INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/11

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年11月29日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:言語と知覚・認識:精神的フィルターにおける言語的視覚と光現象の重ね合わせ
おそらく、言語が対象を生み出していると言ってもいいくらいだろう。
 「山」という言葉が山という対象を生み出している。だから、対象を見ているつもりでも、実は、言語を仲介して見ているのだ。言語を-1とすると、これによって、⇒+1ないしは+1を見ていることになるだろう。思うに、言語的対象的世界とは、-1の世界ではないのか。現象は本来、⇒+1である。近代的物質的世界とは、-1ではないのか。
 後でさらに検討したい。

追記:この問題は当然、構造主義と関係するし、また、カントの超越論的形式と関係する。
 先の考察から言えば、精神的フィルターにおける言語的同一性が客観的対象を作り出しているということになる。
 これまでの考察から言うと、即非・差異共振現象において、人間は発話する。例えば、鳥を見たとき、人間は鳥と即非様態となり、そこから、鳥という言葉が生まれる。思うに、原初的発話とは、差異的発話であり、同一性はなかったと思われる。つまり、発話は差異的であった。 
 では、どうして同一性を形成したのか。それは即非・差異共振エネルギーが衰退するにつれて、実数性が強化されるからではないだろうか。つまり、原初的発話は(+i)*(-i)⇒+1であった。つまり、その発話は⇒+1である。
 しかしながら、エネルギーが衰退して、+1が分離される。そして、+iの傾斜が-1を産む。思うに、+1と-1との結びつきが、言語的同一性を形成するのではないだろうか。原初的発話は差異共振的でありながらも、過程的に同一性へと帰結するのではないだろうか。
 では、+1と-1との結びつきとは何だろうか。結びつきというより、構造と見たが方がいいかもしれない。精神的フィルターにおける同一性構造として、±1が生起するということではないのだろうか。
 ここで作業仮説ないし思考実験として、-1と+1の積を想定しよう。つまり、結果は-1である。つまり、+1を言語-1は、-1に変えてしまうのではないか。そして、+1を喪失するのではないのか。
 これは、ルシファー/アンラ・マンユ化と言えよう。そう、現象(⇒+1)を-1の同一性ないしは「物質」に転換させてしまうのではないだろうか。唯物論化である。
 少し違う角度で言えば、-1の視覚(フレーム)で、+1ないしは⇒+1を見ているのである。光現象、差異共振現象、即非現象を-1の言語的視覚で見ているのであり、その結果、現象は物質化されるということではないだろうか。
 -1の言語的視覚はルシファー/アンラ・マンユに拠るものと考えられる。これは、冷暗な視覚である。冷酷な視覚である。斬る視覚である。当然、憎悪の視覚である。利己的な視覚である。
 結局、-1を脱構造化する必要があるのである。そのためには、強い+iによって否定された絶対的他者である-iを取り戻す必要があるのである。
 そう、-iは身体内に抑圧されるのである。だから、身体を「発掘」する必要があるのである。身体の基層を再発見する必要があるのである。身体に他者が存するのである。光は身体内に存するのである。
 後でさらに検討したい。


2009年11月28日(Sat)▲ページの先頭へ
差異的知性と同一性言語知性:トランス・モダン知性と東洋的身体の不連続的形成
この問題は以前から気になっていたのであるが、光の問題が解明されたので、
http://ameblo.jp/renshi/entry-10398589136.html
今、ここで検討したい。
 思考は確かに、頭脳で行う。しかし、正確に言えば、複雑であり、精神性や身体性を背景にもっている。
 問題は差異的思考と言語的同一性思考の局所についてである。
 具体的に考えよう。「わたし」が考えるとき、確かに、言語を介して、通して思考する。「わたし」は差異的に思考する。しかし、言語は同一性である。この一種の矛盾をどう見るのか。
 例えば、「森」という言葉を使用するとき、「わたし」は他者として「森」を考えているのであり、他者としての「森」に対して、「森」という言語を当てるのである。
 つまり、「わたし」の精神や内面や心象における他者を意識して、同一性である言語を当てているのであり、当然、他者(差異的他者)が主であり、言語(同一性)は従である。
 これで、本件はほぼ解明されたと言えよう。つまり、差異的思考とは、主体の精神、内面、心象、直感等において為されるものであり、それに対して、同一性の言語の器を当てて、差異的思考を明確化、合理化するのである。つまり、言語的同一性はいわば、指標に過ぎない。それは、目印である。差異的他者である「森」に対する指標に過ぎないのである。
 だから、差異的思考と言語的同一性思考は局所的にズレがあるのである。差異的思考においては、思考と言語とのズレがあるのであるが、言語的同一性思考は、思考と言語が一体化、連続化しているのであり、物事を正確に認識できないと言える。(鳩山首相がこのタイプである。)
 また、近代合理主義、近代的自我は当然このタイプであり、心眼がないのである。換言すると、真正な思考力がないために、真正な知性が形成されないのである。これは、衰退、退行をもたらす。今日の日本に知的創造的活力がないのは、ここに原因があると考えられる。端的に、有り体に言えば、現代日本人は思考していないのである。何も考えていないのである。同一性マシーンに過ぎない。
 結局、知性・知力を形成するには、内的他者、内的身体的他者を取り戻す必要がある。東洋的身体性を形成する必要があるのである。また、瞑想的思考・内省を培う必要があるのである。道教的に言えば、丹田を形成する必要がある。下丹田(肚)と中丹田(胸)と上丹田(頭)を均衡的に形成する必要がある。もっとも、大事なのは、このような身体的精神と言語的同一性は不連続であることをしかと認識することである。これで、抽象的にならず、具体的な知性を形成できるのである。

参照:
道教復興:下丹田(肚)の復権
テーマ:日本新生・東洋ルネサンス
東洋思想とは、身体思想である。これによって、西洋思想との区別が自明である。
 しかるに、近代日本、とりわけ、戦後日本は、東洋思想を切り捨てたのである。
 伝統的日本文化は、肚の思想をもっていた。これは、道教で言えば、下丹田の思想だと思う。因みに、道教では、上丹田(頭)ー中丹田(心臓)ー下丹田(肚)の身体性を説いている。(インドのヨガでは、七つのチャクラを説いている。)
 作業仮説するが、PS理論の+iが上丹田であり、-iが下丹田であり、Media Pointが中丹田はないだろうかと思うのである。
 今日、下丹田-iが喪失されていると思う。近代合理主義=近代的自我は、これを否定してきたと考えられる。そして、現代日本人の堕落が生じたのである。

追記:時間がないので、精緻に考察できないのが残念である。私が問題にしたかったのは、「近代化」は、中丹田から上丹田へかけての意識形成を行い、下丹田を抑圧・排除しているということである。
 つまり、中丹田に関わるので、Media Pointはそれなりに存するが、しかし、下丹田が排除されているために、Media Pointが上丹田的な同一性と連続化していると思われるのである。つまり、利己主義化された中丹田になっているのである。
 下丹田を「啓蒙」化するならば、中丹田は、超越化されるようになると考えれる。そこで、下丹田の差異と上丹田の同一性が衝突するのである。しかしながら、中丹田ー下丹田の領域と中丹田ー上丹田の領域は不連続であるとして、絶対的に切断することで、この衝突は、「調和」されるようになると考えられるのである。
 思うに、下丹田とは、小宇宙・ミクロコスモスだと思う。いわゆる、神秘主義は、ここから発するだろう。
 とまれ、余裕のあるとき精緻に考察を行いたい。

後記:今日の日本人にリリシズムが欠落しているのは、下丹田が埋もれているため、豊かな精神の水源が塞止められているためと考えられる。三島由紀夫が「断絃の時」と言ったが、これは、下丹田の喪失をしよう。これが、とりわけ、戦後に起ったと考えられる。日本民族・日本文化の絶滅の危機である。
 
参考:
丹田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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丹田(たんでん)は、内丹術 で仙人 になるための霊薬 仙丹を練るため気 を集め練る体内の部位。東洋医学 における関元穴 に相当し、へその下3寸(へそと恥骨稜の間を5寸とする)に位置する。

意味は気 の田 のこと。古くは『素問 』遺篇本病論に「神游上丹田」、邊韶の書『老子銘』に「存想丹田」、張仲景の『金匱要略 』にもみられる。これらは後漢 (3世紀前半)の書として伝来するが、文献学的には唐代以後のものである。内丹術では、気を材料として下丹田を炉とみなし、呼吸 をフイゴとして仙丹を練る。なお女性の場合は乳房の間の膻中穴 を炉とする。

解剖学 的には該当臓器などはないが、心身医学 の領域では、自律神経 の働きと免疫 機構の関係が注目され、太陽神経叢 が丹田に相当すると考えられている。

丹田は男性での名称で、両眉の間にある上丹田、心臓の下にある中丹田、ヘソ下3寸(約9cm)にある下丹田などがある。上丹田は、鼎、泥丸(ニルヴァーナ(涅槃 )の漢字の音訳)という。下丹田は地、臍下丹田(せいかたんでん)、気海丹田(きかいたんでん)などとも呼ばれ、単純に丹田と言った場合、下丹田のことを指していうことが多い。丹田の概念はインドのヨーガ思想を模倣したものと言われる。

関連項目 [編集 ]

* 呼吸法
* 調和道丹田呼吸法
* 腹式呼吸
* 肥田春充
* 肥田式強健術

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%B0 " より作成
カテゴリ : 錬丹術 | 身体論

身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生

身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生
齋藤 孝/著 NHKブックス



◆ 日本は「腰肚(こしはら)文化」


日本の伝統的な文化は「腰肚文化」に集約されるのではないでしょうか。

腰や肚は精神的なことも含んでいますが、その基盤には腰や肚の身体感覚が実際にあるのです。

「腰をすえる」や「肚を決める」は、文化によって身につけられる身体感覚です。

腰と肚の身体感覚が強調されることにより、からだの「中心感覚」が明確にされるのです。
http://blog.livedoor.jp/longpa/archives/11396692.html
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


光と同一性:近代合理主義と闇の光:トランス・モダン・ライト:光の復活
この問題は以前検討したが、まだ不明確であるので、考察を行いたい。
 問題点を簡単に言えば、視覚中心主義と同一性主義が結びついているのではないのかということである。言い換えると、視覚中心主義はMedia Point、精神的フィルターを抑圧するのではないのかということである。
 光とは本来、Media Pointから生まれるものであり、元は大光である。つまり、大光⇒光である。
 しかし、近代合理主義(唯物論)が強化されると、Media Point(精神的フィルター)が抑圧されて、同一性主義になる。すると、大光が「知覚」されなくなり、光だけが知覚されるようになると考えられる。
 
 少し見方を変えよう。光自体は大光である。ただ、近代合理主義(近代的自我、同一性的自己、唯物論)の視点で大光を見ると、「光」にしか見えないのである。
 「光」とは、同一性のフレーム(愚樵氏の知的フレームと同じである)で見られた大光のことである。この同一性のフレームは言語的フレームと言えよう。つまり、言語を介して、現象を同一性化すると考えられる。即ち、言語的同一性が「光」を「作り出している」と言える。
 言い換えると、精神的フィルターの同一性志向性が「光」を「形成」している。
 具体的に考察しよう。ある対象があるとしよう。それを「わたし」は視覚する。言語的同一性の精神的フィルターから、対象を、例えば、森と知覚する。
 森自体は他者であり、絶対的差異であるが、言語的同一性フィルターによって、対象は「森」として同一性化されるのである。
 そして、太陽が照らすと、森の中は木漏れ日となる。木漏れ日も言語である限り、同一性である。
 そう、ここで指摘しなくてはいけないのは、正に、客観的対象化があることである。「わたし」とは別の空間に森があるということである。この客観的対象化も同一性の作用である。
 つまり、「わたし」とは別に森が存在するのであり、「わたし」は森ではないという同一性論理(アリストテレス論理)があるのである。
 この同一性論理によって、「わたし」のMedia Point/精神的フィルターは、抑圧される傾向にあるのである。
 というのは、Media Point/精神的フィルターとは本来、即非論理、差異共振論理をもつのであり、同一性論理を否定するものであるから、両者は齟齬の関係であり、同一性論理が中心化されれば(ロゴス中心主義)、当然、即非論理、差異共振論理は否定されざるをえないのであり、Media Point/精神的フィルターが抑圧されることになるのである。
 デリダが説いたように、西洋文明はロゴス中心主義であり、正に、言語的同一性に支配された文明である。これによって、西欧近代文明、近代合理主義・近代科学(唯物論的科学が生まれたのであり、その結果、同一性論理が世界化したのである。
 だから、大光は「光」になったのである。つまり、本来の大光を同一性的精神的フィルターのために、「光」と視覚しているのである。
 より簡明に述べれば、光を「光」と視覚しているのである。つまり、光を見ていないのである。
 では、「光」、同一性化された光とは何か。それは、いわば、物質的光である。アンラ・マンユ化された光である。言わば、冷暗の光である。あるいは、闇の光である。つまり、今日、一般に、光を視ているのではなく、闇の光を視ているのである。
 とりわけ、現代日本人は闇の光(悪魔の光)を視ているのである。例えば、明らかにペテン師とわかるコイズミ元首相を選んだ人の眼は光が見えずに、闇の光を視ているので、闇を光と取り違えたのである。
 この闇の光、悪魔の光、同一性の光であるが、それは、PS理論では、-1ではないだろうか。⇒+1であり、+1が光子であろう。つまり、ルシファー化されたアンラ・マンユであり、光(⇒+1)を-1と視ているのである。
 これはまた、視覚だけでなく、聴覚やその他の感覚でも同様である。
 同一性の感覚で諸事を知覚しているのであり、差異として物事を知覚していないのである。だから、今日の出鱈目の音楽が日本では作られているのである。つまり、芸術が同一性化されて、死滅したのである。(文学も同じである。村上春樹の文学は、同一性に支配された文学と言えよう。)
 言い換えると、闇の感覚知覚に現代日本人は陥っているのである。光の感覚知覚を抑圧して、喪失しているのである。
 言い換えると、同一性機械の人間になっているのである。同一性ロボットである。つまり、個として生きていないのである。同一性物質機械として生きているのである。亡魂亡霊の日本人である。死せる日本人である。この世があの世なのである。死者としての日本人である。魂抜け、脱魂状態なのである。(三島由紀夫が「文化防衛論」で述べている断絃の時が戦後起きたのである。)
 とまれ、差異を取り戻す必要があるのである。それは、光の復活である。太陽の復活である。日の復活である。そして、「日国」の復活である。
 また、身体において、他者を取り戻さないといけない。身体的他者、内的身体的他者である。それは、-iである。
 -iを積極的に肯定することにより、同一性主体(-1)化された+i(本来、差異的主体)が脱構築されて、即非化・差異共振化が復活するのである。
 それにより、差異的主体+iは差異的他者-iと即非・共振して、光(⇒+1)を再発見するのである。
 以上で本件は解明されたとする。


2009年11月27日(Fri)▲ページの先頭へ
牛頭天王と女神信仰
牛頭天王については、これまで考察したことはなかったが、牛の頭ということで、これは、女神の信仰に通ずるのではないかと思った。当然、ヒンドゥー教とも関係する。
 そうすると、仏教と女神の信仰との関係が示唆されている。
 また、武塔神という点では、シャーマニズムと関係があるので、やはり、女神の文化に近いだろう。
 また、武塔神の「民話」は、傘地蔵やゼウスの民話的神話に似ている。
 また、悪を滅ぼすという点では、聖書のロトの話を想起する。いわば、義人救済の神話である。
 先に転載した記事では、近世の神道家や国学者にとっては、「まことに疎ましく目障りなもの」とあった。
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/minoh/gozutenno.htm
国学はキリスト教の影響を受けて一神教的になったと考えると、これは意味深長である。女神信仰や多神教をやはり想起する。今はここで留める。 

追記:端的に言えば、Media Point、精神的フィルターの様態ではないだろうか。一神教ないしは父権制の思考にとっては、それは否定の対象である。有り体に言えば、憎悪の対象である。一神教や父権制は多神教と母権制にがまんがならないのである。
 
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参照:
蘇民将来
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蘇民将来(そみんしょうらい 蘇民將來)とは近畿地方 を中心に日本各地に伝わる説話 、およびそれを起源とする民間信仰 である。

古くは『釈日本紀 』(卜部兼方 鎌倉時代 中期)に引用された『備後国風土記 』逸文 の疫隈國社 に見えるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神 (むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来 こたんしょうらいとされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神 は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘には茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。武塔神 は速須佐雄能神(スサノオ )を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。

この逸話を基に岩手県 内を始め各地に伝わる蘇民祭 を始め、京都の八坂神社 や伊勢 ・志摩 地方の年中行事で厄除け祈願として、茅の輪 潜りや蘇民将来護符の頒布、注連飾り などの祭祀が盛んに行われている。

また、川村湊 は『牛頭天王 と蘇民将来伝説』(作品社、2007年)にて武塔神 (むとうしん)と妻女頗梨采女 (はりさいじょ)の関係と朝鮮 土俗宗教である巫堂 (ムーダン)とバリ公主 神話(パリ公主神話)の関係について関連があるではないかとの説を述べている。


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「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%B0%91%E5%B0%86%E6%9D%A5 」より作成
カテゴリ : 民間信仰 | 日本の年中行事 | 厄除け | 説話

武塔神
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武塔神(むとうしん)は、蘇民将来 説話 に登場する神。武塔(むたふ)の神、武塔天神とも。卜部兼方 が13世紀 後半に著した『釈日本紀 』にも引かれている『備後国風土記 逸文 』の「疫隈國社 (えのくまのくにつやしろ)」)が初見である。

武塔の神は北海の神で、嫁取りに南海に訪れたとされ、自ら「吾は速須佐能神(すさのおのかみ)なり」と称している。ゆえにスサノオ と同一視される。 武塔は固有名詞ではなく、朝鮮の武塔(ムータン)の台形状の聖所にある神の意味と言われる。 ムータンという言葉は、朝鮮では、巫堂mudang というシャーマン 的存在が知られる。中国語にはmudan(牡丹)という語があり、 また毘沙門天 と唐 代の武将李靖 (571年 - 649年)が習合した道教の神である托塔天王と関連付ける説もある。

『備後国風土記逸文』の武塔神の説話は、のちに牛頭天王 の説話『祇園牛頭天王縁起』へと話がスケールアップしている。

武塔神の弟の巨旦将来 は、夜叉国の巨旦大王(金神)になり、武塔神は「身の丈七尺五寸の大男・牛頭をした太子」牛頭天王 へと変化し、巨旦大王と戦争まで起こしている。牛頭天王は、摩訶陀国 (まかだこく)の王舎城 (マガダのラージャグリハ)の大王とされる。

* 『伊呂波字類抄 』によれば、「天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神とも云う。」としており、八王子と8万4654の眷属神をもつとする。

* 陰陽道 の教典の一つである「刃辛(ほき)内伝」では天刑星(てんぎょうしょう)の神の転生で、吉祥天 の王舎城の大王で商貴帝と呼ばれる。

* 「九相国」はときに「倶相国」「吉祥国」「豊饒国」等と記述されるが同じである。

関連項目 [編集 ]

* スサノオ
* 牛頭天王
* 蘇民将来
* 金神

執筆の途中です この「武塔神」は神道 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています (ポータル 神道 /ウィキプロジェクト 神道 )。
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カテゴリ : 民間信仰 | 日本の神 | 説話

バリ公主神話(口伝神話)



1. 概要

 バリ公主(王女)の両親は、占いの結果を無視して厄年に結婚し、世継ぎの太子を望んでいたが、それとは裏腹に七人の公主が次から次へと生まれ、激怒した父親は末っ子であるバリ公主を捨てるように命じる。
 バリ公主を捨てたため、両親は不治の病にかかるが、捜し出されたバリ公主が、親の命を助けるため西天西域国へ薬水を求めて旅立つことになる。
 途中、様々な苦難が待ち受けているが、釈尊、地蔵菩薩、弥勒菩薩、神などの加護で、その苦難を乗り越える。最後に、神(弥勒)と結婚し、九年間に息子七人を産み献じ、その見返りとして薬水をもらい、親のところへ帰る。
 そこですでに亡くなっていた両親を甦らせ、その褒美として、バリ公主とその息子たちは、十王またはそれに準ずる神となる。 (金香淑 『朝鮮の口伝神話―バリ公主神話集』 1998和泉書院 p.22〜23)
 

・死霊祭において巫堂(ムーダン)により唱えられる、バリ公主を主人公とした代表的な巫歌。口伝であるため異本が多い。

・バリ公主のバリは「捨てる(バリダ)」という動詞からきている。公主は王女。地方によってはベリテギと呼ばれるが、これは「捨て子」のこと。他に七公主(七番目の娘から)、オグ大王解(父親がオグ大王と呼ばれていたことから)などの呼び名もある。

・バリ公主は、両親を甦らせたことから、巫祖の神として死霊を極楽へ連れて行くとされる。

・「死霊祭の巫歌に(使われ)…、さらに満州・蒙古地域の巫歌との共通点も(あることから)…、@生き返らすモチーフの上にA捨て子の要素の結合、さらにB 男女の対立、C姉妹の葛藤とD孝の要素(など)が潤色されたものと思われる」(崔吉城『韓国のシャーマニズム』p.397)

