INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2010/01/04

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2010年01月04日(Mon)▲ページの先頭へ
謹賀新年:諸考察
‘10/1/2
検討問題&思考実験

1) 遺伝子とPS理論
2) アストラル体とエーテル体:マイナス1と空とコーラ

1について、先ず検討しよう。
問題は情報である。電磁気・電磁波は波動・即非・粒子である。これが、情報の単位になるのではないだろうか。何故なら、波動には、情報があると考えられるからである。それは、+iと-iのペアの情報であろう。
とまれ、DNAは、Media Pointの物質化したものであろう。だから、+1がDNAであり、遺伝子情報は-1に、現実的には存しているのではないだろうか。そして、二重らせんは、+iと-iのペアの捩れで説明できるのではないだろうか。
ここで易経を考えると、+iには三元、-iにも三元あり、情報は2^6=64通りである。
ところで、記憶やプラトンの想起説の問題であるが、例えば、他者(-i)を否定するときは、(+i)*{-(-i)}⇒-1となり、その記憶は-1となるのではないだろうか。そして、その否定の記憶は一端は隠れるが、波動エネルギーとして潜在して、同一性(+1)を歪曲化するのではないだろうか。つまり、光が闇化するのではないだろうか。この闇がいわば、重力のようになって、光(+1)を引き寄せて、正常な認識を妨げるようになるのではないのか。例えば、うつ病はそのようなものではないのか。
とまれ、そう考えると、Media Pointがやはり記憶の貯蔵庫であろう。遺伝子情報の本体であろう。そして、プラトンが説く魂とは、Media Pointのことではないだろうか。
思うに、Media Pointがデュナミスの時が死であり、エネルゲイアの時が、生ではないだろうか。エネルゲイアは死滅し、魂はデュナミスとなり、また、ある時、賦活されて、エネルゲイアとなり、再生するのではないだろうか。
そうすると、あの世とは、虚軸のMedia Pointに存することになるのではないだろうか。とまれ、あの世とこの世は言わば隣接していよう。

次に、2について考察しよう。
先に、気は-1ではないかと言った。そうすると、気(エーテル体)と情感(アストラル体)が一致してしまうのである。
もっとも、日本語の気は情感に近い。しかしながら、私見では、気=エーテル体は、より身体に関係するのである。
Media Pointの即非的エネルギー(差異共振エネルギー)を⇒+1 and ⇒-1とすると、エーテル体は前者の⇒、アストラル体は後者の⇒のエネルギー体のことではないだろうか。そうならば、確かに、エーテル体(気)は物質的身体を形成し、アストラル体(情感)は精神的身体を形成するだろう。
ここで、思いがけずに、二つの身体が提起された。情感とは、身体内にあるので、精神的身体という概念は的確であろう。思うに、物質的身体を外的身体、精神的身体を内的身体と呼んでもいいだろう。光の身体と不可視の身体である。とまれ、このように見ると、やはり、電磁気・電磁波はいわば、両界的身体を形成していると見るべきではないだろうか。現象的身体と不可視的身体である。
それを展開すると、電磁気・電磁波は、同時に、エーテル体(気)とアストラル体(情感)を形成することになる。(この視点から無機物を見ると、それは、エネルギーの消滅の結果としての同一性=物質ということであろう。)だから、気と言った場合、一般には、両者が混合されて考えられているのではないだろうか。
ここで幹細胞を考えると、それは、エーテル体(気)を体現する根源的細胞ということではないだろうか。まだ、機能的には未分化である。つまり、⇒+1の⇒を体現する言わば、原細胞である。
ここで、知と感性を考えると、原知は+iであり、原感性は-iとすると、知性は+1であり、感性は-1ではないだろうか。言い換えると、左脳は+1であり、右脳は-1である。
真の認識とは、単に、+1を知ることだけではなく、-1をも知ることであろう。つまり、つまり、知と感性の即非的一体性である。だから、哲学・科学と芸術・宗教(神話)は即非的に一致すると言えよう。
ここで、近代合理主義(近代的自我)の問題に触れると、それは、プラス1への絶対的傾斜である。そのため、マイナス1が抑圧されているのである。つまり、感性が抑圧されているのである。
しかしながら、マイナス1を抑圧しているために、プラス1の近代的合理性が、破壊的になるのである。つまり、+i=+1となり、他者(-i)を排除しているのである。これは、一面的知であり、暴力・攻撃的知である。これは、言わば、プラス1とマイナス1を分離している(二元論)ので、即非的エネルギーが形成されない状態となり、心身エネルギーが枯渇し、また、精神が狂気化すると考えられるのである。
以上のように考えると、現象化とは、-i回転ではないのか。(+i)*(-i)⇒+1、これが現象化であり、(-i)*(-i)⇒-1、これが反現象化ということではないのか。
-1については、適切な用語を創造すべきである。闇やダークは、現象界における光に対する言葉で、-1には相応しくない。
今思いついたのは、虚界であるが、これは、虚軸と混同されやすいので、使用しない方がいいが、マイナス1は、虚界という感じではある。そこで、空界(くうかい)はどうだろうか。
そう、空(くう)としてのマイナス1である。ここで想起するのは、プラトンの『ティマイオス』の有名な「コーラ」の概念である。どうも、空としてのマイナス1は、「コーラ」に通じるのではないだろうか。
そして、大乗仏教の空(くう)であるが、それも、マイナス1として見るべきではないだろうか。何故なら、色(しき)は+1であり、色に対する空は、いわば、ネガのマイナス1に適切であるからである。
では、イデアとはどうなるだろうか。形相(エイドス)は⇒+1の⇒の先端の原同一性でいいだろう。それに対して、イデアはどうなるのか。それは、超越的であるから、⇒に存すると言えよう。それは、超越的原型であるので、⇒+1における⇒であろう。思うに、かつて、いわば、秘教地帯で見た山にイデアを感じたが、それは、山の超越的原型を直観したということではないだろうか。



