INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/05

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年05月31日(Sun)▲ページの先頭へ
「底が抜けている」=社会の恣意性という構造主義の誤謬:Media Pointの絶対的差異的普遍性
最新の愚樵氏の論考(底が抜けた〈システム〉を )であるが、そこで、宮台氏の次の見解を引用している。

「 実は、どんな社会もその形をとるべき必然性はありません。つまりは恣意的で、その意味では「底が抜けて」います。その恣意性は消去できません。しかし、従来は恣意性を乗り越える、あるいはやり過ごす働きを、多くの社会が内蔵してきました。それが壊れてしまったのです。」(赤色文字強調、renshi)
http://gushou.blog51.fc2
.com/blog-entry-249.html

「恣意性」とは、構造主義の教科書で読まされるソシュールの言語構造主義の概念である。ということは、宮台氏の見解はいまだに、構造主義を基盤にしていると言えよう。これだけで、彼の理論は、最良のポスト・モダン(デリダ哲学)からも遅れていることが判明する。
 この概念は、もはや完全な時代遅れである。また、彼の不可能性と不可避性というアンチノミーの発想は、デリダの脱構築主義の悪い要素であり、これも時代遅れである。
 つまり、彼の「底が抜けている」という見解は間違いであるということである。実は、社会は「底が抜けていない」のである。「底が抜けている」という表現は、同一性主義の視点では、それは使用できるが、「恣意性」という意味では、それを社会に適用するのは誤りである。
 「人を殺してはいけない」という価値は普遍的価値であり、これは差異共振価値から必然的に出てくるのである。だから、PS理論は、伝統的価値の創造的復権を意味するのである。
 さて、相対主義の問題であるが、これは、「恣意性」という問題では、構造主義の問題であるが、一般的に言えば、異なるAとBとの相対性とは、AとBとの間にある差異である。Aの絶対的差異、Bの絶対的差異とが無視されている見解である。これは、デリダ哲学に達していない、ドゥルーズ的な連続的差異の考え方である。
 とまれ、PS理論は、完全なトランス構造主義であり、トランス・ポスト・モダンである。ただし、デリダの「すべての他者はまったき他者だ tout autre est tout autre」という絶対的差異の思想を超越性の思想で包摂しているものである。
 最後に一言付け加えると、差異共振とは、絶対的差異+iと他の絶対的差異-iとの共振、即ち、絶対的差異共振ということである。これは、Kaisetsu氏が西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」を説明したとき使用した用語である。
 
参考:
相対主義の時代は絶対的に終り、絶対主義の時代が絶対的に来る。(近未来予測)
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
http://blog.kaisetsu.org/
?eid=749092#trackback

参照:

スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure, 1857-1913)は、言語の歴史的起源や時間変化を探究する『通時的な研究』ではなく、同時代の言語の構造や一般規則を考察する『共時的な研究』を精力的に行い、近代言語学の礎を築くことに成功した。

ラング(文字言語)の構造を徹底的に分析したソシュールの言語哲学は、『差異の体系』や『言語記号の恣意性』という基本的なアイデアを持っている。このソシュールの言語哲学の基本的なアイデアは、マルクス主義的な史的唯物論や直線的な発達史観の対極にあるアイデアである。つまり、今ある言語がその言語であるべき必然的な理由などは存在せず、『恣意的な社会的規則(社会的取り決め)である言語』をマルクス主義のような発展・進歩の視点から研究することはナンセンスであるという事である。

言語が何故そのようなルールや語彙を持っているのかに関して歴史的必然性はなく、ただ、機能的なパロール(声)の意志伝達を可能とする『ラング(言語規則)の社会的取り決め』とそれに従う『シニフィエ・シニフィアンの恣意的な言語構造』があるだけなのである。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind
/vision/es001/language.html
ソシュールの言語論(シニフィエ・シニフィアン)と構造主義

参照2:
マイクロヴァイタ論とPS理論:マイクロヴァイタとMedia Point
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10205104466.html


百済遼西=帯方郡説と紅山文化=大女神文化:大女神文化の倭国と卑弥呼
てげてげの飯山氏の百済遼西=帯方郡説から、紅山文化が一気に興味深くなった。これは、端的に、偉大な大女神文化である(と直観される)。そうすると、紅山文化が倭国の文化の一つの主要な原型(二千年の差があるので原型である)であり、それが、日本へ入ったと考えることができる。
 これで一気に倭国・日本文化問題が解明できる可能性がでてきた。大陸の高度な大女神文化が、原始的な大母神文化(縄文文化)と結びついて、倭国・日本大女神文化が生まれたのではないのか。そして、その後、父権的民族(「一神教」的民族、ユダヤ民族?)の支配によって、倭国・日本大女神文化の「神話」=神伝が改竄されて、記紀が創られたのではないのか。

補記:以上の作業仮説から、これまで述べてきた日本文化が母権文化と父権文化との混淆であるというテーゼがよりよく説明されよう。
 「日御子(ひのみこ)」が問題の核心にある。母権文化では、それは、大女神の子、夫、恋人である(折口信夫の『死者の書』の世界である)。しかし、父権文化では、父権的太陽神である。だから、「天皇制」は、ちょうど、キリスト教の構成に類似していると言えよう。つまり、女神の子としての「イエス・キリスト」とヤハウェの「顕現」としての「イエス・キリスト」の混淆である。そう、「天皇制」とキリスト教は、まったく異質な二つの文化が衝突しているのである。換言すると、差異と同一性の衝突なのである。

参考:
◆ 2009/05/30(土) 『邪馬台国』の所在地.それはソウル近辺だ!

・・・・・
中国の歴史書には…,
 「百済は遼西に都した.そこは帯方郡の故地であった」 という記述が多数ある.

飯山一郎の小さなHP:低下低下=てげてげ

紅山文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
玉でできた龍。紅山文化の出土品

紅山文化(こうさんぶんか、ホンシャン文化、红山文化、拼音 : hóngshān wénhuà , Hongshan culture, 紀元前4700年 頃-紀元前2900年 頃[1] )は、中国 の万里の長城 より北方に存在した新石器時代 の文化で、燕山山脈 の北から遼河 支流の西遼河 上流付近にかけて広がっていた(現在の河北省 北部から内モンゴル自治区 東南部、遼寧省 西部にあたる)。農業を主とした文化で、龍 などをかたどったヒスイ などの玉から、現在の中国につながる文化や宗教の存在もみることができる。

紅山文化の名は、内モンゴル自治区 の赤峰市 にある紅山後(こうざんご、Hongshanhou)遺跡に由来する。1908年 、満蒙調査を行っていた考古学者の鳥居龍蔵 が発見し、1935年 に濱田耕作 (浜田青陵)や水野清一 らにより大規模な調査が行われた。戦後各地で発掘が相次ぎ、彩陶と細石器に特徴付けられるこの文化は1954年 、紅山後にちなんで紅山文化と命名されている。
石器および陶器 [編集 ]

紅山文化の主な遺跡は西遼河上流の支流、潢水および土河の流域に広がっている。その年代は現在から5000年以上さかのぼり、南の黄河 流域の仰韶文化 の中期および晩期に相当する。発見された石器 は打製石器 ・磨製石器 ・細石器 などであり、そのほとんどは農具で、石耜・石犁・石鋤などのすき類が多い。

紅山文化の陶器は、泥質紅陶および夾沙灰陶の2種類に分けられる。泥で作り筆で絵付けした彩陶(彩文土器)は煮炊きや食事などに使われ、紋様が刻まれた夾沙灰陶は食事の盛り付けなどに使われた。そのほかの陶器では、妊婦をかたどった胸像が各地から出土している。紅山文化では仰韶文化 のような彩陶文化は発達しなかったが、龍山文化 の黒陶の洗練された造形には近いものがある。また後期の遺跡からは青銅 の環も発見されている[2] 。

生活 [編集 ]

紅山文化では農業 が主で、家畜を飼育しての畜産 も発達しておりブタやヒツジが飼われた。一方では狩猟 や採集 などで野生動物を狩ったり野草を採ったりすることもあった。

玉石と精神文化、牛河梁遺跡 [編集 ]

紅山文化の墳墓からは、ヒスイ などの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。ブタ 、トラ 、鳥 のほか、龍 を刻んだものも見つかっている。工芸の水準は高く、紅山文化の大きな特徴となっている。「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」と呼ばれる紅山文化の玉龍(龍を彫った玉)の造形は単純であり、龍が円形になっているものが多いが、後期になると盤龍・紋龍などの区別がはっきりとしてくる。考古学者の中には、後に中原 で始まった龍への崇拝は、紅山文化にその源を発するという見方もある。

1983年 に遼寧省 凌源市 から建平県 にかけての広い範囲で発見された牛河粱遺跡(牛河梁遺跡、ぎゅうがりょういせき、Niuheliang)からは紅山文化とかかわりの深い祭祀施設が発見されている。5平方kmにおよぶ広い範囲に石を積んで作られた墳墓や祭壇が整然と分布している。また石の床と彩色を施された壁のあった神殿が見つかり、目がヒスイでできた陶製の女性頭像が発見されたことから「女神廟」と呼ばれることになった。発掘の過程で、地下1mから祭祀の場や祭壇、壁画、ケアン (石塚)が発見された[3] 。

女神廟の中には、人間の3倍近い大きさの陶製の像が並んでいた。これらの像はおそらく神像であるが、現在の中国文化では類を見ないものである[4] 。

牛河粱で発見された記念碑的な建築物の存在、また様々な土地との交易の証拠から、この時期には先史時代の「首長国」「王国」があったと考えられる[5] 。

女神廟では彩陶も発見されている[3] 。付近の60以上の墳丘墓 も発掘が行われたが、これらは石を組んで石室が作られ、その上に礫をかぶせて塚が作られており、中から玉などの遺物も発見されている[6] 。近くの2箇所の丘の上にはケアン が発見され、その近くには石灰岩 を段々に積み上げて作った円墳や方墳もある。これらの墳丘墓の中からは龍や亀の彫刻が発見された[3] 。紅山文化ではいけにえが捧げられたという指摘もある[3] 。

仰韶文化 初期の遺跡から発見された遺物が語るように、紅山文化の遺跡からも初期の風水 の証拠とされるものが見つかっている。牛河粱遺跡など、紅山文化の祭祀遺跡にみられる円形や方形は、天円地方 の宇宙観がすでに存在していたことを示唆している[7] 。

遼河流域の文明 [編集 ]

すでに長江流域から新石器時代の独自の文化(長江文明 )が発見されて黄河文明 中心の中国史に一石が投じられているが、黄河から北へ離れた東北 (満州 )の遼河 流域の地からも中国の精神文化へ繋がる文明が発見されたことは大きな反響を呼んだ。この後も、遼河流域から興隆窪文化 などの新石器文化が発見されている。

これに対し、韓国の一部では、満州にあった扶余 が高句麗 や百済 などを建国したという伝承に紅山文化が関連付けられている。これまで神話や伝説でしか存在しなかった「古朝鮮 」文明と「遼河文明」を同じと考え、古朝鮮が遼河文明を通じ中国文明を築いたという説も唱えられている[8] 。

関連項目 [編集 ]

* 中国の新石器文化の一覧
* 黄河文明
* 長江文明
* 新楽遺跡
* 興隆窪文化
* 裴李崗文化
* 北辛文化
* 馬家浜文化
* 馬家窯文化
* 大汶口文化
* 仰韶文化
* 龍山文化
* 二里頭文化
* 夏

・・・・・

外部リンク [編集 ]

* 紅山文化とは - 意味・解説 : 考古用語辞典 Archeology-Words
* 牛河梁遺跡とは - 意味・解説 : 考古用語辞典 Archeology-Words
* 紅山文化部落連合体、早期国家形態の特徴に近い - 北京週報
* 紅山文化・富河文化
* 内モンゴル遺跡紀行 関口広次

カテゴリ : 先史中国 | 新石器時代 | 満州の歴史 | 考古文化


興隆窪文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

興隆窪文化(こうりゅうわぶんか、シンロンワ文化、兴隆洼文化、拼音 : xīnglóngwā wénhuà , Xinglongwa culture, 紀元前6200年 頃-紀元前5400年 頃)は、中国 の万里の長城 より北方に存在した新石器時代 の文化。その出土範囲は、現在の中華人民共和国 内モンゴル自治区 付近から遼寧省 付近にまたがっており、紅山文化 に先行する遼河 流域の文明のひとつ。

興隆窪文化は、ヒスイ などの玉製品(玦 : けつ)の出土する文化としては中国最古のものであり、なおかつ龍 の出現する文化としても中国最古のものである。また興隆窪文化の遺跡からは平底円筒状の、比較的低い温度で焼いた土器 (陶器 )が出土する[1] 。黄河文明 のほかに、先史中国の新石器文化が南の長江 流域および北の遼河 から発見されているが、興隆窪文化は遼河流域の文化の一つとして重要である。

興隆窪文化の遺跡においては、集落が計画的に築かれた痕跡も見られる。住居が列をなしている状態が3つの遺跡から発見された。またいくつかの遺跡ではひときわ大きな建物が発見されたほか、堀 に囲まれた環濠集落 も見つかっている。

興隆窪文化の標式遺跡 である興隆窪遺跡は、内モンゴル自治区赤峰市 の敖漢旗 (ごうかんき、アオハンき)の丘の南西麓にある。この遺跡は南東1.3kmの位置にある興隆窪集落から名付けられた。遺跡からは竪穴式住居 が120箇所発見され、各住居の中央にはかまど があった。興隆窪遺跡の中央には大きな建物があったほか、中国でも初期の環濠(堀)も発見されており、環濠の中は2万平方mもある大集落であった。埋葬の風習も独特のものであり、いくつかの遺骨は住居の下に埋葬されていた。興隆窪文化の他の遺跡同様、興隆窪遺跡の墳墓などからもヒスイでできた玉が発見され、ある墳墓からは玉製品のほかにブタ のつがいとともに葬られた遺骨もあった。

近年発見された興隆溝遺跡(Xinglonggou)では雑穀 があった証拠が発見されており、興隆窪文化における唯一の農業 の存在の証拠となっている。


・・・・・

脚注 [編集 ]

1. ^ 類似する平底円筒型土器が朝鮮半島 北部からアムール川 流域、ロシア沿海地方 にかけての広範囲で紀元前6千年紀 頃から紀元前2千年紀 ごろまでの間に発見されているほか、同様の土器が縄文時代 の日本の東北地方 ・北海道 からも発見されている。

外部リンク [編集 ]

* 「興隆窪文化の玉玦及び相関問題についての研究」劉國祥 中国社会科学院考古研究所副研究員
* 中国先史農耕・経済の発展と文明の起源について -黄河・長江中下流域を中心として- 張弛 (北京大学考古系)
* 東アジアと縄文時代 西田泰民
* 内モンゴル遺跡紀行 関口広次



参照:

日本語の源流をたどるサイトへようこそ

http://www.imaken.biz/index.html 日本語の源流をたどる


平成日本恐慌:脱「官僚党」:社会差異共振価値としての資本価値:自然・社会差異共振共同体へ向けて
たいへんな危機的様相である。突如、襲うのである。まともな政権を作らないと平成ファシズムとなる。とにかく、脱「自官党」(脱自民官僚党)が必要である。民主党政権になったからと言って、民主党内部にも、官僚勢力はあるのである。いわば、「民官党」である。永遠の脱構築が必要である。
 さて、今やいちばんまともなジャーナリズムはブログやHPである。マイクロ・ジャーナリズム、マイクロ・メディア、マイクロ・コミュニケーションである。マイ・メディア、マイ・コミである。

追記:無知な「酷民」が多いので、恐ろしいが、官僚どもは、利己主義者であり、私利私欲で動いていることを的確に認識する必要がある。私利私欲の自我であるから、アトム主義であり、社会の連関性(的確に言えば、社会差異共振性である。因みに、プルードンは、社会集合力を説いたが、集合力という概念は、同一性的であり、差異が欠落しているので、全体主義的である。)をまったく理解できないのである。だから、愚盲民に愚盲官僚である。愚愚国家である。
 賢者を政治家に選ぶ必要があり、「酷民」も、知恵を形成する必要がある。PS理論を知るならば、大いなる知恵を得よう。トランス・モダン・「ヴィッセン」である。

補記:社会差異共振性(社会差異共振価値)とは、重要な概念であろう。(より的確に言えば、自然/社会差異共振性【自然/社会差異共振価値】であろう。)これは、資本経済にも妥当する概念であり、この概念がないために、近代経済(ウォール・ストリート金融経済)は崩壊したのである。マルクス経済も、剰余価値を考えているが、それは、同一性集合価値であり、やはり、差異共振価値がないのである。
 資本経済が産む創造的価値とは、端的に、社会差異共振価値であり、これが、本質的な「成長」というべきものであるが、同一性価値(エントロピー)が支配している(いた)ので、社会差異共振価値(「ネゲントロピー」)を正しく評価できない(なかった)のである。
 そう、資本価値とは、端的に、社会差異共振価値である。そして、この価値は、社会共同体(自然/社会共同体)の創造・構築・保持のために使用されるのが本来的である。当然、ここでは、差異的社会共同体であり、差異価値が原基である。

参考:
民主党と経団連、3年ぶりにトップ会談

 民主党の鳩山由紀夫代表と日本経団連の御手洗冨士夫会長が6月1日に政策協議をする。民主党と経団連が年1回開く定例の意見交換会に出席するためで、両トップが顔をそろえるのは3年ぶり。民主党には次期衆院選後の政権交代を見据え、経済界との関係を強化する思惑もありそうだ。

 岡田克也幹事長や直嶋正行政調会長らも出席する。小沢一郎前代表は2006年には出席したが、07、08両年は欠席。経団連も副会長などが対応していた。民主党が打ち出した3年後の企業・団体献金廃止や、温暖化ガスを20年までに1990年比25%削減する中期目標などを巡り議論を交わす見通しだ。 (01:47)

http://www.nikkei.co.jp
/news/seiji/20090531
AT3S3000L30052009.html

日本も草の根アメリカ議会対策を行うべし

藤末健三 民主党参議院議員  5月の上旬にアメリカの国会議員招聘制度で米国首都ワシントンDCに行き、15名の米下院議員と議論をしてきた。景気対策から北朝鮮問題、核廃絶など論点は多岐にわたったが、...本文を読む



09年第1四半期は、未曾有の景気後退局面で格下げが続く《ムーディーズの業界分析》 -09/05/27

2009年年初より、急激な業績悪化を背景に日本の非金融事業会社に対するネガティブな格付けアクションが急増し、その総数は42件となった。これら格付けアクションの対象となった...全文へ



イメージ
アジアの経済・ソブリン格付け見通し、各国政府・当局の対応により差が生じる可能性も 《S&Pの業界展望》 -09/05/21

昨年以降の世界的な金融危機と経済の急減速の影響を受け、スタンダード&プアーズが格付けを付与しているアジアの16のソブリン(国または地域)のうち、日本を除く主要11ソブリンの実質国内総生産(GDP)成長率の単純平均値は...全文へ


東洋経済

求人倍率が過去最悪の0・46倍…失業率5%台に悪化
 厚生労働省が29日に発表した4月の有効求人倍率(季節調整値)は、3月より0・06ポイント減の0・46倍となり、過去最悪だった1999年5、6月の水準に並んだ。(読売新聞)
[記事全文]


有効求人倍率:4月、過去最低の0.36倍 二本松、須賀川では0.19倍 /福島
毎日新聞 - ‎22 時間前‎
福島労働局は29日、4月の県内有効求人倍率(季節調整値)が1963年の調査開始以来、過去最低記録を更新する0・36倍に落ち込んだと発表した。タイ記録になった前月を0・03ポイント下回り、全国ではワースト7位タイとなった。製造業の一部で求人が増え、非正規 ...

雇用は更に厳しく 求人倍率0・34倍
朝日新聞 - ‎22 時間前‎
働く場を巡る県内の状況が、ますます厳しさを増している。岩手労働局が29日に発表した県内の4月の有効求人倍率は0・34倍で、43年ぶりの低水準となった。とりわけ、進出企業が集中する県南地域では、工場の操業縮小や撤退が相次いで厳しさに拍車がかかっており、 ...


