INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/09

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年09月30日(Wed)▲ページの先頭へ
「CFRとTCの背後にいる勢力」:オバマ大統領の「ロックフェラー」路線とTC
私はこれまで、オバマ政権を「ロックフェラー」路線と考えているが、以下の記事が根拠になりそうである。
 私が「ロックフェラー」路線を思いついたのは、次のHPと田中宇氏の多極化路線の考えに拠りながら、PS理論的に推察した結果である。

* 「ロックフェラー 対 ロスチャイルド」説の研究


「ロックフェラー 対 ロスチャイルド」説の研究


〜 アメリカとイギリスの対決の歴史 〜





■■■第1章:「ロックフェラー対ロスチャイルド」説の登場


●アメリカを代表する「ロックフェラー財閥」と、イギリスを代表する「ロスチャイルド財閥」は、不倶戴天の敵であるという説がある。この説によれば、この二大財閥の対立構造は、そのまま米英の対決の歴史を物語るという。




↑藤井昇氏の研究に基づいて作成された表(二大陣営)



●この説を最初に日本で唱えたのは、「ハーバード大学国際問題研究所」の研究員で、現在、国際政治学者として活動している藤井昇氏であろう。彼は1994年に『ロックフェラー対ロスチャイルド──巨大対立軸のなか、日本の進むべき道を探る』(徳間書店)という本を出し、注目を浴びた。




『ロックフェラー対ロスチャイルド』
藤井昇著(徳間書店)



●藤井昇氏は主張する。

「資本主義VS社会主義というイデオロギーの対立が終焉した今、世界を突き動かすダイナミズムはどのような構図で生まれるのか。第三世界を経済発展のエンジンにしようとする『グローバリスト』と、一国ないし一企業繁栄主義をとる『ネイティビスト』の経済対立の構図こそが、世界激変の真相である」と。


彼の説は、当時、『サピオ』(1994年10月13日号/小学館)でも紹介された。



 
『サピオ』(1994年10月13日号/小学館)



参考までに、この記事の内容を下に載せておきたいと思う。

http://hexagon.inri.client.jp
/floorA6F_he/a6fhe600.html

*************
2009年09月15日
●「CFRとTCの背後にいる勢力」(EJ第2656号)
 CFR――外交関係評議会とは何でしょうか。
 CFRのルーツは、1919年の「パリ講和会議」にまで遡るのです。パリ講和会議は、第一次世界大戦の戦後処理を目的として開催された会議です。
 この会議に出席したウッドロー・ウィルソン米大統領に対し、戦後構想のいくつかの提案をするべく著名な学者23名による調査グループが結成されたのです。彼らはウィルソン大統領に随行してパリ会議に参加したのですが、調査グループの提案は受け入れてもらえず、パリ会議によって締結されたベルサイユ条約は調査グループの目指す方向とは正反対のものになり、彼らを落胆させたのです。

・・・・・
実はディヴィッド・ロックフェラー氏は、1949年から70年の長きにわたり、このCFRの理事を務めていたのです。とくに、1970年代のはじめにはこの組織の会長職にあり、米国だけでなく、世界の政財界に幅広いネットワークを持つ米国経済界
のドンになっていたのです。
 CFRの会長を務めるディヴィッド・ロックフェラー氏は、このCFRに限界を感じており、西側資本主義の利益を守るため、北米、西欧、日本のエリート間のパートナーシップを強化する必要があると考えていたのです。
 こうして誕生したのが、「日米欧三極委員会――TC」なのです。1973年のことです。半年に一度会合を開き、新興国からの挑戦をどのように受け止め、国際的な秩序を保ち、国際ビジネスにとって安定した環境をどのようにして築き上げるかが討論されたのです。
 ディヴィッド・ロックフェラー氏は、TCの目指す目標を共有し、その意向を反映した政策を実行する米大統領が欲しかったのです。

http://electronic-journal.seesaa
.net/article/128052323.html
Electronic Journal


2009年09月28日(Mon)▲ページの先頭へ
■タルムード:キリスト教徒と利子
単に、タルムード批判では、反ユダヤ主義になる。問題は、キリスト教側に(も)あったと考えられる。
 思うに、利子の問題である。本来、聖書では、利子を禁止していたが、ある時点で、利子を認めるようになった。
 排除・差別されていたユダヤ人が高利貸を営むようになる。金融経済の力をユダヤ人が握るようになったのである。それをキリスト教側は妬んだのである。それで排除したと思う。
 『ヴェニスの商人』を読むとわかるだろう。キリスト教側のユダヤ人高利貸(シャイロック)への差別が露骨である。
 とは言え、これまで検討したように、ヤハウェ神は、同一性の神であり、物質や貨幣の神となったのである。
 ユダヤ教は単にヤハウェ崇拝の宗教でなく、エローヒーム(神の複数形)も存するし、また、神秘的な側面もあるのである。つまり、東洋の宗教の側面があるのである。こちらを、トランス・モダン的に評価すべきである。

追記:深層心理的に言えば、キリスト教徒の深層に、ユダヤ人的なものがあるということである。つまり、ヤハウェ的なもの=同一性主義である。父と子と聖霊の三位一体説であるから、当然であろう。父はヤハウェなのだから。つまり、クリスチャンは、矛盾していて、子(キリスト)的であろうとして、父(ヤハウェ)を排除しているのである。その排除されたものが、被抑圧として、クリスチャンの内面に怨恨(ルサンチマン)として存在するのである。これが、西洋文明の覇権の精神力学的原動力である。ニーチェの慧眼は超驚異的である。

追記2:さらに展開すると、父ヤハウェ(エホバ)とは何かがわかるだろう。ヤハウェは、力をもつが、その根源は、端的に、Media Pointであり、それが、同一性志向性エネルギーを帯びたものがヤハウェである。超越性と同一性志向性をもっているのである。

***************
■ タルムード
yohmei

歴史をたどると、中世 ヨーロッパ では各国から次々とユダヤ人 が追放されています。

1290年 イギリス

1306年 フランス

1348年 ザクセン

1360年 ハンガリー

1370年 ベルギー

1380年 スロヴァキア

1420年 オーストリア

1444年 オランダ

1492年 スペイン

これはどうみても異常でしょう。犯罪 者個人が国外に追放されるのならばわかりますが、すべてのユダヤ人 が追放されるということは、よほどの理由があるはずです。

当時のユダヤ人 の所業を知る手がかりとして、腐敗した中世 教会 に対して立ち向かった宗教改革 者マルティン・ルター の著作『ユダヤ人と彼らの嘘』 があります。

(全文が、こちらで読めます。http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5614/yumoku.html )

過激派 を糾弾、暴力を伴う改革を否定したルター が、ユダヤ人 に対しては、「ユダヤ教 のシナゴーグ (礼拝所)は火を放して焼き尽くせ・・・ユダヤ人 の住家屋は取り壊されるべし・・・ユダヤ人 は家畜小屋のようなところに押し込めてしまい、この国土で彼らが主人ではないことを思い知らしめよう・・・これら有毒な苦虫たち(=ユダヤ人 )から かれらの持ち物(私財)を取り上げてしまえ・・・そして二度とこの地に帰ってこないように国外に放逐してしまえ」と述べています。

何故、ユダヤ人 はこれほどに忌み嫌われたのでしょう?

その理由は、タルムード を知ることによって推し測れるのではないかと思います。

http://d.hatena.ne.jp
/rainbowring-abe/20060105
日本人が知らない 恐るべき真実


参考:
タルムード
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
Talmud-Berachoth.jpg

タルムード(ヘブライ語 : תלמוד‎ Talmud、「研究」の意)は、モーセ が伝えたもう一つの律法とされる「口伝律法 」を収めた文書群である。6部構成、63編から成り、ラビの教えを中心とした現代のユダヤ教 の主要教派の多くが聖典 として認めており、ユダヤ教徒 の生活・信仰の基となっている。ただし、聖典として認められるのはあくまでヘブライ語 で記述されたもののみであり、他の言語に翻訳されたものについては意味を正確に伝えていない可能性があるとして聖典とはみなされない。
成立の過程 [編集 ]

ユダヤ教の伝承によれば、神はモーセに対し、書かれたトーラー とは異なる、口伝で語り継ぐべき律法をも与えたとされる。これが口伝律法 (口伝のトーラー)である。

時代が下って2世紀末ごろ、当時のイスラエル におけるユダヤ人共同体の長であったユダ・ハナシー(ハナシーは称号)が、複数のラビ たちを召集し、口伝律法を書物として体系的に記述する作業に着手した。その結果出来上がった文書群が「ミシュナ 」である。本来、口伝で語り継ぐべき口伝律法があえて書物として編纂された理由は、一説には、第一次 ・第二次ユダヤ戦争 を経験するに至り、ユダヤ教の存続に危機感を抱いたためであるともされる。

このミシュナに対して詳細な解説が付されるようになると、その過程において、現在それぞれ、エルサレム・タルムード、バビロニア・タルムードと呼ばれる、内容の全く異なる2種類のタルムードが存在するようになる。現代においてタルムードとして認識されているものは後者のバビロニア・タルムードのことで、6世紀ごろには現在の形になったと考えられている。

当初、タルムードと呼ばれていたのはミシュナに付け加えられた膨大な解説文のことであったが、この解説部分は後に「ゲマラ 」と呼ばれるようになり、やがてタルムードという言葉はミシュナとゲマラを併せた全体のことを指す言葉として使用されるようになった。
ユダヤ教徒にとってのタルムード [編集 ]

「タルムードはユダヤ教徒の聖典である。」という解説が今まで日本では多くなされてきているが、実際には必ずしもすべてのユダヤ教徒がタルムードの権威を認めているわけではない。

タルムードの権威とは、すなわちラビ (教師)の権威のことでもあり、こうした権威を認めないユダヤ教の宗派は決して少なくはない。

カライ派 は、ラビ文書の権威を認めない代表的な宗派であり、モーセのトーラー のみを聖典としているのは有名である。

また、シャブタイ派 (サバタイ派)の流れを汲むユダヤ教 においては、むしろタルムードを否定するという立場をとる。
構成 [編集 ]
バビロニア・タルムード全巻

ミシュナを中央に配置し、その周囲にゲマラを記述する形式となっている。

* זרעים (Zeraim) - 11編構成。祈りと祝福・什一税 ・農業に関する法を扱う。
1. ベラホット
2. ペアー Pe'ah
3. デマイ
4. キルアイム Kilayim
5. シェビイート
6. テルモット
7. マアセロット
8. マアセル・シェニー Ma'aser Sheni
9. ハッラー Hallah
10. オルラー Orlah
11. ビクリーム
* מועד (Moed) - 12編構成。安息日 と祭りに関係する。
1. シャバット
2. エルビン
3. ペサヒーム
4. シェカリーム
5. ヨマー
6. スカー
7. ベイツァー
8. ロシュ・ハシャナー
9. タアニート
10. メギラー
11. モエード・カタン Mo'ed Katan
12. ハギガー
* נשים (Nashim) - 7編構成。結婚と離婚、誓約に対する作法とナジル人 の法に関係する。
1. イェバモット
2. ケトゥボット
3. ネダリーム
4. ナジール
5. ソター
6. ギッティン Gittin
7. キダシン Kiddushin
* נזיקין (Nezikin) - 10編構成。市民の商売と刑罰、法廷の機能と誓約について。
1. ババ・カマ
2. ババ・メツィア
3. ババ・バトラ
4. サンヘドリン
5. マコット
6. シェブオット
7. エドゥヨット
8. アボダー・ザーラー
9. アボット
10. ホラヨット
* קודשים (Kodshim) - 11編構成。生贄の儀式に関する、神殿 と食事の法。
1. ゼバヒーム
2. メナホット
3. フリン Hullin
4. ベホロット
5. アラヒン
6. テムラー
7. ケリトット
8. メイラー
9. タミード
10. ミドット
11. キニーム
* טהרות (Taharot) - 12編構成。祭儀的な潔・不潔等の法に関係する。
1. ケイリーム
2. オホロット
3. ネガイーム
4. パーラー
5. トホロット
6. ミクヴァオート
7. ニダー
8. マフシリン
9. ザービーム
10. テブール・ヨーム
11. ヤダイム
12. ウクツィーン

関連項目 [編集 ]
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、タルムード に関連するカテゴリがあります。

* ラビ・ユダヤ教  (ラビ的ユダヤ教)
* ファリサイ派 - 口伝律法を伝えた教派。
* モーゼス・マイモニデス

外部リンク [編集 ]

* 魔女の鎚 - タルムード全巻一覧


2009年09月27日(Sun)▲ページの先頭へ
Kaisetsu氏に拠るマイナスの絶対的他者性の解明
以下、Kaisetsu氏がマイナスの絶対的他者性を明敏に解明している。マイナスのもつ非対称性、これが重要である。実数では、プラスとマイナスがシンメトリカルになるが、それは、正に、構造主義的ドグマである。
 思うに、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』の鏡の国であるが、正反対の力学の国であるが、一見の構造主義的反転であるが、実質は、非対称的ではないだろうか。例えば、時間が逆転して、指から出血した後で、指にトゲを刺すのであるが、この事態の異様性に、非対称的な質ないしはエネルギーがあるように思えるのである。これは、検討課題である。

**************

マイナスとは、何か?

