INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/07

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年07月31日(Fri)▲ページの先頭へ
意識とフラクタル:後で拝読したい:Media Pointの即非性を理解しているだろうか・・・
発言複素平面が意識を作り出す(3) (0)
発言複素平面が意識を作り出す(2) (0)
発言複素平面が意識を作り出す(1) (0)
http://www.c-player.com
/ad00178/message
シムダンス「四次元能」

追記:上記の(3)の「脱化石エネルギー消費文明の可能性はあるのでしょうか。それはあります。宇宙は真空で満ちているのですから、真空、即ち、イデアエネルギーをエネルギーに転嫁することが出来れば良いのです。イデアエネルギーは無尽蔵なのですから、エネルギーを保存したことになるでしょう。これなら宇宙エネルギー保存協会から表彰されること請け合いです」は私も以前考えたことがある。

追記2:以下は、PS理論の説明と言えよう。空間的には、四次元となるが、時間を入れると五次元である。問題は時間次元である。これまでの考え方から見ると、時間はエネルギーの単位ではないだろうか。三次元空間を形成する(現象させる)エネルギーを量的な単位にしたがのが、時計の時間であり、エネルギーの質が内的時間、意識の時間ではないだろうか。


[303] 四次元メガネのからくり
From: 生成門
イメージ
四次元メガネのからくり
<補完共振>

複素数は虚数と実数でつくられます。虚数でありながら、電気回路の計算では立派に役立っていますし、先端の科学の量子力学では、複素数なしには話が進まないでしょう。
http://www.c-player.com/ad0
0178/thread/1100083186369

追記:〈補完共振〉の「補完」という考えはどうだろうか。即非にしないと、連続化するのではないだろうか。
 とまれ、以上の説明を少し見て、+iが根源神ではないだろうか。独神である。これを神話では、処女神として捉えたのではないだろうか。
 そして、1/4回転を繰り返すことで、造化を行ったと考えられる。その点から見ると、-iは、+iの派生となる。
 とまれ、「超越神」を言うならば、+iであろう。ユダヤ教の場合、これが-iを抑圧して、⇒+1ではなく、+1になっていると思う。そして、この帰結がイエス・キリストであろう。(イエスの場合は、Media Pointが半面入るが。)
 思うに、+iの他者-iに対して、鏡面では、-iを+iにしてしまうと言えよう。ここでも、-1が生起するが、それは、⇒+1を+1に変質させると思われる。


2009年07月30日(Thu)▲ページの先頭へ
初めて聞く麻生氏の正論:早くもポスト民主党政権:錯乱した鳩山代表:絶対指し手はいけない手
このマニフェストの変更はあまりに異様であるし、奇怪でもある。ここには裏がある。今は勘ぐるしかないが、民主党内の自民党分子がいるのであり、その謀略にボンボンの鳩山氏が騙されたというのは考えられる。
 また、そもそも、私は鳩山氏は小沢一郎氏に対する献金問題で、辞任の方向を示唆した時点で、怪しいと感じた。大事な人物ならば、あくまで残るように述べるべきであったのである。
 思うに、鳩山代表は隠れ自民党かもしれない。裏で自民党・公明党・官僚・大企業・外資等と取り引きしている可能性がある。
 鳩山、お前もか!


民主・鳩山代表「マニフェスト正式ではない」 麻生首相「聞いた方は混乱する」と批判

民主党の鳩山代表は記者団に対し、27日に発表したものは政権政策集で、マニフェストではないと述べた。一方、麻生首相は、「聞いた方は混乱する」と批判した。
民主党の鳩山代表は「マニフェストというのは、実は、この間出したのは、あれは政権政策集です。正式なマニフェストというものではありません」などと述べた。
さらに鳩山代表は、正式なマニフェストは公示日からしか配ることはできないとして、国と地方の協議機関の法制化を盛り込むなどの追加は可能との考えを強調した。
一方、麻生首相は、鳩山代表の発言について、「本当の話? 常識的には考えられないけどね。ただ、正直言って混乱しますね、聞いた方は」と批判した。
自民党は、次の衆院選のマニフェストについて、柱の1つである幼児教育の無償化を1年前倒しして、2012年から実施する方針を固め、31日、麻生首相が記者会見で発表する予定。

(07/29 20:55)

http://www.fnn-news.com/news
/headlines/articles/CONN0015
9999.html


参照:

鳩山由紀夫の政治的無能⇒安易に「偽造新党CHANGE」一味、橋下徹大阪府知事の罠に嵌る。

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2009年07月29日(Wed)▲ページの先頭へ
愚樵氏の自己認識論とPS理論:精神力学の意味合い
先に転載した愚樵氏の論考であるが、既にKaisetsu氏が説明されているので、蛇足的に簡単に述べたい。
 端的に言えば、自己認識方程式の様態を、より明晰にしたものと言えよう。ポイントは、直交座標において、両軸にそれぞれ、信じるー疑うの極性を置いたことである。
 これで、いわば、二層二極性になったと言えよう。また、興味深いは、差異共振を「信じる」という視点で捉えていることである。これは斬新というか独創的な指摘であろう。
 因みに、私は宗教を精神力学と捉えると述べているが、思うに、精神力学とは、確かに、「信ずる」側面を包摂した知性なのである。
 思うに、この発想は実に意義深いと思う。ずいぶん以前、イデアの知性とは何かと考えたことがある。それは、ここで述べられている「信」を包摂した知性とも言い換えられるように思う。
 また、愚樵氏の発想の深さは、垂直次元に対しても、信ー疑の極性を設定していることである。これで、嫌悪と憎悪の区別がつけられることになろう。(例えば、ニーチェの説くルサンチマンという概念は、垂直次元の疑に関係すると言えよう。)
 とまれ、「信」を包摂した、正確に言うと、「信」を保持しつつ、知性、批判的知性を肯定する精神がここにはある。
 思うに、この新知性(イデア知性)は、信と信だけでなく、信と疑ももっているのである。有り体に言えば、橋下知事に対しては、信はありえないということである。
 つまり、信ー信が彼の場合は、適用されずに、信ー疑となるのである(追記:正確に言うと、信ー信を橋下知事に適用すると、それが裏切られるのである。だから、信ー信が「引っ込み」、批判的精神が喚起されるのである。このときの批判的知性の源泉は何だろうか。それは、信ー信が裏切られたときに、出現する知性であろう。思うに、-{(+i)*(-i)}⇒-1ではないか。-1が批判的精神・知性ではないのか。後で検討したい。)これが、信を包摂・保持した批判的知性である。後でできれば整理したい。

追記:信と知の問題は微妙であり、難しい。思うに、信ー信において、知が発生するはずである。差異共振現象の認識においては、他者と共振するが、同時に、そこには、他者知が生起するのである。例えば、「私」と「山」の場合、「私」は「山」であり、且つ、「私」は「私」であり、「山」でないという差異共振現象が生起するが、このとき、信ー信は、他者という知を並立させているのである。この他者の知性、絶対的差異の知性とは何だろうか。
 これこそ、超越的知性である。イデア的知性である。だから、信ー信において超越的知性が生起するが、同時に、批判的知性・精神も生起する。それは、信ー信による超越的知性が、他者へ向かったとき、その他者が同一性主義である場合、絶対的差異・超越的知性の視点から裁断するのである。この絶対的差異・超越的知性こそが、批判的知性・精神であろう。
 ならば、信ー信は絶対的差異知性・超越的知性でもあるのだ。
 では、これは、信であり、且つ、知性であるという不思議な知性である。思うに、スピノザの能動的観念という発想の根源はここにあるのではないだろうか。
 後で精緻に検討したい。

***************

〔信じる−疑う〕の水平性と垂直性
2009-07-27
「我思う、ゆえに我あり」

デカルトの有名な言葉で、私たちはこの言葉を違和感なく受け取りますが、この言葉には〔信じる−疑う〕ことの二重性――水平性と垂直性が端的に示されています。

「我思う」は思惟する我、〈疑う〉私です。そこに後半の「我あり」で、「〈疑う〉私を疑うことが出来ない」の意となりますが、これは言い換えれば「〈疑う〉私を(私は)《信じる》」となります。
(〔信じる−疑う〕ことの二重性は同時に「私」の二重性をも示します。)

前の〈信じる〉〈疑う〉を〔信じる−疑う〕ことの水平性、後ろの《信じる》《疑う》を〔信じる−疑う〕ことの垂直性と捉えると、下のように図示することができます。そして、「我思う、ゆえに我あり」とは、直交座標系になぞらえた図の第二象限だとすることができます。

信じる疑う

T:〈信じる〉私を《信じる》――「愛」という言葉で表わされる精神。

U:〈疑う〉私を《信じる》 ――近代合理精神

V:〈疑う〉私を《疑う》  ――ニヒリズム

W:〈信じる〉私を《疑う》 ――「憎悪」の精神状態。

近代という時代は、Uの領域が肥大した時代であると同時に、Uから転化したWも大きく拡大した時代でもあります。Uの「〈疑う〉私を《信じる》においては、信じるに足るのは「私」――私の理性、私がアイデンティティを確立する集団、など――のみとなりがちで、そこへ陥ると〈信じる〉あなたを《疑う》、すなわちWの領域が拡大する。合理的精神の限界です。

他方、Tの領域において、〈信じる〉私を《信じる》態度は、〈信じる〉あなたを《信じる》ことへと容易に結びついていきます。Uの領域のように、他者である「あなた」を信じるのに、「あなた」を「私」の同一性によって支配する必要がない。絶対的他者である「あなた」――「私」の感覚装置によって捉えられ〈信じられる〉「あなた」――は、絶対的他者のままで《信じられる》。これが差異共振だと考えられます。
http://gushou.blog51.fc2.com
/blog-entry-288.html
愚樵空論


アイヌ文化と神道:トランス・モダン先住民文化・社会へ向けて
私は米国ニュー・メキシコ州サンタ・フェに一週間近く滞在したことがあるが、ネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)が、町の広場の通路で並んで露天でネックレス等の装身具を売っているのを見たが、彼らのたいていは、かなり太っていた。(追記:同州のタオスには、居留地がある。)
 米国では、先住民の評価が高まっているが、果たして、彼らの社会的地位が向上したのか問題である。
 彼らの文化は、近代合理主義やキリスト教に衝突するのである。その宗教は、シャーマニズム、アニミズム的であり、神道と通じるものである。
 そこで、アイヌ文化であるが、復興はいいことであるが、彼らの社会的地位を向上させる方策が必要である。
 思うに、アイヌ文化を肯定すると、神道の問題が出てくる。これを解決する理論は、PS理論と考えられる。
 宗教を精神力学と捉えるので、知的に把握することができるのである。
 大事なのは、現実的な復興である。脱近代主義的な、トランス・モダンな先住民文化・社会の復興でなくてはならない。



国はアイヌ文化復興に配慮を 有識者懇が報告書

 政府の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」(座長・佐藤幸治京大名誉教授)は29日、報告書を決定した。アイヌ民族を「北海道の先住民族」と位置付けた上で、国に「文化復興に配慮する責任がある」と明記。産業の振興、生活向上策など支援策に取り組むため包括的な新法制定の検討を求めた。

 報告書の決定を受け、政府はアイヌ民族との協議の場を設ける方針。ただ新法制定については、政府部内の調整が進んでおらず、実現にはかなりの時間がかかりそうだ。

 報告書は冒頭、アイヌ問題の歴史的経緯を詳しく説明。その上で、土地所有制度の導入や差別的な「北海道旧土人保護法」施行といった日本の近代化政策が、狩猟などアイヌ民族の文化や伝統に深刻な打撃を与え、「アイヌ民族がさまざまな場面で差別の対象になった」と強調した。

 現在のアイヌ文化振興法については「アイヌ語や伝統文化の維持・伝承のすそ野は広がった」とした一方で、「発展には十分に機能していない側面がある」と指摘した。

 2007年の国連総会で採択された「先住民族の権利に関する宣言」を尊重し、アイヌ民族支援に関する国の主体的な政策立案・遂行や「アイヌ民族の日」制定など啓発活動に取り組むよう求めた。
2009/07/29 13:40 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN
/200907/CN2009072901000377
.html

「アイヌ新法」求める…有識者懇報告
読売新聞 - ‎3 時間前‎
政府の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」(座長=佐藤幸治・京大名誉教授)は、国が主体となったアイヌ民族の生活向上施策の実施や、関連施策を推進するための新法制定などを柱とした報告書をまとめ、29日午後に首相官邸で開かれる会合で、河村官房長官に提出 ...

アイヌ有識者懇:学校教育充実を 国に審議機関設置−−報告書
毎日新聞 - ‎1 時間前‎
政府の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」(座長・佐藤幸治京都大名誉教授)は29日、河村建夫官房長官に報告書を提出する。アイヌを「先住民族」と明記したうえで、新たな立法措置や国の審議機関、担当窓口の設置など政策推進体制の確立を求めた。 ...

アイヌ政策新法を 文化復興、国に責任 有識者懇報告書
北海道新聞 - ‎1 時間前‎
政府の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」(座長・佐藤幸治京大名誉教授)は29日午後、首相官邸で最終となる第10回会合を開き、政策提言をまとめた報告書を河村建夫官房長官に提出した。報告を受けて政府は秋にも、後継の審議機関を設け、政策の具体化を ...

