INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2010/09

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2010年09月27日(Mon)▲ページの先頭へ
現代フランスの衰退と特別特攻隊
現代フランスの衰退と特別特攻隊
テーマ:ポスト近代合理主義/ポスト・モダン批判
フランスは文化的には哲学の失敗がある。ポスト・モダンは、基本的には、反動的哲学であった。また、唯物論=左翼主義から脱却できなかった。ポスト・モダンの最良のデリダは、真理に近づいたが、やはり、迂回的である。
 そう、メッキが剥げ出しているのである。確かに、絵画は先駆的であった。「モダン・アート」の震源である。しかし、哲学的に深めることができなったのではないだろうか。精神性、超越性を否定する傾向が強い、つまり、世俗的・物質的なのである。これが、フランスを袋小路に入り込ませたと思う。
 そう、シュルレアリスムも、精神的次元があるが、それを哲学・理論的に把捉・認識していないように思える。

腐り始めた「人権大国」フランスの魂


参考:

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アンドレ・ マルローの言葉

(2000/12/8up)

(会報[特攻」第8号より)

 元リヨン大学客員教授で特操3期出身の長塚隆ニ氏は、特攻隊員に対する戦前・戦後の急激な評価の変化、その純粋な心を傷つける輩の態度に憤りを感じておられた。氏は昭和49年夏にパリ南方郊外にアンドレ・マルロー氏を訪れ、そのようなお話をされた。その際のアンドレ・マルロー氏の言葉は感動的である。

特別攻撃隊の英霊に捧げる

  アンドレ・マルローの言葉

(略)

 「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。これは、世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。ス夕−リン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別特攻隊員たちはファナチックだったろうか。断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかっ た。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。
  戦後にフランスの大臣としてはじめて日本を訪れたとき、私はそのことをとくに陛下に申し上げておいた。
  フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人のなかには、特別特攻隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなにすくない撃沈数なのになぜ若いいのちをと、疑問を 抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつもいってやる。《母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか?》と。私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、 いさぎよく敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである」
  二十世紀の思想を代表するフランスの文人アンドレ・マルローは、こういうと床に視線を落としたまましばし瞑黙した。まさに百の頌詞にまさる言葉であろう。私はこれ をつつしんで特別特攻隊の英霊に捧げたい。

(会報「特攻」第8号より引用)

http://www.geocities.jp/kamikazes_site/gaikoku_kamikaze/andre_malro.htm
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外国人から見た"KAMIKAZE"


参考2:
不思議な少年!! その84

イエス、スカルの人々を教える。悪霊にとりつかれた者をいやす!!

 エクソシズム(悪魔払い)の原点がここにある。イエスは少なくとも最強のエクソシスト(悪魔払い師)でもある。悪霊(あくりょう、あくれいとも読む)とは、一体何者か。サタンとも言われるが、そうではない。広義にはそう呼ばれるが、個性を持った人の霊である。
飄(つむじ風)

参考3:

流れの転換の向こう側1、われわれの内面の変化? (09/22)

今回の記事

中国との問題など、いくつか重要なテーマがある。また、金融のクラッシュに関する情報も入手した。もちろん当たるかどうかはまったく分からないが。これらのテーマはメルマガで書くことにし、今回の記事ではまったく別の話題について書く。

大きな転換はわれわれの内面にもやってきているのかもしれない。読者の方で、自分や周囲の人の内面に大きな変化を感じている人はいるだろうか?コルマンインデックスでは、人間の内面の変化に主導されて現実が変化することになっている。だとするなら、もしコルマンインデックスにある通り、もしわれわれがいま本当に転換期にいるのなら、われわれ自身の内面が大きく変化する過程にあってもおかしくない。

たとえば、コルマン博士は昨年11月に発表した「2012年への最後の段階:11月8日─第6の夜の開始」では以下のように述べている。

「これはどういうことかというと、われわれの人生を方向づける新しい意識が生まれると、その意識は世界と社会に影響を与え、世界と社会に対するわれわれの関係のあり方を変化させてしまうといことを指しているのだ。したがって意識の進化というのは、われわれの心の中だけで起こる現象ではない。同時にそれはわれわれのあらゆるものとの関係の変化として現れる。むろん、経済に対するわれわれの関係も意識の進化に伴い大きく変化せざるを得ない」

そして、何がどのように変化するのか説明して次のようにいう。

「実は経済成長の希求は、人間の意識が左脳と右脳に二極分化し、統合できなくなっていた事実にあるのである。この分裂状態から心の限りない空虚感が生まれるのであり、人間はこの空虚感を物質的な満足で充足しようと、あくなき経済成長を希求するようになったのだ。過去5000年間、経済成長は人類史のメインテーマであったが、それは特にプラネタリーアンダーワールド(第7サイクル)の盲目的な意識が一般化した時代にとことん加速し、これとともに人口も増加したのである。

だが、意識の統合とバランスの回復がテーマとなるギャラクティックアンダーワールド(第八サイクル)では、経済成長と人口の増加を希求する欲求そのものが消失してしまうのである。この意識変化により、われわれ人間は、地球環境や地球上に存在するあらゆるものを、これまでのように左脳の計算によっていかようにでも収奪が許される生命のない単なる物質として考えることはできなくなる」

コルマンインデックスでは7月17日から転換期に入り、11月2日までに意識の変化が加速するとしている。いまわれわれは意識変化の真っ最中にいることになる。そのような変化をわれわれは感じるだろうか?

http://ytaka2011.blog105.fc2.com/blog-entry-187.html
ヤスの備忘録 歴史と予言のあいだ


ホメオパシー問題:波動と本体
テーマ:Media Point:MP1⇔MP2
私はホメオパシーは原理的には合理的であると考えていた。即ち、波動が情報となり、それが、治療に役立つ可能性を考えたのである。もっとも、基本的には今日の物質的治療を優先させるべきだとは感じてきた。
 今、ふとホメオパシーは問題があると感じた。つまり、波動とは、Media Pointの現象の一部であり、本体ではないからである。本体は双極子としても、-1の超越的身体が元本体である。だから、波動を基礎にすると、双極子や -1が抜けている、言い換えると、外面だけで、中味がないという様態である。

ホメオパシーは有効? 「副作用もないが治療効果もない」VS「科学的に有効性が証明」
 植物などを希釈させた水を砂糖玉にしみこませて作る「レメディー」を服用する代替療法「ホメオパシー」の有効性などの議論が活発化している。8月末に日本学術会議が、ホメオパシーの治療効果を否定する談話を出したことがきっかけだ。これを受け、ホメオパシー関連団体が「科学的根拠はある」などと反発。厚生労働省も実態把握に乗り出した。ホメオパシー利用者が現代医療を拒否したために死亡したとされるケースもあり、議論の行方は予断を許さない。(産経新聞)
[記事全文]

◇ホメオパシーの実態調査で明らかに
・ 助産所36か所で過去2年以内にビタミンK2投与せず−助産師会調査 - 医療介護CBニュース(9月8日)
▽死亡で訴訟も
・ 医療ナビ:新生児のホメオパシー ビタミンK2を与えず、独自の療法を… - 毎日新聞(9月15日)



尖閣事件多元方程式:石垣海上保安庁と前原外相
テーマ:軍事・武力・国防・核兵器・諜報・領土問題
私は勘違いしていたが、「石垣海上保安部(沖縄県石垣市)は8日未明、船長の中国人、※其雄容疑者(41)を公務執行妨害容疑で逮捕した。」
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100908k0000e040062000c.html
ということなので、石垣海上保安部が逮捕したのであり、前原外相ではないのである。
 しかしながら、当然、内閣が責任を負うのは確かである。そして、逮捕、拘留延長を前原外相が肯定したということである。だから、前原外相の責任がある。
 とまれ、本事件は様々な変数があるので、解読が難しいのである。尖閣事件多元方程式である。
 

参照:
ガス田で首相、対抗措置を検討 単独試掘案も 
(9月19日 02:09)

 菅直人首相は18日、日中双方が権益を主張する東シナ海のガス田「白樺」(中国名・春暁)で中国が掘削作業に踏み切った場合の対抗措置の検討に着手した。中国側が白樺の洋上施設に掘削用とみられる機材を搬入したことを重視し、同日午後に前原誠司外相、仙谷由人官房長官らと公邸で協議した。政府部内では中国側の施設周辺で日本単独での試掘に踏み切ることも含めた「複数案」(政府関係者)が浮上している。

 協議には外務省の佐々江賢一郎事務次官、斎木昭隆アジア大洋州局長、細野哲弘資源エネルギー庁長官らも出席。中国側の動向を注視するとともに、外交ルートを通じて自制を求めていく方針を確認した。

 海上保安庁の巡視船と中国漁船の衝突事件で漁船船長を逮捕、送検したことをめぐっては「国内法にのっとり粛々と手続きを進める」(前原氏)ことでも一致したとみられる。白樺周辺では、海上自衛隊哨戒機P3Cによる警戒監視活動を強化する方針だ。

 日本政府は2005年7月に帝国石油に試掘権を許可。対抗措置としては、国際海洋法裁判所への提訴も選択肢となる可能性がある。

http://www.shimotsuke.co.jp/news/domestic/main/news/20100918/384938

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国際戦略コラム NO.3759       ???
             発行部数 4000部    ???
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/ ???
         2010.09.26        ???
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        尖閣沖衝突事件の顛末
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月曜有料版の0章、1章途中まで、お送りします。

中国は世界第2位の経済大国になり、経済規模が大きくなったこと
を生かした外交交渉ができることを世界に示した。軍事力も米国に
ついで第2位の位置にあり、中国がアジアの地域覇権を取ることは
確実になっている。

しかし、経済規模は大きいが、中国首脳は自国のことを発展途上国
と規定して、自分の利益優先にし世界経済秩序の安定に寄与するこ
とをしないし、領土拡張を目指して周辺諸国と紛争を起こすことが
多くなっている。
          Fより

0.事件の顛末
中国の漁船が、9月7日午前10時56分ごろ、尖閣諸島・久場島
の北西約15キロの日本領海上で、巡視船の再三の停船命令に応じ
ず、左舷を衝突させて、公務の執行を妨害した疑いで中国人船長を
逮捕し、9日午前に、この中国人船長、※(※=簷の竹カンムリを
取る)其雄容疑者(41)を那覇地検石垣支部に送検した。

中国の外交を統括する戴秉国・国務委員(副首相級)は12日午前
0時(日本時間同日午前1時)、丹羽宇一郎・駐中国大使を中国外
務省に呼び出し、中国側の「重大な関心と厳正な立場」を表明した。

この中国の申し出により、日本政府は13日午前、公務執行妨害の
疑いで逮捕した漁船の中国人船長を除く中国人船員14人を帰国さ
せた。

9月14日、民主党代表として菅首相が代表に再選された。

検察当局は16日、石垣海上保安部が中国人船長の拘置期間の10
日延長を請求するし、裁判所が認め拘置期限は29日となる。

東シナ海ガス田「白樺(しらかば)」(中国名・春暁)の掘削施設
に、中国の作業船が16日までに掘削作業用のドリルのような機材
を運び込んだ。

中国外務省の姜瑜副報道局長は22日夜、「日本側がただちに(逮
捕された)中国人船長を無条件で釈放することでのみ、両国関係が
さらに傷つくのを避けることができる。」と仙谷官房長官が日中政
府間のハイレベルな接触を模索する考えを示したことに対し、これ
を拒否する姿勢を示した。

米紙NYTは22日、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件に絡んで、
中国政府がこのほど、日本向けのレアアース(希土類)の輸出を全
面禁止したと報じた。

23日夜、河北省石家荘市の国家安全機関が、同省の軍事管理区域
に侵入し、違法に軍事施設をビデオ撮影していたとして、日本人4
人を取り調べていると伝えた。

那覇地検は24日、同保安部が公務執行妨害の疑いで逮捕した中国
人船長を処分保留のまま釈放した。

中国外務省は25日、「日本側は船長らを違法に拘束し、中国の領土
と主権、国民の人権を侵犯した」と強く抗議する声明を発表し、日
本側に謝罪と賠償を求める方針を明らかにした。

外務省は25日、中国が謝罪と賠償を求めていることについて「中
国側の要求は何ら根拠がなく、全く受け入れられない」との立場を
示した。これに対して、中国外務省は「尖閣諸島は中国固有の領土
だ。日本は中国の領土主権と国民の人権を侵しており、中国側は日
本に謝罪と賠償を求める権利を当然持つ」と反論する。

1.米国の対応
23日の日米外相会談。クリントン国務長官は尖閣諸島について、
「明らかに(米側の日本防衛義務を定めた)日米安保条約が適用さ
れる」と明言した。これは国務省としては、中国の傲慢さに歯止め
を掛けることが必要であるために、その声明になっている。

しかし、23日夕の日米首脳会談では「両首脳は西太平洋の海洋問
題について議論し、緊密に協議していくことで一致した」という抽
象的な文言しかない。事実、オバマ大統領が中国に直接、事態の沈
静化を働きかけようにはみえない。米国は中国と人民元切り上げの
要求をしていて、その交渉を阻害することを中国に要求できない。

首脳会談に同席したホワイトハウスの国家安全保障会議(NSC)
のベーダー・アジア上級部長は23日の記者会見で、「米国は仲裁
していないし、その役割を果たすつもりもない」と日本側を突き放
していた。これは、この人民元切り上げを要求している時期に厄介
な問題を起こすなという日本に対する警告である。

そして、この首脳会談後、突然の船長釈放という知らせが届いた。

以後は有料版を見てください。

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拾い読みしたが、興味深い:量子化問題
テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ
生成門氏は粒子を不連続、そして、波動を連続と捉えている。私は波動はやはり物質面での現象だと感じている。
 つまり、量子は、物質面では、粒子となるし、また、波動ともなると考えられるのである。つまり、私のイメージ(妄想?)では、物質平面があり、そこに波形が表れるのである。
 そして、粒子であるが、それも物質平面にあるように思えるし、また、それから浮遊しているようにも思えるが、物質である。
 しかし、私は粒子は仮想ではないかと思っている。量子は双極子である。それが、「粒子」となり、「波動」となるのである。
 おそらく、双極振動ないしは双極ゆらぎ、あるいは、双極回転が根源にあると思う。この超越的双極子の現象が「粒子」や「波動」ということである。
 連続の問題で言えば、確かに、「波動」は連続的と言えるかもしれないが、なにか微妙な感じがある。

