INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/03

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年03月30日(Mon)▲ページの先頭へ
古事記とPS理論:Media Point を叙述する神話としての古事記
テーマ:神話学・不思議学・フォークロア:ケルト他

以下は先の「天」に関する考察
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10232805977.html
の追記に当たります。

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が、私が言う「天」と似ている。つまり、三柱の神(神々)とMedia Point は同型と考えられるのであり、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)が+i、神産霊神(かみむすひのかみ)が-iに、そして、(+i)*(-i)が天之御中主神になると考えられる(「むすひ」産霊とは、実に意味深長な言葉だと感じられる。これは、正に、Media Point の生成行為を述べているのではないか。即ち、Media Point で、対差異が共振・共鳴して、現象が生成されるからである。ただし、Media Point は単に生成原理ではなく、生成消滅再生の原理でもある。このたいへん意義深い点は後で検討したい。)。私の発想を展開すると、当然、天之御中主神と天照大神が重なるのである。
 ここで私の読みを言うと、天照大神は素戔嗚尊(すさのおのみこと:「みこと」も興味深い言葉である。おそらく、「むすひ」と関係している。)と月読尊(つくよみのみこと)と共に、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)から産まれたのであるが、この三元・三重性が重要である。
 また、伊弉諾尊と伊弉冉尊(いざなみのみこと)であるが、これは、正に、+iと-iであると考えられる。だから、この二柱の神が正に「山川草木」を生成した(「むすひ」した)という叙述は哲学的である。(もっとも、古事記には、母権神話を父権的視点から読み直していると思う。天の柱の神話は、露骨に男尊女卑である。この点も後で述べたい。)
 つまり、私の「牽強付会」な読み、即ち、母権神話的読みは、伊弉冉尊と伊弉諾尊の原理(陰陽原理)は三柱の神の原理(Media Point 原理)と一致するということであり、だから、古事記では後で生まれた天照大神も原初の神なのである。つまり、伊弉冉尊と伊弉諾尊の陰陽原理には、ただ、共振原理が明確には指示されていないということなのである。これは、エジプト神話では、イシスとオシリスと同質であると考えられる。だから、大女神としての伊弉冉尊が存しているのであり、それが、同時に、天照大神と考えられるのである。日本のガイアである。そして、「日御子(ひのみこ)」は「天子」であるが、それは、おそらく、本来、伊弉諾尊である。
 とまれ、伊弉冉尊と伊弉諾尊の陰陽原理の共振核が天之御中主神であり、それが、超越光である天照大神を生成することになると考えられるのである。天之御中主神が玄幽エネルギーならば、天照大神はその顕現である。ほとんど一である。というか、根本的に、両者は同一であった、伊弉冉尊とも一体であったと思われる。即ち、伊弉冉尊=天之御中主神=天照大神である。後で整理したい。

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検討問題:勇魚(いさな:鯨の古名)とイザナギとイザナミの「いざな」

テーマ:検討問題

まったくの思いつきでは、両者一致する。また、イザナギの「ギ」とイザナミの「ミ」は音声的には似ている。「ギ」と「ミ」は実際耳では区別しにくい。そして、本来、「ミ」とすると、巳、蛇である。思うに、「ミ」とは実質・本体を意味する。とまれ、鯨はいわば、海の大王である。そうすると、イザナミは、海の大王である。海の大女神である。ついでながら、私の「怪しい」語源論からすると、海(うみ)は、「産む・生む」が語源である。また、これは、先に述べたように、「むすひ産霊・産日」や「みこと」と関係する。そう、「むす」と「こと」、「ひ」と「み」が相応するのではないか。
 PS理論から言うと、「むす」は、正に、差異共振(共鳴)である。それが、「こと」なのである。また、「ひ」と「み」は実質・本体であるから、イデアであろう。
 以上、「妄想」なので、本気にされないことを願う。

追記:「こと」は言であろう。ここから、言霊やロゴスと関係させることができよう。

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参考:
古事記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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古事記(こじき、ふることふみ)は、その序によれば、和銅 5年(712年 )太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶 (おおのやすまろ))によって献上された日本 最古の歴史書 。上・中・下の全3巻に分かれる。
概要 [編集 ]

成立の経緯を記している序によれば、稗田阿礼 が暗誦していた『帝紀 』(天皇の系譜)・『旧辞 』(古い伝承)を太安万侶 が書き記し、編纂したものとされている。

『古事記』の書名は、もともと固有名詞ではなく古い書物を示す一般名であり正式名ではないと言われている。書名は安万侶が付けたのか、後人が付けたのかは明らかでない。読みは「フルコトブミ」との説もあったが、今日では一般に音読みで「コジキ」と呼ばれている。

『日本書紀 』のような勅撰の正史 ではないが、序文に天武天皇が

撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ

と詔していることから、勅撰と考えることも出来る。

『古事記』に登場する神々が、多くの神社で祭神として祀られ、今日に至るまで日本の宗教文化に多大な影響を与えている。

構成 [編集 ]

『古事記』は、帝紀的部分と旧辞的部分とから成り、天皇系譜が『帝紀』的部分の中心をなし、初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、およびその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、およびその治世の大事な出来事などについて記している。これらは朝廷の語部(かたりべ)などが暗誦して、天皇の大葬の殯 (もがり)の祭儀などで誦み上げるならいであった。それが6世紀半ばになると文字によって書き表わされた。『旧辞』は宮廷内の物語、天皇家や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。

『帝紀』や『旧辞』は、6世紀 前半ないし中葉頃までに、天皇が日本を支配するに至った経緯を説明するために、朝廷の貴族によって述作されたものであり、それらをもとにして作成されたものである以上、民族に伝わった歴史の伝承ではないとの主張もある。一方、広く民衆に受け入れられる必要もあったはずで、特に上巻部分は、それらを反映したものが『古事記』ではなかったかとの主張もある。

構成は、

1. 上つ巻(序・神話)
2. 中つ巻(初代から十五代天皇まで)
3. 下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)

の3巻より成っている。内容は、神代 における天地(アメツチと読まれる)の始まりから推古天皇 の時代に至るまでのさまざまな出来事(神話 や伝説 等を含む)を収録している。また数多くの歌謡 を含んでいる。

なお、日本神話 での「高天原 」という用語が多用される文書は、「祝詞」以外では『古事記』のみである。

表記 [編集 ]

本文はいわゆる変体漢文を主体としつつも、古語や固有名詞のように漢文では代用しづらい微妙な部分は一字一音表記で記すという表記スタイルを取っている。一字一音表記の箇所には、まれに右傍に「上」「去」のように漢語の声調 を表わす文字を配して、当該語のアクセント を示すこともある。いずれも、いかに正確にかつ効率よく記述するかで悩んでいた(序文参照)編者・太安万侶の涙ぐましいまでの苦心の跡である。歌謡部分はすべて一字一音表記で記されており、本文の一字一音表記部分を含めて、上代特殊仮名遣 の研究に欠かせないものとなっている。

上代特殊仮名遣の「モ」の書き分けは『古事記』のみに見られるものである[1] 。

改竄説 [編集 ]

『古事記』本文の記述以外には編纂の記録が直接は見当たらず、最古の写本 も南北朝時代のもの(#写本 を参照)であるため、それより以前の姿をそのままにとどめているかどうかに疑義を抱く改竄説も出されているが、考古学的反証も主張されている(#『古事記』偽書説 も参照)。

『古事記』の研究 [編集 ]

『古事記』の研究は、近世以降とくに盛んにおこなわれてきた。江戸時代の本居宣長 による全44巻の浩瀚な註釈書『古事記伝 』は『古事記』研究の古典であり、厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。宣長の打ち出した国学 による「もののあはれを知る」合理研究は、漢式の構造的な論理では救済不能な日本固有の共感による心情の浄化プロセスの追及であった。しかし「からごころ」排撃は、のちに国粋主義的皇国史観 、神話の絶対化に変容されたとの見方もある。

第二次世界大戦 後は、倉野憲司 や西郷信綱 、西宮一民 、神野志隆光 らによる研究や注釈書が発表された。とくに倉野憲司による岩波文庫 版は、1963年の初版刊行以来、通算で約100万部に達するロングセラーとなっているが、それ以前に出された「古事記伝」の記述からすると恣意的な注釈があるとの主張もある。

20世紀後半より、『古事記』の研究はそれまでの成立論から作品論へとシフトしている。成立論の代表としては、津田左右吉 や石母田正 があり、作品論の代表としては吉井巌 ・西郷信綱・神野志隆光がいる。殊に神野志の『古事記の達成』は、それまでの研究史を革新したといってよい。

『古事記』偽書説 [編集 ]

『古事記』には、近世以降、偽書 の疑いを持つ者があった。賀茂真淵 (宣長宛書翰)や沼田順義・中沢見明・筏勲・松本雅明・大和岩雄 ・大島隼人らは、『古事記』の成立が公の史書に記されていないことなどの疑問点を提示し、偽書説を唱えている。

偽書説には大体二通りあり、序文のみが偽書であるとする説と、本文も偽書であるとする説に分かれる。概要を以下に記す。

1. 序文偽書説では、『古事記』の序文(上表文)において『古事記』の成立事情が語られているが、それを証する外部の有力な証拠がないことなどをもって序文の正当性に疑義を指摘し、偽書の可能性を指摘している。
2. 本文偽書説では、『古事記』の神話には『日本書紀』より新しい神話の内容を含んでいるとして、より時代の下る平安時代 初期ころの創作、あるいは岡田英弘 のように伊勢国 の国学者 本居宣長 によって改作されたものであるとする。

しかし偽書説は、上代文学界・歴史学界には受け入れられていない。上代特殊仮名遣 のなかでも、『万葉集 』・『日本書紀 』の中ではすでに消失している2種類の「モ」の表記上の区別[2] が、『古事記』には残存しているからである。これは偽書説を否定する重要な論拠である[3] [4] 。

なお、序文偽書説の論拠の一つに、『古事記』以外の史書(『続日本紀 』『弘仁私記』『日本紀竟宴和歌 』など)では「太安麻呂」と書かれているのに、『古事記』序文のみ「太安萬侶」という異なる漢字表記になっているというものがあった。ところが、1979年 1月に奈良市 此瀬(このせ)町より太安万侶の墓誌銘が出土し、そこに

左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之 養老 七年十二月十五日乙巳 [5]

とあったことが判明し、漢字表記の異同という論拠に関しては否定されることとなった。
内容 [編集 ]

序を併せたり [編集 ]

撰者である太朝臣安万侶(おおのあそみやすまろ)が、天子に奏上する形式に倣って記した序文である。

序第1段 稽古照今(古を稽へて、今に照らす)
ここでは天地開闢からはじまる『古事記』の内容の要点を挙げ、さらにそれぞれの御代の事跡は異なるがほぼ政治に誤りはなかった、と述べている。

臣安萬侶言す。それ、混元既に凝りて、気象未だ效(あらは)れず。名もなく為も無し。誰れかその形を知らむ。…(臣安萬侶言 夫混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形)
…歩驟(ほしう)各異(おのおのこと)に、文質同じくあらずと雖も、古を稽(かむが)へて風猷を既に頽れたるに縄(ただ)し、今に照らして典教を絶えむとするに補はずといふことなし。(雖歩驟各異 文質不同 莫不稽古以繩風猷於既頽 照今以補典ヘ於欲絶)

序第2段 『古事記』撰録の発端
ここではまず、天武天皇 の事跡を厳かに述べた後、天武天皇が稗田阿禮に勅語して『帝記』・『旧辞』を暗誦させたが、時世の移り変わりにより文章に残せなかった経緯を記している。

…ここに天皇(天武)詔(の)りたまひしく「朕(われ)聞きたまへらく、『諸家のもたる帝紀および本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ。』といへり。今の時に当たりて、其の失(あやまり)を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実(まこと)を定めて、後葉(のちのち)に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」とのりたまひき。時に舎人(とねり)ありき。姓(うぢ)は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)、年はこれ二八。人と為り聡明にして、耳に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に拂(ふ)るれば心に勒(しる)しき。すなはち、阿禮に勅語して帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び先代旧辞(さきつよのふること)を誦み習はしめたまひき。…(於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭)

序第3段 『古事記』の成立
ここでは、元明天皇 の世となって安万侶に詔が下り、稗田阿禮の暗誦を撰録した経緯を述べ、最後に内容の区分について記している。経緯では、言葉を文字に置き換えるのに非常に苦労した旨が具体的に記されている。

…ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、先紀の謬り錯(まじ)れるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安麻呂に詔りして、阿禮阿禮の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむるといへれば、謹みて詔旨(おほみこと)の随(まにま)に、子細に採りひろひぬ。然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。…(於焉惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯 以和銅四年九月十八日詔臣安萬侶 撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者 謹隨詔旨 子細採摭然、上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難)
…大抵記す所は、天地開闢より始めて、小治田(をはりだ)の御世に訖(をは)る。故、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)以下、日子波限建鵜草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)以前を上巻となし、神倭伊波禮毘古天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)以下、品蛇御世(ほむだのみよ)以前を中巻となし、大雀皇帝(おほさぎのみかど)以下、小治田大宮(をはりだのおほみや)以前を下巻となし、併せて三巻を録して、謹みて献上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。(大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷 大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷 并録三卷 謹以獻上 臣安萬侶 誠惶誠恐頓首頓首)

和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶

上巻(かみつまき) [編集 ]

天地開闢 から日本列島の形成と国土の整備が語られ、天孫が降臨し山幸彦 までの神代の話を記す。いわゆる「日本神話 」である。

天地開闢とともに様々な神 が生まれたとあり、その最後にイザナギ 、イザナミ が生まれた。二神は高天原 (天)から葦原中津国 (地上世界)に降り、結婚して結ばれ、その子として、大八島国 を産み、ついで山の神、海の神などアニミズム 的な様々な神を産んだ。こうした国産み の途中、イザナミは火の神を産んだため、火傷を負い死んでしまった。そのなきがらは出雲と伯耆の堺の比婆山(現;島根県安来市)に葬られた。イザナギはイザナミを恋しがり、黄泉 の国(死者の世界)を訪れ連れ戻そうとするが、連れ戻せず、国産みは未完成のまま終わってしまう。

イザナギは、黄泉の国の穢れ を落とすため、禊 を行い、左目を洗った時に天照大御神 (アマテラスオオミカミ)、右目を洗った時に月読命 (ツクヨミノミコト)、鼻を洗った時に須佐之男命 (スサノオノミコト)を産む。その後、最初に生んだ淡路島の幽宮で過ごした。これら三神は、三貴子 と呼ばれ、神々の中で重要な位置をしめるのだが、月読命に関しては、その誕生後の記述が一切ない。スサノオノミコトは乱暴者なため、姉の天照大御神に反逆を疑われる。そこで、天照大御神とスサノオノミコトは心の潔白を調べる誓約を行う。その結果、スサノオノミコトは潔白を証明するが、調子に乗って狼藉を働いてしまう。我慢の限度を越えた天照大御神は、天岩屋戸 に閉じこもるが、集まった諸神の知恵で引き出すことに成功する。

一方スサノオノミコトは神々の審判を受けて高天原を追放され、葦原中津国の出雲国に下る。ここまでは乱暴なだけだったスサノオノミコトの様相は変化し、英雄的なものとなって有名なヤマタノオロチ 退治を行なう。次に、スサノオノミコトの子孫である大国主神 が登場する。大国主の稲羽の素兎(因幡の白兎 )や求婚と受難の話が続き(大国主の神話 )、スクナヒコナ と供に国作り を進めたことが記される。国土が整うと国譲り の神話に移る。天照大御神は、葦原中津国の統治権を天孫に委譲することを要求し、大国主と子供の事代主神 はそれを受諾する。しかし、子の建御名方神 は、始めは承諾せず抵抗するが、後に受諾する。葦原中津国の統治権を得ると高天原の神々は天孫ニニギ を日向の高千穂に降臨 させる。次にニニギの子供の山幸彦と海幸彦の説話となり、浦島太郎 の説話のルーツとも言われる、海神の宮殿の訪問や異族の服属の由来などが語られる。山幸彦は海神の娘と結婚し、彼の孫の神武天皇が誕生することをもって、上巻は終わる。

上巻に出てくる主な神々 [編集 ]

* 別天(ことあま)つ神五柱(いつはしら)独神(ひとりがみ)
o 天之御中主神 (あめのみなかぬし)独神、天原の中心の神
o 高御産巣日神 (たかむすび)独神、生成力の神格化
o 神産巣日神 (かみむすび)独神、生成力の神格化
o 宇摩志阿斯詞備比古遲神 (うましあしかびひこぢ)独神
o 天之常立神 (あめのとこたち)独神
* 神世七代(かみよななよ)
o 国之常立神 (くにのとこたち)独神、国土の根源神
o 豐雲野神 (とよくもの)独神、
o 宇比地邇神 (うひぢに)と妹須比智邇神 (すひぢに)
o 角杙神 (つのぐひ)と妹活杙神 (いくぐひ)
o 意富斗能地神 (おほとのぢ)と妹大斗乃辨神 (おほとのべ)
o 於母蛇流神 (おもだる)と妹阿夜詞志古泥神 (あやかしこね)
o 伊邪那岐神 と伊邪那美神 男女の神、夫婦
* 三貴子(みはしらのうずのみこ)
o 天照大御神 イザナギが左の目を洗ったとき生まれた。
o 月読命 (つくよみのみこと)イザナギが右の目を洗ったとき生まれた。
o 須佐之男命 イザナギが鼻を洗ったとき生まれた。
* 天之忍穂耳命
* 大国主神
* 邇邇芸命
* 火遠理命
* 鵜葺草葺不合命


2009年03月29日(Sun)▲ページの先頭へ
「天」の問題について:大イデア・大女神の「天」と小イデア・父権神の「天」の峻別:大天と小天
私がいう「天」は虚軸である。大イデアである。しかし、小イデア、+iと-iはどうなるのだろうか。+iを「天」、-iを「地」と見ることができる。以前、Kaisetsu氏がそのように区別していた。そうすると、自明ながら、齟齬をきたすのである。だから、大イデアとしての「天」は大天ないしは大天地とすべきではないだろうか。あるいは、Media Point 「天」である。元天でもいいかもしれない。
 もっとも、+iの「天」とは父権的な、一神教的な「天」である。儒教的な「天」である。ギリシア神話では、ゼウス的な「天」である。それに対して、-iの「地」とは当然、大地母神的である。ギリシア神話では、デーメーテールである。問題は、大女神・太母である。ギリシア神話では、ガイアである。 
 それは、-iの「地」ではありえない。端的に、大イデアである。大イデアの大女神である。そうすると、メソポタミア神話の大女神も大イデアである。
 結局、ここには、神話論的に言うと、母権神話と父権神話の問題があるのである。大女神とは、本来、大地母神ではなく、宇宙の大女神である。コスモスの大女神である。因みに、聖母マリアは本来、大女神であるが、それが、父権神話的に、大地母神-i像が重ねられていると考えられる。
 だから、私がこれまで述べてきた「天」とは大女神の「天」なのである。それは、正に、天地=陰陽=太極=コスモスである。しかし、上述したように、「天」は父権的「天」が重ねられてしまっているのである。
 ここで神道における天照大神を考えると、正に同様のことが考えられる。本来、大女神としての天照大神であるが、それが、父権的な「天」に重ねられていると考えられるのである。(エジプト神話のイシスもほぼ同様ではないだろうか。これらの問題は後で検討したい。)
 考古学的には、大女神は旧石器時代・新石器時代に関係し、父権的「天」は、父権遊牧民族と関係しよう。問題は、シャーマニズムであるが、それは、両者に共通ではないだろうか。これも後で検討したい。
 結局、暫定的であるが、作業仮説的であるが、「天」は大イデアの「天」と小イデアの「天」が混同されやすい用語なので、避けるべきであり、替わりに、やはり、元天、原天、超天、大天と呼ぶか、まったく「天」を使用しないかである。そう、絶対天、根源天、原動天でもいいだろう。区別は明晰になったが、この点は、今は保留しておきたい。


弱気になってはいけない。献金問題は、自公党こそ、もっとも関係するのであるから。そこは説く必要があ
テーマ:小沢一郎/民主党と日本の政治

弱気になってはいけない。献金問題は、自公党こそ、もっとも関係するのであるから。そこは説く必要がある。西松だけではないのである。参照
 正義への信念が必要である。それは、天義である。

とまれ、悪増すゴミをぶっ壊せ!

究極は、悪代官僚ファシズムをぶっ潰せ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
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参照:
小沢一郎氏の民主党代表続投宣言をうけて、とりあえずのまとめのメモ
2009年3月24日、小沢氏が涙ながらに、民主党代表続投宣言をおこないました。強面で通っている小沢氏には涙は似合わないと思っていたので、ちょっと驚きました。

重要度の順番ではありませんが、現時点でのこの件についてのポイントを一つ一つ箇条書きにしてみます。

1. マスメディアの姿勢
http://muranoserena.blog91.fc2
.com/blog-entry-1168.html
村野瀬玲奈の秘書課広報室

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小沢氏辞任なら「共同責任」=鳩山民主幹事長が表明
時事通信 - ‎30 分前‎
民主党の鳩山由紀夫幹事長は29日午前のテレビ朝日の番組で、公設秘書が政治資金規正法違反罪で起訴された小沢一郎代表が辞任した場合の対応について「執行部メンバーは(続投を)党議で決めたわけだから、共同責任だ。幹事長は最も重い」と述べ、自らも幹事長から退く ...

小沢氏、選挙前に進退判断 民主・鳩山氏が見通し
河北新報 - ‎3 時間前‎
民主党の鳩山由紀夫幹事長は29日午前、フジテレビ番組で、西松建設巨額献金事件で公設第1秘書が起訴された小沢一郎代表が、次期衆院選の直前にあらためて進退を判断するとの見通しを示した。 鳩山氏は事件後、小沢氏と会った際に「政権交代が一番の使命だ。 ...

民主・鳩山幹事長、小沢代表では政権交代が無理と判断した場合はともに責任取る考え
FNN - ‎3 時間前‎
民主党の鳩山幹事長が、フジテレビの「新報道2001」に出演し、小沢代表のままでは次の衆議院選挙での政権交代が無理だと判断した場合は、小沢代表とともに責任を取るという考えを示した。民主党の鳩山幹事長は「政権交代というものに対して、『国民の目が厳しいねという ...

小沢氏資金は国際交流のため=鳩山氏
時事通信 - ‎18 時間前‎
民主党の鳩山由紀夫幹事長は28日、山口市で街頭演説し、小沢一郎代表の多額の政治献金を疑問視する声があることについて「小沢氏は普通の政治家ができない、外国との草の根の交流事業を行っている。だからお金がかかっている。怪しいところにお金を使っているのではない ...


