INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2010/08

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2010年08月30日(Mon)▲ページの先頭へ
思考実験:凸i=ロゴス=遅延波(=西洋文明)⇒+1(物質)と凹i=内的宇宙=先進波(=東洋文明)⇒−1(暗黒物質)
思考実験:凸i=ロゴス=遅延波(=西洋文明)⇒+1(物質)と凹i=内的宇宙=先進波(=東洋文明)⇒−1(暗黒物質)

検討問題1:キリスト教三位一体とD.H.ロレンスの宗教論:「父」とは何か:その他

PS理論から見ると、「父」(以下、父)とは何だろうか。直感で言えば、MP1である。それは、霊界とも言える。しかし、ロレンスは不可知としての父を述べている。しかし、MP1は、可知である。
 しかしながら、どうも、ロレンスの発想には、凹iの主導化が感じられるのである。凸iの原自己にとっては、凹iの他者は不可知である。そのような視点から父が不可知であるというのは考えられることである。

検討問題2:遠距離への志向とは何か

田舎にいると、風景が広がる。都会では、建物が邪魔をする。
 拡大した視野は解放感がある。これは思うに、凹iが解放されるということではないだろうか。矛盾した言い方になるが、他者としての自己があるのではないだろうか。つまり、凹iとしての自己である。それが、拡大した空間を欲するのではないだろうか。
 否、そうではなく、MP1の差異共立の「視覚」が空間の広大さを欲しているのではないだろうか。つまり、MP1とはコスモス、宇宙、内的宇宙、全体である。だから、物質的視覚においても、Media Pointにおける、MP1が作用するので、広大な空間を欲するということではないだろうか。つまり、Media Point的視覚が作用するということである。
 日常生活、物質的生活においては、MP1は抑圧されて、MP2が中心であるから、脱日常的に、MP1を解放する広大、壮大、巨大な光景に出会うと、魅了されるのではないだろうか。そう、Media Pointは存するものの、通常はMP2によって、MP1が抑圧されていると言えるだろう。とまれ、この美学は崇高の美学と言えよう。
 しかし、以上は、差異共立美学である。それに対して、凹iに偏向すると、性的なものが強化されるのではないだろうか。つまり、凸iの傾斜による同一性だけでなく、凹iの傾斜に拠る同一性があるだろう。それが、諸欲望ではないだろうか。

追記:以上のように考えると、凸iとはシュタイナーの説く脳―脊髄神経系であり、凹iとは交感神経系(自律神経系)に相当するのではないだろうか。簡単に言えば、脳と内臓である。もっとも、シュタイナーによれば、松果体が接点である。つまり、Media Pointになることになる。
 また、深層心理から言えば、凸iが意識であり、凹iが無意識である(非意識、潜在意識:私は潜在意識という言い方も有効である。思うに、潜在的内身体的意識という方が正確であるが、長い。)。
 ところで、上述では、凸i*凹iが内的宇宙であると言ったが、問題は単純ではない。シュタイナー的に言えば、あるいは、ロレンス的に言えば、凹iが内的宇宙になるからである。この問題をどう捉えたらいいだろうか。
 凸iとは思うに、原同一性的認識志向性をもつと思われるのである。言い換えると、ロゴス=言語認識的志向性である。それに対して、凹iは、いわば、身体感性的認識志向性をもつと思われるのである。そこには、情感、感情、欲望、情動、衝動等を含めることができよう。一般にそれらは、受動、受身的に考えられるが、凹iはそれ独自の認識性をもつだろう。つまり、直感・直観的認識性だと思われる。
 ということで、そのように考えると、検討問題2の考え方は否定されることになる。コスモスは凹iに存するのであり、差異共立にではないということになる。
 もっとも、今は作業仮説の段階であり、検討問題2の考え方が正しいということもありえるのであるが、今は、そのようには考えないということである。
 ヨハネの福音書の冒頭の「初めにロゴス(言葉)ありき」であるが、それは、凸iを意味すると思われる。自己を重視するならば、それは、的確である。ただし、PS理論から言うと、凸i*凹iの双極性が基本であり、単にロゴス(言葉)では、一面的であると考えられる。
 ここで、先進波と遅延波の問題と関係させると、凸iは「光」であり、過去から未来へと向かう遅延波であり、凹iは「闇」=内的宇宙であり、未来から過去へと向かう先進波ということになるだろう。飛躍的であるが、占いとは凹iの「闇」=内的宇宙に関係するのではないだろうか。そう、端的に占星術(西洋占星術)である。それは、ホロスコープによって占うのであり、その宇宙像は、本来は凹iの「闇」=内的宇宙に拠るもの想定することはできよう。
 そうならば、それは、先進波、未来から過去へと向かうベクトルなので、当然、占うことができるということになる。また、アカシック・レコード(アカシャ年代記)もそこに存することになるだろう。また、阿頼耶識もそこにあることになるだろう。
 この線に沿って考えると、瞑想の意義が拡大するだろう。それは、予言的になるということである。
 さらにこの視点から、PS理論における難問のマイナス1の意義も新たに想定される。即ち、時計回りに1/4回転するとき、凸iは+1となり、凹iは−1となるが、凹iが先進波ならば、先進波は−1になるということになる。つまり、先進波はダーク・マターになるということではないだろうか。
 そうならば、Media Point変換において、凸i=遅延波は物質となり、凹i=先進波はダーク・マターになるということになる。そして、ダーク・エネルギーとは、凹i=先進波のエネルギーということになるのではないだろうか。そして、宇宙において、ダーク・エネルギーやダーク・マターが、光や物質よりも多いということは、宇宙、現宇宙は凹iに傾斜しているということではないだろうか。しかしながら、Media Pointの双極子は陰陽のように常時変動していると思われる。だから、凸iと凹iの平衡のときがあり、また、凸iの傾斜のときもあるだろう。凸iの傾斜の場合は宇宙は収縮するということだろう。
 そのように考えると、宇宙は生成消滅を反復するように思える。マヤ神話では、これまで、世界は四回(三回?)、既に滅んでいるのである。
 
追記2:キリスト教やロレンスの「父」の問題であるが、結局、根源は凸i*凹iの双極子ではあるが、凸iに傾斜した場合がヤハウェではないだろこうか。しかしながら、根源は双極性なので、ヤハウェには、凹iが影・シャドウとして存することになるだろう。キリスト教的西洋文明は、凹iの影に付き纏われていると言えよう。つまり、東洋の影である。だから、オリエンタリズムが生まれるのではないだろうか。また、それは、父権主義にもあてはまると言えよう。母権・女性の影が付き纏うのである。母権・女性に対して、攻撃的になるのである。

検討問題3:意識の相反する志向性について:脳的志向性と内身体的志向性:明るい意識と暗い意識

現代の日本人を見ると、意識は大半が脳的志向性をもち、内身体的志向性が欠如している。問題は、意識は二つの志向性をもち、その均衡をとる必要があるということだろう。意識が内身体に向かうときは、いわば、測深的に感性知覚するのである。私が直感と呼んでいるものはほとんどこの内身体的意識に拠ると考えられる。
 近代合理主義・近代的自我は、この内身体的意識を抑圧・隠蔽しているのである。それは、脳的意識にとっては、未知であり、他者であり、異質なものであり、回避する傾向にあるものである。(それに対して、女性は内身体的志向性が顕在している、本来的には。)
 思うに、道教の中丹田に、Media Pointがあり、それが、一方では、脳的意識の志向性をもち、他方では内身体的意識の志向性をもつのである。つまり、Media Point的根源的意識があるということである。
 結局、男性は脳的意識に傾斜し、女性は内身体的意識に傾斜しているが、男性、女性ともに、自己の特性を認識していないので、それぞれ、脳的意識、内身体的意識に規定されていることがわからないと言えよう。
 結局、トランス・モダン意識形成のためには、Media Pointの二重意識を形成する方向で自己教育する必要があるということになる。しかしながら、これは、言うは易しである。というのは、不連続的差異論が明らかにしたように、内身体的意識と脳的意識は不連続であるからである。つまり、通常、意識は両者を連続化させようとするが、それは中途半端なのである。内的身体的意識が脳的意識とは不連続であると認識して、二重意識のバランスが生まれるのである。
 また、いわゆる、魂というものは、内身体的意識のことであろう。そして、それは、霊性と接しているということだろう。霊性は、多様な双極子ということにしておこう。
 


2010年08月28日(Sat)▲ページの先頭へ
思考実験:先進波と遅延波:光と暗黒物質:凸i*凹iのゆらぎと、凹i傾斜のダーク・エネルギー
Kaisetsu氏は、光と時間の極性を述べているが、それは、先進波と遅延波の視点から生まれたのである。
 光が遅延波として、Media Pointを、いわば、透過して、現象界に到達するのであるのに対して、時間はそれに逆行するのである。とまれ、先進波は光とは逆向きと考えられるので、Kaisetsu氏が指摘するように、暗黒物質において、通常の時間が逆転していることが考えられる。
 結局、MP1の差異共立態において、光と闇が共立していると考えることができるのであり、光は遅延波となり、闇は先進波となるのではないのか。(正確に言えば、原光と原闇の共立態であるが、思考実験的にそのように記述する。)
 ここで直感で言うが、光=遅延波が主導的になったときに、プラス1(物質)へと転換し、闇=先進波が主導的になったときに、マイナス1(暗黒物質)となるのではないだろうか。
 光と闇は極性であるから、物質と暗黒物質の両者を形成すると考えられる。問題はここでも光現象である。光とは同時に闇となるはずである。つまり、凸iの光と凹iの闇である。光に質量がないのは、それが、凸iだからではないだろうか。この辺の問題は検討課題とする。
 結局、MP1の差異共立態において、光凸iが主導的になると、プラス1の物質現象を生み、闇凹iが主導的になるとマイナス1の暗黒物質現象を生むのではないだろうか。
 しかしながら、現代物理学、現代天文学の観察からは、暗黒物質の傾斜が優位なのである。そうならば、凸i傾斜ではなく、凹i傾斜が宇宙にはあるのではないだろうか。
 いろいろ言いたいことがあるが、結局、光と闇は双子であるが、実際は後者に傾斜しているということではないだろうか。
 しかしながら、理論的に考察するならば、差異共立とは極性であり、常時変動していると考えられる。単に凹i傾斜だけではなく、凸i傾斜もあるのである。あるいは、ゆらいでいるのである。
 だから、宇宙の膨張とは、凹i傾斜に拠るであり、凸i傾斜に転ずるときは、収縮となるはずである。つまり、凸iが重力を、凹iが反重力を意味するのではないだろうか。
 この方向で考えると、根源は虚軸にあることになるだろう。つまり、凸i*凹iである。そして、先進波と遅延波を入れると、凸i*凹i⇒±1となることになる。
 そうならば、左辺において、凹i傾斜のときが、ダーク・エネルギーとなるのではないだろうか。通常のエネルギーは凸i傾斜である。



2010年08月26日(Thu)▲ページの先頭へ
Media Point Mechanics(MP力学)について:差異共立MP1の超越的エネルギーと差異共振MP2の物質的エネルギー:光と暗黒物質
Media Point Mechanics(MP力学)について:差異共立MP1の超越的エネルギーと差異共振MP2の物質的エネルギー:光と暗黒物質






差異共立MP1と差異共振MP2との力学関係、あるいは、前者から後者がどのように発生するのか、その力学を解明したい。(先に思ったのは、空海の両界曼荼羅であるが、金剛界曼荼羅が前者で、胎蔵界曼荼羅が後者ではないかということである。)

 先に、両者のエネルギーは同時生起的であると作業仮説した。この発生力学は霊妙である。これは、いわば、即非転換、即非変換である。MP1では、差異が保持されるが、MP2では、差異が連続化されて、同一性過程に入るのである。

 直感では、両者のエネルギーは異なるはずであるが、どうだろうか。思うに、前者を超越的エネルギー、後者を物質的エネルギーということができるはずである。そして、量子力学とは、本来、前者を扱うものであるが、物質主義の枠(近代的パラダイム)があるので、両者を混淆させているのである。そのために、例えば、長距離相関のようなトリッキーな発想が生まれるのである。この点は既述済みであるが、一言いうと、量子は、前者に存するのであり、それが、後者の領域に、つまり、物質的空間にあるように考えているところから生まれた奇想である。思うに、量子という粒子は単に、物質主義的発想から仮定されたものであり、仮想、虚構、幻影である。本体、実体は、MP1に存するのであり、それは、差異共立様態である。思うに、量子とは超越的双極子と考えるのが適切である。即ち、凸i*凹iである。⇒は、主にMP2を指し示すと考えられる。

 問題は電磁波である。量子論の問題は、上述したように、MP1とMP2とを区別せずに、混同して記述することにある。つまり、超越的存在(超在)と物質的存在(物在)を混同しているのである。そう言おう。MP1の領域とは、霊的領域であり、霊性から物質が生まれるのである。つまり、量子とはいわば霊的双極子(霊極子、霊子)である。霊的エネルギーが物質現象を発生させているのである。霊的エネルギーがMedia Pointを介して、物質変換しているのである。思うに、霊的エネルギーの生成消滅があるはずである。しかしながら、MP1におけるエネルギーとは、生成消滅を反復する、というか、生成と消滅が同時生起しているのではないだろうか。エネルギーの消尽と無尽性があるのではないだろうか。もし、消尽するならば、現象界、自然界は即消滅するはずである。無窮のエネルギーが考えられるのである。

 とまれ、Media Point Mechanicsは結果として、MP1がMP2によって隠蔽されることが重要な事象である。日常においては、MP2に拠る物質的感覚知覚認識を行うのであり、MP1の超越界は隠蔽されたままである。いわば、オカルト状態なのである。(もし、ハイデガーの存在論に積極的な意味があるとすれば、それは、MP1を存在と見ることである。しかしながら、存在というと物質的存在と混淆されたままであるので、少なくとも、超越的存在と呼ぶべきである。)

 さて、ここで問題となるのは、光をどう理解するのかである。光は物質ではないからである。思うに、光は特異な存在である。エネルギーはあるが、質量がないからである。だから、光とは、霊的存在に近いのである。物質化しないということは、同一性化しないということである。つまり、Media Point変換をしないのである。すると、光とは差異共立様態であると考えられる。おそらく、光は霊的エネルギーそのものである。それは、いわば、霊界から直截に現象界に現れたものである。

