INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/08/15

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年08月15日(Sat)▲ページの先頭へ
精神分析批判:「死の欲動」(「破壊衝動」)説批判:負のエネルギーの賦活と東洋的身体論
先に麻薬のもつ自己破壊性を考え、それからの連想で「死の欲動」のことを想起した。そこで、以下のように考えてみた。

フロイトの精神分析はPS理論によってたやすく乗り越えられると考えている。簡単に言うと、近親相姦欲望ではなく、差異共振根源的志向性を考えればいいと思うのである。「母」とは、Media Pointであろう。
 とまれ、いちばんの問題は、フロイトが晩年に立てた「死の欲動」説である。これをどう見るのか。以下の説明では、それはひとつは原初への回帰を意味するとある。ならば、それは、思うに、Media Pointへの回帰ではないのか。では、どうして、破壊的になるのか。(今、ふと想起したのは、うつ病にも「死の欲動」があるのではないのかということである。)
 いわば、生の欲動とは、⇒+1と+1である。一般には、若い頃は、これが過剰にあると言えよう。しかし、年齢を重ねると、エネルギーが枯渇するようになる。直感では、いわば、逆作用で、+1⇒の事象が生起するようになるのではないのか。この+1⇒が、「死の欲動」に相当するのではないのか。
 しかしながら、もしそうならば、上述したように何故破壊的になるのか。それは、端的に言えば、その逆エネルギー(負のエネルギーと仮説する)は、虚数・虚軸に関わるもの、超越性に関わるものなので、実数・実軸、即ち、同一性・自我・物質の「作用」を超越しているために、それを破壊する作用をするのではないのか。
 少し言い過ぎたかもしれない。正確に言えば、負のエネルギーは、正(生)のエネルギーとは異質なものであり、後者を乗り越える(トランスする、超越する)と考えられるので、もし、主体が、負のエネルギーに対する適切な対応をもつ「認識」をもっていなければ、それに圧倒されてしまうことは考えられることであり、この圧倒されるという事態が「死の欲動」(破壊衝動)として表出されるということではないだろうか。
 そして、負のエネルギーへの適切な対応をもつ「認識」がある場合は、「死の欲動」(破壊衝動)ではなく、「新生の欲動」(創造衝動)となるのではないだろうか。(思うに、これは、超越衝動と呼んでもいいものである。)
 このように見ると、かなり事柄が明快になってきたのではないだろうか。そう、近代主義は、負のエネルギー=新生の欲動=創造衝動=超越衝動=「宗教衝動」を抑圧してきたのであり、そのために、それが反動的に「死の欲動」(破壊衝動)として表出したのではないのか。
 では、負のエネルギーに対する適切な対応をもつ「認識」とは端的に何であろうか。それが正に東洋的身体論であると思う。禅であれ、ヨーガであれ、気功であれ、負のエネルギーを適切に感受し認識するための方法であると考えられる。(もっとも、現代では、それに批判哲学・超越論的哲学を組み込む必要があるが。)
 後期近代の問題は、精神力学(精神エネルギー論)的には、この負のエネルギーの積極的な取り込みの方法の解明にあったと言えようが、西洋文化の文脈においては、同一性が支配的なので、ほとんど挫折したと言えよう。即ち、とっかかかりは、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキーであったが、ハイデガーの同一性思想の影響を受けていたために、ポスト・モダンの試みはほぼ頓挫したのである。
 思うに、東洋思想・文化は、根本的に負のエネルギーに取り組んでいると考えられる。仏教・禅はその結晶である。正確に言えば、正のエネルギーと負のエネルギーとの関係の解明を志向しているのである。そして、これの究極的な解明が即非の論理である。
 ということで、これで、フロイトの「死の欲動」説批判がなされたとしよう。

追記:麻薬・覚醒剤のもつ破壊作用から本件のテーマを想起したのであり、それに返って言えば、麻薬・覚醒剤問題とは、精神的には、主観的には、負のエネルギーの創造的取り込みの問題であるのであり、それを可能にする哲学・認識が必要とされているだろう。先に、麻薬的感性主義は、ロマン主義であると言ったのが、それは連続的であるので、闇に入り込むのである。「死の欲動」は正しくは新生のエネルギー、創造のエネルギー、超越のエネルギーであることを認識することが、麻薬・覚醒剤的ロマン主義からの脱却・エクソダスである。今日の退廃した社会は、PS理論を必要としているのである。ポスト・モダン的ダーク・ワールドからトランス・モダン的ライト・ワールドへと転換することをもたらす理論である。

