INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/03/12

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年03月12日(Thu)▲ページの先頭へ
カルデロン一家問題とソフォクレスの『アンティゴネー』:ディオニュソス⇒+1とアポロ±1
カルデロン一家問題は、テレビで見たが、やはり、法務省がおかしいと直感で思った。
 法体系と自然的人間秩序とが乖離していると考えられる。先に簡単に提示したが、法体系は、同一性自己主義で、-1であり、自然的人間秩序は差異共振秩序であり、⇒+1であると思う。(+1は、媒介である。)
 想起したのは、古代ギリシアのソフォクレスの『アンティゴネー』である。それは、国王クレオンによって、禁止された、兄の埋葬を妹のアンティゴネーは行うのであるが、国法に違反したということで、アンティゴネーは死刑になるという悲劇であるが、国王クレオンの法とアンティゴネーの「倫理」とが対立するのであるが、これは、正に、カルデロン一家問題に通じるだろう。
 法律は、善悪二項対立であり、PS理論的には、-1であろう。つまり、同一性自己主義である。そして、アンティゴネーの行動は、兄との差異共振原理に拠るものと考えられ、⇒+1である。つまり、同一性主義-1と差異共振主義⇒+1が絶対的に対立しているのである。
 法務省入国管理局は入国管理法-1を拠り所にして、不法入国したカルデロン夫妻、とその娘に強制退去処分をしたのである。しかし、それに対して、その処分に反対する声が大きいのである。それは、自然的人間秩序の隠れた「法」に拠ると考えられる。よく人道とか言われるが、それは、差異共振秩序であると考えられ、⇒+1である。
 だから、まったく、『アンティゴネー』と同型である。法律-1と差異共振秩序⇒+1の対立である。ここで、私見を言うと、法律は確かに法律であり、守る必要があるが、しかし、それは、同一性主義の法であり、絶対ではないのである。根本は、差異共振秩序である。だから、そのためには、法律は同一性主義価値を抑えて、理を差異共振秩序に譲るべきなのである。
 とまれ、ここにあるのは、父権原理と母権原理の衝突である。そして、根本は後者であるから、後者を基準とした法改正が必要であると考えられるのである。
 法体系は絶対ではないのである。国家原理は絶対ではないのである。自然的人間秩序・差異共振原理・母権原理が根源にあるのである。
 さて、本件のテーマを敷延すると、ニーチェのアポロとディオニュソスの関係に届くだろう。アポロは個別原理であり、ディオニュソスは対立和解の原理である。それは、当然、父権原理と母権原理とそれぞれ言い換えられるのである。
 思うに、ニーチェのアポロの把握が揺れ動いているだろう。現象としては、アポロは+1であるが、同時に、同一性自己主義としては、-1になっているのである。そして、ディオニュソスは当然、差異共振原理であるから、⇒+1である。だから、(1)ディオニュソス⇒(2)アポロ⇒(3)同一性自己原理の流れがあり、ニーチェは、(1)⇒(2)と(1)VS(3)の二つをいっしょくたにして、述べていると考えられるのである。
 一般には、わかりやすいので、後者の(1)VS(3)を理解しているが、前者の(1)⇒(2)、即ち、⇒+1は看過されている傾向にあると言えよう。
 今はここで留める。後で整理したい。

追記:法体系は同一性自己主義で-1であると上記したが、それは少し短絡的である。つまり、この場合は、入国管理法という日本国の法律があるが、それは、国家を同一性自己としたときには、同一性自己主義になるということである。つまり、国家を一人の人格・個体と見たときに、同一性自己と見ることができ、また、その法体系は同一性自己主義であると見なすことができる。
 あるいは、もっと根本的に、国法が善であり、それが二項対立形式となり、それに違反する者は悪であるということであり、国法が絶対的になって、国法以前に、いわば、不文律の母権原理法、そう自然法があるのを、認めていないのである。そう、自然法という根拠を提出すればいいのである。


参照:
アンティゴネー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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フレデリック・レイトン によるアンティゴネ

