INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/04

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年04月06日(Sun)▲ページの先頭へ
性格と精神感覚現象について:性格が相貌に発現するのは、どう説明できるか
http://ameblo.jp/renshi/entry-10086015761.html
で、性格と精神現象との関係について論考したが、不十分なので、ここで再検討したい。
 問題は、性格という精神性がどうやって相貌において感覚現象化するのかということである。つまり、端的に言えば、精神が視覚・可視化されるのは、どういう力学なのかということである。
 この問題は一見、超越的光が視覚されることに似ている。通常、現象光を視覚する。しかし、特異な時空間においては、現象光は超越光ともなるのである。これは、Media Pointが開かれる時空間と考えられる。Media Pointが開かれると、単に現象光があるだけでなく、超越光が直接放出されると考えることができるのである。つまり、現象光と超越光が重なるのである。
 しかし、本来、不可視の超越光がどうして、可視化されるのだろうか。思うに、精神的視覚を仮説することが必要なのかもしれない。あるいは、超越的視覚である。いわば、第六感覚である。それを仮定すれば、問題はなくなるのである。
 この視点から、性格の視覚化の問題を見ると、同様に、問題はなくなるだろう。即ち、精神的視覚によって、性格の相貌を見ていることになる。
 しかし、それでいいのだろうか。超越光の場合は、精神的視覚を考えていいように思うが、性格の相貌化の問題に関しては、違うのではないかと思われるのである。なぜなら、Media Pointにおいてではなくて、性格が直接可視化されると考えられるからである。
 問題は、性格が差異ならば、それが視覚化されるとは、どういうことなのかである。それは、同一性化なのだろうか。それは違うだろう。問題は、魂が同一性化によって視覚化=相貌化するときには、単に、同一性化だけではなくて、差異共振性をベースにした同一性化が本来的であると思われるのである。源泉の差異共振性があって同一性化するときには、相貌は善なる性格を反映したものになると思われるのである。
 しかるに、ベースの差異共振性が抑圧されて、同一性化するとき、つまり、同一性主義化するとき、相貌になんらか歪みが現われると思われるのである。
 思考実験的に考えると、魂の波動の問題があると考えられる。同一性化とは、いわば、粒子化である。しかるに、魂の波動は波動として、同一性化された粒子においても存していると考えられるのである。つまり、超越エネルギー(「電磁波」)は、粒子的には、同一性化して、物質化するが、同時に、波動は波動として同一性化すると思われるのである。つまり、エネルギーの二重の様相があると思われるのである。粒子化と波動化である。そして、性格の相貌化については、魂の波動の形態が性格相貌になるのではないだろうか。言い換えると、精神波動形態が性格相貌ということである。
 さらに言い換えると、精神波動の場合は、物質現象化されないということではないだろうか。精神波動は波動として、発現するということではないだろうか。今の段階ではそのように作業仮説しておこう。
 ところで、魂の物質化と波動化の二様を想定することになると、これは、超越光の場合にもあてはまることになるのではないだろうかと思われてくるのである。
 電磁波は端的に、粒子であり、波動でもある。そして、粒子が現象光を形成し、波動が超越光を反映するということにならないだろうか。そうならば、Media Pointを想定する必要がなくなるのである。
 しかしながら、波動感覚ないしは波動知覚があるなら、それは、Media Pointを介して、感覚知覚するということではないだろうか。例えば、性格相貌の場合、主体の開いたMedia Pointの感性として、他者の性格相貌を知覚するのではないのか。そして、陽光の場合も、同様に、主体の開いたMedia Pointの感性において、超越光を視覚するのではないのか。これまで、超越光に関しては、特異な時空間において、Media Pointが開いて、視覚すると考えてきたのである。それは客観的な事象であり、主体性・主観性ではないのである。
 そうすると、齟齬が生じている。思うに、超越光の場合、Media Pointの開きは、外界の場合、内界の場合、そして、両者の場合の三様があるのではないだろうか。そして、性格相貌ではあるが、この場合は、主体の Media Pointが中心であると思う。とりあえず、このように考えておく。
 簡単にまとめると、性格相貌とは、魂の波動形態であり、同一性化ではないということである。


