INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY - 2008/05/06

PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2008年05月06日(Tue)▲ページの先頭へ
+1の光と-1の影の関係について:ルサンチマンと同一性=物質の発生の必然性
今日は、正に、五月晴れの東京である。新宿副都心の高層ビル群が見える。公園等の新緑の森も灰色のビルの海に島のように見える。

 さて、先に、古代エジプト神話(宗教)から霊的太陽+1と物質的太陽-1を分離させて検討したが、まだ不明瞭、あいまいなところが感じられるので、さらに検討したい。
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10094204738.html
 端的に言えば、+1と-1との関係である。これまでの言い方だと、霊的太陽と物資的太陽が別々の存在であり、二元論的である。
 今日の五月晴れのような明るい爽やかな空を満たす光は、端的に、物質的太陽と同時に、霊的太陽を感じさせるのである。つまり、一如的な太陽である。
 この問題は、これまで、超越光と光との即非様態で説明してきた。しかしながら、+1の光、-1の影という考え方は、それと少しズレるようであるので、再検討である。結局、光が影を生むことの問題である。そう、光は光であり、超越光を示唆するのである。爽やかな光は、超越光を示唆する光ということである。
 問題は、影、物質的太陽とは何かである。目にする太陽の光とは何か。心地よい、五月晴れの光とは何か。そう、影であると同時に、霊的太陽なのではないだろうか。影であると同時に、光である。-1であると同時に、+1であるということではないだろうか。【p.s.  ここは微妙なところである。おそらく、本来的な人間の視覚においては、+1の太陽と-1の太陽が揺らいでいるのである。しかしながら、今日の近代主義化された人間は、-1の影の太陽しか見えないだろう。もっとも、無意識においては、+1の光の太陽を感知しているだろうが、中心化されているのは、影の太陽である。トランス・モダナイゼーションとは、+1の光の太陽を取り戻すことにもなるのである。】
 問題は端的に、同一性の発生力学の意味である。これまでは、同一性主義の発生として、ルサンチマンに基づくものとして捉えてきたが、純粋に自然においてはどうなのだろうか。自然にもルサンチマンがあるのだろうか。
 同一性=物質として捉えてきたが、そうならば、自然には、同一性力学がなくてはならないだろう。つまり、単に共振力学だけではなく、否定力学がなくてはならないということである。マイナス力学である。
 これは、ある意味で不思議なことである。極性は本来、牽引するのであり、反発はしないからである。+iが-iにどうして反発するのか、である。それは、-iが「苦・悲」化したからである。-iの「苦・悲」化とは何か。
 どうも、同一性=物質という図式を訂正しないといけないのかもしれない。否、視点の転換が必要なようだ。自然は、(+i)*(-i)⇒+1である。太陽の光は端的に、+1である。今日の五月晴れの光は、+1である。
 しかし、それを-1の影、即ち、物質的太陽として捉えるのが、近代的自我・近代合理主義(近代科学)である。(もっとも、核融合とは、物質的ではなく、イデア的である。)つまり、光+1を影-1(同一性=物質)として捉えるのである。
 光を影にしているのは、人間の自我である。近代主義とは、だから、本来、+1である光を-1の影として捉える倒錯性なのだと言えよう。
 では、自我において、光+1はどうなるのか。影-1しか見ていないのか。端的に、自我は、影-1しか見ていないだろう。今日の五月晴れの清爽な光は見えないのである。つまり、光+1が感覚に入ってきても、自我はそれを影-1として知覚するということだろう。(光は暗いという私の言葉は、この意味で取るべきかもしれない。)
 ということである。だから、結局、超越光(+i)*(-i)と光+1と影-1の3種類の「光」(三重光)があることになるだろう。そして、以前、述べた超越光と光との即非性はそのまま肯定されるのである。ジョージ・ハリスンの見た光は正に、超越光・即非・光と言えよう。【p.s.  補足すると、人間だけが、影-1(物質の光)を見ると言えよう。動物はただ超越光・即非・光を見ているのだろう。逆に言うと、この影が人間を創ったと言えよう。悪魔が人間を創造したと言えよう。だから、賛えられるべきは、悪魔であろう。では、どうして、人間において、影が発生するのかということになるだろう。それは、出生する身体が他の動物に比べて、虚弱であることから来るのではないだろうか。馬の子どもは生まれるとすぐ立てるのである。】
 では、補足的に、キリスト教の光とは何か。これは、有体に言えば、光+1と影-1の混淆である。ヤハウェ=自我神の影が、イエス=共一性の光に入っているのである。光の中に闇が入っているのである。この闇が悪魔的破壊主義なのである。【ヤハウェは悪魔=物質神である。もっとも、この「おかげで」、物質科学・技術が生まれたと言えよう。一種、プロメテウスである。同一性ロゴスとしてのヤハウェである。】実際、この二重性はどういうことなのだろうか。
 明らかに、分裂性である。ジキルとハイドである。これが西洋人の精神性であろう。問題はこの分裂様態の力学構造である。
 おそらく、基盤は自我=影である。つまり、-1である。その基盤の上に、イエス教が乗っていると考えられるのである。だから、妙な言い方になるが、自我中心的イエス教がキリスト教である。つまり、イエス教の光が自我教の影によって規制されているのである。この枠組みを抑えておく必要が絶対にあるのである。イエス教が自我教(ヤハウェ教)に規制・制限されているということである。
 この自我の第一義性が、西洋人の「自己中心主義」、「自民族中心主義」、オリエンタリズム等を生んでいるのである。だから、ブッシュや中国人権問題等でわかるように、民主主義の下には、鎧の西洋中心主義がほとんどあらわに存在しているのである。この西洋文明の偽善性の構造を剔抉する必要があるのであり、これは、ニーチェがえぐり出したと言えよう。
 だから、今日の問題は、トランス一神教である。トランス・モダン化である。一神教的性格をもっているグローバリゼーションに対して、トランス・グローバリゼーションである。
 以上のように考えると、逆に、一神教は偉大であるとことがわかる。その悪魔的主導性がなければ、近代科学・技術は生まれなかったであろうし、インターネットもなかったからである。また、キリスト教がなければ、近代民主主義もなかったと言えよう(古代ギリシアのは、周知のように、貴族的民主主義である)。
 結局、脱近代主義である。脱西洋主義である。当然、日本の場合は、脱封建主義・脱父権主義でもある。【ここで一言、神道について言うと、神道の本質は、母権多神教(古代レヴァントの女神宗教と類似すると思われる)だと考えられるが、古事記では、明らかに、父権化の作用が入っている。つまり、聖書に似た作業が入っていると考えられる。記紀神話の「脱構築」・脱父権的解明によって、いわば、原神道(古神道)が明確になるだろう。折口信夫の捉えていた神道は明らかに、原神道(古神道)と考えられる。母権神道である。】 


