INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/02

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年02月28日(Sat)▲ページの先頭へ
反感(ルサンチマン)の発生:内的他者に対する根源的反感:ヤハウェ文明の終焉と新女神文明の夜明け
『反感(ルサンチマン)の発生について:内的他者に対する反感が根源にあるのか:父権主義の発生又は謎の解明へ向けて:差異共振極性と同一性的二項対立との異質性・不連続性:同一性原理の突然変異性:ヤハウェ文明の終焉と新女神・東洋文明の夜明け』


先に、以下のように、反感とは、鏡面に外的他者=ライバルが現われたとき発生すると述べたが、果たして、内的他者に対して、反感が生じないのかという疑問が浮んだので、この点について検討したい。
 今の直感では、先の考察とは反対に、内的他者への反感があるのではないかと思える。Media Point における虚軸から実軸への不連続的転移において、内的他者-iは、原同一性自己+iにとっては、不都合な存在となると考えられる。本来、双子の片割れであり、親しい存在であるが、同一性志向性においては、いわば、邪魔になる存在である。だから、当然、その時点で、原同一性+iにとって、原他者-iと差異共振性(+i)*(-i)は、反感を覚える存在、状態のはずではないのか。
 ここでも直感で考えよう。「独立」しよう(同一性志向性)とする原同一性+iにとって、原他者-iと差異共振性(+i)*(-i)とは、いわば、抵抗するものであり、原同一性の主観にとっては、反感を催すものではないのか。つまり、原同一性の「自立」の方向(同一性志向性)に対して、それら(本当は、一つで、それ)は、いわば、纏(まと)わりついて、「自立」させない反作用をもたらすと考えられるのである。だから、原同一性はそれらに反感を覚えると考えていいと思うのである。
 ならば、この内的他者への内的反感が原初にあり、それが、外的他者へ投影されると見るのが正当であると考えられることになる。その方が論理的である。外的他者が鏡面に出現する以前に、内的他者に対して反感を抱いているのであり、それが、外的他者に反発すると思われるのである。言い換えると、内的暴力(内的戦争)が外的暴力(外的戦争、つまり、普通の戦争)をもたらすということになる。そう、原同一性の原他者へ抱く優越感とこの内的反感を一如であると言える。
 また、さらに一歩を進めると、この内的優越感と内的反感は、裏返しではないだろうか。平明に言えば、劣等感の裏返しではないのか。反感というのは、本来、優れたものに対するものと考えられるのである。精緻に考えてみよう。ここは、父権主義の秘密を解くキーポイントである。というのは、内的他者・差異共振性とは文化史的には母権主義を意味するのであり、同一性志向性とは、父権的志向性と考えられるからである。
 端的に言えば、同一性志向性とは極端な志向性である。陰陽で言えば、完全な陽に向かうことであり、陰が消失する事態である。いわば、極陽である。極性が消失し、自己完結的となる。(もっとも、極陽とは極陰でもある。つまり、極陽の裏返しが極陰である。)力学的にはそれは、自然的ではあるが、質的、内面的にはどうなのか、である。
 ここで持論の父権主義の同一性傾斜論を導入して考察しよう。内的他者・差異共振性(母権主義)に対して、同一性志向性(原父権主義)は、理解できないものを感じるはずである。わかりやすく言えば、極性精神に対して、二項対立精神は理解できない、不可解なものを感じるはずである。平俗に言えば、女性を男性は理解できない、不可解なものに感ずることと等価である。【だから、Media Point に生起した同一性志向性(原父権主義)とは、一つの突然変異ではないだろうか。異質なものではないのか。あるいは、不連続なものではないのか。言い換えると、女性と男性は完全に他者同士ではないのか。それぞれ、別宇宙の生命体ではないのか】
 理論的には上記のように、極性の極端なケースとして考えることができるが、やはり、同一性志向性とは特異であると思えるのである。何故なら、極性が原理であり、他者とは共鳴するのが本来的であり、他者を排除するのは、原理から外れるからである。極性原理にとって、二項対立原理とは、異常である。
 理論的に考えてみよう。極性(陰陽)において、極陽になった場合、果たして、極陽は陰を排除しているのか。それは、排除していない。陰は単に隠れているだけである。いわば、新月状態である。だから、極陽・極陰を考えても、それは、二項対立ではないのである。
 だから、やはり、同一性志向性=二項対立志向性=原父権主義は、極性原理にとって、突然変異的、異質、異常なのである。極性原理にとり、二項対立はエイリアンである。極性を善にすれば、二項対立は悪である。
 結局、二つの異質な、不連続な原理があると見るべきである。ならば、突然変異的に発生した同一性志向性にとって、差異共振原理は理解できない不可解なものであり、当然、劣等感を感じるものであるから、反感を覚えるはずである。これで解明できた。内的他者(差異共振性=母権原理)に対して、原同一性+iが内的優越感、内的反感を覚えるというのは、根本的には、内的他者に対して、劣等感を感じているからである。つまり、父権原理とは、母権原理に根本的に劣等感を感じているために、反感を感じて、裏返しに、虚栄的な優越感をもつのである。これが、父権暴力の原因である。結局、父権原理の単純さが、盲目に、不合理に母権原理を否定して抑圧しているのである。そして、父権原理の典型がヤハウェである。そして、今日、このヤハウェ文明が終焉を迎えたのである。ヤハウェ葬送の時代であり、新女神文明の夜明けなのである。
 付け加えると、「東海」氏が慧眼にも女性へのコンプレックスが今日の文明にはあると述べていたのである。恐れ入る次第である。
 
参照:
 他者への反感、憎悪、ルサンチマンが生じるには、次のステップが必要となる。同一自己/鏡像自己が形成された後、外的他者が出現したときから、反感の可能が生じると思われる(作業仮説)。それもライバルとしての外的他者である。これをどう見るのか。
 鏡面の位置にライバルの位置があると言えよう。同一性自己像を鏡面の他者に投影するが、鏡面の他者は、それと一致せずに、同一性自己は不快を催すと考えられる。このときに、反感が生起すると言えよう。
 この力学を考察しよう。同一性自己=鏡像自己は既に内的他者を否定しているのである。しかし、それは、内的他者への反感を意味していない。しかし、鏡面の他者=ライバルが出現したとき、それは、実は、否定された内的他者-iの喚起を意味するのではないだろうか。これはどういう力学か。
 そもそも内的他者の否定が鏡面に投影されて外的他者の否定を生むのである。だから、外的他者=ライバルの出現とは、内的他者の否定の心的装置(同一性心的装置)を阻害するものである。ここでこそ、反感(憎悪、ルサンチマン)が発生すると考えられる。言い換えると、内的他者の否定が反感の潜在力なのであり、鏡面の外的他者=ライバルの出現とともに、反感が現実化・実動化(エネルゲイア化)すると考えられるのである。
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10215023687.html


2009年02月27日(Fri)▲ページの先頭へ
鏡面と鏡像の関係:内的他者と同一性自己と鏡像との否定的連続関係
鏡面と鏡像の関係:内的他者と同一性自己と鏡像との否定的連続関係

鏡像自己に関する問題の検討を何回か行なってきたが、まだ、同一性自己にとってのライバルの力学が十分に解明されていないので、ここで、検討したい。
 これまでの考察から、初期差異共振状態から同一性志向性をもつ不連続的転移へと移行する際、内的他者を否定して、同一性志向性が差異共振的鏡面に自己投影して、鏡像を形成し、それに同一性志向性が一致して鏡像自己=同一性自己が形成され、また、鏡面の位置に出現する外的他者によって、同一性自己において、反感・憎悪・ルサンチマンが発生するというように考えられる。
 この鏡面の位置の外的他者がライバルになるのであるが、ルネ・ジラールの模倣欲望論に見られるように、同一性自己(自我)は、ライバルに一種癒着し、引きつけられていると考えられることを参考にして、ライバルの力学的意味を検討したいのである。
 ここで、内的他者の否定の力学の意味を考えるべきである。それは、いわば、内的鏡面への同一性の投影ではないだろうか。思うに、内的投影とは、内的鏡面への自己像の貼り付けであり、覆い(ヴェイル)であり、同時に、抑圧であり、否定であると考えられるのである。この内的投影は他者(差異・差異共振性)への同一性像の貼り付けであり、この貼り付けは当然、接着であると考えられるのである。癒着である。理論的に言えば、連続化、同一性的連続化である。だから、同一性自己にとって、否定すべき内的他者とは、癒着し、連続化していることになり、いわば、一体化していると言えよう。
 つまり、同一性自己にとって、他者は否定対象であるが、同時に、接着・癒着・連続化する対象であり、いわば、なくてはならないもの、不可分のものである。否定する対象でありながら、同時に、必須の対象なのである。
 もう少し丁寧に説明する必要がある。思うに、内的他者とは単に否定されるべき対象だけではなく、根源的は言わば魅了されている対象ではないだろうか。それは、初期差異共振状態(「双子のエデンの園」)の歓喜・至福状態から考えられよう。即ち、内的他者は否定すべき対象であると同時に、魅了される対象であり、アンビヴァレント(両価感情)な「存在」であると考えられる。この両価感情的存在へ同一性は自己投影し、抑圧的に一体化するのである。
 さて、この内的投影が外的投影に転化され、外的他者であるライバルに対する同一性自己の両価感情的態度が生起すると考えられよう。即ち、外的他者=ライバルに対して、同一性自己は引きつけられながら、否定・攻撃するのである。端的に言えば、外的他者=ライバルに自己投影して、癒着(連続化)して、それを否定・抑圧・排除・攻撃するのである。
 思うに、この視点に立てば、西洋のオリエンタリズムが判明に説明されるだろう。一方では、帝国主義的に、非西洋文明を攻撃し支配するが、他方、それに積極的に援助を行なうという西洋文明の両面的態度がそれで理解されるだろう。端的に、西洋文明のもつ同一性主義、同一性像投影主義のもつ両面的力学がそこにあると考えられる。
 文学で言うと、アメリカ文学のメルヴィルの『白鯨』のエイハブ船長が白鯨に魅せられつつ、復讐するためにそれを追跡する態度にそれが見られよう。白鯨とは正に、外的他者=ライバルであるが、本来は、内的他者=差異共振的他者である。(この点については、D. H.ロレンスの『古典アメリカ文学研究』を参照されたい。)
 まとめると、内的他者(=差異共振的他者)が差異共振的鏡面に投影され反照されたものが外的他者=ライバルであるが、その鏡像に同一性志向性を投影して、否定・抑圧・排除・差別・隠蔽的に、接着・癒着・重ね合わせた・連続化した鏡像が同一性自己(自我)であると考えられる。だから、同一性自己とは、内的他者(⇒外的他者)を否定すると同時に、それに依存した倒錯した主観(主体)であり、外的他者への反感とは、同一性自己自身の内的他者への反感を反転させたものと考えられる。つまり、内的他者への否定の反転が外的他者への反感・憎悪・ルサンチマンを生んでいるのである。言い換えると、内的暴力が外的暴力に転化しているのである。これは、父権的暴力ないしは西洋文明的暴力と言える。
 思うに、内的他者への暴力とは、本質的に、自己自身への暴力であり、自己破壊をしているのである。(もっとも、外的他者への破壊行為であることは言うまでもないが。)この自己破壊の側面を分析してみると、創造・生命・生産的である差異共振(精神)エネルギーを阻害し、そのため、積極的なエネルギーが枯渇するのである。道教的に言えば、「元気」を否定しているので、病気、とりわけ、精神的病気(心魂病:造語)になると考えられるのである。つまり、根源的な差異共振エネルギーを摂取することができないために、同一性自己は、エネルギーの補給を失い、「バッテリー」があがってしまうのである。また、それだけでなく、差異(差異共振性)と同一性とで分裂するので、正しい判断ができなくなり、妄想的になると考えられる。何故なら、真理とは、本来、差異と同一性との均衡に存すると考えられるからである(差異と同一性の均衡知性が、理性と言えよう)。何度も既述したが、今日、うつ病の蔓延は、政治・経済・社会的原因もあるが、内因的には、同一性自己(近代的自我・近代合理主義)に因ると考えられる。それは、他者喪失病、差異共振性喪失病である。今や、あらゆる意味で、近代を超えてトランス・モダンへと転換する必要があるのである。


2009年02月26日(Thu)▲ページの先頭へ
『同一性自己のライバルへの優越感の発生についての理論的考察:同一性自己志向性の内的他者への優越感が外的他者への優越感に転化する』
『同一性自己のライバルへの優越感の発生についての理論的考察:同一性自己志向性の内的他者への優越感が外的他者への優越感に転化する:同一性自己に因る差異共振性の否定と同一性民主主義批判:トランス民主主義と差異共振的民主主義?』


直近において、鏡面の位置の外的他者がライバルであると言ったが、さらにその力学的意味を考えたい。
 結局、鏡面の位置にない外的他者はライバルにはならないことになる。鏡面の位置とは、同一性自己が差異共振鏡面に投影される位置である。しかし、鏡面の位置とは、端的に、外的世界である。だから、すべて、外的他者はライバルになりうると考えられる。
 平明に言えば、眼前にあるものが外的他者であり、ライバルということになるだろう。だから、きわめて、感覚的なのである。
 結局、鏡像自己には外的他者はすべて合致しないのだから、外的他者はすべてライバル、即ち、敵になるだろう(万人の万人に対する戦争)。言い換えると、鏡像自己は独裁・暴君的である。
 しかし、鏡像自己が外的他者をそのように等価するとは思えない。そこには、「差異」がある。鏡像自己の優位性を貶める外的他者こそ、ライバルであり、敵となると言えよう。そう、ここに優越感/劣等感コンプレックスの問題が生じるのである。
 鏡像自己(同一性自己=自我)は自身が優れたものであると思い込んでいる。この力学は何か。ここが、もっともエッセンシャルなポイントの一つである。
 ここで、迂回的に、発話について考えたい。初期差異共振状態において、例えば、「わたし」と「蝶」とが差異共振状態にあるとすれば、「わたし」は「蝶」であり、且つ、「わたし」は「蝶」ではないという意識になる。神話的意識ないしは詩的意識である。
 次に、同一性志向性が発生すると、初期差異共振状態における内的他者(同一性志向性の外化によって、外的他者となると考えられる)である「蝶」を否定することになると考えられる。即ち、「わたし」は「蝶」ではなく、「わたし」は「わたし」である、ということになるだろう。この「わたし」は何に優越するのだろうか。それは、端的に、「蝶」に対して、優越するのである。これは、単純明快である。結局、同一性志向性とは、内的他者への優越性(優越感)をもつと考えられる。
 ということで、原同一性自己+iとは、その同一性志向性において、内的他者への優越感をもち、それが、鏡面への同一性像の投影による鏡像自己の形成によって、外的他者への優越感へと進展すると考えられる。つまり、同一性自己志向性の内的他者への優越感が外的他者への優越感へと転化すると考えられる。
 ということで、自然発生的に(これは、男子の場合が典型であり、女子の場合は異なると考えられる。女子の場合については、後で検討したい。もっとも、女子の場合は、内的他者への否定はないと考えられる。初期差異共鳴性が、そのまま、実軸化においても展開すると考えられる。つまり、差異共振性をもつ同一性化が女子の場合には生起すると考えられる。)、同一性自己志向性は内的他者への優越感を外的他者への優越感に転換させると考えられる。
 だから、鏡面の位置にある外的他者は、やはり、すべてライバルになりうるが、とりわけ、他者性をもつ対象、つまり、鏡像自己の同一性からとりわけ外れる対象が、いちばんのライバルとなりうるのである。言い換えると、優れたものである外的他者が、ライバルとなり、それに対して、優越感をもとうするのである。つまり、優れた他者に対して、先験的な、言い換えると、実質のない、虚栄的な自己優越性を発現させるために、外的他者に暴力的な言動を行なうと考えられる。これは、いわば、本能的、衝動的でありうるのである。そう、動物的と言ってもいいだろう。人間のもつ獣性である。あるいは、父権主義である。これが、今日の人類文明を支配しているのである。
 端的に言えば、同一性自己志向性にともなう内的他者への優越感が、外的他者への優越暴力を生んでいるのである。

追記:一つ大事なことを述べるのを忘れていた。もっとも、以前指摘したことではあるが。即ち、同一性自己志向性に因る内的他者への優越感とは、同時に、差異共振性(初期差異共鳴性)への否定であるということである。だから、ライバルとは、単に優れた外的他者だけではなく、差異共振性をもっている外的他者もなるということであり、優越感とは、差異共振性をもつ外的他者に対しても発生するということになる。
 だから、まとめると、同一性自己志向性とは、内的他者の否定とそれに対する優越感をもつが、それは、同時に、差異共振性の否定とそれに対する優越感をもつということである。しかしながら、両者の否定と優越感とは同一のものであると言うべきである。つまり、否定と優越感の対象となる外的他者とは、精神的に優越した他者であると言えよう。だから、それは、正に、イアーゴにとってのオセロである。また、『リア王』で言えば、エドマンドにとってのエドガーである。また、『ハムレット』で言えば、兄殺したクローディアスにとっての兄ハムレット(王子ハムレットの父)である。言い換えると、近代文化とは、同一性自己=唯物論的自己の差異共振的自己=精神的自己への嫉妬と破壊なのである。それは、フランス革命に典型的に現われているだろう。だから、民主主義とは、危険なのである。それは、同一性主義的平等主義だからである。差異を否定する政治理念なのである。だから、差異共振主義が正しいのである。トランス民主主義としての差異共振主義である。