感覚現象と精神現象の関係:心と感覚身体の連続的同一性と即非性:ロゴス中心主義とルサンチマン
先に、性格が相貌に現われるということをいい、理論化しようとしたが、不明瞭であったので、ここで再検討したい。
 問題は、精神現象と感覚現象が即非態であることの意味を明快にすることである。
 もう一度、性格が相貌に現われるという現象、いわば、感覚精神現象を出発点にして考察しよう。性格的相貌ということであるが、それは、顔貌という感覚現象において、性格という精神ないし心的要素が現われるということである。単に、目鼻立ち云々ではなくて、顔全体において、ある相貌があるということである。これは常識的な事柄である。
 これは、表面であると同時に、深部を意味する。そう、サインやシンボルと言ってもいいだろう。私見では、心や魂という内部の力学が表面に現われているのである。つまり、心や魂がある感覚的な力ないしは身体的な力を起して、顔の表面に影響しているのである。
 そう、表情というものとつながる面があるだろう。広義の情を考えると、性格的相貌とは、正に、表情である。
 とまれ、心的力学が身体へと転換して、相貌を形成するということである。心と感覚身体との繋がりである。あるいは、精神と感覚身体とのつながりである。あるいは、魂と感覚身体(顔)とのつながりである。
 これは、プラトニック・シナジー理論から明快に説明できる。即ち、Media Pointの魂が、同一性志向性をもち、同一性感覚身体を構成・構造化すると考えられる。この同一性志向性とは連続性であり、魂と感覚身体は連続化するので、魂と感覚身体(顔)が繋がるのである。魂を精神とすれば、精神と感覚身体の繋がりである。
 結局、魂=精神のもつ連続的同一性志向性が、魂=精神と感覚身体とを結びつけているのである。【所謂、心身論であるが、心と物質的身体とのつながりは、この視点から説明できよう。すなわち、物質性は、同一性を介して、心(魂=精神)に影響を与えるのであり、また、逆も同様である。この同一性は微妙である。これについては、後で考察したい。】これで、性格が相貌に現われることの解明ができたと考えられる。
 ここで、精神と感覚との即非態のことを考えると、それこそ、真相・真実であると考えられる。即ち、連続的同一性によって、心=魂=精神と物質感覚身体とが繋がる(連続化する)。それは、「即」の側面である。心・即・身体である。しかしながら、プラトニック・シナジー理論から見ると、連続的同一性とは半面に過ぎず、実際は、心=魂=精神と物質感覚身体とは不連続性をもっているのである。連続性であり、且つ、不連続性であるということである。これで、本テーマの解明を終えたこととしたい。