参照:
インディアン
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曖昧さ回避 この項目では、アメリカ先住民の主要グループについて記述しています。オートバイについては「インディアン (オートバイ) 」をご覧ください。
アシニボイン 族の男性
ズニ族の女性

アジア人種インディアン (Indian) は、アメリカ先住民 の大半を占める主要グループ。アメリカ州 の先住民 は、文化・言語・歴史・身体的特徴などから、インディアンとエスキモー・アレウト (エスキモー とアレウト人 )に大きく分けられる。

スペイン語 ・ポルトガル語 ではインディオ (Indio)。多くの国では、インディアンとインディオの違いは翻訳に過ぎないとみなされているが、日本 では、北米 (アメリカ合衆国 、カナダ )の諸民族をインディアン、中南米 の諸民族をインディオと呼び分けることが多い。ここでも主にその範囲で述べる。

http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8
7%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3


アイヌ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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アイヌ
(ウタリ)[1]
アイヌ民族
総人口

約25,000人(調査に応じた人口)
居住地域
日本 (北海道 、東京 他)、
ロシア (樺太 )
言語
日本語 、アイヌ語
宗教
仏教 、アニミズム
関連する民族

大和民族 、ウィルタ 、ニヴフ
脚注

1. ^ アイヌ語で同胞、仲間を意味し名称などで使用されるが、民族呼称ではない

平取町立二風谷アイヌ文化博物館の外の復元チセ(住宅)の写真。二風谷、北海道

アイヌ民族( - みんぞく)は、日本 とロシア にまたがる北方先住民族 で、歴史的には本州東北部から北海道 、千島列島 、樺太 (サハリン )を生活圏 としていた。現代においては北海道を中心に関東 ほか都市部で生活を営んでいる。ウタリはアイヌ語で同胞、仲間を意味し名称などで使用されるが、民族呼称ではない。

千島のアイヌは1875年 の樺太千島交換条約 後、そのほとんどが当地を領有した日本政府によって色丹島 へ強制移住させられた。樺太アイヌ (エンチュー)は第二次世界大戦 後にそのほとんどが当地を占領したソビエト連邦 政府によって強制的に退去させられた。彼らの一部は日本(網走等)に移住したが、現在も少数が樺太に住む。

http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C


2009年07月28日(Tue)▲ページの先頭へ
ミトコンドリアとは何か:原細胞とミトコンドリアの差異共振としての細胞
エネルギーを水素と酸素を反応させて産み出すミトコンドリア、これは、植物の光合成と並ぶ、生命のエッセンスの一つであろう。
 また、DNAが母系・母性・「母権」というのも意義深い。PS理論の中核であるMedia Pointは母系・母性・「母権」的と言える。(マトリクスという発想も、Media Pointと関係しよう。)
 後で余裕のあるときに検討したいが、今、思いつきを言えば、水素と酸素の結合は、差異共振であり、エネルギーを生む(⇒+1)。このエネルギーを必要とする原細胞がある。
 しかしながら、思うに、ミトコンドリアの方が先行しているのではないのか。それから、原細胞が生まれるのではないのか。つまり、(+i)*(-i)⇒+1の+1が原細胞となるのではないだろうか。そして、+1が持続するには、⇒+1のエネルギーがいるのではないのか。
 思うに、正確に言うと、エネルギーは、⇒ではないのか。後で検討したい。

***************

2 ミトコンドリアとは

 ヒトや動物の細胞の中で、エネルギーを作り出しているのがミトコンドリアという細胞内小器官です。細胞内の発電所にたとえることができます。ミトコンドリアは、およそ千分の1?くらいの大きさの球形あるいは細長い棒状の粒子で、1個の細胞の中に数百個あります。ミトコンドリアは、外膜と内膜という2枚の膜によって細胞質から隔てられています。太古の昔、原始細胞の中に、呼吸能力のある細菌が入り込んで、共生を始めたのがミトコンドリアの起源であると考えられています。

3 ミトコンドリアの働き

 ミトコンドリアは、食べ物から取り出された水素を、呼吸によって取り入れられた酸素と反応させて、その時に発生するエネルギーを使ってATP(アデノシン三リン酸)という物質を合成します。ATPは、神経細胞が興奮したり、筋肉が収縮したり、肝臓が物質を合成したりする時に消費されます。電気を貯められないのと同じように、大量のATPを細胞内に貯めておくことはできません。そこで、ATPの必要量に応じて、ミトコンドリアは水素や酸素をすみやかに反応させたり、あるいはゆっくり反応させたりして、呼吸の速度を調節しています。運動をすると呼吸や心拍が激しくなり、休むと次第におさまります。これはミトコンドリアの活動を反映しているのです。

4 ミトコンドリアの成り立ち

 ミトコンドリアを発電所にたとえると、水素と酸素を反応させるエンジンが「電子伝達系」で、電子伝達系によって駆動される発電機が「ATP合成酵素」です。エンジンと発電機の設計図は、ミトコンドリアの中のDNAと、核の中のDNAに分かれて保存されています。エンジンと発電機の主要な部品の設計図は、ミトコンドリアDNAの中に書かれており、ミトコンドリア自身の蛋白合成装置によって作られます。その他の部品の設計図は、核のDNAに書かれており、そこから読み出され、細胞質の蛋白合成装置によって作られ、ミトコンドリアの中に運ばれてきます。二つの系統の遺伝子産物が組み合わされ、エンジンと発電機ができあがります。
http://www.tmig.or.jp
/J_TMIG/kouenkai/koza
/62koza_3.html
ミトコンドリア遺伝子と長寿

財団法人岐阜県国際バイオ研究所
遺伝子治療研究部長  田中 雅嗣



ミトコンドリア
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ミトコンドリアの電子顕微鏡写真。マトリックスや膜がみえる。

ミトコンドリア(mitochondrion pl. mitochondria)は真核生物 の細胞小器官 である。二重の生体膜からなり、独自のDNAを持つ。酸素呼吸 の場として知られている。ヤヌスグリーン によって青緑色に染色される。




ミトコンドリアDNA
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ミトコンドリアDNAとは、細胞小器官 であるミトコンドリア 内にあるDNA のこと。ミトコンドリアが細胞内共生 由来であるとする立場から、ミトコンドリアゲノムと呼ぶ場合もある。
概要 [編集 ]

ミトコンドリアDNA は、ミトコンドリア の持つたんぱく質 などに関する情報 が主に含まれており、ミトコンドリアが分裂する際に複製 が行われる。ミトコンドリアに必要な情報の一部は核 DNAに含まれており、ミトコンドリアは細胞 の外で単体では存在できない。また逆に細胞が必要とするエネルギー を酸素 から作り出せるのはミトコンドリアの働きによっており、細胞それ自体もミトコンドリアなしには生存できない。これらのことはミトコンドリアが細胞内共生 由来であるという仮説 の傍証となっている。

一般にミトコンドリア病 と呼ばれるミトコンドリアの異常 によって起こる疾病 も、ミトコンドリアDNAの異常に起因するものと、核DNAの異常に起因するものとがある。 ミトコンドリアDNAの遺伝子 多型は、肥満 しやすさの個体 差に関係していると考えられている。




2009年07月26日(Sun)▲ページの先頭へ
PS理論と「わたし」の解体:個とは何か:「空」としての「魂」:トランス・モダン仏教誕生
PS理論から見ると、「わたし」は解体するが、その代わりに、Media Point的基底が残る。それは、いわば、原自己と原他者との極性様態である。「わたし」は、原自己と原他者との極性に還元されるのである。これは、フッサールがノエシス・ノエマと呼んだものに近い。ただし、フッサールは、原自己と「わたし」との区別が明確ではなかったように思われる。
 そう、言い換えると、「わたし」は、量子論的様態に還元されてしまうのである。言い換えると、「空」の様態に還元されるのである。(そして、先の差異共振資本主義の考えに戻ると、資本主義も「空」に還元されると言える。いわば、「空」としての資本となるのである。ここから、差異共振資本主義、トランス・モダン資本主義が生起すると言える。)
 問題は、「空」と個との関係である。「わたし」は還元されて、個となるが、この個は、+iであり、また、「空」であるのではないだろうか。愚樵氏的に言えば、+iが自由であり、「空」が自在となろう。
 今はここで留める。

追記1:「わたし」は仮象となるのである。

追記2:ゾロアスター教を称揚したが、思うに、トランス・モダンは仏教復興ともなるのである。
 上述したことから、Media Pointの「空」が核心であり、原自己+iが個である。そして、同一性である「わたし」は仮象である。すると、正に、現世は「空蝉」である。そして、「空」である「魂」が輪廻する可能性があると思う。これは、いわば、永遠である。
 人間の苦とは、同一性である「わたし」において生じるのである。そして、俗世とは、同一性=「わたし」が実体化した仮象の世界である。
 だから、若くして亡くなった者も、本来、永劫の「空」=「魂」であるのである。
 とまれ、トランス・モダン仏教の誕生である。


S理論と「わたし」の解体:個とは何か
PS理論から見ると、「わたし」は解体するが、その代わりに、Media Point的基底が残る。それは、いわば、原自己と原他者との極性様態である。「わたし」は、原自己と原他者との極性に還元されるのである。これは、フッサールがノエシス・ノエマと呼んだものに近い。ただし、フッサールは、原自己と「わたし」との区別が明確ではなかったように思われる。
 そう、言い換えると、「わたし」は、量子論的様態に還元されてしまうのである。言い換えると、「空」の様態に還元されるのである。(そして、先の差異共振資本主義の考えに戻ると、資本主義も「空」に還元されると言える。いわば、「空」としての資本となるのである。ここから、差異共振資本主義、トランス・モダン資本主義が生起すると言える。)
 問題は、「空」と個との関係である。「わたし」は還元されて、個となるが、この個は、+iであり、また、「空」であるのではないだろうか。愚樵氏的に言えば、+iが自由であり、「空」が自在となろう。
 今はここで留める。

追記:つまり、「わたし」は仮象となるのである。


弁証法批判と差異共振法則:近代資本主義批判と極性共振的資本主義(トランス・モダン資本主義)
私がマルクス主義に触れて、強く疑問に感じたことの一つは、階級闘争説における弁証法論理であった。簡単に言えば、ブルジョワ階級が貴族階級を否定して、ブルジョワ国家を形成する。そして、次に、この否定の否定がプロレタリア独裁であるという論理である。だから、「正」は、貴族階級であり、「反」がブルジョワ階級であり、「合」がプロレタリア独裁である。
 私が感じたのは、貴族社会とブルジョワ社会では社会制度的なな質的差異があり、確かに、後者は前者を否定してブルジョワ国家を形成する傾向があった。しかし、資本主義社会において、ブルジョワ階級とプロレタリア階級は社会制度的な質的差異ではなく、資本主義社会制度内部における極性(つまり、同一の力の内部における極性である。あえて言えば、極性的差異である)であると思ったのであり、今でも正しいと思っている。つまり、資本家と労働者の闘争は一面であり、必要なのは、共振することであると感じたのである。
 そして、極性であるから、労働者が資本家を否定すれば、当然、労働者が資本家的になると考えたのであり、それが、例えば、ロシア革命で実現したと考えられる。(このことは先に愚樵氏が述べた、共産主義者は、最下部構造をイデオロギーにするということと同じである。)
 結局、資本主義は、単純化すれば、資本極と労働極の両極があるのであり、それらは、相互否定する場合もあるが、本質的には共振するのが正当であると考えられる。
 しかし、近代合理主義・唯物論的志向性をもっていると、両極(対極)的資本主義、極性共振的資本主義が失われて、二項対立・二元論的資本主義、言い換えると、同一性的資本主義になるのである。
 結局、後者が現代まで続いて、リーマン・ショックとなり、ウォール街の崩壊となり、世界経済の解体を生んだと考えられる。
 結局、今日・現代、近代資本主義の終焉を迎えたのであり、資本主義の、いわば、本来の原理である極性共振原理に回帰すべきであり、それが、トランス・モダン資本主義である。
 つまり、資本とは、本来、差異共振資本なのであり、利益も差異共振利益なのであり、資本家層が支配すべきものではないのである。ここに近代資本主義の科学的誤謬があると考えられるのである。
 余裕がないので、今はここで留める。

追記:言い換えると、ニュートン力学的資本主義ではなく、量子論的資本主義への転換が必須であるということである。実数論理から複素数ないしは虚数論理への転換の必要である。


真の哲学とは、精神の「構造改革」である:トランス・モダン・マインドを創造するPS理論
私は哲学を小中高教育で義務化すべきと考えている。
 以前も述べたが、哲学とは、単なる抽象的観念遊戯ではないのであり、思考・認識の「力学」の精査なのであり、それによって、主観性が「グレードアップ」するのである。換言すると、精神の未分化な混沌状態から、明晰に分化されて、新しい構築をもつ精神様態へと変換するのである。
 この哲学による精神OSの質的向上がないと、フッサールの言う自然的態度のままとなり、同一性=自我=物質形式に囚われたままなのである。そして、これが、悪神アンラ・マンユなのである。宗教はここでは、精神力学なのである。
 とは言え、今日の硬直した哲学は逆作用である。また、哲学の清算が必要である。ハイデガーの唯物論=構造主義に嵌り込んでしまった西洋哲学、また、字句に拘泥する日本の似非哲学から脱却して、トランス・モダン哲学へと生まれ変わる必要があるのである。
 ついでに言えば、哲学が欠落すると、その帰結が例えば吾桑愁傷や派恣喪徒恥怩である。


2009年07月25日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:虚数の垂直力学と水平力学の交差としてのMedia Point
今日通勤の途中に思い浮かんだのであるが、そのときに直観が今は薄れてしまっているが、想起して、少し書いてみよう。(後で余裕があるときに十分に検討したい。)
 思ったことは、正負の虚数=超越性は、共振性(引力)と反発力(斥力)があるのではないのかということである。前者の場合、正負の虚数(+iと-i)とは、積となり、⇒+1となる。しかし、後者の場合、積ではなく、例えば、商になるのではないのか。即ち、⇒-1である。
 そして、即非とは、引力と斥力の両極性に関係しないだろうか。つまり、⇒+1とは同一性志向性であり、+1が同一性である。つまり、A=Bである。しかるに、斥力が作用するとき、それを否定して、A≠Bとなるのではないだろうか。
 わかりやすく言えば、虚軸において、正負虚数は、波打っているということになる。
 そして、核心にMedia Pointがある。ここに共振と反共振(斥力)の中心点がある。
 しかしながら、虚数であるが、単に垂直力学だけでなく、水平力学があるのではないだろうか。何が言いたいのかと言えば、端的に回転力に関係したことである。虚数が回転するには、水平力学が必要だと考えられるからである。
 この水平力学とは、Media Pointにおいて発生するのか、それとも、最初から備わっているのか。
 不連続的差異論の段階で思っていたのは、差異(絶対的差異)の根源的な垂直性と水平性である。垂直性は虚軸的な力としてすぐわかるが、水平性は、実軸的な力と見るべきであろう。
 わかりやすく言えば、差異の横の関係のことである。これは、当然、現象性や同一性・物質性に関係するだろう。
 しかしながら、虚数が根源的に現象性や同一性・物質性をもちうるだろうか。
 理論的に言えば、根源的なそれらはないはずである。結局、Media Pointにおいて、水平性が発生すると見るべきである。だから、垂直力学こそが根源的であり、それから、水平性が「派生」するということになる。
 ならば、Media Pointで、水平力学が発生するのであり、これによって、回転力が発生するということになるだろう。回転力(「スピン」力)は、右回転と左回転が生じると思う。前者とは、⇒+1の共振のときであり、後者は⇒-1の反共振(斥力)のときではないだろうか。
 しかし、そう考えたとき、+iの右回転、例えば、1/4右回転では、⇒+1となり、+iの1/4左回転では、⇒-1となるが、問題は、-iの場合である。共振の場合、-iは、当然、1/4左回転となり、反発(斥力)の場合は、1/4右回転になるだろう。
 そうならば、共振と反発の場合、+iと-iとではそれぞれ、回転方向が逆になるということになる。これは、正負虚数の非対称性と言えるのではないだろうか。これは、いわば、鏡像的非対称性と言えるのではないだろうか。とすると、鏡面はMedia Pointであり、そして、正負で2つの鏡像が生まれるだろう。たとえて言うと、男女それぞれの鏡像である。つまり、+iを男性、-iを女性にすればいいのである。
 とまれ、回転力にもどると、Media Pointにおいて、同時に、左右逆の回転力が、共振と反発において生じることになる。これを二層的極性と言えるだろう。あるいは、四元性である。(思うに、垂直力学の2つの力、共振力と反発力、そして、水平力学の2つの力、⇒+1と⇒-1で、四つの力を想定できるのではないだろうか。)
 ということで、思考実験であるが、回転力に関するひらめきを記してみた。後で、再考したい。


