INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/07

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年07月31日(Thu)▲ページの先頭へ
「救世主」としてのトランス同一性主義である不連続的差異論と差異共振主義
私の経験から言えることは、今日の狂気を生んでいるのは、端的に、同一性主義である。これが、人間を阻害しているのである。これを乗り越えることが、いわば、人類の課題であろう。
 しかし、不思議なのは、この乗り越えの叡知は、端的には、仏教に存するのである。しかし、私は仏教にも、ある種の同一性形而上学があると感じている。これが、叡知を阻害しているのではないだろうか。
 とまれ、同一性形而上学を乗り越えるのは、不連続的差異論であろう。デリダの脱構築主義も同一性主義を解体できるが、しかし、超越性がないので、いわば、漂流すると思う。
 そう、心と頭を立ち切ること、これが、覚醒への一歩である。


墓守娘たちの嘆きを知っていますか?
2008年07月31日10時00分 / 提供:ゲンダイネット
ゲンダイネット

「母が重くてたまらない」信田さよ子著(春秋社 1700円)

 近ごろ街でよく見かけるのが、まるで姉妹のような通称「一卵性母娘」コンビ。しかし、その外見の陰に深刻な葛藤があるらしい。

 臨床心理士として数々のカウンセリング経験を持つ著者によれば、幼いころから娘にべったりで進学・就職など人生のコースすべてを先回りして決めてしまう母が少なくない。日常生活はかいがいしく母が世話してくれるので、娘もつい甘える。しかし夜中にふと目が覚めて母を殺したくなるというのだ。

 なぜ母は娘に過剰依存するのか、なぜ娘たちは母を重く感じるのか。要は夫不在、父親不在の日本式家庭に原因があると著者はいう。

 仕事優先の夫に期待しなくなった妻は、子どもを埋め合わせの対象とする。結果、母にとっては息子より理解しやすい娘をがんじがらめにして、自分に縛り付けてしまうのだ。そこで出てきたのが「墓守娘の嘆き」。母に「私が死んだら墓守はお願いね」と託され、その重圧に悩む娘たちだ。そんな娘が結婚して子どもが生まれても、こういう母ならお構いなしのはず。今度は子育てを買って出て、娘も便利なので母にさらに甘える。するとその孫は……。怖い未来図だ。

【2008年7月28日掲載】

http://news.livedoor.com
/article/detail/3754196/


備忘録・検討問題:原初的暴力(父権的同一性主義暴力)と原始的平和力(母権的差異共振力)
これは、メモないし検討問題として簡単に記しておく。
 思うに、デリダのいう原初的暴力とは、同一性主義の暴力である。これは、父権的暴力である。しかしながら、その「原初」以前には、原始的差異共振主義(「母権制」・「母系制」または、「原始共同体」)があったと考えられる。そこには、当然ながら、原初的暴力ではなく、原初的平和力があったと考えられる。神話学(ジョゼフ・キャンベル)的には、女神の文化があったと考えられるのである。

p.s. しかし、このように言うと、同一性主義が物質であると言ったこととどう整合性がもつだろうか。差異共振主義は+1であり、同一性主義=物質主義=父権主義は-1である。
 つまり、差異共振主義+1において、物質はどうなるのか、である。しかしながら、以前、検討したように、-1と+1を厳密に区別する必要がある。端的に言えば、-1も+1も物質なのである。しかしながら、-1は物質主義であり、+1は物質性と考えられる。言い換えると、前者は唯物論であり、後者は精神に包摂された物質(差異的同一性)ということになる。
 とういうことで、原初的差異共振主義(原初共同体)においても、確かに、物質は存しているわけであるが、それらが精神現象=差異共振現象(イデア現象)に包摂されていたと言えよう。
 私は、原初差異共振性=原初平和力をやや理想化して言っている。しかしながら、母権制、つまり、自然宗教において、生け贄が要求されていたことは、確かであると思う。もっとも凄惨凄絶なのは、アステカ文化における、犠牲者の血の滴る心臓を太陽神に奉献する儀礼である。
 ということで、原初共同体のマイナス面を看過するわけにはいかない。しかしながら、それ以外では、父権主義のような戦争暴力はなかった(p.s. ほとんどなかった言うべきだろう。父権的国家暴力としての戦争はなかったが、部族間の戦争はあったろうが、国家暴力のような凄惨なものではなかったと思われる)と考えられるのである。
 とは言え、犠牲の儀礼(例えば、人身御供)は、もともと、人間を犠牲にしたとは言えないだろう。イオマンテ
http://www.frpac.or.jp/
kodomo/html/bunka/girei/girei.html
のように、動物を犠牲にしていたのが、根本ではないのか。アステカの場合は、特殊なのではないのか。この点は要検討である。


参考1:

暴力以前の力 暴力の根源
今村仁司 氏

1.はじめに
2.線を引くこと(根源分割)
3.分割の瞬間と出来事
4.tracer (線引き)と trace(痕跡)


1.はじめに

 暴力現象は人間社会のなかで弁別できないほど多様に、また無数に出現する。社会的暴力はけっして等質的ではない。それに応じて暴力を指示する用語もけっして明確には区別することができない。それは言葉の無力が原因であるのではなく、現象の複雑さに由来する。たとえば、ドイツ語のGewaltとMachtは互いに区別しがたい。政治権力はどちらの言葉でも表現できる。暴力と権力は区別しなくてはならないが、言葉の宿命によって区別しがたいだけでなく、事柄の本性によっても区別しがたい。とはいえ、認識の観点からいえば、暴力と権力との差異はもとより、力一般とそれから派生する種々の暴力的現象を区別しなくてはならない。この錯綜の森をどうして切り抜けていくことができるのだろうか。以下では、暴力以前の力が何ごとであるかについて試論を提起してみたい。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/
re/k-rsc/hss/bouryoku/r01.html
第一回 <暴力以前の力 暴力の根源> 今村仁司氏 2004/12/24   詳細(PDF)

参考2:
http://72.14.235.104/search?q=
cache:yeD47otTzsg
J:www.tku.ac.jp/~koho/kiyou/
contents/economics/259/071
_takahashi.pdf+%E3%83%87%
E3%83%AA%E3%83%80%E3%80
%80%E5%8E%9F%E5%88%9D%E7%
9A%84%E6%9A%B4%E5%8A%9B&hl=ja&
ct=clnk&cd=10&gl=jp&lr=lang_ja
&client=firefox-a

参考3:

ナンシーの著作は、多くが日本語に訳されています。その中心概念である共同性に焦点を当てて見ました。積極的な議論の一つの種になれば幸いです。

Nancy, Jean-Luc ジャン・リュック・ナンシー 1940年生まれ

略歴

1940年7月26日、フランスのボルドー近くのコデラン生まれ。1962年に哲学学位を取得した直後から、カール・マルクス、イマニュエル・カント、フリードリッヒ・ニーチェ、アンドレ・ブルトンといった著者についての本を出版。パリで哲学教授資格を取った後、1968年コルマールで短期間教師を務め、その後ストラスブールの哲学研究所の助手になる。現在もストラスブールに居住し仕事をしている。1973年にはポール・リクールの指導の元でカントについての論文で博士号を取得し、その直後からストラスブールの人文科学部で「助教授」をつとめる。1987年にはトゥールーズで、ジャック・デリダやジャン=フランソワ・リオタールらが審査員となり、国家博士号を授与される。ジェラール・グラネルの監修のもとに書かれたカント、シェリング、ハイデッガーの著作における自由の問題を扱った博士論文は、1988年に『自由の経験』として出版された。とはいえ、1987年以前から、すでに彼はアカデミックなキャリアを積み重ねていた。1970年代から80年代にかけてベルリン自由大学やカリフォルニア大学など様々なところで客員教授を務めていたほか、哲学教授として、東ヨーロッパを中心にフランス外務省の文化委員を務めていた。

しかし1980年代末に重病に陥り心臓移植を受け、その活動は突然終わりを迎えた。さらにガンとの闘病が重なり、その回復を遅らせた。これらの病気のために彼のキャリアは大きく変わり、今まで自分が務めていたほとんどの委員職を辞任しなければならなかった。最近また活動を再開したが、こういった闘病期間の間も驚くべきことに執筆や出版活動は精力的に続けていた。政治や社会や哲学的な話題に関わる彼の著作の多くは1990年代に出版されたが、2000年には自分の病気についての著作『侵入者』も書いている。そして60代になった今日、人間として哲学者として今まで以上に活発に世界中を飛び回っている。

http://www.saysibon.com/
yoriai_sub/jinbutsuarchive/NANCY.htm



参考4:

レヴィナスにおける哲学と宗教

−−レヴィナス「神と哲学」を読む

(中山 元)



 レヴィナスにおいて、哲学と宗教がどのような関係にあるかを考えるには、『超越と知解可能性』の他に、この「神と哲学」が重要な位置をしめている。この論文は『観念に来れる神』に収められているものだが、まだ邦訳がないので、さまざまな問題を考えながら読んでみたいと思う。

http://polylogos.org/
philosophers/levinas/levi8.html




近代日本の終焉とトランス・モダン日本:官僚体制の脱構築と国民経済の差異共振化
近代日本の終焉とトランス・モダン日本:官僚体制の脱構築と国民経済の差異共振化

テーマ:滅びゆく日本と新倫理社会へ

大分県教育委員会幹部にも、また、国民にも、「公」の知性空間がないようである。思うに、一神教なら、超越界から超越神が、個人をみそなわしているという意識がはたらきうる。
 問題は、「公共」空間を普遍化することである。このためには、厳しさが必要である。今日、日本のあらゆる領域で、「公共」普遍空間が喪失している。
 これは、近代日本の終末を意味していると言えよう。ポスト・モダンは、端的には、脱構築主義は、たんに流行で終ってしまったようだ。
 脱構築主義を包摂したトランス・モダンが今日要請されていると考えられる。脱構築主義は、官僚体制を脱構築し、国政を差異化する。この国政差異化によって、国民経済の差異化、端的に、差異共振化がプログラムとなるだろう。
 整理すると、近代日本の終焉とは、明治日本がもっていた個の可能性(プロト・モダン:私は既述したように、明治維新をひとつの日本ルネサンスと考えている。名前をあげるには及ばない、偉大な人物たちが生まれたのである。)を今日失って、単に「近代的自我主義」になり、普遍意識が喪失したことを意味する。個においてこそ、普遍・「公共」意識が成立するのである。個において、真の共同体が形成されうるのである(言うなら、個的共同体・差異共同体である。差異共振体、差異共鳴体と言ってもいい。)。
 新しい個、それは、旧態の「近代的自我」を脱構築し、Media Pointに覚醒したときに生まれるだろう。
 そう、先に述べたが、小泉構造改革は、ある意味では、旧態の日本社会主義的共同体を脱構築・破壊したのである。そして、国民は、不連続的差異になったのである。この不連続的差異が、否定的には、無差別殺人のような形で発現していると思われる。
 結局、新しい政治・経済(国民経済ないしは国民精神経済)は、この脱構築後の不連続的差異の共鳴(新個的共同体主義:Media Point共同体)を目ざすものにならなくてはならない。


 
<大分教員汚職>70万円で採用なら…口利き依頼の両親告白

7月31日2時32分配信 毎日新聞

 大分県の教員採用汚職事件に絡み、長男を教諭にするために、県教委幹部への口利きを依頼して現金など70万円分を知人に渡したとする両親が毎日新聞の取材に応じた。両親のうち母親(64)は「親とすれば『それぐらいのお金で採用してもらえるならば』と思っていた」と話しつつ「今となっては、人として親として、本当に恥ずかしいことをした」とも述べ、親心と良心のはざまで揺れる心境を吐露した。

 長男は他県の大学を数年前に卒業。在学中から大分県で高校教諭になることを目指していたが、そんな時、母親の知人から「教委上層部と仲のいい人がいる。話をしてあげるが、まずはお金がいる」と持ち掛けられた。

 母親は「いくらでお願いしたらいいか」と尋ねたところ「最低でも20万円」との答えが返ってきた。このため採用試験前に知人へ5万円の商品券を、知人の親族とみられる仲介者には現金20万円をそれぞれ渡した。

 長男は、試験は不合格となったが臨時講師に採用された。その翌年と翌々年にも仲介者にそれぞれ現金20万円を支払ったが、本採用にはなれなかった。4年目にも仲介者に5万円を支払ったが結局本採用は果たせず、教諭になるのをあきらめかけたところ、まったく別のつてで私立高校に本採用となった。

 その後は知人とも疎遠となり、母親は「だまされていたかもしれない」と振り返る。

 母親は「もし300万円で絶対先生にしてくれるというのならば(支払っても)いいと、当時は思っていた。悪いことと分かっていてもね……」と話した。父親(63)も「これが親の本音」と付け加えた。

 金を渡したことは忘れていたが、一連の事件の発覚で、当時の記憶がよみがえったという。「私と同じように口利きを頼んだ親はたくさんいると思います」と述べた。【佐藤敬一】
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080731-00000018-mai-soci


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同一性主義としての国家主義と差異共振主義:国家主義からトランス・モダンへ

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

これは、正に、差異共振(共鳴)の問題である。イスラエル人の妻とイラン人の夫の結婚という差異共振性を、イスラエルやイランは認めないのである。つまり、両者、同一性主義(国家主義)を楯にしているのである。
 思うに、これは、ギリシア悲劇の『アンチゴネー』を想起させる。国家主義者のクレオンとそれに対する神々の文化に仕える「個」としてのアンチゴーの対立。
 付加的に言えば、先にも述べたが、広義のギリシア神話には、相対立する価値の調和への志向が見られるのである。差異共振主義が見られるのである。これについて、後で検討したい。



イスラエル 夫婦引き裂く法の壁 イラン人夫、行き場失う

7月30日1時18分配信 毎日新聞


夫ハッサンさんが長女を抱きかかえ、笑顔で手を振る写真を見つめる妻イラニットさん=テルアビブで前田英司撮影
 【テルアビブ(イスラエル中部)前田英司】イスラエル人女性とイラン人男性の夫婦が、イランなど「敵国」出身者の入国を禁じたイスラエルの法律によって、別居を余儀なくされている。夫は結婚によってイスラエルを敵視する母国にも戻れず、トルコで不法滞在を続ける日々。幼子を抱えイスラエルで暮らす妻は今月、夫の入国と滞在を認めるようイスラエル最高裁に提訴。家族を引き裂いた国家の扉が開く日を待ち望んでいる。

 「こんなに苦しむと分かっていれば結婚しなかった」。テルアビブ近郊の自宅で、妻イラニットさん(36)はこう言って涙ぐんだ。夫ハッサンさん(41)との間には、長女ベルちゃん(1)がいる。父親の顔を忘れないよう、インターネット経由のビデオ電話に向かうのが日課だ。

 「私は兵役にも就いて国に奉仕してきた。それなのに……」。イラニットさんの怒りは収まらない。

 イラニットさんは、両親が60年代にイランからイスラエルに移住したイラン系ユダヤ人。流ちょうなペルシャ語を話す。05年夏、旅先のトルコ・イスタンブールで、イランから働きに来ていたハッサンさんと出会った。ハッサンさんはイスラム教徒だが、「宗教の違いなど関係ない」と意気投合。06年春に同地で結婚した。

 イラニットさんは結婚を前に、イラン人男性との婚姻についてイスラエル内務省に相談していた。必要書類を提出して審査を受ければ滞在許可が下り、4年後には市民権を得られるはずだった。

 ところが、挙式後の申請は却下され、昨年春に再び申請しようとすると、「時間切れ」だと拒否された。再申請の直前に国会で、イスラエルと敵対するイランやレバノン、シリア、イラクの国民にイスラエルへの入国を禁じる新法が可決、成立したからだ。

 「敵国」から妻を迎えたハッサンさんは、治安当局による身柄拘束を恐れ、母国に戻れないでいる。トルコ滞在ビザの失効後もイスタンブールに残り、建設現場で働きながら生活している。

 イラニットさんを支援するテオドール・シュバルツバーグ弁護士は「出身国だけで一律に入国を禁じるのは間違いだ」と指摘。「この夫婦にはイスラエル以外に安心して住める場所はない」と訴え、人道的な観点からも夫の入国を認めるべきだと訴えている。

 【ことば】ユダヤ人

 イスラエルの帰還法は「ユダヤ人の母親から生まれた者、またはユダヤ教に改宗した人」と定義する。世界中に散らばる人口は約1300万人(07年)。イスラエルに約540万人、米国に約530万人がいる。欧州のほかモロッコやイラク、イエメンなどアラブ諸国にも住んでいる。イスラエルは帰還法に基づき各国のユダヤ人を受け入れており、昨年はイランから約200人が移住した。
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080730-00000002-maip-int

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アメリカの覇権的プラグマティズム

テーマ:東アジア:朝鮮半島・中国・台湾・ロシア

これは、アメリカの通常の外交方法であるが、一見ご都合主義に似ているが、そうではないだろう。アメリカの覇権主義の一環としての、表面的なご都合主義である。思うに、ここには、アメリカ外交のプラグマティズムがあるように思える。そう、覇権のための戦略があり、それに基づいて、「ご都合主義」的に行動していると思う。


米委員会、帰属先「韓国」に戻す=ブッシュ大統領、竹島問題に介入

7月31日8時33分配信 時事通信

 【ワシントン30日時事】米政府機関の地名委員会が竹島(韓国名・独島)の帰属先を「韓国」から「主権未定」に変更した問題で、米国家安全保障会議(NSC)のワイルダー・アジア担当上級部長は30日、「現時点では、変更には正当な根拠がない」として、帰属先を「韓国」に戻す決定が下されたことを明らかにした。
 同部長によると、地名委員会による帰属先変更に関して韓国政府が「極めて高いレベル」で米政府に接触し、見直しを要求。これを受けてブッシュ大統領がライス国務長官に再検討を指示し、帰属変更が覆された。韓国の聯合ニュースによれば、ブッシュ大統領は同ニュースとのインタビューで「すべての紛争は韓国と日本の間で解決されなければならない」と語ったという。
 地名委員会による帰属先変更は韓国で大きな問題となっており、韓国政府は8月6日にソウルで行われる米韓首脳会談で取り上げることも検討していた。ブッシュ大統領は訪韓を前にこの問題に介入、韓国に配慮を示した形だ。 
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080731-00000031-jij-int


2008年07月30日(Wed)▲ページの先頭へ
脱構築主義とプラトニック・シナジー理論:特異性の展開としてのMedia Point
今は余裕がないので、以下、bloghiro-dive氏が述べていることについて、少しコメントしたい。
 bloghiro-dive氏の視点は、私見では、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)を理解しようとするのではなく、彼の理解するデリダの脱構築主義に則り、PS理論を裁断しているものと考えられる。
 つまり、構築する行為は、可能性の縮減であるから、脱構築主義に劣っているというような発想だと思う。
 ここで一点だけ言うと、デリダは同一性システムにおける決定不能性を取り出して、脱構築=解体するわけであるが、実は、決定不能性の根拠は、特異性ないしは特異点である。それは、後期デリダは明確に述べている(『死を与える』)。
 しかしながら、PS理論は、この特異性(単独性)を掘り下げて、超越性と同一性とが交差する点(Media Point)まで、いわば、深化させたのである。ここで、特異性=不連続的差異が、超越的差異共振性であることが仮説されたのである(当然、PS理論は、仮説である)。
 そして、ここから、単に脱構築ではなく、新たな構築が可能になったと考えられるのである。つまり、ポスト脱構築主義である(もっとも、的確に言えば、トランス脱構築主義である。何故なら、新しい構築とは、脱構築主義を包摂していると考えられるからである。脱構築主義が前提になければ、新しい構築は古くさいものであり、偽物、紛い物である。)。
 bloghiro-dive氏は、デリダの脱構築主義を教条主義的に受け取り、それを絶対化(ドグマ化)して、それ以外の可能性を裁断的に否定している考えられるのである。
 最後に一言いうと、bloghiro-dive氏の文体が魔女狩り的になっているのに気づかれないだろうか。これは、哲学を行う人間の文体とは正反対と言わなくてはならないだろう。

p.s. また、以下の引用の最後の方の、仮説を否定したり、可能性を云々したりしている箇所は支離滅裂である。

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「差異を自己理論に担保できていると思い込んでいるが、理論化している時点で抹消される可能性に無頓着なのを考えれば、いかにその理論が自己瓦解しているか理解できるだろう。「これを簡便に取り扱うために、Media Pointという「概念」を構築した。で言う、Mediaとは、「媒体」の本質、つまり、「Aであり、Bである」状態を示し、結局、「即非」状態のことである 」とは、この理論の孕む根本問題を明白している。言わずとも構築しているわけだ。その代償が可能性の縮減化であることはいうまでもない。理論とは構築することで、別の理論の可能性を縮減するのだ。このハーバーマスがデリダと何十年も拘った部分に無頓着なのだ。知らないのであろう。「Media Pointという「概念」を構築した 」と自信気に述べる部分は嘲笑か沈黙のいずれかしか選択できないだろう…。あまりの無知蒙昧と無頓着、分析力に欠く点で。東洋哲学であれ、アフリカ哲学であれそんなものは仮説でしかない。可能性としてあるだけである。デリダが言うように可能性としてのみ妥当性のあるアクチュアリティーが存在する。」
http://ameblo.jp/bloghiro-dive
/entry-10121507312.html
差異と反復それでも差異と反復/言論闘争の時代