 さて、上記で残しておいた、魂と物質を仲介する同一性について、ここで検討したい。この問題は、心(魂=精神)と物質との関係の本質を問う問題であり、実に興味深い。
 問題は、同一性、乃至は、連続的同一性とは何か、である。心=魂=精神がMedia Pointから発生させる同一性であるが、それは、Media Pointにおいては、構造と言えるだろう。即ち、同一性構造である。
 しかし、これは、あくまで、心的構成であり、物質ではないと考えられる。では、この同一性構造=心的構成と物質はどう関係するのか、ということになる。
 思うに、同一性志向性とは、感覚物質(感覚器官)を形成するのではないだろうか。だから、同一性構造とは物質構造であり、ほぼカントの超越論的形式に相当するのではないだろうか。
 とまれ、端的に、同一性とは物質ないしは感覚器官のことであるということになる。だから、魂=精神は、連続的同一性志向性(構造性)によって、物質的感覚器官になるということになる。そして、同一性構造がMedia Pointにおいて、存しているのであり、それは、超越論的形式と考えることができそうである。簡潔に言えば、同一性=物質=感覚器官である。
 だから、端的に言えば、物質とは、心=魂=精神の顕現なのである。正に、イデア論である。しかしながら、物質現象は、根源の差異を抑圧否定しているのである。つまり、差異共振的心・魂・精神を抑圧しているのである。
 この問題は、多神教的魂から一神教的魂への変換にも関係することで、実に重要な問題である。思うに、多神教的魂においては、同一性は差異に包摂されていて、いわば、未分化である。しかしながら、一神教的魂は、差異を否定した、ルサンチマン的同一性である。これは、自我主義の発達と関係するのである。
 連続的同一性による物質化は、最初は、未分化的である。しかし、自我の発達においては、同一性の中心化が起り、差異を抑圧否定するのである。この同一性中心化の意味を考察しよう。
 これは、端的に、差異共振化の排除である。自我中心化・自己同一性中心化(ロゴス中心主義)である。そして、ここには、ルサンチマン(原ルサンチマン)が駆動していると考えられる。この力学を考察しよう。
 この問題も難問の一つであり、また、情の問題から見ても、重要なポイントである。端的に、何故、差異を排除するのか、である。連続的同一性志向性においては、最初は、差異を排除するというよりは、差異をおいて、同一性形成を行うというものであり、差異は否定されていない。しかし、同一性中心化においては、それは否定され排除される。
 この問題はいわば超執拗に検討してきた問題である。これまでの答えは、父権的な同一性傾斜が原因となり、差異を否定する同一性中心化が行なわれたというものである。これはこれで、実に明快であり、単純である。
 しかしながら、今は、より精神現象的に考察したいのである。ここで、情の問題で考察したい。最初の連続的同一性においては、多種多様な同一性が形成されるが、根源の多様多元的な差異は残っている。ここでは、ギリシア神話を考えるといいだろう。多様なものが混淆しているのである。それは、差異の情報性(波動・振動)で説明がつくのはないだろうか。あるいは、回転速度かもしれない。
 では、この多様多元的な差異や同一性を否定する同一性中心主義の意味は何か。これは端的に、統一性志向性ではないだろうか。では、この統一性志向性はどこから発するのだろうか。思うに、これは、完全なショート(短絡)ではないだろうか。最初の連続的同一性は、根源の差異を残していたが、統一性志向性は、差異=同一性というショートの状態を志向しているのではないのか。
 ここで思考実験すると、最初の連続的同一性状態においては、差異と同一性が未分化的に併存している。そして、魂は、差異と同一性に間をいわば揺らいでいるのではないだろうか。ある意味で中途半端である。そして、同一性/差異の魂は、現象界における苦・悲哀を経験するのである。「わたし」(自我)は、未分化的であるが、それは、同一性において存すると言えよう。
 先に述べたが、差異共振性は、歓喜であり、そこにおいては、ルサンチマンはありえない。しかしながら、連続的同一性化において、差異と同一性が並存するが、そのとき、現象界において、魂は、苦・悲哀を感受するのである。苦・悲哀とは、差異である。それに対して、同一性(自我)は、怨むのである。そう、これが原ルサンチマンではないだろうか。現象界における差異が受苦するが、それに対して、同一性(自我)は怨恨を覚えるのである。ここがポイントである。
 この怨恨(ルサンチマン)が憎悪の反動力を生むのではないだろうか。つまり、同一性のもつ反動力としての同一性中心化(自我中心化)が発生するのではないだろうか。つまり、反動的同一性力が、同一性中心化、統一性志向性の原動力ではないだろうか。
 ということで、同一性化における怨恨の発生から反動的に同一性中心化が生起すると考えられるのである。この同一性中心主義(ロゴス中心主義)=一神教が生起するには、ルサンチマンが契機となっていると考えられる。この真因であるが、それは、やはり、男性的な同一性傾斜と同時に、言語を絶した激烈酷烈苛烈な苦・悲哀の体験ではないだろうか。砂漠の父権的遊牧民が一神教を生んだのは、それで説明がつくのではないだろうか。砂漠における生存競争の酷さがあると考えられるのであり、そこでは、怨恨が過剰に強化されて、統一性志向性が発生すると考えられるのである。そう、酷い民族闘争があったと考えられるのである。そういう修羅場から怨恨が発生して、統一性志向性(同一性中心主義、ロゴス中心主義)が生まれたと推察できるのである。
 ショートであるから、統一性志向性は、Media Pointを同一性化して、超越神に化すと考えられるのである。


