INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2010/06

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2010年06月30日(Wed)▲ページの先頭へ
マイナス1とコスモス:虚軸ゼロ点の差異共立一如様態とマイナス1の超越性の連結としてのコスモス
これは直感である。
 Kaisetsu氏が、中世や古代においては、超越性ないしは超越的存在が認識されていたというようなことを述べられていたのを、マイナス1のダーク・マターとプラス1の物質(マター)との関係について考えている際に想起して、本題を思いついたのである。
 今は余裕がないのでざっと記す。
 結局、近代、西欧近代とは、文化史的には、それ以前に存していたコスモスを喪失したのである。コペルニクス、ガリレオの近代的宇宙観が古代・中世・ルネサンスのコスモスを破壊したのである。(ルネサンスは中世と近代の転換点で両面的である。)
 すぐれた多くの詩人や作家たちは、その後、コスモスへの郷愁を表出しているのである。日本では、宮沢賢治を考えればわかりやすい。
 しかしながら、これは、単に表象・表現の問題ではなく、リアリティの問題である。
 結局、西欧ないしは欧州においては、中世までは、キリスト教と重なるようにして、コスモス、異教的コスモスを「認識」していたのである。
 直感で言えば、これが、マイナス1である。ダーク・マター・コスモスである。
 ここには、一如差異共立的「感性」があったと思われるのである。(思うに、キリスト教自体も、このコスモス感性によって、維持されてきたということもできよう。言い換えると、異教的コスモスが民衆にキリスト教信仰を保持させたと言ってもいいだろう。)
 これは、単に観念、理念、概念ではなく、感じられるものであったと言えよう。いわば、超越的感性、超越的精神性、超越的情感である。
 この精神的感性とは、当然、media pointを介して、虚軸からマイナス1の超越的存在=霊的宇宙(霊的大地)への超越的感覚であったと考えられるのである。
 つまり、民衆はそれなりに、media pointを開いていたのである。ルネサンスにおいてのmedia pointの開花とは、凸iが主導的になっているだろう。しかるに、近代以前までは、凹iが主導的で、media pointが開いていたと思われるのである。(この点の様態の違いについては後で検討したい。)
 とにかく、近代以前の民衆は、media pointを介して、虚軸ゼロ・ポイントにおいて、マイナス1のコスモスを直感していたと思われるのである。
 そう、ルネサンス・近代から見れば、近代以前の民衆の意識とは、物質と精神が未分化様態にあったのではないだろうか。

 e^iθ⇒cosθ+isinθ

で見ると、θがゼロにならない事態だと思われる。つまり、0<θ≤π ではないだろうか。
 θがゼロになるときが、近代なのである。θがゼロになるとき、思うに、media pointが閉じられるのではないだろうか。端的に、虚数部がゼロになるのだから、虚軸性が消失して、虚軸ゼロ・ポイントの超越的感性が喪失すると当然考えられる。
 ということで、近代以前においては、虚軸ゼロ・ポイントの超越的感性が作用していたと考えられるが、超越性とは、マイナス1に基づくそれと考えられる。つまり、マイナス1と虚軸ゼロ・ポイント(IMP)が連動しているので、虚軸ゼロ・ポイント、虚軸のmedia point(IMP)において、超越性が感受されると考えられるのである。
 この点については後で詳述する予定であるが、仮に、マイナス1のmedia pointへの動きによって、虚数対が生起するとして、そのとき、虚軸media pointは感受点と言えるのではないだろうか。
 つまり、差異共立一如様態が発現すると思われるが、そのとき、media pointは一如様態の感受点であると考えてもおかしくない。即ち、超越的存在であるマイナス1のエネルギーないしは力動を、差異共立一如様態として、感受しているということである。
 そう、虚軸ゼロ・ポイントという感受点にとって、マイナス1とは、異次元であり、超越的であると言えよう。
 だから、虚軸ゼロ・ポイント、虚軸media pointにおいて、超越的コスモスが感じられるというのは、考えられることである。コスモスとは一体的な宇宙、一如的に宇宙のことであり、それは、差異共立一如様態で説明できるが、超越性は、マイナス1で説明できるのである。
 以上、思考実験的であるが、古代、中世、ルネサンスにおけるコスモスとは、虚軸ゼロ・ポイント、虚軸media pointにおけるマイナス1と結びついた超越的宇宙であることを考察した。
 結局、マイナス1、超越的存在、霊的存在、ダーク・マターとはある意味で、本来、身近なものであるが、近代的意識のプラス1が支配しているので、まったく、「幽霊」になってしまっているのである。
 思うに、根井康之氏が唱える、初期マルクスとフッサールを介した根源的自然とは、正に、マイナス1を根底にもつ差異共立一如様態のコスモスであると思われるのである。
 後で、マイナス1に基づくmedia pointの諸様態について考察を行いたい。


2010年06月29日(Tue)▲ページの先頭へ
気のPS理論的解明
気のPS理論的解明

テーマ:プラトニック・シナジー理論

以下、Kaisetsu氏が「気」についてPS理論的に解明しているので、ご参照ねがいたい。
 さて、e^iwtが気ということであるが、これは、わかりやすく言えば、オイラーの公式のPS理論的変形

e^±iθ⇒cosθ±isinθ

の時間的変形である。

ここで、私の直感から「気」について考えると、「気」は、差異共立一如様態から発生するのである。虚軸ゼロ点からである。Kaisetsu氏の解明は、この点にあると考えられる。
 では、問題は、右辺である。回転運動である。これと気とはどう関係するのか。思うに、右辺は「精神現象」ではないだろうか。
 +1のときは、物質的知覚であり、近代世界である。あるいは、近代的自我/近代合理主義の世界である。近代資本主義の世界である。
 しかるに、実際は、精神現象は円運動、それも、凸iと凹iによる双極的運動(陰陽活動)を行なっているはずである。
 とまれ、思うに、第一象限と第四象限が日常世界であり、第二象限と第三象限が非日常世界ないしは夜の世界、睡眠の世界であろう。光の世界と闇の世界である。もっとも、これは、陰陽の光と闇とは異なる。(この区別を後で明晰にする必要がある。
 結局、右辺の世界であるが、これは、生成門氏のaの問題と通じよう。
 これは、差異共立と差異共振の混淆した精神現象世界のことではないのだろうか。これは、四極的であり、media pointを考えると、五極的、五元論となるだろう。
 余裕のあるとき、丁寧に考えたい。

追記:
 気について、より直観的に述べたい。
 例えば、差異共立一如精神現象が生起するのは、当然、常時というわけではない。特異な時空間で起きるのである。とまれ、それは、θがπ/2ないしは、π3/2のときである。そのとき、凸iと凹iの差異共立が生起するのである。しかしながら、同時に、差異共振も形成されるので、同一性=物質も存するのである。そうすると、即非様態とは、差異共立と差異共振との両立(共立・即非・共振)にあると見た方がいいかもしれない。とまれ、これは、⇒+1の様態である。
 しかしながら、差異共立精神現象ないしは、即非精神現象が発生する以外のときは、

e^iwt⇒ coswt + isinwt

のKaisetsu氏の方程式から見ると、右辺であると考えられる。つまり、言うならば、日常意識現象方程式である。
 では、端的に、あるいは、有り体に言えば、これは、何なのか。実数部位は、意識であり、虚数部位は、非意識(深層心理学の無意識との混同を避けるため、非意識という用語を用いる)ではないのか。
 通常の意識は、当然、虚数部位を意識していないが、それは確実に「実在・実存」するものである。
 しかしながら、PS理論的精神・心は、この非意識部位をそれなりに察知・感知していると思う。
 これは、実は、芸術的認識だと思う。あるいは、直観・
直感的認識に通じると思う。
 傑出した芸術家は、本来、この非意識部位をも表現してきたと考えられる。正確に言えば、実数部位と虚数部位の和を表現してきたのである。何故なら、近代的意識とは、本来、+1に過ぎないからである。
 実数部位はいわゆる写生主義に、虚数部位は抽象主義やシュルレアリスムやファンタジーになったとのではないだろうか。もっとも、大作家は両方を描いていると考えられる。(私は、これが、だんだん、ライプニッツのモナドに近いものだと感じてきている。あるいは、西田の創造的モナドである。)
 否、実数部位は写生主義ではない。これは、やはり、意識の流れの内面のつぶやきである。
 では、写生主義とはどうなるのか。それは、先に考察したヴィジョンの問題と関係するだろう。写生主義は、+1ではなくて、⇒+1であろう。つまり、写生主義は、media pointの精神・心を必要とするのである。それが、映像を生み出すと考えられる。つまり、例えば、トルストイの小説の映像性であるが、それは、 media pointの差異共立と差異共振の即非意識から表現されていると思う。そのより深化した表現がD. H. ロレンスの小説の鮮烈な映像表現と考えられる。そう、そこには、単に外光だけでなく、内光、内的ヴィジョンが基底にあると推察される。言い換えると、ダーク・マターに由来するダーク・エネルギーの超越光から生まれていると思われるのである。だからこそ、皮相なイメージではなく、ディープな、濃密な映像性が表出されるのだと考えられる。
 さて、整理すると、

e^iwt⇒ coswt + isinwt

は、精神現象方程式であり、近代的世界においては、無視、排除されているものである。何故なら、近代合理主義/近代的自我は、+1の世界であるからである。
 とまれ、補足すると、いわゆる、気持ち、気分と呼ばれるものは、この精神現象方程式で表現されているだろう。優れた作家はこれを明晰、明快に表現するのである。
 また、言語表現の問題は、このような複素数である精神現象を、同一性形式で寸断することである。これは、虚偽の形式とも言えよう。つまり、言語表現は一般には、精神現象を同一性形式に捨象・還元しているのであり、本来は近似値的ないしは形式的な容器に過ぎないのである。
 いろいろ述べたいことがあるが、ここで、情感の問題に触れると、差異共立において、精神的情感があるだろう。そして、差異共振において、所謂、生命=気があるのではないだろうか。
 media pointの差異共立・即非・差異共振様態であるが、これ自体を気と言うのが正当であるようだ。
 ならば、気の上位に精神・霊的情感があり、気の下位に力動的情感(物質的な力動感)があるのではないだろうか。気持ちや気分は後者の面が強いだろう。芸術的情感は前者である。
 シュタイナーは、前者をアストラル体、後者をエーテル体と呼んでいるが、気においては、両者を区別して含めることができる。
 これは勘だが、光とは、下位の気と言えるのではないだろうか。上位の気とは、超越光になるだろう。
  

参考:

「e^iwt」は「気」である。
http://ps-theory.kaisetsu.org/?eid=243

とまれ、以下の物性形成方程式が決定的である。

物性形成方程式(Physical properties formation equation)
http://ps-theory.kaisetsu.org/?eid=240

「PS理論における時空関連式(時空式、Time-space equation,TSE)」の定義から、

時間を変数とする関数である。

e^iht  ⇒ cosht + isinht

また、この式は、角速度を用いて

e^iwt⇒ coswt + isinwt(これを TSEwとする。)

と表せる。



とした。

さらに、

電磁精神作用を左辺、物性作用を右辺に分離した式

e^iwt - isinwt⇒ coswt (これを、TSEw2 とする。)

ド・モアブルの定理より、

cos^wt = 1/2{ e^iwt + e^-iwt }

である。

これは、二つの相互に反対方向のスピンの半分づつの量の和が、「物性作用の右辺」と同じであることを示している。

Fw= (coswt,sinwt,t)
F-w=(cos-wt,sin-wt,t)

とする。

1/2(Fw + F-w) ⇒(coswt,0,t)

となる。

一方、


e^iwt - isinwt⇒ coswt (これを、TSEw2 とする。)







のように、正逆スピン構造を記述する式に変換することに成功した。

 つまり、

T式


Fw= (coswt,sinwt,t)
F-w=(cos-wt,sin-wt,t)

とする。

1/2(Fw + F-w) ⇒(coswt,0,t)

となる。




U式

1/2(e^iwt + e^-iwt) ⇒coswt



は、PS理論で定義されたように、

左辺に光を含む電磁関連精神作用、右辺は一般的な生活世界空間の事象を置いた関係式であり、

左辺、右辺は、「系の全エネルギーを(一般化された)座標と運動量」を表している。

つまり、「光を含む電磁関連精神作用」が「一般的な生活世界空間の事象」に置換される状況を表した方程式である。

そこで、

T式


Fw= (coswt,sinwt,t)
F-w=(cos-wt,sin-wt,t)

とする。

1/2(Fw + F-w) ⇒(coswt,0,t)

となる。




U式

1/2(e^iwt + e^-iwt) ⇒coswt



を、

「物性形成方程式(Physical properties formation equation)」と呼ぶ。
Theories for the Platonic Synergy Concept.
プラトニック・シナジー理論の研究



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ダーク・マターと物質の位階的関係:マイナス1が主で、プラス1が従である

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・試論・備忘録

これも、「ヴィジョンとは何か」の言わば続きであるが、よりPS理論的量子論的になる。
 今は直観像のみ書く。
 マイナス1のダークマターから虚軸へと一如的差異共立が生成する(差異共立とマイナス1は相互反転的とも言える)。
 そして、虚軸ゼロ・ポイントから実軸ゼロ・ポイントへと振動から転換して、差異共振様態となり、同一性=物質現象が発現する。
 すると、

マイナス1⇒虚軸ゼロ点⇒実軸ゼロ点⇒プラス1

となる。虚軸ゼロ点をimaginary media pointとして、IMPとし、実軸ゼロ点をreal media pointとして、RMPとする(呼びやすくするため、REMPでもいいだろう。だから、IMPとREMPである。)。
 すると、

-1⇒IMP⇒REMP⇒+1

となる。
 IMP⇒REMPをMPで括れば、

-1⇒MP⇒+1

である。しかし、反転を考えると、

-1⇔MP⇒+1

となる。
 結局、私の言いたいことは、物質の世界は、ダーク・マターやダーク・エネルギーが主導しているのであり、後者が優位、前者が劣位のヒエラレルキーをもっているということである。
 さらに、これは作業仮説であるが、IMPから-1へと反転する力(反重力ではないだろうか。)があるので、それは、+1の重力とは拮抗するのであり、それが、おそらく、重力総体よりも大きく、宇宙を膨張させているということではないだろうか。
 これは、

(+i)#(-i)>(+i)*(-i)

ということではないのか。
 余裕のあるとき、精密に考察を行ないたい。


2010年06月28日(Mon)▲ページの先頭へ
ヴィジョンとは何か:2:差異共立・即非のスピリットとはマイナス1=霊的大地の「波動」である
本題は興趣があるので、さらに随想風に述べたい。
 例えば、山や山麓を眺めていて、一如差異共立(即非)感覚を感じるとしよう。「わたし」と「山」ないしは「山麓」とは一如である。
 この一如感覚において、「山」ないしは「山麓」にスピリットがあると言えないことはない。これは、D. H. ロレンス風に言えば、地霊spirit of placeである。(因みに、私は、奈良県桜井市の三輪山のふもとの山の辺の道に、地霊を感じる。身体に浸透する「気」がある。)
 とまれ、このスピリットは、大地、身体と関係している。では、この大地、身体とは何か。物質的大地、物質的身体のことだろうか。つまり、プラス1だろうか。
 プラス1はプラス1であり、それには、スピリットや気はないのではないだろうか。
 プラス1の物質とは端的に死せるものであり、いわば、墓場である。
 ならば、三輪山の麓とは何か。その気やスピリットとは何か。
 結局、現象とは何か、ということになろう。
 直感で言えば、「天」と「地」の共立(即非)と共振があり、共振は三輪山の麓を形成している物質作用であり、共立即非は、スピリット、気を形成しているのである。
 後者において、ダーク・マターが関係していると言えよう。それが、三輪山の麓の不可視の大地、ダーク・アースDark Earthではないのか。つまり、マイナス1の不可視の大地である。
 これまで、マイナス1と差異共立・一如性の連携性、相互性については述べた。マイナス1から差異共立への転移は、再帰・回帰性をもち、つまり、反転性をもつと述べた。
 だから、差異共立・即非には、マイナス1の要素・エレメントが浸透していると見られる。端的に言えば、マイナス1=ダーク・マターと一如としての差異共立・即非様態である。
 故に、差異共立・即非のスピリット・気(霊気)とは、ダーク・マター=霊的大地のそれと言うことができよう。
 結局、三輪山の麓は単に、物質的大地だけでなく、マイナス1のダーク・マターの霊的大地でもあるということである。
 つまり、自然界はダーク・マター=霊的大地=霊的身体=Spiritual Beingに貫かれた、浸透された現象界であるということになる。
 このように見ると、一神教の錯誤が明確になる。それは、神から霊的大地、霊的自然である「母」(折口信夫の「妣が国」)を否定していることである。それは、凸iに傾斜して、差異共立を否定して、差異共振性に傾いていることである。それは、自然の逸脱である。
 シュタイナーの説くルシファーは、おそらく、父権的一神教に作用しているのである。それは、悪魔的宗教なのである。
 鈴木大拙や折口信夫やD. H. ロレンスの霊的大地の霊性こそ、本道・正道・正統である。


虚数とマイナス1:SpiritとEarth/Body:spirit, soul, body三元論
マイナス1が超越的存在、ダーク・マターであるという仮説はPS理論にとっての一つの大きな進展である。
 問題は、spirit(以下、スピリット)とである。鈴木大拙の日本的霊性やD. H. ロレンスの地霊spirit of place等を考えると、スピリットは大地と身体と関わることが了解される。
 思うに、スピリット・ボディー、スピリット・アースの概念が考えられるだろう。
 この霊的大地、霊的身体とは、端的に、マイナス1ではないのか。
 西洋の霊学の問題は霊の大地性・身体性を看過したことにあるのではないのか。
 シュタイナーの霊学もこの誤りがあると考えられる。思うに、マイナス1と虚数的差異の混同からこの誤謬が生まれているのではないだろうか。
 思うに、マイナス1から凸i#凹iの差異共立が生まれ、それが、凸i*凹iの差異共振へと転化して、 ⇒+1の現象が形成される。
 問題は、マイナス1と差異共立と差異共振である。(思うに、即非とは、差異共振ではなく、差異共立であろう。)
 差異共立とは、一如的な差異共立である。この「精神」が身体的霊性、大地的霊性ではないのか。
 しかるに、差異共振へと転化するとき、spiritからsoulへと転化するのではないのか。そして、それが、感覚現象を生み出すだろう。
 spiritとsoulには、絶対的間隙があるのである。つまり、前者は虚軸のmedia pointであり、後者は実軸のmedia pointであると考えられるのである。
 連続的発想のために、両者が混淆されてきたと考えられるのである。
 精緻に考察しよう。
 差異共立から差異共振への転換のために、差異は連続的同一性化されるのである。言い換えると、自我化されるのである。即ち、media pointが同一性化されるのであり、いわば、魂が自我化されるのである。これが、近代的自我の様態の一つである。(キリスト教の愛の問題もここにある。)
 精密に考えよう。本来、虚軸のmedia point(imaginary media point: imp)と実軸のmedia point(rmp)は、不連続であり、両者には、絶対的間隙がある。絶対的位階がある。
 そして、前者から後者へと降下するのである。これは、エネルゲイア状態である。つまり、差異共振はエネルゲイアである。そして、差異共立がデュナミスである。
 「精神」で言うと、胎児の「精神」が後者であり、出生後の「精神」が前者であろう。後者を霊性、前者を魂性と呼べよう。(言い換えると、media pointは霊魂である。)
 とまれ、media pointの振動の結果、エネルゲイア化して、差異共振化して、同一性現象が形成される。
 このとき、media pointが、いわば、連続化されるのである。虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点が連続化されるのである。つまり、霊と魂が連続化されるのである。ここに霊と魂の混同が生起するのである。
 そして、近代においては、この過程の究極状態が生起したのである。つまり、霊を否定して、自我魂である近代的自我が生起したのである。
 重要なのは、イタリア・ルネサンスにおける個の覚醒とは、霊の賦活化であり、結果としての魂の発達であると考えられることである。
 その帰結として、デカルト的合理主義が生まれた。霊的個はスピノザやライプニッツに継承されたと言えよう。
 ということで、近代の出発点には、霊と魂の両極があったが、その後、後者へと収斂したと考えられる。換言すると、超越性(差異共立、虚数性、マイナス1)の否定が生起したのである。近代合理主義、唯物論の誕生である。
 さて、問題は、近代性の進展である。この連続的同一性が基盤にあるために、常に、霊と魂は混淆されるということである。そう、魂は心とすれば、いいのであり、+1が物質や自我である。
 これが、結局、ポスト・モダンまで継続したのである。ドゥルーズ&ガタリは明らかに、両者の混淆・混濁・混乱の思想である。初期デリダも典型的である。
 結局、霊と魂の世界に踏み入ったのは、例外的な哲学と芸術と量子力学である。
 量子力学は虚数の世界を探究することにより、大胆に、霊の世界に接近したのである。
 ダーク・マターとは、霊的存在と言えよう。そして、ダーク・エネルギーとは、思うに、差異共立から差異共振(光)への変換のエネルギーではないだろうか。
 今はここで留める。

補足:上記において、不明確なのは、霊と霊的存在の区別である。
 マイナス1が霊的存在であり、差異共立(凸i#凹i)が霊である。霊性というとき、後者のエネルギーを指すだろう。しかしながら、霊が生まれる母体はマイナス1の霊的存在、霊的身体である。
 西洋的霊学はこれを取り逃がしているのである。つまり、自我が強いために、差異共立のみを見て、マイナス1を見ていないのである。
 キリスト教の霊性も差異共立であり、マイナス1の霊的存在、霊的身体、霊的大地を取り逃がしていると考えられる。


2010年06月23日(Wed)▲ページの先頭へ
⇒の空間位置について:media point spaceと現象物質空間
便宜的に、ガウス平面に直交するZ軸を想定する。虚数の共振によって、エネルギーが発生する。それをZ軸にとる。
 それが、ガウス平面に衝突すると想定する。それが、回転運動ないしは螺旋運動をすると考える。
 問題は、この回転運動、螺旋運動の意味である。これは、現象である。太陽系や銀河系を考えれればいい。
 問題は物質である。⇒+1の+1が地球や恒星とすればいい。しかし、「現実」は、やはり、⇒+1である。エネルギーの発現としての現象であるからである。
 そして、エネルギーはmedia pointの虚軸ゼロ点にあると言えよう。それは、本来、不可視であるが、⇒と+1との間において、可視化するのだろう。言い換えると、実軸のゼロ点で可視化すると言えよう。
 少し論点が不明瞭になっているが、結局、エネルギーと物質の関係を考えているのである。
 思うに、media pointの虚軸ゼロ点とは、共振ではなく、共立ではないのか、実軸ゼロ点で共振となり、同一性=物質化が発生するのではないのか。
 共立はマイナス1と関係しよう。だから、実軸ゼロ点で光が発生し、それが、プラス1の物質を発生させると思われる。
 これも便宜的に、下降のイメージをもとう。即ち、虚軸ゼロ点から実軸ゼロ点へとエネルギーが下降するのである。実軸ゼロ点で発光が生起する。それ以前は、いわば、ダーク・エネルギーではないのか。(私はマイナス1との関連も想定している。)
 この下降エネルギーがVector Modeを形成すると言える。そして、+1がVector Mode Material である。それは、あくまで、下降エネルギーとは別のものである。言うならば、虚エネルギーが物質形成するということであり、物質においては、虚エネルギーは消失しているということである。
 では、先の問題のイデア形態についてである。現象物質形態は+1に存するが、イデア形態、イデア原型(エイドス)は、いったい、何処に存するのか、それとも、存しないのか。
 虚軸のゼロ点、media pointにおいて、共立があり、そこにおいて、イデア形態、イデア原型があるのではないのか。
 そうならば、下降エネルギーとは、イデア形態エネルギー、イデア原型エネルギー、エイドス・エネルギーである。
 例えば、「馬」ならば、既に、「馬」のイデア形態エネルギーが虚軸のmedia pointに存するということである。
 イデア原型自体は、ひょっとしたら、マイナス1に存するのかもしれない。ともあれ、虚軸のmedia pointにおいて、賦活される以前において、イデア形態、イデア原型、エイドスは考えられよう。賦活されて、イデア形態エネルギーになると考えられる。
 もし以上のようならば、下降エネルギーは、イデア形態エネルギーであり、それが、実軸のゼロ点において、物質形態エネルギーとなり、それが、プラス1の Vector Modeを物質現象化するということになろう。
 整理すると、マイナス1が言わば卵であり、虚軸ゼロ点とイデア形態を形成し、虚軸ゼロ点での賦活化によって、イデア形態エネルギーが発生して、下降して、実軸ゼロ点で物質形態エネルギーに転移し、その結果、プラス1のVector Modeの物質形態現象を形成するということではないだろうか。
 後で再考したい。

追記:最後の仮説では、media pointは、イデア形態、イデア原型を物質化する働きをもっているということになるのではないだろうか。つまり、既に形態・原型はあるが、それを現実化するのが、media pointであり、そのエネルギーであるということではないのか。
 イデア形態、イデア原型の物質化という発想は面白い。


追記2:

オイラーの公式

e^±iθ⇒cosθ±isinθ

を利用すると、明快になるだろう。
 作業仮説的に言うが、オイラーの公式の意味する円運動であるが、右辺は物質的な現象形態であり、左辺は、精神・概念・イデア的な円イデアではないだろうか。つまり、イデア形態、イデア原型である。
 この両者の差異が最高度のポイントである。ここには、生成門氏の言う次元の違いがあるのである。絶対的間隙、絶対的次元差異があるのである。
 あるいは、生成門氏の変形

e^iθ-isinθ⇒cosθ

から、左辺に原型、右辺に物質形態を見た方が的確なのかもしれない。
 それとも、円運動は、精神界と物質界との両方の領域に渡っていると見るのか。オイラーの公式からはそのように読めるだろう。
 しかし、ポイントは⇒である。オイラーの公式の右辺の円は、物質化としての円であり、例えば、太陽、地球であり、ボール等である。しかし、左辺は、理念的な円である。イデア形態の円であると思えるのである。
 確かに、右辺には、虚数が入っているので、問題は単純ではない。だから、右辺も基本的には理念的なものではないかと思う。だから、


e^±iθ⇒cosθ±isinθ⇒(cosθ, ±sinθ)

となるのではないだろうか。(cosθ, ±sinθ)が端的に物質化された「円」であろう。
 そして、cosθ±isinθは、media pointにおける理念と物質の両方を含んでいるのではないのか。当然、虚軸と実軸の成分からそう言えるのである。
 そうならば、現象としての円ないしは円運動は、虚軸と実軸の両面に関わり、物質的であると同時に、理念的であるということなのだろうか。
 そう、オイラー公式の右辺は、どうも物質現象とは、理念的、且つ、物質的であることを示唆しているのではないだろうか。
 そして、θ=0となったとき、虚軸成分が消滅して、実数の+1となる。これが、純粋の物質なのではないだろうか。シュタイナーの言う砕け散った霊ではないだろうか。
 現象界における螺旋や円は、だから、単に物質現象ではなく、そこに精神性、霊性、イデア性、理念性を内包しているということになる。ただし、超越的に内包しているということになる。

 
参照:
2010年06月16日

シュタイナーの人智学的医術その329
[ 神秘体験空間 ]
 人体組織において、外界-自然のものが、いかに変化させられるか、例えば熱エーテルにまで変化する鉱物の場合、非常に激しい変化だが、この変容がわかると、自然的な人間、有機的に組織された人間のなかに生きるものが、霊的(精神的)な存在と、結びついていることが認められる。
http://plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/201006160000/

シュタイナーから読み解く神秘学入門


2010年06月22日(Tue)▲ページの先頭へ
ア菅首相は大企業・米国路線だ:日本人の意識の絶対的差異化の必要:トランス・モダン=新東洋の覚醒
テーマ:菅民主党ロックフェラー植民地売亡国政権

アカン内閣が、一般国民イジメ政権であることは、消費税増税で明々白々であるのに、国民は反抗しない。反抗権は、米国では、市民の権利である(デービッド・ソロー)。
 私が直感したのは、日本人は縄文時代の母権制が強く、マイナス1の初期様態に止まっている、きわめて稀な、考古学的存在だということである。
 結局、イタリア・ルネサンスのようなmedia pointの覚醒を日本民衆は経験していないのである。もっとも、明治維新は下級武士による一つのルネサンスではあったが。明治維新後、自由民権運動は抑圧されて、「大東亜戦争」という狂気の戦争に突き進んだ。
 問題は、マイナス1をもった個・差異の様態である。有り体に言えば、media point的存在である。
 結局、始原的マイナス1の様態が強いので、集団的一如に日本人は染まるのである。これは、個・差異であることを恐れている怯懦の精神に拠るのである。
 だから、その意味では、始原のマイナス1を殺すのは、意味があることである。
 しかしながら、マイナス1を保持しつつ、個・差異であることは、可能であるし、それが、「進化」である。
 それは、社会有機体的個・差異であるということである。差異一如であり、かつ、差異であるという意識である。それは、即非様態である。
 日本国民が差異・個になることを恐れているのは、支配者・権力者である。政治家や官僚である。だから、日本民衆ルネサンスが必要である。
 そう、マイナス1を西洋のように殺戮するのではなく、マイナス1=ダーク・マターの産む差異共立一如精神に目覚めるべきだ。新東洋の覚醒である。


参考:

# 個人のパワーが躍動する経済へ
http://ameblo.jp/adco/entry-10570130762.html

# 日本経済の低迷は自由な市場経済のせいか
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スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節



[06/22] 「社会保障のための消費税」という表現に丸め込まれそうなあなたに。 (不定期連載『決まり文句を疑う』) New!!
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1833.html

村野瀬玲奈の秘書課広報室


ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
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ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
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その他作家
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ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau、1817年 7 月12日 - 1862 年 5 月 6日 )は、アメリカ合衆国 の作家 ・思想家 ・詩人 ・博物学者 。

来歴・人物 [編集 ]

マサチューセッツ州 コンコード市 出身。ハーバード大学 卒業後、家業の鉛筆 製造業、教師 、測量 の仕事などにも従事したが、生涯を通じて定職につかず、やがて学生時代に熟読した『自然』の著者で超絶主義者のラルフ・ウォルドー・エマソン らと親交を結んだ。

自費出版した処女作『コンコード川とメリマック川の一週間』(1849年 )は、若くしてこの世を去った兄とのボート旅行をまとめた随想で、当時の社会には全く受け入れられなかった。

代表作『ウォールデン-森の生活』(1854年 )は、二年二ヶ月におよぶ森での一人暮らしの記録をまとめたものであり、その思想は後の時代の詩人や作家に大きな影響を与えた。

ソローの死後『メイン の森』(1864 年 )や『コッド岬』(1865年 )などの旅行記や、自然誌エッセー、日記、書簡集等、数多くの作品が出版されている。ソローの作品は、人間と自然との関係をテーマにしたものが多く、自然文学、いわゆるネイチャーライティング の系譜に位置づけられる。

多くの著作に現在の生態学 に通じる考え方が表明されており、アメリカにおける環境保護運動の先駆者としての評価も確立している。日本においてもアウトドア 愛好家などに信奉者が多い。

ソローは奴隷 制度とメキシコ戦争 に抗議するため、人頭税 の支払いを拒否して投獄されたことがあり、その様子は「市民的不服従 」としてマハトマ・ガンディー のインド 独立運動やキング牧師 の市民権運動などに思想的影響を与えた。

なお代表作『ウォールデン-森の生活』は、日本で明治44年(1911年)に水島耕一郎によって翻訳された後、21世紀の現在に至るまで多くの翻訳が出版され、代表的な翻訳は10数冊(抜粋訳等を含めると約30冊)ある。原書のペーパブック版も購入し易い。
主要作品 [編集 ]

※下記は近年刊行の訳書。

* 『ウォールデン 森の生活』 (Walden:or, the Life in the Wood, 1854年 )

佐渡谷重信 訳 『森の生活 ウォールデン』 講談社学術文庫 ,1991 年
飯田実 訳 『森の生活 ウォールデン (上下)』 岩波文庫 ,1995 年 /ワイド版,2001年
酒井雅之 訳 『ウォールデン』 ちくま学芸文庫 、筑摩書房 ,2000 年
今泉吉晴 訳 『ウォールデン 森の生活』 小学館 ,2004 年
真崎義博 訳 『森の生活』 宝島社  1995年、2005年/宝島社文庫 1998年、2002年

* 『メインの森』 (The Maine Woods, 1864年 )

佐渡谷重信訳 講談社学術文庫 1994年
小野和人訳 金星堂 1992年
大出健 訳 冬樹社 1988年

* 『コッド岬 海辺の生活』 (Cape Cod, 1865年 )

飯田実訳 工作舎 1993年

* 『市民政府への反抗(市民的不服従)』 (Resistance to Civil Government, 1849年 )
o 親族と友人によって編集・改題され死後出版された(Civil Disobedience, 1866年 )

飯田実訳 岩波文庫 1997年/山口晃訳 文遊社 2005年

* 『ザ・リバー』 (The river) ダドリ・C.ラント編

真崎義博訳 宝島社 1993年

* 『森を読む 種子の翼に乗って』(Faith in a seed)  

伊藤詔子訳 宝島社 1995年

* 『野生の果実』(Wild fruits) ブラッドレイ・P.ディーン編

伊藤詔子・城戸光世訳  松柏社  2002年

* 『生き方の原則 魂は売らない』(Life without principle)

山口晃 訳 文遊社 2007年

* 『ウォーキング』 (Walking) 

大西直樹 訳 春風社 2005年

* 『月下の自然 夜の散歩と思索のエッセイ』 (The Moon)

小野和人訳 金星堂 2008年

* 『ソロー語録』

岩政伸治訳 文遊社 2009年

参考文献 [編集 ]

* 『新たな夜明け ウォールデン出版150年記念論集』 「Henry David Thoreau−Walden」

日本ソロー学会編 金星堂 2004年

* 『ヘンリー・ソローの日々』 ウォルター・ハーディング

山口晃訳  日本経済評論社 2005年

* 『ヘンリー・ソローの暮らし』 ヘンリー・S.ソルト 

G.ヘンドリック,W.ヘンドリック,F.エールシュレーガー編  山口晃訳 開文社出版 2001年

* 上岡克己 『ウォールデン』研究 旺史社, 1996年
* 『ヘンリー・デイヴィッド・ソーロウ研究』 リチャード・J.シュナイダー

上岡克己訳、ニューカレントインターナショナル, 1993年

* 『ヘンリー・デイヴィド・ソーロウ』 フィリップ・ヴァン・ドーレン・スターン

上岡克己訳  開文社叢書8 開文社出版 , 1989年

関連項目 [編集 ]

* ハーバード大学の人物一覧

外部リンク [編集 ]

* 日本ソロー学会
* ソロー ヘンリー・デイビッド:作家別作品リスト (青空文庫 )

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首相が消費税増税で「政治生命かける」 9党党首討論速報

 菅直人首相(民主党代表)は22日午後の日本記者クラブ主催の9党党首討論会で、消費税増税に関し「議論が煮詰まり、案が出せる段階で、国民の皆さんにしっかりと判断をいただくことが必要だ」と述べ、衆院解散・総選挙で信を問う可能性に言及した。(産経新聞)
[記事全文]

◇民主党マニフェストに増税明記せず
・ 自民党の谷垣総裁、消費税協議に「公約でないなら乗れない」 9党党首討論速報 - 産経新聞(6月22日)

◇ほかの党の考え
・ 国民新党の亀井代表「消費税論議は国民の苦しみ分かってない」 9党党首討論速報 - 産経新聞(6月22日)
・ 新党改革の舛添代表「政治家がまず身を切るべきだ」 9党党首討論速報 - 産経新聞(6月22日)
・ 渡辺喜美みんな代表「『官内閣』情けない」 9党党首討論速報 - 産経新聞(6月22日)
・ 志位共産党委員長「消費税増税は大企業減税の財源作り」 9党党首討論速報 - 産経新聞(6月22日)
・ 山口公明党代表「消費税引き上げとんでもない」 9党党首討論速報 - 産経新聞(6月22日)

◇財政戦略でも抽象的表現にとどめた
・ <基礎収支>「20年度黒字化」明記…財政戦略を閣議決定 - 毎日新聞(6月22日)


media pointの様態について:即非様態であり、共振モードと共立モードがある
今はざっと述べるが、media pointの様態であるが、(+i)*(-i)と(+i)#(-i)と仮にしたが、根本は即非様態である。そして、そこにおいて、振動によって、共振モードと共立モードになると思われる。前者は⇒+1であり、後者は→-1である。
 もっとも、これは、おおまかである。マイナス1から共立モードが生まれるのである。-1⇔(+i)#(-i)である。
 ならば、共立一如モードから共振モードが生まれることになる。即ち、-1⇔(+i)#(-i)⇒(+i)*(-i)⇒+1 である。
 とまれ、media pointのモードは即非様態で問題ないだろう。ただし、先に、共立一如モードがあり、そこから、共振モードに転換する転移状態で、即非様態が生じるように思える。言い換えると、

共立一如⇒即非様態⇒共振 

である。より丁寧に言えば、

一如(マイナス1)⇔共立⇒即非⇒共振⇒物質(プラス1) 

である。共立⇒即非⇒共振の箇所がmedia pointとほぼ言えよう。だから、即非とは、共立と共振の即非ということでもあると考えられる。これは、換言すると、差異と同一性の即非ということにもなろう。つまり、精神と物質の即非性である。
 しかし、丁寧に言うと、共立の「精神」と共振の「精神」がある。前者は霊的エネルギーであり、後者は電磁波的エネルギーであると考えられる。言い換えると、ダーク・エネルギーと光エネルギーである。
 しかしながら、先に述べたことから言えば、両者は対である。共立波動と共振波動が交互に生起するはずである。それは、闇と光の交互の二重波動ではないだろうか。
 とは言え、共立波動の方が主ではある。ダーク・エネルギーの方が光エネルギーよりも主である。
 少し混乱しているので、整理しよう。やはり、

一如(マイナス1)⇔共立⇒即非⇒共振⇒物質(プラス1) 

の流れは維持されるべきである。
 しかし、共立の状態から共振へと展開すると考えられるが、その力学がどうなのかである。
 今は作業仮説であるが、共立様態において、「空」が生じるのである。そこに対して、共振様態が発生するのである。つまり、「空」を満たすように、共振力学が生まれるのであり、それが、共振エネルギーであり、光エネルギーである。そして、物質へと転換するのである。
 そのように考えると、共立と共振の交互の生起は単純ではない。つまり、共立から共振が生起するが、しかし、次には、共立がまた生まれるからである。ならば、そこには、共立⇔共振の振動、media point vibration、即非vibrationがあることになる。
 そうすると、共立においては、闇であるが、共振において、光となるのだが、これは、闇と光との周期運動を意味するのではないだろうか。母なる闇から子なる光が生まれる。そして、子なる光が消滅して、再び、母なる闇が生まれる。そして、また、母なる闇から子なる光が生じるということではないのか。
 単純に言えば、ダーク・マター(ダーク・マザー)から物質(子)が生成しては消滅するということである。これは、エジプト神話のイシスとオシリス、ないしは、イシスとホルスの関係に見ることができよう。(それは、アンクに象徴されていると言えよう。)
 とまれ、以上から敷延されることは、ダーク・マター、ダーク・エネルギーが本源・本体・根源であり、光エネルギーや物質の現象界は二義的であるということである。
 だから、人間は一般には、言わば、media pointの穴から洩れる光(火)の世界(現象界)が世界、宇宙全体と思い、穴の外部に存する本源界(マイナス1)をまったく意識せずに、つまり、無知のまま、錯誤的に生きていることになる。
 プラトンの洞窟の比喩で言えば、壁面の影が物質+1であり、洞窟内の物自体がマイナス1(ダーク・マター)であり、洞窟の穴がmedia pointであり、外部の太陽とはDark Sunではないだろうか。思うに、ダーク・マターとダーク・エネルギーはほぼ一体と見るべきであろう。
 思うに、アナクシマンドロスの宇宙論に少し似るが、media pointの穴(孔、空)に発現する光が太陽、恒星と言えよう。しかし、その光の本体はDarn Sun、Dark Light、Spiritual Light、Dark Energyである。また、それこそ、超越的光、超越光、超光である。
 そして、それこそ、本来の神であると言えよう。D. H. ロレンスのDark Godとは、的確な表現である。アフラ・マズダーもこれだと考えられる。
 我々は真実在の光の背中を見ているに過ぎない洞窟の住人なのである。
 

参照:
イルミネーションの桜のダーク・ツリー:宇宙の穴に潜在する高次元エネルギー

散歩道にある播磨坂の桜並木の街路の中間歩道の桜の木々がイルミネーションで上部が薄いピンク色、根元の方が青や緑で装飾されていた。
 当然、桜の幹や枝は闇である。このイルミネーションの光に、ダーク・ツリーがある。後者をダークエネルギーに喩えてみた。光を支えているダーク・ツリーがあると考えた。
 そのダーク・ツリーの存在は視覚的には確認できないのである。やはり、それは、Media Pointの穴を介したイデア・エネルギーのことだろう。
 宇宙の穴に隠れた高次元のエネルギーと考えられる。

追記:以下、アナクシマンドロスの宇宙論はきわめて知的刺激をもたらす。火の車輪としての宇宙観である。これは、Media Pointで説明できそうである。また、穴が惑星等になるということであるが、この穴もMedia Pointで説明できるのかもしれない。
 イデアの振動数によって、諸惑星等ができるのではないだろうか。太陽のイデア振動数があり、地球のイデア振動数があり、等々ではないだろうか。
 イデア振動数によって、Media Pointにおいて、太陽、諸惑星、さらには、諸宇宙ができるのではないだろうか。
 つまり、端的に言えば、星なり、星雲なり、「太陽系」・惑星なりは、イデア振動数の多様性・差異に基づいて、発現・現象しているものではないだろうか。つまり、星々は、Media Pointの多様な現象ということになるのではないだろうか。今はここで留める。

続追記:物理的距離であるが、それは、ガウス平面に垂直なZ軸で表わされるのではないだろうか。つまり、3次元とは、Z軸である。そして、人間の視覚の原点の平面性とは、ガウス平面に拠ると見ていいのではないだろうか。
 遠近法は、だから、Z軸によって発生すると言えよう。後で、精緻に検討したい。


参考:

ミレトス学派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・・・・・
宇宙論

物質の性質についても3人の哲学者には意見の相違があった。それぞれが異なる宇宙観を持っていた。タレスは地球 は水の上に浮いていると、特定の星 の運動に注目し、それらを惑星 と呼んだ。一方、アナクシマンドロスは、地球は宇宙の中心にあり、宇宙は中空の同心円の車輪で、その外側は火に満たされ、さまざまな間隔で穿たれた穴から見えるその明かりが太陽や月だとした。アナクシメネスは、太陽や月は、星々で充たされた天空の覆いの回りにある、平たい円盤であるとした。(尚、赤色文字等強調はrenshi)

***********************
アナクシマンドロスの宇宙観
テーマ:太陽系/宇宙/自然
先に、古代ギリシアで、太陽が、天の穴であると述べた前ソクラテス期の哲学者の名前を忘失したが、今日、ジュンク堂で以下の本をたまたま手に取り、立ち読みして、
それが、アナクシマンドロスであることが、わかった。後で、彼の断片を引用したいが、とても、興味深いものである。
『東と西の宇宙観 西洋編』 荒川紘/著 、紀伊国屋書店
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31592508

Anaximander (Ancient Greek : Ἀναξίμανδρος, Anaximandros) (c. 610 BC–c. 546 BC) was a pre-Socratic Greek philosopher who lived in Miletus , a city of Ionia ; Milet in modern Turkey . He belonged to the Milesian school and learned the teachings of his master Thales . He succeeded him and became the second master of that school where he counted Anaximenes and Pythagoras amongst his pupils.

Little of his life and work is known today. According to available historical documents, he is the first philosopher known to have written down his studies,[2] although only one fragment of his work remains. Fragmentary testimonies found in documents after his death provide a portrait of the man.

Anaximander was one of the earliest Greek thinkers at the start of the Axial Age , the period from approximately 700 BC to 200 BC, during which similarly revolutionary thinking appeared in China, India, Iran, the Near East, and Ancient Greece. He was an early proponent of science and tried to observe and explain different aspects of the universe, with a particular interest in its origins, claiming that nature is ruled by laws, just like human societies, and anything that disturbs the balance of nature does not last long.[3] Like many thinkers of his time, Anaximander's contributions to philosophy relate to many disciplines. In astronomy , he tried to describe the mechanics of celestial bodies in relation to the Earth. In physics, his postulation that the indefinite (or apeiron ) was the source of all things led Greek philosophy to a new level of conceptual abstraction. His knowledge of geometry allowed him to introduce the gnomon in Greece. He created a map of the world that contributed greatly to the advancement of geography . He was also involved in the politics of Miletus and was sent as a leader to one of its colonies.

With his assertion that physical forces, rather than supernatural means, create order in the universe, Anaximander can be considered the first scientist. He is known to have conducted the earliest recorded scientific experiment.[4]

Cosmology and the apeiron

Anaximander's reputation is due mainly to a cosmological work, little of which remains. From the few extant fragments, we learn that he believed the beginning or first principle (arche , a word first found in Anaximander's writings, and which he probably invented) is an endless, unlimited mass (apeiron ), subject to neither old age nor decay, which perpetually yields fresh materials from which everything we can perceive is derived.

He never defined this principle precisely, and it has generally (e.g. by Aristotle and Augustine ) been understood as a sort of primal chaos . It embraced the opposites of hot and cold, wet and dry, and directed the movement of things, by which there grew up all of the host of shapes and differences which are found in the world.

Out of the vague and limitless body there sprang a central mass ― this earth of ours, cylindrical in shape, poised equidistant from surrounding orbs of fire, which had originally clung to it like the bark round a tree, until their continuity was severed, and they parted into several wheel-shaped and fire-filled bubbles of air.

Man himself and the animals had come into being by like transmutations. Mankind was supposed by Anaximander to have sprung from some other species of animals, probably aquatic. For this, even though he had no theory of natural selection , some people consider him to be evolutionary theory's most ancient proponent.

Anaximander offered up the theory of the apeiron in direct response to the earlier theory of his teacher, Thales , who had claimed that the primary substance was water . Anaximander reasoned that water cannot embrace all of the opposites found in nature ― for example, water can only be wet, never dry ― and therefore, it can not be the one primary substance. Nor could any of the other candidates, so Anaximander postulated the apeiron as a substance that, although it could not be perceived directly, could explain the opposites he could clearly see around him.


The one surviving fragment of Anaximander's book may be translated like this:
Whence things have their origin,
Thence also their destruction happens,
As is the order of things;
For they execute the sentence upon one another
- The condemnation for the crime -
In conformity with the ordinance of Time.
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Interpretations

Nietzsche , in his Philosophy in the Tragic Age of the Greeks , claimed that Anaximander was a pessimist. Anaximander asserted that the primal being of the world was state of indefiniteness. In accordance with this, anything definite has to eventually pass back into indefiniteness. In other words, Anaximander viewed "...all coming-to-be as though it were an illegitimate emancipation from eternal being, a wrong for which destruction is the only penance." (Ibid., § 4) The world of individual objects, in this way of thinking, has no worth and should perish.
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Known Works

On Nature, circa ? (fragment survives)

Subject
Philosophy
Referenced in
Simplicus
Authenticity
Likely

Map, circa ? (lost)

Subject
(First?) Map of his Known World
Referenced in
Agathemerus , Geographie informatio
Authenticity
Likely

Some of Anaximander's ideas were also preserved in Theophrastus 's (lost) history of philosophy, and re-quoted by later authors.
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Honors

* Anaximander crater on the Moon , at 66N, 48W, is named after him. For a picture, see:
* http://www.dirkcouprie.nl/Anaximander.html
* The asteroid 6006 Anaximandros is also named after him.

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References

Dirk L.Couprie, Roobert Hahn, and Gerard Naddaf, 2003. 'Anaximander in Context: New Studies in the Origins of Greek Philosophy', Albany N.Y.: State University of New York Press
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See also

* Milesian school

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External links

* "http://www.utm.edu/research/iep/a/anaximan.htm " Anaximander from The Internet Encyclopedia of Philosophy.
* "http://www.dirkcouprie.nl/Anaximander-bibliography.htm " for an extensive bibliography.

