INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY - 2008/05/10

PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2008年05月10日(Sat)▲ページの先頭へ
+1(共一性又は差異)と-1(同一性):MPにおける垂直三元性と水平三元性:原超光と超光と光
先の検討から、-1がないと発展がないのがわかった。これは、悪魔的であるが、人類の発展のためには、正に必要悪なのである。
 問題は、近代合理主義・近代的自我において、同一性=-1が中心化されたことである。本来、近代は、Media Pointの発動であり、差異と同一性が発動したのである。しかし、同一性のもつ連続性によって、差異と同一性が混淆されて、同一性主義のために、差異が抑圧される結果となっているのである。(現代日本人は、これが顕著であると考える。)
 とまれ、発生論的には力学のベースは、+1が主であり、-1が従であると考えられる。ここで、差異と同一性の非対称性があると考えられる。「光学」で言えば、光が主であり、影が従である。もっとも、光とは、超現象光であり、影とは現象光である。
 この点で、言語表現上の問題がある。この点をここで検討することにする。通常見る光とは、影なのであり、本来の光は純粋には見えていないのである。また、理論的には、超越的差異共振の光も考えられるので、複雑になるのである。ここで暫定的に用語を整理すると、虚軸の差異共振の光を原超光、+1を超光、そして、-1を光(影)とする。
 そして、Media Pointにおいては、実に複雑な様相があると考えられる。即ち、ここで、原超光と超光と光(影)の三相が交叉していると考えられる。
 ここで、キリスト教から考えると、原超光がエローヒームで、超光がイエスで、光がヤハウェではないだろうか。超光であるイエスとは、大女神の息子であり、両者は共一性であると考えられる。エジプト神話で言えば、イシスとオシリスの共一性である。
 ここで、PS理論に基づくトランス・キリスト教の視点でさらに検討すると、父(ヤハウェ)とは、-1の同一性である。そして、母と子(聖母子)が+1の共一性である。そして、聖霊は、Media Pointにおけるイデア・エネルギー=超越エネルギー=差異共振エネルギーではないだろうか。【だから、今日は、本来的には、聖霊の時代、ヨアキム主義の時代であると考えられる。】
 だから、整理すると、Media Pointにおいて、垂直的三元性(+i)*(-i)と、水平的三元性(+1)+(-1)の二つの三元性があると考えられる。
 母権多神教においては、水平的三元性の非対称性は、+1(差異又は共一性)が主であり、-1(同一性)が従であると思われる。それに対して、父権一神教では、水平的三元性の非対称性は、逆になると考えられる。一般に、東洋文化は前者であり、西洋文化は後者であると言えよう。【もっとも、東洋文化においても、父権主義はあるのであり、これが、主導化されている。しかし、ユダヤ・キリスト教的な一神教性はない。】
 ここで、時代について整理すると、プロト・モダン(原近代)は、Media Pointの発動であり、+1と-1が喚起された。しかし、プロテスタンティズムや近代合理主義によって、-1へと傾斜した。
 それに対して、ポスト・モダンは、一種のプロト・モダン回帰であるが、賦活された+1(差異)は、-1と連続化されていたので、両者は和となり、ゼロ度の構造を形成した(構造主義)と考えられるのである。つまり、ポスト・モダンは差異という視点は前進的であったが、結局、構造主義を乗り越えられなかったと考えられる。言い換えると、構造主義の壁にぶつかったのである。【以前述べたように、ハイデガーはポスト・モダンの元祖であると考えられよう。ハイデガーの存在論的差異の思想に差異が出現しているのである。ただし、存在論的差異とは、-1とゼロ度との差異だと思われるのである。私は、ハイデガーの存在は、+1の差異ないしは共一性には達していないと考えている。フッサールは共一性に達していたと思われる。だから、正しくは、フッサールがポスト・モダンの元祖であり、ハイデガーはポスト・モダンの疑似元祖である。この点で、ポスト・モダン哲学に混乱があるように思われるのである。ハイデガーに依拠すると、ゼロ度があるので、構造主義から脱却できないと考えられるのである。フッサールから出発すれば、脱構造主義の視点が生まれると考えられるのである。整理すると、トランス・モダンとは、フッサール現象学が現代的出発点であると考えられる。また、キルケゴールやニーチェの哲学も先駆である。どうも、ポスト・モダン哲学は、ハイデガー哲学に躓いてしまったと考えられるのである。フッサールとハイデガーの絶対的な亀裂を認識する必要があるということである。両者を現象学として括るのは、重大な誤謬を生んだと考えられるのである。】
 以上、差異(共一性)と同一性について、錯綜気味ではあるが、再確認することができた。次に、PS理論、トランス・モダンが空間・時間的に意味することを理論的にさらに検討したい。(以下は思考実験である。)
