INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/10

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




[PR]



2009年10月31日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:精神的フィルター又は精神的言語フィルター:多神教⇒一神教⇒新多神教
今日、多神教と一神教における違いをあれこれ考えていたが、前者の場合は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で記述できる。
 問題は、精神的フィルターの存在である。これまで、差異共振現象が多神教であると考えた。即ち、例えば、「わたし」は「鳥」であり、且つ、「わたし」は「鳥」ではない、という事象=心象が生起する。
 しかしながら、このとき、精神的フィルター(精神的言語フィルター)によって、言語も形成されるのである。
 つまり、精神的フィルター(精神的言語フィルター)によって、差異共振現象が実は、連続化されるのである。だから、「わたし」は「鳥」であるということが、いわば、粘着的に強化されるのである。いわば、情緒主義化が生起するのである。癒着である。
 思うに、偶像崇拝はこの帰結のように思えるのである。
 そして、これに対して、ヤハウェの一神教の意味があるのである。つまり、堕落した多神教、連続化した多神教に対して、超越的切断を提起したのだと考えられる。
 そして、ヤハウェであるが、これは、確かに、超越性から発しているが、+iに極端に傾斜していると考えられる。
 端的に、Media Pointが源泉であるが、+iに極端に傾斜しているということである。そのため、他者-iを否定して、⇒-1になるのではないだろうか。
 多神教は本来、⇒+1であるが、ヤハウェ一神教の場合、⇒-1になると思われるのである。
 しかしながら、源泉はMedia Pointで同じである。だから、両者の神話においては、神話要素が共通すると考えられるのである。「蛇」、「生命の樹」、「楽園」、等である。
 つまり、ヤハウェ一神教は、母権的多神教の内在的反転のように思われるのである。つまり、メビウスの輪のように、両者、一如であるということである。
 思うに、ヤハウェは、+i⇒-1ではないだろうか。これは、抽象的同一性という精神的フィルターを形成するのではないか。
 そして、次にキリスト教であるが、それは、ヤハウェ一神教への反転のように思える。つまり、⇒+1である。一種、多神教的である。しかしながら、問題は、この反転は、「父」ヤハウェからの反転であり、「父」の精神的フィルター(精神的言語フィルター)が影響しているのではないだろうか。
 それが、ヨハネの福音書の「はじめにコトバありき」に残像しているのではないだろうか。
 つまり、本来、キリスト教的反転とは、本来、多神教だったはずであるが、それ以前の文化文脈がヤハウェ的一神教なので、その影響を受けて、一神教性を残しているのではないか。一神教の精神的フィルターから脱却できないままだったのではないだろうか。
 これは、理論的というよりは、経験的な問題ではないだろうか。
 しかしながら、キリスト教であるが、本当に、反転しているのか。どうも、十分な反転ではないように思えるのである。中途半端なのである。本当の反転ならば、脱一神教とならなくてはならないからである。
 とりあえず、不十分な反転としておこう。そうならば、十分な反転が次に起るはずである。それが、完全な脱一神教・新多神教となるはずである。
 不十分な反転をいちおう、Burgeoning -iによるものとしよう。Strong +iとBurgeoning -iが存するのである。これは、共振もあるが、やはり、強意の+iが支配しているのである。
 そして、Strong -iが発動するときがくるのである。それによって、新しい差異共振(多神教)が生まれるのではないだろうか。
 以上は思考実験である。後で整合的に考察を行ないたい。

追記:以上の記述は、便宜的なものであり、整合性を無視している。つまり、キリスト教の中途半端な反転という発想が便宜的なのである。
 やはり、理論的には、正式な反転と見るべきである。そして、そこで、精神的フィルター(精神的言語フィルター)を考えるべきだろう。
 つまり、「父」の精神的フィルターがあるので、キリスト教本来の母権主義・多神教・異教性が否定されると見るべきではないだろうか。+i⇒-1の精神的フィルターである。
 つまり、⇒-1(ヤハウェ)と⇒+1(イエス)の両面が発生して、分裂しているのではないだろうか。
 前者は戦争を志向し、後者は平和を志向するということではないだろうか。
 西洋において、歴史上、一つの革新的変化は、やはり、ルネサンスである。ここで、個が覚醒するのである。これは、Media Pointの覚醒である。つまり、それまでは(例えば、中世)、限られた個人による覚醒はあったが、ルネサンスにおいて、社会的な覚醒が発生したと考えられる。
 しかしながら、やはり、問題は、精神的フィルターである。精神的同一性フィルターが強いために、ルネサンスは、遠近法を生み出したと考えられる。イタリアという母権主義の強い土地であっても、精神的言語フィルターが強固なために、覚醒は、同一性へと展開して行ったと思われる。
 フィレンツェにおいて、フィチーニが中心となり、プラトン研究が復興し、ネオ・プラトニズムが生まれたが、結局、絵画では、遠近法が中心になっていくのである。
 より正確に言えば、虚軸性と実軸性の両面の活性化があったが、精神的フィルターのために、連続的に、実軸性(遠近法)へと傾斜していったと考えられる。
 そして、西欧近代主義が生まれるのである。それは、精神的フィルターが強く働いているのである。
 しかし、同時に、Media Pointの動きもあるのである。
 そのようにみると、キリスト教的反転が今日でも、作用しているのかもしれない。つまり、母権的・多神教的・差異共振的反転である。
 その帰結が「聖霊」主義ということではないだろうか。それは、また、ゾロアスター教主義である。


検討問題:イデア対子の回転と超越神
今は、ざっと記すに留める。

Idea Polarity=[conθ+(i・sinθ)]*[-conθ-(i・sinθ)]

ただし、

θ=1/2πk
kは実数とする。
Idea PolarityをIPと表記する。

そして、

k=0のとき、 IP=(+1)*(-1)⇒-1
k=+1のとき、IP=(+i)*(-i)⇒+1
k=+2のとき、IP=(-1)*(+1)⇒-1
k=+3のとき、IP=(-i)*(+i)⇒+1
k=+4のとき、IP=(+1)*(-1)⇒-1

となる。

kが偶数のとき、同一性=物質
kが奇数のとき、差異(共振)=精神
となるのではないだろうか。

もっとも、k=1から始めるのが適切だと思う。

ところで、積と商を入れると、
kが偶数のときは、両者、-1であるが、
kが奇数のときは、+1と-1に分化する。
 
思うに、奇数のときに、4元的共振が生起して、創造的になるのではないだろうか。偶数のときは、二元共振であり、それは、唯物論的ではないだろうか。
 
とまれ、以上の発想の原基は、⇒+1が多神教的であり、反転の⇒-1が一神教というものである。

************************

さて、次に、超越神について簡単に考えたい。
 例えば、ヤハウェは、直感では、⇒-1であるが、果たして、-1が超越性を意味するだろうか。
 やはり、(+i)*-(-i)⇒-1において、強意の+iがヤハウェではないだろうか。では、⇒-1とは何か。 
 それは、先に述べたように、抽象的同一性ではないだろうか。つまり、ヤハウェは、Strong +iであるが、その結果は抽象的同一性である。つまり、これこそ、物質性ではないだろうか。+1の場合は、具体性がある同一性ではないだろうか。
 例えば、杉の木という同一性が+1ではないだろうか。そして、重さという同一性が-1ではないだろうか。これは検討課題である。


2009年10月30日(Fri)▲ページの先頭へ
差異共振価値としての資本主義の富:差異共振経済へフィードバックするトランス・モダン経済
テーマ:トランス・モダン経済:差異共振資本経済

これは、まったく同感である。持論であるが、資本主義の富とは、哲学・科学的には、差異共振価値であり、それを、差異共振創造的に配分する必要があるのである。そうでないと、同一性価値に陥って、破局(不況、恐慌)になるのである。これは、熱力学的に説明できるだろう。あるいは、カオス理論的にである。
 つまり、差異共振価値という富を差異共振「生産」へとフィードバックしないといけないのである。

追記:
労働*資本*情報(知識・知恵・才覚・イノベーション等)⇒差異共振価値だろう。
 これは、

(Capital=+i)*(Labour=-i)⇒(Difference Resonance Value=+1)⇒Difference Resonance Distribution

となるだろう。そして、*はInformation Communication Technologyである。言い換えると、Media Point=Semantic FilterがInformation Communication Technologyである。
 
即ち、

C*L⇒DRV
 
ただし、*=ICT

である。

or

C✇ICT✇L⇒DRV

となるかもしれない。✇は、三つ巴共振を意味する。

追記2:
より正確に記述すれば、

(Capital=+i)*(Labour=-i)⇒(Difference Resonance Value=+1)⇒Difference Resonance Distribution=(Capital1)*(Labour1)⇒Capital2*_Labour2⇒・・・

即ち、

C✇ICT✇L⇒DRV1(C1✇ICT1✇L1)⇒
DRV2(C2✇ICT2✇L2)⇒DRV3(C3✇ICT3✇L3) ・・・

である。

**********************

自分たちの税金を上げよというドイツ富裕層の人々に学ぶ New!!
これは興味深いニュース。ドイツの富裕層には自分たちの豊富な財力の一部を国と国民のために使ってもらいたいと思っている人たちがこれだけいるということですね。日本の富裕層にもこういう外国人富裕者の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいです。

●AFPBB News
「税金をもっと上げて」、ドイツ人富裕者グループが財産税の再導入を求める
2009年10月23日 13:15 発信地:ベルリン/ドイツ
http://www.afpbb.com/article/economy/2655621/4798164

【10月23日 AFP】裕福なドイツ人のグループが、ドイツを金融危機から立ち直らせる力になりたいと、財産税の導入を求める活動を展開している。独紙ターゲスシュピーゲル(Tagesspiegel)が伝えた。

 嘆願書にはこれまでに44人が署名した。この嘆願書はグループのウェブサイトに掲載されている。

 署名した1人、元医師のディーター・ケルムクール(Dieter Kelmkuhl)さん(66)の試算によると、50万ユーロ(約6900万円)以上の資産を持つドイツ人220万人が今年と来年、その財産の5%の税金を納めれば、国庫に1000億ユーロ(約14兆円)を提供できるという。

 グループは1997年に廃止された財産税を再導入し、税率は最初の2年間は5%、その後は廃止時の税率だった1%にすることを提案している。ドイツはキャピタルゲインには現在も25%の税金をかけている。

 ケルムクールさんは、ドイツ国内で貧富の差が拡大し国の財政も厳しい中、政府が金融機関の救済や景気回復のため数十億ユーロ(数千億円)の支出に踏み切ったことをみて、「今こそ富裕層が祖国を助ける時だ」と考えたのだという。

 米国には約700人の裕福な米国人が所属する団体「公平な経済のための連合(United for a Fair Economy、UFE)」が存在するが、ケルムクールさんはドイツ版UFEが誕生することを望んでいるという。

 ペーター・フォルマー(Peter Vollmer)さん(69)は、自分には必要ない多額の資産を相続したので請願書に署名したと語っている。(c)AFP

【参考】財産税の再導入を求めるグループのサイト(ドイツ語)

(引用ここまで)

財産税の再導入を求めることによってドイツの富裕層は祖国つまりドイツの人々を助けようとしています。これぞ税金の機能 の一つである「富の再分配」そのものです。アメリカの富裕層にもそういう考えを持つ人々が数百人いるとのこと。ドイツやアメリカにもお金を使いたがらない富裕層はいるのでしょうけど、このように「富裕層にもっと税をかけよ」と主張する富裕者もまたいるわけですね。
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1492.html
村野瀬玲奈の秘書課広報室


有機物のらせん現象と二分の一π(パイ)振動
以下、Kaisetsu氏が時間システムについて定義されているが、有機物の時間システムは、らせん現象を見事に説明するものと考えられる。つるまき植物、蕨・薇のらせん、巻き貝、つむじ、そして、おそらく、渦巻星雲や台風や竜巻等の自然現象も説明できるのではないだろうか。
 そう、Media Point的振動とも言えるだろう。
 また、無機物の時間システム(π振動)であるが、それは、有機物の腐敗過程・死の過程を説明するだろう。
 また、そうならば、健康と病気についてもこの視点から解明できるだろう。つまり、病気は、有機物の時間システムに無機物の時間システムが混入することではないのか。この点は検討課題である。免疫は、Media Point的エネルギーであろう。それを、無機物の時間システムが破壊するということではないだろうか。

************************

三、存在と非存在の「振動」は次のように数的に表現できる。
⇒(有機物の時間システム) -1,-i,1,i,-1,-i,1,i,-1,-i,1,i,-1,-i,1,i・・・
 ◆今後、二分の一π(パイ)振動(或いは、四分の一回転)と呼ぶこともある。
⇒(無機物の時間システム) -1,1,-1,1,-1,1,-1,1,-1,1,-1,1,-1,1,-1,1・・・
 ◆今後、π(パイ)振動(二分の一回転)と呼ぶこともある。


再掲示: 時間の根源に関する基礎的な一定の結論 in 2007.09.16 Sunday

参考:
【精神的フィルター(semantic filter )の接触部分】⇒指し示しの一方通行性⇒時間の起源
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 
************************

螺旋
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

螺旋
巻き貝 類の多くは螺線構造をもっている

螺旋(らせん)とは、3次元曲線 の一種で、回転しながら回転面に垂直成分のある方向へ上昇する曲線である。螺線(らせん)とも。英語ではヘリックス (helix)、形容詞はヘリカル (helical)。「螺」は「ラ」「にし」と読み、タニシ (田螺)やサザエ (栄螺)のような巻き貝 の貝殻 を意味する。

2次元曲線の渦巻 も螺旋・螺線と呼ぶことがある。渦巻と区別するために、3次元曲線の螺旋を弦巻線または蔓巻線(つるまきせん)と呼ぶことがある。

数学の世界においては、慣用的に螺旋を弦巻線、螺線を渦巻線の意味で使っている[1] 。

以下では弦巻線(ヘリックス)について述べる。
螺旋の例 [編集 ]

* ねじ の山と溝
* つる植物 のつる
* 螺旋階段
* コイル
* コイルばね
* 螺旋状の分子
o DNA分子
o アミロース 分子(でんぷん の一種)
o タンパク質 のαヘリックス 構造
* スクリュー やプロペラ の軌跡
* 三色ねじり棒 (理容店 の看板 )

ねじ


つる植物 のつる


クレモナ 塔の螺旋階段


コイルばね

アミロース
渦巻と螺旋 [編集 ]
螺旋を平面に投影すると渦巻となる。

渦巻と螺旋との比較
渦巻 螺旋(弦巻線)
英語 spiral helix
次元 2次元曲線 3次元曲線
例 蚊取り線香 (一様螺線 )、アンモナイト の殻(対数螺線 )、ロールケーキ アサガオ のつる 、コイルばね (常螺旋 )、DNA (二重螺旋 )、ねじ 山

スパイラルとヘリックスの混同は英語でも見られるが、日本語とは逆に、本来ヘリックスであるものがスパイラルと呼ばれることが多い。たとえば、螺旋階段は英語ではspiral stairwayである。

螺旋を平面に投影すると、渦巻の一種の双曲螺旋となる。
数学的表現 [編集 ]

媒介変数 \theta \, を使って次のように表せる。

x = a \cos \theta \,
y = a \sin \theta \,
z = b \theta \,

円筒座標 を使えば、もっと単純に表せる。

r = a \,
z = b \theta \,

回転する模様として [編集 ]

螺旋は回転させると、その方向に応じて上昇、あるいは下降して見える。床屋 の看板やコマ の軸の模様に多くの例がある。
象徴としての螺旋 [編集 ]

螺旋は、運動性や生命力を感じさせる面があるので、芸術作品などにおいては、様々な意味を込めた象徴 、シンボル として用いられることも多く、作品のタイトルとなっている例も多い。(→螺旋 (曖昧さ回避) )

また、基本的には繰り返しの構造でありながら、同じ位置をたどらず、例えば無限に上昇する構造を歴史 や生命 になぞらえる例もある。

なお、無限上昇のカノン は別名を螺旋カノンと言い、一つの旋律が繰り返す際に少しだけ音程を高くして始まるようになっており、繰り返すにつれてどんどん音程があがってゆくものである。バッハの「音楽の捧げもの 」にその例がある。実際には1オクターブ上がったところで終了させるか、そこでもとの音に戻って終了させる。もちろん実際に無限に上昇するのは不可能であるが、コンピューターミュージックなどで音程があがるにつれて音量を抑え、旋律の音程があがるにつれて1オクターブ下に新しく旋律を追加するようにすれば、無限上昇を実感できる。
文献 [編集 ]

1. ^ 岩波書店 『岩波数学辞典 』第4版

関連項目 [編集 ]

* 右巻き、左巻き
* 二重らせん
* マルウィヤ・ミナレット

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9E%BA%E6%97%8B 」より作成
カテゴリ : 曲線 | 立体図形 | 数学に関する記事

Helix
From Wikipedia, the free encyclopedia
Jump to: navigation , search
This article is about the shape. For other uses, see Helix (disambiguation) .
A helix constructed in brick .
Crystal structure of a folded molecular helix reported by Lehn and coworkers in Helv. Chim. Acta., 2003, 86, 1598-1624.
A natural left-handed helix, made by a climber plant.

A helix (pl: helixes or helices) is a special kind of space curve , i.e. a smooth curve in three-space. As a mental image of a helix one may take the spring (although the spring is not a curve, and so is technically not a helix, it does give a convenient mental picture). A helix is characterised by the fact that the tangent line at any point makes a constant angle with a fixed line. A filled in helix, for example a spiral staircase, is called a helicoid [1] . Helices are important in biology , as the DNA molecule is formed as two intertwined helices , and many proteins have helical substructures, known as alpha helices . The word helix comes from the Greek word ἕλιξ.
Types

Helices can be either right-handed or left-handed. With the line of sight being the helical axis, if clockwise movement of the helix corresponds to axial movement away from the observer, then it is called a right-handed helix. If anti-clockwise movement corresponds to axial movement away from the observer, it is a left-handed helix. Handedness (or chirality ) is a property of the helix, not of the perspective: a right-handed helix cannot be turned or flipped to look like a left-handed one unless it is viewed through a mirror, and vice versa.

Most hardware screws are right-handed helices. The alpha helix in biology as well as the A and B forms of DNA are also right-handed helices. The Z form of DNA is left-handed.

A double helix typically consists geometrically of two congruent helices with the same axis, differing by a translation along the axis, which may or may not be half-way.[2]

A conic helix may be defined as a spiral on a conic surface, with the distance to the apex an exponential function of the angle indicating direction from the axis. An example of a helix would be the Corkscrew roller coaster at Cedar Point amusement park.

A circular helix has constant band curvature and constant torsion . The pitch of a helix is the width of one complete helix turn, measured along the helix axis.

A curve is called a general helix or cylindrical helix[3] if its tangent makes a constant angle with a fixed line in space. A curve is a general helix if and only if the ratio of curvature to torsion is constant[4] .
[edit ] Mathematics

In mathematics , a helix is a curve in 3-dimensional space. The following parametrisation in Cartesian coordinates defines a helix[5] :

x(t) = \cos(t),\,
y(t) = \sin(t),\,
z(t) = t.\,

The helix (cos t, sin t, t) from t = 0 to 4π with arrowheads showing direction of increasing t.

As the parameter t increases, the point (x(t),y(t),z(t)) traces a right-handed helix of pitch 2π about the z-axis, in a right-handed coordinate system.

In cylindrical coordinates (r, θ, h), the same helix is parametrised by:

r(t) = 1,\,
\theta(t) = t,\,
h(t) = t.\,

The above example is an example of circular helix of radius 1 and pitch 2π.

Circular helix of radius a and pitch 2πb is described by the following parametrisation:

x(t) = a\cos(t),\,
y(t) = a\sin(t),\,
z(t) = bt.\,

Another way of mathematically constructing a helix is to plot a complex valued exponential function (e^xi) taking imaginary arguments (see Euler's formula ).

Except for rotations , translations , and changes of scale, all right-handed helices are equivalent to the helix defined above. The equivalent left-handed helix can be constructed in a number of ways, the simplest being to negate any of the x, y or z components.

The length of a circular helix of radius a and pitch 2πb expressed in rectangular coordinates as

t\mapsto (a\cos t, a\sin t, bt), t\in [0,T]

equals T\cdot \sqrt{a^2+b^2}, its curvature is \frac{|a|}{a^2+b^2} and its torsion is \frac{b}{a^2+b^2}.



equals T\cdot \sqrt{a^2+b^2}, its curvature is \frac{|a|}{a^2+b^2} and its torsion is \frac{b}{a^2+b^2}.
[edit ] Examples

In music , pitch space is often modeled with helices or double helices, most often extending out of a circle such as the circle of fifths , so as to represent octave equivalency .