参照:


◆ 2009/03/29(日) ほんの1ヶ月前までは…
ほんの1ヶ月前までは…,
 必ず半年以内に公正な選挙が行われ,民主党が勝利することが確実だった.
 公正な選挙により国民の総意を問い,この国の政治のありかたを決める….
 その国民の “総意” を問う選挙は,民主党の圧勝が予測されていた.
 自民党は,選挙の敗北をいさぎよく認め,政権を民主党に渡して素直に下野し…,
 正々堂々と再起を期す! これが “憲政の常道”(議院内閣制) の原則であり…,
 この法治国家の大原則が守られるはずだった.
 そして,内閣総理大臣・小沢一郎! が誕生する.
 これが,公明正大な民主主義というものだ.
 民主主義のクリーンなルールのもと…,
 小沢民主党内閣による,自公の政治とは全く違う新しい政治がはじまる….
 閉塞した日本の政治社会に清新な新風が吹き,経済社会も活力を取りもどす…,
 そういう “夢” があった.“希望” があった.
ほんの1ヶ月前までは….
 ところが,突然,手榴弾が投げ込まれる.
 東京地検特捜部が “小沢一郎第一秘書を逮捕!” という手榴弾である.
 逮捕するほどの理由が本当にあるのか? これを検察は,いまだ説明できない.
 この検察の “説明責任” を全く不問にしたまま,マスコミは…,
 「小沢一郎は,カネにきたない.辞任すべきだ!」
 という大キャンペーンを始める.
 「小沢第一秘書が,容疑を認める供述を始めた…」
 などという完全な誤報を,NHKまでが繰り返し “報道” する始末だ.
 国民も,当然,「小沢一郎は辞任すべきだ」 と,世論調査の問いに答える.
 これを受け,みのもんたや田原総一朗が,得意気に言う.
 「70%近い国民が,小沢辞任を求めています!」
 東京地検特捜部の “思惑” どおりに,コトがすすんでいる.
邪魔な政治家の秘書を好き放題に逮捕し,政治の流れを好き勝手に変える….
「こんな無法を,本当に許していいのか!!」
…こういう声は,ほとんど聞こえてこない.
飯山一郎の小さなHP:低下低下=てげてげ


参考:

★ 2009年03月29日日曜日 10時半更新

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■ 宇宙の法則研究会より 漆間問題

 【いまこの国は漆間副官房長官に牛耳られ、麻生政権は漆間の傀儡政権となりつあります。これは極めて危険な兆候です。漆間巌官房副長官が、内閣人事局長も兼職するとなると、事務次官の上に立つ官房副長官、としての役割と、霞が関の人事権を掌握する、巨大な権力を手中にします。漆間はすでに検察・公安・警察・防衛省を手中に収めており、内閣人事局長に就任すればほとんどの権力は漆間に集中することになりますので、このまま許すと日本は戦前と同じ暗黒社会が出現することになります。麻生首相はことに重大さが全く理解出来ていないようです。いま霞が関で進行しているのは、漆間による「静かなクーデター」です。
☆参考情報
いつのまにか内閣人事局長兼任へ
http://netallica.yahoo.co.jp/news/71741
 西松建設違法献金事件で「自民党には捜査は及ばない」と口を滑らし、袋叩きに遭った漆間官房副長官。少しはこたえて、おとなしくしているのかと思ったらとんでもなかった。来年4月に設置される「内閣人事局」の局長ポストでもチョロチョロと動き回っている。大暴言のあとは公務員改革潰しにシャカリキなのだ。
「内閣人事局長は霞が関の幹部600人の人事を左右する強力なポスト。自民党の改革派は政治主導で各省庁の抵抗を抑えつけるために、『内閣人事局長は事務次官以上の位置付けで新ポストを設置』という方向性を出していた。新局長は民間人という話も出ました。ところが、今年1月に『事務の内閣官房副長官が兼任』という案になり、それが押し戻されると、3月には『事務次官レベル』に格下げになった。スッタモンダの末、またまた官房副長官の兼任に戻るドタバタです。この流れをつくったのが官僚トップの漆間。政治家やその息のかかった民間人に人事権を奪われたくない霞が関の後押しも受け、強硬に官邸に働きかけたのです」(与党関係者)
 自民党の中馬弘毅行政改革本部長は「副長官クラスの独立ポスト」に押し戻そうと麻生首相に直談判したが、のれんに腕押し。漆間の“毒”が回っている麻生は23日に事務の官房副長官が兼務するよう河村官房長官らに指示。31日に閣議決定し、国会提出という運びになる。「本来、官房副長官の役割は政策面での官邸サポート。ところが、警察官僚の漆間は政策調整などにはまったく興味がなく、関心は人事だけ。当初から初代人事局長をやるつもりでいたのです。16日の会見でも『政治家を内閣人事局に入れるべきではない』と何度も口にしていて、この頃から自分の兼任という落としどころを想定していたようです」(永田町関係者) 西松の一件でクビが飛んだっておかしくはない漆間に仕切られている麻生官邸は、改めてどうしようもない。(日刊ゲンダイ2009年3月25日掲載)
☆参考情報
漆間氏に虚偽答弁疑惑…「検察当局と接触ない」
http://www.zakzak.co.jp/top
/200903/t2009032715_all.html
歴代副長官は情報交換のため定例会議   西松事件をめぐる、漆間巌官房副長官の国会答弁に疑惑が浮上している。「自民党に波及しない」発言を打ち消すため、漆間氏は国会で「検察捜査について事前に報告を受けたり、事後に聞くことはない」「ポストに就いて以来、検察当局とは接触をしていない」と語ったが、これが怪しいというのだ。歴代副長官の回顧録によると、副長官は検察当局と頻繁に接触し、捜査情報の報告を受けている。民主党は、漆間氏が虚偽答弁を行った可能性があるとみて追及する構えだ。
 注目の回顧録は、岸信介内閣で官房副長官を務めた鈴木俊一元都知事の「官を生きる」(都市出版)と、竹下登内閣から村山富市内閣まで7つの内閣で副長官を務めた石原信雄氏の「首相官邸の決断」(中央公論新社)。ともに、両氏がインタビュアーの質問に答える形式となっている。 まず、鈴木氏は、官房副長官と捜査当局との関係について「法務省の法務次官、警察庁長官、警視総監、官房副長官の4者が集まる『水曜会』という会議がある」「治安問題の情報の交換。その週に起こったいろいろな問題について情報交換する」と、定例会議があったことを告白。
【民主党は徹底追及へ】
 インタビュアーから「知った情報を、官房長官などに伝えるのか?」と聞かれ「それはある。官房長官とは四六時中会っているようなものだから」と答えているのだ。
 石原氏の回顧も興味深い。リクルート事件を振り返り、「重要な案件は法務省は官房副長官に連絡する」「事務次官会議の後などに法務次官が寄ってきて、この問題はこういう展開になると教えてくれる」「政治家が絡む話になると、私の口から総理なり、官房長官にお知らせすることもある」と明かしている。
 そのうえで、「副長官として積極的に関与するのか?」と聞かれ、「捜査に対してどうこうということは一切ない」としながらも、「内閣の運営に影響のあるような進展をするときには、事前になるべく早めに教えてくれよとはいう」と答えているのである。 それだけに、国会で漆間氏を追及した民主党の鈴木寛参院議員は「漆間氏の答弁は極めて不自然。国の統治の観点から考え、官房副長官と法務次官、警察庁長官、警視総監の4人が定期的に会合を持つのは当然のこと」と語ったうえで、こう続けた。
 「漆間氏は『報告を受けていない』『検察当局と接触してない』と答弁したが、事実なら、職務を果たしていないのでは。そうでなければ虚偽答弁の疑いがある」果たして漆間氏はどう答えるのか。】

● 元警察庁長官の漆間巌は、東京高検検事長の大林宏とともに、CIAスパイであることが確実視され、日本を死刑や弾圧統制による官僚統制国家にすることを目指して、大衆の人権を破壊し、安田好弘や三井環など人権活動者を続々と冤罪で陥れている。一方で、裁判員制度を導入し、日本に徴兵制を復活させ、核武装するための段取りを着実に実現している。彼らの目指す理想は、北朝鮮国家である。天皇を金正日のような立場にし、大衆の口と目を塞ぎ、権力者に奉仕する奴隷家畜国家に変えようとしているのだ。
 我々は、漆間と全面対決し、ネットの力で、漆間・大林を引きずり下ろし、彼らの背後にいる真の黒幕を暴かねばならない。
 漆間を追求している渡辺氏や筆者も、いずれ弾圧され、強制的に口を封じられるかもしれないが、みんな死を恐れず、断固として戦う決意だ。人権民主社会を求める者、人情社会の復権を求める者たちは、弾圧を恐れず団結して戦い抜こう。
東海アマチュア無線  地震予知研究会


『《個》の記憶はどこまで届くのか:Media Point の記憶は、イデア記憶であり、不死不滅・永遠不滅である:イデアが輪廻転生主体である:PS理論的日本維新ルネサンスへ向けて』
『《個》の記憶はどこまで届くのか:Media Point Memory(MP記憶)は、イデア記憶であり、不死不滅・永遠不滅である:イデアが輪廻転生主体である:PS理論的日本新維新へ向けて』

《個》におけるMedia Point の形成は、当然、共同体、自然、精神、倫理、宗教等的性向の形成でもある。問題は、有り体に言えば、Media Point の意識ないしは「記憶」がどこまで「届く」のか、である。PS理論は、当然ながら、虚軸=超越界に達すると考えるわけである。それは、当然、自己同一性=同一性自己=自我を超えている(それは、虚構・仮想・仮象である)。
 問題を言い換えると、Media Point の記憶は、《個》の経験を超えるのか、否かである。言い換えると、生まれてから死ぬまでの現世の記憶に留まるのか、それとも、超えるのか、である。
 少し迂回すると、「わたし」の問題を考えよう。通常、「わたし」(自我)を同一性自己ないしは自己同一性の意味でとっているが、「わたし」の本体は、先に述べたように、+iの主体差異、主体絶対的差異である。だから、それは、「わたし」ではないのである。思うに、「わたし」に重なるようにして、あるいは、その裏面に、主体差異+iが存しているだろう。《個》(差異共振自己)とは、それと関係しているのである。
 だから、「わたし」と主体差異+iないしは《個》とは分裂しているのである。英国の詩人・版画家ウィリアム・ブレイクは、近代的自我をspectre (幽霊)と名づけたが、それは的確である。「わたし」は「幽霊」である。もっとも、虚構・仮想・仮象とこれまで呼んだが。確かに、マーヤー(幻像)である。
 輪廻転生という観念があるが、そのとき、輪廻する主体とは何だろうか。普通は、不滅の魂ないしは霊魂が輪廻する主体と考えられている。そうならば、「わたし」が輪廻する主体ではないのである。
 問題は、主体差異+iである。それは、「わたし」と混同される傾向が一般的である。デカルトの「我思う」(コギト)の「我」も混同されていると考えられる。「我」が同一性自己(自我)となると、近代合理主義が生まれるのである。(「我」の裏面の主体差異+iを探究したのが、フッサールと言えよう。)
 主体差異+iは虚数であるから、同一性=物質ではない。端的に、イデアである。すると、それは、不滅のはずである。つまり、主体差異というイデアが「わたし」の裏面・本体として超越的に内在していると考えられる。
 そして、Media Point を考えれば、他者差異-iというイデアも超越的に内在していると考えられる。端的に、Media Point が超越的差異共振イデアと考えられる。+iのイデアと-iのイデアから、Media Point のイデアを区別すべきである。とりあえず、仮に、前者を小イデア、後者を大イデアと呼んでおこう。
 端的に、小イデアであり、大イデアであり、それは、不滅のはずである。何故なら、超越的であるからである。虚数だからである。
 だから、輪廻転生という観念は、「わたし」が輪廻する主体ではなく、小イデア、大イデアが輪廻する主体ということになる。そう、魂や霊魂とは、小イデアであり、大イデアである。(もっとも、小イデアを内包・包摂した大イデアと言う方が的確である。)
 そこで、Media Point の「記憶」はどこまで「届く」のかという本題に戻ると、今や、当然、《個》の現世の経験の記憶を超えるものである。過去世(前世・前生)や未来世(後世・後生)の「記憶」をもつと言えよう。また、さらには、個体的な「記憶」に限定されずに、ユングの説くような集合的無意識・普遍的無意識をもちうると考えられる。「神」、「神仏」と言える。ただし、ユング心理学の問題点は先にも述べた点もあるが、ここでは、集合的無意識について言うと、それは、連続化されているのが大欠点なのである。集合的ではなく、あくまで、絶対的差異的、特異点的であり、それが、普遍的な認識をもちうるということと考えなくてはならないのである。後で、この点を詳述したい。
 ということで、ここで、明確に、プラトン哲学の進展であるPS理論による以上の視点から、プラトン哲学のイデア論の正しさが証明されたことになるだろう。ただし、プラトン自身、小イデアと大イデアを明確に区別していなかったと考えられる。主体差異+iという小イデアは、同一性志向性をもち、いわば、同一性イデアになるのである。これと、大イデア=不死不滅の魂の区別が明確ではなかったと考えられるのである。
 ここで、飛躍して、現代日本の破滅的状態の乗り越えを考えると、PS理論的な、根源的な復活・ルネサンス・維新が必要である。トランス・モダン維新である。PS理論的イデア維新ルネサンスである。


小稿:ユング心理学をPS理論は批判的に解明できる:付録:麻生首相の心性分析とうつ病分析試論
「自我」と「自己」の融合をユング心理学は説くが、「自我」とは同一性自己ないしは自己同一性であり、それは虚構・仮想・仮象である。だから、ユング心理学は不正確なのである。「自我」を主体差異+iに、そして、「自己」を他者差異-iにすれば、正確になるのである。主体差異+iと他者差異-iとの共鳴・即非様態が、真の自己状態である。
 ところで、主体差異とは言語知性に関係し、他者差異とは直感(直観)知性に関係すると考えられる。近代合理主義とは、前者を支配的にして、後者を抑圧してきたのである。
 例えば、前者を男性、後者を女性とすれば、通俗に女性は勘が鋭いと言われことが証明されよう。
 ここで麻生首相を心性分析すると、前者が欠落しているのであるが、とは言え、女性ではないから、勘も悪いのである。そうすると、どうしようもない心性ということになるだろう。このような「人格」が首相であるというのはどういうことなのか。また、同類が政治家となっている日本国とは何か。亡国である。
 とまれ、以上の図式で、うつ病等の心病の内因がよくわかる。-iを抑圧・排除しているので、-iの「力」をMedia Point において取りこめずに、+iと-iの共振によるエネルギーが形成されないから、生気が失せるのである。また、抑圧・排除された-iの「力」は衝動・発作的に逆襲するので、狂気となるのである。
 問題は、「力」である。最初、エネルギーとしようとしたが、それは、差異共振のエネルギーと混同してしまうのである。後で、+iと-iの「力」について考察を行ないたい。

参考:
集合的無意識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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自我と自己元型 [編集 ]

ユングは、集合的無意識に様々な元型の存在を認めたが、それらは最終的に自己 (Selbst)の元型に帰着すると考えた。自己の元型は心 (魂 )全体の中心にあると考えられ、外的世界との交渉の主体である自我は、自己元型との心的エネルギーを介しての力動的な運動で、変容・成長し、理想概念としての「完全な人間」を目指すとされた。

諸元型と個性化 [編集 ]

このように、自我が自己との相互作用で成長し、球的完全性へと向かう過程を、ユング心理学(分析心理学)では、「個性化の過程」あるいは「自己実現の過程」と呼んだ。個性化の過程において、自己元型は、「影 」の元型や「アニマ ・アニムス 」の元型、あるいは「太母 (Great Mother)」や「老賢者(Old Wise Man)」の元型として力動的に作用する。



2009年03月27日(Fri)▲ページの先頭へ
明治維新について:Media Point の発動としての明治維新:新霊的日本維新へ向けて:+iと-iのエネルギー交替について:霊的資本共同体へ向けて;同一性について再考:同一性仮象と差異共振個象
明治維新について:Media Point の発動としての明治維新:新霊的日本維新へ向けて:+iと-iのエネルギー交替について:霊的資本共同体へ向けて;同一性について再考:同一性仮象と差異共振個象


1) 明治維新とは、文化的に、つまり、「無意識」・「精魂」・「精神」的に何であったか:Media Point の発動としての明治維新?:しかしながら、未分化的な渾沌とした様態にあったと推察される。問題は、基盤にMedia Point の発動に対して、封建的な、父権傾斜+iの傾斜が作動していたと思われる。言うならば、「ルネサンス」と「プロテスタンティズム」(乃至は、ピューリタニズムか神政主義)が混淆していた様態ではなかったか。
 私は以前、明治維新とは日本ルネサンスであると言ったが、確かに、ルネサンス性は否定できないが、それが、「プロテスタンティズム」的な父権志向性で抑圧されてしまったと言えるのではないだろうか。例えば、西郷隆盛は、日本ルネサンス的な精神性をもった人物である。私見では、日本母権文化的精神性をもった人物である。古事記で言えば、大国主命的な人物である。
 それに対して、一般に長州の人物は、父権的な「プロテスタンティズム」的である。Media Point が発動した明治維新ではあったが、それが、父権主義・「プロテスタンティズム」的なものに支配されて、言い換えると、官僚独裁主義に支配されて、破滅的に軍国主義へと突進したのではないだろうか。言い換えると、Media Point の発露があり、差異共振エネルギーが発動したものの、父権傾斜のために、同一性ファシズム、官僚/軍事独裁主義へと連続的同一性化したということではないのか。
 そして、戦後は、GHQの支配下で、日本のMedia Point 文化が根こそぎにされたと考えられるのである(もっとも、後に、官僚統制主義を復活させてしまい、その害悪で今日、苦しめられているのだが)。象徴天皇制とは、明治維新のMedia Point エネルギーを否定するものであったと言えよう。というのは、それまでの国家神道を全否定して、その中にあったMedia Point エネルギーを否定したと考えられるからである。Media Point 的霊性が否定されたと言えよう。だから、折口信夫の新神道論は正鵠を射ていたのである。戦後近代合理主義洗脳の下、無視されてきたのである。
 以上の試論から考えると、戦後、否定された日本的Media Point エネルギーの賦活が考えられてもいいのである。それは、日本新ルネサンスを意味するのである。純粋差異共振エネルギーの賦活である。PS理論はそれを志向しているとも言えるのである。
 とまれ、明治維新が日本史、世界史における巨大な霊的な社会変革であったと見る必要があると考えられる。ルネサンスとプロテスタンティズムが同時生起したような霊的変革であったと言えよう。この意味を把握・理解する必要があると思うのである。現代日本の大閉塞・大衰退は、この認識から打破されると考えられるのである。新霊的日本変革が必要であるということである。


2) +i傾斜に対して、-iの賦活力学とはどういうことなのか。これまでは、+iのエネルギーの発動が終焉して、新たに、-iのエネルギーが賦活すると考えてきた。これは、勿論、陰陽交替力学で考えているのである。先に、+iが-iを抑圧するような形態で発動し、その発動が終焉すると、-iのエネルギーが発動すると、考えたのである。そうならば、その力学の構造をより精緻に突き止めたいのである。端的に何か。
 ここで作業仮説するが、自然叡知、自然精神というものがあるなら、それは、バランス・均衡・平衡を基本・原理にすると考えられる。しかし、+i傾斜=父権傾斜とは、その視点から見ると、当然、歪み・偏向・不正である。だから、それは矯正されるべきものである。だから、必然的に、-i傾斜が反作用するはずである。つまり、父権的心性において、最初は+i傾斜で同一性=物質を志向するが、それを「補償」する作用として、-i傾斜が発動すると考えられる。脱父権化・脱同一性=物質の志向性である。+i傾斜を同一性志向性とすれば、-i傾斜は差異志向性と言えよう。
 もしこのような作用・反作用の均衡力学があるなら、父権的心性の場合、強烈な揺り戻しが生じることになる。そう、思うに、+iから-iへと切り替わるときに、穴が生じると考えられる。空虚・虚無である。平明に言わば、空っぽ状態である。例えば、ハイデガーや三島由紀夫や実存主義や不条理文学等は、その折り返し点の穴に基づいていると考えられる。
 そして、-i傾斜による差異エネルギーが発動しても、+iの同一性自己に囚われている限り、それは、差異エネルギーを抑圧・排除してしまうのであり、端的に、精神の病理化となると考えられる。ユングが言った中年の危機はそのようなものであろうし、今日のうつ病等の心病の真因もそれであろう。また、異常な「自己中心主義」の蔓延は、この反動として説明できよう。
 以上は父権的心性の場合であるが、女性の場合はどうなるのだろうか。今日、父権化している場合、女性は、男性と同様の危機をもつだろう。しかし、女性本来の陰陽力学(Media Point 力学)はどういうものだろうか。これまでの仮説では、女性(母権)的心性は本来、陰陽バランスがとれているのである。だから、本来、父権的心性のような逆噴射は生じないと考えられる。
 では、女性的心性の「成長」とは何だろうか。それは、本来内在している固有の差異共振性を実現していくことであろう。父権社会の価値観に染まっている場合は、悲劇的なことになろう。


3) 同一性(金融)資本に対して、差異共振資本ということを提起しているが、それは、トランス資本ではないだろうか。確かに、トランス同一性資本である。だから、差異共振資本主義とは、トランス資本主義になるのではないだろうか。言葉ではなく、本体の問題である。私は差異共振性と唱えるが、それは、新たな霊性である。そして、それは、差異知性を包摂している。そこにおいて、資本、貨幣はどういうものになるのか。これまでの資本主義(同一性資本主義)は、差異共振性を否定して、単に、同一性=物質と貨幣・資本とを結びつけてきたものである。父権的な資本主義と言うことが可能である。
 しかるに、差異共振性を考えると、即ち、Media Point を考えると、貨幣・資本を単純を同一性=物質と結びつけることはできなくなる。つまり、貨幣・資本と差異共振性(Media Point ・霊性・差異知性)とを結びつけることになると考えられる。言うならば、Media Point Capitalismないしは精神資本主義である。同一性=物質という発想ではなく、精神⇒同一性・物質の発想となるのであり、同一性=物質とは、抽象化された虚構・仮象・仮想に過ぎないのである。
 とまれ、貨幣・資本が差異共振化されると言えよう。それは、精神貨幣・精神資本とでも呼べよう。霊的貨幣・霊的資本、あるいは、超越的貨幣・超越的資本である。
 では、貨幣・資本が精神化・霊化・超越化されるとは、いったい、端的に、どういうことなのか。思うに、貨幣・資本とは、精神(差異共振性)・霊・超越的社会のための貨幣・資本であるということであろう。そう、絶対的差異と即非性のための貨幣・資本でもある。精神・霊・超越的社会とは、いうならば、精神・霊・超越的民主主義社会ということになろう。
 しかし、同一性貨幣・資本が支配しているなかでは、それは、単純には創造されない。精神・霊・超越(差異共振)的な共同体社会創造のために、貨幣・資本の創造的消費(投資や贈与)が必要である。そうするために、霊的資本主義のための、法形成が必要である。霊的共同体貨幣・資本法である。この霊的資本主義共同体の投資・贈与を積極的に認める法体系が必要となる。トランス・モダン法体系である。後で検討を続けたい。


4) 同一性について再考:母権意識においては、本来、同一性=物質は存在しない。何故なら、差異共振現象の不可分の部分として同一性=物質らしいものが発現すると考えられるからである。端的に、⇒+1である。これをいったい正確に何と呼んだらいいのだろうか。
 以前は、差異共振的同一性や差一性と呼んだことがある。しかし、同一性と呼ぶことは不正確なのである。同一性=物質の概念・観念は、+i傾斜による-1 から発生するものである。先に述べたように、-1が⇒を排除して、+1を分離化するのである。だから、+iの傾斜がない場合、+1は生じないのである。即非身体性ないしは即非体性と呼べるかもしれない。あるいは、即非個象である。単に、個象でもいいかもしれない。それは、同一性=物質ではないのである。だから、仮に、⇒+1とは、差異共振個象、即非個象と呼びたい。先に、「もの」としたが、それは、物質と混同される恐れがあるので、避けるべきであろう。
 では、トランス・父権意識としての新差異共振心性・新即非心性を考えたとき、どうなるだろうか。父権心性には、-1と+1が生じるのである。即ち、同一性主義=唯物論的世界観が生まれるのである。いったい、父権心性の±1とはいったい何であろうか。それは、絶対的差異-iを否定した虚偽の様態と言えよう。虚構・仮想・仮象と先に述べたが、倫理的には、虚偽的である。邪悪の心性である。
 とまれ、この父権的悪の心性が生起して、物質科学・技術や国家等が生まれたと言えよう。もし、母権的善の心性だけならば、それらは生まれなかったと言えよう。そして、PCもインターネットも生まれなかったと言えよう。この悪の心性はそれなりに必然性があったと言えるだろう。トランス父権心性であるが、それは、-1の否定である。否定の否定である。-(-1)⇒+1である。これは、絶対的差異の肯定であるから、(+i)*{-[-(-i)]}⇒+1となろう。ここにおいては、確かに、同一性=物質は消滅している。
 では、先に肯定した-(-1)の-1はどうなるだろうか。絶対的差異-iが肯定されるので、-1の余地は無くなっているのである。やはり、-(-1)⇒ +1であり、左辺は消えるだろう。だから、物質科学・技術は、近似値科学・技術ということになるだろう。虚構・仮想・仮象科学・技術ということになるだろう。疑似科学・技術である。そして、本来の差異共振科学・技術に包摂されることになる。というか、新たな科学・技術、PS理論的科学・技術が誕生することになると考えられる。差異共振個象を対象とした科学・技術である。


2009年03月26日(Thu)▲ページの先頭へ
世界経済の動向についての私見:世界共通通貨創設路線(ドル・米国没落)と米国差異共振資本主義路線
「世界経済の動向についての私見:世界共通通貨創設路線と米国差異共振資本主義路線:ロシア政治経済ジャーナルの北野氏の量的予測とPS理論的質的予測」

《引用開始》

【【RPE】中国は世界共通通貨創設(=ドル・アメリカ没落)を目指す

・・・・・

アメリカ人は、日本と中国から借りた金(返す気はない)で豪邸に住
んでいる。

中国政府としては、そのお金を内需拡大策に使い、以下のような構
図にしたくなってもおかしくない。

つまり、



世界(特に中国)が作り → 中国が買う



最後に、政治的理由もあるでしょう。

日中がアメリカに金を貸さなくなる。

すると、アメリカに残された道は二つしかありません。


1、国債金利が上がりつづけ、返済不能になり国家破産

2、FRBが国債買い取り(増刷)をつづけ、ハイパーインフレが起こる。
ドルは紙切れになる



こうなったとき、覇権はどこに転がりこむか。

覇権とは支配力のこと。

そして、支配力を支えるのは、金(経済力)と力(軍事力)です。

中国は、軍事費世界2位、経済力(GDP)世界3位。

とはいえ、経済力世界2位の日本に覇権への欲望はありませんから、
中国が覇権国家になるチャンスが出てくる。

アヘン戦争以来屈辱を味わいつづけてきた中国。

ついに、世界の頂点にむかって動き出す機会が訪れたのです。


▼SDRってなに?