・「棄子」や「母神と若い息子神」は多くの始祖神話にも見られるパターンである。

・バリ公主神話は、もともと(イザナギのように)死の国への旅であったが、その後道教・仏教などの影響を受け、西天、西域国あるいは玉皇の天上界への旅となったと考えられる。

・虐げられた末娘の孝行話はシェークスピア「リア王」を連想させる。

・孝行娘が試練を経て病気の親を救う話は、有名なパンソリの「沈清伝」のテーマでもある。

・このような巫俗における父娘関係の重視は、儒教において父息子関係が重視されているのと対照的である。

・他人の救済のため生きたまま天上界を往来するバリ公主の行動はまさにシャーマンである。

・薬水を得るために耐えねばならない艱難辛苦はシャーマンのイニシエーションを象徴しているといえる。



2. 全文

 金東里 『巫女 乙火(韓国文化選書3)』 1982成甲書房からの引用(p.197〜219)。巫女である乙火がクッのなかでバリ公主神話を唱えるシーン。内容はソウル地方のものと思われるが、上の概要とは異なる部分もある。

 庭にいっぱいの、群衆の息づかいすら、とまったかのように静まりかえった。その静寂を破って、杖鼓の音が二回くらい鳴ると、こんどは乙火のしわがれたような情愛のこもった声がおちついて唱えられはじめた。
「ベリテキ(*)、出てくれ!」
 このひと声に、たちまち、ア!と感嘆する声まで聞こえた。
 乙火は黒い宝石のように輝く両眼で、群衆をひとまわり眺めた後、右の手があげられるのと同時に、そのはりつくような声を再びはりあげた。

 * 「捨て子」の意味。=バリ公主。


http://homepage2.nifty.com/jiyudaigaku/kannkoku/bariteki.htm

シャーマニズム
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シャーマニズム(英 : Shamanism, シャマニズムとも)は、シャーマン (巫 師・祈祷師 )の能力 により成立している宗教 。シャーマンはツングース語 「šaman, シャマン」に由来し[1] 、トランス状態 に入って霊 (超自然的存在)と交信する現象を起こすとされる。この現象自体や現象に基づく思想 をシャーマニズムと呼ぶこともある(ミルチャ・エリアーデ など)。広義には地域 を問わず同様の宗教、現象、思想を総合してシャーマニズムと呼ぶ。アニミズム を伴うことが多く、実際の宗教形態においてはシャーマニズムのみが存在するということはほとんどない。
用語 [編集 ]

日本語における「シャーマニズム」「シャマニズム」の区別は、研究者の学問分野と密接な関係がある。北海道・樺太・シベリア・満州・モンゴル・朝鮮半島を中心とした北方文化圏の研究者の多くは「シャマン」「シャマニズム」という表記を用いてきた。ツングース語の発音は「シャマン」に近いとされる。一方、沖縄(琉球)・台湾・中国南部・東南アジア・インドを中心とした南方文化圏の研究者の多くは「シャーマン」「シャーマニズム」の表記を用いてきた。また欧米の民族学・人類学・宗教学の研究を紹介する際の翻訳語としては、「シャーマニズム」「シャマニズム」が任意に用いられている。堀一郎 の場合、「シャーマニズム」という表記にはこの対象を世界的視野で捉えようという意図が込められているという指摘がある。[2] 。
シャーマニズムの定義 [編集 ]

シャーマニズムの定義は学者によって様々である。まず地域であるが、北アジアに限られるとする説と、世界中の他の地域で見られる諸現象を含める説がある。また超自然的存在と交信する際、脱魂と憑依(憑霊)のどちらを基本と捉えるかについても意見が分かれている。エリアーデは脱魂(ecstasy)を本質的とするが、マッカロック(J. A. MacCullock)は憑依 (possession)を重視し、I. M. ルイスは一方を強調することを批判する。例えばシベリアなど北東アジア研究者は脱魂を重視し、東南アジアや南米の研究者は憑霊を重視し、日本や朝鮮半島の研究者は憑霊ないし折衷説をとる傾向がある[3] 。

佐々木宏幹によると、シャーマニズムには、次のような3つの要素があるとされる[4] 。

* トランスという特別の精神状態において脱魂(ecstasy)または憑依(憑霊)(possession)が行われる
* 神仏・精霊などの超自然的存在と直接接触・交流・交信
* 社会的に一定の役割を持つ信仰と行動の体系

トランスは、ある種の異常心理状態ではあるが、平常の社会人と半ば交流できる状態でもある。また演技的なものもあると考えられている。「脱魂」とは、ある人物の霊魂が身体を離脱することであり、「憑依(憑霊)」とは、神霊・精霊がある人物の身体に憑くことである。脱魂したシャーマンは、その間、超自然的存在と交流していて、その事情を報告する場合もあるが、憑依されたシャーマンは、その間のことを正気に返った時にまるで覚えていない場合が少なくない。また「憑霊(憑依)」はトランス状態になくても起こっていると考えられる場合がある[4] [5] 。 トランスパーソナル心理学 と変性意識状態 参照。


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アブラハムの宗教 における預言者 も一種のシャーマン(予言者型)と見ることもできるが、強い倫理観に基づき、神の意思として当時の社会を批判している点で特異である。
日本のシャーマン [編集 ]

『三国志 (歴史書) 』中魏志倭人伝 に記述されるいわゆる邪馬台国 の女王 の卑弥呼 が用いたという「鬼道」もシャーマニズムと言われている。

下北半島の恐山 におけるイタコ 、沖縄県周辺のユタ など、20世紀においても各所にシャーマンに当てはまる事例が報告されている。なおユタ(シャーマン)とノロ(祭司)とは役割が異なる。

ロト (聖書)
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洞窟の中のロトと娘たち

ロト(ヘブライ語 : לוֹט‎, Lot)は『旧約聖書 』の登場人物である。『創世記 』11章後半から14章、および19章に登場する。父はテラ の息子ハランであり、ロトはアブラハム の甥にあたる。また、『新約聖書 』では義人として紹介されている(『ペトロの手紙二 』2:7-8)。

アブラハムに伴って古代エジプト へ、そしてカナン へと旅をするが、アブラハムの牧夫とロトの牧夫との間に争いが起きたため、ロトは肥沃な土地である東方のヨルダン 地域へと移動し後にソドム へと移住する。エラムの王ケドルラオメルによってソドムが略奪されると、ロトの家族は家財もろとも捕虜として連れて行かれるが、そのことを伝え聞いたアブラハムによって救出される。

後に、天使がソドムに派遣され、ヤハヴェ がソドムとゴモラ を滅ぼすことを決定したことをロトに伝える。そこでロトは夜が明ける前にロトの妻 (ヘブライ語 : אשת לוט ‎ エシェット・ロット)[1] と2人の娘を伴ってソドムを脱出し、近隣の都市ツォアル(ベラ)へと向かう。逃げる際に「後ろを振り返ってはいけない 」と指示されていたが、ロトの妻は後ろを振り返ってしまい、「塩の柱」(ヘブライ語 : נציב מלח‎ ネツィヴ・メラー)となる。なお、『創世記』はロトの妻と娘たちの名を明らかにしていない。

その後、彼らは山中の洞窟に移住したが、ここで娘たちは父を酔わせ、父によって男子を1人ずつ生んだ。長女の息子は「モアブ (父親より)」と名付けられモアブ人の祖となり、また、次女の息子は「ベン・アミ(私の肉親の子)」と名付けられ後にアンモン の人々の祖となった。

ロトがいた洞窟とされる場所はビザンチン時代はキリスト教徒の巡礼地となり、教会が建造された。この教会の遺跡(アラビア語 : دير عين 'أباطة‎ UNGEGN 式: Deir 'Ain 'Abata デイル・アイン・アバタ)が死海 東南岸に残されている。教会横には「ロトの洞窟」が存在する。教会は現代のヨルダン王国カラク県に位置するが、カラク地域は歴史的には「モアブ」と呼ばれていた。洞窟で生まれたというモアブ人は鉄器時代には同地域に王国を築いていた。


2009年11月25日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:複素数としての即非子の仮説
即非子を複素数と仮説する。それを、CNとする。

CN=±cosθ±isinθ/2

ただし、θはkπとし、kは整数が入る。
例えば、k=1のとき、

CN=±1 ±i

となる。
これが、即非子の数式ではないだろうか。
もっとも、一般に、虚数が隠れているのである。正確に言えば、実数によって、隠蔽されているのである。
 +1は光であり、-1は闇である。しかしながら、±iの「光」と「闇」がある。
 もっとも、Media Pointにおいて、±iは即非・共振様態であり、超越光(超光)・即非・光の様態と考えられる。
 思うに、光と言った場合、本来は超越光と一如(いちにょ)であるが、一般的には、+1の光、いわば、物質的な光しか見ていない。
 有り体に言えば、「気」としての光を「見て」いないのである。光は不可視の「気」をもっているのである。それは、アストラル体(虚数波動)とエーテル体(実数波動)である。
 光+1とは、超越光の同一性的側面、表層ではないのか。
 今はここで留める。


2009年11月24日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:即非子の様態について
先に、即非子を仮説したが、虚軸様態と実軸様態の即非様態についてさらに考察してみたい。
 実軸様態は端的に光様態(現象)である。では、虚軸様態は何であろうか。私はこれまで、超越光と考えてきた。
 ここで比喩的に考えたい。通常、光のベールをかぶっているのである。そして、夜睡眠するとき、このベールが取れて、「闇」に入る。しかし、この「闇」は光の彼岸であり、実は、闇ではない。やはり、超越光(トランス・ライト)であると思われるのである。
 そして、この超越光がアフラ・マズダーの光ではないだろうか。また、阿弥陀仏(無量光仏)の光ではないだろうか。そして、大日如来の光、そして、天照大神の光ではないだろうか。
 思うに、古代人ないしは超古代人はこの超越光(超光)を見ていたのではないだろうか。
 今はここで留める。

『-iとの共振エネルギーについて:「気」:アストラル体とエーテル体:即非子という仮説』
http://ameblo.jp/renshi/entry-10395637508.html


-iとの共振エネルギーについて:「気」:アストラル体とエーテル体:即非子という仮説
私が問題にしたいのは、シュタイナーのアストラル体とエーテル体である。
 PS理論では、両者とも、超越エネルギーで説明できそうである。というか、区別がないように思えるのである。
 しかしながら、精神的「気」と身体的「気」は異なるように思えるので、シュタイナーの区別を肯定しておく。
 直感では、先に述べたように、アストラル体は、主に、虚軸のエネルギーであり、エーテル体は実軸のエネルギーのように思える。
 言い換えると、前者は精神的エネルギーであり、後者は物質的エネルギーである。
 私の内観では、先に述べたように、精神的情感がアストラル体である。これは、明らかに、-iとの共振によって起るのである。
 それは、身体的ないしは物質的「気」とは確かに異なる。なぜなら、霊妙であるからである。
 しかしながら、絶対的に物質的「気」と異なるとは言えないように思える。
 次のような作業仮説はどうだろうか。Media Point、即ち、精神的フィルターにおける様態を即非子と考えるのである。即非子は、虚軸的様態をもち、また、実軸的様態をもつが、それらは当然、即非様態である。虚軸的であり、且つ、実軸的であるが、両者は不連続であり、前者が主であり、後者は従である。
 この即非子は、量子、素粒子と見ていいだろう。虚数共振は波動的であり(正確に言えば、虚数粒子があると考えられるだろう)、その共振エネルギーが粒子(光子)を生成・産出する。
 ただし、光子はあくまで現象であり、実体は即非子と考えられる。つまり、光子は表層であり、深層には、即非子の虚軸共振があるということである。
 さて、ここで本題に戻ると、物質的「気」は端的に、光子ではないだろうか。そして、精神的「気」は即非子のエネルギーないしは、即非子の虚数共振である。
 光子は+1であり、即非子は⇒である。ここには微妙な問題がある。⇒+1を即非子と見ることができるだろう。
 実数様態を考えると、⇒+1が即非子である。そうすると、即非子は、Media Pointや精神的フィルターとは異なることになる。
 上記では、Media Pointや精神的フィルターの様態を即非子とすると言ったが、様態という点で、当然、Media Pointや精神的フィルターとは異なると言えよう。
 あくまで、Media Pointや精神的フィルターは変換器であり、弁のようなものである。端的には、境界である。あるいは、場である。
 それに対して、即非子とは、エネルギー体である。Media Pointや精神的フィルターを通過するものである。いわば、器に対する中身である。
 とまれ、本テーマに返ると、結局、「気」とは即非子であり、即非子の虚数共振様態が精神的「気」=アストラル体であり、即非子の実数様態が物質的「気」=エーテル体と考えられよう。
 ここで光子+1について考えると、これは、原物質であろう。物質自体ではないだろう。しかし、現象を構成する母胎的基礎である。
 しかしながら、光子+1はやはり抽象であろう。本体は⇒+1であり、その表層面に現れ、抽象されたものが光子+1のように思えるのである。これは、同一性構造による抽象だと思われる。
 とまれ、以上で、本テーマは作業仮説をもって説明された。


2009年11月23日(Mon)▲ページの先頭へ
ペットを「犬死に」させる日本人と近代日本の悪霊と「モラル・ハザード」
テーマ:滅びゆく日本と新倫理社会へ

A rabbit wearing a tartan suit competes in a rabbit fashion contest near Tokyo. Some 8,000 rabbit lovers visited the annual two-day event

A rabbit wearing a tartan suit competes in a rabbit fashion contest near Tokyo. Some 8,000 rabbit lovers visited the annual two-day event

http://www.telegraph.co.uk/earth/earthpicturegalleries/6617101/Animal-pictures-of-the-week-20-November-2009.html

日本でウサギのファッションコンテスト


 日本では15日、ウサギのファッションコンテストが行われ、愛好家たちが様々なファッションでおしゃれした自分のウサギを連れて集まった。(編集YH)

 「人民網日本語版」2009年11月16日

http://j.people.com.cn/94475/6814548.html


以下、CNNニュースで、日本のペットの飼い主がペットを冷酷に捨て、そのため、集められたペットがガス室に入れられ、殺害の処分を受けることを伝えている。

 これは、『羊たちの沈黙』である。島根女子大生殺人事件の根も同じである。そう、いわば、ナチズムである。

 日本人の愚民は、道徳・倫理を喪失しているのである。これは、コイズミ主義と同根である。

 戦前・戦争中の731部隊の凶行と同根である。これは、ルシファー/アンラ・マンユ悪魔悪霊主義である。近代日本において、悪霊が侵入したのである。私見では、封建的父権主義と近代合理主義(唯物論)の結合に起因するように思う。そして、これは、東京中心主義と関係するのである。

 また、ここで想起するのは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』の近代科学(近代医学)の実験の狂気である。

 後で整理したい。


追記:日本人の個の確立の問題がここにある。超越性の肯定なくして、個は確立しない。超越性が道徳・倫理をもたらすのである。また、審美意識をもたらすのである。


追記2:近代日本の中枢に巣くうモラル・ハザードの病巣の問題がここにある。

 

Added On November 22, 2009
CNN's Kyung Lah reports on the ugly truth of Japan's lucrative pet

*
o Japan's dog death row
o CNN's Kyung Lah reports on the ugly truth of Japan's lucrative pet industry.


http://www.cnn.com/video/?iref=videoglobal#


参考:
日本軍「慰安婦」問題の立法解決を求める緊急署名

我々は、過去の加害を反省いたします。

我々は特に、日本に侵略されたアジア諸国の人々に対する加害、つまり、わが国の歴史の傷ついた一章について反省いたします。

過去の過ちを正し、自信を持って未来へと進むことによって、日本の歴史の新たな一ページをめくるときが来たのです。

我々は、我々の隣国の人々に対して深い悲しみ、苦しみ、損失を与えてきた歴代の議会や政府による数々の歴史修正主義の誤りや戦争責任否定の誤りやアジア侵略の正当化の誤りについて謝罪いたします。

これら被害者とその子孫、残された家族の苦しみと痛みについて、我々は「申し訳ありませんでした」と申しあげます。

南京虐殺について、創氏改名について、重慶爆撃について、従軍慰安婦徴発政策、731部隊について、(...中略...)隣国の人々の家族や共同体を壊したことについて、我々は「申し訳ありませんでした」と申しあげます。

誇り高い民族と誇り高い文化に対して加えられたこれらの戦争被害と、歴史修正主義からなされた被害者への侮辱と誹謗について、我々は「申し訳ありませんでした」と申しあげます。

日本の国会は、この謝罪は国をいやす一環として捧げられるのであるという精神で、この謝罪が受け入れられることを謹んでこいねがいます。

未来に対して我々は勇気を出すのです。この偉大な日本の歴史に、いまや新たな一ページを書くことができるようになったと我々は議決するのです。

(引用ここまで)

日本は今こそ、こう発言するときが来たのではないでしょうか。

第二次大戦中の日本によるアジア各国とその人々への被害の件の中でも、元・従軍慰安婦の受けた被害をめぐる問題について、残された時間は多くありません。被害を受けて、名誉が回復されないまま亡くなった方々も多いことに心が痛むことは普通の感性だと思います。
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1522.html
村野瀬玲奈の秘書課広報室

ドグラ・マグラ
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『ドグラ・マグラ』は、探偵小説 家夢野久作 の代表作とされる小説である。
構想・執筆に10年以上の歳月をかけて、1935年 に刊行された。
小栗虫太郎 『黒死館殺人事件 』、中井英夫 『虚無への供物 』と並んで、日本探偵小説三大奇書 に数えられている。

その常軌を逸した作風から一代の奇書と評価されており、本書を読破した者は、必ず一度は精神に異常を来たす、と称されている[1] 。
「ドグラ・マグラ」の原義は、作中では切支丹バテレンの呪術を指す九州地方の方言とされたり、「戸惑う、面食らう」や「堂廻り、目眩み」がなまったものとも説明されているが、詳しくは明らかになってはいない。
概要 [編集 ]

本書は1935年(昭和10年)1月、松柏館書店より書下し作品として刊行された。「幻魔怪奇探偵小説」という惹句が附されていた。

本書の原型となったのは、夢野久作が作家として作品を発表し始めた頃に書き始められた、精神病者に関する小説『狂人の開放治療』である。10年以上にわたって徹底的に推敲され、夢野はこれを発表した1年後の1936年 に死去している。
内容 [編集 ]

注意 :以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。

大正15年頃、九州帝国大学 医学部精神病科の独房に閉じ込められた、記憶喪失中の若き精神病患者の物語(と思われる)であり、「私」という一人称で語られていく。彼は過去に発生した複数の事件と何らかの関わりを有しており、物語が進むにつれて、謎に包まれた一連の事件の真犯人・動機・犯行手口などが次第に明かされていく。そうした意味では既存の探偵小説・推理小説の定石に沿っている。が、その筋立てが非常に突飛である。

物語の骨格自体は非常にシンプルな物だが、冒頭に記された巻頭歌のほか、胎内で胎児が育つ十ヶ月のうちに閲する数十億年の万有進化の大悪夢の内にあるという壮大な論文「胎児の夢」(エルンスト・ヘッケル の反復説 を下敷きにしている)や、「脳髄は物を考える処に非ず」と主張する「脳髄論」、入れられたら死ぬまで出られない精神病院の恐ろしさを歌った「キチガイ地獄外道祭文」などの肉付けがされている。まともに要約することは到底不可能な奇書とも言われる所以である。

主人公とも言うべき青年が「ドグラ・マグラ」の作中で「ドグラ・マグラ」なる書物を見つけ、「これはある精神病者が書いたものだ」と説明を受ける場面では、登場人物の台詞を借りて、本作の今後の大まかな流れが予告されており、結末部分までも暗示している。このことから、一種メタフィクショナル とも評し得る。

その結末は様々な解釈が可能であり、便宜上「探偵小説」に分類されているものの、そのような画一的なカテゴリには到底収めきることはできない。一度の読了で作品の真相、内容を理解することは困難なため、多くの読者が数度にわたって再読することが多い。なお、この「内容が複雑なため読者は最低二度以上の再読を余儀なくされる」という事実は、上記の「ドグラ・マグラの作中のドグラ・マグラ解説シーン」で語られている。

長文に渡る大作であるが、2007年末、著作権が消滅した文学作品を公開しているウェブサイト 『青空文庫 』に収録されており、インターネット上で読むことができる。
登場人物 [編集 ]

前述の通り、この物語を要約することは難しい。登場人物を明確に記すことは困難である。よって、ここでは外面上に出た特徴を記すに留める。ここに記された情報は小説中で覆される可能性があり、またそのため断定的な説明はしていない。


