INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/07

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




[PR]



2009年07月02日(Thu)▲ページの先頭へ
超越性が個の原因である:超越性とMedia Pointと個
現代の日本人は自我中心的であるが、個がない。個とは、あるいはindividualityとは、超越性がなければ、存しない。何故なら、Media Pointを介して存する超越的道徳性が、自我主義であることを規制し、他者との差異共振的関係を保持させる力となるからである。
 現代日本の亡国性は、この個がないことに根因がある。やはり、戦後の近代合理主義に根因がある。後でもう少し説明したい。

追記:より正確に言えば、戦後日本人は、封建的近代主義者であり、二重性、二股性を使い分けている。
 即ち、一方では、封建的父権主義(男性中心主義)的であり、他方では、近代合理主義・唯物論的である。この二重性によって、Media Pointを抑圧しているのである。
 即ち、前者、封建主義によって、差別的自我が肯定され、個的道徳性が抑圧されるのである。そして、後者、近代合理主義によって、差別的自我が唯物論化されるのである。言い換えると、純粋な封建主義の場合でも、超越性(主従性において)があるが、近代合理主義化されて、超越性を否定するため、没道徳的な差別的近代的自我が誕生するのである。これは、最悪の事態であり、この自我に戦後日本人は陥ったのである。封建主義の短所と近代主義の短所の結合である。これは、端的に、悪神化=アンリ・マンユ化である。
 では、この悪魔化の根因は何か。私はずっと以前、戦争で有能な日本人が死んでしまったことが、戦後文化の劣弱さを生んだと思ったことがある。わたつみの声を読めば、なんという才能の喪失であるかがわかろう。
 やはり、ゾロアスター教化が必要である。


環境とは何か:精神的身体にとっての環境と物質的環境
東京からエクソダスして、もう半月以上経った。思っていたよりも、はるかに森、それも深い森(原生林の印象である)が多い。
 日本の大半の自然環境は開発で破壊されたが、ここは、市民の精神生活的意識が高いからか、樹齢五十年から百年くらいの広葉樹や針葉樹の鬱蒼とした森が広がり、土のままの歩道が多く、曲線的に縫い、昼でも深山のごとく静まり薄暗い。いわば奇跡的に保存された森である。サワラ、クヌギ、ヒバ等の雑木の森である。木の幹に苔生すなど、しっとりとし、降水量も多い印象である。
 東京の雑踏・喧騒・騒音・大気汚染等のストレスから解放された。私の実家の田舎よりも、ある意味で豊かな自然がある。
 町の雰囲気は、路地に入ると、東京オリンピック以前の東京を想起させるような落ち着いたものである。
 とまれ、ここは、複数の大手スーパーや国道があるが、いわば、森の民の町である。そう、農地があり、黒土で地味が豊かそうであり、トウモロコシやウドやその他の野菜が栽培されていて、なにか、母方の田舎を想起した。多様な記憶が交錯する町である。
 さて、環境とは何か。視覚や呼吸から、精神的身体が感応する環境がある。コンクリート・ジャングルの都会では、視覚が不快を感じ、また、大気中に「気」がないので、精神的身体はストレスを感じるだろう。
 人間は深層では、精神的身体の生命体である。東京は物質的空間の町で、精神的身体が疲労し、硬化するのである。それは、精神を磨り減らし、また、当然、病因を形成しよう。
 とまれ、この自然環境力学は何か。森の景色の現象は、非線形で、心地よい。それは、森が、「雑木林」が、Media Pointを多く体現しているからではないだろうか。視覚的な多元空間が発現しているのだろう(参照:池泉式回遊庭園の美学もこれではないのか。)
 そして、「気」であるが、それは、空気が、やはり、Media Point化していることではないのか。つまり、差異共振エネルギーとしての「気」が森の空気の中にあるということではないのか。
 後で丁寧に再考したい。

追記:光合成において、酸素が発生する時に生じる、イオン等が「気」の正体ではないか。後で検討したい。


参照:
回遊式庭園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
桂離宮庭園

回遊式庭園(かいゆうしきていえん)は、日本庭園 の形式のひとつで、園内を回遊して鑑賞する庭園 。園内を回遊する形式の庭園は日本以外にも存在するが、回遊式庭園という語は主に日本庭園のみを指して用いられる。

概要 [編集 ]

回遊式庭園は、江戸時代 に大名 によって造営された大名庭園 において発達した形式であり、日本庭園の集大成とも位置づけられる。

最も一般的な形式は池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)と呼ばれるもので、大きな池を中心に配し、その周囲に園路を巡らして、築山 、池中に設けた小島、橋、名石などで各地の景勝などを再現した。園路の所々には、散策中の休憩所として、また、庭園を眺望する展望所として、茶亭、東屋などが設けられた。


・・・・・


に関する書きかけ項目 です。この項目にさらなる加筆、訂正 などをして下さる協力者を求めています (ポータル 日本 /ウィキプロジェクト 日本文化 )。
カテゴリ : 日本庭園
 
参考:
光合成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
光合成では水を分解して酸素を放出し、二酸化炭素から糖を合成する。
光合成の主な舞台は植物の葉である。

光合成(こうごうせい/ひかりごうせい、英 :photosynthesis)とは、主に植物 や植物プランクトン 、藻類 など光合成色素 をもつ生物が行う、光エネルギー を化学エネルギー に変換する生化学反応のことである。光合成生物は光から変換した化学エネルギーを使って水 と空気 中の二酸化炭素 から炭水化物 (糖類 :例えばショ糖 やグルコース やデンプン )を合成している。また、光合成は水を分解する過程で生じた酸素を大気中に供給している(詳細は後述)。年間に地球 上で固定される二酸化炭素は約1014kg、貯蔵されるエネルギー は1018kJと見積もられている[1] 。

「光合成」という名称を初めて使ったのはアメリカの植物学者チャールズ・バーネス (1893年)である[2] 。

かつては炭酸同化作用(たんさんどうかさよう)とも言ったが現在はあまり使われない。

・・・・・
葉緑体(クロロプラスト) [編集 ]
葉緑体の構造
1, 外膜
2, 膜間部
3, 内膜
4, ストロマ
5, チラコイドルーメン
6, チラコイド膜
7, グラナ
8, チラコイドラメラ
9, デンプン
10, リボソーム
11, DNA
12, プラスト顆粒(脂質の玉)
植物細胞 中の葉緑体。

詳細は「葉緑体 」を参照

光合成を行っているのは葉緑体 の中の細胞小器官 である。葉緑体は細胞 内に1〜1000個ほど存在し、大きさも形もさまざまである。最も平均的なのは長さ約5μmの回転楕円体状のものである。葉緑体は全透性の外膜と半透性の内膜の二重膜で囲まれている。内膜の内部のことをストロマという。ストロマには酵素 、DNA 、RNA 、リボソーム 、そして膜で囲まれたチラコイド がある。チラコイド膜の内部はチラコイドルーメンという。チラコイドは積み重なってグラナ を構成し、グラナ同士はところどころでチラコイドラメラ(またはストロマチラコイド)で繋がっている。グラナの数は10〜100程度である。チラコイド膜は葉緑体の内膜が陥入することで作られる[1] 。

