INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/08

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年08月31日(Mon)▲ページの先頭へ
問題提起:台風の力学について:PS理論の視点から
これも、PS理論から見ると、+iと-iとの差異共振エネルギーとして説明できないだろうか。台風の場合は、+iと-iは、例えば、南北の位置と関係するのではないだろうか。例えば、北の位置を+i、南の位置を-iとすると、両者の差異共振が台風の原点とならないだろうか。
 両者は対等であるが、Media Point において、低気圧ないしは減圧が生起すると、両者は差異共振エネルギーを形成して、1/4回転して、捩れて、渦巻が生じるのではないのか。
 また、北の位置には大陸的気圧、南の位置には太平洋的気圧を置くことができるだろう。そして、前者が優位だと台風は、東の方向に押し出され、後者が優位だと、西の方向に押し出されるのではないだろうか。
 とまれ、今は問題提起に留める。

<台風11号>房総半島に接近、関東、東北、北海道で大雨

 気象庁によると、台風11号は、31日午後4時には千葉県銚子市の南約90キロの海上にあって、1時間におよそ25キロの速さで北北東へ進んでいる。中心の気圧は980ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は30メートル、最大瞬間風速は40メートルで、中心から半径60キロ以内では風速25メートル以上の暴風となっている。台風は、これから31日夜遅くにかけて房総半島に最も近づく見込みで、その後9月1日昼過ぎにかけて東北地方の東海上を北北東に進むとみられる(毎日新聞)
[記事全文]

参考:
台風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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宇宙から見た台風(平成16年台風第18号 )

台風(たいふう、颱風)は、太平洋 や南シナ海 (赤道 以北、東経180度以西100度以東)で発生する熱帯低気圧 で、最大風速 (10分間平均)が34ノット (17.2m/s)以上のものを指す。

・・・・・
台風の発生と発達 [編集 ]

台風の発生メカニズム [編集 ]

台風やハリケーン・サイクロンなどの熱帯低気圧発生の機構については様々な説が唱えられてきた。熱帯 の強い日射により海面に生じた上昇気流によるという説、熱帯収束帯 (赤道前線)上に発生するという説などが出されたが、どれも不完全であった。

現在では、「偏東風波動 説」が多くの支持を集めている。南北両半球の北緯(南緯)30度付近には、赤道 で上昇して北上(南下)した空気 が上空に滞留して下降し、「亜熱帯高圧帯 」が形成される。北太平洋高気圧 もその例であるが、これらの高気圧から赤道方向に向けて吹き出した風はコリオリの力 を受けて恒常的な東風になる。これが偏東風で、この風の流れの中にうねり(波動)ができると渦度が生じ、熱帯低気圧となるという考えである。なぜ波動が出来るのかはまだはっきりしないが、実際の状況には最もよく合致した説である。

ただし、そうして発生した波動の多くは発達せずにつぶれてしまう。1万メートル以上の上層に高気圧を伴う場合には高気圧の循環による上昇気流の強化により台風に発達すると思われる。また海水の温度が26度以上であることも重要な条件であり、高温の海面から蒸発する水蒸気が放出する潜熱 が原動力になっている。

台風の発達 [編集 ]

台風の発達過程はかなり詳しくわかっている。台風の原動力は凝結に伴って発生する熱である。温暖な空気と寒冷な空気の接触等による有効位置エネルギーが変換された運動エネルギーが発達のエネルギー源になっている温帯低気圧 との大きな違いはここにある。

上昇流に伴って空気中の水蒸気は凝結し、熱(潜熱)を放出する。軽くなった空気は上昇する。すると地上付近では周囲から湿った空気が中心に向かい上昇し、さらに熱を放出しエネルギーを与える。このような条件を満たすときに台風は発達する。このような対流雲の発達の仕方をシスク(CISK、第二種の条件付不安定)という。

なお、台風が北半球で反時計周りの渦を巻くのは、風が中心に向かって進む際にコリオリの力 を受けるためである。

2個の台風が1,000Km以内にある場合、互いに干渉し合って複雑な経路をたどることがある。これを提唱者の名前をとって藤原の効果 と呼ぶ。

一般に、台風は日本の南海上で発達し日本列島に接近・上陸すると衰える傾向がある。これは、南海上では海水温が高く、上述した台風の発達に必要な要素が整っているためで、日本列島に近づくと海水温が26度未満(真夏〜初秋は日本列島付近でも26度以上の場合があり、台風が衰えない場合もある)になることにより台風の発達は収束傾向になり、高緯度からの寒気の影響を受けて台風の雲も渦巻き型が崩れ、温帯低気圧の雲形へと変化する(但し、温帯低気圧に変わってから再発達する場合がある)。さらに上陸すると山脈や地上の建物などによる摩擦によって台風はエネルギーを消費し、急速に勢力が衰えるようになる。これが日本に近づく台風の特徴といえよう。

ただし例外もある。日本列島に上陸せず対馬海峡 を通過し日本海南部に入った場合、または台風が日本列島に一端上陸し、勢力が衰えた後に日本海南部へ出た場合は、暖流である対馬海流 (海水温が26度以上の場合のみ)の暖気が台風へエネルギーを供給し、且つ高緯度から上空に流れる寒気の影響を受けるために、台風は勢力が衰えるどころか再発達し、普段は台風による被害を受けにくい北海道、東北地方に甚大な被害を与える場合もある(日本海北部はリマン海流 (寒流)の影響で海水からのエネルギーが供給できないために台風自体は衰えるが、寒気の影響を受けて台風から温帯低気圧に変わった後に再発達する場合がある)。1954年の洞爺丸台風 (昭和29年台風第15号)や1991年の台風19号 (りんご台風)、2004年の台風18号 などがその例である。

台風の上陸と通過 [編集 ]

日本の気象庁の定義によれば、台風の上陸とは、台風の中心が北海道 、本州 、四国 、九州 の海岸に達することをいう。したがって、台風の中心が上記4島以外の島の海岸に至っても上陸とは言わないため、沖縄県 に台風が上陸することはない。台風の中心が、小さい島や半島を横切って、短時間で再び海上に出ることは、台風の通過と呼ばれる。

日本へのコース [編集 ]

台風が日本本土を襲う経路は様々であり、類型化は難しいが、典型的な台風として、北緯15度付近のマリアナ諸島近海で発生して西寄りに時速20キロメートル程度で進み、次第に北寄りに進路を変えて北緯25度付近、沖縄諸島の東方で転向し、北東に向けて加速しながら日本本土に達するというパターンが考えられる。台風の経路として書籍にもしばしば掲載される型であるが、実際にはこのような典型的な経路を取るものは少なく、まれには南シナ海で発生してそのまま北東進するもの、日本の南東海上から北西進するもの、あるいは狩野川台風 (昭和33年台風第22号)のように明確な転向点がなく北上するものなどもある。さらに、盛夏期で台風を流す上層の気流が弱く方向も定まらないような時期には、複雑な動きをする台風 も見られる。

日本には、平均して、毎年10個前後の台風が接近し、そのうち3個くらいが日本本土に上陸する。2004年 には10個の台風が上陸し、上陸数の記録を更新した(2004年の台風集中上陸 参照)。その一方で2008年 、2000年 、1986年 、1984年 のように台風が全く上陸しなかった年もある。

台風が日本本土に上陸するのは多くが8月から9月であり、年間平均上陸数は8月が最も多く、9月がこれに次ぐ。8月は、太平洋高気圧が日本付近を覆い、台風が接近しにくい状況ではあるが、台風発生数も最も多く、また高気圧の勢力には強弱の周期があるため、弱まって退いた時に台風が日本に接近・上陸することが多い。無論、西に進んでフィリピン・台湾・中国に上陸したり朝鮮半島方面に進むものも少なくない。7月や10月にも数年に1度程度上陸することがある。最も早い例では1956年 4月25日 に台風3号 が鹿児島県に上陸したことがあり、最も遅いものとしては、1990年11月30日に台風28号 が紀伊半島に上陸した例がある。


2009年08月30日(Sun)▲ページの先頭へ
問題提起:地球の公転の力学について:PS理論からの推理:重力に対して、垂直に作用する力の仮説
万有引力により、太陽と地球が引き合うのはわかる。しかし、そうすると、それだけなら、地球は太陽へ吸収されるはずであるが、そうならずに、公転するのは、それ以外の力が地球にはたらいているからと考えられる。即ち、地球を回る人工衛星は、いつかは自然落下する。それと同じで、太陽と地球の万有引力だけなら、地球は太陽に落下するはずである。
 考えられるのは、万有引力に対して垂直にはたらくなんらかの力の作用である。これがあれば、地球は落下せずに、また、月は地球や太陽に落下しないでいられるのである。
 PS理論から推理していこう。太陽を+i、地球を-iとしよう。両者の差異共振が生起する。その差異共振エネルギーの発動の一つとして、重力が考えられよう。それを⇒+1と考えることができる。(近代自然科学は、重力を⇒+1ではなく、+1にしている。そして、量子力学が⇒+1の視点を構築したのである。)
 本来、虚軸における引力が生じるから、それが、本来の方向である。つまり、虚軸的垂直性が重力の方向である。しかしながら、現象的には、垂直に捩れて、⇒+1と実軸化されるということではないのか。つまり、原重力と重力が存することになる。
 この線で考えると、重力へ垂直に作用する力とは、当然、虚軸の垂直方向の力でなくてはならない。これは何なのか。それは、+1⇒の力であろう。それは、マイナス・エネルギーの力ではないだろうか。それは差異共立力である⇒-1ではないだろうか。
もしそうならば、太陽と地球とのMedia Point 自体が地球の公転を産み出しているということになろう。(これを敷延すると、太陽系、銀河系、さらに宇宙全体がMedia Point によって回転していると説明できる。)
 とまれ、そうすると、ダーク・エネルギーが垂直力となるのではないだろうか。⇒+1を重力のホワイト・エネルギーとすると、⇒-1は垂直力のダーク・エネルギーということになる。
 また、⇒は捩じれる力であるから、螺旋形状の垂直的力も⇒-1となるだろう。これを敷延して、蔓植物、例えば、朝顔の蔓の螺旋を考えるとどうなるだろうか。朝顔に太陽+iと地球-iの差異共振エネルギーが作用し、+iは上昇へ、+iは下降へ、そして、⇒+1に⇒-1が作用して、上昇する力に螺旋する力が作用するということではないのか。⇒+1とは、上昇や下降を意味し、そして、⇒-1はそれに垂直に作用して、螺旋形状を形成するということではないのか。今は、問題提起に留める。
 


直感と知性の関係について:直感は虚数的現象事象であり、知性(悟性)は実数的概念知である
直感の領域はMedia Point である。では、そこで生まれた「霊感」に基づいて、言語化するが、一体、直感と知性との関係はどういうものなのだろうか。
 具象的に言うと、例えば、海岸に打ち寄せる波を見ているとしよう。黒みを帯びた波が、ザーッと音を立てながら、白く砕けて、幾重幾畳にも海岸線に打ち寄せている。
 「わたし」は海と和しながらも、海を観察している。即ち、「わたし」は海であり、且つ、海ではない。そこには、直感・直観がある。これと知性はどう関係するのだろうか。
 直観を例えば、言語化すれば、以上のようになるが、しかし、それは、直観の十全な表現ではないし、それは、不可能であろう。直観は常に、言語的知性を超えている現象、精神身体現象である。その不連続性を認識した上で考えると、悟性という概念知性によって直観を言語化していると言えよう。それは、虚数事象を実数で表現するものである。いわば、「物質」的な表現である。正確に言えば、外的現象的表現である。直観は、Media Point の虚数事象であるが、それを悟性という概念知性は言語を介して、実数的表現をすると言えよう。だからこそ、常に、そこには、絶対的亀裂があるのである。
 思うに、近代西洋文明は先にも述べたように、虚数事象を実数的表現に還元してきたのであり、それを近代合理性として、真理として捉えてきたのであるが、それは、あくまで、表層的概念であり、本体の虚数的真理ではなく、表層近似的概念に過ぎないのである。
 脱近代(トランス・モダン)とは、この事態から発しているのである。


2009年08月29日(Sat)▲ページの先頭へ
『近代合理主義(連続的同一性主義)の終焉とトランス・モダンの産みの苦しみ:近代民主主義、近代資本主義、近代社会主義、唯物論(物質主義科学)、マス・コミ(マス・メディア)の破壊:トランス・モダン・ゾロアスター教的闘争と新精神貴族的民主主義の新時代新政:平成日本国民大地震総選挙という出発点』
830(「闇を」超克する)衆院選挙目前に控えて、思うに、日本、戦後日本は終焉し、新たな時代に向けて、政治の新築が始まるが、しかし、先に述べたように、始まりの始まりに過ぎない。これは、トランス・モダン的進展のプロセスの開始を意味するのであるが、これは、個(絶対的差異、絶対的個)の世界の形成し、近代主義の同一性主義、連続主義、マス(大量)主義(量的主義)とはまったく異質の世界・社会の創造を意味するので、きわめて、困難な過程の開始である。トランス・モダンの産みの苦しみをこれから経ることになる。
 思うに、これは新たな位階的社会の形成であると思う。これまで、トランス・モダン・デモクラシー、新位階的民主主義と呼んできたが、思うに、差異的人間と同一性的人間に分化するのであり、人間の間に質的差異が明確化することになると考えられる。結局、差異的人間が差異共振し、差異共振共同体(自由共同体)を形成し始めるが、同一性的人間は、その意味がわからずに、旧い近代主義的発想に囚われたまま、前者への阻害・害悪・暴力を為すであろう。
 これが、トランス・モダン・ゾロアスター教的状況である。アフラ・マズダーに基づくスプンタ・マンユ(善神)とアンラ・マンユ(悪神)との闘争の時代の到来ということになる。現代日本においては、前者は優れたネット的野の知者を含めたアンチ小泉路線であり、後者は小泉主義の一味である。
 結局、これまでの同一性的民主主義から差異的民主主義への転換を意味するが、これは、Media Point Democracyとも言える。言い換えると、新貴族的民主主義の形成である。貴民主主義である。


2009年08月27日(Thu)▲ページの先頭へ
物質とは何か:2:差異共振様態の表層の実数としての物質、即ち、仮象・虚構としての物質
もっともシンプルな例で考えよう。水素と酸素を結合させて水を作る反応を考えよう。
2H2+02⇒2H20
これはいったい何なのか。PS理論で考えると、水素+iと酸素-iが反応して、水 ⇒+1が生起する。この⇒が重要なのである。水を+1としたとき、それは、表層としての水であり、深層が欠けているのである。深層とは思うに、水素イオンと酸素イオンではないだろうか。つまり、水素イオンが+iであり、酸素イオンが-iと考えられる。これが、差異共振(融合)して、表層の水が生まれるのであるが、深層は水素イオンと酸素イオンとの差異共振様態であると考えられる。
 表層だけの水が端的に物質であり、深層から表層を包摂した水が身体であると考えられる。表層とは深層の上層であり、実は、深層の一部なのであるが、深層を無視した表層である物質とは、実は、仮象であることがこれでわかるだろう。
 現象という表層だけをとり出して、物質という虚構を作り出しているのである。また、⇒-1も考えられる。水素イオンと酸素イオンの共立様態である。思うに、これが、深層の深層である。つまり、水とは、Media Point において、⇒+1と⇒-1との二面性をもっているのであるが、物質としての水+1は、これを無視して虚構されたものと言えよう。
 では、物質と呼ばれる表層のみの身体とは何か。それは、表層における近似値的な身体(正しくは、精神身体)であり、本来の真実ではないのである。その力学は、あくまで、実数である近似値であり、本体の虚数は無視されているのである。
 そう、水の例で言えば、本体は、虚数の水素イオンと虚数の酸素イオンの差異共振様態であるが、それが表層の実数が実体と考えられているのである。実数は、あくまで、仮象に過ぎないのである。
 ということで、物質とは、虚数の差異共振様態を、表層の実数として錯誤したものと言えよう。当然、マーヤーである。
 結局、量子力学は、虚構である物質を超えて、虚数としての超越という実体をほぼ捉えたものと言える。言うならば、超越的身体である虚数の差異共振様態の科学が量子力学と言えよう。端的に、イデア科学であるが、物質主義に留まっているので、非局所的長距離相関のような実数的発想に囚われているのである。虚数ないしは虚軸の領域を考えれば、非局所的長距離相関という発想は必要はないのである。
 
参照:
2007-02-23 非局所的長距離相関をどう見るのか:自己認識方程式と量子:原波即非CommentsAdd Star

非局所的長距離相関をどう見るのか:自己認識 方程式と量子:原波即非 粒としてのイデア と連続 的同一性

テーマ :相対性理論 /量子論

夕飯時だというのに、人の少ないドトゥールで、ミラノサンドAとブレンドを注文して、夕飯代わりにしたが、引き込まれている『量子力学 入門』を取り出して、最後の方を読んで、素粒子 の波動 と粒子性の排他的 二重性を確認して、先の私の考察 (思いつき)では、波動 が説明できていないことがわかったので、また、考え直すため、シャーペン を取り出して、本の余白に書き込んだ。メモ はそのままにして、内容を簡潔に記そう。

 すなわち、自己認識 方程式i*(-i)⇒+1において、iを原波動 、-iを原粒子と考えてみた。すると、方程式は、

原波動 -即非 -原粒子⇒光

となるだろう。簡単にするため、原波動 を原波、原粒子を原粒としよう。即ち、

原波-即非 -原粒⇒光

となる。光は光子 であり、電磁波 であるから、粒子であり、波動 である。しかし、これは、排他的 二重性である。



 電子 の場合でも、当然、かまわない。電子 波動 と電子 粒子である。

 さて、問題は、観測である。波動関数 が収縮するという問題である。つまり、波動 が粒子に変換する問題である。(この収縮であるが、なにか、クザーヌスの無限 の縮限としての有限・現象の考えを想起した。おそらく、通じるだろう。)

