INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY - 2008/05

PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2008年05月31日(Sat)▲ページの先頭へ
自我ないし自己とは何か:魂とイデア:差異共振性と同一性の相補性としての「わたし」
後で検討したいが、一言触れておく(p.s. 実際は、一つの論考となった)と、有り体に言って、「わたしとは何か」である。確かなことは、百年後には、物質的身体をもった「わたし」はいないことである。では、「わたし」はどうなるのか。唯物論では、「わたし」は消滅することになる。
 しかし、「わたし」が無くなることは、有と無がなくなることであろう。存在以前へと回帰することになるのではないだろうか。非存在へと回帰するのではないだろうか。この問題はここで留める。
 私が問題にしたいのは、「わたし」の本質である。動物・植物、そして、当然、鉱物には、「わたし」はない。私は原自己と原他者との関係から生まれるだろう。「わたし」は単独でありつつ、「他者」であり、二人であり、複数である。
 端的に、「わたし」とは何か。目で見て、頭で考え、また、感性をもち、欲望をもち、物質的身体をもつ、この今の「わたし」とは何か。
 それは、同一性なのか、差異なのか。直感では、明らかに、「わたし」は特異性である。「わたし」という自己意識は、知性と感性から成り立つだろう。欲望は、「わたし」というよりは、身体に属するだろう。すると、「わたし」は、身体に宿された自己意識である。
 また、明らかに、差異共振的感性(精神)と知性が融合して、「わたし」・自己意識を形成している。
 他者と融合して「わたし」が形成される。つまり、他者は潜在的になっている。「わたし」は顕在するが、他者は潜在している。しかし、他者なき「わたし」はありえない。すると、「わたし」とは何か。自己認識方程式から明らかなように、差異共振性から「わたし」+1が生まれるのである。これは、自己としての「わたし」であり、自我としての「わたし」ではない。後者は-1である。
 では、差異共振性(差異共鳴性)から生まれる「わたし」とは何か。共一性であるが、それは何か。
 思うに、それは、同一性仮象、シミュラクルとして同一性ではないだろうか。つまり、「わたし」とは、意識としては、確固と存在するように感じられるだろう。しかし、「わたし」は実があるが、仮象であろう。実体・本体は、差異共振性である。そして、これが、永遠ではないだろうか。
 実体・本体が差異共振性、超越的差異共振性、超越エネルギーであるが、その現象形態としての+1の共一性は仮象だと思う。「わたし」は仮象である。しかし、この仮象が、生活においては、必要な「同一性」になっている。
 しかしながら、この仮象同一性を端的に捉えたいのである。実体のようであるが、やはり、仮象である同一性とは何か。
 半実体半仮象である同一性の「わたし」とは何か。思うに、これは、差異共振性の物質現象態ではないだろうか。「わたし」は、差異共振性の物質態ではないのか。ならば、物質とは何か、となる。
 どうも、私は、先の議論を無視して考察しているようである。イデア極性があるならば、牽引と反発があり、前者が共一性に、後者が同一性になると言った。物質とは、この両義性ではないだろうか。
 一方では、共振性であり、他方では同一性である。この両義性・ゆらぎあると思われるのである。正に、量子論のテーゼではないだろうか。
 つまり、量子・素粒子の粒子と波動の相補性がここに現われていると考えられる。共振性は波動であり、同一性は粒子である。換言すると、+1は波動であり、-1が粒子に相当するのである。
 そうすると、「わたし」は量子論的事象になると言えよう。+1であると、同時に、-1である。即非的事象でもある。そうすると、「わたし」とは、自我であり、且つ、自己であるということになる。物質性は自我に存すると言えよう。精神性は自己に存すると言えよう。
 これでようやく、「わたし」に対するなにか漠然とした疑問が解消されたように思われる。繰り返すが、「わたし」は共一性(+1、自己、差異、差異共振性)であり、且つ、同一性(-1、自我、同一性、物質)である。後者は仮象であり、本体は前者である。
 「わたし」は、仮象的同一性と本体的差異の両義的存在である。生きているときは、両者の関係が重要であるが、死んだときは、前者が消滅して、後者だけになると思う。つまり、差異としての「わたし」が残ることになる。これが、プラトンの説く魂であり、イデアではないだろうか。生きているときは、相補的な二重存在であるが、死んだときは、純粋な差異共振存在となると言えよう。

 少し議論を急ぎすぎたかもしれない。以上の発想から論理的に考えると、イデア極性から±1が同時生起することになり、+1が本体であり、-1が仮象であるとは言えないだろう。
 本体はあくまでも、イデア極性である。そして、Media Pointを介して、±1の両義性・相補性が同時生起するということではないのか。それは、量子論的事象・即非的事象である。
 では、「わたし」、自己はどうなるのだろうか。自我と自己が同時生起する。しかしながら、人間は、同一性に傾斜している。つまり、自我-1に傾斜している。そして、近代合理主義・近代的自我は、自己=差異を排除否定するのである。-1が+1を排除・抑圧するのである。
 思うに、自然は、±1の同時生起の対称性があるのではないだろうか。それに対して、人間は、-1に傾斜している不均衡状態にあるということではないだろうか。正しく言えば、男性が-1に傾斜していると言うことだろう。女性は、一般には、自然と似ていて、両者の均衡をもっているのでないだろうか。
 だから、自己認識とは、±1の均衡を形成することにあるのではないだろうか。物質と精神の均衡である。それが、「わたし」である。そして、それが、生きている状態における「わたし」である。物質と精神である。しかし、死んだときは、当然、±1自体が消滅する。端的に、イデア極性に回帰するのではないだろうか。思うに、Media Pointにいったん帰り、そこから、イデア界自体へと回帰するするのではないだろうか。当然、「わたし」は消失するだろう。死んだとき、自己はどうなるのか。原自己ないしは前自己になると言えよう。だから、魂、霊魂、霊という言い方は間違い、ないしは、語弊があるのではないだろうか。何故なら、そこには、同一性を想起させる考え方があるからである。
 そう、そこには、大我があると言ってもいいのかもしれない。あるいは、超越我である。それは、全一であろう。全一的超越我であろう。今はここで留めたい。


利益とは何か:差異共振価値と同一性価値の齟齬としての資本主義と差異共振共同体資本主義
利益とは何か。
今日、想像していたが、資本主義とは、生産に関しては、差異共振主義であるから、当然、一人一人が生産するよりは、余剰に生産できるのである。つまり、資本主義的生産とは、余剰生産なのである。つまり、価値が(p.s. 質的かつ量的に)増加する経済である。差異共振経済である。物質的にも、精神的にも、即自的には発展する経済である。
 問題は、誰もがわかるように、出口、売買・商業の問題である。ここで、生産物は、市場を介して、売買されるわけであるが、このとき、差異共振価値である商品が同一性価値=貨幣価値に還元されるのである。ここが、資本主義のネックだと考える。即ち、差異価値、ないしは、差異共振価値を同一性価値に還元する倒錯を資本主義社会はもっていることである。
 このために、同一性価値が差異共振価値を凌駕するマネーゲームが生じるのである。
 思うに、同一性価値とは、近代民主主義に即応するだろう。差異がすべて同一性に還元され、それが貨幣価値化されるのである。これは、それとして、近代の価値である。封建主義的ヒエラルキーは消滅している。
 これは、これまでの検討から、ユダヤ・キリスト教が古代ギリシアの知性を取り込むような様態で主導的であったから形成されたと考えられる。ユダヤ・キリスト教が同一性価値を肯定しているのである。
 では、資本主義とは何であるのか、という疑問が浮かぶ。これは、実は、先に提示した自己極性方程式で表現されると思う。簡略的に記せば、⇒±1である。この±1の矛盾が資本主義に内在していると考えられるのである。同一性価値とは、当然、-1 であり、差異共振価値とは、+1である。
 結局、この齟齬が現代世界を混沌とさせているのである。問題は、同一性価値の-1にあるのは、誰でも理解できよう。資本主義の差異共振価値=富=+1を、-1が否定してしまうと考えられるのである。
 金融資本とは、-1のことであり、これが、+1の富を横取りしてしまうのである。もっとも、一般的に言っているのであるが。
 問題は、国家がこの-1に深く関与していることである。このために、+1が抑圧されるのである。(トランス国家主義が必要である。)
 結局、これまで、繰り返したように、差異共振価値+1をそれとして、評価する金融システムが必要であるということである。【ここで、Kaisetsu氏の銀本位制の発想が生まれるのである。】
 直感で言えば、得た収益・利益は誰のものであるのか、がいちばんの問題ではないだろうか。プルードンは社会集合力を述べたが、確かに、利益は、企業の総合性に属すると言えよう。つまり、差異共振力に利益は属すると言えよう。そして、この利益を差異共振的に還元しないならば、その企業は、同一性価値に従属することになるだろう。
 だから、私的企業とは、社会的企業でなくてはならないと考えられるのである。そして、この社会的還元を自主的に行うべきである。
 国家が介入すると、利権が生じて、いわば、マージンが取られることになると考えられる。だから、思うに、企業の社会化=共同体化が必要であると考えられるのである。
 このためには、政治家や国家・地方公務員は必要が少なくなってくるだろう。ただし、私はアナーキズムまでは考えない。国家・政府は、やはり、法形成機関としてあるべきである。
 結局、企業自体の差異共振化がなくてはならないということになる。ここでは、企業とは、自営業も含むものである。
 思うに、このためには、差異共振課税が必要になるだろう。自主的に、差異共振投資をするならば控除するが、そうでなければ、課税するのである。
 
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2008/05/30-19:08 12社中10社が減益=不払いで新契約低迷−主要生保の08年3月期  生命保険主要12社の2008年3月期決算が30日、出そろった。各社とも営業より保険金不払い問題の調査を優先したため新契約がほとんどの社で減少。本業のもうけを示す基礎利益は10社で減り、12社合計では11.6%の減益だった。
 新契約から受け取る保険料を1年分にならした年換算保険料は、アメリカンファミリー生命保険を除く11社がマイナス。医療保険などの第3分野も伸びが鈍化した。また、最大手の日本生命保険は新契約の死亡保障の合計額で3位に転落。不払い問題への対応に「営業を止めるぐらいの態勢で取り組んだ」(日生の筒井義信常務)ことに加え、死亡保障から医療保障へ顧客ニーズが変化したことも影響した。
http://www.jiji.com/jc/c?g
=ind_30&k=2008053000923


2008年05月29日(Thu)▲ページの先頭へ
1/4回転とイデアと現象:Media Pointの様相について:共振様相と否定様相
先に、1/4回転によって、差異が否定されると言った。問題は、境界面の問題である。Media Pointと+1の境界の問題である。
 ここで、思考実験するが、イデア極性があり、牽引と反発が存するのではないだろうか。牽引の場合が、(+i)*(-i)⇒+1であり、反発の場合が(+ i)*-(-i)⇒-1ではないだろうか。だから、(-*)という反発を意味する記号を作って、(+i)(-*)(-i)⇒-1としたらどうだろうか。
 牽引の場合が、差異共鳴であり、ここにおいては、絶対的な二元論はなく、イデア界と現象界とが、Media Pointを介して、交信しているだろう。
 それに対して、反発の場合、差異共鳴が否定されて、同一性主義が生まれる。これが、超越神の場合だと思われる。
 思うに、本来、牽引と反発の対称性があり、母権文化は、そのバランスを保持すると思われるが、父権文化となると、これが、崩壊すると思われる。即ち、反発が牽引よりも、主導的になるのであり、-1が強化されると思われる。
 ここで、大局的に見ると、1/4回転をどうみるのか、にかかっている。私は、超越神的現象を1/4回転として、母権的現象をゼロ回転と見た。私の直観は、1/4回転で、差異が否定・排除されると考えたことにある。
 ここがポイントである。果たして、1/4回転で、差異が否定・排除されるのか、否か、である。
 これは、ある意味で愚問である。即非様相なのであるから、差異は肯定されつつ、否定されるのである。だから、1/4回転は、超越神的現象ではありえないだろう。では、超越神的現象とは何だろうか。それは、即非を二元論・二項対立に変換することである。
 果たして、1/4回転によってそうなるだろうか。私は先にはそう直観したが。そして、ゼロ回転は差異共鳴性を保持すると考えた。もう少し、先の直観に従うならば、ゼロ回転における差異共鳴性が、母権的多神教性(多元性・多様性)を形成するのである。
 しかしながら、このゼロ回転という考え方は、間違っているのではないだろうか。私のイメージは、即非性であるから、やはり1/4回転はなくてはならないのであり、それが多神教性を形成するのである。
 何が言いたいのかと言えば、差異を排除・抑圧しない1/4回転がありうるのであり、それが、母権多神教等の場合である、ということである。
 もしそうならば、超越神の場合は、それとは異ならないといけない。しかし、先の私の直観は、太母が根源であり、超越神は、その一つの変態であるというものであった。太母が超越神に変換するのである。
 整理すると、問題点は、差異を排除・抑圧しない母権多神教と、差異を排除・抑圧する超越神宗教との二つを、1/4回転に関係させてどう説明するのか、ということになる。言い換えると、差異を排除・抑圧しない1/4回転と差異を排除・抑圧する1/4回転というものがあるのだろうか、ということになるだろう。
 しかし、前者はあると仮定しているのであるから、問題は、後者の場合である。果たして、差異を排除・抑圧する1/4回転はあるのか、ということである。
 直観では、実に明瞭であるが、理論化がうまくできないのである。例えば、イシスとは、イデア共鳴であり、オシリスは⇒+1で説明でき、イシス⇒オシリスである。太光から現象光が生まれるのである。これは、原神道でも同様と考えられる。
 そして、それに対して、オシリスを殺害するセトは、差異を排除・抑圧すると考えて、⇒-1である。そして、超越神はこちらに関係すると思われるのである。
 古代エジプト神話(宗教)では、オシリス+1とセト-1の極性があり、周期・回帰があったと考えられるが、超越神宗教では、多神教を否定して、-1だけになると考えられる。
 この差異の排除・抑圧とはいったいどういう力学に拠るのであろうか。先に私は、+1と-1は、イデア極性(牽引と反発)にリズムに拠ると示唆したが、そう作業仮説すると、牽引の極限において、+1があり、反発の極限において、-1があるということになる。しかし、この二重性は回帰する二重性である。端的に極性であり、神話・宗教的には、永遠回帰(女神の神話)であろう。
 ここには、絶対的な差異の排除・抑圧はないのである。だから、超越神宗教が生じるには、反発(斥力)が過剰になる必要があると考えられる。そう、上に述べたように、反発の極限において、超越神が発生すると言えよう。これをどう見るのか、である。
 本来、牽引と反発は対称的である。しかるに、反発が過剰となり、いわば、特異点が発生するときが、超越神の発生を意味するのではないだろうか。次のように考えたらどうだろうか。
 牽引の場合、+iは-iと共振して、⇒+1を発生させる。思うに、+iが1/4右回転して、-iが1/4左回転して、そうなるのではないだろうか。しかるに、反発の場合は、+iと-iとが、それぞれ自乗して、⇒-1となるのではないだろうか。あるいは、+iが1/4左回転して、-iが1/4右回転して、 ⇒-1になると考えていいのではないだろうか。
 そして、差異共振の場合が、母権多神教であり、差異反発の場合が、父権超越神宗教ではないだろうか。
 とは言え、両者は極端の場合である。本来は、イデア極性の周期に即する+1と-1との対極性が生起しているだろう。だから、自己認識方程式を変形させて、