・・・・・

Retrieved from "http://en.wikipedia.org/wiki/Helix "


2009年10月29日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:ユダヤ教ないしは旧約聖書問題
本件の問題について、今は予備考察するに留める。
 この問題はなんども述べたが、『精神的フィルター』の視点で再考してみたい。
 根本的問題の一つは、既述したように、神名が二つあることである。即ち、ヤハウェ(エホバ)とエローヒーム(神の複数形)である。これは意外に知られていないことだろう。一般の訳された聖書には、この区別がないのが多いだろう。
 有名な「光あれ」の神は実は、エローヒームなのである。これは、Y⇒+1のYに相当する。
 しかし、アダムのあばら骨からイヴを作った神は、ヤハウェである。父権的神である。唯一神である。
 これは、PS理論ではどう記述できるだろうか。ここでは、思考実験、試行錯誤をするが、-iの「神」を否定する+iの「神」がヤハウェ(エホバ)ではないだろうか。
 これは、(+i)*-(-i)⇒-1ではないだろうか。あるいは、商である。(+i)÷(-i)⇒-1である。あるいは、自乗である。(+i)^2⇒-1である。
 これは、偶像を禁止する神である。偶像は例えば、⇒+1のエネルギー的物質である。端的に、多神教である。つまり、現象形態を否定する神である。現象を⇒+1ないしは+1とすれば、それを否定する神である。端的に、-1となるだろう。
 作業仮説として、ヤハウェを-1とすると、もう一方のエローヒームとはまったく正反対であると言える。
 しかし、これらの相対立する神(神々)が、混同されて唯一神と考えられているのである。これは、明らかな混乱である。
 しかしながら、精神的フィルターを通らない神的エネルギーがあるのではないだろうか。精神的フィルターは、+i⇒+1における⇒である。
 しかし、ヤハウェは+i⇒-1ということになるだろう。Kaisetsu氏の言葉で言えば、非存在としてのヤハウェとなるのではないだろうか。そう、エローヒームが存在の神ならば、ヤハウェは非存在の神となるだろう。
 これは、他者を強く否定する神と考えられる。自民族中心の神である。
 これは、同一性の神とは言えないだろう。一種、非同一性の神ではないだろうか。言い換えると、知性+iが非同一性と結びついているということになろう。
 ユダヤ人が放浪の民であるというは、これから説明できないだろうか。現象的同一性に留まらないのである。(思うに、中国人、客家もそういうところがあるのではないだろうか。)
 思うに、-1は抽象的同一性ではないだろうか。そして、これが、貨幣信仰を生むのではないだろうか。
 即ち、+1が現象的同一性であるのに対して、-1は抽象的同一性ではないのか。これは、非現象的同一性である。
 端的に、-1が唯一神ではないだろうか。
 ギリシア民族が⇒+1ならば、ヘブライ民族は⇒-1となる。もっとも、⇒+1の要素もあるが、否定されるのである。自己矛盾である。
 マイナスに傾斜しているならば、逆に、プラスへと反転することになるだろう。それは、キリスト教、新約聖書を意味するのではないだろうか。そうならば、そこで、精神的フィルターが作用する。
 ここで、「ロゴス」の問題が生じる。旧約では、精神的フィルターはかからないことに対して、新約ではかかるのである。
 問題は少し複雑である。一つは、エローヒーム、一つは、ヤハウェがある。ヘブライ的反転はいわば、逆反転であり、エローヒーム側が賦活されると考えられる。
 そして、エローヒームの「子」として、イエス(単数である必要はないだろう。何故なら、太陽女神の子だからである。)が生まれるだろう。そして、イエスを生む「ロゴス」=「コトバ」は、精神的フィルター=一般言語形式である。
 ヨハネの福音書の有名な「初めにコトバありき」であるが、この「コトバ」は精神的フィルターになってしまうだろう。
 しかしながら、根本は虚軸部の差異共振エネルギーである。ここには、超越波動があり、それも一種の「コトバ」である。いわば、超越波動言語である。
 言いたいことは、イエスを生む「コトバ」とは、二重であることである。超越波動言語と精神的フィルター言語である。


ヨハネによる福音書
第一章
0101> 初めに言があった。言は主と共にあった。言は神であった。
0102> この言は初めに神と共にあった。
0103> すべてのものは。これによってできた。でたもののうち。一つとしてこれによらないものはなかった。
0104> この言は命であった。そしてこの命は人の光であった。
0105> 光はやみの中で輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。』
http://www.wcsnet.or.jp/~m-kato/bible/john.htm

この有名な文であるが、明らかに齟齬がある。何故なら、言と神が別々に存することを告げるが、直ぐに、言は神であると述べているのであるから。
 これはおくとして、この「言」であるが、これは、本来、超越波動言語であるはずであるが、しかし、イエスの生むときは、精神的フィルター言語になるのである。ロゴスというとき、この二種類があるのであるが、聖書では区別されていない。
 ここで、想起するのは、有名なヘラクレイトスのロゴス論であるが、それは、実は、超越波動言語と考えられる。
 

ヘラクレイトス
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
ラファエロ 作『アテナイの学堂 』に見るヘラクレイトス・中央の階段左付近で考え事をしている。ただ人物のモデルは、ミケランジェロ といわれている。

ヘラクレイトス(Ηράκλειτος Hērakleitos、 紀元前540年 頃 - 紀元前480年 頃?)は、ギリシア 人の哲学者 、自然哲学 者。
思想 [編集 ]

アナクシマンドロス から対立 と変化 、ピュタゴラス からは調和 の考えを受け継いだ(ピュタゴラスに対しては、しかし、いかさま師であると述べている)。

万物は流転していると考え、自然界は絶えず変化していると考えた。しかし一方で、その背後に変化しないもの、ロゴス を見ている。ヘラクレイトスはまたロゴスは火 であるといった。変化と闘争を万物の根源とし、火をその象徴としたのである。燃焼は絶えざる変化であるが、常に一定量の油が消費され、一定の明るさを保ち、一定量の煤がたまるなど、変化と保存が同時進行する姿を示している。そしてこの火が万物のアルケー であり、水や他の物質は火から生ずると述べられる。ただし、これらの考え方におけるアルケーの概念は、「万物のアルケーは水である」としたタレス などのそれとは異なっている。この「生成 」の思想は、パルメニデス の「存在 」の思想としばしば対立するものとして見られてきた。もっとも、井筒俊彦 によれば、実際には同じ事柄(形而上学 における根源的な部分)を異なる面から述べているにすぎないという(『井筒俊彦全集1 神秘哲学』参照)。ヘラクレイトスの言葉としては、プラトン が引用している「万物は流転する」(Παντα ρει., Panta rhei.)がもっともよく知られているが、実際のヘラクレイトスの著作断片にこの言葉はなく(あるいは失われ)、後世の人が作った言葉であるともいわれる。「同じ河に二度入ることはできない」などの表現にその意味合いが含まれていると思われる(疑義もある)。また、「万物は一である」とも「一から万物が生まれる」とも述べ、哲学史上初めて、「根源的な一者」と「多くの表面的なもの」との関連を打ち出した人物としても注目されている。

その著作の難解さと厭世観から「暗い哲学者」、あるいは、「泣く哲学者」と呼ばれる。また、ヘーゲル などの思想の源流として、弁証法 の始まりを担う人としても考えられている。


この有名なヘラクレイトスの哲学は、端的に、差異共振理論を説いていると考えられる。つまり、虚軸部の差異共振エネルギーの「ロゴス」を説いていると考えられる。
 しかし、新約の「言」は、この「ロゴス」以外の精神的フィルター言語を意味すると考えられる。
 とまれ、新約・旧約聖書には、少なくとも、二つの「ロゴス」があるのであるが、これが混同されていると言えよう。
 そして、西洋文明においては、精神的フィルター言語が主要なので、聖書の「ロゴス」も、精神的フィルター言語として受容されたと考えられる。
 そうすると、当然、虚軸部が喪失されるのである。アリストテレス論理と聖書的精神的フィルター言語が合体すると、完全に同一性主義=唯物論になる。しかも、ヤハウェ的な-1が作用しているから、抽象的な同一性も作用している。
 結局、これらから、西欧近代が誕生することになるのであるが、問題は、ヘラクレイトス的な「ロゴス」の問題である。これが、喪失されるのである。 本来、「聖霊」がこれに相当するはずであるが、精神的フィルター言語や抽象的同一性が支配的なので、「聖霊」の意味がわからなくてなっていると考えられる。
 また、これは、イデア論も同様である。
 後で、ヤハウェについて緻密に検討したい。 

追記:ヘラクレイトスのロゴスであるが、それは、やはり、精神的フィルター言語が入っているのではないだろうか。つまり、虚軸部と実軸部を連続化させている面があるのではないだろうか。だから、ロゴスになっているのではないだろうか。
 つまり、こういうことだろう。古代ギリシア人は、Media Pointにおいて思考したが、+iの父権的知性が強いので、精神的フィルター言語的発想をするのであり、差異共振性をも、ロゴス(言語)にして捉えたのではないだろうか。

ヤハウェ
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

ヤハウェ(YHVH, YHWH, JHVH, JHWH, IHVH, יהוה , yahweh) は、旧約聖書 中の、神(結果的には唯一神 )を表すヘブライ語 の単語を、推定の上、音訳したものである。 この4つの子音は「神聖四文字(テトラグラマトン Τετραγράμματον 、ギリシャ語 で『四つの文字』の意)」とも呼ばれる。
呼称 [編集 ]

日本語ではヤハウェの他にヤハヴェ(YaHVeH ヘブライ文字 ו [w]は現代ヘブライ語読みで/v/と発音)、ヤーウェ(YaHWeHのaHを長母音として音写)などの表記が用いられる。また、ユダヤ人たちの間では、後述するように直接ヤハウェの名を口にするのは恐れ多いと考えられ、神聖四文字を「アドナイ」と読み替えていた。YHWHに「アドナイ」の母音符号をつけると、エホウァやエホバ(YeHoVaH)となるのでそのように読まれることもある。
アドナイ、主 [編集 ]

日本語訳聖書 では、前述のユダヤの慣例を踏襲し、アドナイの訳語である「主」と訳すのが一般的である。日本聖書協会 発行の『口語訳聖書 』や『新共同訳聖書 』、カトリック 系の『バルバロ訳』などがこれである。ただし『新共同訳』では『創世記 』第22章14節でのみ「ヤーウェ」とする。これはいわゆるイサクの燔祭 の行われた「イエラエ」の地名を説明するために発音を示したものである。

またプロテスタント 福音派 系の『新改訳聖書 』では太字で「主」とする。これは一般名詞としての主と、「文語訳ではエホバ[1] と訳され、学者の間ではヤハウェとされている主の御名を」「訳し」[2] た「主」とを区別するためである。
ヱホバ、エホバ [編集 ]

「エホバ」系の表記を採用するものもある。1887年日本聖書協会 発行の『文語訳聖書 』(明治元訳聖書 )ではヱホバとなっている。[3] また、エホバの証人 の翻訳による『新世界訳聖書 』ではエホバが用いられる。[4] [5]
ヤーウェ、ヤハウェ [編集 ]

「ヤハウェ」系の表記を採用するものは少数派であるが、カトリックの『フランシスコ会訳聖書 』ではヤーウェである。また無教会派の関根正雄による旧約聖書ではヤハウェ、『中公バックス 世界の名著 13 聖書』(ISBN 978-4-12-400623-0 )の中沢洽樹による旧約聖書では「ハ」を小書きにしたヤハウェが用いられている。また前述の通り『新共同訳』では一部ヤーウェとあるほか、巻末収録の用語解説でヤハウェの読みも紹介している。
エル、エロヒム、シャダイ、神 [編集 ]

旧約聖書では他に「神」という一般名詞であるエル(古典的なヘブライ語発音でエール )やその複数形エロヒム (同じくエローヒーム)などもヤハウェの呼称として用いられるが、一般に日本語訳聖書 ではこれらの音訳は使用せず、これに相当する箇所は漢訳聖書 での訳語を踏襲し神とするものが多い。また、「全能・満たすもの」を意味するとされるシャダイの語を付してエル・シャダイとした箇所は全能の神などと訳される。
エロヒムの訳語としての「神」 [編集 ]

[6] 「神 」の字が、ヘブライ語のエロヒーム、ギリシャ語 Θεός"、英語の"God"の訳語に当てられたのは、近代日本でのキリスト教宣教に先行していた清 におけるキリスト教宣教の先駆者である、ロバート・モリソン 英語版記事:Robert Morrison )による漢文聖書においてであった。しかしながら訳語としての「神」の妥当性については、ロバート・モリソン死後の1840年代から1850年代にかけて、清における宣教団の間でも議論が割れていた。 の" (

大きく分けて「上帝」を推す派と「神」を推す派とが存在したが、和訳聖書の最も重要な資料と推定される、モリソン訳の流れを汲むブリッジマン・カルバートソンによる漢文訳聖書 は、「神」を採用していた。ほとんどの日本語訳聖書 はこの流れを汲み[7] 、「神」が適訳であるかどうかをほぼ問題とずに[8] 、こんにちに至るまで「神」を翻訳語として採用するものが圧倒的多数となっている。
概説 [編集 ]

ユダヤ教 成立以前の信仰をヤハウェ信仰と呼ぶ。ヤハウェは、元来はシナイ山 で信仰された山の精(ジン )などを指したのではないかと考える者もいる。ヘブライ人 がカナン の地を侵略、定着する過程で、先住民カナン人の最高神であるエルやバアル の性格を取り入れ、後にバビロン捕囚 などを経てユダヤ教が成立してゆく過程において唯一絶対神の性格を帯びるようになったとする説もある。四資料説においては、「エル」を神の呼称とする資料(エロヒム資料)に比べ、ヤハウェを神の名とする資料(ヤハウェ資料)は新しく、祭儀を祭司階級に担われたものと考える点などにおいて、先行資料と異なっている。

旧約聖書に於けるヤハウェは唯一神であり全世界の創造神とされ「宇宙の最高原理」のようなもので、預言者 を除いた一般人にとっては、はっきりしない存在であるが、むしろ自ら人間たちに積極的に語りかけ、「妬む」と自称するほど感情的であり、創世記 のとおり人類はヤハウェに似せて造られたことが伺える。ただし、広義では他の生物、物質も人類と性質が似ており、人類がヤハウェに似ていることは宇宙空間全体の事象に帰納できる。また、『創世記』第32章第31節〜や『出エジプト記 』第4章第24節〜などには自ら預言者たちに試練を与える場面もあり、ヘブライ人たちがヤハウェを決してはっきりしないというだけではなく、預言者を通じて実在感のある存在と捉えていた事がわかる。
キリスト教における受容 [編集 ]

キリスト教においてもヤハウェは神の名と考えられる。すでに『ヨハネによる福音書 』で「エゴー・エイミ・ホ・オーン」(Ἐγώ εἰμί ὁ ών、「私は在る」の意)という言葉はイエスと結び付けられ、その神性を現す意図で多用されている。「私は在る」とは『出エジプト記』第3章第14節においてヤハウェが名乗ったもので、イエスはこれを多用して自分がヤハウェと密接な関係にある事を暗に示したのである。正教会 において、イエスのイコン 、とりわけ自印聖像 においてその光輪にギリシア文字 "Ο・Ω・Ν"(ὁ ών 『在るもの』) を記す習慣もこれに関連する。

三位一体の教説が成立して以降、ヤハウェを単に神の名とするにとどまらず、特定の位格と結びついた名として捉える論考が現れる。一般に、西方教会 においてはヤハウェ(ラテン語文献では多く「エホバ」)を父なる神と同一視することが多く、対して東方教会 においてはヤハウェはイエス・キリスト の神格における名であると考えられることがある。
発音について [編集 ]

現在、ユダヤ教徒が一般生活において、יהוהを「ヤハウェ」と呼ぶことはない。かわりに「アドナイ」(אֲדֹנַי [’Ăḏōnay] 『主』)あるいは「ハ・シェム」(הַשֵּׁם [haš Šēm] 『御名』)などの呼称を用いる。これは、モーセの十戒 により、ヤハウェをみだりに唱えてはいけないとされたためである。

しかし、古くはこの名は自由に口にされていたようである。南ユダ王国 崩壊からバビロン捕囚までの時代に書かれた『ラキシュ書簡』にも יהוה は頻繁に現れており、この名がこの時代に至ってもなお口にされていたことがわかる。また、それ以後にもこれを記した史料は散見される。

それがいつ頃から口にされなくなったのか正確には判らない。しかし、紀元前3世紀初めごろから翻訳の始まった『七十人訳聖書 』では、原語のヘブライ語での יהוה が置き換えられ、ほとんどの箇所で「主」を意味するキュリオス (Κύριος) と訳されている(ただし『第二イザヤ書 』では前述の通り「私はヤハウェである」が「エゴー・エイミ・ホ・オン」すなわち「私はある」と意訳されている)。つまり、この頃にはこの名が「主」を意味するアドナイと読み替えられていたのであり、バビロン捕囚以後の300年ほどの間にそのまま発音することがタブーとされるようになったと考えられる。

ヘブライ文字 では母音 を記さず、また、その後古典ヘブライ語が日常言語としては死語となってしまったため、ついには正確な発音が忘れ去られるに至った。後にヘブライ文字に母音を表記する方法が考案された際、聖書のこの名が記されている箇所には、アドナイと読み替える前提でその母音が付けられた。そのため、 יהוה つまりYHWHという子音の綴りに、アドナイ( ’Ăḏōnay )の母音 (-ă -ō -a) を付けてエホバ (Yəhōvah) と読む誤読が発生した。なお、文法上、ヘブライ文字yには弱母音のă(ア)を付けられないため、曖昧母音のə(エ)で発音される。

では、実際にはこれはどう発音されていたのか。現在の学者は、元来の神名はヤハウェという意見でほぼ一致している。

人名などの要素として用いられる יהוה の略称は「ヤ」 ( יָה [yāh])、「ヤフ」 (יָהוּ [yāhû])等であり、ここから最初の母音はaであったと推測できる。 また、古代教父によるギリシア文字転写形として Ιαουε (ヤウェ?)、Ιαβε (ヤヴェ?)があり、これらからYHWHの本来の発音はYahweh、あるいはYahvehであったと推測されている。
意味について [編集 ]

古くからヤハウェの名は、「存在」を意味する語根(√היה [√hyh])と関連づけて解釈されてきた。これは『出エジプト記』第3章第14節で、ヤハウェがモーセに応えて「私は在りて在るものである」 (אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה [’ehyeh ’ăšer ’ehyeh])と名乗った事に由来する。

この「私は在る」(אֶהְיֶה [’ehyeh])という一人称・単数・未完了相の動詞を三人称・単数・男性・未完了相の形「彼は在る」にするとיִהְיֶה [yihyeh]となり、יהוהと似た形になる。ここから、ヤハウェの名はイヒイェの転訛で「実在するもの」「ありありと目の前に在るもの」などの意味だと解釈されてきた。

ヘブライ人は誓言の時に「主は生きておられる」という決まり文句を使っていたが、ここからも彼らがヤハウェを「はっきりしないとはいえ、生々しく実在するもの」と捉えていた事がわかる。はっきりしているのは、創世記 の冒頭により、ユダヤ教徒(キリスト教徒 、イスラム教徒 )は、闇が主要素となる宇宙空間 を構築した正体を、ヤハウェ(ゴッド 、アラー )であると考えている点である。

また、היהのヒフイル(使役)態の三人称・単数・男性・未完了相の形が、יַהְיֶה [yahyeh]となり、ちょうど「ヤハウェ」と同じ母音の組み合わせになる。ここからその名を「在らしめるもの」「創造神」とする解釈もある。

・・・・・
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A7 」より作成
カテゴリ : 唯一神 | 旧約聖書


天地創造と精神的フィルター:「水」/「大空」と豊穣なる大河(海)の『-i』
以下のようにKaisetsu氏が精神的フィルターに関して、新たな独創的知見を展開されているが、この「『-i』の豊穣なる大河(海)」という言葉を見て、創世記の冒頭部分の言葉を想起したのである。
 この箇所は奇妙である。「水の中に大空があれ」、あるいは、「大空の下に来る水」と「大空の上に来る水」等の箇所である。
 以前、天地創造については、PS理論からざっと説明したことがある。「水」は一見、-iであり、神霊は+iのようであるが、それより、「水」がMedia Pointであり、神霊は+iではないのかと考えたのである。
 しかし、今、ふと浮かんだのであるが、やはり、神霊を+i(陽)、水を-i(陰)にした方がいいのではないだろうか。そして、両者の共振によって、光⇒+1が生まれるというのはわかりやすい。
 また、「水の中に大空あれ」であるが、この「水の中の大空」とは、Media Point(=精神的フィルター)の虚軸部ではないだろうか。そして、これが、「水の上に来る大空」となり、Media Pointの実軸部が「水の下に来る大空」(後、地となる)ではないだろうか。
 とまれ、「大空」とは、絶対的な裂け目と思われる。そして、「水」は端的に、-iであり、Kaisetsu氏の説く「豊穣なる
大河(海)」に当たるのではないだろうか。
 今はここで留める。

************************

『-i』の豊穣なる大河(海)⇒精神的フィルター(semantic filter )の接触部分
 この稿は、次の続きである。

2009.10.29 Thursday
精神的フィルター(semantic filter )の構造について

 この istructure323 図に於いて、

 





 虚数部分の凸部分と実数部分の凹部分の接触点は

 (+i)*(-1)⇒-i

となる。

 一方、

 虚数部分の凹部分と実数部分の凸部分の接触点は

 (-i)*(+1)⇒-i

となる。(接触の計算は積・除である。)

 つまり、虚数世界と実数世界の即非領域は、全て、(-i)で埋め尽くされているのである。

 (-i)で埋め尽くされた深い裂け目が、虚数世界と実数世界との接合エリアであり、これが、「精神的フィルター(semantic filter )」の本質である。

 虚数世界と実数世界は、絶対的差異であり、決して、連続していない。深い深い裂け目である。この深い深い裂け目が、(-i)で埋め尽くされているのである。豊穣なる(-i)の大河である。深い深い裂け目は、不連続であり、海とも言えよう。(-i)は潮である。この意味で、(-i)の「豊穣なる海」とも表現できる。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810202
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

*******************

参考:

天地の創造

1:創世記 / 1章 1節

初めに、神は天地を創造された。

2:創世記 / 1章 2節

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

3:創世記 / 1章 3節

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

4:創世記 / 1章 4節

神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

5:創世記 / 1章 5節

光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。


神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」

7:創世記 / 1章 7節

神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。

8:創世記 / 1章 8節

神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。

9:創世記 / 1章 9節

神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。

10:創世記 / 1章 10節

神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。

http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi

JBS 財団法人日本聖書協会

************************

聖書: 「新世界訳聖書」

創世記 1:1-31

1 初めに神は天と地を創造された。

2 さて,地は形がなく,荒漠としていて,闇が水の深みの表にあった。そして,神の活動する力が水の表を行きめぐっていた。

3 それから神は言われた,「光が生じるように」。すると光があるようになった。 4 そののち神は光を良いとご覧になった。そして神は光と闇との区分を設けられた。 5 そして神は光を“昼”と呼ぶことにし,闇のほうを“夜”と呼ばれた。こうして夕となり,朝となった。一日目である。

6 次いで神は言われた,「水の間に大空が生じ,水と水との間に区分ができるように」。 7 そうして神は大空を造り,大空の下に来る水と大空の上方に来る水とを区分してゆかれた。そしてそのようになった。 8 そして神は大空を“天”と呼ぶことにされた。こうして夕となり,朝となった。二日目である。
9 次いで神は言われた,「天の下の水は一つの場所に集められて乾いた陸地が現われるように」。するとそのようになった。 10 そして神は乾いた陸地を“地”と呼ぶことにし,水の集まったところを“海”と呼ばれた。さらに神は[それを]良いとご覧になった。
http://www.watchtower.org/j/bible/ge/chapter_001.htm