「ドグラ・マグラ」の語り部の青年。九州帝国大学の精神病科の病室で目覚める。記憶を失っており、自分の名前すら判らない。若林博士の言葉によると、呉一郎が起こした二つの殺人事件の謎を解く鍵は彼の失われた記憶の中にあるらしい。次第に、自分は呉一郎ではないかと思い始めるのだが…。
呉 一郎(くれ いちろう)
この物語の最重要人物。二十歳。この人が「私」と同一人物であるかが作品の鍵。
呉 モヨ子(くれ もよこ)
呉一郎の従妹にして許嫁の美少女。「私」の隣の病室に入っている狂少女こそがモヨ子だ、と「私」は聞かされるのだが…。
呉 八代子(くれ やよこ)
呉一郎の伯母で、モヨ子の母。
正木 敬之(まさき けいし)
九州帝国大学精神病科教授。従六位。「狂人の解放治療」なる計画の発起人。学生時代から常人の理解を超越した言動で周囲を驚かせてきたが、すべては「狂人の解放治療」を見据えてのことだったらしい。若林博士の言葉によると、「私」が目覚める1ヶ月前に自殺したらしいのだが…。
若林 鏡太郎(わかばやし きょうたろう)
九州帝国大学法医学教授。正木教授とは学生時代の同級生。「私」の記憶が戻るようにと色々と取り計らってくれている。
呉 青秀(ご せいしゅう)
呉家の祖先で、唐 時代の画家。若くして天才と称せられた。玄宗皇帝 をいましめるために、自らの夫人を殺して死体が腐ってゆく様子をスケッチし、絵巻物にするという常軌を逸した行動に出る。その絵巻物が、事件の鍵となる。

・・・・・

外部リンク [編集 ]

* 青空文庫 ドグラ・マグラ - 2007年12月24日公開開始

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%
82%B0%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9E%
E3%82%B0%E3%83%A9 」より作成
カテゴリ : 夢野久作 | 日本の小説 | 日本の推理小説 | 1930年代の小説 | 1988年の映画 | ミステリ映画 | アンチ・ミステリー


731部隊
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この記事は中立的な観点 に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため偏った観点から記事が構成されているおそれがあります。詳しくはノート を参照してください。

731部隊(ななさんいちぶたい)とは大日本帝国陸軍 の関東軍 防疫給水部 本部の事。関東軍管轄区域内の防疫・給水業務を行うことを目的に設置された。同時に細菌戦の研究の一環として人体実験を行っていたという証言[1] [2] [3] がある。また証言についても反対意見もある。

「731部隊」とは、1941年に付けられた通称号 の略である。初代部隊長の石井四郎 (陸軍 軍医中将)に因んで石井部隊とも呼ばれる。

部隊の活動実態に関しては確実な証拠の有無(確定的な証拠が証言しかないため)について反対もあり、議論が続いている。
軍組織における位置 [編集 ]

731部隊は日中戦争 (支那事変 )から太平洋戦争 (大東亜戦争 )中にかけて発足した旧日本軍のBC戦(生物兵器 ・化学兵器 )研究機関「軍医学校防疫研究室」の下部組織である。

当時からその特殊性よって機密性が非常に高い組織であった事、また終戦後のアメリカ軍 との取引により関係者の多くが研究成果を引き渡す事を条件に罪不問に付され、戦後医学 界の中枢を構成した経緯などから情報が不足し、実態は不明のままであった。近年になり米国の公文書が機密解除されて研究されたが、非人道的な実験が行われた記録は発見されていない[4] 。

従来、731部隊は旧軍の細菌戦部隊の中核研究機関のように言われてきたがこれを誤りとする研究者[要出典 ]も存在する。この主張によるとBC戦の研究組織の中枢は当時新宿にあった陸軍軍医学校 防疫研究室(または陸軍防疫給水部 、この組織は陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方に指揮系統を有しており、前者による呼称が研究室、後者による呼称が防疫給水部)である。ここを中核として、当時の旧軍展開地域各所に設置された各部隊(平房の大陸本部、北支那防疫給水部(北京 の甲1855部隊)、中支那防疫給水部(南京 の栄1644部隊)、南支那防疫給水部(広東 の波8604部隊)、南方軍防疫給水部(シンガポール の岡9420部隊など))に指令が出され、さらに国内大学医学部のバックアップの元で広大なネットワークを構成してBC戦術の組織的な研究・開発を推進していた。

731部隊はそれらの部隊中で最大級の設備を有してはいたが、その中心ではなく実験・検証施設であったにすぎない。731部隊は表向き日中戦争 時の1941年 に各種流行性伝染病 予防と兵員用の飲料水 の水質浄化を目的として、関東軍が建国した満州国 のハルピン に配備された。731部隊で実施された内容は各部隊の中でも特殊なものであり、人間の生体を用いて非倫理的な実験が行われたと言われているが事実は定かでない。

陸軍参謀本部指揮下の『満州第731部隊』は関東軍防疫給水部本部を表す通称号 であり、1941年に陸軍の全部隊にそれぞれ付けられた秘匿名である。各支部などをまとめた関東軍防疫給水部は「満州第659部隊」と称した。 

・・・・・
戦後の状況 [編集 ]

石井四郎が京都大学 医学部 の出身であったように、731部隊をはじめとする生物化学兵器 研究の幹部は、エリートが多く、そのほとんどは戦後になって、東京大学 や京都大学 を初めとする医学部の教授、陸上自衛隊衛生学校 校長、国立予防衛生研究所 所長、大阪大学微生物病研究所 幹部等、日本の医学界、医薬品業界、厚生行政の重鎮となり、さらに満州のA級戦犯 岸信介 らが政界の重鎮となり日本国内での人道的見地からの責任追及の動きを封じていく。しかし、近年になり旧幹部の引退などに伴い除々に弱まって来ている。


・・・・・


1950年 、GHQとコネ ができた内藤は、後年に薬害エイズ を引き起こすミドリ十字 の前身の日本ブラッドバンク (6人の取締役のうち3人が731部隊関係者。731部隊隊長を一時務めた北野政次 とサンダース中佐が顧問)を創立した[8] 。

http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A


2009年11月21日(Sat)▲ページの先頭へ
ルシファー問題:アンラ・マンユ=+1、ルシファー=-1ではないか:同一性に対する超越性の参入
テーマ:Media Point/精神的フィルター

先に、差異共振における+iの傾斜がルシファーと述べたが、それでは、不十分である。
 +iと-iの差異共振が、根源的に発動する。これが、原知覚である。差異共振現象とは、光現象であるが、それを、+iが認識しようとする。即ち、言語的認識を行うのである。例えば、「アレは、何。」「アレは船。」 「船」という言葉は+1である。「船」自体は-iである。つまり、「アレ」は他者-iであるが、「船」という言語は同一性+1である。
 問題は発話行為のとき、+iが優位であり、-iが劣位であることである。この二項対立が、男性においては、根源的にあるのである。
 差異共振現象=光現象における優位性である+iがルシファーであると考えられる。
 差異共振現象が基礎にあるので、根源は「神秘」であるが、+iが主導的になるので、他者-iに対して、「傲慢」なのである。堕天使というのは、的確である。
 そして、これが、+1のアンラ・マンユ(アーリマン)と結びついて、近代的自我/近代合理主義が生まれるのである。
 ルドルフ・シュタイナーは、両者の間に「イエス・キリスト」を置いている。しかし、シュタイナーのイエス・キリストはアフラ・マズダーの「化身」である。
 結局、他者-iの積極的肯定によって、差異共振均衡が生まれるのであり、それが、「善霊」であろう。
 問題は、-iの力学である。+iの傾斜(男性の場合)があるとは言え、元々、差異共振力学がある。それを+iの傾斜は歪めているのである。
 だから、差異共振力学は、反発すると考えられる。思うに、地震の力学と似ているのだろう。つまり、活断層である。精神的フィルターが活断層になっているのだろう。
 +i=+1(誤謬)となり、差異共振力を抑圧する。つまり、-iや差異共振を排除するのである。これは、-(-i)であろう。
 すると、やはり、-1が生まれると考えられる。だから、-1がルシファーではないだろうか。(+1がアンラ・マンユ〔アーリマン〕となる。)
 だから、±1で虚数の差異共振を抑圧していることになる。しかしながら、根源的エネルギーは差異共振エネルギーであり、これを抑圧することは、主体自体のエネルギーの枯渇を意味する。これが、鬱病等の精神的病気をもたらすと考えられる。
 しかし、エネルギーを補給しようとしても、+iが、±1の壁によりエネルギー回路を閉鎖しているので、取り入れられないのである。だから、エネルギーの枯渇が拡大するのであり、病気が進むのである。
 思うに、差異共振エネルギーは、初期的には、同一性を形成する(1/4回転)。しかし、その後、さらに、1/4回転を生じて、本来の差異共振性へと回帰するということではないだろうか。
 つまり、イデア・エネルギーとは、1/4回転を進展させるのであり、同一性と差異のサイクルが生じるのではないだろうか。奇数回の1/4回転は同一性、偶数回の1/4回転は差異を形成するということになる。
 最初の1/4回転はせいぜい20歳くらいまでであろう。そして、20歳を越えると、二回目の1/4回転が生じるように思う。
 しかしながら、最初の1/4回転(同一性)の影響が強いので、生じた差異がそれと葛藤状態になると思われる。いわば、分裂状態になるのである。
 その後、試行錯誤して、コントロールしようとする。しかし、これは、至難の業であり、多くは、妥協し、誤魔化すだろう。そして、いい加減な人間、愚人が生まれるのである。
 とまれ、中年で危機が来るだろう(参照:ユングの説く「中年の危機」)。そのとき、真摯に対処しないと狂気へと展開するだろう。
 そう、超越性が「侵入」するのである。ここで、ある人は、信仰者となるだろうし、ある人は、なにかに打ち込むようになるだろう。
 とまれ、超越性を包摂する身体的精神を形成する必要があるのである。
 とは言え、超越性は同一性の精神にとっては、本来、肯定できないものである。ここで躓くのである。
 超越性を受容することは実に困難である。つまり、同一性(物質)的現実とのバランスを形成することが難しいのである。
 また、超越性を否定する唯物論(近代合理主義)がハイパーに進展すると、超越性は衝動となり、同一性を駆り立てて、悪魔・悪霊的行為を為すようになるだろう。
 今日の猟奇的事件はこのような背景があるのではないだろうか。


2009年11月19日(Thu)▲ページの先頭へ
諸考察:精神(心)の美、その他
1)同一性自己を+i⇒+1と考えたがそれでいいのか。やはり、(+i)*(-i)⇒+1の右辺とした方が適切である。
 思うに、左辺が無意識であり、右辺が意識である。しかし、その境界として、精神的フィルター/media pointがある。
 精神的教養とは、精神的フィルターをなんらか知覚させる文化ではないのか。しかし、近代合理主義文化においては、これが消滅して、単に、右辺の同一性主義文化に帰結するのである。
 そして、この+1が主体+iと他者-iを排除すると言えよう。つまり、同一性自己+1とは、差異的主体+iと差異的他者-iの双方を否定・排除・隠蔽していると言えよう。(ポスト・モダンで主体の解体というようなことが言われたが、それは、実は、その主体とは、同一性自己のことであるが、その結果、差異的主体まで否定してしまったと考えられる。)
 つまり、同一性自己(近代的自我)とは、同一性を実体と見ているのであり、差異である主体、差異である他者をまったく無視しているのであり、それは、妄想的であり、かつ、暴力的である。
 そして、この同一性+1がアンラ・マンユ(アーリマン)である。

追記:以上のように同一性自己を捉えると、うつ病のことがよく理解できるだろう。
 うつ病とは、近代的自我病である。つまり、同一性自己+1に執着して、差異的主体+iと差異的他者-i、つまり、真の自己、即非性(自己認識)を排除しているのである。だから、差異共振から生まれるエネルギー⇒を排除しているので、エネルギーが枯渇して、うつとなると考えられる。即ち、(+i)*(-i)⇒と+1が分裂しているが、前者が排除されているので、そのエネルギー⇒ が同一性自己+1に達しないのであるから、エネルギー枯渇、即ち、鬱状態になると考えられるのである。
 
 
2)ルシファーとは何か。これは後で考察。

参考:

●シュタイナーによれば、「ルシファー」とは、人間の中にあらゆる熱狂的な力や、あらゆる誤った神秘主義的な力を呼び起こす能力を備えた存在で、現実から乖離した夢想の世界に人を迷いこませるのに対し、

「アーリマン」は、人間を無味乾燥で、散文的で、俗物的な存在にし、人間を頑なにして唯物論という迷信へと導くという。

つまり「アーリマン」は「唯物論の悪魔」で、シュタイナーはメフィストフェレスと同一であるとしている。

それで歴史的に見ると、ルシファー的なものが人類に強力に働きかけていたのは、紀元前から西暦紀元初めの数世紀までで、15世紀以降は「アーリマン」の力が強力に働きかけ続けており、近い将来、「アーリマン」の影響力はピークに達し、「アーリマン」は人間の姿で現れ(受肉し)、ほとんどの人類が「アーリマン」の手に落ちる危険に直面すると警告している。

http://hexagon.inri.client.jp/floorB1F_hss/b1fha807.html



ヒトラーと「魔王ルシファー」

************************
シュタイナーの霊と物質−ルシファーの影響と物質
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以前よりももっと強く、では物質的人間として、存在する人間とは一体何なのかと問う必要がある。我々人間が、外に出会うような人間とは、ただひたすらルシファーの影響による結果なのである。何故なら、ルシファーの影響がなければ、人間は今日の意味での神経、筋肉そして骨も有していなかったからである。唯物主義は、ルシファーが人間から造ったもの以外を記述しない。なので、唯物主義は、最も著しい度合いで、ルシファーの弟子であり、それ以外全てを拒絶するのである。
http://plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/200804010000/
シュタイナーから読み解く神秘学入門

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ルシファー

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過度の光は破壊をもたらすにせよ光は人間の創造力の源である。
ルドルフ・シュタイナーはルシファーを光の存在、即ち真の光であるキリストに向かって人間を照らす霊であるとして、この見解を発展させた秘教家である。
グノーシス主義はもちろん初期のデーモン学の考察にも深く食い込む二元論を土台に、シュタイナーは黒ぐろとした"アフリマン”の現代の敵対者としてルシファーを見ている。
アフリマンが人間を(人間にふさわしくない住処ではない)自然のなかに深く引き込み、デーモンのの世界に属する自然以下の諸力の中に陥れようとするのに対し、ルシファーは霊が真の自由をもつ光の領域へと人間を引き上げようとする。
大地に束縛されることなく、神のような者になりたいというこの衝動を、人間は芸術によって、もっとも直接的に誇らしげに表す。
シュタイナーの観をもし単純化するなら、人間を霊的に支持する者としてのルシファーを、正しく理解しなければならない。
霊的な領域にのっぽり、神の縮小版としての芸術家になる素晴らしい力を、ルシファーは人間に吹き込み、そうすることで、大地に縛りつけるアフリマンから人間を解き放つことができる。

人間はアフリマンがそうであると思い込ませようとしているような、大地にすっかり根を下ろした存在ではない、かといって天使のように大地から解き放たれた存在でもない。
しかしルシファーは(霊的な光を掲げる者として)人間が大地から解き放たれることを願っている。
しかし、ルシファーにはやり過ぎる傾向があり、そこにこそ危険が存在する,,,。
アフリマンが人人間を生命のない土に変えてしまえば人間は、霊的な祖先や運命を忘れてしまうだろうし、ルシファーが霊的な生命をふんだんに与えすぎれば人間は愛に満ちた大地の確実な再生に自らの運命がかかわり、これを足場にしなければならないことを忘れてしまう。
 いろいろな考察を見る限り、ルシファーが天より堕ち闇の存在になったと考えるより、堕ちてもなお、光の存在であると考えられるようです。
http://kobe.cool.ne.jp/suiko/akumagaku/lucifer.html
[事典のような物]



3)ツェッペリンの音であるが、それは、差異共振はあるが、それが、調和ではなく、垂直性へ展開していると思われる。
 一般的に叙情性・情感性(リリシズム、センチメント)は、-iが賦活されて喚起されると考えられる。そして、-iを肯定するのである。
 しかし、ツェッペリンの場合、-iの賦活があるが、それを+1に直結させるのである。そして、+1が金属的な響きをもつのである。
 言い換えると、音楽はたいてい、虚軸上の調和をもつが、ツェッペリンの「ヘビメタ」の場合、端的に、精神的フィルターを介して、同一性・物質・身体、それも鉱物的な身体へ通じる様態をもっていると考えられる。
 一種、モダニズムであるが、物質現象的な様態をもち、その点で特異であると言えよう。


検討問題:ルシファーについて
テーマ:検討問題:思考実験・仮説

直感では、ルシファーとは、超越性や超越光である。
 しかし、問題は、他者性である。これは、小乗仏教と大乗仏教とも関係しよう。つまり、ルシファーは前者的だと思う。独覚である。それは、個人で閉じている。自己満足的である。
 思うに、単に、-iだけだと、ルシファー的になるのではないだろうか。神秘主義、ロマン主義、オカルティズム等になるのではないだろうか。
 重要なのは、+iを強く保持することである。つまり、+iと-iを衝突・共振させることで、現実的道徳・倫理のエネルギーが生起すると思われる。
 つまり、強い認識性+iと他者性-iとの即非的共振において、現実的社会的倫理道徳が生まれると考えられる。
 おそらく、問題は、-iが+1の同一性と結びつくときである。これが、ルシファー⇒アンラ・マンユ(アーリマン)-i⇒+1で途方ない悪・凶悪性を生むのではないだろうか。この-iはまた、反動的な様態になっているだろう。つまり、隠蔽されていて、闇になっているのである。
 先に、自己愛のことに言及したが、どうやら、自己愛はここに関係するだろう。
 後で精緻に検討したい。

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ルシファー
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ルシファー(Lucifer)とは、キリスト教 の伝統で、サタン の別名とされる。(イスラム教 ではイブリース に相当)「ルシファー」は英語からの音訳で、その他日本では、ルキフェル(羅)、ルシフェル(西 Lucifer, 葡 Lúcifer)、ルチーフェロ(伊 Lucifero)などとも表記される。
語源 [編集 ]

Lucifer はもともと、ラテン語 で「光を帯びたもの」(lux 光 + -fer 帯びている、生ずる)を意味し、キリスト教 以前から「明けの明星 」を指すものとして用いられ、オウィディウス やウェルギリウス などの詩歌にも見られる語である。無論、ヘブライ語 の旧約聖書 にも、ギリシャ語 の新約聖書 にも使われてはおらず、元来は、サタンや堕天使 といった伝説と一切無縁のものだった。
概要 [編集 ]

キリスト教において、この語を、サタンと結びつけたのは、オリゲネス が最初であると考えられている(ただし彼の著作はギリシャ語なので、おそらくオリゲネスのラテン語訳がサタンとしてのルシファーの初出)。彼は、「エゼキエル書 」、「イザヤ書 」、「ヨブ記 」(1章-)、「ルカによる福音書」(10章18節)に、隠された堕天使の存在を見出した。その後、テルトゥリアヌス を始めとする初期の教父 たちも、これについて論じた。さらに4世紀、ヒエロニムス は、聖書のラテン語訳(ヴルガータ )において、ヘブライ語の「明けの明星」を意味する言葉 הֵילֵל(イザヤ書 14章12節)を、(古ラテン語訳 を踏襲して?)Lucifer の語を当てて訳した(なお、この箇所の「明けの明星」は、本来バビロン の王・ネブカドネツァルを指すものである)。

その後のキリスト教の伝統的解釈によれば、ルシファーは元々全天使の長であったが、土から作られたアダムとイブ に仕えろという命令に不満を感じて反発したのがきっかけで神と対立し、天を追放されて神の敵対者となった。「ヨハネの黙示録 」の12章7節をその追放劇と同定する場合もある。また、アダムの最初の妻・リリス が夫の元から離れた後ルシファーと結婚したという説話もある。

上記の他に、被造物の中で最高の能力と地位と寵愛を神から受けていたために自分が神に成り代われると傲慢になり、神に反逆し、堕天したという説がよく挙げられる。この説は天使から悪魔に堕ちた経緯としてよく挙げられる説である。

こうした反逆神話のイメージ元としてはバビロニア神話 の雷鳥アンズー やカナン 神話の戦神アッタル が考えられている。アンズーは至高神エンリルの元から権威を司る「天命の書板」を奪うが奪回されている。また金星神にして灌漑を司るアッタルは主神バアル が神々の山・サフォンからその姿を消した時、自分こそが神々の王にふさわしいとサフォンの山に登った。だが、結局彼は玉座に座るには値せず、冥府(または地上)に降り、そこで王になったという。[要出典 ]
文学 [編集 ]

西欧文学において、ルシファーが登場する名高い文学作品としては、ダンテ の『神曲 』とジョン・ミルトン の『失楽園 』が挙げられる。特に後者は、神に叛逆するルシファーを中心に据えて歌い上げたため、その後のルシファーにまつわる逸話に多く寄与することになる。
俗説 [編集 ]

* ルシフェルが堕天した際、『エル』の称号を失って名前が「ルシファー」になったとされる。

ウェブサイト や学問的ではない神話・伝説の書籍で説の大元の典拠が示されることなく記述されている。
通常はラテン語としてのルキフェルが英語読みされてルシファーになったと考えられる。
単純にアルファベットで記述すると、『エル』の称号は『el』、『ルシフェル』の『ェル』は『er』である。
そのため、ルシフェルが『エル』を奪われたという説は、やはり日本人的な誤解であると言える。

関連項目 [編集 ]

* 天使の一覧
* 悪魔の一覧
* 『失楽園 』ジョン・ミルトン
* シャヘル
* 明けの明星
* ルシフェラーゼ - 生物の発光にかかわる酵素。
* トリックスター