 マイナスとは、凹である。 
 だから、プラスとは、凸である。
 凸は、凸の中に入ると、「凹」である。
 また、凹も、凹の中に入ると凸である。

 つまり、凹も凸も、対象に対しての、主体の「位置」を意味している。

 凹、凸は主体と対象の相対的な位置関係を表現する「象徴記号」である。

 本来、本質的な部分は、この凹凸の相対的部分ではない。

 凹凸の問題で、重要な課題は、「主体と対象」との間の絶対的な「真実」の部分である。

 この「主体と対象」との間の絶対的「真実」の部分とは、「主体と対象(客体)との関係が「非対称」である、ということである。

・・・・・

主体が、権力機構の内部に居る場合を「プラス」と表示すれば、主体が権力機構の「外」に出た場合は、必ず、絶対的に「マイナス」と表示される必要がある。
 勿論、主体が、権力機構の内部に居る場合を「マイナス」と表示すれば、主体が権力機構の「外」に出た場合は、必ず、絶対的に「プラス」と表示される必要がある。

 この絶対的な二項対立の構造認識が長く近代主義哲学の底流に在って、「無限反復のドグマ」や「不合理な連続性志向」を齎したのである。

 ここに、鈴木大拙氏は、東洋の覚醒として、「即非」を説いた。

 海舌(明日野)とRenshi氏は、この「即非」に、「数学記号」である「虚数 i」を用いることで、鈴木大拙氏の提示した概念を、より知的に昇華したと思う。

 つまり、上記の例では、「凹」「凸」という概念は、「実数」上の構造のみを前提としており、このために、この支配・被支配の構造が絶対的に固定しているのである。

 しかし、実際の生活世界、或いは、宇宙や量子力学などの世界は、常に変容し変動している。

 主体が、「支配者」であり、且、「非支配者」である構造が頻繁に出現する。

 つまり、凹と凸の、双方に位置する「場所」に主体が存在しているのである。その場所とは、「虚数上」の場所である。

 勿論、この虚数上に於いても、「凹」と「凸」の区別は想定される。

 虚数とは、次元の異なる場所を意味する表示であり、i以外にも、jを区別して想定可能である。

 つまり、「マイナス」とは、絶対的な他者、を認める立場の表明である。
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=806771
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2009年09月26日(Sat)▲ページの先頭へ
再考:イデア魂(「霊魂」)について:虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点:トランス・モダンとモダン
先に、本件について問題提起した
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10350743905.html
が、どうも整合性に問題があるので、さらに別様に考えた。即ち、イデア魂(「霊魂」)とは、虚軸のMedia Point、つまり、虚軸のゼロ点ではないかということである。この方が整合性があるのである。即ち、イデア魂とは、(+i)*(-i)、言い換えると、超越的極性である。そうすると、イデア界も虚軸にあり、実に整合的となる。伝統的には、あの世・彼岸・冥土・冥界・冥土・霊界・極楽浄土・天国等(地獄は一変種であろう)とは、虚軸=イデア界となる。死者の「霊魂」はそこに「眠っている」のである。しかし、本当は眠っていない。それは、「霊」的活動をしているだろう。
 そして、一般的には時熟すれば、現象界へ「降誕」するのである。それが、1/4回転であり、⇒+1となるのである。 (折口信夫の貴種流離譚は、ここから説明ができる。また、天孫降臨も説明できる。)
 問題は、⇒-1、-1の問題である。これは、やはり、マイナス・エネルギー(負のエネルギー)と見るのが正しいだろう。つまり、現象化とは第一義的には、プラス・エネルギー(正のエネルギー)であり、身体(「物質」)化である。
 そして、身体的成長・発達が終了すると、今度は、マイナス・エネルギー(⇒-1)が賦活され出すのである。
 これは、心、魂、精神等の内面の発達に関わるのであり、初動的には、無意識的過程である。何故なら、意識は最初は、プラス・エネルギー(⇒+1)に関係し、外界的であるからである。
 このマイナス・エネルギーの活動は、プラス・エネルギーとはまったく異質なものなので、外界的意識には理解できないし、また、正反対な性質なので、齟齬・葛藤・苦悩を発生させると考えられる。
 このマイナス・エネルギーのプロセスとは、これまで検討してきたように、虚軸ゼロ点、ないしは、虚軸への回帰への志向を意味すると思う。換言すれば、宗教的ないしは神秘的な衝動を意味しよう。
 そして、負のエネルギーの帰結は当然、死であり、「あの世」への回帰である。
 ということで、⇒-1はいちおう、従来通り、説明できたことになる。
 ここで、現実的な問題に少し触れると、モダンは、⇒+1の帰結の+1の世界である。しかし、当然、負のエネルギーが発動するのであるが、虚軸世界、イデア界を否定しているので、そのエネルギーが反動化して、暴力的になり、アイロニカルな没入を発生させると考えられる。つまり、歴史・理論的には、ポスト・モダン化である。
 しかしながら、今や、トランス・モダンのニュー・エポックである。これは、内面的には、虚軸・イデア界への回帰の志向であるが、政治経済的には、差異共振資本政治経済を意味すると考えられる。これは、自由共同体主義(リベラル・コミュニズム)を意味する。
 言い換えると、負のエネルギー(イデア・エネルギー、霊的エネルギー)をもった差異共振資本政治経済=自由共同体主義ということになる。これは、キリスト教的用語で言うと、聖霊的な政治経済であり、ゾロアスター教的には、スプンタ・マンユ⇒アフラ・マズダー的政治経済である。(もっとも、キリスト教はゾロアスター教の一つの一神教的変異である。)
 結局、根本的に重要なことは、正のエネルギー(⇒+1)と負のエネルギー(⇒-1)が不連続的であること、相互に絶対的差異であることである。
 言い換えると、脱連続的同一性化、脱構造化(脱構築化)が絶対的に必須であることである。
 その点、オバマ/鳩山「ロックフェラー」路線は、ポスト・モダン且つトランス・モダンなので、中途半端なのである。

追記:フロイトが晩年、自身の精神分析説を覆す「死の欲動」説を唱えた。これは、負のエネルギーの一つの様態を指していると考えられる。
 問題は「性欲」・「エロス」である。これをどう見るのか。単に、正のエネルギー・身体的欲望の問題と見るのか、それとも、負のエネルギー・精神的衝動にも関わっていると見るのか。プラトンが説いた「エロース」とは、当然、後者である。
 虚軸ゼロ点から実軸ゼロ点への転換が「死」から「生」への転換(誕生)とするなら、性欲とは、本来、それを反復する意味合いがあるのではないだろうか。つまり、性欲とは、本来、精神的身体欲望である。しかしながら、近代化=「物質」化しているので、精神性が欠落して、単に、身体欲望となっているのである。
 以前、モームの『月と六ペンス』について、霊的身体ということを述べたが、これが、本来の性的衝動に関係しよう。
 ということで、プラトンの「エロース」はいわば、究極的な性愛である。しかしながら、本来的には、精神的身体衝動である。スピリチュアル・フィジカル・デザイアである。

追記2:さらに考えると、負のエネルギーが入ると、それは、+1を「脱構築」するのである。そうすると、フィジカル・デザイアは、目的から離れる。フィジカルさは、単に志向性の対象に過ぎない。
 思うに、スピリチュアル即非フィジカル的デザイアである。

追記3:伝統的に、「天」というのは、虚軸=イデア界ということになろう。そして、当然、「地」は実軸=現象界である。
 比較神話学的に興味深いのは、父権的神話は、「天」と「地」を絶対的に分離してしまったことである。つまり、超越神とは、「天」に居て、「地」と隔絶したものであるという観念である。
 それに対して、母権的神話は「天」と「地」とを、本来は、即非的に捉えていると思う。しかしながら、後代において、連続化が起きて、堕落したと思われる。
 そして、そのような背景において、一神教が生まれるのである。それは、「天」と「地」を隔絶化したのである。
 しかし、これは、極端化である。即非的モードを捉えていないからである。
 では、父権的神話において、「天」は「父」となるが、いったい、この「父」というジェンダーはどこから生まれたのか。
 ここで、哲学的に説明しておくと、母権的神話においては、本来、Media Pointがあり、即非性ないしは二一性があった。これを父権的神話は破壊して、二元論(二項対立)化するのである。このときの優位項が「天」=「父」であり、劣位項が「地」=「母」である。(ユダヤ・キリスト教では、「母」さえなくなる。)
 とまれ、「父」の発現は、父権的神話を見ることで理解される。それは、英雄神話である。「母」=「混沌」の殺戮があり、そこから、「天」と「地」を分離創造するのである。しかしながら、「母」とは正しくはMedia Pointであるが、それを、天地未分化と歪曲・曲解するのである。
 この父権的英雄であるが(古事記では、スサノオ)、これは、端的に、⇒+1の⇒の先端のエネルギーを意味するだろう。つまり、同一性志向性エネルギーである。これが、即非性・二一性を破壊して、二項対立を生むのである。正に、モダンの原型である。これが、「父」である。「父」は「母」の殺戮という「原罪」をもっているということになるのである(西洋文明の「原罪」でもある)。
 では、なぜ、超越的な「天」を「父」が支配するのかと言えば、それは、同一性志向性エネルギーの根源は、やはり、Media Pointであり、そこにある虚軸の「天」性を帯びているからではないだろうか。
 考えてみると、「父」とは実は、本来の「天」ではなく、「地」であり、否定された「母」とは本来の「天」である。この価値倒錯が父権的神話・宗教には起きていることを確認するべきである。「地」とされた「母」にこそ、本来の「天」(虚軸ゼロ点)があるのである。(文学で、地下が重要な空間となるが、それはこの視点から説明できよう。)


検討問題:イデア魂(「霊」)と身体
このようなことを書くと、また、読者が減る可能性があるが、哲学的冒険のために、遠慮なく、突き進む。
 今は余裕がないので、簡単に問題提起するだけである。
 さて、私は私自身のある特別なことから、次のようなことを想像するようになったのである。(今は謎めかしておく。)
 つまり、イデア魂(「霊」:いわば、源遺伝子)があり、これが、Media Pointにおいて、身体エネルギーを得て、知的生命体として、この世・現象界に誕生するのではないのかということである。イデア魂とは、⇒-1である。そして、それが、Media Pointにおいて、+iと-iの共振エネルギー(=身体エネルギー)を得て、⇒+1という身体として誕生するということである。
 意識ないしは精神は⇒-1にあり、それが、⇒+1と即非関係にあるのである。
 結局、死んだときは、⇒+1が解体して、+1の死体となるのである。そして、イデア魂(「霊」)は、⇒-1へと回帰するのである。
 これはいわば思考実験である。後で余裕のあるとき、詳論したい。

追記:肝心なことを書くのを忘れていた。つまり、イデア魂が身体形成に対して、主導的な働きをすると思われるのである。イデア魂が身体エネルギーに働きかけて、身体エネルギーにいわば、フォルムを与えるのである。
 「わたし」という身体、性格、個性、特性等は、このイデア魂がいわば、先天的に=超越的に、形作ったのではないだろうか。


2009年09月25日(Fri)▲ページの先頭へ
「ロックフェラー」路線とは何か:オバマ/鳩山路線の絶対矛盾
先に、オバマ政権と鳩山政権が類似していることを示唆した。思うに、それは、「ロックフェラー」路線である。田中宇氏は多極化論者であり、多極化は資本の論理に拠ると述べている。
 思うに、「ロックフェラー」路線自体が、絶対矛盾の路線ではないだろうか。従来の同一性金融資本主義(ゴールドマン・サックス)と差異共振主義が「連続」化している路線ではないだろうか。
 温暖化似非環境路線は、同一性金融資本主義側の謀略ではないだろうか。それに、鳩山政権が乗っているというか、乗らされているのである。
 しかしながら、トランス・モダンとは、差異共振主義であり、それは、同一性主義を否定する(正確には、乗り越える。つまり、同一性主義を差異共振主義に変容させる。)ものである。
 とまれ、残滓の同一性金融資本主義路線がどこまでもつかである。その「二番底」の崩壊が来るまで、差異共振経済を形成できるのかが問題である。
 とまれ、綱渡りは、日米ともに続くと言えよう。日本は官僚主義的同一性金融資本的社会主義から脱皮して、差異共振政治経済社会へと転換するべきである。 
 もう少し述べたいところであるが、余裕がないので、ここで留める。


参考:
多極化に対応し始めた日本
2009年9月25日  田中 宇

・・・・・

▼日本を冷戦思考や対米従属中毒から引き離す「脱官僚」

 すでに短く書いたが、私が見るところ、オバマ政権が鳩山政権に対して意外な親密さや理解を示しているのは、今の米中枢が隠れ多極主義の戦略を採っているからだ。日本は小泉政権の時代に、対米従属を強化するか、もしくは対米従属を薄めてアジアとの関係を強化するかという選択肢があったが、小泉は対米従属強化の方に進み、次の安倍政権以後はそれが踏襲された。福田政権はアジア重視をやろうとしたが、小泉時代から強まった中韓朝露に対する敵視プロパガンダに阻まれ、動けなかった。その後の麻生政権まで、米国は一貫して、表向きだけ日本重視といいつつ、実態は日本無視だった。それは、米国中枢で米英中心主義より多極主義が強くなっていったのに、日本は対米従属の姿勢を変えたがらなかったためだ。

 民主党も、しばらく前までは「自民党よりさらに積極的な対米従属策を採る」というネオコン的な戦略が党内にあった。今回、国土交通相となった前原誠司らが、以前にその戦略を採っていた。小沢一郎は、以前から「日本は米国・中国の両方と等距離の正三角形の外交関係を持つべきだ」と考えていたが、それと対照的なネオコン戦略も党内にあった。しかし、米国でネオコンが失敗の烙印を押され、米国の崩壊感が強まった後に政権をとった今の民主党からはネオコン色が消えた。前原は巧みに態度を変質し、閣僚ポストを得た(小沢と対立していたのではなく、小沢の了承を受けた上で、党の方向性を模索する別働隊的な動きをしていたのかもしれない)。

 鳩山が、選挙前に発表した論文「私の政治哲学」で、米国の市場原理主義が失敗したと明言したことは、民主党がネオコン戦略と決別し、米国の衰退と世界の多極化に対応して、小沢の正三角形外交戦略に一本化したことを示している。マスコミでは、鳩山と小沢の間に齟齬があると書かれている。個人的な相性は悪いのかもしれないが、東アジア共同体(アジア通貨統合)や、日米関係の対等化など、鳩山が論文で書いた外交戦略は、小沢の戦略と一致しており、戦略的には両者の間に矛盾が感じられない。 (「私の政治哲学」鳩山由紀夫 )

 民主党は「対等な日米同盟」を掲げているが、米国は2000年の「アーミテージ・ナイ報告書」で、すでに「日本は米国に従属するのではなく、対等な同盟関係に近づくべきだ」と書かれている。(アメリカの戦略を誤解している日本人 )

 戦後の日本は、多極主義と英米中心主義が暗闘する米国中枢の、英米中心主義(冷戦派)の方から強い影響を受けている。冷戦派は占領軍として、政治家より官僚機構が力を持つ戦後日本の体制を構築したが、その結果、官僚機構は対米従属や冷戦体制の永続化を望む傾向が強くなり、米国は日本に対米従属を求めているというプロパガンダを深く国民に植え付けた。民主党が、官僚制度の解体再編を方針として掲げているのは、日本を冷戦型思考や対米従属への中毒状態から引き離そうとしているからともいえる。

 英米中心主義は、国際的な元締めが、情報戦能力が高いMI6の英国やイスラエルであり、プロパガンダ技能に長けている。日本を英米中心主義から多極主義の側に転換しようとする民主党は、失政やスキャンダルなどを誇大報道されて短命に終わりかねない。だから鳩山政権は対抗手段として、小沢が得意とする、めくらまし的な表裏のある戦略をとっている。


・・・・・


▼円高容認で対米優位を得る日本

 鳩山政権は「地球温暖化対策」に熱心だが、これにも裏表がある。鳩山は国連で、温室効果ガスの排出を大幅に削減することを世界に向かって約束したが、この約束には「世界の主要な諸国が同様の大幅削減を目標として掲げた場合、日本も大幅削減を実施する」という条件がついている。 (New Japanese leader makes world debut at UN, bilateral conferences )