追記:量子であるが、それは、「粒子」であり、かつ、「粒子」ではない。また、「波動」であり、「波動」ではないという、即非的エネルギーであると思う。
 そう、「粒子」でもなく、「波動」でもない、という点が重要だと思う。そこで、双極子の仮説がありうるのである。
 また、繰り返すが、非局所的長距離相関であるが、そこで考えられている「粒子」は仮想だと思う。本体は、虚軸的双極子だと思う。もともと、双極子であるならば、凸iと凹iが「虚時間」的に交信しているので、物質的には超光速的に情報が伝搬するように見えるのではないだろうか。
 

ファインマンの量子化という奥義 (0)

要するに、量子化とは連続しているものを小さ小分け(不連続化)することで、計算しやすくするわけです。言ってみれば、アナログをデジタル化するわけです。

量子化とは、連続している状態のものを不連続にする手法です。光という連続している波を不連続な粒にして、その粒を光量子と名付けたのはアインシュタインでした。

量子力学の生みの親は量子のエネルギーの単位を見つけたプランクだとされていますが、光量子と名づけたアインシュタインこそが量子力学の真の親かもしれません。その親が子(量子力学)を「神はサイコロを振らない」といって否定しているのですからおかしなものです。

何故、アインシュタインが量子力学を否定したのでしょうか。それを解明すれば量子力学の矛盾と言いますか、混迷している理由も分かってくるのではないでしょうか。

この問題は、アインシュタインや量子力学学者だけの問題ではないのです。「実在とは何か」という哲学の問題であり、私達の人生に於ける生き方の問題なのです。
シムダンス「四次元能」


対中国にはきちんと理詰めで向かう必要があるが・・・:背景を研究する必要がある
テーマ:軍事・武力・国防・核兵器・諜報・領土問題
MSN産経ニュース
【主張】中国人船長釈放 どこまで国を貶(おとし)めるのか 2010.09.25 03:00
■主権放棄した政権の責任問う日本が中国の圧力に屈した。千載に禍根を残す致命的な誤りを犯したと言わざるを得ない。沖縄・尖閣諸島(石垣市)沖の日本領海を侵犯した中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突し、公務執……続きを読む

中国の攻勢の背景をよく洞察する必要がある。
 まず、前提として、中国と米国は覇権で対立しているということである。
 そして、尖閣諸島や沖縄は、境界となり、力が生まれる箇所である。いわば、活断層である。
 また、前原外相が不用意に先に逮捕という前例のない強硬手段をとったことを認識する必要がある。なにかに教唆された可能性があるが、逮捕は逮捕であり、自己責任があるのである。
 そして、菅政権が弱体・無能政権であるということも中国は認識しているだろう。
 そして、当然ながら、中国の帝国覇権路線があるのである。中国は国境や領土では、絶対譲れない立場にあるのである。そして、国防から見て、民主党は、米国との信頼関係を弱めてしまったので、国防力が弱体化しているのである。また、日本の外交の諜報能力が劣弱なこともある。
 その他、いろいろある。
 ただ、不思議なのは、なにか中国があせっている、性急である印象があることである。何であわてているのか。日本の国家の隙につけこんで、急襲ということはあるが。
 一つの原因は中国の国内問題があるのだろう。それを対外的にそらす意味があるだろう。
 では、国内問題とは何か。何が差し迫っているのか。 

参考:

日中両国の政局からすれば、双方とも事態の悪化を望まないはずである。しかし中国側は強い姿勢を示さなければならない。なぜなら、国内からの政治的圧力に応えなければならないからである。市場経済の衝撃を受けて、共産主義イデオロギーが国民から切り捨てられてからは、中共は体制維持のために政治的合法性を必要不可欠としている。時には民族主義などによって、西側からの普遍的価値観の影響を防御しなければならない。

 隣国との領土問題は、中共にとって迂回する余地がないのである。もし領土問題で体制が弱まれば、政治的合法性を飾り立てるわずかなものさえ失われることになる。そうなれば、国民の不満が噴出するばかりでなく、党内闘争の導火線にもなりかねない。
http://www.epochtimes.jp/jp/2010/09/html/d87200.html




参照:

以下、きわめて刺激的な東海アマ氏の仮説である。
 ところで余計なお世話ではあるが、東海アマ氏の体調が悪い一因として、過激な内容の記事があるように思える。つまり、感情を高ぶらせているので、それは精神(気)に悪くはたらくのではないだろうか。シュタイナー的に言えば、アストラル体(PS理論では、凹i)に否定的圧力をかけているのである。そうすると、本来、調和的であるべき、Media Pointが乱調になるのである。とまれ、これは、私の勘違いの可能性があるが。

★ 2010年09月26日日曜日 8時更新

 6月中旬から体調が極度に悪化し、まともに歩けなくなってしまった。現在、やっと少し歩ける状態にまで回復したが、長い間、運動不足が続いたので、心身とも頗る不調だ。
 この数日、満月の影響か、またひどく不調になり、今朝も早くから神経が高ぶって寝られない。こうした状態はスマトラ巨大地震の年に酷似している。
 猛暑や熊・イノシシの被害が激発したことなど、本当に2004年にそっくりで、おそらく年末までに超弩級スーパー地震が発生するのは確実と見ている。

 行徳データを見る限り、まだ数日以内に発生が近づいていることを示すグラフはないが、体感は猛烈状態が続き、赤道方面南方海域で巨大震源が胎動しているように思える。
 台風12号は、予想に反して房総はるか沖から北海道はるか東方に抜けた。低気圧は震源を経由する性質があるようだが、発生直前の震源には高気圧のようなブロッキング斥力が働き、台風が逸れてゆく傾向を確認している。したがって房総沖の巨大震源はないと思う。しかし逆に、房総半島内陸に震源があれば、それが原因で上陸をブロッキングされた可能性も考える必要がある。台風の進路を定めるのは、太平洋高気圧のブロッキングと、巨大震源のブロッキングだと考えている。

 現在、予想した千島方面の発生が遅れているようだ。昨日、八丈島沖M5.2が起きているはずだが、UCGS記録がはっきりしない。満月トリガーから離れようとしているが、とうとう目立った発生が確認できず、前兆に比較して発生がないのは、桁違いの巨大震源による抑圧の可能性があると思う。


■ 中国政権が対日侵略を決意したのは、いつ頃?

 尖閣問題の予兆といえそうなニュースを調べていたら、このようなものがあった。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100903-00000069-scn-cn
 これは9月3日の報道だが、中国首脳が揃って抗日烈士の墓参を行っていた。このニュースは、明確に今回の尖閣侵攻が中国政権による重大な侵略決意の元に行われた計画的なものであることを示している。江沢民抜きというのは、これが胡錦涛北京派の共同意志であることを意味していて、従来、上海派と目されていた時期総理候補筆頭、習近平も加わっていることから、噂通り、習は江沢民派を離れて北京派に加わったと判断できるだろう。
 いずれにせよ、このニュースは、中国首脳が日本とのつながりの大きな上海派との抗争に勝利する切り札として、尖閣を強奪し、日本の経済的影響力と決別する意志を鮮明に打ち出したと見るべきだ。

 日本は、田中内閣による国交回復以来、38年にわたって、戦後賠償の意味も含めて4兆円を超える巨額のODA援助を行ってきた。実質は、その数倍もありそうだ。そうした資金は、主に江沢民ら上海派の腐敗幹部の懐に流れ込んだと見られている。そこで中国侵出日本企業の現地拠り所になる役人の多くが上海派になっており、生産拠点が上海周辺に固まっているのも同じ理由によるものだ。
 こうしたカネこそが、江沢民派に集う中国地方政権を腐敗させた根源にあるもので、北京派としては、これを苦々しく思ってきたにちがいない。
 それが中国経済を主導しているうちは、北京派にも恩恵をもたらしてきたが、上海市場を中心とするバブル経済の崩壊が目前に迫り、虚構、虚飾に満ちたインチキ評価の化けの皮が剥がれて、中国経済の実態が、アメリカや日本なみの深刻な危機にあり、まさに超巨大なバブル崩壊が目前に迫っていると胡錦涛北京派が認識していたと考える。

 そこで、バブル崩壊による経済破綻の後に責任を取らされる北京派が、追求の矛先を日本侵略にすり替える大作戦に出たと考えるのが自然だと思う。中国経済に対する日本の寄与は終わり、後は技術移転、パクリの果実を中国人だけが享受すればよいのであって、日本企業にこれ以上うまい汁を吸わせるわけにはいかないという大局的判断だろう。

 抗日烈士の墓参は、中国政権が日本を真正面から叩きつぶすという大きな決意を示すものであり、これは尖閣を突破口として、沖縄強奪、ひいては日本本土侵略も視野に入れたものだろう。もちろん、中国内日本企業資産はすべて没収し、日本資産も強奪する。数十万人というわれる日本人は追放、あるいは殺害されるだろう。
 もう中国にとって日本の利用価値はないという判断であり、とりあえず尖閣原油資源は、1000億バレルの埋蔵量としてバレル50ドルの利益が出ると計算すれば500兆円の価値になり。これだけでも強奪できれば、中国政権のバブル崩壊に伴う傷を癒せるという政治判断だと考えられる。

 中国政府代弁ジャーナリストの発言 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100926-00000000-rcdc-cn
(表向きの意味の裏に隠された真意を読み取れ! 中国の要求を拒めば、日本企業から取り立てる、つまり資産没収をするという意志だ)

東海アマチュア無線  地震予知研究会

参考2:
◆温首相、政治改革に言及 内部分裂激化の証しか

保守派の異常な動き

 中共内部において、改革派と保守派は常に論戦し合っており、その焦点は毛沢東に対する評価となっている。薄煕来が左派の領袖として「革命の歌を歌い、マフィア組織の取り締まりを行う」ことをもって国民の支持を得ようとしている。一方、改革派は毛沢東の諸問題をつねに言及しつつ、天安門事件で失脚した趙紫陽前総書記の功績を讃えるのである。「炎黄春秋」がその代表的な刊行物である。

 左派の人たちは言論にとどまらず、さまざまな行動も見られる。たとえば、「真の共産党」を作ろうとすることや、各地で労働者によるストライキを企画、組織するなどである。このほど、各地で起きたストライキブームは実は、左派たちの「傑作」だったと言われている。特に日系企業をターケットにして民衆の感情を扇る狙いであるという。
http://www.epochtimes.jp/jp/2010/09/html/d90519.html


南シナ海への米の介入、中国が警告 専門家「領土争議の挑発は内部闘争の証し」

 領土争議の挑発は、中南海の内部闘争を反映か

 米国在住の中国問題専門家、石藏山氏によると、南シナ海は中国の核心的な利益であるというスタンス発言は、中共軍部と米国軍部の間の話題であるはずだ。中国政府が米政府高官にこのように発言したのは異例なことであり、中南海高層の内部闘争に関係している可能性があるという。

 ここ数十年、中国海軍は、速やかな発展を成し遂げ、南シナ海の海域に対する権利をコントロールする実力を備えていると考え、ますます強いメッセージを発信するようになってきている。そのため、ほかの国々に警戒心を与えてしまった。しかし南シナ海問題をASEANの間で協議することは北京政権にとって最も望ましくないことであると石藏山氏は指摘する。

 実際、南シナ海は核心的な国益と発言した後、国際社会で一連の反発を招き、中国のトップ責任者らのメンツを大きく潰している。裏には中国軍部の一部権力者が中南海高層に難題を造り出していることを石蔵山氏が指摘した。民族主義は最も扇動されやすく、現在、尖閣諸島の漁船衝突も、裏に挑発する勢力がいると考えられる。その狙いは、南シナ海海域や、米国や日本に向かっているのではなく、「中南海高層にターゲットしている」と、同氏は考えている。

 また、「南シナ海において北京は制海権もないし、制空権もない。ASEANのほかの国々の陸地は南シナ海との距離が近いため、陸基地の空軍とミサイルに頼ることができるが、中国は海の基地に頼るしかない。南シナ海問題で米国がもしASEAN各国を支持し、これらの国に武器輸出などのメッセージを発信すれば、北京はすぐさま優位を失ってしまう」と同氏は語る。
http://www.epochtimes.jp/jp/2010/09/html/d39549.html


2010年09月24日(Fri)▲ページの先頭へ
スロー人氏のポスト・ポストモダンはトランス・モダンだ:同一性の支配から差異共立共振の発展へ
スロー人氏のポスト・ポストモダンはトランス・モダンだ:同一性の支配から差異共立共振の発展へ

テーマ:トランス・モダン社会/世界への創造的進化

以下、ポストモダンの時代が終わり、グローバルな再工業化の時代がやってきたと述べられている。
 これは、トランス・モダン・キャピタリズムの時代と考えられる。モダン・キャピタリズムは同一性が支配した。ポスト・モダンはその末期を意味した。今や、差異的価値、差異的価値の共振が新たな経済を生み出すのである。
 差異⇒同一性の図式から見ると、モダン/ポスト・モダンは右辺主義であり、それが、左辺を侵害したのである。しかし、トランス・モダンは、左辺へと回帰・再帰・環流して、新たに同一性を形成するのである。しかしながら、主は左辺であり、従は右辺であり、逆転するのである。オバマ政権の「ロックフェラー路線」がそれを推し進めているのである。
 再工業化は、その一端であると考えられる。それだけでなく、トランス・モダン精神が勃興するのである。それは、トランス・モダン・ユニバーサルである。
 そう、個、絶対的差異において、世界は共立・共振生産・創造をするのである。これを「連帯」につなげるのは、守旧的なのである。