『ルサンチマン、反感、憎悪等の発生力学について:初期差異共鳴歓喜⇒初期同一性悲哀と他者否定⇒鏡面
『ルサンチマン、反感、憎悪等の発生力学について:初期差異共鳴歓喜⇒初期同一性悲哀と他者否定⇒鏡面の他者・ライバルへの反感:同一性自己形成における内的他者の否定が、外的他者への反感の根源である』


これは、同一性自己の優越感の発生の分析に関連する問題であるが、もっと経験的に直截に理論化したい。つまり、直感に即した分析・洞察を行ないたい。端的に明快な解明をしたいのである。
 これらは、当然、他者に対する否定的心的行為である。それは、本来は内的な他者(差異)に対するそれである。
 内的他者に対して反感を覚えるのは、内的他者が同一性自己に対して「不都合」であるからである。否、端的に言えば、不快であるからである。同一性自己に嫌悪感をもたらす「対象」だからである。同一性自己の感覚に、不快をもたらすものだからである。
 だから、実に感情的なものであることがわかる。正確に言えば、否定感情的なのである。それは、スピノザの『エチカ』で言えば、悲しみの感情が源泉にあることに因る。
 端的に言えば、他者(内的であれ、外的であれ)が、同一性自己を劣等にさせる存在であるということが根因にあるだろう。ここで、シェイクスピアの『オセロ』におけるイアーゴのオセロに対する反感を想起するといいだろう。卑しい、悪人のイアーゴは高貴さをもつ将軍オセロにいわば嫉妬し、陰謀に陥れるのである。
 初期差異共振性から言うと、本来、イアーゴはオセロと共鳴して、一如であるはずである。それは、封建時代を想起する。オセロが主人であり、イアーゴは従者である。この主従関係が、秩序として肯定されていたのである。それが、近代になると、同一性自己(自我、個人)意識が発展して、初期差異共振性は崩壊するのである。イアーゴの同一性自己意識にとって、外的他者であるオセロは嫌悪、反感、嫉妬、憎悪(一言で、ルサンチマンである)を催させるのである。
 問題を発生的に考えれば、外的他者への反感の前に、内的他者への反感が生起していなくてはならない。同一性自己ないしは原同一性自己は、内的他者(差異)に反感を覚えるのである。直感では、同一性自己利益(利我主義)にとって、内的他者(差異)は不都合なのである。そう、端的に、同一性自己と内的他者とは対立しているのである。
 これまでの考察に拠れば、Media Point の初期差異共鳴状態(虚軸のゼロ点)から不連続的転移において、実軸のゼロ点へと転移し、実軸化=同一性化するが、この実軸ゼロ点転移(Media Point 実軸ゼロ点転移、MP実軸転移、略して実軸転移)において、初期段階の差異共鳴状態は否定されることになると言えよう。いわば、自然発生的に、内的他者への反感が生起すると言えよう。ここがポイントである。自然的なルサンチマンであることを押さえておこう。(言い換えると、自然的な悪魔性である。あるいは、神の悪魔性である。キリスト教の正統ドグマでは、悪は善の欠如であるが、実は、悪は神が生んだものである。ここで、ユングやヘルマン・ヘッセの善悪両面神のアブラクサスを想起する。)
 自然発生的な憎悪である。ここで、スピノザの悲しみの感情原因説を考えてみると、虚軸ゼロ点から実軸ゼロ点へと不連続的転移するとき、精神における歓喜から悲哀への転換が考えられないことはない。(W.ブレイクで言えば、無垢から経験への進展である。)
 では、反感と悲哀、どちらが先なのだろうか。それとも同時なのだろうか。実軸への不連続的転移は、同一性自己が他者(差異)を否定する作用である。だから、必然的に、他者(差異)に対して反感を覚えるのである。
 悲哀はどうだろうか。初期差異共鳴状態において、原同一性と原他者は共鳴して、歓喜の状態にあると考えられる。エデンの園、エリュシオン、常世である。双子である。光と影の共鳴状態である。そこにおいて、不連続的転移の力学が作用すると、歓喜の共鳴状態が引き裂かれて、悲哀が生じることは考えられるのである。そして、実軸化=同一性化が進展すると、悲哀から反感に変化するのではないだろうか。
 丁寧に分析しよう。実軸ゼロ点への不連続的転移(実軸不連続転移)は、+iの-iに対して、優位になる作用である。(これで、実に簡単に、同一性自己の他者に対する優越感は説明できる。)だから、実軸不連続的転移とは、悲哀をもたらし、且つ、優越感を帯びるのである。
 では、反感はどうなのだろうか。初期の不連続的転移においては、優越感は、いわば、純粋なもので、他者への反感はなく、他者への暴力と結びついていよう。ただただ、他者への能動的な否定行為である。同一性自己を鏡面に投影して鏡像自己を形成するばかりである。そう、他者は同一性自己像のヴェイルに覆われるのである。だから、優越感/暴力と言っても、単に自尊的なものである。だから、ここには、反感はまだ生じていない。
 他者への反感、憎悪、ルサンチマンが生じるには、次のステップが必要となる。同一自己/鏡像自己が形成された後、外的他者が出現したときから、反感の可能が生じると思われる(作業仮説)。それもライバルとしての外的他者である。これをどう見るのか。
 鏡面の位置にライバルの位置があると言えよう。同一性自己像を鏡面の他者に投影するが、鏡面の他者は、それと一致せずに、同一性自己は不快を催すと考えられる。このときに、反感が生起すると言えよう。
 この力学を考察しよう。同一性自己=鏡像自己は既に内的他者を否定しているのである。しかし、それは、内的他者への反感を意味していない。しかし、鏡面の他者=ライバルが出現したとき、それは、実は、否定された内的他者-iの喚起を意味するのではないだろうか。これはどういう力学か。
 そもそも内的他者の否定が鏡面に投影されて外的他者の否定を生むのである。だから、外的他者=ライバルの出現とは、内的他者の否定の心的装置(同一性心的装置)を阻害するものである。ここでこそ、反感(憎悪、ルサンチマン)が発生すると考えられる。言い換えると、内的他者の否定が反感の潜在力なのであり、鏡面の外的他者=ライバルの出現とともに、反感が現実化・実動化(エネルゲイア化)すると考えられるのである。これで本件の解明を終えたが、この解明から、漱石の陰惨無惨な『こころ』の心的力学は透明化したと言えよう。即ち、「先生」の心は、正に、同一性自己のルサンチマン力学に染まっているのである。「K」がライバルであり、それに反感を覚えて、暴力的に否定するのである。そう、このルサンチマンの原因は「奥さん」の性欲的な所有欲望である。つまり、同一性自己とは、異性に対して、性欲的所有欲望をもつのであり、それが基因となり、「先生」は「K」がそのライバルとなり、嫉視して、「K」を貶めたのである。『こころ』とはきわめて父権的な近代的自我を表現した小説であり、それは、西欧近代主義の影響を被った漱石自身の内面を描いていると言えよう。それは、また、明治近代におけるエリートの日本男性の内面を描写したものと言えよう。暗い心である。
 
オセロ (シェイクスピア)
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オセロとデズデモーナ

『オセロ』(Othello)は、ウィリアム・シェイクスピア 作の悲劇 。5幕で、1602年の作。副題は「ヴェニスのムーア人」(The Moor of Venice)。

ヴェニス の貴族 であるオセロが、旗手イアーゴーの奸計にかかり、妻デズデモーナの貞操を疑い殺す。のち真実を知ったオセロは自殺する、という話。シェイクスピアの四大悲劇の一つ。最も古い上演の記録は1604年11月1日にロンドン のホワイトホール宮殿 で行われたものである。

登場人物の心理が非常に明快であり、シェイクスピアの四大悲劇中、最も平明な構造をもつ。
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ヴェニスの貴族でムーア人 のオセロは、デズデモーナを自らの妻とし、これをよく愛している。オセロの旗手イアーゴーは、同輩キャシオーの昇進を憎み、オセロに、デズデモーナがキャシオーと通じていると進言する。真実味を増すために、イアーゴーは、オセロがデズデモーナに送ったハンカチ を盗み、キャシオーの部屋に置く。

これを知ったオセロは怒り、イアーゴーにキャシオを殺すように命じ、自らはデズデモーナを殺してしまう。だが、イアーゴーの妻のエミリアは、ハンカチを盗んだのは夫であることを告白し、イアーゴーはエミリアを刺し殺して逃げる。イアーゴーは捕らえられるが、オセロはデズデモーナに口づけをしながら自殺をする。

[編集 ] 原典

『オセロ』のもとは、ツィンツィオの『百物語』第3篇第7話にある。デズデモーナはギリシャ語 で「不運な」という意味で、この話の中では、デズデモーナは事故死に見せかけてオセロが殺す。後に錯乱し、イアーゴーを解職したが、オセロはこの罪を問われ追放され、デズデモーナの親戚に殺される。イアーゴーはこのことが知られ、拷問 の末に死亡する、という筋で、このほかは非常によく似ている。この話の中で名前で呼ばれているのはデズデモーナのみで、ほかはムーア人、旗手、などと呼ばれている。

[編集 ] 作品解説

表題の人物であるオセロは気高いムーア人 (北アフリカのムスリム )であり、キプロス の軍隊の指揮官である。オセロはムーア人であるにもかかわらず、同情的に描かれている。これはムーア人のような肌の黒い人々が悪役として描かれることが多かった、シェイクスピアの時代のイギリス文学 においては珍しいことである。オセロが黒人 であるかアラブ人 であるかについては研究者の間でも議論があるが、一般には前者と解釈されている。シェイクスピアは劇中でイスラム教 について全く触れていない。

[編集 ] 日本語訳

* 「オセロウ」岩波文庫 、訳:菅泰男
* 「オセロー」新潮文庫 、訳:福田恒存
* 「オセロ」角川文庫 クラシックス、訳:三神勲
* 「オセロー」(シェイクスピア全集 13)ちくま文庫 、訳:松岡和子
* 「オセロー」(シェイクスピア全集 27)白水Uブックス、訳:小田島雄志

ほかに、坪内逍遥 、木下順二 、平井正穂 らの訳がある。

[編集 ] 映画化

* オセロ (1922) エミール・ヤニングス 主演のサイレント映画 。
* オセロ (1952) オーソン・ウェルズ 監督・主演。
* オセロ (1965) ローレンス・オリヴィエ 、マギー・スミス 出演。
* オセロ (1986) ヴェルディ のオペラ『オテロ 』の映画化。フランコ・ゼッフィレッリ 監督、プラシド・ドミンゴ 主演。
* オセロ (1995) ケネス・ブラナー 、イレーヌ・ジャコブ 、ローレンス・フィッシュバーン 出演。
* O (2001) メキ・ファイファー 、ジュリア・スタイルズ 、ジョシュ・ハートネット 出演。舞台は現代のアメリカのハイスクール。
* Omkara (2006) 舞台は現代のインド ・ムンバイ 。アジャイ・デーヴガン、サイフ・アリー・カーン、カリーナ・カプール出演。

[編集 ] テレビドラマ化

* 未来世紀シェイクスピア (2008) AAA(トリプル・エー) 主演ドラマ。(関西テレビ )

[編集 ] 音楽作品

* オテロ - ジュゼッペ・ヴェルディ のオペラ。オテロ(オテッロ、Otello)はオセロのイタリア語名。
* ジョアキーノ・ロッシーニ も同名のオペラを作曲している。
* 序曲『オセロ』 - アントニン・ドヴォルザーク の序曲三部作『自然と人生と愛 』の第3曲。
* 威風堂々 - エドワード・エルガー の行進曲 集。原題“Pomp and Circumstance ”はオセロの台詞から採られた。
* アルフレッド・リード が戯曲の上演のための付随音楽 を作曲しており、後に演奏会用の吹奏楽曲 としてまとめられている。

[編集 ] 関連項目
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、オセロ に関連するカテゴリがあります。

* オセロ (遊戯) (ネーミングの由来。詳しくはオセロ (遊戯)#オセロの歴史 を参照)


『自然界とは何か:差異共振的同一性界か、それとも、差異共振界か?:自然という差異共振鏡面と人間の同一性像の投影(マーヤー):差異共振ミメーシスと差異共振視覚・感覚:シェイクスピアの差異共振ミメーシス性とケルト文化の差異共振精神:年輪や木目と差異共振性の縁としての同一性形状(差異共振的パターン:差異共鳴パターン)』
『自然界とは何か:差異共振的同一性界か、それとも、差異共振界か?:自然という差異共振鏡面と人間の同一性像の投影(マーヤー):差異共振ミメーシスと差異共振視覚・感覚:シェイクスピアの差異共振ミメーシス性とケルト文化の差異共振精神:年輪や木目と差異共振性の縁としての同一性形状(差異共振的パターン:差異共鳴パターン)』


先に以下のように鏡像自己に関する解明を行なったが、自然、自然現象についての解明に少しブレがあるようなので検討したい。
 鏡面は差異共振的同一性面であり、そして、自然が差異共振現象であると述べたのであるが、そうすると、鏡面と自然との関係を明晰にする必要がある。例えば、自然現象は本来、差異共振現象であり、自然に接すると差異共振視覚が喚起されるということを言ったが、そのとき、自然は鏡面なのだろうか。
 問題のポイントは鏡面が差異共振的同一性面であるということにある。では、自然も差異共振的同一性面だろうか。ここは微妙である。
 直感で考えよう。自然に面して、主観には差異共振像が生まれる。これは、Media Point 的視覚(MP的視覚:Media Point Vision:MPV)である。では、このとき、自然は何なのであろうか。自然は差異共振現象であると述べたのであるから、主観(主体)におけるMP的視覚が差異共振現象である自然と共鳴して、差異共振像を生起させると考えることができよう。
 これを分析するなら、主観(主体)が差異共振エネルギー(超越光/光)を放出する自然に臨むとき、それを視覚受容し、MP的視覚が賦活・活性化・「励起」され、差異共振像を結像すると考えられる。このとき自然は鏡面ではないのか。そう、確かに、一種の鏡面であるが、差異共振的鏡面である。(神鏡とは、差異共振的鏡面、Media Point Mirrorと言えよう。)しかし、差異共振的同一性鏡面と言えないのか。差異共振的同一性鏡面とは、端的に、差異共振的鏡面である。だから、結局、自然と鏡面は一致するのである。だから、やはり、問題は、人間主体の志向する同一性像(同一性志向性)である。この人間の主体の同一性像志向性が差異共振像である自然鏡面(差異共振鏡面)に、臨むとき、その同一性像を投影して、自然現象を同一性像(マーヤー)化すると考えられるのである。これで本件の問題が解明された。
 【因みに、『ハムレット』における有名な鏡としての演劇論(ミメーシス論)を簡単に考えてみよう。即ち、演劇とは時代を映す鏡であるという美学である。この場合、ミメーシス/リアリズムは、先に述べた通り、同一性=物質的リアリズムではなく、差異共振的リアリズム(差異共振的ミメーシス)、即ち、即非ミメーシス、Media Point Mimesisと考えるべきである。これは、ゴヤの絵画に似ている。とまれ、この視点で、シェイクスピア演劇の美学も解明されると考えられる。シェイクスピアの洞察眼・心眼は、差異共振的視覚に拠ると考えられるのである。また、創作方法も、差異共振的知覚で、対象に成り切って、表現するので、シェイクスピア個人は消えるのである。シェイクスピアの長年の謎もこれで解明されたと考えられる。ついでに、私が唱える英国文学におけるケルト文化性であるが、ケルト文化性とは、端的に、差異共振的精神性と言えるだろう。私はケルト神話と日本神話(折口信夫の説くもの)とが酷似していると述べているが、それは、差異共振的精神ということで説明できよう。】
 では、発展させて言うと、視覚ないしは感覚とは何なのだろうか。これは、本質的・核心的な問題の一つである。視覚に限定すると、それは、端的に、差異共振的視覚であり、本来、その中に同一性視覚(物質視覚)が包摂されているのであるが、近代/現代において、同一性像の傾斜(西欧近代主義)があるため、同一性像が支配的になり(同一性像主義=唯物論)、差異共振的視覚が抑圧・排除されていると考えられるのである。
 そうすると、今日、一般に言われる視覚ないしは感覚とは、端的に、同一性主義的視覚・感覚、唯物論的視覚・感覚である。だから、それは、錯誤の視覚・感覚である。同一性視覚・感覚である。因みに、よく感性と言われるが、それは、差異共振視覚・感覚を示唆しているが、きわめてあいまい、不明晰である。端的に、差異共振視覚・感覚と言うべきである。
 追加として、自然の差異共振像であるが、例えば、年輪や木目等であるが、それは差異共振像の一つではないだろうか。問題は黄金分割等にも関係するが(そう、デザインの問題にも関係するが)、即ち、年輪や木目とは確かに、同一性=物質をともなっているが、その形状・形態は、差異共振エネルギーの波動の現象化したものではないだろうか。言い換えると、差異共振エネルギーによる、不連続的転移における、差異共振像の痕跡ではないだろうか。
 より的確な考察は別稿にするが、要するに、年輪の輪であるが、それは、差異共振エネルギーが同一性=物質化するとき形成される形状・形態であると考えられ、差異共振的同一性的形態と呼べるが、この形態は単なる同一性=物質の形態ではなく、差異共振エネルギーないしは差異共振像の痕跡ではないのか、ということである。木目も同様ではないのか。
 直感では、それらに差異共振エネルギーを感じるのであるが、それは、その形状(単に形状だけからでなく、その材質からも感じるが)から発しているように思えるのである。そう、黄金分割と同様なことがあると思えるのである。つまり、差異共振エネルギーの同一性の縁である。だから、年輪や木目とは、差異共振性の縁としての同一性形状・形態であり、そのため、差異共振エネルギーを放出しているのではないだろうか。これは敷延して、自然現象の形態に当てはまると考えられる。例えば、渦巻やラセンはそういうものではないだろうか。端的に、差異共振的パターン(差異共鳴パターン)と言えよう。
 これは、音楽で言うと、モーツァルトの音楽である。差異共振エネルギーの縁としてのモーツァルト音楽ではないだろうか。その古典主義という同一性は、差異共振性の縁、差異共振性の同一性の縁と考えられるのではないだろうか。
 長くなったので、稿を改めて検討したい。
 
