INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY - 2008/05/18
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INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY/一覧 (966)
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2008年05月18日(Sun)▲ページの先頭へ
物質とは何か:現象について:自己認識方程式と同一性-1の再確認
爽やかそよ風が窓から入ってきて、やや薄い雲がかかっているが、穏やかな晴天の東京である。
さて、先に、ヴィクトル・シャウベルガーの自然理論からPS理論に関して、説明が修正されることになったが、まだ、不十分なので、再考したい。±1が現象における極性となったので(この点も確定したわけではないので、さらに検討が必要ではある)、これまで、物質を-1と捉えてきたことに対する大きな変更であり、十分な検討が必要である。 結局、差異の問題がここにある。差異の共鳴、これは、本質では、(+i)*(-i)と表記される。例えば、+iが一つの差異であり、-iが他者ないしは他者としての差異である。差異+iは、他者-iを志向する。これを引きつけられる力と見ていいだろう。しかし、同時に、差異+iは、他者-iではありえない自己存在を固持する。他者-iであろうと志向しつつ、自己であることを固持するのが、差異+iである。 そして、この差異の様態が極性であると考えることができたのである。また、これは、PS理論では、即非様相と見ているのである。 差異のこの内在的即非志向性は、(+i)*(-i)で表現されるだろう。問題は、現象様態である。他者-iへの志向性は、言い換えると、共振・共鳴性である。引きあう力である。これを、先には、+1として考えたのである。しかし、正確に言うと、⇒+1である。他者への志向性であり、他者との一致ではないのである。だから、そう考えると、差異の独立性、ないしは、不連続性は、⇒+1においても、内包されていることになるだろう。⇒が決定的なポイントである。これは、即非記号、他者志向性記号と言ってもいいだろう。 そうならば、⇒-1はどうなるのだろうか。先には、それは、差異の独立性に基づく反発・斥力を意味すると述べたのである。⇒+1を引きあう力(吸引力)とすると、それは、同時に、反発する力(斥力)になるだろう。だから、⇒-1を斥力と見る必要はなくなるのである。 だから、端的に、自己認識方程式は、差異現象方程式と見てもいいのである。だから、±1ではなく、+1で済むのである。この点は、さらなる訂正であり、元に戻ったのである。 では、新たに、物質とは何か、又、⇒-1とは何か、となるだろう。直感で言えば、物質とは、+1自体である。差異志向性の帰結・エンテレケイアである。そう、同一性も+1ということになるだろう。自我も+1である。ならば、⇒-1ないしは-1とは何だろうか(e^iπ=-1と関係するのか)。 -1とは、これまでの考え方では、(+i)*-(-i)⇒-1ということから考えられたのであり、これは、他者の否定・抑圧・排除によって発生すると考えたのである。差異志向性においては、他者への志向性と同時に、差異自体であるという事象があるのであり、後者の差異自体であるという不連続性は、確かに、一種の他者の否定ではあるが、-1を生み出す、否定・抑圧・排除ではない。 つまり、ここには、少なくとも二つの否定があるのである。差異志向性の否定は、いわば、相対的否定であり、同一性の否定は絶対的否定である。この点をどう明確化するのかが、一つのポイントである。 思うに、差異自体ということは、本来、他者を否定していないのである。ただ、他者とは別に差異自体が存するということである。しかしながら、差異は他者とは対立しているのである。ここで、ある人の意見を借りて、差異と他者の関係を反対と捉えると明快になるかもしれない。AとBとは反対であるとは、確かに、AとBは対立するが、AはBを排除していないのである。だから、これは、端的に、対極性と呼ぶのが、明快・明晰ではないだろうか。 