INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/03/10

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年03月10日(Tue)▲ページの先頭へ
古代日本における原日本母権文化と大陸父権文化の衝突と習合:トランス・モダン倭国母権原理
以下、「東海」氏の独自日本古代史が述べられているが、朝鮮系の支配者とそれ以外の縄文・弥生時代の原日本人の被支配者の二元論史(「階級闘争」を示唆する)が述べられている。これは、二項対立思想で短絡的である。二項対立は、父権原理の発想なのであるから、「東海」氏は、自己矛盾を犯していると言える。だから、結論が人情主義・農業共同体主義になり、知性文化が消失してしまうのである。
 管見では、原日本の母権文化と大陸系の父権文化の衝突が古代日本に起ったのであり、そこに日本の原型が生まれたと考えられる。
 これは、古代ギリシアの場合と似ていると私は考えている。基底の母権社会に、父権的な遊牧民族が到来して、激しく衝突して、混淆したと考えられる。その痕跡がギリシア神話に残っていると私は考えている。日本では、記紀神話にその痕跡があると言えよう。
 問題は、二元論ではなく、母権文化だけでは、科学・技術は発達しなかったと考えられるのであり、父権文化は、発展のためには、必須であったと言えよう。
 ただし、両文化の二重性が近代以前までは日本にあったが、明治近代化、そして、戦後の米国主導的近代化によって、日本は根無し草になり、父権文化が中心に社会・文化が形成されてきたと思える。
 そう、父権文化の同一性自己主義と母権文化の差異共振主義の両面が本来、日本文化にはあるが、後者が喪失され、忘却されてきたのである。
 そして、今や、トランス・モダンとして、蘇りつつあると言えよう。そう、原日本母権文化という基層への回帰ではあるが、しかしながら、父権文化の同一性自己を経由したものである。
 単に、基底に回帰するというのは、反動である。

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★ 2009年03月10日火曜日 11時半更新

・・・・・

● 筆者は、袴と呼ばれるズボンが、1500年ほど前に百済王国が国ぐるみで日本列島に移住してきたときに乗馬文化とともに持ち込まれたものだと指摘してきた。
 僧・雲水の常用着は作務衣で、これもズボンだ。この原型が武人埴輪などでズボンとして表現されていることもある。これらの起源は、すべて乗馬の必要から生じたもので、長時間乗馬するときに、馬腹のこすれから内股を守るためのものであった。同時に鐙や沓が成立したことも見ておく必要がある。ミズラ結いでさえ、乗馬による髪乱れ対策として成立したものだろう。
 こうして、ズボン・鐙・沓、そして乗馬戦闘のスタイルから槍や直剣が用いられたわけだが、これらは、すべて朝鮮半島経由で日本列島に馬が持ち込まれた3世紀以降のものであることを知っておかねばならない。それ以前では、ズボン・ブーツなどの文化など日本列島には存在しなかった。

 2500年前に有明海に上陸した呉国人たち、すなわち弥生人は、持ち込んだ稲作農作生活文化にあって、湿地帯・水田における農作業に適した裾紮げのできる呉服(和服→着物)を着用したのであって、古代人を一元化して、弥生遺跡にズボンをはいてミズラを結った古代人が農耕しているような描写は、とんでもない間違いだと指摘してきた。馬に跨るのでなければ、どうして複雑な縫製技術を必要とするズボンなど必要があろうか。

 それほどまでに、百済王国が日本列島に持ち込んだものは、この国の文化、生活様式を根底から変えるものだった。それ以前の弥生人たちは基本的に被搾取、奴隷的立場の農耕民となり、呉服以外を着ることはなかった。しかし、百済の民は乗馬し、強力な武器を用い、弥生人たちを武力で圧倒し日本列島を制圧したのだ。
 だから百済人たちの末裔は、すべて袴というズボンをはく武家階級になった。そして、天皇を作った秦氏は、若狭に上陸し、継体とともに近畿にやってきた扶余・百済の民である。作務衣を着る僧たちもまた百済人の末裔であり、武士・僧・天皇の特権階級は、すべて百済王国から持ち込まれたものであり、まだ穢多・非人の被差別階層までも百済由来である。日本という地名でさえ、朝鮮任那の日本府からとられて日本列島に対してつけられたものだ。秦氏たちが日本と名付けるまで、この地は倭であった。

