INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/08

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年08月31日(Sun)▲ページの先頭へ
汝自身を知れと無知(愚闇)の知:何故己を知るのが難しいのか:自我優越の「天」と身体の「地」の結婚:Ver 3
「汝自身を知れ」、これは、古代ギリシアの有名な、デルフォイのアポロン神殿での、神託である。
 以下の参考資料がとても役に立つ。今は簡単に言うが、私の理解は、「汝自身」とは、自分の諸々の「欲望」ではないかと思う。知の欲望があり、富の欲望があり、精神的欲望があり、身体的欲望があり、社会・社交的欲望があり、等々である。
 思うに、個の諸欲望を妨げているのは、見栄や虚栄心である。というか、ある方向に傾斜した欲望が、他の欲望を阻害するようになると思う。ある方向に傾斜した欲望とは端的に執着、我執であり、妄念的になりうるのである。
 仏教は、これからの脱却(解脱)を、説いているが、これが、実際は実に困難である。ある方向に傾斜した欲望、執念は、他の欲望を圧倒するのである。執念の一番は自我優越傾斜ではないだろうか。他者よりも優越であらんとする欲望、自我優越欲望が、最大のものではないだろうか。
 例えば、出世し高い地位に就き、高い収入を得たいとか、人に称賛されたいとか、人にはできないことをしたいとか、その他様々な自我優越欲望があるだろう。
 もっとも、その優越の志向性は素朴的には意味がある(誰でも自尊心があるから、優れた者でありたいと思うだろう)。ただ、それが、他の欲望を圧倒すると、バランスが崩れて、自己欲望に囚われて、自己に対して無知(愚・無明)となるのである。つまり、自己無知とは、囚われの状態を意味しよう。これは、ある欲望が自己を支配しているのであり、自己はその被束縛状態が認識できないのである。
 ある一つの自我優越志向欲望が他の諸欲望を支配しているので、自己盲目・自己無知となっているのである。資本主義ならば、交換価値という利益への至上の欲望がそれである。(これは、また、同一性主義そのものである。)
 では、この自我優越欲望=自己無知に対して、どう対処し、自己知を獲得できるのだろうか。確かに、無知の知(愚闇の知)は一つのポイントではあるが、積極的ではないと思う。
 思うに、今は、暫定的に言うが、一つの方法は、他者の気持ち・思い・心を汲むことではないだろうか。いわば、ボーモン夫人の「美女と野獣」の教訓のようなものではないか。外見に囚われて、心を尊重しないときが、自己無知ではないのか。
 また、端的な自己認識に関してであるが、自我が否定するものは、実は、自我が望んでいるものの可能性があることである。諸欲望のぶつかり合いがあるのであり、そこから、ヒエラルキーが生じて、ある欲望を他の欲望が否定するのである。つまり、二項対立的価値観が存しているという問題である。結局、多元多様な欲望を認めるべきだと思う。そう、自我優越欲望とは端的に、二項対立的価値観である。自己同一性を、他者よりも優越化しようとする発想である。
 この点をよく認識するならば、知と身体との「結婚」が可能になるだろう。「天」と「地」の「結婚」である。差異共鳴である。西洋文明は「天」を中心化して、「地」を貶めてきたのである。封建主義、近代主義がそうである。
 後でプラトンの「コーラ」について検討したいが、思うに、「コーラ」は、「地」ではないかと直感するのである。PS理論では、-iである。「天」が+iであるから、「地」は-iとなるのである。父権制が+iで母権制が-iではないのか。
 もっとも、この点は微妙なのである。今の私の考えでは、父権制とは、「天」へ傾斜を意味しているのであるが、母権制とは、「天」と「地」との共鳴性ではないかと思っている。【これは、またジェンダー論、女性の脳論に関係する。例えば、男性の脳は左脳傾斜していて、同一性主義であるが、女性の脳は、両脳の共鳴性が主導的ではないのかということである。しかし、現代の女性は男性教育つまり左脳中心主義的教育を受けているので、本来的な両脳の共振文化=母権文化を喪失しているのではないか。】
 この視点から見ると、「コーラ」は、「天」と「地」との共鳴性ということになる。どちらが本当なのか。「地」なのか、「天」と「地」との共鳴なのか。しかしながら、これは、ある意味で愚問ではないか。「地」は「天」という同一性傾斜性にとっては、差異である。そして、本源的には、「天」と「地」とは共鳴相にあるのである。だから、「地」という差異は、「天」と「地」との共鳴相を本来意味するのである。
 この点から見ると、「コーラ」とは、「地」であるし、「天」と「地」との共鳴相であると言えるように思うのである。差異は差異共鳴性なのである。【これは、大女神と大地母神との関係にもあてはまるだろう。大女神は、言わば、「天」と「地」との共鳴神であり、大地母神は当然、「地」の神である。しかしながら、両者は一体であると見るのが正しいだろう。大地の女神とは、「天」と「地」の共鳴原神である。端的に、コスモスの女神である。p.s. 聖母マリアは、本源的には、コスモスの女神であると思う。】
 今はここで留める。


参考1:

「汝自身を知れ・・・汝自身を知れ・・・」そう、心の中で何度も反芻(はんすう)した・・・。

3ヶ月ほど考え続けた挙げ句、ソクラテスは、このように考えるようになった。
「余りにも近くにあるものに対して、意識を留めることがなかった。そこから自分の感覚は無感覚と無意識に支配されていたのである」

さてこの自分の意識の状態を知った時、自分が自分の主(あるじ)になっていない現実をつくづくと思い知らされるソクラテスであった。それからソクラテスは、無感覚と無意識を排除し、自分の心の状態を目覚めた状態にしておくことを強く意識するようになった。

http://www.st.rim.or.jp/
~success/sokuratesu_ye.html


「汝自身を知れ」という言葉に殉教した男

ソクラテス異聞

参考2:
「コーラ(母)」としてのウェブ空間

近代科学の二元論的発想を抜け出そうとするときには、ギリシャ時代の哲学に戻って、プラトンやティマイオスのいうコーラ(多様体哲学としてのコーラ)、あるいはアリストテレスが空間という概念のなかで唱えた「トポス」という概念(トポス論的思考)が気になってくる。

http://i.impressrd.jp/e/
2008/02/29/388?page=0%2C1
ハイブリッド的な多様体哲学とウェブサイエンス
参考3:参考2の資料(森田進氏による)において、驚いたことに、不連続的差異論や差異共立という用語が用いられている。森田氏の論については、まだ精読していないないので判断を控えたい。
 とまれ、少なくとも、不連続的差異論がネット・コミュニケーション界において、浸透したことを意味していよう。願わくば、PS理論へと理解を進展させていただきたい。

* 玄のまた玄 2008年2月1日 18:30
* Web2.0における思想的な問いかけ 2008年2月15日 20:00
* 「言語論的転回」から「ウェブサイエンス的転回」へ 2008年2月22日 18:00
* ハイブリッド的な多様体哲学とウェブサイエンス 2008年2月29日 17:00
* ビジネスブログとマーケティング・リエンジニアリング 2008年3月15日 00:15
* Web2.0的創発性をふまえたマーケティング戦略の再構築 2008年3月21日 23:00
* 新管理社会2.0を回避するために 2008年3月28日 11:50
* Web2.0と「信頼(トラスト)」の問題―サブプライムローンからWikipediaまで 2008年4月11日 17:30
* Web2.0における信頼・コラボレーション生成のメカニズム 2008年4月18日 19:10
* 心(オーガニック・マインド)と社会ネットワークの密接な関係 2008年4月30日 12:00
* Web2.0以前、Web2.0以後の情報社会 2008年6月3日 16:43
* 現実味を帯びてきた“Web3.0のシナリオ”(最終回) 2008年7月8日 03:40

ウェブサイエンス2.0の胎動
http://i.impressrd.jp/l/44


汝自身を知れと無知(愚闇)の知:何故己を知るのが難しいのか:自我優越の「天」と身体の「地」の結婚:Ver 2
「汝自身を知れ」、これは、古代ギリシアの有名な、デルフォイのアポロン神殿での、神託である。
 以下の参考資料がとても役に立つ。今は簡単に言うが、私の理解は、「汝自身」とは、自分の諸々の「欲望」ではないかと思う。知の欲望があり、富の欲望があり、精神的欲望があり、身体的欲望があり、社会・社交的欲望があり、等々である。
 思うに、個の諸欲望を妨げているのは、見栄や虚栄心である。というか、ある方向に傾斜した欲望が、他の欲望を阻害するようになると思う。ある方向に傾斜した欲望とは端的に執着、我執であり、妄念的になりうるのである。
 仏教は、これからの脱却(解脱)を、説いているが、これが、実際は実に困難である。ある方向に傾斜した欲望、執念は、他の欲望を圧倒するのである。執念の一番は自我優越傾斜ではないだろうか。他者よりも優越であらんとする欲望、自我優越欲望が、最大のものではないだろうか。
 例えば、出世し高い地位に就き、高い収入を得たいとか、人に称賛されたいとか、人にはできないことをしたいとか、その他様々な自我優越欲望があるだろう。
 もっとも、これはこれで意味があることである。ただ、それが、他の欲望を圧倒すると、バランスが崩れて、自己欲望に囚われて、自己に対して無知(愚・無明)となるのである。つまり、自己無知とは、囚われの状態を意味しよう。これは、ある欲望が自己を支配しているのであり、自己はその被束縛状態が認識できないのである。
 ある一つの自我優越志向欲望が他の諸欲望を支配しているので、自己盲目・自己無知となっているのである。資本主義ならば、交換価値という利益への至上の欲望がそれである。(これは、また、同一性主義そのものである。)
 では、この自我優越欲望=自己無知に対して、どう対処し、自己知を獲得できるのだろうか。確かに、無知の知(愚闇の知)は一つのポイントではあるが、積極的ではないと思う。
 思うに、今は、暫定的に言うが、一つの方法は、他者の気持ち・思い・心を汲むことではないだろうか。いわば、ボーモン夫人の「美女と野獣」の教訓のようなものではないか。外見に囚われて、心を尊重しないときが、自己無知ではないのか。
 また、端的な自己認識に関してであるが、自我が否定するものは、実は、自我が望んでいるものの可能性があることである。諸欲望のぶつかり合いがあるのであり、そこから、ヒエラルキーが生じて、ある欲望を他の欲望が否定するのである。つまり、二項対立的価値観が存しているという問題である。結局、多元多様な欲望を認めるべきだと思う。そう、自我優越欲望とは端的に、二項対立的価値観である。自己同一性を、他者よりも優越化しようとする発想である。
 この点をよく認識するならば、知と身体との「結婚」が可能になるだろう。「天」と「地」の「結婚」である。差異共鳴である。西洋文明は「天」を中心化して、「地」を貶めてきたのである。封建主義、近代主義がそうである。
 後でプラトンの「コーラ」について検討したいが、思うに、「コーラ」は、「地」ではないかと直感するのである。PS理論では、-iである。「天」が+iであるから、「地」は-iとなるのである。父権制が+iで母権制が-iではないのか。
 もっとも、この点は微妙なのである。今の私の考えでは、父権制とは、「天」へ傾斜を意味しているのであるが、母権制とは、「天」と「地」との共鳴性ではないかと思っている。【これは、またジェンダー論、女性の脳論に関係する。例えば、男性の脳は左脳傾斜していて、同一性主義であるが、女性の脳は、両脳の共鳴性が主導的ではないのかということである。しかし、現代の女性は男性教育つまり左脳中心主義的教育を受けているので、本来的な両脳の共振文化=母権文化を喪失しているのではないか。】
 この視点から見ると、「コーラ」は、「天」と「地」との共鳴性ということになる。どちらが本当なのか。「地」なのか、「天」と「地」との共鳴なのか。しかしながら、これは、ある意味で愚問ではないか。「地」は「天」という同一性傾斜性にとっては、差異である。そして、本源的には、「天」と「地」とは共鳴相にあるのである。だから、「地」という差異は、「天」と「地」との共鳴相を本来意味するのである。
 この点から見ると、「コーラ」とは、「地」であるし、「天」と「地」との共鳴相であると言えるように思うのである。差異は差異共鳴性なのである。【これは、大女神と大地母神との関係にもあてはまるだろう。大女神は、言わば、「天」と「地」との共鳴神であり、大地母神は当然、「地」の神である。しかしながら、両者は一体であると見るのが正しいだろう。大地の女神とは、「天」と「地」の共鳴原神である。端的に、コスモスの女神である。p.s. 聖母マリアは、本源的には、コスモスの女神であると思う。】
 今はここで留める。


参考:

「汝自身を知れ・・・汝自身を知れ・・・」そう、心の中で何度も反芻(はんすう)した・・・。

3ヶ月ほど考え続けた挙げ句、ソクラテスは、このように考えるようになった。
「余りにも近くにあるものに対して、意識を留めることがなかった。そこから自分の感覚は無感覚と無意識に支配されていたのである」

さてこの自分の意識の状態を知った時、自分が自分の主(あるじ)になっていない現実をつくづくと思い知らされるソクラテスであった。それからソクラテスは、無感覚と無意識を排除し、自分の心の状態を目覚めた状態にしておくことを強く意識するようになった。

http://www.st.rim.or.jp/~success
/sokuratesu_ye.html


「汝自身を知れ」という言葉に殉教した男

ソクラテス異聞


汝自身を知れと無知(愚)の知:何故己を知るのが難しいのか:自我優越の「天」と身体の「地」の結婚
「汝自身を知れ」、これは、古代ギリシアの有名な、デルフォイのアポロ神殿での、神託である。
 以下の参考資料がとても役に立つ。今は簡単に言うが、私の理解は、「汝自身」とは、自分の諸々の「欲望」ではないかと思う。知の欲望があり、富の欲望があり、精神的欲望があり、身体的欲望があり、社会・社交的欲望があり、等々である。
 思うに、個の諸欲望を妨げているのは、見栄や虚栄心である。というか、ある方向に傾斜した欲望が、他の欲望を阻害するようになると思う。ある方向に傾斜した欲望とは端的に執着、我執であり、妄念的になりうるのである。
 仏教は、これからの脱却(解脱)を、説いているが、これが、実際は実に困難である。ある方向に傾斜した欲望、執念は、他の欲望を圧倒するのである。執念の一番は自我優越傾斜ではないだろうか。他者よりも優越であらんとする欲望、自我優越欲望が、最大のものではないだろうか。
 例えば、出世し高い地位に就きたいとか、人に称賛されたいとか、人にはできないことをしたいとか、その他様々な自我優越欲望があるだろう。
 もっとも、これはこれで意味があることである。ただ、それが、他の欲望を圧倒すると、バランスが崩れて、自己欲望に囚われて、自己に対して無知(愚・無明)となるのである。つまり、自己無知とは、囚われの状態を意味しよう。これは、ある欲望が自己を支配しているのであり、自己はその被束縛状態が認識できないのである。
 ある一つの自我優越志向欲望が他の諸欲望を支配しているので、自己盲目・自己無知となっているのである。資本主義ならば、交換価値という利益への欲望が至上である。これは、また、同一性主義そのものである。
 では、この自我優越欲望=自己無知に対して、どう対処し、自己知を獲得できるのだろうか。確かに、無知の知(愚闇の知)は一つのポイントではあるが、積極的ではないと思う。
 思うに、今は、暫定的に言うが、一つの方法は、他者の気持ち・思い・心を汲むことではないだろうか。いわば、ボーモン夫人の「美女と野獣」の教訓のようなものではないか。外見に囚われて、心を尊重しないときが、自己無知ではないのか。
 また、端的な自己認識に関してであるが、自我が否定するものは、実は、自我が望んでいるものの可能性があることである。諸欲望のぶつかり合いがあるのであり、そこから、ヒエラルキーが生じて、ある欲望を他の欲望が否定するのである。つまり、二項対立的価値観が存しているという問題である。結局、多元多様な欲望を認めるべきだと思う。そう、自我優越欲望とは端的に、二項対立的価値観である。自己同一性を、他者よりも優越化しようとする発想である。
 ここにおいて、知と身体との「結婚」が可能になるだろう。「天」と「地」の「結婚」である。差異共鳴である。西洋文明は「天」を中心化して、「地」を貶めてきたのである。封建主義、近代主義がそうである。
 後でプラトンの「コーラ」について検討したいが、思うに、「コーラ」は、「地」ではないかと直感するのである。PS理論では、-iである。「天」が+iであるから、「地」は-iとなるのである。父権制が+iで母権制が-iではないのか。
 もっとも、この点は微妙なのである。今の私の考えでは、父権制とは、「天」へ傾斜しているのであるが、母権制とは、「天」と「地」との共鳴性ではないかと思っている。【これは、またジェンダー論、女性の脳論に関係する。例えば、男性の脳は左脳傾斜していて、同一性主義であるが、女性の脳は、両脳の共鳴性が主導的ではないのかということである。しかし、現代の女性は男性教育つまり左脳教育を受けているので、本来的な両脳の共振文化=母権文化を喪失しているのではないか。】
 この視点から見ると、「コーラ」は、「天」と「地」との共鳴性ということになる。どちらが本当なのか。「地」なのか、「天」と「地」との共鳴なのか。しかしながら、これは、ある意味で愚問ではないか。「地」は「天」という同一性傾斜性にとっては、差異である。そして、本源的には、「天」と「地」とは共鳴相にあるのである。だから、「地」という差異は、「地」との共鳴相を本来意味するのである。
 この点から見ると、「コーラ」とは、「地」であるし、「天」と「地」との共鳴相であると言えるように思うのである。差異は差異共鳴性なのである。【これは、大女神と大地母神との関係にもあてはまるだろう。大女神は、言わば、「天」と「地」との共鳴神であり、大地母神は当然、「地」の神である。しかしながら、両者は一体であると見るのが正しいだろう。大地の女神とは、「天」と「地」の共鳴原神である。端的に、コスモスの女神である。】
 今はここで留める。


参考:

「汝自身を知れ・・・汝自身を知れ・・・」そう、心の中で何度も反芻(はんすう)した・・・。

3ヶ月ほど考え続けた挙げ句、ソクラテスは、このように考えるようになった。
「余りにも近くにあるものに対して、意識を留めることがなかった。そこから自分の感覚は無感覚と無意識に支配されていたのである」

さてこの自分の意識の状態を知った時、自分が自分の主(あるじ)になっていない現実をつくづくと思い知らされるソクラテスであった。それからソクラテスは、無感覚と無意識を排除し、自分の心の状態を目覚めた状態にしておくことを強く意識するようになった。

http://www.st.rim.or.jp/
~success/sokuratesu_ye.html


「汝自身を知れ」という言葉に殉教した男

ソクラテス異聞


2008年08月30日(Sat)▲ページの先頭へ
差異(差異共鳴)と同一性と同一性主義:ナスはナスであり、且つ、ナスは顔である
先に、ナスはナスであるというナスの同一性について言及したが、その考察は明快ではなかったので、再考して、明快にしたい。
 ナスの個体Aがあるとする。個体Aから、ナスはナスであるという同一性が確認できる。しかしながら、個体Aとは、差異であり、特異性である。(参照:「すべての差異はまったき差異である」デリダ)
 同一性主義(例えば、ヘーゲル哲学)から見ると、ナスの個体性から、差異・特異性は消滅するのである。すべては、同一性の精神に還元されるのである。しかし、単に同一性の視点からは、差異・特異性は排除されていない。つまり、同一性と差異・特異性は併存しているのである。これは、差異共鳴における同一性を意味していると考えられる。 
 言い換えると、同一性=物質と差異・特異性=精神とが共存しているのである。もっとも、正確に言えば、精神とは、身体でもあり、心身・身心である。即ち、ナスの個体Aの差異・特異性とは、精神、身体であり、心身・身心であり、Media Pointを内包しているのである(即非様態である)。
 具体的に言えば、例えば、ナスの個体Aの表面に白インクで顔を描けば、それは、ナスでありつつ、顔なのである。この顔が差異ということになる。そして、個体A自体は特異性ということになる。とまれ、ナス=ナスであり、且つ、ナス=顔ということになった。
 そして、同一性主義の視点とは、ナス=顔という差異やナスの個体Aの特異性を否定することになると言えよう。近代合理主義/近代的自我/唯物論がそうである。
 そう考えると、現代美術とは、正に、差異の美術と言える。「モダン・アート」の「モダン」とは、ポスト・モダン、ないしは、トランス・モダンと見るべきである。
 しかしながら、問題点は、ポストとトランスの違いにある。ポストの場合は水平的であり、トランスの場合は垂直的である。例えば、マルセル・デュシャンの『泉』は、水平的差異であり、ポスト・モダン的である。
 しかしながら、例えば、マグリットやマーク・ロスコ等は垂直的差異があると考えられる。ピカソの『ゲルニカ』も垂直的差異があると思う。
 文学で言えば、T. S. エリオットの『荒地』、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』、D. H. ロレンスの批評、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』のモダニズム作品にも垂直的差異があるだろう。


