INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/08/18

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年08月18日(Tue)▲ページの先頭へ
『「感情」とは何か:感性主義と知的感性:感性主義は倒錯であり、知的感性ないしは差異共振的「感情」が正当である:emotion,feeling,sentiment』
『「感情」とは何か:感性主義と知的感性:感性主義は倒錯であり、知的感性ないしは差異共振的「感情」が正当である:emotion,feeling,sentiment』

「感情」については、これまであまり考察してこなかった。しかしながら、先には、麻薬的感性主義はロマン主義的であることを述べ、感性主義を批判した。
 もっとも、批判は超越論的である。だから、超越論的批判というのが的確であるから、感性主義ないしはロマン主義の超越論的批判が趣意である。言い換えると、「感情」自体を否定しているのではなく、感性主義/ロマン主義という「感情」の精神様態を批判しているのである。
 ここでも具象的に考察しよう。例えば、モーツァルトの音楽を聴くとしよう。調べがあり、そこには、叙情がある。これは、「感情」表出ではあるが、ロマン主義的なものではない。なぜなら、知的形成に基づく「感情」だからである。この知的形成がなければ、「感情」表出は感性主義となるだろう。だから、モーツァルト音楽は知的「感情」、知的叙情があるということになる。
 私が言いたいことは、知が主であり、「感情」は従であるということである。何故なら、精神ないしは精神身体は、知意志が主体であるからである。(もっとも正確に言えば、男性の場合、知意志が主体であるが、女性の場合は、知意志と身体との極性が主体であると考えられる。だから、女性の場合は芸術に向いているのである。故に、男性の場合は知意志が主導的であり、女性の場合は知意志が一つの主導性をもつということになる。)
 ということで、知ではなく、「感情」が主導的になるのは、倒錯なのである。故に、感性主義であるロマン主義は倒錯的であるということになる。
 では、端的に「感情」の力学とはどういうものなのか、検討しよう。これまでの検討から言えば、それは、Media Point の一つの様態である。では、どういう力学なのか。それは、主体+iが他者-iによって被る感応と言えよう。つまり、主体の感覚の様態であるということである。単に感覚ではなく、感覚の様態である。ここでも具象的に言えば、冬において夜、東の空高くオリオン座が壮麗に輝いている光景を考えよう。単に輝くだけでなく、「壮麗」に輝くのでああり、「壮麗」という「感情」がそこに生起しているのである。
 いったい、この感応性(感受性)は何であろうか。精神身体力学的に見れば、オリオン座-iの光が、「わたし」+iと差異共振して、エネルギーが発動する。このエネルギーに「壮麗」的「感情」が入ることになるだろう。
 とまれ、光を感受するには、視覚が必要である。視覚はどこに位置するのか。言い換えると、身体は位置はどこなのか。私は精神身体ということを述べてきた。それは、+iと-iの共振によって形成されるものと考えられる。つまり、Media Point が原精神身体であり、実際の身体は、⇒+1であると考えられる。
 だから、Media Point において、原感覚が発生するのであり、それは、本来、精神的感覚である。より精緻、詳細に見れば、+iは能動的感覚であり、-iが受動的感覚であろう。前者は知覚であり、後者は「感情」を内包するだろう。
 端的に言えば、+iは知性・知覚であり、-iは感覚・「感情」である。Media Point における両者の共振(共鳴)によって、知的感覚、感覚知覚が生起すると考えられる。このとき、当然、「感情」もともなうのである。
 では、その「感情」とは何か。それは、Media Point における差異共振様態における感覚のエネルギー価ではないだろうか。
 それを作業仮説にすると、先のオリオン座であるが、それは、知覚者の視覚に入り、視覚者の精神身体に感受されるが、視覚者の感応性・感受性、即ち、 Media Point の感応性・感受性に感覚エネルギー価をもたらすのであり、その感覚エネルギー価が「壮麗」という「感情」ということになる。
 言い換えると、Media Point における視覚的他者-iの感受が、視覚エネルギー価=「感情」を喚起するということである。
 結局、「感情」とは精神身体のMedia Pointにおける感覚エネルギー価ということで説明できることになるだろう。
 そうならば、Media Point においては、知性+iの主導性があるのだから(男性において)、「感情」とは、本来、知的形成を受けるものであり、感性主義は、倒錯であることが証明されるのである。
 では、女性の場合はどうなるかと言えば、知性と身体との共振が本来的であり、極性的であることになる。だから、女性の場合の感知とは、単に知的形成ではなく、正に、差異共振的「感情」を喚起すると考えられよう。これは、即非的「感情」とも言える。とまれ、知性と感覚の両面の共振的「感情」が生起することになるだろう。だから、男性よりは知的主導性は弱いとは言え、感覚のエネルギー価は男性よりも強くなると言えよう。思うに、女性が「感情」的であるというのは、この面が原因ではないだろうか。
 結局、知的感性・「感情」とはemotionというよりは、sentimentである。女性の差異共振「感情」であるが、それは、feelingと呼ぶのが正当ではないだろうか。
 後で、整理したい。


