INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2010/02

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2010年02月27日(Sat)▲ページの先頭へ
生命的有機体と物質:即非的物質と純粋物質:超越的物質と純粋物質
先に、身体と物質というテーマで検討したが、まだ、不明瞭な点があるので、検討を続けたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10468952279.html

 端的に言えば、生命的有機体(精神生命的有機体)においては、有機体の物質+1に相当するものは、⇒+1における、つまり、⇒と+1との不可分一体における、+1ということなのである。単独の+1と⇒+1における+1とは似て非なるものであることはいくら強調しても強調しすぎることはない。
 では、⇒+1において、⇒と+1との不可分性はどのような力学をもつのだろうか。これは、「気」と物質的様態との関係と言ってもいい。
 結局、生命体とは、⇒の結果としての+1の物質的様態ないしは物質的表層をもつと考えられる。深層は⇒である。問題は、先に述べたように、⇒と+1の次元の質的相違である。即ち、高次元の⇒から、低次元の+1へと帰結するという点が問題である。
 だから、両者不可分であると言っても、不連続な不可分性があるということになるのである。つまり、位階的な即非関係がそこにあるということである。わかりやすく表記すると、A(高次元⇒)(即非)B(低次元+1)ということである。Aを精神的(生命)エネルギーとすると、Bは物質である。そして、生命的有機体においては、この即非の力学が作用しているのであり、物質とは、この力学からB(低次元+1)が分離したものと考えられるのである。
 そして、生命的有機体におけるB(低次元+1)とは、当然、単に物質ではなく、即非的物質ということになるのである。この即非的物質と純粋な物質との相違はいくら強調しても強調し過ぎることはない。前者は、精神エネルギー的物質、高次元の物質と言うことも可能である。
 そして、唯物論的生命科学は、この二つの物質を識別していないと言えよう。例えば、ビタミンと言った時、それは、即非的物質ではなく、単に物質、有機体的物質に過ぎない。しかし、生命体におけるビタミンとは、即非的物質、精神エネルギー的物質、高次元的物質、あるいは、「気」的物質と考えられる。
 この区別はまた、医学・医療において決定的な意味をもっていると考えられる。例えば、うつ病の場合、精神的エネルギーが枯渇していると考えられるが、単に薬だけでは、物質的器官に作用するだけで、精神的「器官」にはたらきかけないので、一般的にはうつ病は治らないと考えられる。精神的「器官」にはたらきかける医療が必要なのである。それは、哲学・認識的な身体的医療である。そう、うつ病とは、身体的認識・意識の病気なのである。
 また、簡単に遺伝子について触れると、それは、即非的物質の基礎的形態と言えるのではないだろうか。作業仮説であるが、Media Pointと即非的物質との境界に生じる基礎的即非的物質が遺伝子ではないだろうか。これは、検討課題である。
 今はここで留める。


身体と物質:生命的有機体と物質:生命的有機体経済と共同体通貨/共同体銀行
この問題については既述済みであるが、やや曖昧な感じがあるので、再考したい。
 結局、身体とは、Media Pointから生起する生命的有機体である。生命的有機体は当然、物質(追記:これは不正確である。以下、説明するように、⇒+1において、⇒と+1[物質]とは不可分であるからである。だから、正確に言えば、生命的有機体における同一性・物質的様態であり、それは生命的有機体と不可分の表層なのである。後で、さらに検討したい。)を内包する。しかしながら、生命的有機体は物質そのものではない。何故なら、それはMedia Pointのエネルギーに賦活されているからである。
 つまり、身体=生命的有機体とは、⇒+1である。それに対して、物質は端的に+1である。
 今日の唯物論的生命科学は、⇒(精神的生命エネルギー=「アニマ」)を認識せずに、単に物質的エネルギーを見ているのである。
 問題は、⇒+1の意味である。⇒と+1は不可分と見るべきである。これを可分できると考えるのは、やはり、唯物論的である。
 つまり、⇒+1においては、物質とは近似値的に存するのであり、純粋に物質としては存していないのである。
 だから、薬や食物というのは、外在的には物質(追記:ここは不正確である。食品は物質というよりは、有機体である。しかし、一般的には、不生命的有機体である。つまり、⇒のエネルギー作用が抑止された有機体である。)であるが、体内においては、⇒+1の生命的有機体の機構に入り、生命的有機体化されると考えられる。つまり、薬も食物も⇒+1へと転化されると考えられるのである。
 これを経済に適用すると、有機的経済とは、⇒+1であるが、今日の不兌換通貨は+1である。これは、実に、差異共振資本経済には不適格である。何故なら、⇒と+1は不可分だからである。
 ということは、有機的通貨が必要なのである。差異共振通貨、共同体通貨が必要なのである。
 例えば、やはり、無利子通貨か減価通貨、あるいは、銀本位通貨が必要であるし、また、差異共振銀行、共同体銀行、有機体的銀行が必要であろう。共同体のための資本経済になる必要があるのである。金儲けのための資本主義は、本末転倒である。

参考:
イスラム銀行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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イスラム銀行(イスラムぎんこう)は、イスラム (イスラム教 )の教義、慣行に基づいて運営される銀行 のこと。イスラム教徒(ムスリム )は、シャリーア (イスラム法)において利子 を取ることが禁止されているため、基本的に無利子の金融機関として運営される。
イスラム銀行の前提 [編集 ]

イスラムでは、利子(リバー と呼ばれる)を取って金銭を貸すことを禁止するクルアーン (コーラン)の言葉に従って、シャリーアにおいて利子の取得が禁止されている。したがって、理屈の上ではイスラム共同体 の間で利子を取る銀行は存在不可能であるため、イスラム圏 においては、いわゆるイスラム銀行が各地に存在し、この記事において述べられるような営業を行っている。

ただし注意せねばならないのは、このような業務を行う銀行が誕生したのは近代以降であるという点である。それ以前には、シャリーアにおける利子禁止規定は、ヒヤル (奸計)と呼ばれる抜け穴によって巧みに回避し、実質的には有利子金融が行われていた。そのため、「イスラム社会には無利子金融しか存在しない」と簡単に言ってしまうことはできない。現在でもトルコ・アルバニアなどでは有利子金融が存続している(リバー 、利子 、ヒヤル などについては該当記事参照)。
概要 [編集 ]

イスラム文化における経済は、それ自体「イスラム経済」の名で呼び考察するに足る。ただし特別な経済体制があるという意味ではなく、「アッラー の御心にかなう経済」ということである。イスラムの経済価値の根本には、『この世は神が作った世界であるから、世界のすべて(人もモノも金銭も)の所有権は神にある』というムスリムの思想が存在する。無利子の金融の他に、イスラム経済の特色と言える要素として、喜捨(ザカート 、サダカ )などがあり、イスラム銀行はそれらも背景にしている。
運営 [編集 ]

イスラム銀行は、ウラマー (シャリーアの知識を備えた知識人、学者)からなるシャリーア評議会を持ち、評議会の勧告に従って金融活動を行う。実際の運営においては、シャリーア評議会も柔軟な解釈を行っており、ほとんど他の銀行と異ならない業務を行っている銀行もある。
業務内容 [編集 ]

イスラムでは、「利子」は否定されるが、「利潤」は認可され、推奨される。ゆえに、イスラム銀行は、シャリーアの認める範囲内で「利潤」を最大限追求し、現代資本主義の世界に適用することを目指すことを掲げている。また、利益の配分方法は、「銀行と事業家の間では1対2」「銀行と預金者の間では2対 1」あるいは、アル=バラカ・トルコ銀行の場合「銀行2割、預金者8割」とされる。
基本的なサービス [編集 ]

イスラム銀行は、下にあげるようなシャリーア上の商業・金融契約の制度を援用し、利子を獲得することなく利潤をあげ、一般の預金者を含む出資者に還元する。

ムダーラバ
ムダーラバ (mudāraba) は、出資者(ムダーリブ、 mudārib )が、信頼すべき商才や手腕の持ち主と認めた事業家(ダーリブ、 dārib )に資本 を全額出資するパートナーシップ契約のことで、すべてのイスラム金融の基本となる契約形態で、イスラム銀行以前から広く行われている。
ただし、ムダーラバ契約のみでは、複雑化する西洋型を中心とする現在の経済・金融には対応できない。それに、個人の小口預金者には、このような「ハイリスク・ハイリターン」な契約を結ぶことは不可能である。そこで、銀行の介在する「二重のムダーラバ関係」などが登場することになる(ムダーラバ 参照)。
ムラーバハ
ムラーバハ (murābaha) とは、ある財 を、購入した際の原価 よりも高い代金によって転売する形態の売買のことで、購入者が、原価と代金の差額を了解し、差額を転売者の売却益として納得した上で契約が結ばれることを前提とする。
イスラム銀行ではこのシャリーアの制度を利用し、設備・備品を希望する顧客に代わって、それを銀行が購入し、顧客に渡す。このとき、「手数料」を上乗せして分割払いあるいは後払いとする。こうすることによって、銀行は利子ではなく、売却益として顧客から利益を受けることができる。イスラムにおいては利子は否定され、利潤は肯定・推奨されるが、この「手数料」は「利潤」と見なされうる。
ムシャーラカ
ムシャーラカ (mushāraka) は、資本の出資者と労働 を提供する事業家が、共同出資により事業の共同経営を行い、ここで生じた利益を契約時にあらかじめ決められた比率によって、もしくは損失が生じれば出資比率に応じて、それぞれ配分する契約形態のことである。
イスラム銀行においては、銀行と企業・個人の出資者が提供する資金によって共同資本をつくり、出資者全てがその経営に関わることを前提とする制度として運用される。
ムシャーラカの特徴は、資金の提供者もまた事業の組織や経営に参画し、事業主も一定の支出をするところにあり、発言権は概ね出資比率に準ずる。ムシャーラカによる共同プロジェクトが軌道にのったとき、主として資金を提供した側は、その出資分を処分してプロジェクトから手を引いても良く、また共同経営を継続しても良い。ムダーラバでは資金提供先の選択が限定的になる傾向があったのに比べ、相手方も一定の出資力があることを前提とするこのムシャーラカでは、その傾向がある程度は緩和されることが期待される。
イジャーラ
イジャーラ (ijāra) は、賃貸借 契約を意味するアラビア語 。シャリーアにおいては、物件に対する所有権は、その物を所有し最終的に処分する権利(ラカバ (raqaba) 、所有権)と、その物を利用しそこから得られる利益を独占する権利(マンファア (manfa'a) 、用益権)の2つから成り立つと考えられており、イジャーラ契約とはすなわち所有者である賃貸者から賃借者への用益権の移転である。西欧型経済におけるリースに相当する。
イスラム銀行においては、顧客の求めに応じて銀行が設備等を購入し、顧客に賃貸して使用料を取るリース として運用される。「売り切り」と「リース」の違いが、ムラーバハとイジャーラの違いと言える。
イジャーラ・ワ・イクティーナ
「顧客に賃貸して使用料を取る」まではイジャーラ(リース)と同じであるが、顧客は、銀行に口座を開設して積立てる、いわば「リース購入」である。この積み立ての積算が、購入代金プラス手数料(コミッション)の額となったところで、当該物件の(用益権に加えて)所有権が顧客に移る。この場合も、コミッションは売却益であって利子ではない。
この方式の特徴は、ここで開設した口座が当座勘定ではなく投資勘定として開設され、積み立てる間の「投資の配当」が、顧客の収入になる点にある。
カルド・ハサン
カルド (qard) は、借主が貸主の所有物を消費した上で、同種同等の物を貸主に返還する貸借契約のことで、「消費貸借」とも訳される。カルドがシャリーアに照らして合法となるには、返還される物件が、借りた物とまったく同種・同等でなければならず、貸主が貸し出したことによって利得を得てはならない。このような合法と見なされるカルドのことを、カルド・ハサン (qard al-hasan) と言う。
イスラム銀行においては、「人道的」無利子ローンとして活用される。この契約においては、借主はあらかじめ定められた期間内で貸主に返済することになる。むろん、銀行側には利益は全くない。金融機関によっては一定額の「手数料」を徴収するところもある。これは金額に連動したり、期間に随伴したりすることはない。10万でも100万でも、手数料の額は同じということになる。(先述した『利子』の定義「金額」「期間」「定率」を参照。つまり、利子の定義には当てはまらないという理屈になる)
しかしこれには異論もある。「『定額の手数料』は『定額の報酬』に通じ、『定額の報酬』は『定率の利子』に通じるため、カルド・ハサンは完全に人道的にゼロ・コミッションでおこなうべき」、と主張する先鋭的な学者もいる。手数料の問題に限らずイスラムの無利子金融の具体的在り方については、ウラマーの間でも統一見解がなく、法学派 などによって食い違う見解が併存している場合が多い。
サウジアラビア の例では、(完全な)無利子貸し付けをおこなっている一般商業銀行はない。いずれも定率のサービスチャージ(手数料)を課しており、これも銀行と借り手の“交渉”で決まる(この点がシャリーアで禁じられたリバー、すなわち“定率の利子”とは異なる、との理由)のが一般的であるという。個人や法人から融資の申請があったとき、専門の調査機関が申請者の信用や業績などの調査を行う。また、担保や保証人などのリスク回避の手段を講じた後に、貸付金から手数料などをあらかじめ差し引いた金額を申請者に渡すことになる。

歴史 [編集 ]

シャリーアの規定に則って無利子の金融をおこなう「無利子銀行」が初めて試みられたのは、1950年代 のパキスタン においてであった。このころパキスタンでは、イスラムの教義を国家運営に適用しようとする動きが強まっていた。

「1950年代末にパキスタンの一地方で、敬虔なイスラム教徒地主たちを中心に無利子の預金を集め、貧困なイスラム教徒農民に農業改善資金を無利子(運営経費を賄うため少額の手数料を徴収)で貸し出す無利子銀行が開設された。この銀行は、無利子で融資を受けたい希望者は数多くいたのに対し、無利子で預金してくれるものは一回だけはお付き合いで預金してくれるだけで、後がつづかなかったことが主因で、やがて運営に行きづまり、崩壊してしまったといわれる」[1]

続いて登場したイスラムの教えに適う金融機関は、エジプト に現れた。

1. 1963 年 :ミトル・ガムス貯蓄銀行開設。

アフマド・エミル=ナガルという人物が、理想と同胞の便宜を図るために設立した。この銀行は成功したが、その理由としては、借り入れ希望者に、少額の定期預金を義務化したことが挙げられる。これにより預金量が増大し、安定した経営が成立した
(1〜3年返済の比較的短期のローンが中心。この時点での形態では、ムダーラバ方式(後述)に基づいていなかった)。

2. 1972 年 :公的資金を導入し、ナセル社会銀行設立。

上記貯蓄銀行(のちに合併)で築いた資本と、公的資金を資本金として設立。この公的資金の支出は、アフマド・エミル=ナガルの考えが、新しい時代の「イスラム社会主義 」を標榜する大統領ナセル の考えと合致したことから成立したといわれる(「イスラム」と「社会主義・共産主義」は、理想社会を構築しようとする思想や弱者救済などの点からも、「似ている」とも言われるが、後者が宗教を禁止しているなどの点で明らかに相反する。ナセルは良い所のみ選んで取り入れ、「プロレタリア独裁・反宗教・私的所有権否認・暴力革命」を否定した「イスラム社会主義」の実現を図った。ナセルはいわゆる「イスラム原理主義 」に対しては抑圧的であった)。ナセル社会銀行は、発足したとき既にナセル病死(1970年 )の後であり、敬意を込めて彼の名を冠することになった。同行は1980年代 には、預金残高は2億ドルを越え、全国に数十の代理店を有する金融機関に成長した。

また1970年代 以降、西側金融の枠組みで運用される潤沢なオイルマネーを活用して、アル=バラカ銀行、ドバイ・イスラム銀行、イスラム諸国会議機構 (OIC)の拠出によるイスラム開発銀行、ファイサル・イスラム銀行などが設立され、イスラム復興 の潮流に乗って、1990年代 までに、イスラム圏のみならず世界中に広まった。銀行・金融会社などを含め、無利子を標榜している銀行や投資会社は全世界に200以上あり、総資産は1160億ドル(95年ベース)、年率15〜20%で成長している。

イスラム銀行は、当初は国際金融システムの中で特異な金融機関と見られがちであったが、のちには国際通貨基金 (IMF) が公認する銀行システムのひとつとなっている。
有利子金融との接点 [編集 ]

現代の世界金融市場の主役の一つとなっているヘッジファンド や、先物取引 のような金融システムは、イスラムにおいては基本的に認められない。イスラム銀行の立場としては、実体経済と遊離したデリバティヴ(金融派生商品)は「言語道断」であり、同時に先物取引もクルアーン(胎内にいる子の価値を見越して母ラクダの売買をしてはならないという規定)により禁止されている。

小国の経済を食い荒らす「マネー」の動きを危険視するのはイスラムに独特のものではなく、非イスラム圏の研究者の中にも存在する。また、現代において無利子金融を行おうという発想もイスラムに独特のものではない。そもそもが古来より禁止ないし制限が加えられていたわけであるが、それの復活というわけではなく、現代の時代状況下においての脱資本主義的な研究・検討、そして地域通貨 運動などに見られる実践がなされている。

また、西洋経済の中心たるアメリカ合衆国 の最先端技術の集積地であるシリコンバレーの成長を支える原動力は、イスラム金融に似ている(ベンチャー企業 記事参照)。というのも、投資家は企業家に出資するとき、「融資」ではなく「株式の購入」という形態を取るため、起業家には「元本保証」や「利潤確保」の義務が生じない。また、投資家が資本分散によって危険を避ける点、担保ではなく人物と経験を評価することによって投資するかどうかを決める点なども、ムダーラバ契約を思い起こさせる。

主な相違点としては、融資ではなく株式購入であること、投資家は株主であるため会社の運営に対して口出しできることなどが挙げられる。また、詳しい資料はないが、ムダーラバの長距離キャラバン交易の成功率は、少なくとも現代ネットベンチャーの「約20%」という数字よりは大きかったであろうと思われる。このエンジェル←→ベンチャーの関係は、まさにムダーリブ←→ダーリブの関係を思わせ、しかも銀行の扱う二重ムダーラバよりも遥かに、預言者ムハンマドがおこなっていたような「ムダーラバの基本形」に近い、似ている、とすら言えるかもしれない。世界経済をリードする集団と言えるアメリカ、シリコンバレーのベンチャー企業群は、実は「有利子経済」ではなく「無利子経済」の恩恵によって爆発的成長を遂げたものと言うことができるだろう。

かつてアル=バラカ・グループは西洋型金融の中心地であるロンドン の金融街にも進出していたが、ここからは撤退している。ただし逆に西洋系の銀行の中にも、イスラム圏においてはムスリム向けの無利子金融商品(上述のイスラム金融の基本に則ったもの)を提供したり、イスラム銀行を子会社に持つ試みがなされはじめている。また一方、イスラム金融機関の中でも国・地域によってシャリーアの解釈に偏差が見られる。

こういった点からも分かるとおり、イスラム無利子金融と、有利子金融とは、根本的に対立するものではない。また、上述のとおり、名目や立脚点が異なっていようとも、その内実において非常な類似が認められる。この両者の間に根本的な差異が存在するという前提は、成り立ち得ず、これらの要素は「イスラム的(と仮に呼ぶ)」と「西洋的(と仮に呼ぶ)」、二つの極の間でスペクトル を成している、と考えることもできるだろう。