Aの極はBの極とは対立しているが、A極はB極を排除はしていない。ここで、否定という用語の問題がある。対極的否定と排除的否定があるだろう。私が同一性における否定に見るのは、当然、後者である。 ここで整理すると、差異志向性は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で必要十分に表現されている。左辺は差異志向性であり、差異対極性と言っていいものである。そして、⇒は即非性を意味するのである。 そして、同一性を意味する⇒-1ないしは-1であるが、それは、他者の排除的否定と、他者の排除的肯定(自己差異を排除的に否定する)に拠ると考えられる。他者の排除的否定を考えると、それは、どういう条件・事態・前提から発生するのだろうか。 これまでの考えは、ルサンチマンから発生するということであり、他者-iにおける苦・悲に対するルサンチマンから他者の排除が生起すると考えたのである。これは、先天的な、ないしは、男性的な傾斜・勾配によると考えられる。即ち、(+i)*(-i)という差異志向性・差異共鳴性・差異対極性に関していうと、先天的に、ないしは、男性において、+iに対して、-iが脆弱にできているのである。即ち、過剰な+iに対して、-iが脆弱なのである。+iを原知とすると、-iが原身体である。このような先天的傾斜ないしは男性的傾斜があると考えられるのである。 この結果、出生後、幼児において、ルサンチマンから他者を排除的に否定する結果、-1の同一性が発生すると考えられるのである。本来、差異共鳴性があるが、そのような傾斜から同一性の-1が発生すると思われるのである。 言い換えると、人間の精神において、差異志向性と同一性志向性の二つの傾向が混淆しているのであり、先行しているのは、前者であるが、父権主義においては、後者が優位となり、本来的な様相が劣位となる倒錯した状態になっていると言えるのである。 文化史的に見ると、ユダヤ・キリスト教的一神教が、同一性志向性に貫かれていると考えられる。もっとも、イエス・キリストの教えには、差異志向性は含まれるが、ヤハウェ的一神教のために、それがきわめて抑圧されていると考えられるのである。 まだ、近代合理主義・近代的自我であるが、これは、父権的な同一性主義の延長にあると考えられるのである。同一性としての合理性・物質性・自己を中心価値においているのである。端的に言えば、差異志向性を抑圧した同一性合理主義である。これが、近代欧米の世界観の基盤にあるものと考えられるのである。ただし、何度も言うが、ルネサンス(正しくは、中世)に根差した差異志向性が欧米人の無意識には存すると言える。言い換えると、差異と同一性の混同が欧米人の精神には存しているのである。以上のように考えると、端的に、元に戻ったことになる。 さて、最後に、光の現象について考察したい。以上の検討から、光現象は、当然、⇒+1である。それを+1と見るのが、物質科学である。⇒+1とは、光をエネルギー現象と見るのであり、+1とは物質現象と見るのである。今日、電磁波ということで、エネルギー現象として正しく確認されている。 問題は、光の知覚にある。光の視覚はできるのか、という問題もある。太陽を直視することはできない。つまり、光は直視できないと思う。光が反射したものを視覚することができるのだと思う。これが一点である。思うに、光は、⇒+1であり、この左辺が超越的であり、それで、直視できないということなのではないだろうか。 では、光の反射した現象をどう知覚するのだろうか。ここでは直感で言おう。視覚は、反射した光(以下、単純に光と表記する)と共振・共鳴すると思う。これは、自己認識方程式でも表記できるし、また、Media Resonance(メディア共鳴)でも表記できると思われる。 問題は、例えば、「わたし」が、遠くに位置するビルを見たとき、そのビルの視覚とは何か、ということである。思うに、無意識の背景、基礎として、差異共振(差異共鳴)が存していると考えられるが、現象としては、個体・個物としてのビルを視覚するのである。即ち、同一性としてのビルを視覚するのである。三次元空間ないしは四次元時空間におけるビルとして視覚するのである。 同一性としてのビルとはどう数理(数知)化されるのか。