 世界の気候は今、むしろ寒冷化の傾向にある。温暖化対策を推進してきた著名なドイツの学者(Mojib Latif)が「世界は今後20年ほどは寒冷化傾向になるが、その後は必ず温暖化する」という新説を発表したりしている。温暖化を主張してきた学者たちは、今回の温暖化停止(寒冷化傾向)を全く予測できなかった。そんな無能さなのに「20年後に必ず再び温暖化するから、世界はその時に備えて対策をとるべきだ」という彼らの新説が正しいと考えるのは、どう見てもおかしい。こうした懐疑心が世界に充満し始め、国連が提唱する大幅な排出規制を世界の諸国が実施する可能性は大幅に低下している。鳩山が約束を守る必要は減っている。 (Scientists pull a temporary about-face on global warming )(UK climate scepticism more common )(No Leader on Climate Change as Nations Prepare to Meet )


経済面では、民主党政権は円高ドル安を容認し、従来の日本の「円安ドル高が日本には良いんだ」という善悪観から脱却していきそうだ。これを書いている間にも、藤井財務相が「円安政策はとらない」と米国で宣言した。民主党は、大蔵省財務官出身の榊原英資を経済顧問としているが、榊原は昨年、ドルが崩壊していく過程を見越したらしく「安い円が望ましい時代は終わった。資源高騰の中、今後は強い円が日本の国益に合う」と主張し、その後は「強い円は日本の国益」という本も出している。 ('Mr. Yen' sees U.S. policy makers as behind the curve )

 そもそも、日本の輸出産業の利益のみに焦点を当てて「日本には円安ドル高が望ましい」と考える従来の教科書的な考え方は、政治的に見ると、日独がドルを買い支えるという、1972年のニクソンショックから90年代の金融グローバリゼーションによる米英復活までの英米中心主義の戦略に沿ったものであり、日本の対米従属戦略の一環である。米英が金融財政面で崩壊感を強める今の局面で、日本が米英と共倒れになるのは馬鹿げており、円高ドル安を是認する榊原や民主党の考え方はまっとうだ。民主党政権は、アジア開発銀行やASEAN+3が推進してきた「アジア共通通貨」(アジア通貨統合)の構想を支持しているが、これもドル崩壊への備えと考えれば当然の方針転換である。

 今のタイミングでの円高容認への日本の方針転換は、米国にとって非常に危険である。円安ドル高を信奉していた従来の日本は、円高ドル安傾向になると、当局が公然とあるいは秘密裏に円売りドル買い方向の介入や仕掛け作りをしていたが、今後の日本はドル買いをしなくなり、米国債の買い増しもしなくなっていく可能性がある。これは、ドルと米国債が急落する可能性を強める。日本と中国が協調してドルと米国債を見放したら、米国は破綻してしまう(日中は巨額のドルや米国債を持っているので、簡単には動けないが)。(US May Face 'Armageddon' If China, Japan Don't Buy Debt )

 日本人の多くは従来「米国に嫌われたら日本はひとたまりもない」と恐れてきた。しかし今、日本人が「日米関係を変える」とは自覚せずもっと漠然とした危機意識から8月末にとった投票行動によって民主党政権に転換して考えてみると、日本は対米従属一本槍の国是を静かに離れることによって、実は意外にも米国に対して強い立場を持てる事態となっている。似たような米国との関係性の転換は、ここ数年、中国やアラブ諸国も経験しており、それが世界体制の多極化につながっている。今後、時間がたつうちに、日本人は世界において自分たちが置かれている新たな立場の意味に気づき、自信を持つようになるかもしれない。この自信や覚醒(日本人だけではなく、欧米より劣位にあると思い込んでいた世界中の諸民族の自信と覚醒)こそ、米国の隠れ多極主義者が待ち望んでいるものだと私は考える。ブレジンスキーは、日本の転換を見て喜んでいるだろう。(世界的な政治覚醒を扇るアメリカ )

▼小沢一郎を評価すべき

 今回の私の記事は、民主党支持になっているが、私は民主党内の元ネオコン系の人々(リベラル右派)が詐欺師に見えるので好きでない。彼らが、米国本家のネオコンの一部と同様に「わざと過激にやって失敗させる隠れ多極主義者」であるのなら、その奥の深さは尊敬に値するが、英イスラエルにがんじがらめにされた覇権国である米国と異なり、日本は隠れ多極主義などというややこしい自滅戦略をとる必要はないので、日本の元ネオコンの人々は、おそらく単に風見鶏的に付和雷同なだけである。だから、私は民主党を支援したいと思わない。

 私が今回、民主党を評価しているのは、彼らが日本の対米従属維持のプロパガンダの嵐を乗り越えて、米国の崩壊と世界の多極化に対する準備を開始しているからである。プロパガンダを軽信する人々からの中傷や非難を恐れ、マスコミに継続的に登場するため、簡単に自説を曲げてしまった言論人が、日本でも米国でも非常に多い。日本の言論状況は、昭和19年ごろよりひどいかもしれない。そんな中で、日本が米国と無理心中することを止めようとする民主党政権は、尊敬に値する。小沢一郎は高く評価されるべき政治家である。

 その一方で、自民党や官僚機構内部にいる人々にとって、対米従属を脱することは非常に難しいことだったことも理解できる。今回の日本の転換は、8月末の選挙で本格的な政権交代が起こり、まっさらな民主党が好きなように今後の日本の戦略を変えられる立場についたからこそ起きた。自民党でも、同じ立場になったら、似たようなことができるはずだ(自民党はリベラル詐欺師も少ない)。民主党政権は、今後あるかもしれないスキャンダルや国際金融危機の再来の責任をとらされて短命に終わるかもしれず、自民党政権に戻るかもしれないが、その場合でも自民党は対米従属に戻らず、多極化対応を継続することが期待できる(自民党がどう再生するかまだ見えないが)。

 官僚機構の内部にいる人々も、米国と無理心中せずにすむかもしれないということで、今回の日本の転換に安堵しているのではないかと思われる。まだ今後、逆流的などんでん返しがあるかもしれないが、少なくとも日本がひさびさに国際社会のプレイヤーとして復活したことは、ほぼ間違いない。日本人として生きるのがうれしい時代が戻ってきた観がある。

http://tanakanews.com
/090925japan.htm


谷崎潤一郎:日本語文学の問題:そう、仏作って、魂入れずか?
私の中で、谷崎潤一郎の評価が難しくなっている。どうも、上澄み液を掬ったような文学に今は思えないことはない。
 私にとって、日本文学とは、明治以前である。芭蕉や鴨長明や吉田兼好や平家物語、万葉集等々である。
 端的に、古文の文体は完璧である。とまれ、谷崎の文体は確かに見事であるが、何かが欠落している。そう、絶対的差異が欠落しているのである。
 確かに、一種、スタンダードな散文の文体を確立したとは言えるが、・・・。
 そう、仏作って、魂入れずか?

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ノーベル賞:58年文学賞候補に谷崎、西脇両氏ノミネート
谷崎潤一郎
谷崎潤一郎
西脇順三郎
西脇順三郎

 作家の谷崎潤一郎(1886〜1965)と詩人で英文学者の西脇順三郎(1894〜1982)の2人が1958年のノーベル文学賞候補だったことがわかった。スウェーデン・アカデミーが23日、毎日新聞の取材に明らかにした。

 谷崎は東京生まれ。純日本的な美の世界や性の秩序崩壊などを主題に独自の耽美(たんび)的世界を構築。大正、昭和を代表する作家の一人だ。代表作に「春琴抄」「陰翳礼讃」「細雪」などがある。

 西脇は新潟県生まれ。「旅人かへらず」「第三の神話」などの自作詩集のほか、詩論やT・S・エリオットの「荒地」など英米文学の翻訳でも知られる。

 谷崎、西脇は、47、48年に日本人初のノーベル文学賞候補となった賀川豊彦に次ぐ日本人候補だったことになる。

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090925k0000m040070000c.html


参考:
方丈記
鴨長明



行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。火本は樋口富の小路とかや、病人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。その中の人うつゝ(しイ)心ならむや。あるひは煙にむせびてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。或は又わづかに身一つからくして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。七珍萬寳、さながら灰燼となりにき。そのつひえいくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち、三分が二(一イ)に及べりとぞ。男女死ぬるもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。人のいとなみみなおろかなる中に、さしも危き京中の家を作るとて寶をつひやし心をなやますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍るべき。』また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるもちひさきも、一つとしてやぶれざるはなし。さながらひらにたふれたるもあり。けたはしらばかり殘れるもあり。又門の上を吹き放ちて、四五町がほど(ほかイ)に置き、又垣を吹き拂ひて、隣と一つになせり。いはむや家の内のたから、數をつくして空にあがり、ひはだぶき板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなりとよむ音に、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。家の損亡するのみならず、これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、かたはづけるもの數を知らず。この風ひつじさるのかたに移り行きて、多くの人のなげきをなせり。
http://www.aozora.gr.jp/cards
/000196/files/975_15935.html


2009年09月23日(Wed)▲ページの先頭へ
脱欧(米)入亜の新エポック:トランス・オクシデント&トランス・モダン:差異民主主義へ
これまで、本テーマを唱えてきたが、いよいよ現実化する時代(エポック)になってきた。
 西洋文明は物質文明と精神文明が連続化していた文明(占星術的には、双魚宮文明である)であった。今や、精神が主となり、物質が従となる「霊主体従」の新東洋文明の時代(占星術的には、宝瓶宮文明)に相転移すると考えられる。
 私はどうも韓国がリードするように思える。次いで、中国圏であり、東南アジアであり、イランであり、インドである。日本の場合、明治維新/戦後の近代主義化を清算する必要がある。これは、深く、封建主義=父権主義が作用している。この清算が難しいだろう。官僚主義もこの一環である。
 あえて言えば、前近代の日本に、創造的に回帰する必要があるのである。

参照:(鳩山首相は宝瓶宮生まれだが、胡散臭い「友愛」はこれと関係するのか?)
《 宝瓶宮時代の幕開け 》

追記:以下で述べられていることは、かなり理想主義的である。大きな欠陥の一つは、調和主義に傾斜していて、悲劇的認識が欠落していることである。創造と破壊の両面がここでは必要なのである。
 また、クリスタルな精神性を説くが、しかしながら、問題は絶対的差異である。多様な絶対的差異が共鳴するのがトランス・モダン/トランス・オクシデントである。何か、統一主義的な発想があるのが問題である。その他、言いたいことはあるが、今はここで留めたい。

世界は今後、約2,160年間続く「宝瓶宮時代」を迎えました。
宝瓶宮時代を迎えた今日、これまでの価値観や世界の在り方が変わっていくとともに、新しい真実が次々と明らかになっていきます。
それは、超能力などの不思議なパワーや、超常現象の解明も夢ではありません。
なぜなら、水瓶宮(宝瓶宮:ほうへいきゅう)のシンボルマーク「同じ形の上下の波」に象徴される電磁波や宇宙放射線など、目に見えない「波動」の存在や影響力は、宝瓶宮時代において次々と解明され、その活用が広がっていくからです。

・・・・・
《 世界的な友愛精神による宝瓶宮時代 》

さて、宝瓶宮時代は、ルル・ラブア師の書籍にも書かれていることですが、「今までの一切の思想や宗教、国籍や人種にとらわれない、水晶(クリスタル)のような透明な精神を持った新しい人類が現れてくる」と言われています。
やや文学的な表現ではありますが、宝瓶宮時代(水瓶宮)の象意の一端を象わした表現に間違いはありません。
この「一切の思想や宗教、国籍や人種にとらわれない…」という文言は、双魚宮時代をリードしてきた「思想や宗教」が、そのパワーをなくしていくということです。それは、人類歴史に対する「思想や宗教」の大きな使命が終わりを迎えたことを意味しています。
また「国籍や人種にとらわれない、水晶(クリスタル)のような透明な精神…」というのは、近現代の主流となった自由・平等・博愛の精神、すなわち「友愛精神」を示しています。
これらの動きや、世界的な友愛精神やプラトニックな愛は、水瓶宮の特徴なのです。
これからは双魚宮時代の旧い価値観から、宝瓶宮時代の新しい価値観へと徐々に変化していくのです。

One-Point ◆ 近年、すでにその変化が現れていることにお気づきでしょうか? 詳しくは、このあと述べてまいります。思想や宗教といった魚宮の観念的な世界ではなく、自由な個性や平等(博愛)社会の実現といった現実理想が宝瓶宮時代の主な価値観になっていくのです。

http://www.aqast.net
/500history.html

NEW HORIZON
宝瓶宮占星学


女性と男性の絶対的差異:内的性性と外的性性:トランス・モダン的性性
以下、かなりの長文で、すべて読了していないが、深刻な問題である。
 私は性とは何かについて、論ずる予定である。今日流行の「官能性」とは、実は、男性的性欲主義に拠るものと思っている。女性はそれに洗脳されていると思う。
 今日、内面性・精神性・魂性が稀薄というか、皆無状態なので、同一性的官能性が支配しているのである。結局、女性の内的性性と外的性性が分裂しているのである。
 男性も、内面性・精神性・魂性を喪失しているので、外的性性が支配的になるのである。
 とまれ、女性と男性の差異、絶対的差異を認めるところから始める必要がある。女男平等ではないのである。近代民主主義の同一性主義に拠って、ジェンダーが狂っているのである。
 
****************

[09/23]性犯罪と裁判員制度 (多面体さんの記事から) (裁判員制度、大丈夫とは言えない気がします... (24)) New!!
http://muranoserena.blog91.fc2
.com/blog-entry-1433.html
村野瀬玲奈の秘書課広報室


検討問題:「地霊」spirit of placeと「気」と龍脈と電磁波
これまで何度も書いたが、田舎の「自然」的環境において、「気」がある。今、東京から離れて暮して、異なる環境に住んで、異なる「気」があり、それが私の心身に影響していると感じる。
 いわば奇跡的に、かなり大きな落葉樹林の森が近くにあり、そこにいると、森の「気」があるのを感じる。これは、「電磁波」と言っていいだろう。
 そして、これは、「地霊」と関係すると思う。土地と森と空気との共振・共鳴によって「気」が存しているようであり、これを「地霊」と呼べるように思う。すると、「地気」とも呼べよう。
 また、道教・風水の龍脈であるが、これも一つの「地霊」であろう。
 そして、この「地霊」という「電磁波」には、「記憶」=情報があるのではないだろうか。それは、生者の「精神」も電磁波として存し、また、死者の「精神」も電磁波として存するのではないだろうか。もっとも、人間の「記憶」=情報だけではないが。
 思うに、折口信夫が、熊野の大王个崎の先端に立ち、祖先へのノスタルジアを感じたのは、その「地霊」の「記憶」=情報と共鳴したためではないだろうか。そして、それは、Media Pointを介して共鳴・交感すると言える。
 では、この「地霊」・「気」・「電磁波」は、PS理論から見るとどうなるだろうか。当然、天+iと地-iの共鳴したエネルギー様態であると言える。つまり、差異の境界面において、それが発生すると考えられる。例えば、地面と大気の境界、海と大気の境界、等である。
 そして、情報が⇒-1に蓄積されているのではないだろうか。つまり、⇒-1に「記憶」=情報があるということである。折口信夫はMedia Pointを介して、祖先の「記憶」=情報と共鳴したということになる。
 後でさらに検討したい。  