勃興の背景 [編集 ]

利子禁止あるいは制限規定は人類の歴史の中でなにも特異なものではなく、通時的・通文化的に見られるものであり、そして現代日本において自明のものとされる(アメリカ主導の)規制のゆるやかな「自由競争体制」こそが、むしろ特異な状態と言えるのかもしれない。いっぽう現代イスラム圏の人々はなぜ無利子経済体制を選んだ(選びつつある)のか。ヨーロッパも、中世 には旧約聖書 から導かれる利子禁止(制限)規定が、表向きなりとは言え社会を覆っていた点においては同様である。それがなぜ、ヨーロッパでは利子つき金融が、それも複利計算のもとに認可されてその後の経済発展の基盤を築いているのに対し、イスラムの諸国では近現代に入って逆に、それまで見過ごされて来た利子つき金銭貸借が、シャリーア(イスラム法)の厳密な適用によって排除されようとしているのかについての検討が必要である。

クルアーンにおいて禁じられている「リバー 」という単語を、「利子 」一般ではなく、特に「高利」のみを指す言葉であると解釈すれば、ヨーロッパ型の金融システムを、躊躇なく導入することが可能となるにも関わらず、その方法を採用しない理由については、研究者によっても見解が分かれる。仮に「リバー」が「利子」すべてを指すとしても、それまで通りヒヤル を用いて実質的な有利子金融を実行すれば良いとも言える。ただこれは、単純な金銭貸借契約においてすら、二つの随伴する契約を結ぶことになり、さらに権利関係が複雑になるような金融商品や、保険契約、先物取引などには対応仕切れないという欠点を抱えていることもある。そもそもこうしたイスラム銀行が、中世においては登場せず、現代に入って登場・発展してきた理由を探ることが、その本質を知る手がかりとなる。

1. 「ムスリムだから」

もっとも一般的な、あるいは門外漢にも分かりやすい説明としては、「ムスリムであるから、クルアーンにしたがって利子は受け取らない。だから、無利子銀行に預金するのだ」という説明がなされる。ただし、例えばムスリムであっても、大っぴらに飲酒することが抵抗なく行われる土地、社会もあるので注意が必要であろう。
既に述べたように、最初期無利子銀行の失敗例もあるから、ムスリムであるから当然のように彼らは無利子銀行に預金するのだろう、という論理のみでは無利子銀行の成長・拡大を語るには無理があろう。また、それに、かつてヒヤルが認められていたことの説明がつかない。
無論、「ムスリムだから、無利子」というこの要素は少なくとも建前としては根本的なものであり、無利子銀行の誕生以前は金融技術の未発達によってリバーのない銀行が成立しえず、ムスリムたちは仕方なく預金を自分のところにしまい込むか、あるいは有利子の銀行に預けていた、とも言い得るのだが、基本的にはこの理由のみをことさら重視することはできない。

2. 「植民地化とオスマン帝国の解体」

世界史を俯瞰(ふかん)する視点からは、次のような解釈が導かれる。19 世紀 からイスラム世界の各地で進められてきたヨーロッパ列強による植民地化は、20 世紀 においてオスマン帝国 の敗北と解体、それによる旧オスマン領アラブ諸国 の植民地化によって頂点に達した。このインパクトが世界のムスリムに大きな影響を与え、それまでとは違う形の「イスラム世界」の認識が形成され、強大なヨーロッパと改めて直面しなおすことで、ムスリムとしての自覚が再認識された。
また、1924年 のオスマン朝のカリフ制の廃絶は、植民地化の中でもカリフの権威にすがってイスラム世界の一体を意識しようとしていたインド亜大陸 や東南アジア のムスリムにも、「正当な」ウンマ (イスラム共同体)の消失を明確な形でムスリムに突きつけることになったが、これによってむしろムスリムたちは「イスラムの世界」と自己の立脚点の再認識をおこなうこととなり、それがムスリムに、一つ一つの教義を再確認し、遵守する方向性を持ったと考えられる。

3. 「アラブの『動かす』文化」

また、片倉もとこ『「移動文化」考』のように、文化間の差異に着目しこれを理由の一つとして挙げる著作もある。
日本にも「流るる水は腐らず」という諺 があるが、中東では古来より、「留まる水は濁る」とでもいうべき、“動かずにあるものは不浄”という思想がある。遊牧民 は水や牧草の都合によってキャンプ地を定期的に移動するが、アラブ遊牧民の場合は、そういった条件が変わらずとも一定の期間が過ぎると移動することがあるという。たとえそれによって水場から遠くなるとしても、である。
同様に経済についても、動かさない金銭は不浄であるため、富豪は金銭を蓄え込まず、貧しい人に差し出すことによって社会に還流させようとする思想がアラブ社会に存在する。
しかし、ここでの問題はアラブのみに留まらず、東南アジア、そして世界全体のイスラム銀行に及ぶため、アラブの文化のみで語ることはできない。ただ、現代につながる無利子金融が成立し発展してきたのはまさにアラブの地であり、《移動文化》の担い手らによって無利子銀行が先導されてきたことは事実である。

4. 「宗教的背景」

上掲の説に似るが、ムスリムであるがゆえに教条を遵守するというのではなく、現状イスラム諸国で喜捨や断食が真面目に行われ、輸送手段の発達にも助けられて巡礼者が爆発的に増大しているように、3の説よりも広範かつ漠然とした要素と言える。
慣習による互助的システムを、機能が似ているからといって発端の異なる無利子金融と短絡的に結び付けることには疑問が残る。

どれかの説が決定的なものというわけではない。ただ、「動かす」ことを文化的背景とするアラブ世界で、ムハンマドのもたらしたイスラムによって、従前よりも強化・明文化された互助システムが慣習として広がって定着し、近代のイスラムの「危機」に対してかえって「ムスリム」としての意識が明確化し、イスラム圏に導入された近代西欧の金融技術を応用して無利子銀行が作られ、信仰やオイルマネーに支えられて拡大してきた……というように、複合的要因として考えるのが適切であろう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%
E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E9%8A%80%E8%A1%8C


2010年02月26日(Fri)▲ページの先頭へ
地場エネルギーとパワー・プレイス:気と地霊
この記事は少し怪しい(追記:何故なら、新興宗教的に、このエネルギーが信仰・崇拝されて、金儲けのために「信者」を騙すようになることが考えられるからである。これを金儲けにするのは、間違いである。又、本来、精神的生命エネルギーを物質と混同している間違いがあると考えられる。)が、それでも、地場エネルギーというのは、私がこれまで述べてきた「気」や地霊spirit of placeというものと同じものだと思う。私は今住んでいる地域の大気には、特別な「気」があると感じている。最初に来たときから、清新な気を感じたのである。大気が、ピリピリ、ピチピチしているようなのである(いわば、帯電している、あるいは、イオン化しているとも言えそうだ。直感的に言えば、大気になにかが「立っている」である。この何かを限定しようとするが、困難さを感じるが、できるだけ言語化してみよう。それは、「気」が「立っている」のだろう。あるいは、エネルギーが「立っている」のである。垂直化である。そう、賦活された垂直のエネルギーということになろう。)。そして、私はそれは、森や畑が多いことから来ているのではないかと考えた。しかしながら、地場エネルギーということで、より明確になるだろう。

追記:ゼロ地場エネルギーということであるが、PS理論から言うと、ゼロとはゼロではなく、Media Pointの即非様態のことだと考えられる。つまり、+iと-iとの即非共振であり、また、+1と-1との即非共振であり、また、二つの即非共振の即非共振と考えられる。三つの即非共振様態である。先に、二重即非的秩序原理と呼んだことに当たる。

追記2:先には、「天」と「地」との差異共振によって、気=生命エネルギーが生まれると考え、また、そこには、水蒸気が関係していると作業仮説した。つまり、水のイオン化が関係しているのではないと推測したのである。

眺めているだけで癒されるクォンタム・フォト、サンプル動画(1)


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パワースポットを創り出す超技術が出来ていた!
2010/2/26 17:59

 昨今ブームになりつつあるパワースポット。中でも長野県伊那市と下伊那郡大鹿村の境界に存在する分杭峠(ぶんくいとうげ)は、健康や精神によい影響を与える”ゼロ磁場地帯”であるともいわれ、鈴木光司の小説『EDGE』(角川書店)などでもとりあげられている。

 このゼロ磁場エネルギー研究のパイオニアであり、健康グッズとして商品を開発している「株式会社宇宙エネルギー研究所」代表の水島幹夫氏に話を聞いてみた。

 「もともとは印刷会社を経営していたのですが、縁あって”医王石”という天然有機ミネラルを含んだ石を手に入れてから、農地の土壌改良に携わることになりました。そうなると農地では水が大事ですので、そちらの改良に興味を持ち、そこから土地自身のエネルギーに興味が出てきたというわけです」

 実際に医王石を使用した土壌改良の評価は高く、さらに医王石を使用した活水器「還元」は、建設省の認定や日本水道協会の認証も受けている。

「その後、土地自身のエネルギーを研究していると”地場エネルギー”の存在に行き着くことになったのです」

 地場エネルギーとは、その土地が持つエネルギーのことで、人体や精神に影響を与えることがあるという。

「たとえば、そこに行くだけでリラックスして元気になれる土地とか、逆にどうやっても商売がうまくいかないような地域がありますよね。これは地力の影響、つまり土地の地場エネルギーによって引き起こされているものだと思います。つまり地力を変化させる、スピリチュアル的にいえば邪気を祓うことによって、家庭内のトラブルや鬱、自殺、アル中なども癒すことができるということですね」

 この”地場エネルギー”を研究した結果、パワースポットに多いとされるゼロ地場の状態を造り出すことに成功し、2003年には地場エネルギー修正の事業を開始。以後、大型リゾート地やオフィス、幼稚園などの地場を修正してきたという。中でもその幼稚園は地場エネルギーの修正後、IQの平均値が通常の5割増しとなり、合唱・合奏の全国コンクールで優勝を取るまでになったということだ。2009年には、地場エネルギーに宇宙エネルギーを取り入れ、社名を現在の「宇宙エネルギー研究所」に改名。日本全国のパワースポット化に力を注いでいる。

(山口敏太郎事務所)

宇宙エネルギー研究所ホームページ
http://www.5-369.com/

宇宙エネルギー研究所代表 水島幹夫氏 講演会2月27日開催
http://www.net-g.com/blitz/mizushima.html

(奇瑞写真cap)
ゼロ磁場の理論を応用したエネルギープレート「奇瑞」

参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou

http://netallica.yahoo.co.jp/news/112692


2010年02月25日(Thu)▲ページの先頭へ
感性は精神と同一性感覚の連続的混淆・混濁だ:モダン・アートの終焉とトランス・モダン芸術の誕生
画像は以下のページを見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10467518998.html

哲学や美学で感性と言われるが、これは、実に曖昧である。私もつい使うことがあるが、どうも使い心地がよくない。
 心性という言葉が浮かんでしまう。心眼というときの「感覚」は精神的感覚・知覚・認識のことである。それに対して、同一性的な感覚・知覚・認識があるだろう。これが、通常の感覚である。言い換えると、物質的な感覚である。
 「感性」というとき、両者が混合・混淆し、混濁していると思われるのである。つまり、連続的な感覚・知覚がそこにあると考えられるのである。いかには、近代的な中途半端な感覚・知覚と言えよう。
 PS理論によって、今や、明確に、精神的感覚と物質的感覚は分離されるのである。そして、この結果、もっとも影響を受けるものの一つは当然、芸術である。モダン・アートというものが、これによって、超克されるのである。トランス・モダン・アートが誕生するのである。
 これは美術だけでなく、音楽、文学、その他の芸術もそうなると言える。
 思うに、精神的感覚とは実は本義における自然的感覚なのであり、トランス・モダンとは、自然的感覚(即非的感覚知覚)の復興を意味すると言えよう。モダン・アートの崩壊である。もっとも、モダン・アートにあるトランス・モダン性は評価されなくてはならない。つまり、超越性、精神性を表現しているモダン・アートである。そして、その結果、はっきりと、モダン・アートが終焉するのである。

追記:同一性感覚・知覚については、厳密に検証する必要がある。即非的感覚・知覚において、現象は、同一性というよりは、差異である。つまり、「わたし」が「ジンチョウゲ」を即非的に感覚・知覚するとき、後者は本来、差異である。同一性感覚・知覚とは、対象を「ジンチョウゲ」として認識することである。
 だから、感覚・知覚は二重なのである。一つは、差異的感覚・知覚であり、一つは、同一性感覚・知覚である。後者は言語と深く関係している。
 思うに、フッサールのノエマとは、差異的感覚・知覚と捉える方がいいだろう。それは同一性感覚・知覚ないしは物質的感覚・知覚ではないからである。
 確かに、現象において、物質的対象は存する。それは、プラス1である。それに対して、即非的感覚・知覚は、プラス1を乗り越えて、対象に差異を見るのである。
 差異的対象となり、差異的現象である。このとき、確かに、対象には物質や同一性があるが、それは、いわば、基体である。サブスタンスである。
 そう、端的に言えば、対象は⇒+1である。対象を+1と見るのが、同一性感覚・知覚ないしは物質的感覚・知覚である。
 結局のところ、感性とは⇒+1と+1との混淆・混合・混濁であり、連続化である。あるいは、質と量の混濁である。
 では、即非的感覚・知覚にとって、同一性感覚・知覚とは何だろうか。それは、一つの抽象である。本来、対象は絶対的差異・絶対的他者であるが、それを同一性に還元しているのである。
 思うに、位階があるのである。即非的感覚・知覚ないしは差異的感覚・知覚は垂直性・超越性をもつが、同一性的感覚・知覚ないしは物質的感覚・知覚にはそれが欠落して、ただ、水平性・物質性をもつだけである。
 言い換えると、次元が異なるのである。前者は後者に対して、高次元に位置するのである。後者が三次元ならば、前者は四次元である。あるいは、後者が四次元ならば、前者は五次元である。
 結局、換言すると、感性とは、異なる次元を混同させるという誤謬を犯している近代的美学・哲学用語と言える。
 

Untitled (Black on Grey)
Artist Mark Rothko
Year 1970
Type Acrylic on canvas
Dimensions 203.3 cm × 175.5 cm (80.0 in × 69.1 in)
Location Solomon R. Guggenheim Museum , New York

http://en.wikipedia.org/wiki/Untitled_%28Black_on_Grey%29


2010年02月23日(Tue)▲ページの先頭へ
ラカンは間違っている:ラカンはポスト・モダンで、連続論である:ラカンを捨て、PS理論を取れ!
内容は知らないが、ラカン批判は必然である。そもそも、言葉使いが非科学的である。いい加減である。これは、ドゥルーズや初期デリダにも当てはまる。
 とまれ、簡単にラカン批判を言うと、現実界/想像界/象徴界の三元論に対する批判となる。
 これは、PS理論から言うと、虚軸界/Media Point/同一性界(物質界)と変換される。問題なのは、ラカンがフロイトを継いで、家族関係に限定していることである。
 PS理論は家族関係、つまり、エディプス関係に限定されないのであるし、家族関係に限定することは、矮小化(卑小化)/錯誤化である。
 だから、一番の問題は想像界である。ここで、母子的融合が問題になるのである。それは、母と子の連続性を意味するのである。しかしながら、PS理論では、それは、主体(自己)と客体(他者)との即非的関係を意味するのであり、あくまで、不連続な関係なのである。端的に、ラカンは、父権的な連続的思想に拘束されているのである。

追記:虚軸界は霊界であり、Media Pointが精神界(魂界)であろう。だから、霊界/精神界/物質界となる。

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ラカンは間違っている

  ディラン・エヴァンス

   桜井直文監訳 冨岡伸一郎訳

新刊について
エヴァンスの「ラカンは間違っている」は、もとラカン派の精神分析を行っていた著者がみずからの経験をもとに書き下ろした論文「ラカンからダーウィンへ」の翻訳、「4年後」の補筆、カウンセラーを務める訳者による解説からなるラカン批判の書です。

http://www.gakuju.com/


2010年02月22日(Mon)▲ページの先頭へ
明治欧化/戦後近代合理主義と日本の伝統の差異共振主義の喪失:国学から疑え
テーマ:日本新ルネサンスへ:東洋と西洋の統一へ

スロー人ロハス氏の最近の考察は納得できるものが多い。以下の論考は一見、左翼的、戦後的発想の人からは反発を受けるだろうが、その本質を見れば、それが、まっとうなことだとわかるだろう。
 私見では、(遼太郎の)坂本竜馬は、実に、日本の伝統的思想を体現した人物である。つまり、差異共振主義である。それが、明治維新の欧化によって、失われ、戦後の近代合理主義の洗脳/マインドコントロールによって、まったく喪失したと言えよう。
 日本人は軽薄者になってしまったのである。一言言えば、日本の伝統思想とは、他者の思想である。自己と他者とが差異的に共鳴する思想が日本の伝統思想なのである。これを壊したのは、私は国学、本居宣長の国学だと考えている。以前も述べたが、国学はキリスト教の一神教の影響を受けて、多神教ではなく、一神教的神観念を形成したと考えられる。

『国体の本義』と、口にしない憤り
スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節


小沢不起訴とは何か:ロックフェラー路線と「ロックフェラー路線」:日本は蛇に睨まれた蛙である
テーマ:ニッポン亡国の凶相:売国奴と愚民と邪悪者

以下、本件について説明されているが、問題には答えていない。単に、戦争屋路線の変節という説明だけである。
 問題は戦争屋路線の変節の意味である。これは、対中外交のために、小沢一郎を使うことにしたのではないだろうか。つまり、小沢は中国に通じているので、小沢を利用すれば、中国攻撃になりうるのである。また、米国債の郵政資金による購買のこともある。これは、小沢の売国奴性を意味する。
 思うに、既述したように、小沢一郎はロックフェラー路線と「ロックフェラー路線」を混同している。鳩山首相もそうである。
 結局、検察VS小沢騒動は、両者にロックフェラー路線が関与しているのであり、最初から日本の負けである。
 オバマ政権の二重構造における「ロックフェラー路線」
ないしは差異共振路線を民主党は察知していないのである。これは、戦争屋に利用されることを意味するのである。日本は、中国と米国の狭間で、Media Point国家を目指すべきである。

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ペンタゴンの連中よ...