2008年04月05日(Sat)▲ページの先頭へ
同一性主義(同一性中心主義)と視覚の関係について:感覚物質現象と精神現象の即非性再考
この問題は、既述済みであるが、以前とは考えが少し違ってきているので、ここで論考したい。
 先に、私は、精神的視覚と感覚的視覚が即非の様態にあると結論した。例えば、陽光を見るとき、それは、感覚的視覚で見ると同時に、精神的視覚で見ると言ったのである。この考えは、基本的には今でも変わらないが、今は、感覚的視覚と精神的視覚の区別を明確にしたいと思っている。即非的様態を説くと、両者の質的区別が不明確になると考えられるのである。
 簡単な例をあげれば、女性の化粧である。それは、端的に、感覚的視覚における美化であり、精神的視覚は本来関与していない【p.s. 以下の考察から、化粧にもそれなりの精神性、生命精神性があると思われる】。
 そう、ここで、精神的視覚について少し言及した方がいいだろう。私が今思っているのは、心的、魂的、性格的相貌である。これは、感覚的相貌、つまり、容貌・容姿とは関係ないのである。ある意味で「気」的相貌と言ってもいいだろう。
 この精神的視覚であるが、私ははっきりと直観できるのであるが、一般には知覚できないのかもしれない。例えば、ある人物の履歴書の顔写真を見るとき、私には、相貌に胡散臭さを感じた。なにかペテン師的だと思った。その後、その人物をよく知ることになったが、直観は正しく、猫かぶりであり、傲慢な人物であったのである。
 私には、精神的視覚が明瞭に知覚できるのであるが、これは、どうも異能になるようである。とまれ、精神的視覚は、私だけの特殊なものではなくて、心眼をもつ人なら、もっているものと考えられる。
 そう仮定して、精神的視覚を考えてみると、それは、精神を視覚していることになる。極言すれば、一種の霊視である。あるいは、透視である。とは言え、霊・スピリットが見えるわけではない。
 端的に言えば、人物の性格が相貌に現われているということになる。これは、力学的はどういうことなのか。それは、感覚的視覚像において、性格的相貌が現われているということである。つまり、性格的相貌・顔貌力学があり、そのエネルギーが、感覚的視覚像に刻印されているということになる。簡単に言えば、性格的波動が現象化しているということになろう。
 以上のように、精神的視覚を考えると、冒頭にあげた、感覚的視覚と精神的視覚の区別がすこし怪しくなるのである。問題は精神性(性格性、心性、魂性、霊性)が、感覚現象領域に発現することである。これをどう把捉するのかである。
 つまり、端的に言えば、現象とは、単に感覚・物質現象だけではなく、精神現象でもあるということだろう。(ここで、唯物論や近代合理主義は崩壊する。)しかしながら、感覚性と精神性は即非様態である。
 本稿をまとめると、現象とは、感覚物質現象があり、また精神現象がある。両者は質的に異なるのである。しかしながら、精神は感覚物質界に発現するのである。すなわち、感覚物質現象・即非・精神現象なのである。
 そして、認識上の問題は、感覚美と精神美の認識にあるだろう。感覚美は、快楽・快感の強度が強いので、精神的審美眼(心眼)が麻痺させられると考えられるのである。
 端的に言えば、感覚美とは何かである。例えば、桜の花は、新緑は、感覚美の対象なのか。それは精神美の対象ではないのか。あるいは、桜の花、新緑自体に精神美があるのか。
 おそらく、両者には、なんらかの精神美があるだろう。春という季節がもつ生命力の精神美があるだろう。これは、伝統的には、気である。
 そう、生命精神美が両者にあると言えよう。だから、単に桜花や新緑は感覚美の対象だけではないのである。
 結局、感覚美と言われるもの、あるいは、美と言われるものには、なんらか、精神が関与しているということになるだろう。ただし、精神には、生命精神もあれば、魂的精神もあり、また、多様性をもっていると考えられる。
 結局、感覚現象と精神現象の明確な区別と即非性が確認されるが、感覚美と精神美に関しては、美の多様性ないしは複合性があるので、両者は瞭然とは区別できないことになるだろう。【具体的に言えば、デザインの美は、感覚美なのか、精神美なのかということになるだろうが、一般には、感覚美であるが、それは、生命精神をもっているので、それなりに、精神美でもあるのである。即ち、感覚美=精神美である。おそらく、デザインの問題は、それが、精神美への志向性をもたないと早晩皮相・軽薄化することだろう。つまり、デザインは美術への志向をもってデザインたると考えられる。】

p.s. 論の焦点が少しぶれているので、後で明快にしたい。


検討問題:心情の閉塞している日本人とりわけ東京人:亡魂による醜態
これまで、近代的自我批判を行ってきたが、考えると、近代的自我主義への批判であり、近代的自我そのものは否定できないのである。今考えている私は、自己をベースにはしていても、近代的自我を介しているのである。
 とまれ、今問題にしたいのは、近代的自我主義によって、心情、精神的感情が閉塞される、ないしは抑圧されることである。
 この証明は実に簡単である。今日の日本の歌、とりわけ、若者の歌を聴けばいいのである。確かに、中にはいい歌もないわけではないが、ほとんど聴くに耐えないものであるが、理由は歌に心情が失せているからである。リリシズムが死んでいるのである。
 近代的自我主義は、自我的観念を強調するので、差異的心情を抑圧してしまうのである。これは、近代合理主義によるとも言える。今日、癒しが流行るのはこの点からもわかることである。
 私見では、70年代後半から今のような近代的自我主義化が強化されたのである。それは、精神的情緒を抑圧しているのである。悪魔的なのである。 
 魂を抑圧して、近代的自我主義化したのである。つまり、今日、日本人、とりわけ、東京人は、魂が埋もれている状態である。魂とは、個である。
 魂=個を喪失すると、醜の状態になる。お花見する日本人の醜態を見よ。魂を喪失しているので、審美意識を喪失しているのである。
 美とは、魂知性による。

