INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY - 2008/05/31

PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2008年05月31日(Sat)▲ページの先頭へ
自我ないし自己とは何か:魂とイデア:差異共振性と同一性の相補性としての「わたし」
後で検討したいが、一言触れておく(p.s. 実際は、一つの論考となった)と、有り体に言って、「わたしとは何か」である。確かなことは、百年後には、物質的身体をもった「わたし」はいないことである。では、「わたし」はどうなるのか。唯物論では、「わたし」は消滅することになる。
 しかし、「わたし」が無くなることは、有と無がなくなることであろう。存在以前へと回帰することになるのではないだろうか。非存在へと回帰するのではないだろうか。この問題はここで留める。
 私が問題にしたいのは、「わたし」の本質である。動物・植物、そして、当然、鉱物には、「わたし」はない。私は原自己と原他者との関係から生まれるだろう。「わたし」は単独でありつつ、「他者」であり、二人であり、複数である。
 端的に、「わたし」とは何か。目で見て、頭で考え、また、感性をもち、欲望をもち、物質的身体をもつ、この今の「わたし」とは何か。
 それは、同一性なのか、差異なのか。直感では、明らかに、「わたし」は特異性である。「わたし」という自己意識は、知性と感性から成り立つだろう。欲望は、「わたし」というよりは、身体に属するだろう。すると、「わたし」は、身体に宿された自己意識である。
 また、明らかに、差異共振的感性(精神)と知性が融合して、「わたし」・自己意識を形成している。
 他者と融合して「わたし」が形成される。つまり、他者は潜在的になっている。「わたし」は顕在するが、他者は潜在している。しかし、他者なき「わたし」はありえない。すると、「わたし」とは何か。自己認識方程式から明らかなように、差異共振性から「わたし」+1が生まれるのである。これは、自己としての「わたし」であり、自我としての「わたし」ではない。後者は-1である。
 では、差異共振性(差異共鳴性)から生まれる「わたし」とは何か。共一性であるが、それは何か。
 思うに、それは、同一性仮象、シミュラクルとして同一性ではないだろうか。つまり、「わたし」とは、意識としては、確固と存在するように感じられるだろう。しかし、「わたし」は実があるが、仮象であろう。実体・本体は、差異共振性である。そして、これが、永遠ではないだろうか。
 実体・本体が差異共振性、超越的差異共振性、超越エネルギーであるが、その現象形態としての+1の共一性は仮象だと思う。「わたし」は仮象である。しかし、この仮象が、生活においては、必要な「同一性」になっている。
 しかしながら、この仮象同一性を端的に捉えたいのである。実体のようであるが、やはり、仮象である同一性とは何か。
 半実体半仮象である同一性の「わたし」とは何か。思うに、これは、差異共振性の物質現象態ではないだろうか。「わたし」は、差異共振性の物質態ではないのか。ならば、物質とは何か、となる。
 どうも、私は、先の議論を無視して考察しているようである。イデア極性があるならば、牽引と反発があり、前者が共一性に、後者が同一性になると言った。物質とは、この両義性ではないだろうか。
 一方では、共振性であり、他方では同一性である。この両義性・ゆらぎあると思われるのである。正に、量子論のテーゼではないだろうか。
 つまり、量子・素粒子の粒子と波動の相補性がここに現われていると考えられる。共振性は波動であり、同一性は粒子である。換言すると、+1は波動であり、-1が粒子に相当するのである。
 そうすると、「わたし」は量子論的事象になると言えよう。+1であると、同時に、-1である。即非的事象でもある。そうすると、「わたし」とは、自我であり、且つ、自己であるということになる。物質性は自我に存すると言えよう。精神性は自己に存すると言えよう。
 これでようやく、「わたし」に対するなにか漠然とした疑問が解消されたように思われる。繰り返すが、「わたし」は共一性(+1、自己、差異、差異共振性)であり、且つ、同一性(-1、自我、同一性、物質)である。後者は仮象であり、本体は前者である。
 「わたし」は、仮象的同一性と本体的差異の両義的存在である。生きているときは、両者の関係が重要であるが、死んだときは、前者が消滅して、後者だけになると思う。つまり、差異としての「わたし」が残ることになる。これが、プラトンの説く魂であり、イデアではないだろうか。生きているときは、相補的な二重存在であるが、死んだときは、純粋な差異共振存在となると言えよう。

 少し議論を急ぎすぎたかもしれない。以上の発想から論理的に考えると、イデア極性から±1が同時生起することになり、+1が本体であり、-1が仮象であるとは言えないだろう。
 本体はあくまでも、イデア極性である。そして、Media Pointを介して、±1の両義性・相補性が同時生起するということではないのか。それは、量子論的事象・即非的事象である。
 では、「わたし」、自己はどうなるのだろうか。自我と自己が同時生起する。しかしながら、人間は、同一性に傾斜している。つまり、自我-1に傾斜している。そして、近代合理主義・近代的自我は、自己=差異を排除否定するのである。-1が+1を排除・抑圧するのである。
 思うに、自然は、±1の同時生起の対称性があるのではないだろうか。それに対して、人間は、-1に傾斜している不均衡状態にあるということではないだろうか。正しく言えば、男性が-1に傾斜していると言うことだろう。女性は、一般には、自然と似ていて、両者の均衡をもっているのでないだろうか。
 だから、自己認識とは、±1の均衡を形成することにあるのではないだろうか。物質と精神の均衡である。それが、「わたし」である。そして、それが、生きている状態における「わたし」である。物質と精神である。しかし、死んだときは、当然、±1自体が消滅する。端的に、イデア極性に回帰するのではないだろうか。思うに、Media Pointにいったん帰り、そこから、イデア界自体へと回帰するするのではないだろうか。当然、「わたし」は消失するだろう。死んだとき、自己はどうなるのか。原自己ないしは前自己になると言えよう。だから、魂、霊魂、霊という言い方は間違い、ないしは、語弊があるのではないだろうか。何故なら、そこには、同一性を想起させる考え方があるからである。
 そう、そこには、大我があると言ってもいいのかもしれない。あるいは、超越我である。それは、全一であろう。全一的超越我であろう。今はここで留めたい。