「パトリオット」と「ナショナリスト」:「愛郷・愛郷国心」のMedia Point的共同体精神
「愛国者」という観念であるが、先に私は国は本来、nationであり、国家stateではないと述べたので、いわば、philo-nationとしての「愛国者」ということになった。
 しかし、以下、愚樵氏の区別は実に斬新で、明快である。パトリオットは、以前述べた愛郷心、愛郷国心の感じに近い。
 ここで国旗、国歌を考えると、それらは、愚樵氏の視点では、ナショナリスト的である。それらは、PS理論的には、同一性主義ないしは連続的同一性主義である。
 しかし、問題は、ナショナリストとは、正確には、ネーション・ステート中心主義者である。国家が入っているのである。だから、用語的に混乱が起るのである。
 言葉の慣習に倣って、ナショナリストという用語を使用すると、それは、愛国家主義者である。そして、パトリオットは、愛郷者、愛郷国者になろう。これは、同郷者や郷土に自然な親しみをもつものである。それは、Media Point的な共同体的精神と言えよう。だから、差異共振的精神であり、同一性主義、連続的同一性主義の国家主義とは異質のものである。
 
追記:「愛国者」である官僚や官僚発想的政治家は、このパトリオット的精神、Media Point的共同体精神が欠落していると言えよう。だからこそ、日本の郷土に対して平気で乱開発をするのである。 

***************

パトリオット=〈一次意思〉 ナショナリスト=〈二次意志〉
2009-07-22

『ナショナリストとパトリオット』(内田樹の研究室)

パトリオットは自分がその集団に帰属していることを喜び、その集団を律している規範、その集団を形成した人々を愛し、敬しており、その一員であることを誇り、感謝している。


彼はどのような集団にもそのような仕方では帰属していない。

(中略)

誰でも自己申告すれば、ナショナリストになれる。
そして、国民国家という巨大な集団に帰属する代償として、ナショナリストに求められるものは何もないのである。


〈一次意思〉〈二次意志〉については

『〈一次意志〉〈概念〉〈二次意志〉』(愚樵空論)
『〈一次意思〉に善悪はない』(愚樵空論)

を参照してください。

続きを読む »
http://gushou.blog51.fc2.com
/blog-entry-287.html

愚樵空論


ルネ・マグリットとPS理論:超越的コスモスと現象的コスモスの即非・差異共振様態
以下、Kaisetsu氏によるルネ・マグリットの絵画の哲学的、PS理論的解明である。
 実に明快にマグリットの絵画「宇宙」が分析されている。同時に、具体的なPS理論の説明にもなっている。
 Media Pointの即非・差異共振様態がマグリットの絵画の核と言えよう。非常にわかりやすい。
 今の私の直感で言うと、Media Pointを介して、超越的宇宙と同時に、即非的に、現象的世界を表現しているという感じである。言い換えると、超越的コスモスと現象的コスモスとの即非・差異共振様態の表現である。
 ここにおいて、トランス・モダン世界が表現されているのである。不連続的差異論成立前後にあいまいに直感していた世界感覚がここで明晰になったと言えよう。

****************

ルネ マグリット La Corde Sensible
2009.07.23 Thursday


 次の「ピレネーの城」と良く似たモチーフで在る。

⇒「ピレネーの城」 1959年 Le Chateau des Pyrenees
2009.07.19 Sunday

「ピレネーの城」は重力イメージの倒錯、転倒であったが、この「La Corde Sensible」は、雲が地上まで降りてきたイメージによって、倒錯・転倒間隔を出している。

 上下間の倒錯・転倒である。

 しかし、水平方向に、グラスが手前にあり、雲を上手に構図に合わせて見ている、とも見える。

 水平方向の錯覚である。

 やはり、ここでも、垂直方向と水平方向の、即非関係、差異共振、Media Pointが生まれている。

 さらに、雲がアイスクリームのように見えることで、三重の差異共振を果たしている。

 三つ巴の差異共振である。

 垂直方向、水平方向、「現実世界(雲)と精神世界(アイスクリーム)」との「三つ巴」の差異共振である。
http://blog.kaisetsu.org
/?cid=35649
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2009年07月23日(Thu)▲ページの先頭へ
トランス・プラハ言語学:トランス・モダン言語学へ
以下、toxandoria氏のプラハ言語学への言及があるが、これは、学生の頃を想起させる。ヤン・ムカジョフスキーの異化作用に夢中になったことがあるし、また、ルイス・キャロルやジェイムズ・ジョイスの言語実験的作品を今想起するのである。
 私は異化作用説については、限界があると考えて、ほとんど省みなくなったものの、脳裏のどこかで潜んでいたと思う。
 限界を感じたのは、異化作用説(ブレヒトの演劇論を想起させるが)が皮相なテクニックになってしまう傾向があるからである。単なる言葉遊びになってしまうと感じたからである。
 PS理論から見ると、異化作用とは、不連続的差異・絶対的差異の作用に近いと言えよう。しかしながら、異化作用とは、言語の作用であるために、十全な思想がないと皮相化するのである。つまり、言語とは、基本的に同一性作用をもっているのであり、それに集中すると本来不連続な異化作用が、連続性ないしは連続的同一性に陥ってしまうのである。
 とまれ、異化作用をPS理論的に進展させ包摂するトランス・モダン言語学は考えられるのである。それは、絶対的差異言語学、絶対的差異共振言語学、即非的言語学、Media Point Liguistics等となろう。

*****************

また、市民生活の日常は「会話と口語」で満ち溢れており、それも広い意味で
の「詩的言語」と見なすことが可能だが、この「詩的言語」の役割は日常言語
の世界を絶えず活性化し、その自在性と意外性の性格から規範的文脈を無視す
ることもあるが、実は、そのような場面からこそ「新しい現実世界の発見」と
「現実世界の明視」を可能にする機能が発見されることになる。後の「プラハ
言語学派」は、言語そのものから次第に美学・社会学的な領域へ視点を移し、
より広い意味での「世界の明視」を考察するようになる。


我われが生きる世界を堅固な一つの現実と見なすのは誤りである。例えば、
我われ一般市民が仕事や家庭で喜怒哀楽を感じつつ日常を生きる現実、新聞等
の文字ジャーナリズムが伝える現実、テレビ等の映像メディアが伝える現実、
美術・彫刻・音楽・文学等の芸術作品が伝える現実、Webネットワークが伝え
る現実、法曹界・法律・行政規範等が構成・示唆する現実、各種学会等のアカ
デムズムが構築する現実、政治・経済など何らかの権力が構想する現実・・・
云々ということになる。


ところで、「新聞等の文字ジャーナリズムが伝える現実」と「テレビ等の映像
メディア・ジャーナリズムが伝える現実」を纏めれば「マスコミが作る現実」
ということになるが、この「マスコミが作る現実」と「アカデムズムが構築す
る現実」に共通するのが“客観”、“中立”、“公正”の原則だ。マスコミは
第三の権力と呼ばれることもあるが、その権力たる所以が「言語」(テレビで
は映像と口語)であることは論を待たない。そして、今こそ「プラハ言語学
派」を生んだチェコ・アカデミズムが何故に「言語」を特に重視してきたかを
想起すべきである。


つまり、マスコミないしはアカデミズムが「言語」の自律的役割を放棄して権
力サイドへ魂を売り払うのは完全な自己否定に等しく、そのような事態が導く
現実の恐ろしさは、もしチェコ人がチェコ語を放棄していたならチェコ人と彼
らの文化が間違いなく完全にドイツ化していたであろうことを思えば理解でき
よう。その恐ろしさは、紛れもない一つの歴史的事実の重みとして実感できる
はずだ。このような意味で、「小泉〜安倍〜福田〜麻生」のヤラセ劇場下でマ
スコミとアカデミズムの一部が“御用化”し日本国民を欺き続けてきたのは万
死にも値する罪だと言っても過言ではない。


おそらく、今回の衆議院議員選挙で民主党に追い風が吹いていると言われる背
景の一つには、「グズでKYな麻生首相の逆説的功績」が、図らずも“小泉・竹
中ポルノ劇場の真相をマンガ的に分かりやすく日本国民へ説明してしまった”
という現実がある。つまり、過半の日本国民が、実は“小泉と竹中がウオール
街の強欲なハゲタカの代理人がであった”という現実を漸く理解し始めたとい
うことである。そして、今こそマスコミは、“マスゴミ”の汚名を返上すべく
“客観”、“中立”、“公正”の原則に立ち戻り、一般国民へ正確な情報を伝
えて、彼らが、正しく客観的に「世界の明視」(ビジョンの把握)ができるよ
う貢献すべきである。


これは何も「東国春スケベ騒動」(関連参照、下記★)でマスゴミと共に墓穴
を掘ってしまった自民党だけのことではないが、総選挙の結果を左右すること
になる無党派層の心は、“女心と秋の空”の類であり、彼らのリアリズム(現
実感覚)は“通時(過去-現在‐未来の時間軸)と共時(日常生活の現実、マ
スコミが作る現実、アカデミズムが作る現実、テレビ映像が作る現実など複数
の現実空間を同時的に横に貫く水平面に沿って伸縮する空間)という多次元の
現実空間を揺れ動き、絶えず右往左往するという意味で“交流と緊張の連続”
である。文字と映像言語を道具とするマスコミは、このような「言語機能の性
質」についての理解と、それ故にこそ求められる「日常言語を操る仕事の重要
性と責任」を徹底的に自覚し直すべきである。


★腐れ自民党にたかる“お笑い東国春とマスゴミ(=ねじまき住血吸虫クロ
ニクル)の強欲劇”が意味するアフォリズム、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090708


ついでながら、ロマン・ヤコブソンに次ぐ「プラハ言語学派」の大立者である
ヴィレーム・マテジウス(Vilem Mathesius/1883‐1945)は、1911年に行っ
た有名なプラハ大学(英文学)教授就任時の講演『言語現象における潜在性に
ついて』で次のようなことを語っている。なお、このような言語機能の特性に
つての考え方は、後になり(およそ1960年代以降)レヴィ・ストロース(C.
Levi‐Strauss/1908- )の構造主義やロラン・バルト(Roland Barthes/1915
‐1980)のエクリチュール批判などに大きな影響を与えている。


・・・言語現象には一定の揺れがあり、そこに変化の潜在性を認めるべきであ
る。これは、そもそも我われプラハ言語学派が前提としてきた「言語は構造を
なす」というテーゼのアンチ・テーゼであるが・・・[出典:千野栄一著『言
語学のたのしみ』(大修館書店)]

* 2009/07/23 11:21
* 2009/07/23 11:19

ベスのひとりごと
参考:
プラハ学派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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プラハ学派(プラハがくは)はソシュール と関連づけられる構造主義 言語学 の一学派 である。

1926年 10月にヴィレーム・マテジウス が発起人となり発足した。参加した言語学者 は、ボフスラフ・ハヴラーネク 、ヤン・ムカジョフスキー 、B・トルンカ、J・ヴァヘック、M・ヴァインガルトらがいた。このサークルの『論集』に寄稿した学者には、オランダ のデ・グロート、ドイツ の哲学者・心理学者のカール・ビューラー 、ユーゴスラヴィア のA・ベリーチ、イギリス のD・ジョーンズ、フランス のルシアン・テニエール 、エミール・バンヴェニスト 、アンドレ・マルティネ がいた。特筆すべきは、セルゲイ・カルツェフスキー 、ロマン・ヤコブソン 、ニコライ・トルベツコイ と言ったロシア の言語学者がサークル活動に加わったことである。このサークルの活動より音韻論 が生まれた。

代表的な言語学者 [編集 ]

* セルゲイ・カルツェフスキー
* ニコライ・トルベツコイ
* エミール・バンヴェニスト w:Émile Benveniste
* ヴィレーム・マテジウス
* アンドレ・マルティネ
* ヤン・ムカジョフスキー
* ロマン・ヤコブソン w:Roman Jakobson


2009年07月22日(Wed)▲ページの先頭へ
+iの同一性傾斜が近代主義の原因である:同一性傾斜の結果の+1としてのアンラ・マンユ
⇒+1から+1はどうやって形成されるのか。現象は本来、差異共振現象だと言ったが、エネルギーである⇒が消失するとき+1となるとこれまで考えてきた。
 つまり、一般には、大人に成長するにつれて、エネルギー⇒を喪失して、+1の物質世界が形成されると考えられる。同一性フレームや同一性図式(シェーマ)でもある。
 つまり、同一性=物質の必然的な面をもっている。しかしながら、エネルギーは反復されると考えられるから、⇒的な発想は本来消えないはずである。
 しかしながら、近代においては、同一性=物質に固定される近代合理主義が発達した。この原因は何か。
 それは、作業仮説では、+iの傾斜にある。父権的傾斜である。+iは言語観念、言語形式を形成すると思われるのである。つまり、同一性形式をもっているのである。この+iの同一性傾斜のために、近代西欧において、同一性=物質の固定が起り、差異共振エネルギーが否定・抑圧・排除・隠蔽されることになったと考えられる。
 それに対して、反動的に、-iの感性(身体)に傾斜すると、ロマン主義、「神秘主義」、オカルティズムになると考えられる。
 思想史的には、啓蒙思想は、+iに傾斜しているし、それへの反動としてロマン主義は-iに傾斜したとは大雑把には言えよう。(もっとも両者は対極的な面をもっているのであるが、それは無視した。)
 問題は、これまで解明したように、西洋哲学においては、一般に、+iと-iとが連続的であったことである。
 それは、上述したことに関係するが、+iの同一性傾斜があったために、それが、-iをも連続的に捉えたからである。
 結局、既述したように、+iの同一性傾斜(父権的傾斜)が西洋哲学、近代主義の混乱の根因であったのである。つまり、言い換えると、同一性傾斜のために、本源の差異共振性(Media Pointの様態)が歪曲されて、いわば、+iと-iとの癒着が起るのである。これが連続性・混合・混濁・相対性の根因である。そして、父権社会が腐敗する原因もここにあると言えよう。
 また、既述した通り、ポスト・モダンの失敗の原因もここに存するのである。ドゥルーズと初期デリダの哲学は、この同一性傾斜に拠る連続性から脱却していないのである。
 ここで言いたいことは、同一性傾斜のために、+iは、同一性となり、-iは連続的差異になったことであり、真の統一(差異共振・即非性)への見込みが西洋文化においてほとんど失われていたことである。
 ということで、⇒+1から+1が乖離する根因は、同一性傾斜・父権的傾斜にあるということである。そして、ゾロアスター教に引きつけて言うと、これまで、アンラ・マンユを+1としたが、どうやら、同一性傾斜と+1の結合したものがアンラ・マンユではないのかと思われてきたのである。即ち、同一性傾斜の結果としての+1としてのアンラ・マンユということである。 
  では、-1、あるいは、⇒-1とは何か。作業仮説としては、「ダークマター(暗黒物質)」ではないだろうか。+iが通常の物質ならば、-1はそのように考えられる。
 これはおいておくことにして、思いついたのは、-1とは、不連続性に関係するのではないかということである。即ち、共振から、同一性傾斜によって連続性が生起して、+1となるならば、同一性傾斜+iを否定すれば、不連続性が発生するのではないだろうか。つまり、-(+i)*(-i)⇒-1ということである。この同一性傾斜の否定-(+i)が、他者-iを生かして、いわば、+iと-iとのバランスをもたらすのではないだろうか。
 言い換えると、-1とは、端的に、+1の否定であり、同一性=物質を否定するものである。この同一性否定の作用-1によって、+iと-iのバランスがとれて、差異共振性が生起するのではないだろうか。
 そうすると、-1はきわめて重要な働きしているのである。同一性傾斜を否定して、差異共振性に回帰する働きをしているのである。+1をアンラ・マンユ(悪神)とすれば、-1は正に、スプンタ・マンユ(聖なる霊・善霊・善神)である。