‘10/1/2
検討問題:プラス1とマイナス1の非対称性について

プラス1は光の世界、現象界、顕在界であり、マイナス1は反光の世界、不現象界、隠在界である。(ダーク・マターやダーク・エネルギーの「ダーク」は後者に関係すると思われる。)
一般に、人間は前者を感覚・知覚・認識するが、後者についてはきわめて不十分な知識しかもたないか、又は、まったく無知の状態にあると考えられる。
いわゆる、心、魂、精神とは、本来、後者の領域に関係するが、人間の知識は前者に傾斜しているので、それらについては未熟な知識しかもたないのである。(しかしながら、東洋文化社会では、本来、後者についての知識を培ってきたが、近代西洋文明によって、後者は一般には無視されて、前者の知識が重視されてきた。)
以上は既述の確認であるが、ここで新たに提起したいことは、電気のプラスとマイナス、磁石のN極とS極は、プラス1とマイナス1に関わるのではなく、+iと-iのプラスとマイナスで表記されるのではないのかという作業仮説である。
磁石を考えた場合、例えば、N極が+iで、S極が-iと見るべきではないだろうか。電気では、プラス極が+iで、マイナス極が-iではないだろうか。
そうすると、ガウス平面上では、虚軸が境界線となり、プラス1の領域が現象界となる。
では、電磁波はどうなるだろうか。二つの作業仮説がある。一つは、これまで述べたように、プラス1とマイナス1の即非的様態を電磁波と見るものであり、もう一つは、プラス1が電磁波であり、マイナス1は非電磁波的エネルギーであるというものである。
しかしながら、整合性があるのは、既述の前者であろう。思うに、プラス1が粒子であり、マイナス1が波動である。しかし、それらを截然と分けるのは誤りである。この点に量子力学の問題点があると考えられる。そのような二元論ではなく、即非的様態にある、いわば、即非的量子と見るのが的確であると考えられるのである。
ここで、非局所的長距離相関を考えると、粒子を+1とすると、それを賦活すると、超越的対に分離するのではないだろうか。つまり、+1⇒(+i)*(-i)である。右辺が二つの粒子であるが、実は、虚軸にあるので、実軸の世界から見ると、ゼロ時間で、両者は相関しているように見えると考えられる。これが、非局所的長距離相関の意味する事態・事象ではないのか。
そうすると、(+i)*(-i)⇔+1となるのではないだろうか。ただし、⇔は同時ではありえない。⇒か、あるいは、←である。
これは、検討問題としたい。