チラコイド膜の組成は特殊で、リン脂質 は10%しかない。膜の構成成分で一番多く、全体の80%を占めているのはガラクトシルジアシルグリセロール とジガラクトシルジアシルグリセロール である。そして残りの10%はスルホリピド (6-スルホキノボシルジアシルグリセロール)とキノボース (6-デオキシグルコース)である。チラコイド膜のアシル基 は高度に不飽和であるため流動性が大きく[1] 、光の強弱に反応して動き回ることができる。このとき細胞内で活躍するのがアクチン というタンパク質である。

光合成は光化学反応とカルビン回路の2つの段階に大別される。光化学反応は光エネルギーからNADPHとATPを合成する過程で、カルビン回路はNADPHとATPを使ってCO2とH2Oから糖を合成する過程である。光化学反応が行われるのはチラコイド膜である。葉緑体を持たない光合成原核生物では細胞膜か細胞膜が何層も陥入してできたクロマトホアで光化学反応が行われる。カルビン回路はストロマで行われる。

緑色植物の光合成 [編集 ]

現在、最も研究の進んでいる酸素発生型光合成は緑色植物の光合成経路である。緑色植物の光合成経路は基本的に全ての酸素発生型光合成に応用可能であり、上記に上げられる生物群全てに以下の経路を当てはめても良い。酸素発生型光合成経路の最大の特徴は「水分子を電子供与体として用いることができる」という点である。水 は酸化還元電位 の高い酸素原子 とそれの低い水素原子 の結合した安定な物質である。この「水の光分解」を開発したことが、現在の酸素呼吸型生物の発展を生んだともいえる。

チラコイド膜では、クロロフィル (光合成色素)が光エネルギーを使って水を分解、プロトン (H+)と酸素分子(O2)、そして電子 (e-)を作る。このときにできた電子によってNADP+ (酸化型)からNADPH(還元型)が作られる。さらに、チラコイド膜内外のプロトン濃度勾配を利用して、ATP合成酵素 によってアデノシン三リン酸 (ATP) が作られる。以上が光化学反応 (明反応)である。

次にチラコイド膜の外側にあるストロマ(葉緑体基質)で、光化学反応で作られたNADPHとATPを使って二酸化炭素 と水を材料として糖 が作られる。この一連の反応がカルビン回路 (暗反応)である。

光化学反応 [編集 ]
チラコイド膜での光化学反応の概略図

詳細は「光化学反応 」を参照

光化学反応とは光エネルギーを化学エネルギーに変換する系である。光を必要とするため明反応とも呼ばれる。狭義には光エネルギーが関与する光化学系II (PSII)および光化学系I の反応を指すが、広義には光化学反応に関わる電子伝達系 のすべての反応を指す。

光化学反応は、光化学系II(PSII)、シトクロムb6f、光化学系I(PSI)の3種のタンパク質複合体で構成され、これらはすべてチラコイド膜に存在する。PSIIとシトクロムb6f の間はプラストキノン (PQ)、シトクロムb6f とPSIとの間はプラストシアニン (PC)で結ばれている。PSIIに光(hν)が当たることによってH2OからNADP+に電子が流れ(青矢印)、プロトンがチラコイドルーメンに取り込まれる(赤矢印)。また、酸素発生複合体 (OEC)によって水が分解されて酸素が発生するときもプロトンがチラコイドルーメンに生成する。チラコイドルーメンとストロマの間にできたプロトンの濃度勾配の浸透圧エネルギーによってATP合成酵素がATPを合成する。ATP合成酵素は1秒間に17回転し、その摩擦熱でADPからATPを合成しているのである。

光化学反応の収支式は以下の通りである。

* 12 H2O + 12 NADP+ → 6 O2 + 12 NADPH + 72 H+(in)
* 72 H+(in) + 24 ADP + 24 Pi (リン酸 ) → 72 H+(out) + 24 ATP

生じた、NADPHおよびATPはストロマにて行なわれるカルビン回路 で使用される。また生じるATP数は理論的なものであり、実際にはプロトンの漏れがチラコイド膜外に発生していると見られ、24ATPを生じているとは考えにくい。事実、カルビン回路に使用されるATP数は光化学反応で生じるATP数よりも少ない。

Z機構 [編集 ]
電子伝達系での電子のエネルギー勾配を示すZ機構

植物では光化学反応は葉緑体のチラコイド膜で起こり、光エネルギーを使ってATPとNADPHを合成する。狭議の光化学反応は、非循環的電子伝達系と循環的電子伝達系の2つの過程に分けられる。非循環的電子伝達系ではプロトンは光化学系II内のアンテナ複合体に光が捕獲されることによって獲得される。光化学系IIの光化学系反応中心(RC)にあるクロロフィル分子がアンテナ色素から十分な励起エネルギーを得たとき、電子は電子受容体分子(フェオフィチン )に運ばれる。この電子の動きを光誘起電荷分離 と呼ぶ。この電子は電子伝達系を移動するが、これをエネルギー勾配で表したのがZ機構(Z -scheme)である。ATP合成酵素はエネルギー勾配を使って光リン酸化によってATPを合成するが、NADPHはZ機構の酸化還元反応によって合成される。電子が光化学系Iに入ると再び光によって励起される。そして再びエネルギーを落としながら電子受容体に伝えられる。電子受容体によって作られたエネルギーはチラコイドルーメンにプロトンを輸送するのに使われている。電子はカルビン回路で使われるNADPを還元するのに使われる。循環的電子伝達系は非循環的電子伝達系に類似しているが、これはATPの生成のみを行いNADPを還元しないという点が違う。電子は光化学系Iで光励起され電子受容体に移されると再び光化学系Iに戻ってくる。ゆえに循環的電子伝達系と呼ばれるのである。

カルビン回路 [編集 ]
メルヴィン・カルヴィン
ノーベル化学賞
カルビン回路。

詳細は「カルビン回路 」を参照

カルビン回路 は暗反応とも呼ばれる過程で、二酸化炭素 (正確には炭酸イオン )の固定を行なう炭酸固定 反応である。カルビン回路は10以上の酵素 からなる複雑な回路であるが、回転は主にリブロース1,5-ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ (RubisCO)によって調節される。

光化学反応によって生じたNADPHおよびATPを酸化および加水分解して生じたフルクトース 6-リン酸からデンプン を合成し、葉緑体内にデンプン粒を作成する。また、中間代謝物であるジヒドロキシアセトンリン酸は葉緑体外部に輸送される炭素源の一つである。

カルビン回路の収支式は以下の通りである。

6CO2 + 12NADPH + 18ATP → C6H12O6 + 12NADP+ + 18ADP + 18Pi

この反応を正確に書くと

6CO2 + 12NADPH + 18ATP → フルクトース-1,6-ビスリン酸 + 12NADP+ + 18ADP + 16Pi

カルビン回路および光化学反応の収支式をまとめると以下の反応式となる。

6CO2 + 12H2O → C6H12O6 + 6H2O + 6O2

この式は好気呼吸 の収支式の逆反応であり、炭素消費および固定の収支が極めて巨大な生態系 視野でもうまく行くことが理解できる(→炭素循環 )。

http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E5%85%89%E5%90%88%E6%88%90


