麗の詩人である李奎報 (1168年-1241年)の叙事詩「東明王篇」(1194年 )においても、高句麗の始祖を東明王と同一視するようになった。さらには『三国遺事 』の時代になって民族的統合の象徴として檀君 に系譜化され、「東明王である朱蒙は檀君の子である」とされるようになったと考えられている。

従来より、扶余の東明伝説と高句麗の朱蒙伝説との共通構造から、両者の民族的同一性が唱えられてきた。しかしこれらの始祖伝説は単純に同一とはみなせず、高句麗の始祖伝説には南方系の卵生型説話の要素を含んでいることや、広開土王碑 文や『魏書』高句麗伝には「東明」の表現が見られないことなどから、東明伝説の構成を元に高句麗独自の概念を踏まえた始祖伝説が形成され、後には『三国史記 』には東明聖王と朱蒙とが同一視されたもの、と考えられている。
陵墓 [編集 ]

東明聖王の陵墓は平壌市 の東方25Kmの地点に推定陵墓が存在し、東明王陵と称されている。元来は集安 にあったものを、平壌遷都とともに遷されている。1993年 5月14日 に金日成 の指示により整備が行われ、敷地面積約220ha、王陵区域、定陵寺区域、陪墳区域が整備された。陵墓は1辺32m、高さ11.5mであり、周囲には中門、祭祀堂、石像などが設けられている。玄室内部には29種の壁画が描かれている。
東明聖王が登場する作品 [編集 ]

* 朱蒙 (テレビドラマ) (2006年、演:ソン・イルグク )

脚注 [編集 ]

1. ^ 高句麗語 に声調 があったかわからないが、中国語 とベトナム語 において「蒙」字は平声 東韻で、「解」字は上声 蟹韻で読まれている。

参考文献 [編集 ]

* 『三国史記 』第2巻 金富軾 撰 井上秀雄 訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
* 『朝鮮史』 武田幸男 編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5

[隠す ]
表 ・話 ・編 ・歴
高句麗王 (初代:前37年 - 前19年 )

東明聖王 / 瑠璃明王 / 大武神王 / 閔中王 / 慕本王 / 太祖大王 / 次大王 / 新大王 / 故国川王 / 山上王 / 東川王 / 中川王 / 西川王 / 烽上王 / 美川王 / 故国原王 / 小獣林王 / 故国壌王 / 好太王 / 長寿王 / 文咨明王 / 安臧王 ‎ / 安原王 / 陽原王 / 平原王 / 嬰陽王 / 栄留王 / 宝臧王
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%98%8E%E8%81%96%E7%8E%8B 」より作成
カテゴリ : 高句麗王


2010年10月17日(Sun)▲ページの先頭へ
内需を構築するには、消費税廃止と低中所得層の減税、富裕税強化、公務員給与人員削除、等が必要だ
テーマ:トランス・キャピタリズム:脱近代経済

トヨタ、メキシコ“逃亡”誰か止めてぇ…
http://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20101016/ecn1010161304000-n1.htm

輸出主義は大企業・大資本主義であり、内需に貢献しない。また、外資の富を地域に還元させる必要がある。つまり、社会的生産である資本主義の富を社会に還元するということである。
 これが合理的である。社会的生産の富を役職、株主、金融資本等が寡占するのは、強奪である。ここに資本主義の捩れ、歪みがあるのであり、それは、自我がベースにあるのである。ブッダ知的資本主義が考えられる。
 とまれ、資本主義のこの矛盾を哲学・科学的に解明する必要がある。資本主義は単に私的生産ではなく、勤務者がいるのだから、社会的生産なのである。しかるに、富を私的に寡占しているのである。言い換えると、パブリックな生産であり、パブリックな富の還元が必要であるということである。
 西洋的価値観は自我中心的であるので、これを認められないのである。つまり、盲目なのである。トランス資本主義は、東洋から起こる可能性がある。
 とまれ、このトランス・キャピタリズムは、哲学・科学的な分析によって、正当化されるものであり、民主主義的倫理観等によって、理想的に考えられるものではない。冷徹な客観的事実なのである。

追記:また、自然的資源、自然的富を利用しているのだから、自然的還元も当然必要である。

* なぜ為替介入したのに円高が止まらないのか 「世界通貨安戦争」勃発の背景 (MONEYzine )10/17(日)11時35分 (2)

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=1017&f=business_1017_007.shtml


2010年10月14日(Thu)▲ページの先頭へ
「神」とは何か:トランス・モダン神道へ向けて
テーマ:神道ルネサンス:トランス・モダン東洋文明

今は余裕がないので、詳述できないので、一言言うと、私は今夏、実家の地元の田園地帯にある川沿いの神社に、サイクリングの途中、ふと赴き、ここには、「神」が存すると直感した。
 このように感じたのは初めてである。それまで、田んぼが広がる中を流れ、間近の海に注ぐ川の土手道をサイクリングするのは、おそらく、百回(二百回近いと思う)を越えて、毎回本神社の鎮守の森を見ていたし、何度も訪れた。確かに、清々しい場とは感じたが、「神」が存するとは思わなかった。しかし、今夏はここに「神」が、いわば、鎮座していると直感した。
 霊的気と言ってもいいだろう。それは確かに感じられたのである。おそらく、昔の人は霊的気(霊的気配)を感じて、神社を建立したのではないだろうか。あるいは、別の事情であったかもしれない。
 とまれ、木立に包まれた(鎮守の森)、清められた神社にたたずみ、確かに、「神」が存すると感じた。
 昔の人は、いわば、霊的息吹、霊的気配を感じて、尊崇したのだろう。それが、私見では、古神道である。
 それは、抽象、観念的なものではなく、直感的な実在である。そして、これが、日本的「宗教」であると思う。
 一神教の抽象的超越性ではなく、直感的超越性(追記:というか、直感的臨在性)があると言えよう。
 思うに、国家神道はこの民衆レベルの神道をナショナリズム化したのである。そして、狂信的戦争へ突き進み、敗戦。そして、神道が否定された。
 しかし、日本民族の精神の基は神道である。故に、戦後否定されても、危機的状況には、復活すると思われるのである。
 あえて言えば、神、神々が復帰しているのである。それに応える必要がある。神道日本の復活である。

神道
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神道
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表 ・話 ・編 ・歴

神道(しんとう、かんながらのみち)とは日本 の民俗的な信仰体系であり、日本固有の多神教 の宗教 である。
概要 [編集 ]

政治共同体としての「日本」が意識される遥か以前(かかる意識が国民レベルで醸成されるのは遥か後年の明治維新以降である。また少なくとも北海道や東北地方は天皇を戴く大和政権とは別の政治共同体を形成『つまり別の国』との実態及び意識が遥か後年まで維持されることとなる。)から現在日本領とされる各地においてなされてきたシャーマニズム的呪術が明治維新前までは仏教によって民衆に仏法を分かりやすい形で伝える形式としてかろうじて残された習俗形式であり、明治維新後は国民統合のイデオロギーとして用いるために「宗教」としての外形等が整備されることによって近代化させられた、現在まで残存する宗教 である。近代以前の神道は日本列島 に住む民族 の間の伝統的な民俗信仰 ・自然信仰 を基盤としたものであった。が豪族層による中央や地方の政治体制特に仏教と関連しながら徐々に変容を遂げることとなった。[1] [2] 。