参考文献 [編集 ]

* ゲティングズ, フレッド 『悪魔の事典』 大瀧啓裕訳、青土社、1992年(原著1988年)。

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カテゴリ : 出典を必要とする記事 | 堕天使 | 聖書の語句

阿修羅
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阿修羅(あしゅら、あすら、Skt :asuraの音写、意訳:非天)は八部衆 に属する仏教 の守護神。修羅(しゅら)とも言う。大乗仏教 時代に、その闘争的な性格から五趣 の人と畜生の間に追加され、六道 の一つである阿修羅道(修羅道 )の主となった。

概要 [編集 ]

古代ペルシャの聖典『アヴェスター 』に出る最高神アフラ・マズダー に対応するといわれる(以下、歴史的背景の項を参照)。それが古代インドの魔神アスラ となり、のちに仏教に取り入れられた。古くインドでは生命生気の善神であった。天の隣国だが天ではなく、男の顔立ちは端正ではない。醸酒にも失敗し、果報が尽きて忉利天 にも住めないといわれる。

本来サンスクリット で「asu」が「命」、「ra」が「与える」という意味で善神だったとされるが、「a」が否定の接頭語となり、「sura」が「天」を意味することから、非天、非類などと訳され、帝釈天 の台頭に伴いヒンドゥー教 で悪者としてのイメージが定着し、地位を格下げされたと考えられている。帝釈天とよく戦闘した神である。リグ・ヴェーダ では最勝なる性愛の義に使用されたが、中古以来、恐るべき鬼神として認められるようになった。

仏教に取り込まれた際には仏法の守護者として八部衆 に入れられた。なお五趣説では認めないが、六道説では、常に闘う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む世界、あるいはその精神境涯とされる。

興福寺宝物殿の解説では、「阿修羅」はインドヒンドゥーの『太陽神』もしくは『火の神』と表記している。 帝釈天 と戦争をするが、常に負ける存在。この戦いの場を修羅場(しゅらば)と呼ぶ。

姿は、三面六臂(三つの顔に六つの腕)で描かれることが多い。

奈良県 ・興福寺 の八部衆像・阿修羅像(国宝 )や、京都府 ・三十三間堂 の二十八部衆像・阿修羅像(国宝)が有名。

日本語では、争いの耐えない状況を修羅道 に例えて修羅場 (しゅらば)と呼ぶ場合もある。激しい闘争の行われている場所、あるいはそのような場所を連想させる状況を指す。
歴史的背景 [編集 ]

一般的には、サンスクリットのアスラ(asura)は歴史言語学的に正確にアヴェスター語 のアフラ(ahura)に対応し、おそらくインド-イラン時代にまでさかのぼる古い神格であると考えられている。宗教学的にも、ヴェーダ 文献においてアスラの長であるとされたヴァルナ とミトラ は諸側面においてゾロアスター教 のアフラ・マズダー とミスラ に対応し、インド・ヨーロッパ比較神話学的な観点では第一機能(司法的・宗教的主権)に対応すると考えられている。アスラは今でこそ悪魔や魔神であるという位置づけだが、より古いヴェーダ時代においては、インドラらと対立する悪魔であるとされるよりは最高神的な位置づけであることのほうが多かったことに注意する必要がある。

ただし、阿修羅の起源は古代メソポタミア文明のシュメール、アッシリア、ペルシア文明とする説がある。 シュメールやアッカドのパンテオンに祀られていた神アンシャル 。アッシリアの最高神アッシュル。ペルシアのゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー。それらの神がインドに伝来してアスラとなり、中国で阿修羅の音訳を当てた。阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも音写する。

シュメール、アッシリアの古代史と仏教の阿修羅にまつわる伝承との類似性も高く、信憑性のある事実として指摘される。

仏教伝承では、阿修羅は須弥山 の北に住み、帝釈天と戦い続けた。阿修羅は帝釈天に斃されて滅ぶが、何度でも蘇り永遠に帝釈天と戦い続ける、との記述がある。これらの伝承を古代史になぞらえると、以下のようになる。

アッシュルを最高神と崇めたアッシリア帝国は、シュメール(現在のイラク周辺)の北部に一大帝国を築き、シュメール・アッカドの後に勃興したバビロニアに侵略戦争を繰り返した。

バビロニア人はメディア人と手を結びアッシリアを滅ぼしたが、国を再興したアッシリア人達にバビロニアは滅ぼされた。後にてバビロニアの地にカルデアが勃興して、再びアッシリアを滅ぼした。その後、アフラ・マズダーを崇めるペルシアが勃興して、カルデアを占領下におさめた。その後、古代マケドニアがペルシアを滅ぼした。

また、シュメールと須弥山(サンスクリットでは「スメール」と発音する)の類似性。シュメールの最高神マルドゥークと帝釈天インドラの類似性を指摘する説もあり、阿修羅と帝釈天の構図はアッシュルとマルドゥークの構図と全く同じであり、これらの古代史を仏教の伝承として取り込んだ可能性が高いと主張する神学者もいる。
戦闘神になった背景 [編集 ]

阿修羅は帝釈天に歯向かった悪鬼神と一般的に認識されている。しかし事実は少し違うといわれる。阿修羅はもともと天部の神であった。阿修羅が天部から追われて修羅界を形成したのには次のような逸話がある。

阿修羅は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる。

阿修羅の一族は、帝釈天が主である忉利天 (とうりてん、三十三天ともいう)に住んでいた。また阿修羅には舎脂 という娘がおり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていた。しかし、その帝釈天は舎脂を力ずくで奪った(誘拐して凌辱したともいわれる)。それを怒った阿修羅が帝釈天に戦いを挑むことになった。帝釈天は配下の四天王 などや三十三天の軍勢も遣わせて応戦した。戦いは常に帝釈天側が優勢であったが、ある時、阿修羅の軍が優勢となり、帝釈天が後退していたところへ蟻 の行列にさしかかり、蟻を踏み殺してしまわないようにという帝釈天の慈悲心から軍を止めた。それを見た阿修羅は驚いて、帝釈天の計略があるかもしれないという疑念を抱き、撤退したという。

一説では、この話が天部で広まって阿修羅が追われることになったといわれる。また一説では、阿修羅は正義ではあるが、舎脂が帝釈天の正式な夫人となっていたのに、戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった。つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。このことから仏教では天界を追われ人間界と餓鬼界の間に修羅界が加えられたともいわれる。

阿修羅を意訳すると「非天」というが、これは阿修羅の果報が優れて天部の神にも似ているが天には非ざるという意義から名づけられた。
阿修羅王と住処 [編集 ]

阿修羅王の名前や住処、業因などは経論によって差異がある。パーリ語(Pl)では、阿修羅王にRāhu、Vepacitti、Sambara、 Pahārāda、Verocana、Baliの5つの名が見られる。ただし大乗仏典では、一般的に阿修羅王は4人の王とされることが多い。『法華経』序品には、4人の王の名を挙げ、各百千の眷属を有しているとある。また『十地経』や『正法念処経』巻18〜21には、これら4人の住処・業因・寿命などを説明しており、其の住処は妙高山(須弥山 )の北側の海底地下8万4千由旬 の間に4層地に分けて住していると説く。以下説明は主に正法念処経による。

* 羅喉阿修羅王(らご)
o Skt及びPl:Rāhu、ラーフ、Pl :訳:障月、執月、月食など、 
o その手でよく日月を執て、その光を遮るので、この名がある。

(住処) - 第1層、海底地下21000由旬を住処とする。身量広大にして須弥山のようで、光明城に住み、縦横8000由旬。
(業因) - 前世 にバラモン であった時、1つの仏塔が焼き払われるのを防ぎ、その福徳により後身に大身相を願った。不殺生の実践したが、諸善業を行わなかったので、その身が破壊(はえ)し、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
(寿命) - 人の500歳を1日1夜として、その寿命は5000歳

* 婆稚阿修羅王(ばち、婆稚とも)
o Skt及びPl:Bali、バリ、訳:被縛
o 帝釈天と戦って破れ、縛せられたためにこの名がある。正法念処経では勇犍(ゆうごん)阿修羅王。ラーフの兄弟で、彼の子らはみなVerocaと名づく。

(住処) - 第1層の下の第2層、さらに21000由旬の月鬘(げつまん)という地で、双遊城に住み、縦横8000由旬。
(業因) - 前世に他人の所有物を盗み、不正の思いをなして離欲の外道 に施して、飲食(読み:おんじき)を充足させたので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
(寿命) - 人の600歳を1日1夜として、その寿命は6000歳

* 佉羅騫駄阿修羅王(きゃらけんだ)
o Skt:Śambara、Pl:Sambara、サンバラ、訳:勝楽、詐譌、木綿など
o 正法念処経では華鬘(けまん)阿修羅王と訳される。

(住処) - 第2層の下の第3層、さらに21000由旬の修那婆(しゅなば)という地で、頷(正字は金+含)毘羅城(かんびら)に住み、縦横8000由旬。
(業因) - 前世に食を破戒の病人に施して、余の衆は節会の日により相撲や射的など種々の遊戯をなし、また不浄施を行じたので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
(寿命) - 人の700歳を1日1夜として、その寿命は7000歳

* 毘摩質多羅阿修羅王(びましったら)
o Skt:Vemacitra、Vimalacitra、Pl:Vepacitti、訳:浄心、絲種種、綺書、宝飾、紋身など
o 乾闥婆 の娘を娶り、娘の舎脂を産んだ。前出のように舎脂は帝釈天に嫁いだため、帝釈天の舅にあたる。

(住処) - 第3層の下の第4層、さらに21000由旬の不動という地で、頷(正字は金+含)毘羅城(かんびら)に住み、縦横13000由旬。
(業因) - 前世に邪見の心を以って持戒する者に施して、余の衆は自身のために万樹を護ったので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。

その他『起世経』では、須弥山の東西の面を去ること1000由旬の外に毘摩質多羅王の宮があり、縦横8万由旬であるといい、また修羅の中に極めて弱き者は人間山地の中に在りて住す、すなわち今、西方の山中に大きくて深い窟があり、多く非天=阿修羅の宮があるという。
外部リンク [編集 ]

* 仏様の世界 阿修羅王
* 興福寺 文化財データベース
* 阿修羅と仏像ブーム(西山厚・奈良国立博物館学芸部長)


(映画『クヒオ大佐』が小泉=竹中式“詐欺”に酷似するわけ)
テーマ:鳩山代表と民主党:ポスト・モダン反動政権

以下の民主党批判は正鵠を射ていると思うが、何故、民主党が市場原理主義へ傾斜するのか、という問題であるが、これは既述済みのように、鳩山政権は、ロックフェラー路線と「ロックフェラー」路線との未分化的連続性路線であるからであり、そのために、絶対的に、トランス・モダン(差異共振路線)ではないので、国家財政等の危機において、曖昧な、相対的な認識のまま、「アイロニカルな没入」を起して、前者の新自由主義路線に鳩山首相やその他の閣僚は傾斜してしまうのである。アンラ・マンユの囁きに魅入られてしまうのである。
 それに対して、オバマ政権は、トランス・モダン主導であり、ポスト・モダンを隠れ蓑にしていると考えられる。


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民主党の正体は、やはり映画『クヒオ大佐』流の小泉=竹中式“結婚詐欺集団”か?

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(映画『クヒオ大佐』が小泉=竹中式“詐欺”に酷似するわけ)

・・・以下は、「山崎行太郎 の政治ブログ =毒蛇山荘日記 /2009.11.15/亀井 発言とロバート・フェルドマン の正体、http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20091115/1258242811 」より転載 させていただく・・・

どうもこの国の最近 の経済 関係者は、つまりエコノミスト から経済学者 、経済官僚 、経済記者 まで、外国人 や外国 情報に弱いようで、というよりまったく経済や金融 の本質 が理解できていないようである。ここで、僕が言いたいのは、すでにわかっていると思うが、鳩山政権 の「行政刷新会議 ・事業仕分け チーム」のメンバー に、「モルガン・スタンレー証券 のロバート・フェルドマン経済調査部長 」なる人物が選ばれていることで、早速、この人選には、亀井静香 大臣 が、苦言を呈したようだが、例によって経済マスコミ は、亀井大臣の発言を愚弄するかのような記事を垂れ流し始めている。

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20091119

toxandoria

toxandoria

『toxandoria の日記、アートと社会』


初考察:精神(心)の美、その他
1)同一性自己を+i⇒+1と考えたがそれでいいのか。やはり、(+i)*(-i)⇒+1の右辺とした方が適切である。
 思うに、左辺が無意識であり、右辺が意識である。しかし、その境界として、精神的フィルター/media pointがある。
 精神的教養とは、精神的フィルターをなんらか知覚させる文化ではないのか。しかし、近代合理主義文化においては、これが消滅して、単に、右辺の同一性主義文化に帰結するのである。
 そして、この+1が主体+iと他者-iを排除すると言えよう。つまり、同一性自己+1とは、差異的主体+iと差異的他者-iの双方を否定・排除・隠蔽していると言えよう。(ポスト・モダンで主体の解体というようなことが言われたが、それは、実は、その主体とは、同一性自己のことであるが、その結果、差異的主体まで否定してしまったと考えられる。)
 つまり、同一性自己(近代的自我)とは、同一性を実体と見ているのであり、差異である主体、差異である他者をまったく無視しているのであり、それは、妄想的であり、かつ、暴力的である。
 そして、この同一性+1がアンラ・マンユ(アーリマン)である。

追記:以上のように同一性自己を捉えると、うつ病のことがよく理解できるだろう。
 うつ病とは、近代的自我病である。つまり、同一性自己+1に執着して、差異的主体+iと差異的他者-i、つまり、真の自己、即非性(自己認識)を排除しているのである。だから、差異共振から生まれるエネルギー⇒を排除しているので、エネルギーが枯渇して、うつとなると考えられる。即ち、(+i)*(-i)⇒と+1が分裂しているが、前者が排除されているので、そのエネルギー⇒ が同一性自己+1に達しないのであるから、エネルギー枯渇、即ち、鬱状態になると考えられるのである。
 
 
2)ルシファーとは何か。これは後で考察。

3)ツェッペリンの音であるが、それは、差異共振はあるが、それが、調和ではなく、垂直性へ展開していると思われる。
 一般的に叙情性・情感性(リリシズム、センチメント)は、-iが賦活されて喚起されると考えられる。そして、-iを肯定するのである。
 しかし、ツェッペリンの場合、-iの賦活があるが、それを+1に直結させるのである。そして、+1が金属的な響きをもつのである。
 言い換えると、音楽はたいてい、虚軸上の調和をもつが、ツェッペリンの「ヘビメタ」の場合、端的に、精神的フィルターを介して、同一性・物質・身体、それも鉱物的な身体へ通じる様態をもっていると考えられる。
 一種、モダニズムであるが、物質現象的な様態をもち、その点で特異であると言えよう。


2009年11月18日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:虚数情報について:-iの情報が暗在的ではないか
主体知性+iは⇒+1と結びつき、明快である。しかし、他者-iは、主体知性には、不可知である。「まったき他者」である。絶対的他者である。カントの物自体は、これを指すと見るべきである。
 しかしながら、他者を仮定することで、主体知性は、即非的に、他者を確認することができるようになっている。
 しかしながら、私が問題にしたいのは、内的他者としての-iである。これは、いわば、深い闇(深淵)である。(創世記の天地創造の「水」は、これではないだろうか。)
 つまり、私が想定しているのは、-iには、主体知性が認知できない隠れた情報があるのではないかということである。
 Kaisetsu氏は、-iを豊穰の海と呼んでいたが、ここでは、深海と比喩的に呼んでおこう。
 さて、+iと-iの差異共振(即非)は、-iが深海であるために、不可知的に多様である。
 そう、思うに、「真正な」神秘主義者、オカルティストとは、本来、この深海を探索した人物ではないだろうか。瞑想とは、深海への旅ではないだろうか。
 そう、本題に返ると、隠れた情報、虚数情報のことであるが、それは、端的にどういうものなのか。
 私が想定しているのは、「記憶」ないし「記録」である。あるいは、「アーカイブ」である。
 ここでは、まったくの作業仮説であるが、+iの知識とは、-iに保存されるのではないのか。
 これは、日常のことを考えてもいい。通常、意識は、+iの様態である。(正確には、+i⇒+1である。)
 しかし、「無意識」には、情報があり、それが、その時、その時、想起されるのである。だから、「無意識」とは、深海-iと考えてもいいだろう。
 とまれ、隠れた情報が深海-iに存する(「暗在」する)としよう。
 では、その様態はどういうものなのか。これは、課題としておく。思いつきを言えば、-iは、知識+iを反映しているのではないだろうか。あるいは、写し取っているのである。つまり、-iは記憶媒体である。ここに、+iの情報が記録されているのではないのか。+iを光とすれば、光の情報が記録されているということになるだろう。言い換えると、フィルムである。感光紙である。
 精神的フィルターの虚軸情報を収蔵しているのではないのか。言い換えると、超越光の情報を保存しているのではないのか。これが、仏教では、阿頼耶識ではないだろうか。また、オカルティストのアカシック・レコードではないだろうか。
 今はここで留める。


参考:
明在系と暗在系
Birth

職業柄、どうしてもアチラの世界と此方の世界の境界を常に意識してしまいます。 

そして遅ればせながら、石に関しての象徴的な原型が日本の神話の世界にある事が分かりました。
古事記の中に黄泉の世界のイザナミを探しに行ったイザナギが、変わり果てた元妻イザナミの姿(体中にウジがわく)に慄き、猛ダッシュで此方の世界へ逃げ帰るくだりがあります。 そしてイザナギがイザナミに永久の別れを告げる場所・・・ヨモツヒラサカの巨石・・・そこがアチラと此方の境界線なのです。 アチラと此方を明確に分ける場所に石があるのです。

そして、この「アチラの世界と此方の世界」という表現からは、どうしても神話の世界の話、或いはスピリチュアル系、そしてもっと悪くするとオカルト系の世界だけの話だと思われてしまいます。

ところがこの「アチラの世界と此方の世界」という表現を「明在系と暗在系」という表現にすると・・・たちまち最先端の量子力学のお話しとなるのです。 量子力学で高名なディビット・ボーム博士によって、この「明在系と暗在系」の理論は世界に認知される事になります。 
私達の認識している世界を突き詰めると、最後は素粒子に行き着きます。 素粒子の観察過程で、その素粒子が消えたり現れたりと不可解な現象を起こす事が長年の謎でした。 結局、ボーム博士をはじめとする世界の物理学者たちは、世界には目に見えて私たちが認識出来ている世界と目には見えていないが確かに存在している世界があるに違いないと認識せざるを得なくなります。 そしてこの目に見えている世界を「明在系の世界」と呼び、目に見えていない方の世界が「暗在系の世界」と呼ばれる事になりました。 
そしてボーム博士自身は続けて・・・素粒子が暗在系の世界と明在系の世界を自由に行き来しているだけではなく、実のところ万物の発生の源は暗在系の世界にあると結論しています。 
これは孔子のタオと同じです。 暗在系の世界の現象が明在系の世界=私達の認識している世界へと投影されているのだと・・・。 要するところ、「アチラの世界と此方の世界」なのです。

そして最近強く感じるのが、この暗在系の世界と明在系の世界の狭間に私たちは存在しているという事です。 暗在系世界から切り離された存在として在るのではなく、暗在世界の部分として明在世界に現れて、明在世界の様々な現象を経験しているのです。 同時に明在世界で起きる(あるは私たちが起こす)様々な現象が、今度は暗在世界に影響を及ぼすのです。 
そして明在世界への次の現象の新たなる発生に影響を及ぼすことになります。

そして最近になって、人体のチャクラ(エネルギーセンター)の一つが暗在系世界(アチラの世界)と明在世界(此方の世界)のポータルサイトになっているのを実感しています。 

そのチャクラとは位置的にハートのチャクラと喉のチャクラの間に存在しています。ただ実感としてあるのは、身体に垂直に存在している第1チャクラから第7チャクラまでの配置と、この暗在系世界のポータルサイトとなるチャクラは存在次元が少し違っていて特殊です。 最近出版されたジュード・カリヴァン博士著の「宇宙につながる第8のチャクラ」の中にこのポイントと同じことが書かれていて、そのポイントが新たに活性化しつつある第8チャクラだと記されていました。 
最近までクラウン・チャクラの一つ上が第8チャクラと呼ばれていたので、ジュード・カリヴァン博士のいう第8番目と従来の第8番目とどちらが本当なのかは判りません。 ただカリヴァン博士もこの8番目が宇宙に繋がる為のエネルギーセンターだと書いていました。

チャクラの名称の順序についての詳細は判りかねますが、個人的に強く私が実感しているのは、このポイント(チャクラ)が本人の宇宙的魂のルーツにダイレクトに繋がっているという事です。

思いがけず長くなりましたが・・・この新しいチャクラの詳細は日を改めて続けることにします。


お終い
http://notes.karakaraso.com/?eid=1313766
唐々創日記 by Jewelry karakaraso

1950年


織り込まれた秩序


コペンハーゲン解釈に対するパイロット派解釈として、量子論の予言力はそのままに、量子論の精神分裂的な部分と取り除いた。

 アインシュタインが1935年に量子力学に対立するかたちで、もし量子力学の解釈が正しいなら、つぎのモデルが完成するはずだ――と挑戦状をつきつけた。EPR実験である。

この挑戦状にたいする回答は1964年にベルによってもたらされた。

これによってアインシュタインの最後の牙城「隠された変数」と量子力学の確率的予測が数学的に両立しないことがないことが証明されアインシュタインの理論は壊滅した。





この反証は1950年にデヴィット・ボームによって以外に身近なところから発せられた。既存の量子力学の体系をホログラムのアナロジー を使って決定論的に再公式化できることを反証したのだ。

ホログラフィーは立体画像だが、ここで注目してほしいのはそのフィルムの性質である。

このフィルムは半分に切断しても立体像全体を再現できる性質を持っている。若干ぼやけるが、理論的には、10分の1、100分の1、1000分の1に切断しても再現は可能である。まさに「不断の全体性」なのである。

これをボームは次のように定義する。

目に見える部分=「開かれた秩序(エクスプリケート・オーダー)

目に見えない部分=「織り込まれた秩序(インプリケート・オーダー)

この物理学で光の正体にせまると、非常に説明しやすい。

木の板に波状の溝を彫って、その中にベアリングを流したらどうなるだろう?



