INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2010/07

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2010年07月30日(Fri)▲ページの先頭へ
シュタイナーの霊的科学(霊学)と差異的哲学科学
シュタイナーの説く霊・精神(der Geist)は、PS理論から見ると、差異として把捉できると思う。
 というか、差異的哲学科学として、シュタイナーの霊的科学(霊学)を見るといいと思う。シュタイナーは哲学博士であったし、また、自然科学研究者でもあったのである。
 また、「オカルト」という用語は不可視性と捉えるといいと思う。
 また、「霊」、「魂」、「体」の三元論であるが、「霊」は差異共立(MP1)、「魂」は差異共振(MP2)、「体」は同一性として捉えられるだろう。
 とまれ、最大の問題の一つは霊的力学をどう見るかである。例えば、エーテル体、アストラル体、自我である。
 今は簡単に触れるが、エーテル体とは、「気」であり、それは、⇒ではないだろうか。
 思うに、訳語に問題がある。自我と訳されているものは、ichであり、それは、自己ないし個と言うべきである。それは、凸i#凹iと考えられる。
 結局、エーテル体を科学的に説明できれば、霊的科学は説得力をもつようになるだろう。エーテル体は生命体を形成する情報エネルギーである。それは、差異共振エネルギーと言えるように思える。
 また、問題は、アストラル体である。それは、感情・情感に関係するのである。これは、凹iに関係するだろう。つまり、他者性である。対他者的様態である。
 結局、アストラル体はMedia Pointの凹i的様態である。そうすると、「わたしich」はMedia Pointの凸i的様態である。(そして、共振様態がエーテル体となる。)
 そうならば、シュタイナーの「自我」とアストラル体の関係がPS理論の凸i#凹iの差異共立に相当するのかもしれない。
 後で再考したい。


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


神智学 (ちくま学芸文庫) [文庫]
ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原著), 高橋 巌 (翻訳)


連続性同一性力学と脱連続性純粋差異力学:史的精神力学における連続性と脱連続性の振幅運動
(以下は、次の追記2を独立させたものである。http://ameblo.jp/renshi/entry-10604717457.html )

以上のように、同一性が差異に対して、(錯誤的に)優位性をもつとするならば、逆にどうして、差異が同一性に対して、異議を唱えて、差異の精神性を説くのだろうか。
 だから、単に、同一性が差異に対して、優位性をもつというのは、不十分、不正確である。
 正確に言えば、同一性の差異に対する優位性の志向性があるものの、差異は差異として、同一性に対する独自性、独立性をもっているということと言えよう。
 言い換えると、Media Pointにおいて、同一性の優位的力と差異の独立的力との矛盾が生起していると見ることができよう。
 実際的には、両者を突き詰めることなく、曖昧に妥協させていよう。正確に言うと、同一性優位の下に、差異を保持させていよう。
 しかしながら、近代合理主義、唯物論は、同一性が差異を完全に否定している様態である。
 この力学の説明が必要である。これは、上述したような連続性の力学で説明がつく。
 では、また、元に戻ることになる。つまり、連続性の力学によって、同一性が差異に対して優位性をもつのに対し、差異は異議を唱えて、差異自体の価値をもつのである。これは近代文化の基底にある闘争的事態である。
 この闘争的力学を説明する必要がある。連続力学によって、同一性が優位になっても、本来の差異、不連続的差異は根源(虚軸)に存続して、優位な同一性に対して、異質性を保持すると考えられる。
 言い換えると、優位な同一性と根源的差異との断層(活断層)が形成されるのである。この相克が近代文化の深層にあることになる。
 そして、近代合理主義、唯物論は、前者に傾斜して、後者を否定するということである。
 整理すると、連続性の力学によって、差異(不連続的差異)に対する同一性優位の「精神現象」が生起し、それが原理化されたものが、近代合理主義、唯物論であるということになる。
 そして、(錯誤的に)優位な同一性に対する差異の闘争が反近代、脱近代の動きであり、それが、19世紀後半から活発化して、20世紀以降の深部の知的動向となったのである。
 これは、言わば、脱連続性、脱同一性主義の知の活動であり、多様な領域の出来事である。
 しかしながら、哲学においては、ポスト・モダンは連続性の力学に囚われて、差異を純粋化することができなかったのである(後期デリダの「すべての他者はまったき他者だ」というのは、十分に差異や他者を捉えていないと考えられる。何故なら、超越性がないからである。)。純粋差異論を確立できたのは、不連続的差異論とその進展であるPS理論である。

追記:再度、整理すると、連続性力学があり、それが同一性を(錯誤的に)優位化する。しかし、意識の深部では、差異と同一性の相克がある。
 また、以前述べたことだが、連続性力学に対して、脱連続性の力学が、バランス法則的に生起すると考えられるのである。図式化すると、

連続性力学⇄脱連続性力学 

となる。
 だから、意識の深部において、脱連続性力学が作用するようになるのであり、それに対して、連続性力学が反動化すると考えられるのである。
 つまり、賦活される差異を抑圧するように同一性力学がはたらくと考えられるのである。(思うに、これが、今日、現代の精神病理現象を説明するだろう。うつ病等や異常犯罪等である。)
 そう、初期近代においては、連続性力学は、積極的であったが、後期近代となると、反動的になるのである。
 ということで、連続性力学と差異力学の相克の問題であるが、それは、精神力学的歴史の視点によって説明されると言えよう。これで、混乱した本件の問題がこれで解決されたとしよう。
 今日、近代合理主義、唯物論は反動的なのであるし、近代資本主義も反動的なのである。
 同一性価値を資本とするならば、差異価値を新しい価値とする経済・エコノミーが必要なのである。それは、脱資本主義である。差異価値結合経済である。これについは稿を改めて検討したい。
 
追記2:先には捨てた考えであるが、差異の牽引のときに、共振化して、同一性現象が起こり、差異の反発のときには、脱共振化して、差異共立へと還元されるのではないだろうか。
 つまり、差異の振動・振幅があり、それが、連続性(同一性)と脱連続性(差異)の交互変換を形成しているのではないか。
 量子力学的には、連続性とは粒子であり、脱連続性とは波動である。哲学科学的には、物質と精神である。
 生成門氏が説いた反共振(非共振)であるが、それは、脱連続性とすれば、差異共立であり、凸i*-凹i⇒-1で数式化できよう。
 ならば、反共振=脱連続性のときは、ダーク・マターが形成されるということではないのか。
 また、共振=連続性のとき、発光現象が生起するなら、反共振=脱連続性のときは、「闇」現象が生起するということではないのか。しかし、「闇」は光の裏面であるし、逆に、光は「闇」の裏面である。つまり、可視性と不可視性の二重性があるのである。
 とまれ、「闇」=不可視性=ダーク・マターの「宇宙」があると仮説される。
 それは、光宇宙に対するダーク・コスモスである。
 とまれ、後で、マイナス1と差異共立の相互関係について検討する必要がある。これまで、マイナス1を源泉としたが、差異共立が源泉ということもここでは考えられたからである。
 もっとも、マイナス1と差異共立との相互性については、先に触れてはいるが。


連続性同一性力学(モダン)と脱連続性純粋差異力学(トランス・モダン)
(以下は、次の追記2を独立させたものである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10604717457.html )

以上のように、同一性が差異に対して、(錯誤的に)優位性をもつとするならば、逆にどうして、差異が同一性に対して、異議を唱えて、差異の精神性を説くのだろうか。
 だから、単に、同一性が差異に対して、優位性をもつというのは、不十分、不正確である。
 正確に言えば、同一性の差異に対する優位性の志向性があるものの、差異は差異として、同一性に対する独自性、独立性をもっているということと言えよう。
 言い換えると、Media Pointにおいて、同一性の優位的力と差異の独立的力との矛盾が生起していると見ることができよう。
 実際的には、両者を突き詰めることなく、曖昧に妥協させていよう。正確に言うと、同一性優位の下に、差異を保持させていよう。
 しかしながら、近代合理主義、唯物論は、同一性が差異を完全に否定している様態である。
 この力学の説明が必要である。これは、上述したような連続性の力学で説明がつく。
 では、また、元に戻ることになる。つまり、連続性の力学によって、同一性が差異に対して優位性をもつのに対し、差異は異議を唱えて、差異自体の価値をもつのである。これは近代文化の基底にある闘争的事態である。
 この闘争的力学を説明する必要がある。連続力学によって、同一性が優位になっても、本来の差異、不連続的差異は根源(虚軸)に存続して、優位な同一性に対して、異質性を保持すると考えられる。
 言い換えると、優位な同一性と根源的差異との断層(活断層)が形成されるのである。この相克が近代文化の深層にあることになる。
 そして、近代合理主義、唯物論は、前者に傾斜して、後者を否定するということである。
 整理すると、連続性の力学によって、差異(不連続的差異)に対する同一性優位の「精神現象」が生起し、それが原理化されたものが、近代合理主義、唯物論であるということになる。
 そして、(錯誤的に)優位な同一性に対する差異の闘争が反近代、脱近代の動きであり、それが、19世紀後半から活発化して、20世紀以降の深部の知的動向となったのである。
 これは、言わば、脱連続性、脱同一性主義の知の活動であり、多様な領域の出来事である。
 しかしながら、哲学においては、ポスト・モダンは連続性の力学に囚われて、差異を純粋化することができなかったのである。純粋差異論を確立できたのは、不連続的差異論とその進展であるPS理論である。


同一性が差異に対して(錯誤的に)優位性をもつようになる力学:連続的差異⇒連続的差異的同一性
これは復習であるが、凸iの「意志」にとり、凹iの様態は、理解不可能である。つまり、凹iは、凸iにとって、絶対的他者である。
 凸iの傾斜があるとき、その「意志」は、凹iを否定する。しかし、この否定の様態が問題である。単に、-凹iではないと直感される。
 問題は、既に、同一性自己が形成されている時点にあるように思える。即ち、凸i⇒凹iにおいて、⇒が連続化して、凸i=凹i=+1という(錯誤の)事態の問題ではないのか。
 差異的自己は差異的他者と一致して、同一性自己と変じているのである。しかしながら、精神、意識の原点には、Media Point、ないし、凸i*凹iがあり、絶対的差異性、絶対的他者性が存しているのであり、故に、同一性自己(自我)とそれらが、衝突すると考えられる。言い換えると、同一性自己(自我)は、差異、他者と対立するのであり、それらを否定、抑圧、排除すると考えられるのである。
 問題は、その対立力学である。一般に、同一性自己(自我)がどうして、差異や他者に対して、優位性をもつのか。逆に、どうして、差異や他者が劣位になるのか。
 直感では、同一性の「力」があり、それが、優位、優勢となっているのではないのか。つまり、同一性とはそれ自体、自己肯定的、且つ、排他的な「力」であり、そのために、差異や他者を否定、抑圧、排除、隠蔽等するのではないのか。
 言い換えると、同一性的「力」、同一性力であり、それは、当然ながら、それとは異質な差異や他者を否定する作用をすると考えられる。
 しかしながら、差異や他者もそれなりに「力」であり、それは、同一性の「力」とは異質な「力」である。
 だから、やはり、同一性の「力」が差異の「力」に対して、優位性をもつことが解明されなくてはならない。(シュタイナーの霊的科学で言うと、悪魔アーリマンに拠ると説明されるのであるが。)
 精緻に見る必要がある。同一性は確かに「力」であるが、差異は「力」ではなく、エネルギーである。この相違に注意すべきである。明確に言えば、同一性の「力」とは物質的な力であり、差異のエネルギーとは精神的エネルギーである。(あえて、物質的な力と精神的な力ということもできよう。)
 つまり、ここには、つまり、Media Pointにおいて、差異=精神的エネルギーと同一性=物質的力の並存・並立があると言える。しかしながら、この並存・並立には、優劣は本来ないはずである。あるのは、絶対的な対立・矛盾の不安定な、ゆらぐ様態である。いわば、宙ぶらりんの様態である。
 また、振り出しである。
 今、浮んだのは、以前、考察した連続性の概念である。差異から同一性へと連続性の力学がはたらくと考えられるのである。言い換えると、ポスト・モダン、とりわけ、ドゥルーズの差異=微分の連続的差異の力学の作用である。
 そう、Media Pointにおいて、差異共振作用がはたらくとは、連続性の力学が作用することと考えられるのである。不連続的差異論の段階でよく述べた連続的同一性の概念がここで重要である。
 本来、不連続な差異がMedia Pointを介して、連続的差異となり、その結果、同一性が発生すると考えられる。つまり、

不連続的差異⇒連続的差異⇒同一性

である。そして、連続的差異⇒同一性は、一言で、連続的同一性と述べることができる。換言すると、

不連続的差異⇒連続的同一性

である。また、連続的同一性とは連続的差異的同一性ということができる。
 結局、この連続性が差異を同一性に従属、服従させると考えられる。言い換えると、連続的差異の結果、同一性の力が発生するのであり、この力自体が、根源・基底の不連続的差異(絶対的差異、超越的差異)を端的に否定すると言えるだろう。
 言い換えると、差異を連続化すること自体が本来の差異、不連続的差異の否定なのである。だからこそ、同一性の力は、不連続的差異に対して、優位性を錯誤的にもつようになると言える。これで解明されたと考えられる。
 ところで、連続性の力を私はルシファーと呼んだ。これこそ、同一性=物質(アーリマン)と結びついて、唯物論を産み出したと考えられる。
 結局、連続性は自我の力学でもある。日本で言うと、やはり、本居宣長の国学がこれに当たる。だから、国学が日本文化の唯物論化の要因と考えられる。

追記:以上の連続性の視点から、凸iによる凹iの否定とは何を意味するのか。
 それは、誤謬ではないだろうか。凸iと凹iとが連続化して、連続的差異となり、同一性(物質)を形成する。結局、凸iが凹iを否定しているのではなく、連続化された凸iと凹iとが、凸iと凹iとMedia Pointを否定することになると言えよう。
 Kaisetsu氏が精神的フィルターの概念を提起したが、正に、Media Pointにおいて、連続性のフィルターが作用して、凸iと凹i、凸i*凹i、さらに、凸i#凹iを通過させずに、否定するのである。 
 ところで、後で、鏡像について解明したい。


2010年07月27日(Tue)▲ページの先頭へ
日本は滅びるだろう:鏡像自我の国は空虚であり、淘汰される
日本はどこで道を踏み誤ったのだろうか。
 明治時代の日本人は個的であり、すぐれていた。しかしながら、大正、昭和へと移行するにつれて、低能・低劣になってきて、愚劣な「大戦」を起こして、破滅した。
 戦後はご破算であったが、結局、愚劣化した。日本人一般は知恵を得るのを恐れている。
 鏡像を破壊して、差異=個が得られるのに、それを恐れているのである。これは、視覚文化ではない。唯物論文化である。それに日本人は染まりきってしまっているのである。
 思うに、日本唯物論の原点は何か、どこか。やはり、江戸であると思う。それは、消費主義の都市であり、精神を知らなかったのである。江戸時代の優れた文化(例えば、芭蕉、浄瑠璃、琳派)はほとんど上方に存するのである。明治維新はこの唯物論文化からの脱却を目指したが、東京という唯物論都市を首都としたために、堕落してしまったと思う。
 日本のトランス・モダンとはトランス江戸である。これによって、日本本来の個=差異的文化社会が復興しうると言えよう。
 

富士通「FMV らくらくパソコン3」発表---大竹しのぶさんもカンタン実演
日経パソコン - ‎1 時間前‎
富士通は2010年7月27日、同社のシニア向けパソコン「FMV らくらくパソコン」の新モデル「らくらくパソコン3」を発表した。「らくらくパソコン3」はNTTドコモのシニア向け携帯電話「らくらくホン7」との連携機能を備え、7月29日から発売する。また、今回からCMキャラクター ...