さらに思考実験を続けると、地霊や気についてであるが、土地土地の地質が異なるので、つまり、土地の差異があるので、そのために、発生する気も土地土地によって異なると考えられる。また、気象条件によっても異なると考えられるし、宇宙(天)の様態によっても異なるだろう。例えば、惑星の位置とか、太陽系全体の配置とかによって異なるだろう。
とまれ、天と地との地霊ポリフォニーがあると言えよう。思うに、天地霊と言うべきかもしれない。
とまれ、差異的な地霊が、人間の身心に影響するだろう。そう、人間のMedia Pointを介して、共振・共鳴するだろう。地霊のMedia Pointは地表であろう。そこと人間のMedia Pointが共鳴することで、地霊が人間に影響を与えるということだろう。
だから、土地土地によって、人間の身心が変容するのである。また、他の生命体も変化するのである。
思うに、動物の行動であるが、例えば、渡り鳥は、天地の気をMedia Pointで感知して行動するのではないだろうか。もっとも、天地の気とは、天地の電磁気であるが。
人間は、先に述べたように、一般には、プラス1に傾斜しているので、マイナス1のエネルギーを感知できなくなっていると言えよう。そう、プラス1とは、光現象の世界であり、粒子、物質の世界である。それに対して、マイナス1とは、言わば、波動、気の世界である。
ここで厳密に言うと、プラス1とマイナス1の即非的エネルギーが電磁気・電磁波であり、これまで、それを気と同一視した。しかしながら、気という場合は、マイナス1の側面に限定した方がいいだろう。何故なら、それは粒子、物質的ではなく、波動的であるからである。言い換えると、電磁気・電磁波の波動面が気ということになる。



検討問題

「アストラル体」と「エーテル体」:情感と気

情感は-1であり、気とは、電磁気総体ではないだろうか。つまり、情感とは、気に包摂されるのではないだろうか。
また、身体であるが、それは、表層的には、+1でいいだろう。しかし、情感のある身体は-1をもつ。というか、心身総体が-1⇐Media Point⇒+1であり、これが、情感のある身体と考えられる。
そして、精神であるが、それは、±1を包摂した+iではないだろうか。+1は物質であり、-1は情感である。両者を包摂した「知」として、+iが存するのではないだろうか。そして、-iは他者である。だから、当然、-iも包摂しているのである。つまり、精神、真正な精神とは、±1と-iを包摂した+iと言えるのではないだろうか。
思うに、より正確に言えば、±1と±iを包摂したMedia Point/精神的フィルターが真正なる精神であろう。つまり、五元的精神である。
さて、ここで、気と身体の問題を考えると、身体(+1)はMedia Pointという「気」に浸透されたものであると言えよう。当然、それは、情感(-1)と極性を為している。つまり、物質としての身体は、情感にも浸透されているのであり、また、気総体の一部である。つまり、気が本体であり、物質的身体はその一部ということになる。
そのように考えると、霊学者シュタイナーのいうアストラル体(情感)とエーテル体(気)の関係は、シュタイナーの考えとは異なることになる。即ち、エーテル体がアストラル体を包摂することになるのである。この問題は提起だけで留める。
ここでスピノザ哲学の所謂、心身平行論に触れると、身体は+1であり、心は-1である。しかし、スピノザは単に平行論に留めているのであるが、上述から、身体と心(情感)は、極性を為し、一如の気(電磁気)であることがわかるのである。つまり、心身極性論が正しいということになるのである。これで、スピノザ哲学が超克されたことになる。
また、ここから、医学の問題が解明されることになる。例えば、うつ病であるが、それは、単に、神経伝達物質(+1)の有無の問題ではなく、心・情感(-1)の「エネルギー」の問題である。つまり、物質の問題であると同時に、心・情感の問題であるということである。しかし、精神が主であることを考えると、物質の問題は従であり、心・情感が主であると見るべきである。
そして、心・情感は、当然ながら、±iの認識・知性の問題に関わるである。つまり、うつ病は、心・情感の問題であり、また、認識・知性の問題であるのである。
既述したように、うつ病は、近代合理主義が根因と考えられるのである。それは、他者(-i)を排除するので、心・情感(-1)をも排除することになり、そのため、同一性・物質主義(+1)が過多となり、精神エネルギーが枯渇すると考えられるのである。