参考:
妣が国へ・常世へ
異郷意識の起伏
折口信夫
「十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の尽端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、曾(かつ)ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。」
http://www.aozora.gr.jp/cards
/000933/files/13212_14465.html


2009年09月22日(Tue)▲ページの先頭へ
悲劇的認識と喜劇的認識の相補性:ディオニュソス的認識とゾロアスター教的認識
マス塵の欠陥はたくさんあるが、質的に言うと、悲劇的認識、悲劇的批判がないことが根本的な欠陥ではないか。つまり、真実という苦い、恐ろしい、厳しい現実の認識能力の欠落である。
 文学で言うと、優れた作家は悲劇的認識が鋭敏であり、かつ、喜劇的認識が豊かにある。これは、説明が必要であるが、今は余裕がないので簡単に示唆するに留める。(つまり、ここで喜劇とは、お笑いではなく、調和・秩序志向性のことである、等のことの説明が本来必要である。)
 差異共振認識は実は、この両面をもつと考えられる。差異共振調和性、これが喜劇的認識となるが、同時に、差異共振知性は誤魔化しの現実(マーヤー)を射貫き、透視するのである。これが悲劇的認識となるのである。
 思うに、ゾロアスター教的認識とは、この両者をもっているのである。ニーチェのディオニュソス的認識は当然、悲劇的認識であるが、同時に、新しい秩序を志向する点で喜劇的認識に通じるだろう。


2009年09月21日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:引力回転と斥力回転
共振とは引力と斥力があるのではないだろうか。引力の場合、⇒+1であり、斥力の場合、⇒-1ではないのか。
 仏教的に言えば、前者が「色」であり、後者が「空」ではないのか。
 これまでの検討から言えば、引力は正のエネルギーだえり、斥力は負のエネルギーである。
 「物質」とは前者の帰結である。そして、「精神」とは後者の帰結である。また、「生」とは前者であり、「死」は後者である。だから、「霊」というのは、後者に当たるのではないだろうか。
 anima mundi(世界霊、宇宙霊)とは、思うに、虚軸のMedia Pointではないだろうか。それに対して、個々の「霊」とは、⇒-1ではないだろうか。
 後でさらに考察を続けたい。

追記:結局、引力の場合、相互浸透的であり、⇒+1となるが、斥力の場合、二律背反(アンチノミー)的であり、⇒-1になるということだろう。これは、(+i)^2⇒-1であり、又、(-i)^2⇒-1である。
 この⇒-1において、差異共振情報が蓄積されるのではないだろうか。空海で言えば、金剛界曼荼羅である。だから、⇒+1は胎蔵界曼荼羅である。
 とまれ、結局、⇒±1で、即非知となるだろう。西洋文明は⇒+1に傾斜して、⇒-1を無視していると考えられる。東洋文化は⇒±1を志向してきたと言えよう。
 途中。


検討問題:Media Pointの様相について:Imaginary MPとReal MPとの関係
本件は先の検討問題と通じるものである。
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10346058766.html
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10343088231.html
 虚軸Media Point(Imaginary Media Point:略して、IMP又はImp or imp)と実軸Media Point(Real Media Point:略して、RMP又はRmp or rmp)があるが、ImpからRmpへと変換して、現象界が生起する(⇒+1)。これは、プラス・エネルギーに因るものである。しかしながら、マイナス・エネルギーがはたらいている。それは、⇒-1と考えられる。
 この⇒-1であるが、それは、ImpからRmpへと転換するのではなく、Impから直接、⇒-1となるのではないだろうか。そうならば、Impから、プラス・エネルギーとマイナス・エネルギーでは、作動点が異なることになる。
 問題は、正のエネルギーと負のエネルギーの展開はどうなっているのかである。一つは前者が先行し、後者がその後生起するということ、一つは両者が同時生起するということが、いちおう考えられる。
 これまでの検討からは、前者先行が考えられるが、同時生起もありえないことではない。
 人間の成長・発達を考えると、身体の成長と精神の発達が同時生起していよう。ここで、確認すべきは、身体は⇒+1、つまり、Rmpが原動点(根源的には当然、Imp であるが、身体としての身体の原点はRmpである)であり、精神(意識)は⇒-1、つまり、Impが原点である。
 人間の成長・発達は、両者が「結合」して行くことにあるが、身体・「物質」的には神経細胞のネットワークの形成ということと考えられる。
 これは、正のエネルギーと負のエネルギーとの交叉ということになる。この点は精緻に考える必要がある。正のエネルギーは感覚形成を行い、例えば、視覚を形成して、光を感覚することになる。
 問題は知覚・認識である。それは、負のエネルギーに拠る。すると、感覚と知覚・認識は、本来、ズレていることになる。つまり、切断されているといことである。これは重要なことである。
 感覚と知覚・認識は不連続であり、本来、一致しないのである。分離しているのである。しかしながら、なにか疑似的な接点があるのである。
 それは、「光」ではないのか。Impにおいて、超越光が生起し、それが、一方ではRmpへと展開して、現象光となり、他方では、⇒-1(いわば、ダーク・ライトdark light)となる。
 この超越光の二相性によって、感覚と知覚・認識の疑似的な接点が生起するのではないだろうか。
 意識(知覚・認識=精神)は超越光からダーク・ライトの世界(負の世界)のものであるが、感覚は超越光⇒現象光のものである。つまり、超越光を介して、感覚と知覚・認識が疑似的に交叉するのではないのか。
 これは、実に、「霊妙」である。結局、ImpとRmpは即非様態である。換言すると、超越光と現象光は即非様態にある。ということは、知覚・認識と感覚は即非様態にあるということである。
 この即非様態において、感覚と知覚・認識が疑似的に交叉すると考えられる。
 結局、Media Pointの様相とは、ImpとRmpの位階即非様態であるということになるだろう。そして、Rmpは正の世界(現象界)、Impは直接、負の世界(精神界)を形成すると考えられる。
 では、正のエネルギーと負のエネルギーは前者先行なのか、それとも同時生起なのかという、上述した問いであるが、人間の成長・発達を見ると、外界認識の形成が先行するので、正のエネルギーが先行するのではないないだろうか。そして、それが完了すると負のエネルギーが活性化するのではないのか。もっとも、正のエネルギーは超越光、即ち、超越エネルギーのプラスの面(半面)であり、負のエネルギーはそのマイナスの面(半面)であるが。
 今はここで留める。


2009年09月20日(Sun)▲ページの先頭へ
民主主義批判:民度に応じて、民主主義の質が決まる:一般には愚衆が大半である:民主主義免許制度構築
民主主義は、いわば、理想主義的器であるが、しかしながら、「民」は愚衆と賢衆があり、大半は前者である。だから、現実的には、民主主義は衆愚政治になるだろう。
 以前述べたが、選挙権や被選挙権の資格は、民主主義試験に合格したものだけに与えるべきである。車だって、運転免許が必要だろう。そう、民主主義免許制度を作るべきである。


2009年09月19日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:ps理論と阿頼耶識:情報源は⇒-1なのか、虚軸のゼロ点なのか
この問題はプラトン哲学の想起説の問題であり、あるいは、オカルト的問題である。つまり、記憶、それも、単に生涯の記憶ではなく、もっと根源的な記憶はどこに存するのか、ということである。
 わかりすく一例を出せば、遺伝子情報は、どこにあるのか、ということである。直感では、⇒-1が情報源ではないかと思ったのである。しかしながら、 Media Pointが「魂」と思われる。これが、いわば、不生不滅である。暫定的に、イデア魂と呼ぼう。プラトンの説く、「魂」に当たる。
 ⇒+1は「光」の意識であり、明晰な意識である。しかしながら、それに対して、「闇」の意識、不可知の意識があるのではないか。それが、⇒-1ではないのか。
 あるいは、+iと-iの共振領域に情報源があるのか。そうすると、Media Pointの虚軸のゼロ点にあることになる。
 これまでの考えに拠ると、⇒-1と虚軸のゼロ点は通じるものである。思うに、虚軸のゼロ点の記憶とは、森羅万象の記憶であり、⇒-1が個の記憶ではないだろうか。
 唯識の阿頼耶識とは、虚軸ゼロ点⇒-1に当たるのではないだろうか。
 どうも、虚軸ゼロ点は可能性であり、具体的な記憶は⇒-1に蓄積されるのではないだろうか。そうすると、情報源は⇒-1となる。つまり、阿頼耶識は⇒- 1となる。そうすると、それが実質的な根源である。また、それがイデア界かもしれない。つまり、虚軸は超越界であるが、イデア界はそれと通じているが、それとは別に、マイナスの実軸にあることになる。とまれ、後で精緻に考察を行いたい。


阿頼耶識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

阿頼耶識(あらやしき、Skt : ālaya-vijñāna आलयविज्ञान)は、大乗仏教 の用語。

サンスクリット ālaya आलय の音写と、vijñāna विज्ञान の意訳「識」との合成語。旧訳では「阿梨耶識(ありやしき)」。また「蔵識」(藏識)とも訳す。「頼耶識」「頼耶」等と略されることもある。

唯識 思想により立てられた心の深層部分の名称であり、大乗仏教を支える根本思想である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 ・末那識 ・阿頼耶識の8つの識のうち第8番目で、人間存在の根本にある識であると考えられている。ālaya の語義は、住居・場所の意であって、その場に一切諸法を生ずる種子 を内蔵していることから「蔵識」とも訳される。「無没識(むもつしき)」と訳される場合もあるが、これは ālaya の類音語 alaya に由来する異形語である。法相宗 では、心は阿頼耶識までの八識 とする。天台宗 では阿摩羅識 を加えて九識 、真言宗 ではさらに乾栗陀耶識 を加えて十識 とする。
はたらき [編集 ]

ある人の阿頼耶識は、蔵している種子 から対象世界の諸現象<現行(げんぎょう)法>を生じる。またそうして生じた諸現象は、またその人の阿頼耶識に印象<熏習 (くんじゅう)>を与えて種子を形成し、刹那 に生滅しつつ持続(相続)する。

この識は個人存在の中心として多様な機能を具えているが、その機能に応じて他にもさまざまな名称で呼ばれる。諸法の種子を内蔵している点からは「一切種子識」(sarva-bījaka-vijñāna)、過去の業の果報<異熟(いじゅく)>として生じた点からは「異熟識」(vipāka-vijñāna)、他の諸識の生ずる基である点からは「根本識」(mūla-vijñāna)、身心の機官を維持する点からは「阿陀那識」(ādāna-vijñāna、「執持識」/「執我識」。天台宗 では末那識 の別名)と呼ばれる。
法相宗の説 [編集 ]

唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとしている。それは主として迷いの世界についていうが、悟りの諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという論争が生じた。

* 阿頼耶とは、この翻に蔵となす。 唯識述記 2末

三種の境 [編集 ]

1. 種子 (しゅうじ) 一切有漏無漏の現行法を生じる種子。
2. 六根 (ろっこん) 眼耳鼻舌身意の六根。俗に言う「六根清浄 (ろっこんしょうじょう)」とは、この眼耳鼻舌身意が清浄になるように唱える言葉。
3. 器界(きかい) 山川草木飲食器具などの一切衆生の依報。

阿頼耶識は、常にこの3種を所縁 の境とする。
心 [編集 ]

心に積集、集起の2つの義があって、阿頼耶識は諸法の種子 を集め、諸法を生起するので、心という。

* あるいは心と名づく。種々の法によって、種子を薫習し、積集する所なるが故に。 唯識論 3
* 梵で質多という。これ心と名づくなり。即ち積集の義はこれ心の義。集起の義はこれ心の義なり。能集してもって多くの種子生ずる故に。この識を説いてもって心と為す。唯識述記 3末

阿頼耶識と文学 [編集 ]

三島由紀夫 の絶筆となる『豊饒の海 』(第三巻『暁の寺』)において主人公が一旦傾倒した思想であるが、その後インド のガンガー 川畔の巨大な火葬 の町ベナレス(ワーラーナシー )のガート での火葬風景を見て、途方もないニヒリズム に襲われる場面が描かれている。これは三島自身の実際のインド体験から発されたもので、その光景は「近代的自我」に執着し、その孤独に耐えることによってのみ数多くの作品を創出してきた三島にとってこの唯識思想を微塵もなく打ち砕く巨大で徒労な現前するニヒリズムの現実体験として映ったようである。

『暁の寺』には、ベナレスでの火葬の光景がありありと描かれている。

三島にとってこの「究極の光景」は彼が営々として築き上げてきた美学 をいともたやすく、一瞬にして微塵もなく破壊したのである。

*******************

唯識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

唯識(ゆいしき、skt :विज्ञप्तिमात्रता vijJapti=maatrataa)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教 の見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。

あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教) の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論 とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである(後述)。

唯識思想は、一切を「識」のみとする思想なので、極端なニヒリズム やエゴイズム に陥る危険性があり、瑜伽行 や禅定 を通じて学ばないと危険であるとされる。
概要 [編集 ]

唯識思想では、各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する。
八識説の概念図の一例

* まず、視覚とか聴覚とかの感覚も唯識では識であると考える。感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき、視覚)・耳識(にしき、聴覚)・鼻識(びしき、嗅覚)・舌識(ぜつしき、味覚)・身識(しんしき、触覚など)と呼ばれる。これは総称して「前五識」と呼ぶ。
* その次に意識 、つまり自覚的意識が来る。六番目なので「第六意識」と呼ぶことがあるが同じ意味である。また前五識と意識を合わせて現行(げんぎょう)という。
* その下に末那識 (まなしき)と呼ばれる潜在意識が想定されており、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる。熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着するという。
* さらにその下に阿頼耶識 (あらやしき)という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。

あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。

唯識は、4世紀インド に現れた瑜伽行唯識学派 (ゆがぎょうゆいしきがくは 唯識瑜伽行派とも)、という初期大乗仏教 の一派によって唱えられた認識論 的傾向を持つ思想体系である。瑜伽行唯識学派は、中観派 の「空 (くう)」思想を受けつぎながらも、とりあえず心の作用は仮に存在するとして、その心のあり方を瑜伽行(ヨーガの行・実践)でコントロールし、また変化させて悟りを得ようとした(唯識無境=ただ識だけがあって外界は存在しない)。