2009年07月20日(Mon)▲ページの先頭へ
同一性は、真理を歪める利己的感情欲望をもたらす:トランス・モダン・キャピタリズムへ向けて
何故、一般に人間は真理・真実をもてずに、実行できないのだろうか。それは、基本的に、同一性性+1(アンラ・マンユ)に支配されるからと考えられる。
 同一性とは利己主義であり、公平さを喪失するのである。そして、他者に攻撃的になり、相互にごたごたが生じるのである。
 同一性とは当然、貨幣に結びついている。マモン(貨幣神)とは、同一性の悪神アンラ・マンユと言えよう。
 近代資本主義は、この同一性の悪神が支配してきた。しかし、トランス・モダン資本主義は、脱同一性的経済であり、差異と差異との共鳴を基底とする経済である。差異通貨の必要があるとは言え、その前に、実践的に、絶対的差異資本主義の様式を創造することは可能である。
 「前近代」的な日本型精神的資本主義をモデルにして、トランス・モダン化することである。
 先には、仏教や神道等が精神の核にあったが、今日では、それにゾロアスター教を加えて、資本主義を精神化することが必要である。
 ある意味で、企業が「宗教」化することが必要なのである。しかし、それは、トランス・モダンの宗教である。トランス・モダンの精神性である。すなわち、Media Pointの精神性である。
 このようなトランス・モダン・キャピタリズムは、「労働者」を「引き寄せる」と考えられる。(今は抽象的でな説明に留まっている。後で、具体・具象的に検討したい。)
 ところで、「労働」であるが、私は、いわば、「遊働」、「歓働」、「活働」になると思われるのである。なぜなら、精神の核心が歓喜であるからである。差異共振性の「歓喜の歌」があるからである。

追記:差異共振社会的資本主義とも言えよう。


検討問題:トランス・モダン・ヒューマン:脱(母権的)父権主義と差異共振主義
余裕がないので、問題提起であるが、先に、母権的父権主義という多神教の様態を指摘したが、しかし、これでは、父権主義(同一性主義)が残るのである。
 トランス・モダンとは、即非主義、差異共振主義、Meda Point「主義」である。つまり、完全な脱同一性主義なのである。故に、脱父権主義なのである。だから、用語としての新母権主義とは言えるが、「母権主義」という用語は誤解を与えるので、避けて、一先ず、差異共振主義と言うのが適切である。
 ところで簡単に指摘すると、父権主義(「家父長主義」)とは、単に封建主義に見られるのでなく、一神教や近代主義にも存する。
 だから、トランス・モダンはこれらからの脱却からでもある。そして、女性に関して言うと、当然ながら、女性の近代的自我化からの脱却でもある。
 思うに、西欧においては、世紀末から20世紀初期にかけて、新しい女性New Womanが生まれたが、トランス・モダン・エイジにおいて、トランス・モダン・ウマンが生まれることになる。Trans-modern Womanである。
 とまれ、女性の意識においても、同一性との切断が絶対的に必要なのである。そう、新しい女性精神の誕生ということになるが、それは、どういう様態なのか。
 比喩的に言えば、新しい「魔女」であろう。後で検討したい。


2009年07月18日(Sat)▲ページの先頭へ
ケインズによる「魔術師」ニュートン像:古代バビロニアとトランス・モダンが共振する:星辰力学へ
以下、Kaisetsu氏がケインズによるニュートンに関するスピーチ原稿を掲載されている。
 ケインズがニュートンの「オカルティズム」ないしは錬金術の研究を行っていたことは知っていた。あまりに異色な取り合わせであり、また、近代科学史において、「オカルティズム」が一つの源流であったことも知っていたので、特に探求しようとは思わなかった。
 とまれ、以下はかなりの長文(名文である)なので、拾い読みしたが、ニュートンがキリスト教三位一体を否定して、異端とされたアリウス派(父の神性を肯定して、子の神性を否定する神学)を肯定していた点が興味深い。
 とまれ、イギリス文化は基本的には二層構造なのである。表層は、近代合理主義(近代主義)ではあるが、深層は「神秘主義」がいわば蠢いているのである。前者がアングロ・サクソン的(父権的)、後者がケルト的(母権的)と言うことも可能だと私は考えている。あるいは、西欧的と東洋的である。
 PS理論は、ニュートン/ケインズの「魔術」ないしは古代バビロニア科学の視点をもトランス・モダン的知性から包摂することが可能である。
 余裕がないので、私事を述べると、これまで、ケプラーを除いて、ニュートンやガリレオという近代科学の創始者が苦手であったが、ニュートンを見直すことになった。
 近代日本、とりわけ、戦後日本は、これらを似非科学として排除したり、また、単に近代合理主義の源流という評価しかしてこなかったと言えるが、トランス・モダン・エイジは、近代合理主義が否定したものに創造的な知の可能性を探求することになる。
 錬金術は深層心理学者のユングが取り入れている(故にユング心理学は近代合理主義者から否定されている)。私は占星術のトランス・モダン化が必要だと強く感じている。今の占いではなく、星力学が必要である(これは、当然、ゾロアスター教とも関係する。魔術師Magusのマギは占星術師である)。
 PS理論から言うと、Media Pointに星力学の秘密が隠されている。以前、思考実験したが、まったく不十分である。先にプラトンの魂の三区分説を援用したが、それとも関係する。「魂」(Media Point Mode)の多元振動があり、それが、知意志/気情/身体の「遺伝子」のように思えるのである。そして、この「魂」の振動と太陽系や銀河系の振動とがいわばCosmic Media Pointを介して「リンク」している、即ち、共振・共鳴していると思えるのである。
 とまれ、残念であるが、ここで留める。

*****************

参照原文:He(Newton) was the last of the magicians, the last of the Babylonians and Sumerians,..... by John Maynard Keynes
2009.07.18 Saturday
John Maynard Keynes: Newton, the Man



In the eighteenth century and since, Newton came to be thought of as the first and greatest of the modern age of scientists, a rationalist, one who taught us to think on the lines of cold and untinctured reason.
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=776214#sequel

参照:
脱理性,脱合理性の彼方にある知的世界とはどのようなものか,想像するだけでわくわくします。 by toramaru氏

トランス・モダン位階秩序と「Color Hierarchy(色階層)」
2009.07.18 Saturday
 Color Hierarchy
 Color Gradation
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=776205
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
参照:
アイザック・ニュートンのオカルト研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ニュートン。エノク・シーマンによる肖像画(1724)からの彩色版画

この項目ではアイザック・ニュートンのオカルト研究について解説する。ニュートン は著名なイギリスの科学者・数学者であったが、現在ではオカルト 研究に分類される著作を多く著しており、年代学・錬金術・聖書解釈(特に黙示録)について研究していた。

ニュートンは、彼個人としては科学研究の成果よりも古代の神秘的な英知の再発見に重きをおいていたという考えがある。このような文脈で、世界を機械的に考えることを「ニュートン的世界観」と表現するのは語弊があると言う者もいる。たとえば、1942年にニュートンの錬金術研究書を購入し、検討した経済学者のケインズ は、「ニュートンは理性の時代 (age of reason)の最初の人ではなく、最後の魔術師 だ」と発言した。

しかしながら、ニュートンが生きていた前近代では、インテリ層が持っていた世界観は、後世のそれと異なっていたことは記しておかねばなるまい。科学 ・迷信 ・疑似科学 など、今日当たり前だと思われている区別はまだ混沌としており、厳格なキリスト教聖書の世界観は依然西洋文化に浸透していたのである。


参考:
マギ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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マギ(ラテン語 複数形 magi)は、本来、メディア王国 で宗教儀礼をつかさどっていたペルシア 系祭司階級の呼称。

単数形はマグス (magus)。アヴェスター語 形マグ(magu, maγu)に由来し、ギリシャ語 形の単数マゴス (μάγος)、複数マゴイ (μάγοι) を経由しラテン語化した。英語では単数メイガス (magus)、複数メイジャイ (magi)、形容詞メイジャン (magian)。普通名詞 なので小文字 始まりだが、東方三博士 の意味では固有名詞 あつかいで大文字 始まりである。

本来のマギと意味の変遷 [編集 ]

ヘロドトス の『歴史 』には、「マギには、死体を鳥や犬に食いちぎらせたり、 アリや蛇をはじめその他の爬虫類などを無差別に殺す特異な習慣があった」と記されている。これらの習慣はアヴェスター に記された宗教法と一致しており、彼らはゾロアスター教 と同系の信仰を持っていたと考えられる。

アケメネス朝 ペルシア史上では、王位簒奪者のマギであったガウマータを、ダレイオス1世 が倒して王位に就いたとされている。

一方、キリスト教 世界では新約聖書 、福音書 の『マタイによる福音書 』にあらわれる東方(ギリシア語でanatole。当時はペルシャのみならずエジプト北部などその範囲は広い)の三博士を指して言う場合が多い。三人の王とも訳される。直訳すれば星見すなわち占星術 師であるが、マタイ福音書の文脈では、天文学者 と推測される。

やがて、マギという言葉は 人知を超える知恵や力を持つ存在を指す言葉となり、英語 のmagicなどの語源となった。これはマギが行った奇跡 や魔術 が、現代的な意味での奇術、手品に相当するものだったと推定されるからである。また磁石 を意味するマグネットmagnet, マグネシウムmagnesium の語源も、マギが奇跡のために使用したことに由来する、という説がある。

サーサーン朝 時代では、中期ペルシア語(パフラヴィー語 )でゾロアスター教の神官であるマギのことを「マグ」ないし「モウ」 mgwy/mag,mow と呼んでいた。特にオーフルマズド神(アフラ・マズダー )やアナーヒード女神(アナーヒター )などの神々に捧げられた拝火 神殿を管理するような高位の神官は「モウバド」(mgwpt/mowbad, mōbad)と呼ばれ、モウバドの管理のもと多くのマグたちが神殿の運営や儀式を執り行っていたようである。サーサーン朝の始祖アルダシール1世 の祖父である名祖サーサーンはイラン南西部ファールス 地方の都市イスタフル のアナーヒード 神殿の管理職であったこともあり、同王朝は創建初期からゾロアスター教団とも密接な関係にあったが、第2代君主シャープール1世 から第7代君主ナルセ1世 の時代にかけて活躍した神官カルティール は、最高位の神官であるモウバダーン・モウバド(Mowbadān-Mowbad 「モウバドたちの中のモウバド」の意味)を名乗って王朝全土の諸神殿を統括し、キリスト教 やユダヤ教 、マニ教 、仏教 など外来諸宗教の勢力を弾圧し、国家宗教としてゾロアスター教団の威信を拡大させるなど、サーサーン朝の宗教政策を主導したことで知られている。

タバリー などのアラビア語 ・近世ペルシア語 の年代記や地誌などの諸文献では、ゾロアスター教神官・聖職者である「マギ」や広くゾロアスター教徒一般を指してマジュース مجوس majūs と呼ばれている。
福音書が伝える三博士の礼拝 [編集 ]

「東方三博士 」を参照

『マタイによる福音書』(2:1-12)によれば、イエス が生まれた時、東方にてマギ(博士たち)が大きな星を見、その星に導かれてエルサレム まで赴き、新しい王が誕生したのはどこかとヘロデ大王 に尋ねる。ヘロデは動揺しながらも側近に尋ね、側近は聖書の記述からそれはベツレヘムであると博士たちに教えた。博士たちはさっそくその場を発つと、星にしたがってイエスのいる場所につくことができた。幼子の前にたどり着くと、彼らはひれ伏し、黄金 、乳香 、没薬 を贈り物として捧げた。ヘロデは新しい王など生まれては困るので、博士たちに場所を教えるよう命じていたが、博士たちは夢のお告げでヘロデに会わないよう命じられたため、ヘロデを避けて別の道から故郷に戻った。そのためイエスはヘロデに殺害される事を免れた。しかし、ヘロデによってベツレヘムの2歳児以下の男子全て虐殺(幼児虐殺 )され、イエスは両親とともにエジプト へ逃れた。

※博士たちを導いた星は木星 である事は判明。[要出典 ]

『ルカによる福音書 』に描かれたイエスの誕生場面ではこの三博士は登場せず、代わりに飼い葉桶に寝ていた幼子イエスに羊飼い達が訪れる場面がある。西洋美術やクリスマスに飾られる馬小屋の飾りでは、博士と羊飼いが一緒に描かれているものも多い。

前掲の福音書には記述がないが、博士たちの人数は贈り物の数から伝統的に3人とされている。彼らの名前として西洋では7世紀 から次のような名が当てられている。それはメルキオール(Melchior, 黄金(王権の象徴)、青年の姿の賢者)、バルタザール(Balthasar, 乳香(神性の象徴)、壮年の姿の賢者)、カスパール(Casper, 没薬(将来の受難である死の象徴)、老人の姿の賢者)である。いずれもペルシア人の名でなく、何らかの意味も確認できない。シリア の教会では、ラルヴァンダド(Larvandad),ホルミスダス(Hormisdas), グシュナサファ(Gushnasaph)という別の名が当てられているが、こちらはペルシア語の人名として意味をなしている。アルメニア教会 では、カグバ(Kagba), バダディルマ(Badadilma) 等の名前を当てている。

なお、インド の一部の伝統では、ある人物が光明 を得るためには、三人の他の光明を得た人物によって、その人物の将来の光明が予言される必要があるという言い伝えもある。

関連項目 [編集 ]

* キリストの降誕
* クリスマス
* 東方の三博士
* 賢者

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/%E3%83%9E%E3%82%AE " より作成
カテゴリ : 出典を必要とする記事 | 聖職者 | 古代ペルシア | 福音書

Magi
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For other uses, see Magi (disambiguation) .
Conventional post-12th century depiction of the Biblical magi (Adoração dos Magos by Vicente Gil). Balthasar , the youngest magian, bears frankincense and represents Africa. To the left stands Caspar , middle-aged, bearing gold and representing Asia. On his knees is Melchior , oldest, bearing myrrh and representing Europe.

