INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/03

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年03月12日(Thu)▲ページの先頭へ
カルデロン一家問題とソフォクレスの『アンティゴネー』:ディオニュソス⇒+1とアポロ±1
カルデロン一家問題は、テレビで見たが、やはり、法務省がおかしいと直感で思った。
 法体系と自然的人間秩序とが乖離していると考えられる。先に簡単に提示したが、法体系は、同一性自己主義で、-1であり、自然的人間秩序は差異共振秩序であり、⇒+1であると思う。(+1は、媒介である。)
 想起したのは、古代ギリシアのソフォクレスの『アンティゴネー』である。それは、国王クレオンによって、禁止された、兄の埋葬を妹のアンティゴネーは行うのであるが、国法に違反したということで、アンティゴネーは死刑になるという悲劇であるが、国王クレオンの法とアンティゴネーの「倫理」とが対立するのであるが、これは、正に、カルデロン一家問題に通じるだろう。
 法律は、善悪二項対立であり、PS理論的には、-1であろう。つまり、同一性自己主義である。そして、アンティゴネーの行動は、兄との差異共振原理に拠るものと考えられ、⇒+1である。つまり、同一性主義-1と差異共振主義⇒+1が絶対的に対立しているのである。
 法務省入国管理局は入国管理法-1を拠り所にして、不法入国したカルデロン夫妻、とその娘に強制退去処分をしたのである。しかし、それに対して、その処分に反対する声が大きいのである。それは、自然的人間秩序の隠れた「法」に拠ると考えられる。よく人道とか言われるが、それは、差異共振秩序であると考えられ、⇒+1である。
 だから、まったく、『アンティゴネー』と同型である。法律-1と差異共振秩序⇒+1の対立である。ここで、私見を言うと、法律は確かに法律であり、守る必要があるが、しかし、それは、同一性主義の法であり、絶対ではないのである。根本は、差異共振秩序である。だから、そのためには、法律は同一性主義価値を抑えて、理を差異共振秩序に譲るべきなのである。
 とまれ、ここにあるのは、父権原理と母権原理の衝突である。そして、根本は後者であるから、後者を基準とした法改正が必要であると考えられるのである。
 法体系は絶対ではないのである。国家原理は絶対ではないのである。自然的人間秩序・差異共振原理・母権原理が根源にあるのである。
 さて、本件のテーマを敷延すると、ニーチェのアポロとディオニュソスの関係に届くだろう。アポロは個別原理であり、ディオニュソスは対立和解の原理である。それは、当然、父権原理と母権原理とそれぞれ言い換えられるのである。
 思うに、ニーチェのアポロの把握が揺れ動いているだろう。現象としては、アポロは+1であるが、同時に、同一性自己主義としては、-1になっているのである。そして、ディオニュソスは当然、差異共振原理であるから、⇒+1である。だから、(1)ディオニュソス⇒(2)アポロ⇒(3)同一性自己原理の流れがあり、ニーチェは、(1)⇒(2)と(1)VS(3)の二つをいっしょくたにして、述べていると考えられるのである。
 一般には、わかりやすいので、後者の(1)VS(3)を理解しているが、前者の(1)⇒(2)、即ち、⇒+1は看過されている傾向にあると言えよう。
 今はここで留める。後で整理したい。

追記:法体系は同一性自己主義で-1であると上記したが、それは少し短絡的である。つまり、この場合は、入国管理法という日本国の法律があるが、それは、国家を同一性自己としたときには、同一性自己主義になるということである。つまり、国家を一人の人格・個体と見たときに、同一性自己と見ることができ、また、その法体系は同一性自己主義であると見なすことができる。
 あるいは、もっと根本的に、国法が善であり、それが二項対立形式となり、それに違反する者は悪であるということであり、国法が絶対的になって、国法以前に、いわば、不文律の母権原理法、そう自然法があるのを、認めていないのである。そう、自然法という根拠を提出すればいいのである。


参照:
アンティゴネー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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フレデリック・レイトン によるアンティゴネ

アンティゴネー(アンティゴネ)はギリシア神話 に登場するテーバイ の王女。父はオイディプース 、母はその妃で母親のイオカステー 。

父オイディプースが自分の出生の秘密を知り、目を潰した後、イオカステーの兄弟クレオーン に追放されると、妹イスメーネー とともに父に付き添って諸国を放浪した(ソフォクレス 『コロノスのオイディプス』を参照のこと)。父の死後、テーバイに戻ったが、兄の1人、ポリュネイケース は隣国の助けを借りてテーバイの王位を取り戻すべくテーバイに攻め寄せてくる(アイスキュロス『テーバイ攻めの七将 』)。しかし、闘いむなしく、テーバイの七つの門に攻め寄せた軍は悉く打ち破られ、ポリュネイケースは兄弟エテオクレース と相討ちで戦死。クレオーンは反逆者である彼の屍を葬ることを禁じるが、アンティゴネーは自ら城門を出て、市民たちの見ている前でその顔を見せて兄の死骸に砂をかけ、埋葬の代わりとした。そのため彼女は、クレオーンによって死刑を宣告された。アンティゴネーは牢で自害し、その婚約者であったクレオーンの息子ハイモンもまた自刃した。

アンティゴネーはギリシア悲劇の題材とされ、ソポクレス に『アンティゴネー』と題する悲劇が残っている。またジャン・アヌイ はクレオーンを主人公として、アンティゴネーの処刑の挿話を扱っている。(『アンティゴーヌ』)

アンティゴネーの悲劇は、兄への弔意という肉親の情および人間を埋葬するという人倫的習俗と神への宗教的義務と、人工的な法律 の対立から来るものである。ゲオルク・ヘーゲル は『精神の現象の学』の人倫(Sittlichkeit)の行において、アンティゴネを人間意識の客観的段階のひとつである人倫の象徴として分析している。


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カテゴリ : ギリシア神話の人物

17日の全員送還を通知 カルデロン一家 入管 両親の自主帰国求める


 強制退去処分を受けた日本生まれのフィリピン人カルデロン・のり子さん(13)=埼玉県蕨市立第一中学一年=の一家が在留特別許可を求めている問題で、九日に出頭した父親のアランさん(36)を強制収容した東京入国管理局は「十三日までに両親が自主的に帰国する意思を表明しなければ、十七日に家族全員を強制送還する」と通知した。

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 この相談のために、のり子さんと母親サラさん(38)の仮放免期限は十六日まで延長されたが、家族三人で日本で暮らしたいという願いは遠のいた。

 両親が強制送還されれば、原則五年間は再入国できない。

 森英介法相は、日本に残ったのり子さんに会うために短期間の上陸特別許可を出すことを提案したが、入管側は「自主的に出国しなければ、約束できない」と説明したという。

 アランさんは一九九二年、妻のサラさんは九三年、それぞれ他人名義のパスポートで来日、のり子さんが九五年に誕生。二〇〇六年に一家の不法滞在が発覚、強制退去処分を受けた。

 処分取り消しを求めて提訴したが、昨年九月に最高裁で処分が確定した。
『気の毒』『違法』 世論は二分 落とし所探る法務省

 カルデロンさん一家をめぐる問題で、法務省は、「気の毒」「不法入国は違法」という二つの世論を横目に落とし所を探ってきたとみられる。

 強制退去命令が出ている一家に対し、のり子さんのみの在留特別許可を認め、両親には再上陸のための短期間の上陸許可を事前に提案したのは「異例中の異例」(関係者)という。柔軟な姿勢を見せた、とする関係者もいる。

 しかし、一方で、ほかの不法滞在者への影響を考えれば「これ以上は譲らない」という強い姿勢を見せる必要があった。

 入国管理局は二〇〇四年から「不法滞在者五年半減計画」を実施、当初二十二万人だった不法残留者を48・5%減らした。〇七年には再入国外国人に指紋採取などを求める改正入管法を施行した。今国会には三年後導入を目指して、入管と行政が中長期滞在する外国人情報を一元管理するための法案を提出。新制度が始まれば、現在も約十一万人が残る不法滞在者には取り締まりが強化される。

 フィリピン人ののり子さんが在留特別許可を申請した場合、在留資格は法務大臣が個々に認めた活動に対して在留期間を判断する「特定活動」になる可能性が高い。高校進学では「留学」という資格もある。こうした措置で学業を、「上陸許可」で親子のつながりを、それぞれ将来も保てるようにするとみられる。
のり子さん『お父さん帰して』

 「すぐにでも、お父さんを帰してほしい」。東京・霞が関で記者会見したのり子さんは涙ながらに訴えた。

 アランさんは前夜、「収容されるかも」と話したという。のり子さんは「本当にそうなってほしくなかった。家族三人で残りたい気持ちは変わらない」と唇をかみしめた。代理人の渡辺彰悟弁護士は「今はどうするか決められない。三人での在留としか言いようがない」と話した。

 のり子さんは母国語を話せず、日本での勉強を希望。一家の在留特別許可を求める署名は約二万人分になり支援は広がっていた。

 外国人問題に詳しい山口元一弁護士によると、不法滞在の家族に在留特別許可を出す場合、強制退去処分を決めた時点で、子どもが母国になじめないと判断される中学生以上というのが入管の基準。のり子さんは小学五年で、そのまま強制送還されても母国になじめると判断したとみられる。

 山口弁護士は「今回の入管の態度は、その後、中学生になってもこの基準の変更を認めず、母国に帰すという意思の表れだ」と解説。「生活実態をみて処分を見直すことも可能なはずだ。子どもの発達にとって、言語や教育環境の重要さ、親子が同居する大事さを考えると、入管当局の態度はかたくなに過ぎる」と指摘した。

 在留特別許可 入管難民法で強制退去処分に該当しても、法相が特別な事情があると認めた時などに適用される。法務省は2006年に発表したガイドラインで、許可を出す際に考慮する要素として、国籍がある国で生活することが極めて困難な場合など、人道的配慮を必要とする事情があることを挙げている。

http://www.tokyo-np.co.jp
/article/national/news/
CK2009031002000047.html

自然法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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自然法(しぜんほう、英 : Natural law、独 : Naturrecht、羅 : lex naturae, lex naturalis)とは、事物の自然本性 (英 : nature、独 : Natur、羅 : natura)から導き出される法 の総称である。
定義 [編集 ]

自然法とは、事物の自然本性 から導き出される法 の総称である。明治 時代には、事物の性(さが)に合致する法 という意味で、性法(せいほう)という訳語も用いられた[1] 。自然法は実在するという前提から出発し、それを何らかの形で実定法秩序と関連づける法理論は、自然法論 と呼ばれる。自然法には、原則的に以下の特徴が見られる。但しいずれにも例外的な理論が存在する。

1. 普遍性:自然法は時代と場所に関係なく妥当する。
2. 不変性:自然法は人為によって変更されえない。
3. 合理性:自然法は理性的存在者が自己の理性を用いることによって認識されえる。

自然法の法源とその認識原理 [編集 ]

法源 [編集 ]

自然法の法源は、ケルゼン の分類に従うならば、神 、自然 ないし理性 である[2] 。ギリシャ哲学 からストア派 までの古代の自然法論 においては、これらの法源が渾然一体となっている。

法源としての神 [編集 ]

神 が人間の自然本性 の作り手として想定されるとき、自然法の究極の法源は神 となる。このことは理性 にもあてはまり、神 が人間に理性 を与えたことが強調されるときは、合理的な法としての自然法の究極な法源 もまた神 となる。この傾向は特にキリスト教 の自然法論 において顕著である。例えば、アウグスティヌス にとって、自然法の法源 は神 の理性 ないし意思 であった[3] [4] 。また、トマス・アキナス にとって、自然法とは宇宙 を支配する神 の理念たる永久法 の一部である[5] [6] 。

法源としての自然 [編集 ]

ここで自然 とは、自然本性 一般のことではなく、外的な自然環境のことである。外的な自然が自然法の法源となるのは、専ら外的な自然環境と人間の自然本性との連続性が強調されるときである。これはとりわけヘラクレイトスおよびストア派の自然法論において見られ、そこでは自然学と倫理学とが連続性を保っている。このような場合には、自然法則 と自然法がほとんど同義で語られることが多く、何らかの傾向性(例えば結婚は普通雌雄で行われることなど)が自然法とされることもある。

自然法とは、自然 が全ての動物に教えた法 である。なぜなら、この法 は、人類のみに固有のものではなく、陸海に生きる全ての動物および空中の鳥類にも共通しているからである。雌雄の結合、すなわち人類におけるいわゆる婚姻は、実際にこの法 にもとづく。子供の出生や養育もそうである。なぜなら、私が認めるところによれば、動物一般が、たとえ野獣であっても、自然法の知識を与えられているからである。---学説彙纂第1巻第1章第1法文第3項[7]

人間の自然本性 を理性的であると解する立場から見れば、理性 もまた自然法の法源となる。特に理性 を自然法の法源として独立させたのは、近世自然法論者たちである。彼らは自然法を正しい理性 の命令と定義して、神的な要素をそこから取り除いている。純粋に理性 が自然法の法源 となるときには、自然法は実定法 以外の合理的な法を意味する。この特徴はとりわけホッブズ に見られ、彼は自然法を、単に人間が合理的に思考し、その自然本性 としての死への恐怖にもとづいて意思が受け入れるであろう法 と解している。

自然法の認識原理 [編集 ]

自然法の法源 が制定法 や判例法 でない以上、その認識 手段が常に問題となる。基本的に、自然法の認識原理は、その法源の種類にかかわらず理性であると言われる。すなわち、自然法が超自然的な存在によって作られたものであろうとなかろうと、それを発見するのは人間の理性である。理性 が人間の自然本性 である以上、合理的思考は自然法の認識にとって不可欠となる。ストア派 にとって倫理学は論理学と自然学の上に成り立つものであり、密接不可分である[8] 。

義務 は次のように定義される。「生における整合的なことで、それが実行されたときに合理的に説明されることである」。これとは反対のことは義務 に反することである。これは、非ロゴス 的な動物 にも及ぶ。なぜなら、それらも、それ自身の自然本性 と整合的な何らかの働きをしているからである。理性 的な動物の場合は、次のように説明される。「生における整合的なこと」。---ストバイオス『抜粋集』第2巻7-8[9]

これに対して、自然法が人間には直接的には認識不可能であるという立場からは、何らかの補助手段を用いることが要求される。その場合、キリスト教 の自然法論 は、神からの啓示 を重視する。それは、専ら新約聖書 および旧約聖書 から得られる指図である。典型的な啓示 は、モーセ の十戒 である。

自然法とその他の法との関係 [編集 ]

慣習法との関係 [編集 ]

既に初期ストア派 のクリュシッポス が、ノモス (慣習)とピュシス (自然本性)を対置し、後者を前者に優位させる[10] 。ローマ・ストア派 の思想に影響されたキケロ は、自然法の法源を理性 に求めながら次のように述べている。

次はもっとも愚かな見解である。すなわち、国民の習慣や法 によって定められていることはすべて正しいと考えることである。僭主 の法 でも正しいのか。…(中略)…人間の共同体を一つに結びつけている正しさは一つであり、それを定めたのは一つの法 であり、この法 は命じたり禁じたりする正しい理性 だからである。この法 を知らないひとは、この法 の書かれているところがどこかにあろうとなかろうと、不正な人である。---キケロ『法律について』第1巻42[11]

トマス・アキナス は神 の意思を自然法の法源としながら、次のように述べる。

自然法ならびに神法 は神的意志から発出するものであるから、人間の意志から発出するところの慣習によっては改変されえないものであり、ただ神的権威によってのみ改変されることが可能である。したがって、いかなる慣習といえども神法 や自然法に反して法 たるの力を獲得することはできない。---第2部の1第97問題第3項[12]

グロチウス は自然法と万民法 とを区別しながら[13] 、万民法 とは「時代と慣習の創造である」という[14] 。

これに対して、歴史法学派 のカール・フォン・サヴィニー は、自然法を各民族について相対化しながら、自然法と慣習法 とをかなり接近させる[15] 。

実定法との関係 [編集 ]

自然法と実定法 との関係には主に2種類あり、ひとつは授権関係、ひとつは補完関係である。前者の場合、自然法は実定法 に対する授権者となり、自然法に反する実定法 は原則的に失効する。但し、正当な理由があるときには、この限りでない。正当な理由としては、堕落した人類は自然法上の義務を完遂できないことなどが挙げられる。他方で、後者の場合、自然法は実定法 が欠缺している領域を補うことになり、その最も重要な適用領域は、国際関係とされていた。これは、特に近代において、国際関係を規律するルールが非常に多くの点で整備されていなかったからである。今日においては、非常に多数の国際条約 が締結されており、必ずしもその限りではないが、学説上、自然法の復権を訴えるもの[16] も中には見られる。

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検討問題:時間あるいは生長・成長とは何か:エネルギー⇒と同一性自己認識-1と物質+1:Ver2:追記を加える
先に、同一性主義-1(同一性自己主義と物質)と差異共振的同一性+1(差異共振知覚ともの)との相違の説明を試みたが、そうすると、結局、自然現象の生長・成長とはどういう「力学」なのだろうか、疑問に思った。言い換えると、PS理論的発生力学をどう考えるのか、ということである。
 今日は余裕がないので十分論じられないが、簡単に考察してみたい。結局、本件は、⇒+1をどう見るか、ということに懸かっている。
 いったい、時間とは何だろうか。生まれ、育ち、成長し、子孫を残し(残さないものもいるが)、そして死ぬ、この生成消滅過程を形成するエネルギー、時間は何なのか。
 Media Pointの差異共振性(+i)*(-i)は超越情報振動である。この多重複合体(多重複合子と造語しようか)の現象化が⇒+1と考えられる。
 問題は現象化と物質化との違いである。+1は差異共振的同一性化であり、物質化ではないと先に述べた。しかしながら、また、疑問に思えてきた。
 先の言い方にもどれば、現象としての水は「もの」+1であるが、H20 は、物質-1としての水である。しかしながら、「もの」+1としての水に物質-1としての水が含まれるのではないだろうか。あるいは、「もの」に物質が包摂されるのではないだろうか。
 つまり、+1⊃-1ではないだろうか。そう、-1は+1の部分集合ではないだろうか。そうならば、物質-1は「もの」+1にも存しているのである。ただし、差異共振態における物質ということになろう。しかしながら、差異共振態にある物質とは、物質-1ではないのである。つまり、それは、端的に、+1だからである。「もの」である。
 錯綜しているので、区別する必要がある。同一性主義自己認識は、-1でいい。問題は、⇒+1と+1である。前者はいわば、差異共振性の文脈を明示した物質と考えられないだろうか。つまり、現象内の物質ということであり、現象という条件があるのである。
 後者は現象という条件をなくした物質ということになる。そして、それは、-1の同一性主義自己認識性と対(つい)になっているということになろう。
 つまり、-1の同一性主義自己認識が⇒+1の⇒を奪い取ってしまうということになる。それは考えられることであり、直近以前はそう考えてきたのである。
 ということで、先に戻ることになる。そして、本題に戻れば、成長とは、やはり、端的に、⇒+1であり、物質身体が+1で示されるのである。
 では、時間はどうなるのだろうか。アインシュタインの公式で考えると、E=mc^2であり、光速cに時間が存している。つまり、エネルギーは質量(物質)だけでなく、時空間を生むのである。これをMedia Pointに適用すれば、⇒が時空間や物質を形成しているとなる。だから、成長もやはり、同様である。【PS 理論から言えば、Trans-Energy(超越エネルギー:超越光エネルギー)=m(+ic)*(-ic)⇒mc^2である。だから、高次元界=超越界(イデア界)が、四次元時空間現象を形成しているのである。そう、+icと-icの対極の意味するものが驚異的である。原光と原闇、ないしは、超光と超闇が、高次元時空間・超時空間を形成しているのである。そう、そこにも、なんらかの時空間があると思われる。現象界からは永遠と見られているが、超越的時空間があると考えられよう。思うに、そこには、過去、現在、未来のヴィジョンがあるのではないだろうか。つまり、オカルティストの言うアカシック・レコード(アカシャ年代記)がそこにはあるのではないだろうか。この問題はここでおいておく。】
 個々の生命体の違いは、Media Pointにおける多重複合振動子の「差異」に拠ると考えればいいだろう。今はここで留める。