補記:正確言えば、新しい超越の時代である。ps理論では、−1の時代である。量子論は虚軸=「電磁波」まで進んだが、それを超えて、超越、高次の世界へと再帰するのである。
 そう、モダンを媒介にして、前近代(先古代、古代、中世)が回帰するのである。これは、超越への復帰である。言い換えると、神への回帰である。


ポスト・ポストモダンの時代

 簡単に言えば、モダン化の時代は工業化の時代。この工業化を終えて、次の経済ステージに上がったのが「ポストモダン」と呼ばれていた。


 もちろん、ポストモダンの代表的な国家はアメリカであった。


 金融とIT技術によって脱工業化の経済を実現したと思われていたわけだ。


 しかし、足元を見れば、G20が力強く歩み出し、とりわけ中国が強烈に台頭してきたように、アメリカの力は相対的に衰え、ドルはかつての不動の地位から引きずりおろされた。


 こうして「ポストモダン」後の時代、つまり「ポスト・ポストモダン」の時代へと時代が移り変わったように思える。


 「ポスト・ポストモダン」の時代は再び工業化の時代に回帰したように思える。


 これまでの工業化は「先進国のみ」というきわめて限定的・地域的な現象だったが、「ポスト・ポストモダン」時代の工業化はグローバルな広がりが見られることが特徴的だ。


 これこそ、本格的な資本主義化の時代が始まったと見るべきなのかもしれない。

http://ameblo.jp/adco/entry-10657570837.html


スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節

オバマ大統領、米国の「世界開発政策」を発表


いまだ解けない金融危機の方程式

世界経済 リーマン・ショックから2年、 新たな経済学の胎動はまだ聞こえない


2010年09月23日(Thu)▲ページの先頭へ
尖閣列島問題について:ロックフェラー路線と「ロックフェラー路線」の大争闘の時代
尖閣列島問題について:ロックフェラー路線と「ロックフェラー路線」の大争闘の時代
テーマ:ゾロアスター教的「光と闇」の戦争闘争時代
炯眼な田中宇氏の以下の解明に拠ると、今回の事件の原因として、

1)対米従属派の巻き返し
2)米国による対中強硬路線の誘導

の二つを提起している。
 しかしながら、前原外相はもともと従米派(1)であり、2を当然盲信するはずであるから、二つ仮説は一つに収斂するのである。
 ということは、棺・戦国左翼政権は、米中の対立下にあり、米国の路線、とりわけ、戦争産業覇権路線に従属していることになる。
 私は先に前原新外相とは不可能な人事と呼んだが、それが、早くも的中してしまった。前原氏はタカ派であり、単純細胞、つまり、2項対立の発想しかできないので、外交には不適格なのである。
 棺桶政権を生んだ結果がとんでもないことになっている。やはり、ロックフェラー路線が影で糸を引いている。
 しかしながら、大阪地検の大不祥事で明らかなように、オバマ「ロックフェラー路線」が日本でも活動し出したようである。今や、世界、日本は、ロックフェラー路線=悪=闇と「ロックフェラー路線」=善=光の大争闘の過程にあると言えよう。
 早晩、棺桶自殺政権は崩壊する。日本国民が覚醒できるかどうかが問題でもある。小沢一郎は「ロックフェラー路線」であり、ポスト棺桶政権を目指しているだろう。

追記:因みに、中国外交が対米的に、批判と同時に互恵的発想ができるのは、他者を差異として捉えているからである。米国外交の場合も、他者を差異として見ている側面がある。もっとも、他者を潜在的な敵と見る方が多いが。
 この点から、はっきりと、前原外相は外交の能力はまったくないことが判明するのであり、日本はin dire straitsにあると言えよう。


参考:
日中対立の再燃
2010年9月17日  田中 宇

 日本の海保は、中国漁船を監視する巡視船を尖閣周辺に配置してきたが、トウ小平以来の日中間の領土紛争棚上げの合意もあり、これまで日本側は尖閣領海で、台湾や香港の船を激しく追尾しても、中国の船を拿捕・逮捕したことはなかった。日本も中国も、民間に「尖閣(釣魚台)を守れ」と主張する政治活動家がいても、政府としては対立を避ける姿勢を互いに採ってきた。その意味で今回、日本の当局が中国の漁船を拿捕し、船長を起訴する方針を固めたことは、日本が政府として中国との対立を決意する、対中国政策の劇的な大転換を意味する画期的な動きである。

 今回、日本政府は「漁船がぶつかってきたのだから逮捕は当然。中国政府の怒りは不当だ」と言い、日本のマスコミの論調も同様だ。そして中国側は、衝突の際に海保と漁船のどちらが悪かったかについて、現場に当事者以外誰もいなかったので何も反論できず、人民日報英語版の報道も、その部分は「日本では、漁船の方からぶつかったと報じられている」としか書いていない。中国政府は、衝突時の経緯について反論できず、日本の主張が通っている。(Arrest brings calamity to trawler captain's family )

 尖閣領海内は日中漁業協定の範囲外だが、外交的に日中間には、尖閣について日中は敵対しないという、トウ小平以来の日中の了解があった。今回、日本側がそれを破棄し、日本の法律を使って中国漁船員を逮捕するという、領有権をめぐる強い主張に踏み切ったので、中国政府は驚き、怒ったと考えられる。

 事件後、中国当局は、尖閣周辺で操業する中国人漁民を保護するため、準軍事部隊である漁業監視船を派遣することにした。史上初めて、日本(海保)と中国(農業省傘下の漁業監視船)の軍事的な部隊が、海上で対峙する状況が生まれる。日中交戦もあり得る事態だ。戦後65年なかった、日本が戦争しうる事態がぐんと近づいた(鬼畜米英の代わりに中国の脅威が喧伝される)。尖閣諸島は、南沙群島や黄海とともに、中国と、米国に支援された周辺国が対峙する、世界的な海上紛争地域(対中包囲網)に格上げされた。(中国軍を怒らせる米国の戦略 )

▼米国が前原をそそのかして好戦策?

 今回の件は日本のマスコミで、中国漁船の不法行為を当然の行為として日本の海保が取り締まり、それを不当にも中国政府が非難していると報じられている。しかし従来の日本当局は、中国漁船を追いかけても、追い詰めて逮捕起訴することはなかった。今回の逮捕起訴劇の重要点は、漁船の行為や中国の反応ではなく、中国が怒ることを知っていて逮捕起訴する日本政府の能動的な政治意志である。なぜ今、日本が中国を怒らせるかが重要だ。

 こう書くと、私のところに「従来の日本政府の対応の方が間違っていた。今回初めて日本政府は、中国側に毅然とした態度をとるという正しい行動をした。従来の日本の姿勢を擁護するかのようなことを書くお前は間違っている」という批判メールが来るだろう。だが私にとって大事なのは「何が正しいか」ではない。何が正しいかは、日本と中国で正反対であり、日本人も中国人もマスコミなどによるナショナリズム扇動に乗せられて怒りを抱き、善悪を語っている。怒りや善悪論は、分析をねじ曲げる邪魔者である。

 話を戻す。なぜ日本政府は中国を怒らせるか。まず考えられることは、政官界や民主党内での対米従属派の巻き返しである。昨秋から今春までの鳩山政権下で、沖縄の人々は米軍基地に強く反対するようになり、米国自身も財政難がひどくなり、国防総省が米国外の軍事駐留に金をかけすぎていると、米議会で共和党がオバマを批判している(軍産複合体は共和党系なのに)。今後、不況の二番底が来て米政府が追加の財政出動をしなければならなくなり、財政赤字が増えるほど、米軍を日韓や欧州から撤退させた方がいいという議論が米国で出てくる。そのような状況になっても、日中が戦争寸前の状態になっていれば、沖縄の米軍は撤退せず、日米同盟に固執する日本の対米従属派は延命できる。(Senator Wants to Cut Overseas Base Construction )

 もう一つの考え方は、逆に、米国が日本を中国との敵対に誘導しているのではないかというものだ。3月末の天安艦沈没事件を機に韓国と組んで北朝鮮との緊張を高め、北の守護者になっている中国を怒らせ、ベトナムに肩入れして南沙群島問題で中越対立を扇動しているのと同様の流れである。米国は、韓国、ベトナム、そして日本をけしかけて、中国包囲網を構築している。

 自衛隊と米軍は今年12月、中国海軍を仮想敵として、中国が台湾を東海岸から侵攻した場合を想定し、台湾の東海岸の沖合に位置する沖縄の尖閣諸島や八重山列島の周辺で、日米軍が中国軍の台湾侵攻を阻止するための日米合同軍事演習を行うことを計画している。似たような日米軍事演習は、すでに8月にも沖縄と九州で行われている。こうした動きと、中国漁船員逮捕起訴を合わせて考えると、米国が日本を誘って中国敵視の方向に動かしていることが感じられる。 (US, Japan to hold exercise to recapture disputed isles )


http://www.tanakanews.com/100917senkaku.htm



*
イメージ
温家宝中国首相、米中関係の改善望む姿勢強調

 訪米中の中国の温家宝首相は22日、ニューヨークでのイベントで、米企業幹部らに対し、米中間の現在の相違は「非常に容易に解決できる」との見解を示した。さらに、両国企業の利益は「表裏一体だ」と表明した。



トランス・ユング心理学
テーマ:Media Point:MP1⇔MP2
ユング心理学は、PS理論で簡単に説明できるし、さらには、それを乗り越えることができる。
 即ち、男性のアニマ(無意識)は、凹iであり、女性のアニムス(無意識)は、凸iである。
 しかしながら、問題は女性の捉え方である。女性を凹iが本体と見ているのである。しかしながら、女性の本体は、凸i*凹iと見るのが適切である。
 現代、女性は男性的意識凸i傾斜に染まっているので、本来の差異バランスを喪失しているのである。故に、女性性が影(シャドウ)になってしまっているのである。
 また、以前述べたが、ユングの説く「自我」と「無意識」の統合としての「個性化」であるが、これは、不可能である。何故なら、「自我」の連続性から脱却していないからである。故に、理論は中途半端で、混合したものであり、混乱させるものである。


オクタビオ・パス(Octavio Paz)
テーマ:詩・俳句・和歌・連歌・連句・連詩
オクタビオ・パス(Octavio Paz)
ある詩が 優れているかどうかは、
それが 変質しない程度に
散文をどのくらい吸収しているか、
その量(りょう)で量(はか)ることができる

またその逆もしかりで、
優れた散文は詩を含んでいなければならない

メキシコの詩人
オクタビオ・パス(Octavio Paz)の言葉より
1990年にノーベル文学賞に輝いた
「奥の細道」をスペイン語に訳したことでも知られいます
(1914-1998)



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%93%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%B9

このようなことを
書いてます

実際ね君が自負している当たり前の真実とやらは
当然欲望という名で知られ無理に着飾って美しくすること
じゃないゆがめることもない標準化の要なし分らせようもない
鼻をつまみ目耳舌性器脳みそを皆さんに見せてあげて運に任せ
正確に自分の声を聞き自らに語りかけようよ
そうすれば他人もまた嬉しくも救われようあの重荷から
彼ら自らの思い悲しみから始まりが欲望だから終わりは叡智だよ
物事を離れて観念はない

パスはこう言ってる
仏陀の沈黙は知覚ではない
その背後にあるもの
すなわち知恵である
非知
解放されてあること
そして分解されてあること
安らぎは舞踏であり
不動のらせんの中心における苦行僧の孤独は
女神カーリーの寺院に見られる愛し合う男女の抱擁と
一体化する


このような
詩を書いてます


遺跡での感謝の歌

泡立つシシリアの海が(リリベオの麓に銀箔をほどこす)ところに....
ゴンゴラ

王冠で飾った時代の服装を誇示する
大げさでセンセーショナルな叫び声
片寄らず 恵み深い
温泉は空の真ん中へ周期的に噴き上げる
その容姿は一時的な現実の中で見事である

海は海辺をよじ登って
岩場にへばり付き まるで輝く蜘蛛のよう
山の鉛色の傷がきらきらし
一握りの山羊ははたくさんの石になり
太陽は海に金色の卵を産む
一切が神様
壊れた像
日光によってもろくなった円柱
死の世界で息づいている遺跡

http://blog.livedoor.jp/kool_gang/archives/51774416.html

ネバーランド

オクタヴィオ・パス
『弓と竪琴』
1980 国書刊行会・2001 ちくま学芸文庫
Octavia Paz : El Arco Y La Lira 1956〜1967
牛島信明 訳

「ポエジーは認識、救済、力、放棄である」、「詩は無数の異質な形式のなかに分散している」、「どんな差異も歴史的変動の結果なのではなく、もっともっと微妙なものの結果なのだ」、「形式と実質は同じものである」。
 世界社会の、放っておけば相克しあい激突しあいかねない多くの異相と矛盾を、みずからの思索と行動と表現のなかに抱えこんで、オクタヴィオ・パスは書き続けた。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0957.html




邦語文献
オクタビオ・パス(1914-98)
現代ラテンアメリカを代表するメキシコの詩人、批評家。90年ノーベル文学賞受賞

http://www.cafe-mexico.com/database/libro/libro_literatura.html


資本主義の力学:2H2+O2⇒2H2O:脱資本主義とは、差異的生産市場主義である
テーマ:森羅万象:諸事万端:天象地象:天候気象
水素と酸素が反応して、水が生じる。
 水素を雇用者、酸素を被雇用者とすれば、両者の共振から、水=生産物を生まれるのである。
 しかしながら、結果の水=生産物は雇用者と市場が支配する。
 しかしながら、結果は生んだのは、左辺であり、ここに生産源があるのである。しかし、資本主義は、結果の+1の競争に突き動かされて、左辺を否定するようになるのである。
 右辺を支配するのは、資本家である。故に、逆転させて、左辺を主導化すればいいのである。資本家への配分を激減することが必要である。

