INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/03/03

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年03月03日(Tue)▲ページの先頭へ
『同一性自己+1⇒同一性主義自己-1:再帰差異共振性の不連続的受容に因る真の自己認識:付録:ヘーゲル弁証法と神秘主義』
先に次のように述べたが、再考が必要である。

「+1が差異共振的自己(ほぼ、ユング心理学の自己)であり、-1が同一性自己(自我:やはり、ほぼユング心理学の自我)である。」
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10216729017.html

いったい、+1や-1は、「自己」から言うと何だろうか。+1について考えてみよう。これは、PS理論から言うと、端的に、同一性自己(自我:自己同一性)である。「わたし」である。しかしながら、Media Pointの活性化すると、差異共振性が再帰・復帰する。それは、+1に穴を空ける。
 だから、再帰した(+i)*(-i)が差異共振的自己になるだろう。しかしながら、同時に、+1の同一性自己もここには生起している。つまり、ユング心理学という自己と自我との「調和」がここにはある。つまり、PS理論は、ユング心理学の真の実現であろう。トランス・ユング心理学である。
 そうすると、-1は何か、となる。それは、同一性自己の一種であるが、主義になったものと考えられる。つまり、同一性自己主義ないしは同一性主義自己である。自我主義、利我主義、「自己中心主義」であり、近代においては、近代的自我である。
 そうすると、近代主義においては、自己は、同一性自己を形成した後、一種反動的に、同一性主義自己又は同一性自己主義を形成してしまうと考えられるのである。つまり、+1⇒-1に転化してしまうのである。
 これが生じるのは、再帰する差異共振エネルギーを否定したり、あるいは、同一性に連続的に連結化しようとするからである。
 ポスト・モダンとは、確かに、再帰差異共振エネルギーに駆動されていたが、主にハイデガー存在論による障害のために、きわめて、歪んだ、偏った理論となってしまい、現実世界に対処できなくなってしまったと考えられるのである。何度も言うが、フッサール現象学やベルクソン哲学のトランス・モダンへの画期性が、ハイデガー/デリダとドゥルーズによって、喪失されてしまったのである。
 PS理論によって、再帰差異共振エネルギーが脱同一性化=不連続化されて、真の自己認識が可能になったと考えられるのである。(不連続的差異論のときは、不明晰な差異の脱同一性化=不連続化が生じたのである。)
 そうすると、自己認識方程式(思うに、これは、神人方程式とも言えよう)は、(+i)*(-i)⇔+1と記すのが明晰である。ただし、Media Pointを入れて表記する方がより適切であろう。即ち、(+i)*(-i)⇔Media Point⇔+1 である。言い換えると、Media Point的自己認識方程式である。(一言、ドゥルーズ哲学について言うと、それは、確かに、再帰差異共振エネルギーはあったが、それを、完全に連続化してしまったのである。そのために、金融資本主義と同型になってしまったと考えられる。そう、いわば、ポジに対するネガである。理論的には、再帰差異共振エネルギーを連続化させたために無限となった実軸ゼロ点の構造主義であろう。)

 ここで、本題と離れて、近代文化について考えたい。結局、近代とは、Media Pointの虚軸から実軸へと下降して、同一性自己を形成する方向が主導的であった。それは、ルネサンスやプロテスタンティズムやデカルト哲学に発現していると言えよう。
 しかし、後期近代(19世紀後半以降)において、差異共振エネルギー=超越エネルギーが復帰するようになったと考えられる。即ち、前期近代とは対称的に、Media Pointの実軸から虚軸へと上昇する志向が主導化し始めたのである。そのとき、近代文化が取る方向は、反動的に同一性を強化する方向であり、これが、 (+1)^2=-1であり、実際は帝国主義、植民地主義、そして、金融資本主義になったと考えられる。
 もう一つは、ロマン主義ないしは神秘主義的方向で、それは、差異を強調する方向であり、それは結局、ファシズム・全体主義に帰したのではないだろうか【追記:思うに、社会主義・共産主義路線も、こちらに入るのではないだろうか。一見、異質であるが、考えてみると、反資本主義とは、実は、+iへの否定であり、(-i)^2⇒-1と考えられるので、こちらに入れるのである。ヘーゲル弁証法については、後で検討したい。】(かなり多くの文学者たちは、この方向を取ったと思う。因みに、D. H. ロレンスが一時唱えた「闇の神」は、(-i)^2⇒-1の「神」ということであろう。これは、ヤハウェと対称的な位置にあると考えられる。そして、晩年のコスモスとは、差異共振的超越性のことであると考えられるのである。)
 そして、今日、現代、差異共振エネルギーが解放されていると考えられるのである。いわば、差異共振精神が時代精神である。これは、キリスト教的に言えば、聖霊であり、これは、逆らえないのである。天の「風水」である。そして、ますます、差異共振エネルギーがMedia Resonance(メディア共鳴)して、ポリフォニー・交響的に発展していくと考えられるのである。ただし、差異批判知性をもつ必要があるのである。
 PS理論は、近代合理主義とロマン主義の対称的二元論の超克であり、正に、トランス・モダン理論である。