エホバの証人: ものみの塔協会公式ウェブサイト


2009年10月28日(Wed)▲ページの先頭へ
一般意味論とPS理論:構造微分と精神フィルター:小乗的個的理論から大乗的社会理論・実践へ: Ver3
以下、先の論考の一部を修正し、また、追記2等を補足したものである。

参照:

PS理論に於ける「カラー( colour)」の定義
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810196

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

***********************

一般意味論とPS理論:構造微分と精神フィルター:小乗的個的理論から大乗的社会理論・実践へ: Ver3

この問題はきわめて意義深く興味深いので、さらに考察を行いたい。
 昨日は記述は、まだ述べたいことを十分に述べてはいなかった。つまり、Kaisetsu氏が創造した用語の『精神的フィルターsemantic filter』の概念が、知的喚起力があり、その喚起されたものを述べたい。
 「フィルター」という概念が明敏なのである。つまり、Media Pointにおいて、垂直軸と水平軸が「交差」するが、前者から後者へと次元転換(縮退次元変換?)するときに、この精神的フィルターが発生するのである。
 このフィルターの虚軸部では、超越的共振エネルギーがいわば沸々としている。しかし、実軸部では、同一性の形態・形象・図式が生まれるのである。
 以前、海岸の打ち寄せる波の風景・情景のことを言語化し、それでも、私の「思い」は表現されていないことを述べたが、それは、まったく一般意味論的な事象・心象である。
 この「思い」が精神フィルターの虚軸部ではないかと思う。そして、言語表現がフィルターの実軸部の同一性の図式・フレームである。(言語と感覚は相関性がある。)
 「思い」が差異共振性であり、言葉が同一性であり、一般意味論の構造微分に当たる。この「微分」という発想はまったく的確である。
 不連続的差異は微分不可能であり、差異共振性も当然そうである。しかし、精神的フィルターを介すとき、微分可能となるのである。だから、フィルターは同一性変換器とも言える。
 結局、心(身体的精神)には、Media Pointがあり、虚軸と実軸が交差しているのであり、虚軸ゼロ点における「思い」が実軸ゼロ点の「言語」ないしは構造微分に変換されるのであるが、これは、当然、等号ではなく、等号且つ不等号であり、端的に、即非である。あるいは、⇒である。
 結局、既述したことの繰り返しとなるが、虚軸部と実軸部とは、絶対的に不連続であり、シャープに切断されているのである。つまり、虚軸部≠実軸部である。ここには、等号は成立しないと言えよう。
 虚軸部をY、実軸部Xをとすると、Y⇒X、Y≠X と記述できる。
 精神フィルターで隔離された二つの領域が存するので、意識は錯誤に陥りやすいと言える。つまり、何とか、両者を連続させて、辻褄を合わそうとするのである。しかし、本来、絶対的不連続性があるので、辻褄は合わないのである。
 ここでやや飛躍的だが、言語について簡単に触れると、それは、知的「物質」性と言えるかもしれない。あるいは、認識的「物質」性である。端的には、認識的同一性である。思うに、これが精神的フィルターである。Media Pointにおいて、実軸部には、精神的フィルター=認識的同一性=言語的フィルターが存するのである。
 そして、これは、主に、+iが関わっているだろう。つまり、Media Pointにおいて、虚軸的共振「現象」に対して、+iが能動的にはたらいて、+1と同一化すると思われる。
 これは、思うに、差異共振エネルギー⇒が消費されたときに+1に終結するが、それと、主体の+1が一致することから生起するのではないだろうか。つまり、認識は、+iに傾斜しているのである。そして、それが、+1と同一化するということであり、このときに、+iは言語認識作用をもつということではないだろうか。
 そして、成長過程において、この言語認識を増殖させることになるのであり、現象世界は、同一性世界へと縮退・抽象化されていくのである。それは、また、数量の支配する世界である。原近代世界である。
 ということから、精神的フィルター問題に返ると、そのフィルターは、+i傾斜によって形成されると言えるのではないだろうか。
 Media Pointの虚軸部Yは、差異共振エネルギーであり、そこでは、「私」は「川」であり、且つ、「私」は「川」ではないという即非態にある。しかし、実軸部 Xでは、「私」は「私」であり、「川」は「川」であり、両者は一致しないということになる。「物質」の世界である。アリストテレス論理の世界である。「私」=「私」、「川」=「川」、「私」≠「川」である。
 そして、言語はXの世界のものである。上記したように、差異共振エネルギーが消失して、+iと+1が一致するのである。+i=+1、これが、言語形式ではないだろうか。
 否、+i⇒+1、これが、言語方程式ではないだろうか。
 そして、精神的フィルターもこれで記述できるのではないだろうか。
 とまれ、精神的フィルター(=言語形式)には、他者-iが消えていることに注意すべきである。人間が利己主義になるのは、このような本性に拠ると考えられる。また、近代合理主義を形成するのも、この帰結と考えられる。
 ここで、他者-iの力学について考えると、何か、人間の本性・本質には、+i傾斜から-iの活性へと反転する仕組みがあるように考えられるのである。
 つまり、+iの傾斜とは、端的に、-iの潜在を意味するのである。だから、発生的には、プラスが先行し、その後、反転して、マイナスへと点ずると考えられるのである。
 マイナスへの反転によって、精神的フィルター中心主義(ロゴス中心主義)が解体するのであり、その始まりが、ポスト・モダンであり、その完全な乗り越えがトランス・モダンである。いわば、同一性への差異の復讐が起こるのである。これが、《黙示録》(アポカリプス)(追記:ゾロアスター教的黙示録・アポカリプス)である。虚軸界へのらせん的回帰である。
 今はここで留める。

追記:哲学とは、Media Pointにおける+iの知的行為ではないだろうか。だから、男性的であるが、女性的な-iを取り込んでいるのである。
 プラトンは、完全に、虚軸部で思考していたと言えよう。また、古代ギリシア文化社会の秘密もこれで理解できよう。つまり、虚軸部のエネルギーが沸々としていた文化社会であり、しかも、男性的な+iが盛んに作用していたのである。
 結局、大文化社会が生まれるには、女性的な虚軸エネルギーと同時に、男性的な+iの活力が必要であると言うことである。そうすると、現代日本は危うい、実に危うい。アジア諸国に、能動・創造的ダイナミクスがあると言えよう。

追記2:虚軸部の差異共振エネルギーとは、言い換えれば、ニーチェのディオニュソスであり、+iの男性的活力は、アポロである。
 そして、両者の和解にギリシア文化の本質があると述べていた。確かに、ディオニュソスとアポロの調和を古代ギリシア人は求めていたと言えよう。
 その調和とは、傲慢となった+iが差異共振の神々の世界の秩序を認識することにあるのではないだろうか。即ち、+iが(+i)*(-i)を認識することにあるだろう。正に、アポロン神殿の信託「汝自身を知れ」の実現である。
 これは、また、ゾロアスター教的認識に一致すると考えられる。
 
補記:古代ギリシアの場合、ニーチェが指摘したように、ディオニュソス(母権)とアポロ(父権)が衝突していると見るのが正しい。この衝突から、調和が生まれるのである。
 プラスとマイナスの衝突とも言えよう。これは、(+i)*(-i)で記述できよう。
 整理すると、自己認識方程式が当てはまる。即ち、(+i)*(-i)⇒+1において、『左辺⇒』がディオニュソスであり、『⇒右辺』がアポロである。即、Media Pointの虚軸部がディオニュソスであり、その実軸部がアポロである。両者、Media Pointを共通にもっているのである。
 しかしながら、アポロが、+i⇒+1の精神的フィルター化すると、つまり、父権主義化すると、それは、ディオニュソスと対立・衝突するのである。それが、ギリシア悲劇の力学であると言えよう。両者、相克状態となるのである。
 そして、オイディプスの場合は、『コロノスのオイディプス』でわかるように、神々の秩序を受け入れて、調和するのである。つまり、精神的フィルターを脱してアポロ+iが差異共振秩序ディオニュソスを受容し、認識するのである。
 また、『オレステイア』の場合は、復讐の女神(ディオニュソス)とオレステイア(父権主義的アポロ)が、アポロとアテナイ女神の媒介によって、法的に和解するのであるが、この場合の法的和解の原理であるが、それは、差異共振原理であり、即ち、ディオニュソス原理であると考えられる。つまり、ディオニュソス原理をアポロ+i的に認識したものと考えられる。
 
参照:
コロノスのオイディプス
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


『コロノスのオイディプス』は、ソポクレス 作のギリシア悲劇 である。テーバイ のかつての王オイディプス が放浪の末アテナイ 近郊のコロノスの森にたどり着いたところから始まり、オイディプスの死に到るまでを描く。

運命に翻弄されたオイディプスは予言に従って復讐の女神エウメニデス の聖林に導かれ、そこを自らの墓所として望み、アテナイ王テセウス もこれを認めた。そしてこれを阻もうとする息子ポリュネイケスやテーバイの現在の王クレオンにもかかわらず、オイディプスはテセウスのみが見守る中コロノスの地中深く飲み込まれていく。

なお、ソポクレスの現存作品では、

* 『オイディプス王 』(紀元前429年 - 紀元前425年 ごろ)
* 『コロノスのオイディプス』(紀元前401年 )
* 『アンティゴネー 』(紀元前441年 ごろ)

の3作品がテーバイ王家の悲劇として密接な関連があり、時に三部作として扱われる。が、上記のように成立年代からして話の順序とは一致せず、アイスキュロス が好んだとされる三部作形式とは異なるものである。
物語 [編集 ]

舞台は、盲目で年老いたオイディプスが娘であるアンティゴネーに手を引かれて登場するところから始まる。彼らは乞食をしながら放浪し、コロノスのエウメニデスの神域の近くまでたどり着いたのである。そこにやってきた男に尋ねると、そこが神域であるとわかり、自分はここを動かぬつもりであること、王に使いして欲しいことを告げる。

そこにコロノスの老人たちに扮したコロスが登場、彼がオイディプスであることを告げられると、すぐに立ち去ることを要求する。これに彼が反論していると、そこに彼のもう一人の娘、イスメネーが現れる。故郷に残った彼女は、彼の息子たちが仲違いし、兄ポリュネイケスが追い出され、国外で味方を得たことを伝え、同時にオイディプスに関する神託が出たことを告げる。それによると、彼が死んだとき、その土地の守護神となるという。そのためオイディプスを追い出した王であるクレオーンは彼を連れ戻し、国の片隅に留め置くことを考えているという。オイディプスは彼を追い出した町、そして彼が追い出されるのを止めなかった息子たちへの怒りを口にする。コロスは王がくるまでとりあえず彼を受け入れる旨を述べる。

そこへ王テセウスがやってくる。彼はオイディプスの求めるものを問い、それに対してオイディプスは、自分の死後、ここに葬って欲しいこと、それによってこの地を守護することが出来ること、しかしクレオーンと息子たちが自分を求めていることを述べる。王は彼を受け入れることを告げる。

そこにクレオーンが出現。丁寧な言葉でオイディプスに帰国を促す。しかしオイディプスはこれに反論、両者は次第に激高し、ついにクレオーンは娘を奪ってゆく、すでに一人は捕らえ、次はこの娘だ、とアンティゴネーを引き立てる。オイディプスはコロスに助けを求め、コロスはクレオーンを非難する。そこへテセウスが現れ、クレオーンを非難し、娘たちを取り戻すことを宣言する。クレオーンは捨てぜりふを残して退散、娘たちは取り戻される。

すると今度は社によそ者が来ているとの通報、オイディプスに会いたがっているという。オイディプスはそれが自分の息子であると判断して、会うのを拒否するが、周囲の説得で会う。するとそれはやはりポリュネイケスであった。彼は自分が祖国を追い出されたこと、ドリスのアルゴスが味方してくれ、祖国に戦を仕掛けること、そのためにオイディプスに自分についてもらい、守護者となって欲しいことを述べる。彼はこれを全く聞き入れず、おまえは兄弟の手にかかって死ぬであろうとの呪いの言葉を述べる。アンティゴネーもポリュネイケスに説いて祖国を攻撃しないように言うが聞き入れず、彼も立ち去る。

このとき、天は急に荒れ、雹が降り、雷が鳴り響く。オイディプスは自分の終わりが近いことに気がつき、テセウスを呼びにやる。テセウスがくると彼は娘たちの先に立って神域に入る。これに付き従ってテセウスと従者も姿を消す。

その後、使者が現れ、オイディプスの最後の一部始終を語り、彼が死んだことを告げる。その後は二人の娘による嘆きで劇は終わる。
要点 [編集 ]

この劇の一つの要点は「神との和解」である。オイディプスの伝説では、最初に示された神託がそもそも彼らの悲惨な運命を示すものであった。登場人物たちはそれぞれにそれを避けようと努力したにもかかわらず、すべてが実現してしまった。中でももっとも悲惨な運命を担ったのがオイディプスである。

ソフォクレスは神の道が人間ではどうにもならぬものであり、また神の采配は時に恐ろしく非情であることを書いてきた。しかし、この劇では神の側からオイディプスに対して和解が示されている。また、「オイディプス王」では自分の悲惨な運命を嘆くばかりであった主人公は、この劇では一貫して自己の正当性を主張する。父親を殺したのも正当防衛であったし、他の場合でもその時その時は最善の選択をした結果であり、そこに恥じるところはないといい言っている。一般的な伝説ではオイディプスの死にこのような話はないようで、それだけに詩人の思い入れが強く働いているとも考えられる。

なお、オイディプスの息子のその後に関わる話は、アイスキュロス の「テーバイ攻めの七将 」が有名である。
関連項目 [編集 ]

* フェリックス・メンデルスゾーン - 劇付随音楽「コロノスのオイディプス」(Op.93)

「http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8E%
E3%82%B9%E3%81%AE%E3%82%AA%E3
%82%A4%E3%83%87%E3%82%A3%E3%
83%97%E3%82%B9 」より作成
カテゴリ : ギリシアの戯曲


オレステイア
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オレステイア(The Oresteia)は、古代ギリシア の悲劇 作家アイスキュロス の書いた悲劇作品三部作。唯一、三部作ともにしっかりした形で残された作品であり、『アガメムノーン』『供養する女たち』『慈しみの女神たち』の三つの悲劇から構成される。紀元前458年 に上演された。
内容 [編集 ]
『アガメムノーン』 [編集 ]

トロイア戦争 に参加していたギリシア 軍総大将アガメムノーン が、イーリオス (トロイア)を陥落させ、10年ぶりにミュケーナイ に戻るところから話が始まる。トロイア戦争へ出征する際、アガメムノーンは娘イーピゲネイア を女神への生贄として捧げた。これを怨んだ妻のクリュタイムネーストラー (ヘレネー の姉)は、同じくアガメムノーンに恨みを抱いているアイギストス と深い仲になり、凱旋してきたアガメムノーンおよび、捕虜として連れられてきたカッサンドラー の殺害を図る。

トロイア戦争におけるギリシア側の勝利という大義のためなら、娘の命を奪うこともやむをえないという父アガメムノーンにとっての正義は、愛する娘の命を戦争ごときのために奪ってはならないとする母クリュタイムネーストラーにとっての正義によって倒される。帰還したアガメムノーンと捕虜カッサンドラーが館に入ろうとすると弔いのコーラスが流れ、館の中に消えると断末魔の叫び声が響く。二人の遺体とともに妻クリュタイムネーストラーが現れ、娘を殺した犯人に対する復讐は正義に基づくものであると訴える。
『供養する女たち』 [編集 ]

アガメムノーンの殺害後、妻のクリュタイムネーストラーは息子のオレステース をミュケーナイから追い出し、娘のエーレクトラー を冷遇していた。こうした中、成人したオレステースがミュケーナイへと帰還し、父アガメムノーンの墓に詣でて、アポローン 神に導かれ復讐を誓うところから話が始まる。オレステースは、父の墓場でやはり母への復讐を願う姉エーレクトラーと出会い、母クリュタイムネーストラーと情夫のアイギストスの殺害を図る。

旅人に扮したオレステースは母の館に向かい、オレステースは既に死んだこと、オレステースの骨壺 を持ってきたことを伝える。母クリュタイムネーストラーは嘆き悲しみ(これが演技か本心かは観客の判断にゆだねられる)、オレステースを館に招き入れる。オレステースはまずアイギストスを殺害し、ついに母クリュタイムネーストラーを殺そうと近づく。旅人の正体がオレステースと知ったクリュタイムネーストラーは、息子に向かって必死の命乞いを行う。クリュタイムネーストラーは、かつて息子に対して注いだ愛を訴える。しかし、オレステースは、情夫に愛を注ぎ夫を殺害した母クリュタイムネーストラーを責める。それも運命であったと弁明する母に対し、それならここで殺されるのも運命として、オレステースはついに母を殺害する。

こうして、オレステースはアポローンの命じた通り父の敵討ちという正義を果たしたが、その結果、母親殺しという重い運命を負うことになった。母の怨念や、かつて復讐をそそのかした復讐女神(エリーニュース )に襲われる幻覚に苦しみ、オレステースは狂乱状態に陥る。コーラス隊の歌が響きわたる。
『慈しみの女神たち』 [編集 ]

復讐女神(エリーニュース)に付きまとわれるオレステースは、放浪の末にデルポイ の神殿にあらわれ、アポローン にすがるところから話が始まる。オレステースはアポローンの指示に従いアテーナイ のアクロポリス にある女神アテーナー の神殿に向かい、アテーナーを裁判長として、オレステースを弁護するアポローンと、オレステースを母親殺しとして告発する復讐女神(エリーニュース)の間で裁判 が行われる。当時のアテーネーでは直接民主制が行われており、アテーナイ市民12名が陪審員 として判決を左右した。

陪審員の判決は、有罪・無罪が半々にわかれるが、裁判長のアテーナーがオレステースを支持したため、オレステースは無罪放免とされる。判決を不服とする復讐女神(エリーニュース)は激高するが、なだめられてアテーナイの慈しみの女神(エウメニデス )となるよう説得されると、エリーニュースたちはこの申し出を受け入れる。こうして、憎しみの連鎖はついに断ち切られ、ギリシア世界に調和と安定がもたらされ終幕する。

************************

 トランス・モダン社会の分析で今後、重要になると思われるのは、


哲学的には一般意味論は応用概念論とも言うべきもので、人間の感覚器 や神経系 や言語が人間の経験にフィルターをかける度合いを強調するものである。
一般意味論の最重要の前提は次のように簡潔に表現される。「地図は現地ではない。単語はそれが表す事象そのものではない。」アリストテレス は真の定義が事象の本質 を表すとしたが、一般意味論はそのような本質を見つける可能性を否定する。



の部分であろう。

 これは、物質(実数、現実)と精神(虚数、電磁関連作用)との「Media Point」の存在を推測している部分であり、正確には、「Media Point line, Film」と呼ぶべき部分を分析対象としているのである。

 端的に、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼んで良いと思う。

 精神世界(意味世界、価値世界、不連続世界)と物質世界(没価値世界、連続世界)との境界には、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼ぶべき「媒体」が存在しているのである。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810177
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

************************

一般意味論
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・・・・・

一般意味論では抽象の段階に関する考え方を「構造微分 structural differential」 と呼び、1)無限に変化する「世界」から、2)感覚器官によって把握された外界の似姿、3)「外界」として体験された事柄についての言語的記述、4)そうした言語的記述についての記述、というように当初の情報が段階的に縮退されていくことを指摘した。現在では認知心理学 ・認知科学 的研究によりそうした縮退の様子が把握されているが、「元の世界についての認識」が、言語的に表現された「世界」についての認識へと縮退的にすり替えられていかざるという人間の認識能力の限界、そのことを明確に指摘した点に一般意味論の決定的な重要性がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E4%B8%80%E8%88%AC%E6%84%8F%E5%91%B3%E8%AB%96

************************

General Semantics

In the 1930s a Polish Count, Alfred Korzybski, wrote a book called "Science and Sanity" which has had a tremendous influence on the Self Development movement ever since. It has been said that if Korzybski had had the communication skills of some of the great names of this century, such as Hubbard of Scientology, or Bandler and Grinder of NLP, then he would have been the great guru. Rather sad, in one way, is that few would pick up Science and Sanity to read, but would pick up many copies of his ideas.


http://www.trans4mind.com/personal_development/GeneralSemantics/index.html


一般意味論とPS理論:構造微分と精神フィルター:小乗的個的理論から大乗的社会理論・実践へ: Ver2
以下、先の論考の一部を修正し、また、追記2を補足したものである。

参照:

PS理論に於ける「カラー( colour)」の定義
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810196