 ここで、原点(メディア ・ポイント )を考えたのである。素粒子 (この場合、光子 )は、原波・即非 ・原粒⇒光である。つまり、原点(メディア 界ないしメディア ・フィールド ないしメディア 場)において、素粒子 (正しくは、原素粒子 )は、原波・即非 ・原粒様相である。つまり、簡単に言えば、波動 と粒子との二重矛盾様態にあるということである。しかし、正確に言えば、前波動 と前粒子の二重矛盾様態である。ここは微妙 である。

 とまれ、私が想像 したのは、この原点の素粒子 を観測するとき、i*i⇒-1、(-i)*(-i)⇒-1となると考えたのである。即ち、前者 が、波動 であり、後者 が粒子である。粒子として観測すれば、粒子となり、波動 と観測すれば、波動 となるということである。



 もう少し正確に述べよう。原点の素粒子 とは何か。それは、イデア /現象境界の素粒子 ということである。メディア 場の素粒子 ということである。ここは、イデア 界と現象界の境界である。即ち、原波動 /原粒子が作用しているのである。原二重性が作用しているのである。これが、観測によって、現象・物質化して、波動 なり、粒子なりと実測されると考えられよう。

 素粒子 は、これまで述べてきたように、イデア /現象境界、すなわち、メディア 界(メディア 場、メディア ・フィールド )の「存在」であり、中間・両義的である。



 だから、原波動 ・即非 ・原粒子というイデア と、波動 と粒子という物質の両面を帯びていると考えられるのである。そして、観測によって、素粒子 は、物質化されて、波動 か粒子のどちらかに分化すると考えられるだろう。

 ここから、本件の非局所的長距離相関という仮説を考えると、量子力学 は根本 的に書き換えられなくてはならないように考えられるのである。



 すなわち、素粒子 は、粒子と波動 との相補性というよりは、原粒子と原波動 との即非 様相(事相)にあると見るべきなのである。つまり、非局所性は成立しないのである。なぜなら、粒子でも波動 でもなく、ただ、原粒子・即非 ・原波動 の二重矛盾様態(「絶対矛盾的自己同一」)にあるのであるから。イデア 空間は、即非 空間であり、純粋 な粒子性はないからである。

 ならば、量子力学 は書き換えられて、PS 素粒子 論(PS 量子論)ないしイデア 素粒子 論(イデア 量子論)ないし即非 素粒子 論(即非 量子論)にならなくてはならないだろう。

http://d.hatena.ne.jp/
sophiologist/20070223

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Fri, November 30, 2007 17:20:07
四次元量子論から、PS理論的高次元量子論へ:実軸現象界からガウス平面五次元界へ
テーマ:相対性理論/量子論 以下の量子論の解釈は、量子とは、粒子と波動とが相互変換するものということである。
 しかし、この解釈も奇妙ではないだろうか。そうならば、相互転換する仕組みはどうなのだろうか。やはり、同時二重性を認めるのが、整合的であると思えるのである。
 この問題は解明済みであるが、ミクロの世界に、Media Pointを見ることで解明されるのである。波動=振動とは、Media Pointにおける波動=振動であり、そこでは、いわば、超越波動(虚波動)と物質波動(実波動)とが即非的に併存しているのである。(おそらく、共振していると言うべきであろう。)
 粒子とは、物質波動における生成する同一性物質のことであろう。だから、量子とは、粒子であり、物質波動であり、且つ、超越波動(虚波動)なのである。一種三相共振態である。つまり、超越波動が根源にあり、Media Pointを介して、粒子と物質波動が同時生起するのではないだろうか。
 言い換えると、粒子は同一性であり、波動は二重なのである。思うに、Media Point波動ないしはMedia Point振動と呼べるだろう。すなわち、Media Point Wave(MP Wave)である。略して、MP波動(振動)と言おう。
 このMP波動が水平性と垂直性を共振させているのである。二重スリットの実験では、光子は一個であると同時に、MP波動が作用していると考えられるのである。
 以前にも述べたが、このMP波動(MP波動/粒子)が、いわゆる非局所的長距離相関を合理的に解明すると考えられるのである。すなわち、Media Pointの虚軸の方向に量子が作動しているということである。端的に、量子とは高次元体なのである。量子を単に実軸的四次元世界で考えると、非局所的長距離相関というパラドックスが生まれてしまうのである。
 リサ・ランドールによって、量子論は五次元・高次元へと今や進展したのである。それは、実軸原点という壁をブレークスルーしたと言えよう。トランス・モダン量子力学である。
 とまれ、後で、超越波動と物質波動との共振様相の実相について考察したい。

####以下引用・転載#####

 結論。
 以上のすべてをまとめて言えば、次のようになる。


 従来の学説は、量子を「粒子と波の双方の性質をもつもの」というふうに描写する。その際、基本としては、「量子は粒子である」と立場を取る。
 その結果、「一つの粒子が複数の状態をもつ」(一つの粒子の可能性が広く分布する)(重ね合わせ状態にある)という奇妙な表現を取るようになった。その奇妙さが、さまざまなパラドックスとして現れた。次のように。
  ・ シュレーディンガーの猫は、「生と死」という双方の状態にある。
  ・ 二重スリット実験では、一つの電子が二つのスリットを同時に通る。
 こういう奇妙な結論が出る。その理由は? 話の最初に、「波の性質をもつ粒子」というものを考えたからだ。
 だから、そういう根源的に矛盾した発想を、捨てればよい。かわりに、「粒子と波の相互転換」という発想を取ればよい。そうすれば、すべては整合的に理解される。
http://hp.vector.co.jp/authors
/VA011700/physics/quantum
.htm

 量子論/量子力学 
 
        …… その最前線

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参考:

いま、この力学系には、A(の力学量)が値aを取ればB(の力学量)が値bを取り、A(の力学量)が値bを取ればB(の力学量)が値aを取という相関関係が与えられていたとする。例としては、第五章の「スピンと波動関数」 の項のスピン状態χ+(s, s')またはχ-(s, s')などがある。(簡単のために、これからは断りなしに「の力学量」および「値」という言葉を省略することもある。)この相関関係があるとき「Aがa、Bがb」および「Aがb、Bがa」という運動状態が同時に存在する。したがって、そのおのおのの波動関数を、それぞれ、Ψ1(Aがa、Bがb)とΨ2(Aがb、Bがa)と書くことにすれば、重ね合わせの原理により、この力学系の状態は

Ψ=Ψ1(Aがa、Bがb)+Ψ2(Aがb、Bがa)

でなければならない(Ψはプサイと読む)。この相関関係が成立した後、AとBを十分遠く(たとえば、宇宙の中で星間距離ほど遠く)引き離して、Aがいる場所でAの力学量の測定を行う。その結果、第一の場合として、A(の力学量)が(値)aを取ったことがわかれば、「波動関数の収縮」Ψ→Ψ1(Aがa、Bがb)が起きるはずだ。したがって、ただちにB(の力学量)が(値)bを持っていることを知る。第二の場合として、測定結果がA(の力学量)の値としてbを与えたとすれば、「波動関数の収縮」は、Ψ→Ψ2(Aがb、Bがa)であり、ただちにB(の力学量)が(値)aを取ることを知るわけだ。
 いずれの場合も、宇宙的距離ほど離れたBに情報が瞬時に(光の速度を超える速さで)伝わった! なんとも不思議である。これを非局所的長距離相関という。
http://homepage2.nifty.com
/einstein/contents/relativity
/contents/relativity316.html

●EPRパラドックス --- アインシュタインの嫌う非局所的長距離相関

近未来最先端軍事テクノロジー
http://www.f5.dion.ne.jp
/~mirage/hypams04/
quantum_1.html
EPRパラドックスの検証
http://nucl.phys.s.u-tokyo.
ac.jp/sakai_g/epr/

コペンハーゲン解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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コペンハーゲン解釈(コペンハーゲンかいしゃく)は、量子力学 の解釈 の一つである。量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ねあわせで表現される。このことを、どちらの状態であるとも言及できないと解釈 し、観測すると観測値に対応する状態に変化する(波束 の収束 )と解釈する。


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参照:


+1は何も生まない。-1は豊穣である。

http://blog.kaisetsu.org/
?eid=610782

A-T,C-Gが対となった二重螺旋の意味

http://blog.kaisetsu.org/
?eid=610784
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10057880977.html

差異共振シナジー性の理論的構成:二つの差異共振空間:超越的波動空間(MP空間)と物質的波動空間(量子空間)
2007.05.06 Sunday | category:プラトニック・シナジー理論
差異共振シナジー性の理論的構成:二つの差異共振空間:超越的波動空間(MP空間)と物質的波動空間(量子空間):

差異的同一性を差一性(ないし差同性)と呼ぶ。すなわち、差一性Aと差一性Bとにおける差異共振性(差異共振シナジー性)の実質はどういうものなのか。 A≠Bであり、同時に、A=Bであるという即非の論理がここで成立する。通常の論理では、不等号の論理であるか、A=Aの同一性等価の論理が作用する。即非における等価の論理では、差一性が共振している。ここで、図式化してみよう。

差一性1・差異共振性1・差一性2・差異共振性2・差一性3・差異共振性3・・・

差一性をDifference Identity(DI)として、差異共振性をDifference Resonance(DR)とすると、

DI1-DR1-DI2-DR2-DI3-DR3-・・・・・

となる。簡略化して、差一性を同一性Iとして、差異共振性を共振性Resonanceとすると、

I1―R1−I2−R2−I3−R3−・・・・

となるだろう。そして、MEDIA POINT(以下、MP)の理論を挿入すると、

I1-MP-I2-MP-I3-MP-I4-・・・・

となるだろう。MPは、普遍共通だから、序数をつける必要はないと考えられる。Iを元に戻して、差一性にすると、

差一性1−MP−差一性2−MP−差一性3−MP−差一性4−・・・

結局、差一性Aと差一性Bとは、メディア・ポイントを介して、共振するのである。ここで、即非の論理が成立するのである。だから、即非論理をメディア・ポイント論理(MP論理)と呼ぶこともできよう。
 とまれ、これで差異共振性の意味が明快になったと言えよう。個と個とは、メディア・ポイントを介して、超越的に共振するのであり、このときには、新たな超越的エネルギーが放出されるのである。しかし、これは、エネルギー保存則から、消滅するエネルギーである。生成消滅的エネルギーである。だから、思うに、イデア界・超越界においては、イデア・超越的差異共振性のデュナミス、即ち、ポテンシャル・エネルギーがあり、それが、メディア・ポイントを介して、エネルゲイア化・エネルギー化すると考えられる。つまり、m(ic)*(-ic)⇒E=mc^2というエネルギー公式で考えると、⇒の左辺は超越界・イデア界のデュナミス(ポテンシャル・エネルギー)を意味して、⇒の右辺がエネルゲイアではないだろうか。
 そう考えると、これまで、超越的エネルギーと呼んでいたものをどう考えるのかという問題が生じる。思うに、⇒が超越的エネルギーを意味するのではないだろうか。そう、⇒がメディア・ポイントであり、ここにおいて、超越的デュナミスが超越的エネルギーになり、また、物質的エネルギーになると考えられるのではないか。この物質的エネルギーが、いわゆる、電磁波である。例えば、「気」は、超越的エネルギーであるが、観測装置では、電磁波や磁気として検証されるということのように考えられるのである。あるいは、端的に、精神ないし霊の場合を考えよう。それも、「気」とまったく同様に考えられよう。精神ないし霊は超越的エネルギーであるが、それは、科学的には、電磁波ないし磁気として観測されるのである。
 思うに、なんらかの原因で、共振化がメディア・ポイントにおいて発動すると、それは、超越的エネルギー、そして、物質的エネルギーとなるが、それは、超越的波動であり、物質的波動(電磁波)であろう。問題は、この波動空間である。超越的波動空間とは何なのか。物質的波動(電磁波)は、現象空間を伝播する。物質的波動(電磁波)は、メディア・ポイントを介して、現象軸(ガウス平面の実数軸を現象軸と呼ぶ)を伝播すると考えられよう。
 では、超越的波動空間は何処なのか。これは、推察されるのは、端的に、メディア・ポイントである。そして、多数・無数のメディア・ポイントが存すると考えられるので、いわば、メディア・ポイント空間が超越的波動空間と言えるだろう。これは、個体と個体、個物と個物、個と個、差一性と差一性、同一性と同一性の間に存する不連続的空間である。だから、物質的波動空間(電磁波空間)とは微妙に異なると言えよう。物質的波動空間とは、メディア・ポイントを介する現象軸空間であるが、超越的波動空間とは、メディア・ポイント空間である。それは、超越的空間(イデア界)と現象的空間(現象界)との中間である。メディア空間とも言えよう。
 考えると、物質的波動空間と超越的波動空間とは、微妙な関係にある。前者は、量子空間と言ってもいいものであるし、それは、超越的波動空間と交差していよう。ここで区別するならば、物質的波動空間=量子空間とは、メディア・ポイント連続空間であり、超越的波動空間=メディア・ポイント空間とは、メディア・ポイント不連続空間であると言えるのではないだろうか。
 しかしながら、前者の問題は、実は、メディア・ポイントに接しているので、本来、不連続なのである。しかし、物質的連続主義から、その不連続性を否定しようとしているのである。非局所的長距離相関の概念や粒子と波動の相補性という概念がそのようなものと考えられるのである。言い換えると、端的に、物質的波動空間=量子空間とは、物質論理的には、矛盾を抱えた空間、即ち、不整合な空間であると言えるだろう。本質は不連続でありながら、連続性によって糊塗しようとするのである。当然、これが、量子力学が壁にぶつかっている根因である。標準理論の破綻、ダークエネルギー問題等々も、ここに原因があると言えよう。量子力学、ひいては、自然科学が今日、超越的飛躍(いわば、キルケゴール的飛躍)の実行が切迫していると言えよう。物質からイデアへと超越飛翔する必要があるのである。
 とまれ、ここで、ここで整理するならば、物質的波動空間=量子空間は、メディア・ポイントにおける現象軸空間であり、超越的波動空間=メディア・ポイント空間は、メディア・ポイントにおける超越軸空間(超越軸は虚数軸)であると言えよう。補足するならば、量子論は、超越的波動空間―超越軸空間を導入することで、トランス・量子論へと進展するだろう。PS理論的量子論である。イデア論的量子論である。
http://sophiology.jugem.jp/?eid=84

2007.02.21 Wednesday
二重スリット実験のPS理論的解法


二重スリット実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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二重スリット実験(にじゅうスリットじっけん)は、量子の波動性と粒子性の問題を典型的に示す実験。リチャード・P・ファインマンはこれを「量子力学の精髄」と呼んだ。ヤングの実験で使われた光の代わりに一粒の電子を使ったもので、1989年に外村彰によって行われた。この実験はPhysicsWeb誌で最も美しい実験に選ばれた



(解法 by Kaisetsu)

◆ 細い穴の『部分』が、メデイア・ポイントとなっている。
◆ このため、空間の不連続部分、虚数軸への「割れ目」に多くの電子が吸い込まれる。
◆ つまり、水の入ったバケツの底に小さな穴を開けた状態になる。一つの穴を中央に開けた場合、二つの穴を近接して開けた場合と同じ。水を小さな砂粒と考えても同じ結果である。
◆これによって、確率論的場の世界観から解放された。神はサイコロを振らない。(アインシュタイン)
◆PS理論による解法は、光が粒であるとか、波であるとかの区別を必要としない。メデイア・ポイントを通過可能であるかの問題である。

参考⇒
2007.02.21 Wednesday
カシミール効果のPS理論的解法


JAPONESIAN APOCALYPSE
Tue, February 20, 2007 19:50:48
非局所的長距離相関をどう見るのか:自己認識方程式と量子:原波即非粒としてのイデアと連続的同一性
テーマ:相対性理論/量子論

すなわち、素粒子は、粒子と波動との相補性というよりは、原粒子と原波動との即非様相(事相)にあると見るべきなのである。つまり、非局所性は成立しないのである。なぜなら、粒子でも波動でもなく、ただ、原粒子・即非・原波動の二重矛盾様態(「絶対矛盾的自己同一」)にあるのであるから。イデア空間は、即非空間であり、純粋な粒子性はないからである。

 ならば、量子力学は書き換えられて、PS素粒子論(PS量子論)ないしイデア素粒子論(イデア量子論)ないし即非素粒子論(即非量子論)にならなくてはならないだろう。
http://theory.platonicsynergy.
org/?eid=478834

Theories for the Platonic Synergy Concept.

