INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2010

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2010年12月31日(Fri)▲ページの先頭へ
『量子的な非局所性(長距離相関)とMedia Point 双極子:精神的前物質エネルギー様態と観測的物質的収束』
『量子的な非局所性(長距離相関)とMedia Point 双極子:精神的前物質エネルギー様態と観測的物質的収束』

ずいぶん以前に読みかけていた、ロジャー・ペンローズの『心は量子で語れるか』を主要な箇所は一通り読んだが、機知に富む、量子の非局所性の問題が興味深いので、新たに考察してみたい。
 これまで、私は量子をガウス平面の虚軸の双極子として仮定してきた。つまり、凸i*凹iである。それが、ペンローズの非局所性の記述から言うと、スピン0の「粒子」である。そして、それが、Media Pointで、実軸上へと変換して、対のスピン1/2が反対方向に飛び出すと考えられる。
 非局所性の問題は、この二つの粒子、例えば、電子と陽電子の対が、長距離相関性をもつということであるが、その理由を量子論はうまく説明できないと考えられるが、PS理論から言うと、対の粒子は、実は、虚軸の双極子の変換したものであり、Media Pointによって、二つの粒子は、双極関係を保持していると想定されるのである。つまり、この場合は、電気のプラスとマイナスは双極関係をもつのであり、絶対的には分離していないということになる。
 では、この双極力学をどう見るのかが問題である。これは作業仮説であるが、Media Point自体に双極力学があると考えよう。つまり、虚軸においては、凸iと凹iとの双極関係があり、実軸においては、凸と凹との双極関係があるということになるのである。これを仮に、Media Point Dipolar Interaction(MP双極関係:造語すれば、Media Point Dipolarity:MP双極性)と呼ぼう。
 問題は、観測結果である。例えば、電子のスピンが上向きと観測されれば、陽電子のスピンは下向きとなるのである。これは、物質化の結果と見ることができよう。
 すなわち、凸i*凹i⇒凸(又は、+1)における⇒凸(+1)の凸(+1)が観測事象と考えられる。これは、収束ということであり、収束以前は、双極関係を保持するエネルギー状態であったが、それが、収束するときは、物質的にプラスとマイナスに分化すると考えられる。このときは、明らかに、電子と陽電子という二つの物質的粒子に変換しているのであり、それは、分離された物質である。
 そして、分離された二つの対の粒子は、プラスとマイナスにおいて、双極関係を保持しているということである。
 結局、観測されるまでは、つまり、物質的に観測されるまでは、電子と陽電子の対は、前物質的エネルギー的双極子であると言えるのではないだろうか。仮に、Media Point的電子・陽電子双極子と呼べるかもしれない。そして、物質的観測とは、⇒を切断して、エネルギー的双極子を+1と帰結させることである。
 ということで、ざっとであるが、量子の非局所性ないし長距離相関の問題の解明を試みた。これが問題化するのは、物質的観測する以前の対の粒子を、物質として捉えことにあると考えられる。そうではなくて、物質的観測以前では、対の粒子とは双極関係を保持したエネルギー様態にあると見るならば、それはまったく矛盾、パラドクスではないのである。
 また、虚軸の双極子を虚界の双極子、実軸の双極子を実界の双極子と呼ぶことができるのではないだろうか。
 とまれ、虚界は精神界であり、実界は物質界であるが、物質化される以前の実軸のエネルギー様態については、上記のMedia Point Dipolar Interaction(MP双極関係)から、Media Point DipoleないしMedia Point Cross Dipoleと呼べるのではないだろうか。換言すると、それは、虚軸と実軸の四極性を保持しているのであり、精神的前物質と呼べるように考えられる。そして、敷延するならば、それが、生命体においては、「気」ではないだろうか。つまり、前電子*前陽電子としての「気」である。
 思うに、この「気」は広く捉えることができるように推測される。単に生命体を形成するだけでなく、鉱物を形成する力がこれであるように思われるし、また、精神というものも、これで説明がつくように思われるのである。この点については、稿を改めて検討したい。


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


心は量子で語れるか (ブルーバックス) [新書]
ロジャー・ペンローズ (著), 中村 和幸 (翻訳)

商品の説明
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物心二元論からの脱却、ギリシャ自然哲学の巨人アリストテレスの分類から発展してきた学問に対する懐疑は、20世紀においては、ホワイトヘッドの有機体の哲学、シュレディンガーの生命論に見られる。ただ、彼らの後半生あるいは晩年の思想と活動は、必ずしも理解されていなかった。数理物理学者ペンローズも彼らと共通するのか?

本書の原題は、『The Large, the Small and the Human Mind』。「時間/空間」に関して「Large/Small」であり、「小」はプランク長とプランク時間、「大」は宇宙である。ペンローズは今我々が手にしている量子力学が「重要な何かを欠いている」としながら、修正された真の量子力学を用いれば、心の問題を解明できるのではないかとする。つまり物質の振る舞いを記述する量子力学が心をも記述できるはずだ、と。この思想は、自称恥知らずな還元主義者ホーキングら高名な学者からの疑問・批判にさらされているが、ペンローズが正しいとも思われている。

彼は純粋に論理的思考で構築された数学が、現実世界の物理を驚くべき正確さで予見できることに偶然ではない深淵があるという。たとえば、アインシュタインの一般相対論は観測結果を驚くべき精度で予測できるが、特殊相対論とは違い、観測事実の要請があって生まれたのではない。純粋に思弁的に導出された理論なのである。

また、彼自身が描いたと思われる豊富なイラストによって、ディラック方程式も愉快に描かれる。ポリオノミ・タイリング、マイクロチューブ、あり得ない三角形などは彼一流の思考がほとばしり出る表現である。

脳の解明が急速に進んでいる昨今の状況をみても、このペンローズの大胆な試みは21世紀における脳の問題、心の問題を科学的に定式化するものになるかもしれない。(澤田哲生) --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。

ロジャー・ペンローズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ロジャー・ペンローズ。2007年2月、ブルックヘイブン研究所にて撮影。このときペンローズ75歳。
ペンローズの階段
ペンローズの三角形


ロジャー・ペンローズ(Sir Roger Penrose, 1931年 8月8日 - )は、イギリス ・エセックス州 コルチェスター 生まれの数学 者、宇宙物理学 ・理論物理学 者。
科学上の業績 [編集 ]

* スティーヴン・ホーキング と共にブラックホール の特異点定理 (重力崩壊を起こしている物体は最後には全て特異点を形成する)を証明し、「事象の地平線 」の存在を唱えた。
* 回転するブラックホールから理論的にはエネルギーを取り出せる方法としてペンローズ過程 を考案。
* 量子的なスピン を組み合わせ論的につなぎ合わせると、時空 が構成できるというスピンネットワーク を提唱。このアイデアは後に量子重力理論 の1候補であるループ量子重力理論 に取り込まれた。
* 時空全体を複素数で記述し、量子論と相対論を統一的に扱う枠組みであるツイスター理論 を創始した。長らく物理理論というよりは数学的な研究対象とされていたが、近年、超弦理論 やループ量子重力理論との関連性が見いだされつつある。
* 2種類の図形で非周期的な平面充填 の「ペンローズ・タイル 」を提示した。当初、純粋に数学上の存在と考えられていたが、1984年 にペンローズ・タイルと同じ対称性を有する結晶構造(準結晶 と呼ばれるもの)が実際に発見された。
* 角柱が3本、それぞれ直角に接続しているという不可能立体「ペンローズの三角形」や「ペンローズの階段 」を考案し、エッシャー の作品「滝」などに影響を与えた(ペンローズ自身もエッシャーのファンであり、平面充填や不可能図形の研究もその作品に触発された物と言われている[1] )。

その他の活動 [編集 ]
量子脳理論 [編集 ]

詳細は「量子脳理論 」を参照

著書『皇帝の新しい心』にて、脳 内の情報処理には量子力学 が深く関わっているというアイデア・仮説を提示している。その仮説は「ペンローズの量子脳理論」と呼ばれている。素粒子にはそれぞれ意識の元となる基本的で単純な未知の属性が付随しており[要出典 ]、脳内の神経細胞にある微小管 で、波動関数 が収縮すると、意識の元となる基本的で単純な未知の属性も同時に組み合わさり[要出典 ]、生物の高レベルな意識 が生起するというのである。(「意識 」の項にその仮説の解説あり。参照のこと)

この分野は未だ科学として十分に確立してはおらず、プロトサイエンス (未科学)の領域である。故国イギリス の大先輩の物理学者ニュートン が古典力学の科学的体系を構築しつつ、その片側で錬金術 の研究に手を染めていた事を思い起こさせる、と評する者[誰? ]もいる。
量子論上の観測問題 [編集 ]

『皇帝の新しい心』以降の著書で、現在の量子力学の定式化では現実の世界を記述しきれていないという主張を展開している。(学術論文としても提出している)

量子論 には波動関数のユニタリ発展(U)と、波束の収縮(R)の2つの過程が(暗に)含まれているが、現在の量子力学の方程式ではUのみを記述しており、それだけでは非線形なR過程は説明がつかない。すなわち、現在の量子力学の定式化はRが含まれていないため不完全であるとする。そして、Rに相当する未発見の物理現象が存在していると考え、量子重力理論の正しい定式化には、それが自ずと含まれているだろうと唱えた。

『皇帝の新しい心』の続編として出版された『心の影』では、上記の仮説をより進め、UとRを含む仮説理論として「OR理論(Objective-Reduction、客観的収縮)」を提唱した。
量子レベルの世界から古典的なマクロ世界を作り出しているのは、重力 であり、重力がRに相当する現象を引き起こすとする。量子的線形重ね合わせとは、時空の重ね合わせ であり、重ね合わせ同士の重力的なエネルギー差が大きくなると宇宙は重ね合わせを保持できなくなって、ひとつの古典的状態に自発的に崩壊するというモデルである。

その後、著書『The Road to Reality』の中で、OR理論を検証するための実験(FELIX:Free-orbit Experiment with Laser-Interferometry X-rays)を提案している。

これらの主張は、量子論におけるいわゆる「観測問題 」あるいは「解釈問題」と呼ばれる議論に関連している。
略歴 [編集 ]

父は遺伝学者のライオネル・ペンローズ 。ロンドン大学 、ケンブリッジ大学 セント・ジョンズ・カレッジなどで数学を学ぶ。1952年 、ロンドン大学卒業。1957年 、ケンブリッジ大学で博士号取得。ロンドン大学、ケンブリッジ大学、プリンストン大学 、シラキューズ大学 、テキサス大学 、コーネル大学 、ライス大学 などで教鞭をとる。

1964年、スティーヴン・ホーキング と共にブラックホール の特異点 定理を証明。1972年、王立協会 会員に選出される。1973年、オクスフォード大学 ラウズ・ボール教授職に就任。1988年スティーヴン・ホーキング とともにウルフ賞 を受賞。1994年、ナイト を叙勲。2008年、ロンドン王立協会 からコプリ・メダル を受賞した。
著作リスト [編集 ]
物理学関係 [編集 ]

* 『ホーキングとペンローズが語る 時空の本質』(早川書房 :ホーキングと共著) ISBN 4-15-208076-0  1997年4月
* 『The Road to Reality : A Complete Guide to the Laws of the Universe』 Jonathan Cape, London, 2004, ISBN 0-224-04447-8 (hardcover), ISBN 0-09-944068-7 (paperback)

数学関係 [編集 ]

* 『数学の最先端 21世紀への挑戦 第2巻』(シュプリンガー・ジャパン) ISBN 978-4-431-70963-3  2002年12月 - (競作論文集。共著。ペンローズの著述は「ツイスターと一般相対論」)
* 『数学の最先端 21世紀への挑戦 第4巻』(シュプリンガー・ジャパン) ISBN 978-4-431-71040-0 2003年12月 - (競作論文集。共著。ペンローズの著述は「20世紀および21世紀の数理物理学」)

それ以外 [編集 ]

* 『皇帝の新しい心 コンピュ−タ・心・物理法則』(みすず書房 ) ISBN 4-622-04096-4  1994年12月
* 『心の影 意識をめぐる未知の科学を探る 1』(みすず書房) ISBN 4-622-04126-X  2001年12月
* 『心の影 意識をめぐる未知の科学を探る 2』(みすず書房) ISBN 4-622-04127-8  2002年4月
* 『心は量子で語れるか』(講談社 ) ISBN 4-06-154238-9  1998年3月
* 『心は量子で語れるか 21世紀物理の進むべき道をさぐる』(講談社ブルーバックス 版) ISBN 4-06-257251-6  1994年4月

* 『ペンローズの量子脳理論 21世紀を動かす心とコンピュータのサイエンス』(徳間書店 ) ISBN 4-19-860703-6  1997年5月 - (日本独自編集。量子脳理論関連の論文、インタビュー、論争の記録が納められ、竹内薫 ・茂木健一郎 が解説を担当。絶版。)
* 『ペンローズの<量子脳>理論 心と意識の科学的基礎をもとめて』(筑摩書房) ISBN 4-480-09006-1  2006年9月 - (徳間書店から出版されていた『ペンローズの量子脳理論』の再版。文庫版。)

脚注 [編集 ]

1. ^ http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic025/html/110.html

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA 」より作成
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2010年12月30日(Thu)▲ページの先頭へ
力への意志とニーチェ哲学のポスト・モダン的限界:トランス・モダン哲学・科学のPS理論
フランスのポスト・モダンやハイデガーは、ニーチェの「哲学」の影響を強く受けてきた。今や、PS理論が誕生して、既成の学問は一掃されるが、哲学において、露払いする必要があると思うので、一言、ニーチェ問題について述べたい。
 ニーチェ哲学の核心は、力への意志である。Der Wille zur Macht(Will to Power)である。これをどう理解するかである。以前は評価したが、
http://ameblo.jp/renshi/entry-10252980429.html
今は批判することになる。これは、PS理論が進展して、知がより明晰になったからである。
 直観で言えば、「力」とは、この場合、自我凸i⇒+1と連続化した凹iのエネルギーであると考えられる。当然、純粋差異、純粋他者ではなく、自我の否定力があるので、「力」とは、否定的なエネルギーなのである。それは知を混濁させる力動・情動であり、反知性的である。それは、実に不透明なのである。闇である。
 それゆえに、反知的な権力願望を肯定することになり、ナチスに利用されたのは当然であると言えよう。
 この視点から、初期ニーチェのアポロ/ディオニュソス、あるいは、後期のツァラトゥストラについても解明できるだろう。一言言えば、それは、やはり、自我凸iが他者凹iに混濁しているのである。換言すると、アポロとディオニュソスは連続化しているのである。そのために、ディオニュソスさらにはツァラトゥストラが、否定的エネルギー、反知性的エネルギーになるのである。
 そう、自我の混濁・連続化の視点によってこそ、ポスト・モダンの源泉となったニーチェ「哲学」の欠陥が明らかになるといえよう。
 すなわち、それは、物質性ということである。自我が入ると、唯物論的になるのである。そのために、超越性は否定されるのである。この反超越性、物質主義がニーチェ「哲学」に巣食っているのである。確かに、それは、既成のロゴス的哲学・科学を否定したが、自身の唯物論性を否定できなかったのである。そして、それが、ハイデガーやポスト・モダンを規定・限定していると考えられるのである。
 丁寧に言えば、確かに、ニーチェには、超越性の予感があったが、それは、自我の物質主義のために、精神病理的に抑圧されたと言えよう。
 今や、トランス・ニーチェの時代である。超・超人の世界である。仏教の他者知性の時代である。それは、神道的多神教的霊性と調和するだろう。


国防軍の創設とトランス・モダン日本:脱父権的世界秩序としての新母権的世界秩序へ向けて
テーマ:沖縄/米軍基地/日米関係/日米安保問題

沖縄米軍基地、また、他の国内の米軍基地の問題、これは当然、一筋縄では解決しない。
 私はこれまで、国防軍創設を提唱している。独立国家として、自国防衛軍をもつのは当然である。また、それは、憲法十七条にも抵触しないと考えている。
 国際関係は微妙であるが、弱肉強食の世界であることは認めなくてはならない。力の世界である。故に、力をもって対抗する必要がある。
 しかしながら、今日の父権的力学的世界を乗り越える新世界秩序を提示する必要がある。米国に、知を依存するのは、愚かである。知を、独創的な知をもたなければ、国家は独立できない。極言すれば、知の奴隷状態があるからこそ、日本は米国に従属しているのである。
 やはり、第二次世界大戦の狂信・狂気による大惨禍が、現代日本のカルマを作っていよう。もっとも、正確に言えば、近代日本のあり方に拠るのであるが。
 知の独立のための、二つ、ないし、三つの障害がある。一つは、駄マスメディアである。これは、悪魔集団である。二つ目は、日本のアカデミズムである。少数者、例外者を除いて、既成の枠組みに安住して、「研究」しているのであり、そこには、差異=他者がないのである。言葉の他者はあっても、実存の他者がないのである。言い換えると、怯懦であることである。独創的な研究は、研究体制の自己権益を否定するので、黙殺、排除されるのである。そう、個のゲマインシャフトではなく、自我のゲゼルシャフトになっているのである。三つ目は、思うに、これが一番の障害かもしれないが、政治・経済的知力の衰退・退化・崩壊である。トランス・モダンの新しい経済学が創造すべきであるが、米国の経済学に従属したままである。 
 私は政治・経済については、素人であるが、これまで、非力ながら、新経済のあり方について考察してきたし、これからも検討する。
 ということで、沖縄米軍基地問題は、日本の知の独立に関係しているのである。新しい世界、新しい母権的世界秩序を創造する意欲・意志をもたなくては、日本滅亡は必定である。
 

[12/30]「差別を甘受せよ」という対沖縄政策(怒) (仙谷由人官房長官発言) New!!

日本国の沖縄政策について、記憶のために、菅直人政権の本音を記録しておきます。そして、これは、菅直人政権に限らず、沖縄を除く多くの日本人の本音でもあります。ここに記録した沖縄の二つの新聞による報道や社説には、反論する余地が全くありません。

この沖縄二紙の意見表明を単に仙谷批判、菅政権批判とだけ受け取るべきではありません。「日本全体が沖縄に負担を甘受させている」といういうべきです。
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-2195.html
村野瀬玲奈の秘書課広報室


サルトルの『自我の超越』:自我は凸i⇒+1、絶対的内面性・存在は凹iではないだろうか
サルトルの『自我の超越』:自我は凸i⇒+1、絶対的内面性・存在は凹iではないだろうか
テーマ:文学・哲学
以下、永野氏によるサルトルの『自我の超越』の説明は明敏である。
 自我問題であるが、これまで何度も述べたように、自我は凸iか、凸i⇒+1(凸)である。同一性の形式、物質形式である。
 それに対して、サルトルの非自我の純粋意識、絶対的内面性、存在とは、凹iであると思われるのである。サルトルの実存も、自由も、凹iと考えると、明晰になるだろう。そう、他者である。
 「実存が本質に先立つ」も、実存を凹i=他者と考えれば、わかりやすい。そして、それは、絶対的差異であり、当然、「自由」である(通常、自由は自我の自由と考えられているが、それは、恣意に過ぎない)。
 思うに、後期サルトルの混乱は、これを個の原基と捉えず、集団的なものと捉えて、マルクス主義と結合したことであろう。実存を個、絶対的差異、絶対的他者として捉えれば、マルクス主義との「野合」はなかったと考えられる。
 そう考えて、かつて、実存主義と共産主義を結合させたサルトルを激しく嫌悪したことの説明がこれで為されたことになる。長年の宿題が解決したことにな る。(私は若かったから、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』が好きであった。思うに、不条理とは、ロマン主義の延長の概念ではないだろうか。超 越性を予感しながらも、物質的現実に直面させられるというアンチノミーである。)
 ついでながら、私にとって、今年はいろいろなことの清算の年であった。身軽になって、来年は兎のように跳びはねよう。
 皆様よいお年を!
 

「自我と自由―サルトル『自我の超越』について―」

永野潤
第三節 自我の自発性と意識の自発性
 以上のようにサルトルは、純粋な反省を遂行すれば、我々は「自我」を蓋然的な「心的なもの」として排去せねばならないと主張する。これが、『自我の超 越』の主要な論点である。サルトルは、純粋な反省によって「自我」という「超越的なもの」を排除し、「純粋意識」という、絶対的内面性へと到達しようとし ている。その意味で、この議論の中に我々はいわば「外部から内部への運動」を見て取ることができるのである。ここで、「純粋な反省」によってとらえられる 超越論的意識が、「存在 existence」であるとサルトルが主張している点に注目しなければならない。超越論的意識は、
「絶対的存在領域 sphe`re d'existence absolue」だといわれる。こう主張することによってサルトルは、意識が、後の彼の表現を用いて言えば「本質に先立つ実存」であることを強調している のである。つまり、サルトルによる「意識からの自我の排去」とは、意識からあらゆる「本質規定」を取り除く作業でもある。「自我」をはじめとする「心的な もの」とは、反省された意識に外側から与えられる、「超越的」本質のことであった。したがって、「外部から内部への運動とは、「本質から存在への運動」で もあった、ということができる。
 ところが、サルトルは意識が「絶対的な存在領域」であると言うのと同時に、意識が「純粋自発性 spontane'ite's pures の領域」(TE,77)でもあるといっている。これが、我々がこれから問題にしようとしている「意識の自発性」についての議論である。自発性とは、のちの サルトル哲学において「自由 liberte'」という言葉でおきかえられていく概念なのだが、意識が「自発性(自由)である」ということは、実はサルトルにとって唯一の意識の「本質 規定」なのである。「人間は意識として(「自己のもとに現在しているものとして」)実存しており、このことが原理的に意味しているのは、人間が自由として 実存しているということにほかならない。このことこそ、サルトルにとって、根本的に存在論的に定義し言明されうる人間についての唯一の「本質の性格づけ」 である [*1] 。しかし、ここでなされている意識の「本質規定」は、意識に外側から与えられる「超越的」本質規定ではない。それは意識の「超越論的」本質規定なのであサ。「自由とは、実存する意識に後になって付け加えられるぺき規定であるという考えの成立しないように [*2] 」しなければならない。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/ronbun/jiga.html

トランス・モダンとしての道元禅哲学
テーマ:日本哲学:鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周造
以下、正法眼蔵の有名な箇所であるが、以前読んだとき、なんとなくわかったつもりであったが、今や判然とわかるのである。
 PS理論の凹i、他者をこの場合、仏道の真理とすればいいのである。凸iは、自我であり、これを脱落(身心脱落)させて、凹iの心性、心眼をもつことが仏道であると言えよう。
 道元はトランス・モダン哲学を説いていた。
 思うに、仏教というか、禅は、哲学と見るべきである。仏教は宗教ではない。神を説いていないからである。
 ところで、テキストは次を薦めたい。




正法眼蔵(一)全訳注 (講談社学術文庫) [文庫]
増谷 文雄 (著)

第一 現成公案


自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは 佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。 佛のまさしく 佛なるときは、自己は 佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。
身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして 落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の邊際を離却せり。法すでにおのれに正傳するとき、すみやかに本分人なり。

http://www.shomonji.or.jp/soroku/




ヤハウェとエローヒーム:父権一神教と母権多神教
テーマ:一神教/多神教⇒新多神教・新多一神教
神秘学者のシュタイナーが、人間はヤハウェ型とエローヒーム型に類別されると述べていた。
 PS理論で言えば、凸i型と凹i型である。日本人の遺伝子にも、両方の型があると思う。
 日本国を基本的に支えてきたのは後者であるが、戦後、とりわけ、今日、民主党に見られるように、前者が支配的になって、亡国を迎えていると思われる。
 父権型は、利己主義、自己中心的、独りよがりであり、他者がないために、社会を国を滅ぼし、民衆を地獄に落とすのである。
 思うに、現在の日本は日本国のカルマによって、大試練を迎えていると言えよう。闇が支配して、光を消滅させようとしているのである。
 とまれ、日本、日本人は生まれ変わる必要がある。本気にならないと亡国は必定である。

参照と参考:

「神道の考察」 日本の成り立ちの鍵 V
HEXのブログ


太陽に手をがざす!
指圧百科:SHIATSU

Kaisetsu氏に拠る、ベクトル・モード計算と二重螺旋構造の解明
テーマ:精神的フィルターとVector Mode
以下、たいへん興味深い解明が為されている。
 先に、私はMedia Pointにおいて、物質と精神が同時生起すると述べたのであるが、それが見事に、DNAの二重螺旋構造という点で解明されていると考えられる。
 私は⇒+1が物質化、⇒-1が精神化として、逆になっているが、単に、ネガとポジの違いであり、後で、考察し直したい。
 重要な点は、Media Pointからベクトル・モードが形成されるが、そこでは、物質、生命体が形成されると同時に、精神、知性が形成されるということである。これは正に、Media Pointの陰陽の為す造化の妙、奥義である。
 だから、Media Pointは創造神と言えるかもしれない。とまれ、余裕のあるとき、緻密に検討したい。 
• 二重螺旋構造とベクトル・モードの演算記号vector mode calculationvmc
所謂、二重螺旋構造は物質的な相互作用によって、遺伝情報と言う精神作用を伝達・保存・消去する構造である。

 物質世界からは、常に、「-1」が出てくる。

 この「-1」を指数分割(1/2乗)することで、虚数(i)を2個表出することが出来る。

 この2個の虚数が
精神世界(電磁関連作用)の場合

(凸+i)*(-i凹)⇒(適合、噛み合っている):mode=-(+i)*(-i)=(+1 or +)


 上記「精神世界(電磁関連作用)の場合」の2個の虚数であると考えることが可能だ。

 つまり、二重螺旋構造は、「物質世界の新陳代謝(ベクトル・モード計算)」と「精神世界の新陳代謝(ベクトル・モード計算)」が連続的に発生するシステムであろう。


海舌(明日野)
• 八卦とベクトル・モードの演算記号vector mode calculationvmc
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile


物質形成と精神形成:凸i主導性と凹i主導性:父権と母権
テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ
先に次のように述べたが、もう少し進展させたい。

凸iが主導で⇒+1(物質)となるならば、凹iが主導したとき、⇒-1となるのか?

私は次のヘーゲル弁証法論理の説明(弁証法論理と即非(差異共振)論理:ヘーゲル弁証法とPS理論的即非論理:トランス・モダン資本主義へ )から以上のことを思ったのである。
 ヘーゲル弁証法は、精神からの物質的形成(外化、疎外態)を説き、そして、それを止揚・揚棄して、精神に復帰する力学論理である。
 問題は、物質形成である。それは、正に対する反であるが、これは、ps理論では、+1である。
 私はその時、凸iが主導的であると感じたのである。しかし、今、判然としない。というか、ただ、凸i、陽が主導して、物質界を作ると思いついたのである。つまり、同一性形成の問題である。凸i、陽の主導性が同一性、さらには物質を形成すると言えよう。
 この同一性があるために、凸iである脳は、物質界を認識すると言えよう。凸iのもつ原同一性(ロゴス性)と物質界の同一性が適合するということである。
 ということで、本題に戻ると、では、凹iが主導したとき、何が生起するのか。
 先に、凹iは肚であると言った。あるいは、下丹田、マニプーラ・チャクラ、太陽神経叢、視床下部等と言えよう。
 凹iが主導したとき生起するのは、直観では、精神・魂である。凹iの主導性は、同一性ではなく、差異共振を形成すると思う。凸iの主導性が同一性かつ物質を形成するなら、凹iの主導性は、精神・魂を形成するということになる。
 つまり、凹iは絶対的差異、他者であるから、凸iの原同一性=ロゴス性が消極的になり、非同一性、非物質性を生成すると考えられる。即ち、陰陽力学と は、本来、物質と精神を同時生起させているのであるが、原父権主義である凸iが主導的であると、物質主義が支配的になると言えよう。
 では、さらに、凹iの主導性・優位のもたらす精神・魂の意味を考えてみよう。私が考えているのは、-1との関係である。
 凹iの精神的感性であるが、それは、超越界と通じているのである。つまり、凹iは「気」と通じていると考えられるのである。ならば、超越界を-1とするなら、凹iは-1と連絡して、人間認識図の第三象限を形成すると言えよう。
 根源は超越界であるが、しかしながら、凹iは-1と連携して、自立的に、超越界ないし超越性を形成するのではないだろうか。そして、シュタイナーの霊学から見ると、それが人間の使命となる。
 凹iと-1の第三象限的思考をもつことで、個的超越界・超越性が形成されるのであり、それは、精神・魂の豊かさを創造すると言えよう。
 そして、凸iの物質文化との調和をそれによって計っていくことが、現代の人間に課させられたもっとも重要な任務であろう。

参考:

チャクラ
チャクラ(cakra, chakra, cakkra, चक्र)は、サンスクリット で「車輪・円」を意味する語。漢訳は「輪」(りん)、チベット語では「コルロ」(khorlo)という。インド起源の神秘的身体論における、物質的な身体(粗大身)と精微な身体(微細身)にある複数の中枢を指す[1] 。
ヨーガでの用法 [編集 ]


各チャクラの位置
ヒンドゥー教 のヨーガ では、人体の頭部、胸部、腹部で、輪または回転する車輪のように光っているように感じられる箇所を言う。数は6または7箇所と言われるが、それとは別に8箇所あるという説もあるなど、一定ではない。画像 では光る蓮華 で表現される。猿であったときの尻尾の名残の尾てい骨から発生する蛇を、チャクラを通じて頭から出すのが目的といった見解がある。
1. ムーラーダーラ(Mooladhara)・チャクラ:会陰
2. スヴァーディシュターナ(Swadhisthana)・チャクラ:陰部
3. マニプーラ(Manipura)・チャクラ:腹部
4. アナーハタ(Anahata)・チャクラ:胸
5. ヴィシュダ(Vishuddhi)・チャクラ:喉
6. アージュニャー(Ajna)・チャクラ:眉間。インド人は、ここにビンディ をつける。
7. サハスラーラ(SahasrAra)・チャクラ:頭頂(Sahasraは千、Araは花弁。6箇所の場合、含まれない。一説に千手観音 の千手千眼はこのチャクラのことという)。
簡易的には背骨の基底部から数えて第1チャクラ、第2チャクラ……という呼び方もする。
チベット仏教の指導者であるダライ・ラマ14世 は、その場所に心を集中すると何かしらがあるという反応が得られると述べている[2] 。
仏教タントラにおけるチャクラ [編集 ]
インド仏教の金剛乗 のタントラ 経典では以下の四輪があるとされていた。
• 応身のチャクラ(臍)
• 法身のチャクラ(胸)
• 報身のチャクラ(喉)
• 頭部の蓮華(脳)
インド密教を継承したチベット仏教 の無上瑜伽タントラでは以下のチャクラがあるとされる[3] 。
• 大楽輪(頭頂)
• 受用輪(喉)
• 法輪(胸)
• 変化輪(臍)
• 守楽輪(秘密処=下丹田にあたる)
中国 [編集 ]
中国の道家 や内丹術 の伝統的な身体論には、インドのチャクラに比すべき丹田 という概念があるが、近代の内丹術の中でも清 代の閔小艮の一派はヨーガの七輪の概念を取り入れている[4] 。
西洋への伝播 [編集 ]
ヨーガ の伝播と共にチャクラの概念も伝播した。数は7箇所で内臓 の各部に充てられるようになった。また、その振動の周波数などを解明したとする研究者もいる。他の行法である近代西洋儀式魔術 などにも概念が取り入れられた。
神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ [編集 ]
チャクラは脊椎に関連するエーテル体 にあるエネルギー・センター(渦)で、肉体の7つの内分泌腺及びメンタル体 、アストラル体 、肉体の調整と活性化を司り、意識の中枢と各身体の中継点としての役割をはたしている。
現在のヒーリングなどの分野では、各チャクラに対応する体表のツボのことを指して「チャクラ」と呼んでいる。体表のツボは単にチャクラからのプラーナ (気 ) の出入口としての役割を果たしているにすぎず、チャクラではないが、ここでは便宜上体表のチャクラと呼ぶことにする。一方、伝統的なヨーガが伝えている 「チャクラ」は、体表のチャクラではなく、人間のエーテル体に存在するほぼ脊柱に沿った7つのチャクラで、ここではこれを脊髄のチャクラと呼ぶことにす る。しかし時代が下るにつれ、この脊髄のチャクラとは異なるチャクラの記述が現われるようになる。ここではこれを神経叢のチャクラと呼ぶことにする。実の ところ主要な7つのチャクラのいずれのチャクラも、これら神経叢のチャクラと脊髄のチャクラが対をなして存在している。しかし現在に至るまで、この2つの チャクラの系統は明確な区別がなされていない。
古代のヒンドゥー教のヨーガでは、脊髄のチャクラが「チャクラ」とされてきた。不滅の身体をもち今も老いることなくヒマラヤで生き続けていると言われているマハー・アヴァター・ババジ が、弟子たちに伝授したクリア・ヨガの伝統では、脊髄のチャクラに関する知識が伝わっている。20世紀前半、クリア・ヨガを初めて西洋に伝えたパラマハンサ・ヨガナンダ は、 著書『あるヨギの自叙伝』(森北出版)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を『心臓の後にある胸椎中枢』としている。ヨガナンダの言うチャクラが脊髄の チャクラであることが分かる。またババジのクリヤー・ヨーガ(ヨガナンダのクリア・ヨガと本質的に同じものと思われる)の普及活動をしているマーシャル・ ゴーヴィンダンは、著書『ババジと18人のシッダ』(ネオデルフィ)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を「心臓の高さに当たる脊柱内にある」としてお り、ヨガナンダと同様である。
6-7世紀以降、タントラ教典が編纂された後の近代のヨーガ では、神経叢のチャクラについて言及するようになった。近代のヨーガの指導者として著名なスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの著書『魂の科学』(たま出版 ) にはアナーハタ・チャクラの位置について、「このチャクラは、別名、心臓のチャクラとも呼ばれていますが、胸部の両肺に挟まれた心臓内にある微細な空間の 中に位置しています。」という記述があり、ヨーゲシヴァラナンダの言うチャクラが神経叢のチャクラであることが分かる。
また、サマエル・アウン・ベオールの著書『完全なる結婚』(ノーシス書院)には、神経叢のチャクラと脊髄のチャクラの存在について、「原始ヒンズーヨギたちは、脊髄のチャクラとクンダリニー にすべての注意を払い、神経叢のエーテルチャクラには、ほとんど無関心であった。このことはにせ秘教家を驚かせた。」という記述がある。
以上からも、各々のヨーガ行者あるいは神秘家がチャクラの性質及びその位置について言及する場合、神経叢のチャクラあるいは脊髄のチャクラのいずれ か一方についてのみ言及しており、各々のチャクラが、これら2つのチャクラと対をなして存在していること、及び、それらの位置と機能の違いについて、明確 に区別し、自覚されていたとは考えにくい。
体表のチャクラは、先に述べたように本質的にチャクラではなく、チャクラからのプラーナ (気 ) の出入り口である。しかし、そのルートが浄化されていることが心身の健康とチャクラの覚醒の上で重要であるため、ヒーリングの分野において重視されてい る。一方、本来のチャクラは神経叢と脊髄のチャクラであり、神経叢のチャクラは、身体の交感神経系を支配するナディーと関連し、身体の運動的な活動を司っ ている。一方、脊髄のチャクラは、身体の副交感神経系を支配するナディーと関連し、精神的な活動を司っている。神経叢のチャクラと脊髄のチャクラは対に なっており、意識の拡大の過程を通じて、下位のチャクラから順に覚醒していく。
フィクションでのチャクラ [編集 ]
以下は、夢枕獏 の小説「キマイラ・吼」シリーズに登場するチャクラ。
アグニ
仙骨 に あり鬼骨などとも呼ばれ、この1つのチャクラで、7つのチャクラを合わせたよりも更に大きな力を持つとされ、生命進化の根元を司るとも言われる。あまりに 強大な力を持つゆえに、このチャクラを開眼させたまま放っておくと人は獣や鬼に変じてしまうなどという話もあるが、現代のヨーガ実践者でそれを開眼させた 者はおらず、眉唾的なものではある。ただ、古代中国に赤須子(せきしゅし)がそのチャクラを開眼させてしまい、獣(的なもの)に変じた赤須子が村人を数十 人喰い殺し、見かねた老子 が赤須子を封じたという記録が唯一残っている。
ソーマ
月のチャクラなどとも呼ばれ、アグニチャクラの開眼により暴走を始めた肉体(生命力)を統べ得る唯一のチャクラと言われるが、アグニチャクラの存 在自体が定かでないため、更にその存在は疑問視されることがある。ソーマの身体上の位置を、頭頂の更に上(要するに虚空)と主張している。これは人間の身 体を肉体だけでなく、エーテル体なども含めた上での見解である。
脚注 [編集 ]
1. ^ ミルチャ・エリアーデ 『エリアーデ著作集 第10巻 ヨーガ 2』 立川武蔵 、訳、せりか書房、1975年。ISBN 4-7967-0087-0 。
2. ^ F・J・ヴァレーラ 、J・W.・ヘイワード 『徹底討議 心と生命』 山口泰司・訳、山口菜生子・訳、青土社、1995年、109頁。ISBN 4-7917-5382-8 。
3. ^ 平岡宏一 『ゲルク派版 チベット死者の書』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。ISBN 4-05-901032-4 。
4. ^ 道教と仙学 第4章 各派の丹法の要訣
関連項目 [編集 ]
• ヨーガ
• クンダリニー
• マルマ
• 経絡
• 如意輪観音 (手にチンタマニ(Cintamani cakra チンタ=如意、マニ=宝珠)とチャクラ(法輪 、チャクラム が変化したものという)を持つため中国仏教 では如意輪と訳した。)
• オーラソーマ
• オーラ
参考文献 [編集 ]
• 竹下雅敏 神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ ユニティ・デザイン
• C・W・リードビーター 『チャクラ』 本山博 、湯浅泰雄 (共訳)、平河出版社、1978年。ISBN 4-89203-023-6 。 - チャクラ、リードビーターの理論が概観できる。 PDF
• 比較文化研究室( 島岩 )訳『十六ニティヤー女神の海』、『ジュニャーネーシュヴァリー』等
外部リンク [編集 ]
• 七つのチャクラの意味
• 無料チャクラの壁紙
• チャクラ (チャクラとは、「気」とチャクラ、チャクラの活性化の方法など)
• チャクラについて (各チャクラの位置とそれが司る体の領域、意味、色)
• Evolutio Rodurago - チャクラ テスト (英語)
• クラ派の南の伝承におけるシュリー・チャクラの構造
• シャークタ派の密教 シュリー・チャクラの構造を中心として
• 人生の中でのチャクラの活動レベル (チャクラのバランシング方法、活性法、過去生の情報など)