富士通、中高年向け「らくらくパソコン」、携帯との連携強化
日本経済新聞 - ‎2 時間前‎
富士通は27日、中高年層向けパソコンの新機種を29日に発売すると発表した。NTTドコモに供給する携帯電話「らくらくホン7」との連携を強めたのが特徴で、携帯電話からの写真の取り込みなどが容易にできるなど利便性を高めた。NTTドコモが運営する「ドコモショップ」 ...

らくらくホン7向け専用スタンド同梱の「FMVらくらくパソコン3」
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富士通は、シニア・初心者向けPC「FMVらくらくパソコン3」2モデルを発表した。らくらくホン7で撮影した写真を手軽にPCへ転送するための専用スタンドが標準同梱される。7月29日からPC取扱店および直販サイト「WEB MART」で販売する。27日開催の報道関係者向け発表会には、 ...


精神体:不可視的身体としての差異=精神・霊:根源的不可視的身体としてのマイナス1=ダーク・マター
精神体:不可視的身体としての差異=精神・霊:根源的不可視的身体としてのマイナス1=ダーク・マター

テーマ:PS理論:不連続的差異論の数学的進展理論

以下の本をコンビニで少し立ち読みしたが、面白かった。メルロ=ポンティの「肉」の両義性の哲学が、興味深い。というのは、今私が考えている、精神=身体論と通じるからである。つまり、私は、差異とは、確かに、精神(霊)的な、認識的なものであるが、それは、身体でもあると思うからである。(この場合、身体は存在でもいい。)
 ただし、差異は不可視的身体なので、これまでは、精神(霊)、認識性、「知」という観念的なものとして捉えられてきたと考えられるのである。だから、観念論と実在論の対立が西洋哲学史において、生じたと考えられる。
 思うに、初期キリスト教、聖書においては、精神的身体spiritual bodyの発想はあったと考えられるが、その後の粗雑な物質的思考によって、それが否定されてきたと考えられる。
 とまれ、差異を精神的身体、精神体とすることで、これまでの心身二元論、精神と物質の二元論の問題が解決すると言えよう。
 とまれ、差異を精神体とすると、マイナス1のダーク・マターがわかりやすくなるのではないだろうか。
 つまり、暗黒物質から差異=精神体が生まれるというのは、存在という視点では共通するので、わかりやすいということである。
 思うに、暗黒物質は、暗黒身体、暗黒体、言わば、不可視的身体ではないだろうか。
 そして、それが、メルロ=ポンティの「肉」に通じるのではないだろうか。言い換えると、根源的不可視的身体(ダーク・マター)があり、それが自己分割して、差異=精神的不可視的身体を産出し、その現象化として、物質的身体を形成するということではないだろうか。
 とまれ、差異を精神的身体、精神体とすることを仮説したい。

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


人生が変わる哲学の教室
小川 仁志 (著)

出版社/著者からの内容紹介
★面白くって、ためになる、前代未聞の哲学エンターテイメント★ 本書で繰り広げられる「哲学の教室」では、歴史上の著名な哲学者が現代に現れて、悩める高校生やサラリーマン、主婦たちに対して授業をします。 大胆な設定ではありますが、歴史上の著名な哲学者が講義をしてくれることで、その人からあたかも直接学んでいる感覚を味わうことができるでしょう。 各章では毎回のテーマにふさわしい有名な哲学者を1名選んでいます。そしてその章を読めば、その哲学者の思想の概略がわかるようにしてあります。 一話完結なので興味のあるところから読んでみてもいいでしょう。章末にはあなたの人生に役立つ「哲学者からのメッセージ」も... 続きを読む




十二進法の問題:時計の12分割と黄道十二宮(占星術の12サイン)

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

今朝も不思議な夢を見たが、それはおくとして、昨日の朝は、12という数が問題になっていた。原因はわかったが。
 とまれ、時計の12分割と占星術のホロスコープの12分割が一致することを覚知した。
 12分割を産み出す力学は何か。今、思いつきで言えば、原根源の3分割(三一性、トライアッド)があり、それに対して、次の根源として、4分割があり、それを掛けて、12分割が生まれると言うことなのか。
 3分割はMP1に、つまり、精神に関係し、4分割はMP2に、つまり、現象(例えば、方位)に関係するのではないだろうか。
 思うに、4分割には、根源の3分割が作用しているのではないだろうか。つまり、凸iと凹iと共立#が作用するのではないだろうか。例えば、第一象限では、0からπ/6が凸iで、π/6からπ/3が共立で、π/3からπ/2が凹iではないだろうか。

参考:

時間の単位は、なぜ半端な12、60進法なの?

1日は24時間で、1時間は60分。長さや重さなど世の中の多くの単位は10進法なのに、時間の単位にはどうして半端な12進法や60進法が使われているのだろう。
奈良市で個人博物館「時の資料館」を開いている後藤晶男さんは「昼と夜をそれぞれ12に区切ったのは、古代バビロニア(紀元前2000年ごろ)の天文学者だという説がある」と話す。

1時間は60分、1日は24時間。 時間は身近なもので当たり前のことですが、なぜ60分、24時間なのかと聞かれると困ってしまいますね。


・・・・・


参考URL:
メソポタミア – Wikipedia
バビロニア – Wikipedia
六十進記数法 – Wikipedia
十二進記数法 – Wikipedia

http://sasapanda.net/archives/1711


Orbium -そらのたま-



遺伝子とMedia Point:差異共立情報と差異共振エネルギー
テーマ:Media Point:MP1⇒MP2

直感で言うと、原遺伝子情報、つまり、精神(霊)・イデア的遺伝子情報とは、差異共立領域、MP1に、そして、原エネルギーは差異共振領域、MP2に存するのではないだろうか。
 以下の運動能力であるが、それは、原エネルギーに関係するだろう。また、交配は、凸i*凹iの差異共振で説明できよう。
 そう、遺伝子情報、遺伝子群等とは、Media Pointに存すると見るのが、つまり、精神的情報であると見るのが的確であると考えられる。トランス・モダン・サイエンスの誕生である。

追記:先に触れたが、(凸i1#凹i1)#(凸i2#凹i2)#・・・#(凸in#凹in)の差異共立の差異共立があり、それが、総合的に差異共振化されると、複合的な有機体、生命体、知的生命体を産み出すのではないだろうか。また、無機物の生成もそれで説明できよう。
 そう、差異共立体は、霊的存在と言っていいのではないだろうか。つまり、多様な霊的存在(シュタイナーは霊的ヒエラルキアの存在と言っている)が人体や宇宙を構成しているということではないだろうか。

追記2:差異共立の差異共立を考えると、やはり、ガウス平面に直交するZ軸を想定したくなる。
 つまり、Z軸が差異共立体(トライアッド)の差異、質的差異を形成しているのではないだろうか。前にも触れたが、Y軸が「搬送波」であり、Z軸が「信号波」であり、⇒が「被変調波」である。


運動能力の遺伝子群解明へ=そり犬のDNA解析―米チーム
7月26日4時42分配信 時事通信
米アラスカ州やカナダ北部で盛んな犬ぞりの長距離レースで優秀な犬の集団は、シベリアンハスキーやアラスカンマラミュートとの交配が進み、持久力に優 れ、寒さに強いタイプの遺伝子群を受け継いでいる可能性が高いことが分かった。米国立衛生研究所などの研究チームが26日までにDNAを解析してほかのさ まざまな品種の犬と比べ、成果を英科学誌BMCジェネティクスに発表した。
 犬の品種改良は体格の大小や毛の長さ、色など、主に形態に基づいており、従来のDNA解析も形態の違いに関する遺伝子の解明が中心だった。研究チームは犬の運動能力に関する遺伝子群の解明を目指しており、研究成果は人間の医療やスポーツ科学にも役立つと期待される。
 短距離レースで速い犬の場合は、猟犬として有名なポインターや中近東・北アフリカに多い細身のサルーキとの交配が繰り返されたとみられることも判明。そ りを自ら進んで引く勤勉な性格は、トルコ原産で羊などの家畜を守る役割を果たしてきたアナトリアンシェパードから受け継いでいると推定されるという。
 アラスカでそりを引く犬は、19世紀末から20世紀初めのゴールドラッシュを支え、1930年代後半からはレース用に繁殖と改良が続けられてきた。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100726-00000012-jij-soci



◇英科学誌に発表
・ A genetic dissection of breed composition and performance enhancement in the Alaskan sled dog (英語) - 要約。BMC Genetics(7月22日)



十二進法の問題:時計の12分割と黄道十二宮(占星術の12サイン)

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

今朝も不思議な夢を見たが、それはおくとして、昨日の朝は、12という数が問題になっていた。原因はわかったが。
 とまれ、時計の12分割と占星術のホロスコープの12分割が一致することを覚知した。
 12分割を産み出す力学は何か。今、思いつきで言えば、原根源の3分割(三一性、トライアッド)があり、それに対して、次の根源として、4分割があり、それを掛けて、12分割が生まれると言うことなのか。
 3分割はMP1に、つまり、精神に関係し、4分割はMP2に、つまり、現象(例えば、方位)に関係するのではないだろうか。
 思うに、4分割には、根源の3分割が作用しているのではないだろうか。つまり、凸iと凹iと共立#が作用するのではないだろうか。例えば、第一象限では、0からπ/6が凸iで、π/6からπ/3が共立で、π/3からπ/2が凹iではないだろうか。

参考:

時間の単位は、なぜ半端な12、60進法なの?

1日は24時間で、1時間は60分。長さや重さなど世の中の多くの単位は10進法なのに、時間の単位にはどうして半端な12進法や60進法が使われているのだろう。
奈良市で個人博物館「時の資料館」を開いている後藤晶男さんは「昼と夜をそれぞれ12に区切ったのは、古代バビロニア(紀元前2000年ごろ)の天文学者だという説がある」と話す。

1時間は60分、1日は24時間。 時間は身近なもので当たり前のことですが、なぜ60分、24時間なのかと聞かれると困ってしまいますね。


・・・・・


参考URL:
メソポタミア   Wikipedia
バビロニア   Wikipedia
六十進記数法   Wikipedia
十二進記数法   Wikipedia

http://sasapanda.net/archives/1711

Orbium -そらのたま-


2010年07月25日(Sun)▲ページの先頭へ
素人の思いつきとして、ケインズ経済理論の意味を再考すべきである:差異共立と差異共振との均衡理論
ケインズ経済学についてはよく知らないので、確言は当然できないが、PS理論から見ると、差異共立(社会共同体)と差異共振(自由資本主義)との矛盾が資本主義経済において生起するが、後者の力学に対して、前者を護持するために、ケインズ経済学があるのではないだろうか。
 問題は、基本的に、差異共立と差異共振は絶対的矛盾であり、前者に傾斜すれば、その闘争的均衡が破綻して、社会主義になると考えられるのである。
 私見では、ケインズは両者の均衡を目指して、有効需要理論を説いたと思われるのである。
 それは、現代日本のエコノミストや政治家はまったく理解していないように思えるのである。

2010.7.25(その3) 
森田実の言わねばならぬ【670】
平和・自立・調和の日本をつくるために[670]
《新・森田実の政治日誌》[自由民主党の二階俊博代議士に聞く 自民党の選挙総括(2)]自民党が「改選第一党」になった原因/選挙の第一人者・二階俊博代議士(前経済産業大臣)は語る〈その2〉
「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」(快川紹喜)

2010.7.25(その2) 
森田実の言わねばならぬ【669】
平和・自立・調和の日本をつくるために[669]《新・森田実の政治日誌》民主党政権の「仕分け」自体を仕分けせよ!/某テレビ局からの取材要請文に見る「仕分け」見直しの動きに注目したい
「角を矯めて牛を殺す」(日本の諺)

2010.7.25(その1) 
森田実の言わねばならぬ【668】
平和・自立・調和の日本をつくるために[668]
《今日の一言》経済政策転換の時来たる/デフレスパイラルを放置し、消費税の大増税を進める貧乏神路線から脱却しなければ、日本経済は潰れる/真の経済成長路線への大転換を!
「猫を追うより魚をのけよ」(日本の諺)
2010.7.24(その3)
森田実の言わねばならぬ【667】
平和・自立・調和の日本をつくるために[667]
《新・森田実の政治日誌》[自由民主党の二階俊博代議士に聞く 自民党の選挙総括(1)]自民党が「改選第一党」になった原因/選挙の第一人者・二階俊博代議士(前経済産業大臣)は語る〈その1〉
「沈黙を学べ、ああ、わが友よ!」(ベートーヴェン)


2010年07月20日(Tue)▲ページの先頭へ
霊界(霊的世界)とは不可視身体界である:高次元的世界(高次界)と呼ぼう
テーマ:神話・神秘・民俗・霊性:ケルト、予言

霊界(霊的世界)というと多くの人が退いてしまうので、言い方を変えよう。それは、不可視的身体界と考えるが、より明快な言い方をすれば、高次元世界、つまり、高次界である。
 三次元空間ないし四次元時空間現象界において、可視的身体があるように、高次元世界(高次界)には、不可視的身体があると感じられるのである。
 もし、虚軸界を四次元空間とするなら、高次元世界は五次元空間であろう。


追記:現象界がどうして、三次元空間なのか、考えたい。


追記2:A Hidden Dimension(隠れた次元)でもある。超越的次元である。


追記3:超越論性と超越性の区別の問題があるが、凸iと凹iとは、ある意味でどちらでもある。
 フッサールの超越論的主観性の超越論性とは、超越性でもあるのである。何故、混乱しているのかと言えば、超越論性を一般的には、カント哲学の意味で使用するからである。つまり、物質界・自己同一性(自我)の意味合いにおいて、超越論性があるのであり、それを超えたものは認識できないとカントは考えたのである。
 しかしながら、凸iと凹iとは、絶対的差異であり、また、絶対的差異的意識なのである。凸iを絶対的差異的自己意識、凹iを絶対的差異的他者意識と考えることができる。
 しかし、日常世界においては、凸iが+1の同一性=物質と一致して、自己同一性意識となっているのである。
 つまり、凸i=+1という錯誤の自己、即ち、自我を形成しているのであり、それは、当然、凸i自体も、当然、凹iも抑圧して、排除しているのである。
 とまれ、本題にもどると、フッサールの超越論的主観性とは、この絶対的差異的自己意識を指していると考えられるのである。それがノエシスである。そして、それは、絶対的差異的他者(意識)への志向性をもつのである。
 この他者志向性において、フッサールは絶対的差異的他者(絶対的他者)と同一性的対象(物質)との区別が明瞭でなかったと考えられるのである。フッサールのノエマとは、この両者の中間態であると思われる。
 確かに、それは、同一性=物質ではない。しかし、何らかの被知覚的な対象をノエマに想定したとき、それは、絶対的他者ではなくなったのである。
 とまれ、超越論性と超越性の問題にもどると、カントのように自己同一性の意識(自我意識)を起点にすると、自我意識の根源は超越論性ないしは超越論的意識になるのであるが、しかしながら、絶対的差異的自己意識(凸i)を自我意識から考えると、それは、超越的意識になるのである。
 だから、フッサールの超越論性とは、超越性と見るべきなのである。これでこの問題は解明された。


