INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2010/01

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2010年01月29日(Fri)▲ページの先頭へ
検討問題:Multiple Media Point
これは、既に、Kaisetsu氏が解明している向きもあるが、私なりに考察してみたい。
 問題は、二つの要素ではなく、三つ以上の要素が「共振」するときはどう考えるべきかということである。
 これは、複数のMedia Pointを仮定すればいいのではないだろうか。
 例えば、虚軸のプラス軸に、_AとBの共振を考えると、AとBには、Media Point(M. P.)ができる。即ち、図示すると、

          +i
          |
          |
          |
          |  
          A
          |
          m.p.
           |
           B
           |
-1________M. P. _______+1
          |
          |
          C
          |
          |
          |
          |
          -i

(うまく図示できない。虚軸が当然、M.P.のところに来るのである。因み、m.p.が部分的なMedia Pointであり、
M. P.が中心である。)
となるが、AとBの間にM.P.があることを確認すべきであろう。しかし、基本的なMedia Pointは、虚軸と実軸の交差点に存する。
とまれ、多元的なMedia Pointをこれで確認できるのではないだろうか。
 言い換えると、中心になるのは、いわば、Major Media Pointであり、多元的なMedia Pointはそれぞれ、Minor Media Pointと呼んでもいいだろう。
 とまれ、鎖状のMedia Pointの共鳴がここにはあると言えよう。
 後でもう少し述べたい。

追記:説明が舌足らずであるが、私が考えているのは、例えば、三つの要素(差異)A,B,Cが共振融合したときどう表記できるのかというようなことである。
 上手では、先ず、AとBとの共振を考える。それを例えば、A・Bとする。このA・BとCとの差異共振を考えると、
(A・B)*C⇒+1になるのではないだろうか。
 思うに、正しく表記するなら、
(A*B)*C⇒+1
ではないだろうか。上図でm.p.と書いた部分が(A*B)の*に当たる。
 主に、これは、転移したMedia Pointと言えるのではないだろうか。Transferred Media Pointである。


2010年01月28日(Thu)▲ページの先頭へ
「新太平洋戦争」突入直前か
テーマ:鳩山代表と民主党:ポスト・モダン反動政権

鳩山首相はまったくいい加減である。このまま無策でいると、日本経済は大沈没である。
 民主党は参院選で敗北させる必要がある。小沢独裁亡国党を防がないといけない。
2010.1.27(その3)
森田実の言わねばならぬ【76】
平和・自立・調和の日本をつくるために[76]
《新・森田実の政治日誌》海外からの日本への二つの「日本のリスク」の忠告を謙虚に聴こう
[以下は『日刊建設工業新聞』1月26日号の「建設放談」欄に執筆した私の小論です]
「過ちては改むるに憚ること勿れ」(孔子)
2010.1.27(その2)
森田実の言わねばならぬ【75】
平和・自立・調和の日本をつくるために[75]
《新・森田実の政治日誌》[月満つれば欠く・小沢政治の終焉(13)]無意味な紛争を求めつづける小沢一郎〈その6〉小沢・鳩山・菅トリオの反官僚主義・反産業主義への警告
「われわれは人に忠告するときには賢い、しかし自分の過ちには気づかない」(エウリピデス)
2010.1.27(その1)
森田実の言わねばならぬ【74】
平和・自立・調和の日本をつくるために[74]
《新・森田実の政治日誌》民主党の非民主主義政党への転落を憂慮する【3】小沢・鳩山体制は政権交代を推進した国民の期待を裏切った/小沢独裁・国民生活 破壊・地方切り捨て政治・日本経済縮小政策に強く反対する〈その3〉鳩山内閣は、いまの日本にとって最も大切な雇用問題と技術革新に鈍感すぎる
「文明のおかげで人間がより残虐になったとは言えないまでも、たしかにそれ以前よりはその残虐さが醜悪になったとは言える」(ドストエフスキー)
ps理論と生命科学:Media Pointにおける差異共振的細胞形成?
テーマ:生命科学/遺伝子問題
これは興味深い。ps理論を裏付けるのではないか。
 遺伝子を超越的差異として、Media Pointで結合(共振融合)させるのである。そうすると、新しい細胞+1が形成されるのではないだろうか。
皮膚→神経細胞に、iPS細胞使わず作製…米研究チーム
簡便な再生医療、期待
 iPS細胞(新型万能細胞)を使わず、マウスの皮膚細胞から直接、神経細胞を作り出すことに、米スタンフォード大の研究チームが成功した。神経以 外にも様々な組織や臓器の細胞を作り出せる可能性があり、人に応用できれば、iPS細胞よりも安全で簡便な方法として再生医療などに役立ちそうだ。28日 付の科学誌ネイチャーに発表する。
 研究チームは、マウスの神経細胞ができる時に働く遺伝子19種類を選んだ。うち3種類を同時に生後3日のマウスの皮膚細胞に入れると、細胞の形が変化し、約10日後には色々な種類の神経細胞になった。
 国立成育医療センター研究所の阿久津英憲・生殖技術研究室長は「鍵になる遺伝子がわかれば、どんな細胞もできることがハッキリした」と高く評価。遺伝子の組み合わせを変えれば、神経以外にも様々な細胞を作り出せる可能性がある。
 細胞を受精卵に近い状態に若返らせるiPS細胞を再生医療に使う場合、患者への移植まで最短2か月かかるうえ、腫瘍(しゅよう)ができやすい。今回の方法では若返りは起きていないとみられ、iPS細胞の課題をかなり解決できる一方、細胞を大量に増やせないなどの欠点がある。
 山中伸弥・京都大教授の話「人の細胞でも可能かどうかなど、さらに検討が必要だが、今後の発展次第では(再生医療や創薬に)使える可能性がある」
(2010年1月28日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/science/news/20100128-OYO8T00324.htm


皮膚から神経細胞作製=iPS経ず、遺伝子導入で直接変換−マウスで成功・米大学
  マウスの皮膚細胞に3種類の遺伝子を導入し、神経細胞に直接変えることに成功したと、米スタンフォード大の研究チームが28日、英科学誌ネイチャー電子版 に発表した。ヒトでも試みており、成功して安全性が確保されれば、パーキンソン病やアルツハイマー病などのメカニズム解明に役立つほか、再生医療に応用で きる可能性もあると期待される。
 山中伸弥京都大教授らは、マウスやヒトの皮膚細胞へ3、4種類の遺伝子を導入し、身体のあらゆる細胞に変わる万 能細胞「人工多能性幹(iPS)細胞」に変えてから、神経細胞に分化させていた。今回の方法は、iPS細胞を経由するより早く、効率良く神経細胞を作れる ほか、iPS細胞のように多様な細胞に変わったり、盛んに増殖したりする能力がないため、がん化のリスクが少ない利点があるという。
 身体の体細胞を遺伝子導入で別種の体細胞に変える研究は、米ハーバード大チームが昨年、膵臓(すいぞう)で消化液を分泌する外分泌細胞を、インスリンを出すベータ細胞に変えることにマウスで成功した例などがある。
  スタンフォード大チームは、マウスの胎児や、成体の尾の皮膚から採取した線維芽(せんいが)細胞に、「Ascl1」と「Brn2」、「Myt1l」の計3 種類の遺伝子をレンチウイルスを使って導入。神経細胞に変え、「誘導神経(iN)細胞」と名付けた。試験管内で、iN細胞同士がシナプスでつながり、機能 することも確認した。(2010/01/28-10:09)
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010012800247

気とうつ病
テーマ:検討問題:思考実験・仮説
うつ病の内因については既述した。近代/ポスト・モダン病である。
 しかし、エネルギーが枯渇することを考えると、気が欠如していると見ることもできよう。
 大都市、とりわけ、東京は危険である。「気枯れ」(穢れ)都市である。
 また、メディア・エネルギーを考えると、情感の欠落も考えられる。豊かな情感がないために、活気が出ないのである。

減価通貨は賞味期限通貨:有効期限付き通貨
テーマ:シルヴィオ・ゲゼル『自然的経済秩序』
私は芸術も賞味期限があると思う。もっとも、古典と呼ばれるものは、賞味期限がないだろう。普遍性を獲得しているからである。
 しかしながら、多くの作品は賞味期限切れなのではないだろうか。
 とまれ、私が言いたいのは、やはり、通貨も賞味期限切れがあるということである。通貨に賞味期限を記入すればいいのである。一万円札に、例えば、「賞味期限」、平成23年1月28日と記入してあればいいのである。まぁ、有効期限であるが。

追記:交換価値主義の勘違いは、普遍性とは、Media Pointにあるのに、⇒+1の+1が普遍・一般的と考えていることである。+1とは、身体で言えば、死体である。これは腐敗するのである。あるいは、刺し身である。早く食べないと傷むのである。
 ミイラ崇拝の交換価値主義である。ゾンビ主義である。

五大(地水火風空)
テーマ:検討問題:思考実験・仮説
先に象限と関連させたが、やはり、以前述べたように、+iを風、-iを水、+1を火、-1を地、Media Pointを空とする方がまだ妥当性があるだろう。

凶悪犯罪を防ぐために:サンクチュアリーの建設へ
テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構築
私は、浮浪者を含めて、一般的な社会から外れた人のためのサンクチュアリーを作るべきだと思う。
 いわば、アウトローのためのサンクチュアリーである。彼らは立ち直れば、凡人以上の能力を発揮するはずである。
千葉大生殺害、カードで現金引き出し容疑で再逮捕
読売新聞 - ‎3 時間前‎
千葉県松戸市の千葉大園芸学部4年荻野友花里さん(当時21歳)が殺害され放火された事件で、松戸署捜査本部は27日、荻野さんのカードで現金自動預け払 い機(ATM)から現金を引き出すなどしたとして、住所不定、無職 竪山 ( たてやま ) 辰美被告(48)(強盗 強姦 ...

窃 盗容疑で48歳男を再逮捕=千葉大生殺害放火事件
時事通信 - ‎3 時間前‎
千葉大生荻野友花里さん=当時(21)=殺害放火事件で、千葉県警松戸署捜査本部は27日、荻野さんのキャッシュカードで現金を引き出したとして、窃盗な どの疑いで、住所不定、無職竪山辰美容疑者(48)=強盗致傷罪などで起訴=を再逮捕した。荻野さんに関する事件で ...

千葉大生殺害:窃盗容疑で男再逮捕、カードで現金引き出す
毎日新聞 - ‎6 時間前‎
千葉県松戸市のマンションで昨年10月、千葉大4年、荻野友花里さん(当時21歳)が殺害され自室が放火された事件で、県警松戸署捜査本部は27日、荻野 さんのキャッシュカードで現金を引き出し盗んだとして、千葉地検が別の強盗傷害罪で同日起訴した住所不定、無職、 ...