2008年07月29日(Tue)▲ページの先頭へ
感謝、感謝、感謝:日本哲学創造へ向けて
以下の批判は、ほとんど爽快に読ませていただきました。私は感謝しています。私の論への批判は、確かに、ある視点では、その通りだと思いました。しかし、私は反論を書く前に、視点が異なるのだから、並行論になるだろうと予想していましたが、やはりその通りです。
 でも、はっきり言ってこんなに爽快な気分になったことは、久しぶりです。bloghiro-dive 氏が私の「暴論」に誠実に批判・否定していることに、感動すら感じました。ほんとうに感謝したい気持ちです。
 そう、日本において、哲学・理論において、真の議論・対話はほとんどなかったのではないかと思います。とりわけ、戦後以降、単に西洋文化の受け売りを営為にしていたと思います。そのようなことを考えると、今回の真摯な反論・批判・否定は、画期的ではないかと思います。私はいわば哲学の素人ですから、哲学の玄人からの真摯な反論は大歓迎です。
 とまれ、とても愉快です。

* 誤謬を強要する者…renshiの抱える「思い込み」
http://ameblo.jp/bloghiro-dive
entry-10121402737.html
* 無根拠への批判…renshiの過ぎ去ろうとしないもの
http://ameblo.jp/bloghiro-dive/
entry-10121101405.html

差異と反復それでも差異と反復/言論闘争の時代


構造改革から新構築経済へ:ポスト・モダンからトランス・モダンへ:官僚制脱構築&国民経済新構築主義
ポスト・モダンは、同一性主義を脱構築して、解体した。いわば、不連続な差異が出現したと言える。しかし、デリダの脱構築主義には、不連続な差異を共振・共鳴させる思想が欠けているのである。
 ということで、PS理論から、ポスト脱構築主義として、新構築主義reconstructionismを提唱することができよう。
 政治経済で言えば、構造改革から、新構築創造への転換である。それは、これまで述べたように、資本差異共振(共鳴)主義である。差異共鳴共同体の創造である。

p.s. 結局、小泉構造改革とは、官僚体制を強化して、国民生活をバラバラにしたという点では、結果的に、不連続的差異化であったと言えるのではないだろうか。この不連続的差異を共鳴・共振させる新構築主義が今や求められているのである。

p.p.s. とは言え、官僚体制という同一性主義が残っているのであるから、官僚体制の脱構築主義は必要である。だから、官僚体制脱構築/国民経済新構築主義と言わなくてはならない。


全国各地から強烈な放射状雲と赤焼け現象のレポートが続いている。しかし、前駆微震レポートが少ないの
テーマ:自然災害・人災:台風・地震・津波・温暖化

昨日、丹沢山塊の上の西空が異様に鮮やかな朱色の夕焼けで染まっていた。これが、以下で言われる「赤焼け」ということか。
 思えば、亡祖母が関東大震災の起った日の朝、空が真っ赤に染まっていたと、その光景をありありと思い出すようにして、私に語ったことをおぼえている。

参考:帯電エアロゾルと地震
http://www.ne.jp/asahi/ecodb/
yasui/MinusEarthQuake.htm
http://www.e-pisco.jp/index.html
http://homepage2.nifty.com/
syounan_iku/x01.html
 
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★ 2008年7月29日 火曜日 、7時半更新

 今朝も猛烈級体感、昨日あたりまでに大地震が発生すると予想していたが、まだ未発で、まるでスマトラ大震災直前の様相を示している。
 全国各地から強烈な放射状雲 と赤焼け現象のレポートが続いている。しかし、前駆微震レポートが少ないので、日本列島直下型ではないかもしれない。桜島の噴火だけで、このように強烈な宏観が続くとは考えにくく、やはり、これから巨大地震が発生すると確信している。

 なお台風8号が台湾から中国内陸部に向かっているが、現在起きている強烈な耳鳴りや赤焼けとの関連が、どの程度あるか? このコースの経験則が少ないため、判断できにくくて困っている。
 台風は強い負圧により、地殻を吸い上げ、帯電エアロゾルを多量に放出すると思われる。これが赤焼けの原因になる可能性があり、強烈な耳鳴りの原因ともなる。今回の前兆は、前駆微震がないものの、蛇やミミズなど生物前兆が激しく、後は電磁波異常伝播を注視して、震源を予想しようとしているが、非常に分かりにくい伝播が続いている。九州付近については桜島噴火で説明が可能だが、北海道北方の異常が分かりにくい。ここに巨大地震が起きる可能性が強いと思っているが、一向に結果が見えない。
 また巨大地震前に特有の気象擾乱が頻発しているが、日本海側や茨城、神戸など、全国各地に散発していて、これも分かりにくい。

 JA7HOQが、【C夕焼レポが多いが地下からの地球ガス、エアロゾルが多い場合、地震と深い関係のあり、夕焼の色は特有な色を呈する。今回の夕焼はこの色調を含んでいたのだろうか?? 直接、見ていないので判断は出来ないがサイトのUP写真の色は地震直前の色とは違うような気がする。明日、関東でM5.5以上が起きなければ、世界中で毎日見られる、普通の夕焼と云う事になる。局地的大雨、最近にない発雷、更に上空の巨大放電(ジェット、スプライト等)の多発、突風、レーダーでた捉えた降水ナウキャスト、北のH16hpaと南のH14hpaに挟まれた梅雨前線の予想外の大暴れ等があった。「ミー散乱」と呼ばれる、比較的大きな粒子による散乱が関与しておリ、日中の気温などにより大気中の水蒸気量やダストが多くなって、散乱が強くなったとも思われる。繰り返すが、明日、関東で起きなければ、気象的要因、巨大放電等によるものと考えられる。「赤い月」も地震前兆の場合は確かにあるがそうでない場合は多い。】

 と書いているが、筆者の過去30年以上の観察経験から、この判断は明らかに誤りである。小林氏は既存学説の権威主義に染まった方法論が好きなようで、串田氏と同じく先進的な機械や高度な技術的操作と分析だけが科学だと思いこんでいるようにさえ思える。ありふれた日常的観察や宏観現象を軽視しているのではないか? 当初は筆者の耳鳴り予知にも強い否定的見解を持っておられた。戴さんや梶さんがいなければ、いまだに信じていないだろう。仙台高専の管理職や日本無線協会の教職を勤めておられたわけだから、アカデミー学説を否定しようものなら、ただちに追放されるシステムのなかにおられたわけで、食っていくためにはやむをえないとご同情申し上げる。

 しかしながら、既存科学、学会の公式見解というものは、本質的に高度に体制的なものであり、権威主義の利権と結びつき、学者たちの名誉や利権に貢献しないアマチュアの観察・考察が取り上げられることはありえないものだ。それが、正しいか誤っているかなど何の関係もなく、それが「自分の栄誉や利権に、どれほど利用できるか」だけが、アカデミーに承認される基準となるのである。
 アマチュア研究者が、どれほど地震予知を成功させても、それがアカデミーに評価されることなどありえない。彼らは、アマチュアが成果を上げるほどに、それから目を背け、見ないふりをしてみせるのである。自分たちが権威・利権のために莫大な血税を獲得し浪費して積み重ねてきたものが、どれほど愚かな虚構にすぎなかったか、自分で思い知ることが怖くてしかたがないのだ。無視することだけが、彼らの砂上の楼閣を守ることになる。
 過去40年以上、1兆円の税金を使って「地震予知」を研究し、ただの一度も成功していない連中が、正確ではないにしても、日常的に地震接近を確実に指摘しているアマチュア研究者を、「起きる起きると言い続けていれば当たるさ」と愚弄する、世にも陳腐滑稽な構図になっているのだ。

 この意味で、我々は鍵田忠三郎氏の薫陶を受けて過去30年近く、地震雲の観察を続け、大きな成果と絶対的な確信を無数に積み上げてきているわけで、だからこそ、誰にも評価されない地震予知を続けてこられるわけだ。アカデミーが評価しないのでなく、我々がアカデミーを相手にしないのであって、真理を真摯に追求する人たちだけを相手にしているのである。

 「赤焼け現象」について、最初に報告したのは、ネット上では、おそらく1998年頃、筆者によるもので、当時、地震前兆としての赤焼け現象を取り上げたものは他に存在しない。ところが、上の地震情報リンクの「60年前」をご覧にされば、そこに、すでに70年前に、赤焼け、耳鳴りをはじめ、筆者が「発見」したと思いこんでいた、ほとんどの宏観現象が記載されていたことに衝撃を受けた。
 つまり、現在、我々が論議している、ほとんどすべての宏観現象は、70年前に出揃い、明らかにされていたし、戴峰さんの前兆解説書(グリーンアロー出版)にも、ほぼ大部分の前兆が正確に解説されている。その出版に尽力されたはずの小林氏が、どうして、宏観現象を否定的に見ているのか理解に苦しむ。本当に戴さんの本を読んで理解したのだろうか?

 「赤焼け現象」のメカニズムは、空間エアロゾルによって、短波長光線が吸収散乱されることである。赤に近い超波長光線は散乱されにくいために通過して赤く見えることになる。したがって、「空が赤く見える」現象の本質は、空間エアロゾルにあるわけで、その多くは水蒸気によるものだが、それだけでは、ほとんど鮮烈な赤焼け現象にはならない。花崗岩から放出された帯電エアロゾルも加わって、はじめて明瞭な発色が起きるはずだ。
 さらに、地下深くの花崗岩が割れはじめて膨大なピエゾ電荷を分離し、再結合しようとするエネルギーが加わる。つまり、もの凄い誘導電荷が発生し、これが上空の粒子を励起し、発光現象が起きることになる。この両者の色が加わって独特の光彩を演出することになる。これが過去数十年、朝夕の赤焼け現象を観察して得られたメカニズムである。

 したがって、「異常さ」を感じ入るほどの「赤焼け」現象が起きたなら、色調を問わず、すべて地震や噴火など地殻変動由来だと確信している。
 権威主義者が問題の本質を分かりにくくして自分の権威を神秘化したがるるために難解な言葉を多用する傾向があるが、誰も知らない科学用語など使う必要はない。「地震の前には空が赤く見えるようになる」これが、空を毎日観察している者が共通して導き出す結論であり、小林氏の指摘は、科学的な装いを持ちながら強い違和感を覚える。これは耳鳴りを否定していたときの論調と同じで、誰にでもできるありふれた宏観観察の価値自体を否定する権威主義者の立場である。

 ちなみに例外がある。台風の接近によって、強い赤焼け現象が起きることがある。これは大きな負圧が地殻を刺激して帯電エアロゾルを吸い上げるか、風による摩擦電荷が関係しているかもしれないが、まだ、そのメカニズムは分かっていない。地震に似た前兆赤焼けが起きるが、地震は起きないことが多い。もちろん噴火前兆でも激しい赤焼けが起きる。
http://www1.odn.ne.jp/
~cam22440/yoti01.htm

東海アマチュア無線  地震予知研究会


「四次元」ないしは「五次元」は何処にあるのか:心界が空間四次元ではないのか
ウスペンスキーの著作には、四次元の問題が提起されている。確かに、一般には、空間は三次元である。いったいどこに空間四次元があると言えるのだろう。
 今は思いつきを言うに留めるが、空間四次元は、実は簡単に示唆できると思うのである。それは、端的に、心の中に空間四次元があると思うのである。心は知性や精神や感情や欲望等があるが、また、想像力や直感力等がある。とりわけ、想像力が空間四次元に関わると思えるのである。端的に言えば、心の世界が空間四次元である。外界を探していては、見つからないだろう。

p.s. 相対性理論であるが、時間が四次元になっている。時間と心界は関係するだろう。思うに、-1が三次元空間であり、+1が四次元空間であり、虚軸界(イデア界)が、五次元空間ではないだろうか。Media Pointを数えると、六次元空間となるだろう。

http://www12.plala.or.jp/
ksp/welcome/what4dim/


構造改革から新構築経済へ:ポスト・モダンからトランス・モダンへの進展
ポスト・モダンは、同一性主義を脱構築して、解体した。いわば、不連続な差異が出現したと言える。しかし、デリダの脱構築主義には、不連続な差異を共振・共鳴させる思想が欠けているのである。
 ということで、PS理論から、ポスト脱構築主義として、新構築主義reconstructionismを提唱することができよう。
 政治経済で言えば、構造改革から、新構築創造への転換である。それは、これまで述べたように、資本差異共振(共鳴)主義である。差異共鳴共同体の創造である。

p.s. 結局、小泉構造改革とは、官僚体制を強化して、国民生活をバラバラにしたという点では、結果的に、不連続的差異化であったと言えるのではないだろうか。この不連続的差異を共鳴・共振させる新構築主義が今や求められているのである。


ポスト・モダンとトランス・モダン
以下、私の検討問題の叙述
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10120842370.html
に対して、批判が寄せられたので、私なりに、建設的な考えを述べて答えたいと思う。
 かなり詳細な批判なので、以下、部分ごとに分けて、答えたいと思う。なお、私の考えは、紫色の文字で記述したい。

*************

フッサール…礎としての哲学の再開、キェルケゴール補足、狂気肯定への批判
・・・・・

「だから、言語とは、同時に、非言語であるという立場が必要ではないだろうか 」と、昨日近代理性への狂気の織り込みは「見当違い」だと批判した人が反論?されています。当該記事は個々人でリンクから飛べるの読んでもらうとして、重要なのは最初に挙げた文章です。言語に言語と非言語という様態を捉えているのです。何度もいいますが、このような二項対立を生むことそのものが無根拠な形而上学的暴力に満ちているのです。昨日批判した理性に対する狂気と同じことです。非言語といい狂気といい、それらはアンチテーゼの要素でしかない。それはそもそもが理性や言語のなかに可能性として包含されているのであって、それが顕在化を主張することはステレオタイプな別の形而上学を創造しているに過ぎない。デリダ=サール論争でも述べましたが、言語や理性そのものが無根拠性を有しているのであって、当然既存の体系は自己瓦解する要素は包含しているのです。しかし、それは非、だとか反という意味の二項対立を生むものではない。もっと根源的な位相の可能性の問題です。言語を脱構築したときに発現するのは非言語でもないし、近代理性の場合は狂気でもない。ただ、無根拠であるというトポスが開かれるだけであって、そこに構築する行為とは作為的な形而上学的暴力です。だから、デリダはフーコーに「理性には理性」をと諫めるのであって、二項対立そのものの危険な無邪気な発想は、ニーチェやハイデガーの陥った罠が待っているだけだというのです。そもそも、この人は前回も指摘した通り「テーゼ」というものを肯定するのですが、この時点である主張を根拠化するので二項対立に逡巡することもないのです。テーゼとは形而上学的発想そのものなのですから、当然のように可能性を逸脱した単純な二項対立に陥るのです。例えば、理性に対して狂気をもってきても、狂気以外のものも可能性として残存するのです。理性でも狂気でもないという様態が。この可能性のトポスに無頓着であるから無根拠性を根拠として打ち立ててしまうのです。

この反論ですが、私は、確かに、言語と非言語と言いましたが、それは、二項対立ではありません。それは、対極性、極性ということです。弁証法ではありません。ここで、批判者は短絡に陥っていると考えられます。私がいう言語と非言語とは極性の関係であり、二項対立から洩れる第三のものを包含しています。「理性でも狂気でもないという様態」は正に私が言わんとしたことで、この点で、批判者と私は一致できます。

*************

また「しかしながら、問題点は、特異性と一般性の関係である。言語は一般性となり、特異性を否定する。 」といっていますが、言語が特異性を否定するとはいえない。行為遂行的言語における一般化の傾向は認めるとしても、クリプキやクワインのいうように言語体系そのものが証明不可能なことから一般化と特異性の関係も崩壊する。当然、デリダの「散種」が導くように言語の一般化そのものが言語そのものによって簡単に瓦解するし、ソシュールがシニフィエの恣意性をいうとき言語体系が必ずしも一般化に傾倒しているという帰結は導けない。つまり、言語体系に一般化と特異性という視座をもち出すことがそもそもアプリオリに二項対立を許しているのであり、そこに何ら根拠はないということです。そして、それを形而上学的発想というのです。脱構築が瓦解を許しても構築を許さないのは、この人のようにすぐに安易な二項対立の可能性を発現させるからです。そして、このようなあり方をデリダは形而上学的暴力というのです。

確かに、「言語が特異性を否定するとはいえない」という指摘はその通りだと思います。私は、この検討問題において、大雑把に言っているのであって、その点を理解していただきたいと思います。確かに、批判者の指摘するように、厳密に言えば、一般性と特異性の二分化は問題があると思います。厳密に言えば、デリダの言うように、すべて一般性は崩壊すると思います。しかしながら、常識の範疇で言えば、一般性は成立していると考えられます。これがなければ、生活は成立しないと思います。例えば、眼前のグラスをごみ箱と言ったのでは、確かに、理論的には、可能ですが、生活は成立たないと思います。その点で、私は一般性=同一性を評価しています。ですから、一般性=同一性と特異性の二項対立ではなく、極性はあると思います。

***********

また、「言語がなければ、直感は明晰にならない。そう、これは、数式に似ているだろう。数式により、明確化されるのである 」といっていますが、オースティンからサール、デリダ、クリプキ、クワインに至る論争で明白になったように、必ずしも直感=行為遂行が言語によって明白になるのではないということです。行為遂行的言語、発語において必ずしも言語はその要請される行為遂行を表現しないのです。喉が渇いていて誰かに「水!」といい、誰かが「そうか水か」と事実確認的言語として理解したり、ガムを渡すことの可能性は否定できないのですから。それから言語と数学的公理系は全く別のものであるという認識が欠けています。以前にも述べましたが哲学が数式でその意味を代理にするのは便宜上のことであって、根拠のあることではありません。しかも、それはオリジナルと再現前、代理の関係を構築する点で悪しき形而上学的発想なのです。数学的公理系による表現がより明晰に伝聞されるというのは神話的であって、ゲーデルが「数学的公理系を数学的定理によって証明するのは不可能だ」と結論付けるように、数学的な表現に妥当性などないのです。この人の誤謬は言語にしろ、数学的公理系にせよ、それらがアプリオリに行為遂行的様態を明晰にするというプラトン的な古い形而上学を前提にしているところです。こんなものは、デリダやハーバーマスの論争に見ることができるように、取り払うべき発想であっても、推進するべき発想ではないのです。なぜなら、どの道このような二項対立軸で思考することは可能性の縮減化に向かうからです。この人のいう「テーゼだと…」という表現が示すように、構築への意志は何よりも危ういのです。