 若狭に上陸した秦氏たち渡来人(百済王国人)は、琵琶湖東岸に住み着き、次に大津から京都の湿地帯を埋めて京都の街を成立させた。
 そうして大和地方に足を伸ばし、天皇支配を構築したのだ。だから、天皇家は日本生まれではなく、朝鮮、百済王朝の末裔である。いわば、彼等の正体は朝鮮人と断じてもよい。
 その証拠は、若狭〜大津〜京都の人たちの民族的特徴が、女真族・扶余族・朝鮮族と完全に一致することであり、ツングース顔貌、細長い切れ長の目、乾燥した耳垢、強力な蒙古斑、スラリとした体躯、長頭型頭蓋、A型優位血液型など、ちょうど浅田真央とキムヨナをイメージすればよいし、平成天皇もまた完全な百済顔貌と言えよう。
 日本の優れた芸能人・スポーツ選手の多くが朝鮮人末裔であることは、彼等の能力がいかに高いかを物語っている。

 彼等は、聖徳太子以来、日本の支配階級を独占し続けているといってよいだろう。彼等は着物の民族ではない。神道を奉じる(古代神道は仏教と習合していた)ズボンと沓の民族なのだ。水田農耕の人ではなく、畑作と乗馬の人なのだ。そして強力な軍事戦闘能力を持ち、あらゆる反対者を駆逐し、日本列島の支配者として君臨し続けてきたのだ。
 秦氏は、大和朝廷を独占制圧し、源平藤橘に代表される武家階級となり、政権の対立者たちは関東に向かい板東武者となった。関東周辺は秦氏の開拓した土地である。すなわち、関東は百済王朝の末裔の土地である。天皇が京都から東京に転じた理由も、そこにあった。百済の地は滋賀県・京都府以外では関東周辺なのだ。

 以来、1500年にわたって、百済の末裔が日本列島の支配者となった。中国、呉の人たち(弥生人)や先住民、縄文人たちは政権から遠ざけられ、被搾取農民としての地位以外与えられていない。その事情は、たった今、現代にあっても同じことで、長州(百済植民地)官僚の子孫が自民党中枢にいて政権を独占し続けてきた。明治天皇にすり替わった大室寅之祐の出身地、田布施町から伊藤博文以来、岸・佐藤・橋本・安倍などが出ている事情を推察すればよい。
 弥生人や縄文人の末裔が政権を得ることなどありえないのだ。この意味で、小沢が首相になることはできない。日本のエスタブリッシュメントは、すべて百済由来でなければならず、他の人々が特権階級に躍り出ることがあっても、ただちに陰謀に陥れられ、抹殺する仕組みになっているのだ。そうしたシステムは、トーマス・グラバーが持ち込んだフリーメーソンによって作り出された。

 この日本は、朝鮮人の支配する王国であり続けている。戦前、朝鮮侵略併合を意図した陸軍統制派でさえ、朝鮮人を三国民と蔑視しながら、自分たち自身が実は朝鮮人の末裔に他ならなかった。大東亜共栄圏を標榜し、五族共和を掲げた中心の北斗、天皇家そのものが、実は朝鮮王朝の末裔に他ならなかった。それは、まさしく日本列島を朝鮮民族支配下に置くものであったのだ。
 そうした傲慢な侵略を意図した彼等が、自らの出自を知らずに朝鮮人を蔑視しようとしたのは、実に滑稽な喜劇であった。そして、今また、同じ喜劇を飽きもせずに演じようとする人たちが出現している。

 カルデロン一家を不法滞在と決めつけ、人情を無視して日本から実力で追いだせと主張する人々、外国の貧しい労働力を禿鷹のように利用し、都合が悪くなるとゴミのようにポイ捨てする企業、役人たち。日本の特権階級は、貧しい外国移民を骨髄まで利用して金儲けに邁進してきた。そうしておいて、少し都合の悪い事情が生じると、叩き出そうというのか? 貧しい家族の不幸な嘆きに同情することもできないで、「不法移民だから叩き出せ」と主張するクズどもが、当掲示板にすら出没するようになった。 朝鮮だろうが、ブラジルだろうが、みんな我々と同じ人間であって、同じ人情で生きているということが理解もできないクズどもだ。筆者は、こんな馬鹿野郎どもを許すことができない。

 朝鮮人を蔑視するならば、まずは天皇家と日本支配階級を追放しなければならないことが理解できないほど無知な連中なのだ。日本という国も民族も、実はわずか千年・二千年前に朝鮮・中国などから移住してきた人たちによって成立したものであり、これからも、どんどん入れ替わり、ただ、この地に住む人々を日本というだけの本質だと理解できない愚か者たちなのだ。