平成日本恐慌へ:求人倍率が過去最悪の0・46倍…失業率5%台に悪化
たいへんな危機的様相である。突如、襲うのである。まともな政権を作らないと平成ファシズムとなる。とにかく、脱「自官党」(脱自民官僚党)が必要である。民主党政権になったからと言って、民主党内部にも、官僚勢力はあるのである。いわば、「民官党」である。永遠の脱構築が必要である。
 さて、今やいちばんまともなジャーナリズムはブログやHPである。マイクロ・ジャーナリズム、マイクロ・メディア、マイクロ・コミュニケーションである。マイ・メディア、マイ・コミである。

追記:無知な「酷民」が多いので、恐ろしいが、官僚どもは、利己主義者であり、私利私欲で動いていることを的確に認識する必要がある。私利私欲の自我であるから、アトム主義であり、社会の連関性をまったく理解できないのである。だから、愚民に愚官僚である。愚愚「連合」である。
 賢者を政治家に選ぶ必要があり、「酷民」も、知恵を形成する必要がある。PS理論を知るならば、大いなる知恵を得よう。トランス・モダン・ヴィッセンである。

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求人倍率が過去最悪の0・46倍…失業率5%台に悪化
 厚生労働省が29日に発表した4月の有効求人倍率(季節調整値)は、3月より0・06ポイント減の0・46倍となり、過去最悪だった1999年5、6月の水準に並んだ。(読売新聞)
[記事全文]


有効求人倍率:4月、過去最低の0.36倍 二本松、須賀川では0.19倍 /福島
毎日新聞 - ‎22 時間前‎
福島労働局は29日、4月の県内有効求人倍率(季節調整値)が1963年の調査開始以来、過去最低記録を更新する0・36倍に落ち込んだと発表した。タイ記録になった前月を0・03ポイント下回り、全国ではワースト7位タイとなった。製造業の一部で求人が増え、非正規 ...

雇用は更に厳しく 求人倍率0・34倍
朝日新聞 - ‎22 時間前‎
働く場を巡る県内の状況が、ますます厳しさを増している。岩手労働局が29日に発表した県内の4月の有効求人倍率は0・34倍で、43年ぶりの低水準となった。とりわけ、進出企業が集中する県南地域では、工場の操業縮小や撤退が相次いで厳しさに拍車がかかっており、 ...


2009年05月30日(Sat)▲ページの先頭へ
道教復興:下丹田(肚)の復権
東洋思想とは、身体思想である。これによって、西洋思想との区別が自明である。
 しかるに、近代日本、とりわけ、戦後日本は、東洋思想を切り捨てたのである。
 伝統的日本文化は、肚の思想をもっていた。これは、道教で言えば、下丹田の思想だと思う。因みに、道教では、上丹田(頭)ー中丹田(心臓)ー下丹田(肚)の身体性を説いている。(インドのヨガでは、七つのチャクラを説いている。)
 作業仮説するが、PS理論の+iが上丹田であり、-iが下丹田であり、Media Pointが中丹田はないだろうかと思うのである。
 今日、下丹田-iが喪失されていると思う。近代合理主義=近代的自我は、これを否定してきたと考えられる。そして、現代日本人の堕落が生じたのである。

追記:時間がないので、精緻に考察できないのが残念である。私が問題にしたかったのは、「近代化」は、中丹田から上丹田へかけての意識形成を行い、下丹田を抑圧・排除しているということである。
 つまり、中丹田に関わるので、Media Pointはそれなりに存するが、しかし、下丹田が排除されているために、Media Pointが上丹田的な同一性と連続化していると思われるのである。つまり、利己主義化された中丹田になっているのである。
 下丹田を「啓蒙」化するならば、中丹田は、超越化されるようになると考えれる。そこで、下丹田の差異と上丹田の同一性が衝突するのである。しかしながら、中丹田ー下丹田の領域と中丹田ー上丹田の領域は不連続であるとして、絶対的に切断することで、この衝突は、「調和」されるようになると考えられるのである。
 思うに、下丹田とは、小宇宙・ミクロコスモスだと思う。いわゆる、神秘主義は、ここから発するだろう。
 とまれ、余裕のあるとき精緻に考察を行いたい。
 
参考:
丹田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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丹田(たんでん)は、内丹術 で仙人 になるための霊薬 仙丹を練るため気 を集め練る体内の部位。東洋医学 における関元穴 に相当し、へその下3寸(へそと恥骨稜の間を5寸とする)に位置する。

意味は気 の田 のこと。古くは『素問 』遺篇本病論に「神游上丹田」、邊韶の書『老子銘』に「存想丹田」、張仲景の『金匱要略 』にもみられる。これらは後漢 (3世紀前半)の書として伝来するが、文献学的には唐代以後のものである。内丹術では、気を材料として下丹田を炉とみなし、呼吸 をフイゴとして仙丹を練る。なお女性の場合は乳房の間の膻中穴 を炉とする。

解剖学 的には該当臓器などはないが、心身医学 の領域では、自律神経 の働きと免疫 機構の関係が注目され、太陽神経叢 が丹田に相当すると考えられている。

丹田は男性での名称で、両眉の間にある上丹田、心臓の下にある中丹田、ヘソ下3寸(約9cm)にある下丹田などがある。上丹田は、鼎、泥丸(ニルヴァーナ(涅槃 )の漢字の音訳)という。下丹田は地、臍下丹田(せいかたんでん)、気海丹田(きかいたんでん)などとも呼ばれ、単純に丹田と言った場合、下丹田のことを指していうことが多い。丹田の概念はインドのヨーガ思想を模倣したものと言われる。

関連項目 [編集 ]

* 呼吸法
* 調和道丹田呼吸法
* 腹式呼吸
* 肥田春充
* 肥田式強健術

"http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E4%B8%B9%E7%94%B0 " より作成
カテゴリ : 錬丹術 | 身体論



身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生
齋藤 孝/著 NHKブックス



◆ 日本は「腰肚(こしはら)文化」


日本の伝統的な文化は「腰肚文化」に集約されるのではないでしょうか。

腰や肚は精神的なことも含んでいますが、その基盤には腰や肚の身体感覚が実際にあるのです。

「腰をすえる」や「肚を決める」は、文化によって身につけられる身体感覚です。

腰と肚の身体感覚が強調されることにより、からだの「中心感覚」が明確にされるのです。
http://blog.livedoor.jp/longpa
/archives/11396692.html


即非論とスピノザ哲学:即非の論理と能動的観念
Kaisetsu氏が、愚樵氏の論考に対して、PS理論から説明されている。「多数零和永続確定完全情報共生ゲーム」
 ここ半月ほど、充分な余裕がないので、十全には検討できないが、愚樵氏の主張される即非の社会的意味であるが、これは、端的に、即非とは、他者を肯定することなので、本来、社会的意味をもっていると私は考えている。
 思うに、即非論とは、スピノザの能動的観念と実に似ていると思う。何故なら、スピノザの思想は、肯定の思想であるからである。
 実は、私は不連続的差異論が生まれる前は、ドゥルーズの思想から、スピノザの思想へと関心を移していたのである。後者には、差異的共同体の思想がある。ただし、以前指摘したように、連続性と不連続性があいまいである。
 とまれ、即非論と能動的観念論は、確かに似ているのである。後者はいわば「否定の否定」である。つまり、他者の肯定なのである。
 今はここで留めるが、後で、愚樵氏の論考とKaisetsu氏の論考を熟読して、思うところを述べたい。

【即非】の社会的意味

愚樵空論

参考:
バールーフ・デ・スピノザ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
スピノザ

バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632年 11月24日 - 1677年 2月21日 )はオランダ の哲学者 、神学者 。一般には、そのラテン語 名ベネディクトゥス・デ・スピノザ (Benedictus De Spinoza) で知られる。デカルト 、ライプニッツ と並ぶ合理主義哲学 者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論 と考えられてきた。また、ドイツ観念論 やフランス現代思想へ強大な影響を与えた。

彼の肖像は1970年代 に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。

生涯 [編集 ]
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アムステルダム の富裕なユダヤ人 の貿易商の家庭に生まれる。両親はポルトガル でのカトリックによるユダヤ人迫害から逃れオランダ へ移住してきたセファルディム (マラーノ )。幼少の頃より学問の才能を示し、ラビ となる訓練を受けたが、家業を手伝うために高等教育は受けなかった。

伝統から自由な宗教 観を持ち、神 を自然 の働き・ありかた全体と同一視する立場から、当時のユダヤ教 の信仰のありかたや聖典 の扱いに対して批判的な態度をとった。恐らくそのため1656年 7月27日 にアムステルダムのユダヤ人共同体から破門・追放される。追放後はハーグ に移住し、転居を繰り返しながら執筆生活を行う。1662年 にはボイル と硝石 に関して論争した。

1664年 にオランダ共和派の有力者、ヤン・デ・ウィット と親交を結ぶ。この交際はスピノザの政治関係の著作執筆に繋がっていく。この前後から代表作『エチカ 』の執筆は進められていたが、オランダの政治情勢の変化などに対応して『神学・政治論』の執筆を優先させることとなった。1670年 に匿名で『神学・政治論』を出版した。しかし、1672年 にウィットが虐殺され、この折りには、スピノザは生涯最大の動揺を示したという(「野蛮の極致(ultimi barbarorum)」とスピノザは形容した)。

1673年 にプファルツ選帝侯 からハイデルベルク大学 教授に招聘されるが、思索の自由が却って脅かされることを恐れたスピノザは、これを辞退した。こうした高い評価の一方で、1674年 には『神学・政治論』が禁書となる。翌1675年 に『エチカ』を完成させたが、出版を断念した。また、その翌年にはライプニッツ の訪問を受けたが、この二人の大哲学者は互いの思想を理解しあうには至らなかった。肺の病(肺病 や珪肺症などの説がある)を患っていたため、その翌年スヘーフェニンヘン (ハーグ近く)で44歳の短い生涯を終えた。遺骨はその後廃棄され墓は失われてしまった。

ハーグ移住後、スピノザはレンズ 磨きによって生計を立てたという伝承は有名である。

なお、スピノザは貴族の友人らから提供された年金が十分にあったとも言われるが、これはスピノザの信条に合わない。スピノザのレンズ磨きは生計のためではなく学術的な探求心によるものだというのも仮説にすぎない。

生前に出版された著作は、1663年 の『デカルトの哲学原理 』と匿名で出版された1670年 の『神学・政治論 』(Tractus Theologico-Politicus)だけである。『人間知性改善論 』、『国家論 』、『エチカ 』その他は『ヘブライ語文法綱要』などとともに、没後に遺稿集として出版された。これは部分的にスピノザ自身が出版を見合わせたためである。


思想 [編集 ]

哲学史上の意義 [編集 ]

スピノザの哲学史上の先駆者は、懐疑の果てに「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」と語ったデカルトである。これは推論の形をとってはいるが、その示すところは、思惟する私が存在するという自己意識の直覚である。懐疑において求められた確実性は、この直覚において見出される。これをスピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している(「デカルトの哲学原理」)。

その思想は初期の論考から晩年の大作『エチカ 』までほぼ一貫し、神即自然 (deus sive natura) の概念に代表される非人格的な神概念と、伝統的な自由意志の概念を退ける徹底した決定論である。この考えはキリスト教 神学者からも非難され、スピノザは無神論 者として攻撃された。

一元的汎神論や能産的自然という思想は後の哲学者に強い影響を与えた。近代ではヘーゲル が批判的ながらもスピノザに思い入れており(唯一の実体という思想を自分の絶対的な主体へ発展させた)、スピノザの思想は、無神論ではなく、むしろ神のみが存在すると主張する無世界論(Akosmismus)であると評している[1] 。フランス現代思想のドゥルーズ も、その存在論的な観点の現代性を見抜き、『スピノザ』という題名の論文を出している。

代表作『エチカ』は、副題の「幾何学 的秩序によって論証された」という形容が表しているように、なによりその中身が如実に示しているように、ユークリッド の『幾何原論』を髣髴とさせる定義・公理・定理・証明の一大体系である。それはまさにQ.E.D(「これが証明されるべき事柄であった」を示すラテン語の略)の壮大な羅列であり、哲学書としてこれ以上ないほど徹底した演繹 を試みたものであった。

この著作においてスピノザは、限られた公理および定義から出発し、まず一元的汎神論、次いで精神と身体の問題を取り上げ、後半は現実主義 的ともいえる倫理学 [2] を議論している。


存在論・認識論 [編集 ]

ここでは、形而上学的な第1部と第2部の概要を主に記述する。

デカルト は神を無限な実体[3] として世界の根底に設定し、そのもとに精神と身体(物体=延長)という二つの有限実体 を立てた。しかし、スピノザによれば、その本質に存在が属する実体は、ただ神のみである。スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む[4] 神は、自己の完全性の力によってのみ作用因である[5] ものである(自己原因)[6] 。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである[7] 。神とはすなわち自然である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神 における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。また、神の本性は絶対に無限であるため、無限に多くの属性を抱える。この場合、所産的自然としての諸々のもの(有限者、あるいは個物)は全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることのできないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになる[8] 。

スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」[9] と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は神の属性の変状である[10] 」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる[11] 人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており[12] 、この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。

倫理学 [編集 ]

スピノザは、デカルトとは異なり、自由な意志によって感情を制御する思想[13] を認めない。むしろ、スピノザの心身合一論の直接の帰結として、独立的な精神に宿る自由な意志が主体的に受動的な身体を支配する、という構図は棄却される。スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないとした上、意志というもの(理性の有)を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとしている[14] 。また観念は観念であるかぎりにおいて肯定ないし否定を包含するものとしており、自由意志 と解される表象像・言語はじつは単なる身体の運動であるとしている[15] 。

スピノザにおいては、表象的な認識に依存した受動感情(動揺する情念)を破棄するものは、必然性 を把握する理性的な認識であるとされている。われわれの外部にある事物の能力で定義されるような不十全な観念(記憶力にのみ依存する観念[16] )を去って、われわれ固有の能力にのみ依存する明瞭判然たる十全な諸観念を形成することを可能にするものは、スピノザにあっては理性的な認識である。その上、「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub aeternitatis specie)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る[17] 」ことから、人間は神への知的愛に達し、神が自己自身を認識して満足する無限な愛に参与することで最高の満足を得ることができるとスピノザは想定する。

上の議論は、個の自己保存衝動を否定しているわけではない。各々が存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来する[18] 。欲求の元は神の在りかつ働きをなす力[19] に由来する個の自己保存のコナトゥス(衝動)であることを、スピノザは認めた。しかし、その各々が部分ではなく全体と見なされるかぎり諸物は相互に調和せず、万人の万人に対する闘争 になりかねないこの不十全なコナトゥスのカオスを十全な方向へ導くため、全体としての自然(神)の必然性を理性によって認識することに自己の本質を認め、またこの認識を他者と分かち合うことが要請される。

国家論 [編集 ]

上述のエチカの議論によれば、理性はたしかに感情を統御できる。とはいえ「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である[20] 」。感情に従属する現実の人間は、闘争においては仲間を圧倒することに努め、そこで勝利した者は自己を益したより他人を害したことを誇るに至る。他人の権利を自己の権利と同様に守らねばならないことを教える宗教は、感情に対しては無力なのである。「いかなる感情もいっそう強い反対の感情に制止されるのでなければ制止されるものでない」とする立場からは、スピノザは国家の権能によって人民が保護されることが必要であるとする[21] 。そしてそのためには臣民を報償の希望ないしは刑罰への恐怖によって従属させることが必要であるとしている。たしかに精神の自由は個人の徳ではあるが、国家の徳は安全の中にのみあるからである。

統治権の属する会議体が全民衆からなるとき民主政治、若干の選民からなるとき貴族政治、一人の人間の手中にあるとき君主政治と呼ばれる。この統治権、あるいは共同の不幸を排除することを目的として立てられた国家の法律にみずから従うような理性に導かれる者ばかりではない現実においては、理性を欠いた人々に対しては外から自由を与えることが法の目的であるとしている。また言論の自由については、これを認めないことは、順法精神を失わしめ、政体を不安定にするとしている[22] 。

またスピノザの政治思想の特徴は、その現実主義にある。政治への理想を保持しつつ現実の直視を忘れないその姿勢は幾人ものオランダ共和国の政治家との交流から得られたものと考えられる。

宗教との関係 [編集 ]

スピノザの汎神論は、神 の人格 を徹底的に棄却し、理性の検証に耐えうる合理的な自然論として与えられている。スピノザは無神論者では決してなく、むしろ理神論 者として神をより理性的に論じ、人格神 については、これを民衆の理解力に適合した人間的話法の所産であるとしている[23]

キリスト教については、スピノザとしては、キリスト の復活は、信者達に対してのみその把握力に応じて示された出現に他ならないとし、またキリストが自分自身を神の宮[24] として語ったことは、「言葉は肉となった」(ヨハネ )という語句とともに、神がもっとも多くキリストの中に顕現したことを表現したものと解している[25] 。また徳 の報酬は徳そのものである[26] とする立場からは、道徳律は律法としての形式を神自身から受けているか否かにかかわらず神聖かつ有益であるとしており、神の命令に対する不本意な隷属とは対置されるところの、人間を自由にするものとしての神に対する愛 を推奨している。また神をその正義 の行使と隣人愛によって尊敬するという意味でのキリストの精神を持つかぎり、何人であっても救われると主張している[27] 。


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関連項目 [編集 ]
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、バールーフ・デ・スピノザ に関連するマルチメディアがあります。
ウィキクォート
ウィキクォート にスピノザ に関する引用句集があります。

* 我思う、ゆえに我あり
* 汎神論
* 合理主義哲学
* 神
* 社会契約

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カテゴリ : 出典を必要とする記事 | オランダ史の人物 | オランダの哲学者 | 啓蒙思想家 | ユダヤ教改革派 | 破門 | 汎神論 | 17世紀の学者 | ユダヤ系オランダ人 | 1632年生 | 1677年没 | 紙幣の人物 | アムステルダム


2009年05月28日(Thu)▲ページの先頭へ
愚樵氏の即非社会論:Kaisetsu氏の即非的自在社会論:トランス・モダン日本郷国共同体
愚樵氏による即非社会論ないしは即非共同体論である。Kaisetsu氏がそれに関連して重要な考察を行っている。とまれ、即非という鈴木大拙氏の大天才的な概念が今日(トランス・モダン時代)、浮き彫りになってきたのは、きわめて意義深い。
 因みに、私は70年代後半か80年代前半に、鈴木大拙氏の仏教論を読み、その簡潔ながら、深く明晰な文化論に納得した。即ち、西洋文化は二元論であり、東洋文化は「一元論」、即ち、即非論であるということである。これほど、西洋文化と東洋文化の差異を明快に説いた論は空前絶後であろう。
 とまれ、その後の私の西洋文化批判の原点になった。また、名著『禅と日本文化』を遅ればせながら読んで、自国文化の無知を強く恥じ悔やんだものであった。
 これから余裕がないときが多いので、十分論考することができないが、愚樵氏やKaisetsu氏の即非社会論は、よく読んでいないが、直観でわかるのである。というか、以前、愚樵氏の自由と自在の相違に関する論考を読んでいるので、直観できるのである。
 日本人の精神には、いわば、即非魂があるのである。おそらく、これを、本来の「和」の精神と呼んでいいと思われるのである。そして、これは、「神話」=神伝的には、日本・東洋大女神文化の精神である。ここから、トランス・モダン共同体が創出されると考えられるのである。

補記:補足すると、日本の「近代化」は、近代合理主義・近代的自我・唯物論の下に為されて、とりわけ、戦後において、即非魂が抑圧されてきたと考えられる。
 また、日本の「近代化」とは、絶対主義的体制を強くもったために、即非魂が、独立・自立せずに、集団主義に同化されていると考えられる。
 結局、日本社会の大掃除のためには、不連続的差異論で述べた、精神の同一性からの絶対的切断が大前提である。絶対的差異化である。

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【即非】の社会へ
2009-05-26
【即非】という言葉をご存知でしょうか?