Magi (Latin plural of magus, ancient Greek magos, English singular 'magian', 'mage', 'magus', 'magusian', 'magusaean') is a term, used since at least the 4th century BCE, to denote a follower of Zoroaster , or rather, a follower of what the Hellenistic world associated Zoroaster with, which was – in the main – the ability to read the stars, and manipulate the fate that the stars foretold. The meaning prior to Hellenistic period is uncertain.

Pervasive throughout the Eastern Mediterranean and Western Asia until late antiquity and beyond, Greek mágos "magian" was influenced by (and eventually displaced) Greek goēs, the older word for a practitioner of magic, to include astrology, alchemy and other forms of esoteric knowledge. This association was in turn the product of the Hellenistic fascination for (Pseudo-)Zoroaster , who was perceived by the Greeks to be the "Chaldean " "founder" of the Magi and "inventor" of both astrology and magic. Among the skeptical thinkers of the period, the term 'magian' acquired a negative connotation and was associated with tricksters and conjurers. This pejorative meaning survives in the words "magic " and "magician ".

In English, the term "magi" is most commonly used in reference to the Gospel of Matthew 's "wise men from the East", or "three wise men" (though that number does not actually appear in Matthew's account, and various sources placed the number anywhere between two and twelve). The plural "magi" entered the English language around 1200, in reference to the Biblical magi of Matthew 2:1 . The singular appears considerably later, in the late 14th century, when it was borrowed from Old French in the meaning magician together with magic.

http://en.wikipedia.org/wiki/Magi

西洋占星術
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人体と十二宮の照応関係を示した図(ベリー公のいとも豪華なる時祷書 より)

・・・・・


ケプラーがヴァレンシュタイン のために作成したホロスコープ。当時のホロスコープはまだ正方形であった。

ルネサンス期の占星術にとって特に重要だったのは、コペルニクス の『天球の回転について』(1543年)である。これによって、プトレマイオス的な地球中心説 とともに、伝統的な占星術における太陽や月を含む「惑星」概念が否定された。同時に、宇宙が地球を中心とする狭い同心円でなく、大きな広がりを持っていたことが認識され、そのように離れた星々が、どれほどの影響を行使しうるのかという問題も発生した[23] 。

17世紀に入ると、天文学者でもあったヨハネス・ケプラー が、この問題に取り組んだ。ケプラーは『へびつかい座 の新星』では、「賢いけれども貧しい母」(天文学)と「その生活費を稼ぐ愚かな娘」(占星術)の対比によって、占星術があくまでも日々の糧を稼ぐための道具であると述べていたが[24] 、『占星術の確実な基礎について』(1602年)、『第三に介入するもの』(1610年)、『世界の調和』(1619年)などでは、新たな占星術理論の構築を試みている[25] 。しかし、太陽中心説 を軸とする刷新はうまくいかず、当時はむしろジャン=バチスト・モラン の『ガリアの占星術』(1661年)のように、プトレマイオス的世界観を墨守することを表明するものもあった。他方で、ケプラーは占星術を数学的に純化しようとしたことをはじめ、様々な改革を試みており、アスペクトなどでは重要な貢献を行っている。ケプラー以前のアスペクトは、第1にサインとサインの関係であったが[26] 、ケプラーは星と星の間の角度として再定義し、この新たなアスペクト概念は多くの占星術師に受け入れられ、現代に到っている。



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Harmonies of the World
by Johannes Kepler
tr. by Charles Glenn Wallis
[1939]
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/astro/how/index.htm

Johannes Kepler
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2009年07月17日(Fri)▲ページの先頭へ
+i/-iの質的差異:「魂の三区分説」:1.知意志的差異と2.「気情」的差異と3.「身体」的差異
先に+iは高度な精神的志向性から物質的な志向性まで多様な志向性があると言った。
 しかしながら、高度な精神的志向性に対応する他者は内的身体にあると言った。問題は、精神的志向性の生起する発火点は何かということである。
 問題を明快にすると、以前は、同一性は-iを抑圧すると言ったが、先には、+iにおいて、同一性的な+iが高度な精神的志向性の+iを抑圧すると言ったのであり、明らかに齟齬の状態である。
 今は余裕がないので、十分検討できないが、ざっと考えてみよう。
 結局、+iと-iとが極性として対応するのであり、+iに対して、必然的に-iが呼応するのである。また、逆も言えるだろう。-iに対して+iが呼応するのである。
 だから、「物質」的な極性では、同一性的な+iと同一性的な-iとが相応すると言えよう。(ここは問題があるが、おいておく。)
 しかしながら、高度な精神的極性の場合、超越的差異である+iに対して、超越的な他者の-iが相応する。
 つまり、極性は同時的であるということになろう。だから、上記の齟齬は、表面的な齟齬に過ぎないと言えよう。つまり、高度な精神的志向性の生起とは、単に、+iだけでなく、-iも発動していることになるのである。即ち、高度な精神的な志向性とは、高度な+iと-iとの極性に拠るのだから、高度な+iと高度な-iが生起するのであり、「物質」的な+iと-iは、それらの生起を抑圧するということになるのである。
 ということで、+iと-iは、多様な質的レベルを階梯的にもっていることになるのではないだろうか。即ち、「物質」的レベルから高度な精神的レベルまでの多様な質的レベルである。(思うに、虹や音階を考えると、七段階を考えてもいいかもしれない。又は五段階。)
 しかし、問題は、「物質」的レベルである。これは、「同一性」的レベルということになる。
 超越性において、「物質」や「同一性」を言うことは矛盾である。そこで、作業仮説として、微細な差異と粗雑な差異という区別を導入したい。(これは、精妙・霊妙な振動と粗雑・粗大な振動の区別と言えるかもしれないが、要検討である。)
 即ち、微細な差異の場合は、高度の精神的志向性をもつのであり、粗雑な差異の場合は同一性=物質に帰結する志向性をもつのかもしれない。とまれ、根本は超越性であり、同一性=物質はありえないのであるから、上記の『「物質」的な極性では、同一性的な+iと同一性的な-i』という説明は否定されることになる。それに替わって、粗雑な(粗大な)差異は同一性=物質的志向性をもち、微細な(精妙・霊妙な)差異は精神的志向性をもつという説明が正しいこととなる。
 そのように考えると、プラトンの有名な「魂の三区分説」を想起する。それに従うならば、差異は三区分されることとなるだろう。

1.理知的差異
2.気概的差異
3.欲望的差異

この三区分である。1が微細な差異であり、2が中間的な差異であり、3が粗雑な差異と考えられよう。
 思うに、2の中間的な差異は、正に、「気」に関係するのではないだろうか。そこで、「気情」という言葉を造語しよう。即ち、2は「気情」的差異ということになる。
 さらに、1は知意志的差異で、3は「身体」的差異と呼べるのではないだろうか。まとめると、

1.知意志的差異
2.気情的差異
3.身体的差異

となる(ここでは、括弧を外している)。
 ここで、同一性=物質のフレームについて言うと、それは、3の「身体」的差異によって形成されるものと言えるのではないだろうか。ならば、近代合理主義とは、この3の「身体」的差異ないしは「身体」的超越性によって支配された思想であり、1と2の差異を否定・抑圧・排除・隠蔽している途轍もなく歪曲した思想であることがわかるだろう。
 しかし、今やトランス・モダンの夜明けにあって、否定された知意志的差異と「気情」的差異が復活しつつあると言えよう。知意志的差異とは、精神的差異であり、「気情」的差異とは、共感・情感的差異である。
 結局、モダン・近代とは、低位・低次の「身体」的差異がそれより高位・高次の差異を否定する転倒・倒錯的な位階否定の時代であったと言えよう。ニーチェ的に言えば、「賤民」の時代である。
 ここで近代合理主義の「知」について言うと、それは悟性というものに近いだろう。そして、知意志的差異的共振性が理性に当たるだろう。
 結局、近代主義の混乱は、低位・低次の「合理性」を基準として、より高位・高次の「合理性」を判断しようとしたことに存すると言えよう。それは、カントのアンチノミーの概念に見られようし、ヘーゲルの弁証法に強く見られるものである。
 そこで、低位・低次の「身体」的差異の「合理性」、即ち、同一性=物質を発現する「合理性」は構造主義の『構造』と呼ぶことができよう。
 PS理論から見ると、確かに、『構造』は、Media Pointに存するのである。しかしながら、近代・現代哲学は、諸差異を連続化ないしは相対化していたために、『構造』によって、諸差異を説明しようとして失敗したのである。ハイデガーの存在論やポスト・モダン哲学がそうである。(ここで簡単に説明する、ハイデガーの「存在」は正に、『構造』と見るべきである。そして、フッサール現象学は、Media Pointにおける不連続性を指摘し、「身体」的差異から区別される「超越論的主観性」を提起した点では、正に、トランス・モダンの先駆であると考えられるのである。)
 最後に簡単にトランス・モダン精神に関して言えば、知意志的差異合理性がトランス・モダン知性(理性)であり、気情的差異合理性がトランス・モダン感性(情性)と言えよう。そして、身体的差異合理性がモダン知性である。

参照:
魂の三区分

プラトンは、一人一人の魂の中も、三つに区分できるという説を唱えます(434C-441C)。これは、『パイドロス』の中でも、二頭立ての馬車に乗る御者の比喩で説明されています。ここでは、紹介しませんが、夢物語のようですから、ファンタジー好きの方は読んでみてください。

1人の人間の魂には、〔理知的部分〕〔気概の部分〕〔欲望的部分〕の3つの部分がある。よく、テレビドラマなんかで、心の中の悪魔と天使が現れて、言い合いをしている場面があるだろ。千円札を拾って、「警察に届けろ」という天使と「貰っちゃえ」と言っている悪魔とか。

やっぱり、個人にも〔知恵〕〔勇気〕〔節制〕があって、この〔調和〕を図ることが〔正義〕なんだ。個人も小さな国家なんだね。そう、もちろん、魂の理知的部分が知恵を表していて、気概の部分が勇気を表しているんだ。魂の3つの部分もお互いにでしゃばらず、節制することにより調和が保たれ、個人の正義が実現されるんだ。

http://philos.fc2web.com
/plato/politeia.html

ギリシア哲学への招待状 愛知哲仁 An Invitation to Greek Philosophy


イエス・キリストはアフラ・マズダーの化身であろう:ゾロアスター教の一部としてのキリスト教
イエス・キリストはアフラ・マズダーの化身であろう:ゾロアスター教の一部としてのキリスト教

テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明

イスラム教はイエスを預言者の一人と見ている。神(超越神)が人となることは考えられないからである。
 PS理論から見ても、イエス・キリストは、神ではありえないだろうが、神の化身や権化ならば、考えられよう。ヒンドゥー教では、ヴィシュヌの化身は多くいる。その視点から言えば、イエス・キリストとは、アフラ・マズダーの化身の一人であると言えよう。つまりは、ゾロアスター教の一部としてのキリスト教となる。スプンタ・マンユ(聖なる霊)としてのイエス・キリストということになる。
 では、いったいどうして、イエス・キリストは神(「現人神」)になったのか。それは、西洋における同一性主義の知的コンテキストにおいてではないだろうか。言い換えると、唯物論的コンテキストにおいて、化身が神になったのではないだろうか。後で再考したい。

追記:化身とは、何か。Media Point的体現・現象化ということだろう。同一性化=物質化とは、Media Pointを否定しているのである。

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「妖精」の「存在」について:精神的事象と超越的エネルギー

テーマ:神話学・不思議学・フォークロア:ケルト他

妖精を信じた乙女と大人たち
【 未開の森林 】

以上のeliot-akira氏の最新のブログに、「妖精」の写真を載せているが、「妖精」とは何だろうか。
 日本で言うと、宮崎駿の「もののけ姫」等の世界の「存在」である。
 これは今や明白である。これは、精神的差異共振振動のことであると考えられよう。同一性=物質の世界、即ち、唯物論の世界においては否定される世界の(精神的)事象である。
 端的に言えば、「妖精」は存在するのである。あるいは、「天使」も「存在」するのである。ただし、超越的差異共振的「存在」、超越的「存在」であるから、物質的現象界には「存し」ないのである。Media Pointにおける垂直性において、「存する」のである。
 思うに、「存在」という用語は混乱させるだろう。「存在」は、物質界に当てはまる用語である。その視点から「妖精」は非存在である。言い換えると、エネルギー事象である。
 思うに、芸術家がこの超越的エネルギー事象を同一性=物質的に具象化すると言えよう。
 今日、トランス・モダンの入口の時代にあり、新たな超越的エネルギーの表現が創造されると考えられる。トランス・モダン・ルネサンスを迎えていると言えよう。
 思うに、Media Pointは真正な境界であり、超越性と同一性(仮象)が即非的に並立している。高度の差異共振性は、一般には、同一性=物質現象化しない。霊的存在は物質化はしないのである。この点を明確に抑える必要がある。
 ここで超越的芸術や超越的知性の必要の問題があるのである。一言で言えば、超越界の「表現」の問題である。思うに、ここで、信仰と超越知性(イデア論)の相違が重要である。PS理論は、信仰を否定しないが、信仰を超越知性に転換していると考えられる。つまり、超越的合理性を説いているのである。これがトランス・モダンにおいて、最高度に重要な点である。後で整理したい。

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『不思議の国のアリス』の「異世界」:同一性からMedia Pointへ転移の物語

テーマ:メディア・ポイントMedia Point

PS理論は、「コスモス」の理論なので、すべてに適用できるのであるが、例えば、文学研究においても、目覚ましい結果を生むだろう。
 ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』であるが、アリスは日常世界からウサギの穴に落ちて、「異世界」に入る込むのであるが、その「異世界」は、同一性論理の崩壊した世界であり、正に、Media Pointの世界と言えるのではないだろうか。明らかに極性が作用している世界である。伸びたり、縮んだりして、正に、非同一性世界となっているのである。
 思うに、ルイス・キャロルは東洋文化を志向していたと思われる。(彼はケルトの血が入っている。参考:アイルランド 系の血を含む北部イギリス人 である。Wikipedia)『シルヴィーとブルーノ』の第1巻の最後には、Look East.という言葉があるのである。
 とまれ、PS理論が行き詰まっている文学研究をも再生させよう。