追記2:以上を読んで、正のエネルギーと負のエネルギーとは、非対称的であることがわかった。言い換えると、非線形的である。このために、これまで、人類の知、とりわけ、西洋の知は、Media Pointを捉えることができなかったと考えられる。非対称性は、不連続性と言ってもいいのである。幾何学的な対称性を「理性」とする西洋文化は、必然的に、非対称性、不連続性を理解できない「宿命」にあると言うべきである。
 少し説明すると、正のエネルギー⇒+1は、実軸次元性をもち、帰結は、同一性=物質である。しかし、負のエネルギー+1⇒は、虚軸次元性もつのであり、虚数、超越次元に関わるのである。
 エネルギーのこの非対称性・不連続性をこれまで、人類は、端的に把握できなかった故に、世界は狂気・暴力・虚偽・欺瞞に満ち満ちてしまったと言えよう。もっとも、東洋文化、というか仏教は、これを洞察していた。その結晶的帰結が鈴木大拙の即非の論理である。これは、大天才的な理論である。
 
 
参考:
デストルドー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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デストルドー(英語 : Destrudoまたは英語 : Death drive、ドイツ語 : Todestrieb)とは、フロイト の提唱した精神分析学 用語で死 へ向かおうとする欲動のこと。タナトスもほぼ同義で死の神であるタナトス の神話に由来する。
訳語の問題 [編集 ]

フロイトはTodestriebと対のようにLebenstriebという語を用いたが、日本語ではともに「死の本能」「生の本能(エロス )」と訳されることが多い。しかしながら本能 には「遺伝 的に組み込まれた行動パターン」という意味合いが強くTrieb[1] をそのように訳すのは誤解を招きかねない面があり、彼は本能Instinktと別に、自我 に対して何かに駆りたてさせる衝動 という意味でTriebを使ったとされる。英仏訳でも誤りが指摘され、訂正が施されたが日本語訳ではまだ「本能」と訳されている事も多い。日本語訳でも広まりつつある欲動または衝動の訳語に意義があるのは、それにより本人の葛藤 に焦点が当てられることになるからである。患者はしばしば「死にたい」という言葉を発するが、「死の本能」でなく「死の欲動」と訳すことにより、「死にたい気持ちに駆られる」と言わしめるもの、フロイトが「生の欲動」「死の欲動」の二元論で説明しようとしたものは臨床現場で頻繁に聞かれる「死にたい気持ち」と「生きたい気持ち」の間の葛藤としてうまく機能するのである。

フロイトの説 [編集 ]

「死の欲動」概念を展開する前のフロイトは、「愛する者の死を願う」といった両価的感情を伴う[2] 殺害願望から自殺 を説明しようとした。つまり「攻撃性(Aggression)」の内向という解釈であるが、この時点では説自体は「生の欲動」の従属的位置にとどまる。一方彼の「破壊性(Destruktion)」という言葉も混乱を招きやすかった。

フロイトが最初に「死の欲動」という語を用いたのは1920年 に著した『快楽原則の彼岸』であり、人間の精神生活にある無意識 的な自己破壊的・自己処罰的傾向に注目した。この時期に彼の考え方は「快楽が生」から「死の欲動との闘いが生」へと大きく転換したとされる。彼は神経症 における強迫観念 、第一次世界大戦 帰還兵の心的外傷 のフラッシュバック現象 、少女の「いる・いない」遊び観察で見られた不快なはずの母の不在の反復などから、従来の持論であった快感原則からは説明できない心理を見出した。

以下、『死の欲動―臨床人間学ノート』112~114項から、フロイトにおける「死の欲動」の要約を抜き出す。

自我が抵抗しがたい衝動である。
衝動の存在に通常自我は気付きにくく、無言の内に支配される。快楽原則に従わず反復そのものを目的とし、エネルギーが尽きるまで繰り返される。それは強大なエネルギーで日常的なものではなく、自我はその前に無力である[3] 。
最も蒼古的(原初的)な欲動である。
死の欲動は個体発生上、最も古い欲動とされた。退行の究極点であり生命発生以前の原初への回帰を目的とする。それは生死や存在非存在の区別もなく明示的言語で表現するのは困難なので「死」というメタファーでフロイトは命名した。ただし人間の「死」のイメージとは関係なく非生命に向かうという意味でしかない。欲動はこの地点から巨大な破壊エネルギーを手に入れる。
「悪魔的」な生命の破壊衝動である。
自己と他者の区別無く反復強迫的に無意味に生命破壊を目指す[4] 。また「生の欲動」に先立つ。フロイトは死の欲動をエロスによって容易に懐柔されることはないと考えた。憎しみのような攻撃的衝動はエロスの一属性としても理解し得るが、愛と憎しみを超えたところに破壊衝動を想定した。