追記:市場は右辺というよりは、左辺として見る方が適切だと思う。後で、さらに検討したい。


ほぼ四年前のブログ記事であるが、余裕があった:オクタビオ・パスの詩を久々に読み、詩への郷愁が起る
テーマ:詩・俳句・和歌・連歌・連句・連詩
Sat, September 30, 2006 22:51:40
俳句&川柳(はてな)
テーマ:詩・俳句・和歌・連歌・連句・連詩

f:id:sophiologist:20060930224916j:image

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:%E6%B0%B4%E9%9D%A2%E6%B3%A2.jpg

目を瞑り

海鳴を聞く

砂の浜

川土手の

風心地よき

鎮守杜

玉の音に

蛙の混じる

窓辺なり

人間 の

イデア は一つか

個のイデア

田舎 なり

大きな蜘蛛の

壁を這い


田舎屋に

足長き蜘蛛

壁を這う

田舎屋に
脚長蜘蛛の
壁を跳ぶ

草深し
長足蜘蛛の
壁走る

プレハブ の

海の家 なく

サーファー見ゆ

少女あり

カラスや千鳥

海景色

海釣りの

孤影の堤防

波砕く

白き鳥

ゆうゆう と翔ぶ

川面かな

土手道を

犬引きつれぬ

女たち

土手道を
犬引き具しぬ
女(め)たちの背


横這いの

蟹どもあらわる

川の道


蟹どもの

横這い隠る

川辺道

直売店

冬瓜まるまる

百五十円

運動に

疲れしからだ

俳句 詠む

愚かなり

勝ち誇る我の

虚栄心

ゴミ浜に

兵どもが

棄て散らし

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno20.htm#ku

モダン 去り

兵どもの

荒地かな

コスモス や

曼珠沙華咲く

路傍かな

f:id:sophiologist:20061001004058j:image

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Cluster_amaryllis_close-up.jpg

飛び魚の

銀に耀く

水の音

囚人 や

我は忍耐

介護 する

浅ましき

コトバ溢れぬ

巷なり

近代の

理想・理性は

闇なりぬ

金儲け

人をだまして

死人かな

美味し蕎麦

日々精進に

自炊せり

末世なり

ノアの方舟

世は忘れ

末世かな

タマシイ抜けし

ことばかり

哀れなり

愚人悪人

世に溢れ

雨降りて
唱鳴き交わす
蛙ども


http://ameblo.jp/renshi/archive1-200609.html



自我は凸iに再帰する:陶酔的自己としての自我
テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ
自我は自己陶酔的である。これをどう分析するか。
 これはやはり、凸i⇒+1で説明できよう。同一性スクリーン(精神的フィルター)に自己投影していると考えられる。そのために、同一性自己=自我に自己は一致するのであり、これが自己陶酔である。現代の日本人は大半がこれでである。他者なきナルシシズムの日本人である。



検討課題:差異共立的相互作用の用語をどうするか:共交?、極交?
テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ
差異共立は静態的である。しかし、差異が共立したまま、相互作用、相互変容するのである。これをどう表記するのか。
 共交という言葉を仮に使用した。共立的変容だから、共変でもいいかもしれない。しかし、共立したまま、相互作用する様態がうまく表現されない。
 ならば、共立浸透にすればどうだろうか。これは、悪くない。ならば、共立変容、共立変換等がありうる。
 これまで、この事象を表記する言葉は弁証法だったのだ。しかし、弁証法はこの場合、不可能である。なぜなら、弁証法とは同一性の力学だからである。そう、差異共振は弁証法的である。
 共交の場合は、相互作用はわかるが、差異性が失せる。だから、差交がいいかもしれない。しかし、これは、連続性が感じられる。ならば、差立交がどうだろうか。あるいは、共立交である。差異共立交である。ならば、共立浸透でいいことになる。
 結局、極性の問題である。ならば、極交はどうだろうか。差異極交である。




2010年09月20日(Mon)▲ページの先頭へ
ジジェクの「コミュニズム」と差異共立・共振トランス・コミューナリズム
ジジェクの「コミュニズム」と差異共立・共振トランス・コミューナリズム

テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構築

以下、述べられているジジェクの「コミュニズム」とは、PS理論の方向である。しかし、PS理論的社会(政治・経済)はコミュニズムではない。私はそれは、差異共立・共振社会であると思っている。これは、いわゆる、共同体もコミュニティも超えた新しい社会だと思っている。個の共立・共振した社会である。それは、MP社会である。
 何度も述べているように、同一性価値=交換価値を差異共立・共振価値へと還元すべきなのである。何故なら、後者が主であり、前者は従であるからだ。資本主義の問題は、従であるべき前者が主になり、また、主であるべき後者が従になっていることである。こんな簡単なことを経済学者が言わないのは、民衆を騙すためであろう。とまれ、実践的には、差異共立・共振価値法を立法化すればいいのである。

追記:差異共立コミューナリズムという言い方が可能であろうか。コミューナリズムという用語であるが、直感では、かなり、妥当するが、それが、共同体主義を意味すると、疑問である。あくまで、個であることが前提だからである。
 しかしながら、個が生きるためには、基本的共有や共同体が必要である。思うに、トランス・コミューナリズムとしての、差異共立・共振社会を考えるべきかもしれない。トランスは、包摂を内包している。

* 「平等」について---ジジェクのコミュニズム(その3・終) (2010/09/13)


とはいえ、一つだけ付言したいのだが、それは四つの条件のなかにある「厳格な平等主義の正義」についてだ。ジジェクは、本書でコミュニズムの「基本定義」は「特定の限定を回避して、単独的普遍性へ、単独性と普遍性との直結へ」向かうことでもあると述べている。この言い回しはキルケゴールに示唆されつつ、キリスト教(あるいは神)を否定することによって普遍性に直結する方向を目指すということでもあるし、近代における神=資本(市場)と教会=国家の弁証法の外に立ち、媒介を破砕することとしてのコミュニズムを目指すということなのかもしれない。この過程で、先の四つの基本条件が位置づけられるともいえそうだ。
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=87
no more capitalism


新自由主義と左翼主義の一致

テーマ:棺犹吐民死党ロックフェラー植民地売国政権

これは単純な資本的生産力主義で説明できるだろう。
 これは、まったき同一性価値=交換価値主義である。これは、資本主義の癌である。
 棺政権はこの路線になったので、まったく反動的である。今や、凸i⇒+1の物質路線ではなく、本源の差異共立・共振的経済様態への復帰が必要なのである。MP回帰・再帰である。
 このときは、精神的価値が重要となるのである。そう、差異共立・共振は本来、精神的価値である。

追記:新自由主義は凸i⇒+1である。左翼主義は、凸i⇒-1だろうか。しかしながら、凸iの同一性志向性があるので、それは、物質的志向性⇒+1になると思われる。
 ネオコンは本源は左翼である。後で再考したい。

追記2:左翼主義は、第四象限ではないだろうか。体制へのアンチテーゼとは、凹iであろう。体制への反発、反抗、反逆は凹iである。それが、物質主義(唯物論)を志向するのであるから、凹i⇒+1となり、第四象限である。これは、私の直感にも合うのである。

追記3:四大(地水火風)の人間認識図への適用であるが、異なる考え方もできる。

       風凸i
       |
       |
  -1火ーー空ーーー地+1
       |
       |
       水凹i
 

問題は、地と火を入れ替えるべきかどうかである。しかし、物質は地が適切である。後は、風と火を入れ替えるべきかである。しかし、霊は風や空気として、イメージ化されているので、やはり、風は凸iでいいと思う。
 ならば、-1を火とするのはどうか。火とは熱である。また、光である。
 発想を変えて、火と空を入れ替えてはどうだろうか。即ち、-1が空(くう)であり、MPが火である。即ち、

        風凸i
       |
       |
 -1空ーーー火ーーー地+1
       |
       |
       水凹i
 
となる。MPは、エネルギーが発生するので、これでいいだろう。-1を空とするのは、どうなのだろうか。物質界から見れば、超越的未知の世界は空としてもいいのではないだろうか。後で再考したい。

[09/18]「新自由主義という醒めない悪夢」 (「シートン俗物記」から) New!!
村野瀬玲奈の秘書課広報室


2010年09月19日(Sun)▲ページの先頭へ
色を感じる:色彩の精神性:トランス・モダン東洋的身体意識形成
陽光を受けた田園の風景は色彩の精神的エネルギー(気)を視覚者の「心」にもたらすようである。
 この精神的エネルギーは何だろうか。Media Point(MP)のエネルギーである。凸iと凹iとの振動エネルギーと考えられる。
 しかしながら、日常において(近代的世界において)、視覚は同一性=物質的に限定されている。本来、MP自体の視覚があるが、それが、抑圧されているのである。
 ⇒の先端にいわば同一性=物質のスクリーン(精神的フィルター)が発生する。この同一性=物質のスクリーンがMPの色彩の精神的エネルギーを制止して、同一性=物質的な濾過を行なうのではないだろうか。
 つまり、色彩の同一性=物質化があるのである。これが、近代的色彩と考えられる。
 ここで絵画を考えると、今日の絵画はこの色彩の精神的エネルギーを喪失していると思われる。理由は色彩の近代主義化があるからと言えよう。(現代クラシック音楽、現代文学においても、同様のことが言えよう。)
 当然、凸iの傾斜が、同一性化をもたらしていると考えられる。本来、MPのエネルギーが生起するが、それを、凸i主導に、濾過しているのである。
 では、排除されたエネルギーはどこに「存する」のだろうか。簡単に言えば、無意識領域である。これは、-1ではないだろうか。即ち、凸i*凹凹i⇒-1である。
 ここで、ロレンスのdark God やdark sunを考えると、それは、やはり、-1を指しているのではないだろうか。Kaisetsu氏の人間認識図で言えば、第3象限であろう。
 結局、本源的なエネルギーを近代主義は排除しているのであり、それは、精神的枯渇をもたらす。精神的不毛化である。
 現代芸術が一般に低調であるのは、これが要因であると考えられる。また、芸術だけでなく、その他、学術や社会生活においてもそうである。とりわけ、現代日本は、精神的砂漠化を起こしている。(うつ病等、精神病理が蔓延するのもここから説明できよう。)
 とまれ、-1ないし第3象限を開くには、認識の内的身体化が必要である。肚や胸を陶冶する必要があるのである。即ち、東洋的身体の形成である。
 このdark Worldを開くこと、ここに個人、社会の未来がかかっていると言っても過言ではない。
 日本人は「闇」を失い、「闇」の社会を生んだと言えよう。もっとも、-1、第3象限は、比喩的に闇であり、本来は、光も闇を超越した世界と考えられる。
 私が以前使用した、超越光はここに適用されるべきではないだろうか。そう、超越光=超越闇である。

補記:MPエネルギーであるが、それは、双極エネルギーである。しかし、差異共振エネルギーとは違うと思う。しかし、後者が、+1を結果にもつということに留意するならば、差異共振エネルギーでもいいだろう。双極共振エネルギーということもできる。

補記2:-1と第三象限の関係であるが、私が考える-1の領域の「感知」とは、凹iを介しているのである。先に、凹i⇒-1と述べた。だから、その方向性において、私が考える-1と第三象限領域はほぼ一致すると言えよう。
 この視点から言えば、凸iの傾斜と+1の結合は、凸i⇒+1ということで、第一象限を意味していると考えられよう。
 また、凸i⇒-1、凹i⇒+1もあり、それぞれ、第二象限、第四象限となる。凸i⇒-1と第二象限の作用がわかりにくいだろう。これは、西洋哲学を考えるとわかりやすいだろう。未知の世界-1を凸iの理性ないしロゴスで捉えようとしているのである。しかしながら、これは永遠の矛盾であり、西洋哲学は完成しないのである。プラトンのイデア論のイデア界は、MPと第三象限と見るといいのかもしれないが、イデア自体は、凸i⇒+1のロゴスの影響をもっているだろう。(第二象限については後で補足したい。)
 凹i⇒+1、第四象限はわかりやすい。感情的なものが、+1の物質と結びつくのである。貪欲、強欲、淫乱、腹黒さ(石原都知事)、策謀等は確かに、ここに存するだろう。
 

田園風景
田園風景

岐阜の田園風景は世界に誇れますね。

http://pics.livedoor.com/u/nadia_ld/3006543


2010年09月13日(Mon)▲ページの先頭へ
ヴィジョンとイデア:MP1のヴィジョン・内的イメージとMP2の原物質的外的イメージ
再掲示: 結局、「イデア界」には「イデアは存在しない。」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=811666
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

以上で、Kaisetsu氏がイデア批判を行っているが、大変興味深い。私はイデアとは基本的に、ヴィジョン、内的イメージと捉えているので、この点から少し考えてみたい。
 私が例えば、山のイデアというとき、それは山のヴィジョン、山の内的イメージである。決して、観念ではない。だから、エイドスという方が適切だと思う。
 とまれ、ヴィジョン/内的イメージの発生を考えてみよう。問題の領域は当然、Media Pointになる。山の場合は、わかりにくいので、朝顔を考えよう。これは、Vector Modeで説明できるので好都合である。
 凸iと凹iとの共振で、物質的な朝顔が発生すると考えられる。問題は、MP1とMP2である。MP2において、原同一性化が生起するので、原物質的形態が考えられよう。それは、外的形象、イメージになる。
 しかし、MP1は差異共立様態なので、それは、物質的形態ではなく、精神(霊)的形態となると考えられるのである。これが、ヴィジョン、内的イメージになるのではないだろうか。
 つまり、MP1にヴィジョン、内的イメージ、エイドス、精神(霊)的形態が形成され、MP2に原物質的形態、原外的イメージが形成されるのではないだろうか。
 同様に、山のヴィジョンについても言えるのではないだろうか。
 思うに、シュタイナーが霊spiritと言うものは、前者のことではないだろうか。神々もここに存するのではないだろうか。
 後で、余裕のあるとき、検討したい。

Theory of Forms
From Wikipedia, the free encyclopedia

Plato 's theory of Forms or theory of Ideas[1] [2] [3] asserts that non-material abstract (but substantial ) forms (or ideas), and not the material world of change known to us through sensation , possess the highest and most fundamental kind of reality.[4] When used in this sense, the word form is often capitalized.[5] Plato speaks of these entities only through the characters (primarily Socrates) of his dialogues who sometimes suggest that these Forms are the only true objects of study that can provide us with genuine knowledge; thus even apart from the very controversial status of the theory Plato's own views are much in doubt. [6] Plato spoke of Forms in formulating a possible solution to the problem of universals .
Forms
[edit ] Terminology: the Forms and the forms

The English word "form" may be used to translate two distinct concepts with which Plato was concerned―the outward "form" or appearance of something , and "Form" in a new, technical nature, and never

...assumes a form like that of any of the things which enter into her; ... But the forms which enter into and go out of her are the likenesses of real existences modelled after their patterns in a wonderful and inexplicable manner....