2010年01月27日(Wed)▲ページの先頭へ
民主主義的理想主義の愚劣さ:先ず軍事的現実を踏まえるべきである
テーマ:ニッポン亡国の凶相:売国奴と愚民による

保坂氏がこんなに馬鹿とは思わなかった。左翼主義がやはり、愚劣なのである。
 私はトランス・モダン民主主義を唱えるが、それは、現実主義である。軍事的現実に対して、民主主義的理想主義は愚劣である。
 まず、軍事的現実に対処する必要があるのである。その後で、民主主義的理念が問題になるのである。
 そう、民主主義は一種イデオロギーに過ぎない。

追記:やや短絡的なので、少し補足説明がいるだろう。つまり、民主主義とは言え、それは、国家権力が代表するのである。そして、国家は国家間の外交に責任をもつ。この場合、軍事力学も当然関わる。つまり、民主主義国家において、国際関係力学の視点が重要なのであり、単に、地域の民意が国家権力の重要な国際関係力学を支配するようなことがあってはならないのである。
 つまり、地域レベルと国家レベルでは、後者の方が優位にあるということであり、劣位である前者の意向を絶対的に肯定することは誤りである。

************************

激戦の名護市長選挙で、稲嶺進候補(社民・民主・共産・社大、・そうぞう推薦)が、島袋吉和候補(現)を 1600票差でうち破った。SACO最終合意(96年12月)から13年、名護市民を二分して引き裂いた「新基地問題」の決着はついたと言っていい。鳩山総理も、「ブッシュ追随米国提灯持ち」や、外務省に色濃い米国絶対主義や防衛省の主張する「辺野古以外にない」という圧力に屈しなくてよかった。12月半ばに踏みとどまって考えるという政治決断は正しかった。

 安保・防衛問題を「名護市長選挙」に委ねていいのかという安全保障のプロを自称する人たちに教えてあげたい。「基地を受け入れるかどうか」の住民の意志はすでに12年前に表示されている。それが、「海上ヘリ基地建設」の是非を問う「名護市民投票」(1997年12月)だった。ここで、反対多数であることをもって民意の結論とせずに、市長選挙で当選(1998年2月)した容認派の岸本建男市長が「受け入れ」へのハンドルを切り、迷走が始まった。さらに「受け入れ拒否」の姿勢を決めた大田昌秀知事が、容認派の稲嶺恵一氏に知事選挙で破れ(98年11月)、辺野古新基地は「海上ヘリ基地」から「埋め立て飛行場案」に変わる。

 あれから12年が巡ってきた。そう、沖縄県知事選挙は11月にある。寝ても覚めてもアメリカを見ながら、「日米同盟」「安全保障」で飯を食ってきた安保屋の皆さんに欠如しているのは「沖縄県民の意志」である。名護市長選挙に続いて、沖縄県知事選挙も「新基地建設反対」の与党連合を中心とした候補が勝てば、辺野古は100%消える。地元自治体の市長が「受け入れ反対」を掲げ、県知事も同調すれば「強権着工」するわけにはいかない。
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/2b427ec0f2d18d97854c2a996ff095cb

普天間移設、法的決着も=地元拒否時の対応に言及−平野官房長官
 平野博文官房長官は26日午後の記者会見で、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題について「(地元が)合意しなかったら物事が進まないということか。そこは十分検証したい。法律的にやれる場合もあるだろう」と述べ、新たな移設先の自治体が受け入れに応じない場合は、法的に決着させることも可能との見解を明らかにした。(時事通信)
[記事全文]

・ 普天間、地元合意なしも 官房長官が法的決着に言及 - 47NEWS(1月26日)

安保50周年 共同声明 米が格下げ要請 「普天間」の影響避ける
 【ワシントン=佐々木類】日米安保条約改定署名50周年で両国が発表した共同声明をめぐり、米政府が事前に、首脳同士ではなく外務・防衛両閣僚の連名に「格下げ」するよう日本側に打診していたことが分かった。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題で、県外への移設を模索する鳩山由紀夫首相が代替施設をキャンプ・シュワブ沿岸部(同県名護市)に建設するという現行案を破棄した場合、オバマ大統領の政権運営に影響が出ると判断したためだ。鳩山政権に対する米政府の不信感が重要文書の作成に影響を与えた形だ。(産経新聞)
[記事全文]


2010年01月26日(Tue)▲ページの先頭へ
カルマ論と自然的霊性(自然美術)
カルマ論と自然的霊性(自然美術)

テーマ:新霊性new spirituality

以下、東海アマ氏の霊学である。これは、カルマ論であり、基本的には仏教思想である。シュタイナーもカルマ論を説いていた。
 私もカルマ論に近い考えをもつが、でも、と思う。果たして、地球は単に地獄の星なのか。私にとっては、自然はとても美しい。もっとも、人間は度し難いところがあるが。
 このギャップは何なんだろうか。今、地元で、箒状に広がる落葉した森の木々を見るが、私には、美術である。自然アートである。
 そして、それらは、スピリチュアルである。そう、自然はスピリチュアルである。これは、通俗的なそれではなく、感覚・身体的な霊性である。気的霊性である。
 思うに、西洋文明、ユダヤ・キリスト教西洋文明はこの自然的霊性を徹底して破壊してきたのである。
 その結果がマネー・ゲームや唯物論である。(ヤハウェは、貨幣神、物質神である。)
 今日の黙示録的危機は、大局的には、自然的霊性を復活させて、この西洋文明を超克することで脱することができるだろう。
 日本人、戦後日本人は、まったく西洋文明に染まりきって、日本・東洋的な自然的霊性を喪失してしまったのである。アンラ・マンユ(悪霊)に支配されているのである。

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★ 2010年01月26日火曜日 7時半更新

■ 中津川五名殺害事件、無期判決 報復制裁によって国民の恐怖支配を狙う検察がつまずいた

 【岐阜・中津川の家族6人殺傷、2審も無期判決 1月26日10時13分配信 読売新聞
 岐阜県中津川市で2005年2月、家族6人を殺傷したとして、殺人罪などに問われた、市老人保健施設の元事務長、原平被告(62)の控訴審判決が26日、名古屋高裁であった。片山俊雄裁判長は、「主観的だが精神的に追い込まれた末の一家心中事件で、極刑には躊躇(ちゅうちょ)が残る」と述べ、無期懲役とした1審・岐阜地裁判決を支持し、死刑を求刑した検察側と、有期懲役を求めていた弁護側双方の控訴を棄却した。 検察側は「一家心中ではなく、世間体を気にして家族を皆殺しにしようとした短絡的な犯行」として、改めて死刑を求刑していた。 片山裁判長は1審同様、一家心中の側面がある事件と判断。「母が妻に嫌がらせを続けたため、精神的に追いつめられた面は否定できない」とも指摘し、無期懲役が不当ではないとした。
 控訴審から死刑を求めた娘婿の藤井孝之さん(44)の処罰感情については、「原被告の今後の対応で緩和の余地があり、重くとらえるべきではない」とした。
 判決によると、原被告は05年2月27日、かねてから、嫌がらせを受けて憎んでいた母・チヨコさん(当時85歳)を自宅で絞殺。長男・正さん(同33歳)や、長女・藤井こずえさん(同30歳)、その長男・孝平ちゃん(同2歳)、長女・彩菜ちゃん(同生後21日)の5人を殺害し、孝之さんを刃物で刺して、2週間のけがを負わせた。犯行後、原被告は自分の首を包丁で刺し、自殺を図った】

● 5年前、普段は静かな中津川市街にとどろき渡ったヘリの爆音に「いったい何事が起きたのか?」と筆者も驚いたが、戦後、この地域での殺人事件など聞いたこともなかった地元の人間にとって、続いた殺人事件は大きなショックだった。(もう一つは2006年4月地元中学生女子殺人事件)
 翌年、かのハラタイラが死亡したのも、この事件にショックを受けてではなかったか? と余計な推量をしたほどだ。
 筆者は、常々、「人間は元々アホである!」と主張してきた。完全無欠のマトモな人物など、この世に存在しないのだ。この地球に誕生する人々は、みんな救いのないアホばかりであり、その愚かさを肉体によって思い知ることこそ、この世に産まれる本当の理由と筆者は考えてきた。

 「地球は苦悩の惑星である」
 これは、ある霊的存在からのメッセージであり、地球に産まれる人間は、よほど物好きで、深刻なカルマの持ち主ばかりということらしい。箸にも棒にもかからないアホだけが人間となり、人を傷つけ、己を痛めつけ、バカを繰り返し、泣き騒いで死んでゆく。いわば、宇宙における一種の地獄星なのであり、「囚獄星」ともいわれている。筆者も、その一員であることに恥じ入るばかりだ。キリストや釈迦だって、ホントは相当に欠陥人間だったらしい。孔子やムハンマドに至っては、現代にまで強烈な影響を及ぼしている人類史上の極悪人であって、ルシファーの分身というしかない。

 すべての人は、生きているうちに、必ず何度も同じ過ちを繰り返す。人の罪を憎む人は、必ず同じ罪を人に対して行うことになっている。人をバカにした人は、必ず自分がバカにされることになり、今死刑を執行される人は、実は前世で死刑を要求した人である。これが宇宙を貫く「因果応報」の原理である。
 ハラタイラ氏は本当に愚かな男だ。自分の苦悩の腹いせに何の罪もない家族まで殺害してしまった。しかし、これは心の病気であった。我々は、病気によって罪を犯した人までも制裁してはいけないのである。もし彼を制裁し処刑する者がいるなら、彼は来世、ハラ氏の運命を味わうことになるだろう。

 犯罪というものは、すべて心の病の結果であって、本当は病気なのだ。また、死刑制度容認者たちの「罪を憎み、復讐し、制裁する」という考え方自体も実は心の病気なのである。本当に正しい、カルマから解放された司法というものが存在するとするなら、それは「罪」という言葉を「過ち」という概念に置き換えなければいけない。
 この世には罪は存在しない。過ち、病気しかないのだ。それは制裁されるのではなく「治療」されねばならないのである。
 人類が、この境地に達したとき、はじめて地球は地獄・囚獄を脱し、楽園に生まれ変わるだろう。

東海アマチュア無線  地震予知研究会


2010年01月25日(Mon)▲ページの先頭へ
普天間基地移設問題:トランス・モダン日本国家新戦略:米中間のMedia Point国家
普天間基地移設問題:トランス・モダン日本国家新戦略:米中間のMedia Point国家

テーマ:沖縄/米軍基地/日米関係/日米安保問題

思うに、沖縄の人には申しわけないが、いったんここでは、米国に折れて、現状案でいくべきである。そして、今後のこと(米軍基地の脱沖縄化、等)を米国と相談すべきである。
 もっとも、日本国の戦略が必要である。中国と米国の狭間において、Media Point国家となり、両者と差異的に共鳴する路線を取るべきである。

首相「5月末に必ず結論」 現行案も検討、普天間問題
 鳩山由紀夫首相は25日午前、沖縄県名護市長選で米軍普天間飛行場を名護市辺野古に移設する現行計画に反対する新人稲嶺進氏が当選したことを受けて、選挙結果を「一つの民意」と受け止め、移設先については従来の方針通り5月末までに決める考えを重ねて強調した。平野博文官房… [記事全文]

(01/25)〔普天間〕平野官房長官が「辺野古への移設はありうる」 
低気温のエクスタシーbyはなゆー


2010年01月24日(Sun)▲ページの先頭へ
資本主義の他者(共同体)性の実効化のために:共同価値の法律化:共同資本主義へ
以下、思考実験である。

資本主義は、近代資本主義は、同一性価値を中心化している。しかるに、実態は、共同生産なのである。しかし、商売によって、交換価値が入り、それを指標とし、実態、本体を忘却するのである。
 これは、⇒プラス1のプラス1の交換価値を指標にして、マイナス1を忘却するということである。
 そうすると、単純に見て、マイナス1の価値を導入すべきであるということになろう。これは、ゲゼルの減価通貨、減衰通貨、消滅通貨になるかもしれない。
 とまれ、資本主義の共同(協同)生産であるが、それは、どう表記されるのか。それは、プラス1であり、マイナス1ではないのか。製品、商品はプラス1であるが、同時に、それは、マイナス1である。
 このマイナス1の価値が交換価値には出てこないのである。いわば、ダーク・マターならぬ、ダーク・マネーである。(言葉が悪いなら、シャドウ・マネーである。)
 とまれ、マイナス1が評価されないために、資本主義は暴走するのである。
 これは、共同価値(協同価値)とも言えよう。思うに、交換価値と共同価値の二重性があるのであり、企業は売買で生んだ利益(プラス1)を、共同価値で裏付ける必要があるだろう。つまり、共同価値を明記して、共同価値的配分が必要となるだろう。
 ここでは、資本家、経営者、勤労者がそれぞれ、差異であり、差異共振価値が共同価値である。(また、自然環境や社会環境も考慮すべきである。)つまり、利益とは、資本家(株主)だけのものではありえないのである。
 差異である勤労者も科学的に評価しなくてはならないのである。もっとも、トランス・モダン科学的にではある。
 とまれ、共同価値評価を法律化すべきである。これを普遍化しないと、同一性価値を追求する企業が支配的になるからである。