後継者の発展 [編集 ]

Federnは最重度のメランコリー に「死の欲動」が観察されるとし、同様の指摘はしばしばなされる。しかし大勢ではフロイトの「死の欲動」概念は後進者の間でも批判が多く、考えの一部を取り入れた学者達により新たな展開がなされてゆく。継承発展させた人物はメラニー・クライン 、ジャック・ラカン が代表的である。

後世への影響 [編集 ]

フロイトに先立ちニーチェ が「神の死」を言明し、当時楽観主義は知識人の間では既に力を失っていた。フロイトの思考の変遷も悲観的な世界情勢と無縁ではなかったであろう。彼は第二次世界大戦 の戦禍を見ずに亡くなったが、はからずもその後ヒロシマ ・ナガサキ への核爆弾 の投下、ホロコースト などが起こって破壊衝動を「予言」したような形になり、水爆 開発などで現在では計算上は人類を複数回滅ぼせるほどの大量破壊兵器 を所持していることが明らかになっている。後世多くの精神分析家が「死の欲動」論を援用してこのような人間の暗黒面の解明に切り込んだ。

文化ではアニメ『新世紀エヴァンゲリオン 』(1995年)などでも取り入れられており、これには20世紀末 の状況が反映されているとする見方もある[5] 。→終末もの 、セカイ系

脚注 [編集 ]

1. ^ 心的な欲求、衝動 。深層心理学 の「心のダイナミクス」の項を参照せよ。
2. ^ ここにコンプレックス などといった複雑な概念が介在する
3. ^ フロイトはそこに大戦の根源的衝動を見た。
4. ^ フロイト自身は「一時的マゾヒズム」といった観念を引きずり、理論を完成させずに死去したため、矛盾がなくなるよう敷衍していると思われる。
5. ^ 島田裕巳『終末論と世紀末を知るために』エンカルタ百科事典[1]

参考文献 [編集 ]

熊倉伸宏『死の欲動―臨床人間学ノート』新興医学出版社、2000年 ISBN 4880024236

関連項目 [編集 ]

* リビドー
* 自殺
* 暴力
* エロティシズム

執筆の途中です この「デストルドー」は、心理学 に関連した書きかけ項目 です。この項目を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています 。(PJ 心理学 )

カテゴリ : フロイト派心理学 | 自殺



『思考実験としての宗教推理:ヤハウェの精神力学について:ユダヤ教的一神教問題:光の神と超光の神の二重性と唯一神:二つのユダヤ教とゾロアスター教:捩じ曲げたのはキリスト教ではないのか?:父権的ローマ帝国が「父」・ヤハウェを欲したのではないのか。』
『思考実験としての宗教推理:ヤハウェの精神力学について:ユダヤ教的一神教問題:光の神と超光の神の二重性と唯一神:二つのユダヤ教とゾロアスター教:捩じ曲げたのはキリスト教ではないのか?:父権的ローマ帝国が「父」・ヤハウェを欲したのではないのか。』

