INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2009/01/24

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年01月24日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:差異共振自己の鏡面・鏡像としての同一性形式(言語構造形式)
先に、同一性主義について再検討したが、鏡像・鏡面について検討すべきと思えたので検討したい。
 簡単に一言いうと、差異共振エネルギーが、いわば、彼岸としての同一性として、自身を投影するとき、差異と同一性の二重性が生まれる。これは相克的であると考える。そこで、差異自身(自体)を投影される同一性(鏡像)に重ねることが、同一性主義の発生ではないだろうか。差異は自己否定して、同一性に変換するのである。つまり、同一性像に差異自体を重ねることが同一性主義自己(自我)の始まりではないだろうか。
 結局、差異と同一性の相克の力学があり、それを同一性中心に処理することが同一性主義の発生であるのではないだろうか。
 言い換えると、差異と同一性の不連続な相克力学が発生するが、その矛盾解決のために、いわば、安易に、同一性へと傾斜して、重なることが同一性主義の発生ではないのかということである。不連続な相克とは、心の不安であり、その不安の解決として、同一性へと自己を縮約することが同一性主義の発生ではないだろうか。
 だから、同一性主義とは、不安・苦悩・苦痛をもっているのである。それは、デカルト哲学に見出させよう。また、ハイデガー似非現象学にも見出せよう。
 ちなみに、ハイデガー似非現象学について補足すると、差異と同一性の相克を存在と言い換えていると思える。しかしながら、差異自体の直感が劣弱で、相克の感情様態と同一性との関係を自身の似非現象学の対象に限定していると考えられる。つまり、相克の分析ではなく、相克の感情様態に留まっているので、存在ではあっても、差異にまで分析が届かなかったと考えられる。今はここで留める。

追記1:同一性主義=自我が+1であるならば、-1は、影ではないだろうか。前者がジキルで、後者はハイドではないだろうか。光と影である。
 +iと-iは双子だと思う。それが、同一性主義化すると、光と影に分離する、いわば、二重人格になると思う。だから、近代的自我は、自己自身の影(悪人)を認識していないのであり、だからこそ、自己の影を他者に投影して、他者を悪人(たとえば、テロリスト)に染め上げるのであると考えられる。
 後でもう少し考察を続けたい。

追記2:-1が影(シャドー)であることは、簡単に+1の否定であることで説明できるのではないだろうか。あるいは、差異共振性の否定として、-〔(+i)*(-i)〕→-1が生じて、その結果として、-1が生じるということでいいのではないだろうか。


同一性志向性について:帰結としての同一性なのか、同一性主義なのか:反動化する同一性主義
今日は、遅いので、十分検討しない(P.S. 結局、一応検討したことになった)が、昼間、通勤中少し考えた事柄ではある。もっとも、以前に執拗に検討した問題ではある。とまれ、再考したいと考えている。
 結局、Media Pointからのエネルギーの放出は、純粋同一性なのか、それとも、同一性主義なのかということである。これまでは、前者の考え方をとってきた。しかしながら、そうすると、同一性主義の発生について、強いエネルギーと弱いエネルギーの存在を考えることになるのである。
 それ以前には、後者の考え方をして、同一性志向性は、差異を否定・排除・隠蔽するとしてきたのである。不連続的差異論のときがそうである。
 端的にどちらなのか。経験から言うと、幼少期においては、前者であると思う。そして、成人期にかけては、後者になるのではないだろうか。
 だから、問題の核心は、差異を否定する同一性主義志向性の発生のメカニズムである。四年前の検討の繰り返しような感もあるが、直感で考察しよう。
 差異共振性としての同一性が発生すると考えられる。そのときは、即非関係が成り立つ。同一性と差異が「共和」しているのである。これは、原初の関係である。ここでは、言語は、まだ、差異共振性を帯びている。つまり、詩的言語である。例えば、私は鳥であり、且つ、私は鳥ではない。
 しかし、後期において、「私は鳥」の側面が消失して、「私は鳥ではない」が中心化する。いわば、散文化である。
 この散文化が同一性主義であると考えられる。それは一体何か。それは、差異エネルギーが弱まり、身体化=物質化が強化されるときに発生するのではないだろうか。つまり、⇒+1において、⇒のエネルギーが弱化消滅して、+1が強化されるときということになるだろう。
 そう考えると、強いエネルギーと弱いエネルギーの区別はそれほど重要ではなくなる。発生的に、⇒のエネルギーが弱化消滅して、+1が強化される事態が発生する。それが、散文化=同一性主義化と考えられる。合理主義化と言ってもいいだろう。
 そして、私見、推測では、その後、新たな⇒のエネルギーが発生するのである。そして、同一性と差異とのバランスを取る必要が発生するのである。これは人により時間的相違があるだろう。
 しかし、新たな⇒のエネルギーを同一性主義は否定・排除・隠蔽すると考えられる。これが、これまで問題視してきた同一性主義と考えられる。(追記:ポスト・モダン等の後期近代とは、新たな差異エネルギーの出現に対して、同一性主義が反動化する時代だったと言えよう。)
 近代とは、正に、そのような時代と考えられる。それは、+1が強化される時代であり、⇒を否定する時代であったのである。(追記:ここは不正確な言い方である。初期近代、私が呼ぶプロト・モダンにおいては、原初的な差異共振性が活きているが、近代主義が進展するにつれて、差異共振性が衰滅して、近代合理主義の同一性主義が発生して、差異共振性に抑圧的になるのであり、その後の新しい差異エネルギーの創出に対して反動的になるというのが真相と考えられる。)
 もっとも、その原因を考える必要がある。それは、単純に、エネルギーの終点として、近代があったと見れば、論理的には問題はないので、そうみておこう。だから、やはり、エネルギーの強弱は関係はなくなるのである。
 だから、新たな差異エネルギーが放出されるときになり、同一性志向性の帰結は反動的になり、同一性主義になったと考えられる。同一性志向性のエンテレケイアとしての同一性があり、それは固定したものであるが、それに対して、新たな差異エネルギーはそれを否定するものであり、同一性はそれを「理解」できないので、否定・抑圧・排除・隠蔽するという事態になると考えられる(追記:ここの言い方も不十分であり、直近の追記を見ていただきたい。)。
 ポスト・モダンとは、新たな差異エネルギーの放出の時代における視点であるが、まだ、同一性が強くて、不十分なものであったし、経済的には、反動的に、ネオコン、新自由主義、市場原理主義と生んだと言える。日本では、小泉/竹中路線である。
 そして、リーマン・ショックによって、ハイパーとなった同一性主義が崩壊したのであり、やっと、純粋差異エネルギーが発現する時代となったのである。その政治的象徴が、オバマ大統領と言えよう。
 以上で、本件の説明を終えたとする。