さて、中国が「ドルにかわる準備通貨」として提案している「SD
R」とはなんでしょうか?】

《引用終了》
http://archive.mag2.com/0000012950
/20090326024928000.html
ロシア政治経済ジャーナル

@@@@@@@@@@@@@@@@@@

以上、たいへん明快な『ロシア政治経済ジャーナル』の北野氏の世界経済予測であるが、以前も触れたことがあるが、北野氏の考察は、ほぼ量的であり、質的なものを考慮していないことである。つまり、金と軍事力が世界経済を駆動させているといういわば、唯物論的発想をしているのである。(もっとも、北野氏には、精神的志向はあるが、それが、政治経済の発想には適用されていない。)
 確かに、米国債の多量発行は、ドルの価値低下を招くし、インフレないしはハイパー・インフレをもたらす。確かに、米国の威信も低下する。それは、量的な視点の考察である。
 しかしながら、オバマ大統領は、差異共振政治経済の発想、トランス・モダンの発想をもっているである。それは、私はロスチャイルド路線、ロックフェラー路線と区別して、「ロックフェラー」路線と考えている。いわば、草の根の米国民主主義の路線であり、自由共同体路線、《個》的共同体路線である。米国本来の「民主主義」的資本主義路線なのである。
 これは、これまでのウォール・ストリートの同一性主義金融資本主義路線とは、異質なものなのである。問題は、複雑系である。同一性資本と差異共振資本が混合しているので、単純に後者へと切り替えられずに、税金をAIG等の「救済」に使用しているのである。つまり、一時的に、社会主義(国家資本主義)政策をとっているのである。
 問題は、その「救済」が本当に役立つのか否かである。先に述べたように、時間稼ぎ的な要素が強いとは思う。問題は新たなトランス・モダン社会創造なのである。これは、トランス・モダン共同体構築を意味する。
 だから、オバマ政権は、一時しのぎ的に、同一性資本主義を「救済」しつつ、差異共振資本主義創造の方向へと加速すると考えられるのである。つまり、資本主義の「進化」がそこには考えられるのである。(ただし、複雑系であり、平俗に言えば、「綱渡り」状態である。波が大きいと言えよう。一筋縄では行かないのである。)
 この質的な視点が北野氏の量的には明敏な世界経済予測には欠落していると考えられるのである。もっとも、北野氏の唱える日本の真の独立の選択案にはまったく賛成である。

追記:予断を許さないというのが正直なところである。思うに、アメリカが複数世界通貨路線をとる可能性だってあると言えよう。


2009年03月25日(Wed)▲ページの先頭へ
『「知識」と「自我」の関連性:同一性知識と差異知性:近代的「知識」の解体とトランス・モダン知性形成へ向けて:同一性ファシズムをぶっ壊せ!:トランス封建主義的トランス・モダン・ヤポネシア・ルネサンス』
『「知識」と「自我」の関連性:同一性知識と差異知性:近代的「知識」の解体とトランス・モダン知性形成へ向けて:
同一性ファシズムをぶっ壊せ!!!・・・:トランス封建主義的トランス・モダン・ヤポネシア・ルネサンスの払暁へ』


【引用開始】
「 そのためには、まずすべての人が年齢や性別あるいは社会的な肩書きに関係なく、同じ人間としてお互いを尊敬し合いながら、フラットにつきあえる、ビジネスができる、そんな社会に変えていく必要があるはずです。


 女性にかぎらず、子どもたちや青年たちも夢が持てるようにする。そのためには、自我を捨て、お互いに助け合う思いを大切にしながら、生きていくようにしましょう。


 ギスギスと自分さえ好ければ、それでいいんだなどという生き方をみんながすれば、今の日本のように住みにくい、暮らしにくい社会になっていくのは当たり前だと思います。


 まず一人ひとりがそばにいる人を、自分と同じぐらい大切で価値ある人だと心から思って、ともに歩いていくことができる社会を再興していくために努力したいと思うのです。」
【引用終了】
http://ameblo.jp/adco
/entry-10230400182.html
スロー人ロハス-Kritik der Politischen Ekonomie

以上のように、スロー人氏は述べられているが、共感できるものである。私が問題としたいのは、今日、日本人、とりわけ、知識人の「自我」の問題である。これは、一言で、近代的自我と言っていいのだが、「知識」と「自我」との関係を検討したい。(国民一般のレベルでは、封建的集合的自我となっている。)
 どうして、「知識」の形成は、硬直した、他者排撃的な「自我」を形成してしまうのか。これはまた、身体の問題である。「知識」は硬直した身体を形成すると考えられる。
 「知識」は一般には、言語を介して形成される。しかし、この言語は、同一性言語である。(今日、衰退した文学であるが、文学言語とは、本来、差異共振言語であり、文学の衰退とは、差異共振言語の衰退と言えよう。同一性言語に文学言語が蚕食・侵食されてしまったと言えよう。しかしながら、より的確に言えば、文学が超越性を失ったこと、衰退の根因であると考えられる。)
 言語とは、先に指摘した通り、本来、差異共振言語であるが、どうして、同一性言語になるのか。ここがポイントである。(因みに、私見では、日本において差異共振言語が衰退して、同一性言語が支配的になったのは、70年代後半からである。79年の大江健三郎の『同時代ゲーム』を象徴的であろう。そこでは、言語が同一性観念化しているのである。それまでの大江文学の差異共振言語性が喪失したと言えよう。)
 やはり、これまで繰り返し検討したように、+i傾斜、父権的な主体傾斜に拠ると言えよう。これが、他者=絶対的差異-iを否定・排除してしまうのである。そして、この+i傾斜が同一性自己と同一性言語と同一性知識(同一性観念)を生み出す元である。思うに、社会的に+i傾斜が支配的なので、個人は、受動的に適応するために、内的他者=絶対的差異を否定して、+i傾斜を強化すると考えられるのである。つまり、父権社会的+i傾斜と個人的+i傾斜が結合して、同一性原理が主導的になると言えよう。
 この父権社会的+i傾斜とは、当然、同一性資本主義の+i傾斜と重なるものである。結局、同一性資本/父権社会的同一性傾斜が内的な父権傾斜を結びついて、同一性自己・同一性言語・同一性知識を形成させていると言えよう。
 問題は、今日の教養には、内的他者=絶対的差異の知性教育がほぼ完全に欠落していることである。(これは先に述べたように、特異性/超越性「教育」である。)言い換えると、《個》の教育の欠落である。これは、自己自身の教育である。内的教育である。省察・内省・瞑想の教育であり、本来、哲学や仏教が育む教育である。また、文学もそのようなものであった。
 いったい、この、いわば、同一性ファシズム(同一性全体主義)は何を意味するのか。日本人を同一性ロボットにすることを意味しよう。そして、同一性原理に外れる特異性人間(他者)を排除する暴力体制を意味しよう。そう、現代日本社会は、オーウェルの『1984年』的な超管理社会、「ビッグブラザー」の支配する同一性ファシズム社会なのである。
 では、この「ビッグブラザー」とは何か。これは、スクリーンに映されるだろうか。否、これは、目に見えない「ビッグブラザー」である。北朝鮮ならば、はっきりと目に見えるが、現代日本では、不可視の「ビッグブラザー」である。そう、不可視の恐怖の「ビッグブラザー」=独裁者がいるのである。(優れたブログはこの同一性ファシズムに挑戦していると言えよう。)
 いわば、現代日本人は、本来の日本に脅えて、恐怖的に排除するのである。そう、これは、やはり、戦後日本属国化政策と官僚的統制主義の支配に拠ると見るべきであろう。
 でも、端的に、直截に言って、何を恐れているのだろうか。現代日本人の怯えとは何か。真正な自己認識を怯えているとは言えよう。内的他者=特異性=絶対的差異を怯えていると言えよう。一種の「闇」である。
 でも、この同一性ファシズムはとにかくあまりに異常というか、奇怪である。いったい、何を恐れているか。怯えは何か。端的に、差異共振の超越光に怯えているのである。「神」に怯えているのである。それを同一性自己像で覆っているのである。同一性自己(自我)にとり、差異共振超越光=「神仏」は見たくないのである。「恐れとおののき」である。その力学は何か。
 それは、封建主義である。封建的共同体主義が、日本人の精神に残っているのである。そのために、自己の特異性を排除して、父権的同一性共同体へと同化するのである。わかった。エウレカ! 封建的共同体的没個主義が、この奇怪な同一性ファシズムを生んでいるのである。
 だから、日本人には、ルネサンスが必要なのである。トランス封建主義的トランス・モダン・ヤポネシア・ルネサンスである。思うに、これは、日本だけでなく、東アジア全体でも必要である。トランス封建主義的トランス・モダン・東アジア・ルネサンスである。

追記:また、今日蔓延しているうつ病等の心病の原因もこの《個》の排除にあると言えよう。

追記2:封建・近代的同一性マインドコントロールとも言えよう。


内面「教育」としての特異性/超越性「教育」:付録:時代批評:PS理論的トランス・モダンIT「華厳」共同体世界の誕生
簡単に思うと、内面とは、実に、特異的な差異であり、絶対的差異である。それは、教えることはできないだろう。ただ、示唆し、気づかせようと指し示すことはできるだろう。言うならば、内的「教育」である。戦後の外的教育とは、異質なものであり、これが欠けていることが、人心の荒廃をもたらしている要因の一つと考えられる。この内面を「個」ということもできるが、それは「個人」ないしは「自我」と混同される可能性が高いので、不連続的差異、絶対的差異、特異性と呼ぶ方が的確である。内的「教育」とは、これまでの私の言葉で言えば、精神身体の涵養である。言い換えると、精神教育であるが、特異性としての精神の教育である。私は宗教・神話の教育が必要だと考えているが、特異性としての精神教育であることが大前提であり、そうでなければ、明らかに洗脳となる。
 また、特異性精神教育のキーポイントの一つは、超越性を説くことである。もっとも、超越性が近代合理主義ないしは唯物科学・技術によって否定されているので、特異性精神教育を目指しても、混乱する結果をもたらすだろう。それは、ポスト・モダンに明らかである。デリダやドゥルーズ、その他は、超越性を否定しているので、差異というエッセンシャルなテーマをもつ認識行為が、空回りして、空疎な言語遊戯に堕してしまったのである。
 思うに、PS理論が超越性を肯定できたのは、いくつか理由が考えられるが、いちばん大きな要因は、一神教的な超越性の背景がないために、自然に純粋な(非一神教的な)超越性が生起する状況があったことだろう。しかしながら、戦後近代合理主義の唯物論的拘束がたいへん強固なものであると考えられる。だから、近代合理主義の縛りを解体する思想状況が生まれていたことも要因の一つである。
 私に関して言えば、1980年代後半の東洋身体論ブームがそのような思想状況をもたらしたと言えよう。もっとも、オウム真理教という怪異グロテスクな犯罪を副作用・副産物的にもたらしたとは言える。だから、それは両刃の剣ではあったと言えよう。そう、1980年代(バブルの時代でもある)は日本における軽薄なポスト・モダンブームもあった。とまれ、脱近代合理主義・脱近代的自我の動きがはっきりと起こったと言えよう。今から言えば、それは、特異性、絶対的差異の発露である。その後、ソ連崩壊、グローバリズムの出現となり、新自由主義、ネオコンが中心化し、2001年の911事件をもたらした。それは、今から見ると、近代合理主義の反動であると言えよう。能動的な特異性の勃興に対する反動であり、ハイパーな同一性主義が発生し、サブプライム等が起こり、今や、大崩壊したのであるが。
 超越性の視点から言うと、1990年代から2000年代はたいへんな危機的な時期であったと言えよう。何故なら、東洋身体論やポスト・モダンのブームが終わり、同一性的現実主義が主導化・中心化した時期であったからである。 しかしながら、PC、インターネット、ブログ等の普及によって、孤立していた特異性(絶対的差異)が遭遇すること(一種の偶然)により、生まれかけていた新しい思想が、明確に誕生することになった(突然変異)と言えよう。超越的な特異性の思想と言ってもいいだろう。それが、個々の潜在意識にあり、それが、明確に発現したのである。このITないしはITC大革新は、メディアをまったく変革させてしまったと言えよう。そう、メディア進化と言えよう。
 そのように見ると、いったい何が起こり、何が起こりつつあるのか。一言で言えば、極言すれば、PS理論的華厳世界の生起であろう。トランス・モダン華厳世界であろう。新しい東洋世界が生まれつつあるのである。とまれ、もう少し、超越性の視点から、丁寧に見てみよう。
 特異性において、超越性が発動する。そして、これとITとの関連は何だろうか。思うに、ITグレート・イノベーションとは、メディアの個化、即ち、特異性化をもたらしたのである。つまり、IT化とは、正に特異性/超越性に適合するメディア革新であったと言えよう。特異性/超越性が正に、水を得たというところである。
 そして、このメディア大革新により、多様な特異性/超越性が遭遇し、共振するようになるのである。そして、このIT的多元的特異性/超越性ネットワークが、PS理論的華厳世界ということである。


2009年03月23日(Mon)▲ページの先頭へ
差異共振イマージュ波動言語仮説:同一性概念ないしは父権制の意義とは何か:同一性物質概念形成
(画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10229279095.html


差異共振イマージュ波動言語仮説:同一性概念ないしは父権制の意義とは何か:同一性物質概念形成

テーマ:文字・言語・文化

先に同一性自己意識について検討し、
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10228731083.html
(個人的には、発話・発語が差異共振知覚言語であると判明できてたいへん喜んでいる。つまり、言語も元は、差異共鳴現象という言わば驚異・感動等から生まれたのであり、宗教や芸術と同じ根源であることが理解できて、うれしいのである。直感では、音楽も美術も文学も同じ根源から生まれたと感じていたのであり、それが証明されたのである。西洋伝統文化では、ミューズという霊感の神々を説くが、ミューズとは、Media Pointの差異共振エネルギーと言えよう。
 因みに、ロゴスであるが、それは、やはり、差異共振知覚言語からの抽象であろう。後で検討したいが。また、デリダのエクリチュール論であるが、それは、絶対的差異論として考えられるべきであろう。デリダは音声言語をロゴスと捉えるが、それは単純化である。根源的な発話・発語のレベルでは、音声言語は、差異共振知覚言語であるからである。その条件をなくした音声言語は、ロゴス的となる。エクリチュールとは、差異共振知覚言語の文字的物質化のことと考えられるが、カリグラフィーを考えると、絶対的差異となるだろうが、印字は、同一性である。
 また、ヨハネの福音書の「初めに言葉(ロゴス)ありき」であるが、それは微妙である。「言霊」ととれば、正しいだろう。言霊とは、原言語を含んだ差異共振エネルギーと言えようか。この点は後で検討したい。とまれ、ヨハネの「言葉」(ロゴス)であるが、差異共振イマージュ・エネルギーととるといいのかもしれない。このイマージュは、エイドスに通じるだろう。そして、プラトンの同一性の原型として捉えられた「イデア」に通じよう。)結局、Kaisetsu氏の同一性概念不要論を確認することになったが、では、いったい、何故、同一性概念が形成される必要があったのか、言い換えると、何故、父権文明が発生する必然性があったのか、追究したいのである。
 今、私が「打っている」(書くではないだろう。書くとは、筆記用具をもって、手と指を使って、文字を媒体に付着させることであろう。)言葉は、いったい何だろうか。同一性言語ではないのか。
 否、同一性言語を用いて、PS理論的思考を行い、それを言語記述しているのである。つまり、差異共振的思考言語である。
 結局、同一性言語とは何かと、なる。例えば、「桜」は誰でも使える日本語であり、その意味では、同一性言語である。
 しかし、先の差異共振知覚発語の視点から見ると、「桜」とは、差異共振知覚発語の結果であり、単に、同一性言語+1ではないのである。
 では、単純に言って、同一性言語でないとすると、「桜」という言語は何か。それは、(造語するが)差異共振言語であるということである。それを同一性言語として、抽象化するのは、虚構・仮想である。
 そう、差異共振言語(差異共鳴言語)と言うべきであろう。これが同一性言語という仮象をとらされるのである。
 この差異共振言語の仮説であるが、この視点から、上記の聖書の「言葉(ロゴス)」は、差異共振言語(差異共鳴言語)ないしは、差異共振原言語(差異共振プロト言語)と考えることができるのではないだろうか。これまでは、普通、同一性言語ととられてきたのではないだろうか。同一性言語ととると、まったく福音書の意味が死んでしまうだろう。完全な誤解となる。
 差異共振言語(差異共振プロト言語)ととると、「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあり、ことばは神であった。」の意味が明快明晰になるだろう。即ち、「はじめに差異共振言語があった。差異共振言語は神=イデアと共にあり、差異共振言語は神=イデアであった。」と言い換えられよう。
 そして、差異共振言語とは、差異共振波動であり、空海・弘法大師の波動言語・文字論もこの視点から解明されよう。より的確に言えば、差異共振イマージュ言語ではないだろうか。イマージュ言語だから、文字言語にもなると考えられるのである。そう、デリダのエクリチュールは、差異共振イマージュ言語が本体であると考えられよう。
 また、幾何学も、差異共振イマージュ言語で説明できるのではないだろうか。数もこれと関係していると予見できる。
 キリスト教に関連させると、「ロゴスの受肉」としてのイエス・キリストであるが、それは、差異共振イマージュ言語の身体化である。思うに、これは、物質化というよりは、差異共振イマージュ言語と精神身体との共鳴ではないだろうか。
 また、以下の「彼の中に生命(いのち)あり、生命は人の光なり。光は暗(くらやみ)に照り、暗は之を覆はざりき。」であるが、生命(いのち)とは、やはり、差異共振イマージュ言語(差異共振イマージュ波動言語)ではないだろうか。これは、確かに、生命の根源である。また、「光」とは、当然、差異共振エネルギー、即ち、超越光と考えられる。これは、仏教における光と同質と考えられる。たいへん刺激的で、わくわくするが、今はここで留めて、後で、より精緻に検討を続けたい。

追記:本題からそれてしまったが、後で考察を続けたい。今簡単に言えば、同一性概念の発生の意義とは、やはり、同一性物質概念の形成と関係しよう。つまり、抽象知性の形成である。これが、物質科学・技術を生んだのである。

追記2:以下の参考の記事で、「命の源流」=ゼロとしているが、「命の源流」とは、差異共振イマージュ言語であり、それは、ゼロではなく、Media Pointである。ゼロとすると、連続化してしまうのである。
 ところで、双子のブラックホールの融合とは、実に象徴的である。ブラックホールをMedia Pointと読めば、Media PointとMedia Pointとの融合であり、それは、新しい差異共振エネルギーの発動であると考えられよう。
 そう、正に、陰陽である。一つのブラックホール=Media Pointは+iであり、他の一つのブラックホール=Media Pointは-iとであり、両者の共振として、(+i)*(-i)⇒+1となる。この⇒+1が新しい星々を創るのだろう。

追記3:
しょうじじっそうぎ しやうじじつさうぎ 【声字実相義】

真言教学の重要な教典の一。空海著。一巻。この宇宙全体が超越的存在である大日如来の言語の現れであるとし、それを理解し、超越者と一体化する道を示す。声字義。
http://dictionary.infoseek.co.jp
/?spa=1&sc=1&se=on&lp=0&
gr=ml&qt=%A4%B7%A4%E7
%A4%A6%A4%B8%A4%B8%
A4%C3%A4%BD%A4%A6%
A4%AE&sm=1&sv=K

追記4:イマージュ言語(ないしは言語イマージュ)の考え方は、井筒俊彦氏の思想から発想したものである。なんという書物から忘れてしまったが、禅の哲学の説明で、よく使われていたように思う。

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫) (文庫)
井筒 俊彦 (著)

意味の深みへ―東洋哲学の水位 (-)
井筒 俊彦 (著)


参照:
聖書
出典: フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』
(コヘレトの言葉 から転送)
移動: メニュー , 検索

聖書 からの引用、聖書に関する引用。ラテン語を併記。

・・・・・
イエス・キリスト

* はじめにことばがあった。ことばは神と共にあり、ことばは神であった。- ヨハネによる福音書1:1

Εν αρχη ην ο λογοs,και ο λογοs ην προs τον θεον, και θεοs ην ο λογοs.-- ギリシャ語。

In principio erat Verbum et Verbum erat apud Deum et Deus erat Verbum.

αρχηはアルケー 。λογοs(ロゴス )とはイエス・キリストの事とされる。

* 彼の中に生命(いのち)あり、生命は人の光なり。光は暗(くらやみ)に照り、暗は之を覆はざりき。 - ヨハネによる福音書1:4-5(「イオアンによる聖福音」正教会 訳)

* 言(ことば)は肉体と成りて我等の中(うち)に居りたり、恩寵と真実とに満ちたり。我等彼の栄光を見たり、父の独一子の如き栄光なり。- ヨハネによる福音書1:14(正教会 訳)

* わたしはアルファでありオメガである。 - ヨハネの黙示録1:8

Εγω ειμι το αλφα χαι το ω. -- ギリシャ語。
Ego sum Alpha et Omega.

* ひとはパンだけによって生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる。- マタイによる福音書4:4

Non in pane solo vivet homo sed in omni verbo quod procedit de ore Dei.
旧約聖書 申命記8章3節からの引用。なお、パンはアルトスの訳語。糧と約される場合もある。また言葉はepiousiosの訳語で聖書中でこの箇所のみ。

http://ja.wikiquote.org/wiki
/%E3%82%B3%E3%83%98
%E3%83%AC%E3%83%88
%E3%81%AE%E8%A8%80
%E8%91%89

参考:
『命の源流』を意識すると奇跡のシンクロが何度も何度も続きま。
・・・・・

「双子」のブラックホールか=銀河の合体で誕生!