粒子なのに、波状にふるまう。



量子力学のパラドックスを、まったく簡単に説明できてしまうのだ。



一度は、アインシュタインのラムダ項のように消された理論だが、



暗黒物質、暗黒エネルギーの理論的台頭によってラムダ項が復活したように、ボームの理論も光があたり初めている。

http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/inpricateorder.htm



デヴィッド・ボーム
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デビッド・J・ボーム

デビッド・ジョセフ・ボーム(David Joseph Bohm, 1917年 12月20日 - 1992年 10月27日 )は、理論物理学 、哲学 、神経心理学 およびマンハッタン計画 に大きな影響を及ぼした、アメリカ合衆国 の物理学者 である。
来歴 [編集 ]
若き頃と学生時代 [編集 ]

ボームは、ペンシルベニア州 ウィルクスバレ(Wilkes-Barre,Pennsylvania)で、ハンガリー系の父とリトアニア系の母のユダヤ系家庭に生まれた。彼は、家具屋のオーナーでもあり、地域のユダヤ教司教(ラビ )のアシスタントであった父に主に育てられた。 ボームはペンシルベニア州立大学 を1939年 に卒業し、カルフォルニア工科大学 に1年間在籍後、カルフォルニア大学バークレー校 のロバート・オッペンハイマー の下で理論物理学 を学び、ここで博士号 を得た。 オッペンハイマーの下で学んでいた学生たち(ジョバンニ・ロッシ・ロマニツ , ジョセフ・ワインバーグ およびマックス・フリードマン )の近所で暮らすようになるとともに、徐々に物理学のみならず急進主義者 として政治面にものめりこむようになった。 オッペンハイマー自身を含めた1930年代後半の多くの若い理想主義者 たちのように、ボームは異なる社会モデルに惹かれるとともに、Young Communist League 、 the Campus Committee to Fight Conscription 、 the Committee for Peace Mobilization のような団体で活発に活動するようになった。 これらの団体は、後にエドガー・フーバー 率いるFBI によって、共産主義 のレッテルを貼られることとなる。
http://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventryupdateinput.do?id=10390819508
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2009年11月14日(Sat)▲ページの先頭へ
臥竜山女子学生惨殺事件:日本母権制と父権制の衝突事件
テーマ:社会・芸能・増す塵:薬物・凶悪犯罪

後でこの事件について、宗教・神話学・深層心理学・社会力学的に解明を試みる予定であるが、私が脳裏に想起されるのは、『羊たちの沈黙』(映画、小説)である。
 これは、母親を想起させるような女性を殺害し、その皮を剥いで、それを身につけるのである。
 どうも、本事件は、場所といい、狂気・暴力といい、また、社会状況といい、最高度の問題を秘めている。
 どうも、日本母権制と父権制の確執がここにあるように思う。女性の詐欺殺人事件も母権的であると思う。結局、父権制が基層の母権制を抑圧している力学がある。そのため、母権制が父権制に復讐すると思われる。そう、ギリシア神話ならば、復讐の女神である。
 思うに、本事件は、内なる父権制による母権制の否定である。
 とまれ、現代、日本の父権制と母権制が反動的に衝突していると言えよう。
 日本の封建・父権・近代的同一性の縛りを解体する必要があるのである。

参考:
羊たちの沈黙(1988年) トマス・ハリス作(新潮文庫)

FBIの行動科学課の訓練生クラリス・スターリングが、所長のジャック・クローフォドに依頼され、監房に入っているハニバル・レクター博士(人食い《ザ・カニバル》ハニバル)の調査書を作成するように頼まれる。そのとき、レクター博士から、ラスペイルの車の中を調べるように言われ、調べている。車の中には、ヴァレンタインのしるしのあるアルバムとマネキンがあった。また研究室用の大きな標本瓶に人間の頭が入っていた。
クラリスは、レクター博士と話をする。標本瓶の頭は、ラスペイルのゲイの恋人で、スェーデン人クラウスのものだと言う。レクター博士がクラリスの手助けをしたのは、クローフォドと取引したいからで、人間の皮を剥ぐバッファロゥ・ビルのことについて教えることができると言う。
クラスの仲間から離されたクラリスに、射撃教官のブリガムが、ジャック・クローフォドといっしょにバッファロゥ・ビル−タイプ(人間の皮を剥ぐタイプ)の死体の調査に出かける任務を伝えた。ブリガムは、車でクラリス・スターリングを、クワンティコの飛行場に連れて行った。そこでは、古い双発のビーチクラフト、「ブルー・カヌー」がクローフォドを乗せて待っていた。
バッファロゥ・ビルに関するファイルを飛行機の中で、クラリスは読む。白人女性ばかりを狙った、皮を剥ぐ犯罪で、おそらく犯人は白人男性である。少なくとも五回の犯罪歴があり、死体は、いずれの場合も流水に投げ込んでいる。それぞれ異なった州の別の川で州間高速道の交差点の下流で死体が発見されている。バッファロゥ・ビルは各地を移動する男である。双発機は、ウェスト・ヴァージニア州ポターへ向かう。
【人間の皮を剥ぐこと、女性が犠牲者であること、死体が川に投げ込まれること、各地を移動していること等から、予感できるのは、これは、一種宗教的な儀式・儀礼のようなものではないかということである。そう、アメリカの自然・大地へ犠牲を捧げること、供儀ということなのだろうか。また、レクター博士の犯罪も不気味である。そう、思うに、皮を剥ぐというのは、「魂」や生命の器を破壊するということではないだろうか。
ならば、それにより、「魂」・生命を解放する行為ということになろうし、正に儀礼となろう。アメリカの自然への「魂」・生命を捧げること、なにかアステカの宗教儀式を想起する。】
ポター葬儀場は、ランキン郡の死体保管所で、そこで、クラリスは、犠牲者の検査を行う。
「・・・この被害者が誰であれ、どこから来たにせよ、川が彼女をこの土地に運んできたのであり、この土地のこの部屋に救いなく横たわっている間、クラリス・スターリングと彼女の間には特別な繋がりが存在するのだ。ここではスターリングは、土地の産婆、知恵者の女、薬草医、常に必要なことを果たしてきた女、絶えず監視役を務め、その役が終わると、土地の死人の体を洗い身なりを整えてやる女の後継者なのだ。」122〜123頁
(クラリスは、メディスン・ウマンだ。土着的女神的な存在、魔女的存在。女性指導者的な存在だ。それも、モダンのシャープな即物的な知覚をもった存在、近代科学を身につけた存在だ。「神秘・神話」と近代科学の結合だ。)
スターリングは、死体の指紋や写真をとったりして検屍を終える。六番目の被害者は白人女性、二十歳前か二十代初め、射殺、胴体下部と腿剥皮(ももはくひ)で頭皮を剥がれた最初の被害者、両肩の後ろから三角形に皮を取られた最初の被害者、胸を撃たれた初めてで、喉の奥に繭があったのも初めてである。
クラリス・スターリングは、スミソニアン国立自然史博物館へ行き、被害者ののどに入っていた虫の繭について、ピルチャーとロゥドンに検査してもらう。それは、蛾のエレブス・オドラ(クロエレブスオオヤガ)で、フロリダ最南端とテキサス南部で年に二度、五月と八月に産卵することがわかった。帰り際、ピルチャーはこの事件が解決した後、クラリスに食事をしようと誘った。
上院議員のルース・マーティンの一人娘キャザリン・ベイカー・マーティンが襲われ誘拐される事件が起る。ブラウスが切り裂かれていた。
六番目の事件で、死体保管場での検死の経験が、クラリスに衝撃を与え、精神に地殻変動を起こしている。クローフォドから電話があり、スミソニアン自然史博物館に行くように言われる。クラスメートのマップは、クローフォドに刑法の試験に関して手配してくれるよう頼むように勧める。
クラリス・スターリングは、スミソニアン自然史博物館に行き、クローフォドと落ち合い、標本瓶に入っていたクラウスの首が作業台に載っていた。クラウスの喉からも虫が見つかったのだった。このため、クラリスは、再度レクター博士に会うことになった。

ジェイム・ガムは、女性ホルモンを使って女性になろうとしているが、未だ男性的な攻撃性があるように見える。彼は、トレイを三つ地下室にもっていき、そこにある涸れ井戸の中に、骨と野菜くずを投げ捨てた。その井戸からは「おねがい」という叫び声がした。

クラリスは、ボルティモア精神異常犯罪者用州立病院に入り、レクター博士と話をする。監房では、サミーという分裂病者が新たに収監されている。博士はバッファロゥ・ビルがサディストではない理由として、どの死体にも縛り傷が手首だけについていて、足首にないことをあげている。サディストなら、楽しみながら皮を剥ぐ時は、被害者を逆さ吊りにしてするものだと言う。クラリスの子供時代の最悪の記憶と引き換えに、博士はバッファロゥ・ビルが、キャザリン・ベイカー・マーティンを誘拐した理由を告げる。それは、彼は乳房のついたチョッキが欲しいからということであった。
クラリスは、上院議員マーティンの取引を携えて、レクター博士に会う。博士は、蛹の話を始めた:蝶や蛾の幼虫は美しい成虫(イマーゴゥ)になる。イマーゴゥという言葉は、幼児期から意識下に埋め込まれ、幼児期の感情に包み込まれた両親のイメージだと言う。
蛹のもつ重要な意味は変化だ。ビリイ(バッファロゥ・ビルを今はこう呼ぶ)は自分も変化したいと思っている。彼は本物の若い女の皮膚を生地にして、若い女性用の服を作っている。ビリイは真の性転換願望者ではない。博士はクラリスに性転換願望者とそうでない者の区別のしたかを教える。
レクター博士はクラリスにジェイム・ガムを引き渡す方法について考えを巡らせている。ラスペイルの語るところでは、ジェイムは本当のゲイではなく、実際のところ、無に近い人間であって、全くの空虚を充たしたがっていた。あるとき、前の雇い主の郵便物を受け取り、小包の中に死んだ蝶が詰まっていて、スーツケースの中から、一匹の蝶が蛹から孵り、飛んでいった。それを見たジェイムは何をなすべきか閃いた。
チルトン博士が、レクター博士の監房の寝台に腰かけて、レクター博士と精神医学資料保管所との間の一番新しい往復文書を読み終える。チルトン博士は、レクターをクローフォドやクラリスが騙すであろうことを執拗に告げる。
ジャック・クローフォドは、ジョンズ・ホプキンズ大学の性同一化科長のダニエルソン博士に、ここで申請を拒否されたものの資料を見せてもらいたいと懇願するが、厳しく断られている。
チルトン博士がこの事件に首を突っ込み、マーティン上院議員が直接介入し始めた。ハニバル・レクター博士がテネシー州に引き渡されることになった。
レクター博士は、マーティン上院議員に、バッファロゥ・ビルに関する情報を知らせる。
本名は、ウィリアム・ルービンで、通称ビリイ・ルービンであること等。
ジェイム・ガムは地下室で飼っている蛾が成虫になるのを見ている。「檻に光線を戻したのがちょうど間に合った。大きな昆虫の羽が背中の上方にあって、模様を隠したり歪めたりしている。今度は羽をおろして体を包むと、あの有名な模様がはっきりと見える。毛皮のような鱗粉で見事に造り出された人間の頭蓋骨が蛾の背中でこちらを見ている。陰になった頭蓋骨のてっぺんの下に黒い眼窩と突出した頬骨がある。その下方で黒い部分が顎の上辺りをさるぐつわのように横切っている。頭蓋骨は、骨盤のてっぺんのように広がった模様の上にのっている。骨盤の上にのった髑髏、すべて自然の偶然によって蛾の背中に描かれている。ミスタ・ガムはたいへん気分がよく、心が軽くなったような気がした。」p. 288
獲物のキャザリンをやるのは明日か明後日である。【ここの頭蓋骨のある蛾とは、ミスタ・ガムにとって、自由と皮剥の二重性を象徴していると見ることができよう。そう、神秘学的に言えば、ガムにとって女性の皮・皮膚を着るとは、生まれ変わることを意味しているのだろう。あるいは、女性に生成変化することを意味しよう。それは、また成虫になることだから、通過儀礼であろう。思うに、女性の皮・皮膚を剥ぐことは、女性の「魂」・生命を取り出すことであり、また剥いだ皮・皮膚を着けることは、自己成就なのであり、それは、女性へと変身することだ。つまり、脱皮と成人儀式の両面を女性の皮剥ぎは意味しているのだろう。死と再生の儀式だ。】
クラリスは、キャザリン・ベイカー・マーティンの住んでいたアパートメントに行き、調べることにした。宝石箱の引き出しの裏に、茶封筒に写真が五枚入っていた。それは、セックスしている時の写真であるが、頭や顔は写っていなかったが、女性が大柄であることから、キャザリンのものであろうと考えた。そのとき、マーティン上院議員が入ってきて、その写真を取り上げた。司法省のクレンドラーが、この事件とはもう関わりはないのだから、クワンティコの学校に帰るように、クラリスを見下して言った。
レクター博士が新たに収監されているメンフィスの古い裁判所へクラリスはやって来た。
レクター博士はクラリスに彼女が子供の頃のことを話させると、クラリスは父が亡くなり、母がモンタナの従姉妹夫婦に彼女をあずけたことを告げ、ある早朝子羊たちが屠殺のため悲鳴を聞こえ目が覚め、目の悪い馬を連れ出したことを語った。
ペンブリイとボイル両係官(矯正官)が、レクター博士を担当しているが、食事を与えるときは、拘束服を着せないで手錠を格子の外に出させるが、レクター博士は隠しておいたボールペンのプラスティックの軸にクリップを差し込んだ簡易鍵を指の間から出して手錠の鍵を開けて、ボイルに手錠をはめ、そしてペンブリイに襲いかかって棍棒で殴り殺し、その後、ボイルを撲殺した。引き出しに拳銃が二挺あり、ボイルのポケットにポケット・ナイフがあった。
テイト巡査部長が、交代のため確認しようとしたが、ボイルとペンブリイはまだ下りて来ていない。銃声がして監房に行くと、二人は無惨な状態で横たわっていた。ボイルは即死だが、ペンブリイは息をしていた。エレベーターの天井から血が滴り落ちたので、犯人はエレベーターの屋根にいるということで慎重・厳重に探ったが、それは実はペンブリイであった。
ペンブリイ、実はレクター博士を乗せた救急車は、救急係がレクターに襲われて、メンフィス国際空港に向かった。
クラリスは、特別休暇を命令されたクローフォドの自宅に行き、レクターの逃亡について説明を受けた。レクターはペンブリイの制服とペンブリイの顔の一部を着けていた。それにボイルの肉を一ポンドほど。またクレンドラーが、クラリスを職務遂行能力審査会にかけるよう訴えたことをクローフォドは告げた。
クラリスはスミソニアン自然史博物館の昆虫館に行き、ピルチャーからクラウスの喉に入っていた繭が確認されたことを告げられる。それは、ドクロメンガタスズメで、学名はアケロンティア・ステュクスで地獄の二つの川の名前から取ったもので、マレイシア種であることがわかった。
キャザリンは、地下室の土牢から脱出しようと試みるがうまくいかない。
ハニバル・レクター博士は、セント・ルイスのマーカス・ホテルに泊まる。ホテルの部屋から、通りの向こうに、セント・ルイス私立病院のマイロン・サディ・フライシャー記念病棟が見える。頭蓋と顔の手術に関する世界一流のセンターの一つである。
アーディリア・マップはクラリスに審査会の勝ってほしいと言う。
クローフォドの妻が亡くなる。
ジェイム・ガムは、地下室で、キャザリンを殺して、母の相当する皮膚=服を作ろうと精緻にデザインし努力している。
クラリスは、マーティン上院議員の侮辱に胸を痛めていた。ブルジョワ的なものに対するクラリスの階級的反感があった。クラリスはレクター博士の言葉を想起して、最初の被害者について探索することの許可をクローフォドに頼み、彼は、それを認めた。
ダムは、四日目の朝、準備を整えてキャザリンを殺そうとしているが、飼っている子犬がいないことに気づいた。犬は、キャザリンが地下室から投げたバケツが開口部から出他後、その中に入り込んで、バケツと伴に地下室に落ちていったのであった。キャザリンは、
犬を殺すと脅して、電話を降ろすようにダムに要求した。
クラリスは、最初の被害者のフレドリカ・ビンメルの自宅を訪ねた。
クローフォドは、FBI本部のオフィスに行き、ダニエルスン博士からの電話で、ジョン・グラントとして、性転換手術を申請した男は経歴チェックでひっかかり、調べた結果、グラントという名前ではなく、ジェイム・ガムであった。
クラリスは、フレドリカの部屋で、手掛かりになそうなものを探している。戸棚を見つめて、犠牲者キンバリーの背中の肩の部分が三角形に切り取られているのを思い出していると、その三角形がドレスの型紙に青い点線で示してあるのを見た。
「――あれはダーツだ、彼は彼女の腰回りを広げるためのダーツを作るのにあの三角の皮膚を取ったのだ。あの畜生野郎は裁縫ができる。バッファロゥ・ビルは本職の裁縫の訓練を受けている、彼は単に既製品を選んでいるのではない。」
ビンメルの家で、スターリングにジェリイ・バロゥズから電話がかかってきた。ダムが裁縫ができることをジェリイに伝える。ジェリイは、犯人として大いに可能性のある人物を発見したことをスターリングに伝える。その名前は、ジェイム・ダムで、別名ジョン・グラントである。場所はシカゴの端のカリュメット市だ。
クラリスは、フレドリカの親友のステイシイ・ハブカを訪ねる。
特別機動部隊の乗ったジェット機がイリノイ州カリュメットを目指して飛んでいる。
ミスター・ガムは、地下室のキャザリンを撃ち殺すため、近づいたとき、ドアベルが鳴ったので、表の様子を見に行く。クラリス・スターリングがやってきた。中に入り、クラリスは、機会を見つけ、ガムを逮捕すると告げた。ガムは部屋から出ていった。クラリスは追うが、照明が消えた。ガムがブレーカーを切ったのだ。彼は赤外線をクラリスにあて、回転拳銃パイソンの撃鉄をカチッと起こした瞬間、体が仰向けに床にぶつかった。ガムは、クラリスに胸を撃たれて死んだ。その後、消防署員が来て、地下室のキャザリンを救出した。
ワシントンのナショナル空港に出迎えの人々が五十人ほどいた。飛行機から降りてくるクラリスを、アーディリア・マップが見つけ、ジェフが運転するヴァンに二人は乗ってクワンティコに向かった。
ジャック・クローフォドは、クワンティコのオフィスに行き、クラリスと会う。ジェイム・ガムの死亡とキャザリンの救出のニュースが流れている。連邦検事がクラリスの宣誓証書をジャックがもってきた。クラリスはフレドリカ・ビンメルの家からステイシイ・ハブカのところへ行き、さらに、ビンメルが下請けをしていた店、リチャーズ・ファッションズのバーディンという女のところへ行って、ミセズ・バーディンがミセズ・リップマンの古い住所、あの建物を教えてくれたというわけであった。ジャックは、クラリスを誇りに思うと堅苦しく言った。
ジェイム・ガムに関するニュースが頻繁に流れた。彼は母親に捨てられ、孤児院に入れられたが、その後祖父母が引き取った。その二年後彼は殺人を犯した。ラスペイルと出会い、その後ラスペイルの愛人クラウスを殺し、皮を剥いだ。それからラスペイルがガムをレクター博士に紹介した。ラスペイルの最後の治療の録音があった。その後レクターはラスペイルを殺した。ジェイムは、一緒に行ったフロリダの旅先でミセズ・リップマンが亡くなると、彼女の全財産―居住部分、店、地下室のある古い家―を相続したのであった。
クラリスは、スミソニアン自然史博物館の昆虫担当のピルチャーの自宅に招待された。
レクター博士はマーカス・ホテルに滞在し、上機嫌である。すでに準備してある南米に逃亡する予定である。レクターはクラリスに手紙を書く。子羊の悲鳴は止んだか答えてほしいと書いてある。その時、クラリスは、チェサピークのキルチャーの家でベッドの中で寝ていた。天空にはオリオン座とそのそばに強く輝く木星があった。