批判者の言わんとしていることは理解できます。言語と行為遂行性とのズレを指摘していますが、それはその通りだと思います。私が言っているのは、極く常識的な素朴な事態であり、厳密なことではありません。哲学的な厳密性を言えば、批判者の言う通りだと思います。
 美術で言えば、デュシャンの『泉』は、素朴には、便器でありますが、見方によって、「泉」となります。視点の問題が確かにあります。
 また、「構築への意志」云々ですが、確かにその通りです。ここで、ポスト・モダンと私や海舌氏の提唱するトランス・モダンの違いがあると思っています。ポスト・モダンは、デリダに象徴されますように、すべて相対化されて、形而上学は批判されます。しかし、PS理論は、いわば、ポスト・ポスト・モダンを志向していて、あえて言えば、新しい形而上学の構築を目ざしていると言えます。
 ですから、「構築への意志」があるというのはその通りだと思います。

http://ameblo.jp/bloghiro-dive/
entry-10120866669.html

差異と反復それでも差異と反復/言論闘争の時代


2008年07月28日(Mon)▲ページの先頭へ
言語空間について:その2:同一性主義言語空間とMedia Point言語空間
言語空間という呼び方は、直近の検討問題を除いて、それまでしなかったものであるが、私自身の最近の経験から、そのように呼ぶことができる領域があると思えたので、そのように暫定的に命名して検討したいと考えている。
 プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)から言うと、Media Point Space(以下、MP空間)が端的に存するが、言語空間とは、それに通じるものであるが、それに包括・包摂されるものと思われる。
 しかしながら、言語空間は、それ独自の空間であるように思えるのである。確かに、感性空間があるだろう。美的空間があるだろう。しかし、言語空間は、それに重なる部分があるが、やはり、それとは異なる空間である。この独特と思われる言語空間について、さらに考察を続けたいと思う。
 まず、イデアと言語空間との関係を見るべきであろう。イデアとは、有り体に言えば、精神身体現象であると思う。そこには、言語はあるのだろうか。ここで、ロゴスの問題が関係してくるだろう。PS理論では、イデアは、(+i)*(-i)と表現される。これは、差異と差異との共振・共鳴関係を表現している。ここに言語が入るだろうか。
 今は思考実験的に言うだけであるが、先に述べたように、イデアは、Media Point において、原言語(プロト言語)になると考えられる。そして、それは、欲望となるから、Media Pointの発現によって、言語が形成されることになるのではないだろうか。以下は、まったくの思考実験であることをお断りしたい。
 +iは原同一性である。否、根本的には、一つの差異、自己差異である。そして、-iも一つの差異であるが、他者差異である。両者は極性を形成しているのであり、それがイデアと考えられるのである。このイデアは同一性ではなく、差異極性としてのイデア(造語して、差極イデアとする)である。
 差極イデアは、Media Pointにおいて、同一性(物質や自我)を形成する志向性をもつことになる。【同一性の表記は微妙である。私は先には、-1としたが、+1が同一性になると考えられないことはない。この問題は後で検討したい。】
 この同一性とは、当然、自己差異+iが他者差異-iを否定して形成されるものであり、(+i)*〔-(-i)〕 →-1となると考えている。-1は自我、すなわち、同一性自己である。では、言語は何か。
 思うに、意外に、+iが言語ではないだろうか。他者差異-iに自己差異+iをいわば、投影して、鏡像が生まれ、自我像が生まれるだろう。ならば、自己差異+iが言語であるということになる。思うに、以前から思っていたことであるが、+iは原形相になると思われるのである。ここに、言語というか、原言語が存しているのではないだろうか。
 整理すれば、自己差異+iが原形相=原言語(プロト言語)ということになる。そして、それが、自乗して、-1が生まれ、それが、現象する言語ではないのか。
 もっとも、同一性主義が発生する前は、差異共振性が存していたから、言語-1に対して、精神身体現象の+1が対峙して、それなりの平衡を形成していたと考えられる。
 ここで、同一性主義である近代合理主義について言えば、それは、端的に、-1に閉鎖された言語である。差異共振性=精神身体現象である+1を排除しているのである。この近代合理主義言語空間とは、私が考える「普遍」的言語空間のほんの一面に過ぎない。【そう、ドゥルーズが内在平面と呼んでいたものをここで想起する。しかし、内在平面とは、同一性と差異とが連続化している空間であり、それは、私が想定する「普遍」的言語空間ではない。】
 問題は同一性主義言語空間と「普遍」的言語空間である。後者は、PS理論的には、Media Point 言語空間(以下、MP言語空間)と呼べるように思われるのである。しかしながら、MP空間には包摂されるものとして、MP言語空間があると思われる。
 だから、同一性主義言語空間<MP言語空間<MP空間 と表記できるように考えられるのである【包摂関係を<の記号でとりあえず表記した】。
 ここで、問題の核心に踏み込もう。上記の説明では、言語とは、そもそも同一性である。つまり、差異を否定したものとしての言語なのである。ただし、正確に言えば、自己差異の肯定であり、他者差異の否定ということである。
 しかしながら、MP言語空間(「普遍」的言語空間)はそうではない。ここが微妙な点である。私が直感するMP言語空間とは、他者差異を肯定した言語空間なのである。これをどう考えるべきか。
 端的に言えば、MP言語とは、他者差異を肯定した言語であるのである。これはいったい何なのか。それは、言い換えれば、即非的言語であるということになろう。具体的に説明すれば、例えば、「山」という言葉であるが、それは、同一性主義言語では、辞書が説明するものであるが、MP言語では、「山」は全く異なる。それは、ヴィジョンやイメージ等を含んでいるのである。だから、想像的言語と言ってもいいだろう。だから、文学的言語、とりわけ、詩的言語に似ていると言えよう。あるいは、「あいまいな」言語と言ってもいいだろう。例えば、「山」は、空と接しているとか、川と「会話」しているとか、云々である。つまり、他者との共振が可能な言語なのである。アニミズム的言語(「言霊」)と言ってもいいだろう。
 整理すると、MP言語には、同一性と差異とが共立しているのである。以前述べたように、差異が同一性を包摂していると言えるかもしれない。
 以上まだまだ不明確であるが、MP言語とはそのようなものだと考えている。そう、明確にしておかなくてはならないのは、同一性と差異との共立と言ったとき、そこには、垂直的な差異、超越的な差異も含まれていることであり、デリダの哲学のように超越性を排除していないのである。
 さて、最後に、整合化させないといけない。以上では、言語は、同一性主義から発生すると言い、MP言語は同一性と差異との共立であると言った。それでは、齟齬が生じている。
 これは、この問題の最大の核心ではないだろうか。非常に微妙な難しい問題である。ここでは、示唆に留めたい。
 思うに、以上の議論は、以前の私の言語観とは異なっているのである。私は、差異共振性が言語の原点であるとそれまで言ってきたのである。明らかな矛盾である。
 結局、以上の議論は不十分となるのかもしれない。ここで、簡単に言うと、まず、差異共振映像があり、この映像に対して、自己差異+iは、観念形成を行う。それが、言語となるのではないのか。この差異共振映像とは、いわば、他者差異である。それに対して、自己差異+iはそれを否定するようにして、自乗化して、同一性自己を形成する。このときに、言語も発生すると考えられる。これが、同一性主義言語である。
 だから、言語は発生的には、差異共振映像をなんらかのスプリング・ボードにしているのである。そう、差異共振映像を同一性主義の枠組みを切り取るように思えるのである。そして、切り取った後の残りは、排除するのである。つまり、同一性のスポットを差異共振映像に投影して、その光の部分を取り出して、残りの「影」を排除するように思えるのである。
 整理すると、言語の基盤(前言語)には、差異共振映像があるのである。それを同一性で「合理主義」化して、同一性主義言語を構成すると考えられるのである。
 この視点から見ると、私が言うMP言語空間とは、差異共振映像である、言語の基盤(前言語)を肯定して、同一性言語と共立させた言語空間であるということなるように考えられるのである。換言すると、差異共振映像を同一性主義言語に浸透させたものと言えるかもしれない。
 しかし、正確に言えば、差異共振映像に包括された言語空間ではないだろうか。あるいは、差異共振映像という土台に浮かんだ同一性を包摂した言語空間かもしれない。ここで、ニーチェの用語を借りれば、差異共振映像がディオニュソスであり、同一性主義言語はアポロであり、比喩的言えば、アポロとはディオニュソスの大地ないしは大海に浮かんだ天空のようなものかもしれない。ニーチェのアポロとディオニュソスを二元論的に分離させるのは、誤りであると思う。『悲劇の誕生』をよく読めば、ディオニュソスを源基として、アポロ空間が浮上することがわかり、それらは、一体として見ることができるのである。【ドゥルーズのニーチェの見方は両者を分離させており、この点で凡庸だと思う。】
 今ここで簡単に、暫定的な結論を出しておくと、MP言語空間とは、MP空間を母体とした言語空間である。先に述べたように、それは、言語・且つ・非言語の空間であり、同一性主義の二項対立空間とはまったく異なる言語空間であると言えよう。ニーチェでまとめれば、ディオニュソス的アポロ的言語空間ということになろう。


検討問題:言語空間について:言語と非言語:Media Pointの原言語性
検討問題:言語空間について:言語と非言語:Media Pointの原言語性

テーマ:文字・言語・文化

後で検討したいが、一言いうと、問題は、言語とは何か、言語の本質とは何かである。これは、当然、難問であるが、理論的に解明する必要がある。
 あるいは、人間にとって言語とは何か、である。初めに言葉(ロゴス)ありき?
 知と言葉は密接に結びついている。直感が最初にあっても、それを明晰にするのは、言語である。言語がなければ、直感は明晰にならない。そう、これは、数式に似ているだろう。数式により、明確化されるのである。だから、記号の問題でもあるが、取りあえずは、言語に限定したい。
 直感では、言語は情報、乃至は、情報子である。観念構造体である。この観念構造体は、人間の精神現象(精神身体現象)から生まれたものと考えられるが、根源的に、そこには、原言語(プロト言語)が存していると考えられる。そうすると、チョムスキーに近い発想になるが、構造的なシンタックス論には、与しないのである。それには、批判的である。
 思うに、やはり、秘密はMedia Pointにあるのではないだろうか。ここでは、観念(抽象)と具象とが即非的に一致するだろう。この即非性が原言語かもしれない。
 この即非性が欲望としてあり、それを満たすために、実際の言語が必要になるのではないだろうか。音声言語であれ、文字言語であれ。【p.s.  つまり、言語欲望があるということになろう。食欲や性欲等があるだけでなく、言語欲があるということである。思うに、この言語欲を、健全に満たすことができないと、非合理主義(狂気)に転化するのではないだろうか。近代合理主義/近代的自我は、言語欲を、近代科学や物質主義的な方向に向けているので、本来のMedia Pointの言語欲を十分に満たすことはできないのではないだろうか。だから、非合理主義が発生するのではないのか。資本主義も同一性価値中心主義ならば、非合理主義になるのではないのか。サブプライムローン問題のように。】
 思うに、Media Pointとしての原言語は、空虚・穴・「無」として、存するのではないだろうか。それを満たす欲望があるのではないのか。また、直感ないしは直観とは、原言語の映像ではないだろうか。
 しかしながら、問題点は、特異性と一般性の関係である。言語は一般性となり、特異性を否定する。Media Pointは特異性であるから、言語を志向しつつ、言語を否定するのではないか。言語・即・非言語志向があるのではないか。
 だから、言語とは、同時に、非言語であるという立場が必要ではないだろうか。有り体に云えば、言語とは、Media Pointであり、且つ、Media Pointではないということではないのか。
 今はここで留める。


光と水からエネルギー創造:古代の叡知への科学的回帰?
光と水からエネルギー創造:古代の叡知への科学的回帰?

テーマ:平和・環境・農業・エネルギー・政経問題

水からエネルギーを獲得するという記事を以前紹介したが、以下の記事も興味深い。
 光と水からエネルギー創造とは何か、天地創造(『創世記』)を想起する。そう、それは、相応しているのではないか。神霊が水の上を漂っていて、神霊の息吹が水と反応して、天地創造が為されたのである。神霊の息吹とは、風であるが、火と見ることができよう。火と水の共鳴であり、正に、ダビデの星であり、また、陰陽、風水の世界である。

p.s. 次も興味深い。

* 宇宙太陽発電

p.p.s. 正確に言うと、火と水の共鳴としてのエネルギー創造ということと、光と水からのエネルギー創造は異なる。何故なら、天地創造では、そこから光が発生したからである。
 もっとも、神霊の元光と見れば、いいのかもしれない。肝心な点は、二つの対立する要素が結合して、エネルギーが発生するということである。

****************

光によって水から電気エネルギーと酸素と水素を得る。


これが実現可能になりそうだ。


人工光合成という技術。


興味のある方は以下をご覧あれ♪

http://www.aist.go.jp/aist_j/press_
release/pr2001/pr20011206_2/
pr20011206_2.html

光触媒と人工光合成
http://ameblo.jp/nohohonkoubou/
entry-10119157160.html

そういちの平庵

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参考:
天地創造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
曖昧さ回避 天地創造 のその他の用法については天地創造 (曖昧さ回避) をご覧ください。
星の創造。ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画より。
星の創造。ミケランジェロ によるシスティーナ礼拝堂 の天井画より。

天地創造(てんちそうぞう)とは、広義には神話 における世界の創世 全般を指すが、一般には旧約聖書 『創世記 』における世界の創造のことを指す。宗教絵画などでよく題材となる。
天地創造の流れ

ユダヤ教・キリスト教の聖典である旧約聖書 『創世記 』の冒頭には、以下のような天地の創造が描かれている。

* 1日目 原始の海 の表面に混沌とした暗闇 がある中、神 は光 を作り、昼 と夜 が出来た。
* 2日目 神は空 (天 )を作った。
* 3日目 神は大地 を作り、海 が生まれ、植物 が出来た。
* 4日目 神は太陽 と月 と星 を作った。
* 5日目 神は魚 と鳥 を作った。
* 6日目 神は獣 と家畜 と、神に似せた人 を作った。
* 7日目 神は休んだ。

[編集 ] 2つの天地創造

旧約聖書を批判的に分析研究する学問を旧約聖書学といい、その研究の結果、『創世記』では、2つの立場(信仰)の「天地創造」が併記されていることが明らかになった。

[編集 ] 『創世記』1章1節 - 2章4節前半:「祭司記者資料」

『創世記』1章1節 - 2章4節前半では、創造主をエロヒムと呼ぶ(なお漢訳聖書では「神」と訳し、明治の日本の聖書も訳語を引き継いだ)。 この物語の部分は、祭司記者資料と呼ばれる(頭文字を取りP資料ともいう)。紀元前587年に南王国ユダが新バビロニア帝国 に敗れ、エルサレム神殿 が徹底的に破壊され、その当時の指導者層の人々がバビロニアに強制連行された(これをバビロニア捕囚 という)。規模は、数千人 - 数万人と言われている。圧倒的なバビロニア の神々の宗教(主神マルドゥク )に囲まれ、今までの神ヤハウェ信仰が危機の状態に陥り、民族が自信を失っていた。この様な状況の下で祭司職人(現在祭司記者と呼んでいる)の中から、バビロニアの神話に対抗する形で、自分たちの信仰書を作り出し(創造信仰 )、この危機状況から再び生きる力を生み出していった。

バビロニアの創造物語は紀元前1500年頃に作られたと言われており、この祭司記者たちはその内容を知っていて、それを否定し乗り越えるかたちで神ヤハウェを受け止め直して信仰を記述している。例えば、その神話では、新バビロニアでは極端な階層社会であり、その頂点に立つ王だけが神・神の子であり政治支配の正当化を強めているが、『創世記』では人間は全て神から神の似姿として作り出され平等(みな神の子である)であることが主張され信仰告白されている。このように『創世記』は、素朴な伝承・神話などではなく、当時の知識階層が執筆した宗教書(表現形態は物語ではあるが神学書)である点が世界の他の天地創造物語とは異なる。

[編集 ] 『創世記』2章4節後半 - 3章:「ヤハウィスト資料」

『創世記』2章4節後半 - 3章では、創造主をヤハウェ・エロヒムと呼ぶ(日本では主なる神または神である主と訳されている)。 この物語の部分は、ヤハウィスト(ヤーウィスト)資料と呼ばれる(同じくJ資料ともいう)。以前の学説では、ヤハウィスト(ヤーウィスト)資料は祭司記者資料よりも古いとされてきたが、研究が進み、表現形式・信仰内容も知識文学に近い部分もあり、現在では、上記バビロニア捕囚よりも後代という説が強くなってきている。この場合も、神話というものではなく、知識階層の人々が自分たちの信仰を執筆しており、ヤハウェ・エロヒムと人間に対し深い洞察がなされており、それが現在に至るまで救いを生み出している。

[編集 ] あらすじ

上記の経緯をたどった結果、祭司記者資料の部分ではいくつかの点でバビロニア神話 との類似点が見られる。むしろ、バビロニア神話を含む先行する神話を素材にして、それらを換骨奪胎して、新しい天地創造物語を作り出したというのが実態に近い。以下にそのあらすじを示す。

[編集 ] 『創世記』1章1節 - 2章4節前半

* はじめに(ヘブライ語:ベレシース、beresit)、エロヒムにより天と地が作られた。地はかたちなくうつろで闇が水の面にありルーアハ (日本では聖霊と訳されている)が水面をおおっていた。エロヒムが「光(ヘブライ語:オール、雷の意味もある)あれ」といい、光が作られた。光と闇が別けられた。これによって光が昼、闇が夜と名づけられた。夕があり朝があり第一日となった。
* 二日目は水が上下に分けられて空が作られた。空は天と名づけられた。(後の解釈で雨が降るのは天の上に水が存在するからであるとされる。)
* 三日目は乾いた陸が作られ大地と名づけられ、水は海と名づけられた。地の上に草、種をもつ草、果樹が作られた。
* 四日目は空に2つの大きな光体(ヘブライ語:マオール、発光体の複数形)である、大きい光体と小さい光体と星 が作られ昼と夜をつかさどらせた。
* 五日目は水の生き物である海の大いなる獣と水の全ての動く生き物と翼ある全ての鳥が作られた。
* 六日目は、地の生き物の家畜、這うもの、地の獣が作られた。そして、その生き物をエロヒム(エール の複数形)がいう「われわれのかたちに、われわれをかたどって人をつくり・・」海の魚、空の鳥、家畜、地の全ての獣・這うものを治めさせるため人間の男と女が作られた。

アダムの創造。ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画より。
アダムの創造。ミケランジェロ によるシスティーナ礼拝堂 の天井画より。

[編集 ] 『創世記』2章4節後半 - 3章

この後、別の天地創造物語が始まり、ヤハウェ・エロヒムが地と天をつくって安息した時、…地に植物が生えていないときヤハウェ・エロヒムが土のちり(アダマ)で人(アダム )をつくり、その鼻にルーアハ を吹き入れた記述と食用の植物と命の木 と善悪の知識の木 を植えたこと、女(イシャー)を創造し以降エデンの園 に続く記述となる。

[編集 ] 年代推定の歴史

旧約聖書学では、創世記の記述内容としての「天地創造が起こった年代」は果たしていつだったのかについての推定が繰り返されてきた。

ただし前提として、旧約聖書学では、天地創造物語は信仰書であり、信じている内容を記述しているという事は、全ての学者が認めており、もはや「実際に・事実として、いつ起こったことか、どうか」は、研究・議論されていない。ただし、「当時の人々がいつ起こったと考えていたのか?それはどういう信仰・根拠だったのか?」などは研究されている。

正教会 では西暦で言うところの紀元前5508年のことだとしており、これを元年とした「世界創造紀元 」を用いていた。

1654年 に、英国国教会 のアイルランド 大主教 ジェームズ・アッシャー とケンブリッジ大学 副総長ジョン・ライトフット が聖書の記述から逆算し、天地創造は西暦 の紀元前4004年10月18日〜24日にかけて起こり、アダム創造は紀元前4004年10月23日午前9時と算出し、長らくキリスト教圏ではこの年代が信じられてきた。その他にも天地創造の年代には諸説ある。

* 『タルムード 』 前3760 - 2年
* フラウィウス・ヨセフス 『ユダヤ古代誌』 前5444年
* ユリウス・アフリカヌス『年代誌』 前5500年
* エウセビオス 『年代記』 前5199年
* アウグスティヌス 『神の国 』 前5351年
* ベーダ 『時間計算論』 前3952年
* オットー・フォン・フライジング『年代記』 前5500年?
* スレイダヌス『四世界帝国論』 前3954年
* スカリゲル 『時間修正論』 前3948年
* ペタヴィウス『年代表』 前3984年
* ボシュエ『世界史論』 前4004年
* ペズロン『古代復元』 前5873年
* ガッテラー『普遍史序説』 前3984年、『世界史』 前4182年