続きを読む »

http://gushou.blog51.fc2
.com/blog-entry-246.html


愚樵空論


参照:

愚樵氏の御意見を参考に名称補正→即非的自在社会
2009.05.27 Wednesday
愚樵氏の次のコラムを拝見して、

 コモンズ リバタリア二ズム(リベラル・コミュニズム)の日本語訳(アジア的な発想から)は、「即非的自在主義」という名称なのだろうと考えた。
http://blog.kaisetsu.org
?cid=28821&page=1

即非的自在運動としての不買運動
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


参考:
鈴木大拙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〔ていたろう〕、英字:D.T.Suzuki、1870年 11月11日 (明治 3年10月18日 ) - 1966年 7月12日 ) は、禅 についての著作を英語 で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者 (文学博士 )である。大拙は居士号 。石川県 金沢市 本多町に、旧金沢藩 藩医 の四男として生まれる。1959年日本学士院会員 、文化勲章 。

100冊ある著書のうち、23冊が英語で書かれている。梅原猛 曰く、「近代 日本最大の仏教者」。同郷の西田幾多郎 、山本良吉 、藤岡作太郎 とは石川県立専門学校(後の第四高等学校 )以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は加賀の三太郎と称された。

来歴 [編集 ]
鈴木大拙、ベアトリスの墓
金沢市 野田山墓地

第四高等中学校 を退学後英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。東京専門学校(現早稲田大学 )を経て、東京帝国大学 選科に学び、在学中に鎌倉 円覚寺 の今北洪川 、釈宗演 に参禅 した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していたベアトリス・レイン と出会う。釈宗演より大拙の居士 号を受ける(「大巧は拙なるに似たり」)。

1897年に釈宗演の選を受け、米国 に渡り、東洋学者ポール・ケーラス の経営する出版社オープン・コート社で東洋学 関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論 』(1900年)や『大乗仏教概論 』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、禅 文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。

1909年に帰国し、円覚寺の正伝庵に住む。1911年にベアトリスと結婚。1921年に大谷大学 教授に就任して、京都に転居した。同年、同大学内に東方仏教徒協会 を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト 』(Eastern Buddhist )を創刊した(現在も同協会より刊行中)。

晩年は鎌倉に戻り、自らが1941年に創設した東慶寺 の松ヶ岡文庫 で研究生活を行った。1949年には、ハワイ大学 で開催された第2回東西哲学者会議 に参加し、中国の胡適 と禅研究法に関して討論を行い、また、日本学士院 会員となり、文化勲章 を受章した。1950年より1958年の間は、アメリカに住み、ハワイ大学 、エール大学 、ハーバード大学 、プリンストン大学 などで仏教思想に関する講義を行なった。鈴木はカール・グスタフ・ユング とも親交があり、ユングの主催したエラノス会議 に出席した。またエマヌエル・スヴェーデンボリ などヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。

鈴木が没した時、ニュースを読み上げる宿直明けのアナウンサーが原稿に禅と書いてあるのを蝉 と読み違えて「蝉の研究で有名な鈴木大拙氏が亡くなりました。著書には英文による『蝉と日本文化』…」と読み上げ、進退伺いを出したが慰留された[1] (なお余談だが、彼は自著の著者紹介で「”褌 ”の研究家」と誤植されたこともある)。墓所は金沢市 野田山墓地 の鈴木家墓所と鎌倉東慶寺 境内にあり、すぐ近くに岩波書店 初代店主、岩波茂雄 の墓と西田幾多郎 の墓があり、毎年命日である7月12日 には大拙忌法要が行われる。

没後鈴木学術財団 が設立される。

年表 [編集 ]

* 1887年 石川県専門学校 初等中学科卒業
* 1889年 第四高等中学校 (現金沢大学 )中退(予科卒業)
* 1889年 飯田町小学校教師(英語担当)
* 1890年 美川小学校訓導 (1891年まで)
* 1891年 東京専門学校(現早稲田大学 )退学
* 1892年 帝国大学 (現東京大学 )文科大学哲学選科入学
* 1895年 同修了
* 1909年 学習院 講師(英語担当)
* 1909年 東京帝国大学 (現東京大学 )文科大学講師(1916年まで)
* 1910年 学習院 教授(1921年まで)
* 1921年 大谷大学 教授(1960年まで)
* 1930年 英語論文で文学博士号取得
* 1934年 大谷大学教学研究所東亜教学部部長
* 1950年代 コロンビア大学 客員教授

著書 [編集 ]

* 『鈴木大拙禅選集』全11巻別巻1 (春秋社 ) 
* 『鈴木大拙全集 増補新版』全40巻 (岩波書店 、1999年−2003年)
o 『禅思想史研究』 全4冊
o 『禅と日本文化』 (岩波新書 、正・続)
o 『日本的霊性』
o 『無心ということ』
o 『一禅者の思索』
o 『禅と精神分析』
o 『佛教の大意』
* 坂本弘 日本語訳『禅学への道』(アートデイズ 、2003年) ISBN 4861190126
* 重松宗育 監修・日本語訳『大拙 禅を語る』(アートデイズ ・CDブック、2006年) ISBN 4861190665

CD [編集 ]

* 『CD版 鈴木大拙講演選集<全6巻> 禅者のことば』(アートデイズ )
* 『禅と科学』、『最も東洋的なるもの』、『禅との出会い―私の自叙伝』

鈴木大拙講演、新潮カセット&CD (新潮社 )、新版2007年

参考文献 [編集 ]

* 志村武 『鈴木大拙随聞記』 日本放送出版協会 、1967年。
* 秋月龍a『鈴木大拙の言葉と思想』 講談社現代新書 、1967年。
o 『世界の禅者 鈴木大拙の生涯』 同時代ライブラリー:岩波書店、1992年。
o 『鈴木大拙』 講談社学術文庫 、2004年。
* 上田閑照 、岡村美穂子 編 『鈴木大拙とは誰か』 岩波現代文庫 、2002年
o 増補新版が、灯影撰書で出された 灯影舎、2008年
o また『相貌と風貌 鈴木大拙写真集』 禅文化研究所 を刊行、2005年。
* 松ケ岡文庫編 『鈴木大拙 没後40年 KAWADE道の手帖』河出書房新社 、2006年
* 『禅 鈴木大拙−没後40年−』 北国新聞社 編集局編、時鐘舎新書 2006年
* 森清 『大拙と幾多郎』 朝日選書:朝日新聞出版 、1991年
o 『西田幾多郎 宛鈴木大拙書簡 億劫相別れて須臾も離れず』岩波書店 2004年
* 大熊玄 「鈴木大拙の言葉」朝文社 2007年

脚注 [編集 ]

1. ^ 柴田南雄 『わが音楽 わが人生』p.279(岩波書店 、1995年 )

外部リンク [編集 ]

* 金沢市立ふるさと偉人館
* 松岡山東慶寺
* The Eastern Buddhist Society
* 近代デジタルライブラリー - 鈴木の書物のいくつかはここに公開されている。
* 鈴木大拙、京都大学文学部、日本哲学史研究室

カテゴリ : 仏教学者 | 日本学士院会員 | 文化勲章受章者 | 禅 | 居士 | 1870年生 | 1966年没 | 石川県出身の人物 | アメリカの仏教


参考2:以下、鈴木大拙の「哲学」に関する鋭敏な洞察力をもった文章なので、傍証として、全文転載させていただく。

鈴木大拙師の思想に学ぶ

−東洋と西洋の違い−



世界的な仏教学者で禅の研究者とし名高い鈴木大拙(1870−1966) という人物がいる。その人の1963年の講演テープを聴いた。師は27才でアメリカに渡り、東洋思想の翻訳と講義を通じて、禅の思想を始めとする東洋の考え方を欧米各国に広めた大人物である。その話し出しが実に面白い。私は耳が聞こえないので、何を紹介されたか、分からないがとにかく話しましょう、と言って講演を始められた。

石川県の医者の家に生まれた師だが、昔と今とでは、全くと言っていいほど、価値観が違う世界だったと述懐する。大体現金というものを見たことがなかった、と言うのだ。何でも暮れになり、これこれと言って、「付けの払いが来て」その詳細などは、余りよく分からない。今で考えれば、いい加減のように見えるが、それで社会がまわっていた、と言われた。要するに昔の日本社会は、帳簿に付け、年末にまとめて払うような悠長な社会だったのだ。この社会がどうして変わったのかは分からないが、いつの間にか、一瞬ごとに現金が飛び交う今日のような殺伐とした社会になった。

師は、西洋と東洋の考え方の違いを、言葉の違いを持って説明する。例えば、英語では、木がある。というのを「There is a tree」というが、「そこに一本の木がある」、つまりゼアという言葉によって、そこと木とを分割し、対象物を二元的に表現する。しかし日本語では、「木がある」で十分に意味が通じる。

芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」も英訳すると非常に厳密に、そのカエルが単数なのか、複数なのかを厳密に説明しなければならない。しかし17文字という限られた俳句という韻文のなかでは、そんなことを言っていたら、ルール違反どころか味もそっけもなくなってしまう。このように言葉ひとつをとっても、西洋では、つねに何かと何かを厳密に対置させて表現することが慣習となってしまっているのである。

自然という言葉がある。西洋ではギリシャ語で「Physis」、ラテン語では「Natutra」と言いどちらも、「生まれる」という動詞からから派生した名詞であって、自然と人間、神をも包括するような大きな言葉だった。そしてそれは同時に「自らの内的な力によって生まれそのようになる」、というような意味を持つ深淵な言葉であった。だからよくよく考えて見れば、今日の東洋思想にある自然観念と近い考え方をしていたことになる。

ところが西洋では、中世になり、キリスト教の神の概念が隆盛になり、自然そのものも神の創造物とされるに至った。そしていつの間にか、自然は、万物の創造主たる神の下に従属する立場に追いやられてしまったことになった。それ以来、西洋では、自然は人間同様、神に従属する立場となり、人間がそれを征服し、造り替えてしまっても構わないような対象と化してしまったのである。

東洋では、そもそも神と自然と人間は、対立するような概念ではなく、本来一体なものだ。仏教哲学では「自然」を「じねん」と読み、「おのずから、なるべきものになる」というような意味と考えられている。また老子や荘子の説く道教では、老子二十五章に「道は自然に法る」とあるように、「自然」は「道」とほぼ同義の言葉となり、森羅万象の営みを言い表す言葉となった。しかもさらに、それは単なる「道」あるいは「自然」ではなく、存在としての人間がその一体になるべきものとして、「道」や「自然」というものとなっていったのである。

さて話は佳境に入る。何であのような野蛮な戦争に突入したのか。第二次大戦の原因について、師は深く思いを馳せ、このように言われた。
「あれはきっと、ドイツ式の政治思想を受け入れたせいでしょうな」と。

これは非常に注目すべき言葉であると思う。何故ならば、明治憲法の下敷きは、ドイツのワイマール憲法であり、ドイツ流の富国強兵の政治思想の末路として、ドイツと日本は、いみじくも第二次大戦で、盟友関係を結び、両国国民に多大な犠牲と深い傷をもたらしたのである。とすれば我々日本人は、この戦争のもたらした原因の徹底的な反省を踏まえて出発しなければならなかったはずだ。しかし私には、どうしても日本人があの戦争の原因としての自らの思想を考え尽くして出発したとは思えないのである。

言うならば戦後は、ドイツ流の政治思想からアメリカ流(アングロサクソン流)の考え方に、すっと変わっただけだ。だからまたこの付けは必ず訪れるのである。鈴木大拙師は、西洋流の思考だけでは世界は立ち行かなくなる時が必ず来る。だから西洋の人間に向けて、東洋の思想というものを伝えて行かなければならない、と指摘する。私もまさにその通りであると思う。師は、東洋思想の深淵な教えを読み解くうちに、西洋思想の限界を感じたのである。そこに東洋思想が調和しなければ、世界は滅びてしまうであろう?と。

確かに21世紀になった現代の世界を見れば、生産力と合理主義に貫かれた西洋的な文明は、危機に瀕しているとしか言えない。だからこそ、自然ひとつをとっても、「自然を人間のために征服し、造り替えていく」、などという風には考えずに、おのずからそこにある自然に従い、調和し、人間と一体となって生きようとする、東洋的な思考法が大切なのである。

禅の思想を通じ、西洋人に東洋のあり方を説いた師は、1966年、96才の天寿を全うし天に召された。我々日本人は、日本の国としての限界が叫ばれる昨今、この鈴木大拙師の言葉を再度噛みしめてみるべきだろう。そこには、間違いなく、この閉塞的状況を打破する重要なヒントが眠っている。佐藤

この文を書いた後、こんな歌が浮かんだ。

自然(じねん)なる言葉そのまま自(おの)ずから束稲山に初陽昇り来

http://www.st.rim.or.jp
/~success/daisetu_ye.html

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2009年05月26日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:地球と月の関係:地球と太陽の関係:地球と諸惑星の関係:太陽系と銀河系の関係:等々
検討問題:地球と月の関係:地球と太陽の関係:地球と諸惑星の関係:太陽系と銀河系の関係:等々
テーマ:検討問題
この問題は、緻密に検討する必要があるが、今は余裕がないので、ざっと思いつきを述べる。
 結局、ずいぶん以前に試行錯誤したことであるが、いったい、太陽系の「力学」は何かということである。ニュートンの万有引力で済む問題ではないのである。つまり、今ある太陽系を形成した「力学」を知りたいのである。
 今思いつきを言えば、銀河系の根本力学は、PS理論から言えば、+iと-iの共振力学である。つまり、Media Pointが銀河系の核である。そして、⇒+1が光であり、それに対する-1がダークマターとしたい。だから、ダークエネルギーは、差異共振エネルギー=超越エネルギーである。これは以前指摘したことである。
 今思ったのは、⇒+1が太陽であり、-1が月であり、Media Pointが地球ではないのかということである。もっとも、これは相対的である。
 先のガイアの問題に関連して言えば、⇒+1がガイアであるから、当然、⇒+1が地球であり、Media Pointが太陽であり、-1が月となるだろう。
 そう、-1の月とは意味深長であろう。これが重力を意味するのではないか。⇒+1は確かに物質の方向ではあるが、本来は、光の生成を意味する。物質は、+1であるから、それは、これまでの検討から、-1とするべきである。
 そうすると、光が⇒+1であり、物質は、+1且つ-1である。つまり、±1である。
 とまれ、月は太陽の対極である。太陽を精神とすれば、月は身体である。そう、これが重要であろう。つまり、太陽現象に対して、月現象が対極的に生起するということだと思う。地球はその中間と考えられる。
 ということで、まったく思いつきであるが、光は⇒+1、重力は、-1ないしは、⇒-1であると思われる。
 だから、先に空想したが、地上における「天」=上部とは、やはり、+1の方向であり、「地」=下部とは、-1の方向ではないだろうか。
 即ち、植物は、+1の方向へ発芽するのであり、-1の方向へ根を伸ばすのである。
 後で再検討したい。
 
参照:
万有引力
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万有引力(ばんゆういんりょく、universal gravitation)は、単に重力 ともいい、質量 を持つ物質 ・エネルギー などの間に働く作用 。 アイザック・ニュートン が発見した自然界に存在する基本的な力である。 電磁気力では引力と斥力があるのに対し、重力(万有引力)では引力しか存在しない。

重力 と呼ぶ場合には、地球上で物体が落下する力を直接指すこともある。物理用語としての重力 (または重力相互作用)の正体は、アルベルト・アインシュタイン の一般相対性理論 によって、質量を持つ物体が引き起こす時空の歪みであると説明された。これに対して、万有引力という用語は、ニュートンの定式化した重力の意味で用いられる傾向にある。

ニュートンの万有引力の法則は、自然哲学の数学的諸原理 (プリンキピア)においてニュートンが説明している。
ニュートン力学と重力 [編集 ]

ニュートン は、太陽を公転する地球の運動や木星の衛星の運動を統一して説明することを試み、ケプラーの法則 に、運動方程式 を適用することで、万有引力の法則(逆2乗の法則 )を発見した。これは、『2つの物体の間には、物体の質量に比例し、2物体間の距離の2乗に反比例する引力が作用する』という法則で、力そのものは、瞬時すなわち無限大 の速度で伝わると考えた。式で表すと、万有引力の大きさFは、物体の質量をM,m、物体間の距離 をrとして、

F= G \frac{M m}{r^2}

となる。Gは万有引力定数 と呼ばれる比例定数で、

G = 6.67259 \times 10^{-11} \mbox{m}^3 \cdot \mbox{s}^{-2} \cdot \mbox{kg}^{-1}

である。この式は、すべての物体の間で成立すると考えられるので、木から落ちるリンゴにも適用できる。

地球 の質量をM、リンゴの質量をm、地球の半径をRとすれば、万有引力の大きさは、 F= G \frac{M m}{R^2} であり、リンゴの運動方程式は、加速度をgとして、 mg= G \frac{M m}{R^2} となる。すなわち、地球重力による加速度(重力加速度 )は

g=\frac{G M}{R^2}

となり、すべての物質について同じ値になる。

地球表面では重力加速度は約9.8m/s2であり、地球の半径は約6400kmであるので、上記の式から地球の質量を

M=\frac{g R^2}{G} \simeq 6 \times 10^{24} kg

のように求めることができる。同様に、他の惑星上での重力加速度も求めることができる。

ちなみにニュートンによる「万有引力の法則の発見」は「重力の発見」と解釈される例が多いが、これは間違った解釈である。「リンゴが木から落ちるのを見て、ニュートンは万有引力を発見した」という巷間に流布している逸話が、この誤解を広める原因になっていると思われる。地球上にある物体を地球が引っ張る力としての「重力」は、ニュートンの時代には既知の事実であった。ニュートンの業績は、太陽系の惑星の運動と、地球上の物が落下する現象が、同じ法則によって支配されている事を提示したことである。つまり重力というのは単に地球が地球上の物体を引く力に限ったものではなく、惑星・恒星を含めた全ての質量を有する物体間に存在する法則に基づくというのがニュートンの業績であり、「万有引力」とはそれを意味する言葉である。またニュートン以前の科学ではこのような重力や他の自然現象がどのような目的や原因で存在するのかという問題に重点がおかれていたがニュートンは主著プリンキピアで "Hypotheses non fingo"(仮説により偽らず)と宣言し、あくまで観測できる物事の因果関係を示すという新しい科学方法論を提唱。これが力学、物理学しいては近代科学の基礎となる。ちなみに万有引力の原因は2008年においていまだに解明(ニュートンの設立した科学方法論に基づけば「観測」)されていない。

一般相対性理論と重力 [編集 ]

アインシュタイン は、光速度に近い場合の力学として、1905年に特殊相対性理論 を発表した後、加速度運動を含めた相対性理論の構築に取り掛かかった。そして重力場を時空の幾何学として取り扱う方法を模索し、1916年に一般相対性理論 を発表した。

アインシュタインの重力場の方程式(アインシュタイン方程式 )では、万有引力はもはやニュートン力学 的な力 ではなく、重力場 という時空 の歪みであると説明される。また、重力の作用は、瞬時ではなく、光速度 で伝えられる。

重力が時空の歪みであるという事は、光の軌道もまた重力によって曲がる事を意味する。ニュートンの万有引力の法則では、質量を持った物体間の力であるとされるので、質量を持たない物質には万有引力は存在しない事となる。これはアーサー・エディントン による観測で実証される。

一般相対性理論は、非常に強い重力が働く場を記述する。太陽系であれば、ニュートン力学に若干の補正項が加わる程度なので、ニュートン力学はその意味で近似的に正しいと考えて差し障りない。例えば前述の光の軌道の歪みについても、太陽の近傍においてようやく観測され得るものである。

アインシュタイン方程式は、通常の物理の方程式と同様、時間反転に対して対称なので、宇宙全体に適用すると、重力の影響で収縮宇宙の解と共に、膨張宇宙の解が得られる。

一般相対性理論の発表当時は、ハッブル による膨張宇宙 の発見前で、アインシュタインは「宇宙 は静的で安定している」と考えていた。自身の方程式が、動的な宇宙を予言したため、アインシュタインは万有引力に拮抗する万有斥力 があると想定し、重力場の方程式に宇宙項 を加えることで、静的な解が存在できるように重力場の方程式を修正した。後に彼は宇宙項を「生涯最大の過ち」と悔いるが、宇宙項のアイデアは現在の宇宙論では、宇宙のインフレーション や宇宙の加速膨張 を説明するものとして復活していると言える。

詳しくは、一般相対性理論 の項を参照されたい。

素粒子物理学と重力 [編集 ]

素粒子物理学 では、自然界に存在する四つの基本的な相互作用 のひとつとして、素粒子 間に働く重力相互作用とみなされ、重力子 (グラヴィトン)という素粒子により媒介するとみなされるが、素粒子としての重力子は現在のところ未発見である。素粒子間の重力相互作用は無視できるほど小さいが、素粒子と地球との間の重力を考慮する必要があることもある。

量子重力 [編集 ]

近年では、量子力学 と一般相対性理論の結合、重力の量子化 が試みられ、量子重力 と呼ばれている。格子重力 などさまざまな試みがあるが、実現は困難である。量子重力を宇宙論 に適用する試みは、量子宇宙論 と呼ばれる。

関連項目 [編集 ]

* 万有引力定数
* 重力
* 一般相対性理論 -- アインシュタイン方程式 -- 重力波
* 重力を説明する古典力学的理論

カテゴリ : 重力 | 力 (自然科学) | 相対性理論 | 力学


2009年05月24日(Sun)▲ページの先頭へ
ウォルター・クレイン:ネプチューンの馬
画像は以下を参照されたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10267242587.html


File:Walter Crane 001.jpg

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http://commons.wikimedia.org
/wiki/File:Walter_Crane_001.jpg

何の音楽が忘れたが、以上の絵の一部がCDのジャケットになっていた。初めて見る絵であった。以下の説明では、リヴァプール出身(ビートルズと同じ)とある。私はケルト系ではないかと思い、調べたのである。今、英語版で調べてみる。おそらく、ケルト系、即ち、アイルランド系かスコットランド系かウェールズ系である。
 残念ながら、英語版には記されていない。とまれ、この絵はギリシア神話に題材をとっているが、波と馬の動きがダイナミックに、かつ、繊細に捉えられている、独創的な絵である。
 ウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツに参加し、また、多色刷り版画(浮世絵?)の影響を受けたということである。確かに、東洋的である。ほとんど知られていないのではないだろうか。