神道には明確な教義や教典がなく[3] [4] 、『古事記 』、『日本書紀 』、『古語拾遺 』、『宣命 』といった「神典 」と称される古典を規範とする。森羅万象 に神 が宿ると考え、天津神・国津神 や祖霊 をまつり、祭祀 を重視する。浄明正直 (浄く明るく正しく直く)を徳目とする[3] 。他宗教と比べて現世 主義的であり、まつられるもの(神)とまつるもの(信奉者)との間の連体意識が強い、などといった特徴がみられる。

一説には、神道とは惟神の道(かんながらのみち)であり、「ただあるがままを生きる。この世には人智を超えた神々の計らいがあり、その中をただ自然に生きることこそ大切」とも言われるが、その根幹にあるものは森羅万象や祖霊、死者への畏敬の念である。古来、日本人は「人道 」に対する「神道」という、人道よりももっと高度な、善悪を超えた、宇宙や地球の法則のようなもの、人類も含めた「物・事の在り方」「道(みち)」をその精神の中心に置き、大事に伝承し、国民全体に普及させる努力を重ねて来ていた。それは、新嘗祭などの日本古来の伝統的な「祭事」にも表れている。

神道と仏教 の違いについては、神道は神話 に登場する神々のように、地縁 ・血縁 などで結ばれた共同体 (部族 や村 など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに個人の安心立命や魂 の救済 、国家鎮護 を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する[1] 。

神道は日本国内で約1億600万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるが、これは神社側の自己申告に基づく数字である。約85000の神社が登録されている。
分類 [編集 ]

神道は、

皇室神道
皇居内の宮中三殿 を中心とする皇室 の神道である[5] 。
神社神道
神社 を中心とし、氏子 ・崇敬者などによる組織によっておこなわれる祭祀儀礼をその中心とする信仰形態である[6] 。
教派神道 (神道十三派)
教祖・開祖の宗教的体験にもとづく宗教。他の神道とは少し性質が異なる。
古神道
「民間神道・民俗神道」や原始神道・縄文神道・古道 (中華文明の原始儒教も同意であるがここでは除く)とも呼ばれ、日本で古くから民間でおこなわれてきたものや、修験などの古神道と習合した密教 や仏教 、あるいは道教 の思想を取り入れた古神道などの信仰行事をいう。また、明治時代以降に古神道だけを取り出し、新たな宗派として設立されたものとしての復古神道 に分類できる。

に分類することができる。

今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指す。

また、何に重きを置くかによって、

* 社人神道 - 儀礼を中心とする
* 学派神道 - 教学を中心とする[5]

に分けられる。

なお、「国家神道 」は、特に近代(明治維新 より第二次世界大戦 終結まで)において国家の支援のもとにおこなわれた神道を指す名称である[7] 。教派神道の「『神道各派』から区別された神ながらの道はとくに国家神道とも呼ばれるが、法律家や行政実務家は以前からそれを神社と呼ぶのが例[8] 」であり、第二次世界大戦前は、単に「神社」といえば、国家に管理された国家神道のものをさした。現在では政教分離 が進んで「神社」の語義が変化しており、国家神道を単に「神社」と称することはなくなった。但し、この様な国家神道の概念・語を、GHQ による創作・捏造とする説もある。現に、昭和26年にGHQの政策によって宗教法人法 が制定され、それによって殆どの神社は伊勢神宮 を中心とした神社本庁 傘下の宗教法人 の中に分類されてしまった経緯がある[9] 。

また、次のような分類もされる。

* 祭り型神道
o 宮中神道 - 宮中の祭祀
o 神社神道 - 通常の神社の祭祀
o 古神道 - 道祖神 ・田の神 ・山の神 ・竈神 など
o 陰陽道 系 - 土御門神道 ・いざなぎ流 など
* 教え型神道
o 学派神道
+ 復古神道 - 平田篤胤 ら
o 理論神道 - 伊勢神道 ・唯一神道 など
o 神仏習合 系 - 両部神道 ・山王一実神道 など
o 神儒一致系 - 儒家神道 ・理学神道 など
o 教派神道
+ 山岳信仰 系 - 実行教 ・御嶽教 など
+ 霊示系 - 黒住教 ・金光教 ・天理教 (正確には天理教は政府の弾圧を避けるために教派神道となり現在は諸派に分類されている)など
+ 伝統神道系 - 出雲大社教 ・神道修成派 など
+ 新思想系 - 大本 ・生長の家 ・白光真宏会 ・世界真光文明教団 ・崇教真光 ・ス光光波世界神団 ・神道天行居 など

由来と教義 [編集 ]

「神道」という言葉は中国の『易経 』や『晋書 』の中にみえるが[10] 、これらは「神(あや)しき道」という意味である。これは日本の神道観念とは性質が異なるものである。

日本における「神道」という言葉の初見は『日本書紀 』の用明天皇 の条にある「天皇信佛法尊神道」(天皇、仏法を信じ、神道を尊びたまふ)である。このように、外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった[11] [12] 。

中国では、信仰は「鬼道 」、「神道」、「真道 」、「聖道 」の4段階に進化すると考えられ、仏教は一番進んだ「聖道」にたっしていると信じられていた。一番下の段階が「鬼道 」で、『魏志倭人伝 』の中にもこの語が出てくる。次の段階が「神道」」(「神(あや)しき道」)である。すなわち、『易経 』や『晋書 』の中にみえる「神道」(「神(あや)しき道」)という語は、鬼道よりは進んでいるが、まだまだ劣っているという蔑称である。日本における「神道」は中国道教の「真道」「聖道」といった進化に対して保守的であり、「鬼」が蔑称文字とされても「祈祷」の字を代用するなど、他の宗教の原理主義に近い状態を維持していると言える。また国家神道時代においては聖道に近い状態であったとも言える。因みに、「[[祈り]」自体は、本来の日本語の意味では、「意乗り=意を乗せる」という意味である。現象や物事に対して「意乗り」を行う事によって、改善・改良の道筋を開いたり付けたりそこに気を入れたりすることを表す。

日本書紀では、用明天皇即位前紀に「天皇,仏法を信(う)けたまひ,神道を尊びたまふ」とあり,孝徳天皇即位前紀に「(天皇)仏法を尊び、神道を軽(あなず)りたまふ。生国魂社の樹を駒(き)りたまふ類、是なり。人と為(な)り、柔仁(めぐみ)ましまして儒を好みたまふ」とあり、これが日本に於ける「神道」の語の初出である。

解釈は多様であり、仏教や儒教に対して日本独自の宗教を神道とする説、祖先や自然に与えられた環境の保持発展を指して神道とする説、人道に対し天皇が君主として神として歩むべき覇道を指して神道とする説などがある。

明治20年(1887年)代になると、西欧近代的な宗教概念が日本でも輸入され、宗教としての「神道」の語も定着し始める。明治30年(1897年)代には宗教学が本格的に導入され[13] 、学問上でも「神道」の語が確立した[14] 。

もともと、神道にはイエス・キリスト や釈迦 のようなカリスマ 的創唱者が存在しなかった[3] 。政権による土着の民俗信仰との支配的な祭政一致 がおこなわれた神道が教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より「神在随 事擧不為國」[15] だったからであるともいわれている。そのため、外来諸教と融合しやすい性格を有することになったともいう。しかし、神道のような土着の民俗信仰と宗派宗教 の併存例は世界各地でみられるものであり、日本が特に珍しい例というわけではない。