 ここで、作業仮説として、脳について言うと、左脳が同一性-1、右脳が共一性+1に関係すると考えたい(p.s. 以下、左脳・右脳については特に述べなかったが、両者の結合が空間認識を形成していると考えられる。)。そして、空間認識であるが、三次元空間認識であるが、それは、一見、同一性-1に拠ると考えられるが、差異の認識があって、三次元空間認識が生まれるのではないだろうか。つまり、共一性認識がベースにあって、同一性を形成するときに、三次元認識が発生するのではないだろうか。言い換えると、共一性認識(差異認識)は原三次元認識であり、それを同一性が三次元として明確化するのではないだろうか。ルネサンスで遠近法が発達したのは、この点から説明ができると考えられるのではないだろうか。つまり、三次元的奥行きの基盤は差異+1に存するということである。
 ここで、時間次元を入れると、四次元時空間の基盤も、この差異=共一性+1にあるということになると考えられるのである。つまり、原時間の源泉も共一性 +1に存すると思われるのである。つまり、原時間とは、エネルゲイアであり、時間も同一性エネルギーで説明がつくように思われるのである。
 空間と時間の問題を整理すると、正に、相対性理論が指摘するように、両者は不可分である。空間形成自体が時間的事象であると思われるのである。換言すると、両者、エネルギー事象であるということである。
 では、問題は、どうして、現象界は、三次元ないしは四次元になるのか、ということである。【イデア界を入れると、四次元ないし五次元となる。Media Pointを入れると、五次元ないしは六次元となる。】
 ここでは、思考実験的に、直感で言うと、Media Pointにおいて、+iと-iと+1と-1とが交差するが、太極の主導原意識は、+iと-iであり、両者が共振交差するとき、共振次元+1が発生し、それが、空間的には、三次元を形成すると思われるのである。
 言い換えると、+iと-iとは、それぞれ、平面的であると思われるのである。その平面と平面の共振によって、第三次元+1が発生すると思われるのである。
 ここで作業仮説した+iと-iとの平面とは何であろうか。単純に考えれば、+iと-iは直線、一次元である。しかしながら、Media Pointにおいて、共振するとき、同時に、それは、+1と-1を同時形成(同時生起)すると考えられるのである。つまり、Media Pointにおいて、平面化するのではないだろうか。
 もっとも、それでは、矛盾することになるので、Media Pointを考慮すべきである。ここにおいて、+1と-1が生まれるのであり、現象の直近の原点である。だから、Media Pointは、原+1であり、原-1である。言い換えると、Media Pointは、原平面であり、且つ、原立体であると言えるのではないだろうか。 思うに、原平面と原立体は同時生起であろう。原平面であることは、同時に、原立体であることになると考えられるからである。言い換えると、Media Pointにおいて、原平面と原立体が揺らぐ、いわば、不思議な空間が生起していると考えられよう。
 本来、一次元であるのに、二次元と三次元の構成要素が同時生起して、揺らいでいるのである。だから、Media Pointは原三次元ないしは原四次元と言っていいだろう。そして、共一性+1と同一性-1とが、発現して、三次元空間ないし四次元時空間が形成されると考えられる。
 もし、そうならば、イデア界という高次元はどう説明されるだろうか。それは、端的に、三次元空間/四次元時空間を超越的に包摂した四次元空間/五次元時空間となるのではないだろうか。
 では、Media Point自体を空間的には、どう把握すべきであろうか。これは、端的に、イデア界と現象界の境界である。それは、不連続的差異論的に言えば、メディア界である。あるいは、次元変換点である。だから、Media Pointは、次元に数えないことが適切なように思われる。
 最後に、宇宙物理学の問題を考えると、ビッグバンがあるならば、その特異点は、Media Pointであると言えよう。そして、どうも、直線的ではなく、螺旋的運動をするように思われる。【マヤ神話では、今の世界は第四番目の世界であり、今度、第五番目の世界になるという。】
 そして、ブラックホール等であるが、ブラックホールは、差異共振的発光を起させない現象と考えると、それは、-1のマイナスではないだろうか。ホワイトホールは、マイナスのマイナスであるプラスではないだろうか。
 また、ダークマターやダークエネルギーはこれまで述べたように、自己認識方程式自体にそれらが表現されているのではないだろうか。即ち、端的に、自己認識方程式が自体がダークエネルギーを表現していると思う。そして、そこから、仮説される物質がダークマターであろう。しかしながら、ダークネルギーは存在するが、ダークマターは存在しないのではないだろうか。
 今は、ここで留めておく。
  


   




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カレンダ
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