 
TIGBlog
uncertainty relation and reality

第3章.不確定性関係と実在


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 量子力学は、現実を完全に記述する理論ではない。物理的《実在》が所有している情報のある部分を縮約することによって、系の状態を直接に表すのではなく、分岐していく世界という(確率付きの)選択肢を提示するにとどまると考えられる。それでは、量子力学という理論形式で見落とされているのは、どのような現象なのだろうか。
 素朴な発想に従えば、いわゆる不確定性関係の中に、縮約された情報の名残が見いだせるように思われる。すなわち、粒子の位置と運動量が同時に決定できないのは、ランダムな揺動力が働いて粒子の軌道が〈揺らいでいる〉結果とする見方である。実際、1粒子系のシュレディンガー方程式は、時間tを虚数時間iτ に置き換えるだけで、形式的には一種の拡散方程式になる。ところが、よく知られているように、拡散方程式は、ランダムな力が作用するときの運動を記述するランジュバン方程式を(確率過程として)粗視化することによって導かれる。従って、「量子力学の根底には何らかの《揺らぎ》が存在しており、この《揺らぎ》の性質についての無知が、量子力学における不完全性の起源になっていると」と主張することは、それほど突飛な論法とも思えないかもしれない。
 しかし、既に多くの学者が示しているように、不確定性関係を《揺らぎ》に還元することは、ほとんど不可能である。本章では、その理由を明らかにしながら、《揺らぎ》に代わるべき不確定性関係の起源について考察していきたい。

不確定性関係の表現
 不確定性関係は、量子力学の初期においては、位置と運動量を同時に測定するときの精度に原理的に加わる制限として解釈されてきた。 … しかし、第2章で述べたように、量子力学が完結した理論であるためには、その記述から測定という用語を排除できなければならない。従って、不確定性関係も、測定をする以前の、より根本的な状況を示す表現様式によって定義される必要がある。実は、…不確定性関係のさまざまなヴァリエーションが、基本的には、位置・運動量に対応する演算子の正準交換関係:
   [q,p]=ih
から導出されることが知られている。これより、正準交換関係が不確定性関係の最も基礎的な表現であると想定される。

量子論的分離不能性−−現状
 物理的実在に関する量子力学的記述の不完全性と不確定性関係との関わり合いが最も如実に示されるのが、有名なアインシュタイン−ポドルスキー−ローゼンによる分離可能な系における完全性の議論である。…
ここで実験的に示された量子力学における長距離相関の存在は、量子力学的な不確定性が統計的な《揺動力》によって生じるという主張を(ほぼ)完全に否定する。…

量子論的分離不能性−−解釈
…なぜ、《分離不能性》が物理的実在の性質を反映していると考えないのか。その理由として、(相対論との矛盾の他に)次の点を指摘しておきたい。こんにちでは、超伝導やレーザー発振など、量子効果が巨視的な拡がりを持つ現象が数多く知られている。ところが、これらはいずれも(電子とフォノンの相互作用やエネルギー準位間のポンピングなど)局所的な相互作用を媒介として実現されるものであり、物理学者たちの努力は、局所的な性質をもとにいかにして長距離相関を派生されるかに向けられてきたと言っても良い。それだけに、もし量子力学の法則が空間的に拡がった非局所的相互賞に依拠しているとすれば、なぜその性質が物性として表に現れないのか、真摯な物理学者は理解に苦しむことだろう。実際、材料科学やエレクトロニクス、原子核・素粒子理論など、量子力学が実用のための道具として利用されている領域では、非局所的な長距離相関は全く観察されていない。これに対して、スピン系に見られた相関は、あくまで「スピンがどの方向を向いているか」という実験者側の認識の問題であったことを想起されたい。 …

《不確定性関係》と実在の問題
 前節の議論は、量子力学を越えて《実在》の完全な記述を行う理論の可能性を示唆するものであった。しかし、そうした理論を通じて明らかにされる《実在》は、常識的な世界観とは根本的に相反すると予想される。

November 28, 2006 | 9:05 AM
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2009年08月26日(Wed)▲ページの先頭へ
物質とは何か:同一性傾斜の発生について:自然環境の苛酷化と父権文明の誕生
これまで、物質と身体を区別し、前者は後者の同一性的抽象に過ぎないと述べた。記号で言えば、⇒+1が身体であり、+1が物質であるが、本来、⇒+1において、⇒と+1は分離できないもの(一如、不分離、不二)であるが、それに対して、無知の状態で、+1を分離させて物質を虚構したと言える。
 本来不分離、一如、不二(ふじ、ふに)のものを分離させる「力」とは何かと言えば、それは当然、同一性志向性である。これが、マーヤーを形成するのである。カント哲学で言えば、超越論的形式である。構造主義の構造である。人間は、とりわけ、父権主義は、これに傾斜ないしは偏向していると考えられる。(思うに、この傾斜はエロスと呼べるだろう。同一性欲望であり、それは、物質的欲望である。そして、支配・権力的欲望と考えられる。父権的欲望と言ってもいいだろう。また、二項対立的欲望である。二者択一的欲望である。そして、アンラ・マンユである。)
 これは、記号で見ると、⇒+1の⇒の先端に存すると考えられるが、この、いわば、同一性原理の発生について精緻に考察しよう。
 同一性原理とは、主観性と客観性の二元論であり、西洋文明の特性である。(それに対して、東洋文明は不二一元論である。あるいは、極性論である。その結晶が即非論である。)
 具象的に検討しよう。眼前に、小楢(こなら)の木を見ているとしよう。これは、確かに、「わたし」の外部に存在している。即ち、「わたし」と小楢は分離している。これは、即非の非である。非の現象である。しかしながら、「わたし」は小楢であるという知覚も可能なのである。映像的にはクローズ・アップすると、そのような即の知覚が生まれやすいのではないだろうか。
 即非知覚において、即の知覚を喪失すると、非の知覚、即ち、同一性的知覚、二元論的知覚が中心化されて、西洋文明的知覚が生起するのである。端的には、近代西洋文明的知覚である。(東洋文明的知覚をコスモス一体的知覚、西洋文明的知覚を機械的知覚と呼べるかもしれない。)
 「わたし」は「わたし」であり、小楢は小楢であり、「わたし」は小楢ではないという知覚・認識が生起するのである。これは、本来のMedia Point 的知覚、即非的知覚、差異共振現象への暴力ないしは抑圧なのである。この、差異への暴力(抑圧)が問題なのである。(これが、戦争や差別等の悪の根因である。)
 端的に、この同一性傾斜はどうして生じるのか。これは、人類の根本的謎の一つである。換言すると、父権主義や一神教の発生の原因である。
 思うに、総体的なMedia Point において、一つのそれまでにない変異が生じたのではないか。Media Point は本来、陰陽的であり、陰へ傾斜する場合、陽へ傾斜するときがあり、常に生成流転的である。ここで、陰を差異、陽を同一性とすると、陽=同一性へと傾斜する力学が発生したと考えられる。これは、男性の誕生とも言えよう。正確には父権主義の誕生である。
 Media Point は生成流転的なので、変化するが、この陽=同一性傾斜は、いわば、変化を否定して、固定作用があり、本来、反自然的である。これは、いったい、何を意味するのか。不自然なものがそこには発生しているのである。
 一種、突然変異である。父権的突然変異、同一性的突然変異である。以前、仮定したことであるが、どうやら、気候変動と関係しているのではないだろうか。あるいは、天変地異ないしは地殻の大変動等と関係しているのではないのか。
 生存のために、同一性傾斜が必要になったのではないのか。つまり、生存環境が生存に厳しくなったとき、安定した身体的生活(エロス的生活)のためには、同一性傾斜が必要になったと考えられよう。
 それを作業仮説とすると、気候風土、自然環境の過酷苛烈な土地で、同一性傾斜が発生すると言えよう。これには、極地や砂漠地域が入る。
 この過酷な環境に対して、生き延びるためには、同一性傾斜が必須であり、主客二元論が生起し、同一性主義的思考が生まれたと考えることはできる。
 思うに、これこそ、人類文明の大革命であろう。(ここで想起するのは、キューブリック監督の有名な『2001年宇宙の旅』である。人類の祖先と想定される原人が棍棒をもって、同類(あるいは、猿)に襲いかかり、食肉するのである。)
 これは、言い換えると、同一性の狂気・無知・盲目・妄想・妄念・妄執等の発生でもある。これが、父権文明、西洋文明の根底・基底・土台に存するものである。
 とまれ、過酷な環境において生存(エロス的に生存)するために、同一性傾斜が必然・変異的に生起したということなる。いわば、自然の悪の側面によって、同一性傾斜(父権文明、ユダヤ・キリスト教西洋文明)が生まれたとことになる。これは、脱母権文明、脱東洋文明の大革命なのである。これで、本件の課題の解明を終えたこととしよう。
 さて、ここで簡単にトランス・モダンへと差異共振的に変異せん(自発的変異)とする現代世界を考えてみると、これまで繰り返し述べてきたように、西洋文明ないしは父権文明の悪、同一性傾斜の悪が巨大化して、無秩序が生起したため、今やそれを相克する時代となっているのである。脱父権文明、脱西洋文明、脱一神教文明の時代を創出せんとしているのである。
 これは、同一性的大革命に並ぶ、大進化である。これは、大革命ではなく、大回帰である。復興・復権・ルネサンスである。大新生である。大一新である。


2009年08月25日(Tue)▲ページの先頭へ
⇒+1と⇒-1の問題:同一性と差異共振性について:顕光界と玄光界の二つの世界:現象界はマーヤーである。
Media Point において、⇒+1は、主体+iと他者-iの連続的同一性化であり、⇒-1とは、主体+iと他者-iの差異共立を意味すると考えられる。
 前者において、+1=同一性=光が主体と他者の間に入り、両者を同一性にすると思われる。
 後者の場合、仮説であるが、玄(これまでの闇に換える)という差異共振化が生じるのではないだろうか。これまで述べてきた「一体性(一体感)」であるが、それはここにおいて生起するのではないか。即ち、主体+iと他者-iはそれぞれ絶対的差異であり、そうであるからこそ、共振し、一体化するということではないだろうか。
 前者の場合、即ち、同一性化の場合は、主体と他者とのそれぞれ同一性化するので、共振(即非)化が生起しないと考えられる。
 ここで具象的に考えよう。「わたし」が海を見ているとしよう。⇒+1の視覚(同一性的視覚)においては、「わたし」は「わたし」であり、海は海であるという同一性現象が生起する。これは、日常的視覚である(端的には、近代主義的視覚である)。
 しかし、⇒-1の視覚においては、「わたし」は海であり、かつ、海ではないという即非・共振視覚が生起すると考えられる。とは言え、クリティカルに重要な点は、⇒+1においては、「わたし」と海がそれぞれ、同一性化しているのであり、⇒-1においては、「わたし」と海とはそれぞれ、差異(絶対的差異)のままで、即非・共振している点であると考えられるのである。
 一見、両者において、「わたし」と海とは同じものと思われるが、それはまったくそうではないのである。つまり、前者においては、同一性化された「わたし」と「海」があり、後者においては、絶対的差異としての「わたし」と海が共立しているのである。この点はいくら強調しても強調し過ぎることはない。
 では、後者において、光や視覚とは何であろうか。ここで、作業仮説ないしは思考実験であるが、二つの光や視覚が生起するとしよう。前者の光と視覚であるが、それは、Media Point における実軸のゼロ点で発生し、後者の光と視覚はMedia Point における虚軸のゼロ点で発生すると考えたい。そして、前者の光を顕光、後者の光を玄光と呼ぼう。そして、両者はMedia Point においては、当然、不連続的に関係しているのである。
 では、端的に、この二つの不連続な光とはどのように事象的に相互に関係しているのかが、重大な問題である。これまで、私は、光と超光の二重性を述べてきた。つまり、通常の視覚に、差異共振視覚が重なることを述べた。正確に言えば、本来、差異共振現象が生起するが、それを通常、(同一性的)現象としていると述べたのである。
 この問題は実に微妙な問題であるので、精緻・厳密に考察しなくてはならない。結局、二つの不連続な異質な「光」が生起すると見るのが正確なのである。そして、Media Point において、両者は一見交差しているように見えるが、そうではなく、両者は絶対的に交わらず、平行関係にあると考えられるのである。
 では、この、Media Point における不連続な平行関係とは何であろうか。思うに、これは絶対的な位階ではないだろうか。精神と物質との絶対的な位階関係ではないだろうか。言い換えると、精神が主であり、物質で従であるという絶対的な「封建制」・「君主制」・「貴族制」ではないか。つまり、二つの「光」は、絶対的に交わらないということだと考えられる。思うに、これが、創造の奥義・神秘である。端的に、絶対的亀裂・断層・裂け目があるのである。
 とまれ、結局、Media Point において、玄光と顕光という二つの絶対的な亀裂をもつ「光」が生起するということになった。
 人間の知覚・認識の原点はMedia Point であり、ここにおいて、不連続的に二重な顕光と玄光が本来的には知覚・認識されると言えよう。
 では、このことは何を意味するのか。端的に、「現象」とは二つの世界があるということである。一種、パラレル・ワールドが存在するということである。つまり、顕光の世界のパラレル・ワールドとしての玄光の世界が存するということである。そして、顕光の世界とは、同一性の世界であり、同一性の悪(アンラ・マンユ)が存し、玄光の世界には差異共振の「真・善・美」(スプンタ・マンユ)が存すると考えられる。
 しかしながら、単に、二重の「現象」の世界の生起があるのではなく、顕光の世界は玄光の世界に取って代わられると考えられる。何故なら、顕光の世界、顕光の現象界、即ち、物質(同一性)の世界とは仮象・仮現・仮構であるからである。
 そう、では、顕光界(現象界)とは端的に何なのか。やはり、ヒンドゥー教・インド哲学の説くマーヤーである。見かけ、見せかけ、見えの映像(影像)の世界に過ぎないのである。


2009年08月23日(Sun)▲ページの先頭へ
『思考実験:⇒-1と⇒+1の関係:近代合理主義は、直接的には、⇒-1(闇現象)を抑圧するのではないのか:アフラ・マズダーは⇒-1のスプンタ・マンユとして、活動態(エネルゲイア)となる』
Media Point において、⇒+1と⇒-1が同時生起すると作業仮説して考察を行なう。この二つの力はどういう関係なのか。これまで表裏関係と言ったが、それでは、静的である。⇒の方向がプラスとマイナスなので、両者は対立・対峙するものと考えられる。
 そして、近代合理主義であるが、それは、⇒+1に傾斜しているのであり、⇒-1を抑圧していると言えるのではないだろうか。これまで、-iを抑圧すると考えたが、直接的には、⇒-1を抑圧していると考えた方が、力学的には明晰である。
 そう考えると、西洋文明は⇒+1の理性中心の文明であり、⇒-1を抑圧してきたのである。⇒+1が「光」=「天」=「父」ならば、⇒-1は「闇」=「地」=「母」である。
 だから、当然、力学的バランスから考えて、後者が復権を求めると考えるのは正論である。そして、このとき、Media Point (太極点・即非点)が核心となるのである。
 反動的には、⇒+1に反逆するように⇒-1が作用する。これが、ロマン主義や神秘主義等である。問題は、回帰なのである。同一性傾斜に対して、差異が復権を求めているのである。言い換えると、⇒-1の作用とは、Media Point の復権を意味するのである。作用に対して、反作用がはたらき、根源のMedia Point のバランスへと回帰する志向性があると考えられる。正に、螺旋的回帰である。結局、意味するところは、原光と原闇と光と闇の大即非・共振ではないだろうか。いわば、十字架共振、グランス・クロス・レゾナンスである。
 とまれ、⇒-1の闇領域において、直接的には、差異共振エネルギーが作用すると言えよう。アフラ・マズダー(絶対的善)は、⇒-1の聖なる霊スプンタ・マンユとして、活動態(エネルゲイア)となるのである。


原光+iの力(陽)と原闇-iの力(陰)の均衡点としてのMedia Point(太極点):思考実験としての⇒-1の解釈:現象闇とスプンタ・マンユ
原光+iとは「自己」・知であり、原闇-iとは「他者」・「識」(?)である。問題は、実軸領域にある。既述のように、近代合理主義(近代的自我)は、+1の同一性=物質に主体を没入させたのである。即ち、原光+iが同一性=物質+1へと没入し、原闇-iを抑圧したのである。
 思うに、原闇-iの反動がロマン主義や神秘主義(オカルト主義)だと考えられる。(ポスト・モダンもほぼこの延長上である。特にドゥルーズがそうである。)
 わかりやすくするために、原光を「光」、原闇を「闇」としよう。すると、精神・心において、この二つの「力」、「光」と「闇」が対極として拮抗しているのである。
 しかしながら、これをゾロアスター教(ないしはマニ教)的な善悪二元論と見るのは誤謬である。何故なら、そこでの善(アフラ・マズダー)とは、Media Point (太極)における超光であり、悪(アンラ・マンユ)とは+1であると考えられるからである。(因みに、善神のスプンタ・マンユは⇒-1であろう。)
 さて、近代合理主義は、数学的には虚数(虚軸)と実数(実軸)の混同による誤謬であるが、その「闇」の抑圧であるが、それは「光」の傾斜、「光」の近代合理性への傾斜によってもたらされる。即ち、同一性=物質+1に没入した「光」は、Media Point(太極点)にある「闇」を把捉できないため、抑圧するのである。没入した「光」の盲目さに拠るのである。
 そして、被抑圧の「闇」であるが、それは端的に「影」(シャドー)になると言えよう。これは「無意識」である。そして、盲目の「光」に対して、本来のMedia Point(太極点)の「力」の復権への志向性が生起するのである。(この事態が19世紀後半から20世紀初期にかけての諸理論の動機であり、また、ポスト・モダンのそれであると言えよう。)
 この「力」(太極力=差異共振力)は、同一性的「光」の支配下においては、反発となるのである。それは、本来、超越的、絶対的差異的な「力」であるために、同一性的「光」にはまったく不可解・不可知のものである。異質、不可思議なものとなるのである。
 思うに、この「力」の、いわば、「感識」(造語)があるだろう。それは、本来的には、理性や知性というよりは、直感(直観)力である。イマジネーションやヴィジョンもここから派生するだろう。あるいは、「気」「感識」である。
 ということで、近代合理主義の盲目の「光」の支配下において、「闇」ないしは「影」が無意識的に反発し、それを破壊しようとするのである。言わば、アポロ主義に対するディオニュソス主義である(ニーチェ)。
 しかしながら、反発の本来の意味はMedia Point の回復にあるのである。即ち、同一性とは不連続である「闇」の確認と「光」と「闇」の共振であるMedia Point の復権である。イデア論の復権である。
 さて、最後に用語を整理する必要がある。これまで、⇒+1を光、⇒-1を闇と述べたので、「光」(原光)と「闇」(原闇)と混乱する恐れが強いからである。そこで、⇒+1の光を現象光、⇒-1を、矛盾する言い方だが、現象闇と呼び、+iと-iこれまで通り、それぞれ、原光と原闇とし、この共振によって生起するエネルギーを超越光と呼ぼう。
 一番わかりにくいのは、⇒-1の現象闇である。それは端的に何か。それは、いわば、現象光の裏面である。メダルの表裏のように、現象の裏面にあるものである。一種、ルイス・キャロルの「鏡の国」である。Media Point において、超越光が発生し、それが、現象光となり、また、現象闇となるのである。同時生起である。
 とまれ、より具体的に言うと何なのであろうか。思うに、これは、D.H.ロレンスが述べた「暗い太陽、黒い太陽」dark sunに相当するのではないだろうか。これは、通常の「明るい太陽」light sunと対になるものであるが、役割は、思うに、先の発言と異なるが、身体的なもの、重力的なもの、大地的なものではないだろうか。ギリシア神話で言うと、ティターン神族や巨人族ではないだろうか。(「明るい太陽」は当然、オリンポスの神々となる。)そう作業仮説すると、⇒+1が「天」であり、⇒-1が「地」となる。もっとも、これは現象的にである。
 ここでゾロアスター教に返ると、⇒+1の「天」の帰結として、同一性=物質の+1が生起するが、これが、悪神アンラ・マンユであり、そして、⇒-1の「地」の帰結が善神スプンタ・マンユではないだろうか。だから、「地」の善神が「天」の悪神を否定して、原点のMedia Point (太極点)であるアフラマ・マズダーを喚起するということではないのだろうか。今はここで留める。