トランス・モダン認識と「内なる宇宙」:トランス・モダンの内面感性
以下、Kaisetsu氏と愚樵氏とのトランス・モダン的認識に関する「差異共振」的対話であるが、実に意味深長である。この「感情」、「感応」、「感性」、「パトス」、「共感」、「内なる自然」等々の問題は、きわめて重要である。今は余裕がないので、詳述的にコメントできないが、一言言えば、その通りである。
 また、安部公房であるが、学生の頃よく読んだ作家である。引用されている『砂の女』はおそらくいちばんの傑作ではないだろうか。
 とまれ、Kaisetsu氏の指摘で、安部公房の作品世界が、即非空間であることがわかった。そう、「情感」的には、いわば、乾いた叙情性(ドライ・リリシズム)があるのであるが、それも即非的感性と言えよう。
 思うに、安部公房は、村落共同体的日本を批判的に見ながら、何処にもない故郷(ユートピア)を求めていた。その「何処にもない故郷」とは、正に、「内なる自然」と通じると考えられる。
 また、愚樵氏の述べている「共感性」等の視点は、実は、誤解されている英国の作家D. H. ロレンスが既に提唱しているところである。晩年の『死んだ男(逃げた雄鶏』はいわば、差異共振コスモス、絶対的差異共振的コスモスを詩的に表現した中編小説である。 

参照:
D.H.ロレンスの『死んだ男』の画期的独創性:二項対立から不連続的差異へ
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10009910869.html

又は

D.H.Lawrenceの『死んだ男』
http://ameblo.jp/renshi
/theme-10000374060.html

*******************

不思議なこと。同じ所を見ているという感覚。

〔トランス・モダン〕へ至るには、各々のパトスへの没入――すなわち【共感】――が必要です。〔トランス・モダン〕は【共感】の機序の探求であり、その探求を支えるのは「内なる自然」への信仰です。)

 という愚樵氏の言葉です。


 つまり、「砂の女」も、「内なる自然」の物語であり、しかも、この小説の巧妙な点は、内なる「砂の女」が、外なる「砂の女」と差異共振している点だと得心したのです。

 その媒体(Media)として、「砂丘」と「砂丘の大きな穴」が設定されています。そうして、勿論、 Media Pointとして主人公(の内なる自然)が設定されています。

 砂丘の穴の外、穴の中、穴の中の人間の心の中。

 これらが、三重奏、三つ巴の共振をしているのです。

 砂丘の穴の「外」は物理的には見えないから、結局は、人間の心の中と同値です。

 「男」は、「砂の女」の「穴」に墜ちたという設定とも取れて、多次元の「相克・相乗」が生じています。

 「砂の女」は、「砂である女」とも読めますから。

 愚樵氏が「内なる自然」を旅されておられる時、海舌も「内なる荒野」を旅していたように想います。
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=765851
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu

参照:
〔トランス・モダン〕を阻むもの
2009-07-01
当エントリーは、海舌さんからのTB『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』を受けたもの。また、海舌さんのエントリーは私のエントリー『「選択の限界」〜好き嫌い』を発展させたもの。ですので、当エントリーを読み進めるより先に

『「選択の限界」〜好き嫌い』(愚樵空論)

『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』(『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu)