「チャクラ」は、インド に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などしてくださる協力者を求めています (プロジェクト:南アジア )。



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カテゴリ : ヨーガ | 身体論 | ニューエイジ


ベクトル・モード総覧:物質世界の凹と精神世界の凸
テーマ:精神的フィルターとVector Mode
以下、Kaisetsu氏の、いわば、ベクトル・モード総覧はまったく曖昧さがなく、透徹して明快・明晰で、きわめて役に立つ。
 結論の、物質世界での適合状態が凹、マイナスであり、精神世界のそれが、凸、プラスであるのは、実に興味深い。
 物質主義、資本主義の欠陥が指摘されているが、それも興味深い。そこにおいて、凸、プラスが支配するのが、問題であるということであるが、確かに、凸、プラスが支配すると、それは、同一性主義、交換価値中心になり、資本主義の差異共振性が破壊されると言えよう。
 つまり、資本主義内の精神世界=差異共振性=凹、マイナスが、凸、プラスによって、破壊されるということと言えるのかもしれない。
 叡知の共振によって、資本主義は作動するのであり、それが、同一性主義、物質主義が支配的になると、侵食されるということかもしれない。後で、再考したい。
 
参照:


ベクトル・モードの演算記号の初期設定螺旋の記号表記)
(使用例)

 
1) 一般的なオスメス・ネジの場合。(観察者は実軸上、マイナスからプラスを見る)

osumesi121 posted by (C)天花一海

 a2)ボルト実軸プラス方向右回転のベクトル・モード(螺旋運動) 凸+
 d1) ナット実軸マイナス方向左回転のベクトル・モード(螺旋運動) -凹


 (凸+)*(-凹)⇒(適合、噛み合っている):mode= - reason why (+)*(-)=(-)

凸*凹⇒即非:無記号(本来、陰陽記号)
プラス・マイナス符号計算 (+)*(-)=(-)

よって、 (凸+)*(-凹)が互いに適合して噛み合っている場合のベクトル・モードは「マイナス1」 or 簡便に「-」「凹」である。

mode=-(+*-=-)

 2) 一般的なオスメス・ネジの場合。(観察者は虚軸上、マイナスからプラスを見る)

 ia2) ボルト虚軸プラス方向右回転のベクトル・モード(螺旋運動) 凸+i
 id1) ナット虚軸マイナス方向左回転のベクトル・モード(螺旋運動) -i凹

(凸+i)*(-i凹)⇒(適合、噛み合っている):mode=-(+i)*(-i)=(+1 or +)

よって、 (凸+i)*(-i凹)が互いに適合して噛み合っている場合のベクトル・モードは「プラス1」 or 簡便に「+」「凸」である。

 



物質世界の適合状態の効果であるベクトル・モードは「凹、マイナス」であり、精神世界のベクトル・モードの適合状態の効果は「凸、プラス」であることが分かった。

 物質主義、資本主義の根本的欠点・罪悪性は、物質世界で凸(父権性)を効果として求めることに起因すると言えよう。物質世界では母権性(マイナス、凹)を求めるべきである。

海舌(明日野)

http://blog.kaisetsu.org/?eid=812333
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile


メノラーと母権的父権的文化(母・父権文化):ユダヤ父権文化とユダヤ母権文化の二重性
テーマ:日本伝統文化:神話・宗教祭礼・民俗・芸能
以下、HEX氏のブログに提示されたメノラーのシンボルが興味深い。7は秘数であり、また、女神の数、つまり、母権文化の秘数である。的確に言うと、古代オリエントの女神イシュタル、イナンナの数である。
 そして、それを父権文化であるユダヤ文化がそれなりに引き継いでいるのである。だから、ユダヤ文化は絶対的に父権文化ではなく、ベースに母権文化があると考えられる。
 私が言いたいのは、やはり、母権文化が父権文化と接して、母権的父権文化(母・父権文化と造語したい)が形成されという仮説である。
 ところで、ここで別様の考えを言うならば、ベースの母権文化を利用する父権文化の登場を想定することができるだろう。
 天皇制もそのように考えることもできる。そう、以前、私は、そのように考えていた。母権的太陽神が、父権的太陽神に利用されたのが、天皇制ではないのかと。
 しかし、今や、天皇とは母権文化・社会の精神的存在であることが判明したので、その考えは古くなった。
 とまれ、本題であるが、ユダヤのメノラーの場合は、父権文化が母権文化を取り込んだように思える。だから、母権的父権(母・父権)ではなく、父権的母権(父・母権:造語)と考えられる。
 そう、母父権か父母権の違いは決定的であると思う。即ち、凹i主動性か凸i主導性かの違いがあり、それは根本的違いである。
 だから、メノラーに関しても、7というシンボルは同じあっても、質が異なると考えられる。両班のような苛酷なものは、ユダヤ父権主義を想起させる。つまり、父・母権的であるということである。
 それに対して、天皇制は、母・父権的であるということになる。
 このことから推測されるのは、古代東アジアにおいて、父権的民族と母権的民族との衝突があったが、前者から父・母権主義が、後者から母・父権主義が生ま れたということであり、両者は同じ母権文化の神聖なシンボルを活用したが、しかし、質は正反対であることを認識することが決定的に重要であると言えよう。
 最後にユダヤ文化について一言言うと、私が知る限りでは、旧約聖書は父権神(ヤハウェ)と母権神(エローヒーム)が混在しているのである。つまり、ユダ ヤ父権文化とユダヤ母権文化があると考えられる。一般にユダヤ文化は前者と見られているが、それは誤りである。失われたイスラエル十支族は、この点で、実 に興味深いのである。HEX氏によると、母権文化が基底にあるが、父権文化が掟であったということである。だから、ユダヤ父権文化とユダヤ母権文化のいわ ば、分裂的な二重性をそこに感じるのである。これは、言い換えると、父・母権文化と母・父権文化の混淆を意味しよう。
 そうすると、古代東アジア、そして、古代日本において、この二重性が存した可能性がある。しかしながら、古代日本は母権がベースであるので、この二重性様態があっても、主体は母・父権主義であると考えられる。
 後でさらに最後の点について検討したい。

追記:HEX氏は新羅と日本の関係を述べているが、思うに、新羅を父・母権文化とすると、それが日本に関わった場合、日本に父・母権文化が導入されたことになる。そうすると、古代に日本において、ベースの母・父権文化(天皇制)と父・母権性が混淆したことが考えられる。
 思うに、確かに、現代日本においても母・父権文化と父・母権文化の混在が感じられるのである。そして、後者は利己主義・唯物論・社会主義的であり、日本を滅ぼそうとしていると考えられるのである。
 後で、HEX氏の記述を精読して、考察を精緻化したい。

追記2:7は又、チャクラの数でもある。そして、当然、虹の七色、オクターブの音階数である。シュタイナーの説くサイクル数でもある。
 では、秘数7の源泉は何処にあるのか。以前は、差異共振様態に存すると見たが。光を考えたとき、それは言えよう。虚軸のモードである。
 ここで、想起するに、クンダリニーは三回転半を意味していた。半回転を1とすれば、三回転半は半回転7回である。
 これは、当然、スピンを想起する。虚軸のスピンは、先には、ボソンだったので、これに相応しないことになる。半整数スピンは、フェルミ粒子である。この点は再考したい。
 とまれ、その他の源泉を考えると、第三象限である。しかし、今のところは説明ができない。
 メノラーの形態を見ると、左右にそれぞれ、3があり、中央に1があるのである。これは、易の陰陽の構成に似る。陽爻が3、陰爻が3あり、両者で卦を構成するのである。
 そうすると、やはり、Media Pointではないだろうか。凸iの主導性の場合、双極子は三つ巴、3値となり、凹iの主導性の場合も三つ巴、3値となり、併せて、7となるのではないだろうか。
 今はここで留める。
 

 
参照:

「神道の考察」 日本の成り立ちの鍵 V

・・・・・
日本と新羅は縁が深いにも拘らず、度々戦う複雑な関係。
日本書紀の編纂(720年完成)は、唐や新羅と張り合う為に行われた、国史編纂事業である 


     

      新羅の王冠               百済から送られた七枝刀
   

イスラエルの国章(メノラー)       元になったメノラー(燭台)

      
新羅の王冠は、メノラーの7枝が9枝に転化した可能性が感じられる。
百済(扶余族)から送られた、七枝刀の由来も、メノラーの可能性が高い  
七枝刀は、祭礼・儀礼の刀で宝物的意味合いのものである。            

メノラー(燭台)はユダヤ教のシンボルであり、キリスト教のシンボルでも有る
ミトラ多神教由来の、光=火の信仰に繋がる



       
    
両班(ヤンバン)と呼ばれる、              日韓併合初期の両班
古来からの朝鮮貴族の門            欧州人から世界で最も傲慢な貴族階級と言われた

古来、両班(ヤンバン)の地位は圧倒的で、超支配階層。
法の適用外の存在で、一般人から金品を奪い、従わない者は拉致して拷問にかけていた。
一般人から見れば、嫌悪の対象でもあった
両班(ヤンバン)は高級官僚の地位につくものが多かったという

彼らの門飾りも、メノラーに酷似するものが多い


シュメールの生命の木(七枝) キ(蛇の女神)とウル(エンリル)

一般に、七枝のメノーラの起源は、シュメールの生命の木(七枝)=世界樹が起源だと言われている
世界中をシンボルに取り入れている古代文明は幾つかあるが、シュメール起源と見られている

http://ameblo.jp/hex-6/entry-10745559427.html
HEXのブログ


父権的文明は常に敵を作る:凸iの傾斜は凹iを敵とする
テーマ:森羅万象:諸事万端:天象地象:政治経済
父権的文明が起きて、戦争が常態になったと言えよう。父権的文明とは、凸iに傾斜した文明であり、凹iが影(シャドウ)になっているのであり、その投影のために、敵を作ると言えよう。
 投影の対象は、当然、母権的文明である。つまり、東洋文明である。正確に言えば、非父権的文明である。
 問題は、一神教的文明である。ユダヤ・キリスト教的一神教とイスラム的一神教を同じと見るべきなのか。
 仮説的に言うと、一神教性が同じであるとすれば、前者は後者を近親憎悪で憎むことになろう。イスラム教は自身をユダヤ・キリスト教の進展と見ているのであり、その点からして、前者は優位性から後者を否定したくなるだろう。
 ということで、ユダヤ・キリスト教的一神教の場合、他者は母権的宗教であり、他の一神教であると言えよう。
 しかしながら、以前、私はユダヤ・キリスト教的一神教とイスラム教的一神教は異なると述べた。つまり、後者のタウヒード(一化の原理)は、差異共振が基 礎にあると思うのである。つまり、母権モードから一神教が発生しているように思えるのである。つまり、母・父権的であるということである。(そう、ギリシ ア神話のゼウスに近いのではないだろうか。母権が原基である父権主義ということである。)
 そう考えると、ユダヤ・キリスト教がイスラム教を敵対視するのはよくわかると言えよう。

追記:タウヒードを帰一とするならば、一とは、-1の超越界のことではないだろうか。思うに、イスラム教は、凹i凹と凸i凹が混淆しているのではないだろうか。

参考:

タウヒード
タウヒード(アラビア語 表記:توحيد, トルコ語 表記:Tevhid, ラテン語 表記:Tawḥīdあるいは Tawheed, Tauheed とも)とは、イスラーム における一神教 の概念である。イスラームにおいて、タウヒードは〈一化の原理〉を意味すると同時に、世界観 と存在論 、すなわち価値観 の根本である。
また、タウヒード論においては、神の唯一性という言葉で、和訳され論じられることも多いが、神の唯一性という言葉は、アラビア語において(ラテン語表記をすると)waḥḥdat-Allah という明確な表現があるので、正確な訳出とはいえない点で留意する必要がある[1] 。したがって、この記事においては、神の唯一性を起点とした上で、そこで活用された〈一化の原理〉に則りながら、現実解釈のための基本原則を提示する内容を描出することとなる。 タウヒードの反対の概念は、シルク (shirk、多元性)である。
語源 [編集 ]
タウヒードという言葉は、アラビア語の動詞ワハダ (waḥada) の第2型であり、〈一に化す〉、〈一に帰す〉を意味するワッハダ (waḥḥada) という動詞から派生した動名詞である。その原義は、〈一化〉、〈帰一〉を意味する[2] 。
定義 [編集 ]
イスラームにおける唯一神(アッラー )の存在は絶対であり、この理由のために、ムスリムは、キリスト教 世界で信奉されている三位一体説 を否定する。
クルアーンでの言及 [編集 ]
クルアーン (アル・クルアーン)において、タウヒードは随所に言及されている。また、「アッラーのほかに神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒なり」という文節は、サラート として知られる1日5回の礼拝において引用される。
シルク(多元性)の概念 [編集 ]
タウヒードの反意語は、シルクである。アラビア語では、分割・分離を意味する。
ムスリムの視点 [編集 ]
スンナ派、シーア派ともに一致しているのは、イスラームにおける最重要な概念であるタウヒードがこの絶対で完全なる創造者を受け入れるということで展開されているということである。ムスリムは、「アッラーのほかに神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒なり」という信仰告白 (シャハーダ )を公に唱えることによってムスリムとなり、かつ、自らの信仰を絶えず、再確認することとなる。
スンナ派の視点 [編集 ]
スンナ派の人々は、タウヒードをイスラームの教条(Aqidah)の7つの重要な側面のひとつであると見なしている。
アシュアリー派 の著名な学者の一人である Fakhrud-Din Ibn Asakir は、自らの著書で、スンナ派の信条を記述している。
• アッラーは人々を導き、唯一の神である。
• アッラーは全ての世界(天界、地上界)を作りたもうた。
• 全ての創造物は、アッラーの力により服従されている。
• アッラーは、人生に帰する。睡魔にとらわれることは無い。
• アッラーは、人間が予見できないことについて知っているただ、ひとつの存在であり、全知全能である。
• アッラーの行うことは全て彼の意志に基づく。
• アッラーは報酬を望まず、罪を恐れない。
• アッラーは、創造の前から存在した。過去、未来というものをもたず、また、前後左右上下といった概念にはそぐわない。というのも、アッラーは全だからである。
• アッラーが、宇宙の森羅万象を創造し、時間の存在を望んだ。アッラーは、時間に制限されるということは無く、場所に明示される存在ではない。
神の不可視性 [編集 ]
スンナ派 のムスリムは、神は見ることはできないと信じている。仮に神の姿を見ることができるのであれば、自らの生涯の終わりを意味する死後に訪れる最後の審判の日のみであると信じている。
クルアーンの記述
その日(審判の日)には明るく輝く顔また顔、(さも嬉しげに)主を仰ぎ見る
– 第75章第22から23節, [3]
いや、いや、あの日〔審判の日〕には、主の御顔も拝されまいぞ
– 第83章第15節, [4]
ハディースの記述。アブー・フライラは、人々とムハンマドの対話を以下のように記述している。
(人々)「われわれは、復活の日に神を見ることができるでしょうか?」
(預言者)「あなたがたは、満月の時に、月が見ることができないことで何か問題がありますか?」
(人々)「いいえ、そういうことはございませんが」
(預言者)「それでは、雲が何一つ無いときに、太陽を見ることができないことで、何か問題がありますか?」
(人々)「預言者よ、それも問題はございません」
(預言者)「ほんとうに、あなた方が神を見ようとすることは(あなた方が太陽や月を見るような)ことですよ」
クルアーンとタウヒード [編集 ]
スンナ派の人々は、クルアーンは創造されたものではなく、この視点は、十分にタウヒードの概念と互換可能なものである。ハンバル学派は、以下の視点を提示する。
クルアーンに書かれている言葉や音は永遠であり、それがゆえに、その物語は創造されたものは無い。そればかりではなく、羊皮紙写本や装丁された文書は同じ質を共有しているのである
アブー・ハニーファ は、以下のように述べる。
告白する。クルアーンは神の言葉であり、作られたものではなく、神の直感、啓示は、彼の本質である。一方で、インクや紙といったものはわれわれ人間が作り出したものである
スンナ派(サラフィー)の視点 [編集 ]
タウヒードは、3つの側面を持っている。
• 神の唯一性(Tawheed-ar-Ruboobeeyah)とは、「神は、創造者であり、創始者であり、設計者であり、全てを養ってくださるものであり、安寧を与えてくださるものであるという唯一の神であることを信じる」ことである。
この信仰は、ヨーロッパにおけるカルヴァン派 や1600年代にニューイングランド に移住したピューリタン の信仰と相通じるものがある。この信仰に基づくと、人々は、神に全面的に依存している存在だと考えることになる。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例である。
地上を匍い廻る動物にしても、全部アッラーの養い給うところ。何処に棲み、何処に潜むかということまでご存知。ことごとく明白な啓典(万物の運命を記載した天の書物)に記録されておる
– 第11章第6節, [5]
アッラーこそは万物の創造主。あらゆるものを世話し給う。天と地の全ての鍵を持ち給う。アッラーのお徴をありがたいとも思わぬどもは、いまに必ず損をする
– 第39章第63節, [6]
• 唯一神への帰依(Tawheed-al-Ulooheeyahあるいは、Tawheed-al-Ebaadah) とは、神以外のものは決して、崇拝の対象としてはならないということである。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例(クルアーン第59章第22節から第24節[7] )である。
「これぞこれ唯一無二の御神、アッラー。目に見える世界も、目に見えぬ世界をもともに知悉し給う。お情け深い、慈悲深い御神」
「これぞこれ唯一無二の御神、至高の王、聖なる御神、限りなき平安の神、誠実の守護者、万物の保護者。偉大で、その権力限りなく、尊厳この上もなきお方。ああ勿体無い、恐れ多い、人々がともに並べる(邪神ども)とは比較にならぬ高みにいます御神におわしますように」
「これぞこれアッラー、蛮勇を創造し、創始し、形成するお方。あらゆる最高の美名を一身に、集め給う。天にあるもの、地にあるもの、全て声高らかに賛美し奉る。ああ限りなく偉大、限りなく賢い御神よ」
• 偶像崇拝の完全否定(Tawheed-al-Asma-Sifaat)とは、神の不可視性とイスラーム化以前のカアバ で数多くの神が神像として祀られていたことからその信仰を否定する考えである。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例である。
皆さん、自分で刻んだ偶像を拝んでなんとなさる
– 第37章第95節, p.41
言ってやるがよい、「天と地をすべ治めるものは誰か。」言ってやるがよい、「アッラーだ」と。言ってやるがよい、「それなのに、お前たち、(アッ ラー)を差し置いて、他の(偶像)どもを神と仰ぐことにしたのか。自分自身に対してすら良くすることも悪くすることもできないようなものどもを
– 第13章第16節, [8]
ムスリムの人々(サラフィー [9] )にとって、以下のような行動は、シルクと見なされるのである。
• スーフィー 信仰 - 早期のムスリムやスーフィーと呼ばれる聖者の墓所へ巡礼を行ったりすること。
• 死から逃れるための礼拝
クルアーンを逐語的に解釈するのであれば、イブン・タイミーヤ が 説くように、神は、体の各部分を持たず、しかし、クルアーンやハディースに記述がある「手」、「目」、「顔」といった属性を持っている。しかし、それぞれ は、人間が知っているような形状をしてはいない。そして、サラフィーは、神は天上界に住んでいると信じているのである。
シーア派の視点 [編集 ]
シーア派 においても、タウヒードは絶対なものである。
神の属性 [編集 ]
シーア派は、神は見ることができるとは信じていない。また、アッラーはどんな形は何であれ、体を持っているという考えも拒否している。
クルアーンのいくらかの一節では、アッラーの体についての記述が見受けられる。例えば、「アッラーと並べて他の神を拝んではならぬ。もともとほかに 神は無い。全ての物は滅び去り、ただ(滅びぬは)その御尊顔(アッラー自身ということ)のみ。一切の摂理はその御手にあり、お前たちもいずれはお側に連れ 戻されていく[10] 」という一節である(第28章第88節)。シーア派の解釈は、「アッラーを除いて」という形になる。シーア派の論議では、この節は文字通り解釈してはならないのである。
また、シーア派の間で議論になる点は、神は、手を持っているというクルアーンの随所に記述がある点である。そのことは、神の力、あるいは慈悲を意味すると彼らは解釈している。例えば、「アッラーの手は鎖で縛られている(第5章第64節)[11] 」という文章で始まる一節である。しかし、シーア派の人々はこの文章に続く「アッラーの手は拡がっている」という文章を引用することで、この節の寓話性を説く。
神の属性のリスト [編集 ]
神は、以下のような積極的な属性を持つと信じられている。
1. カディーム(Qadím) - アッラーは永遠である。始まり、そして終わりは無い。
2. カディール(Qadir) - アッラーは、全能である。アッラーの力は、全てのものに及ぼす。
3. アリーム('Alim) - アッラーは全知である。全てのことを知っている。
4. ハイ(Hai) - アッラーは生きている。それも永遠に。
5. ムリド(Muríd) - アッラーは、全ての事象に対して慎重である。混乱することは無い。
6. ムドゥリク(Mudrik) - アッラーは全てを受け入れてくる。全てを見聞する。あらゆる場所に存在している。ただし、目や耳を通して、見聞しているわけではない。
7. ムタカリム(Mutakalim) - アッラーは世界の創造主である。アッラーは、言葉を作った。
8. サディーク(Sadiq) - アッラーは真実である。
また、消極的な属性を持つ。
1. シャリク(Sharík) - アッラーは妻を持たない。
2. ムラカブ(Murakab) - アッラーは作られたものではなく、物質的なものでもない。
3. マカン(Makán) - アッラーは、どんな場所、体に制限されない。
4. フルル(Hulúl) - アッラーは体を持たない。
5. マハーレ・ハワディス(Mahale hawadith) - アッラーは変化しない。
6. マリ(Marí) - アッラーは見ることができない。なぜならば、体を持たないからである。
7. イフティヤジュ(Ihtiyaj) - アッラーは、独立した存在である。アッラーは、飢えていない。というのもアッラーは、どんなものも持っていないからである。
8. シファテ・ザイード(Sifate zayed) - アッラーは、あらゆる制限を受けない。
クルアーンとタウヒード [編集 ]
シーア派の人々は、神が「神の永遠でない行動の一つ」としてクルアーンを創り人々に贈ったものと認識しているので、したがって、シーア派の信仰は、 スンナ派とは対照をなし、クルアーンは、創造物であるということになる。シーア派の人々は、ムハンマドの「神は存在した(その時には時間の概念があっ た)、したがって、神のそばには何もない」というハディースを引用する。
たとえ、そうであったとしても、シーア派の人々は、クルアーンは完全なものであると信じているのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%89







2010年12月25日(Sat)▲ページの先頭へ
弁証法論理と即非(差異共振)論理:ヘーゲル弁証法とPS理論的即非論理:トランス・モダン資本主義へ
弁証法論理と即非(差異共振)論理:ヘーゲル弁証法とPS理論的即非論理:トランス・モダン資本主義へ

テーマ:トランス・モダン社会/新共同体創造的構築

弁証法の欠陥については既述したが、民主党左派論理に関係するので、今一度検討したい。
 いわゆる、正反合の論理であるが、例えば、正をA、反を-Aとする。そして、ヘーゲル弁証法では、反をさらに否定するのである。それは、-(-A)→Aとなる。つまり、単純に見ると、正に戻るのである。
 しかし、ヘーゲルは、反のもつ同一性を説いていたと思う。つまり、物質的形式性である。つまり、正は精神(スピリット)であり、反はその顕現の物質的形式(同一性)である。そして、合は、反を止揚して、それを、正に統合させるのである。つまり、精神Aに物質的形式(同一性)を包摂させるのである。これがジンテーゼである。
 言い換えると、ヘーゲルは、精神に同一性形式を確保したのであり、これが、近代科学の基礎を形成したと言えるだろう。これはこれで意味があるのである。
 しかるに、マルクス・エンゲルスの史的唯物弁証法となると話が異なる。
 正の資本家階級Aに対して、反の労働者階級-Aが存する。そして、この-Aの否定がプロレタリア独裁なのである。これは、ヘーゲル弁証法から見て、おかしいのである。(これを1とする)
 ヘーゲル弁証法から言えば、労働者階級の「物質的形式」を包摂する「資本家階級」の形成が合である。(これを2とする)
 また、そもそも、労働者階級を「物質的形式」と見ることは、端的に、労働者階級を賃金形態としてみることになるだろう。正に、同一性主義であり、労働者の差異が抹殺されている。
 ということで、唯物弁証法は、ヘーゲル弁証法からは外れているし、また、それは、正に、資本主義を意味するのである。
 ということで、ヘーゲル弁証法は、物質的形式=同一性形式の哲学を説いたことで、意義があると言えようが、唯物弁証法は、一つの意味で、ヘーゲル弁証法の混乱であり、別の意味で、ハードな資本主義を意味するのである。
 最後に、1についてもう少し述べると、マルクスは「否定の否定」がプロレタリア独裁と述べたが、それは、論理的にそうならないのである。何故なら、-(-A)=Aであるからである。「否定の否定」は資本家階級肯定である。
 正しくは、労働者の差異ないし他者性を否定-Aとすべきなのである。つまり、PS理論では、凹iである。この凹iを肯定することで、資本家凸iと労働者凹iとは差異共振して、資本主義の他者化が形成されると言えよう。
 差異共振は弁証法ではない。それは、即非の論理である。結局、PS理論から見ると、ヘーゲル弁証法とは、凸i主導の同一性論理を解明したものである。それに対して、唯物弁証法は、錯誤であり、また、ハードな資本主義(思うに、新自由主義は、これに近いように感じる)を意味するのである。
 結局、PS理論に拠る弁証法批判から、資本主義の他者化、つまり、同一性資本主義からの脱却が視点が形成されるのであり、それは、差異共振資本主義(差異資本主義)であり、それは、トランス・モダン資本主義である。共同体的自由資本主義である。

追記:以下の説明から見ると、キルケゴールの質的弁証法とは、絶対的差異、他者の肯定であり、PS理論の即非論理、差異共振論理の先駆であると言えよう。

追記2:ヘーゲル弁証法から見ると、「否定の否定」とは、いわば、対立の統合であるべきであるが、『資本論』の「否定の否定」は、統合ではなく、単に否定である。資本家階級の否定に過ぎないのである。マルクスは、その点では、ヘーゲル弁証法を理解していなかった。
 しかし、反を物質的形式=同一性とすると、『資本論』は、資本主義、同一性資本主義のヘーゲル的弁証法であることになる。もっとも、資本家階級を精神と仮定した上での話であるが。


参考:
弁証法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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弁証法(べんしょうほう、ギリシア語 διαλεκτική、英語 dialectic)とは、哲学 の用語で、現代において普通にいわれるときには、ほとんどがヘーゲル やマルクス の弁証法を意味し、世界 や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための方法、法則 とされる(ヘーゲルなどにおいては、弁証法は現実の内容そのものの発展のありかたである)。しかし、この言葉を使う哲学者 によって、その内容は多岐にわたっており、弁証法=ヘーゲル・マルクスとして全てを理解しようとするのは誤りである。

・・・・・
ヘーゲルの弁証法 [編集 ]

ヘーゲルの弁証法を構成するものは、ある命題 (テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の 3つである。全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン (aufheben, 止揚,揚棄)される。このアウフヘーベンは「否定の否定」であり、一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである。しかしアウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた保存されているのである。ドイツ語のアウフヘーベンは「捨てる」(否定する)と「持ち上げる」(高める)という、互いに相反する二つの意味をもちあわせている。なおカトリックではaufhebenは上へあげること(例:聖体の奉挙Elevation)の意。

ソクラテスの対話と同じように、ヘーゲルの弁証法は、暗黙的な矛盾 を明確にすることで発展させていく。その過程のそれぞれの段階は、その前の段階に暗黙的に内在する矛盾の産物とされる。 またヘーゲルは、歴史 とは一つの大きな弁証法、すなわち奴隷制 という自己疎外から、自由 と平等な市民 によって構成される合理的な法治国家 という自己統一へと発展する「精神 」が実現していく大きな運動 だと認識した。

参考: Thesis, antithesis, synthesis

「しばしば、ヘーゲル哲学の方法は弁証法であると言われている。そのことは正しい。しかしながら、もしも、ヘーゲルがあらかじめ弁証法という方法を形式的に規定しておいて、これを個々の対象思考に適用するという風に考えるならば、それは由々しき誤解である。ヘーゲルは、おそらく、その全著作の何処を探しても、方法としての弁証法なるものを、具体的思考から切り離して、一般的抽象的に論考したためしはない。彼はただ対象に即して考えるにすぎない。彼が対象に即して、対象の真理を具体的に把握するに適するように、自由に考えながら進んでいった過程が、いわば後から顧みて、弁証法と呼ばるべき連鎖をなしていることが見出されるのに過ぎない。極言すれば、理性的思考がいわゆる正反合の形態を具えているということは、抽象的形式的に基礎づけることは出来ない事柄である。そして、いわゆる弁証法的契機(例えば綜合)の具体性ということも、結局、対象を内包する理性内容の具体性に依存するものに外ならない。それ故に、ヘーゲルの哲学を理解するために、その内容から切り離されたいわゆる弁証法だけをとり出して、これを解釈したり論考したりすることは、むしろ不必要である。」矢崎美盛 著『ヘーゲル精神現象論』