p.s. 思うに、問題の根はもっと深いのかもしれない。今、中世の古典とされるチョーサーの『カンタベリー物語』を読んでいるが、実に、愉快である。600年以上前の作品とは思えない溌剌さがある。(やはり、中世にルネサンスの源泉があるのである。もっとも、14世紀はイタリア・ルネサンスの初期に当たる。)
 簡単に言えば、清濁合わせ飲む、ないしは、聖俗混淆の世界であるが、それが嫌みではないのが、楽しいのである。例えば、不倫があるが、大きな生々流転の流れの下で眺められているのである。
 思うに、広義の情が今日抑圧されているのかもしれない。ルネサンスの開放したものは、情であろう。ここには、世俗的情もあれば、神聖な情もあるのである。情は多様多元的なのである。
 そして、また、イデア論の基盤も情にあると思う。ただ、イデア論は、情という現象(情現象)に対して、イデア界を仮説して、情を知的に理解しようとしているように思うのである。
 おそらく、知識人・文化人よりも、庶民の方がイデア論は理解しやすいのではないだろうか。言い換えると、リリシズム(叙情性)とイデア論は深く結びついているのである。
 ニーチェの説くディオニュソスとは、いわば、リリシズムであり、それは、イデア論に近いのである。今、浮かんだが、ニーチェのアポロとは、イデア(語源的には、ideoとvideoは同じである。「見る」とイデアは同根である)ではないのか。この点は後で検討したいが、プラトニック・シナジー理論では、Media Pointにおいて、情が発現していると考えられる。
 また、今思ったのは、ギリシア神話(ローマ神話)であるが、それは、やはり、情の表現ではないだろうか。ギリシア神話は、実に、人間臭いのであるが、神聖なる次元をもっている。情は、超越的かつ現象的である。プラトニック・シナジー理論から言うと、情は超越的、即非、現象的である。
 おそらく、ギリシア宗教は、情を知的・合理的にコントロールできずに、衰滅したのだろう。それにキリスト教が取って代わったのである。キリスト教は、情から世俗性・感覚性を取り除いて、情を神聖化したのである。情の精神化である。ここに、情の神聖性と世俗性の分裂がもたらされたと言えよう。(思うに、プラトン自身にも、この分離がなくもなかったと言えよう。この点は検討したい。)
 とまれ、これが、近代的二元論の源泉であろう。プロテスタンティズム的二元論の源泉である。そして、近代合理主義が進展して、情自体が希薄化したのである。神聖な情は喪失され、また、世俗的な情は、卑俗化したのである。
 とまれ、Media Pointの開きとは、新たな情の発現でもある。それは、イデア論的な知を意味すると同時に、新しい情を意味する。天上的なものと地上的なものとの融合する情であろう。
 これを何と呼んだらいいのだろうか。言葉は、二元論的にできているので、適切な用語がすぐみつからないのである。とりあえず、差異共振情、差異共鳴情とでも言っておこうか。

p.s. わかりやすく言えば、天地情ないしは地天情である。


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参照1:

★ 2008年4月4日 金曜日 、14時更新

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 余談 直して使う (その3)

 我々が、この地球、この人間社会に誕生して、死を迎えるまでに、何を求めて生きてゆくのか? 何のために生まれてきたのか? 人生とは何か? 死とは何か? 我々とは何か?
 我々は、どこから来て、どこへ行くのか? (NHK風で申し訳ないが、気に入ったフレーズだ)

 ただ、あるがままを受け入れて、運命に翻弄される木の葉のように社会の川面を漂う人生もよし、与えられた肉体と頭脳の限りを尽くして、自分とは何か? 何のために存在し、どこへ行くのか? と答えを求めて彷徨う人生もよし、真実を理解することができるなら、複雑怪奇、難解、不可解に見える人生も、少しは安定を増し、座り心地がよくなりそうだ。

 筆者が半世紀を超える人生のなかで見いだした真実、すぐに死んでしまうような、か弱い肉体と、複雑なことを考えられない愚かな頭脳を与えられて、地球に誕生した我々の人生の本当の意味? それは、数百回もの人生、転生輪廻をなかで、人間のすべてを思い知り、その感情を体験し、合理的な自我を確立するということらしい。

 人の本質は、カゲロウのように現れて消える肉体にあるのではなく、人との交流のなかで磨かれる不滅の魂にあるようだ。強い人生も弱い人生も経験し、魂を磨きあい、普遍性を獲得し、やがて宇宙の合理性(ヘーゲル流に言えば「イデー → 絶対精神」)に融合する生命の流れに我々は生きている。
 といっても、相当に長い間、人生の意味を求めて、小さな成果を積み重ねないと、なかなか大きな真理に到達することは難しい。真理は求める意志の彼方にある。求めなければ決して得ることはできない。

 人生の真理は単に長さの問題ではない。肉体を無意味に延命させる必要などない。刹那の瞬間であっても、人は最高の喜び、最大の悲しみ、苦難、充実を体験することができる。体験を「学び」というなら、学びの量ではなく、質が問題なのだ。すばらしい学びを求めて人は生きている。
 数年の命しかなくとも、そのなかに、学びはぎっしりと詰まっている。百年を超す命でも、金儲けだけしか見えない人生は空っぽのままだ。