の順序でご覧になってください。
http://gushou.blog51.fc2.com
/blog-entry-271.html

愚樵空論


2009年07月01日(Wed)▲ページの先頭へ
近代化とは何で「あった」のか:近代化と西洋文明:Media Pointと同一性=物質性との連続性:Ver2
今日・現代、トランス・モダン的転回の時代にあって、いったい、近代化とは何であったのか、普遍的であったのかと問いたい。
 プラトニック・シナジー理論は、諸主要概念をもつが、その中で超越性の概念は核心的な一つである。
 端的に言えば、西洋近代化とは、「同一性=物質」主義による超越性の否定であった。社会的には世俗化である。
 この視点から見ると、宗教的世界は胡散臭いものになる。とりわけ、イスラム圏はそうなるだろうし、かつて「国家神道」を奉ずる日本もそうであった。(この問題は宗教学の問題に関係するので複雑であるが、便宜的に単純化して述べることになる。)
 とまれ、超越性の視点に立つと、宗教は胡散臭いというよりは、ヒトにとり必然的なものであり、その発現は重大な問題があるものの、単純に否定できるものではないのである。つまり、宗教は批判的に積極的評価されるべきものであるということである。
 そうなると、近代化とは逆に問題視されることになるのである。それは、普遍的なものであったのか。
 答えはほとんど自明である。近代化とは、近代西洋化のことであり、西洋文明が内包する価値観の帰結であり、その点で限定されたものであるということである。言い換えると、強くキリスト教に限定された文明であるということである。
 先に述べたように、キリスト教とは超越性=物質性という「邪教」性というのか、誤謬・錯誤・倒錯をもった宗教である。それは、超越性を同一性=物質に還元してしまう、還元すると、唯物論に帰結する(これは哲学的にはフォイエルバッハの「哲学」に典型的に表現されている)という特殊な、パラドクシカルな宗教なのである。
 ということで、近代化とは、キリスト教化=唯物論化であったのであり、西洋文明のもつ特殊な宗教に拠るものであったのである。
 結局、近代化とは普遍的ではなかったのであり、キリスト教的な西洋文明の限定=限界をもったものであったのである。
 そして、近代化とは主観的には当然、近代的自我・近代合理主義を生んだのである。そして、これは、唯物論的自我・合理主義ということである。
 そして、正に、この視点から民主主義や自由主義の問題を考えなくてはならないのである。
 少し文化史的に戻ると、実は近代西洋文明は既述したように、ルネサンスとプロテスタンティズムの両面をもつと述べてきた。そして、個の発動とは前者に基づくのである。そして、私は後者は前者を内在させていると述べた。
 重要な点は個とはMedia Pointから発しているのであり、近代西洋文明も、原点はMedia Pointである。しかしながら、キリスト教文明であるために、同一性=物質主義へと傾斜したと考えられる。言い換えると、近代西洋文明とは二重性をもつのである。Media Pointと同一性=物質性の二重性である。これが近代西洋文明の連続性・相対性・「混濁」ないしは混淆を生起させたのであり、その帰結がポスト・モダンの連続性に発現したのである(ただし、後期デリダはポスト・ポスト・モダンである)。
 ということで、近代西洋の重要な政治概念である民主主義や自由主義もこの二重の視点、端的には連続性の視点で批判的評価されなくてはならない。
 そして、近代西洋的民主主義は「同一性=物質」主義的な側面が強いために、宗教的文明、とりわけ、イスラム教文明を否定するのである。もっとも、宗教的である東洋文明一般に対してもそうであり、また、それ以外のアフリカや中南米や太平洋諸島の宗教的文明に対してもそうである。いわゆる、オリエンタリズムである。
 しかしながら、トランス・モダンの視点では、上記したように、宗教は批判的に積極評価されるべきものである。即ち、超越性の表現に対する批判的積極評価である。
 超越性の視点から見ると、「同一性=物質」主義=唯物論とは、まったき打破されるべき錯誤、誤謬ないしはイデオロギーである。いわば、幻想、妄念、倒錯である。
 だから、近代西洋民主主義の視点から単純にイスラム教文明の「反民主主義」性を否定するわけにはいかないのである。
 近代西洋民主主義は先ず、「自己批判」が必要である。自身の同一性=物質性の視点を批判し、乗り越える必要があるのである。すなわち、トランス・モダン的な民主主義の視点に立って、イスラム教文明と差異共振的に対話すべきなのである。
 さて、近代西洋文明と言ったが、オバマ大統領を生んだ米国と西欧では質的な違いの存在を考えさせる。
 私はオバマ大統領の政治・政策哲学は差異共振主義、トランス・モダンであると説いている。つまり、脱近代西洋文明、トランス近代西洋文明路線である。これはどうして生じたのか。
 以前、オバマ大統領の民族的社会的背景から差異共振主義を説明したが、ここでは、上記の西洋近代主義の二重ないしは連続性の視点から述べよう。
 結局のところ、西洋近代文明には、Media Pointが強く発動しているのであるが、キリスト教的傾斜のために、「同一性=物質」主義化したのである。
 しかし、米国と西欧の質的相違がある。キリスト教文明とは言え、米国の「国教」はピューリタニズム(清教徒主義)である。これは、実は、ユダヤ教的発想が強いのである。つまり、神の国を構築という「ユートピア」思想をもっているのである。
 確かに、イエスも神の国を説いたが、それは、内面的な側面が強い。しかし、ピューリタニズムは、社会的な神の国の建設を目指しているのである。
 そういう「プログラム」・「プロジェクト」をもった国として建国されたのが米国なのである。つまり、近代西洋文明でありながら、それとは異質な宗教性、即ち、超越性を色濃くもった反近代主義的国家なのである。
 そして、この超越性の側面を、私見では、オバマ大統領や彼を大統領に選出した米国民はもっているのである。そして、超越性と民主主義が結合・融合して、差異共振主義、トランス・モダン政治哲学が生まれたと考えられるのである。
 ということで、我が日本の衰退・退化・退行した現況を見ると、正に、亡国状況・事態である。世界は今やトランス・モダン的転回=「進化」を実現しつつあるのに対し、悪夢のように時代遅れの西洋近代文明の発想に取り憑かれているのである。
 根本的に、三島由紀夫が表現・体現したように、戦前と戦後の文化的切断にある。何度も既述したが、国家神道が否定されたとき、超越性までも、宗教的伝統までも否定・排除されたのである。三島由紀夫は「文化防衛論」で天皇の人間化を慨嘆したが、それは正確には、文化的切断を説いていると考えられる。また、切断は「断絃のとき」として表現されている。そして、戦後、天才的な折口信夫の新神道論が提唱されたが、戦後近代化において無視されたのである。
 結局、戦後日本は、Media Point、超越性を喪失した(一面では、つまり、戦後の占領政策によって喪失させられた、牙を抜かれたのである)のである。
 戦後、いわゆるアメリカ的合理主義が中心化された。しかしながら、それは、米国文化の一面に過ぎない。米国は「ピューリタニズム」の国である。超越性文化をもつ国なのである。
 とまれ、戦後の、いわば、ハイパーな近代化=唯物論化によって、日本文化は悪神の巣窟になったのである。そして、その帰結が今日の自民党官僚独裁主義の日本である。
 思うに、小泉構造改革が何であったのか、明確に整理しないと日本は立ち直れないだろう。
 構造改革の必要があるのは、今でも事実である。即ち、戦後の官僚主導・公共投資型超負債財政という構造の改革の必要である。しかるに、それを目指すはずであった小泉構造改革はまったく「二重人格」的に、裏では、官僚と結びついていて、国民生活の破壊に帰結したのである。このアイロニーの力学は何か。 
 Kaisetsu氏の瞠目する視点は小泉氏は構造主義者であるということであるが、それは、卓見であるが、ここでは私なりに考察を行いたい。
 私は最初から小泉元首相を胡散臭く見ていた。つまり、ペテン師と見ていたが、その思想的内容については深くは考えなかった。思うに、戦後の官僚主導公共投資/ケインズ型経済や国営事業に対して否と言った政治家として、小泉氏は、歴史に残る可能性が高い。
 私の作業仮説は、小泉元首相は、Media Pointからの同一性志向性を強くもっていた人物であるということである。だから、他者を徹底的に否定し排除するのである。典型的な二項対立性がある。だから、「構造改革」に反対する人物を潰したのである(「刺客」路線)。(もっとも、このことは、当時考えたことである。)
 官僚主導公共投資や国営事業は悪であるから、それは否定・排除するのである。つまり、民営化こそ善であるということである。
 小泉元首相の意識では、民営・善と官僚/国営・悪の二項対立図式が完全化していたと考えられる。中間はないのである。しかしながら、ここには、民営・善という同一性があるのであり、これが、いわば、差異・他者の官僚/国営を否定・排除したのである。(思うに、この二項対立は、意外に、橋下知事の発想と共通しよう。)
 しかし、問題は、官僚主導性を打破するには、差異・他者こそ肯定されるべきなのである。端的に言えば、絶対的差異、絶対的他者である。
 小泉元首相は「構造改革」という同一性に奉じて、本来の目的である絶対的差異・絶対的他者を否定・排除したのである。つまり、本来の国民の視点がここで消えているのである。「構造改革」という同一性主義によって、官僚と裏で結託することは問題ではなくなったのである。同一性主義が、自身を肯定したのであり、自身は善となったのであり、自身の欲望が肯定されて、官僚と結託したと考えられる。
 このMedia Pointから発し、反転した同一性主義こそ、Kaisetsu氏の説く小泉元首相の構造主義に一致するだろう。単なる、同一性=唯物論ではなく、超越性をもった同一性主義なのである。だから、超越的同一性主義である。だから、ヤハウェ/キリスト教に類似しているのである。また、ハイデガーに似ているのである。
 だから、ポスト/アンチ小泉構造改革路線とは、脱構造主義・「脱構築主義」、即ち、トランス・モダンでなくてはないのである。ポスト・モダンでは、元の木阿弥であり、それは、日本の軽薄な知識人に見られる事態である。何故なら、ポスト・モダンはモダンと連続的であるからである。
 とまれ、以上のように見ると、小泉元首相とは近代主義者であり、官僚や自民党は、私が呼ぶ封建的近代主義者である。この点でも日本のトランス・モダン的転回が必要なのである。即ち、トランス・モダン「平成維新」が必要なのである。
 最後に補足として、グローバリゼーション、ネオコン、新自由主義とは何であったか簡単に見てみよう。
 これは、超越的同一性主義的金融資本経済を意味していたと言えよう。ヤハウェ/キリスト的金融資本経済である。あるいは、構造主義的金融資本経済である。
 結局、これが、リーマン・ショックで大崩壊したのであり、トランス・モダン資本政治経済が発動する起点になったと考えられる。
 少し付け足すと、では、この視点では、ポスト・モダンとは何であったのか。ポスト・モダン哲学は差異・差延を問題にしたが、それは経済的には何であったのか。とまれ、ポスト・モダンは構造主義を「脱構築」するものであった。二項対立の「脱構築」である。しかしながら、後期デリダを除いて、それは、第3項としての「差異」を提示したのであるが、その第3項=「差異」ないしは「差延」は、同一性と連続的なものであったのである。つまり、ポスト・モダンは、差異の視点を中心化した点では功績があったものの、それは、連続的・相対的差異に過ぎず、実質は構造主義を乗り越えられなかったのである。
 この連続的差異である第3項の経済とは何であったのか。思うに、消費型経済ではないだろうか。「差異」としての商品の消費の経済ではないだろうか。直感では、ボードリアールのシミュラークルの経済ではないだろうか。連続的な第3項としてのシミュラークルの経済、言い換えると、大量消費経済ではなかったか。