 人間に人種の差などない。そこにあるのは大地と人間の営みだけだ。 この社会に必要なものは愛国心などという屁理屈や妄想ではない、大地と人を愛する人情だけだ! 人情なき者は失せろ!
http://www1.odn.ne.jp
/~cam22440/yoti01.htm
東海アマチュア無線  地震予知研究会


自己認識方程式の諸要素の説明:+i, -i, +1, -1, *, ⇒(Media Point)
PS理論の中核である自己認識方程式、即ち、(+i)*(-i)⇒+1はKaisetsu氏が定式化したものであり、他に、オイラーの公式を活用したものがあるが、
http://theory.platonicsynergy
.org/?eid=553149
これがいちばんシンプルであり、わかりやすい。
 さて、これまで、この数式を用いて、PS理論を説明し、また、活用してきたが、先に+iと-i 等について考察したが、http://ameblo.jp/renshi
/entry-10220541749.html
まだ、整合性がない部分があるので、ここで整理したい。
 
+i とは、原同一性自己志向性認識である。それは原言語認識性でもある。

-i とは、原差異・原他者である。

+1 とは、原同一性自己と原差異が共振して、同一性現象であるが、これを物質と区別して、「もの」と呼ぶ。説明すると、(+i)*(-i)という差異共振状態から、エネルギーが放出されて、+1が形成される。これは、端的に言えば、眼前に見える、赤レンガのタイルを張った建物の知覚である。赤レンガの建物は、まだ物質ではなく、知覚においては、「もの」である。
 
-1 とは、原同一性自己志向性の傾斜によって生起する原他者・原差異を抑圧した、同一性自己主義とそれが知覚する対象である。即ち、これは対象的には、物質である。

* は、共振・共鳴を意味する。

⇒は、Media Pointと見ていいだろう。超越的根源から現象性へと転換する変換点である。ここは、不連続な変換点であり、超越性と現象性はまた即非性をもつのである。