This article incorporates text from the 1911 Encyclopædia Britannica , which is in the public domain .


http://ameblo.jp/renshi/entry-10007228153.html
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


Kaisetsu氏の物性形成方程式:PS理論的現象イデア数学理論
Kaisetsu氏がPS理論によって、生成門氏の変形式を使用して、現象形式理論を完成させたと言っていいのではないだろうか。スピンにしろ、二重らせんにしろ、また時間的現象論にしろ、明快、明晰に、PS理論的数学科学的に解明されていると直感される。
 是非、ご覧になられたい。

追記:PS理論的物質発生の方程式であるが、シュタイナーの霊性的物質論と比較してみたくなる。
 問題は、生成門氏が明確化した⇒の両辺は次元の違いを意味するということである。左辺が霊性になるのであり、右辺が物質になるのである。
 問題は、左辺と右辺との関係である。私見では、⇒+1の⇒と+1との関係になる。
 思うに、私が混乱していると思われるのは+1を同一性と見ていることにあるのではないだろうか。
 +1は、高次元エネルギーの帰結として発生する物質である。もっとも、高次元エネルギーの同一性変換としての物質ということは考えられるだろう。
 ならば、やはり、同一性として物質を確認すべきである。この同一性=物質を凸iに傾斜した主体(父権的主体)が認識するので、マイナス1やmedia pointを排除した同一性科学、唯物科学、近代科学が発生したと考えられる。
 とまれ、シュタイナーが物質とは霊の砕け散ったものと述べたことであるが、確かに、高次元から見れば、同一性=物質は砕け散った様態に見えるかもしれない。
 そう、差異共立と差異共振の両様態をもつmedia pointを考えると、確かに、+1は、砕け散った姿と言えないことはないだろう。
 結局、混乱するのは、形態(形状)と物質の関係である。例えば、螺旋という形態・形状があるが、それと物質との関係である。思うに、高次元エネルギーの形態・形状があり、それが、主に螺旋になるというのは考えられる。
 私は⇒+1における、⇒と+1との関係を知りたいのである。これは、虚軸のゼロ点と実軸のゼロ点の関係である。ここには断絶があるだろう。だから、 ⇒+1においては、⇒は虚軸ゼロ点に位置し、+1は実軸ゼロ点から+1へと生起したものとなる。
 つまり、虚数即非エネルギーは、不連続なまま、同一性=物質=+1を発生させると言えよう。つまり、これまで確認した通り、⇒と+1は不連続なのである。つまり、高次エネルギーによる物質形成とは、不連続な生成作用であり、エネルギーと物質とは別物である。
 だから、高次元エネルギーの形態と同一性=物質の形態とは当然、同一ないしは類似したものになるが、質的には異質なものと言えよう。両者の間には、絶対的間隙があるのである。
 例えば、朝顔の蔓を考えると、高次元エネルギーが賦活されていれば、朝顔の蔓は伸びていき、蕾をつけ、開花し、結実する。しかしながら、高次元エネルギーの賦活がなくなると、物質としての朝顔は解体・崩壊するのである。つまり、物質+1は朝顔の形態を喪失して解体するのである。この事態をシュタイナーは物質とは、霊の砕け散ったものと表現したのではないだろうか。
 とまれ、media pointのエネルギーは振動しているのであり、生成と消滅の周期をもつ原生命である。とまれ、生命については後で詳論を試みたい。

追記2:まだ、高次元エネルギーの形態と物質の形態の関係が明確になっていない。
 つまり、高次元エネルギー形態とは、当然、物質現象の形態となる。この一致が⇒+1に表記されていると言えよう。つまり、⇒+1は、高次元エネルギー形態と物質形態との一致を表現しているだろう。
 しかしながら、高次元エネルギーが枯渇すると、⇒はなくなり、+1が独立する。そのとき、物質形態は崩壊するということだろう。
 さて、違う疑問であるが、高次元エネルギー形態とは、最初、エイドス的なもので、高次元に存すると感じていたが、そうではなかった。
 私がイメージしているのは、イデア的形態である。あるいは、イデア的原型である。ゲーテが原植物と考えたようなものである。
 それは、Kaisetsu氏のVector Modeに関係する。それは、⇒の形態であろう。なぜなら、⇒+1は物質形態であるからである。
 この⇒の「空間」とは何処にあるのだろうか。これは、作業仮説であるが、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点の間隙にあるのではないだろうか。言い換えると、「空」の領域に、イデア的形態があるのではないだろうか。今はここで留める。

*****以下、一部転載*****

上の稿で提示した次の方程式について、「物性形成方程式(Physical properties formation equation)」と呼ぶことにする。

 Fw= (coswt,sinwt,t)
F-w=(cos-wt,sin-wt,t)

とする。

1/2(Fw + F-w) ⇒ (coswt,0,t)



 

1/2(Fw + F-w) = (coswt,0,t)のガウス平面に於ける記述は、

 1/2(e^iwt + e^-iwt) ⇒coswt




この説明に入る。

 まず、PS理論の二人称自己認識方程式

i*(-i)⇒+1

で、左辺は光を含む電磁関連精神作用、右辺は一般的な生活世界空間の事象と仮定した。その後、Renshi氏、生成門氏及び海舌(明日野)の研究によって、この仮定によってPS理論を発展することの合理性が定着してきた。

i*(-i)⇒+1

の理論的背景には、

e^iθ=cosθ + isinθがある。

生成門氏は、

「i*(-i)⇒+1」の背景を説明する過程で

e^iθ - isinθ ⇒cosθ(⇒は次元の違いを表す。)

の式を一般式として提示した。

参照: http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100094989767
http://ps-theory.kaisetsu.org/?day=20100621

Theories for the Platonic Synergy Concept.
プラトニック・シナジー理論の研究


2010年06月20日(Sun)▲ページの先頭へ
-1は超越的存在、+1は物質、media pointの振動に双子の太陽?
後で検討したい。
 一言いうと、先に、マイナス1をDark Sun、プラス1をBright Sunとしたが、それは間違いだと思われる。
 マイナス1はダーク・マターで、超越的存在ないしは霊的存在である。そして、プラス1は端的に、物質である。
 では、Dark SunとBright Sunはどこに位置するのかが問題である。
 思うに、media pointの「両面」に存在すると思う。⇒+1の⇒の起点にBright Sunが位置し、(+i)#(-i)→-1の→の起点にDark Sunが位置するのではないだろうか。
 言い換えると、media pointとは、双子の太陽が位置するのである。明るい太陽の裏面に、不可視の太陽が位置することになる。
 そして、不可視の太陽とは、マイナス1の超越的存在と相互変換しているのではないだろうか。
 マイナス1がダーク・マターとすると、不可視の太陽はダーク・エネルギーをもつのではないだろうか。
 問題は位階である。つまり、マイナスとプラスの位階である。マイナス1が本源であるから、Dark Sunが主であり、Bright Sunは従である。前者が本体であり、後者は現象・仮象である。また、前者を霊的太陽、後者を「物質」的太陽と呼べよう。
 前者が本体であるから、D. H. ロレンスが我々はDark Sunの背中を見ているというのは正しいと言える。本体の裏面を見ているということができるのである。プラトンの洞窟の比喩で言えば、洞窟の壁面の影である。
 さて、+iの原光と-iの原闇であるが、それと以上のこととの関係はどうなるだろうか。
 思うに、+iの「光」とは、⇒のBright Sunと通じ、-iの「闇」とは、→のDark Sunと通じている。思うに、一種、陰陽的な捩れではないだろうか。


マイナス1と個・差異
先に、マイナス1の一如・一体性の超越性においては、個・差異がなくなると述べたが、疑問に思えるので、検討したい。
 思えば、既述したが、昨年の夏の「川」と「わたし」の一如体験を考察すべきである。そのとき、「川」は「川」の個・差異があり、「わたし」は「わたし」の個・差異があったのであり、個・差異でありつつ、一如・一体であるという体験なのである。だから、個・差異は共立的に一如・一体的であると言えよう。
 共振の場合、個・差異(+i、-i)が⇒+1で、プラス1の同一性(物質)へと転化してしまうのである。すなわち、「わたし」は「わたし」であり、「川」は「川」であり、両者は別個の物質である、という物質現象になると考えられる。そこには、起点の個・差異性が消失しているのである。つまり、虚数的差異性が排除されるのである。
 ということで、マイナス1の超越性においても、いわば、差異一如、差異一体という様態で、個・差異は存すると考えられるのである。
 もっとも、最初期のマイナス1においては、その点では疑問がある。
 思うに、

-1=(+i)#(-i) 

(但し、#は仮に商を意味する記号とする)がマイナス1の超越界において成立していると考えることはできるだろう。
 精確に表記するなら、-1⇔(+i)#(-i) であろうか。ここでは、マイナス1の超越的存在において、差異極性が常時生成消滅していると考えられる。
 後で更に追究したい。


2010年06月19日(Sat)▲ページの先頭へ
マイナス1のコスモス:ダーク・コスモスとは何か
神秘主義者の方が、通常の哲学者より、マイナス1を直感していただろう。
 物質的宇宙でなく、霊的宇宙がある。いわば、ダーク・コスモスである。これは、一如の宇宙である。
 ウロボロスという象徴もそれを指しているだろう。問題は、マイナス1から虚数対極が生まれて、また、個・自己が発生する。個・自己はmedia pointと言えよう。
 しかしながら、media point以前のマイナス1が本源・超越界にあるが、そこから見ると、自己・個は言わば、後天的なものである。
 つまり、一切の根源として、マイナス1の母、原母様態があるのである。ここでは、自己・個はない。
 これをどう考えるべきか。結局、ダーク・ボディとして、人間、地球、宇宙は一体、一如であるということだろう。
 それが、原初である。それから、media pointの発動、そして、現象界の発生がある。
 自己・個はmedia pointにおいて、実に不可思議な感覚をもつはずである。個でありつつ、他者でありつつ、また、物質でもあり、身体でもあり、またさらには、個も他者もないという感覚をもつからである。
 そして、個・自己の視点から見ると、マイナス1は、いわば、「無」と思えるはずである。また、とりわけ、共振同一性の父権的な視点からは、マイナス1は恐怖の対象であり、当然、暴力的に否定して排除する、つまり、殺戮すべき存在である。それが、例えば、バビロニア神話に象徴されていると考えられる。
 これまで、近代的自我・近代合理主義はmedia pointを抑圧すると述べてきたが、精確に言えば、マイナス1を抑圧してきたのである。
 また、デリダの決定不能性の思想は、ここにおいて見られるべきである。マイナス1は、同一性の思想にとっては、正に、決定不能であるからである。ただし、デリダは超越性を否定しているので、明確にマイナス1を捉えられなかったと言える。
 とまれ、トランス・モダンは、ダーク・マザーというべきマイナス1を肯定する社会となるのである。
 これは、差異共立の社会だと思う。差異共振の場合は、同一性(自我)が発現して、闘争戦争が起きるのである。差異共立は一如でもあり、この一如性が平和融合性をもたらすと思われるのである。
 ところで、ダーク・マザー、ダーク・コスモスの力学を解明する必要がある。私は、ダーク・エネルギーを説いたが、それの力学を知りたいのである。
 物質科学ではなく、ダーク・マターの科学を知りたいのである。ここで、クンダリニーの超越的位階スペクトルを考えたい。
 それは、一見、マイナス1の半直線に形成されるようであるが、しかしながら、物質身体にも関係するのであるから、マイナス1とプラス1の実軸に形成されるのではないあろうか。
 しかしながら、虚軸に形成されると考える方が正しいかもしれない。つまり、虚軸に7ステージ(7階梯、又は、7つの「惑星」)の位階スペクトルが形成されると見るのである。それを、7「惑星」とすれば、いわば、占星術的原型が生起するのではないだろうか。そして、黄金比にあるように正五角形(五芒星)の形成、そして、4つの象限の分割が形成される。思うに、オイラーの公式のθに、π/nを入れて、nを自然数ないしは整数とすれば、多様な分割が可能になるのではないだろうか。今はここで留める。

追記:ダーク・エネルギーとしての「気」をどう考えるのか。「気」の感知の仕組みはどういうものか。差異共立エネルギーを「気」としよう。それは、マイナス1の展開からmedia pointにおいて、発生するものと思われる。
 シュタイナーがエーテル体(生命体)と呼ぶものが「気」に当たると言えよう。そうすると、media pointにおいて、エーテル体=「気」が形成され、その後、差異共振して光・電磁波が形成されるのではないだろうか。
 差異共立と差異共振の違いを明確にするべきである。media pointにおいて、両者の二重性があるが、その関係であるが、それは、振動、周期的に交互に形成されるのではないだろうか。
 牽引の場合は差異共振性が、斥力の場合は差異共振性が形成されるのではないのか。前者はプラス1となり、後者はマイナス1となる。いわば、ここには、呼吸があると言えよう。プラスとマイナスの呼吸のリズム、ないしは、鼓動である。そして、これが、生命ではないのか。
 とまれ、両者の関係はどういうものだろうか。やはり、絶対的差異の関係であり、両者、不連続であろう。時計回りに90度回転、反時計回りに90度回転ということではないだろうか。

 
参考:
ヤーコプ・ベーメ
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ヤーコプ・ベーメ(Jakob Böhme,1575年 - 1624 年 11月17日 )は、ドイツ の神秘主義者である。ドイツ語 で主に著述した最初の思想家でもあり、信奉者から付けられた「フィロソフス・テウトニクス」(ドイツの哲人)という異名でも知られる。ルター派 教義を背景とし、パラケルスス ら新プラトン主義に影響を受けた独特の自然把握と「神の自己産出」という哲学史上稀な概念の展開は、敬虔主義やドイツ観念論 といった近世のドイツ思想だけでなく、近代の神秘学 にも影響を与えている。
ヤーコプ・ベーメ

主著は『アウローラ 』、『シグナトゥーラ・レールム』、『大いなる神秘』、『キリストへの道』。

生涯 [編集 ]

1575 年 、北ドイツ ・オーバーラウジッツ のナイセ川 流域の都市ゲルリッツ の近郊、アルト・ザイデンベルク(Alt Seidenberg)に生まれる。ここは現在、ポーランド 領スリクフ (Sulików )の一部になっている(ザイデンベルク自体もポーランド領になっており、ポーランド語 名はザヴィドゥフ Zawidów )。

靴職人としての修養を終えたベーメは、1599年 以降ゲルリッツで靴職人として働き、家庭を設ける。自己の神秘体験をつづった『アウローラ』によって一度は異端として非難され、休筆するものの、その後著述を再開する。

ベーメが著述を始めた時期は確定できないが、1612年 最初の著作『アウローラ 』が完成する。ベーメはのちに書簡中で、この著述の根底にそれ以前の神秘体験があり、「12年もの間それ(=神秘体験)に関わった」(アブラハム・フォン・ゾンマーフェルト充書簡、ポイケルト版ファクシミリ全集第10巻収録) と述べる。正規の哲学教育のみならずギムナジウムでの中等教育をも受けていない靴職人にとってこの作業が困難を極めたことは容易に想像される。ベーメ自身もまた、この最初の著作が文体と内容の両方に渡って晦渋であることを認めているほどである。しかし同時にこの著作にはベーメの根本的思想の萌芽が現れていることも広く認められている。ベーメは上掲の書簡において『アウローラ』について「一冊より多くの書物、一つ以上の哲学が、しかもつねにより深められて生み出される」とも語っている。

以下同書簡に沿いつつ、『アウローラ』以降のベーメの状況について述べる。

ベーメははじめ己の体験の覚書として『アウローラ』を著し、公開する意図はなかった。しかし友人に乞われてその手稿を貸し出すうちに、これを筆耕するものも出始め、『アウローラ』はベーメの交友範囲を越えて、ゲルリッツ市民に知られるようになった。神秘体験という個人的な幻視と、素朴なキリスト教信仰の合致から生まれた自然 と人間 の関係についてのこの著述は、しかし当時ゲルリッツの監督牧師であったグレゴール・リヒターにはルター派正統教義 をおびやかすものとして認識された。リヒターは説教壇からベーメを異端 思想の持ち主として非難し、これに呼応する市民は公然とベーメの自邸に攻撃をするなどし、ベーメの平穏な生活は脅かされた。この結果、ベーメが著述を以後しないこと、リヒターは教会においてベーメを非難することをやめるとの妥協が市の当局の仲裁によって定まり、ベーメは著述を控えることとなった。

一方でベーメの『アウローラ』を好意的に受容する者も一定数存在した。その中には貴族階級の読書人もあり、ベーメの精神的支援者となるばかりでなく、ベーメに錬金術 など当時の新プラトン主義 的自然哲学思想を媒介するとともに、読書の機会を与えた。ベーメの著作に散見するラテン語 はこのような友人たちからベーメが学んだものがほとんどであるが、パラケルスス の著述については、これを直接読んだとベーメは証言しており、錬金術用語を『シグナトゥーラ・レールム』・『大いなる神秘』をはじめとする後の著作では大いに用いている。またこの読書はベーメに遅い年齢に達してではあるが、自己の著述を反省し言葉を練る助けとなった。

ベーメは和解の協約を守り新たな著述を行うことはなかったが、その後もリヒターは教会での攻撃をやめず、市民を扇動してベーメを悩ませた。また友人たちもベーメに『アウローラ』に続く著作を所望した。ベーメは自らの沈黙が平和をもたらさぬことを知るばかりでなく、この期間に熟成していった自己の思想をむしろ積極的に表明することが自己の使命であると確信するに到る。1618年 ベーメは著述を再開し、1624年の死に至るまでの6年間に『シグナトゥーラ・レールム』を始めとする幾つかの大著、および付随する小論文、信奉者宛の書簡などで、精力的にその思想を語りだしていく。

幾つかの小論を集めて出版を勧めるものがあり1623年 に『キリストへの道』を出版する。この著作は『アウローラ』同様、激しい議論と敵意の的となり、ベーメはその対応に追われて本格的な著述をする暇を取れないばかりか、ゲルリッツに家族を残してひとり退去し、ドレスデン に一時滞在することになる。しばらくドレスデンに滞在した後、ゲルリッツに戻ったベーメは病を得て没した。
思想 [編集 ]

ベーメは生涯、自身の自覚としてはルター派 の信仰に忠実でありつづけた。ベーメの思想の第一の背景としてはベーメが教会 を通して受けた宗教教育が挙げられる。しばしば自然哲学 として解釈されるその思想も、ベーメの意図としては晩年の著作の題名が示すように『キリストへの道』として語りだされている。しかしその思想はベーメが正規の教育を受けなかったがゆえに、伝統的なキリスト教 の形而上学 の神概念を超出している。

ベーメ研究者であるグルンスキーは、著述再開後1618年から1624年までのベーメの思想の展開を4期に分け、それぞれを波の襲来にたとえている。うち第4の波、ベーメの最晩年は『アウローラ』発表時と似たような騒動の渦中にあり、そのためベーメは書簡や自身への論難を反駁する小論の著述に追われ、自己の思想の全貌を語りうる量の著述を残していない。したがってベーメの思想の展開は、それ以前の3つの波、さらに最初の諸述『アウローラ』を中心として語られざるを得ない。

グルンスキーによれば、第1波は著述再開から1622年 までの時期で、この時期のもっとも整った書は『三つの諸原理について』(Von den drei Prinzipien)である。続く第2 波は1621 年 早くから1622年夏までであり、『シグナトゥーラ・レールム』執筆の時期に当たる。なお、第3波は1622年秋から1623年 秋までに当たり、ここにはベーメ最大の著作『大いなる神秘』を含む諸著作が含まれる。

ベーメは自己の思想の連続性に強い確信を抱いていた。先に触れた書簡でも、『アウローラ』の著述の晦渋さと未成熟を反省する一方で、そこに述べられた内容は『アウローラ』以前の神秘体験の数秒のうちにまったき仕方で与えられており、それを開陳するために必要な言語を欠いていたのだと述懐している。しかし研究者の間では、この一貫性を認めつつも、『アウローラ』・『シグナトゥーラ・レールム』・『大いなる神秘』をそれぞれ頂点となす思想の泳動をベーメのうちにみることが一般的である。
神の顕現 [編集 ]

ベーメの見たヴィジョンは万物の神的な実相とでもいうべきものであった。ベーメはあらゆる存在の中に神のドラマを見て、わたしたち人間すべては神の歓びの調べをかなでる楽器の弦であるという。「すべてのものは神である。」と言ってしまえばそれは単純な汎神論になる。しかしベーメの汎神論は決して単純ではない。名状しがたきヴィジョンをどうにか捉えようと特殊な用語を駆使し、神の現われをダイナミックに描写しようとする彼の思想は複雑難解なものである。その記述は神の起源にまでさかのぼる。神の奥の奥、三位一体 の神の根源をベーメは無底と呼ぶ。無底とは底なきもの、他の何かによって根拠づけられることがなく、また底がないのであるから何かを根拠づけることもない。

このどこまで行っても何もない無の中には他の「あるもの」を求めるあこがれがあるという。ただし、あこがれは無限に広がっており、中心もなければ形もない。あこがれの海、そこには何もないのだから何も見ず、何も映さない。いわばこれは目でない目、鏡でない鏡である。あこがれから外に向かっていこうとする運動を意志というが、この意志が無底の内に向かって収斂し、自分自身である無をつかむとき、無底のうちにかすかな底ができ、ここからすべてが始まる。意志は本質の駆動力であり、いかなる本質も意志なくしては生じないという。

意志は底に立つことで外に向かうことができるようになる。底ができることによって無底が無底となり、目が目となり、鏡が鏡となる。あるものがあるものとして認識されるためには区別が必要なのである。ベーメによれば神ですら自己を認識するには神以外のものを必要とする。さて、中心と円周が明確となることによって智慧の鏡と呼ばれるものが生じる。鏡は精神(ガイスト)を受けとめ、すべてを映すが、それ自体は何かを産むことのない受動的なものである。智慧の鏡は別名ソフィアという。ソフィアは「受け入れるが産まない」という処女 の性質をもつ無である。無であるというのはソフィアが存在から自由なものだからだ。この自由なるソフィアを見ようと意志は鏡をのぞきこみ、鏡に自分自身の姿を映す。ここで意志は欲望をおこし、イマギナチオ(想像)する。イマギナチオによって意志は孕み、精神としての神と被造物の原形が鏡において直観されるのである。
永遠の自然 [編集 ]

これから神の欲求が外へと向かうことで世界が形成されるのだが、この後直接に我々が目にするような自然が創造されるというのではない。次いでベーメが語るのは、可視的自然の根源たる永遠の自然である。彼は七つの霊もしくは性質によって万物が形成されるという。性質(Qual)とは苦(Qual)であり源泉(Quelle)である。これは単なる語呂合にも思われるかもしれないが、これから述べるようにベーメにとって言葉やひびきは存在の本質と深く関わったものである。内容からすれば、存在がさまざまなかたちに分かれ、性質をもつということは始元の融合からの乖離として苦であるという意味にとれる。

まず第一の性質、それは欲望であり、内側に引きこもる働きを持っている。渋さ、堅さとも表現される欲望は、自分自身を引きずり込み、濃縮して闇となる。既に無底の内で働いていたこの原理は自然の第一の原理である。

第二の性質は第一のものと逆に外へ向かう運動、流動性。これはつきさして暴れ、引きこもる力に抗して上昇、逃走しようとする。この性質は『アウロラ』では甘さと呼ばれ、他では苦さと呼ばれる。

第三は上の二つの力の張り合いである不安。内へ向かう力と外へ向かう力は互いに反発しあい、一方が強くなれば他方も強まるので安定することがない。それは相反する面が互いに運動する車輪の回転のようでもある。不安の輪の回転は限りなくエセンチア(存在物、本性)を生み出す。以上の三つの原理は第一原理、万物の質料の源である。

さて、第四の性質は熱とか火花と呼ばれ、闇を焼き尽くして光を生じさせる。この原理によって前の第一原理の三性質、暗い火が明るい火へと転じ、死のうちから生命が現れる。不安の輪の残酷な回転が結果的に火の鋭さ、そして輝かしい生命を生む。

第五の性質は光であり、熱から出たものでありながらも焼き尽くす破壊的な熱とは反対にやわらかく、優しい。この性質は歓びと恵みの原理であって、ここから五感(見、聞、感、味、嗅)が誕生する。愛に抱かれ、ここで統一された多様な力は再び外へ向かって広がりゆく。

この広がり、すなわち第六の性質はひびき、音、そしてことばである。内にあったものがこの性質によって外へ顕わになり、語られるのである。ひびきは認識を可能にし、自然の理を明らかにして知と関係する。精神はここまで細分化しつつ展開してきたわけだが、理に至って自らの展開を十分に認識する。

そして最後の第七性質においてこれまで展開してきたものに形が与えられる。このようにベーメにとっての世界の創造とは、神が一気に制作することではなく、神の想像の働きが自己を展開してゆくことである。その際否定的な要素が大きな役割を果たしているのに注目すべきである。世界が生き生きとしたものになるためには障害が不可欠なのである。

ドイツ観念論の完成者ヘーゲル はベーメを「ドイツ最初の哲学者」と呼んだ。対立する力の働き合いの内に絶対者が自己を実現してゆくという彼の哲学はベーメの内にその原形を有していると言える。ただしヘーゲルはベーメの「混乱したドイツ語」には辟易していた。この項では概略を見てきたが実際にはベーメの思想はさらに複雑で、錬金術の特殊な用語や記号との対応があり、言葉の使用法は通常のものとは大きく離れている。世界の内に甘さや苦さが働いていると言われても、普通の人間は奇妙な印象を受けるだろう。彼が神秘学にかぶれた「無学な靴職人」とそしられるとしても、その晦渋な文章を考えれば理由がないわけではない。
堕落と救済 [編集 ]

ところで現実の世界を見渡すとき、そこには悪があふれている。ベーメはこの悪の起源についても語る。伝統的な神学上の問題として、完全な善である神が世界を創造したというならなぜ世界には悪が存在するのかというものがある。 ベーメの神観では、神は純粋な善であるわけではなく、暗い面をも持っているわけだが、それが直接にこの世の悪の原因となっているわけではない。可視的自然の創造以前に創造された天使の世界に悪の起源があるというのである。天使は怒りの暗い火と愛の明るい火を精神の原理とするものとして創造された。怒りを愛に従わせることが善なのであるが、自由な意志にとっては逆も可能である。そして天使は自由な意志を持っていた。大天使のひとり、ルシファーは自由をマイナス方向に向けて用いた。

第一性質と第二性質には悪が潜在的に存在していたが、ルシファーはこの二つの性質に対し自らが神たらんとするイマギナチオを向けたのである。ルシファーの神への反逆はマイナスの創造として自由のエネルギーを逆流させ、闇の鏡をつくりだす。闇の鏡はソフィアの鏡と異なって多様な虚像を映し出す。これが空想である。ルシファーは闇の鏡をのぞきこんで空想に踊らされ、ますますエゴを肥大化させる。かくして天使の国は怒りの暗い火が燃える地獄と明るい光の天国に分裂してしまう。