2.突然の小沢不起訴は米国戦争屋の変節にあり

ネット世論でも指摘されているように、小沢不起訴という唐突なサプライズは、検察トップの自主判断では決してないでしょう。なぜなら、小沢逮捕・起訴から辞任のシナリオは東京地検特捜部単独の暴走であるはずがなく、元々検察トップの合意事項であったはずだからです。それではなぜ、突然、小沢不起訴となったのか、そのわけはすでに筆者も唱えているように、やはり東京地検特捜部を指揮してきた米国戦争屋の突然の変節によるものでしょう(注2)。
新ベンチャー革命


ラカンは間違っている:ラカンはポスト・モダンで、連続論である:ラカンを廃棄し、PS理論を取れ!
内容は知らないが、ラカン批判は必然である。そもそも、言葉使いが非科学的である。いい加減である。これは、ドゥルーズや初期デリダにも当てはまる。
 とまれ、簡単にラカン批判を言うと、現実界/想像界/象徴界の三元論である。
 これは、PS理論から言うと、虚軸界/Media Point/同一性界(物質界)と変換される。問題なのは、ラカンがフロイトを継いで、家族関係に限定していることである。
 PS理論は家族関係、つまり、エディプス関係に限定されないのであるし、家族関係に限定することは、卑小化/錯誤化である。
 だから、一番の問題は想像界である。ここで、母子的融合が問題になるのである。それは、母と子の連続性を意味するのである。しかしながら、PS理論では、それは、主体と客体との即非的関係を意味するのであり、あくまで、不連続な関係なのである。端的に、ラカンは、父権的な連続的思想に拘束されているのである。

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ラカンは間違っている

  ディラン・エヴァンス

   桜井直文監訳 冨岡伸一郎訳

新刊について
エヴァンスの「ラカンは間違っている」は、もとラカン派の精神分析を行っていた著者がみずからの経験をもとに書き下ろした論文「ラカンからダーウィンへ」の翻訳、「4年後」の補筆、カウンセラーを務める訳者による解説からなるラカン批判の書です。

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2010年02月21日(Sun)▲ページの先頭へ
「聖霊の時代」とMedia Point即非的秩序原理
フィオーレのヨアキムが聖霊の時代の到来をかつて説いた。即ち、父(ヤハウェ)の時代、子(イエス)の時代が終焉した、第3の時代として、聖霊の時代がくるという一種黙示録的歴史観である。
 聖霊とは、ps理論的に言えば、Media Pointである。ここで、虚軸と実軸が交差するのであるが、それは、先に述べたように、二重即非的秩序原理をもつのである。
 トランス・モダンとは、西洋の原理と東洋の原理が一致する時代と考えられる。しかしながら、Media Pointの即非的秩序原理こそが、もっとも精緻正確な哲学・科学的原理なのである。端的に、自然の根本原理である。

参照:以前、ほぼ一年前以下のように述べた。
2009-01-18 第五の福音書・聖霊主義・純粋差異共振主義:PS理論とトランス・モダ 編集 このエントリーを含むブックマーク CommentsAdd Star

第五の福音書 ・聖霊 主義・純粋 差異共振 主義:PS理論 とトランス ・モダン 進化

テーマ :トランス ・モダン 社会 の創造 ・構築

私は現代を「聖霊 」の時代と呼んでいるが、それの意味 するところは既述した(http://ameblo.jp/renshi/entry-10194034665.htm )が、より直観的な説明ができると思った。

 「子」の時代とは、差異共振 主義と同一性主義の分裂の時代であると言った。占星術 的文明 史から言えば、双魚宮の時代である。

 問題は、差異共振 主義と同一性主義とが水と油 で溶け合わないという事態である。近代 資本主義 は本来、前者が基礎であるにもかかわらず、後者 が支配的で、勤労者・民衆、自然 、社会 等を破壊 してきたのである。自然 合理性を同一性主義的資本家 /国家 等は理不尽 に無視してきたのである。その結果、今日 の新世界 恐慌 に帰結したのである。

 本質 は差異共振 性でありながら、同一性主義はその不合理性(端的には、狂気)によって、資本主義 の母体 を破壊 してきたのである。これが、水と油 の相克の事態である。二元 論、二項対立である。

 しかるに、今日 、同一性主義の解体 によって、近代 資本主義 が解体 して、これまで否定・排除されてきた差異共振 性が浮き上がってきたのである。それは、純粋 差異共振 主義として、発現するのである。

 それは、差異と同一性のバランス を目指すのである。そう、近代 主義における、精神 と物質 との対立がここで解決して、終焉するのである。精神 と物質 との調和 が為されるのである。これが、「聖霊 」の時代が直観的に意味 することである。これは、精神 と身体との調和 と言ってもいい。両極・対極の調和 である。これまで、近代 文化は、精神 に傾斜するか(観念 論)、物質 に傾斜するか(唯物論 )で、二元 分裂してきたのである。

 この点を説明すれば、それを超克する試みは多く為されたが、結局、未完成 であった。ポスト ・モダン 哲学 は、キルケゴール /ニーチェ 哲学 、現象学 、構造主義 を引き継いで、差異の哲学 の構築を目指したが、理論 的な不整備により、中途半端 で挫折してしまった。

 不連続的差異 論を継いだプラトニック・シナジー理論 (以下、PS理論 )は、ポスト ・モダン 哲学 の不備を乗り越えて、差異哲学 を完成したと考えられる。

 PS理論 はイデア (精神 )を主、物質 を従とする、差異を包摂した新イデア 論である。これが、上述の精神 と物質 (身体)の調和 を可能にしたと言えるのである。そう、観念 論と唯物論 の超克であり、両者の超越的包摂である。

 即ち、PS理論 が、「聖霊 」の時代の主導理論 となると考えられるのである。近代 資本主義 が終焉し(リーマン・ショック /新世界 恐慌 )、今や、トランス ・モダン 資本主義 の時代に入ったということなのである。

 精神 と物質 の両立を可能とする、精神 主導の新しい時代 、「聖霊 」の時代となったのである。PS理論 は第五の福音 である。

http://d.hatena.ne.jp/antares/20090118

参考:

フィオーレのヨアキム

 フィオーレのヨアキムは、1135年南イタリアのカンブリアで公証人の息子として生まれた。幼い頃から、幻視の才能があったというが、これは後世の創作の可能性が強い。ヴィイルヘルム2世のもとで官僚として働いた後、エルサレムへ巡礼し、この時に神より啓示を受けたと言う。後にシトー修道会に入会(この時は既に中年に達していた)。さらに、その学識の深さなどが認められ、修道院長に選ばれる。
 しかし、1180年から体験した一連の幻視から独自の歴史神学を構築するようになり、シトー会を脱会。生まれ故郷のカラブリアの人里離れたフィオーレの山中に、彼自身の厳しい修道会を設立した。
 そこで約20年間ほどの年月をかけ、著述活動を行った。
 主な著書は「旧約と新約の調和の書」、「十弦の琴」、「ヨハネ黙示録注釈」などである。
 1202年に没。「有徳の誉れ」を受けながら没したものの、著作の一部は異端として断罪された。

 さて、ヨアキムの思想とは、どのようなものだったのだろうか?
 まず重要なのは、聖書の「黙示録」に代表される象徴や寓意を、過去から現在にいたる具体的な出来事と結びつける傾向が非常に強かったことだ。
 もう一つは、これがさらに重要なのだが、後続の「千年王国思想」に大きな影響を与えたということである。
 ヨアキムは、「楽園」が、この地上に到来すると考えた、天国ではなく。それに加えて、この「楽園」が地上に出現した時、既成の権力構造、教会組織は消滅すると考えた。
 そう、これは一種の「革命思想」の根幹を造ったのである。

 ヨアキムは、人類の歴史を、「三位一体」にあてはめ、以下の3つの「段階」に分けた。

・第一段階
 三位一体の「父」の時代であり、旧約聖書の時代である。 これは「正義」の治世と呼ばれる。戒律の強調、それに立法者として、および人間への絶対的権威としての神の役割が強調される時代である。同時に、血なまぐさい旧約聖書の記述が語る通りの恐怖と隷属の時代でもある。文字通りの「神の下僕」の時代である。

・第二段階
 「子」の時代である。新約聖書の時代であり、キリストから、ヨアキムら自分達が生きている時代が、ここに相当すると考えた。これは、「法」の治世と呼ばれ、神の恩恵の時代であり、福音によって指針がもたらされ、信仰と教養の時代である。神との仲介者として、教会が重要な役割を果たす時代である。

・第三段階
 「聖霊」の時代である。来るべき未来の世界だ。「自由」の治世である。全ての人間に、神より直接、霊知がもたらされ、全人類の全てが修道士のような生活を送る。既成の権力、教会といった体制が消滅し、愛と歓喜と自由の世界になるだろう。

 ヨアキムは、このれらの「段階」を、さらに7つの「時代」に分けている。第一段階は、ユダヤ人7つの迫害によって、分けている。
 一方、第二段階は、キリスト教の7つの迫害によって分割する。この7つの迫害は、7人のアンチ・キリストによって、行われた。ヨアキムは、これらの7人を「黙示録」に出てくる獣の7つの頭に当たると解釈している。それは、すなわち、ヘロデ、ネロ、コンスタンティウス、マホメッド、ハインリヒ4世、サラディンであり、第二段階の終わりに「最大のアンチ・キリスト」が出現するという。

 ヨアキムは、この第二段階が、1200年をちょっと過ぎた辺りで終わると考えた(第一段階がアブラハムからキリストまで42世代続いたわけであるから、第二段階も同じく42世代続くと考えた)。
 この時代に「最大のアンチ・キリスト」が出現する。それは、教会の高位聖職者の中から現れ、ローマ教皇となるかもしれない(!)。そして、この最大のアンチ・キリストが打倒された後、第三段階の地上の楽園の時代が始まるのである。
 しかし、「最大のアンチ・キリスト」は、「最後の」アンチ・キリストではない。最後のアンチ・キリストは、いわゆる黙示録に出てくるマゴクの大君ゴグであり、獣の尾にあたる。
 これが、大破壊でもって悪魔の最後の抵抗を試みた後、滅ぼされる。

 このヨアキムの思想は、考え方によっては、教会にとっては大変な危険思想である。
 理想の国である「楽園」は、地上に出現する。そして、その時、教会を始めとした既成の体制は、ことごとく消滅する。さらに打倒されるべき人類の敵アンチ・キリストは、教会の中から現れる!!
 文字通りの「革命」思想である。
 事実、これは「千年王国」運動の理論的根拠に盛んに利用されることになる。
 「千年王国」運動には、様々な種類があるが、どれも「既存の教会は堕落しており、真のメシア(救世主)を迎えて、これを改革、あるいは打倒しなければならない」という点で、ほぼ一致している。
 ゆえに、このヨアキムの思想が、盛んに「千年王国」思想を唱える者達に、影響を与え、引用されたのも当然の結果ともいえる。これは、フランシスコ会の「小さき兄弟」派や、ペキン修道運動、自由心霊派などにも、つながってゆくのである。

 しかし、ここで強調しなければならないのは、ヨアキムは断じて、反教会の思想は持っていなかったことである。
 反教会を掲げる運動家達は、あきらかにヨアキムの思想を歪めていた。
 そもそも、ヨアキムは1200年の第二段階の終わりに、破壊的な大変動は起こらないと主張した。「最大のアンチ・キリスト」は、静かに現れ、虚偽と欺瞞を通して秘密裏に活動し、先に述べた尾に該当する「最後のアンチ・キリスト」の襲撃を通して、やっと公然と技を行う、という。
 さらに、ヨアキムは、第二段階の危機的状況の打開に大きな役割を果たす「真の聖なる教皇」の存在を強調していることも忘れてはならない。彼は神の加護のもと、最終の敵に対抗するための重要な説教を行うという。

 ヨアキムは、こうした「黙示録」の解釈を通じて、象徴、すなわちシンボリズムの解釈においても、大きな影響を残している。彼は、こうした象徴の解釈のため、広い視野でもって研究を実施した。「シビュラの予言書」をはじめ、占星術的な知識にまで及んだ。これらの成果をまとめた著書として「図像の書」などが、有名である。
 彼のこうした仕事は、天使の階級論や「聖四文字の名」にまで及んでいる。

 ともあれ、後世の彼の評価は、複雑だ。あの聖フランチェスコも、ヨアキムからは少なからぬ影響を受け、ロジャー・ベーコンを含めた、いわゆるフランチェスコ会学派の神学者達もヨアキムを盛んに引用する。だいぶ時代が下がったダンテの「神曲」でも、ヨアキムは天国の住人として描かれている。
 同時に教会にとって、やっかい者とされることの多かった「千年王国」運動の理論武装にも盛んに使われたわけで、教会にとっては、ある意味難しい存在でもあった。


「フィオーレのヨアキム」 バーナード・マッキン 平凡社
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/yoakim.htm
オ カ ル ト の 部 屋

ヨアキム主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

ヨアキム主義(ヨアキムしゅぎ)は12 世紀 のカトリック 教会に興った予言的・終末論 的な歴史思想である。シトー会 の修道院長フィオーレのヨアキム (ジョアキーノとも)が唱えた。

フィオーレのヨアキムは三位一体的構造を世界史 に当てはめ、全歴史 は三つの時代からなるとした。第一の時代は「父の時代」で、地上においては祭司と預言者 の時代であり、旧約 の時代にあたる。第二の時代は「子の時代」であり、教会の時代で、キリスト以後現在まで続いているとした。これは過渡的な時代であって、第三の時代である「聖霊の時代」によってやがて克服される。第三の時代において、世界は完成し、地上においては修道士の時代が出来する。ヨアキムの考えでは、第三の時代において現在ある教会秩序や国家などの支配関係に基づく地上的秩序は廃され、兄弟的連帯において修道士が支配する時代が来るとされる。

ヨアキムの思想は問題視され、ローマ教皇庁 からたびたび警告されたが、ヨアキムは撤回せず、ついに異端 と宣言されるに至った。ヨアキム主義は13世紀の西方異端思想に大きく影響を与えた。

ミルチア・エリアーデ は『世界宗教史』において、レッシング の『啓蒙の世紀』やシェリング、ヘーゲルなどの絶対者の三段階からなる展開などの近世ドイツ思想における精神史観にヨアキム主義の影響を指摘している。


2010年02月20日(Sat)▲ページの先頭へ
司馬遼太郎文学と精神的歴史文学:プレ・モダンとトランス・モダンの結合:差異として遼太郎の竜馬
以下、世に倦む日々氏が慨嘆されているが、司馬遼太郎文学はいわゆる近代文学とは異なることを先ず認識する必要がある。漢籍に裏付けられた、ある意味でプレ・モダン的文学であるが、しかしながら、精神や魂をもつ人間像を描くことで、トランス・モダンになっていると思うのである。精緻な分析は後にして、司馬遼太郎が描いた竜馬は、トランス・モダン的人物であると見るのがいいと思う。その竜馬とは同一性(藩や幕府や勤王)に拘っていないからである。つまり、差異の人物なのである。

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菅直人の転向 - 国民への裏切り、マスコミと官僚と経団連への諂い
『竜馬がゆく』を読み返しながら、今の日本が信じられない気分になる。この本を繙くのは、この30年間で三度目だが、前回や前々回とは全く違った感覚で読んでいる。「幕府はよくやっている」などと思ったことは一度もなかった。今の日本政府があまりに酷すぎ、今の日本人があまりに滅茶苦茶すぎて、『竜馬がゆく』の日本が別の国の話のように見える。違う民族の歴史のように感じる。と言うより、『竜馬がゆく』に描かれているのが本当の日本と日本人のはずだと私は思うから、であるとすれば、今のテレビやネットで見える日本と日本人は一体何なのだろう。幕府は、黒船来航の翌年に独力で洋式軍艦を建造、斉彬の薩摩は翌々年に蒸気船を開発して試運転に成功した。黒船から7年後、幕府は日本人乗組員の操舵と機関で太平洋横断を実現させている。浦賀ショックからわずか15年で日本人は社会体制を一新、幕藩制から近代国家へと姿を変えて世界史に躍り出た。昔、『竜馬がゆく』を最初に読んだとき、司馬遼太郎は竜馬や志士たちを美化して大袈裟に描いていると感じたが、今は全く逆の感想を持つ。書き足りてないと思う。人間が政治と社会を変えていくスピード感と迫力は、小説に描かれている以上に力強く凄まじいものがあったはずだ。そうでなければ、あれほど劇的に政治と社会は変わらない。彼らは時間を無駄にしていない。今の日本は、どうしてこれほどと思うほど時間を無駄にしている。

世に倦む日日FC2ver.


マイナス1とは何か:虚軸の精神と実軸の意識:Media Pointにおける不連続的即非的秩序
いろいろ付加されたので、また、重要と考えられる不連続的即非的秩序という概念が生まれたので、再掲する。

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マイナス1とは何か:虚軸の精神と実軸の意識:Media Pointにおける不連続的即非的秩序
テーマ:Media Point/精神的フィルター

今はポイントだけ記そう。

『生存する脳―心と脳と身体の神秘 (単行本)』
アントニオ・R. ダマシオ (著), Antonio R. Damasio (原著), 田中 三彦 (翻訳)

の冒頭を読み、そこで説かれる身体は私の考えている-iに近いと感じた。そこから、本題へと転じた。(amazonのコメントにもあるが、訳語に問題がありそうである。)
 今は作業仮説であるが、感情とは、マイナス1ではないだろうか。とまれ、プラス1を陽光とすれば、マイナス1は、「陰光」である。私は不可視光と呼んでいる。
 思うに、プラス1の自我に付随するのが、マイナス1の感情ではないのか。思うに、これは、嫉妬深い感情ではないのだろうか。ヤハウェは嫉妬深い神であるが、その嫉妬はマイナス1ではないだろうか。
 私は、本来の自己は+i、そして、他者は-iと考えている。そして、道徳心や倫理は、-iへの共振から生まれるのではないか。
 つまり、Media Pointの虚軸領域に倫理・道徳があり、それに他指定、実軸は自我知覚と自我感情があるのではないのか。
 どうもうまく表現できていない。私が先に思ったのは、ロマン主義、神秘主義がマイナス1であり、近代合理主義は、プラス1ではないのかということである。
 どうも、今は不明確な状態である。例えば、即非的現象ないしは、即非的知覚はどこに生じるのか。これは、当然、Media Point(以下、MP)である。MPにおいて、虚軸と実軸が交差するのであり、対象の+1と-iがダブルのである。
 思うに、プラス1がなければ、知覚・認識はできない。虚軸だけでは、不明瞭である。つまり、「あれは、蝶である」というのは、プラス1の認識であり、虚軸の前知覚を、確定しているのである。
 そうならば、マイナス1とは何か。プラス1がポジならば、それはネガである。ポジを浮き上がらせるネガである。つまり、プラス1とマイナス1が結合して、現象が生起するのである。
 から、やはり、マイナス1は不可視光、陰光、「闇」と言える。ダーク・マターはやはりこれに関係しよう。
 問題は、感情、情感である。即非的情感というとき、それは、何か。虚軸領域のみでは、それは起こらない。実軸化が必要である。プラス1が生じるとき、つまり、±1が生じるとき、即非的情感が起こる。「私は樹木であり、且つ、樹木ではない。」 つまり、前者において、一体的情感が生じているのである。それは、マイナス1ではないだろうか。
 そうすると、情感は、マイナス1ということになる。近代合理主義・近代的自我はプラス1中心であり、マイナス1を阻害・疎外していると言えよう。つまり、マイナス1を排除しているのである。
 また、それに対する反動が歴史的には、ロマン主義や神秘主義として起こったと言えよう。それは、プラス1を否定して、マイナス1を中心化したのである。しかしながら、当然、それは、反動である。プラス1を否定することは、プラス1中心主義と同様に、主観の歪みをもたらすのである。しかしながら、マイナス1は、即非的情感なので、虚軸の超越性に通じているとは言えよう。
 結局、問題は、不連続的差異論に戻るが、プラス1とマイナス1(ないしはMP)との不連続性を確認するがもっとも重要であるということである。言い換えると、MPにおいて、実軸のプラス1とマイナス1とは不連続的であるということである。MPは、謂わば、不連続点である。そう、特異点である。ここが認識のすべての要諦なのである。(追記:プラス1とマイナス1とが不連続であるということである。それは、即非の論理の展開である。この不連続性は、一種の調和性をもっている。あるいは、秩序をもっている。これを不連続的即非的秩序と呼べよう。あるいは、簡略して、不連続的秩序ないしは即非的秩序と呼べる。これはとても重要なポイントである。)