シュタイナー霊学の問題:アストラル体(情感)とエーテル体(気):M.P.が生命である
この問題は既に何度か試論したが、まだ、明晰な解明には至っていないので、あらためて検討したい。
 簡単に言うと、情感と気の問題、両者の関係の問題である。既述したように、また、当然であるが、情感は精神に、気は身体に関係する。しかしながら、情感と気は無関係ではないと直感される。
 端的に言えば、自然が残る地の大気には、気があり、それが、身体と共鳴する。そして、その地の景色等とは気視覚を通して、一体感の情感が生成しうる。このとき、気と情感がつながっていると思われる。
 思うに、端的に言えば、両者はともにMedia Pointの様態であり、ただ様相ないしは質に違いがあるということではないだろうか。情感の方がより「高度」であり、気はより「低度」であるということではないだろうか。
 ということは、Media Pointに多様性、多層性を見るということである。そして、情感と気は、そのいわば、顕著な様態ではないだろうか。あるいは、極性ではないだろうか。
 言い換えると、Media Pointの「高層・上層」では情感が、「低層・下層」では、気が作用しているのではないのか。
 今は、そのように作業仮説しておく。
 
追記:とまれ、
Multiple Resonance Mode of Media Point が生命であるということになる。プラトンの「不滅の魂」もこれになるのではないだろうか。
 思うに、エネルゲイア化したものが、生命体(生命的有機体)であり、デュナミスが霊魂・イデアではないだろうか。


2010年01月22日(Fri)▲ページの先頭へ
「規制」という概念:自由極と共同体極のトランス・モダン・ポリティカル・エコノミー
一般には、近代主義の二元論的思考が主導的なために、自由主義に対する規制が問題にされるのだろう。とりわけ、米国では。
 しかし、経済を自由極と共同体極(社会極)の即非的極性力学をもつと考えると、「規制」という概念は、不十分である。自由の志向性と同時に、共同体の志向性があるのであり、自由中心主義では、経済は成り立たないと言えるが、自由主義経済はそれを無視して、暴走してきたのである。とりわけ、ポスト・モダンである新自由主義は。
 しかしながら、日本におけるように、国家的規制(社会主義的規制)が強いと、自由極は抑圧されているのである。
 だから、日本においては、米国と逆に、自由極を強化する必要があると言えよう。もっとも、共同体極の志向性も重要であるのは当然であるが。
 とまれ、政治は、この両極を指導するものでなくてはならない。
 思うに、利益という概念に問題がある。自由極の価値と共同体極の価値を見るべきではないだろうか。それらは、利益という指標ではわからない。
 とまれ、自由価値と共同体価値の二重の価値の視点から企業を評価すべきではないのか。
 利益とは、前者的な指標であり、今日、後者の指標がないのである。
 だから、法律化して、共同体価値の指標を設定すべきであり、そこから、企業の総合的価値を判断すべきではないのか。
 例えば、どれだけ、共同体価値に寄与したを透明化するのである。つまり、共同体投資、共同体贈与の質と量の価値の明記である。
 これに応じて、税金を控除等するのである。また、株式も改変して、企業の自由価値と共同体価値の両面から判断するものとなるべきである。自由共同体株式市場である。
 後で、さらに検討したい。


2010年01月21日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:視覚と植物と大気:気覚と気視覚
近くに落葉広葉樹の森があり、また、農地もある。しかし、国道があり、車の通行も多い。それにもかかわらず、ここの空気・大気には、清新な気を感じる。
 ここで仮説として、気的感覚(以下、造語の気覚)を提起する。それは、当然、空気の気を感覚する能力である。
 これは、視覚がなくても、いわば、肌で感じるものである。
 思うに、木々をみるとき、都会と田舎(郊外を含めて)では異なる。視覚から言えば、都会の木々も田舎のそれも、絶対的には異ならない。もっとも、葉の生気感や色等が異なるだろうが。
 端的に、東京で見る樹木は、一体感が乏しい。もっとも、一体感がないことはない。駅前のイチョウの木に一体感を感じうるが、それは、限られた経験である。
 私は気覚の充足を求めているのだろう。東京の空気においては、気覚は充足されず、ただ、視覚がはたらく。
 そう、気覚が充足されないことから、息苦しさを感じると言える。
 今住むところでは、気覚が充足され、そして落葉した冬の木々を見ると、針のような枝が心地よい。
 気覚をもった木々の、とりわけ、網状の扇状の枝分かれした木々の視覚が心地よい。これを気的視覚(以下、造語で、気視覚)と言ってもいいだろう。気視覚は、「自然」と共振する。山、森、土、川、等。
 端的に、「気」とは何か。直感で言うと、大地の呼吸と関係すると思う。東京はコンクリートで大地が窒息しているので、気が欠乏していると思う。
 大地の呼吸とは、植物と水や空気を介したものだろう。土や植物から水蒸気や気体が発生する。そこに気があるのではないのか。
 H20は、水素イオンと酸素イオンをもつのではないのか。つまり、Media Point化しているのではないのか。そのときに、気が発生するのではないのか。
 つまり、大地の水がエネルギーを受けて、水蒸気になるとき、イオン化して、Media Pointが発生するのではないのか。そのとき、気が発生するということではないのか。
 熱エネルギーが再Media Point化が発生するということではないのか。これを
Re-mediapoint(re-mp)化
(Re-MediaPointenment)と呼ぼう。
思うに、このとき、超越エネルギーが生起するのではないのか。先に、超越光と呼んだものと類似するように思えるが。(もっとも、先には、気はマイナス1と考えたが、それはおいておく。)
 結局、エネルギーの再活性化ではないだろうか。水は、+1となっているが、賦活されて、Media Pointが開くのではないのか。
 つまり、虚軸のエネルギー、超越エネルギーが生起するのではないのか。ここで作業仮説で、気を超越波と呼ぼう。つまり、超越波が発生して、空気が活性化するのではないだろうか。
 これは、調和的電磁波と言えるかもしれない。プラスとマイナスの差異が共振した電磁波ということになる。階調的電磁波である。
 では、人工物の電磁波はどうなるのか。例えば、私はコンクリートの集合体が大嫌いであるが、その場合のコンクリートの電磁波はどうなるのか。
 そこへ光が当たっても、共振はないと思う。コンクリートは、プラス1だけであり、Media Pointはないと思う。物質である。そう、物質とは、Media Pointを喪失したものであり、エンテレケイアである。
 東京とは、物質の集合であり、気はないのである。唯物論の都市である。アンラ・マンユの都市であり、没精神の都市、悪魔の都市である。
 気は調和的電磁波と考えられるので、気が多いと、心身に調和志向をもたらすだろう。つまり、心において、精神性をもたらすと言えよう。
 今日、日本人が精神を喪失しているのは、ここにも原因があるだろう。とりわけ戦後の唯物論(近代合理主義)的都市化によって、気を喪失して、精神を失ったのである。三島由紀夫の断絃の時とは、このことと関係しよう。気は音楽をもたらすのである。気の喪失によって、音楽が死んだのである。

追記:気を調和的電磁波と言ったが、まだ、どこか、気と電磁波は異なるのではないという感じがある。それとも、私の偏見であろうか。後で検討したい。

参考:
氷・水・水蒸気…水の三態

私たちは日常の中で、水を冷やせば氷になり、氷に熱を加えると水に戻り、さらに熱を加えていけば水蒸気になることを当たり前のように体験しています。しかし、水は人為的な作用を加えずに、自然条件の中でも固体、液体、気体と姿を変えることができます。私たちにとって、水ほど当たり前のものもありませんが、実は水ほど不思議な物質もありません。水のもつ能力や謎には、いまだ解明できていない部分があります。
1. 水分子の構造

水の分子は、化学記号からわかるとおり水素原子(H)2つと酸素原子(O)1つが結合してできていますが、この水分子1つでは液体になりません。水という液体になるためには、水分子がたくさん連なることが必要です。物質を構成する分子と分子がつながるための力にはいろいろな種類がありますが、水分子の場合は酸素側がマイナスの電荷、水素側がプラスの電荷を持つようになり、いわば磁石のような働きを持っているために、正負で引き合う電気的な力によって結合します(水素結合)。この水素結合により、水分子間がつながり、水分子の集合(水クラスター)が形成されます。常温の水では、5〜6個から十数個の分子がクラスタを形成しています。
氷・水・水蒸気


http://www.suntory.co.jp/company/mizu/jiten/know/kn_01_01.html



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小沢民主党批判:日本は米国と中国のMedia Pointとなるトランス・モダン政策が必要だ
小沢民主党批判:日本は米国と中国のMedia Pointとなるトランス・モダン政策が必要だ

テーマ:ニッポン亡国の凶相:売国奴と愚民による

以下は、『ロシア政治経済ジャーナル』の北野幸伯氏の明敏な洞察である。
 小沢一郎氏の問題は、端的に、公私混同にあると思う。権力への意志が強く、そのため、自民党殲滅のため参院選で勝利するために、何でも利用しているのである。これは、本末転倒である。権力亡者である。
 これは、先に指摘したように、彼が近代主義者、近代合理主義であることに拠るであろう。即ち、二項対立、二元論的発想に拠るのである。そして、これは、今や完全に時代錯誤の反動的な発想なのである。端的に言えば、絶対的差異の思想が彼には欠落しているのである。
 そう、彼の発想には、民主党VS自民党、政治VS官僚、日本独立(東アジア共同体)VS日米同盟、等の二元論が支配しているということである。
 これは、正に、同一性の発想であり、差異が欠落しているのである。トランス・モダンとは、差異と差異を連携させることを主眼にしているのであり、小沢/鳩山民主党は、まったくそれが欠落しているのである。
 思うに、先にも述べたが、小沢・鳩山民主党政権は、「ロックフェラー路線」の表面・形式に従っている。これは、志向性において、ロックフェラー路線(戦争屋路線)である。これは、トランス・モダンではなく、モダン/ポスト・モダンである。オバマ政権のコアのトランス・モダン性を小沢・鳩山民主党政権が認識できるならば、今の近代主義的反動路線は取らないはずである。協調しつつ、独立・自立路線を取るはずである。
 今、日本の政治に必要なのは、中国と米国の狭間にあって(スキュラとカリュブディス)、両者と共振する政策である。そう、中国と米国のMedia Pointとなる立場である。

追記:小沢VS特捜部問題は、是非を言えば、後者の横暴があるだろう。しかし、前者は問題が多い。
 この「戦争」は日本にとり、最悪、絶望的である。小沢が勝利した場合、売亡国であり、検察が勝利した場合、ロックフェラー路線が日本を支配する。
 やはり、ずいぶん前にいった、ポスト民主党が真打ちであるが正しい。トランス民主党である。
 しかし、トランス・モダン路線を理解できる政治家が日本にいるのか? この問題が致命的である。

***********************

小沢さんの動きを追ってみましょう。

まず、「政権交代」が実現した直後から、この人の動きは「売国的」で
した。

たとえば、外国人参政権問題について。



< 小沢氏は政権交代直後、李大統領の実兄でハンナラ党国会議
員の李相得(イサンドク)氏に「何とかしなければならない。通常国会
で目鼻を付けたい」と言明。

12月のソウル市内での講演では「日本政府の姿勢を示す意味でも
政府提案として出すべきだ」と強調した。

与党内では昨年の臨時国会に議員立法で提出する動きもあったが、
小沢氏は党議拘束がかかり「所属議員が反対しにくくなる」(中堅議
員)政府提出法案とする意向を鮮明にした。>

(産経新聞 1月13日)




どうですかこれ?