しかし神は世界の混乱をそのままにしておかない。ルシファーの闇の創造に対して再び光の創造が発動する。創世紀第一章で神が「光あれ」と言ったところがこの創造である。ここで時間と空間、可視的自然、そして人間が創造される。最初の人間アダムは神が自己を実現してきた最後の到達点であって、その中にはすべてが見出され、天使にも勝るというまさに至高の存在である。当初のアダムは男と女の両方の性質を合わせ持つ完全な統一体であった。だが、アダムもやがて堕落する。神から愛され、自らも自らを愛する素晴らしきアダムを悪魔は手に入れたいと思った。悪魔はアダムを誘惑し、不完全なる多の世界にアダムの心を向かわせる。

この堕落によりアダムの中の女性の部分である乙女ソフィアは天に帰ってしまった。それとともにアダムを中心として調和していた宇宙は統一を失って複雑な多の世界と化す。アダムは孤独となり、神はそれを憐れんで新たなる女性、エヴァを創造した。しかしエヴァはソフィアの完全な代理とはなりえない。アダムはエヴァの中にソフィアを求め、男女はこうして惹かれ合うようになるものの、性によって苦しみもするのである。

だが、アダムの堕落はルシファーのそれと違う点がある。ルシファーが自らの自由意志で神に反逆したのに対し、アダムはそそのかされて罠に落ちたに過ぎない。そして人間は時間の中の存在である。時間には対立するものを調停する働きがあるので、人間の罪は許される可能性があるのだ。それに対しルシファーは永遠の存在であるため、罪が贖われるということがない。神は堕落した人間を救うため、救世主キリストを遣わす。キリストはエヴァのソフィア化である処女マリアから生まれたので、アダムが喪失した男性−女性の両極性を持っている。いわばキリストとは第二のアダムである。キリストは堕落のそもそもの原因である自由意志を放棄し、完全な受動性のもとに十字架にかけられる。この第二のアダムたるキリストに倣うことで我々は救われるとベーメは述べている。キリストの十字架を背負い、すすんで迫害や嘲笑に会い殺される(火にくべられる薪となる)ことで、火も焼き尽くすことができない新しい人間として生まれることができるという。
参考文献 [編集 ]

ベーメの著書(日本語訳)

* 『アウローラ―明け初める東天の紅 』 薗田坦 訳、創文社(ドイツ神秘主義叢書) 2000年2月
* 『キリストへの道』 福島正彦 訳、松籟社 1991年7月
* 『ベーメ小論集』 薗田坦、岡村康夫、松山康国 訳、創文社(ドイツ神秘主義叢書) 1994年4月

その他

* 『ヤコブ・ベーメ開けゆく次元』 南原実 著、牧神社 1976年
* 『ルネサンスの思想家たち』 野田又夫 著、岩波書店 1963年9月

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カテゴリ : ドイツ史の人物 | カバラ | キリスト教神秘思想家 | 1575年生 | 1624年没


検討問題:物質とは何か
霊学者のシュタイナーは、自身の霊学の究極的な目的は物質とは何かを探究することにあると、一見霊学に矛盾するような、瞠目すべきことを述べている。
 今は予見を述べるだけである。物質はPS理論では、これまでの定置では、+1(以下、プラス1)である。つまり、同一性的身体である。
 問題は身体である。身体の真実在とは、マイナス1である。だから、マイナス1とプラス1との関係を明確にすることで、本件が理解できるようになるはずである。
 思うに、要、中枢は、media pointである。ここは、いわば、森羅万象の大中心、中核、核心である。この変容点、変換点で、マイナス1の超越的存在(超越的身体、ダーク・マター、ダーク・ボディー)が、プラス1の物質に変換されると考えられる。
 言い換えると、マイナス1からプラス1へと正負の符合が変わるということである。思うに、1が、「物質」形成に関わるものである。だから、マイナス1の1は超越界における「物質」、つまり、ダーク・マターなのであり、他方、プラス1の1とは、現象界における「物質」、即ち、通常の物質(ホワイト・マターとも呼べよう)であると考えられるのである。
 ということならば、マイナス1とプラス1とはmedia pointを介して、超越的切断をもって、対応している存在であると言えよう。原像と現象像である。
 また、先に、マイナス1とプラス1に、極性を見たことを考えると、両者には、言うならば、超越的極性、超越的両極性、超越的双極性があると思われる。
 思うに、マイナス1が超越的元素ならば、プラス1は物質的元素である。
 近代自然科学は、⇒+1の+1を探究し、相対性理論、量子力学の現代自然科学は、⇒を探究して来て、今や、マイナス1の領域に探究が進展したと言えよう。
 最後に、物質とは何かを端的に言うならば、それは、虚数対の共振様態のことである。より精確に言えば、超越的存在がmedia pointの虚数対の共振を生起させるが、その共振とは、同一性共振である。この同一性が物質なのである。つまり、超越的存在を原同一性(原一如性、原一体性)とするならば、原同一性(マイナス1)をmedia pointにおいて変容・変換・転換・転移したものである共振的同一性が物質であるということになるのではないだろうか。
 また、しかしながら、極性を考えると、プラス1は、マイナス1と呼応しているはずである。
 この点について考えると、⇒の方向は物質の方向、重力の方向である。そして、⇒の起点のmedia pointに太陽が存するだろう。つまり、プラスの方向が重力の方向、鉛直線の方向であり、マイナスの方向が反重力の方向、超越性の方向である。前者は地の方向であり、後者は天の方向である。
 そう、ここで草木を考えると、生起されたmedia pointにおいて、種子の芽生えの原型を見ることができよう。
 そして、根は地の方向、プラスの方向へと伸び、芽は天の方向、マイナスの方向に伸長する。(そして、それは、Vector Modeを形成するのである。)
 ということは、media pointにおいて、⇔の極性作用が働いていると考えられるのである。
 だから、マイナス1とプラス1との極性とは、media pointの極性(それは、二重極性である。つまり、+iと-iの極性であり、また、プラス1とマイナス1との極性である。)ということになるのである。
 【やはり、これは、古代エジプトのアンクのループのある十字が的確に象徴していると考えられる。
 ここで、易を考えると、それは、正しくは、二重極性と見るべきであろう。天(マイナス)と地(プラス)があり、また、陰陽(陰爻と陽爻)があるのである。だから、陰陽記号の見方は、一重極性であってはならないはずである。この点については、後で検討したい。】


検討問題:マイナス1とMedia Point
先に、ざっと、マイナス1をmedia pointが内に包む、内包すると述べたが、この点を明確にしたいが、今は、予見のみ述べておく。
 マイナス1をダーク・マターないしはダーク・ボディーと仮説している。そして、それは、「気」のエネルギーをもつと考えている。つまり、「ダーク・エネルギー」をもつということになる。
 問題は、この「ダーク・エネルギー」のmedia pointにおける変換様態がどのようなものであるのかということである。言い換えると、「気」と光の関係力学である。
 【今、ふと思ったのであるが、アフラ・マズダーとは、マイナス1ではないのかということである。D. H. ロレンスのdark sun である。結局、このマイナス1の「光」が、一般には、見えないのではないだろうか。ならば、これを超越光としてもいいのである。dark lightとしての超越光である。
 これまで、超越光とは、虚軸の光として捉えたのであるが、マイナス1としての超越光を捉えることができよう。これはおいておく。】
 マイナス1から虚数の対が生起するのであるが、その虚数対が光なのである。つまり、dark lightがbright lightを産むのということになる。
 しかしながら、マイナス1はマイナス1であり、虚数や⇒や+1ではない。ここには、境界、不連続性があると言えよう。
 つまり、マイナス1のエネルギーは虚数光を産み出すものの、それ自体は純粋に存続していると考えられるのである。
 即ち、ここにも即非様態があるということである。つまり、マイナス1は虚数対であり、且つ、そうではないという関係である。
 そうすると、即非様態とは、虚数対(+i, -i)にも存するが、それ以外にも、マイナス1と虚数にも存すると言えよう。
 その意味で、超越光という概念は成立すると言えよう。つまり、dark light(dark energy)がmedia pointでbright lightになるが、media pointにおいて、dark lightを「感覚」すると考えられるからである。感覚というよりは、霊覚であろう。つまり、霊覚としての超越光が感じられるということである。
 今、また想起したのであるが、この霊覚には、他者の「心」も入るのではないだろうか。
 それは当然であろう。マイナス1とは、心と身体との根源であるからである。言わば、心体と言えよう。だから、霊覚をもてば、他者の心が「視覚」できるのである。(以前、小泉元首相をペテン師であると直観したが、それは、霊覚に拠るということになるだろう。)
 マイナス1はダーク・ボディーと言えるが、同時に、ダーク・スピリットである。
 思うに、幽体という言葉を使用してもいいのだろう。しかしながら、語弊があるので、霊体とした方がいいかもしれない。spiritual body、スピリチュアル・ボディー、霊的身体である。霊身である。
 私は、先に、虚軸に情報があると言ったが、そうではなく、マイナス1に根源的情報があると思われる。
 そう、DNAもここに根拠があると思う。DNA自体は、マイナス1の情報のmedia point化だと思われるのである。つまり、遺伝子はマイナス1にあるということである。
 まだ述べることがあるが、今はここで留める。

追記:dark matter(body)/dark energyであるが、電磁波とは、結局、dark energyの外装・表面・外観ではないのか。思えば、D. H. ロレンスは、「われわれは光の背中を見ているに過ぎない」というようなことを述べていたが、この光の背中が電磁波ではないのか。
 真実在の光とは、マイナス1の光=超越光ではないのか。


検討問題:マイナス1の豊饒性
検討問題:マイナス1の豊饒性
テーマ:検討問題:思考実験・仮説・試論・備忘録
結局、すべては、マイナス1に還元されよう。今は、私は、マイナス1に魅了されている。
 これまでは、超越光という観念に付き纏われていたが、今は、それから脱して、超越性と光を分離している。
 Kaisetsu氏の唱える「超越的存在」が正に、マイナス1である。これは、豊饒以外のないものではないと直感するのである。天才的な芸術家、詩人、画家、アーティスト等が追究したものがこれである。
 この点ではたいがいの哲学者は失格である。科学者であるが、現代の科学者、つまり、量子力学を基礎とした科学者はこれに通ずるのである。
 民衆(愚民ではない)も本来、これに通じているのである。ただし、イデオロギーに操作されてきたのである。
 さて、私は、マイナス1をダーク・ボディーであると今は考えている。
 この思想は、実に、東洋哲学なのである。そう、東洋文化とは、基本的にマイナス1をベースにしているのであるが、それが、未分化的様態のために、近代合理主義へと倒錯しているのである。 
 途中。

追記:先に述べたように、マイナス1とは母なるものである。折口信夫の「妣の国」である。プラトンのコーラである。
 西洋文明はハードな父権文明なので、これを正確に把握できなったのである。
 この認識は、トランス・モダン・フィロソフィー=トランス・モダン・サイエンスを意味する。
 私の直感では、沖縄文化とは、マイナス1の文化である。これは、実に母権的文化である。


レディー・ガガとバッハ:根源的他者=超越的存在の探究
テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構築
私はAFNで聴いたのみなので、以下の評価に対して、保留するのが倫理的である。
 とまれ、レディー・ガガは近代/ポスト・モダンが失ったものを「現代」的に取り戻そうとしているのは事実である。
 私は音楽的には強くバッハ音楽が感じる。バロックとは、端的に言えば、東洋的美学である。それは、古典的な秩序とは異質な精神性である。
 イタリアの背景をもつレディー・ガガは、マドンナを換骨奪胎して、バッハを現代的に探究しているのである。
 バッハ音楽とは、実に、media pointの追求である。これは、他者の追求である。他者とは根源的には、超越的存在である。

自らの内に“聖なるもの”を取り込むという象徴 & Lady Gaga - Alejandro
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 



RPEの予測が崩壊する:北野氏もこれで終わり:トランス・モダン路線がわかっていない
テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構築
北野氏の唯物論的史観には、以前から共感できる部分と懐疑的部分があった。
 今や、北野氏の世界政治分析は破綻したと言えよう。結局、北野氏は、ロックフェラー路線と「ロックフェラー路線」(これが真正なオバマ路線である)の区別が見えていないのである。


2010/06/18 17:16
【RPE】★イラン問題でわかる世界情勢の変化〜崩壊する多極主義陣営
・・・・・

▼崩壊する多極主義陣営


倒幕時代、原油をユーロ・円で売るイランは、中国・ロシアの心強い
パートナーでした。

しかし、倒幕が完了すると、イランは用済みになった。

また、アメリカ一極主義に対抗する勢力として現れた「多極主義陣
営」も、もはや存在意義を失いつつあります。

最近SCOで非常に「象徴的」できごとがありました。



<上海協力機構>核開発でイラン加盟に制限 首脳会議で方針

6月11日19時30分配信 毎日新聞

 【モスクワ大前仁】中露と中央アジア4カ国で構成する上海協力機
構(SCO)は11日、ウズベキスタンの首都タシケントで首脳会議を
開いた。

会議では「国連安保理制裁を受けている国や紛争にかかわる国の
正式加盟を認めない」方針を決定し、中露両国はSCO準加盟国の
イランがウラン濃縮を放棄しない状況に対し、厳しいメッセージを送
った。>



イランはSCOの正式加盟国になれないそうです。

「中ロ両国が」とありますが、実際にはロシアが積極的にイランはず
しに動いた。

アメリカ幕府が崩壊した今、「反米の砦」としてのSCOは求心力を失
いつつあるのです。


一体今の時代は何なのでしょうか?


アメリカ幕府崩壊後の「混乱期」とよぶことができるでしょう。

それで、世界の国々が迷っているのです。

日本は、「アメリカと中国どっちにつくのがお得かな?」と迷っている。

ロシアも迷っている。

インドも迷っている。


で、結局世界はどっちにむかっていくの?

ここでは長くなりすぎるので書ききれません。

長期的展望を知りたいからは、北野の新刊「国家の気概」をご一読
ください。

現在第4章まで読めます。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


1章では世界史における日本の役割を明らかにし、「自虐史観」か
ら永遠におさらばしてもらいました。

2章では、20世紀大国の興亡を例に、「人類歴史に流れる法則性」
を明らかにしました。

3章では、1991〜2008年、アメリカ一極時代のはじまりから終焉ま
でをとりあげます。

【NEW!】4章では、否定できない中国のダークサイドに触れています。
ロシア政治経済ジャーナル

参考:
イラン制裁継続の裏側
2010年6月18日  田中 宇

 旧ソ連のすぐ南にあるイランは、歴史的にロシアの影響圏に隣接している。近代史の前半、イランは、アフガニスタンなどと並び、ロシア(ソ連)と英国がぶつかり合う地政学的な角逐の場だった。20世紀初頭、弱体化しつつあった英国は、1902年に日英同盟を結んで日本を帝政ロシアと04年に戦わせた後、弱まったロシアを誘ってイランを英露で分割する地政学的な線引きを、07年の英露協商として行った(英国はテヘランをロシアに与えて懐柔した)。

 2度の大戦の後、イランは親米の王国となった。王制は1979年のイスラム革命で倒され、イランは反米になったが、敵として振る舞う米イスラエルの(自覚なき)エージェントだった疑いもあるホメイニ師は、宗教政治を嫌うソ連との対立を解かず、イランは反米反ソのイスラム主義を貫いた。冷戦後、ロシアは弱体化して影響圏を縮小し、中央アジア諸国は市場主義経済を導入して親米的になったが、911やイラク侵攻の後、米国の単独覇権主義が失敗するとともに、中央アジアにおけるロシアの影響力が復活した。米国がイラクの次にイランを敵視し、イランに核兵器開発の濡れ衣をかけ続けたことは、ロシアにとって漁夫の利を得る格好の機会で、ロシアはイランに武器や原子炉を売る話を持ち掛けて接近した。

 米イスラエルがイランにかけた核兵器疑惑が濡れ衣だということがしだいに明らかになり、中東全域で米英の影響力が弱まって、ロシアにとって20世紀初頭以来の、イランや中東に進出する好機が来ている。国連安保理の常任理事国であるロシアが、イラン制裁を画策する米国と真っ向から対立し、イランにかけられた濡れ衣を晴らせば、イランだけでなくイスラム世界全域においてロシアに対する賞賛が一気に強まったはずだ。(先日それをやったトルコのエルドアン首相は、今や「サラディン以来」ともてはやされるイスラム世界の英雄だ)。

 しかし意外にもロシアは、濡れ衣と知りつつ、米国のイラン制裁に協力する姿勢を崩していない。6月9日、国連安保理で可決された4回目のイラン制裁決議に反対したのは、独自の和解案をイランと締結したトルコとブラジルだけで、ロシアも中国も、米国提案のイラン制裁に賛成した。(US Sees Iran, Afghanistan as Gains of Russia Reset )

 ロシアのプーチンは、大統領だった07年秋にイランを訪問して「イランが核兵器を開発している証拠は何もない」とぶち上げた。だが今回は米国の言いなりになったので、イランのアハマディネジャド大統領は「ロシアは米国の圧力に屈した」と非難した。ロシア外務省は「(アハマディネジャドは)デマを言っている」と非難し返した。ロシアとイランの関係は数年ぶりの悪さになった。(イラン問題で自滅するアメリカ )(Iran and Russia Clash in Worst Row in Years )('Russia's anti-Iran remarks to harm itself' )

 なぜロシアは、米国の濡れ衣につき合うのか。何か裏があるのではないかと思っていたら、安保理が制裁決議を可決した直後、ロシアは、それまで凍結していた、イランに地対空ミサイルS300や原子炉を売る話を再び進めると発表した。国連制裁は、ロシアがイランに地対空ミサイルや原子炉を売ることを禁じていない。ロシアは、イランに対する自国の利権が失われないよう、米国が提案したイラン制裁を骨抜きにして効力を薄めた上で賛成し、可決させた。ロシアだけでなく、中国もこの戦略に乗っていた。中国は「制裁ではなく外交交渉で解決すべきだ」と言い続けたが、最終的に制裁決議に賛成した。(Russia says in talks with Iran on new nuclear plants )

▼制裁決議後に拡大するイランとのビジネス

 ロシアと中国は、イランの核兵器開疑惑が濡れ衣だと暴露する正論で対応せず、制裁を骨抜きにしてもらう代わりに米国の濡れ衣に協力する道を選んだ。米国では政界関係者の多くが、オバマが中露の協力を得るためにイラン制裁を骨抜きにせざるを得なかったことを知っている。(U.N. vote on Iran sanctions not a clear-cut win for Obama )(Beyond Iran Sanctions That Probably Won't Work, Plans B, C, D )

 中露が米国の濡れ衣に協力した理由として考えられるものは、いくつかある。その一つは、ロシアからイランへの地対空ミサイルや原子炉販売に象徴される商業利権である。米国が欧日などの同盟国を従えてイラン制裁を続けてくれた方が、石油ガスなどイランの利権が中露の側に転がり込むので、あえて制裁を潰さず残し、欧米が制裁によってイランの利権から撤退する分をすべて中露がいただく戦略をとったと考えられる。

http://tanakanews.com/100618iran.htm


トランス・モダンかポスト・モダンかの境界は明快になっているだろう
テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構築
【The Automated Payment Transact ion (APT) 】 金融デジタル・トランザクション税への憧憬 from 裏切られた革命?2009

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


2010年06月16日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:正物質と負物質(ダーク・マター、物自体、ダーク・ボディー)
例えば、眼前に樹木を見ているとしよう。桜の木にしよう。それは現象であり、そこに正物質を自然科学は見るのである。
 しかしながら、PS理論から言うと、桜の木の本体は負物質、マイナス1である。ダーク・マターとしての桜の木である。ダーク・ボディーと呼んでもいいだろう。
 直感では、このダーク・ボディーから「気」が発せられているのである。通常の自然科学は正物質しか見ないから、「気」を理解できないのである。
 おそらく、ダーク・ボディーからの「気」(ダーク・エネルギー?)は、media pointを媒体とするので、電磁波も形成するのである。つまり、言うならば、電磁波に包まれた、内包された「気」が発動されていると思われるのである。
 だから、自然科学では、電磁波を観測できるが、「気」自体は当然、観測できないのである。しかしながら、人間身体は本来、ダーク・ボディーなので、「ダーク・エネルギー」の「気」を感知できると考えられるのである。
 では、ダーク・ボディーないしはダーク・マターと通常の物質の関係はどうなのか。これについて後で考察を行いたい。

参考:

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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曖昧さ回避 漫画・アニメドラゴンボール での概念については「気 (ドラゴンボール) 」をご覧ください。

気(き)とは、中国思想や中医学 (漢方医学 )などの用語の一つ。一般的に気は不可視であり、流動的で運動し、作用をおこすとされている。しかし、気は凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素と定義する解釈もある。宇宙生成論や存在論 でも論じられた。
字解・語源 [編集 ]
ウィクショナリー
ウィクショナリー に気 、気 の項目があります。

正字は「氣」(異体字「炁」)。日本での通用の字体「気」は漢字制限 (当用漢字 、常用漢字 、教育漢字 )による略字。現代中国語では「气」が通用される。

説文解字 では「氣」は「饋客芻米也,從米气聲。」とし、段玉裁 注では「气氣古今字,自以氣爲雲气字,乃又作餼爲廩氣字矣。气本雲气,引伸爲凡气之偁。」という。雲気の意であった气が本字で、芻米の意の「氣」が音通でつかわれるようになった、その他の意味は雲気の意味からの派生であるというのである。

また、同様に説文では「气」は「雲气也,象形。」とある。しかし、雲気の意義から気息の意義が引き出されるというのはやや解しがたい。また「氣」は「愾」であり、「氣息」の義であるという古字書もあるため、少なくとも気息の意義も本来の意義であったとみなすべきであると思われる。(「一語の辞典 気」参照)
概説 [編集 ]

気はラテン語 spiritus やギリシア語 pneuma(プネウマ)、ヘブライ語 ruah(ルーアハ )、あるいはサンスクリット prana(プラーナ )と同じく、生命力や聖なるものとして捉えられた気息、つまり息の概念がかかわっている。しかしそうした霊的・生命的気息の概念が、雲気・水蒸気と区別されずに捉えられた大気の概念とひとつのものであるとみなされることによってはじめて、思想上の概念としての「気」が成立する。

雲は大気の凝結として捉えられ、風は大気の流動であり、その同じ大気が呼吸されることで体内に充満し、循環して、身体を賦活する生命力として働く。つまり、ミクロコスモスである人間身体の呼吸とマクロコスモスである自然の気象との間に、大気を通じて、ダイナミックな流動性としての連続性と対応を見出し、そこに霊的で生命的な原理を見るというアイディアが、気という概念の原型なのである。

一方では人間は息をすることで生きているという素朴な経験事実から、人間を内側から満たし、それに生き物としての勢力や元気を与えている、あるいはそもそも活かしているものが気息であるという概念が生まれる。そしてまたそこには、精神性、霊的な次元も、生命的な次元と区別されずに含まれている。ただし、精神的な次元は、後代には理の概念によって総括され、生命的な力としてのニュアンスのほうが強まっていく。

他方では、息は大気と連続的なものであるから、気象、すなわち天気などの自然の流動とも関係付けられ、その原理であるとも考えられていく。自然のマクロな事象の動的原理としての大気という経験的事実から、大気にかかわる気象関連の現象だけでなく、あらゆる自然現象も、ひとつの気の流動・離合集散によって説明される。この次元では気はアルケー としてのエーテル である。

この霊的な生命力として把握された気息であり、かつ万象の変化流動の原理でもあるという原点から、ついには、生命力を与えるエネルギー的なものであるのみならず、物の素材的な基礎、普遍的な媒質とまで宋学では考えられるようになった。

こうした由来ゆえに、気は、一方では霊的・生命的・動的な原理としての形而上的側面をもちながら、他方では、具体的で普遍的な素材(ヒュレー)的基体でありかつ普遍的なエーテル的媒質であるがゆえに、物質的な形而下的側面も持つという二重性を持つことになった。気は、物に宿り、それを動かすエネルギー的原理であると同時に、その物を構成し、素材となっている普遍的物質でもある。従って、たとえば気一元論は、かならずしも唯物論とはいえない。
中医学の気 [編集 ]

中医学 おける気はその主な活動部位により名称が異なっている。

原気(元気)
両親から受け継いだ先天の精が変化生成したもの。生命活動の原動力となる。原気は、中焦からもたらされる後天の精により補給、臍下丹田(陰交穴 、気海穴 、石門穴 、関元穴 のあたり)に集まり、三焦 の働きで経絡を介し、全身を循って、臓腑・器官・組織に活力を与えるものである。原気が旺盛なら下腹部に張りがあって、体内の臓腑・器官も力強く働くため、活気があって粘り強く、疾病にもかかりにくい。原気が衰えると、下腹部が軟弱となり、臓腑・器官も弱く障害を受けやすくなるので、活動も弱々しく、疲れやすく、冷えて、疾病にかかりやすい。
宗気
肺において後天の精と天の気が交わって、胸中(膻中 )に集まる気である。宗気は、五臓の心 と肺 (六腑 においては三焦の内、上焦)と関係が深く、臓の活動を支えている気(心の拍動を力強く、規則正しく行わせたり、呼吸や発声をしっかりとさせる気)である。宗気が不足すれば、呼吸の異常(少気、短気など)が起こったり、語声に力がなくて、細くなったり、心の拍動が弱まったり、規律性を失ったり(脈の結、代など)する。
営気(栄気)
営気は、後天の精から得られる陰性の気(水穀の精気)である。営気は、津液 を血 に変化させて、血とともに脈中を行き、1日に人体を50回以上も循って臓腑や手足などの内外諸器官を栄養して、それらの活動を支える。
衛気
衛気は、後天の精から得られる陽性の気(水穀の悍気)である。衛気は、脈外を素早く循る気で、特に体表近くで活動、肌膚を温め(体温保持)、腠理を開闔(皮膚の収縮と弛緩)し、外邪に対する防衛的な役割をしている。衛気は、昼間に人体の陽の部(体表部)を25周して、夜間に人体の陰の部(体内部)を25周する。
真気(正気)
真気は、先天の気と後天の気からなるもの。人体の正常な活動を支える気である。