多神教と一神教:キリスト教と神道:一神教としての国家神道と本格神道ルネサンス
次の論考は以下の考察の追記を独立させたものである。
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10094007041.html


神話を複雑にするのは、差異共振性が垂直から水平へと転化することにあるのではないだろうか。例えば、イシス・オシリス神話であるが、それは、共一性+1であろう。そして、ホルスは-1ではないだろうか。
 そして、共一性の根源の差異共振性は、ハトホルということになるのだろうか。とまれ、イシス・オシリスが共一性で光+1を意味するならば、それは、また、オシリスである。つまり、イシス・オシリスの共一性=光=ホルス=霊的太陽ということではないだろうか。しかし、このホルスはオシリスと同一ではないだろか。どうもそう思えるのである。
 では、セトとは何か。それは、オシリスを殺害するのであり、そのバラバラにされた遺体をイシスが集めて、復活させるのである。霊的太陽を破壊するとは、セトが-1であることだろう。そして、これは物質的太陽ということではないのか。
 そうすると、問題はオシリス=ホルス(+1=霊的太陽)とセト(-1=物質的太陽)との関係である。肉眼で見る太陽は、当然、後者である。しかしながら、古代エジプト人は、それを以外に、霊的太陽を見ていたと考えられるのである。これはどういう風に説明できるだろうか。
 それは、古代エジプト人が、霊的太陽と物質的太陽の二つの太陽を視覚していて、後者が前者を覆うが、再び、前者は復活するということを意味していたのではないだろうか。【これは、ゾロアスター教で言えば、前者がアフラマズダであり、後者がアンリマンユであろう。】
 さらに問題は王制である。ファラオー支配のことである。ファラオーは本来、オシリス=ホルスを象徴するものであったろう。一種、神人であろう。しかし、ファラオーの意味するものは、オシリス=ホルスであり、人間としてのファラオーではなかった。(これは、天皇制とも関係するだろう。)とまれ、ここには、まだ一神教は存在しない。
 一神教が発生するには、つまり、唯一神が発生するには、排他性が必要である。多神教を排除する原理が必要である。イシス・オシリス神話がある限りはそうならない。
 考えられるのは、父権神話が必要であることである。父権神話があれば、女神を否定し、父権神が発生する。バビロニア神話では、女神のティアマトを英雄マルクトが退治して、(ティアマトの?)心臓を太陽神シャマシュに捧げる。
 このマルクト/シャマシュが父権制の原点を意味しよう。これに倣えば、イシスを否定する英雄が必要である。しかし、古代エジプトではそれはなかったであろう。
 問題は、-1の父権神である。それは、物質的神となるだろう。しかし、超越性はどこから発生するのだろうか。やはり、Media Pointからではないだろうか。そこにおいて、他者=差異否定が発生して、-1となるのだろう。即ち、(+i)*-(-i)⇒-1である。この左辺が超越性であろう。考えるに、正確にヤハウェを表記すれば、⇒-1であろう。また、エローヒームは⇒+1となるだろう。
 結局、西洋文明は、⇒-1(父=ヤハウェ)の支配下の下に、⇒+1(子=イエス)を従えていると言えよう。神道は⇒+1であり、⇒-1の文明に従属していることになる。
 何が問題なのか。神道は、本質的に、⇒-1を知らないのである。一神教を知らないのである。それは他者である。問題は、やはり、明治維新の近代化にある。
 そこで、多神教としての神道は、歪んでしまったと思われるのである。何故なら、⇒+1の宗教とは、他者=差異との共一性を意味するからであり、ナショナリズムとはそぐわないからである。
 結局、神道は、一神教化してしまったと言えよう。それが、国家神道の意味であろう。変質してしまったのである。キリスト教の強みは、一神教ではあっても、⇒+1を従えていることである。つまり、イエスによって、多神教要素を内在している点である。それに対して、国家神道は、多神教の本質を喪失して、一神教となってしまったのだと思う。これが、近代日本の不幸である。
 そして、戦後、神道全体が否定されることになったのである。日本は、二度死んだのである。多神教の復活が必要である。今日に日本は、一神教である。キリスト教以下である。近代主義的一神教である。
 日本トランス・モダンが必須である。差異共振性・共一性を取り戻すことである。神道ルネサンスである。


   




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カレンダ
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