 では、なぜ、差異共振しないのか、問題である。それは、差異双極子のバランスがとれているからではないだろうか。凸iの傾斜があると同一性化すると考えられる。だから、凸iと凹iとの調和様態として光があるのではないだろうか。調和様態をとりあえず、∞の記号で表記すると、凸i∞凹iが光である。だから、光の方程式は凸i∞凹i⇒である。

 そう、言い換えると、光は神と言っていいだろう。それは、差異共立領域においては、薄明twilightであると思われる。薄明が光へと変換するということになる。とまれ、光の問題は検討課題である。

 さらに問題はマイナス1の事象である。イデア論からすれば、超越界からマイナス1のダーク・マターが生まれないといけない。そう、先進波を考えると、それが、マイナス1と関係するのではないだろうか。先進波がダーク・マターを形成するのではないのか。これも検討問題である。

 直感で言えば、ダーク・マターとは、霊的存在である。だから、MP1に近いのである。思うに、ここには、身体、体の問題がある。MP2がプラス1の物質と関係するならば、MP1はマイナス1の暗黒物質と関係すると考えることができる。だから、マイナス1は霊的身体、霊的体なのではないだろうか。もし、霊界というものがあるなら、それは、マイナス1ではないのか。これもまた検討課題である。



追記:ダーク・マターはダーク・ボディ、暗黒身体、暗黒体とした方がいいのではないだろうか。


2010年08月24日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題
検討問題

1) 一般に、自己形成ではなく、自我形成となる力学は何か。連続的同一性でこれまで説明しているが、端的に何なのか。言い換えると、なぜ、凸iと凹iが連続化するのか。D. H. ロレンスは、炯眼にも、the quick of the thingsは絶対的間隙・懸隔であると述べている。それは、端的にMedia Pointと考えられる。しかしながら、通常は、この絶対的懸隔を簡単に喪失するのである。やはり、MP2が連続的力学ということでいいのではないだろうか。だから、結局、東洋の知恵とは、それを越えて、MP1の心性に到達することに存すると言えよう。仏教が端的にそうである。インドの瞑想哲学(ヨーガ)に基づくと言えよう。身体瞑想知を取り戻すべきである。結局、西洋知は、MP2を基盤とする知である。これに戦後日本は洗脳されたのである。とは言え、MP1の知恵とは、神秘的な知である。近代合理主義/唯物論が否定するものである。唯物主義の破壊が必須である。
2) 凹iをアストラル体(動物体)と作業仮説しているが、いわゆる愛情とはここから生まれるのではないだろうか。女性は本来、アストラル体を具備していて、子育てを「本能」的にするのでは。もっとも、最近は鬼女が多いが。これは、男性性の凸iの影響だと思われる。
3) 先進波と遅延波:前者が球面から中心への波、後者を中心から球面への波とすると、一見、重力は前者となり、反重力は後者となるが、これは背理である。思うに、逆である。遅延波が重力であり、先進波が反重力であろう。なぜなら、中心から球面への波とは物質形成を意味するのであるから、重力形成でもあると言えよう。それに対して、球面から中心への波とは、反物質的であり、故に反重力であると思われる。とまれ、そうすると、植物で言うと、遅延波が根の方向であり、先進波が芽、茎、幹、葉、花、実の方向となる。つまり、先進波がVector Modeを形成することになる。言い換えると、生長とは先進波が起こすことになる。これも背理である。正しくは、遅延波と先進波との極性によると言うべきであろう。後で丁寧に考えたい。



2010年08月23日(Mon)▲ページの先頭へ
思考実験:先進波と遅延波に関する私見:マイナス1・ダーク・マター(本闇)⇒先進波・MP1・差異共立(薄明)⇒遅延波・MP2・差異共振(光)⇒プラス1・物質(末闇)
ここではまったく独断で、というか、直感でイメージできることを述べたい。PS理論における⇒は現象界を意味する。これは、平面から三次元の形成を意味する。それは、球面ないし球体としよう。これが、遅延波に拠る世界形成である。
 次に、先進波であるが、それは、未来から過去へと流れるものだが、球面から球の中心へと向かうものとする。この球の中心とはPS理論では当然、Media Pointである。私は先に、Media Pointの虚軸ゼロ点(MP1)と実軸(MP2)との相互作用について触れたが、⇒はMP1からMP2への「下降」を意味したのである。
 それに対して、逆に、MP2からMP1への上昇に触れたのであるが、その力学は、凸i*凹iの極性にあると考えた(凸i#凹iを共立としたが、*でも共立を意味できるので、こう表記する)。作業仮説ではあるが、引力のときに、下降が生起し、斥力のときに上昇が生起するという発想である。今思うに、差異極性の振動があり、そのために、下降と上昇は常時反復されているのではないだろうか。
 今想起したのであるが、この説明は不適切である。つまり、エネルギーの放出の問題である。下降とは、端的に、エネルギー放出を意味する。そして、放出を終了すると、元の状態、根源に戻ると考えられる。それが、MP1である。つまり、差異共立状態である。つまり、引力と斥力とは差異共振のときに、即ち、⇒のときに発生するということになる。だから、上昇とは、差異共振の終焉したときに生起するということになるだろう。
 だから、先進波とは、差異共立への回帰を意味すると考えられる。しかしながら、問題は、下降と上昇が継起的に生じるのかということである。思うに、これは同時生起ではないのか。つまり、差異共立は常時あり、また、差異共振も常時あるということである。
 一応、そう作業仮説しておくと、先に、差異共立はマイナス1に還流すると述べたが、この点について考察する必要がある。これは、マイナス1をダーク・マターと見て考えたことである。つまり、初めに、ダーク・マターありきということである。しかし、これは、作業仮説である。なぜなら、差異共立が初めにありきとも考えられるからである。
 そう、今や、差異共立がマイナス1に還流するというのは間違いである。なぜなら、差異共立は和であり、ゼロとなるからである。
 とまれ、差異共立が先進波を意味すると仮説できる。思うに、下降と上昇であるが、これは、結局、下降とは、凸iの傾斜に拠るのではないだろうか。そして、上昇とは、凹iの傾斜に拠るのではないだろうか。つまり、均衡法則があるのではないだろうか。陰陽論で言えば、陽傾斜とそれに対する陰傾斜となる。
 さて、さらに先に述べたことを繰り返すと、私は、物自体はダーク・マター=マイナス1ではないかと直感した。今の直感では、ここから、D.H.ロレンスのdark sunが考えられるのである。つまり、ダーク・マターが「光」を発しているのである。しかし、それは、超越光なのかが問題である。超越光はMedia Pointの光であるが、dark sunは、ダーク・マターの「光」である。今考えられるのは、dark sunが超越光を生んだのか、あるいは、両者は同じものであるのかである。
 Kaisetsu氏は、反―光を説いている。それは、思うに、dark sunに相当しよう。ここで、超越光について省察すべきである。それを、色彩的には、黒と白の中間であると述べた。そうならば、それは、差異共立の「光」でなくてはならない。差異共振は端的に、通常の光となるからである。そうすると、超越光はKaisetsu氏の反―光になるだろう。
 問題は複雑になっている。つまり、差異共立の「光」と差異共振の「光」の問題である。これも作業仮説であるが、前者を薄明twilightと呼びたい。それは、英語の語源通りに、二重性をもつ。つまり、凸iの原光と凹iの原闇の二重性である。これが、黒と白の二重性である。すなわち、共立的二重性である。これを、黒と白との中間と述べたが、薄明twilightが適切ではないだろうか。光でもないし、闇でもないのである。dark sunである。
 では、ダーク・マターとはダークなのかとなるだろう。以上の作業仮説では、ダーク・マターが薄明を発するのであるが、それをどう見るのか。単純に言えば、ダーク・マターが薄明を発するのであるから、ダーク・マターは薄明ではないだろうか。ならば、マイナス1は薄明となる。そして、⇒が光である。プラス1は物質である。
 しかしながら、これは、アンバランスである。思うに、ダーク・マターは反物質と見てもいいように思う。物質自体は闇であるから、ダーク・マターも一種闇ではないだろうか。ここで、造語すると、物質は末闇であり、ダーク・マターは本闇である。だから、差異共立が薄明であり、ダーク・マターは本闇となった。
 とまれ、まとめると、先進波とは薄明であり、遅延波は光である。その両端に本闇と末闇があることになる。
 ついでながら、差異共振は三次元、差異共立は二次元、ダーク・マターは一次元ではないだろうか。


2010年08月21日(Sat)▲ページの先頭へ
意識と電磁波または光との関係:視覚器官としてのmedia point:発光器官と感光器官
これは、感覚器官の形成の問題に関係する。ゲーテは、光が視覚器官を形成したと述べている。PS理論的に言えば、凸iと凹iとの極性が視覚器官であり、それは、本来、内的視覚器官であるが、それが共振化して、外的視覚器官になったということではないだろうか。つまり、Media Pointの垂直性が内的視覚器官であり、水平性が外的視覚器官と考えられよう。そう、Media Pointは単に視覚器官だけでなく、他の感覚器官をも意味すると考えることができよう。とまれ、視覚器官のことに限定すると、理論的には、視覚器官は単に、感光器官だけではなく、発光器官のように思えるのである。これは、瞑想や夢を考えればいいだろう。明らかに、外光のないところでも、「視覚」がはたらくからである。つまり、内光を発すると考えられる。つまり、視覚器官とは、光を感受する器官であり、且つ、光を生産する器官であるということになるのではないだろうか。
 この両面性は、凸iが能動性をもち、凹iが受動性をもつことと関係するように思われる。この極性が発光と感光を生起させると考えられる。
 ここで本題に入ると、Media Point的感覚意識が即ち、自己意識になると考えられる。しかしながら、動物の視覚器官についてはこのことはあてはまらないはずである。なぜなら、自己意識は人類だけがもつ精神的能力であると考えられるからである。
 私は自己意識の主体は凸iであると考えている。シュタイナーの説くichは、これではないかと既述した。ならば、動物の視覚器官はどう説明できるのか。それは、凸iがない視覚器官である。つまり、凹iだけではないだろうか。これは、感光するだけの視覚器官ではないだろうか。
 そのように作業仮説すると、これまであいまいにしか説明することができなかった、シュタイナー精神学のアストラル体(感情、欲望、情動、衝動等)が説明できるように思う。少し説明すると、シュタイナーは、人体を四重体と捉えている。即ち、自己体ich(自我と邦訳されているが、私は自己体と訳す)、アストラル体(動物がもつ体)、エーテル体(気的身体であり、植物の体である)、物質体(鉱物体)の四重体である。
 そうすると、アストラル体は凹iとすると整合性が生まれることになるので、そう作業仮説しておく。つまり、自己体は凸iであり、アストラル体は凹iであり、両者の共立(極立)が根源にあることになる。
しかしながら、男性の場合、凸iに傾斜していて、両者の均衡・調和が欠落していると考えられる。つまり、凸iが凹iを抑圧する志向があるのである。それに対して、女性は本来は、両者のバランス機能があると私は考えている。俗に、男性は頭で考えて、女性は子宮で考えると言われるが、それは、このことを意味すると言えよう。頭は凸iであり、子宮は凹iであるからである。(プラトンのコーラとは、凹iと説明できるかもしれない。これまでは、Media Pointとして捉えてきたが。どうも、受容的な器を意味しているから、凹iの方が適切であろう。)
ついでに、一神教のことを考えると、それは、凸iが凹iを絶対的に否定した様態と説明できよう。つまり、凸iが「父」である。そして、子宮の凹iを否定したのである。創造、生産とは、Media Pointが母胎となっているのであり、それは、神話学的には、大女神が象徴していたと考えられるが、それを唯一神=「父」が「母」を否定して、簒奪したと考えられる。だから、旧約聖書は二重性をもっているのである。創造には、「母」が必要であるが、それを否定するようにして、奪ったのである。以前述べたが、旧約には、ヤハウェ以外にエローヒームが存するであり、これが、おそらく、「母」であると考えられる。
さらについでに、神々について考えると、それは、やはり、「母」であると考えられよう。差異共立である「母」とは、正に、差異であることで、多様な様相を帯びると考えられるのである。初めは、無分割の一であり、次に、二分割、三分割(三一体、トライアド、三女神)、四分割、五分割、六分割、七分割(神代7代)、等々が生起して、森羅万象を産出すると考えられる。正に、八百万の神々が生まれるのである。(マイナス1として、独一神が考えられる。それは、国常立尊かもしれない。検討問題である。)
また、以前、位階的スペクトルについて述べたが、分割はこの側面をもつのではないだろうか。色彩で言えば、振動数の違いである。思うに、シュタイナーの説く霊的ヒエラルキアの存在とは、振動的位階的スペクラルで説明できるかもしれない。言い換えると、Media Pointは霊的位階的エネルギーをもつということになるだろう。それは多様な霊的位階的存在である。このように考えると、以前、霊的ヒエラルキアをガウス平面に直交するZ軸に布置しようとしたが、それは必要がなくなる。ガウス平面で十分となる。結局、天使、精霊、妖精等はこれで説明ができることになる。
 そうすると、Media Pointとは、根源的コスモスである。あるいは、トランス・コスモスである。
 最後に課題として、球の問題を提起しておきたい。ガウス平面上の円から、球がどう発生するのかという問題である。


2010年08月20日(Fri)▲ページの先頭へ
再掲(補正):文字言語と音声言語:内的認識と外的認識:差異共立経済:虚数凸i通貨と虚数凹i商品と差異共振実数価値
文字言語と音声言語:内的認識と外的認識:差異共立経済:虚数凸i通貨と虚数凹i商品と差異共振実数価値