マルクス主義における弁証法 [編集 ]

カール・マルクス とフリードリヒ・エンゲルス は、ヘーゲルの弁証法は、世界は諸事象の複合体ではなく、諸過程の複合体であることを指摘した点を高く評価しているが、ヘーゲルは「頭でっかち」で「逆立ち」しており、彼の考えを「地に足をつけた」ものにしなければならないと主張した。すなわち、ヘーゲルの観念論 による弁証法における観念の優位性を唯物論 による物質の優位性に反転させることで、唯物弁証法 (唯物論的弁証法)またはマルクス主義 的弁証法が考え出された。世界は観念的な神や絶対知に向かって発展していくのではなく、物質に、自然科学に向かって発展していっているのである。この弁証法を歴史の理解に応用したものが、史的唯物論(唯物史観 )であり、この見方は、マルクスやエンゲルス、レーニン 、トロツキー の著作に見て取ることができる。この弁証法は、マルクス主義者の思想の核心的な出発点となるものである。

エンゲルスは『自然弁証法』において、唯物論的弁証法の具体的な原則を三つ取り上げた。

1. 「量から質への転化、ないしその逆の転化」
2. 「対立物の相互浸透(統一)」
3. 「否定の否定」

これらがヘーゲルにおいても見られることをエンゲルスも認めている。1.は、量の漸次的な動きが質の変化をもたらすということをいっており、エンゲルスは例えば、分子とそれが構成する物体ではそもそもの質が異なることを述べた。2.と3.に関するエンゲルスの記述は少ない。しかし、2.はマルクス主義における実体論でなく関係論と結びつく内容であるといわれる。つまり、対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立つという、相互依存的で相関的な関係にあるのであって、決して独自の実体として対立しあっているわけではない、ということである。3.はヘーゲルのアウフヘーベンと同じである。エンゲルスによれば、唯物論的弁証法は自然から弁証法を見出すが、ヘーゲルのそれはちょうど逆で、思考から自然への適用を行おうとする。

また、エンゲルスは、ヘーゲルの弁証法の正当性は、「細胞」「エネルギー転化」「ダーウィンの進化論」の3つの自然科学的発見によって裏付けられたと考えた。

スターリン主義における弁証法的唯物論は、政治的イデオロギーの側面が非常に強かったため、だんだんと教条主義的、また理論的に破綻したものへと変わって行った。ソビエト連邦 の哲学者の中で最も有名な人物は、イバルド・イリエンコフ である。彼は、観念論的偏向から解放されたマルクス主義 的な弁証法の研究を続けた。
キルケゴールにおける弁証法 [編集 ]

キルケゴール はみずからの弁証法を質的弁証法と呼び、ヘーゲルのそれを量的弁証法と呼び区別した。たとえば美的・倫理的・宗教的実存の領域は、質的に本質を異にし、そこにはあれもこれもでなく、あれかこれかの決断による選択、あるいは止揚による総合でなく、挫折による飛躍だけがある。

実存は、成りつつあるものとして無限への無限な運動、また単なる可能でない現実としてつねに時間的であり、その時間における運動は、決断とその反復において、時間における永遠を満たす。矛盾によって各々の実存に対して迫られた決断における真理の生成が、主体性の真理であり、主体的かつ実存 的な思惟者は、いわば実存しつつ問題を解く。

・・・・・

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95 」より作成


民主党ないし左翼問題:反感的自我・唯物主義:自我が他者を排除する
民主党のなし崩し的「ザマ」は、戦中の内閣を想起させる。
 とまれ、政治のメルトダウンは、国家的大惨事となるだろう。
ここで、左翼的発想の大欠陥について、再論したい。結局、左翼とは、野党であったり、在野にあるときは、自己に否定的なもの(国家権力、官僚組織等)に反感をもつ(政権を取ると、敵対者に反感をもつ)。その反感は自我と結びついている。つまり、他者を否定する自我を肯定しているのであり、端的に、利己主義、自己中心主義である。
 ここで史的なことを言うと、私は、マルクス・レーニン主義におおいに疑問をもったのは、他者を否定すれば、対立を統一するという弁証法の発想である。他者は否定の対象ではあっても、他者の優れた質を取り込む必要があるのである。
 私は、ボルシェビキがメンシェビキを否定して、排除する点におおいに疑問を感じたのである。正に、その点で、差異共振が必要なのに、他者否定・排除を行なったことである。
 そう、つまり、弁証法のもつ他者排除性が問題ではあるのである。
 民主党も他者である官僚を排除したのであるが、結局、官僚の知恵を吸い上げることができないために、官僚に依存することになったのである。民主党「革命」政権は、当然、反動力学に拠って、今日の破滅的状態を導いたのである。
 民主党政権の革命主義を肯定したものは、自己の無知を恥じるべきである。
 私が民主党に期待していたのは、「革命」ではなく、官僚との共振である。しかし、それが裏切られたのであり、正に、革命主義の反動力学が実現してしまったと言えよう。
 以上は既述したことである。今、言いたかったことは、他者を否定して、自我中心となったとき、現実から逸れるということである。つまり、自我中心主義とは反現実主義であるということである。
 他者にこそ、現実、真実、真理があるのであり、それを否定・排除したとき、まったく自我は妄想・妄念・狂気・錯乱に陥るのである。
 端的に言えば、左翼とは、他者をもたない自我中心主義であり、狂人である。


参考と参照:

脱官僚と脱官僚依存はまったく別物である:モダンとトランス・モダン 2009-10-23 14:32

・・・ 「脱官僚」はどうなった! 日本郵政社長人事の矛盾 民主党の主張に綻びが見えはじめている。西川善文・日本郵政社長の辞任表明を受けて、新たな同社トップに決まったのは、元大蔵事務次官の斎藤次・・・
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
ameblo.jp/renshi/entry-10371431493.html

民主党「革命」路線批判:昨年10月17日の予見が大当たり 2010-01-22 09:58

以下の記事は、昨年10月17日の民主党批判であるが、どうやら、それが的中したようである。 思うに、明治維新も革命的要素があり、西郷隆盛ら反対派を排除していき、昭和の狂気へと向かったと言えよう。 唯一成・・・
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
ameblo.jp/renshi/entry-10440004133.html

民主党『革命』批判と絶対的差異/絶対的他者⇒差異共振視点の絶対的必要 2009-10-17 06:56

今月は多忙なので、ブログの更新が少なくなります。 さて、最近の日刊ゲンダイをみると、民主党を手放しで、無批判的に評価肯定していることに違和感を感じる。また、危険を感じる。(端的に、盲目な評価、盲目の絶・・・
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
ameblo.jp/renshi/entry-10366622975.html

「革命」問題:「革命」批判:メキシコ革命問題 2010-09-11 10:26

必要で、メキシコについての本を読んでいるが、20世紀初期のメキシコ革命が今でも継続しているという発想を紹介している。 しかし、私は、革命という視点を絶望的に感じるのである。私は革命を信じていないという・・・
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
ameblo.jp/renshi/entry-10645278749.html


tokaiama

 
tsujiiyoh 連合が労働者の味方だったことなど一度もありません。私は加入していた組合が連合に入った時点で組合を辞めました。 @hanayuu 労働者の味方のはずの「連合」の会長が消費税率引き上げを容認した  | http://bit.ly/hbTsb4 12分前 webから tokaiama と4人がリツイート


(12/24)労働者の味方のはずの「連合」の会長が消費税率引き上げを容認した 
(12/24)菅首相みずから「たちあがれ日本」に連立政権入りを呼びかけ!
(12/24)民主党政権が「国民生活センター」の廃止を検討 
(12/24)〔B層ダウンロード〕自民党が総裁と副総裁の声を配信する試み開始
(12/24)麻木久仁子はラジオで小沢一郎氏を擁護する発言を繰り返していた
(12/24)民主党政権が東京電力・東通原発(青森県東通村)の建設を許可
(12/24)民主党政権が失業・求職中の青年からも「無職税」を徴収で当惑広がる

低気温のエクスタシーbyはなゆー


2010年12月22日(Wed)▲ページの先頭へ
現代日本指導層の封建/近代的自我的利己的様態:他者凹iの肯定と日本宗教ルネサンス
現代日本指導層の「精神」は、封建/近代的自我的利己主義であると推測される。
 封建的とは、父権的ということである。PS理論で言えば、凸iが支配的になって、同一性主義であり、それが、物質+1と連続化していると考えられる。そして、他者(「民主主義」における「民」である:「個民」と造語したい)である凹iが、排除されていると考えられる。
 以上のことは既述事項であるが、何故繰り返すようなことを言うのかいうと、今日の日本の敗北主義的状況を打破するには、この半封建/半近代的利己主義様態を否定する必要が前提であると考えるからである。
 一言で言えば、利己主義の打破である。利己主義は、他者凹iが単に観念としてだけで、力として直感されていないことに拠ると考えられる。
 父権主義と母権主義の二元性で言えば、前者が支配的であり、後者が排除されるという歪みがあるのである。
 世界的な状況を見ると、明らかに、新母権主義が勃興しているのであるが、日本は未だに、父権主義支配なのであり、この点で、世界に完全に後れを取って、「退化」しつつあるようだ。
 新母権主義とは、超越的精神性を根源にもつ知的感性主義である。それは、人間認識図では、第三象限的モードである。
 他者凹iを肯定したとき、それは、自我凸iとの共立、さらには、共融モードになるのであり、いわば、超越的神秘的世界が啓けるのである。それは、秘教的世界である。
 私見では、戦前と戦後の断絶(参照:三島由紀夫の「断絃のとき」)は、この世界の喪失にあると考えている。
 連合軍支配の下、戦前的な文化が殲滅されて、近代合理主義、近代民主主義の洗脳が為されたのである。(参考:
【カエサルの物はカエサルに】 朝鮮王朝儀典書と農地改革、そうして現在の農業自由化
http://blog.kaisetsu.org/?eid=812315
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile )
 言い換えると、東洋的日本文化が否定されて、排除されたのであり、その結果、日本人の精神が民族的精神から見て、いびつなものになったと考えられる。
 思うに、本来、東洋的身体的精神をもつ日本文化は、凹iと凸iとの共立様態に本質があると考えられる。肚の文化とは、凹iの文化である。
 しかるに、これが、否定されたために、凸i中心の父権的様態、利己主義になったと考えられるのである。無私・無我の精神が否定されて、利己主義、自己中心主義が肯定されたのであり、その中心地は東京(悪魔アーリマンの巣窟)である。
 明らかにこれは滅びの道である。何故なら、創造とは、凹iの感性、直感・直観、想像力に拠るからである。個というものも、凹iをベースとして、存するものである。
 社会的に言えば、結局、凹iと資本主義との関係が問題である。一方は神秘主義であり、他方は同一性・物質主義である。
 しかしながら、何度も既述したように、資本主義は、差異共振主義であり、自我と他者との共振によって成立するのであり、他者を否定する父権的同一性・物質主義は、資本主義自体を否定するのである。
 つまり、資本主義は他者との共振において、ある意味で、神秘主義的なのである。(ここで、共融と共振の違いを説明すべきである。神秘主義は、凹iと凸i の共融であり、差異共振は、凸iと凹iとの共振である。両者とも他者凹iをもつことでは共通なのであり、前者は、完全に内界的、不可視的であり、後者は外界的、可視界的である。つまり、内的志向と外的志向の違いがそこにはあり、それは、方向性が逆ということであり、基本要素が共通的と言えよう。)
 結局、現代日本を乗り越えるには、他者性の再発見が必要なのである。意識に他者を、資本主義に他者を再発見したとき、それは、トランス・モダン・シフトとなると言えよう。
 宗教的に言えば、キリスト(あるいは仏陀)の道であるが、それは、脱キリスト教である聖霊の道である。また、日本本来の道である。
 最後に補足すると、戦後に父権主義化があったと言ったが、正確には、封建主義的要素は当然、それ以前からあった。
 これはいったいどこから発しているのか。母権的父権主義の日本文化において、封建的父権主義が成立する根拠は何かが大問題である。
 私は国学の排他的ナショナリズムを批判した。坂本龍馬の開国主義は、東洋精神的自由・民主主義であり、それとはまったく異なるのである。
 国学的排他的ナショナリズム、これが、尊王攘夷の二項対立論を産み出したのであり、それが、明治国家主義の精神的土台と言えよう。そして、それが、狂気の「大東亜戦争」を導いたと考えられるし、戦後、今日もこれが継続していると考えられる。
 端的に言えば、父権的自我・利己主義の成立の根因は何か、である。これは天皇制ではない、天皇制はそれに利用されたのである。
 今考えられるのは、母権と父権の均衡をもつ本来の日本文化が、均衡を喪失して、どちらかに傾斜してしまったという事態である。
 つまり、極性文化から二項対立文化へと日本文化がシフトしたことが考えられるのである。
 それは具体的に何なのか。以前述べたが、やはり、江戸時代の江戸の消費中心主義が、バランスを喪失させたのではないだろうか。いわば、江戸の唯物論化が生じたのである。
 ここに、日本の父権的利己主義文化の根因があるように思えるのである。この父権的利己主義は、二項対立的であり、他者排除的なのである。
 日本本来・古来の母権的父権主義文化のルネサンスが必要である。江戸・東京の超克が必要である。
 神を取り戻すべきである。自然神、不可視の自然神を取り戻すべきである。

追記:日本封建・父権主義の成立は、別の考え方もできよう。即ち、日本本来・古来の母権的父権文化であるが、原基の母権主義的精神の衰退・衰弱が歴史において、とりわけ、江戸時代中後期に生じたように思われるのである。そのために、上層の父権主義が主導化して、母権的精神を排除するようになったと考えられる。
 ならば、根源的母権精神、凹iと超越性との融合を復活することが肝要である。東洋的身体的精神の復活である。


参考:

「神道の考察」 日本の成り立ちの鍵

http://ameblo.jp/hex-6/entry-10741016473.html

HEXのブログ


2010年12月15日(Wed)▲ページの先頭へ
母権的天孫降臨民族?:二つの母権主義:旧母権と新母権の統合
テーマ:日本伝統文化:神話・宗教祭礼・民俗・芸能

以下のKaisetsu氏の倭人考察から考えると、天孫とは、母権的民族であり、それは、扶余/ケルト民族の可能性が高くなった。
 考えてみれば、天孫降臨は、天照大神が支配するのであり、それは、母権主義である。
 では、記紀等の日本神話の意味は何かということになる。私見では、この問題は、歴史学、神話学、文化人類学、文化史学等が、まったく答えていないものである。
 直観では、二つの母権主義があるのである。一つは、旧態の母権主義であり、停滞的である。もう一つは、父権主義に影響されて、覚醒した母権主義である。つまり、Media Point的母権主義である。
 扶余/ケルト民族的な母権主義は、後者であったと思う。即ち、古代日本において、扶余/ケルト民族が、停滞した母権主義を新生させたと推測される。
 つまり、二つの母権主義が古代日本を形成したのである。当然、ここには、父権的志向があるのであるが、基本は母権主義である。
 正に、Media Point的均衡が生まれたと思う。

追記:日本における、失われたイスラエル十支族の影とは、正に、新母権における父権的要素ではないだろうか。
 そうすると、扶余/ケルト民族とは、既に、原トランス・モダン民族・文化ということになる。

追記2:HEX氏のいうシュメール神話の太陽神アンであるが、それは、ケルト神話のトゥアッハ・デ・ダナンに似る。
 どうも母権的であるが、勇武の精神をもっていた民族が古代に存していたのではないだろうか。思うに、アマゾネス(アマゾン族:アマ[⇒天]・ゾン[⇒孫]族⇒天孫族?)はその名残ではないだろうか。
 そう、母権的でありながら、父権民族の影響下において、勇武が賦活された民族ということである。いわば、母権的父権的民族である。

倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。 | 『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile
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『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile

参照:

古社と社紋、ミトラ・バール信仰の考察
古社と社紋、ミトラ・バール信仰の考察
テーマ:ブログ

(シ)ュメールは人類最古の(高度)文明といわれる。(B.C.8000〜B.C2000頃)

シュメール神話の太陽神アンは、16弁菊花紋を象徴とし、天皇家と同じである

アンの子、エン・リルは、牛の角を持つ世界を統べる神であり、太陽神にして大気神であった

大気神とは風の神であり、力の象徴にして、軍神である

エンリルが元となってミトラ多神教のミトラ神(牛の角を持つ)が生まれ、オリエント中に広まり、やがて世界中に伝播する

ミトラ神を主神とするミトラ多神教は、B.C.1550頃ミタンニ王国(メディア帝国)で成立し、やがてペルシア帝国の守り神、ミスラ(アスラ)となる。

ミトラとその兄弟インドラ、ヴァルナなどはアフラ(アスラ)と呼ばれる神族。

ミトラ≒アフラマズダはインドの悪神アスラ(アシュラ・阿修羅)になり、インドラが転化して帝釈天に、(インドラの性格を元にシヴァ神を創造)、ヴァルナ神は天空神にして司法神となる。

インドにおいて、仏陀〔釈迦)はヴァルナの生まれ変わりとされ、寺院には多数その意味の絵画・壁画がある

仏教は、ヒンズー教の内数とされ、いわば一宗派、ヒンズー系新興宗教の扱いである

その為、戦後の独立時、国の宗教をヒンズーと定めた時、仏教徒は、追われる事がなかった。


http://ameblo.jp/hex-6/entry-10734584745.html
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2010年12月14日(Tue)▲ページの先頭へ
ミッシング・リンク発見!?:扶余とケルト民族:神獣の鹿とケルヌンノス
ミッシング・リンク発見!?:扶余とケルト民族:神獣の鹿とケルヌンノス

テーマ:神話・神秘・民俗・霊性:ケルト、輪廻転生

先に、HEX氏は扶余民族の神獣は鹿であると述べていた。そこで、ふと気づいたのは、ケルト神話の神獣として、ケルヌンノスが鹿であることを想起したのである。
 私は日本神話(とりわけ、折口信夫の古代宗教論)とケルト神話が酷似していることを唱えてきたが、その接点が見えない状態であったのである。
 しかし、扶余を置くことで、見事に、日本民族とケルト民族はつながる可能性が出てきたのである。
 そして、扶余文化とは、女神・母権文化であり、多神教であり、自然崇拝であるということになる。
 結局、縄文・弥生文化は扶余文化と結合したと考えられる。
 すると、問題は、やはり、天孫降臨民族である。それは、思うに、インド・ヨーロッパ語族的父権民族と失われたイスラエル十支族の混淆した民族ではないだろうか。ならば、それは、何か。

参照:
日本国の成立について:ツングース系民族、先住民族、イスラエル十支…


扶余は満州に居た民族で、度々分裂し朝鮮半島に南下した
扶余は高句麗、新羅、百済の祖であり、ふよ=プヨは、「鹿」を意味し、鹿を神獣とする民族であった

http://ameblo.jp/renshi/entry-10733334257.html



ケルヌンノス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索


パリ の「船乗りの柱」のケルヌンノス。
ケルヌンノス(Cernunnos または Kernunnos)は、ケルト神話 の狩猟 の神 にして冥府神。獣王・動物王であったと推定されている。また、多産と豊作 に関係があったと考えられている。
概要 [編集 ]
ケルヌンノスという名称はパリ で出土した「船乗りの柱」に見られる(ただし不完全で、冒頭の1文字が欠けている)。彼の姿は、デンマーク で発見され、紀元前1世紀 まで遡るとされる銀製のグンデストルップの大釜 (Gundestrup Cauldron)にも描かれている。ここでは、彼は胡坐をかいており、頭 に二本の角 、手 には山羊 (もしくは雄羊 )頭 の蛇 (クロウ・クルワッハ )を持っている。これは角のある神 としての一般的な描写である。地母神 を妻 としたが、この女神 は後に破壊神 エスス についた。
起源 [編集 ]
碑文や絵画、像といった考古学的資料によると、ケルヌンノスはガリア 、北イタリア (Gallia Cisalpina)、ブリテンの南の沿岸地方で崇拝されていた。イタリア のヴァル・カモニカ (Val Camonica)で発見されたものが最古の描写と思われ、これは紀元前4世紀 のものである。もっとも有名なものはデンマーク で見つかったグンデストルップの大釜(Gundestrup Cauldron)で、これは紀元前1世紀 のものである。この神の名前はパリ の「船乗りの柱」から知られる。この奉献碑は現在パリ の国立中世博物館(Musée Nationale du Moyen Age)に展示されている。ガリア人 の水夫 達が1世紀 の初めに作ったもので、碑文 (CIL XIII number 03026)からみておそらく紀元14年 、ティベリウス 皇帝の即位の際のものであろう。これが発見されたのは1710年 のことで、ノートルダム寺院 の基礎 からであった。この場所はルテティア (パリの古代ローマ時代 の名前)、ケルトのパリシイ族 の「市民的な」(civitas)首都であった。そこにはケルヌンノス初め各種ケルトの神々がユピテル 、ウルカヌス 、カストル 、ポルックス といったローマ神話 の神々と並んで描かれている。
この神の名前を書いた出土品としては「船乗りの柱」が最も古いものだが、他にも二つの同様な碑文が見つかっている。一つは Treveri の勢力圏であった Seinsel-Rëlent (ルクセンブルク )で発見された金属の飾り板である。この碑文からは "Deo Ceruninco" (神ケルニンコスに)という文字が読み取れる(AE 1987 , 0772)。もう一つは Montagnac (Hérault, Languedoc-Roussilion, France)で発見された Gaul の碑文で、ギリシア語 で "αλλετ[ει]υος καρνονου αλ[ι]σο[ντ]εας" とカルノノスの名が記されている。
語源 [編集 ]
「船乗りの柱」の碑文は [_]ernunnos となっており、いつかの時点で名前の最初の文字が欠落している。しかし、この名前を "Cernunnos" と復元するのに問題点はない。というのは、名前の下に枝角を持った神の絵があるからで、ガリア語 の carnon, cernon は「枝角」、「角」を意味している(Delmarre, 1987 pp. 106 - 107)。同様に、古いアイルランド語 では cern は「角」、 "bumb, boss" を意味し、ウェールズ語 やブレトン語 の類似単語 carn とも語源的に関連している。これらは原インド・ヨーロッパ語 の *krno- からきたものである。ラテン語 の cornu 、ゲルマン語 の *hurnaz (英語 の "horn" の元)も同じ語源 である(Nussbaum 1986 ; Porkorny 1959 pp.574 - 576)。 Carnutes 、Carni、Carnonacae といった部族名、進軍ラッパの carnyx にも同一のガリア語の語源が見いだされる。そこでこの神名素の原ケルト語 形は *Kerno-on-os ないし *Karno-on-os と再構成できる。どちらも「角のある男性的な(霊)」という意味である。 -on- という部分は非常に多いわけではないがしばしば神名素に現れる。例えば、マポノス(Map-on-os )、エポナ (Ep-on-a)、マトロナエ(Matr-on-a )、シローナ(Sir-on-a )のように。
受け入れられているケルト語 の音韻規則 に従えば、この原ケルト神名素の Romano-British 形は *Cernonos か *Carnonos であったと思われる。いずれもガリア語の Cernunnos と極めて似ている。
図像 [編集 ]


ランス のガリア人 の祭壇 。左からアポロン 、ケルヌンノス、メルクリウス 。
ケルヌンノスの描かれ方はケルト圏を通じ極めて一貫している。もっともわかりやすい特徴は牡鹿 の角であり、通常長髪で髭をたくわえた成人男性の姿で、ケルトで高貴のしるしである豪華な装飾を施された首輪、トルク を身に付けている。硬貨で一杯の財布を持つのと同様に、しばしば他のトルクを腕や角にぶら下げているものもある。通常、足を組んで座る姿で描かれ、その姿勢は瞑想 しているともシャーマン の呪術 を行なう姿ともいわれているが、実際はケルト人が狩猟のときにしゃがむという事実を反映しているに過ぎないのかもしれない。
ケルヌンノスはほとんど常に動物、特に牡鹿と共に描かれる。しばしばこの神特有の動物であり第一の眷属と考えられる牡羊の角をもった蛇と共に描かれるが、蛇自体も神であったかもしれない。また、これらほど頻繁ではないものの牡牛 1、犬 やドブネズミ な どの獣が傍らに描かれることもある。動物と共に描かれることが多いことから、研究者はケルヌンノスを「百獣の神」ないし「野生の神」と呼ぶことがある。特 に牡鹿と共に描かれ、これが主要な獲物であったことから「狩猟の神」と呼ばれることもある。興味深いことに「船乗りの柱」はケルヌンノスを水夫や貿易と結 びつけるが、古代にはドゥロコルトルムというレミ族 の城市 だったフランス 、シャンパーニュ地方 のマルヌ県 から出土したケルヌンノスの硬貨入れや、トレウェリ族 の居住地内にあったルクセンブルク の Niedercorn-Turbelslach から出土した硬貨を吐き出す鹿などから彼と物質的な豊かさとの関連が伺える。また、この神は森に住む鹿の繁殖力の象徴であったかもしれない。
1. ランス で見られる例。
中世の痕跡 [編集 ]
この神の痕跡はキリスト教時代にまでたどることができる。ウェールズ とアイルランド 双方の文学的伝統の中で、この神を仄めかす記述を見つけることができる。ブリタニーでは伝説の聖者、カルナック (Carnac)のコーネリ (Korneli または Cornély)にケルヌンノスの属性がある。イギリス の民間伝承 にみられる狩人ハーン(Herne the Hunter )もケルヌンノスの暗示 であると示唆する説もあるが、ハーンはウィリアム・シェイクスピア の劇『ウインザーの陽気な女房達 』第4幕第4場で初めて言及されるサクソン人 の生き残りであることから、この説は疑わしい。
復興異教主義 [編集 ]
ウィッカ に代表される現代の復興異教主義 運動(Neo-Paganism)では、角のある神に対する崇拝 が復活した。信奉者はケルヌンノス一般的に生命と豊穣と死のサイクルを追っている。この神の死は現在、通常 Samhain 、すなわち10月31日 に行われるケルトの新年の祭の日に設定されている。
歴史的なケルヌンノスと復興異教主義のそれとの大きな違いは、後者が男根 的象徴の傾向を持っていることである(ただし、この特徴はヴァル・カモニカ の図像に見られる)。パン との混淆や、 サバト の悪魔レオナール 等の描写から来ているのだろう。
参考文献 [編集 ]
• Corpus Inscriptionum Latinarum (CIL) volume 13, number 03026
• Delmarre, Xavier (2003) Dictionnarie de la langue gauloise (2nd ed.) Paris: Editions Errance. ISBN 2-87772-237-6
• Lejeune, Michel (1995) Receuil des Inscriptions Gauloise (RIG) volume 1, Textes gallo-grecs. Paris: Editions du CNRS
• Nussbaum, Alan J. (1986) Head and Horn in Indo-European, Berlin, New York: Walter de Gruyter. ISBN 3110104490
• Porkorny, Julius (1959) Indogermanisches etymologisches Wörterbuch Berlin: Franke Verlag
関連項目 [編集 ]
• Horned God
• ヴェレス , ペルーン
外部リンク [編集 ]

ウィキメディア・コモンズ には、ケルヌンノス に関連するマルチメディアがあります。
• Gundestrup Cauldron(英語サイト)
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%8C%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%B9 」より作成
カテゴリ : ケルト神話の神 | 狩猟神 | 死神


母権的天孫降臨民族?:二つの母権主義:旧母権と新母権の統合
テーマ:日本伝統文化:神話・宗教祭礼・民俗・芸能
以下のKaisetsu氏の倭人考察から考えると、天孫とは、母権的民族であり、それは、扶余/ケルト民族の可能性が高くなった。
 考えてみれば、天孫降臨は、天照大神が支配するのであり、それは、母権主義である。
 では、記紀等の日本神話の意味は何かということになる。私見では、この問題は、歴史学、神話学、文化人類学、文化史学等が、まったく答えていないものである。
 直観では、二つの母権主義があるのである。一つは、旧態の母権主義であり、停滞的である。もう一つは、父権主義に影響されて、覚醒した母権主義である。つまり、Media Point的母権主義である。
 扶余/ケルト民族的な母権主義は、後者であったと思う。即ち、古代日本において、扶余/ケルト民族が、停滞した母権主義を新生させたと推測される。
 つまり、二つの母権主義が古代日本を形成したのである。当然、ここには、父権的志向があるのであるが、基本は母権主義である。
 正に、Media Point的均衡が生まれたと思う。

追記:日本における、失われたイスラエル十支族の影とは、正に、新母権における父権的要素ではないだろうか。
 そうすると、扶余/ケルト民族とは、既に、原トランス・モダン民族・文化ということになる。

追記2:HEX氏のいうシュメール神話の太陽神アンであるが、それは、ケルト神話のトゥアッハ・デ・ダナンに似る。
 どうも母権的であるが、勇武の精神をもったいた民族が古代に存していたのではないだろうか。思うに、アマゾネスはその名残ではないだろうか。
 そう、母権的でありながら、父権民族の影響下において、勇武が賦活された民族ということである。いわば、母権的父権的民族である。
倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。 | 『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile
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古社と社紋、ミトラ・バール信仰の考察
古社と社紋、ミトラ・バール信仰の考察
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(シ)ュメールは人類最古の(高度)文明といわれる。(B.C.8000〜B.C2000頃)

シュメール神話の太陽神アンは、16弁菊花紋を象徴とし、天皇家と同じである
アンの子、エン・リルは、牛の角を持つ世界を統べる神であり、太陽神にして大気神であった
大気神とは風の神であり、力の象徴にして、軍神である
エンリルが元となってミトラ多神教のミトラ神(牛の角を持つ)が生まれ、オリエント中に広まり、やがて世界中に伝播する

ミトラ神を主神とするミトラ多神教は、B.C.1550頃ミタンニ王国(メディア帝国)で成立し、やがてペルシア帝国の守り神、ミスラ(アスラ)となる。

ミトラとその兄弟インドラ、ヴァルナなどはアフラ(アスラ)と呼ばれる神族。
ミトラ≒アフラマズダはインドの悪神アスラ(アシュラ・阿修羅)になり、インドラが転化して帝釈天に、(インドラの性格を元にシヴァ神を創造)、ヴァルナ神は天空神にして司法神となる。

インドにおいて、仏陀〔釈迦)はヴァルナの生まれ変わりとされ、寺院には多数その意味の絵画・壁画がある
仏教は、ヒンズー教の内数とされ、いわば一宗派、ヒンズー系新興宗教の扱いである
その為、戦後の独立時、国の宗教をヒンズーと定めた時、仏教徒は、追われる事がなかった。

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ケルヌンノスと仏陀
テーマ:神話・神秘・民俗・霊性:ケルト、輪廻転生



Cernunnos
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The "Cernunnos" type antlered figure on the Gundestrup Cauldron .
Cernunnos is the conventional name given in Celtic studies to depictions of the horned god of Celtic polytheism . The name itself is only attested once, on the 1st-century Pillar of the Boatmen , but depictions of a horned or antlered figure, often seated in a "Buddha position " and often associated with animals and holding or wearing torcs , are known from other instances.
Nothing is known about the god from literary sources, and details about his name, his cult or his significance in Celtic religion are unknown. Speculative interpretations identify him as a god of nature or fertility.[1]

Name


Cernunnos on the Pillar of the Boatmen
The theonym [C]ernunnos appears on the Pillar of the Boatmen , a Gallo-Roman monument dating to the early 1st century CE, to label a god depicted with stag's antlers in their early stage of annual growth.[2] Both antlers have torcs hanging from them.[3]
The name has been compared to a divine epithet Carnonos in a Celtic inscription written in Greek characters at Montagnac , Hérault (as καρνονου, karnonou, in the dative case ).[4] A Gallo-Latin adjective carnuātus, "horned," is also found.[5]
The Proto-Celtic form of the theonym is reconstructed as either *Cerno-on-os[dubious – discuss ] or *Carno-on-os. The augmentative -on- is characteristic of theonyms, as in Maponos , Epona , Matronae , and Sirona .[6] Cern un nos, Cern=horn, "un nos", Welsh "one night". Cernunnos=Horn one night. He was celebrated on one night, December 21. Maier (2010) states that the etymology of Cernunnos is unknown, as the Celtic word for "horn" has an a (as in Carnonos).[3]
Gaulish karnon "horn" is cognate with Latin cornu and Germanic *hurnaz, English horn , ultimately from Proto-Indo-European *k̑r̥no- .[7] The etymon karn- "horn" appears in both Gaulish and Galatian branches of Continental Celtic . Hesychius of Alexandria glosses the Galatian word karnon (κάρνον) as "Gallic trumpet", that is, the Celtic military horn listed as the carnyx (κάρνυξ) by Eustathius of Thessalonica , who notes the instrument's animal-shaped bell.[8] The root also appears in the names of Celtic polities , most prominent among them the Carnutes , meaning something like "the Horned Ones,"[9] and in several personal names found in inscriptions.[10]
[edit ] Epigraphic evidence
The name Cernunnos occurs only on the "Pillar of the Boatmen " (Pilier des nautes),[11] now displayed in the Musée National du Moyen Age in Paris . Constructed by Gaulish sailors probably in 14 CE,[12] it was discovered in 1710 within the foundations of the cathedral of Notre-Dame de Paris , site of ancient Lutetia , the civitas capital of the Celtic Parisii . The distinctive stone pillar is an important monument of Gallo-Roman religion . Its low reliefs depict and label by name several Roman deities such as Jupiter , Vulcan , and Castor and Pollux , along with Gallic deities such as Esus , Smertrios , and Tarvos Trigaranus . The name Cernunnos can be read clearly on 18th century drawings of the inscriptions, but the initial letter has been obscured since, so that today only a reading [_]ernunnos can be verified[13]
Additional evidence is given by two identical inscriptions on metal plaques from Steinsel-Rëlent in Luxembourg , in the territory of the Celtic Treveri . These inscriptions[14] read Deo Ceruninco, "to the God Cerunincos", assumed to be the same deity.[citation needed ] The Gaulish inscription from Montagnac[15] reads αλλετ[ει]υος καρνονου αλ[ι]σο[ντ]εας (alleteiuos karnonou alisonteas), with the last word possibly a place name based on alisia, "service-tree " or "rock" (compare Alesia , Gaulish Alisiia).[16]

・・・・・
Retrieved from "http://en.wikipedia.org/wiki/Cernunnos "
Categories : Ancient Gaulish and British gods | Hunting gods | Nature gods | Animal gods | Horned deities


参照:
それではと、最初の説法を鹿野苑(ろくやおん)(現在のサルナート)で行うことにな
りました。それというのも、仏陀と苦行していた仲間なら仏陀の教えを理解するであ
ろうと考え仲間が住まいとするサルナートを訪れたのです。ただ、仏陀が苦行を止め、
しかもスジャーターから乳粥を布施されたのを見て苦行に励んでいた仲間の五人は、
苦行からの脱落だと非難して太子と袂を分けたのでありますから、もし、堕落した仏
陀が訪ねてきても適当にあしらおうと相談して決めておりました。がしかし、仏陀が
現れるとその威厳ある姿に見とれてしまい崇敬の念をもって仏陀の説法を聴聞するこ
ととなったのです。
 鹿野苑とは名の通り鹿の群れからの命名でしょうが奈良公園に比べると頭数が少な
く見つけるのが大変という状況でした。

   東大寺南大門前の鹿
      鹿野苑の鹿
鹿は野生ですから鹿野苑では人間に危害を
加えないよう金網で人間と鹿が接触しな
いようになっております。ところが、奈良の鹿は
よく馴らされていて人間と鹿が共存
するという世界的にも珍しいケースです。

      仏陀の説法を聴聞するため鹿野苑に集まった鹿たち。


        初 転 法 輪 
     初 転 法 輪
説法のことを転法輪と言い転法輪とは字の通り
法輪(ダルマ・チャクラ)をまわすこ
とが説法するということです。その最初の説法を
初転法輪といいます。サルナートは
最初に説法を行ったので初転法輪の地として
知られており釈迦の四大聖地の一つに挙
げられています。一般的に初転法輪を表すには
台座に法輪と2頭の鹿が描かれていま
す。
 右図は降魔印のようですが2匹の鹿が蹲って
おりますのでサルナートでの初転法輪
を表現したものです。今まさに、法輪を転がして
初転法輪を行おうとするところであ
りましょう。
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/y%20bunkatu-2.htm

仏陀の生涯ー2


鹿野苑の原名サールナートは、『サーランガ・ナータ(鹿の王)』の転訛だと言います。 その伝承を7世紀の玄奘は、『大唐西域記』に記しています。
鹿野苑に棲んでいた鹿の群れは、狩りを好む国王のために、いつも多くの犠牲を出していました。 それを悲しんだ鹿の王は毎日一頭ずつ順番を決めて差し出すことで、無用の殺生をとどめたいと、国王と誓約をかわします。
ある時、白羽の矢を受けた鹿が仔を身ごもっていて、自分の身は惜しまないが、腹の仔は不憫だと悲しむ。 そのことを聴いた鹿の王は、その母親の身替りになりました。 それを知った国王は、心に深く恥じて、以後、鹿をとることを止めることとなります。 それが鹿の楽園となった鹿野苑の由来でありました。
http://www.geocities.jp/princegifu/kaisetu8.htm

サールナート(鹿野苑・ろくやおん)




2010年12月08日(Wed)▲ページの先頭へ
「資本の論理」と「帝国の論理」:田中宇氏の仮説:差異共振原理と同一性原理
テーマ:脱資本主義:トランス・モダン・エコノミー

ほぼ積ん読状態だった田中宇氏の『世界がドルを棄てた日』の一部を読んだ。(追記:「ドルを棄てた」というのは、レトリカルの表現である。通貨の多極化を主張しているのであるから。)

**************************


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation




世界がドルを棄てた日 [単行本]
田中宇 (著)
内容(「BOOK」データベースより)
米国投資銀行リーマン・ブラザーズ破綻後、世界は基軸通貨としてのドルを棄てざるを得なくなった。なぜ米国はドルの価値を引き下げるような、財政赤字の急増や金融破綻の黙認を続け、ドルに象徴される自国の覇権を自滅させているのか?金融危機を的中させた著者が、近現代史の隠されたドラマを読み解く。

出版社からのコメント
オバマ政権は、失敗が運命づけられている!
米国投資銀行リーマン・ブラザーズ破綻後、
世界は基軸通貨としてのドルを棄てざるを得なくなった。
なぜ米国はドルの価値を引き下げるような、
財政赤字の急増や金融破綻の黙認を続け、
ドルに象徴される自国の覇権を自滅させているのか?
金融危機を的中させた著者が、いま、金融恐慌の裏で起きている壮大なドラマを読み解く!