アンティゴネー(アンティゴネ)はギリシア神話 に登場するテーバイ の王女。父はオイディプース 、母はその妃で母親のイオカステー 。

父オイディプースが自分の出生の秘密を知り、目を潰した後、イオカステーの兄弟クレオーン に追放されると、妹イスメーネー とともに父に付き添って諸国を放浪した(ソフォクレス 『コロノスのオイディプス』を参照のこと)。父の死後、テーバイに戻ったが、兄の1人、ポリュネイケース は隣国の助けを借りてテーバイの王位を取り戻すべくテーバイに攻め寄せてくる(アイスキュロス『テーバイ攻めの七将 』)。しかし、闘いむなしく、テーバイの七つの門に攻め寄せた軍は悉く打ち破られ、ポリュネイケースは兄弟エテオクレース と相討ちで戦死。クレオーンは反逆者である彼の屍を葬ることを禁じるが、アンティゴネーは自ら城門を出て、市民たちの見ている前でその顔を見せて兄の死骸に砂をかけ、埋葬の代わりとした。そのため彼女は、クレオーンによって死刑を宣告された。アンティゴネーは牢で自害し、その婚約者であったクレオーンの息子ハイモンもまた自刃した。

アンティゴネーはギリシア悲劇の題材とされ、ソポクレス に『アンティゴネー』と題する悲劇が残っている。またジャン・アヌイ はクレオーンを主人公として、アンティゴネーの処刑の挿話を扱っている。(『アンティゴーヌ』)

アンティゴネーの悲劇は、兄への弔意という肉親の情および人間を埋葬するという人倫的習俗と神への宗教的義務と、人工的な法律 の対立から来るものである。ゲオルク・ヘーゲル は『精神の現象の学』の人倫(Sittlichkeit)の行において、アンティゴネを人間意識の客観的段階のひとつである人倫の象徴として分析している。


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カテゴリ : ギリシア神話の人物

17日の全員送還を通知 カルデロン一家 入管 両親の自主帰国求める


 強制退去処分を受けた日本生まれのフィリピン人カルデロン・のり子さん(13)=埼玉県蕨市立第一中学一年=の一家が在留特別許可を求めている問題で、九日に出頭した父親のアランさん(36)を強制収容した東京入国管理局は「十三日までに両親が自主的に帰国する意思を表明しなければ、十七日に家族全員を強制送還する」と通知した。

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 この相談のために、のり子さんと母親サラさん(38)の仮放免期限は十六日まで延長されたが、家族三人で日本で暮らしたいという願いは遠のいた。

 両親が強制送還されれば、原則五年間は再入国できない。

 森英介法相は、日本に残ったのり子さんに会うために短期間の上陸特別許可を出すことを提案したが、入管側は「自主的に出国しなければ、約束できない」と説明したという。

 アランさんは一九九二年、妻のサラさんは九三年、それぞれ他人名義のパスポートで来日、のり子さんが九五年に誕生。二〇〇六年に一家の不法滞在が発覚、強制退去処分を受けた。

 処分取り消しを求めて提訴したが、昨年九月に最高裁で処分が確定した。
『気の毒』『違法』 世論は二分 落とし所探る法務省

 カルデロンさん一家をめぐる問題で、法務省は、「気の毒」「不法入国は違法」という二つの世論を横目に落とし所を探ってきたとみられる。

 強制退去命令が出ている一家に対し、のり子さんのみの在留特別許可を認め、両親には再上陸のための短期間の上陸許可を事前に提案したのは「異例中の異例」(関係者)という。柔軟な姿勢を見せた、とする関係者もいる。

 しかし、一方で、ほかの不法滞在者への影響を考えれば「これ以上は譲らない」という強い姿勢を見せる必要があった。

 入国管理局は二〇〇四年から「不法滞在者五年半減計画」を実施、当初二十二万人だった不法残留者を48・5%減らした。〇七年には再入国外国人に指紋採取などを求める改正入管法を施行した。今国会には三年後導入を目指して、入管と行政が中長期滞在する外国人情報を一元管理するための法案を提出。新制度が始まれば、現在も約十一万人が残る不法滞在者には取り締まりが強化される。