******************

一般意味論とPS理論:構造微分と精神フィルター:小乗的個的理論から大乗的社会理論・実践へ: Ver2

この問題はきわめて意義深く興味深いので、さらに考察を行いたい。
 昨日は記述は、まだ述べたいことを十分に述べてはいなかった。つまり、Kaisetsu氏が創造した用語の『精神的フィルターsemantic filter』の概念が、知的喚起力があり、その喚起されたものを述べたい。
 「フィルター」という概念が明敏なのである。つまり、Media Pointにおいて、垂直軸と水平軸が「交差」するが、前者から後者へと次元転換(縮退次元変換?)するときに、この精神的フィルターが発生するのである。
 このフィルターの虚軸部では、超越的共振エネルギーがいわば沸々としている。しかし、実軸部では、同一性の形態・形象・図式が生まれるのである。
 以前、海岸の打ち寄せる波の風景・情景のことを言語化し、それでも、私の「思い」は表現されていないことを述べたが、それは、まったく一般意味論的な事象・心象である。
 この「思い」が精神フィルターの虚軸部ではないかと思う。そして、言語表現がフィルターの実軸部の同一性の図式・フレームである。(言語と感覚は相関性がある。)
 「思い」が差異共振性であり、言葉が同一性であり、一般意味論の構造微分に当たる。この「微分」という発想はまったく的確である。
 不連続的差異は微分不可能であり、差異共振性も当然そうである。しかし、精神的フィルターを介すとき、微分可能となるのである。だから、フィルターは同一性変換器とも言える。
 結局、心(身体的精神)には、Media Pointがあり、虚軸と実軸が交差しているのであり、虚軸ゼロ点における「思い」が実軸ゼロ点の「言語」ないしは構造微分に変換されるのであるが、これは、当然、等号ではなく、等号且つ不等号であり、端的に、即非である。あるいは、⇒である。
 結局、既述したことの繰り返しとなるが、虚軸部と実軸部とは、絶対的に不連続であり、シャープに切断されているのである。つまり、虚軸部≠実軸部である。ここには、等号は成立しないと言えよう。
 虚軸部をY、実軸部Xをとすると、Y⇒X、Y≠X と記述できる。
 精神フィルターで隔離された二つの領域が存するので、意識は錯誤に陥りやすいと言える。つまり、何とか、両者を連続させて、辻褄を合わそうとするのである。しかし、本来、絶対的不連続性があるので、辻褄は合わないのである。
 ここでやや飛躍的だが、言語について簡単に触れると、それは、知的「物質」性と言えるかもしれない。あるいは、認識的「物質」性である。端的には、認識的同一性である。思うに、これが精神的フィルターである。Media Pointにおいて、実軸部には、精神的フィルター=認識的同一性=言語的フィルターが存するのである。
 そして、これは、主に、+iが関わっているだろう。つまり、Media Pointにおいて、虚軸的共振「現象」に対して、+iが能動的にはたらいて、+1と同一化すると思われる。
 これは、思うに、差異共振エネルギー⇒が消費されたときに+1に終結するが、それと、主体の+1が一致することから生起するのではないだろうか。つまり、認識は、+iに傾斜しているのである。そして、それが、+1と同一化するということであり、このときに、+iは言語認識作用をもつということではないだろうか。
 そして、成長過程において、この言語認識を増殖させることになるのであり、現象世界は、同一性世界へと縮退・抽象化されていくのである。それは、また、数量の支配する世界である。原近代世界である。
 ということから、精神的フィルター問題に返ると、そのフィルターは、+i傾斜によって形成されると言えるのではないだろうか。
 Media Pointの虚軸部Yは、差異共振エネルギーであり、そこでは、「私」は「川」であり、且つ、「私」は「川」ではないという即非態にある。しかし、実軸部 Xでは、「私」は「私」であり、「川」は「川」であり、両者は一致しないということになる。「物質」の世界である。アリストテレス論理の世界である。「私」=「私」、「川」=「川」、「私」≠「川」である。
 そして、言語はXの世界のものである。上記したように、差異共振エネルギーが消失して、+iと+1が一致するのである。+i=+1、これが、言語形式ではないだろうか。
 否、+i⇒+1、これが、言語方程式ではないだろうか。
 そして、精神的フィルターもこれで記述できるのではないだろうか。
 とまれ、精神的フィルター(=言語形式)には、他者-iが消えていることに注意すべきである。人間が利己主義になるのは、このような本性に拠ると考えられる。また、近代合理主義を形成するのも、この帰結と考えられる。
 ここで、他者-iの力学について考えると、何か、人間の本性・本質には、+i傾斜から-iの活性へと反転する仕組みがあるように考えられるのである。
 つまり、+iの傾斜とは、端的に、-iの潜在を意味するのである。だから、発生的には、プラスが先行し、その後、反転して、マイナスへと点ずると考えられるのである。
 マイナスへの反転によって、精神的フィルター中心主義(ロゴス中心主義)が解体するのであり、その始まりが、ポスト・モダンであり、その完全な乗り越えがトランス・モダンである。いわば、同一性への差異の復讐が起こるのである。これが、《黙示録》(アポカリプス)(追記:ゾロアスター教的黙示録・アポカリプス)である。虚軸界へのらせん的回帰である。
 今はここで留める。

追記:哲学とは、Media Pointにおける+iの知的行為ではないだろうか。だから、男性的であるが、女性的な-iを取り込んでいるのである。
 プラトンは、完全に、虚軸部で思考していたと言えよう。また、古代ギリシア文化社会の秘密もこれで理解できよう。つまり、虚軸部のエネルギーが沸々としていた文化社会であり、しかも、男性的な+iが盛んに作用していたのである。
 結局、大文化社会が生まれるには、女性的な虚軸エネルギーと同時に、男性的な+iの活力が必要であると言うことである。そうすると、現代日本は危うい、実に危うい。アジア諸国に、能動・創造的ダイナミクスがあると言えよう。

追記2:虚軸部の差異共振エネルギーとは、言い換えれば、ニーチェのディオニュソスであり、+iの男性的活力は、アポロである。
 そして、両者の和解にギリシア文化の本質があると述べていた。確かに、ディオニュソスとアポロの調和を古代ギリシア人は求めていたと言えよう。
 その調和とは、傲慢となった+iが差異共振の神々の世界の秩序を認識することにあるのではないだろうか。即ち、+iが(+i)*(-i)を認識することにあるだろう。正に、アポロン神殿の信託「汝自身を知れ」の実現である。
 これは、また、ゾロアスター教的認識に一致すると考えられる。
 

*****************

 トランス・モダン社会の分析で今後、重要になると思われるのは、


哲学的には一般意味論は応用概念論とも言うべきもので、人間の感覚器 や神経系 や言語が人間の経験にフィルターをかける度合いを強調するものである。
一般意味論の最重要の前提は次のように簡潔に表現される。「地図は現地ではない。単語はそれが表す事象そのものではない。」アリストテレス は真の定義が事象の本質 を表すとしたが、一般意味論はそのような本質を見つける可能性を否定する。



の部分であろう。

 これは、物質(実数、現実)と精神(虚数、電磁関連作用)との「Media Point」の存在を推測している部分であり、正確には、「Media Point line, Film」と呼ぶべき部分を分析対象としているのである。

 端的に、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼んで良いと思う。

 精神世界(意味世界、価値世界、不連続世界)と物質世界(没価値世界、連続世界)との境界には、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼ぶべき「媒体」が存在しているのである。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810177
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

*************

一般意味論
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・・・・・

一般意味論では抽象の段階に関する考え方を「構造微分 structural differential」 と呼び、1)無限に変化する「世界」から、2)感覚器官によって把握された外界の似姿、3)「外界」として体験された事柄についての言語的記述、4)そうした言語的記述についての記述、というように当初の情報が段階的に縮退されていくことを指摘した。現在では認知心理学 ・認知科学 的研究によりそうした縮退の様子が把握されているが、「元の世界についての認識」が、言語的に表現された「世界」についての認識へと縮退的にすり替えられていかざるという人間の認識能力の限界、そのことを明確に指摘した点に一般意味論の決定的な重要性がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E4%B8%80%E8%88%AC%E6%84%8
F%E5%91%B3%E8%AB%96

**************

General Semantics

In the 1930s a Polish Count, Alfred Korzybski, wrote a book called "Science and Sanity" which has had a tremendous influence on the Self Development movement ever since. It has been said that if Korzybski had had the communication skills of some of the great names of this century, such as Hubbard of Scientology, or Bandler and Grinder of NLP, then he would have been the great guru. Rather sad, in one way, is that few would pick up Science and Sanity to read, but would pick up many copies of his ideas.


http://www.trans4mind.com
/personal_development
/GeneralSemantics/index.html


2009年10月27日(Tue)▲ページの先頭へ
一般意味論とPS理論:構造微分と精神フィルター:小乗的個的理論から大乗的社会理論・実践へ
この問題はきわめて意義深く興味深いので、さらに考察を行いたい。
 昨日は記述は、まだ述べたいことを十分に述べてはいなかった。つまり、Kaisetsu氏が創造した用語の『精神的フィルターsemantic filter』の概念が、知的喚起力があり、その喚起されたものを述べたい。
 「フィルター」という概念が明敏なのである。つまり、Media Pointにおいて、垂直軸と水平軸が「交差」するが、前者から後者へと次元転換(縮退次元変換?)するときに、この精神的フィルターが発生するのである。
 このフィルターの虚軸部では、超越的共振エネルギーがいわば沸々としている。しかし、実軸部では、同一性の形態・形象・図式が生まれるのである。
 以前、海岸の打ち寄せる波の風景・情景のことを言語化し、それでも、私の「思い」は表現されていないことを述べたが、それは、まったく一般意味論的な事象・心象である。
 この「思い」が精神フィルターの虚軸部ではないかと思う。そして、言語表現がフィルターの実軸部の同一性の図式・フレームである。(言語と感覚は相関性がある。)
 「思い」が差異共振性であり、言葉が同一性であり、一般意味論の構造微分に当たる。この「微分」という発想はまったく的確である。
 不連続的差異は微分不可能であり、差異共振性も当然そうである。しかし、精神的フィルターを介すとき、微分可能となるのである。だから、フィルターは同一性変換器とも言える。
 結局、心(身体的精神)には、Media Pointがあり、虚軸と実軸が交差しているのであり、虚軸ゼロ点における「思い」が実軸ゼロ点の「言語」ないしは構造微分に変換されるのであるが、これは、当然、等号ではなく、等号且つ不等号であり、端的に、即非である。あるいは、⇒である。
 結局、既述したことの繰り返しとなるが、虚軸部と実軸部とは、絶対的に不連続であり、シャープに切断されているのである。つまり、虚軸部≠実軸部である。ここにはは、等号は成立しないと言えよう。
 虚軸部をY、実軸部Xをとすると、Y⇒X、Y≠X と記述できる。
 精神フィルターで隔離された二つの領域が存するので、意識は錯誤に陥りやすいと言える。つまり、何とか、両者を連続させて、辻褄を合わそうとするのである。しかし、本来、絶対的不連続性があるので、辻褄は合わないのである。
 ここでやや飛躍的だが、言語について簡単に触れると、それは、知的「物質」性と言えるかもしれない。あるいは、認識的「物質」性である。端的には、認識的同一性である。思うに、これが精神的フィルターである。Media Pointにおいて、実軸部には、精神的フィルター=認識的同一性=言語的フィルターが存するのである。
 そして、これは、主に、+iが関わっているだろう。つまり、Media Pointにおいて、虚軸的共振「現象」に対して、+iが能動的にはたらいて、+1と同一化すると思われる。
 これは、思うに、差異共振エネルギー⇒が消費されたときに+1に終結するが、それと、主体の+1が一致することから生起するのではないだろうか。つまり、認識は、+iに傾斜しているのである。そして、それが、+1と同一化するということであり、このときに、+iは言語認識作用をもつということではないだろうか。
 そして、成長過程において、この言語認識を増殖させることになるのであり、現象世界は、同一性世界へと縮退・抽象化されていくのである。それは、また、数量の支配する世界である。原近代世界である。
 ということから、精神的フィルター問題に返ると、そのフィルターは、+i傾斜によって形成されると言えるのではないだろうか。
 Media Pointの虚軸部Yは、差異共振エネルギーであり、そこでは、「私」は「川」であり、且つ、「私」は「川」ではないという即非態にある。しかし、実軸部 Xでは、「私」は「私」であり、「川」は「川」であり、両者は一致しないということになる。「物質」の世界である。アリストテレス論理の世界である。 Y≠Xである。Y⇒Xである。
 そして、言語はXの世界のものである。上記したように、差異共振エネルギーが消失して、+iと+1が一致するのである。+i=+1、これが、言語形式ではないだろうか。
 否、+i⇒+1、これが、言語方程式ではないだろうか。
 そして、精神的フィルターもこれで記述できるのではないだろうか。
 とまれ、精神的フィルター(=言語形式)には、他者-iが消えていることに注意すべきである。人間が利己主義になるのは、このような本性に拠ると考えられる。また、近代合理主義を形成するのも、この帰結と考えられる。
 ここで、他者-iの力学について考えると、何か、人間の本性・本質には、+i傾斜から-iの活性へと反転する仕組みがあるように考えられるのである。
 つまり、+iの傾斜とは、端的に、-iの潜在を意味するのである。だから、発生的には、プラスが先行し、その後、反転して、マイナスへと点ずると考えられるのである。
 マイナスへの反転によって、精神的フィルター中心主義(ロゴス中心主義)が解体するのであり、その始まりが、ポスト・モダンであり、その完全な乗り越えがトランス・モダンである。いわば、同一性への差異の復讐が起こるのである。これが、《黙示録》(アポカリプス)である。虚軸界へのらせん的回帰である。
 今はここで留める。

追記:哲学とは、Media Pointにおける+iの知的行為ではないだろうか。だから、男性的であるが、女性的な-iを取り込んでいるのである。
 プラトンは、完全に、虚軸部で思考していたと言えよう。また、古代ギリシア文化社会の秘密もこれで理解できよう。つまり、虚軸部のエネルギーが沸々としていた文化社会であり、しかも、男性的な+iが盛んに作用していたのである。
 結局、大文化社会が生まれるには、女性的な虚軸エネルギーと同時に、男性的な+iの活力が必要であると言うことである。そうすると、現代日本は危うい、実に危うい。アジア諸国に、能動・創造的ダイナミクスがあると言えよう。

********************

 トランス・モダン社会の分析で今後、重要になると思われるのは、


哲学的には一般意味論は応用概念論とも言うべきもので、人間の感覚器 や神経系 や言語が人間の経験にフィルターをかける度合いを強調するものである。
一般意味論の最重要の前提は次のように簡潔に表現される。「地図は現地ではない。単語はそれが表す事象そのものではない。」アリストテレス は真の定義が事象の本質 を表すとしたが、一般意味論はそのような本質を見つける可能性を否定する。



の部分であろう。

 これは、物質(実数、現実)と精神(虚数、電磁関連作用)との「Media Point」の存在を推測している部分であり、正確には、「Media Point line, Film」と呼ぶべき部分を分析対象としているのである。

 端的に、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼んで良いと思う。

 精神世界(意味世界、価値世界、不連続世界)と物質世界(没価値世界、連続世界)との境界には、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼ぶべき「媒体」が存在しているのである。
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=810177
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

**************

一般意味論
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・・・・・

一般意味論では抽象の段階に関する考え方を「構造微分 structural differential」 と呼び、1)無限に変化する「世界」から、2)感覚器官によって把握された外界の似姿、3)「外界」として体験された事柄についての言語的記述、4)そうした言語的記述についての記述、というように当初の情報が段階的に縮退されていくことを指摘した。現在では認知心理学 ・認知科学 的研究によりそうした縮退の様子が把握されているが、「元の世界についての認識」が、言語的に表現された「世界」についての認識へと縮退的にすり替えられていかざるという人間の認識能力の限界、そのことを明確に指摘した点に一般意味論の決定的な重要性がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E4%B8%80%E8%88%AC%E6%84%
8F%E5%91%B3%E8%AB%96

****************

General Semantics

In the 1930s a Polish Count, Alfred Korzybski, wrote a book called "Science and Sanity" which has had a tremendous influence on the Self Development movement ever since. It has been said that if Korzybski had had the communication skills of some of the great names of this century, such as Hubbard of Scientology, or Bandler and Grinder of NLP, then he would have been the great guru. Rather sad, in one way, is that few would pick up Science and Sanity to read, but would pick up many copies of his ideas.


http://www.trans4mind.com/personal
_development/GeneralSemantics/index.html



フィルター、フレーム、同一性志向性:形相(エイドス)、超越論的形式、構造
以下、Kaisetsu氏が、『一般意味論』に関連して、「精神的フィルター」について、的確に論考している。
 「フィルター」という視点は重要である。これまで、形相(エイドス)、構造、形式、同一性、等で説明されていたが、「フィルター」とすると、実に、明快になる。
 これに関連して、愚樵氏は、「知的フレーム」というタームを使用していたが、その「知」を同一性と考えれば、的確な記述である。
 「フレーム」はわかりやすい用語であるが、「フィルター」の方がより明瞭に事態を説明していると考えられる。
 結局、「精神的フィルター」は、正に、Media Pointの実軸次元に存するものと考えられる。
 そして、これは、Media Pointにおける正のエネルギーの発露から形成されると考えられる。(自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の⇒の先端であろうか。)
 とまれ、「精神的フィルター」はプロト同一性である。これは、プラス・エネルギーの所産であり、西洋文明はこれを最大限に利用した。
 しかしながら、プラス・エネルギーは「精神的フィルター」という、いわば、同一性フィルターを意味するに過ぎないのである。
 だから、マイナス・エネルギーが発生するとき、脱同一性が生起して、「精神フィルター」が、いわば、マイナス「精神フィルター」になると考えられる。
 これは、非線形的であり、新秩序化である。端的に言えば、Media Point自体の「現前」である。言い換えると、超越性の発現である。原宗教的な事態である。
 これが、「黙示録」的現象である。旧いものは徹底的に壊れ、まったく新しいものが勃興する時代である。

***********************

精神的フィルター(semantic filter )について
 Renshi氏が、

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

Mon, October 26, 2009 01:10:22
一般意味論
テーマ:哲学・科学・技術

で、アルフレッド・コージブスキーの「一般意味論(General Semantics)」について、簡潔に纏めておられる。


 海舌も、一回か二回位、どこかの図書館で、アルフレッド・コージブスキーに関する本を読んだ気がするが、改めて、概観すると非常に興味深い指摘が随所に在る。

 Be動詞が『=』では無いことなどは、PS理論が「⇒」で表現している理由を端的に示している。


一般意味論の大部分は、現実のやりとりを妨げる精神的な性癖をやめるための訓練技術と覚え書きから構成される。3つの重要な覚え書きとして、「非A」Null-A、「非I」Null-I、「非E」Null-Eがある。

非Aとは「非アリストテレス」non-Aristotelianismである。一般意味論では現実が決して(アリストテレス的)二値論理 で表現しきれないことを強調する。
非Iとは「非同一性」non-Identityである。一般意味論ではいかなる事象も同一ではないとし(測定限界を超えたところで異なっている可能性があるため)、「現在実行している分析の目的から見て十分類似している」と考えるのが好ましいとされる。
非Eとは「非ユークリッド」non-Euclideanismである。一般意味論では我々の宇宙がユークリッド幾何学 では正確に説明できないことを強調する。



 の部分も重要である。

 PS理論のモチーフと重なる部分が多い。

特に、「「非同一性」non-Identity」は、個別の「超越性」、個の絶対的超越性を述べていると思われる。

『「非ユークリッド」non-Euclideanism』は連続性の否定である。

『「非アリストテレス」non-Aristotelianism』は、既に多くの哲学者、社会学者が行動規範としている思考であり、「オータナティブ運動」などが、この潮流であろう。

 トランス・モダン社会の分析で今後、重要になると思われるのは、


哲学的には一般意味論は応用概念論とも言うべきもので、人間の感覚器 や神経系 や言語が人間の経験にフィルターをかける度合いを強調するものである。
一般意味論の最重要の前提は次のように簡潔に表現される。「地図は現地ではない。単語はそれが表す事象そのものではない。」アリストテレス は真の定義が事象の本質 を表すとしたが、一般意味論はそのような本質を見つける可能性を否定する。



の部分であろう。

 これは、物質(実数、現実)と精神(虚数、電磁関連作用)との「Media Point」の存在を推測している部分であり、正確には、「Media Point line, Film」と呼ぶべき部分を分析対象としているのである。

 端的に、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼んで良いと思う。

 精神世界(意味世界、価値世界、不連続世界)と物質世界(没価値世界、連続世界)との境界には、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼ぶべき「媒体」が存在しているのである。


.........................................