 特に、+1と-1の解明が今回、新しいので、さらに説明しよう。
 私は自然現象とはこれまで、本来、差異共振現象であると述べてきた。それが、自己認識方程式に端的に明示されている。左辺がいわば、プロト差異共振様相であり、右辺が結果の差異共振現象である。
 たとえば、「わたし」+iと「赤レンガの建物」-iがあるとしよう。両者は、知覚発生的には、初期においては、共振・共鳴するのである。そして、その知覚の結果、「わたし」は眼前に「赤レンガの建物」を見るのである。見る「わたし」と見られる「赤レンガの建物」は、両者+1である。そして、後者は「もの」であり、物質ではない。ここがポイントである。
 ここの差異共振現象においては、即非関係が成立しているのである。「わたし」は「赤レンガの建物」であり、且つ、「わたし」は「赤レンガの建物」ではないのである。あるいは、「わたし」と「赤レンガの建物」は不可分であるということになる。これが、根源的な現象知覚様態である。これは、初期母権的知覚様態とも呼べよう。
 しかるに、父権的な同一性自己傾斜が入ると、差異共振性や+1が解体するのである。つまり、+iが-iよりも優位にあるために、+iは-iを否定してしまい、抑圧・排除・隠蔽するのである。これは、(+i)*[-(-i)]⇒-1、ないしは、(+i)^2=-1で説明できるのではないだろうか。
 ここで留意すべきは、父権的傾斜が入る以前は、男子においても、差異共振性が本来存していることである。それは、双子の神話で確認できるのではないだろうか。
 そして、差異共振性(母権原理)の後で、男子には、父権的傾斜、即ち、同一性自己傾斜(言語認識傾斜:数量傾斜)が入ると考えられる。この父権傾斜は、源泉の差異共振性(母権原理)に対して、劣等感と同時に優越感を抱くのではないだろうか。(これまで、単純に劣等感だけを指摘したが、同時に、劣等感と優越感を抱くのではないだろうか。これは、検討課題である。)
 とまれ、父権的傾斜によって、原他者・原差異の-iは否定されて、差異共振性が抑圧されて、対象の「もの」は、同一性主義化されると言えよう。つまり、物質化されるのである。たとえば、「もの」である水が、H20と記述されるのである。これは、端的に物質である。
 そして、当然ながら、同一性主義化(同一性自己主義化)は、近代合理主義・近代的自我が極北である。
 これで、同一性と差異の問題がかなり明晰になったであろう。これまで、私は同一性=物質として、それを、+1としてきたが、そうすると、同一性自己主義の-1と区別がつかなくなる不整合が生じていたのであるが、この問題がクリアされたのである。
 思うに、この+1と-1との区別が明確明晰になったことにより、PS理論だけでなく、哲学の問題がクリアになったと考えられるのである。フッサールが還元する対象にした自然的態度とは、-1の同一性自己主義=言語認識的自己でああり、自然を物質と見る心的態度であると言えよう。
 また、ベルクソン哲学の記憶や持続(純粋持続)とは、フッサールと似て、⇒+1にすればいいと考えられる。ベルクソンのいう物質であるが、それは、正に、-1とすれば、ベルクソン哲学はその二元論性から脱却して、極性論となるだろう。というか、PS理論からベルクソン哲学が実に明快明晰に説明できると考えられるのである。ただし、ベルクソンは、差異共振性までは達していなかったと考えられる。ただし、特異性はそれなりに把握していたと考えられる。
 確かに、ベルクソンはフッサールに似ているが、しかし、フッサールの方が、無意識においては、差異共振性にまで到達していたと思われるのである。そう、後期フッサールの生活世界の概念であるが、それは、正に、「もの」の世界であり、差異共振自然現象の世界と言えよう。(「もの」とは精神身体と言い換えられよう。)
 ついでに言えば、差異共振自然現象とは、母権原理の世界でもあるということである。それは、宗教・神話的には、多神教であり、女神宗教である。そして、日本の宗教の基層がこれであり、この発想が日本人の無意識に潜在していると言えよう。もっとも、今日、都会では近代的自我化しているが。
 そう、芸術・芸能の世界も結局、ここに存すると言えよう。日本文化は、母権原理の差異共振自然現象の世界に根差して、芸術・芸能を形成してきたと言えよう。生活が差異共振生活であったのであり、その中から、芸術・芸能、祭礼・習俗等が生まれたのである。当然、社会は差異共振共同体となるのである。思うに、網野善彦氏が説いたアジール的な共同体(『無縁・公界・楽ー日本中世の平和と自由』)も、根源的には、原日本の差異共振共同体が起源と私には思われるのである。また、田中優子氏が説いた江戸の連(『江戸のネットワーク』)も同様であり、また、詩歌俳句で言うと、連歌、連句、連詩も、この差異共振共同体から生まれた文芸と考えられるのである。
 そう、今日、トランス・モダン時代に入り、日本人は近代において忘却してきた、あるいは、忘却させられてきた伝統的差異共振文化に目覚めつつあると言えよう。
 そう、モダンを経過した今日、正に、トランス・モダン・ジャパンが誕生しつつあるのであり、また、経済的にも、差異共振経済へと転換する必然性があると言えよう。ヤポネシア・ルネサンスである。


検討問題:女性と男性、Media Pointの二つのゼロ点、経済における-1の問題、自然の生長
1)女性と男性の違い:女性が陰陽ならば、男性は陽陰であろう。構造が正反対であろう。女性が感情的になるのは、陰が主導的だからではないだろうか。この問題はたいへん興味深い。

2)同一性+1傾斜とは、Media Pointの実軸ゼロ点を契機とし、差異-i傾斜とは、Media Pointの虚軸ゼロ点を契機するのではないだろうか。(そう、Media Pointの二つの穴があり、本来、男性は物質に、女性は精神に通じているのである。しかし、今日、女性は倒錯的に男性化していると考えられる。)
 このズレは重大である。男性の場合、虚軸ゼロ点が隠蔽されているのである。女性の場合は、虚軸ゼロ点に通じているだろう。というか、女性の場合は、本来、二つのゼロ点に通じているのではないだろうか。女性の方が調和・均衡的に形成されていると考えられる。