追記1:用語が混乱するので、+iを超光、-iを超闇とする呼び方はやめにして、これまで通り、それぞれ、原光、原闇とし、両者の共鳴によって超越光(超光)が生まれるとする。後で、超越光から光の発生の力学を明確にしたい。

追記2:本件の問題はこれからさらに検討されなくてはならないが、一言付け加えると、⇒+1は精神身体(気的身体)であり、+1は物質身体であり、東洋医学は前者を扱い、西洋医学は後者を対象としていると言えよう。
 そして、両者は似て非なるものである。というのは、前者には、Media Pointの精神エネルギーが物質身体を満たしている、ないしは、浸透しているのであり、それが、物質身体を主導していると考えられるのである。いわば、霊主体従である。【このように考えると、ルドルフ・シュタイナーの人体論を想起する。エーテル体が気的身体(精神身体はそれ以上である)、物質体が物質身体となろう。】
 問題は、精神エネルギーと物質身体との関係ないしは境界である。当然、境界はMedia Pointであり、精神身体である。ヨガのチャクラや道教の丹田や気功のツボや経絡がそれに相当しよう。
 思うに、人体に垂直にあると考えられる精神身体であるが、それは、Media PointないしはMedia Point軸と言えるのではないだろうか。(頭脳が±1であり、内臓が⇒+1ではないだろうか。この点は検討課題である。)
 とまれ、より理論的に境界の様相を考えたい。結局、精神身体とは、精神は物質であり、且つ、物質ではないという身体ではないだろうか。だから、即非身体である。より正確に言えば、精神エネルギーの同一性化があるが、この同一性身体に背後に精神エネルギーがあるのである。しかし、物質主義は、この同一性身体を単に物質身体と見るのである。同一性身体とは、この場合、⇒+1の身体である。そして、物質身体とは、当然、+1の身体である。
 だから、明晰にするために、前者を精神同一性身体、後者を物質同一性身体と呼び、峻別することができるだろう。(当然、東洋的身体とは前者であり、西洋的身体とは後者である。)言い換えると、前者は差異共振身体であり、後者は同一性自己主義身体(心身二元論的身体)である(後者においては、本文で述べたように、+1の物質身体と-1の同一性自己主義が対応・呼応しているのである。)。
 両者の違いをさらに言い換えると、前者はMedia Point Body(MP身体)、後者はMaterial/Identity Body(物質・同一性身体)と呼べよう。あるいは、東洋的身体は虚軸即非実軸身体であり、西洋的身体は実軸身体である。
 端的に言えば、西洋近代文化はメインストリームにおいて、物質・同一性身体(心身二元論)を対象としてきたのであり、Media Pointを抑圧・排除・隠蔽してきたと言えよう。
 しかしながら、それとは別に、Media Point身体を追求してきたのであり、これは、トランス・モダンの先駆である。そう、西洋文化における東洋的身体文化はすぐれたものである。たとえば、バッハ音楽は、東洋的身体文化であると考えられるのである。つまり、近代西洋文化は二重なのである。モダンと先駆トランス・モダンの二重性が存しているのである。この点は看過されてはならない。西洋における東洋である。


参考:アカシャとは、虚空、空(くう)である。これは、PS理論から言えば、Media Pointの虚軸ゼロ点ではないだろうか。ここで、虚軸=超越界=イデア界が参入できるだろう。「秘儀参入」である。

アカシックレコード
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アカシックレコード (Akashic Records) は、宇宙や人類の過去から未来までの歴史全てが、データバンク的に記されているという一種の記録をさす概念。多くの場合、宇宙空間それ自体にその(一種の)記録がなされると考えられており、アカシャ (Akasha) とはサンスクリットで「虚空」、「空間」を意味する。

神智学(あるいは人智学)やリーディングの伝統(チャネリング)などでは精神的に目覚めた人は、この記録から、意のままに過去や未来の情報を引き出すことができるようになり、そして自己の人生の意義や存在の理由がわかるとされる。多くの預言者や神秘家がこれにアクセスし、予言として世に伝えてきたとされている。

この概念の類似概念は極めて古くから見られるが、直接にこの語が使われるのはインドに本拠地をおいた神智学協会の創始者ブラヴァツキーの主張に始まると見られる。ドイツの神秘思想家ルドルフ・シュタイナーは、後の人智学協会の神智学協会からの独立の過程でアカシャ・クロニクル(アカシャ年代記。この英訳語がアカシック・レコード)の概念を高度に体系化し、派生的な様々な影響を与えた。倫理の源泉としての死後の実在の観念が社会的に揺らいだ時期である19世紀末ごろには複数の人物が、同時多発的に類似の概念を提唱している。少し前後してイギリスの心霊科学研究で、場所の記憶をめぐる説明概念である「残留思念」が提唱されている。残留思念はその元にルヴナンやアッパリッションの概念があり、日本でいう幽霊を指す言葉だが、「往来するもの・思い起こさせるもの」の意味があり、キリスト教の死者の霊魂は地上から去るという教理と幽霊の伝承の狭間で展開した民間伝承を継承している。 シュタイナーの初期のアカシャ年代記(AKASHA.CHRONIK)の概念にも、この観念の影響が見られ、シュタイナー初期のアカシャ年代記とは生物や万物の生成の背後にあるとするエーテル体の残滓・痕跡を意味しており、必ずしも未来の記録を含む概念ではない。また、この概念は哲学者ベルグソンの哲学にも類似性がみられる。これらの観念はギリシア哲学に発しアラブで発展した生気論(特にアル=キンディー)の中に多くのアイデアを見出すことが出来る。これらの生気論では、生物のみならず鉱物や世界までもが固有の生気=霊魂=プネウマを持つと考えられた。

後にアカシックレコードの概念はエドガー・ケイシーの名前と共に知られるようになる。現在、人智学、チャネリング、リーディング、あるいはクトゥルー神話に代表されるサブカルチャーのガジェット等、様々な文脈において発展を見せており、必ずしも一様な概念ではない。

虚空蔵菩薩はアカシックレコードを擬人化したものではないか、という説がある。

関連項目 [編集]

* 神智学
* ルドルフ・シュタイナー
* エドガー・ケイシー
* ゲリー・ボーネル
* アカシャ年代記より
* 宇宙完全大百科
* ポーソロゴスの図書館

参考文献 [編集]

* ルドルフ・シュタイナー 『神智学概論』(原著1910年、高橋巌訳 筑摩書房)
* ほか

カテゴリ: 超常現象 | ニューエイジ | 神智学

アーカーシャ
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(アカシャ から転送)
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字引的
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アーカーシャ(Akasha、アカシャ、阿迦奢)はサンスクリットで「虚空」「空間」「空(そら)」を意味する言葉であり、インドの五元素のひとつである。西洋の近代オカルティズムではしばしばエーテルと同一視される。

インド哲学の用語としては「虚空」(きょくう、こくう)と訳される。または仏教用語のシューニャと同じく「空」(くう)と訳される。『ウパニシャッド』においてはアートマンとされたが、ヤージュニャヴァルキヤは「風」・「空」・「ガンダルヴァ」・「太陽」・「月」・「星」・「神」・「インドラ」・「プラジャーパティ」・「ブラフマン」を包摂するもの、すなわち存在の一切を統括する法則とした。

関連項目 [編集]

* アカシックレコード
* タットワ
* 虚空蔵菩薩


カテゴリ: 字引記事 | 宇宙



検討問題:時間あるいは生長・成長とは何か:エネルギー⇒と同一性自己認識-1と物質+1
先に、同一性主義-1(同一性自己主義と物質)と差異共振的同一性+1(差異共振知覚ともの)との相違の説明を試みたが、そうすると、結局、自然現象の生長・成長とはどういう「力学」なのだろうか、疑問に思った。言い換えると、PS理論的発生力学をどう考えるのか、ということである。
 今日は余裕がないので十分論じられないが、簡単に考察してみたい。結局、本件は、⇒+1をどう見るか、ということに懸かっている。
 いったい、時間とは何だろうか。生まれ、育ち、成長し、子孫を残し(残さないものもいるが)、そして死ぬ、この生成消滅過程を形成するエネルギー、時間は何なのか。
 Media Pointの差異共振性(+i)*(-i)は超越情報振動である。この多重複合体(多重複合子と造語しようか)の現象化が⇒+1と考えられる。
 問題は現象化と物質化との違いである。+1は差異共振的同一性化であり、物質化ではないと先に述べた。しかしながら、また、疑問に思えてきた。
 先の言い方にもどれば、現象としての水は「もの」+1であるが、H20 は、物質-1としての水である。しかしながら、「もの」+1としての水に物質-1としての水が含まれるのではないだろうか。あるいは、「もの」に物質が包摂されるのではないだろうか。
 つまり、+1⊃-1ではないだろうか。そう、-1は+1の部分集合ではないだろうか。そうならば、物質-1は「もの」+1にも存しているのである。ただし、差異共振態における物質ということになろう。しかしながら、差異共振態にある物質とは、物質-1ではないのである。つまり、それは、端的に、+1だからである。「もの」である。
 錯綜しているので、区別する必要がある。同一性主義自己認識は、-1でいい。問題は、⇒+1と+1である。前者はいわば、差異共振性の文脈を明示した物質と考えられないだろうか。つまり、現象内の物質ということであり、現象という条件があるのである。
 後者は現象という条件をなくした物質ということになる。そして、それは、-1の同一性主義自己認識性と対(つい)になっているということになろう。
 つまり、-1の同一性主義自己認識が⇒+1の⇒を奪い取ってしまうということになる。それは考えられることであり、直近以前はそう考えてきたのである。
 ということで、先に戻ることになる。そして、本題に戻れば、成長とは、やはり、端的に、⇒+1であり、物質身体が+1で示されるのである。
 では、時間はどうなるのだろうか。アインシュタインの公式で考えると、E=mc^2であり、光速cに時間が存している。つまり、エネルギーは質量(物質)だけでなく、時空間を生むのである。これをMedia Pointに適用すれば、⇒が時空間や物質を形成しているとなる。だから、成長もやはり、同様である。【PS 理論から言えば、Trans-Energy(超越エネルギー:超越光エネルギー)=m(+ic)*(-ic)⇒mc^2である。だから、高次元界=超越界(イデア界)が、四次元時空間現象を形成しているのである。そう、+icと-icの対極の意味するものが驚異的である。原光と原闇、ないしは、超光と超闇が、高次元時空間・超時空間を形成しているのである。そう、そこにも、なんらかの時空間があると思われる。現象界からは永遠と見られているが、超越的時空間があると考えられよう。思うに、そこには、過去、現在、未来のヴィジョンがあるのではないだろうか。つまり、オカルティストの言うアカシック・レコード(アカシャ年代記)がそこにはあるのではないだろうか。この問題はここでおいておく。】
 個々の生命体の違いは、Media Pointにおける多重複合振動子の「差異」に拠ると考えればいいだろう。今はここで留める。


2009年03月11日(Wed)▲ページの先頭へ
満月と犯罪:月のMedia Pointから発出される「ダーク・エネルギー」?
今日3月11日は満月である。以下の虐殺事件は、満月直前か満月時の事件である。以前、ある本で、満月のとき交通事故や犯罪が多くなるというデータが提示されていた。
 今晩、満月を見たが、なにか、粉のような月光であるが、見て思ったのは、月からは、独特の超越エネルギーが発出されているのではないのかということである。もちろん、引力があるがそれ以外の波動エネルギーである。月の Media Pointから発出されている「ダーク・エネルギー」である。それは考えられうるのである。この点は後で検討したい。

参考:読んだのは以下の本である。きちんと客観的データに基づいて仮説しているのである。
月の魔力―バイオタイドと人間の感情 (単行本)
アーノルド・リーバー (著), 藤原 正彦 (翻訳), 藤原 美子 (翻訳)


03月11日 (水曜)
月齢
14.51 Moon
潮汐
大潮
月名(旧暦日)
満月
(十五夜)

http://koyomi.vis.ne.jp
/directjp.cgi?http:
//koyomi.vis.ne.jp/moonage.htm
こよみのページ

ドイツ南部の中学校で乱射、15人死亡
AFPBB News - ‎55 分前‎
ドイツ南部ウィネンデン(Winnenden)の Albertville Realschule中学校前に立つ警察官(2009年3月11日撮影)。(c)AFP/DDP/MICHAEL LATZ 【3月11日 AFP】(一部更新、写真追加)ドイツ南部バーデン・ビュルテンベルク(Baden-Wuerttemberg)州シュツットガルト(Stuttgart) ...

中学校で元生徒が銃乱射、11人死亡…独南部
読売新聞 - ‎1 時間前‎
【ベルリン=中谷和義】ドイツ南部バーデン・ビュルテンベルク州ウィネンデンで11日午前9時半(日本時間午後5時半)ごろ、戦闘服に身を包んだ男がアルベールビル実業中等学校に侵入して銃を乱射した。 DPA通信によると、生徒ら11人が死亡、多数が負傷した。 ...

学校で銃乱射、11人死亡=17歳の元生徒の犯行か−独
時事通信 - ‎37 分前‎
【ベルリン11日時事】ドイツ南部バーデン・ビュルテンブルク州ウィネンデンの実業中学校で11日午前(日本時間同日夕)、男が銃を乱射した。独メディアによると、生徒9人が死亡し、負傷者も出ている。男は逃走中にも発砲して、2人が死亡し、犠牲者は計11人となった ...

米アラバマ州で銃乱射、9人死亡 容疑者は自殺
(CNN) 米南部アラバマ州の2カ所で10日、男が銃を乱射し、男を含む少なくとも10人が死亡した。同州当局者が明らかにした。(CNN.co.jp)
[記事全文]

◇同じ話題の記事
・ 米南部アラバマ州で男が銃乱射、移動しながら9人殺害 - 読売新聞(3月11日)
・ Ala. gunmen kills 9, himself in shooting spree (英語) - 記事下方に動画へのリンク。Yahoo! NEWS(3月11日)

・ アラバマ州の位置 - Yahoo!地図

◇過去の主な事件
・ 銃による凶悪犯罪 - 関連情報エリア
ニュース

* 米アラバマ州の銃乱射、犯人含む少なくとも10人死亡(ロイター) 11日 - 19時20分
* 米アラバマ州の銃乱射、犯人含む少なくとも10人死亡(ロイター) 写真ニュース11日 - 19時20分
* 米南部アラバマ州で男が銃乱射、移動しながら9人殺害(読売新聞) 11日 - 12時20分
* 乱射で10人死亡=容疑者も自殺−米南部(時事通信) 11日 - 11時29分
* 米アラバマ州で銃乱射、9人死亡 容疑者は自殺(CNN.co.jp) 11日 - 11時3分
* 米アラバマ州で男が銃乱射、7人射殺後に犯人も死亡=警察筋(ロイター) 11日 - 9時42分



スリランカのモスクで自爆テロ、閣僚含む30人が死傷
 (CNN) スリランカ南部のモスクで10日に自爆テロがあり、当局によると10人が死亡、同国閣僚1人を含む20人が負傷した。(CNN.co.jp)
[記事全文]

・ スリランカ南部で自爆攻撃、7人が死亡=政府筋 - ロイター(3月10日)

◇政府と武装組織の戦闘激化
・ スリランカで激戦、百人以上死亡 反政府勢力のメンバー - 47NEWS(3月8日)
・ スリランカ:内戦ルポ 殺し合い、もう嫌 避難民キャンプ、反LTTE強調 - 毎日新聞(2月25日)
・ [特集]スリランカ紛争 - AFPBB News


カルデロン一家問題と法体系と自然的人間秩序
これまで、ブログ・ジャーナリズムでは、問題になっているカルデロン一家のことについては述べてこなかったが、私は以下の「東海」氏の発想に近い見解をもった。
 後で、できれば、法と自然的人間秩序の問題をPS理論的に述べてみたい。予見を言えば、法とは、同一性自己形式であり、-1であり、自然的人間秩序とは、差異共振秩序、すなわち、⇒+1であるということだと思う。

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★ 2009年03月10日火曜日 11時半更新

・・・・・

● カルデロン一家問題で、同じ血の通った人間としての視点を見失って、虚構の国家や行政、歴史や宗教の中途半端な屁理屈を持ち出して、「不法入国」だなどと分かりもしない法だの民族的アイデンティティだのインチキ正義を振りかざす無知な阿呆どものなんと多いことよ。もうウンザリだ!
 
 我々は、日本国家だの、法だの、民族だの虚構で生きているわけではない。今、目の前にいる人との人情の交流だけを頼りに生きているのだ。日本人だから大切にするわけではない。目の前にいて自分を支えてくれる人だから大切にするのだ。自分を支えてくれる人間を見失って、法だの民族だの虚構だけで生きて行ける人間が、この世に一人でもいるものか!
 我々は、目の前にいる人間を頼り、愛し、救われて生きているのだ。我々を支えている人は日本人だけではない、すべての人間なのだ! 人として本当に必要な姿勢は、目の前にいる人間に対する人情を見失わないことだけだ。
 カルデロンさんであれ、誰であれ、人の苦悩に同情し、問題の解決を手伝い、困っている人を助ける姿勢だけが、人間として生きる上に必要不可欠な姿勢なのだ。フィリピン人の不法入国者だから追いだして当然なのか? 西欧人の有名人や金持ちなら不法でも助けてやるのか? 中国人や朝鮮人なら処刑するのか?