参照:

 プラトニック・シナジー理論

精神的フィルター(semantic filter )

http://blog.kaisetsu.org/?cid=28821
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


2009年10月24日(Sat)▲ページの先頭へ
basic income米失狗因咬とは何か:地域共同体的差異的贈与の可能性
テーマ:生活・労働・消費・収入・格差・氷河期世代

再掲である。直感では、なにか唯物論の臭い、社会主義の臭い、また、さもしい、いやしい感じがあるのである。乞食根性のような感じである。
 とは言え、観点を変えて、これは、贈与、社会的贈与、共同体的贈与の問題として捉えることができるように思える。喩えて言えば、サンタクロース的贈与路線である。
 これは、母権的経済になるのではないだろうか。とまれ、贈与する側は、当然、金や資産が余っている者である。これを国家・政府がやるというのは、問題だと思う。超借金政府にはこれをやる資格がない。
 問題は国家を経由することである。ここで、「中間マージン」を取られるし、支配されてしまうのである。
 これは、地域共同体が行なうべきことのように思える。企業なり、資産家が、地域共同体に贈与するということが考えられる。
 地域共同体には、地域行政も関与するだろう。ただし、お上の発想ではなく、差異共振共同の発想が必要である。
 先に述べたように、日本文化・社会のエッセンスは差異共振性である。これを掘り起こすようにして、復活させるようにして、地域共同体を形成する必要がある。そうすれば、共同体的贈与は意義のあることになるだろう。
 とは言え、それは、米失狗因咬ではない。個(差異)の必要に応じる贈与、社会的贈与である。
 
****************
関 曠野 講演録
「生きるための経済」
― なぜ、所得保証と信用の社会化が必要か ―
http://bijp.net/transcript/article/27


茶臼山古墳の朱は太陽信仰の証し:太陽女神の子(大王おおきみ)の復活・再生信仰:折口信夫の世界
テーマ:折口信夫『死者の書』

赤い石室 水銀朱200キロ - 隠れる部分も彩色【桜井・茶臼山古墳】

2009年10月23日 奈良新聞

推定200キロもの水銀朱が用いられていた竪穴式石室=22日、桜井市外山の桜井茶臼山古墳(代表撮影)


 古墳時代前期(3世紀末〜4世紀初め)に造られた大王墓級の大型前方後円墳・桜井茶臼山古墳(桜井市外山、全長200 メートル)の発掘調査で、県立橿原考古学研究所は22日、明らかになった竪穴式石室の全容を発表した。赤く彩られた石室の壁体や天井石には少なくとも約 200キロの水銀朱を使用。石材の見えない部分にまで朱が施され、大王の墓にふさわしい丁寧な造りだったことが分かった。

 昭和24年以来60年ぶりの石室調査。8月に始まり、今月4日には長さ4.89メートルの遺存木棺の運び出し、基底部の構造も判明した

 石室は南北6.75メートル、北端幅1.27メートル、高さ1.71メートル。開口部をすぼめず、壁になる割石を垂直に積み上げているのが特徴。12枚もの巨大な天井石を調達し、運ばせることができた権力者の埋葬をうかがわせる。

 墓壙(ぼこう)底の中央に基台を設け、上面は板石を敷き詰めていた。棺を支える土の層は厚み最大18センチで、通常は粘土が使われることが多いが、赤っぽい特製の土だった。

 石室一面の赤色は化学的分析で硫化水銀と判明。表面積に厚みと比重をかけて算出した推定重量は、多量の水銀朱の出土で知られる大和天神山古墳(天理市)の42キロの約5倍。壁体となる石の一つ一つの全面に朱が塗られるなど極めて丁寧な造りだった。石室以外にはベンガラ (酸化鉄顔料)も使われていた。

 朱の意味について、橿考研の菅谷文則所長は「再生への願いと死者への怖れをもって鎮魂する両方があったのだろう」と話している。

 現地見学会は29〜31日の3日間、午前10時〜午後3時。JR・近鉄桜井駅から徒歩15分。駐車場はない。雨天中止。問い合わせは橿考研、電話0744(24)1101。
http://www.nara-np.co.jp/
20091023102241.html


石室の大量の水銀朱は権力の象徴 桜井茶臼山古墳で確認

10月22日20時13分配信 産経新聞
石室の大量の水銀朱は権力の象徴 桜井茶臼山古墳で確認

 初期大和政権の大王クラスの墓とされる前方後円墳、奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳(全長約200メートル、3世紀末−4世紀初め)で、被葬者を納めた竪穴式石室の全面が大量の水銀朱で赤く塗られていることが分かり、県立橿原考古学研究所が22日、発表した。水銀朱の総重量は約200キロと推定され、国内の古墳で確認された量としては最多。

 水銀朱は当時、不老不死の薬ともされており、研究所は「貴重な水銀朱を大量に使って、権力の大きさを示したのでは」としている。

 竪穴式石室は長さ6・75メートル、幅約1・2メートル、高さ約1・6メートルと判明。内部には、木棺(長さ4・9メートル、幅75センチ)の底板がほぼ当時の状態で残っていた。石室の壁は、一辺50〜60センチ大の板状の石材数千枚を積み上げて構築。石材のほぼ全面に水銀朱が塗られていた。水銀朱は、大和(奈良県)で多産した辰砂(しんしゃ)という硫化水銀の鉱物を粉状にすりつぶして水に溶かしたのち、石材に塗ったとみられる。

 国内の古墳で使われた水銀朱はこれまで、大和天神山古墳(奈良県天理市)で確認された42キロが最多とされていた。

 桜井茶臼山古墳は昭和24〜25年に発掘調査されているが、研究所が石室構造などの解明を目指し再調査していた。

 現地見学会は29〜31日の連日午前10時〜午後3時に行われる。

 古代の人々はなぜ「赤」にこだわったのか。「死者の魂をよみがえらせる」「権力の象徴だった」−。研究者たちは、王者の眠る神聖な空間にさまざまな思いをはせた。

 桜井茶臼山古墳が築かれた時代に中国で流行した神仙思想についての解説書「抱朴子(ほうぼくし)」(317年成立)には、「丹」(=水銀朱)について「飲めば不老不死の仙人になれる」と記されている。

 森浩一・同志社大名誉教授(考古学)は「純度の高い水銀朱が使われており、不老不死を強く願った被葬者の姿がうかがえる」と指摘。河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)も「血の色を思わせる水銀朱によって、死者の再生を願ったのではないか」と推測した。

 一方「抱朴子」には「仙薬(仙人になるための薬)のうち、最上のものは丹砂(=水銀朱)。次は黄金」と記載。和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)は「金よりも貴重とされた水銀朱が、200キロも使われていたとは」と驚く。

 和田教授によると、水銀朱の産地候補の一つは奈良県宇陀市付近。この一帯は、昭和後期まで水銀を採掘する鉱山が点在した国内有数の辰砂の産地で、桜井茶臼山古墳やこれまで最多の出土量とされていた大和天神山古墳とも近く、和田教授は「大和政権の成立を考える上で水銀朱は重要な要素になるだろう」と話した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20091022-00000602-san-soci

木棺はコウヤマキ製、やはり大王を埋葬 奈良・桜井茶臼山古墳

初期大和政権の大王クラスの前方後円墳で、被葬者の魂を守る「玉垣跡」とみられる柱穴列(はしらあなれつ)が見つかった奈良県 桜井市の桜井茶臼山古墳(全長200メートル、3世紀末〜4世紀初め)で、遺体を安置した木棺が、大型古墳で用いられるコウヤマキの木で作られていたことが13日、県立橿原考古学研究所の調査で分かった。昭和24年の調査で「トガの巨木」と鑑定されたがコウヤマキと判明。約60年ぶりに「真実」が突きとめられた。

 同研究所が、木棺を納めた竪穴式石室周辺を発掘したところ、長さ数センチの木の破片100点以上が出土。木棺の一部とみられ、顕微鏡で詳細に観察した結果、細胞の形などからコウヤマキと特定した。

 竪穴式石室は、24年の調査によって、長さ6・8メートル、幅1・3メートル、深さ1・6メートルの規模と判明し、木棺の底板が長さ5・2メートル、幅70センチ分見つかった。当時の分析では、マツ科の針葉樹「トガ」と鑑定されていた。

 古墳の木棺は通常、石室内に流入する土砂などによって腐食して残らないことが多いが、初期大和政権中枢部に築かれた前方後円墳の大和天神山古墳(同県天理市、全長103メートル)や前方後方墳の下池山古墳(同、全長120メートル)などでは木棺が残っており、いずれもコウヤマキ製だった。

http://www.iza.ne.jp/news/
newsarticle/natnews/topics/265817/


参照:
『朱色は太陽の色、太陽信仰(神道)を意味し、大王は太陽(女神)の子:大女神信仰:イシスとオシリス』

朱一色、大王の石室が一般公開へ 60年ぶり発掘

 初期大和政権の大王墓とされる奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀前半、全長200メートル)で、全面を朱で彩った石室が約60年ぶりに確認され、県立橿原考古学研究所が22日、公開した。

 貴重な顔料の水銀朱をふんだんに使い、四方の壁は板状に加工した石1千枚以上を整然と積み上げて構築。強大な力を誇った王の威容を示し、初期大和政権の成立を考える第一級の史料。

http://ameblo.jp/renshi
/entry-10370807891.html

『大和の朱色 60年ぶり  桜井茶臼山古墳を再発掘』

水銀朱であるが、それは魔よけに使われたという以前に、朱は太陽の色、つまり、太陽神の色であり、大女神を意味したと考えられる。そして大王は大女神の子であり、朱で染めることで、復活を意味していると考えられる。イエスも本来、このパターンであるが、大女神を「父」が簒奪しているのである。
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10371254280.html


検討問題:精神と身体の関係について:超越対子と物質
この問題は、これまで何度も述べて、ほぼ結論に近いものはあるが、まだ絶対的に明確ではない。
 +iと-iを、作業仮説的に、超越対子ないしは虚数対子と呼ぼう(超越極子、虚数極子でもいいだろう)。
 超越対子はまたイデア対子である。これが、精神である。振動する精神である。
 それに対して、身体ないしは物質はどうなるか。これは、Media Pointにおいて、⇒+1という実数変換、現象変換が生じて、生起するのである。
 ここでは、精神が主であり、身体・物質が従であるという関係があるのである。霊主体従である。
 とまれ、結局、精神が身体・物質に化するのである。つまり、身体・物質の本質は精神であるということである。
 ここでアインシュタインの公式を活用すると、

 E⇒mc^2 

 E/c^2⇒m 

mの質量を身体・物質とすると左辺E/c^2が精神である。しかし、虚数対子として表現すると、

E/(+ic)*(-ic)⇒m

となる。(+ic)*(-ic)が虚数対子ないし超越対子である。そして、右辺のmは現象界・物質界・実数界を意味する。そして、⇒がMedia Pointである。
 この⇒、Media Pointが絶対的不連続性の変換回路である。虚軸から実軸(正の実軸)へと変換するのである。
 そして、この絶対的不連続性は、精神と身体(物質)との即非性を構築しているのである。
 精神が主であり、身体が従であるが、同時に、精神は身体であり、且つ、精神は身体ではないという即非論理があるのである。
 この精神と身体(物質)の即非的非対称性を認識することがきわめて重要である。
 ここで、飛躍的に、iPS細胞について簡単に述べてみよう。 
 精神をX、身体をYとしよう。すると、X⇒Yである。そして、これに順序数をつけると、
X1⇒Y1である。そして、Y1をiPS細胞とする。
 それに対して、別のX2をそれに接合するとしよう。すると、おそらく、X1とX2が共振するのである。そうすると、例えば、X1*X2⇒Y1・Y2のようなものが生まれるのではないだろうか。右辺が、Y1のiPS細胞から生まれた新しい細胞ということになるのではないだろうか。これは思考実験である。
 余裕のあるとき、十分に検討したい。


2009年10月23日(Fri)▲ページの先頭へ
近代的自我は、同一性を普遍性としているのが、最大の誤りである
同一性(物質)を普遍性とするためには、普遍性がどこかになくてはならない。
 実は、それがMedia Pointである。つまり、近代的自我(近代合理主義)とは、Media Pointを根源としながらも、それを同一性と一致させてしまう大誤謬を犯しているのである。
 言い換えると、差異共振性、ないしは、他者を同一性と一致させているのである。これが連続的同一性である。これは、+i=+1、ないしは、+i=⇒+1である。
 これが起こる原因は、+iが知性であり、言語(「ロゴス」)として、現象を捉えるからだと思われる。
 「脱構築」ないしは脱構造とは、本来、この連続性=等号から脱却することであるが、+iが+1と連続化する傾斜があるので、困難なのである。
 この連続性を切断して、+iと+1が不連続であることを確認するのが、トランス・モダン知性を形成するのに必須である。
 つまり、他者とは、-iであることを体感認識する必要があるのである。そうすれば、+1がいわば幻想、つまり、仮象であることがわかるのである。
 そして、普遍性であるが、それは、+1ではなく、-iとの即非性にあることが了解されるのである。つまり、超越的普遍性である。虚数的普遍性である。
 実数に囚われる+iにとっては、これを把握するのは、実に難しいのである。


参照:

究極の差異対立、差異共振を見据える福島瑞穂氏⇒「総資本対総労働の状況だ」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810156

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


コルマン博士の予測とトランス・モダン:PS理論と精神宇宙進化としてのトランス・モダン
以下のコルマン博士の思想(「占い」)は、PS理論が哲学的に明晰に説明できる。つまり、左脳とは同一性作用を、右脳とは差異作用を行なうということである。
 左脳と右脳の衝突とは、正に、同一性と差異との衝突であり、現オバマ政権、鳩山政権が具現しているものである。
 左脳=同一性が同一性金融資本主義であり、右脳=差異が差異共振資本主義(リベラル・コミュニズム=自由共同体主義)である。
 この精神宇宙的な変遷は、トランス・モダン進化と言えよう。

**************

コルマン博士の予測方法

コルマン博士はこれまで多くの予測を的中させてきた。最近のものでは第5の昼と第5の夜の2つの期間に金融危機ならびに経済恐慌が起きると予測していた。これも過去に何度も紹介しているが、確認のため再度掲載させていただく。

コルマンは早くも2004年に出版した『マヤカレンダーと意識の変容』という本の233ページで以下のようにはっきりと書いている。

「それがどのような金融崩壊になるにせよ、それは2007年11月からの第5の夜に始まるであろう」

さらに2004年の論文では以下のように書いていた。

「そして第5の日にはわれわれの「価値」に対する見方は大きく変化するだろう。そしてなんらかの形で国際的な通貨システムが崩れ、世界経済の大きな流れのシフトが起こるだろう。このような崩壊は、エネルギーが右脳へとシフトし、紙幣やサイバーマネーのような抽象的なものを通して現実を見るのではなく、より具体的に現実を見る動きの反映なのである。
 さらに、銀行がどうやって信用を創造しているのかその秘密が目に見えるようになるであろう。
 そして、左脳の抽象的な計算能力は、現実を具体的に把握する右脳の能力から出現する新しい価値観とは整合性が取れなくなるだろう。この左脳と右脳との間に生じる現実の感覚能力の本質的な衝突によって世界経済は経済成長が不可能な水準に到達し、そこから下降へのスパイラルが始まることだろう。これは経済成長の限界が来るということだ。この地点に達すると、信用創造の拡大などどんなことをしようとも、経済はこれ以上成長することはない」
http://ytaka2011.blog105.fc2.com
/blog-entry-146.html
ヤスの備忘録 歴史と予言のあいだ


2009年10月21日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:共同体的配分と自由主義的配分の差異共振的バランス:救世主としてのPS理論
持論である差異共振利益のフィードバックの問題であるが、差異共振生産が、本来の資本主義生産である。だから、差異共振社会を維持し、発展させるには、差異共振利益を合理的に配分する必要がある。
 一つは、差異共振生産を可能にする配分であり、ここには、イノベーション等の費用が含まれる。
 もう一つは、差異共振社会、差異共振共同体の保持・形成のために配分されるものである。
 税金は本来、後者に使用されるべきであるが、行政という「中間業者」・「卸業者」によって、多く横奪されるのである。
 もっとも、私企業が、差異共振配分を能動的に行うことは合理的である。これを忘れて、単に、私的利益追求だけ行っているのが今日、一般的である。
 とまれ、差異共振利益を差異共振的共同体的配分と自由・市場経済的配分の、差異共振的な合理的バランス(Media Point的バランス?)をもって配分するのが、トランス・モダン政治的経済と言えるだろう。
 後で精密に考察を行いたい。

追記:以下の鋭敏な現状分析に対して言うべきことは、

PS理論こそが
救世主である

ということである。

追記2:以下はまだ唯物論的発想を残している。脱唯物論化して、本当の、トランス・モダン社会形成が可能になるのである。


経済の破綻と教育崩壊の現実
鎌倉孝夫氏招き講演会
               市場原理主義の人間破壊    2009年10月12日付
 経済学者の鎌倉孝夫氏(埼玉大学・東日本国際大学名誉教授)を招いた教育講演会が10日午前10時から、山口市立小郡南小学校で開催された。山口教職員組合が第59次教育研究集会の一環として主催したもので、山口県退職教職員協議会が共催、県下の教職員、退職教師ら約100人が参加した。鎌倉氏は「経済の破綻と教育崩壊の現実――それをどう克服するか〜働く者の社会実現に向けて」と題して2時間にわたって、教育現場が直面する子どもをめぐる教育の崩壊の原因と打開の展望について、新自由主義のもとでの経済破たんとの関連で、科学的にわかりやすく訴え、参加者に深い感銘と確信を与えた。鎌倉氏の講演の要旨(文責・編集部)を紹介する。
 教育崩壊の経済、社会的根拠、背景をとらえどう克服していったらいいのかを考えてみたい。

 はじめに
 経済の破綻と大失業・生活の破壊の下で教育破壊が起きている。なぜそうなっているのか。その根本原因になんらメスを入れないまま、対処療法的にいろいろな対策がおこなわれているが、それでは生活の破綻、教育の破綻を解消するどころか、むしろ悪くなる一方だ。現在の危機は従来の国の政策では乗り切れず、労働者の生活破綻を打開できない。その危機を克服するために私たち労働者、民衆が主体にならなければならない。
 株式、証券は富も価値もつくらない。それを売買するだけでものすごい利益をあっという間に獲得する、そういう経済のやり方が崩壊しつつある。だが、証券投資でボロ儲けする経済が破綻した結果、私たちの生活基盤、実体経済も影響を受けてガタガタになりつつある。
 しかもこの経済の崩壊、生活の崩壊を立てなおすべき決定的に重要な教育、人間社会の主体を形成する重大な任務を持つ教育も崩壊しつつあるということだ。これでは本当に社会全体の崩壊になってしまうのではないか。経済の基本を維持発展させる主体の形成が絶対必要不可欠だ。
 教育の崩壊をどうやって食い止め本当の人間社会の主人公としての子どもたちの育成を図っていくか、今決定的に迫られた課題になっている。人間社会の再生・実体の担い手を主人公とした社会の創造は、教育再生にかかっている。

 1、経済の破綻−その原因
 日本だけでなく世界的規模で経済が破綻している。そのもとで働く労働者の失業が激増し、生活が破綻している。教育も崩壊し、医者にかかれない人人が激増している。それをもたらした根本原因を考えたい。
 1つは新自由主義、規制緩和、民営化のもとで大資本の自由、弱肉強食で力の強い者は弱い者を徹底的に収奪していいという方向が進んでいることだ。新自由主義といわれる政策のなかで、大資本の自由、巨大資本の自由が規制緩和をとおして保障され、発揮されるようになった。
 2つ目は、それ自体価値の根拠などない株式・証券が全世界で膨張し、拡大し、根拠がないことが暴露されて大崩壊している。それが今の金融恐慌、経済恐慌といわれる危機的事態を引き起こしている。この擬制資本が支配的である経済のもとでは人間が生きられなくなっている。
 株式というのは、経営を支配しながらその企業の経営のなかで労働者を搾取して利潤を形成するという根拠を持っている。株価そのものはフィクションだが、一定の根拠がある。ところが、サブプライムローンなど現在の証券は、人為的なバブルによってつくられた価格だ。その崩壊のもとで実体経済が、私たちの生活そのものまで破綻してしまいつつある。
 3つ目は、ドル過剰、ドル危機、ドル依存のなかでのマネーの過剰だ。1971年8月15日は戦後体制の大きな転機だった。アメリカのドルはそれまで金の裏付けがあり、一定の交換性があったが、ドルと金の交換性を絶った。アメリカがドルをどんどん垂れ流してドル価値は下落し続けた。アメリカはそこで、日本の政策に介入してドルをどんどん日本に買わせ、そのドルでアメリカから証券、国債を買わせる。ドルがアメリカに環流し、日本のお金がアメリカにどんどん吸い上げられていく。そういうメカニズムを通して、ドル体制の崩壊を回避し続け、過剰なマネーの運用先として、株式・証券に投機がおこなわれ、バブルが膨張しそれが崩壊した。
 新自由主義は、市場原理主義といわれるが、あらゆる人間関係を市場関係と同じようにとらえてしまう。労働という生産的な活動のなかで労働者は、仕事を分担しあいながら協同して労働している。そこでは労働を通した直接の人間関係がある。家庭の中の生活を考えてもそれは親がおたがいに支えあい、子どもたちを育てる場だ。直接の人間関係であって、交換関係ではない。
 ところが、労働の場においても、生活の場においてもみなモノとモノの交換、商品と貨幣の交換関係がおこなわれているようにとらえ、むりやりそのような関係にしてしまうのが新自由主義だ。
 新自由主義のもとで、巨大資本に一定程度加えてきた規制、たとえば中小零細企業や小農経営を保護するために、農産物輸入自由化や大型店が中小商店をぶっ潰すことを規制し、抑えていたのを、「資本の自由や経済の活性化を損なう」といって撤廃し資本の自由を放任した。巨大資本の自由はオオカミの自由(人狼)といえるが、それを保障したのが新自由主義だ。資本の自由を野放しにすれば、人間が生きられなくなる。
 教育や医療の事業というのは金儲けではできないし、利潤原理では絶対に維持できない。人間生活、生存の根本的な社会的な条件である教育、医療、保健、森林の問題などを資本に委ね、利潤原理に任せてしまった。アメリカでやられてきたことを「規制緩和」「自由化」といって、小泉経済改革のなかで実行し実現してきた。それが人間破壊の最も重要な原因だ。
 日本の財政危機をもたらした重要な原因は、アメリカの侵略戦争に協力させられて、危険な戦争の方向をめざして金を費やしてきたというところにある。グアム移転など、軍事力トランスフォーメーションに膨大な軍事費を出さねばならない。これが経済危機をさらに一層深刻化しつつある。ところが、「危険な外国の勢力がいるから、国民全体をあげて対処していかなければならない」と国民総動員の方向をうち出している。そのための「新教育基本法」に基づく教育を推進していこうとしている。
 こうしたことが人間の生存を破壊してきた重大な原因であるにもかかわらず、それを労働者・民衆のなかに、教育の現場にまで侵入させてきた。商品主体になりえない子どもたちに、市場の関係、お金の関係は空気や水の存在と同じように、当たり前の存在なんだ、交換関係というのは人間の基本的関係で変えることはできないんだという意識を与えるということだ。