+1なのか、-1なのか。同一性主義の視覚ならば、-1としてのビルとなるだろう。そして、差異志向性における視覚ならば、+1としてのビルではないだろうか。しかしながら、+1の視覚とは、仮象に過ぎないだろう。⇒+1と見たときに、現象となると言えるのではないだろうか。⇒+1においては、差異共振(共鳴)性が存するのであり、こちらが本来的であると考えられるのである。+1とは、同一性仮象(同一性シミュラクル)である。 では、-1のビルとは何なのだろうか。+1のそれとどう異なるのか。同一性仮象と同一性主義との違いということになるだろう。思うに、それは、知覚の相違ではないだろうか。同一性仮象+1とは純粋視覚の現象であり、同一性主義-1とは視覚現象の言語化ではないだろうか。つまり、視覚する対象はビルという言語が適用されるものであり、言語視覚としてのビルということではないだろうか。 だから、ある意味で、+1と-1は似ているのである。しかしながら、カントは、+1を直観ないしは物自体、-1を純粋理性としたのではないだろうか。言い換えると、+1はリアリズム(写実主義)である。そして、-1は、近代合理主義である。 さらに展開すると、ロマン主義はどうなるのだろうか。それは、同一性主義・近代合理主義によって否定された-iの復権を意味するのではないだろうか。少なくとも、それは、差異共振(共鳴)性を取り戻す志向性をもっていたと言えよう。同一性主義の(+i)*-(-i)に対して、(+i)*-〔-(-i)〕ではないだろうか。排除された他者-iを肯定する行為ではないだろうか。しかしながら、逆に言うと、他者の強調が過剰となり、逆に、自己の差異である+i を否定する傾斜さえもったのではないだろうか。すると、-(+i)*(-i)⇒-1となったように思えるのである。だから、反動性ももっていたことになるのである。他者を強調するあまり、逆に同一性主義に陥ったと考えられるのである。 とまれ、少なくとも、ロマン主義において、差異共振性が生動化したことは画期的であったことを評価すべきであろう。精神的には、歓喜が発現したのである(参照:シラー/ベートーヴェンの「歓喜の歌」)。文化史的には、ルネサンスの再発動に近いものがあると思われるのである。そう、他者が賦活され、差異共振性が活性化したと言えよう。しかしながら、それが過剰であっために、反動化したことも事実なのである。精神過剰主義である。【だから、ここから、世紀末や唯美主義等は延長であることは見やすいであろうし、また、20世紀になっても、後期ロマン主義や表現主義として継続したと見ることができるだろう。因みに、モダニズムは、ロマン主義と写実主義(広義の近代主義)、言い換えると、差異と同一性との衝突であり、両者の妥協点・調和点を求めた志向であったと言えよう。だから、モダにイズムは、差異に傾斜した様態と同一性に傾斜した様態と中間的様態があるのである。英米文学で言うと、差異に傾斜したのが、D. H. ロレンスであり、同一性に傾斜したのが、T. S. エリオットやエズラ・パウンドであり、中間的様態が、W. B. イェイツやジェイムズ・ジョイスであろう。】 最後については、後で整理したい。 p.s. 初期デリダの脱構築主義であるが、差延を先には、-1と+1との差異として捉えたが、以上の考えから見ると、それはやや説明が足りないように思える。問題は、+1である。これをまたハイデガーの本来的存在と見たのであるが、どうだろうか。 確かに、+1という様態は不安定というか不明確なものがある。同一性仮象である。例えば、波打ち際にたって、打ち寄せる波を見ていると、波と知覚が揺れ動くのがわかるだろう。「わたし」が波となったり、しかしながら、「わたし」と波とは別々の存在であるというような知覚現象が発生するだろう。同一性仮象は、差異共鳴性を内包していると考えられるのである。そう、コスモスを内包しているといいだろう。【神話とは、ここから表現されたものだろう。】 だから、純粋な+1があるかどうかは問題ではないだろうか。しかしながら、現実的には、同一性仮象を実在として捉えて生活しているのである。眼前にあるデスクは同一性仮象ではあるが、物質現象として捉えて生活しているのである。 