[編集 ] 関連項目

* 創造論
* 創造神話
* 世界創造紀元

[編集 ] 外部リンク

* 旧約聖書 創世記 第1章 第1節 - 第31節


執筆の途中です この項目「天地創造」は、キリスト教 に関連した書きかけ項目 です。加筆・訂正 などをして下さる協力者を求めています(P:キリスト教 /PJ:キリスト教 )。
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カテゴリ : キリスト教スタブ | 創世記 | 聖書


2008年07月27日(Sun)▲ページの先頭へ
現象界について:-1と+1の即非様相:物質と差異共鳴精神身体現象:Ver 3
先の検討問題の一部
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10120503495.html
を独立させて以下転載する。

**************

http://sophio.blog19.fc2.
com/blog-entry-19.html

以上の迷惑コメントがあった記事(「メディア界の連結力学・構造について」)は、不連続的差異論を説いていた頃のもので、約三年前のもの(2005年10月07日付け)であったが、それを読み返して、現象界についての発想が浮かんだので、ここで検討したい。
 問題は、以前にも検討したが、-1と+1との関係である。この問題は実に興味深い、いわば、不思議な問題である。
 -1は同一性主義である。それは、自己同一性主義であり、自我主義であり、物質主義である。フッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)で述べたことと関係する。フッサールが批判する自然的態度は、-1の自我主義的見方であるのではないだろうか。
 +1の見方とは、差異共振・差異共鳴の精神身体認識(精神身体はMedia Point的であるが、思うに、精身を造語したい)であるが、通常は、ないしは、ポスト・モダンは、-1と+1とが混淆して、連続化しているのである。【p.s.  -1と+1との混淆は、ドゥルーズの場合に的確にあてはまる。デリダの場合は、そうではないので、陳謝し、訂正したい。デリダの脱構築主義は、微妙なところがあって、不連続的差異論に近いのであるが、超越性の否定を前提にもって、諸哲学において、-1と+1が共存している様相・様態を確認して、-1の同一性システムに対して、+1の差異が並存している事態を提示して、同一性システムを脱構築するものと考えられるのであり、混淆というよりは、同一性と差異との併存と言わなくてはならない。】
 ここで端的に、構想を言うならば、物質現象とは-1であり、精神身体現象は+1である。しかしながら、現代の見方は、前者中心であり、後者は否定・抑圧・排除・隠蔽されていると考えられる。
 ここで、やや迂回して、量子論について言うと、それは、物質同一性-1の近代科学に対して、+1のトランス・モダン・サイエンスを提起しているのではないだろうか。ただし、量子を物質主義的に捉え、イデアとして捉えていないので、不十分と考えられるのである。イデア(対極イデア:正確に言うと、双対イデアか?。四元的イデアということになるし、Media Pointを加えると、五元的イデアとなるのではないだろうか。p.s. 四元性や五元性は、意味深長である。西洋の四大《地水火風》と東洋の五大《地水火風空》や、さらに、物理学の四つの力やDNAの四元性〔一種の双対性ではないか〕を想起させる。後で検討したい。)の共鳴である量子という考えには達していないのである。【電磁波は、結局、イデアでいいのではないだろうか。一般的には、まだ、物質主義的視点で捉えているだろう。イデアとしての電磁波であろう。】
 ということで、現象とは、一般には、-1の物質現象として考えられている。しかし、心的現象・精神現象があり、これがうまく捉えられていないのである。例えば、「気」をどう捉えるのか、ということもあるし、どのように宗教現象、神秘現象を理解するのかということもある。それらを脳生理学的に捉える傾向があるが、それはやはり、物質主義である。
 心的現象は、+1と捉える必要があるだろう。フッサールは『危機』で、-1という自然的態度を還元(解体)して、(⇒)+1の超越論的主観性を説いたと考えられる。ただし、既述のように、フッサールは主観的同一性に囚われていたので、差異共鳴(太極イデア)という考えには達しなかったのである。
 端的に言えば、現象の表層は-1の物質現象であり、現象の深層・実相は+1の精神現象(精神身体現象)であるということになる。そして、-1と+1とは即非様相にあるということになろう。先にバッハ音楽について述べたが、バッハ音楽は、-1の音波を介して、+1の精神現象(差異共鳴現象)が奇跡的に豊饒に表現されていると言えよう【p.s. 波動とは何かという問題がある。そう、エネルギーの問題である。Kaisetsu氏は情報エネルギーと命名していたが、確かに的確である。イデア波動である。これが、音楽の場合、音波に載って伝搬されると言えよう。後で検討したい。】。そして、芸術の感動とは、+1の表現を介して、Media Pointが開いて、イデアに接することにあるのではないだろうか。崇高さとは正にそのように考えられるのである。そう、正に、プラトンの説いた美や善はそのようなものであろう。また、根源的真理はそのようなものだろう。
 さて、ここで、再度、ポスト・モダンについて触れると、超越性(虚軸、イデア性)を否定して、Media Pointを実軸に留めているので、その差異(差延)とは、ゼロに閉塞した+1を意味するのであり、それで、袋小路になっているのである。つまり、虚軸・超越性のもつ開放性がないのである。閉塞された差異と言えるのである。だから、ポスト・モダンは、モダンとトランス・モダンの境界にあると言えるだろう。モダンの縁と言えよう。
 では、構造主義はどう把握できるだろうか。直感では、ほとんど、ポスト・モダンに近いのである。二元対立構造は、言わば、-1の視点から見た+1で説明ができそうである。つまり、物質的二元論(二項対立)の視点から、精神身体現象+1を見ると、二元対立構造が現われると考えられるのである。つまり、即非性のない対立構造である。せいぜい、両義性の構想に留まるのである。【デリダのファルマコンの考えも、これに近いだろう。】
 整理するなら、構造主義は、物質主義-1から差異現象+1を見たものであり、ポスト・モダンはゼロ・ポイント⇒+1の理論と言えようか。そして、不連続的差異論はMedia Pointを捉えた一つのブレークスルーと考えられよう。そして、PS理論は、さらに差異をイデア的共鳴現象と捉えたのである。【p.s. デリダの脱構築理論は、上述したが、不連続的差異論に接近している。ただし、水平軸的特異性としての差異を捉えているので、垂直性が欠落しているために、いわば、三次元にとどまっているのである。】


現象界について:-1と+1の即非様相:物質と差異共鳴精神身体現象:Ver 2
先の検討問題の一部
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以上の迷惑コメントがあった記事(「メディア界の連結力学・構造について」)は、不連続的差異論を説いていた頃のもので、約三年前のもの(2005年10月07日付け)であったが、それを読み返して、現象界についての発想が浮かんだので、ここで検討したい。
 問題は、以前にも検討したが、-1と+1との関係である。この問題は実に興味深い、いわば、不思議な問題である。
 -1は同一性主義である。それは、自己同一性主義であり、自我主義であり、物質主義である。フッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)で述べたことと関係する。フッサールが批判する自然的態度は、-1の自我主義的見方であるのではないだろうか。
 +1の見方とは、差異共振・差異共鳴の精神身体認識(精神身体はMedia Point的であるが、思うに、精身を造語したい)であるが、通常は、ないしは、ポスト・モダンは、-1と+1とが混淆して、連続化しているのである。【p.s.  -1と+1との混淆は、ドゥルーズの場合に的確にあてはまる。デリダの場合は、そうではないので、陳謝し、訂正したい。デリダの脱構築主義は、微妙なところがあって、不連続的差異論に近いのであるが、超越性の否定を前提にもって、諸哲学において、-1と+1が共存している様相・様態を確認して、-1の同一性システムに対して、+1の差異が並存している事態を提示して、同一性システムを脱構築するものと考えられるのであり、混淆というよりは、同一性と差異との併存と言わなくてはならない。】
 ここで端的に、構想を言うならば、物質現象とは-1であり、精神身体現象は+1である。しかしながら、現代の見方は、前者中心であり、後者は否定・抑圧・排除・隠蔽されていると考えられる。
 ここで、やや迂回して、量子論について言うと、それは、物質同一性-1の近代科学に対して、+1のトランス・モダン・サイエンスを提起しているのではないだろうか。ただし、量子を物質主義的に捉え、イデアとして捉えていないので、不十分と考えられるのである。イデア(対極イデア:正確に言うと、双極イデアか?。四元的イデアということになるし、Media Pointを加えると、五元的イデアとなるのではないだろうか)の共鳴である量子という考えには達していないのである。【電磁波は、結局、イデアでいいのではないだろうか。一般的には、まだ、物質主義的視点で捉えているだろう。イデアとしての電磁波であろう。】
 ということで、現象とは、一般には、-1の物質現象として考えられている。しかし、心的現象・精神現象があり、これがうまく捉えられていないのである。例えば、「気」をどう捉えるのか、ということもあるし、どのように宗教現象、神秘現象を理解するのかということもある。それらを脳生理学的に捉える傾向があるが、それはやはり、物質主義である。
 心的現象は、+1と捉える必要があるだろう。フッサールは『危機』で、-1という自然的態度を還元(解体)して、(⇒)+1の超越論的主観性を説いたと考えられる。ただし、既述のように、フッサールは主観的同一性に囚われていたので、差異共鳴(太極イデア)という考えには達しなかったのである。
 端的に言えば、現象の表層は-1の物質現象であり、現象の深層・実相は+1の精神現象(精神身体現象)であるということになる。そして、-1と+1とは即非様相にあるということになろう。先にバッハ音楽について述べたが、バッハ音楽は、-1の音波を介して、+1の精神現象(差異共鳴現象)が奇跡的に豊饒に表現されていると言えよう【p.s. 波動とは何かという問題がある。そう、エネルギーの問題である。Kaisetsu氏は情報エネルギーと命名していたが、確かに的確である。イデア波動である。これが、音楽の場合、音波に載って伝搬されると言えよう。後で検討したい。】。そして、芸術の感動とは、+1の表現を介して、Media Pointが開いて、イデアに接することにあるのではないだろうか。崇高さとは正にそのように考えられるのである。そう、正に、プラトンの説いた美や善はそのようなものであろう。また、根源的真理はそのようなものだろう。
 さて、ここで、再度、ポスト・モダンについて触れると、超越性(虚軸、イデア性)を否定して、Media Pointを実軸に留めているので、その差異(差延)とは、ゼロに閉塞した+1を意味するのであり、それで、袋小路になっているのである。つまり、虚軸・超越性のもつ開放性がないのである。閉塞された差異と言えるのである。だから、ポスト・モダンは、モダンとトランス・モダンの境界にあると言えるだろう。モダンの縁と言えよう。
 では、構造主義はどう把握できるだろうか。直感では、ほとんど、ポスト・モダンに近いのである。二元対立構造は、言わば、-1の視点から見た+1で説明ができそうである。つまり、物質的二元論(二項対立)の視点から、精神身体現象+1を見ると、二元対立構造が現われると考えられるのである。つまり、即非性のない対立構造である。せいぜい、両義性の構想に留まるのである。【デリダのファルマコンの考えも、これに近いだろう。】
 整理するなら、構造主義は、物質主義-1から差異現象+1を見たものであり、ポスト・モダンはゼロ・ポイント⇒+1の理論と言えようか。そして、不連続的差異論はMedia Pointを捉えた一つのブレークスルーと考えられよう。そして、PS理論は、さらに差異をイデア的共鳴現象と捉えたのである。【p.s. デリダの脱構築理論は、上述したが、不連続的差異論に接近している。ただし、水平軸的特異性としての差異を捉えているので、垂直性が欠落しているために、いわば、三次元にとどまっているのである。】


現象界について:-1と+1の即非様相:物質と差異共鳴精神身体現象
先の検討問題の一部
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を独立させて以下転載する。

**********************

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-19.html

以上の迷惑コメントがあった記事(「メディア界の連結力学・構造について」)は、不連続的差異論を説いていた頃のもので、約三年前のもの(2005年10月07日付け)であったが、それを読み返して、現象界についての発想が浮かんだので、ここで検討したい。
 問題は、以前にも検討したが、-1と+1との関係である。この問題は実に興味深い、いわば、不思議な問題である。
 -1は同一性主義である。それは、自己同一性主義であり、自我主義であり、物質主義である。フッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)で述べたことと関係する。フッサールが批判する自然的態度は、-1の自我主義的見方であるのではないだろうか。
 +1の見方とは、差異共振・差異共鳴の精神身体認識(精神身体はMedia Point的であるが、思うに、精身を造語したい)であるが、通常は、ないしは、ポスト・モダンは、-1と+1とが混淆して、連続化しているのである。【p.s.  -1と+1との混淆は、ドゥルーズの場合に的確にあてはまる。デリダの場合は、そうではないので、陳謝し、訂正したい。デリダの脱構築主義は、微妙なところがあって、不連続的差異論に近いのであるが、超越性の否定を前提にもって、諸哲学において、-1と+1が共存している様相・様態を確認して、-1の同一性システムに対して、+1の差異が並存している事態を提示して、同一性システムを脱構築するものと考えられるのであり、混淆というよりは、同一性と差異との併存と言わなくてはならない。】
 ここで端的に、構想を言うならば、物質現象とは-1であり、精神身体現象は+1である。しかしながら、現代の見方は、前者中心であり、後者は否定・抑圧・排除・隠蔽されていると考えられる。
 ここで、やや迂回して、量子論について言うと、それは、物質同一性-1の近代科学に対して、+1のトランス・モダン・サイエンスを提起しているのではないだろうか。ただし、量子を物質主義的に捉え、イデアとして捉えていないので、不十分と考えられるのである。イデア(対極イデア:正確に言うと、双極イデアか?。四元的イデアということになるし、Media Pointを加えると、五元的イデアとなるのではないだろうか)の共鳴である量子という考えには達していないのである。【電磁波は、結局、イデアでいいのではないだろうか。一般的には、まだ、物質主義的視点で捉えているだろう。イデアとしての電磁波であろう。】
 ということで、現象とは、一般には、-1の物質現象として考えられている。しかし、心的現象・精神現象があり、これがうまく捉えられていないのである。例えば、「気」をどう捉えるのか、ということもあるし、どのように宗教現象、神秘現象を理解するのかということもある。それらを脳生理学的に捉える傾向があるが、それはやはり、物質主義である。
 心的現象は、+1と捉える必要があるだろう。フッサールは『危機』で、-1という自然的態度を還元(解体)して、(⇒)+1の超越論的主観性を説いたと考えられる。ただし、既述のように、フッサールは主観的同一性に囚われていたので、差異共鳴(太極イデア)という考えには達しなかったのである。
 端的に言えば、現象の表層は-1の物質現象であり、現象の深層・実相は+1の精神現象(精神身体現象)であるということになる。そして、-1と+1とは即非様相にあるということになろう。先にバッハ音楽について述べたが、バッハ音楽は、-1の聴覚を介して、+1の精神現象(差異共鳴現象)が奇跡的に豊饒に表現されていると言えよう。そして、芸術の感動とは、+1の表現を介して、Media Pointが開いて、イデアに接することにあるのではないだろうか。崇高さとは正にそのように考えられるのである。そう、正に、プラトンの説いた美や善はそのようなものであろう。また、根源的真理はそのようなものだろう。
 さて、ここで、再度、ポスト・モダンについて触れると、超越性(虚軸、イデア性)を否定して、Media Pointを実軸に留めているので、その差異(差延)とは、ゼロに閉塞した+1を意味するのであり、それで、袋小路になっているのである。つまり、虚軸・超越性のもつ開放性がないのである。閉塞された差異と言えるのである。だから、ポスト・モダンは、モダンとトランス・モダンの境界にあると言えるだろう。モダンの縁と言えよう。
 では、構造主義はどう把握できるだろうか。直感では、ほとんど、ポスト・モダンに近いのである。二元対立構造は、言わば、-1の視点から見た+1で説明ができそうである。つまり、物質的二元論(二項対立)の視点から、精神身体現象+1を見ると、二元対立構造が現われると考えられるのである。つまり、即非性のない対立構造である。せいぜい、両義性の構想に留まるのである。【デリダのファルマコンの考えも、これに近いだろう。】
 整理するなら、構造主義は、物質主義-1から差異現象+1を見たものであり、ポスト・モダンはゼロ・ポイント⇒+1の理論と言えようか。そして、不連続的差異論はMedia Pointを捉えた一つのブレークスルーと考えられよう。そして、PS理論は、さらに差異をイデア的共鳴現象と捉えたのである。【p.s. デリダの脱構築理論は、上述したが、不連続的差異論に接近している。ただし、水平軸的特異性としての差異を捉えているので、垂直性が欠落しているために、いわば、三次元にとどまっているのである。】


検討問題:1)現象界について:-1と+1の即非様相:物質と差異共鳴精神身体現象
1)現象界について
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以上の迷惑コメントがあった記事(「メディア界の連結力学・構造について」)は、不連続的差異論を説いていた頃のもので、約三年前のもの(2005年10月07日付け)であったが、それを読み返して、現象界についての発想が浮かんだので、ここで検討したい。
 問題は、以前にも検討したが、-1と+1との関係である。この問題は実に興味深い、いわば、不思議な問題である。
 -1は同一性主義である。それは、自己同一性主義であり、自我主義であり、物質主義である。フッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)で述べたことと関係する。フッサールが批判する自然的態度は、-1の自我主義的見方であるのではないだろうか。
 +1の見方とは、差異共振・差異共鳴の精神身体認識(精神身体はMedia Point的であるが、思うに、精身を造語したい)であるが、通常は、ないしは、ポスト・モダンは、-1と+1とが混淆して、連続化しているのである。【p.s.  -1と+1との混淆は、ドゥルーズの場合に的確にあてはまる。デリダの場合は、そうではないので、陳謝し、訂正したい。デリダの脱構築主義は、微妙なところがあって、不連続的差異論に近いのであるが、超越性の否定を前提にもって、諸哲学において、-1と+1が共存している様相・様態を確認して、-1の同一性システムに対して、+1の差異が並存している事態を提示して、同一性システムを脱構築するものと考えられるのであり、混淆というよりは、同一性と差異との併存と言わなくてはならない。】
 ここで端的に、構想を言うならば、物質現象とは-1であり、精神身体現象は+1である。しかしながら、現代の見方は、前者中心であり、後者は否定・抑圧・排除・隠蔽されていると考えられる。
 ここで、やや迂回して、量子論について言うと、それは、物質同一性-1の近代科学に対して、+1のトランス・モダン・サイエンスを提起しているのではないだろうか。ただし、量子を物質主義的に捉え、イデアとして捉えていないので、不十分と考えられるのである。イデア(対極イデア:正確に言うと、双極イデアか?。四元的イデアということになるし、Media Pointを加えると、五元的イデアとなるのではないだろうか)の共鳴である量子という考えには達していないのである。【電磁波は、結局、イデアでいいのではないだろうか。一般的には、まだ、物質主義的視点で捉えているだろう。イデアとしての電磁波であろう。】
 ということで、現象とは、一般には、-1の物質現象として考えられている。しかし、心的現象・精神現象があり、これがうまく捉えられていないのである。例えば、「気」をどう捉えるのか、ということもあるし、どのように宗教現象、神秘現象を理解するのかということもある。それらを脳生理学的に捉える傾向があるが、それはやはり、物質主義である。 
 心的現象は、+1と捉える必要があるだろう。フッサールは『危機』で、-1という自然的態度を還元(解体)して、(⇒)+1の超越論的主観性を説いたと考えられる。ただし、既述のように、フッサールは主観的同一性に囚われていたので、差異共鳴(太極イデア)という考えには達しなかったのである。
 端的に言えば、現象の表層は-1の物質現象であり、現象の深層・実相は+1の精神現象(精神身体現象)であるということになる。そして、-1と+1とは即非様相にあるということになろう。先にバッハ音楽について述べたが、バッハ音楽は、-1の聴覚を介して、+1の精神現象(差異共鳴現象)が奇跡的に豊饒に表現されていると言えよう。そして、芸術の感動とは、+1の表現を介して、Media Pointが開いて、イデアに接することにあるのではないだろうか。崇高さとは正にそのように考えられるのである。そう、正に、プラトンの説いた美や善はそのようなものであろう。また、根源的真理はそのようなものだろう。
 さて、ここで、再度、ポスト・モダンについて触れると、超越性(虚軸、イデア性)を否定して、Media Pointを実軸に留めているので、その差異(差延)とは、ゼロに閉塞した+1を意味するのであり、それで、袋小路になっているのである。つまり、虚軸・超越性のもつ開放性がないのである。閉塞された差異と言えるのである。だから、ポスト・モダンは、モダンとトランス・モダンの境界にあると言えるだろう。モダンの縁と言えよう。
 では、構造主義はどう把握できるだろうか。直感では、ほとんど、ポスト・モダンに近いのである。二元対立構造は、言わば、-1の視点から見た+1で説明ができそうである。つまり、物質的二元論(二項対立)の視点から、精神身体現象+1を見ると、二元対立構造が現われると考えられるのである。つまり、即非性のない対立構造である。せいぜい、両義性の構想に留まるのである。【デリダのファルマコンの考えも、これに近いだろう。】
 整理するなら、構造主義は、物質主義-1から差異現象+1を見たものであり、ポスト・モダンはゼロ・ポイント⇒+1の理論と言えようか。そして、不連続的差異論はMedia Pointを捉えた一つのブレークスルーと考えられよう。そして、PS理論は、さらに差異をイデア的共鳴現象と捉えたのである。【p.s. デリダの脱構築理論は、上述したが、不連続的差異論に接近している。ただし、水平軸的特異性としての差異を捉えているので、垂直性が欠落しているために、いわば、三次元にとどまっているのである。】
 