 人間に対する姿勢の理解できない者は、愛国心だの日本国家だの虚構に幻想を抱き、その崩壊とともに地獄に堕ちてゆけ! もう君たちを救うことなどできない。ただ消えゆくがよい。
 やがて日本列島から利己主義に染まった日本人が消え失せ、新たに渡来した人たちが住み着くだけのことだ。

東海アマチュア無線  地震予知研究会


「松下は人をつくっています。あわせて電気製品もつくっております」
最後の部分を少し見たが、松下幸之助の「松下とは、人をつくるところであり、物もつくっております」というような言葉はすばらしい。人が先で、物が後である。これこそ、日本文化的経済・産業理念である。
 「人をつくる」とはどういうことか。それは、差異共振精神ないしは人格をもつ人間をつくるということと考えられる。このような人格をもてば、企業は共同体的になるのである。しかし、今日のパナソニックは創業者の精神に違背しているのではないだろうか。

追記:これが正しい。
『松下は話したと、言う。「松下は人をつくっています。あわせて電気製品もつくっております」(149p)。』
http://plaza.rakuten.co.jp
/pacific0035/diary/2009
01150000/

参考:
「松下電器はものをつくる前に人をつくる会社である」という、幸之助の人材育成の考え方を、数多くの資料や写真、幸之助自らが語る映像によって紹介しています。
http://panasonic.co.jp
/rekishikan/tour/theme.html

参照:
大転換 生き方や発想の大きな転換を迫られている 何をどう考え、行動したらいいのか



大転換
第2部 生き方が変わる

 失速する経済、疲弊する街、広がる雇用不安…。社会に吹き荒れる逆風は、私たちが安心して生きる暮らしの基盤を揺るがし、人と人のつながりを引き裂きつつある。この混迷の時代に、さまざまな暮らしの現場で、新しい生き方の模索が始まっている。 3月5日更新

http://www.47news.jp
/47topics/e/87707.php

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解説字幕放送 知るを楽しむ選 私のこだわり人物伝 松下幸之助 哲学した経営者 第3回<終>

チャンネル :総合/デジタル総合
放送日 :2009年 3月11日(水)
放送時間 :午前10:05〜午前10:30(25分)
ジャンル :趣味/教育>生涯教育・資格
番組HP:番組ホームページ http://www.nhk.or.jp/shiruraku/
番組内容
▽松下幸之助の理念の神髄は「日に新た」。幸之助は深く思索を続け、常に人間的変革を追求した。「日に新た」をテーマに松下幸之助をひも解き、現代へのメッセージを探る。
詳細
松下幸之助の理念の神髄は「日に新た」。企業を大きくする過程で、製造手法、企業組織、従業員制度などを常に見直し、改革を進めた。直面する危機を、逆に契機として、企業革新を成し遂げてきた。「日に新た」は、幸之助自らにも当てはまる。晩年に至るまで深く思索を続け、幸之助自身が人間的に常に変革を行っていたのだ。作家・北康利が「日に新た」をテーマに松下幸之助の思想行動をひもとき、現代へのメッセージを探る。
出演者ほか
【講師】作家…北  康利, 【語り】内藤 啓史
http://cgi4.nhk.or.jp/hensei
/program/p.cgi?area=001&
date=2009-03-11&ch=21
&eid=9612


2009年03月10日(Tue)▲ページの先頭へ
古代日本における原日本母権文化と大陸父権文化の衝突と習合:トランス・モダン倭国母権原理
以下、「東海」氏の独自日本古代史が述べられているが、朝鮮系の支配者とそれ以外の縄文・弥生時代の原日本人の被支配者の二元論史(「階級闘争」を示唆する)が述べられている。これは、二項対立思想で短絡的である。二項対立は、父権原理の発想なのであるから、「東海」氏は、自己矛盾を犯していると言える。だから、結論が人情主義・農業共同体主義になり、知性文化が消失してしまうのである。
 管見では、原日本の母権文化と大陸系の父権文化の衝突が古代日本に起ったのであり、そこに日本の原型が生まれたと考えられる。
 これは、古代ギリシアの場合と似ていると私は考えている。基底の母権社会に、父権的な遊牧民族が到来して、激しく衝突して、混淆したと考えられる。その痕跡がギリシア神話に残っていると私は考えている。日本では、記紀神話にその痕跡があると言えよう。
 問題は、二元論ではなく、母権文化だけでは、科学・技術は発達しなかったと考えられるのであり、父権文化は、発展のためには、必須であったと言えよう。
 ただし、両文化の二重性が近代以前までは日本にあったが、明治近代化、そして、戦後の米国主導的近代化によって、日本は根無し草になり、父権文化が中心に社会・文化が形成されてきたと思える。
 そう、父権文化の同一性自己主義と母権文化の差異共振主義の両面が本来、日本文化にはあるが、後者が喪失され、忘却されてきたのである。
 そして、今や、トランス・モダンとして、蘇りつつあると言えよう。そう、原日本母権文化という基層への回帰ではあるが、しかしながら、父権文化の同一性自己を経由したものである。
 単に、基底に回帰するというのは、反動である。

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★ 2009年03月10日火曜日 11時半更新

・・・・・

● 筆者は、袴と呼ばれるズボンが、1500年ほど前に百済王国が国ぐるみで日本列島に移住してきたときに乗馬文化とともに持ち込まれたものだと指摘してきた。
 僧・雲水の常用着は作務衣で、これもズボンだ。この原型が武人埴輪などでズボンとして表現されていることもある。これらの起源は、すべて乗馬の必要から生じたもので、長時間乗馬するときに、馬腹のこすれから内股を守るためのものであった。同時に鐙や沓が成立したことも見ておく必要がある。ミズラ結いでさえ、乗馬による髪乱れ対策として成立したものだろう。
 こうして、ズボン・鐙・沓、そして乗馬戦闘のスタイルから槍や直剣が用いられたわけだが、これらは、すべて朝鮮半島経由で日本列島に馬が持ち込まれた3世紀以降のものであることを知っておかねばならない。それ以前では、ズボン・ブーツなどの文化など日本列島には存在しなかった。

 2500年前に有明海に上陸した呉国人たち、すなわち弥生人は、持ち込んだ稲作農作生活文化にあって、湿地帯・水田における農作業に適した裾紮げのできる呉服(和服→着物)を着用したのであって、古代人を一元化して、弥生遺跡にズボンをはいてミズラを結った古代人が農耕しているような描写は、とんでもない間違いだと指摘してきた。馬に跨るのでなければ、どうして複雑な縫製技術を必要とするズボンなど必要があろうか。

 それほどまでに、百済王国が日本列島に持ち込んだものは、この国の文化、生活様式を根底から変えるものだった。それ以前の弥生人たちは基本的に被搾取、奴隷的立場の農耕民となり、呉服以外を着ることはなかった。しかし、百済の民は乗馬し、強力な武器を用い、弥生人たちを武力で圧倒し日本列島を制圧したのだ。
 だから百済人たちの末裔は、すべて袴というズボンをはく武家階級になった。そして、天皇を作った秦氏は、若狭に上陸し、継体とともに近畿にやってきた扶余・百済の民である。作務衣を着る僧たちもまた百済人の末裔であり、武士・僧・天皇の特権階級は、すべて百済王国から持ち込まれたものであり、まだ穢多・非人の被差別階層までも百済由来である。日本という地名でさえ、朝鮮任那の日本府からとられて日本列島に対してつけられたものだ。秦氏たちが日本と名付けるまで、この地は倭であった。

 若狭に上陸した秦氏たち渡来人(百済王国人)は、琵琶湖東岸に住み着き、次に大津から京都の湿地帯を埋めて京都の街を成立させた。
 そうして大和地方に足を伸ばし、天皇支配を構築したのだ。だから、天皇家は日本生まれではなく、朝鮮、百済王朝の末裔である。いわば、彼等の正体は朝鮮人と断じてもよい。
 その証拠は、若狭〜大津〜京都の人たちの民族的特徴が、女真族・扶余族・朝鮮族と完全に一致することであり、ツングース顔貌、細長い切れ長の目、乾燥した耳垢、強力な蒙古斑、スラリとした体躯、長頭型頭蓋、A型優位血液型など、ちょうど浅田真央とキムヨナをイメージすればよいし、平成天皇もまた完全な百済顔貌と言えよう。
 日本の優れた芸能人・スポーツ選手の多くが朝鮮人末裔であることは、彼等の能力がいかに高いかを物語っている。

 彼等は、聖徳太子以来、日本の支配階級を独占し続けているといってよいだろう。彼等は着物の民族ではない。神道を奉じる(古代神道は仏教と習合していた)ズボンと沓の民族なのだ。水田農耕の人ではなく、畑作と乗馬の人なのだ。そして強力な軍事戦闘能力を持ち、あらゆる反対者を駆逐し、日本列島の支配者として君臨し続けてきたのだ。
 秦氏は、大和朝廷を独占制圧し、源平藤橘に代表される武家階級となり、政権の対立者たちは関東に向かい板東武者となった。関東周辺は秦氏の開拓した土地である。すなわち、関東は百済王朝の末裔の土地である。天皇が京都から東京に転じた理由も、そこにあった。百済の地は滋賀県・京都府以外では関東周辺なのだ。

 以来、1500年にわたって、百済の末裔が日本列島の支配者となった。中国、呉の人たち(弥生人)や先住民、縄文人たちは政権から遠ざけられ、被搾取農民としての地位以外与えられていない。その事情は、たった今、現代にあっても同じことで、長州(百済植民地)官僚の子孫が自民党中枢にいて政権を独占し続けてきた。明治天皇にすり替わった大室寅之祐の出身地、田布施町から伊藤博文以来、岸・佐藤・橋本・安倍などが出ている事情を推察すればよい。
 弥生人や縄文人の末裔が政権を得ることなどありえないのだ。この意味で、小沢が首相になることはできない。日本のエスタブリッシュメントは、すべて百済由来でなければならず、他の人々が特権階級に躍り出ることがあっても、ただちに陰謀に陥れられ、抹殺する仕組みになっているのだ。そうしたシステムは、トーマス・グラバーが持ち込んだフリーメーソンによって作り出された。

 この日本は、朝鮮人の支配する王国であり続けている。戦前、朝鮮侵略併合を意図した陸軍統制派でさえ、朝鮮人を三国民と蔑視しながら、自分たち自身が実は朝鮮人の末裔に他ならなかった。大東亜共栄圏を標榜し、五族共和を掲げた中心の北斗、天皇家そのものが、実は朝鮮王朝の末裔に他ならなかった。それは、まさしく日本列島を朝鮮民族支配下に置くものであったのだ。
 そうした傲慢な侵略を意図した彼等が、自らの出自を知らずに朝鮮人を蔑視しようとしたのは、実に滑稽な喜劇であった。そして、今また、同じ喜劇を飽きもせずに演じようとする人たちが出現している。

 カルデロン一家を不法滞在と決めつけ、人情を無視して日本から実力で追いだせと主張する人々、外国の貧しい労働力を禿鷹のように利用し、都合が悪くなるとゴミのようにポイ捨てする企業、役人たち。日本の特権階級は、貧しい外国移民を骨髄まで利用して金儲けに邁進してきた。そうしておいて、少し都合の悪い事情が生じると、叩き出そうというのか? 貧しい家族の不幸な嘆きに同情することもできないで、「不法移民だから叩き出せ」と主張するクズどもが、当掲示板にすら出没するようになった。 朝鮮だろうが、ブラジルだろうが、みんな我々と同じ人間であって、同じ人情で生きているということが理解もできないクズどもだ。筆者は、こんな馬鹿野郎どもを許すことができない。

 朝鮮人を蔑視するならば、まずは天皇家と日本支配階級を追放しなければならないことが理解できないほど無知な連中なのだ。日本という国も民族も、実はわずか千年・二千年前に朝鮮・中国などから移住してきた人たちによって成立したものであり、これからも、どんどん入れ替わり、ただ、この地に住む人々を日本というだけの本質だと理解できない愚か者たちなのだ。

 人間に人種の差などない。そこにあるのは大地と人間の営みだけだ。 この社会に必要なものは愛国心などという屁理屈や妄想ではない、大地と人を愛する人情だけだ! 人情なき者は失せろ!
http://www1.odn.ne.jp
/~cam22440/yoti01.htm
東海アマチュア無線  地震予知研究会


自己認識方程式の諸要素の説明:+i, -i, +1, -1, *, ⇒(Media Point)
PS理論の中核である自己認識方程式、即ち、(+i)*(-i)⇒+1はKaisetsu氏が定式化したものであり、他に、オイラーの公式を活用したものがあるが、
http://theory.platonicsynergy
.org/?eid=553149
これがいちばんシンプルであり、わかりやすい。
 さて、これまで、この数式を用いて、PS理論を説明し、また、活用してきたが、先に+iと-i 等について考察したが、http://ameblo.jp/renshi
/entry-10220541749.html
まだ、整合性がない部分があるので、ここで整理したい。
 
+i とは、原同一性自己志向性認識である。それは原言語認識性でもある。

-i とは、原差異・原他者である。

+1 とは、原同一性自己と原差異が共振して、同一性現象であるが、これを物質と区別して、「もの」と呼ぶ。説明すると、(+i)*(-i)という差異共振状態から、エネルギーが放出されて、+1が形成される。これは、端的に言えば、眼前に見える、赤レンガのタイルを張った建物の知覚である。赤レンガの建物は、まだ物質ではなく、知覚においては、「もの」である。
 
-1 とは、原同一性自己志向性の傾斜によって生起する原他者・原差異を抑圧した、同一性自己主義とそれが知覚する対象である。即ち、これは対象的には、物質である。

* は、共振・共鳴を意味する。

⇒は、Media Pointと見ていいだろう。超越的根源から現象性へと転換する変換点である。ここは、不連続な変換点であり、超越性と現象性はまた即非性をもつのである。

 特に、+1と-1の解明が今回、新しいので、さらに説明しよう。
 私は自然現象とはこれまで、本来、差異共振現象であると述べてきた。それが、自己認識方程式に端的に明示されている。左辺がいわば、プロト差異共振様相であり、右辺が結果の差異共振現象である。
 たとえば、「わたし」+iと「赤レンガの建物」-iがあるとしよう。両者は、知覚発生的には、初期においては、共振・共鳴するのである。そして、その知覚の結果、「わたし」は眼前に「赤レンガの建物」を見るのである。見る「わたし」と見られる「赤レンガの建物」は、両者+1である。そして、後者は「もの」であり、物質ではない。ここがポイントである。
 ここの差異共振現象においては、即非関係が成立しているのである。「わたし」は「赤レンガの建物」であり、且つ、「わたし」は「赤レンガの建物」ではないのである。あるいは、「わたし」と「赤レンガの建物」は不可分であるということになる。これが、根源的な現象知覚様態である。これは、初期母権的知覚様態とも呼べよう。
 しかるに、父権的な同一性自己傾斜が入ると、差異共振性や+1が解体するのである。つまり、+iが-iよりも優位にあるために、+iは-iを否定してしまい、抑圧・排除・隠蔽するのである。これは、(+i)*[-(-i)]⇒-1、ないしは、(+i)^2=-1で説明できるのではないだろうか。
 ここで留意すべきは、父権的傾斜が入る以前は、男子においても、差異共振性が本来存していることである。それは、双子の神話で確認できるのではないだろうか。
 そして、差異共振性(母権原理)の後で、男子には、父権的傾斜、即ち、同一性自己傾斜(言語認識傾斜:数量傾斜)が入ると考えられる。この父権傾斜は、源泉の差異共振性(母権原理)に対して、劣等感と同時に優越感を抱くのではないだろうか。(これまで、単純に劣等感だけを指摘したが、同時に、劣等感と優越感を抱くのではないだろうか。これは、検討課題である。)
 とまれ、父権的傾斜によって、原他者・原差異の-iは否定されて、差異共振性が抑圧されて、対象の「もの」は、同一性主義化されると言えよう。つまり、物質化されるのである。たとえば、「もの」である水が、H20と記述されるのである。これは、端的に物質である。
 そして、当然ながら、同一性主義化(同一性自己主義化)は、近代合理主義・近代的自我が極北である。
 これで、同一性と差異の問題がかなり明晰になったであろう。これまで、私は同一性=物質として、それを、+1としてきたが、そうすると、同一性自己主義の-1と区別がつかなくなる不整合が生じていたのであるが、この問題がクリアされたのである。
 思うに、この+1と-1との区別が明確明晰になったことにより、PS理論だけでなく、哲学の問題がクリアになったと考えられるのである。フッサールが還元する対象にした自然的態度とは、-1の同一性自己主義=言語認識的自己でああり、自然を物質と見る心的態度であると言えよう。
 また、ベルクソン哲学の記憶や持続(純粋持続)とは、フッサールと似て、⇒+1にすればいいと考えられる。ベルクソンのいう物質であるが、それは、正に、-1とすれば、ベルクソン哲学はその二元論性から脱却して、極性論となるだろう。というか、PS理論からベルクソン哲学が実に明快明晰に説明できると考えられるのである。ただし、ベルクソンは、差異共振性までは達していなかったと考えられる。ただし、特異性はそれなりに把握していたと考えられる。
 確かに、ベルクソンはフッサールに似ているが、しかし、フッサールの方が、無意識においては、差異共振性にまで到達していたと思われるのである。そう、後期フッサールの生活世界の概念であるが、それは、正に、「もの」の世界であり、差異共振自然現象の世界と言えよう。(「もの」とは精神身体と言い換えられよう。)
 ついでに言えば、差異共振自然現象とは、母権原理の世界でもあるということである。それは、宗教・神話的には、多神教であり、女神宗教である。そして、日本の宗教の基層がこれであり、この発想が日本人の無意識に潜在していると言えよう。もっとも、今日、都会では近代的自我化しているが。
 そう、芸術・芸能の世界も結局、ここに存すると言えよう。日本文化は、母権原理の差異共振自然現象の世界に根差して、芸術・芸能を形成してきたと言えよう。生活が差異共振生活であったのであり、その中から、芸術・芸能、祭礼・習俗等が生まれたのである。当然、社会は差異共振共同体となるのである。思うに、網野善彦氏が説いたアジール的な共同体(『無縁・公界・楽ー日本中世の平和と自由』)も、根源的には、原日本の差異共振共同体が起源と私には思われるのである。また、田中優子氏が説いた江戸の連(『江戸のネットワーク』)も同様であり、また、詩歌俳句で言うと、連歌、連句、連詩も、この差異共振共同体から生まれた文芸と考えられるのである。
 そう、今日、トランス・モダン時代に入り、日本人は近代において忘却してきた、あるいは、忘却させられてきた伝統的差異共振文化に目覚めつつあると言えよう。
 そう、モダンを経過した今日、正に、トランス・モダン・ジャパンが誕生しつつあるのであり、また、経済的にも、差異共振経済へと転換する必然性があると言えよう。ヤポネシア・ルネサンスである。


検討問題:女性と男性、Media Pointの二つのゼロ点、経済における-1の問題、自然の生長
1)女性と男性の違い:女性が陰陽ならば、男性は陽陰であろう。構造が正反対であろう。女性が感情的になるのは、陰が主導的だからではないだろうか。この問題はたいへん興味深い。

2)同一性+1傾斜とは、Media Pointの実軸ゼロ点を契機とし、差異-i傾斜とは、Media Pointの虚軸ゼロ点を契機するのではないだろうか。(そう、Media Pointの二つの穴があり、本来、男性は物質に、女性は精神に通じているのである。しかし、今日、女性は倒錯的に男性化していると考えられる。)
 このズレは重大である。男性の場合、虚軸ゼロ点が隠蔽されているのである。女性の場合は、虚軸ゼロ点に通じているだろう。というか、女性の場合は、本来、二つのゼロ点に通じているのではないだろうか。女性の方が調和・均衡的に形成されていると考えられる。

3)男性・父権主義の連続性の原因は、実軸ゼロ点が主導的になっているからではないだろうか。

4)資本主義生産とは、⇒+1であると以前言ったが、つまり、差異共振生産によって生まれた価値が+1であると言った。今日思ったのは、交換価値なしいは貨幣価値とは、-1ではないのかということである。
 商品があるとしよう。それは、対象-iである。それに対して、同一性自己(自我)+i(小売り)が価格をつける。それも、⇒+1である。これが、価格である。たとえば、トマト一個-iが百円+1となる。そして、消費者がそれを貨幣で買う。それも、⇒+1である。
 そして、貨幣が小売りに移る。問題は、この貨幣価値=交換価値である。それは、+1なのか、である。確かに、トマト一個が売れた時点では、+1であろう。しかしながら、貨幣価値は、具体的なトマト一個から分離していき、独立するのである。このとき、+1から-1へと転換するのではないだろうか。つまり、同一性自己価値となるのではないだろうか。これは、抽象価値である。
 そして、金融資本とは、この-1を+1と見なすのではないだろうか。つまり、対象-iを否定した抽象価値としての貨幣資本-1を+1と錯覚するのではないだろうか。
 展開する前に、-1とは何かを明確にすべきである。それは、同一性自己主義ないしは同一性主義である。それは、差異共振性から分離された抽象価値である。それは物質ではないだろう。物質は+1である。
 -1は、ドイツ観念論やマルクスが拘(こだわ)った抽象形式と考えられる。カントの超越論的形式、ヘーゲルの同一性精神、マルクスの抽象的価値・交換価値ではないだろうか。端的に、同一性尺度である。言い換えると、実軸ゼロ点に存する同一性形式(構造)ではないだろうか。シュタイナー的に言えば、アーリマンであろう。そう、ここが最高度に重要なキーポイントの一つである。人間の悪魔性の根因であり、また、物質文明の基盤であると考えられる。平俗に言えば、自己中心主義の基点である。つまり、自我の基点である。二項対立の支点である。
 これは、能動的な同一性自己同一性主義であるが、自己(差異)忘却している同一性主義である。差異という原闇(結局は、差異共振性という超越光)を忘却している同一性の光中心主義である。盲目の同一性自己主義である。ここには、原同一性+iの能動性・エネルギーがあるのであり、それは、同一性を反復すると考えられる。森羅万象を同一性で埋め尽くすのである。つまり、同一性空間化である。数量化である。これが、西洋文明で極まったのである。
 これが自己忘却であり、盲目であるのは、自己が同一性と一体化して、いわば、物質化していることである。そう、本来、認識衝動でありながら、同一性=物質と一致しているのである。認識が存在化しているのである。主観が客観化しているのである。
 本来、主観と客観が分離されなくてはならないのに、ここでは、主観と客観が一致してしまっているのである。言い換えると、連続化・同一化・癒着化である。
 とまれ、重大なのは、この差異の排除・隠蔽された絶対的同一性主義が能動化されていることである。つまり、エネルギーは同一性主義へと展開されるのである。⇒+1のエネルギーが、⇒-1のエネルギーに転換されるのである。
 ここの錯覚・倒錯があるのである。本来、生産・売買は⇒+1であるが、それが、貨幣価値になると、⇒-1へと転換すると考えられる。
 そして、まったく、この同一性主義回路を疑わないのである。何故なら、自己忘却・自己盲目であるからである。(この帰結が、ウォール街的金融資本主義である。)
 -1は、虚構価値である。鏡像・虚像である。これを中心化することは、対象-iの否定であり、+1の同一性=物質=生産物・商品が破壊されることである。
 結局、差異共振価値を取り入れる必要があるのである。思いつきでは、差異共振通貨がありえるのである。たとえば、一万円の差異共振通貨があるとしよう。そのうち、たとえば、10%は、差異共振社会へと還元されるとしたらどうだろうか。結局、富とは、社会総体の富であり、社会的差異共振価値なのである。だから、社会共振体(社会共同体)の創造へと向けられるべきなのである。一個人が莫大な収入を得たとしても、それは、社会的差異共振価値を独占していることになるのである。
 そう、貨幣価値は、差異共振価値に包摂されると見るべきである。だから、貨幣価値を独立化させるのは、錯誤である。それは、常に、差異共振価値において存するものである。それを独立に価値化すると、価値体系が狂うのである。
 差異共振投資へと進展することが必要なのである。