 フィリピン人ののり子さんが在留特別許可を申請した場合、在留資格は法務大臣が個々に認めた活動に対して在留期間を判断する「特定活動」になる可能性が高い。高校進学では「留学」という資格もある。こうした措置で学業を、「上陸許可」で親子のつながりを、それぞれ将来も保てるようにするとみられる。
のり子さん『お父さん帰して』

 「すぐにでも、お父さんを帰してほしい」。東京・霞が関で記者会見したのり子さんは涙ながらに訴えた。

 アランさんは前夜、「収容されるかも」と話したという。のり子さんは「本当にそうなってほしくなかった。家族三人で残りたい気持ちは変わらない」と唇をかみしめた。代理人の渡辺彰悟弁護士は「今はどうするか決められない。三人での在留としか言いようがない」と話した。

 のり子さんは母国語を話せず、日本での勉強を希望。一家の在留特別許可を求める署名は約二万人分になり支援は広がっていた。

 外国人問題に詳しい山口元一弁護士によると、不法滞在の家族に在留特別許可を出す場合、強制退去処分を決めた時点で、子どもが母国になじめないと判断される中学生以上というのが入管の基準。のり子さんは小学五年で、そのまま強制送還されても母国になじめると判断したとみられる。

 山口弁護士は「今回の入管の態度は、その後、中学生になってもこの基準の変更を認めず、母国に帰すという意思の表れだ」と解説。「生活実態をみて処分を見直すことも可能なはずだ。子どもの発達にとって、言語や教育環境の重要さ、親子が同居する大事さを考えると、入管当局の態度はかたくなに過ぎる」と指摘した。

 在留特別許可 入管難民法で強制退去処分に該当しても、法相が特別な事情があると認めた時などに適用される。法務省は2006年に発表したガイドラインで、許可を出す際に考慮する要素として、国籍がある国で生活することが極めて困難な場合など、人道的配慮を必要とする事情があることを挙げている。

http://www.tokyo-np.co.jp
/article/national/news/
CK2009031002000047.html

自然法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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自然法(しぜんほう、英 : Natural law、独 : Naturrecht、羅 : lex naturae, lex naturalis)とは、事物の自然本性 (英 : nature、独 : Natur、羅 : natura)から導き出される法 の総称である。
定義 [編集 ]

自然法とは、事物の自然本性 から導き出される法 の総称である。明治 時代には、事物の性(さが)に合致する法 という意味で、性法(せいほう)という訳語も用いられた[1] 。自然法は実在するという前提から出発し、それを何らかの形で実定法秩序と関連づける法理論は、自然法論 と呼ばれる。自然法には、原則的に以下の特徴が見られる。但しいずれにも例外的な理論が存在する。

1. 普遍性:自然法は時代と場所に関係なく妥当する。
2. 不変性:自然法は人為によって変更されえない。
3. 合理性:自然法は理性的存在者が自己の理性を用いることによって認識されえる。

自然法の法源とその認識原理 [編集 ]

法源 [編集 ]

自然法の法源は、ケルゼン の分類に従うならば、神 、自然 ないし理性 である[2] 。ギリシャ哲学 からストア派 までの古代の自然法論 においては、これらの法源が渾然一体となっている。

法源としての神 [編集 ]

神 が人間の自然本性 の作り手として想定されるとき、自然法の究極の法源は神 となる。このことは理性 にもあてはまり、神 が人間に理性 を与えたことが強調されるときは、合理的な法としての自然法の究極な法源 もまた神 となる。この傾向は特にキリスト教 の自然法論 において顕著である。例えば、アウグスティヌス にとって、自然法の法源 は神 の理性 ないし意思 であった[3] [4] 。また、トマス・アキナス にとって、自然法とは宇宙 を支配する神 の理念たる永久法 の一部である[5] [6] 。

法源としての自然 [編集 ]