2009年08月22日(Sat)▲ページの先頭へ
Save us from contemporary identity madness!: 視覚身体問題:同一性へと帰結し、差異を喪失する傾向がある:同一性=物質と結びつく視覚と差異共振感覚としての聴覚
感覚において、視覚が主要なものである。しかしながら、視覚は、もっとも同一性=物質に結びつきやすい感覚だと考えられる。これを理論的にはどう説明できるのか。
 これまで、⇒+1が身体ないしは光であると述べてきた。そして、これが光の感覚、即ち、視覚をも意味するように思える。+1は同一性=物質であるから、視覚も同一性=物質に帰結する傾向があると言えるのではないだろうか。
 そして、主体の+iが+1と重なると考えられる。これが、視覚中心主義ではないだろうか。ここでは、光による盲目があるのである。つまり、他者-iがまったく欠落するのである。つまり、視覚において、現象を知覚するものの、他者-iをまったく欠如しているということである。当然、+iも欠落しているのである。知覚・認識が+1となり、まったく同一性知覚・認識に留まるのである。これは、自己主体+iが+1に重なっている事態と言えよう。つまり、視覚・認識が同一性=物質現象に限定される事態である。
 そして、これが、近代的自我の知覚・認識であり、現代の日本人が陥っている事態である。言い換えると、同一性=物質的視覚認識中心主義である。
 ここでは他者-i、そして、本来の自己の+iが喪失されているのであり、結局、Media Point(魂)が喪失されているのである。言い換えると、差異共振知覚・認識を喪失しているのである。
 ここで整理すると、視覚は同一性=物質的知覚・認識に適したものである。というのは、⇒光が同一性=物質的だからである。だから、光の知覚・認識は盲目なのである。端的に、差異共振知覚・認識が喪失されるのである。
 では、視覚以外の感覚はどうであろうか。例えば、聴覚の場合、どうだろうか。ここでは、直感で言うが、聴覚の場合、視覚より、差異共振性が生起すると考えられる。これをどう見るのか。私が意味しているのは、音楽の聴覚の場合である。
 思うに、音楽の場合は、例えば、美術以上に、差異共振性(調和性)が根本的な意味をもっていると思う。先の思考実験に拠れば、⇒-1としての音楽(ディオニュソス)である。つまり、「闇」に関係するのである。
 結局、⇒+1は差異が同一性へと融合するのであり、それに対して、⇒-1は差異が共立して、同一性は成立しないと思われる。
 結局、視覚は同一性志向性をもつのであり、聴覚は差異志向性があるということになる。現代日本の流行である視覚中心主義とは、端的に、同一性主義を意味し、聴覚的差異が喪失されていると言えよう。現代日本のポップスは聴くに耐えないものであるが、それは、本来の聴覚的差異を喪失しているからと考えられる。視覚的同一性主義の支配とは、ハイパー・モダンであり、唯物論の支配を意味すると言えよう。悪神アンラ・マンユが支配しているのである。

参照:
以下は、アメブロの宣伝である。視覚中心である。

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2009年08月21日(Fri)▲ページの先頭へ
思考実験:Media Point における光量子a light quantum⇒+1と闇量子a dark quantum⇒-1の対発生
光の実在に対して、闇の実在を仮説することができる。現代宇宙論では、ダーク・マターやダーク・エネルギーを仮説していることからも、それは妥当である。そうすると、光量子とは別に闇量子が想定できるのではないのか。ならば、電磁波は光の電磁波と闇の電磁波があるということになるだろう。思うに、前者は差異の引力で、後者は差異の斥力をもつのではないだろうか。前者は同一性志向性(仮象志向性)で、後者は差異志向性(脱仮象志向性)と言えるのではないだろうか。現象創造性と現象解体性ということになる。言い換えると、「物質」形成作用と非「物質」作用である。(また、身体化作用と精神化作用と言えないのか。)
 とまれ、Media Point から考えると、イデア対差異(イデア極性差異)が共振して、光量子と闇量子を対発生させるという作業仮説であるが、そして、前者は「物質」(正しくは身体)作用・形成、後者は「精神」作用・形成ということになる。唯物論的科学は、前者のみを見て、後者を見ていないということになる。つまり、「物質」から「精神」を説明しようとするが、うまく説明できないと言えよう。
 結局、Media Point において、「物質」と「精神」が対形成されるということであり、両者、いわば、一如(いちにょ)と考えられる。私がこれまで、精神身体と呼ぶものはこれで明快になる。結局、+iと-iとのMedia Point における即非・共振によって、ある「力」ないしはエネルギーが生まれるが、そのエネルギーのプラス作用で「物質」(身体)を、マイナス作用で「精神」(知性)を形成するということである。一つの「力」(エネルギー)のもつ極性的な作用で、「物質」(身体)と「精神」が生まれるのであり、両者はいわば陰陽・表裏・対極関係にあると言えよう。
 そうすると、Media Point に発生する「力」(エネルギー)とは、正に、「生命」力、「生命」エネルギーであるということになろう。そして、「物質」とは、その「力」(エネルギー)の終止点ではないだろうか。⇒+1の+1である。ならば、反対に、⇒-1の終止点-1が考えられるが、それは何だろうか。「幽霊」ではないだろうか。つまり、「精神」の形骸である。
 とまれ、「わたし」(自己)は、⇒-1において存すると言えよう。ただし、身体⇒+1と一如である。
 しかしながら、この「わたし」は、実数の「わたし」であり、虚数の「わたし」を知らないのである。「心」や「魂」があるが、それが本来、垂直次元(虚軸)が本源であることを知らない。つまり、Media Point がまだ連続化・混淆化しているのである。⇒±1と「心」、「魂」であるMedia Point が連続化・混淆化しているのである。
 そして、これを不連続化することが智慧(般若)であり、叡知(ソフィア)であったと考えられる。また、プラトンのイデア論もそのようなものである。
 とまれ、不連続化したとき、連続性から切断したとき、「わたし」(自己)はどうなるのか。端的に、「わたし」(自己)は、虚数化されるというか、本源に回帰するということではないのか。⇒±1から不連続化して、Media Point において、虚数である「わたし」(自己)を知るということではないか。即ち、「わたし」は+iであり、且つ、-iであり、自己と他者との即非であるという認識をもつということと考えられる。
 さて、付録的に、「気」について考えると、それは、Media Point における「力」(エネルギー)、正に、陰陽力と考えられる。即ち、「気」とは、「精神」であり、且つ、「物質」(身体)である「力」(エネルギー)、陰陽エネルギー、即非エネルギーであると考えられる。ここで簡単に理気論について触れると、「理」とは、虚軸・虚数の理(イデア)であり、それが、Media Point において「気」になるということではないだろうか。
 次に、渦巻形状をもつ宇宙の発生について考えると、それは、1/4回転による捩れで説明できる。ラセンが発生するのである。これは、光と闇の二重ラセンではないだろうか。しかしながら、闇のラセン(「ダーク・マター」、「ダーク・エネルギー」)は、当然、不可視なのである。そう、光の渦巻宇宙と闇の渦巻宇宙があるということになる。
 ところで、時間についてであるが、時間軸は虚軸であろう。だから、時間は本来、虚数なのである。虚時間である。そして、空間であるが、三次元を形成しているのは、虚軸ではないだろうか。つまり、自己+iと他者-iとの空間関係は当然、虚軸関係と考えられるからである。この点は検討課題としておこう。


2009年08月20日(Thu)▲ページの先頭へ
仮説:-1がディオニュソスで、+1がアポロである
⇒+1が光であるなら、⇒-1が「闇」である。しかし、この「闇」は不可視ということだと考えられる。言い換えると、⇒+1は個体化であり、⇒-1は「総合化」である。前者は即非の非であり、後者は即である。
 ダーク・マターやダーク・エネルギーは⇒-1の領域に存するように思われる。作業仮説的に思うのは、Media Point において、⇒+1と⇒-1の二つの生成があり、通常の現象においては、前者が観察されるが、後者は不可視であるために、ほとんど看過されているのではないだろうか。
 思うに、「物質」とは前者であり、後者は本質ではないだろうか。言い換えると、前者が身体であり、後者が精神である。
 今は余裕がないので、十分展開できないが、「もの」の実体は前者-1にあるのではないだろうか。そして、それが現実化すると⇒+1になるのではないだろうか。
 後で再考したい。

以下、思考実験である。

追記:⇒+1が現象を意味するならば、⇒-1は反現象・非現象を意味する。前者がプラス・エネルギーならば、後者はマイナス・エネルギーである。あるいは、光エネルギーと「ダーク・エネルギー」。
 思うに、これらは、虚軸における超越差異極性による振動によって発生すると思われる。波動である(量子論)。
 とまれ、⇒-1のマイナス・エネルギーによって、現象が解体するが、それによって、現象の本体はMedia Point に回帰するのではないのか。つまり、⇒-1のエネルギーが螺旋的回帰をもたらすということではないのか。
 しかし、⇒-1、つまり、-1自体に転移すると、それは闇への移行であり、主体は死へと向かうのではないだろうか。フロイトの「死の欲動」概念が意味をもつとしたら、ここにおいてであろう。
 だから、+1と-1との中間、即ち、Media Point に回帰することの契機が、⇒-1のマイナス・エネルギーの真の意義ではないだろうか。光と闇の中間において、Media Point が存するのではないのか。
 因みに、空海の両界曼荼羅であるが、プラス・エネルギーが胎蔵界曼荼羅、マイナス・エネルギーが金剛界曼荼羅に関係するのではないのか。そして、両界曼荼羅とは、Media Point ではないのか。


2009年08月18日(Tue)▲ページの先頭へ
『「感情」とは何か:感性主義と知的感性:感性主義は倒錯であり、知的感性ないしは差異共振的「感情」が正当である:emotion,feeling,sentiment』
『「感情」とは何か:感性主義と知的感性:感性主義は倒錯であり、知的感性ないしは差異共振的「感情」が正当である:emotion,feeling,sentiment』

「感情」については、これまであまり考察してこなかった。しかしながら、先には、麻薬的感性主義はロマン主義的であることを述べ、感性主義を批判した。
 もっとも、批判は超越論的である。だから、超越論的批判というのが的確であるから、感性主義ないしはロマン主義の超越論的批判が趣意である。言い換えると、「感情」自体を否定しているのではなく、感性主義/ロマン主義という「感情」の精神様態を批判しているのである。
 ここでも具象的に考察しよう。例えば、モーツァルトの音楽を聴くとしよう。調べがあり、そこには、叙情がある。これは、「感情」表出ではあるが、ロマン主義的なものではない。なぜなら、知的形成に基づく「感情」だからである。この知的形成がなければ、「感情」表出は感性主義となるだろう。だから、モーツァルト音楽は知的「感情」、知的叙情があるということになる。
 私が言いたいことは、知が主であり、「感情」は従であるということである。何故なら、精神ないしは精神身体は、知意志が主体であるからである。(もっとも正確に言えば、男性の場合、知意志が主体であるが、女性の場合は、知意志と身体との極性が主体であると考えられる。だから、女性の場合は芸術に向いているのである。故に、男性の場合は知意志が主導的であり、女性の場合は知意志が一つの主導性をもつということになる。)
 ということで、知ではなく、「感情」が主導的になるのは、倒錯なのである。故に、感性主義であるロマン主義は倒錯的であるということになる。
 では、端的に「感情」の力学とはどういうものなのか、検討しよう。これまでの検討から言えば、それは、Media Point の一つの様態である。では、どういう力学なのか。それは、主体+iが他者-iによって被る感応と言えよう。つまり、主体の感覚の様態であるということである。単に感覚ではなく、感覚の様態である。ここでも具象的に言えば、冬において夜、東の空高くオリオン座が壮麗に輝いている光景を考えよう。単に輝くだけでなく、「壮麗」に輝くのでああり、「壮麗」という「感情」がそこに生起しているのである。
 いったい、この感応性(感受性)は何であろうか。精神身体力学的に見れば、オリオン座-iの光が、「わたし」+iと差異共振して、エネルギーが発動する。このエネルギーに「壮麗」的「感情」が入ることになるだろう。
 とまれ、光を感受するには、視覚が必要である。視覚はどこに位置するのか。言い換えると、身体は位置はどこなのか。私は精神身体ということを述べてきた。それは、+iと-iの共振によって形成されるものと考えられる。つまり、Media Point が原精神身体であり、実際の身体は、⇒+1であると考えられる。
 だから、Media Point において、原感覚が発生するのであり、それは、本来、精神的感覚である。より精緻、詳細に見れば、+iは能動的感覚であり、-iが受動的感覚であろう。前者は知覚であり、後者は「感情」を内包するだろう。
 端的に言えば、+iは知性・知覚であり、-iは感覚・「感情」である。Media Point における両者の共振(共鳴)によって、知的感覚、感覚知覚が生起すると考えられる。このとき、当然、「感情」もともなうのである。
 では、その「感情」とは何か。それは、Media Point における差異共振様態における感覚のエネルギー価ではないだろうか。
 それを作業仮説にすると、先のオリオン座であるが、それは、知覚者の視覚に入り、視覚者の精神身体に感受されるが、視覚者の感応性・感受性、即ち、 Media Point の感応性・感受性に感覚エネルギー価をもたらすのであり、その感覚エネルギー価が「壮麗」という「感情」ということになる。
 言い換えると、Media Point における視覚的他者-iの感受が、視覚エネルギー価=「感情」を喚起するということである。
 結局、「感情」とは精神身体のMedia Pointにおける感覚エネルギー価ということで説明できることになるだろう。
 そうならば、Media Point においては、知性+iの主導性があるのだから(男性において)、「感情」とは、本来、知的形成を受けるものであり、感性主義は、倒錯であることが証明されるのである。
 では、女性の場合はどうなるかと言えば、知性と身体との共振が本来的であり、極性的であることになる。だから、女性の場合の感知とは、単に知的形成ではなく、正に、差異共振的「感情」を喚起すると考えられよう。これは、即非的「感情」とも言える。とまれ、知性と感覚の両面の共振的「感情」が生起することになるだろう。だから、男性よりは知的主導性は弱いとは言え、感覚のエネルギー価は男性よりも強くなると言えよう。思うに、女性が「感情」的であるというのは、この面が原因ではないだろうか。
 結局、知的感性・「感情」とはemotionというよりは、sentimentである。女性の差異共振「感情」であるが、それは、feelingと呼ぶのが正当ではないだろうか。
 後で、整理したい。