追記:マイナス1は虚軸に通じていると言ったが、そうならば、プラス1も虚軸に通じていないのか。しかし、そう思うのは幻想だろう。やはり、MPにおいて、虚軸と通じるのである。
 では、ほんとうにマイナス1は虚軸と通じているのか。これは、どうもそのように思える。後で検討したい。 

追記2:一般に、意識において、プラス1とマイナス1とが齟齬を来すだろう。これは、近代における矛盾である。例えば、啓蒙思想ないしは近代合理主義とロマン主義の対立、あるいは、実在論(唯物論)と観念論の対立に見られるだろう。
 しかしながら、近代合理主義が近代科学・技術、資本主義に伴って進展すると、ロマン主義と観念論は衰退すると考えられる。つまり、プラス1が強化されて、マイナス1が抑圧されるのである。それは、また、超越性の否定でもある。
 現代日本人の主観性を考えると、ほぼ以上のような状態である。マイナス1の情感と虚軸の精神が喪失されているのであり、また、それは道徳心・倫理の欠落を意味しているのである。
 とまれ、このプラス1傾斜の力学というか、暴力がある。その暴力、意識暴力が蔓延していると観察される。
 どうして、マイナス1と虚軸を否定するのかと言えば、それは、プラス1の日常(自我と物質の生活)を破壊するからである。マイナス1と虚軸こそ、精神の領域なのであるし、神秘や宗教の領域である。これを現代日本人は恐れているのであるから、マイナス1と虚軸を抑圧しているのである。しかしながら、これは、自己抑圧であり、自己暴力である。
 とまれ、一般にはプラス1とマイナス1とは、絶対矛盾、絶対齟齬の状態であるが、それは、両者が不連続であることを認識せずに、プラス1の同一性ないしはマイナス1の差異で、両者を統一しようとするからである。前者が当然、近代合理主義であり、後者がポスト・モダンである。
 プラス1とマイナス1とが不連続であることを認識すると、MPが開けてくるのであり、超越性が理解されるのであるし、開眼するのである。それは心眼であり、第三の眼と言えよう。

追記3:東洋的身体的自然観を否定したことも、マイナス1と虚軸の精神の喪失につながるだろう。

追記4:うつ病ないし精神病であるが、それは、マイナス1の排除に存するのではないだろうか。
 つまり、まったき近代合理主義は、情感を不合理として排除するのであるから、マイナス1を排除するのである。ただ、同一性の合理性を信奉して、それ以外の精神を不合理としての否定するのである。差異のまったき否定がある。
 しかしながら、マイナス1を完全に封殺したとき、当然、情感を抑圧しているのである。情感エネルギーが枯渇すると考えられるが、情感エネルギーとは何か。例えば、よい音楽を聴くとき、よい自然の光景を見たとき、よい文学作品を読んだとき、友人や仲間と歓談したとき、等に生起するだろう。それは、精神的エネルギーである。つまり、マイナス1を封殺するとき、精神的エネルギーを封殺するのであり、当然、それが枯渇するのであり、うつ病等を発生させると考えられる。近代合理主義は、情感(精神的エネルギー)を抑圧しすぎたのである。

追記5:以上の視点を参考にして、悪とは何かを少し考えてみよう。
 近代合理主義に染まったとき(+1中心主義)、情感のマイナス1が否定される傾向となる。その否定されたマイナス1はどうなるのだろうか。それは、反感となるのだろう。憎悪であり、嫉妬であり、怨恨である。そう、ルサンチマンである。あるいは、悪意である。近代合理主義は、故に、いわば、無意識の、つまり、不合理な攻撃エネルギーをもつと考えられる。これが、悪である。
 シュタイナーはアーリマンという悪魔(追記:これは、ゾロアスター教の悪神アンラ・マンユに当然相当する。)について述べているが、この近代合理主義の無意識がアーリマンと言えよう。(思うに、シュタイナーの説くもう一つの悪魔ルシファーであるが、それは、マイナス1の傾斜であろう。それは、ロマン主義、神秘主義である。)
 そして、シュタイナーは、アーリマンとルシファーの間にキリストを置いているが、それは、プラス1とマイナス1の間のMedia Pointに相当しよう。しかし、注意すべきは、それが不連続点=特異点であることである。これをシュタイナーは述べていない。後でもう少し検討したい。

************************

参考:
書評『生存する脳』
どちらを選んでも構わない選択肢がある場合、しばらく迷ったとしても、やがてどちらかを選んでいることでしょう。しかし、まったく同じ価値をもつ選択肢なのに、なぜ人は「こっち」と選ぶことができるのでしょう。

『生存する脳 心と脳と身体の神秘』アントニオ・R・ダマシオ著 田中三彦訳 講談社 2000年 402ページ


原題は『デカルトの誤り』。「脳と身体は切り離して考えることができる」というデカルトの「心身二元論」を否定する。つまり、身体なしに感情や意識といった脳の役割を考えることはできない、と著者はいう。デカルトに詳しければ読書に深みは増すだろうが、デカルトを知らなくても読める。

脳と身体の関わりについて多く述べられる本書の中で、本質的かつ独自的な著者の弁が「ソマティック・マーカー仮説」だ。

この仮説は、人がある選択を迫られたとき、何もないまっさらな状態から、どれが最善かを考えるのではなく、すでに蓄えられた知識や経験から起きる感情から、どれが最善かを考えている、というもの。

仮説を支持する例として、アメリカ人の工事監督フィアネス・ゲージに関する逸話や、著者が実際に接したエリオット氏(仮名)の言動などが紹介される。彼らは、事故により脳の前頭前野を損傷してしまった経歴の持ち主(表紙カバーの絵がゲージの事故当時の状態を示している)。だが、理性は失わず生活を続けることはできた。

ところが、しばらく経つと判断力の欠如がおこり、人生が豹変してしまう。たとえば、人と会う約束を15日にするか17日するか、どちらの日でも問題ないのに「どちらのほうが天気がよさそうか」とか「どちらのほうが交通機関の乱れはなさそうか」とかで延々に考え込んでしまうのだという。

裏返せば、私たちのいろいろな選択の場面では、過去のよい体験・いやな体験などが作用して、直観的に将来予測をして、判断しているということになる。生活の中において、帰納法はしっかりと役割を果たしているということを実感した。。

翻訳の精度について、いろいろな書評子から問題とする指摘もあるが、かといって読み控えされるのはもったいない。患者の事例のところとソマティック・マーカー仮説の部分はわかりやすいので、そこを読むだけでも得られる知見はあるだろう。

『生存する脳』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp /生存する脳?心と脳と身体の神秘-アントニオ・R-ダマシオ/dp /406210041X/ref=sr_1_2/250-3461571-9880240?ie=UTF8&s=books&qid=1194099166&sr=1-2

http://sci-tech.jugem.jp/?eid=696
科学技術のアネクドート
参考2:
生存する脳―心と脳と身体の神秘

生存する脳―心と脳と身体の神秘


 ソマティック・マーカー仮説の提唱者 ダマシオ博士の著書である世界的ベストセラーである。
 ソマティック・マーカー仮説とは、ものすごく乱暴に言うと人間の「第六感」「直感」が人間の行動を規定するという考え方である。
 本書の言葉を借りれば、
「特定の行動がもたらすかもしれないネガティブな結果にわれわれの注意を向けさせ、いわばつぎのように言い、自動化された危険信号として機能する(生存する脳より引用)」
 ということになる。
 要するに、「嫌な予感がすることはしない」我々の能力のことである。
 
 我々が苦境に耐えられるのも、誰かのために利他行動をするということは、目先の利益よりも長期的な利益を優先させた方が有利であると取捨選択を行なった結果である。
 卑近な例であれば、「頑張って勉強してよい大学に入る」とか「普段は節約して休暇は海外旅行に行く」とか。
 親が自らよりも子供の幸せを願うのは利他行動の最たるものである。
 ちなみに、このような遺伝子を共有するもの同士の利他行動は、今まではむしろ
利己的な遺伝子 のような考え方で説明されることも多かった。 
 これ自体は、別に目新しい仮説ではないと思う。
 それどころか、誰もが日常レベルの経験で納得がいくものであろう。

 ダマシオ博士の斬新さは、これらの事実もこのソマティック・マーカー仮説により説明可能であると打ち立てた点にあるだろう。

 つまり、こうした有利不利の取捨選択に、我々の思考のみならず、直感が深く関わっているというのだ。
 ここまでは誰にでも理解できる。
 「何となく虫が知らせる」
 ということは誰にでもあるものだ。
 しかし、これらの直感の獲得に、脳のみならず身体反応が関わっているという点がこの仮説の最も斬新な点であろう。

 そして、この仮説によると、我々の思考に直感が大きく関わっており、むしろ思考よりも直感が先に来るという。
 しかもその直感に脳、身体、社会的文化的側面すらも大きく関わっているという画期的な説なのである。
 勿論ここでいう、「脳」には解剖学的な脳の機能と神経伝達物質のような脳の機能的な部分の両者が含まれる。
http://blog.livedoor.jp/dogmania/archives/14615469.html
小枝の超!極私的読書術
参考3:
脳ノート(12)−「生存する脳」ダマシオをめぐって

E  情動について(つづき)


まず、<一次の情動>の神経回路を、おさらいしておこう。
「一つの適切な刺激が扁桃体を活性化すると、次のようないくつかの反応がこれに続く。内的な反応、筋肉反応、内臓反応(自律神経系の信号)、神経伝達物質を生産する核への信号、視床下部への反応。視床下部はホルモンなどの化学的反応を生み出す。この反応は血流を利用する。…われわれが情動を表現する時の姿勢などの筋肉反応は、おそらく基底核内の構造(いわゆる腹側線条体)を使っている。」

情動というものが、身体の具体的な変化としてまず現れるもの、そしてその時、脳内ではその変化しつつある身体の変化が、身体マップとして、体性感覚皮質に指示的表象として、あるいは、神経的表象として現れているような、状態であるということ、ここを押さえておこう。
そして、神経回路としてはまずその始まりが、あるいは活性化の最初の脳部位が、扁桃体であるということを覚えておこう。


二次の情動

「二次の情動を検討するために、大人の経験から引き出される例に目を向けることにする。たとえば長い間会ってなかった友人と再会するとか、同僚の予想外の死を告げられるとか、そういった状況を考えてみよう。それらが現実である場合―そしてたぶん、それを単に想像する時でさえ―われわれは情動を経験する。そのような情動が生じるとき、神経生物学的には一体どんなことが起きるのだろうか?<情動を経験する>とは、本当のところ何を意味しているのだろうか?」

「あなたがそうした状況の一つを想像しているとき、もし私がその場にいれば、私は観察結果をいくつか列挙することができるだろう。そうした状況(長いこと音信不通だった友人との再会、同僚の死)の中心的局面に対するメンタルイメージが形成されると、身体状態に変化が起こる。その変化は、様々な身体領域におけるいくつかの変化によって定義される。旧友に会えば、心臓の鼓動は速くなり、顔は紅潮し、口と目の周りの筋肉が変化してうれしそうな表情になり、他の筋肉も弛緩するだろう。また、もし知人の死を耳にすれば、心臓はドンドン高鳴り、口は渇き、顔は蒼ざめ、腸管の一部は収縮し、首と背中の筋肉は緊張し、顔の筋肉が悲しげな形相を生み出す。」

「いずれの場合も、内臓(心臓、肺、腸管、皮膚)や骨格筋(骨の付いている筋肉)や内分泌線(たとえば、下垂体や副腎)の機能のいくつかのパラメータに変化が起こる。いくつかのペプチド調節物質が脳から血流に放出される。免疫系も急激に変化する。動脈壁の平滑筋(心臓金を除く内臓の筋肉)の基本的な活動が増加し、血管を収縮させ、細くする(その結果、蒼白になる)。逆にその活動が減少すれば、平滑筋は弛緩し、血管が膨張する(その結果、紅潮する)。全体として、一連の変化は機能的バランスあるいは恒常性(ホメオスタシス)と対応する平均的状態の範囲からの逸脱を示している。平均的状態にあるとき、有機体の経済は、少ないエネルギー支出と単純かつ迅速な調節で、おそらく最善に機能している。」

「この機能的バランスの範囲を静的なものと考えるべきではない。それは上限と下限の範囲での一連の連続的な変化である。それをウォーターベッドの状態と結びつけて考えることもできるかもしれない。ウォーターベッドの上をさまざまな方向に歩くと、ある部分はへこみ、またある部分は膨らむ。さざ波が立つ。そしてベッドが全体的に変化する。しかしその変化はベッドの物理的限界、つまり、ある量の液体を内に含んでいる境界によって規定される範囲の中にある。
この仮想的な情動経験において、身体の多くの部分が新しい状態―つまり、意味ある変化が生じている状態―に置かれる。
有機体の中で何が起こり、そのような変化をもたらすのか。」
http://blogs.yahoo.co.jp/holesson460712136/18076027.html
ho-ho-ho雑記


2010年02月19日(Fri)▲ページの先頭へ
マイナス1とは何か:虚軸の精神と実軸の意識:不連続点=特異点としてのMedia Point
今はポイントだけ記そう。

『生存する脳―心と脳と身体の神秘 (単行本)』
アントニオ・R. ダマシオ (著), Antonio R. Damasio (原著), 田中 三彦 (翻訳)

の冒頭を読み、そこで説かれる身体は私の考えている-iに近いと感じた。そこから、本題へと転じた。(amazonのコメントにもあるが、訳語に問題がありそうである。)
 今は作業仮説であるが、感情とは、マイナス1ではないだろうか。とまれ、プラス1を陽光とすれば、マイナス1は、「陰光」である。私は不可視光と呼んでいる。
 思うに、プラス1の自我に付随するのが、マイナス1の感情ではないのか。思うに、これは、嫉妬深い感情ではないのだろうか。ヤハウェは嫉妬深い神であるが、その嫉妬はマイナス1ではないだろうか。
 私は、本来の自己は+i、そして、他者は-iと考えている。そして、道徳心や倫理は、-iへの共振から生まれるのではないか。
 つまり、Media Pointの虚軸領域に倫理・道徳があり、それに他指定、実軸は自我知覚と自我感情があるのではないのか。
 どうもうまく表現できていない。私が先に思ったのは、ロマン主義、神秘主義がマイナス1であり、近代合理主義は、プラス1ではないのかということである。
 どうも、今は不明確な状態である。例えば、即非的現象ないしは、即非的知覚はどこに生じるのか。これは、当然、Media Point(以下、MP)である。MPにおいて、虚軸と実軸が交差するのであり、対象の+1と-iがダブルのである。
 思うに、プラス1がなければ、知覚・認識はできない。虚軸だけでは、不明瞭である。つまり、「あれは、蝶である」というのは、プラス1の認識であり、虚軸の前知覚を、確定しているのである。
 そうならば、マイナス1とは何か。プラス1がポジならば、それはネガである。ポジを浮き上がらせるネガである。つまり、プラス1とマイナス1が結合して、現象が生起するのである。
 から、やはり、マイナス1は不可視光、陰光、「闇」と言える。ダーク・マターはやはりこれに関係しよう。
 問題は、感情、情感である。即非的情感というとき、それは、何か。虚軸領域のみでは、それは起こらない。実軸化が必要である。プラス1が生じるとき、つまり、±1が生じるとき、即非的情感が起こる。「私は樹木であり、且つ、樹木ではない。」 つまり、前者において、一体的情感が生じているのである。それは、マイナス1ではないだろうか。
 そうすると、情感は、マイナス1ということになる。近代合理主義・近代的自我はプラス1中心であり、マイナス1を阻害・疎外していると言えよう。つまり、マイナス1を排除しているのである。
 また、それに対する反動が歴史的には、ロマン主義や神秘主義として起こったと言えよう。それは、プラス1を否定して、マイナス1を中心化したのである。しかしながら、当然、それは、反動である。プラス1を否定することは、プラス1中心主義と同様に、主観の歪みをもたらすのである。しかしながら、マイナス1は、即非的情感なので、虚軸の超越性に通じているとは言えよう。
 結局、問題は、不連続的差異論に戻るが、プラス1とマイナス1(ないしはMP)との不連続性を確認するがもっとも重要であるということである。言い換えると、MPにおいて、実軸のプラス1とマイナス1とは不連続的であるということである。MPは、謂わば、不連続点である。そう、特異点である。ここが認識のすべての要諦なのである。

追記:マイナス1は虚軸につうじていると言ったが、そうならば、プラス1も虚軸に通じていないのか。しかし、そう思うのは幻想だろう。やはり、MPにおいて、虚軸と通じるのである。
 では、ほんとうにマイナス1は虚軸と通じているのか。これは、どうもそのように思える。後で検討したい。 

追記2:一般に、意識において、プラス1とマイナス1とが齟齬を来すだろう。これは、近代における矛盾である。例えば、啓蒙思想ないしは近代合理主義とロマン主義の対立、あるいは、実在論(唯物論)と観念論の対立に見られるだろう。
 しかしながら、近代合理主義が近代科学・技術、資本主義に伴って進展すると、ロマン主義と観念論は衰退すると考えられる。つまり、プラス1が強化されて、マイナス1が抑圧されるのである。それは、また、超越性の否定でもある。
 現代日本の主観性を考えると、ほぼ以上のような状態である。マイナス1の情感と虚軸の精神が喪失されているのであるし、当然、道徳心・倫理が喪失しているのである。
 とまれ、このプラス1傾斜の力学というか、暴力がある。その暴力、意識暴力が蔓延していると観察される。
 どうして、マイナス1と虚軸を否定するのかと言えば、それは、プラス1の日常(自我と物質の生活)を破壊するからである。マイナス1と虚軸こそ、精神の領域なのであるし、神秘や宗教の領域である。これを現代日本人は恐れているのであるから、マイナス1と虚軸を抑圧しているのである。しかしながら、これは、自己抑圧であり、自己暴力である。
 とまれ、一般にはプラス1とマイナス1とは、絶対矛盾、絶対齟齬の状態であるが、それは、両者が不連続であることを認識せずに、プラス1の同一性ないしはマイナス1の差異で、両者を統一しようとするからである。前者が当然、近代合理主義であり、後者がポスト・モダンである。
 プラス1とマイナス1とが不連続であることを認識すると、MPが開けてくるのであり、超越性が理解されるのであるし、開眼するのである。それは心眼であり、第三の眼と言えよう。

追記3:東洋的身体的自然観を否定したことも、マイナス1と虚軸の精神の喪失につながるだろう。

追記4:うつ病ないし精神病であるが、それは、マイナス1の排除に存するのではないだろうか。
 つまり、まったき近代合理主義は、情感を不合理として排除するのであるから、マイナス1を排除するのである。ただ、同一性の合理性を信奉して、それ以外の精神を不合理としての否定するのである。差異のまったき否定がある。
 しかしながら、マイナス1を完全に封殺したとき、当然、情感を抑圧しているのである。情感エネルギーが枯渇すると考えられるが、情感エネルギーとは何か。例えば、よい音楽を聴くとき、よい自然の光景を見たとき、よい文学作品を読んだとき、友人や仲間と歓談したとき、等に生起するだろう。それは、精神的エネルギーである。つまり、マイナス1を封殺するとき、精神的エネルギーを封殺するのであり、当然、それが枯渇するのであり、うつ病等を発生させると考えられる。近代合理主義は、情感(精神的エネルギー)を抑圧しすぎたのである。