参照:
《『鏡面と鏡像と視覚:差異共振像と同一性像と視覚主導:脱同一性鏡像化と差異共振視覚の復活』

・ ・・・・

鏡面は差異共振像の反映する差異共振的同一性面(差異的同一性面:以下、共振同一面または共鳴同一面)であり、そこに同一性志向性の不連続的転移に拠る同一性放射光が注がれ、同一性鏡像が生まれるのである。
 ポイントは、本来、差異共振像である鏡面に、差異共振性を否定する同一性像が反照されるということである。この差異共振鏡面に同一性像が反照されるという事象に、人間の謎・秘密の黄金の鍵があると言える。《先にも触れたが、神器の一つである鏡とは、この共振鏡面のことであると考えられる。そして、そこに差異共振像・超越光を見るのが正しいのであるが、同一性自己(自我)の人間には、そこに同一性像しか見い出せないのである。》
 問題は視覚の作用である。同一性志向性の視覚が、共振鏡面に同一性像を反映するのである。即ち、差異共振像に同一性像を投影して、前者に後者を重ねて、連続化して、いわば、覆ってしまうのである。同一性像の覆いである。そして、同一性像は差異共振像を抑圧・排除してしまい、主体は同一性自己(同一性主義)に転ずるのである。鏡面に映した同一性像によって、差異共振像を排除してしまい、鏡像自己を形成して、同一性自己を完成するのである。

・ ・・・・

自然現象とは、本来、差異共振現象であるからである。だから、自然は本来、マーヤーではなくて、Media Point 的現象なのである。マーヤーは人間の同一性鏡像に源泉があり、その投影から形成されるのである。》
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10214379246.html


2009年02月25日(Wed)▲ページの先頭へ
鏡面と鏡像と視覚:差異共振像と同一性像と視覚主導:脱同一性鏡像化と差異共振視覚の復活
画像は以下のブログを見られたい。
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10214379246.html

以前、同一性自己(自我)形成における視覚の主導性・中心性について述べたことがあるが、今の時点で確認したい。
 鏡面は差異共振像の反映する差異共振的同一性面(差異的同一性面:以下、共振同一面または共鳴同一面)であり、そこに同一性志向性の不連続的転移に拠る同一性放射光が注がれ、同一性鏡像が生まれるのである。
 ポイントは、本来、差異共振像である鏡面に、差異共振性を否定する同一性像が反照されるということである。この差異共振鏡面に同一性像が反照されるという事象に、人間の謎・秘密の黄金の鍵があると言える。《先にも触れたが、神器の一つである鏡とは、この共振鏡面のことであると考えられる。そして、そこに差異共振像・超越光を見るのが正しいのであるが、同一性自己(自我)の人間には、そこに同一性像しか見い出せないのである。》
 問題は視覚の作用である。同一性志向性の視覚が、共振鏡面に同一性像を反映するのである。即ち、差異共振像に同一性像を投影して、前者に後者を重ねて、連続化して、いわば、覆ってしまうのである。同一性像の覆いである。そして、同一性像は差異共振像を抑圧・排除してしまい、主体は同一性自己(同一性主義)に転ずるのである。鏡面に映した同一性像によって、差異共振像を排除してしまい、鏡像自己を形成して、同一性自己を完成するのである。
 丁寧に言えば、鏡像が模範になるのである。そして、それを同一性志向性が模して、一体化するのである。つまり、本来、同一性志向性と鏡像とはダブル(分身)でありながら、それが、鏡像自己の形成によって一体化するという誤りを犯しているのである。言い換えると、自己と鏡像とは本来、別々であるが、鏡像へと同一性投影することで、鏡像自己が形成されるのである。この鏡像自己が、マーヤーの根源であると言える。(思うに、不思議なのは、ヒンドゥー教やインド哲学や仏教はどうして、現象がマーヤーであると解明できたのか。やはり、天才が創造した宗教・哲学である。)
 ついでの、先に述べたことを繰り返すが、自己と鏡像を分離させるのが、自己認識の原点・出発点である。仏教やフッサール現象学の核心の一つである。
 これで本件の問題が解明されたが、視覚に問題を絞ると、鏡像的現象界(鏡像現象界:略して、鏡象界)を相対化する方法として、脱同一性的美術があるだろう(モダン・アートはそのような志向性をもっていた)。
 鏡像的現象界のコピーではなく、差異共振像を現象界に見いだす美術である。これは、例えば、山岳を描いた場合、「私は山岳であり、且つ、山岳ではない」という即非表現となる。問題はこのとき描かれた山岳の意味である。それは、当然、鏡像的模写ではなく、共鳴的な表現がそこにはあるが、それは、端的に何か。それは、同一性=物質的ではない山岳、精神的な山岳が表現されていることになる。正確に言えば、同一性=物質としての山岳であり、且つ、差異共振性=精神としての山岳、即ち、即非的山岳が描かれていることになる。
 以前、Kaisetsu氏がミメーシスの捉え直しを唱えていたが、この即非表現がミメーシスに当たるだろう。即非ミメーシスと呼んでもいいだろう。あるいは、Media Point ミメーシスである。
 ここで、リアリズム(写実主義)の問題が生じるが、結局、一見、リアリズムであっても、少なくとも、同一性=物質的リアリズムと差異共振的リアリズムの二つがあることになる。両方を、通常、リアリズムで括っているが、それは間違いである。即非リアリズムがあるからである。
 日本美術で言うと、水墨画や琳派の絵画は、即非リアリズムと言うべきであり、単なる写実主義ではないと言えよう。この美学の問題がたいへん興味深いがここで留めよう。
 最後に付け加えると、視覚主導で形成された鏡像自己であるが、その解体・脱同一性主義化と視覚とはどう関係するのだろうか。同一性視覚とは、本来の身体が欠落しているのである。つまり、物質身体はあるが、精神身体が欠落しているのである。言い換えると、表層身体(西洋的身体)はあるが、深層身体(東洋的身体)が欠落しているのである。だから、視覚も精神身体、深層身体を取り戻す必要があるのである。換言すると、差異共振視覚、即非視覚、Media Point Visionを取り戻す必要があるのである。これこそ、真実を見る眼、心眼、魂眼である。当然、すぐれた画家はこれをもっていた。ゴヤのリアリズムは、この差異共振視覚が風刺的リアリズムへと向かったと言えよう。それに対して、ウィリアム・ブレイクの場合は、差異共振視覚が、虚軸ヴィジョンへと向かったのである。ピカソの『ゲルニカ』は、差異共振視覚が、独裁者批判へと向かっているのである。
 では、端的に、差異共振視覚を取り戻す方法とは何か。視覚が主導した同一性像であるから、視覚によって脱同一性像化するのは、重要である。理論的には、再帰として、差異共振視覚が生起すると考えられる。この視覚を肯定する必要があるのである。
 では、どこに、差異共振視覚が発生するのだろうか。私の乏しい経験から考えてみよう。それは、簡単に言えば、自然に、山川草木の自然に接したときに、差異共振視覚が発生するように思う。そう、自然現象とは、本来、差異共振現象であるからである。だから、自然は本来、マーヤーではなくて、Media Point 的現象なのである。マーヤーは人間の同一性鏡像に源泉があり、その投影から形成されるのである。
 私自身にとっての差異共振視覚の決定的経験は何だろうか。思うに、青空である。紺碧の大空である。思えば、子どもの頃、田舎の小屋のトタン屋根に寝そべり、青空を見つめて、青空に溶け入る美的な経験をしたが、それが、私にとっての、最高の差異共振視覚経験であろう。

水墨画
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松林図屏風(長谷川等伯 、国宝 )

水墨画(すいぼくが)とは、「墨 」一色で表現される絵画 で、墨線だけでなく、墨を面的に使用し、暈かしで濃淡・明暗を表す。墨絵(すみえ)とも言う。

中国 で唐 代後半に山水画の技法として成立し、宋代には、文人官僚の余技としての、四君子(松竹梅菊)の水墨画が行われた。また、禅宗の普及に伴い、禅宗的故事人物画が水墨で制作された。明代には花卉、果物、野菜、魚などを描く水墨雑画も描かれた。

日本 には鎌倉時代 に禅 とともに伝わった。日本に伝わった絵画は、『達磨図 』・『瓢鮎図 』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、風景を描く山水画 も書かれるようになった。
日本の水墨画
如拙筆 瓢鮎図 京都・退蔵院蔵
雪舟筆 秋冬山水図のうち冬景

墨一色で表現した絵画は、日本では正倉院 宝物の「墨画仏像」のような奈良時代の作例があり、古代から制作されていた。しかし、美術史で「水墨画」という場合には、単に墨一色で描かれた絵画ということではなく、墨色の濃淡、にじみ、かすれ、などを表現の要素とした中国風の描法によるものを指し、日本の作品については、おおむね鎌倉時代以降のものを指すのが通常である。着彩画であっても、水墨画風の描法になり、墨が主、色が従のものは「水墨画」に含むことが多い。

平安時代初期、密教の伝来とともに、仏像、仏具、曼荼羅等の複雑な形態を正しく伝承するために、墨一色で線描された「密教図像」が多数制作された。絵巻物の中にも『枕草紙絵巻』のように彩色を用いず、墨の線のみで描かれたものがある。しかし、これらのような肥痩や濃淡のない均質な墨線で描かれた作品は「白描」(はくびょう)ないし「白画」といい、「水墨画」の範疇には含めないのが普通である。

[編集 ] 初期水墨画

中国における水墨画表現は唐 時代末から、五代 〜宋 時代初め(9世紀末〜10世紀)にかけて発達した。中国の水墨画が写実表現の追求から自発的に始まったものであるのに対し、日本の水墨画は中国画の受容から始まったものである。日本における水墨画の受容と制作がいつ頃始まったかは必ずしも明確ではない。すでに12世紀末頃の詫磨派の仏画に水墨画風の筆法が見られるが、本格的な水墨画作品が現れるのは13世紀末頃で、中国での水墨画発祥からは4世紀近くを経ていた。13世紀末から14世紀頃までの日本の水墨画を美術史では「初期水墨画」と呼んでいる。水墨画がこの頃盛んになった要因としては、日本と中国の間で禅僧の往来が盛んになり、宋・元 の新様式の絵画が日本にもたらされたことが挙げられる。13世紀になり、無学祖元 、蘭渓道隆 らの中国禅僧が相次いで来日した。彼らは絵画を含め宋・元の文物や文化を日本へもたらした。鎌倉にある円覚寺 の仏日庵の所蔵品目録である「仏日庵公物目録」(ぶつにちあんくもつもくろく)は、元応2年(1320年)に作成された目録を貞治2年(1363年)頃に改訂したものであるが、これを見ると、当時の円覚寺には多数の中国画が所蔵されていたことがわかる。

日本の初期水墨画は、絵仏師 や禅僧が中心となって制作が始められた。師資相承(師匠から弟子へ仏法を伝える)を重視する禅宗では、師匠の法を嗣いだことを証明するために弟子に与える頂相 (ちんぞう、禅僧の肖像)や禅宗の始祖・達磨 をはじめとする祖師像などの絵画作品の需要があった。この時期に制作された水墨画の画題としては、上述の頂相、祖師像のほか、道釈画(道教および仏教関連の人物画)、四君子 (蘭、竹、菊、梅を指す)などが主なものである。なお、水墨画と禅宗の教義とには直接の関係はなく、水墨画は禅宗様の建築様式などと同様、外来の新しい文化として受容されたものと思われる。鎌倉時代の絵巻物 に表現された画中画を見ると、当時、禅宗以外の寺院の障子絵などにも水墨画が用いられていたことがわかる。

14世紀の代表的な水墨画家としては、可翁 、黙庵 、鉄舟徳済 などが挙げられる。可翁については作品に「可翁」の印が残るのみで伝記は不明だが、元に渡航した禅僧の可翁宗然と同人とする説が有力である。黙庵は元に渡り、同地で没した禅僧である。鉄舟徳済は夢窓疎石 の弟子の禅僧で、やはり元に渡航している。

代表作

* 達磨図(山梨・向嶽寺 蔵、国宝) - 達磨の衣などに彩色があるが、水墨画の筆法で描かれている。絵の上部に蘭渓道隆の賛があることから、蘭渓の没した1278年が制作年代の下限である。
* 蘭渓道隆像(神奈川・建長寺蔵、国宝) - 着彩画であるが、中国画と同様の筆法で描かれている。この時代の頂相の代表作である。絵の上部に文永8年(1271年)の蘭渓自身の賛がある。
* 可翁筆 寒山図(個人蔵、国宝) - 減筆体の人物画。寒山は唐時代、天台山に住んでいたという伝説的な隠者で、水墨画の好画題とされる。

[編集 ] 室町水墨画

室町時代は日本水墨画の全盛期と言ってよいであろう。足利家が禅宗を庇護したこともあり、禅文化や五山文学 が栄え、足利家の寺である京都の相国寺 からは如拙 、周文 、雪舟 をはじめとする画僧を輩出した。また、東福寺 の画僧・明兆 (みんちょう)は、濃彩の仏画から水墨画まで幅広い作品を制作した。8代将軍足利義政 は政治を省みなかったが、文化の振興には力を入れ、唐物と呼ばれる中国舶載の書画、茶道具などを熱心に収集・鑑賞した。当時の日本で珍重されたのは、中国・南宋時代の画家の作品で、夏珪、馬遠、牧谿 (もっけい)、梁楷、玉澗(ぎょくかん)らが特に珍重された。牧谿、梁楷、玉澗などは中国本国よりも日本で評価の高い画家である。なお、室町時代の日本画壇が水墨画一色であったと考えるのは誤りで、この時代には伝統的な大和絵 の屏風も盛んに描かれていたことが、20世紀後半以降の研究で明らかになっている。

14世紀までの日本水墨画が頂相、祖師図、道釈画などの人物画や花鳥画を中心としていたのに対し、15世紀には日本でも本格的な山水画が描かれるようになる。日本の水墨山水画のうち、もっとも初期の作とされるものは、「思堪」という印章のある『平沙落雁図』(個人蔵)である。この作品には中国出身の禅僧・一山一寧 の賛があり、彼の没年である1317年が制作年代の下限となる。画面下部に「思堪」の朱印があり、これが画家名と思われるが、その伝記等は不明である。この『平沙落雁図』にはまだ水墨画の画法をこなしきれていない稚拙な部分があり、遠近感の表現なども十分ではない。それから約1世紀を経た応永年間(15世紀初頭)に、「詩画軸」と称される一連の作品が制作される。

「詩画軸」とは、「詩・書・画一体」の境地を表わしたもので、縦に長い掛軸の画面の下部に水墨画を描き、上部の余白に、画題に関連した漢詩を書いたものである。この種の詩画軸で年代のわかる最古のものとされるのが藤田美術館 蔵の『柴門新月図』(さいもんしんげつず)で、応永12年(1405年)の作である。この図は杜甫 の詩を題材にしたもので、絵の上部には序文に続いて18名の禅僧が詩文を書いており、絵よりも書の占めるスペースが倍以上大きい。15世紀前半に制作された詩画軸の代表作としては他に『渓陰小築図』、『竹斎読書図』、『水色巒光図』(すいしょくらんこうず)などがあり、絵の筆者は『渓陰小築図』が明兆(みんちょう)、『竹斎読書図』、『水色巒光図』が周文との伝えもあるが、確証はない。この時期の詩画軸は、「書斎図」と呼ばれる、山水に囲まれた静かな書斎で過ごす、文人の理想の境地を題材にしたものが多い。

この時代にはようやく画人の名前と個性が明確になってくる。相国寺の画僧・如拙は、『瓢鮎図』(ひょうねんず、京都・退蔵院蔵)をはじめ、若干の作品が知られる。やはり相国寺の画僧であった周文は、幕府の御用絵師としての事績が文献からは知られ、詩画軸、山水屏風などに「伝周文筆」とされる作品が多数残るが、確証のある作例は1点もない。

15世紀の後半には、水墨画家としてのみならず、著名な画家の一人である雪舟(1420 - 1502/1506)が登場する。雪舟は備中国 (岡山県)の出身で、地方武士の血を引くと言われる。上京して相国寺の僧となるが、後に大内氏 を頼って山口に移住。応仁の乱(1467−1477年)の始まりと前後して中国・明に渡航、足掛け3年滞在して帰国した。帰国後は山口、大分など、もっぱら地方を遍歴して制作し、80歳代まで作品を残している。雪舟は明応4年(1495年)、76歳の時、弟子の宗淵に与えた作品『山水図』(通称「破墨山水図」)の自賛に、「自分は絵を学ぶために明に渡航したが、そこには求める師はいなかった」と記し、先輩に当たる如拙や周文の画業をたたえている。この自賛は、日本の画家が自らの画業について語ったものとしては最古のものであり、日本人画家としての自負がうかがえる。雪舟は中国絵画の影響を消化しつつ『天橋立図』のような日本の実景を題材にした独自の水墨画を制作した。また、多くの弟子を育成し、彼らの中には秋月(薩摩出身)、宗淵(鎌倉円覚寺の画僧)など、それぞれの出身地に帰って活躍した者もいた。こうした面でも、雪舟が日本絵画に与えた影響は大きかった。

室町時代には、地方にも多くの画人が現われ、その多くは武家の出身であった。その代表的な存在が、常陸国太田(茨城県常陸太田市)の武家出身の画家・雪村 であった。雪村は後に出家して画僧となり、関東地方と会津地方で80歳代まで制作を続けたが、その作品には武家の出身らしい気迫のこもったものが多い。

この時代には他にも多くの水墨画家がいた。著名な者としては、曾我蛇足、松谿、岳翁蔵丘らがいるが、これらの人物の伝記はあまり明らかでない。足利将軍家に仕えた「同朋衆」(唐物の目利きなど、芸術顧問的な仕事をしていた)の阿弥派一族(能阿弥 、芸阿弥 、相阿弥 )も水墨の作品を残している。

[編集 ] 参考文献

* 「特別展 水墨画」図録、東京国立博物館
* 週刊朝日百科『世界の美術』115号「室町時代の水墨画」、116号「雪舟・雪村と戦国画壇」、朝日新聞社、1980年

[編集 ] 関連項目

* 明兆
* 如拙
* 周文
* 雪舟
* 狩野正信 :狩野派 の祖
* 狩野元信
* 長谷川等伯
* 破墨山水
* 襖
* 東山文化
* おもな中国水墨画一覧

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%E7%94%BB " より作成
カテゴリ : 水墨画 | 絵画技術 | 絵画のジャンル | 禅 | 日本美術史 | 室町時代の文化

琳派
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俵屋宗達 風神雷神図

琳派(りんぱ)とは、俵屋宗達 、尾形光琳 ら江戸時代 に活躍し、同傾向の表現手法を用いる美術家 ・工芸家 らを指す名称である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E7%90%B3%E6%B4%BE

Rimpa school
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Spring Landscape, unknown Rimpa school painter, 18th century, six-screen ink and gold on paper.