5)自然の生長とは何か。種から生長するとはどういうことなのか。これは、Media Pointの振動情報が、物質化することと言えるだろう。同一性=物質化+1である。そして、再帰エネルギーによって、再び、種に還る。それは、 Media Pointの振動情報のデュナミス化ではないだろうか。そう、エネルゲイアによって、物質化して、再帰エネルゲイアによって、回帰し、デュナミスとなるのではないだろうか。


2009年03月09日(Mon)▲ページの先頭へ
内的他者(差異)と外的他者(差異):internal -i and external -i: the latter is also (+i)*(-i)
内的他者と外的他者では、意味合いが異なるのではないだろうか とまれ、内的他者について確認(再確認)したい。先に、+iは原同一性自己、-iは原差異とし、前者の身体は脳細胞・脳神経、後者の身体は(主に)内臓であるとした。両者はともに精神身体であるが、同一性自己認識-1の視点からは、ともに物質身体である。
 そして、今日の(父権)文明では、前者は意識に、後者は無意識となっているのである。なぜなら、同一性傾斜があるからであり、後者の意識化の「教育」はほとんど行われていない。言い換えると、東洋身体教育が否定されているということである。
 とまれ、内的他者とは、今日では、一般に無意識であるが、それを肯定することで、同一性自己の同一性形式主義を解体して、差異である他者との共振が可能になるのである。この内的他者は、同一性自己意識には見つけるのがきわめて困難である。なぜなら、一般には、それが内的他者を否定し、抑圧・隠蔽しているからである。だから、内的他者と出会うには、その抑圧を解除する必要があるのである。
 しかしながら、予想できるように、これはきわめて危険な作業である。同一性を保持しつつ、内的他者へと測深的に到達する必要があるからである。同一性を否定してしまうと、非現実的になってしまうのである。
 とまれ、内的他者のエネルギーの放出を積極的に表現しつつ、同一性自己と均衡調和するように内的他者へと下降(本当は上昇)する必要があると言える。結局、この内的他者への下降とは、内臓的精神身体への回帰と言えるが、それは、同時に、Media Pointへの回帰であり、差異共振性への再帰である。つまり、内的他者(内的差異)の肯定とは、内的他者との共振性を形成することになるということである。
 結局、内的他者(内的差異)に到達するということは、Media Pointに到達することであるが、これは、真正なMedia Pointに到達することである。すなわち、同一性自己意識における無(虚無、空無)であるMedia Pointの実軸ゼロ点から、超越的な虚軸ゼロ点へと「上昇」することなのである。内在性から超越性への不連続的転移である。言い換えると、外的現実から内的現実へと転移することである。もっとも、最高度に注意すべきは、この転移は単に不連続的であるだけでなく、即非的であることである。(既述したので、割愛する。)
 ということで、内的他者(内的差異)-iとは、Media Pointと通じているものであり、以前述べたように、必然的に、(+i)*(-i)を意味していると言えよう。
 では、外的他者はどうなるだろうか。例えば、眼前の黄水仙の花はどうなるだろうか。結局、これも内的他者と同じである。同一性自己+iの「わたし」は、内的他者-iを外的他者の黄水仙の花に投影して、共振化するのである。つまり、外的他者は内的他者と一致して、-iとなるのである。これは、水平の垂直化であり、垂直の水平化と言えよう。
 これは、何を意味するだろうか。先に述べたように、これは、差異共振化である。それも、水平性における差異共振性である。現実的な差異共振性と言える。あるいは、現実的な超越性である。そう、これは、端的に、現実の理念化である。現実の理念的創造である。天を地へともたらす作用である。地上天国化への作用である。すなわち、同一性自己主義=父権主義の戦争の支配する現実を差異共振主義=母権主義の平和へと創造的に変容させる作用である。
 その点で、内的他者と外的他者は様相が異なると言えよう。もっとも、先立つのは、前者であり、その肯定が外的他者の肯定へと進展するのである。内的調和、内的平和、内的秩序が、外的調和、外的平和、外的秩序をもたらすのである。

追記1:外的他者-iは又、差異共振像である。つまり、先に述べたように、現象・万象は、差異共振像なのである。ただ、人間の同一性自己知覚が、同一性自己像を差異共振鏡面に投影して、差異共振現象を同一性=物質主義化するのである。
 ただし、同一性=物質とは、差異共振現象から切り出された一面である。切り出されたとは、抽象されたということである。同一性=物質については再考したい。

追記2:同一性=物質であるが、これは、差異共振性に包摂された「部分」である。つまり、差異共振エネルギーに包摂された側面である。あるいは、表層・表面と言ってもいいのかもしれない。あるいは、光の面である。確かに、同一性=物質の力学がある。だから、物質科学が成立するのである。 
 しかし、物質の真の力学は、今や、量子力学である。高次元エネルギーである。つまり、同一性=物質とは、差異共振エネルギーの同一性側面・同一性現象であるということだろう。この点が重要である。差異共振エネルギーの同一性面であるという点である。
 この同一性面を差異共振エネルギーから分離すると、物質科学となり、それは、+1から-1へと転換すると考えられる。


売亡国奴どもの心的構造について:母権原理への父権原理の劣等感コンプレックス
以下、副島隆彦氏の発言であるが、私が思ったのは、日本の米国隷従売国奴たちの劣等感コンプレックスである。
 副島氏の言にも似たようなことであるが、日本が真に独立するのは合理的なことであり、それを抑え、米国に従属することを求める「右翼」は、倒錯的である。
 あまりにも当然なことを抑圧する売国「右翼」の精神構造の分析に興味を覚えたが、それは、実に簡単である。先に、同一性自己主義の発生のときの「心理」を考えればいいのである。母権原理(差異共振原理)に対する父権原理(同一性自己主義)の劣等感がそこにあると考えられるのである。
 つまり、政治家二世、三世が多い売国奴どもは、本質的に母権原理に劣等感をもち、それが、父親の威光への劣等感に変質して、それが歪んで、虚栄的に、他者へ優越感をもとうとするのである。その虚栄的優越感を保障するのが米国なのである。米国こそ、御本尊であり、それを崇拝すれば、虚栄な優越感が満たされるのである。
 では、竹中平蔵氏はどうかと言えば、彼の場合は、やはり、父権原理の劣等感が強烈である。そのために、虚栄の優越感を満たす米国を崇拝しているのである。

***********

今、鳩山邦夫総務大臣が中心となって、麻生太首相と連携して、アメリカの手先の竹中平蔵と小泉純一郎元首相が、アメリカの要求を忠実に実行した、郵政民営化の見直しを始めている。先週の田原総一郎の「サンデー・プロジェクト」には、2005年の郵政選挙でホリエモンを「刺客」(刺客)に送り込まれた、亀井静香・国民新党代表代行が、竹中平蔵の郵政疑獄を検察庁に訴えると凄んでいたが、その翌日に小沢事務所への特捜部の強制捜査が入ったのだ。

 その前の、2月17日の、ヒラリーとの小沢の会談で、「日米同盟は、対等の関係でなければならない。そのことを、日本側が、(勝手に卑屈になって)アメリカに言わなかったことが問題だ」と、ヒラリーに、直接、言い放ったことも重要だ。

小沢一郎は、偉いのだ。本当に偉いのだ。 「自分のことは自分でします。できない分だけ、ご支援ください」という、生き方、考え方が、人間として、まっとうなものだ。まず、始めにこのことを言えない、考えない人間が、他の事をあれこれ、言い出すのは間違っている。 まず、頭から、始めに、アメリカ軍が、日本を守ってくれるのが当然で、自然で、当たり前だ。という考えをする者たちは、大間違いだ。売国奴どもだ。

 産経新聞(フジ産経グループ)や、読売新聞の幹部ども(ナベツネ派)や、文藝春秋(ついに、ゴロ雑誌の「諸君」が廃刊になる)や、新潮社(どうして、こうなったのか)などに、心酔して、「そうだ、そうだ、日米同盟が最優先だ。アメリカと共に、中国と戦うのだ」と、言わないと済まない馬鹿たちを、今こそ、あぶりだして、順番に、筆誅(ひっちゅう)を加えなければいけない。

 「自分のことは、自分でします」「自分の国は、自分たちで守ります」と、素朴に、きっぱりと言えないような、人間は、おかしいのだ。 洗脳されているのだ。この一行が言えないような人間は、愚か者たちだ。卑怯で、卑劣で根性の曲がった人間どもだ。

 産経・読売・文春右翼たちは、自分たちのことを、愛国者(民族主義者)で、現実主義者(リアリスト)だと、考えている。そして、その実態は、盲目的な、アメリカの手先、子分どもである。会って話しても、実に卑しい人間たちだ。 

「1021」 アメリカの「虎の尾」を踏んだ小沢一郎 (その1) 小沢一郎は相次ぐ「反米」発言のため東京地検特捜部に狙われたのだ。しかし、記者会見で立派に反撃した。 副島隆彦記 2009.3.9

「副島隆彦の学問道場」

参考:アドラーの心理学は劣等感コンプレックスという視点では正しいと思う。思うに、フロイトとユングとアドラーを一体化させた「心理学」がPS理論的「心理学」である。そう、超越的心理学である。
アルフレート・アドラー
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アルフレート・アドラー(Alfred Adler, 1870年2月7日 - 1937年5月28日)はオーストリア医師、心理学者。ウィーンの郊外で生まれ、1937年にスコットランドのアバディーンで死去。ユダヤ系。

1902年にフロイトに出会い、共に研究をした。国際精神分析学会会長を勤める。 しかしその後、フロイトと袂を分かち、後に個人心理学(アドラー心理学)という分野を創始した。ナチス・ドイツによるオーストリア併合、ユダヤ人に対する嫌悪や排斥が高まる時代に、彼はユダヤ人で、猫背で小男で、足が不自由だった。自分自身の生きる支えとして、自己自身に対する価値評価という考えに行き当たった。 そこで、彼は優越感や劣等感といった自尊感情(Self Esteem)という概念をテーマとした。いかにして人が心の平安と安らぎを得られる事が出来るかを探究する心理学を展開。高齢者やメンタルな問題を抱えた人々への支援やケアの場面で注目される概念になりつつある。

その自出から精神分析の分派と見られがちだが、実際の理論や技法は現在で言う認知行動療法に近く、アルバート・エリスの論理療法も彼から多分に影響を受けている。このほか、カール・ロジャーズや、ハリー・スタック・サリヴァンをはじめとする新フロイト派との理論の類似性も指摘されており、一般的評価よりもはるかにその影響は大きかったと見る向きも多い(これは、やはりフロイトの元高弟であるオットー・ランクにも言えることである)。


アドラーとコンプレックス [編集]

* エディプス・コンプレックス

幼い時に亡くなった2人を除くと、6人の子どもの中の2番目。長兄で母の愛を一身に集めたフロイトと異なり、アドラーは母から受け入れられず、父から可愛がられて育った。この境遇のため、最後までフロイトのエディプスコンプレックスの考えを認める事が出来なかったとされる。

* 劣等コンプレックス

参考文献 [編集]

* Ellenberger, H.F.(1970)"The Discovery of the Unconscious"(木村・中井監訳 1980 無意識の発見 弘文堂)

外部リンク [編集]

* 日本アドラー心理学会

カテゴリ: オーストリアの心理学者 | フロイト派心理学 | 精神科医 | ユダヤ系オーストリア人 | 1870年生 | 1937年没




悪霊マスメディア:権力依存のゾンビ・メディア:差異共振的ミクロメディアへ向けて
小沢氏への献金問題に関して、マスメディアは、完全に御用化している。
 これは、マスメディアが権力や広告費に依存しているからである。つまり、マスメディア自身が、ジャーナリズムを否定しているのである。これは、マスメディアの死である。亡霊化したマスメディアであり、今や、ゾンビである。
 ジャーナリズムとは、基盤は個・差異・特異性にある。ここをまったく理解していないのである。だいたい、マスという形容がいけない。本来は、大衆の、大衆向きの、庶民の、等の意味であるが、元々は塊、多量、集団等の意味をもつのである。つまり、個の意味での民衆(個民)ではなく、集団としての庶民である。
 これでは、最初から洗脳的な意味合いが入るだろう。マスmass とは、いわば、団塊的である。民衆(個民)を集合的に捉えるこの見方は、明らかに、近代主義、近代合理主義的である。つまり、民衆を同一性と見る視点であり、同一性の集合としての大衆なのである。
 今や、トランス・モダン時代であり、個・差異・特異性の時代なのである。だから、メディアもそこへと「進化」する必要があるのである。
 それは、差異共振的メディアである。そして、今や、ブログがそのようなメディアになっているし、さらにそう進展するだろう。いわば、ブロメディア、ないしは、ブロディアである。
 とまれ、マスメディア、マスコミの解体が必要である。悪霊化しているのである。私は学生の頃から、新聞記者は胡散臭いと思ってきた。結局、近代的自我に基づいているのである。それは、同一性自己主義であり、父権主義なのである。
 そう、封建主義は、領主や大名という主人がいたが、近代主義は、近代的自我が主人になっていて、他者を隷属化するのである。つまり、近代主義は、封建主義の精神構造を継続しているのである。この意味でもトランス・モダン「突然変異」が必要である。


検討問題:現代世界金融経済崩壊への対処について:世界大恐慌とファシズム:差異資本共振主義へ向けて
テーマ:トランス・モダン経済:差異共振資本経済

PS理論は今日の世界金融崩壊に対しても、当然、「見識」をもちうると考えられる。
 英国のロイズが国有化され、米国のBOAも国有化され、おそらく、日本の銀行も早晩そうなるだろう。これは、社会主義化である。大きな政府が生じたのである。
 これは、同一性主義金融資本主義の崩壊の後の、一時しのぎ策であるが、しのぎというか、時間稼ぎ策というべきであろう。
 問題は、資本が国家と連続化することである。これが、ファシズム・全体主義となるのである。そして、世界戦争を生みだすのである。
 これを避ける必要がある。日本の戦前の全体主義もこの資本と国家の連続化に拠ると考えられる。
 PS理論は、連続化を切断し、差異共振性を説く理論であり、経済においても、差異共振性を唱えることになるのである。差異共振資本経済へと転換する必要があると言えよう。
 資本側(労働者も含まれる)が国家との連続性、繋がりを立ち切って、資本を差異共振化させる必要があるのである。個・特異性に即した判断で、資本を共振化させるのである。ここには、真の経済生命があるのであり、発展成長すると言えよう。ただし、量的成長ではなく、質的成長である。
 確かに、財政出動が必要の場合もあるだろう。しかし、原則は、国家との連続化を切断して、差異資本が共振化することである。そう、だから、差異資本共振主義である。
 資本が国家から独立して、共振化して、共振経済圏を創る必要があると考えられるのである。
 国家とは何ぞ哉。それは、明らかに、同一性自己主義が生みだすものである。脱同一性化、即ち、トランス・モダン化が必要なのである。


2009年03月08日(Sun)▲ページの先頭へ
画家ハンマースホイと差異共振時空間
たまたまテレビを見ていたら、以下の番組をやっていた。ハンマースホイ、私は初めて聞く名前のデンマークの画家である。
 しかし、絵画の画面にひきつけられる。映画監督小栗康平氏の哲学的な解説が的確であった。静謐な時空間、そして、静謐な物たち、思うに、特異性を表現していると思った。あるいは、差異共振性における同一性像である。Media Pointの表現とも言えよう。セザンヌにも似ていると言えよう。物自体である。
 研究員が禅寺や茶室におけるように心が洗われるというようなことを言っていたが、それも的確である。禅に近いのである。瞑想時空間である。同一性志向性が発生する以前の自然現象時空間である。そう、差異共振時空間である。


2009年3月8日よる放送(アンコール放送)
誰もいない部屋こそ美しい
北欧の画家・ハンマースホイ
出演

小栗康平さん(映画監督)
佐藤直樹さん(国立西洋美術館主任研究員)

http://www.nhk.or.jp
/nichibi/weekly/2009
/0308_02/index.html

ヴィルヘルム・ハンマースホイ
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「Interior With Young Man Reading」1898年の作品
陽光、あるいは陽光に舞う塵 (1900)
背を向けた若い女性のいる室内 (1903-04)

ヴィルヘルム・ハンマースホイ(Vilhelm Hammershøi,1864年 5月15日 –1916年 2月13日 )は、デンマーク 出身の画家 。空間を意識し、空気を感じさせる細密なタッチで描いた室内画が特に印象的。その多くには背を向けた人物(その多くは彼の愛妻イーダ)が描かれている。
生涯 [編集 ]

ハンマースホイはコペンハーゲン の裕福な家庭に生まれる。8歳の時から絵画を学び始め、コペンハーゲン美術アカデミーで学ぶ。

21歳の時、妹のアナを描いた『若い女性の肖像、画家の妹アンナ・ハンマースホイ』を美術アカデミーに出品するが落選したことで物議を醸し話題となる。

1891年に画家のピーダ・イルステズ の妹イーダと結婚。1898年から1909年までストランゲーゼ30番地のアパートで暮らし、その部屋の室内風景を多く描いた。

1901年 にデンマーク美術アカデミーの総会会員に就任し、翌年には同評議員になる。1911年 、ローマで開かれた国際美術展で第一等を獲得。1910年代に入ってヨーロッパ各国で個展が開かれるようになり、評価が進んだ。

1916年 にコペンハーゲンで喉頭癌 で死去。

作品の特徴 [編集 ]

ハンマースホイの絵画の大部分は風景画でアパートの室内を描いたものが多く、しかも人物や家具など生活感をうかがわせるものがほとんどない。さらに、描かれた人物も顔のタッチがほとんどぼかされているうえ、描かれたとしても後ろ向きか視線を合わせない。このように、ハンマースホイの絵はタイトル以外、モチーフの手がかりをほとんど排除している。また、白と黒を基調としたモノトーンに近い色使いと、フェルメール の影響を受けた静謐なタッチが特徴。

エピソード [編集 ]

* 国際的人気を誇るコメディグループ、モンティ・パイソン のメンバーであるマイケル・ペイリン はハンマースホイ作品の大ファンで、BBC で『Michael Palin and the Enigma of Hammershoi』というドキュメンタリー番組を制作し、ハンマースホイの魅力を放送。ペイリン自身もハンマースホイの作品を所蔵しているらしい。