実際には、仏教公伝 の当初から、廃仏派の物部氏 と崇仏派の蘇我氏 の間で抗争もあった。中世には、伊勢神道 をはじめとして、吉田神道 などの諸派が反本地垂迹説 など複雑な教理の大系をつくりあげてゆく[16] [17] 。近世後期には、平田篤胤 が、キリスト教の最後の審判 の観念の影響を受けた幽明審判思想 や、アメノミナカヌシ を創造神 とする単一神教 的な観念を展開するなど近代に連なる教理の展開を遂げた。近世に大きく発展した儒家神道 はしだいに大衆に支持基盤を得て尊王攘夷 思想を広め、討幕の国民的原理ともなっていった。

近代には神道事務局祭神論争 という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識して、大日本帝国憲法 でも信教の自由 を認めせざるを得なかった[18] 。もっとも、それには欧米列強に対して日本が近代国家であることをあきらかにしなければならないという事情もあった。神社神道 では教義を明確に統一できないことに由来する神道の「掴みにくさ」は、同時に、言語に強く依存した外来の諸宗教に完全には吸収同化されない、身体感覚を重視した遠い昔からの所作の現われとして現代日本社会にもなお受け継がれている。この結果、仏教や儒教 、キリスト教などの受容後も、神道的なものが日本人の精神生活に幅広く残った。これらを俯瞰すると、抱擁的側面は出雲が有し、社会制御的側面を伊勢が受け持ったともいえる。
神道における「神」 [編集 ]

神道は多神教 だが、祖霊崇拝 性が強いため、古いものほど尊ばれる。1881年 の神道事務局祭神論争 における明治天皇 の裁決によって伊勢派 が勝利し、天照大神 が最高の神格を得たが、敗北した出雲派 的なものが未だに強く残っていたり、氏神 信仰などの地域性の強いものも多い。

気象、地理地形に始まりあらゆる事象に「神」の存在を認める。いわゆる「八百万の神々 」である。この点はアイヌ の宗教にも共通する。詳細は神道における神 を参照のこと。また、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神 )。

自然を感じ取り、そのもののままでは厳しい自然 の中で、人間として文化的な生活を営むのにふさわしい環境と状態を、自然との調和に配慮しながらバランスを取り調節して行き、人民生活を見回って、生活する為の知恵や知識のヒントを与えたり、少し手伝ってあげたり、体や物を借りた時や何かやって貰った時などには少しお礼をしたり。それが、日本の「神(かみ)」がやっていた仕事の一つである。一説には、「神」は「上(かみ)」に通じ、上の方にいる存在を指すといも言われている。日本人にとって「神」は、とても身近な存在であった。たまに悪戯をする存在も在ったが、概して日本の「神」は善神で、人々を迫害・束縛したりする邪神は存在していなかった。その後、社会の上層部で活動し、国民や国にとって貢献した人物なども、「神」として神社に祭られたりして来ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93


2010年10月10日(Sun)▲ページの先頭へ
個と自我:その2:「わたし」とは何か:Was bin ich?
今日の「わたし」は、凸i⇒+1である。物質的自我である。
 しかし、これは、仮象である。それは絶対的に滅びるものである。(どうして、それに固執するのか。)近代的自我は物質的自我である。
 仮象である「自己(自我)」とは別に、本来、「個」がある。これは何か。
 これは、正に、双極的自己である。即ち、凸i*凹iの差異共立的自己である。この点において、すべての人間は共通、同一である(大乗仏教、キリスト教)。
 しかし、当然ながら、個々の人間には差異がある。これをどう説明するのか。
 直観的には、凸i*凹iには、差異があるということである。つまり、凸ik*凹ikである。だから、Aさんは凸ia*凹ia、Bさんは凸ib*凹ib、・・・Nさんは凸in*凹inとなる。
 思うに、これが「カルマ」である。どうして、違いが生じるのか。
 これは、状況によって差異が生じたと思われる。本来、同一であるが、状況によって、異なったのではないか。
 思うに、発想を変えた方がいいかもしれない。
 思うに、凸iの原自我は、本来、同一である。しかし、物質的現象化によって、差異が生じるということではないのか。
 つまり、「わたし」は本来、普遍的であり、同一である。しかるに、現象化、時空化によって、差異が生じるのではないだろうか。
 言い換えると、個々の人間はすべて、「神」である。しかしながら、個々別々の状況によって、差異化されるということではないのか。
 つまり、究極的には、すべての個々は-1という「同一性」(「一神教」)をもつということではないのか。
 私は民主主義には、基本的には批判的であるが、根源的同一性の視点から見れば、肯定されよう。
 そう、結局、「神」の多様性志向が、個々の人間を発生させていると思う。一人一人、「神」であるが、ある意味で、「神」に翻弄されているのである。そう、「神」は意地悪であるし、パズルを人間に課していると思う。


粒子と反粒子の対は双極子凸i*凹iではないのか
粒子と反粒子を双極子とすると、粒子と反粒子は極に過ぎない。それは、粒子ではないと思う。粒子の視点は、+1の視点である。⇒の双極子のダイナミクスに注目すべきだろう。
 凸i*凹iの双極子であるが、凸iと凹iとは粒子でないなら、何であろうか。素粒子だろうか。これは、アトム論的発想である。
 以前、即非子ということを述べたが、その方が、素粒子や粒子よりいい。とまれ、双極子でいいと思う。これは、いわば、三位一体である。三一体、トライアッドである。そして、思いつきでは、この三一体の双極子は、四つの様相、人間認識図の四つの象限をもつのではないだろうか。
 物理学では、四つの力のグランド・セオリーが問題になっているが、PS理論のMedia Pointの双極子理論によって、四つの力は整合的に説明できると思う。これは、直感であるが。
 後でさらに検討したい。

追記:時計回りの1/4回転で、凸i⇒+1となり、
凹i⇒-1と仮説すると、「粒子」(物質)が現象界(+1)に存し、「反粒子」(反物質)が現象界にはなく、超越界(-i)に存することが説明できる。
 反粒子、反物質、ダーク・マターは同一ではないだろうか。そして、超越界-1が本来のイデア界ではないのか。

反粒子
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反粒子(はんりゅうし)とは、通常の粒子 と比較すると、質量とスピンが等しく、電荷など正負の属性が逆の粒子を言う。。

相対論的量子力学 においては、フェルミ粒子の振る舞いを記述する運動方程式であるディラック方程式 に負のエネルギー固有値が現れるという問題があった。ポール・ディラック はこの問題に対する回答として、空孔理論を用いて「正のエネルギーを持つ反粒子が存在するせいである」とした。 場の量子論 においては、ディラック方程式の解を運動量空間で展開し、負の振動モードを表す場に対して 反粒子と呼ぶ。この枠組みでは、粒子と反粒子が衝突し光子に変わる、などの過程を生成消滅演算子を用いて数学的に記述することが出来る。現在の素粒子論は、場の量子論に立脚した標準模型 が実験結果を非常に正確に記述することが分かっており、粒子や反粒子の散乱断面積、崩壊幅などは場の理論を用いて計算することが出来る。

電子 の反粒子は陽電子 であり、同様に陽子 には反陽子 、中性子 には反中性子 がある。(中性子は中性であるが反中性子は構成粒子であるそれぞれのクォーク が反粒子であるため反粒子が存在する)反粒子が通常の粒子と衝突すると対消滅 を起こし、すべての質量がエネルギーに変換される。逆に、粒子反粒子対の質量よりも大きなエネルギーを何らかの方法(粒子同士の衝突や光子などの相互作用)によって与えると、ある確率で粒子反粒子対を生成することができ、これを対生成 と呼ぶ。

数学的取り扱いにおいては、粒子が時間軸を過去に向かって進んでいるものを反粒子である、と解釈することもできる。(CPT定理 )


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E7%B2%92%E5%AD%90


反粒子消滅の基礎理論
反粒子の消滅
反粒子は粒子(反・反粒子)に衝突したときにのみ消滅する.例えば,電子の反粒子である陽電子は電子と衝突すると消滅し,2個またはそれ以上の光子に変化する.電子と陽電子の静止エネルギーはそれらの光子のエネルギーに転換する.全体のエネルギーは保存される.