追記5:以上の視点を参考にして、悪とは何かを少し考えてみよう。
 近代合理主義に染まったとき(+1中心主義)、情感のマイナス1が否定される傾向となる。その否定されたマイナス1はどうなるのだろうか。それは、反感となるのだろう。憎悪であり、嫉妬であり、怨恨である。そう、ルサンチマンである。あるいは、悪意である。近代合理主義は、故に、いわば、無意識の、つまり、不合理な攻撃エネルギーをもつと考えられる。これが、悪である。
 シュタイナーはアーリマンという悪魔について述べているが、この近代合理主義の無意識がアーリマンと言えよう。(思うに、シュタイナーの説くもう一つの悪魔ルシファーであるが、それは、マイナス1の傾斜であろう。それは、ロマン主義、神秘主義である。
 そして、シュタイナーは、アーリマンとルシファーの間にキリストを置いているが、それは、プラス1とマイナス1の間のMedia Pointに相当しよう。しかし、注意すべきは、それが不連続点=特異点であることである。これをシュタイナーは述べていない。後でもう少し検討したい。

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参考:
書評『生存する脳』
どちらを選んでも構わない選択肢がある場合、しばらく迷ったとしても、やがてどちらかを選んでいることでしょう。しかし、まったく同じ価値をもつ選択肢なのに、なぜ人は「こっち」と選ぶことができるのでしょう。

『生存する脳 心と脳と身体の神秘』アントニオ・R・ダマシオ著 田中三彦訳 講談社 2000年 402ページ


原題は『デカルトの誤り』。「脳と身体は切り離して考えることができる」というデカルトの「心身二元論」を否定する。つまり、身体なしに感情や意識といった脳の役割を考えることはできない、と著者はいう。デカルトに詳しければ読書に深みは増すだろうが、デカルトを知らなくても読める。

脳と身体の関わりについて多く述べられる本書の中で、本質的かつ独自的な著者の弁が「ソマティック・マーカー仮説」だ。

この仮説は、人がある選択を迫られたとき、何もないまっさらな状態から、どれが最善かを考えるのではなく、すでに蓄えられた知識や経験から起きる感情から、どれが最善かを考えている、というもの。

仮説を支持する例として、アメリカ人の工事監督フィアネス・ゲージに関する逸話や、著者が実際に接したエリオット氏(仮名)の言動などが紹介される。彼らは、事故により脳の前頭前野を損傷してしまった経歴の持ち主(表紙カバーの絵がゲージの事故当時の状態を示している)。だが、理性は失わず生活を続けることはできた。

ところが、しばらく経つと判断力の欠如がおこり、人生が豹変してしまう。たとえば、人と会う約束を15日にするか17日するか、どちらの日でも問題ないのに「どちらのほうが天気がよさそうか」とか「どちらのほうが交通機関の乱れはなさそうか」とかで延々に考え込んでしまうのだという。

裏返せば、私たちのいろいろな選択の場面では、過去のよい体験・いやな体験などが作用して、直観的に将来予測をして、判断しているということになる。生活の中において、帰納法はしっかりと役割を果たしているということを実感した。。

翻訳の精度について、いろいろな書評子から問題とする指摘もあるが、かといって読み控えされるのはもったいない。患者の事例のところとソマティック・マーカー仮説の部分はわかりやすいので、そこを読むだけでも得られる知見はあるだろう。

『生存する脳』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp /生存する脳?心と脳と身体の神秘-アントニオ・R-ダマシオ/dp /406210041X/ref=sr_1_2/250-3461571-9880240?ie=UTF8&s=books&qid=1194099166&sr=1-2

http://sci-tech.jugem.jp/?eid=696
科学技術のアネクドート
参考2:
生存する脳―心と脳と身体の神秘

生存する脳―心と脳と身体の神秘


 ソマティック・マーカー仮説の提唱者 ダマシオ博士の著書である世界的ベストセラーである。
 ソマティック・マーカー仮説とは、ものすごく乱暴に言うと人間の「第六感」「直感」が人間の行動を規定するという考え方である。
 本書の言葉を借りれば、
「特定の行動がもたらすかもしれないネガティブな結果にわれわれの注意を向けさせ、いわばつぎのように言い、自動化された危険信号として機能する(生存する脳より引用)」
 ということになる。
 要するに、「嫌な予感がすることはしない」我々の能力のことである。
 
 我々が苦境に耐えられるのも、誰かのために利他行動をするということは、目先の利益よりも長期的な利益を優先させた方が有利であると取捨選択を行なった結果である。
 卑近な例であれば、「頑張って勉強してよい大学に入る」とか「普段は節約して休暇は海外旅行に行く」とか。
 親が自らよりも子供の幸せを願うのは利他行動の最たるものである。
 ちなみに、このような遺伝子を共有するもの同士の利他行動は、今まではむしろ
利己的な遺伝子 のような考え方で説明されることも多かった。 
 これ自体は、別に目新しい仮説ではないと思う。
 それどころか、誰もが日常レベルの経験で納得がいくものであろう。

 ダマシオ博士の斬新さは、これらの事実もこのソマティック・マーカー仮説により説明可能であると打ち立てた点にあるだろう。

 つまり、こうした有利不利の取捨選択に、我々の思考のみならず、直感が深く関わっているというのだ。
 ここまでは誰にでも理解できる。
 「何となく虫が知らせる」
 ということは誰にでもあるものだ。
 しかし、これらの直感の獲得に、脳のみならず身体反応が関わっているという点がこの仮説の最も斬新な点であろう。

 そして、この仮説によると、我々の思考に直感が大きく関わっており、むしろ思考よりも直感が先に来るという。
 しかもその直感に脳、身体、社会的文化的側面すらも大きく関わっているという画期的な説なのである。
 勿論ここでいう、「脳」には解剖学的な脳の機能と神経伝達物質のような脳の機能的な部分の両者が含まれる。
http://blog.livedoor.jp/dogmania/archives/14615469.html
小枝の超!極私的読書術
参考3:
脳ノート(12)−「生存する脳」ダマシオをめぐって

E  情動について(つづき)


まず、<一次の情動>の神経回路を、おさらいしておこう。
「一つの適切な刺激が扁桃体を活性化すると、次のようないくつかの反応がこれに続く。内的な反応、筋肉反応、内臓反応(自律神経系の信号)、神経伝達物質を生産する核への信号、視床下部への反応。視床下部はホルモンなどの化学的反応を生み出す。この反応は血流を利用する。…われわれが情動を表現する時の姿勢などの筋肉反応は、おそらく基底核内の構造(いわゆる腹側線条体)を使っている。」

情動というものが、身体の具体的な変化としてまず現れるもの、そしてその時、脳内ではその変化しつつある身体の変化が、身体マップとして、体性感覚皮質に指示的表象として、あるいは、神経的表象として現れているような、状態であるということ、ここを押さえておこう。
そして、神経回路としてはまずその始まりが、あるいは活性化の最初の脳部位が、扁桃体であるということを覚えておこう。


二次の情動

「二次の情動を検討するために、大人の経験から引き出される例に目を向けることにする。たとえば長い間会ってなかった友人と再会するとか、同僚の予想外の死を告げられるとか、そういった状況を考えてみよう。それらが現実である場合―そしてたぶん、それを単に想像する時でさえ―われわれは情動を経験する。そのような情動が生じるとき、神経生物学的には一体どんなことが起きるのだろうか?<情動を経験する>とは、本当のところ何を意味しているのだろうか?」

「あなたがそうした状況の一つを想像しているとき、もし私がその場にいれば、私は観察結果をいくつか列挙することができるだろう。そうした状況(長いこと音信不通だった友人との再会、同僚の死)の中心的局面に対するメンタルイメージが形成されると、身体状態に変化が起こる。その変化は、様々な身体領域におけるいくつかの変化によって定義される。旧友に会えば、心臓の鼓動は速くなり、顔は紅潮し、口と目の周りの筋肉が変化してうれしそうな表情になり、他の筋肉も弛緩するだろう。また、もし知人の死を耳にすれば、心臓はドンドン高鳴り、口は渇き、顔は蒼ざめ、腸管の一部は収縮し、首と背中の筋肉は緊張し、顔の筋肉が悲しげな形相を生み出す。」

「いずれの場合も、内臓(心臓、肺、腸管、皮膚)や骨格筋(骨の付いている筋肉)や内分泌線(たとえば、下垂体や副腎)の機能のいくつかのパラメータに変化が起こる。いくつかのペプチド調節物質が脳から血流に放出される。免疫系も急激に変化する。動脈壁の平滑筋(心臓金を除く内臓の筋肉)の基本的な活動が増加し、血管を収縮させ、細くする(その結果、蒼白になる)。逆にその活動が減少すれば、平滑筋は弛緩し、血管が膨張する(その結果、紅潮する)。全体として、一連の変化は機能的バランスあるいは恒常性(ホメオスタシス)と対応する平均的状態の範囲からの逸脱を示している。平均的状態にあるとき、有機体の経済は、少ないエネルギー支出と単純かつ迅速な調節で、おそらく最善に機能している。」

「この機能的バランスの範囲を静的なものと考えるべきではない。それは上限と下限の範囲での一連の連続的な変化である。それをウォーターベッドの状態と結びつけて考えることもできるかもしれない。ウォーターベッドの上をさまざまな方向に歩くと、ある部分はへこみ、またある部分は膨らむ。さざ波が立つ。そしてベッドが全体的に変化する。しかしその変化はベッドの物理的限界、つまり、ある量の液体を内に含んでいる境界によって規定される範囲の中にある。
この仮想的な情動経験において、身体の多くの部分が新しい状態―つまり、意味ある変化が生じている状態―に置かれる。
有機体の中で何が起こり、そのような変化をもたらすのか。」
http://blogs.yahoo.co.jp/holesson460712136/18076027.html
ho-ho-ho雑記



2010年02月16日(Tue)▲ページの先頭へ
二つの資本主義:金融資本『帝国』の超克:有機的共同資本主義と無機的金融資本主義
以下、スロー人氏の問題提起は透徹したものである。金融資本、世界金融資本が世界を支配し、国家を統制するということである。いわば、ネグリとハートの説く『帝国』の形成である。
 問題は、交換価値における同一性価値(追記:この記述はいわば後付であるが、正確さを期して訂正した)にとって替わる、共同価値を客観的に導入できるかである。
 問題は、商業における交換価値であるが、それは、単に、量的価値だけでなく、質的価値も内包しているのではないだろうか。簡単な例をあげると、例えば、ブルーレイ・レコーダーを購入するとしよう。価格の差がほとんどないときは、機能の優れた製品、つまり、質的価値の高いものを買うだろう。例えば、価格が10万円ならば、機能がいいもの、あるいは、使い勝手がいいものを購入するのだろう。
 また、たとえ、A社の製品が9万5千円で、B社のものが10万円であっても、やはり、機能性、使い勝手を考えると、B社のものを買うという選択をすることが考えられる。
 安く買うという合理的原理であるが、これは、それは、単に量的価値原理だけではなく、質的価値原理が入っているのである。
 当然ながら、いくら安くても、劣悪な商品は買わないのである。
 ということで、交換価値には、表面的な量的価値だけでなく、質的価値、差異的価値が内包されていると見ることができる。(追記:マルクスが説いた使用価値であるが、それは、実に貧弱な発想である。端的に、同一性的使用価値であり、質的、差異的価値が抜けているのである。仮に例えば、お米5kgはすべて2000円であり、産地も銘柄も生産年度も無視されるのである。お米の使用価値は、単に、5kgの量的価値であり、味や汚染等は問題にされないのである。『資本論』の欠陥の一つはそこにあると言えよう。)
 では、問題は、交換価値に内包されている質的価値・差異的価値の評価の仕方である。
 金融資本とは、本質的には、
+1⇒+1⇒+1⇒・・・の世界であろう。ここには、資本主義の内的本質の(+i)*(-i)⇒である共同生産力が欠落しているのである。
 つまり、金融資本主義と共同資本主義とは似て非なるものであるということになるだろう。今は、余裕がないので、検討できないが、前者に対抗するには、後者を進化させることではないだろうか。 

追記:尻切れトンボなので、補足すると、金融資本は、共同資本(と資本主義のコアの部分を呼ぶ)に拠る交換価値の質的価値・差異的価値をすべて、同一性価値に抽象還元してしまうということである。つまり、交換価値における質的価値・差異的価値を無視するということである。つまり、一般的に、生産物の売買における質的価値・差異的価値を、金融資本は完全に無視して、同一性価値のみの増殖を目的とするのである。
 つまり、金融資本とは、共同生産ではなく、交換価値の同一性価値(利益)の増殖を目的とするだけであり、共同資本生産体(産業)の質・差異的価値は度外視するのである。言い換えると、金融資本とは、共同資本生産体の質・差異価値を無視して、ただ交換価値の同一性価値の増殖のみを追求する無機的な経済体であるということになる。共同資本生産体を有機的資本主義とするならば、金融資本主義とは、無機的な資本主義である。後者は、いわば、悪性のウィルスである。母体を破壊するウィルスである。
 だから、金融資本に対するコントロールが必要なのである。米国の場合、本来、コントロールする法律(例えば、グラス・スティーガル法)がどんどん無くされていき、リーマン・ショックになったのである。(とまれ、有機的資本主義は、多神教的資本主義であり、無機的資本主義は一神教的資本主義とも呼べよう。)
 この問題は極めて、哲学的、あるいは、イデア論的である。本質は共同資本主義であるのに、帰結が金融資本主義である。
 ps理論から見ると、Media Pointに当たる経済体が必要なのである。思うに、例えば、共同有機的資本銀行がそれに当たるのではないだろうか。それは、金融資本的投資は禁止されて、共同有機的資本的融資が認められるのである。
 これは、オバマ大統領が目指しているものだが、ウォール・ストリートから大変な反対にあっている。
 とまれ、金融資本とは、健全な有機的共同資本主義に巣くったガン細胞のようなものである。これを治療する方法が必要である。減価通貨制度はそのようなものの一つであるが、その他、様々な方策があり、それを連携させる必要があると言えよう。それについては後で検討したい。

追記2:記述がやや不明瞭である。簡単に言えば、共同有機体的資本主義とは、実に、自然(じねん)的なのであるが、金融無機的資本主義は、同一性主義=唯物論=メカニズムであるということである。前者を生命体とすると、後者は死体である。だから、消滅貨幣は説得力があるのである。
 また、前者はエネルゲイア(現実態)であり、後者はエンテレケイア(終局態)である。つまり、活動態と終末態である。先に、ミイラ崇拝、ゾンビ主義と言ったが、その通りである。
 最後に言おう、有機体的共同資本主義は善であり、無機的金融資本主義は悪である。この悪の超克がトランス・モダン・ゾロアスター教的使命・エンゲージメントである。

追記3:結局、資本主義とは、異質な経済のキメラであるということになる。哲学的に言えば、差異と同一性の連続的同一性主義なのである。つまり、フッサール的に言えば、自然的態度の経済的具現化である。
 資本主義の超越論的力学が同一性力学に飲まれて、認識できないのである。
 とまれ、現今の資本主義は、本来、相互に不連続である有機体(生命)と無機質(物質)が、不合理に連続的に接合されたような経済体なのである。「分裂症」的経済なのである。整合性の欠落した経済体なのである。
 これを切り離して、前者を独立させるべきであり、そうすると、後者の病巣は死滅するはずである。ゾンビ退治である。

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くたばれ、「Too big Too fail」

 「Too big Too fail」。日本では数年前の金融危機のさい、小泉政権の大臣だった竹中氏などがよく使っていたセリフだが、このセリフの本家本元のアメリカでも、近年の金融危機下で同じセリフが大声で叫ばれている。


 その結果は、国民から巻き上げた税金を原資にして、いわば博打の胴元である金融業者のためにそれを融通してあげたわけだ。


 儲かったのは、金融業者だ。日本でも大銀行はますます超大銀行となり、アメリカでもゴールドマンサックスやJPモルガンなどの勝ち組ばかりか、シティーバンクなどの負け組も救われたのだった。そして、彼らはこの博打を始める前よりも肥大化したのだ。


 簡略して言えば、この金融危機を利用して、デリバティブなどの紙切れでしかない見せ金を、国民の現金、キャッシュで、つまり国民の犠牲の上に、現金化・キャッシュ化したということだ。

http://ameblo.jp/adco/entry-10460281893.html
スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節


2010年02月15日(Mon)▲ページの先頭へ
確かに、民主主義形式をもつが、悪平等ではないか:差異共振政官同盟主義へ
私は、昔から、官僚も選挙で選べばいいと思ってきた。問題は、複雑である。この「同格」主義は、官僚ヒエラルキーを破壊する。そして、政治主導と言っても、官僚の才覚に及ばない政治家が主導するのである。これは、反現実的である。やはり、政治家と官僚の差異共振主義が望ましいのである。
 思うに、ロシア革命の際、ボルシェビキがメンシェビキを排除したが、それは革命的同一性主義の誤りである。これで、粛清・恐怖政治が生まれるのである。
 優秀な官僚を活かす方策、差異共振方策が必要である。薩長同盟ならぬ、政官同盟である。

公務員制度:次官〜部長「同格」に 政府方針

 鳩山由紀夫首相は15日、閣議決定を先送りしていた国家公務員法等改正案での幹部職員の降格規定に関し、次官級、局長級、部長級を同格とみなすよう修正し、中央官庁全体で約600人いる部長級以上の幹部を柔軟に配置転換できるようにする方針を固めた。原案の「降格」との概念をなくして「転任」とし通常の人事で次官級から部長級への格下げや、逆の抜てきが実施できるようにする。19日にも閣議決定する。

 鳩山首相が15日、官邸で仙谷由人国家戦略担当相、原口一博総務相ら関係閣僚と協議して決めた。その後首相は記者団に「やる気のある人は抜てきし、やる気のない人には厳しい、というメッセージ。年齢にかかわらず(人事の)自由度を高め、次官を終えた後も役所で仕事してもらう人も出てくる」と語った。入省35〜36年の次官級から入省29〜30年の部長級人事を一括し、年次が逆転した配置もありうると指摘した。

 原案では次官・局長級の部長級への降格には「特例降任」制度を用いるとされた。ただ、(1)勤務実績が劣る(2)他の人の方が優れた実績を上げられる(3)転任させる役職がない−−をすべて満たさねば降格できなかった。麻生政権の改正案と同じ内容に原口氏が「本当に降任できるのか」と疑問を呈していた。

 修正案は、次官級と局長級を「同一の職制上の段階」とみなす原案の規定を部長級に拡大する、というもの。次官・局長級と部長級でそれぞれ用意するはずだった名簿も一つに統合し、政権の意向に沿う官僚を重要なポストに起用しやすくする。松井孝治官房副長官らが野党時代から提唱していたものだ。

 ただ、麻生政権の法案にあった人事院改革には踏み込まず、官邸主導の人事管理を優先する基本方針は変わらない。官僚からは「政治家の好き嫌いで恣意(しい)的な人事になる」「公務員の身分保障に反する」などの指摘も出ている。仙谷氏も「やたら振り回すのは危ない。乱用防止と同時に適材適所ができるかどうか」と課題を挙げた。【小山由宇】