(+i)☯(-i)⇒±1 or (+i)☯(-i)⇒|1|

が考えられるのである。これは、いわば、自己極性方程式であろう。
 以上のように考えると、1/4回転は、様相が三種類あることになるだろう。+1の純粋な差異共振性と-1の純粋な差異反発性とイデア極性による±1の差異共振性である。
 これで、ゼロ回転の問題は解決されたと言えよう。ゼロ回転ではなく、1/4回転における母権多神教性ということがあるということである。
 さて、しかしながら、+1と±1との関係を問う問題が現われたと言えよう。言うならば、純粋差異共振性と差異極性との関係ではないだろうか。前者は純粋な母権制ではないだろうか。アニミズム、シャーマニズムを含むだろう。先住民文化である。
 それに対して、差異極性の場合は、同一性=物質が明確に発現していると思われる。排除・抑圧の原理が現われている。しかし、極性の一端としてである。古代エジプト神話(宗教)はここに相当するのではないだろうか。そうすると、母権多神教もここに入ると見た方が適切なように思われる。
 さて、大局的に見ると、イデア極性(イデア太極)の周期・回帰を仮定して見ると、西洋文明とは、差異反発-1のヤハウェが主導的であるが、反面、差異極性ないしは差異共振性があると考えられる。思うに、差異反発とは、イデア極性の陰ではないだろうか。だから、月である。それに対して、差異共振はイデア極性では陽ではないだろうか。だから、太陽である。端的に、-1は月であり、+1が太陽である。反影であり、光である。一神教は月であり、多神教は日である。
 思うに、今日、イデア極性であるが、差異反発-1の様相から脱して、差異共振+1へと新たに変換していると思われるのである。超越神的エネルギー発動が終焉して、差異共振エネルギーが発動しているのではないだろうか。
 つまり、陰から陽へ、月から日へと転換しているのではないだろうか。これは、文明大転換、大進化ではないだろうか。超越神のもつ差異反発=同一性主義のエネルギーが枯渇して、差異共振エネルギーが賦活されていると考えられるのである。
 ここで、宗教・神話をさらに問題にすると、超越神は、 (+i)☯(-i)⇒-1で表現されると思われるが、ならば、太母はどうなるだろうか。太母は、左辺であろう。太母から超越神が生まれるのである。では、⇒+1とは何の神となるのだろうか。
 これまでの考え方では、オシリスに相当するのである。「日御子」である。そうならば、ギリシア神話のゼウスはどのように表現されるのだろうか。当然、ゼウスも太母の一変形だと考えられるが、どうような様相なのか。-1が超越神だから、ゼウスは-1ではない。そうかと言え、+1ではありえない。それでは、イシスが中心となるからである。すると、太母に近いと言えよう。太母はイデア極性であり、イデア振動をもち、多様性を形成する。これにゼウスは近いと思われるのであるが、太母自体ではありえない。何故なら、男神であるからである。
 ゼウスの多情多感性・好色性、これらは何だろうか。私は、ゼロ度と言いたい感じがあるのである。+1でもないし、-1でもないし、イデア極性的多様性に近いものをもつのである。
 そうすると、Media Pointに近いのである。しかしながら、Media Pointは、イデア極性の中心点(臍)であるから、Media Pointでもない。だから、ゼロがいちばん適切なのではないだろうか。そうならば、構造である。ゼウスは、構造主義となる。確かに、倫理感がなく、いい加減である。しかし、主神である。+1ならば、差異共振倫理があるし、-1ならば、超越神倫理があるのである。両者の和としてのゼロではないだろうか。そうすると、母権多神教とは別に父権多神教があり、これは、ゼロということになるのではないだろうか。
 すると、構造主義/ドゥルーズ哲学は、ゼウス=ゼロの哲学であり、ハイデガー/デリダ哲学は、ゼロと±1の哲学ではないだろうか。フッサール哲学は、⇒+1の哲学である。
 ここで、留めることにする。


胎生・へその緒とMedia Point:太母と超越神:トランス資本主義と差異的共進化
胎生とは、哺乳類を想起させる。直感では、ここには、生命の本質の「秘密」がある。そう、へその緒がポイントである。英語では、
臍の緒 a navel string; an umbilical cord
である。辞書では、

um・bil・i・cus
1 【解剖】 臍(へそ) (navel).
2 (問題などの)中心点, 核心 (core, heart).
3 【動物】 (巻貝の)へそ穴.
4 【植物】 臍(さい) 《種子の胎座に付着する部分; hilum ともいう》.
5 【数学】 臍点(せいてん) (umbilic, umbilical point).
6 【考古】 (巻物の)軸玉《軸の両端につけられた飾り》.
#《1615》 L umbilicus ← UMBO: cf. Gk omphalos
[株式会社研究社 新英和大辞典第6版]

である。ギリシア語だと、オンファロス(臍)である。
直感では、臍とは、Media Pointである。ならば、へその緒とは何だろうか。神話で言えば、イシス・オシリス神話に関係するし、キリスト教では、聖母子に関係する。
 へその緒とは、臍と同様に、Media Pointの物質・身体的「表現」ではないだろうか。イデアから現象へと展開する際の、要(かなめ)、蝶番であろう。【p.s. へその緒は、Media Resonanceメディア共鳴の物質的表現というべきだろう。】
 ここで、考察を進展させるならば、「母」の本体とはイデア・エネルギー(超越エネルギー)である。イデアと言ってもいい。そして、Media Pointを介して、「子」とつながる。これが、アニミズム、シャーマニズム、母権多神教の様相であろう。
 それに対して、父権一神教(超越神宗教:この方が適切ではないだろうか)は、これを、一端、切断するようであり、切断する主体が、超越神である。Media PointにおけるMedia Resonance(メディア共鳴)を排除的に否定するのである。
 以前述べたが、超越神とは、太母の変形ではないだろうか。太母の変形として、有り体に言えば、太母の1/4回転として、超越神が存するのではないだろうか。つまり、原宗教(母権宗教)は、本来、ゼロ回転ではないだろうか。それが、1/4回転して、父権宗教が生まれたのではないだろうか。この問題はおいておく。
 この1/4回転の力学が、Media Pointの切断を意味するのではないだろうか。そして、それが、また、生物的には、出生ではないのか。
 そう、キリスト教的には、楽園追放である。エデンの園からの人間の追放である。これは、精神・生物的事実ではないだろうか。1/4回転で、Media Pointが閉ざされるのである。⇒+1の結果の+1である。(だから、これまで、-1として見たものは、+1で表現できていると言えよう。後で、整合化したい。)
 結局、言い換えると、太母が原型であり、超越神は一つの様相ということである。そして、後者の場合、Media Pointは隠蔽されて、壁になるのである。構造主義やポスト・モダンは、ここを問題にしたのである。【そう、また、小説家ハーマン・メルヴィルもここを問題にし、ほとんど、トランス・モダンに近い発想に到達しているだろう(『白鯨』)。】
 超越神では、Media Pointが壁となり、二元論が発生する。超越性と現象性である。お馴染の、西洋の絶対的二元論である。そして、西欧近代は、超越性を否定して、内在的知性を形成してきた。【ほとんど、唯一の例外がフッサールである。カントは先駆的な役割をしたとは言える。】
 結局、東洋文化では、基盤であるMedia Pointに、西洋は接近していたとは言える。西洋哲学が東洋文化に近づいたのである。そして、東洋文化、日本文化は、逆に西洋哲学に接近して、 Media Pointを哲学化する努力がなされたのである。鈴木大拙の即非の論理、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一、等は、その成果である。
 問題は、超越神文化において生じた絶対的二元論を新たに乗り越えることなのである。これが、ポスト近代の思潮・趨向である。
 そう、イデア・エネルギーの発現方法が問題なのである。以前の私の作業仮説に戻るが、イデアの回転が本来的にあると思われるのである。ある1/4回転に対して、さらなる1/4回転が生起する。これで、新たにMedia Pointが開くと考えられるのである。
 結局、人間の心身(精神的身体)は、Media Pointを基礎に形成されていると考えられるのである。そして、1/4回転に対して、マイナス1/4回転の反作用がはたらき、回帰するのではないだろうか。つまり、絶対的二元論と差異共振性が交互に生起するのではないだろうか。言い換えると、同一性と差異との交互変換である。
 すると、同一性エネルギーが主導のときと、差異エネルギーが主導のときが存するのである。西洋文明は、ユダヤ・キリスト教文明なので、前者が主導的なのであるが、二重性の文化であり、無意識においては、差異エネルギーが存しているのである。同一性主導であるが、同一性と差異の二重性・分裂性をもっているのである。
 私見では、今日、マイナス1/4回転が発動しているのであり、差異エネルギーが賦活されているのである。しかしながら、人間の意識は、同一性に留まっているので、賦活された差異エネルギーを受容することができずに、排除・隠蔽しているのである。そのために、無意識のエネルギーとなり、非合理主義的なエネルギーとなって、いわば、今日現代の人間・人類を襲っているのである(戦争、犯罪、病気、等)。
 つまり、新たに、Media Pointは開いているが、人間の意識は、近代合理主義/近代的自我の二元論に留まり、開いたMedia Pointから発動する差異エネルギー(差異共鳴エネルギー=イデア・エネルギー=超越エネルギー)の現前・現象に対して、無力なのである。排除したり、隠蔽したりするが、存在するものを排除したり、隠蔽するというのは、無理なことであるので、病理的なのである。
 そう、今日・現代、差異エネルギー=差異共鳴エネルギー=イデア・エネルギー=超越エネルギーは賦活され、発現しているのである(聖霊の時代)。
 これに対する反動が起きているのである。とりわけ、現代日本がそうである。国家主義経済の反動であり、近代主義の反動である。この反動は、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」で説明できよう。【同一性意識と差異無意識の分裂があるが、後者が主導的になっているので、その過剰性から、ショートを起すのである。つまり、同一性による連続性があるので、両者はショートしてしまうのである。】
 グローバリゼーションは、この差異エネルギーの能動と反動の両側面があるのかもしれない。だから、新しい経済とは、差異エネルギーを能動積極的に取り入れる経済と言えよう。これは、同一性主義を乗り越えるので、脱資本主義になると思われるのである。つまり、同一性資本ではなくて、差異資本が発生するのである。差異資本を積極的に発展すべきなのである。【これまでの資本主義が同一性に拘束されていたとするならば、新しい経済は、差異資本主義としての脱資本主義である。差異資本とは、物質資本、貨幣資本を包摂した精神資本、精神的身体資本と言えるだろう。Media資本ないしはMedia Point資本と言えるのではないだろうか。ならば、Media 資本主義、Media Point資本主義である。】
 これは、経済だけでなく、政治もそうならなくてならない。差異共振政治である。結局、今日現代、人類は、差異共振進化のエポックを迎えていると言えよう。大進化の時代である。あるいは、新たな大洪水の時代である。黙示録的時代である。

化石:3億8000万年前のへその緒、最古の胎生化石 豪の研究チーム、新種の魚発見

 約3億8000万年前の地層から、人間のように赤ちゃんを産んでいた新種の魚の化石を、豪ビクトリア博物館などの研究チームが発見し、29日付の英科学誌ネイチャーに発表した。さい帯(へその緒)とつながった胚(はい)(受精卵)が初めて確認され、脊椎(せきつい)動物で交尾−出産が行われた最古の記録となる。

 発見された化石は2種類で、初めてあごに骨を持った魚類の仲間「板皮(ばんぴ)類」に分類される。約3億年前に絶滅したとされているが、このうち1種類は新種だった。

 研究チームは、西オーストラリア州のデボン紀(4億1600万〜3億5920万年前)の地層で発見されたこの化石を調べた。顕微鏡で精査すると、新種の魚の子宮内から胚とさい帯、卵黄の痕跡が見つかった。もう一方の既知の魚の体内からも3個の胚を確認した。

 交尾によりメスの体内で卵子と精子が受精し、成長後に赤ちゃんとして体外に出る繁殖は胎生(たいせい)と呼ばれる。従来の最古の胎生化石は中生代の爬虫(はちゅう)類で、研究チームは記録は約2億年さかのぼったと分析する。【田中泰義】

毎日新聞 2008年5月29日 東京朝刊

http://mainichi.jp/select/science
/news/20080529ddm0410401
01000c.html


ギョギョ!?へその緒残る古代魚化石 「胎生」起源、2億年遡及
2008.5.29 07:55
発見された化石を元に作成された、魚の出産の想像図(ビクトリア博物館提供) 発見された化石を元に作成された、魚の出産の想像図(ビクトリア博物館提供)

 へその緒(臍(さい)帯(たい))で母子がつながった約3億8000万年前の古代魚の化石が、オーストラリア西部で見つかった。母体内である程度まで子供を成長させてから出産する「胎生」が確認された最古の脊椎(せきつい)動物となる。同国のビクトリア博物館の研究者らが、29日発行の英科学誌「ネイチャー」に発表した。

 見つかった化石は、板(ばん)皮(ぴ)類と呼ばれる絶滅した魚類の1種で、全長約25センチ。発見場所はオーストラリア西部の古生代・デボン紀後期の地層。

 化石は保存状態が良く、体内に臍帯とつながった胎仔(たいし)、栄養をためる卵黄嚢(のう)が石化した痕跡などが残っていた。現代のサメやエイの一部と同様に、母体から胎仔に直接栄養を供給する「胎生」の生殖機能を備えていることが分かった。

 今回の発見で、脊椎動物の胎生の起源は、これまでよりも2億年ほどさかのぼることになる。
このニュースの写真
発見された化石を元に作成された、魚の出産の想像図(ビクトリア博物館提供)
オーストラリアの約3億8000万年前の地層から見つかった魚の化石の一部。へその緒や子の骨が見られる(ビクトリア博物館提供)
http://sankei.jp.msn.com/culture/
academic/080529/acd080529075
8002-n1.htm


2008年05月28日(Wed)▲ページの先頭へ
資本主義の同一性価値蓄積衝動を超える経済を目指して:脱資本主義と先住民族文化(アニミズム)
先に資本主義の衝動は資本蓄積衝動であると言ったが、言い換えると、同一性貨幣価値蓄積衝動である。同一性価値である貨幣資本を増殖させる衝動である。
 有り体に言って、これは、一体何なのだろうか。私はこれをヤハウェ衝動と呼んでいる。数理化すれば、+1⇒-1となるのではないだろうか。否、むしろ、 (+i)*-(-i)⇒-1ではないだろうか。なぜなら、+1の場合は、デリダ的に言えば、痕跡ないしは差延があるから、同一性主義は相対化されると考えられるからである。
 だから、問題は排除的否定が発生して、貨幣資本を増殖させる同一性主義となることにある。それは、他者=差異をすべて同一性価値に還元する志向性である。いわば、触れるものがすべて黄金に化するミダス王のようなものである。
 正に、父権・男性的衝動である。ルサンチマン衝動でもある。この同一性衝動を脱構造化するトランス資本主義はどうやって形成されるのだろうか。
 ゲゼルの消滅通貨の考え方は一つのトランス資本主義の考え方であろう。同一性が増殖せずに、消滅するという通貨は、確かに、鋭いアンチテーゼである。
 確かに、利子の問題が大きいだろう。また、土地の資産化も問題である。ここでは、想起することを述べるが、利子の発想とは、思うに、農耕や牧畜の発想と近いのではないだろうか。たとえば、稲は、一粒の種が死して、多くの実をつけるのである。何倍だろうか。千倍くらいだろうか。あるいは、羊や牛を殖やすことは、富となるだろう。
 ここにあるのは、量的な発想である。いわば、数量還元主義である。質の考慮が欠落しているのである。
 思うに、いわゆる、先住民族、アイヌやインディアン等のアニミズムの方が、「環境」との関係において、生活文化を考えるので、脱資本主義のアイデアはそちらに見出せるのではないだろうか。私は、こちらの方が、ゲゼルの思想よりもラディカルのように思えるのである。
 自然環境と結びつけて経済を考える、いわば、自然経済学があってもいいだろう。当然、これは、社会環境との結びつきも考慮するのである。だから、自然社会経済学である。
 これについては以前、総論的に考えたことがある。簡単に言えば、自然・社会にフィードバックさせる循環経済、還流経済である。
 自然/社会の基盤から富を得るならば、それは、自然/社会へと還元しないといけないのである。つまり、自然/社会に共振・共鳴するように、富を還元する必要があるのである。つまり、自然創造資本や社会創造資本という形で、還元すべきなのである。
 つまり、経済の目的が、自然/社会創造になるのである。金儲けではなくて、自然/社会創造が経済目的なのである。もちろん、ここには、文化も入るから、自然/社会/文化創造的経済である。自由主義は、差異共振的自由主義へと変換するのである。
 つまり、同一性価値主義から差異共振価値主義へとパラダイム転換するのである。同一性資本から差異共振資本へと転換するのである。貨幣で言えば、同一性価値貨幣が差異共振価値貨幣へと変換することである。
 これは一体どういうことなのであろうか。差異共鳴価値貨幣とは何なのだろうか。それは、差異共鳴価値資本である。それは、差異共鳴価値的商品を売買するものになるのではないだろうか。
 ということは、差異共振価値商品の市場がなくてはならないだろう。ある差異共振価値企業があり、差異共振価値商品を販売する。それを、差異共振貨幣で購入すればいいのではないだろうか。
 これは、人と人、人と自然を共振化していく経済である。共振的相乗効果をもつような経済であろう。思うに、人や自然を救うことが、いわば、儲けになる経済である。
 差異共振精神と結びついた差異共振経済である。精神と物質の結びついた差異共鳴価値経済である。後で、さらに検討したい。