というニュースが5日のフォトニュースのランキングで
一位になっていました。

=========
 2つの巨大ブラックホールがお互いに回り合っていると
みられる様子を、米国立光学天文台(NOAO)の研究
チームが観測し、5日付の英科学誌ネイチャーに発表した。

大規模な銀河の中心にはブラックホールがあり、銀河同士が
衝突・合体すると「双子」のブラックホールが誕生すると
考えられてきたが、実際に双子である可能性が高い天体が
見つかったのは珍しい。 (時事通信)
==========

 そして、原点戻り復活だ!イチロー1番でWBC開幕!
というニュースもありました。

 原点戻り=原点回帰ですから、今こそ大切なことです。

 ところで、私が一週間程前から書いていた、ヒーラー養成
特別講座・その9には、双子と、ブラックホール、宇宙などが、
シンクロしています。

 ヒーラー養成講座に、双子・ブラックホール・宇宙などの
言葉は関係がないだろう?となりますが・・・。

 『命の源流』の渦巻きは明らかに銀河の渦巻きであり、
『命の源流』=(ゼロ)を意識することによって、あり得ない
シンクロ現象が頻繁に起きています。
http://angel3939.blog97.fc2
.com/blog-entry-605.html
右脳開発で大願成就!
参考2:

「双子」の巨大ブラックホール探査の新方法を発見


2008年7月22日

左から嶺重教授、早崎研究員

 早崎公威 基礎物理学研究所 研究員(研究代表)、嶺重慎理学研究科教授らの研究グループは、数値シミュレーションによって、「双子」の巨大ブラックホールの周囲に三つのガス円盤が形成されることを世界で初めて示し、このシステムから放射される光に、X線や紫外線等は激しく周期変動し、可視光や赤外線はほとんど変動しないことを発見しました。

 このことにより、未だ解明されていない巨大ブラックホールの起源が明らかになることが期待されます。

 この研究成果(概要は別紙のとおり)は、8月発行の米国天文学会誌『Astrophysical Journal』に掲載予定です。
研究成果の概要

 宇宙の成り立ちを紐解くことは、自然科学の究極の目的の一つである。これまで、世界中の天文学者がしのぎを削った結果、宇宙の大規模構造の形成史が解明されつつある。しかし、未だに皆目わからないのが、巨大ブラックホールの起源である。近年、宇宙に存在するほとんどの銀河の中心には、太陽の100万倍〜 100億倍の質量を持つ巨大ブラックホールが存在することが確定した。しかも、その巨大ブラックホールの質量は、それを有する母銀河が大きければ大きいほど大きくなることも分かってきた。これは、とりも直さず、巨大ブラックホールと母銀河が、共に進化していることを示唆する。とはいうものの、その直接的証拠は未だない。

 銀河は、小さな塊が合体してできあがった。そこで、銀河が巨大ブラックホールと共に進化しているなら、銀河が合体成長するとともにブラックホール同士も合体して成長するはずである。すると、合体する前の、お互いの周りをくるくるまわっている双子のブラックホールがあるに違いない。それを見つければ、巨大ブラックホールと銀河の共進化を直接証明できることになる。

 今回私たちは、数値シミュレーションによって、双子の巨大ブラックホールの周囲に三つのガス円盤が形成されることを、世界で初めて示した。(下図)。そして、このようなシステムから放射される光に特徴的な挙動、すなわち、X線や紫外線等は激しく周期変動し、可視光や赤外線はほとんど変動しないことが判明した。今後、観測によってこのような特徴的な変動が見つかれば、双子の巨大ブラックホールの証明となる。

 実際に、銀河中心のブラックホールにこのような構造が普遍的に存在することが観測によって示されれば、それは人類の宇宙観を大きく変えることは間違いない。

* NHKで放送されました。
* 朝日新聞(7月23日 34面)、京都新聞(7月23日 30面)、産経新聞(7月23日 3面)、日刊工業新聞(7月23日 26面)、毎日新聞(7月23日 2面)および読売新聞(7月28日 23面)に掲載されました。

http://www.kyoto-u.ac.jp
/ja/news_data/h/h1/2008
/news6/080722_1.htm

京都大学

「双子」のブラックホールか=銀河の合体で誕生−米天文台

 2つの巨大ブラックホールがお互いに回り合っているとみられる様子を、米国立光学天文台(NOAO)の研究チームが観測し、5日付の英科学誌ネイチャーに発表した。大規模な銀河の中心にはブラックホールがあり、銀河同士が衝突・合体すると「双子」のブラックホールが誕生すると考えられてきたが、実際に双子である可能性が高い天体が見つかったのは珍しい。(2009/03/05-10:45)
http://www.jiji.com/jc/zc?k
=200903/2009030500054

参考3:

声字実相義  弘法大師

一には叙意二には釈名体義、三には問答。

(一)叙意

初に叙意とは、それ如来の説法は必ず文字による。文字の所在は六塵その体なり。六塵の本は法仏の三密すなわちこれなり。平等の三密は法界に遍じて常恒なり。五智四身は十界に具して欠けたることなし。悟れるものをば大覚と号し、迷えるものをば衆生と名づく。衆生癡暗にして自ら覚るに由なし、如来加持してその帰趣を示したもう。帰趣の本は名教にあらざれば立せず。名教の興りは声字にあらざれば成ぜず。声字分明にして実相顕わる。いはゆる声字実相とはすなわちこれ法仏平等の三密、衆生本有の曼茶なり。故に大日如来この声字実相の義を説いて、かの衆生長眠の耳を驚かしたもう。もしは顕、もしは密、あるいは内、あるいは外の所有の教法誰かこの門戸によらざらん。今大師の提撕によつてこの義を抽出す。後の学者もつとも研心遊意せよのみ。大意を叙すること竟んぬ。
http://www.chohoji.or.jp
/houwa/shoujijissougi.htm

参考4:
声字実相義ノート
・・・・・

「声」とは音響のことである。名をあらわすものを「字」と呼ぶ。文字のことではない。むしろ言葉のかたちと考えた方がよい。さて、「字」はものの体を示す。示されたもの、すなわちイメージを「実相」という。これが空海による定義である。「字」は「声」がなければ成り立たない。「声字」と「実相」は不可分のものだが、決して同一ではない。これを密教的に見ると、身密が「実相」であり、「声」が語密、真言を指す。阿字を例にとる。ア音は「声」、それがあらわすものは法身で、これが「字」。諸法本不生の義が「実相」となる。
http://www5b.biglobe.ne.jp
/~yutakas/zissougi.html

参考5:

 Title
 声字実相義

 Description
【一オ】
声字実相義
一叙意 二釈名体義 三問答
初叙意者夫如来説法必籍文字文字所在
六塵其体六塵之本法仏三密即是也平等
三密遍法界而常恒五智四身具十界而無
欠悟者号大覚迷者名衆生衆生痴暗無由
http://www.saigyo.org
/cgi-bin/cr.rb.cgi?syoji-txt

参考6:
『即身成仏義』の「成仏」という言葉を、空海は“仏に成る”という意味では考えていないんですね。「いわく身とは我身・仏身・衆生身、これを身と名づく」「(我身・仏身・衆生身は)不同にして同なり、不異にして異なり」。
http://www.eel.co.jp/03_wear
/02_selfread/kukai09.html

Seigo自著本談

参考7:

声字実相義
声と字による真実世界の探求

弘法大師空海の作に、声字実相義があります。

如来の説法は、必ず文字による。
文字の所在は六塵(色声香味触法)その体なり。
六塵の本は、法仏の三密すなわちこれなり。
平等の三密は法界に遍じてしかも常恒なり。

仏教の教えは、実相(現実の真実の姿)とは何かを探求する旅でした。
釈迦は、欲望にまみれた現実世界とは別の世界(涅槃)を求め、苦行に励みました。

そして最後にはその苦行を捨て「1:冥想」と「2:正しい考え」により得た覚りの智慧を元に
人々に教えを伝え始めたのです。

http://mandalaya.com
/jissou.html
まんだらや
密教研究所


2009年03月22日(Sun)▲ページの先頭へ
同一性自己意識の問題について:主体+iの傾斜と言語同一性自己-1:絶対的差異世界の地平
Kaisetsu氏が、同一性概念不要論を、ドラスティックに提起されたが、私としてはもう少し、同一性(主義)の意味について考察を深めたい。
 問題は、蒸し返すが、何故、同一性自己主義が発生する必要があったのかである。これは、当然、父権文明の意義を問うものである。
 これまでの説明は、+iの傾斜が原因である。強い+i、Strong -iを考えたのである。しかし、+iはあくまで、主体差異、主体的絶対的差異である。
 だから、問題は、この主体的絶対的差異が、同一性を志向することの意味を問うことである。何故、主体的絶対的差異である+iは同一性を志向するのか。
 問題は、強い+iが相対的に弱い-iに遭遇することにあるだろう。しかしながら、それ以前に、+iと-iは共振していたはずである。それとも、そうではないのか。
 問題は、原初は、+iと-iの均衡は取れていたが、その後、+iの傾斜が起ったということなのか、それとも、初めから、+iの傾斜があったのか。
 これは、女性と男性では違うのではないだろうか。女性は、本来、均衡が取れているのであり、+i傾斜は、父権社会で、不自然にもたらされると考えられる。
 そうすると、男性(雄性)の場合が問題である。男性は最初は均衡が取れていて、その後、+i傾斜が生起するのか。
 どうも、男性・雄性の場合、最初から、+i傾斜があると思うのである。ただし、人類史・文化史を考えると、+i傾斜は女性・雌性の均衡によって抑えられていたのではないだろうか。
 とまれ、思考実験を続けると、もし、もともと男性に、+i傾斜がある場合、男性にとり、差異共振性とは、どういうものなのであろうか。言い換えると、女性・雌性とはどういうものになるのだろうか。
 強い+iと相対的に弱い-iが男性の心性にあるとすると、それは、共振を形成しないのか。形成しないだろう。やはり、強い+iが相対的に弱い-i(以後、弱い-i)が否定・抑圧すると考えられるのである。
 つまり、男性の心性は、根本的に、圧力・強制的であると思えるのである。それは、他者-iを否定・抑圧するのである。つまり、主体差異+iを他者-iに押しつけるのである。即ち、(+i)→(-i)であり、→は否定である。そして、(+i)*[-(-i)]となり、(+i)*(+i)⇒-1となると考えられる。
 そして、この-1が同一性自己意識・同一性自己主義である。しかしながら、精緻に見れば、やはり、⇒-1であり、ある精神過程の結果である。つまり、他者否定という過程の結果としての同一性自己主義である。他者否定というプロセスがそこにははたらくのである。
 ということは、やはり、根源・基礎的に、男性の心性においても、原差異共振性があると考えられる。
 だから、先の考察の問題に戻るが、この原差異共振性に対して、+i傾斜の意識はどう感じるのかである。
 ある意味で、強い+iであるから、主体優位・主体優越を感じているはずである。しかし、同時に、差異共振性に劣等感を感じるはずである。何故なら、強い+iは、差異共振性を把握できないからである。つまり、異質な-iを把捉できないのである。
 おそらく、主体優位というよりは、主体威力感であろう。この主体威力感が他者に劣等感を覚えて、他者否定によって、虚栄的に、他者に優越感を形成するということではないだろうか。
 では、-1である同一性自己意識は言語同一性自己意識であると先に述べたが、言語とは何なのであろうか。
 思うに、本来、言語というか発話・発語とは、差異共振現象知覚から発生すると思われる。つまり、感動感嘆驚嘆の発話・発語である。山と一体である(正しくは、即非知覚する)主体は、「yama!」と発語するのである。つまり、差異共振知覚(即非知覚)の表現が発語・発話であるということになる。
 つまり、それは、正に、自己認識方程式で記述されている通りである。(+i)*(-i)⇒+1が差異共振知覚言語表現であり、+1が発話された言語と言えよう。もっとも、正確には、⇒+1である。
 では、言語同一性自己としての-1とは何なのだろうか。本来の、原初の発話・発語は⇒+1であるの対して、-1の言語同一性意識とは何だろうか。
 これは、他者を否定した言語自己意識である。つまり、差異共振発話・発語である⇒+1から、+1という抽象化された言語をもつ同一性自己意識と考えられる。
 つまり、-1の形成によって、⇒+1の⇒と+1を分離させて、+1を独立させるのである。そして、-1の同一性自己意識は、この抽象化(同一性抽象化)された言語を手段として用いるのであり、この抽象言語(例えば、文字言語)を用いる同一性自己意識が言語同一性自己意識というものであり、近代合理主義的自我がそういうものなのである。
 これで所期の目的は達したが、では、端的に、+1と-1の同一性は何なのか、である。先に、虚構・仮想であると言った。結局、強い+i、+i傾斜によって生じた仮象・幻像・マーヤーと言えよう。男性的な、乃至は、父権的な傾斜によって発生した「不自然な」仮象であると言えよう。正確に言えば、偏向・歪んだ視点であると言える。真実である他者-iを歪曲している不正な視点(追記:他者-iだけでなく、主体差異+iをも歪めているものである。自己幻惑、自己錯乱でもある。)なのである。言い換えると、悪魔・悪霊・狂魔的視点なのである。
 人智学のルドルフ・シュタイナーの悪魔論では、アーリマンとルシファーが存するが、先に指摘したように、それぞれ、+1と-1であると考えられるが、悪魔たちとは、結局、男性・父権原理の偏向・歪曲・不正な傾斜によってもたらされる心的力学であると言えるだろう。即ち、+iの傾斜によって、ルシファーである-1とアーリマンである+1が形成されると言えよう。
 では、この+iの傾斜、強い+i、Strong +iとは何なのだろうか。いったいどうやって発生したのだろうか。
 先に、突然変異と考えた。それ以前は、太極力学に拠ると考えた。なにか、気候変動と関係するものが原因としてはたらいていないだろうか。
 人類史的には、父権遊牧民族の生起と移動が起因である。私は突然変異が原因であると述べたが、やはり、太極の変化で説明できそうである。(追記:思うに、太極の変容と気候変動とが関係していると思う。温暖な気候から、寒冷な気候へと変化したことが父権化への条件・背景にあるのではないだろうか。後で検討したい。)
 宇宙精神力学(コスモス力学:占星術は、ここから派生したのであり、混乱し迷妄蒙昧になってしまった)において、「力」が陽極へと極限的に作用した(宇宙自然太極Media Pointにおいて、陽へと全傾斜して、陰がすべて隠れてしまった、一種、特殊な、宇宙イデア事象が起きたのである:少し懐疑するのは、シュタイナーがヤハウェとは月に位置する太陽霊としたことからである。いったい、月とは何か。この点は検討課題である。)と考えられ、そのため、+i傾斜が起り、父権遊牧民族が発生して、移動し、世界を支配するようになったのである。国家の誕生が典型であろう(文字言語、計算も父権文化である)。父権文明・同一性文明の誕生である。そして、後に、一神教に帰結したと言えよう。
 さて、最後に、以上の考察の視点から、Kaisetsu氏の絶対的差異世界論と同一性概念不要論について考えてみると、父権文明とは、絶対的差異という真実から見ると、虚偽錯誤誤謬の文明である。虚構・仮想・仮象・幻像・マーヤー・迷妄の同一性=物質=国家文明(ヘーゲルの国家理性は、この帰結)である。それは、自然の生んだ、いわば、鬼っ子である。自然の極限化である。
 しかしながら、今日、同一性=物質主義の文化が解体したのであり、真実である絶対的差異とその共振・即非現象を把握することができたのである。だから、端的に、正しく、同一性概念は不要であると言えるのである。ただ、絶対的差異とその共振・即非現象を把捉することが知性の行為なのである。
 だから、哲学で悟性と呼ばれたものは解体されるのである。そして、理性も同様である。今や、絶対的差異知性と共振(即非)知性が必要なだけである。


参照:

天空神

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天空神 (てんくうしん) 、父なる天 (ちちなるてん) は地母神 と対になって、多神教 神話に繰り返し現われるテーマである。最近の復興異教主義neopagan 運動でも取り上げられる。

概念 [編集 ]

天空神は地母神 と対になる概念で、いくつかの創世神話 に現われる。多くのものはヨーロッパ または古代中近東 由来である。ローマ神話のユピテル は語源的に「天(ないし)神の父」を意味する。

マオリ 神話では、ランギ Ranginuiが父なる天であった。この神話では父なる天と母なる大地 パパトゥアヌク Papatuanukuが愛の抱擁をし、タネマフタ ら、神の子供達を授かる。父なる天は太陽と同一視される太陽神 ともまた関連する。

テュルク・モンゴル諸族では、「天」を意味するテングリ という神格が広くアジア全体に知れ渡っていた。

この概念は必ずしも一般的とは限らず、全く異なったタイプの神話を持った他の文明がある。たとえばエジプト神話 は天なる母と大地の死んでまた復活する神 を特徴としている。日本の神道 には原初の太陽の女神 (→アマテラス )がいる。

中国 では、アブラハムの宗教 の神が空の父、天の父と呼ばれることがある。

概念の歴史 [編集 ]

遊牧民族征服説 [編集 ]

19世紀末、比較神話学 上の仮説として、フリードリヒ・エンゲルス とヨハン・ヤーコブ・バッハオーフェン が遊牧民族征服説を唱えた。この仮説は「ジェームズ・フレイザー 」の『金枝篇 』における文献的研究によって更に促進された。父なる天への信仰は遊牧民 に特徴的で、母なる大地への信仰は農耕民 に特徴的であると信じられた。

この学説によれば、遊牧民が武力をもって農耕社会を征服し、女神たちを男性の神に置き換えた。この過程で、女性の地位と母権制度 は軽んぜられ、父権制 がもたらされたというのである。性別による地位が逆転したことが宗教上の変化をもたらしたと想像された。この学説はインド・ヨーロッパ語族 の発見と結び付けられ、軍事的な征服過程がこれらの言語の拡散の背景にあったと空想されたのである。父なる天はインド・ヨーロッパ文化の理想とみられた。この時点では「アーリア人」と「インド・ヨーロッパ人」は同義語 だった。

実証主義的反論 [編集 ]

この説を覆したのが考古学 と人類学 の研究だった。多くの研究者がこの説では初期のヨーロッパでの宗教生活を説明できないとした。考古学的な記録から見て、インド・ヨーロッパ語は軍事力だけでヨーロッパとアジアに拡がって行ったものではないと考えられた。非インド・ヨーロッパ文明にも男性優位の神殿があり、それは占領や征服の結果ではなかった。女神信仰と女性の社会的地位の間に設定された歴史的な関係も、直接的には証明できなかった。そればかりでなく、農耕民だから女神を、遊牧民だから男神を崇拝するという証拠もそれほど多くはなかった。インド・ヨーロッパ人が、先住民より家父長的で男性優位な信仰を行っていたことを信ずるいかなる理由もなかったし、他の多神教 以上に、女神を追い払い男神をその代わりに据えようとしたとも考えられなかった。

確かに、*dyeus-ph2têrという原インド・ヨーロッパ語名で再構成された男性の父なる天が、ギリシア神話 にゼウス の名で、ローマ神話 ではユピテル として現われたことは事実であり、北欧神話 ではテュール 、ヴェーダ の伝えるインド神話ではディヤウス ・ピターとして現われたのも事実である。これらは同源の神名であり、原インド・ヨーロッパ信仰の共通する材料から引き継がれたものである。しかし、実際には、これが最も広く引き継がれたインド・ヨーロッパ語族の神名というわけではない。原インド・ヨーロッパ語で*aus-os-と再構成される暁の女神は、さらに広範囲に、後世に伝わっている。ギリシア神話ではエオス 、ローマではアウロラ 、ゲルマン神話ではエーオステレ (Ēostre)、バルト神話でAustra、スラブ 神話ではゾーリャ (Zorya )、ヒンドゥー教 では ウシャス (Uṣas)である(いずれも曙の女神)。これらの神格はすべて、ゼウス同様、語源を共通にする。このように、インド・ヨーロッパ文化が、他の文化に比べ、特に女神をおとしめる傾向や宗教上男性優位に向かう傾向を持っていた訳ではない。

説の影響 [編集 ]

地母神、天空神、父権的な侵略者説というお話は一世を風靡し、様々な想像力を発揮させるもととなった。文学 上重要な話であるし、有力な詩人や小説家によっても参考にされている。例えばT・S・エリオット 、D・H・ローレンス 、ジェイムズ・ジョイス 、甚だしい例ではロバート・グレーヴス が挙げられる。

父なる天、母なる大地、信者がこのどちら側につくかによって、現実的な影響がでてくる。前者をとってアーリア人が軍事力をふりかざすと、ナチ の人種的イデオロギー が生まれる。だからナチはこれを採用したのである。後者に共感し、失われた母系社会の女神信仰的ユートピア を求める動きが後に現われた。このようなユートピアは、繰り返される重要な文学的テーマとして確立しており、人類学教室からは脱落した後も長く文学科では生き残った。マリー・ルノー (en:Mary Renault )、メアリ・ステュワート (en:Mary Stewart )、最近ではマーセデス・ラッキー 、マリオン・ジマー・ブラッドリー ら、歴史文学 の作者やファンタジー の作者にその影響があることからも推測できよう。

「父なる天」は頻繁にフェミニスト・スピリチュアリティの中で扱われており、このような信条にも助けられて、あまりにも単純化され過ぎ、人類学、考古学、比較神話学の領域ではあり得そうもないと考えられている、母なる大地対父なる天の図式が生き長らえているのである。

関連項目 [編集 ]

* 農耕民族
* 遊牧民族
* アーリア人
* インド・ヨーロッパ語族
* 国家社会主義ドイツ労働者党
* ホロコースト
* フェミニズム
* 家父長制
* 母系社会
* 比較神話学
* 考古学
* 人類学
* 騎馬民族征服王朝説 日本の王権も遊牧民族による征服の結果だという仮説があった。
* フェミニスト・スピリチュアリティは英語版 参照。ある種のフェミニストが抱いている宗教的信条で、男神よりも愛情深い女神を尊ぶ態度とされている。復興異教主義、ネオ・ペイガニスムNeopaganismとも関係している。

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/%E5%A4%A9%E7%A9%BA
%E7%A5%9E " より作成
カテゴリ : 神 | 神話 | 天空神

参考:
エロヒム人間とヤハウェ人間
(93/04/03)

 僕はそんなに聖書関係に詳しくないので、一般にカインとアベルの物語として語られていることそのものについては説明しかねますので、あくまでもシュタイナー的な観点からいうと、あの引用で説明されている「神」と「ヤハウェ」というのは、違います。前者は、エロヒムの集合体としての「神」であり、後者は、創造の第7日目に「エロヒムは休んだ」ということで意味されているエロヒムからヤハウェ・エロヒムへと進化した存在としての「主なる神」です。

 で、「カイン」ということでいわれているのは、いまだ両性具有的であった「エロヒム人間」のことで、それが高次存在の供犠の断念という形をとることによって、高次存在から離反する可能性、悪をおこなう可能性、と同時に自由の可能性も得ることになります。それに対して、「アベル」ということでいわれているのは、単性的人間へと「進化」した「ヤハウェ人間」のことで、「天的存在の継承者」ということになります。で、その「カイン」と「アベル」ということで象徴される人間存在の2つのあり方がさまざまに絡み合っていくことになるというわけです。

http://homepage.mac.com
/kazenotopos/topos2/sinpigaku
/sinpigakuetc2.html#%83G%83
%8D%83q%83%80%90l%8A%
D4%82%C6%83%84%83n%83
E%83F%90l%8A%D4
神秘学関連諸テーマ2



2009年03月21日(Sat)▲ページの先頭へ
思考実験:ブラックホールとMedia Point:差異共振エネルギーとしての宇宙ジェット?
思考実験:ブラックホールとMedia Point:差異共振エネルギーとしての宇宙ジェット?

テーマ:太陽系/宇宙

今は予見を述べるに留めるが、以前も述べたが、ブラックホールとは、Media Pointであり、そこで、差異共振化が起こるのである。結局、ブラックホールの「引力」であるが、それは、(+i)*(-i)⇐+1における⇐ではないだろうか。この場合、引き寄せられ物質(例えば、星間物質)は、+1であろう。これが、Media Pointであるブラックホールに引き寄せられて、(+i)*(-i)の差異共振性へと転換すると思われる。そのとき、差異共振エネルギーが発動すると思われるのである。それが、宇宙ジェットではないだろうか。らせん構造というのが、また、ポイントである。差異共振化とは、垂直に捩れると考えられるから、らせん構造を形成すると思われるのである。
 以上のような考察(思考実験)を展開すると、宇宙生成(創造)と宇宙消滅(破壊)は、ただ、方向が違うだけの同じ活動(エネルゲイア)ではないだろうか。即ち、(+i)*(-i)⇔+1が(宇宙における)創造と破壊の方程式ではないだろうか。
 ブラックホールの引力は⇐の方向と思われるが、そうすると、引力・重力一般はその方向ではないのか。そうすると、エネルギーが放出される方向は⇒ではないだろうか。これが創造・生成・生命の方向で、ブラックホールの引力の⇐は破壊・消滅・死の方向ではないだろうか。しかし、これは、同時に、再生・新生・復活の方向でもあるだろう。そう、⇒が現象発現方向であり、「同一性=物質」の方向であり、⇐は現象破壊方向であるが、同時に、差異・差異共振性へ方向であると言えよう。言い換えると、⇒は若さの方向であり、 ⇐は老化の方向ではないだろうか。また、⇒は一神教や傲りの方向であり、 ⇐
は多神教や謙虚の方向ではないだろうか。
 そう考えると、このらせん回帰において、ターニング・ポイントが何かが問題である。直感では、穴の生起である。ぽっかり、空虚が生じることではないのか。つまり、これが、ブラックホールではないのか。亀裂・間隙・裂け目である。ハイデガーはそれを存在と考えたのである。ニーチェの能動的ニヒリズムもこの空虚から発生していると言えよう。
 とまれ、空(くう)がターニング・ポイントだと考えられる。そして、経済で言えば、この空を満たすために、ハイパーな近代合理主義を展開したのだ。それが、サブプライムローン等である。
 この空は折り返し点なのである。それは、超越的な差異共振性への方向へと展開すべき点なのである。同一性=物質=量の虚構がもはや役に立たない時点なのである。超越エネルギーの発動する事態である。
 思うに、この時点、特異点において、これまでの物質科学は破綻すると思う。同一性=物質の科学では、この「空」=特異点は理解できないものである。
 真実在は、虚数なのである。そして、真実の世界は、虚軸界である。ブラックホールは、それに導く「空」である。今はここで留める。思うままに述べたので、後で精緻に整理したい。

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巨大ならせん構造の噴流=ブラックホールなどで9個発見−名大

3月20日14時23分配信 時事通信

 ブラックホールの周囲には、水平方向にガスの円盤が形成されるとともに、上下方向に「ジェット」と呼ばれる噴流が生じるが、このジェットが非常に遠くまで伸び、宇宙空間にある水素などの分子雲を巻き込んで巨大な円すい形のらせん構造になる場合があることが分かった。
 名古屋大の福井康雄教授らが、南米チリの高地に設置した電波望遠鏡「NANTEN(南天)2」で、地球から銀河系(天の川銀河)の中心方向を観測し、らせん構造のジェットを9個発見した。大阪府立大で24日から始まる日本天文学会で発表する。観測成果は、ブラックホールなどに伴う宇宙で最もエネルギーが高い現象を解明する手掛かりになると期待される。
http://headlines.yahoo.co.jp
/hl?a=20090320-00000061-jij-soci


◇噴流(ジェット)とは
・ 宇宙ジェット - プラズマガスなどが一方向又は双方向に噴出。フレッシュアイペディア

◇噴流の画像
・ ブラックホールから噴出する「宇宙ジェット」の高解像度画像 - WIRED VISION(1月30日)
・ ブラックホールから光の束が… - (2008年1月11日)

(c)AFP/NASA

AFPBB News
銀河を直撃、ブラックホール「ジェット」を発見、NASA
2007年12月18日 20:53
【12月18日 AFP】(一部更新)米航空宇宙局(NASA)は17日、ブラックホールから大量放出されたエネルギーと放射線のジェット噴流が、近くの銀河を直撃している現象が初めて観測されたと発表した。 こ……
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ブラックホールは、Media Pointであり、そこへ吸収されて、差異共振化が起こり、ジェットが発生するのではないのか。後でさらに検討したい。