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検討問題:+iの能動性と同一性化の力学:「ルシファー」と「アーリマン」(アンラ・マンユ)

テーマ:検討問題

同一性的であるとして、シュタイナーの精神科学を批判したが、しかし、シュタイナーは当然ながら、鋭敏な精神的認識をもっていた。
 ここでは、彼の「悪魔(悪神)」論を考えたい。即ち、「ルシファー」と「アーリマン」である。前者は本来、光と関係するものである。堕天使である。そして、後者は物質に関係するものである。だから、闇に関係しよう。
 これまで、ゾロアスター教のアンラ・マンユ(悪神)を同一性=物質の+1と結びつけて考えてきた。しかし、気になっていたのは、「ルシファー」である。それは、PS理論に相応するものがあるのだろうか。
 それは、端的には、+iの能動性ではないだろうか。これが、同一性と結びつくと、近代合理性=唯物論になると考えられる。
 +iの能動性とは、本来は、個の能動性である。これが、デカルト哲学が明示するように、近代的自我の能動性に還元されてしまったのである。本来、コギトとは、+iであるが、それが、同一性+1(悪神アンリ・マンユ)に転化されたのである。
 問題は、どうして、個の能動性が同一性化したのか。それは、視覚が本来、外界に対応しているからであろう。つまり、個の能動性が視覚を介して、外界的同一性と向けられたということになる。これが近代化の秘密である。
 先に述べたように、個の能動性を外界から内界へと方向転換させる必要があるのである。もっとも、外界ヘの志向を否定せよと言うのではない。そうならば、それは、蒙昧主義となる。
 外界へと志向した個の能動性を内界へと転換することで、個の能動性は内的他者に出会い、積極・肯定的に他者との共振が可能になるのである。そして、それは、外的他者との共振へと導くのである。
 先に述べたように、内界・内的身体に高度精神性が存するのである。それが、超越的知性でもある。それは、純粋な光の世界である。超越光の世界でもある。アフラ・マズダーの世界である。大日如来の世界である。


2009年07月16日(Thu)▲ページの先頭へ
Media Pointと同一性:自己と他者の関係様相:外界的同一性フレームと内界的差異共振性
先に、Media Pointにおける「苦」の様態を隠蔽して、同一性フレームが形成されると言った。
 では、「苦」の力学とは何か考えたい。根源的には、原差異共振性がある。これは、+iと-iとのProto-Resonanceである。言い換えると、純粋無垢な心魂である。
 しかるに、成長するにつれて、⇒+1の+1の物質要素が強迫的になる。つまり、物質的欲望の問題である。ここで、差異共振精神が途切れると思われる。「苦」のため、他者否定が為されるのである。
 丁寧に考えよう。「物質的欲望」とは本来、他者-iへの欲求ではないだろうか。ならば、本来、精神的欲求である。だから、「苦」とは、他者-iの喪失と言えよう。だから、(+i)*Φ⇒0という様態になっているだろう。⇒0が苦であり、空虚である。
 とまれ、例えば、他者が食べ物である場合は、それを食せばいいのだから、一般的には簡単である。しかし、他者が高度に精神的なものである場合、それは、簡単に満たせないのである。
 思うに、うつ病とは、このような状態ではないだろうか。高度な精神的他者の喪失ではないだろうか。
 物質的欲望が強いときは、それはほとんど無視されるだろう。しかし、物質的欲望が満たされた後、高度な精神的欲求が生まれると考えられる。つまり、+iは多様な志向性であり、高度な精神的志向性から物質的な志向性まであり、本来、すべてを満たす必要があると言えよう。
 しかるに、+iが同一性フレームを形成すると、+iが本来もつ高度な精神的な志向性が疎外(阻害)されると考えられる。つまり、分裂状態になるのである。+iは、精神的志向性をもちながらも、同一性フレームに限定されているために、精神的志向性を満たすことができなくなるのである。これが、うつ病やその他の精神の病気の根因ではないだろうか。
 とりあえず、(A)同一性的自己と(B)差異共振的自己の両面に分裂すると見よう。(B)の要素が発動するとき、(A)はそれを抑圧するのである。この抑圧が暴力・攻撃的衝動である。つまり、他者への暴力・攻撃衝動の発現である。
 しかるに、(B)の要素の排除とは、差異共振的欲求が満たされないことであり、精神的エネルギーが枯渇することであると考えられる。これが、うつ病を発症させる根因ではないだろうか。
 他者である-iに対する差異共振的志向性の拒否であり、本来的な差異共振志向性の否定である。
 では、実際的に言えば、どうやって、高度な精神的欲求を肯定できるようになれるのか。これは、近代主義の乗り越えを意味するので、困難な問題である。何故なら、近代主義という同一性=物質的「合理性」に支配された時代は、絶対的差異=精神的「合理性」を無視しているからである。脱近代主義、トランス・モダンへの不連続な変異が必要であるからである。
 端的に、具体的に、どうすればいいのか。東洋的身体論を学ぶ必要があるだろう。では、どうして身体論が必要なのか。
 何故なら、高度な精神的欲求+iの他者-iは身体、ないしは、内的身体に存するからである。いわば、同一性的対象(「他者」)は外界に存したのである。それは、とりわけ、視覚認識によって把握される。そして、近代合理主義はそのように発展したのである。
 しかしながら、視覚は、一般には、身体性、内的身体性を把握できない。思うに、主観的身体性と言う方がいいだろう。
 結局、外界志向の視覚をいわば、内界に向ける必要があると言えよう。ここで、東洋的身体論が必要となるのである。禅はこの内的身体に「視覚」を向けたものだろう。あるいは、ヨーガや気功もそうだろう。
 この内界的視覚、内的身体視覚によって、自己知性+iは高度な精神的他者-iに遭遇するのである。そして、そこで生まれる内界的視覚を形成することで、外界に対しても、精神的視覚をもつことができるようになり、外界の「美」、崇高美等を知覚できるようになると考えられる。以前、イデア叡知光と呼んだものがあるが、それは、正に、精神的視覚によって知覚された現象の光、即非的光である。とりあえず、ここで留める。


共産主義者と信者の共通性:Media Pointを同一性フレームで枠付ける
以下、Kaisetsu氏が愚樵氏の論考を背景を辿って解明しているが、私が直感したのは、「共産主義者」と「信者(カルトの信者という方が的確である)」とは共通の精神的枠組み(フレーム)をもっているということである。
 少し考察しよう。愚樵氏の警句「共産主義者とは、イデオロギーを最下部の構造とする者だ」は、思うに、「Media Pointという基底(最下部の構造)に同一性を形成する者だ」と言い換えられるのではないだろうか。
 本来、基底のMedia Pointは、即非様態・差異共振性をもつが、それが、同一性フレーム(因みに、愚樵氏は、知的フレームという用語を独創していた)で枠付けられた事態がそこで意味されていることではないだろうか。
 この同一性フレームがイデオロギーと言えよう。近代人は、ほとんどが、同一性フレームをもっているが、それと共産主義者・信者のそれとの違いは何であろうか。
 それは、Media Pointの様態に違いだと思う。即ち、近代人は、同一性フレーム(超越論的同一性・構造的同一性)をもつものの、一般には、Media Pointを微弱ながらも「心」として発現させていると考えられる。
 しかしながら、共産主義者・信徒となると、Media Pointそのものの上に同一性フレームを設置するのである。このMedia Point/同一性フレームの構造において、共産主義者の場合は、同一性が共産主義であり、教条化するのであり、信者の場合は、同一性が神であったり、教祖であったりする。
 結局、絶対的な連続的同一性が共産主義者と信者には存していると言えよう。(今、思いついたが、橋下知事もこのタイプである。狂信家である。)
 私の持論である「近代的自我は狂気」であるというのは、この絶対的連続的同一性に正確に当てはまると言える。
 さて、この絶対的連続的同一性という狂気の根因は何であろうか。これは、心の病や社会の病巣に実に関係するので、重要な問題である。そう、また、民主主義における衆愚政治とも関係する問題である。この問題は以前、何度も検討したが、ここで再考することになる。
 端的に、Media Pointの「力」の問題である。(ひょっとしたら、Media Pointは精神のブラックホールかもしれない。)
 Media Pointは、感受性の原点であり、また、能動性の原点である。つまり、受動性と能動性の二重点である。受動性においては、外界や内界の様々な苦を感じるのである。ここで、苦に対する忍耐力の微弱、劣弱な性格の者は、ここで反動化して、能動的に同一性を構築するのである。
 言い換えると、差異に対する苦への忍耐の弱さから、反感的に能動的に同一性を形成するのである。
 つまり、Media Pointの苦において反感を帯びる様態において能動的同一性を形成するのである。Media Pointの否定態において、同一性が形成されるのである。これが、絶対的連続的同一性の成立のあり方である。
 言い換えると、Media Pointの苦を誤魔化し、排除し、隠蔽するように同一性フレームが形成されるということである。これは、いわば、「敵」からの防壁なのである。
 つまり、有り体に言えば、自己の弱さを誤魔化すための同一性フレームなのである。だから、教条的、狂信的なのである。自己の劣弱さを守るための防壁であるので、恒常的に攻撃的なのである。
 ここで、以前の問題の蒸し返しとなるが、この同一性フレーム型人間は、心の劣弱さがあるが、果たして、精神的教養や経験等によって、Media Pointの肯定を学ぶであろうか、という問題がある。換言すると、愚民は賢くなるだろうか。
 やはり、劣弱の心は劣弱な心である。しかしながら、何らかの教育によって気づくことがあるかもしれない。
 もっとも、高貴な心の人間が指導的な立場に立ち、導く体制が理想的であろう。
 とまれ、ここで、内省教養が必要になったと言えよう。それは、とりわけ、仏教や哲学によって、形成されると言えよう。近代主義は、特に日本においては、両者が欠落しているのであり、劣弱な心は同一性フレームを嵌められて、怨恨的「精神」を形成すると考えられる。
 後で整理したい。
 
****************

共産主義者とは、イデオロギーを最下部の構造とする者だ by 愚樵空論
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu

参照:
どちらも搾取

愚樵空論


2009年07月13日(Mon)▲ページの先頭へ
差異共振様態とは何か:Media Modeの問題
PS理論ないしは即非概念の「凄み」は、二元論を徹底的に排したことにある。
 だから、知性と感性(感情)という西洋二元論は、そこではありえないのである。例えば、私Aと他者Bが存する場合、AはBに対して、共感性をもつだろうか。もし、絶対的に共感性をもつとしたら、それは、「形而上学」ないしは、「キリスト教」である。
 端的に、有り体に言おう。私は橋下知事に共感するだろうか。それは絶対的にありえない。死んでもありえない。未来永劫ありえない。つまり、PS理論の場合、他者に対して、基本的に差異共振性を志向するものの、他者がカラ馬鹿である場合は、絶対的に批判するのである。これは容赦がないのである。言い換えると、同一性主義的な他者には、絶対的批判しかあり得ないのである。
 だから、PS理論は共感性を重んじるが、他者に応じて、共感性を脇にやり、絶対的に批判する場合があるということである。言い換えれば、根本は、即非様態であるということである。そこでは、知性と感性とが、即非共振様相になっているのである。それは、知性主義でもないし、感性主義でもない。知性でもあり、感性でもある。正に、即非精神である。後で再考したい。


PS理論は、今や、森羅万象の公理・原理である
結局、プラトニック・シナジー理論(PS理論)は、現象の本質を如実に、端的に捉えた理論であるから、あらゆる事象に適用できるのである。
 今や、オールマイティの理論である。黄金の理論、玉座・王座の理論である。「ゼウス」の理論である。
 ちなみに、ギリシア神話の主神ゼウスであるが、それは雷の神である。日本・東洋的に言えば、雷神である。これは、Media Pointの差異共振エネルギーであろう。+iの電荷と-iの電荷が衝突共振して、雷が発生するのだろう。
 ギリシア神話では、クロノス、その他ティターン神族を倒したとあるが、ティターン神族を母権民族と見ると作業仮説すると、母権民族に勝利したことになるが、しかしながら、ユダヤ・キリスト教のように、排除したというよりは、二重構造になっていると考えられる。
 つまり、土台・基底は母権文化であるが、それを覆うようにゼウスが支配するオリンポスの神々の父権文化が構築されているということである。言い換えると、ニーチェの『悲劇の誕生』で述べられている、基底のディオニュソスと「上部構造」のアポロという構成である。
 これは、近代主義のようにMedia Pointから近代合理主義へと転化する連続的同一性の様式ではない。なぜなら、連続的同一性主義は、Media Pointを抑圧・排除・隠蔽してしまうからである。
 ギリシア神話の様態(あるいは、記紀神話の様態)は、それとは異なる。いわば、母権的父権文化である。ここがエッセンスである。(ゾロスター教も母権的父権文化と言えよう。)
 これは、力学・哲学的にどういうシステムなのだろうか。思うに、母権文化と父権文化を極性化しているシステムではないだろうか。つまり、母権制と父権制との差異共振的調和を志向しているシステムではないだろうか。
 私は既述したように、ギリシア神話は、母権制と父権制との衝突において、調和を探求しているものだと考えている。両者の調和とは、正に、差異共振的調和ということになる。そして、この差異共振的極性があるために、ギリシア神話は、父権極になったり、母権極になったり、あるいは、共振したり、多様の様態を呈すると考えられる。これは、記紀にも当てはまるだろう。
 そして、ゾロアスター教であるが、それは、母権制と父権制の差異共振の結晶のような宗教である。母権主義と父権主義が結合するときに生じる同一性=物質主義を悪神(アンラ・マンユ)として、また、根本的な差異共振性を絶対的善神アフラ・マズダーとするのであり、また、悪神の対極・対蹠となる善神のスプンタ・マンユを明確・正確に説いているのである。

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ゼウス
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曖昧さ回避 この項目では、ギリシア神話の主神について記述しています。その他の用法については「ゼウス (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
ゼウス

ゼウス(古典ギリシア語 :Ζεύς, Zeus)は、ギリシア神話 の主神 である。天候、特に雷 を司る天空神 であり、オリュンポス十二神 をはじめとする神々の王である。
概説 [編集 ]

ゼウスはローマ神話 ではユーピテル (ジュピター)にあたる。オリュンポス の神々の家族および人類の両方の守護神・支配神であり、神々と人間たちの父と考えられた。

ゼウスは天空神として、雲・雨・雪・雷などの気象を支配していた。鎧に山羊革の胸当てをつけ、聖獣は鷲 、聖木はオーク 。主要な神殿は、オークの木のささやきによって神託 を下したエーペイロス の聖地ドードーナ 、および4年ごとに彼の栄誉を祝福してオリンピック大祭 が開かれたオリュンピア にあった。