大女神(太母)とヤハウェ(唯一神):Media Pointの光の様態としての闇:一神教の脱構築
大女神(太母)とヤハウェ(唯一神):Media Pointの光の様態としての闇:一神教の脱構築

テーマ:一神教/多神教

昨日、以下の、同一性主義に関しての試論で、関連で唯一神について言及したが、それが興味深いので、少し補足的に考察を行いたい。

「A one-track mind:一つの観念に取り憑かれた心:差異の翳りに拠る同一性主義の発生」http://ameblo.jp/renshi/
entry-10133052806.html

先の試論では、差異共鳴の苦・悲から、同一性主義が発生すると言ったが(実は、これは、既述済みである)、そうすると、イデア界の闇から同一性主義(光)が発生することになり、これは、矛盾する。イデア界はいわば、超光界(超越光界)であり、闇にはならない。だから、闇の様態になるのは、Media Pointであるといわなくてはならないだろう。
 Media Pointが光の様態のときは、母権的宗教(多神教等)が発生し、闇の様態のときには、父権的宗教(一神教等)が生まれるということになる。
 そうすると、多神教も一神教も根源では共通ということになる。つまり、Media Pointが母胎であり、その様態によって、差異共鳴性と同一性主義が発生するということになる。だから、ヤハウェ(唯一神)とイシス(大女神)は母胎は同じで、様態が正反対ということになる。
 しかしながら、Media Pointの原初的様相は、差異共鳴的様相=光明相であるから、第一義性は、大女神に存することになり、唯一神は、大女神の様態と見るのが的確である。だから、唯一神の闇は、絶対的ではなく、相対的なのである。つまり、唯一神とは、本来、唯一神ではなく、多神・神々の変化した様相に過ぎないということである。唯一神の脱構築である。
 唯一神から新多神への変容のためのポイントは、否定・抑圧・排除・遮蔽・隠蔽されたMedia Pointの回復にあると言えよう。あるいは、肯定的なMedia Pointの復興である。これは、言い換えると、東洋的身心性=東洋文化の回復である。
 経済で言えば、同一性主義資本経済から差異共鳴主義資本経済への転換である。差異共鳴経済によってもたらされた富(同一性価値=金融資本)は、差異共鳴価値のために消費されるべきではないだろうか。つまり、社会保障等は、富からの贈与で賄うべきではないだろうか。問題は、国家を通すのではなく(つまり、税金制度ではなく)、経済社会共同体を介して、贈与を為すべきということである。国家(政治・行政)を介すると、官僚権力によって支配されてしまうのである。そう、政治と財務とを切断すべきなのだろう。法的機関と財政機関は区別すべきである。
 経済社会共同体の創造へと向かうべきである。自由経済社会共同体主義である。後でもう少し検討したい。


A one-track mind:一つの観念に取り憑かれた心:差異の翳りに拠る同一性主義の発生:三訂版
one-track mindという句があったので、辞書を調べたら、one-trackで、「一つの観念にとりつかれた」という語義があった。この「一つの観念にとりつかれた」というのは、正に、私がこれまで批判してきた同一性主義にあてはまる。
 では、この「一つの観念にとりつかれた」という事象を、PS理論的に解明したと思う。意外にあっさりと説明がつくのではないかと思う。
 今は簡単に考えたい。同一性主義とは、自己内差異(他者)を否定し、自己同一性(自我)を志向するあり方である。この自己同一性(自我)志向が、思うに、ただ一つの観念をもたらすと思われる。
 問題は、このただ一つの観念の正当性である。同一性主義は、このただ一つの観念を正当化する根拠をそれなりにもっているはずであるが、それは何か。
 それは、端的に、+1だと思う。これが同一性である。そして、ここから、-1の同一性主義へと転換するのである。
 +1、即ち、A=Aである。ナスはナスであるという、「自同律」である。これは、交換価値になるのである。すなわち、ナスは一袋158円であるということである。ナスが、交換価値となったのである。
 本来ならば、差異があるのであるが、同一性価値が主導化すると、差異が排除されて、同一性主義となる。
 結局、同一性主義(ただ一つの観念の正当化)とは、端的に、同一性傾斜に拠ると考えられる。父権制である。
 この父権制が同一性主義の根拠と考えられるのである。ここで、原差異共鳴性が否定されて、同一性主義という二項対立が発生するのである。
 これが本件の答えである。一つの観念にとりつかれるというのは、父権主義の為せる業である。宗教で言えば、一神教である。とりわけ、ユダヤ・キリスト教である。

P.S. 同一性主義の根拠として、+1、すなわち、同一性を提示したが、少しあいまいである。なぜなら、同一性+1とは、同一性主義ではなく、差異共鳴性の帰結であるからである。つまり、+1は、差異共鳴性に包摂されているのである。
 それは、同一性自己であり、差異共鳴「自己」に包摂されているということになろう。
 では、同一性自己が同一性主義自己(自我主義)になるのは、何が根拠かである。それは、これまで指摘したように、差異共鳴性において発生した苦・悲が原因である。それを否定するようにして、同一性主義自己が形成されると考えられるのである。
 だから、同一性主義の根拠は、+1ではなくて、ネガティブとなった差異共鳴性である。反動である。差異の反動が同一性主義の根拠である。
 とまれ、後で整理したい。

P.P.S. 結局、同一性主義とは、同一性が、ネガティブになった差異に対してとる反動性が、根拠である。いわば、「暗い」差異を否定して、「明るい」同一性の鏡像へと、いわば、再帰することが、同一性主義の力学である。言い換えると、差異に対して、自己投影して、同一性化するのである。即ち、差異に対して、同一性を投影して、その投影像=鏡像と同化することが同一性主義になるのである。
 これは、いわば、自己瞞着である。自己欺瞞である。自己を投影して、その投影像と一致するのであるから、自己重複である。自己盲目である。独善化である。
 いわば、結果から初めて、それを原因におくようなものである。
 とまれ、この場合の同化とはどういうことであろうか。投影された同一性自己に同化するとはどういうことなのか。(一種の疎外やナルシシズムである。)
 投影であるから、なんらかの光が出ているはずである。それは、同一性の光ではないだろうか。差異に対して、同一性の光を投影するということではないだろうか。
 本来、差異共鳴性から同一性が形成されたのであるが、それが逆に差異共鳴性へと自己投影するということになると考えられる。差異共鳴性とはいわば、超光(超越光)であり、それに対して、同一性は光である。この光が超光(超越光)へと自己投影するということになる。
 喩えて言えば、太陽を直視することはできない。だから、サングラスで太陽を見るようなことである。つまり、サングラスという「光」を太陽へと投影するのである。そして、超光の太陽は、サングラスの「光」となるのである。サングラスの「光」が鏡像である。
 これは、同一性による差異の遮蔽と言っていいだろう。同一性自体によって、同一性の壁を作り、差異を遮断するのである。これは、同一性の倒錯的統一化と呼べよう。あるいは、同一性の倒錯的自己目的化である。
 では、そもそも、投影とは何か。何故、投影するのか。それは、もともと、同一性が光であるからではないだろうか。同一性光である。だから、投影するのではないだろうか。この同一性光が、ネガティブな差異へと投影するということだろうか。
 否。同一性光はネガティブな差異に投影するのではなく、排除するのである。差異を隠蔽するのである。差異の否定である。否定の闇があるのである。そして、同一性光がその否定の闇に投影するのではないのか。
 この闇は盲目、無知、無明である。だから、結局、同一性のもつ力学、否定の力学が発生して、同一性主義になるのである。同一性の力学が、肯定と否定の二項対立なのだろう。
 しかしながら、同一性の二項対立の力学とは、内在的なものではなく、差異に駆動されているので、外在的なのである。だから、同一性主義とは、内在的には、根拠をもっていないのである。デリダの言うように、脱構築されるのである。原点が差異にあるからである。
 整理すると、差異に駆動されて、同一性の二項対立力学が発生するのである。しかし、原点・根拠の差異を隠蔽しているのである。
 結局、差異共鳴は本来的には、超光であるが、それが、ネガティブになったときに、同一性主義が発生するということになる。(思うに、ヤハウェ教の発生の根因がここにあるのではないだろうか。)
 差異共鳴性がネガティブになったとき、超光はどうなるのだろうか。そもそも差異共鳴性がネガティブになるとはどういうことだろうか。
 それは内在的なものではなく、外在的に阻害を受けた様態である。だから、負の差異共鳴様態である。だから、本体の差異共鳴性は、根本的には、肯定的なものであるが、現象において、負化されるということになるのである。(やはり、ここで、ヤハウェ教を想起するのである。ヤハウェとは、負化された差異共鳴性ではないだろうか。ネガティブな差異共鳴性ではないだろうか。)
 そう、負の差異共鳴様態というルサンチマンから同一性主義が発生するということだと思う。簡単に言えば、本体の超光が翳ったときに、同一性主義=光という父権暴力が発生するということである。(ここでも、ニーチェの大天才的慧眼が確認できる。)
 これで、本件の検討が終了した。最初は簡単だと思ったが、意外にも、難問であった。


2008年08月29日(Fri)▲ページの先頭へ
A one-track mind(偏狭な心):一つの観念にとりつかれた心:補正
one-track mindという句があったので、辞書を調べたら、one-trackで、「一つの観念にとりつかれた」という語義があった。この「一つの観念にとりつかれた」というのは、正に、私がこれまで批判してきた同一性主義にあてはまる。
 では、この「一つの観念にとりつかれた」という事象を、PS理論的に解明したと思う。意外にあっさりと説明がつくのではないかと思う。
 今は簡単に考えたい。同一性主義とは、自己内差異(他者)を否定し、自己同一性(自我)を志向するあり方である。この自己同一性(自我)志向が、思うに、ただ一つの観念をもたらすと思われる。
 問題は、このただ一つの観念の正当性である。同一性主義は、このただ一つの観念を正当化する根拠をそれなりにもっているはずであるが、それは何か。
 それは、端的に、+1だと思う。これが同一性である。そして、ここから、-1の同一性主義へと転換するのである。
 +1、即ち、A=Aである。ナスはナスであるという、「自同律」である。これは、交換価値になるのである。すなわち、ナスは一袋158円であるということである。ナスが、交換価値となったのである。
 本来ならば、差異があるのであるが、同一性価値が主導化すると、差異が排除されて、同一性主義となる。
 結局、同一性主義(ただ一つの観念の正当化)とは、端的に、同一性傾斜に拠ると考えられる。父権制である。
 この父権制が同一性主義の根拠と考えられるのである。ここで、原差異共鳴性が否定されて、同一性主義という二項対立が発生するのである。
 これが本件の答えである。一つの観念にとりつかれるというのは、父権主義の為せる業である。宗教で言えば、一神教である。とりわけ、ユダヤ・キリスト教である。

P.S. 同一性主義の根拠として、+1、すなわち、同一性を提示したが、少しあいまいである。なぜなら、同一性+1とは、同一性主義ではなく、差異共鳴性の帰結であるからである。つまり、+1は、差異共鳴性に包摂されているのである。
 それは、同一性自己であり、差異共鳴「自己」に包摂されているということになろう。
 では、同一性自己が同一性主義自己(自我主義)になるのは、何が根拠かである。それは、これまで指摘したように、差異共鳴性において発生した苦・悲が原因である。それを否定するようにして、同一性主義自己が形成されると考えられるのである。
 だから、同一性主義の根拠は、+1ではなくて、ネガティブとなった差異共鳴性である。反動である。差異の反動が同一性主義の根拠である。
 とまれ、後で整理したい。


A one-track mind(偏狭な心):一つの観念にとりつかれた心
one-track mindという句があったので、辞書を調べたら、one-trackで、「一つの観念にとりつかれた」という語義があった。この「一つの観念にとりつかれた」というのは、正に、私がこれまで批判してきた同一性主義にまさにあてはまる。
 では、この「一つの観念にとりつかれた」という事象を、PS理論的に解明したと思う。意外にあっさりと説明がつくのではないかと思う。
 今は簡単に考えたい。同一性主義とは、自己内差異(他者)を否定し、自己同一性(自我)を志向するあり方である。この自己同一性(自我)志向が、思うに、ただ一つの観念をもたらす思われる。
 問題は、このただ一つの観念の正当性である。同一性主義は、このただ一つの観念を正当化する根拠をそれなりにもっているはずであるが、それは何か。
 それは、端的に、+1だと思う。これが同一性である。そして、ここから、-1の同一性主義へと転換するのである。
 +1、即ち、A=Aである。ナスはナスであるという、「自同律」である。これは、交換価値になるのである。すなわち、ナスは一袋158円であるということである。ナスが、交換価値となったのである。
 本来ならば、差異があるのであるが、同一性価値が主導化すると、差異が排除されて、同一性主義となる。
 結局、同一性主義(ただ一つの観念の正当化)とは、端的に、同一性傾斜に拠ると考えられる。父権制である。
 この父権制が同一性主義の根拠と考えられるのである。ここで、原差異共鳴性が否定されて、同一性主義という二項対立が発生するのである。
 これが本件の答えである。一つの観念にとりつかれるというのは、父権主義の為せる業である。宗教で言えば、一神教である。とりわけ、ユダヤ・キリスト教である。


2008年08月28日(Thu)▲ページの先頭へ
五感感性言語的同一性主義と超五感感性的差異:脱同一性主義/脱カント哲学としてのトランス・モダン
感性という言葉はあいまいである。五感の意味の感性、すなわち、感覚の意味があるし、精神的感情や美感等も意味する。問題は、感性において、近代化によって、外界認識が重要になり、視聴覚が強調されてきたこである。
 結局、近代化によって、それ以前の時代がもっていた内界性が軽視、無視、看過されるようになったことに注意しないといけない。だからと言って、内界=心が大事であるというのは、少し短絡的である。
 問題はトランス・モダン(近代を高次元的に包摂して、乗り越えること)である。
 PS理論が明らかにしたMedia Pointは、内界と外界との即非様態であり、この点にトランス・モダンは懸かっていると言っても言い過ぎではない。だから、単純に、内界=心の時代というのは短絡的なのである。
 さて、結局、近代化によって、主観性が外界中心化されて、内界面が看過されたため、感性が分裂したと言えよう(カント哲学に理論化されている)。問題は、正確に言うと、同一性主義化である。外界が同一性主義化され、内界も同一性主義化されたのである。近代合理主義と経験主義との結合によって同一性主義化がもたらされたと言えよう。
 同一性主義主観性において、「感性」は五感となったのである。それは、感覚である。それに対して、差異的主観性が看過されて、その公的な場がいわば喪失されたと考えられる。この差異的主観性を、今日では、感性と呼んでいると考えられる。同一性主義的五感感性から外れる差異的感性である。
 私は以前、心感性や魂感性というような語を造語したが、それは、何か不十分なので、使用を止めた。つまり、心感性と言うと、内界性に限定される傾向があるからである。内界と外界との接点が重要なのである。
 ということで、トランス・モダンへ転換するには、五感感性主義を乗り越えて、差異感性(差感性)へと発展する必要がある。正確に言えば、差異共鳴感性であるが。
 このためには、省察・内省・瞑想が必要である。個として思考することが必要である。脱同一性主義である。


資本主義の自己矛盾:差異共鳴価値創造と同一性価値主義の相克性
以下のように森永卓郎氏は書いているが、「人の付加価値」とは、差異共鳴価値であり、「従来の金融業とは質の違う金融業が登場した。お金を右から左に動かすことによって、人の付加価値を奪い去り(M&Aがその典型)、巨万の富を生み出す」とは同一性価値主義と考えられる。
 これまで既述したが、結局、資本主義の同一性価値主義を批判・脱構築して、差異共鳴価値創造を中心化すべきである。即ち、トランス・モダン・キャピタリズムへの転換が要請されていると考えられる。
 同一性主義的な自由主義は乗り越えられるべきであり、差異共鳴的な自由主義へと転換すべきなのである。差異共鳴価値創造によって産出された同一性価値(交換価値、資本、貨幣等)は、基本的には、新たな差異共鳴価値のための媒介となるべきである。
 差異共鳴価値とは、当然、イノヴェーション等を含むが、それだけではなく、民主主義的人権価値をも含む。一言で言えば、総合的なトランス・モダン的差異共鳴価値である。
 今日の権力のもつ二項対立性を克服すべく、Media Point的な差異共鳴価値を中心化すべきなのである。そう、差異共鳴政治経済が志向されなくてはならない。
 

「ここ30年ほどの変化を長い目で見てみよう。事の起こりは、1970年代末、英国にサッチャー政権が成立して、金融ビッグバンが行われたことだった。それによって、従来の金融業とは質の違う金融業が登場した。お金を右から左に動かすことによって、人の付加価値を奪い去り(M&Aがその典型)、巨万の富を生み出すというビジネスモデルが生まれたのである。」
原油バブル崩壊で経済のパラダイムが変わる

経済アナリスト 森永 卓郎氏
2008年8月25日


http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/
column/o/147/index1.html

* 原油バブル崩壊で経済のパラダイムが変わる (2008/08/25)
* 原油バブルは近いうちに必ず崩壊する (2008/08/18)

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「複合不況」に突入した日本経済の危機
2008年08月28日10時00分 / 提供:ゲンダイネット
ゲンダイネット

 恐怖の「五輪後」がやってきた。国家の威信をかけた五輪に向けて膨張を続けてきた中国経済は、五輪期間中に上海株が15%も急落するなど変調の兆しが見える。国内に目を転じれば不動産倒産だけでなく、自動車、流通、証券市場などあらゆる分野で衰退が目立つ。この秋、日本経済は深刻な「複合不況」が進行する。

●不動産倒産は序章に過ぎない

http://news.livedoor.com/
article/detail/3796738/


今日の同一性主義狂気について:同一性言語知性と差異感性身体との極性: ver 2
これは、先の試論の続きのようなものであるが、端的に、同一性主義において、非合理性=狂気がどう発生するのか、その力学を明確にしたい。もっとも、この問題はこれまで、それなりに考察はされてきたが、まだ、あいまいな点があるのでここで検討する次第である。
 思うに、図式化するとわかりやすいが、ここでは的確な図式化が難しいのでおおまかにかいてみる。


      +i 同一性言語知性(近代合理主義)
            ↓  
            ↓
           抑 圧
            ↓
      境界____↓_____境界
            ↓
            ↓
            ↓
      -i  差異・感性・身心性


↓は否定・抑圧・排除・隠蔽を表す。そして、実線の横線は、知性と感性の境界である。近代合理主義は境界の下部を抑圧して、排除するのである。つまり、近代合理主義による近代的自我とは、境界上部の世界が中心となっていて、下部世界は無意識となっているのである。言い換えると、上部界が光で、下部界が闇である。
 そして、近代主義が進展すると、下部界は意識にとって消えているのである。
 しかしながら、心の基盤・土台・根源は下部にあるのである。正しく言えば、さらに下部にあるMedia Pointであるが。今はわかりやすくするために、そのように考える。
 ということで、近代合理主義は同一性主義世界を形成するが、それは、同時にエネルギーや創造性の枯渇を意味する。当然ながら、下部から新しいエネルギーを取り入れなくてはならないのであるが、下部を抑圧しているので、取り入れることができないのである。
 そう、上部と下部の二元論・二項対立の世界がそこにはあるのである。喩えて言えば、身心の活断層である。
 さて、上部の抑圧があっても、下部は活動しているのであるから、上部へと、いわば、噴出するのである。衝き上げである。衝動である。つまり、↑の方向へと作用するのである。


    +i 同一性言語知性(近代合理主義)
            ↑ 
            ↑
           狂 気
            ↑
      境界____↑_____境界
            ↑
            ↑
            ↑
      -i  差異・感性・身心性

 
 しかしながら、同一性主義自我は、それをまったく感知できないのである。なぜなら、同一性主義知性は、いわば、自己完結ないしは自己閉塞しているので、他者である差異・感性・身心性の突き上げを認知できないからである。
 故に、下部の衝動が上部を、いわば、襲うのである。これが、非合理性=狂気なのである。近代的自我はこの下部の盲目の衝動に発作的に襲われるのである。それで、狂気的攻撃性を爆発させると考えられるのである。
 より精緻に言えば、下部の世界は他者の世界であるから、ここでの内的他者の否定は外的他者の否定となるのであり、ここで、同一性主義自我は暴力的言動を発すると考えられるのである。
 この近代主義的狂気であるが、これが西洋近代主義の帰結であると考えられる。もっとも、西洋近代に台頭した差異であるが、それは、ポスト・モダンへと発展したが、既述したように、袋小路に突き当たったと考えられるのである。
 この西洋近代の行き止まりを乗り越える哲学がプラトニック・シナジー理論であると考えられる。トランス・モダン哲学である。
 差異を不連続化して、同一性と差異とを共鳴化する理論である。知性と感性を共鳴化する理論である。
 とまれ、差異を掬い上げるには、端的には、東洋的身心論が必要である。新東洋的身心論が必要なのである。