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100216k0000m010088000c.html


白人文明の嫉みによる嫌がらせ、暴力・攻撃・支配が問題である
白人文明、西洋文明は表面は天使の顔であるが、肚の中には、悪魔が潜んでいる。
 民主主義的な押しつけ善意(独善性)があるし、実態は、帝国/植民地主義である。
 白人民主主義をキリスト教的民主主義と見てもいいだろう。問題は、他者に白人民主主義/キリスト教的民主主義を押しつけることである。
 この力学は何か。民主主義的善意の根底には、暴力・支配・攻撃、つまり、悪意があるのである。
 つまり、自分を民主主義的善と同一化したとき、それは、同一性主義であり、差異である他者を否定・排除することになるのである。
 つまり、ここには、白人民主主義の同一性主義の問題があるのである。自己を差異と認識しないといけない。民主主義的善と同一化したとき、自己差異は否定され、同時に、他者の差異も否定されるのである。
 この自己差異/他者差異の否定が端的に暴力・攻撃・支配なのである。善的同一性主義になったとき、差異・他者に対する憎悪が発生するのである。これが、白人・西洋民主主義的精神の内面・基盤にあるものと考えられる。言い換えると、ジキルとハイド的文明ということである。
 ところで、肝心なことを考察するのを忘れていた。この同一性の嫉みは、ユダヤ教に拠るのか、キリスト教に拠るのか。
 ニーチェはキリスト教のルサンチマンを説き、ユダヤ教には肯定的であった。
 愛にしろ、ヤハウェの正義にしろ、それは、同一性に基づくのであり、両者が同一性の嫉み(ルサンチマン)を発生させると考えられる。後で精緻に考えたい。

追記:ここでは、白人文明、西洋文明とは、父権的文明と理解する必要がある。これまで何度も述べたように、西欧文化のベースには母権的文化があり、それこそ、真正な、つまり、差異的な民主主義の母体だと考えている。
 また、アングロ・サクソンと言っても、イギリス文化の基盤には、ケルト文化があるのであり、それは、女神文化なのである。東洋的文化なのである。


「愛しい」モーツァルト弦楽五重奏曲第4番K.516ト短調

テーマ:クラシック CD/DVD/YouTube

この弦楽五重奏の冒頭は、交響曲40番の冒頭よりも、痛切な美しい哀感がある。それにしても、ト短調はモーツァルトの運命の調性なのだろう。これは、正 に、愛しい(かなしい)と形容すべきである。
 また、憂い、憂愁があるとも形容ができよう。しかし、単に情感というよりは、普遍的な精神が一時生 きているこの世の愛しさを歌っているのである。いわば、幽界(幽世かくりよ・霊界)と現し世(顕世うつしよ・この世)との境界でモーツァルトは歌っている のである。それは、正に、ps理論で説くMedia Pointで歌っているのである。天才たちは皆、Media Pointで表現するのである。あの世とこの世の奇蹟的な融合点で歌うのである。

追記:ピアノ協奏曲20番も傑作であり、ニ短調もいい。

参 考:
大辞林 第二版 (三省堂)

かなしい 【悲しい/哀しい/愛しい】

(形)[文]シク かな・し

[一]心が痛んで泣きたくなるような気持ちだ。つらく切ない。《悲・哀》
「母に死なれて―・い」「誠意が通じなくて―・い」

[二](古くは「愛し」と書かれた)

(1)身にしみていとしい。切ないほどにかわいい。《愛》
「何そこの児(こ)のここだ―・しき/万葉 3373」

(2)心にしみるような趣だ。深い感興を感ずる。
「みちのくはいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手―・しも/古今(東歌)」

(3)見事だ。感心するほど立派だ。
「―・しくせられたりとて、見あさみけるとなん/著聞 17」

参考 2:YouTubeのコメントも同じことを告げている。人間の心・精神の全人類的普遍性。


wanzenettl (1年前) 表示 非表示
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Mozart_ at his very finest.
Libertein818 (1年前) 表示 非表示
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I'd never heard this piece before now, its so moving_ and very sad but beautiful as well. wonderful playing, thanks for uploading.
elias12186 (1年前) 表示 非表示
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Well the miss out_ on the saddest, best part.
ashraniyyah (10 か月前) 表示 非表示
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Of course; with sadness comes joy._
http://ameblo.jp/renshi/entry-10459568809.html


哲学とブログ:悪は誤魔化し・隠蔽と一如である

テーマ:ゾロアスター教とトランス・モダン

優れたブログやHPは、真実、真相、真理を追究・追求しているのであり、それは、端的に、哲学的希求である。
 それに対して、悪を事とする支配・権力側、つまり、悪霊側は、当然、悪であるから知られないように誤魔化しを、虚偽・隠蔽・排除(殺人)をするのであ る。
 これは、明らかに、ゾロアスター教の世界観に即している。善と悪との最終戦争が行われているのが、現代である。それは、トランス・モダン進化を意味す る。
 それに対して、善でも悪でもない、凡庸の徒が大半である。烏合の衆、有象無象、愚衆・愚民である。彼らは、何のために生きているのか。それは、悪人を肥 やすために、欺されて、奴隷のように生かされているということだろう。


地球寒冷化:地球温暖化「神話」は排出権国際的利権屋の共謀ペテン
テーマ:エネルギー問題・国連地球温暖化共謀ペ テン
■ 地球寒冷化の実態

 http://www.epochtimes.jp/jp/2010/02/html/d22054.html

東海アマチュア地震予知研究会


2010年02月14日(Sun)▲ページの先頭へ
昨日、久しぶりに(半年ぶり?)、東京の古巣に帰った:東京の物質主義的町並みの醜悪性:縄文精神復興
昨日、久しぶりに(半年ぶり?)、東京の古巣に帰った:東京の物質主義的町並みの醜悪性:縄文精神復興

テーマ:ポスト唯物論/唯物論の超克

もう、二度と東京に住むこと、あるいは、大都市に住むことはないだろう。
 はっきり言って、高層ビルは言うまでもなく、コンクリートの数階建ての建物は見ると、心に嫌悪感というか、不快感、胸糞の悪さ、というか、心の苦しさ、 苦痛が起こるのである。(また、「気」が感じられないこともストレスになる。)
 つまり、精神は共振するものを外界に求めるのに、コンクリートの平凡な建物、縦横の幾何学の建物に表面には、共振せずに反感をもつということである。つ まり、ストレスが発生するのである。
 今は、森が近くにかなりある郊外に住んでいるので、精神性は満足する。そう、精神と森(端的には、樹木)が共振するのである。この理由については後で検 討したいが、一言言うと、子供の頃、田舎の林野を自由に歩いたことと今の森の中の散歩は通じるものがあると感じられる。
 縄文的ノマッド的精神性と言うべきなのか。思うに、今日、日本人は民族の一つの本性である縄文的精神を喪失しているのである。日本に民主主義を定着させ るためには、内なる縄文的精神に基づく必要があるだろう。


精神性と発話:二つの視覚:心眼と肉眼

テーマ:検討問題:思考実験・仮説

もうだいぶ昔のこと、80年代半ばのことか、それとも、90年代初頭のことか。
 駅前のファースト・フードで読書していたときであるが、若い女子たちの話し声が、頭中心で、心が抜けているのに、怪訝に感じ、強く違和感をもった。
 今考えれば、物質主義的であり、精神性が欠落した状態だと思う。これは、心眼の喪失であり、肉眼への傾斜である。
 トランス・モダン教育とは、心眼形成教育になる必要がある。文科省の形式主義ではだめである。



2010年02月12日(Fri)▲ページの先頭へ
差異(精神・自己)と同一性(物質・自我)との混同力学:連続的同一性と父権的傾斜
この問題は不連続的差異論の意義に関係するが、ps理論の視点から解明したい。
 というか、実質は既に解明されているので、再確認の意味で検討したい。
 精神(+i)*(-i)は、Media Pointを介して、+1へと展開する。この+1が同一性である。即ち、物質であり、自我である。本来は差異であるが、それが、同一性へと転換するのである。これが、以前述べた連続的同一性である。即ち、差異が同一性と連続化するのことである。つまり、本来、不連続な差異が同一性と連続化する事態、混濁した事態である。
 そして、端的に、この様相が本件のテーマである混同力学の実体であると言える。
 思うに、自然の力学は連続性を伴うのである。それ故、自己を見失うのである。しかし、これには意味がある。自然的連続性を脱却して、真の自己へと帰還するという意味である。これが、人類の物語の本質である。
 そして、自己は他者を内包しているので、社会的正義を実践するのである。つまり、社会的進化が志向されるのである。
 さて、本題をもう少し説明すると、この連続化によって、精神と物質が混淆され、矛盾様態となる。近代合理主義以前は、精神は宗教権力が担い、それとも別に、世俗生活が物質と関係した。いわば、二元論があったのである。
 しかるに、近代合理主義は、同一性(物質・自我)の視点から連続的混淆様態を整理(合理化)したのである。そのために、本源の精神・差異・自己が否定されたのである。まったく本末転倒である。(持論は近代的自我は狂気であるということである。)
 この同一性主義が差異を否定・抑圧・排除・隠蔽するのであり、端的に、内的暴力なのである。そのために、近代的自我は内的暴力を内包し、他者に対して、差別・暴力・攻撃的になると言える。
 言い換えると、差異の否定とは、差異にある内的他者を否定するので、外的他者に対して、攻撃的になると考えられる。
 しかし、当然、外的他者への攻撃ばかりでなく、自己自身への攻撃でもある。故に、心の病気(精神病)になるのである。
 思うに、近代合理主義とは、同一性へ傾斜した力学をもつのであるが、それは、デリダが指摘したように西洋文明のロゴス中心主義に根源があると言えよう。あるいは、一神教的な、ないしは、父権的な同一性力学にである。
 そう、この同一性への傾斜とは、母権的というよりは、父権的であると言えよう。なぜなら、母権性は、本来(今日には当てはまらないが)、差異を保持するものであるからである。
 しかし、この同一性傾斜の力学は的確に説明する必要がある。
 これは簡単に言えば、「陽」の力、プラス・エネルギーに存しているのではないだろうか。これが、いわば、男性的な力学である。
 それに対して、差異を保持する力学は、「陰」の力、マイナス・エネルギーに拠るのではないだろうか。ps理論から言えば、マイナス1を形成する力学である。
 プラスが太陽とすれば、マイナスは月である。父権的な力学はマイナス=月を否定してしまうと言えよう。 
 しかしながら、端的に、マイナス1とは何か。プラス1は同一性であるのである。これを差異としたくなるが、そうではない。差異はMedia Pointにあるからである。
 マイナス1は、反同一性である。反物質、反自我である。いわば、影である。おそらく、ダーク・マターはこれである。あるいは、虚と言ってもいいのではないだろうか。プラス1が実ならば、マイナス1は虚である。
 しかしながら、より実感的に言えば何か。思うに、実感する「心」、情感の在処ではないだろうか。つまり、経験論的な「心」である。
 それに対して、Media Pointは超越論(超越)的な「心」と言えよう。それは、理論的なものである。実感的なものではないだろう。
 そう見ると、プラトンのイデア界はMedia Pointに存すると言えようし、コーラはマイナス1ではないだろうか。(先には、-iと考えたが。この問題は検討課題としたい。)
 そして、精神(精霊)界とは、虚軸であると言えるのではないだろうか。とまれ、ここで留める。

追記:イデア界と精神界の区別が以上でいいのか問題である。
 しかし、イデアはMedia Pointに存すると思われる。そして、精神・精霊・霊魂は虚軸に存すると思われるのである。だから、以上でいいのではないだろうか。

追記2:神話学的に見ると、イシスとオシリスの神話における太陽であるが、オシリスがプラス1としても、イシスはMedia Pointではないだろうか。
 しかし、父権的神話となると、イシスに当たるものが、怪物となり、殺戮されるのである。そう、Media Pointが混沌とされるのである。そして、プラス1へと傾斜するのである。そう、神話でウロボロスとされるものは、不正確であろう。本来はMedia Pointである。超越的極性(太極)である。
 ギリシア神話でアポロを考えると、両面が混在していると言えよう。それが、ニーチェの『悲劇の誕生』に現れていると考えられる。また、ゼウスもそうであろう。ギリシア神話は母権的神話と父権的神話が重なっているのである。

追記3:差異は原存在、同一性は現存在と仮に対応させて考えてみると、ハイデガーの存在論とは、 フッサール現象学の混濁化である。フッサールの意識(超越論的主観性)の場と自然的態度は不連続であるが、ハイデガーは、両者を存在的にして、かつ、連続化させてしまったのである。つまり、意識(超越論的主観性)の場と自然的態度を連続させ、意識の場を存在、そして、自然的態度を現存在に置き換えたと考えられる。
 そのため、フッサール現象学の画期的な不連続性が否定されてしまったのである。
 もっとも、存在をハイデガーの意味でなく、認識主体の意味で使えば、差異を存在、同一性を現存在と見ることは正しいことになる。
 
追記4:行為等に味があるというときの「味」とは、マイナス1のことではないだろうか。余韻とか余情とか気韻とかは、それではないだろうか。


2010年02月11日(Thu)▲ページの先頭へ
ロックフェラー路線(戦争屋路線)と民主党
テーマ:ニッポン亡国の凶相:売国奴と愚民と悪魔

以下の記事の推理は実に刺激的であるが、どうだろうか。私は民主党は「ロックフェラー路線」の表層路線であると考えてきた。これは、ロックフェラー路線(戦争屋路線)を真似るのである。
 つまり、オバマ政権は真正の「ロックフェラー路線」であるが、表層はロックフェラー路線(戦争屋路線)であるが、民主党はこの二重構造に気づいていないのであり、表層を模倣するのである。
 つまり、ロックフェラー路線(戦争屋路線)を肯定してしまうのである。米国債を郵貯で購入することになったのは、ロックフェラー路線にいわば騙されていると思う。
 普天間基地移設問題も、ロックフェラー路線に騙されているのではないだろうか。辺野古以外にせよと騙されているのではないのか。
 日本が反米的態度を取ると、米国は攻撃するのである。米国の戦略は「敵方」に攻撃を先行させて、その後、大義ができて、反攻するものと考えられる。
 思うに、米国は金融危機なので、日本から絞る取ることを狙っていて、日本をターゲットにしているのである。

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* いよいよ小泉一派がCI...


5.亀井氏には小泉・竹中犯罪を暴く強い動機が存在する

 小沢氏のよきパートナー・亀井氏は元々警察官僚出身であり、警察や検察の内輪に精通する政治家です。そこを小沢氏はすべて計算し尽くしています。小泉政権時代、郵政民営化に強硬反対した亀井氏は小泉氏によって党籍をはく奪され自民党からみじめに追放されています。同氏の小泉氏に対する恨み(ルサンチマン)は半端ではありません。2005年9.11郵政民営化選挙では公認をはずされ、土砂降りの雨の中を死ぬ思いで逆風選挙を戦いました。その甲斐あって広島6区の選挙民は、小泉氏の送った最強の必殺刺客・堀江氏(ホリエモン)を退け、義理と人情で亀井氏をかろうじて勝たせました。この情景は70年代、特捜部に瀕死の重傷を負わされた田中角栄が有罪にされた後も新潟選挙民は田中角栄をトップ当選させた状況とよく似ています。亀井氏に仇討のチャンスを選挙民が与えてくれたのです。一方、小沢氏はすべてを計算し尽くして、戦略的に亀井氏を金融・郵政改革担当大臣に据えたのです。小泉・竹中両氏はさぞかし震え上がったことでしょう。しかしながら小泉人脈で固められた特捜部は、小泉氏への恩義を忘れなかった。小泉氏を守るため、必死で小沢氏を攻めまくった。

 ところが最後に戦争屋=CIAの傀儡・清和会の小泉・竹中一派を裏切ったのがまさに戦争屋=CIAその人でした。小沢・亀井コンビに軍配を挙げたのです。突然のウッチャリ、それは小沢不起訴です。

 小沢・鳩山・亀井トリオが戦争屋に白旗を見せた(注4)理由もここに明白です。
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/8546616.html


* - 政権交代を実現させた国...

ところが小沢・鳩山政権は誕生したとたんに、戦争屋のいうことを聴かなくなったのです。彼らは台頭する欧州系の銀行屋寄り、そして中国寄りを志向しました。戦争屋の威力は弱ったとみたからです。怒った戦争屋は特捜ロボットに指令して、いつもの政治とカネ問題で執拗に攻撃し始めたのです。そのあまりのしつこさに、ついにマイッタと白旗を挙げた、つまり戦争屋にいうとおり米国債を買いますと約束させられたということです。

8.一般国民がもっと賢ければ、小沢・鳩山・亀井の白旗はなかった

 ここ数カ月、特捜ロボットの小沢・鳩山攻撃は激しさを増していました。大手マスコミの世論調査で小沢・鳩山体制への国民支持率は低下の一途でした。特捜ロボットの手口は09年3月時点とそっくり同じです。もし国民が、今回の特捜ロボット攻撃に惑わされなければ、小沢・鳩山・亀井トリオが戦争屋に白旗あげずに済んでいたはずです。対戦争屋シャミセンだけで終わっていたのです。

 国民が、戦争屋のロボットである特捜・大手マスコミの世論操作に簡単に踊らされることが、われわれ国民の虎の子資産を戦争屋に奪われる結果をもたらすことに早く気付きましょう。
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/8511110.html
新ベンチャー革命
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参考:
副島隆彦です。 事態は、どうやら私が始めから恐れていた「日米抱きつかれ心中」の様相になっています。 

 小沢一郎幹事長の不起訴が決まっても、彼が愛弟子として育てた3人の 元秘書、議員たちの拘束、起訴の事態は続いています。(注:3人は5日夕方に保釈された)

 そして私が、ずっと恐れてきた、「日米抱きつかれ心中」 の様相を呈してきています。 米国の主眼はこっちにあったのでしょう。

 2月2日午後に、ジョン・ルース大使と、カート・キャンベル国務次官補が、小沢一郎幹事長と、国会内の、与党幹事長室で会談した様子は、以下 ↓ のアルル君の 文と、タブロイド紙 から明らかです。

 日本の 低能 の検察集団 と11大メディア(テレビ、新聞)たちは、大きく日本国の国益ということを考える能力がないので、いいように利用されるのだ。 

 さらには彼らを指揮している、駐日アメリカ大使館の「駐在武官」(ミリタリー・アタッシェ)である 凶暴なマイケル・グリーン ( 彼の別の子分である、松下政経塾出身の連中や、 山本一太や、世耕かずひで らのチンピラも含めて)を、 ”ケンカ犬 の 咬(か)ませ犬”として嗾(けしか)けて、暴走させることを、始めからアメリカ政府(国務省主流派) は画策していたのだろう。そして、日本国民の郵貯180兆円の奪い取り、という最初からの目標を実現しようとしている。

 属国内部の争いを、喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)の形にして、帝国は、「公儀(こうぎ)の評定(ひょうじょう)」をすることで、上から実(じつ)を取ろうとする、という行動原理だ。

 日本の検察と大メディアの幹部たちも、最後の土壇場で、「撃ち方やめ」の大きな力がどこからともなくかかって、悔(くや)し涙のような文を書いている。5日付けの朝の新聞が、どこも新聞の幹部たちが、「俺たちはアメリカに利用されたのだ」と、泣いているような記事だ。

 このアホ連中は事実、火傷(やけど)を負ったのだろう。東京地検の特捜部の佐久間達哉(さくまたつや)も大鶴基成(おおつるもとなり)も、相当に苦しんでいるようだ。自分たちが、ケンカ犬の 咬ませ犬にされたのだと、ようやく、ハッと気づいたのだろう。