系譜 [編集 ]

ティーターン 神族のクロノス とレアー の末の子(長男という説もある)で、ハーデース とポセイドーン の弟。正妻は姉妹であるヘーラー であるが、レートー や姉のデーメーテール 等の女神 をはじめ、多くの人間の女性とも交わり、子をもうけたといわれる。

オリュンポス十二神の中では、メーティス との間にアテーナー 、レートーとの間にアポローン とアルテミス 、ヘーラーとの間にアレース 、ヘーパイストス 、またテーバイ の王女セメレー との間にディオニューソス をもうけた。

また様々な人間の女性との間に、たとえばダナエー との間にペルセウス を、アルクメーネー との間にヘーラクレース を、レーダー との間にディオスクーロイ をといったように多数の子供たちをもうけたことになっている。これらゼウスの子とされる英雄を半神 (ヘロス)といい、古代ギリシア では下級の神として広く祀られた。これらの伝説は、古代ギリシアの各王家が、自らの祖先をゼウスとするために作り出された系譜とも考えられる。ゼウスが交わったとされる人間の女の中には、もとは地元の地母神 であったと考えられるものもいる。人間と交わるときのゼウスはしばしば別の人物や動物に変身したとされ、ダナエーのときには黄金の雨、レーダーのときには白鳥 などの獣の形に変身したといわれる。

生い立ち [編集 ]

ゼウスの生誕に関する古代伝説のひとつによれば、父クロノスはわが子に支配権をうばわれる不安にかられ、生まれた子供を次々にのみこんでしまった。そこでゼウスを生んだとき、母レアーは産着でつつんだ石をかわりにクロノスにのませることでゼウスを救った。ゼウスはクレータ島 で雌山羊のアマルテイア の乳を飲み、ニュムペー に育てられた。成人したゼウスは、クロノスに兄弟たちをはきださせ(この時飲み込まれた順とは逆の順で吐き出されたが、これがポセイドーン等にとって第2の誕生にあたり、よって兄弟の序列が逆転されたともされている。)、父親に復讐をしたがっている彼らと協力してクロノスなどのティーターン神族を倒した。その結果、ゼウスらが勝利をおさめ、ティーターン神族は冥界タルタロス に葬られた。そしてゼウスとポセイドーンとハーデースは支配地をめぐってくじ引きをし、それぞれ天空と海と冥界の主となった。さらにゼウスは最高権力者と認められた。

人物 [編集 ]

ホメーロス の記述にみるゼウスは、2つの異なる姿で描かれている。一面ではゼウスは弱者の守護神、正義と慈悲の神、悪者を罰する神としてあらわされる。しかし同時に、次々と女性に手をだしては子孫を増やし、不貞を妻に知られまいとあらゆる手段を講じる神としてもえがかれている。

元来はバルカン半島 の北方から来てギリシア語 をもたらしたインド・ヨーロッパ語族 系征服者の信仰した天空神であったと考えられ、ヘーラーとの結婚 や様々な地母神由来の女神や女性との交わりは、非インド・ヨーロッパ語族系先住民族との和合と融合を象徴するものと考えられる。また自分たちの系譜を神々の父までさかのぼりたいという、古代ギリシア人の願望としても説明されることがある。

多くのインド・ヨーロッパ語族系言語を用いる民に共通して信仰された天空神に由来し、その祖形は、ローマ神話 におけるユーピテルの原型であるデイオス・パテール、あるいは普通名詞「神」を表すデイオス、デウス、古層のインド神話 の天空神ディヤウス 、北欧神話 のテュール らに垣間見ることができる。

好色なこの父神は、ギリシアにおける道徳意識の高まりとともに、しだいに好ましくない存在となった。このため後の伝説などでは、ゼウスを崇高な存在として表現するようになった。



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曖昧さ回避 この項目では、気象現象あるいは神話としての雷について記述しています。製品名、資格名など固有名詞としての雷については「雷 (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
住宅近郊への落雷
Lightning over 新宿 , 東京 , 日本 .

雷(かみなり)とは空と地、または空と空の間に起きる大規模な放電 現象であり、閃光と轟音を伴う。自然現象 の一種であり主に天気 が雨 、雪 、霰 、雹 の場合に発生しやすい。稲妻(電、いなずま/いなづま)と呼ぶこともあり、古語や方言などではいかずち、ごろつき、かんなり、らいさまなどの呼び名もある。
表現 [編集 ]
雷鳴を伴わない雲と雲間の稲光(2008年8月28日22:48東京 上空)

雷の光を「雷光(らいこう)」と呼ぶ。「雷」「かみなり」は季語 としては夏 を表す。

雷の事を稲妻(いなずま:古来の表記は「いなづま」)とも呼び、稲妻の光を稲光(いなびかり)と呼ぶ。稲妻は秋 の季語である。稲妻・稲光の語源については日本では稲 が開花し結実する旧暦 (太陰暦 )の夏から秋のはじめにかけて雨に伴い雷がよく発生するため、また、落雷した田では稲が良く育った[1] ため稲穂は雷に感光することで実るという理解が生まれ、雷を稲と関連付けて稲の「つま(=配偶者)[2] 」と解し「いなづま」あるいは「いなびかり」と呼ぶようになったといわれている。

雷と神話 [編集 ]
雷神(尾形光琳 画)

古来より、雷は神 と結びつけて考えられることが多かった。

* ゼウス (ギリシャ神話 )
* ユピテル (ローマ神話 )
* トール (北欧神話 )
* インドラ (バラモン教 )
* 建雷命 (日本神話 )
* 雷神・雷さま (日本民間伝承)
* 雷公(中国)

ギリシャのゼウス、ローマのユピテル(ジュピター)は天空の雷神であり最高神である。マライ半島 のジャングル に住むセマング族 でも雷は創造を司る最高神であり、インドシナ から南中国にかけては敵を滅ぼすため石斧をもって天下る神として落雷を崇める。欧米ではカシ が特に落雷を受けやすい樹木とされたのでゼウス、ユピテル、北欧神話のトールの宿る木として崇拝した。欧州の農民 は住居の近くにカシを植えて避雷針 がわりとし、また、犬 、馬 、はさみ 、鏡 なども雷を呼びやすいと信じたので雷雨 が近づくとこれらを隠す傾向があった。雷雨の際に動物が往々紛れ出ることから雷鳥 や雷獣 の観念が生まれた。アメリカ ・インディアン の間では、その羽ばたきで雷鳴や稲妻を起こす巨大な鳥 (サンダーバード )が存在すると考えられた。

日本神話 においても雷は最高神という扱いこそ受けなかったが、雷鳴を「かみなり(神鳴り)」ということからもわかるように雷を神々のなせるわざと見なしていた。天津神 の1人で天孫降臨 の前に葦原中国 を平定したタケミカヅチ (建御雷、武甕槌)はそういった雷神の代表である。雷(雷電)を祭った神社に「雷電神社 (板倉雷電神社 など)」「高いかづち神社」などがあり、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)・大雷大神(おおいかづちのおおかみ)・別雷大神(わけいかづちのおおかみ)などを祭神としている。

日本 では方言 で雷を「かんだち」ともいうが、これは「神立ち」すなわち神が示現する意である。先述した稲妻の語源が示すとおり、雷は稲と関連づけられている。日本霊異記 や今昔物語 にあるように雷は田に水を与えて天に帰る神であったため、今でも農村では雷が落ちると青竹を立て注連縄 (しめなわ)を貼って祭る地方がある。

雷神 は平安時代 になると、天神 の眷属神として低い地位を占めるようになった。

また、雷が起きると、落雷よけに「くわばら、くわばら」と呪文 を唱える風習がある。これは、菅原道真 の土地の地名であった「桑原」にだけ雷(かみなり)が落ちなかったという話に由来する。平安時代に藤原一族によって流刑された道真が恨みをはらすため雷神となり宮中に何度も雷を落とし、これによって藤原一族は大打撃を受けた。このとき唯一、桑原だけが落雷がなかったので後に人々は雷よけに「桑原、桑原」ととなえるようになったといわれる[3] [4] 。

雷神は古くから美術に表現されてきたが絵では京都建仁寺 の俵屋宗達 筆の障壁画 、元禄時代 の尾形光琳 の作など、彫刻 では日光東照宮 、京都三十三間堂 などのものが有名である。

発生の原理 [編集 ]

上空と地面 の間、または上空の雷雲内に電位差 が生じた場合の放電 により起きるとされる。雷を発生させる雲 を雷雲 と呼ぶ。雲内での放電を雲間放電(cloud to cloud lightning:CC; inter cloud lightning:IC; cloud flash:CF)、雷雲から地面への放電を対地雷(cloud to ground lightning:CG)と呼ぶ。対地雷には上向きと下向き、正極 性(+CG)と負極 性(-CG)の分類があるから対地雷は結局4種類ある。

ただし、近年(1980年代 〜)ではレッドスプライト 等の雷雲上空の発光現象も発見されている(中間圏発光現象 )。

雷の発生原理は、主に以下のような説で説明されている。

雷雲の発生 [編集 ]
雷雲

地表で大気が暖められることなどにより発生した上昇気流 は湿度 が高いほど低層から飽和水蒸気量 を超えて水滴(雲粒)が発生して雲となり、気流の規模が大きいほど高空にかけて発達する。

この水滴は高空に達すると氷結してあられ、氷の結晶となり上昇気流にあおられながら互いに激しくぶつかり合って摩擦されたり砕けたりすることで静電気 が生じる。この時、雲の上層には正の電荷が蓄積され下層には負の電荷が蓄積される。

急激な上昇気流により低層から高空まで形成される雷雲は主に積乱雲 などで構成され、熱雷 (俗に夏雷)と呼ばれる。同じ積乱雲でも寒冷前線上などに発生する場合、また、温暖前線などで同様の原理が発生した場合の雷は界雷と呼ばれる。上昇気流が台風 などによる場合は、渦雷(うずらい)と呼ばれる。なお、前線に向かって湿った空気が流れ込むことにより発生した雷など、熱雷と界雷の両方の特性を併せ持つものは熱界雷と呼ぶ。


2009年07月11日(Sat)▲ページの先頭へ
ニーチェ礼讃:近代主義の弱者性:同一性主義は弱者=賎民の「精神」である
ある意味で、不連続的差異論が生まれた5年前(2004年)に戻ることになる。つまり、私は差異を高貴なものと劣弱なものに分けた。前者は少数であり、後者が多数である。
 これは、一般的に真理であろう。ならば、その観点からすると、民主主義は、必然的に衆愚政治になるだろう。何故なら、優れた人間は少数であるからである。
 言い換えると、愚民はいくら言っても、トランス・モダン化しないということである。根源的に弱い人間であるから、同一性主義の鎧をつけるのである。
 古代ギリシアの民主主義は貴族制であった。つまり、貴族主主義である。
 民主主義を機能させるには、結局、精神的価値が必要である。この精神的価値によって、劣弱的差異も、精神的価値を感ずるようになるからである。
 米国がキリスト教を維持しているのは、その点で強みなのである。
 結局、超越性なき民主主義は、衆愚政治となるのである。日本においては、ゾロアスター教的民主主義が必要であると言いたい。後で整理したい。


検討問題:+iと-iの関係様相:父権的連続的同一性主義と母権的差異共振主義
今は余裕がないので、随想に留める。
 以前、男性は+iの傾斜があるといい、女性は、バランスがとれていると言った。しかしながら、女性は、-iの傾斜があるのではと言いたい誘惑がある。
 問題は、男性の場合、同一性化が女性よりも強いということである。だから、同一性傾斜があるということである。
 そして、女性の場合、差異共振性が保持されると思われるのである。もっとも、これは、理念的に言っているのである。
 言い換えると、男性の場合、差異共振エネルギーが連続的同一性化され、女性の場合は、それが、切断される契機をもっているということになる。つまり、女性の場合は、不連続・非連続になる傾向があるということである。
 これはどういうことなのか。女性の叡知(「ソフィア」)というものが、先天的にあるということなのか。力学的に考えよう。⇒+1の⇒を保持させる叡知があるということになろう。あるいは、Media Pointの叡知である。通俗的に言えば、バランスの叡知である。
 先に提起したことを作業仮説とすれば、+i/-i⇒-1の叡知があるということなのか。この⇒-1が連続的同一性化を否定するとは言えよう。とまれ、反・非連続的同一性化の叡知が女性には本来あるということになる。
 今は、作業仮説的に、⇒-1の反・非連続的同一性志向、即ち、不連続的志向性があるとしよう。
 ここで文化史・文明史的に見ると、母権文化から父権文化の転換において、前者の反・非連続的同一性志向性が否定されて、後者の連続的同一性志向性が肯定されたということになる。
 しかし、問題は、この転換を、物質性から精神性への転換と見るのが一般的なことである。女性は物質的で、男性が精神的であるという視点である。
 しかしながら、上記の視点では逆である。女性は精神的であり、男性こそ、物質的である。
 この混乱は、現象と物質を同一視する西洋文化の二元論性に由来すると考えられる(参考:フッサールの現象学)。先に述べたが、イデア⇒現象⇒同一性=物質であり、同一性=物質は抽象的仮象である。 
 とまれ、本視点から言うと、母権文化とは、イデア⇒現象的であるということであり、父権文化は形而上性(超越的同一性?=構造性)⇒同一性=物質的であるということである。
 この転換の意義はこれまで繰り返し述べたように、物質科学・技術の形成である。父権文化社会に転換しなければ、近代科学・技術はなく、未だに、井戸から水を汲み、川で洗濯をし、竈で食事を作っていた等をしていたと考えられる。それは、積極的な意味があったのである。
 しかし、それは、唯物論や狂気・暴力の不都合をもたらしたのである。
 今やトランス・モダンの時代である。これは、母権文化社会への螺旋的回帰と考えられる。父権文化社会の成果を批判的に包摂した超越的差異共振の文化社会の構築を意味するのである。
 今はここで留める。