自然法則1:反粒子は粒子(反・反粒子)に衝突したときにのみ消滅する.

宇宙において反粒子は粒子(反・反粒子)に衝突したときにのみ消滅する.初期宇宙において反粒子は粒子(反・反粒子)に衝突したときにのみ消滅する.初期宇宙は宇宙の一種であると考えられる.

自然法則2:いろいろな素粒子反応で反応前後のバリオン数は不変である.これをバリオン数の保存則という.

バリオンは核子のようなスピン半整数のフェルミ粒子で強い相互作用する粒子である.重粒子ともよばれる.これらはバリオン数+1の素粒子と考え,それらの反粒子はバリオン数−1の素粒子と考える.バリオン数が保存しないなら,陽子は陽電子に崩壊するかもしれないが,自然の事実としてそのような崩壊は見出されていない.また,バリオン数が保存しているため,安定した鉛(Pb)が安定した金(Au)に変化することはない.なお,不安定な原子核は軌道電子捕獲等によってその原子番号を変えることがある.軌道電子捕獲とは,原子核中の陽子が軌道電子を捕らえて中性子になり,ニュートリノを放出することをいう.

素粒子の崩壊は、 物質の安定性と粒子の崩壊 で述べたように,ある粒子Xから複数の粒子が得られる現象である.反粒子が崩壊しても反粒子は消滅しない.

自然法則3:いろいろな素粒子反応で反応前後のレプトン数は不変である.これをレプトン数の保存則という.

電子,ミュー粒子,タウ粒子,電子ニュートリノ,ミューニュートリノおよびタウニュートリノはレプトンと呼ばれる.レプトンにはレプトン数1が与えられる.反レプトンにはレプトン数−1が与えられる.強い相互作用をするハドロンにはレプトン数0が与えられる.


反粒子
定義:反粒子は粒子と同じ質量・スピンの大きさ・寿命をもち,ただ,電荷等の符合が異なる粒子である.

例えば,陽電子は電子の反粒子である.

簡単のため,クライン-ゴルドン方程式で説明する.クライン-ゴルドン方程式は
  (B50)
である.この方程式は自由粒子に対する平面波の解
  (B51)
をもつ.方程式(B50)の複素共役をとると,ψ*がψと同じ方程式を満たすので
  (B52)
の時間変化をする解があれば
  (B53)
の時間変化をする解も存在する.


エネルギー解釈
因子(B52)の時間変化をする解がエネルギー+Eの解であり,因子(B53)の時間変化をする解がエネルギー−Eの解であり,その結果,正負一対のエネルギーの状態が存在すると解釈する.


時間・空間解釈
因子(B52)と(B53)の解から,エネルギー解釈では,正負一対のエネルギー状態が存在すると解釈するが,数式ではエネルギーと時間の積に対する正負一対の状態が存在することになっている.そこで,時間・空間解釈では因子(B52)と(B53)の解から,エネルギーEで時間進行が正負一対の状態が存在すると解釈する.実際には,解はψとその複素共役のψ*であるから,時間進行が正負一対の状態であるだけでなく,同時に互いに空間反転した状態にもなっている.以上から,時間・空間解釈により,粒子の状態(波動関数)を時間・空間反転すると反粒子の状態(波動関数)となり,逆に反粒子の状態(波動関数)を時間・空間反転すると粒子の状態(波動関数)となる.


CPT定理
時間反転をT反転,空間反転をP反転,粒子を反粒子に変える変換をC反転と表記する.時間・空間解釈により
PT=C  (B54)
である.この式にC反転をとると
CPT=C2  (B55)
となる.C2は粒子の状態を反粒子の状態に変え、さらにその反粒子の状態をもとの粒子の状態に変える変換であるから、
C2=I(恒等変換)  (B56)
である。したがって、
CPT=I  (B57)
である。すなわち、CPT反転は恒等変換である(CPT定理)。

CPT反転が恒等変換であるため、C反転、P反転、CP反転に対して対称性が破れていてもよい。
http://takaosuda.hp.infoseek.co.jp/homepage/relate/ap7.html

一般相対性理論 と 宇宙論

General Relativity and Cosmology



宇宙誕生の時に、粒子と反粒子は同じ数だけ生まれ、現在は粒子だけ残っているそう...

akb48_1111 さん

宇宙誕生の時に、粒子と反粒子は同じ数だけ生まれ、現在は粒子だけ残っているそうですね?で、その原因はCP対称性とかいうのが原因だそうですが、それって一体なんなんですか?


ベストアンサーに選ばれた回答

feynman2007 さん

CP対称性の破れを説明する理論に「小林・益川理論」がありますが、この理論では反粒子と粒子の差を説明するのには不十分なので、CP対称性の破れで粒子が残ったと結論付けることはできません(*詳細は後述)。

ですので、粒子だけが残り反粒子が消えた理由は未だによくわかっていません。

本題に入りますが、CPというのは粒子の「CP変換」のことです。対称性の破れとは、物理法則が変わることを指します。つまり、CP対称性の破れというのは、粒子をCP変換したときに、変換前と変換後で粒子の物理法則が変わるということです。

粒子のCP変換とは、「C変換」と「P変換」を同時に行う変換のことです。

P変換:空間を反転(Parity)する変換を「P変換」といいます。P変換は、鏡に映してみるような変換と思っていただければいいと思います。ただし、現実の鏡のようにすべてを反転させるわけではありません。
粒子は自転に似たスピンをしています。粒子がたとえば右ねじ方向にスピンしているとすると、ねじが進んでいく方向(スピンの向き)が1対1で決定します。

C変換:電荷(Charge)を反対にする変換を「C変換」といいます。C変換は粒子と反粒子の変換です。
粒子には右巻き、左巻きの性質(スピンとは別の性質)があります。C変換とは、この右巻き、左巻きの方向を変えずに電荷を反対に変換させることなんです。

C変換とP変換はそれぞれ対称性が破れていることが昔からわかっていましたが、CP変換は対称性の破れがなかなか発見されなかったため、CP対称性は破れていないのではないかと考えられていました。

ところが1964年、アメリカの物理学者ジェーブス・クローニンとバル・フィッチは「K中間子」の崩壊を調べた実験で、CP対称性の破れを発見したんです。CP対称性の破れは当時の物理学での大問題となりました。

そして、1973年に小林誠と益川敏英は、「小林・益川理論」を発表しました。クォークが3種類しか知られていなかった当時、クォークが6種類あればCP 対称性の破れを理論的に説明できると考えたんですね。その後、この理論の正しさが実証され、2人はノーベル物理学賞を受賞することになったんです。


(*):小林・益川理論はCP対称性の破れを説明し、Bファクトリーの実験などによって、同理論が正しいことも確認されました。しかし、小林・益川理論では、反粒子が消えてしまった謎を説明することはできません。なぜなら、小林・益川理論で生じるCP対称性の破れの程度はとても小さく、宇宙の歴史で生じた粒子と反粒子の差を説明するには不十分なんです。

粒子・反粒子の謎を解くためには、標準理論を超えた新しい理論が必要だと考えられています。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1447970564