ここで自然 とは、自然本性 一般のことではなく、外的な自然環境のことである。外的な自然が自然法の法源となるのは、専ら外的な自然環境と人間の自然本性との連続性が強調されるときである。これはとりわけヘラクレイトスおよびストア派の自然法論において見られ、そこでは自然学と倫理学とが連続性を保っている。このような場合には、自然法則 と自然法がほとんど同義で語られることが多く、何らかの傾向性(例えば結婚は普通雌雄で行われることなど)が自然法とされることもある。

自然法とは、自然 が全ての動物に教えた法 である。なぜなら、この法 は、人類のみに固有のものではなく、陸海に生きる全ての動物および空中の鳥類にも共通しているからである。雌雄の結合、すなわち人類におけるいわゆる婚姻は、実際にこの法 にもとづく。子供の出生や養育もそうである。なぜなら、私が認めるところによれば、動物一般が、たとえ野獣であっても、自然法の知識を与えられているからである。---学説彙纂第1巻第1章第1法文第3項[7]

人間の自然本性 を理性的であると解する立場から見れば、理性 もまた自然法の法源となる。特に理性 を自然法の法源として独立させたのは、近世自然法論者たちである。彼らは自然法を正しい理性 の命令と定義して、神的な要素をそこから取り除いている。純粋に理性 が自然法の法源 となるときには、自然法は実定法 以外の合理的な法を意味する。この特徴はとりわけホッブズ に見られ、彼は自然法を、単に人間が合理的に思考し、その自然本性 としての死への恐怖にもとづいて意思が受け入れるであろう法 と解している。

自然法の認識原理 [編集 ]

自然法の法源 が制定法 や判例法 でない以上、その認識 手段が常に問題となる。基本的に、自然法の認識原理は、その法源の種類にかかわらず理性であると言われる。すなわち、自然法が超自然的な存在によって作られたものであろうとなかろうと、それを発見するのは人間の理性である。理性 が人間の自然本性 である以上、合理的思考は自然法の認識にとって不可欠となる。ストア派 にとって倫理学は論理学と自然学の上に成り立つものであり、密接不可分である[8] 。

義務 は次のように定義される。「生における整合的なことで、それが実行されたときに合理的に説明されることである」。これとは反対のことは義務 に反することである。これは、非ロゴス 的な動物 にも及ぶ。なぜなら、それらも、それ自身の自然本性 と整合的な何らかの働きをしているからである。理性 的な動物の場合は、次のように説明される。「生における整合的なこと」。---ストバイオス『抜粋集』第2巻7-8[9]

これに対して、自然法が人間には直接的には認識不可能であるという立場からは、何らかの補助手段を用いることが要求される。その場合、キリスト教 の自然法論 は、神からの啓示 を重視する。それは、専ら新約聖書 および旧約聖書 から得られる指図である。典型的な啓示 は、モーセ の十戒 である。

自然法とその他の法との関係 [編集 ]

慣習法との関係 [編集 ]

既に初期ストア派 のクリュシッポス が、ノモス (慣習)とピュシス (自然本性)を対置し、後者を前者に優位させる[10] 。ローマ・ストア派 の思想に影響されたキケロ は、自然法の法源を理性 に求めながら次のように述べている。

次はもっとも愚かな見解である。すなわち、国民の習慣や法 によって定められていることはすべて正しいと考えることである。僭主 の法 でも正しいのか。…(中略)…人間の共同体を一つに結びつけている正しさは一つであり、それを定めたのは一つの法 であり、この法 は命じたり禁じたりする正しい理性 だからである。この法 を知らないひとは、この法 の書かれているところがどこかにあろうとなかろうと、不正な人である。---キケロ『法律について』第1巻42[11]

トマス・アキナス は神 の意思を自然法の法源としながら、次のように述べる。

自然法ならびに神法 は神的意志から発出するものであるから、人間の意志から発出するところの慣習によっては改変されえないものであり、ただ神的権威によってのみ改変されることが可能である。したがって、いかなる慣習といえども神法 や自然法に反して法 たるの力を獲得することはできない。---第2部の1第97問題第3項[12]