 2、教育崩壊とその原因
 市場原理、金儲けの原理が子どもたちに浸透したことで、どういう状況になっているのか。
 「切れる子ども、荒れる子ども」は「自己中心的、動物的」だといわれる。「猿も反省する」というCMがあったが、猿は反省しない。人間は、人から見て恥ずかしいと思う行動を感じるし、反省して正していくことができる。反省しないというのはまさに動物的になっているということだ。
 子どもたちは一人一人人間として存在している。だから1人1人の人格があり人格を尊重するのは当たり前で大前提だ。しかし、決定的に重要なのは、まだ子どもたちは社会的に自立していない、今から自立していこうとする存在だ。未成熟、未完成という性格を持っている。学校に行く前の子どもを見てもわかるが、すっぽんぽんの裸でも恥ずかしいなど感じない。だんだんと自己意識が出てくる。それは子どもたちの意識性の成長だ。だから人間として自立していくように育てていくことが、親や地方や社会の任務、責任だ。
 家庭のなかで親、保護者がいなければ、自分たちの生活は成り立たないという生活をしていながら、自分の生存、生活にとって絶対存在不可欠な人間関係、それについてのきちっとした意識がない。子どもたちはどういう環境のなかで支えられて生きているのかを自覚していない。教師の任務はそういう自覚を子どもたちに付与していくことだ。
 このように、知識も充分でなく自己意識もまだ確立していない子どもたちに、あたかも市場のなかでの商品主体であるかのような「エセ主体観」、主体としての感じを与えようとする市場競争原理が子どもたちのなかに浸透してきている。お金を持たなければ人間関係は結べないという市場関係を、子どもたちの人間関係のなかにまで持ちこもうとしている。
 これは大変なことだ。子どもたち同士の関係も、人間同士の関係というとらえ方がなくなり、相手はモノになる。嫌になったら消す。バーチャルな人間関係のなかで、「お前は死ね」とか、携帯に書き込まれたからといって平気で殺すということになる。相手が自分と同じ人間だととらえなければ、相手を苦しめることが自分を苦しめることになるという感覚がなくなる。自分の思うようにやってもいいということになり、結局自己反省ができない。
 反省から人間は成長するといってもいい。反省は自分の行動を自分で対象化するということだ。相手に対してよかったのか、悪かったのか、自己反省をして人間は発展していくし、本当の意味での人間関係が発展していく。それがなくなってしまう。子どもたちは現在の資本主義に毒され、人間らしい感情、感覚を潰されている。
 そのうえに、「関心・意欲・態度が重要だ」「子どもたちが感覚的にとらえたものが大切だ」と、教師に対して押しつけになるから指導するなとなった。教師の指導性を否定するまでになった。「臨教審」「教育改革」を通して、画一的教育ではダメだ、それが子どもたちのやる気、自主性をなくしてきた、ゆとりを持たせる必要がある、子どもたちが思うような考え方を助長していく必要があるということを持ち上げてきた。
 そういうことが「個性尊重」というような言葉を使って、意識的に政策的につくられてきたといえる。これからいろいろなことを学んでいかなければならない子どもたちに、あたかも自立した個人であってもとてもできそうもないことを、尊重しようという教育がおこなわれてきた。
 そこから出てくる関心とはどういう関心か。意欲を引き出すといってもどういう意欲なのか。人をけ落として自分だけをというのも考えて見れば意欲だ。そんな意欲でいいのか。「関心だ。意欲だ」といっていたら、なんでも入りこんでしまう。
 こうして、「俺のやることにイチャモンをつけるのは嫌だ」となったり、「頭のいい子」は、ほんとうは嫌だけれどもやる気の態度だけ見せればいいんだという方向に走る。そんなことは耐えられない子どもたちが「嫌だ」というと弾かれてしまう。そういうことが「新しい新教育観」ということで押し込まれてきた。
 90年代のはじめから「生活科」が出てくる。理科でもない社会でもない、しかしなにをやっていいかわからなくなる。「総合的な学習」も同じだ。それぞれの総合すべき事柄の本質がわかったうえで、はじめて総合ができる。1つ1つの事柄の本質がなにもわからなくては、「ごちゃまぜ」にしかならない。目指す方向性もないから、ただ遊んでいる。「動物園だ」といわれるように育ててきたといえるだろう。
 教師の指導性、それを通して子どもたちになにを学ばせるのか、どういう考え方、どういう意識を育てていくのかがなければ、ほんとうに子どもの自立を促す、育てることにならない。
 そのうえに、子どもたち自身を競争させ、まさに市場競争と同じような関係を持ち込み、評価する。全国学力テストをやらせて、学校の評価をするが、これはバウチャー制(学校選択の自由)につながる。子どもが集まらない学校は教育費も減らされ、校舎や設備、教材もどんどん削られ、さらに廃校になる。イギリスはその弊害はありありとあらわれている。それを市場原理、競争原理でやっていこうという。その出発点として位置づけたのが学力テスト、そして成績の評価と公表ということだった。
 テストの成績を上げるというのは教育でもなんでもない。それで人間能力を測られ、その成績が悪い学校は教師が悪いといわれる。子どもたちはテストの成績いかんによって差別され、エリートはエリートなりの教育を、落ちこぼれの連中はやらなくてもいいと放置される。荒れるのは当たり前だ。暴力、いじめという状況が出てくる。
 なぜ、こういう状況が生まれたのか、親も先生も子どもたちにきちんと認識させると同時に、どうすれば正していくことができるかを示さないといけない。子どもたちは資本主義的商品経済に侵入され支配され、そのなかでもがき苦しんでいる。なんとか脱出させ、救わなければどうしようもない。

 教師自身が崩壊する事態に
 子どもたちの人間的成長を図るのは教師の任務だ。だが、工場で人間の営みである労働者が原料部品のように扱われているのと同じように、教育という人間としての営みをおこなう教師が教育現場で、財界や政府が意図した人材形成をおこなう道具であるかのように扱われようとしている。そこから、教師自身が崩壊する事態が生じつつある。
 超多忙状態におかれ、子どもたちの人格形成とは直接なにも関係のない無駄な競争に翻弄させられてしまう。教育の効果など量的基準で評価できるものではないが、それを量的基準、点数評価でやられてきた。そのうえ、教育内容、指導要領によって自主性を奪われて、社会・国家への奉仕を要求されてきた。
 教員の免許更新制は全然意味がない。どういう教育をしたらいいのかという中身は、教師自身が何年も経験しているから1番よくわかる。大学の先生も一般論をやっているだけだ。何を教えたらいいか分からないで困っている。なんの意味もないことに、大学も金をかけ、教師は自分の負担で、授業研究時間を削ったり、子どもとふれあう時間を削ったりで、ほとんど破綻している。
 資本が財界や教育現場に外部から介入するだけでなく、そっくり資本家的工場の原理、企業の原理で学校をのみ込み、支配するというところまできている。私学の大学は典型的にそうなっている。子どもは原料とみなされ、原料に付加価値を加えるのが教師の役割で、子どもたちを高く企業に売りつける。そういう人材形成が学校の仕事だ、大学の仕事だと平気でいうまでになっている。
 財界とか国家というのは、労働者国民が、労働する、生産的活動をおこなう、それによって価値や富をつくる、そういう根拠がなければ存立できない。ところが今の体制は、そういう生産活動における労働者を破壊し、学校現場における教職員の活動を崩壊させ、自分たち自身の根拠さえも失わせながら、逆にエセ主体化を通してこの体制を維持し、奉仕するような方向に向かわせようとしている。
 戦後教育は主体になりえない連中が、主体として維持存続するために、憲法や教育基本法の基本的な方針や理念をどんどん形骸化してきた。現在の教育の崩壊は、財界、国家による外部からの教育現場への介入、教育を彼らの目的に即した手段にしてきたことにある。

 3、教育再生・創造−労働者・民衆が社会の現実の主体となること
 人間生存に不可欠な物質的富の生産・再生産、このなかでの労働、自然に対して人間が働きかける主体としての力量、意識を持たなければならないと思う。
 われわれの教育の基本になっているのは、現場の人間関係だ。教員の関係、職員の関係、現場における必要な仕事を担いながら、協同しあって目的を遂行していくというそういう共同性だ。
 教育の領域は、実体の担い手である労働者として育てること、それが人間形成の基本だと思う。その主体になることが、子どもたちの自立、社会的自立ということだ。
 どういう状況のもとでも、1人で勝手に生きられるものではない。支えられ、支えるという関係のなかで生きていることを学ぶ、それを実証し、実現する場が労働の場であり、生活の領域だ。
 子どもたちの人格尊重ということと、教師の指導性は矛盾しない。むしろ教師の指導性を通して、一人前の自立できる子どもを育てていく。それが人格尊重だしその義務を負っているのが、社会、保護者、教職員だ。
 人格を育てていくための教育は、子どもたちの感性を大切にしながら、それを理論、理性にまで高めていく、これが基本だ。もう1つは個個バラバラな事象、バラバラな知識の連関、関連をつける。現象的な把握だけにとどまるのではなく、現象の底にある本質、根拠、この認識を確立する。子どもたちの認識を発展させ、成長させるとはこういうことだ。それが真理の教育だし、ここに教師の任務がある。
 生きた人間の直接的関係としての教育実践はつねに創造的で、マニュアルはない。教育者が教育されることを強調したい。
 教育活動は人間がおこなう活動だ。今、ビデオを見るとか映像を利用するとか、最近はスクールニューディールとかいって電子黒板など、いらない教育機器がどんどん入ってきている。教育の基本は、人間としての教師がやらないといけない。
 人間に対して、人間が関わるのが教育であり、日日が創造だ。子どもたちの状況は常に変わる。私たちの状況も変わる。しょっちゅう変化していく子どもたちに直接対応していく。今まで予想されなかったような事態が起きるが、それに対して即座に対応できるのは人間しかいない。
 これから何が起こるかわからない。そして現に起きていることに対応していかなければならない。それが創造性だ。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu
/keizainohatanntokyouikuhoukai
nogennzitu%20kamakuratakao
simanekikouennkai.html




2009年10月20日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:マネーと「実体経済」の乖離とは何か:トランス・モダン転換期とトランス・モダン政権
これは、素人ながら、余裕のあるとき、簡単に考えてみたい。
 これは、単純化すれば、同一性価値と差異共振価値との乖離である。そして、それは、資本主義の、いわば、絶対矛盾である。言い換えると、モダン/ポスト・モダンとトランス・モダンの絶対矛盾であり、現在、オバマ政権と鳩山政権がそういうものである。もっとも、前者の方が明確である。
 今日をトランス・モダン転換期と捉えれば、絶対矛盾が生まれるのは当然である。現代の人間自身も、トランス・モダン転換期的な二重的なものになっているのである。
 思うに、主観のこの二重性があるために、以上の乖離が出現しても、まだ、(一見)持続的なのだと思われる。
 いわば、半分、夢を見ているような状態、半夢半醒であると言えよう。しかしながら、トランス・モダンが進展すれば、これは持続されない。ここがポイントである。国民がトランス・モダン・インテリジェンスを形成すれば、今の転換期的な政権は乗り越えられる。トランス・モダン政権が生まれる。
 

[2009年10月20日] 分離が進む金融市場と実体経済!米年末商戦にみる危険な兆候
現在、マーケットはフローティングマネー(=FRBや各国中銀が金融機関に供給したマネー)のおかげで活況を呈している。
 
 だが、実体経済側にはほとんどマネーは行き渡っていないことが指摘されている。
 
 金融マーケットと実体経済の乖離がどれほど進んでいるのか、一度ここで確かめておきたい。
http://kabu.sakiyomi.com
/aifence/?EACH=447


[2009年10月17日] フローティングマネーで熱狂するマーケット、暗澹たる米国経済、そして高まる地政学リスク
http://kabu.sakiyomi.com
/aifence/?EACH=445

アイフェンス

東海アマ氏のHPからの情報


2009年10月17日(Sat)▲ページの先頭へ
民主党『革命』批判と絶対的差異/絶対的他者⇒差異共振視点の絶対的必要
今月は多忙なので、ブログの更新が少なくなります。

 さて、最近の日刊ゲンダイをみると、民主党を手放しで、無批判的に評価肯定していることに違和感を感じる。また、危険を感じる。(端的に、盲目な評価、盲目の絶賛である。没知性的である。それ以前の日刊ゲンダイは、批評があったが、それが、消えているのである。一種の狂気である。狂躁である。)
 私は先に、ほとんどの『革命』は歴史において、反動化することの政治精神力学を説いた。つまり、『革命』とは、基本的には同一性の立場なのである。旧い権力を悪、敵とし、自己権力を善とするのであるが、この自己権力肯定は、同一性の肯定なのであり、差異が欠落しているのである。結局、『革命』を成し遂げても、同一性権力なので、他者を排除することになるのである。これが粛清である。
 官僚を悪、民主党を善と見る『革命』的同一性の視点は、端的に、反動化するのである。だから、民主党は、早晩、崩壊するだろう。
 やはり、ポスト民主党の、差異共振政治が必要である。差異、絶対的差異、絶対的他者を見る視点が今日、絶対的に必須である。
 残念ながら、詳述はできず、ここで留める。

追記:東海アマ氏の農業共同体論であるが、それは、一理ある。しかし、差異共振論からは、農業と都市経済との共振ネットワークが必要となる。思うに、地方都市経済と農業(農林水産業)の差異共振共同体となるのが、いいと思っている。

追記2:本記事に対して、補足というか、補正すると、先に述べたように、鳩山政権はヤヌス政権(二重政権)である。ポスト・モダン(反動:旧態依然)とトランス・モダン(能動:刷新)が未分化的に連続化しているのである。だから、混乱するのである。鳩山政権の反動面を批判し、能動面を肯定するのが正当である。

参照:

日本の「静かな急変」
PAGES D'ECRITURE
****************
経世会志向の民主党への妨害工作激化の...
新ベンチャー革命
****************

# 外資系エコノミストは外資系金融機関のエージェントか?
# 証券・銀行・商社系エコノミストは、即刻、退場せよ。
# 亀井法案が暴露した御用文化人の正体・・・。

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』

*******************

★ 2009年10月16日金曜日 13時半更新

 好天気に釣られて、久しぶりに散歩に出て恵那駅まで歩いた。大井ダムの堰堤を渡って恵那峡に向かおうとしたら、ダム事務所構内にフェンスとゲートが新設されて通行できなくなっていた。係員にねじこんでなんとか通してもらったが、封鎖の理由は「テロ対策だそうだ」。
 といっても、テロを行うなら、水源に毒投入やダム爆破くらいしかないが、毒投入阻止は不可能だし、ダム爆破を阻止するなら、堰堤も立ち入り禁止にすべきだが、観光上の核心部分なので、そこは解放しており、対策になっていない。小手先で「やったつもりになっている」官僚的発想で困ったもんだ。
 中部電力あたりの幹部が発想するテロ対策は、関係業者に金を使わせることくらいで実効性など何一つ考えていない。また、こんな小さな大井ダムあたりまで無意味な「テロ対策」などが大げさに実施されているとうことは、テロを口実に、これから国民生活を統制し、締め上げてゆこうとする支配権力の意図が見え見えというところだろう。

・・・・・

● 農地法により、農地の取得が極めて困難なため、「農家になるには、どうしたらよいか?」と岐阜県農業畜産局に相談したところ、以下の回答

 (社)岐阜県農畜産公社 事務局より
 【「就職口がないので、農業でもやりたい」というのは、非常に甘い考えです。農業は事業であり、自営業です。自らは事業主であり、経営主となることです。全てが自己責任です。
蛭川地区をご覧になっても、農業で自立している人は、ごくわずかではないでしょうか。農地を持っている農家の人も、勤めに出て、勤め先収入が生活の糧になっている人が95%以上というのが実態です。
農業を始めるには、@本気で農業をやる気があること、A農地の取得(信頼関係がないと、購入・貸借は無理です。)B農業機械・施設の整備など、初期投資だけでも最低500〜1,000万円の資金がかかります。さらに、B農業技術が必要です。家庭菜園であればそんなに難しくありませんが、農業経営となると、本気でやる気がないと、途中で挫折しかねません。まず、、@十分な調査、情報収集、現地を見聞されること、A5年先、10年先の経営設計をたててみること、B農業体験研修を受けることをお勧めします。 】

 要するに、「カネのない者は飢え死にせよ」 という、ありがたい(天下り)役人のお言葉であった。以下のように返答した。

 【甘いという評価は結構だが、現実に仕事がなく、食べてゆくのが困難になった。 それを親身に援助する姿勢ではなく、現状の厳しさだけを指摘してことたれりとは、さすがに、血税でぬくぬくと暮らすバカ役人らしい傲慢さだ。 あなたがたは世間の現状を何一つ知らないのだろう。
 我々はこの先、あなたのような指摘を受けたなら、自殺以外の選択肢がない。 あなたがたは、役人として生涯保障されて、暖かい座布団の上に居座るつもりだろうが、その下で、あなたを支えている我々は、やせ衰え、餓死が目前に迫っている。 死ぬときは、抗議の意味を含めて、あなたがたの役所の前で首でも切って、あなたがたが滅亡するまでたたってやることにしよう。
 そんなお粗末な回答をよこすな! 現に農業を目指す以外選択肢のない我々に対して実に失礼だ 名を名乗れ! 】

■ 新型インフルエンザと鳥インフルエンザ (ネバダ情報)

 【2009年10月16日経済社会情報(倍増したインフルエンザ患者と鳥インフルエンザ)インフルエンザ患者がこの一週間で2倍に増え64万人になったと発表になりましたが、既に注意報という水準ではなく警報を出す段階に来ていると言えますが厚生労働省は動こうとしません。定点観測の患者数が前週の6.40人から12.92人に倍増しており、このままいけば近々に20人超えもあり得、病院・診療機関に患者が殺到してきていると言われています。
厚生労働省の足立政務官は以下のように述べています。『北海道など流行が拡大している地域では医療機関に患者が殺到している』
いまさらながら厚生労働省の怠慢ぶりには呆れますが、事態はそのようなことを言っている場合ではなく、更に深刻な事態が発生しているのです。

【鳥インフルエンザ発生】です。埼玉県の宮内庁埼玉鴨場で3例が陽性となったのです。これが強毒性かどうか一両日中に判明するといわれていますが、今、仮に【鳥インフルエンザ】が広まりますと、日本は海外から遮断される恐れが出てきます。即ち、日本発の航空機乗り入れ停止処置が取られるかも知れないのです。
日本が【豚インフルエンザ】と【鳥インフルエンザ】感染地と認定されないように祈るしかありませんが、個人としては子供がいる家庭は間違っても飛行機・新幹線・特急に乗せない、ディズニーランド・ショッピングセンターに行かない等世間と遮断処置を取るべきだと言えます。外部と感染の機会が増えれば増えるほど、感染するリスクが高まるからです。自分の身は自分で守るべきだと言えます。】

■ 国債発行額が国民資産を大幅に超え債務国への転落 (ネバダ情報)

 【2009年10月16日金融危機情報(国債発行が税収を超える事態に)民主党政権の概算予算要求からしますと来年度予算は戦後初の異例の事態に陥ります。
税収   38兆円前後  国債発行 44兆円前後
税収が落ち込む中、国債発行が減額できなかったからです。しかも今回の概算要求を見ますと国債発行・借金は50兆円を超える空前の規模に膨れ上がるかも知れないと見られており、日本の国家財政に赤信号が点灯し始めています。税収(収入)がないのいならその分支出を削減するべきですが、民主党政権はマニフェストでバラマキを公約したために削減するどころか支出を増やさざるを得ない事態に陥っているのです。
結果、国の借金は来年度には900兆円に達することが避けられない事態になっているのです。国民の金融資産(現預金)は790兆円であり、これを全て”没収”乃至は”無効”にしましてもまだ110兆円足りません。国民が保有する国債を無効にし投信を没収しましてもまだ足りません。
もはや制御不能の事態に陥り始めているのが今の日本の国家財政であり、果たして来年度予算が組めるかどうか。JALの経営問題もあわせ民主党政権が吹き飛ぶ事態もありえる状況になってきています。(そのJALですが、今朝ほど100円(−14円)にまで急落しており厳しい状態に追い込まれてきています)】

■ 税収激減、民主党マニュフェストは実現不能

 【税収40兆円割れへ=暫定税率廃止で悪化に拍車も−09年度 10月16日17時56分配信 時事通信
 国の2009年度の一般会計税収が想定の46.1兆円を大幅に下回り、40兆円を割り込む見通しとなった。景気低迷の影響で所得税や法人税が落ち込んでいるためで、40兆円割れは1985年度(38.2兆円)以来ほぼ四半世紀ぶり。税収が国債発行額(44.1兆円)を下回る異例の事態となる。 政府は 10年度の国債発行額について「44兆円より減らす努力をする」(藤井裕久財務相)と基本的に09年度に比べ削減する姿勢を示している。しかし、優先事項に掲げるガソリン税の暫定税率廃止は年2.5兆円の税収減を伴い、10年度税収も悪化に拍車が掛かる可能性がある。】

● 今、本当に必要な対策は、底辺の饑餓大衆を食わせることであり、住処を追われた浮浪者たちを救済することだ。もはや爆発崩壊するしかない資本主義を救済することではない。投機に走った大企業はすべて自滅するしかなく、助けることなど不可能だ。
 今、社会の底辺で、仕事を失い、収入も、住居も、食のつても失った若者たちを救済する方法は、全国の過疎地、遊休地に大規模な自給自足コロニーを設営し、援助することしかない。農業共同体コロニーから、新しい時代の息吹を造り出すしかない。民主党が、いったい、いつになったら、このことに気づくのだろう?

■ 鳩山逮捕の陰謀

http://alcyone.seesaa.net
/article/130300332.html

東海アマチュア無線  地震予知研究会

***************

マスメディアの歪んだ情報操作に警戒が必要

2009年10月16日 (金)
マスメディアの歪んだ情報操作に警戒が必要

鳩山新政権の初めての予算編成となる2010年度予算の概算要求が改めて実施された。2009年度当初予算が88.5兆円の規模であったのに対して鳩山新政権の2010年度概算要求額は95兆円を突破した。

朝日、読売、日経、産経各グループは、懸命に鳩山新政権批判を展開しているが、公正さを欠く論評は有害無益である。

本ブログでも繰り返し指摘してきたが、第二次大戦後の日本政治には米国が不正な内政干渉を繰り返してきた。その内政干渉には米国の情報・諜報機関であるCIAが深く関与してきた。



秘密のファイル(上) CIAの対日工作 Book 秘密のファイル(上) CIAの対日工作

著者:春名 幹男
販売元:株式会社共同通信社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


秘密のファイル(下) CIAの対日工作 Book 秘密のファイル(下) CIAの対日工作

著者:春名 幹男
販売元:株式会社共同通信社
Amazon.co.jpで詳細を確認する
 



1946年の吉田茂内閣発足、47年から48年にかけての片山哲内閣、芦田均内閣崩壊、吉田茂内閣への回帰には米国の意志が働いていた。米国は1954年に発足した鳩山一郎内閣に対する強い警戒感を保持し、56年末に発足した石橋湛山内閣をさらに警戒した。

米国は岸信介内閣発足を支援し、岸内閣の解散総選挙を支援した。明らかな内政干渉が実施された。

日本の国民が総選挙を通じて鳩山新政権を発足させたにもかかわらず、日本のマスメディアは主権者である国民の意志を尊重していない。2005年9月の総選挙後、小泉政権万歳を繰り返したマスメディアは、今回の総選挙後に鳩山政権万歳の報道をまったく展開していない。

新潮、文春も下品な鳩山政権批判を繰り返している。これらの異常なマスメディアの背景に大きな力が働いていることを、十分に認識しなければならない。

http://uekusak.cocolog-nifty.com
/blog/2009/10/post-22cd.html

植草一秀の『知られざる真実』


2009年10月12日(Mon)▲ページの先頭へ
対話原理式と対話一般式:多次元差異共立と「残像」の和(差):漱石の文学論の変換:F+f⇒A*B
Kaisetsu氏の以下の発展的論考は実に意義深い(尚、赤色や赤色の箇所の下線の強調はRenshi)。
 「和(差)が異次元の差異共立を表す記号である」という指摘は、重要である。そうすると、多次元差異共立が発生しているということになる。
 また、『時間的視点からは、「残像」の和(差)が対話の本質であろう』という点であるが、「残像」ということで、漱石の文学論のF+f説を想起した。Fとは「焦点的印象または観念」であり、fとは「これに付着する情緒」である。
 ここで、F+fをA*Bと書き換えてみよう。主体Aが他者Bと差異共振対話すると、他者Bが人間であれ、動物・植物であれ、あるいは、無生物であれ、あるいは、観念・概念であれ、そこには、エネルギーが生じる。このエネルギーに、fを入れることができるだろう。
 そうすると、漱石の文学論は、F+f⇒A*Bと変換される。そして、結局、PS理論的文学論とは、正に、対話原理式、対話一般式で表されると言えよう。
 
*************

新しい文学論のスタート⇒対話と差異共振 by Renshi氏

Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

Sun, October 11, 2009 16:46:21
対話と差異共振:A*B⇒A1*B1⇒A2*B2⇒・・・


AとBの対話は、A+b、B+aで終わるものではない。A*B⇒A1*B1⇒A2*B2⇒・・・
となるのである。*は共振ないしは即非共振である。そして、
AK*BK
が差異共振の成果である。これは、AK=BKであり、また、AK≠BKという即非共振である。
 少し説明すると、共振によって、AはBと一(いつ)となり、Bを理解するのであり、Bを取り込むのである。しかしながら、同時に、AはAであるのである。だから、即非一性という成果があるとも言える。



............................