検討問題:10/1/1

1) 連続性という「死に至る病」:連続性の力学について
2) うつ病問題:『医者にウツは治せない』織田淳太郎著 光文社新書
3) 近代資本主義とトランス・モダン資本共同体経済
4) 極性力学:即非的力学:牽引と反発
5) 身体と大地:東洋的身体論:近代西欧の心身二元論の誤謬:東洋的身体的精神
6) 5と関係して、気の力学:気と身体と物質
7) 精神と身体:-1が隠れた精神ならば、+1は顕在化した感覚や知覚や身体ではないだろうか。
8) 地霊と気:気の強度について


1について考察しよう。
これまでの考察から連続性ないしは+1は父権文化がもたらしたものと言える。原初的な母権文化においては、Media Pointが開かれていて、-1と+1の極性をもつ現象、即非的共振現象があったと考えられる。プロト極性文化、proto media point cultureと言えよう。
ここにおいては、純粋な、独立した+1(物質)はなかった。父権文化が+1をもたらしたとき、ゾロアスター教が起こり、+1をアンラ・マンユと考え、-1をスプンタ・マンユ、そして、Media Pointの大光をアフラ・マズダーと認識したと考えられる。
そして、仏教(大乗仏教を含めて)は、ゾロアスター教とは異なる視点で、+1の脱構築の哲学を説いたと考えられる。「空」の哲学とは、「色」、自我としての+1を解体するもの(解脱)で、-1の心性(悟り)を説いたと考えられる。
故に、ゾロアスター教と仏教の根源は母権文化、プロト極性文化であると考えられる。ゾロアスター教の父権的なもの(「父」)は、+1が脱構築された後の「知」を指しているのではないだろうか。つまり、不連続的知性ではないだろうか。これはここで留める。(ならば、PS理論、トランス・モダンは新母権だけではなく、新父権を意味する。新母権・新父権文化である。)
本題の連続性の力学であるが、それは、自己意識が対象に固着・粘着・癒着する状態の力学である。
そう、「我」はどこから生まれるのか。原我は+iであり、原他は-iである。そ原我・原他の極性が抑圧されて我と他の二元論において、我が生起すると言えよう。言い換えると、極性の否定・抑圧から二元論・我が生まれるのである。
これは、先に述べたように、+i=+1の錯誤状態であると考えられる。原我という認識主体(+i)が同一性(+1)と一致してしまっている錯誤態である。これが、連続性と言えよう。
なお、連続性が形成されるためには、言語、とりわけ、文字言語が必要となろう。ここで言語の形成について考察しよう。
ある現象を知覚・認識するとき、原初的には、つまり、即非的現象知覚においては、原我は原他を感覚する。この原他を知覚・認識するためには、光現象が必要となる。即ち、原他を同一性(+1)へと投影すると考えられる。この同一性への投影の一つの主要なものが発話ではないだろうか。原他「山」を例えば、yamaと呼ぶとき、それは、原他「山」を同一性のyamaとして投影していると考えられる。
もっとも、注意すべきは、原初的には、あくまで、認識主体(+i)にとり、認識対象は原他(-i)であることである。つまり、同一性(+1)のyamaを介して、原他(-i)を知覚・認識しているということである。
 とまれ、同一性(+1)を介する、つまり、メディアとすることで、原初的認識が可能になるのである。そして、同一性(+1)、この場合はyamaという発話は、原我にとって、感覚なのだと考えられる。つまり、身体(感覚身体)である。この感覚ないしは身体を介して、原我は弁別的に知覚・認識すると言える。
そして、発話ないしは言語は原他(-i)の指標・符号ということになる。しかし、父権文化が強化されるとこれが忘却されて、同一性(+1)自体が存在するように錯誤されるのである。つまり、物質の出現である。これは、同一性に因る錯誤から生まれるものである。言語とフォルムの結合によって、同一性は仮構・仮象から実在・存在へと錯誤的に変換されるのである。客観的対象・物体が錯覚的に形成されるのである。
この言語とフォルムの結合による同一性の錯誤的実体化であるが、それは、構造形成を意味しよう。つまり、同一性構造が原我において、形成されるのである。それは、精神的フィルターとなるのである。つまり、Media Pointにおいて、同一性構造(構造)というフィルター、フレームがいわば付着するのである。そして、これは、カントの超越論的形式に当たるのである。
西洋哲学において、これを合理論的に解体する哲学がフッサール現象学であると言えよう。確かに、シェリング、キルケゴール、ニーチェ、他は、近代合理主義(近代的理性)の解体を的確に志向したが、天才的に、つまり、直感的に行なったと言えよう。
 それに対して、フッサールは透徹して理知的に行なったのである。それは、近代的合理性(近代的理性)をエポケー(判断停止)することで相対化し、根源的な主観の志向性を取り出したのである(現象学的還元)。
それは、ノエシス/ノエマの超越論的主観性である。それは、PS理論から言えば、⇒である。ただし、フッサールは原我(+i)をノエシス、そして、それによる認識されたものをノエマとしたが、原他(-i)に当たるものを発見しなかったと考えられる。だから、間主観性(相互主観性)の概念が必要になったと考えられる。
言い換えると、フッサールは差異と同一性を明確に区別していなかったと言えよう。もし、差異(絶対的差異)を認識していたならば、認識対象は差異(他者)となり、そこには、即非的差異極性があることが認識されたはずだからである。
 しかしながら、以前述べたように、フッサールは直感的にはそれに達していたと思われるのである。直感においては、PS理論的ではあったが、認識においては、同一性の発想に囚われていたと考えられるのである。