2008年05月26日(Mon)▲ページの先頭へ
言説批判論としての新歴史主義とトランス・モダン理論:PS理論はトランス・モダン言説批判論でもある
以下の冒頭の「ディケンズと新歴史主義批評」における、新歴史主義理論の理念は興味深い。文学テクストとそれ以外のテクストのジャンル分けをせずに、同時代のイデオロギー言説とみなし、それが、権力空間を包摂しているということである。
 きわめて明快な説明である。私はそれはマルクス主義における史的唯物論的歴史主義ではないかと思っていたが、勘違いだったようである。イデオロギー批判では、両者共通するが、新歴史主義とは、唯物論ではなく、いわば、言説論を中心とした言説批判論ということになるだろう。
 そうすると、先に言及したが、プラトニック・シナジー理論における差異/同一性哲学をそこに正に適用することができると考えられる。言説は、同一性主義というイデオロギーに染めらる傾向が強いので(とりわけ、政治経済的言説はそうである)、PS理論のトランス・モダン的パースペクティブの適用によって、言説批判論としての新歴史主義はより明晰なものになると考えられる。
 思うに、Kaisetsu氏やtoxandori氏がブログで論考していることは、言説批判である。思うに、新歴史主義とは、ポスト・モダンの一種の進展であろう。なぜなら、ポスト・モダンには、本来、言説批判が含まれていたからである。
 そう考えると、新歴史主義において、トランス・モダンの視点がきわめて重要であると考えられる。ポスト・モダンの視点を継承しているならば、それは、真のイデオロギー批判になりえないと考えられるからである。差異と同一性と同一性主義を明晰にしない限り、言説批判は、十分なものにはならないと考えられるのである。
 思うに、私が新歴史主義批評に対して違和感を感じるのは、このポスト・モダンを引きずっていることに原因があるのではないだろうか。とまれ、言説批判論ということで、それは、トランス文学研究である。結局、今日、人文科学の向かっている方向は、トランス・モダンであり、文理統一知へと向かっていると言えよう。思うに、そこでは、トランス・モダン哲学、ないしは、トランス・モダン数理哲学が中心的役割をもつだろう。

p.s. 文学批評ないしは文学理論であるが、直感では、PS理論で説明できると思われるのである。PS理論の数理で説明できると思われるのである。

****************


「ディケンズと新歴史主義批評」 より抜粋(HTML版 )

新歴史主義とは、

@文学以外のテクストを文学テクストと区別せず,どちらも時代の言説の一部をなすものとして分析する.

Aこうして言説が生み出す権力空間は,あらゆるものを包みこむ全体的なものであり,そこから逃れるものはないと考える.

http://katase.tamacc.chuo-u.ac.jp
/~snakamura/hihyo01.htm


はじめに
 文学理論入門の第一二回は、「文学研究の社会化と歴史化」ですが、次回休講のため、第十三回「カルチュラル・スタディーズと文化研究」についても簡単に説明いたします。
したがって、ここで扱うのは、新歴史主義、文学場、カルチュラル・スタディーズです。
一、新歴史主義

http://www.kokugo.aichi-edu.ac.jp/
nishitaya/lec/2000/intro3c12.htm

Metaphor Murders
メタファーはなぜ殺される
巽 孝之
第3回
第3章
ポストモダンの倫理と新歴史主義の精神
ミッチェル・ブリトウィーザー『マザーとフランクリン』を読む

http://www.inscript.co.jp/
tatumi/t3%20Breitwiser.htm

 黒人文学 気鋭の研究者 Ashraf RushdyのRemembering Generations (2001)を読んでいる。前著も素晴らしい力作だったが、今作も素晴らしい。「新奴隷 体験記」の研究者 としてはおそらく第一線に立つ人だろう。アメリカでの評価は詳しくは知らないが、Gates、Baker、Gilroyらの後続を走る代表的論客 になるはずである。今作では、「亡霊」として回帰する奴隷 制に焦点を合わせ、歴史・社会・文化的側面から同時代の時代状況と新奴隷 体験記の関係を綿密に読んでいる。私が最も尊敬する批評家である。
http://d.hatena.ne.jp/pilate/20051027


5 I

新歴史主義、ポストコロニアル批評、フェミニズム
http://jp.encarta.msn.com/
encyclopedia_761566673_4____18/
content.html#s18


文学言語と身体:トランス・モダン文学理論:新歴史主義的研究を乗り越えて
文学を身体化する必要があるのではないのか。また、言語の数理とは何か。言語は+1なのだろうか。+1は共一性=同一性であるが、ここにおいて、原認識は完結しているのではないのか。そこに言語があるのか。直感では、言語は要らないのである。では、何故、言語が必要となるのか。これまでは、+iに傾斜していることが原因であると考えてきた。つまり、図式化すると、(+i)*(-i)の原共振においては、確かに、+iが傾斜しているが、傾斜のまま共振するのではないだろうか。そして、出生後、-iにおいて、苦・悲が生じ、ルサンチマンが起こり、同一性が独立する。即ち、(+i)*-(-i)⇒-1となるのでないだろうか。この-1が言語となる。しかし、物質が-1ではないだろうか。思うに、正しく言えば、-1は物質主義における物質ではないだろうか。そして、+1はイデアから生じる物質現象を意味するのではないだろうか。物質形式は、正しくは、+1であるが、今日、唯物科学が中心なので、物質形式は-1と倒錯しているのである。比喩的に言えば、本体+1の裏返しと言えるのではないだろうか。
 とまれ、そうすると、言語と物質とは等価となる。では、文学言語とは何か。それは、+1であろう。そうならば、それは、物質=言語ではない。思うに、文学言語とは、+1の原言語ではないだろうか。上では、+1は、原意識が完結していて、言語は不要であると言ったが、それは訂正されなくてはならない。以前では、+1は詩言語と言った。それは、叙情言語であろう。あるいは、韻文である。それが、自己疎外して、散文言語-1になるということだろう。
 では、文学言語の身体化について考えよう。私がこのようなことを言うのは、今日は、文学言語は、一般の現実から浮いているように感じられ、なんとか、現実化する必要があると感じているからである。それが、身体化の意味するものである。例えば、映画は身体化だと思える。では、身体化とは一体何か。これまで、Media Point が精神・即・身体であると言った。しかし、文学言語の身体化とは、そのような意味の身体化を意味していない。
 文学言語の数理は、+1である。これを身体化するとはどういうことなのか。有り体に言えば、物質化・現象化することである。おそらく、現象化が適切であるように思える。+1は現象ではあっても、心的現象である。精神現象である。だから、物質現象になっていないのである。身体化とは、この物質現象化を意味するように思える。これは一体何を意味しているのだろうか。思うに、一つには、文学言語を現実言語に変換することを意味するように思える。物質現象化するとは、現実現象化することである。言い換えると、物質的現実を与えることである。言い換えると、文学言語を、現実言語化することである。
 では、これは何であろうか。脱文学言語化ではないだろうか。脱文学としての「文学」を考えているのではないだろうか。トランス文学である。あるいは、「脱構築」である。
 どうも私は、混乱している。文学言語は、+1ではないのである。+1を装うのである。だから、文学言語の身体化とは、物質現象化ではなくて、共一性=同一性と差異共振性の取り戻しではないだろうか。
 最近、文学研究は、いわゆる新歴史主義中心になっている。しかしながら、これは、唯物論的だと思う。歴史を反映するイデオロギーとしての文学という考えである。確かに、歴史を確認することは必要であるが、それは本質ではないだろう。第一義的なことは、文学言語の差異論的批評である。文学言語のトランス・モダン化である。以前、文学理論が流行していて、それは、単純であった。しかしながら、今日の、いわば、ポスト文学理論的な新歴史主義的研究は、唯物論ないしは史的唯物論への回帰であるように思える。

p.s. 後で整理したい。

付録:

《芸術鑑賞とは何か:感覚をMedia Point化することによって、感覚に超越エネルギーを与えることではないか》

結局、感覚を介して、対象にMedia Resonance(メディア共鳴)することが鑑賞であろう。これによって、超越エネルギーが発現して、感銘等を生むのである。これは、単に美術や音楽や文学だけでなく、料理や香も芸術対象となるだろうし、当然、自然も芸術対象となるだろう。
 だから、芸術は、トランス芸術となる。トランス・アートである。そして、これは、生活一般や社会・政治・経済にも適用されよう。それらの差異共振化である。生活・社会・政治・経済等のトランス・アート=差異共鳴化である。Total Media Resonanciationである。


2008年05月24日(Sat)▲ページの先頭へ
ハイデガーの本来的存在について:+1と-1とゼロとMedia Point:トランス・モダン
今は余裕がないので、簡単に触れると、ハイデガーの現存在は、+1の共一性における同一性を意味するのではないだろうか。問題は、本来的存在(以下、本存在)である。それは、Media Pointと+1の境界に位置するように思える。Media Pointにおいて、超越性から同一性への展開するが、そのとき、Media Point の超越性の扉が閉じていて、その閉じた扉から同一性(現存在)が発現すると考えられるので、本存在とは、その閉じた扉である。いわば、原同一性である。⇒ の先端ではないだろうか。やはり、ゼロなのではないだろうか。このゼロ、±ゼロが本存在ではないだろうか。超越性・虚数なきゼロ、±ゼロ。簡単にするため、ゼロで考えよう。
 ゼロから+1が生起するのではないのか。しかし、私は、先に、+1は共一性であると言った。自己=他者=同一性ではないだろうか。そして、これが、現存在ではないだろうか。そうすると、先に述べたように、ハイデガー存在論は、ゼロ(本存在)⇒+1(現存在)となるだろう。今は、ここで留める。
 
(続き)
 『存在と時間』では、ハイデガーは時間性を、現存在を超越するものと捉えている。だから、本存在は、+1ではありえない。とは言え、本存在は、 Media Pointではない。だから、やはり、考えられるのは、Media Pointと共一性+1との中間ないしは境界ということである。
 そうすると、やはり、⇒の先端ということになるのではないだろうか。それがどうも適当なように思える。フッサール現象学は、Media Pointである⇒を取り出したのであるが、ハイデガーはMedia Pointである⇒の先端を本存在として取り出したと思われるのである。
 思うに、この⇒の先端は奇妙な性質をもつだろう。ゼロないしは無から発現するようにして、原同一性、原自我が存するように思われるのである。一種の即非性がここにあるように思われるのである。即ち、ゼロでありつつ、+1であるということである。当然、+1が現存在ないしは世界内存在である。
 ハイデガーが時間性を超越的というのは、ゼロが+1を超越しているということを意味しているのではないだろうか。一種の超越的内包点としてのゼロをハイデガーは考えていたのではないだろうか。
 このゼロを本存在ないしは存在と考えるのは、理解できることである。なぜなら、+1が自己同一性認識と考えられるからである。自己同一性認識以前のものとして、存在を説いたと考えられるのである。確かに、認識を同一性に限定すれば、ゼロは前認識となるだろう。そして、それを存在と名付けるのは、それなりに理解できることである。
 しかしながら、既述したように、ハイデガーは真の超越性を否定しているので、つまり、(超越的)差異共振性(差異共鳴性)を否定しているので、超越的認識があるのを理解できなかったと考えられるのである。
 以上の試論的考察から、ハイデガー存在論は、数理的には、ゼロ⇒+1と表記するのがやはり適切であるように考えられるのである。繰り返すが、ゼロが本存在(本来的存在)であり、+1が現存在(頽落した存在)ないしは世界内存在である。そして、ゼロと+1は確かに、亀裂があり、不連続である。それを確かに、ハイデガーは指摘している。
 ということから、ここで、(一応、あらためて、)ポスト・モダン哲学について考察してみたい。
 その前に、前提として、-1と+1について整理しておきたい。+1は共一性ないしは同一性である。それに対して、-1は同一性主義ないしはロゴス中心主義である。近代で言えば、近代合理主義・近代的自我に当たる。
 ドゥルーズ哲学について言うと、それは、-1の同一性主義(「プラトニズム」)に対して、連続的差異の思想を提示した。それは、直感では、ゼロの思想である。ハイデガーの場合は、ゼロと+1との亀裂があったが、ドゥルーズの場合は、+1を排除して、差異をゼロに収斂させている。そうすると、実は、同一性がなくなるのであり、その結果、一種のオカルト主義になるのである。神秘主義になるのである。現象の同一性を排除してしまっているからである。だから、ドゥルーズは、ハイデガーから後退しているのである。
 それに対して、(初期)デリダについて言うと、私見では、ほぼ、ハイデガーを踏襲しているように思われるのである。とまれ、ロゴス中心主義とは、-1の同一性主義のことである。それに対して、差延とは、同一性である+1に関わるゼロの痕跡のことではないだろうか。同一性+1に対して、ゼロという「原点」が、言わば、つきまとうのである。このゼロのつきまといが、差延ではないだろうか。言い換えると、脱構築とは、ロゴス中心主義=同一性主義(-1)に対して、ゼロ⇒+1というゼロと同一性の亀裂を差延ないしは痕跡というアンチテーゼとして提示した理論のように思えるのである。つまり、ハイデガーがゼロ(本来的存在)と同一性(現存在)との亀裂というものを、(初期)デリダは、差延ないしは痕跡として提示しただけのように思えるのである。つまり、(初期)デリダはハイデガー存在論のエピゴーネンではないだろうか。
 以上、簡単に、ドゥルーズと(初期)デリダについて見た。ここで、後期デリダに簡単に触れると、彼は、ゼロを脱して、ニーチェやキルケゴールの特異性、絶対的差異について、ハイデガー=初期デリダを乗り越えたと思われるのである。つまり、後期デリダは、既述したように、トランス・モダンになったと考えられるのである。
 そのように系譜的に考察すると、不連続的差異論は、後期デリダ(とジャン=リュック・ナンシー)のトランス・モダンを、鈴木大拙の即非の論理を基盤にして、発展させた理論であり、プラトニック・シナジー理論は、それに超越的共振性を与え、且つ、それを数理化した理論であると言えよう。
 
p.s. 構造主義について述べる必要があるだろう。これまで、ゼロ記号(ゼロ)に注目して、そこに原点があると見たがどうだろうか。思うに、構造主義とは、同一性における対立構造なので、+1と-1の対立構造で説明できるのではないだろうか。つまり、ゼロは要らないということになる。ならば、ゼロ記号とはどうなるだろうか。これは、ハイデガーやポスト・モダンよりも、形式的な原理ではないだろうか。+1と-1との対立構造を生まれる根源をゼロと仮定したに過ぎないのではないだろうか。
 確かに、ゼロという点では、ハイデガーやポスト・モダンと類似する。しかしながら、構造主義のゼロとは、認識的ゼロではなく、あくまで、形式的ゼロと考えられるので、相違があると考えられる。今は、ここで留めたい。