宇宙ジェット
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ブラックホールからの宇宙ジェット(M87銀河)

宇宙ジェット(うちゅうジェット、Relativistic jet)とは、重力天体 を中心として細く絞られたプラズマ ガスなどが一方向又は双方向に噴出する現象をいう。

重力天体周辺の激しい天体活動がジェットを高速に加速すると考えられる。 宇宙ジェットの中心となる重力天体には、原始星 、コンパクト星 、大質量ブラックホール などの場合がある。

また、この現象は、ブラックホール近傍で特徴的に見られるため、ブラックホールが存在する証拠としてしばしば用いられる。写真(1) それに比べ、原始星の形成期に見られる宇宙ジェットは比較的小規模である。
原理 [編集 ]

星形成時のジェット [編集 ]
若い恒星からの宇宙ジェット:HH-30(上左)、HH-34(上右)、HH-47(下)

(「双極分子流」など)

星間分子雲 の中で星の卵が生まれ始める時、 星間物質 は重力によって引かれ合い、最初はあらゆる方向から集まってくるが、 質量が集中した所を中心にして段々と回転を始め、やがて円盤状のガス雲になる(ガスが収縮する中心部分では原始星 が生まれる。収縮が複数の部分で起こると連星 を形成する)。

ガス雲の回転中心に引き寄せられた物質のうち、一部は円盤と垂直に双方向にジェット状態で噴出していく。速度は毎秒10数km程度と考えられている。 中心を取り巻く円盤の周辺部分の物質はそれぞれ密度の濃い場所が重力で収縮し、惑星 になる。(太陽系 の惑星の軌道がほぼ同一平面上にあるのはこのような過程による。)

ハービッグ・ハロー天体 [編集 ]

ガス・ジェットの吹き出しと考えられる天体の一種にハービッグ・ハロー天体 (Herbig-Haro object:HH)と呼ばれる天体がある。ハービッグ・ハロー天体は暗黒星雲 の周縁部に見つかる。写真(2)はそれぞれ、HH-30(上左)、HH-34(上右)、HH-47(下)のものである。

ブラックホールに付随するジェット [編集 ]

星間物質などがブラックホールに吸い込まれる際にはしばしば、ブラックホールの周りに降着円盤 と呼ばれる円盤状の雲が作られる。これに伴って、円盤の軸方向に超高速で脱出していく星間物質がしばしば観測される。

関連項目 [編集 ]

* 活動銀河核
* M87
* ガンマ線バースト
* クエーサー

外部リンク [編集 ]

* 宇宙科学研究本部
o ISASニュース 2002.2 No.251 第4章 粒子加速と宇宙ジェット
* 福江純ホームページ(大阪教育大学天文学研究室)
o 宇宙ジェット/Astrophysical Jet
* NASA画像
o 若い恒星からの宇宙ジェット
o ブラックホールからの宇宙ジェット
o ハッブル画像と図 (M87 : 中心に大質量ブラックホールがあると考えられている)

以下はブラックホールのみ言及リンク

* VSOP観測で見えた宇宙ジェットの磁力線
* 前野(いろもの物理学者)昌弘のページ
o 宇宙ジェット--ブラックホールの証拠

カテゴリ : 天文現象 | プラズマ | ジェット


日本美術とは差異共振現象表現ではないのか:トランス・モダン日本差異共振表現創造へ向けて
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10228039532.html

日本美術とは差異共振現象表現ではないのか:トランス・モダン日本差異共振表現創造へ向けて

テーマ:日本伝統文化:神話・宗教・民俗・芸術他

先に、次の追記を書いた。『蕪村の画を見て、文人画、俳画であるにせよ、自然の差異共振現象の知覚を画にしているのではないだろうか。それは蕪村に限らず、日本美術は、基本的には、自然差異共振現象知覚を造形しているのではないのか。それで、日本美術の差異共振時空間が説明できるのではないだろうか。PS理論から言えば、Media Point を表現しているのである。』

「合掌土偶:夕日・夕焼けを驚嘆感嘆し拝んでいる?:神道・仏教と量子力学」
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10227454263.html

日本美術の伝統は圧倒的にすばらしい。しかし、今日、日本の美術は、行き詰まっている(美術だけはなく、日本自体が行き詰まり、大閉塞状態であり、没落・衰退に向かっているようだ)。
 ここにある蕪村の画でもいいが、直感では、差異共振現象表現である。主体(蕪村)と自然環境との差異共振現象を描いていると思えるのである。それが、日本人の視覚身体(視覚精神身体)と共鳴感動すると思うのである。
 しかし、近代化によって、とりわけ、戦後占領属国政策(と官僚支配)によって、近代合理主義による洗脳が行われ、日本文化の原点・根源・源泉である差異共振現象知覚を喪失させられたと考えられるのである。明治以降の脱亜入欧主義によって、日本人は、本性の感覚精神身体を喪失してしまったのである。
 これを今日、取り戻さなくてはならない。プレ・モダン日本にある差異共振性を今日、トランス・モダン差異共振性として表現創造する必要があるのである。
 思うに、D. H. ロレンスが、『エトルリアの場所』でエトルリア絵画に見られる「つながり」を述べていたが、この「つながり」とは、差異共振現象知覚と考えるべきである。ロレンスは、トランス・モダンの先駆者の一人であり、新東洋文化へと突き抜けたのである。

参照1:

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

与謝蕪村筆「紙本墨画淡彩夜色楼台図(しほんぼくがたんさいやしょくろうだいず)」(文化庁提供):画像をクリックすると少し拡大する。


http://www.yomiuri.co.jp/national
/culture/news/20090319
-OYT1T00892.htm


参照2:
与謝蕪村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
与謝 蕪村(よさ ぶそん、よさの ぶそん、享保 元年(1716年 ) - 天明 3年12月25日 (1784年 1月17日 ))は、江戸時代 中期の日本 の俳人 、画家 。本姓 は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号 で、名は信章通称 寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明 の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭 (二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数の名前を持っている。
http://ja.wikipedia.org
/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9
D%E8%95%AA%E6%9D%91


複雑系とPS理論:Multiple Media Point Resonance Dynamics
複雑系とPS理論:Multiple Media Point Resonance Dynamics

テーマ:非線形科学:複雑系・カオス・フラクタル

複雑系は、やはり、PS理論で理解できると予見できる。あるいは、自己認識方程式の応用で。
 つまり、多重多元複合的なMedia Pointの様相が端的に、複雑系ではないだろうか。すなわち、Multiple Media Point (Resonance) Dynamicsが複雑系ということではないのか。
 具体的に見ると、現在のオバマ政権の状態は、複雑系である。それは、旧同一性主義金融資本主義と差異共振資本主義とが混在しているからである。単純に、前者を否定できないのである。それが、AIG問題である。だから、同一性に傾斜したMedia Point(Modern Media Point)と差異共振性を志向するMedia Point(Trans-modern Media Point)が複合化したものと見られる。これは二重であるが、それ以外の外交問題等を入れれば、多重になるのである。当然、カオス的な揺らぎが発生するのである。米国経済の診断はだから、破滅か否かではできないのである。微妙な力学、複雑系がそこにあると考えられるのである。

複雑系
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複雑系(ふくざつけい complex system)とは、多数の因子または未知の因子が関係してシステム 全体(系 全体)の振る舞いが決まるシステムにおいて、それぞれの因子が相互に影響を与えるために(つまり相互作用 があるために)、還元主義の手法(多変量解析 、回帰曲線 等)ではシステムの未来の振る舞いを予測することが困難な系を言う。

これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則 に還元して理解する(還元主義 )のは困難である。

複雑系は決して珍しいシステムというわけではなく、宇宙 全体、天候 現象、経済 現象、人間社会 、政治 、ひとつひとつの生命体 、あるいは精神 的な現象などは、みな複雑系である。つまり世界には複雑系が満ち満ちており、この記事を読んでいる人間自身も複雑系である。ただし研究者にとって具体的な研究成果が出しやすく、書籍などで一般読者などに紹介されやすいものとなると、もう少し小規模の複雑系あるいは限定したものとなりがちで、例えばウイルス の流行状況、大規模交通(フラックス)、バタフライ効果 、エントロピー (熱力学第三法則 )などが多い。あるいは、パーコレーション やセル・オートマトン なども好んで扱われる。最近では、系の自己組織化 の様子をコンピュータにプログラミングして、複雑で法則がないように思える目で見えない発達形成過程を視覚化して把握しようと試みられている。

 
背景 [編集 ]

複雑系は還元主義 的なアプローチが適用できない系として有名である。そのため現象を単純な法則 や原理 に落とし込むことで理解したとする、今までの科学 がとってきた基本姿勢に対し、複雑系の分野の研究姿勢はその基本的立場に関して若干の違いを持つ。複雑系の分野を貫く基本スタンスとして「複雑な現象を複雑なまま理解しようとする姿勢」を挙げることができる。[1]

複雑な現象を複雑なまま理解しようとする学問、手法は「複雑系の科学」などと呼ばれることが多いが、その源流に眼を向けると、アリストテレス の「全体とは、部分の総和以上のなにかである」といった言い回しにまで遡ることができる。近代になって還元主義が蔓延すると、それに対して警鐘を鳴らすように、全体を見失わない見解を深化させ、個々の分野で具体的な研究として全体性の重要性を説く論文・著書などを発表する学者・研究者らが現れるようになった。現在ではこうした見解・立場の研究は「ホーリズム 」または「全体論」などと呼ばれている。こうしたことに関する哲学的で深い議論は現在でも、哲学の一分科である科学哲学 の世界などで行われている。現在のいわゆる「複雑系の科学」などと呼ばれているジャンルは、広義のホーリズムのひとつである、と位置づけられていることが多い。


関連書 [編集 ]

* ミッチェル・ワールドロップ 『複雑系―生命 現象から政治、経済 までを統合する知の革命』新潮社、1996、ISBN 4105331019
* 田坂 広志『複雑系の知―二十一世紀に求められる七つの知』講談社、1997、ISBN 4062087626
* ミッチェル・ワールドロップ『複雑系―科学革命の震源地・サンタフェ研究所 の天才たち』新潮文庫、2000、ISBN 4102177213
* スチュアート・カウフマン 『カウフマン、生命 と宇宙 を語る―複雑系からみた進化 の仕組み』日本経済新聞社、2002、ISBN 4532164257
* 市川惇信『複雑系の科学―セル・オートマタ 体験CD‐ROM付』オーム社、2002、ISBN 4274024865
* 佐々木正人ほか『アフォーダンス (複雑系の科学と現代思想)』青土社、1997、ISBN 4791791428
* 河本 英夫、ブランケンブルクほか『精神 医学―複雑系の科学と現代思想(複雑系の科学と現代思想)』青土社、1998、ISBN 4791791460

関連項目 [編集 ]

* 複雑適応系
* 非線形科学
* カオス理論
* フラクタル
* ファジィ集合論 、ファジィ論理
* 決定論
* 自己組織化
* 階層構造

注 [編集 ]

1. ^ 厳密に言えば、複雑系の科学の手法を駆使している者の中でも、大前提として世界を機械論 的で決定論 的である、それで全てである、と想定してしまっている者と、それに対して(数はさほど多くはないが)量子力学が突きつけている諸問題なども踏まえて、なんらかの非決定論的な要素も働いている、どうやったところで捕捉出来ない不可解な要素が、人間が捕捉できる系に影響を与え続けている、系全体がシンプルに閉じているという保証も無い、と想定する者の2種類が存在する。ただ、ここまで議論を深めると、問題があまりに大きくなりすぎ、現在のいわゆる「複雑系の科学」の枠組みを超えてしまう。またその要素まで織り込んで具体的なものを研究の成果としては提出することは困難なので、現在のところ、いわゆる「複雑系の科学」というジャンルに携わる者のほとんどは、基本的にその問題には言及を避け、世界を(言外に)決定論的なもの仮定した場合のシミュレーション結果、研究結果などをあっさりと発表している。とりあえず研究可能・実行可能な範囲で具体的な成果を出す、という点では妥当なことが行われている、とも言える。

外部リンク [編集 ]

* (百科事典)「Complex Systems」 - スタンフォード哲学百科事典 にある「複雑系」についての項目。(英語)

"http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E8%A4%87%E9%9B%91%E7%B3%BB " より作成
カテゴリ : 複雑系 | 科学哲学 | 世界観 | 数学に関する記事


邪馬台国問題:大和か九州か:又は両方を含んだ地域か、それとも沖縄か、台湾か、東南アジアか?
邪馬台国問題:大和か九州か:又は両方を含んだ地域か、それとも沖縄か、台湾か、東南アジアか?

テーマ:日本伝統文化:神話・宗教・民俗・芸術他

私は、日本でいちばん好きな場所は、奈良である。奈良盆地にいると円かな気持ちになるのである。山の辺の道は、何度も歩いた。
 なにか、ほっとする場所である。穏やか、平安な気持ちになるところである。もっとも、古代史は血なまぐさいが。
 卑弥呼とは、日本母権文化(原神道文化社会)を代表する存在であると思う。まったくの思いつきであるが、彼女は、沖縄から来たのではないだろうか。「竜宮城」(琉球城?)から来て、邪馬台国を治めたのである。
 だから、地理的には九州の可能性がある。しかし、別に、熊野から大和へと入ったという可能性もある。
 ここで、だいたんの仮説というか、全くの空想であるが、邪馬台国は、吸収と大和両方を含んだ国ではなかったか。

追記:Wikipediaの解説を読むと、沖縄が邪馬台国の可能性がある。大サイズの強調した箇所を参照。

追記2:否、台湾の可能性があるだろう。

追記3:琉球説は既にある。

追記4:フィリピンやインドネシア(ジャワ説がある)等の可能性、さらには、オーストラリアの可能性はないのか。

追記5:邪馬をジャバと読めば、ジャワ説になりうる。どうも、沖縄、台湾、フィリピン、ジャワ一帯の島嶼圏が邪馬台国ではないのか。

参照:
それ以外の説 [編集]
上記の二大説に加えて、吉備、出雲、四国、尾張、千葉県、甲信越、岩手県など、日本各地を邪馬台国の候補地とする説がある。畿内と九州の二ケ所に都があったとする説もある。他に琉球説、ジャワ説などもある。

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卑弥呼宮殿の一角か 纒向遺跡で柵など出土

 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の建物跡(柱穴)や凸字形の柵(さく)が見つかり、市教育委員会が20日発表した。(産経新聞)
[記事全文]

・ 「卑弥呼の宮殿」邪馬台国論争が再燃 - 産経新聞(3月20日)
・ 纒向遺跡 卑弥呼時代の建物群 王権の中枢か 奈良 - 毎日新聞(3月20日)
・ 卑弥呼時代の重要施設か 纒向遺跡、柵で囲み整然と配置 - 47NEWS(3月20日)

◇纒向遺跡とは
・ 纒向古墳群 - Don Panchoのホームページ
・ 纒向遺跡とは - 奈良県桜井市議会議員 あんまえ政光

◇大和説と九州説
・ 邪馬台国大和説 | 邪馬台国九州説 - 邪馬台国大研究
・ 邪馬台国 - 位置に関する論争 - フレッシュアイペディア

邪馬台国
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邪馬台国(やまたいこく)は、『魏志倭人伝 』などに出てくる国 である。

概要 [編集 ]

「やまとこく」、「やまだいこく」などとも呼ばれる。また、耶馬台国とも記述される。

弥生時代 の2 〜3世紀 に日本 にあったと推定されている。女王が治めていたことから魏志倭人伝では女王国とも記されている。

邪馬台国は元々男王が治めていたが、国家成立から70〜80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱 )。邪馬台国もその影響を逃れえず、卑弥呼 という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。弟が彼女を補佐し国を治めていた。女王は魏に使節を派遣し親魏倭王 の封号 を得た。248年 頃、狗奴国 との戦いの最中に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与 )が女王になることで収まったという。

邪馬台国と後のヤマト王権 の関係ははっきりしない。位置についても魏志倭人伝の記述が明確でなく、論争になっている。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについては諸説がある。

「魏志倭人伝」中の邪馬台国 [編集 ]

以下は「魏書」東夷伝の倭人の条(魏志倭人伝)に記述された邪馬台国の概要である。諸説あり、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らない。

邪馬台国までの道程 [編集 ]

魏志倭人伝には、魏 の領土で朝鮮半島 北部に当時あった郡[1] から邪馬台国に至る道程が記されている。

倭国に至るには、帯方郡が出発点だとすれば、船で韓国を経て7,000余里で倭国の北岸の狗邪韓国 に到着する。そこから海を1,000余里渡り、対馬国 に着く。瀚海と呼ばれる海を南に1,000余里渡ると一大国(一支国 )に至る。また海を1,000余里渡ると末盧国 に至る。東南へ500里陸行すると伊都国 に到着する。東南へ100里進むと奴国 に至る。東へ100里行くと不弥国 に至る。南へ水行20日で投馬国 に至る。南に水行10日陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。帯方郡から女王国までは1万2,000余里ある。

漢書で一般的な1里 = 約400メートルを用い、方角も正確だとの前提に立って直線距離で考えると、上陸地点から陸行500里の伊都国は、九州北岸から200km東南の宮崎県=日向としか読めない。(江戸時代以前の国学者は、そう考え、後の耶馬台国までの記事は誤記と考えた) そこから単純に100里+100里=200里が不弥国(大隅半島付近?)と考えると、さらに10日南に水行する邪馬台国なるものは日本列島 を飛び越えて太平洋 上になってしまう。このため、位置や道程の比定をめぐり論争が起きてきた(#邪馬台国に関する論争 を参照)。位置については畿内説と九州説が有力とされる(#位置に関する論争 を参照)。道程についても「連続説」と「放射説」がある(#道程に関する論争 を参照)。

http://ja.wikipedia.org
/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%A
C%E5%8F%B0%E5%9B%BD


英語リスニングのコツ:英語の主語・動詞の「覇権」に即応すること
英語リスニングのコツ:英語の主語・動詞の「覇権」に即応すること

テーマ:外国語学習

最近は、AFN(米軍ネットワーク:旧FEN)を聴くことが多いが、アメリカの庶民の、ラフな英語が聴けるとは言えよう。NHK講座の英語のようなスタンダードな英語ではない。語尾がほとんどない英語である。
 とまれ、英語リスニングのポイントは、文型ないしは語順にあると思う。SVXである(Xは目的語や補語や修飾語、あるいは、Φ)。これがキーポイントである。日本語は(S)XVである。
 SVXの語順は、最初の主語・動詞(正しくは、主語・述語)が発語を支配するのである。これをすばやくキャッチしないといけないのである。日本語は動詞が最後に来るから悠長に構えてしまう。しかし、英語は主語・動詞の素早い発話「覇権(支配)」があるので、それを取り逃がさないように、俊敏に聴覚認識しないといけないのである。

追記:思うに、主語・動詞は、+iの同一性志向性と言えるかもしれない。後で詳論したい。日本語は、-iへの志向性、つまり、差異共振言語ではないだろうか。この点も後で検討したい。


PS理論的フラクタル:Media Point Fractal
PS理論的フラクタル:Media Point Fractal

テーマ:非線形科学:複雑系・カオス・フラクタル

私の記事は一見、とりとめなく、あちこちに飛ぶが、これは、カオス的ではあるが、しかしながら、諸現象にPS理論的に類似したものを見ているのである。それは、PS理論的フラクタルと呼べるのではないだろうか。略せば、PSフラクタルである。
 どうも、それは当たっているだろう。森羅万象に、Media Pointを見て、その視点から言述しているのである。だから、Media Point Fractal とも呼べよう。

参照:

フラクタル

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フラクタルの例(マンデルブロ集合 )
フラクタル (仏 fractale) は、フランスの数学者 ブノワ・マンデルブロ (Benoît Mandelbrot) が導入した幾何学 の概念。図形 の部分と全体が自己相似 になっているものなどをいう(正確な定義については後述)。

概要 [編集 ]
フラクタルの具体的な例としては海岸 線 の形などが挙げられる。海岸線は微視的にみると複雑に入り組んだ形状をしているが、これを拡大するとさらに細かい形状が見えてくるようになり、結果として 拡大しても同じように複雑に入り組んだ形状をしている。これに対して、一般的な図形は、拡大するにしたがって、その細部は変化が少なくなり、なめらかな形 状になっていく。
そして、海岸線の長さを測ろうとする場合、より小さいものさしで測れば測るほど、大きなものさしでは無視されていた微細な凹凸が測定されるようになり、その測定値は長くなっていく。したがって、このような図形の長さ は無限 であると考えられる。これは、実際問題としては、分子 の大きさ程度よりも小さいものさしを用いることは不可能だが、理論的な極限 としては測定値が無限大になるということである。
このような図形を評価するために導入されたのが、整数 以外の値にもなるフラクタル次元 である。フラクタル次元は、数学的に定義された図形などでは、厳密な値が算出できることもあるが、前述の海岸線などの場合は、フラクタル次元自体が測定値になる。つまり、比較的なめらかな海岸線では、フラクタル次元は線の次元である1に近い値となり、リアス式海岸 などの複雑な海岸線では、それよりは大きな値となり、その値により図形の複雑さが分かる。なお、実際の海岸線のフラクタル次元は1.1〜1.4程度である。
海岸線の形、山の形、枝分かれした樹木の形などの3次元 空間 内に存在するもののフラクタル次元は、0より大きく3以下の値になるが、数学的にはさらに高次の次元を持つものも考えられる。この様な図形のほとんどは分数 (fraction、フラクション)の次元を持ったフラクタルな図形と呼ばれる。ただし、実際には、フラクタル次元は、分数になるというよりは無理数 になる。また、中には整数の次元を持つものもある。その例としてはマンデルブロ集合 の周があり、これは曲線でありながら2次元である。


定義 [編集 ]
フラクタルの特徴は直感的には理解できるものの、数学的に厳密に定義するのは非常に難しい。マンデルブロはフラクタルを「ハウスドルフ次元 が位相次元 を厳密に上回るような集合」と定義した。完全に自己相似 なフラクタルにおいては、ハウスドルフ次元はミンコフスキー次元 と等しくなる。
フラクタルを定義する際の問題には次のようなものがある。
• 「不規則すぎること」に正確な意味が存在しない
• 「次元」の定義が唯一でない
• 物体が自己相似である方法がいくつも存在する
• 全てのフラクタルが再帰的に定義されるとは限らない


フラクタル研究の歴史 [編集 ]
始まりは、イギリス の気象学者 ルイス・フライ・リチャードソン の国境線に関する検討である。国境を接するスペイン とポルトガル は、国境線の長さとしてそれぞれ987kmと1214kmと別の値を主張していた。リチャードソンは、国境線の長さは用いる地図の縮尺によって変化し、縮尺と国境線の長さがそれぞれ対数 を取ると直線状に相関することを発見した。この様な特徴をフラクタルと名付けて一般化したのがマンデルブロである。フラクタルの研究者高安秀樹 によると、マンデルブロは株価チャートを見ていてフラクタルの着想を得たという。


フラクタルの例 [編集 ]


ジュリア集合
フラクタルな図形は自然界のあらゆる場面で出現されるとされ(例:樹木 の枝分かれ)、自然科学の新たなアプローチ手法となった。逆に、コンピュータグラフィックス における地形や植生などの自然物形状の自動生成のアルゴリズムとして用いられる事も多い(フラクタル地形 など)。
また、自然界で多くみられる一見不規則な変動(カオス )をグラフにプロットするとそのグラフはフラクタルな性質を示すことが知られ、カオスアトラクター と呼ばれる。
株価 の動向など社会的な現象もフラクタルな性質を持っている。
• カントール集合
• シェルピンスキーのギャスケット
• コッホ曲線
• 高木曲線
• ヒルベルト曲線
• マンデルブロ集合
• ジュリア集合
• メンガーのスポンジ
• ロマネスコ (fr:Chou romanesco )明確なフラクタル図形をした野菜。
• バーニングシップ・フラクタル
• リアプノフ・フラクタル


人体とフラクタル [編集 ]
血管の分岐構造や腸の内壁などはフラクタル構造であるが、それは次のような理由によるものだろうと考えられている。
例えば血管の配置を考えたとき、人体において体積は有限であり貴重なリソースであると言えるので、血管が占有する体積は可能な限り小さいことが望ましい。一方、ガス交換等に使える血管表面積は可能な限り大きく取れる方が良い。
このような目的からすると、有限の体積の中に無限の表面積を包含できるフラクタル構造(例えばメンガーのスポンジ を参照)は非常に合理的かつ効率的であることが解る。しかも、このような構造を生成するために必要な設計情報も、比較的単純な手続きの再帰的な適用で済まされるので、遺伝情報に占める割合もごく少量で済むものと考えられる。


関連項目 [編集 ]

ウィキメディア・コモンズ には、フラクタル に関連するマルチメディアがあります。
• ハウスドルフ次元
• ボックス次元
• フラクタル幾何
• 非線形科学
• フラクタルアート - フラクタル地形
• 反復関数系
• フラクタル圧縮
・・・・・