検討問題:’09/12/31

1)プラス1への傾斜の力学
2)プラス1とは同一性であり、言語、物質、自我、量、等の基本単位ではないのか。
3)Media Point ないしは精神的フィルターにおける即非的現象の記述方法について
4)古代宇宙論のコスモスとPS理論
5)地霊spirit of place, genius lociあるいは「気」について:場所によって明らかに、「気」が異なるが、これは絶対的差異と言えよう。つまり、絶対的差異としての地霊、地的「気」である。私の「自宅」周辺の地の「気」は、不思議なほど、私の身体と共振・共鳴して、癒しの心地をもたらしている。

以上はすべて重要な問題であるが、最初に3について検討したい。
確かに、即非、即非的共振ないしは即非的極性と記述することが的確である。即非的極性と記述するのがもっとも的確だと思われる。
つまり、即非的極性として現象が発現するということになる。そして、プラス1の極とマイナス1の極をもつのである。そして、前者は陽極であり、後者は陰極である。
喩えて言えば、電池や磁石を想定するとわかりやすいだろう。より的確に言えば、電磁気ないしは電磁波である。そして、電磁気・電磁波的現象のプラス極(正極)とマイナス極(負極)において、前者は外的現象(外光)、後者は内的現象(内光)を形成し、両極で「身体」を形成するのではないだろうか。
そして、心ないし魂(以下、心魂)は、後者に因るだろうが、前者の同一性によって、自我、同一性自己を形成すると思われる。
つまり、マイナス極(負極・陰極)/マイナス1とは、差異である。そして、プラス極(正極・陽極)/プラス1とは同一性である。だから、即非的極性とはこの差異と同一性の極性ということになるだろう(作業仮説)。
そして、この極性は非対称的である。シンメトリカルではないのである。いわば、左右非対称的である。思うに、これが、自然の最高の不思議ではないだろうか。ただし、当然ながら、人類は、プラス1に傾斜している。とりわけ、父権的人類はそうである。
一般的に生命体は、極性のバランスが取れていて、自然環境のもつ電磁気・電磁波力に即して、行動していると考えられる。つまり、マイナス1の差異の力学に即していると考えられる。
それに対して、人間は、とりわけ、父権的人類や近代的人類はマイナス1の差異を喪失していて、妄りに、プラス1を主軸にして行動して、自然・社会・世界を混乱させ、破壊しているのである。
思うに、人類は、大きく分けると、母権的人類(民族)と父権的人類(民族)に区別されるのではないだろうか。(これは、女性と男性という区別に重なる場合があるが、それとは根本的に異なる。)
先に述べたように、母権制の場合、即非的極性のバランスはとれていたと考えられ、父権制の発動により、プラス1へと強く傾斜したと考えられる。そして、それが、いわゆる、文明を形成したのである。しかしながら、正確に言うと、それは、父権的文明である。文字の発明が正に父権的文明の産物と考えられる。(思うに、デリダの勘違いはパロル《音声言語》を同一性、エクリチュール《書記言語》を差延と考えたことである。パロルはまだ差異に近い面がある。エクリチュールは同一性的である。前父権的文明はイメージやヴィジョンが支配的であったと考えられる。それは、正に、即非的現象のそれであると考えられる。)
そして、プラス1へ傾斜した父権的文明(とりわけ、ユダヤ・キリスト教西洋文明:もっとも、イスラム教文明、儒教文明も強い父権的傾斜をもつ)が「科学・技術」を生んだと言えるのである。(もっとも、その恩恵を拝すると同時に、破壊的な打撃を受けているのであるが。)