 これまで繰り返し、人生と社会における唯一で最大の価値は「人情」だと書いてきた。人は人情のなかで生きる意欲を与えられ、人情のために行動し、人情に癒されて生き延び、死んでゆく。人がもっとも癒されるもの、それは友情・人情、そのサインは人の笑顔だ。
 人生最大の秘密は、こんなところに潜んでいそうだ。

 人間社会で、人が問題の本質、人生・社会の本質を見失う最大の原因は、おそらく競争意識にある。
 あらゆるモノが不足するとき、競争意識は多くの人たちの役に立つ。しかし、モノが満たされたとき、それは桎梏(足枷)となる。人は競争によって、必要のないモノを作り出し、無益な浪費に走る。そして愚かな戦いを始めるのだ。
 競争意識、すなわちコンプレックスによって、人は虚構を作り出し、国家を作り出し、上流階級、金持ちという特権意識、優越感、ステータスの幻想を作り出し、社会の不幸を作り出す。
 もし、現代に生まれた我々に共通する大切な学びがあるとするなら、それは競争意識の克服にちがいない。

 2000年前、イエスが指摘したように、金貸しのバリサイ人たちが利息による金儲けを人生の目的として以来、人間社会は彼らユダヤ教徒、バリサイ派の陰謀に翻弄され続けた。彼らは、人生と社会の必要に応じた生産体制を認めず、彼ら資本家だけが肥え太る、金儲け、特権を人生の価値とするよう要求し、特権者が大衆を支配し利用するための国家という装置、虚構の社会を実現してきた。日本におけるバリサイ人の代理人は自民党である。バリサイ人たちは、人間同士の競争を原理とする社会を作り出したといってよい。
 そして現代に至って、「先進国」住民の多くが、他人を蔑むことのできる金持ちになり、人を自分の利益のために利用する社会を求めるようになり、社会を底辺の人情で支える体制が崩壊した結果、今、地球全体が破壊され、人間社会に巨大な破局が訪れようとしている。

 「競争原理の社会」が破滅を迎えようとしている。もはや競争のために、無意味な長時間労働、苛酷労働などする必要もなく、子供たちを成績で追い立てる必要もなく、人を無意味に批判、誹謗する必要もない。
 人は生きる必要に応じて働けばよい。どの程度か? といえば、みんなが、ゆとりをもって食べてゆける労働時間は、おそらく週三日、30時間もあれば十分だろう。人々は、食べるために週30時間働き、自分のために30時間を費やし、週10時間を公共奉仕のために費やせば十分だ。それで、何もかもうまくゆくはずだ。
 愚かな見栄、戦争、競争さえなければ、人々は、笑顔の溢れた、楽しく、ゆとりのある理想社会を建設し、そこで子孫を繁栄させることができるだろう。

 そうして、次にやってくる理想社会は、無駄なモノは作らない。必要に応じて生産する。モノは直して使う社会だ。
 あらゆるモノが直される。あらゆる人も直される。決して使い捨てされることはない。人は過ちを犯すもの。だから、失敗を責めて報復、制裁するのではなく、暖かく、人間として立ち直れるように手をさしのべる社会である。直して使う社会がやってくる!
http://www1.odn.ne.jp/
~cam22440/yoti01.htm

東海アマ地震予知情報

参照2:
 それでは、日本の国柄とは何か。それは、農耕民族として小さな共同体でお互いが助け合い、共存共栄することである。言い換えれば、「和の精神」を大事にし、共生を旨とする社会である。「勝ち組、負け組」ではなく一人でも多くの「しあわせ組」を作ることが本来の日本人のあるべき姿なのである。
 こうした「和の精神」は決して特殊なものではなく、むしろ紛争が絶えず、弱肉強食型の国際社会にあって日本が率先して普及すべき普遍的な価値である。現にヨーロッパでは、欧州連合の誕生により、日本のお家芸である「共存共栄」、「和の精神」が、ユーロというドルに迫る基軸通貨の発行により先取りされてしまった。
http://www.m-kiuchi.com/2008/04/03/kagayaki04/
城内みのる

参照3:
郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、それを中央(東京)
に持って行ってしまう。地元から、商品を仕入れるわけでもない。

2008年4月4日 金曜日
郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、
それを中央(東京)に持って行ってしまう