The objects that we see, according to Plato , are not real, but literally mimic the real Forms. In the allegory of the cave expressed in Republic , the things we ordinarily perceive in the world are characterized as shadows of the real things, which we do not perceive directly. That which the observer understands when he views the world mimics the archetypes of the many types and properties (that is, of universals ) of things we see all around us.
[edit ] What are the Forms?

The Greek concept of form precedes the attested language and is represented by a number of words mainly having to do with vision: the sight or appearance of a thing. The main words, εἶδος (eidos) and ἰδέα (idea)[7] come from the Indo-European root *weid-, "see".[8] Both words are in the works of Homer , the earliest Greek literature. Equally ancient is μορφή (morphē), "shape", from an obscure root. The φαινόμενα (phainomena), "appearances", from φαίνω (phainō), "shine", Indo-European *bhā-,[9] was a synonym.

These meanings remained the same over the centuries until the beginning of philosophy, when they became equivocal, acquiring additional specialized philosophic meanings. The pre-Socratic philosophers , starting with Thales , noted that appearances change quite a bit and began to ask what the thing changing "really" is. The answer was substance , which stands under the changes and is the actually existing thing being seen. The status of appearances now came into question. What is the form really and how is that related to substance?

Thus, the theory of matter and form (today's hylomorphism ) was born. Starting with at least Plato and possibly germinal in some of the presocratics the forms were considered as being "in" something else, which Plato called nature (phusis). The latter seemed as a "mother" (matter from mater)[10] of substances by receiving (or losing) forms.

But what were the forms? In Plato's dialogues as well as in general speech there is a form for every object or quality in reality: forms of dogs, human beings, mountains, colors, courage, love, and goodness. Form answers the question "what is that?" Plato was going a step further and asking what Form itself is. He supposed that the object was essentially or "really" the Form and that the phenomena were mere shadows mimicking the Form; that is, momentary portrayals of the Form under different circumstances. The problem of universals - how can one thing in general be many things in particular - was solved by presuming that Form was a distinct singular thing but caused plural representations of itself in particular objects.[11] Matter was considered particular in itself.

These Forms are the essences of various objects: they are that without which a thing would not be the kind of thing it is. For example, there are countless tables in the world but the Form of tableness is at the core; it is the essence of all of them.[12] Plato's Socrates held that the world of Forms is separate from our own world (the world of substances) and also is the true basis of reality. Removed from matter, Forms are the most pure of all things. Furthermore, he believed that true knowledge/intelligence is the ability to grasp the world of Forms with one's mind.[13]

A Form is aspatial (outside the world) and atemporal (outside time). Atemporal means that it does not exist within any time period. It did not start, there is no duration in time, and it will not end. It is neither eternal in the sense of existing forever or mortal, of limited duration. It exists outside time altogether.[14] Forms are aspatial in that they have no spatial dimensions, and thus no orientation in space, nor do they even (like the point) have a location.[15] They are non-physical, but they are not in the mind. Forms are extra-mental.[16]

A Form is an objective "blueprint" of perfection.[17] The Forms are perfect themselves because they are unchanging. For example, say we have a triangle drawn on a blackboard. A triangle is a polygon with 3 sides. The triangle as it is on the blackboard is far from perfect. However, it is only the intelligibility of the Form "triangle" that allows us to know the drawing on the chalkboard is a triangle, and the Form "triangle" is perfect and unchanging. It is exactly the same whenever anyone chooses to consider it; however, the time is that of the observer and not of the triangle.
[edit ] The "Intelligible Realm"

Plato often invokes, particularly in the Phaedo , Republic and Phaedrus , poetic language to illustrate the mode in which the Forms are said to exist. Near the end of the Phaedo, for example, Plato describes the world of Forms as a pristine region of the physical universe located above the surface of the Earth (Phd. 109a-111c). In the Phaedrus the Forms are in a "place beyond heaven" (Phdr. 247c ff); and in the Republic the sensible world is contrasted with the intelligible world in the famous allegory of the cave .

It would be a mistake, however, to take Plato's imagery literally.[18] Plato emphasizes that the Forms are not beings which are extended in space (or time), but rather subsist in a more abstract way. Such we read in the Symposium of the Form of Beauty: "It is not anywhere in another thing, as in an animal, or in earth, or in heaven, or in anything else, but itself by itself with itself," (211b). And in the Timaeus Plato writes: "Since these things are so, we must agree that that which keeps its own form unchangingly, which has not been brought into being and is not destroyed, which neither receives into itself anything else from anywhere else, nor itself enters into anything anywhere, is one thing," (52a, emphasis added).


・・・・・


Evidence of Forms

Plato's main evidence for the existence of Forms is intuitive only and is as follows.
[edit ] The argument from human perception

We call both the sky and blue jeans by the same color: Blue. However, clearly a pair of jeans and the sky are not the same color; moreover, the wavelengths of light reflected by the sky at every location and all the millions of blue jeans in every state of fading constantly change, and yet we somehow have an idea of the basic form Blueness as it applies to them. Says Plato:[28] [29]

But if the very nature of knowledge changes, at the time when the change occurs there will be no knowledge, and, according to this view, there will be no one to know and nothing to be known: but if that which knows and that which is known exist ever, and the beautiful and the good and every other thing also exist, then I do not think that they can resemble a process of flux, as we were just now supposing.

[edit ] The argument from perfection

No one has ever seen a perfect circle, nor a perfectly straight line, yet everyone knows what a circle and a straight line are. Plato utilizes the tool-maker's blueprint as evidence that Forms are real:[30]

... when a man has discovered the instrument which is naturally adapted to each work, he must express this natural form, and not others which he fancies, in the material ....

Perceived circles or lines are not exactly circular or straight, and true circles and lines could never be detected since by definition they are sets of infinitely small points. But if the perfect ones were not real, how could they direct the manufacturer?
[edit ] Criticisms of Platonic Forms
[edit ] Self-criticism

Plato was well aware of the limitations of the theory, as he offered his own criticisms of it in his dialogue Parmenides . There Socrates is portrayed as a young philosopher acting as junior counterfoil to aged Parmenides. To a certain extent it is tongue-in-cheek as the older Socrates will have solutions to some of the problems that are made to puzzle the younger.[citation needed ]

The dialogue does present a very real difficulty with the Theory of Forms, which was overcome later by Aristotle,[citation needed ] but not without rejecting the independently existing world of Forms. It is debated whether Plato viewed these criticisms as conclusively disproving the Theory of Forms. It is worth noting that Aristotle was a pupil and then a junior colleague of Plato; it is entirely possible that the presentation of Parmenides "sets up" for Aristotle; that is, they agreed to disagree.

The difficulty lies in the conceptualization of the "participation" of an object in a form (or Form). The young Socrates conceives of his solution to the problem of the universals in another metaphor, which though wonderfully apt, remains to be elucidated:[31]

Nay, but the idea may be like the day which is one and the same in many places at once, and yet continuous with itself; in this way each idea may be one and the same in all at the same time.

But exactly how is a Form like the day in being everywhere at once? The solution calls for a distinct form, in which the particular instances, which are not identical to the form, participate; i.e., the form is shared out somehow like the day to many places. The concept of "participate", represented in Greek by more than one word, is as obscure in Greek as it is in English. Plato hypothesized that distinctness meant existence as an independent being, thus opening himself up to the famous third man argument of Parmenides,[32] which proves that forms cannot independently exist and be participated.[33]

If universal and particulars - say man or greatness - all exist and are the same then the Form is not one but is multiple. If they are only like each other then they contain a form that is the same and others that are different. Thus if the Form and a particular are alike then there must be another, or third, man or greatness by possession of which they are alike. An infinite regression must result (consequently the mathematicians often call the argument the Third Man Regression); that is, an endless series of third men. The ultimate participant, greatness, rendering the entire series great, is missing. Moreover, any Form is not unitary but is composed of infinite parts, none of which is the proper Form.

The young Socrates (some may say the young Plato) did not give up the Theory of Forms over the Third Man but took another tack, that the particulars do not exist as such. Whatever they are, they "mime" the Forms, appearing to be particulars. This is a clear dip into representationalism , that we cannot observe the objects as they are in themselves but only their representations. That view has the weakness that if only the mimes can be observed then the real Forms cannot be known at all and the observer can have no idea of what the representations are supposed to represent or that they are representations.

Socrates later answer would be that men already know the Forms because they were in the world of Forms before birth. The mimes only recall these Forms to memory.[34] Science would certainly reject the unverifiable and in ancient times investigative men such as Aristotle mistrusted the whole idea. The comedian Aristophanes wrote a play, the Clouds , poking fun of Socrates with his head in the clouds.


http://en.wikipedia.org/wiki/Theory_of_Forms


白サギと白鳥:アステカと飛鳥(明日香)
エジプト神話のトート神は、白サギである。そして、知恵の神であり、ギリシア神話のヘルメス神が呼応する。
 そして、アステカの神のケツァルコアトル(羽毛の蛇)とは、鳥と蛇の融合したものであり、トート神やヘルメス神に相当する。日本では、猿田彦、道祖神、塞の神等に相当する。
 だから、アステカの原郷がアストラン(白サギの地)であるというのは、日本の鳥(白鳥)伝説との連関を想定することが可能である。
 作業仮説として、なにか、(超)古代の東洋、アジア(アフリカを含めて)に共通した文化、つまり、「普遍的な」多神教文化があったと考えられるのである。後で、整理したい。

追記:当然、環太平洋地域も入れなくてはならない。以上の発想は実は、D.H.ロレンスの『エトルリアの地』で述べられていたことである。ロレンスは、青銅器文化を念頭において、汎地球的多神教文化を想定していたのである。
 一神教文明は物質文明を形成したが、結果、精神文化の喪失をもたらしたのである。トランス・モダンとは、失われた多神教文化・文明を現代的に復興することを意味するだろう。それは、ロレンスが構想していたことである。欧米の科学と喪失された先住民の精神文化を融合させることを構想していたのである。それは、正に、トランス・モダンである。古代と未来が結合するのである。
 だから、先住民文化に感染しているアメリカとアジアが今日、重要なのである。欧米のサイエンスと古代先住民精神文化との融合が今日、未来的な文化・文明的課題である。
 それに対して、現代日本は世界の動きから、取り残されている。オバマ大統領はこのトランス・モダンの大潮流の中にあるのである。ヨーロッパ、東アジアも南アジアも覚醒しつつあるのである。
 日本は大堕落である。滅亡の可能性が高い。

******************

先住民の物語・アステカの滅亡 >

ほそく
 アステカ族 は中央高原地帯に進出する前は、北の方のアストラン(白サギの地)というところに住んで、原始的な農業と漁猟で生活していた小部族(せいぜい5000人か)であった。ここからアステカ族と呼ばれるのだが、メシカ族と呼ぶほうがもっと適切である。アストランは今もって確認されないが、ナヤリ州のメスカルティタンであろうという説が有力。

 彼らはオポチトリ(左ぎっちょ)のウイチルトンというリーダーに率いられて、2世紀に及ぶ長い遍歴の旅に出る。途中でこのウイチルトンが死に、ウイチロポチトリという神(アステカ族の主神) になったという。もっとも、最初からウイチロポチトリの託宣で出発したのだろうという説もある。
http://www.news.janjan.jp/column/0803/0803190155/1.php


明日香(あすか)と飛鳥(あすか) あすかの由来(ゆらい)

◆鳥 説(とりせつ)
古代(こだい)においては、年号(ねんごう)等(とう)に白雉(はくち)、朱鳥(しゅちょう)、白鳳(はくほう)と用(もち)いられているように、鳥(とり)はしばしば瑞兆(ずいちょう)として尊(とうと)ばれた。
アスカの音(おん)はイスカという鳥(とり)の名前(なまえ)から転(てん)じたとする説(せつ)。
http://www.asukamura.jp/kids/yomoyama/asuka.html



そこには、10人程のアマチアカメラマンがいた。全員60過ぎで 口径10cm以上、長さ60cmぐらいの数百万円

クラスの望遠レンズのカメラを持っていた。狙っているのは、「イスカ」だそうだ。


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


人それぞれ、色んな好き者がいます。



     世界の鳥の中で、クチバシが≪交差≫しているのは、イスカだけ。なぜ

交差しているかというと、まつぼっくりの隙間にクチバシを入れ、

     種をねじりとるためです。上のクチバシが、右になるものと左になる

     ものがいます。イスカが,アスカ(飛鳥)の語源という説もあります。

      鳴き声が聞きたい人は、ここ をクリック


          イスカ      
http://man884a.web.fc2.com/kagai102.html

▲■課外授業へようこそ■●


アスカ(飛鳥)の語源について(アルタイ諸語との関わりから)
そこで、わたくしはアルタイ諸語のうちツングース・マンシュー語に、これに関わる一連の語彙があるように思う。それはマンシュー語の‘asxa’(wing 鳥の翼,fin 魚のぴれ)である。(注10)ツングース系では、エベンキー語で‘asaqa’、ネギダリ語で‘asaxiオロチ語‘asi、オロク語‘xasa’、ソロン語で‘asara’、エベン語 asaqan などである。(注11)
なお、関連しては、detxe(feather羽),‘funala’(feather 烏の羽根、一本一毛の羽),また‘esixe’(scale,fishscale 鱗),‘sasq’(鳥の名 ささげ,仁徳天皇の御名はオホサザキノスメラミコト),‘sivaq‐n’(燕 つばくろ)‘um xan banjma’(卵を産む, むす)。 これについては、河内地方における鳳:、羽曳野など多くの地名や白鳥伝説など深い関係を示している。このようにして、われわれにはアスカに「飛ぶ鳥」が当てられたと考えることができる。
http://www4.osk.3web.ne.jp/~nishida5/nisida/dousyu/ronbun/d2_14.htm