自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1について復習的に言うと、⇒が正エネルギーで、+1が同一性・物質を意味するが、同一性は同一性自己ないしは自我ということでもある。この同一性自己自体は、左辺の差異共振様態を知らない。では、左辺の原事象はどうなっているのか。これまで、対象に対する同一性の投影ということを考えてきたが、同一性自己においては、単に他者である対象-iを「誤認」するだけでなく、本来の自己である+iも「誤認」しているのではないのか。
 では、この「誤認」の様態はいかなるものか。端的に、本来の自己+iを+1と「誤認」している。そして、他者-iをも+1と「誤認」しているのではないだろうか。この二つの「誤認」は、自己と他者を、言わば、+1の同一性のヴェールで包むことではないだろうか。同一性の仮現化とも言えよう。これは、言い換えると、自己と他者との一致ではないだろうか。即非で言えば、即である。あるいは、自己と他者の癒着である。あるいは、混淆・混同・混濁である。理論的には、連続化、又は、連続的同一性化と言える。そして、これが、フッサールが説いた自然的態度に相当するし、仏教で言えば、「色」である。
 以上は確認であるが、同一性に関してより明晰になったと考えられる。この視点を参考にして、次に、本題、即ち、聖書のヤハウェの力学についてここで改めて検討したい。
 これまでの考えでは、ヤハウェは、+iであり、それが、-iを否定して、同一性の構造と結びついていると考えた。思うに、⇒+1の⇒の先端が同一性構造ではないだろうか。
 さて、超越神であり、また、唯一神であるから、+iというのは妥当である。これは、ヤハウェである。しかし、創造神としての神が存するが、それは、実は、ヤハウェではなく、エローヒーム(神の複数形)である。創造は、端的に、差異共振からの同一性現象を発現を意味するから、+iのみでは、創造はできないのあり、だから、-iが存するということになる。そうなので、エローヒームは、Media Point と考えられる。
 だから、聖書には、+iの神とMedia Point の神の二重性を確認するのが妥当であり、だから、既述したが、端的に、唯一神、一神教とは虚構である。結局、創造には、Media Point が必要なのであり、それは、最低、二重ないしは三重であり、唯一神では足りないのである。
 とまれ、問題はヤハウェの力学である。それは、+iであり、-iを抑圧するもと考えたが、いったいそれはどういうことなのだろうか。思考実験するが、ひょっとしたら、(+i)*-(-i)⇒-1を意味するのではないだろうか。あるいは、商としての-1である。いったい、-1とは何だろうか。+1が同一性とすれば、-1は、非同一性ではないだろうか。同一性を解体する「力」ではないのか。
 考えると、エローヒームが差異共振によって、創造する。それは、当然、同一性現象となるのである。しかし、ヤハウェ+iは、-1の非同一性の「力」をもって、同一性現象を破壊・解体するのではないだろうか。偶像破壊とはこれがもたらすのではないのか。
 以上のように想定すると、聖書(旧約聖書)は、正に、「絶対矛盾的自己同一」の様態をもつのではないだろうか。現象であり、かつ、脱現象である。あるいは、両極に引き裂かれていると言うべきではないだろうか。
 とまれ、そうならば、結果的に、+i/-1の超越神・「唯一神」のヤハウェは、重要な役割をもっていると言えよう。つまり、絶対的抽象化である。具象の否定である。抽象知性化である。しかも、超越的な知性である。言い換えると、超越論的知性ではないだろうか。思うに、フッサールの超越論的主観性も、PS 理論の知もここに位置するのではないのか。
 ⇒+1が光ならば、⇒-1は闇である。しかし、それは、正しくは、光の裏面ではないのか。非光である。いわば、鏡面の裏側ではないだろうか。⇒+1は光であるが、+1 の同一性のために、同一性(物質)の闇を抱えているのである。ゾロアスター教的には、悪神アンラ・マンユである。それこそ、本来の闇であるから、-1を闇と呼ぶのは、混同となる。思うに、不可視の領域と言うべきではないだろうか。あるいは、超光の領域と。そうならば、ゾロアスター教的には、善神のスプンタ・マンユがそこに位置するだろう。
 とまれ、-1を暫定的に超光と呼ぼう。そうすると、先のことにもどると、聖書は、光の神と超光の神の「二人」の神がいるということになる。しかしながら、それは、ゾロアスター教の様態と同質ではないのか。
 否、違う。つまり、通常、聖書(旧約)は、一神教の聖典と考えられていて、唯一神の書と見られているのである。つまり、光の神と超光の神が同一化・混同されているということである。これは、聖書の本来の事象から見ると、捩じ曲げ、ないしは、「書き換え」である。そうならば、本来のユダヤ教と一神教化されたユダヤ教があるということになろう。前者はゾロアスター教的である。(本題から少しそれているが、本題の検討はいちおう終了として、この捩じ曲げの問題の検討を続けよう。)
 本来の聖書(旧約)は、ヤハウェとエローヒームの「二人」の神がいるのである。それを唯一神(一人の神)Godにしたのは、西洋文化ではないのか。直感では、ローマ帝国のキリスト教教父たちである。
 そう、キリスト教が「二人」の神を唯一神に捩じ曲げたのではないのか。あるいは、改竄したのではないのか。本来のユダヤ教(プロト・ユダヤ教と言おう)は、「父」と「母」が存するのであるが、「父」だけをとり出したのは、キリスト教と考えられよう。
 これは、いったい何なのか。ヤハウェだけをとり出すとはいったい何なのか。そう、端的に、父権化と考えられる。エローヒームは創造神・造化の神であり、「母」であり、母権的であり、多神教的である。
 ということで、父権制を意味すると言えよう。社会的に言えば、父権的なローマ帝国を護持するために、「父」・唯一神が必要であったと思われるのである。
 今はここで留める。


   




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