この世の色(しき、物質)は、ただ心的作用のみで成り立っている、とするので西洋の唯心論 と同列に見られる場合がある。しかし東洋思想及び仏教の唯識論では、その心の存在も仮のものであり、最終的にその心的作用も否定される(境識倶泯 きょうしきくみん 外界も識も消えてしまう)。したがって唯識と唯心論 はこの点でまったく異なる。また、唯識は無意識の領域を重視するために、「意識が諸存在を規定する」とする唯心論とは明らかに相違がある。

唯識思想は後の大乗仏教全般に広く影響を与え、最終的に識の奥底に仏性 の存在を見出す論者も現れた。(如来蔵思想 )
識の相互作用と悟り [編集 ]

唯識は語源的に見ると、「ただ認識のみ」という意味である[1] 。
心の外に「もの」はない [編集 ]

大乗仏教の考え方の基礎は、この世界のすべての物事は縁起 、つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考える。唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり、心の外に事物的存在はないと考えるのである。これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)または唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられるものである)という。また一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している(人人唯識)。他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子(倶有の種子 くゆうのしゅうじ、後述)が存在するからであると唯識では考える(これはユング の集合的無意識 に似ていなくもない)。
阿頼耶識と種子のはたらき [編集 ]

人間がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると、その影響は種子 (しゅうじ、阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、阿頼耶識のなかにたくわえられると考えられる。これを薫習 (くんじゅう)という。ちょうど香りが衣に染み付くように行為の影響が阿頼耶識にたくわえられる(現行薫種子 げんぎょうくんしゅうじ)。このため阿頼耶識を別名蔵識、一切種子識とも呼ぶ。阿頼耶識の「アラヤ」という音は「蔵」という意味のサンスクリット語 である。さらに、それぞれの種子は、阿頼耶識の中で相互に作用して、新たな種子を生み出す可能性を持つ(種子生種子)。

また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある。さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。この種子は前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識であるとされる(種子生現行 しゅうじしょうげんぎょう)。このサイクルを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)と言う。
最終的には心にも実体はない [編集 ]

このような識の転変は無常 であり、一瞬のうちに生滅を繰り返す(刹那滅)ものであり、その瞬間が終わると過去に消えてゆく。

このように自己と自己を取り巻く世界を把握するから、すべての「物」と思われているものは「現象」でしかなく、「空」であり、実体のないものである。しかし同時に、種子も識そのものも現象であり、実体は持たないと説く。これは西洋思想でいう唯心論 とは微妙に異なる。なぜなら心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在(空 )であり、究極的にはその実在性も否定されるからである(境識倶泯)。

単に「唯識」と言った場合、唯識宗(法相宗 )・唯識学派・唯識論などを指す場合がある。
唯識思想の特色 [編集 ]

仏教の中心教義である無常 ・無我 を体得するために、インド古来の修行方法であるヨーガをより洗練した瑜伽行(瞑想)から得られた智を教義の面から支えた思想体系である。

1. 心の動きを分類して、八識を立てる。とりわけ、末那識と阿頼耶識は深層心理として無意識の分野に初めて注目した。
2. 自らと、自らが認知する外界のあり方を、三性 (さんしょう)説としてまとめ、修行段階によって世界に対する認知のありようが異なることを説明した。
3. ヨーガを実践することによって「唯識観」という具体的な観法を教理的に組織体系化した。
4. 『法華経 』などの説く一乗は方便であるとし、誰もが成仏するわけではないことを説いた。(五性各別)
5. 成仏までには三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)と呼ばれるとてつもない時間がかかるとした。
6. 『般若経 』の空 を受けつぎながら、まず識は仮に存在するという立場に立って、自己の心のあり方を瑜伽行 の実践を通して悟りに到達しようとする。

成立と発展 [編集 ]

唯識はインド で成立、体系化され、中央アジア を経て、中国 ・日本 と伝えられ、さらにはチベット にも伝播して、広く大乗仏教 の根幹をなす体系である。倶舎論 とともに仏教の基礎学として学ばれており、現代も依然研究は続けられている。
インドにおける成立と展開 [編集 ]

唯識は、初期大乗経典の『般若経 』の「一切皆空」と『華厳経 』十地品の「三界作唯心」の流れを汲んで、中期大乗仏教経典である『解深密経(げじんみつきょう)』『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』として確立した。そこには、瑜伽行(瞑想)を実践するグループの実践を通した長い思索と論究があったと考えられる。

論としては弥勒 (マイトレーヤ)を発祥として、無著 (アサンガ)と世親 (ヴァスバンドゥ)の兄弟によって大成された。無著は「摂大乗論(しょうだいじょうろん) 」を、世親は「唯識三十頌 (ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論 」等を著した。「唯識二十論」では「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方、言い表すことのできない実体があるとした。「唯識三十頌」では上述の八識説を唱え、部分的に深層心理学 的傾向や生物学的傾向を示した。弥勒に関しては、歴史上の実在人物であるという説と、未来仏としていまは兜率天 (とそつてん)にいる弥勒菩薩であるという説との二つがあり、決着してはいない。

世親のあとには十大弟子が出現したと伝えられる。5世紀はじめごろ建てられたナーランダ (naalanda)の大僧院において、唯識はさかんに研究された。6世紀の始めに、ナーランダ出身の徳慧 (グナマティ、guNamati)は西インドのヴァラビー(valabhii)に移り、その弟子安慧 (スティラマティ、sthiramati)は、世親の著書『唯識三十頌 』の註釈書をつくり、多くの弟子を教えた。この系統は「無相唯識派」(nirakaravadi=yogacaara)と呼ばれている[2] 。

この学派は、真諦 (パラマールタ、paramaartha)によって中国に伝えられ、摂論宗 として一時期、大いに研究された。

一方、5世紀はじめに活躍した陳那 (ディグナーガ、dignaaga)は、世親の著書『唯識二十論 』の理論をさらに発展させて、『観所縁論 』(aalambanapariikSa)をあらわして、その系統は「有相唯識派」(saakaaravijJaanavaadin)と呼ばれるが、無性 (アスヴァバーヴァ、asvabhaava)・護法 (ダルマパーラ、dharmapaala)に伝えられ、ナーランダ寺院において、さかんに学ばれ、研究された。
中国・日本への伝播 [編集 ]

中国からインドに渡った留学僧、玄奘三蔵 は、このナーランダ寺において、護法の弟子戒賢 (シーラバドラ、ziilabhadra)について学んだ。帰朝後、『唯識三十頌』に対する護法の註釈を中心に据えて、他の学者たちの見解の紹介と批判をまじえて翻訳したのが『成唯識論 (じょうゆいしきろん)』である。この書を中心にして、玄奘の弟子の慈恩大師基 (もしくは窺基=きき)によって法相宗 (ほっそうしゅう)が立てられ、中国において極めて詳細な唯識の研究が始まった。その結果、真諦の起こした摂論宗は衰退することとなった。

その後、法相宗は道昭 ・智通 ・智鳳 ・玄ム などによって日本 に伝えられ、奈良時代 さかんに学ばれ南都六宗 のひとつとなった。その伝統は主に奈良の興福寺 ・法隆寺 ・薬師寺 、京都の清水寺 に受けつがれ、江戸時代 にはすぐれた学僧が輩出し、倶舎論 (くしゃろん)とともに仏教学の基礎学問として伝えられた。唯識や倶舎論は非常に難解なので「唯識三年倶舎八年」という言葉もある。明治時代 の廃仏毀釈 により日本の唯識の教えは一時非常に衰微したが、法隆寺 の佐伯定胤 の努力により復興した。法隆寺が聖徳宗 として、また清水寺 が北法相宗 として法相宗を離脱した現在、日本法相宗の大本山は興福寺 と薬師寺 の二つとなっている。


・・・・・


http://ja.wikipedia.org
/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98


2009年09月18日(Fri)▲ページの先頭へ
着物の左前とは何か:日本伝統文化が西洋文化に根こそぎにされた!
日本において、洋服が当たり前になり、和服・着物はマイナーである。
 たまたま、着物について調べる機会があったが、左前という用語に関して、とんでもない勘違いをしていることがわかり(無知!)、また、女性服において、和服と洋服で重ね合わせる仕方が逆なのを知って、愕然とした。
 今日、女性が洋服を着るとき、左前になるのであるが、これは和服的には、死者の服装である。つまり、今日の日本の女性は大半、死者の服装をしているということになる。これまで、日本文化伝統が破壊されたというのは、明治維新と戦後近代化に原因があると考えられるが、とりわけ、後者に問題である。
 女性はこの点で最大限、怒るべきである。途方もない文化破壊が行われたのである。着物回帰である。

参考:
written by lumi on 和服の基礎知識(1)着物とは

短期の連載です。10回くらいの予定。伝統の衣服というのに、どうにもよく
分からない和服について少し親しんで頂けたらという企画です。

さて日本の衣服の様式も時代に沿って随分変わってきているのですが、現在
の和服の形式はだいたい桃山時代から江戸時代初期にかけて固まってきたも
のです。

この様式では基本的には男女とも肌に直接着る「肌襦袢(はだじゅばん)」、
その上に着る柄の入った「長襦袢(ながじゅばん)」があって、その上に表着と
なる「長着(ながぎ)」を着ます。普通単に「着物」といえばこの「長着」の
ことを言う訳です。

洋服と和服のおおまかな違いを挙げてみましょう。

(1)洋服では男性は右前、女性は左前だが和服は男女とも右前(*1)

(2)現代の洋服は曲線裁ちが普通だが、和服は必ず直線裁ちで作られる。
そのため身体と服の間に隙間が多く、また「洗い張り」などという
特殊な洗濯方法が可能である。

(3)現代の洋服はボタンやファスナーで留めるものが多いが和服は
  紐や帯で留める。

(4)結果論であるが着る人が少なくなってしまったこともあり、和服の場合
  a.既製服が入手しにくい。お仕立てになってしまうことが多い。
  b.それとも関連しているが、安価に入手できないタイプが多い。
  c.自分で着れない人が多い。
  d.家庭で洗濯ができないものが多い。

しかし本当はヨーロッパと違って湿度の高い日本では本来風通しのいい和服
は風土によくあった衣服なのです。どこかのデパートで店員さんの制服を
和服にしちゃうとか?? いつも和服姿のアイドルをデビューさせるとか????
すると、案外和服はまた復活してくるのでは、という気もします。

日本人がみんな洋服になってしまったのはほんのここ50年くらいの話です。


(*1)右前というのは右の前身頃を左の前身頃の下にすることで...うーんなぜ
  右前というのでしょうね。それって左前なんじゃ???などとも思ってしまう
  のですが。でも右前・左前はそういう使い方で定着しているので仕方ない
  ですね。なお和服で左前に着るのは死人だけです(-_-;
http://www.ffortune.net/life/
fashion/waso/kiso/kiso01.htm


***やっては駄目な左前(死人前)***



 「用語がわからない。」で日本の着物の世界で唯一つ、やってはいけないのは左前(死人前)だけ。と書きましたが、では、左前とはなんぞや?



 短く申し上げれば、
 日本ではお亡くなりになった方を荼毘に付す時、新しい(もしくは故人がお気に入りの)着物を着た方の左手が懐に入るように着せます。
 お亡くなりになった方がお召しになる着方だから死人前、いわゆる左前と言います。縁起が悪い着方のため、この着方をしていると信心深い方には注意をされます。

 長く申し上げれば、
 日本では、奈良時代の元正天皇(氷高皇女:天武天皇の孫娘、奈良の大仏を建立した文武天皇の姉、そして日本では最初の未婚の女性の天皇)が「右衿の礼」という詔を出し、国内の者は全て衣服を右前に着なければならないと決めました。
 当時、中国派は右前、朝鮮派(本当はもっと別れるのですが纏めてしまいました。ごめんなさい)は左前という着方をしていたようで、韓国では今でも左前に衣服を着ています。
 政治の上で、日本は中国派ですよ。と発したわけですが、これ以後、わが国ではずーーと右前が守られてきたのです。
 ちなみに、当時の日本では左は貴いという意味を持ちます。朝鮮派に気を遣ったんでしょうね‥‥‥
 死者に左前で衣服を着せるということは、故人を貴い方だと思っているという意味も含んでいるのかもしれません。
 ですが、日本でずっと左が貴かった訳ではありません。
『奥の手』→左が貴かった時代の言葉。後から来る良い手は「左手」を指します。
『左遷』→右が貴かった時代の言葉。左に行くのが悪い意味になっています。
 こんなふうに昔から他国に合わせて意味を変えたりして、臨機応変に政治の波をかいくぐって来ていたのです。
 ただし、長い間左前は死者が着る着方というのは変わっていないため、昔気質の方やおば様方はこの着方をしていると注意して下さいます。
 それに作法や礼儀に関わってもきますので、お寺や神社などへの参拝、お茶会やお稽古事の時に左前で行くと冷ややかな視線で見られてしまいます。


 この詔以降も日本では派手な服を着てはいけないとか、いろいろ衣服についての詔が発せられますが、1000年以上も守られている着方だけは守ったほうがいいような気がします。

 そんな歴史のことなんて知らないわ!
 諸外国じゃ女性は左前でしょう?
 私は気にしない。

 と、言う方には一言。

 着物を着て出掛けると、否応なくおば様たちの視線を浴びます。
 大袈裟ではなく、本当に浴びます。
 そして、その時に左前に着ていると、人の良いおば様は絶対に注意をして下さいます。
 ですので、繰り返しますがおば様方から注意されても気にしないわ!縁起が悪い着方でも気にしないわ!という方は試してみて下さい。
 でも、オススメしません。ホントに。

 着物にブーツを合わせたり、帯締めの代わりにベルトを使ったり、足袋の代わりにストッキングを履いてサンダルに合わせたり、年がら年中季節も考慮しないで(着物の世界では四季を考慮して柄を選ぶのが通常なのです)桜柄を身に纏っていても「おしゃれ」「好きだから」で通せますが、左前だけは本当に怒られますから‥‥‥
 守らなくちゃいけないのは、これだけですから、一個くらいは守りましょう。ね。

 ちなみに、他のたくさんある決まり事は「現在の日本での着物の着方」という感じです。流派や教室によって着方は異なりますし、使う道具等によっても変わってきます。
 ご自分にとって楽な着方、楽しい着方で着ればいいと思います♪
http://miyaposi.com/kimono
/talk01/ki003.htm
記事URL