**************************

 田中氏の論旨は、メルマガでもわかるように実に明快である。日本人として、これほど、明快に論じる人は希有であろう。この点で、少なくとも、田中氏の独創的意義があろう。
 田中氏の視点の基盤は、「資本の論理」と「帝国の論理」である。前者はユダヤ系資本(ロックフェラーも含めているが)であり、後者は英米帝国主義路線である。
 しかしながら、有り体に言えば、「帝国の論理」もそれなりに、資本の論理である。
 だから、田中氏の論は理論的には、破綻しているのである。しかしながら、田中氏の立論は、本質に通じていると思うのである。
 PS理論から言うと、田中氏の「資本の論理」とは差異共立・共振の論理であり、「帝国の論理」とは、同一性(⇒物質)の論理と見るべきである。換言すると、トランス・モダンの論理とモダンの論理である。
 そう見ると、今日、東アジアでの騒動の意味が明瞭になると考えられるのである。
 結局、トランス・モダンとモダンとの相克なのである。そう、単純にユダヤ金融資本を批判することはできない。それ自体、トランス・モダンとモダンで争闘していると考えられるのである。
 もっとも、より精緻に言えば、「資本の論理」は的確には、差異共立・共振原理を把握はしていない。それは、やはり、一部、「帝国の論理」に囚われていると思われる。
 思うに、自我的資本(西洋原理)と共同的資本(東洋原理)の即非的資本様態が、私が言う個的共同資本主義を意味すると思われる。
 因みに、ネグリとハートの「帝国」とは、田中氏の「資本の論理」に通じよう。しかし、正確には、両者とも差異共立・共振原理に還元される必要があるだろう。

追記:先に示唆したが、差異共振(トランス・モダン)と差異連続的同一性(ポスト・モダン)は絶対的に区別されるべきものである。前者は⇒+1であり、後者は=+1である。例えば、凸iが主導的であると後者になるのである。

追記2:田中宇氏の「明快な」論考の特徴は、多極主義と英米帝国主義との争闘という仮説、とりわけ、隠れ多極主義という仮説に拠る大局的な分析・洞察である。

追記3:《トランス・モダン》VS《モダン》の《モダン》に《ポスト・モダン》を含ませて考えるべきである。


参考:
TOP
◆ 2010/12/06(月) 飯山一郎の心奥にある願い、そして希望。
私を中国びいき・親中派とみるヒトがいる。少しは当たっている。
私のホンネは、中国や韓国に対する憎悪感をムキ出しにするヒトが嫌いなだけだ。
いま、日・中・韓は、悪口を言いあったり、仲違い(なかたがい)しては絶対に駄目だ。
なぜか?
(私が命よりも好きな祖国・)日本(ニッポン)のためにならないからだ。

日本は、敗戦後米国に占領され、以降65年間、米国の属国だった。
米国の支配は、露骨な植民地支配ではなく、実に巧妙な 『ステルス支配 』 だった。
そのため、日本人は強い反抗や抵抗をせず、また、大きな不満も持たなかった。
しかし日本は、そろそろ自立・独立を真剣に考える時期にきている。
そうでないと、欧米に騙され、中国や北朝鮮やロシアと戦争をさせられる事態になる。
アジア人同士の戦争は、欧米にとっては利益になるからだ。
彼等は、昔のようにアジアを分割し、できたら植民地として統治したいのだ。
そうなれば、欧米の未曽有の経済危機は、見事に解決する…。
いま、アジアの国々(特に日中韓)が仲良くすれば、アジアは発展する。
欧米に搾取されて貧しかったアジアの人々の暮らしが、豊かになる。
人間らしい生活ができるようになる。
アジアが発展すれば、沈没しそうな日本の経済も、だんだん良くなる!
元気だった昔の日本(ニッポン)が、復活する! よみがえる。
逆に、戦争になったら、アジアは、また、もとの貧しいアジアに戻ってしまう…。

アジアは、なにも好き好んで貧しくなったわけではない。
アジアは、西欧列強の植民地にされ、搾取され続けてきた。
だから、貧しくなったのだ。
貧すれば鈍する。貧しいから頭も悪くなり、性格も悪くなり、泥棒も増える。
そういうアジアの貧しい人々や国を、軽蔑し、憎悪する…。これは絶対に駄目だ!
いま、アジアは、なにがなんでも! お互い仲良くしないといけない。
悪口言いあって いいことある? 憎しみあって何になる?
相手の欠点には目をつぶり、互いに助けあい、融通しあって、みんなが豊かになる!
本来、アジア人は、心が優しい。働き者だ。手先も器用だ。性格も正直で実直だった。
そういうアジア人が、心を合わせ、力を合わせて、豊かで仕合せなアジアをつくる!
みんな! そーゆーほーこーで ぐぁんばらないか!

たたかう老人! 飯山一郎の ハッタリなしの 口演会場 _

飯山一郎の ちいさな space リトマス試験紙のようなspace ホームページ _


2010年12月05日(Sun)▲ページの先頭へ
人類史における一神教の画期性:母権主義の切断:超越的父権原理と超越的母権原理:PS理論的統合へ
テーマ:一神教/多神教⇒新多神教・新多一神教

先に、アジアの母権主義と唯物論について述べた。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10727337837.html
 即ち、母権である凹iが自我凸iと癒着すること、連続化することが問題であった。
 そこでふと気づいたのは、一神教的変革とは、母権主義的癒着・連続化を切断した、人類史における画期的なものであったということである。
 なぜならば、超越神である唯一神とは、現象界、感覚界、物質界から切断された神であるからである。凹iは感覚、感性、感情、身体、欲望的なものである。それに対して、超越神とは徹底的に否定的態度をとったのである。偶像破壊が象徴的である。可視的なものへの信仰、執着を否定したのである。(その点では、仏陀に似てないことはないだろう。)
 つまり、PS理論から見ると、凹iを否定して、凸i中心主義をもたらしたのである。言い換えると、凹iと凸iを切断したのである。そして、超越性とは-1であるから、人間認識図で言えば、第二象限の理知の世界を創造・構築したと考えられる。


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
by Mr. Kaisetsu with Mr. Seiseimon's cooperation

感覚、感情、感性、欲望等を排除した、超越神の世界、それは、超越的倫理・道徳の世界、超越的理性の世界と言えよう。(ここから、デカルト哲学やカント哲学は見えやすい。)
 とまれ、西洋の理性はこの超越神の論理から生まれたと見るべきである。(プラトン哲学もこの側面があるが、プラトンはイデアやイデア界を説いたのであり、超越的哲学を説いたのである。追記:正確に言えば、プラトン哲学は、第二象限の哲学ではなく、母権的ベース、つまり、秘儀文化を基礎としているので、第三象限の哲学である。秘教的哲学なのである。もっと精緻に言えば、第二象限と第三象限の両面をもつ哲学であろう。)
 そして、正に、この第二象限的要素がアジアに欠落していると言えよう。つまり、西洋の理性には、現象界から超越した側面があるということで、ここでは、凹iの要素を排除しているのである。故に、そこでは、アジア母権的な癒着、連続性はないのである。
 とまれ、それは西洋文明の知恵である。
 それに対して、アジア母権主義は、別の超越の方法があるのであり、それが、凹i⇒-1の道、第三象限の知恵である。
 西洋は凸iが主導的なのであり、アジアは凹iが主導的なのであるから、後者は凹iを活かした知恵を目指すべきでなのである。仏陀の知恵はそういうものであったし、神道の知恵もそうである。
 思うに、先に、古代ギリシアと古代日本との酷似性について述べたが、そのとき、根底の母権主義と侵入した父権主義との衝突、共立・共振を述べた。それは、新しい共立的民族・文化を意味すると考えられる。
 その後、ギリシア、日本において問題なのは、基底の母権主義の超越性(第三象限)が希薄となり、物質文化に囚われるようになったことではないだろうか。つまり、精神文化の衰退が生じたと考えられる。
 それに対して、ユダヤ教は母権主義を切断し、また、キリスト教は切断した上での母権主義の導入を説いたと考えられる。
 ユダヤ教の切断は実に画期的である。これは、母権主義、東洋主義、多神教を否定したのである。超越的理性の道を開いたと言えよう。
 そして、これとキリスト教によって、西洋文明が誕生したと言えよう。
 現代の問題は、西洋文明の帰結である資本主義の破壊性である。これは、以上確認したことから見ると、超越的理性をもっているのがわかるだろう。第二象限のその理性が、また、同一性価値=交換価値と結びついていると考えられるのである。つまり、超越的同一性価値=超越的交換価値になっていると考えられるのである。
 思うに、ポスト構造主義、デリダやドゥルーズは本来、これに対抗して、乗り越えようとしたと考えられる。前者はロゴス中心主義批判、そして、後者は同一性批判をしたが、結局、彼らは西洋文明の超越的理性原理を的確に把握していなかったために失敗したと言えよう。そう、西洋文明の超越的原理、それも、第二象限の原理を認識しない限り、西洋文明批判とその乗り越えは不可能であると言うべきである。
 ということで、西洋文明の帰結としての資本主義であるが、それは、他者凹iを欠落した経済システムであると考えられる。
 否、正確に言えば、民主主義とは他者凹iの原理であり、それは「子」としてのキリストから発していると考えられるが、資本主義の同一性価値=交換価値の原理は、超越的理性(第二象限)から発していると考えられるのであり、ここには、母権的原理と父権的原理が分裂的に相克していると考えられる。
 前者は生命的な原理であるが、後者は破壊的な原理であり、後者は資本主義において主導・中心的であるために、世界は破滅の危機にあると言える。
 結局、超越的父権的原理が支配した現代グローバル資本主義世界を乗り越える方途は、超越的母権原理の復活であると考えられる。
 凹iから-1の超越界への方向を復活させる必要がある。それが、シュタイナー的には霊の道であると言えよう。PS理論的には直観の道であろう。
 それは、キリストの道であるが、キリスト教は父の原理に支配されているので、聖霊の道と言うのが的確である。父に支配された子の道ではない、聖霊の道である。それは、Media Pointの道でもある。(追記:D. H. ロレンス的に言えば、「王冠」の道である。獅子=父と一角獣=子の共立・共振(・共融)する様態である王冠=聖霊の道である。)


Royal Coat of Arms of the United Kingdom.svg


 何故、超越的母権原理が必要から言えば、当然ながら、超越的父権原理は、他者を否定する利己主義、自己中心主義であるからである。自由主義とは前者である。私が説く共同資本主義とは後者のエコノミーである。
 とまれ、これは、個をもつ共同資本主義であり、社会主義や共産主義ではない。
 思うに、超越的母権原理を土台にして、超越的父権原理を活用する様態の個的共同資本主義が可能である。それはトランス・モダン・アジア的資本主義の道である。
 
追記:構造主義の根源も、超越的父権原理、第二象限ではないだろうか。

追記2:以前示唆したが、カント哲学の問題は、超越性と超越論性が分離したままであることである。理性と言ったとき、超越性に関わるものを実践理性と呼び、純粋理性を超越性と同一性に関わらせていて、その矛盾(アンチノミー)を指摘するに留まっているのである。
 超越論性とは超越性と同一性との折衷的概念であると考えられる。言い換えると、混淆であり、連続性である。ポスト・モダンはこれを引いている。というか、Media Pointの同一性に偏した精神的フィルターと言えるだろう。
 フッサールの現象学とは、凸iの志向性を発見したことにあると思う。それは、実質的に凸i*凹iである。ただし、凸iの志向性を超越論的主観性と呼んでいる。しかし、超越的主観性と呼べば、より正確であったろう。
 そして、俗物のハイデガーであるが、彼は、凹iを存在として、それと物質+1との関係様態を探求したのであるが、実際は純粋な凹iではなく、凸iの主観性をもった存在であり、その点で、凹iと凸iが未分化・混淆していたと思われる。そのため、凸iと物質+1との結合が主要となり、いわば、唯物論化した存在論なのである。そのために、純粋存在である凹iを極めることができなかったと言えよう。とにかく、非常に、不純な、中途半端な哲学である。
 死に臨む存在とは、実は、超越界への漠然とした予感であり、凡庸である。

追記3:もし上述のように超越的父権原理を考えるならば、古代日本に侵入した父権的民族を失われたイスラエル十支族とすると、古代日本において、超越的父権原理と超越的母権原理が衝突して、古代ギリシアを超えるような即非的原理が生まれたと考えられよう。
 それは、父と子の即非論理であり、正に、聖霊の原理ではないだろうか。日本文化とは聖霊文化ということになる。トランス・キリスト教的文化である。



アジアのトランス・モダン:母権主義と唯物論:自我の不連続化に拠る母権的精神の超越化
テーマ:トランス・モダン社会/新共同体創造的構築

今は余裕がないので、ざっと書くが、先に、母権主義と唯物論との関係を述べたが、これを精緻に解明する必要がある。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10727100942.html
 アジアは母権主義である。しかし、近代において、アジア(だけではないが)は西欧の帝国主義によって支配された(日本は例外的である)。
 それに対抗するために、唯物論的政治革命が起きたと言えよう。この精神的力学は、先に述べたように、母権主義である。凹i主導的である。
 凹iに拠る不正義への反発であるが、これは、思うに、本来、-1と関係している。しかしながら、近代においては、母権主義国は凹iと凸iとの関係が未分化であったと思われる。
 そのために、凹iに反発は凸iや+1と関係するようになるのであり、それが、唯物論、「マルクス主義」と結んだと考えられるのである。それがイデオロギーとなるのは、凹iのもつ-1(超越界)との関係からと思われる。
 絶対・超越的であるために、未分化の、故に、連続的な凹i*凸iは、不正義への反発の唯物論的大義化において、イデオロギーになったと考えられる。
 西欧ないし米国においては、近代の発展が緩やかだったために、自我凸i(父権主義)は、無我凹i(母権主義)から、比較的に分離するように形成されていき、近代的自我、近代合理主義を形成していったと考えられる。いわば、ある種の不連続化が形成されたのである。それが、欧米の個人主義と呼ばれるもののベースであろう。しかしながら、PS理論から見ると、その不連続性は不十分であり、自我凸iが個を支配していると考えられる。
 ということで、アジア(ロシアを含めて)においては、自我凸iと無我凹iとが未分化・連続的であったために、正義への闘争が、唯物論左派イデオロギーに囚われた大惨劇を結果したと考えられる。
 ここで想起するのは、精神学者ルドルフ・シュタイナーの言である。精神世界の修行には、近代科学的教養や常識・健全な意識が必要があると説いていることである。
 この意味は凹iと凸iとの連続性に支配されない、知性、意識の前提の必要であると考えられる。
 真の知性とは、本来、感情である凹iとの連続性から脱却したものである。(とは言え、凹iのもつ感性は肯定するのである。)
 ということで、シュタイナーも自我的知性の不連続化を説いていたと言えよう。
 結局、アジア・東洋にとって、脱近代として、超越的精神の独立の形成が根本的であることがわかる。
 本来、資本主義も、凹iから切り離された凸iの合理性によって営為されるものである。しかし、日本の国家資本主義(社会主義)を見てわかるように、日本も母権主義の国なので、凹iの癒着があるのである。そのために、自由な自我に拠る、本来的な資本主義、個的資本主義の形成が阻害されているのである。
 そう、自由な自我、不連続な自我とは、ほぼ個と言っていいだろう。ここには、他者である凹iとの共立・共振性である共同体への志向があるのである。
 今はここで留めたい。


2010年12月04日(Sat)▲ページの先頭へ
「中国人がやってくる」5:母権主義と唯物論:超越的精神の肯定へ向けて
「中国人がやってくる」5:母権主義と唯物論:超越的精神の肯定へ向けて

テーマ:東アジア共生共創圏(東アジア共同体)
アジアにおける「共産主義」であるが、これは、結局、マルクス主義からわかるように、被抑圧側からの「反動」思想である。
 少なくとも、最初は、不正義に対する正当な反抗がある。しかしながら、この反抗も結局、自我、近代的自我、とりわけ、唯物論的自我に根差しているので、反動になるのである。革命主義が歴史において、例外なく反動となったとは、これが原因と考えられる。
 そう、唯物論的自我、これは、正に、悪魔的自我である。ここには、他者はなく、正当化すべき自我があるだけなのである。
 私見では、中国共産党はこれに染まっている可能性がある。唯物論的自我はイデオロギーであるために、容赦のない苛酷なものとなるのである。スターリン主義とはそのようなものである。
 とは言え、問題は、19世紀のロシアが20世紀のソ連になったのはどうしてなのか、これが実に問題である。
 私が以前から思っているのは、共産主義化する国は母権主義の国である。これは、PS理論の人間認識図で言えば、凹i⇒+1である。第四象限である。
 母権である凹iが、唯物論的に+1に結合してしまうと考えられる。そう、不正義への反感においては、凹iは-1の要素を持っていたが(追記:ここは微妙である。善は凸i⇒-1の第二象限に属する。この点は再考したい)、唯物論的に意識化すると、⇒+1へと転化するのである。これが、魔道である。
 これは、中国だけでなく、ロシア、日本、北朝鮮等にも適用できることである。
 超越的精神性の肯定、これによって唯物論的自我から脱出できるのである。

追記:19世紀のロシアは、すばらしいロシア文学を生んだ。その代表であるトルストイやドストエフスキーの文学は宗教性が強いのである。ロシア文化がもつ宗教性、ロシア正教を、ボルシェビキは否定したのである。唯物論的狂気がロシア文化を破壊したのである。
 結局、資本主義の問題とは、唯物論性、そして、根源は同一性にあると言えよう。
 資本主義に精神性を取り戻すこと、これはどうしたら可能か。私は、資本主義生産は共同的生産であると述べている。資本主義的共同主義という精神性を確認すべきなのである。

追記2:因み、米国はキリスト教的民主主義の国である。

注:以下、下線、赤色文字の強調はrenshiに拠る。

★ 2010年12月03日金曜日 20時更新

・・・・・

 ■ 中国人がやってくる その5

 山東省済南市で医師を開業していた山崎宏さん(102)が亡くなった。山崎さんは旧日本軍の残虐行為を許せずに脱走し、日本敗戦後も現地にとどまって、65年の間、「赤ひげ医」を地で行く良心的な医療を続け、地域の広い尊敬を集めてきた。
 訃報を聞いて、生前の山崎さんの献身的医療に世話になった地元住民が数千人も集まり、冥福を祈った。

 中国マスコミの論調は、残虐行為を恥じた旧日本兵が贖罪の医療奉仕活動を行って死んだというもので、「悪事を働いた日本人だから当然」というニュアンスが多い。
 人間として良心に生きる信念を脱走処刑を覚悟して貫き、敗戦後も加害国日本人として謝罪の意を行動で示し、利他思想を体現した人生を正当に評価する記事はほとんど見られない。
 しかし、山崎さんを直接知る済南市の人たちは、真の畏敬と心からの感謝で悼み送ろうとしている。人々に、こんなに心から敬愛される人は中国の役人には一人もいない。だからジェラシーを感じているのだろう。

 中国には、ウソにまみれた下心で上からお仕着せた低俗な賛辞が溢れているが、人間としての原点に立つ良心の立場で語る声がほとんど聞かれない。そこには、権力によって無理矢理ねじ曲げられた人間性と、国家の重荷に喘ぐ人々の、天を仰ぎ見る苦難のため息だけが聞こえてくるのだ。
 虚偽に満ちた砂上の楼閣である中国で、いったい何を信じたらよいのか分からず彷徨う若者たちは苦悩に苛まれ、次々と精神疾患になってゆく。今や、中国における精神異常者の数は人口の二割、数億人ともいわれるほどだ。
http://datefile.iza.ne.jp/blog/entry/1082888/

 虚構捏造ばかりの、やりきれない社会のなかで生きてゆこうとすれば、人々の心を支えるものが目先の享楽、蓄財、贅沢だけになるのは当然だ。日本だって程度の差こそあれ同じような状況だから、そんな心のメカニズムは容易に理解できるだろう。
 中国人が目先の浅薄な物質的価値観のみに囚われることで、自分たちの、そして子供たちの未来さえ根底から破壊しながら、地獄に向かって切れ落ちた断崖に向かって突進している有様を嗤えるほど日本人は立派ではない。我々だって、彼らほど極端ではないが、同じ地獄に向かっていると知るべきだ。
 目先の安楽のために、子供たちの未来に返済不能の莫大な借金や、放射能廃棄物を押しつけている輩が、どうして偉そうに中国を批判できようか?

 中国人を、これほどまでに追いつめているものは何か? 我々は、はっきりと敵の正体を見極めなければならない。
 少なくとも、今から50年前までは、中国は物質的に貧しくとも、本当に心豊かな理想郷を体現していたはずなのだから。いったい何が、中国と中国人を狂わせたのだ?
 そして、どうしたら中国を心豊かな国にすることができるのか?

 チベット・ウイグル・尖閣問題、それに法輪功に対する極悪非道、人間の所業とは思えぬ悪魔的弾圧などを見せつけられていると、中国政府役人はこの世のモノとも思えぬ極悪人ばかりという印象だが、我々は中国政権と民衆をはっきりと分けて考えるべきだ。
 中国共産党の支配する中国政権は、崩壊を約束された悪臭を放つ腐敗物にすぎない。もはや、それを救済するいかなる手段もありえない。我々は、腐敗食品がやがて形を失って土に還るように、それを眺めるしかないようだ。
 だからといって、中国人民が一緒に消えてゆくわけではない。終末の大混乱のなかで、凄まじい人々が死んでゆくだろう。しかし、必ず生き残る人たちがいて、かなりの人々が日本に押し寄せ、そのまま日本列島の新住民になる事態も避けられないだろう。

 日本人のなかに宮崎政弘のようにネトウヨの背後から「シナ人」という表現で、戦前の傲慢中国人に対する侮蔑感情を洗脳しようとしている輩がいる。ネットには、日本人が優越的で中国人が劣等的であるかのような思い上がりが満ちている。
 確かに、中国政権のあまりにも愚劣な姿勢を見せつけられていると「中国にはバカしかいない」と思いたくもなるが、我々は、日本人だって五十歩百歩の愚劣さに堕ちている現実を知った方がいい。
 というより、地上の人類は、すべて同じ平等な人間であって、ただ環境のなかで洗脳されて暴走を繰り返すのだ。だから器次第で、愚かに見える人たちだって、社会を共に支える仲間になることができることを忘れてはいけない。
 やがて国家崩壊に伴う中国人避難民が日本に押し寄せたとき、宮崎氏やネトウヨ的侮蔑感情では大きな不幸を招くしかない。

 すでに何度も書いてきたが、これほどに腐敗した中国政権と、道徳倫理、利他思想を見失った中国国民は、その必然的帰結として、凄まじい業火に焼かれる運命を免れ得ない。
 具体的には、イケイケドンドン的高揚期には起きなかった巨大事故も、経済停滞とともに一気に吹き出すだろう。

 まず、一番恐ろしい事態は、今年に入ってから、すでに数回も放射能事故を繰り返している上海周辺の原発だ。中国のような露骨な隠蔽体質では、情報公開で批判に晒されることによって成熟することができる改善改良も不可能であり、ハインリッヒの法則どおり、あるいは、それ以上に巨大事故のリスクが爛熟していると考えるべきだ。
 http://www.epochtimes.jp/jp/2010/11/html/d19787.html

 こうした視点で、中国がチェルノブイリ級か、それ以上の大事故を発生させるのは時間の問題と断言してもよい。だが、それは必ず朝鮮半島や日本列島にも大規模な放射能汚染をもたらし、地球全土を取り返しのつかないほど汚染し人類の未来を暗雲に包むにちがいない。

 世界最大の長江三峡ダムもまた、中国名物オカラ工事によって、その崩壊が時間の問題と指摘されている。ダム湖は数百キロにわたって不安定な崩壊山岳に囲まれていて、その満水圧力による地盤崩壊が、すでに数万カ所も発生しているといわれ、やがて超大型の深層崩壊が予想されている。430億トンの貯水に、数億トンクラスの崩壊土石流が流入すれば、貯水は一気に脆弱な堰堤を越えて、ダム本体を破壊するリスクが極めて高いのである。

 その他にも、中国は、その愚かしい隠蔽体質によって、あらゆる危険が隠されたまま、恐ろしい運営が行われている事業者が無数にあり、インド・ポパールで起きたような凄まじい事故も発生することだろう。
 こうした事故によって、住居を失う環境難民が数億人以上出る事態が予想されている。そうなれば、利他思想を失った中国では利権衝突から内乱に至る事態が避けられないと考える必要があるだろう。

東海アマチュア無線  地震予知研究会






「中国人がやってくる」:母権主義と父権主義:これは、日本の覚醒になると思う

テーマ:東アジア共生共創圏(東アジア共同体)

以下、東海アマ氏の主張はよくわかるのである(現象的には首肯できる部分がある)。私もそれなりに中国人を知っているのである。
 中国文化は北方と南方がある。日本文化は南方に共感するのである。美術からそれは言えるのである。
 思うに、中国文化とは本来、母権文化であるが、それが、父権文化に蚕食されていると私は思っている。
 この母権文化を中国人自身がよく理解していないのではないだろうか。
 例えば、儒教も母体は母権主義である。それが、父権的志向性をもっていると私は考えている。
 そして、日本も、この母権文化をベースにした東洋文化を受容してきたのである。
 ただし、日本文化において、先に述べたように、イスラエル民族的な強力な父権文化が参入した可能性があるのである。
 ある意味で、両極端な文化が日本において、衝突したのである。
 しかし、日本は本来的に母権主義であり、それが、内面、精神的な文化・社会を生み出したと考えられる。
 そう、中国文化も本来、日本文化に似ていると思うが、しかしながら、父権文化の圧倒的支配の下、分裂的な様相を帯びたように思われる。
 主観では、中国では、母権文化と父権文化が分裂しているのである。それを共立させる視点は日本にあると思う。ただし、近代日本は、父権主義的になり、本来の母権主義を喪失してしまっている。
 ここで欧米の近代史について触れると、実は、ルネサンスとは、母権主義、東洋主義の覚醒である。しかし、キリスト教的西洋はこれを受け入れられないのである。
 また、飛躍するが、オバマ大統領は本質的に母権主義、東洋主義である。
 つまり、今日、西洋においても、東洋的精神と西洋的精神との葛藤があるということである。
 本題に戻ると、中国人は確かに問題が多いが、本来、中国人は母権的民族である。ここを確認する必要があるのである。
 日本人としては忍耐がいるが、母権主義という点では、日本人と中国人は理解できるのである。
 思うに、ある意味で、中国人の方が日本人より、母権主義的である。日本人は、天孫降臨民族からわかるように、基底の母権主義が父権化されているのである。

追記:近代の父権主義とは、唯物論も含まれる。

追記2:母権と父権を共立させる今日的視点は、正に、PS理論に存する。凹i*凸i⇒+1に存する。又、根源を考えると、
-1⇄凹i*凸i⇒+1となるのではないかと今考え中であるが。

追記3:-1⇄凹i*凹凸i→凸i*凹i⇒+1だろうか。→の意味を明確にする必要がある。



★ 2010年12月01日水曜日 16時半更新

 昨日、M6.9発生直後からとんでもない異常体感が続いたが、今日はやや収まっている。しかし相変わらず2004年スマトラ大震災の前に似た体感が続いている。

 ■ 中国人がやってくる その3

 拾ったカネを届け出たら「大馬鹿者」の大合唱http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101130-00000064-scn-c n

 【街頭での靴修理を商売にしている文和発さん(60歳)はこの3日間ほど、知り合いに会うたびに「大馬鹿だな、お前は」と言われっぱなしだ。拾った8800元(約11万円)を警察に届けたからだ。中国新聞社が報じた。
 文さんはいつも、重慶市の渝北区劉山路で靴修理の商売をしている。26日午後7時ごろ、「そろそろ帰ろうか」と思い休憩していると、歩道の点字ブロック に小さな箱のようなものがあるのを見つけた。日が暮れていたのでよく見えなかったが、なにげなく手に取って近くの店のあかりを使って確かめると、ゴムバン ドで包んだ札束だった。全部が100元札。驚いていると人が集まりはじめた。衆人注視の元で数えてみたら、全部で8800元あった。
 普段ならとっくに家に戻る時間だったが、文さんは「もしかしたら、落とした人が探しにくるかもしれない」と思い、午後9時ごろまで待っていた。「多くの人が知った方が、落とし主に伝わりやすい」と考え、道を通る人に「お金を落とした人はいませんか」と言い続けた。
 文さんに事情を聞くと、「馬鹿か」と言い捨てて去る人もいた。しかし、肝心の落とし主はあらわれなかった。
 帰宅した文さんは、とりあえず札束をたんすの一番下の引き出しに入れた。大金を保管していることで緊張して、食事の味も分からず、よく眠れなかったという。翌朝起きてさっそく、札束を警察に届け出た。「やっと、肩の荷をおろすことができたんだ」という。
 それ以来、知人に会うたびに「お前は大馬鹿だ」と言われっぱなしだという。文さんは、「みんな、力を込めて同じことを言う」、「自分では普通と思っている。馬鹿と言われて、いい気分ではない」とにが笑いする。
 文さんは四川省の出身だ。重慶市に来たのは2005年。妻と一緒の借家住まいで、家賃は月600元。光熱費として200元程度が必要だ。1日の売上げは20−30元で、妻は靴磨きで10元ほど稼ぐ。収入は生活費などとして消え、いくらも残らない。
 8800元は、ほぼ半年分の収入だ。「自分のものにしようとは思いませんでしたか」と聞かれた文さんは「ちっとも思わなかったよ。だって、自分のものじゃないからね」と答えた。】