Rimpa (琳派, Rimpa or Rinpa? ), is one of the major historical schools of Japanese painting . It was created in 17th century Kyoto by Hon'ami Kōetsu (1558-1637) and Tawaraya Sōtatsu (d. c.1643). Roughly fifty years later, the style was consolidated by brothers Ogata Kōrin and Ogata Kenzan .

The term “Rimpa” itself is an amalgamation of the last syllable from “Kōrin” with the word for (school (派, ha or pa? ), coined in the Meiji period . Previously, the style was referred to variously as the Kōetsu school (光悦派Kōetsu-ha? ), or Kōetsu-Kōrin school (光悦光琳派, Kōetsu-Kōrin-ha? ), or the Sōtatsu-Kōrin school (宗達光琳派, Sōtatsu-Kōrin-ha? ).

http://en.wikipedia.org/wiki
/Rimpa_school


File:PicassoGuernica.jpg

http://en.wikipedia.org/wiki
/File:PicassoGuernica.jpg


2009年02月24日(Tue)▲ページの先頭へ
同一性自己意識の優越意識の発生について:Media Point の不連続的転移における虚軸と実軸の位階の交替と復位
本件に関する先の考察は、原同一性+iがいわば無意識の裡におぼえる差異・他者への不安の苦から、差異・他者を否定して、同一性自己形成して、差異・他者に優越感をおぼえるということであったが、まだ、十分・十全な分析にはなっていないので、さらに考察を続ける。
 直感で考えてみよう。心の無意識領域は、同一性自己意識にとっては、不可解である。暗みの中で何かが蠢いている感じであり、それは、ある意味でとりとめなく感じられるものである。そして、同一性自己意識は、その暈のような暗みに対して、どう対処していいか、端的にわからないのである。そう、不安、動揺、恐怖、拠り所の無さ、不安定さ、不確定感、苦悩、焦り、等々の、ネガティブな感情がどんよりと滞留している。(この無意識領域は、ハイデガーの説く存在の領域に近いだろう。)
 この心の闇の領域に対して、同一性自己意識(正確には、同一性意識であろう)は、自己の同一性を確立するために、否定の態度を取ると考えられるのである。抑圧・排除・隠蔽の態度である。
 結局、心の無意識・闇の領域に接して、同一性自己意識(正確には、+iの原同一性自己意識)の覚えるネガティブな感情意識は、当然、劣弱な意識である。しかし、これは、劣等感であろうか。原同一性自己意識を圧している心の無意識に対して確かに引け目を感じるだろう。臆する気持ちをもつだろう。しかし、それは劣等感だろうか。一種劣等感とは言えよう。
 では、いったい何故、心の無意識領域において、原同一性自己意識+iは、否定的な感情意識をもつのだろうか。それは、原同一性自己意識+iにとって、原差異・他者意識-iとの関係が否定的であるからだろう。端的に、今問題になっている領域はMedia Point における超越性から同一性への転換点である。ここで精緻に考察しよう。
 +iと-iがMedia Point で「接する」のであるが、それは、即非的接触である。接すると同時に、接していずに、分離しているのである。(この問題は十分な検討は長くなるので、ここで留める。)この即非接触領域を作業仮説しよう。それは、即非接触点ないしは即非接触領域、あるいは、即非接触線・面である。
 Media Point において、初期状態には、差異共振性がある。これを初期差異共振状態(原始差異共振状態)と呼ぼう。(初期太極状態とも呼べる。)しかしながら、ここでは、同一性は十全に展開されていないのである。原同一性+iと原差異-iとが、いわば、未分化に共振・共鳴しているのである。
 そして、次に、原同一性が自身を展開する段階がやってくるのである。そのときの最初の状態が上述したものになるだろう。これは、Kaisetsu氏の指摘した異なる二つのゼロ点が参考になる。すなわち、原始差異共振状態とは、虚軸のゼロ点における状態であると考えられる。それに対して、上述の状態は、虚軸ゼロ点から実軸ゼロ点へと転移するときの様態であると考えられる。ここで、最高度に留意すべきは、この転移段階は連続的ではなく、不連続的であることである。即ち、上述の状態は、虚軸ゼロ点から実軸ゼロ点への不連続的転移の状態であるということである。これは、同一性への不連続的転移の状態とも言える。上記で心の無意識・闇と呼んだものは、この不連続的転移におけるMedia Point において、発生した摩擦・雑音・歪み等であると言えるだろう。つまり、同一性を展開するときに生じる初期差異共振性の否定が心の無意識・闇であると考えられるということである。そして、さらなる同一性の展開は、この摩擦等を否定・抑圧・排除していく形をとると考えられる。それは、即非接触領域の隠蔽に帰結すると考えられる。端的に言えば、Media Point の抑圧・排除・隠蔽であり、究極的には、同一性自己意識=同一性主義(近代的自我・近代合理主義)の完成である。少し整理すると、同一性への展開とは、Media Point における、いわば、不連続的同一性転移に拠ると言える。
 ここで本題にもどろう。なぜ、同一性意識は差異に対する劣等感から優越感へと変容するのか。思うに、本来、虚軸ゼロ点は実軸ゼロ点よりも優位にあるから、実軸ゼロ点に根拠をもつ同一性意識は劣位にあるが、虚軸ゼロ点⇒実軸ゼロ点への不連続的転移においては、その位階が逆転して、意識においては、虚軸ゼロ点よりも実軸ゼロ点の方が優位にあると感じられる(錯覚?)からではないだろうか。
 この問題は微妙である。先にも述べたが、エネルギーの往還を考えるべきである。不連続的転移は、ある必然的なエネルギーの流れに基づくと考えられる。同一性形成のエネルギー(プラス・エネルギー)が発生すると、それは、Media Point の原初状態を否定する形になるのである。同一性意識において、劣位から優位へと転換するのは正道である。だから、優越感とは、それだけに限定すれば、正しい感情である。それが、誇りや栄誉等に関係するだろう。
 だから、問題は、エネルギーの流れが回帰・帰還・再帰するときである。それは、いわば、マイナス・エネルギーであろう。それは、高度な差異共振性への螺旋的回帰である。虚軸ゼロ点への回帰である。このとき、もはや、同一性自己意識の優越感は反動・阻害的になるのである。傲慢慢心尊大なのである。正確に言えば、エネルギーの流れが反転して、回帰的になると、同一性自己意識にとっては、そのマイナス・エネルギーの作用は、解体的になるのである。そのために、同一性自己意識(同一性主義)は、反動的に抑圧・排除するのである。この反動的抑圧が暴力・暴圧的であり、狂気・錯乱的なのである。正道的な優越感は今や、盲目・盲信的な優越感、自己満足的な虚栄の優越感、不合理な暴力的な優越感に変化しているのである。そう、邪道な優越感である。
 
参照:
《他者とは差異である。同一性+iにとって、差異・他者-iは認識できない不安による苦をもたらすものである。この、いわば、不安苦に対して、同一性は同一性自己意識を形成することで、差異・他者に対して、優越感をおぼえるということではないか。
 ということは、+iは無意識領域では、漠然と差異・他者-iを感じ、不安苦をおぼえるのであり、それを否定するように同一性自己意識を形成して、優越感をもつようになるということではないのか。
 先の優越感発生の説明は、同一性志向性が(超越的同一性の)鏡像へと投影する際に、差異共振性を否定することから優越感を生まれるというものであった。しかし、上述では、(内的、ないしは外的な)差異・他者への不安苦に対する否定から優越感が発生するというものである。
 先の説明は、いわば、構造的であり、内的葛藤がないものである。後の説明は、原理に内的葛藤を見ているのであり、「人格」的である。そう、個的である。同一性+i(正確に言えば、原同一性+iである)は差異-i(Media Point を含めていい)を認識できないために、不安苦を感じるのであり、それを解消するために、差異-iを否定して、差異に対して優越性を感じるのである。言い換えると、差異に対する勝ち誇った、おごりの感情を感じるのである。》
http://protophilosophy.noblog
.net/blog/q/10731204.html



+iの意識と-iの「無」意識:差異・他者への不安苦に発する、同一性自己意識の優越感の発生
先に同一性自己(自我)が他者に対してもつ優越意識について検討したが、さらに考究したい。
 +iの同一性自己意識が、-iの差異他者を認識できるだろうか。というか、-i自体の存在を認識できるだろうか。
 根本的に考えたい。Media Point から+iの同一性認識が発生するが、それは、-iの存在を認識できるだろうか。端的に言えば、+iは意識であり、-iは無意識であり、原理的には、前者は後者を認識できない。後者は他者であり、一種の物自体である。
 私は何を言いたいのかと言うと、Media Point の原基性である。それは、精神身体=心身一如なのである。つまり、+iの同一性、-iの差異は、精神身体=心身一如のMedia Point から起動するということである。
 【精神身体とは、言い換えれば、「魂」(「アニマ」)と言えよう。「霊魂」でもいいだろう。そう、魂魄(こんぱく)でもいいだろう。これは、また、陰陽的心身である。簡略的に、陰陽魂ないしは陰陽体と呼ぼう。】
 そう、+iは-iを認識できないのは元より、Media Point =陰陽魂も認識できないだろう。何故なら、+iの同一性意識にとっては、源泉は隠蔽されていると考えられるからである。同一性志向性は源泉のMedia Point =陰陽魂を隠すからである。そして、形成された同一性自己意識は、心となり、物質的身体や物質的外界と分離されるのである(心身二元論)。
 深層心理学的に言うと、無意識はMedia Point であり、又、-iである。(もっとも、ここでは、構造の無意識性は含めない。それは、超越論的形式や精神分析の無意識であるが、延長すれば、ラカンの現実界やハイデガー/デリダの存在/差延も含められよう。)
 -iはおいておくが、Media Point が無意識であるという点が決定的である。つまり、意識の原基・源泉である精神身体のMedia Point が認識されないことは最高度に重大なことであるからである。即ち、精神身体性=心身一如性の無意識であることの重大さである。だから、同一性自己意識は、同一性知性に留まり、特異性(Media Point =精神身体)の知性、理性知性をもちえないのである。
 ここで、本題の同一性自己の優越感について考察しよう。端的に、いったい何に対して優越感をおぼえるのか。それは、他者に対してであろう。つまり、同一性自己はなんらか他者に対抗意識をもっているのである。そう、無意識領域において、他者への引け目を感じているのではないだろうか。他者とは差異である。そう。同一性+iにとって、差異・他者-iは認識できない不安による苦をもたらすものである。この、いわば、不安苦に対して、同一性は同一性自己意識を形成することで、差異・他者に対して、優越感をおぼえるということではないか。
 ということは、+iは無意識領域では、漠然と差異・他者-iを感じ、不安苦をおぼえるのであり、それを否定するように同一性自己意識を形成して、優越感をもつようになるということではないのか。
 先の優越感の説明は、同一性志向性が(超越的同一性の)鏡像へと投影する際に、差異共振性を否定することから優越感を生まれるというものであった。しかし、上述では、(内的、ないしは外的な)差異・他者への不安苦に対する否定から優越感が発生するというものである。
 先の説明は、いわば、構造的であり、内的葛藤がないものである。後の説明は、原理に内的葛藤を見ているのであり、「人格」的である。そう、個的である。同一性+i(正確に言えば、原同一性+iである)は差異-i(Media Point を含めていい)を認識できないために、不安苦を感じるのであり、それを解消するために、差異-iを否定して、差異に対して優越性を感じるのである。言い換えると、差異に対する勝ち誇った、おごりの感情を感じるのである。後でもう少し整理したい。


2009年02月23日(Mon)▲ページの先頭へ
超越的同一性像と同一性自己の癒着の力学について:同一性志向性が差異共振像(鏡面)を鏡像化する
以下で述べられている超越的同一性像と同一性(志向性)との癒着の力学について精査したい。
 この問題は、同一性主義のもっとも核心的な問題と言えよう。いったい投影するとは何か。鏡像と同一化=癒着する同一性力学とは何か。きわめて微妙な問題であり、用語が粗雑・粗略になりやすいので、慎重に検討したい。
 いったい、同一化とは何だろうか(精神分析では、転移であろう)。単純に言えば、本来、差異であるものを同一性にするという強要・暴力・狂気である。
 理論的に言えば、同一性志向性意識の「拠り所の無さ」、即ち、根拠の不確定さ・曖昧さから、同一化欲求があると考えられる。つまり、根拠の不確定さ・曖昧さから発する同一性根拠欲求から、同一化・癒着化が起こるのではないか。
 同一性志向性意識にとり、根拠の不確定さ・曖昧さは、正に、頼りないことである。自己確定ができない事態である。だから、鏡像が望まれるのである。鏡像的同一性像が同一性志向性(同一性自己志向性)意識にとって同一性自己根拠になると考えられるのである。
 つまり、同一性志向性は同一性根拠を希求するのである。そして、超越的同一性という鏡面に映る同一性像こそが、同一性根拠となると考えられよう。
 問題は先に述べたように、超越的同一性と同一性自体とはズレがあることである。つまり、超越的同一性と端的な同一性自体とは不連続であることである。
 結局、同一性自己志向性が超越的同一性鏡面に投影する同一性像とは、「不正」占拠なのである。何故なら、超越的同一性に内在する超越性を否定して、自己像を押しつけるからである。そう、端的に、投影とは、自己像の押しつけ、つまり、同一性暴力なのである(これは、端的に、西洋文明の本質的特徴であると言えよう。最近、死後忘却された感のあるサイードの説いたオリエンタリズムとは、正に、この西洋文明の同一性暴力と言えよう。)。
 ということで、本件の問題は、同一性暴力が解明である。同一性を超越的同一性に押しつけて、同一性自己を優越化するのである。(だから、同一性自己の優越意識の根因は、超越的同一性の超越性と同一性志向性のもつ差異志向性への優越性との合致にあると言えよう。)
 しかしながら、押しつけとは何か、という問題も発生するのである。ここで根本的に考えよう。
 Media Point において、差異共振像があると言った。これは、これまで述べたように、「私は山であり、且つ、山ではない」というような即非的様態である。つまり、自己対象は山であり、それと即非関係にあるのである。
 結局、差異共振像における対自性(⇒-i)があるのである。この対自性が、同一性志向性と合致すると考えられるのである。正確に言えば、内的な対自性と同一性志向性の対象とが合致するということになる。言い換えると、内的他者を同一性志向性の同一性像に合致させると言えよう。だから、端的に、この合致(同一化=癒着化)とは、同一性志向性の帰結であると言える。正に、鏡面の他者(超越的同一性像)を同一性化することである。同一化=癒着化あるいは投影とは、端的に、同一性志向性の作用と考えられるのである。同一性志向性が差異を同一化=癒着化するのである。
鏡像とは正に、差異の鏡面に投影された同一性像なのである。
 付録的に言うが、「悪魔」のルシファーとは、同一性志向性であり、「悪魔」のアーリマンとは、同一性像のことであろう。そして、近代主義とは、二つの「悪魔」の帰結である。Media Point の否定なのである。
 
参照:

《超越的同一性像という鏡面に同一性自己を投影し、反照したものが鏡像であり、その結果生まれる鏡像的同一性自己(自我)とは、超越性と同一化・融合化することにより、無自己批判的に、自己を優越化していると考えられるのである。そして、盲目に優越化した独善・独裁・独断的同一性自己は、当然、Media Point における他者・差異を否定・抑圧・排除するのである。というのは、本来、同一性志向性とは、差異志向性を否定するので、今や、優越化した同一性自己(自我)は、内在し、再帰的に活性化する差異志向性を無視するからである。換言すると、差異志向性を否定する同一性志向性力学に基づく同一性自己は、今や、超越的同一性と無批判に融合・同一化(同一性主義化)しているので、差異志向性が再帰的に活性化しても、それを否定し、いわば自動的・機械的に、他者・差異を否定・抑圧・排除・差別することになるのである。》
http://sophio.blog19.fc2.com
/blog-entry-1058.html