2)日本人に個はあるか。昨日の雑踏を見て、また、公的空間でべたべたする男女を見て、日本人は、個として独立しているのかと思う。
 官僚支配唯物社会主義体制下にあって、日本社会において、日本人は個としての営為をもたないように、抑圧されているのではないだろうか。官僚封建主義にあって、官僚中央集権によって、政治、経済、メディア、教育、文化等々が支配されているのであり、個としての自由な営為をもてないように、巧妙に抑圧・拘束されているのではないだろうか。
 一般の日本人は、その被束縛が、もう気がつかなくなっているのではないのか。いつの間にか、差異を抑圧する同一性主義に染まっているのに気づいていないように思えるのである。つまり、日本人は、同一性主義という「精神病」に罹っているのではないか。
 


3)「精神分裂症」について:同一性主義は、「精神分裂症」を生む。
 同一性資本主義は、パラノイアと同時に、「精神分裂症」を生むのではないだろうか。【p.s.  これは、理解しやすい。何故なら、同一性主義は、自己同一性完結主義=パラノイアとなるのであり、同時に、否定・排除・隠蔽した差異他者-iが、他者の人格として、発現すると考えられるからである。これでは、二重人格であるが、Media Pointの多様・多元性を考えれば、多重人格が考えられよう。】


4)言語空間について:言語とMedia Point精神身体現象


官僚支配唯物社会主義という亡国主義を超えて:トランス官僚支配国家統制経済としての資本差異共振主義
私は昨日、用事で、神奈川県相模原市に接している町田の駅(小田急とJA横浜線がやや離れて交差している)で乗り越えたが、昨日の暑気の中、印象では、都心より稠密な人ごみ・雑踏に不快感を感じた。
 地方では人が少なく、東京では、人が溢れている。大店法は問題ではあるが、中枢の問題は、農林水産業、食料問題だと思っている。
 先にも述べたが、補助金が農業を金漬け農業にして、だめにして、地方の活気を奪ったと思う。勿論、WTOの問題がある。どうして、食糧自給率が四割を切っている国が自由化しないといけないのか。EU諸国は、食糧自給率が高いのである。自国で生産された食べ物を中心にすべきが本来的である。日本の大地や海で取れたものを中心にすべきである。やはり、官僚の唯物合理主義が亡国的なのである。

p.s. 補助金というより、米価を国家統制的に高く保持したのが、間違いであろう。米作社会主義である。農業経営者と国家との資本共振関係が必要ということだろう。

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2000年6月に施行された大規模小売店舗立地法の影響は、東京
から1500キロ離れた本土最果ての地でも本格化し始めました。

2008年7月26日 土曜日

◆イオンとノスタルジーの関係 2008年1月30日 プレジデント編集部 九法崇雄

さて、年が明けて1カ月が過ぎようとしていますが、みなさま、どのような年末年始を過ごされましたでしょうか? 私は故郷・鹿児島に帰省していました。正月を実家で迎えるのは3年ぶりのこと。しかし、やすらぎは束の間でした。一昨年結婚し、嫁を連れて帰ってきた弟と比較して、「オレが定年で辞める前には、結婚しろよ!」という父。第一子が生まれたばかりの従兄弟には、「早く親孝行してやれよ!」と言われる始末。悪気のない攻撃は、一番ダメージが大きい。両親には、「結婚するまで2度と帰らない!」と捨て台詞を残し、3日の午前中には鹿児島を後にしたのでした。

 それはさておき、久方ぶりに戻った我が故郷・最大のニュースは、ショッピングセンター・イオンの誕生でした。全国どこへ行ってもみかけるこの巨大艦隊が鹿児島に初上陸を果たしたのは、昨年10月。元日のテレビでは、イオンの初売りで福袋を抱え嬉々とする主婦の映像が流れていました。なんと平和な正月の光景であることか!
 正月2日、特にやることもなかった私は、早速ネタづくりにと行って参りました。まずは、その大きさ(敷地面積110,656平方メートル)に唖然。そして、客層に驚愕。中年夫婦はもちろん、来年30の大台に乗る私とほぼ同年代とおぼしき子連れ夫婦、それよりさらに若い女子校生の集団までもが、"巨大艦隊 "のトリコとなっていました。無印良品、ユニクロ、紅虎餃子房など東京でもおなじみの店を中心とした約200の専門店は、大いに魅力的に映るのでしょう。
 2000年6月に施行された大規模小売店舗立地法の影響は、東京から1500キロ離れた本土最果ての地でも本格化し始めました。地元の商店街は戦々恐々としています。「イオン進出を機に地元は結束を固めつつある。県内一の商業集積を誇る天文館地区は、JR鹿児島中央駅のアミュプラザ開業に次ぐ試練を前に『We Love 天文館協議会』を発足させ、まちの活性化に取り組み始めた」(南日本新聞2007年10月4日 社説)とはいうものの、成果はいつになることやら。今や、中心市街地にあった3つの映画館も消えてしまいました。もはや、集客装置は、飲み屋とパチンコ屋しかなくなりつつあります。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20080726
株式日記と経済展望



[農政ウオッチ]重要品目4%/輸入急増し大打撃
掲載日:08-07-26
 日本の農業界を激震が襲った。世界貿易機関(WTO)交渉で農業分野のモダリティー(保護削減の基準)などを交渉している閣僚会合で24日、欧州連合(EU)が、関税の大幅削減の対象から除外できる重要品目の数で「全品目の原則4%」を提案。米国の支持で交渉の軸になってきたからだ。現在の「たたき台」では、重要品目にできなければ関税を約70%削減しなければならない。一方、重要品目になっても米のミニマムアクセス(最低輸入機会=MA)のような低関税輸入枠の大幅な拡大が待ち受ける。このまま合意するようなことになれば、日本農業が壊滅的な打撃を受けるのは必至だ。

■主要農産物守れず

 「衝撃的な数字だ」。自民党農林幹部の一人は、閣僚会合の現状に言葉を詰まらせた。

 農産物を、例えば米をもみや玄米、精米などのように細かく分類した場合の日本の品目数は全部で1332品目。「4%」なら53品目しか重要品目にできない。日本が求めてきた「10%(133品目)以上」と大きくかけ離れている。

 一方、日本の高関税品目は169品目と言われることが多い。多国間による前回の貿易交渉、ウルグアイ・ラウンド合意に基づく主要な関税化品目に砂糖を加えた数だ。

 またWTO閣僚会合の「たたき台」となっているモダリティー議長案の第3次改訂版は、「一般品目」と呼ばれる重要品目以外の品目で関税が75%超の品目に、約70%の関税削減を求めている。関税75%超は日本では134品目。これを基に試算すると、このうち81品目は一般品目として約70%の関税削減が必要だ。

 ただ第3次改訂版は、条件・代償付きで重要品目を2%分増やすことを認めている。これを適用すれば重要品目を27品目増やせるので、70%関税削減の対象は54品目になる。しかし増やした分の27品目は代償として、低関税輸入枠を国内消費量の0.5%追加拡大しなければならない。

 関税を約70%削減するとどうなるのだろうか。米では、MA以外の輸入に課している現行1キロ341円の関税が102円に低下。最近の価格高騰の影響を除くために過去10年間での中国産短粒種の売買同時入札(SBS)最低価格で関税支払い後の価格を試算すると、玄米換算で60キロ9000円程度になる。国産米の価格を下回り、価格だけ見るとMA以外でも輸入が可能になる。ほかの品目で試算しても、小麦、バターなどの乳製品、砂糖、コーンスターチ用トウモロコシを含むでんぷん、雑豆、こんにゃく・・・・・・と、高関税品目は軒並み同様の事態に陥る。

 このため閣僚会合で日本は、最低限として「原則6%、追加を含めて8%」を強く求めている。

■自給率向上に逆風

 食料自給率を50%以上に引き上げるための工程表をつくる――。若林正俊農相が2日、福田康夫首相に説明したこうした計画も、WTO閣僚会合がこのままの流れで決着すれば、見直しを迫られる恐れがある。

 関税の削減とともに、自給率向上の大きな逆風になるのが低関税輸入枠の拡大だ。第3次改訂版は(1)関税削減率が一般品目の「3分の1」(高関税品目だと削減率23%前後)の場合の輸入枠の拡大幅を、国内消費量の「4〜6%」の範囲で決める(2)関税削減率が同「2分の1」(35%前後)の場合は、「3分の1」の場合の拡大幅より0.5ポイント少なくし、「3分の2」(47%前後)の場合は同1ポイント少なくする――ことを提起した。

 24日の閣僚会合でEUが提案したのは、最大値となる「3分の1」の場合に「4%」。最小値となる「3分の2」だと「3%」になる計算だ。

 これを基に米で試算すれば、現行が年間76万7000トンのMA米は、拡大幅「3%」で100万トン強、同「4%」で110万トン強になる。重要品目に指定すれば、小麦などといった自給率向上の戦略作物を含め、他品目も同様の拡大が必要だ。

 農水省幹部が懸念する。「輸入枠が拡大すれば安い輸入品が増えるので、何もしないと国産が減る。(このまま合意すれば)自給率の大きな引き下げ要因を抱えるため、自給率目標も抜本的に考え直さなければいけなくなるかもしれない」

 閣僚会合で日本は、輸入枠の拡大幅の最小値を「2%」に引き下げ、また米についてはさらに圧縮できる仕組みを認めるよう主張している。
http://www.nougyou-shimbun.ne.jp
/modules/bulletin/article.php?storyid=1641


<ドーハ・ラウンド>裁定案で日本窮地に 支持する国なく

7月26日22時4分配信 毎日新聞

 世界貿易機関(WTO)の多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)の非公式閣僚会合で、ラミー事務局長が25日提示した大枠合意の裁定案は、日本にとって農業分野のさらなる市場開放を迫る厳しい内容になった。特に日本が問題視するのは、例外的に関税削減幅を低く抑えられる重要品目の数。だが、日本の主張を支持する国はほとんどなく、裁定案をくつがえすのは容易ではなさそうだ。

 裁定案は、先進国の重要品目数を全品目の4%とし、低関税の輸入枠を拡大した場合に2%の上乗せが認められる。これに対し、日本は8%を譲れない線としてきた。

 日本の全農産品は1332品目。日本が主張する8%が認められれば、現在200%以上の高関税を課している101品目は少なくとも重要品目として大幅な関税削減は避けられる。だが、6%の場合、対象になるのは約80品目。コメ類だけで17品目あり、これに麦や乳製品類を加えると96品目になり6%のラインを超えてしまう。

 重要品目以外は関税を7割削減しなければならず、現在1706%の高関税を課しているコンニャク芋が重要品目から外れれば、税率は一気に約510%に下がる計算だ。そうなれば中国など低価格のコンニャクの輸入量が急増するのは必至で、国内約4200戸のコンニャク農家には死活問題となる。

 現地で交渉に当たる若林正俊農相は裁定案を「非常に不満だ」とし、今後も8%を強く訴える構えだが、米国や欧州連合(EU)は重要品目数について異論はなく、日本は孤立状態になっている。

 閣僚会合には「(決裂すれば)世界経済に大変な影響を及ぼすので、そういうことがないよう努力していこうとの空気がある」(若林農相)といい、自国の主張だけを押し通すのは難しい状況で、日本は極めて厳しい立場に追い込まれている。【行友弥、平地修】
http://headlines.yahoo.co.jp
/hl?a=20080726-00000113-mai-bus_all



関税引下げと食料自給率向上を両立させる農政改革

概要

1.改革の必要性
1)WTO・FTA交渉が進められる中、農産物関税引下げ、国内価格引下げが必要。
2)農業の衰退に歯止めがかからない。食料自給率は1960年の79%から2003年には40%まで低下。

2.日本の農業保護の構造と原因
1)国際比較
・日本の農業保護は高くない。農業保護指標であるOECDのPSE(Producer Support Estimate)は、2003年、アメリカ389億ドル(GDP比0.4%)、EU1,214億ドル(同1.2%)、日本447億ドル(同1.0%)。
・しかし、WTO・FTA交渉において(特に関税引下げに抵抗する)農業保護主義的な国という批判があるのは、保護の仕方が間違っているため。それは余りにも高関税に頼りすぎ、直接的に海外からの輸入を防いでいるからだ。しかも、この保護の仕方は二つの面で日本農業の衰退を招くという墓穴を掘っている。一つは、高関税が米など特定の品目に偏っているため農業資源が高関税品目に向かい、需要のある望ましい品目に向かわず自給率が低下すること、二つには、高関税・高価格に依存しているため、農業の生産性や効率が上がらず、競争力の向上を妨げていること。
PSEは高関税・高価格による消費者負担と農業所得を直接補助するなどの納税者負担の二つの部分からなる。PSEに占める消費者負担の部分は、1986/88年から2003年にかけてアメリカ46% →38%、EU85%→57%、ところが日本90%→90%。アメリカ・EUとも価格を下げ財政による農家への直接支払いへ転換。
2)なぜ、関税依存の消費者負担型農政ができ上がったのか。
所得は売上額(価格×生産量)からコストを引いたもの。米のように需要、売上額が伸びない作物でも、農業の規模拡大等の構造改革を行い、コストを減少させれば、農業所得は確保できるはずだった(農業基本法)。
しかし、実際の農政は米価を引き上げ。その結果、
(1)米は過剰となり、30年以上も生産調整を実施。そのため、農業資源は収益の高い米へ向かって他の作物には向かわず、1960年度から2003年度にかけて食料自給率は低下(反対にフランス99%→132%)。
(2)コストの高い農家も高い米を買うより自ら作るほうが安上がりとなるため、零細副業農家が滞留し規模は拡大せず(40年間で0.9ha→1.2ha、フランス17ha→42ha)。国際競争力は低下。

3.改革内容
農業を保護することとどのような手段で保護するかは別の問題。価格支持政策は零細農家を温存する効果を持つ。これに対し、納税者負担による農家所得補助のための直接支払いは、一定の耕作規模以上の農家に対象を限定して行なえば、コストは削減し、国民経済全体の厚生水準を高め、貿易への歪みを少なくし諸外国との貿易摩擦を避ける。
関税引下げ、国内価格引下げによる農家所得の減少に対応するためには、EUのように直接支払いを導入すればよい。しかし、内外価格差のある中で関税割当の拡大は、低関税の輸入を認めるため、国内生産の縮小をもたらす。食料自給率の向上のためには、関税引下げか関税割当拡大のいずれかを求められる場合は、迷わず関税引下げを選び直接支払いを導入すべき。
1)具体案
農業の効率化を促進させる対象者を絞った直接支払いが必要。現在、稲作副業農家の所得801万円>勤労者世帯646万円、うち農業所得はわずか10万円。主業農家所得642万円(うち農業所得は322万円)で、ここへ直接支払いのターゲットを絞る。
2)政策効果のメカニズム
価格維持カルテルである米生産調整や他の農産物の価格支持政策の廃止→価格低下→高コストの零細副業農家は農地を貸出す(米を作るより買ったほうが安い)→ 農地面積当たり直接支払いを一定規模以上の企業的農家に交付→企業的農家の地代支払能力向上→規模拡大による効率化、コスト・ダウン→価格はさらに低下→ 国際価格へ接近。
3)期待される効果
(1)全ての農産物関税ゼロ(現在米490%)の場合でも直接支払い所要額約1.7兆円。(農業予算は3兆円)
(2)農業保護の消費者負担部分(PSEでは4.7兆円)は価格低下で消滅。WTO・FTA交渉にも積極的に対応可能。
(3)食料自給率の向上
ア.生産調整廃止による米生産の拡大及び米と他作物の相対収益性の是正を通じた他作物の生産拡大。
イ.大規模層に農地をさらに集積していくと、耕作放棄、不作付け、捨作りが解消され、水田の利用率が向上。
ウ.価格が低下すれば、米粉等輸入調製品や飼料用米の需要も取り込むことが可能。関連産業との連携により、生分解性プラスティックやエタノール原料用の米生産を行うことも可能。
(4)担い手農家の所得も向上。
(5)週末以外も農業に専念できる主業農家は農薬・化学肥料の投入を減らすので環境にやさしい農業が実現。

http://www.rieti.go.jp/jp/publi
cations/summary/05050006.html


2008年07月25日(Fri)▲ページの先頭へ
視聴覚と心覚:同一性感覚と精神覚:視覚のもつ同一性自我感覚への傾斜
視覚は、問題が多いだろう。視覚について考察する前に、私の好きな音楽について、先ず、考えてみよう。
 もっとも、私が好きな音楽は、ほぼバッハに限定される。これまで、それなりに音楽を聴いてきたが、結局、大バッハに収斂するのである。
 では、大バッハの何がいいのか。これは愚問ではあるが、有り体に言えば、バッハ音楽の精神性である。聴覚を通して、確かに、精神性が喚起されるのである。つまり、聴覚という感覚を通して、精神が感得できるということであり、これは、感覚には、いわば、精神覚、心覚があるということになろう。これは、いわば、第六感である。
 そう、聴覚に言えることは、視覚にも言えることである。視覚的にいちばん感動したのは何かと言えば、美術で言えば、セザンヌの静物画である。リンゴではなくて、テーブルに上に陶器を載せた静物画に感動したし、その他、名のない絵画に感動したし、また、田舎の崇高な夕焼けの赤や紫に感動した。
 この場合では、視覚を介して、崇高さ、崇高な精神を感得していると言えよう。だから、視覚を介して、やはり、精神覚・心覚があると考えられるのである。
 これは、これまで、PS理論において、Media Pointによるイデア界と物質界との交差で説明してきたことであるし、それは今でも適切であると考えられるのである。
 つまり、感覚、五感において、Media Pointを介して、イデア性、即ち、精神性が表現されるということである。しかしながら、感覚=精神性ではなくて、感覚に重なるように、精神性が発現しているのである。
 ということで、視覚に関しても、精神覚・心覚が考えられることになる。では、私が感じた視覚への不信感は何だろうか。
 それは、視覚はあまりにも、物質性に囚われやすいことにあると思う。視覚における精神性・心性は、明快であろうか。
 視覚は電磁波の感覚である。思うに、視覚認識は、同一性に深く関係していると思う。だから、視覚においても、精神覚・心覚はあっても、同一性感覚=物質感覚性が強いので、視覚に対する不信感が生じるのではないだろうか。
 視覚は五感の中でも危険な感覚と言えよう。言い換えると、視覚は、幻惑的であるということになる。
 これで、本件の結論を得たことになる。そう、一言で言えば、視覚とは、鏡像を形成し、自我感覚の基盤となるものであるということになる。