現実的な生活においては、同一性仮象を物質現象として把捉しているのであるから、+1は生活においては、仮象ではあるが、存在すると言えよう。だから、 +1に揺らぎが生起するのは、現実的生活を離れたときと言えよう。単独で居るときに、同一性仮象が揺らぎ、差異共鳴現象が生起すると考えられるのである。 ここから、初期デリダの差延を考えるとどうだろうか。例えば、現在という事象に対して、過去や未来という事象が潜在しているのである。思うに、差延は明快に説明できるだろう。つまり、他者を排除的に否定する同一性主義と排除的に否定された他者との関係が差延であると言えるのではないだろうか。例えば、現在とは、同一性主義の同一性であり、それに対して、他者は過去であり、未来である。つまり、現在と過去ないしは現在と未来との差異共鳴によって、本来、時間が生起しているが、同一性主義だと、過去ないしは未来を排除的に否定しているので、現在と過去ないしは未来とが二項対立になっている。しかるに、本来的には、現在と過去ないしは現在と未来との差異共鳴があるのであり、差異共鳴性の回帰を差延として初期デリダは捉えたのではないだろうか。 ならば、初期デリダの脱構築主義も、本来的には、差異共振主義である。ただし、初期デリダは、超越性を否定しているので、虚数世界、イデア界に達することができずに、水平的な差異共鳴性の提示に終始したように思えるのである。 思うに、水平的な差異共鳴性とは、実軸に圧縮された差異共鳴性であり、実軸上のMedia Pointであると考えられるのである。思うに、ハイデガーの本来的存在は、+1ではなく、この実軸に圧縮されたMedia Pointであるように思えるのである。 思うに、構造主義のゼロ記号も、この実軸に圧縮されたMedia Pointではないだろうか。そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、差異を他者と連続化しているのであり、差異を同一性化して、差異を微分にしているのであり、初期デリダの脱構築主義よりも後退していると言えるのである。なお、後期デリダは、差異の不連続性、即ち、特異性に注視して、純粋な Media Pointに近づいたと考えられる。 V. シャウベルガーの自然理論とプラトニック・シナジー理論:ガウス平面とPS立体
購入したヴィクトル・シャウベルガー(1885〜1958)の自然理論を解説する『自然は脈動する』(アリック・バーソロミュー著)
http://www.kyobunsha.co.jp/shopping /books/ISBN978-4-531-08164-6.html の1/4弱読んだが、直感した通り、否、それ以上に、シャウベルガーの自然理論が、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)と共通性をもっていることを察知した。そして、前者の考えを活用して、PS理論が発展できたと考えている。(もっとも、シャウベルガーの理論には、Media Pointの概念はない。この点が相違点である。)以下、今は余裕がないので、簡単に記したい。 とても、重要な自然理論が説かれていて、簡単には説明できないので、私が思いついたことを述べたい。 それは、ガウス平面に直交する軸を考えて、三次元空間を考えることである。そして、その垂直軸を天地軸を考えるのである。+iと-iとが引き合うとき(牽引力)は、共鳴して、+1となる。しかし、これは、同時に、天地軸の天へと上昇(浮揚)すると考えるのである。それに対して、+iと-iが反発するとき(斥力)、-1となり、これは、天地軸の地へと下降すると考えるのである。 そうすると、以上から、上昇らせんと下降らせんが生起すると思われるのである。また、(+i)*(-i)と(-i)*(+i)の順列を考えると、らせんは二本になると考えられる。即ち、二重らせんになると考えられるのである。これが、宇宙・自然の原型となるだろう。 興味深いのは、シャウベルガーが重力とは対蹠にある浮揚力を考えていることである。これは、樹木などが空へと上昇する力であり、反重力的な力なのである。この点を借用・活用して、天地軸を導入したのである。 その他、とても明快で、目から鱗であったのは、極性が引き合う力と反発する力をもつと指摘している点である。