2008年05月22日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:ハイデガーの存在とMedia Pointについて
去年の夏、ハイデガーの『存在と時間』に書いたノートがあるが、それは、Media Pointを介した連続性と不連続性との二重性を明快に説いている。最近の私の議論よりも明晰である。少しこの点を考慮して再考したい。
 今は、余裕がないので、簡単にポイントだけ触れると、ノートは、Media Pointにおける志向性がもつ連続的同一性と差異の「両義性」の二重性を説き、連続的同一性が意識に、差異が無意識になると述べている。
 ハイデガーの本来的存在は、その無意識に当たると考えている。それは、当然、「暗い」領域である。端的に言えば、本来的存在(以下、本存在)は、差異なのである。そして、本存在=差異は、原時間的である。さらに、ハイデガーは本存在=差異と同一性との亀裂を見ている。つまり、不連続性を見ているのである。だから、本存在=差異とは、Media Pointに近いのである。しかしながら、本存在=差異には、他者が欠落しているのである。言い換えると、超越的他者性がないのである。
 思うに、Media Pointにおける志向性の即非性において考えるとわかりやすいだろう。一面では同一性であり、他面では差異である。そして、ハイデガーは後者を本存在としていると考えられるのである。
 しかしながら、本存在=差異がMedia Pointではないのは明らかである。どう考えたらいいだろうか。それは、やはり、+iに傾斜しているということである。-iが劣位にあるために、+iが優位となり、差異共鳴が起こらずに、差異を自己中心化していると考えられるのである。
 もし、差異共鳴性(差異共振性)が現前していたならば、そこには、他者への志向性が明確になるはずであるが、それが本存在にはないのである。だから、本存在は、端的に、+1ではないだろうか。頽落した現存在は、-1である。
 ただし、+1とゼロはほぼ一致するだろう。何故なら、積によって、+1が発現しても、それは、根源の超越性を排除するので、根源はゼロ=空=無になると考えられるからである。つまり、根源を排除・消去するということである。即ち、ゼロ⇒+1である。そして、これが、やはり、本存在=差異であると考えられるのである。
 初期デリダの差延は、ハイデガーを踏襲して、+1と-1との差異を意味するだろう。ドゥルーズの場合は、+1に徹底して、連続的差異=同一性を説いたと思われる。
 今はここで留めるが、問題は、冒頭に記した即非性における差異の位置である。同一性は+1でいいが、差異はどこに位置するのか。思うに、差異は Media Pointに位置すると考えられよう。だから、ハイデガーやポスト・モダンにおいても、本存在や差異は、本来、Media Pointに存しなくてはならないのである。しかしながら、ゼロ⇒+1になっていると思われるのである。後で再検討したい。


2008年05月21日(Wed)▲ページの先頭へ
-1と+1について:同一性と差異について:共一性+1と同一性主義-1とトランス・モダン:Ver 2
先に、差異極性ないしは差異対極性という考え方から、+1や-1について考察したが、まだ不十分な点が感じられるので、ここで検討したい。
 問題は、Media Pointにおける即非様相のことである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、差異が即非的に、同一性になるのであるが、果たして、そう考えていいのだろうか。先に、差異の他者への志向性について述べたが、先には、他者へ近づくが、他者とは一致しないもので、極限的には、他者と一致するものとしたが、果たして、それでいいのだろうか。
 思うに、他者への志向性とは、やはり、他者と一致するのであり、同時に、他者とは異なるということと取るのだが妥当ではないだろうか。言い換えると、他者と一体であるが、同時に、他者とは異なるということではないか。そうならば、正に、即非様相であり、問題はない。
 では、+1ないしは⇒+1とは何だろうか。先には、同一性と取ったが、どうだろうか。思うに、即非性ないしは差異共鳴性と取るべきではないだろうか。先に、共一性という用語を使用したが、それは、差異と他者との即非的一致を意味するものであるが、それは、ここに当てはまると言えるのではないだろうか。
 ということで、共一性という用語を復活させたい。すると、-1が同一性となるのである。
 -1=同一性【p.s. 以下の検討結果から、-1は同一性主義と見るべきであることがわかった。】について検討する前に、ハイデガーの本来的存在やデリダの差延について触れたい。直近では、それらは、Media Pointを実軸に圧縮したものではないかと述べたが、どうだろうか。考えてみると、Media Pointを実軸に圧縮するというのは、結局、+1になることではないだろうか。⇒+1は、フッサール現象学を意味するが、ハイデガー存在論やデリダ哲学は、+1を意味するのではないだろうか。⇒がないというのは、超越性がないということである。Media Pointがないということである。つまり、Media Pointを実軸に圧縮するというのは、+1であるということだと考えられる。
 これは、共一性であるが、ここにおいては、思うに、自己と他者との異であったり、同であったり、永遠に揺れ動いているのではないだろうか。正に、差延というのにふさわしい領域ではないだろうか。そう、ここも不思議な領域だろう。即自的であるが、そして、閉鎖的であるが、永遠に揺れ動いているのである。(想起するのは、夢のような様態である。超時空間的である。)
 ならば、Media Pointと+1はどう異なるのかということになろう。これは、当然、決定的に、絶対的に、異なるのである。ほとんど言うまでもないが、Media Pointには、超越性が、虚数が顕現しているのであるが、+1には、もはや、超越性、虚数は顕現していないのである。ただ、現象内の事象に過ぎなくなるのである。ちなみに、これで、ハイデガーの本来的存在には、差異共振性がないと言ったことが説明できるだろう【p.s.  ハイデガーの本来的存在は、不思議な様相をもっている。私は、以前、Media Pointと思ったくらいである。一種の差異共鳴性があるが、決して、超越性をもたないのである。とまれ、一種の差異共鳴性(デリダの差延とほぼ等価であろう)とは、自己同一性=自我内部での、自我は「他者」であり、「他者」は自我であるという、自我化された共鳴性ではないだろうか。言い換えると、連続化された差異共鳴性ではないだろうか。あるいは、連続化された差異である。ドゥルーズの差異に相当するだろう。しかしながら、事はそれほど単純ではない。ハイデガーの本来的存在には、一種の特異性があるように感じられる。だから、Media Pointと一時思ったのである。これをどう見るのか、である。Media Pointのなんらかの痕跡がそこにはあるのだろうか。思うに、存在という考え方に、ポイントがあるだろう。存在忘却をハイデガーを説いているのであるから。私は、Media Pointの実軸上の圧縮と+1が同じであると言った。それは、端的には、同一性=物質のことであろう。思うに、存在とは物質のことではないだろうか。物質としての自我存在ではないだろうか。そして、これは、Media Pointという特異点を介して発現するのである。思うに、物質の基盤としての特異点(特異性)があるのではないだろうか。思うに、これが、ハイデガーの本来的存在ではないだろうか。同一性=物質の特異点(特異性)である。だから、数理化すると、0⇒+1であろう。そして、+1⇒-1が頽落した現存在であろう。結局、ゼロ度の同一性(共一性)である。思うに、ゼロが時間になっているのではないだろうか。だから、『存在と時間』なのではないだろうか。ゼロから+1へと志向し、また、+1からゼロへと志向するのではないだろうか。だから、+1における他者とは、ゼロではないだろうか。確かに、+1は鏡像であるが、そこへゼロが入ることで、一種、差異化されるのではないだろうか。だから、ハイデガーの本来的存在とは、ゼロと+1との「差延」ではないだろうか。今はここで留める。後で再考したい。】。差異共振性とは、本来の他者との即非共振性のことであり、+1の共一性においては、端的に、同一性内部の即非様相が考えられるのである。他者なき、自己内共振性である。同一性に閉じた、即ち、即自的な、自己二元性ないしは鏡像性である。ここにあるのは、他者のシミュラクルである。擬似差異である。確かに、即非性があるが、同一性内部の即非性であり、本来的な即非性ではない。有体に言えば、一が二になったり、二が一になったりする様相である。即ち、二である一であり、一である二である。正に、鏡面・鏡像の様態であろう。また、デリダの差延も、そのようなものと思われるのである。というのは、同一性に、差異が付属するからである。一が同一性であり、二が差異であり、両者の関係が差延であろう。【p.s.  ここの問題は、より精緻に検討するに値する重要なポイントである。というのは、+1の共一性とは、実は、本来的な超越的差異共鳴性の現象的痕跡と考えられるからである。痕跡は正に、デリダの用語であり、差延との関係が示唆されるのである。私は疑似差異と言ったが、それは単純化過ぎるかもしれない。とまれ、後で再考したい。】
 さて、本題の同一性=-1について検討しよう。これは、直感では、+1の共一性(差延・本来的存在・鏡像)を基盤とした、差異・他者の否定、即ち、排除的否定であると考えられるのである。
 共一性はいわば、ナルシシズムであるが、これに対して、本来の他者・差異が発現するのであり、それに対して、共一性はそれを排除的に否定(以下、排除否定)するのである。なぜなら、本来の他者・差異は、共一性(ナルシシズム)の快感を破壊するからである。同一性主義の基盤は、この共一性にあると思われる。結局、+1が土台となり、自己+iと他者-iを排除否定すると、-1が形成されると考えられる。
 整理すると、共一性は端的に言えば、自己同一性である。それは、自己差異+iと自己他者-iを同時排除否定しているのである。そして、他者・差異が発現すると、共一性=自己同一性は、それを排除否定して、-1を発現するのである。即ち、(+i)*-(-i)⇒-1ないしは-(+i)*(-i)⇒-1となる。これが、真の同一性主義、自己中心主義、利己主義である。近代においては、近代合理主義・近代的自我である。
 思うに、自己差異の否定と同時に、自己他者の否定が起こる場合は、逆に、+1を保持することになる。これはどういうことななのだろうか。それは、単純に中和ではないだろうか。
 以上のような試論から見ると、構造主義やドゥルーズ哲学はどうなるだろうか。構造主義は、やはり、共一性+1と関係すると思われる。というのは、構造主義の対立とは、共一性の同一性における二項対立を意味すると考えられるからである。そこでは、一即二、二即一である。いわば、二位一体構造をもつ。言い換えると、弁証法構造である。
 では、ドゥルーズ哲学について言うと、それは、差異を連続的に同一性化するものである。だから、それも、共一性+1ではないだろうか。つまり、差異を共一性に還元してしまうのである。
 ならば、構造主義のゼロ記号とは何か。先に、それは、+1+(-1)=0としたが、どうだろうか。ゼロ記号とは、共一性の矛盾を指し示す記号ではないだろうか。つまり、ゼロから共一性が形成される考えるのではないだろうか。それは、無と同じことになるだろう。ならば、キリスト教の無からの創造と同じになるのではないだろうか。もし、そうならば、構造主義やポスト・モダンは、キリスト教の帰結となるだろう。
 とまれ、以上の思考実験から見ると、ポスト・モダン(後期デリダやジャン=リュック・ナンシー等はトランス・モダンと見る)は決して新しい理論ではないことになる。ハイデガー哲学や構造主義の展開である。問題は、それらが、キルケゴールやニーチェの特異性やフッサールの超越性を捉え損なっていることである。思うに、20世紀になって、日本の哲学者等が捉えたように思えるのである。鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周造等(Media Pointは、岡倉天心が直感的に捉えていたと言えよう)である。また、ロシアの神秘主義者であるウスペンスキーである。
 とまれ、今言えることは、20世紀初期における哲学・理論の革新が、正確に継承されずに、20世紀後半において哲学・理論領域は混沌とした状態となり、知の混乱があるということである。プラトニック・シナジー理論は、哲学・理論の混乱を乗り越える正統本道の哲学・理論であると考えられるのである。
 グローバリゼーションも、この知の混乱の所産と言えないことはない。特異性の哲学・理論、Media Pointの哲学・理論が早期に発見されていたら、世界は差異共鳴的秩序・調和を志向していただろう。
 