グロチウス は自然法と万民法 とを区別しながら[13] 、万民法 とは「時代と慣習の創造である」という[14] 。

これに対して、歴史法学派 のカール・フォン・サヴィニー は、自然法を各民族について相対化しながら、自然法と慣習法 とをかなり接近させる[15] 。

実定法との関係 [編集 ]

自然法と実定法 との関係には主に2種類あり、ひとつは授権関係、ひとつは補完関係である。前者の場合、自然法は実定法 に対する授権者となり、自然法に反する実定法 は原則的に失効する。但し、正当な理由があるときには、この限りでない。正当な理由としては、堕落した人類は自然法上の義務を完遂できないことなどが挙げられる。他方で、後者の場合、自然法は実定法 が欠缺している領域を補うことになり、その最も重要な適用領域は、国際関係とされていた。これは、特に近代において、国際関係を規律するルールが非常に多くの点で整備されていなかったからである。今日においては、非常に多数の国際条約 が締結されており、必ずしもその限りではないが、学説上、自然法の復権を訴えるもの[16] も中には見られる。

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検討問題:時間あるいは生長・成長とは何か:エネルギー⇒と同一性自己認識-1と物質+1:Ver2:追記を加える
先に、同一性主義-1(同一性自己主義と物質)と差異共振的同一性+1(差異共振知覚ともの)との相違の説明を試みたが、そうすると、結局、自然現象の生長・成長とはどういう「力学」なのだろうか、疑問に思った。言い換えると、PS理論的発生力学をどう考えるのか、ということである。
 今日は余裕がないので十分論じられないが、簡単に考察してみたい。結局、本件は、⇒+1をどう見るか、ということに懸かっている。
 いったい、時間とは何だろうか。生まれ、育ち、成長し、子孫を残し(残さないものもいるが)、そして死ぬ、この生成消滅過程を形成するエネルギー、時間は何なのか。
 Media Pointの差異共振性(+i)*(-i)は超越情報振動である。この多重複合体(多重複合子と造語しようか)の現象化が⇒+1と考えられる。
 問題は現象化と物質化との違いである。+1は差異共振的同一性化であり、物質化ではないと先に述べた。しかしながら、また、疑問に思えてきた。
 先の言い方にもどれば、現象としての水は「もの」+1であるが、H20 は、物質-1としての水である。しかしながら、「もの」+1としての水に物質-1としての水が含まれるのではないだろうか。あるいは、「もの」に物質が包摂されるのではないだろうか。
 つまり、+1⊃-1ではないだろうか。そう、-1は+1の部分集合ではないだろうか。そうならば、物質-1は「もの」+1にも存しているのである。ただし、差異共振態における物質ということになろう。しかしながら、差異共振態にある物質とは、物質-1ではないのである。つまり、それは、端的に、+1だからである。「もの」である。
 錯綜しているので、区別する必要がある。同一性主義自己認識は、-1でいい。問題は、⇒+1と+1である。前者はいわば、差異共振性の文脈を明示した物質と考えられないだろうか。つまり、現象内の物質ということであり、現象という条件があるのである。
 後者は現象という条件をなくした物質ということになる。そして、それは、-1の同一性主義自己認識性と対(つい)になっているということになろう。
 つまり、-1の同一性主義自己認識が⇒+1の⇒を奪い取ってしまうということになる。それは考えられることであり、直近以前はそう考えてきたのである。
 ということで、先に戻ることになる。そして、本題に戻れば、成長とは、やはり、端的に、⇒+1であり、物質身体が+1で示されるのである。
 では、時間はどうなるのだろうか。アインシュタインの公式で考えると、E=mc^2であり、光速cに時間が存している。つまり、エネルギーは質量(物質)だけでなく、時空間を生むのである。これをMedia Pointに適用すれば、⇒が時空間や物質を形成しているとなる。だから、成長もやはり、同様である。【PS 理論から言えば、Trans-Energy(超越エネルギー:超越光エネルギー)=m(+ic)*(-ic)⇒mc^2である。だから、高次元界=超越界(イデア界)が、四次元時空間現象を形成しているのである。そう、+icと-icの対極の意味するものが驚異的である。原光と原闇、ないしは、超光と超闇が、高次元時空間・超時空間を形成しているのである。そう、そこにも、なんらかの時空間があると思われる。現象界からは永遠と見られているが、超越的時空間があると考えられよう。思うに、そこには、過去、現在、未来のヴィジョンがあるのではないだろうか。つまり、オカルティストの言うアカシック・レコード(アカシャ年代記)がそこにはあるのではないだろうか。この問題はここでおいておく。】
 個々の生命体の違いは、Media Pointにおける多重複合振動子の「差異」に拠ると考えればいいだろう。今はここで留める。