問題は、精神文化ないしは民主主義文化である。それは、基本的には母権的なものと考えられる。言い換えると、差異の文化であり、それは、父権的文明の支配下にあって、地下水のように、連綿と受け継がれてきたのである。それは、また、精神的遺伝子として、継続してきたとも言えよう。(プラトンの想起説やユングの普遍的無意識、ジョセフ・キャンベルの普遍的比較神話学、他を参照。)
思うに、欧米的民主主義は古代ギリシアの貴族的直接民主制とイエスの教え(イエスの愛や罪の許しの教えであるが、哲学的にはこれらは他者の思想と考えられる)の結合から生まれたと推察される。結局、既述のように、西洋文明・文化とは、父権制と母権制の結合であるが、それらは連続的であったり、あるいは、前者が主導・支配的で、後者を従属させたりしているのである。
しかし、端的に、的確に言えば、父権制が支配的であると言わなくてはならないのである。つまり、同一性が支配的なのである。ここが西洋文明・文化の大問題点なのである。
よく知られたように、近代主義批判は19世紀から諸学の様々な領域で起こり、近代主義の超克が志向されてきた。ポスト・モダンやポスト構造主義はそのようなものであったが、理論の不十分さの為に、実現できなかったのであり、また、逆に哲学・理論総体の大混乱という知的大惨事を引き起こしたと言えよう。(ここにおいて、当然ながら、不連続的差異論やプラトニック・シナジー理論のブレーク・スルー的意義があるが、既述済みなので、ここでは触れない。)
とまれ、近代主義とは近代合理主義であり、それは、ハードな同一性主義なのである。それは、結果として、唯物論(物質主義)をもたらしたのである。そのため、母権的文化である精神文化や民主主義文化の差異の文化は否定されたり、抑圧されたりしたのである。(ここで、文化とは、社会とほぼ同義と理解されたい。)
そして、資本主義であるが、それは、正に、近代合理主義を原理として発達した経済システムである。ここでは、同一性主義(同一性価値=交換価値)が貫徹されるである。
しかしながら、既述のように、資本主義の基盤は差異的価値、社会的ないしは共同体的差異的価値なのである。しかしながら、その差異的本体の評価を全く同一性価値によって為すという倒錯・転倒が起こっているのである。
言い換えると、母権的価値を父権的価値で評価するという錯誤があるのである。これは、当然ながら、プラス1へのハードな傾斜に拠るのである。そして、その帰結がリーマン・ショックである。
近代主義としての資本主義は終焉したと言えよう。これからは、トランス・モダンの「資本主義」が生まれることになる。それは、即非的極性をもった「資本主義」である。思うに、プラス1が投資ならば、マイナス1は贈与ではないだろうか。
マイナス1は差異的価値であり、精神的価値、民主主義的価値であり、それは、投資主義的発想では、充当できないと考えられる。
とまれ、即非的極性の視点から言うと、プラス1は中心化されないのであり、端的に言えば、即非的極性価値が主導化すると考えられる。つまり、即非的極性経済がトランス・モダン経済であると考えられる。換言すると、資本主義は即非的極性化されるのである。だから、即非的極性資本主義と言えるだろう。
そして、この実現のためには、政治の即非的極性化も必要である。つまり、同一性化している民主主義(近代民主主義)から差異的民主主義へと転換する必要があるのである。個々差異々々を見る民主主義である。それは、差異的共同体主義と呼ぶことができよう。