自我(同一性自己)の優越感の構造について:超越的同一性鏡面と同一性鏡像の癒着に基づく短絡的な同一性自己の優越意識の発生
本件について、さらに整理したい。
 Media Point には、基本的に三相があると見るべきである。すなわち、差異共振像、同一性志向性、並びに、差異志向性である。これが、「三柱の神」である。あるいは、三つ巴である。そして、同一性志向性と差異志向性は二律背反(アンチノミー)的である。
 とまれ、問題は、差異共振像と鏡像との関係である。鏡像とはいったい何か。
 先ず、鏡面を明確にする必要がある。鏡面とは何か。これは、直観では、同一性志向性が開いた視野・地平であろう。端的に、現象界である。
 しかしながら、同一性志向性の根源には、差異共振像があるのである。これは、超越光である。言い換えると、差異共振像とは、超越光像である。【一神教の原型はここかもしれない。しかし、三元・三相・「三柱」性を見るのが本来的である。だから、一神教とは、本来の三神教(原三神教)を端折って発生したものと考えられよう。原因ではなく、結果としての超越光像を超越神・唯一神にしているということになる。】
 そして、同一性志向性とは、本来、差異共振像=超越光像から発していると思われる(作業仮説)。すなわち、超越光から同一性光へと変容するのである。そう、同一性光が鏡、鏡面である。そして、この同一性光鏡面に差異共振像を投影して反照した像が鏡像であると考えられる(これは、既述のことであるが)。
 この同一性光鏡面(以下、同一性鏡面)に投影された差異共振像は、先に述べたように、いわば、捨象されたものである。
 
 ここで、整理し直す必要があると思われたので、変更したい。即ち、鏡面のことである。それは、現象界のことであると述べたが、現象界は単純に同一性志向性だけによって形成されたものではなく、差異志向性も働いているのである。現象自然界は、Media Point が端的に作用しているのである。
 だから、現象自然界の同一性像とは、Media Point が開いていて、差異共振像=超越光像を、なんらか、反照しているはずである。後光、光背、アウラ、あるいは、宗教・神話的には、大日如来、阿弥陀仏、アフラマズダ、アマテラス、オシリス等がそういうものであると考えられる(因みに、以前、イデア叡知光と呼んだことがある。また、神器の鏡であるが、それは、端的に、この超越光を反照する鏡と言えるだろう。)。
 ここで、鏡像問題に戻ると、鏡像は先に述べたように差異共振像の投影としての同一性像となるのである。それは、Media Point 的な同一性、差異共振的同一性ないしは超越的同一性像である。そして、これが、模範像・手本・見本・雛型等である。そして、この超越的同一性像に対して、同一性志向性=同一性自己(自我)が自己投影して、鏡像同一性化するのではないのか。言い換えると、超越的同一性像を所有化するのである。そして、 Media Point 性を否定して抑圧するのである。これが先に述べた、差異共振像の同一性像への投影の真相である。
 かなり複雑である。鏡面の差異共振的同一性像(超越的同一性像)に同一性志向性が投影するのであり、そのとき、前者の超越性・差異共振性が否定されるのである。言い換えると、一神教的同一性自己の形成が生起するのである。何故なら、同一性志向性が差異共振性(多神教性)を否定して、同一性自己(自我)が、自身を二項対立の優位項(優越項)に置くからである。
 とまれ、鏡像とは、超越的同一性像に同一性像を投影した反映であるということである。この同一性像はいわば、自己陶酔して、同一性自己(自我)に対して、無批判なのである。自惚れ、慢心しているのである。つまり、本体である差異共振像=超越光像の反映である超越的同一性像との「差異」を無視して、同一性自己(自我)を肯定しているからである。視点を変えると、超越的同一性像の超越的光に目が眩んでいるのである。同一性自己自身に、いわば、超越性を与えてしまっているのである。(これこそ、一神教の原型であると考えられる。)
 この盲目となった独裁的な同一性自己(自我=一神教的自己)を理性的に治癒するには、上記からも予想されるが、先ず、同一性自己と超越的同一性(鏡像)の不連続性を認識して、重ね合わせを否定して、超越的同一性の根源が超越的差異共振性であることを認識することである。そして、これが、PS理論の本質である。そして、具体的・実践的な方法についは既述済みである。
 最後に、まとめると、超越的同一性像という鏡面に同一性自己を投影し、反照したものが鏡像であり、その結果生まれる鏡像的同一性自己(自我)とは、超越性と同一化・融合化することにより、無自己批判的に、自己を優越化していると考えられるのである。そして、盲目に優越化した独善・独裁・独断的同一性自己は、当然、Media Point における他者・差異を否定・抑圧・排除するのである。というのは、本来、同一性志向性とは、差異志向性を否定するので、今や、優越化した同一性自己(自我)は、内在し、再帰的に活性化する差異志向性を無視するからである。換言すると、差異志向性を否定する同一性志向性力学に基づく同一性自己は、今や、超越的同一性と無批判に融合・同一化(同一性主義化)しているので、差異志向性が再帰的に活性化しても、それを否定し、いわば自動的・機械的に、他者・差異を否定・抑圧・排除・差別することになるのである。これで本件の解明を終える。
 

参照:
《本来、ライバルとは模範・手本・雛型である。だから、本来、模範である鏡像を差異共鳴像は模すのである。これが、自己投影である。しかし、これは、内的他者の否定であり、外的他者の否定に帰結する。だから、本題の自己優越感の発生とはこの鏡像自己(同一性自己)の形成に拠ると考えられる。
 しかし、何故優越感が発生するのか。なぜ、同一性自己(自我)を優位とし、他者を劣位とするのか。端的に、二項対立原理の発生の意味である。
 根本から考えると、Media Point における差異共振像と同一性志向性の対立があると考えられる。この問題は上述のごとく、既述であるが、精緻・緻密に考えたい。
 Media Point において差異共振像があり、そこでは、自己は他者であり、且つ、他者ではない等の様態が発現している。自己は他者でないというのは、自己は自己であるという同一性を示唆しているし、ここから、同一性志向性が発動・発現すると思われる。
 しかし、逆に言うと、自己は他者であるというのは、差異志向性であると言えよう。だから、Media Point において、同一性志向性と差異志向性が並立していると言えよう。
 初期成長過程において、同一性志向性が主導化すると考えられる(これは、主に男子の成長過程に当てはまるだろう)。それは言い換えると、差異志向性が否定抑圧(否定と反対は違う心的事象である。否定とは、排除的であり、反対とは、維持的である。)されることである。》

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2009年02月22日(Sun)▲ページの先頭へ
デカルトのコギト・エルゴ・スムについて:同一性自己と差異他者の極性自己
いったい、デカルトのコギトの主体とは何だろうか。一見、同一性自己に思えるが、そうではない。問題は「疑うことのできないものとしての私の思考がある」点である。疑うことができないと考える「わたし」が問題なのである。つまり、「私の思考」を疑うことができないと判断する「わたし」である。
 「私の思考」はその後、近代合理主義になったが、「私の思考」を相対化する「わたし」は何かである。端的に言えば、それは、正に、差異としての「わたし」である。
 だから、コギトとは本来、差異自己であり、これが、同一性自己(近代的自我、近代合理主義)を目指したのである。これは、正に、Media Point における同一性志向性としてのコギトと言えるだろう。本来、差異でありながら、差異を否定して、同一性化していくのである。自己否定的なコギトなのである。
 すると、コギトは反転を潜在させているということになる。差異志向性が内在しているのである。それは、スピノザやライプニッツによって開始されたと言えるし、また、主にドイツ観念論によって展開されたと言えよう。ただし、カントとヘーゲルにしろ、同一性主義が支配的であったのは否めないである。デカルトの後塵を拝しているのである。そう、『資本論』のマルクスも同じである。差異をまったく切り捨てて、同一性主義としての価値を完全展開させているのである。
 経済学的には、やはり、アダム・スミスの「見えざる手」の方が差異を肯定したと言えるだろう。市場とは差異的である。そして、哲学的にはフッサール現象学が、同一性志向性をエポケーして、デカルトの差異としての「わたし」を復権させたと言えよう。それは超越論的主観性と呼ばれているが、それは、同一性志向性の原点の超越的自己を提示したものと考えられる。明晰な差異共振的自己認識までは達しなかった。しかし、正確に言えば、既述の通り、後期フッサールには、実質的には同一性志向性と差異志向性との均衡が入っていると思う。つまり、実質的には(無意識においては)、差異共振性に達していたが、意識においては、同一性認識のままであったのである。
 ここで、差異自己(コギト)について少し考えてみたい。私の思考を疑うことができないと考える「わたし」が差異自己であるが、いったいそれは何であろうか。それは「私の思考」を対象化・相対化している「わたし」である。言い換えると、他者としての「わたし」である(他者自己)。敷延すると、同一性自己とは別に、他者自己が存するということになるだろう。
 これは実に重要な問題である。というのは、+iの自己は知性を形成するが、-iとは、感情ではないかと思いたくなることが多いからである。つまり、-iにある知性を認めるのか、それとも、感情を認めるのかは、きわめて重大な問題であるからである。
 どうやら、-iは他者自己であり、知性・認識性をもっていると認めるべきであると考えられてきた。平明に言えば、自己とは本来、二人であるということである。「わたし」と他者の二人存しているということである。神話的には、双子ということだと思うが、極性的双子(太極的双子、陰陽的双子)と見るべきである。深層心理学的には、意識的自己と無意識的他者ということになるかと思う。後者は前者を観察しているのである。だから、自己投影ということが可能になると考えられる。
 では、どうして、-iの差異他者は感情性と感じられるのか。それは、+iと-iとの共振によって、共感性が形成されていて、それが、感情と感じられるからであろう。言い換えると、精神感情が、両者の間にあることになる。境界的なエネルギー様態である。そして、その精神感情の彼岸には、知性・認識をもつ差異他者が存していることになるのである。そう、差異他者は自己内のエイリアンと言ってもいいだろう。多神としての神でもある。

追記:コギト・エルゴ・スムと言っておきながら、スム(我在り)について述べていなかったので、ここで補足したい。
 コギトが差異自己ないしは他者差異であるが、それがスムとなるとはどういうことなのか。「我在り」とは存在であり、身体性と考えられる。どうして、他者が存在であり、身体性となるのか。
 それは、精神身体を意味すると考えられる。Media Point である。ということは、スムは物質身体ではなく、精神身体であるということである。言い換えると、心身一如である。PS理論から見ると、Media Point は精神身体=心身一如であり、同一性知性=近代合理主義から排除された他者は当然、精神身体=心身一如に位置することになるのであり、そのために、スムは存在・身体と感じられるのではないだろうか。
 ここでひと言言っておくと、ハイデガーの存在はここでいう存在・身体ではない。ハイデガーの「存在」とは、実は存在の虚無・空虚のことである。(これは仏教の無ではない。仏教の無とは空と一体の思想である。)空ろ、洞である。Media Point において、超越性から同一性へと変換されるが、超越性と同一性の境界の同一性面が「存在」である。それは、構造に似るが、超越性を予見する点で異なるのである。ドゥルーズの「差異」は境界を解消して、構造と一体化したものである。実軸のゼロ点とも言えよう。否、虚軸のゼロ点と実軸のゼロ点を連続化させたものが、ドゥルーズの「差異」である。だから、動的な構造主義、発生的構造主義になるのである。これは、レヴィ=ストロースの構造主義が元祖であり、山口昌男はそれを両義性として少し敷延したのである。つまり、ゼロ点が「エネルギー」・ポイントとなるのである。連続的生成エネルギーであり、疑似的エネルギー、虚構的エネルギーである。何故なら、特異性を喪失しているからである。だから、特異性という用語を連続性の意味で使用するドゥルーズ哲学には犯罪的な虚偽・詐欺性があるのである。ドゥルーズ哲学とは、経済的には、同一性主義金融資本と同じである。無限の信用創造ができるのである。
 ところで、話題が変わるが、ネグリのいう生硬な概念である構成的権力とは、明快に言えば、Media Point のエネルゲイア(動態)ということではないだろうか(丁寧に言えば、政治志向的Media Point である。だから、構成的権力とはMedia Point Political Powerだろう。MPPPである。)。それが、実際の法制となると、同一性化して硬直することを述べているのではないだろうか。民主主義の問題を考えると、これは、本来、Media Point エネルギー的に、差異共振主義と考えるべきである。しかし、近代民主主義となると、それが、同一性形態をとってしまい、卑俗な近代的自我によって、民主主義の理念が消失するのである。民主主義とは差異共振主義と常に理解すべきである。トクヴィルが説く米国の民主主義はそういうものであった。



同一性主義ないしは二項対立性の優越意識の発生について
この問題も既述済みであるが、まだ不明瞭に思えるので、ここで検討したい。というか、確認である。
 どうして、同一性自己(自我)は自身を他者よりも優越と「見なす」のか。これは先に言及したルネ・ジラールの模倣欲望説に関係する。ライバルとは鏡像である。それは、同一性像(同一性主義像)である。【本来輝かしい像(「光」の像)である。その光輝はいわば後光、アウラ、後背であり、それは、本当はMedia Point の「光」の反映・反照・反射であると考えられる。超越光が通常の光に変容したと考えられる。】
 本来、ライバルとは模範・手本・雛型である。だから、本来、模範である鏡像を差異共鳴像は模すのである。これが、自己投影である。しかし、これは、内的他者の否定であり、外的他者の否定に帰結する。だから、本題の自己優越感の発生とはこの鏡像自己(同一性自己)の形成に拠ると考えられる。
 しかし、何故優越感が発生するのか。なぜ、同一性自己(自我)を優位とし、他者を劣位とするのか。端的に、二項対立原理の発生の意味である。
 根本から考えると、Media Point における差異共振像と同一性志向性の対立があると考えられる。この問題は上述のごとく、既述であるが、精緻・緻密に考えたい。
 Media Point において差異共振像があり、そこでは、自己は他者であり、且つ、他者ではない等の様態が発現している。自己は他者でないというのは、自己は自己であるという同一性を示唆しているし、ここから、同一性志向性が発動・発現すると思われる。
 しかし、逆に言うと、自己は他者であるというのは、差異志向性であると言えよう。だから、Media Point において、同一性志向性と差異志向性が並立していると言えよう。
 初期成長過程において、同一性志向性が主導化すると考えられる(これは、主に男子の成長過程に当てはまるだろう)。それは言い換えると、差異志向性が否定抑圧(否定と反対は違う心的事象である。否定とは、排除的であり、反対とは、維持的である。)されることである。
 ここにおいて、優劣が生じると、以前考えたのである。つまり、言い換えると、その優劣は、いわば、自然の優劣なのである。初期成長過程において、同一性の優位、差異の劣位が自然発生すると考えられるのである。だから、鏡像自己(同一性自己)は自身を他者(差異)よりも優越と思うのである。これは一神教的傾向と言えよう。
 それに対して、差異志向性が優位に、同一性志向性が劣位になるときは、まったく逆転するのであり、他者の方が鏡像自己よりも優越すると思うのであり、これは、多神教的傾向である。(因みに、イエスの教えとは本来、多神教的であったと考えられる。だから、一神教という文脈における多神教の復興の意味を、イエスの教えはもっているが、それが、教父たち等によって、一神教に組み込まれたのである。あるいは、一神教内部における多神教性の復興を言えるかもしれない。そう、一種のポスト・モダンとしてのイエス教が考えられよう。)
 以上から本件の解明は済んだが、最後に、差異志向性について考えてみよう。ポスト・モダンとは、差異志向性の賦活における哲学の動きであったと考えられる。しかしながら、差異志向性は、自己とは他者であるという方向性をもっているので、それは、究極では、自己を他者に吸収させてしまい、自己喪失すると考えられる。神秘主義者が説く宇宙的一体感・融合感とはそのようなものだろう。また、ドゥルーズ哲学もそのような側面をもっている。つまり、差異志向性とは、逆に、差異を連続化させてしまうのである。
 結局、特異性とは、同一性志向性と差異志向性との均衡・極性にあると言えよう。つまり、Media Pointのことである。


2009年02月21日(Sat)▲ページの先頭へ
同一性主義経済から差異共振経済へ:差異共振価値創造と減価通貨制度
今は余裕がないので、詳述できないが、近代資本主義の恐ろしい盲点と実に単純な経済真理を述べたいと思っている。
 結局、人間存在のためには、あまりにも当然ながら、他者との関係が付きものである。具体的に言えば、分業体制によって、食料を作る人がいれば、それを食べる人がいる。生産者と消費者である。一方が欠けても、経済は成立たない。この単純明快な経済真理を言いたいのである。 
 つまり、個は他者との関係によって成立するのであるから、他者との関係を積極的にする必要があると言うことである。同一性主義金融資本主義のように、一部のものが超高額な収入を得て、他者に与えないというのは、この経済真理から見て、完全に間違っているのである。
 この単純ミスを近代資本主義は犯してきたのである。