「1105」 私が恐れる「日米抱きつかれ心中」になりつつあります。 2010.02.06

「副島隆彦の学問道場」


半封建/半近代主義の中途半端な近代・現代日本人:トランス・モダン・ルネサンスへ向けて
テーマ:日本新ルネサンスへ:東洋と西洋の統一へ

以下の記事を読み、今回の「小沢/検察騒動」を見ると、日本の指導層は半封建/半近代の、中途半端な思想に留まっていると思った。これは、森鴎外の『阿部一族』の柄本又七郎の発想のままである。
 西欧はイタリア・ルネサンスによって「個」=差異に覚醒したのであるが、日本近代においては、それが国家主義的封建主義によって抑圧されたのである。
 確かに、明治維新は日本ルネサンス的な要素はあるが、それよりも、封建主義的近代主義の側面が強かったと考えられる。
 封建主義、父権主義を色濃く残しているのが、近代・現代日本の大欠陥である。
 個=差異であることと、個人=自我であることはまったく別のことである。現代日本人の大半や指導層は前者を知らないのである。自分の「魂」・個魂で考えることができないのである。
 史的に見ると、やはり、江戸時代の封建制度が色濃く残っているのである。身分制度、男尊女卑である。(あるいは、権威主義である。)
 この封建主義/父権主義を破砕しない限り、日本の未来はないと言えよう。個=差異の覚醒が必要なのである。
 思うに、東京地検特捜部は米国のロックフェラー路線の権威に依存して誤断したのだろう。本来は、自己・個の科学的権威に依拠すべきなのに、封建的なので、米国の権威に依存したのである。
 属国・植民地以前に、「人間」以前である。西欧・欧米近代文化はルネサンスのヒューマニズム(個主義)を経ているのである。ここで、個=差異の覚醒があったのである。それを知らない日本近代化とは茶番である。
 とりわけ、戦後は近代合理主義の洗脳によって、日本人は個=差異を喪失したのである。
 

(02/03)【小沢不起訴 検察敗北】 ぶざまな東京イヌ新聞の言い訳w
(01/29)こんな高額給与の日航に税金投入フザケンナ!
(01/27)【悪の温床検察】小沢を厳しく追及する理由は天下り先の確保!!
(01/25)【小沢VS検察】TVで検察の不当捜査を支持する元東京地検特捜部長・宗像紀夫の黒い過去

反米嫌日戦線「狼」(反共有理)

参考:
栖本通次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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栖本 通次(すもと みちつぐ、生没年不詳)は17 世紀 、江戸時代 初期に活動した武将。熊本藩 士。通称は又七郎。柄本又七郎とするのは誤り。鎮広 の子。男性 。
経歴 [編集 ]

栖本氏 は戦国時代 、天草五人衆 の一つに数えられた土豪であった。父の鎮広の代に加藤清正 に仕えたが、清正の子・忠広 が改易 されると、新領主となった細川忠利 に仕えた。

光尚 が藩主となった翌年の1643年 、阿部権兵衛 が、先代・忠利の法事で髻を切る行為に出て投獄された。阿部一族は屋敷に立てこもり、通次は上意討ち の討ち手として2 月17日 の討ち入りに加わった。阿部一族はことごとく討ち取られ、権兵衛も処刑された。
『阿部茶事談』と『阿部一族』 [編集 ]

『阿部茶事談 』は正徳 〜享保 年間に成立した、阿部一族討ち入りの顛末を、創作も交えて書いた書物である。同書では、通次の屋敷は阿部一族の隣家であったことから「討ち入り無用」と言い渡されるが(史実では正式な討ち手の一員である)、独断で討ち入りに加わり、勲功第一と称された。その後、「阿部一族討ち取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子 」と自慢したという記述があり、これが『阿部茶事談』という表題の元になっている。

森鷗外 の『阿部一族 』では、誤って「柄本又七郎」と表記されている。『阿部茶事談』を脚色し、阿部一族と親交のある理解者として書かれている。阿部一族に同情しつつも、武士として手を出さないわけには行かない心情を書いているが、討ち取ったあと「茶の子の茶の子の朝茶の子」と自慢する下りは変わっていない。


2010年02月10日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:資本主義の問題点:交換価値主義から共同創造価値主義へ
本件は既述済みだが、再度解明してみる。
 結局、分業によって、総合的な商品を作るようになった。つまり、分業を差異とすると、差異総合が資本主義の生産にはあると言える。分業は、資本家や経営者や労働者が共同して行うのであり、資本主義的生産は共同的生産である。
 問題は自由競争にさらされているので(日本は社会主義的であるが)、弱者である労働者を搾取する力学がある点である。必要な報酬を与えずに、利益(交換価値)を多くするのである。いわゆる、成長主義である。
 ここに資本主義の不合理性があるのである。労働者の共同労働にふさわしい賃金を与えないという不合理なシステムなのである。
 問題はやはり、交換価値にあるだろう。これは、量的な価値である。人の命より、一円でも多い儲けが大事なのである。
 これは、量的機械的システムである。利益合理主義である。交換価値合理主義である。数量的合理主義である。端的に、近代合理主義である。ここではドライな利益原則が支配するのである。
 しかしである。ここで、差異・質を考えよう。資本主義に差異、質を導入するとどうなるだろうか。
 資本家、経営者、労働者の共同的生産体制としての資本主義生産が見えてくる。
 だから、これを保持するには、本来、資本家、経営者、労働者の三位一体の体制を維持する必要があるのである。
 しかるに、労働者を搾取するために、歪んだシステムになるのである。共同主義でありながら、同一性主義の帰結となり、母体を破壊するのである。自分の体を食べる怪獣である。
 また、別の視点から言うと、共同主義の視点から見ると、資本家の差異、経営者の差異、労働者の差異が共振して、創造的になるのである。資本家のアイデア、経営者のアイデア、労働者のアイデアが共振して、実に、イノベーション的になるのである。
 つまり、共同主義は創造的なのである。つまり、同一性主義資本主義から共同創造的資本主義になると言えよう。
 問題は、交換価値である。共同創造的資本主義から生まれた利益であるが、それは、共同創造性を保持するように配分する必要があるのである。資本家(株主、金融資本家)が、利益の大半を独占すると、共同創造性が破壊されるのである。
 というか、科学的事実にそれは反するのである。だから、その企業は腐敗するのである。
 とまれ、共同創造的利益配分をする企業を評価する必要があるのである。それに対する眼力が必要である。
 共同創造的資本主義(トランス・モダン経済)は、共同創造的に成長すると考えられるので、そこには、エネルギーが感じられるはずである。
 そのためには、法整備が必要である。共同創造価値を義務づける必要があるのである。
 思えば、労働者も資本である。労働資本である。この労働資本に対する十分な対価を要求する権利があるのである。
 そして、自然の問題がある。自然を枯渇させるのであるから、自然を再生させるための贈与なり投資が必要である。
 自然もいわば、資本なのであるから、自然資本を再生させないといけないのである。
 以上からざっと見ると、今日の交換価値中心の資本主義、金融資本主義は、まったくいびつであるということである。それはいわば、悪性腫瘍である。
 刈り取った種の大半を占有して、労働者や自然の大地にまかないのである。だから、行き詰まるのである。
 財産や所有の法的問題がある。企業の利益の所有は科学的には企業、法人だけに限られない。
 共同創造生産による利益であるから、利益の所有は共同創造体に属するのである。あるいは、差異共振共同体に属するのである。
 利益を共同創造的ないしは差異共振共同体的に配分する法体制が必要である。トランス・モダン・ローである。
 後でもう少し述べたい。

参考:
★ 2010年02月10日水曜日 7時半更新



■ トヨタ帝国の終焉

 先人の健全経営の成果にあぐらをかいて、傲慢に思い上がった奥田硯・張富士夫体制のツケが今出てきた。これはトヨタ帝国の崩壊、終焉を意味する構造的なものだ。
 社内に問題があったとしても、その解決を下請けに押しつけ、下請け孫請けを奴隷化して、ギリギリまで収奪する体制に君臨してきた。「生かさず殺さず、二分化対立させて支配する」という家康式システムこそがトヨタの真骨頂であった。
 「カンバン方式」などと、体裁はいいが、これは、社内で解決すべきロスタイム問題を下請けや運送業者に押しつけたにすぎない。トヨタにおける「合理化」とは、すべての問題を下請けに転嫁することだったのだ。車を購入したユーザーの不満、声も、トヨタの利益の論理で圧殺し続けた。苦情を述べても、ほとんど、まともに取り合わずごまかし続けた。
 これまで問題が起きなかったこと自体が奇跡だが、これまでごまかしに成功してきたことがトヨタの根源的崩壊をもたらしたのである。

 【ネバダブログ引用: トヨタの欺瞞(報道)トヨタ社長は今回のリコール問題で謝罪していますが本当に謝罪しているのかと疑われています。
以下の報道をご覧下さい。
『トヨタからはお客様に連絡して改修を促さないで欲しいと言われている』
これは神奈川県内のトヨタ系販売店の話として朝日新聞が報じているものですがもしこれば事実ならばトヨタは『終わって』います。今後アメリカでも日本でもトヨタの体質につき疑問が噴出する事になりますがかなり厳しい状態に追い込まれる事だけは確かです。社長は誤ってはいますが会社は誤ってはいないのが今回の発言だと言えるからです。】

 【カローラでパワステ不具合か=米当局が調査検討−業界誌 2月10日5時22分配信 時事通信
 【ニューヨーク時事】米自動車業界誌オートモーティブ・ニューズ(電子版)は9日、トヨタ自動車の主力車種である乗用車「カローラ」について、米道路交通安全局(NHTSA)が電動パワーステアリング装置の不具合に関して正式な調査に入ることを検討していると報じた。 同誌によると、検討対象は2009 年型と10年型のカローラ。時速40マイル(約64キロメートル)以上で走行中、直進に戻そうとハンドルを操作すると過剰に反応して、進行方向が予想以上に左右に振れることがあるもよう。】

 【トヨタの「Aa1」格付けを引き下げ方向で見直し=ムーディーズ 2月9日22時47分配信 ロイター
 [東京 9日 ロイター] ムーディーズ・インベスターズ・サービスは9日、トヨタ自動車<7203.T>の無担保長期債務格付けをAa1から引き下げる方向で見直すと発表した。
 今回の見直しは、トヨタ自動車の品質問題とリコール・自主改修の拡大により、同社のブランド、価格決定力、主要市場における市場シェアが長期にわたり影響を受けるおそれが出てきたためと説明している。ムーディーズは「現在進ちょくしつつある業績回復が失速するか、従来想定していたよりも緩慢なものとなり、現在の格付けの許容水準を超えてしまう重大なリスクが出てきた」と指摘した。
 トヨタ自動車の品質問題は、フロアマット問題、アクセルペダルの不具合による自主改修・リコールから、プリウスのブレーキ問題へと拡大した。同時に対象となるモデル、台数、部品が増え、地理的にも米国から欧州、中国、日本へ拡大している。これに対し、ムーディーズは「トヨタ自動車のブランドと品質の高さへの信用が中長期にわたって損なわれるおそれが出てきた」と判断した。 トヨタは今月4日に、2009年度第3・四半期業績と通期業績の上方修正の発表を行った。だが、ムーディーズは「今回の問題がさらに大きくなり、長期化すれば、リコールや緊急の品質管理問題への追加的な対策費用の計上、主要市場でのシェアの低下、販売台数の回復の遅れ、車両価格への下方圧力が起こる。したがって中長期的には、ムーディーズが当初想定していたよりも収益が弱含む可能性が出てきた」とみている。その上で「来期以降の営業・財務状況への不透明感が増している」とコメントした。 一方、トヨタ自動車は潤沢な流動性を保有しているため「財務の柔軟性は極めて高い。関連費用を吸収し、財務面への影響を抑えることが可能である」と述べている。】

東海アマチュア無線  地震予知研究会


2010年02月09日(Tue)▲ページの先頭へ
存在的現象と物質的現象:四元的世界:超越的差異とMedia Pointと混淆と物質
先に以下の考察を行ったが、まだまだ不明なところがあるのでさらに検討したい。
「存在について:現象と存在と物質」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10454122532.html

物質的現象が通常の現実と考えられるものである。例えば、眼前にある杉の木は、物質的現象である。しかしながら、同時に、それは存在的現象である。つまり、存在的現象と物質的現象が一体化しているのである。
 そして、両者は通常区別されないのである。混同されていると言えよう。

 (ここで立ち止まって、厳密に見ると、果たして、物質的現象という用語を用いていいのか疑問である。先には、現象=存在と物質を区別したのだから、物質的現象というと一貫性がなくなるからである。
 しかし、夢の現象や映画の現象と物質の「現象」を考えると、物質的現象という言い方は可能ではある。
 思うに、先の考え方を訂正して、存在的現象と物質的現象の区別をここで作業仮説的にしてみたい。
 だから、本論を続けることになる。)
 
 存在的現象には、例えば、夢現象、映画現象、美的現象、精神現象、宗教現象等がある。それに対して、物質的現象とは、近代科学で分析するような対象の現象である。ps理論で言えば、+1である。
 問題は、どうして二つの現象があるのかということである。あるいは、存在的現象はどうして物質化しないのかということである。あるいは、どうして、物質化する現象があるのかということである。
 丁寧にみよう。例えば、精神現象である「わたし」という存在(自己と他者の即非共同態)は、身体として現象している。身体を物質とするならば、「わたし」という存在的現象は物質化していることになる。
 思うに、「わたし」という存在的現象は身体という物質的現象と「混合」しているのである。キリスト教の用語を使えば、「受肉」しているのである。
 だから、身体や存在という事態があいまいになりやすいと言えよう。思うに、混合様態があると思う。感覚なのか心的様態なのかあいまい状態があるのである。
 例えば、「苦しい」とは、身体が「苦しい」のか、心が「苦しい」のか、あいまいである。
 思うに、存在的現象と物質的現象(この場合は身体的現象)が混合していると見るべきであり、この混合様態、ないしは、混合的現象を確認すべきであろう。
 そうすると、三種類の事象を考えるべきであろう。即ち、

1)超越(虚数)的差異:(+i)*(-i)
2)存在(精神)的現象(Media Point or ⇒)
3)物質的現象(+1)

である。(追記:ここでは混合様態、混合的現象の記述が不正確である。あるいは、2の存在的現象の考え方が混乱している。正しくは、以下の四つの世界の3の世界が正しいのである。)
 思うに、誕生以前の世界(「前世」:追記:「前世」は誤りである。「前世」の後の死後の世界である。)や死後の世界(「他界」)は1の世界ではないだろうか。そして、現世は2と3ではないだろうか。また、近代科学・技術や資本主義は3の世界のみを発達させたと言えよう。
 さて、本論に戻ると、問題は、2と3の世界の混同・混淆にあることである。だから、四つの世界が考えられる。即ち、


1)超越(虚数)的差異:(+i)*(-i)
2)存在(精神)的現象(Media Point or ⇒)
3)混淆的現象(2と4)
4)物質的現象(+1)
 
である。一般には、3の混淆的現象の世界を生きているのであるが、近代科学・技術/資本主義が発達したので、4の世界へ傾斜しているのである。唯物論の世界である。うつ病・精神病の世界、交換価値中心主義(金融資本主義)の世界、暴力・差別・疎外・被搾取の世界、カルト・原理主義・洗脳/マインドコントロール・狂気の世界でもある。(因みに、この根本的内因は、ヤハウェ神にあるだろう。ヤハウェはある意味で、アンラ・マンユ悪神である。)
 ここでフッサールの開拓した現象学を考えると、それは、3と4の世界をエポケー(判断停止)して、2の超越的現象を取り出したことに大画期性(ブレーク・スルー)があると言えよう。
 しかし、ハイデガーの存在論は、それを看過して、あるいは、無視して、あるいは、それに無理解で、3の世界を存在的世界として提起したのである。これでは、現象学が混乱したのは当然である。存在は2の世界に求めるべきであるのに、ハイデガーは3の世界に求めたのである。そして、なんとか、2の世界を取り戻そうと努力したが、フッサールの超越論的現象には届かなかったと考えられる。(ハイデガーの現存在や世界内存在は端的に、3の混淆的世界である。そして、本来の存在とは、2の世界であるはずなのに、それを3の世界の内奥、内在性に求めているのである。つまり、連続論なのである。)
 今日、通常、一般、4の物質的世界に傾斜した3の混淆的世界に生きているので、2の超越的現象、存在的現象、精神的現象のことに無知になっているのである。そのために、経済・社会・文化が混乱・狂乱しているのである。
 トランス・モダン社会とは、意識においては、2の世界を取り戻すことにある。2の世界観をもつことで、モダン・ワールド(ないしはポスト・モダン・ワールド)から脱出(エクソダス)することができる。
 ps理論的に「解脱」した人が増えれば増えるほど、新世であるトランス・モダン・ワールドがやってくると言えよう。一人一人の覚醒(ブッダ)が今や肝心なのである。

追記:ヘーゲル精神現象学の根本的問題は、2の世界と4の世界を一致させたことである。精神=物質としたのである。これは、観念論的唯物論である。以前述べたように、マルクスやレーニンはヘーゲル哲学を唯物論的に継承したのである。

追記2:Media Pointないしは⇒はエネルゲイアであり、(+i)*(-i)はデュナミスと言えるだろう。しかし、言わば、霊界と言えるだろう。


2010年02月08日(Mon)▲ページの先頭へ
存在について:現象と存在と物質
「存在」とは何であろうか。
 サルトルは、即自存在と対自存在という区別をする。前者は、ps理論的には、自我同一性(+1)であり、後者は、Media Pointに相当すると考えられる。
 問題は、これまで、強いて「存在」については述べてこなかったことである。
 ここでは、直感的に考えよう。私は有り体に言えば、「存在」に疑問を感じる。なぜなら、「わたし」は果たして「存在」しているのか、疑問である。というのは、いつかは、「わたし」はこの世から居なくなるからである。つまり、「不在」になるのである。
 それは置いておくとして、「わたし」の存在とは何であろうか。
 わたしはよく夢を見るが、夢をみているときは、夢は現実であり、夢は「存在」している。
 そう、私は夢と現実との「存在」を問題にしたいのである。夢において、夢の世界は確かに、「存在」しているが、夢から覚めると、それは、非存在である。
 もっともわかりやすい例をあげれば、映画である。映画は映像であるが、それを見ている者は、映像を現実存在であると思う。これは、夢ととても似ていると言えよう。そして、現象の問題にきわめて似ているだろう。
 そう、現象と夢はどう違うのかという問題が立てられよう。
 端的に言えば、違いは物質の有無ではないだろうか。夢現象は「存在」しているが、物質ではない。映画の映像は「存在」しているが、物質ではない。だから、「存在」と物質の違いがある。
 具象的に考えよう。「わたし」が「木」を見ているとしよう。これが、現実においてである。つまり、「木」現象を見ているのである。
 そして、その「木」を伐採すれば、材木という物質が取れるのである。これは事実である。もし、夢の中の「木」ならば、材木は不在である。
 これまでの検討から言えば、物質としての「木」とは、+1である。これが、夢現象にはないと言えよう。つまり、夢現象とは、⇒に留まるのではないだろうか。
 そうすると、現象、現実的現象においては、⇒+1が生じているのであり、+1の物質を伴っていると言える。
 ここで、存在を考えると、思うに、存在は、⇒であり、+1の物質ではないと考えられる。
 だからこそ、即自存在、対自存在が考えられるのではないだろうか。つまり、存在と物質とは別のものであるということになる。
 では、即自存在とは、+i中心の⇒であり、対自存在とは-i を包摂した⇒ではないだろうか。
 ということは、超越性を存在と見ることである。超越的差異である+iを即自存在、超越的他者である-iを包摂して対自存在を考えるのである。
 いちおう以上を仮説として、ハイデガーの存在論を考えると、それは、ある意味で、フッサールの現象を単に、存在と言い換えただけではないのかという疑問が生じる。思うに、ノエマとは、-iと見ればいいのではないだろうか。
 そのように考えると、現象と存在は区別がなくなるだろう。つまり、現象=存在である。だから、根本的なのは、現象(=存在)と物質の区別ということになるだろう。
 これが決定的であると思う。では、物質とは何か、である。
 簡単な例で考えよう。水H2Oである。 
これは、水素イオンと酸素イオンの結合である。だから、虚軸において、水素イオンと酸素イオンを定置できる。
 そこから考えると、水素イオンと酸素イオンは存在であり、物質は水H2Oである。つまり、水という現象=存在は、物質としての水H2Oとは異なるということになるのである。
 今はここで留める。後で、新たに検討したい。