ウォルター・クレイン
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ウォルター・クレーン 1886年頃

ウォルター・クレイン(Walter Crane, 1845年 8月15日 - 1915年 3月14日 )は、イギリス の芸術家である。絵画、イラストレーション、児童書、陶磁器タイル、その他多くの装飾芸術を制作し、アーツ・アンド・クラフツ に深く関わった。

前半生と影響 [編集 ]
Princess Belle-Etoile

ウォルター・クレインは細密肖像画家のトーマス・クレインの次男としてリヴァプール に生まれた。早くからラファエル前派 の影響を受けており、ジョン・ラスキン の信望者であった。13歳の時に著名な彫版師ウィリアム・ジェームズ・リントンに弟子入りし、3年間工房で働いた。14歳のときにはテニスン の『シャロットの姫』のカラーページを手がけ師の認可を得ている。この工房で彼は同時代のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 、ジョン・エヴァレット・ミレー 、ジョン・テニエル や、イタリア・ルネッサンス美術の作品などを彫版し経験を積んだが、より深い影響を受けたのは大英博物館 に収蔵されていたエルギン・マーブル であった。また彼は浮世絵 を研究し、その技法を子供向けのトイ・ブックスに生かし新たな流行を生み出した。
絵画とイラストレーション [編集 ]

1864年から1876年にかけて、クレインは彫版師エドムンド・エヴァンズと組んで3色刷りのトイ・ブックス(童謡やおとぎ話を扱った児童向け絵本)を多数制作し大きな成功を収めた。とくに『カエルの王子さま』(1874年)から始まるシリーズには、画面構成や大胆な平塗りなど、浮世絵の影響が強く現れている。また1876年にはケイト・グリーナウェイ やジョン・テニエル らと共同で挿絵本を制作している。
『カエルの王子さま』1874年

挿絵画家としてのクレインは、画面上で文章と絵・装飾とを調和させることに腐心し、『幼子のオペラ』(1877年)『3つのRの物語』(1886 年)などの作品はその後の児童向け絵本のデザインの基礎となった。このような挿絵本のうち、友人であるジョン・ワイズの『5月1日:妖精の仮面劇』(1881年)ではグラビア印刷の技術が使われ、クレインの手がけた本の中でもひときわ美しい物となっている。またグリムの『家庭のメルヘン』(1882 年)で使用されたガチョウ番の娘の絵は後にウィリアム・モリス がタペストリー に仕上げ、現在はヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に収蔵されている。このほかワイルドの『幸福の王子、その他のお話』(1888年)、ホーソーンの『ワンダーブック』(1892年)、スペンサーの『妖精の女王』(1894年-1896年)など、クレインは数多くの挿絵本を手がけた。

社会主義運動との関わり [編集 ]

1880年代よりクレインはウィリアム・モリス の影響から社会主義運動に関わり、彼とともに社会のすべての階層にデザインを浸透させようとした。この観点から彼は織物 や壁紙 、室内装飾などを手がけることに没頭し、また『ジャスティス』や『コモン・ウィール』などの社会主義者の組織のために長期にわたり漫画を寄稿したほか、美術家同盟(Art Workers Guild)や自身が設立したアーツ・アンド・クラフツ展示協会のために精力的に活動した。

クレインは、「装飾芸術家はできるだけ自然から離れて、自身の経験によって選び抜かれた形態を学ぶべきだ」という考えのもと、レリーフ 、タイル 、ステンドグラス 、陶器 、壁紙 、織物 などで数多くのデザインを手がけた。彼の作品の展示会は1891年にボンド・ストリートで行われたものをはじめ、クレイン自身によってアメリカでも開催され、のちにドイツ 、オーストリア およびスカンジナビア でも催された。また1898年から1899年にかけて刊行されたかれの講義録は以後40年の間読まれ続け、当時の芸術家に多大な影響を及ぼした。ジョージ・フレデリック・ワッツ による有名なクレインの肖像画は1893年にノイエ・ギャラリーで展示されている。

外部リンク [編集 ]
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、ウォルター・クレイン に関連するマルチメディアがあります。

* SurLaLune Fairy Tale Pages: Fairy Tale Illustrations of Walter Crane
* Walter Crane: Artist & Socialist - From the Working Class Movement Library Website
* プロジェクト・グーテンベルク における Walter Craneの作品

* この記述には、パブリックドメイン の百科事典『ブリタニカ百科事典第11版 』本文を含む。

カテゴリ : イギリスの芸術家 | イギリスのイラストレーター | 1845年生 | 1915年没 | ブリタニカ百科事典第11版


検討問題又は空想:ガイアとウラノス:地と天
まったくの思いつきを述べるに留める。
 先に、ガイアは⇒+1と言った。これは、光の発生と同じである。問題は、ガイアからウラノス(天)が生まれたことである。これを今は、ゼロや-1の方向とする。つまり、+1の方向が重力であり、ゼロや-1の方向が反重力の方向である。
 思うに、⇒+1との平衡のために、それを打ち消す作用が生じると考えよう。その、いわば、逆作用が、ウラノスを産んだとするのである。+1⇒ゼロないしは+1⇒-1を仮定したい。
 そうすると、地は実軸プラスの方向となり、天はゼロの位置か実軸マイナスの方向となる。
 先に、虚軸において天と地を考えたが、ここでは、実軸において地と天が生じる。
 仮定を続けると、虚軸とは、水平の方向にあることになる。そうすると、地球ならば、地表に虚軸があることになる。
 また、仮定すると、左脳は+iに、右脳は-iとすると、虚軸は左右方向にあることになる? そうならば、右方向が+iで、左方向が-iとなる。
 では、前後はどうなるのか。

      -1 up
      |    front
      |    /
      |  /
      | /
      |/
-i・・・・・・・・・・・・・+i
left    /|        right
    / |
   /  |
  /   |
  back   |
      +1 down


 不体裁な図であるが、ガウス平面に垂直な軸(Z軸ないしは第3軸)が前後となるが、ガウス平面から見たら、Z軸のプラスの方向が背面となり、マイナスの方向が正面となる。正面、前がマイナス、背面、後がプラスというのは面白い。
 思いつきでは、正面は過去であり、背面は未来ではないのか。過ぎ去った時間であり、到来する時間である。背後に未来があるというのは面白い。
 とまれ、以上は空想である。 


2009年05月23日(Sat)▲ページの先頭へ
天と地:精神と身体:ガイアとMedia Point又は⇒+1:処女生殖と国之常立神
学生のとき、ベーム指揮のウィーン・フィルの『田園交響曲』を何度も聴いたものだが、第2楽章の川の優美な流れの表現を堪能した。
 今、30年ぶりくらいに聴いているが、やはり、ベームの名演の随一かもしれない(1971年の録音だから、今から40年弱前の演奏である。先にも述べたが、20世紀の第四四半世紀は近代末期の大不毛時代と言えるが、兌換通貨体制の崩壊と結びついている。つまり、同一性価値=唯物論金融経済体制が生まれて、精神・差異価値を破壊したからである。)。とまれ、ウィーン・フィルは、この頃、実に芳醇な響きを出していた。(リマスター盤は音の解像度がよくなり、なにか原始・元素的な凄みがある。また、神々しい響きでもある。)
 最近のウィーン・フィルはあまり感じないが、ウィーン・フィルの音には、天地がストンと貫通するような趣があるのである。垂直に音が出る感じである。天と地とが貫徹するような響きである。
 私はこの天地感性とそれと関連して、天と地の意味をPS理論から再検討したいのである。
 やはり、端的に、天地感性(天地精神)とは、Media Pointの虚軸の極性力学(量子力学)に拠ると考えられる。(つまり、ウィーン・フィルの音とは東洋・アジア的ということである。)
 Media Pointにおいて、+iと-iが差異共鳴したとき、天と地とが「一気通貫」すると考えられる。この差異共振様相において、つまり、差異共振エネルゲイアにおいて、+iは-iと即非様態にあり、+iでありつつ、-iであるし、また融合様態でもあるというような様相である。
 このいわば、天地共振モードにおいて、天への志向と同時に、地への志向が発生するし、また、両者同時生起すると考えられる。言い換えると、天への志向は同時に、地への志向であるし、天への志向でもないし、地への志向でもない。
 ここで言う、天と地は当然、精神的な性質である。天はわかりやすいが、地もここでは、物質的な地ではなく、精神的な、霊的な地である。だから、精神的身体と言ってもいいだろう。⇒+1である。問題は⇒である。ここにおいて、天地差異共鳴モードが生じるが、+1を分離すると、同一性=物質的に、天と地の分離が起きるだろう。言い換えると、父権的天地分離である。
 大地の成分である鉱物と言った時、それは、+1である。しかしながら、大地でさえ、本来は、⇒+1であるから、精神的大地である(地霊genius loci)。
 とういうことで、天と地と言う場合、Media Pointにおける様相であるから、正しくは、精神的天と精神的地ということになるのである。あるいは、差異的天であり、差異的地である。一言で言うと、精神的天地、差異的天地、ないしは、精神的宇宙、差異的宇宙ということになる。
 さて、ここで先に提起したガイア、光、重力の問題を考えよう。いったいガイアとは何か。それは端的に、精神的大地であるだろう。つまり、Media Pointにおける地への志向性である。-iの傾斜である。
 と書いたものの、そうではないという考えが浮かんだ。ガイアは「コーラ」、容れ物である。いわば、パンドラである。ものを生み出す大元子宮と考えられる。
 つまり、ガイアとは、Media Pointそのものであるということになる。ならば、どうして、古代ギリシア人は大地の女神と考えたのか。Media Pointを大地の女神と考える根拠は何か。
 思うに、⇒+1の+1は物質であり、鉱物である。そして、これが、物質的大地ではある。しかしながら、古代ギリシア人は物質を生み出す容器として大地を考えていたに違いないのである。それが、Media Pointなのである。だから、ガイアとは端的に、⇒+1のことと考えられる。(追記:ここは微妙な箇所である。即ち、ガイアを⇒とするのか、⇒+1とするのか。しかし、実質的には、両者はほとんど区別されないだろう。後で整理したい。)
 そして、ガイアがウラノス(天)を産み、また、子のウラノスと交わり、ティーターン神族を産んだのである。これは、最初は処女生殖(単性生殖)である。
 結局、ガイアとは、宇宙(コスモス)的なMedia Pointと言えよう。Cosmic Media Pointである。(ガイアはコスモスである。)
 であるから、以前述べたように、ガイアはやはり、大元母神である。創造の原点である。
 ということで、先に、ガイアは-iの傾斜ではないのかという作業仮説は廃棄されることになる。そして、当然、ガイアとは古代オリエントの大女神と通じるのである。古代ギリシアの根源には、東洋・アジア女神文化があるのである。
 最後に、処女神アテナと聖母マリアであるが、それは、処女生殖のガイアの系譜と言えよう。Media Pointの系譜であり、日本では、天之御中主神ないしは国之常立神であろう。後者の方がよりガイア的であろう。独神(性別のない神)というのが、処女生殖と結びつく。
 
ベートーヴェン:交響曲第6番 / シューベルト:交響曲第5番
~ ベーム(カール) (アーティスト, 指揮), ベートーヴェン (作曲), シューベルト (作曲), ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (演奏)

参考:
ガイア
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曖昧さ回避 その他の用法についてはガイア (曖昧さ回避) をご覧ください。

ガイア(古代ギリシア語 : Γαῖα, Gaĩa)は、ギリシア神話 に登場する大地 の女神 である。ヘーシオドス の『神統記 』によれば、カオス やタルタロス 、エロース と同じく世界の始まりの時から存在した原初神。また、カオス の娘とする説もある。

ウーラノス 、ポントス の母であり、ウーラノスを夫とする。ウーラノスとの間にクロノス をはじめとするティーターン を、またキュクロープス やヘカトンケイル 、ギガース 、ピュートーン 、テューポーン などの魔神・怪物を産んだ。ウーラノスがクロノスに去勢 された(これは子供たちを幽閉されたガイアが怒り命じたことだった)後には、ポントスを夫にしたとも言われている。

ギリシア神話 に登場する神々の多くはガイアの血筋に連なり、また人類もその血を引いているとされ、母なる女神として篤く崇拝された。

さらに、地上のあらゆる事がその上で行われる事から、誓言の神でもある。

ローマ神話 におけるテルス に相当。

Gaia (mythology)
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For other uses, see Gaia .
Gaia
Goddess of the Earth
Abode Earth
Consort Uranus
Parents Chaos
Children Uranus , Oceanus , Coeus , Crius , Hyperion
Roman equivalent Terra
This box: view • talk
Greek deities
series

* Titans and Olympians
* Aquatic deities
* Personified concepts
* Other deities

Primordial deities

* Chaos
* Aether
* Gaia
* Uranus



* Eros
* Erebus
* Nyx
* Tartarus

Chthonic deities

Hades and Persephone ,
Gaia, Demeter , Hecate ,
Iacchus , Trophonius ,
Triptolemus , Erinyes

Gaia (pronounced /ˈɡeɪ.ə/ or /ˈɡaɪ.ə/; "land" or "earth ", from the Ancient Greek Γαῖα; also Gæa or Gea (Koine and Modern Greek Γῆ)[1] is the primal Greek goddess personifying the Earth .

Gaia is a primordial and chthonic deity in the Ancient Greek pantheon and considered a Mother Goddess or Great Goddess.

Her equivalent in the Roman pantheon was Terra .
In Greek mythology
Tellus Mater , the Roman equivalent of Gaia, steps out of her chariot - detail of a sarcophagus in Glyptotheck in Munich

Hesiod 's Theogony (116ff) tells how, after Chaos , arose broad-breasted Gaia the everlasting foundation of the gods of Olympus . She brought forth Uranus , the starry sky, her equal, to cover her, the hills, and the fruitless deep of the Sea, Pontus , "without sweet union of love," out of her own self through parthenogenesis . But afterwards, as Hesiod tells it, she lay with her son, Uranus , and bore the World-Ocean Oceanus , Coeus and Crius and the Titans Hyperion and Iapetus , Theia and Rhea , Themis , Mnemosyne , and Phoebe of the golden crown, and lovely Tethys . "After them was born Cronus the wily, youngest and most terrible of her children, and he hated his lusty sire." b Hesiod mentions Gaia's further offspring conceived with Uranus: first the giant one-eyed Cyclopes : Brontes ("thunderer"), Sterodes ("lightning") and the "bright" Arges : "Strength and might and craft were in their works." Then he adds the three terrible hundred-handed sons of Earth and Heaven, the Hecatonchires : Cottus , Briareos and Gyges , each with fifty heads. Uranus hid the Hecatonchires and the Cyclopes in Tartarus so that they would not see the light, rejoicing in this evil doing. This caused pain to Gaia (Tartarus was her bowels) so she created grey flint (or adamantine ) and shaped a great flint sickle, gathering together Cronos and his brothers to ask them to obey her. Only Cronos, the youngest, had the daring to take the flint sickle she made, and castrate his father as he approached Gaia to have intercourse with her. And from the drops of blood and semen, Gaia brought forth still more progeny, the strong Erinyes and the armoured Gigantes and the ash-tree Nymphs called the Meliae .

From the testicles of Uranus in the sea came forth Aphrodite . For this, a Greek etymologist urged, Uranus called his sons "Titans," meaning "strainers" for they strained and did presumptuously a fearful deed, for which vengeance would come afterwards; for, as Uranus had been deposed by his son, Cronos, so was Cronos destined to be overthrown by Zeus , the son born to him by his sister-wife Rhea .

After Uranus's castration, Gaia gave birth to Echidna and Typhon by Tartarus . By Pontus, Gaia birthed the sea-deities Nereus , Thaumas , Phorcys , Ceto , and Eurybia . Aergia , a goddess of sloth and laziness, is the daughter of Aether and Gaia.

Zeus hid Elara , one of his lovers, from Hera by hiding her under the earth. His son by Elara, the giant Tityas , is therefore sometimes said to be a son of Gaia, the earth goddess, and Elara.

Gaia also made Aristaeus immortal.

Gaia is believed by some sources (Joseph Fontenrose 1959 and others) to be the original deity behind the Oracle at Delphi . She passed her powers on to, depending on the source, Poseidon , Apollo or Themis . Apollo is the best-known as the oracle power behind Delphi, long established by the time of Homer, having killed Gaia's child Python there and usurped the chthonic power. Hera punished Apollo for this by sending him to King Admetus as a shepherd for nine years.

Oaths sworn in the name of Gaia, in ancient Greece, were considered the most binding of all.

In classical art Gaia was represented in one of two ways. In Athenian vase painting she was shown as a matronly woman only half risen from the earth, often in the act of handing the baby Erichthonius (a future king of Athens) to Athena to foster (see example below).

Later in mosaic representations she appears as a woman reclining upon the earth surrounded by a host of Carpi, infant gods of the fruits of the earth (see example below under Interpretations).
http://en.wikipedia.org
/wiki/Gaia_(mythology)

国之常立神
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(クニノトコタチ から転送)
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国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、日本神話 に登場する神 である。古事記 では国之常立神、日本書紀 では国常立尊と表記されている。別名 国底立尊。

天地開闢 の際に出現した神である。古事記においては神世七代 の一番目に現れた神で、別天津神 の最後の天之常立神 (あめのとこたちのかみ)と対を為している。独神 (性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。日本書紀本文では、国常立尊が最初に現れた神としており、男神であると記している。他の一書においても、一番目か二番目に現れた神となっている。記紀ともに、それ以降の具体的な説話はない。

神名の「クニノトコタチ」は、国の床(とこ、土台、大地)の出現を表すとする説や、国が永久に立ち続けるの意とする説など、諸説ある。

日本書紀では最初、古事記でも神代七代の一番目に現れた神とされることから、始源神・根源神・元神として神道理論家の間で重視されてきた。伊勢神道 では天之御中主神 、豊受大神 とともに根源神とした。その影響を受けている吉田神道 では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れをくむ教派神道 諸派でも国之常立神を重要な神としている。例えば大本教 では、根本神である艮の金神 は国之常立神と同一神であるとされ、昭和19年 6月10日 に千葉県 成田市 台方の麻賀多神社 で岡本天明 に降ろされた日月神示 もこの神によるものとされる。

国土形成の根源神、国土の守護神として信仰され、以下の諸社で祭られている。





コーラ教会Chora Churchの円天井画を見て驚嘆する:東洋・アジア的大女神的イエス教である:Ver2
私はこのカーリエ博物館の円天井画を見て驚いた。中心に聖母子が位置し、使徒12人を統括している図像でああるからである。ここには、なんとヤハウェ(唯一神/超越神)が不在である。正に、大女神的イエス教の図像であると思った。使徒12人とは、黄道十二宮が本来ではないだろうか。(追記:使徒12人と言ったが、図像には、翼がついている。すると、天使、大天使となるだろう。しかし、天使は通常、9階級あるのである。)
 とまれ、イスタンブールであるから、古代はアナトリアの地であり、小アジアであり、女神信仰・崇拝の盛んな地域であったのである。だから、女神信仰・崇拝の一環としてイエス教がここに描かれていると思ったのである。すばらしい21世紀/トランス・モダン聖霊教の図像であると考えられるのである。
 そう、またさらに驚くべきことは、英語名では、コーラ教会となっていることである。コーラとはプラトンの『ティマイオス』のコーラと同じであると考えられる(以下、英語Wikipediaの青文字で強調した箇所を参照されたい。強調は花鳥風月庵。少し説明すると、イエスを「生者の土地[郷土・郷国)」として、聖母マリアを「容れることが不可能なものの容器」と述べていることである。この「土地」や「容器」の概念が正に、プラトンのコーラに通じると言えよう。これは、PS理論としては、端的に、Media Pointと考えられるのである。言い換えると、超越性を身体・大地化するというようなことだと考えられる。後で、精緻に検討したい。)。つまり、Media Pointである。Media Point Church(Temple, Shrine)となるのである。正に、大女神に相応しい教会と言えよう。東洋・アジア的教会と言えよう。

追記:昔、トルストイの『戦争と平和』や『復活』を読んで、簡潔ながら、蒼穹を円天井として美しく表現されていたが、その発想の元はこのような東方教会ではなかったかと思った次第である。トルストイやドストエフスキーの「キリスト教」はロシア正教(正教会)である。それは、今や非唯一神的東洋・アジア的大女神(大元母神)的イエス(「日御子」)教と呼べよう。


File:Chora Church Constantinople 2007 011.jpg

The Virgin and child, painted dome of the parecclesion of Chora Church.
(クリックすると拡大します。)

Chora Church
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Front view of Chora Church
Rear view of Chora Church

The Chora Museum (Turkish Kariye Müzesi, Kariye Camii, or Kariye Kilisesi ― the Chora Museum, Mosque or Church) is considered to be one of the most beautiful examples of a Byzantine church .[1] The church is situated in the western, Edirnekapı district of Istanbul . In the 16th century, the church was converted into a mosque by the Ottoman rulers , and it became a secularised museum in 1948. The interior of the building is covered with fine mosaics and frescoes .
History
Sketch map of the church interior
Sketch map of the interior plan of the Chora Church

The Chora Church was originally built outside the walls of Constantinople , to the south of the Golden Horn . Literally translated, the church's full name was the Church of the Holy Saviour in the Country: although "The Church of the Holy Redeemer in the Fields" would be a more natural rendering of the name in English. (Greek ἡ Ἐκκλησία του Ἅγιου Σωτῆρος ἐν τῃ Χώρᾳ, hē Ekklēsia tou Hagiou Sōtēros en tē Chōra).[2] The last part of that name, Chora, referring to its location originally outside of the walls, became the shortened name of the church. The original church on this site was built in the early 5th century, and stood outside of the 4th century walls of Constantine the Great . However, when Theodosius II built his formidable land walls in 413–414, the church became incorporated within the city's defences, but retained the name Chora. The name must have carried symbolic meaning, as the mosaics in the narthex describe Christ as the Land of the Living (ἡ Χώρα των ζώντων, hē Chōra tōn zōntōn) and Mary, the Mother of Jesus , as the Container of the Uncontainable (ἡ Χώρα του Ἀχώρητου, hē Chōra tou Achōrētou).