* イエンス・ロウガセン (2006-2007ANDAM AWARDを受賞)は、ハンマースホイのネオクラシカルな要素にインスパイアされたコレクションを発表した。

代表作 [編集 ]

* 若い女性の肖像、画家の妹アンナ・ハンマースホイ(1885)(ヒアシュプロング美術館 )
* ふたりの人物像(画家とその妻) (1898) (アロス・オーフス美術館 )
* 室内(1893)(イェーテボリ美術館 )
* 陽光に舞う塵埃(1900)(オードラップゴー美術館 )
* 室内、ストランゲーゼ(1901)(ハノーファー、ニーダーゼクセン州博物館 )
* 背を向けた若い女性のいる室内(1903-04)(ラナス美術館 )
* 休息(1905)(オルセー美術館 )
* 陽光習作 (1906) (デーヴィス・コレクション、コペンハーゲン)
* クレスチャンスボー宮殿 の眺め (1907) (コペンハーゲン国立美術館 )
* ピアノを弾くイーダのいる室内 (1910) (国立西洋美術館 )

関連項目 [編集 ]

* 2008年6月24日(火)〜9月7日(日)イギリスのRoyal Academy of Arts において、回顧展が開催される。
* 2008年9月30日(火)〜12月7日(日)東京・上野の国立西洋美術館 において、アジア初の回顧展が開催される。

同時代のデンマークの作家 [編集 ]

* ピーダ・イルステズ(Peter Ilsted, 1861年-1933年)
* カール・ホルスーウ(Carl Vilhelm Holsoe, 1863年-1935年)

外部リンク [編集 ]
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、ヴィルヘルム・ハンマースホイ に関連するカテゴリがあります。

* ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情 - 展覧会公式サイト
* Art of Hammershøi Online Resource
* Palin on Hammershøi
* ハンマースホイの墓(コペンハーゲンの"Vestre Kirkegard"(西の墓地)) - Find A Grave

執筆の途中です この「ヴィルヘルム・ハンマースホイ」は美術家 ・芸術家 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています (P:美術 )。
カテゴリ : デンマークの画家 | 1864年生 | 1916年没


+iと-iの問題:同一性=物質とは同一性自己+iの他者-iへの投影像である:PS理論的東洋身体論
私は+iだけでなく、-iにも能動性を認めると言ったが、+iが同一性の傾斜を生むとしたら、-iはどういう傾斜になるのか。それは、直感ではというか、当然、差異への傾斜である。
 今、思ったのであるが、これまで、同一性と同一性自己(意識)の区別が不明瞭な点があったが、思うに、+iが同一性自己意識の原点であり、⇒+1の+1が同一性=物質と見るべきはないか。そうすると、両者が明確に区別されるだろう。
 それを作業仮説とすれば、+iは原同一性自己(意識)となる。そして、-iは原差異自己(意識)ではないだろうか。この原差異自己とは、当然、ある認識をもっている。そう、平たく言えば、感性認識である。私が直感・直観というのは、ここから発するように思える。しかし、感性という用語はあいまいなので、精緻化する必要がある。
 『タオ・コード』では、万物との一体感を強調していたが、正に、一体となる感覚は、この原差異自己から生まれるのではないだろうか。だから、原差異「自己」というのは、少し問題があるかもしれない。
 これは、思うに、自己を無にして、空にして、他者を感受するという能力だと考えられる。虚心と言ったときの虚でもある。換言すると、同一性自己を抑えて、差異自身を肯定する感覚能力である。
 いわば、差異自体、他者自体を受容する感覚が原差異「自己」であろう。これは、わかりやすく言えば、他者と一体となる感覚、他者そのものとなる感覚である。
 とまれ、原差異「自己」-iとは、原差異感覚・原他者感覚と言うべきであろう。これは、原同一性自己+iとはまったく異質であり、正反対である。
 (ここで少し付け足すと、原同一性自己+iとは、原言語志向性と言えよう。つまり、原同一性自己性=原言語志向性となる。)
 以上から整理すると、+iとは原同一性自己=原言語志向性であり、-iとは、原差異感覚=原他者感覚=原他者一体感覚である。
 そして、両者が共振して、正当な自己認識が発生するのである。それが、+1である。しかし、+iまたは-iに傾斜すると、-1になるのである。+iの傾斜はたとえば近代合理主義に、-iの傾斜はロマン主義になるのである。
 しかし、そうすると、これまで同一性=物質が+1であると述べたことと矛盾する。即ち、正当な自己認識が+1とすると同一性=物質の+1と矛盾するということである。だから、物質と自己とは何か、という問題が生じるのである。思うに、同一性像とは何かが、肝心であろう。
 これまで、差異共振像に同一性像は包摂されると述べてきた。具体的に考えよう。たとえば、眼前に水仙の花が咲いているとしよう。この水仙の花の像はどう記述できるだろうか。これまでは、+1で表記してきたが、今やそれが疑問視されているのである。
 「わたし」は+iであり、水仙の花は-iである。同一性自己から見ると、つまり、前者から見ると、それは、同一性自己を後者に投影して見るので、それは、+i→-iとなると考えられるのである。
 そう、ここでも、両者の共振は、⇒+1でいいだろう。しかし、同一性自己傾斜になると、-iを否定することになろう。だから、(+i)・[-(-i)]⇒-1となるだろう。
 つまり、水仙の花「自体」は、+1であるが、同一性自己から見ると、それは、-1になるのである。これが、通常の同一性自己認識であると考えられる。言い換えると、意識では、水仙の花は-1であり、無意識では、+1であるということである。因みに、英国詩人ワーズワースの詩の水仙の花の群は、+1であろう。もっとも、-iへの傾斜があるが(つまり、ロマン主義的であるということである)。【追記:ここも齟齬が生じている。最初、眼前の水仙の花を-iとして、後では、+1であるとしているのである。これを整合化しないといけない。知覚・認識が生じる以前では、主観は+iであり、客観は-iである。だから、上記で正しいのである。しかし、知覚・認識が生じると、最初、差異共振像視覚(知覚・認識)が発生する。これが、⇒+1である。だから、知覚された水仙の花は初期では、+1でいいと考えられるのである。だから、言い方が悪かったのである。認識以前の主観が+iであり、対称が-i である。そして、原認識が生じると、差異共振視覚が生起する。これが、⇒+1なのである。そしてのそのときの、主観なり客観が+1なのである。
 そして、ここから、同一性自己が言語認識を形成する段階になると、差異共振性から離脱して、(+i)*[-(-i)]⇒-1となるのである。これが、同一性自己認識である。近代合理主義・近代的自我である。この倒錯・錯誤は、 +1を-1と認識しているところにあるのである。】
 それでは、同一性=物質とは何かと言えば、それは、+iが他者-iへ投影した自己同一性像であろう。つまり、+iのもつ同一性自己が他者へ投影した「自己」像である。つまり、同一性自己像の他者への投影が同一性=物質であるということになる。
 そして、現象とは、本来、差異共振現象であり、それを同一性=物質としているのは、同一性自己の傾斜・投影に拠ると言えよう。この同一性自己の投影像が仮象・幻像・マーヤーである。
 確かに、同一性=物質とは差異共振自然現象の仮象・幻像・マーヤーであるが、同一性自己意識のもつ同一性という点では、それは、差異共振自然現象に内包された性質であると言えるだろう。そう、問題は、同一性=物質が支配的に、近代合理主義・唯物論になることなのである。差異共振自然現象の中に、同一性=物質を配置するのは、理性的なのである。
 だから、先に述べたように、同一性=物質は、差異共振自然現象の仮象・幻像・マーヤーであるが、同時に、実質のある反映=仮象と言えよう。だから、単に無とするのは、間違いなのである。仮象であるが、無ではない。いわば、有的仮象である。
 さて、-iにもどろう。これは、原差異性・原他者性であるが、それに能動性を認めるとはどういうことなのだろうか。そう、やはり、エネルギーをもっていると考えられるのである。
 -iとは、端的に、内的差異性・内的他者性であり、必然的に、外的差異性・外的他者性へと反照されるのである。
 この内的差異性・内的他者は外的差異・外的他者を直感・直観する。「物自体」を直覚するのである。そして、また、「物自体」と一体化する傾向をもつ。それならば、単に受動感覚である。直感では、賦活された-iが存するはずである。
 つまり、+iの同一性傾斜とは+iの賦活に拠ると考えられるように、-iの賦活とは差異傾斜と考えられるだろう。だから、-i の能動性とは、差異的能動性である。そして、後期近代において、即ち、主に19世紀後半から差異的能動性が駆動するようになったと考えられるのである。それが、いわば、反近代主義的文化を形成するようになったのである。哲学では、キルケゴール、ニーチェであり、また、フッサールであり、ベルクソンである。宗教では、鈴木大拙であり、折口信夫である。(諸芸術は割愛する。)
 経済ではそれが連続化となり、社会主義や共産主義になったと言えよう。ケインズの経済も、その面があるだろう。この点は検討問題であるが。
 結局、後期近代において、-iの能動性の駆動により、同一性の反動は帝国主義、独占資本主義となり、また、差異は連続化して、社会主義、共産主義になったと言えよう。
 ということで、-i=原差異・原他者の能動性を認めることができた。
 思うに、これは、きわめて重要である。先に触れたように、詩的な『タオ・コード』は、旧い陰陽論に囚われていて、陽=能動性、陰=受動性にしてしまっているのである。陰にも能動性があるのであり、これを認めることが今日決定的に重要であると考えられるのである。陰的能動性、陰エネルギーの肯定である。
 これが思うに、たとえば、今日蔓延するうつ病等の心の病気の治療に役立つと考えられるのであるし、また、今日多く見られる人格異常の問題の解明にも指針を与えると考えられるのである。また、経済にも、性愛の問題にもそうである。いわば、一切合切である。
 うつ病の場合は、活性化する-iのエネルギーを遮蔽してしまい、エネルギーが枯渇するのである。つまり、差異共振エネルギーが枯渇するのである。そのために、生命エネルギーが欠如すると考えられるのである。
 ここで精密に言うと、活性化する-iエネルギーとは、差異共振エネルギーを志向しているということである。前期近代において、活性化した+iエネルギー(同一性エネルギー)は、もやは、役割を終えて、エネルギーが再帰するのであるが、このとき、潜在していた-iのエネルギーが賦活されて、+iとの共振・共鳴が必要となるのである。
 より的確に言えば、Media Pointにおいて、前期(往路)は、+iエネルギー(同一性エネルギー)が活性化したが、後期(復路)においては、-iエネルギー(差異エネルギー)が活性化すると考えられるのである。
 これは、Media Point における極性運動で説明できるのではないだろうか。つまり、最初は+iが優位になり、後期は交替して、-iが優位になると考えられるのである。リズムである。波動である。このMedia Point Rhythm、Media Point Wave、Media Point Oscillationが、このエネルギー交替を生んでいると考えられるのである。簡単に言えば、同一性と差異の波動である。
 そして、今日、トランス・モダンの時代にあって、差異エネルギーが活性化しているので、これを同一性と共振・共鳴させる必要があるのである。だから、正確に言えば、差異共振エネルギーが駆動されているというのではなくて、-iエネルギー=陰エネルギー=差異エネルギーが駆動しているのである(これは、つまり、Media Pointへの螺旋的回帰、高度Media Point回帰であると考えられる)。
 そして、両者の共振・共鳴のためには、-iを肯定する「精神」が必要なのである。それは、おおまかに言えば、身体であるが、正しくは、精神身体である。身体というとき、一般には、物質身体を意味するからである。
 この問題も精緻に考える必要がある。-iは差異であり、他者であるが、内的には何であろうか。いったい、他者をそのまま肯定する「認識」とは何が行うのだろうか。
 思うに、ここには、「うつす」という「認識」があると思う。いわば、ミメーシス、リアリズム、写実である。一つの鏡面である。そう、鏡面認識である。この鏡面が森羅万象を「映す」と考えられるのである。この差異鏡面認識を担っているのは何か。
 同一性認識はMedia Pointの実軸ゼロ点に拠点があると考えられるが、差異認識はMedia Pointの虚軸ゼロ点に拠点があるのではないだろうか。
 否、そうではない。同一性認識は、+iが1/4回転して形成されるのである。-1である【(+i)*(+i)⇒-1であろう】。だから、やはり、MPの実軸ゼロ点が拠点でいいのだろう。
 では、差異認識はと言えば、-iの認識であるから、MPの虚軸ゼロ点に拠点があると言えよう。では、具体的にそれは何処にあるのかである。MPの実軸ゼロ点は、頭脳(脳細胞・脳神経)でいいと思うが、それに対して、MP虚軸ゼロ点は、直感では、内的身体(精神身体)にあると思えるのである。
 物質身体は同一性認識による外的身体であるから、そこには、差異認識の拠点はないのである。また、単に心に、差異認識の拠点があるのでもないだろう。
 以前、+iが原光で、-iは原闇であると言ったが、それから見ると、差異認識は(原)闇認識であると言えよう。つまり、可視光的視覚認識ではないと言えよう。そう、パラドクシカルな言い方であるが、闇の不可視光(「闇の光」)があるのではないだろうか。
 「闇の光」を見るのが、内的身体ではないだろうか。つまり、内的視覚というものがあるのではないだろうか。
 そして、直感では、この内的視覚の器官が、内臓であると思えるのである。内臓とは、単に物質器官ではなく、精神器官でもあるだろう。つまり、精神身体器官としての内臓である。
 東洋身体論では、精神身体器官としての内臓を捉えていると考えられる。日本文化の「肚」とは、そのようなものである。また、通俗的であるが、心臓=心ということで、やはり、精神身体器官としての心臓である。
 だから、まとめると、同一性認識の器官が脳細胞・脳神経であるのに対して、差異認識の器官が内臓であり、それは、精神身体器官である。(平明に言えば、ストレスで胃痛が起るのは胃が精神身体器官であるからであると言えよう。)
 ということで、-iの差異認識とは、「闇の光」の視覚であり、内的視覚であると作業仮説的に考えられる。結局、-iの拠点であるMPの虚軸ゼロ点とは、内的身体・内臓に存するのである。だから、現象的には、上下が反対になっているのである。本来、「天」である虚軸ゼロ点が、下部にあり、本来、「地」である実軸ゼロ点が上部にあるのである。
 ということで、差異エネルギーが賦活されているトランス・モダン・エイジとは、内的身体=内臓精神身体を陶冶する必要があるのである。そう、差異エネルギーとは「闇の光」のエネルギーであり、いわば、不可視光である。しかしながら、私見では、この「闇の光」とは、超越光に関係するのである。端的に、超越光自体かどうかが問題である。
 そう、「闇の光」=原闇は、当然、新しい原光を伴っていると考えられるのである。これまでの光は、旧い光であり、衰退したものである。
 しかし、差異エネルギー=原闇(源闇)が活性化されると必然的に、新たな同一性エネルギー=原光(源光)を伴うと考えられるのである。
 だから、「闇の光」は、超越光と関係するのである。もっとも、超越光自体ではないが。
 私がこれまで、超越光が見えると述べたが、それは、差異エネルギー(源闇)を介して、新しい差異共振エネルギー=超越光を見ているからではないだろうか。内的身体=内臓の内的視覚を介して、超越光を見ていると言えよう。ヴィジョンの光とも言えよう。
 思うに、ルドルフ・シュタイナーが20世紀前期から人々は「キリスト」の光を見ることになると予言したが、思うに、東洋文化に深く影響されたシュタイナーであるから、「キリスト」とは、端的に、超越光とすればいいのである。それは、日本・東洋文化的には、アマテラスであり、大日如来であり、阿弥陀如来等々である。
 比喩的に言えば、闇を介して、新たな光が到来するのである。ただし、闇とは、源闇=内的身体=精神身体、即ち、-iである。


記憶:唯物科学と超越科学:記憶の領域としてのMedia Point
テーマ:ポスト唯物論/唯物論の超克へ向けて

今日の科学は、一般に、唯物論なので、記憶の場も、当然、脳神経に求めてしまうと言えよう。しかし、今、ベルクソンの代表作・主著である『物質と記憶』を読むと、記憶は精神の領域にあるのであり、物質(神経)の領域にはおいていないのが、明確にわかるのである。
 PS理論は当然ながら、記憶は精神の領域であるが、Media Pointなのか虚軸なのか、少し疑問である。しかしながら、記憶は端的に、Media Pointにあるとするのがいいだろう。Media Pointとは、前近代的な言い方をすれば、魂である(霊は虚軸に存するMedia Pointであろう。だから、虚軸ゼロ点であろう。また、心と言った場合は、同一性=物質を認識を含めてのMedia Pointであろう。つまり、現象化しているMedia Pointと言えよう。そうすると、Media Point現象学というものが考えられよう。)。
 とまれ、記憶はここにおいて蓄積されるが、睡眠時には、過去の記憶と直近の記憶との共振が起り、創造が生まれるのではないだろうか。モーツァルトは典型であろう。この点は夢について述べたときに言及していると言えようが、いつか、考察してみたい。
 ベルクソンの記憶であるが、それは、確かに、Media Pointに近いが、『物質と記憶』の段階では、超越性、虚軸性の要素はほとんどないと思われる。晩年の代表作である『道徳と宗教の二源泉』において、宗教性や芸術性が明確に入ったのだろう。

追記:因みに、ベルクソンの家系は父がポーランド系ユダヤ人で、母がイギリス人とアイルランド系ユダヤ人の混血である。だから、一般的なフランス人ではない。
 私はベルクソンに霊的なものを直感するのであるが、それは、ユダヤとアイルランドの「血」に由来するのではないだろうか。

**************

清野 仁與(エディター)

【第9回】 2009年02月05日
“昼寝”が創造性を高める!?
「睡眠」と「記憶力」の“深〜い”関係

――果報は“寝て”待て?