追記:現代日本の「お笑い」似非文化もポスト・モダンであり、また、石原都知事、東国原知事もそうであろう。そう、アメーバ麻生首相もそうである。

参考:
シミュラークル しみゅらーくる(読書 )
kokada_jnet

フランス の思想家 、ボードリヤール が提唱した概念 。ポストモダン 社会 における、オリジナル なきコピー のこと。

元来は文化人類学 の用語であり、ある土地の伝統 文化が滅びてしまった後、後世の人間 がそれを惜しんで復活させた「まがいもの文化」を指す。

ボードリヤール 『シミュラークル とシミュレーション 』(ISBN:4588001361 )の冒頭から引用 。

「シミュレーション とは起源 も現実 性(realite)もない実在(reel)でつくられたもの、つまり(hyper reel)だ」(竹原 あき子訳、法政大学出版局 、1984年 、1−2頁)

http://d.hatena.ne.jp/keyword
/%A5%B7%A5%DF%A5%E5%
A5%E9%A1%BC%A5%AF%A5
%EB

#####################

存在論的、広告的、キャラクター的

初出:『広告』2000年3+4月号、博報堂

そもそも、われわれがいま生きているのは複製技術の時代です。何でもコピーができてしまう。ベンヤミンが1936年に書いた『複製技術の時代における芸術作品』という有名な論文がありますが、そこでベンヤミンが取り上げたのは「アウラの消失」という問題だった。アウラ、つまりオーラです。1個しかないオリジナルのものにはオーラがある。たとえば油絵の絵画にはオーラがある。それに対して、コピーされたものにはオーラがない。絵画を印刷するとオーラがなくなる、という話ですね。オーラがなくなると、すべてがシミュラークルとして消費される。それが複製技術の時代であると。「シミュラークル」という言葉をまだベンヤミンは使っていませんが、おおむねこのようなことを彼は主張したわけです。

それで僕の考えでは、キャラクター文化の謎は、このベンヤミンの指摘と深く関係している。というのも、「キャラ立ち」とは、「複製技術時代のオーラ」と言えるものだからです。目の前の人間には、独得のオーラがある。人間は複製不可能なものだから。それに対して、イラストのキャラクターはいくらでも複製可能だから、これはオーラがない。ところが、「キャラが立って」くると、ひとはその複製からオーラを感じるようになってくしまう。

例えば最近の立っているキャラとしては、PSソフト「どこでもいっしょ」のトロでしょうか。トロには本当はオーラなどあるわけがない。売り出されるどのCDにも同じトロが入っていて、いくらでもコピーできるし、あっちにもこっちにもトロがいるわけだから。「このトロが」と言ったところで、それはニセモノでしかない。むろん、それぞれのトロは、飼主が教える言葉に応じて多少は違う会話をするようにはなるけれど、会話や絵日記のバリエーションだって、プログラムの範囲内でしかないですからね。全部決まり事なんですよ。ところが、消費者はそういうことを百も承知なのに、あえてそのトロに自分で名前をつけて、感情移入して、そこに独特のオーラを宿らせていくわけです。複製可能なものを複製不可能にすること、コピーをコピーのままでオリジナルにすること、これがキャラクター文化の核にある欲望だと思います。

http://www.hirokiazuma.com
/texts/character.html

###################

Simulacra and Simulation
From Wikipedia, the free encyclopedia

Simulacra and Simulation (Simulacres et Simulation in French ) is a philosophical treatise by Jean Baudrillard that discusses the interaction between reality, symbols
Overview
“ The simulacrum is never that which conceals the truth--it is the truth which conceals that there is none. The simulacrum is true.[1] ”

Simulacra and Simulation is most known for its discussion of images, signs, and how they relate to the present day. Baudrillard claims that modern society has replaced all reality and meaning with symbols and signs , and that the human experience is of a simulation of reality rather than reality itself. The simulacra that Baudrillard refers to are signs of culture and media that create the perceived reality; Baudrillard believed that society has become so reliant on simulacra that it has lost contact with the real world on which the simulacra are based.

Simulacra and Simulation identifies three types of simulacra and identifies each with a historical period:

1. First order, associated with the pre-modern period, where the image is clearly an artificial placemarker for the real item.
2. Second order, associated with the industrial Revolution , where distinctions between image and reality break down due to the proliferation of mass-produced copies. The item's ability to imitate reality threatens to replace the original version.
3. Third order, associated with the postmodern age , where the simulacrum precedes the original and the distinction between reality and representation breaks down. There is only the simulacrum.[2]

Baudrillard theorizes that the lack of distinctions between reality and simulacra originates in several phenomena:

1. Contemporary media including television , film , print and the Internet , which are responsible for blurring the line between goods that are needed and goods for which a need is created by commercial images.
2. Exchange value , in which the value of goods is based on money rather than usefulness.
3. Multinational capitalism , which separates produced goods from the plants, minerals and other original materials and the processes used to create them.
4. Urbanization , which separates humans from the natural world .
5. Language and ideology, in which language is used to obscure rather than reveal reality when used by dominant, politically powerful groups.

A specific analogy that Baudrillard uses is a fable derived from On Exactitude in Science by Jorge Luis Borges . In it, a great Empire created a map that was so detailed it was as large as the Empire itself. The actual map grew and decayed as the Empire itself conquered or lost territory. When the Empire crumbled, all that was left was the map. In Baudrillard's rendition, it is the map that people live in, the simulation of reality, and it is reality that is crumbling away from disuse.

The transition from signs which dissimulate something to signs which dissimulate that there is nothing, marks the decisive turning point. The first implies a theology of truth and secrecy (to which the notion of ideology still belongs). The second inaugurates an age of simulacra and simulation, in which there is no longer any God to recognize his own, nor any last judgement to separate truth from false, the real from its artificial resurrection, since everything is already dead and risen in advance. [3]

Thus, Baudrillard further distinguishes three orders of simulacra associated with three historical periods: first order simulacra belong to the pre-modern era in which images were clearly copies or representations of some original; second order simulacra arise with the industrial revolution, photography and mass reproduction technologies in the nineteenth century - the image obscures (dissimulates) and threatens to displace the real; third order simulacra are part of our postmodern era; the image is said to completely precede and determine the real, such that it is no longer possible to peel away layers of representation to arrive at some original.