追記4:さらに考察を続けると、凸i(絶対的差異的自己意識:超越的自己意識)と凹i(絶対的差異的他者意識:超越的他者意識)と両者の差異共立・差異共振の関係についてであるが、これは、言うならば、霊的自己意識、霊的他者意識、霊的自己・他者相関と言うことができよう。
 シュタイナーが「自我」と呼んだものは、この霊的自己意識ないし霊的自己意識と霊的他者意識と霊的相関を指すと思われる。そう、高次元自己意識、高次元他者意識、高次元相関性と言うこともできよう。結局、これらが「永遠」であると言えよう。(インド哲学のアートマンはこれを指すだろうし、ブラフマンは、霊的相関を指すのではないだろか。追記:ブラフマンは霊的相関を含むマイナス1のダーク・マター、正確には、ダーク・ボディを指すと言う方が的確であると思える。)
 シュタイナーの霊的科学に即して言えば、高次元的自己意識は、日常、覚醒時には、同一性=物質=+1と結合しているのであり、いわば、+1をまとっている、装っている、あるいは、+1で覆面しているのである。(思うに、この視点からブルカについて考えることができるかもしれない。ヴェールと現象・物質の問題である。)
 つまり、日常意識とはいわば、虚偽意識、錯誤意識、あるいは虚構意識なのである。(インド哲学はいみじくも、現象はマーヤー〔幻像〕であると説いた。)
 そして、夜、睡眠時には、高次元自己意識は同一性=物質界から離脱・脱出して、Media Pointの世界、又は、虚軸界に帰還していると考えられるのである。
 思うに、この世界は霊界である。あるいは、高次元世界である。ここには、同一性=物質はまったくないのである。エネルギーの世界、霊的エネルギー、高次元エネルギーの世界である。
 夜見る夢とは、思うに、この世界と日常世界との境界での事象ではないだろうか。
 問題は、この高次元世界の真相はいかなるものなのかということである。
 PS理論的ガウス平面を絶対的普遍空間とすれば、すべての絶対的差異自己意識、絶対的差異他者意識、絶対的相関意識は、この高次元世界に存するはずである。ここは超時空間であるから、時空間の差異は問題にはならない。
 思うに、ここで、高次元存在をどう考えるのかである。例えば、絶対的差異自己意識1が存するとして、それが、絶対的差異他者意識1を伴い、また、両者の相関意識1(これらを三一体、トリアッドtriad【英語ではトライアッドと発音する】と呼ぶ)をもつとするとき、この高次元世界において、三一体1、トリアッド1は、他の三一体、トリアッドと交流すると考えられるのである。
 つまり、絶対的自己意識1は、単に絶対的他者意識1だけでなく、絶対的他者意識2,3,・・・nと相関するはずである。つまり、一種の学習作業がここにあると言えよう。言い換えると、トリアッド相互の共立的学習があるだろう。
 また、さらに問題は、トリアッドに質的差異があるか否かである。
 シュタイナーは霊的ヒエラルキアの存在を説いている。つまり、位階をもった霊的存在があると説いているのである。
 それは考えられることであろうか。私が以前、シュタイナーの主著の『神秘学概論』を読んで、思ったのは、高度情報秩序の存在であり、それを、ガウス平面に直交するZ軸に定置してはどうかと示唆した。
 あるいは、そうではなく、高次元的自己意識(高次元的意識)は、振動ないし回転による、質的差異をもつ仮定することもできる。
 この問題はおいておくとして、暫定的に、高次元世界において、多様な位階的な絶対的差異意識があると仮定しよう。
 そして、各絶対的差異意識は、Media Pointのもつゼロ度によって、共立するとしよう。だから、ある高次元自己意識は、それより高度の高次元自己意識、つまり、超高次元自己意識と交信できることになると言えるだろう。
 ここで、高次元自己意識は超高次元の知を学習して、賢くなるのである。(もっとも、それ以降のことは、輪廻転生に関するので、ここでは触れない。何故なら、究極的に「オカルト」的になるからである。)
 私はこれまで、どうも夢を見ている時、というか、睡眠時に学習しているのではないかと言ったが、それは、これで、説明されるだろう。
 そうすると、絶対的自己意識1が、睡眠から覚醒すると、それは、再び、同一性=物質の知覚をまとい、自己同一性(自我)となるが、そのとき、睡眠時の学習の成果は意識されないだろう。何故か。
 それは、覚醒時においては、自己同一性や同一性=物質的知覚が中心であり、超高次元的知は、排除されると考えられるからである。
 ならば、学習した超高次元的知はどこに存しているのか。それは、簡単に言えば、無意識界である。つまり、Media Point界である。そこにコンタクトできれば、自己は叡知者になれるのである。因みに、哲学では周知であるが、プラトンは学習は想起であると言った。
 しかしながら、思うに、日常世界、覚醒の世界、同一性=物質現象の世界においても、ふと、無意識の内に、睡眠時において学習したことが想起されるように思われるのである。それは、一種、霊感のようなものとも言えよう。例えば、モーツァルトの天才性であるが、それは、作曲が、おそらく、睡眠時の学習に拠っているのであり、現実世界において、曲の総体が想起されて、ただ、記す(記譜する)だけということなのだろう。そう、モーツァルトの例えば、最後の交響曲『ジュピター』
http://www.youtube.com/watch?v=LCtD1XzAJSQ
http://www.youtube.com/watch?v=ERUs-ofTFrk&NR=1
http://www.youtube.com/watch?v=noAPeUlOjfc
は宇宙・星辰・コスモス的であり、正に、そのようなことを感じさせるのである。
 以上のように考えると、霊的科学者のシュタイナーの神秘的科学・哲学は、日常的には、きわめて異様であるが、それなりの合理性をもっていると考えられる。
 

追記5:4が長くなったので、ここで触れるが、シュタイナーの説くエーテル体とアストラル体とはPS理論的にはどう説明ができるだろうか。これはこれまで、いろいろ仮説したが、定説はまだない。
 直観で言えば、エーテル体は、差異共振のときの原エネルギーではないだろうか。それが、有機体や生命体を産み出すと考えられる。
 では、アストラル体とは何か。これも直観で言えば、差異共立と差異共振の中間様態、中間的エネルギーではないだろうか。つまり、霊的調和意識と霊的闘争意識との中間エネルギーではないだろうか。
 言い換えると、原エーテル体である。つまり、アストラル体はエーテル体を形成するということである。
 今はここで留める。後でさらに検討したい。


2010年07月19日(Mon)▲ページの先頭へ
個=特異性とはMedia Pointであり、不可視的身体である
私が昔から直感してきた絶対的差異としての個とは、Media Pointであるが、どうやら、それが、不可視的身体であると思われるのである。
 有り体に言えば、個には核があるのである。直感では、堅い核があるのであり、それは、ゆるがせにはできないものであるが、近代的同一性=唯物論はそれをまったく無視してきたものなのである。後期デリダの「すべての他者はまったき他者だ」(『死を与える』)というのは、まったく私の直感と一致するのである。
 とまれ、「堅い」という形容であるが、これは、身体性を意味しているのと思われるのであるが、物質性ではないのである。身体である。そして、先に、不可視的身体をMedia Pointに見たので、つまり、凸iと凹iとは不可視身体の両極であると思ったので、それは適切だったと言えよう。
 では、凸i#凹iの不可視的身体性とは何かと考えると、先に指摘したように、マイナス1=ダーク・マターと通じていると思われるのである。これについて、これから、検討していきたい。
 改稿して、述べたい。

追記:「堅い」核としてのMedia Point、不可視的身体であるが、それは、凸iと凹iとが絶対的差異であり、また、凸i#凹iとの差異共立も、絶対的差異的身体であるからと考えられる。
 精密に言うと、凸iと凹iも絶対的差異的身体性を感じる。凸i#凹iが絶対的差異的身体ならば、用語を区別する必要がある。後で、検討したい。


2010年07月18日(Sun)▲ページの先頭へ
新PS理論=PS理論
結局、差異共振とは差異共立を前提とした事態なので、PS理論は修正する必要がないと言えよう。
 そして、即非についても、同様に考えられるのである。西田哲学の絶対矛盾的自己同一についても同様である。
 結局、差異共立⇒差異共振が即非・絶対矛盾的自己同一で集約されているということである。

追記:端的に、どういうことなのか。差異共振は差異共立の残響・残照・余韻・余情があり、また、それが根拠・原因となり、同一性=物質現象を形成するのである。
 つまり、差異共振とは、精神(霊性・神秘性)と物質の中間態である。
 そして、形成された同一性が原自我凸iと結合して、物質的自我となり、直近の母胎である差異共振性を否定するのである。


新PS理論:PS理論と不連続的差異論の統一:差異共振・即非(MP2様態)と差異共立(MP1様態)
以下、PS理論を『嵐が丘』の主人公の意識に適用したものであるが、確かに、PS理論は明快に解明できるのである。
 先の試論(エッセイ)に拠れば、差異共振とは、MP2(虚軸のMedia Point、ゼロ点)を中心とする差異転換の様態を表わしているのであり、差異共立はMP1(実軸のMedia Point、ゼロ点)を中心とする差異並立の様態を表わしているということである。そして、即非とは差異共振を意味していると述べた。
 しかしながら、差異共振=即非において、差異とは当然、不連続的差異=絶対的差異であるから、A(不連続的差異=絶対的差異)=非A(不連続的差異=絶対的差異、正確には、他者である)となるのは、矛盾である。
 そうすると、やはり、差異共振=即非においては、不連続的差異=絶対的差異が対象となるのではなく、連続的差異、相対的差異が対象となっていることになるだろう。
 結局のところ、不連続的差異論において、差異共立が解明されたが、それは、MP1における不連続的差異=絶対的差異の様態の解明であったと言えよう。
 そして、PS理論では、差異共振=即非、即ち、MP2における連続的差異=相対的差異の様態(陰陽性)が解明されたと言えよう。
 そうすると、両者を統合する理論が必要となるのである。思うに、統一理論を新PS理論とすれば、明快である。つまり、不連続的差異論と(旧)PS理論の統一理論としての新PS理論である。
 ただし、MP1からMP2への質的転換を明確にしないといけないのである。つまり、不連続性から連続性への質的転換が生起していることを確認しないといけない。言い換えると、共立から共振への質的転換である。

追記:新PS理論によってこそ、D. H. ロレンスやルネ・マグリット、他の真に先駆者の作品が解明、理解されるだろうし、また、当然、自然の解明がこれまで以上に明晰になる。
 簡単に言えば、自然とは、不連続的差異=絶対的差異の共立が、連続的差異=相対的差異へと質的転換し、連続的差異共振化して、同一性=物質として産出されるものと言える。
 また、マイナス1と不連続的差異=絶対的差異共立との関係については、後で再考したい。 
 結局のところ、不連続的差異論はトランス・モダン的であるが、PS理論はポスト・モダン的であったのである。ただし、PS理論において、差異がガウス平面化されたのは、画期的であったと言えよう。
 ところで、新PS理論における自己認識方程式であるが、それは、

凸i#凹i⇒凸i*凹i⇒+1

でいいだろう(ただし、#は共立、*は共振の記号である)。しかしながら、*に共立、⇒に共振の意味をもたせるなら、従来通りに、

凸i*凹i⇒+1

で済む。

 
****************

『嵐が丘』:キャサリンの「私はヒースクリフ」の自己認識方程式

キャサリン(初代)の「私はヒースクリフ」という言葉は哲学的には何を意味しているのか。
 これは「わたし」は「他者」と一体であるということとは異なるのである。何故なら、そこには、「わたし」という主観性がまだ強く残っているからである。
 しかしながら、キャシーの言葉は主観性ないし主体性はヒースクリフに存するからである。つまり、「他者」に重心があるのである。
 これは、ドゥルーズ&ガタリの生成変化説から言えば、キャシーがヒースクリフに生成変化したということになる。意識の上であるが。
 しかしながら、自己認識方程式、即ち、

凸i(原自己)*凹i(原他者)⇒+1(自 己同一性:自我)

の視点から見ると、それは、原他者に傾斜した様態であり、それが、+1(自己同一性:自我)と一致していることになるだろう。即ち、凹i(原他者)=+1(自己同一性:自我)である。「わたしはヒースクリフ」の言葉に当てはめると、「+1(自己同一性:自我)は凹i(原他者)」となろう。
 しかしながら、正確に言うと、 根本方程式は、

凸i(原自己)*凹i(原他者)⇒+1(同 一性)【自己同一性であり、他者同一性である:あるいは、物質である】

である。
 つまり、同一性が帰結するのであり、そこに、本件の場合は、ヒースクリフが入るのである。
 言い換えると、

凸i(原キャシー)*凹i(原ヒースクリフ)⇒+1(ヒースクリフ)

となる。ただし、凹i傾斜があるので、それを太字(ボールド)にし、帰結をイタリックにすると、

凸i(原キャシー)*凹i(原ヒースクリフ)⇒+1(ヒースクリフ)

となる。
 これが、『嵐が丘』の初代キャサリンの心、精神の様態の方程式である。
 では、ヒースクリフの心はどうなるかと言えば、

凸i(原ヒースクリフ)*凹i(原キャサリン)⇒+1(キャサリン)

であり、凹i(キャサリン)に傾斜しているのであり、その帰結は、キャサリンという同一性であるが、キャサリンがリントンと結婚して、いわば、奪われたので、ヒースクリフは、空(くう:ゼロ:Φ)となった凹i(原キャサリン)を満たすために、非理性的な復讐鬼となるのである。
 しかしながら、当然、その絶対的空虚は埋まらないのであり、復讐は永遠に続くはずのものである。
 しかし、キャサリンが亡霊としてヒースクリフの心に出現したので、空虚が埋められたので、また、同時に、キャサリンの心も満たされたので、上記の二つの方程式は完結したと言えよう。
 即ち、

凸i(原キャサリン/原ヒースクリフ)*凹i(原ヒースクリフ/原キャサリン)⇒同一性(ヒースクリフ/キャサリン)

が形成されたのである。


エッセイ:差異共立身体:不可視身体とダーク・マター:spiritual body/matter
直観で、差異共立とは身体ではないかと思った。
 即ち、凸i#凹iは、いわば、「肉」である。この「肉」は、不可視の「肉」である。だから、ダーク・マターないしダーク・ボディではないのか。
 これはどういうことなのか。つまり、差異共立とはある身体性である。そう、不可視の身体である。
 そうすると、気の身体、あるいは、クンダリニーの身体に通じるのではないだろうか。これはいったい何なのか。
 思うに、虚軸とは不可視的身体(以下、不可視身体)の領域ではないのか。つまり、dark body, unseen bodyではないのか。虚数とは不可視、darknessを意味しているのではないのか。
 つまり、不可視身体の極性(陰陽)を意味しているのではないのか。
 思うに、不可視身体とはマイナス1であり、その極性化が差異共立であるように思えるのである。
 ただし、差異共立は、原極性であり、卵の様態である。そして、これが賦活されると、差異共振(即非)化し、可視化、物質化へと進展するのではないのか。
 とまれ、差異共振(即非)化によって、不可視身体から可視身体へと転換するのではないだろうか。
 そう、光の誕生である。差異が連続化して、同一性(物質)の光となるのである。
 そうならば、ヘーゲル弁証法こそ、差異共振原理を説いた初出であろう。それは、光、同一性の原理である。差異共振原理である。即非の論理も、ドゥルーズの理論も、その延長と考えられる。
 しかし、PS理論は、トランス・ヘーゲル弁証法である。絶対的差異の共立を説いているからである。
 ここで、陰陽論について言うと、それは、やはり、差異共振(即非)の論理である。ヘーゲル弁証法である。
 結局、陰と陽とが絶対的差異、不一致であることがPS理論の要である。凸i≠凹iである。
 極性原理に変えて、共立原理を導入する必要がある。そして、共立原理こそ、不可視身体dark body, unseen bodyの原理であると考えられる。
 思うに、これは、一(いつ)の共立的分化ではないのか。一の不可視身体の共立分化的様態ではないのか。言うならば、一元論的二元論、二元論的一元論である。
 あくまで、二元論である。二元は不一致であるが、両者は一なのである。
 思うに、鈴木大拙が即非の論理で考えていたのは、このような共立的一元論ではなかったか。つまり、大乗仏教に拠りながらも、それを超える論理を考えていたのではなかったか。しかしながら、仏教の用語を借りたために、差異共振原理と混淆してしまったのではなかった。おそらく、それが正しいだろう。(西田幾多郎にしてもそうだろう。)
 本題に戻ると、思うに、マイナス1のダーク・マターが不可視身体=差異共立身体を産むのである。これは、-1⇒MP1である。この⇒が意味深長である。つまり、これが、不可視身体を意味しているからである。そして、これが、ダーク・エネルギーであろう。つまり、ダーク・マターからダーク・エネルギーが生まれるのである。そして、ダーク・エネルギーとはdark sun、霊的太陽であろう。
 ということは、森羅万象は、暗黒物質から生まれたということになる。つまり、神、神々は必要ないのである。というか、神や神々、神仏は暗黒物質から生まれたのである。
 思うに、D. H. ロレンスが『逃げた雄鶏(死んだ男)』で述べた宇宙の薔薇とは、不可視身体のことではないだろうか。そして、darknessとは、ダーク・マターのことだろう。
 しかしながら、darkとは、spiritually lightであろう。だから、ダーク・マターはspiritual matterである。