推動作用
人の成長・発育や、一切の生理的活動及び新陳代謝をする働きで、原気、宗気、営気、衛気、臓腑の気など全ての気に備わっている。腎 に関係する。
温煦作用
臓腑・器官などの一切の組織を温め、体温を保持する働きで、特に衛気・原気・腎気と関係が深い。
防御作用
体表において、外邪の侵入を防御する働きで、特に衛気と関係が深い。
固摂作用
血・津液・精液などをつなぎ留める働きで、血が脈外にもれない(脾の固摂(統血作用))ようにしたり、汗や尿がむやみに漏れ出る(遺精→腎の固摂作用)を防いだりする。営気、衛気、脾気、腎気と関係が深い。
気化作用
精が気に、気が津液や血に変化したり、津液が汗や尿になって体外へ排泄する働きで、営気、衛気、宗気、脾気、肺気、腎気と関係が深い。

臓気
五臓におさまり、それぞれの経絡の活動を支えている気である。
経気
経絡中を行き全身を循り、それぞれの経絡の活動を支えている気である。
胃気
胃を働かせる気、胃の働きによって得られた後天の気のことで、有無は予後に重要な影響を及ぼすとされ、診断上(特に脈診)も重要視されている。脈は中脈で診る。

中医学における気の利用 [編集 ]

中医学は漢方 、鍼灸 、気功 などに分類される。

漢方 (薬膳 などを含む)は、生薬 などを患者に服用させることで、臓器 のバランスを整え、経絡 の流れを改善し、体内の気の流れを良くして病気を改善させる方法。

鍼灸は、経絡上にあるツボを刺激し、気の流れを整え、臓器の調整を行い、病気を改善させる方法。

気功は、通じにくくなった経絡中の気の流れを、より直接的に開通させて病気を改善させるとともに、患者自身が体内の気の流れを良くしてバランスをはかれるように調整する方法である。
道家の気 [編集 ]

戦国時代 末期、『荘子 』では気の集合離散が万物の生成消滅という変化を起こしていると説明している。また陰陽二気という相反する性質をもった気によって多様な世界が形作られるとした。そして、気の上位に「道」という根元的な実在があるとされ、『老子 』 42章の「道生一 一生二 二生三 三生萬物 萬物負陰而抱(河上公註本では袌)陽 沖氣以爲和 」道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱き、冲気もって和を為す、と相まって根元的な実在である道と万物を構成する気という宇宙生成論が唱えられた。

一方で道家の思想からは後に人体に流れる気への着目により「仙人 」の養生術としての導引が生まれた。これが近代中国では宗教色を廃し気功 になる。
儒教の気 [編集 ]

儒教 の経書で宇宙生成論を扱うのは『易経 』の伝である。繋辞上伝には「太極 →両儀→四象 →八卦 」とあり、漢代には「両儀」は陰と陽の二気に、宇宙の根元である「太極」には春秋学 の「元」の思想から生まれた「元気」に措定され、「元気→陰陽→四時→ 万物」というモデルが提出された。

宋代になると、周敦頤 が「太極図 」に基づいて『太極図説 』を著し、道教 の「無極」を取り入れて「無極→太極→陰陽→五行→万物化生」の宇宙生成論を唱えた。周敦頤は後に朱熹 によって取り上げられることになるが、朱熹は道教的な「無」を嫌い、「無極よりして太極をなす」を「無極にして太極」と無理やり置き換えている。

張載 は、世界・万物は気で構成されており、世界には気が離散して流動していて、気が凝固すると万物ができると考えた。また気のありかたは人間の道徳性と関わり、流動性の高く本来的なあり方を「天地の性」として優れたものとし、凝固した現実的なあり方を「気質の性」として劣ったものとした。

南宋 の朱熹は張載の気と程頤 ・程 の理 を融合して理気二元論を唱えた。世界にアプリオリ に存在し、気の集合離散を秩序づける法則・理法を理と呼び、理先気後を主張した。朱熹は、人間の死を気の離散とし、いったん離散した気は元に戻らないと考えた。しかし、弟子に「では、祖先祭祀はどうして行うのか」と問い質され、これは朱子学 の重大な理論上の欠陥となった。

明代中期になると理先気後に対して理気相即が唱えられるようになり、理は気の条理(いわばイデアではなく形相)とされるようになった。このように理気論は気一元論へと収束されていった。そして、清の戴震にいたっては理は気によって生じるアポステリオリ なものとされるに至った。

日本では伊藤仁斎 が同様の主張を唱えた。
武術の気 [編集 ]

武術 では、独自の「気」の概念・理論を持つ (日本武術 では合気道 が有名) 。これを解りやすく他の者に伝える為、宗教的な気の捉え方を合体させた流派、門派も存在する。また、遠当 (とおあて)という相手の身体に接触せず相手を倒す技術が存在する。これは離れた相手に気を当てるといった技術である。遠当を放って相手の姿勢を崩した後に弓で矢を放って射止めたと言われている。なお、同名 (遠当) の遠距離攻撃術もある。

武術における気とは、体の「伸筋の力」、「張る力」、「重心移動の力」といわれることが多い。これらを鍛える為、様々な鍛錬(中国武術 では練功 )を行う。また、「力む」と屈筋に力が入ってしまい、「張る力」を阻害するため逆効果であるともされる。尚、伸筋を働かせても、「力む」感じは無く、「張る」感じがするだけである。

練功の基本段階では、相当中医学 の気血などの理論体系を基にしており、まずは健康目的で中国武術を始める人もいる。その典型なのが太極拳 であり、中国政府によりまとめられた二十四式太極拳 の普及によって、太極拳は体操のようなもので武術ではないという誤解すらあるが、これは太極拳という名前だけが余りにも有名になりすぎたためである(内家拳 を参照)。太極拳をはじめとする中国武術の流派の多くは、発勁 を修得することを入門者の目標としており、そのために見た目の単調さとは裏腹に、つらい姿勢での練功が繰り返し積み重ねられる。

中国武術の勁については「発勁 」を参照
日本語の表現としての気 [編集 ]

日本語には気と言う言葉を使う表現がいくつかある。中国哲学の気の概念のうち、物の構成要素、素材としての意味の用法はほとんどなく、「元気」などの生命力、勢いの意味と、気分・意思の用法と、場の状況・雰囲気の意味の用法など、総じて精神面に関する用法が主である。気になる、気に障る、気が散る、気をやる(セックスにおいてオルガスムスに達すること)など。

なお、慣用句 「病は気から 」の「気」は、本来は、中国哲学の気であるが、日本ではよく、「元気」「気分」などの意味に誤解される。
気の問題点 [編集 ]

主に金銭の授受が含まれる医療の面で、問題となるケースがある。西洋医療には、「気」という概念はないが、前述のように中医学領域において「気」という概念が取り扱われることがある。また気功 療法においては気の概念は無くてはならないものである。

* 各分野によって都合の良い解釈がされており、統一した概念がなく、曖昧な存在となっている。医学の分野に限っても、漢方における「気」と気功 でいう「気」の間には大きな乖離がある。

詳細は「気功 」を参照
* 凝固して可視的な物質という概念もあるが、数値化して測定することができなく、存在を科学的に証明できていない。
* 上記にも関連するが、科学的手法で解析された学術論文が皆無であること。[1]
* 治療や指導が、医師 や鍼灸師 以外によって為されるケースも少なくないこと。

参考文献 [編集 ]

* 佐藤喜代治 著『気 一語の辞典』(三省堂 、1996年)ISBN 4385422206
* 永井均、小林康夫、大澤真幸、山本ひろ子、中島隆博、中島義道、河本英夫 編『哲学の木』(講談社 、2002年)ISBN 4062110806
* 本山博 著『東洋医学 気の流れの測定・診断と治療』(宗教心理出版、1985年1月)

索引 [編集 ]

1. ^ 医学中央雑誌で検索しても2005年〜2010年で該当する論文は1件のみである。;定方美恵子(新潟大学 医学部保健学科), 山田幸子, 「看護療法としての気功 その可能性を模索する」日本看護技術学会学術集会講演抄録集6回 Page32(2007.10)

外部リンク [編集 ]

* 「気」について 風水と陰陽五行説(図解)

関連項目 [編集 ]

* プラーナ
* ヴァーストゥ・シャーストラ

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97 」より作成
カテゴリ : 気功 | 道教 | 儒教 | 錬丹術 | 伝統中国医学 | 身体論 | 中国の言葉の文化 | 日本語の語句



ダークエネルギー

ダークエネルギー (dark energy) とは宇宙に存在するエネルギーの半分以上を占めるとされるが正体が明らかでないエネルギーである。「真空 のエネルギー」等がそうとされる。
概要 [編集 ]

ダークエネルギーとは、宇宙 全体に広がって負の圧力を持ち、実質的に「反発する重力」としての効果を及ぼしている仮想的なエネルギー である。宇宙論 研究者のマイケル・ターナーが最初に作った言葉であるとされる。現在観測されている宇宙の加速膨張や、宇宙の大半の質量 が正体不明であるという観測事実を説明するために、宇宙論の標準的な理論(ロバートソン-ウォーカー計量 )にダークエネルギーを加えるのが現在最もポピュラーな手法である。この新しい宇宙論の標準モデルをΛ- CDMモデル と呼ぶ。現在提案されている2つのダークエネルギーの形態としては、宇宙定数 とクインテセンス (quintessence) がある。前者は静的であり後者は動的である。この二つを区別するためには、宇宙膨張を高い精度で測定し、膨張速度が時間とともにどのように変化しているかを調べる必要がある。このような高精度の観測を行うことは観測的宇宙論の主要な研究課題の一つである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC


発想の訂正:超越光は光と超越的存在の混淆であり、未分化な発想である
media pointにおける発光現象とは、やはり、虚軸を含めるべきである。そうすると、私が超越光と言ったものは、光と超越性(マイナス1)の混淆であると考えられる。
 光は光である。超越性は超越性である。
 「天」と「地」であるが、これは、実に両極的である。マイナス1が「天」になるし、また、「地」になる。同様に、プラス1が「地」になるし、また、「天」になる。
 植物、例えば、草木を考えよう。それは、「天」へ伸びるが、同時に、根は「地」へ伸びるのである。つまり、生命の両極的志向があるのである。
 とまれ、草木の「天」への志向とは、マイナス1の志向であるとする。超越界(根源的自然界)への志向である。しかしながら、大地・地球はマイナス1を本源としている。つまり、根は「地」へと志向するが、同時に、それは、マイナス1を志向していることになろう。
 この「矛盾」であるが、これは、⇒+1にそもそも潜んでいるのではないか。何故なら、⇒は光であり、+1は物質であるからである。
 つまり、⇒は「天」の方向であるのに、+1は「地」ないしは重力を意味するからである。そうすると、天地と地天の双極があることになる。そうすると、「天」の極(マイナス1)と「地」の極(プラス1)とは、両極性を形成しているということではないのか。(そう、これは、磁力ではないのか。それに対して、虚軸は電気力ではないのか。すると、磁界が電界に変換し、発動したMedia Pointで、電磁波が形成されるということではないのか。)
 天地の磁界を想定すれば、この天と地の両極性は説明ができよう。

 ところで、先に、マイナス1への再帰・回帰運動について述べたが、思うに、これが、古代エジプトのアンクのループになるのではないあろうか。つまり、マイナス1への半直線がループになり、残りの三つの半直線が十字を形成するということである。

アンク拡大

http://www.karakusamon.com/egypt/ankh2.html

アンクについて

エジプト学の入門書、現在最も信頼できるエジプト神話の本の用語集から:
ankhのヒエログリフ
アンフ  (この本での表記はアンクではありませんでした)
古代エジプトの美術や文書でおなじみの、円形の取っ手の付いた十字。「生命」を意味するヒエログリフで、神の標識。

「図説 エジプトの神々事典 」ステファヌ ロッシーニ (著), リュト シュマン=アンテルム (著), St´ephane Rossini (原著), Ruth Schumann‐Antelme (原著), 矢島 文夫 (翻訳), 吉田 春美 (翻訳)

http://www.karakusamon.com/egypt/ankh.html


唐草図鑑ロゴ


2010年06月15日(Tue)▲ページの先頭へ
思考実験:media-pointにおける二つ、又は三つの「闇」
-1→Media Point⇒+1

とするならば、Media Pointにおいて、少なくとも二種類の「闇」が生ずるだろう。
 一つは、根源・起源・本源のマイナス1の「闇」であり、もう一つは、不可視光(超越光)の「闇」である。(Kaisetsu氏の凹iの「闇」を加えれば、三つの「闇」となろう。)
 問題は、私が直感するマイナス1の大地/身体の霊性であるが、その直感は凹iの「闇」ないしは超越光の「闇」を感知しているのではないのかという疑問がある。
 思うに、その直感は確かに、超越光に関係していようが、それを超えた(超越した)「もの」ないしは「存在」を察知していると思えるのである。それが、マイナス1ということになるのである。【私の経験の、真夏の砂浜の頭上で見た太陽の「闇」、暗みであるが、それは、凹iの可能性がある。何故なら、それは、実体があるというより、影像であるからである。ここで、文学作品、ファンタジー作品『ピーター・パン(ピーターとウェンディ)』のネバーランドNeverlandであるが、それは、マイナス1の可能性があると思う。】
 もし、そうならば、Media Pointの「感覚」、直感において、それらの「闇」を混同する恐れがあり、結局、混同されてきたと考えられる。
 例えば、キリスト教の「神の国」であるが、それは、マイナス1と超越光が混同されているのではないだろうか。そう、キリスト教は「母」=マイナス1と「父」=凸i(ないしは超越光)を混同しているのである。というか、「母」=マイナス1を意識から排除して、民衆の「母」=マイナス1のヴィジョン・イメージを利用して、それに「父」=凸iをかぶせているように思えるのである。(「子」とは、⇒の光であり、それは、超越光に拠るのである。しかしながら、超越光とは、共振的エネルギーであるが、キリスト教は凸iの傾斜である「父」が光もいわば簒奪しているのである。ついでに、「聖霊」について言うと、それは、直感では、マイナス1のエネルギー、即ち、ダーク・エネルギーである。あるいは、「母」の霊性のエネルギーである。しかしながら、キリスト教は三位一体のドグマによって、「聖霊」の「母」性=マイナス1を否定していると考えられる。もっとも、「子」も本来、「母」の「子」であるが、それを「父」の「子」とねじ曲げていると考えられるのである。)
 仏教の仏国土や浄土であるが、これも混同があると思う。これは、やはり、本来、「母」=マイナス1と考えられる。折口信夫の常世であるが、これも「母」=マイナス1であろう。折口信夫は天才的に「妣が国」と述べている。
 そう、ここで、宗教の問題性に触れると、問題は、マイナス1や超越光を感受しながらも、一般に人間は凸iに傾斜し、同一性と連続しているので、つまり、自我同一性に傾斜しているので、霊性や超越性が利己主義のために使われる危険が常にあるのであり、結局のところ、宗教はエゴイズム、権力に仕えてきたのである。
 ところで、-1→Media Point⇒+1の図式であるが、自己ないしは個を考えると、マイナス1においては、自己や個はないと思う。だから、別の起源を考えないといけない。
 それは、Media Pointの虚軸、虚界に存するのではないだろうか。つまり、+iと-iの「陰陽」が情報として「虚在」していて、ここに自己・個の情報があるのではないだろうか。
 この虚情報=自己・個情報が、マイナス1のダーク・マターと融合して、知的身体が産まれるのではないだろうか。マイナス1が卵ならば、虚情報は精子である。
 思うに、超越的学習であるが、それは、やはり、Media Pointで行われるのだろう。通常、目覚めた日昼においては、意識は⇒+1であり、+1に傾斜しているだろう。つまり、同一性・自我・物質の意識であり、睡眠時には、+1から離脱して(幽体離脱)、Media Pointへ反転して、超越的学習をするのだと思う。
 そうすると、人間の認識であるが、+iと-iの極性意識をもつが、通常日常は、⇒+1の現象的、物質的知覚に囚われているので、+iと-iの極性認識、 Media Point認識をもつことはないのである。夜、睡眠時において、⇒+1の現象認識から脱却して、Media Pointの超越的認識を行っていると思われる。私の場合、夢において、それが漠然と知覚されるようである。

追記:記すのを忘れていたが、media-pointには、差異共振(積:⇒+1)と同時に、差異共立(商:→-1)が生起しているのではないだろうか。
 これは微妙な問題なので、丁寧に考えよう。マイナス1からmedia pointが産まれるとするならば、そこには、+iと-iの即非・共振が生起して、発光し、現象が産まれる。
 しかしながら、牽引の場合、共振とするならば、斥力の場合、共立となると考えられる。それは、商である。つまり、(+i)÷(-i)→-1である。
 つまり、マイナス1の超越的世界は、現象界を産出すると同時に、再帰=回帰運動もしているということではないだろうか。この再帰・回帰運動が、例えば、植物が開花して、結実するというのは、この再帰・回帰運動に拠るのではないだろうか。そうすると、天はマイナス1の方位ではないのか。地はプラス1ではないのか。つまり、重力の方向である。後でさらに検討したい。

 
参考:
妣が国へ・常世へ
異郷意識の起伏
折口信夫



     一

われ/\の祖(オヤ)たちが、まだ、青雲のふる郷を夢みて居た昔から、此話ははじまる。而(しか)も、 とんぼう髷を頂に据ゑた祖父(ヂヾ)・曾祖父(ヒヂヾ)の代まで、萌えては朽ち、絶えては※(「((山/追のつくり)+辛)/子」、第4水準2-5-90)(ひこば)えして、思へば、長い年月を、民族の心の波の畦(ウネ)りに連れて、起伏して来た感情ではある。開化の光りは、わたつみの胸を、一挙にあさましい干潟とした。併(しか)し見よ。そこりに揺るゝなごりには、既に業(スデ)に、波の穂うつ明日(アス)の兆しを浮べて居るではないか。われ/\の考へは、竟(ツヒ)に我々の考へである。誠に、人やりならぬ我が心である。けれども、見ぬ世の祖々(オヤ/\)の考へを、今の見方に引き入れて調節すると言ふことは、其が譬ひ、よい事であるにしても、尠(すくな)くとも真実ではない。幾多の祖先精霊(シヤウリヤウ)をとまどひさせた明治の御代の伴(バン)大納言殿は、見飽きる程見て来た。せめて、心の世界だけでなりと、知らぬ間のとてつもない出世に、苔の下の長夜(チヤウヤ)の熟睡(ウマイ)を驚したくないものである。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/13212_14465.html


2010年06月14日(Mon)▲ページの先頭へ
マイナス1と大地/身体の関連の試論:マイナス1の超越的存在が「母」・玄牝・ダーク・マターである
以下、Kaisetsu氏/生成門氏に拠るPS理論的ガウス平面世界解釈図である。実に簡潔、明快、明晰であり、トランス・モダン的フィロソフィーの概念図とも言えよう。
 さて、私は、先に簡単に提起したマイナス1と大地/身体との関係を追究したいと考えている。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10562297019.html
 Kaisetsu氏のガウス平面世界概念図では、マイナス1は超越的存在となっている。それは、先には、ダーク・マターであると述べた。
 しかるに、私の直感では、マイナス1の超越的存在と大地ないしは身体はなんらか通じているのである。
 一般的には、大地や身体は物質ということで、プラス1に関係すると考えられよう。
 しかしながら、私は大地や身体は単に物質ではないと直感しているのである。
 ある意味で、マイナス1の超越的存在は、宗教・神話的な意味で混沌と呼んでもいいのかもしれない。
 有り体に言えば、+iと-iとの未分化混沌のような様態である。あるいは、融合、+iと-iとの融合体と言ってもいいかもしれない。(思うに、不連続的差異以前であるが、魂質という概念を考えたことがある。精神であり、且つ、同時に、質料であるという様態である。)
 とまれ、それは、+iと-iがいわば、共立している様態である。これは、積ではなく、商である。即ち、(+i)商(-i)→-1である。そして、これをひっくり返すと、-1→(+i)商(-i)である。〔推察するに、この商がMedia Pointで積に変化すると、共振が起こり、現象が生起(発光)するのではないだろうか。〕この起源の力学はおいておこう。
 さて、これまで、身体を私は⇒+1と考えてきた。これは、光エネルギー⇒と物質+1との有機体である。そして、物質とは、光エネルギーの帰結(エンテレケイア)と考えてきた。つまり、光エネルギーの残骸である。
 しかしながら、そうすると、身体の実質は光エネルギーになる。しかし、それは、精神的なものとなってしまい、身体本来ではありえないだろう。
 私の直感はマイナス1がもつ霊性なのである。それは、これは、いわゆる、精神とは異なるのである。つまり、光の精神性とは異なるのである。
 商の共立空間、あるいは、精密に言うと、未分化の空間である。これは一見、即非に似ているが、そうではなく、AとBは対であるが、AとBは分離していずに、AとBが融合しているのである。しかしながら、融合した中にありながら、AとBは対を形成しているのである。おそらく、Kaisetsu氏が提起した東アジアの神話の卵のイメージに近いと言えば、いいように思われる。黄身と白身が一如である卵殻をもつ空間である。
 この未分化混沌のエネルギーがマイナス1の霊性ではないだろうか。これは、いわば、media pointのプラスのエネルギーとはまったく異質である。思うに、これをダーク・エネルギーと呼んでいいのではないだろうか。ならば、ダーク・エネルギーがマイナス1の霊性ということになる。
 思うに、未分化混沌を、仮に、proto +iとproto -iの未分化様態として考えるならば、(proto +i) ∞ (proto -i)と表記できよう。∞は未分化混沌様態を意味するが、商である。だから、(proto +i) ∞ (proto -i)→-1となるのである。(そうすると、マイナス1に原虚軸のようなものを考えなくてはならないかもしれない。新ガウス平面である)
 とまれ、この仮説された未分化混沌のエネルギー(ダーク・エネルギー)=マイナス1の霊性であるが、これが、media pointで、+iと-iとに明確に分化するのではないだろか。そして、極性を形成するのであり、そこでは、即非・共振的様態を形成すると考えられる。
 そう考えると、太極の陰陽はmedia pointではなく、未分化混沌のマイナス1に見た方が的確かもしれないが、これは保留にしておく。
 とまれ、media pointの即非共振によって光エネルギーが生まれて(「光あれ」)、現象界が誕生するのである。虚軸界の不可視光があり、それが、現象光(太陽光)になるのである。そして、不可視光とは、アフラ・マズダー、大日如来、天照大御神、キリスト等である。
 しかしながら、その不可視光(⇒現象光)はすべてではないのである。
 なぜなら、その根源・起源として、マイナス1のエネルギーがあるからである。言い換えると、「ダーク・エネルギー」がmedia pointの即非共振エネルギーを創造しているのであり、前者が後者の母胎なのである。思うに、media pointは即非共振は「父」であり、マイナス1はプラトンのコーラが示唆するように「母」と呼べよう。
 思うに、これまでの宗教・神話的哲学は、「母」、あるいは、「母」と「父」、そして、「母」と「父」と「子」の関係を捉え損なってきたと言えよう。
 父権的神話、例えば、バビロニアの神話(英雄マルドゥクが母なる怪物ティアマトを殺害する)では、「母」なる未分化混沌を否定し、破壊するのである。つまり、マイナス1をmedia pointの即非共振的同一性志向性(光エネルギー)によって否定、破壊、排除、隠蔽するのである。
 これまで、「母」なるものは、物質materiaと捉えられてきたが、そうではなく、マイナス1の超越的存在=未分化混沌体と捉えられなくてはならないと考えられるのである。
 物質とは、「父」が同一性のフレーム(言語同一性メディア)によってマイナス1の超越的存在を切り分けたときに生じるものである。つまり、物質的身体、同一性的身体である。
 さて、ここで、当初の大地と身体について考察するのによい時機である。
 結局のところ、大地と身体とは本来、マイナス1の超越的存在=未分化混沌体なのである。そこには、未だ、精神も物質もないし、また、虚数的極性や media pointもないのである。ただ、「黄身」と「白身」の未分化的卵、あるいは、ダーク・マターがあるだけであり、そこには、ダーク・エネルギー=霊性が充溢しているのである(参照:プレロマ)。
 結局、大地や身体とはマイナス1=超越的存在であり、未分化混沌体であり、「母」、母胎・母体である。
 これこそ、東洋的アジア的非西洋的文化・文明の原点であると考えられる。
 思うに、D. H. ロレンスが説くdark sunやdark Godとは、根本的にはマイナス1=超越的存在=未分化混沌体を指している考えれるのである。
 現代宇宙論がダーク・マター、ダーク・エネルギーを仮説しているのは、まったく正鵠を射ていると考えられる。そして、ダーク・マターやダーク・エネルギーこそ、いわば、ホワイト・マターやホワイト・エネルギーの究極の根源と考えられるのである。
 