P.S. 以下の記事にある「自己愛性人格障害」であるが、そこには、「誇大性、称賛されたいという欲求、共感の欠如」、あるいは、「おれは神」という「症状」があるということだが、これは、以上の試論から説明できよう。非合理主義=狂気の衝動であるが、それは、感性・差異・身心のエネルギー、言い換えると、「宗教」的エネルギーをもっていると考えられるので、そのようになると推察できる。言い換えると、パラノイアに近いと思う。
 そう、「宗教」的エネルギーと言ったが、神懸かり的と言ってもいい。それは、Media Pointにおける宇宙エネルギーでもある。ただし、それが、同一性主義によって歪曲された形になっているのである。
 この様態を精緻にはどのように見るべきだろうか。+iと-iの分裂様態とは言えよう。そして、直接的に、-iが+iへと侵入・没入すると言えようか。おそらく、抑圧の壁を破って、侵入するということではないのか。これは、連続化である。ショート(短絡)である。-iが+iと一致するということではないのか。知性が感性となり、感性が知性となる同一性化の極致ではないのか。差異共鳴ならば、知性と感性が共鳴するのであり、一致はありえないのである。
 しかし、知性が感性となり、感性が知性となるというどういうことなのか。端的には、非合理主義化である。知性が情動化することであり、情動が知性化することである。そう、これは、知性が自我絶対化することであろう。知性が知性ではなくなり、非合理化するのである。同一性と差異との相互否定の一致のような様態、これは何だろうか。
 二つの否定がショートする様態、これは何なのか。これは、(+i)^2と(-i)^2とのショートとである。つまり、-1のショートと考えられる。
 近代合理主義と神秘主義とがショートしているようなものである。端的に言えば、狂気である。


参考:
土浦8人殺傷 精神鑑定は「自己愛性人格障害」

8月27日15時1分配信 毎日新聞

土浦8人殺傷 精神鑑定は「自己愛性人格障害」

拡大写真

金川真大容疑者=茨城県土浦市で2008年3月25日、平田明浩撮影
 茨城県土浦市のJR荒川沖駅周辺で8人が殺傷された事件で、殺人容疑などで逮捕された同市中村東3、無職、金川真大(まさひろ)容疑者(24)の精神鑑定結果の概要が27日分かった。金川容疑者を極度に自分が重要と思い込む性格の「自己愛性人格障害」と診断しており、妄想や幻覚はなく、完全責任能力を認める内容になっている。地検は鑑定結果などを総合的に判断し、来月1日までに殺人と殺人未遂の罪で起訴するとみられる。

【写真特集】茨城男性刺殺事件 だれでもいい…

 金川容疑者は「人を殺したかった。誰でもよかった」などと供述し、地検は動機の解明や、責任能力の有無を慎重に調べるため4カ月間の鑑定留置を行った。専門医が金川容疑者の事件当時の精神状態などを調べていた。

 これまでの調べで、金川容疑者は事件の数日前に「おれは神」という内容のメールを自分の携帯電話から自宅に残した別の携帯電話に送っていることが分かっている。アメリカ精神医学会の診断基準「DSM−4」によると、自己愛性人格障害は「自分が重要で素晴らしい」という大げさな感覚を持つことがあるという。鑑定は、金川容疑者が自らを世間にアピールするために事件を起こしたとして、動機は理解可能であり、完全責任能力を認めたとみられる。

 事件は3月23日午前11時ごろ発生。金川容疑者は荒川沖駅周辺にいた8人に包丁やサバイバルナイフで切り付け、同県阿見町の会社員、山上高広さん(27)を失血死させ、警察官ら7人に重軽傷を負わせた疑い。金川容疑者は同19日、自宅近くの無職、三浦芳一さん(72)を殺害した疑いで指名手配中だった。

 ◇ことば 自己愛性人格障害

 性格が偏った状態を示す精神医学の分類「人格障害」の一つで、「誇大性、称賛されたいという欲求、共感の欠如」を示す。統合失調症などの幻覚・妄想が生じることがある狭義の精神障害とは異なり、刑法上の責任能力に問題があるとはされない。人格障害には他に妄想性、反社会性、回避性などがある。大阪教育大付属池田小事件の宅間守元死刑囚は2回の鑑定とも人格障害とされた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080827-00000
010-maip-soci


2008年08月27日(Wed)▲ページの先頭へ
今日の同一性主義狂気について:同一性言語知性と差異感性身体との極性
これは、先の試論の続きのようなものであるが、端的に、同一性主義において、非合理性=狂気がどう発生するのか、その力学を明確にしたい。もっとも、この問題はこれまで、それなりに考察はされてきたが、まだ、あいまいな点があるのでここで検討する次第である。
 思うに、図式化するとわかりやすいが、ここでは的確な図式化が難しいのでおおまかにかいてみる。


      +i 同一性言語知性(近代合理主義)
            ↓  
            ↓
           抑 圧
            ↓
      境界____↓_____境界
            ↓
            ↓
            ↓
      -i  差異・感性・身心性


↓は否定・抑圧・排除・隠蔽を表す。そして、実線の横線は、知性と感性の境界である。近代合理主義は境界の下部を抑圧して、排除するのである。つまり、近代合理主義による近代的自我とは、境界上部の世界が中心となっていて、下部世界は無意識となっているのである。言い換えると、上部界が光で、下部界が闇である。
 そして、近代主義が進展すると、下部界は意識にとって消えているのである。
 しかしながら、心の基盤・土台・根源は下部にあるのである。正しく言えば、さらに下部にあるMedia Pointであるが。今はわかりやすくするために、そのように考える。
 ということで、近代合理主義は同一性主義世界を形成するが、それは、同時にエネルギーや創造性の枯渇を意味する。当然ながら、下部から新しいエネルギーを取り入れなくてはならないのであるが、下部を抑圧しているので、取り入れることができないのである。
 そう、上部と下部の二元論・二項対立の世界がそこにはあるのである。喩えて言えば、身心の活断層である。
 さて、上部の抑圧があっても、下部は活動しているのであるから、上部へと、いわば、噴出するのである。衝き上げである。衝動である。つまり、↑の方向へと作用するのである。


    +i 同一性言語知性(近代合理主義)
            ↑ 
            ↑
           狂 気
            ↑
      境界____↑_____境界
            ↑
            ↑
            ↑
      -i  差異・感性・身心性

 
 しかしながら、同一性主義自我は、それをまったく感知できないのである。なぜなら、同一性主義知性は、いわば、自己完結ないしは自己閉塞しているので、他者である差異・感性・身心性の突き上げを認知できないからである。
 故に、下部の衝動が上部を、いわば、襲うのである。これが、非合理性=狂気なのである。近代的自我はこの下部の盲目の衝動に発作的に襲われるのである。それで、狂気的攻撃性を爆発されると考えられるのである。
 より精緻に言えば、下部の世界は他者の世界であるから、ここでの内的他者の否定は外的他者の否定となるのであり、ここで、同一性主義自我は暴力的言動を発すると考えられるのである。
 この近代主義的狂気であるが、これが西洋近代主義の帰結であると考えられる。もっとも、西洋近代に台頭した差異であるが、それは、ポスト・モダンへと発展したが、既述したように、袋小路に突き当たったと考えられるのである。
 この西洋近代の行き止まりを乗り越える哲学がプラトニック・シナジー理論であると考えられる。トランス・モダン哲学である。
 差異を不連続化して、同一性と差異とを共鳴化する理論である。知性と感性を共鳴化する理論である。
 とまれ、差異を掬い上げるには、端的には、東洋的身心論が必要である。新東洋的身心論が必要なのである。

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精神の高次元化の必要に迫られているのではないか:同一性知性と差異感性:東洋的心身性とPS理論
私は近代合理主義/近代的自我そして唯物論は狂気であると言ってきたが、それは、言い換えれば、同一性主義狂気ということである。
 この狂気を乗り越えるには、高次元差異を認める必要があると思う。これは、PS理論では、Media Pointという基点の確認である。
 思うに、今日の世俗主義社会において、高次元を確認することは難しい。高次元は感性を介しているのであり、感性が近代合理主義によって、抑圧・排除されている。
 そう、言葉の問題がある。言葉は知性をもたらすものであるが、それは、同一性知性である。言葉から差異や感性を認識する方法はあるだろうか。端的に言って、差異や感性は言葉から逃れるものと考えられる。
 しかし、微妙な問題である。簡単に言えば、例えば、空という言葉の場合、概念・観念とは別に、感性を喚起し、想像的である。これは、特に、詩の場合であるが、詩ではなくても、空という言葉に、感性的内包性を強く与えることはできる。
 この感性的内包性であるが、ここにエネルギーがあると言えよう。しかし、近代合理主義はこのエネルギーを否定するという内的暴力をもち、このために、「他者」を排除することになっている。
 そう、近代合理主義という同一性主義は内的暴力であり、同時に、外的暴力である。精神的暴力であり、帰結的に、物理的暴力となる。
 とまれ、この「空」の場合を整理すると、「空」という言葉の感性的内包性=エネルギー=差異を否定するのは、同一性主義である。それは、同一性自己主義=自我主義であるし、物質主義である。
 同一性知性とは+iの志向であり、それが他者=差異-iを否定し、-1となる事態である。即ち、(+i)・[-(-i)]=-1である。そして、-(- i)という他者(差異)の否定が、暴力、内的暴力、精神的暴力である。これが、例えば、イジメや差別等を生むと考えられる。
 だから、近代主義は自己矛盾しているのである。同一性知性を目指すが、同時にそれが、他者否定である精神的暴力なのである。結局、この問題については、ポスト・モダンが鋭く異議を唱え、差異の視点を打ち出したわけである。しかしながら、これまで指摘してきた理由(ドゥルーズの場合は絶対的差異の否定、デリダの場合は超越性の否定)からポスト・モダン哲学には、重大な欠陥が生じて、差異を十分に進展できずに、停滞したと考えられるのである。(そう、資本主義の根本的欠陥もここにある。同一性主義であり、内在する差異性を否定してしまうのである。)
 この暴力、内在的暴力をもった近代主義が乗り越えることが、今日の喫緊の課題、最大の課題と言ってもいいだろうが、どうやって、感性・差異的エネルギーを解放するのかということになるのである。
 同一性主義知性には、感性は把握できないのである。その理由は端的に、感性は身体に存するからである。それも、精神的身体、内的身体にである。
 この内的身体を取り戻す必要があるのである。伝統的には、禅仏教や東洋的身体論は、この内的身体を陶冶する身体理論である。これが、今日、「知」の世界において、喪失しているのである。
 日本のアカデミズムの世界は、同一性主義文明である西洋文明崇拝によって、東洋的な内的身体論が喪失しているのである。そう、管見では、メルロ=ポンティの身体論は、東洋的身体論に接近したが、やはり、同一性知性の範囲に留まっている面があると思う。
 その点から見ると、過小評価されている故湯浅泰雄氏のパイオニア的研究をほとんど最高度に評価すべきではないか。

湯浅泰雄全集
http://nenji.smbs.gr.jp/No_12
/hakuabooks.html
身体論―東洋的心身論と現代 (講談社学術文庫) (-) 湯浅 泰雄 (著)

 氏は、東洋的心身論と言っているが、それは的確な命名である。この東洋的心身性にこそ、Media Pointが内在していると考えられるのである。
 そう、今日、現代こそ、東洋的心身論に回帰すべきである。もっとも、これは、トランス・モダン的回帰である。単に、先祖返りではない。つまり、近代主義=同一性主義を乗り越えるための、東洋的心身論であるからこそ、トランス・モダン論なのである。
 そして、そこにPS理論の視点を入れることで、再イデア論化が可能になるのである。つまり、東洋的心身性とはMedia Pointの様相であり、その心身性をイデア化することで、再イデア論が可能になり、東洋的心身性のインテリジェンス化が可能になるのである。
 ということで、近代主義=同一性主義の乗り越えは、先ず、東洋的心身性の形成し、さらには、その再イデア論化が必要であるということになる。この点から言うと、PS理論は東洋的イデア論である。
 最後に付け加えると、西洋人の作品ではあるが、東洋的心身論、あるいは宇宙的心身論をD. H. ロレンスの『無意識の幻想曲』は説いているのである。ロマン主義的性向を批判的に見さえすれば、この著は、驚くべき開眼をもたらすだろう。
 そう、身体的感性叡知の復権が求められているのである。


2008年08月26日(Tue)▲ページの先頭へ
ES細胞とMedia Pointのゼロ度
ES細胞とは何か。直感では、Media Pointのゼロ度である。
 思うに、それは、イデア情報を内包しているが、いわば。デュナミス的にではないだろうか。エネルゲイアがまだ活動していない様態なのである。おそらく、ゼロ度のMedia Pointが同一性化するときが個別の組織化が起るということにではないのか。
 しかし、同一性化は、差異共鳴様相における同一性化であり、まだ、同一性主義化ではない。ここは実に興味深いポイントである。
 今は直感で言うだけであるが、例えば、神経細胞とは、Meidia Pointの同一性化による個別化ではないだろうか。そう、同一性主義化ではない。同一性主義化とは単に物質化である。しかし、神経細胞は、差異共鳴様相(「気」?)に包摂された同一性=個別化であると思われる。
 ここで、敷延すると、身体とは、Media Point=差異共鳴様相からの同一性化=個別化=有機体化のように思える。これは、精神と融合した身体である。だから、人間の身体、例えば、肝臓や胃や肺や心臓等々は、精神が浸透した身体であると考えられる。心身体である。
 当然、宇宙(コスモス)と共振しているのである。今はここで留めたい。

****************

ヒトES細胞:遺伝子組み込み、新技術開発 成功率50倍に−−京大・埼玉医大チーム

 ヒトの胚(はい)性幹細胞(ES細胞)を効率よく遺伝子操作する技術を、三谷幸之介・埼玉医大教授(遺伝子治療学)と中辻憲夫・京都大教授(発生生物学)らが開発した。人工多能性幹細胞(iPS細胞)にも応用でき、幹細胞をさまざまな組織に成長させたり、特定の病気を持ったES細胞を作る作業の効率が上がるという。26日、米国科学アカデミー紀要(電子版)で発表した。

 マウスのES細胞では、特定の遺伝子を入れて狙い通りの組織に成長させたり、逆に無意味なDNAを組み込んで、特定の遺伝子の機能を失わせる「ノックアウト」などが行われている。しかし、ヒトES細胞は壊れやすいため、成功率は極めて低い。

 新技術は、三谷教授が開発した、安全性の高い改良型アデノウイルスベクター(ベクターは「運び屋」)を使って遺伝子を狙った場所に運ぶ。遺伝子を入れる場合、従来のベクターでは1割程度しか狙った機能が現れなかったが、改良型では、ほぼ100%その機能を発揮した。遺伝子を組み込む場合も、一般的だった電気を使う方法に比べて成功率が約50倍になった。

 三谷教授は「ヒトES細胞から心筋や神経細胞を作り出したり、特定の病気の遺伝子を持った細胞を作って薬になる物質を探す研究などが、ずっと効率よくできる」と話している。【奥野敦史】

http://mainichi.jp/select/science
/news/20080826dde007
040029000c.html

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「ヒトES細胞を自由に遺伝子操作する技術の開発」
NEDO技術開発機構(村田成二理事長)、埼玉医科大学(山内俊雄学長)及び京都大学(尾池和夫総長)は、ヒトES細胞を自由に遺伝子操作する技術を開発しました。

本研究成果のポイント
○ ヒトES細胞への遺伝子導入に改良型アデノウイルスベクターを使用
○ ほぼ100%のヒトES細胞での遺伝子発現を実現
○ ヒトES細胞染色体上の特定の遺伝子配列を自由に改変する技術を高効率で実現
○ ヒトES細胞及びヒトiPS細胞を利用した創薬研究や再生医療に大きな一歩
http://www.nedo.go.jp/informations
/press/200826_2/200826_2.html

平成20年8月26日
独立行政法人
新エネルギー・産業技術総合開発機構
理事長 村田 成二

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ES細胞の遺伝子操作改良 iPS細胞への応用も
2008.8.26 19:42

 あらゆる細胞に分化するヒト胚(はい)性幹細胞(ES細胞)の遺伝子操作を大幅に効率化できる技術を埼玉医科大と京都大、新エネルギー・産業技術総合開発機構が開発した。特定の細胞への分化誘導や、遺伝子の改変が自在にでき、京都大の山中伸弥教授らが開発した人工多能性幹細胞(iPS細胞)への応用も見込まれる。再生医療の実現や創薬研究に役立つ成果で、米科学アカデミー紀要に9月9日付で論文が発表される。

 ES細胞やiPS細胞を再生医療や臨床研究に応用するには、特定の遺伝子を高い効率で組み込む技術が必要とされる。研究グループは、感染力が強く毒性の低い「アデノウイルス」を遺伝子の運び屋とする従来の技術を改良。ウイルスから遺伝子部分を除去した“抜け殻”を作り、代わりに分化誘導や研究に必要な改変遺伝子を組み込んだ。

 この運び屋によって導入された遺伝子は、ES細胞でもiPS細胞でもほぼ100%の確率で正常に働くことが確認された。従来法よりもウイルスによる毒性は低く、神経や肝細胞など治療や研究に必要な細胞への分化誘導が可能になるという。また、ES細胞の遺伝子の一部を組み替える遺伝子改変の成功率は、従来方法の1%から45%へと大幅に向上した。

 マウスES細胞では、遺伝子改変技術を応用した「ノックアウトマウス」がさまざまな疾患研究に貢献しているが、ヒトES細胞での遺伝子改変は困難とされていた。開発された遺伝子操作技術はノックアウトマウスを作るより確実で、埼玉医科大の三谷幸之介教授は「研究の促進に結びつく」と話している。

http://sankei.jp.msn.com/culture/
academic/080826/acd08082
61940007-n1.htm


2008年08月24日(Sun)▲ページの先頭へ
日本における父権文化の形成について:二つの「天」の差異:母権統制的父権制と不連続化による新母権化:VER2(本文のみ)
思うに、シャーマニズムと儒教の関係が、東アジアにおける精神経済=精神文化(この場合は精神政治という方がより適切であるが)における、キーポイントになる。【p.s. この考えは以下の考察において、破棄された。】
 
「儒教前史

儒(じゅ)の起源については胡適 が論文「説儒」(1924年 )で「殷 の遺民で礼 を教える士 」として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭 、特に葬送儀礼 を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。そこには死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン )が関係してくる。そこで、東洋学者の白川静 は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズム を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子であると主張している。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E5%84%92%E6%95%99

やはり、直感では、古代ギリシア文化の動きと類似したものを感じる。ニーチェの視点で言えば、アポロとディオニュソスである。

 仮説として、アポロとディオニュソスは、Media Pointの極性とする。アポロは同一性面であり、ディオニュソスは差異面である。両者一体である。そして、同一性面が中心化すると、父権制が現われるだろう。同一性固定化である。この中心がゼウスと考えられる。

 だから、Media Pointの同一性極の帰結としての父権主義が考えられる。

 問題は、この父権化が、母権制の一環なのか、否かである。これは、言い換えれば、多神教と一神教の関係の問題である。この問題は既述済みである。両者は不連続である。母権制と父権制は不連続である。一神教/父権制の場合、同一性への傾斜があり、それが、同一性固定化=同一性主義を生んだということになる。

 先に述べたように、母権制と父権制が、連続的に重なる事態が文化史=精神政経的に生起したと考えられる。これは、混淆であり、錯綜である。

 だから、古代ギリシアにおいても、同様のことが起ったと考えられる。アポロとディオニュソスは、本来、Media Pointの極性であるが、それが、父権制によって、同一性へと傾斜していると考えられる。だから、アポロとアポロ主義(古典主義)は異質なものである。つまり、同一性と同一性主義はまったく異なるということである。

 この事態を明確に命名する必要がある。これまでは、母権統合型父権制と呼んできた。そう、母権統制的父権制と言う方が、的確である。これを使用する。

 しかし、問題は、母権統制的父権制において、本来の母権制と父権制とは異質であり続けるということである。母権制は父権制にとり、他者・差異なのである。これを押さえておく必要がある。

 とまれ、以上から、本件のシャーマニズムと儒教との関係は、母権統制的父権制にあると言えよう。

 では、問題は、さらに進んで、父権制とは何かということになる。西洋では、アーリア民族やセム民族がもっていた精神政治文化である。遊牧民族が中心と言えよう。しかし、神話学的には、バビロニア神話に見られるような父権神話が基盤である。

 これは、男性のもつ同一性傾斜に基づく神話であると考えられる。母権神話の太母を英雄が殺害して、天地創造を行うパターンである。一言で言えば、英雄神話である。そして、この帰結がヤハウェであると考えられる。