2009年09月17日(Thu)▲ページの先頭へ
二一性:二つの意識の極性的一性:トランス・モダン認識とトランス・モダン社会創造
自己認識方程式は本来、二一的自己認識を意味するだろう。(あるいは、三一性)
 とまれ、二つの異質な意識が自己意識にはあることを明確にしたい。それは、+iの意識と-iの意識である。原光・「光」の意識と原闇・「闇」の意識である。
 近代合理主義ないしは近代的自我は一重の意識であり、単一的である。深層心理学等が無意識を探究したのは、必然的である。(深層心理学の失敗については既述したので、ここでは述べない。)
 端的に、「光」の意識とは、日常の意識である。しかし、「闇」の意識とは、端的に、他者の意識であると思う。これがポイントである。言い換えると、絶対的他者、超越的他者の意識である。
 「光」の意識に対して、もう一つの意識は絶対的他者・超越的他者の意識なので、「光」の意識は、それを正確に認識することがほとんど不可能に近いのである。
 しかしながら、トランス・モダン的自己にとって、この他者の認識が決定的に重要である。思うに、現代の鬱病等の蔓延の内因はここに求めることができよう。即ち、時代精神から、絶対的他者、超越的他者のエネルギーが活性化していて、「光」の意識へと「侵入」せんとしているのであるが、「光」の意識をその他者知のエネルギーを把握することができないのである。「光」には、「闇」を理解できないのである。なぜなら、両者は互いに絶対的差異であるからである。
 近代合理主義・近代的自我は、強固に自我同一性に偏執しているので(パラノイア的)、それ以外の差異、即ち、絶対的差異、絶対的他者、超越的他者を想像することすらできないのである。
 東洋的知性はこの問題への解決を少なくとも、二千年以上前から提示してきた。
 とまれ、戦後日本は、近代合理主義を金科玉条としたので、他者意識を忘却しているのである。
 思うに、二一性とは、もっとも分かりやすい例は陰陽である。陰の意識と陽の意識があることをそれを示唆しているのである。
 では、端的に、絶対的他者の意識へとアクセスするには、どうすればいいのかと考えると、有り体に言えば、身体的他者意識を肯定することである。
 比喩的に言えば、異星人を身体内に認めることである。これは、容易にできることではない。同一性自我が否定していたものが、自己における他者であるとは認めたくはないからである。
 思うに、神話において、双子や兄弟がよく出てくるが、これは、この二重意識を象徴しているものと思われる。
 しかし、双子や兄弟はあくまで比喩であり、不正確である。なぜなら、二つの意識は絶対的差異であり、不連続であるからである。切断されているのである。(ちなみに、占星術のシンボルで言えば、連続性は双魚宮が、差異共振は宝瓶宮 - 宝瓶宮)が表すだろう。)
 ということで、ある意味で二重人格性は正しいのである。しかしながら、絶対的差異としての二重人格を見なくてはならない。
 最後に鬱病問題に返ると、それは、政治経済問題であると同時に、認識的問題である。同一性近代資本主義が鬱病の外因となり、また、それと一体の近代合理主義が支配的である限り、それが内因となるのである。
 今日、トランス・モダンへの転移期において、絶対的他者を認めることが、政治経済的且つ社会文化的に絶対的に必要である。何故なら、絶対的他者を認めることが、政治経済的に、近代資本主義を乗り越える新しいトランス・モダン資本主義に導くのであり、また、社会文化的に、トランス・モダン的社会知性をもたらすからである。

参考:ニーチェに強い影響を受けた天才D. H. ロレンス独特のゾロアスター教的二元論である。「光の波」とは+iないしは⇒+1であり、「暗闇」とは、-i ないしは⇒-1である。この「暗闇」とは、実は、超越光に通じるものと考えられる。

There is the wave of light in me which seeks the darkness, which has for its goal the Source and the Beginning, for its God the Almighty Creator to Whom is all power and glory. Thither the light of the seed of man struggles and aspires into the infinite darkness, the womb of all creation.

The Phoenix 2 p. 377


2009年09月16日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:「闇」又は「玄」とは何か:⇒-1の善神:ゾロアスター教、ニーチェ、プラトン
まだ明快に分析できていないのが、-1の問題である。これまでいろいろ検討を重ねたが、腑に落ちる解明が為されていない。
 +iは天、-iは地と見ることができる。Media Pointで、同一性志向性があり、⇒+1となるが、それは、プラス・エネルギーであり、それと呼応してマイナス・エネルギーが生起する。それが、⇒+1⇒と考えられる。
 ここで仮説であるが、⇒-1がマイナス・エネルギーを意味するとしたらどうだろうか。つまり、⇒+1がプラス・エネルギーであることに呼応させるものである。
 そうすると、やはり、⇒-1は、差異共振回帰(再帰)エネルギーである。ゾロアスター教に則せば、スプンタ・マンユ(聖なる霊)である。また、+1が既述したように、アンリ・マンユ(悪神)である(しかしながら、正しく言えば、⇒+1の⇒を排除するものが悪神である。それは、⇒+1のエネルギーの反動と考えられる。)。
 ここで一神教的道徳(独善的道徳)ないしは「アポロ」的道徳を考えると、それは、⇒+1の反動的道徳なのである。真正道徳は、⇒-1から発する必要があるからである。+1の形式主義的道徳とは、権力のために使われるものである。
 思うに、国家は+1から⇒-1へと転換する必要があるのである。ゾロアスター教的国家(差異共振共同体:自由共同体:リベラル・コミュニズム)である。後でさらに考察を行いたい。

追記:ニーチェの説いたディオニュソスとは、⇒-1のことだろう。ニーチェがゾロアスター教に魅かれたのは、彼の大天才的直感に因ると考えられる。
 ニーチェのディオニュソスはスプンタ・マンユと一致するだろう。また、プラトンとも基本的には一致するのである。
 因みに、ニーチェのアポロとは、⇒+1と+1が混同されている向きがある。ディオニュソスと一如のアポロとは前者であり、個物的なアポロは後者と言えよう。


検討問題:光とは何か
これは、思うに、最高度の問題である。
 とまれ、問題にしたいのは、超越光と現象光の関係である。これまでの検討から、2つの論が生じているのがわかるのである。
 即ち、一つは、現象光とは本来、超越光であるという論である。もう一つは、現象光とは、身体的エネルギーであり、同一性エネルギーなのであり、超越光とは異なるものであるという論である。この二律背反をどうみるのか。丁寧に考えよう。
 結局、前者が正しく、超越光・即非・現象光である。また、現象光は同一性志向性エネルギーであり、同一性エネルギーではないと考えられる。そう、現象光は身体的エネルギーではあるが、同一性(物質)エネルギーではないのである。
 では、視覚の問題を考えるとどうなるだろうか。視覚は、本来、差異共振視覚であり、また、同一性志向性視覚である。これは、同一性=物質的視覚であない。
 先に身体感覚としての視覚は同一性的であると言ったが、それは間違いなので、訂正しなくてはならない。
 結局、同一性志向性が同一性に転化し、固定してしまう力学が問題なのである。本来は、同一性志向性は差異共振性へと回帰する。
 同一性の固定化の原因は、身体的エネルギーが強化されて、意識エネルギー自体が言わば抑圧されることにあるのではないだろうか。
 端的に言えば、身体的感覚欲望が強化された結果、意識エネルギーが衰退して、同一性志向性が同一性化するということだと思われる。
 身体的感覚欲望の強化とは、思うに、飢渇や渇望があり、そのために、反動的に強化されたのではないだろうか。言い換えると、貧しさが同一性=物質的欲望を強化すると考えられる。力学的には、反動であると言えよう。反動が生じて、同一性志向性が同一性=物質化するのである。それは、当然、マーヤーである。
 ということで、結局、つい先の考えではなく、これまでの考えが正しいことが確認された。結局、視覚や光が同一性であるという勘違いが起るのは、身体感覚欲望の飢渇・渇望に拠る反動性によって、差異共振性が抑圧されるからである。
 
*************

以下は、付録:


間が空いたので、新たに考えよう。
 これまで、現象とは本来、差異共振現象であると述べてきた。しかし、同一性の知覚・認識によって、それを同一性現象として把握すると述べた。
 つまり、同一性的認識志向があり、それを差異共振現象を同一性として把握するということである。
 しかし、先には、視覚は同一性的であり、それが、意識エネルギー(差異共振エネルギー)を同一性へと枠付けると言った。
 結局、問題は、視覚とは何か、ということになる。それは、同一性的なのか、否かである。
 私は経験から視覚は同一性的であると考えているが、同時に、経験から、視覚には、差異共振視覚があると考えている。
 この齟齬、二律背反はどう解明できるだろうか。
 具体的に考察しよう。眼前に、桜の木があるとしよう。この桜の木は、日常的には、同一性である。しかしながら、本来は差異である。つまり、桜という一般概念(同一性)の一部としての桜であり、且つ、個物として、その桜は絶対的差異である。
 同一性としての桜は一般形式である。この同一性=一般形式を作る原因は何だろうか。あるいは、現象を物質と把握する根因は何だろうか。
 それは、当然、同一性志向性である。実軸のゼロ点において発生する志向性である。これは、思うに、言語的志向性と一致するのではないだろうか。
 これは、端的に、⇒+1である。だから、この問題は、⇒+1と+1の問題ということになる。即ち、同一性志向性と同一性との問題である。これは、実に数学的問題である。
 とまれ、同一性志向性とは、実は、Media Pointから発しているために、根本においては、差異共振性が残っているのであるが、他方、同一性においては、もはや、Media Pointから切り離されているので、差異共振性が喪失されているのである。
 そして、近代合理主義、近代的自我とは、後者に属するものである。
 さて、この視点から光を考えると、光は本来、やはり、超越光であり、それが、現象光として発現するが、現象光は本来、同一性志向性をもつが、同一性=物質ではない。
 少し視点を変えよう。


2009年09月15日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:Media Pointにおけるエネルギー変換について
先に意識エネルギーと身体エネルギーの区別を指摘した。結局、前者が根源であり、それが、後者へと転換・変容されると考えられるが、そのメカニズムはどういうものか。
 作業仮説的に言うと、意識エネルギーは虚軸のゼロ点で発生するのであり、身体エネルギーは実軸のゼロ点で発生するのである。「物質」科学は両者を混同していて、後者のみを主に考えているのである。端的に言えば、両者の連続化が近代主義、近代合理主義にはあるのである。
 この連続化の原因を先には、身体感覚、特に視覚のもつ同一性に求めた。この点を精緻に考えよう。つまり、光のメカニズムをより精緻に考えることになる。
 これまでの考えに拠れば、+iの原光と-iの原闇が虚軸のゼロ点で共振して、超越光を発生させるが、この超越光が意識エネルギーと等価となろう。そして、これが、実軸ゼロ点に不連続に、平行的に転換されて、身体エネルギーないしは、現象光となると考えられる。
 このエネルギー変換のメカニズムは即非的変換メカニズムであるが、正確に言えば、位階的即非的エネルギー変換メカニズムである。
 2つのエネルギーは、だから、同一であり、且つ、異なるということになるのである。とまれ、意識が主であり、身体は従である。言い換えると、意識ならば、身体であるが、身体ならば、必ずしも、意識となるわけではないのである。後者については、幻肢で証明できる。
 より明確になってきたが、では、「気」や電磁波はどういう位置づけをもつだろうか。否、その前に、同一性=物質化の問題について整理しておこう。結局、2つのエネルギーの連続化に拠るのであるが、この連続化の原因は何かである。
 これは、意識エネルギーがMedia Pointを介して、身体エネルギーに即非変換して、⇒+1へと展開するが、この+1への展開が正に、同一性化であり、そのとき、意識は身体と連続化されると考えられる。同一性的連続化である。換言すると、本来、差異である意識エネルギーが、同一性である身体エネルギーへと畳み込まれるのである。
 では、「気」と電磁波の問題に移ろう。「気」は精神エネルギーであり、且つ、身体エネルギーである。結局、「気」とは、端的に、意識エネルギーであると言っていいと思う。何故なら、それは身体エネルギーへと即非変換するからである。
 では、電磁波はどうなるだろうか。今は直感で言うに留めるが、光、現象光は実軸のゼロ点で発生すると思われる。だから、電磁波は、身体エネルギーである。しかしながら、微妙な点は、電磁波は超越性、虚軸性をもつことである。
 だから、電磁波は単純に身体エネルギーではありえない。超越性、虚軸性をもつということは、意識エネルギーに関係するということになるだろう。そうすると、やはり、電磁波は、「気」とほとんど重なるように考えられる。
 これまで何度も述べたように、量子力学は物質主義の枠から脱していないのであり、量子を唯物論的に捉えていると考えられる。しかしながら、電磁波(量子)は、「気」とほぼ同一と考えられるのであり、そうすると、電磁波とは、意識エネルギーであるということになるのである。この意識であるという要素が量子力学からは脱落していることになる。
 だから、トランス量子力学であり、それは、以前述べたように、PS理論的量子力学ということになるのである。そこまで考えられると、アニミズムという発想が甦ってくるのである。トランス・モダン・アニミズムである。また、シャーマニズムも甦り、トランス・モダン・シャーマニズムとなるのである。今はここで留めたい。

参照:
幻肢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ご自身の健康問題に関しては、専門の医療機関に相談してください。免責事項 もお読みください。

幻肢(げんし、英 phantom limb)とは、事故 や病気が原因で手や足を失ったり、生まれながらにして持たない患者が、存在しない手足が依然そこに存在するかのように感じること。幻影肢ともいう。

幻肢をもつ患者はしばしばそれを意図的に動かすことができる。 逆にそれが動かせない場合、その幻の部位に非常に強い痛みを感じることがあり、それを 幻肢痛 (げんしつう)という。

脳科学者で神経科医のラマチャンドラン は、幻肢や幻肢痛とその原因・治療に関する医学的見地からの種々の興味深い報告を行っている。 またかつて現象学 の立場から、こうした場面での心の意識 の志向性 について、フランスの現象学的哲学の代表者、モーリス・メルロー=ポンティ がその著書『知覚の現象学』の中で議論を展開したことがある。