甲斐駒ケ岳とkaikomagatakeは、認識において異なるだろう。単に、音声として、聴覚で捉えたとき、それは、きわめて、抽象的である。しかしながら、漢字情報として、視覚的に捉えられたときは、いわば、ニュアンスがあるのである。あえて言えば、漢字情報は、内面的、情感、イメージ等が喚起されるのである。そう、内包性が音声情報よりも大きいのである。
 また、あえて作業仮説的に言えば、音声言語は、左脳的であり、文字言語は右脳が入り、いわば、両脳的である。
 思うに、デリダがロゴス中心主義として、音声言語を批判し、書記言語(エクリチュール)を肯定していたが、それはやはり本質を突いていたのではないだろうか。
 だから、音声言語と近代合理主義、唯物論はつながり、書記言語、文字言語は、それを「脱構築」する性質があるのではないだろうか。
 しかしながら、音楽は本来そうではないが、現代音楽(クラシック)の場合、抽象化して、左脳中心となり、音楽本来の情感を喪失してしまったのではないのか。
 とまれ、文字言語のことにもどると、それは、絵画に似ているのではないだろうか。とりわけ、漢字の場合、象形文字なので、その側面があるのではないのか。
 私が想起したのは、絵画は実は、単に空間芸術だけでなく、時間芸術であるということである。鑑賞するには、絵画に内的に参入する時間が必要だからである。外的認識(物質的認識)は凸iが行うとすると、内的認識(精神的認識)は、凹iが行うのではないだろうか。【シュタイナーの『オカルト生理学』から言えば、脳=脳髄神経系が前者であり、交感神経系(自律神経系)が後者にあたるだろう。】
 つまり、絵画鑑賞には、凹iを参与させるので、Media Point的意識になると言える。思うに、この内面性、精神性が単に絵画だけでなく、文字言語に接するときも、なにかしら喚起されるのではないだろうか。
 言い換えると、存在、あるいは、身体、内的身体性の問題である。これは、物質的存在・身体のことではなく、精神的存在・身体のことである。(心精的存在・身体ということでもある。)だから、文字言語には、精神的存在・身体性があるのではないだろうか。そして、その面を強調したのが、書、カリグラフィーということになるだろう。「言霊」とは、音声言語ではなく、文字言語に存するのではないだろうか。
 視覚文化が言われるが、ここから言うと、疑問である。視覚とは、本来、精神性があると考えられるからである。つまり、今日の視覚文化とは、外的、物質的視覚文化ということが言えるだろう。結局、凸iが凹iに対して、支配的になっているから、そのようになると言えよう。同一性主義、マテリアリズムの支配である。
 話題を飛躍させると、資本主義も、同一性主義/マテリアリズムに支配されていて、精神性を喪失していると言える。資本的生産には、知恵が必要なのである。多様なものを結びつける知恵が必要なのである。それは、Media Point的な知恵である。しかしながら、資本主義の、いわば、出口は、同一性である交換価値が支配するのである。つまり、内部は、精神的でありながらも、出口は物質的であるという絶対的矛盾が資本主義にはあり、その外側の同一性が結局、支配的になり、近代の惨状を作り出したと言える。そして、リーマン・ショックとはその最終的帰結である。質的価値・精神的価値が量的価値・物質的価値に支配されたのである。
 結局、差異は光であり、同一性は闇であり、両者のゾロアスター教的闘争が今日生じていると言える。しかしながら、今日の光は外的光、物質的光、暗い光となっているのである。内的光、精神的光、明るい光を喪失しているのである。つまり、光は闇となり、闇が光というパラドクシカルな状況にあるのである。(「きれいはきたない、きたないはきれい」『マクベス』の魔女の言葉。また、D. H. ロレンスのdark godやdark sunは、この側面から理解されるべきであろう。つまり、内的神、内的太陽ということである。ちなみに、外的神とは、イエス・キリストを指すと言えよう。可視的な神である。)
 結局、トランス・モダン経済とは、精神主導的経済ということになるだろう。心精的経済である。多元的差異共立体としての新経済である。つまり、差異価値が評価される経済である。資本家よりは、知恵ある経営者、知恵ある勤務者が、評価されることになる。
 また、差異共立体なので、地域共立体の構築にもはたらきかけると言えよう。
 思うに、とまれ、地域共立体は、経済共立体と行政体との共立を基盤にもつことになるだろう。
 ということで、差異共立資本、共立資本ということが考えられてくる。思うに、差異共立銀行が形成されるだろう。貨幣・通貨は差異共立貨幣・通貨となるだろう。
 ここで思いつきであるが、例えば、貨幣を凸iとし、商品を凹iとしよう。つまり、貨幣価値を凸iと、商品価値を凹iとするのである。具体的に言えば、千円ではなく、√千凸i円であり、本は√千凹i円の価格がついていて、両者が共振して、プラス千円が発生するのである。即ち、

√1000凸i円貨幣*√1000凹i円本⇒+1000円

となる。
 そして、凸i円や凹i円では、虚数価値なので、現実性がないのである。ただ、ポテンシャルな価値に過ぎないとするのである。だから、企業評価は、資本金いくらではなく、どれほど、差異共振をして、現実的価値を生み出したかになるのである。
 一億凸i円という資本金があっても、それは、ポテンシャルな価値であり、企業の現実的価値ではないということになる。
 だから、差異共立体とは、差異共振的現実主義に基づくことになる。差異共立体という価値を形成した場合、それは、特別評価されて、減税対象となるとしたらどうか。
後で、検討を続けるので、ここで留める。

補記:東京弁は、外的音声言語だと思う。それに対して、地方言語は内的音声言語ではないだろうか。私は奈良県の吉野よりさらに南の地域で聞いた奈良弁は、内的音声言語というべきものであった。関西弁はそのような向きがあるが、今日、東京弁の影響を受けて、外的になっているのではないだろうか。
 ついでに、若者の音声言語であるが、聴くに堪えない、暴力的、粗暴な音調となっている。文字言語教養の欠損症である。当然、教育の問題であるが、結局、唯物論教育を廃止すべきであるということである。あるいは、音声言語教育を止めるべきである。外的中心主義を廃止すべきである。物質主義的科学を乗り越えるべきである。美術教育や文字言語教育が必要である。結局、今日の若者の粗暴性と狂気は、唯物論教育の帰結である。(追記:また、今日の肉感主義もそうである。つまり、物質的身体が支配的になっているのである。)
 言語教育を変革する必要がある。文字言語教養をつけるための言語教育が必要である。内的世界を形成するための教育が必要である。そう、内的教育である。そのためには、哲学教育や文学教育が必要である。

追記:日本の今日の歌謡の問題もある。内面性、リリシズムがまったく欠落して、利己主義的で汚い、酷い声になっているのである。
 日本復活のためには、脱唯物論、脱物質主義が必要である。それは、端的に、トランス・モダン化、トランス・モダニゼーション、トランス・モダン主義、越近代である。
 初めに、文字ありき。初めに、ヴィジョンありき。初めに、イデアありき。初めに視覚ありき。初めに光ありき。

追記2:以上の議論から、視覚が聴覚に先立つのである。とまれ、豊かな文字言語文化とは、豊かな視覚文化である。思うに、日本美術は、つまり、日本伝統美術はきわめてすぐれているのに、どうして、日本の音楽はそれよりも劣るのだろうか。確かに、筝曲など、すぐれているとは言え。思うに、どこかに、言語の「断絃のとき」があったと思われる。
 やはり、思うのは、江戸/東京の物質主義性である。悪魔が支配しているのである。だから、豊かな音楽が生まれないのである。
 とまれ、日本は視覚と聴覚の分裂・断層があると言えよう。これは、いったい何を意味するのか。精神意識の統一性の無さである。つまり、個の確立がないということである。
 精神が物質主義に抑えられているのである。個が自我に抑えられているのである。これは、江戸時代の封建体制が原因と私は考えている。
 日本の古典の文章は芸術的であるのに、現在の日本語・東京地方語は格調が低いのである。思うに、漢籍教養が喪失したからではないだろうか(追記:単に漢籍教養の欠如だけでなく、日本の古典教養の欠如でもある)。漢字言語教養を喪失したからではないだろうか。文科省の国語政策がまったく間違っているのである。とりわけ、戦後の国語教育政策である。教養的文盲を生んでしまったのである。外的教育に偏し、内的教育を疎かにしたせいである。
 戦後の唯物論教育の総括が必要である。負け犬教育だったのである。国の魂を捨てた教育だったのである。新精神教育が必要である。
 端的に、日本の精神・心精とは何か。それは、光の心精である。光の霊性である。超越光の精神である。正に、東洋的霊性である。光という文字言語教養である。

「心とは山河天地なり、日月星辰なり。」道元『正法眼臓』の「即心是仏」



2010年08月19日(Thu)▲ページの先頭へ
文字言語と音声言語:内的認識と外的認識:差異共立経済:虚数凸i通貨と虚数凹i商品と差異共振実数価値
文字言語と音声言語:内的認識と外的認識:差異共立経済:虚数凸i通貨と虚数凹i商品と差異共振実数価値

甲斐駒ケ岳とkaikomagatakeは、認識において異なるだろう。単に、音声として、聴覚で捉えたとき、それは、きわめて、抽象的である。しかしながら、漢字情報として、視覚的に捉えられたときは、いわば、ニュアンスがあるのである。あえて言えば、漢字情報は、内面的、情感、イメージ等が喚起されるのである。そう、内包性が音声情報よりも大きいのである。
 また、あえて作業仮説的に言えば、音声言語は、左脳的であり、文字言語は右脳が入り、いわば、両脳的である。
 思うに、デリダがロゴス中心主義として、音声言語を批判し、書記言語(エクリチュール)を肯定していたが、それはやはり本質を突いていたのではないだろうか。
 だから、音声言語と近代合理主義、唯物論はつながり、書記言語、文字言語は、それを「脱構築」する性質があるのではないだろうか。
 しかしながら、音楽は本来そうではないが、現代音楽(クラシック)の場合、抽象化して、左脳中心となり、音楽本来の情感を喪失してしまったのではないのか。
 とまれ、文字言語のことにもどると、それは、絵画に似ているのではないだろうか。とりわけ、漢字の場合、象形文字なので、その側面があるのではないのか。
 私が想起したのは、絵画は実は、単に空間芸術だけでなく、時間芸術であるということである。鑑賞するには、絵画に内的に参入する時間が必要だからである。外的認識(物質的認識)は凸iが行うとすると、内的認識(精神的認識)は、凹iが行うのではないだろうか。【シュタイナーの『オカルト生理学』から言えば、脳=脳髄神経系が前者であり、交感神経系(自律神経系)が後者にあたるだろう。】
 つまり、絵画鑑賞には、凹iを参与させるので、Media Point的意識になると言える。思うに、この内面性、精神性が単に絵画だけでなく、文字言語に接するときも、なにかしら喚起されるのではないだろうか。
 言い換えると、存在、あるいは、身体、内的身体性の問題である。これは、物質的存在・身体のことではなく、精神的存在・身体のことである。(心精的存在・身体ということでもある。)だから、文字言語には、精神的存在・身体性があるのではないだろうか。そして、その面を強調したのが、書、カリグラフィーということになるだろう。「言霊」とは、音声言語ではなく、文字言語に存するのではないだろうか。
 視覚文化が言われるが、ここから言うと、疑問である。視覚とは、本来、精神性があると考えられるからである。つまり、今日の視覚文化とは、外的、物質的視覚文化ということが言えるだろう。結局、凸iが凹iに対して、支配的になっているから、そのようになると言えよう。同一性主義、マテリアリズムの支配である。
 話題を飛躍させると、資本主義も、同一性主義/マテリアリズムに支配されていて、精神性を喪失していると言える。資本的生産には、知恵が必要なのである。多様なものを結びつける知恵が必要なのである。それは、Media Point的な知恵である。しかしながら、資本主義の、いわば、出口は、同一性である交換価値が支配するのである。つまり、内部は、精神的でありながらも、出口は物質的であるという絶対的矛盾が資本主義にはあり、その外側の同一性が結局、支配的になり、近代の惨状を作り出したと言える。そして、リーマン・ショックとはその最終的帰結である。質的価値・精神的価値が量的価値・物質的価値に支配されたのである。
 結局、差異は光であり、同一性は闇であり、両者のゾロアスター教的闘争が今日生じていると言える。しかしながら、今日の光は外的光、物質的光、暗い光となっているのである。内的光、精神的光、明るい光を喪失しているのである。つまり、光は闇となり、闇が光というパラドクシカルな状況にあるのである。(「きれいはきたない、きたないはきれい」『マクベス』の魔女の言葉。また、D. H. ロレンスのdark godやdark sunは、この側面から理解されるべきであろう。つまり、内的神、内的太陽ということである。ちなみに、外的神とは、イエス・キリストを指すと言えよう。可視的な神である。)
 結局、トランス・モダン経済とは、精神主導的経済ということになるだろう。心精的経済である。多元的差異共立体としての新経済である。つまり、差異価値が評価される経済である。資本家よりは、知恵ある経営者、知恵ある勤務者が、評価されることになる。
 また、差異共立体なので、地域共立体の構築にもはたらきかけると言えよう。
 思うに、とまれ、地域共立体は、経済共立体と行政体との共立を基盤にもつことになるだろう。
 ということで、差異共立資本、共立資本ということが考えられてくる。思うに、差異共立銀行が形成されるだろう。貨幣・通貨は差異共立貨幣・通貨となるだろう。
 ここで思いつきであるが、例えば、貨幣を凸iとし、商品を凹iとしよう。つまり、貨幣価値を凸iと、商品価値を凹iとするのである。具体的に言えば、千円ではなく、千凸i円であり、本は千凹i円の価格がついていて、両者が共振して、千円が発生するのである。即ち、

1000凸i円貨幣*1000凹i円本⇒+1000円

となる。
 そして、凸i円や凹i円では、虚数価値なので、現実性がないのである。ただ、ポテンシャルな価値に過ぎないとするのである。だから、企業評価は、資本金いくらではなく、どれほど、差異共振をして、現実的価値を生み出したかになるのである。
 一億凸i円という資本金があっても、それは、ポテンシャルな価値であり、企業の現実的価値ではないということになる。
 だから、差異共立体とは、差異共振的現実主義に基づくことになる。差異共立体という価値を形成した場合、それは、特別評価されて、減税対象となるとしたらどうか。
後で、検討を続けるので、ここで留める。

補記:東京弁は、外的音声言語だと思う。それに対して、地方言語は内的音声言語ではないだろうか。私は奈良県の吉野よりさらに南の地域で聞いた奈良弁は、内的音声言語というべきものであった。関西弁はそのような向きがあるが、今日、東京弁の影響を受けて、外的になっているのではないだろうか。
 ついでに、若者の音声言語であるが、聴くに堪えない、暴力的な音調となっている。文字言語教養の欠損症である。当然、教育の問題であるが、結局、唯物論教育を廃止すべきであるということである。あるいは、音声言語教育を止めるべきである。外的中心主義を廃止すべきである。物質主義的科学を乗り越えるべきである。美術教育や文字言語教育が必要である。結局、今日の若者の狂気は、唯物論教育を帰結である。
 言語教育を変革する必要がある。文字言語教養をつけるための言語教育が必要である。内的世界を形成するための教育が必要である。そう、内的教育である。そのためには、哲学教育や文学教育が必要である。