It is important to note that when Baudrillard refers to the "precession of simulacra" in Simulacra and Simulations, he is referring to the way simulacra have come to precede the real in the sense mentioned above, rather than to any succession of historical phases of the image. Referring to "On Exactitude in Science ", a fable written by Borges , he argued that just as for contemporary society the simulated copy had superseded the original object, so, too, the map had come to precede the geographic territory (c.f. Map–territory relation ), e.g. the first Gulf War (see below): the image of war preceded real war.

Henceforth, it is the map that precedes the territory - precession of simulacra - it is the map that engenders the territory and if we were to revive the fable today, it would be the territory whose shreds are slowly rotting across the map. [4]

[edit ] Criticism

With such reasoning, he characterised the present age ― following Ludwig Feuerbach and Guy Debord ― as one of "hyperreality " where the real object has been effaced or superseded, by the signs of its existence. Such an assertion ― the one for which he is most criticised ― is typical of his "fatal strategy" of attempting to push his theories of society beyond themselves. Rather than saying, that our hysteria surrounding pedophilia is such that we no longer really understand what childhood is anymore, Baudrillard argued that "the Child no longer exists".[5] Similarly, rather than arguing ― as did Susan Sontag in her book On Photography ― that the notion of reality has been complicated by the profusion of images of it, Baudrillard asserted: "the real no longer exists ". In so saying, he characterised his philosophical challenge as no longer being the Heideggerian /Leibnizian question of: "Why is there something, rather than nothing?", but, instead: "Why is there nothing, rather than something?"[6]

・・・・・

Retrieved from
"http://en.wikipedia.org/wiki
/Simulacra_and_Simulation "
Categories : Postmodernism | Publications about hyperreality | Philosophy books | Metaphysics literature | Dichotomies

**************************
イラン大統領選:再選を確認 ラフサンジャニ氏、動向焦点 改革派を背後で支援

 【テヘラン春日孝之】イラン大統領選の開票不正疑惑で、護憲評議会が29日、保守強硬派のアフマディネジャド大統領の「再選」を最終確認したことにより、抗議運動を続けてきたムサビ元首相ら改革派は合法的な対抗手段を失った。こうした中、注目されるのは、ムサビ氏を背後で支援してきたとされる体制の重鎮ラフサンジャニ元大統領(74)の動向だ。

 ラフサンジャニ氏は、開票直後に始まった改革派の抗議行動の中で沈黙を守ってきたが、27日、護憲評議会の結論に従うべきだとする立場を表明。再選挙を断固求めるムサビ氏と距離を置いて「事態収拾に乗り出したのでは」との観測も流れた。ムサビ氏は30日、自らのウェブサイト上で護憲評議会の決定に抵抗する姿勢を改めて強調した。

 ラフサンジャニ氏はイスラム革命(79年)の最大の功労者の一人で、国会議長、大統領(89〜97年)を歴任。最高指導者ハメネイ師に次ぐ体制ナンバー2の実力者とみられてきたが、05年の大統領選でアフマディネジャド氏と争って敗れた。体制の強硬派支配に危機感を募らせ、今回の大統領選ではアフマディネジャド氏の再選阻止を目指し、「黒衣」としてムサビ氏を支援したとみられている。

 アフマディネジャド氏は選挙期間中のテレビ討論で「ラフサンジャニ氏一族の金権腐敗」をやり玉に挙げ、ムサビ氏らを背後で「操っている」と指摘。「改革派を含む穏健派勢力つぶし」とみたラフサンジャニ氏はハメネイ師に異例の公開書簡を送り、「手遅れにならないうちに適切な対応を」と求めた。

 一方、ハメネイ師はこれを黙殺したうえ、選挙後の演説で大統領支持を表明し、ラフサンジャニ氏と一線を画す姿勢を明確にした。改革派による一連の抗議行動のさなか、治安当局は同氏の親族5人を一時拘束するなど圧力を強めた。

 だが、ラフサンジャニ氏は現在、最高評議会議長に加え、最高指導者の罷免権を持つ専門家会議の議長でもある。改革派のある評論家は「ラフサンジャニ氏は究極の現実主義者だ。体制の安定を考えて、ひとまず事態の沈静化を図り、強硬派への切り崩し策を模索するのでは」と分析する。