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臥竜山は偶然ではない
龍臥亭事件〈上〉 (光文社文庫) 龍臥亭事件〈上〉 (光文社文庫)
価格:¥ 780(税込)
発売日:1999-10

まだマスコミでは出てないんだが、島田荘司の「龍臥亭事件」との関連性、ますます濃厚になってきた気配があるんだが、だとすると
臥竜山は偶然ではないわけです。犯人は、わざわざ臥竜山を遺体の捨て場所として選んだわけで、すべては犯人の描いたストーリーに沿った展開ですね。まぁ、オフィスマツナガさんちに書いたのを読んで貰えばいい んだが、有料なので、貧乏な人は
増淵倉吉事件で検索してください。

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ネットゲリラ


自己愛の方程式:鏡像問題:超越的極性力と自己同一性欲望
テーマ:Media Point/精神的フィルター

小野寺光一氏が、スウェーデンボルグの霊学を紹介していたが、興味深いのは旧約の蛇が自己愛を意味するという説である。
 蛇はもともとは、死と再生、永遠回帰の象徴である。母権文化の象徴である。
 旧約は当然、父権主義であるから、本来、神獣の蛇が、邪悪な動物に転換されたと考えられる。
 思うに、差異共振性が連続化した場合、偶像崇拝になる。これを、初期一神教は正しく批判したと考えられる。
 差異共振の連続化とどうも自己愛は関係しているように直感される。これについて検討したい。
 これは当然、鏡像の問題に関係する。人間は鏡に映った自己像を自己と確認するが、チンパンジーはそれが不可能である。
 鏡像の問題については、以前、かなり検討したが、結局、不明瞭のままだったので、ここは、明確にするいい機会である。
 自己主体は+iであり、他者は-iである。そして、最根源的現象は、差異共振現象であり、+iと-iの即非様態である。「わたし」は他者であり、他者は「わたし」である。しかし、「わたし」は「わたし」である。これは、(+i)*(-i)⇒+1である。
 連続化ないし自己同一化とは、+i⇒-iのエンテレケイア的帰結の+i=-iである。
 この鏡像的自己同一化とは何か。最根源ないしは最初期の差異共振現象(差異共振エネルギー)があるが、それが鏡像に対したときに、自己同一化が生じると考えられる。
 具体的に考察しよう。例えば、「わたし(小児)」が「山」を見る。「わたし」は「山」であり、かつ、「わたし」は「山」ではない。この不思議な感覚が起る。次に、鏡を見る。すると、そこに、鏡像が生じる。この鏡像に対して、「わたし」は鏡像であり、かつ、「わたし」は鏡像でないという差異共振現象が起る。
 しかしながら、人間は、+iに傾斜しているので、鏡像を同一性化するのである。つまり、他者-iを、+iと一致させるのである。これが、+1の意味であろう。
 つまり、鏡像的自己同一性化によって、他者-iは、他者ではなくなり、同一性化+1されるのである。
 とまれ、本題の自己愛であるが、それは、当然、鏡像的自己同一性化が生まれたときに、発生すると言えよう。差異共振現象を極性力(引力と斥力:超越的極性力:プラトニック・エロース?)に拠ると考えられるが、同一性化の力学は、極性力(「即非力」)を否定して、自己主体と他者を同一性で一致させるという連続化の力学をもつと考えられる。
 この連続化の力は、同一性力であり、端的に、欲望と言えよう。つまり、自己愛とは、自己同一性欲望なのであり、差異共振という極性精神力とは似て非なるものなのである。
 問題は、「愛」という用語であり、自己愛とは、自己同一性欲望であり、欲望のことである。
 だから、自己愛ではなく、自己欲望ないしは自己欲が正しい。
 そう、エロース(エロス)という言葉も同様に誤解されているのである。プラトンが用いたエロースとは、超越的志向性である。つまり、差異共振的志向性である。それが、同一性欲望(物質的欲望)に転化されてエロス(官能)になったと考えられる。
 異性愛にしろ同性愛にしろ、本来は、霊的である。それが、同一性欲のために、物質的になっているのである。つまり、異性欲、同性欲になっているのである。
 ということで、用語(term)を整理する必要がある。
 霊的極性力を超極力と、暫定的に、呼びたい。そして、自己愛は、自己同一性欲望であり、自同欲と暫定的に呼びたい。
 だから、愛やエロースは廃止することになる。ならば、友愛は、超極力にならないといけない。つまり、友愛は超越的なのか、自己同一性欲望的なのか、未分化であり、曖昧ということである。
 ここで、留める。
 

参照:

聖書の中で、蛇という単語を「自己愛」という意味で解釈しているが同じように聖書の中での他の部分を引用して 蛇という単語が「自己愛」という意味で使われていることを、検証しているのである。

http://archive.mag2.com/0000154606/20091112062616000.html

2009/11/12 06:26
国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」


検討問題:差異共振的身体とは何か:差異共振エネルギーと三極配分
テーマ:Media Point/精神的フィルター

差異共振的身体とは、端的に、我々の実体としての身体と考えられる。しかしながら、西洋医学においては、同一性(物質)的身体が身体自体と考えられている。
 とまれ、前者の意味で端的に身体とは何かを解明したい。だいぶ前であるが、Media Pointを身体、ないしは、心身と捉えたことがあるが、それでは、曖昧である。
 ここでも、精神的フィルターの視点で考察するのが実り豊かであるように思える。
 精神的フィルター(精神⇒物質)変換器を介して、精神的情報は身体化されると考えられる。そのとき、精神的情報から身体的情報に変換する。この身体的情報が遺伝子に当たると思われる。つまり、精神的フィルターの右端に遺伝子があると思われる。
 精神的情報を(+i)*(-i)とすると、遺伝子は、(+i)*(-i)⇒+1の⇒の右端にあることになる。(精神的遺伝子と物質的遺伝子とを区別することは可能であるが、そうすると、混同されやすいので、そのような言い方はしないことにする。)
 結局、⇒+1において、⇒の先端と+1が物質的身体ということになる。
 では、差異共振的身体はどう数式化されるか。それは、(+i)*(-i)⇒+1において、当然、左辺に関係することはわかるが、+1には関わらないものである。
 おそらく、(+i)*(-i)⇒が差異共振的身体ではないだろうか。ここには、同一性、物質は存しないのである。しかし、エネルギーは⇒として存するのである。
 これを作業仮説とすると、先に触れた差異共振価値身体としての貨幣であるが、それは、端的に、(+i)*(-i)⇒のような貨幣でなくてはならない。
 つまり、言い換えると、差異共振エネルギーとしての貨幣である。あるいは、エネルゲイアとしての貨幣である。
 これは、同一性的交換価値としての通貨がエンテレケイア(終局態)であるのに対して、対照的である。
 すると、差異共振エネルギー資本という概念も生まれる。あるいは、エネルゲイアとしての資本であり、エンテレケイア(同一性価値)としての資本ではない。
 そして、差異共振とは、自然と社会共同体(労働)と生産の三次元共振となるのではないだろうか。
 同一性資本主義(近代資本主義)は、貨幣の同一性価値(同一性資本)の次元のみに注目して、自然次元と社会共同体次元を無視してきたのである。その結果、自然は破壊され、社会共同体が解体し、労働者は抑圧されてきたと考えられるのである。
 このことは後でさらに考察するとして、再度、差異共振価値身体としての貨幣を考えると、それは、三次元的エネルギー貨幣(資本)であり、自然次元、社会共同体次元、生産次元の三極次元へと振り向けられるべきものと考えられる。
 これは、いわば、三極配分と言えるだろう。自然配分、社会共同体配分、生産配分である。
 では、これは、どのように可能になるのだろうか。それは、貨幣に三極価値をもたせばいいのではないだろうか。例えば、生産者が利益をあげたとき、利益を三極配分するのである。自然配分、社会共同体配分、生産配分である。
 これを法制化するのである。自然配分とは、自然の保護(森林保護等)や創造(自然エネルギーの活用等)へと使用され、社会共同体配分とは、社会共同体の維持(社会保障)と創造(教育や芸術創造)のために使用され、生産配分とは、生産の維持と創造(例えば、イノヴェーション)のために使用されるのである。
 今はここで留める。 


2009年11月12日(Thu)▲ページの先頭へ
認識と存在:差異論理と同一性論理:精神と物質:ヤハウェ存在と偶像崇拝
先の考察は、「〜である」と存在を結びつけたが、それは明らかに誤りなので、新たに存在について検討したい。
 存在は、「〜がある」ということである。認識は、「〜である」である。
 存在性「〜がある」は、どこから生まれるのか。こ存在は、物質とほぼ言い換えることができるので、ほとんど自明である。つまり、精神的フィルターの同一性論理から存在が発生するのである。だから、自己認識方程式は、存在方程式でもある。つまり、存在は、+1であり、同一性論理(同一性フィルター)は、+ i⇒+1である。
 ここで、ヤハウェが「我在り」という神である点を分析してみよう。
 当然、ヤハウェは、存在の神ということになる。これは、実は、パラドクシカルである。何故なら、ヤハウェは、偶像崇拝を禁止する神だからである。つまり、超越的な神であり、かつ、存在の神であるというのは、パラドクシカルなのである。
 この問題をどう解明するのか。
 同一性論理は、+i⇒+1であると言ったが、端的に、これが、ヤハウェの方程式であると思う。
 存在・物質+1を志向するが、しかしながら、超越的+iであるということになろう。
 ここで、偶像崇拝について言うと、これまで、+1が偶像ではないかと考えたが、そうではなく、偶像となる自然物は、-iである。つまり、+iである認識主体が、自然物-iを崇拝することであるが、それは、どう数式化できるだろうか。
 思うに、本来、偶像崇拝とは、差異共振から発していると考えられる。つまり、「わたし」は「鳥」であり、かつ、「鳥」ではないという差異共振・即非認識があるが、「わたし」は「鳥」が特化されて、「鳥」崇拝が生まれると考えられる。
 特化とは、端的に、同一化である。この場合、+i=-iである。つまり、+i⇒-iが偶像崇拝方程式である。正確に言うと、その帰結が偶像崇拝である。
 思うに、この同一化ないしは連続化は、和ではないだろうか。+i+(-i)=0ではないだろうか。
 結局、0が偶像崇拝の値ではないだろうか。これは、作業仮説とする。
 さて、ヤハウェ存在に返ると、それは、同一性論理(言語論理)の+i⇒+1で問題がないことになる。そうすると、ヤハウェ存在方程式とアリストテレス論理は、ほとんど一致すると言える。ただし、前者は、同一性論理が一つの超越性+iから発していることを明快にしている点で、後者より優れている。
 アリストテレス論理方程式は、⇒+1か+1であるが、形相を考えると、⇒+1がいいだろう。形相は精神的フィルターの同一性構造である。
 結局、ヤハウェ存在/アリストテレス論理という同一性的精神的フィルターが西洋文明の原動力であったと言える。そして、半面が、イエス/大女神的差異論理であるが、これは、従である。つまり、同一性主差異従の文明である。
 否、端的、的確に言えば、ヤハウェ存在/アリストテレス論理の同一性論理と古代ギリシアの差異/イエス的他者の差異論理の折衷・連続性が西洋文明の本質である。


鳩山売国・亡国政権問題:戦争屋と銀行屋とトランス・モダン
鳩山売国・亡国政権問題:戦争屋と銀行屋とトランス・モダン

テーマ:鳩山代表と民主党:プレ・トランス・モダン

以下、鳩山政権の売国性について小野寺氏から鋭い指摘がなされている。
 私は先に鳩山政権は二面的だと述べた。つまり、ロックフェラー路線と「ロックフェラー」(ロスチャイルド)路線の二面性である。
 また、鳩山首相は胡散臭いとも述べた。思うに、鳩山首相の人格というか性格に、一つ問題点があるように推察される。(よく言ってだが、つまり、あえて言えば、国民を二枚舌で騙しているのだが、)つまり、騙されやすい性格である。(葱かも首相と言ったりもした。)
 おそらく、言葉を表面通りに受けとる人物である。直線的である。眼力、心眼がないのである。あるいは、複眼性がないのである。(思うに、鳩山政権の他の閣僚もそういう面をもっていると思う。それが、素人性にもつながる。)
 どうも、ロックフェラー路線(戦争屋)の言葉に鳩山首相は欺かれているのではないだろうか。つまり、東アジア共同体を主張しなさい、普天間基地は、県外にしなさい。国債を増発しなさい。等々。
 思うに、ロックフェラー路線と官僚は「連携」している。
 米国との関係を悪化させ、また、経済を破滅させて、企業を乗っ取るのである。
 ということは、鳩山政権は、「ロックフェラー』路線にあるトランス・モダン的側面が出汁にされて、ロックフェラー路線(戦争屋)に強く傾斜していることになる。
 ここで、「ロックフェラー」路線について、修正する必要があるようだ。
 これまで、それは、米国の伝統的民主主義(自由共同体主義)であると述べ、オバマ政権はその伝統に根づいたものだと言った。
 つまり、「ロックフェラー」路線=自由共同体主義=トランス・モダンと考えた。
 しかし、それは一枚岩ではない。それは、新ベンチャー革命氏が述べるように、銀行屋としての側面があるからである。つまり、同一性金融資本主義の側面があるということである。
 しかし、問題は微妙である。おそらく、銀行屋路線の内部でも分裂があるのではないだろうか。つまり,同一性金融資本路線と差異金融資本路線である。そして、後者は、脱ドル基軸通貨路線だと思われる。兌換通貨体制への復帰を考えているだろう。とまれ、そのように修正する。
 鳩山首相本人の問題にもどると、端的に、教養の問題がある。教養が足りないのである。麻生前首相よりはあるだろうが。 また、ボンボンということもある。
 より端的に言えば、個としての意識、絶対的差異としての知的独立性がないと思うのである。これがないために、騙されるのである。「友愛」主義は、連続主義(ポスト・モダン)であり、それは、反動化する。アイロニカルな没入によって、近代主義・同一性主義、新自由主義へと転化するのである。

********************************************

『国民を裏切る民主党政治「チーム竹中の指導者ロバートフェルドマン登場」』


前原 仙谷大臣を即時廃止せよ
http://www.asyura2.com/09/senkyo73/msg/460.html
3343人閲覧

外国人参政権、事業仕わけに
チーム竹中を起用と
まったく民主党政治は混迷している。

実は
チーム竹中の指導者ロバートフェルドマンが
民主党の事業仕分けを行っている。

まさに、「政権交代」は起こったが、
チーム竹中を継承している。

<前原、仙谷はコイズミ・タケナカ政治の後継者>

前原、仙谷は、
同じ小泉政治をやっているのである。

郵政民営化
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/yuuseiminneika.htm

<竹中に指示してきた フェルドマンが主体>
ロバートフェルドマン
が事業仕分けの中心である。

チーム竹中のポリシーウオッチのメンバーである。
http://policywatch.jp/agendas/author/11
「構造改革なくして安定なし」と主張している。

日本人の国家資産を、国際金融財閥の政権から守れ3
http://www.pressnet.tv/release/6387
2005-04-24

ちなみに猪瀬の「決戦郵政民営化」には最後に「真打登場」とばかりに、モル
ガンスタンレー証券チーフエコノミストのフェルドマンが出ているが、実はこの人物
が、日本の国家資産である郵貯を外資のものにするための「影のブレーン」であり当
初から竹中や猪瀬と綿密に打ち合わせて行動してきたと言われている。

猪瀬直樹からのブラックPRにさらされる日本道路公団総裁藤井氏について
http://www.pressnet.tv/release/1455
猪瀬にとって困るのは、猪瀬のクライアントの外資への国家資産売却という形になら
ないことである。外資への株式公開になれば、モルガンスタンレー証券のチーフエコ
ノミストのフェルドマン氏(猪瀬の指南役)も喜ぶだろう。
http://archive.mag2.com/0000154606/20091112062616000.html
国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」
参照:
事業仕分けは三文役者の猿芝居

海舌も全く同感だ!!⇒亀井大臣:「強権をふるう刷新会議のシステムに国民新党や社民党が入らず、外国人や市場原理至上主義者を入れているのはおかしい!」

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


2009年11月11日(Wed)▲ページの先頭へ
精神的フィルターにおける同一性論理と言語と存在の連関について:同一性構造とトランス同一性(差異)
テーマ:Media Point/精神的フィルター

先の検討は、論理が不十分なのでここでさらに検討したい。もっとも、一言述べるだけである。
 結局、精神的フィルターにおける同一性構造の形成の力学を明晰にしたいのである。
 ここでは、根本的に厳密に考察を行いたい。主体+iと他者-iがまず、存する。原始的には両者は差異共振する。「わたし」は山であり、山や「わたし」である。しかし、「わたし」は「わたし」であり、山は山であり、「わたし」≠山である。
 問題は「である」にある。これは、存在の問題である。「わたし」は認識主体であるが、同時に、それは、存在を追求している。
 思うに、認識主体「わたし」+iは、他者-iがなくては、本質的に不十分なのである。つまり、「わたし」は、「〜である」ということを求めて、他者を追求するのである。
 ということは「わたし」には、根本的に同一性の志向があるということになるだろう。それは、+i⇒+1である。このバイアスを作業仮説的に確認しておく。
 だから、整理すると、最根源的に、差異共振性があり、「わたし」は他者と共振するのである。この差異共振様態ないしは即非態において、「わたし」は、同一性を志向するということになる。
 つまり、「わたし」は、例えば、山であり、かつ、山ではないという直感が生起する。この差異共振様態・即非様態において、認識主体の「わたし」+iは、+i⇒+1という先験的バイアスがあるので、他者-iである山の同一性を追求することになると考えられる。
 そして、+i⇒+1が端的に、同一性構造、同一性フィルター、言語構造であると考えられる。カントで言えば、超越論的形式である。
 だから、人類は、否、正確的には、父権的人類は、差異共振性・即非性を同一性へと変換する志向をもっているということになる。
 言い換えると、父権的人類は、差異共振性・即非性を否定の対象と見て、同一性を肯定する生得的志向があることになる。
 そしてこの究極の形式がヤハウェ教の発想であると考えられる。
 ただし、留意すべきは、あくまで、+i⇒+1であり、+i=+1ではないということである。
 それに対して、イエス教は、-iを肯定するようにはたらきかけるものである。言い換えると、最根源の差異共振性への回帰を呼びかけているのである。
 しかしながら、キリスト教は、ヤハウェ教とイエス教の折衷・妥協であったと言えよう。(「父」はヤハウェ教であり、「子」はイエス教であり、「聖霊」もイエス教であると考えられる。)
 さて、ここで、既述の内容を考慮すると、+i⇒+1の志向が差異共振性によって破られるときが来るのである。それが、トランス・モダンである。
 それまでは、折衷であり、両者が連続化していたのであるが、最根源的な差異共振性・即非性が同一性志向を打ち破るときが到来する、回帰するのである。
 この力学であるが、これまで、-iの賦活と考えてきた。父権的人類の場合、+iに傾斜しているのであるが、しかし、これは、エネルギー・バランスから見ると、偏向であり、当然、それを矯正する力がはたらくと考えられるのである。
 つまり、抑制され、潜在していた-iの力が、活性化して、バランスをとり始めるということである。
 そして、そのときとは、思うに、強い-iの力がはたらくのではないのだろうか。そうではないと、強い+iの力を突破できないからである。
 この賦活された-iは、主体には、絶対的差異(絶対的他者)として、働くのであり同一性論理がここで崩壊せざるを得ないのである。
 正確に言うと、同一性論理とは、言語論理として、残るだろうが、それは、今や従となるのであり、差異論理(即非論理、超越性論理)が主となるのである。
 このトランス・モダンとは「聖霊」の時代と言えよう。これは、ゾロアスター教的には、スプンタ・マンユ(聖なる霊)の時代である。
 ところで、問題は、いったい、-1とは何かということになる。これは、難問である。
  +1を物質とすれば、-1は反物質ではないだろうか。ここで作業仮説すれば、ダーク・マターがこれに関係するのではないだろうか。
 そして、虚軸の差異共振エネルギーがダーク・エネルギーではないだろうか。
 ここで宗教・神話的に言えば、差異共振エネルギーは、月神である。そして、ここから、太陽神(日神)が発現するのである。それが、(+i)*(-i)⇒+1である。
 私がこれまで述べてきた超越光とは、月神を意味しよう。そして、光は日神である。
 言い換えると、月神は、イシスであり、日神はオシリスである。そして、+i⇒+1がセトであろう。(だから、セトがヤハウェの前身であり、また、アンラ・マンユがセトの前身であろう。)
 この推論・推察が正しければ、トランス・モダンとは、月神の時代である。イシスの時代である。アマテラスではなく、月読みの時代になる。
 金ではなく、銀の時代である。
今はここで留める。

追記:国之常立神がイシスに当たるように思える。もっとも、それは、天之常立神と同じかもしれない。

参照:
国之常立神
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国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、日本神話 に登場する神 である。『古事記 』では国之常立神、『日本書紀 』では国常立尊と表記されている。別名 国底立尊。