CP対称性の破れ
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CP対称性の破れとは、物理学 、特に素粒子物理学 において、物理学の大前提となるCP対称性に従わない事象 のことである。これは宇宙論 において、現在の宇宙 で物質 が反物質 よりもはるかに多いことを説明する上で非常に重要である。

CP対称性の破れは1964年 に中性K中間子 の崩壊の観測から発見され、ジェイムズ・クローニン とヴァル・フィッチ はその功績により1980年にノーベル物理学賞 を受賞した。現在も、理論物理及び実験物理で積極的な研究が行なわれている分野の1つとなっている。
概要 [編集 ]

Cは荷電共役変換(Charge Conjugation:粒子 を反粒子 へ反転する)、Pはパリティ 変換(Parity:物理系の鏡像 を作る)を意味し、CPはこれら2つの演算子の積である。強い相互作用 と電磁相互作用 はCP変換の元で不変であると考えられているが、弱い相互作用 による崩壊では、この対称性がわずかに破れている。

歴史的にみるとCP対称性は、1950年代に発見されたパリティ対称性の破れ を回復するために提案された。パリティ対称性とは、素粒子物理学の法則が鏡像反転のもとで不変である、という考えを背景としている。これは、化学反応や放射性崩壊のような反応が、鏡像反転しても同じ頻度で起きることを示唆している。

パリティ対称性は、電磁相互作用および強い相互作用による反応については正しい。1956年までパリティ保存は、エネルギー保存の法則 や運動量保存の法則 とともに、幾何学的な基本法則の一つであると信じられていた。しかし1956年に、理論物理学者の李政道 と楊振寧 が、すでに存在していた実験データを丹念に再検討し、パリティ保存は強い相互作用および電磁相互作用については確認されていたが、弱い相互作用については確認されていないことを示した。彼らはいくつかの直接的に検証する実験を提案した。コバルト 60原子核のベータ崩壊 を使った最初の実験は、1956年に呉健雄 らのグループによって実施され、弱い相互作用がパリティ対称性を破ることを明確に証明した。

全体的に見て、一つの量子力学 的体系の対称性は、もしも他の対称性Sが見つかって、それと組み合わせた対称性PSが破れないように出来れば回復される。このヒルベルト空間 の構造についての精妙な論点はパリティの破れが発見されてまもなく体現され、荷電共役がその秩序回復のための望まれた対称性であると提唱された。

簡単に言うと、荷電共役とは粒子と反粒子の間の対称性である。CP対称性は1957年にレフ・ランダウ により、物質と反物質の間の真の対称性として提唱された。言い換えれば、一つの過程ですべての粒子がその反粒子で置き換わったものはもとの過程の鏡像と等価である、と仮定された。
関連項目 [編集 ]

* 対称性の破れ
* 小林・益川理論
* CKM行列
* 小林誠 (物理学者)
* 益川敏英

「http://ja.wikipedia.org/wiki/CP%E5%AF%BE%E7%A7%B0%E6%80%A7%E3%81%AE%E7%A0%B4%E3%82%8C 」より作成
カテゴリ : 素粒子物理学 | 対称性


反粒子とは?
今世紀の初頭、原子・分子の世界を支配する基本法則として量子力学が確立されるやいなや、イギリスの天才物理学者ディラックは、これを自然をつかさどるもう一つの基本法則であるアインシュタインの相対性理論と合体させる作業にとりかかりました。非相対論的なニュートン力学が、光の速さに近いスピードで運動する物体に適用できないように、量子力学も、相対性理論との合体なくして、高速で運動する電子を正しく扱うことができないことは明らかだったからです。

こうしてできあがったのが、電子の相対論的運動方程式であるディラック方程式です。この方程式を解いてみると、-eの負の電荷を持つ電子を表す解だけでなく、電子と同じスピンや質量を持ちながら、+eの正の電荷を持つ粒子と解釈できるもう1つの解が出てきたのです。これは予想外のことでしたが、今にして思えば、電子の反粒子である陽電子に対応する解に他なりませんでした。ほどなく、こうして予言された陽電子が実験で見つかりました。これは、相対論的量子力学の輝かしい勝利でした。

今では、素粒子を記述する相対論的量子場理論の必然的な帰結として、全ての素粒子が、それと同じ質量を持ち、電荷のような符号を持つ(加算的)量子数が正負反対であるような反粒子の相棒を持つことが分かっています(符号を持つ量子数を持たない粒子の場合は、自分自身が自分自身の反粒子だとみなせます)。相対論的量子場理論が描く素粒子の世界は、以下に説明するように、粒子と反粒子が次々と生まれたり消えたりしながら移り変わっていくとてもダイナミックな世界です。

対消滅と対生成
粒子と、反粒子が出会うと、量子数が正と負で打ち消しあってゼロになり、真空と同じ状態になります。そしてそこには、もともと粒子と反粒子が持っていたエネルギーが残ります。これを対消滅といいます。静止した粒子と反粒子が対消滅した場合には、アインシュタインの関係式

E = mc2

によってエネルギーと質量が等価であることが分かっていますから、粒子と反粒子が同じ質量を持つことを考え合わせると、そこには2mc2 のエネルギーが残されることになります。高いエネルギーに加速された粒子と反粒子が正面衝突して対消滅した場合には、消滅した点にはさらに高いエネルギーが集中して残されます。

対消滅とは反対に、真空の1点に 2mc2 以上のエネルギーを集中させれば、そこから粒子と反粒子の対を取り出すことができます。これを対生成と呼んでいます(ここまであいまいにエネルギーの集中と呼んできたものは、実は粒子と反粒子を対にして生み出す力を秘めた、光子や、Z粒子、グルーオンなどの力の粒子の特殊な状態だと考えられます)。十分なエネルギーを注入できれば、宇宙創成直後の超高エネルギーの世界にしか存在しなかったような、重い粒子を作り出すこともできるのです。高エネルギー衝突型加速器は、まさにこの方法を使って、今まで人類が知らなかった新粒子を見つけたり、また、それらの粒子の間に働く力を調べるための装置なのです。

http://www.kek.jp/kids/class/particle/class01-05.html


2010年10月08日(Fri)▲ページの先頭へ
三次元空間の発現?:根源的双極子宇宙(知/感性的宇宙):-1⇔凸i*凹i⇒+1
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10671018577.html


以下のKaisetsu氏の図(手書き)は実に直感を刺激する。
 第一象限と第二象限のモードの衝突が、ガウス平面と直交する軸Z軸において、発現する様子を示している。
 私は先に、MP平面(仮の命名)から、時間によって、現象化が生起して、第三次元、立体が形成されることを示唆した。
 とまれ、以下のGreenの回転する垂直面がとても意義深い。Vector Modeとも関連すると推測される。つまり、宇宙、自然、森羅万象の渦巻きや螺旋はこれで説明されるのではないだろうか。そして、物質的距離というものも、これによって形成されているのではないだろうか。本来、Media Pointにおける差異共立共振は、Z軸へと展開するのであり、それが、物質力となるのではないだろうか。
 また、虹の七色も、このZ軸における位階スペクトルで説明できないのか、思いつきであるが。
 後で、もう少し述べてみたい。