2010年09月12日(Sun)▲ページの先頭へ
二つの否定について:同一性に拠る否定と差異に基づく否定:排除的否定と包摂的否定
同一性に拠る否定と差異に拠る否定の違いを理論化したい。
 これは、MP2とMP1のそれぞれの否定で説明できそうである。差異共振と差異共立である。差異共振は、同一性が発生して、自己差異、他者差異が同時に否定される。つまり、同一性価値が基準となり、差異を否定するのである。
 それに対して、差異共立の場合、他者を受容しつつ、否定するのである。つまり、肯定と否定が併存していると考えられる。
 しかし、否定であるから力点は否定にあると言えよう。だから、即非とは異なるのである。とまれ、包摂的否定ということは言えるかも知れない。それに対して、同一性否定は排除的否定である。
 双極性の観点から見ると、同一性的否定とは、他者凹iを排除してしまい、凸i=+1しかないのである。包摂的否定とは、他者凹iを排除せずに、否定するのである。
 とまれ、排除しない否定とは端的に何なのか。正確に言えば、それなりに排除はするが、抹殺はしないのである。つまり、無にはしないのである。だから、無化する否定と無化しない否定があるのである。
 無化とは端的に、+1化である。物質化である。つまり、物質的認識・意識が他者を否定するということになるのである。
 それに対して、無化しない否定は、非物質的否定である。凹iを認識した否定である。即ち、差異共立において、即非的否定性を強化したものではないだろうか。言い換えると、双極的否定である。それは、引力と斥力の同時生起する共立における斥力の傾斜である。しかし、引力はあるのである。
 結局、無化しない否定、包摂的否定とは、双極的力学のもつ、同時生起する求心力と遠心力の共立力学における遠心力的傾斜ということになるのではないだろうか。
 思うに、二つの否定は異なる名称をもつべきであろう。今は、例えば、外的否定と内的否定とでもしておこうか。


2010年09月11日(Sat)▲ページの先頭へ
外的自己は自我
以下、生成門氏の新しい論考である。私も、-1を超在とするのがいいと思っていた。そして、「虚数」(虚体?)が非在である。

追記:生成門氏は「一方、縺れ合いの共立ダンスは、凸iと凹iの対称性が破れることはなく、一人ダンスに変わることがないようです。どんなに遠く離れていても、互いに時空を超えて、互いを意識して踊っているということがあるのです。

量子の世界では、このようなダンスを、量子テレポーターション(二つの凸と凹の電子が遠く離れていても、互いのステップが合っている、つまり勝手に踊ってはいないという意味)という現象が発見されています。この量子の縺れのことをエンタングルメントと呼んでいます。
」と述べている。
 私は非局所的長距離相関を否定しているが、それは物質的粒子を前提にしたときそうなのである。しかし、非物質的粒子はあるだろう。それが、「量子」である。
 以前、このことについてざっと述べたことがある。つまり、量子論は、虚軸の「双極子」を、実軸で検証しているために、「量子」は物質的粒子になっているようなことを述べた。
 そうではなくて、「量子」は虚軸の「双極子」(以下、双極子)である。これは、精神(霊)的双極子である。あるいは、数霊的双極子である。言い換えると、量子論は、「量子」を物質のスクリーンにおいて捉えているので、精神・霊的双極子が物質的粒子になっているのである。私見では、物質的粒子は精神・霊的双極子=「量子」の影である。だから、マーヤー(幻影)である。
 虚軸と実軸を不連続・非連続的に分離すれば、「量子」は本来の精神・霊的双極子になるのである。だから、トランス量子である。
 言い換えると、量子論は、精神と物質をまだ混同しているのである。両者を絶対的に分離したとき、量子論は本来的な量子論となるだろう(トランス量子論)。
 そこで、思うのは、電磁波の問題である。これは、以上から当然、精神と物質を混同していると思われるのである。「気」とは電磁波と関係するが、しかし、電磁波はやはり、物質のスクリーンに捉えられたものだと考えられる。
 私は「気」が本質としてあり、それが、物質のスクリーンに電磁波として現象するのではないかと思う。
 言い換えると、「気」とは精神をもった電磁波なのである。しかし、単なる電磁波は「気」にはならない。思うに、陽光と電球の光であるが、前者には、「気」、精神があると思うが、後者には、乏しいと思う。物質的発光とは、同一性が基盤になっているように感じられる。
 以上は、直感で述べたものである。後で精緻に検討したい。
 

外部化された自己は自我 (0)
シムダンス「四次元能」


「革命」問題:「革命」批判:メキシコ革命問題
必要で、メキシコについての本を読んでいるが、20世紀初期のメキシコ革命が今でも継続しているという発想を紹介している。
 しかし、私は、革命という視点を絶望的に感じるのである。私は革命を信じていないというか、それは、必然的に反動化するのである。何故なら、革命主義とは同一性主義であるからである。他者を否定する思想だからである。
 この点では、保守主義がまったく正しい。差異を確認する政治思想が保守主義であろう。
 思うに、20世紀初期は社会主義に染まった時代である。それは、絶望的である。社会主義の発想とは、単純にアンチテーゼの発想であり、菅首相と同じ発想である。
 思うに、どうして、メキシコ人が革命にこだわるのか。それは、悲劇的である。トランス革命にならないと未来はないだろう。
 革命の発想とは凡庸な知識人の発想である。それが、メキシコをだめにしているのではないだろうか。
 メキシコは20世紀初期、前期、「脱近代」の希望の地であったが、それが無惨な結果になってしまった。
 社会主義、左翼的発想がメキシコを指導する限り、絶望的である。私見では、保守主義の発想とは、今存するものを肯定せよということである。
 存在するもの(差異)を否定するというは、空想以外のなにものでもない。そして、近代合理主義とは、実はそのようなものなのである。
 では、「革命」に変わる積極的改変の思想は、改革、変革、改良、改造、「維新」、進化等である。
 これは、端的に、古くさくなってしまったものを捨てて、より現実に対応したものを実現するという思想である。つまり、ここには、必然性、差異的必然性があるのである。
 具体的に考えよう。私はマスゴミを批判する。それは、否定である。例えば、私が首相になった場合、マスゴミにどう対応するだろうか。革命主義ならば、廃止するだろう。私なら、個の精神をもった人物を投入して変容を計るだろう。
 ここが革命と改革の違いである。革命は単純に否定、抹殺するのである。つまり、暴力である。しかし、改革は変容を志向するのである。後で、もう少し考察を行ないたい。
 

参照:
メキシコ革命
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メキシコ革命(メキシコかくめい、Revolución Mexicana)はラテンアメリカ で最初の社会革命 であり、メキシコ のその政治体制を決定づける事件であった。1910年にはじまり、国内を二分する激しい戦いが断続的に10年以上続いた。


目次
[非表示 ]

* 1 ディアス再選反対運動
* 2 マデーロの革命
* 3 ウエルタ将軍の反革命
* 4 ウエルタ政権に対する革命
* 5 セラヤの決戦とカランサ派の勝利
* 6 1917年憲法とカランサの退場
* 7 内戦の終結
* 8 ラサロ・カルデナス政権
* 9 脚註
* 10 関連項目
* 11 関連文献
* 12 外部リンク



メキシコ内戦(1)

ポルフィリオ・ディアツ

1910年メキシコは独立百年祭を祝った。大統領はデイアツでこの時26年間、8期目の任期に入っていた。ディアツはまるで世襲の王のように振る舞い、誰もその権力に翳りが生じると思わなかった。このディアツの降板のあとわずか7年間、第一次大戦が終了するまでの間、メキシコは大統領(になったと主張する者も含め)が14人交代した。そのうち最も短命な大統領は58分間だったといわれる。

http://ww1.m78.com/topix-2/mexico%20insurgency.html


 

北部師団とメキシコ革命その1

80年余り昔、メキシコは革命の嵐の中にあった。粗末な服にソンブレロをかぶり、弾帯を袈裟掛けにした農民兵がその主役だった。そして農民兵の後ろには、必ず兵士たちの妻の大群が子供を抱えて続いていた。当時、メキシコの農民の大半は大農園で働く雇われの農業労働者だった。大変に貧しい生活の上に、大抵の場合彼等は主人から借金を背負わされてもいた。そんな農民が兵士になれば、その妻は、夫の属する部隊の後ろをどこまでも、例え戦場でさえ付いて歩くしか生きる道がなかった。従軍女(ソルダデーラ)と呼ばれるメキシコの軍隊(革命軍と政府軍とを問わず)独特の現象である。かくも貧しい農民が、そこまでして革命軍に身を投じたのは何のためだったのだろうか。

http://andesfolklore.hp.infoseek.co.jp/historia/historia6.htm


Mexican Revolution
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This article is about the Mexican Revolution of 1910. For the war of independence from Spain, see Mexican War of Independence .
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v • d • e
Mexican Revolution

1st Ciudad Juarez - 1st Bauche - Smelter View - Casas Grandes - 2nd Bauche - Mexicali - 1st Agua Prieta - 1st Tijuana - Cuautla - 2nd Ciudad Juarez - 2nd Tijuana - 1st Rellano – 2nd Rellano - Ten Tragic Days - 1st Nogales - 1st Naco - Jonacatepec - Cuautla - Aviles - 1st Torreon - 3rd Ciudad Juarez – Tierra Blanca - Ojinaga – Chilpancingo - 1st Topolobampo - 2nd Topolobampo - Gómez Palacio - 3rd Topolobampo - 2nd Torreon - 9 April 1914 - 4th Topolobampo - Veracruz – Zacatecas - 2nd Naco - Plan de San Diego – 1st Celaya - 2nd Celaya - León - 2nd Nogales – 2nd Agua Prieta - Santa Isabel - Columbus - Tlayacapa - Xochimilco – Carrizal – Bear Valley – 3rd Nogales
- 4th Ciudad Juarez
History of Mexico
Coat of Arms of Mexico
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Pre-Columbian Mexico
Spanish conquest
Colonial period
War of Independence
First Empire
First Republic
War with Texas
Pastry War
Mexican–American War
The Reform
Reform War
French intervention
Second Empire
Restored Republic
Porfiriato
Revolution
La decena trágica
Plan of Guadalupe
Tampico Affair
Occupation of Veracruz
Cristero War
Maximato
Petroleum Nationalization
Mexican miracle
Mexico 68
La Década Perdida
1982 economic crisis
Zapatista Insurgency
1994 economic crisis
The end of the PRI's rule
Mexico Portal
v • d • e
Leaders of the 1910 revolt pose for a photo after the First Battle of Juárez . Present are José María Pino Suárez , Venustiano Carranza , Francisco I. Madero (and his father), Pascual Orozco , Pancho Villa , Gustavo Madero, Raul Madero, Abraham González , and Giuseppe Garibaldi Jr.

The Mexican Revolution (Spanish : Revolución mexicana) was a major armed struggle that started in 1910, with an uprising led by Francisco I. Madero against longtime autocrat Porfirio Díaz . The Revolution was characterized by several socialist , liberal , anarchist , populist , and agrarianist movements. Over time the Revolution changed from a revolt against the established order to a multi-sided civil war.

After prolonged struggles, its representatives produced the Mexican Constitution of 1917 . The Revolution is generally considered to have lasted until 1920, although the country continued to have sporadic, but comparatively minor, outbreaks of warfare well into the 1920s. The Cristero War of 1926 to 1929 was the most significant relapse of bloodshed.

The Revolution triggered the creation of the National Revolutionary Party in 1929 (renamed the Institutional Revolutionary Party, or PRI, in 1946). Under a variety of leaders, the PRI held power until the general election of 2000 .

http://en.wikipedia.org/wiki/Mexican_Revolution



2010年09月08日(Wed)▲ページの先頭へ
道祖神、猿田彦、塞の神、賽の河原:Media Pointの神話的表現
猿田彦=道祖神=塞の神=トート神=ヘルメス神=ケツァルコアトル=・・・

ではないだろうか。
 これは、Media Pointを表現していると考えられる。境界の神である。『「塞の神」は「賽の神」とも表現された。サイコロの“賽”だ。』 塞は境界であり、賽も境界ではないだろうか。賽の河原はこの世とあの世の境界の三途の川の河原であるから、そうだと思う。
 思うに、あの世は凹i⇒-1ではないだろうか。

追記:ヘルメス神が商業の神、また、泥棒の神であるのは、Media Point を考えれば、正にぴったし、一致するのである。Kaisetsu氏が説くように、売買とは価値衝突、あるいは、差異衝突なのである。
 強奪も「商売」なのである。欧米の植民地主義はこの観点から見るべきである。
 思うに、「商売」を一般に見下している。これは、生存の根幹である。そう、神とは商売神である。

追記2:因みに、小沢一郎は双子座であり、これは、水星が支配星であり、水星とは、ヘルメス神である。
 

* 奈良の神社話その六 氏子をかけた大博奕の行方──奈良市・猿田彦神社(道祖神) [photo]

 日本の神様は、ときに人間的な一面を見せる。町家が立ち並ぶならまちには、「神様同士で博奕を打った」という実に人間臭い話が伝えられている。  対峙したのは、今御門町の道祖神と薬師堂町の御霊様。軍配は御...
リアルライブ - 2010/9/7 18:11


岐の神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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岐の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)とは、日本 の民間信仰 において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神 である。

岐(ちまた、巷とも書く)または辻(つじ)とは、道路 が分岐・交叉する場所のことである。このような場所は、人だけでなく神も往来する場所と考えられた。神の中には悪神・悪霊もおり、これらの侵入を防ぐために祀られたのが岐の神である。このことから塞の神(さえのかみ)とも呼ばれる。