短絡的行動と同一性絶対主義:差異の喪失としての内界=外界
どうも短絡的な行動が多くなっている。私はなにか、新たな神話や民話の時代ではないかと思ったりする。なぜなら、神話や民話では、極端な行動が中心的であるからである。
 私としては、精神病の時代と言いたい気がする。しかしながら、そういうと、単に主観的な側面に限定してしまうので、単純にそう言いたくはない。社会・政治・経済的側面がそこには同時にあるからである。先に検討課題として提起したが、今、とりあえず、簡単に予見を言ってみよう。
 端的に、私の「心」とは内界であり、同時に、外界である。これは、PS理論から言えば、Media Point的と考えることができよう。
 ここでは、イデア界と現象界が即非様相にあるのである。内界・即非・外界となる。だから、単純な心理学が成立できないのである。また、内界を無視した社会科学もないのである。
 思うに、Media Point Science、ないしは、Media Point Knowledgeがありうると考えられる。そう、哲学とは、本来そのようなものである。だから、Media Point Philosophyである。
 問題の短絡であるが、それは、端的に見て、Media Pointにおける虚軸性、差異共振性を否定したときに発生すると考えられる。いわば、同一性絶対主義である。差異において、真の他者があり、真の内界と外界があると考えられるのである。差異を否定する場合、内界と外界は同一性において、結合して、内界・即・外界となるだろう。「私」(内界)は、外界と等価となるだろう。後で精緻に検討したい。

p.s. 精神社会身体経済学、というような言葉が浮かぶ。もっとも、私は、自由・即・運命論的な発想が強い。どう捉えたらいいのか。
 今直感で言うと、内在的なものは外在的であり、且つ、外在的なものは内在的なものである。これは、ヘーゲルの理性的なものは、現実的であり、現実的なものは理性的であるという思想を想起させる。しかしながら、内在的なものと理性的なものは、まったく別のものである。当然ながら、ヘーゲルの理性的なものとは、同一性のことであるのに対して、内在的なものとは、差異である。
 言い換えると、精神的なものは経済的であり、経済的なものは精神的であるということになるのではないだろうか。もちろん、この場合、経済的なものとは、政治、社会との複合性をもっている。
 だから、小泉構造改革的なものは、同一性主義的であり、同一性主義的なものは、小泉構造改革的なものということになるだろう。ここには、悪循環がある。同一性主義的な個人は、小泉的なものを選択して、逆に、虐待されるのであるから。これは、実に不健全な様態である。まったく、病的である。
 ということは、端的に、小泉的なものを生む地盤が、国民にあるということである。それは、同一性主義精神経済性である。言い換えると、物質主義的経済である。この面を破砕しない限り、小泉的なものを回帰するということになる。
 ニーチェ的に言えば、賎民の支配ということになる。そして、民主主義の問題となる。民主主義は理念としては肯定すべきであるが、実際は、賎民支配となるのである。
 そう、『カラマゾフの兄弟』の有名な審問官の話を想起するのである。思うに、大衆民主主義ではなく、精神貴族的民主主義が必要ではないだろうか。これまで、差異民主主義を提唱しているが、それは、精神貴族的民主主義になると考えられるのである。言い換えると、自然民主主義である。

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上司名指しで『殺したい』 市立小教諭ブログに 市教委、免職処分に

2008年7月25日

 横浜市教育委員会は二十四日、インターネットのブログに上司を名指しし「殺したい」などと書き込んだとして、市立小学校の男性教諭(29)を免職処分とした。男性教諭は四月に採用され、四年生の学級担任をしていた。「子どもの前でしかられるなどして、腹が立った。反省している」と話しているという。

 市教委によると、男性教諭は、自身のブログに、四十代の女性主幹教諭の実名を挙げて「死ね死ね死ね…」と五十一回繰り返して書いたほか、「ホント殺したい」などと記述。五十代の女性副校長についても「抹殺したい」などと記した。

 今月三日に情報が寄せられ、市教委が調査していた。市教委は、教員の適格性を欠くとして、分限免職とした。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/
kanagawa/20080725/CK200807250
2000135.html



2008年07月24日(Thu)▲ページの先頭へ
ナルシシズムと同一性の関係:陽化による自己同一性主義=二項対立の発生と一神教的西洋形而上学
今は簡単に考察するだけであるが(p.s. 詳論となった)、今日の多くの日本人の陥っている自我意識であるが、これは、ナルシシズムが基盤にあると思われるのであり、この力学を明確する必要があると思いついたのである。
 これまで、何度も考察してきたが、今一つ決定力の欠ける考察と言わざるを得ない。そういうことで、精緻に考察を試みたい。
 同一性主義の自我にある自己中心主義エネルギーはどこから来るのか。そこには、尊大な興奮があり、侮蔑・軽蔑・嘲笑・愚弄・見下し・侮辱・嫌悪・憎悪等があり、高圧・慢心・高慢・傲慢さ等々がある。また、怒りや憤激がある。衝動的であり、独断・専断・独善的である。いわば、病的な同一性心性なのである。
 当然、理論的には、二項対立がある。自我が優越し、他者が劣等である。この自我優位/他者劣位の二項対立性とは、これまで、検討してきたように、同一性による差異(他者)の否定に存すると言えよう。
 端的に、自我による他者の「見下し」の原因は何か。根本から考えると、優越感以前には、劣等感があると考えられるのである。自我は、同一性主義となる以前は、差異に対して、劣等感を感じていたはずである。劣等感ではなくても、少なくとも、「自信喪失」である。
 ここで少し迂回してみよう。女神の神話においては、当然、中心・支配者は女神である。その脇侍のように、女神の子の男性(双子)がいる。【参照:釈迦三尊仏の様式】
 そして、父権神話とは、その補佐であった女神の子が独立することに存する。英雄神話の半面はこれと重なる。
 この女神の子・男性の独立が、同一性形成を導くと考えられる。問題は、何故、女神の支配から独立する必要があるのかである。
 女神の支配とは、原始的な差異共振様相を意味すると私は考えている。だから、原始的差異共振様相から独立する女神の子=「英雄」が存するということである。
 何故、独立するのかと言えば、それは、差異・他者である差異共振様相から分離する要請があるからだろう。つまり、自己同一性(=自我)を形成する要請である。
 そして、いったい、この要請とは何なのかということである。この問題については、既に繰り返し繰り返し検討した。しかし、そこでは、否定的な評価があった。差異共振性における悲・苦が存するので、それを否定・抑圧・排除して、自己同一性(自我)の優位を構築するということことであった。
 しかし、Media Pointにおける太極を考えると、そこには、自然の転変する力学が考えられる。陽極へと志向する力学が生ずるときが考えられる。このときは、当然、陰極を否定する力学となると考えられる。
 PS理論から言えば、陰極-iを否定して、陽極+iへと志向する力学である。暫定的に、陽化と呼んでおこう。当然、同一性化である。理論的には、(+i)*〔-(-i)〕⇒-1と考えられる。平明に言えば、+iの自乗、(+i)^2=-1である。
 しかし、このように考えると、構造主義的である。主観が入らないのである。思うに、自然力学の一環として、構造的に陽化があることは認める必要があるのではないだろうか。
 問題は、陽化が発生して、同一性意識(自我意識、自己同一性意識)が形成されても、否定されたとは言え、陰極-i自体は現存しているのであるから、陰極のもつ「力」ないしは「エネルギー」は隠然として存していると言わなくてはならない。つまり、陽化によって、同一性自己(自我)が形成されても、いわば、無意識においては、陰極-i、差異、他者が存しているのであり、それが、同一性自己(自我)と対立していると考えられるのである。
 即ち、精神現象(正確に言えば、精神身体現象である)において、同一性自己と差異他者の対立が厳然として存在しているということであり、矛盾・葛藤・齟齬の様態にあるということになる。永遠の対立である。
 しかしながら、陽化においては、同一性志向性が優位にあるので、当然、陰極である差異他者は劣位におかれると端的明快に言えるのではないだろうか。これが二項対立の根因・起因であると考えられるのである。だから、同一性自己は他者差異の否定に傾斜する力学をもつのである。ここに、上記の否定感情が入ると言えるだろう。これで、一つの問題、即ち、二項対立の発生原因は解明できたとしよう。【p.s. 一点注意すべきことは、本来、+iと-iは共振様相ないしは極性・対極性様相にあるのであり、他者差異-iの否定は、単に、陰極の否定だけではなく、差異共振(共鳴)性の否定でもあるということである。】
 次は、ナルシシズムである。しかし、この問題はもう以上の考察から自明的であると考えられる。即ち、陽化=同一性化とは、陽極が陽極自体を映すことと言い換えられるのではないだろうか。つまり、「自己」が「自己」を映すということである。そう、鏡像である。つまり、陽極+iが鏡面となり、陽極自体+iを鏡像として映し、それと結合するということである。換言すると、自己鏡像化である。自己が自己を映すのである。自己完結主義である。
 これで、ナルシシズムの説明はつくのではないだろうか。そして、悪の発生もこれで説明できるであろう。同一性自己主義、ここに、ナルシシズムがあり、他者差異否定、つまり、反倫理があるのである。
 さて、最後に、敷衍的に、一神教(ヤハウェ的一神教)について、この視点から見てみよう。
 一神教、つまり、ヤハウェ的一神教であるが、それは、端的に、同一性自己の形而上学と言うことができよう。陽化の形而上学である。多神教・異教・自然宗教を排除するのは、陽化の徹底化と見ることができよう。【イエス教は、本来は多神教、女神教であると考えられる。だから、キリスト教は絶対矛盾的自己同一と言えないことはない。】
 しかし、重要な点は、超越神性ないしは超越性である。それは、多神教にはない点である【p.s.  正確に言うならば、多神教にも、超越性があるのである。でなければ、神性は発生しないだろう。ただし、多神教においては、超越性と自然性とが共鳴する関係にあることが、一神教との決定的差異である。だから、多神教は内在的超越性をもつ考えられるかもしれない。それは、正しいだろう。しかしながら、PS理論は、即非的内在/超越性をもつ言うべきである。】。差異他者を否定したとき、それは、抽象化を意味するのである(抽象芸術と一神教との関係があるだろう)。偶像の禁止である。
 そして、超越性の根源は、イデア界(虚軸)にあると考えられるのである。PS理論から見ると、Media Point が、消失・喪失して、超越性と現象性の絶対的二元論が発生したと考えられるのである。神の世界と現象世界を結ぶものは、何もなくなったのである。ただ、信仰があるだけとなったのである。あるいは、キリスト教で言えば、キリストと聖霊を介すしか、神とのコミュニケーション(語呂合わせすれば、カミュニケーションである。【p.s.  精緻にいうと、一神教においては、神と人間とのコミュニケーションがあるのかどうか難しいところである。プロテスタンティズムを見てわかるように、神からの一方的な恩寵の有無が、救済と関係するのであるから、正確に言えば、コミュニケーション、カミュニケーションがないのである。】)はなくなったのである。
 ここでは、Media Pointの喪失がいちばんのポイントである。【これが、精神文化的に、西洋と東洋を分離するポイントである。】とまれ、ヤハウェ的一神教によって、いわば、超越的同一性自己主義が発生したのである。あるいは、形而上学的自己同一性主義の形成である。そして、これが、西洋文明の支配・主導的精神であり、これが、西洋資本主義を駆動させている精神であると考えることができよう。単に、同一性自己主義ではなくて、超越的ないし形而上学的同一性自己主義であるということである。その帰結が、今日のサブプライムローン問題である。
 根本的に差異共振精神を否定しているので、このような惨禍となるのである。ただし、イエスの精神には、本来、差異共振性があるのであるが、それが、ヤハウェ的一神教性によって、阻害されてしまっていると考えられるのである。


植草一秀氏の指摘する「偽装CHANGE」勢力と差異共鳴社会身体エネルコミー
植草一秀氏の指摘する「偽装CHANGE」勢力と差異共鳴社会身体エネルコミー

テーマ:小沢一郎/民主党と日本の政治

以下、植草一秀氏の『「偽装CHANGE」勢力』の明敏な指摘に十分に注目しなくてはならない。悪徳権力勢力は、非常に狡猾であり(美徳に知的エネルギーを使えと言いたいが)、善良な国民を欺くために、小悪を攻撃する「キャンペーン」を行っているのである。
 また、『「政治屋・特権官僚・外国資本・大資本」の「既得権益勢力」が維持しようとする「巨大利権構造」』の指摘も明快であり、現代日本のガン細胞の患部を剔抉している。
 問題は、国民の精神身体と経済(エコノミーとエネルギーをいっしょにしたエネルコミーという言葉を造語したい)を健康にする政策が必要なのである。多くの国民を犠牲にして、一部の特権層だけが、ずる賢く、悪辣に、利己的に生き延びようとする卑劣な権力体制を解体する必要がある。
 巨大利権構造という同一性構造を脱構築する必要があるのである。そして、国民の差異を共振・共鳴させるエネルコミーが必要である。差異共鳴社会身体エネルコミーである。

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一般公務員を標的に定めた「偽装CHANGE」勢力


居酒屋タクシー、厚労省ネットカフェ、社保庁懲戒職員解雇、大阪府職員給与カット、公用車運転業務問題、などの一連の公務員問題は、「偽装CHANGE」キャンペーンの一環である。

「偽装CHANGE」 勢力が叩くのは「小悪」である。「小悪」を叩くのは「巨悪」を隠すためだ。

「真正CHANGE」勢力は「巨悪」を標的とする。政治を国民の手に取り戻し、国民を幸福にするための政治を実現しなければならない。

   ・・・

「真正CHANGE」勢力は「巨悪VS小悪」の構図を明示する必要がある。

「政治屋・特権官僚・外国資本・大資本」の「既得権益勢力」が維持しようとする「巨大利権構造」こそ、破壊しなければならない対象であることを、国民に分かりやすく伝えなければならない。

「一般公務員労働者」と「特権官僚&天下り・政治屋・大資本&外国資本」のどちらを「真正の改革」のターゲットとするべきかを国民に明示しなければならない。

「小悪に光を当てて巨悪を闇に隠す偽装」を暴かなければならない。
http://uekusak.cocolog-nifty.com
/blog/2008/07/post_601f.html

植草一秀の『知られざる真実』

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歴史を見ると、社会の大混乱と天変地異は「偶然の一致」となることが多い。
歴史を見ると、社会の大混乱と天変地異は「偶然の一致」となることが多い。

テーマ:自然災害・人災:台風・地震・津波・温暖化

歴史を見ると、社会の大混乱と天変地異は「偶然の一致」(例えば、江戸末期と安政の大地震。)となることが多い。いったい、地震とは何か。シュタイナーの霊学では、霊と地震が関係していると説いている。一見、そんな馬鹿なという気になるが。
 しかしながら、PS理論からMedia Pointにおけるイデア=電磁波を考えると、Media Pointを介して、地球に人間の精神の電磁波が影響することは考えられないことではない。これは検討問題である。
 また、当然、太陽系や銀河系という宇宙環境を考える必要がある。満月や新月のときは、潮の影響が強くなる。つまり、月の引力・重力が地球に強くはたらくことを考えなくてはならない。
 結局のところ、イデア=電磁波と森羅万象との関係の力学を解明する必要があるということだろう。メディア共鳴Media Resonanceを考えると、万物は結びついていると考えられるのである。PS理論で言えば、Media Point Resonanceというコスモス(Media Point Comos or Media Point Chaosmos)があり、このコスモスが万物を連携させているのであるから、人間の精神と地球とが結びついているというのは考えられることである。
 地霊(spirit of place, genius loci)という考え方があるが、これも、Media Point Resonanceで考えられることである。風水の龍脈も同様である。

p.s. イデア=電磁波としたが、果たしてそれでいいのか。つまり、電磁波とすると、それは、光速にしかならないことが問題なのである。イデア・エネルギーと電磁波エネルギーは違うと思う。
 イデア⇒電磁波とは言えるだろう。だから、超電磁波があると見るべきはないか。この点も検討問題としたい。



参考:
易姓革命
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易姓革命(えきせいかくめい)とは、古代中国 において、孟子 らの儒教 に基づく、五行思想 などから王朝 の交代を説明した理論。

天 は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳 を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命 (天命を革(あらた)める)が起きるとされた。それを悟って、君主 (天子 、即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲 、武力によって追放されることを放伐 といった。無論、神話 の時代を除けば禅譲の事例は実力を背景とした形式的なものに過ぎない。

「後漢 (劉氏)」から「魏 (曹氏)」のように、前王朝(とその王族)が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てる(姓が易(か)わる)というのが基本的な考え方であり、本来、日本で言われているような「単に前王朝の皇室が男系の皇嗣を失って皇統が断絶する」ような状況を指す概念ではない。中国においても例は少ないながらも別姓の養子に皇帝の位を継承した五代 の後周 のような例もあり、血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠となる。

ほとんどの新王朝の場合は史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを強調する一方で、新王朝の正当性を強調するために前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆が強調されるが(有名な桀 ・紂 以外にも、煬帝 のように悪い諡号 を送られたり、そもそも諡号や廟号 を送られない場合もある)、形式上は明 に対する反逆者である李自成 を討って天下を継承した清 のような場合は、明の末代皇帝崇禎帝 を一応は顕彰し、諡号や廟号も与えられている。

このように、易姓革命論は実体としては王朝交代を正当化する理論として機能していたと言える。またこのような理論があったからこそ劉邦 や朱元璋 のような平民からの成り上がり者の支配を正当化することが出来たとも言える。これは西洋 において長年にわたって君主の血統が最も重視され、君主の血統が断絶すると他国の君主の血族から新しい王を迎えて新王朝を興すのとは対照的である。

五行思想 面からの説明では、万物には木火土金水の徳があり、王朝もこの中のどれかの徳を持っているとされた。たとえば、漢 の末期を揺るがした184年 の黄巾の乱 は、「蒼天已死 黄天当立」(蒼天已(すで)に死す、黄天当(まさ)に立つべし)とのスローガン が掲げられた。漢は火の徳を持っているとされ、漢に代わる王朝は土の徳を持っているはずだとの意味である。
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%E5%A7%93%E9%9D%A9%E5%91%BD " より作成
カテゴリ : 中国の制度史 | 中国の思想史 | 革命

 

岩手北部地震:M6.8、震度6強も 6県で99人けが
地震で粉々に割れた車販売店のショーウィンドー=岩手県米軽町で2008年7月24日午前10時52分、手塚耕一郎撮影
地震で粉々に割れた車販売店のショーウィンドー=岩手県米軽町で2008年7月24日午前10時52分、手塚耕一郎撮影

 24日午前0時26分ごろ、東北地方で強い地震があり、岩手県洋野(ひろの)町で震度6強、野田村と青森県八戸市、五戸町、階上(はしかみ)町で震度6弱を観測し、北海道から滋賀県までの広い範囲で揺れを感じた。毎日新聞のまとめでは正午現在、けが人は岩手、青森など6県で99人(重傷25人)。気象庁によると、震源地は岩手県沿岸北部で、震源の深さは約108キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は6.8と推定される。

 岩手県では、洋野町で男性(78)が倒れてきたテレビで頭を打つなど重傷、一関市では女性(79)が倒れてきた建具に頭をぶつけて重傷を負った。北上市では、男児(5)が落ちてきたポットの湯で背中にやけどを負った。また、青森県では、自宅で寝ていた三戸町の女性(69)が倒れたたんすで頭を打ち重傷。三沢市では女性(69)が自宅2階階段から落ち、右足を骨折した。

 各県の災害対策本部などによると、負傷者は▽青森49人(重傷者13人)▽岩手35人(同8人)▽宮城11人(同3人)▽秋田2人(同0人)▽山形1人(同1人)▽千葉1人(同0人)。建物被害は一部損壊が青森など3県で計20戸。岩手県教委によると、県北地域の小中高校を中心に68校・施設で天井の一部がはがれたり、窓ガラス破損などの被害が出た。

 JR東日本によると、岩泉線、山田線、大湊線が落石などのため運休し、復旧の見通しは立っていない。東北新幹線は仙台−八戸間、秋田新幹線は全線が運休し、復旧は午後4時ごろの見通し。

 国土交通省によると、国道102号は青森県十和田市で起きた落石のため全面通行止め。県道はいずれも岩手県内の3路線が落石で全面通行止めとなった。

 東北電力によると、女川原発(宮城県)、東通原発(青森県)とも被害はない。青森、岩手、宮城、福島県で延べ8611戸が停電したが、朝までに復旧した。水道は午前10時現在、岩手県岩泉町、川井村、宮古市、久慈市で計443世帯が断水している。