(海舌の解説)

対話は差異価値衝突であり、積である。
Renshi氏の「A*B」という数的表現は正しい。

 参照: 2007.10.13 Saturday
貨幣交換は象徴交換である。貨幣交換は「衝突」である。

 対話は、価値衝突と書いたが、価値交換とも言えるのであり、まさに、Renshi氏の次の認識は正しいのである。

⇒共振によって、AはBと一(いつ)となり、Bを理解するのであり、Bを取り込むのである。しかしながら、同時に、AはAであるのである。だから、即非一性という成果があるとも言える。

 和(差)とは、異次元の差異共立を表す記号である。差異が、互いに没価値的に接触しない状況を表す記号が(和、差)である。和、差の区別は別に説明する。

 ボールAとボールBが、互いに衝突すると、ボールAのエネルギーはボールBに移り、ボールBのエネルギーはボールAに移る。その瞬間、両者は反発して互いに反対方向に離れる。

 ボールAとボールBの衝突前と衝突後のエネルギー状態、つまり、価値状態は異なる。

 つまり、Renshi氏の記号を使うと、

A1
B1

 と表現できる。

 何等かの事情で、A1とB1が、再度、衝突すると、その現象は、

A1*B1と数的に表記できる。

 この「A*B」と「A1*B1」は、異次元の価値である。「A*B」と「A1*B1」は質的に同一ではない。偶然、エネルギー・レベルが数量的に同値であっても、存在する時刻が異なる。時刻は絶対的な異次元ファクターである。

 時刻を表す記号として、「1」「2」・・・を見ても良いだろう。

 Renshi氏の表現を用いると、

 A*B⇒A1*B1⇒A2*B2⇒・・・(Renshi氏の対話原理式 Original expression for dialog)

 は、連続衝突後のエネルギー状態、つまり、価値衝突(交換)後の状態を逐一に表現していると考えられる。

 この価値の連続衝突(交換)の「一つ一つの状態」、時間的視点からは、「残像」の和(差)が、対話の本質であろう。

 つまり、

 二者間対話は、

婆=1,2,3・・・n (Ak*Bk)(海舌(明日野)の対話一般式 General expression for dialog)

 と表現できるだろう。
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=810088
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

****************

「文学論」

「英文学形式論」は講義の第二部たる「文学論」の序章でもあった。前者は文学の形式について論じ、後者は内容について論じている。「文学論」はまた、今や中止せざるを得なくなった、漱石の「十年計画」の記念碑たるものだったが、漱石はのちにこれを『奇形児の残骸』(「私の個人主義」)と呼んでいる。この講義録を読むと、漱石の特質がよくわかる。つまり、客観性を重んじる分析的態度、持論の解説に必要な材料の完璧なまでの処理、あらゆる時代の権威者たちからの適切なる数多くの引用とそれに対する遠慮のない反論、文学的・非文学的見地からの鋭い観察に基づく、独創性あふれる洞察、西洋と東洋の文学の興味深い比較などがそれだが、中でもとくに注目されるのは、英文学に限らず、すべての文学そのものを支配する基本原理を突き止めようとする熱意だ。英文学は漱石にとって、文学の一つの側面にすぎなかった。今あげたような漱石の持つ特質が、「文学論」を、日本の文学者によって書かれた論文中最も重要な意味を持つものにしている。
 いかなる文学であれ、その内容はF+fという基本的な公式に帰する。Fは『焦点的印象または観念』を表し、fは『これに付着する情緒』を意味する。つまり、すべての文学の内容は観念的要素たるFと情緒的要素たるfの結合の結果である。Fは継続する意識の焦点、すなわち頂点を示し、したがって、個人の意識の中に瞬間的に現れる印象・観念だけでなく、その人の人生のある一時期、さらには、社会の進化の過程のある一時期に現れる印象観念をも含む。つまり、Fは心理学的基礎から出発し、社会的要因にまで発展する。このような論理の展開に沿って、漱石の講義は五つの大きな部分に分けられている。つまり、文学的内容の分類、文学的内容の数量的変化、文学的内容の特質、文学的内容の相互関係、集合的Fの五編だ。
 第一編で漱石は文学的内容を分類し、それによって文学の領域を明らかにしようとした。その領域は一般的に文学の領域と考えられている範囲、つまり、文学を純粋に知的な喜びと考える人間、その反対に道徳的観点から文学そのものの存在を否定する人間、どちらの種類の人間が考えている文学の範囲をも越える、非常に広範なものだ。人間が経験するすべての印象および観念は、三つに大別することができる。『(一)Fありてfなき場合すなわち知的要素を存し情的要素を欠くもの、たとえば吾人が有する三角形の観念のごとく、それに伴ふ情緒さらにあることなきもの。(二)Fに伴なうてfを生ずる場合、たとえば、花、星等の観念におけるがごときもの。(三)fのみ存在して、それに相応すべきFを認めえざる場合、・・・すなわちなんらの理由なくして感ずる恐怖など、みなこれに属すべきものなり。・・・以上三種のうち、文学的内容たりうべきは(二)にして、すなわち(F+f)の形式を具ふるものとす。』文学に表現される人間の基本的感覚要素は、触覚、温度、味覚、嗅覚、聴覚、視覚の六つだ。漱石はリボットの分類に従って、文学の内容となりうる心理的・感情的要素を二つに分けている。一つは恐怖、怒り、同情、自己観念、性的感情、愛情などの比較的単純な感情、もう一つは嫉妬、忠誠心、超自然的感覚、一般化された真実などの複雑な感情だ。そのあとに入念な例証が続くが、これは漱石が、感情こそが文学の試金石であると考えているためだ。言い替えるなら、文学は感情に始まり感情に終わる。人間のいかなる経験でも、それがfを引き起こすものでありさえすれば、文学になりうる。漱石はそう論じた後、文学の内容となりうるものすべて、つまりF+fという基本公式にあてはまるもののすべてが四つに分類されると言っている。つまり、『(一)感覚F、(二)人事F、(三)超自然F、(四)知識F』の四つだ。(一)はおもに自然界に関するもの、(二)は善悪喜怒哀楽を写した人間のドラマ、(三)は超自然あるいは宗教的な世界、(四)は人間のかかえる問題についての哲学的・精神的観念に関するものだ。この四つのFのうち文学の内容として最も効果的でないものは(四)の知識Fだ。なぜなら、文学においては、内容がより具体的であればあるほど、読者の感情を揺さぶることは少ないからだ。
http://soseki.intlcafe.info
/kenkyuu/index12.html
『漱石研究』


対話と差異共振:A*B⇒A1*B1⇒A2*B2⇒・・・
以下の対話論であるが、それは、端的には、差異共振性ということである。というか、差異共振こそ、もっとも優れた対話なのである。AとBの対話は、A+b、B+aで終わるものではない。A*B⇒A1*B1⇒A2*B2⇒・・・
となるのである。*は共振ないしは即非共振である。そして、
AK*BK
が差異共振の成果である。これは、AK=BKであり、また、AK≠BKという即非共振である。
 少し説明すると、共振によって、AはBと一(いつ)となり、Bを理解するのであり、Bを取り込むのである。しかしながら、同時に、AはAであるのである。だから、即非一性という成果があるとも言える。

**************

 弊社から今年2月末に「ダイアローグ 対話する組織」 という書籍が発売され、好評を得ています。

 内容紹介から引用します。

◆ 対話型のコミュニケーションで働くオトナは、学び、成長する。組織のあり方も、変わる。

 ビジネスは「生き馬の目を抜くような場」だと、ときに評されます。激烈きわまる競争の果てに、少しだけ乾いてしまった私たちのコミュニケーションの本質を見直してみませんか。私たちが学ぶこと、成長することの本質は、コミュニケーションにあるからです(社会構成主義)。

 ダイアローグ、つまり、私たち自身がオープンなコミュニケーションの中に「ある」ことで、私たち自身が学び、成長し、変わる。そして、組織のあり方自身も変わっていく。
「変わること」とは、まさにダイアローグの中にあるのではないでしょうか。(本文より)

 できる上司・先輩が、できない若手を指導する。そこでは、過去の経験則による勝ちパターンを一方的に注入し、「オレが言うようにやれ!」という指導になりがちです。それが、もっとも効率的なやり方と信じられているからです。

「ダイアローグ 対話する組織」 の著者は、そのようなコミュニケーションを「導管モデル」と呼びます。これに対してダイアローグとは、オープンなコミュニケーションを通して自分なりの気づきを得るもの。

 Aさんが語るAという意見を、BさんがBという意見で反駁する。これは「議論」であって「対話」ではありません。

http://diamond.jp/series
/masugi/10017/?page=3

――原因は個人ではなく組織に内在している

「対話」とは、Aさんが語るAという意見を受けて、BさんのBという意見にaが付加される。一方のBさんのBという意見を聞いて、Aさんの意見もA+bとなって、より豊かなものになる。単純化すると、こういうことです。

 他者と話すことによって、自分の考え方が進化する。こうした連鎖によって、組織の考え方がそれまでより豊かになっていくことこそが、NECが企図していることではないでしょうか?
http://diamond.jp/series
/masugi/10017/?page=4

育たぬ若手が悪いのか 育てられないミドルがいけないのか【若手社員を辞めさせず成長させる 「適度なかまい方」マニュアル】

2009年10月11日11時05分 / 提供:ダイヤモンド・オンライン
ダイヤモンド・オンライン
 3年持たずに会社を辞めてしまったり、上司の期待どおりに育たなかったり。若手をめぐる私たちミドルのイライラは、なかなかなくなりません。もろく、折れやすい若者たちの側に問題がある。「ゆとり教育」こそが元凶なのでは? それも理由の一つかもしれません。  でも、本当のところはよくわかりませんし、正しくはケースバイケース、「個人個人によって事情は違う」というところなのではないでしょうか?少なくとも私は、若者の非を論(あげつら)っているばかりでは問題は解決し

記事全文


2009年10月11日(Sun)▲ページの先頭へ
二人のロックフェラー:同一性金融資本主義(デビッド・R)と差異共振金融資本主義(ジェイ・R)
参照1は興味深い。戦争屋がデビッド・ロックフェラーであり、銀行屋がジェイ・ロックフェラーである。私のこれまでの考え(作業仮説)に拠れば、ロックフェラー路線とは、前者であり、「ロックフェラー」路線(差異共振路線・自由共同体主義=リベラル・コミュニズム)は、後者となる。
 そして、銀行屋には、ロスチャイルドが入るのである。しかしながら、私のこれまでの作業仮説では、ロスチャイルドは、ロックフェラー路線に入るのである。
 私は田中宇氏の多極化論における英国・イスラエル覇権主義と米国の多極主義と闘争を取り入れてきたが、以下の「私見」に拠ると、多極主義は、田中氏の考えとは異なり、ロスチャイルド側である。
 とまれ、「私見」を参考にすると、私の作業仮説は、ロックフェラー路線とは、デビッド・ロックフェラー/CIA路線となり、「ロックフェラー」路線とは、ジェイ・ロックフェラー/ロスチャイルド路線となる。
 「私見」は、後者を銀行屋としているが、私の作業仮説は、差異共振路線=自由共同体路線である。そして、それは、米国の伝統的な民主主義に根ざしている(参考:トクヴィル『アメリカの民主主義』)。
 そうすると、推察するに、差異共振路線は、元々は、ジェイ・ロックフェラーが考えているものではないのか。そして、それが、ロスチャイルドの金融資本思想を変えて、差異共振資本主義へと転換させたのではないのか。
 そして、さらに推察するには、戦争屋とは、単に、デビッド・ロックフェラー/CIAだけではなく、ロスチャイルド側の一部にもあったと思われるのである。そうならば、ロスチャイルド側も分裂したことになる。つまり、同一性金融資本主義と差異共振金融資本主義に分裂して、前者が、デビッド・ロックフェラー/CIAと結び、後者がジェイ・ロックフェラーと結びついたということになる。
 こう考えると、田中宇氏の多極化論における英国・イスラエル覇権主義と米国多極主義の対立・闘争という考え方であるが、前者が、ロスチャイルドの同一性金融資本主義側ということになるだろうし、また、それが、CIAと関係しているということになる。
 結局、私の考えが「私見」とは異なるのは、オバマ大統領は、単に、差異共振金融資本主義路線だけではなく、同一性金融資本主義路線も抱えているという点である。アフガンにおける軍事増強志向性から見て、「戦争屋」の側面があることは否定できないだろう。もし、純粋な差異共振金融資本主義者ならば、アフガンにおいても、戦争ではなく、差異共振金融資本主義を展開するはずだからである。


参照1:
小沢民主党幹事長の訪欧についての私見 (1/2)
・・・・・

筆者の持論では、現在の米国覇権は、戦争屋(軍産複合体)と銀行屋(国際金融資本)という双頭の鷲の二大寡頭勢力の熾烈な競争構造になっているというものですが、それは事実上、ジェイとデビッドのRF財閥お家騒動とみなせます。

 この米国覇権戦争の構造を前提とすれば、小沢氏は“親ジェイ・反デビッド”であることは明らかです。その証拠はいくつもあり、下記、小沢氏関連拙稿記事リスト(注1〜注7)を読めば、容易に浮かび上がってきます。
http://blogs.yahoo.co.jp
/hisa_yamamot/1350537.html
新ベンチャー革命

***************

参照2:

オバマにノーベル平和賞:戦争屋=CIAへの挑戦状
・・・・・ 
 さて世界的寡頭勢力は年1回、世界各地でビルダーバーグ(BB)国際会議(非公開)を開催していますが、そこにあつかましく加わってきた戦争屋ボス、デビッドRF(*)系の過激勢力(ネオコン、イスラエル好戦派含む)の軍事的世界覇権の横暴(泥沼のイラク戦争含む)に強い批判が湧き起こったのが、 2006年6月のオタワBB会議でした(注2)。具体的には、オタワBB会議終了後、戦争屋の牛耳るブッシュ政権に、戦争屋と対立する銀行屋(米欧国際金融資本オーナー)から、ゴールドマンサックスのヘンリー・ポールソンが財務長官として、無理やり押し込まれました。つまり米国連邦政府の金融財政の支配権が、戦争屋から銀行屋にパワーシフトされ始めたのです。
http://blogs.yahoo.co.jp
/hisa_yamamot/1828270.html
新ベンチャー革命

****************

3425.ドル基軸通貨体制崩壊過程
・・・・・

湾岸統一通貨の話は、2006年11月と3年前に初めて聞いた。この時点
から、ドルは下落していて湾岸諸国はドルペッグ制から離脱するこ
とが協議していた。円はドルと同様に弱かったために、日本では気
が付いていないだけである。そして、湾岸統一通貨は単一主要通貨
に連動させることには今後意義が見いだせないであろうと述べてい
る。

この湾岸統一通貨の裏方としてロスチャイルド銀行がサポートして
いる。もう1つが湾岸諸国の外貨準備金は全て英国の銀行が運用・
管理している。このため、英国が世界の外為取引の34%を占めて、
米国の17%より大きい。日本は第3位で6%である。このため、英国
の動向が重要である。
http://www.asahi-net.or.jp
/~vb7y-td/211011.htm
国際戦略コラム


2009年10月10日(Sat)▲ページの先頭へ
オバマ政権の二面性・二重性・ヤヌス性:ポスト・モダンとトランス・モダン
以前述べたように、オバマ政権は絶対矛盾であると述べた。即ち、同一性金融資本主義路線(ロックフェラー路線)と差異共振路線(「ロックフェラー」路線)である。
 そして、核のない世界とか、温暖化防止とかは、明らかに、イデオロギー的宣伝である。核のない世界というイデオロギーは、対イランや対北朝鮮等への「大義」となるし、温暖化虚偽問題は、グリーン・ビジネスへ転換であり、中東産油国への対抗であろう。つまり、両方とも、米国覇権のためである。だから、ロックフェラー路線である。
 そして、差異共振路線(「ロックフェラー」路線)が国民皆保険制度等への努力に現れていると考えられる。
 本当に、二重人格的路線、あるいは、悪魔と天使の同居する政権である。思うに、ドル基軸通貨崩壊は差異共振路線から来ている。
 とまれ、今回のノーベル平和賞とは、ロックフェラー覇権路線、戦争路線を意味する。しかし、これは、トランス・モダンとは逆行する反動路線である。だから、この点では、米国は崩壊すると考えられる。
 米国がどう差異共振路線を展開していくのか、それが問題である。



<ノーベル平和賞>アフガン、パキスタン国民 心境複雑

10月9日22時10分配信 毎日新聞
 【ニューデリー栗田慎一】「核なき世界」を訴え、国際協調路線にかじを切ったオバマ米大統領だが、米国の「対テロ戦」の主舞台と位置付けられ、多数の民間人が巻き添えになっているアフガニスタンとパキスタンの人々は、戦争を指揮するオバマ大統領のノーベル平和賞受賞を複雑な思いで見つめている。両国では9日も武装勢力による自爆テロが発生、女性や子供ら計約150人が死傷するなど治安の悪化が続いているからだ。

 「オバマ氏はまだ何もしていない。アフガンとパキスタンで強硬に戦争を続けたブッシュ前政権との違いはない。期待外れだ」。アフガン国境に近いパキスタン北西部ペシャワル。9日、自動車爆弾の爆発で40人以上が死亡、100人が負傷したテロ現場を取材したばかりのナシード記者はこう語った。「米国の戦闘強化策が武装勢力を勢いづかせている」との見方からだ。

 オバマ大統領は3月に発表したアフガン新戦略で、戦闘強化策に加え、旧支配勢力タリバン「穏健派」との対話やパキスタンへの民生支援を打ち出した。だが、いまだに新戦略は具体化されず、現地住民は治安悪化や失業で苦しみ続けている。

 アフガンのカルザイ大統領の報道官は9日、オバマ大統領の受賞を祝福する声明で「アフガンに平和をもたらすことを望む」と述べた。しかし、同国内務省高官は毎日新聞の取材に「新戦略は発表当時、市民に期待を与えた。しかし、今は失望のどん底にある。ノーベル賞を受賞したからと言って、もはや大きな期待は抱かないだろう」と語った。

 一方、ロイター通信によると、タリバン報道官は9日、アフガンへの米軍増派を引き合いに「(オバマ大統領は)ノーベル賞の代わりに暴力を受けるべきだ」と述べた。
http://headlines.yahoo.co.jp
/hl?a=20091009-00000137-mai-int
 

2007年 ゴア元副大統領とIPCC(気候変動に関する政府間パネル) 書籍と映画による地球温暖化防止に関する啓蒙(けいもう)活動


2009年10月09日(Fri)▲ページの先頭へ
多神教と一神教のイデア力学:多神教⇒一神教⇒新多神教:負のエネルギーとトランス・モダン
先に、-iが内的自然且つ外的自然と言ったが、この視点から、多神教の説明ができる。即ち、認識主体である+iが、内的自然且つ外的自然の-iと共振したときの「観念的映像」が神々と考えられる。
 例えば、「海」-iを認識主体+iが見たとき(差異共振したとき)、「海」-iは、「海神」(ワタツミ、ポセイドン)となるのである。
 あるいは、「太陽」-iを認識主体+iが見たとき(差異共振視覚したとき)、それは、「太陽神」(アマテラス、アポロ)になるのである。
 このように、神々が誕生し、多神教現象界が生まれるのである。神道世界、古代ギリシア世界である。
 それに対して、一神教は、認識主体+iが内的自然且つ外的自然-iを否定する「観念」である。そして、現象⇒+1を同一性+1に抽象還元してしまい、現象を物質化するのである。
 否、的確に言えば、認識主体+iが内的自然且つ外的自然(絶対的他者)との差異共振を否定するのある。言い換えると、認識主体+iが内的自然且つ外的自然(絶対的他者)-iに対して、絶対的に優位に立つのが、一神教の原理であると考えられる。
 だから、-iを否定するというよりは、抑圧するのである。つまり、それなりの差異共振性は生じるが、それを認識主体+i中心に二元論(二項対立)化するのである。そして、+iが同一性=唯一神となり、-iと差異共振性が抑圧・排除・隠蔽される「神々」(母権的多神教)となると考えられるのである。
 ここで、マイナス・エネルギーを考えるべきである。即ち、プラス・エネルギーは、最初は、多神教形成となったが、さらに、+iが支配的になり、一神教へと展開した。しかし、ここで、非対称的・不連続的・「絶対的差異」的反転が起るのである。
 認識主体+iはプラス・エネルギーの帰結として、二元論化によって現象界を+1の同一性、「物質」へと還元したが、新たに、マイナス・エネルギーが賦活されて、同一性を形成した認識主体+iの観念体系を解体し出すのである。これが、脱構造化、脱構築化である。言い換えると、新たな差異化である。
 これは、端的には、内的自然且つ外的自然(=絶対的他者)-iのイデア・エネルギー(超越エネルギー)の活性化と考えられる。ここで、認識主体+iの、いわば、同一性中心主義(「ロゴス中心主義」⇒近代主義)の独裁・支配が解体し、終焉するのであるが、認識主体は、新たに賦活された-iのエネルギーと差異共振エネルギーに挑戦されるのである。換言すると、絶対的他者である「未知との遭遇」が生起するのである。
 ここで、宗教的には、新多神教が生まれることになるのであり、文明的には、一神教的ユダヤ・キリスト教的西洋文明が解体・崩壊・瓦解することを意味するのである(イスラム教的一神教は、矛盾していて、差異共振的一性と同一性を連続化しているのであり、同一性を解体すると多神教的イスラム教となるだろう。)。哲学的には、連続的同一性主義、「ロゴス中心主義」の崩壊である。経済的には、近代資本主義・同一性金融資本主義の崩壊(リーマン・ショック)である。政治的には、近代民主主義の崩壊である。
 そして、ここで、新たな東洋文明の黎明となるのである。
 結局、哲学(哲学科学=フィロソ・サイエンス=「フィロソフィエンス」philosophience)的には、マイナス・エネルギーとは、⇒-1とは、-iの賦活化であり、新たな差異共振化、新たなイデア論化、新たな超越化等を意味すると考えられる。
 ⇒+1を陽化(プラス化)とすれば、⇒-1は陰化(マイナス化)である。
 では、量子力学的にはどうなのだろうか。マイナス・エネルギー(⇒-1)は、-iのエネルギーであるし、差異共振エネルギーでもある。この三つの様態がある。
 おそらく、ダーク・エネルギーと言う場合、これらの三つの様態が混淆されているのかもしれない。
 また、ダーク・マターであるが、それは、-i自体を意味するのかもしれない。これらの点は検討課題である。