神話 の中では、『古事記 』の神産み の段において、黄泉 から帰還したイザナギ が禊 をする際、脱ぎ捨てた褌 から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀 』や『古語拾遺 』ではサルタヒコ と同神としている。また、『古事記伝 』では『延喜式 』「道饗祭祝詞」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。

『日本書紀』では、泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミ から逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から岐神(ふなどのかみ)、来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。『古事記』でも、上述のイザナギの禊の場面で、最初に投げた杖 から衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)が化生している。

後に、中国から伝来した道路の神である道祖神 と習合した。そこから、道祖神もサルタヒコと同一視されるようになった。また、仏教 の地蔵菩薩 とも同一視された。
関連項目 [編集 ]

* 日本の神の一覧

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E3%81%AE%E7%A5%9E 」より作成
カテゴリ : 日本の神 | 道祖神 | 魔よけ

結界

結界(けっかい、Skt :Siimaabandha)とは、聖 なる領域と俗 なる領域を分け、秩序を維持するために区域を限ること。本来は仏教用語 であるが、古神道や神道 における神社 なども、同様の概念があることから、言葉として用いられているが、大和語としては端境やたんに境ともいう。

・・・・・

神道・古神道 [編集 ]

古神道 である神籬 (ひもろぎ)や磐座 (いわくら)信仰は、神の依り代 であるとともに、その鎮守の森 や森林や山や海や川や岩や木などは、禁足地 である場所も多く、神域 や常世 と現世 の端境を示し、結界としての役割も果たしている。神籬の「籬」は、垣の意味であり、磐座は磐境ともいい境を意味する。この考え方が積極的に用いられ、古来より郊外の集落 の境や辻 などに配置された道祖神 、庚申塔 、祠 などの石仏は、災厄を集落に入れないようにするための、結界の役割をしていたともいわれる。

神道 においても、結界は神社などでも用いられ、たとえば境界線を示すために、神社 ・寺院 などの境内や建築物では意図的に段差を設けたり、扉 や柵 、鳥居 や注連縄 などを用いる。一般の家庭などでも、注連縄飾りや節分の鰯の干物なども結界である。

古神道や神道において、一定範囲の空間に設定されたタブー (禁足)を視覚化したものとも言え、それは聖なる領域(常世)と俗なる領域(現世)という二つの世「界」を「結」びつける役割をも持つ。



塞の神における兄妹相姦についての記号論的考察


概 要

村落のはずれの路傍に祭られている塞の神(道祖神)には、(1)境界守護の神という性格と(2)夫婦和合の神という2つの異質な性格がある。この第二の性格によって、塞の神は、しばしば陽石、陰陽石、さらには男女二体の夫婦の石像によって表される。ところが、その石像の男女はしばしば兄妹婚の夫婦であるとされている。これは何故であろうか。一般にはその由来をイザナギ・イザナミ神話に求めるが、これには賛同しがたいことを示した上で、我が国を含め東南アジアの水田稲作地帯に広がる兄妹婚肯定の空気が、その背景として存在することを指摘し、さらに、我が国古代では異母兄妹婚は通例のことであり、同母兄妹婚も強い禁忌ではなかったことを見てゆく。その上で、「いもせ」という言葉が、(1)兄妹(姉弟)(2)夫婦の2つの意味を持っていることが教えるように、兄妹と夫婦とは、もともとは区分されることのない同一の概念であったが、後に両者の間に区分線が引かれて、それぞれ別の概念とされた時、その境界線上にあるものが兄妹婚であることを見る。他方、塞の神は村落の内と外との境界に置かれるものである。この境界領域の事象ということにおいて両者は一致する。かくて、塞の神が兄妹婚の夫婦とされるのはこのためと考えられることを論ずる。記号論は連続したものを記号によって不連続に区分した時に生ずる境界領域には、神聖さと不吉さが備わるという。村落の境界と兄妹婚は、その属性においても一致することを述べる。
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/other-folk/sainokami.htm

歴史と民俗の森の中で


2010年09月07日(Tue)▲ページの先頭へ
保守主義問題:反自民党・反近代主義とPS理論
Kaisetsu氏が保守主義を明快に類別している。それに拠ると私はある保守主義には妥当し、他のそれには妥当しない。
 私は保守という言葉を積極的に使用したのは、思うに、1回くらいしかないと思う。
 私は今でも自民党基盤の田舎で育ち、反自民であった。田舎の人間の、一種自民信仰のようなものに反発はしていた。そう、田園を破壊していく自民党の近代化政策にも反発していた。また、米国に追従する自民党を嫌悪した。(追記:思うに、田中角栄をどう見るかが保守主義問題の核心にあるだろう。これについては、後で考察してみたい。)
 そもそも、近代主義への反発が強かった。これは、一種ロマン主義的反発である。美的反発である。物質主義への反発である。資本主義への美的な反発である。
 一番の問題は、近代文化史に典型的な、精神・感性と近代科学・技術との折り合いをつけることのほとんど不可能さであった。その最大の原因は戦後の物質主義教育を植え付けられていたこと(唯物論的洗脳)である。結局、PS理論は、徹底的にこの問題を解決して、合理的な現実主義と超越主義の両極を見つめる形になったのである。

追記:開明的保守主義という発想があり得る。ところで、後で、述べてみたいが、小沢一郎の発想は実に、差異的である。差異共立的であり、また、差異共振的である。結局、現実創造的に考えると自然、必然的にそうなるのである。差異こそ、現実の根拠であるからである。それに対して、干首相は典型的な同一性主義、空っぽ主義、空虚である。個のまったき欠如である。常に、他者を否定することで、自己同一性を維持するだけで、自己差異=個がないのである。
 民主党代表選はだから、近代とトランス・モダンのゾロアスター教的争闘の哲学的意義をもっているのである。

追記2:考えてみれば、私は反自民・反近代ということで、典型的な二項対立になっていたのである。それは、単純な発想である。そして、それを乗り越えるために、私は両極性(陰陽論)という発想に、また、「気」の超越的思想には行き着いてはいたが、それから、不連続的差異論、PS理論に行き着くまでは永い永い道のりであった。

追記3:ポスト・モダンは結局、近代文化史の矛盾を乗り越えることができなかったのである。

追記4:個の問題は、感性、美、芸術、精神、倫理の問題が入るのである。このテーマについては後で検討したい。重要な問題である。

【再掲示】 7つの保守主義(海舌の分類)
http://blog.kaisetsu.org/?eid=811636
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


2010年09月05日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:ダーク・マターと物質:傾斜を時計回り1/4回転と作業仮説する
検討問題:ダーク・マターと物質:傾斜を時計回り1/4回転と作業仮説する

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

1)ふと思ったが、物質の背後にダーク・マターがあるのではと思った。

2)アーラヤ識は、Media Pointではないか。

3)media pointにおいて、+実軸だけでなく、虚軸の凸、凹も知覚する。しかしながら、-実軸つまりマイナス1もなんらか知覚しないのだろうか。
 単純に考えて、マイナス1が根源であるならば、それが、Media Pointへと向かうことは考えられる。つまり、-1→media point→+1である。
 →media pointの→とmedia pointの「交点」において、知覚できるのではないだろうか。それは、物自体としての-1ではないのか。物質+1は、エネルギーの終点である。それは、滓、抜け殻のようなものである。
 例えば、樹木ならば、樹木として、感じる実体、身体は、物質+1ではなくて、物自体としての-1ではないのか。もっとも、凸iを認識、凹iを物自体と考えることもできるが、それは別の議論になるが、興味深い。
 こちらの線に切り替えて、考えてみよう。差異共立を薄明とすると、-1は、根源的闇となるだろう。そして、差異共振が光である。
 そして、光の下、対象を物質としての認識する。しかし、対象は凹iであるが、それを+1と認識するのである。つまり、虚数としての物自体があるということである。
 では、-1は何か。これこそ、不可知の存在ではないのか。ロレンスのdark Godではないのか。あるいは、dark sunである。
 そうならば、どうして、ロレンスはそれを直感できたのか。どこかに、センサーがなくてはならないだろう。ロレンスは、dark God が下から入る神であると述べている。そうならば、凹iに関係するだろう。
 先に思考実験したように、凹iは-1と関係するのではないだろうか。そして、凸iが+1と関係するのではないだろうか。
 人間において、男性の場合は特にそうであるが、凸iに傾斜している。だから、凸i=+1という自我・同一性・物質認識が生まれるのである。
 ここで作業仮説を立てるが、傾斜を時計回り1/4回転とする。そうすると、凸iは+1となるのである。そして、凹iは-1となるのである。つまり、傾斜力学が入ることで、凸iは+1と一致し、凹iは-1と一致するということになる。
 そうならば、ロレンスがdark Godを凹iで直感することができたのは、当然と言える。
 ならば、物自体において、ダーク・マターが直感できるということになるだろう。
 今はここで留める。

追記:そうならば、アーラヤ識は、-1=凹iに存するということになるだろう。

阿頼耶識

阿頼耶識(あらやしき、Skt : ālaya-vijñāna आलयविज्ञान)は、大乗仏教 の用語。

サンスクリット ālaya आलय の音写と、vijñāna विज्ञान の意訳「識」との合成語。旧訳では「阿梨耶識(ありやしき)」。また「蔵識」(藏識)「無没識(むもつしき)」とも訳す。「頼耶識」「頼耶」等と略されることもある。

唯識 思想により立てられた心の深層部分の名称であり、大乗仏教を支える根本思想である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 ・末那識 ・阿頼耶識の8つの識のうち第8番目で、人間存在の根本にある識であると考えられている。ālaya の語義は、住居・場所の意であって、その場に一切諸法を生ずる種子 を内蔵していることから「蔵識」とも訳される。「無没識(むもつしき)」と訳される場合もあるが、これは ālaya の類音語 alaya に由来する異形語である。法相宗 では、心は阿頼耶識までの八識 とする。天台宗 では阿摩羅識 を加えて九識 、真言宗 ではさらに乾栗陀耶識 を加えて十識 とする。

はたらき [編集 ]

ある人の阿頼耶識は、蔵している種子 から対象世界の諸現象<現行(げんぎょう)法>を生じる。またそうして生じた諸現象は、またその人の阿頼耶識に印象<熏習 (くんじゅう)>を与えて種子を形成し、刹那 に生滅しつつ持続(相続)する。

この識は個人存在の中心として多様な機能を具えているが、その機能に応じて他にもさまざまな名称で呼ばれる。諸法の種子を内蔵している点からは「一切種子識」(sarva-bījaka-vijñāna)、過去の業の果報<異熟(いじゅく)>として生じた点からは「異熟識」(vipāka-vijñāna)、他の諸識の生ずる基である点からは「根本識」(mūla-vijñāna)、身心の機官を維持する点からは「阿陀那識」(ādāna-vijñāna、「執持識」/「執我識」。天台宗 では末那識 の別名)と呼ばれる。
法相宗の説 [編集 ]

唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとしている。それは主として迷いの世界についていうが、悟り の諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという論争が生じた。

* 阿頼耶とは、この翻に蔵となす。 唯識述記 2末

三種の境 [編集 ]

1. 種子 (しゅうじ) 一切有漏無漏の現行法を生じる種子。
2. 六根 (ろっこん) 眼耳鼻舌身意の六根。俗に言う「六根清浄 (ろっこんしょうじょう)」とは、この眼耳鼻舌身意が清浄になるように唱える言葉。
3. 器界(きかい) 山川草木飲食器具などの一切衆生の依報。

阿頼耶識は、常にこの3種を所縁 の境とする。
心 [編集 ]

心に積集、集起の2つの義があって、阿頼耶識は諸法の種子 を集め、諸法を生起するので、心という。

* あるいは心と名づく。種々の法によって、種子を薫習し、積集する所なるが故に。 唯識論 3
* 梵で質多という。これ心と名づくなり。即ち積集の義はこれ心の義。集起の義はこれ心の義なり。能集してもって多くの種子生ずる故に。この識を説いてもって心と為す。唯識述記 3末

阿頼耶識と文学 [編集 ]

三島由紀夫 の絶筆となる『豊饒の海 』(第三巻『暁の寺』)において主人公が一旦傾倒した思想であるが、その後インド のガンガー 川畔の巨大な火葬 の町ベナレス(ワーラーナシー )のガート での火葬風景を見て、途方もないニヒリズム に襲われる場面が描かれている。これは三島自身の実際のインド体験から発されたもので、その光景は「近代的自我」に執着し、その孤独に耐えることによってのみ数多くの作品を創出してきた三島にとってこの唯識思想を微塵もなく打ち砕く巨大で徒労な現前するニヒリズムの現実体験として映ったようである。

『暁の寺』には、ベナレスでの火葬の光景がありありと描かれている。

三島にとってこの「究極の光景」は彼が営々として築き上げてきた美学 をいともたやすく、一瞬にして微塵もなく破壊したのである。



◆ ◆ ◆ 唯識の世界 ◆ ◆ ◆

8.人生を演出する阿頼耶識

前項で、過去一切の行為を洩れなく記録し(種子として)溜め込んでいる心を、唯識は阿頼耶識と名付けている事を申し上げました。そして、過去一切と言うのは、私が母の胎内に生を受けた瞬間から現在までだけではなく、私に命を伝えた両親、そのまた命を繋いで来た無数の祖先達、遡れば、地球上に生命が誕生したと言われる30億年にものぼる過去を蔵しているのが阿頼耶識だと捉えてよいとも申しました。

しかし、30億年もの行為の記録と言われましても、残念ながら、それらが何かを私達は知ることは出来ません。どんな種子(しゅうじ)が溜めこまれているかが分からないのが深層無意識領域の阿頼耶識だからです。物心がついてからの記憶は勿論溜めこまれているでしょうが、どのような種子として溜めこまれているかは窺い知ることは出来ません。たとえば、他人とケンカした場合、相性の悪い人物像と言う種子として溜めこまれるのか、ケンカとなった原因を種子として溜めこむのか、ケンカの要素全てを種子として溜めこむのかは分りませんが、分らないことも含めて、過去の行為・経験を種子として溜め込んでいるのが阿頼耶識であると考えると、私と言う存在を考察する上での辻褄が合うと、唯識は考える訳であります。