2010年07月17日(Sat)▲ページの先頭へ
光とは何か:精神(霊性)の発現としての光?
今は余裕がないので、十分考察できないが、一言言うと、視覚は明らかに精神(霊性)と結びついている。つまり、内面と視覚が結びついている。
 これは、Media Point(MP)と結びついているのである。これまで、差異共振が発光現象であると考えてきたが、今やどう見るべきか。
 心の問題である。今はざっと言うが、より感覚的には、光はMP2に関係するだろうし、より精神的にはMP1に関係するだろう。つまり、光の知覚には二重性がある。
 外的な面と内的な面である。物質的な面と精神(霊)的な面である。
 しかしながら、問題点は、MP2の「心」に存する。ここでは、いわば、心と物質が連続化ないし混淆するのである。そう、自我の心とも言えよう。感覚であり、また、精神の二重様態がここにあるのである。
 わかりやすく言えば、音楽、例えば、バッハの音楽を聴いたとき、聴覚と精神「感覚」の二重性が喚起されるのである。
 私の考えでは、MP1を霊性SPIRIT、MP2を心魂SOULとするのがいいのである。
一般には、MP2まで感じられるが、MP1は希有である。それは、特異な時空間が必要であると思われるのである。
 光の問題に戻ると、この視点から言うと、光はMP1とMP2の要素があると考えられる。
 私は以前、超越光ないし超光と呼んだのは、当然、MP1の光である。それが、言わば、現象光となるMP2と連続化ないし混淆すると考えられるのである。
 当然、宗教的な光とはMP1である。しかし、近代合理主義、近代的自我の世界では、これは、否定されるのである。
 とは言え、ご来光を拝むとか、夕日に感動するというのは、MP1の光、超越光、超光を直感しているからであろう。そう、霊光と言ってもいい。
 結局、超越光、超光、霊光とは差異共振の様態にある差異共立の一如態の発現と考えられる。
 アフラ・マズダーやアマテラスはここに存するだろう。しかしながら、問題は、マイナス1である。
 差異共立を和として、ゼロとするなら、それは、虚軸ゼロ点であり、それがマイナス1と通じるように思われるのである。この論理は何か。
 これが難問である。これは保留にしておき、直感で考えよう。
 外界の対象の奥にあると思われる物自体であるが、それは、やはり、マイナス1であろう。つまり、本来、いわば、背後にあるものを正面奥に錯覚するのである。
 そう、やはり、-1⇒MP1ではないだろうか。そして、MP2において、MP1を直感するように、MP1においても、-1を直感するのではないだろうか。
 つまり、⇒の先端は起点と通じているということである。だから、MP1の超越光の奥に物自体があることになろう。
 それが、ダーク・マター(暗黒物質、不可視物質)であろう。そう、外的物質の本体とはダーク・マターということになるだろう。
 しかしながら、ダーク・マターのダークとは本当に闇なのだろうか。私はこれは、超超越光の可能性を感じるのである。
 先に霊的太陽はMP1であると言ったが、その根源に超霊的太陽があるのではないだろうか。
 プラトンの洞窟外の太陽(善のイデア)は、この超霊的太陽を意味しているのではないのか。
 ならば、アフラ・マズダーはそこに存するだろう。すると、MP1の霊的太陽とは、超霊的太陽の背面であるということではないだろうか。
 今はここで留める。


2010年07月16日(Fri)▲ページの先頭へ
差異共振と差異共立について:即非再考
余裕のあるとき、本題について、詳述したいが、今は簡単に触れるに留める。
 先に、両者について区別したが、まだ、判然としない向きもあるので、緻密に考察検討したい。
 以前は私はMedia Pointにおいて、差異共振化が起こり、差異共振現象が生起するのであり、その後、差異共振様態が抑圧されて、同一性=物質が言わば分離されると説いていた。
 しかるに、最近は、私はMP1(虚軸のゼロ点)において、差異共立が生じ、MP2(実軸のゼロ点)において、差異共振が生じるのであると述べた。(そして、即非は両方に関わると考えた。)
 端的に差異共振とは何か。これは、一般的な意味での、即非と一致すると言えよう。即ち、A=非Aであり、且つ、A=A(又は、A≠非A)である。
 具体的な経験では、これまで何度も述べたように、「わたし」は「山」であり、且つ、「わたし」は「わたし」である。
 ここでは、差異があるものの、差異(「わたし」)は他者(「山」)と等価となることがあるのである。
 そうすると、これは、連続的差異である。
 とは言え、問題は複雑である。差異共振、あるいは、即非においては、不連続的差異と連続的差異との交互の変換が反復する(共振する)と考えられるのである。
 とまれ、連続的差異とは同一性であり、それが、差異を物質化させ、また、自己を同一性自己化(自我化)させるのである。また、言語はこの同一性の表現の道具であると言えよう。
 他方、不連続的差異ないし絶対的差異として、差異が存しているのである。凸iと凹iである。つまり、差異共振ないし即非においては、差異共立が内包されていると考えられるのである。
 ここで、さらに精緻になる必要がある。もし、MP2において、差異共振があり、そこに、差異共立も含まれるならば、それは、実際は、MP1に関わることである。
 そう、先に述べたように、MP1とMP2とは、即非様態であると考えるのが、的確だと考えられる。即ち、MP1=MP2であり、且つ、MP1≠MP2であるということである。換言すると、MP1はMP2と連続的であると同時に、不連続的であるということである。
 しかしながら、もし以上のようならば、つまり、差異共振において、差異共立が内包され、また、差異共立は差異共振と即非関係にあるというならば、MP1 とMP2との相違は何なのであろうか。
 それは、あくまで、MP1が主であり、MP2は従であるということであろう。あるいは、前者が優位であり、後者が劣位であるという位階関係があるということだろう。
 言い換えると、MP1にとっては差異共立が主であり、差異共振は従である。MP2にとっては差異共振が主であり、差異共立は従であるということになろう。わかりやすく表記すれば、MP1⇒MP2である。
 以上から整理するならば、差異共振=即非には、差異共立が含まれるが、それは、差異共立の優位、主なるものであることが前提である。
 また、ここで、先に、即非には、一如性があると言ったが、それはどうだろうか。A=非Aの連続的差異=同一性を一如性と言うことができるだろうか。
 鈴木大拙は一(いつ)であることを強調していたと思う。これは、連続的差異=同一性の一だろうか。どうもそのように考えられる向きはある。
 しかしながら、私の考える一如性とは、差異共立における一如性である。そこでは、「わたし」は「山」にならずに、両者が共立しつつ、一如様態にあるのである。
 もし連続的差異=同一性の一(いつ)を鈴木大拙が考えていたならば、それは、ポスト・モダン的である。ドゥルーズ的である。
 しかしながら、差異共振=即非には、差異共立的要素があるのである。というか、不連続的差異、絶対的差異性があるのである。つまり、不連続的差異(絶対的差異)と連続的差異との絶対矛盾があるのである。
 とは言え、その不連続的差異であるが、それらは、差異共振=即非において、共立しているのだろうか。
 そもそも差異共立とは一体何なのか。それは、不連続的差異、絶対的差異同士がいわば調和している状態である。
 差異共振の場合には、極性が強く作用するが、差異共立においては、極性はいわばゼロになっていると考えられる。
 思うに、ここには、差異を超越したより大きなものの力が働いているように思えないことはない。
 そう、ここには、全体の視点があると考えられる。この全体が一如性に関係すると思えるのである。
 では、どこから全体性の視点が生まれるのだろうか。これは、保留にしておく。
 とまれ、差異共立に戻ると、それは、差異が均衡している様態であると考えられる。平衡状態である。D. H. ロレンスの言う聖霊=王冠の和解の様態に通じると言えよう。
 やはり、それは、ゼロ様態であり、卵の原初的様態と言えるだろう。それは、母胎内に近い位置にあると言えよう。
 ここで、先の問を考えると、このゼロ様態が原初の全体を喚起するのではないだろうか。神話的にはウロボロスを指すと言える。
 そう、また、卵とは端的に身体である。つまり、差異共立的一如態には、身体性があるということになる。
 そして、この身体ないしは原身体とは、先に示唆したように、マイナス1のダーク・マターから発しているように思えるのである。つまり、虚軸ゼロ点において(実軸ゼロ点ではなく)、マイナス1と通じるように思えるのである。
 つまり、こういうことではないだろうか。実軸ゼロ点は、プラス1(物質)と結びつくが、虚軸ゼロ点は、マイナス1(ダーク・マター)と結びつくということではないだろうか。
 そう、生成門氏が述べた反共振=共立、即ち、凸i*(-凹i)⇒-1 ではないだろうか。今はそう考えよう。


2010年07月14日(Wed)▲ページの先頭へ
虚軸界が霊界ではないのか
凸i*凹i⇒+1【i*-(-i)⇒+1】の自己認識方程式に拠ると、近代は、自我凸iは、+1と合一する錯誤に陥っている。
 いわゆる、感覚知覚(正確には、物質的感覚知覚)の世界は、凸i=+1の錯誤の世界である。そう、対象凹iも+1である。つまり、凸i=凹i=+1の錯誤の世界である。
 感覚は差異共振の「光」によって生起されよう。感覚はMP2(実軸のゼロ点)の面となるだろう。これは、表記しにくいが、MP2の、いわば、プラスの面である。あるいは、表面と言おうか。
 しかしながら、実体、本体は、差異の双対的様態である。つまり、虚軸、ないし、虚軸のゼロ点(MP1)における差異極性の様態である。虚軸においては、差異共振もあり、差異共立もある。とまれ、これを差異即非様態と呼ぶ。
 これが、霊的様態ではないだろうか。「わたし」は、思うに、原自己凸iと原他者凹iの極性に還元されるのではないのか。
 思うに、「わたし」とは、凸iと+1との結合ではないのか。それは、自我と言ってもいいのではないか。
 しかるに、自己とは、差異即非様態と自我との共立ないし共振ではないだろうか。
 とまれ、「わたし」は、差異即非様態に還元されよう。
 そして、それは、霊的様態であると考えられる。自我の土台の個と言えるのではないだろうか。そう、霊的個である。霊個である。
 そして、差異共立点MP1において、和、ゼロとなり、マイナス1が霊的直感されるのではないだろうか。
 そう、マイナス1の物自体は、超霊的な存在ではないだろうか。
 とまれ、虚軸界が霊界であるように思われるのである。後で更に検討したい。


精霊流しの「海」とは何か:折口信夫の妣が国、常世
テーマ:D. H. ロレンスと折口信夫

長崎の祭礼の精霊流しでは、仏を精霊船に乗せて、海へと導く。仏はspiritである。
 では、行く先の「海」とは何か。これは、マイナス1の母神に近いが、しかしながら、水の要素を考えると、第三象限領域ではないだろうか。
 因みに、私は、

風  火
  空
水  地

と見ている。
 空は聖霊でもある。

後でさらに検討したい。

追記:直感では、イシスとオシリスの神話を想起する。オシリスは弟のセトに殺害されバラバラとなり、男根が船に乗せられて、ナイル川を漂い、漂着して、樹木になるのである。そして、それをイシスが見つけて、他の部分と接合して、復活させるのである。母神神話である。古代オリエント神話である。

精霊流し
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長崎市県庁坂を登る精霊船

精霊流し(しょうろうながし)とは、長崎県 の各地でお盆 に行われる、死者の魂を弔って送る行事のこと。
概要 [編集 ]
精霊船

長崎市 をはじめ、長崎県内各地でお盆 に行われる伝統行事である(県内でも海から遠い波佐見町 等にはこの風習はない)。初盆を迎えた故人の家族らが、盆提灯や造花などで飾られた精霊船(しょうろうぶね)と呼ばれる船に故人の霊を乗せて、流し場と呼ばれる終着点まで運ぶ。

毎年8月15日の夕刻から開催され、爆竹 の破裂音・鉦の音・掛け声が交錯する喧騒のなかで行われる。精霊船は山車 を連想させる華美なものであり、見物客が集まる。「祭り」と誤解されることもあるが、あくまでも故人を追悼する仏教 の行事である。

初盆でない場合は精霊船は作らず、わらを束ねた小さなこもに花や果物(供物)を包み、流し場に持っていく。精霊船や供物は、以前は実際に海へと流されていたが、長崎市では1871年 (明治4年)に禁止された。精霊船も水に浮かぶような構造にはなっていない。現在でも島原市 、西海市 、松浦市 、五島市 などでは、実際に川面や海上に浮かべることもある。

長崎市には長崎くんち という祭りがあり、精霊船の造りはくんちの出しものの一つである曳物に似ている。 曳物は山車を引き回すことがパフォーマンスで行われており、精霊船をそれを真似て引き回すことが一部で行われている。郷土史家の越中哲也 は長崎放送 の録画中継の中で「難破船になるですばい」と毎年、出演の度に「悪しき行為」と解説している。この行為は一般的には好ましい行為と見られておらず、警察も精霊船を回す行為には制止を行っている。

代表的な流し場である長崎市の大波止には、精霊船を解体する重機が置かれている。家族、親類らにより盆提灯や遺影 、位牌 など、家に持ち帰る品々が取り外され、船の担ぎ(曳き)手の合掌の中、その場で破壊される。遺族にとっては悲しい瞬間である。
精霊船 [編集 ]
もやい船の印灯篭

精霊船は大きく2つに分けることができる。個人船と「もやい船」と呼ばれる自治会 など地縁組織が合同で出す船である。個人で精霊船を流すのが一般的になったのは、戦後のことである。昭和30年代以前は「もやい船」が主流であり、個人で船を1艘つくるのは、富裕層に限られた。

もやい船、個人船に限らず「大きな船」「立派な船」を出すことが、ステータスと考えている人もいる。現代でも「もやい船」の伝統は息づいており、自治会で流す船のほか、病院や葬祭業者が音頭をとり流す船もある。また、人だけでなく、ペットのために流す船もある。

流し場までの列は家紋 入りの提灯 を持った喪主 や、町の提灯を持った責任者を先頭に、長い竿の先に趣向を凝らした灯篭をつけた「印灯篭」と呼ばれる目印を持った若者、鉦、その後に、そろいの白の法被 で決めた大人が数人がかりで担ぐ精霊船が続く(「担ぐ」といっても船の下に車輪をつけたものが多く、実際には「曳く」ことが多い)。

精霊流しは午後5時頃-10時過ぎまで掛かる事も珍しくない為、多くの船は明かりが灯るように制作されている。一般的な精霊船では提灯に電球を組み込み、船に積んだバッテリー で点灯させる。小型な船や一部の船ではロウソクを用いるが、振動により引火する危険があるため電球を用いる事が多い。また、数十メートルの大型な船では発電機 を搭載する大がかりな物もある。

精霊船は「みよし」と呼ばれる舳先に家紋や苗字(○○家)、もやい船の場合は町名が書かれている。艦橋 の部分には位牌と遺影、供花が飾られ、盆提灯で照らされる。仏様や観音様、お経を書いた帆がつけられることが多い。