http://mainichi.jp/select/world
/news/20090701ddm0070300
76000c.html


近代化とは何で「あった」のか:近代化と西洋文明:Media Pointと同一性=物質性との連続性
今日・現代、トランス・モダン的転回をしている時代にあって、いったい、近代化とは何であったのか、普遍的であったのかと問いたい。
 プラトニック・シナジー理論は、諸主要概念をもつが、その中で超越性の概念は核心的な一つである。
 端的に言えば、西洋近代化とは、「同一性=物質」主義による超越性の否定であった。社会的には世俗化である。
 この視点から見ると、宗教的世界は胡散臭いものになる。とりわけ、イスラム圏はそうなるだろうし、かつて「国家神道」を奉ずる日本もそうであった。(この問題は宗教学の問題に関係するので複雑であるが、便宜的に単純化して述べることになる。)
 とまれ、超越性の視点に立つと、宗教は胡散臭いというよりは、ヒトにとり必然的なものであり、その発現は重大な問題があるものの、単純に否定できるものではないのである。つまり、宗教は批判的に積極的評価されるべきものであるということである。
 そうなると、近代化とは逆に問題視されることになるのである。それは、普遍的なものであったのか。
 答えはほとんど自明である。近代化とは、近代西洋化のことであり、西洋文明が内包する価値観の帰結であり、その点で限定されたものであるということである。言い換えると、強くキリスト教に限定された文明であるということである。
 先に述べたように、キリスト教とは超越性=物質性という「邪教」性というのか、誤謬・錯誤・倒錯をもった宗教である。それは、超越性を同一性=物質に還元してしまう、還元すると、唯物論に帰結する(これは哲学的にはフォイエルバッハの「哲学」に典型的に表現されている)という特殊な、パラドクシカルな宗教なのである。
 ということで、近代化とは、キリスト教化=唯物論化であったのであり、西洋文明のもつ特殊な宗教に拠るものであったのである。
 結局、近代化とは普遍的ではなかったのであり、キリスト教的な西洋文明の限定=限界をもったものであったのである。
 そして、近代化とは主観的には当然、近代的自我・近代合理主義を生んだのである。そして、これは、唯物論的自我・合理主義ということである。
 そして、正に、この視点から民主主義や自由主義の問題を考えなくてはならないのである。
 少し文化史的に戻ると、実は近代西洋文明は既述したように、ルネサンスとプロテスタンティズムの両面をもつと述べてきた。そして、個の発動とは前者に基づくのである。そして、私は後者は前者を内在させていると述べた。
 重要な点は個とはMedia Pointから発しているのであり、近代西洋文明も、原点はMedia Pointである。しかしながら、キリスト教文明であるために、同一性=物質主義へと傾斜したと考えられる。言い換えると、近代西洋文明とは二重性をもつのである。Media Pointと同一性=物質性の二重性である。これが近代西洋文明の連続性・相対性・「混濁」ないしは混淆を生起させたのであり、その帰結がポスト・モダンの連続性に発現したのである(ただし、後期デリダはポスト・ポスト・モダンである)。
 ということで、近代西洋の重要な政治概念である民主主義や自由主義もこの二重の視点、端的には連続性の視点で批判的評価されなくてはならない。
 そして、近代西洋的民主主義は「同一性=物質」主義的な側面が強いために、宗教的文明、とりわけ、イスラム教文明を否定するのである。もっとも、宗教的である東洋文明一般に対してもそうであり、また、それ以外のアフリカや中南米や太平洋諸島の宗教的文明に対してもそうである。いわゆる、オリエンタリズムである。
 しかしながら、トランス・モダンの視点では、上記したように、宗教は批判的に積極評価されるべきものである。即ち、超越性の表現に対する批判的積極評価である。
 超越性の視点から見ると、「同一性=物質」主義=唯物論とは、まったき打破されるべき錯誤、誤謬ないしはイデオロギーである。いわば、幻想、妄念、倒錯である。
 だから、近代西洋民主主義の視点から単純にイスラム教文明の「反民主主義」性を否定するわけにはいかないのである。
 近代西洋民主主義は先ず、「自己批判」が必要である。自身の同一性=物質性の視点を批判し、乗り越える必要があるのである。すなわち、トランス・モダン的な民主主義の視点に立って、イスラム教文明と差異共振的に対話すべきなのである。
 さて、近代西洋文明と言ったが、オバマ大統領を生んだ米国と西欧では質的な違いの存在を考えさせる。
 私はオバマ大統領の政治・政策哲学は差異共振主義、トランス・モダンであると説いている。つまり、脱近代西洋文明、トランス近代西洋文明路線である。これはどうして生じたのか。
 以前、オバマ大統領の民族的社会的背景から差異共振主義を説明したが、ここでは、上記の西洋近代主義の二重ないしは連続性の視点から述べよう。
 結局のところ、西洋近代文明には、Media Pointが強く発動しているのであるが、キリスト教的傾斜のために、「同一性=物質」主義化したのである。
 しかし、米国と西欧の質的相違がある。キリスト教文明とは言え、米国の「国教」はピューリタニズム(清教徒主義)である。これは、実は、ユダヤ教的発想が強いのである。つまり、神の国を構築という「ユートピア」思想をもっているのである。
 確かに、イエスも神の国を説いたが、それは、内面的な側面が強い。しかし、ピューリタニズムは、社会的な神の国の建設を目指しているのである。
 そういう「プログラム」・「プロジェクト」をもった国として建国されたのが米国なのである。つまり、近代西洋文明でありながら、それとは異質な宗教性、即ち、超越性を色濃くもった反近代主義的国家なのである。
 そして、この超越性の側面を、私見では、オバマ大統領や彼を大統領に選出した米国民はもっているのである。そして、超越性と民主主義が結合・融合して、差異共振主義、トランス・モダン政治哲学が生まれたと考えられるのである。
 ということで、我が日本の衰退・退化・退行した現況を見ると、正に、亡国状況・事態である。世界は今やトランス・モダン的転回=「進化」を実現しつつあるのに対し、悪夢のように時代遅れの西洋近代文明の発想に取り憑かれているのである。
 根本的に、三島由紀夫が表現・体現したように、戦前と戦後の文化的切断にある。何度も既述したが、国家神道が否定されたとき、超越性までも、宗教的伝統までも否定・排除されたのである。三島由紀夫は「文化防衛論」で天皇の人間化を慨嘆したが、それは正確には、文化的切断を説いていると考えられる。また、切断は「断絃のとき」として表現されている。そして、戦後、天才的な折口信夫の新神道論が提唱されたが、戦後近代化において無視されたのである。
 結局、戦後日本は、Media Point、超越性を喪失した(一面では、つまり、戦後の占領政策によって喪失させられた、牙を抜かれたのである)のである。
 戦後、いわゆるアメリカ的合理主義が中心化された。しかしながら、それは、米国文化の一面に過ぎない。米国は「ピューリタニズム」の国である。超越性文化をもつ国なのである。
 とまれ、戦後の、いわば、ハイパーな近代化=唯物論化によって、日本文化は悪神の巣窟になったのである。そして、その帰結が今日の自民党官僚独裁主義の日本である。
 思うに、小泉構造改革が何であったのか、明確に整理しないと日本は立ち直れないだろう。
 構造改革の必要があるのは、今でも事実である。即ち、戦後の官僚主導・公共投資型超負債財政という構造の改革の必要である。しかるに、それを目指すはずであった小泉構造改革はまったく「二重人格」的に、裏では、官僚と結びついていて、国民生活の破壊に帰結したのである。このアイロニーの力学は何か。 
 Kaisetsu氏の瞠目する視点は小泉氏は構造主義者であるということであるが、それは、卓見であるが、ここでは私なりに考察を行いたい。
 私は最初から小泉元首相を胡散臭く見ていた。つまり、ペテン師と見ていたが、その思想的内容については深くは考えなかった。思うに、戦後の官僚主導公共投資/ケインズ型経済や国営事業に対して否と言った政治家として、小泉氏は、歴史に残る可能性が高い。
 私の作業仮説は、小泉元首相は、Media Pointからの同一性志向性を強くもっていた人物であるということである。だから、他者を徹底的に否定し排除するのである。典型的な二項対立性がある。だから、「構造改革」に反対する人物を潰したのである(「刺客」路線)。(もっとも、このことは、当時考えたことである。)
 官僚主導公共投資や国営事業は悪であるから、それは否定・排除するのである。つまり、民営化こそ善であるということである。
 小泉元首相の意識では、民営・善と官僚/国営・悪の二項対立図式が完全化していたと考えられる。中間はないのである。しかしながら、ここには、民営・善という同一性があるのであり、これが、いわば、差異・他者の官僚/国営を否定・排除したのである。(思うに、この二項対立は、意外に、橋下知事の発想と共通しよう。)
 しかし、問題は、官僚主導性を打破するには、差異・他者こそ肯定されるべきなのである。端的に言えば、絶対的差異、絶対的他者である。
 小泉元首相は「構造改革」という同一性に奉じて、本来の目的である絶対的差異・絶対的他者を否定・排除したのである。つまり、本来の国民の視点がここで消えているのである。「構造改革」という同一性主義によって、官僚と裏で結託することは問題ではなくなったのである。同一性主義が、自身を肯定したのであり、自身は善となったのであり、自身の欲望が肯定されて、官僚と結託したと考えられる。
 このMedia Pointから発し、反転した同一性主義こそ、Kaisetsu氏の説く小泉元首相の構造主義に一致するだろう。単なる、同一性=唯物論ではなく、超越性をもった同一性主義なのである。だから、超越的同一性主義である。だから、ヤハウェ/キリスト教に類似しているのである。また、ハイデガーに似ているのである。
 だから、ポスト/アンチ小泉構造改革路線とは、脱構造主義・「脱構築主義」、即ち、トランス・モダンでなくてはないのである。ポスト・モダンでは、元の木阿弥であり、それは、日本の軽薄な知識人に見られる事態である。何故なら、ポスト・モダンはモダンと連続的であるからである。
 とまれ、以上のように見ると、小泉元首相とは近代主義者であり、官僚や自民党は、私が呼ぶ封建的近代主義者である。この点でも日本のトランス・モダン的転回が必要なのである。即ち、トランス・モダン「平成維新」が必要なのである。
 最後に補足として、グローバリゼーション、ネオコン、新自由主義とは何であったか簡単に見てみよう。
 これは、超越的同一性主義的金融資本経済を意味していたと言えよう。ヤハウェ/キリスト的金融資本経済である。あるいは、構造主義的金融資本経済である。
 結局、これが、リーマン・ショックで大崩壊したのであり、トランス・モダン資本政治経済が発動する起点になったと考えられる。
 少し付け足すと、では、この視点では、ポスト・モダンとは何であったのか。ポスト・モダン哲学は差異・差延を問題にしたが、それは経済的には何であったのか。とまれ、ポスト・モダンは構造主義を「脱構築」するものであった。二項対立の「脱構築」である。しかしながら、後期デリダを除いて、それは、第3項としての「差異」を提示したのであるが、その第3項=「差異」ないしは「差延」は、同一性と連続的なものであったのである。つまり、ポスト・モダンは、差異の視点を中心化した点では功績があったものの、それは、連続的・相対的差異に過ぎず、実質は構造主義を乗り越えられなかったのである。
 この連続的差異である第3項の経済とは何であったのか。思うに、消費型経済ではないだろうか。「差異」としての商品の消費の経済ではないだろうか。直感では、ボードリアールのシミュラークルの経済ではないだろうか。連続的な第3項としてのシミュラークルの経済、言い換えると、大量消費経済ではなかったか。