知性の位置についての試論:「理性」と「悟性」:Media Point の「理性」(=超越理性)と「悟性」(=超越悟性):::付録:-1の意味についての思考実験
復習から始めると、不連続的差異論は、連続化されている近代的知性を「脱構築」するものであった。即ち、Media Point からの連続的同一性である近代合理性(近代的自我・同一性自己)の中心性を解体して、自己や他者が不連続的差異であることを解明したのである。
 では、「脱構築」された近代的知性はどうなるのか。というか、「脱構築」された近代的自我はどうなるのか。思うに、そこには、悟性(概念知性・言語知性)が残るのである。それは、不連続的悟性(不連続的概念・不連続的言語)であろう。
 それに対して、いわば、純粋Media Point が回帰する。それは差異共振/即非的「精神身体」(「精神」でもいいが、「精神身体」とする方が的確ではないのか)である。(+i)*(-i)の原ミクロ・コスモスがある。カント的に言えば、、物自体としての他者が知覚・認識に入ってくるのである。それは-iである。では、+iは何なのか。
 具象的に考えよう。不連続的差異化された「わたし」(自己)が、眼前の杉の木を見ているとしよう。他者-iである杉の木を視覚知覚する。幹には節がいくつもあり、白い斑点があり、また、筋がある木肌があり、亀裂もあり、また、円錐状の樹形である。
 この直観は、不連続的直観である。では、この直観主体、直観自己は何なのか。それは、+iではないのか。近代的自我においては、主体は+1と化していた。しかし、不連続的差異となった主体は+iではないのか。おそらく、それでいいと思える。
 ならば、不連続的差異(絶対的差異)である主体+iと不連続的差異(絶対的差異)である他者=物自体-iの杉の木との即非・共振が、直観において想起していると言えよう。これは、Media Point の虚軸の事象と考えられる。
 主体+iは、既に悟性化されているので、即非・共振的直観像を当然、言語概念化することができる。しかしながら、ここで、不連続的差異(絶対的差異)である対象と同一性的な傾斜をもつ言語との矛盾が生じるのである。
 対象の杉の木は絶対的差異であり、認識する主体も絶対的差異である。しかるに、悟性認識は言語を伴い、それを一般化するのである。対象は「杉の木」という一般形式に還元されるのである。
 絶対的差異と同一性との矛盾衝突である。精緻に見ると、問題は、悟性と言語の関係である。それを精査する必要がある。悟性ないしは概念知とは何か。それは、理念知であろう。イデア知性であろう。だから、それは、-iを知る+iの本質知である。つまり、悟性とはMedia Point 的知性に入るのである。
 だから、当然、近代合理的知性の+1とは異なるのであるが、これが、混同されているのが近代合理性である。デカルトの「我思う、故に、我在り」は、これを端的に示すものだろう。コギトは+iであり、スムは+1と考えられるからである。(カントの場合、まだ、連続性ないしは混合性が残り、それを払拭したのがフッサールと言えよう。)
 ということで、悟性と同一性形式の言語とは本来、異質なものであることがわかるだろう。この「ズレ」の認識はきわめて重要である。言い換えると、悟性は普遍的であり、言語は仮象・仮構的である。(構造主義は両者を混同しているのである。言語が思考を規定するという構造主義は、悟性的思考の普遍性を否定しているのである。)
 故に、絶対的差異と同一性との矛盾・衝突とは、表面・皮相的であることが判明した。絶対的差異と言語とは矛盾・衝突しうるが、絶対的差異と悟性は調和するのである。
 では、さらに深めると、理性とは何か、悟性との関係はどういうものかという問いが当然提起される。
 上記において、悟性はMedia Point 的知性に入ると言ったが、後者自体ではない。そう、理性とは本来Media Point 的知性のことであろう。rationality、reasonとは、本来、Media Point的様相の知性であろうが、それが、ロゴス(言語知性)と混淆されて、連続化されたのではないだろうか。
 だから、言い換えると、理性とは、本来、叡知(ソフィア知性=イデア知性)、東洋的には智慧と考えられる。この問題の展開は課題とするが、以上から、理性と悟性との関係も明らかになったと言えよう。悟性(概念知)は理性(差異共振知)に含まれる、あるいは、悟性は理性の一部であるということになる。
 PS理論から言うと、理性はMedia Point 知性であり、悟性はMedia Point 的概念知性ということになろう。
 とは言え、理性や悟性という用語はあいまいなものになってしまっている。理性の場合は、ロゴスと結びついて、言語的概念化されて同一性化している傾向が強いのである。そして、悟性も同様である。だから、PS理論から言うと、使用するなら、トランス理性(超理性)、トランス悟性(超悟性)がいいのかもしれない。あるいは、絶対的理性と絶対的悟性である。
 さて、以上によって、知性が本来虚数的であることが判明したと考えられ、故に、虚数的知性という用語を使用していいだろう。(実数的知性とは、倒錯・錯誤的である。)
 知性の位置という本題であるが、それは、+iないしはMedia Point にあると言えるだろう。自己主体に限定すれば、+iである。
 さて、先に取り上げた-1の意味の問題をここで考察するのが妥当である。何故なら、+i,-i,+1の意味が明晰になったと考えられるからであり、当然、残りの-1の意味の解明が必然化されるからである。
 さて、思考実験的に言うと、⇒+1が個体・個物の生成を意味すると考えられるので、それが即非の非であり、即非の即は一体・一如であるとすれば、⇒-1が即と見ることができるのではないだろうか。差異共振一体性としての-1ではないだろうか。⇒+1が現象、外的現象、可視界とするなら、⇒-1は、差異共振現象、あるいは内的現象、不可視界ではないだろうか。あるいは、前近代におけるコスモスではないだろうか。思うに、神秘思想(神秘主義)が説いていた世界がこれではないだろうか。⇒+1が顕界ならば、⇒-1は幽界である。さらに言えば、イスラム教のタウヒード(一性)はここを意味するのではないだろうか。また、ギリシア神話の主神ゼウスもここを意味するのではないだろうか。
 ならば、一神教とは何かという問いになる。ヤハウェ(エホバ)とは何か。先に、-1ではないかと示唆したが、それほど単純ではないだろう。アッラーの場合は、-1でいいと思うが、ヤハウェはその要素もあるが、他の要素が混入していると考えられる。
 ヤハウェは「我有りて、有り余れるもの」である。この有、即ち、存在が問題である。つまり、ヤハウェはハイデガーの言う存在の原点であると考えられるのである。つまり、同一性構造(唯物論の源泉)をもつ(、又は、である)のである。ならば、ヤハウェは、⇒-1だけでなく、⇒+1の要素をもつと考えられる。否、正確に言えば、⇒の先端の構造をもつと考えられる。だから、ヤハウェとはMedia Point の差異共振現象から同一性志向性が生起するときの現象様態を意味しているのではないだろうか。言い換えると、差異共振現象は確かにあるので、それが⇒-1である。しかるに、同一性志向性があるので、⇒+1の⇒の先端領域である。この同一性構造こそが、ヤハウェの特異性ということになろう。つまり、同一性傾斜・存在傾斜・物質傾斜ということである。だから、ゾロアスター教から言えば、ヤハウェは悪神アンラ・マンユに相当すると考えられよう。とまれ、ヤハウェとは、Media Point における正エネルギー(プラス・エネルギー)であり、負エネルギー(マイナス・エネルギー)をほとんど欠いている、ないしは、全く欠落していると言えよう。換言すると、+iの傾斜もつ、即ち、+iの優位、-iの劣位という関係があると考えられる。そして、これが父権主義ということである。
 この点における確認として、アッラーやゼウスであるが、先に-1であると言ったが、思うに、ヤハウェほどではないが、なんらかの同一性的傾向があるのではないだろうか。先において、⇒-1を「父」、そして、⇒+1を「母」としたが、前者はいいが、後者は間違いだと思う。「母」はMedia Point である。太母である。そうならば、太母(「母」)から「父」(-1)が生まれるのである。そして、また、主体+iの傾斜からヤハウェが生まれるのである。これが父権主義である。だから、二人の「父」が存することになろう。
 すなわち、太母とともにある「父」と太母を否定する「父」である。弁別するために、前者を太父とし、後者を偏父と仮に呼ぼう。この視点から言えば、ゾロアスター教のアフラ・マズダーとは本来、太母であり、スプンタ・マンユ(善神)が太父ではないだろうか。それが重なってアフラ・マズダーが太父的になっているのではないだろうか。
 また、さらに言えば、-1の太父とは、「暗い太陽」”dark sun”ではないだろうか。この「暗い」とは不可視ということであるから、不可視の太陽である。可視の太陽は+1と言えるだろう。
 ここでついでに言えば、ダーク・マターやダーク・エネルギーの問題であるが、ダーク・マターは-1ではないだろうか。そして、ダーク・エネルギーは以前述べたように、イデア・エネルギーではないだろうか。
 以上、-1については思考実験を展開したので、後で再考・整理したい。


2009年08月15日(Sat)▲ページの先頭へ
精神分析批判:「死の欲動」(「破壊衝動」)説批判:負のエネルギーの賦活と東洋的身体論
先に麻薬のもつ自己破壊性を考え、それからの連想で「死の欲動」のことを想起した。そこで、以下のように考えてみた。

フロイトの精神分析はPS理論によってたやすく乗り越えられると考えている。簡単に言うと、近親相姦欲望ではなく、差異共振根源的志向性を考えればいいと思うのである。「母」とは、Media Pointであろう。
 とまれ、いちばんの問題は、フロイトが晩年に立てた「死の欲動」説である。これをどう見るのか。以下の説明では、それはひとつは原初への回帰を意味するとある。ならば、それは、思うに、Media Pointへの回帰ではないのか。では、どうして、破壊的になるのか。(今、ふと想起したのは、うつ病にも「死の欲動」があるのではないのかということである。)
 いわば、生の欲動とは、⇒+1と+1である。一般には、若い頃は、これが過剰にあると言えよう。しかし、年齢を重ねると、エネルギーが枯渇するようになる。直感では、いわば、逆作用で、+1⇒の事象が生起するようになるのではないのか。この+1⇒が、「死の欲動」に相当するのではないのか。
 しかしながら、もしそうならば、上述したように何故破壊的になるのか。それは、端的に言えば、その逆エネルギー(負のエネルギーと仮説する)は、虚数・虚軸に関わるもの、超越性に関わるものなので、実数・実軸、即ち、同一性・自我・物質の「作用」を超越しているために、それを破壊する作用をするのではないのか。
 少し言い過ぎたかもしれない。正確に言えば、負のエネルギーは、正(生)のエネルギーとは異質なものであり、後者を乗り越える(トランスする、超越する)と考えられるので、もし、主体が、負のエネルギーに対する適切な対応をもつ「認識」をもっていなければ、それに圧倒されてしまうことは考えられることであり、この圧倒されるという事態が「死の欲動」(破壊衝動)として表出されるということではないだろうか。
 そして、負のエネルギーへの適切な対応をもつ「認識」がある場合は、「死の欲動」(破壊衝動)ではなく、「新生の欲動」(創造衝動)となるのではないだろうか。(思うに、これは、超越衝動と呼んでもいいものである。)
 このように見ると、かなり事柄が明快になってきたのではないだろうか。そう、近代主義は、負のエネルギー=新生の欲動=創造衝動=超越衝動=「宗教衝動」を抑圧してきたのであり、そのために、それが反動的に「死の欲動」(破壊衝動)として表出したのではないのか。
 では、負のエネルギーに対する適切な対応をもつ「認識」とは端的に何であろうか。それが正に東洋的身体論であると思う。禅であれ、ヨーガであれ、気功であれ、負のエネルギーを適切に感受し認識するための方法であると考えられる。(もっとも、現代では、それに批判哲学・超越論的哲学を組み込む必要があるが。)
 後期近代の問題は、精神力学(精神エネルギー論)的には、この負のエネルギーの積極的な取り込みの方法の解明にあったと言えようが、西洋文化の文脈においては、同一性が支配的なので、ほとんど挫折したと言えよう。即ち、とっかかかりは、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキーであったが、ハイデガーの同一性思想の影響を受けていたために、ポスト・モダンの試みはほぼ頓挫したのである。
 思うに、東洋思想・文化は、根本的に負のエネルギーに取り組んでいると考えられる。仏教・禅はその結晶である。正確に言えば、正のエネルギーと負のエネルギーとの関係の解明を志向しているのである。そして、これの究極的な解明が即非の論理である。
 ということで、これで、フロイトの「死の欲動」説批判がなされたとしよう。

追記:麻薬・覚醒剤のもつ破壊作用から本件のテーマを想起したのであり、それに返って言えば、麻薬・覚醒剤問題とは、精神的には、主観的には、負のエネルギーの創造的取り込みの問題であるのであり、それを可能にする哲学・認識が必要とされているだろう。先に、麻薬的感性主義は、ロマン主義であると言ったのが、それは連続的であるので、闇に入り込むのである。「死の欲動」は正しくは新生のエネルギー、創造のエネルギー、超越のエネルギーであることを認識することが、麻薬・覚醒剤的ロマン主義からの脱却・エクソダスである。今日の退廃した社会は、PS理論を必要としているのである。ポスト・モダン的ダーク・ワールドからトランス・モダン的ライト・ワールドへと転換することをもたらす理論である。

追記2:以上を読んで、正のエネルギーと負のエネルギーとは、非対称的であることがわかった。言い換えると、非線形的である。このために、これまで、人類の知、とりわけ、西洋の知は、Media Pointを捉えることができなかったと考えられる。非対称性は、不連続性と言ってもいいのである。幾何学的な対称性を「理性」とする西洋文化は、必然的に、非対称性、不連続性を理解できない「宿命」にあると言うべきである。
 少し説明すると、正のエネルギー⇒+1は、実軸次元性をもち、帰結は、同一性=物質である。しかし、負のエネルギー+1⇒は、虚軸次元性もつのであり、虚数、超越次元に関わるのである。
 エネルギーのこの非対称性・不連続性をこれまで、人類は、端的に把握できなかった故に、世界は狂気・暴力・虚偽・欺瞞に満ち満ちてしまったと言えよう。もっとも、東洋文化、というか仏教は、これを洞察していた。その結晶的帰結が鈴木大拙の即非の論理である。これは、大天才的な理論である。
 
 
参考:
デストルドー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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デストルドー(英語 : Destrudoまたは英語 : Death drive、ドイツ語 : Todestrieb)とは、フロイト の提唱した精神分析学 用語で死 へ向かおうとする欲動のこと。タナトスもほぼ同義で死の神であるタナトス の神話に由来する。
訳語の問題 [編集 ]

フロイトはTodestriebと対のようにLebenstriebという語を用いたが、日本語ではともに「死の本能」「生の本能(エロス )」と訳されることが多い。しかしながら本能 には「遺伝 的に組み込まれた行動パターン」という意味合いが強くTrieb[1] をそのように訳すのは誤解を招きかねない面があり、彼は本能Instinktと別に、自我 に対して何かに駆りたてさせる衝動 という意味でTriebを使ったとされる。英仏訳でも誤りが指摘され、訂正が施されたが日本語訳ではまだ「本能」と訳されている事も多い。日本語訳でも広まりつつある欲動または衝動の訳語に意義があるのは、それにより本人の葛藤 に焦点が当てられることになるからである。患者はしばしば「死にたい」という言葉を発するが、「死の本能」でなく「死の欲動」と訳すことにより、「死にたい気持ちに駆られる」と言わしめるもの、フロイトが「生の欲動」「死の欲動」の二元論で説明しようとしたものは臨床現場で頻繁に聞かれる「死にたい気持ち」と「生きたい気持ち」の間の葛藤としてうまく機能するのである。

フロイトの説 [編集 ]

「死の欲動」概念を展開する前のフロイトは、「愛する者の死を願う」といった両価的感情を伴う[2] 殺害願望から自殺 を説明しようとした。つまり「攻撃性(Aggression)」の内向という解釈であるが、この時点では説自体は「生の欲動」の従属的位置にとどまる。一方彼の「破壊性(Destruktion)」という言葉も混乱を招きやすかった。

フロイトが最初に「死の欲動」という語を用いたのは1920年 に著した『快楽原則の彼岸』であり、人間の精神生活にある無意識 的な自己破壊的・自己処罰的傾向に注目した。この時期に彼の考え方は「快楽が生」から「死の欲動との闘いが生」へと大きく転換したとされる。彼は神経症 における強迫観念 、第一次世界大戦 帰還兵の心的外傷 のフラッシュバック現象 、少女の「いる・いない」遊び観察で見られた不快なはずの母の不在の反復などから、従来の持論であった快感原則からは説明できない心理を見出した。

以下、『死の欲動―臨床人間学ノート』112~114項から、フロイトにおける「死の欲動」の要約を抜き出す。

自我が抵抗しがたい衝動である。
衝動の存在に通常自我は気付きにくく、無言の内に支配される。快楽原則に従わず反復そのものを目的とし、エネルギーが尽きるまで繰り返される。それは強大なエネルギーで日常的なものではなく、自我はその前に無力である[3] 。
最も蒼古的(原初的)な欲動である。
死の欲動は個体発生上、最も古い欲動とされた。退行の究極点であり生命発生以前の原初への回帰を目的とする。それは生死や存在非存在の区別もなく明示的言語で表現するのは困難なので「死」というメタファーでフロイトは命名した。ただし人間の「死」のイメージとは関係なく非生命に向かうという意味でしかない。欲動はこの地点から巨大な破壊エネルギーを手に入れる。
「悪魔的」な生命の破壊衝動である。
自己と他者の区別無く反復強迫的に無意味に生命破壊を目指す[4] 。また「生の欲動」に先立つ。フロイトは死の欲動をエロスによって容易に懐柔されることはないと考えた。憎しみのような攻撃的衝動はエロスの一属性としても理解し得るが、愛と憎しみを超えたところに破壊衝動を想定した。

後継者の発展 [編集 ]

Federnは最重度のメランコリー に「死の欲動」が観察されるとし、同様の指摘はしばしばなされる。しかし大勢ではフロイトの「死の欲動」概念は後進者の間でも批判が多く、考えの一部を取り入れた学者達により新たな展開がなされてゆく。継承発展させた人物はメラニー・クライン 、ジャック・ラカン が代表的である。

後世への影響 [編集 ]

フロイトに先立ちニーチェ が「神の死」を言明し、当時楽観主義は知識人の間では既に力を失っていた。フロイトの思考の変遷も悲観的な世界情勢と無縁ではなかったであろう。彼は第二次世界大戦 の戦禍を見ずに亡くなったが、はからずもその後ヒロシマ ・ナガサキ への核爆弾 の投下、ホロコースト などが起こって破壊衝動を「予言」したような形になり、水爆 開発などで現在では計算上は人類を複数回滅ぼせるほどの大量破壊兵器 を所持していることが明らかになっている。後世多くの精神分析家が「死の欲動」論を援用してこのような人間の暗黒面の解明に切り込んだ。

文化ではアニメ『新世紀エヴァンゲリオン 』(1995年)などでも取り入れられており、これには20世紀末 の状況が反映されているとする見方もある[5] 。→終末もの 、セカイ系