RPEでは選挙前から、

1、外国人参政権 
2、3K移民大量受け入れ
3、東アジア共同体

の三つで、「日本は中国の小日本省になる」とし、反対しつづけてき
ました。

http://archive.mag2.com/0000012950/20100120202251000.html

参照:
▼外国人参政権は、日本ではなく韓国・中国のため 子どもでもわかりますが、「外国人に参政権」を与えるのは「日本の 国益」と全然関係ありません。 むしろ、参政権を与えられた外国人が結託し、「反日的政策」を推進 すれば、国益は大きく損なわれるでしょう。 では、なぜ民主党はこんなバカげたことをするのでしょうか? 鳩山さんは、永住外国人は「税金を納めている」「地域に根付いてい る」から、参政権“くらい”与えるのは当然だ!と語っておられます。 しかし、税金を納めていること、地域に根付いていることと、参政権は 全然関係ありません。 参政権が欲しければ、日本国籍を取得し、正式に日本人になればい いのです。 鳩山さんは「宇宙人」ですので、心から上記のことを考えておられるの かもしれません。 しかし、信念をもって外国人参政権付与を推進しているのは小沢さん です。 で、小沢さんは、なんでこれをしたいの? 日本の国益や日本国民のためではなく、 韓国政府のため ~~~~~~~~~~~~~~~~~ であると自ら語っておられます。

<参政権「韓国の要請」 民主・小沢氏、政府提案望む ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 11月17日7時56分配信 産経新聞  民主党の小沢一郎幹事長は16日の記者会見で、永住外国人への 地方参政権(選挙権)付与法案について 「韓国政府サイド、在日の方々からも要求が非常に高まってきている」 と述べ、法案推進の理由に 韓国側の要請があることを認めた。> ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

では、小沢さんはなぜ韓国政府のいうことを聞いているのでしょうか? これは、彼が現在おかれている立場を考えればわかります。 長年の努力により、ようやく「政権交代」を成し遂げた小沢さん。 現在の願いは、 1、自民党を万年野党にしてしまうこと 2、民主党を永久与党にすること 3、そして、自分が日本国を支配すること であるでしょう。 それと、韓国とどういう関係があるの? 民主党が在日韓国人に参政権を与えれば、民主党支持者が40万人 増えると考えているに違いありません。 (念のために書いておきますが、私は在日の皆さんに何のうらみもあ りません。私情と国益は分離して考える必要があります。)

http://archive.mag2.com/0000012950/20100113183646000.html
ロシア政治経済ジャーナル

参考:

・小沢一郎VS検察最終決戦 問われるべきは「小沢革命政権」の正体(下) (01月20日08:00)
・小沢一郎VS検察最終決戦 問われるべきは「小沢革命政権」の正体(上) (01月19日08:00)
・鳩山内閣のイエメンODA 7億円追加 拉致事件解決金の仕分け(下) (12月30日08:00)
・鳩山内閣のイエメンODA 7億円追加 拉致事件解決金の仕分け(上) (12月29日08:00)
・オリックスもSFCG化? 営業推進役制度改定で見えるその内情(下) (12月22日08:00)
・オリックスもSFCG化? 営業推進役制度改定で見えるその内情(上) (12月21日13:00)
・小沢発言は日本を危機にさらす 2つの重大発言(下) (12月18日08:00)
・小沢発言は日本を危機にさらす 2つの重大発言(上) (12月17日08:01)
データ・マックス


2010年01月20日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:「光」の複雑性:Media Point/精神的フィルターの複合様相について
思考実験である。
 Media Point(以下、mp)の虚軸において、超越光が発生すると仮定する。それがmpの実軸において、現象光(通常の光)を発生させると仮定する。
 問題はジェンダー的視点である。父権的視点では、+iに傾斜して、-iが抑圧される。それが、父権的プラス1の意味である。
 しかるに、母権的プラス1は、本来、マイナス1を排除せずに、内包、包摂している。つまり、高純度の場合、母権的認識とは、即非的認識になると考えられる。これは「+iであり、且つ、-i」であるということであり、その結果、プラス1とマイナス1を共立させているということと考えられる。そのときのmp は、「心」である。
 しかしながら、プラス1とマイナス1も即非的様態である。例えば、プラス1である粒子は、マイナス1である波動であるということになるだろう。(即非子である。しかしながら、即非子総体は四元ないしは五元的と見るべきである。+i,-i,+1, -1、ないしは、それにmpが入るからである。)
 さて、本題を続けると、mpの虚軸(以下、imp)において、超越光が生起し、それが、mpの実軸(以下、rmp)に転移して、現象光(+1)が発生する。しかしながら、同時に、不可視光(−1)が発生する。そして、両者は即非的様相ないしは、共立様相にある。
 心眼というとき、それは、不可視光に関わる。また、勘とか、直感も不可視光に関係しよう。(女性の勘が鋭いのは、ここに拠るだろう。)
 そうすると、「光」は、超越光と現象光と不可視光が少なくともあることになる。
 しかし、+iは原光であり、-iは原闇である。原闇も「光」に入れると、五つの光があることになる。
 思うに、超越光がmpの中心にあるのではないだろうか。つまり、超越光の反映・投影がmpに存するのではないだろうか。それが、現象光と不可視光の即非的様相を生んでいるのではないだろうか。
 私が先に、「光の中の光」と言った超越光は、かすかに、mp、即ち、「心」を介して、視覚できるのだろう。
 また、絶対的超越光と現象的超越光が区別できるのではないだろうか。そうすると、六つの光がある。
 また、両者を即非化してみれば、即非的超越光があり、七つの光となるのではないだろうか。
 
追記:上記のジェンダー的視覚の確認であるが、父権的視覚は+iの傾斜があり、そのため、他者-iを圧迫する。母権的視覚は本来、傾斜はなく、+iと-i の均衡がとれている。
 
追記2:マクロコスモスはimpで、ミクロコスモスはrmpであろう。もっとも、mpが共通である。
 では、メゾコスモスである社会はどうなるのか。物質的社会が+1で、共同体社会が-1である。この現実的対立が常に発生しているのがメゾコスモスである。
 ミクロコスモスにおいては、ある時に、調和の時(悟り)をもつが、メゾコスモスには、ほぼ永遠の闘争があると言えよう。
 しかしながら、+iの父権的傾斜による+1を中心価値とする近代文明は今や解体期である。
 他者である-iが正当な評価を求めているのである。それは、+1と−1との調和を志向する。それは、父権的物質文明を基礎とした新母権的共同体文明となろう。
 いわば、ヤハウェが踏み台となる多神教的文明である。
 ここで、「父」の問題がある。ヤハウェは本来、義父的である。実父とは、impの超越光であろう。それは、アフラ・マズダーである。つまり、実父が帰還するのである。だから、新母権・新父権文明である。

追記3:「心」の問題であるが、いわゆる、「心」は、マイナス1であり、同一性知性はプラス1である。本来の頭脳とは、両者の対話に存しよう。


2010年01月18日(Mon)▲ページの先頭へ
トランス・モダン・ジャパンへの相転移
野口悠紀雄氏の説明はそれだけをとれば明快であるが、個・差異を考えていないと思う。日本という国の経済の個・差異があるのであり、それを無視して、一律に欧米の産業構造と比較して論ずるのは、誤りである。

 野口氏は、日本では、製造業の利益の落ち込みが大きいことを指摘して、その原因として産業構造の転換が遅れたことを述べている。

 思うに、これからは、日本の産業の技術を新興国に「売る」べきなのである。産業の知識や技能の商品化や現地に技術者や製造者の出張である。

 また、国内では、食糧自給のために、農業と技術との融合を展開して、有機的農業、還元的農業を進展すべきである。

 地域都市・農業(農林水産業)共同体(地域複合共同体)を形成すべきである。都市と自然の融合こそ、目指すべきである。そのためには、資本家は地域共同体に投資や贈与をすべきである。

 思うに、地域複合共同体法を作り、税制を変革して、資金が地域共同体へ還元するようにするべきである。自然都市的地域共同体資本主義の道である。


***********************


野口悠紀雄 未曾有の経済危機を読む
経済危機の回復から取り残される日本、 最大の原因は製造業‥
経済危機の回復から取り残される日本、
最大の原因は製造業が抱える深刻な後遺症

 前回 、日本の製造業の利益の落ち込みが激しいことを述べた。経済危機による利益の落ち込みは全産業で見られた現象であるが、製造業がとくに大きな影響を受けたのである。

 法人企業統計 の速報値を用いて、四半期の経常利益(季節調整済み)を見ると、【図表1】のとおりだ。非製造業は、2007年頃に8兆円程度だったものが6兆円程度に落ち込んだに過ぎないのに対して、製造業は7兆円程度であったものが、1兆円程度にまで減少している。

 ところで、四半期の売上高(季節調整済み)を見ると、【図表2】に示すように、非製造業も製造業も、07年頃に比べて2割程度減少しており、大きな違いはない。「売上高は製造業も非製造業も同じような率で落ちたにもかかわらず、利益の落ち込みは製造業がはるかに激しい」というのが、重要な点である。非製造業では売上の減少にほぼ比例して利益が落ちたのに対して、製造業では売上の減少率に比べて利益の減少率が大きいのだ。

なぜ製造業の利益の落ち込みが激しいのか?

 以上で見たのは利益の額であるが、粗利益と営業利益の売上高に対する比率について、製造業と非製造業を比較してみよう(【図表3】参照)。

 非製造業においては、粗利益の売上に対する比率は、経済危機のなかでむしろ上昇しているのである。これに対して、製造業においては、粗利益の売上に対する比率は、経済危機によって急激に下落している。前回 述べたように、これが営業利益率を低下させた主要な要因だ。つまり、非製造業は、売上減に対して売上原価を比較的容易に調整できるのに対して、製造業はそうした調整が難しいということだ。

http://diamond.jp/series/noguchi_economy/10054/


2010年01月17日(Sun)▲ページの先頭へ
三つの路線:ロックフェラー路線と「ロックフェラー路線」と自由共同体路線
東京地検特捜部による小沢幹事長の資金団体「陸山会」の元秘書逮捕事件の政治力学については、特捜部は、ロックフェラー路線(戦争屋)であり、小沢一郎は「ロックフェラー路線」であると先に訂正的に述べた。
 それ以前には、小沢一郎もロックフェラー路線と判断した。この齟齬を説明しないといけない。(尚、その前は、「ロックフェラー路線」と言った。)
 JAL再生支援の方法を見ると、それは、売国・亡国路線であり、単純には、ロックフェラー路線に見える。そして、鳩山・小沢政権は、オバマ政権の環境帝国主義路線を踏襲している。これをどう見るかである。ここで、田中宇氏の隠れ多極主義の視点が役立つかもしれない。
 環境帝国主義路線は、ロックフェラー路線である。しかし、これは、「ロックフェラー路線」のオバマ政権の表面・表層でもある。これを、鳩山・小沢民主党政権はなぞっている。しかしながら、なぞると、売国・亡国路線になるのである。つまり、これは、米国の罠である。
 結局のところ、本家本元のロックフェラー路線が特捜部を駆動させているとすると、オバマ政権の「ロックフェラー路線」は、鳩山・小沢民主党政権を支援するという図式になるだろうが、「ロックフェラー路線」の表層はロックフェラー路線である。つまり、擬態である。そして、「ロックフェラー路線」=オバマ政権のコアとは、自由共同体路線、トランス・モダン路線である。
 この深層を鳩山・小沢民主党政権は見えているのか。


2010年01月13日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:社会共同体的自由経済のために:自由共同体法
D. H. ロレンスは二つの無限があると言った。「父」の無限と「子」の無限である。これは、同一性の無限と差異の無限と言えるだろう。
 ロレンスの発想とは逆になるが、近代合理主義は、前者を追求して、後者を否定してきたのである。
 近代自由主義経済はそのようなものであり、リーマン・ショックで崩壊した。(この問題は複雑なので、今は便宜的に簡略して触れる。)
 ロレンスは二つの無限が絶対的に対立し、それが、「聖霊」において、和解すると述べた。
 PS理論から言えば、それは、即非的様態である。これは、経済で言えば、即非的経済を意味する。社会主義、共産主義の失敗は、「子」の無限のみを求めて、「父」の無限を否定したことだろう。
 とまれ、「子」の無限を共同体主義志向(社会志向)としよう。結局、自由主義志向と共同体主義志向という絶対的対立の調和が必要なのである。それが、自由・共同体主義である。それは、即非的経済である。「聖霊」的経済である。
 問題は、自明ながら、自由主義経済の勝者が、徹底的に敗者を捨て去ることである。ここが短絡的なのである。確かに、自由競争で勝者、敗者が生まれる。生存競争である。それは、しかし、一面である。
 簡単に考えれば、勝者は明日の敗者である。ここを考えなくてはならない。
 自由主義経済を進展させるには、敗者のための社会制度が必要なのである。これが一点である。
 次に、先に述べたように、自由主義経済は、商品を売らないといけないので、購買力のある消費者が必要である。だから、自由主義経済は勝者が圧倒すると、成り立たなく経済なのである。ここで、共同体・社会的視点が必要なのである。つまり、自由主義経済は、必然的に共同体主義を必要としているのである。つまり、他者である。
 自由主義経済は、結局、既述したように、利益を共同体や社会(自然を含めて)に還元する必要があるということである。
 問題はその方法である。トランス・モダン自由共同体的還元方法とは何か。
 思うに、差異的なピープルが自由共同体社会を形成すべきなのである。確かに、国家は国家としてあるが、それとのは別に、自由共同体社会を形成すべきだと思う。
 思うに法律を作り、自由共同体への還元を優遇するようにすべきである。税金の控除も考えるべきである。
 つまり、自由共同体法を作ることである。
 途中であるが、ここで留める。


2010年01月10日(Sun)▲ページの先頭へ
最後の審判:モダン・キャピタリズムの終焉とトランス・モダン・キャピタリズムの勃興
私の思念は、同一性が溶けるように消滅することである。

 同一性、即、融け、差異あれ!