The majority of the fabric of the current building dates from 1077–1081, when Maria Dukaina, the mother-in-law of Alexius I Comnenus , rebuilt the Chora Church as an inscribed cross or quincunx : a popular architectural style of the time. Early in the 12th century, the church suffered a partial collapse, perhaps due to an earthquake . The church was rebuilt by Isaac Comnenus, Alexius's third son. However, it was only after the third phase of building, two centuries after, that the church as it stands today was completed. The powerful Byzantine statesman Theodore Metochites endowed the church with much of its fine mosaics and frescos . Theodore's impressive decoration of the interior was carried out between 1315 and 1321. The mosaic-work is the finest example of the Palaeologian Renaissance. The artists remain unknown. In 1328, Theodore was sent into exile by the usurper Andronicus III Palaeologus . However, he was allowed to return to the city two years later, and lived out the last two years of his life as a monk in his Chora Church.

During the last siege of Constantinople in 1453, the Icon of the Theotokos Hodegetria , considered the protector of the City, was brought to Chora in order to assist the defenders against the assault of the Ottomans .[3]

Around fifty years after the fall of the city to the Ottomans , Atık Ali Paşa, the Grand Vizier of Sultan Bayezid II , ordered the Chora Church to be converted into a mosque ― Kariye Camii. Due to the prohibition against iconic images in Islam , the mosaics and frescoes were covered behind a layer of plaster. This and frequent earthquakes in the region have taken their toll on the artwork.

In 1948, Thomas Whittemore and Paul A. Underwood, from the Byzantine Institute of America and the Dumbarton Oaks Center for Byzantine Studies, sponsored a programme of restoration. From that time on, the building ceased to be a functioning mosque. In 1958, it was opened to the public as a museum ― Kariye Müzesi.

[edit ] Interior
The Virgin and child, painted dome of the parecclesion of Chora Church.

The Chora Church is not as large as some of the other Byzantine churches of Istanbul (it covers 742.5 m²), but what it lacks in size, it makes up for in the beauty of its interior. The building divides into three main areas: the entrance hall or narthex , the main body of the church or naos , and the side chapel or parecclesion. The building has six domes : two in the esonarthex, one in the parecclesion and three in the naos.

・・・・・

File:HSX Mary genealogy.jpg

Mosaic of the Virgin Mother with child, north dome of inner narthex


File:Chorachurchfresco.JPG.jpg

Close-up of the Virgin Mother with child, north dome of inner narthex



http://en.wikipedia.org/wiki
/Chora_Church


Chora Churchの円天井画を見て驚く:東洋・アジア的大女神的イエス教である
私はこのカーリエ博物館の円天井画を見て驚いた。中心に聖母子が位置し、使徒12人を統括している図像であれうからである。ここには、ヤハウェ(唯一神/超越神)がいないのである。正に、大女神的イエス教の図像であると思った。使徒12人とは、黄道十二宮が本来ではないだろうか。
 とまれ、イスタンブールであるから、古代はアナトリアであり、小アジアであり、女神信仰の盛んな地域であったのである。だから、女神信仰の一環としてイエス教がここに描かれていると思ったのである。すばらしい21世紀/トランス・モダン聖霊教の図像であると考えられるのである。
 そう、また驚くべきことは、英語名では、コーラ教会となっていることである。コーラとはプラトンのコーラと同じであると考えられる。つまり、Media Pointである。Media Point Church(Temple, Shrine)となるのである。正に、大女神に相応しい教会と言えよう。東洋・アジア的教会と言えよう。

追記:昔、トルストイの『戦争と平和』や『復活』を読んで、簡潔ながら、蒼穹を円天井として美しく表現されていたが、その発想の元はこのような東方教会ではなかったかと思った次第である。トルストイやドストエフスキーの「キリスト教」はロシア正教である。それは、今や東洋・アジア的大女神的イエス教と呼べよう。


File:Chora Church Constantinople 2007 011.jpg

The Virgin and child, painted dome of the parecclesion of Chora Church.
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Chora Church
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Front view of Chora Church
Rear view of Chora Church

The Chora Museum (Turkish Kariye Müzesi, Kariye Camii, or Kariye Kilisesi ― the Chora Museum, Mosque or Church) is considered to be one of the most beautiful examples of a Byzantine church .[1] The church is situated in the western, Edirnekapı district of Istanbul . In the 16th century, the church was converted into a mosque by the Ottoman rulers , and it became a secularised museum in 1948. The interior of the building is covered with fine mosaics and frescoes .
History
Sketch map of the church interior
Sketch map of the interior plan of the Chora Church

The Chora Church was originally built outside the walls of Constantinople , to the south of the Golden Horn . Literally translated, the church's full name was the Church of the Holy Saviour in the Country: although "The Church of the Holy Redeemer in the Fields" would be a more natural rendering of the name in English. (Greek ἡ Ἐκκλησία του Ἅγιου Σωτῆρος ἐν τῃ Χώρᾳ, hē Ekklēsia tou Hagiou Sōtēros en tē Chōra).[2] The last part of that name, Chora, referring to its location originally outside of the walls, became the shortened name of the church. The original church on this site was built in the early 5th century, and stood outside of the 4th century walls of Constantine the Great . However, when Theodosius II built his formidable land walls in 413–414, the church became incorporated within the city's defences, but retained the name Chora. The name must have carried symbolic meaning, as the mosaics in the narthex describe Christ as the Land of the Living (ἡ Χώρα των ζώντων, hē Chōra tōn zōntōn) and Mary, the Mother of Jesus , as the Container of the Uncontainable (ἡ Χώρα του Ἀχώρητου, hē Chōra tou Achōrētou).

The majority of the fabric of the current building dates from 1077–1081, when Maria Dukaina, the mother-in-law of Alexius I Comnenus , rebuilt the Chora Church as an inscribed cross or quincunx : a popular architectural style of the time. Early in the 12th century, the church suffered a partial collapse, perhaps due to an earthquake . The church was rebuilt by Isaac Comnenus, Alexius's third son. However, it was only after the third phase of building, two centuries after, that the church as it stands today was completed. The powerful Byzantine statesman Theodore Metochites endowed the church with much of its fine mosaics and frescos . Theodore's impressive decoration of the interior was carried out between 1315 and 1321. The mosaic-work is the finest example of the Palaeologian Renaissance. The artists remain unknown. In 1328, Theodore was sent into exile by the usurper Andronicus III Palaeologus . However, he was allowed to return to the city two years later, and lived out the last two years of his life as a monk in his Chora Church.

During the last siege of Constantinople in 1453, the Icon of the Theotokos Hodegetria , considered the protector of the City, was brought to Chora in order to assist the defenders against the assault of the Ottomans .[3]

Around fifty years after the fall of the city to the Ottomans , Atık Ali Paşa, the Grand Vizier of Sultan Bayezid II , ordered the Chora Church to be converted into a mosque ― Kariye Camii. Due to the prohibition against iconic images in Islam , the mosaics and frescoes were covered behind a layer of plaster. This and frequent earthquakes in the region have taken their toll on the artwork.

In 1948, Thomas Whittemore and Paul A. Underwood, from the Byzantine Institute of America and the Dumbarton Oaks Center for Byzantine Studies, sponsored a programme of restoration. From that time on, the building ceased to be a functioning mosque. In 1958, it was opened to the public as a museum ― Kariye Müzesi.

[edit ] Interior
The Virgin and child, painted dome of the parecclesion of Chora Church.

The Chora Church is not as large as some of the other Byzantine churches of Istanbul (it covers 742.5 m²), but what it lacks in size, it makes up for in the beauty of its interior. The building divides into three main areas: the entrance hall or narthex , the main body of the church or naos , and the side chapel or parecclesion. The building has six domes : two in the esonarthex, one in the parecclesion and three in the naos.

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File:HSX Mary genealogy.jpg

Mosaic of the Virgin Mother with child, north dome of inner narthex


File:Chorachurchfresco.JPG.jpg

Close-up of the Virgin Mother with child, north dome of inner narthex



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/Chora_Church


大地、大地母神(地母神)について:-iの傾斜という作業仮説
これまで、PS理論から「神話」(神伝)や宗教の解明を試みてきたが、まだ、完全に腑に落ちていない問題は、大地(ガイアもここに含められる)、大地母神(地母神)の真理である。
 これまで、差異共振性としての大元母神を考え、大地母神は、父権的見地から見た、大元母神であると考えた。しかしながら、ギリシア神話を見ると、一説では、カオス(間隙)の後から、ガイアが生まれたと考えられている。そして、先に、ガイアは、大元母神であると考えたのである。しかし、どうみても、ガイアは大地である。あるいは、後のデーメーテールに通じる大女神である。このズレを埋める必要がある。今はざっと言うだけであるが、思うに、大地/大地母神とは、-iが傾斜したときに生成されるものではないのかということである。
 これまで、ヤハウェは+iの傾斜、否、極端な傾斜である。だから、理論的には、-iの傾斜は考えられるのである。
 +iを以前、原光とし、-iを原闇とした。そして、前者の傾斜ならば、同一性傾斜となり、後者の傾斜は差異傾斜になるのではないだろうか。
 いわば、差異の徹底した肯定であり、同一性は微塵もない。これが、大地/大地母神(ガイア)ではないだろうか。
 次にまったく思いつきであるが、-iの傾斜が重力を生むのではないだろうか。そして、+iの傾斜は反重力ということになるだろう。即ち、地と天である。
 だから、「神話」によく見られる天地創造(天地分離)とは、+iの傾斜と-iの傾斜が、交互に生じた結果に生まれたのか?(思うに、やはり、天地分離は、同一性の傾斜が根本にあるのではないのか。)
 また、別のことであるが、「神話」における世界樹(宇宙樹:天の柱)は、当然、虚軸を意味するのではないだろうか。
 (途中であり、また、最後は散漫であるが、今はここで留める。後で整理したい。)


トランス・モダン経済学貨幣理論:PS理論的価値衝突理論
テーマ:トランス・モダン経済:差異共振資本経済

以下、Kaisetsu氏が、最高度にルーシッドに首尾一貫した、トランス・モダン経済学貨幣理論を提示されている。
 一つは、「共役複素数的」通貨概念であり、一つは「(貨幣)価値衝突概念である。
 前者は、愚樵氏の独創的な個人通貨概念をPS理論的に深化させたものである。後者は、以前に提起されていた貨幣衝突概念をより一般化させたものである。
 前者は、愚樵氏の個人通貨概念に貨幣身体を与えた概念であり、それをPS数理論的に解明しているものであり、後者は、マルクス経済学や近代経済学の交換概念、等価交換概念を否定し、差異価値と差異価値の衝突=共振を説くものである。
 両者とも画期的であるが、理論的順序から言って、後者の画期性を説明すると、これは、交換価値・等価交換という同一性価値概念を完全に否定しているので、絶対的差異を肯定するPS理論に基づくものであり、また、差異共振概念における極性的対立(反対)性を衝突として、より現実的に明確にしたものと言えよう。だから、ここにおいて、トランス・モダン経済学貨幣価値論の定礎ができたと言えよう。
 そして、前者の「共役複素数的」通貨概念によって、貨幣衝突・価値衝突概念がより現実に理論化されたと言えよう。言うならば、貨幣価値衝突理論は一般貨幣価値理論であり、「共役複素数的」理論は実践的な貨幣価値理論と言えよう。一般理論が先に生まれて、特殊理論が後で生まれたのである。
 今日、モダン金融資本主義が崩壊して、「大災害」となっている中、この二つの貨幣理論は、新しい経済のための羅針盤となるだろう。(後でもう少し、述べたい。) 

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近代経済学の基礎である「交換概念」を不要とする「(貨幣)価値衝突」概念

魅力的な個人通貨という、『日銀券に対する「共役複素数的」』通貨
http://blog.kaisetsu.org
/?cid=28821&page=1

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2009年05月21日(Thu)▲ページの先頭へ
「共役複素数的」通貨とトランス・モダン経済
テーマ:差異通貨・貨幣論

以下、Kaisetsu氏による最高度に意味深長な「共役複素数的」通貨論である。
 これは、トランス・モダン経済の核心となる議論である。重要なポイントは、これまで、同一性貨幣か差異貨幣かという二項対立であったが、ここで、両者の「共振」がテーマになっているのである。これは、これまでまったく発想できなかった問題である。
 直感では、ここに近代経済からのエクソダスがここには確かにあるということである。とまれ、愚樵氏の個人通貨という発想は実に独創的である。
 ここで数日は都合で余裕がないので、十分検討できないのが残念ではある。

################

├個人通貨という魅力的な日銀券に対する「共役複素数的」通貨
├「連銀という名のバブル by 2009年5月19日  田中 宇氏」から見る米国内の連銀通貨に対する共役複素数通貨の動向

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2009年05月20日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:共役複素数と通貨:法定通貨と差異・他者通貨
テーマ:差異通貨・貨幣論

以下、Kaisetsu氏が刺激的に戦略的な考察を行っている。共役複素数による戦略である。
 思うに、現実の法定通貨のa+biの共役複素数のa−bi に相当する通貨とは何かを思う。この-bi、あるいは、-iが実に意味深長なのである。これは、正に、差異、他者である。つまり、想定できるのは、差異通貨、他者通貨である。それは一体何か。
 +i が同一性の傾斜を意味すると考えられるので、-iは、当然、差異、他者への志向性を意味する。思うに、これは、マイナス利子ではないのか。あるいは、減価通貨ではないのか。
 あるいは、身体的霊性、差異共振性に関係する。すると、金本位、銀本位、兌換通貨ということでもあろう。
 とまれ、直感では、-biとは、企業から見たら、消費者という差異を肯定するものである。つまり、買い手を肯定することである。あるいは、働き手の価値を肯定するものであるし、社会や自然を肯定するものである。
 そう見ると、やはり、減価通貨ではないのか。だから、利子通貨とマイナス利子通貨を共振させれば、完全水平化が生起するということではないのか。
 だから、考えられるのは、プラス利子通貨とマイナス利子通貨の共生である。ダブル通貨体制である。そう、陰陽通貨体制である。一見、地域通貨の発想に似るが、似て非なるものである。何故なら、マイナス利子通貨も法定通貨にするからである。今は、問題提起ないしは思いつきで留める。

##############

強力な支配者(恐竜)を一撃で撃ち落とす道具→共役複素数

・・・・・

(論考 開始)

akehino akehino posted by (C)天花一海

 上記のグラフに再度、戻ろう。

 問題は、権力性の強い「或る強権的現実貨幣(垂直性の強い現実貨幣)」、例えば、ガウス平面の権威貨幣Zaを、恐竜を一撃のもとに地に腹這いにするように、一気に水平的な貨幣にする方法が存在するか、である。

 ここで、共役複素数を用いる方法が有効である。


共役複素数
a, b を実数、i を虚数単位とするとき、a−bi を a+bi=z の共役(きょうやく)複素数という。

http://blog.kaisetsu.org/?eid=745279
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2009年05月17日(Sun)▲ページの先頭へ
タミール民族虐殺問題:国家同一性主義と差異共振主義
ざっと読んだが、実に興味深い。スリランカのシンハラ(なんとなく、イシハラと読めてしまう)政権は、タミール民族に対するジェノサイド(民族虐殺)を行ってきたことが判明する。
 問題はやはり、国民国家主義である。もし、民族独立主義を認めるなら、タミール民族の国家独立を認めるべきである。
 思うに、国民国家主義は同一性主義であり、他民族(他者)に対して憎悪(ルサンチマン)をもつのである。差異に対して憎悪するのである。そのために、タミール民族は虐殺されるのである。そして、それによって、スリランカ国家同一性主義を維持するのである。これは、ヘーゲルの国家理性主義に当たる。
 思うに、国家とは、同一性擬制体制である。それは、仮想的公的制度に過ぎない。

'Our Holocaust and the impossibility of peace in Sri Lanka'
[TamilNet, Saturday, 16 May 2009, 04:17 GMT]

“It is self-evident that the close scrutiny of the international community, the pleas and pointed warnings by powerful states and the disgust of the world has not impressed a Sinhala state, polity and people drunk with racism,” the Tamil Guardian newspaper said this week. “It is inescapable that whatever the international community does, the Sinhala state will continue to pose an existential threat to the Tamil people, unless we are protected by our own borders and security forces.” The paper added, “[meanwhile] contrary to Sinhala expectations, Tamil militancy will remain central to Sri Lanka’s future. As the LTTE, which has transformed itself – yet again – for a new kind of war, bluntly put it last month: as long as the Tamils are oppressed, ‘Sri Lanka will never be able to live in peace’.”

The text of the Tamil Guardian’s editorial, titled ‘Our Holocaust’, follows:

The relentless massacres of Tamil civilians by the Sri Lanka state over the past few months had resulted in almost 7,000 deaths and twice that many seriously wounded by May 1. But the slaughter over last weekend is unparalleled in the brutality unleashed by the Sinhalese since independence; over two thousand Tamil lives were snuffed out in a hail of artillery shells. The makeshift hospital – blood-splattered room in a shattered house in the Mullaitivu enclave – has been blasted time and again, the accuracy of the Sri Lankan shells guaranteed by the GPS coordinates passed on by the ICRC.

All this in plain sight of the international community. Even the Western states which have – along with China, Russia and India - stood solidly behind the Sinhala state for the past three years were shaken. As the edition goes to print, US President Barack Obama has also stated the oft- repeated urging of the Sinhala state to cease its “indiscriminate” shelling. We doubt Sri Lanka, secure that China and Russia will thwart any repercussions at the UN Security Council, will pay any heed this time either.

What the Western states, operating with theories of ‘internal conflict’ and ‘terrorism’, can’t comprehend is why the Sinhala state insists on using heavy weapons on the civilians packed into a sliver of land. They also don’t understand why Sri Lanka is blocking international assistance from reaching the 190,000 recently displaced people concentrated in militarized camps. The Tamil people, of course, understand: this is genocide.

For several years the Tamils have been appealing to the international community that there is a ‘slow’ genocide underway in Sri Lanka since independence. These arguments were dismissed – laughed off, actually – as hysteria or propaganda. Yet, quite apart from the pogroms against Tamils up to 1983, in the period since, a hundred thousand Tamils have died in massacres, indiscriminate shelling and bombing, and by starvation due to government embargoes on the Tamil homeland. However, since January ‘genocide’ has not been some abstract concept. The world has witnessed it every single day since as first dozens, then scores, then hundreds of Tamils were killed and wounded. Even by Sri Lanka’s horrific standards, the rate at which our people have been slaughtered is stunning.

What has also become clear is that the international community has knowingly and deliberately allowed this slaughter to proceed. The ideological fixation with ‘fighting terrorism’ and ‘ending armed conflict’ has meant that in the interests of destroying the Liberation Tigers, any number of Tamil civilians are expendable. Notice that even though it is the Sinhala state that is pounding the civilians, blocking food and medicine and repeatedly blasting the hospital, it is the LTTE that has drawn the focus of the UN’s condemnation?

Notice that even though the Sinhala state launched major offensive operations in April 2006 (displacing over 40,000 Tamil civilians in three days), ordered international NGOs and UN agencies out of Vanni in mid-2007, tore up the Norwegian-brokered Ceasefire Agreement in January 2008, and, even before this year’s slaughter began, had killed several thousand people in LTTE-controlled areas while abducting, murdering or disappearing over 5,000 Tamils in its own controlled areas, it is the LTTE that international actors in all this time have cursed and blamed?