 この父権神話において、形而上学的に、権威の中心になったのが、「天」である。「天にまします我らが父よ」である。問題は父権神話の「天」とシャーマニズムの「天」は異質なものであることである。しかし、ここで、混淆・連続化が生まれたと考えられるのであり、「天皇制」の問題の根因もここにあると考えられる。【また、これは、イデア論とも関係している。通俗的なイデア論の理解は、父権的な「天」の発想である。それに対して、プラトニック・シナジー理論のイデア論は、母権制の「天」の発想である。】

 端的に、父権神話の「天」とは何なのか。哲学的には、同一性主義(ロゴス中心主義)だと考えられる。父権制とは同一性傾斜を根源にもつのであるから、父権神話の「天」はそうなると考えられる。

 それに対して、シャーマニズムないしは母権制の「天」は差異共鳴性であると考えられる。だから、二つの「天」はまったく異質なのである。このことはいくら強調しても強調し過ぎることはない。【英語で言えば、universeないしはspaceとcosmosの違いになるのではないだろうか。】

 因みに、ここで、ポスト・モダン哲学について言うと、その同一性主義批判は、確かに、父権的「天」の同一性主義を批判、解体したが、同時に、母権的「天」の可能性を排除してしまったと考えられる。とりわけ、デリダ哲学においてはそうである。ドゥルーズ&ガタリ哲学においては、『哲学とは何か』において、コスモスが頻出するが、それは、母権的「天」を指していると考えられる。【ドゥルーズ&ガタリの場合、差異と同一性を連続化させていて、差異のもつ超越性が、コスモスという形で、紛れ込んでいると言えよう。】

 では、本件にもどって考えると、日本における父権文化の形成とは、やはり、大陸から父権文化が侵入して形成されたと考えるのが妥当であろう。しかし、韓国・朝鮮文化は、父権文化ではない。

 直感では、やはり、中国の国家主義が根因である。そう、儒教というよりは、国家体制ではないのか。端的には、律令制である。これが、日本における父権文化の基盤ではないのか。

 儒教は後付け的な原因に過ぎないと思う。根底に、中国国家主義の律令制があると思う。

 では、律令制とは何なのか。


「律令制の起源は中国にあり、土着してその地を支配する貴族・豪族に対し、皇帝がその上にたつ強力な支配権力を確立するために生まれた。北魏や唐を例にとれば、令(れい)にある均田法 では土地の公有化をはかり、国家によってそれを配分することを規定し、貴族・豪族たちの土地所有を制限したり、禁じている。また法による国家統治をおこなうため、皇帝に奉仕する官僚集団をつくりあげた。こうした律令の法体系を基礎に国家の諸制度があり、それを実行する政治組織が皇帝を頂点とする中央集権的な国家体制である。」

http://jp.encarta.msn.com/
encyclopedia_1161533842/content.html

エンカルタ百科事典ダイジェスト

端的に、皇帝・中央集権的国家主義が母体にある。【これが、東アジアの、ないしは、アジアの母体にあるだろう。しかし、それより根源には、母権制があると考える。】
 皇帝中心の中央集権国家体制とは、やはり、精神政治文化的には、当然、父権神話がある。つまり、中国における父権民族の侵入が考えられるように思うのである。今はそう作業仮説する。結局、東アジアに侵入した父権民族(おそらく、父権的遊牧民族)が、律令制の遠因である。
 父権民族は、同一性主義であり、これが律令制の基盤だと考えられる。そして、父権民族であるが、これが、日本にも侵入したと考えられる。この父権民族が、「天」の思想を利用して、天皇制を形成した考えられる。
 では、日本に侵入した父権民族とは何か。すぐ思いつくのは、騎馬民族説である。これを一応評価して考えれると、父権的騎馬民族が、シャーマニズム/アニミズム(古神道)、道教、儒教、仏教等々を利用して、天皇制を形成したと思われる。直感では、古墳時代が怪しい。
 とまれ、今の段階では、想像をたくましくして、考えると、日本に侵入したのは、失われたユダヤ民族かもしれない。ユダヤ教が侵入した可能性があることになる。

【参考:イスラエルの失われた10支族出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イスラエルの失われた10支族(イスラエルのうしなわれたじゅうしぞく)とは、イスラエルの12部族のうちの行方が知られていない10部族を指す。

http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%8
3%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E
3%81%AE%E5%A4%B1%E3%82
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 とまれ、なんらかの父権民族が日本に侵入して、中国の律令制を真似て、父権体制=(天皇制を利用した)中央集権体制を形成したと推察されるのである。(もっとも、もともとは、中国のような強固なものではなかったと考えられるが。)
 そして、かれらが、それ以降の日本の精神政治・経済の支配者となったり、支配者と関係したように思う。今日の官僚制の原因はそこにあると考えられる。内なる父権制である。
 最後にどうして、内なる父権制が今日でも強固であるのか、一言述べたい。
 それは、母権統制的父権制に存するのではないだろうか。これこそ、民衆支配の強力なシステムである。先に述べたように、母権制と父権制との連続化・混淆形態である。この連続性があるために、父権的支配、「貴族」=官僚の支配を断ち切れないと考えられるのである。
 この点から見ると、不連続的差異論は画期的である。両者の連続性を切断して、母権制と父権制を別々にしたのである。絶対的差異を取り戻したのである。
 《東アジアの目覚め》は、母権制と父権制の再不連続化にかかっていると言っていい過ぎではないだろう。これは、精神政治進化である。
 そして、プラトニック・シナジー理論は、新母権制に基づく、差異共鳴原理を説いているのであり、同一性主義資本主義から差異共鳴資本主義への変換原理を提示しているのである。

P.S. 結局、天皇制とは、母権統制的父権制の精神政治ということになるのではないだろうか。二つの「天」がそこで連続化されているのだ。だから、先に述べたように、トランス・モダン天皇制、即ち、新母権的天皇制へと変換されるべきである。


日本における父権文化の形成について:二つの「天」の差異:母権統制的父権制と不連続化による新母権化
思うに、シャーマニズムと儒教の関係が、東アジアにおける精神経済=精神文化(この場合は精神政治という方がより適切であるが)における、キーポイントになる。【p.s. この考えは以下の考察において、破棄された。】
 
「儒教前史

儒(じゅ)の起源については胡適 が論文「説儒」(1924年 )で「殷 の遺民で礼 を教える士 」として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭 、特に葬送儀礼 を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。そこには死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン )が関係してくる。そこで、東洋学者の白川静 は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズム を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子であると主張している。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E5%84%92%E6%95%99

やはり、直感では、古代ギリシア文化の動きと類似したものを感じる。ニーチェの視点で言えば、アポロとディオニュソスである。

 仮説として、アポロとディオニュソスは、Media Pointの極性とする。アポロは同一性面であり、ディオニュソスは差異面である。両者一体である。そして、同一性面が中心化すると、父権制が現われるだろう。同一性固定化である。この中心がゼウスと考えられる。

 だから、Media Pointの同一性極の帰結としての父権主義が考えられる。

 問題は、この父権化が、母権制の一環なのか、否かである。これは、言い換えれば、多神教と一神教の関係の問題である。この問題は既述済みである。両者は不連続である。母権制と父権制は不連続である。一神教/父権制の場合、同一性への傾斜があり、それが、同一性固定化=同一性主義を生んだということになる。

 先に述べたように、母権制と父権制が、連続的に重なる事態が文化史=精神政経的に生起したと考えられる。これは、混淆であり、錯綜である。

 だから、古代ギリシアにおいても、同様のことが起ったと考えられる。アポロとディオニュソスは、本来、Media Pointの極性であるが、それが、父権制によって、同一性へと傾斜していると考えられる。だから、アポロとアポロ主義(古典主義)は異質なものである。つまり、同一性と同一性主義はまったく異なるということである。

 この事態を明確に命名する必要がある。これまでは、母権統合型父権制と呼んできた。そう、母権統制的父権制と言う方が、的確である。これを使用する。

 しかし、問題は、母権統制的父権制において、本来の母権制と父権制とは異質であり続けるということである。母権制は父権制にとり、他者・差異なのである。これを押さえておく必要がある。

 とまれ、以上から、本件のシャーマニズムと儒教との関係は、母権統制的父権制にあると言えよう。

 では、問題は、さらに進んで、父権制とは何かということになる。西洋では、アーリア民族やセム民族がもっていた精神政治文化である。遊牧民族が中心と言えよう。しかし、神話学的には、バビロニア神話に見られるような父権神話が基盤である。

 これは、男性のもつ同一性傾斜に基づく神話であると考えられる。母権神話の太母を英雄が殺害して、天地創造を行うパターンである。一言で言えば、英雄神話である。そして、この帰結がヤハウェであると考えられる。

 この父権神話において、形而上学的に、権威の中心になったのが、「天」である。「天にまします我らが父よ」である。問題は父権神話の「天」とシャーマニズムの「天」は異質なものであることである。しかし、ここで、混淆・連続化が生まれたと考えられるのであり、「天皇制」の問題の根因もここにあると考えられる。【また、これは、イデア論とも関係している。通俗的なイデア論の理解は、父権的な「天」の発想である。それに対して、プラトニック・シナジー理論のイデア論は、母権制の「天」の発想である。】

 端的に、父権神話の「天」とは何なのか。哲学的には、同一性主義(ロゴス中心主義)だと考えられる。父権制とは同一性傾斜を根源にもつのであるから、父権神話の「天」はそうなると考えられる。

 それに対して、シャーマニズムないしは母権制の「天」は差異共鳴性であると考えられる。だから、二つの「天」はまったく異質なのである。このことはいくら強調しても強調し過ぎることはない。【英語で言えば、universeないしはspaceとcosmosの違いになるのではないだろうか。】

 因みに、ここで、ポスト・モダン哲学について言うと、その同一性主義批判は、確かに、父権的「天」の同一性主義を批判、解体したが、同時に、母権的「天」の可能性を排除してしまったと考えられる。とりわけ、デリダ哲学においてはそうである。ドゥルーズ&ガタリ哲学においては、『哲学とは何か』において、コスモスが頻出するが、それは、母権的「天」を指していると考えられる。【ドゥルーズ&ガタリの場合、差異と同一性を連続化させていて、差異のもつ超越性が、コスモスという形で、紛れ込んでいると言えよう。】

 では、本件にもどって考えると、日本における父権文化の形成とは、やはり、大陸から父権文化が侵入して形成されたと考えるのが妥当であろう。しかし、韓国・朝鮮文化は、父権文化ではない。

 直感では、やはり、中国の国家主義が根因である。そう、儒教というよりは、国家体制ではないのか。端的には、律令制である。これが、日本における父権文化の基盤ではないのか。

 儒教は後付け的な原因に過ぎないと思う。根底に、中国国家主義の律令制があると思う。

 では、律令制とは何なのか。


「律令制の起源は中国にあり、土着してその地を支配する貴族・豪族に対し、皇帝がその上にたつ強力な支配権力を確立するために生まれた。北魏や唐を例にとれば、令(れい)にある均田法 では土地の公有化をはかり、国家によってそれを配分することを規定し、貴族・豪族たちの土地所有を制限したり、禁じている。また法による国家統治をおこなうため、皇帝に奉仕する官僚集団をつくりあげた。こうした律令の法体系を基礎に国家の諸制度があり、それを実行する政治組織が皇帝を頂点とする中央集権的な国家体制である。」

http://jp.encarta.msn.com/encyc
lopedia_1161533842/content.html

エンカルタ百科事典ダイジェスト

端的に、皇帝・中央集権的国家主義が母体にある。【これが、東アジアの、ないしは、アジアの母体にあるだろう。しかし、それより根源には、母権制があると考える。】
 皇帝中心の中央集権国家体制とは、やはり、精神政治文化的には、当然、父権神話がある。つまり、中国における父権民族の侵入が考えられるように思うのである。今はそう作業仮説する。結局、東アジアに侵入した父権民族(おそらく、父権的遊牧民族)が、律令制の遠因である。
 父権民族は、同一性主義であり、これが律令制の基盤だと考えられる。そして、父権民族であるが、これが、日本にも侵入したと考えられる。この父権民族が、「天」の思想を利用して、天皇制を形成した考えられる。
 では、日本に侵入した父権民族とは何か。すぐ思いつくのは、騎馬民族説である。これを一応評価して考えれると、父権的騎馬民族が、シャーマニズム/アニミズム(古神道)、道教、儒教、仏教等々を利用して、天皇制を形成したと思われる。直感では、古墳時代が怪しい。
 とまれ、今の段階では、想像をたくましくして、考えると、日本に侵入したのは、失われたユダヤ民族かもしれない。ユダヤ教が侵入した可能性があることになる。
 とまれ、なんらかの父権民族が日本に侵入して、中国の律令制を真似て、父権体制=(天皇制を利用した)中央集権体制を形成したと推察されるのである。(もっとも、もともとは、中国のような強固なものではなかったと考えられるが。)
 そして、かれらが、それ以降の日本の精神政治・経済の支配者となったり、支配者と関係したように思う。今日の官僚制の原因はそこにあると考えられる。内なる父権制である。
 最後にどうして、内なる父権制が今日でも強固であるのか、一言述べたい。
 それは、母権統制的父権制に存するのではないだろうか。これこそ、民衆支配の強力なシステムである。先に述べたように、母権制と父権制との連続化・混淆形態である。この連続性があるために、父権的支配、「貴族」=官僚の支配を断ち切れないと考えられるのである。
 この点から見ると、不連続的差異論は画期的である。両者の連続性を切断して、母権制と父権制を別々にしたのである。絶対的差異を取り戻したのである。
 東アジアの目覚めは、母権制と父権制の再不連続化にかかっていると言っていい過ぎではないだろう。これは、精神政治進化である。
 そして、プラトニック・シナジー理論は、新母権制に基づく、差異共鳴原理を説いているのであり、同一性主義資本主義から差異共鳴資本主義への変換原理を提示しているのである。
 

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参考1:
律令制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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律令制(りつりょうせい)は、主に古代東アジア で見られた中央集権 的な統治制度である。律令体制や律令国家とも呼ばれることもある。

なお、律令制とは、律令に基づく制度を意味する用語であり、律令自体については律令 の項を、律令の持つ法典としての性質などについては律令法 の項を、それぞれ参照されたい。


基本理念

律令制とは、古代中国から理想とされてきた王土王民(王土王臣とも)、すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を具現化しようとする体制であった。また、王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」とする一君万民思想と表裏一体の関係をなしていた。

律令制では、王土王民および一君万民の理念のもと、人民(百姓 )に対し一律平等に耕作地を支給し、その代償として、租税 ・労役 ・兵役 が同じく一律平等に課せられていた。さらに、こうした統一的な支配を遺漏なく実施するために、高度に体系的な法令、すなわち律令 と格式 が編纂され、律令格式に基づいた非常に精緻な官僚 機構が構築されていた。この官僚機構は、王土王民理念による人民統治を実現するための必要な権力装置であった。

[編集 ] 基本制度

東アジアに特有の律令制は、各時代・各王朝ごとに異なる部分もあったが、王土王民と一君万民の理念を背景として、概して次の4つの制度が統治の根幹となっていた。

一律的に耕作地を班給する土地制度
中国では均田制 、日本では班田収授制 (班田制)として施行された。王土王民思想を最も反映していたのがこの土地制度である。王が自らの支配する土地を、自らが支配する人民(百姓 )へ直接(中間支配者である豪族 を介さずに)班給するというものであり、儒教的な理想を多分に含んでいた。中国では、土地の班給よりも租税の確保が重視されていたが、日本では土地の班給が重視されていた。
個人を課税対象とする体系的な租税制度
中国や日本では租庸調 制として施行された。人民は耕作地班給の代償として納税義務を負った。土地の班給が人民一人一人に対して行われたので、課税も個人に対してなされた。これは、律令国家による人民支配が非常に徹底していたことを物語っている。また、課税は恣意性の介入を排除して、誰に対しても同じように一律に行われた。
一律的に兵役が課せられる軍事制度
中国では府兵制 、日本では軍団制 として施行された。耕作地班給の代償として兵役 の義務を負ったのである。ただし、唐代の江南地方では兵役がほぼ免除されていたり、日本では東国(関東 )ばかりが防人 の兵役義務を負っていたなど、必ずしも一律的に兵役が課されていないという実態があった。
人民を把握するための地方行政制度
中国では郷里制 、日本では国 郡 里 制を採用した。支配を貫徹するために、末端の近くまで官僚が体系的に配置されていた。この制度の下で、班給・課税・徴兵の台帳となる戸籍 ・計帳 の作成が可能となった。逆に言えば、戸籍・計帳の作成によって、上記の三制度の実施が可能となったのである。

以上の4制度を漏れなく実施するために、律令国家は、非常に精緻な律令法典と、それに基づいた高度に体系化された官僚制を必要とした。

律令法典
社会規範を規定する刑法 的な律と社会制度を規定する行政法 的な令が中心的な位置を占め、律令の不足を補う改正法としての格および律令と格の施行細則としての性格を持つ式が一つの法体系、即ち律令法典を構成していた。律令法典は、法を統治の基礎に置く法家 の思想を背景としていた。
官僚制
天子の意思命令を確実に具現化するため、各官庁と官僚の責任と任務を明確に区分し、精密に規定された階級に従って、命令を実行に移していく官僚制が、高度な体系の下に構築された。各官庁内では、任務や責任の重さによって、官吏を四段階に区分することを原則としていた。これを四等官 制という。

この他、中央と地方の情報伝達を遅滞なく行うための交通制度(駅伝制 )なども、律令制を構成する制度として採用された。

上記のような国家体制を、総称して律令制という。中国史上では、隋 から唐 にかけての王朝で顕著であり、周辺の東アジア諸国では7世紀 後期〜9世紀 頃に、中国由来の制度として広く施行された。中国でも周辺の東アジア諸国でも、10世紀 以後、上記のような律令制は死滅もしくは形骸化したが、その後も法形態としての律令は、中国や日本やベトナムなどで存続し続けた。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%
E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6 


参考2:
■ 律令〔りつりょう〕官制の沿革

http://www.sol.dti.ne.jp/
~hiromi/kansei/e_enkaku.html


官制大観_logo 1K


参考3:


律令法 りつりょうほう

律令格式 (きやくしき) などの制定法および平安時代になって律令を基礎にして成立した各種の慣習法をふくめて,律令法という。大化改新以後の中央集権的国家の制定した公法を中心とする法体系である。

[律令法の階級性]

 律令法は,大化改新によって支配権をにぎった畿内および近国の貴族層が,従来のように地方族長を媒介として全国を支配するのではなく,官僚機構によって人民の末端にいたるまで統治するための法であった。したがって貴族制的な身分秩序を法によって確立することが律令法の骨格となっている。律令法の身分制度は人民を良・賤 (せん) に二大別することを特徴とし,両者の中間に大化前代の部民 の後身である品部 (しなべ),雑戸 (ざつこ) の身分がおかれた。 賤民 の身分は,陵戸,官戸,家人 (けにん),公奴婢 (ぬひ),私奴婢の 5 階層に区別され,各階層は同一身分内部で婚姻しなければならないという当色婚の制度によって隔離されていた。この複雑な賤民の等級は,唐令の賤民制度の継承であるが,それは中世武家法 における賤民制度とちがった律令法の特徴をなしている。良民は階級的には貴族と平民に二大別されているが,両者の区別は法的には明確ではなかった。ただ五位以上の位をもつものの経済的・政治的特権は法によって保証され,また有位者は一般に課役その他の義務を免除されていた点で,租,庸 (よう),調,雑徭 (ぞうよう) などの課税および兵役の義務を負っていた一般平民と区別されていた。律令法は貴族層が,その特権と支配を維持するための法であるから,賤民制度をふくめた全体の身分の体系は,法によって明確に規定しておく必要があった。

 律令法によって規定された身分秩序において,独特の地位を占めているのは,天皇 の地位である。律令においては,天皇の地位,権限その他については,なんらの規定がない。これは天皇が法を超越した存在と考えられていた結果であって,天皇の政治的重要性と矛盾するものではない。律令制には一種の罪刑法定主義の原則があって,裁判は成文の法規に準拠しなければならなかったが,天皇は法によって拘束されない存在であった。律令法において,天皇の地位,権能について規定がないのも,それが国家的祭祀の執行など大化前代以来の宗教的機能をもっていたことと,専制君主的性格をもったことの結果であって,法を超越した存在と考えられていたからである。

 天皇を除けば,すべての身分・階層が法のもとに拘束される原則が支配している点で,律令法は一種の法治主義の特色をもっているといえよう。しかしこの原則は律令法の階級性を否定するものでなく,たとえば現実の刑の適用にみられる貴族の特権的地位の保証は,律令法が貴族階級のための法であったことを示している。刑罰について特別の斟酌 (しんしやく) をうける六議 (ろくぎ) の制度のみならず,有位者がその位階に応じて罪の軽減をうけたり,また現実には,八虐 (はちぎやく)・殺人などの重罪を犯さないかぎり一般の刑罰をうけることがなかったことは,その一例である。