追記:日本の今日の歌謡の問題もある。内面性、リリシズムがまったく欠落して、利己主義的で汚い、酷い声になっているのである。
 日本復活のためには、脱唯物論、脱物質主義が必要である。それは、端的に、トランス・モダン化、トランス・モダニゼーション、トランス・モダン主義、越近代である。
 初めに、文字ありき。初めに、ヴィジョンありき。初めに、イデアありき。初めに視覚ありき。初めに光ありき。

追記2:以上の議論から、視覚が聴覚に先立つのである。とまれ、豊かな文字言語文化とは、豊かな視覚文化である。思うに、日本美術は、つまり、日本伝統美術はきわめて、巣すぐれているのに、どうして、日本の音楽はそれよりも劣るのだろうか。確かに、筝曲など、すぐれているが。思うに、どこかに、言語の「断絃のとき」があったと思われる。
 やはり、思うのは、江戸/東京の物質主義性である。悪魔が支配しているのである。だから、豊かな音楽が生まれないのである。
 とまれ、日本は視覚と聴覚の分裂・断層があると言えよう。これは、いったい何を意味するのか。精神意識の統一性の無さである。つまり、個の確立がないということである。
 精神が物質主義に抑えられているのである。個が自我に抑えられているのである。これは、江戸時代の封建体制が原因と私は考えている。
 日本の古典の文章は芸術的であるのに、現在の日本語・東京地方語は格式が低いのである。思うに、漢籍教養が喪失したからではないだろうか。漢字言語教養を喪失したからではないだろうか。文科省の国語政策がまったく間違っているのである。とりわけ、戦後の国語教育政策である。教養的文盲を生んでしまったのである。外的教育に偏し、内的教育を疎かにしたせいである。
 戦後の唯物論教育の総括が必要である。負け犬教育だったのである。国の魂を捨てた教育だったのである。新精神教育が必要である。
 端的に、日本の精神・心精とは何か。それは、光の心精である。光の霊性である。超越光の精神である。正に、東洋的霊性である。光という文字言語教養である。

「心とは山河天地なり、日月星辰なり。」道元『正方眼臓』の「即心是仏」



2010年08月17日(Tue)▲ページの先頭へ
再掲(字句補正):芸術作品の成功の基盤:PS理論的トランス・モダン美学:トランス・モダン進化の降臨的襲来
芸術作品の成功の基盤:PS理論的トランス・モダン美学:トランス・モダン進化の降臨的襲来

芸術作品、例えば、文学作品が成功していると判断できる基盤とは何だろうか。それは、結局、追体験できることにあるのではないだろうか。そして、追体験ないし体験の基軸にあるのは、Media Pointである。理論的には、そうであるが、追体験、体験における具体性とは何なのか。
 それは、感覚、知覚に基づく経験的表現ではないだろうか。単に、観念、概念、知性による叙述ならば、それは、思想や哲学にはなっても、芸術作品には、当然ならない。
 では、感覚的な体験的な表現の何が芸術の本質なのか。これは、やはり、Media Pointの意義を考えざるをえない。芸術とは、感覚・追体験的にMedia Pointの様態を表現していると思われる。
 ただ単に、感覚的追体験的な表現だけでは、すぐれた芸術にはならない。平板な凡庸な作品になる。そこに、Media Point的様態がなくてはならないのである。Media Point的感覚体験的表現があることに拠り、作品がいわば、生きる、息吹をもつのである。生空間が生まれるのである。それにいわば共感し、感動感銘を覚えるのである。
 そう、Media Point的な感覚体験的表現は、読者、鑑賞者、視聴者のMedia Pointを感覚追体験的に解放すると考えられるのである。つまり、日常において、一般者は、物質的感覚知覚の世界に生きていて、いわば、Media Pointを閉じているのであるが、日常生活を離れて、上質の芸術作品に接することで、閉じられていた一般者のMedia Pointが解放されて、いわば、再生するのである。これは、作品のもつ凸i#凹iの差異共立エネルギーが放出されるからだと考えられる。
 日常生活は、差異共振的同一性(物質)的な力動が支配するが、芸術作品の享受においては、潜在的な差異共立エネルギーが放出されるのであり、それが、美ないし崇高的感銘・感動を生むと考えられる。言い換えると、即非的な追体験を味わうのである。
 単に三次元的な感覚体験では、浮薄なものしか得られないが、Media Point的感覚体験的表現では、深い、高い境地を得られるのである。そう、今では、それが、高次元的表現であると明確に説くことができるのである。あるいは、心精的表現である。シュタイナー的に言えば、感覚―超感覚的表現ということになる。
 また、以上のことは、芸術的普遍性を意味すると考えられるのであり、PS理論的美学、トランス・モダン・イーセティックが形成されたことになるのである。
 そう、Media Point的感覚体験的表現とは、高次元的表現であり、それは、超越光的表現である。ここから、芸術において、ポリフォニー(対位法)がなぜ核心的か簡単に理解できるのである。これは、音楽、美術だけでなく、文学においてもそうである。代表的作家は、音楽ならばバッハ、美術ならばルネ・マグリット、文学ならばD. H. ロレンスである。これは、芸術・美学の相対性理論と言えよう。ただし、差異共立が前提である。
 さて、最後に簡単に、トランス・モダン・アート(多様な芸術を含める)の創造について触れよう。
 結局、近代という時代において、すぐれた作家は近代合理主義に対抗して、Media Point的表現を志向したと言える。(他の領域においても、Media Pointの探究が為されたと言える。)つまり、トランス・モダン的志向性をもっていたのである。とりわけ、20世紀初期、前期の作家に見ることができる。しかしながら、文学史等では、それらをモダニズムという様式概念に括っている。これは、明らかに誤謬、錯誤、倒錯である。
 それらは、トランス・モダニズムと呼ぶのが適切なのである。それは、後のポスト・モダニズムをはるかに超えた芸術表現であると言える。結局、モダニズムとは何かということになる。それは、端的に言えば、トランス・モダンの表現衝動がモダンの表現と激突して生まれた芸術表現様式であると考えられる。だから、表面的に見ると、モダン的表層があり、それが、斬新なために、モダニズムと呼ばれたのではないだろうか。
 よくモダニズムの断片性やモンタージュ性(パスティーシュ性)について言われるが、それは、根源にMedia Pointの絶対的差異性ないし絶対的他者性があるからであり、意識を不連続化する傾向の表出として、それらを見ることができよう。あるいは、神話的志向であるが、それも当然、Media Pointの高次元性がそれを志向したと考えられる。この点から、また、シュルレアリスムやダダイズムを考えるべきである。
 日本では、三島由紀夫や大江健三郎もその視点から見るべきである。そして、宮沢賢治はこの視点からのみ、明確に理解されるのである。そして、折口信夫の奇蹟的な『死者の書』もこの視点から理解可能である。つまり、近代・現代的文学とは、トランス・モダン的志向を胚種としてもつ文学であると言える。
 今日、モダン/ポスト・モダン的な物質主義が支配的なために、モダニズムのトランス・モダン性がまったく理解されていない(いなかった)のである。近代合理主義、唯物論が悪魔的に支配しているのである。
 とまれ、今や、リーマン・ショックによって、近代主義が終焉したと言えるのであり、誤解されてきたトランス・モダン芸術が評価される時代となったのであり、また、新たなトランス・モダン・アートが創造される時代となったということができるのである。
 そう、たとえば、レディー・ガガは、Media Point的表現によって、トランス・モダン・シンガーアーティストと言えよう。
 


2010年08月16日(Mon)▲ページの先頭へ
芸術作品の成功の基盤:PS理論的トランス・モダン美学:トランス・モダン進化の降臨的襲来
芸術作品、例えば、文学作品が成功していると判断できる基盤とは何だろうか。それは、結局、追体験できることにあるのではないだろうか。そして、追体験ないし体験の基軸にあるのは、Media Pointである。理論的には、そうであるが、追体験、体験における具体性とは何なのか。
 それは、感覚、知覚に基づく経験的表現ではないだろうか。単に、観念、概念、知性による叙述ならば、それは、思想や哲学にはなっても、芸術作品には、当然ならない。
 では、感覚的な体験的な表現の何が芸術の本質なのか。これは、やはり、Media Pointの意義を考えざるをえない。芸術とは、感覚・追体験的にMedia Pointの様態を表現していると思われる。
 ただ単に、感覚的追体験的な表現だけでは、すぐれた芸術にはならない。平板な凡庸な作品になる。そこに、Media Point的様態がなくてはならないのである。Media Point的感覚体験的表現があることに拠り、作品がいわば、生きる、息吹をもつのである。生空間が生まれるのである。それにいわば共感し、感動感銘を覚えるのである。
 そう、Media Point的な感覚体験的表現は、読者、鑑賞者、視聴者をMedia Pointを感覚追体験的に解放すると考えられるのである。つまり、日常において、一般者は、物質的感覚知覚の世界に生きていて、いわば、Media Pointを閉じているのであるが、日常生活を離れて、上質の芸術作品に接することで、閉じられていた一般者のMedia Pointが解放されて、いわば、再生するのである。これは、作品のもつ凸i#凹iの差異共立エネルギーが放出されるからだと考えられる。
 日常生活は、差異共振的同一性(物質)的な力動が支配するが、芸術作品の享受においては、潜在的な差異共立エネルギーが放出されるのであり、それが、美ないし崇高的感銘・感動を生むと考えられる。言い換えると、即非的な追体験が味わうのである。
 単に三次元的な感覚体験では、浮薄なものしか得られないが、Media Point的感覚体験的表現では、深い、高い境地を得られるのである。そう、今では、それが、高次元的表現であると明確に説くことができるのである。あるいは、心精的表現である。シュタイナー的に言えば、感覚―超感覚的表現ということになる。
 また、以上のことは、芸術的普遍性を意味すると考えられるのであり、PS理論的美学、トランス・モダン・イーセティックが形成されたことになるのである。
 そう、Media Point的感覚体験的表現とは、高次元的表現であり、それは、超越光的表現である。ここから、芸術において、ポリフォニー(対位法)がなぜ核心的か簡単に理解できるのである。これは、音楽、美術だけでなく、文学においてもそうである。代表的作家は、音楽ならばバッハ、美術ならばルネ・マグリット、文学ならばD. H. ロレンスである。これは、芸術・美学の相対性理論と言えよう。ただし、差異共立が前提である。
 さて、最後に簡単に、トランス・モダン・アート(多様な芸術を含める)の創造について触れよう。
 結局、近代という時代において、すぐれた作家は近代合理主義に対抗して、Media Point的表現を志向したと言える。(他の領域においても、Media Pointの探究が為されたと言える。)つまり、トランス・モダン的志向性をもっていたのである。とりわけ、20世紀初期、前期の作家に見ることができる。しかしながら、文学史等では、それらをモダニズムという様式概念に括っている。これは、明らかに誤謬、錯誤、倒錯である。「
 それらは、トランス・モダニズムと呼ぶのが適切なのである。それは、後のポスト・モダニズムをはるかに超えた芸術表現であると言える。結局、モダニズムとは何かということになる。それは、端的に言えば、トランス・モダンの表現衝動がモダンの表現と激突して生まれた芸術表現様式であると考えられる。だから、表面的に見ると、モダン的表層があり、それが、斬新なために、モダニズムと呼ばれたのではないだろうか。
 よくモダニズムの断片性やモンタージュ性(パスティーシュ性)について言われるが、それは、根源にMedia Pointの絶対的差異性ないし絶対的他者性があるからであり、意識を不連続化する傾向の表出として、それらを見ることができよう。あるいは、神話的志向であるが、それも当然、Media Pointの高次元性がそれを志向したと考えられる。この点から、また、シュルレアリスムやダダイズムを考えるべきである。
 日本では、三島由紀夫や大江健三郎もその視点から見るべきである。そして、宮沢賢治はこの視点からのみ、明確に理解されるのである。そして、折口信夫の奇蹟的な『死者の書』もこの視点から理解可能である。つまり、近代・現代的文学とは、トランス・モダン的志向を胚種としてもつ文学であると言える。
 今日、モダン/ポスト・モダン的な物質主義が支配的なために、モダニズムのトランス・モダン性がまったく理解されていないのである。近代合理主義、唯物論が悪魔的に支配しているのである。
 とまれ、今や、リーマン・ショックによって、近代主義が終焉したと言えるのであり、誤解されてきたトランス・モダン芸術が評価される時代となったのであり、また、新たなトランス・モダン・アートが創造される時代となったということができるのである。
 そう、たとえば、レディー・ガガは、Media Point的表現によって、トランス・モダン・シンガーアーティストと言えよう。
 


2010年08月15日(Sun)▲ページの先頭へ
言語と現象力:言語表現ないし言語芸術とは何か:Media Point実在論:資本主義から資本的トランス・マテリアル・エコノミーへの転回
言語と現象力:言語表現ないし言語芸術とは何か:Media Point実在論:資本主義から資本的トランス・マテリアル・エコノミーへの転回


文学の言語表現とは何か。例えば、「レリーフ状のコンクリートの河岸の上部には、家並みが見える。」という言語表現を考察しよう。

 これはどういうことなのか。単に観念的に読み取ることができるが、それは文学として読んだことにはならない。そう、私は読書体験ないし読書追体験を説きたいのである。

 では、言語による体験とは何か。これは、一見、通常の、日常の体験と比べて、疑似体験、ヴァーチャルなものと捉えられることが多いだろう。

 しかしながら、良質の文学書を読むと、凡庸な日常よりもはるかにすぐれた「体験」があることがわかる。いったい、「現実」とは何か。思うに、文学的体験とは、夢の体験に似ているだろう。私の場合は、夢を見ているときは、それが実在だと思っているのである。

 これは、Media Pointの多様な連結で説明がつくのではないだろうか。思うに、差異共振というよりは、差異共立の多元的共立で説明できるのではないだろうか。

 結局、精神にとって、実在感とは、Media Pointに基づくものであろう。(ハイデガーが存在論を説いたが、存在とは、端的に、Media Pointのことであると考えられる。フッサールは超越論的主観性を説いたが、いわば、その虚を俗物のハイデガーに突かれたことになる。確かに、超越論的主観性だけでは、存在は出てこないだろう。つまり、ノエシス的な視点では無理だろう。だから、ノエシス/ノエマが存在であると言えば、よかったのである。)だから、こそ、夢体験に実在感があるのであり、文学体験にも実在感があると言える。

 ここで、唯物論的実在主義の誤謬が現れると言える。それは、同一性=物質中心主義の誤謬である。確かに、物質的現実、物質的実在がある。それは、現象的実在・現実である。それを唯一の実在性とするのが誤りなのである。近代主義はそれを主に追求してきたのであり、物質的現実を発展させたのであるが、精神的実在、現実に否定的ないし過小評価的なために、本質的な実在感、リアリティを喪失したのである。つまり、本質的に空虚となったのである。ニヒリズムである。近代末である。