次に4について考察しよう。今は寸言に留める。
先に、マイナス1がD. H. ロレンスの説くコスモスであると指摘した。そうすると、ここが、古代宇宙論のコスモス(ロレンスのコスモスはほぼ古代宇宙論のコスモスへの回帰だと考えられるが、正確に言えば、トランス・モダン的コスモスであることを認識すべきである)について、PS理論からの解明の突破口になると考えられる。
PS理論から言うと、根源に+iと-iがある。これは、陰陽である。+iを陽、-iを陰、あるいは、それらを逆に見ることができる。とまれ、言わば、大陰(太陰)と大陽(太陽)が根源にあるのである。それらは、また、おそらく、デュナミスの次元である。
ここで、易経を参考にするといいだろう。太陽と太陰がそれぞれ、三元であり、それぞれ、陽爻陰爻があるので、結局、2^6=64通りの順列(八卦)がある。
思うに、デュナミス次元は六元ではないだろうか。そして、エネルゲイア次元(Media Point ・精神的フィルター次元)は64元ではないだろうか。
とまれ、大陰の三元と大陽の三元があることになる。そして、Media Pointにおいて、この三元と三元が組み合わされて、コスモスを形成するのではないだろうか。例えば、易経の太陽では、純粋なプラス1となるのではないだろうか。そして、太陰では、純粋なマイナス1となるのではないだろうか。
思うに、例えば、{(+ia)*(-ia)}*{(+ib)*(-ib)}*{(+ic)*(-ic)}又は、
{(+i1)*(-i1)}*{(+i2)*(-i2)}*{(+i3)*(-i3)}、あるいは、
{(+i)*(-i)}*{(+j)*(-j)}*{(+k)*(-k)}と
記述できないだろうか。三重のガウス平面である。
とまれ、簡略化して、ガウス平面で考えると、プラス1とマイナス1が両端となり、両者の中間的様態が発現するのではないだろうか。例えば、cosθ+isinθを即非子(電磁気・量子)とすると、θがπのとき-1となり、2πのとき、+1となる。しかし、即非子は対ともつと考えられるので、±(cosθ+isinθ)が的確である。
だから、θがπのとき、プラスの即非子は-1となり、マイナスの即非子は+1となる。
そして、θが3分の1π(60度)のとき、プラス即非子は、1/2(1+i√3)となり、マイナス即非子は、-1/2(1+i√3)となる。つまり、±1/2(1+i√3)である。そして、実軸部分が±1/2である。そすると、θが3分の1πのときは、プラス成分とマイナス成分それぞれ、1/2をもつことになるだろう。
言い換えると、同一性が1/2で、差異も1/2となるのではないだろうか。しかしながら、±2分の√3掛けるiが、いわば、潜在している。即非子=複素数としてのコスモスであり、人間である。とまれ、この作業仮説はここで留める。