脚注 [編集 ]

1. ^ 心的な欲求、衝動 。深層心理学 の「心のダイナミクス」の項を参照せよ。
2. ^ ここにコンプレックス などといった複雑な概念が介在する
3. ^ フロイトはそこに大戦の根源的衝動を見た。
4. ^ フロイト自身は「一時的マゾヒズム」といった観念を引きずり、理論を完成させずに死去したため、矛盾がなくなるよう敷衍していると思われる。
5. ^ 島田裕巳『終末論と世紀末を知るために』エンカルタ百科事典[1]

参考文献 [編集 ]

熊倉伸宏『死の欲動―臨床人間学ノート』新興医学出版社、2000年 ISBN 4880024236

関連項目 [編集 ]

* リビドー
* 自殺
* 暴力
* エロティシズム

執筆の途中です この「デストルドー」は、心理学 に関連した書きかけ項目 です。この項目を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています 。(PJ 心理学 )

カテゴリ : フロイト派心理学 | 自殺



『思考実験としての宗教推理:ヤハウェの精神力学について:ユダヤ教的一神教問題:光の神と超光の神の二重性と唯一神:二つのユダヤ教とゾロアスター教:捩じ曲げたのはキリスト教ではないのか?:父権的ローマ帝国が「父」・ヤハウェを欲したのではないのか。』
『思考実験としての宗教推理:ヤハウェの精神力学について:ユダヤ教的一神教問題:光の神と超光の神の二重性と唯一神:二つのユダヤ教とゾロアスター教:捩じ曲げたのはキリスト教ではないのか?:父権的ローマ帝国が「父」・ヤハウェを欲したのではないのか。』

自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1について復習的に言うと、⇒が正エネルギーで、+1が同一性・物質を意味するが、同一性は同一性自己ないしは自我ということでもある。この同一性自己自体は、左辺の差異共振様態を知らない。では、左辺の原事象はどうなっているのか。これまで、対象に対する同一性の投影ということを考えてきたが、同一性自己においては、単に他者である対象-iを「誤認」するだけでなく、本来の自己である+iも「誤認」しているのではないのか。
 では、この「誤認」の様態はいかなるものか。端的に、本来の自己+iを+1と「誤認」している。そして、他者-iをも+1と「誤認」しているのではないだろうか。この二つの「誤認」は、自己と他者を、言わば、+1の同一性のヴェールで包むことではないだろうか。同一性の仮現化とも言えよう。これは、言い換えると、自己と他者との一致ではないだろうか。即非で言えば、即である。あるいは、自己と他者の癒着である。あるいは、混淆・混同・混濁である。理論的には、連続化、又は、連続的同一性化と言える。そして、これが、フッサールが説いた自然的態度に相当するし、仏教で言えば、「色」である。
 以上は確認であるが、同一性に関してより明晰になったと考えられる。この視点を参考にして、次に、本題、即ち、聖書のヤハウェの力学についてここで改めて検討したい。
 これまでの考えでは、ヤハウェは、+iであり、それが、-iを否定して、同一性の構造と結びついていると考えた。思うに、⇒+1の⇒の先端が同一性構造ではないだろうか。
 さて、超越神であり、また、唯一神であるから、+iというのは妥当である。これは、ヤハウェである。しかし、創造神としての神が存するが、それは、実は、ヤハウェではなく、エローヒーム(神の複数形)である。創造は、端的に、差異共振からの同一性現象を発現を意味するから、+iのみでは、創造はできないのあり、だから、-iが存するということになる。そうなので、エローヒームは、Media Point と考えられる。
 だから、聖書には、+iの神とMedia Point の神の二重性を確認するのが妥当であり、だから、既述したが、端的に、唯一神、一神教とは虚構である。結局、創造には、Media Point が必要なのであり、それは、最低、二重ないしは三重であり、唯一神では足りないのである。
 とまれ、問題はヤハウェの力学である。それは、+iであり、-iを抑圧するもと考えたが、いったいそれはどういうことなのだろうか。思考実験するが、ひょっとしたら、(+i)*-(-i)⇒-1を意味するのではないだろうか。あるいは、商としての-1である。いったい、-1とは何だろうか。+1が同一性とすれば、-1は、非同一性ではないだろうか。同一性を解体する「力」ではないのか。
 考えると、エローヒームが差異共振によって、創造する。それは、当然、同一性現象となるのである。しかし、ヤハウェ+iは、-1の非同一性の「力」をもって、同一性現象を破壊・解体するのではないだろうか。偶像破壊とはこれがもたらすのではないのか。
 以上のように想定すると、聖書(旧約聖書)は、正に、「絶対矛盾的自己同一」の様態をもつのではないだろうか。現象であり、かつ、脱現象である。あるいは、両極に引き裂かれていると言うべきではないだろうか。
 とまれ、そうならば、結果的に、+i/-1の超越神・「唯一神」のヤハウェは、重要な役割をもっていると言えよう。つまり、絶対的抽象化である。具象の否定である。抽象知性化である。しかも、超越的な知性である。言い換えると、超越論的知性ではないだろうか。思うに、フッサールの超越論的主観性も、PS 理論の知もここに位置するのではないのか。
 ⇒+1が光ならば、⇒-1は闇である。しかし、それは、正しくは、光の裏面ではないのか。非光である。いわば、鏡面の裏側ではないだろうか。⇒+1は光であるが、+1 の同一性のために、同一性(物質)の闇を抱えているのである。ゾロアスター教的には、悪神アンラ・マンユである。それこそ、本来の闇であるから、-1を闇と呼ぶのは、混同となる。思うに、不可視の領域と言うべきではないだろうか。あるいは、超光の領域と。そうならば、ゾロアスター教的には、善神のスプンタ・マンユがそこに位置するだろう。
 とまれ、-1を暫定的に超光と呼ぼう。そうすると、先のことにもどると、聖書は、光の神と超光の神の「二人」の神がいるということになる。しかしながら、それは、ゾロアスター教の様態と同質ではないのか。
 否、違う。つまり、通常、聖書(旧約)は、一神教の聖典と考えられていて、唯一神の書と見られているのである。つまり、光の神と超光の神が同一化・混同されているということである。これは、聖書の本来の事象から見ると、捩じ曲げ、ないしは、「書き換え」である。そうならば、本来のユダヤ教と一神教化されたユダヤ教があるということになろう。前者はゾロアスター教的である。(本題から少しそれているが、本題の検討はいちおう終了として、この捩じ曲げの問題の検討を続けよう。)
 本来の聖書(旧約)は、ヤハウェとエローヒームの「二人」の神がいるのである。それを唯一神(一人の神)Godにしたのは、西洋文化ではないのか。直感では、ローマ帝国のキリスト教教父たちである。
 そう、キリスト教が「二人」の神を唯一神に捩じ曲げたのではないのか。あるいは、改竄したのではないのか。本来のユダヤ教(プロト・ユダヤ教と言おう)は、「父」と「母」が存するのであるが、「父」だけをとり出したのは、キリスト教と考えられよう。
 これは、いったい何なのか。ヤハウェだけをとり出すとはいったい何なのか。そう、端的に、父権化と考えられる。エローヒームは創造神・造化の神であり、「母」であり、母権的であり、多神教的である。
 ということで、父権制を意味すると言えよう。社会的に言えば、父権的なローマ帝国を護持するために、「父」・唯一神が必要であったと思われるのである。
 今はここで留める。


2009年08月12日(Wed)▲ページの先頭へ
カント的な認識批判の絶対的前提とPS理論:現代日本に蔓延する没クリティカルな言説の撲滅に向けて:ハイデガー唯物論/構造主義的存在論に拠って破壊された批判哲学/超越論的哲学的系譜の復権と日本の復興
これは詳述するのはかなり知的労力を必要とするので、ここでは行なわず、検討課題とするが、予見を簡単に述べるに留める。
 今日、発せされる日本の政治言説、あるいは、諸言説の浮薄さ・皮相性さらに錯誤・虚偽性、とりわけ、二者択一的な似非思考の短絡的誤謬の跋扈する無惨酷烈な状況を見ると、根本的な、ラディカルな問いがなされなくてはならない。いったい、現代日本人は、ホモ・サピエンスかと。退化しているのではないのか。あるいは、類人猿、それとも猿人ではないのか。
 端的に、思考することを難しくさせている原因は何であろうか。簡単に言えば、独断論の横行にある。独断論が思考であると思い込んでいるのである。この問題は超越論的認識によって本来、批判されているはずであるにもかかわらず、そうなのである。
 結局、哲学的思考の衰退が原因であると言えよう。何故、哲学が言説に関わる人間の知性から欠落してしまったのか。既述したように、哲学の混乱が生じたのであり、このために、哲学が意味不明のものに堕してしまったと考えられる。
 (西洋)哲学の混乱の元凶は既述したように新しい知的地平を切り開いたフッサール現象学を継承せずに、それから後退したハイデガー存在論に存する。また、日本においては、権威主義に堕してしまったアカデミズムにある。
 視点を変えて言うと、西洋哲学は、19世紀後期から20世紀初期にかけて、実は、東洋的思考の傾斜をもっていたのである。ニーチェやフッサールは仏教への傾斜があるのである。これは、ある種の神秘的思想への傾斜と言えるのである。そして、この東洋的な傾斜は鈴木大拙の即非の論理に帰結したと考えられるのである(西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」は、同質の思想を、記述のあいまいさによって十分合理的には説明できなかった。また、ウスペンスキーの思想もそれと同質であるが、明確に、即非の論理としては提起されていない)。だから、その点では、日本の哲学者の大いなる怠慢、怯懦さが問題である。(また、思うに、戦争で優秀な人材を喪失したことが大きい。)
 とまれ、西洋哲学の混乱と日本の哲学者の知的後退によって、哲学の堕落が起こったのである。この哲学の堕落が、今日の日本の諸言説の錯誤・倒錯・誤謬・独断・偏見等を生み出している根因ということになるだろう。
 哲学において直近の理論はポスト・モダン理論であったが、その問題点はこれまで十分に指摘したが、ここでの視点から一言言えば、デリダのロゴス中心主義批判やドゥルーズの形而上学批判であるが、これは、一言で言えば、西洋形而上学批判、あるいは、同一性主義批判である。しかしながら、彼らに欠けているのは、カントが行なった純粋理性批判の「批判」主義ではないだろうか。というか、それを忘却しているのではないか。既にカント哲学において、同一性思考批判は為されているのであり、西洋形而上学批判を行なうならば、カントから少なくとも始める必要があるのである。
 カント的な批判哲学の視点、この欠落が、哲学の堕落をもたらしたと言っても過言ではない。だから、必然的に、その系譜にあるフッサール現象学に対する無理解もあると言える。この系譜は、後者に倣えば、超越論的主観性に帰結したのである。故に、具体的には、哲学の堕落はこの超越論的主観性の無理解にあることになる。そして、それをもたらしたのは、上述したように、ハイデガー存在論なのである。確かに、そこには、一種の批判性はある。しかしながら、認識論を存在論に振り替えて、「すり替えて」しまったのである。即ち、超越論的主観性の差異を、存在の同一性に退行させてしまったのである。ここから、唯物論性や構造主義性が優位になってしまい、それまでの批判哲学/超越論的哲学の系譜を破壊してしまったと考えられるのである。
 日本の復興は当然、根源的には、哲学的復興でなくてはならない。


2009年08月10日(Mon)▲ページの先頭へ
『「酒井法子」「麻薬」事件:トランス・モダン的真理のポスト・モダン的表出:ポスト・モダン政治経済の闇とトランス・モダン政治経済の光:トランス・モダン・ゾロアスター教的新世界へ向けて』
『「酒井法子」「麻薬」事件:トランス・モダン的真理のポスト・モダン的表出:ポスト・モダン政治経済の闇とトランス・モダン政治経済の光:トランス・モダン・ゾロアスター教的新世界へ向けて』

本件は、「ノリ・シオ」事件と呼ぶ向きもあり、それは正当であると思うが、ここでは、いわば、「純粋理性」的に分析してみたいが、余裕がないので、一言コメントするだけである。
 直感では、当容疑者は、アイドルであることを憎み、「個」(絶対的差異)であることを切望していた。その結果が、「サイバーノリピー」の出現であると考えられる。同一性的自己からの脱却がそこにはある(なにか、村上春樹の小説を想起する)。
 その脱却のための手段・方法が、「麻薬」である。これで、日常的自己(同一性的自己)を脱却して、「個」へとエクソダスすることを試みたのであるが、「麻薬」によるエクソダス(「エクスタシー」=脱自)は、所詮、疑似的なそれに過ぎず、自己破壊をもたらしたのである。
 そう、本事件は正に、トランス・モダンに関わる。「麻薬」による疑似エクソダスは、実は、前近代的であり、同一性以前(差異と同一性の未分化状態)に回帰する志向性と考えられる。現代・今日は、脱同一性・脱近代性が要求されているのであるが、トランス・モダンの視点が公的になっていないために、連続的な方法(ポスト・モダン)に頼ってしまっていると考えられるのである。
 さて、除いておいた政治経済の視点であるが、この視点から言えば、ポスト・モダン政治経済とは、同一性のハイパーな政治経済であり、薬物によるハイパーな同一性的精神状態とは類縁的であり、当然、親和的である。結局、本事件の核心は、ポスト・モダン的ヤミ政治経済であると考えられる。
 反自民党(アンチ小泉)とは、脱ポスト・モダン=トランス・モダンということである。これは、実は、脱社会主義的民主党でもある。後で整理しよう。


2009年08月09日(Sun)▲ページの先頭へ
予備考察:カントの直観と物自体について:純粋理性の二元論:同一性と差異
今は予見だけを一言述べる。カント哲学は知られているように、二元論である。経験に即した純粋理性と超経験的な純粋理性の二元論である。それは、同一性と差異の二元論と言えると思う。
 カント哲学の制約は、前者・同一性にあると思う。カントは経験を同一性に限定しているのである。そして、それを基準にするために、物自体は不可知となるのである。そう、物自体とは差異ないしは超越性と考えられるのであるから、カントは、同一性の制約の下に、差異と同一性の関係(二律背反、アンチノミー)の明確にしようとして、批判哲学を立てたと考えられる。
 そう見ると、ポスト・モダンとは、既にカント哲学において、生起していたことになる。構造主義も同様である。カント的構造主義/ポスト・モダンを正規に打破したのは、やはり、フッサールであり、乗り越えたのは、鈴木大拙であろう。あるいは、ウスペンスキーである。
 思うに、ドゥルーズ&ガタリの「離接」という概念は、「接」ということで、連続性を保っていると考えられる。差異同士は「接」しないからである。即非とは、「即」(一体・一如)且つ「非」(不同)ということで、連続性はないのである。
 


2009年08月08日(Sat)▲ページの先頭へ
現象について:西洋文化ないしは近代文化は身体と物質の混同している
この問題は既述済みであるが、明確に説く必要がある。今は余裕がないので、一言言うだけだが、例えば、感覚を考えよう。「わたし」が木を見るとしよう。視覚認識がある。この木の現象は、「わたし」の視覚において捉えているのであって、それは、あくまで視覚現象である。しかし、近代合理主義は、視覚現象の対象を物質現象と把握したのである。しかし、ここには飛躍があるのである。視覚現象はあくまで視覚現象であり、物質現象ではないからである。
 対象を物質とすることで、思考においてどれほどの混乱をもたらしたことだろうか。対象を物質とするのは、仮説であり、それを本質とするのは飛躍なのである。
 しかし、PS理論によって、対象が何であるか明快である。それは、差異共振エネルギーの現象様態であるということである。言い換えると、イデア現象様態であるということである。その現象様態を同一性的に抽象すると物質という虚構体が生まれるのである。
 そう、物質は虚構・「仮象」である。本体はイデア・エネルギー(「量子」)である。イデア・エネルギーの現象様態の同一性的抽象という虚構が物質ということである。