印灯篭は船ごとに異なる。もやい船の場合はその町のシンボルになるものがデザインされている(例:町内に亀山社中 跡がある自治会は坂本龍馬 を描いている)。個人船の場合は家紋や故人の人柄を示すもの(例:将棋が好きだった人は将棋の駒、幼児の場合は好きだったアニメキャラなど)が描かれる。

船の大きさは様々で、全長1-2m程度のものから、長いもので船を何連も連ね20-50mに達するものまである。

精霊船の基本形は前述の通りであるが、近年では印灯篭の「遊び心」が船本体にも影響を及ぼし、船の形をなしていない、いわゆる「変わり精霊船」も数多く見られる(例:ヨット好きの故人→ヨット型、バスの運転士→西方浄土行の方向幕を掲げたバス型など)。
由来と爆竹 [編集 ]

由来は諸説あるが、中国 の彩船流しの影響が色濃くでているものとされている。また、流し場までの道行で鳴らされる爆竹は、中国が起源であるなら「魔よけ」の意味であり、精霊船が通る道を清める為とされる。近年ではその意味は薄れ、中国で問題になっている春節 の爆竹と同様に、「とにかく派手に鳴らせばよい」という傾向が強まっている。数百個の爆竹を入れたダンボール箱に一度に点火して火柱が上がったりする等、危険な点火行為が問題視されている。観覧者を直撃する事が多くあるため、ロケット花火の使用は禁止されている。度を過ぎた花火の使用をした場合、各船の花火取扱者(事前に精霊流しの花火についての講習を受けた者)に警察から指導が行く場合がある。
見物ポイント [編集 ]

長崎市の場合は長崎放送 が中継録画を行う長崎県庁前には数多くの船が流れ、「変わり精霊船」も多く見られる。一方、長崎市役所周辺ではもやい船の伝統が残る下町が多く、3連、4連の巨大な精霊船を見物することができる。
法的な規定 [編集 ]

* 道路上での船の作成や全長2m以上の船を流す場合は所轄の警察署長の許可が必要
* 船の大きさは最大で全長10m、胴体7m、幅2.5m、高さ3.5m。なお、高さは本体高さでなく持ち上げたり担いだりしたときの高さとなる。
* 花火取扱者以外の花火取り扱いは禁止
* 矢火矢(やびや、ロケット花火)、連発花火などの使用禁止
* 花火を人や車両に向けて使ってはいけない
* 流し場で取り扱える精霊船の大きさは各所で異なり、大きいものは大波止など一部の場所でしか扱えない。
* 責任者は青、花火取扱者は赤のたすきが必要。このたすきは事前の届け出を行う際に所轄警察署の署長から交付される。

精霊流しに伴う影響 [編集 ]

* 精霊流しが行われる時間帯は長崎市中心部をはじめとする各所で交通規制が行われ、バスや路面電車 は経路を変更する形で運行される。
* 精霊流しの後は自治体が精霊船の処分を行うため一定期間粗大ごみの搬入が停止される。
* 近年薄暮競走 を行うようになった大村競艇場 は、最終12競走の本場発売締切時刻を18時40分(2007年 8 月・2008 年 8月実績)としているが、精霊流し当日のみ最終12競走の本場発売締切時刻が18時15分になる。(これに伴い当日各レースの発売締切時刻や発走時刻等も変更となる)

さだまさしと精霊流し [編集 ]

長崎市の人にとっては大変重要な行事であり、長崎出身の歌手さだまさし が聞いた話によれば、1945年 8 月9日 の長崎原爆投下 の際には多くの人が「自分が死んだら、誰が精霊船を出してくれるのだろうか」と気に懸けながら亡くなっていったという。

そのさだまさしは、自分の従兄弟の死に際して行われた精霊流しを題材にして、1974年 のヒット曲『精霊流し 』を作った。しかし、その歌と一般的な灯篭流しの情景を結び付け悲愴なイメージを作り上げてしまった観光客が実際に長崎の精霊流しを目の当たりにしてあまりの賑やかさに「歌と違う!」と驚くこともしばしばあるらしい。実は、さだも歌詞の中で「精霊流しが華やかに」と書いており、グレープ のファーストアルバム『わすれもの』では『精霊流し』のイントロ に爆竹 の音が入っており、賑やかさの奥底にある哀しみを描いているのだが、一般的な行事の印象が如何に強いかを物語るエピソードとも言える。
関連項目 [編集 ]

* お盆
* 盆踊り
* 送り火
* 御招霊
* 爆竹
* 舟っこ流し

関連サイト [編集 ]

* 精霊流し(長崎市)
* 長崎精霊流し(長崎新聞)

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%9C%8A%E6%B5%81%E3%81%97 」より作成
カテゴリ : 日本の年中行事 | 長崎県の祭り

★精霊船の由来
寛政時代の記録には「昔は精霊を流すに船をつくるということもなく」とある。精霊は聖霊とも書いていた。読み方もしょうろうではなく、昔風にはしょうりょうである。

享保(1716〜1725)のころ、中島聖堂の学頭をしていて、のち幕府の天文方をした廬草拙(ろそうせつ)という儒者が市民が精霊物を菰包みで流しているのを、これはあまりにも霊に対し失礼だというので藁で小船を作ってこれに乗せて流した、という記録がある。
ろそうせつ(1671〜1729)が亨保のころ始めたとすれば、正徳(1711〜1715)以前には精霊船は無かったことになる。
長崎名勝図絵という本には、享保のころ、物好きな男が小船を作って供え物を積んで流した、とある。この場合は一市民が始めたというおもむきで書いてある。また古書には、唐人の彩舟流し(さいしゅうながし)という説もある。今日まだ定説はない。
◇長崎辞典・風俗文化編・長崎文献社より
http://www.medaka.org/~ryouma/file/file_01.html


2010年07月12日(Mon)▲ページの先頭へ
Spiritとは何か: Was ist der Geist?:Spiritual Earth
差異共立一如態(MP1)とは、瞑想やその他のときに生起する。
 これは、凹iを肯定して、凸iとの均衡を意味しよう。差異共振のときは、揺れ動きがある。
 直感では、差異共立様態のときに、霊精が感得されるのである。
 共立を和立、和交、和共と言おう。和立の静態において、感受性が生じて、ある霊精を感得するように感じられるのである。
 では、この和立の感受性と霊精との関係は何か。Kaisetsu氏が共立は和であると述べていることから、ゼロ度の感受性と言えよう。凸i+凹i=ゼロである。ならば、+1+(-1)もゼロである。
 これは、作業仮説であるが、共立=和立=和共のときは、実軸のゼロと、「共立」するのではないだろうか。それとも、融合であろうか。
 とまれ、MP1の差異共立のゼロは、MP2のゼロとなんらか交接しているのではないだろうか。
 というか、ゼロ状態である点で、両者は一致すると考えられる。
 つまり、虚界と実界が一致するのである。思うに、これこそ、聖霊的ゼロ・ポイント、あるいは、聖霊点と言えるのではないだろうか。
 ここで、私の経験から言うと、ある対象に、霊精を感じるとき、例えば、樹木や岩石に霊精を感じるとき、その霊精とは、-1の物自体、ダーク・マターではないのだろうか。
 つまり、聖霊点を介して、対象の樹木、岩石の+1に物自体、ダーク・マターの-1を直感しているのではないか。
 ならば、霊精とは、マイナス1、物自体、ダーク・マターである。
 霊的感覚は確かに、差異共立一如態MP1に存するが、霊精はどこに存するのかと考えていたのであるが、以上の思考実験から、それは、マイナス1に存すると言えよう。言い換えると、マイナス1が霊精である。
 これは、これまで述べた霊的大地と一致することになる。即ち、鈴木大拙の日本的霊性、折口信夫の妣が国、そして、D. H. ロレンスの地霊、等に一致すると言えよう。そして、それは、「母」である。プラトンのコーラである。思うに、マイナス1は霊的地球と言えよう。 Spiritual Earth, Dark Earthである。(そうならば、コペルニクス以前の地球中心説はその点から妥当性をもっていたと言えよう。)
 では、シュタイナーの霊的位階的存在(霊的ヒエラルキア)とは、どう説明ができるのだろうか。
 私は先に、位階的スペクトルを述べた。それは、クンダリニーに関係することである。
 思うに、この位階的スペクトルと霊的ヒエラルキーは関係しそうである。
 クンダリニーとは、身体と霊精との結節点である。この身体が重要ではないだろうか。それは、+1になるからである。そうすると、やはり、聖霊点が関係するのではないだろうか。クンダリニーとは、瞑想において、生起するものである。だから、聖霊点に関わるのである。そうすると、当然、マイナス1としてのクンダリニーが考えられるのである。すると、霊的ヒエラルキーもマイナス1に存すると考えられよう。
 それとも、クンダリニーは、虚軸に存すると見るのか。身体を実軸にとれば、やはり、クンダリニーは、実軸であろうし、霊的ヒエラルキーもそうなるだろう。
 そうすると、マイナス1は、霊的身体である。そして、そこには、螺旋的エネルギーが流れていることになるのではないだろうか。そう、Vector Modeが+1の方向に形成されるならば、それ、Dark Vector Modeではないだろうか。あるいは、Spiritual Vector Modeである。


2010年07月11日(Sun)▲ページの先頭へ
即非について再考:差異共立一如態としての「即非」:即非から即一非へ
即非はAが非Aであり、且つ、Aであるという論理である。
 先に問題にしたことは、前者のA即(非A)、又は、A即非Aである。http://ameblo.jp/renshi/entry-10587127583.html つまり、即の部分である。これは何か。
 直近においては、即非は差異共立一如態であると把握したので、即は、等号、イコールではなく、共立でなくてはならない。あるいは、並立である。造語して、双立である。
 しかしながら、即には、「〜である」という同一性構造が残っているのではないだろうか。
 共立、並立、双立の場合には、それがなく、差異は差異のままであり、他者の差異と一如様態にある。
 例えば、「わたし」は非「わたし」であるというとき、「わたし」は非「わたし」へと同一性化しているのである。非「わたし」を他者とすれば、「わたし」は他者と同一性化しているのである。これは、凸iから凹iへの転化ではないのか。
 私が考える差異的志向性とは、「わたし」は他者を志向するが、他者と一致することはなく、やはり、「わたし」は「わたし」であるという発想である。
 しかし、「わたし」は非「わたし」であるという即非論は、基本的には、やはり、差異共立一如態を指していると見るのが妥当だと思う。つまり、即とは、一如態を意味すると見るべきだと考えるからである。
 鈴木大拙は、西洋の二元論的区別に対して、東洋の一元性(一体性)を説いているのであり、その一元性が一如性であると考えられる。
 だから、即という用語は語弊が実に大きいのである。混乱させるものである。
 故に、即は一如・一体・一(いつ)性を意味すると見なくてはならない。同一性ではないのである。そう、即と「〜である」とは当然、異なると見るべきであるが、両者を混同している誤解があると言えよう。
 だから、色即是空の即もやはり、一如、一体ではないだろうか。つまり、色共立空である。これはわかりやすいのではないだろうか。とまれ、これは後で検討したい。
 ということで、私は即を即一に変更したいと思う。故に、即一非論である。A即一(非A)である。即ち、「わたし」即一「非わたし」である。だから、「わたし」は「川」であるではなくて、「わたし」は「川」と一如・一体であるが正しいのである。
 「〜である」は、差異共振の一端である。MP2における差異共振作用において発生する連続性・同一性である。
 ところで、ドゥルーズの生成変化であるが、それは、やはり、差異共振作用における連続性・同一性であるが、それは、他者である凹iに傾斜していると言えよう。つまり、自我凸iの傾斜の反対であるが、それは、逆立ちした近代主義である。つまり、近代の鏡像に過ぎないのである。


2010年07月10日(Sat)▲ページの先頭へ
即非とは何か:差異共立と差異共振:差異共立一如態が即非の様態である
動物-人物相関象徴主義と生成変化論:差異共立一如態(MP1)と差異共振連続態(MP2)
http://ameblo.jp/renshi/entry-10586674702.html


先に、上記のように、即非と差異共振を同じものと見たが、再検討したい。

 私の即非概念の理解は個人的経験に傾いているので、検証する必要がある。

 以下の説明からわかるのは、即非とは本来、Aは非Aであり、且つ、やはり、Aであるという論理である。

 私はAを「わたし」として、非Aを「川」にして、「わたし」は「川」であり、且つ、「川」ではないと述べてきた。そして、先には、「わたし」が「川」であるというのは、連続性であると述べたのである。

 私の考えが飛躍しているならば、非Aを「川」等のように具体的対象にしていることでであろう。

 非Aを「川」にするのは、理論的には確かに飛躍である。「Aにあらず」を「川」と限定するのは確かに飛躍である。

 つまり、「Aではない」は必ずしも「川である」にはならないからである。当然、 非Aの方が、川であるや、〜であるというよりも内包が広いのである。

 再度言うと、非Aを例えば、Xであると肯定するのは、行き過ぎである。

 だから、即非の論理は肯定と否定との一致として理解すべきであり、ある対象論理として把握すべきではないということになる。

 では、私が述べた「わたし」は「川」であるはどういうことなのだろうか。それは、やはり、MP2の差異共振論理ではないだろうか。つまり、MP2 において、凸i(「わたし」)と凹i(川)が共振する。そのとき、思うに、相互浸透、ないし、相互作用が生起するのである。

 凸iは凹iに転移し、逆に、凹iは凸iに転移するのである。いわば、同調作用である。そして、結局、同一性化が生起して、「わたし」と「川」が分離するのである。

 ということで、私が考えていた即非とは即非ではなく、差異共振作用である。

 では、即非はどう見るべきか。これも、先に触れたように、差異共立を即非と見るのが的確であると思う。

 では、MP1(差異共立)とMP2(差異共振)との関係はどう見るべきなのか。それも先には即非と考えたが。

 しかし、非MP1をMP2と見るのは、先に犯した誤りと同じである。非MP1は必ずしもMP2ではないからである。

 ということで、簡単ではあるが、即非の論理をMP1の差異共立一如態に限定することにした。


追記:以上の視点から再度、ドゥルーズ&ガタリの生成変化論を検討してみよう。

 例えば、動物への生成変化を考えよう。動物を梟(ふくろう)としよう。だから、私は梟に生成変化するということになる。これは、端的に、即非ではないことはあきらかのである。何故なら、即非は、私にもどってくるからである。

 また、素朴に考えて、私が梟になるとは、どういうことなのか。本物の梟になるのだろうか。それは、ファンタジーである。

 私の似非即非の差異共振から見ると「わたし」は「梟」であり、且つ、「梟」でない。生成変化に関係する「わたし」は「梟」であるを考えると、それは、基本的には、連続性の論理であろう。「わたし」が「梟」へと、言わば、生成するのであるから。そう、「梟」に接しているのである。だから、正に、ドゥルーズ&ガタリの離接の論理と重なると言えよう。

 だから、生成変化論とは、差異共振的連続性の一面であると考えられる。ただし、他の一面、即ち、「わたし」へと回帰することがないので、異様なものである。

 思うに、そこには、倒錯があるのである。というか、やはり、微分の論理である。「わたし」が「梟」に接近するとしよう。「わたし」→「梟」である。そして、→がだんだんゼロに近づき、最後はゼロになると「わたし」=「梟」となるのである。「わたし」の極限値としての「梟」である。これこそ、連続的差異=同一性の論理である。これは、恐ろしい論理である。差異が無くなるからである。「わたし」の差異がなくなるというのは、結局、「梟」の差異もなくなることである。