************************

[415] ガウス平面と世界解釈の仕方
From: 生成門


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

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シムダンス「四次元能」


2010年06月13日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:日本的霊性の大地とはマイナス1ではないのか。
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10562297019.html

マイナス1という根源はいろいろな問題を解決するように思える。例えば、大地の問題である。
 これは、ギリシア神話では、デーメーテールであり、エレウシスの秘儀に通じる。
 また、日本神話では、国之常立神ではないだろうか。
 D.H.ロレンスは大地にdark sunを見ているが、これは、正に、マイナス1ではないのか。根源の大地=太陽ではないのか。
 鈴木大拙の『日本的霊性』は大地の霊性を説いているのであり、それは、正に、マイナス1の身体的霊性だと思う。
 今はここで留める。

参考:
鈴木大拙「日本的霊性(にほんてきれいせい)」を読む
麻布善福寺に建っている親鸞聖人像  仏教とははたして何であるのか。仏教に関する本がそれこそ夥しいほどに出版されているのは、畢竟仏教とはよくわからないものだからではないだろうか。
 仏教は宗教なのか哲学なのかさえよくわからない。哲学ならばそこに論理が存在するはずだが、一般の論理は仏教においては使いものにならない。
 「日本的霊性」の著者である鈴木大拙は大乗仏教の根本原理を「即非の論理」と呼んでいる。これは肯定が否定で、否定が肯定だということで論理でも何でもない。たとえば「世界は即ち世界に非ず、是れ世界なり」の類である。この考えが仏教の根本原理といわれてもとまどうばかりである。

 「日本的霊性」は日本の仏教について書かれたものである。たいへん難解ではあるが、鈴木の語り口が面白く、親しみの湧く書である。
 鈴木は日本の仏教は日本的霊性が覚醒されたときにおこったといっている。そして、日本的霊性をもって日本の仏教を解明していく。
 まず、霊性とは何かというと、次のように説明する。

<なにか2つのものを包んで、2つのものがひっきょうずるに2つでなくて1つであり、また1つであってそのまま2つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。>
http://meityo.blog44.fc2.com/blog-entry-17.html
名著を読む

国之常立神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、日本神話 に登場する神 である。『古事記 』では国之常立神、『日本書紀 』では国常立尊と表記されている。別名、国底立尊(くにのそこたちのみこと)。

天地開闢 の際に出現した神である。『古事記』においては神世七代 の一番目に現れた神で、別天津神 の最後の天之常立神 (あめのとこたちのかみ)と対を為している。独神 (性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。『日本書紀』本文では、国常立尊が最初に現れた神としており、男神であると記している。他の一書においても、一番目か二番目に現れた神となっている。『記紀』ともに、それ以降の具体的な説話はない。

神名の「クニノトコタチ」は、国の床(とこ、土台、大地)の出現を表すとする説や、国が永久に立ち続けるの意とする説など、諸説ある。

『日本書紀』では最初、『古事記』でも神代七代の一番目に現れた神とされることから、始源神・根源神・元神として神道理論家の間で重視されてきた。伊勢神道 では天之御中主神 、豊受大神 とともに根源神とした。その影響を受けている吉田神道 では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れを汲む教派神道 諸派でも国之常立神を重要な神としている。例えば大本教 では、根本神である艮の金神 は国之常立神と同一神であるとされ、1944年 (昭和 19 年)6月10日 に千葉県 成田市 台方の麻賀多神社 で岡本天明 に降ろされた日月神示 もこの神によるものとされる。

国土形成の根源神、国土の守護神として信仰され、以下の諸社で祭られている。

* 山王神社 (岩手県 胆沢郡 金ケ崎町 )
* 倉馳神社 (岩手県 胆沢郡 金ケ崎町 )
* 荒沢神社 (宮城県 本吉郡 南三陸町 )
* 戸倉神社 (宮城県 本吉郡 南三陸町 )
* 蘇羽鷹神社 (千葉県 松戸市 )
* 日枝神社 (東京都 千代田区 )
* 大鳥神社 (東京都 目黒区 )
* 御嶽神社 (長野県 木曽郡 王滝村 )
* 山津照神社 (滋賀県 米原市 )
* 城南宮 (京都府 京都市 伏見区 )
* 玉置神社 (奈良県 吉野郡 十津川村 )
* 熊野速玉大社 (和歌山県 新宮市 )の相殿
* 若桜神社 (鳥取県 八頭郡 若桜町 )
* 小村神社 (高知県 高岡郡 日高村 )

関連項目 [編集 ]

* 日本の神の一覧

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%B9%8B%E5%B8%B8%E7%AB%8B%E7%A5%9E 」より作成

デーメーテール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デーメーテール女神

デーメーテール(古典ギリシア語 :Δημήτηρ, Demeter)は、ギリシア神話 に登場する女神 である。長母音 を省略してデメテルとも表記される。豊穣神であり、穀物 の栽培を人間に教えた神 とされる。オリュンポス十二神 の一柱。その名は古典ギリシア語で「母なる大地」を意味する。「掟をもたらす者」という意味の「デーメーテール・テスモポリス」という添名がある。
概説 [編集 ]

クロノス とレアー の娘で、ゼウス の姉にあたる。ゼウスとの間に娘コレー (後の冥府の王妃ペルセポネー )をもうけたが、その経緯はゼウスがデーメーテールに無理やり迫った挙句、無理やり子供を作らされた為、ゼウスにあまり良い印象を持っていなかった(ただし子供であるペルセポネーには愛情を注いでいた)。さらに兄弟の海神ポセイドーン からも無理強いされ、秘儀の女神デスポイアと1頭の名馬アレイオーン (アリーオーン)を生んだ。最も有名な恋人のイーアシオーン はゼウスの嫉妬によって稲妻に撃たれた。
神話 [編集 ]
ペルセポネーの略奪 [編集 ]
ペルセポネー の略奪

デーメーテールの娘コレー (ペルセポネー )は、行方が分からなくなる。何か悪いことに巻き込まれたのではないかと考えたデーメーテールは、犯罪に詳しい神と言われるヘカテー に問い掛ける。ヘカテーは「ペルセポネーはハーデース に冥界に連れ去られた」と答えた。女神は、ハーデースがペルセポネーを誘拐した事を知る。しかし、ゼウス達他の兄弟と違い純真で心優しい性格であるハーデースがそんなことをするはずがないと考えたデーメーテールは、地上の事は何でも知っているとされるヘーリオス に確認を求めた。

ヘーリオスは、「ゼウスが、ペルセポネーを后に迎えたいと言ったハーデースを唆し拉致させた」と女神に教える。デーメーテールはゼウスがこの誘拐に加担したことを知る(詳細は、ハーデース 、ペルセポネー の項を参照)。デーメーテールはゼウスに抗議するが、ゼウスは「冥界の王であるハーデースならば夫として不釣合いではないだろう」と言い訳する。デーメーテールはこれに激怒し、天界を捨て老女に変身しアッティカ のエレウシース に下った。この放浪の間のデーメーテールの行動についての伝説が各所に残されている。
ペルセポネーの帰還 [編集 ]

デーメーテールが地を放浪する間、大地は荒廃した。ゼウスは虹の女神イーリス を遣わしデーメーテールを説得したが、女神は怒りを解かず、コレー (ペルセポネー)の帰還を求め、それを条件として大地の豊穣神としての管掌を果たすことを答える。

ゼウスはハーデースに女神の意向を伝え、ペルセポネーを地上に帰還させた。ペルセポネーの帰還はデーメーテールに喜びをもたらし、それによって大地は再び豊穣と実りを取り戻した。これは穀物が地下に播かれ、再び芽吹いて現れることを象徴する神話とされる。

・・・・・
秘儀の二柱女神 [編集 ]

デーメーテールの祭儀の中心はアッティカ のエレウシース にあり、その秘儀は有名であった。他に「二柱の女神」の名でギリシア各地でコレー (ペルセポネー)と共に祀られた。アテーナイ にはテスモポリア祭 というデーメーテールのための祭があり、豊穣を祈るために、秋(ピュアネプシオン月11日から13日)に女達が祝った。アリストパネース の『女だけの祭』はこのテスモポリア祭を題材とする。
デー メーテールとポセイドーン [編集 ]

アルカディア に伝わる神話では、デーメーテールは娘を捜して地上を放浪していた際、ポセイドーン に迫られた。デーメーテールは彼を避けて牝馬 の姿となり、オンコス 王の馬群の中に紛れ込んだ。しかしポセイドーンは彼女を発見し、自分も牡馬 の姿となって女神と交わった。

この結果、デーメーテールは一人の娘と名馬アレイオーン を生んだ。娘の名はデスポイナ と呼ばれるが、これは単に「女主人」の意に過ぎず、実際の名は密儀の参加者以外には明らかにされていない。この時のポセイドーンに対するデーメーテールの怒りはすさまじく、怒りの女神エリーニュース と呼ばれたほどであった。風光明媚で名高いラードーン川 の流れで沐浴 するまで女神の怒りは続いたとされる。
馬の誕生の神話 [編集 ]

別の話では、自らに求愛してくるポセイドーンに最も美しい陸上の生物を贈るように女神は伝えた。今まで海のニュンペー を驚かせるためのタコやイソギンチャクのような奇怪な姿の海の生物しか作らなかったポセイドーンにとっては難しい話であったが、苦労を重ね一体の動物を完成させた。これによってできあがったのが馬 だとされる。馬が完成するまでにラクダ 、キリン 、カバ 、シマウマ のような数多くの失敗作が生まれることとなった。この後、馬の仕上がりに満足したポセイドーンはデーメーテールのことを忘れたとも、馬のできばえに感心したデーメーテールはポセイドーンと打ち解け、不仲だった二人の関係が改善したともされる。
その他 [編集 ]

アルカディアのピガリア にはデーメーテールとポセイドーンの婚姻が伝わる洞窟があり、そこには黒衣を纏い、馬の頭を持つデーメーテール像があったと伝えられている。神話確立前のデーメーテールは馬の頭をした女神でもあった。

ローマ神話 ではケレース と同一視された。

比較神話学 的には、地母神 として東方由来の神とされる。
関連項目 [編集 ]
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、デーメーテール に関連するカテゴリがあります。

* コレー - ペルセポネー - おとめ座
* ハーデース
* エレウシース - テスポモリス祭


執筆の途中です この「デーメーテール」は、ギリシア神話に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正等して下さる協力者を求めています 。(WPJ:ギリシア神話 /P:神話伝承 )
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AB 」より作成

エレウシス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(エレウシース から転送)
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エレウシス(ギリシア語 :Ελεύσινα、英語 :Eleusis)とは、古代ギリシア のアテナイ に近い小都市(現代のElefsina)。ギリシア神話 に登場する女神デメテル の祭儀の中心地として知られる。また、古代の悲劇 詩人アイスキュロス の生誕地でもある。
エレウシスの秘儀 [編集 ]
テレステリオン(秘儀堂)跡

デメテルの祭儀はエレウシスの祭儀、またはエレウシスの秘儀と呼ばれ、古典古代 時代最もよく知られた秘儀のひとつであり、しばしばたんに「秘儀」として言及されることもある。


・・・・・


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B9


睡眠と学習:睡眠中の超越的世界で学習するのだろう
先に以下のようにエジプト神話に言及した。
 しかしながら、実は、昨夜の夢(昨日の朝の夢)で、オリオン座が実に拡大されて、明快に色分けされていたのである。
 エジプト神話では、イシスはシリウスである。そして、オシリスは、オリオンである。この符号をどう見るのか。
 私は睡眠中にどうも超越的世界へ行って、学んでいるようである。
 超越的世界とは、いわば、学校である。寺子屋である。現世に生きている人間に指導していると思う。
 これは、PS理論的には、当然、Media Point Learningである。Media Point Sophiaを学ぶのである。
 
検討問題:古代オリエントの女神の神話の力学:宇宙処女と処女懐胎:-1とダーク・マターと黒い聖母
http://ameblo.jp/renshi/entry-10561251660.html


2010年06月12日(Sat)▲ページの先頭へ
起源the infinite darkness, the womb of all creations
1)マイナス1を起源とする

2)虚数を起源とする

3)プラトンの立場は、1と2に揺れている

1)はKaisetsu氏やコーラを説いたプラトンやdarkness 起源論のD. H. ロレンスの立場である。

2)は、これまでのイデア論/PS理論の立場である。

3)はイデア論のプラトンとコーラ論のプラトンの二重性のことである。


オイラーの等式-1=e^i πを見ると、-1が根源のように思える。正に、陰陽(陰→陽)である。
 後で検討したい。


参考:

オイラーの等式(オイラーのとうしき、英 : Euler's identity)とは、解析学 における等式

e^{i \pi} + 1 = 0\,

であり、その名はレオンハルト・オイラー にちなむ。ここに、

e\,: ネイピア数 、すなわち自然対数 の底
i\,: 虚数単位 、すなわち2乗すると −1 となる複素数
\pi\,: 円周率 、すなわち円 の直径 と円周の比

である。

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%AD%89%E5%BC%8F 」より作成


参照:
『死んだ男』の圧巻の一つの「宇宙の大いなる薔薇」・「多くの花弁をもつ暗闇の一輪の華」
テーマ:D.H.Lawrenceの『死んだ男』

But the man looked at the vivid stars before dawn, as they rained down to the sea, and the dog-star green towards the sea's rim. And he thought: How plastic it is, how full of curves and folds like an invisible rose of dark-petalled openness, that shows where dew touches its darkness! How full it is, and great beyond all gods. How it leans around me, and I am part of it, the great rose of Space. I am like a grain of its perfume, and the woman is a grain of its beauty. Now the world is one flower of many-petalled darkness, and I am in its perfume as in a touch.
So, in the absolute stillness and fullness of touch, he slept in his cave while the dawn came. And after the dawn, the wind rose and brought a storm, with cold rain. So he stayed in his cave in the peace and the delight of being in touch, delighting to hear the sea, and the rain on the earth, and to see one white-and -gold narcissus bowing wet, and still wet. And he said: This is the great atonement, the being in touch. The grey sea and the rain, the wet narcissus and the woman I wait for, the invisible Isis and the unseen sun are all in touch, and at one.

The Escaped Cock(The Man who Died)
by D. H. Lawrence, The Complete Short Novels,
Penguin Books, 1990, p.597.

参考:今年発行された訳本から

「が、男は、夜明け前の生気に満ちた星々が海の上に雨のように降り注ぎ、天狼星が海の縁近くで緑色の雨のように降り注ぐのを眺めていた。そして、思った。「何という造形の妙だろう。何と曲線と襞(ひだ)にあふれていることか! まるで、露と暗闇が触れ合うところに、目には見えない黒い花弁を開くバラのようだ。何とあふれるほど充実していることか、神々も及ばぬその偉大さ。それはわたしを取り巻くように傾き、わたしはその一部となる。この大いなるバラの宇宙の一部なのだ。わたしはその香料の一粒、そしてあの女はその美の一粒なのだ。今や、世界は多くの花びらを開いた一輪の暗闇の花であり、わたしはその香りのなかに、まるで肌を触れ合うように浸っている。」
 こうして、触れ合いの全き静寂と充足に浸ったまま、男は洞のなかで、夜明けとともに眠りに入った。夜がすっかり明けたころ風が吹き出し、冷たい雨をともなった嵐となった。それで男は洞のなかにとどまって、触れ合っている安らぎと歓びに浸って、海の音や、知を打つ雨の音を聞き、一輪の白と金に彩られた水仙が、雨に濡れてうなだれたまま、まだ今も依然として濡れているのを見て大喜びだった。彼はつぶやくーー「この触れ合いのうちに身を浸すこと、これは、偉大な贖罪だ。灰色の海も、雨も、濡れた水仙も、わたしの待つあの女も、目に見ぬイシスの女神やあの太陽も、すべてが触れ合いのうちに、ひとつのものになっている。」

          岩田昇訳

なお、訳では、イシスをアイシスとしている。

『D.H.ロレンス短篇全集 5』大阪教育図書2006年 218〜219ページ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4271114626/qid=1150875024/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/503-0226866-3012711

http://ameblo.jp/renshi/entry-10013869782.html

***********************

参考:ニーチェに強い影響を受けた天才D. H. ロレンス独特のゾロアスター教的二元論である。「光の波」とは+iないしは⇒+1であり、「暗闇」とは、-i ないしは⇒-1である。この「暗闇」とは、実は、超越光に通じるものと考えられる。

There is the wave of light in me which seeks the darkness, which has for its goal the Source and the Beginning, for its God the Almighty Creator to Whom is all power and glory. Thither the light of the seed of man struggles and aspires into the infinite darkness, the womb of all creation.

The Phoenix 2  p. 377
http://ameblo.jp/renshi/entry-10344644991.html
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


検討問題:古代オリエントの女神の神話の力学:宇宙処女と処女懐胎:-1とダーク・マターと黒い聖母
神話学者ジョゼフ・キャンベルは、女神の神話と父権的神話の絶対的差異を述べている。もっとも、彼は要素は共通すると述べているが。
 女神の神話、例えば、古代エジプトのイシスとオシリスの神話であるが、これは、正に、超越光と光で説明できよう。
 イシスが超越光であり、オシリスが光(太陽光)である。
だから、⇒がオシリスであるが、問題は、イシスである。イシスは、(+i)*(-i)であろう。
 しかしながら、イシスとオシリスの神話は、聖母子の原型になった神話である。どうみても、そこには身体、母体ないしは母胎がなくてはならないのである。それをどう見るのかである。
 プラトン的に言えば、コーラがなくてはならないのである。あるいは、Kaisetsu氏やロレンス的に言えば、根源の子宮がなくてはならないのである。
 ここで想起するのは、処女生殖ないしは単性生殖である。それは、雌のみで生殖するのである。これは、聖母マリアの処女懐胎と通じるものである。
 そうすると、Kaisetsu氏の説く-1の凹(追記:訂正:-1の凹ではなく、単に-1である)の自己分裂が意味をなすだろう。
 つまり、宇宙は処女生殖、-1=凹(追記:訂正:-1=凹は単に-1である。)の自己生殖から産まれたことが言えそうである。
 だから、イシスとオシリスで言えば、オシリスは、本来、イシスの分身であろう。宇宙処女は自己分身化して、超越光(イシス)となり、太陽光(オシリス)を産み出すのである。
 思うに、宇宙処女(コズミック・ヴァージン)であるが、それは、エジプト神話では、ハトホル女神になるのではないだろうか。それは、ダーク・マターと考えれば、それは、黒い聖母と通じよう。
 後でさらに、また精緻に検討したい。


追記:-1は凹ではないので、上記の説明を訂正する。Kaisetsu氏は、凸iと凹iの生成を説いているのであり、凹凸は虚軸の記号である。
 起源の問題であるが、シュタイナーは、諸神霊は、最初、「土星」を創ったという。それは、身体である。それは、-1に通じよう。
 しかしながら、諸神霊が存するならば、それは、虚軸に、ないしは、いわば、超虚軸に存するのではないだろうか。

 
参考:

【ベクトル・モード vector mode】  人間認識の区分(概念図)
http://blog.kaisetsu.org/?eid=811244

マイナス1をdark matterとする
http://blog.kaisetsu.org/?eid=811253

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


参照:
オシリスとイシスの伝説
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イシス

オシリスとイシスの伝説(-でんせつ)とは、オシリス とイシス 及びセト 、ホルス 神を巡るエジプト神話 上の一連のエピソード 。ギリシャの歴史家 プルタルコス によって紹介され、ファラオ の王権にも密接に関わっている。神話学の観点からは、オシリスの死と再生を象徴しているとされる。


・・・・・


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イシス
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曖昧さ回避 この項目では、エジプト神話の女神について記述しています。小惑星については「イシス (小惑星) 」をご覧ください。
女神イシス(紀元前1360年頃の壁画)
イシスの女司祭(2世紀ローマの立像)

イシス(Isis)はエジプト神話 の女神。イシスはギリシア 語であり、古代エジプト ではアセトと言った。ヘリオポリス 神話ではゲブ とヌト の子供で、オシリス の妹であり妻、セト 、ネフティス の姉でもあり九柱神の一角をになう(セトの妹とされる事もある)。またホルス の母。別の神話によるとラー の娘。ナイル 河畔のサイス に大規模な神殿があったことで知られる。

イシス信仰は、共和政 末期にローマ へ持ち込まれて発展し、200年頃にはほぼローマ帝国 全域で崇拝された。イシスは永遠の処女であり、処女のまま神を身ごもったとされ、「天上の聖母」「星の母」「海の母」などさまざまな二つ名を持った。しかし、信者が基本的に女性に限られたことや、信者の女性が一定期間の純潔を守ることを教義としたため、男性からの評判が悪く衰退していった。

イシスがホルスに授乳する様子などが、イエス の母・マリア への信仰の元になったといわれる。

サイスのイシス神殿の銘文「わが面布を掲ぐる者は語るべからざるものを見るべし」は真理の性格をあらわすものとして、ヨーロッパで好んで引用された。ノヴァーリス の『ザイスの弟子たち』はイシス神殿の学生たちを登場人物としたものである。

オシリス神話により献身的な母や妻としての印象が強いが、他の神話的物語では強力な魔術師 的存在として描かれ、その力を用いて父ラーから支配権を強引に奪い取ったという神話も残っている。
関連項目 [編集 ]

* オシリスとイシスの伝説

ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、イシス に関連するカテゴリがあります。
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オシリス
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曖昧さ回避 この項目では、エジプト神話の神について説明しています。

* ペガスス座 の惑星については「オシリス (惑星) 」をご覧ください。
* 太陽系内の小惑星については「オシリス (小惑星) 」をご覧ください。

オシリス
パピルス製の巻物に書かれたエジプトの死者の書 。オシリスの姿

オシリス(Osiris)は、古代エジプト神話 に登場する神の一柱。オシリスとはギリシャ語 読みで、エジプト語 ではAsar(アサル)、Aser(アセル)Ausar(アウサル)、Ausir(アウシル)、 Wesir(ウェシル)、Usir(ウシル)、Usire、Ausareとも呼ぶ。イシス 、ネフテュス 、セト の 4兄弟の長兄とされる。王冠をかぶり、体をミイラ として包帯で巻かれて王座に座る男性の姿で描かれる。

同神話によれば、生産の神としてまた、エジプトの王として同国に君臨し、人々の絶大な支持を得たが、これを妬んだ弟のセトに謀殺された。尚、この際、遺体はばらばらにされて、ナイル川 に投げ込まれたが、妻であり妹でもある、イシスによって拾い集められ、ミイラとして復活。以後は、冥界 アアル の王としてここに君臨し、死者を裁くこととなった。その一方で、自身の遺児・ホルス をイシスを通じ後見して、セトに奪われた王位を奪還。これをホルスに継承させることに成功。以降、現世はホルスが、冥界はオシリスがそれぞれ統治・君臨することとなった。

ただし、この神話はエジプト人自身の記述ではなく、ギリシアの哲学者プルタルコス による「イシスとオシリスについて」に基づくものである。 神の死と復活のモチーフは各地の神話において、冬の植物の枯死と春の新たな芽生えを象徴しており,オシリスにも植物神(もしくは農耕神)としての面があると見られる。右図にあるように肌が緑色なのは植物の色を象徴しているからだといわれる。

古代エジプトの墓の遺跡に、彼の肖像が描かれたり、その名前が記録されているのはそのためであり、当時の人々の死生観 に彼の存在が大きく影響していたことの現れであろう。
関連項目 [編集 ]

* オシリスとイシスの伝説
* 古代エジプト
* オシリス (惑星) - ペガスス座 の恒星を巡る惑星。
* オシリス (小惑星) - 太陽系内の小惑星 。いずれもオシリスに因んで命名された。

ウィキメディア・コモンズ
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聖母マリア
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曖昧さ回避 この項目では、キリスト教の伝統(特にカトリックと正教会)におけるマリアについて説明しています。

* 歴史的な人物としてのマリアについては「イエスの母マリア 」をご覧ください。
* マリアに対する称号については「神の母 」をご覧ください。
* プロテスタントのマリヤ観については「プロテスタントにおけるマリヤ観 」をご覧ください。
* パリの聖マリヤとも呼ばれる正教会 の聖人 については「母マリヤ 」をご覧ください。
* 神道 における聖母(しょうも)については「神功皇后 」をご覧ください。

『ウラジーミルの生神女 』。エレウサ 型イコン の傑作。
ラファエロ 画・『大公の聖母』

聖母マリア(せいぼマリア)は、カトリック教会 用語でイエス・キリスト (ナザレのイエス )の母 。ナザレのヨセフ の妻 を指す最も一般的な称号 である。アンナ とヨアキム の娘とされている。童貞マリア、処女マリア、聖母、(サンタ-)マリア、ミリアムとも。

正教会 の一員である日本ハリストス正教会 では生神女マリヤ(しょうしんじょマリヤ)の表現が多用される。

「生神女 」および「パナギア 」も参照

この記事ではキリスト教におけるマリア像のみを描写する。



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「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AF%8D%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2 」より作成

黒い聖母
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ヤスナ・グラの聖母 (ポーランド )