追記1:用語が混乱するので、+iを超光、-iを超闇とする呼び方はやめにして、これまで通り、それぞれ、原光、原闇とし、両者の共鳴によって超越光(超光)が生まれるとする。後で、超越光から光の発生の力学を明確にしたい。

追記2:本件の問題はこれからさらに検討されなくてはならないが、一言付け加えると、⇒+1は精神身体(気的身体)であり、+1は物質身体であり、東洋医学は前者を扱い、西洋医学は後者を対象としていると言えよう。
 そして、両者は似て非なるものである。というのは、前者には、Media Pointの精神エネルギーが物質身体を満たしている、ないしは、浸透しているのであり、それが、物質身体を主導していると考えられるのである。いわば、霊主体従である。【このように考えると、ルドルフ・シュタイナーの人体論を想起する。エーテル体が気的身体(精神身体はそれ以上である)、物質体が物質身体となろう。】
 問題は、精神エネルギーと物質身体との関係ないしは境界である。当然、境界はMedia Pointであり、精神身体である。ヨガのチャクラや道教の丹田や気功のツボや経絡がそれに相当しよう。
 思うに、人体に垂直にあると考えられる精神身体であるが、それは、Media PointないしはMedia Point軸と言えるのではないだろうか。(頭脳が±1であり、内臓が⇒+1ではないだろうか。この点は検討課題である。)
 とまれ、より理論的に境界の様相を考えたい。結局、精神身体とは、精神は物質であり、且つ、物質ではないという身体ではないだろうか。だから、即非身体である。より正確に言えば、精神エネルギーの同一性化があるが、この同一性身体に背後に精神エネルギーがあるのである。しかし、物質主義は、この同一性身体を単に物質身体と見るのである。同一性身体とは、この場合、⇒+1の身体である。そして、物質身体とは、当然、+1の身体である。
 だから、明晰にするために、前者を精神同一性身体、後者を物質同一性身体と呼び、峻別することができるだろう。(当然、東洋的身体とは前者であり、西洋的身体とは後者である。)言い換えると、前者は差異共振身体であり、後者は同一性自己主義身体(心身二元論的身体)である(後者においては、本文で述べたように、+1の物質身体と-1の同一性自己主義が対応・呼応しているのである。)。
 両者の違いをさらに言い換えると、前者はMedia Point Body(MP身体)、後者はMaterial/Identity Body(物質・同一性身体)と呼べよう。あるいは、東洋的身体は虚軸即非実軸身体であり、西洋的身体は実軸身体である。
 端的に言えば、西洋近代文化はメインストリームにおいて、物質・同一性身体(心身二元論)を対象としてきたのであり、Media Pointを抑圧・排除・隠蔽してきたと言えよう。
 しかしながら、それとは別に、Media Point身体を追求してきたのであり、これは、トランス・モダンの先駆である。そう、西洋文化における東洋的身体文化はすぐれたものである。たとえば、バッハ音楽は、東洋的身体文化であると考えられるのである。つまり、近代西洋文化は二重なのである。モダンと先駆トランス・モダンの二重性が存しているのである。この点は看過されてはならない。西洋における東洋である。