 気象庁の横田崇・地震津波監視課長は「震源が深い地震の場合、浅い地震に比べて余震が少ない例が多く、今回の地震も余震活動は低調だ。しかし、震度4程度の余震が起こる可能性があり、降雨による土砂災害などには注意してほしい」と呼びかけている。

http://mainichi.jp/select/today
/news/20080724k0000e040047000c.html

重傷27人含むけが人103人、内陸地震とは直接的関係なし


24日午前0時26分ごろ、岩手県沿岸北部を震源とする地震があり、同県洋野(ひろの)町で震度6強を観測したほか、同県野田村と青森県八戸市、五戸町、階上(はしかみ)町で震度6弱を観測するなど、東北太平洋岸を中心に北海道から関東地方の広い範囲で揺れを観測した。

 気象庁によると、震源の深さは約108キロ、マグニチュードは6・8と推計される。

 読売新聞社のまとめでは、正午現在、けが人は青森、岩手など7道県で計103人で、このうち27人が重傷となっているほか、岩手など3県で39棟が一部損壊するなどしている。

 震源地近くでは先月14日、岩手・宮城内陸地震が起きている。この地震で大きな被害が出た宮城県栗原市も震度5強だったが、気象庁は「距離的には近いが、震源の深さなどを比較すると、直接的な関係はない」との見方を示したが、震度4程度の余震が発生する恐れがあるとして警戒を呼びかけている。

 震度6強を観測した岩手県洋野町の長根長治・地域振興課課長補佐によると、ドスンという縦揺れを感じた後、横揺れが1分以上続いたように感じた。食器が棚から落ちて散乱したという。

 岩手県北上市では震度5強を観測。男児がやけどを負ったほか、41歳の女性が地震に慌てて自宅の階段を下りた際、左足小指を骨折した。同県陸前高田市でも、男性(47)が、地震で壊れた屋根瓦を補修中、地面に落下して右足のかかとを骨折した。同県一関市では、自宅で寝ていた男性(83)が、ベッドから落ちて頸椎(けいつい)を損傷した。

 一方、宮城県気仙沼市では、民家の裏山の一部が崩れたほか、岩手県田野畑村内と同県岩泉町、野田村の間で発生した土砂崩れの影響で、県道2路線3区間が全面通行止めになった。

 青森県十和田市の観光名所として知られる奥入瀬(おいらせ)渓流沿いの国道102号で道路脇の斜面の岩盤が崩れるなど、同県などで土砂崩れや落石が計10か所で発生したが、午前10時半までに5か所で復旧した。

 岩手県遠野市で正午現在、8戸が断水している。また、地震発生直後、青森、岩手、宮城、福島県で8611戸が停電したが、早朝までに復旧した。

 東北新幹線と秋田新幹線は安全点検のため、仙台以北の区間で24日始発から上下線で運行を見合わせ、安全を確認し次第、運行を再開する。

 経済産業省原子力安全・保安院によると、地震のために緊急停止するなどの影響が出た原発はなかった。

 政府は午前0時34分、首相官邸に対策室を設置。宮城、福島、秋田、山形の4県警の広域緊急援助隊は同日朝までに、岩手、青森両県の被災地に到着した。

 震度5強と5弱を記録した主な地域は次の通り。

 ▽震度5強 岩手県釜石市、二戸市、北上市、一関市、奥州市、宮城県大崎市

 ▽震度5弱 岩手県陸前高田市、盛岡市、八幡平市、花巻市、青森県十和田市、三沢市、宮城県登米市、岩沼市、石巻市。
(2008年7月24日13時08分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/
national/news/20080724-
OYT1T00416.htm

プレート内地震、頻度低く調査や予測困難

2008年7月24日12時26分

図今回の地震のメカニズムと主な地震の種類

 今回の岩手県沿岸北部の地震は、日本列島の下に東側から沈み込んでいくプレート(岩板)の内部で起きた。プレート内地震とよばれ、6月の岩手・宮城内陸地震のような活断層型やプレート境界型地震とはタイプが異なる。

 八木勇治・筑波大准教授の解析によると、深さ約100キロにある地震を起こした断層は、長さ約30キロ、幅約10キロで、最大のずれ幅は約1.5メートル。断層の大きさから算出したモーメントマグニチュード(Mw)は6.9で、阪神大震災や岩手・宮城内陸地震とほぼ同規模だった。

 プレート内の地震は、発生頻度が低く繰り返しの周期などの調査や予測が難しいという。地震についての政府の長期評価も活断層型とプレート境界型が対象で、プレート内地震は基本的に対象外。平田直・東京大地震研究所教授は「最も評価しにくいタイプの地震。起こることは分かっているけれど、次にどこで起こるかを予測することは難しい」と話す。

 目立った被害が少なかったことについて、古村孝志・東京大地震研究所教授は、プレートが瞬時に割れたため、周期0.1〜0.2秒のガタガタとした細かい揺れが多く、木造家屋に大きな被害を与える1〜2秒の地震波はほとんどなかったからとみている。

 大竹政和・地震予知連絡会会長は「ここ数年、東北地方では地震活動が活発化しているが、活動期とまではいえない。78年の宮城県沖地震の1年ほど前にプレート内地震が起きており、今回の地震が次の宮城県沖地震を早めるのかどうか、慎重に分析を進める必要がある」と話している。

http://www.asahi.com/national
/update/0724/TKY200807240212.html



2008年07月23日(Wed)▲ページの先頭へ
覚書:デリダの脱構築主義とMedia Point:MPゼロ度とトランス・ポスト・モダン
かつて、デリダの脱構築主義が独り歩きしていたと言えよう。しかし、今思うに、デリダの哲学は、そのようなキャッチ・コピーでは捉えられないのではないだろうか。
 今、思うところを言えば、問題は、特異性の哲学をどう打ち立てるのかにあったように思える。同一性主義が中心化している西洋文明において、特異性の哲学をどう構築するのかが、哲学者、とりわけ、現代の哲学者に要請されていたことと考えられる。
 私自身について言えば、特異性と同一性の問題が、生きる問題であったのである。私自身は、正に、他の何ものでもない個であるが、日本はオイル・ショック以後、70年代半ば以降、どんどん同一性が流通する社会となり、私は強烈な違和感をもっていたのであるからである。
 とまれ、今簡単にデリダ哲学について言うと、特異性という差異に対して、西洋哲学はこれまで、同一性の哲学を構築してきたのであるが、同一性のシステムを立てても、そこには、特異性という差異が付き纏っているのであるから、同一性のシステムは決定不能性に陥るというものではなかったであろうか。
 それは、不連続的差異論/PS理論から見ると、正しい考え方である。PS理論が明らかにしたように、特異性は実は超越性と現象性との交叉するMedia Pointに存するのであるが、デリダはフッサール批判そしてハイデガー哲学の擁護によって、超越性を排除していたので、差異からMedia Pointへと進展することができなかったと考えられるのである。
 思うに、ハイデガーの存在そしてデリダの特異性とは、PS理論で言えば、これまでの検討の結論を否定して、最初の考察に戻ることになるが、Media Pointの実軸点であると思われるのである。いわば、ゼロ・ポイントである。
 とまれ、デリダ的ポスト・モダンには、トランス・モダンへの契機があったことは確かである。結局、トランス・ポスト・モダンである。


デリダのジョイス論とトランス・モダン
デリダの『ユリシーズ グラモフォン』の訳者の一人の合田正人氏の解説が知的に刺激的である。できれば、後で、検討したいが、そこで、問題になっている哲学的事象は、端的に、Media Pointであると考えられる。デリダは、ドゥルーズ以上にMedia Pointに接近していたのである。しかし、既述したように、ハイデガー哲学の影響によって、デリダは超越性を排除してしまっていたので、明確に Media Pointを捉えることができなかったと考えられるのである。
 思うに、ドゥルーズの差異イデア論とデリダの超越論的差異論ないしは決定不能性論を統合すると、不連続的差異論になる。しかしながら、プラトニック・シナジー理論は出てこない。何故なら、ポスト・モダンは超越性を排除してしまっているからである。
 だから、未読であるが、レヴィナスをそこに加えるといいのかもしれない。ライプニッツ、スピノザを加えてもいいだろう。また、未読であるが『神的な様々の場』のジャン・リュック・ナンシーを加えてもいいのではないだろうか。
 しかしながら、一番の寄与は、ウスペンスキーの第三の論理学(正しくは、ターシャム・オルガヌム)や、鈴木大拙の即非の論理学、他からもたらされるだろう。矛盾が共鳴・共振する論理が決定的なのである。それが、トランス・モダンであり、トランス西洋文明なのである。
 自然科学では、量子論がその論理をもっている。即ち、粒子と波動の相補性である。

p.s. 因みに以下の翻訳が出版されている。デリダの修論だそうだ。

フッサール哲学における発生の問題 ジャック・デリダ、合田 正人、 荒金 直人 (単行本 - 2007/11/22)

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ユリシーズ グラモフォン―ジョイスに寄せるふたこと (叢書・ウニベルシタス) (単行本)
ジャック デリダ (著), Jacques Derrida (原著), 合田 正人 (翻訳), 中 真生 (翻訳)

[思想]
2004.6.18 中井 悠
蓄音機の効果 (1/2)
ジャック・デリダ 「ユリシーズ・グラモフォン」
 およそあらゆるマーク(≒記号)たるもの、それが意味をもち、理解され、使用されうるかぎりは、たとえどんな私的なものであろうと、その担い手たる主体の不在においても反復可能でなければならない。というジャック・デリダが1968年の「署名・出来事・コンテクスト」以来口酸っぱく主張してきた反復可能性の議論は、だがいつもながらこの哲学者の語り口の曖昧さからしていらぬ誤解を招きやすい。
http://www.ream.ais.ne.jp/~fralippo/
daily/content/200406180001/index.html

[思想]
2004.6.24 中井 悠
蓄音機の効果 (2/2)
ジャック・デリダ 「ユリシーズ・グラモフォン」
 もしボルヘスが物語ったような絶対的な記憶を持つ神のごとき存在、あるいはその逆に、ニーチェが嫉妬したような記憶という重荷と縁のない動物たちが相手であったならば、余計な言葉を費やさずともよかっただろう。だがあいにく語りかけられるべきは、その狭間にいる中途半端に頭の良い/悪い人間たちであり、その多くが対処すべく直面しているのは、忘却の不安(?)を抱えつつも反復はとりあえず成立しているという、いささか厄介な事態である。
http://www.ream.ais.ne.jp/~fralippo
/daily/content/200406240001/index.html

DAILY COMMENTARY ||| JOURNAL SITE


「夜這い」的共同体とトランス・モダン共同体:個・差異・特異性の共振共鳴共同体
以下、結婚制度とは、「男性の権力財産移譲システム」であるという説であるが、つまり、父権主義的財産権力移譲システム説である。これは、歴史を見ると、かつては、父権的相続制であり、女系は締め出されていた。しかしながら、今は法律上は男女平等の相続制になっているだろう。
 確かに、結婚制度は、財産の委譲に関係するとは言えるだろう。そう、所有制度の一環であることは言えるだろう。これは、哲学的には同一性主義である。自己同一性=自我の所有権を肯定する制度の一環である。
 以下の説では、一夫一婦制以前には、夜這い的共同体があったとしているが、それはそうであろう。しかしながら、先祖帰り的に、現代において肯定できるのであろうか。以下の筆者は舌鋒鋭く説いているが、かつての村共同体においては、妥当するが、今日では妥当しないと考えられる。なぜなら、現代は、個が中心化する時代であるからである。本来、プロト・モダンがもっていた個が今日では、トランス・モダンとして、発現していると考えられるのである。プレ・モダンは考えられないのである。新しい共同体は生まれるだろう。しかし、それは、差異・個・特異性を中心とした、共振・共鳴体である。だから、個という点では、一夫一婦制は残るのではないだろうか。
 問題は、結婚を超えた共同体が問題なのだろう。夜這いはもどらないだろう。

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★2008年7月22日 火曜日 、8時更新

 今朝も非常体感、どうにも止まらない! もう、日本海溝周辺の地殻変動が底なしの大崩壊に向かっているような気がする。
 昨夜、久しぶりに帰宅したが、夜8時過ぎても30度を超えていて気温が下がらない。5年前、移住当初は、昼間どんなに暑くても夜になれば布団が必要なほど寒くなった。ありえないような猛暑で、家中蜘蛛の巣だらけだった。出るときには大きな蛇がネットに絡まって死んでいた。
 この分では、今夏、予想通り、首都圏、大都市大脱出作戦が繰り広げられるだろう。
 今朝も震源がよく分からない未知の異常体感、台風に似ているが、違う。頭痛感もある。ニワトリはあまり騒いでいない。

 千葉沖 に大きな震源がありそうだ。東関東〜東北太平洋の活性化が止まらない。1923年と同じ状況になっている。(所沢M氏より)

 新潟では相変わらず強い赤焼け 、東北〜日本海ウラジオ周辺の活性化も止まらない。凄い地殻変動が進行しているようだ。



 余談 「夜這い」

 筆者は若い頃から民俗学が大好きで、宮本恒一の熱狂的ファンを自認し、その真似事をしながら、山登りの途中、深い山奥の里を訪ねて、その土地の人と世間話をしながら、新しい民俗的発見をすることを楽しみにしていた。
 かつて、揖斐川の上流に徳山郷 という平安以前に起源を持つ古い村があって、その奥に能郷白山や冠山という奥美濃山地(両白山地)の名峰があり、このあたりの山深い雰囲気に惹かれて何度も通った。今は無意味な形骸を晒すのみの巨大なダム底に沈んだ徳山の里は、筆者の足繁く通った1970年代には、いくつかの立派な集落があり、春から秋までは渓流釣りマニアでずいぶん賑わったものだ。

 そのなかに、名古屋からUターン里帰りした中年女性の経営する小さな飲食店があった。そこでよく食事をして世間話に興じながら、おばちゃんに村の事情を聞いていたが、実におもしろい話がたくさんあった。
 一番凄いと思った話は、近所の農家の中学生の娘が妊娠したことがあったが、その相手は祖父だったという。しかし、当時の徳山では、この程度は全然珍しいものでなく、ありふれていると言ったことの方を凄く感じた。
 夜になると近所の若者が飲みにくるが、必ず店仕舞のときまでいて「やらせろ!」としつこく強要し、うっとおしくてかなわないという話や、この村では後家女性がいれば、婿入り前の若者たちの性教育係を務めるのが村の伝統的義務とされているというような話も驚かされた。

 こんなことを書くと、かつての徳山村が異常性欲者の集まった変態村だと勘違いする若者がいるかもしれないが、2ちゃんで低俗な浅知恵しかないくせに筆者を小馬鹿にしている阿呆どものように、くれぐれも教科書に書いてあることや、学校のテストに出る知識だけがこの世の真理だと勘違いしないように。
 学校教育や世間の常識というものは、人を無知蒙昧の、命令されたことしかできない家畜人を作り出すために国家権力が作り出した陰謀なのである。人を馬鹿から一歩も進歩させないための卑劣な仕掛けにすぎない。そんな罠にはまって、真理から目を背けるアホにされていてはいけない。自分の足で歩き、自分の目で見て、自分のアタマで考え、自分にとっての真理を掴め! 
 思考回路の作り出したタイムマシンに乗って、歴史を遡り、自分の目で昔を見ておいで。地方へ行けば、民俗資料館がたくさんある。そこに展示された昔の生活用具を見つめていれば、それを使っていた人々の日常の姿が思い浮かぶはずだ。家を見れば毎日の情景が手に取るように分かるだろう。 曾祖母くらいの年寄りに昔の話を直接聞いてごらん。驚くほど詳しく語ってくれるだろう。そうして昔の情景が鮮やかに見えてくるはずだ。

 参考までに、昔の性事情を知らない若者たちに言っておくが、戦前の日本では、とりわけ西日本における古代弥生人の末裔たちの里にあっては、国家によって定められた一夫一婦制結婚形態というのはタテマエに過ぎず、それが厳格に守られた事実は存在しない。つまり適当なものであった、というより、民衆レベルでは自由な乱交が当たりまえであって、生まれた子供が自分の子供である必要はなかった。

 というと、ほとんどの若者たちが「ウソー!」と驚くに違いないが、これが真実なのだ。例えば一番典型的だった中国山陽地方の集落では、一つの集落で、結婚まで処女を保つ娘は皆無だった。初潮が始まると、親が赤飯を炊いて近所の若者宅に配る。それが「おいで」の合図となる。その日から娘は離れの座敷に寝泊まりするのである。
 これは、山陽地方(西日本の古い農家といってもいい)の古い農家の作りを見れば分かる。必ず夜這いのための娘の泊まり部屋が設けられていたはずだ。古い民俗家屋展示を見るときは、昔のこうした光景を見るのだ。すべての構造に歴史の深い意味が隠されていると知ってほしい。

 若者の男たち、ときには、なりすましの親父たちも、赤飯の出た家に夜這いをかけて、初々しい少女を抱いて性欲を満足させたわけで、これなら風俗性産業が必要なはずがない。昔だって男たちに強烈な性欲があった。それが、どのように処理されていたか? 考えながら、赤線・性産業の由来・必要性を考えるのだ。
 こんなことが、どこの教科書に書いてある? 国家権力はタテマエで「結婚まで貞操を守れ」と教育したが、結婚できない若者たちが大勢いた時代なのだ、どんなに教育してもホンネの性欲を消すことなどできないのである。

 夜這いの結果、もちろん子供ができてしまうわけだが、生まれた子供が誰の子であっても、事実上関係ない。子供の父親を指名する権利は娘にあった。別に実の父親である必要はなかった。夜這いをかけた誰かの内、一番好きな男を父親に指名するのである。これが、やられる側の娘の権利であった。
 夜這いを拒否することは、男にとって大きな屈辱だった。そんなことをすれば後々まで男に恨まれて「八つ墓事件」のような事態が起きかねない。津山殺戮事件の裏には、こんな背景も考える必要がある。

 父親を特定することが意味を持つのは、子供たちに受け継がせるべき財産・権力のある有力者に限られていて、持たざる民衆にあっては、受け継がせるべきものもなく、名もない我が子種を残す必要もなく、したがって、女房が誰の子を産もうと、どうでもよいことなのである。
 生まれた子供は「みんなの子供」であった。集落全体が一つの大家族だったのだ。みんなで助け合って暮らし、みんなで子供を育てたのであって、小さな男女の家族単位など、権力が押しつけたタテマエ形式にすぎなかった。

 タテマエとしての結婚家族制度は、明治国家成立以降、政権が租税・徴兵目的の戸籍制度整備のために、それを強要したのである。
 それは権力・財産を作った男性の子供を特定するための制度であった。それは名主・武家・商家・有力者などの権力・財産を「自分の子供に受け継がせたい」インテリ上流階級にのみ意味のあることであり、このために女性を婚姻制度、貞操に束縛したのである。
 農民をはじめ一般大衆にとっては、束縛の多い不自由な一夫一婦制など何の意味もなく、たとえ配偶者がいても、誰とでも寝るのが当然であり、生まれた子供は「みんなの子供」であって、集落全体(大家族)で慈しんで育てたのである。

 このようにして、かつての日本では夜這いに見られるような自由な性風俗に満ちていた。「集落全体が大家族」という考え方で助け合い社会が成立していて、夫を失った後家は、若者たちの性教育係になり、冒頭の飲食店のオバサンも、徳山の若者たちから、そのように見られていたわけで、決して徳山の若衆が性的変態だったわけではない。
 そうした自由な性風俗は1960年あたりを境にして、急速に失われていった。その後、読者が知っているように、女性に貞操観念が求められるようになった理由は、世の中全体が豊かになり、個人が財産を蓄積する時代がやってきたことによるのである。
 豊かになれば財産を「自分の子供」に相続させたくなる利己主義が芽生えるのである。「自分子供」を特定するために、誰の子かはっきりさせる必要があり、女性の自由な性を抑圧し、貞操観念に閉じこめる必要があった。
 その後、素敵なブライダルブームがわき起こり、結婚生活に憧れを抱く女性が増えたわけだが、本当は、このことは女性にとって悲劇であり、男性の権力財産移譲システムにすぎないことに気付かないで、本当は結婚という制度は女性の奴隷化システムにすぎないことを理解できない女性が多いことには失望せざるをえない。