*****************

イラン大統領選:再選を確認 ラフサンジャニ氏、動向焦点 改革派を背後で支援

 【テヘラン春日孝之】イラン大統領選の開票不正疑惑で、護憲評議会が29日、保守強硬派のアフマディネジャド大統領の「再選」を最終確認したことにより、抗議運動を続けてきたムサビ元首相ら改革派は合法的な対抗手段を失った。こうした中、注目されるのは、ムサビ氏を背後で支援してきたとされる体制の重鎮ラフサンジャニ元大統領(74)の動向だ。

 ラフサンジャニ氏は、開票直後に始まった改革派の抗議行動の中で沈黙を守ってきたが、27日、護憲評議会の結論に従うべきだとする立場を表明。再選挙を断固求めるムサビ氏と距離を置いて「事態収拾に乗り出したのでは」との観測も流れた。ムサビ氏は30日、自らのウェブサイト上で護憲評議会の決定に抵抗する姿勢を改めて強調した。

 ラフサンジャニ氏はイスラム革命(79年)の最大の功労者の一人で、国会議長、大統領(89〜97年)を歴任。最高指導者ハメネイ師に次ぐ体制ナンバー2の実力者とみられてきたが、05年の大統領選でアフマディネジャド氏と争って敗れた。体制の強硬派支配に危機感を募らせ、今回の大統領選ではアフマディネジャド氏の再選阻止を目指し、「黒衣」としてムサビ氏を支援したとみられている。

 アフマディネジャド氏は選挙期間中のテレビ討論で「ラフサンジャニ氏一族の金権腐敗」をやり玉に挙げ、ムサビ氏らを背後で「操っている」と指摘。「改革派を含む穏健派勢力つぶし」とみたラフサンジャニ氏はハメネイ師に異例の公開書簡を送り、「手遅れにならないうちに適切な対応を」と求めた。

 一方、ハメネイ師はこれを黙殺したうえ、選挙後の演説で大統領支持を表明し、ラフサンジャニ氏と一線を画す姿勢を明確にした。改革派による一連の抗議行動のさなか、治安当局は同氏の親族5人を一時拘束するなど圧力を強めた。

 だが、ラフサンジャニ氏は現在、最高評議会議長に加え、最高指導者の罷免権を持つ専門家会議の議長でもある。改革派のある評論家は「ラフサンジャニ氏は究極の現実主義者だ。体制の安定を考えて、ひとまず事態の沈静化を図り、強硬派への切り崩し策を模索するのでは」と分析する。

http://mainichi.jp/select/world
/news/20090701ddm0070300
76000c.html


1 2    全35件




新着トラックバック/コメント


カレンダ
2009年7月
     
 

アーカイブ
2006年 (104)
7月 (9)
8月 (6)
9月 (7)
10月 (9)
11月 (39)
12月 (34)
2007年 (542)
1月 (48)
2月 (49)
3月 (67)
4月 (45)
5月 (44)
6月 (1)
7月 (33)
8月 (67)
9月 (47)
10月 (42)
11月 (49)
12月 (50)
2008年 (623)
1月 (40)
2月 (29)
3月 (26)
4月 (38)
5月 (32)
6月 (48)
7月 (49)
8月 (61)
9月 (68)
10月 (86)
11月 (86)
12月 (60)
2009年 (472)
1月 (82)
2月 (66)
3月 (58)
4月 (32)
5月 (27)
6月 (34)
7月 (35)
8月 (26)
9月 (36)
10月 (30)
11月 (28)
12月 (18)
2010年 (251)
1月 (19)
2月 (29)
3月 (29)
4月 (11)
5月 (25)
6月 (33)
7月 (28)
8月 (23)
9月 (15)
10月 (18)
11月 (8)
12月 (13)
2011年 (126)
1月 (11)
2月 (12)
3月 (13)
4月 (12)
5月 (6)
6月 (4)
7月 (5)
8月 (11)
9月 (15)
10月 (7)
11月 (16)
12月 (14)
2012年 (117)
1月 (10)
2月 (13)
3月 (6)
4月 (6)
5月 (14)
6月 (8)
7月 (11)
8月 (7)
9月 (3)
10月 (24)
11月 (9)
12月 (6)
2013年 (145)
1月 (12)
2月 (11)
3月 (9)
4月 (21)
5月 (10)
6月 (9)
7月 (17)
8月 (9)
9月 (5)
10月 (22)
11月 (13)
12月 (7)
2014年 (91)
1月 (6)
2月 (13)
3月 (18)
4月 (5)
7月 (4)
8月 (26)
9月 (7)
10月 (5)
11月 (6)
12月 (1)
2015年 (61)
1月 (6)
2月 (12)
3月 (8)
4月 (14)
5月 (10)
6月 (4)
7月 (6)
8月 (1)

アクセスカウンタ
今日:282
昨日:828
累計:4,788,081