◆地方都市の商店街の衰退は「格差」の象徴 1月11日 高根文隆

 仕事柄、地方都市によく出かけます。そして、ほぼ例外なく、壊滅状態となった駅前の商店街を目撃します。その度に、哀しいような切ないような感覚に襲われます。
 
 私が生まれ育ったのは山口県の中堅都市で、20年ほど前までは、中心部は県内有数の賑わいでした。

 小さい頃、両親の手を握りドキドキしながら歩いた目抜き通りの賑わい、暖かい人情や独特の雰囲気を発散させていた商店街の人たち…。

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20080404

株式日記と経済展望


2008年04月04日(Fri)▲ページの先頭へ
自我主義の乗り越え:資本自由主義と形式民主主義と共同体民主主義:共同体民主主義的自由主義へ向けて:ver2
自分の周囲、そして、社会のこと、東アジアのこと、経済のこと、等々の様々な問題において、共通しているのは、自我主義が阻害要因であるということである。
 問題は、自我の否定が必要であるということではないのである。思えば、オウム真理教では、自我の否定が説かれていただろう。問題は、仏教が自我の否定を説いているのか、である。これは難しい問題であるが、私見では、仏教は自我主義を否定しているのであり、自我は否定していないと思う。色即是空、空即是色であるが、色とは、自我主義のことであり、脱自我主義を説いているのであり、自我自体は否定していないと思う。
 とまれ、自己同一性主義である自我主義の乗り越え、これが現代の決定的問題である。これまで、私は自我を否定して、自己を肯定してきたが、私が言いたかったことは、自己同一性主義の解体であり、自己同一性自体の否定ではないのである。自己同一性は否定できないのである。例えば、私は誰々、何々ですの誰々、何々は、否定できない。私は、Oという者で、医師です。と言う場合、この自己同一性=自我は否定できない。問題は、それが中心化されることである。それが諸悪の根源である。
 思うに、ポスト・モダン哲学は、同一性主義批判(ロゴス中心主義批判)であった。そして、広義の差異を唱えたのである。
 しかしながら、同一性主義は解体しなかったのである。冷戦後、グローバリゼーションは、資本の同一性価値を逆に強化して、サブプライム問題を生んでしまったのである。また、日本においては、東京中心主義となり、地方は没落してしまった。
 ポスト・モダン哲学は、流行になったが、有り体に言えば、批判対象として、同一性主義=二項対立性を真に乗り越えられずに、その内部に留まってしまったのである。単にアンチテーゼにしかならなかったのである。極言すれば、いわば、ヘーゲル哲学に逆戻りしてしまったのである。
 不連続的差異論そしてプラトニック・シナジー理論は、ポスト・モダン哲学の限界を突破して、新しい差異の地平をもたらしたと自負している。即ち、同一性主義を解体して、超越性をもつ差異共振性の根本性を説いたのである。同一性は差異に包摂されることになり、差異が主であり、同一性が従、いわば、差異主/同一性従の理論が生まれたのである。
 これはまた、政治経済に対しては、自由主義と民主主義を共振化させることを説くものである。両者は本来、対立概念なのであり、それらが、先進諸国においては、併存する価値になっているが、それらは本来、異質な価値であると考えられる。即ち、自由主義とは、資本層にとって有利な考え方であり、下層にとっては、不利な考え方である。そして、民主主義は下層にとっても有利な考え方であり、資本層にとってもは、不利な考え方である。
 しかしながら、ブッシュの説くイラクの民主化というイデオロギーがからわかるように、民主主義は先進諸国のイデオロギーになるのである。つまり、民主主義は自由主義のイデオロギーになると考えられるのである。
 ブッシュの言う民主化とは、普通選挙のことであろう。(ならば、どうして、中国に民主化を説かないのか。首尾一貫していない。)それが普遍的な価値であり、それを他国に暴力的に押し付けるのは、どういうことなのか。
 思うに、少なくとも、二つの民主主義がある。以前にも述べたが、繰り返すと、形式的民主主義と内容的民主主義である。ブッシュのいう民主主義は前者に過ぎず、後者ではない。
 形式的民主主義は、普通選挙という形で明快であるが、内容的民主主義について考察しよう。
 端的に、内容的民主主義とは、国民・市民・民衆(以下、三つを含めて、個民とする)の物質的、文化的、社会的生活を向上させる理念である。個民の諸生活を維持し、向上させる理念であり、法的システムである。そこには、医療、福祉、教育、文化、起業等々の領域がある。
 だから、内容的民主主義とは、共同体民主主義と言えよう。結局、今日の世界は、政治経済的には、1)資本的自由主義と2)形式的民主主義と3)共同体的民主主義の三層を混淆していると考えられる。
 大事なポイントは、2と3を明確に区別することであり、また、1を単に自由主義ではなく、資本的自由主義と把捉することである。このように規定することで、今日・現代の問題が明瞭明晰になると考えられる。
 例えば、新自由主義は、1の中心化であり、3を阻害してきたのであることが今日明確になった。しかしながら、これまでの公共投資であるが、それは、一見、3の大義をもつようであるが、実質は1の強化であったのである。
 つまり、現代世界において、1が中心化されていて、2によって、3の実体が等閑にされているのである。
 では、このような傾斜した混淆した政治理念からどう脱皮できるだろうか。それは、広義の政治(単に間接民主主義形態だけではない)によって、共同体的民主主義のための公共投資を肯定する必要があると思われるのである。もちろん、資本自由主義の要素を活かすことが必要でもあるが、思うに、共同体民主主義理念に基づいて資本自由主義を機能させることが重要ではないだろうか。思うに、あえて言えば、共同体民主主義が主であり、資本自由主義は従である。
 これが、今の時点で私が考える実践的なトランス・モダン社会創造の理念である。自由民主主義ではなく、民主自由主義である。