[国家機構と官制]

 かかる特権的な貴族層が,全国の人民を直接に支配するためには,中央から地方の末端にいたるまでの体系的な行政・司法の機構を必要とした。武家法と異なる律令法の特色の一つは,この体系的な国家機構および官僚制度の精密な規定にあった。それはいちじるしく形式主義的な官制となってあらわれている。中央政府は二官,八省,一台,五衛府で構成され (二官八省 ),各省は職,寮,司の名をもった若干の官庁をしたがえている。これらの官庁は原則として長官,次官,判官,主典の 4 等級の官吏で構成され,それぞれの権限も法によって規定されている。この精神は,地方政府組織の末端にいたるまで貫徹し,全体の官僚機構は,相互に秩序ある階層制によって連結された官庁から成っていた。その形式主義的な機構は,行政の慣行と経験に基づいて形づくられた武家法の官制といちじるしく相違しており,律令法の基本的特徴の一つをなしている。律令法では,行政官と司法官の区別はなかったから,以上の行政機構は,同時に司法の体系であるのを特色とした。下級の裁判所は,地方では郡司,京では諸司であり,その上に地方では国司,京では刑部省があり,最後に太政官と天皇があった。裁判所の管轄は刑の軽重によって区別され,郡司は笞 (ち) 罪のみを決し,在京諸司は笞罪,杖 (じよう) 罪を決し,国司は杖罪,徒 (ず) 罪,刑部省は徒罪,太政官は流罪,天皇は死罪を決するという規定であった。

[唐の律令の継受]

 以上のような律令法の特色は,大化改新後の公地公民制に基づく新しい国家組織そのものの必要から生まれたものであるが,同時に律令法が中国古代法典を母法として継承したことにも理由があった。律令法は形式,内容ともに主として唐の律令を模範とした法制であって,この時代の東洋で一種の世界法の役割を果たした唐の律令の日本における分枝とみるべきである。したがって継受法としての律令法と,大化前代の固有法との間には断絶があって,固有の慣習法を基礎として成立した武家法制とは性格を異にする点が多い。ただ唐の律令を継受するにさいして,日本独自の条件を考慮に入れて重要な修正を行っている事実も注意する必要がある。たとえば,唐の均田制を模範とした日本の班田制 は,刑法や官制などとちがって,従来の土地所有制度と調整しなければ実行しがたい制度であるが,日本の令では唐令を意識的に修正して実施した形跡がみえる。また大化前代の土地私有制の発展段階の相違が考慮されていることも明らかである。唐田令では,(1) 官人永業田および賜田は無制限に売買・貼 (ちよう) 賃 (質入れあるいは賃貸のこと) の自由を有し, (2) 庶人の永業田は特別の場合には売買を許され, (3) 口分田 (くぶんでん) は原則としては売買を禁じ,例外的にこれを許し,(4) 諸田地の貼賃なども,原則的に禁止されるにとどまったが,これに対して日本令では,すべての田地は絶対にその売買を禁止し,とくに 1 年間の賃租を許しているにすぎない。かかる相違は,国家権力の強さ,土地私有性および交換経済の発展の状態などの相違を反映させたものとみられる。田令ほど重要でない修正は令の各所にみられるが,それに対して律は唐律模倣の傾向が顕著であった。

 このように継受法としての律令法が 7 世紀以降長期にわたって強行されたことについては,国家権力の強大さ,人民一般の政治的無権利を第一にあげねばならぬ。それは律令法の行政組織の最末端にある郷里制 にもあらわれている。国・郡・里の里は,50 戸をもって構成されたが,この村落制度は画一的・行政的につくりあげられたもので,大化前代からの自然発生的な集落とはまったく関係のない組織であった。地方の国民生活のなかでは,〈村〉は基本的な共同体の単位であったが,それが,法的には全然認められていない事実のなかにも,律令法の特徴がみられる。したがって律令法のなかに,日本の古代社会の内部に行われていた法慣行を見いだすことは困難である。記紀,《隋書》倭国伝,祝詞 (のりと) などの資料によっても,大化前代の地方族長社会においては,神判制度や宗教からまだ完全には分離しない形での法が存在したはずであり,また邪馬台国 (やまたいこく) でも公的な秩序・権威の維持のための法が存在したとみられるから,大和国家の時代になれば,刑法を中心とした法が,中国古代法の影響をうけながら不文法の形で発展していたことが推測される。唐の律令の継受も,このような土台のうえに可能となったのであるが,秦・漢以来の歴代の専制主義的法制を集大成した唐の律令と大化前代の日本の法とでは,段階の差が,あまりにはげしかったので,律令法は継受法としての性格を強くもたざるをえなかったとみられる。

[儒教的性格]

 律令法の継受法としての性質を強調するあまり,それが日本の法制史上に果たした役割を過小に評価するのは,事実と合致しない。 《正倉院文書》その他の資料によると,律令法の公法的部分は,奈良時代においては,継受法とは考えられないほど実際に施行されていた。したがって,中世の武家法の基礎となった慣習法も,純粋な固有法ではなく,律令法を媒介として成長した固有法であった。また律令法は単に法としてばかりでなく,思想史的にも重要な意味をもった。律令法の基本思想は,母法と同じく,儒家と法家の思想であったが,ことに儒家の思想は,日本の律令法でも指導的な意義をもっていた。養老の名例律が,不孝を,不義などの罪とならべて,八虐の一つとし,祖父母・父母,夫の祖父母・父母をなぐり,また殺傷する罪を悪逆のなかにいれて,恩赦のさいにもこれをゆるさない規定を設けているのは,儒教の道徳を法制化したものにほかならない。大化前代からの家父長制家族の発達は,このような法を受用する基礎をつくったことは事実であるが,律令法は儒教の精神によって,親または家長の権力を強大にし,同時に女性の法的・社会的地位をいちじるしく低める作用をした。

[律令の改変]

 律令法は,奈良・平安両時代を通じて国家の基本法であることに変りはなかったが, 10 世紀の《延喜式 》の制定公布の時代前後を境として,重要な変化がみられた。摂関政治や院政などの新しい政治形態の出現,班田制の衰退と荘園制の発展,律令法的身分秩序の解体などにみられる各種の歴史上の変化によって,律令法に基づく新しい慣習法が律令法の各分野で形成されてきた結果である。これを公家法 の時代として区分することができる。たとえば,官職制度のなかにも各種の重要な変化がおこったが,そのなかで著名なものは蔵人 (くろうど) 所および検非違使 (けびいし) 庁の制度である。検非違使は,刑部省および太政官が司法上の機能を果たさなくなるにしたがって平安初期に設置されたもので,司法警察上の追捕 (ついぶ) のみならず,糾弾・断獄の諸権をももつにいたった。まもなく民事裁判に関与するようになり,追捕使とともに諸国にもおかれるようになると,農民からの年貢所当の徴収にまで参与するにいたった。律令制の最盛期とちがって,租税を強力なしには徴収できない階級関係の変化が,検非違使の機能の変化にも反映した。検非違使の庁例は,使庁の流例ともいわれ,律令の刑法とはちがった性質の慣習法として通用した。官庁内部の慣習法は例または行事という言葉で奈良時代からすでに法的に認められてはいたが,公家法の時代には,法のあらゆる分野で,慣習法の体系が重要な法的意義をもつようになった。荘園制を基礎にして発達した本所法 もその一つであるが,地方の行政組織の内部に発達してきた国衙 (こくが) 法 ともいうべき慣習法もその一例である。国司制度は,基本の形式は平安時代になっても律令法と変りはなかったが,国司の職が封禄と化し,任地におもむかない遥任の国司が増加するにつれて,諸国の行政は留守所あるいは在庁官人が行うようになった。そのさい,国衙領は,百姓名 (みよう) が奈良時代の戸に代わって基本単位となっていたので,租,庸,調,雑徭および各種の臨時の賦課も,それに対応した徴収方法を採用しなければならないことになり,ことに国衙領の内部に成立した荘園との関係を規制するためには,律令法にない新しい法をつくり出す必要があった。当時の文書において〈当国之例〉といわれるような慣習法は,このような必要に基づくものであって,それは本所法とならんで,中世の武家法の基盤の一つとなった。 ⇒古代法

石母田 正

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ネットで百科@Home

http://www.kn-concierge.
com/netencyhome/


参考4:
中国の歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%
E4%B8%AD%E5%9B%BD%E
3%81%AE%E6%AD%
B4%E5%8F%B2


2008年08月23日(Sat)▲ページの先頭へ
日本とは何か:韓国・朝鮮文化と南方文化:母権制と父権制の極性文化:南と北の両極性:第三文化
以下、「東海アマチュア無線・・・」氏の「独創」的な古代「日本史」であるが、「独断と偏見」の可能性に注意しつつ、考慮すべき問題点を提示しているのを評価すべきと思う。
 建設的にとれば、韓国・朝鮮文化と土着的な文化のミックスが日本文化ということになる。
 とまれ、きわめて興味深い日本文化問題を提示していると言えよう。私は、日本文化は、北方文化と南方文化の両極をもっていると考えている。その意味では、古代ギリシアに似ている。父権制と母権制の両極性である。
 「日本」に韓国朝鮮的なものが移入されなければ、日本文化はありえないだろう。いったい、韓国朝鮮的なものとはなんなのか。それは、私見では、垂直性だと思う。超越性である。
 これによって、「日本」文化・社会は活性化したと思う。それ以前の日本は、水平的であったと思う。「天皇制」も、正に、垂直性を意味しているのであり、超越性の意味している。
 ここでは、正に、私の直感で言うのであり、いわば、独断と偏見であるが、継続して述べよう。この問題は不連続的差異論の形成時に陳べたことがある。そこでは、母権制と父権制の不連続性があると指摘した。
 これは、今の視点から見ても正しいだろう。両者は不連続である。母権制は、正に、自己認識方程式であり、父権制は、-1である。
 しかしながら、両者が「結びついた」ことで、日本文化が創造されたと考えられる。すなわち、北方性は南方性を帯び、南方性は北方性を帯びたと考えれるのである。つまり、第三の文化が日本文化であるということになる。
 この時点で、日本から韓国・朝鮮文化を切り離すのは、不条理ということになる。北方的超越性は南方的内在性を帯び、後者は前者を帯びたのである。しかし、この「現象」・精神経済現象を、内在的超越性と呼ぶのは誤りである。なぜなら、両者には不連続性があるからである。だから、北方的超越性と南方的内在性との即非様態があるということになり、これこそ、真正日本精神経済文化である。
 今はここで留めたい。
 
***以下転載許可取得済み記事***

★ 2008年8月22日 金曜日 19時更新

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●余談 韓日もし戦わば

【野球日本代表「星野ジャパン」の準決勝戦は2−6で日本が敗れ、金メダルの夢はついえた。日本は2点を先攻したが、七回に同点に追いつかれると、続く八回に致命的な4点を奪われた。 九回表。6番中島はライトフライ。代打森野は空振り三振。代打阿部は、ライトフライに倒れて、スリーアウト。最終回に意地を見せられず、敗退が決まった。】

 韓日の野球における歴史・実力を見るならば、圧倒的に日本が優位にあったはずで、それでも大敗した本当の理由について、さまざまな議論がある。
 もちろん、フィギアのように奇っ怪な負けパターンがあるわけでなく、正々堂々、実力で勝負した結果と筆者は見ていて、結局のところ、勝利への執念、モチベーションの差なのだろうと思わざるをえない。

 日本には、朝鮮半島人を蔑視・軽視する人たちが大勢いて、こうした結果に、心の底にある蔑視観・優越感を踏みにじられて青ざめている者が多いだろう。しかし、我々は、日本と朝鮮の関係について、古い世代から受け継いだ洗脳と偏見を、もう一度振り返り、真実をきちんと確かめ、問題点を整理する必要がある。
 なぜなら、現在、日韓の間には、竹島問題をはじめ、下手をすると戦争にまで発展しかねない深刻な対立が山積しており、このままでは、数年後に本当に武力衝突が起きるだろうと筆者は見ていて、新たな在日朝鮮人殺戮や、日本排斥、新帝国主義などが増長しかねないと思っているからだ。

 まず、ほとんどの人が朧にしか知らないが、歴史専門家の誰でも認めざるをえない事実として、「日本人」の基本的ルーツは朝鮮半島にあることを知っておいたほうがよい。
 そもそも「日本」という国家は朝鮮半島にあったという歴史的事実を否定できる者はいない。日本書紀に明確に記述されている任那日本府である。韓国金海にあった金官伽耶・任那加羅が、戦前は、平泉澄(不思議なことに朝鮮由来・継体天皇の末裔)ら皇国史観学者によって強引にねじ曲げられ、倭国日本の南朝鮮経営における出先機関と位置づけられていたわけだが、今では、そんな無茶苦茶な捏造を主張する学者はいない。日本府は百済の行政府であったとするのが共通認識だろう。

 つまり、聖徳太子の時代(まだ「日本」など存在しない)より少し後、600年代後半、唐・新羅連合軍と百済が白村江会戦で有名な大戦争になったとき、敗北して、国ごと日本列島に逃亡し、「日本」という地名まで持ち込んだというのが真実だろう。この時代、百済が日本の影響下にあったのではなく、本当はその逆であって、3〜4世紀、日本列島は騎馬民族の大規模な侵略を受けて、文化もろとも激変した江上波夫説を勘案するならば、畿内は百済の侵略を受け支配下にあったと考えるのが合理的であって、韓国と畿内・北陸・山陰にまたがった百済騎馬民族国家が成立していたはずで、日本列島は、その意味で韓国百済の植民地であった。
 後に、天皇家の権威を高めるために、数回の焚書・歴史改竄が行われ、そうした史実を伝える証拠が失われたと筆者は考えている。

 このため、その後、日本こそ正統であって、朝鮮は属国であったかのような逆転した捏造が繰り返されて、お粗末な優越感に基づいた洗脳教育が定着してしまっているが、もし、本当に、朝鮮が日本の支配下にあったとするなら、その後、歴史に現れるような意図的な蔑視が起きるはずがない。日本権力が繰り返し朝鮮を蹂躙してきた本当の理由は、実は、日本が朝鮮の植民地であったことから生まれた憤りの感情に基づいたものだろうと筆者は推察している。

 朝鮮人に対する日本人のいわれなき差別・蔑視観は、実は、逆に支配を受け奴隷的境遇に甘んじた記憶から生まれた憤怒の情念のはずだ。そして、現在に至るまでなお、日本人を精神的に支配し続ける支配階級のルーツは、朝鮮人にある。天皇家は、朝鮮人の血統である!
 それは岩倉具視の陰謀により、孝明天皇親子を暗殺して、南朝末裔を称する大室寅之輔を明治天皇にすり替えた史実があったとしても、南朝成立よりも千年も前のことで、長州は典型的な朝鮮植民地であったわけで、現在の天皇の人相が、朝鮮半島に普遍的に見られる典型的な「朝鮮顔」であることからも、朝鮮半島由来人たちの権力と天下が連綿と続いてきたことに疑いを抱かせるものはない。

 それどころか、日本列島の「先進的文化」のことごとくが、実は朝鮮由来といってもよい。もちろん2300〜2500年前に、稲作農耕文化が日本に定着した時期、呉越戦争の敗者である呉国民が敗戦による民族ジェノサイドを逃れて九州にやってきて弥生文化を持ち込んで、倭国を形成し、瀬戸内〜静岡に拡散したことは当然であって、3世紀に山陰地方に上陸した朝鮮人たちは、弥生人たちと激しい戦争を繰り広げて、それに勝利したのである。だから、中国地方の南北では、本質的に民俗文化が激変するのであって、異民族による、もの凄い戦闘が長年続いた痕跡が至る所に残されている。

 いずれにせよ、南方系モンゴロイドの形質を残す弥生人たちに対して、朝鮮人は北方系モンゴロイドの形質を持ち、一重まぶたで切れ長の目を持ち、乾燥した耳垢、長い手足の戦闘能力の高い人たちが、日本列島の支配者となり、現代に至っている。
 筆者のような、先住民縄文人型、目が大きく、二重まぶたで、水耳垢、臆病な人間たちは、せいぜい職人労働者として家畜的扱いを受けてきた。

 ところが、そうした朝鮮人による日本支配の史実を隠蔽したのが、天皇家・秦氏・平泉澄に代表される朝鮮人の末裔、権力者たちで、自分たちが、あたかも3000年も前から日本列島の主として君臨し、先祖は天から降ってきたかのようなインチキ史実をでっちあげ、国民に永世普遍の独立国家、万世一系天皇などという嘘を宣伝してきた。
 彼らこそ、朝鮮人蔑視観をでっちあげた張本人であり、それは自分たちの真のルーツを隠蔽する目的で行われたのである。

 以来、「日本人」の間では、朝鮮人を蔑視する風潮が広まり、凄まじい差別が続き、たとえば、筆者より上の世代では、在日朝鮮人が、日本で、まともな会社や公的機関に就職することは絶望的に不可能であった。彼らは人として扱われなかった。
 ところが、朝鮮系人は抜きんでた能力を持つ者が多く、まともな会社で能力を試せない分だけ、芸能・スポーツ・娯楽産業・暴力団・闇の世界に大きな実績を構築することとなった。たとえば、日本の芸能界から、朝鮮系人を抜いたなら存在さえできないと言われる。美空ひばり・都はるみなど、おおむね実力者の半分以上がそうで、同じようにスポーツ界でも、張本・金田・金本など朝鮮系人を抜いたなら日本のプロスポーツが崩壊してしまうだろう。また、闇の世界、金融やヤクザ界の大半も朝鮮系人によって占められている。

 今回の星野ジャパンの戦績を見て、いいかげんに朝鮮系人の真の実力に目覚めた方がよい。
 そこで、竹島問題が先鋭化し、やがて韓日武力衝突に至ったと仮定するならば、どのようなプロセスを辿るのか、想像してみればよい。人口は日本の約3分の1にすぎず、国土は4分の1にすぎない小国ではあるが、北京オリンピックの成績は互角であった。その実力、とりわけモチベーション実現力・精神力を勘案するならば、現在の日本の青少年のレベルと比較し、正直、恐るべき結果がもたらされると思うしかない。
 戦力だけなら、日本の方がはるかに上なのは常識だが、戦争とりわけ白兵戦になれば、日本の青年たちは瞬時に蹴散らされるしかないだろう。
 ただし、戦後日本を支えてきた主力である団塊世代が、まだ生きているので、彼らの力が残っているうちは、結局のところ日本の勝利に終わるだろうが、それも、あと数年にすぎないと筆者は予想している。
http://www1.odn.ne.jp/
~cam22440/yoti01.htm

東海アマチュア無線  地震予知研究会


2008年08月22日(Fri)▲ページの先頭へ
考察課題:「階級闘争」とは、父権制と母権制の衝突が真相ではないか
『蟹工船』、マルクスのブームということであるが、それは、後ろ向きである。
 「ブルジョワ階級」と「プロレタリア階級」との「闘争」は、幻想的である。私は文明史ないしは精神経済的に、父権制と母権制の衝突が基盤にあると考える。例えば、自公党の「悪徳のペンタゴン」(植草一秀氏の言葉)と国民との関係は、そのようなものであり、「階級闘争」ではない。それは、妄想的である。
 民主主義の基盤は、一言でいうのは、難しいが、やはり、母権制だと思う。また、自由主義であるが、それは、個から発しているものであるが、同一性主義になってしまっていると思う。
 これらについて、後で検討したい。


天皇の威信を貴族=官僚が利用して、民衆を利用し搾取し支配するのである。
天皇の威信を貴族=官僚が利用して、民衆を利用し搾取し支配するのである。

テーマ:ニッポン亡国の凶相

築地市場の豊洲移転は、はっきり利権によることがはっきりわかる。要は、お上=「ヤハウェ」は絶対的であり、下々=国民=奴隷には誤魔化せばいいのだということだろう。
 思うに、これは、律令政治から始まっているのではないのか。少なくとも、平安時代からとは言えるだろう。天皇の威信を貴族=官僚が利用して、民衆を利用し搾取し支配するのである。このシステムこそ、民衆支配の典型である。これを何と呼んだらいいのか。宗教を利用して、民衆を支配するシステムである。これは、母権制を利用した父権制なのである。民衆は母権制である。だから、批判なく、崇拝する。それを、狡猾な父権的権力が利用して、支配するのである。だから、以前、儒教等について述べた、母権制統合型父権制と言えるように思う。民衆の母権制の崇拝を利用して、父権的な狡知の支配を行うのである。
 だから、脱母権制が必要である。脱プレ・モダンである。そう、民衆は、新しい精神をもつ必要がある。端的に、トランス・モダン精神である。

☆☆☆☆☆☆以下転載☆☆☆☆☆☆☆


[08/21]東京都がなんと豊洲新市場予定地の「土壌汚染対策」公募を強行! 【転載希望】 (by Rolling Beanさん) New!!
石原都政が築地市場を有害物質あふれる豊洲地区に移転しようとしている問題について、Rolling Beanさんの記事を転載します。豊洲になんとしてでも移転させようとあの手この手で強行策をとっているようです。新聞で逐一きちんと報道されないなら、ブログを通じてひとりでも多くの人に知ってもらわなければなりません。

強調字体やリンクなどを含めて読みたい方はRolling Beanさんのブログの方に行きましょう。

●Like a rolling bean (new) 出来事録
2008-08-19 【転載希望】 【転載希望】東京都がなんと豊洲新市場予定地の「土壌汚染対策」公募を強行!
http://ameblo.jp/garbanzo04/
entry-10128974356.html

昨晩遅くこの報道のことを知らせていただいて、とても驚いています!!!