 中国の99%以上の人が知るはずもない尖閣諸島について、7割以上の人たちが「日本が強奪した中国固有領土」と決めつけ、半数が「武力で奪還せよ!」と主張していると政府系世論調査が示しているらしい。
 どうして、そんな理不尽な理屈がまかり通るのか? 日本人にとって信じがたいことだが、上に挙げたニュースにおける民族的精神性を見れば容易に想像がつきそうだ。

 一言でいえば、中国には強烈なメンツと強欲があるが人間性・道徳性が実に未熟である。それは、あたかもワガママ盛り、五歳の幼児の精神性を見ているようだ。
 筆者の知る中国人の共通点といえば、失敗したとき、まず絶対に自分の間違いを認めないで他人のせいにする。何を置いても自分のメンツを守ろうとすることだ。

 例えば、こんな記事がある。
 http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=1129&f=national_1129_196.shtml
 泥棒を働くのは日本が不景気だからと、中国政府当局が正当化の解説をする屁理屈を見て呆れずにすむ人はいないだろう。筆者のところはゴミどころか、中国 人廃物屋が買ってまもない鍬やバールなど大切な工具類を、留守にしているとき木戸を開けて勝手に入り込み持ち去っていった。
 もし捕まえても、彼らは絶対に泥棒を認めず、屁理屈で誤魔化そうとするだろう。

 六歳の少女に強制猥褻を働いた役人を捕まえても、うんざりする屁理屈だ。これが中国人というべきかもしれない。
 http://news.livedoor.com/article/detail/5174977/

 こんな人間的に未熟な人たちが、世界最大の生産力を獲得し、世界中のカネを集め、他人に対する思いやりのカケラもないまま、強欲だけを前面に出して、「地球は全部、自分たちのモノ」といわんばかりに盲進しているわけだ。

 日本人が同じ拾得物を発見したら、まず半数以上が自発的に警察に届けるだろうし、それを大馬鹿者など言おうものなら社会全体に糾弾されることになる。
 こうした歴史的・普遍的に行き渡った道徳・倫理観が、世界的に見ても犯罪の少ない「日本の良き社会」を支えてきたことを我々は良く知っているはずだ。

 近年、金儲け目的で労働者を追いつめる企業経営者たちによって、こうした他人の幸せを第一に考える、昔ながらの日本らしい思いやりの道徳・倫理観が破壊されていることから日本社会が根底から崩壊しはじめていると認識する人が多いはずだ。
 人は容易に変わるものだ。カネの魔力に魅入られ、人間のための道具にすぎないはずのカネで、人間が支配でき、人間よりも高い価値だと勘違いして暴走する人など、我々はいくらでも見てきた。

 中国だって、昔からこんなひどい強欲利己主義民族だったわけではなく、長い間、貧しさのなかで自然と調和して心豊かに生きる精神性が育まれてきた。戦 後、行き場を失って中国に取り残された残留孤児たちを暖かく育ててくれた優しい人々だって中国人だったことを忘れてはいけない。
 だが、中国共産党政権によって、陳腐な一党独裁資本主義が持ち込まれ、ヘイハイズの奴隷労働によって世界中からカネが集まるようになり、人々が強欲に目覚めて一斉に暴走し始めたのである。カネが中国人の精神性を貶め、変えてしまったのだ。
 元々、メンツ至上主義だった儒教風土に強欲が加わり、見るもおぞましい精神風土が成立してしまったといえなくもないが、それは日本人のなかにも、たくさん見てきたことを忘れてはいけない。

 だが、中国では、日本と比較して明らかに倫理観が崩壊している。プロセスにおける道徳・倫理など問題にせず結果として得るものを重視するという短絡的価値観に国ぐるみ支配されている。
 だからといって、道徳性の劣った中国の人々に対し「シナ人」と蔑称を投げつけて事足れるとしているネトウヨの愚か者は、所詮、彼らと同じ精神的レベルに すぎず、いっそ中国に移住すべきだろう。問題は、「なぜ、そうなったのか?」という視点であり、これからどうなるのか? 問題をどう解決するのか? とい う理性的分析と方法論を検討することだ。

 こうした精神性の腐敗、程度の低い倫理観が国中に蔓延した結果、中国では恐ろしい事態が起きている。
 官僚から庶民まで、徹底した利己主義価値観のなかに放り込まれ、目先の金儲けのためには、他人を騙しても、地球を破壊しても、自分たちや子供たちの未来を破壊しても屁とも思わない精神風土が何をもたらしたのか?
 それはそれは恐ろしい結果が生まれたのである。






2010年11月27日(Sat)▲ページの先頭へ
古代日本は古代ギリシアに酷似する:光と闇の陰陽文化:可視的古代ギリシアと不可視的古代日本
天孫降臨の父権的民族は、古代ギリシアの父権的民族に類似する。それは、「アポロ」的民族である。直観では、ゾロアスター教に似た文化をもつ。視覚・美術的民族である。外的志向性をもつ。
 それに対して、土着的先住民がいた。それが、国つ神の民族(縄文・弥生的民族:アジア南方と北方の融合的民族:海洋性と山岳性の融合した民族)であり、古代ギリシアでは、母権的な農耕民族、且つ、東地中海の海洋的民族、即ち、「ディオニュソス」的な民族である。これは聴覚・音楽的民族である。内的志向性をもつ。
 前者が「光」=「火」の民族であり、後者が「闇」=「水」の民族である。(因みに、「天」(アマ)は「雨」(アメ)である。)
 そして、古代日本、古代ギリシアにおいて、両者が出会い(衝突して)、差異共立・共振して、新しい民族文化が生まれたのである。
 それは、「陰陽」文化と広義に言えるだろう。それは、知的感性、感性的知性の文化である。神話・芸術があり、また、哲学・科学があるのである。
 古代ギリシア文化については、今更言うまでもないが、古代日本に関して、解明する必要があろう。
 直観では、古代ギリシアよりも母権文化に傾斜した文化である。それは、神道に表れていると思う。それは、不可視の世界を直観する精神の誕生だと思う。端的に、神道文化が生まれたのだと思う。古代ギリシア文化は父権的傾斜があるので、美術文化を生み出した。
 しかし、日本は目に見えない世界の精神文化、神道・多神教文化を生み出したのではないだろうか。
 古代ギリシアは外界的造形に向かったが、古代日本は内界的直観に向かったのではないだろうか。
 それは、人間認識図では、第三象限文化である。とまれ、古代日本は二重視覚をもったと思う。肉眼と心眼である。そして、心眼が根本であったと考えられる。
 この心眼を映す鏡が神鏡、八咫鏡ではなかっただろうか。

追記:飛鳥時代、仏教文化を受け入れたのは、母体の神道文化である。神道と仏教は見事に調和したのである。

追記2:古代ギリシア人が外界的造形に向かったの言うのは、不正確である。内界的精神の造形を行なったの言うべきであろう。外界的造形へ向かったのは古代ローマ人である。
 古代ギリシアの「アポロ」的精神とは内界的な美術的精神と見なくてはならない。


ニニギ
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神道
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ニニギ(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎ)は、日本神話 に登場する神 である。
神話における記述 [編集 ]

『古事記 』では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命、天邇岐志、国邇岐志、天日高日子、『日本書紀 』では天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊、天津日高彦瓊瓊杵尊、彦火瓊瓊杵、火瓊瓊杵などと表記され、一般には瓊瓊杵尊や瓊々杵尊、邇邇芸命(ににぎのみこと)と書かれる。

天照大神 の子である天忍穂耳尊 と、高皇産霊尊 の娘である栲幡千千姫命 (萬幡豊秋津師比売命)の子。兄に天火明命 (あめのほあかり)がいる。『日本書紀』の一書では天火明命の子とする。

天照大神の命により、葦原中国 を統治するため高天原 から地上に降りたとされる。これを(天孫降臨 )と呼ぶ。『古事記』では、この降臨の地については「竺紫の日向の高穂の久士布流多気に天降りまさしめき」と記述している。『日本書紀』では、「日向襲之高千穗峯」あるいは「筑紫日向高千穗」と記述している。

この降臨の経路の解釈ついては、日向国 の高千穂峰 に降り吾田国(現在の南さつま市 )の長屋の笠狭碕に到達したとする説が有力である。

一方、行政上、日向国が設置されたのは7世紀であり、それ以前の時代には日向国地域は熊曽国 に含まれていたとして、『古事記』の「竺紫」=「筑紫」、日本書紀の「筑紫」から、降臨地は「筑紫国 の日向」であって後世の「日向国」ではないと解釈する異説がある。 降臨した時期について、『日本書紀』巻第三(神武紀)は、神武天皇即位年より179万2470余年前のこととしている。

そこで大山祇神 の娘である木花之開耶姫 を娶り、火照命 (海幸)・火闌降命 ・彦火火出見尊 (山幸)を生んだ。彦火火出見尊の孫が神武天皇 である。亡くなった後は「可愛の山陵」に葬られた。


解説 [編集 ]

名前の「アメニギシクニニギシ」(天にぎし国にぎし)は「天地が豊かに賑う」の意。「アマツヒコ」(天津日高)は天津神 のことで、「ヒコ」(日子)は男性のこと。「ホノニニギ」は稲穂が豊かに実ることの意味である。「ニニギ」は「ニギニギしい」の意で、「にぎやか」と同源語である。神話上ニニギの一族とされている上述の天忍穂耳尊や火照命・火闌降命・彦火火出見尊とは名前に稲穂の「ホ」がある点で共通している。

農業の神として信仰されており、霧島神宮 (鹿児島県 霧島市 )、高千穂神社 (宮崎県 西臼杵郡 高千穂町 )、新田神社 (鹿児島県 薩摩川内市 )、築土神社 (東京都 千代田区 )、射水神社 (富山県 高岡市 )などに祀られている。

埋葬地である「筑紫の日向の可愛の山陵 」の伝承地は南九州各地にある。明治政府はその中から、旧薩摩藩 の学者の意見を参考にして、明治7年に鹿児島県薩摩川内市の新田神社が可愛山陵であると治定した(他の日向三代 の神陵も鹿児島県内に治定している)。

しかし、後の国学者や宮内庁の調査により、明治29年、宮崎県東臼杵郡 北川町 の可愛岳(えのだけ)山麓の古墳を「可愛山陵伝承地」、宮崎県西都市 西都原古墳群 にある男狭穂塚 を「可愛山陵参考地」と定めた。また、可愛岳そのものが神陵であるという伝承もある。


関連項目 [編集 ]

* 日本の神の一覧


執筆の途中です この「ニニギ」は神道 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています (ポータル 神道 /ウィキプロジェクト 神道 )。
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カテゴリ : 日本の神 | 天津神 | 農耕神


古代人の息吹 今に

2010年11月27日
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描かれた絵の種類を記した壁画の加工写真=水戸市教委提供
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石室の奥壁には5種類8個の武器と武具の壁画が確認できる=水戸市元吉田町の吉田古墳、目黒隆行撮影
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2006年の発掘調査の様子。中央右よりに周溝の角が確認され、多角形古墳の一端が見える=水戸市教委提供

 古代人の息吹が常陸の地でよみがえった。ダイナミックな線刻壁画と多角形とみられる姿を現した吉田古墳。深まる謎は、史家の想像力をかき立てる。(吉村成夫)

<厳粛な雰囲気 荘厳な線刻壁画>

 水戸駅から南に1・5キロ。市立千波中近くの静かな住宅街に、吉田古墳はある。

 38年ぶりに開いた横穴式石室に入った。埋めていた砂が取り除かれたのは2日前だ。

 奥行き約7・5メートル。江戸期に土砂を再利用された影響か、手前半分はなくなり、入り口の羨道(せん・どう)は石が二つ残るだけ。亡きがらを納めた玄室の側壁も一部傾いている。

 玄室は、高さ・幅とも1・8メートル程度。灰褐色の壁の中は薄暗くひんやりとして、厳粛な雰囲気だ。左右に、現代人による名字などの落書きが幾十もある。38年前までは埋められておらず、自由に出入りできたらしい。

 奥の壁には、線刻で描かれた装飾画が一面に広がる。上下左右とも1・2メートルほどの範囲に武器や武具の絵が並ぶ。大刀(た・ち)、刀子(とう・す)(ナイフ)、靱(ゆき)(弓矢を入れる道具)が克明に彫られ、鉾(ほこ)と鞆(とも)(弓矢を射る手に装着する)と思われる模様が間を飾る。上下左右とも1・2メートルほどか。実に規則的な配置で、荘厳さを感じた。線は数ミリ程度で細く浅い。鉄製の刀子を使ったという見方が有力だ。

 現在、吉田古墳の外見は小さな塚のようだが、実際には十数倍の範囲に八角形の可能性の高い多角形墳が広がっていた。墳丘の周囲の堀(周溝)が発掘され、その証拠になったが、現在は埋め戻されて畑などになっている。

<深まる謎 ふくらむ夢>

 新たな発見により新たな課題が生まれ、意見の相違が出てくる。本当のおもしろさはこれからだともいえる。

●何角形なのか

 八角形墳は全国の古墳16万基のうち、可能性のあるものを含め約20例しかない。畿内では正八角形で、角が敷き詰めた張り石で確認されるものが多く、天皇陵を特徴づけるものとされる。

 吉田古墳について市教委は主に南側の発掘で、周溝から4角を確認し、全体をややゆがんだ八角形と推定した。今後北側を調査すれば「断定できる可能性がある」とする。

 古墳時代に詳しい大塚初重・明治大名誉教授(考古学)は、最低でも六角形で、八角形の可能性は十分にあるとみる。「多角形に墳丘を整えた被葬者の意志が感じられる。在地の有力者が畿内の新しい世界観を取り入れていたと考えれば、当時の地方に中央の文化がいち早く伝わり、決して遅れてはいなかったといえる」と語った。

 古墳の構造に詳しい土生田純之・専修大教授(考古学)は慎重な立場だ。吉田古墳は角が石ではなく溝で確認されている点や、未調査の部分で必ず角が出るとは限らないなど様々な可能性をあげ、「八角形との断定は危険。多角形も断定するのに十分ではないだろう」と指摘。時期については、「近くの虎塚古墳の流れから7世紀第2四半期と思われ、律令体制の前なので、八角形であっても中央とあつれきが出る時期ではない」とも述べた。

●被葬者はだれか

 墓碑銘を持たない日本の墳墓は、大半で被葬者がわかっていない。考古学でこの問題は「一番意地悪な質問」ともいわれる。

 市教委は、線刻壁画や古墳の形状が水戸周辺では確認されていないものなので系譜をたどれず、「特定の地元の豪族と結びつけることは今はできていないが、情報を持っている人間だろう」とする。

 夢をみようと、専門家にあえて自説をうかがった。川崎純徳・県考古学協会会長は「論議はわかれるが、私は国造(くにの・みやつこ)の一族と思う。壁画は九州に多く見られ、同時代のものが茨城にもあった。九州系統の豪族が中央政府の命令でこの地にきた。その一族ではないだろうか」と述べた。

 大塚名誉教授は「天皇と同様の八角形にこだわる地元の有力な豪族か、中央政府から派遣された高級行政官や軍人などが考えられる」と話す。
http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08000001011270002


2010年11月23日(Tue)▲ページの先頭へ
第二稿:日本伝統文化は個-共同主義である:近代化は集合化:母権*父権⇒差異共立・共振/陰陽文化
以下は、先の考察を校正し、又、追記を付加したものである。Kaisetsu氏の女媧論が実に意義深い。
 やはり、母権・大女神の女媧が始原であり、その後、伏義が生起して、陰陽化したと考えられる。

 初めに女神ありき!

日本伝統文化は個-共同主義である:近代化は集合主義になった:母権*父権⇒差異共立・共振/陰陽文化
テーマ:神道ルネサンス:気と東洋文明
日本伝統文化は個主義であり、且つ、共同主義である。
 どこかで、これが失われたのである。
 私の直観では、国学の排外主義が胡散臭いのである。何度も既述したが、本居宣長が胡散臭い。大和心と漢心と分けるのが、そもそも、「漢心」である。国学に私は近代主義の基盤を見るのである。
 それに対して、坂本龍馬らの開国主義はまったく異質なものであり、本来の東洋主義に根差す開国主義である。明治維新以後の脱亜入欧とはまったく異質な、正反対の視点である。
 これまでの視点から言えば、脱亜入欧路線は父権主義であり、坂本龍馬らの路線は母権主義である。
 母権主義が近代日本において、その基礎となりつつも、敗れたものである。
 そう見ると、やはり、日本国は、古代ギリシアのように、母権文化が原基にあり、その上に強力な父権文化が侵入した歴史をもっているように思われる。
 即ち、父権的民族が母権的原日本に侵入して、日本国が生まれたと思う。
 思うに、天皇制はその所産である。しかし、ギリシア神話におけるゼウスが両義的であり、母権的な要素を強くもっていることを考えると、天皇とは単に父権的なものだけでなく、母権的なものと考えられる。つまり、天皇はイエス・キリストに類似しているのである。
 つまり、一方では父権的であり、他方では母権的であるということである。
 しかし、近代において、天皇制は父権的な制度・機関になったが、母権的視点から言えば、天皇とは女神なのである。つまり、天照大神である。大女神としての天皇である。
 天皇制を批判する人間は多いが、天皇を大女神と見れば、日本の再生に大いに寄与すると思える。
 そう、神話学的に言えば、女神(大女神)の子としての天皇である。

途中。

追記:武士であるが、私はこれも母権文化が母体であると推測している。

追記2:先に言及したが、その後、いくぶん翻した視点であるが、母体の母権制の社会に、父権的民族が侵入したとき、母権でもない、父権でもない、即非的文化が生まれると述べた点であるが、しかし、この視点は本稿の論点から見ると、不十分である。
 つまり、原基として、母権文化があることを認める必要があるのである。これが大前提である。
 そして、この基礎の母権文化が父権文化と衝突することで、新たに変容したのではないかと考えられるのである。これを父権的変容と呼んでいいのかわからない。
 父権文化は一言で言えば、知性の文化である。言語、文物、物質的経済の文化である。また、政治権力の文化である。
 ここでも、古代ギリシアに範をとると、口承文化が文字文化になったと考えられる。例えば、ホメーロスは吟唱詩人であったが、その口承詩が叙事詩となったのである。
 思うに、母権的口承の秘教(密教)文化があったのであるが、支配的な父権文化のために、それが、文字化、文字言語化されるようになったと思われる。例えば、エレウシスの秘儀が、プラトン哲学に鮮やかに反照されていると考えられるのである。
 これは、文字言語的一般化・普遍化と言えよう。それは、同一性化・ロゴス化でもあるが、ベースは差異である。とまれ、父権化を暫定的に、文字情報化(ロゴス化)と呼んでおこう。
 すると、日本においても、母権文化の文字情報化(ロゴス化)が為されたと考えられる。それが、端的に、記紀である。そして、本題においては、天皇制である。
 結局、天皇制とは母権文化の、広義の文字情報化(ロゴス化)であると考えられる。
 とまれ、父権化によって、母権文化は知性化されたと考えられるのである。
 ここで、思考実験的に、私論・見解を変えることになるが(これまで、私は母権文化は凸i*凹iの均衡の取れた文化を捉えていたのである)、母権文化を凸i*凹iにおいて、凹iが優位の文化と考えると、それは、本来、凹i⇒-1、即ち、人間認識図の第三象限の文化(神秘的文化:秘儀・密儀文化:シャーマニズムはこれに入るだろう)をもっていたと考えられる。
 この様態に、父権文化の優位の凸iが入ると、実に、凹iと凸iの均衡が形成されることになるだろう。つまり、凹i優位の母権文化に凸i優位の父権文化が参入することによって、凸i*凹iの差異共立・共振の文化が生まれたのではないだろうか。それは、端的に陰陽文化である。(追記:だから、自己認識方程式は凹i*凸i⇒+1と変換されるべきである。)
 もっとも、以後、父権文化が支配・主導的になっていくので、この均衡が破壊されて、父権的同一性・物質・権力文化が形成されていったということではないだろうか。
 とまれ、結局、母権文化への父権文化の侵入・参入は、差異共立・共振文化、陰陽文化が生んだのではないだろうか。
 そして、その母体は母権制である。この点はいくら強調してもし過ぎることはないだろう。

追記3:以下、Kaisetsu氏の「女娲」論はきわめて興味・意義深い。以下の「女娲」像は正に、エジプト神話のイシス他のオリエントの女神を想起させる。
 女神のシンボルは♀(ヴィーナス、金星でもある)であるが、これは、エジプト神話のアンクに似ているのである。○が太陽であり、+が地球である。そして、この太陽が女神の子(天皇)なのである。また、ケルト十字は、+と○を重ねたものである。


参照:

* 三輪山も「御娲山 Mi Wa San」である。
* 倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。


倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。



050223006a_3 050223006a_3 posted by (C)天花一海
深圳雕塑:女娲补天。



倭wa人の本来の漢字は「娲wa人」であり、天孫である意味である。

 倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。

 女娲こそ、最も古いトーテムであり、「女娲が天を紡いだ。」「女娲が土で人間を創造した。」

 中国の中原を最初に支配した文明は、「娲人」である。

ここで、「女偏」が重要な意義を持っている。

 女性が「天地創造」の「母体」である。

 女偏を「姓」に持つ氏族が、天孫の末裔である。

 また、倭が蛇をトーテムとし、漢委奴国王印が蛇を印の装飾に用いていることも、本来、wa が「女娲」である証拠である。

 海舌



女娲(拼音:nǚ wā),中华上古之神,人首蛇身,为伏羲之妹,风姓。起初以泥土造人,创造人类社会并建立婚姻制度;而后世间天塌地陷,于是熔彩石以补天,斩龟足以撑天。


女媧は古代中国神話に登場する女神。三皇の一人に挙げる説もある。姿は蛇身人首と描写される。伏羲とは兄妹または夫婦とされている。


女媧は中国少数民族の苗族が信奉した神

http://blog.kaisetsu.org/?eid=812179

『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile

参考:
ミャオ族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ミャオ族 / モン族
Hmong women at Coc Ly market, Sapa, Vietnam.jpg
伝統的衣装を着た花モン族。ベトナム 、サパ の市場にて。
総人口

400 - 500 万
居住地域
中華人民共和国の旗 中国 300 万
ベトナムの旗 ベトナム 790,000(1999年)
ラオスの旗 ラオス 450,000(2005年)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ 170,000(2000年)
タイ王国の旗 タイ 150,000(2002年)
フランスの旗 フランス 15,000
フランス領ギアナの旗 フランス領ギアナ 1,500
言語
ミャオ語
宗教
シャーマニズム 、仏教 、キリスト教 他

ミャオ族(ミャオぞく、苗族(びょうぞく))は中国 などに住む少数民族 である。モン族(ベトナム語 : H'Mông)ともいう。中国では貴州省 に最も多く、他に湖南省 、雲南省 、四川省 、広西チワン族自治区 、湖北省 、海南省 にも住み、タイ 、ミャンマー 、ラオス 、ベトナム などにも住む。歴史上移住を繰り返した民族である。


・・・・・
歴史 [編集 ]
伝説 [編集 ]

中国の伝説では紀元前26世紀 頃、漢民族 の原型である華夏民族の君主・黄帝 が蚩尤 の民族の討伐作戦を行い、涿鹿(たくろく、河北省 と遼寧省 の省境付近)で破ったという。戦いは黄河の台地で行われた。華夏は地理の悪条件にもかかわらずコンパスを用い正確に蚩尤民族を破った。敗れた蚩尤民族はミャオ族とリー族 に分裂した。ミャオ族はこの後、南東方向に移動した。ミャオ族は漢民族 からは「蛮」と見なされ差別されたが、一部は周 王朝時代に華夏民族と同化し、一部は春秋の強国である楚 や呉 の建国に関わった可能性がある。中国の学会では楚は異民族の国とされているが、現代ミャオ族と、先史時代の伝説中の三苗や、楚や呉を構成した民族との関連は今のところ定説はない。現代のミャオ族と繋がるのは、漢代の長沙・武陵蛮以降と見られている。
揚子江定住 [編集 ]

漢人がこの流浪の民を苗(ミャオ)と呼び始めたのは先秦 時代である。そのころ苗(ミャオ)族は、苗民(ミャオミン)、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、揚子江 流域に住んでいたが、漢人に攻撃され南下した。六朝 時代、揚子江南部を支配する南朝は北方民族の侵入に苦しめられており、ミャオ族を歓迎しなかったが、五胡 による揚子江北部の破壊により、ミャオ族が大量に南朝に流入し一部は漢人と同化した。
西南中国へ移住 [編集 ]

唐 王朝時代初頭、六朝時代に同化しなかったミャオ族は貴州・雲南など西南中国へ移動した。その後ミャオ族が雲南に南詔 を建国したとする説もある。いずれにせよ、ミャオ族も他の少数民族同様に南詔で暮らしていたものだろう。[1]

ミャオ族が最も多く住む貴州・雲南一帯は13世紀 の元 王朝によって中国の版図に入った。

一方、中国南方各地で武装蜂起が起こっていた元 末の1357年 、楊完者 (ヤン・オルジョイ)率いるミャオ族の軍団が元朝の公認を受けて、徽州 にいる朱元璋 の軍を攻撃するも撃退された。その後も各地で暴れまわり、楊完者は付近の張士誠 に滅ぼされた。残ったミャオ族は朱元璋に降り、家臣ケ愈 の軍などに入れられたが、その後も反逆が相次いだ。

明 代、貴州・雲南一帯に移住漢族が増えると土着ミャオ族との摩擦がおこり、大小100回を越すミャオ族反乱が起こった。なかでも、1448年 に発生した反乱は大規模で、明は20万の大軍を動員して1451年 にようやく鎮圧したともいう。この他、1457年 - 1459年 、1538年 - 1551年 にも大きな反乱が発生した。明の少数民族政策は少数民族首長の世襲支配権を認める土司 政策というものだったが、清 代にはミャオ族地区への漢族移住がさらに増え、中央が地方官を任命する直接支配すなわち改土帰流 政策(土司=少数民族首長支配を改め、流官=中央任命の地方官支配に帰すこと)が進められた。同化政策に抵抗する苗族は三次(1735年 - 1738年 、1795年 - 1806年 、1854年 - 1873年 )にわたる反乱を起こした。特に張秀眉 が指導した最後の反乱は大規模で、ミャオ族人口の三分の一だけが生き残ったともいう。
中国国内のミャオ族 [編集 ]

中国国内のミャオ族(苗族)は漢・蔵(チベット)語族、苗・瑶(ヤオ)語派に属し、三つの方言集団に分かれ、各々の「自称」が異なる。湖南省西部のコーション(Qo xiong)、貴州省東南部のムー(Hmub)、貴州省西部と雲南省のモン(Hmong)である。従来は女性の服飾の色や文様に基づいて、黒苗・白苗・青苗・紅苗・花苗などと区別されることが多く、清代には『苗蛮図冊』などの図録が作成されて、当時の漢族の苗族観を知ることが出来る。地域で言えば、湖南西部(湘西)は紅苗、貴州東南部(黔東南)は黒苗、貴州西部(黔西)から雲南(文山、屏辺)では花苗・白苗・青苗などと呼ばれる。黒苗もスカートの長短から長裙苗と短裙苗に分かれる。後者の自称はガノォウ(Ghab nao)である。漢語表記の「苗族」は、各集団の自称に近い「総称」であり、民族識別によって多様な人々が「苗族」の名称でまとめられた。[2] 民族識別は1953年に始まり、54年に38の少数民族を確定し、65年に15、1982年に2つの少数民族が加わり、現在の中国は55の少数民族と圧倒的多数の漢族からなる総計56の多民族国家であるとされている。民族識別は、スターリンが提唱した言語、地域、経済生活、文化に現われる心理素質の4つの共通性が基準とされたが、問題点も多い。中国における「民族」概念は政治性を帯びており「創られた民族」の性格が強い。苗族は山地で常畑や焼畑を営む人々と、盆地や平野で水稲耕作を営む人々に分かれ、分布は広域にわたり、他民族と高度を住み分けるか交錯雑居する場合もある。焼畑を営む人々は移動がさかんで山伝いに移住した結果、現在のラオス、ベトナム、タイにも同系統の言語や類似する文化を持つ人々が生活することになった。

中国国内の苗族について考える場合、中国の古代〜近代の歴史文献上で「苗」と記述されている人々と、1949年中華人民共和国成立以降の民族識別で「苗族」と認定された人々とを区別して論じる必要がある。苗族の淵源を、漢代の『書経』「舜典」記載の「三苗」や、『後漢書』西南夷伝の長沙「武陵蛮」に遡る説もあるが、現在の苗族との連続性は明らかではない。古代の「三苗」以降、中国の史書は長い間南方民族を「蛮」と表記し、現在に繋がるとされる文献上の「苗」の初出は、宋代の紹煕5年(1194)、朱子が潭州(現在の長沙)に役人として赴任した際の、「苗」を「五渓蛮」の一つの「最軽捷者」とする記録(『朱子公集』巻71)である。ただし、「三苗」の国は揚子江中流域や、洞庭湖から鄱陽湖にかける地域(現在の湖南・湖北・江西)にあったとされ、現在でも貴州省のミャオ族には、先祖は江西にいた、もしくは東方の大きな川の畔や水辺にいたという口頭伝承が残っている。恐らく、宋代以降に漢族の南下に伴い、揚子江流域から山岳内陸部に移住してきたと考えられるが、史料上で歴史的変遷を確定するのは難しい。最近では漢族の先祖とされる黄帝と争い敗北した蚩尤を非漢族の代表と見なし、蚩尤や一緒に闘った九黎の子孫が「三苗」であるとして、ミャオ族の先祖を蚩尤に遡る説も登場したが、これは1990年代半ばに入って中華民族の多元一体を強調する中央の学説に対抗して現れたミャオ族側の知識人による新たな言説である。文字が無く口頭伝承で歴史を伝えてきた苗族には古代と現代を結ぶ客観的史料は存在しない。しかし、民族意識の高揚に伴い、蚩尤始祖説は定説の如く語られるようになってきている。


・・・・・


宗教 [編集 ]

ミャオ族の多くは独自の精霊信仰 を維持し、祖霊や祖先を信仰しているが、漢族文化に影響を受けた人々もおり、一部の人々はキリスト教 、仏教 に改宗している。地域により精霊信仰の信仰概念、用語が異なる。
タイのミャオ族の精霊信仰 [編集 ]

以下では特にタイのミャオ族の精霊信仰について述べる。タイのミャオ族は中国文化に影響を受けた精霊崇拝を行っている。[15] さらにシャーマンによる儀礼を持つ。タイのミャオ族は大きく白ミャオ族と青ミャオ族に分けられるが信仰は似通っている。

世界観は陰界(yeeb ceeb)と陽界(yaj ceeb)によって構成されており、さらに天界(ntuj)をつけ加える場合もある。 陰界は精霊と死んだものが行くあの世のことである。ミャオの信仰において、あの世は山の中もしくは地下にあると考えられている。陽界は精霊と人間の住むこの世と考えられている。

精霊は基本的にダー(Dab)と呼ばれるが、さまざまな種類と呼び名がある。

* 陰界の精霊

陰界にはツォー・ニュン(Ntxwj Nyug)と呼ばれるあの世を統括する精霊がおり、死者の魂を審判し、転生の先を決めるとされている。さらにニュー・ヴァー・トゥアム・テーム(Nyuj Vaj Tuam Teem)がその仕事を補佐しており、魂の年齢を管理している。シャーマンの守護精霊(Siv Yis)もここに住むといわれる。

* 陽界の精霊

基本的には善意のある守護霊(Dab quas)と森などに住む悪意のある精霊(Dab qus)に分かれる。守護霊は家の柱、竈などさまざまな場所を守護していると考えられている。また、それぞれの男系の氏族長が祖先霊(Dab xwm kab)の祭壇を持っている。祖先霊の祭壇の隣には薬の精霊(Dab tshuaj)を作ることもある。さらに女性の寝室には結婚生活を守護する精霊(Dab roog)が祀られている。また、外界と家内をつなぐ家の入り口の敷居には敷居の精霊(Dab txhiaj meej)がおり、悪い精霊が家内に入ってくることを防いでいる。森の中には悪い精霊(Dab qus)がすんでいるとされる。特に、ポン・ツォーン(Pog Ntxoog)呼ばれる老女の精霊は恐れられている。
また、病気や驚いた際に人体より抜け出てしまうプリン(plig)と呼ばれる魂の概念があり、タイのピー信仰のクワン に近い。治療の際にはシャーマンによるフー・プリン(Hu plig)と呼ばれる招魂が行われる。

* 天界の精霊

天界には、人間を助けるヨーム・スア(Yawm Saub)という精霊がいるとされている。この精霊はミャオの洪水神話や、初めての結婚などの神話に登場する。
また雨をつかさどる龍(Zaj Laug)や虹(Zaj sawv)もいるとされるが、在所は海の下もしくは湖の下の宮殿であるとされている。その他にも太陽の精霊(Nkauj Hnub)、月の精霊(Nrang Hli)、雷神(Xob)などが知られている。

神話 [編集 ]

* 洪水神話:太古の洪水の際にミャオ族の一組の男女が天の精霊(ヨーム・スア Yawm Saub(タイ・ミャオ族))の指示に従い、瓢箪(船、太鼓の場合もある)にのって逃れる神話がある。
* 射日神話:ミャオ族の英雄(カー・ユウアム Kaj Yuam(タイ・ミャオ族))が太古に九つあった太陽を八つ射落とした神話がある。中国の射日神話と類似している。

・・・・・

外部リンク [編集 ]

* レコードチャイナ:ミャオ族(苗族) (日本語)
* チャイニーズ・オデッセイ (英語)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%82%AA%E6%97%8F



2010年11月22日(Mon)▲ページの先頭へ
「暴力装置」について:精神的権力論と唯物論的権力論
テーマ:近代合理主義/唯物論/ポスト・モダン批判

私は「暴力装置」という概念は、唯物論的であるし、機械論的であると述べたし、この考えを変えるつもりはない。
 「自衛隊」、国防軍、防衛軍、軍部を「暴力装置」と呼ぶのは実に一面的、皮相に過ぎない。
 そもそも、「装置」とは、物質的器具のことであり、「自衛隊」、他は生きた人間の組織や営為を意味するのであるから、物質的器具ではありえないのであるから、暴力「装置」は誤りである。
 また、「暴力」であるが、これは、明らかに、悪としての物理的強制力を意味するのであり、「自衛隊」等をそう呼ぶのは、誤解以外の何ものでもない。
 確かに、権力はこれまで暴力を振るってきた。戦争や死刑等がそうである。
 しかしながら、外国の国家暴力に対して、自国が武力的に対抗しないのは、当然、自滅的である。この武力を暴力と呼ぶのは、明らかに誤謬である。それは、自衛・防衛のための物理的力能である。それは、自衛・防衛・国防という精神性・理念をもつものであり、それを単に道徳的に悪を意味合いをもつ暴力と形容することは間違いである。
 確かに、物理的、物質的に見れば、自衛・防衛・国防は「暴力」である。しかし、それは、物理的・物質的還元であり、精神現象を捨象しているのである。正に、唯物論的視点以外の何ものでもないのである。
 マックス・ウェーバーが、トロツキーの「暴力装置」を採用したということは、正に、それは、唯物論的概念ということであり、ウェーバーの社会学の精神性とは、異質なものであると言える。言い換えると、ウェーバーが、「暴力装置」概念を採用したとき、彼は唯物論的であったと言えるのである。
 とまれ、「暴力装置」概念がウェーバーに拠るのではなく、永久革命論者のトロツキーのものであるというのは、この概念の唯物論性の決定的証拠である。


参照:

『◆ 2010/11/21(日) 『イデアル・ティップス』 って知ってる?