天地開闢 の際に出現した神である。『古事記』においては神世七代 の一番目に現れた神で、別天津神 の最後の天之常立神 (あめのとこたちのかみ)と対を為している。独神 (性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。『日本書紀』本文では、国常立尊が最初に現れた神としており、男神であると記している。他の一書においても、一番目か二番目に現れた神となっている。『記紀』ともに、それ以降の具体的な説話はない。

神名の「クニノトコタチ」は、国の床(とこ、土台、大地)の出現を表すとする説や、国が永久に立ち続けるの意とする説など、諸説ある。

『日本書紀』では最初、『古事記』でも神代七代の一番目に現れた神とされることから、始源神・根源神・元神として神道理論家の間で重視されてきた。伊勢神道 では天之御中主神 、豊受大神 とともに根源神とした。その影響を受けている吉田神道 では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れをくむ教派神道 諸派でも国之常立神を重要な神としている。例えば大本教 では、根本神である艮の金神 は国之常立神と同一神であるとされ、昭和19年 6月10日 に千葉県 成田市 台方の麻賀多神社 で岡本天明 に降ろされた日月神示 もこの神によるものとされる。

国土形成の根源神、国土の守護神として信仰され、以下の諸社で祭られている。

* 山王神社 (岩手県 胆沢郡 金ケ崎町 )
* 倉馳神社 (岩手県 胆沢郡 金ケ崎町 )
* 荒沢神社 (宮城県 本吉郡 南三陸町 )
* 戸倉神社 (宮城県 本吉郡 南三陸町 )
* 蘇羽鷹神社 (千葉県 松戸市 )
* 日枝神社 (東京都 千代田区 )
* 大鳥神社 (東京都 目黒区 )
* 御嶽神社 (長野県 木曽郡 王滝村 )
* 山津照神社 (滋賀県 米原市 )
* 城南宮 (京都府 京都市 伏見区 )
* 玉置神社 (奈良県 吉野郡 十津川村 )
* 熊野速玉大社 (和歌山県 新宮市 )の相殿
* 若桜神社 (鳥取県 八頭郡 若桜町 )
* 小村神社 (高知県 高岡郡 日高村 )

関連項目 [編集 ]

* 日本の神の一覧

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%B9%8B%E5%B8%B8%E7%AB%8B%E7%A5%9E 」より作成
カテゴリ : 日本の神 | 独神

天之常立神
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天之常立神(あめのとこたちのかみ)は、日本神話 に登場する神 。

天地開闢 の際、別天津神 五柱の最後に現れた神である。独神 であり、現れてすぐに身を隠した。日本書紀 本文には現れず、古事記 および日本書紀の一書にのみ登場する。日本書紀では天常立尊と表記される。

天(高天原 )そのものを神格化し、天の恒常性を表した神である。先代旧事本紀 では天之御中主神 と同一の神であるとしている。

その後に現れる国之常立神 の方が古くから信仰されてきた神であり、国之常立神の対になる神として創造された神と考えられている。抽象的な神であり、神話に事績が全く出ないことから、祀る神社は少ない。出雲大社 (出雲市 )に客座神として祀られているほか、駒形神社 (岩手県 奥州市 )、金持神社 (鳥取県 日野郡 日野町 )などに祀られている。
関連項目 [編集 ]

* 日本の神の一覧

執筆の途中です この「天之常立神」は神道 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています (ポータル 神道 /ウィキプロジェクト 神道 )。
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カテゴリ : 日本の神 | 独神

天之常立神

 あめのとこたちのかみ。

 「古事記」には『天之常立神』、「日本書紀」では『天常立命(あめのとこたちのみこと)』と記される。

 古事記では宇摩志阿斯訶備比古遅神に次いで現れた神で、性のない独神。造化三神(ぞうかさんしん)に続いて生じた神で、次に生じた天之常立神を含め、この五神を「別天津神(ことあまつかみ)」とする。日本書紀では、その逆で先に天之常立神が出現して、次に可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)としている。
 「アメ」は美称、「トコタチ」を「大地(土台)」が出現するという説、「アメ」を「天空」、「トコタチ」を「永久に立ち続ける」という説などがあるが、大地の出現を讃える、永遠の安定を願う意味が込められているとされる。

 主要神社:島根県大社町・出雲大社/岡山市・吉備津彦神社

http://bousou.huuryuu.com/kami/a/amenotokotatinokamimenu.html

天之常立神
http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/ametokotati.htm


参考:
精神的フィルター(semantic filter )
http://philosophy.blogmura.com/tb_entry100416.html
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


2009年11月09日(Mon)▲ページの先頭へ
同一性論理と存在:言語同一性フィルターとアンラ・マンユ
テーマ:Media Point/精神的フィルター

以下のマーシャル・ローゼンバーグ氏の述べる支配構造であるが、これは、正に、精神的フィルターから生まれるものである。
 私の言葉では、同一性志向性であるが、同一性構造と言えよう。これは、二項対立、優劣を生むのである。
 この問題についてもう少し、緻密に確認したいと思っている。後で詳述したいが、簡単に言うと、同一性には、存在の契機が入るのではないのかということである。
 初めに、自己の認識性+iが発動するが、それが、他者-iを占拠するのである。この占拠に存在の契機があると思われるのである。これは、即非論から言うと、「即」の要素である。「わたし」は「他者」と即であるという要素である。つまり、+i=-iという誤謬論理である。この、いわば、癒着はどういう力学をもつのか。
 とまれ、存在の視点から見ると、(+i)*(-i)=+1(存在)という誤謬方程式になるのではないだろうか。
 直感で言うと、+iという認識主体(自己主体)は、他者-iを+1にしていると思うのである。つまり、他者を存在(物質的存在)に変えているのである。ここに同一性論理の大問題点があると考えられる。
 この同一性+1の視点が、認識主体(自己主体)+iにはあるのである。つまり、主体自身が+1の精神的フィルターをもっていると考えられるのである。(+1の精神的フィルターとは、アンラ・マンユである。)
 問題は同一性論理の原動力である。それは、先に述べたように、+i⇒+1であろう。エネルギーが消尽されて、+1となる。+1となった他者と主体+iが即となるのである。つまり、言語的同一性である。
 だから、言語的同一性によって、同一性論理が発動するということになる。
 結局、+1という存在(物質的存在)が、言語的同一性を導き、そして、同一性論理が生まれるということになるのではないのか。
 つまり、唯物論から同一性論理が生まれるということになるだろう。
 精神的フィルターの視点から見ると、他者は本来、-iであるが、それを+1にする契機があるのである。
 つまり、内的他者を+1にする構造である。
 問題は、外的同一性が先なのか、内的同一性が先なのか、である。
 答えは、後者であろう。つまり、+i⇒+1が端的に、内的同一性、同一性志向性、同一性フィルター、即ち、言語(同一性)的フィルターである。
 この内的同一性によって、唯物論が生まれるのである。そうすると、アンラ・マンユとは、この内的同一性のことと言えよう。言語同一性的フィルター、これが、アンラ・マンユ、同一性論理である。そして、これが、存在を現出(「幻出」、幻影)するのである。
 後で整理したい。
 
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これが差異共振の真打ちである:複雑系差異共振的作品:トランス・モダン音楽
YouTubeは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10383713030.html

クラシック音楽(classical music)とは、結局、対位法を形成したときに生まれたのではないだろうか。その完成がバッハである。
 しかしながら、その差異共振性をその後の作曲家が真に理解したか疑わしい。ドイツ・オーストリア音楽は、思うに、根源的に東洋的な差異共振性がある。
 この作曲方法は、今日でも当然、用いられうるし、また、活用すべきである。
 結局、Media Pointないしは精神的フィルターを介して、差異共振が多様複雑化(複雑系)できるのである。
 一つの差異共振対話連鎖、例えば、

A*B⇒A1*B1⇒A2*B2⇒・・・

が存する。それを仮に、Cとする。Cに対して、Dの他者を共振させることができる。即ち、

C*D⇒C1*D1⇒C2*D2⇒・・・

である。同様に、C*DをEとして、E*Fの差異共振対話が形成できる。
 そうすると、多次元的な差異共振対話的作品が生まれる。言い換えると、複雑系的作品である。
 もっとも、バッハのフーガの技法は、そのような作品である。トランス・モダン音楽である。

追記:思うに、ポイントは、差異共振=即非化の「ツボ」である。シュルレアリスムが唱えたロートレアモンの「ミシンと蝙蝠傘の手術台の上での不意の出会いのように美しい」というのでは皮相である。一時的である。差異共振=即非は普遍的でなくてはならない。
 つまり、端的に言えば、正反対になる要素が必要なのである。Aの正反対のBが、Aと差異共振するのである。言い換えると、極性的な反対の要素が必要なのである。
 例えば、Aはカップ麺である。Bは本である。A≠Bである。しかしながら、A=Bにはならない。つまり、カップ麺と本は差異共振しないのである。
 思うに、認識的要素が必要なのである。Aは「わたし」である。Bは川である。A≠Bである。しかし、「わたし」は川である、ということは成立するのである。
 結局、認識のもつ存在への志向性がポイントだと考えられる。だから、認識的差異共振であり、存在的差異共振は不可能である。それは、幻想である。シュルレアリスムの失敗はここにあると言えよう。


2009年11月08日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:飛鳥時代の仏教とは何か
私見では、宗教は、太陽信仰、太陽神信仰に帰する。そして、ゾロアスター教は、この倫理・道徳的発展である。つまり、同一性論理が生じた後における、その克服を目指す太陽神信仰である。(注:「神」とは精神的エネルギー、霊的エネルギー、超越的エネルギー、虚数的エネルギーである。)
 飛鳥時代の仏教であるが、明らかに、太陽神信仰が入っている。阿弥陀如来(無量光仏)等を見てわかる。(天平時代は、大日如来という太陽神、即ち、アフラ・マズダーの影響が如実である。キリスト教に関連して言うと、死海文書におけるエッセネ派は、ゾロアスター教的であった。)
 ここで、私見を言うと、大乗仏教は、仏教がゾロアスター教化されたものである。また、ほぼ同時代のキリスト教(正しくは、イエス教)であるが、それも、本来、ゾロアスター教的であるが、ユダヤ教(正確には、ヤハウェ教)がそれを支配して、キリスト教が誕生した。
 神道は、当然ながら、太陽神信仰であり、これがベースとなり、ゾロアスター教的仏教を受容したように思う。天皇とは、先に述べたように、太陽女神の子である(イエスもそうである)。
 イエス教はヤハウェ教の影響を被り、キリスト教となったが、日本仏教は、ヤハウェ教の影響を強大には受けずに(ユダヤ教の影響はあるだろう。ここで、ヤハウェ教とユダヤ教は区別しないといけない。)、ある意味で、純粋な神道ベースのゾロアスター教的仏教となったのではないだろうか。それが、聖徳太子の仏教ではないだろうか。
 今はここで留める。

追記:より正確に言えば、月神信仰を言わないといけない。私はよくわからないが、月神信仰が原点であり、その後、太陽神信仰に変じたのか。
 それとも、月神信仰自体が太陽神信仰と一体であったのか。
 宗教史的には、月神信仰が原点であるように思える。そして、月神(処女神)が、太陽神を生んだように思える。イシスとオシリスはそのような関係ではないだろうか。
 とは言え、月神と日神は一如と見るのが明快であろう。
 
************************
聖徳太子
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凡例
聖徳太子
Umayado Miko.jpg
時代 飛鳥時代
生誕 574年 2月7日 (敏達天皇 3年1月1日 )
死没 622年 4月8日 (推古天皇 30年2月22日 )
改名 上宮厩戸、厩戸皇子、厩戸皇太子、摂政太子
別名 厩戸皇子、厩戸王、上宮王、豊聡耳、
上宮之厩戸豊聡耳命、法主王、豊耳聡聖
徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、
厩戸豊聰耳聖徳法王
諡号 聖徳太子
墓所 叡福寺北古墳
官位 摂政 、皇太子
主君 用明天皇 、崇峻天皇 、推古天皇
氏族 皇族 、上宮王家
父母 用明天皇 、穴穂部間人皇女
兄弟 聖徳太子(厩戸皇子)、来目皇子 、殖栗皇子
茨田皇子 、田目皇子 、麻呂子皇子
酸香手姫皇女
妻 菟道貝蛸皇女 、刀自古郎女 、橘大郎女 、
膳大郎女
子 山背大兄王 、財王 、日置王 、白髪部王
長谷王 、三枝王 、伊止志古王 、麻呂古王
片岡女王 、手島女王 、春米女王 、
久波太女王 、波止利女王 、馬屋古女王
特記
事項 物部守屋討伐戦を元服と、また便宜上
天皇を主君とみなす。
表 ・話 ・編 ・歴

聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇 3年1月1日 (574年 2月7日 ) - 推古天皇 30年2月22日 (622年 4月8日 )(同29年2月5日 説あり-『日本書紀 』))は、飛鳥時代 の皇族。

用明天皇 の第二皇子。母は欽明天皇 の皇女・穴穂部間人皇女 (あなほべのはしひとのひめみこ)。また、『上宮聖徳法王帝説 』などでは厩戸豊聰耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王 )らがいるという。

『隋書 』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述された俀王多利思北孤 による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる創作と言われている[1] 。

近年の歴史学研究において、太子の事績と言われてきたことや資料を否定する研究があることから、厩戸皇子の存在は認めるが、『日本書紀』等の伝える聖徳太子像を虚構とする説もある(詳細は#聖徳太子虚構説 の節を参照)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90


聖徳太子







聖徳太子像
滋賀県八日市市 市神神社
http://www.asuka-tobira.com/syotokutaishi/shotokutaishi.htm
聖徳太子
山岸涼子氏の「日出処の天子」を読んで聖徳太子に興味を持ち、次に読んだのが、梅原猛氏の「隠された十字架」。法隆寺は太子の怨霊を沈めるために藤原氏の思惑によって建てられたものだ、とする大変ショッキングな内容でした。 それ以後太子に取り憑かれたように太子にのめり込んでいきます。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/sub1.html

憲法十七条
聖徳太子の政治理念・哲学の表明
【アジアの仏教】

* 憲法十七条 原文(書き下し文)
* 憲法十七条 現代語訳
* 『憲法十七条』の成立した時代背景

◆ 憲法十七条 原文(書き下し文)

 夏四月[なつうづき]の丙寅[ひのえとら]の朔戊辰[ついたちゆちのえたつのひ]に、皇太子[ひつぎのみこと](=聖徳太子)、みづからはじめて憲[いつく]しき法[のり]十七条[とおちあまりななおち]作りき。

一にいはく、和[やわ]らかなるをもつて貴[とうと]しとなし、忤[さか]ふることなきを宗[むね]となす。人みな党[たむら]あり、また達[さと]れるひと少なし。ここをもつてあるいは君[きみ]・父[かぞ]に順[したが]はず、また隣里[さととなり]に違[たが]へり。しかれども上和[かみやわ]らぎ下睦[しもむつ]びて、事を論[あげつら]ふに諧[かな]ふときは、すなはち事理[こと]おのづからに通ふ、なにの事か成らざらん。

http://www2.big.or.jp/~yba/asia/kenpou17jou.html


十七条の憲法


http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm


聖徳太子の憲法十七条
聖徳太子

http://asikenko.jp/syotoku/main.html


2009年11月07日(Sat)▲ページの先頭へ
シューマン『ピアノ・コンチェルト』の分析:シューマン音楽の霊性
YouTubeは以下で見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10382781687.html

以下、最初のYouTubeの7分52秒以降(二番目のものは、7分18秒以降)を聴いていただきたい。そこに、私が感じるシューマン音楽の優れた霊性があるのである。
 非常に興の乗った箇所である。繰りかえしもある。とまれ、そこでは、音形は、波のように繰りかえす流麗なフレーズと鋭いリズムが交差するものである。
 ポイントはメロディーの様態とリズムの付け方である。盛り上がる強い調子とほぼ同時に引くような止める調子が共存しているのである。
 簡単に言えば、個の強い意志の主張があるが、同時に、個は引くのである。これは、+iの意志と-iへの志向性と言えるように思える。
 つまり、強い+iと他者-iへの志向性、これによって、この箇所において、シューマンは、差異共振性を形成していると考えられる。そのために、ここでは、超越的調和が発現していると考えられる。これが、私のいうシューマン音楽の霊性である。
 そうすると、音形Y1と音形Y2があるが、これは、Y1=i、Y2=-iである。
 そして、これを対話連鎖させるのである。すると、

Y1*Y2⇒Y3*Y4⇒Y5*Y6⇒Y7*Y8⇒・・・

となる。もっとも、これは、(+i)*(-i)⇒の差異共振の対話連鎖である。だから、

(+i1)*(-i1)⇒(+i2)*(-i2)⇒(+i3)*(-i3)⇒(+i4)*(-i4)⇒・・・

となるのである。
 これが、シューマンの奇跡的な名曲ピアノ・コンチェルトのもつ霊性の方程式ではないだろうか。

Argerich - Schumann's Piano Concerto in A minor Op. 54 Pt 4-4


Argerich & Tilson-Thomas/SFSO - Schumann concerto, movt. III


***********************

Argerich & Tilson-Thomas/SFSO - Schumann concerto (movt. I)


2009年11月06日(Fri)▲ページの先頭へ
精神的フィルターの視点から諸事を考察する:シューマン音楽と遺伝子と資本主義
精神的フィルターの視点から諸事を考察する:シューマン音楽と遺伝子と資本主義

テーマ:Media Point/精神的フィルター

先にシューマンの音楽の霊性について考察すると述べたが、簡単に述べたい。
 シューマンの音楽は、直感では、霊的音色・彩りがあるのである。これは、虚軸的調和である。しかし、虚軸だけでは、音楽はできない。実軸性があるのである。これが通常の音階や和音や律動等である。簡単に言えば、音符の音である。
 それを、Y1, Y2, Y3・・・としよう。例えば、Y1とY2が共振すると、Y1*Y2*Y3⇒X1+X2+X3となるとしよう。
 左辺は差異共振であり、虚軸・虚数性、即ち、超越性である。しかし、⇒X1+X2+X3は、通常の音符の音の構成である。物質的な音の構成である。ドレミである。
 私見では、シューマンの音楽は、左辺を美しく歌わせているのである。
 というか、左辺と右辺との微妙なズレを響かせているのである。つまり、虚数性と実数性の絶対的平行性をもって、音楽を創造しているのである。この二重性が見事に展開しているのが、シューマンの音楽であると考えられるのである。

Martha Argerich plays Schumann piano concerto - medici.tv


Schumann: Piano Concerto / Mitsuko Uchida · Simon Rattle · Berliner Philharmoniker


バッハだと明らかに、虚数性の調和が明確である。対位法に拠る。モーツァルトだと、両辺が重なるような感じであるが、しかし、結局は、左辺と右辺は不連続なのである。重なっているようだが、実際は、乖離していると思われる。
 さて、次に、遺伝子問題を考えよう。
これまで、思えば、精神と物質を連続的に捉えた向きがある。しかし、今や、両者が絶対的に異なることが確認された。
 つまり、精神的情報がある。これを、Y1*Y2*Y3とする。そして、これが、精神的フィルターを通過すると、X1+X2+X3となるとしよう。
 即ち、

Y1*Y2*Y3⇒X1+X2+X3

となる。思うに、⇒に位置に精神的フィルターを置けるだろう。精神的フィルターをsfと表記すると、

Y1*Y2*Y3⇒sf⇒X1+X2+X3

となる。そして、虚軸と実軸を区別すると、Imaginary⇒とReal⇒とする。略して、I⇒、R⇒とする。すると、

Y1*Y2*Y3(I⇒)sf(R⇒)X1+X2+X3

になるとしよう。
 これでは見にくいので、I⇒を⇒、R⇒を→とする。

すると、


Y1*Y2*Y3⇒sf→X1+X2+X3

となる。
 精神であるが、それは、sfの左側であり、身体ないしは物質はsfの右側である。
 簡単に、

精神sf物質

である。
 そして、遺伝子であるが、それは、明らかに、物質的遺伝子であり、それは、sfの右側である。否、→である。
それに対して、個人の才能や性格等の「遺伝子」ないしは、精神的遺伝子は、⇒ではないだろうか。
 また、話題の幹細胞であるが、それは、→の位置にあるのではないだろうか。
 思うに、精神や知性を涵養するのは、左辺の差異共振性を発展・進展させることではないだろうか。唯物論教育だと、左辺が発達しないのであり、右辺の物質的側面が発達して、精神が同一性化(アンラ・マンユ化)するのではないだろうか。悪霊の誕生である。
 ここで、資本主義について言えば、右辺中心の教育の結果が、デリバティブやサブプライム等によるリーマン・ショックである。同一性資本主義、モダン/ポスト・モダン経済である。
 しかしながら、左辺を涵養し、かつ、両辺のバランスを取る教育をすると、差異共振資本主義、トランス・モダン経済(自由共同体主義=リベラル・コミュニズム)になると考えられる。
 思うに、伝統的な日本的資本主義とは、トランス・モダン経済の要素をもっていたが、新自由主義という絶対的同一性資本主義を支持した結果、日本経済は破滅的状態に陥ったと考えられる。