ところで、同一性の原点はアンラ・マンユであるが、それが、ユダヤ教/キリスト教/イスラム教において、神になったと思う。
 唯一神とは、同一性神である。それは、近代的自我を生んだ。
 とまれ、近代資本主義の絶対的崩壊という形で、最後の審判が訪れると思う。

追記:補足というよりは、補正する必要がある。聖書には、これまで繰り返し述べたように、単にヤハウェだけでなく、エローヒーム(神の複数形)が存するし、キリスト教もイエスや聖霊が存するし、イスラム教のタウヒード(一性)は、Media Point的差異共振性に基盤があると考えられる。
 つまり、問題は、以上の啓典の宗教の一神教的側面、つまり、同一性主義が中心化していることなのである。
 だから、それらの宗教の脱同一性化が必要なのである。


2010年01月09日(Sat)▲ページの先頭へ
社会(共同体)的資本主義:トランス・モダン社会資本主義(共同体的資本主義)
社会(共同体)的資本主義:トランス・モダン社会資本主義(共同体的資本主義)
テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構築
久しぶりに、カトラー氏の論考を引用する。
 先に、社会経済の初歩を述べたが、資本主義の根本的欠陥は、社会ないしは共同体を無視していることである。近代的自我の利益を単位にした経済になっているのである。
 これは、パイの奪い合いゲームとなる。私はアダム・スミスの「神の見えざる手」が胡散臭いと思った。
 私は市場経済を肯定するものであるが、現場でのそれは問題があると思う。
 何故なら、社会ないしは自然的社会という文脈がありながら、それを無視して、同一性の自我を中心に市場経済を考えているからである。
 つまり、アダム・スミスは近代的自我ないしは、近代合理主義を基盤にして、市場主義的資本主義を考えていたということになる。
 それは、同一性(近代主義)の虚構である。何故なら、経済とは、常に、国家、社会、共同体という総体に関係しているのであり、それを無視した経済理論とは、虚構以外の何ものでもないからである。
 簡単に言えば、(自然的)社会があり、個人があるということである。
 しかるに、近代資本主義は、前者を完全に無視しているのである。これでは、恐慌が起こるのである。
 結局、社会的個人、共同体的個人という発想が必要なのである。そうすると、近代的自我的資本主義に替わって、社会的個人的資本主義、共同体的個人的資本主義が必然的に考えられるのである。それは、トランス・モダン資本主義である。自由共同体経済である。
 
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百年デフレと卵かけごはん(T・K・G)の味

日銀は1日、臨時の金融政策決定会合を開き、10兆円規模の新たな資金供給手段を急遽(きゅうきょ)導入することを決めた。金融市場に国債などを担保に期間3カ月の資金を年0.1%の固定金利で供給する。(産経ニュースより)

デフレが止まらない。
日本の消費者物価は99年度から下落を続けている。右に示した消費者物価の推移が、日本経済が置かれている状況を端的に表している。08年からエネルギー・資源価格の高騰などによって、総合指数は一時的に上昇したが、それを除けば、他の物品の価格は一貫して下落しつづけていることがわかる。右肩下がりのデフレが基調としてダラダラ続き、その下降線を間歇的にバブルが引きあげるという現象が繰り返されていることがわかる。
ここに示されている2000年以降のデフレとは、バブル崩壊後の「失われた10年」の延長としてあるのではなく、もっと構造的な変化がグローバルな規模で進行していると見るべきだろう。

グローバリゼーションが招いた百年デフレ

バブル崩壊以降に進行したのは、土地本位制の崩壊を前提とした「資産デフレ」であったが、2000年以降進行している物価の下落は、程度の差こそあれ世界の先進諸国において共通して見られるもので、グローバリゼションが根本的な要因である。
世界が市場として統一され、中国などの新興国に生産拠点が移転、安い労働コストとIT革命による生産性の向上によって大量の低価格の商品が国境を超えて怒濤のように流れ込むことになった。ユニクロが史上最高益をたたき出し、イオンが880円でジーンズを販売できるというのも生産拠点のグローバル化・海外移転と徹底した効率化を可能にしたIT革命がもたらしたものである。
同等の品質のものがより安く買えるようになるデフレは国内消費者にとって恩恵であると同時に、物価の下落が、経済収縮と賃金の下落を加速させ、さらにデフレが進行するというデフレサイクルを生み出す元凶にもなっている。

エコノミストの水野和夫氏は、現在、われわれが直面している、こうした「デフレ」を大きな歴史的転換点における構造的なデフレとして「100年デフレ」と名づけている。
水野氏によれば、歴史的に見れば、世界経済は以下に示すように4回の歴史的デフレを経験しており、現在は、その4回目のデフレに直面していることになる。

㈰14〜15世紀:モンゴル帝国崩壊による貨幣収縮
㈪17世紀:イタリアからオランダへの覇権移動
㈫19世紀:国民国家の統一
㈬21世紀:ソ連の崩壊と大競争時代

そして、世界的なデフレをもたらしている最大の要因が資本利潤率の低下にあると指摘している。
かつて、世界経済は、米国、欧州、日本の3極で構成され、先進諸国が生産する製品を購入するのもこの3極域内の消費者だったが、今や、日本や米国の消費者は、車や家など大型の耐久消費財を買わなくなってしまった。世界経済の最後の買い手といわれた米国民も、サブプライムローンの破綻に端を発するリーマンショック以降は消費を抑え、借金を返し、貯蓄率が上昇しつつある。かくして、資本は先進諸国に高い利潤をあげることのできる市場を見つけることが困難になってしまった。

日本の土地バブル、米国の住宅バブル、いずれも行き場のなくなった余剰マネーが、バブルとして噴き出したものだ。その背景には、先進諸国市場の成長力が衰退し、数パーセントの利回りを確保できる投資事業が、どこにも見当たらなくなってしまったことがある。

新興国の設備投資もデフレリスクに

一方で、世界経済の中で高い成長を示している中国など新興国市場のポテンシャルに大きな期待が集まっているが、一般国民の購買力の伸びを上回る規模とスピードで設備投資が進んでおり、国内の需給ギャップがどんどん拡大しているという実態がある。
中国当局は、暴走しつつある設備投資の引き締めに躍起になっているが、近い将来、現在の設備投資は膨大な供給力過剰となってはね返ってくるだろう。世界経済にとって、中国の成長も巨大なデフレリスクとしてのしかかっている。

鳩山民主党政権は、現状を「緩やかなデフレ状況にある」との認識を示し、日銀の白川総裁の尻をたたいて、10兆円規模の新たな資金供給策の実施を承服させた。
しかし、こうした措置によっても「百年デフレ」を退治することはできないだろう。各国の金融当局は、需給ギャップを埋めるため、超金融緩和策をとっていて、日本の金融施策は、明らかに出遅れているとはいえ、仮に他の先進諸国と同様に需給ギャップを埋める金融緩和策を行ったとしても、デフレ基調が反転させることは難しいのではないか。

実際、これまでの金融緩和策がもたらしたものは、インフレではなく、バブルであった。全世界の余剰マネー(過剰流動性)は140兆ドルという巨額な規模に達しているが、それに対して中国、インド、ロシア、ブラジルといった新興国の経済規模は全部まとめてもGDP総額で20兆ドルに過ぎない。その7倍規模のマネーが行き場を失っているわけだから、資本利潤率が低下するのが当たり前なのである。
仮にこの地球上に今の新興国グループをあと7つ作ることができるなら、帳尻が合うかもしれないが、その前に地球が壊れてしまうだろう。

じゃぶじゃぶのマネー地獄にはまった世界

かくして、余剰マネーは、バブルに向かうしかなくなる。バブルの崩壊は金融システムを傷め、その都度、金融緩和策がとられるものだから、さらに余剰マネーが拡大して、世界はじゃぶじゃぶのマネー地獄の中で、底なし沼にはまったようにゆっくり沈んでいく。これが、今の世界が直面している危機の本質である。

もう、潮時だと誰もが思い始めている。しかし、次はどこに向かえばいいのか。
日本のデフレは失われた10年も含めれば、15〜6年の長きにわたっている。これまでだって十分にしんどいのに、百年デフレというからには、この後、さらに85年も現在のような厳しい経済環境が続くことを覚悟しなくてはならないというのだろうか。

この際だから考え方を根本から変えて見ることも必要だ。よくよく考えてみれば、それは、案外、単純なことかもしれない。一切の「インフレ期待」を捨て去ってみればいいのだ。

思いつくままに言ってみると、百年デフレ下では、借金は年々重くなるだけだから、ローンなどは組まないようにする。新しいモノを買うのではなく、今あるものを使い続ける。できれば、食糧は自給し、貨幣経済への依存を下げる。ブランド品よりも自分に合った安くて良い物を見つける目を養う。4〜5%の運用利率を前提にした年金は、取り崩されていき、いずれ破綻するから、他の老後の自立手段を考える。・・・・

あなたが、身近な所に幸せの青い鳥を感じることができる人なら、百年デフレもまんざら捨てたものではないのかもしれない。

デフレ日本でブームの卵かけごはん(T・K・G)

Photo_2 先日、日比谷の帝国ホテルの前を歩いていたら、インペリアルタワーのCHANELショップの向かいに「たまごん家(ち)」という名前の新しい居酒屋がオープンしているのを見つけた。
「卵かけごはん」が売り物の居酒屋で、他のつまみも含め、出すメニューは全て1品305円。帝国ホテルの目の前でこの安さは何だ?と思い、店に入り、売り物の「卵かけごはん」を注文した。
実は、私は卵かけごはんに目がない。飲んで帰った夜や休みの日など、ごはんに卵をかけグチャグチャ、ズルズルとやっている。「他にいくらでも食べるものがあるのに」と家人からは顰蹙をかっているが、これだけは止められない。
世間では「卵かけごはん」はT(たまご)K(かけ)G(ごはん)と呼ばれ、今やデフレ下の日本で全国的にブームとなっている。18歳のプロゴルファー石川遼君が「僕はたまごかけごはん!」と叫ぶCMを記憶している人も多いだろうが、卵も米も国内自給率がほぼ100%なので、卵かけごはんが普及することは、自給率のアップにつながると、このCMは農林水産省が広告主になっている。

さて、その居酒屋の卵かけごはんだが、305円ながら、米と卵にはとことんこだわっているとのことで、大変美味だった。

茶碗に口をつけて一気に卵かけごはんをかき込んで、居酒屋の窓の外の帝国ホテルに目をやりながら実感した。

「ああ、これが百年デフレの味だ」

(カトラー)

http://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2009/12/tkg-9fb8.html
カトラー:katolerのマーケティング言論