追記:言うのを忘れたが、虚軸における「距離」の問題、ないしは、虚軸における「空間」の問題である。例えば、凸iと凹iとの「距離」とは何なのだろうか。これは、当然、実軸、実数の観点では測れない。
 虚距離というものがあるのだろうか。双極子としての量子を考えると、二つの「粒子」には、距離があるのだろうか。思うに、距離はないのである。ただ、 MPの空虚点によって共立交叉しているのである。つまり、即非様態である。ということは、森羅万象のエッセンスはそこの凝縮されているということだろう。ただ、根源の双極子、元双極子のMP変換によって、多様な現象を産出するということではないだろうか。
 思うに、回転モードの差異によって、現象形態が異なるということではないだろうか。しかしながら、根源の双極子の凸iには知的モーメントを、凹iには感性モーメントを認めるべきではないだろうか。つまり、精神的身体の原型である。
 そうならば、物質とはどのように発生するのか。思うに、それは、根源的双極子=原精神的身体の現象化において、つまり、生命体化における差異共振体として物質、物質的身体が形成されるのではないだろうか。
 いわば、生命体的物質とは、原精神的身体=根源的双極子の外面、外界であるということになる。
 ならば、生命体としての宇宙、コスモスという見方は正しいのである。太陽も、月も、土星も、太陽系も、銀河系も、その他の星雲、等々も、根源的精神的身体の発現ということになる。
 では、問題は、原双極子と-1との関係である。-1の自己分割としての原双極子が考えられる(Kaisetsu氏)。
 思うに、

-1=-1+0凸i=-1+0凹i

である。
つまり、元々、-1には、ゼロとしての双極子が存するということではないのか。すなわち、

-1=-1+0(凸i*凹i)

である。つまり、ゼロ度の双極子である。これが、潜在態として、-1に存するのではないだろうか。
 あるいは、もっと簡単に言えば、-1が時計回りと反時計回りに1/4回転すれば、双極子になるのである。
 ここで思考実験であるが、-1において、垂直のモーメントと水平のモーメントがはたらいているとしよう。正確に言えば、虚軸的な垂直方向の上下に働いているとする。そして、水平方向には、求心力がはたらくのではないだろうか。なぜなら、-1は傾斜であり、当然、+1への求心力があると想定できるからである。
 すると、垂直上下モーメントに求心力が作用したとき、-1は、時計回りの回転と反時計回りの回転を産み出すだろう。それが、根源の双極子を創造するのではないだろうか。
 言い換えると、三つの力が作用して、双極子を形成するということになる。そして、それは、さらに、+1へと向かうと考えれる。即ち、凸i*凹i⇒+1である。
 だから、まとめると、

-1⇒凸i*凹i⇒+1

となる。問題は、-1⇒凸i*凹iの箇所である。
 ゼロ度の双極子のことを言ったので、これは、双方向的に、

-1⇔凸i*凹i

となるのではないだろうか。すると、

-1⇔凸i*凹i⇒+1

となる。
 今はここで留める。当然、後で、再検討したい。

参照:以下の生成門氏の「心的エネルギーの流れ」図


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100097917517

シムダンス「四次元能」

***************

人間認識図のモードMode計算

この green のエリアは何処だろうか。

 次の図を参照。

DSC01586 DSC01586 posted by (C)天花一海

 greenのエリアは、YとCの鬩ぎあい、共振の部分であるから、上図の、凸iでYとCが接する面の部分である。

 第1象限の土地に立つビルと第2象限の土地に立つビルの間にある狭小な空間のように、両者の即非部分である、接している部分である。

http://blog.kaisetsu.org/?eid=811869
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile


2010年10月06日(Wed)▲ページの先頭へ
「存在」の問題:ハイデガー存在論批判
「存在」の問題:ハイデガー存在論批判

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

「我思うゆえに我在り」の「我在り」の「存在」について検討したい。今は予備考察のみである。
 先に、ハイデガーの唱える「存在」とは存在性のことであると述べた。思うに、フッサールの志向性は凸i⇒凹iのことである。左辺がノエシスであり、右辺がノエマである。
 しかし、ハイデガーはフッサールの虚と突くように、「存在」を唱えた。しかしながら、ハイデガーの「存在」とはいわば、物質の超越論性である。現存在の超越論性である。だから、先に、⇒の先端がそうであると述べたのである。
 しかし、又、先に存在性とは凹iに存するのではないかと示唆した。「我在り」の「我」は自我と個が混合していると思う。つまり、それは、凸i⇒+1と凹i⇒-1が混合しているのである。
 存在性とは、本来、後者であると思う。それは、「個在り」である。前者は「自我在り」である。(先に述べたが、individualityもこの点で混同がある。)
 思うに、ハイデガーの「存在」は、凹i⇒+1である。つまり、凸iが主導のフッサール現象学の虚を突いて、凹iを指摘したのである。しかしながら、それが、⇒+1と連続化しているのである。
 ここにハイデガー「存在論」の大問題があると思う。フッサール現象学を補完するならば、凸iと凹iの共立を志向すべきであった。言い換えると、凸i⇒凹 iのフッサール現象学に対して、凹i⇒凸iの志向性を提起すべきだったのであるが、凹⇒+1へと連続化、同一性化、現象化、物質化、実体化してしまったのである。
 思うに、その結果、ハイデガー存在論は似非神秘主義と物質主義の間を揺らぐようになるのである。つまり、凹iの原存在は、⇒-1を漠然と予感するが、すぐに、⇒+1の物質主義が干渉して、真の神秘化を否定するのである。結局、連続性が支配していたので、ハイデガーの存在論は物質主義から脱却できなかったのである。


双極性と陰陽:差異共立相互浸透(双極交叉・即非)MP1と連続的同一性交叉MP2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Yin_yang.svg
陰陽を表す太極図


先に、
http://ameblo.jp/renshi/entry-10668457994.html
双極性をまったく異質な二つのものの極性と見たが、陰陽は実際は、陰の中に陽があり、陽の中に陰があるのである。これは、私の述べた双極性とは齟齬を来している。この点について検討したい。
 上図から見ると、私の双極性は小さな●と○がないもので、また、境界がMPで、空隙、間隙、空虚である。
 私は陰陽の二重の双極性を肯定するので、この齟齬は実に検討するに値する。
 いったい、小さな●と○は何なのだろうか。直観で言えば、こられこそ、Media Point(以下、MP)である。つまり、陽に関するMPが小さな●であり、陰に関するMPが小さな○である。つまり、小さな●と○はMPとして一致する。
 しかしながら、二つ提示されているということの説明が必要である。それは、言い換えると、双極点ではないだろうか。二つになっているが、本来は一つだと考えられる。
 整理すると、二つの不連続的に異質な極が、双極性を形成している。そして、両者の間隙点として、MPがある。しかしながら、MPは、両極を交叉させる役割をもっている。それが、小さな●と○である。
 では、双極交叉の力学とは何か。有り体に言えば、どうして、二つの不連続な絶対的差異が交叉できるのか、それが問題である。言い換えると、相互浸透の問題である。
 直観では、差異共立において、相互浸透が生起しているのである。これは、⇄-1に関係するように感じる。つまり、根源の-1と差異共立の間には、霊妙な相互関係があるように思われるのである。(これは検討課題である。)
 これは作業仮説であるが、差異共立的双極的相互浸透があり、それが交叉の原理である。
 言い換えると、MP1(MPの虚軸点)において、双極交叉が生起しているのである。そして、これはまた、即非である。
 つまり、二つの不連続的な絶対的差異である双極とは、本来、互いの「他者」と即非様態にあるということである。しかしながら、これは、MP2(MPの実軸点)における連続的変換(連続的同一性形成)と混同は絶対的に避けなくてはならない。
 即ち、双極交叉である即非には、同一性はないのである。まったく絶対的差異のままの即非である。
 それに対して、MP2の連続的変換においても交叉が生じるがそれは、同一性を根拠とするものであり、同化的交叉と考えるべきであり、即非ではないのである。
 以前、MP2に即非を見たが、ここで訂正されることになった。双極交叉である即非はMP1の事象である。
 今はここで留める。