参考:アカシャとは、虚空、空(くう)である。これは、PS理論から言えば、Media Pointの虚軸ゼロ点ではないだろうか。ここで、虚軸=超越界=イデア界が参入できるだろう。「秘儀参入」である。

アカシックレコード
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アカシックレコード (Akashic Records) は、宇宙や人類の過去から未来までの歴史全てが、データバンク的に記されているという一種の記録をさす概念。多くの場合、宇宙空間それ自体にその(一種の)記録がなされると考えられており、アカシャ (Akasha) とはサンスクリットで「虚空」、「空間」を意味する。

神智学(あるいは人智学)やリーディングの伝統(チャネリング)などでは精神的に目覚めた人は、この記録から、意のままに過去や未来の情報を引き出すことができるようになり、そして自己の人生の意義や存在の理由がわかるとされる。多くの預言者や神秘家がこれにアクセスし、予言として世に伝えてきたとされている。

この概念の類似概念は極めて古くから見られるが、直接にこの語が使われるのはインドに本拠地をおいた神智学協会の創始者ブラヴァツキーの主張に始まると見られる。ドイツの神秘思想家ルドルフ・シュタイナーは、後の人智学協会の神智学協会からの独立の過程でアカシャ・クロニクル(アカシャ年代記。この英訳語がアカシック・レコード)の概念を高度に体系化し、派生的な様々な影響を与えた。倫理の源泉としての死後の実在の観念が社会的に揺らいだ時期である19世紀末ごろには複数の人物が、同時多発的に類似の概念を提唱している。少し前後してイギリスの心霊科学研究で、場所の記憶をめぐる説明概念である「残留思念」が提唱されている。残留思念はその元にルヴナンやアッパリッションの概念があり、日本でいう幽霊を指す言葉だが、「往来するもの・思い起こさせるもの」の意味があり、キリスト教の死者の霊魂は地上から去るという教理と幽霊の伝承の狭間で展開した民間伝承を継承している。 シュタイナーの初期のアカシャ年代記(AKASHA.CHRONIK)の概念にも、この観念の影響が見られ、シュタイナー初期のアカシャ年代記とは生物や万物の生成の背後にあるとするエーテル体の残滓・痕跡を意味しており、必ずしも未来の記録を含む概念ではない。また、この概念は哲学者ベルグソンの哲学にも類似性がみられる。これらの観念はギリシア哲学に発しアラブで発展した生気論(特にアル=キンディー)の中に多くのアイデアを見出すことが出来る。これらの生気論では、生物のみならず鉱物や世界までもが固有の生気=霊魂=プネウマを持つと考えられた。

後にアカシックレコードの概念はエドガー・ケイシーの名前と共に知られるようになる。現在、人智学、チャネリング、リーディング、あるいはクトゥルー神話に代表されるサブカルチャーのガジェット等、様々な文脈において発展を見せており、必ずしも一様な概念ではない。

虚空蔵菩薩はアカシックレコードを擬人化したものではないか、という説がある。

関連項目 [編集]

* 神智学
* ルドルフ・シュタイナー
* エドガー・ケイシー
* ゲリー・ボーネル
* アカシャ年代記より
* 宇宙完全大百科
* ポーソロゴスの図書館

参考文献 [編集]

* ルドルフ・シュタイナー 『神智学概論』(原著1910年、高橋巌訳 筑摩書房)
* ほか

カテゴリ: 超常現象 | ニューエイジ | 神智学

アーカーシャ
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(アカシャ から転送)
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字引的
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アーカーシャ(Akasha、アカシャ、阿迦奢)はサンスクリットで「虚空」「空間」「空(そら)」を意味する言葉であり、インドの五元素のひとつである。西洋の近代オカルティズムではしばしばエーテルと同一視される。

インド哲学の用語としては「虚空」(きょくう、こくう)と訳される。または仏教用語のシューニャと同じく「空」(くう)と訳される。『ウパニシャッド』においてはアートマンとされたが、ヤージュニャヴァルキヤは「風」・「空」・「ガンダルヴァ」・「太陽」・「月」・「星」・「神」・「インドラ」・「プラジャーパティ」・「ブラフマン」を包摂するもの、すなわち存在の一切を統括する法則とした。