・・・・・

じつは、「暴力」という言語に関しては、マックス・ヴェーバー自身が、左翼が言い出した政治用語だと書いているのだ。次がヴェーバーの文章だ。

 「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」 と トロツキーは こう喝破したが、この言語は実際正しい。 (『職業としての政治』)

 「極左暴力主義者」のことを「トロツキスト」と言うときの あのトロツキー である。
ここで、ヴェーバーは、別に過激なトロツキストを擁護し、弁護しているのではない。

 ヴェーバーは、次のように言いたいのである。ヴェーバーの意図するところは、
「 “暴力・violence” という激しい言葉でしか表現できない荒々しい物理的強制力を、国家という共同体は独占している!
国家が独占している究極の強制力こそ “暴力” なのだ!」 と。
 ここでヴェーバーの意図するところは、
「国家が独占する究極の強制力は、“暴力・violence” という言葉でしか表現できない。
“force” や ”power”、また “武力” や ”威力” では、意味が薄くなるので駄目!」 ということである。』


たたかう老人! 飯山一郎の ハッタリなしの 口演会場 _


2010年11月21日(Sun)▲ページの先頭へ
母権的霊的文化と父権的物質文化
先に

「追記:古代ギリシアの場合、プラトン哲学の超越空間が開けたのである。インドの場合は、土着的民族にアーリア民族が侵入して、ブッダの超越空間が開けたと思う。
 ここには、母権と父権の差異共立・共振に拠る第三の主権が生まれたのではないか。
 母権だけだと、感覚界志向となり、父権だけだと抽象・観念界志向となるだろう。」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10710622845.html

と書いたが、下線部は勘違いである。母権的文化は感覚的、イメージ的でありながらも、霊性をもつ文化である。
 そして、父権的文化は、同一性志向が強く、世俗的物質的文化である。
 後で再考したい。

追記:先に、古代ギリシアの父権的民族をアーリア民族と呼んだが、今はその呼称は、ヨーロッパ人には適用されないということなので、訂正したい。
 インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン系をアーリア人と呼ぶということである。『アーリア人』青木健著 講談社選書メチエ

追記2:問題は、一神教の父権文化である。それは、確かに、物質文化に帰結したが、超越性は保持しているのである。だから、一神教の父権文化の超越性とは何か、が問題である。
 しかし、これは、実は、母権的多神教の超越性が下敷きにあると考えられる。つまり、一神教のベースには、母権的霊的文化があると考えられる。

追記3:ヤハウェからわかるように、唯一神は嫉む神である。それは、母権的神を嫉むのだろう。


2010年11月20日(Sat)▲ページの先頭へ
「自我」と個人と個:自己問題:母権制と父権制:差異、精神、東洋回帰:脱西洋文明
テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明

以前、本題について論じたが、まだ不明確に感じられるので、再考したい。とは言え、余裕がないので、一言、二言(結局、長文になったが)述べるに留める。
 PS理論の凸i*凹i⇒+1(or 凸)の自己認識方程式であるが、凸iが自我と言えよう。凹iは非自我、無私性、共感性、他である。
 父権とは凸iに傾斜していると考えられる。そのために、凸i⇒+1の傾向をもつのである。つまり、物質+1に同化する傾向があるのである。
 少し説明が必要である。同一性とはどうも、凸iの傾斜に拠るのではないだろうか。つまり、差異共振において、Media Point(MP1)において、凸iの傾斜、自我の傾斜が、他者凹iを抑圧して、⇒+1へと帰結するのではないか。(だから、差異共振による同一性形成とは、一般的ではなく、凸i傾斜に拠るもののように考えれる。)
 凸i=自我はそれにおいては絶対的差異である。しかるに、原言語性をもつので、同一性へと傾斜すると考えられる。
 だから、自我は同一性へと帰結するのである。これが、自我同一性(凸i⇒+1)であり、所謂、利己主義とはここから生まれると言えよう。
 近代合理主義の場合、自我同一性が物質+1と結びついているのであり、唯物論的自我同一性=近代的自我の形成と一致する。
 
 では、それに対して、個とは何か。これは、個人とは異なる。個人主義の個人は、私見では、近代的自我と個との未分化の様態である。そして、今日、個人と個の区別が形成されていないと考えている。
 では、個とは何か。これは、実は、自我凸iと他者凹iとの即非関係、共立・共振関係にあると考えられる。
 また、個は即非性や共立性から⇒-1への共融へと向かうのであり、人間認識図では、第三象限領域を志向する、つまり、超越界を志向すると考えられる。言い換えると、個とは、超越的「個人」なのである。
 ここで留意すべき点は、自我凸iが存するが、それは、同一性や物質と結合するのではなく、あくまで、他者である無我・無私・共感性と関係するのであり、絶対的差異凸iと絶対的差異凹iとの関係であり、同一性や物質はまったくここには関与していないと見るべきである。(-1は暗黒物質、反物質の可能性があるが、超物質、トランス・マターとも言えるかもしれない。)
 ただし、個はMedia Pointを介して、当然、物質界に関係するのである。物質界に関係する個とはどういう様態Modeなのだろうか。
 絶対的差異である個、絶対的超越的である個が物質界と関係するとき、それは、一般的には自我凸iと自我同一性凸⇒+1を介して、関与するだろう。
 つまり、絶対的差異的個とは不連続的に、自我、自我同一性を擬態として設定して、物質界と対処するということではないだろうか。つまり、個において、自我同一性が仮構されるということである。
 しかし、それは、唯物論的自我同一性ではないだろう。何故なら、元基には、超越性が存するからである。ただ、物質+1に対処するために、自我同一性⇒+1を利用すると考えられるのであり、自我同一性は唯物論的ではない。
 しかし、厳密に考えると、果たして、自我同一性によって、物質界に対処するのだろうか。
 それは間違いだろう。そうではなく、自我差異凸iによって、物質界に対処すると考えられる。確かに、凸iである自我は同一性への傾斜をもつが、それ自体は差異、絶対的差異の知性である。
 故に、同一性=言語を介しながらも、自我差異の視点によって、物質界に対処すると考えられる。
 だから、個とは、徹底して、差異、絶対的差異によって、物質界に対処すると考えられる。(追記:個を個者、個子、個単子、等と言えよう。)
 
 次に、この問題をジェンダー論的に、文化史論的に、人類学的に考えると、母権文化とは、凸iと凹iとの均衡の取られていた、差異の文化である。
 それに対して、父権文化とは、凸iに傾斜して、同一性志向、物質志向の文化であると考えられる。
 何度も既述したが、母権文化だけでは、物質主義文化、近代科学・技術は生まれなかったと言えよう。つまり、父権文化の必然性があるのである。確かに、母権制が続くならば、平和共存の社会・世界が継続した可能性がある。しかしながら、それは、停滞の社会でもある。
 父権制は母権制の停滞する差異共存の社会を破壊して、同一性・物質文化の基盤を形成して、いわゆる、文明社会を形成することになったと考えられる。
 問題は西洋文明なのである。これは、強力な父権制文化をもつが、同時に、基礎に母権制をもつのである。
 この母権制が古代ギリシア文化の栄光を産み出し、また、イタリア・ルネサンスの大文化を産み出したと考えられる。しかし、正確に言えば、父権的圧力の下に、母権的エネルギーが開花したと見るべきである。私見では、民主主義もベースは母権制にある。
 とは言え、西洋文明は、父権制優位、母権制劣位であることは言うまでもないし、この父権制優位ないし支配が近代資本主義の怪物を産み出したと考えられる。言い換えると、父権的同一性主義が近代資本主義を形成したのであり、その同一性的メカニズムは、差異を抹殺していくのである。
 ここに、脱西洋文明の力学の必然性があるのである。それは、脱同一性であり、差異への回帰である。新母権制である。新東洋回帰である。それは、霊主体従である。精神が主であり、物質が従である。そして、PS理論は正にそれに相応しい理論である。
 最後に、キリスト教について触れておこう。実は、数十年前から、キリスト教は矛盾した宗教であると直観していた。
 端的に、「父」(ヤハウェ)と「子」(イエス・キリスト)が矛盾しているのである。即ち、前者が父権制であり、後者が母権制である。しかるに、前者が後者を支配しているのである。ここに、キリスト教の精神的歪みがある。
 脱西洋文明志向(トランス・モダン・シフト)において、キリスト教が瓦解することになると考えられる。何故なら、トランス・オクシデントの志向とは新母権制的であり、いわば、「子」(イエス・キリスト)が「父」(ヤハウェ)を凌駕すると考えられるからである。そして、それこそが、「聖霊」の時代(フィオーレのヨアキム)である。
 因みに、ルドルフ・シュタイナーは、キリストとは、アフラ・マズダーであると説いている。
 それは、D. H. ロレンスで言えば、dark God, dark sunである。それは、-1の超越的太陽であると考えられる。プラトンでは、洞窟外の太陽である。
 仏教で言えば、大日如来であり、神道では天照大神である。

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Amaterasu_cave.JPG
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


2010年11月16日(Tue)▲ページの先頭へ
農産物自由貿易問題:巨大資本自由主義と中小資本自由主義を区別せよ
テーマ:日本民族第一次産業防衛:地域経済共同体

自由貿易というと聞こえはいいが、実際は、グローバル超巨大資本が支配的であるのは言うまでもない。
 つまり、自由貿易はグローバル超巨大資本主義のためにあるのであり、各国民族的農業は壊滅的な打撃を受ける。
 日本において、JAが反発しているが、それは説得力がないし、そもそも言う資格がない。それは、これまでの社会主義農業政策の恩恵を被ってきたからである。JAが日本の農業の阻害・悪化の要因である。
 だから、問題は複雑である。戦後日本は工業化のために、農業の主体的発展を犠牲にして、社会主義化政策を行ってきたのである。つまり、農業市場主義を損なってきたのである。
 だからとは言え、いきなり、自由貿易を肯定するのは、無理である。その備えがないからである。超巨大農業産業に破壊されるだろう。
 ここで、欧米はそれなりに農業国でもあることを考えるべきである。つまり、欧米諸国は民族的農業を保持しているのである。だから、日本においても、当然、民族的農業の創造的保持を行うべきである。
 思うに、これまでの経済の理念ではこれからの時代は立ちゆかない。トランス・モダン民族主義とトランス・モダン共同体主義とトランス・モダン民族共立主義、等をもつ必要がある。
 農業に関して言えば、民族的農業の復興が必要である。そのためには、それを志向する者への支援が必要である。この点では、民族的自由主義農業支援である。
 そして、それは、地域・地方の経済共同体の創設を考慮すべきである。民族的自由主義農業創造が地域・地方経済共同体の創設と結びつくべきである。
 このためには、中小資本への支援も必要である。このためには、中小資本への融資の積極化の法律を形成する必要がある。
 また、以前述べたが、多元的通貨制の必要である。有利子通貨、無利子通貨、マイナス利子通貨があればいいのではないだろうか。もちろん、法定通貨としてである。
 民族自由主義農業的地域経済共同体のためには、無利子通貨やマイナス利子通貨がふさわしいように思う。
 以上、思いつきである。

追記:共同体の創設には、経済以外に、精神次元の共同体という意味がなくてはならない。民族的精神教育の重要性がここにある。

*
【第153回】 仮にTPPが流れても日本の農業は生き残れない?
「自由貿易のバス」に乗り遅れた政治の機能不全ぶり 

[2010年11月16日]
環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への参加につい賛否が分かれるなか、民主党政権は農業分野を含めた原則関税撤廃を目指す協議開始を決めた。しかし真の問題は、TPPというよりも日本の農業政策そのもの機能不全ぶりだ。


検討問題:超越的次元と物質的次元:精神軸と気軸と物質
先に以下のように書いたが、少し補足しよう。
 物質が有機体なら、有機体の上位概念=理念(イデア)がMedia Pointに存すると考えられる。タンパク質ならタンパク質の理念が存することになる。
 しかし、この理念が微妙である。何故なら、一方では、差異共立の高次超越領域をもち、他方では、差異共振=同一性⇒+1の物質志向性をもつからである。
 確定しているのは後者であり、前者は揺れ動いているのであろう。
 他者との反応を起こすのは、前者においてであろう。生命体においては、この理念が気であり、知的生命体においては、さらに上位概念の精神性が作用していると考えられる。
 そうすると、やはり、以前示唆したが、三次元を考えたくなる。つまり、精神次元と気次元と物質次元である。即ち、精神次元が気次元に作用し、それが、さらに物質次元に作用するということであり、物質次元には、精神次元と気次元の二つの超越的次元が作用していることになる。
 とまれ、有機体の問題にもどると、差異共立領域ないし差異共立次元に、有機体の主導エネルギー情報が存すると思われる。ここは、また、変容の領域であり、他者との共立を形成すると考えられる。
 例えば、混血とは、この領域における差異共立の変容であると思われる。差異共立情報A=「遺伝子」A=「血」Aと差異共立情報B=「遺伝子」B=「血」 BがMedia Pointの虚軸において、交叉して、新しい差異共立情報C=「遺伝子」C=「血」Cが形成されるということではないだろうか。もっとも、混血でなくても、このことは一般に考えられる。(「遺伝子」であるが、DNAとは物質化された上位概念であろう。だから、「遺伝子」は、本来、精神的情報であると考えられる。)
 とまれ、有機体においては、MP1の理念がMP2において同一性変換されて、物質化過程へと転化すると考えられる。
 ここで、動物と人間の差異について考えると、人間においては、明らかに、MP1の理念に精神・知性・感情が入ることである。
 ここで、仮説であるが、精神軸を考えたい。そこに、自己と他者の共立を考えるのである。
 また、それとは別に、気軸を考えたい。これが、これまでの凸i*凹iである。
 だから、作業仮説的に、精神軸は、Spirit凸i*Spirit凹i、略して、S凸i*S凹iとなり、気軸は、Qi凸i*Qi凹i、略して、Q凸i*Q凹iとなる。
 整理すると、(S凸i*S凹i)#(Q凸i*Q凹i)⇒+1である。ただし、#とは、直交的並立を意味するとする。
 直観では、SとQはまったく異質であり、Qから物質+1が生まれるようには、SからQは生まれないのではないだろうか。ただし、両者はなんらかの関係がある。
 思うに、SはQに働きかけるが、QはSにはたらきかけないのではないだろうか。だから、一方通行、非可逆的である。
 ここでスピノザ哲学を考えると、スピノザはSとQをまったく混同していると思う。精神が身体に作用するのは、当然であるが、身体や気が精神にはたらきかけるかけることはないだろうからである。スピノザの心身平行論は、精神の優位、物質の劣位を把捉していないと言えよう。
 では、植物と有機体についてどう見るかである。植物は気軸に上位概念=理念があると考えられる。生命体とである植物と生命体を構成する有機体は明らかに異なる。
 思うに、気軸の気は生命体の上位概念=理念であり、Media Pointの実軸MP2に発生する同一性が、なんらかの有機体概念ではないだろうか。言い換えると、物質体の概念が同一性であるということではないだろうか。
 とまれ、簡単に整理すると、精神と気と同一性と物質の四つ構成要素が存することになる。
 以上、思考実験である。後でさらに考察を続けたい。
 
**************************

物質と「気」(エーテル体):+1と⇒:物質体を構成するのは超越的エネルギー体であろう
テーマ:精神的フィルターとVector Mode

物質とはPS理論では、+1である。これは、絶対的に明確である。そして、近代科学、唯物論的科学をこれを土台にして、形成されてきた。今日でも、唯物論が土台である。
 しかし、私は、物質が物質体を構築しているのではないと直観する。つまり、物質を構成する上位の指導・主導的エネルギー体があると直観されるのである。
 PS理論では、それは、凸i*凹iと考えるのである。ここに上位の主導的情報エネルギーがあるのであり、これが、物質+1を導くと考えられるのである。
 だから、化学物質の場合、上位の主導的情報エネルギーは凸i*凹iであると考えられるのである。そして、それが、化学物質を包摂しているのではないだろうか。
 だから、例えば、ビタミンというとき、物質のビタミンと食物におけるビタミンは異なると考えられる。即ち、ビタミンCとレモンの中のビタミンCは異なると考えられる。つまり、後者には、凸i*凹iが存すると考えられるのである。高次ビタミンがあると考えられるのである。
 思うに、物質の上位概念は「気」であろう。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10708262627.html


2010年11月13日(Sat)▲ページの先頭へ
永遠性とは何か:その他、諸々のこと:もろもろ草
私は高校生のとき、教室の机で、後何年かしたら、もうここにはいないというようなことをよく感じていた。それは不思議であった。
 その時は居ないのに、今居るという感覚が不思議であった。これは、一種の即非感覚と言えよう。
 また、人間の感情は、ずっとあるのではないかとも思った。つまり、過去において、誰かが感じた感情はいわば永遠ではないのかと。
 これは、PS理論で言えば、虚軸のもつ永遠性、あるいは、Media Pointのもつ永遠性ではないだろうか。人間認識図で言えば、四つの象限の永遠性であろう。しかし、正確には、第三と第四象限であろう。
 とまれ、永遠という感覚がある。唯物論では、到底認められない感覚である。
 そう、単純に、永遠の感覚を肯定すればいいのではないだろうか。物質主義の視点からは、それは妄念・妄想と見なされるだろう。
 今は、「わたし」は、現在の物質界に制限されているが、「わたし」が物質的身体から解放されれば、新しい意識をもつようになるのではないだろうか。
 思うに、霊魂とはMedia Pointであろう。それは、霊界-1に通じていよう。
 解脱とは、物質性からの脱却である。それは、MP1へと到達することであり、さらに、-1へと参入することではないだろうか。
 根源的エネルギー、元エネルギーが、物質的身体に陥入し過ぎると、物質的欲望の虜になると言えよう。貨幣欲もそれと同等であろう。
 根源的エネルギー、元エネルギーを精神性へと反転することが必要であろう。
 ここで、精神的修行ないし芸術の問題がある。
 今、芸術の問題に簡単に触れたい。芸術は精神的修行と違って、感覚性を保持する。問題は、感覚性、あるいは、感性とは物質的なのか、ということである。
 一見、感覚とは物質的と取られるだろう。果たして、そうなのか。
 例えば、秋の夕焼けは空気が澄み切っているので、鮮明で美しい。その美的感覚とは物質的なのか。
 感覚と物質の関係について解明する必要がある。
 Media Pointにおいて、差異共振は同一性を形成し、それが、物質へと展開する。同一性は原物質である。しかし、感覚は同一性なのか。
 例えば、眼前に、樹林があるとしよう。樹林という認識は、同一性であり、眼前の樹林は差異である。
 そして、感覚、視覚は、樹林の形象に惹きつけられる。視覚は樹林と一如になる。
 このとき、視覚経験は、樹林を同一性とは認識せずに、ただ、緑の形象として感覚するだろう。つまり、ここには、差異はあるが、同一性はない。ただし、言語表現するときは、樹林や緑や梢、等々の同一性を使用する。
 ということは、感覚、感性とは、同一性ではない。それは、なおさら、物質ではない。感覚、感性とは差異である。つまり、精神性に属すると言えるだろう。
 感覚、感性が物質と関係するのは、同一性認識と結びついたときである。例えば、眼前のグラスはグラスという物質的同一性をもち、感覚はそれに限定される。
 つまり、感覚、感性を物質性と結びつけるのは、同一性である。しかし、感覚、感性は同一性と不連続である。
 思うに、この認識がないために、これまでの哲学、科学の認識は混乱してきたのではないのか。つまり、感覚、感性は、同一性⇒物質+1と連続化されてきたのであり、いわば、無理やり、物質と接合されてきたのではないか。
 そうすると、実に新しい地平・視野が広がるのではないのか。つまり、精神的感覚、精神的感性が本来的であり、ここにこそ、芸術の本質があると考えられるのである。
 ここで、D. H. ロレンスの文学を考えると、彼の表現する性とは、実は、精神的感覚、精神的感性ではないのか。言い換えると、精神的性である。これは、同一性・物質的性とはまったく異質である。
 これは、差異共振ではなく、差異共立、さらには、差異共融の表現であると思われるのである。
 近代は同一性・物質的性に取り憑かれていた。しかし、トランス・モダンは、精神的性へと転化すると考えられる。
 思うに、最近の女性のポップスにはその傾向が感じられる。例えば、レディー・ガガの表現は精神的性の表現と考えられる。
 後で、感覚と精神について、緻密に解明したい。


2010年10月31日(Sun)▲ページの先頭へ
否定としての差異共振MP2⇒+1と肯定としての差異共融MP1⇒-1
テーマ:Media Point:MP1⇒MP2

ネグリとハートの『帝国』の「植民地的主権の弁証法」の中の「植民地主義の弁証法」は鋭敏な洞察である。
 ここには、差異共振としての植民地主義が明確に解明されていると考えられる。今は詳述できないので、割愛するが、そこで、直観したことは、先に簡単に触れたが、差異共振とは、差異の否定であるということである。つまり、

凸i*凹i⇒+1

における*の積は否定の意味をもっているということである。これをネグリとハートの図式で言えば、

白人*植民地化された他者⇒白人の同一性

ということになろう。例えば、黒人は凹iであり、白人凸iに否定される他者である。この力学によって、白人凸iの同一性+1が形成されるということになるだろう。
 結局、差異共振は差異否定の力学であるということである。
 それに対して、差異肯定の力学が差異共融であると思ったのである。それは、凹iを肯定するものである。
 肯定は凹凹iではないか。即ち、

凸i*凹凹i⇒-1

となると考えられるのである。
 つまり、凹i自体は凸iにとっては否定的なものなのである。だから、凹iを肯定するとは、否定の否定で、凹凹iということになるだろう。
 それが正しいならば、これまで明確にならなった差異共立ないし差異共融の問題が解決されたことになるだろう。
 自己認識方程式において、初め、他者否定を凹凹iとして捉えて、その否定は⇒-1となり、肯定である凹iは⇒+1になるとしたのであるが、その後の理論的進展で、いわば、「肯定」としての積が⇒+1になることが明確になったのであった。
 そう、*の積がどうしても、差異の肯定に見えたのであるが、実は、差異共振であり、それは、同一性への変換なのである。
 また、さらなる進展によって、-1が超越界であることが判明してたのであり、-1への数式をどう理解するのかがずっと不明確であったのである。
 私は商を考えて、-1への帰結を考えたが、それは、直観的には不明瞭であり、判然としないものであった。
 しかし、今、肯定を凹凹iと捉えることで、明確に-1への数式が明らかになったと考えるのである。
 差異肯定(他者肯定)とは、差異共立を形成するが、さらには、差異共融となる考えられるのである。

凸i*凹i⇒+1   ・・・ A

凸i*凹凹i⇒-1 ・・・ B

Aにおいて、左辺は差異共立や差異共振を意味する。
Bにおいて、左辺は差異共融を意味すると思う。差異の相互浸透とは、差異共融で説明できると思われる。
 私が経験した一如感覚とは、差異共融であろう。そして、「神」の存在を感じたというのは、⇒-1であろう。
 ここで、スピノザ哲学について触れると、スピノザは差異共融に近い経験をもっていたと思われる。神=自然というのは、-1を指していると思われる。そして、属性である思惟・精神は凸iであり、延長・身体は凹iであろう。そして、後者を肯定して、凹凹iになったと思う。これが有名な心身平行論を意味しよう。
 しかしながら、問題は延長・身体にあると考えられる。即ち、延長とは端的に言えば、外界であり、物質である。つまり、スピノザは物質的身体を意味していると考えられるのである。
 そうすると、実は、延長・身体は凹iではなくなるのである。それは、+1である。つまり、スピノザは凹iと+1を混淆ないし連続化していることになるのである。
 『エチカ』を読んで、身体性があいまいであると感じたのは、おそらく、この混淆・混同にあると思う。
 つまり、身体が感性ないし感情になっているのである。これは、実は精神である。つまり、スピノザの身体とは、物質と精神が未分化であると考えられるのである。
 ということで、精神的側面においては、差異共融が生起したであろうが、物質的側面では差異と同一性との混合が生起したと思われるのである。
 以前、私はスピノザ哲学は連続的なのか、不連続的なのか、あいまいであると述べたが、それはここに原因があるのではないだろうか。
 スピノザ哲学は確かに、他者的肯定の側面があり、画期的なものではあるが、実は、精神と物質との未分化性があり、その他者性も不十分であるということになろう。
 今はここで留めたい。


2010年10月29日(Fri)▲ページの先頭へ
左派唯物論者が用いる内在性という概念の問題:内在性と超越性
テーマ:ポスト近代合理主義/ポスト・モダン批判

左翼唯物論者/マルキスト、ネグリとハートの『帝国』で使用される、気になる概念は、ドゥルーズの内在性である。
 彼らは、ドルーズ主義者なので、それを正当のように使用しているが、PS理論から見ると、その概念はまったくの錯誤・誤謬である。
 マルチチュード(世界的プロレタリアートの混成体)の内在性を、「革命」の原動力と見ているようだが、それは、結局は反動となると考えられる。
 超越性(内的超越性:これは又、外的超越性でもある)をもたない限り、物質的内在性は、同一性へと帰結するのであり、それが反動である。
 結局、個・差異の共立・共振、また、差異共融の超越的視点をもたない限り、政治活動は反動化するのである。
 マルチチュードではなく、差異共立が政治を切り開くと言えよう。
 差異共立は国家にあっては、national individuality になるべきだと考えている。民族的個である。
 民族性が、個にとっての、超越性の具体的様相であると思われる。
 日本人ならば、神道や仏教が超越性の民族的具体性である。この民族性については、新たに検討したいが、一言いうと、個の超越性を形成するのは、個の超越的根である。その根は民族的固有性をもっていると考えられる。
 そして、個の根源はMP(Media Point)であるので、MPは民族固有の双極子的様相をもっていると思われる。
 つまり、民族的MPがあるのであり、個はそれを帯びているのである。即ち、超越性⇒民族的MP⇒個である。
 今はここで留める。

追記:内在性の概念はスピノザ哲学に基づく。スピノザ哲学については、以前、問題点を述べた。即ち、連続性の理論なのか、不連続性の理論なのか、あいまいであるという点である。強いて言えば、連続性の理論である。神⇒属性(精神・思惟と身体・延長の心身平行論)⇒様態という発想をもっているのであり、⇒が連続性になっていると考えられるのである。 
 ドゥルーズは、ここに内在性の概念を見たと言えよう。しかし、これは、同一性の理論である。神という同一性が、個物の同一性へと帰結すると考えられるからである。
 思うに、PS理論の視点から、スピノザ哲学を新たに批判することが可能である。余裕のあるとき論じたい。

マルチチュード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



マルチチュード(Multitude)とは、マキャベリ によって最初に使用され、その後スピノザ が用いた政治 概念である。最近では、アントニオ・ネグリ とマイケル・ハート の帝国 論を契機として再び注目を集めている。マルティテュード、ムルチチュードとも。ラテン語 では“多数”“民衆”などの意味を持つ概念である。 「多数性」「多性」「群衆性」などの訳語もあてられる。
ネグリ=ハートのマルチチュード論 [編集 ]

マルチチュードとは、政治哲学 者で元パドヴァ大学 政治社会科学研究所教授 であるアントニオ・ネグリとデューク大学 文学部准教授であるマイケル・ハートが、共著『帝国』および『マルチチュード』において地球 規模による民主主義 を実現する可能性として、国境 を越えるネットワーク 上の権力 として提唱している概念 のことである。

ネグリはマルチチュードを、近代 以降に登場した超大国 の覇権 によるグローバル な世界秩序である帝国主義 に対抗し、これからの世界を変革し得る存在としてそれぞれの国家 の国民 や企業 を含む超国家的なネットワーク上の権力として位置付けている。

ネグリはマルチチュードについて、いわゆる19世紀 以降の社会主義 に代表される革命 に見られた多様性 と差異 性を無視したこれまでのありかたとは異なり、統合 されたひとつの勢力 でありながら多様性を失わない、かつ同一性 と差異性の矛盾 を問わぬ存在としている。
参考文献 [編集 ]

* アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『マルチチュード(上・下)』日本放送出版協会[NHKブックス]、2005年。

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Multitude
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Multitude is a political term first used by Machiavelli and reiterated by Spinoza . Recently the term has returned to prominence because of its conceptualization as a new model of resistance against the global capitalist system as described by political theorists Michael Hardt and Antonio Negri in their international best-seller Empire (2000) and expanded upon in their recent Multitude: War and Democracy in the Age of Empire (2004). Other theorists which have recently used the term include political thinkers associated with Autonomist Marxism and its sequelae, including Sylvère Lotringer , Paolo Virno , and thinkers connected with the eponymous review Multitudes .

http://en.wikipedia.org/wiki/Multitude


Empire (book)
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For other uses, see Empire (disambiguation) .
Empire
Swedish edition (Imperiet) cover
Swedish edition (Imperiet) cover
Author Michael Hardt and Antonio Negri
Country United States
Language English
Subject(s) Globalization , geopolitics
Publisher Harvard University Press
Publication date 2000
Media type Print
ISBN ISBN 0-674-25121-0 (hardcover) ISBN 0-674-00671-2 (paperback)
OCLC Number 41967081
Dewey Decimal 325/.32/09045 21
LC Classification JC359 .H279 2000
Preceded by Labor of Dionysus: A Critique of the State-Form
Followed by Multitude: War and Democracy in the Age of Empire

Empire is a text written by Marxist philosophers Antonio Negri and Michael Hardt . The book, written in the mid 90s, was published in 2000 and quickly sold beyond its expectations as an academic work.[1] In general, the book theorizes an ongoing transition from a "modern" phenomenon of imperialism , centered around individual nation-states , to an emergent postmodern construct created amongst ruling powers which the authors call Empire (the capital letter is distinguishing), with different forms of warfare:

If, according to Hardt and Negri's Empire, the rise of Empire is the end of national conflict, the "enemy" now, whoever he is, can no longer be ideological or national. The enemy now must be understood as a kind of criminal, as someone who represents a threat not to a political system or a nation but to the law. This is the enemy as a terrorist.... Hardt and Negri get this absolutely right when they say that in the "new order that envelops the entire space of... civilization", where conflict between nations has been made irrelevant, the "enemy" is simultaneously "banalized" (reduced to an object of routine police repression) and absolutized (as the Enemy, an absolute threat to the ethical order"[2] ).[3]

They proceed to elaborate a variety of ideas surrounding constitutions, global war, and class. Hence, the Empire is constituted by a monarchy (the United States and the G8 , and international organizations such as NATO , the IMF or the WTO ), an oligarchy (the multinational corporations and other nation-states) and a democracy (the various NGOs and the United Nations ). Part of their analysis deals with "imagine[ing] "resistance to it", but "the point of Empire is that it, too, is "total" and that resistance to it can only take the form of negation - "the will to be against"[4] . The Empire is total, but economic inequality persists, and as all identities are wiped out and replaced with a universal one, the identity of the poor persists[5]

This description of pyramidal levels is a replica of Polybius ' description of Roman government, hence the denomination "Empire". Furthermore, the crisis is conceived as inherent to the Empire. Negri & Hardt are also heavily indebted to Michel Foucault 's analysis of biopolitics [6] and Gilles Deleuze 's philosophy. Before that book, Negri was best known for having written The Savage Anomaly (1981), a milestone book in Spinozism studies which he wrote in prison. Empire is thus, unsurprisingly, also influenced by Spinoza . The ideas first introduced in Empire (notably the concept of multitude , taken from Spinoza) were further developed in the 2004 book Multitude: War and Democracy in the Age of Empire and the 2009 book Commonwealth, which were also written by Negri and Hardt.