追記:大事なことを述べるのを忘れていた。それは、電磁波のことである。
 量子力学は、量子をいわば、精神的フィルターの右端で把握していると思えるのである。つまり、精神から物質への変換点のいわば、物質的側面で捉えているのである。それで、粒子の問題が生じるのである。
 しかしながら、精神的フィルターの左端ないしは虚軸部で捉えれば、量子は十全に把捉されると考えられるのである。つまり、精神としての量子である。後で、もう少し述べたい。
 
参照:

精神的フィルター(semantic filter )
http://philosophy.blogmura.com/tb_entry100416.html
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


2009年11月04日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:精神的フィルター:心身的フィルター
精神的フィルターSemantic Filterという概念は、実に多くの難問を解決する指導的・創造的概念と考えられる。
 古代において、霊spiritと魂soulを区別するが、これも、この概念で説明できよう。また、「気」の問題も説明できるし、エロスの問題も説明できる。
 つまり、霊が主であり、魂が従であるということで、霊主魂従が成り立つと考えられる。
 「気」の場合、霊的「気」と魂的「気」があるのであり、前者は、精神的であり、後者は身体(「物質」)的と考えられる。
 また、近代性もこれで説明できる。近代合理主義は、+1と-1が結合したものと考えられる。つまり、+iと-iを即非ではなく、二項対立化させて、+1に-1の枠組み(フレーム)を与えたものではないだろうか。
 言い換えると、絶対的差異(絶対的他者)の「論理」(即非的論理)を、同一性の論理に、錯誤的に変容させているということである。つまり、近代的主観(主体、自己)は、根底から錯誤的様態にあるということなのである。(持論は、近代的自我は狂気であるということである。)
 現実である絶対的差異(絶対的他者)を知覚せずに、同一性という「妄想」で着色しているのである。現象的同一性と抽象的同一性の両面で、そうしているのである。これは、実数論理、線形論理である。
 思うに、近代の論理的源泉であるが、それは、ヤハウェ一神教とアリストテレス論理にあるだろう。構造主義もここに源泉があるだろう。
 では、この同一性論理を解体する「仏教」はどうして成立したのだろうか。色即是空、空即是色というテーゼには、明らかに、同一性論理の切断があるのである。また、禅仏教にもある。
 同一性に執着する論理を断ち切っているのである。これは、思うに、ヨーガ等の瞑想に源泉があるのではないだろうか。内的自己を探索して、そこに、外的自己の世界(物質的世界)とは別の世界(精神的世界)があるのを発見したということだろう。そして、内的自己と外的自己の著しい「差異」を捉えて、同一性論理を破砕したということではないだろうか。
 不連続性の論理は、端的には、仏教から発していると言えよう。
 今はここで留める。

追記:ゾロアスター教は、同一性論理をアンラ・マンユ(悪霊)として、捉えていると言えよう。思うに、東洋の思想が、一神教の思想に対面したときに、脱同一性ないしは反同一性の論理が生まれたのではないだろうか。


2009年11月02日(Mon)▲ページの先頭へ
父権性と母権性の即非統合について:又は新多一神教:双神教・双権主義:ゾロアスター教の新エポック
テーマ:ゾロアスター教とトランス・モダン

先ず、整理しよう。
 母権的多神教の場合、本来、差異共振性が精神的フィルターによって連続化して、堕落する。つまり、偶像崇拝が起こる。
 それに対して、ヤハウェ的一神教が起こり、その超越性は、連続性を切断する。つまり、超越神と現象界が絶対的に切断されて、分離するのである。
 この事態を作業仮説的に、+i→⇒-1と考える。
 問題は、ヤハウェが「我あり」I amという神であることである。これは、自己存在の神ということである。+i⇒+1が現象的ないしは、物質的自己存在であるなら、+i⇒-1は非現象的自己存在と言えるのではないだろうか。つまり、観念抽象的自己存在ではないだろうか。この問題はおいておこう。
 ここでポイントは、現象的連続性が切断されたことである。しかしながら、思うに、逆に、⇒-1に転化したことで、抽象的同一性に連続化していると思えるのである。
 つまり、ヤハウェ一神教は、絶対的には、切断が起きてはないのである。
 とまれ、-i(他者)を否定・抑圧・排除しているので、-i的反転(逆転)のエネルギーが発動すると考えられる。
 これが、先の考察からは、イエスのエネルギーを意味する。つまり、差異共振の復活・復興・再生を意味する。
 問題は、⇒-1と活性化された(+i)*(-i)⇒+1が衝突することである。つまり、ヤハウェ一神教と新多神教ないしは新母権性が衝突することである。
 そして、この衝突を、繕っているのが、三位一体という観念・ドクマ・イデオロギーと考えられる。つまり、それは、折衷であり、妥協に過ぎない。しかも、キリスト教の場合は、「父」ヤハウェ⇒-1が「子」イエス⇒+1よりも、主導的なのである。
 問題は、トランス・モダンの今日・現代である。イエス的反転が今日、進展したと考えられる。つまり、ヤハウェ一神教性が、新差異共振性(新多神教、新母権性)によって、超克されたと考えられるのである。それは、理論・哲学的には、後期デリダの哲学、不連続的差異論、そして、PS理論が意味するものである。
 言い換えると、絶対的差異、絶対的他者が、精神的フィルターの具象且つ抽象的同一性から独立したということである。つまり、精神的フィルターの束縛・拘束・桎梏から脱却・脱出したということである。
 根源(アルケー)への回帰である。もっとも、ここで、核心的に重要なポイントは、不連続性の認識である。もし、この認識がなければ、知は曖昧なままである。
 いったい、不連続性の認識とはどういう力学性をもつのか。それは、端的に、精神的フィルターからの切断の力学を意味すると言えよう。つまり、無意識的に、意識は、精神的フィルターに絡み取られている。しかし、意識が不連続性を認識すると、精神的フィルターの連続的接続性から離脱するのである。
 つまり、意識による差異的反転(イエス的反転)を不連続化することで、精神的フィルターの連続的接続性を破壊・解体して、差異と意識を分離するのである。
 後者の意識とは、いわゆる、知的自己である。言語的自己である。これを同一性自己と呼んでいいのか、微妙である。この知的意識は、不連続である絶対的差異、差異共振性、即非性を認識しているものであり、いわば、絶対的差異を包摂した知性である。だから、これは、同一性自己と呼ぶのは絶対に不可能である。
 ここにおいて、絶対的差異、超越的差異、差異共振と外界的感覚・知覚・言語的知性(数理知性を含めて)との対話が行われていると考えられる。
 いわば、直感・直観があり、それと外界的感覚・知覚・言語的知性との絶えざる対話・ポリフォニーが行われているのである。それは、虚数的超越性と実数的現象性との対話的生成と換言できる。また、Media Point的対話と言える。つまり、Media Point的四元・五元的対話である。
 では、ここに新しく生まれた精神とは宗教・ジェンダー的には、何なのであろうか。思うに、超越的多神教であり、超越的母権主義である。一神教的多神教であり、父権的母権主義である。あるいは、逆も真である。
 とりあえず、双神教、双権主義とでも呼ぼう。あるいは、共神教であり、共権主義である。ここで、やはり、ゾロアスター教が決定的な意義をもっていると言える。


2009年11月01日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:精神的フィルター又は精神的言語フィルター:多神教⇒一神教⇒新多神教:Ver2
今日、多神教と一神教における違いをあれこれ考えていたが、前者の場合は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で記述できる。
 問題は、精神的フィルターの存在である。これまで、差異共振現象が多神教であると考えた。即ち、例えば、「わたし」は「鳥」であり、且つ、「わたし」は「鳥」ではない、という事象=心象が生起する。
 しかしながら、このとき、精神的フィルター(精神的言語フィルター)によって、言語も形成されるのである。
 つまり、精神的フィルター(精神的言語フィルター)によって、差異共振現象が実は、連続化されるのである。だから、「わたし」は「鳥」であるということが、いわば、粘着的に強化されるのである。いわば、情緒主義化が生起するのである。癒着である。
 思うに、偶像崇拝はこの帰結のように思えるのである。
 そして、これに対して、ヤハウェの一神教の意味があるのである。つまり、堕落した多神教、連続化した多神教に対して、超越的切断を提起したのだと考えられる。
 そして、ヤハウェであるが、これは、確かに、超越性から発しているが、+iに極端に傾斜していると考えられる。
 端的に、Media Pointが源泉であるが、+iに極端に傾斜しているということである。そのため、他者-iを否定して、⇒-1になるのではないだろうか。
 多神教は本来、⇒+1であるが、ヤハウェ一神教の場合、⇒-1になると思われるのである。
 しかしながら、源泉はMedia Pointで同じである。だから、両者の神話においては、神話要素が共通すると考えられるのである。「蛇」、「生命の樹」、「楽園」、等である。
 つまり、ヤハウェ一神教は、母権的多神教の内在的反転のように思われるのである。つまり、メビウスの帯のように、両者、一如であるということである。
 思うに、ヤハウェは、+i⇒-1ではないだろうか。これは、抽象的同一性という精神的フィルターを形成するのではないか。
 そして、次にキリスト教であるが、それは、ヤハウェ一神教への反転のように思える。つまり、⇒+1である。一種、多神教的である。しかしながら、問題は、この反転は、「父」ヤハウェからの反転であり、「父」の精神的フィルター(精神的言語フィルター)が影響しているのではないだろうか。
 それが、ヨハネの福音書の「はじめにコトバありき」に残像しているのではないだろうか。
 つまり、本来、キリスト教的反転とは、多神教だったはずであるが、それ以前の文化文脈がヤハウェ的一神教なので、その影響を受けて、一神教性を残しているのではないか。一神教の精神的フィルターから脱却できないままだったのではないだろうか。
 これは、理論的というよりは、経験的な問題ではないだろうか。
 しかしながら、キリスト教であるが、本当に、反転しているのか。どうも、十分な反転ではないように思えるのである。中途半端なのである。本当の反転ならば、脱一神教とならなくてはならないからである。
 とりあえず、不十分な反転としておこう。そうならば、十分な反転が次に起るはずである。それが、完全な脱一神教・新多神教となるはずである。
 不十分な反転をいちおう、Burgeoning -iによるものとしよう。Strong +iとBurgeoning -iが存するのである。これは、共振もあるが、やはり、強意の+iが支配しているのである。
 そして、Strong -iが発動するときがくるのである。それによって、新しい差異共振(新多神教)が生まれるのではないだろうか。
 以上は思考実験である。後で整合的に考察を行ないたい。

追記1:以上の記述は、便宜的なものであり、整合性を無視している。つまり、キリスト教の中途半端な反転という発想が便宜的なのである。
 やはり、理論的には、正式な反転と見るべきである。そして、そこで、精神的フィルター(精神的言語フィルター)を考えるべきだろう。
 つまり、「父」の精神的フィルターがあるので、キリスト教本来の母権主義・多神教・異教性が否定されると見るべきではないだろうか。+i⇒-1の精神的フィルターである。
 つまり、⇒-1(ヤハウェ)と⇒+1(イエス)の両面が発生して、分裂しているのではないだろうか。
 前者は戦争を志向し、後者は平和を志向するということではないだろうか。
 西洋において、歴史上、大革新的変化は、やはり、ルネサンスである。ここで、個が覚醒するのである。これは、Media Pointの覚醒である。つまり、それまでは(例えば、中世)、限られた個人による覚醒はあったが、ルネサンスにおいて、社会的な覚醒が発生したと考えられる。
 しかしながら、やはり、問題は、精神的フィルターである。精神的同一性フィルターが強いために、ルネサンスは、遠近法を生み出したと考えられる。イタリアという母権主義の強い土地であっても、精神的言語フィルターが強固なために、覚醒は、同一性へと展開して行ったと思われる。
 フィレンツェにおいて、フィチーニが中心となり、プラトン研究が復興し、ネオ・プラトニズムが生まれたが、結局、絵画では、遠近法が中心になっていくのである。
 より正確に言えば、虚軸性と実軸性の両面の活性化があったが、精神的フィルターのために、連続的に、実軸性(遠近法)へと傾斜していったと考えられる。
 そして、西欧近代主義が生まれるのである。それは、精神的フィルターが強く働いているのである。
 しかし、同時に、Media Pointの動きもあるのである。
 そのようにみると、キリスト教的反転が今日でも、作用しているのかもしれない。つまり、母権的・多神教的・差異共振的反転である。
 その帰結が「聖霊」主義ということではないだろうか。それは、また、ゾロアスター教主義である。
 とまれ、結局、本文で述べたことのままである。

追記2:追記1で述べたキリスト教とは、明確にいうならば、イエス教である。イエス個人本来の宗教であり、ヤハウェ的一神教の影響を受けていないものである。

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キリスト
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

キリストは、ヘブライ語 のメシア (מָשִׁיחַ)のギリシア語 訳 Χριστος (christos)(クリストス、フリストス[1] )からの、日本語における片仮名表記。

基督、クリスト、ハリストス 、クライストとも表記される。

ヘブライ語での意味は「油を注がれた(塗られた)者」「受膏者」。古代イスラエルにおいては、王や祭司などの即位に際して頭に油を塗る儀式があった。ここからキリスト教において救世主 との意味が派生した。


Christ
From Wikipedia, the free encyclopedia
Jump to: navigation , search
This article is about the Christian theological role. For other uses, see Christ (disambiguation) .
Christ the Saviour (Pantokrator), a 6th-century encaustic icon from Saint Catherine's Monastery , Mount Sinai .

Christ is the English term for the Greek Χριστός (Khristós) meaning "the anointed ".[1] It is a translation of the Hebrew מָשִׁיחַ (Māšîaḥ). The term "Christ" was a title rather than a proper name. In the four gospels in the New Testament , the word "Christ" is nearly always preceded by the definite article ("the Christ").[2] For centuries the Jews had referred to their expected Deliverer as "the Anointed."[3] The term "Christ" carries much of its original Jewish meaning of "Messiah "―"one [who is] anointed" or appointed by God with a unique and special purpose (mission ) on Earth.[4] It was later in the first century that the title gradually became a proper name, and the expression "Jesus Christ " or "Christ Jesus" became only one designation.[3] Jesus is a central figure in Western civilization .

The area of Christian theology focusing on the nature of Jesus as the Christ, particularly with how the divine and human are related in his person, is known as Christology . A central doctrine within the Trinitarian (Nicene) interpretation is that God took human form in the body of Jesus, "the Christ," and accordingly "Christ" is or was both fully human and fully God.[5] Following from this association between God and Jesus, many Christians believe that belief in Jesus either qualifies them as inheritors of a special privilege or else provides for them a conceptual interface to God's being, such that translates to having a greater "personal relationship" with God . Further, these concepts of personal connection with God have claimed relevance to spiritual concepts including salvation , God's love , divine providence , and divine illumination .

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メシア
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

メシアは、ヘブライ語 のマーシアハ(משיח)の慣用的カナ表記で、「(油を)塗られた者」の意。メサイア は、Messiah の英語発音。


概説 [編集 ]

出エジプト記 には祭司が[1] 、サムエル記 下には王が[2] 、その就任の際に油を塗られたことが書かれている。後にそれは理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な救済者を指すようになった。ユダヤ教 におけるメシア(w:Jewish Messiah )はダビデ の子孫から生まれ、イスラエルを再建してダビデの王国を回復し、世界に平和をもたらす存在とされている。

メシアに対応するギリシャ語 はクリストス(Χριστος)で、「キリスト 」はその日本語的表記である[3] 。キリスト教徒 とイスラム教徒 はナザレのイエス がそのメシアであると考えている。イエスをメシアとして認めた場合の呼称がイエス・キリスト である。但し、メシアの捉え方は両者間で異なっている。詳しくは後述。

各時代にメシアを称した者(保守派や、大多数の者からは「偽メシア」ということになる)は、当然ユダヤ教 内部でも解釈が分かれ、分派を形成した。また、これに賛同したキリスト教 徒・イスラム教 徒もいた。また、こちらも当然ながらユダヤ教からはイエスは偽メシアとして見られている。メシアニック・ジュダイズム のようにユダヤ教を自称し、ユダヤ教的様式の典礼を実践しつつイエスをメシアと認める教派も存在するが、彼ら自身を除いて主流派ユダヤ教やキリスト教両者側からもユダヤ教ではなくキリスト教の一派と認識されている事の方が多い。

イスラーム でもユダヤ教、キリスト教からメシアの概念は継承されており、アラビア語 で「マスィーフ」( مسيح masīḥ)と呼ばれ、イエスのことを指す。イスラームにおいてはイエス自身は預言者 にして預言者ムハンマド に先行する「神 (アッラーフ )の使徒 とされており、また神が派遣したメシアであることも認識されている。クルアーン の記述から「マスィーフ」(救済者、メシア)はダビデ の子孫から出現するとされ、人々の苦難から救済しアッラーフ (神)の支配を確立する者としている。終末 のときに神の代理人として出現し偽メシアを討伐するといい、これらもユダヤ教、キリスト教のメシア像から受継がれている。イスラームにおいて「マスィーフ」はキリスト教の救世主であるのに対し、イスラム共同体 における救世主は「マフディー 」(「正しく導かれる者」の意味)と称する。単に「アル=マスィーフ」(al-Masīḥ)、「マスィーフッラーフ」( مسيح اللّهMasīḥ Allāh ;神のメシア)と呼ぶ場合、イエス自身を指す尊称である。

Messiah
From Wikipedia, the free encyclopedia

Messiah (Hebrew : מָשִׁיחַ, Modern Mašíaḥ Tiberian Māšîªḥ; in modern Jewish texts in English sometimes spelled Moshiach; Aramaic : משיחא, Greek : Μεσσίας, Syriac : ܡܫܺܝܚܳܐ, Məšîḥā, Arabic : المسيح‎, al-Masīḥ, Latin : Messias) literally means "anointed (one)".

In Jewish messianic tradition and eschatology , messiah refers to a future King of Israel from the Davidic line , who will rule the people of united tribes of Israel [1] and herald the Messianic Age [2] of global peace. In Standard Hebrew, The Messiah is often referred to as מלך המשיח, Méleḫ ha-Mašíaḥ (in the Tiberian vocalization pronounced Méleḵ haMMāšîªḥ), literally meaning "the Anointed King."

Christians believe that prophecies in the Hebrew Bible refer to a spiritual savior, partly evidenced in passages from the Book of Isaiah : "Therefore the Lord himself will give you a sign: The virgin will be with child and will give birth to a son, and will call him Immanuel,"[Isa. 7:14 ] and "He was pierced for our transgressions, he was crushed for our iniquities; the punishment that brought us peace was upon him, and by his wounds we are healed,"[Isa. 53:5 ] and believe Jesus to be that Messiah (Christ ). The (Greek ) Septuagint version of the Old Testament renders all thirty-nine instances of the Hebrew word for anointed (Mašíaḥ) as Khristós (Χριστός).[3] The New Testament records the Greek transliteration Μεσσίας, Messias twice in John [Jn. 1:41 ] and [4:25 ]

In Islam , Isa (Jesus) is also called the Messiah (Masih),[4] but like in Judaism he is not considered to be the literal physical Son of God or God the Son .

Messianic Age
From Wikipedia, the free encyclopedia

Messianic Age is a theological term referring to a future time of peace and brotherhood on the earth, without crime , war and poverty . Many religions believe that there will be such an age; some refer to it as the "Kingdom of God ".
[edit ] Terminology: "messianic" and "eschatology"

In the context of "Messianic Age", the earliest meaning of the word "messianic" is derived from notion of Yemot HaMashiach meaning "The Days of the Messiah", that is, the Jewish Messiah , meaning "related to the Messiah" (See also Messiah ). Messiah comes from a Hebrew word meaning "The Anointed One", i.e., a person who is "specially appointed and empowered". Originally this phrase--the "anointed one"--referred to either a king who was anointed with Holy anointing oil as part of what might be understood to be his coronation ceremony, or a kohen. After the destruction of the Israelite kingship and Davidic line with the destruction of the First Temple in 586 B.C.E., Biblical figures began to write of a yearning for the "mashiach" to return. Originally, however, this only meant a yearning for a return to the Davidic kingship and the just rule and (Israelite) national independence that such a thing connoted. Over time, however, as a return to independent rule became increasingly distant-seeming, hopes for a new "anointed one" to come and liberate the people from their current, dismal conditions took on a decidedly more transcendent cast, eventually morphing into the "Messiah" (that word, an Anglicanization of "moshiach") known to Judaism and Christianity--that is to say, the Divine messenger who will come and herald God's world to come/future age.

Eschatology is an area of religious scholarship that deals with prophecies about "the end of the current age" of human civilization.
[edit ] Judaism, Christianity, Islam and Bahá'í

Jewish , Christian , Zoroastrian and Islamic eschatology teach that there will be a "Messianic Age" when the Messiah will come and bring peace and prosperity to the earth. Although the Hebrew Bible , also known as the Old Testament , and the New Testament both describe such a period, the term "Messianic Age" does not appear in the Hebrew Bible nor in the Apocrypha and is called the "Millennium" in the New Testament. The "Messianic Age" in Islam is described in the Hadith . In the Bahá'í Faith , the "Messianic Age" refers to a 1000-year period beginning with the Declaration of Bahá'u'lláh in 1863. Bahá'ís believe the period of peace and prosperity is gradually unfolding and will culminate in the appearance of 'The Most Great Peace'.

"http://en.wikipedia.org/wiki/Messianic_Age "


   




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