差異共振性とは、単に、引き合う力だけではなく、対立する力があるのだから、当然、反発する力をもっているのである。この点は、最近、やや不明確になっていたので、助かった。考えてみれば、差異のもつ力とは、他者への接近と同時に、絶対的には一致しないというものである。即非性と表現しているものである。即ち、AはBへの限りなく接近するが、決して、Bにはならないのである。A→Bであるが、A≠Bである。 もっとも、厳密に考えると、この差異の力と即非性は少し違うようにも思えるのである。差異の力は、限りなく、AはBに近づくが、決して、Bにはならないのである。これを以前、他者への志向性と呼んだ。結局、Aは独立性を保つのである。だから、Aという差異には、垂直性と水平性があるのである。 この点は、哲学的に微妙なものがあるので、少し考察しよう。Aという差異は、垂直的独立性と水平的共感性がある。後者において、AはBに接近するのである。ほとんど一致するのである。あくまで、Aは単独性・特異性であり、独立した個のままである。しかるに、Bへと接近するのである。 問題は、Aの独立性である。これは、同一性なのだろうか。否、当然、差異である。ただし、独立性から反発性となるときが、同一性である。つまり、他者であるBに反発し、排除するとき、Aは同一性となるのである。つまり、Aの独立性とは、共感性と一如(いちにょ)なのである。これが、差異である。つまり、差異とは、垂直性と水平性の平行性である。 ここで、シャウベルガーの自然理論に関係して言うと、Media Pointにおいて、差異は共鳴して、引き合って、⇒+1となり、反発して、⇒-1となるのではないだろうか。これまでは、最初に、⇒+1となり、その後、内的否定により、⇒-1となると考えたのである。もっとも、それ以前には、両者、同時生起すると述べたのではあったが。 とまれ、Media Pointにおける差異共鳴とは、引き合いが+1となり、反発が-1という両極に展開するということになった。この両者は共立しているということではないだろうか。言い換えると、+1であると同時に、-1であるということであり、又、同時に、+1と-1とは当然、異なるということで、+1と-1は即非関係にあるということではないだろうか。 そして、+1は差異牽引性=差異であり、-1は差異反発性=同一性ということではないだろうか。つまり、差異と同一性は同時生起ということである。 では、物質とはどういうことになるだろうか。これまで、同一性-1を物質として考えてきたのであるが、どうなるだろうか。思うに、現象は、±1である。だから、物質というものも、±1ではないだろうか。しかしながら、物質ないしは現象の実質・実体は、差異共振性、即ち、(+i)*(-i)である。言い換えると、イデア共振ないしはイデア共鳴である(超越共振・超越共鳴)。そして、これが、「精神」である。つまり、物質ないし現象の本体とは、「精神」ないしはイデア(イデア共鳴)である。 このように考えると、ポスト・モダンや構造主義の数理も変えないといけなくなるだろう。構造主義は、+1と-1の対立構造で説明がつくのではないだろうか。そして、ゼロ記号であるが、それは、やはり、両者の和である。それは、連続的原点であり、不正確な原点である。そう、構造点と言ってもいいだろう。 では、ポスト・モダンであるが、それは、やはり、同一性の-1に対して、差異の+1を対峙させているということではないだろうか。デリダの差延とは、正に、この-1と+1との極性を提示しているのではないだろうか。そして、ドゥルーズは、思うに、-1に対して、+1を積極的に説いているが、しかし、-1 を否定して、+1を積極的に説くことは、逆に(アイロニカルに)同一性になることだと思われるのである。つまり、A→Bにおいて、AをBと一致させることだと思われるのである。つまり、差異一致である。極限値である。limitA→Bである。だから、差異はゼロとなり、微分が形成されると考えられるのである。差異は同一性に転化してしまうのである。 そして、ハイデガー存在論であるが、先には、+1が本来的存在であり、-1が頽落した現存在であると言ったが、どうだろうか。思うに、それは、正しいのではないだろうか。