カテゴリ : コンピュータグラフィックス | フラクタル | 世界観 | 数学に関する記事


カオス理論

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カオス理論(‐りろん、Chaos theory)は、決定論 的な動的システム の一部に見られる、予測できない複雑な様子を示す現象を扱う理論である。
ここで言う予測できないとは、決してランダムということではない。その振る舞いは決定論的法則に従うものの、その過去および未来の振る舞いの予測には、ある時点(初期値など)において無限の精度の情報が必要とされるため、観測による予測が不可能に近いという意味である。

定義 [編集 ]
カオスの数学的定義は、研究者ごとに違い、統一的な見解は得られていないが、およそ以下の性質を持つものとされている。
1 リアプノフ指数 が0より大
2 何らかのポアンカレ写像 により、テント写像 が確認できる(後述するローレンツカオスの場合)
また、カオスには以下の特徴が現れる。
• 単純な数式から、ランダム に見える複雑な振る舞いが発生する
• 短期的(リアプノフ時間 程度)には予測可能
• 初期値のわずかな違いが未来の状態に大きな違いをもたらす初期値鋭敏性がある
• 過去の観測データから将来の長期予測が困難となる
一部のシステムが複雑な振る舞いをするのは、その振る舞いを表す方程式 の非線形 性が原因である(後述するローレンツカオスの場合、テント写像により引き起こされる)。

カオス研究の歴史 [編集 ]
19世紀における一般的な非線形 微分方程式の解法手法は、ハミルトン 等の成果に代表される積分法(積分、代数変換の有限回の組み合わせ)による求解と、微小なずれを補正する摂動 法である。この積分法による解が得られる系を、リュービル は可積分系 と呼んだ。その条件は、保存量の数が方程式の数(自由度)と一致することであった。
1892年から1899年、アンリ・ポアンカレ (Jules-Henri Poincaré)は、3体問題 では保存量 が不足し積分法による解析解が得られないことを証明した(このような系を非可積分系 と呼ぶ)。彼は、この場合に軌道が複雑となることを示唆している。ただし、この時点では、その実態は認識されていなかった。
コルモゴロフ 、チリコフ 等は、このハミルトン力学系 (例えば、多体問題 といった散逸項 の無いエネルギーが保存される系)のカオス研究を進めた。大自由度ハミルトニアン系カオスは、統計力学 の根源にも結びつくものでもあるが、その定義すら困難であり今後の研究が期待される。
テント写像により引き起こされるカオスについて、1963年 ローレンツ・アトラクタ で有名なエドワード・ローレンツ (Edward Lorenz)により提唱された。このタイプのカオスは、ローレンツカオスと呼ばれる(後述するカオスの例)。
京都大学 工学部の上田v亮 は、 1961年に既に、非線形常微分方程式を解析する電気回路で発生したカオスを物理現象として観測し、不規則遷移現象と称してカオスの基本的性質を明らかに していた。しかし、日本の学会ではその重要性が認識されず長い間日の目を見なかった。この上田の発見は、ジャパニーズアトラクターとして海外で評価されて いる。
これらの複雑な軌道の概念は1975年、ヨーク (James A. Yorke )と李天岩 (リー・ティエンイエンen )によりカオスと呼ばれるようになった。また、マンデルブロ集合 で有名なブノワ・マンデルブロ などにより研究が進んだ。
一方では、非線形方程式の中にはソリトン (浅 水波のモデル)のように無限の保存量を持ち、安定した波形を保ち将来予測の可能な、解析的な振る舞いが明らかになっているものもあり、カオスとは対極にあ る存在である。しかし、ソリトンと言えども、連続無限自由度を扱うような特殊な場合で可積分系が破れることがあり、その場合カオスになることが指摘され た。


カオスの例(ローレンツカオス) [編集 ]
• ロジスティック写像
二次方程式を用いた写像
をロジスティック写像と呼ぶ。もともとロジスティック方程式 という連続時間の微分方程式として、19世紀から知られていたが、写像として時間を離散的にすることで、極めて複雑な振舞いをすることが1976年 ロバート・メイによって明らかにされた。
ロジスティック写像は生物の個体数が世代を重ねることでどのように変動していくのかのモデルとして説明される。ここでa(下図の横軸)が繁殖率、Xn(下図の縦軸)がn世代目の個体数を表している。
*繁殖率a<3のとき 個体数Xnはある一定の値に収束する。
*3≤a≤3.56995のとき Xnが2つの値を繰り返す様になる。さらにaを増やすとXnのとる値が4つ、8つと増加していく。この周期逓倍点の間隔は一定の比率ファイゲンバウム定数 で縮まる。
*3.56995 この様に単純な二次方程式から複雑な振る舞いが発生し、またa=4付近では初期値X0のわずかな違い(例えば0.1と0.1000001)が将来の値Xnに決定的な違いをもたらしている。

横軸はaを、縦軸はXn収束する値を表している。a=3で2値の振動へと分岐し、更に分岐を繰り返していくことが分かる。
• 実際の個体数の変動
a=3の場合。2値の振動に収束する。 a=3.9の場合。規則性のない変動となる。


カオスの判定 [編集 ]
カオスにはその必要十分条件が与えられていないことから、カオスの判定は複数の定義の共通を持って、カオス性があるという判定以外に方法が無い。こ のため、カオスの判定とは必要条件という性質を持つ。多くは、スペクトルの連続性、ストレンジアトラクタ、リアプノフ指数、分岐などを以ってカオスと判定 している。
しかしながら、只のランダムノイズであっても、リアプノフ指数が正になるといった事例が指摘され、こういった面よりノイズ とカオスは区別はつかない(また、カオスより擬似乱数 を発生させることはできる)。 そのため、例えばリアプノフ指数や、何をもってストレンジアトラクタと見なすかの指標をそのまま信用してカオスと判定して良いかという問題が起きる。
そういった意味で、1992年ノイズか決定論的システムから作成されたデータかどうかを検定 する「サロゲート法」が提案された。サロゲート法は基本的には統計学における仮説検定 に もとづく手法であるため、与えられたデータが検定にパスした場合でも、そのデータについて「仮定したノイズであるとは言いがたい」という主張はできるが、 「カオスである」という断定をすることはできず、その意味で決定的な検定方法ではない。以下サロゲート法の概要について説明する。
• サロゲート法
サロゲート法には様々な方法がある。代表的な「フーリエ変換型サロゲート法」について述べる。
帰無仮説:元時系列は、(予め仮定する)ノイズである
有意水準をαとする
1 元時系列のパワースペクトル を計算
2 パワースペクトルを元時系列とし、位相をランダムに設定した新スペクトルをN個作成
3 新スペクトルをフーリエ逆変換して、新時系列をN個作成(これらをサロゲートデータと呼ぶ)
4 元の時系列の統計値 ・・・・・



2009年03月20日(Fri)▲ページの先頭へ
スロー人氏の的確な日本の封建的共同体集団主義批判である
(なお、合掌偶像の画像は、以下のページを見られたい。
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10227454263.html


スロー人氏の的確な日本の封建的共同体集団主義批判である

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

以下、スロー人氏の的確な日本の封建的共同体集団主義批判である。今日、トランス・モダン・コミューンが要求されているのであるが、それは、スロー人氏が説く、《個》が核になるのである。それは、絶対的差異であり、そこに内在するMedia Pointを介して、他者と共振・共鳴して、トランス・モダン・コミューンの前提的精神が生まれると言えよう。
 田中宇氏の著書に言及されているが、私見では、田中氏の提唱される多極主義(もっとも、田中氏の独創ではないが)は、PS理論では、多元差異共振主義と読むのである。多元的差異共振共同体圏主義である。

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変わる世界に、日本は追いつけるのか
テーマ:経済

 多くの日本人が苦しんでいる本当の理由は、日本のエスタブリッシュメント(establishments)の水準が低いからだ!とぼくは思っている。


 それは文部省・文部科学省が押し付けている東大を頂点とした教育システムのせいなのかもしれない。そして、その背景には権威に弱い日本人の伝統的な国民性があるとも思っている。


 欧米では、権威の意見・見解がそのまま鵜呑みにされることはないが、権威に弱い日本人の間では、権威が語ったことをまず鵜呑みにしなければならないという目に見えない強制が働く。


 欧米では、権威の意見すらも批判的に学びとることが最も重要であると思われているのと正反対である。なお、これが西洋人が思うところの個性である。

http://ameblo.jp/adco
/entry-10227348271.html

スロー人ロハスだもす




合掌土偶:夕日・夕焼けを驚嘆感嘆し拝んでいる?

テーマ:日本伝統文化:神話・宗教・民俗・芸術他

以下のページにある合掌土偶は不思議な様態である。縄文時代の「原神道」をおそらく意味しよう。
 目を見開いて、また、口を開けて、おそらく、太陽を拝んでいる。太陽崇拝である。そこに、神を見ていたのか。太陽神を見ていたのか。興味深いのは、重文になった、運慶作とされる大日如来座像である。これは、宗教的には、本来、同質である。つまり、太陽信仰である。「原神道」である。日本の根源的な太陽信仰が基層としてあり、それに仏教が重なっているのである。神仏習合である。
 本当に、太陽神が見えたのであろうか。不思議なのは、眩しがっている様子がないことである。ならば、太陽ではなく、満月だろうか。その可能性も否定できないだろう。根源的な宗教、大地母神宗教、太母的宗教は、月と結びついているのである。
 また、この像はなにか埴輪の偶像を想起する。縄文、弥生、古墳と継続性があるのかもしれない。
 また、顔が平べったくて、まるで、太陽電池のパネルようである。太陽エネルギーを吸収しているのか。太陽の「気」を取り入れているのか。とまれ、対象を太陽とすれば、日見子(ひみこ、日巫女)の一種である。
 とまれ、直感では、太陽神というよりは、太陽のオーラを驚嘆して見ているのかもしれない。それなら、わかる。それも、朝日か、夕日である。夕日の可能性もある。私の印象では、夕日の方が、崇高性・超越性を感じやすいだろう。
 そうすると、合掌土偶は、夕焼けを拝んでいることになる。そうならば、目を開いているのも納得できるし、口を開いて、驚嘆しているのも理解できる。

追記:眉と鼻がついている形状も不思議であるし、頭部の上の形象も気になる。
 
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蕪村「夜色楼台図」・縄文「合掌土偶」を国宝に…文化審答申

文化審議会(西原鈴子会長)は19日、俳人としても知られる18世紀の画家、与謝蕪村の代表作である紙本墨画淡彩夜色楼台図と、風張1遺跡(青森県八戸市)で出土した合掌土偶と呼ばれる縄文時代後期の土偶の2件を国宝に、鎌倉彫刻の巨匠運慶の作と見られ、昨年3月、米国での競売で約14億円の高額落札となった木造大日如来坐像など38件を重要文化財に指定するよう文部科学相に答申した。
http://www.yomiuri.co.jp
/national/culture/news
/20090319-OYT1T00892.
htm?from=nwlb




AIGボーナス90%課税法案可決:タックス・ペイヤー(払税者)という意識

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

日本も、公的資金(つまり、タックス:税金というと取られるのが当たり前の感覚が強いので、これから、タックスと実験的に呼びたい)を注入した銀行の役員のボーナス等を、アメリカ同様の処置をすべきであった。もっとも、これから、そうなっていくだろうが。
 タックス・ペイヤーtax payer(タックスを支払う者)という意識が必要である。納税者というのは、上下ヒエラルキーがある。お上に納めるという意識である。だから、たとえば、払税者(ふつぜいしゃ)と呼ぶべきである(これなら、タックスでなく、税でいい)。

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米議会、AIGボーナスへの90%課税法案を可決

2009年03月20日 10:54更新

米下院は19日、米保険大手アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)など公的資金による救済を受けた企業幹部のボーナスに90%の税を課す法案を可決した。AIGを巡っては、公的資金の注入を受けながら、幹部に総額1億6500万ドル(約160億円)という高額のボーナスを支給していたことが明らかになり、批判が強まっていた。

 同法案では、50億ドル以上の公的資金の注入を受けた企業で家計所得が25万ドル以上の従業員に支給されたボーナスに90%の付加税が課せられる。

 AIGの高額ボーナス支給が明らかになったのは先週末で、1週間に満たない異例のスピードで法案が可決された。

 オバマ米大統領は声明の中で「これらの企業を経営していた幹部らに、このような賞与は看過できないものであることを伝える強いシグナルとなる」と述べている。
http://jp.ibtimes.com/article
/biznews/090320/31587.

検討問題:自然現象と都市現象のエネルギーの質的差異

テーマ:検討問題

今は簡単に触れるだけだが、自然環境においては、自然のエネルギーに浸透され、都市環境においては、都市のエネルギーに浸透されると言えよう。
 前者は差異共振エネルギー(気)があり、後者には、同一性エネルギーがあるだろう。
 果たして、同一性エネルギーというものがあるかどうかは問題ではあるが、自然の差異共振エネルギー(気)はあると実感できる。
 そう、端的に、自然現象とは差異共振現象であるからである。それに人間の感覚も共振するのである。
 大都市生活は、自然の差異共振現象が欠損するために、住民の精神は同一性化すると考えられる。今日、東京都と大阪府には、異常な知事が存するのは、おそらく、それと関係しよう。
 私は東京生まれで、少年期・青年期を田舎で過ごし、その後、東京に移った。
 東京は、私にとって、いわば、異国である。何故かといえば、自然の差異共振エネルギー(気)が欠落しているからである。
 後でもう少し補足したい。


2009年03月19日(Thu)▲ページの先頭へ
+iと-iの対極絶対的差異共振としての現象世界:Kaisetsu氏の絶対的差異世界論に関連させて
以下、Kaisetsu氏の絶対的差異世界論の提唱であるが、もっとも注目すべきは、同一性概念の崩壊ということである。
 思うに、不連続的差異論の段階で、同一性概念は不連続的差異に還元されることが了解されていたが、まだ、絶対的差異論までにはなっていなかったと言えよう。
 とまれ、同一性概念の崩壊論に関連することになるが、私なりに、《同一性》の問題を追究したい。
 これまで、⇒+1とは、差異共振現象であり、+1が同一性=物質であると考えられると述べた。しかし、+1とは抽象化であり、具象である差異共振性のコンテクストを消失させているのである。だから、いわば、虚構・仮想と言えるのである。そして、この同一性=物質の虚構・仮想を近代合理主義は真実であると考えてきたのである。そして、このコンテクストからの切り離しは、-1の同一性自己主義によってもたらされたと述べたのである。つまり、-1が+1の切断をもたらしたのである。
 思えば、同一性=物質は仮象・幻像・マーヤーであると言い、しかし、実体のあるそれであると言ったが、実体というのは誤りである。実体ではなく、虚構・仮想なのである。
 結局、実体としてあるのは、差異共振現象⇒+1なのである。対象は、当然、-iであり、それと、主体+iが共振した現象なのである。
 -iは当然、絶対的差異である。では、主体の+iは何だろうか。これまで、原同一性自己意識と言ってきたが、どうだろうか。
 考えてみれば、対象-iによって、主体+iは多様に変化するものである。この差異共振性がプラトンのコーラに当たるだろう。
 この対象に応じて変容する主体+iとは何か。それは、当然、同一性ではありえない。それも差異である。ただし、主体+iは、同一性志向性をもつので、対象を言語同一性(言語概念)化するのである。
 だから、厳密に言えば、主体+iとは、確かに、同一性志向性(言語概念志向性)をもつのであるが、それ自体は同一性ないしは原同一性ではなく、いわば、主体的差異ないしは能動的差異である。
 それに対して、-iは対象的差異ないしは受動的差異である。そして、両者の差異が共振して、現象が生起するのである。
 ということで、-iは絶対的差異であるのと同様、+iも絶対的差異である。
 二種類の絶対的差異が共振して現象界が発現すると考えられる。今はここで留めておく。

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絶対的差異世界論(同一性概念の崩壊論)の誕生

・・・・・

結局、現象界を説明する概念として、同一性は不要で有り、これは、同様に、現象界を説明する概念として、連続性が不要であることと、「同値」である。

つまり、世界構造を説明する概念としては、「絶対的差異概念」と「即非(Media Point)」概念のみで必要、且、十分である。

また、同一性概念は、必ず、異質性概念を必要とし、同一性概念は、結局、絶対的に対立する、異質性と衝突し、非常に不安定な概念なのである。
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=715531
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


試論:女性の本性とは何か:-iなのか、それとも、(+i)*(-i)⇒+1なのか
先に検討した同一性自己意識について、さらに述べたいことがあるが、余裕がないで行わない。
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10225646212.html
 その代わりというか、関係がある女性の本性について考えてみたい。
 端的に、それは、-i傾斜性なのか、それとも(+i)*(-i)⇒+1なのか。-iとは、差異・他者である。身体的には、内臓精神身体である。(+i)*(-i)⇒+1、これは、当然、差異共振現象における同一性=物質現象である。
 予見では、後者の方が適しているのではないかと思う。何故なら、女性は、⇒+1の同一性=物質現象自体に興味・関心を強くもつ傾向が強いと思われるからである。感覚的なのである。だから、化粧やファッションに強く関心をもつし、また、差異共振の結果である子供に関心をもつと思われるのである。
 つまり、女性は、差異共振の目で現象を見るのではないだろうか。他方、男性は、言語同一性自己意識の目で現象を見るのではないだろうか。もっとも、当然、これは、理念的に述べているのであるが。
 問題は、父権社会で生きる女性は、男性の言語同一性自己意識-1を自然に真似てしまうことである。受動的に染まって、女性本来の差異共振性を排除してしまうと考えられる点である。
 男性は生来、差異共振性を排除する言語同一性自己傾斜があるから、ある意味で必然性である。しかるに、女性の場合は、言語同一性自己傾斜は本来的ではないので、その排除は重大な問題である。
 結局、女性の男性への同一性化、女性の非女性化がここで生じることとなろう。これでは、両性の間に「差異」が無くなり、差異共振力が無くなるはずである。当然、これは、少子化等と関係する。
 逆に言えば、男性の非男性化である。男性は言語同一性自己傾斜に従うことができずに、初期差異共振性へと退行すると考えられる。
 さて、本題の考察を続けよう。女性が男性的な言語同一性自己意識に染まったとき、差異共振性という本性の排除は、精神力学的にはどういうことなのか。
 男性の場合は、その排除は、生来のものなので、その意味では、精神は正常である。しかし、女性の場合は、本性・天性を否定するので、精神は異常になるはずである。
 そう、女性は男性に復讐しようとするはずである。自己本性を否定された、無意識、意識的な怨みを男性に向けるはずである。女性の夜叉化である。
 男性の場合、差異共振性の排除は、後天的な差異共振精神の「学習」や経験によって、解消されうると考えられる。
 女性の場合は、どうして、排除された本性・天性を復権させることができるだろうか。思うに、男性以上に現象学的還元が必要なのではないだろうか。
 男性の場合、-iへと回帰することが差異共振化へのキーポイントであった。女性の場合もそうなのか。
 これは推察であるが、女性の場合、+1と-1との混同があるのではないだろうか。つまり、差異共振的同一性を言語同一性自己意識にしているのではないだろうか。つまり、絶対矛盾状態である。絶対的短絡(ショート)である。思うに、これが、女性のヒステリーや否定的感情性をもたらす根因ではないだろうか。女性は勘違いしているのである。
 どういう女性の自己認識方法があるだろうか。簡単に言えば、女性の本性を肯定することである。ここで、男女平等観念が害悪となっているのである。
 女性と男性の天性の差異を肯定しなくてはならない。女性の本性とは、(作業仮説であるが、)差異共振性である。おそらく、これに目覚めた方が女性は解放されるはずである。
 つまり、差異共振的教養・文化を学ぶべきと言えよう。神話的には、女神の神話である。エジプト神話、ケルト神話、あるいは、折口信夫の日本神話に接すべきである。
 父権文明が五千年くらいは続いたので、女性の本性を表現する差異共振教養・文化・社会が希少になっているのである。(沖縄文化・社会は女性の本性を体現している面があるだろう。また、日本文化一般も本来そうなのである。)
 ただし、トランス・モダン的な女性差異共振教養・文化とならなくてはならない。単に復古調では反動的なのである。
 神話に言及したので、女神の神話を男性神の神話と対照的に描いた、ジョゼフ・キャンベルの神話学を私は推薦したい。
 より現実的にはどうなのだろうか。思うに、差異共振資本家に女性がなるべきように思うし、差異共振共同体を組織するのが適しているのではないだろうか。つまり、脱同一性主義資本主義、脱国家主義を目指すべきである。
 そう、私は新東洋文明・新母権文明を唱えているが、そこでは、女性の役割が主導的になるのである。女性の本性がもつ差異共振性を政治経済社会的に実現することになるはずである。
 では、女性のための、より現実的な差異共振教養とはどういうものかと言えば、実は、PS理論そのものである。
 これは、女性の本性を捉えている理論である。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1が女性の本性を表現していると思う。何故なら、男性の場合は、強く言語同一性自己意識-1が入るからである。
 私見では、女性の場合、差異を不連続化することで、即、差異共振化が蘇るはずである。男性の場合は、いわば、内臓精神身体を形成する必要があるのである。女性は内臓精神身体は天性として備わっていると考えられるのである。
 最後に簡単に、本題と関連するプラトンのコーラに触れると、それは、受容の原理であるが、結局、差異共振原理ではないだろうか。つまり、女性原理・母権原理である。単に、-iということではないだろう。
 今はここで留めておく。


参照:

神の仮面(上)
西洋神話の構造

新版

ジョゼフ・キャンベル 著 山室 静 訳 
1985刊/四六判/422頁
定価2940 円(本体2800 円)
ISBN4-7917-5391-7


読み解かれた西洋神話
さまざまな民族の神話を背景に成立した西洋神話の重層的な構造をさぐり、集団としての人間の意識とそれが押し隠す無意識のうねりを、神話が形成される具体的な展開の内に跡づける、画期的な〈西洋神話の集大成〉。
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【目次】

第一部 女神 の時代

 序章 神話と祭式・東と西

 第一章 蛇の花嫁
   一、母神イヴ
   二、ゴルゴンの血
   三、地のはてのテュレ
   四、母権

 第二章 牡牛の伴侶
   一、神の母
   二、二人の妃
   三、ミノタウロスの母
   四、光の息子の勝利

第二部 英雄の時代

 第三章 レバントの神々と英雄たち(前一五〇〇‐前五〇〇年)
   一、主の書
   二、神話上の時代
   三、アブラハムの時代
   四、モーセの時代

 第四章 ヨーロッパの神々と英雄たち(前一五〇〇‐前五〇〇年)
   一、北と南の対話
   二、ゼウスの結婚
   三、夜の海の旅
   四、ポリス

第三部 偉大なる古典の時代

 第五章 ペルシヤ期(前五三九‐前三三一年)
   一、倫理的二元論
   二、宇宙の堕落と更新
   三、王の中の王
   四、残りの者
   五、愛の神
 第六章 ヘレニズム(前三三一‐後三二四年)
   一、東と西の結婚
   二、綜合的一神論と民族的一神論
   三、神秘教と黙示録
   四、死海の見張り番
http://www.seidosha.co.jp
/index.php?%BF%C0%A4
%CE%B2%BE%CC%CC%
A1%CA%BE%E5%A1%CB


2009年03月18日(Wed)▲ページの先頭へ
Kaisetsu氏の絶対的差異論:付録:PS理論によるトランス・ベルクソン哲学:持続の即非化
Kaisetsu氏の絶対的差異論で、同一性概念の不要に達している。
 確かに、他者-iは絶対的差異であり、同一性とするのは、ただ、言語概念や物質概念に拠ると言えよう。
 後で、近似値としての同一性について検討したい。
 ところで、ベルクソンの『物質と記憶』であるが、精神と物質との融合を目指しているが、やはり、これまで述べたように、持続の強度の発想で、連続化ないしは量化しているのである。
 確かに、持続と物質との異質性は説いているが、後者を前者へと連続的に還元してしまうのである。これが、大欠陥・大誤謬なのである。PS理論から言えば、持続と物質とは不連続であると言わなくてはならないのである。
 そして、持続とは、Media Pointの即非様態であると言うべきなのである。
 
@@@@@@@@@@@@@@@

絶対的差異の「真性(the true) と同一認識の絶対的「疑性 (the doubtfulness)」)

・・・・・

次に、私たちは、絶対的差異、という立場から生まれる世界を考えよう。
これこそ、絶対的差異論の世界である。

分銅aと分銅bの絶対的差異を導く、分銅ab間の空間である。
この「分銅ab間の空間」こそ、「即非」の世界である。
分銅aに近い空間は、結局、フラクタルな形状になっていて、aの中にあるのか、外にあるのか、分別不可能になる。
つまり、即非の世界もまた、絶対的差異の空間となる。