追記:結局、生産者と消費者(購買者)とは不可分一体なのである。インドのヴェンダーンタ哲学でいう不二一元論に当たる。つまり、生産者と消費者とは本来分離できないのである。
 これは、差異共振性である。あるいは、極性である。プラスとマイナス、N極とS極である。だから、二元論ないしは二項対立として、分離させる近代的経済学はまったく、理論的に誤りであると言える。
 これを弁証法としても同じである。弁証法とは、正反合で、あるものをテーゼとして、展開する方法である。それは、極性ではなく、同一性主義の一つなのである。
 この生産者と消費者の不可分一体性・不二一元論・差異共振性を経済の根本原理におく必要があると考えられるのである。
 問題は、利子である。生産発展のためには、融資が必要となる。そして、近代資本主義経済では、プラス利子の投資・融資が発生しているのである。
 このプラス利子が問題である。余剰の金融資本とは、いったい何なのか。余剰の金融資本とは、端的には、資本主義の差異共振創造的生産によって生じたものと考えられる。それは、やはり、資本家と労働者との不二一元論的な金融資本価値であるが、所有は資本家(株主)や経営者のものとされるのである。
 そう、この差異共振創造的生産と所有にズレがあるのである。本来、「社会」的生産なのに、所有は資本家の自我欲望に属するのである。この矛盾が、近代資本主義のいちばんの問題点であろう。
 この「社会」的生産による価値を自我欲望的所有を認めると、当然、プラス利子の発想が生まれるのである。(ここで、社会主義や共産主義の発想が生まれるのが、その問題はおいておこう。)
 しかし、プラス利子の発想とは何だろうか。それは、「社会」的生産によって発生した差異共振価値を自我欲望のために使用することである。ここに大矛盾があると言える。
 言い換えると、問題は差異共振価値である利益をどうするかのである。それは、不二一元論的価値なのであるから、自我欲望的な所有は誤りなのである。
 当然、創造された利益を社会へと還元する必要があるのである。他者あっての利益なのであるから。換言すると、これまで何度も主張してきたが、差異共振経済社会へと還元する必要があるということである。
 ここで、共同体の発想が生じるのである。これは、国家ではないのである。資本主義共同体である。
 利子の問題にもどると、差異共振価値に対して、プラス利子を課し、所有化するのは、間違っている。差異共振創造というプラスの価値、発展があるのであるから、逆に、利子は必要ないのである。理論的には、ゲゼルが説くように、マイナスにすると均衡がとれると考えられるのである。
 差異共振価値創造の発展に対して、プラス利子を課すと、当然、一部の「富める」者に金融資本が集中して、阻害的になると考えられるのである。
 やはり、通貨は減価させるのが、資本主義的生産にはふさわしいと考えられるのである。


同一性主義経済から差異共振経済へ
今は余裕がないので、詳述できないが、近代資本主義の恐ろしい盲点と実に単純な経済真理を述べたいと思っている。
 結局、人間存在のためには、あまりにも当然ながら、他者との関係が付きものである。具体的に言えば、分業体制によって、食料を作る人がいれば、それを食べる人がいる。生産者と消費者である。一方が欠けても、経済は成立たない。この単純明快な経済真理を言いたいのである。 
 つまり、個は他者との関係によって成立するのであるから、他者との関係を積極的にする必要があると言うことである。同一性主義金融資本主義のように、一部のものが超高額な収入を得て、他者に与えないというのは、この経済真理から見て、完全に間違っているのである。
 この単純ミスを近代資本主義は犯してきたのである。


オバマ政権は、差異共振経済と同一性主義経済の矛盾の上の綱渡りを続けるだろう
銀行国有化するのか、それとも民間経営維持なのか。
 国有化は、一時的にせよ、資本主義の否定であり、社会主義化である。これは、理論的には、資本主義とは何かということになる。(もっとも、これまで、資本主義の矛盾については、既述済みなので、ここでは述べないが。)
 一つの収斂として、ゲゼル経済があるが、それは最後の手段である。それは、トランス近代資本主義・トランス・モダン資本主義である。
 先に述べたように、同一性主義金融資本主義の終焉があるのであるが、その残響があるので、国有化云々の問題が出てくるのである。
 もっとも、オバマ大統領は、政治だけでなく、経済的にも、差異共振主義を志向すると考えられる。これは、自由共同体主義である。それは、トランス・「ロスチャイルド」路線で、「ロックフェラー」路線である。
 鍵括弧のないロックフェラー路線とは、同一性主義を含むのである。だから、オバマ政権は、差異共振経済と同一性主義経済の矛盾の上の綱渡りを続けるだろう。少なくとも、数年は続くだろう。



米シティ:18年ぶり株価1ドル台 国有化を懸念

 【ワシントン斉藤信宏】20日のニューヨーク株式市場で米金融大手シティグループの株価が急落し、一時、前日終値比36%安の1.61ドルまで値下がりした。シティ株が1ドル台をつけたのは91年1月以来約18年ぶり。終値でも22%安の1.95ドルとなり、07年2月の50ドル台半ばの水準から約96%の下落となった。バンク・オブ・アメリカも、一時2ドル台まで値を下げた。

 20日の米株価は、大手銀行国有化への懸念が強まったことなどから金融株が主導する形で急落、ダウ工業株30種平均は、一時、216.48ドル安の7249.47ドルまで下落した。

 銀行国有化の観測は、米連邦準備制度理事会(FRB)のグリーンスパン前議長が19日、「いくつかの銀行を一時的に国有化する必要が出てくるかもしれない」と述べたと伝えられたことや上院のドッド銀行住宅都市委員長の「(国有化)せざるを得ない可能性を懸念している」との発言が20日、報道されたことから、市場を駆け巡った。

 事態を重く見たホワイトハウスのギブス報道官は「オバマ政権は民間による銀行経営を正しい方法だと強く信じている」と述べ、国有化観測を否定。発言を受けてダウ平均は下げ幅を縮小し、終値は100.28ドル安の7365.67ドルとなり、バンカメも4%安の3・79ドルまで回復して取引を終えた。ただ、シティ株の戻りは鈍く、金融システム不安がくすぶる中、国有化への市場の懸念が根強いことをうかがわせた。シティにはこれまでに、公的資本450億ドル(約4兆2000億円)が注入されており、追加注入を受ければ、国有化に追い込まれる可能性が出てくるためだ。

 【ことば】シティグループ 米ニューヨーク市に本社を置く世界最大級の総合金融グループ。98年にシティコープ(銀行)とトラベラーズ・グループ(証券・保険)の統合で誕生。中核銀行のシティバンクを筆頭にカード、証券などの事業を100カ国以上で展開してきたが、相乗効果は十分上がらず、05年に旧トラベラーズの生命保険部門を売却。今回の金融危機による巨額の損失で経営危機に直面している。

http://mainichi.jp/select/world
/news/20090221k0000e02003
0000c.html


2009年02月20日(Fri)▲ページの先頭へ
愚樵(ぐしょう)氏によるPS理論の解説の試み
愚樵(ぐしょう)氏によって、プラトニック・シナジー理論の解説が行われている。先に私は愚樵氏の思想はPS理論に近いことを述べた。少し読んだだけであるが、イデア界と現実界の説明が斬新に感じられ興味深い。後で検討したい。

追記:ここで簡単にコメントをしたい。
 『「メディア・ポイント」とは、「自我(ego)」あるいは「自己(self)」と呼ばれているもののことのようです。』と述べられているが、私は気がつかなかったが、そうであると考えられる。同一性志向性(自我)をMedia Pointは含むのである。
 次に、『 「自我」がイデア界での「ゼロ」であり、「自己」が現実界での「ゼロ」になります。 』と述べられていますが、これは、思うに、用語が愚樵氏と私とでは単に逆になっているのだと思います。
 また、『「夢」はイデア界であり、実現は現実界。イデア界と現実界に差異があるから、「夢」実現へのエネルギーが湧き出てくると解釈できます。 』と述べられていますが、確かにそう言えます。
 さらに、『 PS理論でいうイデア界・現実界は、私が表現するところの【virtual】【real】に近いもののような印象を受けます。 』とありますが、それも正しいと思います。
 『ただし、これ[【virtual】]はPS理論でいう「差異共鳴性」ではなく、「同一性」でしょう。そして「差異共鳴性」志向・「同一性」志向は【private】志向・【public】志向に対応すると思われます。 』の箇所はどうでしょうか。【virtual】は、「差異共鳴性」ではないと言われていますが、微妙です。確かに、結果とすれば、【virtual】は、「差異共鳴性」ではなく、「同一性」と言えるでしょう。「差異共鳴性」とは、Media Pointの様態です。
 また、『「差異共鳴性」志向・「同一性」志向は【private】志向・【public】志向に対応すると思われます。 』と言われていますが、「情」と「公共」ということになりますが、確かに、そういうことも可能だと思います。
 ということで、用語の違いはありますが、基本的には、愚樵氏の思想とPS理論は共通していると思われます。

参照:

陰陽から三つ巴化するPS理論→愚樵氏のPS理論から
2009.02.20 Friday

不連続的差異論の展開は、海舌とRrenshi氏とのブログ上の対話によって形成され、その後、PS理論へと展開した。
海舌が思うに、このウェブ上での最初の会話段階で、既に、「完成」されていたと言っても良いほどに、広く深い体系の背景を以って、相互の理解が得られていたのである。
海舌は、夏目漱石が好きではないが、その「夢十夜」の一つの説話で、彫刻を掘る名人は、中にある形を取り出すだけだというような趣旨の話があったと思う。
まさに、同じ風景を見ているのである。
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=711231
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu

@@@@@@@@@@@@@@

プラトニック・シナジー理論についての雑感
2009-02-20
最近、プラトニック・シナジー理論なるものに関心を寄せています。

「プラトニック・シナジー理論(旧不連続的差異論)のページ」
「Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation」
「『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu」

まだ関心を寄せているという段階でよく理解できていないのですが、私の感覚的な体系と非常に近いものがあるように感じています。
http://gushou.blog51.fc2.
com/blog-entry-218.html

愚樵空論


プラトニック・シナジー理論の完成:差異共振像の同一性像への投影としての鏡像
PS理論は完成した。というのは、以下に述べるように、鏡像自己の問題の明晰な解明が可能になったと考えられるからである。
 結局、Media Pointの問題である。虚軸相においては、差異共振が発生して、いわば、差異共振像が生まれるのである。これが核心である。この差異共振像(差異共鳴像)を、同一性志向性の先端のスクリーンに投影して、反映・反照するのが、鏡像であると考えられるのである。即ち、差異共振像という「自己」を同一性像に重ね合わせて、鏡像自己(同一性自己=自我)が生まれると考えられるのである。これが、実に、連続的同一性であり、同一性主義である。
 簡単に言えば、自己を同一性像に重ねてしまうことである。この連続的同一性化の究極が近代的自我であり、まったく差異共振像=自己を否定・抑圧・排除・隠蔽しているのである。
 この二重性を分離させることが、自己認識の開始である。仏教やフッサール現象学等がこの意義をもっている。
 この鏡像の解体を確実にしたのは、不連続的差異論であり、完全にしたのが、プラトニック・シナジー理論である。これで、近代は絶対的に終焉して、トランス・モダンへと参入したのである。
 とまれ、プラトニック・シナジー理論の第一世代は完成したのである。


2009年02月19日(Thu)▲ページの先頭へ
小泉路線と麻生自公バラマキ路線とアンチ・小泉路線の三つ巴である。
テーマ:麻生内閣とポスト麻生

理論的にはとても「面白い」政局になってきている。小泉路線と麻生自公バラマキ路線とアンチ・小泉路線の三つ巴である。正当なものは当然、三番目のものであり、差異共振性を潜在させている。

首相は小泉氏を処分できるのか? 同調封じに躍起 「欠席」宣言   (1/4ページ)
2009.2.19 21:27
小泉純一郎元首相   小泉純一郎元首相  

 小泉純一郎元首相が、定額給付金の財源に関する特例法案の衆院再議決に欠席する考えを表明したことに対し、政府・与党の幹部や派閥会長らは19日、一斉に批判を展開した。20日、小泉氏の訪露からの帰国を前に、小泉チルドレンら反麻生系議員に造反の動きが広がるのを防ぐためだ。麻生太郎首相は19日、小泉氏が再議決に欠席した場合、処分するかどうか明言を避けた。首相は小泉氏とどう対峙するか、難しい判断を迫られる。(佐々木美恵 坂井広志)

http://sankei.jp.msn.com
/politics/policy/090219
/plc0902192130017-n1
.htm


記者の質問に答える麻生首相=19日夜、首相官邸〔共同〕
首相が小泉氏を批判 「みんなで取った3分の2の議席」
 麻生太郎首相は19日夜、小泉純一郎元首相が定額給付金の財源特例法案の衆院再議決の際、本会議を欠席する考えを示したことに関し「みんなでがんばって取った3分の2の議席だ。小泉氏が(議席を)取ったという話と、定額給付金の話と脈絡が通じていない」と批判した。同時に「最終的に党議で決まったものというのであれば従っていただくのが筋だ」と強調した。首相官邸で記者団に語った。(21:53)
http://www.nikkei.co.jp
/news/seiji/20090219
AT3S1901T19022009
.html

自民党:小泉批判で「中川隠し」 幹部ら党内引き締め

 定額給付金の財源法案を再議決する衆院本会議への欠席を表明した小泉純一郎元首相に対し、政府・自民党幹部が19日、一斉に批判し始めた。当選1回の「小泉チルドレン」などから小泉氏への同調者が出ないよう党内の引き締めを狙ったものだが、中川昭一前財務・金融担当相の辞任問題を早く幕引きしたい思惑も透けてみえる。ただ、中堅・若手の間ではこの日も麻生太郎首相への不満がくすぶり続けた。

 「麻生首相を最高司令官として苦しい戦いをしているときに、元司令官が後ろからバズーカ砲を撃つようなことは厳に慎んでもらいたい」。高村正彦前外相は高村派の会合で、小泉氏のセリフをもじって痛烈に批判した。町村信孝前官房長官も町村派の会合で「正直言って理解に苦しむ。適切に行動してもらえると確信している」と苦言を呈した。

 小泉氏の首相批判の根底には、与党が衆院の議席の3分の2以上を得たのは、自らが主導した05年の「郵政選挙」の結果という思いがある。だが、笹川尭総務会長は記者会見で「自民党員が頑張って勝った。郵政だけで3分の2を取ったのではない。(小泉氏が)党の方針と違えば、それなりの対応をしなければならない」と述べた。河村建夫官房長官も会見などで小泉氏への批判を繰り返した。

 一方、この日の自民党各派の会合では、中川氏の辞任問題には幹部から目立った発言はなかった。津島派の津島雄二党税制調査会長が「先週から今週にかけ、不幸にしてハプニングがあった」と述べただけで、山崎派の山崎拓前副総裁も「不測の事態が次々と発生してくる」と間接的に表現した。

 幹部は「中川問題隠し」で沈静化を図るが、中堅・若手には首相への不信が高まっている。中山泰秀衆院議員は19日、衆院選前の総裁選の前倒し論について「若手はみんなそう思っている。地元に帰ると『もうだめだ』という意見が多い」と明言した。党内の動揺は簡単に収まりそうになく、ある閣僚経験者は「我々は麻生さんがいいと思って支えているわけではない。若い人が騒ぐ気持ちは分かる」と嘆いた。【中田卓二、近藤大介】
【関連記事】

* 小泉発言:「党議には従ってもらう」 麻生首相

http://mainichi.jp/select/seiji
/news/20090220k0000m
010123000c.html



エル・グレコの絵画にある不安:初期近代における精神の位階の喪失
画像は以下のリンクにアクセスされたい。
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10211223686.html


エル・グレコの絵画は、確かに躍動的で、未来派のようである。しかし、そこには黒い不安のようなものが感じられる。これは、正に、初期近代の不安だと思う。Media Pointからの同一性の発動を表現しているのではないのか。そこでは、ハイデガーの存在=無を経過するのである。その不安があるのではないだろうか。
 以下の『受胎告知』であるが、本来、超越的なものが、同一性と同次元に描かれているのである。超越性=精神と同一性=物質は、本来、位階があるが、それをエル・グレコの絵画では喪失しているのである。言い換えると、Media Pointという真の創造の源泉を喪失しているということになる。
 約半世紀後のベラスケスの『女官たち(ラス・メニーナス)』になると、鏡像へと転換しているのである。これは、正に、同一性主義化=近代的自我化と考えられよう。



http://es.wikipedia.org/wiki
/El_Greco

エル・グレコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
『ある老人の肖像』(1595–1600年頃)エル・グレコの自画像とされる。

エル・グレコ(El Greco、1541年 - 1614年 4月7日 )は、現ギリシャ 領のクレタ島 出身の画家 。本名はドメニコス・テオトコプーロス(Δομήνικος Θεοτοκόπουλος、ラテン文字 転写:Doménikos Theotokópoulos)で、一般に知られるエル・グレコの名はスペイン語 で「ギリシャ人 」を意味する通称である。
概要

当時ヴェネツィア共和国 の支配下にあったクレタ島で初めイコン を学び、のちにイタリア のヴェネツィア 、ローマ に渡ってティツィアーノ に師事し、ヴェネツィア派 絵画を学んだ。1577年 、36歳でスペイン のトレド に渡り、没するまでスペインで宮廷画家として活躍した。

エル・グレコの絵画はマニエリスム 、バロック 様式に分類される。全体的に暗い画面、縦に長く伸びた構図、複雑なポーズを取る人体などが特徴的で、彼の死後は長らく高く評価されなかったが19世紀 に再評価を受け、パブロ・ピカソ やジャクソン・ポロック など20世紀 の芸術家にも影響を与えたという。

1922年 当時フランスに滞在していた児島虎次郎 は、とあるパリの画廊でエル・グレコの受胎告知 という作品が売りに出されていたのを眼にした。この作品の素晴しさを見抜いた児島ではあったが手持ちがなかった為自身の出資者である大原孫三郎 に送金を依頼、大原も送られてきた写真を見て了承し児島は受胎告知 を購入すると日本へ持ち帰った。結果的にこの二人の判断は的中し、現在では受胎告知 が日本にあることは奇跡とまで言われている[1] 。

マドリッド にあるプラド美術館 には、彼の作品が多数展示されている。

[編集 ] 代表作

『オルガス伯の埋葬 』
1586 - 1588 トレド ・サント・トメ教会


『トレド風景』
メトロポリタン美術館


『受胎告知 』
1590-1603年頃 大原美術館 所蔵


『ピウス5世 の肖像』 1600-1910年 個人所蔵

『羊飼いの礼拝』
プラド美術館 蔵

[編集 ] 関連項目

* エル・グレコ (ヴァンゲリス) - ヴァンゲリス のアルバム。

[編集 ] 関連書籍

* 「グレコートレド の秘密」モーリス・バレス  吉川一義 訳(筑摩書房 )