Notice that even though the LTTE called for ceasefire and peace talks in 2006, 2007 and 2008 and that all these calls were dismissed out of hand by Colombo, the international community continued to look to the Sinhala state for a solution? The paradox of asking a state starving, bombing and disappearing a people to put forward political solution to meet the political aspirations of that people has completely escaped the international community.

There is only one solution for us now: the independent, sovereign state of Tamil Eelam. The rationale for that is etched out in the bloody sands of Mullaitivu. If the Tamils accept any thing short of independence, if we allow ourselves to be placed under Sinhala dominion as part of a ‘solution’, they will simply wipe us out at some point in the future. It is self-evident that the close scrutiny of the international community, the pleas and pointed warnings by powerful states and the disgust of the world has not impressed a Sinhala state, polity and people drunk with racism. Not one Sinhala political actor – not even the UNP, the darling of the liberal West – has condemned the slaughter. It is inescapable that whatever the international community does, the Sinhala state will continue to pose an existential threat to the Tamil people unless we are protected by our own borders and security forces.

The sixty-year old struggle for Tamil liberation is entering a new phase. On the one hand the Tamil nation, going through a Holocaust of its own, is no longer under any illusions about the Sinhala state and people. The international community will never be able to reason with or restrain them. On the other hand, contrary to Sinhala expectations, Tamil militancy will remain central to Sri Lanka’s future. As the LTTE, which has transformed itself – yet again – for a new kind of war, bluntly put it last month: as long as the Tamils are oppressed, “Sri Lanka will never be able to live in peace”.
http://www.tamilnet.com/art
.html?catid=13&artid=29379
TamilNet


2009年05月16日(Sat)▲ページの先頭へ
『法』とは何か:同一性法の脱構築:差異法・差異共振法・Media Point Law
私は法学に関してはまったくの素人なので、これから述べる考えは、勘違い、妄想、独断かもしれない。とまれ、管見を述べたい。
 私は自然法に賛成であり、これは、いわば、普遍法であると思う。基本は裁くことではなく、赦すことである。いうならば、イエスの精神である。(因みに、キリスト教は、私見では、最後の審判と赦しの精神の背理を冒している。)
 しかしながら、今日の裁判とは当然、裁くことが中心になっている。これを私は同一性法の思想(言い換えると、広義の復讐法である)と呼びたい。即ち、同一性法は、同一性という善が反同一性という悪を罰するというメカニズムをもつのである。これは、端的に、二項対立の思想である。これは、父権主義である。
 それに対して、自然法=普遍法と考えるものは、反同一性=差異を赦す方向にあるのである。もっとも、罪は罪であり、それは確認する。殺人は当然犯罪であり、罪である。しかし、殺人者には、悔悟の余地を与える必要がある。そのために、死刑はだめである。
 先に、カルデロン一家問題に言及したが、その違法性とは、同一性法からみた場合である。しかし、自然法=普遍法(「差異法」、「差異共振法」、 Media Point Lawと造語する)から見た場合、生活や家族という人間的自然を肯定されるべきであり、同一性法に対する違法性は緩められなくてはならないことになるのである。ここでは、同一性法と差異法との計測が必要である。
 しかしながら、PS理論から言うと、同一性法とは仮象(擬制)である。それは、国家秩序維持のためにあるのである。しかしながら、大根本は差異法にあるのである。だから、カルデロン一家の違法性は違法性ではなくなるのである。そう、仮象的な違法性に過ぎないである。仮想的違法性である。だから、本質的な差異法によって、カルデロン一家の「違法性」はなくなり、これまでの生活が肯定されることになるのである。
 では、これを敷延して、その他の犯罪を赦すことになるということになるのか。違う。思うに、差異共振法に違反する犯罪こそが重罪である。例えば、今日、自民党/官僚「暴力団」が行っている政治は差異共振法に違反する大罪である。
 結局、ニーチェに倣って言えば、価値観の転換が必要なのである。差異共振法こそ、根源法であり、同一性法は、権力法、仮象法、虚構法なのである。
 言い換えると、差異共振法は母権法であり、同一性法は父権法である。

追記:同一性法である国家維持法に対して、差異法は郷国共同体法と呼べるだろう。

[05/16]裁判員制度、大丈夫とは言えない気がします... (15) New!!
村野瀬玲奈の秘書課広報室


参考:
アンティゴネー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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フレデリック・レイトン によるアンティゴネ

アンティゴネー(Antigone, 希 :Ἀντιγόνη)はギリシア神話 に登場するテーバイ の王女。長母音 を省略してアンティゴネとも表記される。父はオイディプース 、母はその妃で母親のイオカステー 。

父オイディプースが自分の出生の秘密を知り、目を潰した後、イオカステーの兄弟クレオーン に追放されると、妹イスメーネー とともに父に付き添って諸国を放浪した(ソポクレース 『コロノスのオイディプス 』を参照のこと)。父の死後、テーバイに戻ったが、兄の1人、ポリュネイケース は隣国の助けを借りてテーバイの王位を取り戻すべくテーバイに攻め寄せてくる(アイスキュロス 『テーバイ攻めの七将 』)。しかし、闘いむなしく、テーバイの七つの門に攻め寄せた軍は悉く打ち破られ、ポリュネイケースは兄弟エテオクレース と相討ちで戦死。クレオーンは反逆者である彼の屍を葬ることを禁じるが、アンティゴネーは自ら城門を出て、市民たちの見ている前でその顔を見せて兄の死骸に砂をかけ、埋葬の代わりとした。そのため彼女は、クレオーンによって死刑を宣告された。アンティゴネーは牢で自害し、その婚約者であったクレオーンの息子ハイモーンもまた自刃した。

アンティゴネーはギリシア悲劇 の題材とされ、ソポクレースに『アンティゴネー』と題する悲劇が残っている。またジャン・アヌイ はクレオーンを主人公として、アンティゴネーの処刑の挿話を扱っている。(『アンティゴーヌ』)

アンティゴネーの悲劇は、兄への弔意という肉親の情および人間を埋葬するという人倫的習俗と神への宗教的義務と、人工的な法律 の対立から来るものである。ゲオルク・ヘーゲル は『精神の現象の学』の人倫(Sittlichkeit)の行において、アンティゴネーを人間意識の客観的段階のひとつである人倫の象徴として分析している。


彼女を題材にした舞台作品 [編集 ]

* 三つの悲劇・異人の唄 〜 アンティゴネ 〜
* フェリックス・メンデルスゾーン 劇付随音楽「アンディゴネ」Op.55

参考ホーム・ページ [編集 ]

* ギリシャ・テーバイ紀行  現代テーバイの七つの門を訪ねる旅。

ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、アンティゴネ に関連するマルチメディアがあります。

カテゴリ : ギリシア神話の人物




2009年05月14日(Thu)▲ページの先頭へ
女神神伝の叡知・玉知と脱父権文明:Media Point叡知の復権:トランス・モダン伝統精神復興
以下の簡潔にまとめられた東アジアの「神話」(神話という用語は問題がある。話ではなく、伝承や「史書」である。いわば、精神事象伝承である。少なくとも、神伝ないしは神伝承である。だから、以下、神伝という造語を暫定的に使用する。)は、斜め読みしたが面白い。面白いというのは、比較神話学の見地から面白いということである。
 盤古神伝は、ほとんど、ユダヤ伝承カバラのアダム・カドモン(原人)神伝に通じる。また、洪水伝説であるが、それは、シュメールに関係する『ギルガメシュ叙事詩』にも、ギリシア神話にも、また、聖書にも叙述されている。
 ここで、アジア・東洋のプロト神伝があったと作業仮説できよう。東伝したプロト神伝があり、変異し、西伝したそれがあり、また、それなりに変異したと考えられるが、基本的なプロット(筋)は共通するものが多いと言えよう。表層は変異するが、深層は不易であるということである。もちろん、土地土地の社会・歴史・文化的特異性が影響を及ぼしている。
 とまれ、私がいちばん興味をもつのは、基層としての女神神伝であり、それが変形されて形成(「改竄」)された男神神伝という文書である。
 前者は口承であり、それを父権的に変形された後者が加工されたと考えられるのである。
 とまれ、推察できることは女神文化社会とは自然・精神・差異文化社会であり、男神文化社会とはロゴス・同一性・暴力文化社会であるということである。そして、前者の原基の上に後者が成立したということである。
 思うに、人類は前者の叡知をなんらかの形で、後者にも受け継がざるをえないと言えよう。キリスト教も本体は女神の叡知と考えられるし、イスラム教もそうである。
 問題は、西洋文明において、近代主義が起り、世界的に、この女神の叡知が消えたことであろう。これは、当然、近代合理主義・近代的自我・唯物論に原因があるのである。
 これは、巨視的には、父権主義化が原因と言えよう。つまり、同一性主義化である。この傾斜によって、根本の女神の叡知(Media Pointの叡知)が喪失させられたと言えよう。
 これまでの文明史は父権文明史であり、根源の女神の叡知を消失させる方向に動いてきて、今や、ほとんど喪失したのである。
 しかしながら、現代の世界的な金融大危機の時代になり、突然、父権文明が終焉した考えられるのである。
 だから、脱父権文明の時代であり、新母権文明の時代への転換期とは言えよう。
 結局、不連続的変異(「突然変異」)的に、喪失されてきた女神神伝の叡知、即ち、PS理論から言うと、Media Pointの叡知・玉知が復活したと思われるのである。いわば、天の岩戸が再開したのである。
 整理して言うと、西洋近代とは実は、Media Pointの新たな復活であったが、西洋文明はユダヤ・キリスト教文明であるために、同一性へと傾斜したのである。つまり、差異と同一性が連続的同一性化したのが近代西洋であると言えよう。そして、同一性への方向が崩壊した米国金融資本であったのである。そして、いわば、殻が破れたので、中にあった差異が飛び出してきたというのが今ではないだろうか。
 思うに、近代西洋文明を歪んだ形で模倣した日本であるが、ここにきて、抑圧されてきた伝統文化精神が復活してきたのではないだろうか。つまり、もともと強くある女神神伝精神である。言い換えると、日本Media Point精神である。
 西洋人にもMedia Pointは当然存するが、やはり、同一性に傾斜しているので、理解しにくいはずである。(だから、ポスト・モダンは挫折したと言えよう。)
 しかしながら、東洋人、日本人には、同一性的傾斜は弱いために、被抑圧のMedia Pointが復活しやすいと言えよう。言い換えると、差異共振エネルギーが勃興し出したと考えられるのである。

参考:

 天地開闢神話  盤古神話、古代苗族、古朝鮮・倭

  三五暦記、五運暦年記、述異記、史記、新華網、他
 公開中
 原文対照

  三皇五帝−概要

   史記(五帝本紀)
公開中
 原文対照

 三





 皇



 天皇、地皇、人皇(秦皇)
 公開中 

 燧人 (すいじん)

   韓非子、史記(三皇本紀)、他
公開中
 原文対照

 伏羲と女媧
(ふつぎ・じょか)

  伏羲考、十八史略、タイ族神話、他
公開中
 原文対照

 共工 (きょうごん)  

   十八史略、淮南子、史記、他
公開中
 原文対照

 祝融
(しゅくゆう)

   史記(楚世家)
公開中
 原文対照

 神農 (じんのう)

   正義(帝王世紀)
公開中
 原文対照
 五






 





 黄帝 (こうてい) 

  史記(五帝本紀)、軒轅黄帝、他
公開中
 原文対照

 少昊氏 (しょうこうし) 

   少昊帝(香港仏陀教育協会論文)
公開中
 原文対照

 高陽氏顓頊 (こうようしせんぎょく)

   史記、顓頊帝(香港仏陀教育協会論文)
公開中
 原文対照

 高辛氏帝嚳
(こうしんしていこく) 盤瓠神話

  史記、帝嚳(香港仏陀教育協会論文)
公開中
 原文対照

 帝堯
(ていぎょう)

   史記、帝堯(香港仏陀教育協会論文)
公開中
 原文対照

 帝舜
(ていしゅん)

   史記、帝舜(香港仏陀教育協会論文)
公開中
 原文対照

  陰陽五行説

    陰陽説・五行説・十干・十二支・太歳


日中韓・三国神話
http://members3.jcom.home.ne
.jp/sadabe/sinwa/library.htm

参照:
カバラ
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Tree of Life

カバラ(קַבָּלָה qabbalah)、カバラーとは、ユダヤ教 の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想 である。独特の宇宙観を持っていることから、しばしば仏教 の神秘思想である密教 との類似性を指摘されることがある。

カバラーはヘブライ語 の動詞キッベール「受け入れる」「伝承する」の名詞形で、「受け入れ」「伝承」を意味する。カバラーが登場する以前のゲオニーム 時代には、単に口伝律法 を指す言葉として用いられた。したがって、その後ユダヤ教神秘主義を指す呼称となった際にも、個人が独自に体得した神秘思想というよりは、神から伝授された知恵、あるいは師が弟子に伝承した神秘という意味で用いられることになる。カバラーはユダヤ教の伝統に忠実な側面を持とうとしたという点において、他の宗教の神秘主義とは異なる。本来のカバラーは、ユダヤ教の律法を遵守すること、あるいは神から律法の真意を学ぶことを目的とした。したがって、正統的なユダヤ教との親和性を持っていた時期もあったため、必ずしも秘教的な神秘思想とは言えない。しかし、キリスト教 の神秘家に採り入れられるようになると、ユダヤ教の伝統からは乖離した極めて個人的な神秘体験の追究の手段として用いられることになる。
小史 [編集 ]

伝説では、アブラハム がメルキゼデク から伝授された天界の秘密だとも、モーセ が律法 (トーラー)に記し切れなかった部分を口伝として後世に伝えたものだともいう。しかし、3世紀 から6世紀 頃に始まり、16世紀 頃にほぼ現在の体系が完成したとされる。

分類 [編集 ]

カバラは大きくユダヤ・カバラ とクリスチャン・カバラ に分類される。前者が本来のカバラであり、ユダヤ教徒が旧約聖書 の解釈に用いるものである。後者はユダヤ・カバラをキリスト教 に応用するために考えられたが、後に近代西洋魔術 の理論的根拠にされた。クリスチャン・カバラーは生命の樹 の活用を中心に成り立っている。

思想 [編集 ]

カバラでは世界の創造を神エイン・ソフからの聖性の10段階にわたる流出 の過程と考え、その聖性の最終的な形がこの物質世界であると解釈をする。この過程は10個の「球」と22本の「小径」から構成される生命の樹 (セフィロト)と呼ばれる象徴図で示され、その部分部分に神の属性が反映されている。 したがってカバラーは一神教 でありながら多神教 や汎神論 に近い世界観を持つ。

別の解釈ではこの世界を一冊の書物とみなす。すべてが書き込まれているこの書を解読することはこの世界のすべてを理解することである。そしてその書はヘブライ文字 の22文字で書かれており、それぞれの文字が宇宙の原理となる要素を象徴しているという。それゆえ、そのヘブライ文字のアルファベットを解読することが重要な鍵となる。

また、聖書無謬主義から一見矛盾している旧約聖書 の記述を神秘主義的解釈を用いて影響を受け読み解く。一例として創世記 冒頭の天地創造 には人間創造の場面が二回出てくる。文献学的にはこれは別系統の神話を一つの書物に統合した為に生じた矛盾と考えられているが、カバラーでは実際に人間創造が二回(またはそれ以上)行われたと解釈する。

数秘学 [編集 ]

また、聖書を神秘主義的に解釈する際、ゲマトリア やノタリコン 、テムラー と呼ばれる一種の暗号解読法 を用いる場合がある。これらが後に世俗化し数秘学 、数秘術 と呼ばれる運命解読の方法となった。

関連項目 [編集 ]

* ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ
* ヤーコプ・ベーメ
* ユダ・レーヴ
* ゲルショム・ショーレム
* カバラ教団
* ゾーハル
* メルカバー
* バーヒール Bahir
* 形成の書
* 神秘主義

外部リンク [編集 ]

* ブネイ・バルーフカバラ教育研究所
* 自然魔術とカバラ
* 生命の木 (英語)
* カバラ 5000 以上の単語を辞書(英語)です


"http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%82%AB%E3%83%90
%E3%83%A9 " より作成
カテゴリ : カバラ | 西洋儀式魔術 | ユダヤ教 | キリスト教神学


2009年05月13日(Wed)▲ページの先頭へ
差異共振科学へ向けて:-iを肯定するトランス・モダン:超越的絶対的差異肯定とトランス・モダン霊性
近代日本の崩壊・瓦解・滅亡が目前になった。
 私は70年代から憂国意識(今なら憂郷国意識)をもっていたので、今更驚かない。近代日本文化の屋台骨というよりは、土台が虚弱・脆弱なのである。つまり、伝統的日本文化の土台を明治以降、とりわけ、戦後、否定して、借り物の近代西洋文化を土台にしているからである。
 これでは端的に軽佻浮薄なのであり、早晩崩壊するのであり、今や「新世界恐慌」の破局の時をむかえて、その崩壊の時期になったと言えよう。日本郷国土の存亡の危機であるが、これは、思うに、百年、千年等の単位の問題なのである。
 PS理論から言うと、近代日本が捨てた-iを復活させる必要があるのである。これは、ポスト・モダン哲学の用語で言えば、差異である。(ポスト・モダン哲学は差異が精神であり、超越性であることを否定してしまったので、頓挫したと言えよう。何度も繰り返すが、デリダにしろ、ドゥルーズにしろ、超越性に到達したフッサール哲学を否定しているのである。)
 PS理論は差異を-iであると説くのであり、それは、超越的差異である。あるいは、超越的絶対的差異である。これを理解しない限り、日本は地獄行きである。
 そして、-iはトランス・モダン霊性を形成することになるのである。それは「聖霊の時代」を意味する。ポスト・キリスト教の時代である。


2009年05月10日(Sun)▲ページの先頭へ
自民党とは社会主義政党ではないのか:国家統制経済ゾンビ政党:近代封建的国家統制主義
郷国日本の郷国土を「開発」破壊して、金儲けに憑かれた自民党/日本国家民とは何ぞ哉。私は直感として、自民党は自由・民主主義に忠実な政党ではなく、ただ看板だけの、ずる賢い・悪賢い、社会主義政党ではないかと思った。
 社会主義ならば心が冷たいので、平気で、郷国土自然を破壊できるのである。封建・父権的近代合理主義の同一性主義の心性をもっていると思う。そう、日本本来の差異共振精神を喪失した悪鬼・悪霊の心性をもった父権主義者が自民党/日本国家民ではないだろうか。これは、もっとも、自民党に限らず、共産党や民主党その他にも存するのである。
 通俗的に言えば、悪魔に魂を売った政党/国家民が存するのである。これは、封建・父権的近代主義的である。
 これはどこで生まれたのか。直感では、森鴎外の作品にあるような封建主義的二重人格に拠るのである。
 集団性と個人性を使い分けている個のない人間性である。集団性は当然、封建主義から来ているのである。だから、日本には、徹底的なルネサンスが必要である。

追記:戦後も生き延びた戦前的国家統制主義は、封建的集団主義と近代合理主義のキメラが根源である

参考:
満州国の経済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
首都 新京 大同通り

満州国の経済(まんしゅうこくのけいざい)では、1932年 〜1945年 にかけて満州 (現在の中国東北部 )に存在した満州国 の経済 について記述する。1931年 の満州事変 、1932年 の満州国の建国後、日本 により植民地主義 的な統治機構が整備されていった。満州国に対する日本の産業投資は、重工業 に対する重点的資本投下、そしてやや小額ながら農業 資本投下、という構成であった。
概要 [編集 ]

満州国への日本の投資計画は、1933年 に関東軍 と満鉄調査部 部員で構成する「満州経済調査会」が作った「満州国経済建設綱要」で基本方針が定められた。「綱要」によると「我国経済の建設に当たりては、無統制なる資本主義経済 の弊害に鑑み、之に所用の国家的統制を加え、資本の効果を活用」するとしており、当時、世界恐慌 の影響を受けず重工業の生産高を増やしていたソ連 型の計画経済 を指向した。金属 、石油 、兵器 などの戦略物資は満州国と満鉄 が主に出資して設立した特殊法人 に独占を認めたほか、その他の産業でも一業一社主義を実施し、財閥 を排除した。

また、1932年 に満州中央銀行 を設立して、満州国内でいくつもの種類があった通貨 を一元化し、満州元 を発行した。

1930年代 後半に入り、日本陸軍 は満州国で自立した経済を確立することと、軍需産業 の大規模な開発を行うことを決め、1936年 10月の湯崗子会議で、軍需産業の確立、農産資源の増産、産業開発のための施設整備、20分野の産業を重点開発目標に定め総額26億円を投資する「満州産業開発5カ年計画」を決定した。