追記1:ヘーゲル弁証法について検討したい。社会主義・共産主義は、ロマン主義・神秘主義と同じ分類に入ると述べたが、それは、資本主義の否定で明快である。そして、ヘーゲル弁証法は、最初、そこに入るのではないかと直感したが、簡単には説明できないことがわかり、ここで、考察を行いたい。
 結局、正反合をどう解明するかである。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼである。単純に考えると、同一性、差異、統合であるが、果たして、そう考えていいのか。何故なら、ヘーゲルのテーゼとは「精神」だからである。だから、同一性にはできないのである。
 作業仮説として、Media Pointの実軸ゼロ点を「精神」=正(テーゼ)としよう。すると、ここから、同一性志向性が発生して、同一性=物質が形成される。これが、「疎外」である。つまり、「精神」の否定、反(アンチテーゼ)としての同一性=物質である。そして、さらに、同一性=物質が否定されて、「精神」へと回帰するが、これが、合(ジンテーゼ)である。
 すると、正=「精神」がMedia Pointの実軸ゼロ点で、反=同一性=物質は、+iの同一性志向性によって形成されると考えられるのである。それは、端的に、+1である。つまり、差異共振性の同一性化である。そして、合は、それの否定であるから、-(+1)=-1ではないだろうか。
 問題はこの否定の否定(合)の力学である。思うに、ここには、再帰差異共振エネルギーが作用しているのではないか。そう作業仮説して考察を続けよう。
 だから、再帰差異共振エネルギーが反(アンチテーゼ)=同一性=物質を否定していることになる。しかし、本来、再帰差異共振エネルギーは同一性=物質を否定しないのである。それは超越的に包摂するのである(超越的包摂)。ならば、それ(反)を否定する力学とはどういうものだろうか。
 ヘーゲルの「精神」は、実軸ゼロ点と仮定した。だから、必然的に、合(ジンテーゼ)においては、実軸ゼロ点へと回帰するということになると考えられる。
 それならば、構造主義である。しかし、ヘーゲル弁証法はもう少し奥がある。というのは、絶対精神が存しているからである。それは、いわば、超越神であろう。
 だから、前期近代主義を見るべきである。虚軸ゼロ点から実軸ゼロ点へと下降したのである。これが、ヘーゲル弁証法にも当てはまると考えられる。そして、両ゼロ点が重なっているのである。というか、一体化、つまり、癒着してしまっていると考えられるのである。
 そう、ここに本来のヘーゲルの「精神」を見るべきであろう。つまり、超越性(差異)と同一性が癒着しているのである。つまり、連続化である。差異と同一性の連続化である(だから、ドゥルーズ哲学はヘーゲル哲学と同質なのである)。
 この連続化されたMedia Pointがヘーゲルの「精神」である。そして、これが、正(テーゼ)である。そして、反(アンチテーゼ)が同一性=物質(「疎外」)である。そして、合(ジンテーゼ)は、反を「止揚」した、「精神」であり、それは、最初の連続化されたMedia Pointである。ただし、展開された同一性=物質を包摂した「精神」と言える。
 思えば、ヘーゲルの理性には、超越性があるが、連続化された超越性である。いちおう、連続的超越性と呼んでおこう。だから、問題は、この連続的超越性とは何か、である。それは、言い換えると、超越的同一性である。それは、(+i)*(-i)=+1の矛盾的様態ではないだろうか。言い換えると、虚軸と実軸が一致してしまっているのである。
 私は上記において、この事態は+1⇒-1と考えた。つまり、再帰差異共振エネルギーを純正に受容するには、超越的差異共振性を認める必要があるが、連続性があると、それは不可能である。つまり、虚軸へと垂直的に上昇するのではなく、実軸上のまま、水平に反転すると考えられるのである。それが、+1⇒-1 ではないか。
 ここは微妙な箇所である。ヘーゲル弁証法は、同一性を否定しているのか、それとも、包摂しているのか。それは、言うまでもなく、後者である。ここで、単なる神秘主義とは異なるのである。それは、同一性=物質を否定する「超越性」であるからである。
 しかしながら、ヘーゲルはやはり、同一性=物質を否定していると見るのが正しいのではないだろうか。問題は、止揚・揚棄aufhebenである。
 ここでは、反の何かが否定されて、残されたものを包摂するのである。いわば、否定的包摂なのである。
 否定されるのは、物質性である。同一性である。だから、+1⇒-1の事態が発生している考えれるのである。この物質性の否定において、ヘーゲル弁証法は、神秘主義と同質なものを含んでいるのである。ただし、神秘主義が強く同一性化されている点が普通の神秘主義とは異なる点と考えられる。
 これで、とりあえず、検討を終える。後で、整理したい。