3)男性・父権主義の連続性の原因は、実軸ゼロ点が主導的になっているからではないだろうか。

4)資本主義生産とは、⇒+1であると以前言ったが、つまり、差異共振生産によって生まれた価値が+1であると言った。今日思ったのは、交換価値なしいは貨幣価値とは、-1ではないのかということである。
 商品があるとしよう。それは、対象-iである。それに対して、同一性自己(自我)+i(小売り)が価格をつける。それも、⇒+1である。これが、価格である。たとえば、トマト一個-iが百円+1となる。そして、消費者がそれを貨幣で買う。それも、⇒+1である。
 そして、貨幣が小売りに移る。問題は、この貨幣価値=交換価値である。それは、+1なのか、である。確かに、トマト一個が売れた時点では、+1であろう。しかしながら、貨幣価値は、具体的なトマト一個から分離していき、独立するのである。このとき、+1から-1へと転換するのではないだろうか。つまり、同一性自己価値となるのではないだろうか。これは、抽象価値である。
 そして、金融資本とは、この-1を+1と見なすのではないだろうか。つまり、対象-iを否定した抽象価値としての貨幣資本-1を+1と錯覚するのではないだろうか。
 展開する前に、-1とは何かを明確にすべきである。それは、同一性自己主義ないしは同一性主義である。それは、差異共振性から分離された抽象価値である。それは物質ではないだろう。物質は+1である。
 -1は、ドイツ観念論やマルクスが拘(こだわ)った抽象形式と考えられる。カントの超越論的形式、ヘーゲルの同一性精神、マルクスの抽象的価値・交換価値ではないだろうか。端的に、同一性尺度である。言い換えると、実軸ゼロ点に存する同一性形式(構造)ではないだろうか。シュタイナー的に言えば、アーリマンであろう。そう、ここが最高度に重要なキーポイントの一つである。人間の悪魔性の根因であり、また、物質文明の基盤であると考えられる。平俗に言えば、自己中心主義の基点である。つまり、自我の基点である。二項対立の支点である。
 これは、能動的な同一性自己同一性主義であるが、自己(差異)忘却している同一性主義である。差異という原闇(結局は、差異共振性という超越光)を忘却している同一性の光中心主義である。盲目の同一性自己主義である。ここには、原同一性+iの能動性・エネルギーがあるのであり、それは、同一性を反復すると考えられる。森羅万象を同一性で埋め尽くすのである。つまり、同一性空間化である。数量化である。これが、西洋文明で極まったのである。
 これが自己忘却であり、盲目であるのは、自己が同一性と一体化して、いわば、物質化していることである。そう、本来、認識衝動でありながら、同一性=物質と一致しているのである。認識が存在化しているのである。主観が客観化しているのである。
 本来、主観と客観が分離されなくてはならないのに、ここでは、主観と客観が一致してしまっているのである。言い換えると、連続化・同一化・癒着化である。
 とまれ、重大なのは、この差異の排除・隠蔽された絶対的同一性主義が能動化されていることである。つまり、エネルギーは同一性主義へと展開されるのである。⇒+1のエネルギーが、⇒-1のエネルギーに転換されるのである。
 ここの錯覚・倒錯があるのである。本来、生産・売買は⇒+1であるが、それが、貨幣価値になると、⇒-1へと転換すると考えられる。
 そして、まったく、この同一性主義回路を疑わないのである。何故なら、自己忘却・自己盲目であるからである。(この帰結が、ウォール街的金融資本主義である。)
 -1は、虚構価値である。鏡像・虚像である。これを中心化することは、対象-iの否定であり、+1の同一性=物質=生産物・商品が破壊されることである。
 結局、差異共振価値を取り入れる必要があるのである。思いつきでは、差異共振通貨がありえるのである。たとえば、一万円の差異共振通貨があるとしよう。そのうち、たとえば、10%は、差異共振社会へと還元されるとしたらどうだろうか。結局、富とは、社会総体の富であり、社会的差異共振価値なのである。だから、社会共振体(社会共同体)の創造へと向けられるべきなのである。一個人が莫大な収入を得たとしても、それは、社会的差異共振価値を独占していることになるのである。
 そう、貨幣価値は、差異共振価値に包摂されると見るべきである。だから、貨幣価値を独立化させるのは、錯誤である。それは、常に、差異共振価値において存するものである。それを独立に価値化すると、価値体系が狂うのである。
 差異共振投資へと進展することが必要なのである。

5)自然の生長とは何か。種から生長するとはどういうことなのか。これは、Media Pointの振動情報が、物質化することと言えるだろう。同一性=物質化+1である。そして、再帰エネルギーによって、再び、種に還る。それは、 Media Pointの振動情報のデュナミス化ではないだろうか。そう、エネルゲイアによって、物質化して、再帰エネルゲイアによって、回帰し、デュナミスとなるのではないだろうか。


   




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