2010年10月05日(Tue)▲ページの先頭へ
「個」とは何か:同一性自己(自我)と双極的自己(個)
既述したが、男性は凸iに傾斜している。だから、凹i が疎かにされる傾向にある。つまり、自我に傾斜して、他者が喪失される傾向にある。
 とまれ、凸i*凹iを個と考えている。あるいは、凸i*凹i⇒である。(前者は原個であろう。)
 直感では、個は凹iに存する。肚である。もっとも、正確には、やはり、双極性に存するだろう。
 問題は、近代において、凸iが中心化されて、凹iの意味が不明になっていることである。深層心理学はその把捉に失敗したのである。
 端的に、凹iは男性にとって捉えにくいのである。つまり、盲点、そして、影になるからである。
 わかりやすく言えば、凸iは知性であり、凹iは感性である。そして、両者は不連続である。これが最重要な点である。
 MP変換、精神的フィルター作用によって、通常、両者、双極性が連続化される(連続的同一性)。そのために、不連続性を認識するのがきわめて困難なのである。
 カントの超越論的感性論も、やはり、連続性の視点に拠るものである。(この点で不連続的差異論の画期性はいくら強調してもし過ぎることはない。)
 そう、凹iは非理性である。しかし、直感性をもつ。思うに、内的器官である。内界的器官である。それに対して、凸iは外的器官、外界的器官である。右脳と左脳。大脳神経系と内臓神経系。
 つまり、人間は二つの不連続なシステムから構成されているのである。陰と陽である。まったく異質なもの、まったく正反対なもの、まったく共通性がないものから成り立っているのである(一種の、共約不可能性、通約不可能性である)。
 しかも、本源は凹iだと思われる。つまり、凹iが主でありながら、男性においては、凸iが主流になるのである。これは、倒錯的傾斜である。
 男性主義(父権主義)が外界の解明に役立ったが、内界がまったく不可知になっているのである。そう、女性は内界的であるが、距離がないために、自覚していないと思われる。
 結局、どうやって凹iを取り戻すのかが問題である。陰陽が陽陰になっているのが問題なのである。
 ここで作業仮説、思考実験であるが、外界は凸i⇒+1であり、内界は凹i⇒-1ではないだろうか。否、もっと端的に言えば、外界は+1であり、内界は -1ではないのか。そして、外界は凸iの器官(外的器官:外観性)と、内界は凹iの器官(内的器官:内観性)と結びついているということではないだろうか。
 私は、虚軸の双極性の時計回りに1/4回転すれば、+1と-1が生じることを先に述べたが、現象化・物質化にはそれが生起しているのではないだろうか。+1は光、可視界、意識であり、-1は闇、不可視界、無意識である。
 そして、精神、霊性、宗教性とは、後者に存するのではないだろうか。
 今はここで留める。

追記:本題に触れると、「個」とは、凹i、内界・内観、闇、不可視界、無意識に存するのである。Media Pointは、「個」ではなく、自我と「個」との接点であろう。

追記2:凹iが本来、優位である。これは何を意味するのか。つまり、-1の根源性ということではないか。-1が根源・起源・原点であり、そして、双極性を産出するが、1/4回転で、つまり、MP変換によって、凹iと-1が結びつくのである。故に、凹iが優位となるのではないだろうか。

追記3:大脳神経系と内臓神経系の対をあげたが、大脳と間脳の対ということもできよう。

参考:
間脳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
脳: 間脳
Human brain midsagittal cut color.png
画像の詳細
大脳
間脳
中脳

延髄
脊髄
小脳
脳の矢状断。黄色が間脳。
Diencephalon.png
間脳と脳表面の関係を示した模式図
赤色で示す領域が間脳
名称
日本語 間脳
英語 Interbrain
ラテン語 Diencephalon
略号 DiE, IBr
関連構造
上位構造 前脳
構成要素 視床、視床下部、脳下垂体、松果体、乳頭体
画像
アナトモグラフィー 三次元CG
Sylvius 画像、発音
関連情報
Brede Database 階層関係、座標情報
NeuroNames 関連情報一覧
NeuroLex birnlex_1503
NIF 総合検索
MeSH Diencephalon
グレイの解剖学 書籍中の説明(英語)
表・話・編・歴
Question book-4.svg
この記事の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2008年4月に貼り付けられました。

間脳(かんのう)は大脳半球と中脳の間にある自律神経の中枢。
解剖 [編集]
ヒト脳のfMRI画像 円弧を描く白い帯状の脳梁に囲まれた部分が間脳。カリフラワー状の小脳の左上に位置する

脳は大脳、中脳、小脳からなり、大脳は大脳半球(=終脳)と間脳からなるので、間脳は大脳半球と中脳の間にある。2つの大脳半球に包まれる様にして一つの間脳があり、2つの大脳半球は一つの間脳に繋がっている。間脳は中脳に繋がっている。間脳は(広義の)視床と視床下部からなり、視床は視床上部と狭義の視床(背側視床)と腹側視床からなる(図.1)。単に視床と言う場合は狭義の視床を指す。
働き [編集]

間脳は大脳半球のほぼ全ての入力と出力を下位中枢と中継する信号の交差点となっている。特に視床下部は本能的な活動を制御している。ヒトは大脳が最も発達していることから、間脳も最大である。
入力 [編集]

視床は嗅覚を除く全感覚の中継にあたる。視覚と関係があると考えられていた のでこの名称がついている。
出力 [編集]

中脳が頭頚部の筋肉を直接制御するのに対し、間脳は自律神経やホルモン等を介して内臓全体を制御する。
自律神経 [編集]

間脳は視床下部にある自律神経核によって自律神経である交感神経と副交感神経を制御している。交感神経は獲物を捕らえる闘争反応や敵から逃れる逃走反応等を制御し、副交感神経は消化や睡眠等のリラクゼーション反応等を制御する。
ホルモン [編集]

間脳は視床下部によって脳下垂体(下垂体)を支配して食欲、性欲、睡眠欲等を制御している。また、免疫等も制御する。間脳の体温調節機能に働きかけ熱発させるサイトカインにIL-1やTNFがある。これらは炎症時に直接間脳に働きかけることにより生体の体温を上昇させ、感染から身を守る。
画像 [編集]

間脳の位置を様々な方向から見た動画。赤で示す領域が間脳。(出典:Anatomography)
外部リンク [編集]

* 間脳、外景、内景 - 慶應医学部解剖学教室 船戸和弥

執筆の途中 この項目「間脳」は、医学に関連した書きかけの項目です。加筆・訂正などをして下さる協力者を求めています(ポータル 医学と医療/ウィキプロジェクト 医学)。
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E8%84%B3」より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事/2008年4月 | 脳神経解剖学 | 脳



2010年10月01日(Fri)▲ページの先頭へ
個と自我:自己問題
個と自我:自己問題

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

個とは英語でindividualtyであるが、後者は、同時に自我、とりわけ、近代的自我の意味にもとられうる。
 どうも、individualityとは、個と自我の混淆した概念であると思われる。また、ego、self、subjectivity、等をどう考えるのか。
 結局、PS理論の原理的説明が整合的になるだろう。今は、ざっと述べるだけだが、

凸iは原自我、
凸i⇒+1が、自我、近代的自我

凹iが原他者、
凸i*凹iが、原自己、
凸i*凹i⇒が、個ではないのか?