 週末の予定は決まりましたか? 特に予定もないし「昼寝でも」しようかな・・・、とちょっと小声になってしまう貴方、罪悪感は必要ありません、堂々と昼寝をしましょう。なぜなら「昼寝」にはすばらしい恩恵があるからです。

 仮眠または昼寝をすることで、創造性につながる洗練されたタイプの記憶力が高まるという研究報告があります。

 クリエイティブ(創造)は、簡単にいえば、新しく何かをつくりだすことですが、まったくゼロの状態から何かが生まれるわけではなく、内に蓄えられた経験に新しい関係性が与えられること、つまり過去の記憶から「新しい記憶」が創造されることであるとわかってきました。

 昼寝の間にも、あなたの脳では記憶の“編集作業”がおこなわれているのです。
睡眠は「質」が大事
http://diamond.jp
/series/seino/10009/


アンリ・ベルクソン
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ノーベル賞 受賞者 ノーベル賞
受賞年: 1927年
受賞部門: ノーベル文学賞
受賞理由:

アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson, 1859年 10月18日 - 1941年 1月4日 )は、パリ 生まれのフランス の哲学者 。
生涯 [編集 ]

幼少期 [編集 ]

ポーランド 系ユダヤ人 を父、イギリス 人を母として、パリのオペラ座 からそう遠くないラマルティーヌ通りで生まれる(妹のミナは、イギリス のオカルティストマグレガー・メイザース と結婚し、モイナ・メイザース と名乗った)。誕生後数年は、家族とイギリス・ロンドンで生活を送る。イギリスで母ととても早くから親密な関係を築く。彼が9歳になる前に、彼の家族は、フランス、バス=ノルマンディー地方 マンシュ県 に移り居を構える。

学生時代 [編集 ]

リセ で古典学と数学を深く修めたあとに入学した高等師範学校 では、カント を奉じる新カント派 一色であった当時の教授陣への反発と、ハーバート・スペンサー の著作を熟読して受けた実証主義・社会進化論の影響のもとに、自己の哲学を形成する。1881年 に受けた教授資格国家試験 では、現代心理学の価値を問う試問に対し、現代心理学のみならず心理学 一般を強く批判する解答をしたため、審査員の不興を買うことになった。結果、ベルクソンは2位で合格する。

『時間と自由』 [編集 ]

合格後、リセ 教師となった彼は、教師として教えるかたわら、学位論文の執筆に力を注ぐ。そして1888年 、ソルボンヌに学位論文『意識に直接与えられたものについての試論』(英訳の題名『時間と自由意志』)を提出し、翌年、文学博士号を授与される。この著作の中で彼は、これまで「時間 」と言われてきたものは、分割できないはずのものを空間的な認識を用いて分節化することによって生じたものであるとして批判し、空間的な認識である分割が不可能な意識の流れを「持続 」("durée")と呼び、ベルクソンはこの考えに基づいて、人間の自由意志 の問題について論じた。この「持続」は、時間/意識の考え方として人称的なものであり、哲学における「時間」の問題に一石を投じたものといえる。

『物質と記憶』 [編集 ]

その後1896年 には、哲学上の大問題である心身問題 を扱った第2の主著、『物質と記憶』を発表。ここでベルクソンは失語症 についての研究を手がかりに、物質と表象の中間的存在として「イマージュ("image")」という概念を用いつつ、心身関係という哲学上の大問題と格闘している。

すなわち、ベルクソンは、実在を持続の流動とする立場から、心(記憶)と身体(物質)を持続の緊張と弛緩の両極に位置するものとして捉えた。そして、その双方が持続の律動を通じて相互にかかわりあうことを立証した。

コレージュ・ド・フランスへ [編集 ]

1900年 よりコレージュ・ド・フランス 教授に就任し、1904年 にはタルド の後任として近代哲学の教授に就任する。1914年 に休講(1921年 正式に辞職)するまでそこで広く一般の人々を相手に講義をすることになる(ベルクソンは結局、大学の正式な教授になることはなかった)。その講義は魅力的なものであったと伝えられ、押しかける大勢の人々にベルクソン本人も辟易するほどの大衆的な人気を獲得した。主にこの時期に行った講演がベースとなる『思想と動くもの』という著作で「持続の中に身を置く」というベルクソン的直観が提示されることとなる。

『創造的進化』 [編集 ]

スペンサーの社会進化論 から出発し、『試論』で意識の流れとしての「持続」を提唱し、『物質と記憶』で意識と身体を論じてきたベルクソンは、考察を生命論の方向へとさらに押し進め、1907年 に第3の主著『創造的進化』を発表する。これはベルクソンにおける意識の持続の考え方を広く生命全体・宇宙全体にまで押し進めたものといえる(そこで生命の進化を押し進める根源的な力として想定されたのが「生の飛躍("élan vital")」である)。

国際舞台での活躍 [編集 ]

国の内外で名声の高まっていったベルクソンは、公の場にも引っぱり出されるようになる。第一次世界大戦 中の1917年 ・1918年 には、フランス政府の依頼でアメリカを説得する使節として派遣された。また大戦後の1922年 には国際連盟 の諮問機関として設立された国際知的協力委員会の委員に任命され、第1回会合では議長となって手腕を振るった(当時の国際連盟事務次長であった新渡戸稲造 とも面識があった)。1930年 、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を授与される。

またベルクソンは自身の著作において言葉をとても大切にしながら書いていて、その文章は明快かつ美しい文章で書かれ散文としても素晴らしいものとなっており、1927年 にはノーベル文学賞 を受賞した。

『二源泉』 [編集 ]

こうした公的活動の激務のなかでも、ベルクソンの著作を書く意欲は衰えず、1932年 に最後の主著として発表されたのが『道徳と宗教の二源泉』である。この著作では、社会進化論・意識論・自由意志論・生命論といったこれまでのベルクソンの議論を踏まえたうえで、人間が社会を構成する上での根本問題である道徳と宗教について「開かれた社会/閉じた社会」「静的宗教/動的宗教」「愛の飛躍("élan d'amour")」といった言葉を用いつつ、独自の考察を加えている。

すなわち、創造的進化の展開のうち、エラン・ビタール、そして天才・聖人らの特権的個人によって直観される持続としての神的実在が緊張の極に置かれ、かかる特権的個人の行為を通じて発出するエラン・ダムールによる地上的持続の志向と参与を真の倫理的・宗教的行為であるとした。

晩年 [編集 ]

1939年 に第二次世界大戦 が始まると、ドイツ軍の進撃を避け田舎へと疎開するが、しばらくしてパリの自宅へ戻っている。反ユダヤ主義の猛威が吹き荒れる中、同胞を見棄てることができなかったからだといわれている。清貧の生活を続けるも、1941年 年頭、凍てつく寒さの中、ドイツ軍占領下のパリの自宅にて風邪をこじらせひっそりと世を去った。占領下ということもあって、参列者の少ないきわめて寂しい葬儀のあと、パリ近郊のガルシュ墓地に葬られた。
パンテオンに刻まれたベルクソンの碑文

葬儀に参加したポール・ヴァレリー は、

「アンリ・ベルクソンは大哲学者、大文筆家でしたが、それとともに、偉大な人間の友であった」

と弔辞を述べて、ベルクソンを讃えている。

ベルクソン死後26年を過ぎた1967年 、その功績が讃えられ、パンテオン にベルクソンの名が刻まれ、祀られることとなった。

「その著作と生涯によって、フランスおよび人類の思想に栄誉をもたらした哲学者 ― アンリ・ベルクソン」(パンテオンに刻まれた碑文)

思想 [編集 ]

生きた現実の直観的把握を目指すその哲学的態度から、ベルクソンの哲学はジンメル などの「生の哲学 」といわれる潮流に組み入れられることが多く、「反主知主義」「実証主義を批判」などと紹介されることもある。だが実際のベルクソンは、当時の自然科学にも広く目を配りそれを自分の哲学研究にも大きく生かそうとするなど、決して実証主義の精神を軽視していたわけではない(アインシュタイン が相対性理論を発表するとその論文を読み、それに反対する意図で『持続と同時性』という論文を発表したこともある)。

一方で、ベルクソンは新プラトン主義 のプロティノス から大きな影響を受けていたり、晩年はカトリシズム へ帰依しようとするなど、神秘主義 的な側面ももっており、その思想は一筋縄ではいかないものがある(ベルクソンは霊 やテレパシー などを論じた論文を残してもおり、それらは『精神のエネルギー』に収められている)。 因みに、1913年 、英国心霊現象研究協会 の会長に就任している。

こうした点から、ベルクソンの哲学は、しばしば実証主義的形而上学、経験主義的形而上学とも称される。


・・・・・

カテゴリ : アカデミー・フランセーズ | フランスの哲学者 | ユダヤ系フランス人 | ノーベル文学賞受賞者 | 1859年生 | 1941年没



2009年03月07日(Sat)▲ページの先頭へ
『タオ・コード』とPS理論:性的陰陽論と差異共振主義:プラトンの「コーラ」はMPである
『タオ・コード』をいちおう読了した。これは、「精神世界」の本であるが、以前流行したものとは異なり、実に、感覚的である。以前はやたらに、神秘性・オカルト性を強調していた。 
 今日の精神崩壊の時代にあっては、この本は精神の指針を与えるだろう。もっとも、性的精神エネルギーとしての精神であるが。
 とまれ、言うべきことは多いが、解説するより、読んでもらうのがいいだろう。とても易しい文章である。
 先に疑問を呈したが、その陰陽論とPS理論は異なると感じた。後者は、+iに能動性、-iに受動性を認めるだけでなく、反対に、+iに受動性、-iに能動性を認めると考えられる。つまり、単に、「陽」に能動性、「陰」に受動性があるのだけでなく、「陰」にも能動性、「陽」にも受動性があるということである。
 有り体に言えば、(今日では常識的であろうが、)男性に能動性と受動性を認めると同時に、女性にも能動性と受動性を認めるということである。つまり、いわば、両性具有を両性に認めるということである(ユング的であるが。もっとも、ユングは東洋文化に影響されているのである。)。これが、アジア・東洋的精神身体だと考えられるのである。西洋的身体は、2項対立的身体である。つまり、能動的身体(男性)と受動的身体(女性)に分離しているのである。そして、先に述べたように、『タオ・コード』の陰陽論にも、残念ながら、残っているのである。


追記1:ここで、プラトンの『ティマイオス』の「コーラ」について考察すると興味深いだろう。「コーラ」については、PS理論の見地から、何回か考察して、結局、Media Pointであろうということになっている。
 『タオ・コード』的視点では、「コーラ」は「陰」の原理となろう。それは『ティマイオス』においても、そう考えられないことはない。何故なら、そこでは、「イデア」的能動原理が先に述べられていて、それを補完する原理として、受容・「母」的原理である「コーラ」が説かれているからである。
 だから、「コーラ」を「陰」と見るのは、容易なのである。しかし、プラトンの二重性(母権原理と父権原理)を見ると、「コーラ」にも二重性を想定できるのである。
 プラトンの父権原理から見ると、「コーラ」は母権原理となる。それは、父権主義から見た母権主義であり、結局、父権主義が優位であり、母権主義が劣位である。
 しかし、PS理論から見ると、「コーラ」の多様な生成原理とは、Media Pointの差異共振形成原理を想起させるのである。だから、「コーラ」はMedia Pointであると見るのが第一義的であろう。それを「陰」と見るのは、父権主義的である。


追記2:『タオ・コード』には、中国雲南省の少数民族における「もう一つ」の『老子』が説かれているが、そこで、ドラヴィダ族やシュメール文明との関連を示唆されていた。実に興味深い。
 さらにスリリングなのは、ドラヴィダ語族の外部リンクに、ドラヴィダ語とエトルリア語(古代イタリアの先住民族)の関係を述べる文献があることである。先に引用した、『タオ・コード』の思想と酷似している思想をもっていると述べたD. H. ロレンスは、実は、エトルリアについての西洋文明批判的な紀行文『エトルリアの地』を書いているのである。これで、『タオ・コード』、D.H.ロレンス、そして、PS理論は、前アーリア文明的母権文化という点で、つながったと言えよう。ただし、PS理論は絶対的にトランス・モダンである。


ドラヴィダ人
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ドラヴィダ人(Dravidian)は、アーリア人 の侵入以前にインド 北部を支配していたと考えられる民族群。インダス文明 はドラヴィダ人によるものだとされているが、これは同文明の遺跡から発見された未解読のインダス文字 により記された言語がドラヴィダ語族 の言語である可能性が高いためである。

ドラヴィダ人はアーリア人 とは外見的条件が大きく異なり、オーストラロイド またはヴェダロイド に分類されている。

現在では主に、南インド 四州すなわちタミル・ナードゥ州 、ケーララ州 、アーンドラ・プラデーシュ州 、カルナータカ州 を中心として居住し、マレーシア 、シンガポール 、セーシェル 、マダガスカル などにも居住している。


ドラヴィダ語族
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ドラヴィダ語族の分布

ドラヴィダ語族(ドラヴィダごぞく、Dravida)は、主にドラヴィダ族 の人々が使用する言語 の語族 (ごぞく) であり、およそ26の言語が含まれる。ドラヴィダ語は、主として南インド とスリランカ で話されているが、また、パキスタン 、ネパール 、そして東部及び中央インドの特定の地域でも話されている。 ドラヴィダ語族の話者人口は 2億人を越える。

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外部リンク [編集 ]

* ドラヴィダ語源辞典  オンライン形式で検索可能な「ドラヴィダ語源辞典」完全版 [英文]
* SIL Ethnologue のドラヴィダ語頁  [英文]
* ドラヴィダ語とフィンランド語  ドラヴィダ語とフィン・ウゴル語 (Finno-Ugric languages)の関係を主張する小論文 [英文]
* 印欧語の源泉としてのドラヴィダ語の発見  原ドラヴィダ語は、印欧語の共通祖語であることを主張する論文 [英文]
* エトルリア語からのドラヴィダ語  ドラヴィダ語とエトルリア語 (Etruscan)の関係を主張する論文 [英文]
* グァンシュのドラヴィダ起源  グァンシュ (Guanches)の言語がドラヴィダ語起源であると主張する論文 [英文]
* タミル語と日本語  大野晋 『日本語とタミル語』1988年 の英訳 [英文]
* ドラヴィダ語  [日本語]

カテゴリ : 出典を必要とする記事 | ドラヴィダ語族 | 語族


『タオ・コード』の性的陰陽論とPS理論:同一性傾斜性(父権原理)と差異共振性(母権原理)
昨日、以下の『タオ・コード』について言及したが、今日、百ページ以上、読んだ。とても、平明に書かれた文章であるが、トランス・モダン的思想を説いている本である。
 予想した通りというか、それ以上にD. H. ロレンスの宇宙的『性』思想に驚異的に酷似している、というかほとんどそっくりなことがわかった。
 いくつか考察すべきことがあるが、PS理論に即して言うと、+iと-iの考え方と『タオ・コード』の陰陽思想の関係である。私は、+iが原同一性であり、-iが原他者性であると述べてきた。そして、*が共振・共鳴性である。
 そして、Media Pointにおいて、+iと-iが共振・共鳴して、同一性+1が生起すると考えてきた。+iは陽であり、-iは陰である。そして、私は父権原理の同一性傾斜について述べてきた。
 この同一性傾斜については、当然、+iの傾斜ということになるから、陽原理傾斜と言えよう。問題は、+1と陽原理傾斜との関係である。(その前に、『タオ・コード』の陰陽論を説明すると、陽は男性原理で、能動性であり、陰は女性原理で、受動性ということであり、きわめて、オーソドックスである。)
 +1とは、Media Pointから形成される同一性=物質のことである。(先にヘーゲル弁証法について述べたときに、同一性自己意識とは、Media Pointの実軸ゼロ点にあると述べた。これが同一性=物質へと投影されると、唯物論になると述べた。)
 そして、それは、光であるとも述べた。超越光から光(可視光)の発生でもある。(それは、アインシュタインの公式E=mc^2に表われていると言えよう。)
 だから、問題は、端的に言えば、同一性=物質とは、同一性傾斜によっているのか、それとも、差異共振性に基づくものなのか、ということである。
 ここは、一つの本質的問題である。同一性傾斜とは、父権原理のことである。そして、同一性=物質とは、差異共振鏡面に投影された同一性像である。
 問題は、同一性像である。それは一体何なのか。同一性像とは、本来、Media Pointにおける差異共振像に内包されているものである。それが、外部の差異共振鏡面に投影されて外的同一性像(同一性=物質)が形成されるのである。そして、その差異共振像に内包される同一性像とは、同一性傾斜とは関係なく、生起するものである。ということで、同一性=物質は、同一性傾斜=父権原理とは関係なく生起するということである。
 この考察から、『タオ・コード』の陰陽論(上述したように、陽に能動性、陰に受動性を見る)を見ると、それは、同一性傾斜理論であり、PS理論の差異共振理論とは異なることがわかるのである。言い換えると、『タオ・コード』の陰陽論には、差異共振性がないということになるのである。能動性(陽)と受動性(陰)の合体によって、エネルギーが生まれるというものである。これでは、父権原理的であり、母権原理は、受動性に留まっていると言えよう。
 ということで、一見、『タオ・コード』の性的陰陽論は、PS理論に似ているが、似て非なるものであることが判明した。それは、父権化された陰陽論なのである。
 次に、D. H. ロレンスの性的宇宙論であるが、一部は『タオ・コード』の性的陰陽論と共通するが、それ以外に、差異共振性の思想をもっていると考えられる。だから、その点では、PS理論と共通するのである。
 ところで、芸術上のモダニズムであるが、それは、正しくは、プロト・トランス・モダン、ないしは、オーヴァー・モダンというべきと考えられる。それは、近代主義の乗り越えを目指していたからである。


タオ・コード―老子の暗号が語り出す 性の五次元領域から迸る秘密の力 (5次元文庫) (文庫)
千賀 一生 (著)

http://ameblo.jp/renshi
/entry-10219794610.html

デーヴィッド・ハーバート・ローレンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(D・H・ローレンス から転送)
D. H. Lawrence

21歳の頃 (1906年)
生誕 1885年 9月11日
Eastwood, Nottinghamshire , ノッティンガムシャー , イギリス
死去 1930年 3月2日 (44歳)
Vence , フランス
職業 小説家
執筆時期 1907–1930
ジャンル モダニズム
主題 性愛、社会、旅行小説、文学批評
主な作品 小説: 白孔雀

短編: 菊の香り
戯曲: ホルロイド夫人



デーヴィット・ハーバート・ローレンス(David Herbert Richards Lawrence、1885年 9月11日 - 1930年 3月2日 )は、イギリス ノッテンガムシャー出身の小説家 ・詩人 。

1908年 ノッテンガム大学を卒業した後、小学校 の教員 となり、1911年 に小説 を出している。1912年 から1914年 にかけてドイツ に渡り、1914年 イギリスに帰国後結婚した。『息子と恋人』(1913年)、『虹』(1915年)、『チャタレー夫人の恋人 』(1928年)など人間の性と恋愛に関する小説を発表したが、発禁処分を受けたものもある。

ローレンスの作品は性を大胆に描写し、また、近代文明が人間生活にもたらす悪影響を主題としているものが多い[1] 。易しくぶっきらぼうな言葉で書かれているのが特徴である[2] 。

日本では第一次世界大戦 後の1920年代 頃に注目されはじめ、ローレンスが死んだ1930年代 には阿部知二 、伊藤整 、西脇順三郎 らによって広く紹介されるようになった[1] 。また、第二次世界大戦後には伊藤整が訳したローレンスの作品『チャタレイ夫人の恋人 』がわいせつだとして罪を問われたチャタレー事件 が発生している。


・・・・・

関連項目 [編集 ]

* チャタレー事件

カテゴリ : イギリスの小説家 | 1885年生 | 1930年没

参考:
"田形みどり" "DH ローレンス思想と老荘思想との共鳴点に関する一試論


タオ・コードとD. H. ロレンスとPS理論:Media Point陰陽宇宙論
久しぶりに駅前の本屋に行って、棚に立ててあった以下の本を手に取り、最初は性欲讃歌の本かと思ったが、どうやら、PS理論に近い発想をもっている本だと感じて買った。
 どちらかというと、今日は忘れられているD. H. ロレンスの宇宙的性の思想にとても似ていると感じた。
 結局、陰陽論なのであるが、それを宇宙的性思想にしているのである。
 今は余裕がないので、詳述しないが、拾い読みして感じたのは、『タオ・コード』の説く性的陰陽論とは、実は、差異共振的精神身体(Media Point陰陽論)ときわめて似ていると感じるのである。性が物質身体ではなく、精神身体に関係しているのである。漢字を見ればわかるように、性は立心偏である。性とは正に、精神的なのである。今はここで留める。

タオ・コード―老子の暗号が語り出す 性の五次元領域から迸る秘密の力 (5次元文庫) (文庫)
千賀 一生 (著)