工法アイデアの公募を始める、つまりこれ以上やばくならないうちに工事を始めてしまおうという腹ですね!

> 産経WEBニュースに工法アイディア募集の記事がありました。
> データの捏造疑惑、シアン化合物検出基準捏造疑惑など次々に問題噴出の専門家会議の報告書ですが、
> これらの解明もされないのに、汚染対策アイディア募集とは何事でしょうか。報告書は汚染の実態を正しく反
> 映していません。この時点での対策案など「意味無し!」です。


本当にその通りです!

タイトルに転載希望とつけましたが、悪意に基づかない限り、どこを転載してくださっても差し支えありません。

産経MSN

築地市場移転問題 土壌汚染対策アイディア求む
2008.8.18 14:01
このニュースのトピックス:地方自治

http://sankei.jp.msn.com/politics/
local/080818/lcl0808181400000-n1.htm

 築地市場(東京都中央区)の移転問題で、都が移転先の豊洲地区(江東区)の土壌汚染対策に生かすため、新技術や工法のアイデアを公募する。

 公募内容は、(1)土壌・地下水の汚染対策(2)液状化対策(3)市場完成後の地下水管理システム(4)総合的な対策−の4項目。寄せられた提案は、専門家で構成する汚染対策工事の技術会議で評価・検証し、10月下旬に選定結果を公表する。

 選定にあたっては、実効性や経済性、短期間で施工が可能かどうかなどを考慮する。応募の対象は民間企業のほか、個人でも可能。期間は18日から9月26日まで。郵送での受け付けとなる。

 詳細は中央卸売市場ホームページ http://www.shijou.metro.tokyo.jp

関連ニュース

【石原知事会見詳報】(1) 築地移転問題で技術者会議設置を表明

東京都、工法選定のための技術者会議設置へ 築地市場移転問題で

築地市場移転問題 都議選の争点にも

「対策とれば人体に影響なし」築地市場問題

地下水調査データの捏造が暴かれて、ひどすぎるシアン汚染の影響を少なくとも10倍低くごまかしたこともはっきりし、測定すべき有害物質のほんの一部しか確認しないでおきながら、かつ地下水の性状や流動も調べないでいて、それでも天文学的な数字の汚染被害状況があり(何回でも書きますが、胎児毒性もあるベンゼンひとつ取り上げても土壌で43000倍、地下水で10000倍です)、なのに入念な調査などと開き直っていますし、しかもなんと言ってもこの豊洲6丁目という地区は戦後に隅田川のヘドロを浚渫したもので埋め立てていますし、まったくどろどろの状態なのにそのこともおおっぴらには公開していませんし、そこでコールタールを地上に広げて作業をしていたことを追求されても「スルー」しましたし、浚渫土壌のさらに下層にある沖積層(潜在的に液状化しやすいことで知られている)である有楽町層が互層(重ねられた状態)で砂や貝殻までを含んで水を通す汚染まみれの状態で現実に専門家会議の調査でも汚染がそこに出ているのも「大したことがない」「粘土層だ」と大嘘をついてすっとぼけていますし、工学や地質や土木建築のプロの「対策は不可能」という魂の底からの意見もまた「完全にスルー」して、また民活(PFI)に関する明白なリスク分担に対しての質問には答えもしていませんし、東京都が東京ガスから土地を買い上げる際に護岸工事費用の600億円以上を裏金として渡していますし、そのくせ、もう処理が終わったアスベストの問題をわざわざ騒ぎ立てていますし、なのにできもしない矢板での地下水防護などなどなぜか専門家会議が始まる前のPFI資料で公開されていた白日夢のような技術工法がなぜか専門家会議の検証の後でそっくりの形で出てきて、なにしろ嘘ばっかりの資料をなぜか仲卸業者だけに「超かいつまんで」そのろくでもないアリバイ付き(実はアリバイにすらならないザル会議の結果)で汚染対策を説明して開き直ろうとしていて、なにしろ日本中から市民だけでも1000人以上が集まったデモを「市場関係者だけ300人」と紹介するようなメディア(特に築地市場の目の前の朝日新聞)などはまたその稚拙なアイデアをもってうまくいきそうな話として取り上げていますが、ああ、それにろくでもなかったと評判の立った専門家会議の後の技術会議を非公開で(仲卸の方によれば座長以外のメンバー名すら非公開だそうです!)、きっと座長に負けず劣らず(断る間もなく嫌味です)専門外分野でご立派な業績を上げられたお友達埋センセイを集めてこられるのだということは想像されても仕方のないことですし、ともあれ権威の名前だけを借りて予め予定していた埋立関連の業者を絡ませたりするのでしょうから、もしもこんなことが許されていいのなら、どんな環境問題や健康被害に対しても、行政がフリーハンドで強行してよいということの重篤な実績を作ることになる、と改めてここで書いておきます。

(上の内容はこれまでのエントリーに挙げたことばかりですのでイキオイに任せたものではありません)

東京都のサイトを転載します。

平成20年8月18日
中央卸売市場

豊洲新市場予定地の土壌汚染対策工事に関する新技術等の公募について

東京都中央卸売市場では、「豊洲新市場予定地における土壌汚染対策等に関する専門家会議」の報告を踏まえ、豊洲新市場予定地における都の土壌汚染対策計画を取りまとめるにあたり、民間企業等から広く新技術や工法を公募することとしました。

応募していただいた提案は、この度設置した「豊洲新市場予定地の土壌汚染対策工事に関する技術会議」において、評価・検証を行ったうえで、都の土壌汚染対策計画に活かしていくこととします。

つきましては、以下の公募要領により、応募してください。
http://muranoserena.blog91.
fc2.com/blog-entry-836.html
村野瀬玲奈の秘書課広報室


2008年08月20日(Wed)▲ページの先頭へ
試論:Media Point における超越波動からの物質波動への変換原理について:Media Point という即非変換点:「神」の波動の投影としての森羅万象である。
物質波動であるが、それは、超越波動の痕跡と考えられる。現象界では、物質次元(時空四次元)において、量子の波動や粒子を捉える。しかし、それは、量子本体の影である。正に、イデア論がここで確認できるのである。
 すなわち、イデア=量子の影としての物質の波動/粒子を知覚しているに過ぎないのである。物質時空四次元に垂直にこのイデア次元が屹立していると考えられる。五次元である。
 端的に本件について言えば、超越波動と物質波動とは、即非様態にあると言える。超越波動は物質波動という物質の影を射影する。この点では、超越波動・即・物質波動であるが、前者はイデア次元にあり、後者は物質次元(現象次元)にあるから、両者は非の関係である。
 ここで、振動数について言うと、物質波動は数値化されるが、超越波動は数値化されない。では、超越波動は、いかなる様態にあるのであろうか。イデア対極差異(略して、対差[ついさ])の共鳴様態があるとは言える。つまり、超越波動とは、イデア対差の共鳴様態(簡略化して、イデア共鳴態)にあるということである。
 そして、イデア共鳴態は、振動の相違によって、多元・多様的である。だから、多元多様イデア共鳴態がMedia Point の虚軸=イデア界において形成されていると考えられる。いわば、多元多様Media Point Resonance、Multiple Media Point Resonanceである。そして、これが、いわば、神の原型である。そして、宇宙、人間、生命、物質の原型である。ユダヤ神秘思想のカバラーのアダム・カダモン(原人)とは、これを指しているのではないか。
 そう、この神の原型であるが、三神の原型である。+iの神と-iの神と(+i)*(-i)の神の三神が根源的に存すると言えよう。記紀の三柱の神とはこれを表現したものと考えられるし、普遍的に見られる、根源的三元性はここに存すると言えよう。たとえば、三巴紋とはそのシンボルになる。これも普遍的である。
 この問題は興味深いがここで留めておき、もう一度、本件の問題について検討したい。すなわち、超越波動と物質波動の関係であるが、たとえば、前者のすべてが後者への射影・投影・映写されるのだろうか。
 有り体に言えば、「神」の波動は物質波動として投影されるのか、である。思うに、境界があるはずである。超越波動が、Media Point に「存している」が、それが、Media Point という変換媒体で変換されるとき、思うに、1/4回転の倍数回によって限定されると考えられる。当然、不連続になるのである。しかし、問題の核心は、波動変換ないしは振動変換である。私が思うのは、この変換には限界があるのではないのかということである。
 そう、哲学的に言えば、差異と同一性との関係である。差異が同一性化された終端において、同一性主義が発生するが、そこでは、差異は否定されている。これとパラレルのことが波動でも言えるだろう。超越波動(差異)が物質波動(同一性)になるが、超越波動は否定されるのである。
 少し整理する必要がある。物質波動の限界ないしは範囲であるが、ある種の超越波動は、まったく物質波動化されないことを意味するのか(A)、あるいは、物質波動には、そもそも、超越波動が排除されていることを意味するのか(B)ということになろう。
 Bについて言えば、たとえば、振動数が超ミクロになっても、そこには、まったく超越波動は存しないということになる。単に物質波動だけが存するということである。
 Aについて言えば、ある超越波動は物質波動化されるが、別の超越波動は物質波動化されないということになる。つまり、ここには、物質の壁があるということである。たとえば、きわめて霊妙な超越波動が発動しているが、それは、物質波動になるには、霊妙であり過ぎるので、物質波動以前に留まっているということが考えられる。物質波動になるには、超越振動のある範囲に限定されるのではないのかということである。
 問題は感覚と物質の関係にもなるだろう。たとえば、紫外線や赤外線は、超感覚・超視覚的である。しかし、それらは、いちおう、物質波動として捉えられているだろう。だからと言って、紫外線や赤外線が超越波動であるということではない。それらは、超越波動の影である。
 どうも私の設問は愚問であるようだ。端的に言って、超越波動はMedia Point において、物質波動へと変換されると、理論的に考えられるのである。だから、Aの問題はナンセンス、不合理である。そして、Bの設問であるが、それも、ナンセンスである。最初に述べたように、即非様態である。いわば、即非変換があるのである。だから、「神」の波動は物質波動として投影されるのかという問であるが、それは、その通りであると言わなくてはならない。
 「神」の波動の射影としての宇宙であり、地球であり、自然であり、人間等の森羅万象なのである。だから、汎神論である。空海の述べたように、五大に皆響きありである。
 ということで、次のような波動論は、超越波動(質)と物質波動(量)を混同している誤りを犯しているのではないだろうかという疑念があるのであるが、粗忽に即断は避けたい。後で検討したい。

「10のマイナス33乗cm以下の世界は非物質の世界といわれます。それは非物質の振動の世界。
ですから意識というスピリチャルな場の世界でもあるのです。
http://subtleeng.thd-web.jp/e8132.html
鈴木 俊輔 の サトルの泉」



2008年08月19日(Tue)▲ページの先頭へ
「世界の動向についての私見(「試見」):「資本主義」の未来:ロシアは何を考えているのか:中国とアメリカの狭間の絶体絶命の日本」
「世界の動向についての私見(「試見」):「資本主義」の未来:ロシアは何を考えているのか:中国とアメリカの狭間の絶体絶命の日本」

少なくとも、大きな問題は、

1) サブプライム・ローン問題に発した信用収縮による景気低下
2) グルジア問題(ロシアと西欧米との対立)
3) 中東・中央アジア問題
4) 中国政治・経済問題(インドも含めて)
5) 日本の政治・経済の方向性

5は、日本の国内の問題なので、外してもいいが、日本人としては、無視できない大問題である。
 思うに、田中宇氏が述べるように、資本の論理(私はユダヤ系資本と考える)によって、多極化路線をアメリカがとっていると考える。それがアメリカの中国に対する「協調」路線になっているのであり、中国(や北朝鮮)を「利用」して、東アジアへの経済的覇権を取ろうとしていると考えられる。
【参考:[ 田中宇:米に乗せられたグルジアの惨敗 ]
http://tanakanews.com/080819georgia.htm】
 また、イラク戦争は、やはり、資本の論理(ドル通貨による金融資本の論理)で動いているのだろう(フセイン前大統領が原油取引をドル建てから、ユーロへの切り替えようするのを防ぐ意味があった。『ロシア政治経済ジャーナル』参考)
 ユダヤ系の資本の論理にとっても、一番の障害は、ロシアであろう。新冷戦と言われているが、実体・真相は何なのか。【とまれ、現代世界はひと言で言えば、カオスの状態である。多数の変数があって、正に非線形状態である。ここでは、近代主義的二項対立の発想では、解けないのである。また、ポスト・モダン的な、同一性主義への批判では、きわめて不十分である。多数の変数(差異)の諸関係を考察する必要があるからである。トランス・モダン的思考が必要である。差異共鳴性の視点が必要である。】
 思うに、冷戦とは、社会主義と自由主義の衝突であった。しかし、現代の対立はそうではない。だから、新冷戦と呼ぶのは躊躇する。
 さて、サブプライム・ローン問題であるが、これは、金融資本主義の本質的欠陥から発生したものと考える。資本主義は、差異主義(差異価値主義)の要素と同一性主義(交換価値主義)の矛盾した経済だと考えている。
 サブプライム・ローン問題は、後者の帰結だと考えられる。この点で、ユダヤ系資本は一種挫折をむかえているのである。そう、多極主義は壁にぶつかっているように思われる。
 私は資本主義の差異主義(差異共鳴主義)を発展させることが未来的であると考えている。これが、進化の方向だと考えている。
 政治的にも、当然、同様である。アメリカの大統領候補のオバマ氏の理念は差異共鳴主義だと考えている。マケイン氏は、ユダヤ系資本の多極化路線の立場だと思う。
 では、ロシアはどのような理念をもっているのか。それがよくわからないのである。欧米系の金融資本主義ではないと思う。少なくとも、社会主義的理念をもたない国家資本主義体制だと思う。また、ロシアが欧米に負けない外交能力を強くもっていることを確認することができる。そう、ロシアは政治・経済的インテリジェンスが向上したのである。この点を見る必要がある。しかしながら、ロシアに差異共鳴主義的視点があるだろうか。これが不明である。
 私見では、世界は差異共鳴主義のトランス・モダンへと進展する。これは、高次元的多元共振主義である。きわめて、高度なインテリジェンスをもつ政治・経済である。哲学科学(philosophience)的と言っていい。
 最後に、日本の政治・経済を見るに、世界の動向への視点をもたない、旧態依然たるコップの中の争いをしているのである。官僚支配主義である。私の言葉では、封建的近代主義である。現代日本は、中国というスキュラとアメリカというカリュブディスに挟まれて絶体絶命である。


エネルギーとは何か:量子とエネルギー:量子の高次元性と超越振動:第2版
イデア界にエネルギーはあるのか。Media Point でエネルギーが発生するのではないのか。そして、このエネルギーが同一性化して物質として発現する。
 問題は、量子である。以前、量子とは、超越エネルギーを物質のスクリーンに映したものであり、量子力学は、物質主義に囚われているのであり、量子の真相とは、超量子であると述べた。
 結局、問題は量子の波動であると思う。粒子は端的に、物質と捉えられる。波動も、確かに、物質のスクリーンに捉えられるが、それだけではない。物質のスクリーンには、粒子と波動が発現するが、波動は「奥」があると考えられる。
 私は波動の「奥」にあるものを超量子と考えたのである。整理すれば、物質のスクリーンに発現した粒子/波動を量子とし、物質のスクリーンの「奥」にあるものを超量子と考えたのである。
 視点の問題がここにはある。物質のスクリーンに発現したものを量子と呼ぶのであるが、しかしながら、物質のスクリーンの「奥」の次元を想定したとき、量子はその次元にも属していることになる。だから、あえて、超量子と言う必要はないとも言える。
 とりあえず、「奥」の次元を、超次元、高次元、異次元等と呼ぶことができる。そして、これは、今日では、量子力学者のリサ・ランドールが高次元を説いているので、仮説としては問題はないのである。即ち、量子は高次元存在であるということである。
 では、エネルギーや物質と関係させるとどうだろうか。これも既述済みである。アインシュタインの有名な公式は、物質次元を説いていると考えられるのであり、光子の高次元を扱っていないと考えられるのである。
 だから、やはり、光子は超越エネルギーをもつと言うべきである。(もっとも、精緻に、エネルギーについて検討する必要があるが、それはここではおいておく。)即ち、光子の超越エネルギーがMedia Point で物質エネルギーに変換されるということである。しかしながら、Media Point を介して、量子は共鳴して、合成されるのであり、新たな物質エネルギーが放出されると考えられるだろう。
 以上でかなり整理されてきたが、最後に「気」について考えよう。それは、多元調和化した光子と言えるのではないだろうか。そして、振動であるが、それは、Media Point における高次元界の振動が本来的であろう。いわば、超越振動である。これが、「気」の情報の本体であろう。そして、このことを敷延すれば、超越振動が、生命の原型であると言えるだろう。当然、現象界の原型でもあるのだが。また、精神や知性の原型でもある。

p.s.

量子の振動について

直近で、量子の超越振動のことに言及したが、それではまだ十分言い足りていないと感じられたので、付け加えたい。
 超越振動というと、Media Point における虚軸と実軸の交差性(即非性)が抜けると考えられるのである。つまり、Media Point において、超越振動・且つ・物質振動となると考えられるのである。
 勿論、物質振動とは、物質のスクリーンに発現した振動である。ということで、結局、超越振動というよりは、たとえば、Media Point 即非振動という方が的確である。
 では、E=hνにおいて、νの振動数はどう考えればいいのか。これは、やはり、物質振動数だと思う。だから、超越振動数を加える必要があるのではないだろうか。E=hν=mc^2とすると、ν=mc^2/hとなる。
 そして、c^2を超越化して、(+ic)*(-ic)として、それをあてはめると、
ν=m(+ic)*(-ic)/hとなる。正しくは、Trans-ν=m(+ic)*(-ic)/hである。
 これが超越振動数ではないだろうか。
 これを作業仮説とすれば、たとえば、光子は、ν=mc^2/hの物質振動数だけでなく、Trans-ν=m(+ic)*(-ic)/hの超越振動数をもつということになるのである。だから、「気」は、一般に測定しても、物質振動数は確認できるが、超越振動数は確認できないだろう。
 ここで想起するのは、音波のアルファー波のことである。1/fのゆらぎのことである。ここで、振動を光子から音波へと敷延できると仮定すれば、音楽のヒーリング力等(たとえば、モーツァルトの音楽の共鳴力)をこれで説明しようとするが、それは、単に物質振動数を測定しているだけであり、超越振動数を無視していると考えられる。アルファー波があれば、必ずよい音楽とは言えないのである。十分条件ではないと考えられる。超越振動数が前提であり、そこから、物質振動数は派生するのである。逆は、正しくないのである。これで、機械による音楽が物足りないことの解明となるだろう。初めに、超越振動ありき、である。質である。初めに質ありき、である。
 これで、一般に美や崇高美の問題について解明できるだろう。同じ光でも、人工の光と夕日の光ではまったく質的に異なるのである。思うに、人工的に、夕日の色に近い光を発光させたとしよう。しかり、物質振動数は同じでも、両者においては、超越振動数が異なると考えられる。的確に言えば、超越振動数の質が異なるのである。夕日には、より微妙な差異があると考えられるのである。そう、絵画で言えば、マーク・ロスコの絵の物質振動数と同じ振動数の、模写した絵を考えよう。前者には、複雑な調和的超越振動数があるだろうし、後者には、欠落しているだろう。
 絵画で気韻と呼ばれるものも、複雑な調和的超越振動数を意味していると思われる。つまり、主体と客体のMedia Point が共鳴して、複雑な調和的超越振動を感性知していると言えよう。
 以上はまったくトランス・モダン的事象(しかし、同時に、きわめて伝統的な事象である)であり、量的な近代科学では無視されるものである。
 また、直感や霊感というものも、これで説明がつくだろう。また、占いも、これで説明がつくだろう。思うに、たとえば、占星術であるが、それは、この超越振動で説明がつくし、さらには、占いからトランス・モダン・サイエンスへと進展できるように思えるのである。哲学的には、トランス・カント哲学である。

* **************

デリダの原エクリチュールと空海の文字論

超越振動はパターン・形象を形成するだろう。これが、原エクリチュールに関係するのではないだろうか。これは、プラトンのエイドスに近いのではないだろうか。少なくとも、超越振動は空海の文字論と結びつけることができよう。デリダの原エクリチュールとは、この超越振動の原型に関係させることできるのではないだろうか。そうすると、原エクリチュールは原「音響」にも関係することになる。

p.p.s. 以下、密教でいう虚空(こくう)とは、Media Pointのことではないかと思う。何か、本当に今や、超越科学の創造前夜ないし黎明である。

参考A:
真言密教

五大にみな響きあり 十界に言語を具す

六塵ことごとく文字なり 法身これ実相なり

真言とは言霊のこと。
言葉の波動が交差したところで粒子(宇宙原子)になる。

華厳経では一即一切(時間・空間は)重々無尽(畳み込まれている)という。
だからすべては阿字(オーム)に畳み込まれていると考えるのだ。

真言宗の阿字観の入り口、阿息観という発声法(瞑想法)は
音の波動により宇宙を創りだしているのだ。

http://mandalaya.com/hindu.html

聖なる科学(ヒンドゥー教)と真言密教

*****************

参考B:

 「虚空」とは?