追記2:追記1の終わりで、ヘーゲル弁証法の合は、同一性=物質を否定していると言ったが、それだと、矛盾することになるかもしれないので、明確に分析しておきたい。
 つまり、+1を否定しているということであり、また、何かを止揚・揚棄aufhebenしているのである。何を止揚しているのか。それは、同一性認識・同一性知性である。これを、「精神」に包摂するのである。連続化したMedia Pointの「精神」に、同一性認識・同一性知性を包摂するのである。それが、個別性は普遍的であるというヘーゲルの考えに通じるのである。
 そう、ヘーゲルの普遍性とは、連続化したMedia Pointがもつ「普遍性」である。それは、端的に何か。それは、エネルギー化した同一性の普遍性ではないだろうか。言い換えると、ショート(短絡)した Media Pointのもつ普遍性である。それは、連続的超越的普遍性である。
 そこには、特異性が欠落しているのである。真の普遍性とは、特異性に拠るのであるから、ヘーゲルの普遍性は、疑似普遍性、似非普遍性である。
 ただし、超越的エネルギーが連続化した似非普遍性である。だから、超越的同一性と言えばいいかもしれない。
 そうすると、やはり、ドゥルーズ哲学とほとんど等価である。ヘーゲルの絶対精神とドゥルーズの内在性とは、等価だと思う。
 そうすると、構造主義はどうなるのだろうか。そう、やはり、構造主義、とりわけ、動的構造主義になると思う。この動態性は、連続化されたMedia Pointのエネルギーである。全体主義的なエネルギーである。
 とまれ、後で整理する。 


MP軸=即非軸:虚実即非軸、又は、虚実軸:本来は、虚実即非点、or 虚実点
先に行った、MP軸=即非軸に関する図であるが、これまでの考え方とは異なるので、これまでの考えにもどす。


            /+i
          /
        /
       ●_____+1
     / ↑
   /   ・
  /-i    ・
       ・
       ↓
 -1_____ ● 

上図は先の図。


           /+i
          /
        /
       ●
     / ↑
   /    ・
 /-i    ・
       ・
       ↓
  -1____●___+1   

上図は、これまでの考えの図。しかし、二つの上図を重ねて、以下のようになるとも考えられる。

           /+i
          /
         /
       ●・・+1(1st&3rd)
     / ↑
   /   ・
  /-i    ・
       ・
       ↓
  -1___ ●___+1(2nd)   