黒い聖母 (くろいせいぼ) は、一般に黒い聖母マリア 及び聖母子の画・像 。

聖画・像がただ単に黒ずんだものもあるが、キリスト教 信仰以前にオリエント 一帯に広まっていた大地母神信仰が吸収されたものともいわれる[要出典 ]。

また、芥川龍之介 の短編作品にも「黒衣聖母」という名で登場し、無気味なモチーフとして扱われる。


・・・・・


外部リンク [編集 ]

* Black Madonna - 写真あり

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E3%81%84%E8%81%96%E6%AF%8D 」より作成


2010年06月11日(Fri)▲ページの先頭へ
検討問題:-1とMedia Point:共振的可視界(光界)と非共振的共立的不可視界(闇界)
今は随想風に書く。
 Media Pointは、超越性と物質性の変換点である。不可視界と可視界が即非的に接合している。
 だから、Media Pointは、光と「闇」が交接している。しかしながら、通常の、日常の知覚は、同一性に傾斜しているので、この「闇」を感知しない。
 この「闇」であるが、虚軸の「闇」と-1の「闇」があると考えられる。前者を超越光である。そして、後者は本体・本源・物自体の「闇」である。
 今、この二つの関係が問題である。すなわち、起源の問題である。プライオリティの問題である。
 ここで作業仮説であるが、プラスの光とマイナスの光を考える。プラス光とマイナス光と呼ぼう。
 プラス光は(+i)*(-i)⇒+1の⇒である。マイナス光は非共振、言い換えると、差異共立として、つまり、非共振的共立と考えるならば、-1である。非共振的共立を∽の記号で仮に表記すると、(+i)∽(-i)⇒-1となる。
 というように考えると、先行性はこれまで通りに虚数に存することになる。つまり、虚数差異極性とは、共振と非共振があり、その双方がMedia Pointにおいて、生起すると考えることができる。つまり、⇒+1と⇒-1である。とまれ、両者を明快に区別したいので、後者の矢印を→に変更する。そうすると、⇒+1と→-1となる。⇒が光エネルギーであり、→がダーク・エネルギーではないだろうか。そして、-1はダーク・マターである。
 そうならば、Media Point自体のエネルギーが考えられなくてはならないだろう。とりあえず、トランス・エネルギーと呼ぼう。
 そうすると、トランス・エネルギー⇒(光エネルギー、ダーク・エネルギー)になる。
 もしそうならば、ダーク・エネルギーの他に根本的なエネルギーがあることになる。プロト・エネルギー、ファンダメンタル・エネルギーである。
 とまれ、以上の作業仮説からわかるのは、非共振的共立の潜在界の世界と共振的顕現界があるということである。
 思うに、前者こそ、イデア界ではないだろうか。空海的に言えば、金剛界である。あるいは、叡知界である。
 とまれ、注意すべきは、両者はまったく異質な世界であるということである。そう、前者は光を形成し、後者は闇を形成するのである。そう、闇とは光の欠如ではなく、一つの実体と考えられるのである。これがいわば、ダーク・コスモスであり、不可視宇宙である。
 今はここで留める。

参考:(後で検討したい)
「同性異体、または、同種異体、或いは、同質異体、 or 同一異体」について
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


2010年06月10日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:共振と反共振:自我とダーク・マター:共振⇒反共振⇒新共振
テーマ:検討問題:思考実験・(作業)仮説・備忘録

* PS理論を正しく適用できているか(2) (0)
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100094669983

* PS理論を正しく適用できているか(1) (0)
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100094667681

シムダンス「四次元能」
* PS理論を正しく適用できているか(2) (0)
* PS理論を正しく適用できているか(1) (0)

シムダンス「四次元能」

生成門氏の以上の議論は、私にとってはとてもわかりやすいものです。つまり、私は最初そのように考えていたからです。今では、牽引様態が⇒+1、斥力様態が⇒-1というようには考えています。生成門氏の考えの応用のようなものです。
 また、-1はそれだけでなく、ダーク・マターとしての積極的な意味があると感じています。Kaisetsu氏の考えはそのようなものでしょう。
 とまれ、反共振で枠ができるという考えはすばらしいと思っています。
 そのように考えると、生成門氏の考えとダーク・マターとしての-1の考えを統合する必要があると感じています。
 ここで、反共振について考えてみます。
(+i)*-(-i)⇒-1が反共振の方程式です。
 私はこれを当初、生成門氏のように自我の形成として考えていましたが、今では、そのようには考えていません。
 確かに、生成門氏のように考えるのは、自我形成を明快の解明できます。
 そうならば、自我としての-1とダーク・マターとしての-1の二つの-1があり、これを統一的に説明できなくてはならなくなります。
 これまで、私は自我は+i=+1ないしは(+i)*(-i)=+1のように考えてきました。すると、+1と-1を一致させなくてならなくなります。これはまさにアポリアです。
 確かに、自我は他者-iを否定するもので、(+i)*-(-i)と表記したくなります。
 ここでアクロバティックですが、次のように想定してみます。
 自我は他者を否定するので、⇒-1となる。これは、生成門氏の考えです。
 ところで、反共振の結果、共振の⇒+1は否定されています。思うに、反共振は⇒+1の⇒を喪失させるものではないでしょうか。(追記:どうもこれは飛躍的である。反共振のとき、確かに、⇒が喪失されるが、ならば、+1が残るのか。丁寧に考えよう。共振認識において、言語形成がなされ、⇒+1の+1が命名される。だから、+1が言語として残るのである。しかし、反共振となると、知的認識+iは、-1の位置にありながら、+1の言語認識を保持するということではないだろうか。)
 思うに、根源的には万人に共振認識、即ち、即非認識があると考えられます。しかし、それが、反共振的自我認識によって、否定・抑圧されると考えられます。
 しかしながら、正しい認識とは、差異共振認識・即非認識です。これによって、他者を認識するのです。そして、これは、同一性メディアの言語を介して、例えば、「私は川であり、川は私である。しかし、私は川でなく、川は私ではない」という認識です。
 この様態に対して、反共振性が作用しますと、即非性が消えます。つまり、⇒+1の⇒が消えます。そして、+1が残ります。すると、反共振的自我の-1 と+1が一致することになるのではないでしょうか。それこそ、近代的自我ではないでしょうか。
 そうならば、これとダーク・マターはどう関係するのかとなります。
 これは端的に言えば、自我はダーク・マターの位置に存するということではないでしょうか。
 しかしながら、同時に、+1が自我の位置でもあります。つまり、反共振的自我とは、-1と+1を一致させるという倒錯的な様態にあります。
 そして、これは、唯物論の様態であります。すべてを自我と物質に変えてしまう、悪魔的様態です。触れた物が黄金に変わったミダス王のようであります。
 結局、+1と-1を分離するには、やはり、Media Pointの位置が必要です。それを不連続に、純粋に把握する必要があります。
 最後に、自我の位置がダーク・マターであるという点について考えましょう。
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は同時に、-1を暗示していると思います。それは+1の反転であります。「鏡の国」です。
 光が生起したために生じる影のようなものとも言えるのではないでしょうか。しかし、この影は通常では視覚できません。プラトンの洞窟内の物のようにです。
 思うに、自我は摂理である共振を否定する結果、-1の位置に「落ち込んだ」のだと思います。本来、⇒+1に対する-1ですが、⇒を否定して、影の領域に落ちたのだと思います。
 それが、自我がダーク・マターの位置にあることの意味だと思います。
 もう少し問題点を言いますと、⇒+1に対する-1と言いましたが、それだと相補的であります。洞窟内の物ならば、それこそ、物自体であり、こちらが、主であり、+1は従でなくてはなりません。
 この齟齬を解消する必要があります。Kaisetsu氏はラディカルに、-1を母胎と考えています。それは、プラトンのコーラに当たるように思えます。
 私は以前、積ではなく、商を言いました。商が-1を形成していると考えました。これがダーク・マターの創造ではないでしょうか。
 だから、商と反共振が結果では一致することになります。しかしながら、精密に考えると、商はいわば、⇒-1であります。しかるに、反共振は、端的に-1 ではないでしょうか。すると、差異があります。(追記:ここも問題がある。反共振を-1と言ったが、どうだろうか。果たして、(+i)*-(-i)が-1となるのか。反共振の場合、積でいいのだろうか。積ならば、⇒-1となる。しかし、積は共振の場合である。どうも、反共振の場合は積にはならないように思える。それは、商ではないのか。ならば、(+i)@-(-i)→+1である。@を商にし、→を変換記号とする。この場合、反共振は+1となるのである。これが、自我ではないのか。そうならば、私がこれまで言った+i=+1ないしは、(+i)*(-i)=+1と一致すると言えよう。)
 そうすると、⇒-1の⇒をダーク・エネルギーとすると、-1はダーク・エネルギーのエンテレケイアとなります。末端です。
 どうも、自我を悪く言い過ぎているようです。生成門氏はもう少し現実的に考えています。
 思うに、ダーク・マター/自我は積極的な意味があるでしょう。これが、形成されることによって、Media Pointがさらに賦活されて、トランス・自我が形成されるようになると考えられるからです。
 すると、±1は近代原理そのものです。そして、そこから、新たなMedia Pointの発露があり、それが、トランス・モダンということになるでしょう。
 すると、共振⇒反共振⇒新共振となります。言い換えると、前近代⇒近代⇒トランス・モダンであります。
 錯綜していますが、ここで留めます。後で整理したいと思います。

追記:赤色の箇所を作業仮説とすると、反共振は-1ではなく、+1の可能性が高い。ならば、自我とダーク・マターは一致しないのである。自我は、+1に位置するのである。
 では、-1とは何かとなる。やはり、プラトンの洞窟内の物、即ち、物自体=ダーク・マターと考えた方が適切なようだ。
 Kaisetsu氏は-1の平方根に虚数の生成を考えている。確かに、±√-1は、±iとなる。
 これまで、虚数を根源としたが、Kaisetsu氏の展開では、-1が根源となる。これをどう考えるのか。それは、D. H. ロレンスのdarknessの思想に酷似しているのである。また、プラトンのコーラに似ている。とまれ、-1⇒(+i)*(-i)⇒+1となるのではないだろうか。
 とまれ、今の段階の私感では、やはり、-1はダーク・マター、物自体である。先に木のことを述べたが、現象は映像・影像であるという認識が強いのである。ならば、木の本体は何かである。木の物質とは同一性に過ぎない。それは、本体ではない。ならば、本体は「背後」にある-1ではないのかという推理があったのである。
 ならば、われわれは本体を光を介して、仮象(現前)として見ているのである。
 この光はどこから来ているのか。それは、超越光=不可視光からである。それは、Media Pointである。
 ここで、-1と結びつくと言えよう。つまり、不可視界があるのである。
 思うに、Media Pointの一面は光であり、半面は闇である。それは、実軸のプラスとマイナスである。
 どうも、Media Pointは単に、+1だけではなく、-1に通じている。
 とまれ、-1からMedia Pointが生まれ、光が生成するというのは、興味深い視点である。
 後でさらに検討したい。


2010年06月09日(Wed)▲ページの先頭へ
私見:現象の二つのモデルについて:共振モデル⇒+1と反共振モデル⇒-1について
共振モデルと反共振モデル
<プラトンとの共振>

イデア共振から核の生成

四次元抽象イメージから四次元ツールを求めて、ナイフとパイプに行きついたのですが、そこの至るまでに、ティトム球の内部=空=核内としたら、(1)見えないはずの内部が見えてしまう(2)ティトム球が空であるという前提が核では崩れてしまう(3)原子核内は空ではないという三つの矛盾が生まれ、それを解消するために、根源の内部=イデア界i,-iから紐解いてきたのですが、四次元即非モデル=三次元から見た四次元の想像モデル、三次元形式モデル、三次元共振モデルという三つのモデルを区別しなければならなくなりました。

根源の内部=イデア界i,-i
 ↓
真正の内部=空=即非状態=共振・半共振={i*-i,i*-(i)}
四次元即非モデル=三次元から見た四次元の想像モデル
空モデル=真正空モデル
 ↓
自我の支配を受けた反共振――――自我の支配を受けていない共振
 ↓
反共振 i*-(-i)⇒-1―――――共振 i*(-i)⇒+1
 ↓       
実軸=現象化⇒±1 
↓                ↓
⇒-1=三次元形式モデル    ⇒+1=三次元共振モデル
仮の内部の外部化       四次元即非モデル
↓               ↓
+と−              ±
対立と反動           共生 中間態 中性
善と悪             混沌
電子と陽電子          ポジトロニウム(電子と陽電子)
雌と雄             雌雄同体
男と女             ゲイ 性同一性障害
―――――――――――――――――――――――

真正の内部の想像

複素平面の空=クラインの壷の捩れ点

空=事象の地平面=枠の内部=空={i*-i,i*-(i)}

四次元モデル(共振モデル)

ティトム球=枠、事象の地平面の内部、二つ餅鏡、特異点、四次元へのゲート、円盤、ジェット=四次元抽象イメージ=四次元ツール=ナイフとパイプ

PS理論で表現される自己認識の方程式i*-(-i)⇒-1から、原子の形式モデルが出てくるのですが、それを平たく言えば、空の即非が⇒-1によって現象化するとなります。

http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100094599799

共振モデルと反共振モデル (0)
シムダンス「四次元能」

************************

以上の説明は興味深い。自我を反共振としているのは、わかりやすい。
 問題は反共振である。その考えは私が以前行なった考えであり、また、シンプルな考えである。
 とまれ、反共振モデルで、水素原子が生起するのは興味深い。しかし、⇒-1で、陽子+1と電子-1に分離するが、それは理論的にはどう考えるべきなのか。
 私見では、それは、電子-1のみではないのだろうか。陽子+1はどこにあるのだろうか。
 共振によって、陽子+1が生まれるとは考えられる。
PS理論の基本的考え方からすれば、共振モデルによって、⇒+1が生起する。それは、「陽子」又は陽電子である。
 しかし同時に、影として、電子(陰電子)-1が同時生起するのではないだろうか。つまり、共振モデルとは、陽電子と陰電子の発生を意味するのではないだろうか。
 問題は、二つの現象モデルを説明することである。共振モデルでは、陽電子と陰電子の対生成を説明できるが、二つの現象は説明できない。
 とまれ、対生成があるとして、それらを共鳴させる現象(仮に対共鳴現象とする)と原子核による分離現象(仮に対分離現象と呼ぶ)の力学を考える必要がある。
 前者の対共鳴現象とは、Media Pointがいわば、牽引の状態にあるのではないだろうか。それに対して、後者の対分離現象とは、Media Pointが反発の状態にあるのではないだろうか。
 牽引状態は求心様態であり、反発状態は外心様態である。だから、牽引・求心様態のときに、対共鳴現象が生起し、反発・遠心狂態のときに、対分離現象が発生するのではないのか。
 今はここで留めておく。

追記:対分離現象であるが、それは、悪魔と関係するだろう。否定の意志である。それは、対共振を否定して、同一性へと帰結するのである。つまり、+1に同化するのである。それは、Media Pointを否定するのである。
 連続性への傾斜があるのである。それは、+iか-iの自己傾斜と考えられる。


2010年06月08日(Tue)▲ページの先頭へ
+1が物質仮象、-1がダーク・マター(物自体)、Media Pointが「ダーク・エネルギー」
今は簡単に触れるに留める。
 私が、たとえば、木を見ているとしよう。それは、幹があり、葉があり、また、花をつけている。
 この現象は、⇒+1である。イメージとしては、⇒の先端である。そして、物質としては、+1である。
 では、-1とは何か。それは、Kaisetsu氏に拠れば、背景である。私が思いついたことは、それは、プラトンの洞窟内の「物」ではないのかということである。
 洞窟の壁面には、影が映るが、それが、⇒であり、また、それを同一性化した+1であり、それの根源として、洞窟内の「物」があるので、それが、-1ではないだろうか。それは、ダーク・マターではないのか。
 (それとも、洞窟内の「物」を+1と見るべきなのか)
 とまれ、通常の視覚では、-1は不可視である。darkである。
 ここで、私の記憶のことになるが、海辺での、真夏の太陽を見ると、印象では、暗みのようなものを感じた。思うに、これが、-1の太陽ではないだろうか。光と影の対があると考えられる。
 そして、洞窟外には、太陽がある。これが、Media Pointにおける超越光のように思えるのであり、それが、「ダーク・エネルギー」ではないだろうか。
 言い換えると、超越光とは、光と影を生成するのであり、通常、光しか視覚しないということである。
 思うに、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』の「鏡の国」とは、-1の世界ではないだろうか。
 今はここで留める。


普天間基地移設問題:世界はナショナリズムとナショナリズムの闘争である
普天間基地移設問題:世界はナショナリズムとナショナリズムの闘争である

テーマ:沖縄/米軍基地/日米関係/日米安保問題

いったい何故、米軍基地が日本、とりわけ、沖縄に多いのか。
 明らかに、敗戦によって日本が占領されたからである。負けた国は、勝った国の支配下にあるのである。大敗北を「近代」日本は被ったのである。
 ここで飛躍して、民主主義について考えよう。God created us equal. これが、米国民主主義の公理である。
 これは、封建主義的なものを否定する原理である。しかしながら、資本主義、近代資本主義は、自我(近代的自我)を中心化することにより、平等原理を否定しているのである。何故なら、自我とは、自我の他者に対する優位であり、平等ではありえないからである。
 つまり、民主主義原理は、資本主義/近代資本主義のイデオロギーになったのである。
 この「目眩し」に注意しないといけない。西洋文明が唱導する「民主主義」とは近代資本主義の支配主義を糊塗するイデオロギーであるということである。
 問題は、当然、近代資本主義にあるのである。これは、同一性金融資本主義である。
 問題は同一性主義である。これはどこから発しているのか。これは、既述したように、父権主義、西洋父権主義、ユダヤ・キリスト教からである。
 西洋的父権的文明は同一性文明であり、民主主義をイデオロギーとして、非西洋諸国を支配するのである。
 沖縄の問題に返ると、これは、父権的覇権主義の問題である。
 私見では、日本は、憲法九条を護持しつつ、自衛隊を国防軍として、精練すべきであり、その自立・独立性をもって、米国や中国との外交を構築すべきである。
 つまり、米軍基地の削減を志向して、国防軍を構築してていくということである。
 思うに、軍事力をもつということは、国家として、必須のことである。それが日本国憲法では、触れられていないのである。
 私は改憲は反対である。憲法九条を護持しつつ、国防軍を構築することは、可能であると考えている。
 新文武両道へと転換すべきである。「文弱」では生き延びられないのである。


日米共同声明撤回を 那覇市議会、県内初の意見書可決

6月8日10時0分配信 琉球新報
 那覇市議会(金城徹議長)は7日午前、6月定例会で、普天間飛行場の移設先を名護市辺野古と明記した「日米共同声明」の撤回を日米両政府に求める意見書を全会一致で可決した。そうぞう会派の3氏は「普天間飛行場が固定化されることがあってはならない」として退場した。日米共同声明撤回を求める意見書可決は県内で初めて。
 同意見書では、「『県内移設』反対という県民の総意よりも米国政府の意向を最優先するもので、民主主義を踏みにじる暴挙であり、断じて許せない」と強い反発の意思を示し、「県民の『県内移設』に絶対反対との総意は、4・25県民大会や全市町村長の反対表明、マスコミの世論調査などでも明確だ。怒りを込めて日米合意の撤回を強く求める」としている。
 そうぞう会派代表の宮國恵徳氏は「共同声明には、負担軽減策などで評価すべき点もある。(声明撤回で)普天間飛行場が固定化されることがあってはならない」と述べ、同会派の新屋清喜氏、坂井浩二氏と退場した。
 市議会は同日、口蹄疫対策の充実、強化を求める意見書も全会一致で可決した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100608-00000004-ryu-oki




普天間基地移設問題:世界はナショナリズムとナショナリズムの闘争である

テーマ:沖縄/米軍基地/日米関係/日米安保問題

いったい何故、米軍基地が日本、とりわけ、沖縄に多いのか。
 明らかに、敗戦によって日本が占領されたからである。負けた国は、勝った国の支配下にあるのである。大敗北を「近代」日本は被ったのである。
 ここで飛躍して、民主主義について考えよう。God created us equal. これが、米国民主主義の公理である。
 これは、封建主義的なものを否定する原理である。しかしながら、資本主義、近代資本主義は、自我(近代的自我)を中心化することにより、平等原理を否定しているのである。何故なら、自我とは、自我の他者に対する優位であり、平等ではありえないからである。
 つまり、民主主義原理は、資本主義/近代資本主義のイデオロギーになったのである。
 この「目眩し」に注意しないといけない。西洋文明が唱導する「民主主義」とは近代資本主義の支配主義を糊塗するイデオロギーであるということである。
 問題は、当然、近代資本主義にあるのである。これは、同一性金融資本主義である。
 問題は同一性主義である。これはどこから発しているのか。これは、既述したように、父権主義、西洋父権主義、ユダヤ・キリスト教からである。
 西洋的父権的文明は同一性文明であり、民主主義をイデオロギーとして、非西洋諸国を支配するのである。
 沖縄の問題に返ると、これは、父権的覇権主義の問題である。
 私見では、日本は、憲法九条を護持しつつ、自衛隊を国防軍として、精練すべきであり、その自立・独立性をもって、米国や中国との外交を構築すべきである。
 つまり、米軍基地の削減を志向して、国防軍を構築してていくということである。
 思うに、軍事力をもつということは、国家として、必須のことである。それが日本国憲法では、触れられていないのである。
 私は改憲は反対である。憲法九条を護持しつつ、国防軍を構築することは、可能であると考えている。
 新文武両道へと転換すべきである。「文弱」では生き延びられないのである。


日米共同声明撤回を 那覇市議会、県内初の意見書可決

6月8日10時0分配信 琉球新報
 那覇市議会(金城徹議長)は7日午前、6月定例会で、普天間飛行場の移設先を名護市辺野古と明記した「日米共同声明」の撤回を日米両政府に求める意見書を全会一致で可決した。そうぞう会派の3氏は「普天間飛行場が固定化されることがあってはならない」として退場した。日米共同声明撤回を求める意見書可決は県内で初めて。
 同意見書では、「『県内移設』反対という県民の総意よりも米国政府の意向を最優先するもので、民主主義を踏みにじる暴挙であり、断じて許せない」と強い反発の意思を示し、「県民の『県内移設』に絶対反対との総意は、4・25県民大会や全市町村長の反対表明、マスコミの世論調査などでも明確だ。怒りを込めて日米合意の撤回を強く求める」としている。
 そうぞう会派代表の宮國恵徳氏は「共同声明には、負担軽減策などで評価すべき点もある。(声明撤回で)普天間飛行場が固定化されることがあってはならない」と述べ、同会派の新屋清喜氏、坂井浩二氏と退場した。
 市議会は同日、口蹄疫対策の充実、強化を求める意見書も全会一致で可決した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100608-00000004-ryu-oki



+1が物質仮象、-1がダーク・マター(物自体)、Media Pointが「ダーク・エネルギー」

テーマ:検討問題:思考実験・(作業)仮説・備忘録

後で検討したい。




崇高と美:ディオニュソスとアポロ:同一性=物質という凡庸的日常

テーマ:検討問題:思考実験・(作業)仮説・備忘録

先に、エドマンド・バークの「崇高と美」の「美学論」について、言及したが、かなり、便宜的だったので、ここで整理したい。
 端的に言えば、Media Point の感覚的認識=直感・直観が、崇高知覚である。
  それに対して、⇒+1は美的認識である。
 前者をディオニュソス、後者をアポロと考えれば、両者は一如であるし、ニーチェが『悲劇の誕生』で言わんとしたことの意味であろう。
 音楽で言うと、ベートーヴェンとモーツァルトである。両者には、アポロとディオニュソスが存立しているのであるが。
 ここから、バークの美学論について言うならば、バークの美とは、アポロではなく、+1の凡庸な美である。
 何故なら、アポロの「美」はディオニュソスの「崇高」と一体のものと考えられるからである。
 ならば、今日の凡庸な「美」とはなにか。それは、端的に同一性の「美」である。それは、権力の「美」である。
 飛躍するが、今日、芸術が非力なのは、権力の「美」に隷従し、個のMedia Pointの美=崇高を見捨てているからである。+1が美ならば、-1は崇高であろう。


2010年06月06日(Sun)▲ページの先頭へ
エドマンド・バーク 崇高と美の観念の起原 Edmund Burke : A Philosophi
私はカントの『判断力判断』で崇高と美に関する議論を知ったが、バークの論考はそれの原点であるが、類似したものと思っていたが、実は異なるのである。
 カントの区別だと、両者の差異がやや曖昧になるが、バークは明確に、両者を区別しているのである。
 分かりやすく言えば、崇高とは悲劇的なものであり、美とは喜劇的なものである。あるいは、恐怖と愛らしさの違いである。
 ある文学理論では、悲劇は喜劇的構造に入るということが言われるが、バークの観念では、両者は独立したものである。つまり、絶対的差異である。
 哲学的には、これは、スピノザ哲学の歓喜主義を批判していることになる。恐怖や苦が肯定されるからである。
 まだ、よく理解していないが、バークの区別は、現代でも有効である。例えば、以前指摘したが、日本の似非ジャーナリズムは、悲劇的認識が欠落していると述べた。言い換えると、バークの用語から言えば、崇高性が欠けているのである。
 私がよく転載する英国のテレグラフ紙は、崇高的認識があるのである。
 邦訳であるが、生硬で、読みにくいのは確かである。もっとも原文の叙述にも問題があるだろう。