しかし、5カ年計画1年目の1937年 に日中戦争 が始まったため、鉱工業生産を中心に投資予定は大幅に増額修正され、約50億円となった。自給自足経済の確立も困難となり、日本への原材料供給基地としての意味合いが強くなった。また、同じく1937年、鮎川義介 が率いる日本産業 が、本社を新京 に移駐して満州重工業開発 となり、満州国内の重工業、鉱業への持株会社として、鉱工業への投資を一元的に管理した。

当初、満州工業の中心は交通の要所奉天 と満州の玄関大連 周辺にあり、石油・石炭・大豆・鉄道部品・武器・航空機・リキュール・ビール・加工食品・ガソリンの精製等を行っていた。そのほか、鞍山 、沙河口 、旅順 、撫順 、阜新 、等の都市であった。また、日本海 地区への輸出の窓口として朝鮮北部の港である雄基 港、清津 港、羅津 港も使われていた。
満洲国内の綿農家

満州の対日貿易額は、1931年に輸出額が輸入額を超えた。投資額の半分から3分の2が、大豆製品に充てられ、約10%ずつが石炭と鉄に充てられた。輸入品としては、綿・様々な穀物の粉・粗鉄・工業原料等があった。主要貿易国は中国 と日本で、若干の輸出がソ連にもなされている状態だった。

満州では、外国の実業家が「満州国("Manchukuo")」をもじって「日本州国("Japanachukuo")」と呼ぶほど、日本人による支配が伸展していて、日本が全額出資する満鉄と満州重工業開発が支配する特殊法人が国内の主要産業を独占していた。鮎川義介は、投資機会をアメリカなど外国に分配することを求めたが、外国の影響を嫌う関東軍に拒絶された。明治期、エドワード・ハリマン の南満州鉄道 への経営参画を阻止した経験は、満州国建国後も、この国の国家経営に色濃く影を残すことになる。

日本の投資により、下記のような企業が設立された。
南満洲鉄道

・・・・・

満洲国の鉱物資源 [編集 ]

石炭 [編集 ]

主要な石炭 の鉱床は撫順 にあり、15km³の広さがあり、10億トンの埋蔵量があると推定されていた。 1907年 から1908年 の間は、その産出量は200万トン以下だった。1919年 から1920年 では370万トンまで増加した。後に1924年 から1929年 の間には554万トン、1934年 には石炭産出量は800万トンまで増加していた。 石炭の増産は、内部需要の増加と輸出の増加によるものだった。

1934年 から1936年 の石炭産出量の内訳は、

* 黒竜江 : 40.5万トン
* 熱河 : 45.8万トン
* 吉林 : 26.7万トン
* 遼寧 :1,065.6万トン

その他の主要な鉱床としては煙台 があり、1923年から1924年には100万トンを産出していた。 1930年 の満州国全体の石炭産出量は、1,000万トンを超えた。1941年 には、200億トンの埋蔵量のうち、2,000万トンを産出していた。

石油 [編集 ]

満州国では、ガソリン は鉱物資源からの蒸留 によって抽出されていた。撫順 では、1941年に100万トンが生産されていた。熱河 の石炭鉱床でも、ごく少量のガソリンが抽出されていた。

鉄 [編集 ]

1931年 から1932年 にかけては、鉄 の生産量は、100万トンであった。1934年 には95万トンの低質な赤鉄鉱 の鉱床が見つかり、別の場所でも23.5万トンの鉱床が見つかった。遼寧では、10億トンの良質な鉄が眠っていた。

アルミニウム [編集 ]

満州国の主要なボーキサイト の原料は、遼寧 のアルナイト であった。

その他の鉱物 [編集 ]

満州国では、少量ながら銅 とマンガン が産出した。また、川から金 が採れ、塩湖 から塩 を採取することもできた。この国には大量のアンチモン が存在した。

日本人の1人当たりの鉄使用量が平均70kgだったのに対して、中国では270トンであった。(アメリカは450kg)

鉄とスチールの精製 [編集 ]

1933年 、鞍山 での鉄の総精製量は43万トンであった。1941年 には定期的に175万トンの鉄と、100万トンのスチールを精製できるようになり、1942年 の大掛かりな設備投資によって、生産力が360万トンまで向上した。

満洲国のその他の産業 [編集 ]

1932年 から、その他の産業に対する日本の政府・民間投資も増加していった。

* 農業用肥料
* ダイナマイト 等の爆発物
* 工作機械
* 電気工学諸分野
* 重化学工業諸分野

と同時に、家や近代的なビルの建設が、都市部で進んだ。

満洲の自由貿易地域と港 [編集 ]

* 自由貿易地域: (鉄道でのロシア人との交易のため)
o チチハル
o ハルビン
o 琿春

* 自由港: (米英独の貿易商との交易のために)
o 営口
o 安東
o 大連
o 旅順

1931年 には、日本国内の天然資源の総生産額は2億8300万円だった。不足分は海外からの輸入を行っており、それが2億2200万円だったことから、約60%の自給率といえる。

関連項目 [編集 ]

* 満州関係記事の一覧
* 日本の経済
カテゴリ : 満州国 | 各国の経済


参考2:
日本の経済史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

・・・・・
近代日本の経済 [編集 ]

文明開化 [編集 ]

開国以降は、富国強兵 、殖産興業 政策によって軽工業を中心に工業化 ・近代化を遂げ、株式市場 での直接金融 による資金調達をおこなう近代的な市場経済 を発達させた。主な輸出品は絹糸、マッチ、電球などの軽工業製品であった。また、このころから鉄鋼など重工業も始まったが発達せず、輸入超過が続いた。財閥 と呼ばれた巨大企業は、このころからさまざまな分野に手を出し始めた。この頃、度重なる対外拡張政策などにより、日本の対外債務は膨張。明治維新以来の経済体制は崩壊の危機に瀕した。

二度の世界大戦 [編集 ]

第一次世界大戦 でヨーロッパにおいて軍需 が盛り上がったため、日本の経済は非常に潤い、軽工業から重工業へと転換した(大戦景気 )。また、アメリカと同様に債権国へ転換した。しかし、第一次世界大戦が終了してヨーロッパの軍需が冷え込むと外需に依存していた日本は戦後不況に陥った。1923年 の関東大震災 なども重なり銀行の信用構造は大きく揺らぎ、1927年 に昭和金融恐慌 が発生した。さらに1930年 、浜口内閣 が実行した経済政策 (金解禁)が世界恐慌 と重なることで頓挫し、不況は悪化した(昭和恐慌 )が、その後政権が政友会に戻り、高橋是清 蔵相の下、金解禁を再禁止し、積極的な財政政策により日本経済は一足早く恐慌を脱出した。

世界的な不況の中で躍進を遂げたソ連 の5カ年計画に感化され、日本でも自由主義経済から国家統制経済に移行すべきだと主張する革新官僚 が現れ、国家総動員体制を望む軍部と連携して日中戦争 が始まると次々と経済を官僚の統制下におくようになる。第二次世界大戦 が始まると日本経済は完全に国家統制経済となり、自由主義経済は潰えた。

莫大な戦費は大増税だけではまかないきれず、日銀引受による国債の乱発や軍票の乱発が行われ、これが戦後のハイパーインフレーション を引き起こす要因となった。

終身雇用 や労使一体、月給制など日本的雇用慣習といわれるものはこの時期に作られた。また、官民の協力体制や厚生年金などによる資源配分の傾斜、産業構造の重化学工業化と、財閥 による垂直生産体制の整備は、戦後の経済発展の下地を作った。


参考3:
計画経済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

計画経済(けいかく けいざい、英語 :Planned economy)とは、経済 の資源配分を市場 の価格調整メカニズムに任せるのではなく、国家 によって物財バランスに基づいて計画的に配分する体制。対立概念は市場経済 。

・・・・・
歴史 [編集 ]

計画の機能を初めて本格的に取り上げたのは、『反デューリング論 』や『空想から科学へ 』を著したフリードリヒ・エンゲルス である。

計画経済の原型はスターリン による第一次五カ年計画 期ソ連だった。複雑極まりない経済動態を当局者(ソ連ではゴスプラン と呼ばれた)が完全に把握し、需給 を調整したりするのは極めて難しく、コンピュータ を用いてこれを解決しようという試みもあった(社会主義経済計算論争 )。また計画経済システムの内在的な欠陥を市場メカニズムの導入により解決しようという試みがコスイギン改革やハンガリーにおいて進められたが、結果的に失敗した。

しかし、当時は世界恐慌 の影響を全く受けず非常に高い経済成長を達成したため、世界各国が大きな影響を受けた。特に枢軸国 への影響は顕著だった。例えば、

* 満州国 は、産業開発五カ年計画などを採用した(満州国の経済 を参照)。
* 大日本帝国 も、企画院事件 などで不発に終わったものもあったが、官僚はソ連の計画経済に感化されていた(戦前日本の経済 を参照)。


「矛盾」の問題:極性的対立(反対)と不整合的対立:絶対矛盾的自己同一と絶対差異対立的自己非同一
先に、オバマ政権は二つの「絶対矛盾」があると言った。一つは、差異共振路線における「絶対矛盾」であり、一つは、差異共振主義と同一性主義の「絶対矛盾」である。
 前者は、民主主義と自由主義との「絶対矛盾」であり、これは極性的対立(反対)なのであり、後者は正に、相容れない対立である。
 思うに、「矛盾」は同一性=物質世界における相互否定の対立を意味すると限定した方がいいのではないか。
 差異共振・即非とは、精神・超越性における相互否定的対立である。
 同一性と差異は峻別されるべきであり、それぞれにおいて対立は異なる論理となるのである。同一性の論理(アリストテレス論理)と即非の論理である。前者の対立を「矛盾」とすることになるのである。
 では、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」の「絶対矛盾」は何か。西田幾多郎は個物と個物の相互限定として、「絶対矛盾」を考えている。それは、一見、同一性=物質の世界のことに見える。
 思うに、西田は同一性と差異を混同している可能性がある。しかしながら、例えば、「私」と「山」は差異共振するのである。その場合、両者は同一性だろうか。否、その場合、両者は共に差異である。
 西田の思想を差異主義とするならば、個物と個物の相互限定は即非的となる。そうならば、同一性と差異との混同はない。
 では、「絶対矛盾」の「矛盾」とは、差異共振・即非論理となる。そうすると、上述の定義からすると、それは間違いである。だから、「絶対矛盾」ではなく、差異共振・即非である。あるいは、「絶対差異対立」である。そう、「矛盾」は差異対立とするといいのである。
 以上の視点から西田哲学を見なすと、明快になるのではないだろうか。絶対差異対立的自己同一理論である。つまり、即非の論理やPS理論に通じると言えよう。
 簡単に、絶対対立的自己同一ないしは絶対差異的自己同一性とすればいいだろう。
 しかし、自己同一という発想も問題である。それは、自己同一ではない。自己非同一である。だから、絶対差異対立的自己非同一である。西田哲学の脱構築である。

追記:反対の一致という観念も問題があるだろう。PS理論から言えば、一致しないのである。反対は共振・共鳴するのであり、即非の論理をもつのである。
 また、ヘーゲル弁証法も当然問題である。対立の統一はありえないからである。西洋哲学は、やはり、デリダが説くようにロゴス中心主義、即ち、同一性主義なのである。

参考:
絶対矛盾的自己同一
西田幾多郎
     一

 現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
 かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。それは従来の物理学においてのように、不変的原子の相互作用によって成立する、即ち多の一として考えられる世界ではない。爾(しか)考えるならば、世界は同じ世界の繰返しに過ぎない。またそれを合目的的世界として全体的一の発展と考えることもできない。もし然らば、個物と個物とが相働くということはない。それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない。何処までも与えられたものは作られたものとして、即ち弁証法的に与えられたものとして、自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。基体としてその底に全体的一というものを考えることもできない、また個物的多というものを考えることもできない。現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、右の如き世界でなければならない。現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。故にこれを絶対無の世界といい、また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。
 右の如き矛盾的自己同一の世界は、いつも現在が現在自身を限定すると考えられる世界でなければならない。それは因果論的に過去から決定せられる世界ではない、即ち多の一ではない、また目的論的に未来から決定せられる世界でもない、即ち一の多でもない。元来、時は単に過去から考えられるものでもなければ、また未来から考えられるものでもない。現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、現在というものはなく、従ってまた時というものはない。過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未(いま)だ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。而(しか)してそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。
 瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、時は非連続の連続として成立するのである。時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でなければならない。そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。しかし多を否定する一は、それ自身が矛盾でなければならない。瞬間が否定せられるということは、時というものがなくなることであり、現在というものがなくなることである。然らばといって、時の瞬間が個々非連続的に成立するものかといえば、それでは時というものの成立しようはなく、瞬間というものもなくなるのである。時は現在において瞬間の同時存在ということから成立せなければならない。これを多の一、一の多として、現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。現在が現在自身を限定することから、時が成立するともいう所以(ゆえん)である。時の瞬間において永遠に触れるというのは、瞬間が瞬間として真の瞬間となればなるほど、それは絶対矛盾的自己同一の個物的多として絶対の矛盾的自己同一たる永遠の現在の瞬間となるというにほかならない。時が永遠の今の自己限定として成立するというのも、かかる考を逆にいったものに過ぎない。
http://www.aozora.gr.jp
/cards/000182/files/1755.html
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)


参考2:

反対の一致coincidentia oppositorum
ニコラウス・クザーヌス
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ニコラウス・クザーヌス

ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus、1401年 - 1464年 8月11日 )は、ドイツ の哲学者 ・数学者 ・枢機卿 。

ドイツのモーゼル河畔のクースに生まれる。 ハイデルベルク大学で学び、パドヴァ大学で教会法の博士号を取得。さらにケルン大学で偽ディオニシウス・アレオパギタ らの思想に触れる。その後1430年 司祭 に叙階され、バーゼル公会議 (フィレンツェ公会議 )では指導的な立場で活躍、高名を得る。東西教会の和解のためにも奔走し、教皇使節としてコンスタンティノープル を訪問。1448年 に枢機卿、1450年 ブリクセン大司教。1464年 トーディにて死去。彼の生涯は教会政治家としての実践と、思想家としての理論が融合した類い希なものであった。
思想 [編集 ]

クザーヌスは「知ある無知」や「反対の一致」などという独創的な思想を唱えた。クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。

彼の思索は中世の混沌のなかから近代的思考を準備したと高く評価されている。 また、カール・ヤスパース や西田幾多郎 など後生にも多大な影響を与えたと言われている。日本では、生誕600年を期に注目が高まり、研究が進んでいる。

主要著作 [編集 ]

* De concordantia catholica
o 普遍的和合について(カトリック的和合について)
* De docta ignorantia
o 学識ある無知について
* De filiatione dei
o 神の子であることについて
* De dato patris luminum
o 光の父の贈りもの
* De visione dei
o 神を見ることについて
* Trialogus de possest
o 可能現実存在
* Directio speculantis, seu De non aliud
o 観察者の指針,すなわち非他なるものについて
* Complementum theologicum
o 神学綱要
* De venatione sapientiae
o 智慧の狩猟について

日本語訳一覧 [編集 ]

* 『知ある無知』(De docta ignorantia,1440年 )岩崎・大出訳、創文社
* 『隠れたる神についての対話』(De dep abscondito,1445年 )
* 『神の探求について』(De quaerendo Deum,1445年 )
* 『神の子であることについて』(De filiatione Dei,1445年 )大出・坂本訳、創文社
* 『可能現実存在』(De possest,1460年)大出・八巻訳、国文社  1987年
* 『非他なるもの』(De non aliud,1462年)松山康国訳:『ドイツ神秘主義叢書7』創文社 1992年
* 『創造についての対話』(De Genesi,1446年)
* 『知恵に関する無学者考』(Idiota de sapientia,1450年)
* 『信仰の平和』(De pace fidei,1453年)
* 『テオリアの最高段階について』(De apice theoriae,1463年):上智大学 中世思想研究所監修/『中世思想原典集成17 中世末期の神秘思想』平凡社  1992年掲載
* 『光の父の贈りもの』(De dato patris luminum,1445年)/大出・高岡訳、国文社 1993年
* 『神の子であることについて』『神を見ることについて』(De visione Dei,1453年)
* 『観想の極地について』坂本尭訳/『知恵の狩猟について』(De venatione sapientiae,1463年)酒井・岩田訳:『キリスト教神秘主義著作集10 クザーヌス』教文館  2000年掲載
* 『神の子であることについて』『神を見ることについて』(De visione Dei,1453年)/『観想の極地について』坂本尭訳/『知恵の狩猟について』(De venatione sapientiae,1463年)坂本・岩田訳:『キリスト教神秘主義著作集10 クザーヌス』教文館 2000年掲載
* 『神を観ることについて』八巻和彦訳、岩波文庫  2001年(ほかに、説教と書簡を一つずつ掲載)
* 『神学綱要』(Compendium,1463年 )大出・野沢訳、国文社 2002年

関連項目 [編集 ]
ウィキメディア・コモンズ
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カテゴリ : ドイツの哲学者 | ドイツの数学者 | キリスト教神学者 | キリスト教神秘思想家 | 枢機卿 | 15世紀の数学者 | 数学に関する記事 | 1401年生 | 1464年没


唯物論的医学とPS理論的医学:神経伝達物質は差異共振エネルギーの物質体ではないのか:新精神医療へ
今は予見を簡単に述べるだけであるが、私は今の唯物論的精神医療に大いに疑問をもっている。
 以下のニュースでは、「SSRIやSNRI」のブロック効果を述べているが、それは、実に消極的な療法ではないだろうか。もどってくる神経伝達物質をブロックするということであるからである。
 私の直感では、神経伝達物質とは、差異共振エネルギーを体現している「物質」である。だから、本来は精神・イデアを具現しているのである。ということは、薬物療法では、精神・イデアの末端の治療に関わっているに過ぎないのであり、本体の精神・イデアの治療へは関わっていないのである。
 勿論、薬物療法全体を否定するつもりはない。ただし、それは、末端療法に過ぎないから、本当の治療は行えないと思う。(メルマガの小野寺光一氏のように、坑うつ薬の危険性を説く人もいる。例えば、自殺衝動や攻撃衝動が発生すると述べている。)
 思うに、神経伝達物質(差異共振エネルギー)が戻ってくるというのは、心において、差異共振認識が形成されてないということに関係しているのではないだろうか。
 つまり、差異=他者を受容する意識が形成されていないのではないだろうか。差異=他者の受容の心的回路が形成されれば、神経伝達物質を受容できるのではないだろうか。
 そうすると、神経伝達物質とは、-iに関係すると言えよう。心を+iとすると、差異=他者である-iを受容する心的回路が構築されていないと、-iに関わる神経伝達物質が受容されないということではないのか。
 ここでは、「霊主体従」が重要である。差異=他者=-iを否定するとき、差異共振エネルギーが形成されないことになる。そして、差異共振エネルギーの「物質」が神経伝達物質とすると、当然、活性化されないので、移動せずに、もどってくるということではないのか。
 また、それだけでなく、ニュースの記事にあるように、患者は神経伝達物質が少ないとあるが、正に、差異共振エネルギーが十分に形成されないために、それの「物質」的体現である神経伝達物質が少なくなるということではないのか。
 だから、唯物論的精神医療、薬物療法は末端医療に過ぎず、病気の本体である心・精神を本来的に治療するものではないと思われるのである。後で緻密に検討したい。

追記:また閃いたが、差異共振(差異共鳴)が形成できない人は、怒気に満たされるのではないだろうか。言い換えると、攻撃性が形成されるのでないだろうか。
 端的に言えば、差異共鳴エネルギーとは和合・調和・「共和」のエネルギーであり、平和・平安・優しさ・歓喜・幸福のエネルギーである。もっとも、創造的エネルギーではある。だから、それが形成されないと、心に不要な怒り・攻撃性・ルサンチマンが発生するということではないのか。
 つまり、差異=他者=-iを否定すると、当然、積極・能動的な差異共振エネルギーが形成されなくなる。それは、(+i)*〔-(-i)〕⇒-1と考えられる。つまり、+1を神経伝達物質」とすると、-1が怒り・攻撃性・ルサンチマンということではないだろうか。あるいは、鬱状態である。-1がいわば、悪の本質ではないだろうか。
 思うに、⇒+1は超神経伝達物質であり、霊性ではないだろうか。今日のトランス・モダンの時代精神はそこへいかないといけない。

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多様化するうつ(2) 薬物療法が中心 種類と量、調整しながら

2009年5月8日
写真

 うつ病治療の中心は現在、薬物療法だ。抗うつ薬が主に使われ、抗不安薬などさまざまな薬が処方されている。治療効果が上がっている新世代の薬も登場し、治療に役立っている。 (鈴木久美子)