2008年05月20日(Tue)▲ページの先頭へ
-1と+1について:同一性と差異について:共一性+1と同一性主義-1とトランス・モダン
先に、差異極性ないしは差異対極性という考え方から、+1や-1について考察したが、まだ不十分な点が感じられるので、ここで検討したい。
 問題は、Media Pointにおける即非様相のことである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、差異が即非的に、同一性になるのであるが、果たして、そう考えていいのだろうか。先に、差異の他者への志向性について述べたが、先には、他者へ近づくが、他者とは一致しないもので、極限的には、他者と一致するものとしたが、果たして、それでいいのだろうか。
 思うに、他者への志向性とは、やはり、他者と一致するのであり、同時に、他者とは異なるということと取るのだが妥当ではないだろうか。言い換えると、他者と一体であるが、同時に、他者とは異なるということではないか。そうならば、正に、即非様相であり、問題はない。
 では、+1ないしは⇒+1とは何だろうか。先には、同一性と取ったが、どうだろうか。思うに、即非性ないしは差異共鳴性と取るべきではないだろうか。先に、共一性という用語を使用したが、それは、差異と他者との即非的一致を意味するものであるが、それは、ここに当てはまると言えるのではないだろうか。
 ということで、共一性という用語を復活させたい。すると、-1が同一性となるのである。
 -1=同一性【p.s. 以下の検討結果から、-1は同一性主義と見るべきであることがわかった。】について検討する前に、ハイデガーの本来的存在やデリダの差延について触れたい。直近では、それらは、Media Pointを実軸に圧縮したものではないかと述べたが、どうだろうか。考えてみると、Media Pointを実軸に圧縮するというのは、結局、+1になることではないだろうか。⇒+1は、フッサール現象学を意味するが、ハイデガー存在論やデリダ哲学は、+1を意味するのではないだろうか。⇒がないというのは、超越性がないということである。Media Pointがないということである。つまり、Media Pointを実軸に圧縮するというのは、+1であるということだと考えられる。
 これは、共一性であるが、ここにおいては、思うに、自己と他者との異であったり、同であったり、永遠に揺れ動いているのではないだろうか。正に、差延というのにふさわしい領域ではないだろうか。そう、ここも不思議な領域だろう。即自的であるが、そして、閉鎖的であるが、永遠に揺れ動いているのである。(想起するのは、夢のような様態である。超時空間的である。)
 ならば、Media Pointと+1はどう異なるのかということになろう。これは、当然、決定的に、絶対的に、異なるのである。ほとんど言うまでもないが、Media Pointには、超越性が、虚数が顕現しているのであるが、+1には、もはや、超越性、虚数は顕現していないのである。ただ、現象内の事象に過ぎなくなるのである。ちなみに、これで、ハイデガーの本来的存在には、差異共振性がないと言ったことが説明できるだろう。差異共振性とは、本来の他者との即非共振性のことであり、+1の共一性においては、端的に、同一性内部の即非様相が考えられるのである。他者なき、自己内共振性である。同一性に閉じた、即ち、即自的な、自己二元性ないしは鏡像性である。ここにあるのは、他者のシミュラクルである。擬似差異である。確かに、即非性があるが、同一性内部の即非性であり、本来的な即非性ではない。有体に言えば、一が二になったり、二が一になったりする様相である。即ち、二である一であり、一である二である。正に、鏡面・鏡像の様態であろう。また、デリダの差延も、そのようなものと思われるのである。というのは、同一性に、差異が付属するからである。一が同一性であり、二が差異であり、両者の関係が差延であろう。【p.s.  ここの問題は、より精緻に検討するに値する重要なポイントである。というのは、+1の共一性とは、実は、本来的な超越的差異共鳴性の現象的痕跡と考えられるからである。痕跡は正に、デリダの用語であり、差延との関係が示唆されるのである。私は疑似差異と言ったが、それは単純化過ぎるかもしれない。とまれ、後で再考したい。】
 さて、本題の同一性=-1について検討しよう。これは、直感では、+1の共一性(差延・本来的存在・鏡像)を基盤とした、差異・他者の否定、即ち、排除的否定であると考えられるのである。
 共一性はいわば、ナルシシズムであるが、これに対して、本来の他者・差異が発現するのであり、それに対して、共一性はそれを排除的に否定(以下、排除否定)するのである。なぜなら、本来の他者・差異は、共一性(ナルシシズム)の快感を破壊するからである。同一性主義の基盤は、この共一性にあると思われる。結局、+1が土台となり、自己+iと他者-iを排除否定すると、-1が形成されると考えられる。
 整理すると、共一性は端的に言えば、自己同一性である。それは、自己差異+iと自己他者-iを同時排除否定しているのである。そして、他者・差異が発現すると、共一性=自己同一性は、それを排除否定して、-1を発現するのである。即ち、(+i)*-(-i)⇒-1ないしは-(+i)*(-i)⇒-1となる。これが、真の同一性主義、自己中心主義、利己主義である。近代においては、近代合理主義・近代的自我である。
 思うに、自己差異の否定と同時に、自己他者の否定が起こる場合は、逆に、+1を保持することになる。これはどういうことななのだろうか。それは、単純に中和ではないだろうか。
 以上のような試論から見ると、構造主義やドゥルーズ哲学はどうなるだろうか。構造主義は、やはり、共一性+1と関係すると思われる。というのは、構造主義の対立とは、共一性の同一性における二項対立を意味すると考えられるからである。そこでは、一即二、二即一である。いわば、二位一体構造をもつ。言い換えると、弁証法構造である。
 では、ドゥルーズ哲学について言うと、それは、差異を連続的に同一性化するものである。だから、それも、共一性+1ではないだろうか。つまり、差異を共一性に還元してしまうのである。
 ならば、構造主義のゼロ記号とは何か。先に、それは、+1+(-1)=0としたが、どうだろうか。ゼロ記号とは、共一性の矛盾を指し示す記号ではないだろうか。つまり、ゼロから共一性が形成される考えるのではないだろうか。それは、無と同じことになるだろう。ならば、キリスト教の無からの創造と同じになるのではないだろうか。もし、そうならば、構造主義やポスト・モダンは、キリスト教の帰結となるだろう。
 とまれ、以上の思考実験から見ると、ポスト・モダンは決して新しい理論ではないことになる。ハイデガー哲学や構造主義の展開である。問題は、それらが、キルケゴールやニーチェの特異性やフッサールの超越性を捉え損なっていることである。思うに、20世紀になって、日本の哲学者等が捉えたように思えるのである。鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周造等(Media Pointは、岡倉天心が直感的に捉えていたと言えよう)である。また、ロシアの神秘主義者であるウスペンスキーである。
 とまれ、今言えることは、20世紀初期における哲学・理論の革新が、正確に継承されずに、20世紀後半において哲学・理論領域は混沌とした状態となり、知の混乱があるということである。プラトニック・シナジー理論は、哲学・理論の混乱を乗り越える正統本道の哲学・理論であると考えられるのである。
 グローバリゼーションも、この知の混乱の所産と言えないことはない。特異性の哲学・理論、Media Pointの哲学・理論が早期に発見されていたら、世界は差異共鳴的秩序・調和を志向していただろう。


2008年05月19日(Mon)▲ページの先頭へ
『自然は脈動する』とヴィクトル・シャウベルガーのルネサンス
http://www.kyobunsha.co.jp/
shopping/books/ISBN978-4-531-08164-6.html

本書を読み続けているが、驚嘆の書である。そう、いわば、震撼させられている書である。プラトニック・シナジー理論と共通する理論が既に、20世紀前期に生まれていたのである。ただし、自然科学・技術に中心がおかれているようである。とまれ、PS理論が説く超越エネルギー=イデア・エネルギー=差異共鳴エネルギーが既に説かれているのである。また、水の特異点(摂氏四度)を提示していて、具体的に、Media Pointの考え方に沿っていると考えられるのである。また、私が夢想した超越エネルギーの取り出し方を、具体・実践的に、ヴィクトル・シャウベルガーが試行していたのである。
 どうやら、ヴィクトル・シャウベルガーのルネサンスが来るだろう。これは、根本的に、自然観・世界観を刷新して、科学・技術的に、平和な世界をもたらすものになるだろう。
 PS理論は、シャウベルガー自然理論と融合する形で、さらに進化するだろう。今はこれで留めたい。

参照:
久しぶりに読書してます。最近これはというような面白い本に出くわすことがなかったのですがこの本は衝撃的でした。なんせ現代文明の基本となっているテクノロジーは最初から間違っているというのです。まさにちゃぶ台返し、とも言える現代テクノロジーに対するアンチテーゼと言える内容です。ちゃぶ台をひっくり返そうとした人はヴィクトル・シャウベルガー(1885-1958、オーストリア生まれ)。聞いたことのない名前で初耳でした。それもそのはずで当時の科学界(今の科学界でも)からは異端と見られてその存在を無視されてきたのでした。加えてナチスに協力させられて兵器開発を行ったことも無視される原因のようです。

題名は「自然は脈動する 」(日本教文社刊)。原題は'Hidden Nature: The Starting Insights of Victor Schauberger'で恐らくシャウベルガーを初めて日本に紹介した本ではないかと思います。内容はアリック・バーソロミューという編集者によるシャウベルガーの入門書です。シャウベルガーをググるといろいろと怪しい話が出てきてそれだけを見るとこの人の業績を大幅に見誤ってしまいそうです。最近地球温暖化ということで環境問題が大きくクローズアップされていますが、シャウベルガーの業績が今注目されているのも彼がこの問題を指摘してなぜそうなるのかを明確に指摘しているからでしょう。シャウベルガーは現代文明がこのままのテクノロジーを推し進めていけば人類は自らを破壊することになると予言していたのでした。
http://haretokidoki.blog63.
fc2.com/?mode=m&no=339
晴れのち自転車時々猫

古代テクノロジーの再興−1997.05.04
キーリーネットのためにJerry W. Deckerが編集
Dan LaRochelle の好意による天国の舟URL  以下は、@Nifty(NIFTY-Serve)>FMISTY>MES19>#1136,1137をもう少し表現を分かり易くした同文である。

 Dan は最近、David Hamel と一緒にカナダを訪れた。Hamel によると、かつて全地球的な危機に直面していた時、古代地球の‘進歩的な人々’に対して与えられた宇宙の兄弟たちの技術を見せられたと述べている。そして、今の我々の美術館や考古学館には、このような宇宙の兄弟たちのテクノロジーの兆候が溢れているそうだ。ただ、それらは、まだ我々の、どのように宇宙が動いているのかという認識に符号しないために、理解することができないでいるのだ。Hamel は宇宙人のテクノロジーに肉迫する描写を紙上で行なった。それはこの記事の最後に【リンクを】置いた。

http://oriharu.net/jaten.htm
天国の舟

おかねのかたち

逢沢堅


第一章 世界はリズムのシンフォニーを奏でる

第一節 世界はリズムでできている
個人は社会とともに生きる
ある程度の長さを生きてきた人なら、また自分で自分を養うことを知っている人ならなお、自分の生活状態と家計に調子の良し悪しがあることを知っているはずである。生活手段ということにそれほど自覚的でない人でも、今年の春はいつもの春よりなんとなく寒々しいといった感覚印象で自分の生活状態が心に反映しているにちがいない。
http://www.geocities.co.jp/
Bookend-Hemingway/2397/okanenokatachi.htm
Viktor Schauberger
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Viktor Schauberger (30 June 1885 – 25 September 1958 ) was an Austrian forester /forest warden , naturalist , philosopher and inventor .

The inventor of what he called "implosion technology", Schauberger developed his own theories based on fluidic vortices and movement in nature. Very little of Schauberger's work has received mainstream acceptance, although his work is directly related[citation needed ] to valid accepted mathematical principles and harmonics.
Biography

[edit ] Early years

Viktor Schauberger was born in Holzschlag , Austria , to a long line of Austrian foresters. Creek and river flow fascinated him during his youth. He went on to develop a basic theory that contains a twofold movement principle for such phenomena.

His first idea was brought upon by trout. The fact that they could use so little force to go against the current invoked him to study the force that allowed such effortless motion. His study of trout concluded in the theory of natural vortexes.

Schauberger's second major theory was in the structure of water. He believed that water is at its densest when cold (and at the time of a full moon), and that there are many layers in the structure of flowing water. He claimed that nature creates vortexes to create equilibriums. He further claimed that our current form of energy production/consumption scatters matter into disequilibrium. His studies were not approved by science at the time, even when his ideas were put into practice.[citation needed ]

In 1926 , he undertook research at a timber flotation installation in Neuberg an der Mürz in Styria . In 1929 Schauberger submitted his first applications for patents in the fields of water engineering and turbine construction. He conducted research on how to artificially generate centripetal movement in various types of machines . He proposed a means of utilising hydroelectric power by a jet turbine . The log flumes used for timber flotation allegedly disregarded the Law of Archimedes, i.e., Schauberger was allegedly able to transport heavier-than-water objects by creating a centripetal movement (making the timber spin around its own axis, by special guiding-vanes which caused the water to spiral).

[edit ] World War II

In 1934 Viktor was meeting with Hitler, and had discussions about fundamental principles of agriculture, forestry and water engineering. However, Schauberger refused to work for the German Reich.

In 1941, an intrigue caused by the Viennese Association of Engineers[citation needed ] resulted in Schauberger's enforced confinement in a mental hospital in Mauer-Öhling, under continuous observation by the SS. In Augsburg, Schauberger worked with Messerschmidt on engine cooling systems and was in correspondence with designer Heinkel about aircraft engines.

In 1944 , Schauberger continued to develop his Repulsine machine at the Technical College of Engineering at Rosenhügel in Vienna. By May 1945 a prototype had been constructed.

In 1945 Schauberger started to work on his "Klimator".

At the end of the war Schauberger was apprehended by US intelligence agents, and kept in custody for 9 months. They confiscated all his documents and prototypes, and interrogated him to determine his activities during the war.[1]

After the war Schauberger continued his work, leading to water-based power generation through vortex action in a closed cycle, the "Spiral Plough", an "Apparatus for soil cultivation made of copper", tests with "spiral pipes", and so on.

[edit ] Later years

In 1958 Schauberger was approached by Karl Gerchsheimer and Robert Donner, with an invitation to come to the US to further develop his inventions.

Schauberger spent several months in the US making drawings and reports, and then returned to Austria . He died in Linz , Austria, on September 25 1958.

[edit ] Implosion Magazine

Implosion is a quarterly magazine founded in 1958 by Aloys Kokaly, generally aimed at the lay reader, which is still published quarterly or semi-annually by Klaus Rauber. It has been, without doubt, the richest repository of Viktor Schauberger's writing (in German), and has been the source of substantial portions of the Eco-Technology series.

[edit ] See also

* Fluid dynamics
* Hydrodynamics
* Water hammer
* Cavitation
* Coanda effect
* Vortex : Vortical , Vorticity , Vortex shedding
* Centripetal : Centripetal Force , Centripetal Acceleration
* Implosion
* Forester
* Bionics
* Spiral : Golden spiral , Logarithmic spiral , Fibonacci sequence
* Vortex tube , Windhexe

[edit ] Further reading

* Jane Cobbald, Viktor Schauberger - a Life of Learning from Nature (2006) ISBN 0-86315-569-3
* Olof Alexandersson, Living Water ― Viktor Schauberger and the Secrets of Natural Energy
o (1982) ISBN 0-85500-112-7
o (1990) ISBN 0-946551-57-X
o (2002) ISBN 0-7171-3390-7
* Alick Bartholomew, Hidden Nature ― The Startling Insights of Viktor Schauberger (2003) ISBN 0-86315-432-8
* Brian Desborough, A Blueprint for A Better World (2002) ISBN 0-9742018-0-4
* Viktor Schauberger and Callum Coats, The Schauberger Companion (1994) ISBN 1-85860-011-1
o Eco-Technology (1994) ISBN 1-85860-011-1
o Living Energies (1995) ISBN 0-7171-3307-9 {UK edition has more ill.}
+ Living Energies ― Viktor Schauberger's brilliant work with Natural Energies Explained (2002) ISBN 0-7171-3307-9
o The Water Wizard: The Extraordinary Properties of Natural Water, Eco-Technology no.1, (1997) ISBN 1-85860-048-0
o Nature As Teacher: New principles in the Working of Nature, Eco-Technology no.2, (1998) ISBN 1-85860-056-1
o The Fertile Earth: Nature's Energies in Agriculture, Soil Fertilisation and Forestry, Eco-Technology no.3,(2000) ISBN 1-85860-060-X
o Energy Evolution: Harnessing Free Energy from Nature, Eco-Technology no.4, (2001) ISBN 1-85860-061-8
* various books on Viktor Schauberger,[1]
* Schauberger CD Rom

[edit ] External links and references

* Pythagoras Kepler System , started by Walter Schauberger and currently run by Jörg Schauberger.
* Implosion Magazine, Verein für Implosionsforschung und Anwendung e.V.
* Ovesen, Morten, "Life and work ". Malmö group.
* "Who was Viktor Schauberger ?". Frank.Germano .com.
* "Viktor Schauberger ". (30.6.1885 - 25.9.1958)
* "Viktor Schauberger, The Water-wizard from Austria. ".
* "Viktor Schauberger ". Fusion Anomaly.net .
* Naudin, J. , "The Schauberger's Flying Saucer ".
* "Qualitatives Torkado-Modell (Hypothesen und Studien zu freien 3D-Schwingungen)". (German)
* "Energy Technology ".
* "Viktor Schauberger The Water-wizard from Austria". -- "Viktor Schauberger ".
* "Modern Energy Research Library ".
* Centre for Implosion Research, UK

1. ^ Nick Cook , The Hunt for Zero Point - Inside the Classified World of Antigravity Technology (2001) ISBN 0-7679-0628-4 / ISBN 0-7679-0627-6

[edit ] Mailinglists

* viktorschaubergergroup ― The Viktor Schauberger Research Group : An Email forum on Viktor Schauberger. (ed: Discussion on all aspects of Viktor Schauberger's amazing inventions and life history. An attempt will be made to duplicate and build some of his inventions, and to implement his environmental technologies into mainstream use.)
* Viktor Schauberger ― This is a group mainly dedicated to Viktor Schauberger and his discoveries. But any discussions are welcome.
* "Viktor Schauberger : Austrian Patents (Water Control by Vortex Action)". Rex Research .
* A Schauberger machine "Klimator" in creation The Klimator

[2] Video explaining Viktors work
Retrieved from "http://en.wikipedia.org/
wiki/Viktor_Schauberger "
Categories : 1885 births | 1958 deaths | Early spaceflight scientists
http://en.wikipedia.org/
wiki/Viktor_Schauberger