睡眠とは何か:エネルギー問題:意識エネルギーと身体的エネルギー:光・視覚による意識と身体の連続化
いったい、睡眠によって、何が補給されるのだろうか。
 エネルギーと言ったとき、食事によるエネルギー補給があるが、睡眠は明らかにそれとは異なるエネルギーの補給がある。
 単純に見れば、前者は身体的エネルギー(物質的エネルギーというのは、誤りである)であり、後者は精神的エネルギーである。
 この力学はPS理論的にはどう記述できるだろうか。もっとも、以前、睡眠時のときの「魂」については、考えたことがあるが、今の時点で考察する。
 身体的エネルギーは⇒+1で記述できる。では、精神的エネルギーはどうか。それは、微妙である。⇒なのか、それとも、(+i)*(-i)の*なのか。しかし、これは、後者と言うべきである。
 つまり、精神的エネルギーは虚軸のエネルギーであり、実軸のエネルギーではないということになる。
 つまり、睡眠時においては、「魂」はMedia Pointへ回帰して、虚軸に触れて、虚軸のエネルギー=精神的エネルギーを補給していると思われるのである。
 そう、「魂」は意識と言っていいだろう。何故なら、夢を見る時は、意識があるからである。だから、睡眠時には、意識が虚軸のエネルギーに触れているということであり、それが思うに、夢となって現われるのではないだろうか。しかしながら、大半は覚醒時においては、忘却されるのだろう。
 もし、以上の考察が正しいならば、意識エネルギー(精神エネルギー)と身体エネルギーはまったく異質なものということになる。ただし、「気」を介して、両者は連関していよう。つまり、「気」はMedia Pointに関連していて、それは、⇒であろう。
 結局、問題は、意識エネルギーと身体エネルギーが連続化されることにあるだろう。本来、それらは、不連続であると考えられるからである。
 連続化とは意識が身体感覚と一体化することであるが、原因は身体感覚の同一性へと意識が結合されることだと考えられる。言い換えると、意識は本来、差異・差異共振的であるが、身体感覚の同一性(物質性)に枠付けられるので、連続化されるということである。この身体感覚の同一性とは、構造主義の構造であり、カントでは、超越論的形式ということである。そして、仏教では、「色」ということである。
 そして、意識と身体感覚の関係とは、当然ながら、即非関係である。精緻に言えば、意識は、身体感覚と一致するが、同時に、身体感覚とは異なるという事態である。
 では、端的に、意識と身体感覚とはどう結びついているのか。その力学は何か。それは、先に指摘したように、+i⇒+1ないしは+i=+1である。
 つまり、光の問題である。あるいは、視覚の問題である。本来、Media Pointにおいては、原光と原闇が共振する(出会う)のであり、光だけでなく、闇(⇒-1)が発生するのであるが、身体感覚における視覚が主導的なために、意識は視覚中心となり、身体感覚に規定されるようになるということではないだろうか。光による規制、それが、意識と身体感覚を結びつけると考えられる。
 本来、意識は光と闇の両面をもっているが、身体感覚の光の主導性によって、光と結合して、身体感覚と連続化すると考えられる。だから、言わば、光に拠る盲目化、「目眩し」があるのである。
 とまれ、以上から本件の問題がひとまず解明されたとしよう。
 次に派生的に考えたいが、結局、光⇒+1と闇⇒-1が存するということである。つまり、光のネガではなく、実体として闇が存するということになると考えられる。
 そして、光と闇との中間に、超越光があるということになる。では、端的に闇とは何なのか。
 思うに、視覚以外の触覚、嗅覚、味覚、聴覚がそうではないだろうか。
 そして、超越光であるが、それは、確かに、不可視の「光」であるが、実は、意識においては可視的ではないだろうか。そう、例えば、夢の映像である。それは、超越光的ではないだろうか。あるいは、イマジネーションである。
 少し飛躍しているようだ。闇は単に、視覚以外の感覚だけに限定されないのではないのか。
 ダーク・マターはこの闇に関係するのではないのか。思うに、瞑想において存するものがこの闇ではないのか。私の直感では、イマジネーションは、闇的である。つまり、-1的である。瞑想では、-iに触れて、⇒-1が生起するように思える。
 今は問題提起に留める。


2009年09月14日(Mon)▲ページの先頭へ
オバマ・鳩山的ポスト・モダン的全体主義路線:アイロニカルな没入:PS理論的大維新へ
東海アマ氏のHPから以下の記事の情報を得たが、
東海アマチュア無線  地震予知研究会 、本件に関して、今の時点で洞察する必要がある。
 昨年度のリーマン・ショックについては、いろいろ述べたが、基本的には、近代合理主義の終焉と考えたのであり、それは間違っていないと考えている。私は、「ロスチャイルド」路線に対する「ロックフェラー」路線がそこにはあると言った。
 後者の意味するものは、伝統的な米国の民主主義路線(差異共振共同体路線)である。
 思うに、私が去年時点で理解していなかったのは、「ロックフェラー」路線のもつ、一種ポスト・モダン性である。
 これの日本で対応するもの(カウンターパート)は次期民主党政権であり、「進歩性」と「反動性」の両面をもっているものである。
 即ち、差異的なものを志向しながら、結局、同一性にはまるのである。これは、大澤真幸氏の唱えるアイロニカルな没入という事態である。つまり、ブッシュ/小泉的ネオコン・新自由主義路線へと没入するということである。これは、最悪の事態である。夜明けを信じたが、夜明けは実はさらなる暗黒・地獄であったという事態である。
 途中。

1位 第2のリーマン発生、金融規制改革でも不可避
[ロンドン 10日 ロイター] 1年前のリーマン・ブラザーズ(LEHMQ.PK: 株価, 企業情報, レポート)の破綻は、金融セクターが抱えるリスクの徹底的な見直しを求める声に拍車を掛けたという意味で、自動車レースの最高峰であるF1(フォーミュラ・ワン)の元世界王者である故アイルトン・セナ選手が亡くなった1994年の事故に例えられることが多い。

 セナ選手の悲劇的な死はレース規則の変更につながり、コース上での死亡事故がめったに起こらなくなるという効果をもたらした。

 だが各国政府は、金融規制の迅速かつ包括的な変更を成し遂げるという課題がさほど簡単には運ばないことが分かりかけてきている。

 これは、今後数年間にリーマンクラスの企業破綻が発生するリスクがなお残る、ということだ。ただ各国の当局は世界中に金融危機をまき散らさないため、次回は恐らくもっと決然とした対応をとることができるだろう。

 各国政府にとってリーマン破綻の中心的な教訓は既に明確になっている──将来起こり得るすべての危機を規制によって未然に防止しようとするのは無謀だが、危機の影響を限定する方法はあり、政府による救済策も必要だ。

 英国は、複雑でグローバルな銀行が立ち行かなくなったときの法的処理にかかわる悪夢をリーマン破綻によって目の当たりにした。財務省のマイナーズ金融サービス担当次官は銀行が銀行が構造を簡素化し、「生前遺言」を作成するよう望んでいる。

 同次官は「欧州連合(EU)全域で実施に向けて始動しなければならない。理論から実際の行動に移すときが来ている。効果的な取り決めのためには、簡素な構造が不可欠な前提条件だ」と話した。

 ロンドンの法律事務所、ハーバート・スミスのパートナー、パトリック・バッキンガム氏はこの発言について、「リーマン破綻の高度な複雑性が、必然的に、生前遺言という形での秩序だった清算計画を要求するきっかけになった」と説明する。 続く...
http://jp.reuters.com/article
/mostViewedNews/idJP
JAPAN-11482220090914

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「9・11テロ」から8年、混迷からの脱出を

 冷戦崩壊後、世界で唯一つの超大国となった米国のそれも経済と政治の中枢が攻撃された「9・11テロ」から8年が経つ。

 世界を震撼させた事件の発生からわずか1ヵ月後に米軍は、テロ攻撃の首謀者とされるビン・ラディンが潜伏するアフガニスタンに侵攻した。ロシアの協力を得たことなどもあり、それから1ヵ月後、米軍はアフガンの首都カブールを陥落させた。冷戦時代、覇権を争っていたロシアは、チェチェン問題を抱えており、共通の敵イスラム勢力を叩きたかったことから米国に協力したに過ぎなかった。

 タリバーンも戦術的に一旦、兵を引いただけだ。ブッシュ政権(当時)には、世界最強の軍事力を持ってすればアフガン一国くらい手もなく制圧できるという、大いなる勘違いがあった。16ヶ月後(2003年3月)には「大量破壊兵器が隠されている」という口実でイラクにも侵攻した。

 米国は2方面で泥沼にはまり込んだ。米国に追随した西側諸国も否応なく引き摺り込また。巨額の戦費調達のために市場原理主義というイカサマ経済は実に好都合だった。限度を超えて大きく膨らんだ風船(バブル)が弾けるのにさほど時間はかからなかった。

 2008年9月、イカサマの本丸ともいえる証券大手のリーマン・ブラザーズが破綻。風船を膨らます空気の役を務めていた日本経済も一緒に弾き飛ばされた。もたらされた惨禍は改めて記すまでもない。

 ブッシュ政権の反省に立って登場したオバマ政権はイラクからは撤退した。だがアフガンからは引き揚げることができずにいる。戦況は悪化する一方であるにもかかわらずだ。ベトナム戦争同様、負け戦となるのは必定である。開戦当時、ロシア軍の将校が「アフガンと比べたらベトナム戦争なんてピクニックだ」と嘲るように言っていたが、すでに予想通りとなっている。

 オバマ政権がアフガンから撤退できない理由のひとつとして軍産複合体を抑えきれていないことがある。「米国及び米国人がテロに遭わないために巣窟のアフガンで封じ込める」と云うのは、こじつけだ。屁のつっぱりにもならないことは当のオバマ大統領とホワイトハウスが知り抜いている。

 オバマ大統領が導入しようとしている「国民皆保険制度」は、軍産複合体に支配される米経済の中枢を占める金融・保険業界の猛抵抗に遭っている。「国民皆保険制度」導入に漕ぎ着ければアフガンからの撤退の糸口も見えてくる。

 米国では市場原理主義が復活の兆しを見せているというが、再び風船(バブル)を弾けさせようというのだろうか。日本をはじめ世界経済が混迷から脱出するには、先ず米国がアフガンから撤退できるように協力することだ。
http://tanakaryusaku.seesaa
.net/article/127789376.html
田中龍作ジャーナル

Obama pledges reform on Lehman anniversary The US president will use this week's anniversary of Lehman Brothers' collapse to promise to drive through financial changes in the face of opposition from banks, regulators and Congress
http://link.ft.com/r/EB8122
/ODV90/3VU2U/XFFDI
/D2XV4/UP/h


客家共同体と差異共振共同体:アジア・東洋的共同体
画像があるので、以下のURLで見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10342094701.html

東海アマ氏の客家共同体論があったが、思うに、この思想が中国の南画等に表現される自由感ではないだろうか。そして、これは日本の美学と通じると思われる。この点では、一衣帯水だと思う。
 そう、差異共振性という智慧をもった東洋民族が存したのであり、彼らがアジアの東西を移動したのだと思う。それが、文化・社会の基底・基層・古層に存すると考えられる。この点はいつか探究したい。

東海アマ氏の興味深い客家(はっか)論:客家とユダヤ人:共同体論


2009年09月12日(Sat)▲ページの先頭へ
連立政権問題:世直しと世壊し:環境利権主義による産業瓦解の可能性が強い:ポスト民主党が真打ちだ
以下の記事は同感できるものである。選挙で、社民党・国民新党併せて10議席であり、民主党の308議席の約1/30=3.33・・・%である。もちろん、数量主義はいけないが、常識的に見て、そのような少ない議席の政党から大臣が生まれるのは、バランス的に不合理である。
 副大臣程度ならば納得できるのである。あくまで、民主党が主導的であり、他の政党は補完的に過ぎない。
 勘ぐると、どうも、鳩山次期政権の「温室ガス」25%削減政策から見て、国際「エコ=エゴ」利権(環境利権)に染まっているのであり、その関係から社民党の環境相のポスト要求とは既に決まっていたのではないだろうか。
 どうも、鳩山次期政権には、国際的な環境利権(Kaisetsu氏の用語では「環境ファシズム」)の黒幕が背景に圧力的に存するように感じられる。これは、ポスト・モダン的全体主義と言えよう。同一性が強固に残っているために、全体主義へと傾斜するのである。
 政治には、正に、イデア論的批判が必要である。表面は見せかけ、仮象、マーヤーであり、本体・真相・真実は隠れているのである。
 そうすると、鳩山次期政権は、確かに、トランス・モダン的志向があるものの、背後から、ポスト・モダン的環境利権が巣くっているのである。一見、世直し的であるが、環境利権によって、産業が破壊されて、建て直しどころか、瓦解となる可能性が出てきている。
 どうも鳩山氏は白と黒との混淆があるのである。これは、ポスト・モダンとトランス・モダンの混淆である。その意味では、オバマ政権と類似性をもつ。

参考:

09/12]
├社民は雇用から逃げたと海舌も感じた⇒10日の常任幹事会で雇用関係ポストの要求で一致。 but 11日朝になり重野氏は「環境相」を求めた。
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=802394
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


toxandoriaの日記

■米ネオコンが操った小泉・安倍・福田・麻生政権・・・その結果、危うく



国民皆保険の原則を捨てかけた日本



<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。



http://d.hatena.ne.jp
/toxandoria/20090911

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社・国の要求、民主に不満…「鳩山政権」人事

 連立参加が決まった社民、国民新両党も、要求を強めている。

 社民党の重野幹事長は10日、鳩山氏に電話し、福島党首の入閣と、雇用関係の閣僚ポストを希望する考えを伝えた。党内では、厚生労働相や雇用対策相への起用に期待が高まっている。

 福島氏は環境相にも意欲を示しており、記者会見で「部下がいて、役所があって、きちっと腕を振るえるようにしていきたい」と語った。

 亀井代表の入閣が決まった国民新党内でも、郵政民営化の見直し実現に向け、亀井氏の総務相就任を求める声が多い。

 民主党内からは連立相手への不満も漏れている。参院幹部は「『亀井総務相』も『福島厚労相』もあり得ない。逆立ちしても、ない。我が党は衆院で308議席。社民、国民新両党は足して10議席だ。閣僚ポストをもらえるだけでも御の字だと思ってほしい」と語る。

 鳩山氏は、閣僚人事について、「首相指名後に(全閣僚を)決める」(8月31日未明の記者会見)としていたが、方針転換し、16日の特別国会での首相指名選挙前に固める考えだ。

 景気回復が遅れ、政権発足後、ただちに経済政策などにとりかかる必要が出てきたからだ。来年の参院選を視野に、子ども手当や高校の実質無償化などの財源に早くめどを付け、「実績」作りを急ぎたいとの思惑もあるようだ。(政治部 東武雄、田島大志)
(2009年9月11日06時30分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/
politics/news/20090911-O