後で検討したい。


同一性自己+1⇒同一性主義自己-1:再帰差異共振性の不連続的受容に因る真の自己認識
先に次のように述べたが、再考が必要である。

「+1が差異共振的自己(ほぼ、ユング心理学の自己)であり、-1が同一性自己(自我:やはり、ほぼユング心理学の自我)である。」
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10216729017.html

いったい、+1や-1は、「自己」から言うと何だろうか。+1について考えてみよう。これは、PS理論から言うと、端的に、同一性自己(自我:自己同一性)である。「わたし」である。しかしながら、Media Pointの活性化すると、差異共振性が再帰・復帰する。それは、+1に穴を空ける。
 だから、再帰した(+i)*(-i)が差異共振的自己になるだろう。しかしながら、同時に、+1の同一性自己もここには生起している。つまり、ユング心理学という自己と自我との「調和」がここにはある。つまり、PS理論は、ユング心理学の真の実現であろう。トランス・ユング心理学である。
 そうすると、-1は何かとなる。それは、同一性自己の一種であるが、主義になったものと考えられる。つまり、同一性自己主義ないしは同一性主義自己である。自我主義、利我主義、「自己中心主義」であり、近代においては、近代的自我である。
 そうすると、近代主義においては、自己は、同一性自己を形成した後、一種反動的に、同一性主義自己又は同一性自己主義を形成してしまうと考えられるのである。つまり、+1⇒-1に転化してしまうのである。
 これが生じるのは、再帰する差異共振エネルギーを否定したり、あるいは、同一性に連続的に連結化しようとするからである。
 ポスト・モダンとは、確かに、再帰差異共振エネルギイーに駆動されていたが、主にハイデガー存在論による障害のために、きわめて、歪んだ、偏った理論となってしまい、現実世界に対処できなくなってしまったと考えられるのである。何度も言うが、フッサール現象学やベルクソン哲学のトランス・モダンへの画期性が、ハイデガー/デリダとドゥルーズによって、喪失されてしまったのである。
 PS理論によって、再帰差異共振エネルギーが脱同一性化=不連続化されて、真の自己認識が可能になったと考えられるのである。(不連続的差異論のときは、不明晰な差異の脱同一性化=不連続化が生じたのである。)
 そうすると、自己認識方程式(思うに、これは、神人方程式とも言えよう)は、(+i)*(-i)⇔+1と記すのが明晰である。ただし、Media Pointを入れて表記する方がより適切であろう。即ち、(+i)*(-i)⇔Media Point⇔+1 である。言い換えると、Media Point的自己認識方程式である。(一言、ドゥルーズ哲学について言うと、それは、確かに、再帰差異共振エネルギーはあったが、それを、完全に連続化してしまったのである。そのために、金融資本主義と同型になってしまったと考えられる。そう、いわば、ポジに対するネガである。理論的には、再帰差異共振エネルギーを連続化させたために無限となった実軸ゼロ点の構造主義であろう。)
 ここで、本題と離れて、近代文化について考えたい。結局、近代とは、Media Pointの虚軸から実軸へと下降して、同一性自己を形成する方向が主導的であった。それは、ルネサンスやプロテスタンティズムやデカルト哲学に発現していると言えよう。
 しかし、後期近代(19世紀後半以降)において、差異共振エネルギー=超越エネルギーが復帰するようになったと考えられる。即ち、前期近代とは対称的に、Media Pointの実軸から虚軸へと上昇する志向が主導化し始めたのである。そのとき、近代文化が取る方向は、反動的に同一性を強化する方法であり、これが、 (+1)^2=-1であり、実際は帝国主義、植民地主義、そして、金融資本主義になったと考えられる。
 もう一つは、ロマン主義ないしは神秘主義的方向で、それは、差異を強調する方向であり、それは結局、ファシズム・全体主義に帰したのではないだろうか。それも、結局、(-i)^2=-1である。(かなり多くの文学者たちは、この方向を取ったと思う。因みに、D. H. ロレンスが一時唱えた「闇の神」は、(-i)^2⇒-1の「神」ということであろう。これは、ヤハウェと対称的な位置にあると考えられる。そして、晩年のコスモスとは、差異共振的超越性のことであると考えられるのである。)
 そして、今日、現代、差異共振エネルギーが解放されていると考えられるのである。いわば、差異共振精神が時代精神である。これは、キリスト教的に言えば、聖霊であり、これは、逆らえないのである。天の「風水」である。そして、ますます、差異共振エネルギーがMedia Resonance(メディア共鳴)して、発展していくと考えられるのである。ただし、差異批判知性をもつ必要があるのである。
 PS理論は、近代合理主義とロマン主義の対称的二元論の超克であり、正に、トランス・モダン理論である。