Viktor Schauberger
aus Wikipedia, der freien Enzyklopädie

http://de.wikipedia.org/
wiki/Viktor_Schauberger


2008年05月18日(Sun)▲ページの先頭へ
物質とは何か:現象について:自己認識方程式と同一性-1の再確認
爽やかそよ風が窓から入ってきて、やや薄い雲がかかっているが、穏やかな晴天の東京である。
 さて、先に、ヴィクトル・シャウベルガーの自然理論からPS理論に関して、説明が修正されることになったが、まだ、不十分なので、再考したい。±1が現象における極性となったので(この点も確定したわけではないので、さらに検討が必要ではある)、これまで、物質を-1と捉えてきたことに対する大きな変更であり、十分な検討が必要である。
 結局、差異の問題がここにある。差異の共鳴、これは、本質では、(+i)*(-i)と表記される。例えば、+iが一つの差異であり、-iが他者ないしは他者としての差異である。差異+iは、他者-iを志向する。これを引きつけられる力と見ていいだろう。しかし、同時に、差異+iは、他者-iではありえない自己存在を固持する。他者-iであろうと志向しつつ、自己であることを固持するのが、差異+iである。
 そして、この差異の様態が極性であると考えることができたのである。また、これは、PS理論では、即非様相と見ているのである。
 差異のこの内在的即非志向性は、(+i)*(-i)で表現されるだろう。問題は、現象様態である。他者-iへの志向性は、言い換えると、共振・共鳴性である。引きあう力である。これを、先には、+1として考えたのである。しかし、正確に言うと、⇒+1である。他者への志向性であり、他者との一致ではないのである。だから、そう考えると、差異の独立性、ないしは、不連続性は、⇒+1においても、内包されていることになるだろう。⇒が決定的なポイントである。これは、即非記号、他者志向性記号と言ってもいいだろう。
 そうならば、⇒-1はどうなるのだろうか。先には、それは、差異の独立性に基づく反発・斥力を意味すると述べたのである。⇒+1を引きあう力(吸引力)とすると、それは、同時に、反発する力(斥力)になるだろう。だから、⇒-1を斥力と見る必要はなくなるのである。
 だから、端的に、自己認識方程式は、差異現象方程式と見てもいいのである。だから、±1ではなく、+1で済むのである。この点は、さらなる訂正であり、元に戻ったのである。
 では、新たに、物質とは何か、又、⇒-1とは何か、となるだろう。直感で言えば、物質とは、+1自体である。差異志向性の帰結・エンテレケイアである。そう、同一性も+1ということになるだろう。自我も+1である。ならば、⇒-1ないしは-1とは何だろうか(e^iπ=-1と関係するのか)。
 -1とは、これまでの考え方では、(+i)*-(-i)⇒-1ということから考えられたのであり、これは、他者の否定・抑圧・排除によって発生すると考えたのである。差異志向性においては、他者への志向性と同時に、差異自体であるという事象があるのであり、後者の差異自体であるという不連続性は、確かに、一種の他者の否定ではあるが、-1を生み出す、否定・抑圧・排除ではない。
 つまり、ここには、少なくとも二つの否定があるのである。差異志向性の否定は、いわば、相対的否定であり、同一性の否定は絶対的否定である。この点をどう明確化するのかが、一つのポイントである。
 思うに、差異自体ということは、本来、他者を否定していないのである。ただ、他者とは別に差異自体が存するということである。しかしながら、差異は他者とは対立しているのである。ここで、ある人の意見を借りて、差異と他者の関係を反対と捉えると明快になるかもしれない。AとBとは反対であるとは、確かに、AとBは対立するが、AはBを排除していないのである。だから、これは、端的に、対極性と呼ぶのが、明快・明晰ではないだろうか。
 Aの極はBの極とは対立しているが、A極はB極を排除はしていない。ここで、否定という用語の問題がある。対極的否定と排除的否定があるだろう。私が同一性における否定に見るのは、当然、後者である。
 ここで整理すると、差異志向性は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で必要十分に表現されている。左辺は差異志向性であり、差異対極性と言っていいものである。そして、⇒は即非性を意味するのである。
 そして、同一性を意味する⇒-1ないしは-1であるが、それは、他者の排除的否定と、他者の排除的肯定(自己差異を排除的に否定する)に拠ると考えられる。他者の排除的否定を考えると、それは、どういう条件・事態・前提から発生するのだろうか。
 これまでの考えは、ルサンチマンから発生するということであり、他者-iにおける苦・悲に対するルサンチマンから他者の排除が生起すると考えたのである。これは、先天的な、ないしは、男性的な傾斜・勾配によると考えられる。即ち、(+i)*(-i)という差異志向性・差異共鳴性・差異対極性に関していうと、先天的に、ないしは、男性において、+iに対して、-iが脆弱にできているのである。即ち、過剰な+iに対して、-iが脆弱なのである。+iを原知とすると、-iが原身体である。このような先天的傾斜ないしは男性的傾斜があると考えられるのである。
 この結果、出生後、幼児において、ルサンチマンから他者を排除的に否定する結果、-1の同一性が発生すると考えられるのである。本来、差異共鳴性があるが、そのような傾斜から同一性の-1が発生すると思われるのである。
 言い換えると、人間の精神において、差異志向性と同一性志向性の二つの傾向が混淆しているのであり、先行しているのは、前者であるが、父権主義においては、後者が優位となり、本来的な様相が劣位となる倒錯した状態になっていると言えるのである。
 文化史的に見ると、ユダヤ・キリスト教的一神教が、同一性志向性に貫かれていると考えられる。もっとも、イエス・キリストの教えには、差異志向性は含まれるが、ヤハウェ的一神教のために、それがきわめて抑圧されていると考えられるのである。
 まだ、近代合理主義・近代的自我であるが、これは、父権的な同一性主義の延長にあると考えられるのである。同一性としての合理性・物質性・自己を中心価値においているのである。端的に言えば、差異志向性を抑圧した同一性合理主義である。これが、近代欧米の世界観の基盤にあるものと考えられるのである。ただし、何度も言うが、ルネサンス(正しくは、中世)に根差した差異志向性が欧米人の無意識には存すると言える。言い換えると、差異と同一性の混同が欧米人の精神には存しているのである。以上のように考えると、端的に、元に戻ったことになる。
 さて、最後に、光の現象について考察したい。以上の検討から、光現象は、当然、⇒+1である。それを+1と見るのが、物質科学である。⇒+1とは、光をエネルギー現象と見るのであり、+1とは物質現象と見るのである。今日、電磁波ということで、エネルギー現象として正しく確認されている。
 問題は、光の知覚にある。光の視覚はできるのか、という問題もある。太陽を直視することはできない。つまり、光は直視できないと思う。光が反射したものを視覚することができるのだと思う。これが一点である。思うに、光は、⇒+1であり、この左辺が超越的であり、それで、直視できないということなのではないだろうか。
 では、光の反射した現象をどう知覚するのだろうか。ここでは直感で言おう。視覚は、反射した光(以下、単純に光と表記する)と共振・共鳴すると思う。これは、自己認識方程式でも表記できるし、また、Media Resonance(メディア共鳴)でも表記できると思われる。
 問題は、例えば、「わたし」が、遠くに位置するビルを見たとき、そのビルの視覚とは何か、ということである。思うに、無意識の背景、基礎として、差異共振(差異共鳴)が存していると考えられるが、現象としては、個体・個物としてのビルを視覚するのである。即ち、同一性としてのビルを視覚するのである。三次元空間ないしは四次元時空間におけるビルとして視覚するのである。
 同一性としてのビルとはどう数理(数知)化されるのか。+1なのか、-1なのか。同一性主義の視覚ならば、-1としてのビルとなるだろう。そして、差異志向性における視覚ならば、+1としてのビルではないだろうか。しかしながら、+1の視覚とは、仮象に過ぎないだろう。⇒+1と見たときに、現象となると言えるのではないだろうか。⇒+1においては、差異共振(共鳴)性が存するのであり、こちらが本来的であると考えられるのである。+1とは、同一性仮象(同一性シミュラクル)である。
 では、-1のビルとは何なのだろうか。+1のそれとどう異なるのか。同一性仮象と同一性主義との違いということになるだろう。思うに、それは、知覚の相違ではないだろうか。同一性仮象+1とは純粋視覚の現象であり、同一性主義-1とは視覚現象の言語化ではないだろうか。つまり、視覚する対象はビルという言語が適用されるものであり、言語視覚としてのビルということではないだろうか。
 だから、ある意味で、+1と-1は似ているのである。しかしながら、カントは、+1を直観ないしは物自体、-1を純粋理性としたのではないだろうか。言い換えると、+1はリアリズム(写実主義)である。そして、-1は、近代合理主義である。
 さらに展開すると、ロマン主義はどうなるのだろうか。それは、同一性主義・近代合理主義によって否定された-iの復権を意味するのではないだろうか。少なくとも、それは、差異共振(共鳴)性を取り戻す志向性をもっていたと言えよう。同一性主義の(+i)*-(-i)に対して、(+i)*-〔-(-i)〕ではないだろうか。排除された他者-iを肯定する行為ではないだろうか。しかしながら、逆に言うと、他者の強調が過剰となり、逆に、自己の差異である+i を否定する傾斜さえもったのではないだろうか。すると、-(+i)*(-i)⇒-1となったように思えるのである。だから、反動性ももっていたことになるのである。他者を強調するあまり、逆に同一性主義に陥ったと考えられるのである。
 とまれ、少なくとも、ロマン主義において、差異共振性が生動化したことは画期的であったことを評価すべきであろう。精神的には、歓喜が発現したのである(参照:シラー/ベートーヴェンの「歓喜の歌」)。文化史的には、ルネサンスの再発動に近いものがあると思われるのである。そう、他者が賦活され、差異共振性が活性化したと言えよう。しかしながら、それが過剰であっために、反動化したことも事実なのである。精神過剰主義である。【だから、ここから、世紀末や唯美主義等は延長であることは見やすいであろうし、また、20世紀になっても、後期ロマン主義や表現主義として継続したと見ることができるだろう。因みに、モダニズムは、ロマン主義と写実主義(広義の近代主義)、言い換えると、差異と同一性との衝突であり、両者の妥協点・調和点を求めた志向であったと言えよう。だから、モダにイズムは、差異に傾斜した様態と同一性に傾斜した様態と中間的様態があるのである。英米文学で言うと、差異に傾斜したのが、D. H. ロレンスであり、同一性に傾斜したのが、T. S. エリオットやエズラ・パウンドであり、中間的様態が、W. B. イェイツやジェイムズ・ジョイスであろう。】
 最後については、後で整理したい。

p.s. 初期デリダの脱構築主義であるが、差延を先には、-1と+1との差異として捉えたが、以上の考えから見ると、それはやや説明が足りないように思える。問題は、+1である。これをまたハイデガーの本来的存在と見たのであるが、どうだろうか。
 確かに、+1という様態は不安定というか不明確なものがある。同一性仮象である。例えば、波打ち際にたって、打ち寄せる波を見ていると、波と知覚が揺れ動くのがわかるだろう。「わたし」が波となったり、しかしながら、「わたし」と波とは別々の存在であるというような知覚現象が発生するだろう。同一性仮象は、差異共鳴性を内包していると考えられるのである。そう、コスモスを内包しているといいだろう。【神話とは、ここから表現されたものだろう。】
 だから、純粋な+1があるかどうかは問題ではないだろうか。しかしながら、現実的には、同一性仮象を実在として捉えて生活しているのである。眼前にあるデスクは同一性仮象ではあるが、物質現象として捉えて生活しているのである。
 現実的な生活においては、同一性仮象を物質現象として把捉しているのであるから、+1は生活においては、仮象ではあるが、存在すると言えよう。だから、 +1に揺らぎが生起するのは、現実的生活を離れたときと言えよう。単独で居るときに、同一性仮象が揺らぎ、差異共鳴現象が生起すると考えられるのである。
 ここから、初期デリダの差延を考えるとどうだろうか。例えば、現在という事象に対して、過去や未来という事象が潜在しているのである。思うに、差延は明快に説明できるだろう。つまり、他者を排除的に否定する同一性主義と排除的に否定された他者との関係が差延であると言えるのではないだろうか。例えば、現在とは、同一性主義の同一性であり、それに対して、他者は過去であり、未来である。つまり、現在と過去ないしは現在と未来との差異共鳴によって、本来、時間が生起しているが、同一性主義だと、過去ないしは未来を排除的に否定しているので、現在と過去ないしは未来とが二項対立になっている。しかるに、本来的には、現在と過去ないしは現在と未来との差異共鳴があるのであり、差異共鳴性の回帰を差延として初期デリダは捉えたのではないだろうか。
 ならば、初期デリダの脱構築主義も、本来的には、差異共振主義である。ただし、初期デリダは、超越性を否定しているので、虚数世界、イデア界に達することができずに、水平的な差異共鳴性の提示に終始したように思えるのである。
 思うに、水平的な差異共鳴性とは、実軸に圧縮された差異共鳴性であり、実軸上のMedia Pointであると考えられるのである。思うに、ハイデガーの本来的存在は、+1ではなく、この実軸に圧縮されたMedia Pointであるように思えるのである。
 思うに、構造主義のゼロ記号も、この実軸に圧縮されたMedia Pointではないだろうか。そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、差異を他者と連続化しているのであり、差異を同一性化して、差異を微分にしているのであり、初期デリダの脱構築主義よりも後退していると言えるのである。なお、後期デリダは、差異の不連続性、即ち、特異性に注視して、純粋な Media Pointに近づいたと考えられる。