 では、生成変化したなった「梟」とは何か。それは、物質としての「梟」である。物体としての「梟」である。死体の「梟」である。

 私は以前、ドゥルーズの「哲学」はヘーゲル哲学に帰結すると言ったが、確かに、その通りだと思う。


************************


 【即非の論理】

  鈴木大拙は大乗仏教の基本である
  般若系思想の論理として、
  金剛経の「仏説般若波羅蜜多、即非般若波羅蜜多、
  是名般若波羅蜜多」という表現に着目し、
  これを「仏説−A即非A是名A」(Aは非Aである、
  故にそれはAである)と公式化し、
  「“AがAである”のは“A”が即“非A”で
  あるからである」、すなわち、
  「A」と「非A」と「肯定」(即)と「否定」(非)とが
  そのまま自己同一であるという「即非的自己同一」
  なる独自の同一律を創提した。
  これが西田哲学のいわゆる「絶対矛盾的自己同一」の
  宗教論的基盤となった。

  西田は言う、「我々の自己(個)は、どこまでも
  自己の底に自己を超えたもの(超個)において自己をもつ。
  自己否定において自己自身を肯定するのである。
  かかる矛盾的自己同一(即非)の根底に徹することを
  “見性”(心眼を開いて自己の仏性を徹見する「悟り」
  のこと)という。禅宗にて“公案”というものは、
  これを会得せしめる手段にほかならぬ」と。

  鈴木のいう「即非」は論理である前に、
  人間存在の根源的な事実の自覚であった。
  すなわち、真実の自己の実現即体認である。

   洞山が弟子の曹山に問うた、「君の名は?」。
   曹山、「本寂といいます」。
   洞山、「その上にもっと言うてみよ」。
   曹山、「言いません」。
   洞山、「なぜ言わぬ」。
   曹山、「本寂と言いません」。

  
  我々はこれまで「本寂」だと思っていた自我
  すなわち「適来(さきほど)の本寂」(個)のその上に
  「本寂と言わぬもの」(超個)のあることを知らねばならぬ。
  その「向上(そのうえ)の本寂」が体験されてはじめて、
  真実の自己(無相の自己・無位の真人)が自覚される。
  「本寂の脱落」(自己の否定)を媒介にしてはじめて
  「真箇(ほんとう)の本寂」(自己肯定)が可能になる。
  “A”(適来の本寂)は“非A”(向上の不名本寂)である。
  だから“A”(真箇の本寂)である。
  絶対的否定即絶対肯定、死んで生きるのが禅の道である。

   青原惟信は言った、
   老僧(わし)は三十年前にまだ禅に参じなかったときに、
   山を見たら山は山であり、水を見ると水は水であった。
   そののち親しく禅匠に相見して一つの入処(見性)があって、
   そのとき山を見ると山は山でなく、水を見ると水は水でなかった。
   そして今日一つの休歇の処(無事の境地)を得てみると、
   依然として山はただ山であり、水はただ水であった、と。

 
  未だ参禅しないときが、“A”(個)であり、
  入処を得た時が“非A”(超個)であり、
  休歇の処“真のA”(超個の個−真如−如)である。

  より端的に言えば、「“一息に”<超個の個>」
  すなわち「如」を見るところに“真人が真如を見る”
  さとりの禅経験があるのである。
  「即非」は「如」を見る自覚の論理である同時に、
  「如」の実現する存在の論理である。
  
  
   ◇引用◇
   秋月龍a著「絶対無と場所」211ページ 
   青土社 1947年

http://www15.ocn.ne.jp/~satori/yogojiten/yogo_047.html





動物-人物相関象徴主義と生成変化論:差異共立一如態(MP1)と差異共振連続態(MP2)
生成変化と差異共立様態
http://ameblo.jp/renshi/entry-10586399271.html
先に以上のように考察したが、まだ、不明晰なところがあるので、さらに検討したい。
 問題の一つは即非である。これまで、即非的様態に関して、例えば、「わたし」は「山」であり、且つ、「山」ではないと述べてきた。あるいは、「わたし」は非「わたし」であるということでもある。だから、非「わたし」に「山」や「海」が入るのである。
 問題は、この「わたし」=非「わたし」が連続性であるのか、否か、である。
 ここは精緻、精密、厳密に考えたい。例えば、「わたし」は、「雲」であるという感覚知覚の場合、「わたし」は「雲」に変じていると言えよう。これは、連続性ではなくて、他者化である。
 これをドゥルーズ&ガタリ(以下、D-G)の生成変化論と比べると、一見似ている。例えば、動物に生成変化することであるが、この場合、確かに、他者化するのである。
 しかしながら、即非的様態の場合は、他者化は同時に、非他者化でもあるのである。つまり、非生成変化でもある。
 「わたし」は「雲」である。且つ、「雲」ではない。また、「わたし」と「雲」は一如である。
 さらに精密に考察しよう。
 「わたし」は「雲」であるというのは、やはり、連続性でる。生成変化である。
 だから、「わたし」は「雲」であるというときは、差異共振化が生じているのである。
 ここは微妙な箇所である。差異共振はMP2(実軸ゼロ点)で生起するのである。
 MP1(虚軸ゼロ点)において、差異共立一如態であったが、MP2へと転換すると、差異が激しく振動して、相互変換が起きると考えられる。それが、連続性である。微分である。即ち、「わたし」は「雲」になり、「雲」が「わたし」になるのである。この共振から、「わたし」は「わたし」、「雲」は「雲」の同一性的二元論が生まれると思われるのである。即ち、⇒+1である。
 だから、即非性とは、二カ所において考えられよう。一つは、MP1とMP2の即非性、一つはMP2における差異共振の即非性である。しかしながら、 MP1の差異共立一如態は即非性ではないだろう。何故なら、差異は他者を志向するが、他者へとは連続化しないからである。
 私は基本的には、これまで、同一性現象(物質現象)と差異共振現象(即非現象)を区別して考えてきたが、両者はMP2が起点であると考えられるのである。
 思うに、ヘーゲル弁証法とは、正に、このMP2の事象を指していると思われる。対立が統合(同一性化)するからである。
 ここで簡単に整理すると、MP1は差異共立一如態であり、MP2は即非・差異共振・連続様態であるということであり、MP1とMP2との関係も一種の即非態であるというこである。つまり、MP1⇒MP2ということである。
 以上の考察を踏まえて、本題を考察しよう。
 ロレンスの動物-人物相関象徴主義であるが、それは、動物と人物とはあくまでも差異であり、差異共立関係を保っていると考えられる。ただし、照応関係はあるのである。
 それに対して、D-Gの生成変化主義とは、差異共振連続性であり、他者へと連続化すると考えられるのである。
そこには、差異共立の均衡・拮抗が欠落しているのである。
 つまり、それには、絶対的差異がなく、連続的差異しかないということになる。
 ドゥルーズの連続的差異(=微分)批判はPS理論の前提なので、ここでは詳述しない。
 とまれ、言い換えると、MP1においては、生成変化は生起しないということである。絶対的差異同士の共立・平行・並立が一如態をもって存すると言える。
 ということで、ロレンスの動物-人物相関象徴的リアリズムは差異共立的一如態をもち、D-Gの生成変化論とは、差異共振的連続態をもつということになる。前者は差異共立象徴的リアリズムと呼ぶこともできる。あるいは、単純に差異共立的リアリズムである。
 ここで、ついでながら、シュルレアリスムについて考えたい。それは、簡単に言えば、対立するイメージを並立させる表現方法であるが、一見、差異共立的表現に見えるが、そうではないだろう。それは、差異共振連続的表現であると思う。対立するイメージは連続的差異となって共振・共鳴するのである。例えば、シャガールの絵画を見ればわかるだろう。つまり、そこでは、差異は絶対的差異となっていないのである。
 それに対して、美術史では、シュルレアリスムに含められているルネ・マグリットを考えよう。
 例えば、『光の帝国』であるが、そこでは、昼と夜が絶対的差異となって共立していると、それも一如態をもって共立していると言えよう。
 持論はルネ・マグリットの絵画はシュルレアリスムではないというものであり、これでそれが説明できると言えよう。
 だから、ロレンスの差異共立的リアリズムに類似すると言えよう。このリアリズムをとりあえず、トランス・リアリズムと呼ぶことにしよう。
 さて、最後にさらに深化させると、MP1の差異共立からマイナス1への反転・回帰・再帰が考えられるのである。不可視界、「ダーク・マター」の領域になるのである。
 思うに、MP1の差異共立の一如態の感覚知覚は、神秘性、霊性をもっている。MP2は物質的感覚があるのに対して。
 思うに、MP2において、光があるならば、MP1には非光があるはずである。それを闇と呼ぶのは語弊が大きいのでやめる。
 それは、原光、プロト・ライトと言うことができよう。(以前述べた、凸iが原光であり、凹iが原闇であることにおける原光ではない。)
 これは、マイナス1のダーク・マター(暗黒物質)から生まれたものである。
 そう考えると、闇と光の中間領域のようにも考えられる。Twilightである。そう、そう呼ぼう、即ち、MP1にある原光とはTwilightであるということである。
 つまり、

Darkness⇒Twilight ⇒Light

ということになる。
 比喩的に言えば、Twilight Phosphorescenceと言えよう。ロレンスのTwilight、マグリットの不思議な漂う光輝、また、宮沢賢治の銀河の燐光は、MP1の原光を指しているのではないだろうか。
 思うに、青色はここに生じるのではないのか。闇から光へと進入するときのブルーではないのか。
 そして、逆に、光から闇へと進入するときに赤色が生まれるならば、それは、主にMP2から生起するのではないのか。
 そうならば、太陽とはMP2に存するのであり、不可視の太陽、霊的太陽はMP1に存すると言えるだろう。ロレンスが説いたDark sunとは、このことだろう。

参考:

D.H. Lawrence

Twilight in Italy
2. The Lemon Gardens

It is past the time to leave off, to cease entirely from what we are doing, and from what we have been doing for hundreds of years. It is past the time to cease seeking one Infinite, ignoring, striving to eliminate the other. The Infinite is twofold, the Father and the Son, the Dark and the Light, the Senses and the Mind, the Soul and the Spirit, the self and the not-self, the Eagle and the Dove, the Tiger and the Lamb. The consummation of man is twofold, in the Self and in Selflessness. By great retrogression back to the source of darkness in me, the Self, deep in the senses, I arrive at the Original, Creative Infinite. By projection forth from myself, by the elimination of my absolute sensual self, I arrive at the Ultimate Infinite, Oneness in the Spirit. They are two Infinites, twofold approach to God. And man must know both.

But he must never confuse them. They are eternally separate. The lion shall never lie down with the lamb. The lion eternally shall devour the lamb, the lamb eternally shall be devoured. Man knows the great consummation in the flesh, the sensual ecstasy, and that is eternal. Also the spiritual ecstasy of unanimity, that is eternal. But the two are separate and never to be confused. To neutralize the one with the other is unthinkable, an abomination. Confusion is horror and nothingness.

The two Infinites, negative and positive, they are always related, but they are never identical. They are always opposite, but there exists a relation between them. This is the Holy Ghost of the Christian Trinity. And it is this, the relation which is established between the two Infinites, the two natures of God, which we have transgressed, forgotten, sinned against. The Father is the Father, and the Son is the Son. I may know the Son and deny the Father, or know the Father and deny the Son. But that which I may never deny, and which I have denied, is the Holy Ghost which relates the dual Infinites into One Whole, which relates and keeps distinct the dual natures of God. To say that the two are one, this is the inadmissible lie. The two are related, by the intervention of the Third, into a Oneness.

There are two ways, there is not only One. There are two opposite ways to consummation. But that which relates them, like the base of the triangle, this is the constant, the Absolute, this makes the Ultimate Whole. And in the Holy Spirit I know the Two Ways, the Two Infinites, the Two Consummations. And knowing the Two, I admit the Whole. But excluding One, I exclude the Whole. And confusing the two, I make nullity nihil.

http://www.online-literature.com/dh_lawrence/twilight-in-italy/3/




ルネ・マグリット『光の帝国』
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/8951/sur.html


銀河鉄道の夜

『銀河鉄道の夜』(ぎんがてつどうのよる)は、宮沢賢治 の童話 作品。孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語。
あらすじ [編集 ]
天の川 (7月22日)

一、午后の授業
銀河系 の仕組みについての授業。天の川 について先生に質問されたジョバンニは、答えを知りつつ答えることができない。次に指されたカムパネルラも、答えない。
二、活版所
放課後、ジョバンニは活版所 で活字 拾いのアルバイトをする。周囲の大人たちの態度は冷ややかである。仕事を終えたジョバンニは、パン と角砂糖 を買って家へ急ぐ。
三、家
牛乳 の未配達を知る。病気の母と、漁に出たきり帰ってこない父のことやカムパネルラのことなどを話す。牛乳屋へ行くついでに烏瓜 のあかりを川へ流す のを見に出かける。
四、ケンタウル祭の夜
母の牛乳を取りに牛乳屋に行くが、出てきた老婆は要領を得ず牛乳をもらえない。途中で、同級生のザネリたちに会い、からかわれる(一緒にいたカムパネルラは気の毒そうに黙って少し笑っている)。銀河の祭りに行くザネリたちと反対に、ジョバンニは一人町外れの丘へ向かう。
五、天気輪の柱
天気輪 の柱の丘でジョバンニは一人寂しく孤独を噛み締め、星空へ思いを馳せる。
六、銀河ステーション
突然、耳に「銀河ステーション」というアナウンスが響き、目の前が強い光に包まれ、気がつくと銀河鉄道に乗っている。見るとカムパネルラも乗っていた。
七、北十字とプリオシン海岸
北十字 の前を通った後、白鳥 の停車場で20分停車する。二人はその間にプリオシン 海岸へ行き、クルミ の化石を拾う。大学士が牛 の祖先の化石 を発掘している現場を見る。
八、鳥を捕る人
気のいい鳥捕りが乗車してくる。彼は、鳥を捕まえて売る商売をしている。ジョバンニとカムパネルラは鳥捕りに雁 を分けてもらい食べるが、お菓子 としか思えない。突然鳥捕りが車内から消え、川原でさぎを捕り、また車内に戻ってくる。
九、ジョバンニの切符
(以下、全体のおよそ半分にわたり章立てはない)
アルビレオ の観測所 の近くで検札 があり、ジョバンニは自分の切符 だけが天上でもどこまででも行ける特別の切符であると知る。
鷲 の停車場のあたりで、鳥捕りが消え、青年と姉弟が現れる。彼らは、乗っていた客船が氷山 に衝突して沈み、気がつくとここへ来ていたのだという。かおる(姉の少女)とは長い会話を交わす。
蠍(さそり) の火を眺めながら、かおるは「やけて死んださそりの火」のエピソードを話しはじめ、ジョバンニたちは、黙ってそれを聞く。その後列車はケンタウル の村を通過する。少女たちと別れ際に、「たった一人の本当の神様について」宗教的な議論が交わされる。
天上と言われるサウザンクロス(南十字) で、大半の乗客たちは降りてゆき、ジョバンニとカムパネルラが残される。二人は「ほんとうのみんなのさいわい」のために共に歩もうと誓いを交わす。その直後、車窓に現れた石炭袋 を見たふたりは、非常な恐怖に襲われる。ジョバンニはカムパネルラをはげますが、カムパネルラは気の乗らない返事したのち、「あすこにいるの僕のお母さんだよ」といい残し、いつの間にかいなくなってしまう。
一人丘の上で目覚めたジョバンニは町へ向かう。カムパネルラが、川に落ちたザネリを救った後、溺れて行方不明になったことを知る。カムパネルラの父(博士)からもうすぐジョバンニの父が帰ってくる手紙が来たと告げられる。ジョバンニはまだ暖かい牛乳と父の知らせを持って母の元に帰る。

解説 [編集 ]