09/12/29の諸記

折口信夫の『言語情調論』を少し見たが、興味深い。感情と(言語)情調を区別している。思うに、知的な情感を折口は問題にしているようだ。あるいは、普遍的な情感である。残念ながら、今は余裕がないので読むことができない。
 さて、マイナス1の問題をさらに検討したい。プラス1が光子であり、物質とするなら、マイナス1は、言わば、闇子であり、反物質であろう。「ダーク・マター」である。
 問題は、両者は極性であり、本体は「大光」である。つまり、先に述べたように、「大光」のプラス1が光の極(陽極)であり、「大光」のマイナス1が闇の極(陰極)である。そして、通常、人間は「大光」の陽極の様態を視覚しているのである。
 さて、ここで思考実験であるが、夢で見る映像ないしは文学作品によって喚起される映像であるが、それは、直感では、マイナス1の陰極に関係するのではないかと感じられるのである。何故なら、それらは、言わば、闇の光であるからである。
 言葉にすると矛盾になるが、昼間の光、陽極の光は、光の光であり、夜間の夢の光は、陰極の光、闇の光ではないのか。先に区別したが、前者を「陽光」、後者を「陰光」と呼ぶ方が明快である。しかしながら、前者は日常語なので、問題である。そこで、プラス光とマイナス光と呼ぶ方が、明晰であるので、これをとりたい。
 マイナス光という視点は重要だと思う。何故なら、単に闇と呼ぶと、その一種の可視性が喪失されるからである。というのは、私はマイナス1の「闇」を一種可視的なものではないかと感じているからである。言い換えると、「闇」の視覚があるのではないかと感じているからである。何故なら、私の経験では、ほとんど明らかに「闇」の視覚をもって、現象を知覚していると思われるからである。とまれ、これを作業仮説としよう。
 そうすると、プラス光視覚とマイナス光視覚の二つの視覚があることになる。そして、心眼と言った時、それは、後者に関係する。つまり、プラス光視覚を介しつつ、マイナス光視覚で知覚することが、心眼のように思われる。
 しかしながら、両者を絶対的に分離するのは誤りであろう。何故なら、当然であるが、両者は極性的であるからである。だから、マイナス光視覚(以下、マイナス視覚)とは、プラス光視覚(以下、プラス視覚)と即非・共鳴している様態にあると見るべきである。簡単に言えば、極性的視覚である。言わば通俗的に言えば、陰陽的視覚である。
 そして、さらに作業仮説であるが、マイナス視覚は折口的に言えば、情調と関係している。換言すると、情感に関係している。何故なら、対象とマイナス視覚は共鳴して、一側面では、即、一体の様態になるからである。例えば、「わたし」は「冬枯れの木立」であるという状態である。しかしながら、プラス視覚はすぐに、「わたし」は「冬枯れの木立」ではないと知覚し、即非状態が喚起されるのであるが。この即非的視覚がここにはあるのである。
 ここで、少し飛躍して、D. H. ロレンスが述べたdark God、dark sun、「コスモス」等のことを考えると、それは、マイナス視覚の世界のことではないだろうか。プラス視覚の世界、通常の現象界に対して、マイナス視覚の世界を対蹠的に表現していると考えられる。そう、特化的に表現している。何故なら、ロレンスは、近代合理主義、近代的自我のプラス視覚中心主義(ロゴス中心主義、同一性主義)を絶対的に批判しているからである。
 だから、その文脈で見れば、その的確さは肯定される。しかしながら、今日的には、極性的視覚、プラス視覚とマイナス視覚の極性的視覚と見るのが的確である。(だから、この点から見ると、ロレンスには、反動的な面があるのである。)
 さて、さらに思考実験を続けると、マイナス視覚とは、内的身体的視覚のように思える。内的視覚とも呼べよう。
 これは、他者、対象との共鳴・共振状態(情感・情調)を見る視覚でもある。言い換えると、情感・情調的視覚である。緻密に言えば、他者情感・他者情調的視覚である。簡単に言えば、情的視覚である。
 現代日本、近代主義末期のポスト・モダン状況にある現代日本において、プラス視覚中心主義となり、マイナス視覚的主観性・精神性・心性がおそろしく喪失されていると直感されるのである。
 そう、私が視覚中心主義を批判したのは、この意味において、即ち、プラス視覚中心主義において見なくてはならない。
 また、魂や心眼の喪失も、ここにおいて、捉えられるべきである。つまり、マイナス視覚の喪失が魂や心眼の喪失を意味すると考えられる。そして、これは、東洋的身体の喪失でもあるのである。
 そこから考えると、東洋的身体とは、マイナス視覚を形成するものであると考えられる。例えば、禅はそのようなものと見るべきであり、禅文化が浸透している伝統的日本文化はマイナス視覚文化と言えよう。
 また、禅仏教だけでなく、当然、道教もヨガもそのようなものである。しかしながら、正確に言えば、マイナス視覚とプラス視覚の極性バランスの形成を志向していたと見るべきだろう。
 さらに展開させて、ゾロアスター教をこの視点から見るとどうなるだろうか。一見すると、アフラ・マズダーの「光」・「火」はプラス視覚のそれと考えられるだろう。
 しかしながら、ゾロアスター教は多神教であり、また、女神文化を包摂しているのである。もし、プラス視覚ないしはプラス光のみを志向するならば、一神教になるだろう。
 もっとも、確かに、プラス視覚ないしはプラス光はゾロアスター教にはある。しかしながら、多神教性、女神文化性を考えると、それは、マイナス視覚、マイナス光の側面ももつと考えられる。
 理論的に見ると、悪神アンラ・マンユとは、プラス1と考えられるから、善神スプンタ・マンユとは、マイナス1となるのではないだろうか(これは、以前、示唆したが)。ということは、ゾロアスター教の「光」・「火」とは、本来的には、マイナス光ではないのかと考えられる。
 より正確に言えば、大光をプラス1の「光」、プラス光に限定するものが悪神アンラ・マンユであり、ゾロアスター教の「光」・「火」とは、大光自体と見るべきではないかと思われる。そう、大光がアフラ・マズダーであり、マイナス光が善神のスプンタ・マンユとなるだろう。
 今はここで留める。



   




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カレンダ
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