 結局、越近代として、本源のMedia Pointを確認・信認する必要があるのである。これは、認識のプラトン的転回ということができよう。これは、プラトン的ルネサンスを意味する。新たな心精が点火されるのである。これは、結局、物質的現実を否定するのではなく、それを超越的に包摂した新たな実在、高次の実在を肯定することなのである。そう、トランス・マテリアルな高次の実在の肯定なのである。

 そうすると、科学はトランス・マテリアル・サイエンスとなる。では、経済はどうなるのだろうか。これが今日枢要な問題である。

 資本主義は、マテリアリズムを伴って発展したのである。つまり、資本的マテリアリズムである。その帰結がリーマン・ショックである。資本的マテリアリズム的富を追求した帰結である。ここでは、トランス・マテリアルな側面が否定されているのである。

 言い換えると、ここには、Media Point的視点がないのである。つまり、Media Point的なエコノミーがないのである。

 端的に、資本的マテリアルな富とは、Media Pointのもたらすのであるが、その生産母体を否定しているのである。資本家を凸iとすれば、労作家は凹iとなり、両者の共立的創造作業によって、資本的生産が生まれるが、共立的創造とは、経営者の知恵を意味するだろう。だから、資本家―経営者―労作者の「三位一体」・トライアドが富を創造するのであるが、資本主義においては、富をトライアドを再創造する形で配分されるのではなく、それを破壊する形で配分されるのである。これは、資本的マテリアリズムに拠ると考えられる。資本的マテリアルが支配するのであり、そのために、資本的トライアドが破壊されるのである。故に、資本的トライアドを肯定する資本的トランス・マテリアルな視点が必要である。これは、差異共立創造の視点である。これにより、産業、企業、会社は資本的マテリアルな富を包摂した資本的トランス・マテリアルな富=価値=力を成長させると考えられるのである。この資本的トランス・マテリアルな価値が、トランス・モダン・エコノミーの主導的価値になると思われるのである。

 これは、競争に勝つトランス・マテリアルなパワーをもった経済である。


2010年08月09日(Mon)▲ページの先頭へ
Media Point的即非的視覚:精神的視覚と物質的視覚の共立的ダブル・ヴィジョン
テーマ:Media Point:MP1⇔MP2

シュタイナーの精神力学:3次元から2次元へ:PS理論との相違点:即非的理論と非即非的理論

以上では、即非的視覚に関して説明が不器用である。ここで簡単に整理しよう。
 結局、私が言いたいことは、Media Point的即非的作用がはたらくということである。即ち、Media Point的視覚において、一方では、現象的視覚があり、他方では、精神的視覚があり、両者が共立するということである。これは、共振というと不正確になるだろう。つまり、Media Point的視覚(Media Point Vision: MPV)は精神的視覚と物質的視覚の共立様態であるが、実際、両者は重なるように知覚されるのである。しかしながら、この重なりは混淆ではなく、共立的重なりと見るべきである。端的に言えば、重なりとは錯覚である。ただ、そのように見えるということである。
 結局、Media Point的視覚が即非的視覚であるために、精神的視覚と物質的視覚の共立が生起するのであり、ダブル・ヴィジョンが成立するのである。
 例えば、「わたし」は「森」であり、且つ、「森」ではないという視覚認識のとき、それは、差異共振ではなく、差異共立による即非的ダブル・ヴィジョンと見るべきである。
 因みに、差異共振とは、同一性形成のための力学と見るべきと考えられる。つまり、微分である。絶対的差異の連続的差異=微分化のための力学である。


明日から更新が数日できなくなります
帰省して、公衆無線LANを使用するための手続きや設定をする予定です。


シュタイナーの精神力学:3次元から2次元へ:PS理論との相違点:即非的理論と非即非的理論
以下は、先に途中のままになっていた論考をまとめたので、ここに投稿する。ここでは、タイトルを変更した。思うに、What is questionable with Steiner's spiritual theory? という副題をつけることもできる。

*****************

シュタイナーの精神力学:3次元から2次元へ:折り畳まれる精神的高次元?

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

シュタイナー精神学(精神理論)に最近触れているが、興味深いのは、精神的次元、高次元が四次元、五次元等ではなく、二次元になるという考えである。
 私は以前、二次元、平面から三次元の現象空間が生まれると考えた。それは、物質的次元(+1)が現象界が加わるという考え方である。すなわち、 Media Plane(メディア平面)があり、それから、物質次元が加わって、三次元空間になるという考え方である。(Kaisetsu氏が既にこの点を解明しているが、心象学的に考察してみたい。)
 単純に見れば、凸i#凹iが一次元、そして、差異共振凸i*凹iが一次元で、合わせて、二次元である。
 思うに、差異共振次元をガウス平面に直交するZ軸に見てもいいのかもしれない。作業仮説的に、虚軸Y軸と共振次元Z軸の形成する平面をMedia Plane、メディア平面としよう。
 このメディア平面から垂直に物質次元が形成されるということになる。三次元である。
 とまれ、精神次元は二次元である。そして、それが、Media Pointにおいて形成されるということだろうか。
 とまれ、二次元的視覚(精神的視覚)があるというように考えよう。視覚平面(精神的視覚平面、イデア/エイドス平面、霊視平面)である。
 そして、これが基盤となって現象物質空間、三次元空間が生起するということではないのか。
 しかしながら、この基盤は本来、不可視なのではないか。いわば、「闇」である。不可視界である。しかしながら、三次元空間のうちの二次元性は残っているということではないのか。
 それは、簡単に精神という不可視界を考えればいいのではないだろうか。正確、的確に言えば、精神視覚界(霊視界)である。この精神視覚界が光によっていわば、めしいているということではないのか。
 やはり、超越光を考えるべきである。つまり、精神次元には、超越光が「実在」するのである。そして、超越光を精神的視覚は見ているのである。
 しかし、差異共振によって同一性=物質化へと転換される。これは、同時に、現象光化と考えられる。
 つまり、不可視=超越光の二次元が可視=現象光=三次元へと転換するのであり、精神的視覚は物質感覚的視覚へと変換されるのではないだろうか。
 しかしながら、これは実に微妙・霊妙な事象である。いわば、Media Transformation (メディア変換)は、単純ではないのである。端的に言えば、即非的変換である。
 すなわち、精神は物質であり、且つ、物質ではない。精神的視覚は物質的視覚であり、かつ物質的視覚ではない。
 これは、Media Pointにおける精神的フィルターの作用である。しかし、単純なフィルターではない。即非的フィルターである。
 既知のことであるものの、ここでは不思議な事象が起きているのである。つまり、ダブル・ヴィジョンの現象である。即ち、精神的視覚は精神的ヴィジョン(Spiritual Vision: SV)を見ているが、物質的視覚は物質的ヴィジョン(Material Vision: MV)を見ているのである。
 しかし、そのように単純な二元性ではない。何故なら、ここには、即非的視覚が生じていると考えられるからである。
 実に霊妙である。つまり、精神的視覚もやはり物質的ヴィジョンを見ていると考えられるからである。つまり、精神的視覚は精神的ヴィジョンと同時に、物質的ヴィジョンを見ているということであり、物質的ヴィジョンという点では、精神的視覚と物質的視覚とが重なっていると思われるのである。
 だから、物質的現実、現象が、精神化されて見えるのである。その意味でもダブル・ヴィジョンである。
 しかしながら、近代合理主義は、この精神的ヴィジョンを否定しているのである。だから、抑圧があるのである。それは、同一性のメカニズムと言えよう。これは、反美的な視点である。言い換えると、近代合理主義は美学を排除しているのである。そして、この抑圧は不健全である。存するものを否定するからである。
 とまれ、私が以前よく述べた超越光であるが、それは、実際、私には「視覚」されたものなのである。陽光において超越光が感じられたのである。
 それは、結局、今述べたように、即非的視覚で説明ができるだろう。精神的視覚が現実界の光を視覚するのであり、そのために、超越光と重なるのである。つまり、精神的視覚とは、虚軸の超越的ヴィジョンを見ているのであり、そこに超越光があるのであり、その超越光を視覚しつつ、現象界の陽光を視覚するので、言わば、投影される形で、陽光を視覚するということのように思えるのである。
 しかし、この説明では、超越的主観性(フッサールの超越論的主観性は、本来、このように考えるべきである)中心であり、外界の光には超越性がないように考えられるだろう。
 しかしながら、光も本来、超越光から生まれるのであり、光のMedia Pointを介して、超越光がいわば洩れているのである。
 だから、結局、精神的視覚が光から洩れる超越光を見ているということでもあると考えられるのである。
 最後に即非的視覚の視点からシュタイナーの精神学を見ると、精神を物質から独立させる志向をもっている。物質から離脱する志向性をもっている。
 そう、精神は物質的現実からも独立して存在していると述べている。それは正しいだろう。しかしながら、精神的次元はMedia Pointを介して、物質的次元へと参入している点をシュタイナーは説いていないように思えるのである。つまり、即非的視点を欠いているように思えるのである。
 つまり、シュタイナーが物質界から精神界へと参与するとき、物質界から截然と独立した精神界へと参入するのであるが、それはPS理論から言うと、Media Pointの虚軸のゼロ点(MP1)に参入することと考えられる。それは、差異共立様態への回帰である。
 しかし、少し疑問に感じるのは、そのいわば、純粋な精神(霊)とMedia Pointとの関係についてである。シュタイナーはアストラル体とエーテル体を截然と区別する。しかしながら、PS理論の見地からは、両者は連関しているのである。つまり、アストラル体を例えば、凹iとすれば、エーテル体は凸iと凹tとの極性エネルギーと考えられる。だから、PS理論的なアストラル体とエーテル体とは、截然と分けられるが、連関しているのである。この点がシュタイナー精神学は欠けていると考えられる。言い換えると、それは、硬直してドグマになっている面が感じられるのである。
 今の予見では、PS理論からシュタイナー精神学の非即非的な構築・フレームを解体して、即非的に再構築することが必要であると考えられる。

追記:心とは端的に、Media Pointである。しかしながら、今日、一般には、それが自我形式=同一性形式によって枠付けられている(愚樵氏の知的フレーム)ために、虚軸的側面が解放されていないのである。せいぜい、愛情、情感、感情、気持ち、等にしかならないのである。
 禅仏教はこの同一性形式の徹底した解体を志向していた。なにか、デリダに似ているのである。ただし、デリダより、精神性をもっていた点では、優れている。
 さて、私が言いたいのは、不可視界であるが、それは、「闇」というよりは、超越光の世界である。D. H. ロレンスが述べたdark sunとは、正に、不可視の超越光のことだと思う。
 しかしながら、不可視とは言え、可視的であると思う。何故なら、精神的視覚(霊的視覚)があると考えられるからである。だからこそ、dark SUNなのだろう。
 そして、これこそ、アマテラス、アフラ・マズダー、大日如来等であろう。
 これは、色彩でいうと、黒でもある白、白でもある黒である。しかし、灰色ではない。思うに、黒と白とが相互浸透した様態とも言えるだろう。それは何色なのか。トランス・ブラック・ホワイト? トランス・ダーク・ライト?


2010年08月07日(Sat)▲ページの先頭へ
自我アイデンティティという利己主義:父権的凸i傾斜的劣等/優越コンプレックス
(お断り:これまで、自己認識方程式を(+i)*(-i)⇒+1としたが、その後、Kaisetsu氏による理論進展によって、凸i*凹i⇒+1となった。)

Media Pointないし、凹iを満たす必要がある、本来。しかしながら、凸iに傾斜しているので、Media Pointや凹iが無意識になるのである。
 先に、凹iはアストラル体ではないかと提起した。それは、感情的身体である。あるいは、内臓的感情身体である。
 凸iは抽象観念を志向するので、凹iを基本的には排除するだろう。そう、凹iは受容的身体とも言えよう。内的他者であり、外的他者を感受するのである。つまり、受け身なのである。だから、外的他者に対して、反感を感じるのである。
 この点を厳密に分析する必要がある。
 思うに、凹iは感受点である(追記:Media Pointを感受点すべきか、この点は検討課題である)。快不快・苦楽を感じるポイントである。また、人間は鏡像自我を形成するが、それは、排他的力学をもつ。即ち、自我肯定であり、他者排除的な力学である。利己主義・エゴイズムの原点である。
 個人はこの鏡像自我という利己的な優越志向があるが、外的他者を感受するときは、当然、優位に立とうとするのである。自我優位であり、他者を劣位におとしめようと欲するのである。
 この優越主義は当然、優れた他者に対しては、劣等感を感じるのである。というか、他者一般に対して、裏返しの劣等感をもつと思われるのである。
 ということは、鏡像自我形成の原点において、なにか劣等感があるということではないだろうか。
 そう、それは、人間が幼児・小児としてもつ身体的な非力さ・無力性から来ているのではないだろうか。
 馬の子は生まれるとすぐ立つことができるが、人間の赤子はできない。そう、心身的な根源的弱さがあると言えよう。
 この弱点をカバーするのが鏡像自我ではないだろうか。非力さを裏返しにした、認知的優越性をもつものではないだろうか。
 しかし、それですべてであろうか。
 思うに、凸iは凹iに対して、根源的な劣等感をもっているのではないだろうか。何故なら、凸iにとり、凹iはまったくの他者であり、異質なものであり、了解不可能であるからである。絶対的他者である。
 この原劣等感があるので、凸iは、アイデンティティを形成して、自我を優位・優越に保とうとするのではないだろうか。それはまた、攻撃的志向である。
 そして、凸iの傾斜は父権的なものである。あるいは、一神教的なものである。
 しかしながら、凹iは母権的なもの、多神教的なものだろうか。私は以前から、母権的なもの、多神教的なものとは、凸iと凹iとのバランスのとれたものと考えている。
 とまれ、父権的な傾斜、凸iの傾斜は凹iにコンプレックスを感じるのである。そのために、自我アイデンティティを形成しようとするのである。しかしながら、それは、凹iを隠蔽しているので、本来、不適切な、誤魔化しの、虚偽・欺瞞的なアイデンティティに過ぎない。
 だから、父権的意識が本来の自己認識に達するには、凹iを肯定する必要があるのであるが、それが一般的にはきわめて困難なのである。
 しかしながら、東洋文化は本来、身体的文化であり、凹iを肯定する技術をもった文化なのである。日本文化で言えば、肚の文化である。これは、中国では、道教の丹田の文化であり、インドでは、クンダリニー覚醒のための瞑想文化(ヨガ)である。仏教では、禅の瞑想文化である。
 ということで、凹iを肯定する身体的文化(教養)があったのである。(追記:武芸・武道もこれに関係する。弓道、剣道、柔道、相撲、武士道、等)
 それに対して、西洋文化は凸iに傾斜した文化(デリダのロゴス中心主義)であり、凹iを排除する父権的文化であると言えよう。
 サイードのオリエンタリズムはこれで説明できよう。凸iの文化が凸iに劣った、凹i中心の東洋を指導する必要があるということである。(しかし、東洋文化は凹i中心ではなく、凸iと凹iとの均衡を追究する文化である。)
 ということで、本題のアイデンティティの利己主義性について解明できたと言えよう。つまり、父権的アイデンティティの利己主義性ということである。
 因みに言えば、資本主義は凸iが中心となり、凹iを抑圧して成立した経済である。同一性価値経済である。
 今日、ポスト・リーマンショックとして、新経済が要請されている。それは、凹iを肯定する経済である。それは、差異共立経済である。即ち、自由共同体的経済である。
 ポイントは差異共立主義である。これは、他者との共同性を志向するものである。この点については後で検討したい。