Empire has created important intellectual debates around its arguments. Many scholars have compared the evolution of the world order with Hardt and Negri's world image that they pictured in the "Empire".[7]

It was published by Harvard University Press in 2000 as a 478-page hardcover (ISBN 0-674-25121-0 ) and paperback (ISBN 0-674-00671-2 ).

http://en.wikipedia.org/wiki/Empire_%28book%29

Multitude: War and Democracy in the Age of Empire
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http://en.wikipedia.org/wiki/Multitude:_War_and_Democracy_in_the_Age_of_Empire

バールーフ・デ・スピノザ

バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632年 11月24日 - 1677年 2月21日 )はオランダ の哲学者 、神学者 。一般には、そのラテン語 名ベネディクトゥス・デ・スピノザ (Benedictus De Spinoza) で知られる。デカルト 、ライプニッツ と並ぶ合理主義哲学 者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論 と考えられてきた。また、ドイツ観念論 やフランス現代思想へ強大な影響を与えた。

彼の肖像は1970年代 に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。

・・・・・
存在論・認識論 [編集 ]

ここでは、形而上学的な第1部と第2部の概要を主に記述する。

デカルト は神を無限な実体[3] として世界の根底に設定し、そのもとに精神と身体(物体=延長)という二つの有限実体 を立てた。しかし、スピノザによれば、その本質に存在が属する実体は、ただ神のみである。スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む[4] 神は、自己の完全性の力によってのみ作用因である[5] ものである(自己原因)[6] 。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである[7] 。神とはすなわち自然である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神 における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。また、神の本性は絶対に無限であるため、無限に多くの属性を抱える。この場合、所産的自然としての諸々のもの(有限者、あるいは個物)は全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることのできないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになる[8] 。

スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」[9] と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は神の属性の変状である[10] 」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる[11] 人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており[12] 、この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。

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2010年10月28日(Thu)▲ページの先頭へ
《個》独立宣言:トランス・デモクラシーの新国民主義へ:大資本的民主主義から差異共立・共振主義へ
今は余裕がないので、詳述できないが、結局、民主主義、代表制民主主義、間接民主主義、代議制は、大資本、大企業、グローバリズムの利益が中心となる制度ではないかと考えられる。
 アメリカの独立宣言にある、God created us equal.[
神は我々を平等(対等)の存在として創造した]であるが、これは、当時、宗主国の英国と戦っていた植民地米国の人間が、独立を勝ち取るために、形成した大義である。
 聖書にこの言葉はないだろう。これは創作であろう。とまれ、宗主国と植民地の主従のヒエラルキーを打破するための、「大義」として形成されたと思う。
 しかしながら、私見では、「我々」は、この場合、個を指していると思う。植民地米国の人間の個である。この独立的尊厳を認めよということではないだろうか。
 だから、平等・対等とは、個の原理と見るべきではないか。個としての平等・対等というのは理解できることである。言い換えると、矛盾した言い方であるが、差異として平等・対等ということである。だから、個人主義、individualismの宣言と見ることができよう。(追記:「差異としての平等・対等」という表現は問題がある。思うに、アメリカ独立宣言の「平等」とは、差異の共立を意味していると察せられる。つまり、宗主国英国の人間という差異と植民地アメリカの人間の差異の共立を「平等」と表現したのではないだろうか。だから、民主主義とは、差異共立原理と見るのが本来的であると考えられる。)
 しかしながら、既述したように、西洋の個人主義は、個と自我が混淆、連続化しているのであり、真の「個」主義・差異主義ではないのである。凸iの傾斜が強いために、そうなると考えられる。
 その視点から見ると、民主主義は、自我の原理をもつのであるから、資本主義にあっては、大資本、大企業、グローバル資本の「自我」が中小資本、諸民の「自我」を凌駕するのは当然である。つまり、「自我」は互いに争うものであるから、両者の「自我」の闘争は、当然、強大な権力をもつ前者の「自我」が勝利することは、火を見るより明らかであるということである。
 故に、民主主義を真の《個》の原理に基づいて乗り越える必要がある。つまり、自我的民主主義、同一性的民主主義、近代的民主主義から、個的、差異的民主主義、トランス・モダン民主主義へと転換する必要がある。それは、差異共立・共振主義である。
 ただし、日本の場合、半封建/半近代主義なので、複雑であるが、ともかく、個的還元が為される必要がある。個的還元とは、PS理論から言えば、超越性を認識することに存するのである。
 後で、個と民族的特有性について検討したい。

追記:以前述べたが、参政権に関してであるが、参政権資格制度を設置すべきである。それに合格しない人間には、参政権を与えないことにするのである。政治に関して適格な認識をもつ者に参政権を与えるというのは、合理的である。無知蒙昧な愚民に参政権を与えるというのは、気狂いに刃物である。
 だから、今日の愚民には参政権は付与されないということになる。愚民的民主主義から賢民的民主主義へ。

追記2:結局、差異的位階を認めよということになるだろう。人間は平等ではないのである。差異的なヒエラルキーがあるのである。確かに、もっとも根源的には同一であろうから、その点では、平等である。否、同一である。
 個々人の差異を認めることこそ、実質的平和への大前提であると考えられる。差異を認めないことから、争いが起るのである。西洋文明の東洋文明、その他の文明に対する暴力的干渉は、そこから来ていると言えよう。


マガジン9

* それでも消費増税は必要なのか - どん・わんたろう 10月27日14時43分
* 報道の原点を見失うな - 柴田鉄治 10月27日14時43分
* 何でも「悪いのは小沢」で片付ける大手メディア - 岡留安則 10月27日14時43分
* 議員って自分の給料を自分で決めるんだよ - どん・わんたろう 10月20日17時07分
* 国際貢献のウソ - 芳地隆之 10月20日17時07分


アメリカ独立宣言
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アメリカ独立宣言

アメリカ独立宣言(アメリカどくりつせんげん、The Unanimous Declaration of the thirteen United States of America)とは、イギリス (グレートブリテン王国 )によって統治されていた13の植民地 が、独立したことを宣言する文書である。1776年 7月4日 大陸会議 (the Continental Congress)によって採択された[1] [2] 。このため、7月4日はアメリカ合衆国 の独立記念日 として毎年盛大に祝われる。

沿革 [編集 ]
「独立宣言への署名」(ジョン・トランブル 画)
この絵は、2ドル紙幣 の裏面図版に使用されている。

1763年 2月、フレンチ・インディアン戦争 が終結すると、イギリス国王ジョージ3世 とグレンビル内閣は、植民地アメリカへの課税と支配を強化した。この本国政府による植民地圧迫策は、次第に植民地住民の本国に対する不満を鬱積させ、本国からの離反機運の醸成をもたらす(詳細は、アメリカ合衆国の歴史 の項目と、アメリカ独立戦争 の項目を参照)。

それぞれに独自の発展を進めていた13植民地 は、1772年 11月、連絡組織として通信連絡委員会を発足させる。この委員会は、1774年 9月、第1回大陸会議 (ジョージア植民地 を除く12の植民地代表の集会)に発展し、本国政府との和解策を練った。1775年 4月、レキシントン・コンコードの戦い で、イギリス軍と植民地民兵 隊の間に銃火が交えられ、独立戦争の火蓋が切られた。翌5月、第2回大陸会議が開かれ(全13植民地代表がそろう)、ここ武力衝突に至っても本国政府との和解の道を探っていた。しかし、情勢は日増しに悪化し、翌1776年 1月、独立論を訴えるトマス・ペイン の著書『コモン・センス 』が刊行されてベストセラーになると、住民の間でも植民地代表者の間でも、独立論は最高潮に達した。

同年6月7日、バージニア植民地 代表のリチャード・ヘンリー・リー は大陸会議に『独立の決議』を提案し、これに基づいて同月10日、独立宣言起草委員会が発足した。この委員会は、トーマス・ジェファーソン 、ジョン・アダムズ 、ベンジャミン・フランクリン 、ロジャー・シャーマン 、ロバート・R・リビングストン の 5人で構成されたが、ジェファーソンが宣言案を起案(起草)し、フランクリンとアダムズがわずかに修正して委員会案とされた。委員会案は大陸会議に提出されて、さらに多少の推敲がなされた。そして、1776年7月2日、リチャード・ヘンリー・リーの『独立の決議』がまず可決され、『アメリカ独立宣言』は7 月4日に採択された。
内容 [編集 ]

独立宣言は、基本的人権 と革命権 に関する前文、国王の暴政と本国(=イギリス)議会・本国人への苦情に関する28ヶ条の本文、そして独立を宣言する結語の3部から成る。

中でも、「全ての人間は平等に造られている」と唱え、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文は、アメリカ独立革命の理論的根拠を要約し、後の思想にも大きな影響を与えた。その理論は、名誉革命 を理論的に正当化したジョン・ロック の自然法理論 の流れを汲む。
日本への影響 [編集 ]

宣言公布当時、日本 は江戸時代 の鎖国 中であったため、直接の影響は見られない。
学問ノススメ [編集 ]

江戸時代末期から明治時代 にかけて、西欧文明が押し寄せてくるのに先立ち、福澤諭吉 はその著書『西洋事情 』で、「千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文」としてアメリカ独立宣言の全文を和訳して紹介した。

天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テス。即チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモス可ラサルモノナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナリ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ

– 『西洋事情 』初編 巻之二

このうち、冒頭の章句および思想は、後の『学問のすすめ 』初編冒頭、に引用され、人々に広く知られるところとなった。
日本国憲法 [編集 ]

1946年に公布された日本国憲法 の第13条にも、その影響は見られる。

第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

関連項目 [編集 ]

* アメリカ合衆国憲法
* アメリカ独立戦争
* 独立記念館 (アメリカ)
* アメリカ合衆国建国の父
* アーブロース宣言

脚注 [編集 ]

1. ^ jpeg版“In Congress, July 4, 1776. The unanimous declaration of the thirteen United States of America ”. 2009年9月8日閲覧。アメリカ議会図書館
2. ^ テキスト版“In Congress, July 4, 1776. The unanimous declaration of the thirteen United States of America. ”. 2009年9月8日閲覧。アメリカ議会図書館

外部リンク [編集 ]
ウィキソース
ウィキソース にアメリカ独立宣言(和訳) の原文があります。
ウィキソース
ウィキソース にアメリカ独立宣言(英文) の原文があります。

* In Congress, July 4, 1776. The unanimous declaration of the thirteen United States of America. アメリカ議会図書館
* 福澤諭吉 訳 『アメリカ独立宣言 』(青空文庫 )
* 福澤諭吉訳 『西洋事情 巻之二 合衆国 』(近代デジタルライブラリー )
* 福澤諭吉訳 『福沢全集 巻1「西洋事情(初編)」 』(近代デジタルライブラリー)
* katokt訳 『独立宣言 』(プロジェクト杉田玄白 )

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2010年10月27日(Wed)▲ページの先頭へ
物質的身体形成エネルギーと精神的エネルギー:フェルミオン型とボソン型:半整数スピンと整数スピン
差異(精神)から同一性(物質)へと変換する連続的エネルギーとそれを切断することから生起する不連続的エネルギーのことをこれまで述べてきた。
 しかしながら、物質的身体を形成するエネルギーは連続的エネルギーであり、もし、すべてのエネルギーが不連続化されたならば、人間は死ぬであろう。(言い換えると、死とはエネルギー全体の不連続化であると言えよう。)
 だから、物質的身体を形成する連続的エネルギーと精神の独立・自由を形成する不連続的エネルギーを区別することができる。
 では、その区別をどう力学的理論化できるのだろうか。問題は、MP総体が連続化(同一性化)されること、言い換えると、MPの精神や心魂が同一性化(物質化・世俗化)されることが問題なのである。
 つまり、こういうことだろう。出生後、乳児・幼児・小児は、物質的身体器官の形成の過程に入り、そこで、精神・意識は物質的器官化されるのである。これが、連続的同一性過程である。即ち、凸i*凹i⇒+1である。つまり、+1の物質的身体器官に精神(凸i*凹i⇒)が嵌入されるのである。端的に、精神の物質化である。
 しかし、精神は精神であり、物質ではないのである。物質ではない精神が物質化されるのであるから、ここには、大矛盾があるのである。
 精神は物質的身体的感覚器官に変換するのであり、この同一性的器官にいわば、妥協するのである。正確に言えば、Media Pointの実軸における同一性変換は実質的なものであり、そこで、精神は同一性化されるのであり、それは、積極的なものである。
 しかるに、同一性化されない精神(凸i*凹i)が当然、「実存」(虚存?)するのである。(追記:以下の視点に加えて、幼児・小児・児童に対する精神文化教育の必要を強調しないといけない。そこには民族文化教育も入る。当然、それは、精神科学的な教育である必要がある。PS理論はこの点で定礎となるものである。)
 ここで、私は、先に区別した、素粒子論を敷延した、精神のボソン・タイプBoson Type: BT(「光」タイプ)とフェルミオン・タイプFermion Type: FT(「闇」タイプ)の視点を導入したいのである。
 即ち、精神は二通り、二種類あり、フェルミオン・タイプFTが、同一性化するのであり、ボソン・タイプBTが、Media Point、ないしは、本源的精神として、存すると考えられるのである。
 ここで、シュタイナー精神科学の視点を借りると、フェルミオン・タイプFTはエーテル体(「気」)に、ボソン・タイプBTは自我体*アストラル体(凸i*凹i)に相当すると考えられる。
 この「精神的素粒子」の二元性ないし二重性によって、精神⇒物質という謎の説明ができると考えられる。
 結局、根源的精神凸i*凹iの二種類の回転、整数スピンと半整数スピンによって、知的生命体、精神的身体が形成されると考えられるのである。
 ということで、本題にもどると、連続的エネルギーとは、フェルミオン・タイプに拠るのであり、不連続的エネルギーとは、ボソン・タイプに拠るということになる。だから、本来的には、人間の認識は、物質と精神の調和が可能である。そして、それが実現した時代が、過去の女神の時代、新石器時代あるいは青銅器時代であると推察される。
 しかしながら、父権的世界が誕生すると、その調和が破壊されて、フェルミオン・タイプに傾斜したと考えられるのであり、その究極が一神教であり、その帰結として、今日のグローバルな超巨大金融資本主義があると言えよう。
 では、フェルミオン・タイプへの傾斜とは何を意味するのか。これは、明らかに、不均衡である。ボソン・タイプをなんらか抑圧するメカニズムが生じたと思われる。
 シュタイナー精神科学では、それが悪魔とされている。アーリマンとルシファーである。同一性の悪魔は前者である。ゾロアスター教で言えば、アンラ・マンユである。
 この説明であるが、これは、陰陽の変動を考えればいいのではないだろうか。つまり、陰陽は常時、円環的に変動しているのであり、陰から陽へ、陽から陰へと変動しているのである。
 つまり、陰から陽へと傾斜したときが、フェルミオン・タイプが増加・拡大するのであり、その結果、ボソン・タイプを支配するようになったと考えることができる。
 しかしながら、陰陽宇宙は常時、円環的に変動するのであるから、陽から陰への転換が生じることになるのである。そうすると、今度は、ボソン・タイプが増加し、フェルミオン・タイプの支配を打破すると考えられるのである。いわば、「光」が「闇」を打ち負かすのである。
 思うに、リーマン・ショックとは、フェルミオン・タイプの極大点であり、今や完全に、ボソン・タイプが増加する時代、トランス・モダンの時代に突入していると思われるのである。螺旋的回帰と言えよう。
 日本は、未だに、時代錯誤、倒錯的なフェルミオン・タイプが支配しているのである。これは、当然、逆行・反動・退化であり、その継続的支配は日本の滅亡である。
 新たな天照の時代へと踏み込む必要がある。内的太陽を復活させる必要があるのである。
 
追記:天照大神、内的太陽の復活の端緒とは如何なるものであろうか。
 思うに、瞑想的に心の海に潜水して、心のマグマ(肚)に触れることである。それが、dark sunである。それは、遍在している超巨大根源的エネルギーである。それに打ち当たると、精神的核融合を起こすのである。それが、天照大神の復活であり、内的太陽の新生である。

追記2:スピンの問題であるが、上記では、双極子を根源として論究している。それが半整数スピンならば、(n+1/2)π回転であり、⇒+1となり、整数スピンならば、nπ回転であり、双極子が再帰すると考えている。


参考1:
素粒子
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曖昧さ回避 この項目では、物質を構成する最小の単位について記述しています。その他の用法については「素粒子 (曖昧さ回避) 」をご覧ください。

物理学 において素粒子(そりゅうし)とは、物質 を構成する最小の単位のことである。

最小の単位であるということは、それより小さな存在がないということであり、従って内部構造を持たず空間的な大きさを持たない・または空間・長さ自体が最小単位の大きさ(空間最小単位の候補の例としてはプランク長 等)とされるのだが、超弦理論 においては全ての素粒子は有限な大きさを持つひもの振動状態であるとされる。

現在のところ物質を構成する素粒子と考えられているものは、クォーク とレプトン である。だが、これらに内部構造が存在することが発見されれば、その内部構造を構成するもののほうが素粒子と呼ばれ、クォークやレプトンは素粒子ではないということになる。クォークやレプトンの大きさはわかっていないが、仮に有限の大きさがあるとしても陽子 のスケールにおいても点とみなすことができる大きさである。

たくさんの粒子が、実は自然界にそのまま安定的に存在しているわけではないので、宇宙線 の観測や加速器 による生成反応により発見・研究された。素粒子の様々な性質を実験で調べ、それを理論的に体系化していくこと、及び理論的に予言される素粒子を実験で探索していくことが、素粒子物理学 の研究目的である。
素粒子の分類 [編集 ]
ボソン (ボース統計に従う粒子) [編集 ]

* ゲージ粒子 - 素粒子間の相互作用(力)を伝搬する粒子
o 光子 - 電磁気力 を媒介する
o ウィークボソン - 弱い力 を媒介する。 W+, W−, Z0 の3種類。
o グルーオン - 強い力 を媒介する。8種類存在する。
o 重力子 - 重力 を媒介する(未発見)。
* ヒッグス粒子 - 粒子に質量 を与える(未発見)。

フェルミオン (フェルミ統計に従う粒子) [編集 ]

* レプトン (6種類)
o 荷電レプトン - 電荷 −1 を持ち、それぞれに反粒子 が存在する。
+ 電子 - 原子 の構成要素として一般に良く知られる。電子の反粒子は陽電子 と呼ばれる。
+ ミュー粒子
+ タウ粒子
o ニュートリノ
+ 電子ニュートリノ
+ ミューニュートリノ
+ タウニュートリノ
* クォーク - ハドロン の構成要素とされる(6種類)。
o 上系列 - 電荷 +2/3 を持ち、それぞれに反粒子 が存在する。
+ アップクォーク
+ チャームクォーク
+ トップクォーク
o 下系列 - 電荷 −1/3 を持ち、それぞれに反粒子が存在する。
+ ダウンクォーク
+ ストレンジクォーク
+ ボトムクォーク

クォークとレプトンの分類表 [編集 ]

クォーク とレプトン は以下のように、世代によって分類される。傾向として、世代数が大きいほど質量が大きいとされている。
電荷 第1世代 第2世代 第3世代
クォーク
+2/3 アップクォーク (u) チャームクォーク (c) トップクォーク (t)
−1/3 ダウンクォーク (d) ストレンジクォーク (s) ボトムクォーク (b)
レプトン
−1 電子 (e) ミュー粒子 (μ) タウ粒子 (τ)
0 電子ニュートリノ (νe) ミューニュートリノ (νμ) タウニュートリノ (ντ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E7%B2%92%E5%AD%90


参考2:
素粒子とは何か CommentsAdd Starwacking 49Fenette

03:15 | 素粒子とは何か - Active Galactic : 11次元と自然科学と拷問的日常 を含むブックマーク [はてなブックマーク - 素粒子とは何か - Active Galactic : 11次元と自然科学と拷問的日常 ] 素粒子とは何か - Active Galactic : 11次元と自然科学と拷問的日常 のブックマークコメント

予定が詰まるとこれだから困る。「今日こそは書こう」「いや、これを終わらせてから」と、ネタがガリレオ 温度計のように浮かんでは沈みはや2週間が経過した。*1

「ぷよぷよ のしょぼしょぼ対戦動画をあげる。」「ノーベル賞 の続き:素粒子 って何?」「水星 探査機メッセンジャー が世間的に無視されている件」「テトリス でひとり宇宙人いるよね」とオプション はいろいろあるが、とりあえず世間の話題から消えうせた感のあるノーベル賞 の続き。
素粒子 の大きさと位置づけ

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現時点で我々が実験的に確認している限りの範囲で、「素粒子 」は私たちの世界を構成する基本要素だ。それは力であり、物質であり、その振る舞いは素粒子 のもつ基本的な対称性によって説明される。

素粒子 は限りなく小さい。標準理論では大きさがゼロで構造をもたない点粒子として計算される。また実験上も完全な点とした模型からのズレは確認されていない。ZEUS実験では仮に大きさが存在したとしても、0.74E-18[m]よりは小さいことが確認されている。これはクォーク がせいぜいで水素 原子 の1億分の1以下であることを意味する。1億倍というのはだいたいCD-R と地球 の差に相当する。

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クォーク の大きさに関する実験:横軸は加速器 での衝突エネルギー、縦軸は点粒子模型からのズレ:クォーク に内部構造があると値が1から外れる。下に曲がっている青い曲線は0.74am(アトメートル)の直径を仮定したときのズレ

素粒子 の種類

素粒子 が何種類あるかについては数え方によって答えがいくつかある。カラー(色荷)の違いを別カウントにするか、左巻きの電子と右巻きの電子を別にするか、粒子と反粒子 を区別するかといった数え方の流儀による。カラーだとか巻き方については後ほど。

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素粒子 はまず大分類として、ゲージ粒子 (力の粒子)と物質粒子が存在する。

物質粒子はクォーク とレプトン という2種の粒子に大別される。クォーク は原子核 の奥に引きこもっているインドア派、原子核 の構成メンバーである陽子や中性子 あるいは中間子 をつくっている材料だ。レプトン は電子やニュートリノ のようにわりと外で遊びまわっているアウトドア派だ。原子核 を10mの家にたとえると、電子は日本列島 ぐらいの範囲が生活圏でこの生活圏を原子 という。日雇い でエネルギーをもらって原子 同士をくっつけたり切りはなす仕事をしている。ニュートリノ は宇宙のどこかをふらついている、仕事はたまにする。他の物質と会っても挨拶しないで素通りする。

ゲージ粒子 は力を媒介する粒子だ。ゲージ粒子 は、自然界を支配する4つの基本的な相互作用に対応して4種類存在する。

1. 光子(電磁気 力):原子 をつないだり、磁力だったり、電化製品を動かしたり忙しい。電荷に対して働く力。化学反応 もキーボードを押す力も電磁気 力のひとつの形だ。
2. グルーオン (強い力):クォーク 君の引きこもり パワー。原子核 の中にウヨウヨいて内弁慶 だが滅茶苦茶強い力だ。家出しようとするクォーク を恐ろしい形相で原子 の1/100000という狭い家に押しとどめる。電荷 に似た「色荷(カラー)」という量に対して働く力、カラーを持っていないレプトン は感じない。カラー(色荷)はR・G・Bの3種類存在して、1種類しかない電荷 よりすこし複雑な力だ。
3. Z/Wボゾン(弱い力):素粒子 をほかの素粒子 に変える。この世界は核反応で元素 レベルで移ろいゆく。ときどきしか仕事しないが重要な力だ。u・d・t・s・eといった素粒子 の状態(これをフレーバー という)を引数 にして働く。フレーバー は上の表にあるとおり、クォーク とレプトン で6種類づつ存在する。
4. グラビトン (重力):星々をつなぎとめる。ドバイ と恐竜 の敵。未発見。質量(広義にはエネルギー)に対して作用する。

リストアップするとこんな感じ。一番有名なのは電磁気 力をつかさどる光子だろう。光も電磁気 力も我々に身近な存在だ。

今までのまとめ:素粒子 にはゲージ粒子 (力の粒子)と物質粒子の2種類があり、物質粒子はクォーク とレプトン の2種、ゲージ粒子 は4種存在する。

素粒子 の間に働く力

力はゲージ粒子 によって媒介される。

「力の粒子」ってなにそれ?という疑問についてだが、「力」というものをミクロのレベルまで突き詰めてみると、素粒子 レベルでの運動量(エネルギー) の貸借に還元できる。素粒子 が他の素粒子 に運動量を譲渡することで互いの運動(量)が変化する。このとき運動量やエネルギーの決済に用いられる証券 が「ゲージ粒子 」だ。

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力の種類(ゲージ粒子 の種類)、つまりエネルギーの決済方法は前述の通り4種類ある。


http://d.hatena.ne.jp/active_galactic/20081029/1225217750
Active Galactic : 11次元と自然科学と拷問的日常


2010年10月25日(Mon)▲ページの先頭へ
+1凸i*+1凹i=+1:半封建/半近代的自我の日本人:唯物論的であり、精神界が欠損している
先に以下の感想を述べた。
「情けは情け、義は義である。」:森鴎外『阿部一族』の柄本又七郎
結局、この柄本又七郎の「情けは情け、義は義である」という発想は、基本には、やはり、自我、偽装自我+1凸iがあると見るべきである。そしてその偽装自我が偽装他者+1凹iを狡猾に知覚して、計算、打算的に行動を取るのである。これは、言うならば、半封建/半近代的自我である。以前も指摘したが、これが、「近代」日本人の類型になっているように思う。
 これは世間体に囚われる自己保身的、非個的人間である。ここには、物質界+1はあるが、精神界-1が欠損しているのである。
 問題は、いったいどうして、精神界-1を完全喪失するようになったのか。それとも、もともと希薄なのか。
 後者の可能性があるが、やはり希薄にさせられたように思う。一体何があったのか。What happened to Japanese?
 本来、誰でも、差異共立(共融)の精神をもって生まれるだろう。それは、精神界-1と通じている。
 しかし、誕生後は、物質界に母体から分離して生存することになり、⇒+1の+1が重要な意味をもつようになるのだ。ここに、物質的自我が生まれるのである。  
 思うに、自我の核は凸iである。いわば、原自我である。これは、知能を司るだろう。 
 そして、物質的自我+1凸iは、社会を認識する。それは、他者である。しかるに、日本社会は偽装他者+1凹iの社会である。そこで、物質的自我はそれを捉えて、偽装他者を利用するのである。それが、柄本又七郎である。そして、菅直人である。(以前は私はこれは官僚タイプだと言ったが、当たらずとも遠からずであろう。)思うに、愚民はこれをさらに劣化させたものである。偽造することすらできないのである。 
 では、肝心の精神界が喪失される力学を考えたい。これは簡単に言えば、社会に精神界が喪失しているので、個人が精神性を喪失すると言うことができる。日本の場合はとりわけ戦後である。近代合理主義、唯物論、近代民主主義が導入されたのである。
 しかしながら、外的な理由よりも、内的な理由の方が積極的、本質的である。個とは差異共立(共融)且つ差異共振に基づくだろう。ルネサンスとはそういうものであった。 
 しかしながら、日本文化は母権文化が基盤にある。それは、凹iの文化である。しかし、封建主義によって、それが、父権的傾斜を受ける。そうすると、+1 凹iになるだろう。これは、似非父権文化である。母権が捩れていると考えられる。(日本語に、主語が希薄なのと関係するのではないだろうか。)
 繰り返すと、ルネサンスは、差異共立(共融)であり、それは、-1凹i(第三象限)が根源にある。イタリア・ルネサンスで、新プラトン主義が起きたのも不思議ではない。それは、古代的な神秘主義に通じると言えよう。(日本において、禅仏教がそれに近い発想をもっているだろう。例えば、道元である。)問題は、ルネサンスの場合、差異共立から差異共振へと展開したことである。それは、西洋文化の凸iの傾斜に拠ると見ていいだろう。つまり、同一性へと傾斜したのである。そして、その帰結がデカルト哲学と考えられる。  
 日本文化においては、西洋文化のような凸iの強い傾斜はない。
 凹iの傾斜による物質化+1、即ち、+1凹iが生起すると考えられる。世間である。 
 問題は、凹i⇒+1のプロセスである。もし、凹i⇒-1の契機があれば、+1凹iへのプロセスは強固にならないはずである。しかるに、日本において、凹 i⇒-1の契機が乏しかったと言えよう。 しかし、「近代化」以前においては、神道、仏教、民俗祭礼等があり、それは、凹i⇒-1の契機をもっていたと考えられる。 明治維新によって、凹i⇒-1の契機は天皇制、国家神道が吸収したと考えられる。そして、戦後においては、その回路が断ち切られたと考えられる(三島由紀夫の「断絃のとき」)。  
 問題はやはり、凸iの原自我の希薄さではないだろうか。もし、強い凸iがあれば、天皇制や国家神道に吸収されることはなかったはずである。 
 では、天皇制、国家神道を形成した明治政府の力学とは何であったのか。それは、柄本又七郎的半封建/半近代的自我の力学ではないだろうか。確かに、凸 i⇒+1はあるが、それは、凹i⇒+1を顧慮する狡猾な自我に過ぎないのである。つまり、+1凹iに囚われる自我に過ぎないのである。(追記:これはあまりに一面的である。例えば、坂本龍馬や横井小楠などの考えは、封建制を脱している。それは、精神的民主主義である。私の唱えるトランス民主主義に近いだろう。) 
 すると、やはり、先に述べたように、日本母権文化のデカダンスが見えてくるのである。積極的な原自我凸iがあれば、凹iへの顧慮ではなく、凸i*凹iの差異共立(共融)が生起可能となり、-1の精神界が予感されるはずである。 
 私は先に、日本の父権文化はユダヤ教ではないかと言ったが、それは、まったく間違いだろう。ユダヤ教が導入されていれば、あるいは、キリスト教が入っていれば、強固な自我文化が生まれたはずであるが、それがなかったからである。(追記:正確に言うと、平田篤胤の神道には、キリスト教が導入されているのである。だから、国学には、一神教性があったと考えられる。父権的なものである。これについては検討課題である。) 
 日本母権文化のデカダンス、これが、現代日本の狂態を生んでいると考えられるのである。日本人が英語が苦手なのもこの点と関係しよう。英語は父権的言語(主語+動詞)であるからだ。 
 日本人を再生させるには、父権文化の導入が必要である。私は主語+動詞(述語)のある外国語を日本人は身に着けるべきであると思う。これは、思考を自我的論理にするからである。主語の希薄な日本語、述語的日本語は、差異欠損的であり、半封建/半近代的である。あるいは、未分化的である。差異未分化的ということである。それは究極のところ、菅直人的な二重人格的欺瞞論理となるのである。

* 菅首相、TPPの調整加速指示 「農業と両立可能」 共同通信 (21時48分)

(この点は別の機会に考察しよう。)
 思うに、戦後日本人が凹i⇒-1の第三象限へと展開するチャンスがあった。それが、折口信夫の新神道論であるが、戦後近代合理主義の狂信の中で、無視されたのである。
 また、オカルト・ブーム、精神世界の流行も、内因として、超越性を求める志向があるだろう。しかしながら、それは、一般には、自我が希薄なのである。その典型がオウム真理教事件である。 
 その点から見ると、シュタイナーの精神学は自我ichを基盤にしているので、それなりに考察に値するものである。(確かに、あまりに、内界に傾斜している難はあるが。)
 そう考えると、日本人に必要なのは、哲学的思考、哲学的知性であると言えよう。哲学は、知的に内的世界を探究するものであり、その点では、原自我凸iを介在させているのである。本質は直感的思考であると思うが、原自我凸iの知性を道具としているのである。(思うに、原自我凸iとは、フッサールの超越論的自我と一致しよう。)
 結局、現代日本人にとって、外国語研究、哲学研究が必要である。精神のインフラ、知のインフラが抜けているのである。そう、個となること、原始仏典にある「犀の角のように唯一人歩め」が必須である。集団、群れを成すな。

追記:国学が一つの問題である。本居宣長の「大和心」について解明する必要がある。それは、非合理主義でありつつ、且つ、自我的なのである。これをどう説明するのか。
 「漢心」(合理性ないし自我性)を排除するから非合理主義なのである。あるいは、情動主義である。しかるに、「漢心」を排除する二項対立論理があるのである。
 つまり、自我と非合理主義が結合した論理がそこにあるのではないだろうか。これは、ロマン主義に近い論理である。それは、第一象限と第三象限の混淆ではないだろうか。
 これは、-1凹i=+1凸iの短絡論理ではないだろうか。超越性・無我性と物質・自我性がショートしているのではないだろうか。これが、尊王攘夷の狂信の原理ではなかったのか。今はここで留める。後で、再考したい。