漁から戻らない父のことでクラスメイトにからかわれ、朝夕の仕事のせいで遊びにも勉強にも身が入らない少年ジョバンニは、周りから疎外され、あたかも幽霊のような存在として描かれている。星祭りの夜、居場所を失い、孤独をかみしめながら登った天気輪の丘で、銀河鉄道に乗り込み、親友カムパネルラと銀河めぐりの旅をしばし楽しむ。旅の終わりにジョバンニはカムパネルラに、どこまでも一緒だと誓うが、カムパネルラは消えてしまう。悲しみのうちに目覚めたジョバンニは、まもなくカムパネルラが命を犠牲にして友達を救った事実を知る。この瞬間、ジョバンニは銀河鉄道の旅が何を意味していたのか気づき、日々の犠牲のひとつひとつの総和が、カムパネルラと共に行くことに等しいと悟る。さらに父が間もなく帰ってくることを知らされ、勇気づけられる。こうしてジョバンニは星祭りの夜、幽霊であった自分と決別して、母の元に戻ったのである。(以上、諸説あるため細部には触れず概略のみ記述)

その他、旅の出発前の風景描写として、老婆、黒い松林、カラス、黒い門、冷たい草など死を予感させる表現があるのに対し、旅から戻った後の風景描写として、白い牧場、白いズボンの労働者、子牛、熱い乳など生を感じさせる表現が使用されている点に注目。
みなみじゅうじ座 の石炭袋 。上方の明るい2つの星はβ星 とα星 。

銀河鉄道の旅は、銀河に沿って北十字から始まり南十字で終わる異次元の旅であり、ふたつの十字架はそれぞれ石炭袋を持っている[1] 。石炭袋が一般に暗黒星雲 だと知られるようになったのは最近のことであり[2] 、かつては天文分野の専門書でもしばしば「空の穴」と表現されていた[3] 。賢治は南北ふたつの石炭袋を冥界と現世を結ぶ通路として作品を構成した[2] とされている。

南十字の天上に行かなかったカムパネルラの行方については、ブルカニロ編にふれ輪廻 したという解釈[4] や、母の記述にふれ、万物の母 の元に帰ったという解釈[5] など、様々に解釈されていて定説はない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%B2%B3%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%AE%E5%A4%9C


2010年07月09日(Fri)▲ページの先頭へ
D. H. ロレンスの動物-人物相関象徴主義:即非的双極志向性芸術論
ロレンスの短編・中編小説作品に鮮烈に存在する動物と登場人物(人物)とを相関させる表現方法を理論化する必要がある。
 とりあえず、動物ー人物相関象徴主義と呼ぶことにする。この表現方法はPS理論的に解明するとどうなるのだろうか。
 これは、今閃いたが、MP1(虚軸のゼロ点)の差異共立一如体の表現方法ではないのか思う。即ち、人物凸iと動物凹iが存するとする。
 動物を例えば、狐としよう。そして、人物を、ブラウン氏としよう。
 即ち、MP1において、凸i(ブラウン氏)*凹i(狐)が存する(これまで、共立を#としたが、MP1と限定すれば、*で足りる)。
 重要なのは、凸iは凹iへと志向し、且つ、凹iは凸iへと志向することである。しかしながら、ここでは、MP2におけるように共振作用はなく、あくまで、共立一如様態があるのである。
 具体的に言えば、ブラウン氏は狐へと志向し、狐はブラウン氏へと志向するということである。しかしながら、ブラウン氏はブラウン氏で、狐ではなく、また、逆も同様である。だから、ここにも即非様態があると言えるだろう(先に、MP1とMP2の関係が即非であると述べた)。
 とまれ、この即非的志向性が、ロレンスの動物ー人物相関象徴主義(象徴美学)の解明になるのではないだろうか。つまり、即非的双極志向性美学があるということになるだろう。
 どうも天才的芸術家はこの美学を体得しているようである。一種のポリフォニーと言える。
 とまれ、ざっとであるが、ロレンスの美学の核心の一つがこれで明確になったであろう。

追記:対位法とも呼べよう。即ち、動物ー人物対位法的象徴主義である。

追記2:ドゥルーズ&ガタリが『哲学とは何か』で述べていた生成変化(子ども、女性、動物、マイノリティへの生成変化)、変様態(いわば、即非的情感)・被知覚態(他者に知覚されうこと)は、正しくは、MP1の様態力学で説明できるだろう。
 彼らの問題は、当然、超越性の否定と内在性(実数性)の肯定にある。結局、MP1とMP2との連続的混淆様態にあるのが彼らの理論である。それが、「離接」という概念に表れていよう。つまり、「接」に連続性があるのである。
 即非的様態とは、連続性はないのである。連続性ではなく、一如性があるのである。
 例証すると、生成変化という概念であるが、例えば、動物になるという生成変化を考えよう。ある人物Xが鯨に生成変化するとしよう。しかしながら、このとい、人物Xは鯨と連続態になっているのである。
 しかしながら、上述したロレンスの芸術的方法論は、あくまで、即非様態なのである。つまり、ブラウン氏は狐へと志向するが、究極的に狐になるのではない。あくまで、ブラウン氏と狐は不連続であり、差異共立一如態なのである。言い換えると、生成変化の場合、ブラウン氏は狐へと連続化するということである。このような連続性は、当然、不連続性や超越性を否定していることから発するのである。

外国文学(イギリス文学他)
D・H・ロレンス短篇全集〈第1巻〉 (-)
D.H. ロレンス (著), 西村 孝次 (翻訳), 鉄村 春生 (翻訳), 上村 哲彦 (翻訳), 戸田 仁 (翻訳)


2010年07月06日(Tue)▲ページの先頭へ
D. H. ロレンスの聖霊論の分析:獅子・父・闇と一角獣・子・光の闘争の王冠・聖霊的融和・和解
一番町にある駐日英国大使館正門の英国王室の紋章

http://homer.pro.tok2.com/sub8-24%28eikokutaisikann%29.htm

麹町ウぉーカーTOP


D. H. ロレンス(以下、ロレンス)の聖霊論(エッセイ『王冠』に述べられている)はある意味できわめてPS理論に酷似しているが、内容が独特で難解である。しかしながら、PS理論の視点から解明を試論したい。
 ロレンスは、キリスト教三位一体を換骨奪胎して、自身の聖霊哲学を述べる。
 それは、父と子が絶対的に対立するが、聖霊において、調和するという哲学である。
 父とは、一応、自我であるが、それは、近代的自我ではない。この点が根本的に重要である。ロレンスは旧約聖書のダビデがその代表であるとした。霊的ではなく、官能的な自我なのである。
 それに対して、子とはイエス・キリストである。(今、気づいたが、ロレンスは『王冠』において、獅子と一角獣の闘いが上部の王冠において調和するということを述べていたのである。獅子が父であり、一角獣が子であり、王冠が聖霊である。) 子とは、愛、無我・無私の精神である。それは、他者の精神である。
 言い換えると、官能性と精神性の絶対的対立・闘争とその和解・調和を説いているのである。
 ざっと以上のように基礎を確認して、PS理論から解明していこう。
 ロレンスの獅子=父は「自我」というものの、それは、単純に凸iにはならない。何故なら、それは、感覚・官能・身体的であるからである。
 これをどうみるのか。(また、今想起したが、獅子=父=闇で、一角獣=子=光という図式であったと思う。)
 闇は凹iの闇ではなく、マイナス1の「闇」に通じると思われるのである。おそらく、MP1に関係するものである。何故なら、それは、差異共立的一如であり、いわば、精神と肉体が一如的な様態であると考えられるからである。
 おそらく、母権的宗教、母神的宗教の様態に近いように思えるのである。
 次に、光の子・一角獣であるが、それは何か。それは、明らかに、凹iの精神のように思えるのである。無我・無私であるからである。
 ただし、光となっているので、単に、凹iではない。凹iを凸iで捉えた精神ではないだろうか。だから、一種、差異共振精神ではないのだろうか。言い換えると、他者性を知覚した精神である。単に、他者である凹iではない。だから、一種の衝突であり、差異共振の光ではないだろうか。そう作業仮説しよう。
 つまり、これは、他者の同一性化があるのである。他者の自我化である。とまれ、自我と他者(無我)の共振様態として考えよう。だから、MP2である。
 以上から、獅子=父=闇はMP1に、一角獣=子=光はMP2に関わることが判明した。
 そうすると、両者の闘争・対立とは、Media Pointにおける両極の対立ということになる。あるいは、差異と同一性との闘争・対立である。
 そして、王冠=聖霊が闘争・対立を和解させるということなのである。というか、両者の闘争・対立が王冠=聖霊という特異な時点を迎えて、和解・調和するということなのである。
 その聖霊の特異な時点とは何か。それは、MP1の差異共立的一如様態とMP2の差異共振様態とが調和するときではないのか。
 それは、MP1とMP2との即非的様態を現前するときではないのか。あるいは、両者の不連続的様態を認識するときではないのか。
 ならば、それは、正に、PS理論的Media Point Balanceと呼べるものではないのか。あるいは、Media Point Harmony、Media Point Peaceである。
 ロレンスは先駆者的にPS理論の核心を直観・直感していたと考えられるのである。


母⇒父⇒子:卵⇒自己分割⇒虚数極性⇒差異共振物質現象
-1⇒Media Point(MP1↓MP2)⇒+1

を直観で理解したいと思う。
 マイナス1は子宮、母胎である。それが自己分割して、凸iと凹iの極性が生まれる。それは、差異共立様態である。つまり、卵状態である。
 それが、共振化して、「子」・「胎児」・「光」となり、誕生する。それが、身体、精神・物質的身体である。
 つまり、根源物質(ダーク・マター)があり、自己分割して、差異共立様態=卵となり、差異共振結合して、子となり、それが、発現する。
 即ち、

T)-1=子宮=ダーク・マター(暗黒物質)

U)凸i#凹i=差異共立=卵=デュナミス

V)凸i*凹i=差異共振=エネルギー(エネルゲイア)=⇒

W)物質的現象=+1=物質

となるだろう。
 問題は、UとVの関係である。これまで、Uに即非を見るべきと考えることが多かったが、即非は、UとVとの関係と見るべきではないのか。
 とまれ、UからVへの転換力学は何か。静から動へと転換させる契機は何か。
 思うに、ゼロ状態があり、それは、実質上、凸と凹の和の状態であろう。つまり、ゼロ=凸i#凹i の様態である。
 思うに、このゼロ的一如様態にあって、直感では、あるエネルギーが流動している。それは何か。また、直感では、「気」である。「気」がゼロ的一如様態=差異共立様態を貫いているのである。静的な「気」である。調和的な「気」である。
 しかし、そのままでは、共振化しないのである。思うに、何らかの傾斜が必要ではないのか。「わたし」の傾斜が必要ではないのか。凸iの傾斜?
 そう、対極化が必要だろう。「気」的エネルギーが、直感では、対極化するのである。
 そう、「気」とは、言わば、交流である。例えば、上から下へと流れると同時に、下から上へと流れているのではないだろうか。
 そして、ここにはゆらぎがあり、それが波のように揺れ出すのである。それが、極性化(生成門氏の用語では分極化)である。そして、ある時点、言わば、カタストロフィーが起こり、差異共振という衝突が起こり、差異共振現象が生起して、身体・物質的現象が生成するのである。
 このカタストロフィー的共振をイメージするのに、MP1(虚軸のMedia Point)からMP2(実軸のMedia Point)への降下・下降・落下と見ることができよう。
 精神・霊が肉を得るのである。もっとも、霊妙なことは、精神・霊はもともと、ダーク・マターである子宮から生成することである。わかりやすく言うと、

原肉⇒精神⇒物質

ということになる。宗教思想的には、

母⇒父⇒子

である。
 東洋文化はこの図式のような文化であるが、西洋文明は母なき子なのである。それは当然である。父権的神話は、母殺しが前提であるからである。
 私は女神とよく言うが、正しくは、母神(ははがみ、ぼしん)である。折口信夫の用語を借りれば、妣神である。
 因みに、キリスト教三位一体の位格の聖霊であるが、それは、どう表記されるのか。
 それは、「気」の一種である。だから、MP1に存するだろう。それも、マイナス1から到来するものでもある。
 だから、父と母から来るのである。しかし、父とは言え、それは、父の母的極(MP1)からである。ついでに言えば、マレビトとは、聖霊に満ちた人であろう。


2010年07月04日(Sun)▲ページの先頭へ
反共振について:その2:反共振は共立と根源回帰ではないのか
さらに本題について考察を続けたい。
 端的に言えば、Media Pointにおける、凸iと凹iとの関係の問題である。虚軸のMedia Pointを生成門氏に倣い、MP1、実軸のMedia PointをMP2とする。
 さて、(+i)*(-i)⇒+1 において、左辺の*はこれまで積を意味して、帰結として、+1の同一性を形成する。そして、積とは差異共振作用を意味するのである。
 しかしながら、端的に即非である差異共立も本来、存するので、*は単に積=差異共振作用だけでなく、差異共立様態を意味する符号と見るべきであると考えられる。言い換えると、符号*はMP2においては積を、MP1においては、即非=差異共立を意味することになる。
 問題はMP1における差異の数学である。Kaisetsu氏は和としている。私は-1を脳裏に入れて、商であると考えてきた。 
 ここは実に微妙、霊妙な箇所である。私の差異一如経験から考えよう。
 差異共立とは、差異がエネルギー化される以前の様態であろう。可能性である。デュナミスである。潜在性とも言えよう。
 思うに、ここには、極性がないのである。何故なら、極性があれば、エネルギー化されるからである。
 その点では、ゼロ様態と考えるのは妥当である。差異の和である。ただし、0iないし-0iである。即ち、±0iである。つまり、凸i+凹i⇒±0iである。正確には、凸0iと凹0iであろう。これは、卵の様態とも言えよう。
 思うに、中和という言葉は語弊があるが、ここには一種の中和があるのではないだろうか。ゼロの中和である。
 では、ゼロの中和からどうして極性が発生するのか。そのためにはエネルギーが必要なはずである。
 ここで、D. H. ロレンスの『無意識の幻想曲』の発想を活用すると、根源には、I am Iがあり、それが、全体と一如である。
 そうならば、凸iの傾斜があるのである。思うにこの傾斜がエネルギーを生むのではないか。即ち、凸i⇒凹iである。すると、反作用で凹i⇒凸iが生起しよう。
 つまり、凸iの傾斜によって極性が発生するということにしよう。そして、この極性の結果が⇒+1の+1の物質である。
 結局、MP1の数学とは何か。和としよう。しかしながら、凸iに傾斜した和ではないだろうか。
 今、また、異なる発想が浮んだので記そう。MP1の数学を和としても、差異は、実軸ゼロ点、即ち、MP2で交差するので、そこでエネルギー化が為されると考えられよう。ならば、凸iの傾斜は必要なくなるのである。そうしよう。
 ということで、MP1の数学を和と仮説しよう。
 そうならば、*の符合とは和と積の両方を意味すると言えよう。ならば、凸i(#⇒*)凹i⇒+1となるだろう。(但し、#を和の符合とする。)
 さて、問題は、反共振である。それは何か。以上から、それは、MP2の共振を否定する作用である。だから、MP1の差異共立を意味すると考えることができる。
 しかしながら、そうすると、それは、和であるから、ゼロ、ないし、0iである。
 しかるに、i*-(-i)⇒-1と生成門氏は考えている。そうならば、ここには、反共振の二つの「解」が生じていることになる。和と積(の-1)である。
 しかし、反共振とは、実は積自体の否定ではないのか。そうすると、i*-(-i)⇒-1は不成立のはずである。
 つまり、反共振とは反積であり、それは、和となるのではないだろうか。つまり、i#(-i)である。つまり、i*-(-i)⇒-1とは反共振の数式ではないということになる。ならば、それは何か。これは、iのi回転であり、起源への回帰・再帰ではないのか。ならば、そこに商を観てもいいのではないだろうか。商を/で表記すると、i/(-i)⇒-1となる。
 ここは複雑であるが、以上から、反共振とは和=共立であり、又、商=根源回帰であるということになった。
 ここで、生成門氏の説いた無我の否定としての-(-i)、凹凹iであるが、それはどうなるだろうか。
 これも難しい。しかしながら、端的に、+i、凸iの自我である。つまり、無我-i、凹iの否定とは自我+i、凸iであり、それは、その否定によっては、積、即ち、i*-(-i)は生起しないだろう。i*-(-i)は、自我+i、凸iの根源回帰を意味しよう。
積とは自我凸iと無我凹iの積であり、無我の否定との積はないと考えられる。無我の否定は単に自我であるからである。
 以上、ぎこちない議論であるが、ここで留める。後で整理したい。