追記:因みに、ニーチェのディオニュソスは、負のエネルギーであり、差異共振性である。
 キリスト教の精神であるが、それは、差異共振性を、同一性で規定しているのが、問題なのである。「愛」は、差異共振性の同一性的限定化なのである。ニーチェやロレンスが「愛」を批判したのは、正鵠を射ている。鳩山首相の友愛主義もこの視点から批判される。

追記2:新多神教とは、つまり、ゾロアスター教的黙示録(アポカリプス)を意味する。アンラ・マンユ(正のエネルギー)をスプンタ・マンユ(負のエネルギー)が打ち破り、アフラ・マズダー的新光明文明を産み出すということである。


2009年10月08日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:ダーク・ライト-iとホワイト・ライト+iと超越光=現象光=即非光
私にとって、自然は、一(いつ)である。一というのは、いわば、感性から視点である。「わたし」が森の木々を見るとき、「わたし」と森の木々は一である。
 これは、直感・直観である。しかしながら、知性がないわけではない。何故なら、森の木々を知覚しているからである。だから、対象知性はあるが、やはり、一なのである。即非とは言えるが、私は、一性を強調したい。
 一であること、これは、「わたし」の-iのしからしむることではないか。つまり、「わたし」の-iが森の木々なのである。だから、一ではないのか。
 これを敷延すれば、-iは森羅万象となろう。つまり、「わたし」は森羅万象と一である。これは、正に、D. H. ロレンスが説いたコスモスの哲学である。
 問題は何かというと、「光」ないしは視覚の問題である。つまり、「わたし」が森の木々と一であると視覚しているのであり、この視覚は、通常の「光」の視覚ではなく、「闇」の視覚ではないのかということである。
 言い換えると、+iの「光」ではなく、-iの「光」がこの視覚知覚にあずかっているのではないかということである。
 否、正確に言えば、+iの「光」と-iの「光」が与っているということになろう。
 つまり、確かに、外界の森の木々を見ている。これは、+iの「光」に拠るだろう。しかし、森の木々と一であるという視覚は、-iの「光」に拠ると考えるのが的確ではないのか。
 そして、後者を仮にダーク・ライトと呼ぶのである。これは、「わたし」の内的自然と一であるものと考えられる。
 つまり、「わたし」の内的自然-iを介すことで、外的自然である森の木々と一を形成するということではないだろうか。
 言い換えると、「わたし」の内なる森の木々と外的な森の木々が一であるということになろう。
 そのように考えると、+iが「父」であり、-iが「母」であるというような考えが浮かぶのである。
 そうならば、「父」と「母」が共振して、超越光が生まれ、それが、現象光に成るということになる。
 というか、超越光=現象光である。そして、それを、+iの視点で見ると、同一性光であり、-iの視点で見ると、差異光(他者光)となるのではないのか。
 ならば、超越光自体はどうなるのか。同一性光と差異光(他者光、ダーク・ライト)とは別の超越光=現象光はどうなるのか。
 これは、正に、即非光と呼ぶべきものではないだろうか。
 そうすると、即非光があり、それが、同一性(物質)光のようになったり、差異光(一光)の二重性を帯びるということではないだろうか。
 量子論的に言えば、同一性光が粒子であり、差異光が波動である。しかしながら、量子とは、端的に、即非光である。そして、これが、電磁波の真相と考えられる。
 この即非光は「知」と「感性」ないしは、「知」と「身体」の極性をもつということになるだろう。


2009年10月07日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:虚数情報と振動について:虚数の振動とは何か
1)虚数情報と振動について:虚数の振動とは何か

E=m(+ic)*(-ic)⇒mc^2=hν

ならば、虚数振動とは、(+ic)*(-ic)に関係する。いわば、虚光と虚闇の共振振動である。
 直感では、これが、「気」と関係する。電磁波は単に、cとして捉えられるが、そうではなく、2つの電磁波、+icと-icの電磁波、極性電磁波があるのではないのか。
 否、+icと-icは、原電磁波であり、二者の共振が電磁波であろう。


2)自然とは、-iではないのか。「わたし」という意識は、+iであるが、自然は、内的自然にせよ、外的自然にせよ、-iではないのか。
 女性は、本来、+iと-iの極性を内在している。しかし、男性は、本来、+iだけである。そして、-iの自然を発見するということかもしれない。
 つまり、女性が男性の原型である。男性は奇形であるということではないのか。
 


2009年10月05日(Mon)▲ページの先頭へ
作業仮説:民主党とは何ぞ哉:鳩山政権は自民党政権の延長ではないか?
だいぶ怪しい民主党になりつつある。そこで、作業仮説を述べたい。
 小沢一郎氏は、おそらく、ロスチャイルド路線であり、鳩山由紀夫氏は、ロックフェラー路線である。
 ただし、両者には無意識として、「ロックフェラー」路線=自由共同体路線がある。
 オバマ政権であるが、それは、自由共同体路線と同一性金融資本主義の絶対矛盾であると述べた。言い換えると、「ロックフェラー」路線とロックフェラー/ロスチャイルド路線の絶対矛盾混淆様態である。
 だから、やはり、鳩山政権はオバマ政権に似ている。ただし、後者の明確な自由共同体路線は前者には乏しいように思える。
 米国の悪は当然、ロックフェラー/ロスチャイルド路線である。しかし、自由共同体主義というものが、基盤にあり、それをオバマ大統領は体現しているのである。
 鳩山政権は、ロックフェラー/ロスチャイルド路線の影響を多大に受けているが、同時に、自由共同体路線がいくばくかはある。
 官僚は、当然、ロックフェラー/ロスチャイルド路線であり、売国・亡国路線である。
 ということで、結局、裏で、官僚と鳩山政権は繋がっている可能性がある。これは、自民党政権の延長である。
 日本国民は目を覚まさないといけない。
鳩山政権は、危険である。

参照:
[10/05]
└ 偶然だよ!友愛連鎖
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=808959
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2009年10月04日(Sun)▲ページの先頭へ
遺伝子組み換え問題とMedia Point:虚軸情報を排除した種子は劣化・退化する
以下(参照)において、Media Point自体における「差異」、位階的差異を述べ、遺伝子問題について言及した。
 思うに、遺伝子組み換え問題も、この観点から解明できるのではないだろうか。即ち、遺伝子組み換えとは、端的に、実軸情報だけに注視した方法であり、虚軸情報を無視、排除しているのである。
 つまり、種子の「物質」情報だけで組み換えて、種子の「精神」情報を無視しているのである。これは、表層的には、「改良」であるが、本体・本質・深層を無視しているので、現実的には、後退、劣化である。
 言い換えると、根源的なエネルギー連関を喪失した種子が生まれると考えられる。つまり、退化する種子である。

参照:

「検討問題:ギリシア神話の主神ゼウスの多情性:虚軸情報と実軸情報の差異」
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10356104466.html


2009年10月03日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:ギリシア神話の主神ゼウスの多情性:虚軸情報と実軸情報の差異
ギリシア神話において、一見ゼウスはわかりやすい。しかしながら、謎めいている。
 ゼウスは、PS理論における虚軸ゼロ点ではないだろうか。そして、ゼウスが交わる女性は、実軸ゼロ点ではないだろうか。PS理論(以下、PST)からは、本来、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点は即非様態、即非一性(即非二一性)である。
 これが、父権制の傾斜によって、ギリシア神話において、ゼウスと女性の二元論となっているのではないだろうか。
 これで、ゼウスの正体が明確になると思われるのである。つまり、ゼウスとは、大女神の性格と父権神の性格の二重性をもっているのである。言い換えると、母権制と父権制の二重性があるのである。
 正確に言うと、基底は母権制であり、そこへ父権制が侵入して、前者を二元論化し始めているのが、ギリシア神話と考えられる。とまれ、ベースの母権制を確認する必要がある。
 また、ゼウス的な「交配」によって、多様性が生まれるのである。それは、本来は、母権的多神教的生成・創造性と考えられる。 
 より理論的に言えば、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点において、絶対的差異があるということである。前者においては、純粋な超越的なエネルギーがあり、後者においては、構造(身体・「物質」・同一性)的なエネルギーがあるということである。
 つまり、情報と言うとき、前者の精神的情報と後者の「物質」的情報があるということになるだろう。
 ここで遺伝子の問題を考えると、DNAは、端的に、後者の情報であり、個々の才能、性格、個性等は、前者の情報ではないだろうか。言い換えると、前者が「天」であり、後者が「地」である。天才とは正に、「天」賦の才能となる。この「天」と「地」の絶対的差異、位階的差異が本質的に重要である。
 とまれ、これを物質科学は混同していると考えられるのである。
 量子論もこの混同を犯している面がある。電磁波はMedia Pointのエネルギーの実軸面の事象ではないだろうか。つまり、電磁波の虚軸面、つまり、虚軸情報を的確に把捉していないのではないだろうか。
 「気」と言う場合、それは、超越的情報をもっていると考えられる。後で検討を続けたい。


時流批評:トランス・モダンとポスト・モダンの葛藤の「同時代」:新旧ヤヌス政権
テーマ:鳩山代表と民主党

先に、鳩山政権をポスト・モダンとトランス・モダンの連続化した政権と捉えたが、どうも、前者の後退性が目につく。明確にするために、ヤヌス政権と見る方がわかりやすいかもしれない。つまり、旧い体制への目と新しい体制への目という本来、絶対矛盾の様態となっているのである。
 端的に、同一性と差異の絶対矛盾様態なのである。この同一性はポスト・モダンの同一性である。大阪不智児を見てわかるように、アイロニカルな没入の反動的同一性である。
 構造主義とポスト・モダンの連関が反動様態になっているのである。
 しかし、トランス・モダンの新生の志向は無意識的にある。差異共振路線である。脱官僚依存路線や社会保障路線である。
 問題はリベラル・コミュニズム、自由共同体主義をどう政治経済的構築して行くのか、である。
 今のままでは、「友愛」主義という絶対矛盾混淆・ヤヌス路線では、明らかに、反動勢力に巻き込まれて、桎梏状態となり、袋小路になる可能性がある。
 国民が冷静にトランス・モダンを把握して、鳩山ヤヌス政権を批評して行けるかが問題である。有り体に言えば、国民生活が潤うか否かである。もし、潤えば、評価が高まり、また、その上で、国民生活に反するような政策が生ずれば、国民の審判が下されるという形が望ましい。
 トランス・モダンの政策が実効化し、そちらへ、天秤が傾くかである。傾けば、一気にそちらへ向かう。今や勝負の為所である。

追記:端的に、同一性を悪=アンラ・マンユ(悪神)、差異、絶対的差異を善=スプンタ・マンユ(善神)⇒アフラ・マズダー(絶対善)と認識把握すべきである。それが明快である。


2009年10月02日(Fri)▲ページの先頭へ
村上春樹の小説は「薬物」である:ポスト・モダンの反動小説
結局、人間は、Media Pointからのエネルギーを得たいのである。日常の資本主義社会では、それが得られないのである。その代償として、村上春樹の小説が願望されるのである。
 これは、あくまでも代償であり、本当の満足にはならない。彼は、ポスト・モダンの日本そのものであり、現実に媚びているのである。
 一見口当たりのいい文体が曲者である。よく会話文を見てほしい。日本語本来の意味合いが破壊されているのである。
 思うに、彼の作品は、思わせぶりの文学であり、何か小泉似非構造改革に似ているのである。
 現実改変を行うと見せておいて、実際は旧態依然なのである。
 今や、「魂」を渇望を癒すには、差異である自然に還る必要がある。それも、個・絶対的差異としてである。

*************

なぜ「村上春樹」本はいつもバカ売れするのか
プレジデント10月 2日(金) 10時 0分配信 / 経済 - 経済総合
写真を拡大する
なぜ「村上春樹」本はいつもバカ売れするのかなぜ「村上春樹」本はいつもバカ売れするのか
村上春樹の「ブランド・エクイティ」構造
■発売前から増刷! 春樹ブランドの驚異

 今年の出版界の最大の話題作といえば、村上春樹の5年ぶりの長編である『1Q84』だ。初版は一巻20万部、二巻18万部だったが、予約が相次いだため、発売前に増刷が決定。その後も増刷を重ね、発売後12日間で計100万部を達成した。これはミリオンセラーの最短記録だという。
 どうして異例ともいえる売れ行きを見せたのか。
「『1Q84』の文学的価値が評価されたから」という理由では、発売前から予約が殺到したことの説明がつかない。作品が世に出る前から注目を集めたのは、「村上春樹」というブランドがなせるわざだと考えるべきだろう。

 ブランドは、いまや製品やサービスの売れ行きを大きく左右する要素の一つになっている。ただ、かつてはそう捉えられていなかった。ブランドは製品やサービスを他と識別するためものであり、伝統的なマーケティングにおいては、せいぜいプロダクトの下位変数という扱いしかされていなかった。
 ブランドの意味づけを大きく変えた立役者が、デービッド・A・アーカーだ。従来は識別手段にすぎなかったブランドを、アーカーはエクイティ(資産)と位置づけ、戦略的にマネジメントする必要があると説いたのだ。
 ブランド・エクイティという概念の登場で、企業のブランド戦略は180度変わった。まずブランド・マネジメントのスパンが長期化した。アーカー以前の 1980年代の米国は、MBAマネジメントの全盛期。ブランド・マネジャーは短期間に成果を出すことを求められ、ブランドの育成より、ブランドを消耗して利益を捻出することに終始せざるをえなかった。しかし、ブランド・エクイティの概念の登場で、長期的なスパンでブランドを育てる発想が生まれた。

 所詮はコストの一つであり、少なければ少ないほどいいと捉えられていたSP(販売促進)費・広告費などのコミュニケーション・コストも見直しが進んだ。ブランドが資産であるなら、長期的なブランド構築に寄与する広告費は資産を増やすための投資となる。POPやバックマージンといった目先の売り上げを伸ばすためのSP費は、アーカーの登場により広告費に置き換わっていった。
 では、ブランドの資産とは、具体的にどのようなものを指すのか。アーカーは、ブランド・エクイティを構成する要素として、「ブランド認知」「知覚品質」「ブランド・ロイヤルティ」「ブランド連想」の四つをあげている。「村上春樹」を例に説明していこう。

 一つ目のブランド認知とは、文字通りブランドの認知度である。市場において多くの顧客に知られているほど、ブランドの資産価値は高くなる。村上春樹はベストセラーを連発する国民的作家であり、海外でもその名を知られている。
 二つ目の知覚品質は、機器などで測定される客観品質ではなく、顧客に受け止められる主観的な品質を指す。文学はもともと主観的なものだが、村上春樹の作品が本当に理解されているかどうかは別にして、読者が「よい作家だ」と思えばブランドとしての価値は高まる。
 アーカーが三つ目の要素としてあげたのが、ブランド・ロイヤルティだ。ロイヤルティの水準が高いブランドには強い支持者が存在し、競合ブランドには簡単にスイッチはしない。“ハルキスト”と呼ばれる熱狂的な読者を持つ村上春樹は、この点でもブランドの資産価値が高いといえる。
 もう一つ、ブランドの資産価値を測るうえで欠かせない要素が、ブランド連想だ。あるブランドが提示されるとき、私たちは製品カテゴリーやベネフィット、属性やキャラクターなど、さまざまな事柄を思い浮かべる。例えば村上春樹なら、「純文学」「ノーベル賞候補」「ジャズ」「スコット・フィッツジェラルド」といった具合だ。
 アーカーのよきライバルであるケビン・レーン・ケラーは、これらの事柄をノードと呼び、ノード同士が結びつく連想ネットワーク型記憶モデルでブランド連想を説明した。強く、好ましく、ユニークなノードと結びついたブランドほど、資産価値も高い。
 これらの四つを積み上げたものがブランド・エクイティである。四つの要素がそれぞれ高水準にある「村上春樹」の新作が発売前から注目を集めた理由も、これで合点がいくはずだ。

■ブランド「希釈化」には注意が必要

 四つの価値を高めることで強いブランドを構築できるが、資産というからには負債も存在することに注意したい。例えばブランド連想では、必ずしもポジティブなノードと結びつくとは限らない。企業が個人情報流出事故を起こせば、コーポレート・ブランドが「個人情報流出」というネガティブなノードと結びつき、ブランド・エクイティを低下させる可能性もある。
 少々古い事例だが、乳製品のトップブランドだった「雪印」は度重なる不祥事でブランドの資産価値が著しく低下。分社・再編後の市乳事業は新ブランド「メグミルク」の立ち上げを余儀なくされた。負債の大きさによっては、積み上げてきた資産も一気に消し飛んでしまうのだ。

 アーカーのブランド論の中でもう一つ、注目しておきたい考え方が「ブランド拡張」だ。ブランド拡張とは、ある製品で成功をおさめたブランドを、別の製品カテゴリーや業種に用いることである。かつてホンダは二輪、四輪で米国に進出して成功をおさめた後、芝刈り機やマリンエンジン、除雪機などを「ホンダ」ブランドで展開した。
 このように新製品の市場導入時に資産価値の高いブランド・ネームを利用すると有利なスタートを切ることができ、プロモーション費用も節約できる。ブランド拡張が役員会でもっとも支持されやすいといわれる所以も、ここにある。
 ただ、ブランド拡張にもデメリットはある。新製品が失敗すれば本体まで傷つくリスクがあるし、成功したブランドに安易に頼ることで、新しいブランドを立ち上げるチャンスを自ら放棄しているという見方もできる。
 希釈化も要注意だ。ブランドを広げると、焦点がぼやけて特性が失われ、ブランドの寿命を縮める恐れがある。その点では、大塚製薬の「オロナミンC」に拍手を送りたい。90年代、サイズで差別化されたビタミン飲料が他社から発売されてヒットしたとき、同社はオリジナルにこだわってブランド拡張をしなかった。「オロナミンC」がロングセラー商品となったのも、ブランドのイメージを守り続けてきたからである。

 スタートダッシュを決めて、短期的に利益をあげるのか。それとも長期的にブランドを育成してロングセラーを狙うのか。それは企業の戦略によって違う。いずれにしても、企業はブランド拡張のメリット・デメリットを見極めたうえで、ブランド戦略を練る必要があるだろう。



●デービッド・A・アーカー
『ブランド・エクイティ戦略』(1991年)
【David A.Aaker】:ブランド論の大家。ブランドを資産としてとらえる「ブランド・エクイティ」の研究を展開し、ブランド論の火付け役となった。アンゾフの全社戦略を発展させた功績も大きい。


--------------------------------------------

早稲田大学商学学術院長兼商学部長
恩蔵直人=文

村上 敬=構成
http://zasshi.news.yahoo.co.jp
/article?a=20091002-000000
01-president-bus_all


   




新着トラックバック/コメント


カレンダ
2009年10月
       

アーカイブ
2006年 (104)
7月 (9)
8月 (6)
9月 (7)
10月 (9)
11月 (39)
12月 (34)
2007年 (542)
1月 (48)
2月 (49)
3月 (67)
4月 (45)
5月 (44)
6月 (1)
7月 (33)
8月 (67)
9月 (47)
10月 (42)
11月 (49)
12月 (50)
2008年 (623)
1月 (40)
2月 (29)
3月 (26)
4月 (38)
5月 (32)
6月 (48)
7月 (49)
8月 (61)
9月 (68)
10月 (86)
11月 (86)
12月 (60)
2009年 (472)
1月 (82)
2月 (66)
3月 (58)
4月 (32)
5月 (27)
6月 (34)
7月 (35)
8月 (26)
9月 (36)
10月 (30)
11月 (28)
12月 (18)
2010年 (251)
1月 (19)
2月 (29)
3月 (29)
4月 (11)
5月 (25)
6月 (33)
7月 (28)
8月 (23)
9月 (15)
10月 (18)
11月 (8)
12月 (13)
2011年 (126)
1月 (11)
2月 (12)
3月 (13)
4月 (12)
5月 (6)
6月 (4)
7月 (5)
8月 (11)
9月 (15)
10月 (7)
11月 (16)
12月 (14)
2012年 (117)
1月 (10)
2月 (13)
3月 (6)
4月 (6)
5月 (14)
6月 (8)
7月 (11)
8月 (7)
9月 (3)
10月 (24)
11月 (9)
12月 (6)
2013年 (145)
1月 (12)
2月 (11)
3月 (9)
4月 (21)
5月 (10)
6月 (9)
7月 (17)
8月 (9)
9月 (5)
10月 (22)
11月 (13)
12月 (7)
2014年 (91)
1月 (6)
2月 (13)
3月 (18)
4月 (5)
7月 (4)
8月 (26)
9月 (7)
10月 (5)
11月 (6)
12月 (1)
2015年 (61)
1月 (6)
2月 (12)
3月 (8)
4月 (14)
5月 (10)
6月 (4)
7月 (6)
8月 (1)

アクセスカウンタ
今日:1,056
昨日:700
累計:4,824,190