追記:言うのを忘れていたが、崇高とは、同一性を破壊するエネルギーではないだろうか。ニーチェで言えば、美はアポロであり、崇高はディオニュソスである。
 PS理論では、美は⇒+1でないだろうか。しかるに、崇高は、⇐+1ではないだろうか。つまり、美の崩壊であり、Media Pointがいわば剥き出しになるのではないだろうか。
 言い換えると、⇒+1が生ならば、⇐+1は死であろう。もっとも、+1は物質であり、それは、死であるが、実際のところ、崇高ではない。崇高は、超越性がいわば顕在化すると言えよう。日の出や日没は崇高性があるだろう。
 とまれ、後で検討したい。


エドマンド・バーク
崇高と美の観念の起原
Edmund Burke : A Philosophical Inquiry into the Origin of
Our Ideas of the Sublime and Beautiful 1757 中野好之訳
みすず書房 1973・1999


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 いまはなぜだかすっかり看過されてしまっているようだが、哲学芸術思想のなかには、「美学」という領域がある。エステテイックス(英 aesthetics、仏 esthe´tique)だ。そう言っては実も蓋もないけれど、つまりはエステだ。エステではあるけれど、メルロ=ポンティ(123夜) も、ロラン・バルト(714夜) も、九鬼周造(689夜) も中井正一(1068夜) も、それからウンベルト・エーコ(241夜) も、みんな本格的な美学者だった。こういうエステにこそ通院したほうがいい。
 美学は、1735年にドイツのアレクサンダー・バウムガルデンがその必要に気づいたときは、まだ「感性学」という意味だった。認識の能力には上位に“悟性の学”としての論理の学があるとしたら、下位には“感性の学”としての美についての認識の学があるはずだという判断から生まれた。バウムガルデンはライプニッツ(994夜) とヴォルフの思索の系統を引いていた。
 その後、美学はカントによってその最初の体系の確立を見たというのが通り相場になっている。1790年の『判断力批判』がその結晶的成果である。それでまちがってはいないのだが、そのカントに多大な影響を与えた一人の青年の大論文があったことを忘れてはいけない。それがエドマンド・バークなのである。ぼくは「遊」の第1期をつくっているころに出会って、うーん、と唸った。


http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1250.html

* A PHILOSOPHICAL INQUIRY INTO THE ORIGIN OF OUR IDEAS OF THE SUBLIME AND BEAUTIFUL; WITH AN INTRODUCTORY DISCOURSE CONCERNING TASTE 67
*
o PREFACE
o CONTENTS
o INTRODUCTION
o PART I
o PART II
o PART III
o PART IV
o PART V
o APPENDIX

http://www.gutenberg.org/files/15043/15043-h/15043-h.htm


イスラエルの攻撃、天安艦沈没、原油流失災害、菅政権、等々:ロックフェラー路線のオバマ政権への攻撃
イスラエルの攻撃、天安艦沈没、原油流失災害、菅政権、等々:ロックフェラー路線のオバマ政権への攻撃

テーマ:ゾロアスター教的「光と闇」の戦争闘争時代

(c)AFP/IDF

AFPBB News
イスラエル、再びガザ支援船を拿捕
2010年06月06日 11:03
【6月6 日 AFP】イスラエル海軍は5日、パレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip)に向かっていた支援船の第2陣「レイチェル・コリー(MV Rachel Corrie)」を拿捕し、約5時間後にイ……
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「天安艦の沈没事件に似た不自然な作為的な事件が多い:ロックフェラー路線のあせりや妨害を感じる」

メキシコ湾原油流失事件もなにか作為的であるし、口蹄疫災害もそうだし、何かある。
 オバマ政権のトランス・モダン路線(差異共振平和共存路線)に、ロックフェラー路線が攻撃をしているのではないだろうか。
 天安艦沈没、原油流失、イスラエルの攻撃も、オバマ政権への打撃となるからである。(口蹄疫はいちおう除く。しかし、これも、根本では同一勢力を感じる)
 そういう文脈から見ると菅政権は実に危険であり、きな臭いと言えよう。何かある。

new
3652.韓国国民、選挙で戦争拒否 2010.06.06F
月曜有料版の0章をお送りします。
   
new
3651.菅新政権の見通し 2010.06.05F
1946年10月10日生まれの菅直人氏が総理大臣になった。この政権を占うことにする。
   
国際戦略コラム

 
ガザ支援船また拿捕 平和賞受賞者も乗船

2010年6月6日 朝刊

 【カイロ=内田康】イスラエル軍は五日、アイルランドからパレスチナ自治区ガザに向け航行していた新たな支援船「レイチェル・コリー号」を、ガザ沖の地中海で拿捕(だほ)した。AFP通信によると、十五人の乗船者は船に乗り込んできたイスラエル兵に抵抗せず、負傷者はいなかった。コリー号は軍の監視下で、イスラエル南部アシュドッド港に到着した。

 五月末に起きた国際支援船団拿捕事件で乗船者九人が死亡したことから、アイルランド政府はイスラエルに対し、安全にガザに入港させるよう要請していた。ガザの経済封鎖を続け、自由な航行を認めないイスラエルの方針に、再び批判の声が高まるとみられる。

 イスラエル軍の艦船は五日朝にコリー号に接近し、アシュドッドに入港するよう要請。支援物資はイスラエル政府が検査した上でガザに運ぶと提案したが、コリー号側が拒否したため、拿捕に踏み切った。AP通信によると、現場は公海上だった。

 コリー号は国際支援団体「自由ガザ運動」が運航。アイルランドから車いすや薬品などを運ぶ途中だった。一九七六年にノーベル平和賞を受賞した英国・北アイルランドの活動家マイレッド・マグワイア氏や、アイルランドやマレーシアなどの活動家が乗船。五月末に拿捕された船団に加わる予定だったが航海が遅れ、単独でガザを目指していた。

 「レイチェル・コリー」は二〇〇三年にガザで、イスラエル軍のブルドーザーにひかれて死亡した米国人活動家の名前。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010060602000064.html


(06/06)ガザ援助船拿捕とイスラエルが恐れる核開発

田中龍作ジャーナル



★ 2010年06月06日日曜日 9時更新

■ ゴールドマンサックス、原油流出事故の一ヶ月も前にBPの株を売り抜けていた!

 http://www.nikaidou.com/archives/2486

■ メキシコ湾原油流出:BP、爆発事故6週間前に制御困難と当局に報告 このインサイダー情報がゴールドマンに漏れた可能性
 
 【5月30日(ブルームバーグ):英BPのメキシコ湾の油井で起きた爆発事故の6週間前に、同社が制御が困難になっていると電子メールで米政府当局に伝えていたことが分かった。原油流出事故について調査している米下院エネルギー・商業委員会が30日、この電子メールを公表した。
  BP幹部のシェリー・ダグラス氏から内務省のミネラルズ・マネジメント・サービス(MMS)ニューオーリンズ地区担当掘削技術官、フランク・パットン氏にあてた3月10日付電子メールによると、BPは油井とリグ(掘削設備)をつなぐパイプを切断し穴をふさぐことを計画していた。   ダグラス氏は電子メールで「MC252#001に関して油井を制御しようとしており、パイプをふさいだ。掘削パイプを切断し、油井をふさぎ原油を迂回(うかい)させるため機器を入れて作業を開始する」と報告している。「MC252#001」とは制御が困難となっていた深海油井ミシシッピ・キャニオン 252鉱区を指す。
  エネルギー・商業委員会のワクスマン委員長(民主、カリフォルニア州)と、監視小委員会のステュパック委員長(同、ミシガン州)は油井の設計に関する文書や、今年2月と3月、昨年11月の関連電子メールを公表した。両委員長は、これらの文書について「問題を提起しているが、爆発事故関連では追加調査が必要だ」との見解を示した。
  今回の電子メールで、BPが3月第2週には、原油流出への対処法についてJ・コナー・コンサルティング(ヒューストン)に支援を求めていたことが明らかになった。同社は世界の大手エネルギー企業数社に原油流出対策について助言している。電子メールによると、掘削機器に穴が開いた後、政府当局はBPが基準よりも浅い深さで油井をセメントでふさぐことを許可していた。】

■ BP原油汚染処理に伴って北米南部大気に処理剤ベンゼン汚染が発生、国連保安軍と FEMAが大規模に移動開始! 何でも板情報より

 50万人をFEMA収容所にと信頼性の高い情報 http://translate.google.com/translate?hl=ja&ie=UTF-8&sl=en&tl=ja&u=http://motherjones.com/politics/2010/06/bp-oil-spill-fema-camps&prev=_t&rurl=translate.google.co.jp&twu=1

 http://blogs.yahoo.co.jp/jennifer1215b/31549221.html

 【フロリダから内陸へ4000万人とそれ以上の人の退避を命じます。アーユーレディ?政府はおよそあなたに湾の石油流出のすべてを知らせていません。
現地では信じ難い量のベンゼンが空中に放たれています。人々が病気になっています。何千という国連のバン(車)がジャクソンビルのすぐ下のフロリダの AF 基地の公衆サイトから人里離れたエリアで駐車されています。それらは同じく多くの他のエリアにもいます。あなた自身の為にも見て下さい。
このグリッドをグーグル地図に入力してください。29.97213、 − 81.660047
そうすればあなたはそれを見ることができます。あるいはフロリダの AF 基地のジャクソンビルFの下にグーグル地図を見いだしてください。軍用車隊は、FEMAキャンプに人々をエスコートするため、西の砂漠地帯から来る予定です。あなたは多くの人々が一点に集められるのは、何が内陸で我々に起こるのかと言う考えを持っていますか?
これはただタンパエリアからの人々に過ぎません。彼らがまた、東海岸からも人々を避難させると、1億の人々が内陸に来るでしょう。ベンゼンと油は、海の上で雲の中に気化し、それが雨にかかって内陸を漂流しています。我々は同じく危険に面するでしょう。我々の新鮮な水は汚染されるでしょう。
http://soundwaves2000.com:80/shatterthedarkness/
http://www.examiner.com/x-33986-Political-Spin-Examiner%7Ey2010m5d9-Gulf-oil-spill-Suggestions-of-BP-
↑ビックリ!あっと言う間に消された!】

■ メキシコ湾原油漏出大事故で崩壊したリグは韓国ヒュンダイ社製造、耐用年数30年なのに、製造後10年しか経ていない アメリカ政府はヒュンダイ社にも数千億円の損害賠償請求訴訟

 【4月20日に米南部ルイジアナ州沖のメキシコ湾で発生した原油流出事故で、石油掘削施設を建設した韓国の現代重工業に責任が生じるか否かについて関心が集まっている。現代重工業は事故との関係性を否定しているが、油田の掘削権を持つ英石油大手BP以外の企業にも責任が飛び火した場合には、大きな影響が生じるものとみられている。
韓国メディアによると、オバマ大統領は12日、事故を起こしたBPに対して全ての関連費用を全額負担する責任があると発言した。今後、BPには除去作業にかかった費用をはじめ、各種訴訟などの費用や罰金など、天文学的な負担金が請求される見通しだ。
事故が起きた石油掘削施設は現代重工業が2001年に建設し、油田掘削会社R&Bファルコンに3億6500万ドル(約337億円)で売却されものであることが明らかになっている。R&Bファルコンは世界最大の掘削請負会社 トランスオーシャンに買収されたことにより、同施設はトランスオーシャンの所有となっている。
これについて、現代重工業の関係者は「施設が作られてから10年以上が過ぎた。アフターサービスも終わり、10年間の運用をみると施工上の問題ではなく運用上の問題だと思われる」と事故との関係性を否定した。 しかし、一部の韓国メディアは、石油掘削施設の寿命は通常25〜30年程度であり、建設してアフターサービス期間が過ぎたからといって責任が消滅したとはいえないと指摘。BPが事故の責任をほかの企業に転嫁した場合 には、現代重工業にも何らかの影響が及ぶ可能性があるとしている。(編集担当:新川悠) 】

東海アマチュア無線  地震予知研究会




エドマンド・バーク 崇高と美の観念の起原 Edmund Burke : A Philosophi

テーマ:Media P./Vector Mode

私はカントの『判断力判断』で崇高と美に関する議論を知ったが、バークの論考はそれの原点であるが、類似したものと思っていたが、実は異なるのである。
 カントの区別だと、両者の差異がやや曖昧になるが、バークは明確に、両者を区別しているのである。
 分かりやすく言えば、崇高とは悲劇的なものであり、美とは喜劇的なものである。あるいは、恐怖と愛らしさの違いである。
 ある文学理論では、悲劇は喜劇的構造に入るということが言われるが、バークの観念では、両者は独立したものである。つまり、絶対的差異である。
 哲学的には、これは、スピノザ哲学の歓喜主義を批判していることになる。恐怖や苦が肯定されるからである。
 まだ、よく理解していないが、バークの区別は、現代でも有効である。例えば、以前指摘したが、日本の似非ジャーナリズムは、悲劇的認識が欠落していると述べた。言い換えると、バークの用語から言えば、崇高性が欠けているのである。
 私がよく転載する英国のテレグラフ紙は、崇高的認識があるのである。
 邦訳であるが、生硬で、読みにくいのは確かである。もっとも原文の叙述にも問題があるだろう。

エドマンド・バーク
崇高と美の観念の起原
Edmund Burke : A Philosophical Inquiry into the Origin of
Our Ideas of the Sublime and Beautiful 1757 中野好之訳
みすず書房 1973・1999


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 いまはなぜだかすっかり看過されてしまっているようだが、哲学芸術思想のなかには、「美学」という領域がある。エステテイックス(英 aesthetics、仏 esthe´tique)だ。そう言っては実も蓋もないけれど、つまりはエステだ。エステではあるけれど、メルロ=ポンティ(123夜) も、ロラン・バルト(714夜) も、九鬼周造(689夜) も中井正一(1068夜) も、それからウンベルト・エーコ(241夜) も、みんな本格的な美学者だった。こういうエステにこそ通院したほうがいい。
 美学は、1735年にドイツのアレクサンダー・バウムガルデンがその必要に気づいたときは、まだ「感性学」という意味だった。認識の能力には上位に“悟性の学”としての論理の学があるとしたら、下位には“感性の学”としての美についての認識の学があるはずだという判断から生まれた。バウムガルデンはライプニッツ(994夜) とヴォルフの思索の系統を引いていた。
 その後、美学はカントによってその最初の体系の確立を見たというのが通り相場になっている。1790年の『判断力批判』がその結晶的成果である。それでまちがってはいないのだが、そのカントに多大な影響を与えた一人の青年の大論文があったことを忘れてはいけない。それがエドマンド・バークなのである。ぼくは「遊」の第1期をつくっているころに出会って、うーん、と唸った。


http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1250.html

* A PHILOSOPHICAL INQUIRY INTO THE ORIGIN OF OUR IDEAS OF THE SUBLIME AND BEAUTIFUL; WITH AN INTRODUCTORY DISCOURSE CONCERNING TASTE 67
*
o PREFACE
o CONTENTS
o INTRODUCTION
o PART I
o PART II
o PART III
o PART IV
o PART V
o APPENDIX

http://www.gutenberg.org/files/15043/15043-h/15043-h.htm


2010年06月05日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:差異資本市場経済有機体試論
検討問題:差異資本市場経済有機体試論

テーマ:検討問題:思考実験・(作業)仮説・備忘録

国家主導を排した資本経済の有機体論が必要ではないだろうか。
 問題は、交換価値なのである。これが、同一性価値として、機能するので、資本有機体が崩壊すると考えられる。
 個的資本の共振経済が合理的であるが、それを交換価値中心主義が破壊するのである。市場経済の問題はここにあるのである。
 以前述べたように、差異市場経済が重要なのであり、同一性市場経済が解体する力学が必要なのである。
 そうすると、やはり、通貨・貨幣体制の問題となるだろうが、これも既述済みである。
 現実的には、国家主導を排除する資本市場経済を形成することである。国家は立法機能を果たすべきである。経済は経済自体に任せるべきである。
 ただし、同一性市場、同一性資本経済、交換価値経済にしないための法的方策は必要であろう。オバマ政権のウォール街への規制はそれを意味する。
 今は抽象的に言うが、差異資本市場有機体の志向が必要である。これは、生体の新陳代謝のようなものである。
 また、差異資本は平等主義である。個に対して、差異資本は融資するからである。
 つまり、差異資本市場民主主義有機体が可能である。国家が経済に参入(侵入)することにより、同一性資本が差異資本経済有機体を破壊するのである。


参照:以下、冒頭を引用転載させていただきます。

菅政権誕生

【菅政権が誕生して、今朝も、各局がきそって新政権の特集している。


 新政権に期待する人、けなす人、いろいろいるが、どの局にあっても国に期待するという根本精神において共通している。


 しかしながら、真実は昨日も書いたように、国に期待することは間違いである。


 もっとも重要なことは町の人々の信頼関係に基づく共同社会の再生なのである。


 政府が規則を作って国民の活動を抑制しなければしないほど、民の活力は回復するのである。


 民の力をさげすむ国に頼るのはもうやめよう。同様に、小泉政権の「民活」などという、政府の身勝手な民の力の利用の仕方も民をバカにした政策だ。


 日本人もそろそろ、そこに意識するべきときだ、と思う。報道機関もマスコミも大本営発表をしたかつての報道機関と同じ体質だから、民がそういうことに気づかないように注意深く情報をながし、民意を誘導している。


 彼らも民の仲間ではない。


 民が信頼できるのは、基本的に民だけだと思う。】


http://ameblo.jp/adco/entry-10554411248.html
スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節




Sat, June 05, 2010 12:37:32
民主党内力学:ロックフェラー路線と「ロックフェラー路線」

テーマ:小沢一郎/民主党と日本の政治

A:民主党内のロックフェラー路線:戦争産業帝国主義
B:民主党内の「ロックフェラー路線」:トランス・モダン主義

仮説として、ハトヤマ前首相は、両者の力の衝突するコマとして使われた(傀儡)。
 国民の支持が低下したので、菅首相に首をすげ替えた。しかしながら、当然、AとBの闘争力学は残っている。
 しかし、問題は、B路線が明確にトランス・モダン主義を意識しているかであるが、かなり怪しい。小沢一郎のように中国路線傾斜をもっているからである。
 とまれ、小沢一郎は、「ロックフェラー路線」の傾向はあるだろう。
 問題は、財政である。国民経済主義と財政削減主義を両立させるトランス・モダン経済を創造できるかである。
 今はここで留める。

追記:現実的に見ると、B路線は可能性と見た方がいいだろう。小沢一郎は理念・理論的というよりは、権勢主義的である。ただ、対米・独立主義的ではあるだろうが、戦略的に、敵の敵の中国に傾斜し過ぎて、危険ではある。
 米国と中国の間の「中道・中庸」路線が必要である。それは、孫子にあるように、敵をよく見ることから、見えてくることだろう。
 

米が声明「大統領は菅新首相と緊密に協調」
 【ワシントン=小川聡】米国家安全保障会議(NSC)のマイク・ハマー報道官は4日午後(日本時間5日未明)、菅新首相誕生を受け、「選出を歓迎する。オバマ大統領は近く話ができることを楽しみにしている」とする声明を発表した。(読売新聞)
[記事全文]

・ 新首相との会談を心待ち オバマ米大統領、近く協議 - 産経新聞(6月5日)

◇日米同盟、普天間が試金石に
・ 普天間移設 菅新首相、日米合意堅持の方針 - 琉球新報(6月5日)
・ 菅首相 米、日米同盟の重要性表明期待 普天間が試金石に - 毎日新聞(6月5日)
・ 菅新首相誕生 過去の菅氏発言 海兵隊国外を主張 - 基地問題に関するこれまでの発言。琉球新報(6月5日)

参考:

*
2010/06/05   時系列で見る「普天間問題」鳩山首相狂気行動の真相 2
*
2010/06/05   時系列で見る「普天間問題」菅首相誕生で小沢構想大成功?
*
2010/06/04   小沢・鳩山W退陣のキーワードは「安保」。日本独立を目指す小沢の野望は潰えたのか?

憂国通信M版

進む「小沢外し」…「組閣本部」は3日から始動
 菅新首相(民主党代表)は内閣・党役員人事で小沢幹事長と距離を置く議員を要職に充てる方針だ。(読売新聞)
[記事全文]


進む「小沢外し」…「組閣本部」は3日から始動

6月5日3時8分配信 読売新聞

 菅新首相(民主党代表)は内閣・党役員人事で小沢幹事長と距離を置く議員を要職に充てる方針だ。

 「脱小沢」の動きに対し、党内では警戒や反発も広がっている。

 4日、国会から民主党本部まで慌ただしく動き回った菅氏は、その日程の合間を縫うように、官房長官への起用が固まった仙谷国家戦略相、党幹事長に内定した枝野行政刷新相との3人での会談を重ねた。

 「完全に3人でやっている。何も入ってこない」

 中堅議員は、人事や党運営の情報が漏れてこないことを恨めしそうに嘆いた。

 菅氏は「人事は白紙」と強調、週明けに先送りしたが、3日夜には東京都内のホテルで仙谷、枝野両氏とひそかに会談、「腹案」を伝えていた。3氏による事実上の「組閣本部」は既に始動していたのだ。

 3氏は1996年に旧民主党が結党された時の「オリジナル民主党」メンバーだ。菅氏は「官房長官、幹事長、国会対策委員長がしっかりしていれば長期政権が狙える」と周囲に語っていて、政権中枢に仙谷氏らを据えることで「民主党らしさ」を取り戻し、内閣支持率回復につなげたい考えのようだ。この「新トロイカ」が主導する新政権の特徴が「脱小沢」になるとの見通しに反論する声は少ない。仙谷、枝野両氏とも、「反小沢」の筆頭格。菅氏は「ポスト鳩山」への意識からか、小沢氏との表だった対立は避けてきたが、新政権の人事では「反小沢」「非小沢」の登用で「小沢外し」に走るとの見方が専らだ。小沢氏が自由党を解党して民主党と合併したのは2003年。この時の代表は菅氏だった。その後、小沢氏が権勢を誇るようになり、「オリジナルメンバー」には、「庇(ひさし) を貸して母屋を取られた」との不満が募った。

 小沢氏は自らの資金管理団体「陸山会」を巡る事件で、近く、検察審査会の2度目の議決を受ける。再び「起訴相当」と判断される場合に備え、「今から小沢氏と一線を画していた方が得策」(菅氏周辺)との判断もあるようだ。「小沢氏の側にも検察審査会の心証を意識して、当面は静かにする動機がある」と見て、今が「脱小沢」の好機だとする分析もある。

 仙谷、枝野両氏は、前原国土交通相が中心の「凌雲会」に所属している。政策や政治理念でも、菅氏とは微妙な距離があるとも指摘されている。ただ、菅氏自身は「自分が首相になったら官房長官は仙谷さん」と、早い段階で決めていたフシがある。菅氏が理想とする官房長官像は「中曽根内閣の後藤田正晴官房長官」。警察官僚出身で、ペルシャ湾への掃海艇派遣を主張した中曽根首相に「閣議でサインしない」と抵抗した姿に、弁護士で、菅氏との激しい議論も辞さない仙谷氏を重ねているのだ。

 一方、枝野氏は政治の幅を広げるためにも「政策より党務をやりたい」と国対や党内調整に意欲を示していたという。幹事長の要職は望外とも言えるが、菅氏は「仙谷―枝野」ラインで、絵に描いた餅と化した「政府・与党一元化」を再構築する狙いもあるようだ。(政治部 円入哲也)

最終更新:6月5日3時8分

読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100605-00000111-yom-pol

◇組閣は8日
・ 菅新首相「組閣は8日、党人事は7日」=民主・山岡氏 - ロイター(6月4日)
・ [動画ニュース]菅次期首相、8日に組閣の予定 官房長官に仙谷氏、幹事長に枝野氏の起用内定も突然白紙に - フジテレビ(6月4日)

◇自民党は警戒
・ 脱小沢路線を警戒 自民「敵失頼み」見直し - 産経新聞(6月5日)
・ 自民に強い危機感 古い体質払拭できず、迫られる戦略見直し - 産経新聞(6月5日)




Fri, June 04, 2010 21:19:47
菅内閣はさらに危険である:ロックフェラー路線の肝いりではないか

テーマ:サギ山師売亡国独裁奴隷根性国家癌政権

MSN産経ニュース
【菅首相誕生】米、新首相に「同盟修復」を期待  2010.06.04 19:55
【ワシントン=佐々木類】菅直人新首相について、米政府は、鳩山政権下でぎくしゃくした日米同盟の立て直しに期待を寄せている。ゲーツ国防長官は3日、アジア安全保障会議出席のため、シンガポールに向かう機中で次……続きを読む

官僚に利用されるだろう。日本の亡国が近い。民主党を政権から引きずり落とすことが必要だ。

【菅首相誕生】郵政法案、無条件受け入れ 連立優先で“官”肥大化
MSN産経ニュース - ‎1 時間前‎
菅直人新首相は、国民新党の亀井静香代表との会談で、郵政改革法案の今国会成立を無条件で受け入れた。金融業界からは「民業圧迫」への不満が噴出し、国会で十分な審議が行われていないことに批判も高まっているが、連立維持を優先した。民間から資金を吸い上げ、非効率で ...




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