追記:感覚とは当然身体である。


2009年08月06日(Thu)▲ページの先頭へ
近代的認識における内的対象の排除の問題:五つの力をもつMedia Point 力学と同一性傾斜の「陰陽力学史」的様態性
近代的認識(近代合理主義、近代的「自己」)とは、外界認識中心であり、外界(現象)を物質と見て、その物質的認識を内界認識にも当てはめて、物質界として内界(精神現象・意識現象)を捉えようとするのである。それは、物質=同一性を内界に適用した認識であり、内界の差異を無視したものである。
 もっとも、内界認識については、西洋哲学においては、フッサール現象学がトランス・モダンの発端を確立したのであり、その点については、既述済みなので、ここでは言及しない。ここで述べたいことは、個々人の意識において、内界にどう対処するのかということである。
 ここで一般に男性と女性では異なると考えられる。一般に女性は内界知覚ないしは内界認識を男性よりも発達させていると考えられる。これは、何故かと言えば、女性においては、男性よりも、他者への志向性が強いからと考えられる。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1から言えば、意識は単に右辺の+1に帰結するのでなく、左辺の様態も存しているからではないだろうか。
 とまれ、ここでは、男性中心的な近代的意識の様式を考えたい。即ち、右辺(+1:同一性・物質)へと傾斜する意識のことである。即ち、それは左辺の様態を排除する傾向にあると考えられる。何故かと言えば、左辺は、同一性的合理性には合致しない対象であるからである。一般には、言語認識には、あるいは、量的認識には合致しない対象だからである。
 とまれ、トランス・モダンとは、近代的認識によって排除された内界的認識の復権に拠るのである。これが、絶対的差異の認識、そして、絶対的差異共振の認識となるのである。この点はPS理論の核心で既述済みなのでこれ以上述べない。
 ここで問題とするのは、同一性へ傾斜する認識様態の力学である。これについては、数えきれないくらい検討を行なってきたが、今の段階で究明したい。思うに、結局、⇒+1と+1⇒との極性力学を考えればいいのではないのか。同一性傾斜とは、前者優位であり、後者が劣位にあるということではないだろうか。それに対して、女性的認識は、両者の均衡を保持したものではないだろうか。
 思うに、+1⇒とは、実際は⇒-1の「力」をもつのではないだろうか。それで、Media Point の(+i)*(-i)へと回帰するのではないだろうか。
 実軸認識においては、その回帰点がゼロ点に見えるが、実際は、虚軸
における回帰である。実軸のゼロ点の回帰が構造主義やハイデガーを含むポスト・モダン(ただし、後期デリダは除く)の発想の根源である。
 ここで、Media Point の力学について簡単に言うと、+i,-i,+1,-1の力とMedia Point 自体の力の五つの力が少なくとも作用している。(厳密に言えば、極性の多様な力がはたらくが、ここでは割愛して述べる。)そして、近代的認識は、+1に傾斜しているということになり、残りの四つの力が劣位になっている、ないしは否定されているのである。
 結局、本来的には、五つの力が精神にははたらいているのであるが、近代的認識においては、+1の力が特化されているのであり、極めて不均衡な、いびつな、一面的な認識である。そして、これは、ユダヤ・キリスト教西洋文明の特殊な傾斜であると考えられる。東洋文明やその他の非西洋文明は本来、均衡力学を保持する伝統をもつのである。
 では、端的にこの同一性傾斜の原因は何なのであろうか。ゾロアスター教ならば、悪神アンラ・マンユが根因と考える。では、それは一体何なのか。思うに、Media Point における力学があり、それが、同一性へと傾斜する事態が生起したということではないのか。Media Point 的力学史というものがあるなら、同一性傾斜という力学史の時期が生起したということになる。
 だから、同一性傾斜とは絶対ではなく、相対的である。それは「一時」的である。「流行」である。ここで、想起するのは、易(えき)である。それは、陰陽力学を説いているのであり、その陰陽力学において、同一性傾斜を簡単に説明するができよう。つまり、陽極への傾斜という事態である。そして、陽、極まれば、陰に転ず、ということであり、それは、同一性から差異への転換を示唆していると考えられる。
 だから、トランス・モダンへと転換とは、必然なのである。宇宙の法則、摂理である。

追記:思えば、詩人・版画家のウィリアム・ブレイクは、ユリゼン(近代合理性)が支配的になり、四つの力の関係が歪んだことを説いていた。


2009年08月05日(Wed)▲ページの先頭へ
『検討問題:国家と地方共同体:二層制と差異共振共同体:地方多元主義とMulti Media Point としての国家』
私はこれまで、地域の社会のあり方としてイメージしてきたのは、地域共同体であり、それと企業との相互形成的な様態である。そこでは、立法機関として、国家が必要であると考えたのである。
 このような地域自由共同体の視点から、今、問題になっている道州制を見ると、この問題を熟知する人の知見を参考にすると、道州制は不要であり、返って「地方分権」に逆作用となることが判明する。
 とまれ、企業の差異共振利益の還元を受ける地域共同体の私のヴィジョンが、国家―地方自治体の二層制によって、現実的なものとなることがわかったのである。この問題については、これから様々な知見を得て、検討したいと思っている。国民国家一元的な近代民主主義から、地域・地方多元的なトランス・モダン民主主義への転換の現実的なヴィジョン・プランの萌芽がここにあると言えよう。
 一言付け加えると、国家の役割・位置は理論的にどういうことになるだろうか。思うに、地方・地域差異を共振させる立法を作り、それを行政として、実践することではないだろうか。言い換えると、地方・地域共同体のMulti Media Point となるのではないだろうか。
 そう、垂直性は権威・権力であり、水平性はフラットな共振性を意味するのではないだろうか。今はここで留める。

参考:

小沢一郎氏が橋下と会談、「国と地方の協議の場」の法制化で一致とあり、かなり小沢氏に失望している。

☆☆☆以下、引用☆☆☆

時代は、ポストモダンからトランスモダンに進む必要がある。これが、チェンジの目的で在る。何でも、変革したら良いというものでは決して無い。トランスモダン社会は、無数の個性が共存、共振する社会である。インターネット普及が、これを可能にするのである。市町村合併の失敗も、統合に向かったからである。もっともっと、無数の独立した自立性の高いコミュニティーを形成促進することが政府の役割で在る。
府県は不要で在り、道州も不要で在る。
無数の草の根のデモクラシー・コミュニティーが、独立し、自立することで、国家の暴走をコントロールするのである。
橋下案は、国家の暴走を加速する高速エンジンになる。
これに、小沢一郎氏が満足した、というなら、これは、小沢一郎氏が、田中角栄と同じ、土建屋国家の再来を狙っているという証拠だ。
民主党が、この選挙中に、政財官の癒着連合である「私物国家」に飲み込まれようとしている。
国民は、冷静に、民主党の動向を凝視するべきである。
国民が賢明にならなければ、決して、国民は政財官の奴隷から脱出することは出来ない。
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=787741
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2009年08月04日(Tue)▲ページの先頭へ
トランス・モダン衆院総選挙へ向けて:アンチ新自由主義とは、戦後日本人の自己盲目への自己復讐でもなくてはならない:トランス・モダン民主主義へ
『トランス・モダン衆院総選挙へ向けて:アンチ新自由主義とは、戦後日本人の自己盲目への自己復讐でもなくてはならない:トランス・モダン民主主義へ:始まりの始まり:ポスト民主党政権が真打ちである』

確かに、小泉「構造改革」というコピーに国民はのせられて、国家財政、国民生活が破壊された。官僚・米国主導的自民党がポスト小泉として安倍・福田・麻生という無能政権を続ける中、サブプライムローン等による米国金融崩壊によって景気は急降下して、財政や生活の破壊は容赦なく拡大した。破壊が身に染みた国民は「騙された」ことを知り、今や、衆院総選挙に向け、多くの国民は自民党への不信・憤怒を抱き、結果、民主党政権誕生の実現が近づいてきた。
 しかしである。事実を知ることは必要である。小泉似非改革を支持したのは、実は、国民であることである。小泉政権のとき、心あるブログの管理者は、小泉「構造改革」の危険を伝え、警鐘を鳴らしてきたが、それが無視される形で、今日の「亡国」状態をもたらしたのである。国民自身の愚かさによって、自ら災いを招いたのである。確かに、騙す方は悪いが、民主主義政治であるから、国民の責任・自己責任があるのである。だから、今日の惨状は、自業自得とも言えるのである。
 故に、今日、アンチ自民党ということで、世情は盛り上がっているが、問題は、自民党憎しでは一面的であるということである。その点を十分理解する必要がある。自民党だけでなく、国民自体に批判を向ける必要があるのである。
 とまれ、総選挙は、アンチ小泉、アンチ官僚独裁制を旗幟鮮明にすべきであるが、主観的には、アンチ国民でなくてもならないはずである。正確に言えば、アンチ愚民でなくてはならないはずである。つまりは、民主主義が抱える欠陥に十分注意を払う必要があるということである。民主主義は絶対ではないのである。問題を多くもった政治制度である。
 つまり、単純に憎しみを自民党に向けるのは間違いであるということである。それは、ある意味で逆恨みである。そう、復讐である。それは自己盲目、ルサンチマンであり、自己欺瞞である。正しい「復讐」は、自民党というか小泉/竹中「新自由主義」に対するだけでなく、自己自身に向けるべきである。シェイクスピアの愚者リア王のように、己を烈しく鞭打つべきである。
 だからこそ、今度の総選挙は自己批判的トランス・モダン・レフォメーション(改新)とすべきなのである。近代主義のもつ自己盲目性も問われているのだから。
 私は何が言いたいのだろうか。それは、今度の衆院選挙が、始まりの始まりに過ぎないということである。歴史を見ればわかるように、革命は、ほとんど、反動化した。その理由は、私見では、弁証法的思考法に存する。あるいは、二項対立的思考法にある。これは、近代主義的思考法と言える。即ち、ある体制を否定するとき、問題は、自己のもつ悪を体制に投影する傾向があり、己の悪を認識しないまま、革命を実現する。しかし、革命的主体が体制を作ると、当然、自己盲目の悪が現実化・顕在化するである。これが反動である。旧体制の否定によって、合(ジンテーゼ)を作っても、実は、自己否定性が残っているので、革命的主体は同一性化し、独裁化するのである。
 だから、民主党政権が誕生しても、いずれ、反動化するのである。民主党の場合、連合が有力支持基盤の一つなので、社会主義化するのであり、その点で、官僚と癒着する可能性が強いということである。いったい何の為の選挙であったのかと国民自身落胆することになるだろう。
 これが、始まりの始まりということの一つの意味である。始まりとは、結局、社会主義的なものの解体、そして、自由共同体主義(Kaisetsu氏のリベラル・コミュニズム)の創造・構築というトランス近代化である。これを目指すべく、今度の衆院選挙に向かうべきである。ポスト民主党政権、これが、真打ちである。

****************

米国に国内資産根こそぎ貢ぐ
小泉・竹中の売国奴改革
               国内に金回らぬ原因    2009年7月27日付

・・・・・

 日本国内は財政赤字に 債務残高は1100兆円
 そして国内はどうなっているのか見てみると、日本政府は800兆円という膨大な財政赤字を負っている。政府歳入が年間約50兆円なので、16倍にもなる。国・地方を合わせた債務残高は約1100兆円とされる。財政赤字を理由に、国内では地方切り捨てや医療・福祉をぶち切ったり、生産人民の生活がままならないほど貧しい状態をつくりだし、消費税を増税するとか、財政再建などといってきた。そして、一方では「史上空前の好景気」が同時進行で、大企業の内部留保は120兆円を超えるまでになった。
 財政赤字はさらに拡大する傾向にある。こちらもカネがないので国債発行でまかなっている。日本の場合、アメリカと違って国民の貯蓄資金を使って国債を買い取っている。銀行など金融機関に預けた貯蓄の相当部分は、政府の国債購入に回るシカケになっている。従来であれば簡保資金などが最大の買い手になっていたが、郵政民営化によって2007年からは縛りがとれた。340兆円の郵貯・簡保資金は日本国債の買い取りではなく、今後は外資(ゴールドマン・サックス)が運用する関係へと切り替わった。これも奪われた巨額の資金である。これが小泉・竹中の最大の仕事であった。
 09年3月末段階の日本の国債残高は681兆6544億円で、所有者別内訳を見てみると、金融機関がおよそ7割を保有している。国民の預貯金は四五〇兆円近くが回り回って国債に姿を変えている。
 60数年前の終戦後には預金封鎖になって、みなが預金を引き出せないうちに、たいへんなインフレになり、預金や保険は二足三文になるという出来事があった。「これは利子がすごくいいよ」といって国民に買わせていた国債は、敗戦によって名実ともに紙屑になるという経験を年寄りは忘れていない。第二次大戦の経験では、貯蓄とか株などは政府がすべて紙くずにしたのだ。
 アメリカに流れたカネはアメリカは属国などに返す気などないと見るのが普通で、最後はドル暴落、債務不履行もやりかねない。大インフレで大借金をゼロにするという事態も十分にあり得ることである。国内の財政赤字1100兆円に加えて、約500兆円が焦げ付くという事態である。
 日本国内、国民生活を貧乏にさせて、独占企業や米外資が好き放題を謳歌し、社会を崩壊させてきた、この間の小泉・竹中に代表される自民党売国政治の犯罪性はこの上なく大きい。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu
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嘘がはびこる国策報道
テレビや新聞使う世論操作
              日本を潰した大きな犯罪    2009年7月24日付
 テレビや大新聞をはじめとするマスメディアは、「主観をまじえずに客観的に、一方に偏らず公正中立に世論を反映し報道している」かのように見せかけてきた。しかし、今やそれを額面通り受け取る者はほとんどいない。「改革者・小泉」の演出からホリエモン騒ぎ、郵政選挙、湾岸戦争やイラク戦争、北朝鮮ミサイル報道と、国民はその都度マスコミのウソにだまされ通しだったからである。それに加えて性と暴力、お笑いなど国民総愚民化番組のオンパレードである。戦前・戦後の歴史は、マスメディアがつねに戦争とともにあり、権力者の支配の道具となって、大衆世論を巧みに歪曲し誘導してきたことを示している。

 テレビや新聞使う世論操作 
 8月30日の総選挙が近づくなかで、「小泉と安倍を筆頭にした売国政治が日本をメチャクチャにした」という世論が沸騰している。国の生産活動の基礎である労働者の生活も食料自給も、さらには医療も介護も教育もアメリカのいいなりになってぶっつぶしたことへの怒りの声である。そして「古い自民党をぶっ壊す」「聖域なき改革」といった小泉をヒーローのようにもちあげてきたマスメディアにもほこ先が向けられる。
 2001年の小泉登場そのものがアメリカの差し金だった。当初、小泉が首相になる条件は乏しかったが、自民党の総裁を選ぶ選挙に全国の自民党員による予備選挙を導入し、あたかも米大統領選のようにメディアが頻繁にとりあげた。この予備選で「小泉旋風」がつくられ、小学館の学習雑誌までが「純ちゃんフィーバー」を煽った。
 01年、小泉内閣誕生のニュースの放送時間は、1年間のワイドショー総放送時間中ダントツの206時間余りであった。新自由主義的改革を進めるために逆らうものに「抵抗勢力」のレッテルを貼る、「善玉」対「悪玉」の単純化、ワンフレーズ、国民にテレビを使って直接働きかける――などの小泉の手法は、「われわれの側につくかテロリストの側につくか」という単純な2分法で思考停止を迫るブッシュ政府の手法に源がある。マスコミは毎日「官から民へ」をくり返し、「民営化や規制緩和イコール改革、進歩」という図式の刷り込みをおこなった。
 05年9月の衆議院選挙(郵政選挙)で、小泉自民党は得票数が有権者総数の25%しかないのに、小選挙区制というトリックによって議席の3分の2を占めた。このとき、小泉応援の大騒ぎを演じたのがテレビや大新聞で、逆に国民は、マスメディアというのはうかつに信用してはならない警戒すべき存在であることを学んだ。
 選挙の直前、郵政民営化法案が廃案になったとき、すでにアメリカの『ウォールストリート・ジャーナル』紙は、「(小泉が反撃に出るので)ほんの少し待てば、われわれは3兆j(郵便貯金の350兆円)を手に入れることができる」と露骨に書いていた。実は同年1月、当時自民党幹事長代理であった安倍晋三(党改革検証・推進委員会委員長)が「イメージ選挙になるのでプロの知恵を借りる」といって、アメリカの広告会社プラップジャパンとコンサルタント契約を結んでいたのである。そして総選挙は、郵政民営化に対する善玉と悪玉(既得権益擁護派)の対決と騒ぎ、「刺客」「くの一」などさまざまな仕掛けを用意して「小泉劇場」を演出した。その実行者がテレビや大新聞であった。
 このとき民主党は、アメリカの広告会社フライシュマンと契約していたが、同社を傘下におくオムニコム・グループのローゼンシャイン会長が、当時首相官邸で懇談していたことも明らかになっており、知識人のなかでは「わざと民主党が負けるように仕組んだのではないか」という指摘もある。
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自民壊滅 27勝75敗

2009年08月03日10時00分 / 提供:ゲンダイネット
ゲンダイネット

 投票まで1カ月。総選挙の勝敗を決する主戦場となるのが「首都圏」の東京、神奈川、千葉、埼玉の71選挙区と、「関西圏」の大阪、兵庫の31選挙区だ。300選挙区の3分の1を占める首都圏・関西圏を自民、民主のどちらが制するかで勝負は決まる。

 05年の郵政選挙で自公が300という大量議席を獲得したのは、首都圏と関西圏で大勝したからだ。

 東京は24勝1敗、埼玉が12勝3敗、千葉では12勝1敗と圧勝。神奈川にいたっては17勝1敗で、負けた相手は8区の江田憲司(無所属)だけだから、民主相手には全勝だった。

 関西でも大阪が17勝2敗、兵庫は12の選挙区すべてを自公が取って完勝した。

 首都圏と関西圏の小選挙区合わせて102議席のうち実に94議席を獲得したのである。

「首都圏と関西圏が注目されるのは、議席数が多いからだけではありません。激戦区ばかりのうえ、無党派が多く、あっという間に潮目が変わってしまう選挙区が多いからです。地方は比較的、自民が強い選挙区、民主が強い選挙区がハッキリしてますからね。投票率によってもガラリと変わってきます」(政界関係者)

●首都圏だけで16勝55敗

 選挙情勢はどうなっているのか。政治評論家の有馬晴海氏はこう見る。

「前回選挙とは真逆の現象が起きそうです。つまり、自公が90敗でもおかしくない。現時点で、自民が確実に勝てそうなのは、首都圏で10選挙区くらいでしょう。都議選の得票数をそのまま当てはめれば、東京で当選確実なのは石原伸晃と平沢勝栄だけ。埼玉は全滅もあり得ます。千葉は浜田靖一や森英介の大臣クラスは地盤が強いので、2つは死守。神奈川では、甘利明、河野太郎、小泉進次郎、菅義偉あたりは当確候補ですが、3つ取れれば御の字という見方もあります。今回は都市圏で投票率が上がるとみられ、無党派層の多くは基本的に反自公ですから、ますます民主に有利な状況になります」