民族衝突と同一性主義:同一性主義とは喧嘩屋である:精神的教養が差異共振知性を形成する
近代における民族衝突・民族闘争とは、基本的には、同一性主義狂気に拠るのではないか。宗教によるというよりは、同一性主義である。とりわけ、近代的同一性主義である。内的他者を暴力的に排除するために、当然、外的他者も暴力的に排除するのである。ナチズムはその典型である。
 結局、ゾロアスター教的状況が生まれる。内的他者の肯定する側(善神)と内的他者を否定する側(悪神)が分離するのである。
 では、内的他者を否定する側の原動力は何か。それは、同一性志向性の傾斜である。愚樵氏の理論用語から言うと、二次意志である。動的概念(差異共振)を抑圧する精神機構なのである。
 どうも、教育・教養の欠落が根因としてあるのではないだろうか。精神的教養が欠落すると、精神は同一性主義に硬化するのではないだろうか。
 即ち、近代合理主義は同一性知性=唯物論的知性を形成し、精神的教養を否定するのである。
 だから、近代化において、精神は同一性主義に硬化すると言えよう。これが、悪神化である。⇒+1から+1への転化である。
 しかし、精神は本来、Media Pointのエネルギーをもっているのであり、それは、日々、生成消滅するものであり、源泉としての差異共振性は存しているのである。
 しかし、精神的教養によって、その根源的差異共振性が知性化されていないと、意識的な創造力にはならないのではないか。
 換言すると、精神的教養は、根源的差異共振エネルギーを知性的に陶冶するのではないか。「理性」化と言ってもいいだろう。
 この陶冶・涵養がないと、根源的差異共振エネルギーは粗野なまま、つまり、同一性志向性のままになり、暴力的であるということではないだろうか。
 思うに、精神的教養とは、一種の切断である。根源的な差異共振エネルギーの同一性への連続化を切断するものではないのか。抑制・制御・コントロールと言ってもいいだろう。
 しかるに、近代化において、この精神的教養が否定されるために、精神エネルギーは連続的同一性化して、暴力化するのであり、このために、民族同一性主義(自民族中心主義)となり、民族と民族との間にジェノサイド・ホロコーストが発生するのではないのか。
 結局、平和の世界を創造する根源には、精神的教養教育が必要であるということになる。勿論、それだけでは不十分であるが、それが、根本である。
 結局、近代主義の超克、ここに世界平和の「胆」があると言えよう。今はここで留める。


2009年07月09日(Thu)▲ページの先頭へ
近代民主主義とトランス・モダン民主主義:Media Pointへの脱近代主義=脱同一性的純粋回帰
近代民主主義批判は既述済みであるが、ウイグル問題が噴出しているので、再度述べたい。
 問題は、それが、いわば、ポスト・モダンと同様の差異と同一性の連続性・相対性・混合性をもっていることではないか。即ち、先に述べたように、それは、本来Media Pointの精神エネルギーから生まれたものであり、愚樵氏の提起された「動的概念」というものである。それは、トクヴィルが説く米国民主主義にその本来の様態が見られよう。(因みに、オバマ大統領の民主主義はここに回帰していると考えられる。差異共振主義としての民主主義である。)
 しかしながら、近代民主主義は、当然、近代主義の枠組みを嵌められたものである。つまり、近代合理主義・近代的自我・唯物論的、即ち、近代的同一性主義的である。ここで、愚樵氏の説く「二次意志」に変質するのである。
 つまり、本来、Media Pointの絶対的差異共振性をもちながら、それが、同一性と連続化され、本来の「差異」、「動的概念」=即非概念=差異共振概念を喪失するのである。
 その結果、さらに、喪失から抑圧へと「進展」するのである。そして、近代的自我的民主主義、「我が侭」な似非民主主義が大半の国民において根づくのである。これは、愚樵氏の用語では、「自由」な民主主義である。【思うに、自己認識方程式から言えば、+iが-iと共振せずに、連続化して、+1になるということではないだろうか。つまり、共振すれば、⇒+1である(他者的自己認識)であるが、連続化は、⇒が消えて、単に+1の同一性=自我=物質になると考えられよう。
 因みに、先に検討問題として、非共振から-1が生まれることを提起したが、ここでの検討から、非共振は-1をを生むのではなく、+1を生むということが確認された。
 では、-1ないしは⇒-1とは何かが重要な問題となる。直感で言えば、⇒+1の裏面、背面、背後ではないだろうか。つまり、⇒-1は、⇒+1と並立して生起するのではないだろうか。すると、⇒±1ということになるだろう。現象学的に言えば、「自由」な自我になろうとする自己を制御する他者への志向性ではないだろうか。即ち、絶対的善=道徳・倫理である。】
 ということで、近代民主主義は、その根源のMedia Pointとは似て非なるものに変質的に転化するのである。だから、脱近代民主主義としてのトランス・モダン民主主義が必要なのである。それは、近代主義を乗り越えて、本来のMedia Pointへと回帰する民主主義なのである。言い換えると、超越的差異共振的民主主義である。
 それは、自由且つ自在的民主主義である。思うに、出発点の+iという自由があると考えられるからである。その自由が他者-iと共振して、自在化されると考えられるのである。 
 最後に、ウイグル問題に関係させて言えば、近代民主主義を標榜する近代西欧文明は、当然、反動的民主主義であり、他者、とりわけ、東洋・アジア文明を同一性化するために強制・策動・暴力的態度を取るのである。


2009年07月08日(Wed)▲ページの先頭へ
愚樵氏の「動的概念」とは、即非概念である:又は、「量子論」的概念である
以下の愚樵氏の哲学的経済論考は、直観において、実に納得できるものである。結局、「動的概念」の理解が根本である。

引用開始

『 〈動的概念〉とは、〈概念〉を生み出す〈一次意思〉が消滅すると同時に消滅する〈概念〉です。
〈二次意志〉を生み出さない〈概念〉であるとも言えます。』

引用終了

 これは、直感では、実に「明快」である。これを、PS理論的に言い換えると、正に、即非性、ないしは、即非「概念」であろう。つまり、同一性を否定した、差異概念、絶対的差異概念と言えよう。
 例えば、「山」を見たとしよう。この「山」という概念は、即非においては、「山」であると同時に、非「山」であり、〈二次意思〉=同一性の「山」を否定するのである。
 だから、〈動的概念〉とは即非概念と換言できる。あるいは、差異共振概念である。ここにおいて、同一性=〈二次意思〉は消失しているのである。
 そして、経済的適用であるが、それは、貨幣が同一性価値=交換価値的貨幣ではなく、〈動的概念〉価値=即非概念的価値となるということだろう。端的に、脱同一性主義金融資本主義=トランス・モダン資本経済である。

(以下、思考実験である。)

 さて、実践的問題点として、減価通貨の問題がある。これは、簡単に言えば、マイナス消費税のようなものではないのか。例えば、定価千円のものが、マイナス消費税、マイナス5パーセントとすれば、950円となるということではないだろうか。
 そうすると、減価通貨を使用しないと、損することになろう。貯金も同様である。
 結局、減価通貨千円とは、使用すれば、千五十円の価値があるということになろう。 
 また、公共投資で考えると、十億円公共投資したとしよう。消費税、マイナス5パーセントで言うと、5千万円が減価されて、9億5千万円で済んだことになろう。これは、税金の軽減となろう。

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〈動的概念〉を提案します
http://gushou.blog51.fc2.com
/blog-entry-278.html
愚樵空論


2009年07月06日(Mon)▲ページの先頭へ
『〈一次意思〉には善悪はない』:差異共振的絶対善と同一性的絶対悪
以下は思考実験である。後で再考したい。

『〈一次意思〉に善悪はない』という、いわば、驚天動地の見出しである。これは、正に、「革命」的な発言ではないだろうか。これは、完全にプラトンを乗り越えている。プラトンにおいて、イデアは善であった。そうすると、悪の問題が鋭く生まれるのである。
 これは、『イデアには善悪はない』ということである。そう、超越性をイデアとするならば、その通りである。Media Pointにおける差異共振様相において、絶対的善が生まれると言えよう。
 そうならば、プラトンの善のイデアとは、差異共振的絶対善である。超越性と善のイデアは区別される。そして、それは正しい。差異共振エネルギーが根源的光であるからである。
 ならば、超越性とイデアは区別されるべきではないだろうか。これはきわめて重要な問題である。超越性とは端的に、虚数であり、+i であり、-iである。これは、プラトンのイデア以前ではないのか。超越的差異共振をイデアと呼ぶべきではないのか。
 そうすると、超越性⇒イデア(Media Point)⇒現象⇒同一性(物質)という図式になるだろう。
 愚樵氏の「 2.〈概念〉を確立して善悪の判定基準を設け、外形的な力(暴力、権威など)によってコントロールする。 」における〈概念〉とは、イデアではなく、同一性(物質)の概念によるコントロール=支配のことと思われる。これは、正に、近代西欧的な発想である。ホッブズやルソー的発想である。そして、近代民主主義の発想である。
 しかし、愚樵氏の「 1.個々人の〈一次意思〉の超越性を互いに諒解し、超越性の絶対差異を差異共振することで内面的にコントロールする。」とは、Media Pointのコントロール、イデアのコントロールと言えるだろう。これこそ、トランス・モダン民主主義である。
 今は残念ながら、余裕がないのでここで留める。 

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非常に明快な論理で社会システムの矛盾を指摘⇒〈一次意思〉に善悪はない
2009.07.06 Monday
愚樵氏が直接的で明瞭な社会システムの矛盾、不合理性を指摘された。古今東西、未だ嘗て、このような簡潔で十分な社会システム批判を見たことが無い。
 私たちは、この重要な哲学的進歩の上に立って、社会システムに対する根源的批判を敢行することが可能になった。

参照: 〈一次意思〉に善悪はない
http://gushou.blog51.fc2.com
/blog-entry-275.html
2009-07-06
http://blog.kaisetsu.org/
?eid=769146
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2009年07月03日(Fri)▲ページの先頭へ
諸宗教とは原神性=超越性に対する諸観点ではないのか:宗教の脱同一性化と絶対的脱構築主義
たびたび引用するアメリカの神話学者ジョセフ・キャンベルの主著に『神の仮面』Masks of Godという四巻本がある。この「神」Godを原神=超越性と見れば、私の考えが明快になるだろう。
 つまり、元々は根源的に一つの原神性=超越性が存するのであり、それを、各民族、各時代、各土地、等によって、すなわち、そのフィルターを通して、見ていたのではないだろうか。
 即ち、原神(神々)が存するが、それをユダヤ民族は、ヤハウェやエローヒームと、キリスト教徒はイエス・キリストと、マホメット(ムハンマド)は、それをアッラーと、また、仏陀は空と、そして、ザラシュトラはアフラ・マズダーと、そして日本民族は、三柱の神や八百万の神と、そして、インド人はヴィシュヌ、ブラフマン、シヴァと、そして他は別様に見たのではないだろうか。
 根本的な超越的普遍性があるのであり、それを多様に把握しているのである。これは、以前、Kaisetsu氏が説いた相対性理論の考え方に共通しよう。「光」の普遍性があり、それを多様に観測するということである。
 これは当然、宗教・神話に限られず、超越エネルギーがあるのであり、これを合理的に秩序化したものが自然科学ということと考えられる。しかしながら、近代科学は同一性=物質の観点から超越エネルギーの現象態を捉えようとしたに過ぎない。もっとも、量子論は、超越エネルギーを対象としているといえよう。ただし、唯物論の枠組みをまだ残存させてはいるが。
 また、東洋哲学は、基本的に超越エネルギーを対象としていると言えよう。だから、「気」という視点が生まれると考えられる。つまり、「気」とは超越エネルギーであるということである。陰陽論は超越エネルギーを対象としていると言えよう。
 宗教に戻れば、結局、諸宗教の教徒が相争うのは、普遍的超越性を同一性化することによって、相対立が起こることからだろう。普遍性を同一性化すれば、それは、二項対立を生み、自身が正しく、他者は誤謬であるとなるのである。
 根源的超越性を例えば、iとすれば、それを+1として見るのが同一性化である。わかりやすく言えば、「川」が存するが、riverやStromやrivièreや川、等々と呼ぶようなものである(追記:私が直感・直観を重視するのは、同一性言語に囚われない、原感覚・原知覚、言い換えると、普遍的感覚・普遍的知覚がそこにはあるからではないだろうか。だからこそ、言語よりも、美術や音楽の方が、対象を誤魔化しなく捉える傾向をもつと考えられる。つまり、言語意識よりも、感覚意識の方が対象を正しく捉えるということである。)。もちろん、各地域によって川の性質は異なるのは確かであるが。宗教の脱同一性化が必要である。脱フィルター化である。
 思うに、脱構築主義は、差延を問題し、同一性と差異との相対性を述べて、同一性的な構築を否定するという発想である。それは、正に、ポスト・モダンであり、ドゥルーズの連続的差異と類似する。
 そう、脱構築の脱構築が必要なのである。いわば、絶対的脱構築主義である。これまでの脱構築主義は、相対的脱構築主義ということになる。

追記1:思うに、一神教は同一性化が多神教よりも強化されたものと言えよう。とまれ、根本は超越的エネルギー論であるということである。

追記2:ウィリアム・ブレイクは、All Religions are One.(すべて宗教は一つである。)と述べていたのを想起する。

Title; E1| ALL RELIGIONS are ONE t2


AROepigraph; E1| The Voice of one crying in the Wilderness


ARO; E1| The Argument As the true method of knowledge is experiment
AROargmuent; E1| the true faculty of knowing must be the faculty which
AROargument; E1| experiences. This faculty I treat of.
ARO; E1| PRINCIPLE 1st That the Poetic Genius is the true Man. and that
AROprin1; E1| the body or outward form of Man is derived from the Poetic
AROprin1; E1| Genius. Likewise that the forms of all things are derived from
AROprin1; E1| their Genius. which by the Ancients was call'd an Angel & Spirit
AROpriin1; E1| & Demon.
ARO; E1| PRINCIPLE 2d As all men are alike in outward form, So (and
AROprin2; E1| with the same infinite variety) all are alike in the Poetic
AROprin2; E1| Genius
ARO; E1| PRINCIPLE 3d No man can think write or speak from his heart,
AROprin3; E1| but he must intend truth. Thus all sects of Philosophy are from
AROprin3; E1| the Poetic Genius adapted to the weaknesses of every
AROprin3; E1| individual
ARO; E1| PRINCIPLE 4. As none by traveling over known lands can find out
AROprin4; E1| the unknown. So from already acquired knowledge Man could not
AROprin4; E1| acquire more. therefore an universal Poetic Genius exists
ARO; E1| PRINCIPLE. 5. The Religions of all Nations are derived from
AROprin5; E1| each Nations different reception of the Poetic Genius which is
AROprin5; E1| every where call'd the Spirit of Prophecy.
ARO; E1| PRINCIPLE 6 The Jewish & Christian Testaments are An original
AROprin6; E1| derivation from the Poetic Genius. this is necessary from the
AROprin6; E1| confined nature of bodily sensation


ARO; E2| PRINCIPLE 7th As all men are alike (tho' infinitely various) So
AROprin7; E2| all Religions & as all similars have one source
AROprin7; E2| The true Man is the source he being the Poetic Genius
http://www.english.uga.edu/nhilton/Blake/blaketxt1/all_religions_are_one.html
Contents, The Complete Poetry and Prose of William Blake
edited by David V. Erdman 
The Masks of God, Vol. 1: Primitive Mythology (Paperback)

http://www.amazon.com/
Masks-God-Vol-Primitive-Mythology
/dp/0140194436/ref=sr_1_1?ie
=UTF8&s=books&qid=1246617
764&sr=1-1
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