V. シャウベルガーの自然理論とプラトニック・シナジー理論:ガウス平面とPS立体
購入したヴィクトル・シャウベルガー(1885〜1958)の自然理論を解説する『自然は脈動する』(アリック・バーソロミュー著)
http://www.kyobunsha.co.jp/shopping
/books/ISBN978-4-531-08164-6.html
の1/4弱読んだが、直感した通り、否、それ以上に、シャウベルガーの自然理論が、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)と共通性をもっていることを察知した。そして、前者の考えを活用して、PS理論が発展できたと考えている。(もっとも、シャウベルガーの理論には、Media Pointの概念はない。この点が相違点である。)以下、今は余裕がないので、簡単に記したい。
 とても、重要な自然理論が説かれていて、簡単には説明できないので、私が思いついたことを述べたい。
 それは、ガウス平面に直交する軸を考えて、三次元空間を考えることである。そして、その垂直軸を天地軸を考えるのである。+iと-iとが引き合うとき(牽引力)は、共鳴して、+1となる。しかし、これは、同時に、天地軸の天へと上昇(浮揚)すると考えるのである。それに対して、+iと-iが反発するとき(斥力)、-1となり、これは、天地軸の地へと下降すると考えるのである。
 そうすると、以上から、上昇らせんと下降らせんが生起すると思われるのである。また、(+i)*(-i)と(-i)*(+i)の順列を考えると、らせんは二本になると考えられる。即ち、二重らせんになると考えられるのである。これが、宇宙・自然の原型となるだろう。
 興味深いのは、シャウベルガーが重力とは対蹠にある浮揚力を考えていることである。これは、樹木などが空へと上昇する力であり、反重力的な力なのである。この点を借用・活用して、天地軸を導入したのである。
 その他、とても明快で、目から鱗であったのは、極性が引き合う力と反発する力をもつと指摘している点である。差異共振性とは、単に、引き合う力だけではなく、対立する力があるのだから、当然、反発する力をもっているのである。この点は、最近、やや不明確になっていたので、助かった。考えてみれば、差異のもつ力とは、他者への接近と同時に、絶対的には一致しないというものである。即非性と表現しているものである。即ち、AはBへの限りなく接近するが、決して、Bにはならないのである。A→Bであるが、A≠Bである。
 もっとも、厳密に考えると、この差異の力と即非性は少し違うようにも思えるのである。差異の力は、限りなく、AはBに近づくが、決して、Bにはならないのである。これを以前、他者への志向性と呼んだ。結局、Aは独立性を保つのである。だから、Aという差異には、垂直性と水平性があるのである。
 この点は、哲学的に微妙なものがあるので、少し考察しよう。Aという差異は、垂直的独立性と水平的共感性がある。後者において、AはBに接近するのである。ほとんど一致するのである。あくまで、Aは単独性・特異性であり、独立した個のままである。しかるに、Bへと接近するのである。
 問題は、Aの独立性である。これは、同一性なのだろうか。否、当然、差異である。ただし、独立性から反発性となるときが、同一性である。つまり、他者であるBに反発し、排除するとき、Aは同一性となるのである。つまり、Aの独立性とは、共感性と一如(いちにょ)なのである。これが、差異である。つまり、差異とは、垂直性と水平性の平行性である。
 ここで、シャウベルガーの自然理論に関係して言うと、Media Pointにおいて、差異は共鳴して、引き合って、⇒+1となり、反発して、⇒-1となるのではないだろうか。これまでは、最初に、⇒+1となり、その後、内的否定により、⇒-1となると考えたのである。もっとも、それ以前には、両者、同時生起すると述べたのではあったが。
 とまれ、Media Pointにおける差異共鳴とは、引き合いが+1となり、反発が-1という両極に展開するということになった。この両者は共立しているということではないだろうか。言い換えると、+1であると同時に、-1であるということであり、又、同時に、+1と-1とは当然、異なるということで、+1と-1は即非関係にあるということではないだろうか。
 そして、+1は差異牽引性=差異であり、-1は差異反発性=同一性ということではないだろうか。つまり、差異と同一性は同時生起ということである。
 では、物質とはどういうことになるだろうか。これまで、同一性-1を物質として考えてきたのであるが、どうなるだろうか。思うに、現象は、±1である。だから、物質というものも、±1ではないだろうか。しかしながら、物質ないしは現象の実質・実体は、差異共振性、即ち、(+i)*(-i)である。言い換えると、イデア共振ないしはイデア共鳴である(超越共振・超越共鳴)。そして、これが、「精神」である。つまり、物質ないし現象の本体とは、「精神」ないしはイデア(イデア共鳴)である。
 このように考えると、ポスト・モダンや構造主義の数理も変えないといけなくなるだろう。構造主義は、+1と-1の対立構造で説明がつくのではないだろうか。そして、ゼロ記号であるが、それは、やはり、両者の和である。それは、連続的原点であり、不正確な原点である。そう、構造点と言ってもいいだろう。
 では、ポスト・モダンであるが、それは、やはり、同一性の-1に対して、差異の+1を対峙させているということではないだろうか。デリダの差延とは、正に、この-1と+1との極性を提示しているのではないだろうか。そして、ドゥルーズは、思うに、-1に対して、+1を積極的に説いているが、しかし、-1 を否定して、+1を積極的に説くことは、逆に(アイロニカルに)同一性になることだと思われるのである。つまり、A→Bにおいて、AをBと一致させることだと思われるのである。つまり、差異一致である。極限値である。limitA→Bである。だから、差異はゼロとなり、微分が形成されると考えられるのである。差異は同一性に転化してしまうのである。
 そして、ハイデガー存在論であるが、先には、+1が本来的存在であり、-1が頽落した現存在であると言ったが、どうだろうか。思うに、それは、正しいのではないだろうか。本来的存在は、他者がなく、自己同一性に閉じているのである。つまり、ドゥルーズの差異と同じ、極限値なのである。A→Bなのである。だから、差異共振性がないのである。
 フッサール現象学は⇒+1ないしは⇒±1であろう。
 ここで、特異性のことを言うと、それは、端的に、Media Pointのことを意味するだろう。キルケゴール、ニーチェがそれを示唆したと言えよう。そして、ウスペンスキー、鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周三が、論理的にこれを捉えていたと考えられるのである。不連続的差異論は、これを、明確・明晰に説いた理論と考えられるのである。
 ここで、近代合理主義・近代的自我について触れると、それは、やはり、-1である。+1を否定・抑圧しているのである。しかしながら、正しくは、-iを否定しているのである。
 思うに、ここで、用語を整理した方がいいだろう。-1は同一性であり、+1は差異であるが、共一性としての差異である。そして、(+i)*(-i)が差異共振性ないしは差異共鳴性である。
 以上のように訂正すると、光と影の二重性はどうなるだろうか。端的に、光はどうなるのだろうか。肉眼で見る光とは一般には、やはり、±1の極性現象であろう。そして、思うに、-1が粒子であり、+1が波動ではないだろうか。電磁波の本体は、端的に、差異共振性ないしは差異共鳴性である。虚数的超越共振性である。換言すると、本体が、虚数超越的差異共振性であり、それが、Media Pointにおいて、実数的極性になっているのである。そして、極性の相補性や長距離相関という点で、Media Pointに接近していると言えよう。
 光と影の問題に返ると、-1が影であり、+1が光であろう。では、宗教的な光はどうなるのだろうか。それは、端的に、差異共振性である。超越エネルギーである。それは、Media Pointを介して、「感知」できるだけである。おそらく、dark sunである(darkは不可視ととる)。
 では、さらに、イシス・オシリス神話を考えるとどうなるだろうか。オシリス=ホルスは+1ではないだろうか。イシスとオシリスは、本来、差異共振性を意味するだろう。そして、セトが-1ではないだろうか。
 こう考えると、多神教と一神教の関係が明快になるように思える。多神教において、±1が生起するのである。そして、一神教は、+1を否定・排除・隠蔽して、-1を唯一神とするのである。エロヒームを+1、ヤハウェを-1とすることができよう。そして、前者を否定したものが、ユダヤ教やキリスト教である。聖書はそうではない。【イスラム教であるが、これまで、差異共振性をタウヒード(一性)としていると考えたが、どうやら、+1をアッラーとしているように思えている。つまり、エロヒームとしてのアッラーとなる。だから、ヤハウェとは、逆となる。アッラーを月と表現するなら、ヤハウェは何だろうか。やはり、太陽ではないだろうか。しかし、太陽は二つあると思う。差異共振性の太陽と、同一性の太陽である。ヤハウェは後者である。そして、前者が太光である。アマテラスは何だろうか。太光だと思う。問題は、差異共振性の太光と同一性の光(影)を同一視してしまうことである。この同一視が例えば、日本の国家神道において起ったと言えよう。私は、この一因は国学にあると考えている。
 思うに、アマテラスとツクヨミを極性として見ることが可能である。そうすると、アマテラスは同一性の太陽になるのである。
 どうも、太陽の表象は混乱を招くものである。本来、差異共振性の太光であるが、それが、現象化において、同一性の太陽に同化されやすいのである。この点は後で再考したい。】
 とまれ、以上から見て、PS理論は奇蹟的である。シャウベルガーの説く自然の精妙なエネルギーは、差異共鳴エネルギー=超越エネルギー=イデア・エネルギーで簡単に説明できると考えられるのである。とまれ、『自然は脈動する』をさらに読んで、検討を続けたい。


2008年05月16日(Fri)▲ページの先頭へ
忍び寄る環境破壊──謎の答えはミツバチに聞け - これもやはり、自然VS人類ではないだろうか。自然が人類を滅ぼそうとしているのではないだろうか。
テーマ:超破局/超世界恐慌/超大洪水時代

これもやはり、自然VS人類ではないだろうか。自然が人類を滅ぼそうとしているのではないだろうか。言い方が擬人的であるが、的確に言えば、イデア界におけるあるサイクルが終焉になり、終末期となり、それで、古いものが消滅するようにセットされているのではないだろうか。そう、黙示録的終末期である。
 イデア界的自然によりプログラムされた、いわば、自然黙示録の時代となり、これまでの西洋文明地球期が終焉し、新たな地球期への「大洪水時代」になったのではないだろうか。後で、精緻に検討したい。
 
p.s. 私が想起しているのは、オカルト主義におけるアトランティス文明の滅亡のことである。すなわち、高度な文明をもっていたが、アトランティス人が利己主義に陥ったために、天変地異によって、アトランティス大陸が沈んだという伝説のことである。
 オカルト主義では、ポスト・アトランティス文明として、今日の文明を考えている。インド期、ペルシャ期、エジプト期、ギリシア・ローマ期、欧州期であり、ポスト欧州期として、第六の文化期を予言している。
 しかし、私は、ポスト欧州期というよりは、ポスト・ポスト・アトランティス文明期を想定しているのである。とまれ、後で検討したい。

参考:
アトランティス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アトランティス (’Ατλαντίς , Atlantis) とは、古代ギリシア の哲学者 プラトン (紀元前427頃–347頃) が著作『ティマイオス 』 (Тίμαιος, "Timaios") 及び『クリティアス 』 (Κριτίας, Kritias)) の中で記述した、大陸 と呼べるほどの大きさを持った島 と、そこに繁栄した王国 のことであり、強大な軍事力 を背景に世界 の覇権 を握ろうとしたものの、ゼウス の怒りに触れて海中に沈められたとされている。

   ・・・・・・
『ティマイオス』

『ティマイオス』の冒頭でソクラテスが前日にソクラテスの家で開催した饗宴 で語ったという 理想国家論が要約されるが、その内容はプラトンの国家 とほぼ対応している。そして、そのような理想国家がかつてアテナイに存在し、その敵対国家としてアトランティスの伝説 が語られる。

アマシス2世 (Amasis ; アアフメス2世, 紀元前600頃–526年)が即位した後の紀元前570–560年頃、ソロンは賢者 としてエジプトのサイスの神殿 に招かれた。そこでソロンは、デウカリオン の洪水伝説 で始まる人類 の歴史 の知識を披露する。

「すると神官たちの中より非常に年老いた者が言われた「おおソロンよ、ソロン。ヘレネス (ギリシア人) は常に子供だ。ヘレン (ギリシア) には老人 (賢者) がいない。」」(Pl.Tim.22b)

神官は、ギリシア では度重なる災害によってせっかくある程度発達した文明が何度も消滅し、歴史の記録が何度も失われてしまったが、ナイル 河によって守られているエジプトではそれよりも古い記録が完全に残っており、デウカリオン以前にも大洪水が何度も起こったことを指摘する。また、女神アテナ と同一視される女神ネイト (Neith )が神官達の国家体制を建設してまだ8,000年しか時間が経っていないが、[5] アテナイの町はそれよりさらに1,000年古い9,000年前 (即ち紀元前9,560年頃) に成立しており、女神アテナのもたらした法 の下で複数の階層社会 を形成し、支配層に優れた戦士階級が形成されていたことを告げる。

その頃ヘラクレスの柱 (ジブラルタル海峡 ) の入り口の手前の外洋であるアトラスの海 (’Ατλαντικός πελαγος, 大西洋 )にリビア とアジア を合わせたよりも広い、アトランティスという1個の巨大な島が存在し、大洋を取り巻く彼方の大陸との往来も、彼方の大陸とアトランティス島との間に存在するその他の島々を介して可能であった。アトランティス島に成立した恐るべき国家は、ヘラクレスの境界内 (地中海 世界) を侵略し、エジプトよりも西のリビア全域と、テュレニア に至るまでのヨーロッパ を支配した。その中でギリシア人 の諸都市国家 はアテナイを総指揮として団結してアトランティスと戦い、既にアトランティスに支配された地域を開放し、エジプトを含めた諸国をアトランティスの脅威から未然に防いだ。

「しかしやがて異常な地震と大洪水が起こり、過酷な一昼夜が訪れ、あなた方 (=アテナイ勢) の戦士全員が大地に呑み込まれ、アトランティス島も同様にして海に呑み込まれて消えてしまった。それ故その場所の海は、島が沈んだ際にできた浅い泥によって妨げられ、今なお航海も探索もできなくなっている。」(Pl.Tim.25c–d)

ここでクリティアスは太古のアテナイとアトランティスの物語の簡単な紹介を終え、以降ティマイオスによる宇宙論へ対談の話題が移る。

[編集 ] 『クリティアス』

作品の冒頭の記述から、この作品は先の『ティマイオス』の対談と同じ日に行われた続編にあたる対談であることが示唆されている。ティマイオスにおける宇宙論に引き続き、今度はクリティアスがアテナイとアトランティスの物語を披露する。

アトランティスと戦った時代のアテナイ

9,000年以上前、ヘラクレスの柱の彼方に住む人々とこちらに住む人々の間で戦争が行われた時、それぞれアテナイとアトランティスが軍勢を指揮した。当時のアテナイ市民 は私有財産を持たず、多くの階層に分かれてそれぞれの本分を果たしていた。また、当時のアテナイは現在よりも肥沃であり、約2万人の壮年男女からなる強大な軍勢を養うことが出来たし、アテナイのアクロポリス も遥かに広い台地であったが、デウカリオンの災害から逆算して三つ目に当たる彼の大洪水 により多くの森が失われ、泉が枯れ、今日のような荒涼とした姿になってしまった。エジプトの神官は当時のアテナイの王の名前として、ケクロプス (Κέκρωψ, Kekrops )、エレクテウス (’Ερεχθεύς, Erechtheus )、エリクトニオス (’Εριχθόνιος, Erichthonios )、エリュシクトン (’Eρυσίχθων, Erysichthon )などを挙げたとソロンは証言している。

アトランティスの建国神話

アトランティス島の南の海岸線から50 スタディオン (約 9.25 km)の位置に小高い山があり、そこで大地から生まれた原住民エウエノル (Ε’υήνωρ, Euenor ) が妻レウキッペ (Λευκίππη, Leukippe )の間にクレイト (Κλειτώ, Kleito) という娘を生んだ。アトランティスの支配権を得た海神ポセイドン はクレイトと結ばれ、5組の双子の合計10人の子供が生まれた。即ち『アトラスの海』 (大西洋) の語源となった初代のアトランティス王 アトラス、スペイン のガデイラ に面する地域の支配権を与えられたエウメロス (Ε’ύμηλος, Eumelos) ことガデイロス (Γάδειρος, Gadeiros)、アンペレス (’Αμφήρης, Ampheres)、エウアイモン (Ε’υαίμον, Euaimon)、ムネセウス (Μνησεύς, Mneseus)、アウトクトン (Α’υτόχθον, Autochthon)、エラシッポス (’Ελάσιππος, Elasippos)、メストル (Μήστωρ, Mestor)、アザエス (’Αξάης, Azaes)、ディアプレペス (Διαπρεπής, Diaprepes) で、ポセイドンによって分割された島の10の地域を支配する10の王家の先祖となり、何代にも渡り長子相続により王権が維持された。ポセイドンは人間から隔離するために、クレイトの住む小高い山を取り囲む三重の堀を造ったが、やがてこの地をアクロポリスとするアトランティスの都、メトロポリス (μητρόπολις, metropolis)が人間の手で形作られていった。

アトランティスの都


アクロポリスのあった中央の島は直径5 スタディオン (約925 m)で、その外側を幅1 スタディオン (約185 m)の環状海水路が取り囲み、その外側をそれぞれ幅2 スタディオン (約 370 m) の内側の環状島と第2の環状海水路、それぞれ幅3 スタディオン (約555 m)の外側の環状島と第3の環状海水路が取り囲んでいた。一番外側の海水路と外海は、幅3 プレトロン (約92.5 m)、深さ100 プース (約30.8 m)、長さ50 スタディオン (約 9.25 km)[6] の運河で結ばれており、どんな大きさの船も泊まれる3つの港が外側の環状海水路に面した外側の陸地に設けられた。3つの環状水路には幅1 プレトロン (約30.8 m) の橋が架けられ、それぞれの橋の下を出入り口とする、三段櫂船 が一艘航行できるほどのトンネル 状の水路によって互いに連結していた。環状水路や運河はすべて石塀で取り囲まれ、各連絡橋の両側、即ちトンネル状の水路の出入り口には櫓と門が建てられた。これらの石の塀は様々な石材で飾られ、中央の島、内側の環状島、外側の環状島の石塀は、それぞれオレイカルコス(オリハルコン )、錫 、銅 の板で飾られた。内外の環状水路には石を切り出した跡の岩石を天井とする二つのドック が作られ、三段櫂の軍船が満ちていた。