欲望とは何か:同一性自己欲望と差異共振「力」
問題は、身体と精神の問題である。心身問題に入ると言えよう。
 身体は精神身体があり、それから派生するように物質身体がある。西洋医学の身体は後者である。
 欲望の問題は、限局すれば、物質身体の維持・保持に関すると言えよう。自己認識方程式の発想から言うと、精神身体⇒物質身体と言えるのではないだろうか。⇒物質身体は、⇒+1と表記できる。また、物質身体はエネルギーと言っていいだろう。
 そして、このエネルギーは生成消滅するものであり、ゼロになると考えられる。だから、生きるためには、常にエネルギーを更新して補充しなければならないのである。
 このエネルギーへの欲求が欲望である。つまり、物質身体のためのエネルギーへの欲求が欲望であると考えられる。
 思うに、精神身体を原点にしているのは、深いと言えよう。欲望とは単に物質身体の欲求だけでなく、精神性に関係しているからである。とまれ、ここでわかりやすくするために、食欲を考えよう。
 物質身体のエネルギーが枯渇して、それを補充する欲求である食欲が発生して、食物を摂取するのである。たとえば、ご飯を食べるとしよう。ご飯は、物質であるが、この物質を補給して、物質身体のエネルギーを補充するのである。つまり、⇒+1を反復するのである。
 しかしながら、欲望とは言え、精神身体を原点とした物質身体の欲求であると見るべきである。だからこそ、ストレスによって、食欲の異常が発生しうるのである。
 では、消化器官とは何だろうか。食物を物質身体に吸収されやすくするための身体器官(精神・物質身体器官)であるが、思うに、吸収された養分を精神身体 ⇒物質身体の図式に即して、物質身体エネルギーの補充へと移動させると考えられる。つまり、中枢は精神身体(Media Point)であり、それが「司令塔」となり、物質身体エネルギーを取り入れていると考えられる。
 以上の試論によって、欲望とは、単に物質身体の欲求ではないことがわかった。それは、根源的には、精神身体に基づくと考えられるのである。もっとも、実質的なウェイトは、物質身体の維持にあるが。
 
 では、差異共振力とは何だろうか。それは、基本的には、精神エネルギーである。それと欲望はどう関係するのだろうか。欲望は基本的には、自己保存欲(コナトゥス)である。それに対して、差異共振力とは、他者との共鳴志向性である。
 前者が同一性自己に傾斜すると「利己主義」・利我主義となり、後者と衝突する。父権主義とは、「利己主義」・利我主義であり、根源的母権主義とは衝突するのである。母権主義を考えると、それは、欲望と差異共振力とが均衡を保つ思想と考えられる。
 今日の父権文明は、母権主義を侵食して、「利己主義」・利我主義に傾斜した文明であり、自己中心主義であり、他者破壊的(他者には当然、自然も入る)と言えよう。
 今日、同一性主義(同一性主義金融資本主義)が崩壊したので、脱「利己主義」・利我主義へと志向すると考えられる。欲望は、差異共振力と再び、均衡を形成する方向になると考えられるのである。
 そのためには、差異共振経済が必要になるのである。

追記:上記のエネルギーとは精神エネルギーか、物質エネルギーか。物質身体のエネルギーという点では、物質エネルギーであるが、源泉は精神エネルギーである。ここは上述したように、微妙である。
 しかしながら、やはり、精神エネルギーに根源をもつ物質エネルギーないしは、精神身体エネルギーに根源をもつ物質身体エネルギーと言えよう。
 ただ、量的には、物質エネルギー、物質身体エネルギーに傾斜しているのである。そう、相対的に、物質身体とは、精神身体から独立しているとは言えよう。


2009年03月05日(Thu)▲ページの先頭へ
物質とは何か:同一性と同一性自己
先に、同一性=物質は仮象、幻像、マーヤーであると述べたが、そうすると、自然現象や身体もそういうことになってしまう。たとえば、内臓もそうなる。血液の流れもそうなる。それでいいのか。物質科学はどうなるのか。つまり、酸素と水素が結合して、水になるが、それらは、すべて仮象、幻像、マーヤーになるが、それでいいのか。ここでは丹念に思考する必要がある。
Media Pointにおいて、差異共振像・差異共振性が存している。そこでは、同一性像が存している。つまり、差異共振像の中に同一性像が存するということである。以前、差異的同一性ということを言ったが、それと同じことである。
 思うに、Media Point の同一性像が差異共振鏡面(差異共振スクリーン)に投影され、反照されると考えられる。だから、同一性=物質とは、この同一性像のことであると考えられる。そして、この同一性像が仮象、幻像、マーヤーであるということになる。しかしながら、そうだとは言え、同一性自体は、一種の実質性をもっていると考えられるのである。
 ということで、同一性=物質とは、自然現象そのものの姿ではないが、部分的実質と考えられる。というか、同一性=物質とは、差異共振心象の同一性的側面、表層的側面、おそらく、より端的に言えば、光的側面である。そう、同一性=物質とは、差異共振像
の光的側面ないしは光現象ということができるのではないだろうか。あるいは、差異共振像の可視光現象と言えるかもしれない。
 とまれ、以上から同一性=物質は、仮象、幻像、マーヤーであるが、実質は、差異共振像の同一性・表層・光・可視光的現象であるということになった。
 そう、思うに、この同一性=物質の光・可視光が人間の理性を盲目にすると言えよう。正に、マーヤーに自己意識が囚われるのである。つまり、同一性光現象に視覚が囚われてしまい、本体である差異共振像を知覚できないのである。
 では、差異共振像とは視覚認識できるのだろうか。あるいは、それは、どういう「光」なのだろうか。それは当然ながら、これまで述べてきた超越光である。


2009年03月04日(Wed)▲ページの先頭へ
再度、同一性=物質とは何か:仮象身体と精神身体:Media Point身体と物質仮象身体
先に、同一性=物質とは仮象、マーヤーであると言ったが。そうすると、例えば、生命体の身体の臓器は物質ではないのかという疑問が直截に浮かぶのである。
 これは、キーポイントである。端的に、人間の身体とは何か、である。皮膚に包まれて、神経系、血管系、内臓系、骨格系等がある。それは、物質ではないのか。
 今日に西洋医学では、それらを物質主義的に見ているのし、それはそれなりに成果を上げている。
 しかし、それは、物質身体の視点である。これまで、私は精神身体の根源性を述べてきた。端的に言えば、例えば、肝臓であるが、それを物質身体と見るのは、同一性=物質主義の視点からであり、それは、直近の検討から言えば、仮象・幻像的なのである。それは、そう、表層身体、否、仮象身体に過ぎないのである。
 つまり、肝臓は精神身体と見るのが正しいのである。神経も、血管も、内臓も、骨格等も、精神身体と見るのが正しいのである。
 そう、先の検討から言えば、実軸ゼロ点の反映としての物質身体であり、源泉はMedia Pointの精神身体である。ということで、本件の検討は終った。端的に、身体とは、精神身体なのである。物質身体とは、同一性=物質の視点に基づく、精神身体の抽象化なのである。言い換えると、マーヤーである。


同一性=物質と同一性自己:物質とは同一性自己投影像、仮象、マーヤーだ:ヘーゲル弁証法の脱唯物論性
先にヘーゲル弁証法について分析していたとき、合(ジンテーゼ)において、同一性=物質を否定して、同一性認識ないしは同一性知性を「精神」が包摂すると言った。この同一性=物質と同一性認識(同一性知性)の関係をより詳述したい。同一性認識(同一性知性)とは当然、同一性自己認識と重なると見ることができるので、同一性=物質と同一性自己との関係を子細に見ていきたい。
 この問題は先に述べた鏡像自己の問題に返るとわかりやすい。即ち、差異共振面に、同一性像を投影して、その鏡像を自己(同一性自己)と認識すると言った。それは、自己本来の差異共振性(差異共振像)を否定・抑圧して、同一性を差異共振鏡面に投影し、そこに反照する鏡像と同一化して、同一性自己像を形成するということである。
 問題は、原点にMedia Point があり、また、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点の両方が存していることである。しかし、鏡像自己においては、出発点は、実軸ゼロ点と考えられる。この「意識」が虚軸ゼロ点の差異共振性(差異共振像)に劣等感を覚えて、反感をもち、虚栄優越的に、それを否定して、同一性像を鏡面に投影して、鏡像自己と一体化すると考えられる。
 とまれ、重要なポイントは、実軸ゼロ点は、同一性志向性の原点であると考えられることである。では、核心の問題である同一性自己はどこにあるのだろうか。そう、志向性とは、端的に、認識性というということである。だから、同一性志向性とは、同一性認識性ということである。
 だから、実軸ゼロ点に同一性認識性、つまり、同一性自己の原点があるということになる。ここから、鏡面に同一性自己を投影するのである。そして、鏡面は、実際は差異共振像なのである。
 では、同一性=物質はどうなるのか。それは、差異共振鏡面に投影された同一性認識性が形成するものではないだろうか。つまり、同一性志向性=同一性認識性が差異共振鏡面に同一性像を形成するのであり、その同一性像が物質の原像ではないだろうか。フッサール現象学で言えば、同一性志向性がノエシスであり、差異共振鏡面に投影された同一性像がノエマではないだろうか。つまり、同一性志向性=同一性認識性が差異共振鏡面に同一性像を反映しているのであり、実は、同一性=物質自体は本来存在しないのではないだろうか。(フッサールは精神がすべてなくなれば、自然もなくなると述べていた。)
 ということは、同一性=物質とは、主観的な像であり、客観的な実在ではないことになる。正に、マーヤーである。仮象である。
 そこで、本件のテーマを考えると、+1とは同一性志向性=同一性認識に拠る仮象・マーヤー(幻像)であると言える。だから、ヘーゲルの合(ジンテーゼ)とは、同一性=物質を廃棄して、同一性志向性=同一性認識を「精神」に包摂したものと端的に言えるのである。正に、止揚である。そして、「精神」は、実軸ゼロ点を包摂した、連続的虚軸ゼロ点と考えられるのである。
 以上のように見ると、ヘーゲル弁証法は、唯物論を克服していることがわかるのである。しかしながら、それは、差異、超越性を同一性志向性に一致してしまっているので、全体主義的なのである。とまれ、同一性志向性精神を取りだしたことはヘーゲル弁証法の偉大な功績である。
 私はこれまで、ヘーゲル哲学はマルクス/エンゲルスの唯物弁証法を土台と考えていたが、そうではないのである。ヘーゲル哲学は同一性=物資を廃棄して、いわば、同一性志向性精神を説いているのである。フッサール的に言えば、ノエシスを説いているのである。同一性認識性を説いているのである。
 さて、今は示唆するだけだが、以上の考察を、ベルクソンのイマージュ哲学ないしは純粋持続哲学に適用すると興味深いだろう。物質は正に、イマージュなのである。それは、純粋持続が形成するイマージュなのである。しかしながら、ベルクソンは、物質を幻像とは見ていない。だから、物質と記憶という二元論になるのである。


2009年03月03日(Tue)▲ページの先頭へ
『同一性自己+1⇒同一性主義自己-1:再帰差異共振性の不連続的受容に因る真の自己認識:付録:ヘーゲル弁証法と神秘主義』
先に次のように述べたが、再考が必要である。

「+1が差異共振的自己(ほぼ、ユング心理学の自己)であり、-1が同一性自己(自我:やはり、ほぼユング心理学の自我)である。」
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10216729017.html

いったい、+1や-1は、「自己」から言うと何だろうか。+1について考えてみよう。これは、PS理論から言うと、端的に、同一性自己(自我:自己同一性)である。「わたし」である。しかしながら、Media Pointの活性化すると、差異共振性が再帰・復帰する。それは、+1に穴を空ける。
 だから、再帰した(+i)*(-i)が差異共振的自己になるだろう。しかしながら、同時に、+1の同一性自己もここには生起している。つまり、ユング心理学という自己と自我との「調和」がここにはある。つまり、PS理論は、ユング心理学の真の実現であろう。トランス・ユング心理学である。
 そうすると、-1は何か、となる。それは、同一性自己の一種であるが、主義になったものと考えられる。つまり、同一性自己主義ないしは同一性主義自己である。自我主義、利我主義、「自己中心主義」であり、近代においては、近代的自我である。
 そうすると、近代主義においては、自己は、同一性自己を形成した後、一種反動的に、同一性主義自己又は同一性自己主義を形成してしまうと考えられるのである。つまり、+1⇒-1に転化してしまうのである。
 これが生じるのは、再帰する差異共振エネルギーを否定したり、あるいは、同一性に連続的に連結化しようとするからである。
 ポスト・モダンとは、確かに、再帰差異共振エネルギーに駆動されていたが、主にハイデガー存在論による障害のために、きわめて、歪んだ、偏った理論となってしまい、現実世界に対処できなくなってしまったと考えられるのである。何度も言うが、フッサール現象学やベルクソン哲学のトランス・モダンへの画期性が、ハイデガー/デリダとドゥルーズによって、喪失されてしまったのである。
 PS理論によって、再帰差異共振エネルギーが脱同一性化=不連続化されて、真の自己認識が可能になったと考えられるのである。(不連続的差異論のときは、不明晰な差異の脱同一性化=不連続化が生じたのである。)
 そうすると、自己認識方程式(思うに、これは、神人方程式とも言えよう)は、(+i)*(-i)⇔+1と記すのが明晰である。ただし、Media Pointを入れて表記する方がより適切であろう。即ち、(+i)*(-i)⇔Media Point⇔+1 である。言い換えると、Media Point的自己認識方程式である。(一言、ドゥルーズ哲学について言うと、それは、確かに、再帰差異共振エネルギーはあったが、それを、完全に連続化してしまったのである。そのために、金融資本主義と同型になってしまったと考えられる。そう、いわば、ポジに対するネガである。理論的には、再帰差異共振エネルギーを連続化させたために無限となった実軸ゼロ点の構造主義であろう。)

 ここで、本題と離れて、近代文化について考えたい。結局、近代とは、Media Pointの虚軸から実軸へと下降して、同一性自己を形成する方向が主導的であった。それは、ルネサンスやプロテスタンティズムやデカルト哲学に発現していると言えよう。
 しかし、後期近代(19世紀後半以降)において、差異共振エネルギー=超越エネルギーが復帰するようになったと考えられる。即ち、前期近代とは対称的に、Media Pointの実軸から虚軸へと上昇する志向が主導化し始めたのである。そのとき、近代文化が取る方向は、反動的に同一性を強化する方向であり、これが、 (+1)^2=-1であり、実際は帝国主義、植民地主義、そして、金融資本主義になったと考えられる。
 もう一つは、ロマン主義ないしは神秘主義的方向で、それは、差異を強調する方向であり、それは結局、ファシズム・全体主義に帰したのではないだろうか【追記:思うに、社会主義・共産主義路線も、こちらに入るのではないだろうか。一見、異質であるが、考えてみると、反資本主義とは、実は、+iへの否定であり、(-i)^2⇒-1と考えられるので、こちらに入れるのである。ヘーゲル弁証法については、後で検討したい。】(かなり多くの文学者たちは、この方向を取ったと思う。因みに、D. H. ロレンスが一時唱えた「闇の神」は、(-i)^2⇒-1の「神」ということであろう。これは、ヤハウェと対称的な位置にあると考えられる。そして、晩年のコスモスとは、差異共振的超越性のことであると考えられるのである。)
 そして、今日、現代、差異共振エネルギーが解放されていると考えられるのである。いわば、差異共振精神が時代精神である。これは、キリスト教的に言えば、聖霊であり、これは、逆らえないのである。天の「風水」である。そして、ますます、差異共振エネルギーがMedia Resonance(メディア共鳴)して、ポリフォニー・交響的に発展していくと考えられるのである。ただし、差異批判知性をもつ必要があるのである。
 PS理論は、近代合理主義とロマン主義の対称的二元論の超克であり、正に、トランス・モダン理論である。

追記1:ヘーゲル弁証法について検討したい。社会主義・共産主義は、ロマン主義・神秘主義と同じ分類に入ると述べたが、それは、資本主義の否定で明快である。そして、ヘーゲル弁証法は、最初、そこに入るのではないかと直感したが、簡単には説明できないことがわかり、ここで、考察を行いたい。
 結局、正反合をどう解明するかである。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼである。単純に考えると、同一性、差異、統合であるが、果たして、そう考えていいのか。何故なら、ヘーゲルのテーゼとは「精神」だからである。だから、同一性にはできないのである。
 作業仮説として、Media Pointの実軸ゼロ点を「精神」=正(テーゼ)としよう。すると、ここから、同一性志向性が発生して、同一性=物質が形成される。これが、「疎外」である。つまり、「精神」の否定、反(アンチテーゼ)としての同一性=物質である。そして、さらに、同一性=物質が否定されて、「精神」へと回帰するが、これが、合(ジンテーゼ)である。
 すると、正=「精神」がMedia Pointの実軸ゼロ点で、反=同一性=物質は、+iの同一性志向性によって形成されると考えられるのである。それは、端的に、+1である。つまり、差異共振性の同一性化である。そして、合は、それの否定であるから、-(+1)=-1ではないだろうか。
 問題はこの否定の否定(合)の力学である。思うに、ここには、再帰差異共振エネルギーが作用しているのではないか。そう作業仮説して考察を続けよう。
 だから、再帰差異共振エネルギーが反(アンチテーゼ)=同一性=物質を否定していることになる。しかし、本来、再帰差異共振エネルギーは同一性=物質を否定しないのである。それは超越的に包摂するのである(超越的包摂)。ならば、それ(反)を否定する力学とはどういうものだろうか。
 ヘーゲルの「精神」は、実軸ゼロ点と仮定した。だから、必然的に、合(ジンテーゼ)においては、実軸ゼロ点へと回帰するということになると考えられる。
 それならば、構造主義である。しかし、ヘーゲル弁証法はもう少し奥がある。というのは、絶対精神が存しているからである。それは、いわば、超越神であろう。
 だから、前期近代主義を見るべきである。虚軸ゼロ点から実軸ゼロ点へと下降したのである。これが、ヘーゲル弁証法にも当てはまると考えられる。そして、両ゼロ点が重なっているのである。というか、一体化、つまり、癒着してしまっていると考えられるのである。
 そう、ここに本来のヘーゲルの「精神」を見るべきであろう。つまり、超越性(差異)と同一性が癒着しているのである。つまり、連続化である。差異と同一性の連続化である(だから、ドゥルーズ哲学はヘーゲル哲学と同質なのである)。
 この連続化されたMedia Pointがヘーゲルの「精神」である。そして、これが、正(テーゼ)である。そして、反(アンチテーゼ)が同一性=物質(「疎外」)である。そして、合(ジンテーゼ)は、反を「止揚」した、「精神」であり、それは、最初の連続化されたMedia Pointである。ただし、展開された同一性=物質を包摂した「精神」と言える。
 思えば、ヘーゲルの理性には、超越性があるが、連続化された超越性である。いちおう、連続的超越性と呼んでおこう。だから、問題は、この連続的超越性とは何か、である。それは、言い換えると、超越的同一性である。それは、(+i)*(-i)=+1の矛盾的様態ではないだろうか。言い換えると、虚軸と実軸が一致してしまっているのである。
 私は上記において、この事態は+1⇒-1と考えた。つまり、再帰差異共振エネルギーを純正に受容するには、超越的差異共振性を認める必要があるが、連続性があると、それは不可能である。つまり、虚軸へと垂直的に上昇するのではなく、実軸上のまま、水平に反転すると考えられるのである。それが、+1⇒-1 ではないか。
 ここは微妙な箇所である。ヘーゲル弁証法は、同一性を否定しているのか、それとも、包摂しているのか。それは、言うまでもなく、後者である。ここで、単なる神秘主義とは異なるのである。それは、同一性=物質を否定する「超越性」であるからである。
 しかしながら、ヘーゲルはやはり、同一性=物質を否定していると見るのが正しいのではないだろうか。問題は、止揚・揚棄aufhebenである。
 ここでは、反の何かが否定されて、残されたものを包摂するのである。いわば、否定的包摂なのである。
 否定されるのは、物質性である。同一性である。だから、+1⇒-1の事態が発生している考えれるのである。この物質性の否定において、ヘーゲル弁証法は、神秘主義と同質なものを含んでいるのである。ただし、神秘主義が強く同一性化されている点が普通の神秘主義とは異なる点と考えられる。
 これで、とりあえず、検討を終える。後で、整理したい。