追記:ここで述べたアイデンティティとは父権的アイデンティティということである。あるいは、自我的アイデンティティである。なぜなら、母権的アイデンティティ、差異的アイデンティティ、民族的アイデンティティ等があるからである。


参考:
tokaiama


1. 世界を拓く新しい秩序は自給自足の農業共同体から生まれる。ちょうどアメリカインディアン部族をイメージすればよい。数十名単位の大家族、部族なのだ。人は部族に心を置いて帰属し、個人を超えて部族が一個の独立人格として永続的に生き続ける。その発展型が客家だ。構成員の目的は子供達を育てること 約2時間前 webから
2. 既存の組織、秩序が、経済崩壊によって、すべて崩壊の危機に晒されている。国家、行政、企業、学校、宗教、家族、あらゆる帰属体、組織が崩壊し、人々は真に心を置いて安心できる帰属体を求めて彷徨うのだ。新たな帰属体は農業共同体だろう。そこには、もはや一夫一婦制家族もなく、男女は自由に離合 約2時間前 webから
3. 人が常識と信ずるものは「帰属体」を維持するために必要な倫理、秩序であることに気づく必要がある。心を置いて安心できる帰属体を見いだすことで人は自分のアタマ、足、意志で考え、判断する責務を逃れ、世間体、常識に従って生きていれば、疎外孤立から解放され安心できる。これが宗教団体の秘密 約2時間前 webから
4. ツイッター見てると、価値観、判断基準が帰属意識にあることが鮮明に。自分が帰属すると信ずる社会的ステータスの利害に沿った取捨選択を行う。帰属意識が成立するのは小中学校における力関係、洗脳だ。人は人生の根底に帰属を置いているのだ。家族・学校・会社・多重の帰属が生涯を縛り続ける 約2時間前 webから


アイデンティティという利己主義:父権的凸i傾斜的劣等/優越コンプレックス
Media Pointないし、凹iを満たす必要がある、本来。しかしながら、凸iに傾斜しているので、Media Pointや凹iが無意識になるのである。
 先に、凹iはアストラル体ではないかと提起した。それは、感情的身体である。あるいは、内臓的感情身体である。
 凸iは抽象観念を志向するので、凹iを基本的には排除するだろう。そう、凹iは受容的身体とも言えよう。内的他者であり、外的他者を感受するのである。つまり、受け身なのである。だから、外的他者に対して、反感を感じるのである。
 この点を厳密に分析する必要がある。
 思うに、凹iは感受点である。苦楽を感じるポイントである。また、人間は鏡像自我を形成するが、それは、排他的力学をもつ。即ち、自我肯定であり、他者排除的な力学である。利己主義・エゴイズムの原点である。
 個人はこの鏡像自我という利己的な優越志向があるが、外的他者を感受するときは、当然、優位に立とうとするのである。自我優位であり、他者劣位にしようと欲するのである。
 この優越主義は当然、優れた他者に対しては、劣等感を感じるのである。というか、他者一般に対して、裏返しの劣等感をもつと思われるのである。
 ということは、鏡像自我形成の原点において、なにか劣等感があるということではないだろうか。
 そう、それは、人間が幼児・小児としてもつ身体的な非力さ・無力性から来ているのではないだろうか。
 馬の子は生まれるとすぐ立つことができるが、人間の赤子はできない。
 そう、心身的な根源的弱さがあると言えよう。
 この弱点をカバーするのが鏡像自我ではないだろうか。非力さを裏返しにした、認知的優越性をもつものではないだろうか。
 しかし、それですべてであろうか。
 思うに、凸iは凹iに対して、根源的な劣等感をもっているのではないだろうか。何故なら、凸iにとり、凹iはまったくの他者であり、異質なものであり、了解不可能であるからである。絶対的他者であある。
 この原劣等感があるので、凸iは、アイデンティティを形成して、自我を優位・優越に保とうとするのではないだろうか。それはまた、攻撃的志向である。
 そして、凸iの傾斜は父権的なものである。あるいは、一神教的なものである。
 しかしながら、凹iは母権的なもの、多神教的なものだろうか。私は以前から、母権的なもの、多神教的なものとは、凸iと凹iとのバランスのとれたものと考えている。
 とまれ、父権的な傾斜、凸iの傾斜は凹iにコンプレックスを感じるのである。そのために、自我アイデンティティを形成しようとするのである。しかしながら、それは、凹iを隠蔽しているので、本来、不適切な、誤魔化しの、虚偽的なアイデンティティに過ぎない。
 だから、父権的意識が本来の自己認識に達するには、凹iを肯定する必要があるのであるが、それが一般的にはきわめて困難なのである。
 しかしながら、東洋文化は本来、身体的文化であり、凹iを肯定する技術をもった文化なのである。日本文化で言えば、肚の文化である。これは、中国では、道教の丹田の文化であり、インドでは、クンダリニーのための瞑想文化である。仏教では、禅の瞑想文化である。
 ということで、凹iを肯定する身体的文化(教養)があったのである。
 それに対して、西洋文化は凸iに傾斜した文化(デリダのロゴス中心主義)であり、凹iを排除する父権的文化であると言えよう。
 サイードのオリエンタリズムはこれで説明できよう。凸iの文化が凸iに劣った、凹i中心の東洋を指導する必要があるということである。(しかし、東洋文化は凹i中心ではなく、凸iと凹iとの均衡を追究する文化である。)
 ということで、本題のアイデンティティの利己主義性について解明できたと言えよう。つまり、父権的アイデンティティの利己主義性ということである。
 因みに言えば、資本主義は凸iが中心となり、凹iを抑圧して成立した経済である。同一性価値経済である。
 今日、ポスト・リーマンショックとして、新経済が要請されている。それは、凹iを肯定する経済である。それは、差異共立経済である。即ち、自由共同体的経済である。
 ポイントは差異共立主義である。これは、他者との共同性を志向するものである。この点については後で検討したい。

参考:
tokaiama


1. 世界を拓く新しい秩序は自給自足の農業共同体から生まれる。ちょうどアメリカインディアン部族をイメージすればよい。数十名単位の大家族、部族なのだ。人は部族に心を置いて帰属し、個人を超えて部族が一個の独立人格として永続的に生き続ける。その発展型が客家だ。構成員の目的は子供達を育てること 約2時間前 webから
2. 既存の組織、秩序が、経済崩壊によって、すべて崩壊の危機に晒されている。国家、行政、企業、学校、宗教、家族、あらゆる帰属体、組織が崩壊し、人々は真に心を置いて安心できる帰属体を求めて彷徨うのだ。新たな帰属体は農業共同体だろう。そこには、もはや一夫一婦制家族もなく、男女は自由に離合 約2時間前 webから
3. 人が常識と信ずるものは「帰属体」を維持するために必要な倫理、秩序であることに気づく必要がある。心を置いて安心できる帰属体を見いだすことで人は自分のアタマ、足、意志で考え、判断する責務を逃れ、世間体、常識に従って生きていれば、疎外孤立から解放され安心できる。これが宗教団体の秘密 約2時間前 webから
4. ツイッター見てると、価値観、判断基準が帰属意識にあることが鮮明に。自分が帰属すると信ずる社会的ステータスの利害に沿った取捨選択を行う。帰属意識が成立するのは小中学校における力関係、洗脳だ。人は人生の根底に帰属を置いているのだ。家族・学校・会社・多重の帰属が生涯を縛り続ける 約2時間前 webから



2010年08月06日(Fri)▲ページの先頭へ
PS理論とシュタイナー精神学:電磁波はエーテル体に包含されるのでは?
テーマ:Media Point:MP1⇔MP2

シュタイナーの精神学は、オカルト主義ということで、たいへんな損をしている。オカルトとはそもそも、「隠れた」、つまり「不可視の」という意味であり、おどおどろしい意味合いはなかったのである。
 とまれ、シュタイナー精神学の基本は四元論であり、それをPS理論的に説明したいと考えているのである。
 即ち、

1)「自我」ich・・・・・人間の個
2)アストラル体(感情身体)・・・・・動物的感覚
3)エーテル体(気的身体)・・・・・植物的生命形成力
4)物質体・・・・・鉱物形成力

の四層から人間が構成されているとシュタイナー精神学は捉えている。
 先ほど、考えを巡らした結果、

A)「自我」ichとは、凸iであり、
B)アストラル体とは凹iであり、
C)エーテル体とは、差異極性のエネルギーであり、
D)物質体は+1である

と思いついたのである。そして、これは整合性があると考えられるのである。もっとも思考実験である。まだ、問題になるのは、アストラル体である。これについては、後でさらに考察を行ないたい。
 さて、以上の作業仮説からすると、電磁波とは、エーテル体と共通することになるだろう。言い換えると、「気」である。
 そして、これはそれほど外れていないだろう。つまり、光を「気」と見るということである。「気」に電磁波は包摂されると思われる。


2010年08月05日(Thu)▲ページの先頭へ
差異と同一性:内的他者の抑圧とは何か
先に本件について考察したが、疑問が生じたので、新たに考察を行いたい。
 端的に言えば、本題も既に解決済みであるが、反共振ないし差異共立との整合性が不明確なので、検討する次第である。
 先に、凸i=凹i=+1という同一性方程式を作業仮説した。これは、いわば、同一性幻影(錯誤、虚偽)方程式である。
 復習となるが、凸iは同一性+1を凹iに押しつけるのである。だから、凸i*凹iの*(積)が、凸iによる凹iへの押しつけを意味するように思える。だから、以前、凸i*凹凹i⇒-1を他者の否定と考えたが、他者の否定とは実は、凸i*凹iの*において、生起していると考えられる。(ならば、凸i*凹凹 iは何だろうか?)
 結局、差異共振とは同一性(物質)を発生させるのであり、それは、他者を否定したものである。同時に、同一性自己が形成されるので、差異としての自己も否定しているのである。
 だから、凸i*凹iとは、凸iと凹iとの相互否定なのである。故に、同一性とは、差異極性を否定しているのであり、換言すると、Media Pointを否定しているのである。つまり、同一性の様態によって差異的なものを抑圧しているのである。
 Media Pointの根源様態は、差異共立であると考えられる。それが、求心力に拠って、共振化するのであり、また、遠心力によって、再び、差異共立へと還元されるのではないだろうか。
 図式化すると、

凸i#凹i⇔凸i*凹i

となるだろう。これは、MP1⇔MP2と書くこともできる。
 以上のように考え直して、整理すると、差異求心力によって、差異共振化して、差異相互否定によって、同一性現象が発生する。差異的原自己も差異的原他者も同一性によって相互否定されるのである。(ここには、同一性の鏡面が発生しているのであり、その鏡像が同一性像であると言えるだろう。これについては後で解明したい。)
 しかしながら、差異求心力に対して、差異遠心力が作動すると、差異相互否定の共振的同一性化が解体して、差異共立へと回帰すると考えられる。つまり、差異遠心力とは、差異相互肯定であり、差異並立、双立、共立、言い換えると、差異均衡である。
 そして、差異共立とは、虚軸での事象であり、同一性が実軸の物質次元のことであるのに対して、超越的次元、高次元の事象であると考えられる。
 そう、これまでの用語では、前者が連続性力学であり、後者が脱連続性力学である。
 そして、それぞれ、物質的世界(物質界・現象界)と精神的世界(精神界・「霊界」)である。
 しかし、これまで述べたように、両者はまったく異質なものであり、また、前者に近代文化は囚われているので、後者を明確に捉えられないのである。つまり、唯物論が支配しているので、精神界を的確に把握・理解できないのである。
 【ここで即非の論理について考えると、それは、先に指摘したような差異共振ではなく、差異共立の論理を説いていると見るべきであろう。A=非Aという場合のAであるが、それは、差異としてのAではなく、同一性のAと見るべきである。つまり、同一性=非同一性ということである。つまり、同一性=差異ということであり、それは、凸iと凹iを指していると見るべきであろう。即ち、A=凸iであり、且つA=Aである。また、A=凹i、A=凸i#凹i でもあるだろう。(この点は検討課題である。)】
 これは、不連続的差異論の発見であるが、Media Pointとは、不連続点、つまり、特異点であり、同一性からの連続的視点からは、差異=超越性は捉えられないのである。この点をポスト構造主義は見誤ったのである。もっとも、この錯誤はフッサール現象学を誤解したハイデガーの存在論に存すると考えられる。即ち、世界内存在や原存在において、存在は物質界・現象界と連続的に捉えられていると考えられるのである。
 さて、脱連続性の反転とマイナス1について述べて、本稿を終えるが、脱連続性力学とは、脱物質化の力学であり、超越性、精神性(「霊性」)、神秘性への参入である。
 ここでシュタイナーの高次元的精神科学哲学(以下、高次元精神学)について考えると、それは、脱連続性を徹底的に突き進める精神学であると考えられる。同一性=物質世界を超越する虚軸界の世界を追究しているのである。
 結局、脱連続性は現代の史的文脈では、トランス・モダンとなるのである。
 さて、では、マイナス1はどのようにこの点と関係するのだろうか。直感では、やはり、差異共立とマイナス1が関係するのである。マイナス1と差異共立は円環を為しているのではないだろうか。
 途中。