中央島のアクロポリスには王宮が置かれていた。王宮の中央には王家の始祖10人が生まれた場所とされる、クレイトとポセイドン両神を祀る神殿があり、黄金の柵で囲まれていた。これとは別に縦1 スタディオン (約185 m)、横3 プレトロン (約92.5 m) の大きさの異国風の神殿があり、ポセイドンに捧げられていた。ポセイドンの神殿は金 、銀 、オレイカルコス、象牙 で飾られ、中央には6頭の空飛ぶ馬 に引かせた戦車 にまたがったポセイドンの黄金神像 が安置され、その周りにはイルカ に跨った100体のネレイデス 像や、奉納された神像が配置されていた。更に10の王家の歴代の王と王妃の黄金像、海外諸国などから奉納された巨大な神像が神殿の外側を囲んでいた。神殿の横には10人の王の相互関係を定めたポセイドンの戒律 を刻んだオレイカルコスの柱が安置され、牡牛 が放牧されていた。5年または6年毎に10人の王はポセイドンの神殿に集まって会合を開き、オレイカルコスの柱の前で祭事 を執り行った。即ち10人の王達の手によって捕えられた生贄の牡牛の血で柱の文字を染め、生贄を火に投じ、クラテル (葡萄酒 を薄めるための甕) に満たした血の混じった酒を黄金の盃を用いて火に注ぎながら誓願を行ったのち、血酒を飲み、盃をポセイドンに献じ、その後礼服に着替えて生贄の灰の横で夜を過ごしながら裁きを行い、翌朝判決事項を黄金の板に記し、礼服を奉納するというものである。

また、アクロポリスにはポセイドンが涌かせた冷泉と温泉があり、その泉から出た水をもとに『ポセイドンの果樹園 』とよばれる庭園 、屋外プール や屋内浴場 が作られたほか、橋沿いに設けられた水道を通して内側と外側の環状島へ水が供給され、これらの内外の環状島にも神殿、庭園や運動場 が作られた。さらに外側の環状島には島をぐるりと一回りする幅1スタディオン (約185 m) の戦車競技場が設けられ、その両側に護衛兵の住居 が建てられた。より身分の高い護衛兵の居住は内側の環状島におかれ、王の親衛隊は中央島の王宮周辺に住むことを許された。内側の3つの島々に王族や神官、軍人などが暮らしていたのに対し、港が設けられた外側の陸地には一般市民の暮らす住宅地が密集していた。更にこれらの市街地の外側を半径50 スタディオン (約9.25 km) の環状城壁が取り囲み、島の海岸線と内接円をなしていた。港と市街地は世界各地からやって来た船舶と商人で満ち溢れ、昼夜を問わず賑わっていた。

島の大平原と軍制

アトランティス島は生活に必要な諸物資のほとんどを産する豊かな島で、オレイカルコスなどの地下鉱物 資源、象 などの野生動物 や家畜 、家畜の餌や木材となる草木、 ハーブ などの香料 植物、葡萄 、穀物 、野菜 、果実 など、様々な自然の恵みの恩恵を受けていた。

島の南側の中央には一辺が3,000 スタディオン (約555 km)、中央において海側からの幅が2,000 スタディオン (約370 km) の広大な長方形の大平原 が広がり、その外側を海面から聳える高い山々が取り囲んでいた。山地には原住民の村が沢山あり、樹木や放牧に適した草原が豊かにあった。この広大な平原と周辺の山地を支配したのはアトラス王の血統の王国で、平原を土木 工事により長方形に整形した。平原は深さ1 プレトロン (約31 m)、幅1 スタディオン (約185 m) の総長10,000 スタディオン (約1,850 km) の大運河に取り囲まれ、山地から流れる谷川がこの大運河に流れ込むが、この水は東西からポリス に集まり、そこから海へ注いだ。[7] 大運河の中の平原は100 スタディオン (約18.5 km) の間隔で南北に100 プース (約31 m) の幅の運河が引かれていたが、更に碁盤目状に横断水路も掘られていた。運河のおかげで年に二度の収穫を上げたほか、これらの運河を材木や季節の産物の輸送に使った。

平原は10 スタディオン平方 (約3.42 km2)を単位とする6万の地区に分割され、平原全体で1万台の戦車と戦車用の馬12万頭と騎手12万人、戦車の無い馬12万頭とそれに騎乗する兵士6万人と御者6万人、重装歩兵12万人、弓兵12万人、投石兵12万人、軽装歩兵 18万人、投槍兵18万人、1,200艘の軍船のための24万人の水夫が招集できるように定められた。山岳部もまたそれぞれの地区に分割され、軍役を負った。他の9つの王国ではこれとは異なる軍備体制が敷かれた。

アトランティスの堕落

アトランティスの支配者達は、原住民との交配を繰り返す内に神性が薄まり、堕落してしまった。それを目にしたゼウスは天罰を下そうと考えた。

「 (ゼウスは) 総ての神々を、自分達が最も尊敬する住まい、即ち全宇宙の中心に位置し、生成に関わる総てのものを見下ろす所 (= オリュンポス山 ) に召集し、集まるとこう仰った。」(Pl.Criti.121c)

ここで『クリティアス』の文章は途切れる。


*****************

コウモリよりもさらに気がかりなのはミツバチの大量死だ。

ミツバチは、ただせっせと蜜を集めるだけではない。リンゴ・大豆・きゅう
り・桃・サクランボなど、人間が食べる植物の8割は、その授粉をミツバチ
に頼っている。ところが昨年、米国の27州にわたって「4分の1のミツバ
チ群体が消滅した」と養蜂家は嘆いている。同様の大量死は、ブラジル、カ
ナダ、そして欧州の一部でも起きているという。

「もし何らかの理由でミツバチが絶滅したら、人類はわずか4年しか生きら
れないだろう」・・・この警告はアインシュタインが発したと伝えられてい
る。米農務省のマイク・ヨハン長官は声明を発表して、「このままでは、ミ
ツバチに授粉を負っている作物がまったく収穫できなくなる。状況はきわめ
て厳しい」と述べた。

5月16日 速報764号 忍び寄る環境破壊──謎の答えはミツバチに聞け - tup_bulletin
プレーリードッグが消えた?
http://groups.yahoo.co.jp/group
/TUP-Bulletin/message/790


検討問題:「わたし」とは何か:イデアと魂と自我
自我とは同一性であり、物質と等価的である。自我は「わたし」である。しかし、「わたし」とは何か。これが不思議であり、難しい。般若心経的に言えば、「わたし」即是空、空即是「わたし」であろう。
 しかし、自我と自己は異なる。「わたし」は自我でもあるし、自己でもありうる。今の考えを言えば、自我としての「わたし」とは、自己としとしての「わたし」の仮象部である。仮象としての「わたし」があるだろう。英語で言えば、Iである。思うに、これは、数理的には、-1である。自己は+1である。しかし、正確には、自己認識方程式である。
 死ねば、当然、-1と+1はなくなる。何故なら、それらは現象数理であるからである。残るのは、+iと-iである。問題は、Media Pointである。それは、どうなるのか。先の思いつきでは、そこは、イデア・アーカイブ、あるいは、イデア・データベースである。Media Pointとは、実に不思議な領域である。
 魂があるとするなら、それが魂である。そして、それは、イデア共振から形成されていることになる。言い換えると、Media Point化されたイデアが魂ということになる。直感で言うと、Media Pointの記録・情報をもっているイデアが魂である。ちょうど、CDやDVDを想定するといいだろう。言わば、MPである。
 思うに、Media Pointは多様である。この多様性の一つの様相が魂ではないだろうか。だから、一即多がここで成立しているのではないだろうか。魂は多数であるが、同時に、一つ・唯一である。
 言い換えれば、イデアは一つ・唯一であるが、魂・精神は多数である。ここに、一元即多元論が成立しているだろう。
 一神教は、この一元性が説いて、多元性を否定していると言えよう。とまれ、Media Pointは、一神教と多神教との一致を意味するのである。もっとも、一と言っても、原三元性があるのである。


2008年05月15日(Thu)▲ページの先頭へ
-1の同一性と物質について:現象とは何か:差異と同一性の二重現象としての鏡像現象:Ver2
先に「検討問題:同一性=物質化とは何か」
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10096465458.html
で、同一性=物質について試行錯誤したが、まだまだ不十分であるので、ここでさらに試論したい。
 端的に言えば、まだ、同一性に関して、クリアな像が形成されていないのである。問題は、光とは何か、でもある。また、否定による-1の意味するものも再考されなくてはならない。
 先ず、具体的に考えて、今日はまだ、気温が低めではあるが、ここ数日の異常低温は脱して、五月らしい好天である。風はまだ冷たいが、爽やかな日である。さて、この目にする光とは何なのだろうか。
 これまでの考察から見ると、それは、-1である。物質としての光である。しかしながら、これは、本来、+1の超光である。ここで、また、用語の問題が生じる。超光は、イデア光に使用したい。だから、+1は原光としたい。すると、-1が光であり、+1が原光である。
 問題は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺⇒右辺のもつ発生力学である。これを無視して、単に+1や-1を考えると、虚軸性(虚数的超越性)が喪失されて、不正確な思考になると考えられる。
 +1の光とは、(+i)*(-i)⇒+1において存する光であり、単に、右辺だけで存する光ではないのである。つまり、光、この場合は、原光とは、左辺の結果生起するのであり、左辺を無くす場合は、原光ではなくなると考えられる。この点をどう見るのか、である。
 ここで、先にハイデガーの本来的存在について言及したが、それは、+1であり、差異共振性がないと言った。つまり、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺が欠落した右辺であるということである。その暗さはそれで説明できると考えられるのである。
 では、+1が、いわば、暗い原光ならば、-1の光との関係はどうなるのだろうか。問題が錯綜してきている。また、エネルギーとは何なのか、ということも関係する。アインシュタインのエネルギー公式は、先に述べたところでは、+1のエネルギーであり、超越性を欠いているのであるから、PS理論的量子論を基盤とすることで十全なものとなるということであった。いわば、それによって、超越エネルギー公式になるのである。即ち、

Trans-Energy(超越エネルギー)=m(+ic)*(-ic)⇒mc^2

である。つまり、この右辺が+1である。だから、単純に見れば、-1とは、-mc^2である。そして、これが物質エネルギーとなる。もしそうならば、どう考えたらいいのだろうか。
 単純に見れば、両者は正に鏡像である。現象の鏡像性、二重性である。おそらく、これを現象の一般的様相として確認していいのではないだろうか。つまり、現象の普遍的様相と見るのである。簡単に言えば、差異と同一性の鏡像・二重性の様相としての現象である。(この視点は、具体的な心的様相を提示していると考えられるので、とても明快・明瞭である。)
 ここでは、同一性と差異が、いわば、綱引きをしているのである。(これを極性と見ていいのだろうか。)私見では、ルネサンスとは、差異が賦活されて、同一性への展開が生まれたのであり、(参照:遠近法の発達)、この綱引きがダイナミックになったのである。即ち、差異においては、Media Point と関係して、イデア界と結び、同一性においては、物質的現象が進展したのである(前者はネオプラトニズムとなり、後者は商業の発達を見ることができるだろう)。
 この綱引きは連続性と言っていいだろう。同一性と差異が連続化されているのである。ここで、数理で言うと、これまでは、-1と+1とのゼロ度における連続性と考えたが、それでは不正確である。何故なら、Media Point を介して、超越性が参入しているからである。だから、差異とは、(+i)*(-i)⇒+1を、同一性は、その否定で、-[(+i)*(-i)]⇒-1とするのが的確である。簡略して、差異は⇒+1、同一性は⇒-1と表記したい。言い換えると、差異も同一性も、Media Point を介しているということである。これが、最高度に重要なポイントである。
 以上の視点から、本テーマの一つである光の問題に返ると、Media Point から発出する光とは、結局、一つの光であり、それが、現象においては、鏡像=二重化されると考えられるということである。
 つまり、⇒+1の光を同時に、肉眼では、⇒-1の影として見るということである。光でありながら、影なのである。【これは、正に、プラトンの洞窟の比喩である。】言い換えると、光と影の鏡像・二重様相を、現象において見るということになる。
 文化史的に言うと、西洋においては、ルネサンスまでは、光が虚軸性=イデア界に通じていることを直覚していたと思われる。もっとも、それは、キリスト教によって覆われていたのであるが。しかるに、近代合理主義化が誕生すると、光が影=同一性によって規定されることになったと考えられるのである。本来、⇒ +1であった光が、⇒-1の影の同一性によって、計測されるようになったのである。中世では、光に対しては信仰を、影に対しては理性を当てていたのであり(トマス・アクィナス)、知性とは本来、前者の直観を指していたのであるが、近代化にともない、影=同一性の主導下で、光の超越性が喪失されて、同一性の理性と、知性とが混同されるようになったと言えよう。そして、喪失された光は、抑圧されて、無意識になったと考えられるのである。この無意識の光=差異が、近代のもう一つの原動力であり、同一性の支配下ではあるが、民主主義や自由主義等を生み出したのである。
 さて、迂回したが、ここで、本稿の中心的主題の同一性と物質の問題に戻ると、同一性と物質の数理が-1であり、それは、自然の表面を捉えたものと考えられる。しかし、同一性と物質を等価にしていいのだろうか、という疑問が浮かぶ。端的に言えば、自然一般において、人間の認識におけるように、差異に対する否定性が存するのだろうか、ということになる。マイナスが存するのか、である。ここで、超越エネルギー公式を変形して考えよう。

Trans-Energy=
(+i√m)*(-i√m)*(+ic)*(-ic)⇒mc^2

が存するとしよう。+i√mと-i√mは、いわば、原物質ないしは超越物質ではないだろうか。否、超質量、超越質量と言えよう。Media Point でこの超越質量が対峙し共振(対振と造語できよう)して、それが質量へと変換する。思うに、この超越エネルギー公式であるが、これは、実は、光であると同時に、鏡像も意味するのではないのか、ということである。端的に言えば、(+i)*(-i)⇒+1⇒-1ということではないのか、である。+1⇒-1の力学は何だろうか。これは難問である。
 物質的に言えば、物質を否定する力があるということではないのか。否、問題提起の仕方がおかしい。物資ではなく、現象の問題である。現象において、どうして物質が発生するのか、と問うべきであろう。つまり、Media Point において、エネルギー現象が発現するが、同時に、物質現象が生起すると考えられるが、後者の力学は何か、ということになろう。
 これまでの考え方に拠れば、物質化とは、エネルギー現象における内的否定によって発生すると考えられる。換言すれば、差異共振性の否定である。この力学の発生はどう説明できるのか。人間の認識に関しては、これまで、身体の先天的脆弱性や精神の過剰性等で説明できたが、一般には、どう説明できるのか。
 ここで、作業仮説であるが、人間の場合は、-iが脆弱であるために、それを否定して、(+i)*-(-i)⇒-1になると言った。しかしながら、鉱物のような物質の場合は、逆に、+iが脆弱ないしは希薄であるために、-(+i)*(-i)⇒-1になるのではないだろうか。そして、この-1が物質的同一性ではないだろうか。人間の場合は、自己同一性ないしは自我性である。
 とまれ、この作業仮説に則れば、同一性とは、-1であり、自我形式ないしは物質形式であると言えよう。だから、同一性=物質と考えたのは、間違いではないし、また、同一性=自我と考えるのも間違っていないことになる。極性は逆であるが、自我と物質は同一性において等価ということになる。
 ということで、以上の検討を整理すれば、現象とは、エネルギー現象=差異現象と物質/自我現象=同一性現象があるということになる。言い換えると