追記2:追記1の終わりで、ヘーゲル弁証法の合は、同一性=物質を否定していると言ったが、それだと、矛盾することになるかもしれないので、明確に分析しておきたい。
 つまり、+1を否定しているということであり、また、何かを止揚・揚棄aufhebenしているのである。何を止揚しているのか。それは、同一性認識・同一性知性である。これを、「精神」に包摂するのである。連続化したMedia Pointの「精神」に、同一性認識・同一性知性を包摂するのである。それが、個別性は普遍的であるというヘーゲルの考えに通じるのである。
 そう、ヘーゲルの普遍性とは、連続化したMedia Pointがもつ「普遍性」である。それは、端的に何か。それは、エネルギー化した同一性の普遍性ではないだろうか。言い換えると、ショート(短絡)した Media Pointのもつ普遍性である。それは、連続的超越的普遍性である。
 そこには、特異性が欠落しているのである。真の普遍性とは、特異性に拠るのであるから、ヘーゲルの普遍性は、疑似普遍性、似非普遍性である。
 ただし、超越的エネルギーが連続化した似非普遍性である。だから、超越的同一性と言えばいいかもしれない。
 そうすると、やはり、ドゥルーズ哲学とほとんど等価である。ヘーゲルの絶対精神とドゥルーズの内在性とは、等価だと思う。
 そうすると、構造主義はどうなるのだろうか。そう、やはり、構造主義、とりわけ、動的構造主義になると思う。この動態性は、連続化されたMedia Pointのエネルギーである。全体主義的なエネルギーである。
 とまれ、後で整理する。 


MP軸=即非軸:虚実即非軸、又は、虚実軸:本来は、虚実即非点、or 虚実点
先に行った、MP軸=即非軸に関する図であるが、これまでの考え方とは異なるので、これまでの考えにもどす。


            /+i
          /
        /
       ●_____+1
     / ↑
   /   ・
  /-i    ・
       ・
       ↓
 -1_____ ● 

上図は先の図。


           /+i
          /
        /
       ●
     / ↑
   /    ・
 /-i    ・
       ・
       ↓
  -1____●___+1   

上図は、これまでの考えの図。しかし、二つの上図を重ねて、以下のようになるとも考えられる。

           /+i
          /
         /
       ●・・+1(1st&3rd)
     / ↑
   /   ・
  /-i    ・
       ・
       ↓
  -1___ ●___+1(2nd)   


後で検討したい。


同一性自己+1⇒同一性主義自己-1:再帰差異共振性の不連続的受容に因る真の自己認識
先に次のように述べたが、再考が必要である。

「+1が差異共振的自己(ほぼ、ユング心理学の自己)であり、-1が同一性自己(自我:やはり、ほぼユング心理学の自我)である。」
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10216729017.html

いったい、+1や-1は、「自己」から言うと何だろうか。+1について考えてみよう。これは、PS理論から言うと、端的に、同一性自己(自我:自己同一性)である。「わたし」である。しかしながら、Media Pointの活性化すると、差異共振性が再帰・復帰する。それは、+1に穴を空ける。
 だから、再帰した(+i)*(-i)が差異共振的自己になるだろう。しかしながら、同時に、+1の同一性自己もここには生起している。つまり、ユング心理学という自己と自我との「調和」がここにはある。つまり、PS理論は、ユング心理学の真の実現であろう。トランス・ユング心理学である。
 そうすると、-1は何かとなる。それは、同一性自己の一種であるが、主義になったものと考えられる。つまり、同一性自己主義ないしは同一性主義自己である。自我主義、利我主義、「自己中心主義」であり、近代においては、近代的自我である。
 そうすると、近代主義においては、自己は、同一性自己を形成した後、一種反動的に、同一性主義自己又は同一性自己主義を形成してしまうと考えられるのである。つまり、+1⇒-1に転化してしまうのである。
 これが生じるのは、再帰する差異共振エネルギーを否定したり、あるいは、同一性に連続的に連結化しようとするからである。
 ポスト・モダンとは、確かに、再帰差異共振エネルギイーに駆動されていたが、主にハイデガー存在論による障害のために、きわめて、歪んだ、偏った理論となってしまい、現実世界に対処できなくなってしまったと考えられるのである。何度も言うが、フッサール現象学やベルクソン哲学のトランス・モダンへの画期性が、ハイデガー/デリダとドゥルーズによって、喪失されてしまったのである。
 PS理論によって、再帰差異共振エネルギーが脱同一性化=不連続化されて、真の自己認識が可能になったと考えられるのである。(不連続的差異論のときは、不明晰な差異の脱同一性化=不連続化が生じたのである。)
 そうすると、自己認識方程式(思うに、これは、神人方程式とも言えよう)は、(+i)*(-i)⇔+1と記すのが明晰である。ただし、Media Pointを入れて表記する方がより適切であろう。即ち、(+i)*(-i)⇔Media Point⇔+1 である。言い換えると、Media Point的自己認識方程式である。(一言、ドゥルーズ哲学について言うと、それは、確かに、再帰差異共振エネルギーはあったが、それを、完全に連続化してしまったのである。そのために、金融資本主義と同型になってしまったと考えられる。そう、いわば、ポジに対するネガである。理論的には、再帰差異共振エネルギーを連続化させたために無限となった実軸ゼロ点の構造主義であろう。)
 ここで、本題と離れて、近代文化について考えたい。結局、近代とは、Media Pointの虚軸から実軸へと下降して、同一性自己を形成する方向が主導的であった。それは、ルネサンスやプロテスタンティズムやデカルト哲学に発現していると言えよう。
 しかし、後期近代(19世紀後半以降)において、差異共振エネルギー=超越エネルギーが復帰するようになったと考えられる。即ち、前期近代とは対称的に、Media Pointの実軸から虚軸へと上昇する志向が主導化し始めたのである。そのとき、近代文化が取る方向は、反動的に同一性を強化する方法であり、これが、 (+1)^2=-1であり、実際は帝国主義、植民地主義、そして、金融資本主義になったと考えられる。
 もう一つは、ロマン主義ないしは神秘主義的方向で、それは、差異を強調する方向であり、それは結局、ファシズム・全体主義に帰したのではないだろうか。それも、結局、(-i)^2=-1である。(かなり多くの文学者たちは、この方向を取ったと思う。因みに、D. H. ロレンスが一時唱えた「闇の神」は、(-i)^2⇒-1の「神」ということであろう。これは、ヤハウェと対称的な位置にあると考えられる。そして、晩年のコスモスとは、差異共振的超越性のことであると考えられるのである。)
 そして、今日、現代、差異共振エネルギーが解放されていると考えられるのである。いわば、差異共振精神が時代精神である。これは、キリスト教的に言えば、聖霊であり、これは、逆らえないのである。天の「風水」である。そして、ますます、差異共振エネルギーがMedia Resonance(メディア共鳴)して、発展していくと考えられるのである。ただし、差異批判知性をもつ必要があるのである。
 PS理論は、近代合理主義とロマン主義の対称的二元論の超克であり、正に、トランス・モダン理論である。


思考実験:自己認識方程式と経済価値:+1の同一性価値と-1の消滅性と差異共振創造生産
思考実験:自己認識方程式と経済価値:+1の同一性価値と-1の消滅性と差異共振創造生産

テーマ:シルヴィオ・ゲゼル『自然的経済秩序』

先のMP軸=即非軸の発想のときに、経済価値のことも思いついた。
 資本主義の差異共振価値は、⇒+1であり、それが、貨幣化されると、-1になるのではないかと漠然と思った。
 これは、不正確な考え方である。⇒+1とは、資本主義的差異共振生産によって生まれた価値である。それは、一種の使用価値である。農産物にしろ、PCにしろ、家具にしろ、そうである。
 しかし、これが、売買されると、貨幣価値に還元されて、-1になるのではないのか。ここが微妙である。+1かもしれないからである。
 思うに、使用価値+1は、自然に消滅するものである。食物は腐っていったり、劣化し、消滅していくものである。だから、その自然消滅性を-1ととした方が的確なのかもしれない。
 つまり、+1と-1でバランスがとれて、ゼロになるのである。しかし、貨幣は、+1にまま留まるのである。つまり、商品は消滅していくのに、貨幣は、不死不滅である。いわば、永遠の生命、霊である。(これは、当然、ゲゼルの考え方を踏襲しているのである。)
 信用創造とは、この+1の信仰ではないだろうか。本来、-1によって、それは、ゼロ化するのであるが、それを無視して、錯誤的に膨張させるのである。同一性自己の盲信や狂信である。つまり、+1の同一性価値・同一性自己を普遍価値化させて、他者に投影して、拡大するのである。そのとき、プラス利子がともない、ますます、同一性価値・同一性自己が膨張するのである。
 しかし、実際は、-1によって穿たれているのであり、常に、ゼロ化へと向かっているのである。これが実現するのが、景気後退や恐慌であろう。
 問題は、数え切れないくらい述べたが、+1の同一性価値を形成するのは、差異共振生産・創造なのであり、同一性価値のゼロ化を免れるには、同一性価値(貨幣資本)を差異共振性へとフィードバックする必要があるのである。喩えて言えば、畑に新たな種を蒔くようなものである。しかし、それは、単純な投資ではない。
 つまり、同一性価値を差異共振価値へと変換する必要があるのである。これは、いわば、質的投資であろう。株式投資とは、ほぼ量的投資である。それではなく、差異共振投資が必要なのである。
 資本家と労働者の差異共振的創造的生産で言えば、資本家と労働者の差異共振的投資が必要なのである。また、同様に、生産者と消費者の差異共振的投資が必要なのである。あるいは、企業と社会の差異共振創造が必要であるし、人間社会と自然との差異共振創造が必要なのである。
 これまでの資本主義は、同一性主義的投資であり、それは、常に、ゼロ化へと志向するものであり、破滅的なのである。
 しかし、差異共振的投資をすれば、資本は、常に、+1へと向かうことになり、破壊的なゼロ化を免れることができると考えられるのである。そう、つまり、物質的、精神的商品は、+1+(-1)⇒0(ゼロ)になる。しかし、それを知らずに、+1を信用信仰(信用創造)すれば、それは、いつかは、巨大なゼロ化に陥るのである。つまり、±ゼロである。しかるに、+1を差異共振価値へとフィードバックすれば、それは、新しい差異共振創造を生み、新たに、+1を生みだし、ゼロ化から免れるのである。
 思考実験はここで留める。後でさらに検討したい。


2009年03月02日(Mon)▲ページの先頭へ
虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点の間に垂直なMP軸ないしは即非軸を作業仮説する:その他
1)ベルクソンの「イマージュ」哲学とPS理論:

ベルクソンの『物質と記憶』を読み続けているが、とても、スリリングである。確かに、難しい箇所があるが、基本的な思想は明快である。要点解説を読了後に行いたい。
 ところで、興味深い発想が起きたので、記しておきたい。

      |+i
      |
      |
      |
-1_____◎_____+1
      |
      |
      |
      |-i

(◎は、Media Pointである。)

次に、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点を区別するために、作業仮説的に、Media Point軸、即非軸を導入してみる。

         /+i
        /
       /
      ○_____+1
     /↑
    / ・
   /-i  ・
      ・
      ↓
-1____ ● 
   

うまい図ではないが、○が虚軸ゼロ点であり、●が実軸ゼロ点である。そして、点の破線がMedia Point 軸(MP軸)、即非軸、いわば、仮想軸である。
 説明すると、通常は、MP軸(即非軸)が縮約されて、○と●とが重なって、◎(最初の図の◎である)になっていると考えられる。
 さらにポイントは、虚軸ゼロ点から+1、あるいは、⇒+1が、そして、実軸ゼロ点から-1があるいは、⇒-1が形成されるということである。
 +1が差異共振的自己(ほぼ、ユング心理学の自己)であり、-1が同一性自己(自我:やはり、ほぼユング心理学の自我)である。正しい自己認識は当然、前者であるが、近代的自我は、後者に堕しているのであり、前者が「無意識」(精神身体=東洋的身体)となっていると考えられる。
 -1の同一性自己(自我)は、実軸ゼロ点(同一性原点・同一性志向性原点)を出発点としているのであり、差異共振性をもつ虚軸ゼロ点を排除しているのである。これは、とても、明晰な解明であると考えられる。そして、これが正しければ、ハイデガーの「存在」も明晰に解明できると考えられる。即ち、「存在」とは、MP軸に接した実軸ゼロ点であると考えられる。このMP軸に接しているという点で、「存在」は、Media Point自体に一見似ているということになるのであるが、ハイデガーは、フッサール現象学の超越性を否定しているので、虚軸ゼロ点には達していないのである。これで、実に、フッサール現象学とハイデガー存在論が質的相違が明晰になったと言えよう。因みに、フッサール現象学は、虚軸ゼロ点に達していたのである。しかし、(+i)*(-i)の超越的差異共振性までに達しなかったと考えられるのである。
 因みに、ポスト・モダンについて言うと、デリダの脱構築主義は、ハイデガー存在論を踏襲していると考えられるのであり、即ち、-1と実軸ゼロ点/MP軸との差異(差延)を問題にしているのである。そして、ドゥルーズであるが、彼は、ベルクソンの優れたMedia Point的特性をもつイマージュ哲学を凡庸な連続的差異思想に貶めてしまったと考えられるのである。つまり、ベルクソン哲学にあった虚軸ゼロ点(記憶)と実軸ゼロ点(物質)の「差異」を暴力的に解消して、一致させてしまっているのである。即ち、虚軸ゼロ点を実軸ゼロ点にしてしまったのである。そのため、エネルギーは連続化されて、無限の同一性が発生するのである。これは、無限の信用創造と等価である。つまり、ドゥルーズ哲学とは、同一性主義金融資本主義と等価なのである。
 さて、本論のMP軸・即非軸の作業仮説にもどると、この、いわば、下降の方向性は、物質化の方向である。ここで、同一性自己(自我)も形成されるのである。しかしながら、自己とは、本来、超越的差異共振性から発生するものである。虚軸ゼロ点における差異共振性から生起するものである。これをどう考えるのか。思うに、初期差異共振性が、いわば、第1期虚軸ゼロ点で形成される。その後、下降が生じて、実軸ゼロ点が発生する。これが、同一性=物質化である。このとき、虚軸ゼロ点が排除されるようになるのである。
 ここで以下(2)で、ギリシア神話について述べた視点に言及するといいだろう。母権原理と父権原理の対立複合体としてのギリシア神話について述べたが、ギリシア神話とは、端的に言えば、虚軸ゼロ点である差異共振性である母権神話と実軸ゼロ点の同一性志向性の父権神話の、両ゼロ点が、MP軸=即非軸を介して、複合化しているものと考えられる。より精緻な検討は後で行いたい。
 さて、MP軸=即非軸についての検討を続けると、思うに、虚軸の1/4回転を以前において、⇒+1が生起するのではないだろうか。それは、初期差異共振性である。しかし、1/4回転によって、虚軸ゼロ点から実軸ゼロ点への移行が生起して、差異共振性が隠蔽されて、同一性自己や物質が発生すると考えられる。これは、MP軸の↓で表記される事態と言えよう。
 ここで、欧州文化史について言えば、イタリア・ルネサンスとは、虚軸ゼロ点から実軸ゼロ点への下降を意味していよう。そして、デカルト哲学もほぼ同様ではないだろうか。ただし、実軸ゼロ点性に傾斜している。
 そして、近代合理主義・近代的自我とは、完全に実軸ゼロ点を原点にした発想になると考えられる。
 この点に関してのいちばんの問題は、虚軸ゼロ点の隠蔽の事態にある。この点では、デカルト哲学が問題である。虚軸ゼロ点から実軸ゼロ点への下降の帰結の時点で、デカルト哲学が成立していると思われるのである。
 だからほとんど、虚軸ゼロ点が隠蔽される事態になっていると考えられる。コギトは虚軸ゼロ点でありながら、同時に、実軸ゼロ点になっているのである。だから、デカルト哲学は、虚軸ゼロ点⇒実軸ゼロ点の志向性と言えよう。(それに対して、フッサール現象学は、実軸ゼロ点⇒虚軸ゼロ点の志向性をもっているだろう。上図では、破線の↑である。)
 とまれ、近代、西洋近代とは、虚軸ゼロ点から実軸ゼロ点への下降のベクトルをもち、結果として、出発点の虚軸ゼロ点を喪失した時代であったと考えられる。この実軸ゼロ点への下降によって、原点の虚軸ゼロ点を喪失することになったのである。これが、第一1/4回転である。
 しかしながら、私のこれまでの考察に拠れば、第二1/4回転が発生して、MP軸の下降から上昇へと転ずるのである。即ち、実軸ゼロ点から虚軸ゼロ点へと再帰するのである。この典型がフッサール現象学である。(だから、ハイデガー存在論とは、反動的で、上昇を押し留めて、実軸ゼロ点に引き戻したと言えよう。)
 さて、MP軸=即非軸であるが、これは、実際は、時間軸、あるいは、エネルギー軸、まとめれば、時間エネルギー軸ではないだろうか。これが、現象界における生成を生んでいると考えられる。つまり、第四次元である。そして、第五次元であるが、それは、+1の軸、そして、第六次元は、虚軸と考えられるかもしれない。この点については、後で子細に検討したい。
 だから、アインシュタインの公式は、時間エネルギー軸を含めた時空四次元論を意味していると言えよう。
 そして、量子論について言うと、それは、端的に、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点の事態の自然科学と言えよう。前者が波動であり、後者が粒子であろう。これを相補性によって捉えたのである。
 今はここで留めてくおく。


2)新多神教と女神:私は新多神教、新女神文明を提唱しているが、前者は、結局、差異共振性が多元性であるから、そうなるのであり、新アニミズムとも言える。
 問題は、後者である。女神というとき、私がかんがえているのは、エジプト神話のイシスであり、オリエント神話のイナンナ、イシュタルであり、ギリシア神話のガイアやデーメーテールであり、また、アマテラスである。また、聖母マリアや聖アンナを含められよう。
 神道における三柱の神であるが、私はこの三元性の中心の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)をMedia Point(Cosmic Media Point)と考ええている。+iと-iが他の二柱の神と考えられる。つまり、(+i)*(-i)が天之御中主神である。そして、それは、女神と私は考えるのである。原光と原闇の共鳴によって、超越光が発せされる。これが、垂直に実軸へと展開して、光となると考えられるのである。
 この視点から見ると、アマテラスは、超越光ではなく、光になりそうであるが、私の直観は、アマテラスは超越光である。これは、結局、視点の問題である。エジプト神話のイシスであるが、それは、超越光であり、そこら、オシリスの光が生まれると思うのである。だから、この対応を適用して、アマテラスを超越光とするのである。そして、スサノオを光と見るのである。
 ただし、アマテラスは、「天皇教」の視点が入っているようにも思える。ギリシア神話で言うと、アテナイ女神に近いのかもしれない。つまり、ゼウス/アポロの父権側である。しかし、ギリシア神話は複雑さなのである。
 ギリシア神話は父権的神話と母権的神話が衝突しているのであり、ゼウス的統一志向と女神的共振志向が複合化しているように感じられるのである。それが、微妙なところがあるのである。
 とまれ、直感で言い直すと、同一性志向性と差異共振志向性が衝突して、且つ、結合しているのである。一種の即非状態である。そう、一種の絶対矛盾的自己同一である。同一性主義であり、且つ、差異共振主義である。父権主義であり、且つ、母権主義であるという感じである。
 これは一体何なのか。思うに、一種のMedia Pointの様態である。即ち、Media Point(Cosmic Media Point)における、同一性志向性の発現と差異共振的志向性の発現とが絶対矛盾的に発動していると思われるのである。Media Pointにおける父権原理と母権原理が複合的に矛盾結合していると言えるように思える。だから、Media Point的対立複合体と言えよう。
 以上、やや脱線してギリシア神話の本質を考えて、アマテラスに戻ると、アマテラスも、Media Point における母権原理と父権原理の対立複合体であると思われるのである。
 この点を押さえておけば、アマテラスを超越光と見てもいいように思うのである。しかし、やはり、対立複合の女神と見るべきである。(思うに、この視点が沖縄の王権の成立を説明できるかもしれない。いわば、ヤヌス的なのである。一方では、母権原理があり、他方では、父権原理があるのである。これは、 Media Point両性原理複合体と呼べるかもしれない。
 しかしながら、重要なのは、本質的な不連続性である。Media Pointにおける虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点の不連続性、断層、切断性である。
 


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カレンダ
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