差異は、差異を呼び、絶対的差異が宇宙に満ちるだけである。
ここに、同一性は不要となる。

つまり、同一概念は、結局、差異概念を必要とするが、絶対的差異概念は同一概念を不要とする。
http://blog.kaisetsu.org
/?cid=9911
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2009年03月17日(Tue)▲ページの先頭へ
+iと-1について:原同一性自己と原差異:(+i)*(-i)⇒+1⇒-1⇒(+i)*(-i)
これまで、同一性自己意識と呼んだものがあいまいなので、明確にしたい。端的に、+iなのか、-1なのか。
 +iは同一性自己志向性と言うべきではないのか。そして、-1とは、同一性自己主義と言うべきではないのか。
 ここでも直感で考えていこう(自己認識実験である)。端的に、同一性自己意識とは何か。それは、「わたし」の意識である。自我の意識である。それは自己の一面である。それは、差異共振性の一面ないしは表層・表面である。
 では、この同一性自己意識を数化するとどうなるだろうか、これが問題である。初めには、-1とし、後で、-iとした。ここは、実に複雑で微妙な点である。
 私が今想起しているのは、新たな差異共振化された後の同一性自己意識であり、最初に形成される同一性自己意識ではないからである。
 否、さらに細かく分ける必要がある。即ち、最初期の差異共振主義内部における同一性自己意識である。しかし、これは、正しくは、即非意識であり、まだ、同一性自己は形成されていない。原同一性自己意識(1)はある。
 次に、+i傾斜で同一性自己意識が形成される。これは、言語同一性的自己意識(2)であり、自我である。
 そして、新たな差異共振性を形成した後での、差異共振的同一性自己意識(3)がある。
 大きく分けて、この三種類の同一性自己意識がある。(1)は⇒+1であり、(2)は-1であり、(3)は+1⇒(+i)*(-i)と考えられる。
 (2)の-1というのがポイントである。+1は同一性=物質であるから、それは、同一性自己意識ではない。
 少し煩雑になっているが、本題に戻ると、(3)における新差異共振的同一性自己意識とは、(+i)^2と(+i)*(-i)が共立している様態ではないだろうか。そして、その同一性自己意識を取り出せば、(+i)^2であり、-1ではないだろう。何故なら、上記から-1とは(2)であるからである。つまり、(3)の同一性自己意識とは、自己が言語同一性自己意識であることを意識している自己なのである。換言すると、言語同一性自己意識-1を相対化しているということである。
 丁寧に考えよう。言語同一性自己意識は-1である。それから、+iを下降させて、差異・他者-iと遭遇させるのであるが、この+iの下降はなんらかの同一性自己意識の下降を意味しよう。これは端的に何であるのか。
 思うに、結局、言語同一性自己意識には、二つの+iがあるのではないだろうか。そうだろうか。初期差異共振性における同一性自己とは、差異共振性に内包されていたもので、いまだ、自立・独立していない(母権原理)。だから、原同一性自己と呼べる。同一性自己ないしは原同一性自己は+1であり、それは、差異共振性(+i)*(-i)に包摂されているのである。
 故に、言語同一性自己とは、+iの傾斜が加わったものである。二つの+iがあるわけではないのである。だから、明確にすれば、強い+iである。強+i (Strong +i)と表記しよう。これが言語同一性自己意識を形成するエネルギーである。強+iが言語同一性自己意識-1を形成するのである。
 では、ここから下降して他者・差異-iに出会う(再会する)事態を考察しよう。何が下降するのか。下降する主体は何か、である。それを、同一性自己意識と思いやすいが、そうならば、それは、-1が下降することになってしまい。不整合である。下降する「意識」とは、+iの意識である。これが、下降して、- iに遭遇するのである。
 ならば、+iの意識とは何だろうか。ここがキーポイントである。強+iは既に言語同一性自己意識-1を形成している。ならば、+iの意識とは何か。それは、前言語同一性自己意識、あるいは、単に、同一性自己意識の志向性、原同一性自己志向性ではないだろうか。
 そう、端的に言えば、原同一性自己意識である。これが、下降して、他者・差異-iに出会う(再会する)のである。そして、他者・差異-iとは、本来は、原他者・原差異である。だから、原同一性自己意識と原他者・原差異とが遭遇するのである。ここに、いわば、原差異共振性が発生するのである。
 しかしながら、最初期の差異共振性はどうなっているのだろうか。そう、この原差異共振性とは、言葉通りに、最初期の差異共振性であると考えられる。つまり、言語同一性自己意識-1によって、否定・抑圧・排除され、潜在していた初期差異共振性が、ここで復活するのである。しかし、単純な復活なのだろうか。
 否、これは、螺旋的回帰というべきものである。やはり、質的に新しい差異共振性であると考えられる。なぜかと言えば、確かに、原同一性自己意識+iが下降しているものの、今や、その原同一性自己意識は、言語同一性自己意識-1の支点を形成しているのであり、初期差異共振性(⇒+1)と即非的に、言語同一性自己意識-1が存するからである。後者の言語同一性自己意識が共立している(即非)点が、復活した差異共振性を新しい質にしていると考えられるのである。
 そうすると、新たな差異共振性の形成によって、新しい自己意識、自己認識が生まれるのであるが、それは、先に述べたように、原同一性+iと原差異-iと同一性自己意識+1と言語同一性自己意識-1との四極共振であり、そのセンター(中枢)のMedia Pointを考えると、五極共振となる。

参照:
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10224473102.html


文学のモダニズムとは何か:また、美術のモダニズム(モダン・アート)とは何か。
今、一言言えば、それは、西欧近代社会の崩壊に伴い、他者・差異-iのエネルギーが活性化し、それに応じた文芸や美術ではないのかということである。
 西欧近代の他者・差異の出現である。それは、-iであり、差異共振性である。つまり、西洋内の東洋の活性化なのである。文芸モダニズム(パウンド、ジョイス、エリオット)は、-iに対応すべく、イメージ主義(イマジズム)を唱えたり、神話の図式を使用した。しかし、それは、-iへの機械的な対応、スキーマ的な対応であったと考えられる。
 正面から対応した(衝突・激突して超大噴火した)のが、D. H. ロレンスである。かれは、西洋を突破して、新東洋に到達したのである。トランス・モダンである。
 モダン・アートについても、同様のことが言えると思うが、問題は、文芸モダニズムよりも、美術の方が、早く差異・他者の問題に突き動かされた点である。また、さらに、哲学においては、美術よりも先行している。例えば、キルケゴール、ニーチェである。また、物理学もそうである。
 おそらく、結局、総体的に見て、純粋に、差異・他者の問題に遭遇していたと考えられる。文学の場合、第1次世界大戦による解体が強い意味があるが、それ以前に差異・他者は問題になっていたと考えられる。世界大戦はいわば引き金である。


Media Pointからのエネルギーの力学について:同一性自己意識はMedia Pointの虚軸上の上昇であり、それが下降することで、他者・差異-iと「再会」して、新たな差異共振エネルギーが発生する
+iの傾斜エネルギーが考えられる。それは、同一性自己意識を生むものであるが、私が考えたいのは、エネルギーの方向性のことである。その方向性は意志と言ってもいいかもしれない。
 東洋身体論では、内臓的精神(精神身体)を唱える。それは、思うに、あるエネルギーの方向を内臓的精神(精神身体)の方へ変えることを意味するのである。
 あるエネルギーとは何だろうか。これがポイントである。そう、意識エネルギーである。これは、同一性自己エネルギーではないだろうか。つまり、+iのエネルギーである。これを、頭脳へと向けるだけでなく、内臓(精神身体)へも向けるのである。
 これは、実際どういうことだろうか。丁寧に考えよう。+iのエネルギーを頭脳に向けるとはどういうことだろうか。
 どうも違うのではないかという気がした。根源から考えよう。Media Pointの差異共振エネルギーが先ず発生する。それが、同一性像を形成する。ここでは、+iと-iとはバランスがとれている。
 問題は次の段階である。即ち、+i傾斜による言語に基づく「現実」把握の段階である。ここにおいては、-iは抑圧されるのである。つまり、+iのエネルギーが活性化しているということで、それが、-iのエネルギーを凌駕しているということと考えられる。
 この様態の実際はどのようなものであろうか。これまでの検討から、それは⇒+1から⇒を排除して、+1を独立させることにあるだろう。それは、-1の同一性自己主義が為せることである。つまり、-1が⇒を排除して、+1を形成するのである。即ち、同一性=物質という視点の形成である。
 ⇒の排除とは、当然、-iの抑圧・排除を意味する。あるいは、差異共振性の抑圧・排除である。
 この事態は数式化すると、(+i)*(-i)⇒+1の差異共振的同一性現象において、+iを強化するのであるから、左辺において、-iの否定、即ち、-(-i)になると考えられる。そして、(+i)^2=-1となると考えられる。
 この-1が同一性自己主義(自我)である。そして、切り取られた+1が同一性=物質である。そう、今日では、意識ないしは心はこの+1=同一性=物質を知覚しているのである。
 だから、問題は戻って、+iの方向はどうなのか、である。一見、上昇のように考えられるのが、下降ではないのか。
 +iの傾斜とは、端的に、-iの抑圧である。+iが視覚(後記:どうもこれは単純化が誤謬である。言語志向を言う必要がある。後で検討したい。)を支配すると考えると、そして、-iは内臓精神身体を支配すると考えると、+i傾斜は内臓精神身体の抑圧である。
 思うに、+iのエネルギーとは上昇と下降が同時に起っているのではないか。-iを抑えるようにして、+iを強化するのである。そう考えた方が実際に即しているだろう。
 では、-iの賦活とそれとの新たな共振の形成方法を考えよう。-iは、内臓精神身体であるから、意識では、下部から上昇するエネルギーとして発露すると考えられる。
 そう、このエネルギーを取り込むということは、このエネルギーの「意識」を肯定するということになるのである。これは、同一性自己意識にとっては、「革命」である。何故なら、同一性自己意識の支配が終焉するからである。つまり、他者を肯定しなくてはならないという事態が発生するからである。
 そして、この他者-iは、新たな差異共振性(+i)*(-i)を意味するのである。つまり、同一性自己意識は、差異共振性を内包しなくてならなくなるのである。
 とまれ、具体的にはどういう事象なのだろうか。それは、-iの抑圧の解除の実践である。「無意識」に、下降へと抑圧したが、その「無意識」を意識化して、抑圧を解除するのである。つまり、意識を、同一性自己意識を下降させるのである。
 思うに、上昇していた同一性自己意識を下降に転ずるのではないだろうか。
 どうも、直感では、Media Point(以下、MP)において、+iは上昇へ転ずるのではないだろうか。つまり、反発である。MPにおいて、+iが-iに反発・反転して、上昇するのではないだろうか。つまり、上昇とは、反発作用ということである。反発によって上昇するということではないだろうか。
 それを作業仮説とすると、-iを意識するには、その反発を取り除かないといけない。そのためには、Media Pointへの沈潜が必要になるだろう。そして、これが、同一性自己意識の下降である。
 そして、無意識の反発を意識的に取り除くのである。そう、向きを変えるのである。反転させるのである。反発して上昇していた向き(+i傾斜・同一性傾斜)を逆転させるのである。つまり、同一性自己意識を下降させるということである。
 これによって、同一性自己意識+i(後記:ここも用語的に不整合が生じている。同一性自己意識を-1とも述べているあるからである。でも、実質的な齟齬、矛盾ではない。-1は同一性主義自己意識と言うべきものであるからだ。後で整理したい。)は、差異・他者-iに出会うのである。そして、このとき、新たな差異共振エネルギーが放出されるのである。コズミックなエネルギー(イデア・エネルギー、イデア・エネルギー、電磁波エネルギー)である。
 これは、一種の爆発である。そして、危機である。何故なら、このエネルギーに囚われてしまうからである(参照:禅病)。
 問題は、同一性自己意識を保持する必要である。つまり、-1を保持する必要である。これが否定的媒介となって、新しい差異共振意識が発生するのである。そうでないと、差異共振エネルギーに、いわば、呑まれてしまい、自己喪失すると言えよう。つまり、病理状態になるのである。(ここで、ルドルフ・シュタイナーが科学教育、論理学が前提であると強く唱えていたことが十分に納得できるのである。シュタイナーの精神科学とは、一つのトランス・モダンなのである。)
 とまれ、同一性自己意識の方向性の逆転、即ち、下降によって、他者・差異-iとの出会いが生じて、新たな差異共振化が起ることになるのである。もっとも、それは、最初はいわば、電撃的、爆発的なものであるが。
 以上の試論を整理すると、-iとは、内臓精神身体であるということであり、これを+i傾斜は無意識に抑圧して、上昇するのであるが、その上昇によって形成された同一性自己意識-1の方向を逆転させることで、他者・差異-iと激突することになるのであるが、それは、新たな差異共振性であり、初期は爆発的なのである。
 ところで、思いつきであるが、+iの上昇であるが、それは、(+i)^2=-1ではないだろうか。左回り1/4回転ではないだろうか。そして、+iの下降であるが、それは、正に、-iと出会うのであるから、(+i)*(-i)⇒+1ではないだろうか。言い換えると、右回り1/4回転ではないだろうか。今はここで留めたい。


2009年03月15日(Sun)▲ページの先頭へ
差異共振への螺旋回帰力学:差異活性における連続化と不連続化と共振・即非化:五極差異共振Media Point
(画像は次のサイトで見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10224473102.html


先に、『思考実験:共振へのらせん的回帰の力学について:-iの賦活化における連続化と不連続化と差異共振化:モダンからトランス・モダンへの転換力学:付録:ポスト・モダン分析』
http://ameblo.jp/renshi/entry-10224340098.html
の試論を転載したが、所期の目的は、簡潔に明快に、テーマの考察を行うことであったが、枝葉がつき過ぎてしまったので、ここで、再考したい。
 参考2の視点から、再考しよう。近代的自我は、-1であり、それは、差異共振性を否定・抑圧している。しかし、内的差異・内的他者-iが賦活される。
 ここで、内的差異・内的他者-iの活性化を考えよう。それに呼応して、同一性自己「感覚」(身体感覚)が、その活性化によって、賦活されると考えられる。
 しかし、+iに傾斜する同一性自己意識(近代的自我)-1は、その活性化に対して、当然、抑圧する態度をとる。だから、ここで、⇒+1と-1齟齬・葛藤・対立が生じると言えよう。
 しかし、同一性自己意識、正確に言えば、同一性自己主義意識ないしは同一性主義自己意識は、賦活された身体感覚を独善的に抑圧し続けて、排除すると言えよう。ハイパーな近代的自我である。「狂気」的である。
 しかし、開いた意識をもつ場合、つまり、同一性自己意識以外に、身体感覚(精神)を意識する場合、その葛藤は大きなものと意識される。つまり、同一性(同一性自己)と差異(身体感覚=精神)との齟齬・葛藤・対立を意識する。(そして、これが広義の近代文化の問題であるが、近代文化の二重性を考えると、トランス・モダンの問題と見る方が適切である。)言い換えると、これは、同一性と差異との揺らぎの意識である。つまり、-1であったり、⇒+1であったりするのである。言い換えると、散文・物質科学的であったり、詩・神秘的であったりするのである。両者は、絶対的に分離している。(ベルクソン哲学は、純粋持続に基づく、この分裂を克服の試みである。)そう、二律背反である。
 しかしながら、この揺らぎの経験の中から、あるバランス・均衡(平衡)の感覚・意識が生成されるのも事実である。即ち、特異性の身体感覚(精神)と同一性自己知性である。両者が平静に均衡するのである。あるいは、意識はその平衡を維持しようと志向するのである。(この平衡志向意識が真の理性であろう。だから、差異/同一性平衡意識性、ないしは、簡略化して、差同平識性と呼ぶといいだろう。)
 つまり、ある意味で、-1と⇒+1が調和するようになったのである。ただし、-1の否定性がここでは、取り去られている。矛盾した言い方になるが、肯定的な-1が形成されているのである。スピノザに倣えば、能動的な-1(能動的観念)である。
 いったいそれは、何だろうか。それは、-1(乃至は+1)が⇒+1に回帰し出していることと考えられる。
 危険は、このとき、⇒+1に引きつけられてしまい、初期の⇒+1に回帰してしまうことである。つまり、-1を喪失して、初期⇒+1に回帰することである。平たく言えば、少年期に回帰することである。そして、これは、文学史的には、ロマン主義である。思想史的には、神秘主義である。
 だから、ここに、-1の大きな意義があるのである。これは、同一性自己主義(自我)である。因みに、+1は、同一性=物質であり、おそらく、鏡像である。(鏡像について少し説明すると、この場合の鏡像とは外的鏡像である。それに対して、内的鏡像がある。それは、Media Pointの鏡面に移る自己像である。ここに自己本来の姿が存するのである。鏡とは、だから、二重なのである。)
 最高度に重要な点、キーポイントは、-1と+1の弁別である。-1は、基本的に、同一性自己主義(自我主義・利己主義)である。それに対して、+1は、単に同一性自己性である。
 ここで、-1と⇒+1との調和・平衡を述べ、また、肯定的・能動的な-1を唱えたが、このポジティブな-1の-1とは、あくまで、同一性自己主義(自我主義・利己主義)であるということは、いくら強調してもし過ぎることはない。いわば、ただ、剣を鞘に収めている状態と言えようか。
 では、このポジティブな-1(ポジティブな同一性自己主義)とは何なのだろうか。それは、端的に、+iの傾斜性向を抑えた-1ではないだろうか。つまり、-iを否定しないようにするのである。これまでは、+i傾斜性向は、-(-i)というように、-iを否定してきたのである。
 この最初の-(マイナス)を抑えたものがポジティブな-1であろう。当然、(+i)*{-〔-(-i)〕}となり、(+i)*(-i)⇒+1となるのである。これが、新生差異共振性、健全な差異共振性、トランス・モダン差異共振性である。
 ただし、いわば、否定的媒介として、-1が存していることを強調しないといけない。
 だから、図式化すると、

1)初期差異共振性:(+i)*(-i)⇒+1:ルネサンス

2)同一性自己主義:(+i)*〔-(-i)〕⇒-1:近代合理主義

3)新生差異共振性:(+i)*{-〔-(-i)〕}⇒-(-1):トランス・モダン

となる。
 そして、3における右辺の-1を消さないようにしないといけない。今日、ウォール・ストリートの金融資本主義が崩壊して、利己主義を否定して、利他主義を肯定する傾向があるが、それは、錯誤である。基盤には、利己主義があるである。しかし、その利己主義が利他的に変容するのである。ただし、利己主義は絶対的には消えていない。利己主義でありつつ、利他主義になるのである。言い換えると、利己主義・即非・利他主義である。(ここで、想起するのは、ギリシア悲劇である。復讐の女神たちが、慈しみの女神たちに変容することである。あるいは、鬼子母神である。あるいは、シェイクスピア劇である。それらにおいて、同一性自己主義がポジティブな同一性自己主義、同一性自己主義的利他主義、差異共振社会主義になっているのである。)
 そう、-(-1)、これが決定的である。これを単純に+1とすると、初期化してしまい、退行である。言い換えると、マイナスのマイナス、否定の否定が、同一性と差異との調和、新生差異共振性をもたらすのである。そう、これは、一種の合・ジンテーゼである。しかしながら、ヘーゲル弁証法と絶対的に異なるのは、この合・ジンテーゼが、即非性であることである。ヘーゲルの場合は、テーゼ=同一性に回帰してしまうのである。
 以上から、トランス・モダン的差異共振性とは、二重の差異共振性を帯びると言えよう。即ち、(+i)*(-i)と(+1)*(-1)であり、結局、+ i, -i, +1, -1の四極が共振(共鳴)する状態にあると言えよう。四重差異共振性、四極差異共振性である。この四重・四極・四元性が最高度に重要である。
 この四極(四元)差異共振(差異共鳴)はMedia Pointで行なわれるが、そのとき、Media Pointは、即ち、四極(四元)差異共振Media Point自体は、第五極(第五元)である。推察であるが、ピュタゴラス学派の五芒星、ウィトルウィウス的人体図の正五角形(後記:これは思い込みミス。正五角形ではありえない)は、この五極(五元)差異共振性を指示しているのではないだろうか。いわゆる、五次元とは、この第五極Media Pointではないだろうか。
 また、トランス・モダン差異共振主義とは、正に、ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図を想起しよう。また、イエス・キリストとは、本来、この五次元を象徴していたのではないだろうか。ただし、当時は、ヤハウェ的一神教、つまり、+iと-1の要素が支配的だったので、五極(五元)ではなく、二元論になってしまったのではないだろうか。五が二になってしまったのである。しかしながら、二には、五が潜在していたのである。それが、聖霊でもあろう。

追記:私が度々引用するD. H. ロレンスであるが、彼は、初期に彼自身の独特の思想を表明しているのである。それは、「王冠」の思想である。王冠とは、この場合、彼の母国である英国の紋章にある王冠である。
 王冠の下で、獅子(ライオン)と一角獣(ユニコーン)が相争っている。そして、この図像にキリスト教三位一体を当てはめるのである。即ち、獅子は「父」、一角獣は「子」、そして、王冠は「聖霊」であり、「聖霊」が「父」と「子」のバランスを意味するのである。「父」はいわば同一性自己主義(利己主義)であり、「子」は初期差異共振主義(利他主義)である。それぞれ、+iと-iと言えよう。あるいは、-1と⇒+1である。この絶対的対立が、「聖霊」=「王冠」において解消されて、均衡・調和するというような思想である。
 だから、ロレンスの思想は、ほとんど、差異共振主義である。ただし、激烈に極性が揺れ動いていたので、表現は混沌としたものとなった。とりわけ、「闇の神」を主張したときがそうである。いったい、「闇の神」とは何だろうか。思うに、それは、「父」の下における「聖霊」ではないだろうか。「父」に制限された「聖霊」ではないだろうか。それは、他者なき一神教的エネルギーに近いと思う。

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参考1:

追記:ルドルフ・シュタイナーの悪魔論であるが、アーリマンとは+1であり、ルシファーが-1ではないのか。そして、「キリスト」が(+i)*(-i)の差異共振性ということになるのではないのか。シュタイナーはアーリマンとルシファーの中間に「キリスト」を置いたことに適応しよう。その三元論は、 Media Pointである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10223394072.html

参考2:

+ iの傾斜によって+1から-1へと同一性自己意識が転化して、同一性自己主義(自我主義・自己中心主義)が生まれる。近代合理主義・近代的自我は端的にそのようなものである。そこでは、精緻に見ると、+1と-1との揺らぎがあるように思えるが、基本は+1→-1であると考えられる。つまり、⇒+1の⇒が示唆する差異共振性がそこでは否定されているのである。
 では、新たな差異共振性への回帰の力学について解明していこう。それは、-iの賦活に拠る。しかしながら、それは、+iの傾斜を否定するのであるから、+iの傾斜と衝突するのである。つまり、-1と衝突するのである。例えば、近代合理主義は、精神性や超越性を否定するのである。(もっとも、+i自身は超越的なものであるから、一神教的な超越性は認めるのである。だから、どんな精神性や超越性を否定するのかと言えば、当然、差異共振的それであるし、それは、様態としては、神秘主義やロマン主義的な性向をもつと言えよう。この点は微妙なものがあるが、ここで留めておく。)
 では、近代主義内部において、-iの賦活がどういう様態となるか考えてみよう。+iと-1は-iと差異共振性を抑圧するが、後者は活性化するので、前者に、いわば、押し寄せるのである。つまり、衝動・情動化、つまり、エネルギー化して、前者の領域に迫るのである。もし、主体がそのエネルギーに対して、否定ではなく肯定的な態度をとるとき、どうなるだろうか。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10224340098.html

参考3:

五芒星

http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%83%9A%E3%83%B3
%E3%82%BF%E3%82%B0
%E3%83%A9%E3%83%A0


Vitruvian Man by Leonardo da Vinci
ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図
http://en.wikipedia.org/wiki/Vitruvius

ファイル:Simple crossed circle.svg

circular, harmonic cross
グノーシス主義
http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%82%B0%E3%83%8E
%E3%83%BC%E3%82%B7
%E3%82%B9%E4%B8%
BB%E7%BE%A9



ケルト十字

http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%82%B1%E3%83%AB
%E3%83%88%E5%8D%81
%E5%AD%97

島津氏
丸に十字

http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E5%B3%B6%E6%B4%A5
%E6%B0%8F