追記:冒頭では、即自存在を自我存在+1としたが、それは、不正確なので訂正する。即自存在とは、Media Point=+1になっている自我同一性の様態である。つまり、自己認識方程式における⇒が=になってしまい、差異エネルギーを喪失して、硬直した状態なのである。仏教で言えば、「色(しき)」である。


2010年02月06日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:-iの意識と現象について:潜在性としての-iと顕在作用としての+i
対象と一体となる-iということであるが、一体、そのとき、対象とは何か。先に、-1ではないかと示唆した。
 +1ならば、物質である。客体・存在である。しかし、一体となるとき対象は物質ではないだろう。
 それは何か。光の現象と一体となっているのだから、対象は現象、光現象である。
 現象とは何かと言えば、それは、⇒+1である。⇒付きの+1である。なぜなら、+1は単に物質だからである。では、-iが⇒+1と一体化するということになる。
 少し違う視点で考えよう。-iとは内在的他者である。しかしながら、これが、外在的他者と一体化するのである。
 では、外在的他者とはどう記述できるのか。思うに、それは、内在的他者に還元されるのではないか。つまり、内在的他者としての外在的他者である。
 そうすると、端的に、一体化する対象は内在的他者である。言い換えると、「わたし」の中の他者と一体化するのである。ということは、「わたし」の中には、森羅万象があるということになるだろう。
 そう考えると、プラトンのコーラとは、-iではないだろうか。ここに全可能性ないしは全潜在性があるのであるから。イデアとは、-iにあるのではないだろうか。
 もし、そうならば、+iとはどういう働きをするのか。私は、知的認識作用と考えている。フッサール現象学で言えば、志向性である。それは、他者-iへの志向性である。
 フッサール的に言えば、+iは形相作用ではないだろうか。しかしながら、原形相は-iにあるのではないのか。それを+iは形相として浮き彫りにするのではないだろうか。
 つまり、原形相、潜在的形相が-iである。それ顕在化させ形相にするのが、+iの作用ではないのか。前者が闇の形ならば、後者は光の形成作用である。両者が結合して、闇の形が光の形になるのではないだろうか。この光の形が現象、光現象ではないのか。
 だから、-iが現象と一体化するというのは、当然である。なぜなら、現象は-iを極としてもっているからである。いわば、負極である。つまり、現象とは、正極の+iと負極の-iをもち、両者が共振して生起したものである。
 だから、-iは現象のいわば潜在面へ「融け込む」である。そして、+iは現象の顕在面を知覚するのである。
 今はここで留める。後でさらに検討したい。


-iの身体知覚について:感一知覚と不可視光知覚
直感では、-iは察知する能力がある。人の心を読むときに使う能力である。そう、一種占いの能力である。
 しかし、それは、また、Media Point(以下、mp)の能力のようにも思える。つまり、-iとmpが明晰に区別されていない。
 例えば、冬の落葉した木を見るとき、視覚において、対象としていると同時に、一体的知覚がある。先の検討では、後者はmpの知覚である。
 しかし、mp知覚であっても、対象的知覚は+iで、そして、一体感的知覚は-iが形成しているのではないのか。
 そう、mp知覚は即非的知覚であり、そこにおいて、+iは対象的認識を-iは一体的認識を行うのではないだろうか。言い換えると、+iは知性的認識であり、-iは感性的認識(美的認識)ということになるだろう。
 しかし、感性的認識(美的認識)というのは不十分である。なぜなら、-iの知覚認識はダイレクトなそれだからである。対象と一(いつ)の知覚認識だからである。言い換えれば、「物自体」、対象自体である。
 それを存在と言えるのだろうか。存在という言い方は、客観的対象を意味するので、使えないだろう。強いて言えば、主体(主観)的対象である。
 とまれ、思いつくまま、命名してみよう。感融認識、感一認識、感和認識、感即認識。
 一応、感一知覚、感一認識とすると、それは、先に述べた不可視光と関係するのである。+iが可視光と関係するならば、-iは不可視光と関係するのである。以前、+iを原光、-iを原闇と言ったが、それとも関係するだろう。
 しかし、問題は、原光を可視光、原闇を不可視光としていいのか、である。ある意味でそれは正しいのではないだろうか。現象光とは、原光と原闇の共振に基づくのであり、そこには、可視光と不可視光が結合していると言えるだろう。
 そう考えると、-iは不可視光的知覚をもつのである。これが、対象と一になるのである。
 可視光における対象を+1とするならば、不可視光における対象とは-1ではないだろうか。(一種、ダーク・マターではないか。)
 そして、近代的知覚は可視光中心で、不可視光の世界を排除していると考えられる。とまれ、今の段階では、-iは不可視光知覚としておく。
 さらに考えると、先に述べた超越光と現象光の関係である。私は現象光の中に超越光が含まれると述べた。そして、超越光は可視光、不可視光とも異なると述べた。
 それは、mpの虚軸で発生するものと思われる。そして、それが、実軸において、現象光となるということではないかと言った。
 少し不明瞭であるが、ここで留めておく。


2010年02月05日(Fri)▲ページの先頭へ
+iの認識と-iの認識:「わたし」は「森」であり、且つ、「森」ではない
以下、思考実験である。

「わたし」は+iであり、且つ、-iである。そして、両者、即非共振して、Media Pointが生じる。
 私が問題にしたいのは、一体感とはどこから生じるのかである。私が森や山を知覚するとき、ある種一体感の知覚がある。つまり、「わたし」は「森」である、「山」である、となる。もちろん、即、「わたし」は「森」や「山」ではないとなる。
 視覚が共感性、共同感覚になっているのである。思うに、これは、Media Pointで生じているのではないのか。
 「森」や「山」は-iとなり、Media Pointで、「わたし」+iと「共感」しているということではないのか。
 緻密に見ると、+iと-iの引力と斥力があり、引力のときに、共感的一体感が生じるということではないだろうか。即ち、「わたし」=「森」、「山」。
 しかしながら、同時に、斥力があるので、それを引き離すということではないだろうか。即ち、「わたし」≠「森」、「山」。
 とまれ、思うに、-iの感覚とは、他者感覚であり、他者自体性ではないだろうか。
 しかしながら、-iを存在と言えるだろうか。直感では言えないのである。なぜなら、-iは認識性をもっているからである。直感というとき、-iに関係していると思う。
 とまれ、-iの認識性を他者自体感覚、他者感覚、他者知覚としよう。
 だから、「森」を知覚するとき、-iが「森」を知覚するが、それは、「森」自体の知覚である。そして、それに+iの対象的知覚が入るのである。
 しかしながら、+1の物質的知覚が入ると、-iの感覚が否定され、また、+iの主観的視覚が同一性視覚になる。
 以上の仮説から、例えば、宇宙的一体感が説明できよう。それは、-iの他者感覚と+iの主観性とが引力によって結びついたときの感覚である。「わたし」+iは、宇宙全体-iと一体であるということになる。
 思うに、昨夏感じた一体感であるが、それは、静寂な一体感である。「わたし」は「川」であるという一体感であるが、そこには、いわゆる、神秘主義的なものはなく、ごく平静な一体感である。思うに、引力と斥力が拮抗している状態と言おうか。「わたし」は「わたし」でありつつ、また、「川」は「川」でありつつ、「わたし」と「川」は一体、一如であるという知覚である。これは、正に、即非的知覚と言えよう。=と≠の共立する知覚である。
 そう考えると、宇宙的一体感も神秘主義的ではなく、即非的なものと説明できるだろう。
 ここでヘーゲルの理性について考えると、全実在であるという確信であるが、これは、宇宙的一体感が、自我的同一性へと傾斜したものと考えられる。つまり、他者を自我が支配している様態である。
 
 さて次に、近代合理主義とうつ病について簡単に考える。
 知覚の原点はMedia Point(以下、mp)と考えられる。つまり、即非的視覚である。しかるに、近代合理主義は、同一性である+1を中心化して、mpを排除すると考えられる。
 つまり、生起した+1がmpを抑圧するのである。そう、存在とは、+1である。これが、客体であり、物質である。この「存在=客体=物質」を主体は現実と捉えるのである(フッサールの自然的態度)。
 では、主体は何処にあるのか。つまり、近代的自我はどこにあるのか。認識主体は本来的には+iであるが、現実態は、mpである。つまり、mpが本来の認識主体である。しかるに、+1と連続化しているのである。つまり、
(+i)*(-i)⇒+1ではなく、(+i)*(-i)=+1になっているのではないのか。
 mpである⇒の否定・抑圧・排除・隠蔽である。つまり、近代的自我ないしは近代合理主義とは、本来の認識主体の否定なのである。簡単に言えば、自己否定なのである。
 認識の母体であるmpを否定して、同一性と連続化するのである(連続的同一性)。当然、ここには、矛盾、齟齬、背理があるのである。
 近代的自我・近代合理主義は自己否定的なので、結局、自己消滅に向かうはずである。そして、この症状がうつ病であろう。
 自己の原点・根源を否定するので、自己消滅となるのである。わかりやすく言えば、エネルギーの源泉を否定するので、エネルギーが枯渇するのである。
 では、否定されたmpはどうなるのか。=が壁になるので、否定されたmpはエネルギーを壁にぶつけると言えよう。しかしながら、自我主体は、それをさらに否定する。結局、この衝突が衝動である。あるいは、攻撃性、暴力性である。
 -{(+i)*(-i)}=(+i)*{-(-i)}であるから、これは、他者否定となるのである。そして、これは、積ではなく、商になるのではないか。(+i)÷{-(-i)}=+1ではないのか。つまり、同一性自我がさらに産出されるということではないだろうか。これは、また、パラノイア的狂気である。
 では、影(シャドウ)はどう説明できるのか。それは端的にmpの否定、即ち、-mpではないだろうか。
 ジキルが+1で、ハイドが-mpではないだろうか。今はここで留める。


2010年02月04日(Thu)▲ページの先頭へ
ps理論の先駆としてのフッサール現象学:ハイデガーは二流の哲学者である
文庫本で50ページに満たない長さながら、フッサール現象学のエッセンスが凝縮されている。
 ps理論は、フッサール現象学(超越論的現象学)が先駆であり、また、差異論的進展である。
 思うに、フッサール現象学に欠けているものは、内的他者性であり、自己と他者との即非的共同性である。しかしながら、それを除けば、ps理論のアウトラインを記述していると言えるほどである。
 フッサールの失敗は、ハイデガーを弟子にしたことである。鬼っ子であり、画期的な現象学を破壊した悪魔的「弟子」である。
 因みに、ハイデガーの存在論であるが、それは、有=存在=物質の思想と超越論的自我の思想を結合させた折衷的思想である。ここには、他者性(倫理・道徳性)が欠落しているのであり、物質主義的唯我論であると言えよう。

ブリタニカ草稿 現象学の核心

エトムント・フッサール 著 , 谷 徹 翻訳
現象学の始祖フッサールが、ブリタニカ百科事典の求めに応じた四つの草稿の集成。成熟した思索において、「現象学とは何か」、その核心を語る。
ブリタニカ草稿 現象学の核心

* シリーズ:ちくま学芸文庫
* 定価:1,365円(税込)


この本の内容

現象学の始祖エトムント・フッサールが、『ブリタニカ百科事典』の求めに応じ、「現象学」の項目のために執筆した、ドラマチックな推敲のあとが窺える四つの草稿の集成。変化しつづけたフッサールの思索が成熟した時点で書かれた本書は、まさに“現象学とは何か”その核心を語る。そのため、完成稿(第四草稿)は、始祖自身による最も完備した好適な入門書ともなっている。これら草稿は、ハイデガーとの共同作業を経て完成したが、とくに第二草稿には両者の一致と相違が如実に現れていて、20世紀を主導した両者の現象学的哲学の本質を考えるための重要なヒントもここにある。詳細な訳者解説を付す。
この本の目次

第四草稿(最終稿)(純粋心理学、その経験の場、その方法、その機能
現象学的心理学と超越論的現象学
超越論的現象学と絶対的に基礎づけられた普遍的学問)
第一草稿(「純粋」心理学としての心理学的現象学
心理学的現象学との対比における超越論的現象学)
第二草稿(改訂の試み)(現象学の理念と意識への還帰
純粋心理学の理念
現象学的心理学と超越論的現象学)
第三草稿の序論部分
第三草稿の結論部分
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480088178/

参考:

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

パリでの講演をもとにした、フッサール晩年の著作である本書では、『イデーン』ではほとんど触れられなかった、間主観性や他我についてが論じられている。


後期フッサールは、『イデーン』などの中期から大きく変化した、とたまにいわれる。形而上学へ近づいた、とか、独我論を抜け出すために間主観性という考え方を提示した、とか、そんな風にいわれているようだが、実はそんなことはまったくない。
http://www.geocities.jp/ittokutomano/cartesian.html


フッサール『イデーンT』


1.フッサールの情熱

日本語訳の冒頭に掲載されている「あとがき」で、フッサールは次のようにいっている。

筆者は今老境にいたって、少なくとも自分自身としては、完全に、次のように確信するにいたっている。すなわち、自分こそは一人の本当の初心者・端緒原理を掴んでそこから始める人間であると、こう自ら名乗り出てもよいで あろう、と。」

いつでも真摯に哲学してきたフッサールの、静かなる情熱が感じられる。私はこういう文章に、結構じーんとくる。

 そして彼は、さらに次のようにいう。

「現象学的哲学の全般的な研究地平は、いわばその地理上の主要構造の面では、露呈されおえ、本質的な問題層と本質的な接近方法とは、解明されおえたわけである。筆者は今、真の哲学の無限に開かれた土地、その『約束の地』 が、自分の前に拡がっているのを見る。その土地が完全にもう開拓され尽くすありさまを、余命いくばくもない筆者自身は、もはや体験することはないであろう。」

 自らの哲学的成果がどれほどに画期的なものだったか、フッサールはよく自覚していた。

 しかし、彼が切りひらいた「方法」によってその後飛躍的に深化するであろう諸学問の展開を、彼はその予告通り、みることはできなかった。

 ばかりか、残念なことに、現象学はいまだその真価を理解されないまま、過去の思想になろうとしているのだ。

 フッサールのやってのけた大事業は、これからもう一度吟味し直し再評価される必要があると私は思う。

 彼の成し遂げたことは、いったいどのようなものだったのか。

 ここで少し、みてみることにしよう。

http://www.geocities.jp/ittokutomano/ideen.html


二重意識:三位一体の「わたし」
二重意識:三位一体の「わたし」

テーマ:検討問題:思考実験・仮説

「わたし」は+iであるが、同時に、-i の他者がいる。この両者を均衡させる「わたし」がいる。
 思うに、イタリア・ルネサンスとは、-iの条件における+iの発見ではなかったか。
 とまれ、近代的自我は、+iを中心化して、他者-iを喪失したのである。
 トランス・モダンは、新たな-i 他者の肯定を意味する。つまり、自己とは、他者であることを認識することである。
自己・即非・他者である。

検察VS小沢は似非対立である:近代VSトランス・モダンが真の対立である
テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構 築

検察VS小沢の闘争は漁夫の利を狙うある勢力の謀略の一部のように思える。
 というか、検察はロックフェラー路線であり、小沢は「ロックフェラー路線」表層路線であると私は考えている。しかし、これは、どちらにしろ、ロックフェ ラー路線なのである。つまり、負け戦なのである。(思うに、ここが米国諜報網の狡猾さである。)
 民主党は外在主義なので、差異に気づかないのである。思うに、ここは冷静に考える必要がある。日本の上層部は、国民のことは考えていないのであり、うわ ついた自己保身のみを考えていることである。
 端的に、日本の政治家や官僚は売国奴である。つまり、民主主義制度を利用したエゴイストであるということである。
 私はここに戦後の現象学的・且つ・超越論的還元を説くものである。
 仮象の社会をぶっ壊せ!

モーツァルトとファンタジー・エネルギー
テーマ:クラシック CD/DVD/YouTube
モーツァルトの二つの有名な協奏交響曲を聴いて、ファンタジーによって創られているのではないかと思った。つまり、これらの曲のもつ夢幻的パワーは、ファ ンタジーの力であると感じたのである。
 今日、ファンタジー・エネルギーが弱いので、名曲が生まれないのだろう。それは、Media Point Energyである。
 後でさらに考察を続けたい。

追記:言い換えると、Media Point Harmony、Media Point Transcendental Harmonyである。

追記2:結局、Media Pointが母胎であり、苗床である。ここで、多重な差異共振調和が生成するのである。つまり、Media Point Sensibilityをもつ者が真に創造できるのである。
 これは当然、音楽だけでなく、他の芸術でもそうであるし、また、芸術だけに限らない のである。社会も経済もMedia Point Harmony(Order)を志向すべきなのである。Trans-modern Social Harmony.

Mozart: Sinfonia Concerto K. 364 part 1
http://www.youtube.com/watch?v=rJuabueEqb4&feature=player_embedded



2010年02月02日(Tue)▲ページの先頭へ
今や、個=差異による路線しかないのである
後で説明したいが、結局、すべての拠り所とは、個=差異=自分自身にしかないのであり、外在的なもの(同一性)を根拠とする思想はすべて無効である。
 近代/ポスト・モダンの崩壊・終焉である。
 例えば、民主主義という思想はやはり、外在的なものであり、これも崩壊するのである。個=差異=自己的「民主主義」はありえるのであり、それを私はトランス・モダン民主主義と呼んでいると言えよう。


検討問題:Multiple Media Pointについて:X*Y⇒+1
例えば、n個の差異と共振する事態をどう記述するのか。
 X1, X2, X3, ・・・Xnの差異があるとすると、
X1*X2*X3*・・・*Xnとなる。
ここで、単純化して、例えば、
X1*(X2*X3*・・・*Xn)と変換できる。そして、
X2*X3*・・・*Xn=Y1とすれば、
X1*Y1となる。これで、即非共振させることができるのである。X1*Y1⇒+1である。
 思うに、( )の括りは、他の場合でも同様であると考えられる。即ち、任意に多重差異共振を単位的な即非的共振に変換できると考えられるので、
X*Y⇒+1となる。ただし、XとYは、任意に括られた差異共振である。


   




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カレンダ
2010年2月
 
           

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