『物』と『情報』について:超越的差異共振振動様態という『情報』と虚数情報世界
愚樵氏の新しい論考に刺激を受けて、本件について考察を行いたいが、とりわけ、『情報』について行いたいと思っている。
 例えば、『気』というものの『情報』を考えたいのである。先に、超越性の+iと-iの共振において、『気』の情報があるのではないかと示唆した。つまり、Media Pointにおいて、虚軸領域において、超越的差異の共振・共鳴が生起するのであり、それが、実軸上へと「投影」されて、『物』的現象が生じる(映ずる)のである。
 だから、『気』の『情報』とは、超越的差異共振におけるそれであり、端的には、超越的差異共振振動ではないだろうか。
 ポイントは、超越的振動ないしはMedia Point的振動であるということである。そして、より正確に言えば、超越的振動的様態に『情報』が存するということではないだろうか。
 それを仮説として、電磁波に関連して考察すると、ある意味で電磁波と『気』は同じものである。正確に言えば、同一であろう。ただし、これまで述べたように、電磁波においては、超越的『情報』性が欠落しているように思える。
 端的に言えば、『気』とは、調和的な超越的差異共振振動であり、単に電磁波というときは、調和性は乏しいように思われる。
 『情報』を便宜的に、超越情報としよう。この超越情報が、『気』の場合は、生命形成的情報であると思われるのに対して、電磁波の場合は、比較的単純な情報であると思われる。もっとも、modeの違いということで説明はできよう。
 また、遺伝子の問題であるが、いわば、プロト遺伝子は、この情報であろう。そして、物質的な遺伝子、たとえば、DNAは、Media Pointの同一性現象ではないだろうか。つまり、本来、超越的遺伝子情報があり、それが、物質的遺伝子へと変換されるということになる。これは、精神から物質への変容の過程でもある。
 さらに敷延して述べると、学習とは、この超越的情報を獲得することであろう。ここにアクセスできると、知性は爆発的に向上すると考えられるのである。いわば、トランス・モダン学習である。これは、メディア共振することで可能となろう。ミクロコスモス的な学習である。
 また、空海の両界曼荼羅について言うと、超越的差異共振振動の情報が金剛界曼荼羅であり、情報のエネルギー様態が胎蔵界曼荼羅ではないだろうか。つまり、Media Pointの情報が前者であり、そのエネルゲイアが後者である。言い換えると、デュナミスとしての金剛界曼荼羅であり、エネルゲイアとしての胎蔵界曼荼羅である。
 記紀神話で言えば、天之御中主神がMedia Pointで、高皇産霊神が前者で、神産霊神が後者に当たるのかもしれない。
 ところで、端的に、虚軸にあるものは『情報』であり、『知』であると言っていいだろう。つまり、『情報』=『知』が現象世界を創っているのである。正に、イデア論である。そして、それが虚数ということである。ピュタゴラス/プラトンは基本的には正しいのである。つまり、虚数情報、虚数知が現象世界を形成しているということになる。
 ここまで来ると、「神」とは何であるか、明確になる。「神」とは虚数情報、虚数知なのである。そして、これは、「神々」である。「多神教」としての世界なのである。後でさらに検討したい。


《物》の原理と《情報》の原理:トランス・モダンの視点
以下、愚樵氏の論考であるが、用語の「同一性」と「差異」が私が使用する意味とは反対であるが、説かれていることは、まったくPS理論的である。即ち、愚樵氏の「同一性」は、差異共振性であり、「差異」は「同一性」である。
 思うに、言葉自体のもつ多重性がこのような事態を生んでいると言えよう。
 とまれ、《物》の排他的原理、《情報》の共同的原理が見事に説かれていると言えよう。この混同・混淆ないしは連続性、連続的同一性化を、西洋近代やポスト・モダンは犯してきたのである。
 後で、刺激されて、新たな考察を行いたい。

****************
《物》の原理は専有、《情報》の原理は共有

2009-09-12

前提1:【私】が存在する。【私】以外の【他者】が存在する。


【私】は【他者】を、【私】に備わった〔感覚〕を通じて捉える。
【私】の〔感覚〕によって捉えられている【他者】の状態を《物》と呼ぶ。

【私】は《物》を〔意識〕によって捉え直す。
〔意識〕によって捉えられた【他者】の状態を《情報》と呼ぶ。


前提2:【私】は〔人間〕である。


【他者】のなかで、【私】と同じ〔人間〕であるとの《情報》が付与されている【他者】を【他人】と呼ぶ。

【私】は【他人】と《情報》を共有することで〔人間〕となり、共同体や社会を営む。

→《情報》の原理は共有である。
 共有物である《情報》を生み出す〔意識〕は、同一性を志向する。

《物》は、【他者】が共有態様である《情報》となる以前の、【私】の〔感覚〕のみによって捉えられている状態の、【私】のよる【他者】の専有態様である。

→《物》の原理は専有。
 専有物である《物》を生み出す〔感覚〕は、差異性を志向する。
http://gushou.blog51.fc2.com
/blog-entry-302.html

愚樵空論


2009年09月10日(Thu)▲ページの先頭へ
同一性自我と差異的自己:即非的意識は五元的意識である
自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、+1とは、同一性自己(自我)と見ることができるが、その意識はどこから来ているのか。思うに、+iと+1が連続的同一性化されて混同されている。
 否、正しく言えば、左辺が連続的同一性化されて、+1になっているのである。本来の自己+iも他者-iも、同一性+1になっているのである。例えば、「わたし」は同一性の「わたし」であり、対象も同一性の対象である。この同一性が物質化を生起する。「わたし」と対象を分離させるのである(二元論)。
 今疑問に思ったのは、+iと+1の「自己」の問題である。言語的知性は+1であると思われる。そして、本来の知性の意識は+iであると思われる。
 悟性と言った時、それは、+1ではなくて、+iであろう。しかし、一般に両者が混同されているのではないか。つまり、言語と知性が混同されているのである。構造主義的な誤謬である。
 結局、近代的連続主義は、+i(と-i)と+1との混同であり、トランス・モダン(越近代)は、両者の不連続・絶対的な切断・分離を意味する。
 では、そのとき、「意識」はどういうことになるのか。自己認識方程式の左辺の様態があり、かつ、右辺の様態がある。この関係はどうなるのか。
 これは、端的に、Media Point的意識ということではないだろうか。言い換えると、即非的意識ということである。それは、+iと+1とが即非化されて、共振するのである。正確に言えば、左辺と右辺が即非・共振化されると言えよう。これが、トランス・モダン(越近代)の「意識」と言えよう。即非的意識、差異共振的意識である。
 このMedia Point的意識は四元的ないしは五元的である。後者の方が正確である。


2009年09月09日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:光と闇と超越光:顕界と玄界と超越界
これまで、超越光ないしは超光について述べたが、それは、虚軸のMedia Pointに発生するだろう。それは、虚軸の世界を満たすのではないだろうか。
 しかしながら、同時に、現象光が発生し、それが、現象界を照らす。これが、⇒+1である。思うに、光は、⇒であり、+1が照らされる物質ではないだろうか。だから、⇒+1は、身体ではないだろうか。
 結局、超越光は、(+i)*(-i)ではないだろうか。そして、⇒が光である。では、⇒-1の⇒は何だろうか。
 これが闇ではないだろうか。では、-1とは何か。単純に言えば、反物質ではないだろうか。それとも、ダーク・マターだろうか。もし、そうならば、⇒-1の⇒はダーク・エネルギー、反光である。
 以上のように作業仮説すると、今日、光や現象は可視化され、意識化されているが、超越光や反光は認識されていないと言えよう。
 反光については、あいまいなので、おいておくが、超越光は、直感ではかなりわかりやすいのである。即ち、それは、正に、即非精神、差異共振現象を意味するからである。あるいは、一性、コスモスである。
 これは、一種の感性、身体的感性、正しくは、Media Point的心身感性であり、感得されるものである。通常の視覚に重なる「感性」であり、視覚が超越化されるのである。超越的視覚となると言えよう。
 超越光は、原光+iと原闇-iの共振によって生起するものである。
 問題は、通常の現象光である。これは、⇒+1の⇒と言ったが、本来、現象光の根源は超越光のはずであるが、どうして、超越光が排除される傾向にあるのであろうか。
 これは解明済みだと思うが、当然、同一性が支配的になるからである。そう、現象とは本来、差異共振現象なのであるが、人間の同一性がそれを同一性=物質的現象に「歪曲」しているのである。
  ⇒+1の+1を+iの認識が取り込んで、同一性現象とすると思われる。つまり、本来存する差異共振現象の超越光を現象光に還元していると考えられるのである。つまり、光は本来、超越光であるということである(天照大神、お天道様、大日如来、アフラ・マズダー、他。D. H. ロレンスの説く暗い太陽dark sunとは、正しくは、超越光、Media Pointの光と考えられる。)。即ち、(+i)*(-i)⇒である。
 認識+iが+1の物質に没入して、超越光がいわゆる現象光になってしまうということになる。言わば、超越光を同一性光に還元しているのである。
 ところで、さらに問題は、認識についてである。認識を+iとしたが、どうだろうか。これは、知的認識、とりわけ、言語的認識である。
 しかし、精神(身体)現象とは、原知+iと原身体-iとの共振と考えられるので、ある意味で、2つの認識力の共振作用である。即ち、+iの認識と-iの認識の共振ということである。
 では、いったい、-iの認識とは何か。これが、近代合理主義において、否定されるものである。(思うに、ハイデガーの存在論を肯定的に評価するならば、「存在」とは、-iを意味しているだろう。しかし、-iは「存在」ではなく、認識性である。)
 分かりやすく、比喩的に言えば、個とは双子なのである。一人が+iであり、もう一人が-iである。だから、一人の認識ともう一人の認識が共振していると言えよう。結局、三元的である。
 では、端的に、もう一人の認識とは何か。それは、他者の認識である。近代的自我はこの他者の認識を排除しているのである。
 身体、感性、直感等々をいうものは、本来は、他者の認識に拠るものであろう。正確に言えば、自己の認識と他者の認識の共振性である。
 とまれ、この他者の認識こそが、極言すれば、最重要であろう。ここにすべてがあると言ってもいいだろう。
 そう、自己の認識+i(自己認識ではない)とは、ある意味で、他者の認識を映す鏡のようなものに過ぎないのではないだろうか。私が測深するのは、この他者の認識ではないだろうか。つまり、+iより、-iの方が重要であるということになるだろう。+iを優位化すると、+1と同化するのであり、-iを優位化すると、-1と同化するのではないだろうか。
 この-1が智慧の源泉ではないだろうか。思うに、超越光は、光と闇に分化するが、+iが光に同化し、-iは闇に同化するのではないのか。(ならば、暗い太陽は-1になるのではないだろうか。)
 とまれ、-iを優位化したときに見えてくる世界を注視しないといけない。(禅はこの世界を瞑想しているのではないのか。)
 それは、いわば、玄の世界ではないのか。玄界である。顕界に対して、玄界があるということになる。
 とまれ、以上、問題提起である。
 
George Harrison - Who can see it


洋楽 George Harrison - Who Can See It Lyrics 歌詞

I've been held up,
I've been run down
I can see quite clearly now
through those past years,
when I played towing the line.
I only ask, that what I feel,
should not be denied me now,
As it's been earned, and
I have seen my life belongs to me
My love belongs to who can see it

I've lived in fear,
I've been out there,
I've been 'round and
seen my share
of this sad world
And all the hate,
that it's stirred
I only ask,
that what I know,
should not be denied me now
As it's been learned,
And I have seen my life belongs to me
My love belongs to who can see it

I only ask, that what I feel,
should not be denied me now
As it's been earned, and
I have seen my life belongs to me

My love belongs to who can see it.

My love belongs to who . . .

http://www.gahosting.info
/hosting-george-harrison
/hosting-who-can-see-it.html


2009年09月07日(Mon)▲ページの先頭へ
三つの「ゼロ」又は「空」?:空っぽの「空」
私は不思議なことに魅かれる。近代合理主義者ならば、迷信深いということになろう。
 とまれ、不連続的差異論が生まれる二日前には、頭の大きな女子が生まれた夢を見た。これは、ソフィア(知恵)を示唆しているのではないかと思った。また、今年の衆院選挙前には、純白の鳩を見た。これは、鳩山由紀夫氏への吉兆ではないかと思った。
 さて、今夏、私は自転車に乗っていたら、何と、三回もパンクした。パンクを「空」とすると、三つの「空」である。ないしは、三つの穴である。
 こんな経験は初めてである。そこで、これが暗示するものは何かと考えた。そこで考えたのは、Media Pointにおいて、虚軸のゼロ点があり、また、実軸のゼロ点がある。そして、両者は不連続的に平行している。
 思うに、この2つのゼロ点の間に、一種の「空」があるのではないかと思った。端的に、空っぽである。
 そうすると、三つの「空」があることになる。では、この三番目の「空」とは端的に何か。今、ふと思ったのであるが、これこそ、プラトンが古代宇宙論を説いた『ティマイオス』で言及されている「コーラ」ではないだろうか。
 何にもないからこそ、空っぽだからこそ、あらゆる形を取ることができるのではないのか。中空と言ってもいいだろう。
 また、今思いついたが、「気」とは、ここに存するのではないのか。ここから、実軸のゼロ点に到達して、電磁波、磁気等が発生するのではないだろうか。そうならば、理気論の「理」は虚軸のゼロ点ではないのか。
 今は簡単に指摘するに留める。


2009年09月06日(Sun)▲ページの先頭へ
衆院選挙における日本国民の「共通の思い・行動」:知行一致:深層の大噴火:差異共振大爆発
以下、青色とサイズで強調した箇所の「共通の」という言葉が実に意義深いのである。
 私は今回の衆院選挙は国民が深層において大噴火を起したと見て、民主党が勝つのは見えていたのであるが、この「共通の思い」とは、実は、同一性自己の意識ではなくて、差異共振意識から来ているのである。ここが日本文化・日本社会の基底なのである。ここが大震源となっているのである。表層的には、いろいろ自民党の悪政が説かれるが、実は今回の衆院選挙は、深層・「無意識」が大噴火したと見るのが正しいのである。つまり、戦後日本において眠れるMedia Pointが大爆発したのである。これが、トランス・モダン維新なのである。いわば、Media Pointの「気」が共振化して、「共通の思い」となったのである。差異共振的一性である。
 できれば、後で歴史的大変容の原動力について分析したい。しかし、以上の指摘でいくぶんは感得されよう。
 とまれ、民主党がその志向に逆らえば、民主党も敗退しよう。ただし、これからは精緻な政治手腕が試されるのである。小沢主導となるが、問題は、小沢のもつ同一性的志向である。中心は差異共振性であるが、小選挙区/二大政党主義等からわかるように、近代主義を抱えているのである。これを乗り越えることが本当のトランス・モダンである。だから、民主党政権はトランス・モダン維新の始まりの始まりと見るのが正確である。

****************

『<論壇>小泉構造改革、安倍戦争政治に対する、国民の鉄槌  2009年8月31日付
 衆議院選挙で全国の有権者は自民党売国政府をたたきつぶした。北は北海道から南は沖縄まで、国民は日本全国で、相談しあったわけではないのに共通の思いを抱き、共通の行動をとり、自民党を引きずり下ろしたのである。戦後50年あまり第1党の地位を占めてきた自民党が、第2党の野党に転落した。
 自民党は、小泉チルドレンといわれた部分が壊滅的状況になり、とくに小泉、安倍、福田とつづく、暴走を引っ張ってきた清和会が壊滅的打撃を受けた。ごう慢きわまりない振る舞いをしてきたボスどもが軒並み落選したり、かろうじて比例で首をつないで恥をさらす羽目となった。元首相とか元大臣といったいわば使い古し連中が、若い子分はいなくなり、いわば胴体のない頭(かしら)だけの「獄門さらし首」状態となった。』
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu
/ronndann%20koizumikouzoukai
kaku%20abesennsouseizinitaisu
rukokuminnnotettui.html
<論壇>小泉構造改革、安倍戦争政治に対する国民の鉄槌


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