検討問題:即非的エネルギーと身体:即非的身体と物質
検討問題:即非的エネルギーと身体:即非的身体と物質
テーマ:検討問題:思考実験・仮説
Media Pointで、超越対子(造語)は、即非的エネルギーになり、プラス1で、物質となり、マイナス1で、「ダーク・マター」となる。
 身体と言うとき、先に、物質的身体と精神的身体に分けたが、もっとも、両者は即非的に一体である(即非的身体)。
 そして、自然、生命とは、この即非的身体である。つまり、森羅万象、「精神」(マイナス1)をもつのである。しかし、近代合理主義、唯物論は、プラス1の物質しか認めないのである。そのため、自然は、総合的に認識・理解されないであり、ただ、即非的身体を同一性(物質)の側面から見ているだけなのである。
 遺伝子も、物質的側面であるDNAしか見ていないのである。遺伝子は正しくは、即非的身体であり、マイナス1に遺伝子情報があると見るべきである。
 それは、差異共振的情報であり、多様な波動的情報と考えられる。言い換えると、多様な電磁気(=気)的情報と考えられる。


うつ病とは、近代病ないしはポスト・モダン病である
うつ病とは、近代病ないしはポスト・モダン病である
テーマ:Media Point/精神的フィルター
(c)AFP/JEAN-PIERRE MULLER

AFPBB News
抗うつ剤、軽中度の症状に効果みられず 米研究
2010年01月06日 23:38
【1月6日 AFP】軽度から中程度のうつ病には、抗うつ薬治療はほとんど効果がなく、別の治療をした方が良いとの研究結果が、5日の米内科学会誌「米国医師会雑誌(Journal of the America……
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新書で、『うつは医者では治せない』を読んだが、ほぼ我が意を得たりである。
 これまで、何回か述べたが、これは、端的に、思想的意識の病気だと確信している。つまり、前近代までは、宗教や神話や民話等の伝承があり、それで精神的意識の安定を保持した。しかし、近代主義によって、それらが否定されて、精神・心が不安になったのである。その不安は近代合理主義では埋まらないである。
 今は十分述べられないが、心をまったき受動にして、自然・宇宙を受け入れる心性が必要である。禅はそのような役割があったであろう。
 私は自然に浸ることが治癒になると思う。


2010年01月04日(Mon)▲ページの先頭へ
謹賀新年:諸考察
‘10/1/2
検討問題&思考実験

1) 遺伝子とPS理論
2) アストラル体とエーテル体:マイナス1と空とコーラ

1について、先ず検討しよう。
問題は情報である。電磁気・電磁波は波動・即非・粒子である。これが、情報の単位になるのではないだろうか。何故なら、波動には、情報があると考えられるからである。それは、+iと-iのペアの情報であろう。
とまれ、DNAは、Media Pointの物質化したものであろう。だから、+1がDNAであり、遺伝子情報は-1に、現実的には存しているのではないだろうか。そして、二重らせんは、+iと-iのペアの捩れで説明できるのではないだろうか。
ここで易経を考えると、+iには三元、-iにも三元あり、情報は2^6=64通りである。
ところで、記憶やプラトンの想起説の問題であるが、例えば、他者(-i)を否定するときは、(+i)*{-(-i)}⇒-1となり、その記憶は-1となるのではないだろうか。そして、その否定の記憶は一端は隠れるが、波動エネルギーとして潜在して、同一性(+1)を歪曲化するのではないだろうか。つまり、光が闇化するのではないだろうか。この闇がいわば、重力のようになって、光(+1)を引き寄せて、正常な認識を妨げるようになるのではないのか。例えば、うつ病はそのようなものではないのか。
とまれ、そう考えると、Media Pointがやはり記憶の貯蔵庫であろう。遺伝子情報の本体であろう。そして、プラトンが説く魂とは、Media Pointのことではないだろうか。
思うに、Media Pointがデュナミスの時が死であり、エネルゲイアの時が、生ではないだろうか。エネルゲイアは死滅し、魂はデュナミスとなり、また、ある時、賦活されて、エネルゲイアとなり、再生するのではないだろうか。
そうすると、あの世とは、虚軸のMedia Pointに存することになるのではないだろうか。とまれ、あの世とこの世は言わば隣接していよう。

次に、2について考察しよう。
先に、気は-1ではないかと言った。そうすると、気(エーテル体)と情感(アストラル体)が一致してしまうのである。
もっとも、日本語の気は情感に近い。しかしながら、私見では、気=エーテル体は、より身体に関係するのである。
Media Pointの即非的エネルギー(差異共振エネルギー)を⇒+1 and ⇒-1とすると、エーテル体は前者の⇒、アストラル体は後者の⇒のエネルギー体のことではないだろうか。そうならば、確かに、エーテル体(気)は物質的身体を形成し、アストラル体(情感)は精神的身体を形成するだろう。
ここで、思いがけずに、二つの身体が提起された。情感とは、身体内にあるので、精神的身体という概念は的確であろう。思うに、物質的身体を外的身体、精神的身体を内的身体と呼んでもいいだろう。光の身体と不可視の身体である。とまれ、このように見ると、やはり、電磁気・電磁波はいわば、両界的身体を形成していると見るべきではないだろうか。現象的身体と不可視的身体である。
それを展開すると、電磁気・電磁波は、同時に、エーテル体(気)とアストラル体(情感)を形成することになる。(この視点から無機物を見ると、それは、エネルギーの消滅の結果としての同一性=物質ということであろう。)だから、気と言った場合、一般には、両者が混合されて考えられているのではないだろうか。
ここで幹細胞を考えると、それは、エーテル体(気)を体現する根源的細胞ということではないだろうか。まだ、機能的には未分化である。つまり、⇒+1の⇒を体現する言わば、原細胞である。
ここで、知と感性を考えると、原知は+iであり、原感性は-iとすると、知性は+1であり、感性は-1ではないだろうか。言い換えると、左脳は+1であり、右脳は-1である。
真の認識とは、単に、+1を知ることだけではなく、-1をも知ることであろう。つまり、つまり、知と感性の即非的一体性である。だから、哲学・科学と芸術・宗教(神話)は即非的に一致すると言えよう。
ここで、近代合理主義(近代的自我)の問題に触れると、それは、プラス1への絶対的傾斜である。そのため、マイナス1が抑圧されているのである。つまり、感性が抑圧されているのである。
しかしながら、マイナス1を抑圧しているために、プラス1の近代的合理性が、破壊的になるのである。つまり、+i=+1となり、他者(-i)を排除しているのである。これは、一面的知であり、暴力・攻撃的知である。これは、言わば、プラス1とマイナス1を分離している(二元論)ので、即非的エネルギーが形成されない状態となり、心身エネルギーが枯渇し、また、精神が狂気化すると考えられるのである。
以上のように考えると、現象化とは、-i回転ではないのか。(+i)*(-i)⇒+1、これが現象化であり、(-i)*(-i)⇒-1、これが反現象化ということではないのか。
-1については、適切な用語を創造すべきである。闇やダークは、現象界における光に対する言葉で、-1には相応しくない。
今思いついたのは、虚界であるが、これは、虚軸と混同されやすいので、使用しない方がいいが、マイナス1は、虚界という感じではある。そこで、空界(くうかい)はどうだろうか。
そう、空(くう)としてのマイナス1である。ここで想起するのは、プラトンの『ティマイオス』の有名な「コーラ」の概念である。どうも、空としてのマイナス1は、「コーラ」に通じるのではないだろうか。
そして、大乗仏教の空(くう)であるが、それも、マイナス1として見るべきではないだろうか。何故なら、色(しき)は+1であり、色に対する空は、いわば、ネガのマイナス1に適切であるからである。
では、イデアとはどうなるだろうか。形相(エイドス)は⇒+1の⇒の先端の原同一性でいいだろう。それに対して、イデアはどうなるのか。それは、超越的であるから、⇒に存すると言えよう。それは、超越的原型であるので、⇒+1における⇒であろう。思うに、かつて、いわば、秘教地帯で見た山にイデアを感じたが、それは、山の超越的原型を直観したということではないだろうか。



‘10/1/2
検討問題:プラス1とマイナス1の非対称性について

プラス1は光の世界、現象界、顕在界であり、マイナス1は反光の世界、不現象界、隠在界である。(ダーク・マターやダーク・エネルギーの「ダーク」は後者に関係すると思われる。)
一般に、人間は前者を感覚・知覚・認識するが、後者についてはきわめて不十分な知識しかもたないか、又は、まったく無知の状態にあると考えられる。
いわゆる、心、魂、精神とは、本来、後者の領域に関係するが、人間の知識は前者に傾斜しているので、それらについては未熟な知識しかもたないのである。(しかしながら、東洋文化社会では、本来、後者についての知識を培ってきたが、近代西洋文明によって、後者は一般には無視されて、前者の知識が重視されてきた。)
以上は既述の確認であるが、ここで新たに提起したいことは、電気のプラスとマイナス、磁石のN極とS極は、プラス1とマイナス1に関わるのではなく、+iと-iのプラスとマイナスで表記されるのではないのかという作業仮説である。
磁石を考えた場合、例えば、N極が+iで、S極が-iと見るべきではないだろうか。電気では、プラス極が+iで、マイナス極が-iではないだろうか。
そうすると、ガウス平面上では、虚軸が境界線となり、プラス1の領域が現象界となる。
では、電磁波はどうなるだろうか。二つの作業仮説がある。一つは、これまで述べたように、プラス1とマイナス1の即非的様態を電磁波と見るものであり、もう一つは、プラス1が電磁波であり、マイナス1は非電磁波的エネルギーであるというものである。
しかしながら、整合性があるのは、既述の前者であろう。思うに、プラス1が粒子であり、マイナス1が波動である。しかし、それらを截然と分けるのは誤りである。この点に量子力学の問題点があると考えられる。そのような二元論ではなく、即非的様態にある、いわば、即非的量子と見るのが的確であると考えられるのである。
ここで、非局所的長距離相関を考えると、粒子を+1とすると、それを賦活すると、超越的対に分離するのではないだろうか。つまり、+1⇒(+i)*(-i)である。右辺が二つの粒子であるが、実は、虚軸にあるので、実軸の世界から見ると、ゼロ時間で、両者は相関しているように見えると考えられる。これが、非局所的長距離相関の意味する事態・事象ではないのか。
そうすると、(+i)*(-i)⇔+1となるのではないだろうか。ただし、⇔は同時ではありえない。⇒か、あるいは、←である。
これは、検討問題としたい。

さらに思考実験を続けると、地霊や気についてであるが、土地土地の地質が異なるので、つまり、土地の差異があるので、そのために、発生する気も土地土地によって異なると考えられる。また、気象条件によっても異なると考えられるし、宇宙(天)の様態によっても異なるだろう。例えば、惑星の位置とか、太陽系全体の配置とかによって異なるだろう。
とまれ、天と地との地霊ポリフォニーがあると言えよう。思うに、天地霊と言うべきかもしれない。
とまれ、差異的な地霊が、人間の身心に影響するだろう。そう、人間のMedia Pointを介して、共振・共鳴するだろう。地霊のMedia Pointは地表であろう。そこと人間のMedia Pointが共鳴することで、地霊が人間に影響を与えるということだろう。
だから、土地土地によって、人間の身心が変容するのである。また、他の生命体も変化するのである。
思うに、動物の行動であるが、例えば、渡り鳥は、天地の気をMedia Pointで感知して行動するのではないだろうか。もっとも、天地の気とは、天地の電磁気であるが。
人間は、先に述べたように、一般には、プラス1に傾斜しているので、マイナス1のエネルギーを感知できなくなっていると言えよう。そう、プラス1とは、光現象の世界であり、粒子、物質の世界である。それに対して、マイナス1とは、言わば、波動、気の世界である。
ここで厳密に言うと、プラス1とマイナス1の即非的エネルギーが電磁気・電磁波であり、これまで、それを気と同一視した。しかしながら、気という場合は、マイナス1の側面に限定した方がいいだろう。何故なら、それは粒子、物質的ではなく、波動的であるからである。言い換えると、電磁気・電磁波の波動面が気ということになる。