本来的存在は、他者がなく、自己同一性に閉じているのである。つまり、ドゥルーズの差異と同じ、極限値なのである。A→Bなのである。だから、差異共振性がないのである。 フッサール現象学は⇒+1ないしは⇒±1であろう。 ここで、特異性のことを言うと、それは、端的に、Media Pointのことを意味するだろう。キルケゴール、ニーチェがそれを示唆したと言えよう。そして、ウスペンスキー、鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周三が、論理的にこれを捉えていたと考えられるのである。不連続的差異論は、これを、明確・明晰に説いた理論と考えられるのである。 ここで、近代合理主義・近代的自我について触れると、それは、やはり、-1である。+1を否定・抑圧しているのである。しかしながら、正しくは、-iを否定しているのである。 思うに、ここで、用語を整理した方がいいだろう。-1は同一性であり、+1は差異であるが、共一性としての差異である。そして、(+i)*(-i)が差異共振性ないしは差異共鳴性である。 以上のように訂正すると、光と影の二重性はどうなるだろうか。端的に、光はどうなるのだろうか。肉眼で見る光とは一般には、やはり、±1の極性現象であろう。そして、思うに、-1が粒子であり、+1が波動ではないだろうか。電磁波の本体は、端的に、差異共振性ないしは差異共鳴性である。虚数的超越共振性である。換言すると、本体が、虚数超越的差異共振性であり、それが、Media Pointにおいて、実数的極性になっているのである。そして、極性の相補性や長距離相関という点で、Media Pointに接近していると言えよう。 光と影の問題に返ると、-1が影であり、+1が光であろう。では、宗教的な光はどうなるのだろうか。それは、端的に、差異共振性である。超越エネルギーである。それは、Media Pointを介して、「感知」できるだけである。おそらく、dark sunである(darkは不可視ととる)。 では、さらに、イシス・オシリス神話を考えるとどうなるだろうか。オシリス=ホルスは+1ではないだろうか。イシスとオシリスは、本来、差異共振性を意味するだろう。そして、セトが-1ではないだろうか。 こう考えると、多神教と一神教の関係が明快になるように思える。多神教において、±1が生起するのである。そして、一神教は、+1を否定・排除・隠蔽して、-1を唯一神とするのである。エロヒームを+1、ヤハウェを-1とすることができよう。そして、前者を否定したものが、ユダヤ教やキリスト教である。聖書はそうではない。【イスラム教であるが、これまで、差異共振性をタウヒード(一性)としていると考えたが、どうやら、+1をアッラーとしているように思えている。つまり、エロヒームとしてのアッラーとなる。だから、ヤハウェとは、逆となる。アッラーを月と表現するなら、ヤハウェは何だろうか。やはり、太陽ではないだろうか。しかし、太陽は二つあると思う。差異共振性の太陽と、同一性の太陽である。ヤハウェは後者である。そして、前者が太光である。アマテラスは何だろうか。太光だと思う。問題は、差異共振性の太光と同一性の光(影)を同一視してしまうことである。この同一視が例えば、日本の国家神道において起ったと言えよう。私は、この一因は国学にあると考えている。 思うに、アマテラスとツクヨミを極性として見ることが可能である。そうすると、アマテラスは同一性の太陽になるのである。 どうも、太陽の表象は混乱を招くものである。本来、差異共振性の太光であるが、それが、現象化において、同一性の太陽に同化されやすいのである。この点は後で再考したい。】 とまれ、以上から見て、PS理論は奇蹟的である。シャウベルガーの説く自然の精妙なエネルギーは、差異共鳴エネルギー=超越エネルギー=イデア・エネルギーで簡単に説明できると考えられるのである。とまれ、『自然は脈動する』をさらに読んで、検討を続けたい。 |
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カレンダ
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