[編集 ] 脚注

1. ^ http://www.ohara.or.jp
/200707
/jp/1_web/1/exh/003.html

[編集 ] 外部リンク
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、エル・グレコ に関連するマルチメディアがあります。

* エル・グレコの家 スペイン政府観光局オフィシャルサイト (日本語)




"http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%82%A8%E3%83%AB%
E3%83%BB
%E3%82%B0%E3%83%AC%
E3%82%B3 " より作成
カテゴリ : スペインの画家 | ギリシャの人物 | 16世紀の美術家 | ルネサンス | 1541年生 | 1614年没 | トレド

参照:

ファイル:Velazquez-Meninas.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%83%95%E3%82%A1
%E3%82%A4
%E3%83%AB:Velazquez-
Meninas.jpg


ディエゴ・ベラスケス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
曖昧さ回避 この項目ではスペイン の画家 について記述しています。スペインのコンキスタドール についてはディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル をご覧ください。
自画像

ディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599年 6月6日 - 1660年 8月6日 )はバロック 期のスペイン の画家 。

生涯

マネ が「画家の中の画家」と呼んだベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代 であった17世紀 を代表する巨匠である。

スペイン南部の都市セビリア に生まれ、11歳頃に当地の有力な画家で義父でもあるフランシスコ・パチェーコに弟子入りした。17世紀のスペイン画壇では、厨房画(ボデゴン)と呼ばれる室内情景や静物を描いた絵画が多く制作されたが、宮廷画家になる前のベラスケスもこの厨房画のジャンルに属する作品を描いていた。『卵を料理する老婆と少年』(1618年 )などがその代表作である。1623年 、国王フェリペ4世 付きの宮廷画家となり、以後30数年、国王や王女をはじめ、宮廷の人々の肖像画、王宮や離宮を飾るための絵画を描いた。

美術愛好家であったフェリペ4世は、ベラスケスを厚遇し、画家のアトリエにもしばしば出入りしていたという。当時、画家という職業には「職人」としての地位しか認められなかったが、フェリペ4世は晩年のベラスケスに宮廷装飾の責任者を命じ、貴族、王の側近としての地位を与えていた。

ベラスケスの作品では、画面に近づいて見ると、素早い筆の運びで荒々しく描かれたタッチにしか見えないものが、少し離れたところから眺めると、写実的な衣服のひだに見える。このような、近代の印象派 にも通じる油彩画の卓越した技法が、マネらの近代の画家がベラスケスを高く評価したゆえんである。

[編集 ] 代表作

[編集 ] 『ブレダの開城』
ブレダの開城 1634-1635 プラド美術館

王の離宮の「諸王国の間」という大ホールを飾るために描かれた戦勝画。1625年 、ネーデルラント 南部の要塞ブレダ におけるスペイン軍の戦勝を記念して制作されたもので、敗れたブレダ守備隊の指揮官ユスティヌス・ファン・ナッサウ(オラニエ公ウィレム1世 の庶子)が、勝者であるスペイン側の総司令官アンブロジオ・スピノラ に城門の鍵を渡そうとする場面が描かれている。

この種の戦勝画では敗軍の将は地面に膝をつき、勝者はそれを馬上から見下ろすという構図が普通であったが、この『ブレダの開城』では、敗軍の将ユスティヌス と勝者スピノラは同じ地面に対等の位置で立っている。温和な表情のスピノラは、まるで長年の友人に対するように敗者ユスティヌスの肩に手を置いている(ちなみに両者は1601年にニューポールトで対戦したこともある)。スピノラの傍らに大きく描かれた馬は、彼が敗者に敬意を表するためにわざわざ馬から下りたことを示している。このような、勝者側の寛大さを二重三重に強調した表現は、敗者に名誉ある撤退を許したスペインの騎士道 精神の勝利を表したものといわれている。

[編集 ] 『教皇インノケンティウス10世』
教皇インノケンティウス10世 1650 ローマ 、ドーリア・パンフィーリ画廊蔵


1649年 、ベラスケスは2度目のイタリア旅行に出かけ、ローマに2年ほど滞在している。この間に描かれた教皇インノケンティウス10世 の肖像は、カトリック の最高位にある聖職者の肖像というよりは、神経質で狡猾そうな一人の老人の肖像のように見える。国王、教皇から道化師まで、どのようなモデルをも冷徹に見つめ、人物の内面まで表現する筆力はベラスケスの特長である。

後にフランシス・ベーコン がこの肖像画をモチーフにした一連の作品を制作したことでも知られている。


[編集 ] 『鏡のヴィーナス 』
鏡の前のヴィーナス(1648-51)ナショナルギャラリー  1650年頃 ロンドン、ナショナルギャラリー 蔵


上記『教皇インノケンティウス10世』と同じ頃に描かれたもので、カトリックの伝統の強い当時のスペインでは珍しい裸婦像である。1914年、婦人参政権論者の女性によって、背中から尻に渡る7箇所がナイフで傷つけられた。現在もかすかに修復の痕が見える。

[編集 ] 『ラス・メニーナス』(女官たち)
女官たち(ラス・メニーナス) 1656 プラド美術館

フェリペ4世 の王女マルガリータ を中心に侍女、当時の宮廷に仕えていた矮人(わいじん)などが描かれ、画面向かって左には巨大なキャンバスの前でまさに制作中のベラスケス自身の姿が誇らしげに描かれている。中心の王女マルガリータを含め、画中の人物は鑑賞者の方へ視線を向けており、何かに気付いて一瞬、動作を止めたようなポーズで描かれている。その「何か」は画面奥の壁に描き表された鏡に暗示されている。この小さな鏡にぼんやりと映るのは国王フェリペ 4世夫妻の姿であり、この絵の鑑賞者の位置に立って画中の人物たちを眺めているのは実は国王その人である。この絵は、国王の夏の執務所の私室に掛けられていたという。画中のベラスケスの黒い衣服の胸には赤い十字の紋章が描かれている。これは、サンティアゴ騎士団 の紋章で、ベラスケスが国王の特段のはからいで同騎士団 への加入を果たし、貴族に列した1659年(死の前年)に描き加えられたものである。

[編集 ] 関連項目
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、ディエゴ・ベラスケス に関連するカテゴリがあります。

* バロック美術
* アラトリステ (スペインの時代小説・作中に登場)



"http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%83%87%E3%82%A3
%E3%82%A8
%E3%82%B4%E3%83%BB
%E3%83%99%
E3%83%A9%E3%82%B9%
E3%82%B1%E
3%82%B9 " より作成


コスモスとProto Media Point:振動と形態:多重イデア振動Media Point
「コスモス」とは、PS理論的には、あるMedia Pointの虚軸相=超越相(虚軸点ないしは虚点とも言えよう)のことと言えよう(後記:否、Media Point自体と言うべきである)。
 あるMedia Pointとは、いちおう、宇宙的Media Pointと呼べるが、いったいそれは何か。以前考えたのは、多数共鳴したMedia Pointであるが、それはまだ不明瞭である。なにか「ビッグバン」や銀河系や太陽系の発生点としての、いわば、Proto Media Pointである。
 創世記には、水の上を神霊が漂い、その後、天地創造が起きたことになっている。神霊が+iで、水が-iかもしれない。
 とまれ、創造の種、DNA、原型としてのProto Media Point(以下、PMP)が考えられる。そう、ここで、ピュタゴラス派、ダ・ヴィンチ、ケプラー等を想起するのである。端的に、プラトンの『ティマイオス』の宇宙論を想起するのである。すなわち、ここで正五角形やプラトン立体を想起するのである。あるいは、クラドニ・パターンである。(もっとも、この問題は以前試論したことがある。
http://d.hatena.ne.jp/antares/20050722
それは、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)以前なので、ここで再検討する意義がある。)
 端的に、クラドニ・パターンがここで核心的であろう。振動からパターンないしは形態が形成されるのである。PS理論に拠れば、超越振動(イデア振動)から同一性=物質パターン/形態が発生すると考えられる。(しかし、注意すべきは、虚軸相と実軸相が不連続・非連続であることであり、パターン/形態からは超越振動は演繹できないことである。)
 原型としての正五角形、オクターブ、黄金分割等は、思うに、同一性原型に関係しているのではないだろうか。超越性が1/4回転して、同一性へと変換されるが、そのときの同一性原型がそれらではないだろうか。これは、Media Pointの実軸相にある同一性原型と作業仮説しよう。
 思うに、プラトンが『ティマイオス』の宇宙創造(創造神はデミウルゴスである)で述べている原理はこの同一性原型ではないだろうか。また、そこで述べられる、よく知られたコーラであるが、それは先に、Media Point自体と述べた。【もっとも、-iがコーラの可能性がある。今、思うに、コーラとは、超越相(虚軸相)から同一性相(実軸相)に変換する際のMedia Pointを指しているのではないだろうか。そうならば、コーラはMedia Point自体ではないが。】
 とまれ、虚軸相であるが、それは、多重超越差異共鳴相ではないだろうか。つまり、多重イデアがあり、これが、1/4回転すると、ビッグバンとなり、天地創造・天地開闢が起こり、銀河系や太陽系が生まれるのではないだろうか。渦巻や円回転(楕円回転:楕円というのは興味深い。これは、Media Pointのズレの証拠ではないだろうか。先に、Kaisetsu氏が指摘した虚軸性と実軸性の位置の違いに拠るのではないだろうか。)はその痕跡ではないだろうか。空間性は諸振動=諸強度によって差異が生じると言えるだろう。
 では、例えば、太陽はどう考えられるだろうか。それこそ、Media Pointの現象態ではないだろうか。一応、Solar Media Pointと呼んでおこう。(だから、太陽の彼岸に、銀河系や宇宙全体のMedia Pointもあるのではないだろうか。これは検討問題である。)
 とまれ、太陽にこそ、太陽系のMedia Pointがあると考えられる。では、地球やその他の惑星は何だろうか。
 それは、太陽系イデア(太陽系超越振動情報)の諸要素の現象化(発現)ではないだろうか。思うに、太陽のイデアの振動よりも、低い振動をもつのが惑星ではないだろうか。つまり、太陽振動と地球振動では、前者が高振動で、後者が低振動であるということになる。
 ここで、コスモスについて考えると、それは、多重イデア振動Media Pointないしは多様イデア振動Media Pointであり、天才たちは、これを直観・直感して、創造するのだろう。今はここで留める。


参考:
ティマイオス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『ティマイオス』(希 : Τίμαιος, Timaios, Timaeus)は古代ギリシア の哲学者 プラトン の後期の著作である。古くから「自然について」という副題が付いており、アトランティス 伝説、世界の創造、リゾーマタ(元素 )、医学 などについて記されている。自然を論じた書としてはプラトン唯一のもので、神話的な説話 を多く含む。後世へ大きな影響を与えた書である。プラトンは、『ティマイオス』と未完の『クリティアス 』、未筆の『ヘルモクラテス 』を三部作として構想していたという。

内容

* 政治体制を論じた『国家 』の続編という設定で、対話が始まる。冒頭にクリティアスという人物がアトランティス伝説について語る。次いで、ティマイオスという人物が宇宙 の創造、宇宙は無限か否か、四元素 について、人間の身体についてなどを説いてゆく。
o アトランティス の伝説については、『ティマイオス』の続編である『クリティアス』でさらに説明が続く(ただし、『クリティアス』は中断している)。
* 創造者「デミウルゴス 」について説明されている。デミウルゴス(希 : δημιουργός)のギリシア語の原義は工匠、建築家である。イデアを見て、模倣しながら現実界(物質世界)を作る存在として、デミウルゴスの名を挙げている(善なる存在と捉えられている)。現実界はデミウルゴスが創造したイデアの似姿(エイコーン)である。
o 「範型」としてのイデアという思想はプラトン中期のイデア論とは異なっているとされる。
* 地 (土 )・水 ・火 ・風 (空気 )の4つのリゾーマタ(後世にいう四元素説 )が説かれる。それぞれのリゾーマタは正多面体 であり、その形状によって運動の性質や他のリゾーマタとの親和性が決まる。たとえば火は正四面体 であり、最も軽く、鋭い。水は正八面体 、空気は正二十面体 である。これに対して土は正六面体 であり、運動することが最も遅い。自然の諸物はリゾーマタがまざりあうことによって形成されているとした。

・・・・・


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%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9 " より作成
カテゴリ : 哲学書 | プラトン

多面体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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多面体の一種、立方体

多面体(ためんたい)は、複数(4つ以上)の平面に囲まれた立体のこと。複数の頂点 を結ぶ直線の辺 と、その辺に囲まれた面 によって構成される。したがって、曲面をもつものは含まず、また、すべての面の境界が直線である場合に限られる。

3次元 空間での多胞体 であるとも定義できる。2次元 空間での多胞体は多角形 なので、多角形を3次元に拡張した概念であるとも言える。
http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E5%A4%9A%E9%9D%A2%E4%BD%93

プラトン立体
http://www.c-player.com/
ad00178/thread/1100069765734

クラドニ・パターン
http://homepage1.nifty.com
/metatron/zone-05/531.htm
http://homepage1.nifty.com
/metatron/zone-05/532.htm

ピタゴラス派
http://matsuura05.exblog
.jp/d2004-02-06

ウィトルウィウス的人体図
http://www.ops.dti.ne.jp
/~manva/da_vinci/
as_scientist/others.htm

黄金分割
http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E9%BB%84%E9%87%91%E5%
88%86%E5%89%B2


モーツァルトの宇宙交響曲(ジュピター):the age of Aquarius
モーツァルトの交響曲と言ったら、これに止めを刺すだろう。先日、ラジオで最後を少し聴いたショルティがヨーロッパ室内管弦楽団を指揮したものがよかった。
 正に、宇宙的な演奏であった。この曲は、コスモス的である。
 この曲は正に天才を感じさせる。つまり、「天」から流れ来た音楽であるということである。モーツァルトは水瓶座生まれであり、水瓶座の天水を受けていたと考えられる。今や、宝瓶宮(水瓶座)の時代(the age of Aquarius)であり、ますます宇宙の芸術が生まれるであろう。
 因み、同じ水瓶座生まれのシューベルトの交響曲第9番「グレート」も、天才を感じさせる。「天」から生まれた音楽である。
 理論的に言えば、シューベルトはバッハに継ぐ、差異共鳴性をもっているのである。では、モーツァルトとは言うと、ジュピターに関しては、そのポリフォニーはバッハのポリフォニーを感じさせるものである。やはり、差異共鳴性である。つまり、東洋・日本文化的であるということである。
 このようなことは、当然ながら、「御用」音楽評論家は言わないだろう。


2009年02月18日(Wed)▲ページの先頭へ
ワークシェアリングとは何か:キャピタルシェアリング(資本共有化)と差異共鳴資本
ワークシェアリングとは何か。一見よさそうであるが、不当な低賃金を押しつけられたままになるのではないかと思う。私はキャピタルシェアリングが必要ではないかと思う。これが、同一性主義貨幣資本から差異共鳴資本への転換を実質的に実現するのではないだろうか。後で検討したい。



定着するか…ワークシェアリング各社各様

2月17日14時44分配信 読売新聞

 不況の中、雇用維持のために仕事を分け合う「ワークシェアリング」に踏み切る企業が出始めた。

 目につくのは、非正社員の削減だけでなく、正社員の労働時間を短くし、賃金もカットして急場をしのぐ「緊急対応型」。一方、子育て中の主婦など個々の事情に合わせ働き方を選ぶ「多様就業型」に取り組む企業もあるが、簡単に普及しそうにない。スマートな言葉の響きとは裏腹に、定着までに一方ならぬ苦労があるようだ。

 ◆緊急対応型◆

 「雇用を守るには他に選択肢はなかった」。富士通労働組合の山形進委員長は厳しい表情でそう語る。

 富士通の半導体子会社「富士通マイクロエレクトロニクス」(東京)は先月、国内3工場の正社員約5000人のうち、製造部門の社員の労働時間を3分の2にし、賃金も下げた。グループ全体で派遣社員550人を3月までに削減予定で、役員報酬もカットするが、「まだ不十分」(富士通の広報担当者)と、正社員の時短に踏み切ったのだ。

 派遣社員1600人、期間従業員400人の削減を決めたマツダ。先月には2工場で夜間操業を中止し、正社員の労働時間と給料を減らした。労組幹部は「我慢するしかない、というのが組合員の声」と話す。

 ◆多様就業型◆

 データ入力・加工会社「エス・アイ」(兵庫県姫路市、従業員約70人)では、1991年の設立当初から残業をなくし、月168時間を上限に自由に出退勤できる制度を導入した。

 当初は、作業効率を上げるため、正社員の残業分をパートに担ってもらうのが目的だった。しかし、正社員は月給制で、パートは時給制。給料差から両者に溝ができ、職場の雰囲気が悪くなってしまったという。

 そこで、97年から3年かけて正社員の給料を時給制にし、パートも正社員も同じ評価基準で昇給を決めた。「優秀なパートにいかに残ってもらうか。同じ給料体系にしたのが成功のポイント」と社長の今本茂男さんは振り返り、「正社員とパートの意識の差を埋めるのが難しかった」。子育て中の母親や障害者の雇用も生み出す形となり、「不況対策ではなく、家庭と仕事の両立という視点でワークシェアを考えるべきだ」と話す。自治体や大学教授らの視察が相次いでいるという。