検討問題

「アストラル体」と「エーテル体」:情感と気

情感は-1であり、気とは、電磁気総体ではないだろうか。つまり、情感とは、気に包摂されるのではないだろうか。
また、身体であるが、それは、表層的には、+1でいいだろう。しかし、情感のある身体は-1をもつ。というか、心身総体が-1⇐Media Point⇒+1であり、これが、情感のある身体と考えられる。
そして、精神であるが、それは、±1を包摂した+iではないだろうか。+1は物質であり、-1は情感である。両者を包摂した「知」として、+iが存するのではないだろうか。そして、-iは他者である。だから、当然、-iも包摂しているのである。つまり、精神、真正な精神とは、±1と-iを包摂した+iと言えるのではないだろうか。
思うに、より正確に言えば、±1と±iを包摂したMedia Point/精神的フィルターが真正なる精神であろう。つまり、五元的精神である。
さて、ここで、気と身体の問題を考えると、身体(+1)はMedia Pointという「気」に浸透されたものであると言えよう。当然、それは、情感(-1)と極性を為している。つまり、物質としての身体は、情感にも浸透されているのであり、また、気総体の一部である。つまり、気が本体であり、物質的身体はその一部ということになる。
そのように考えると、霊学者シュタイナーのいうアストラル体(情感)とエーテル体(気)の関係は、シュタイナーの考えとは異なることになる。即ち、エーテル体がアストラル体を包摂することになるのである。この問題は提起だけで留める。
ここでスピノザ哲学の所謂、心身平行論に触れると、身体は+1であり、心は-1である。しかし、スピノザは単に平行論に留めているのであるが、上述から、身体と心(情感)は、極性を為し、一如の気(電磁気)であることがわかるのである。つまり、心身極性論が正しいということになるのである。これで、スピノザ哲学が超克されたことになる。
また、ここから、医学の問題が解明されることになる。例えば、うつ病であるが、それは、単に、神経伝達物質(+1)の有無の問題ではなく、心・情感(-1)の「エネルギー」の問題である。つまり、物質の問題であると同時に、心・情感の問題であるということである。しかし、精神が主であることを考えると、物質の問題は従であり、心・情感が主であると見るべきである。
そして、心・情感は、当然ながら、±iの認識・知性の問題に関わるである。つまり、うつ病は、心・情感の問題であり、また、認識・知性の問題であるのである。
既述したように、うつ病は、近代合理主義が根因と考えられるのである。それは、他者(-i)を排除するので、心・情感(-1)をも排除することになり、そのため、同一性・物質主義(+1)が過多となり、精神エネルギーが枯渇すると考えられるのである。



検討問題:10/1/1

1) 連続性という「死に至る病」:連続性の力学について
2) うつ病問題:『医者にウツは治せない』織田淳太郎著 光文社新書
3) 近代資本主義とトランス・モダン資本共同体経済
4) 極性力学:即非的力学:牽引と反発
5) 身体と大地:東洋的身体論:近代西欧の心身二元論の誤謬:東洋的身体的精神
6) 5と関係して、気の力学:気と身体と物質
7) 精神と身体:-1が隠れた精神ならば、+1は顕在化した感覚や知覚や身体ではないだろうか。
8) 地霊と気:気の強度について


1について考察しよう。
これまでの考察から連続性ないしは+1は父権文化がもたらしたものと言える。原初的な母権文化においては、Media Pointが開かれていて、-1と+1の極性をもつ現象、即非的共振現象があったと考えられる。プロト極性文化、proto media point cultureと言えよう。
ここにおいては、純粋な、独立した+1(物質)はなかった。父権文化が+1をもたらしたとき、ゾロアスター教が起こり、+1をアンラ・マンユと考え、-1をスプンタ・マンユ、そして、Media Pointの大光をアフラ・マズダーと認識したと考えられる。
そして、仏教(大乗仏教を含めて)は、ゾロアスター教とは異なる視点で、+1の脱構築の哲学を説いたと考えられる。「空」の哲学とは、「色」、自我としての+1を解体するもの(解脱)で、-1の心性(悟り)を説いたと考えられる。
故に、ゾロアスター教と仏教の根源は母権文化、プロト極性文化であると考えられる。ゾロアスター教の父権的なもの(「父」)は、+1が脱構築された後の「知」を指しているのではないだろうか。つまり、不連続的知性ではないだろうか。これはここで留める。(ならば、PS理論、トランス・モダンは新母権だけではなく、新父権を意味する。新母権・新父権文化である。)
本題の連続性の力学であるが、それは、自己意識が対象に固着・粘着・癒着する状態の力学である。
そう、「我」はどこから生まれるのか。原我は+iであり、原他は-iである。そ原我・原他の極性が抑圧されて我と他の二元論において、我が生起すると言えよう。言い換えると、極性の否定・抑圧から二元論・我が生まれるのである。
これは、先に述べたように、+i=+1の錯誤状態であると考えられる。原我という認識主体(+i)が同一性(+1)と一致してしまっている錯誤態である。これが、連続性と言えよう。
なお、連続性が形成されるためには、言語、とりわけ、文字言語が必要となろう。ここで言語の形成について考察しよう。
ある現象を知覚・認識するとき、原初的には、つまり、即非的現象知覚においては、原我は原他を感覚する。この原他を知覚・認識するためには、光現象が必要となる。即ち、原他を同一性(+1)へと投影すると考えられる。この同一性への投影の一つの主要なものが発話ではないだろうか。原他「山」を例えば、yamaと呼ぶとき、それは、原他「山」を同一性のyamaとして投影していると考えられる。
もっとも、注意すべきは、原初的には、あくまで、認識主体(+i)にとり、認識対象は原他(-i)であることである。つまり、同一性(+1)のyamaを介して、原他(-i)を知覚・認識しているということである。
 とまれ、同一性(+1)を介する、つまり、メディアとすることで、原初的認識が可能になるのである。そして、同一性(+1)、この場合はyamaという発話は、原我にとって、感覚なのだと考えられる。つまり、身体(感覚身体)である。この感覚ないしは身体を介して、原我は弁別的に知覚・認識すると言える。
そして、発話ないしは言語は原他(-i)の指標・符号ということになる。しかし、父権文化が強化されるとこれが忘却されて、同一性(+1)自体が存在するように錯誤されるのである。つまり、物質の出現である。これは、同一性に因る錯誤から生まれるものである。言語とフォルムの結合によって、同一性は仮構・仮象から実在・存在へと錯誤的に変換されるのである。客観的対象・物体が錯覚的に形成されるのである。
この言語とフォルムの結合による同一性の錯誤的実体化であるが、それは、構造形成を意味しよう。つまり、同一性構造が原我において、形成されるのである。それは、精神的フィルターとなるのである。つまり、Media Pointにおいて、同一性構造(構造)というフィルター、フレームがいわば付着するのである。そして、これは、カントの超越論的形式に当たるのである。
西洋哲学において、これを合理論的に解体する哲学がフッサール現象学であると言えよう。確かに、シェリング、キルケゴール、ニーチェ、他は、近代合理主義(近代的理性)の解体を的確に志向したが、天才的に、つまり、直感的に行なったと言えよう。
 それに対して、フッサールは透徹して理知的に行なったのである。それは、近代的合理性(近代的理性)をエポケー(判断停止)することで相対化し、根源的な主観の志向性を取り出したのである(現象学的還元)。
それは、ノエシス/ノエマの超越論的主観性である。それは、PS理論から言えば、⇒である。ただし、フッサールは原我(+i)をノエシス、そして、それによる認識されたものをノエマとしたが、原他(-i)に当たるものを発見しなかったと考えられる。だから、間主観性(相互主観性)の概念が必要になったと考えられる。
言い換えると、フッサールは差異と同一性を明確に区別していなかったと言えよう。もし、差異(絶対的差異)を認識していたならば、認識対象は差異(他者)となり、そこには、即非的差異極性があることが認識されたはずだからである。
 しかしながら、以前述べたように、フッサールは直感的にはそれに達していたと思われるのである。直感においては、PS理論的ではあったが、認識においては、同一性の発想に囚われていたと考えられるのである。


検討問題:’09/12/31

1)プラス1への傾斜の力学
2)プラス1とは同一性であり、言語、物質、自我、量、等の基本単位ではないのか。
3)Media Point ないしは精神的フィルターにおける即非的現象の記述方法について
4)古代宇宙論のコスモスとPS理論
5)地霊spirit of place, genius lociあるいは「気」について:場所によって明らかに、「気」が異なるが、これは絶対的差異と言えよう。つまり、絶対的差異としての地霊、地的「気」である。私の「自宅」周辺の地の「気」は、不思議なほど、私の身体と共振・共鳴して、癒しの心地をもたらしている。

以上はすべて重要な問題であるが、最初に3について検討したい。
確かに、即非、即非的共振ないしは即非的極性と記述することが的確である。即非的極性と記述するのがもっとも的確だと思われる。
つまり、即非的極性として現象が発現するということになる。そして、プラス1の極とマイナス1の極をもつのである。そして、前者は陽極であり、後者は陰極である。
喩えて言えば、電池や磁石を想定するとわかりやすいだろう。より的確に言えば、電磁気ないしは電磁波である。そして、電磁気・電磁波的現象のプラス極(正極)とマイナス極(負極)において、前者は外的現象(外光)、後者は内的現象(内光)を形成し、両極で「身体」を形成するのではないだろうか。
そして、心ないし魂(以下、心魂)は、後者に因るだろうが、前者の同一性によって、自我、同一性自己を形成すると思われる。
つまり、マイナス極(負極・陰極)/マイナス1とは、差異である。そして、プラス極(正極・陽極)/プラス1とは同一性である。だから、即非的極性とはこの差異と同一性の極性ということになるだろう(作業仮説)。
そして、この極性は非対称的である。シンメトリカルではないのである。いわば、左右非対称的である。思うに、これが、自然の最高の不思議ではないだろうか。ただし、当然ながら、人類は、プラス1に傾斜している。とりわけ、父権的人類はそうである。
一般的に生命体は、極性のバランスが取れていて、自然環境のもつ電磁気・電磁波力に即して、行動していると考えられる。つまり、マイナス1の差異の力学に即していると考えられる。
それに対して、人間は、とりわけ、父権的人類や近代的人類はマイナス1の差異を喪失していて、妄りに、プラス1を主軸にして行動して、自然・社会・世界を混乱させ、破壊しているのである。
思うに、人類は、大きく分けると、母権的人類(民族)と父権的人類(民族)に区別されるのではないだろうか。(これは、女性と男性という区別に重なる場合があるが、それとは根本的に異なる。)
先に述べたように、母権制の場合、即非的極性のバランスはとれていたと考えられ、父権制の発動により、プラス1へと強く傾斜したと考えられる。そして、それが、いわゆる、文明を形成したのである。しかしながら、正確に言うと、それは、父権的文明である。文字の発明が正に父権的文明の産物と考えられる。(思うに、デリダの勘違いはパロル《音声言語》を同一性、エクリチュール《書記言語》を差延と考えたことである。パロルはまだ差異に近い面がある。エクリチュールは同一性的である。前父権的文明はイメージやヴィジョンが支配的であったと考えられる。それは、正に、即非的現象のそれであると考えられる。)
そして、プラス1へ傾斜した父権的文明(とりわけ、ユダヤ・キリスト教西洋文明:もっとも、イスラム教文明、儒教文明も強い父権的傾斜をもつ)が「科学・技術」を生んだと言えるのである。(もっとも、その恩恵を拝すると同時に、破壊的な打撃を受けているのであるが。)
問題は、精神文化ないしは民主主義文化である。それは、基本的には母権的なものと考えられる。言い換えると、差異の文化であり、それは、父権的文明の支配下にあって、地下水のように、連綿と受け継がれてきたのである。それは、また、精神的遺伝子として、継続してきたとも言えよう。(プラトンの想起説やユングの普遍的無意識、ジョセフ・キャンベルの普遍的比較神話学、他を参照。)
思うに、欧米的民主主義は古代ギリシアの貴族的直接民主制とイエスの教え(イエスの愛や罪の許しの教えであるが、哲学的にはこれらは他者の思想と考えられる)の結合から生まれたと推察される。結局、既述のように、西洋文明・文化とは、父権制と母権制の結合であるが、それらは連続的であったり、あるいは、前者が主導・支配的で、後者を従属させたりしているのである。
しかし、端的に、的確に言えば、父権制が支配的であると言わなくてはならないのである。つまり、同一性が支配的なのである。ここが西洋文明・文化の大問題点なのである。
よく知られたように、近代主義批判は19世紀から諸学の様々な領域で起こり、近代主義の超克が志向されてきた。ポスト・モダンやポスト構造主義はそのようなものであったが、理論の不十分さの為に、実現できなかったのであり、また、逆に哲学・理論総体の大混乱という知的大惨事を引き起こしたと言えよう。(ここにおいて、当然ながら、不連続的差異論やプラトニック・シナジー理論のブレーク・スルー的意義があるが、既述済みなので、ここでは触れない。)
とまれ、近代主義とは近代合理主義であり、それは、ハードな同一性主義なのである。それは、結果として、唯物論(物質主義)をもたらしたのである。そのため、母権的文化である精神文化や民主主義文化の差異の文化は否定されたり、抑圧されたりしたのである。(ここで、文化とは、社会とほぼ同義と理解されたい。)
そして、資本主義であるが、それは、正に、近代合理主義を原理として発達した経済システムである。ここでは、同一性主義(同一性価値=交換価値)が貫徹されるである。
しかしながら、既述のように、資本主義の基盤は差異的価値、社会的ないしは共同体的差異的価値なのである。しかしながら、その差異的本体の評価を全く同一性価値によって為すという倒錯・転倒が起こっているのである。
言い換えると、母権的価値を父権的価値で評価するという錯誤があるのである。これは、当然ながら、プラス1へのハードな傾斜に拠るのである。そして、その帰結がリーマン・ショックである。
近代主義としての資本主義は終焉したと言えよう。これからは、トランス・モダンの「資本主義」が生まれることになる。それは、即非的極性をもった「資本主義」である。思うに、プラス1が投資ならば、マイナス1は贈与ではないだろうか。
マイナス1は差異的価値であり、精神的価値、民主主義的価値であり、それは、投資主義的発想では、充当できないと考えられる。
とまれ、即非的極性の視点から言うと、プラス1は中心化されないのであり、端的に言えば、即非的極性価値が主導化すると考えられる。つまり、即非的極性経済がトランス・モダン経済であると考えられる。換言すると、資本主義は即非的極性化されるのである。だから、即非的極性資本主義と言えるだろう。
そして、この実現のためには、政治の即非的極性化も必要である。つまり、同一性化している民主主義(近代民主主義)から差異的民主主義へと転換する必要があるのである。個々差異々々を見る民主主義である。それは、差異的共同体主義と呼ぶことができよう。