2010年08月04日(Wed)▲ページの先頭へ
連続性と脱連続性:差異極性力学:差異求心力と差異遠心力の均衡法則:日本復活へ向けて
これまで、本件について何度も試行錯誤を行なってきたが、今、簡単に整理しておきたい。
 人間の意識であるが、日常世界は物質的世界を前提として動いている。信号を無視して横断すれば、車に引かれるのである。この日常意識は物質的意識である。それは、物質的同一性的意識(同一性自己意識)である。
 この意識とは、凸iという根源の認知主体が同一性(物質)に一体化していることから生じていると思われる。
 しかし、凸iの根源的認知主体が同一性と結合している様態を的確にできないのである。これまでは、凸i=凹i=+1という錯誤論理で表記してきた。つまり、凸i*凹i⇒+1とは、同一性自己意識においては、凸i=凹i=+1(同一性・物質)となると考えられるのである。
 対差異である凸iと凹iとが共振融合して、同一性+1に転換すると考えられる。共振融合とは、連続的同一性化ということである。このとき、凸iは凹iと一体化しているのである。それが、同一性の意味である。
 本来、絶対的差異である凸iが対となる絶対的差異(絶対的他者)凹iと一体化しているという錯誤論理がここにあるのである。(なお、一体化は、一如化とはまったく別である。また、現象をマーヤー【幻影】と呼ぶのは正しい。)
 この凸i=凹i=+1(同一性方程式と呼ぶことにする)の日常的同一性自己様態において、凸iに傾斜するために、凹iは抑圧・排除される傾向が強いと言えよう。
 しかしながら、根源、いわば、無意識ないし非意識のMedia Pointにおいては、凸iと凹iとは共立している。だから、意識と無意識の葛藤・闘争が隠されているのである。
 同一性自己(自我)において、自己認知主体凸iは、他者凹iを否定するということであるが、それはどういう力学だろうか。
 同一性方程式において、凸iは凹iを否定して、抑圧・排除・隠蔽すると考えられる。つまり、同一性方程式は、凸i=−凹i=+1となるだろう。この−凹iが他者否定を意味しよう。
 しかしながら、もともと、同一性方程式とは誤謬であり、矛盾なのである。差異が同一性化されているからである。
 だから、他者否定とは、正しくは、同一性化された他者の否定である。同一性化された差異は、Identified Difference(以下、IDD) また、同一性化された他者はIdenitified Other(以下、IDO)である。だから、同一性方程式は、IDD=-IDO=+1となる。だから、他者の否定とは、単純な凹iの否定ではないのである。
 この同一性による他者の否定とは、同時に、差異認知主体凸iの否定でもある。つまり、端的に、差異の否定である。
 だから、問題となる抑圧とは、差異の抑圧なのであり、単に他者の抑圧ではないのである。結局、差異共立の抑圧であると考えられる。
 さて、ここで、本題に入ると、連続性は同一性エネルギーであり、脱連続性は脱同一性エネルギーであり、両者は正反対である。これは、形成エネルギーと解体エネルギーとの対としても見えることができよう。生のエネルギーと死のエネルギーとも言えよう。
 問題は後者のエネルギーの力学をどう捉えるのかである。ここでも、作業仮説ないし思考実験であるが、先に、引力と斥力のサイクルを述べたが、ここでは、求心力と遠心力の均衡法則を提起したい。
 つまり、対差異の求心力によって、共振融合が起こり、連続性=同一性エネルギーが生起する。そして、対差異の遠心力によって、脱共振融合作用が起こり、脱連続性=脱同一性エネルギーが発生するのではないだろうか。後者は差異共立エネルギーとも言えるだろう。前者がMP1⇒MP2であるのに対して、後者は MP2⇒MP1である。
 これは、時代形成力学に当てはめると、初期近代は前者が主導し、後期近代は後者が主導的になると考えられるが、前者と後者とはまったく異質なので、前者が支配的形式になったので、後期近代において、後者は前者の支配下に置かれて、認知されずに、不合理な衝動となると考えられるのである。それは、多様な暴力、精神病理として、発現していると考えられる。だから、後期近代とは、いわば、善と悪との闘争の時代になると考えられるのである。ゾロアスター教的時代である。
 あるいは、物質的次元世界観と高次元的世界観の闘争の時代である。三次元的人間と四次元的人間の闘争の時代である。近代的人間とトランス・モダン的人間との闘争の時代である。
 ここで、破滅的危機にある日本について考えると、究極的問題は、戦前と戦後との断層にあると考えられる。端的に言えば、超越的精神と物質的精神の断層である。
 後者によって、戦後日本は物質的に栄えたが、前者を排除しているので、精神的には窮乏したのである。
 今日、日本人は超越的精神を復興させる必然性があるが、それへの糸口が一般には知られていないことが大問題である。宗教的精神に目覚めるのも大事ではあるが、宗教的精神と物質的精神を調和させるのは至難の業である。
 だから、ここで、イデア論的哲学科学が至上に重要になるのである。これによって、超越的精神(高次元的精神)と物質的精神(現象的精神)との均衡調和が形成されるのである。
 それは、20世紀初期において、少数の天才たちによって先鞭がつけられたといえよう。
 しかしながら、不運にも、マイナーな存在として、今日、一般には、忘却されている。また、理解のための端緒がないと言えよう。
 その点から見ると、PS理論は至ってシンプルであり、明快である。それは、超越的精神(イデア)と物質的精神の哲学科学的関係を解明しているのであり、今日の窮境を乗り越えるための知的武器になると考えられる。

People, learn PS theory and apply it to your work or field, so you will be able to conquer the most tremendous crisis Japan has ever faced or fallen into.


感覚的事物は濃縮された思考存在である(シュタイナー)
『神智学』はさすがシュタイナーの四大著書の一冊とあって、内容が深く、また、充実している。
 きわめて本質的な哲学が述べられている。例えば、「感覚的事物は霊界から生じたものであり、霊的本性の別形式に過ぎない。」 (p. 166)という認識である。
 端的に言えば、霊(精神、イデア)から物質が生まれるということである。
 そこで思ったのは、霊とは体(身体)の一種である。そして、先に霊界とは、Media Pointの虚軸ゼロ点(MP1)にあるだろうと述べたことを考えると、どうも、霊界は、マイナス1(ダーク・マター、暗黒物質)と密接に関係していると思われたのである。
 差異共立を差異反共振とすると、凸i*-凹i⇒-1になるのである。つまり、霊界を左辺とすると、それは、マイナス1のダーク・マターを志向するのである。
 そうすると、霊界はダーク・マターを形成すると言えるし、また、マイナス1を根源とすると、やはり、ダーク・マターから霊界が生まれて、また、そこへ回帰するということではないだろうか。
 今は問題提起に留める。


追記:差異共立は和であり、ゼロであるので、マイナス1とするのは、修正しないといけない。
 思うに、差異共立とは、差異反共振と差異共振の平衡状態ではないだろうか。
 大雑把に言えば、マイナス1とプラス1との中間である。
 とまれ、脱連続性力学について考える必要がある。差異共立と差異反共振は異なるものである。
 思うに、エネルギー保存則から言えば、プラス1の物質に傾斜した場合、当然、マイナス1の「反物質」へと反作用するはずである。
 そのとき、思うに、マイナス1と和のゼロとが生起するのではないだろうか。つまり、マイナス1への反転とは、当然、和のゼロを意味すると思えるからである。ならば、ゼロとマイナス1とは一致することになるだろう。
 結局、私のイメージ、ないし、直観では、連続的同一性に対して、脱連続的同一性が作用するということである。結局、ポイントはそこをどう解明するかである。
 私の直観では、差異共立様態が生起するのは確かである。それと差異共振的同一性とが齟齬を来すのである。シュタイナー的に言えば、霊界と魂界との相違である。
 私見では、脱連続性=差異共立(「脱構築」)とは、Media Point の原点への回帰を意味するのである。
 今、閃いたが、根本は、凸iと凹iの二元性である。究極的な二元論である。
 だから、同一性志向によって、物質を形成させた後、その原二元論は残ると思われるのである。
 つまり、凸i*凹i⇒+1を基盤にしたとき、帰結として、+1を形成した場合、それは、差異共振作用に拠ると思われるのである。
 結局、私が考えていることは先に述べたことにあるだろう。結局、MP1(Media Pointの虚軸ゼロ点)とMP2(Media Pointの実軸ゼロ点)とは不連続であり、MP1⇒MP2へと転化したときは、物質が形成される。
 しかし、差異共振作用が終わると、つまり、差異共振エネルギーが消尽すると、元々の差異共立が「出現」するようになると思われるのである。
 だから、差異共立と差異共振を明確に区別した方がいいと思われる。即ち、凸i#凹iと凸i*凹iである。
 連続性力学の場合、差異共立が差異共振へと転換して、本来の差異共立が喪失される。つまり、不連続的差異の共立が共振化して、同一性へと転換されるのである。
 この事態・事象をどう捉えるべきか。端的に、MP1とMP2とは、本来、不連続であるという認識がなくてはならないということではないだろうか。(思うに、MP1をデュナミス、MP2をエネルゲイアとして、区別することは可能であろう。)
言い換えると、MP1こそが、基盤・基礎・根源・起源・源泉・原基であり、そこから、MP2と同一性が生起するということではないのか。
 あるいは、差異共立の和であるゼロが基底であるということである。
 とまれ、もう一度、直感で考察しよう。連続的同一性とはまったく別に、差異共立が存しているのである。ただし、最初は、認識的ではなく、現実的にである。
 言い換えると、個としての、絶対的差異としての「わたし」ichの存在があるということである。それは、肚の存在が原基にあると言えよう。(もっとも、ここは、正確な言い方ではない。肚は個、「わたし」の原基であり、「わたし」そのものとは異なるだろう。つまり、これは、凹iとしての絶対的差異と言えよう。つまり、「わたし」は、絶対的他者の凹iを原基にしているということになろう。この問題は後で検討したい。思うに、認識に対する存在という他者ということかもしれない。)
 今思ったが、差異共立が精神の基底であり、差異共振が物質的身体、又は、自我的身体の土台ではないだろうか。(今、又、思ったが、差異共振がエーテル体であろう。「気」である。そして、⇒+1が物質形成である。だから、⇒がエーテル体であり、+1が物質である。)
 ここで発想を変えて、差異共振において、凸iが主導的であり、その後の反転においては、凹iが主導的になるのということも考えられるだろう。
 つまり、最初に、凸iの傾斜があり、その後、反作用的に、凹iの傾斜が生じるのであり、それで、凸iと凹iとのバランス、差異共立が再構築されるのかもしれない。つまり、陽が先行し、その後、陰が作動するということである。
 この考え方は、実際に即しているだろうし、力学的にも、説得力があるだろう。つまり、法則的に、陽が先行し、その後、陰が主導するということである。そして、交互に継続されるのである。
 先の考えをA案とし、この考えをB案としよう。だから、A案とは、差異共振が発動するが、それが消失して、元の差異共立が発現するということである。
 それに対して、B案は、差異共振において、先に、凸iが主導的になり、凹iが抑圧される。しかし、反作用的に、凹iがその後主導化して、凸iと凹iとの均衡が志向されるというようなことになろう。B案は弁証法的に見えるが、合ではなく、共立が志向される点で異なるのである。
 今の感じでは、B案の方が適切であるように思える。そうすると、凸iとは、認識主体であり、凹iとは被認識客体ではないだろうか。そして、感情・情感であるが、それは、凸iと凹iとの共立や共振における凹iの知覚ではないだろうか。
 簡単にB案をまとめると、原基の差異共立において、最初、エネルギーの賦活は、凸iにおいて作用して、その結果、差異共振エネルギーが発動される。そして、それは、連続的同一性の知覚をもたらす。その後、エネルギーの賦活は、凹iに転換して、最初の連続的同一性を解体する。しかしながら、凸iと凹iとの分裂が生起すると考えられる。言い換えると、連続性と不連続性との分裂である。しかしながら、不連続性とは、差異共立、更新された差異共立であり、それは、差異共振に拠る連続性とは異質なものであることを確認する前提が生じると考えられる。
 換言すると、最初、原差異共立があるが、凸iが優位となり、差異共振化して、連続的同一性が形成される。その後、反作用的に凹iが優位となり、同一性と分裂する。
 結局、凹iの優位とは、凸iとの均衡を志向していると言えよう。うまり、凹iの優位は連続的同一性の「秩序」を解体して、そのため、凸iと凹iとの関係を志向するようになる。それが、更新された差異共立を意味すると考えられる。
 さらに言い換えると、凸iの優位とは初期・前期近代であり、凹iの反転的優位とは、後期・末期近代(ポスト・モダン)であり、両者との共立的均衡形成が脱近代、トランス・モダンと言えよう。
 


2010年08月03日(Tue)▲ページの先頭へ
シュタイナー・「ガイスト」科学とPS理論:霊界/魂界/物質界:MP1/MP2/+1
シュタイナーの『神智学』を読んでいるが、きわめて直観的刺激を与えてくれる。以前、読んだことがあるが、そのときは、よくわからないままだったと思う。
 今、ざっとPS理論とつき合わせると、霊界はMedia Pointの虚軸ゼロ点(MP1)、魂界はMedia Pointの実軸ゼロ点(MP2)、そして、物質界は、+1である。
 問題は、アストラル体(感情・欲望)とエーテル体(「気」)である。これまで、何度か規定しようとしたが、確定できていない。
 アストラル体は、自己と他者との差異共振的欲動であり。エーテル体とは、物質的生命体を形成するエネルギーである。
 どうも、両者とも差異共振で説明できるように思えるのであるが、そうすると、相違をどう説明するのか問題である。
 とりあえず、作業仮説として、アストラル体はMP1とMP2との即非エネルギーであるとしよう。そして、エーテル体はMP2の差異共振エネルギーであるとしよう。
 今はここで留める。


参照:

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


神智学を読む
神智学
人間の本質
超感覚的存在が認識されるとき、感覚的「現実」もまた有意義なものとなる。
人生を理解する人だけが、本当に「実際的」人間になることができる。


体−周囲の事物が人間に自己を示すところのもの

魂−人間が自分のあり方と結びつけ、それによって気に入る気に入らない、快と不快、
  喜び、苦しみを事物から感じ取るもの。


霊−もし人間が−ゲーテの表現を用いれば−事物を「いわば神的な態度」で観るとき彼に  示されるもの。


 魂を通して、人間は事物が与える印象を自分の中に保持する。
そして、霊を通して、事物自身がみずから保持しているものが、彼に啓示される。



魂の存在は自分の世界として、人間自身の内部で担われている。しかし、霊によって、外界は高次の仕方で人間に示される。
外界の秘密が明かされるのは人間の内部においてであるが、しかし、人間は霊的存在として自分の外へ出ていき、そして、事物に事物自身のことを語らせるのである。
彼にとって意味のあることをではなく、事物自身にとって意味のあることを。
人間は星空を見上げる。魂が受ける感動はその人間のものだ。しかし彼が思想として霊において把握する星々の永遠の諸法則は、彼にではなく、星々自身に属する。