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「偽装自我」と「真正な無我」:+1凹i*+1凸i=+1の民主党指導層?
テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ
以下、生成門氏の偽装自我VS真正の無我の視点は興味深い。
 これは、意識と無意識(潜在意識)にも関係しよう。私は民主党の左派的人間の自我とその反動性の力学をどう解明しようかとは感じていたのでもあった。
 言うことと為すことがまったく乖離し、正反対になっている民主党の指導部であるが、それは偽装自我の視点で説明できよう。他者、凹iが欠落しているのである。正確に言えば、-1凹i(第三象限)の他者である。だから、他者偽装するのである。「コンクリートから人へ」。
 思うに、純粋な(?)自我の人は、+1凸i(第一象限)であり、他者偽装しない。ストレートである。他者偽装するのは下心があるからである。それは、+1凹i(第四象限)であろう。これが、他者偽装するのである。
 そう見ると、民主党指導層は、+1凹i(他者偽装)と+i凸i(自我)の二重人格であると言えよう。選挙では、前者が前面に出て、後者を引っ込める。そして、選挙に勝つと、逆転して、前者が消えて、後者となる。
 かれらに「個」ないし真正の無我がないのは、-1の超越性が欠落しているからである。つねに、二重性を使い分ける、悪賢い人間なのである。しかしながら、真実、真理は、-1の領域ないし第二象限か第三象限に存するのである。故に、彼らは愚鈍・愚劣でもあるのである。
 意識と潜在意識で言えば、意識が自我であり、潜在意識が偽装他者である。
 ここから、ペテン師の真相がわかる。偽装他者(偽装自我)を使って、欺し、自我利益+1を獲得するのである。
 外交もこの面が強いだろう。ただし、常に、-1をもっていないと、見透かされ、馬鹿にされる、民主党指導層のように。小沢一郎が一目置かれるのは、あるいは、恐れられるのは、-1、ないしは、第二象限と第三象限があるからである。誠意、誠実さとは-1に拠るのである。
 ここから、政治教育がはっきり認識される。プラトン哲学も、-1の認識を目指したものと言えよう。

参照:人間認識図(by Mr Kaisetsu)

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
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本来、+1凹iは自我の対称性である無我ですから、無我の心−1凹iの反転した現れのはずですが、+1凸iの自我から反動した+1凹iは、無我ではなく擬装自我なのです。つまり無我のように見えて真正の無我ではなく、恨みを抱えた自我なのです。

+1の反動

+1凸i=自我→(反動)→+1凹i=無我(擬装自我)

−1からの反転

−1凸i(凹i?)=無我の心→(反転)→+1凹i=真正の無我


擬装自我と真正の無我の心との戦いが、この物語の主人公チュモンの生き様であり、テーマでもあるのです。

無我の心とは−1凹iであり、それを反転した+1凹iが真正の無我の自己であり、自我+1凸iから反動したのが+1凹iの擬装自我なのです。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100098199050

* チュモンというベクトル・モード(1):恨みは進化の原動力 (1)

シムダンス「四次元能」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10682083204.html


2010年10月24日(Sun)▲ページの先頭へ
仮説:フェルミオンは(n+1/2)π回転で⇒+1となる。ボゾンはnπ回転で双極子を形成する
直観では、フェルミン(フェルミ粒子)が物質を形成する。つまり、⇒+1である。それに対して、ボゾン(ボース粒子)は、⇒である。即ち、双極子、凸i*凹iである。
 そう考えると、ボゾンである光子が質量がないのがうまく説明がつくだろうし、フェルミンである電子が質量をもつのも説明できるのではないだろうか。
 問題はボゾンの「粒子」性をどう説明するかである。これは、直観では、同一性志向性である。つまり、粒子志向性であり、粒子自体ではないのではないだろうか。つまり、「波動」と見た方がよいのではないだろうか。
 後で再検討したい。

追記:同一性志向性は、粒子(物質)のように「見える」であり、実際は粒子ではないと考えられる。それは、双極子であり、それ自体は粒子ではない。いわば、エネルギー子である。
 問題は、粒子と「波動」とは何かの問題になっている。いったい、双極子凸i*凹iとは何か。それは、根源的には、-1の超越的物質から発するだろう。だから、超越的双極子と言えるかもしれない。つまり、「ダーク・マター」の極性である。
 とまれ、問題は何故、双極子が粒子に見えるのかである。観測装置の対象が粒子(物質)を基準としているので、そうなるというのは、一理である。
 しかしながら、本質的理由があるだろう。そう、やはり、Media Point である。それは、穴である。その穴を粒子として取り違えているのではないだろうか。


参考:
素粒子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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曖昧さ回避 この項目では、物質を構成する最小の単位について記述しています。その他の用法については「素粒子 (曖昧さ回避) 」をご覧ください。

物理学 において素粒子(そりゅうし)とは、物質 を構成する最小の単位のことである。

最小の単位であるということは、それより小さな存在がないということであり、従って内部構造を持たず空間的な大きさを持たない・または空間・長さ自体が最小単位の大きさ(空間最小単位の候補の例としてはプランク長 等)とされるのだが、超弦理論 においては全ての素粒子は有限な大きさを持つひもの振動状態であるとされる。

現在のところ物質を構成する素粒子と考えられているものは、クォーク とレプトン である。だが、これらに内部構造が存在することが発見されれば、その内部構造を構成するもののほうが素粒子と呼ばれ、クォークやレプトンは素粒子ではないということになる。クォークやレプトンの大きさはわかっていないが、仮に有限の大きさがあるとしても陽子 のスケールにおいても点とみなすことができる大きさである。

たくさんの粒子が、実は自然界にそのまま安定的に存在しているわけではないので、宇宙線 の観測や加速器 による生成反応により発見・研究された。素粒子の様々な性質を実験で調べ、それを理論的に体系化していくこと、及び理論的に予言される素粒子を実験で探索していくことが、素粒子物理学 の研究目的である。
素粒子の分類 [編集 ]
ボソン (ボース統計に従う粒子) [編集 ]

* ゲージ粒子 - 素粒子間の相互作用(力)を伝搬する粒子
o 光子 - 電磁気力 を媒介する
o ウィークボソン - 弱い力 を媒介する。 W+, W−, Z0 の3種類。
o グルーオン - 強い力 を媒介する。8種類存在する。
o 重力子 - 重力 を媒介する(未発見)。
* ヒッグス粒子 - 粒子に質量 を与える(未発見)。

フェルミオン (フェルミ統計に従う粒子) [編集 ]

* レプトン (6種類)
o 荷電レプトン - 電荷 −1 を持ち、それぞれに反粒子 が存在する。
+ 電子 - 原子 の構成要素として一般に良く知られる。電子の反粒子は陽電子 と呼ばれる。
+ ミュー粒子
+ タウ粒子
o ニュートリノ
+ 電子ニュートリノ
+ ミューニュートリノ
+ タウニュートリノ
* クォーク - ハドロン の構成要素とされる(6種類)。
o 上系列 - 電荷 +2/3 を持ち、それぞれに反粒子 が存在する。
+ アップクォーク
+ チャームクォーク
+ トップクォーク
o 下系列 - 電荷 −1/3 を持ち、それぞれに反粒子が存在する。
+ ダウンクォーク
+ ストレンジクォーク
+ ボトムクォーク

クォークとレプトンの分類表 [編集 ]

クォーク とレプトン は以下のように、世代によって分類される。傾向として、世代数が大きいほど質量が大きいとされている。
電荷 第1世代 第2世代 第3世代
クォーク
+2/3 アップクォーク (u) チャームクォーク (c) トップクォーク (t)
−1/3 ダウンクォーク (d) ストレンジクォーク (s) ボトムクォーク (b)
レプトン
−1 電子 (e) ミュー粒子 (μ) タウ粒子 (τ)
0 電子ニュートリノ (νe) ミューニュートリノ (νμ) タウニュートリノ (ντ)
関連項目 [編集 ]

* 標準模型
* 基本粒子
* 素粒子物理学

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E7%B2%92%E5%AD%90


2010年10月21日(Thu)▲ページの先頭へ
想像力とは何か:想像力はどうやって培われるのか
私はあることがきっかけで、今日の日本社会は想像力が欠落しているのではないかと直感した。
 今は余裕がないので、詳述できないので、一言言うだけだが、想像力とは内的なもの、精神的なもの、心的なもの、魂的なものである。それをどうやって培うことができるのか。
 一つには、優れた音楽に接することである。また、文学(とりわけ古典)や神話に接することである。そして、豊かな自然に接することである。また、本物の美術に接することである。
 一言で言えば、多面的な芸術の体験が欠落していることから、想像力が欠落していると思われる。音楽、文学、美術、これらは、芸術三位一体である。

追記:あわてて、自然を入れるのを忘れた、四位一体である。(追記:自然については、問題がある。自然を認識するには、内的認識力が必要である。それがなければ、いくら、自然があっても、豚に真珠である。思うに、内的能力の開花と同時に、自然が内的になるのである。)

追記2:文部科学省が、想像力教育を行っていないのである。日本人が英語ができないのもそれと関係する。リスニングには、音楽能力が必要であるし、理解には文学的思考が必要である。
 また、英語の構成を理解するには、数学的思考が必要である。
 外国語は他者であり、生半可では身につかないのである。

追記3:後、日本の教育に足りないのは、哲学である。哲学は正に、内的思考を培うものである。これは、芸術の知性と言えるものである。思うに、美学は冗語であろう。

追記4:以上はいかにも文系に偏っていると言われるかもしれない。しかしながら、自然科学も、今や、いわば、内的科学である。量子論は正にそうである。
 医学においても、「気」が注目されているし、ケアの問題もある。
 ロボット作成にしろ、内的能力が問題になっているだろう。
 結局、トランス・モダン・サイエンスとして、内的科学が基礎であり、そこからの新たな構築・体系化が問題なのである。
 近代科学とは、外的科学、唯物論科学に過ぎなかったのである。
 科学が一つになる。


質量の発生:差異共振によって同一性から物質が形成される:超越的太陽⇒太陽⇒物質
これは、復習である。
 凸i*凹i⇒+1(凸)において、左辺では、差異共立が本来、存する。そこには、質量はないのである。
 そして、MP2の変換において、同一性が発生して、物質が形成される。しかし、同一性と物質は異なるのではないだろうか。これまで、私は同一性=物質と考えたのであるが。
 同一性は構造である。カントの超越論的形式、超越論的感性に相当しよう。思うに、構造という概念が曲者なのである。本来、超越論的形式であるが、それが、客観的な構造という概念に変化していると考えられるのである。とまれ、外界に傾斜した概念が構造とは言えよう。同一性はやはり、志向性なのである。そして、構造はそれが忘却された外界的概念ということになる。
 故に、MP2で生じる、同一性は同一性志向性というのが正確である。そして、これこそ、現象界、物質界の根因・起因・基因である。自我の原因もこれである。そして、資本主義の原因もこれである。
 とまれ、同一性志向性と物質は区別されることを確認しておきたい。
 そして、同一性志向性からの脱却を、東洋哲学は目指していると言えよう。禅仏教がとりわけ顕著である。
 結局、MP1に到達する身体論である。
 とまれ、以上から見て、光に質量がないというのは、どう見るべきなのか。光とは、同一性志向性ではないのか。なぜなら、それは物質を生み出す根因ではあっても、物質(質量)ではないからだ。いちおう、そう作業仮説する。
 そうならば、二種類の光があるように思える。即ち、MP1の光とMP2の光である。現象光は後者である。
 では、前者の光とは何か。これが、私が以前述べた超越光ではないだろうか。
 そして、それは、-1と関係している。もし、-1⇄MP1とすると、それは、超越的太陽である。プラトンの洞窟外の太陽に相当するのではないだろうか。
 言い換えると、超越的太陽から太陽が生まれ、それが、物質現象を形成するのである。
 そう、太陽はいわば、同一性志向的太陽である。しかし、超越的太陽は精神的太陽である。霊的太陽である。
 D. H. ロレンスのdark sunとは、そのことではないだろうか。言うならば、まったき明るさなので、暗闇darkに見えるのである。
 後で、さらに検討したい。

追記:前ソクラテス期の哲学者、アナクシマンドロスだったろうか、星は、宇宙の穴から洩れる炎であるというようなことを述べていた。MPを穴とすれば、炎は-1ではないだろうか。その炎がMPを介して、同一性志向性として視覚されるということではないだろうか。もっとも、精神的な人はMP1が開いているので、炎をも視覚すると思われる。精神的視覚である。あるいは、心眼である。

追記2:フィロラオスだったか。

宇宙の構造に関する考察 [編集 ]

ギリシアのフィロラオス 以前は、宇宙の中心は不動の地球であり、その周りを太陽、月、惑星、恒星が周回していると考えられていた。紀元前500年ごろ、フィロラオスは地球や太陽を含むすべての天体が目に見えない宇宙の中心の火の回りを回転していると考えた。ただし、フィロラオスの説は観測データに基づいておらず、根拠がないと考えられたため、これを受け継ぐ学説は生まれなかった。一方、ギリシャのヘラクレイデス は金星と水星の位置が太陽から一定角度以上離れないことを根拠として、水星と金星が太陽の周りを回っていると考えた。ヘラクレイデスは地球が不動であることは疑わなかったが、はじめて合理的な天体の運動体系を作り上げたと言える。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%AD%A6%E5%8F%B2 



天動説では、宇宙の中心には地球があり、太陽を含めすべての天体は約1日かけて地球の周りを公転 する。しかし、太陽や惑星の速さは異なっており、これによって時期により見える惑星が異なると考えた。天球 という硬い球があり、これが地球や太陽、惑星を含むすべての天体を包み込んでいる。恒星 は天球に張り付いているか、天球にあいた細かい穴であり、天球の外の明かりが漏れて見えるものと考えた。惑星や恒星は、神 が見えない力で押して動いている。あらゆる変化は地球と月 の間だけで起き、これより遠方の天体は、定期的な運動を繰り返すだけで、永遠に変化は訪れないとした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8B%95%E8%AA%AC


追記3:やはり、アナクシマンドロスであった。


追記:以下、アナ クシマンドロスの宇宙論 はきわめて知的 刺激をもたらす。火の車輪 としての宇宙 観である。これは、Media Point で説明できそうである。また、穴が惑星 等になるということであるが、この穴もMedia Point で説明できるのかもしれない。

 イデア の振動数によって、諸惑星 等ができるのではないだろうか。太陽 のイデア 振動数があり、地球 のイデア 振動数があり、等々ではないだろうか。

 イデア 振動数によって、Media Point において、太陽 、諸惑星 、さらには、諸宇宙 ができるのではないだろうか。

 つまり、端的に言えば、星なり、星雲なり、「太陽系 」・惑星 なりは、イデア 振動数の多様性・差異に基づいて、発現・現象しているものではないだろうか。つまり、星々は、Media Point の多様な現象ということになるのではないだろうか。今はここで留める。


続追記:物理 的距離であるが、それは、ガウス 平面に垂直なZ軸で表わされるのではないだろうか。つまり、3次元 とは、Z軸である。そして、人間 の視覚 の原点の平面性とは、ガウス 平面に拠ると見ていいのではないだろうか。

 遠近法 は、だから、Z軸によって発生すると言えよう。後で、精緻 に検討したい。

参考:

ミレトス 学派

出典: フリー 百科事典 『ウィキペディア (Wikipedia )』

・・・・・

宇宙論

物質 の性質についても3人の哲学者 には意見 の相違があった。それぞれが異なる宇宙 観を持っていた。タレス は地球 は水の上に浮いていると、特定の星 の運動 に注目し、それらを惑星 と呼んだ。一方、アナ クシマンドロスは、地球 は宇宙 の中心にあり、宇宙 は中空の同心円の車輪 で、その外側は火に満たされ、さまざまな間隔で穿たれた穴から見えるその明かりが太陽 や月だとした。アナ クシメ ネス は、太陽 や月は、星々で充たされた天空の覆いの回りにある、平たい円盤 であるとした。(尚、赤色 文字等強調はrenshi)


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アナ クシマンドロスの宇宙 観

テーマ :太陽系 /宇宙 /自然

先に、古代ギリシア で、太陽 が、天の穴であると述べた前ソクラテス 期の哲学者 の名前 を忘失したが、今日 、ジュンク堂 で以下の本をたまたま手に取り、立ち読み して、

それが、アナ クシマンドロスであることが、わかった。後で、彼の断片を引用 したいが、とても、興味深いものである。

『東と西の宇宙 観 西洋 編』 荒川 紘/著 、紀伊国屋書店

http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31592508


Anaximander (Ancient Greek : Ἀναξίμανδρος, Anaximandros) (c. 610 BC –c. 546 BC ) was a pre-Socratic Greek philosopher who lived in Miletus , a city of Ionia ; Milet in modern Turkey . He belonged to the Milesian school and learned the teachings of his master Thales . He succeeded him and became the second master of that school where he counted Anaximenes and Pythagoras amongst his pupils.

Little of his life and work is known today . According to available historical documents, he is the first philosopher known to have written down his studies,[2] although only one fragment of his work remains. Fragmentary testimonies found in documents after his death provide a portrait of the man.

Anaximander was one of the earliest Greek thinkers at the start of the Axial Age , the period from approximately 700 BC to 200 BC , during which similarly revolutionary thinking appeared in China , India, Iran, the Near East, and Ancient Greece. He was an early proponent of science and tried to observe and explain different aspects of the universe, with a particular interest in its origins, claiming that nature is ruled by laws, just like human societies, and anything that disturbs the balance of nature does not last long.[3] Like many thinkers of his time , Anaximander's contributions to philosophy relate to many disciplines. In astronomy , he tried to describe the mechanics of celestial bodies in relation to the Earth . In physics, his postulation that the indefinite (or apeiron ) was the source of all things led Greek philosophy to a new level of conceptual abstraction. His knowledge of geometry allowed him to introduce the gnomon in Greece. He created a map of the world that contributed greatly to the advancement of geography . He was also involved in the politics of Miletus and was sent as a leader to one of its colonies.

With his assertion that physical forces, rather than supernatural means, create order in the universe, Anaximander can be considered the first scientist. He is known to have conducted the earliest recorded scientific experiment.[4]

Cosmology and the apeiron

Anaximander's reputation is due mainly to a cosmological work, little of which remains. From the few extant fragments, we learn that he believed the beginning or first principle (arche , a word first found in Anaximander's writings, and which he probably invented) is an endless , unlimited mass (apeiron ), subject to neither old age nor decay, which perpetually yields fresh materials from which everything we can perceive is derived.

He never defined this principle precisely, and it has generally (e.g. by Aristotle and Augustine ) been understood as a sort of primal chaos . It embraced the opposites of hot and cold , wet and dry , and directed the movement of things, by which there grew up all of the host of shapes and differences which are found in the world .

Out of the vague and limitless body there sprang a central mass ― this earth of ours, cylindrical in shape, poised equidistant from surrounding orbs of fire , which had originally clung to it like the bark round a tree , until their continuity was severed, and they parted into several wheel-shaped and fire -filled bubbles of air .

Man himself and the animals had come into being by like transmutations. Mankind was supposed by Anaximander to have sprung from some other species of animals, probably aquatic. For this, even though he had no theory of natural selection , some people consider him to be evolutionary theory 's most ancient proponent.

Anaximander offered up the theory of the apeiron in direct response to the earlier theory of his teacher, Thales , who had claimed that the primary substance was water . Anaximander reasoned that water cannot embrace all of the opposites found in nature ― for example, water can only be wet, never dry ― and therefore, it can not be the one primary substance . Nor could any of the other candidates, so Anaximander postulated the apeiron as a substance that, although it could not be perceived directly, could explain the opposites he could clearly see around him .

The one surviving fragment of Anaximander's book may be translated like this :

Whence things have their origin,

Thence also their destruction happens,

As is the order of things;

For they execute the sentence upon one another

* The condemnation for the crime -

In conformity with the ordinance of Time.

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Interpretations

Nietzsche , in his Philosophy in the Tragic Age of the Greeks , claimed that Anaximander was a pessimist. Anaximander asserted that the primal being of the world was state of indefiniteness. In accordance with this, anything definite has to eventually pass back into indefiniteness. In other words, Anaximander viewed "...all coming-to-be as though it were an illegitimate emancipation from eternal being , a wrong for which destruction is the only penance." (Ibid., § 4) The world of individual objects, in this way of thinking, has no worth and should perish.

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Known Works

On Nature , circa ? (fragment survives)

Subject

Philosophy

Referenced in

Simplicus

Authenticity

Likely

Map , circa ? (lost )

Subject

(First?) Map of his Known World

Referenced in

Agathemerus , Geographie informatio

Authenticity

Likely

Some of Anaximander's ideas were also preserved in Theophrastus 's (lost ) history of philosophy, and re-quoted by later authors.

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Honors

* Anaximander crater on the Moon , at 66N, 48W, is named after him . For a picture, see:

* http://www.dirkcouprie.nl/Anaximander.html

* The asteroid 6006 Anaximandros is also named after him .

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References

Dirk L.Couprie, Roobert Hahn, and Gerard Naddaf, 2003. 'Anaximander in Context: New Studies in the Origins of Greek Philosophy', Albany N.Y.: State University of New York Press

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See also

* Milesian school

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External links

* "http://www.utm.edu/research/iep/a/anaximan.htm " Anaximander from The Internet Encyclopedia of Philosophy.

* "http://www.dirkcouprie.nl/Anaximander-bibliography.htm " for an extensive bibliography.

This article incorporates text from the 1911 Encyclopædia Britannica , which is in the public domain .

http://ameblo.jp/renshi/entry-10007228153.html

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


http://d.hatena.ne.jp/antares/20100626



「偽装自我」と「真正な無我」:+1凹i*+1凸i=+1の民主党指導層?
以下、生成門氏の偽装自我VS真正の無我の視点は興味深い。
 これは、意識と無意識(潜在意識)にも関係しよう。私は民主党の左派的人間の自我とその反動性の力学をどう解明しようかとは感じていたのでもあった。
 言うことと為すことがまったく乖離し、正反対になっている民主党の指導部であるが、それは偽装自我の視点で説明できよう。他者、凹iが欠落しているのである。正確に言えば、-1凹i(第三象限)の他者である。だから、他者偽装するのである。「コンクリートから人へ」。
 思うに、純粋な(?)自我の人は、+1凸i(第一象限)であり、他者偽装しない。ストレートである。他者偽装するのは下心があるからである。それは、+1凹i(第四象限)であろう。これが、他者偽装するのである。
 そう見ると、民主党指導層は、+1凹i(他者偽装)と+i凸i(自我)の二重人格であると言えよう。選挙では、前者が前面に出て、後者を引っ込める。そして、選挙に勝つと、逆転して、前者が消えて、後者となる。
 かれらに「個」ないし真正の無我がないのは、-1の超越性が欠落しているからである。つねに、二重性を使い分ける、悪賢い人間なのである。しかしながら、真実、真理は、-1の領域ないし第二象限か第三象限に存するのである。故に、彼らは愚鈍・愚劣でもあるのである。
 意識と潜在意識で言えば、意識が自我であり、潜在意識が偽装他者である。
 ここから、ペテン師の真相がわかる。偽装他者(偽装自我)を使って、欺し、自我利益+1を獲得するのである。
 外交もこの面が強いだろう。ただし、常に、-1をもっていないと、見透かされ、馬鹿にされる、民主党指導層のように。小沢一郎が一目置かれるのは、あるいは、恐れられるのは、-1、ないしは、第二象限と第三象限があるからである。誠意、誠実さとは-1に拠るのである。
 ここから、政治教育がはっきり認識される。プラトン哲学も、-1の認識を目指したものと言えよう。

参照:人間認識図(by Mr Kaisetsu)

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
********************

本来、+1凹iは自我の対称性である無我ですから、無我の心−1凹iの反転した現れのはずですが、+1凸iの自我から反動した+1凹iは、無我ではなく擬装自我なのです。つまり無我のように見えて真正の無我ではなく、恨みを抱えた自我なのです。

+1の反動

+1凸i=自我→(反動)→+1凹i=無我(擬装自我)

−1からの反転

−1凸i(凹i?)=無我の心→(反転)→+1凹i=真正の無我


擬装自我と真正の無我の心との戦いが、この物語の主人公チュモンの生き様であり、テーマでもあるのです。

無我の心とは−1凹iであり、それを反転した+1凹iが真正の無我の自己であり、自我+1凸iから反動したのが+1凹iの擬装自我なのです。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100098199050

* チュモンというベクトル・モード(1):恨みは進化の原動力 (1)

シムダンス「四次元能」

参考:
東明聖王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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曖昧さ回避 この項目では、歴史上の人物について記述しています。この人をモデルにしたドラマについては「朱蒙 (テレビドラマ) 」をご覧ください。
東明聖王
Goguryeo-monarchs(1-6).PNG
各種表記
ハングル : 동명성왕
現地における漢字 : 東明聖王
現地語読みの片仮名 表記: トンミョンソンワン
英語 : Dongmyeong-seongwang
表 ・話 ・編 ・歴

東明聖王(とうめいせいおう、(紀元前58年 - 紀元前19年 )は、高句麗 の初代国王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年 )であり、東明王とも呼ばれる。姓は高、諱 は朱蒙(しゅもう、주몽、チュモン)または鄒牟(すうむ、추모、チュム)、衆解(しゅうかい、중해、チュンヘ)とされる[1] 。天帝の子を自称する解慕漱 (かいぼそう、해모수、ヘモス)の子、または扶余 の金蛙王 (きんあおう、금와왕、クムワワン)の庶子とされる。扶余の7人の王子と対立し、卒本(チョルボン 遼寧省 本渓市 桓仁 )に亡命して高句麗を建国し、初代の王となった。
建国神話 [編集 ]

「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、扶余・高句麗・百済 に共通して見られるが、歴史的にみれば扶余建国神話の東明と高句麗始祖の朱蒙とは別の人物だと見当がつく。しかしながら東明伝説も朱蒙伝説も筋書が構造的に共通するところが多く、その特徴は檀君 神話と同じく、王の政治的権威の源泉を天に帰属させながら、農業生産を左右する水の神霊の権威を同時に主張することである。ここでは高句麗の建国神話を『三国史記 』に基づいて記述する。扶余の建国神話については後述。百済の始祖神話については、「温祚王#建国神話 」を参照。
天の神の子 [編集 ]

朱蒙は河伯 (ハベク、水神)の娘である柳花(りゅうか、ユファ)を、天帝の子を自称する解慕漱(かいぼそうヘ・モス)が孕ませて出来た子と言う。父の怒りを買って扶余 王の金蛙の所へ送られた柳花を金蛙王が屋敷の中に閉じ込めていると、日の光が柳花を照らし、柳花が身を引いて逃げても日の光がこれを追って照らし、このようにして柳花は身ごもり、やがて大きな卵を産んだ(古代朝鮮では卵は神聖なものとされており、この話は朱蒙を神格化するためのものであると考えられる)。金蛙王はそれを気味が悪いとし、豚小屋などに捨てさせるが、豚がおびえて近かづかなかった。金蛙王はあらゆるところに捨てようとしたが、鳥が卵を抱いて守った。終いには自らで壊そうとしたが硬くて壊せなかった。数日後卵が割れ、男の子が生まれた。それが朱蒙である。
金蛙王の7人の王子たちとの対立 [編集 ]

朱蒙の名の由来は東扶余の言葉で弓 の達人と言う意味である。朱蒙は名のとおり、弓の達人であったために7人の王子に睨まれた。

朱蒙が20歳になったとき烏伊・摩利・陝父(オイ・マリ・ヒョッポ)の家臣ができた。ある日その3人と一緒に狩に出かけた朱蒙は金蛙王(クムワ)の7人の王子と出会ってしまった。王子たちは1匹の鹿 しか捕まえられなかったが、朱蒙は6匹の鹿を捕まえた。王子たちは落ち込んだが、もう一度狩りをすることになった。王子たちは朱蒙たちの獲物を奪い、朱蒙たちを木に縛って王宮に帰ってしまった。朱蒙は木を引っこ抜き、縄を切って3人の家来たちを助け、王宮に帰った。これを知った、7人の王子たちは父である金蛙王に讒言し、朱蒙を馬小屋の番人にしてしまった。

母親である柳花は朱蒙を脱出させようと考え、良い馬を選ばせることを決心した。そして朱蒙はある馬屋に行って幾多の馬に鞭を振り回し、その中で一番高く飛び上がった馬の舌に針をさしておいた。その馬はまともに食べることができなくなり、痩せて格好悪くなってしまった。金蛙王がその馬を朱蒙に与えた後、朱蒙は馬の舌からやっと針を抜き出し、三日間にわたってその馬に餌を食べさせた。
亡命と建国 [編集 ]

朱蒙は烏伊・摩離・陝父らとともに旅に出た。淹D水(鴨緑江の東北)まで来たときに橋がなく、追っ手に追いつかれるのを恐れて、川に向かって「私は天帝の子で河伯(水神)の外孫である。今日、逃走してきたが追っ手が迫ろうとしている。どうすればいいだろうか」と言った。そうすると、魚や鼈(スッポン)が浮かんできて橋を作り、朱蒙たちは渡ることができた。朱蒙たちが渡り終わると魚たちの橋は解かれ、追っ手は河を渡れなかった。さらに進んで卒本に至って都邑を決め、漢 の孝元帝 の建昭 2年(西暦紀元前37年 )、新羅 祖の赫居世 21年の甲申歳(紀元前37年)に国を建て高句麗 とした。即位直後より辺方を侵略した靺鞨 族を討伐して高句麗の民とし、沸流国松譲王の降参を受け、太白山(白頭山 )東南の荇人(ヘンイン)国を征伐し、紀元前28年には北沃沮 を滅亡させた。
王位の継承 [編集 ]

紀元前19年5月、王子の類利(るいり、ユリ、後の瑠璃明王 )がその母(礼氏)とともに扶余から逃れてきた。朱蒙はこのことを喜び、類利を太子として後に王位を受け継がせた。同年9月に朱蒙は40歳で亡くなり、龍山に葬られて諡 号を東明聖王とされた。
建国の年 [編集 ]

『三国史記 』高句麗本紀に広開土王 は東明聖王の12世孫とするが、好太王碑(広開土王碑 )では好太王は鄒牟王の17世孫とする。このことから高句麗の建国となった甲申歳を紀元前277年にする説もある。また、『三国史記』は新羅 王室に連なる慶州金氏 の金富軾 が編纂したものであり、新羅中心主義的な記述とするために高句麗の建国年を新羅の建国よりも後にした、との見方もされている。
扶余の建国伝説との比較 [編集 ]

『後漢書 』夫余伝に見られる建国神話は、以下の通り。

昔、北方に索離国という国があり、王の婢が言われなく身籠ったため、王はこの婢を殺そうとした。婢は「天空に神聖なる気が立ちこめ、私に降り注いだために身籠ったのです」と答えた。王はこの婢を軟禁し、後に男子が生まれた。王はこの子を豚に食べさせようとして豚小屋の前に置いたが、案に相違して豚は息を吹きかけてその子を守ろうとし、死ぬことがなかった。王は今度は馬小屋に持っていったが、馬も同じようにその子を守ろうとした。王はこれは神意を表すものと思い、その母を許してその男子を東明と名づけた。東明は成長して弓術に優れたので、王は東明の勇猛振りを恐れて、これを殺そうと考えた。そこで東明は南方へ逃走し、掩D水に至った。川に向かって東明が弓を射ると、魚や鼈が浮かんできて橋を作り、東明はこれに乗って渡り逃れることができた。そして夫余の地に至って王となった。

「扶余の始祖としての東明」の伝説は、古くは『論衡 』吉験篇に見られる。また、『三国志 』夫余伝が『魏略 』からの孫引きとして伝えており、これらの史書の中の高句麗伝では、始祖伝説は見られない。『魏書 』に至って扶余伝はなくなり、代わりに高句麗伝のなかで高句麗の始祖伝説が伝えられるようになった。その伝説の骨子は、元来の東明伝説(扶余の建国神話)に、河伯(水神)の外孫であること、卵生であること、という要素が加わって、高句麗が扶余から出たこと、名を朱蒙とするというものである。また、東明伝説において東明が弓術に優れていたとするのと呼応するように、「朱蒙」という語は「善射」を意味する、とも書かれる。後に高麗 の時代になって、『三国史記 』(1145年 撰上)では、高句麗の始祖を「諱 が朱蒙、諡 が東明聖王」とするようになり、高麗の詩人である李奎報 (1168年-1241年)の叙事詩「東明王篇」(1194年 )においても、高句麗の始祖を東明王と同一視するようになった。さらには『三国遺事 』の時代になって民族的統合の象徴として檀君 に系譜化され、「東明王である朱蒙は檀君の子である」とされるようになったと考えられている。

従来より、扶余の東明伝説と高句麗の朱蒙伝説との共通構造から、両者の民族的同一性が唱えられてきた。しかしこれらの始祖伝説は単純に同一とはみなせず、高句麗の始祖伝説には南方系の卵生型説話の要素を含んでいることや、広開土王碑 文や『魏書』高句麗伝には「東明」の表現が見られないことなどから、東明伝説の構成を元に高句麗独自の概念を踏まえた始祖伝説が形成され、後には『三国史記 』には東明聖王と朱蒙とが同一視されたもの、と考えられている。
陵墓 [編集 ]

東明聖王の陵墓は平壌市 の東方25Kmの地点に推定陵墓が存在し、東明王陵と称されている。元来は集安 にあったものを、平壌遷都とともに遷されている。1993年 5月14日 に金日成 の指示により整備が行われ、敷地面積約220ha、王陵区域、定陵寺区域、陪墳区域が整備された。陵墓は1辺32m、高さ11.5mであり、周囲には中門、祭祀堂、石像などが設けられている。玄室内部には29種の壁画が描かれている。
東明聖王が登場する作品 [編集 ]

* 朱蒙 (テレビドラマ) (2006年、演:ソン・イルグク )

脚注 [編集 ]

1. ^ 高句麗語 に声調 があったかわからないが、中国語 とベトナム語 において「蒙」字は平声 東韻で、「解」字は上声 蟹韻で読まれている。

参考文献 [編集 ]

* 『三国史記 』第2巻 金富軾 撰 井上秀雄 訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
* 『朝鮮史』 武田幸男 編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5

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表 ・話 ・編 ・歴
高句麗王 (初代:前37年 - 前19年 )

東明聖王 / 瑠璃明王 / 大武神王 / 閔中王 / 慕本王 / 太祖大王 / 次大王 / 新大王 / 故国川王 / 山上王 / 東川王 / 中川王 / 西川王 / 烽上王 / 美川王 / 故国原王 / 小獣林王 / 故国壌王 / 好太王 / 長寿王 / 文咨明王 / 安臧王 ‎ / 安原王 / 陽原王 / 平原王 / 嬰陽王 / 栄留王 / 宝臧王
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