また、こうして今私がこの唯識の世界を書いている瞬間も、私の阿頼耶識の内容は刻々と変化しています。これを唯識では「恒に転ずること暴流の如し」と、阿頼耶識は過去一切を蔵しながらも激しく変化し続けているものであると考えます。

そして、阿頼耶識はあらゆる行為を種子として溜めこむだけではなく、現在を生み出す源であると考えます。これが『種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう)』と言う阿頼耶識のもう一つの働きです。前項の『現行薫種子(げんぎょうくんしゅうじ)』とこの『種子生現行』は、表裏一体のものと言えます。どちらが後でも先でも無いと言うものです。

表題を『人生を演出する阿頼耶識』と致しましたが、私達の人生をドラマと見たてたばあい、阿頼耶識は陰に隠れた脚本家であり、演出家のようなものだと思えるからであります。テレビドラマは、小説の原作者が居て、それをドラマ化する脚本家、そしてそれを俳優の演技に展開する演出家が居て始めてドラマ化されます。私達の人生を一つのドラマと仮定致しますと、脚本家と演出家は、阿頼耶識と末那識が担っており、私達はドラマの行く末を知らされないままに演技させられている人生の俳優であると言っても良いのではないでしょうか。と考えますと、人生の原作者は仏様でしょうか。

〜阿頼耶識は人柄を作り出す〜

人間の風格とか品性と言うものは急に作られるものではありません。コツコツと積み上げた身口意の三つの行為が阿頼耶識に薫習(くんじゅう)されておのずから具わって来るものである事は、人に感じる印象を思う時、納得出来るような気が致します。皇室の方々のもの静かで慎ましやかな物腰とお言葉は演技ではなく身に染み着いたものでありましょう。一方、犯罪を重ね人生の裏街道を歩み続ける暴力団は一目で分るような気が致します。医者には医者の匂いがあり、学者には学者の匂いを何となく感じます。賄賂に手を染めた政治家には、それなりの風貌を感じるのは私だけではないと思います。

これは、阿頼耶識に溜めこまれた種子(しゅうじ)が、我知らず表面に滲み出たものであります。阿頼耶識がその人の人格・風格を作るということは理解出来ると思いますが、恐ろしいのは、そうしてにじみ出る自分の匂いが自分には分らないということです。人にはそれぞれ、明るい人や暗い感じの人、清潔な感じの人や不潔な人、謙虚そうな人、高慢な感じの人が一見して他人には感じられますが、本人には分りません。「そんな積りではないのに」と言う事になりましょうが、この滲み出る匂いは無意識層の阿頼耶識から滲み出ると考えれば自分では分らないと言うことは納得出来るのではないでしょうか。

〜阿頼耶識が世界を作る〜

私達は、私以外の外の世界は、私とは別に存在しているように思っていますが、実は私の阿頼耶識が私の外の世界を作り出している、こう唯識は考えます。自分の感覚・知識を信じ切っている私達現代人にはなかなか理解出来ないことではありますが、以下の説明を聞けば、何となくそうかも知れないと思えるのではないでしょうか。

私達の眼は、通常は空気中の小さなホコリ、ばい菌を捉えることは出来ません。しかし太陽の光線が部屋に差し込む具合によりましては、沢山のホコリが見える時があります。もし、私達の眼が顕微鏡のような高感度のものでしたら、恐らくは、ばい菌とホコリだらけの世界が眼に映り、とても生きてはゆけないかも知れません。

音についても、私達の聞こえる音の周波数とイルカやコウモリとはかなり異なります。聞こえない音があるから静かに眠ることが出来ているのかも知れません。匂いも、犬は私達の何倍かの嗅覚力を持っていると聞きます。また大地震の前にはある種の動物が予兆を感じ取ると言う話もあります。

こう考えますと、世界は、私達が思っている通りの世界ではないと言うことになります。私達が世界と思っている世界は、私が私の能力で捉えている世界であり、真実の世界ではない、即ち、世界は唯(ただ)私の識(心)が作り出しているものだと言うことになります。

同じ人間でも、人に依って世界は異なります。前にも例として上げましたが、テレビに映る同じ人物を、私は吉永小百合に似ていると思うけれども、私の妻は全然似ていないと言うことがあります。私の認識している吉永小百合と、妻の認識している吉永小百合が異なる像として阿頼耶識に記録されていると言うことだと考えられます。

ピカソの絵を見て、感動する人もいるでしょうが、人に依っては単なる落書きにしか見えません。同じ仏像の前を通っても、その慈悲心に溢れた眼差しに眼が釘付けにされる人もいれば、全く無関心で一瞥も与えないで通り過ぎる人もいます。同じ仏像でも、阿頼耶識に蓄えられた種子に依っては見え方が全く異なると言うことになります。更には、ある人には存在している仏像が、他のある人には存在しないと言うことになります。

極端な話ですが、人間が見ている世界と犬が見ている世界とは目線が違いますし、犬には色彩感覚がないと聞きますから、全く世界は異なるものでしょう。犬にはお星様は見えないでしょうし、宇宙の存在は思いも及ばないでしょう。

私達は、阿頼耶識に溜めこまれた種子によって、一人一人異なる世界を作り出していると言ってもよい、そう唯識は考えるのです。

〜阿頼耶識が人生を演出する〜

何度も申し上げました「阿頼耶識と言う実体的なものは無い」と言う事を前提としての事でありますが、人夫々に異なった阿頼耶識を持っています。阿頼耶識は変りませんが、その蔵(アーラヤ)に溜め込んでいる種子の内容が異なります。だから人夫々の人生が現出していると言ってよいでしょう。

一流企業の社長・会長にまで上り詰めた人や、総理大臣と言う日本のリーダーだった人達が、司法の裁きを受けて牢獄で人生の最終章を迎える、そういう人生もあれば、雨露さえ凌げないあばら家で独り暮らしながらも、生も死もない自由を満喫しつつ、近隣の人々に愛され慕われ、惜しまれながら一生を終えた良寛様のような人生もあります。

私は、この千差万別の人生は、阿頼耶識に蓄えられている種子の内容の千差万別から生じていると考えます。別の言い方をしますと、阿頼耶識の中には価値観に結び付け得る種子の集合領域があるのだと考えます。価値観とは「人生で何が一番大切か」と言うことでありますが、これは無意識の領域だと思います。人間は常に「人生で何が一番大切か」を自問自答しながら生きているものではありません。しかし一瞬一瞬現れる言動は、無意識のうちに価値観によって支えられているのだと思います。そして、その一瞬一瞬の言動が人生を作ってゆきます。即ち、唯識的に言いますと、阿頼耶識が人生を陰で支えている、演出していると言えるのではないかと思います。

阿頼耶識は無意識層にあるだけに、自分では如何ともし難いのが人生であると言うことになりますが、唯識はだからこそ、阿頼耶識に溜めこむ種子を変えてゆこう、溜めこむ種子を変えれば、人生は変えられるのだと説きます。凡夫の生活から悟りの生活に変革出来ると説きます。

この心の変革過程に付いても、唯識は素晴らしい理論を持っています。それはもう少し後の勉強となりますが、これまでも度々引用させて頂いた下記の言葉は、阿頼耶識に薫習(くんじゅう)する種子を変えてゆくと、人生は変ると言う歌だったんだなと思うことであります。

心が変れば態度が変る、態度が変れば行動が変る
行動が変れば習慣が変る、習慣が変れば人格が変る
人格が変れば運命が変る、運命が変れば、人生が変る

http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki08.html


2010年09月03日(Fri)▲ページの先頭へ
随想:凸iの知性について:直観と言語:同一性・類の発生力学について
随想:凸iの知性について:直観と言語:同一性・類の発生力学について


先に、凸iの知性とは直観的知性であると述べ、それと同一性である言語と結びつくといようなことを述べた。直観的知性は自己知的差異であるが、それが言語同一性とどう結びつくのか検討したい。

 凸iの超越的主観知性が、凹iの超越敵他者を認識しようとするとき、そこには、同一性が形成されるのである。これは、精神的フィルターに拠ると言える。Media Pointにおいて、虚軸から実軸へと変換するとき、同一性が発生するのである。

 思うに、このMedia Point変換(MP変換)における精神的フィルターの機能には、言語形成もあると考えられる。なぜなら、同一性とは言語であると言っていいからである。(ここで、音声言語と文字言語の問題があるが、同一性は前者に関わると考えられる。これについては、先に文字言語について論じたときに説明した。)

 例えば、主観凸iが対象凹iを認識するとき、いわば、言語同一性変換が発生するのであり、凹iは言語同一性化されるのである。もっとも、丁寧に言えば、言語同一性形成の前には、鏡像形成があると考えられる。つまり、端的に、同一性像である。MP変換において、同一性像が形成され、それが言語同一性へと進展すると考えられる。

 鏡面はどこに存するだろうか。おそらく、Media Pointの実軸側に形成されると思われる。即ち、MP2である。⇒で言うと、その先端であろう。その鏡面に主体は差異自己を投影するが、そのとき、差異自己から同一性自己へと転換すると思われる。

 そして、このいわば、同一性鏡面に次々に外的差異対象が反照して、主体は対象を言語同一性化すると思われる。

 では、本題の類概念であるが、それは、どのように発生するのか。言い換えると、(言語)同一性の発生力学とは何かである。これは、イデア論の問題である。馬のイデア、花のイデア、等々である。これは、エイドスの問題だと思う。以前にも述べたが、あるとき、深山に行ったとき、窓外の山が山のイデアに見えたのである。

 思うに、イデアとは映像、イメージ、ヴィジョンに関係すると考えられる。鏡面を考えよう。鏡面には外的対象が入るが、それは、同一性形象である。しかしながら、Media Pointとは、虚軸性=超越性があるので、その鏡面の同一性イメージは超越性を帯びると考えられる。また、Kaisetsu氏のVector Mode論からわかるように、超越力学からイメージが生まれるのである。つまり、鏡面の同一性イメージであるが、それは、本来、内的イメージのはずである。つまり、内的イメージを鏡面に投影して、外的イメージを確認するのではないだろうか。結局、内的イメージ、超越的イメージ(ヴィジョン)が、類概念の原型ではないだろうか。それが、プロト言語であり、それが、MP変換によって、言語同一性化されると思われる。内的イメージを残しているのは、文字言語、象形文字、表意文字であり、音声言語は、同一性と結びつくと思われる。


2010年09月02日(Thu)▲ページの先頭へ
個について:その2;直感(直観)的知性と言語的知性
個について:その2;直感(直観)的知性と言語的知性

先に、凸iは同一性であり、凹iこそが絶対性ではないのかと指摘したが、それは、極論であり、ここで修正したい。
 結局、知性、本当の知性とは凸iに存するのであり、それは、凹iと極性を為していて、双極的知性というべきである。それに対して、凸i=+1の自我的同一性の「知性」とは言語的知性であり、真理ではないと考えられる。それは、いわば、道具的知性、つまり、技術的知性に過ぎない。(ハイデガーの現存在の知性はこれに過ぎない。つまり、近代的合理性である。)
 つまり、本来の知性凸iは、凸i=+1の言語的知性を道具・手段して、思考するのであり、後者は「従者」に過ぎないのである。しかし、近代合理主義はそれを「主人」にするという倒錯を犯したのである。
 結局、凸iはロゴスであるように示唆したがそれは誤りであるので、ここで訂正したい。ロゴスは凸i=+1に存するのである。真の知性は凸iにあり、それは、凹iと「交流」(intercommunication)して、「如来」、「般若」となるのである。
 この問題について、これまで、かなり疑問を感じていたが、真知性を凸iとし、道具的知性を凸i=+1とすることで、明快になったと思われる。言うならば、近代合理主義は似非知性である。

検討問題:「個」とは何か
鳩山前首相や菅首相他を見ていると、ころころ変わる。これは、個がなく、状況の力学に押し流されているからだと考えられる。
 いったい、個とはPS理論からどう説明されるか、というよりは、再確認になるだろう。
自己体は凸iであり、他者凹iと対になって、いわば、対極、両極、双極的自己を本源的に形成していると考えられる。個というとき、それは単に自己体凸iを指すのではなく、凸i*凹iの双極的「自己」を指すと考えられる。
 思うに、近代的自我は凸iを抑圧しているが、逆にそれに、ある意味で支配されているだろう。つまり、凹iを感知していないために、その力動に支配されると考えられる。つまり、個を自己双極体(凸i*凹i)とすると、近代的自我(近代合理主義)は、凹iを抑圧して、凸iを中心化しているので、自己双極体の力学の凹iの反動力によって無意識に支配されることになるのである。だから、権力のある他者凹iに対して、近代的自我は無意識のうちに動かされて、自我意識をもつのである。自我意識とは、凸i=+1という錯誤的意識である。
 この点の力学について正確に洞察する必要がある。
 つまり、近代的自我(近代的合理主義)の場合、凸i=+1(同一性=物質)という錯誤様態にある。即ち、本来、精神的なもの(差異)が、物質的なもの(同一性)と一致しているという誤謬様態にあるのである。当然、凹iは抑圧されて、無意識である。そこで強大な権力に対して、近代的自我は、保身となり、それを不合理に受容するのである。それは、無意識的に行われる過程と言えよう。いくら、自我意識が理想・理念をもっていても、近代的自我は同一性=物質主義なので、強大な権力には卑屈に服従するのである。それは、同一性=物質的権力力学と言っていいだろう。
 だから、もし、近代的自我ではなく、自己双極体を意識、認識していれば、自己は絶対的差異である、強大な権力に屈しないと考えられる。つまり、自己双極体意識とは個的意識、個的自己意識であると考えられる。なぜなら、凸iよりも、凹iの方が絶対的であるからだと思う。それは、全体的、普遍的とも言えよう。それに対して、凸iはロゴス(言語)的であり、もろいのである。途中。



   




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カレンダ
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