  真言密教ではその「虚空」にこそすべてのものが収められており、虚空蔵、虚空庫菩薩がいると
  述べています。

 
 「求聞持(ぐもんじ)法」とは   
http://www.d1.dion.ne.jp
/~momomon/gmonjiho.htm

  密教では物質の構成要素として地・水・火・風の物質性を考え、そこに重々無尽(融通無碍)に
  浸透している、虚空(空・エーテル・氣)を考えました。(五大)

  弘法大師空海は、その虚空の空間に入ると「五大に響きあり、十界に言語を具す(物質と精神には
  響きがあって、それぞれに言葉を用意している。声字実相義)」と述べています。
虚空蔵求聞持法

http://www.sakai.zaq.ne.jp/
piicats/gumonnjihou.htm



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**************

参考1:以前の考察

量子論は高次元・超越次元・精神/霊的次元科学である
光についてであるが、復習になるが、(+i)*(-i)⇒+1において、左辺が波動ないしは振動であり、右辺は粒子であろう。この両者の「差異」に注意しないといけない。不確定性の原理であるが、それは、左辺が特異点であるMedia Pointに関係していることから発すると考えられるだろう。つまり、そこでは、波動は垂直に、また、超越的、虚軸的に、振動するのであり、実軸的には、不確定となると考えられるのである。
 思うに、素粒子ないしは量子は、複素数的存在と言っていいだろう。だから、単なる物質ではないのである。だから、量子論は、物質科学からエクソダスする必要がある。それは、イデア的科学である。虚次元・高次元的科学である。精神・霊的科学である。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
Disambiguation この項目では電磁波の一種について記述しています。その他の光についてはひかりをご覧ください。

光(ひかり)は、電磁波の一種。おもに可視光線のことだが、赤外線・紫外線を含めていうことも多い。光は波動と粒子の二重性をもち、波動であることを強調する場合は光波、粒子であることを強調する場合は光子と呼ばれる。光源や観測者の速度にかかわらず「相対速度が変化しない」という特徴を持つ。
プリズムによる分光

光の波動性

波動としての光を光波と呼び、反射・屈折・回折などの現象を起こす。ヤングの干渉実験により光の波動説として証明され、その後マクスウェルらにより光は電磁波であることが示された。厳密にはマクスウェルの方程式で記述されるベクトル波であり偏光を持つが、波動光学では簡略化のためにスカラー波として扱うことが多い。

(光のエネルギーは電場の振幅の2乗に比例する) (光の運動量はポインティング・ベクトルに比例する)

[編集] 光の粒子性

粒子(量子)としての光を光子(光量子)という。光子は電磁場の量子化によって現れる量子の1つで、電磁相互作用を媒介する。ニュートンの光の粒子説によって唱えられた。現在の光子の概念はアインシュタインによって提唱された。

E = hν (光のエネルギーは振動数νに比例する)
E = pc (光のエネルギーは運動量p に比例する)

[編集] 粒子説と波動説

「光は粒子か波か?」

この問題は、かつてよく議論された。何故なら、光が波でなければ説明がつかない現象(たとえば光の干渉、分光など)と、光が粒子でなければ説明のつかない現象(光電効果など)が、どちらも明確に確認できたからである。

この問題は、20世紀前半から後半にかけて「量子力学」という学問分野が確立していく中で、「光は粒子でもあり波でもある。粒子と波の両方の性質を併せ持つ、量子というものである」という事が確かめられ、決着がついた。この量子の持つ特異な性質のことを指して、「光は〈粒子性〉と〈波動性〉を併せ持つ」と表現することがある(量子の詳しい性質については記事:量子を参照)。

現在では呼び方として、光の粒子性に重点を置く場合は「光子」、波動性に重点を置く場合には「光波」、光が粒子と波の二面性を持った量子である、という点に重点をおく場合は光量子と言う。

[編集] 光の性質

性質としては上記の通り粒子性と波動性があり屈折・(全)反射・干渉(ホログラフィ)・回折・偏光 (LPL・CPL) などの

* 光は、通常、直進する。(エウクレイデスの光の直進の法則)
* 凸凹の無い平面鏡に当たった光は、鏡に当たったときと同じ角度で反射する。 (エウクレイデスの光の反射の法則)
* 屈折率の異なる物質の境界面で光の速度が変化する。その結果、境界面への入射角が直角でない場合には、光の進路が変化する。(屈折)
* 光の屈折の際は、スネルの法則が成立する。
* 光の強さは、光源からの距離に逆2乗する。 (ケプラーの光の逆2乗の法則)

主な物質との関係ではフォトニクスと呼ばれ大別してPhoto(光化学、光物理などの分子場理論)とOpto(光学などの放射場理論)と呼び方が異なり、光物理機能としては励起エネルギー移動や化学発光、電界発光 (EL) 等、光化学機能としてはフォトレジストや光触媒、光エネルギー変換等、光波機能としては、光ファイバーや近接場光学、コヒーレント分光などがある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89
http://protophilosophy.
noblog.net/blog/a/10454197.html
INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY/

**************

参考2:
ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く

R






0.リサ・ランドール(Lisa Randall)

どこかの物理学者が著者のことを「物理も知らない数学者だ」と言っていた。
なので、てっきり、数学者が理論物理学へ転向したのかと思っていた。
この本の最初の方で、著者の物理理論の研究に対する態度がわかる。
自分を理論物理学者だと紹介している。
どの業界でも妬みとかあるからなあ。

http://toshi.way-nifty.com
/log/2008/04/5_c141.html
としの今日でき


エネルギーとは何か:量子とエネルギー:量子の高次元性と超越振動
イデア界にエネルギーはあるのか。Media Point でエネルギーが発生するのではないのか。そして、このエネルギーが同一性化して物質として発現する。
 問題は、量子である。以前、量子とは、超越エネルギーを物質のスクリーンに映したものであり、量子力学は、物質主義に囚われているのであり、量子の真相とは、超量子であると述べた。
 結局、問題は量子の波動であると思う。粒子は端的に、物質と捉えられる。波動も、確かに、物質のスクリーンに捉えられるが、それだけではない。物質のスクリーンには、粒子と波動が発現するが、波動は「奥」があると考えられる。
 私は波動の「奥」にあるものを超量子と考えたのである。整理すれば、物質のスクリーンに発現した粒子/波動を量子とし、物質のスクリーンの「奥」にあるものを超量子と考えたのである。
 視点の問題がここにはある。物質のスクリーンに発現したものを量子と呼ぶのであるが、しかしながら、物質のスクリーンの「奥」の次元を想定したとき、量子はその次元にも属していることになる。だから、あえて、超量子と言う必要はないとも言える。
 とりあえず、「奥」の次元を、超次元、高次元、異次元等と呼ぶことができる。そして、これは、今日では、量子力学者のリサ・ランドールが高次元を説いているので、仮説としては問題はないのである。即ち、量子は高次元存在であるということである。
 では、エネルギーや物質と関係させるとどうだろうか。これも既述済みである。アインシュタインの有名な公式は、物質次元を説いていると考えられるのであり、光子の高次元を扱っていないと考えられるのである。
 だから、やはり、光子は超越エネルギーをもつと言うべきである。(もっとも、精緻に、エネルギーについて検討する必要があるが、それはここではおいておく。)即ち、光子の超越エネルギーがMedia Point で物質エネルギーに変換されるということである。しかしながら、Media Point を介して、量子は共鳴して、合成されるのであり、新たな物質エネルギーが放出されると考えられるだろう。
 以上でかなり整理されてきたが、最後に「気」について考えよう。それは、多元調和化した光子と言えるのではないだろうか。そして、振動であるが、それは、Media Point における高次元界の振動が本来的であろう。いわば、超越振動である。これが、「気」の情報の本体であろう。そして、このことを敷延すれば、超越振動が、生命の原型であると言えるだろう。当然、現象界の原型でもあるのだが。また、精神や知性の原型でもある。
 

参考1:以前の考察

量子論は高次元・超越次元・精神/霊的次元科学である
光についてであるが、復習になるが、(+i)*(-i)⇒+1において、左辺が波動ないしは振動であり、右辺は粒子であろう。この両者の「差異」に注意しないといけない。不確定性の原理であるが、それは、左辺が特異点であるMedia Pointに関係していることから発すると考えられるだろう。つまり、そこでは、波動は垂直に、また、超越的、虚軸的に、振動するのであり、実軸的には、不確定となると考えられるのである。
 思うに、素粒子ないしは量子は、複素数的存在と言っていいだろう。だから、単なる物質ではないのである。だから、量子論は、物質科学からエクソダスする必要がある。それは、イデア的科学である。虚次元・高次元的科学である。精神・霊的科学である。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
Disambiguation この項目では電磁波の一種について記述しています。その他の光についてはひかりをご覧ください。

光(ひかり)は、電磁波の一種。おもに可視光線のことだが、赤外線・紫外線を含めていうことも多い。光は波動と粒子の二重性をもち、波動であることを強調する場合は光波、粒子であることを強調する場合は光子と呼ばれる。光源や観測者の速度にかかわらず「相対速度が変化しない」という特徴を持つ。
プリズムによる分光

光の波動性

波動としての光を光波と呼び、反射・屈折・回折などの現象を起こす。ヤングの干渉実験により光の波動説として証明され、その後マクスウェルらにより光は電磁波であることが示された。厳密にはマクスウェルの方程式で記述されるベクトル波であり偏光を持つが、波動光学では簡略化のためにスカラー波として扱うことが多い。

(光のエネルギーは電場の振幅の2乗に比例する) (光の運動量はポインティング・ベクトルに比例する)

[編集] 光の粒子性

粒子(量子)としての光を光子(光量子)という。光子は電磁場の量子化によって現れる量子の1つで、電磁相互作用を媒介する。ニュートンの光の粒子説によって唱えられた。現在の光子の概念はアインシュタインによって提唱された。

E = hν (光のエネルギーは振動数νに比例する)
E = pc (光のエネルギーは運動量p に比例する)

[編集] 粒子説と波動説

「光は粒子か波か?」

この問題は、かつてよく議論された。何故なら、光が波でなければ説明がつかない現象(たとえば光の干渉、分光など)と、光が粒子でなければ説明のつかない現象(光電効果など)が、どちらも明確に確認できたからである。

この問題は、20世紀前半から後半にかけて「量子力学」という学問分野が確立していく中で、「光は粒子でもあり波でもある。粒子と波の両方の性質を併せ持つ、量子というものである」という事が確かめられ、決着がついた。この量子の持つ特異な性質のことを指して、「光は〈粒子性〉と〈波動性〉を併せ持つ」と表現することがある(量子の詳しい性質については記事:量子を参照)。

現在では呼び方として、光の粒子性に重点を置く場合は「光子」、波動性に重点を置く場合には「光波」、光が粒子と波の二面性を持った量子である、という点に重点をおく場合は光量子と言う。

[編集] 光の性質

性質としては上記の通り粒子性と波動性があり屈折・(全)反射・干渉(ホログラフィ)・回折・偏光 (LPL・CPL) などの

* 光は、通常、直進する。(エウクレイデスの光の直進の法則)
* 凸凹の無い平面鏡に当たった光は、鏡に当たったときと同じ角度で反射する。 (エウクレイデスの光の反射の法則)
* 屈折率の異なる物質の境界面で光の速度が変化する。その結果、境界面への入射角が直角でない場合には、光の進路が変化する。(屈折)
* 光の屈折の際は、スネルの法則が成立する。
* 光の強さは、光源からの距離に逆2乗する。 (ケプラーの光の逆2乗の法則)

主な物質との関係ではフォトニクスと呼ばれ大別してPhoto(光化学、光物理などの分子場理論)とOpto(光学などの放射場理論)と呼び方が異なり、光物理機能としては励起エネルギー移動や化学発光、電界発光 (EL) 等、光化学機能としてはフォトレジストや光触媒、光エネルギー変換等、光波機能としては、光ファイバーや近接場光学、コヒーレント分光などがある。

http://ja.wikipedia.org
/wiki/%E5%85%89
http://protophilosophy.
noblog.net/blog/a/10454197.html
INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY/

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参考2:
ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く

R






0.リサ・ランドール(Lisa Randall)

どこかの物理学者が著者のことを「物理も知らない数学者だ」と言っていた。
なので、てっきり、数学者が理論物理学へ転向したのかと思っていた。
この本の最初の方で、著者の物理理論の研究に対する態度がわかる。
自分を理論物理学者だと紹介している。
どの業界でも妬みとかあるからなあ。

http://toshi.way-nifty.com/
log/2008/04/5_c141.html
としの今日でき


2008年08月17日(Sun)▲ページの先頭へ
救民・救世・救国宣言:同一性主義の闇から差異共鳴主義の光明へ:ポスト・モダンは、モダンとトランス・モダンの境界であった
今は余裕がないので、考察課題となるが、ひと言簡単に言うと、今日、世界全体が陥っている諸悪の根源は、同一性主義にあると痛切に確信している。東洋では、仏教が、これを切断して、空(くう)という差異共鳴感性(あえて感性という。感性智と言えよう。そう、言語知と感性智がある。)への方向を鮮烈に説いたのである。しかしながら、人類の知恵は、同一性主義にあまりに囚われてきているので、未だに仏教の感性智を会得できずにいるのである。仏陀の悟りから、2500年ほど経つのに、未だに無知蒙昧状態である。
 これまで、述べたように同一性主義の総本山はヤハウェ神である。しかしながら、広義では、父権主義に同一性主義の源泉が存する。これは、結局、同一性主義である物質主義、利己主義、交換価値経済をもたらしたという意義をもっていると考えられる。しかしながら、今日では、これが、悪徳を生みだして、世界は闇になっているのである。
 近代主義も大半はこの同一性主義が支配している。もっとも、近代主義は分裂しているのであるが。
 ただただ、一重に、同一性主義を突破することが、現代人類の最大課題と言っても過言ではない。ポスト・モダンはロゴス中心主義、「プラトニズム」という同一性主義を克服することを目指したが、道半ばで、いわば、頓挫してしまった。この理由・原因は既述したように、根本的にはフッサールの超越論的主観性に潜在している超越的主観性を排除したことにあると私は考えている。
 とまれ、理論的問題は既述したので、ここでは、具体的に、どうしたら同一性主義を克服して、差異共鳴主義へと「新生」できるのか、ひと言示唆したい。
 端的に、肚と心/心臓と頭を、身心に取り戻すことである。思うに、肚が-iで、頭が+iで、心/心臓が(+i)*(-i)の差異共鳴性である。思うに、端的には、現代の人間、とりわけ、日本人には肚が無くなっていると思う。肚と頭の両極に対して、心/心臓の差異共鳴性でバランスをとるのである。そう、心/心臓に個のMedia Point があるのではないだろうか。


考察課題:同一性と差異と極性、その他
1)同一性主義化した自己(自我)は、いつ差異に目覚めるのか、それとも、目覚めることは不可能なのか


2)二人の文豪の文体の、一種の直截的簡潔さとは何か:ジェイムズ・ジョイスとD. H. ロレンス:直截な文体と差異・特異性・不連続性:「モダニズム」期、20世紀初期、大戦間期における、差異・特異性・不連続性への還元的志向性:「モダニズム」、少なくとも、文学的「モダニズム」は、ポスト・モダン/トランス・モダン的であった。「モダニズム」の「モダン」は、モダン=近代というよりは、端的には、ポスト・モダンないしはトランス・モダンである。あるいは、プロト・モダンである。【ここで、ポスト・モダンとトランス・モダンの区別を明快にしておきたい。ポスト・モダンとは、簡単に言えば、同一性と差異との併存様態のことである。ドゥルーズは、構造主義的「差異」を説いたと言えるし、デリダは、「差異」の決定不能性を確認して、同一性主義的システムを脱構築したのである。結局、ポスト・モダンにおいて、同一性主義に対して、根底的疑問が提示されたのである(もっとも、ドゥルーズの「差異」は、構造主義的であるために、同一性と連続化しているのである。だから、同一性主義に対する批判の姿勢があるが、実際は、連続的差異=微分があり、それは、同一性への批判にはならず、返って、同一性を保証していると考えられるのである。ドゥルーズ哲学の構造主義性を確認できるのである。いわゆる、ポスト構造主義にはならないと思われるのである。それに対して、トランス・モダンとは、差異の不連続性、超越性を確認するものである。それは、同一性とは、Media Pointの即非様態において、関係すると見るのである。私見では、後期デリダは、トランス・モダンに近いと考えられる。】

P.S. 思うに、すぐれた芸術には、不連続な差異があり、また、それらの共鳴・共振性があるのではないだろうか。具体的に言えば、音楽で言えば、律動による差異があり、それらが、旋律によって共鳴するという様態ではないだろうか。バッハのフーガには感じられる。(最近、ブラームス音楽には対しては、その淀んだ情緒が不健全と思えるので、批判的であるが、それでは、交響曲第一番第一楽章やピアノ協奏曲第一番の冒頭には、今でも、惹きつけられるが、それは、そこに、差異共鳴様態があるからではないかと思う。)絵画では、セザンヌ、ピカソであろう。そう、この不連続化であるが、これが極端になると、エズラ・パウンドの長編詩『キャントーズ』のように断片の併存様態になるのではないだろうか。因みに、俳句は、このようなアートである。差異共鳴的アートである。また、連詩も端的にそうである。また、ブログの積極的な関係も、差異共鳴的である。日本の近代的作家で、差異共鳴性をもっているものは誰だろうか。宮沢賢治にはあると思う。私が知らないせいかもしれないが、意外に少ないが気がする。日本美術は伝統的に差異共鳴アートだと思う。まったくすばらしい。そう、ファッションも本来、差異共鳴アートであろう。垂直性と水平性の志向をもっている。しかしながら、日本近代文学には、差異共鳴文学が少ないと、思われるのは、心配である。私の無知に拠るのかもしれないが。


3)同一化するとはどういうことなのか:あるいは、同一性への強迫観念とは何か:

ひとこと言えば、同一性形成は自然なものであり、その終端に同一性主義が生まれる。そして、そこに対して何らかの強迫観念が生じる場合がある。それは、自我強化が原因ではないだろうか。差異・他者を否定することで、同一性自我を強化する強迫観念とは、思うに、自己の差異・他者(感性知性)にコンプレックス(劣等感)を感じているからではないのか。(そう、思うに、男性は女性にコンプレックスを感じるので、同一性自我へと固執するのではないのか。)
 そう、内的なコンプレックスがあるために、それを抑圧して、同一性自我を強化する強迫観念が発生するのではないだろうか。つまり、強迫観念が生じる必要があるまでに、内的コンプレックスが強度をもつということだろう。
 これは1)と関係する。内的コンプレックスを測深して、それと直面する必要がある。トラウマが見つかるだろう。同一性自我を強調する人間は、自己差異において、無能さ、劣等性、悲惨さ等の否定性を発見するのではないだろうか。しかしながら、その部分は、イデア界によって、照射されることが可能である。つまり、この世における生まれ変わりの可能性があると思われる。内面への回帰が必要である。自分の身体内の心・魂の声に耳を傾けること、内省・省察・瞑想が必要である。
 言語的知的意識と感性的知的意識がある。つまり、言語知性と感性知性(直感知)の二つの知性がある。近代主義は、前者中心で、後者を否定している。感性は知性をもっているのである。両者の両極性知性教育が必要と考える。
 