 実は、このことと死刑制度は同じ意味を持っている。「男性の財産権力をその子に移譲するシステム」を教育によって広く国民に洗脳しようとしても、それは本来、人間に備わった、自由な性愛への要求と、「誰でも分け隔てなく愛する」という解放された人間性を抑圧排斥するものであり、人間性に反し、ねじ曲げる間違ったシステムなのである。
 だから、それを国家権力を使って無理矢理通そうとするならば、それまでの社会に激しい齟齬、軋轢を生じさせるわけで、持たざる若者たちを激しく怒らせることになり、社会に憤りと暴力を持ち込むことになるのだ。
 これを強引に弾圧するために、死刑制度の恐怖が用いられた。死刑は女性の自由を抑圧する、金持ち男性の世の中を支えるシステムであった。
http://www1.odn.ne.jp/
~cam22440/yoti01.htm
東海アマチュア無線  地震予知研究会



2008年07月21日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:経済三元論へ向けて:需要・価格・供給の三極論:社会三元共振体?
シュタイナーの経済論は、実に興味深い。以下の記事には、古典的市場主義経済が批判されている。
 現代の日本経済の不況も、以下の経済三元(三極)論で解明され、処方箋が出てくるだろう。たとえば、消費の刺激政策や庶民減税である。
 とまれ、後でPS理論から見てみたい。

p.s. シュタイナーの唱える経済連合体とは、経済差異共振体と言うべきではないだろうか。有機体にしろ、連合体にしろ、そこには、連続性の発想があるのである。これでは、全体主義になると思われるのである。とまれ、経済三極共振体(経済三極共鳴体)、社会共振体(社会共鳴体)というコンセプトが考えられるだろう。

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需要と供給と価格が、基本的な三つの要素です。わたしたちは、「価格=需要と供給の関数」と書くのではありませ
ん。「〈需要〉と〈供給〉は変動する。この両者から生じるのが〈価格〉だ」とするのでもありません。〈需要〉と〈供給〉と
〈価格〉を同等に、「互いに独立して変動するもの」として考察しなくてはなりません。そして、何らかの値(x)に近づか
なくてはなりません。わたしたちは、ひとつの公式に近づきます。

わたしたちは、「〈需要〉と〈供給〉だけが変動するものであり、その両者の関数として〈価格〉に関わっているのだ」
と、考えてはなりません。これら三つは独立して、相互に作用しあうのです。価格は、需要と供給のあいだに存在し
ます。しかし、価格は独特の方法で存在するのです。

http://miyazaki.cool.ne.jp/
roseandcross/page043.html

シュタイナー経済学講座

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労働が直接対価を生むのではない

「貨幣」と「労働」とが交換可能な価値なのではなく、「貨幣」と「労働の産物」とが交換可能な価値なのである。

だから私が労働に対して貨幣で支払うならば、私は間違ったことをしている。なぜなら実際はただ労働の産物に対し
て貨幣で支払うことができるだけなのだから。

健全な社会有機体においては、労働を貨幣で支払うことができないということが明らかにされていなければならな
い。なぜなら商品と同じ意味で労働に経済的価値を与えることなどできないのだから。労働ではなく、労働によって
産み出された商品だけが、他の商品との比較において、経済的価値を得る。社会有機体を存続させるための人間の
労働の種類と程度は、その人間の能力と生活条件とから規制されなければならないが、このことが可能となるの
は、政治国家からこの規制が経済生活の管理とは独立して生じるときだけである。
http://miyazaki.cool.ne.jp/
roseandcross/page029.html

現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心


検討問題:身体とは何か:身体が主で、精神は従か?:心臓、血液、思考
身体は不思議であるが、私が今イメージする身体とは、精神と融合した身体である。つまり、プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Point的身体(Media Point Body)ということである。
 これは、以前にも述べたが、伝統的な思想である。例えば、心は心臓にあるというような発想である。英語では、両者はheartである。
 確かに、現象的には頭で考えるが、私は、実は、「心臓」が基盤にあり、頭で考えているのではないのかというような考えを思いつくのである。あるいは、さらに言えば、肚(はら)で考えるということもありうるだろう。肚や心臓が基盤となり、頭で考えるのではないのかという考えが浮かんだのである。
 今は、肚は置いて、心臓で考えたい。心臓は当然ながら、血液を身体全体に行き渡らせ、また、還流させる、循環器官である。
 どうも、直感では、血液がなにか思考に関係しているように思えるのである。つまり、頭脳の働きと関係すると思えるのである。これは、血の巡りが悪いという言葉で通俗的に表現されているだろう。
 そう、血液の流れ、また、血液自体が豊かでないと、豊かな、健全な知性・思考は生まれないのではないだろうか、などと思ってしまうのである。ルドルフ・シュタイナーがゲーテの『ファウスト』から「血はまったく特製のジュースだ」という言葉をよく引用していたのを想起するのである。後で検討したい。


参照1:
血はまったく特製のジュースだ

人種・民族の混血

歴史を遡っていくと、地上のどの民族の場合にも正確にそれと指摘することのできる、或る決定的な時点が存在す
る。それは古い伝統が生命を失い、家系の血を通して生きてきた根源的叡智が消え、民族が新しい文化段階に入っ
ていった時点である。どの民族もこの転換期を意識しており、それを古い伝説の中で記念している。

それまで部族たちは閉鎖的に生きていた。同一の血族同士の間で結婚することが当然であった。この習慣はどの人
種、民族の中にも見られた。人類にとって決定的な時点とは、この原則が崩れ、別の血が別の血と混じり、同族婚が
異族婚に移行した時点である。同族婚は家系の血を保持し、代々、部族、民族の流れてきた同じ血を個々の成員の
中に伝える。異族婚による新しい血の混入は、種族のこれまでの生活原則を崩壊させる。どの民族の中にも、遅か
れ早かれ、現れてくるこの異族婚による混血のはじまりこそ、理性もしくは外的知性の誕生を人類にもたらした時点
なのである。

太古には一種の薄明るい見霊能力が存在しており、そこから神話、伝説が生じたこと、そしてこの見霊的意識は、丁
度混血が現在の明るい意識を生んだように、同族の血を純粋に保つことによってはじめて可能であった、このことは
神秘学にとって計り難いくらいに重要な事実である。

論理的思考が異族婚とともに発展したということは、今のところまだ奇異な主張にとどまっているが、やがて科学的
にも実証されるようになるだろう。その端緒はすでに作られている。異族婚によって生じた混血は、それまでの見霊
能力を失わせたが、その代わり、人類の意識を更に一段と高い発展段階へ引き上げた。今日の覚醒時の日常意識
はこの古い見霊意識から発展してきたのである。しかし今日われわれはこの発展段階をふたたび引き上げて、祖先
返りするのではなく、かつての見霊能力を新しい形式の中に復活させようと努めている。(P86-P87)
http://miyazaki.cool.ne.jp/
roseandcross/page035.html


参照2:

この近代西洋医学の根幹になっている、ウィルヒョー論である「すべての病気は細胞に病的変化をもたらす」に対して、「ウィルヒョ−は間違っている」と指摘したのが千島喜久男博士なのです。

千島博士は、「細胞は分裂によって増えるのではなく、体のなかを流れる赤血球が日々細胞に変化し、この肉体を形作って行く」という新説を唱えました。
http://sungod2012.blog96.
fc2.com/blog-entry-253.html


参照3:
血はまったくの特性ジュース
ルドルフ・シュタイナーの「血はまったく特性のジュースだ」から抜粋・引用しながら書いていきたいと思う。

ファウストが血で誓約書に署名したことについて、シュタイナーは次のように述べている。

『悪の力の代表者は、ファウストの血の少なくとも一滴を、自分のものにすることで、ファウストを完全に掌中に収めることができると信じており、したがって血の敵だからではなく、血を奪い取る必要があったからこそ、ファウストに血の署名を要求したのである。

或る人間の血を奪い取れば、その人間を支配できるという点で、血は悪魔の特別愛好するジュースなのだ、という注目すべき感じがこの箇所の根底に存在している。

善と悪とをめぐる人間と悪魔との戦いに際しては、血が決定的役割を演じる、ということをこの箇所は示唆している。』
http://sakuragainouta13.seesaa.net
/article/51371310.html
空の手で


2008年07月20日(Sun)▲ページの先頭へ
(無意識的な)怒りや憤激とは何か:今日における短絡する精神の病理とトランス・モダン精神への進展
今、フェミニズムの古典の本(『自分だけの部屋』)を読んでいて、そこに、女性の劣等性を論ずる男性の精神を分析して、そこに怒り、憤激があると指摘してあった。
 天才的な作家であるから、鋭敏な洞察力をもっている。私は、この怒りや憤激というものが、今日、日本(に限らないが)社会の精神病理を説く鍵ではないかと感じた。
 思えば、オウム真理教の信者たちの中にも、社会への憤激があったと思う。これが、反社会的破壊行動へと駆り立てたと言えるのではないだろうか。ニーチェ哲学で言えば、ルサンチマン(怨恨)である。【p.s. 私見では、中沢新一がグノーシス主義を説いていたが、オウム真理教に肩入れした彼の精神には、ルサンチマンが深く根差していると思う。】
 さらに思えば、小泉構造改革「ファシズム」も、社会にあるルサンチマンにつけ込んだ現象であったのであり、今日でもルサンチマンは重低音として蔓延していると言えよう。これが、短絡的な暴力行為・凶悪な犯罪の根因ではないかと思われるのである。
 ルサンチマンについては、これまで、同一性に傾斜している人間の精神から発生すると述べてきた。差異における反感が発生し、差異自体を肯定的に知性化できずに、暴力的情動であるルサンチマンが発生するというように考えた。
 ここに、怒り・憤激の要素を見ることができるし、そう捉えることで、今日の精神病理やそれに基づく犯罪を説明できるように思えるのである。
 では、怒り・憤激とは何か。つまり、短絡的な怒り・憤激とは何かということである。端的に言えば、ここには、他者の欠落・欠損した、自己同一性中心主義があると言えよう。
 だから、近代的自我・近代合理主義の病理ということができるし、父権主義の病理ということができると思う。それらは、端的に、同一性主義であり、差異・他者を否定・排除するのである。
 つまり、自己同一性主義の欲望中心であり、それに反する・否定する他者・差異を暴力的に否定・排除するといいうことである。
 これは、端的に、近代主義の帰結であると言える。差異を否定・抑圧・排除・隠蔽する近代同一性主義の帰結であると考えられるのである。
 (この無意識的な)怒り・憤激について、明確に述べよう。それは、自己同一性欲望主義がもつ差異への怒り・憤激ということだろう。それは、我が侭の極致である。独善・独断・専断的な自我主義・利己主義の極致であろう。
 一見、怒りや憤激には一見、倫理性・道徳性があるように見えるかもしれない。しかし、それは、いわば、偽装された倫理・道徳に過ぎず、本体は、究極の自己同一性欲望主義・利己主義であると考えられるのである。
 そう、ハイパー・モダンがここにあるのである。差異の究極的な否定がここに、怒り・憤激として出現していると考えられるのである。
 ポスト・モダンは、差異と同一性との混淆に帰結したが、今日、純粋差異・絶対的差異・特異性を肯定し、共振・共鳴するトランス・モダンの知性へと転換する時点に達していると考えられるのである。

p.s. 付け加えると、今日、差異が賦活されているので、自己同一性欲望中心主義は、反動的に、あるいは、狂気的に、衝動化していると考えられるのである。そう、差異のエネルギーの反動(狂気)がそこには入っていると考えられる。【p.s.  この点は精緻に考察する必要がある。同一性ルサンチマンは、差異エネルギーを排除するので、エネルギーが枯渇するのである。そして、心に真空状態が生じるのである。ここには、余裕、遊び、空間がないために、ショート(短絡)ないしは没入が生起すると考えられるのである。この真空的ショートと反動化された差異エネルギーが結びつくのではないだろうか。】

p.p.s. ルサンチマンによる怒り・憤激は、ファナティシズム(狂信主義)に通じていると考えられる。ブッシュ/ネオコンの発生の根因もここにあるのではないだろうか。(ルサンチマン・ファナチシズム、又は、同一性ルサンチマン・ファナティシズムという言葉を造語していいのではないだろうか。
 後で、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」の概念と比較検討してみたい。

**************

長女「父親とはあまり会話なかった」 刺殺事件

2008年7月19日23時43分


 埼玉県川口市のマンションに住む製薬会社員の男性(46)が、中学3年生の長女(15)に包丁で刺され、死亡した事件で、殺人未遂容疑で逮捕された長女が「父親とはあまり会話がなかった」と話していることが分かった。逮捕直後には「お父さんが家族を殺す夢を見た」などと話していたといい、県警は、長女の父親に対する思いと事件との関連を慎重に調べている。

 県警は19日午後、父親を司法解剖し、死因は肺を刺されたことによる出血性ショックと発表した。調べに対し、長女は「寝ているお父さんの上半身を2回刺した。その後のことは、気が動転していて覚えていない」と話したという。父親については「『勉強しろ』と言われて『はい』という、やりとり以外の会話はあまりなかった」といい、「大変なことをしてしまった」と反省している様子だという。動機につながるような話はしていないという。

 一方、長女の母親(49)は「2人は大きなけんかもなく普通の父娘で、動機に思い当たることはない」と話しているという。

 これまでの調べでは、同日午前3時ごろ、別の寝室にいた母親が、長女の「ギャー」という叫び声と父親のうめき声を聞いたため、父親と長男(12)の寝室に駆けつけて部屋の電気をつけると、長女はベッドの上でぼうぜんとし、台所にあったはずの文化包丁(刃渡り20センチ)がベッドに置かれていた。父親は吐血し、母親に「警察と救急車を呼んでくれ」と話し、警察官が駆けつけた時は床でうずくまっていた。長男は二段ベッドの上で寝ていて、母親が部屋の電気をつけるまで気がつかなかったという。

 県警によると、長女と父親は事件前日の18日昼、長男と3人で、自宅近くのファストフード店で昼食をとり、その後、「夕食はカレーにしよう」という話になり、スーパーに立ち寄った。午後5時ごろから、自宅で父親と長女でチキンカレーを作ったという。

 長女が通っていた私立中学校によると、長女は同日、英会話の追試を受ける予定だったが、学校に来なかった。担任が自宅に電話すると、弟が「風邪で寝ている」と答えたという。

http://www.asahi.com/national
/update/0719/TKY20080719
0222.html


川口・父刺殺:前日一緒に買い物 母親「仲よかった」

 埼玉県川口市の私立中学3年の長女(15)が父親(46)を刺殺したとされる事件で、母親(49)は県警武南署の調べに「父親と長女は仲がよかった」と話している。長女と父親は事件前日に一緒に買い物にでかけ、カレーを作っていた。一方で、長女は「両親に勉強しろと言われると、やる気がなくなった」と供述している。学校によると最近は成績が下がり気味だったが、他にトラブルがなかったかを含め動機の解明を慎重に進める。

 調べでは、長女は両親と小6の弟(12)の4人家族。長女は19日午前3時ごろ、寝室で寝ていた父親の胸などを、台所にあった文化包丁で刺して殺害した疑い。3部屋に分かれて寝ていて、父親と弟が同じ寝室だった。司法解剖の結果、傷は胸と額の2カ所。死因は肺を刺されたことによる出血性ショックだった。

 調べに対し、長女は当初、「お父さんが家族を殺す夢を見た」という趣旨の話をしたが、その後は「上半身を2回ぐらい刺したが、後のことは気が動転してよくわからない。大変なことをした」。父親については「普段から会話はあまりなかった」と話している。勉強するよう注意されても言い争ったことはないという。落ち着いた様子で取り調べに応じているが、動機については話していない。

 母親の警察への説明によると、長女と父親の仲はよかった。18日は父親は仕事が休み。昼間に父親と長女、弟で買い物に行き、夜は、父親と長女が作ったカレーライスを家族で食べた。その後、両親と長女はビデオを観賞。弟は勉強していた。【浅野翔太郎、小泉大士、山崎征克】
 ◇将来の夢は薬剤師

 長女が通っていた埼玉県内の私立中学は事件を受けて19日午後2時から校長らが会見した。

 それによると、ほとんど学校を休んだことはなかったが、18日の英会話の追試験を無断欠席したため、担任が自宅に電話すると、弟が「姉は風邪で寝ている」と説明したという。終業式は22日の予定。

 成績は中ぐらい。2年の初めまでバスケット部だった。聞かれたことにははっきり答えるが、自己主張するタイプではない。将来の夢について、入学時や1月にあった担任らとの面談では「薬剤師」と伝えていた。教頭は「製薬会社に勤める父親を尊敬していると思った。かなり勉強しないと難しいぞと言うと、『頑張ります』と答えた」と話した。

 担任は「転校する生徒へのメッセージレター作りを進んで引き受け、優しい心の持ち主」と述べた。

 現場のマンションは川口市北部の住宅街にある。7階建てで約70世帯が入居。小学校が同じで別の中学に通う女子生徒(13)は「先週もマンション内で長女とすれ違うと、笑顔であいさつしてくれた。優しくて頭がよかった」と驚いた様子だった。家族の知人は「18日午後に父親と長女、長男が外出先から帰宅する姿を見かけた。仲がよさそうだったのに」と話した。【稲田佳代、弘田恭子】

http://mainichi.jp/select/jiken/
news/20080720k0000m0401
13000c.html

夕食後にトラブルか=衝動的に父親刺す?−中3少女、供述に揺れ・埼玉県警

7月19日20時30分配信 時事通信

 埼玉県川口市のマンションで、男性会社員(46)が中学3年の長女(15)に殺害された事件で、長女が衝動的に父親を刺した可能性が高いことが19日、埼玉県警の調べで分かった。県警は家族での夕食後に、父娘の間に何らかのトラブルが生じたとみて調べている。
 調べなどによると、長女は18日、学校を休み、父親と長男(12)の3人で買い物に出掛けていた。夕方には父親と長女が仲良く一緒にチキンカレーを作り、午後11時ごろまでは特に変わった様子はなかったという。
 事件後も長女は放心状態で逃走する様子はなく、凶器の文化包丁も自宅の台所にあったものだった。
 このため、県警は18日深夜以降、2人の間にトラブルが起き、長女が衝動的に包丁を持ち出して父親を殺害したとみている。司法解剖の結果、父親の死因は出血性ショック死だった。 

【関連ニュース】
・ 「あきらめないでよかった」=小学卒業文集で中3少女-少女父殺害
・ 中3少女「夢は薬剤師」=3者面談で教諭に-父殺害事件
・ 中3少女、父を殺害=就寝中に刺す?顔と胸-マンション自宅で・埼玉
・ 散歩の親子刺され負傷=殺人未遂で男逮捕-茨城県警
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080719-00000094-jij-soci


2008年07月17日(Thu)▲ページの先頭へ
必須の教養としての哲学:哲学精神と日本の生まれ変わり
私は中学生の頃、ラッセルの『哲学入門』を、わからないなりに読んで、興味をもった。また、大学の頃、ヘーゲルの『精神現象学』の序論を読んで強く感動した。目から鱗が落ちたようであった。概念というもののもつ大きさに私は感動したのである。
 私は哲学を専門にしなくてよかったと思っている。哲学を専門にしたら、専門的分業に閉じこめられていたと考えられるからである。
 とまれ、なぜ哲学が教養として必須なのか簡単に言いたい。以前、述べたことがあるが、今言う必要があると思うので述べる。
 哲学とは、端的に、自己の主観現象の探究・探索であり、その合理性・整合性・統一性を求めるものである。自己の心の現象の説明を求めるものである。だから、当然、内省・省察・瞑想的になるのである。
 そうすると、個の意識が生まれて、客観・外界に対して、相対的視点をもつことができるのである。批判精神が生まれるのである。また、当然、科学に対しては、その物質的枠組みの中では評価するものである。
 とまれ、哲学は一見無駄に見えるが、正反対である。哲学を学ぶことで、合理的精神を形成するようになるのである。今日、日本の衰退・劣化は、哲学の衰えにあると言っていいだろう。


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