知性の位置についての試論:「理性」と「悟性」:Media Point の「理性」(=超越理性)と「悟性」(=超越悟性):::付録:-1の意味についての思考実験
復習から始めると、不連続的差異論は、連続化されている近代的知性を「脱構築」するものであった。即ち、Media Point からの連続的同一性である近代合理性(近代的自我・同一性自己)の中心性を解体して、自己や他者が不連続的差異であることを解明したのである。
 では、「脱構築」された近代的知性はどうなるのか。というか、「脱構築」された近代的自我はどうなるのか。思うに、そこには、悟性(概念知性・言語知性)が残るのである。それは、不連続的悟性(不連続的概念・不連続的言語)であろう。
 それに対して、いわば、純粋Media Point が回帰する。それは差異共振/即非的「精神身体」(「精神」でもいいが、「精神身体」とする方が的確ではないのか)である。(+i)*(-i)の原ミクロ・コスモスがある。カント的に言えば、、物自体としての他者が知覚・認識に入ってくるのである。それは-iである。では、+iは何なのか。
 具象的に考えよう。不連続的差異化された「わたし」(自己)が、眼前の杉の木を見ているとしよう。他者-iである杉の木を視覚知覚する。幹には節がいくつもあり、白い斑点があり、また、筋がある木肌があり、亀裂もあり、また、円錐状の樹形である。
 この直観は、不連続的直観である。では、この直観主体、直観自己は何なのか。それは、+iではないのか。近代的自我においては、主体は+1と化していた。しかし、不連続的差異となった主体は+iではないのか。おそらく、それでいいと思える。
 ならば、不連続的差異(絶対的差異)である主体+iと不連続的差異(絶対的差異)である他者=物自体-iの杉の木との即非・共振が、直観において想起していると言えよう。これは、Media Point の虚軸の事象と考えられる。
 主体+iは、既に悟性化されているので、即非・共振的直観像を当然、言語概念化することができる。しかしながら、ここで、不連続的差異(絶対的差異)である対象と同一性的な傾斜をもつ言語との矛盾が生じるのである。
 対象の杉の木は絶対的差異であり、認識する主体も絶対的差異である。しかるに、悟性認識は言語を伴い、それを一般化するのである。対象は「杉の木」という一般形式に還元されるのである。
 絶対的差異と同一性との矛盾衝突である。精緻に見ると、問題は、悟性と言語の関係である。それを精査する必要がある。悟性ないしは概念知とは何か。それは、理念知であろう。イデア知性であろう。だから、それは、-iを知る+iの本質知である。つまり、悟性とはMedia Point 的知性に入るのである。
 だから、当然、近代合理的知性の+1とは異なるのであるが、これが、混同されているのが近代合理性である。デカルトの「我思う、故に、我在り」は、これを端的に示すものだろう。コギトは+iであり、スムは+1と考えられるからである。(カントの場合、まだ、連続性ないしは混合性が残り、それを払拭したのがフッサールと言えよう。)
 ということで、悟性と同一性形式の言語とは本来、異質なものであることがわかるだろう。この「ズレ」の認識はきわめて重要である。言い換えると、悟性は普遍的であり、言語は仮象・仮構的である。(構造主義は両者を混同しているのである。言語が思考を規定するという構造主義は、悟性的思考の普遍性を否定しているのである。)
 故に、絶対的差異と同一性との矛盾・衝突とは、表面・皮相的であることが判明した。絶対的差異と言語とは矛盾・衝突しうるが、絶対的差異と悟性は調和するのである。
 では、さらに深めると、理性とは何か、悟性との関係はどういうものかという問いが当然提起される。
 上記において、悟性はMedia Point 的知性に入ると言ったが、後者自体ではない。そう、理性とは本来Media Point 的知性のことであろう。rationality、reasonとは、本来、Media Point的様相の知性であろうが、それが、ロゴス(言語知性)と混淆されて、連続化されたのではないだろうか。
 だから、言い換えると、理性とは、本来、叡知(ソフィア知性=イデア知性)、東洋的には智慧と考えられる。この問題の展開は課題とするが、以上から、理性と悟性との関係も明らかになったと言えよう。悟性(概念知)は理性(差異共振知)に含まれる、あるいは、悟性は理性の一部であるということになる。
 PS理論から言うと、理性はMedia Point 知性であり、悟性はMedia Point 的概念知性ということになろう。