だから、一般には、individualityは、凸i⇒+1と凸i*凹i⇒が混淆、連続化しているのではないのか。
 つまり、連続性の問題である。⇒は連続性を意味するだろう。だから、凸i*凹i⇒が+1と連続化するのである。
 つまり、自己認識方程式、

凸i*凹i⇒+1

において、左辺は、個元であるが、MP変換によって、+1と連続化して、自我、近代的自我と連続化されるということだろう。
 ルネサンスは、正に、この図式に当てはまると考えられる。本来、個の覚醒であるが、それが、⇒+1の近代的自我へと連続化したのである。つまり、ルネサンス文化の帰結は、デカルト哲学である。
 しかし、それとも異なる方向性があった、あるのである。それが、MP回帰の不連続化である。それは、西洋哲学的には、キルケゴールやニーチェ、そして、フッサールによって表現された。もっとも明確なのは、フッサール現象学である。
 ここで、仏教(原始仏教と大乗仏教を本来は区別すべきである。原始仏教には、-1が示唆されているのではないだろうか。大乗仏教は、MP的である。)を考えると、本来、空の哲学は、あるいは、禅哲学は、MP回帰を意味する。後者は、とりわけ、⇒+1の連続化をデリダ以上に断固否定してきたのである。つまり、不連続化、MP回帰、⇒回帰である。
 そして、鈴木大拙、西田幾多郎の哲学はそれと同質的であり、理論的進展である。差異共振は⇒+1であり、⇒は差異共立である。
 そして、差異共立から-1への根源回帰が作用しうるのである。おそらく、一如というのは、あるいは、如来というのは、それを意味しているのではないだろうか。
 ここで、西洋、近代西欧に戻ると、フッサールの切り開いた、不連続化への方向が、すぐさま、ハイデガーによって、連続化へと引き戻されたのである。つまり、西洋において、哲学的反動が起きたのであり、結局、それが、その後の西洋哲学の混乱、混迷の根因と思われる。
 存在論であるが、それは、思うに、-1の「存在」を意味すべきである。つまり、超越的存在、超在である。しかるに、ハイデガーの「存在」は、⇒の先端に過ぎないと考えられる。つまり、構造主義の構造と似るのである。
 確かに、カントの超越論は、一つの切断であったが、それは、⇒の先端を捉えたと思われる。しかしながら、カントは、同一性ないしは、理性主義、凸iの意識を支点にしていたので、凹iとの共立によって、-1への超越的存在への方向は、指摘できずに、実践理性によって、-1を示唆したと言えよう。
 結局、西洋文明・文化は凸iに強く傾斜しているので、東洋文化のような凹iのエネルギーの極を純粋に確認できないのである。それは、西洋では、神秘主義になるのである。勿論、反動的要素が強いのではあるが。
 しかしながら、20世紀後半における、東洋文化の流入によって、西洋文化は変容を起こしていると考えられる。広義においては、ポスト・モダンもその流れの一端ではあったが、それは連続性に囚われていたので、挫折したのである。
 政治的にナショナルとは、MP回帰であろう。インターナショナル、グローバルは、⇒+1である。
 また、オバマ路線の原点はMP回帰のトランス・モダンである。それは、米国がもっている、超越的文化が影響しているのではないだろうか。欧州は超越的文化を⇒+1の近代合理主義で、否定してしまったと考えられる。そのため、精神性が欧州では衰退したと考えられる。ただ、英国文化には、ケルト文化が背景にあるので、精神性がそれなりに保持されていると考えられる。
 思うに、一神教の問題がある。超越神とは、-1であろう。そして、プロテスタンティズムは、個において、超越的存在への感応をもたらしたのではないだろうか。ルネサンスが⇒ならば、プロテスタンティズムは、-1への再帰ではないのか。米国の伝統はこれを保持しているのではないのか。
 現代日本は、根源的超越性を見いだすべきである。とまれ、一神教と多神教との融合が今日起っているだろう。オバマ大統領の精神にそれを見ることは可能である。
 私はこれまで、一神教に断固否定的であったが、-1を考えると、肯定すべきである。思うに、明治維新は-1への志向性をもっていたと思う。それが、戦後、近代合理主義で喪失するのである。明治維新は日本における一神教的変革と見ることができるのではないだろうか。神道が復活するには、一神教性と多神教性を融合すべきである。プロテスタンティズムとルネサンスの融合ということである。そして、この融合志向は本来のルネサンスの知にもあったのである。
 後で整理したい。
 

参考:

ラルフ・ウォルド・エマソン エマソンの論文集 「自己信頼」 「償い」  「精神の法則」  (1/4)

訳:永間幸子・国分舞・樋口謙一郎 



 



人は自らの星

誠実で完全な人をつくりうる魂は

すべての光を、すべての影響を、すべての運命を支配する

人の身に降りかかるものに、早すぎるものも遅すぎるものもない

われらの行いは、良いものも悪いものも、われらの天使

常にわれらに寄り添い歩く運命の影

ボーモントとフレッチャーによる「正直者の運命」へのエピローグ
自己信頼

-1-

 魂は常に、独創的な言葉から戒めを聞き取ります。言葉がもたらす感情は、言葉が内包するいかなる思想よりも価値のあるものです。 自分の思いを信じること、自分の心のなかの自分にとっての真実はすべての人にとっての真実だと信じること、それが才能なのです。あなたが心のなかで確信していることを語れば、そのときそれは普遍的なものになります。最も深いところにあるものが、ときが経てば表面に出てくるように、私たちの最初の思いは、最後の審判のラッパの合図とともに私たちの身に戻ってきます。

モーセやプラトン、ミルトンの最大の功績は、書物や伝統にとらわれずに、他人の考えではなく自分の思いを語ったことにあります。人は、自分の精神をよぎる内なる光のきらめきを見つけ、見つめていくべきなのです。しかし、人は気づかぬうちに、それが自分の思いであるという理由で、自分の思いを追いやってしまいます。才能のこもった仕事には、私たちが捨ててしまっている自分自身の思いを見出すことができます。それらの思いは、ある種の威厳とともに私たちのもとに戻ってくるのです 。

http://www.internal.co.jp/services/selfhelp/emerson/emerson1.phtml


Transcendentalism
From Wikipedia, the free encyclopedia
Jump to: navigation , search
This article is about the nineteenth-century American movement. For other uses, see Transcendence (disambiguation) and Transcendental (disambiguation) .

Transcendentalism was a group of new ideas in literature , religion , culture , and philosophy that emerged in New England in the early to middle 19th century. It is sometimes called American transcendentalism to distinguish it from other uses of the word transcendental . Transcendentalism began as a protest against the general state of culture and society , and in particular, the state of intellectualism at Harvard and the doctrine of the Unitarian church taught at Harvard Divinity School . Among transcendentalists' core beliefs was an ideal spiritual state that "transcends" the physical and empirical and is realized only through the individual's intuition , rather than through the doctrines of established religions. Prominent transcendentalists included Ralph Waldo Emerson , Henry David Thoreau , Walt Whitman , Amos Bronson Alcott , Orestes Brownson , William Henry Channing , James Freeman Clarke , Christopher Pearse Cranch , John Sullivan Dwight , Convers Francis , Margaret Fuller , William Henry Furness , Frederick Henry Hedge , Theodore Parker , Elizabeth Peabody , George Ripley , and Jones Very .[1] [2]


http://en.wikipedia.org/wiki/Transcendentalism


   




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