関連項目 [編集]

* アカシックレコード
* タットワ
* 虚空蔵菩薩


カテゴリ: 字引記事 | 宇宙



検討問題:時間あるいは生長・成長とは何か:エネルギー⇒と同一性自己認識-1と物質+1
先に、同一性主義-1(同一性自己主義と物質)と差異共振的同一性+1(差異共振知覚ともの)との相違の説明を試みたが、そうすると、結局、自然現象の生長・成長とはどういう「力学」なのだろうか、疑問に思った。言い換えると、PS理論的発生力学をどう考えるのか、ということである。
 今日は余裕がないので十分論じられないが、簡単に考察してみたい。結局、本件は、⇒+1をどう見るか、ということに懸かっている。
 いったい、時間とは何だろうか。生まれ、育ち、成長し、子孫を残し(残さないものもいるが)、そして死ぬ、この生成消滅過程を形成するエネルギー、時間は何なのか。
 Media Pointの差異共振性(+i)*(-i)は超越情報振動である。この多重複合体(多重複合子と造語しようか)の現象化が⇒+1と考えられる。
 問題は現象化と物質化との違いである。+1は差異共振的同一性化であり、物質化ではないと先に述べた。しかしながら、また、疑問に思えてきた。
 先の言い方にもどれば、現象としての水は「もの」+1であるが、H20 は、物質-1としての水である。しかしながら、「もの」+1としての水に物質-1としての水が含まれるのではないだろうか。あるいは、「もの」に物質が包摂されるのではないだろうか。
 つまり、+1⊃-1ではないだろうか。そう、-1は+1の部分集合ではないだろうか。そうならば、物質-1は「もの」+1にも存しているのである。ただし、差異共振態における物質ということになろう。しかしながら、差異共振態にある物質とは、物質-1ではないのである。つまり、それは、端的に、+1だからである。「もの」である。
 錯綜しているので、区別する必要がある。同一性主義自己認識は、-1でいい。問題は、⇒+1と+1である。前者はいわば、差異共振性の文脈を明示した物質と考えられないだろうか。つまり、現象内の物質ということであり、現象という条件があるのである。
 後者は現象という条件をなくした物質ということになる。そして、それは、-1の同一性主義自己認識性と対(つい)になっているということになろう。
 つまり、-1の同一性主義自己認識が⇒+1の⇒を奪い取ってしまうということになる。それは考えられることであり、直近以前はそう考えてきたのである。
 ということで、先に戻ることになる。そして、本題に戻れば、成長とは、やはり、端的に、⇒+1であり、物質身体が+1で示されるのである。
 では、時間はどうなるのだろうか。アインシュタインの公式で考えると、E=mc^2であり、光速cに時間が存している。つまり、エネルギーは質量(物質)だけでなく、時空間を生むのである。これをMedia Pointに適用すれば、⇒が時空間や物質を形成しているとなる。だから、成長もやはり、同様である。【PS 理論から言えば、Trans-Energy(超越エネルギー:超越光エネルギー)=m(+ic)*(-ic)⇒mc^2である。だから、高次元界=超越界(イデア界)が、四次元時空間現象を形成しているのである。そう、+icと-icの対極の意味するものが驚異的である。原光と原闇、ないしは、超光と超闇が、高次元時空間・超時空間を形成しているのである。そう、そこにも、なんらかの時空間があると思われる。現象界からは永遠と見られているが、超越的時空間があると考えられよう。思うに、そこには、過去、現在、未来のヴィジョンがあるのではないだろうか。つまり、オカルティストの言うアカシック・レコード(アカシャ年代記)がそこにはあるのではないだろうか。この問題はここでおいておく。】
 個々の生命体の違いは、Media Pointにおける多重複合振動子の「差異」に拠ると考えればいいだろう。今はここで留める。


   




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カレンダ
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