「反共振」について:i*-(-i)とは何か:我と無我の共立と共振:絶対的差異共立と連続的差異共振
先に、生成門氏の人間認識原理の反共振について、問題提起をしたので、ここで再考したい。
 私は差異共振、つまり、生成門氏の言うMP2(実軸ゼロ点)において、牽引と反発(斥力)を先に考えた。
 牽引とは、他者の自己同一性的支配であり、反発とは、他者への否定である。だから、同じものである。
 差異共振とは、正に、近代主義的である。それは、差異共立を排除していると考えられる。
 思うに、教養とは本来、差異共立を説くものであったが、近代主義である差異共振的同一性主義(=近代合理主義、唯物論)によって排除されたのである。
 差異共振の牽引と反発とは、有り体に言えば、愛憎の二面性のことである。これは平凡な事柄である。
 重要なのは、差異共立である。それは、トランス差異共振である。先にも触れたが、即非とは、差異共立を指すと観るのが正しい。
 故に、Media PointにおけるMP1(虚軸のmedia point)とMP2(実軸のmedia point)の関係が枢要なのである。
 この二つのゼロ点が生起したのが、イタリア・ルネサンスである。しかし、西欧の父権的傾斜によって、MP2が支配的となったのである。それがデカルト哲学である。
 しかし、MP1も少数派であるが、活動していたのである。そう、言おう。個とはMP1に、自我はMP2に基づくと。
 結局、近代文化において、MP1とMP2との混淆様態が支配的であったと言うことができよう。
 しかしながら、近代合理主義はMP2の支配を意味するのであり、MP1は徹底的に否定・排除されたのである。超越性の否定である。
 それに対して、混淆様態の蠢きから、結局、ポスト・モダンが生まれたと言えよう。つまり、MP2では割り切れないものが正当に精神に蠢いていたのである。
 しかしながら、混淆であるから、精密な分節化が為され得ないのである。その結果がデリダの差延であり、ドゥルーズの差異=微分である。(デリダの方が、混淆を保持したと言えるが、ドゥルーズは混淆を極小同一性へと転化させてしまった。)
 結局、ポスト・モダンはMedia Pointを明晰に解明できなかったので、行き詰まったのである。換言すれば、近代合理主義、唯物論による超越性の否定が抑圧的に作用していたので、混淆様態や差異共振に留まったと言えよう。
 これを理論的に打開したのが不連続的差異論である。これが、混淆様態を打破して、同一性と差異との絶対的間隙を明確にしたのである。
 そして、PS理論は数学的に、不連続的差異論を発展させたのである。結局のところ、差異共立(即非)と差異共振の絶対的間隙があるのが判明したのであり、それは、精神と物質の絶対的間隙を意味するのである。
 これは、ブレーク・スルー的に決定的である。正に、ポスト・ポスト・モダン、トランス・モダンである。
 言い換えると、近代主義が抑圧した超越性が復権したのである。それも、物質を包摂した形で。
 ということで、本題にもどると、差異共振こそ、混淆態であろうし、その結果の同一性が近代原理を意味すると言えよう。それは、⇒+1である。
 では、差異共立はどう説明できるのか。これは直観では、マイナス1と一体である。あるいは、マイナス1の表層である。
 端的に、差異共立とはMP1、即ち、虚軸のゼロ点の様態である。不連続的差異論は直観的にMP1を捉えたものと言えよう。
 では、差異共立とはPS理論的にどう数学化されるかである。
 Kaisetsu氏は和と述べている。差異共立一如態を述べるのに、和というのは考えられることである。私は商を説いているが。
 とまれ、差異共立を私は暫定的に、凸i#凹iとして表記した。私見では、-1⇔(凸i#凹i)である。 これは、静の様態である。いわば、平安、平和、サラームである。
 これは、生成門氏の説く反共振である。即ち、i*-(-i)⇒-1である。
 問題は-(-i)の最初のマイナスの意味である。これは、積である共振の否定として観るべきではないだろうか。
 何故なら、*は積、共振を意味すると考えられるのであり、その意味での他者-iの否定である。言い換えると、連続的他者の否定ということであり、絶対的他者の否定ではないのである。
 つまり、私見では、i*-(-i)とは凸i#凹iのことであり、絶対的他者-iは否定されていないのである。
 言い換えると、*とは差異共振を意味する記号であり、それは、差異をそもそも連続化していると考えられるのである。即ち、連続的差異=微分を前提としているのである。
 だから、差異共立=即非を意味するには、*とは異なる記号を使用する必要があると考えられるのである。
 私が仮に、暫定的、便宜的に、#の記号を使用して、差異共立を意味させているのである。だから、凸i#凹i⇒凸i*凹iとなる。MP1⇒MP2である。
 以上から、生成門氏の反共振i*-(-i)⇒-1について、差異共立の視点から解明を試みた。
 それは、絶対的他者=絶対的無我の否定ではなく、連続的他者=連続的無我の否定を意味すると考えられるのである。
 今はここで留める。


2010年07月03日(Sat)▲ページの先頭へ
生成門氏のPS理論的深化としてのガウス平面的人間認識原理
生成門氏の新しい論考への私のコメントをここに転載します。

++++++++++++++++

[452] Re:PS理論の応用原理<人間編>暫定版メモ


From: Renshi

生成門さん

PS理論的人間認識概念図の総体がコンパクトに整理(秩序化)、チャート化されていて、意義深いです。とりわけ、追加は奥義を簡潔に述べていて、感銘深いです。
 しかし、以下の箇所については少し疑問があります。というのは、以下の原理説明では、マイナス1が否定的なものとなっているからです。もっとも、生成門さんの論理ではそれは首尾一貫しているのは確かですが。
 私も後で再考するつもりですが、果たして、自我を肯定して、無我を否定する場合、-1となるのかということです。
 私見では、自己中心主義になるのは、無我を排除するからであり、それを無我の否定して捉えていいのかということになります。つまり、-(-i)でいいのかということです。
 実はこの問題は私自身相当悩みました。
 とまれ、生成門さんの原理に従えば自我を肯定して、無我を否定したときに、-1となりますが、そうならば、自我主義はなんらかダーク・マターに通じているということになるでしょう。
 これは面白いですね。利己主義は暴力ですが、この暴力がダーク・マターから来ていると考えることは。
 そうならば、同一性=物質(+1)と連続したダーク・マター(-1)であるということになります。
 私見では、差異共立(反共振)と共存するダーク・マター(-1)とは、当然、差異共振(的同一性+1)とは不連続であります。故に、自我主義と自己認識とは、両者はダーク・マター(-1)に関係しているが、相違点は、前者が連続態であり、後者が不連続態であるということになります。

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第36の原理:自我を肯定し、無我を肯定する中庸状態は、第1、2象限の作用の結果として+1に配置する。
第37の原理:自我を肯定し、無我を肯定し、且つ自我優位の偏向状態は、第1象限の作用の結果として+1(凸)に配置する。
第38の原理:自我を肯定し、無我を肯定し、且つ、無我優位の偏向状態は、第4象限の作用の結果として+1(凹)に配置する。
第39の原理:自我を肯定し、無我を否定、ないし、自我を否定し、無我を肯定する中庸状態は、第3象限の作用i*-(-i)⇒-1と-i*-i⇒-1の結果としての−1に配置する。
第40の原理:自我を肯定し、無我を否定する自我優位の偏向状態は、第3象限の作用i*-(-i)⇒-1の結果としての−1(凸)に配置する。
第41の原理:自我を否定し、無我を肯定する無我優位の偏向状態は、第3象限の作用-i*-i⇒-1の結果として−1(凹)に配置する。
第42の原理:自我を肯定し、他を肯定するもの、又は、自我を否定し、他を否定するものは、第1と4象限の作用i*-i,-i*-(-i)⇒+1の結果として+1(凸) 、+1、+1(凹)に配置する。

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参考:

PS理論の応用原理<人間編>暫定版メモ (0)

シムダンス「四次元能」


マイナス1とプラス1:ダーク・マターと物質:マザー・マターとファーザー・マター
まだ、直観を整理できていないが、思考実験的に試論しよう。
 超越的物質が差異共立一如態に転化するとしよう。しかしながら、両者は相互変換できるとしよう。
 思うに、差異共立一如態は一種のエネルギー様態ではないだろうか。それも矛盾した言い方だが、静的エネルギー様態である。
 そして、それが、差異共振現象態=物質現象へと展開すると考えるのである。
 共立態と共振態はまったく異なる様態と考えられる。前者は、差異融合態とも言えるだろう。しかしながら、差異は差異として存立しているのは確かである。
 おそらく、問題は、超越的物質と差異共立様態の関係である。思うに、後者は前者の媒体化(メディア化)である。(かつて、メディア界という言葉を使用した。)
 端的に言えば、-1⇒MP(Media Point)⇒+1である。問題は、映像である。「観る」である。ヴィジョンである。
 原ヴィジョンは差異共立様態において形成されるのではないのか。そして、それが、差異共振へと展開されるならば、差異共振的ヴィジョンが形成され、それが現象となるのである。
 直観では、原ヴィジョンがイデアないしはエイドスである。そして、差異共振的ヴィジョンが同一性的ヴィジョン、ないし物質的ヴィジョンである。
 原ヴィジョンこそ、即非的ヴィジョンであり、それが、同一性ヴィジョンの源泉としてあると思われる。
 例えば、差異共立において、原「わたし」凸iと原「樹木」凹iの一如態があるとしよう。これが、差異共振現象では、「わたし」や「樹木」の二元論となるのである。客体・対象としての「樹木」があり、主体としての「わたし」が成立するのである。連続的同一性化ないしルシファー・アーリマン化である。
 思うに、原「わたし」がノエシスであり、原「樹木」がノエマではないだろうか。換言すると、前者が能動知覚であり、後者は被知覚(正確に言うと、被知覚の知覚である。簡単に言うと、「感性」である。そして、原「わたし」は「知性」である。ちなみに、Kaisetsu氏はボルトとナットと考えている。)ではないだろうか。
 超越的物質からの分化ないしは分身である差異共立態を原エネルギー様態であり、原ヴィジョン様態、イデア・エイドスとしよう。
 当然、ここには、なんらかの光が考えられる。私はこれを超越光、超光、ダーク・ライトと呼びたい。(ダーク・エネルギーはここに存するのではないだろうか。) だから、超越光⇒光、イデア⇒現象(物質)である。
 問題は超越的物質と差異共立の関係様態の意味である。思うに、差異とは認識情報系統であり、差異共立一如態の一如態は「物質」系統ではないだろうか。
 つまり、差異共立と差異共立一如態は別種のものと思われるのである。とりあえず、後者を原物質様態としよう。
 思うに、この原物質様態が、差異共振現象において、物質化するのではないだろうか。端的に言えば、原物質様態とは超越的物質様態ではないだろうか。
 ならば、超越的物質が物質に転換・変換・変容するということになる。-1⇒+1である。
 言い換えると、マイナス1がプラス1に縮約凝縮するということではないだろうか。つまり、原「わたし」が同一性=物質的「わたし」となり、原「樹木」が同じく、同一性=物質的「樹木」になるということである。
 生成門氏の視点を借りると、差異共立一如態における差異が枠化されて、物質化を被るのである。
 言い換えると、差異共立一如様態においては、対差異は超越的物質と共立し、いわば、卵の様態にあったが、それが、その共立一如様態が「破れて」、一如態を形成した超越的物質がいわば「核融合」によって、同一性=物質へと変容するのではないだろうか。これが、マイナス1のプラス1への縮約・収縮・凝縮である。
 このとき、プラス1には、もはや、差異は喪失されているのである。差異共立イデアから同一性=物質への転化は不可逆的である。
 原「わたし」は物質化されて「わたし」となり、原「樹木」も「樹木」となるのである。
 ただし、問題は、MPである。「心」、「精神」、認識の領域の問題である。それは、+1と⇒+1の相違の問題である。
 物質現象は端的に+1であるが、生成消滅する現象は⇒+1であると考えられるのである。つまり、エンテレケイアの物質態とエネルゲイアのエネルギー態は区別すべきということである。
 即ち、Media Pointの「心」、「精神」、認識性とは、物質態においては存しないが、エネルギー様態においては存するということになる。
 言い換えると、端的には、人間において、精神と物質的身体との絶対的齟齬が存するのである。
 しかしながら、超越的物質を考えると、精神はその変形である。だから、根本的には、超越的物質と物質との絶対的相違があると言えよう。
 ところで、差異共立一如態とは超越的物質と考えられるので、精神態とは超越的物質様態であると言えよう。だから、精神態とは本来、ダーク・スピリットなのである。それが、現象化するとき、いわば、光の表皮・皮膜をまとう、装うのである。つまり、視覚は光のスクリーンをもつのである。
 しかしながら、精神的視覚とは、本来、ダーク・ヴィジョンである。それは、Dark Sunを原視覚しているのである。言い換えると、超越光を原視覚しているのである。
 だから、視覚認識とは二重なのである。光を端的に視覚するが、同時に、超越光を潜在意識的sub-consciouslyに「感じる」のである。それで、視覚現象は不思議、不可思議なものが存するのである。そう、霊的視覚(霊視)があるのである。
 以上の視点から身体を考えると、物質的身体+1とは別に、ダーク・ボディがあると考えられる。それは、当然、差異共立的一如態の超越的物質的身体である。気的身体とはこのようなものであり、クンダリニーとは、差異共立一如態のダーク・エネルギーの位階的スペクトルと言えよう。
 最後に簡単に文化史的に考えると、超越的物質/ダーク・マターとは、言わば、マザー・マター(母物質)である。そして、差異共振現象による物質とはファーザー・マター(父物質)である。
 そして、Media Pointの虚軸において差異共立一如態があり、そこには、マザー・マターの「海」が「打ち寄せて」いて、Media Pointの実軸の差異共振様態においては、ファーザー・マターの端緒があると言えよう。
 ところで、マトリクスという言葉があるが、マザー・マターはトランス・マトリクスと言えるだろう。
 また、プラトンの母なるものであるコーラであるが、それは、思うに、差異共立一如態であり、マザー・マターに属すると言えよう。
 後で整理と同時に再検討を行ないたい。

追記:ゲーテの『ファウスト』において、かなり不気味に、「地底」に母の国(「妣が国」)が出てくるが、それは、マザー・マターを説いていると言えよう。そう、マザー・ランドである。
 ところで、ユング心理学は精神界を探究して、マグナ・マーテル(原母)に達しているが、それは、端的にはダーク・マター、超越的存在と観るべきである。つまり、ユング心理学を超越的存在論の一種と観るべきである。
 ここでハイデガーの存在論について触れると、問題は、存在が実軸のMedia Pointに、つまり、差異共振様態に留まっていて、まったく差異共立一如態における超越的存在性が欠落していることにあると考えられる。つまり、物質の端緒に留まっていると考えられるのである。
 この視点からポスト・モダンを観ると、既述済みであるが、それは虚軸のMedia Pointを否定して、実軸のMedia Pointに留まっているのである。後期デリダは、やはり、超越性を否定するものの、虚軸的差異には達している。
 また、ドゥルーズ&ガタリであるが、『哲学とは何か』に拠るならば、彼らは、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点を混同しているのである。つまり、差異共立と差異共振を混同しているのである。そのため、本来、差異共立一如様態の「事象」(即非的事象)が、「超越的」ではなく、内在的に、潜在的に捉えられてしまっているのである。つまり、物質との連続体として捉えられているのである。


   




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カレンダ
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