次に4について考察しよう。今は寸言に留める。
先に、マイナス1がD. H. ロレンスの説くコスモスであると指摘した。そうすると、ここが、古代宇宙論のコスモス(ロレンスのコスモスはほぼ古代宇宙論のコスモスへの回帰だと考えられるが、正確に言えば、トランス・モダン的コスモスであることを認識すべきである)について、PS理論からの解明の突破口になると考えられる。
PS理論から言うと、根源に+iと-iがある。これは、陰陽である。+iを陽、-iを陰、あるいは、それらを逆に見ることができる。とまれ、言わば、大陰(太陰)と大陽(太陽)が根源にあるのである。それらは、また、おそらく、デュナミスの次元である。
ここで、易経を参考にするといいだろう。太陽と太陰がそれぞれ、三元であり、それぞれ、陽爻陰爻があるので、結局、2^6=64通りの順列(八卦)がある。
思うに、デュナミス次元は六元ではないだろうか。そして、エネルゲイア次元(Media Point ・精神的フィルター次元)は64元ではないだろうか。
とまれ、大陰の三元と大陽の三元があることになる。そして、Media Pointにおいて、この三元と三元が組み合わされて、コスモスを形成するのではないだろうか。例えば、易経の太陽では、純粋なプラス1となるのではないだろうか。そして、太陰では、純粋なマイナス1となるのではないだろうか。
思うに、例えば、{(+ia)*(-ia)}*{(+ib)*(-ib)}*{(+ic)*(-ic)}又は、
{(+i1)*(-i1)}*{(+i2)*(-i2)}*{(+i3)*(-i3)}、あるいは、
{(+i)*(-i)}*{(+j)*(-j)}*{(+k)*(-k)}と
記述できないだろうか。三重のガウス平面である。
とまれ、簡略化して、ガウス平面で考えると、プラス1とマイナス1が両端となり、両者の中間的様態が発現するのではないだろうか。例えば、cosθ+isinθを即非子(電磁気・量子)とすると、θがπのとき-1となり、2πのとき、+1となる。しかし、即非子は対ともつと考えられるので、±(cosθ+isinθ)が的確である。
だから、θがπのとき、プラスの即非子は-1となり、マイナスの即非子は+1となる。
そして、θが3分の1π(60度)のとき、プラス即非子は、1/2(1+i√3)となり、マイナス即非子は、-1/2(1+i√3)となる。つまり、±1/2(1+i√3)である。そして、実軸部分が±1/2である。そすると、θが3分の1πのときは、プラス成分とマイナス成分それぞれ、1/2をもつことになるだろう。
言い換えると、同一性が1/2で、差異も1/2となるのではないだろうか。しかしながら、±2分の√3掛けるiが、いわば、潜在している。即非子=複素数としてのコスモスであり、人間である。とまれ、この作業仮説はここで留める。


09/12/29の諸記

折口信夫の『言語情調論』を少し見たが、興味深い。感情と(言語)情調を区別している。思うに、知的な情感を折口は問題にしているようだ。あるいは、普遍的な情感である。残念ながら、今は余裕がないので読むことができない。
 さて、マイナス1の問題をさらに検討したい。プラス1が光子であり、物質とするなら、マイナス1は、言わば、闇子であり、反物質であろう。「ダーク・マター」である。
 問題は、両者は極性であり、本体は「大光」である。つまり、先に述べたように、「大光」のプラス1が光の極(陽極)であり、「大光」のマイナス1が闇の極(陰極)である。そして、通常、人間は「大光」の陽極の様態を視覚しているのである。
 さて、ここで思考実験であるが、夢で見る映像ないしは文学作品によって喚起される映像であるが、それは、直感では、マイナス1の陰極に関係するのではないかと感じられるのである。何故なら、それらは、言わば、闇の光であるからである。
 言葉にすると矛盾になるが、昼間の光、陽極の光は、光の光であり、夜間の夢の光は、陰極の光、闇の光ではないのか。先に区別したが、前者を「陽光」、後者を「陰光」と呼ぶ方が明快である。しかしながら、前者は日常語なので、問題である。そこで、プラス光とマイナス光と呼ぶ方が、明晰であるので、これをとりたい。
 マイナス光という視点は重要だと思う。何故なら、単に闇と呼ぶと、その一種の可視性が喪失されるからである。というのは、私はマイナス1の「闇」を一種可視的なものではないかと感じているからである。言い換えると、「闇」の視覚があるのではないかと感じているからである。何故なら、私の経験では、ほとんど明らかに「闇」の視覚をもって、現象を知覚していると思われるからである。とまれ、これを作業仮説としよう。
 そうすると、プラス光視覚とマイナス光視覚の二つの視覚があることになる。そして、心眼と言った時、それは、後者に関係する。つまり、プラス光視覚を介しつつ、マイナス光視覚で知覚することが、心眼のように思われる。
 しかしながら、両者を絶対的に分離するのは誤りであろう。何故なら、当然であるが、両者は極性的であるからである。だから、マイナス光視覚(以下、マイナス視覚)とは、プラス光視覚(以下、プラス視覚)と即非・共鳴している様態にあると見るべきである。簡単に言えば、極性的視覚である。言わば通俗的に言えば、陰陽的視覚である。
 そして、さらに作業仮説であるが、マイナス視覚は折口的に言えば、情調と関係している。換言すると、情感に関係している。何故なら、対象とマイナス視覚は共鳴して、一側面では、即、一体の様態になるからである。例えば、「わたし」は「冬枯れの木立」であるという状態である。しかしながら、プラス視覚はすぐに、「わたし」は「冬枯れの木立」ではないと知覚し、即非状態が喚起されるのであるが。この即非的視覚がここにはあるのである。
 ここで、少し飛躍して、D. H. ロレンスが述べたdark God、dark sun、「コスモス」等のことを考えると、それは、マイナス視覚の世界のことではないだろうか。プラス視覚の世界、通常の現象界に対して、マイナス視覚の世界を対蹠的に表現していると考えられる。そう、特化的に表現している。何故なら、ロレンスは、近代合理主義、近代的自我のプラス視覚中心主義(ロゴス中心主義、同一性主義)を絶対的に批判しているからである。
 だから、その文脈で見れば、その的確さは肯定される。しかしながら、今日的には、極性的視覚、プラス視覚とマイナス視覚の極性的視覚と見るのが的確である。(だから、この点から見ると、ロレンスには、反動的な面があるのである。)
 さて、さらに思考実験を続けると、マイナス視覚とは、内的身体的視覚のように思える。内的視覚とも呼べよう。
 これは、他者、対象との共鳴・共振状態(情感・情調)を見る視覚でもある。言い換えると、情感・情調的視覚である。緻密に言えば、他者情感・他者情調的視覚である。簡単に言えば、情的視覚である。
 現代日本、近代主義末期のポスト・モダン状況にある現代日本において、プラス視覚中心主義となり、マイナス視覚的主観性・精神性・心性がおそろしく喪失されていると直感されるのである。
 そう、私が視覚中心主義を批判したのは、この意味において、即ち、プラス視覚中心主義において見なくてはならない。
 また、魂や心眼の喪失も、ここにおいて、捉えられるべきである。つまり、マイナス視覚の喪失が魂や心眼の喪失を意味すると考えられる。そして、これは、東洋的身体の喪失でもあるのである。
 そこから考えると、東洋的身体とは、マイナス視覚を形成するものであると考えられる。例えば、禅はそのようなものと見るべきであり、禅文化が浸透している伝統的日本文化はマイナス視覚文化と言えよう。
 また、禅仏教だけでなく、当然、道教もヨガもそのようなものである。しかしながら、正確に言えば、マイナス視覚とプラス視覚の極性バランスの形成を志向していたと見るべきだろう。
 さらに展開させて、ゾロアスター教をこの視点から見るとどうなるだろうか。一見すると、アフラ・マズダーの「光」・「火」はプラス視覚のそれと考えられるだろう。
 しかしながら、ゾロアスター教は多神教であり、また、女神文化を包摂しているのである。もし、プラス視覚ないしはプラス光のみを志向するならば、一神教になるだろう。
 もっとも、確かに、プラス視覚ないしはプラス光はゾロアスター教にはある。しかしながら、多神教性、女神文化性を考えると、それは、マイナス視覚、マイナス光の側面ももつと考えられる。
 理論的に見ると、悪神アンラ・マンユとは、プラス1と考えられるから、善神スプンタ・マンユとは、マイナス1となるのではないだろうか(これは、以前、示唆したが)。ということは、ゾロアスター教の「光」・「火」とは、本来的には、マイナス光ではないのかと考えられる。
 より正確に言えば、大光をプラス1の「光」、プラス光に限定するものが悪神アンラ・マンユであり、ゾロアスター教の「光」・「火」とは、大光自体と見るべきではないかと思われる。そう、大光がアフラ・マズダーであり、マイナス光が善神のスプンタ・マンユとなるだろう。
 今はここで留める。



   




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カレンダ
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