同一性志向性について:帰結としての同一性なのか、同一性主義なのか
今日は、遅いので、十分検討しない(P.S. 結局、一応検討したことになった)が、昼間、通勤中少し考えた事柄ではある。もっとも、以前に執拗に検討した問題ではある。とまれ、再考したいと考えている。
 結局、Media Pointからのエネルギーの放出は、純粋同一性なのか、それとも、同一性主義なのかということである。これまでは、前者の考え方をとってきた。しかしながら、そうすると、同一性主義の発生について、強いエネルギーと弱いエネルギーの存在を考えることになるのである。
 それ以前には、後者の考え方をして、同一性志向性は、差異を否定・排除・隠蔽するとしてきたのである。不連続的差異論のときがそうである。
 端的にどちらなのか。経験から言うと、幼少期においては、前者であると思う。そして、成人期にかけては、後者になるのではないだろうか。
 だから、問題の核心は、差異を否定する同一性主義志向性の発生のメカニズムである。四年前の繰り返しような感もあるが、直感で考察しよう。
 差異共振性としての同一性が発生すると考えられる。そのときは、即非関係が成り立つ。同一性と差異が「共和」しているのである。これは、原初の関係である。ここでは、言語は、まだ、差異共振性を帯びている。つまり、詩的言語である。例えば、私は鳥であり、且つ、私は鳥ではない。
 しかし、後期において、「私は鳥」の側面が消失して、「私は鳥ではない」が中心化する。いわば、散文化である。
 この散文化が同一性主義であると考えられる。それは一体何か。それは、差異エネルギーが弱まり、身体化=物質化が強化されるときに発生するのではないだろうか。つまり、⇒+1において、⇒のエネルギーが弱化して、+1が強化されるときということになるだろう。
 そう考えると、強いエネルギーと弱いエネルギーの区別はそれほど重要ではなくなる。発生的に、⇒のエネルギーが弱化して、+1が強化される事態が発生する。それが、散文化=同一性主義化と考えられる。合理主義化と言ってもいいだろう。
 そして、私見、推測では、その後、新たな⇒のエネルギーが発生するのである。そして、同一性と差異とのバランスを取る必要が発生するのである。これは人により時間的相違があるだろう。
 しかし、新たな⇒のエネルギーを同一性主義は否定・排除・隠蔽すると考えられる。これが、本来の同一性主義と考えられよう。
 近代とは、正に、そのような時代と考えられる。それは、+1が強化される時代であり、⇒を否定する時代であったのである。
 もっとも、その原因を考える必要がある。それは、単純に、エネルギーの終点として、近代があったと見れば、論理的には問題はないので、そうみておこう。だから、やはり、エネルギーの強弱は関係はなくなるのである。
 だから、新たな差異エネルギーが放出されるときになり、同一性志向性の帰結は反動的になり、同一性主義になったと考えられる。同一性志向性のエンテレケイアとしての同一性があり、それは固定したものであるが、それに対して、新たな差異エネルギーはそれを否定するものであり、同一性はそれを「理解」できないので、否定・抑圧・排除・隠蔽するという事態になると考えられる。
 ポスト・モダンとは、新たな差異エネルギーの放出の時代における視点であるが、まだ、同一性が強くて、不十分なものであったし、経済的には、反動的に、ネオコン、新自由主義、市場原理主義と生んだと言える。日本では、小泉/竹中路線である。
 そして、リーマン・ショックによって、ハイパーとなった同一性主義が崩壊したのであり、やっと、純粋差異エネルギーが発現する時代となったのである。その政治的象徴が、オバマ大統領と言えよう。
 以上で、本件の説明を終えたとする。


   




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カレンダ
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