かくして人間は三つの世界の市民である。
体−感覚が知覚する世界に住む。眼前の世界
魂−知覚を通し受け入れたものに対して気に入るいらない快不快を感じ取り自分の世界を  
 作る。事物の印象を作る。その世界を彼にとって有意義な何かにする。
霊−体、魂を超えた世界から啓示される。人が「神的な態度で」対象に対して獲得した認識内容。努力すべき目標。
その体を通して彼は自身が知覚するところの世界に属し、その魂を通して、彼自身の世界を構築し、その霊を通して、この両者の及ばぬ世界が彼に啓示される。
このようにこの三つの世界が本質的に異なっているので、この三つの世界並びにそれらに対する人間の係わり方を明らかにしようと思うなら、三つの異なる考察の仕方によらなければならぬことは明らかである。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/ekorange/



2010年08月02日(Mon)▲ページの先頭へ
連続性のベクトルと脱連続性のベクトル:下降ベクトルと上昇ベクトル
テーマ:Media Point:MP1⇔MP2

これまで、脱連続性の反転の力学について言及したが、未だ、確定した見解が出ていない。
 先ほど、思いついたのは、連続性力学の場合、MP1からMP2へと、いわば、エネルギーが下降するのであり、脱連続性力学の場合は逆にMP2からMP1へと上昇するのではないだろうか。
 前者は当然⇒+1を意味するが、後者はどうなるだろうか。凸i☯凹i⇒凸i#凹iということではないだろうか。ただし、☯は、下降エネルギーと上昇エネルギーの包摂する記号とする。
 結局、下降エネルギーは差異共振エネルギーであり、同一性を形成するので、質量を形成するので、鉛直線の方向である。重力方向である。
 それに対して、上昇エネルギーは、脱連続性=脱同一性エネルギーであり、反重力方向であると考えられる。つまり、植物の「天」への上昇力を意味するのではないだろうか。
 言い換えると、前者は「天」から「地」へのエネルギーであり、後者は「地」から「天」へのエネルギーとなる。
 また、前者は物質界のエネルギーであり、後者は超越界・高次元世界のエネルギーということになろう。
 私がずっとコスモスへのエネルギーと感じていたものは、当然、後者であり、また、いわゆる、神秘的な衝動も後者であると言えよう。シュタイナー的に言えば、霊界へのエネルギーであり、プラトン的に言えば、エロースである。
 そう、思うに、ギリシア神話のヘルメス神であるが、それは、天地を交通する神であるが、この下降/上昇エネルギーを象徴しているのではないだろうか。エジプト神話では、トート神であり、日本文化では道祖神であり、マヤ・アステカ神話では、ケツァルコアトル(翼のある蛇)と言えよう。
 では、この下降/上昇エネルギーの力学の仕組みは何か。
 やはり、共振(牽引、引力)と反共振(反発、斥力)の周期、リズムで説明がつくのではないだろうか。
 あるいは、融合志向性と分立志向性の極性力学ではないだろうか。(思うに、不連続的差異論の初期の段階で、差異には水平的志向と垂直的志向があると述べたが、それに類する考え方と言えよう。
 ここで、近代形成について考えると、それは、下降エネルギーである連続性力学が主導・中心的な役割を果たしたと言えよう。
 そして、それが、自然科学と結びついて、独占的な地位を占めるようになり、脱連続性力学=上昇エネルギーの志向が抑圧されてしまい、近代人の精神は歪んだもの、あるいは、倒錯的なものになったと考えられる。
 そして、本来、脱連続性力学=上昇エネルギー=超越エネルギーが存しているのに、それを抑圧するので、近代的意識は反動的になり、暴力的、病理学的なものになっていると考えられるのである。
 それは、私見では、後期近代において、顕著になるということである。なぜならば、後期近代において、連続性力学に替わって、脱連続性力学が能動的に、積極的に発動すると考えられるからである。
 思うに、すべてのエポックには、このような下降/上昇の周期があるのであり、上昇エネルギーのときに、そのエポックは解体期になり、新しいエポックの胎動が生じるのだろう。そして、これは、時代だけでなく、大きな文明レベルでも生じることと考えられる。 
 思うに、この周期には、数的な法則性があるのではないだろうか。シュタイナーは、地軸の回転と宇宙の相関性にそれを見ているのである。有り体に言えば、占星術的史観は、プラトン年(25920年)とプラトン月(2160年)で分割して考えている。
 だから、PS理論的に周期を考えるならば、下降/上昇でワン・サイクルであり、それを例えば、プラトン月を4で割ったものとするなら、2160÷4=540年が1エポックの長さとなる。近代が例えば、1500年(因みに、コペルニクスの地動説は1510年に公表した)に始まったとするなら、2040年には終焉することになる。次のエポックはトランス・モダンである。

参考:
時代の流れをみるプラトン年

春分点が25800年かけて黄道12星座を一周しますが、
これをプラトン年(プラトン大年、グレートイヤー)と呼ばれています。
一つの宮は2160年かかり、これをプラトン月(プラトン大月、グレートマンス)といいます。
一度の移動が約72年です。
サビアン占星術では一度一度に意味がありますので、これと組み合わせるのも興味深いでしょう。


春分点の移動

地球の自転が歳差運動でずれていく為に、春分点も毎年わずかですが、黄道上を時計回りにずれていきます。

星座が
牡羊座→牡牛座→双子座→蟹座→獅子座→乙女座→天秤座→蠍座→射手座→山羊座→水瓶座→魚座の順番ですが、

プラトン歴は逆に動きます。
魚座→水瓶座→山羊座→射手座→蠍座→天秤座→乙女座→獅子座→蟹座→双子座→牡牛座→牡羊座
 
12星座を25,920年、一つの星座を2160年、一度を72年かけて移動します。


歳差運動と春分点の移動

地球は1日1回自転しながら、およそ1年かけて太陽の周りを公転します。
自転するときの自転軸は真っ直ぐではなく、コマが首を振るような動きで揺れており、およそ約25800年かけて自転軸が回ると計算されています。
地球の自転軸がコマの首振り運動のような回転をしているために春分点も少しずつずれていきます。
それは黄道に沿って西向きに移動していきます。これを歳差運動と呼びます。
この理由は地球の自転軸が23.4度の傾きがある為、赤道付近がやや膨らんだ楕円形をしている為と言われています。

歳差運動の周期は約25,800年です。
この為、現在の天の北極も長い時間をかけてずれていきます。

現在の北極星はこぐま座α星(ポラリス)ですが、
紀元前2000年頃にはりゅう座α星(トゥバン)だっとされています。
西暦14000年頃には天の北極はこと座のベガ近くに移動します。

紀元前には歳差運動がある事が分かっていたようで、紀元前150年頃のギリシャの天文学者ヒッパルコスの記録が残っているそうです。

http://www.yumeneiro.com/hoshi/astrology/age.html


……癒しの家 夢音色:星と色と香りの癒しのセラピー……

参照:
太陽系と差異:5,10,プラトン年25920
テーマ:ニッポン独立宣言
[不連続的差異論] 太陽系と差異:5、10、プラトン年25920

四柱推命の十干十二支から、10という数字を検討してきたが、かなり重要な数であることが判明してきた。真脇遺跡の環状木柱列は10本の柱からできているのである。5を差異として、それにプラス/マイナス、陰陽の2をかけて、10としたのであるが、もう一つ考えられるのは、太陽が一つに、惑星が九つということである。今のところは前者をとっていきたい。5の差異(「惑星」)があり、プラス/マイナス(陰陽・月日)の強度があるということで、5×2=10である。思うに、10よりは、5の方が根本的のようだ。5が72度を生み、それが、一回転(360度)して、プラトン年の数が出てくるのである。また、人間の形であるが、ペンタグラムからかもしれない。
 とまれ、問題は、5の意味である。5個の不連続的差異があるとしよう。それが、72度で、正五角形/ペンタグラムを形成する。では、等分割とは何かである。それは一種連続化であろう。1/4回転の一種ではないだろうか。作業仮説として、等分割化=連続化=1/4回転としよう。そして、もとにもどるには、一回転が必要だろう。360度回転である。しかし、1/4回転で、プラス・エネルギーが消費されている。そして、思うに、それはメディア界化であり、現象化するには、さらに、1/4回転必要なのではないか。そして、結局、1/2回転のプラス・エネルギーが消費される。そして、この反作用として、マイナス・エネルギーが発動して、さらに、1/4回転、1/4回転して、元の不連続的差異に回帰(らせん的回帰)するということではないのか。一回転であり、360度回転である。そして、5差異の連続化の強度72度に360度かけて、プラトン年が出てくるということでいいのだろうか(72×360=25920年)。今はここで留めたい。


画像(ペンタグラム)以下から
http://www.hokuriku.ne.jp/fukiyo/math-obe/penta.htm

http://ameblo.jp/renshi/entry-10001023657.html
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


2010年08月01日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:Media Pointの力学に関して
1)差異共振と差異共立について:

先に、差異共立が差異共振に含まれていること、あるいは、差異共振の前提にあることを述べた。
 問題は、凸iと凹iとの関係である。凸i=凹iとなるのだろうか。例えば、凸iを「わたし」、凹iを「池」としよう。「わたし」は「池」であるというのは、あり得る知覚である。凸i「わたし」=凹i「池」である。もっとも、同時に、凸i「わたし」≠凹i「池」である。
 先に、「わたし」=「池」の等号は同一性であるとして、問題視した。この点について、熟考したい。
 いったい、差異1「わたし」は差異2「池」であり、且つ、「池」ではないというのは、前半において、差異1と差異2の同一性を述べているのだろうか。
 それは、端的に同一性である。そして、即、同一性ではないと否定するのである。つまり、同一性と非同一性との共立がそこにはあるのである。
 だから、 即非、ないし、差異共振には、同一性・即・非同一性という論理があると言える。
 それに対して、差異共立、あるいは、生成門氏の反共振においては、差異1「わたし」と差異「池」は、一如の様態になっていると考えられる。「わたし」は「池」と一(いつ)である。しかし、「わたし」は「わたし」であり、「池」は「池」である。
 以上のことは先の確認である。 
 

2)情感・感情について:

これは、性質上、論じにくいが、理論化する必要がある。とまれ、用語は情感/感情としておく。
 いったい、情感/感情とは何か。それは、主体と他者との関係様態の一つであろう。例えば、「わたし」が「海」を見て、その深い紺色に感銘を受けるとしよう。この感銘が情感/感情である。
 それは、差異共振のときがあるし、あるいは、差異共立の場合もあるだろう。前者の場合、「わたし」は「海」であり、且つ、「海」ではない。後者の場合、「わたし」と「海」は一である。
 共振ないし共立の様態に情感/感情があると言えよう。しかし、どこかに、感じる「器官」がなくてはならない。
 直感では、もし、凸iが能動性、凹iが受動性をもつならば、当然、凹iに感じる「器官」、情感/感情の「器官」があることになる。とりあえず、そう作業仮説しよう。
 差異共振、差異共立が生起したときのエネルギーを凹iは、情感/感情として捉えるということになろう。凸iはそれを知覚するが、感覚はしないだろう。情感/感情の主体は凹iにあるからである。
 いちおう、以上で説明はつくが、他の仮説として、凸iと凹iの共振・共立において、Media Point自体が情感/感情の主体となるということも考えられよう。要するに、感受性の「器官」の位置の問題である。
 思うに、差異共振ないし差異共立の様態において、差異相関が形成されたときに、情感/感情が生起することは確かであり、共振、共立のエネルギー様態の感覚が、情感/感情ということではないだろうか。
 だから、情感/感情の「器官」とは、Media Pointであり、また、凸i、凹iと言えるだろう。つまり、トライアッド(三一体)が「器官」になっているということも言えよう。
 問題は、近代合理主義は、連続性が中心化されて、差異共振、差異共立のもつエネルギー様態の情感/感情知覚を排除してきたのであり、人間の生を抑圧してきたと言えよう。
 脱連続性において、抑圧されてきた情感/感情が復帰するのである。ただし、これは、不連続性をもつので、連続性である近代合理主義の知は知として、保持されると言えよう。
 
 
3)脱連続性の反転の力学:

先に、初期近代においては、連続性が積極的であったが、後期近代においては、反動的になるのと述べた。この力学を明確にする必要がある。
 先に指摘したが、連続性は差異共振で、つまり、差異の牽引様態ではないかということである。わかりやすく言えば、対の差異が引きつけ合い、連続化して、同一性(物質)を産み出すということである。
 それに対して、対差異に斥力が反対に作用するようになると考えられるのである。これが反共振であり、共立様態とマイナス1をもたらすと思われる。
 つまり、初期近代とは、対差異の牽引力がはたらき、共振化して、連続性と同一性をもたらした。しかるに、後期近代においては、対差異の斥力がはたらき、反共振化し、共立とマイナス1をもたらす脱連続性の志向性をもつのであるが、しかしながら、それは、初期近代の連続性と衝突することになり、混乱、混沌がもたらされると考えられる。
 混乱、混沌となるのは、連続性と脱連続性とはまったく異質な作用であるからであり、両者は通約(共約)不可能だからである。そして、それを体現してしまったのが、ポスト・モダンである。
 とまれ、連続性と脱連続性とは、対差異の極性的力学に拠ると言えるのではないだろうか。もっとも、これは、検討課題であるが。


4)鏡像について:

今は簡単に触れるが、これは、差異共振において、同一性のフレームが生まれるが、このフレームが同一性のスクリーンとなり、それに本来、差異(凸i)である「わたし」を投影したものが鏡像であろう。これは、精神的フィルターで説明できよう。
 正確に言うと、差異共振は発光現象であり、その光が同一性のスクリーンに映り、鏡像となると考えられるのである。
 後で、精緻に考察を行ないたい。思うに、⇒+1の⇒の先端が同一性のスクリーンであり、そこに鏡像が映写されるのではないだろうか。


5)「わたし」ichとは何か:

これも簡単に触れるが、「わたし」は端的に凸iで説明できよう。シュタイナーのichはそう理解すべきだと思う。だから、日本語訳では、自我と訳されているのは、誤訳であると考えられる。


   




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