 「治療ガイドラインと医師の経験に基づいて、患者さん一人一人の特徴に十分配慮した微調整をしながら処方するのがうつ病の薬だ」

 東京女子医科大神経精神科の坂元薫教授は投薬の考え方をこう説明する。

 使用する薬の中心は、抗うつ薬だ。「うつ病に伴う気分の落ち込みや不安、こだわりを軽くして、回復を助ける」と杏林大の田島治教授(精神医学)は解説する。

 主に使われているのは、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)で、日本では一九九九年から使用が始まった。四商品がある。翌年から一商品だけだが、新薬SNRI(選択的セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬)も出た。

 五〇年代から使われていた抗うつ薬は、口が渇いたり、便秘、だるさのほか多量服薬すると心停止により死に至るなど重い副作用があった。SSRIやSNRIは「第三世代」と呼ばれ、効果はほぼ同じで、こうした副作用が少ないといわれる。「うつ病は心の風邪。気軽に病院に行こう」と呼びかけるキャンペーンのきっかけにもなった。

 脳内には、セロトニンやノルアドレナリンといった神経伝達物質があり、神経細胞から放出されて近くの別の神経細胞の受容体に結合して、細胞間に情報を伝える。うつ病患者は、同物質が少ない上に、結合しきれなかった同物質が、放出した神経細胞に戻って取り込まれてしまう。同薬はそれをブロックし、情報伝達を活発にする仕組みだ=イラスト。

 処方では、徐々に服用量を増やしていくのが特徴だ。一−二週間ごとに増やし、患者に適切な量にする。

 「薬量を増やすことに抵抗感を持つ患者さんも多い。医師が最初に処方の基本方針をしっかり説明することが大切だ」と坂元教授は言う。少量のまま飲み続けても、効かなければ意味がない。

 効果が表れるまでに二週間ほどかかる。服用中にいきなりやめると、吐き気やめまい、ふらつき、といった「中断症候群」の症状が出る。

 SSRIには前世代薬のような副作用は少ないが、まれに服用初期や増量時に、不安や焦燥感、怒りっぽさなど「アクチベーションシンドローム(賦活症候群)」と呼ばれる症状が出る。

 効果が思わしくない場合は、ほかの抗うつ薬に変えたり、抗不安薬や気分安定薬などと組み合わせる。日本では、抗不安薬の消費量が多く、米国の約七倍という。米国はSSRIだけを使うが、日本は抗不安薬を一緒に処方する場合が多い。

 併用が不安の解消に有効だという検証結果に基づいているが、六週間を過ぎると効果に差がなくなることも分かっている。短時間で効果が切れる抗不安薬がよく使われ、患者が不安から薬を欲しがり、医師が処方を続けて依存症になる場合もあるという。

 だが「作用時間の長いタイプの抗不安薬を医師が適切に処方すれば、依存は起こりにくい」と坂元教授は話す。医師に相談し適切な知識を持って自分に合った処方で服用すれば、心配ない。

 現在では、抗うつ薬だけでも約三−四割に効果がある。

 坂元教授は「最初の薬で十分な効果が見られなくても、次の薬に変更することで良くなる人も多い。あきらめないで治療を続けてほしい」と話す。

http://www.chunichi.co.jp/article
/living/health/CK20090508020
00067.html?ref=rank
中日新聞 CHUNICHI WEB

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神経伝達物質
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神経伝達物質(しんけいでんたつぶっしつ、英 Neurotransmitter) とはシナプス でシグナル伝達 に介在する物質 で、神経細胞 などに多く存在する。

1960年代からの判断基準によれば、以下のような条件に該当する物質が神経伝達物質と呼ばれている。

* シナプス前細胞で合成される。
* シナプス後細胞に受容する機構(基本的に受容体 )がある。
* シナプス前細胞から開口放出 後、シナプス後細胞に影響を与えるに十分な量がある。
* 非常に局所的に作用し、あたかも物質放出がシナプス後細胞内でおこったかのように作用する(内在性放出の模倣)。
* 放出後に生化学的に不活化するような機構が存在する。

ただし、亜鉛 イオン のように、生体内で合成とは言いがたい方法で単離されるもの、一酸化窒素 のように細胞膜を透過しシナプス間隙より広い範囲に拡散するものについても神経伝達物質とみなす見方もある。

また、ホルモン も細胞間シグナル伝達に介在する物質であり、特定の分子が開口放出され受容体に結合して作用する点なども同じであるが、神経伝達物質による神経性調節は特定の細胞間で局所的に短時間で作用が及ぶもの、ホルモンによる液性調節は循環器系を通じて拡散し大局的に作用するものとして分類されている。

オピオイド などは脳内麻薬 と呼ばれたことがあり、エンドルフィン という語は「体内」「モルヒネ」の混成語 である。現在これらの物質はヒトの体内で生産され恒常性 の維持などに関与していることが分かり、誤解のないよう神経伝達物質と呼ばれている。むしろ現代風の命名法 に従えば、麻薬 は神経伝達攪乱物質などと呼ばれただろう。

神経伝達物質やホルモンの標的となる受容体に対し働きかけ、同様の作用を示す物質をアゴニスト と呼ぶ。受容体と結合するが変化を引き起こさず、結果として神経伝達物質やホルモンの働きを阻害する物質をアンタゴニスト と呼ぶ。
機序 [編集 ]

放出前 [編集 ]

神経伝達物質はシナプス 前細胞の細胞体 で合成され、細胞輸送によって運ばれてくるないしは細胞 外から吸収され、前シナプス終末にあるシナプス小胞 に貯蔵される。前シナプス終末に活動電位 が到達すると神経伝達物質はシナプス間隙 に放出される。

放出後 [編集 ]

神経伝達物質はシナプス間隙 に放出されると、拡散 によって広がり、後シナプス細胞の細胞膜 上にある受容体と結びついて活性化される。受容体がイオンチャネル 型の場合そのイオンチャネル が開き、受容体が代謝型であればその後いくつかのステップを経てイオンチャネル を開かせ、後シナプス細胞に脱分極 ないし過分極 を生じさせる。放出後は速やかに酵素 によって不活性化されるか、または前シナプス終末に再吸収 され、一部は再びシナプス小胞に貯蔵され再利用される(元のシナプス小胞に戻るのではなく別のシナプス小胞に充填される)。

分類 [編集 ]

神経伝達物質は大きく分類すると以下の3つになる。

1. アミノ酸 (グルタミン酸 、γ-アミノ酪酸 、アスパラギン酸 、グリシン など)
2. ペプチド 類(バソプレシン 、ソマトスタチン 、ニューロテンシン など)
3. モノアミン 類(ノルアドレナリン (ノルエピネフリン)、ドパミン 、セロトニン )とアセチルコリン

その他一酸化窒素 、一酸化炭素 なども神経伝達物質様の作用を示す。

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参照:
[ 企業戦略 ]
社員を輝かせる会計-5
価値観の共鳴が強い会社を生む
2009年05月07日(Thu) 天野 敦之

昨今では、業績の悪化や仕事量の増加などに伴い、鬱病の増大などメンタルヘルスが深刻な問題になっている。

 メンタルヘルスに対処するための直接的なコストだけでなく、企業全体の生産性が落ちることによる間接的な損失まで含めると、その影響は甚大であろう。
何のために働くか分からないことが鬱を引き起こす

 鬱病の原因には様々なものがあるが、大きな原因の1つに、自分の仕事の意味が見出せないという点がある。一般的に人は、意味を見い出すことができれば多少肉体的に疲労していても鬱になることは少ない。

 むしろ自分が何のために働いているのか分からないという状況が鬱を引き起こす。

 価値に着目することは、メンタルヘルスに関する有形無形のコストを著しく減少させるという意味でも大きな意味があると言える。

 ここまで説明してくると、読者の方の中には、価値とは要するに企業理念のことか、企業理念であれば当社にもしっかりとしたものがある、と思われる方もいるかもしれない。

 確かに、企業理念は企業がどのような価値を創造するのかを示すものであり、概念的に近い。本当の意味でしっかりとした企業理念を持っている企業は、間違いなく社員が輝き、価値を創造し、利益を生み出し続けている。

 しかし多くの会社の企業理念は、どこかで聞いたような美辞麗句を並べただけに過ぎないものになっている。社員に聞いても企業理念を理解していないか、暗唱させられて覚えてはいるが日々の行動に結びついていないケースも少なくない。

 なぜ企業理念は薄っぺらくなってしまうのか。またなぜ企業理念は利益に結びつかないのか。

 それは、利益の源泉である価値を創造する主体である社員の価値観と合致していないからだ。社員が、企業理念を自分の問題としてではなく、他人事として捉えている。それでは企業理念が機能しないのは当然である。

 社員が企業理念を他人事ととらえることを、経営者は非難してはならない。社員が企業理念に本気にならないのは、経営者が企業理念に本気になっていないからだ。

 まず当然ながら、経営者は自分の言葉で語らなければならない。借り物の言葉では決して社員の心には届かない。自社はどんな価値を創造するのか。どのようにお客様を幸せにするのか。なぜその価値を創造することが自社にとって大切なのか。それを自分の人生観と重ね合わせて語ることが求められている。

 そのためには、経営者の人生観、世界観、事業観から、徹底的に内省し思考を深めていくことが求められる。決して誰かに教えてもらえるものではない。

 また、どれだけ言葉で語っても、それだけでは本気とは言えない。経営者は行動で示さなければならない。自ら見本とならなければ、リーダーシップとは言えない。言葉と行動が一致していて、はじめて人は本気で動く。

 そして重要なことは、社員が企業理念に共鳴していることだ。企業が組織として生み出そうとしている価値と、社員一人ひとりが生み出そうとしている価値。その両者をいかに近づけるかが、今後の企業経営においては極めて重要な意味を持つ。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/987



2009年05月09日(Sat)▲ページの先頭へ
以下、連休中、書いた論考があるので参照されたい。
以下、連休中、書いた論考があるので参照されたい。
http://ameblo.jp/renshi/entrylist-2.html


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愚樵氏の新しい論考

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Wed, May 06, 2009 11:28:32
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『ローマ帝国とキリスト教:支配的な唯一神的父権的同一性主義と母権的差異主義との連続的同一性主義

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Wed, May 06, 2009 11:13:26
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検討問題:ローマ帝国とキリスト教:父権的一神教的超越神とイエスと母権宗教的三位一体

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Tue, May 05, 2009 22:24:49
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民主主義の問題:差異的人間と同一性的人間:民主主義とはMedia Point が源泉であり、トラ

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Tue, May 05, 2009 15:45:21
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子と聖霊:⇒+1と⇒:教祖の時代と万民特異性の時代:差異共振のトランス・モダン

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Tue, May 05, 2009 00:36:58
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パンドラの箱(壺)と水瓶座の水瓶(宝瓶)等々:ギリシア神話の解明へ向けて:父権神話と母権神話:大

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Mon, May 04, 2009 23:21:39
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光と現象美:あるいは、音色の特異性について

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Mon, May 04, 2009 17:27:23
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Financial Times - Asia homepage

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Mon, May 04, 2009 11:37:51
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エネルゲイアと死の現象:現象と芸術

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Mon, May 04, 2009 00:48:14


2009年05月02日(Sat)▲ページの先頭へ
権力への意志Wille zur MachtとMedia Point:同一性志向性*差異共振志向性
思うに、「権力への意志」Wille zur Machtは、おそらく、ほとんど理解されていない、ニーチェの大天才的な概念ではないだろうか。ニーチェはほとんとPS理論に近づいていたと考えられる。端的に言えば、「権力への意志」とは、Media Pointの力学に触れていると推察できる。
思うに、「権力」Machtとは力学の「力」である。そして、意志であるが、以前触れたと思うが、自然(じねん))の「自」、即ち、「おのずから」に近いと思う。だから、自然力(じねんりょく)である。
 ニーチェの思想はきめて、自然科学的な発想に近づいているのである。それも、東洋的な自然科学というべきである。あるいは、自然哲学的である。
 ここでは簡単に触れるだけであるが、「力への意志」の「力」とは、思うに、Media Pointが生成する同一性志向性であり、また、回帰する志向性である。親鸞的に言えば、往相と還相である。
 同一性志向性とは仮象志向性(マーヤー志向性)である。可視的な現象世界の志向性である。端的に、光の志向性である。それに対して、回帰志向性とは、不可視の世界、イデアの世界、超越性の世界への回帰の志向性である。言い換えると、差異共振性・即非性への志向性である。
 思うに、同一性志向性、即ち、⇒+1とは、自然(じねん)生成であり、ある「力」である。エネルギーと言っていいだろう。この「力」=エネルギーは実在するものであり、それと、回帰する「力」=エネルギーと共に、自然を生成進展させる根源力と考えられる。
 問題は、この二つの「力」=エネルギーとは同じものなのか、それとも異質なものなのか、である。
 思うに、同一性志向性が正(プラス)の「力」=エネルギーならば、回帰志向性は負(マイナス)の「力」=エネルギーであろう。それを作用、反作用としていいか疑問である。
 思うに、正の「力」=エネルギーを陽力とすれば、負の「力」=エネルギーを陰力と呼べる。
 思うに、これは発生的なものというよりは、同時並立的なものではないだろうか。即ち、プラスの力と同時に、マイナスの力が作用しているのである。だから、極力である。
 しかしながら、人間においては、プラスの力への傾斜が特化しているのである。とりわけ、男性においてそうである。
 このために、人間においては、自然力は不均衡になっているのである。あるいは、両極端になりやすいのである。
 端的に言えば、同一性志向性が同一性主義へと転換するのである。つまり、同一性=物質主義が生まれるのである。そうすると、マイナスの力、差異共振力が否定・抑圧・排除・隠蔽されて、それが反動=狂気化するのである。
 もっとも、この傾斜があるために、「進化」があったと考えられる。物質科学・技術が発展したのである。また、戦争も拡大したのであるが。
 とまれ、ニーチェは「力への意志」の概念によって、自然の根源力、即ち、同一性志向性と差異共振志向性にほとんど到達したと思われる。
 ただし、ニーチェの場合、同一性志向性に傾斜している。そのために、権力主義肯定の方向があるのである。プラスとマイナスの極力があると見るのが正確であると考えられる。
 文明に応用すれば、西洋文明とは、同一性志向性、プラス・エネルギーに傾斜した文明であり、差異共振志向性を抑圧してきた父権文明であった。ただし、古代ギリシアやイタリア・ルネサンスにおいては、差異共振志向性、母権的志向性がはたらいていた。
 思うに、世界全体を考えれば、当然、極力の均衡作用がはたらくと言えよう。即ち、西洋文明のプラス傾斜に対して、東洋文明のマイナス傾斜がはたらくと考えられるのである。
 言い換えると、ユダヤ・キリスト教的同一性主義に替わって、「多神教」的差異共振主義が台頭するが正道・正義・正統であると考えられる。

ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫) (文庫)
フリードリッヒ ニーチェ (著), Friedrich Nietzsche (原著), 原 佑 (翻訳)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫) (文庫)
フリードリッヒ ニーチェ (著), Friedrich Nietzsche (原著), 原 佑 (翻訳)

力への意志
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力への意志(ちからへのいし、ドイツ語:Wille zur Macht)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ の主要な哲学的概念のひとつであり、「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」[1] があらゆるものの根源であるという思想 である。
解説 [編集 ]

この言葉が公刊された著書に初めて出てくるのは『ツァラトゥストラはこう語った 』第2部「自己超克」の章である [2] 。 そこでニーチェは、「賢者」たちが全ての物事を思考可能なものにしようとする「真理への意志」の正体が、一切を精神に服従させようとする「力への意志」であると批判している[3] 。すなわち、力への意志はルサンチマン と当初密接な関係があり、否定的なものとして記されていた。しかしやがてニーチェは力への意志を肯定的な概念としてとらえ直す。

力への意志は権力への意志と訳されることもあるが、力への意志の「力」は、人間が他者を支配するためのいわゆる権力のみを指すのではない。また「意志」は、個人の中に主体的に起きる感情のみを指すのではない[4] 。力への意志は自然現象を含めたあらゆる物事のなかでせめぎあっている[5] 。力への意志の拮抗が、あらゆる物事の形、配置、運動を決めている。つまり、真理は不変のロゴス として存在するものではなく、力への意志によりその都度産み出されていくものなのである。この思想はジル・ドゥルーズ の差異の哲学に受け継がれた[6] 。

ニーチェは、キリスト教 主義、ルサンチマン的価値評価、形而上学 的価値といったロゴス的なものは、「現にここにある生」から人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、力への意志によって流転する価値を承認し続けなければならない悲劇的存在であるとする。だが、そういった認識に達することは、既存の価値から離れ、自由なる精神を獲得することを意味する。それは超人 へ至る条件でもある[7] 。

力への意志という概念はナチス のイデオロギー に利用されたが、現在ではニーチェの哲学を曲解したものであるとする見方が強い[7] 。

著書 [編集 ]

ニーチェは『力への意志』を著すために多くの草稿を残したが、本人の手による完成には至らなかった。ニーチェの死後、これらの草稿が妹のエリーザベト によって編纂され、同名の著書として出版された[8] 。 ただし、力への意志という言葉は『ツァラトゥストラはこう語った』や『人間的な、あまりにも人間的な』の中でも登場し、その概念をうかがい知ることができる。

脚注 [編集 ]

1. ^ ニーチェ著、原佑訳 『権力への意志』下巻、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1993年、p.216。
2. ^ 今村仁司編 『現代思想を読む事典』 講談社〈講談社現代新書〉、1988年、pp.423-424。
3. ^ ニーチェ著、氷上英廣訳 『ツァラトゥストラはこう言った』上巻、岩波書店〈岩波文庫〉、1967年、pp.193-194。
4. ^ 貫成人 『真理の哲学』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2008年、第1章§2。
5. ^ 貫成人 『図解雑学 哲学』 ナツメ社、2004年、p.134。
6. ^ 『わかりたいあなたのための現代思想・入門』 別冊宝島44、宝島社、1984年、pp.22-23。
7. ^ a b フリードリヒ・ニーチェ#思想 を参照。
8. ^ 日本語訳: ニーチェ著、原佑訳 『権力への意志』上下巻、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1993年。

関連項目 [編集 ]

* フリードリヒ・ニーチェ
* エリーザベト・フェルスター=ニーチェ
* ツァラトゥストラはこう語った
* イデオロギー

執筆の途中です この「力への意志」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています 。(Portal:哲学 )


2009年05月01日(Fri)▲ページの先頭へ
古代天文学(古代宇宙論):東洋と西洋:エジプト、オリエント、インド、中国、ギリシア、他
プラトンの謎めいた『ティマイオス』におけるエジプトとギリシアとの関係の示唆。アトランティス文明の謎。近年では『黒いアテナ(ブラック・アテナ)』が問題になった。
 シュタイナーの精神的進化論では、ポスト・アトランティス時代とは、
1)インド文化期
2)ペルシア文化期
3)オリエント/エジプト文化期
4)ギリシア/ローマ文化期
5)近代西欧文化期
6)ロシア文化期
7)アメリカ文化期
の七つの文化期からなる。
 シュタイナーは東洋の影響が強いがやはり、西洋人なので、やや西洋中心的になっている。
 第6の文化期は思うに、ユーラシア文化期ではないだろうか。あるいは、(中東)アジア文化期である。
 とまれ、重要なのは、西洋文明とは、東洋文明の背景から立ち上がった文明であり、基盤は東洋文明であるということである。ただし、特殊なのは、ユダヤ・キリスト教的一神教をイデオロギーにもっていることである。
 以前、指摘したが、この一神教はローマ帝国の支配の必要から生まれたのではないのかということである。キリスト教三位一体は、三位三体であると以前述べた。とまれ、ローマ帝国とキリスト教の問題の謎がまだ残っていると言えよう。

追記:父と子と聖霊の三位一体であるが、PS理論から分析すると、父は+iであり、子はMedia Pointであり、聖霊はMedia Point Energyではないだろうか。
 そう見ると、-iの地母神が欠落しているのである。聖母マリアとは、その役割を当然しているだけでなく、Media Point全体を意味するのではないだろうか。
 聖母マリアとイエスの関係はどうなるだろうか。これは、簡単である。イシスとオシリスの関係である。あるいは、アマテラスとスサノオの関係である。あるいは、ディオニュソスとアポロの関係である。
 つまり、聖母マリアは本来、不可視の光であり、イエスが可視の光であろう。とまれ、両者一体である。そして、きわめて、古代オリエント的である。
 
@@@@@@@@@@@@@@@@

覚え書き1:西アジアの史料における星名・星座(主に日本語で読める史料)

ネット上では救いがあります-----というより、とても良いページがあります

* 客星さんの古天文の部屋
* 出雲晶子(DANDAN)さんの天文民俗学のページ (異動により更新が休止してしまいました。残念です。)

http://www.hum.u-tokai.ac.jp
/~haruta/star/strnote1.html

参照:
『ブラック・アテナ 古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ』
http://www.shinhyoron.co.jp
/cgi-db/s_db/kensakutan.cgi
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