利益とは何か:差異共振価値と同一性価値の齟齬としての資本主義と差異共振共同体資本主義
利益とは何か。
今日、想像していたが、資本主義とは、生産に関しては、差異共振主義であるから、当然、一人一人が生産するよりは、余剰に生産できるのである。つまり、資本主義的生産とは、余剰生産なのである。つまり、価値が(p.s. 質的かつ量的に)増加する経済である。差異共振経済である。物質的にも、精神的にも、即自的には発展する経済である。
 問題は、誰もがわかるように、出口、売買・商業の問題である。ここで、生産物は、市場を介して、売買されるわけであるが、このとき、差異共振価値である商品が同一性価値=貨幣価値に還元されるのである。ここが、資本主義のネックだと考える。即ち、差異価値、ないしは、差異共振価値を同一性価値に還元する倒錯を資本主義社会はもっていることである。
 このために、同一性価値が差異共振価値を凌駕するマネーゲームが生じるのである。
 思うに、同一性価値とは、近代民主主義に即応するだろう。差異がすべて同一性に還元され、それが貨幣価値化されるのである。これは、それとして、近代の価値である。封建主義的ヒエラルキーは消滅している。
 これは、これまでの検討から、ユダヤ・キリスト教が古代ギリシアの知性を取り込むような様態で主導的であったから形成されたと考えられる。ユダヤ・キリスト教が同一性価値を肯定しているのである。
 では、資本主義とは何であるのか、という疑問が浮かぶ。これは、実は、先に提示した自己極性方程式で表現されると思う。簡略的に記せば、⇒±1である。この±1の矛盾が資本主義に内在していると考えられるのである。同一性価値とは、当然、-1 であり、差異共振価値とは、+1である。
 結局、この齟齬が現代世界を混沌とさせているのである。問題は、同一性価値の-1にあるのは、誰でも理解できよう。資本主義の差異共振価値=富=+1を、-1が否定してしまうと考えられるのである。
 金融資本とは、-1のことであり、これが、+1の富を横取りしてしまうのである。もっとも、一般的に言っているのであるが。
 問題は、国家がこの-1に深く関与していることである。このために、+1が抑圧されるのである。(トランス国家主義が必要である。)
 結局、これまで、繰り返したように、差異共振価値+1をそれとして、評価する金融システムが必要であるということである。【ここで、Kaisetsu氏の銀本位制の発想が生まれるのである。】
 直感で言えば、得た収益・利益は誰のものであるのか、がいちばんの問題ではないだろうか。プルードンは社会集合力を述べたが、確かに、利益は、企業の総合性に属すると言えよう。つまり、差異共振力に利益は属すると言えよう。そして、この利益を差異共振的に還元しないならば、その企業は、同一性価値に従属することになるだろう。
 だから、私的企業とは、社会的企業でなくてはならないと考えられるのである。そして、この社会的還元を自主的に行うべきである。
 国家が介入すると、利権が生じて、いわば、マージンが取られることになると考えられる。だから、思うに、企業の社会化=共同体化が必要であると考えられるのである。
 このためには、政治家や国家・地方公務員は必要が少なくなってくるだろう。ただし、私はアナーキズムまでは考えない。国家・政府は、やはり、法形成機関としてあるべきである。
 結局、企業自体の差異共振化がなくてはならないということになる。ここでは、企業とは、自営業も含むものである。
 思うに、このためには、差異共振課税が必要になるだろう。自主的に、差異共振投資をするならば控除するが、そうでなければ、課税するのである。
 
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2008/05/30-19:08 12社中10社が減益=不払いで新契約低迷−主要生保の08年3月期  生命保険主要12社の2008年3月期決算が30日、出そろった。各社とも営業より保険金不払い問題の調査を優先したため新契約がほとんどの社で減少。本業のもうけを示す基礎利益は10社で減り、12社合計では11.6%の減益だった。
 新契約から受け取る保険料を1年分にならした年換算保険料は、アメリカンファミリー生命保険を除く11社がマイナス。医療保険などの第3分野も伸びが鈍化した。また、最大手の日本生命保険は新契約の死亡保障の合計額で3位に転落。不払い問題への対応に「営業を止めるぐらいの態勢で取り組んだ」(日生の筒井義信常務)ことに加え、死亡保障から医療保障へ顧客ニーズが変化したことも影響した。
http://www.jiji.com/jc/c?g
=ind_30&k=2008053000923


   




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カレンダ
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