 とは言え、理性や悟性という用語はあいまいなものになってしまっている。理性の場合は、ロゴスと結びついて、言語的概念化されて同一性化している傾向が強いのである。そして、悟性も同様である。だから、PS理論から言うと、使用するなら、トランス理性(超理性)、トランス悟性(超悟性)がいいのかもしれない。あるいは、絶対的理性と絶対的悟性である。
 さて、以上によって、知性が本来虚数的であることが判明したと考えられ、故に、虚数的知性という用語を使用していいだろう。(実数的知性とは、倒錯・錯誤的である。)
 知性の位置という本題であるが、それは、+iないしはMedia Point にあると言えるだろう。自己主体に限定すれば、+iである。
 さて、先に取り上げた-1の意味の問題をここで考察するのが妥当である。何故なら、+i,-i,+1の意味が明晰になったと考えられるからであり、当然、残りの-1の意味の解明が必然化されるからである。
 さて、思考実験的に言うと、⇒+1が個体・個物の生成を意味すると考えられるので、それが即非の非であり、即非の即は一体・一如であるとすれば、⇒-1が即と見ることができるのではないだろうか。差異共振一体性としての-1ではないだろうか。⇒+1が現象、外的現象、可視界とするなら、⇒-1は、差異共振現象、あるいは内的現象、不可視界ではないだろうか。あるいは、前近代におけるコスモスではないだろうか。思うに、神秘思想(神秘主義)が説いていた世界がこれではないだろうか。⇒+1が顕界ならば、⇒-1は幽界である。さらに言えば、イスラム教のタウヒード(一性)はここを意味するのではないだろうか。また、ギリシア神話の主神ゼウスもここを意味するのではないだろうか。
 ならば、一神教とは何かという問いになる。ヤハウェ(エホバ)とは何か。先に、-1ではないかと示唆したが、それほど単純ではないだろう。アッラーの場合は、-1でいいと思うが、ヤハウェはその要素もあるが、他の要素が混入していると考えられる。
 ヤハウェは「我有りて、有り余れるもの」である。この有、即ち、存在が問題である。つまり、ヤハウェはハイデガーの言う存在の原点であると考えられるのである。つまり、同一性構造(唯物論の源泉)をもつ(、又は、である)のである。ならば、ヤハウェは、⇒-1だけでなく、⇒+1の要素をもつと考えられる。否、正確に言えば、⇒の先端の構造をもつと考えられる。だから、ヤハウェとはMedia Point の差異共振現象から同一性志向性が生起するときの現象様態を意味しているのではないだろうか。言い換えると、差異共振現象は確かにあるので、それが⇒-1である。しかるに、同一性志向性があるので、⇒+1の⇒の先端領域である。この同一性構造こそが、ヤハウェの特異性ということになろう。つまり、同一性傾斜・存在傾斜・物質傾斜ということである。だから、ゾロアスター教から言えば、ヤハウェは悪神アンラ・マンユに相当すると考えられよう。とまれ、ヤハウェとは、Media Point における正エネルギー(プラス・エネルギー)であり、負エネルギー(マイナス・エネルギー)をほとんど欠いている、ないしは、全く欠落していると言えよう。換言すると、+iの傾斜もつ、即ち、+iの優位、-iの劣位という関係があると考えられる。そして、これが父権主義ということである。
 この点における確認として、アッラーやゼウスであるが、先に-1であると言ったが、思うに、ヤハウェほどではないが、なんらかの同一性的傾向があるのではないだろうか。先において、⇒-1を「父」、そして、⇒+1を「母」としたが、前者はいいが、後者は間違いだと思う。「母」はMedia Point である。太母である。そうならば、太母(「母」)から「父」(-1)が生まれるのである。そして、また、主体+iの傾斜からヤハウェが生まれるのである。これが父権主義である。だから、二人の「父」が存することになろう。
 すなわち、太母とともにある「父」と太母を否定する「父」である。弁別するために、前者を太父とし、後者を偏父と仮に呼ぼう。この視点から言えば、ゾロアスター教のアフラ・マズダーとは本来、太母であり、スプンタ・マンユ(善神)が太父ではないだろうか。それが重なってアフラ・マズダーが太父的になっているのではないだろうか。
 また、さらに言えば、-1の太父とは、「暗い太陽」”dark sun”ではないだろうか。この「暗い」とは不可視ということであるから、不可視の太陽である。可視の太陽は+1と言えるだろう。
 ここでついでに言えば、ダーク・マターやダーク・エネルギーの問題であるが、ダーク・マターは-1ではないだろうか。そして、ダーク・エネルギーは以前述べたように、イデア・エネルギーではないだろうか。
 以上、-1については思考実験を展開したので、後で再考・整理したい。


   




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