思考実験:自己認識方程式と経済価値:+1の同一性価値と-1の消滅性と差異共振創造生産
思考実験:自己認識方程式と経済価値:+1の同一性価値と-1の消滅性と差異共振創造生産

テーマ:シルヴィオ・ゲゼル『自然的経済秩序』

先のMP軸=即非軸の発想のときに、経済価値のことも思いついた。
 資本主義の差異共振価値は、⇒+1であり、それが、貨幣化されると、-1になるのではないかと漠然と思った。
 これは、不正確な考え方である。⇒+1とは、資本主義的差異共振生産によって生まれた価値である。それは、一種の使用価値である。農産物にしろ、PCにしろ、家具にしろ、そうである。
 しかし、これが、売買されると、貨幣価値に還元されて、-1になるのではないのか。ここが微妙である。+1かもしれないからである。
 思うに、使用価値+1は、自然に消滅するものである。食物は腐っていったり、劣化し、消滅していくものである。だから、その自然消滅性を-1ととした方が的確なのかもしれない。
 つまり、+1と-1でバランスがとれて、ゼロになるのである。しかし、貨幣は、+1にまま留まるのである。つまり、商品は消滅していくのに、貨幣は、不死不滅である。いわば、永遠の生命、霊である。(これは、当然、ゲゼルの考え方を踏襲しているのである。)
 信用創造とは、この+1の信仰ではないだろうか。本来、-1によって、それは、ゼロ化するのであるが、それを無視して、錯誤的に膨張させるのである。同一性自己の盲信や狂信である。つまり、+1の同一性価値・同一性自己を普遍価値化させて、他者に投影して、拡大するのである。そのとき、プラス利子がともない、ますます、同一性価値・同一性自己が膨張するのである。
 しかし、実際は、-1によって穿たれているのであり、常に、ゼロ化へと向かっているのである。これが実現するのが、景気後退や恐慌であろう。
 問題は、数え切れないくらい述べたが、+1の同一性価値を形成するのは、差異共振生産・創造なのであり、同一性価値のゼロ化を免れるには、同一性価値(貨幣資本)を差異共振性へとフィードバックする必要があるのである。喩えて言えば、畑に新たな種を蒔くようなものである。しかし、それは、単純な投資ではない。
 つまり、同一性価値を差異共振価値へと変換する必要があるのである。これは、いわば、質的投資であろう。株式投資とは、ほぼ量的投資である。それではなく、差異共振投資が必要なのである。
 資本家と労働者の差異共振的創造的生産で言えば、資本家と労働者の差異共振的投資が必要なのである。また、同様に、生産者と消費者の差異共振的投資が必要なのである。あるいは、企業と社会の差異共振創造が必要であるし、人間社会と自然との差異共振創造が必要なのである。
 これまでの資本主義は、同一性主義的投資であり、それは、常に、ゼロ化へと志向するものであり、破滅的なのである。
 しかし、差異共振的投資をすれば、資本は、常に、+1へと向かうことになり、破壊的なゼロ化を免れることができると考えられるのである。そう、つまり、物質的、精神的商品は、+1+(-1)⇒0(ゼロ)になる。しかし、それを知らずに、+1を信用信仰(信用創造)すれば、それは、いつかは、巨大なゼロ化に陥るのである。つまり、±ゼロである。しかるに、+1を差異共振価値へとフィードバックすれば、それは、新しい差異共振創造を生み、新たに、+1を生みだし、ゼロ化から免れるのである。
 思考実験はここで留める。後でさらに検討したい。


   




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