 関西圏も同じだ。自公の組織票が強固だといわれるが、都市部は風向き次第でドミノ倒しのように流れが変わる。

「前回は自公が全勝した兵庫でも、8区の冬柴鉄三が田中康夫の出馬で当選が危うくなるなど、軒並み苦戦している。大阪16区の北側一雄だって、どうなるかわかりません。高齢の中山太郎も世代交代の波にさらされています」(地元紙記者)

 週刊誌などの当落予想を基に割り出した落選危機議員は一覧表の通り。甘く見積もっても、首都圏と関西圏で自公は27勝75敗だ。

(日刊ゲンダイ2009年7月31日掲載)

http://news.livedoor.com
/article/detail/4280069/


2009年08月02日(Sun)▲ページの先頭へ
《隠れ新自由主義者の橋下》:衆院総選挙への心得
以下、Kaisetsu氏が、米国外交転換下のアジア状況における来る衆院総選挙の意義を、透徹した政治批判的視点から、説明している。特に「隠れ新自由主義者の橋下」と述べている点は重要である。その端的な指摘は、総選挙に当たり、判断する上で、明快で啓蒙的である。
 そう、ハシモト知事の悪辣さ、卑劣さに油断してはならない。道州制というイデオロギーを利用して、野党を撹乱して、日本破壊に導こうとしているのである。一種究極のナルシスト・利己主義者である。ルサンチマンの塊である。端的に、Media Pointを否定している憎悪・怨恨に満ち満ちた、劣弱な破壊的人間である。卑しい権力への意志の悪鬼である。日本アンリ・マンユの代表の一人である。

***************

アジア全体を見渡した日本の総選挙の位置

以下、一部引用。強調renshi。

『 5. 新自由主義の根本はトロキシズム(マルクス・レーニン主義、唯物史観)であり、新自由主義はリバタリズムと鋭く対立する。

 新自由主義の提唱者は、トロキストであり、新自由主義は、マルクス・レーニン主義、唯物史観の潮流に位置する。

 このため、新自由主義は他国への干渉を強硬に推し進め、IMFなどの国際機関の関与を強めようと画策する。

 リバタリアンは、基本的に、自分の生活、自分の地域の生活、自分の国以外に干渉すること嫌う。

 新自由主義者が「扇情的、瞬間湯沸かし器右翼」と同一化しているのも、新自由主義が、本来、「全体主義思想」であり、「寡占、独占資本、国際資本」の擁護者であることを示すものだ。

 道州制を進めようとする橋下の動きなども、隠れ新自由主義者の橋下が、福祉切り捨て政策の後に、地方切り捨て政策を新自由主義逆風下で中央突破し、大企業・霞が関に恩を売り、庶民と国民を裏切ろうとしているのである。』
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=786935
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


暗黙知と融即/動的客観的結合: ハンガリー人のポラニー兄弟にはアジアの血=知が感じられる
以下、toxandoria氏が参考情報であげているカール・ポラニーの暗黙知や、マイケル・ポラニーの「dynamo-objective coupling」の源泉であるレヴィ=ブリュールの融即(participation)の理論であるが、実は、これは、私の理論遍歴において遭遇し、注目したものである。暗黙知とは、私見では、実は、無意識というか直感や感性で測深して、イデーを仮説する方法であり、融即は、Media Pointの前近代的、未分化的表現と考えられるのである。コスモスという思想は、そこから発生すると考えられるし、また、差異共振性の発想とも近い。ただし、未分化なので、連続性を含んでいるのである。
 とまれ、ポラニー兄弟はハンガリー人ということで、アジア的血があるので、源泉的には、このような東洋的な発想ができたと考えられるのである。
 レヴィ=ブリュールも思うに、ケルトの血が入っている可能性がある【追記:ユダヤ人であるが、ユダヤ人の思想はMedia Pointが源泉にあるが、それを否定的に同一性の方向に展開する場合(マルクスやフロイト)と、肯定的に、即ち、差異共振的に展開する場合(シャガール、ロスコ)があると思う。前者は思想家に、後者は芸術家に多いようだ。いわば、ヤハウェ型とエローヒーム型ということになろう。追記:これはあてにならない区分である。スピノザやレヴィナスは後者型である。】
 とまれ、toxandoria氏の思考様相もPS理論的になったと考えられる。

***************

2009-08-02 竹中式バカの作り方に扇動され偽装マニフェストとTVパフォーマンスに
・・・・・

2005年 に当初のEU憲法条約がフランス、オランダ の国民投票によって否決されてから、官僚的・圧力的ガバナンス への批判を打ち消すため、EUは「市民社会 ディスコース 」(市民社会との対話を深化させる工夫)へ取り組んでおり、その要素となるキーワード が「共同体との連帯」と「アソシエーションによる調整・調和」に絞られています(出典:田中俊郎他編『EUのガバナンスと政策形成』(慶応大学 出版会))。そこで連想されるのがハンガリーの偉大な学者二人の知見、カール・ポラニーの「暗黙知 」 とマイケル ・ポラニーの「動的・選択的客観統合」です。それは、この二つの知見とEUの「市民社会ディスコース」の要素には深い繋がりがあると考えられるからです。そして、そこにはチェコ的な意味での経路依存的な合理主義が共鳴しています。

ところで、歴史的・伝統的に美しい都市景観や自然環境などをネオリベ 傾斜型の市場原理主義による「カネ」以外の尺度で評価すべきだという観点から、カール・ポラニー(Karl Polany/1886-1964/ハンガリー出身の経済人類学 者)の「社会の中に埋め込まれた経済」という視点が見直されつつあります。また、カールの弟・マイケル・ポラニー(Michael Polanyi/1891-1976/物理学者 ・社会哲学者)が提唱した「暗黙知」(tacit−knowledge)の意義も再検討されています。

そもそもマイケル・ポラニーの「暗黙知」は経験で得られる「相対知」の広がりと見做されてきましたが、近年はやや異なるアプローチが行われています。その新しい着眼とは、「相対知」の集成としての結果(知識、成果)よりも、人間がその「相対知」を獲得するまでの「知の発見のプロセス 、別に言えば、そのプロセス領域内でのスナップ ・ショット(一場面ごと)の作用メカニズム 」を十分に固着的に観察すべきだということです。

この考察のルーツは、マイケル・ポラニーに影響を与えたフランスの社会哲学者レヴィ・ブリュール(Lucien Levy-Bruhl/1857-1939/前論理的思考様式存在の立証を試みつつ、異文化研究に新機軸を開いた)にあります。レヴィ・ブリュールは、未開部族の観察から、実は個人の感情・情動・動機などが外界の出来事と、しばしば共感的に同一視されるという作用に注目し、これを「参加」(participation)と呼びました。が、マイケル・ポラニーは、この作用を「dynamo-objective coupling」(動的・選択的客観統合=一種のプロセス重視型の状態原理)と名づけました(参照 → http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0151.html )。

この熾烈で、繊細かつフラジャイル で、しかも二律背反的な「dynamo-objective coupling」の中にこそ「未知の真理」を発見する「創発」の作用が隠れており、そこで究極のリスクを回避し、難渋しつつ学び取るものこそが「暗黙知」です。しかも、これは、表層的に見れば不可解に思えるかも知れませんが、かくの如く繊細で壊れやすく、スナップ・ショット的な意味で苛烈で闘争的な認識作用の瞬間的鬩ぎあいの中でこそ、新しい真理の発見や社会・文化的リアリズム の知見が凝集・析出してくるのです。その意味で、マイケル・ポラニーの「暗黙知」は、自然科学 だけでなく人文・社会科学 、ジャーナリズム 等の領域へも重要な示唆を与えています。
http://d.hatena.ne.jp/
toxandoria/20090802

toxandoria

toxandoria
『toxandoria の日記、アートと社会』

***************

参照:
2006年02月04日 (23:27)
マイケル・ポランニーの暗黙知と不連続的差異論:toxandria氏の考察に基づいて
先に、toxandria氏のマイケル・ポランニーの暗黙知や「dynamo-objective coupling」の概念が、不連続的差異論と共通するものがあるのではないかと述べたが、ここで、それについて少し考えてみたい。
 私は、かつて、マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』やレヴィ・ブリュールの『原始神話学』を読んだことがあるので、本件について、ほとんど自明に近い直観をもつのである。一言で言えば、暗黙知や「dynamo-objective coupling」は、不連続的差異論におけるメディア界領域を対象としているということである。つまり、メディア界的思考は、暗黙知的であるし、また、「dynamo-objective coupling」的であるということである。
 この点を少し説明すると、暗黙知とは、現象界において隠れている「知」を想定して、それを作業仮説として、発見や創発を為すわけであるが、この探求過程において、主体は、メディア界を認識の「フィールド」にしているわけであり、そこから形成される概念が、暗黙知である。これは、思うに、スピノザの『エチカ』における能動的観念から共通概念へと上位化する認識作用と通じるように思える。
 そして、「dynamo- objective coupling」であるが、これはまさに、メディア界を探求している主体の認識状態である。つまり、主客相補性の状態である。主体は、客体と連結しつつ、分離している(ドゥルーズ&ガタリの「離接」にほぼ相当する)状態の「認識」をするのである。これは、近代的な主客分離二元論ではなくて、主客相補的二元論であり、物理学ならば量子力学に相当する領域であり、デリダの脱構築哲学に相当する領域とも言えるだろう。これは、前近代的世界観であり、また、一つのポストモダン的世界観である。そして、フッサールの説く「生活世界」の一つに相当すると考えられるのである。現象学的還元をして生起する「生活世界」である。
 しかしながら、この認識方法の問題点は、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の「三幅対」論に表明されているだろう。つまり、前近代とポストモダンが、相互依存して、後者が反動化することである。 toxandria氏も述べているように、知のイデオロギー化・体制化も生じるのである。確かに、新しい知を創造するための必要な方法ではあるが、裏面の反動性を明確に意識する必要がある。これは、決定的なポイントである。すでに、反動的ポストモダンと能動的ポストモダンということで指摘しているように、いわば、「暗黙知」と「dynamo-objective coupling」の不連続化が必要なのである。これによって、「暗黙知」はイデア界の包摂理念となり、イデオロギー化・体制化されることはなく、不連続的差異の知性・理性となり、民主的共立のための知・真理となるだろう。
 ここで補足すると、スピノザ哲学は、メディア界的共通概念からイデア界的理念へと志向しているのであり、不連続的差異論のあり方と重なる面があるのであるが、何度も繰り返すことになるが、スピノザ哲学の究極の「存在の一義性」の理念(神=実体)が、連続的なのか、不連続的なのか、不明確である点である。不連続的差異論から見ると、スピノザ哲学は、イデア/メディア境界を根底にしているのであり、正確には、イデア界に達していないのである。ドゥルーズがスピノザ哲学を最高度に評価した理由もここからわかるだろう。ドゥルーズ哲学自体が、きわめて、スピノザ的な連続性と不連続性の両義性を帯びているからである。

参照1:
「 toxandria氏の以下の論考は、不連続的差異論に通じるものがあるように直観される。」
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10008530019.html

「日本のマスメディアに欠ける、「政治体制の妥当性評価」の視点」
http://d.hatena.ne.jp
/toxandoria/20060129/p1
『toxandriaの日記』
__________________________________

参照2:『松岡正剛の千夜千冊』「マイケル・ポランニー
『暗黙知の次元』」
http://www.isis.ne.jp/mnn
/senya/senya1042.html



「相対性の復権と相対主義の陥穽ーーフッサール間主観性の現象学の問題圏にて」浜渦 辰二  著(静岡大学人文学部)
http://www.hss.shizuoka.ac.jp
/shakai/ningen/hamauzu/soutai.html

http://sophio.blog19.fc2.com
/blog-entry-163.html
プラトニック・シナジー理論(旧不連続的差異論)のページ


参考:
融即律

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2008/06/16 09:36 UTC 版)

融即律(ゆうそくりつ、principe de participation)とは、自分達のことを器物・生物・現象と同一化してしまうという未開人特有の心性の原理をいい、フランスの民俗学者レヴィ=ブリュル (Lucien Levy-Bruhl)がその著書『未開社会の思惟』において、未開人の心性が現代人と本質的に異なることを示すために導入した概念である。

概要

融即律の下で未開人の心に捉えられた器物・生物・現象は「(現代人に)理解しがたい仕方により、それ自身であると同時にまたそれ自身以外のものでもあり得る。また同じく理解しがたい仕方によって、それらのものは自ら在るところに在ることを止めることなく、他に感ぜしめる神秘的な力、効果、性質、作用を発し或いはそれを受ける」[1] という。神秘的融即(participation mystique)と呼ばれることもある。たとえば、自分達が金剛いんこであると云っている北部ブラジルの未開部族の場合、金剛いんこは自身に与えた名前ではなく、金剛いんことの類縁関係を意味しているのでもなく、本質的に自分たちは金剛いんこと同一であると考えているという。

このレヴィ=ブリュルの理論は、その後、文化人類学 の調査研究によって否定されるに至り、レヴィ=ブリュル自身により撤回された。後年クロード・レヴィ=ストロース は『野生の思考』において、未開人の思考と現代人の思考は本質的に異なるものではないと論じ、論理的思考に情緒内容が伴うことがあるのは未開人にも現代人にも等しくみられる心性であって、融即は未開人に特有の心性というにあたらないし、わざわざ融即と呼ぶ必要もないとしている。

未開人の心性を現代人の心性と区別するものとしての融即律は、こうして文化人類学の中ではすでに否定された概念であるが、集合的無意識 の概念を提唱したスイスの心理学者カール・グスタフ・ユング は、現代人の心理において主体と客体が無意識に同一状態となる同一性の現象がみられ、これは「主体と客体が区別されていない原初の心的状態の・つまり原始の無意識状態の・生き残りに他ならない」[2] のであって、未開人の心性の特徴である「神秘的融即」は現代人の無意識の中に受け継がれている、と論じた。ユングは「レヴィ=ブリュルが愚かな人々の攻撃に屈して「神秘的融即」の概念を撤回してしまったのは残念である」[3] と述べて生涯この概念を捨て去ることはしなかった。

近年、文化人類学 でも、タンバイアのように、融即律を因果律 とならぶ人間の世界認識の方法として再評価する動きがある。

参考文献

スタンレー・J・タンバイア『呪術・宗教・科学ー人類学における「普遍」と「相対」』思文閣出版(1996)



1. ^ 『未開社会の思惟』山田吉彦訳、岩波文庫、上・95ページ
2. ^ 『タイプ論』林道義 訳、みすず書房、471ページ
3. ^ General Aspect of Dream Psycology, 1948, footnote 12.



労働者派遣法問題:同一性価値と差異価値:小泉「新自由主義」大破壊とは、同一性資本主義の帰結である
労働者派遣については、以前、ざっとそれは人間を物として捉えるものであると述べた。つまり、それは、人間を同一性価値=交換価値から捉えたものということである。
 そのときも述べたが、経済学に哲学がないので、同一性価値を絶対化してしまい、資本主義の根源的源泉である差異価値を否定してしまったのである。
 この問題は何度も述べたので詳述しないが、差異価値の視点から資本主義を見直す必要があるのである。だから、労働も差異価値なのであり、それが賃金を設定する一つの基礎となる。
 今や近代主義は終焉したのであり、その近代の反動が狂気・暴力となって日本、世界を襲っているのである。
 とまれ、トランス・モダン・チェンジとは、一言で言えば、絶対的差異主義である。これに尽きると言っても言い過ぎではないだろう。そして、それは、同一性価値の消滅である。
 先に、資本と労働の差異共振価値について言及したが、この差異共振資本価値の視点から労働価値を評価する必要がある。勤労者の生活を積極・能動的に更新していくのに必要な賃金が必要である。
 思うに、差異共振価値法が必要ではないだろうか。これによって、同一性資本は解体されよう。利益は元来、差異共振利益である。差異共振価値に還元されなくてはならないのである。企業も差異共振価値事業になるのである。
 そして、差異共振価値の創造を目指すべく積極的な政策が必要になる。教育も子育ても社会福祉も年金も含めて一切は差異共振価値である。この視点から日本社会を大改新すべきである。
 余裕のあるとき、さらに具体的に考察を行いたい。

参照:
むしろ、各政党には、負の配分を明示して欲しい。

以下、一部転載。

「これらの事実から、小泉政権以降の自民党の政策は、当時の若年層と団塊世代、及び、後期高齢者を意識的にターゲットにした虐待政策によって、大企業と外資を含めた新興企業の利益を増大させる政策を実行した、と言える。

 だから、今後も、消費税増税や法人税下げなどの企業優遇への道を進むのか、或いは、大企業や銀行に、負の負担を求める方向に軌道修正するのか、ここが最も重要な論点である。」
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=786733
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu

参照2:以下、とても興味深い「基礎生活保障」の理念・政策が述べられている。これは差異共振価値の視点から、理論的に、より十全に、発展的に説明できよう。

[08/01]「最低生活保障」の考え方と取り組み (新党日本の公約と、フランスでの実施例) New!!

http://muranoserena.blog91.
fc2.com/blog-entry-1336.html
村野瀬玲奈の秘書課広報室

**************

急いで、労働者派遣法 を改正して、10年前(1999年)に戻さなければならない(副島隆彦の学問道場)

副島隆彦です。 私たちが待ち望む、9月からの民主党政権の誕生
と共に、急いで手をつけなければならないのは、労働者派遣法 の改正である。そうしないと、派遣社員で、地獄の苦しみを味あわされている
貧しい若者の、非正規雇用(長期アルバイト、嘱託、臨時雇いなど呼称はいろいろ)の人たちの、かわいそうな状態を是正しなければならないからだ。

来るべき、鳩山民主党中心連立政権は、それに急いで手をつけると、以下に約束している。すばらしい決断だ。

http://www.asyura2.com/
09/senkyo68/msg/481.html



   




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