 厚生労働省では、ホームページに短時間勤務制度を紹介するコーナーを昨年12月に開設。3月までにマニュアルも作る。担当者は「不況対策に直結しないが、潜在雇用を生む効果はある。マニュアルで、どんな業種でも導入可能だということを訴えたい」と話す。
http://headlines.yahoo.co.jp
/hl?a=20090217-00000036
-yom-soci


ベルクソンの『物質と記憶』とトランス・モダン:純粋持続とMedia Point
今、以下の本(田島節夫訳)を読んでいるが、極めて刺激的である。トランス・モダン的要素のあるジャン=リュック・ナンシーの『共同-体(コルプス)』よりも、哲学的に優れている。
 純粋記憶と純粋知覚の関係とは、差異と同一性と読み替えることができるのであり、正に、Media Pointで説明できると考えられるのである。先に述べた通り、ベルクソンは、フッサールと並ぶトランス・モダンの先駆者と考えられる。


物質と記憶 (単行本)
アンリ ベルグソン (著), Henri Bergson (原著), 田島 節夫 (翻訳)


チャート式発想と小泉「改革」盲信・狂信:超短絡的発想
小野寺氏のチャート式「思考」批判は興味深い。これは、愚樵(ぐしょう)氏が述べていた「知的フレーム」の発想に近い。
 先の私の考察では、鏡像的同一性自己と結びついた言語同一性自己の発想である。
 チャート式とは、確かに、受験勉強で生まれる発想である。一種の二項対立である。チャート式=正しい、それ以外は間違いである。超短絡的発想である(橋下知事に感じる)。
 今日のうつ病、心病の発症の一つの要因かもしれない。後でさらに検討したい。

**************

チャート式とは、有名な受験参考書である。

それは、問題をパターン化して解こうとする。
つまり
「こういうパターンの問題が出てきたら、一律にこう考えてみましょう」
という海図(チャート)をかかげるやり方」である

今の政治で言えば、
「民営化」というキーワードが出たら?→天下りの防止、無駄の排除、自由競争
というチャートができるだろう。つまり「良いこと」なのである。


ところが、実態は
「民営化」→「合法的な泥棒」のこと。
       「新たな支配者による利権化」「オリックス」「国民の利益を犠牲にする」
       「外資と構造改革派が利益を分配」「なぜかオリックスがリース契約」

という感じになるだろう。

つまり、チャート式の「パターン化思考」した人たちは、このコイズミ構造改革に
イメージでのせられてまんまとはめられる。

チャート式では
「米国でテロ」→「テロといったら、まず、アルカイダ」「イスラム過激派」

などと、すぐに類型した問題はパターン思考にはめられる。

実際に
「米国でテロ」→「本当は自作自演かも」
などという、検証はまずできるわけがない。

つまり、日本国民がいま、大規模に
だまされているのは、こういった
「数学は暗記である」
「英文和訳はフィーリングが勝負だよ」
「辞書引かなくてもなんとなくわかればそれでいいんだよ」

といったような、「自分の頭を使わない」勉強の
やり方の犠牲者なのである。
http://archive.mag2.com/00
00154606/2009021801033
8000.html
国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」


トランス・モダン霊的開化:心のニュー・フロンティアと霊的資本主義=新多神教資本主義
テーマ:新霊性new spirituality

近代は外的世界を近代合理主義で「開発」した時代であった。しかし、今やトランス・モダンが発現しているのである。
 端的に言えば、Media Pointが開き始めたのである。そうすると、虚軸のエネルギー=超越エネルギーが積極的に参入することになる。これまで、「心」の世界を軽視していたので、今日の人間は戸惑うだろう。
 ファンタジックであるが、思うに、天使が復活すると思うのである。そう、天女も復活するし、妖怪も復活するだろう。
 そう、超越界が開いたので、諸超越振動が内的に響きだしているのである。これは新しい宗教、芸術の時代である。
 不可視の「心」の世界が今や新たなフロンティアである。思うに、新しい産業・経済はここから発するだろう。心的資本主義、霊的資本主義である。

追記:言い換えると、新多神教資本主義・新八百万の神資本主義・新神道資本主義である。





2009年02月17日(Tue)▲ページの先頭へ
トランス・モダン霊的開化:心のニュー・フロンティアと霊的資本主義
テーマ:新霊性new spirituality

近代は外的世界を近代合理主義で「開発」した時代であった。しかし、今やトランス・モダンが発現しているのである。
 端的に言えば、Media Pointが開き始めたのである。そうすると、虚軸のエネルギー=超越エネルギーが積極的に参入することになる。これまで、「心」の世界を軽視していたので、今日の人間は戸惑うだろう。
 ファンタジックであるが、思うに、天使が復活すると思うのである。そう、天女も復活するし、妖怪も復活するだろう。
 そう、超越界が開いたので、諸超越振動が内的に響きだしているのである。これは新しい宗教、芸術の時代である。
 不可視の「心」の世界が今や新たなフロンティアである。思うに、新しい産業はここから発するだろう。心的資本主義、霊的資本主義である。


検討問題:Media Pointと鏡像と同一性自己(自我)と言語と自己認識
プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)はだいぶ煮詰まってきたが、まだ、本件の関係性については、不明瞭な・不分明なところがあるので、検討したい。これはすくなくとも、数回は検討が必要であろう。
 さて、鏡像であるが、それは、+iが-iに位置に自己投影するときの反映像が鏡像であろう。+i→-iである。これは、いわば、-iを+iに換えるものであり、+iの二乗となると考えられる。(+i)^2=-1である。この-1が、ナルシシズムの自己、同一性(主義)自己=自我である。(だから、⇒+1 は、真の自己認識、差異的同一性自己認識である。)
 問題は、言語である。Media Pointにおいて、自己+iと他者-iは共鳴している。具体的に言えば、私は鳥であるし、且つ、鳥ではないという様態である。この差異共鳴様態において、自己認識志向性は、発話を行うのではないだろうか。
 即ち、差異共鳴様態における他者は何か。それは、鳥であると確認するのである。これは、自己同一性認識の一環と考えられる。つまり、+iの志向性である。これを、言語志向性と呼んでいいだろう。
 しかしながら、言語志向性の基盤には、差異共鳴様態があるのである。そう、これは、神話言語、詩言語の発生を説明するだろう。即ち、原始は、差異共鳴様態における言語志向性であり、そのために、「私は鳥であり、且つ、鳥ではない」という知覚があるのである。その後、言語志向性が独立して、「私は私であり、鳥ではなく、鳥は鳥である」という散文化が生じると考えられる。
 とまれ、言語志向性は同一性自己認識に通じるのであり、基盤の差異共鳴様態が排除されていくと言えよう。近代合理主義・近代的自我がその帰結である。
 問題は、先の鏡像同一性自己と言語同一性自己との関係である。両者は本来異なるものである。
 鏡像同一性自己とは、端的に同一性主義であり、他者を排除すると言えよう。あるいは、同一性に合致できるものだけを受容するだろう。
 とまれ、両者が合体すると、いわば、完璧な同一性主義となるだろう。そして、近代合理主義/近代的自我はそのようなものだろう。先に、言語志向性の帰結が近代合理主義・近代的自我と言ったが、そこには、鏡像同一性自己が契機にあると考えられる。【思うに、どうして、神道において、鏡が神器の一つなのか。思うに、それは、本来、内面(他者)を映す鏡であったろう。しかし、鏡像の場合の鏡は、自己投影像を映す鏡である。この違いをどう見るのか。神器としての鏡とは、Media Pointのことであろう。しかしながら、鏡像の鏡とは、同一性の鏡である。思うに、それは、同一性志向性の鏡と言えるのではないだろうか。つまり、同一性志向性の先端には、鏡があるのであり、それが、対象(他者)に接触して、反射して、鏡像を映すということではないか。この点は後でさらに検討したい。】
 では、最後に自己認識であるが、これは、どういうことになるだろうか。自己同一性言語認識の形成もあるし、差異共鳴様態の確認もある。正に、⇒+1である。
 これまで、+iを同一性=物質と見てきたが、それは、差異共鳴性から発生するのである。思うに、自己認識方程式は、差異共鳴性を内包した同一性自己認識を意味するのではないか。言い換えると、差異的同一性自己認識である。
 しかしながら、鏡像的同一性自己意識があり、それを、一般には、排除すると言えよう。
 これは、作業仮説であるが、結局、Media Pointから、→-1と⇒+1の両者が生成するのである。しかしながら、人間は、同一性に傾斜しているので、-1が+1を抑圧・排除・隠蔽するのである。そして、-1が自我(愚者)であり、+1が影(賢者)である。(これまで、自我が+1であり、影が-1としたこととは正反対である。)
 自我は他者認識するとき、内的他者を否定しているので、その否定を自己+1は認識するのではないだろうか。その内的他者否定の認識-1が、外的他者に投影されるのではないだろうか。
 ところで、投影という考え方であるが、ベルクソンのイマージュの考え方を使うとより統一的に説明できるかもしれない。
 否、Media Point同士の作用で、ベルクソンのイマージュ論が包摂されるのではないだろうか。つまり、個のMedia Pointのエネルギーと他者のMedia Pointのエネルギーの相互作用によって、個や他者における知覚が生まれるのではないだろうか。この相互作用をベルクソンはイマージュとして捉えているように思える。
 今はここで留める。


2009年02月16日(Mon)▲ページの先頭へ
iPS細胞とMedia Point
iPS細胞とは何か。
 PS理論から見ると、明らかにMedia Pointに関係している。しかし、同一性志向性になると、それは、個別の細胞を形成する。だから、端的に、Media Pointを体現している細胞ではないだろうか。それは、同一性=個別細胞以前である。今はここで留める。

*************

iPS細胞で心筋梗塞改善=マウス使った実験で確認−阪大
 新たな万能細胞と期待される人工多能性幹(iPS)細胞を使い、マウスの心筋梗塞(こうそく)の病状を改善することに大阪大医学系研究科の澤芳樹教授と三木健嗣研究員らが世界で初めて成功した。3月5日から東京で開催される日本再生医療学会総会で発表する。(時事通信)
[記事全文]

◇iPS細胞の解説
・ [用語]iPS細胞 - 多様な細胞に成長できる万能細胞。東奥日報
・ iPS細胞特許、年度内にも契約成立へ - 産経新聞(2月4日)

◇心筋梗塞(こうそく)とは
・ 心筋梗塞(急性心筋梗塞/陳旧性心筋梗塞) - 症状や治療法。gooヘルスケア
・ 心筋梗塞なぜなにガイド - Q&Aや用語集

◇注意!
・ 月曜の午前が危ない男の心筋梗塞 - nikkei BPnet(2004年9月10日)
・ [コラム]心筋梗塞を予防する食事学 - オムロン ヘルスケア

・ 再生医療 - Yahoo!トピックス
http://dailynews.yahoo.co.jp
/fc/science/ips_cells_research/


五次元とアセンション
私は2012年のアセンション云々は胡散臭いと思っている。
 以前、ノストラダムスの大予言があったが、それと似ている。もっとも、それは単純に否定できない。
 五次元にアセンションが何故胡散臭いのかと言えば、実は、世界の仕組みが本来五次元と考えられるからである。時空四次元は、現象界の発想である。しかし、PS理論では、Media Point における虚軸次元を説くものであり、それは五次元なのである。
 そう、ピュタゴラス派が五芒星を説き、ダ・ヴィンチが、ウィトウィルス的人体図を描いたが、それも五次元を示唆していると言えよう。だから、五次元アセンションはナンセンスなのである。もともと、五次元なのである。ただ、五次元が公的に明瞭になるということはあるだろう。

************

2012年世紀末の嘘を暴くのはとても大切


最近2012年の話題が活発になっている。様々な作り話があるが幾つか例を挙げると:地球がフォトン・ベルトに入って世界が浄化される(沢山の人が死ぬ):キリストやユダヤ教的な世紀末が来る:良い宇宙人(白い可愛いやつ)VS悪い宇宙人が戦って沢山の人が死ぬ:マヤ文明のカレンダーが2012年で終わるので世界が終わる、などなど。それぞれストーリーは違うが、結論は全て一緒だ。「沢山の人が死ぬが、一部選ばれた人達は楽園のような暮らしをする。」またそれぞれの大元を探ると、必ず欧米の闇の政権である悪魔教に辿り着く。

まだ悪魔教がおとぎ話だと思う人たちがこのリンク を見て下さい。この不自然なサインが偶然だと思うならこの写真 も見て下さい。
http://benjaminfulford.typ
epad.com/benjaminfulford/
BenjaminFulford 


戦後亡魂日本人の「利我主義」と神道的精神
私は1976年頃に「利我主義」(利己主義は、自己の利益を考えるという点では正しい考え方である。自己の利益は、他者との関係から生まれ、他者関係の構築が出てくるからである。)が日本社会を蚕食すると予見していたが、果たして、その通りであった。結局、『個』の基盤へと還元されて、ここから再出発するしかなかったのである。戦後の鏡像的同一性自我の日本人は亡国的なのである。自滅的なのである。
 やはり、戦後のGHQの占領去勢飼い馴らし戦略が利いているのである。つまり、神道を悪にして、近代合理主義を善として、日本人の魂を喪失させたのである。言い換えると、「心」の喪失である。
 内的世界と外的世界、この両界の視点が必要なのである。


【転載】 築地市場の豊洲移転を憂慮する日本環境学会と日本科学者会議委員会の共同声明
http://ameblo.jp/garbanzo04
/entry-10208725148.html
Like a rolling bean (new) 出来事録

精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察 (単行本)
エルヴィン シュレーディンガー (著), Erwin Schr¨odinger (原著), 中村 量空 (翻訳)

エルヴィン・シュレーディンガー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
エルヴィン・シュレーディンガー(コモンズより)
ノーベル賞 受賞者 ノーベル賞
受賞年: 1933年
受賞部門: ノーベル物理学賞
受賞理由: 新形式の原子理論の発見

エルヴィン・ルドルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー(Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger, 1887年 8月12日 - 1961年 1月4日 、ウィーン 生まれ)は、オーストリア の理論物理学者 。波動 形式の量子力学 である「波動力学 」を構築した。量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式 やシュレーディンガーの猫 などにより一般にも広く知られている。

1906年 にウィーン大学に入学して物理学 を学び、1921年 にチューリヒ大学教授に就任。ド・ブロイ の物質波 の概念を元にして、1926年 にシュレーディンガーの波動方程式を導出して波動力学を展開。ついで、波動力学がハイゼンベルク らの行列力学 と数学的に同等であることを証明して、量子力学の確立に大いに貢献した。また、シュレーディンガー方程式を解くことが、ボーア の量子論の結果を完璧なものにした。

1927年 にベルリン大学 教授。1933年 にノーベル物理学賞 を受賞。同年、ナチス・ドイツ の台頭とともにドイツを去って、最終的にはアイルランド のダブリン へ亡命。量子力学の確率 解釈にはシュレーディンガーの猫 などを提出して反対した。ちなみに現在では、シュレーディンガーの猫 には解答が見いだされている。戦時中からさらに広い領域に活動を進め、1944年『生命とは何か』によって分子生物学 への道を開く。1958年には『精神と物質』によって人間の精神世界の解明にとりくんだ。科学の多くの領域に足跡を残した20世紀の巨人である。

生涯ヒンドゥー教 のヴェーダーンタ 哲学に興味を有した(若き日にショーペンハウアー を読み耽った影響)。著書の中で、「量子力学」の基礎になった波動方程式が、東洋の哲学の諸原理を記述している、と語り、『精神と物質』には、次のように記している。「西洋科学の構造に東洋の同一化の教理を同化させることによって解き明かされるだろう。一切の精神は一つだと言うべきでしょう。私はあえて、それは不滅だと言いたいのです。私は西洋の言葉でこれを表現するのは適さないということを認めるものです。」「宗教は科学に対抗するものなのではなく、むしろ宗教は、これとかかわりのない科学的な研究のもたらしたものによって支持されもするものなのであります。神は時空間のどこにも見出せない。これは誠実な自然主義者の言っていることであります。」「西洋科学へは東洋思想の輸血を必要としている。」

私生活では、結婚制度をブルジョア価値観と軽蔑し二人の妻を持とうとするなど、奔放な生き方で知られた。ムーアによる伝記研究で明らかにされたとおり、小児性愛者 でとりわけ幼女との接触を好んだ。

[編集 ] 関連項目

* ヴェルナー・ハイゼンベルク
* シュレーディンガーの猫
* シュレディンガー音頭
* ハミルトンのアナロジー
* 確率

[編集 ] 著作

* 『生命とは何か―物理的にみた生細胞』岡 小天、 鎮目 恭夫訳 岩波新書(のちに岩波文庫)
* 『わが世界観』橋本 芳契、 中村 量空、 早川 博信、 橋本 契訳 ちくま学芸文庫
* 『シュレーディンガー わが世界観【自伝】』橋本芳契 監修 中村量空・早川博信・橋本契 訳 共立出版 1987
* 『精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察』中村 量空 訳 工作舎 1987 ISBN 4-87502-305-7

* 『自然とギリシャ人―原子論をめぐる古代と現代の対話』河辺六男 訳 工作舎 1991 ISBN 4-87502-189-5

* 『シュレーディンガー選集』全2巻 湯川秀樹監修、田中正ほか訳 共立出版 1974

[編集 ] 参考文献

* 『シュレディンガーの哲学する猫』竹内薫・SANAMI (著) 徳間書店 1998 
* 『シュレーディンガー―その生涯と思想』Walter Moore (原著) 小林K郎・土佐幸子 訳 焙風社 1995
* 『シュレーディンガーの思索と生涯』中村量空(著)工作舎 1993 ISBN 4-87502-216-6


カテゴリ : オーストリアの物理学者 | ノーベル物理学賞受賞者 | 1887年生 | 1961年没


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