4)日本の戦後教育批判:近代合理主義/近代的自我/唯物論教育批判:義務教育における哲学の欠落:知識教育の弊害:知性と感性の極性教育の必要:極性的自己認識の必要


5)(再掲)以下の、デリダの『コーラ---プラトンの場』(守中高明訳、未來社)の巻頭の引用にある「極性の論理」が鈴木大拙の即非の論理、乃至は、ウスペンスキーのターシャム・オルガヌムに相応するものと考えられる。今は細かい論述はしないが、一言いうと、デリダの緻密な批判知性を確認すれば、このことは検証されよう。

【「神話は、したがって、哲学者たちの無―矛盾の論理との対照において、曖昧なものの論理、両義的なものの、極性の論理と呼ばれ得る一つの論理形式を作動させる。ある項をその反対物のうちに、離れた他のさまざまな視点から両者を保持しつつ、逆転させてしまうこれらのシーソーの操作を、どうやって定式化すれば、さらにはどうやって形式化すればよかろう? 言語学者たち、論理学者たち、数学者たちのほうを向いて、自分に欠けている道具を彼らが提供してくれるように、結論として、この欠乏証明書を作成するのは、神話学者の責任であった。その道具とは、二項性の、然りか否かの論理ではないような論理を、すなわち、ロゴスの論理とは別の論理をそなえた構造的モデルである。」
                 ジャン=ピエール・ヴェルナン
 「神話の理性」、『古代ギリシアにおける神話と社会』所収、一九七四年、二五〇頁】


6)理念界と第三の地平

シュタイナーの精神学では、霊=精神を超越性として捉える。


7)超越性と超越論性:フッサールの超越論性について

フッサールの超越論的主観性の超越論性であるが、これを、PS理論は、超越性と捉え直したと言えよう。超越論性は、いわば、構造主義的であり、同一性主義的である。しかしながら、フッサールの超越論性を超越性(イデア)として捉え返すことで、フッサール現象学をイデア論へと発展させることができると考えられる。だから、PS理論はトランス現象学である。
 しかし、どうしてフッサールの超越論性を超越性と捉えられるのか。それは歪曲ではないのか。確かに、表面的には、明確な誤読であるが、単にそうとは言えない。その理由は、志向性という概念が、超越論性には留まらない、理念の根本的性質をもっているからだと考えられる。つまり、フッサールは超越論的志向性を表層的には説いているが、志向性はさらに高次元の志向性を意味しうるのである。つまり、超越的志向性が考えられるのである。
 有り体に言えば、以前に述べたが、フッサールは無意識的に、超越論的志向性に超越的志向性を含めていたということである。では、何故、無意識的にそれが可能になるのか、である。それは、エポケーを行い、外界との関係を切断したとき、純粋な内界が生起するが、この内界は実は、超越性が、いわば、潜在しているのである。思うに、フッサールの意識は超越論的であったが、フッサールの内界に潜在する超越性が、無意識的に、超越論性へと重なっていたと考えられるのである。純粋内界を開いたとき、超越論性は超越性を帯びうるのであり、フッサールの場合、正にそうなったと考えられるのである。
 ということで、フッサールの超越論的主観性とは、超越的主観性を内包していたということになる。そして、ハイデガーの存在論は、このフッサールの超越論的主観性を看過していたと私は考えるのである。


7)谷崎潤一郎の「ハッサン・カンの妖術」等と東洋性:

後で引用。ところで、青空文庫には、谷崎の作品が皆無であるが、これは何故だろう。まだ、著作権が残っているのだろう。

8)イシスとオシリスの神話について:垂直性と水平性の混淆・連続・同一化の問題


2008年08月15日(Fri)▲ページの先頭へ
思考実験:(+1)+(-1)=0の意味について:正のエネルギーと負のエネルギーの相殺
Media Point から+1のエネルギー(物質エネルギー)が発生するとしよう。しかし、それは、有限なエネルギーであり、当然、自然消滅すると考えられる。このエネルギーの消滅は、-1のエネルギー(負のエネルギー)が発生し、和によって、ゼロになったことで説明できるのではないだろうか。
 いわば、+1が生であり、-1が死である。あるいは、前者が昼であり、後者が夜である。
 ここで、差異と同一性の視点で考えると、+1は同一性であり、-1は同一性主義ではないだろうか。同一性の終端として、同一性主義が発生すると見ていいだろう。だから、+1⇒-1ということになるのではないだろうか。これは、自己否定と言っていいのではないだろうか。これは、精神的には、同一性自己主義=自我ではないだろうか。
 ここで、神話学的に考えると、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺をイシス(大女神)、右辺をオシリス(太陽)とすれば、イシスはオシリスを生むのであり、そのオシリスはセト(自己否定)によって殺害されるのである。しかし、死んだオシリスは、イシスによって復活する。この復活とは、どう数式化できるのか。それは、Media Point の永遠の生成による+1の発生と見ることができないだろうか。つまり、Media Point における反復される波動・振動を考えればいいのではないだろうか。一つの波動(Media Point Wave)が一つのエネルギーを発生させて、それを消滅させるが、新たな波動が新たなエネルギーを発生させるということではないだろうか。(因みに、イシスをディオニュソス、オシリスをアポロと見ることも可能だろう。)
 また、因みにヒンドゥー神話で言わば、ブラフマン(梵天)が(+i)*(-i)で、ヴィシュヌが+1で、シヴァが-1ではないだろうか。
 以上は、母権神話的である。しかし、父権神話はどうなのか。それは、根源的な差異共振性の否定であり、根源的な二項対立の発生と考えられる。この二項対立はどう数式化されるのか。神話においては、天地創造を意味する。天地との区別の発生である。母権神話においては、いわば、天地は共鳴していた。父権神話は天地共鳴を否定して、天と地との区別し、前者を優位に、後者を劣位に置いた。
 天地共鳴は(+i)*(-i)で数式化できるだろう。では、天地二項対立(二元論)はどうだろうか。それは、(+i)⇒(-i)のようなものだろうか。⇒をこの場合、否定と考えることができる。-iを否定して-(-i)、+iとし、自身+iと結合して、二乗となり、-1となるということではないだろうか。私の今の発想では、+1が天であり、-1が地ではないだろうか、ということである。天地共鳴は、+iと-iとの共鳴であるが、天地二項対立は、+1と-1の二項対立ではないのか、という思いつきである。
 問題は二元的分離を明記する必要があることである。思うに、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、明記されているのではないのか。即ち、左辺が天地共鳴であり、右辺が天地二元論ではないのか。つまり、方程式の左辺が天であり、右辺が地ではないのか。⇒が二元的分離を意味すると考えられるのではないか。
 しかし、そうすると、天地共鳴性と天地二元論が区別できなくなるだろう。これは、難問である。思うに、(+i)*(-i)⇒+1⇒-1という数式を考えたらどうだろうか。(+i)*(-i)⇒+1が天地共鳴であり、+1⇒-1が天地二元論である。この問題はここで留めて置く。
 最初のエネルギーの問題に戻ると、+1の正のエネルギーと-1の負のエネルギーが相殺して、ゼロになり、そして、Media Point における永遠再生力学によって、反復されるということであった。いわば、永遠回帰である。あるいは、正に、自然である。
 また、思考実験するに、+1と-1の和のゼロ・ポイントへの志向性が重力ではないだろうか。そして、ブラック・ホールは、この延長上にあるのではないだろうか。とまれ、ゼロ・ポイントは一種、宇宙の穴であるが、しかし、その「先」には、Media Point があるということだろう。そして、イデア界(超越界・高次元界)が開かれているということではないのか。とまれ、確認事項であるが、実軸は物質界=現象界であり、虚軸はイデア界=高次元界であり、Media Point は、心物変換界=トランスフォーマー界である。


2008年08月14日(Thu)▲ページの先頭へ
「お上と民の精神構造」と封建的近代主義:近代化かトランス・モダンか
以下、植草一秀氏は鋭く、「天下り」を存続させる主観的要因として、「お上と民の精神構造」を説いているが、まったく同感である。そして、その克服として、近代化の必要を説いている。確かに、「上と民の精神構造」は封建主義である。だから、近代化が必要というのは、わかりやすい考えである。
 私は先に、官僚の思考形式は、封建的近代主義であると言ったが、この封建的近代主義は、そのまま、日本国民にあてはまることになる。問題は、この「封建的近代主義」である。この場合の近代主義とは、近代合理主義/近代的自我/唯物論を指している。(しかし、民主主義は、この中にははいらないと思う。民主主義は近代主義ではないと私は考える。この問題はここで留めておく。)
 この近代主義とは一言で言えば、近代的同一性主義である。そして、封建主義と近代主義には、同一性主義が共通であると言った。
 とまれ、封建的近代主義には、植草氏の唱える「近代化」は入らないと思う。植草氏の「近代化」とは、PS理論では、トランス・モダン化に当たると考えられる。
 違う角度から見ると、二つの近代化があるだろう。客観的近代化と主観的近代化である。私がいう近代主義は、前者であり、植草氏は、後者を唱えていると考えられる。
 しかしながら、これまでのPS理論的検討から言えば、主観的近代化とは、必然的にトランス・モダンと考えられるのである。何故なら、主観的近代化とは、個・差異の肯定を意味するのであり、それは、近代的同一性主義ではないからである。差異主義である。ならば、近代的差異主義と言えばいいのではないかという考えがあるだろう。
 しかしながら、近代的差異主義とは、近代合理主義/近代的自我/唯物論に反対するものである。つまり、思想史・文学史等からわかるように、近代は分裂しているのである。だから、相対立する価値観をかかえる近代を考えると、主観的近代化ないしは近代的差異主義を、近代化と呼ぶのは、焦点があいまいになると考えれるのである。

P.S. 民主主義は、近代的同一性主義か、近代的差異主義(トランス・モダン)かと問えば、これまでの検討から言えば、本来、源泉は後者であるが、それが、前者へと同化されてしまっていると私は考えているのである。それで、近代民主主義を批判して、トランス・モダン民主主義、差異民主主義、あるいは、 Media Point 民主主義を唱えるのである。
 この事態は、デカルト哲学の事態と同質と考えられる。コギトとは、源泉は、後者であるが、それが、差異を否定して、同一性主義(近代合理主義)へと展開してしまっているのである。差異に源泉がありながら、源泉を否定して、同一性主義へと展開しているのである。

****以下許可済み転載****

警察・検察の「裁量」と「天下り」
・・・・・

「天下り」を存続させる一因になっている国民の側の意識を私は「お上と民の精神構造」と呼び、「1600年体制」が存続していると見ているのだが、拙著『知られざる真実−勾留地にて−』 にもその見解を記述したので紹介しておきたい。

以下は第一章「偽装」21「天下り全廃なくして改革なし」からの引用である。

「「お上」と「民」の「支配・被支配の精神構造」を「1600年体制」と表現した。支配者である「お上」に従順に従う「民」。この精神構造が江戸時代以降、脈々と引き継がれて現在に至っている。

 徳川時代は相互監視社会だった。身分関係が固定され、幕府は反逆を許さなかった。「民」は身の安全のために「お上」に刃向うことを忌避した。幕府は民を「依らしむべし、知らしむべからぬ」存在と捉え、民は「お上」への反逆を「見ざる、言わざる、聞かざる」で対応した。圧政下での生活の知恵だったと思う。反逆する「民」への「お上」の仕打ちを見て、民は恭順の意を示すことで保身をはかった。

 明治維新で統治者が「将軍」から「天皇」に代わった。天皇制では「官僚」が実質的支配者に位置付けられた。明治の官僚は「天皇の官僚」として統治者の地位を付与された。明治時代に「高文試験」が創設された。合格者は「高等文官」として支配者の地位を獲得した。

 第二次夫戦後に統治システムが変更された。「民生主義」が導入され、「主権在民」が定められた。公務員は「全体の奉仕者であって、一部の奉仕者でない」(日本国憲法第15条)と定められた。憲法の上では国民が統治者になった。

だが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は過ちを犯した。戦前の官僚制度を温存した。日本統治の実行部隊が必要だったためだと思う。だが、戦前の官僚は「全体の奉仕者」でなく特権階級に位置する「統治者」だった。

 GHQは特権階級の「高級官僚」を温存した。「国家公務員上級職」、「第一種国家公務員」と名称が変わったが本質は変わらなかった。「特権的官僚制度」がいまも行政機構の根幹に横たわる。

 日本の民主主義、国民主権は国民が闘い、勝ち取ったものでない。国民の意識変革が不十分だ。明治以降、大正デモクラシーや1947年の労働者運動拡大などがあったが、米ソ対立の東西冷戦が深刻化し、1950年に朝鮮戦争が始まり、共産主義者が追放された(レッド・パージ)。1960年には日米安保改定反対を唱える安保闘争が広がったが、公権力が国民運動を鎮圧した。国民の心にいまも「お上と民の精神構造」が染み付いている。この精神構造が高級官僚の特権=「天下り制度」を支えている。

(中略)

経済復興期には官僚のリーダーシップが有効だったかも知れない。しかし、高度経済成長実現以後は官僚の支配権の正当性が消滅した。公務員を名実ともに「全体の奉仕者」にする制度変更が必要だ。勤勉な一般公務員を鮮雇するのが改革ではない。高級官僚の利権を撤廃することが真の改革だ。」(引用終了)

 警察・検察行政が歪んでいることが現代日本の前近代性の象徴だ。警察・検察の「裁量権」と「天下り」利権との関わりにメスを入れることは「タブー」への挑戦だが、日本を近代化するために避けることのできない検証項目である。

http://uekusak.cocolog-nifty.com
/blog/2008/08/post_d33a.html
植草一秀の『知られざる真実』



極性の論理について
以下の、デリダの『コーラ---プラトンの場』(守中高明訳、未來社)の巻頭の引用にある「極性の論理」が鈴木大拙の即非の論理、乃至は、ウスペンスキーのターシャム・オルガヌムに相応するものと考えられる。今は細かい論述はしないが、一言いうと、デリダの緻密な批判知性を確認すれば、このことは検証されよう。

【「神話は、したがって、哲学者たちの無―矛盾の論理との対照において、曖昧なものの論理、両義的なものの、極性の論理と呼ばれ得る一つの論理形式を作動させる。ある項をその反対物のうちに、離れた他のさまざまな視点から両者を保持しつつ、逆転させてしまうこれらのシーソーの操作を、どうやって定式化すれば、さらにはどうやって形式化すればよかろう? 言語学者たち、論理学者たち、数学者たちのほうを向いて、自分に欠けている道具を彼らが提供してくれるように、結論として、この欠乏証明書を作成するのは、神話学者の責任であった。その道具とは、二項性の、然りか否かの論理ではないような論理を、すなわち、ロゴスの論理とは別の論理をそなえた構造的モデルである。」
                 ジャン=ピエール・ヴェルナン
 「神話の理性」、『古代ギリシアにおける神話と社会』所収、一九七四年、二五〇頁】

コーラ―プラトンの場 (ポイエーシス叢書) ジャック デリダ、Jacques Derrida、 守中 高明 (単行本 - 2004/4)


2008年08月13日(Wed)▲ページの先頭へ
同一性主義自己(自我)の力学について:何が同一性自己に執着させるのか:精神の弱さが極度の同一性主義自己を生む:民主主義批判
これまで、近代合理主義/近代的自我を同一性主義として批判してきたが、単純に、それが同一性自己(同一性)へと同化する力学は何なのであろうか。これまで、この問題は論じ尽くされてはいるが、より直截な明快な理由を求めたい。
 起源はMedia Point である。そこには、+i=正極(陽極)に拠る同一性志向性(同一性自己志向性)がある。この同一性志向性とは、本来、Media Point が内包していると考えられる(自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1が意味するもの)。しかしながら、同一性志向性がさらに強化されて、同一性主義志向性となると、Media Point を排除・排斥する力学をもつのである。この同一性主義志向性は、言い換えれば、父権主義と言える。
 では、これまで数え切れないくらい検討してきた、同一性主義志向性の原因・根因は何か、ここで新たに考察してみよう。これまでの検討を整理すると、二つ要因があると考えられる。即ち、一つは、Media Point の極性力学であり、同一性主義志向性とは、同一性志向性の終端(終点)と考えられる。一つは、Media Point における「トラウマ」である。以前は、悲・苦と表現してきた。おそらく、コンプレックスもここに入れることが可能である。なぜなら、コンプレックスも、悲・苦であるからである。【ここで、心理学的視点から見ると、子どもが親に対してもつ感情は、差異共振感情であると考えられる。しかしながら、たとえば、親が子に対して、差異共振感情を阻害するような態度を取ったとき、子どものMedia Point は悲・苦の様態となる。これは、「闇」である。子どもは、この「闇」から逃れようとするだろう。「闇」を隠蔽するように、自己形成を行うだろう。これは、Media Point を隠蔽するので、同一性主義自己形成になると考えられる。】
 ということで、二つの起因があるが、これをどう考えたらいいだろうか。思うに、一般的に、同一性志向性の終端としての同一性主義志向性が存するのではないだろうか。何故なら、人々が通常もつ自我は同一性主義志向性と考えられるからである。そして、自我といわば隠れたMedia Pointとを妥協させているのが、一般者であるように考えられる。しかしながら、自我が優位であり、隠れたMedia Point は劣位である。これを緩い同一性主義(ソフトな同一性主義)と呼ぼう。
 私がとりわけて問題視するのは、きつい同一性主義(ハードな、タイトな同一性主義)である。極端な同一性主義(以下、閉同一性主義と呼ぶ。対応させると、ゆるい同一性主義は開同一性主義となる)である。
 閉同一性主義の原因は、素朴な同一性主義志向性とMedia Point のトラウマ的悲・苦と近代合理主義/近代的自我/唯物論との複合性にあるのではないだろうか。結局、閉同一性主義は、同一性主義的自己が「暗い、恐ろしい、謎めいた」Media Point に、ルサンチマン的な反感を覚え、Media Point を反射・衝動・情動的に、忘却の淵へと排除し、それに盲目となるまでになることを意味するのではないだろうか。
 言い換えると、閉同一性主義は、個体の精神性の劣弱さに根因があると考えられるのである。これは、不連続的差異論形成の時期において考えた、二つの差異、高貴な差異と劣弱な差異の区別に通じる考えである。当然ながら、これは、ニーチェの『道徳の系譜』に根拠がある。ニーチェ的に言えば、賎民性が閉同一性主義の根拠である。この論点は、以前既述したように、D.H.ロレンスの『黙示録論』においても、キリスト教批判において、鋭く説かれている。
 本件の結論は、苦・悲を耐えることができない精神の弱さに原因があるということである。因みに、ニーチェは『悲劇の誕生』で、古代ギリシア人が、苦に対する強い感受性と途方もない忍耐力をもっていたこと、苦を耐えることに自己の強い誇りをもっていたことを述べている。端的に、古代ギリシア人において、Media Point が驚くべき強度をもって開かれていたということになろう。


Media Point という第三のもの:諸知的探求が求めていた究極:Media Point Cosmos(Chaosmos)としての森羅万象・宇宙
注:以下、画像等が出ないので、次のブログを参照されたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10126750839.html

*****************

PS理論が突き止めたMedia Point という概念こそ、学問・科学・生活等を一新するものと考えられる。
 哲学、心理学、神話/宗教/神秘学、文学、芸術、という「人文」諸学だけではなく、物理学(相対性理論、量子力学)、生物学(分子生物学:直感では、 DNAもMedia Point で説明できよう)等の自然科学、また、数学、そして、さらには、政治学、経済学等の「実践」科学、等々が求めていた究極のものが、Media Point と考えられる(仮説)。
 このことに関しての詳論(思考実験ならびに試行錯誤)は、これまでブログで為されてきたので、それで確認することができる。そうすると、森羅万象、宇宙とは、Media Point Cosmos乃至は、Media Point Chaosmosと呼ぶことができるだろう。

****************

見えた!タランチュラ星雲 ハッブル宇宙望遠鏡 地球の軌道10万周

 米航空宇宙局(NASA)のハッブル宇宙望遠鏡は11日、1990年4月の打ち上げ以来、地球の軌道10万周を達成。NASAは10日に撮影した色鮮やかなタランチュラ星雲の画像を記念に公開した。

 同星雲は大マゼラン雲にあり、地球からの距離は約17万光年。超新星爆発の影響で星間物質が凝縮され、恒星が活発に誕生している領域で、画像には硫黄や水素、酸素の原子が発する光がそれぞれ赤、緑、青色で写っている。

 ハッブル宇宙望遠鏡は全長約13メートル、直径約4メートルの円筒形で、口径2.4メートルの反射式望遠鏡を備え、高度約600キロの軌道を約100分で1周しながら、可視光と近赤外線、紫外線領域で観測を続けている。

 修理はこれまでに4回実施され、最後となる次回が成功すれば2013年までの運用延長が見込まれる。(共同)
http://sankei.jp.msn.com/world/
america/080812/amr08081210
23008-n1.htm


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