思考実験:共振へのらせん的回帰の力学について:-iの賦活化における連続化と不連続化と差異共振化:モダンからトランス・モダンへの転換力学:付録:ポスト・モダン分析
同一性自己主義-1(近代合理主義・近代的自我)から、新たな差異共振主義に転換する力学について緻密に解明したい。
 + iの傾斜によって+1から-1へと同一性自己意識が転化して、同一性自己主義(自我主義・自己中心主義)が生まれる。近代合理主義・近代的自我は端的にそのようなものである。そこでは、精緻に見ると、+1と-1との揺らぎがあるように思えるが、基本は+1→-1であると考えられる。つまり、⇒+1の⇒が示唆する差異共振性がそこでは否定されているのである。
 では、新たな差異共振性への回帰の力学について解明していこう。それは、-iの賦活に拠る。しかしながら、それは、+iの傾斜を否定するのであるから、+iの傾斜と衝突するのである。つまり、-1と衝突するのである。例えば、近代合理主義は、例えば、精神性や超越性を否定するのである。(もっとも、+i自身は超越的なものであるから、一神教的な超越性は認めるのである。だから、どんな精神性や超越性を否定するのかと言えば、当然、差異共振的それであるし、それは、様態としては、神秘主義やロマン主義的な性向をもつと言えよう。この点は微妙なものがあるが、ここで留めておく。)
 では、近代主義内部において、-iの賦活がどういう様態となるか考えてみよう。+iと-1は-iと差異共振性を抑圧するが、後者は活性化するので、前者に、いわば、押し寄せるのである。つまり、衝動・情動化、つまり、エネルギー化して、前者の領域に迫るのである。もし、主体がそのエネルギーに対して、否定ではなく肯定的な態度をとるとき、どうなるだろうか。
 問題は連続化である。端的に言えば、-1 の同一性自己主義とは、+1と連続化しているのである。同一性=物質の+1と連続化して、それを差異共振性の背景から切断して、原理化しているものなのである。だから、-iが活性化したとき、それは新たな差異共振を意味するのであるから、⇒+1となるのである。そうすると、-iの賦活は新しい+1を意味するのではあるが、+1であるので、それは、同一性自己主義-1と連続化すると思われるのである。
 言い換えると、新しい差異共振性が旧い同一性自己主義と連続化するのであり、そのために、折衷・混合状態になると考えられる。(この状態を説明しているのが、ドゥルーズ哲学であろう。両者の連続性を説いている哲学である。そして、それは、結局、差異共振性自体を連続化や同一性化するのである。つまり、特異性が喪失するのである。ついでに、ベルクソン哲学について言うと、先に述べたように、それは、新しい差異共振性の事態を対象にしている哲学であると考えられる。ただし、差異と同一性が未分化であるために、両者の不連続性を把握していないのである。だから、それは、ここで述べた差異共振性と同一性自己主義との折衷・混合を避けていると言えるのである。)
 端的に、同一性自己主義と差異共振性との折衷・混合とは、差異を同一性にしてしまう、いわば、マジック・奇術の「哲学」である。欺瞞である。一見、即非性に似ているが、即非性とは、差異性をあくまで維持するのであり、「この折衷・混合とはまったく異なるのである。折衷・混合とは、差異と同一性を牽強付会させてしまうのである。ゴマカシ、ペテンである。差異を同一性にしてしまうのであり、同一性を差異にしてしまうのである。いわば、ご都合主義である。とまれ、トリックである。一種の錯誤状態である。言い換えると、自己と他者との境界がなくなる、病理的な状態であると言えよう。(思うに、ドゥルーズの精神は病理的であったと思う。当然、その「哲学」は病理的であり、哲学としては、破産しているのである。)
 この状態を理論化するとどうなるだろうか。差異と同一性との短絡・ショート状態をどう理論化できるだろうか。簡単に言えば、+iと-iとが一致することである。より実態に即せば、-i=-1である。あるいは、(+i)*(-i)=-1である。
 これは、虚軸と実軸、超越性と物質性との混同であり、位階の喪失である。これをどう記号化したらいいだろうか。平明に言えば、狂気である。精神病である。結局は、ハイパーな同一性自己主義であると言えよう。しかしながら、超越性を帯びているのである。なんとも異様なものである。PS理論から言えば、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点が一致しているといえる。
 この記号化であるが、それは、同一性自己主義化を逆にして、〔-(+i)〕*(-i)⇒-1でいいのではないだろうか。つまり、-iが逆に、+iを否定してしまうのである。
 では、連続化を超えるトランス・モダンの場合を考えよう。端的に、不連続化を実践する立場である。即ち、差異は差異であり、同一性は同一性であり、両者は不連続であるということを確認する立場である(不連続的差異論)。賦活された-iを不連続的差異として肯定する立場である。これによって、同一性+1と差異-iとが峻別されたのである。これは、トランス・モダンの第一歩である。そして、それから、原同一性+iと差異-iとの共振が確認されることになるのである。言い換えると、即非性である。これがPS理論である。
 これは、あらゆる領域に適用すべき理論である。経済において、同一性自己主義資本主義から差異共振主義資本主義への転換の必然性がここに認められると言えよう。資本は同一性(主義)資本から差異共振(主義)資本へと転換するのである。同一性主義価値が解体して、差異共振価値が中心化するのである。差異共振価値の創造としての差異共振資本主義へと転換されると考えられるのである。経済以外も同様である。
 さて、最後に、ポスト・モダンについて補足しておこう。ハイデガー/デリダのポスト・モダンとは、確かに、一種の不連続性がある。デリダは、決定不可能性について述べている。それは、同一性主義の不可能性のことである。言い換えると、差延のことである。それは、同一性にはなんらかの差延が生起するので、同一性主義が解体されるということである。では、差延とは何か。デリダはハイデガーの存在を踏襲していると考えられるので、差延は存在と共通である。では、存在とは何かと言えば、一種の穴である。それは、実軸ゼロ点に生じた穴である。ただし、実軸ゼロ点自体ではない。
 ここが微妙な点である。実軸ゼロ点にある穴であるが、ゼロ点ではない。これは、虚軸ゼロ点の痕跡と言うべきように思えるのである。⇒の先端に生じた穴である。それは、超越性の終点であり、同一性の始点である。その空虚である。合間である。この空虚・穴が差延であり、それが、デリダのポスト・モダンの基盤である。それは、確かに、哲学的には、根拠のあるスタンスである。ただし、それは、ハイデガー哲学の焼き直しに過ぎない。もう少し付け加えると、デリダはニーチェを援用するが、それは、特異性である。つまり、ハイデガーの存在の穴のもつ不連続性とニーチェ哲学の特異性を結合させたものが、差延と考えるほうがより的確である。ただし、どちらにしろ、超越性を否定しているのである。(ニーチェは矛盾していて、実際は、超越性も示唆しているのである。ただし、キリスト教との戦いから超越性の否定を強く唱えているのではあるが。この点では、意外にドゥルーズに似ている。)
 それに対して、上述したドゥルーズであるが、ハイデガー/デリダの不連続な穴をもっていない。つまり、不連続性が欠落しているのである。言い換えると、特異性がないのである。問題は、不連続性、特異性のない超越性とは何であるのかということである。というのは、ドゥルーズには、超越性と同一性との一致があるからである。直感では、実軸ゼロ点が中核にあると思えるのである。
 ここで迂回して、私の経験に即して言うと、それは、コスモス主義ないしはコスモスとの一体感である。コスモスとは、不可視の宇宙である。全体である。この全体と「わたし」とは一体であるのである。では、このコスモス・全体とは何なのだろうか。
 それは、ショート・短絡ではないだろうか。それは、確かに差異-iの能動性であるが、原同一性+iとの直接を避けて、なにか、夢想的な世界と一体化しているのである。差異共振ではなく、差異融和である。心地よい、夢見心地の境地である。それは何か。
 差異共振は積であるが、この差異融和ないしは差異夢想は、和ではないだろうか。即ち、前者は積で⇒+1であるが、後者は和で⇒0ではないだろうか。つまり、(+i)+(-i)⇒0である。このゼロが実軸ゼロ点であり、もはや、ここには、虚軸ゼロ点の痕跡は不可能なのである。なぜなら、虚軸ゼロ点があれば、共振(積)が発生しているからである。ということで、ここでは、作業仮説であるが、ドゥルーズのポスト・モダンとは、差異融和ないしは差異懐柔であったと言えるだろう。それは、ゼロ化・無化である。差異はゼロ・無にされてしまったのである。それも、実軸ゼロ・無である。言わば、差異は去勢されたのである。
 では、問題は、このゼロのコスモスと差異共振の「コスモス」との違いはどういうものなのか、である。これは端的に決定的に異なるのである。前者は同一性=物質+1から逃避したものであり、夢想的なのである。それに対して、後者は、同一性=物質+1を肯定し、包摂した「コスモス」、即ち、イデア界である。
 では、端的に両者を峻別する命名をする必要がある。とりあえず、前者を仮想コスモス、後者をイデア・コスモスと呼ぶことができよう。だから、ドゥルーズが言うイデア=理念とは、仮想のことであり、真のイデア=理念ではなかったのである。ドゥルーズはよくシミュラクラ(模像、似像、偽像)のことを唱えていたが、この視点から言えば、それは、正に、仮想像であり、差異共振像・イデア的像ではなかったのである。確かに、それは、アンチ・プラトニズムではあるが、仮想空間・擬似空間の世界に属するのであり、遊戯の世界の出来事と言えよう。
 デリダの脱構築主義は根拠のある同一性主義批判であるが、フッサール現象学の超越性を鼻から否定しているので、差延を反復するという一種の遊戯に堕してしまったと言えるのに対して、ドゥルーズ「哲学」は、差異の特異性を喪失して、融和・妥協しているので、仮想遊戯に陥ってしまったと言えよう。ポスト・モダンの不幸・不具合・錯誤とは、既述したように、ハイデガー/デリダに関して言うと、フッサール現象学を理解できなかったことであり、また、ドゥルーズに関して言うと、ベルクソン哲学の持続・純粋持続の特異性・不連続性を理解できなかったことにあると言えよう。
 では、いわば、プロト・トランス・モダンをポスト・モダンが理解できなかった理由が何であろうか。直感では、西欧における近代合理主義の背景が原因ではないだろうか。それが、超越性を締め出しているのではないだろうか。つまり、近代主義の縛りが強固であるということである。日本の場合は、禅による超越性の思想があったし、ウスペンスキーの場合は、ロシアその他の神秘主義の思想があったのである。
 つまりは、同一性自己主義の抑圧が強固で超越性を排除していると言えよう。さらに言えば、同一性自己主義の強固な抑圧とは、結局、ヤハウェ主義に拠るのである。つまり、ユダヤ・キリスト教の一神教の伝統によってもたらされたものと言えるのである。今日、リーマン崩壊で、同一性自己主義が崩壊・解体したのであり、ユダヤ・キリスト教的西洋文明が崩壊・解体したと考えられるのである。これは、少なくとも、二千年単位の大転換であり、さらに言えば、父権文明の崩壊・解体ということでは、四・五千年以上、一万年単位の超大転換である。問題は、単に、同一性自己(自我)を否定するのではなくて、それを支点にして、新差異共振性へと進展することなのである。ただし、同一性自己主義、同一性自己原理(自我主義)は否定される。コナトゥス(自己保存欲)は肯定されるのである。西洋文明を経由した新東洋文明の夜明けである。日本は、モダンを経由したプレモダンの復活であり、それがトランス・モダンである。


2009年03月14日(Sat)▲ページの先頭へ
PS理論に拠る、人類史(過去・現在・未来)最小チャート
今は簡単に触れるだけだが、PS理論の自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1によって、人類史が簡単に哲学的に説明できると考えられるのである。この視点があれば、どの歴史も簡単に読解できるようになるだろう。

       |+i
       |
       |
       |
       |
       |
-1______MP______+1
       |
       |
       |
       |
       |
       |-i


ただし、MPはMedia Pointである。

1)母権原理とは(+i)*(-i)⇒+1である。
左辺は、差異現象であり、右辺は、それに、同一性自己が投影された同一性=物質である。これは、アニミズム、シャーマニズム、多神教、女神宗教である。母権文化社会。

2.父権原理は、(+i)*[-(-i)]⇒-1である。
それは、+iが傾斜したもので、+1を差異共振現象から切断したもので、同一性主義=物質主義=同一性自己主義(自我主義)である。これは一神教、超越的人格神・男性神の宗教である。父権文化社会。

この二つの原理の交替や混淆が人類史と考えられる。最初は1であり、その次に、2であり、両者が混淆する。次に、2が支配的になり、1を排除する。これが父権文明である(3としよう)。そして、その後、父権文明の内部で、1の要素が復活する(4としよう)。たとえば、仏教や「イエス」教である。おそらく、イスラム教もそうではないだろうか(後記:これでは明らかに矛盾している。ここで言いたかったことはイスラム教は勿論一神教であるが、その実質においては、母権原理がはたらいているだろういうことである。予見では、イスラム教には、差異共振性が強いのである。ただし、一神教のために父権的ヒエラルキーをもっているのである。)。
 しかしながら、4は、3の権力に押さえつけられる(5としよう)。この5が現代である。
 そして、予言的に、この5が、内部の1の勢力によって、破壊されて、新しい1が生まれるだろう。

追記:一言大事なことを述べると、哲学史的に問題になったことだが、以上のような人類史チャートがあるなら、自然に進展するのであって、殊更、その進展に参与(コミット)する必要はないのではないかという意見が出てくるが、この人類史に深く関与しなければ、その個人は没落するということである。そういう意味である。キルケゴールがヘーゲル哲学を批判をしたこともここに関係する。つまり、抽象形式と特異性の問題である。
 抽象形式とは、構造であり、それは、死んだ形式である。生きた形式とは特異性に基づくものである。-1の抽象形式の人間は没落する人間であり、⇒+1の差異共振的人間が歴史を創るのである。    


記憶とは何か:Media Point における差異共振記憶と同一性記憶:PS理論に拠る創造的記憶論:ベルクソンの『物質と記憶』に触発されて
記憶の保存される場所は何処なのか。唯物科学ならば、それは、脳と言うだろうが、新イデア論であるPS理論はそういうわけにはいかない。
 具体直截に考えてみよう。例えば、今、「わたし」は車窓の景色を眺めているとしよう。その景色は、山間を流れる川である。いったい、それは、どこに記憶されるのだろうか。現象とは、根源的には、差異共振現象、即ち、⇒+1である。差異共振現象として「山間の川」があり、それは、それで同一性現象+1である。とまれ、知覚としては、差異共振知覚/同一性知覚が生じていて、それが記憶されると考えられる。
 差異共振/同一性知覚(⇒+1)は、当然、 Media Point が源泉である。これは、同一性像を投影するのであるが、この投影像が、同時に、知覚記憶するものではないだろうか。否、精緻に見ないといけない。投影像を見ている「本体」ないしは意識があると考えられる。これは、デカルトの「考えることを疑うことができない」と判断するコギトである。これは、先に述べたように、差異、特異性、他者である。つまり、同一性知覚に対する差異知覚である。
 この差異知覚が記憶する主体であると考えられる。すると、それは、当然、Media Point であるが、Media Point における内的他者・内的差異である-iであると考えられる。そして、これは、同時に、差異共振性そのもの、即ち、(+i)*(-i)である。言い換えると、Media Point の虚軸ゼロ点で記憶していることになる。もしこれが正しければ、これは画期的発見である。
 そう決める前に、実軸ゼロ点と記憶との関係を確認する必要がある。実軸ゼロ点とは、同一性志向性・同一性自己志向性の原点である。構造主義の構造が虚構される点である。これは、同一性像が投影される原点である。ここに記憶はないのか。そう、ここは、同一性自己意識の原点であり、同一性知覚の原点である。だから、投影された同一性像をここで知覚していると考えられる。すると、記憶はここにもあるのである。これも正しければ、これも画期的な発見である。
 上の二点が正しいとすれば、記憶とは、Media Point の二つのゼロ点で行われていることになる。即ち、同一性知覚と差異知覚の二つの知覚で記憶が起きているのである。前者の記憶、同一性記憶とは、物質記憶、事物記憶と言えようし、ほぼ、言語記憶と言えよう。それに対して、後者の記憶、差異記憶とは、差異共振記憶、いわば、芸術・詩・共感的記憶と言えよう。言い換えると、散文的記憶と詩的記憶である。
 結局、両者の記憶があり、それが、Media Point に蓄積されていると言えよう。(こう考えると、オカルティストの説くアカシック・レコードは単に夢想・妄想ではない可能性が強くなってきた。なぜなら、 Media Point とは、イデア構造体であるからである。)
 そう作業仮説して、ベルクソンの記憶論と関連させると、ベルクソンの説く記憶とは、主に、同一性記憶であると考えられる。なぜなら、行動・運動と密接に関係をもっているからである。ただし、持続、純粋持続という場合、そこには、 Media Point のエネルギーが入っていると考えられよう。そう、ベルクソンが知覚と物質との「連続性」を説くとき、それは、差異共振性を意味していると考えられる。(ベルクソンのいう「連続性」は、PS理論における連続性とは、かなり異なると言えよう。また、ベルクソンのいう「非連続性」も同様である。少し説明すると、ベルクソンの「連続性」とは、知覚とその延長としての物質との一種の連携性を意味するのであり、また、「非連続性」とは、同一性個体のこと、つまり、+1 のことである。)
 つまり、ベルクソンは差異共振性と同一性記憶とを混淆させているのである。つまり、PS理論的には、本来、不連続である両者を連続化させているのである。以前、ベルクソン哲学の連続性を批判したことがあるが、それは、正に、この点で証明される。
 関連させて言うと、ベルクソン哲学を「継承」しているドゥルーズ「哲学」について言及すると、それは、確かに、ベルクソン哲学の連続性に影響されているが、ベルクソン哲学にある持続に感じられる特異性と同一性との一種の区別がドゥルーズ「哲学」ではまったく消失してしまっていると考えられるのである。
 つまり、ベルクソン哲学は確かに、持続概念において、差異共振性と同一性を混淆させているが、それを単純に統一しているのではなく、両者の微妙な違い・ニュアンスを示唆しつつ、連続化させているのである。それに対して、ドゥルーズの場合は、その違い・ニュアンスをまったく喪失しているのである。
 さて、本題にもどると、ベルクソンの記憶論からPS理論の記憶論が展開できることになった。それは、創造的記憶論である。差異共振記憶こそ、創造の源泉である。これによって、創造が為されるのである。思うに、夢とは、この記憶を追究しているのでないだろうか。そして、天才たちは、この創造的記憶から天才的な作品を産み出しているのではないだろうか。
 では、それに対して、同一性記憶とはどう作用するのだろうか。これはたいへん重要なポイントである。もし、同一性記憶が不確定になると、差異共振記憶は曖昧になるのではないだろうか。言い換えると、同一性記憶が差異共振記憶に侵入・侵害されて、妄想、幻想、幻覚等が発生するのではないだろうか。いわば、精神病(うつ病やパラノイアや統合失調症等)の発生が考えられるのである。だから、創造的記憶とは、結局、同一性記憶と相俟って、真に、つまり、積極的に創造的になるものと言えよう。
 とは言え、逆に、同一性記憶を強調し過ぎると、当然ながら、創造的記憶が抑圧されて、創造性が枯渇するようになるだろう。日本の受験教育とはそのようなものである。
 そうすると、PS理論的創造的記憶論とは、創造的教育論にもなると言えよう。トランス・モダン・エデュケーションの基盤は、そこに見い出せるだろう。超越性と物質性との共振する教育が為されなくてはならないのである。理系と文系が融合するトランス・モダン教育である。
 とまれ、ベルクソン哲学は、先にも述べたように、トランス・モダン哲学の先駆の一つとして、位置づけることができるのである。


2009年03月13日(Fri)▲ページの先頭へ
「性」とは立心偏である:性理性の復権:性差異共振原理へ向けて
広辞苑から「性」の漢字検索をしたが以下の通りである(立心偏のところが文字化けしている)。
 今日、強調した意味が弱くなっている。性とは天性のことであり、魂や心魂である。PS理論では、個・差異・特異性、すなわち、Media Pointである。
 近代化が進み、性はほとんど3の意味になってしまった。性とは、言い換えると、精神身体である。これが、近代主義によって、心身二元論化されて、心と身体(物質身体)に乖離・分離・分裂されてしまったのである。
 プラトンのエロースは精神身体的なエネルギーであるが、それが、物質身体的・同一性身体的なエロスになったのはあまりに酷い皮肉である。
 繰り返すが、性は立心偏であり、心の性質のことである。そして、心とは精神身体である。

性 字形 筆順
〔心(忄・〓)部5画/8画/教育/3213・402D〕
〔音〕セイ漢 ショウ〈シャウ〉呉
〔訓〕さが

意味

1.天から与えられた心の本質。ひととなり。たち。さが。「性、温和なり」「性しようが合う」「性質・性情・天性・仏性ぶつしよう・根性こんじよう・性善説」〓仏教では「ショウ」とよむ。
2.物事の特質や傾向。「性能・酸性・公共性・急性肺炎」
3.身体的特質による男女・雌雄の別。男女・雌雄の違いから起こる本能の働き。セックス。「男性・中性・性欲・性教育」

解字
形声。「心」+音符「生」(=芽が地上に生え出る)。生まれつきの心の意。

下つき
悪性・異性・陰性・延性・蓋然性・仮性・苛性・可塑性・活性・癇性・感性・慣性・乾性・気性・急性・見性・剛性・個性・悟性・根性・酸性・自性・資性・磁性・湿性・習性・獣性・女性・心性・真性・神性・人性・水性・素性・属性・耐性・惰性・弾性・男性・知性・中性・通性・定性・適性・敵性・天性・展性・同性・徳性・特性・毒性・土性・軟性・熱性・粘性・脳性・品性・稟性・父性・賦性・仏性・物性・変性・母性・法性・本性・魔性・慢性・無性・野性・優性・有性・雄性・油性・陽性・理性・両性・劣性・矮性


カルデロン一家問題と国法と自然法:PS理論的解明:⇒+1と-1:差異共振原理と同一性主義原理
先にカルデロン一家問題を自己認識方程式からの説明を試みたが(以下参照)、国法が-1である説明は不十分である。
 直観では、国法は-1、自然法は⇒+1でいいのであるが、理論的な解明がまだ弱いのである。つまり、同一性自己主義の-1を適用しているのが弱いのである。
 結局、国家、つまり、父権的体制とは、哲学的には、差異共振原理を否定した同一性自己原理が基盤であると考えられる。それを説明・解明する必要があるのである。
 ここで父権神話を考えるといいだろう。何故なら、そこでは、本来差異共振原理(おそらく、性的陰陽原理:性的太極原理:造語して、性極原理)である女神(大女神・太母)を否定して、父権原理を体現する英雄が中心化されているからである。
 差異共振性を否定するのは、これまでの解明から、同一性志向性ないしは同一性自己志向性であり、+i傾斜である(原光傾斜)である。これが、善の原理となり、差異共振性が悪と規定されるのである。これが、二項対立原理・善悪二元論の形成である。
 そして、この同一性原理が国家の哲学的原理・形而上学的原理である。即ち、この同一性原理とは、+iという超越性が基盤にあるので、そのために二項対立原理とは、超越性を帯びるのである。言い換えると、絶対性を帯びるのである。だから、超越絶対的二項対立原理(同一性原理)である。(これは、一神教の原理そのものである。)
 ということで、本題にもどると、カルデロン一家に対する法務省・入国管理局の態度とは、この同一性原理を基盤にした国法に拠るものであり、根源的な差異共振原理・母権原理を否定しているのである。法体系で言えば、父権的法秩序に拠るだけであり、母権的法秩序であると考えられる自然法を無視している、一方的なものである。確かに、国法は同一性原理・二項対立原理から絶対性を主張するが、それは、父権原理がしからしめることであり、限定された「絶対性」に過ぎないのである。
 ということで、本題は解明された。先には、同一性自己主義を根拠としたので、不明瞭に見えたのであるが、同一性自己主義とは、同一性自己原理であり、当然、同一性原理なのである。いわば、言葉の綾で、見えにくくなったのである。
 だから、最初に述べた同一性自己主義を基盤にするという国法という考えは正論であったのである。この同一性自己原理が国家の原点にあり、国法・父権的法秩序の基盤にあるものなのである。これが、皇帝になり、独裁者になり、君主になり、支配者になるのである。そして、民主主義国家では、国家権力となるのである。
 この父権原理である同一性自己原理を解体する必要があると言えよう。そう、民主主義とは差異共振原理であり、それは、母権原理なのである。同一性自己原理=自我原理を介して、今や、同一性自己+1を媒介として、差異共振原理にらせん的回帰して、新民主主義、トランス・デモクラシーへと進展すべきトランス・モダン・エポックに突入していると言えよう。即ち、差異共振民主主義の時代である。いわば、差異民主主義、「差異民」主主義である。差異民が政治を創るのである。そう、差異共振民がトランス・モダン・ピープルである。差異共振民衆がトランス・モダン・コミューンを産み出すのである。

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カルデロン一家問題とソフォクレスの『アンティゴネー』:ディオニュソス⇒+1とアポロ±1
・・・・・

追記:法体系は同一性自己主義で-1であると上記したが、それは少し短絡的である。つまり、この場合は、入国管理法という日本国の法律があるが、それは、国家を同一性自己としたときには、同一性自己主義になるということである。つまり、国家を一人の人格・個体と見たときに、同一性自己と見ることができ、また、その法体系は同一性自己主義であると見なすことができる。
 あるいは、もっと根本的に、国法が善であり、それが二項対立形式となり、それに違反する者は悪であるということであり、国法が絶対的になって、国法以前に、いわば、不文律の母権原理法、そう自然法があるのを、認めていないのである。そう、自然法という根拠を提出すればいいのである。

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カレンダ
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