p.s. 今、以上を読み返して、日本における官僚主導国家資本主義のあり方が明確に指摘されていず、資本自由主義を大敵のように説いているのが気になった。
 以上の三つのものに、もう一つ、国家統制型資本主義(国家社会主義?)を付け加える必要があるだろう。即ち、

1)資本的自由主義
2)国家統制資本主義
3)形式的民主主義
4)共同体的民主主義

と変更する。
 日本の場合、明治維新から2の要素が強大である。そして、今日、日本経済の元凶となっているのである。
 もっとも、先進諸国で考えると、資本的自由主義が、国家統制資本主義を利用する実態があるのではないのか。アメリカの資本的自由主義が日本の国家統制資本主義を利用していると言えるだろうし、また、マスメディアを資本とすれば、マスメディアの支配は一種国家統制資本主義になるだろう。(端的に、国家統制資本主義とは、全体主義である。)
 ということで、訂正して、自由主義と形式民主主義と共同体民主主義と国家統制主義の4つの要素があるということである。
 結局、まとめ直すと、国家統制資本主義と資本自由主義の癒着を無くすために、国家統制資本主義を抑止して、共同体的民主資本自由主義を構築する方向性が現われてくるのである。
 小さな国家論であるが、共同体民主主義の実現のためには、共同体のための行政が必要になる。だから、一概に小さな国家論とはならないだろう。国家統制資本主義における国家統制という意味での国家は当然、小さくなるが、共同体民主主義の構築のための、複数の小さな国家が必要となるのではないだろうか。つまり、複数の共同体国家での必要である。
 後で再考したい。


2008年04月03日(Thu)▲ページの先頭へ
自我主義の乗り越え:資本自由主義と形式民主主義と共同体民主主義:共同体民主主義的自由主義へ向けて
自分の周囲、そして、社会のこと、東アジアのこと、経済のこと、等々の様々な問題において、共通しているのは、自我主義が阻害要因であるということである。
 問題は、自我の否定が必要であるということではないのである。思えば、オウム真理教では、自我の否定が説かれていただろう。問題は、仏教が自我の否定を説いているのか、である。これは難しい問題であるが、私見では、仏教は自我主義を否定しているのであり、自我は否定していないと思う。色即是空、空即是色であるが、色とは、自我主義のことであり、脱自我主義を説いているのであり、自我自体は否定していないと思う。
 とまれ、自己同一性主義である自我主義の乗り越え、これが現代の決定的問題である。これまで、私は自我を否定して、自己を肯定してきたが、私が言いたかったことは、自己同一性主義の解体であり、自己同一性自体の否定ではないのである。自己同一性は否定できないのである。例えば、私は誰々ですの誰々は、否定できない。私は、医師です。と言う場合、この自己同一性=自我は否定できない。問題は、それが中心化されることである。それが諸悪の根源である。
 思うに、ポスト・モダン哲学は、同一性主義批判(ロゴス中心主義批判)であった。そして、広義の差異を唱えたのである。
 しかしながら、同一性主義は解体しなかったのである。冷戦後、グローバリゼーションは、資本の同一性価値を逆に強化して、サブプライム問題を生んでしまったのである。また、日本においては、東京中心主義となり、地方は没落してしまった。
 ポスト・モダン哲学は、流行になったが、有り体に言えば、批判対象として、同一性主義=二項対立性を真に乗り越えられずに、その内部に留まってしまったのである。単にアンチテーゼにしかならなかったのである。極言すれば、いわば、ヘーゲル哲学に逆戻りしてしまったのである。
 不連続的差異論そしてプラトニック・シナジー理論は、ポスト・モダン哲学の限界を突破して、新しい差異の地平をもたらしたと自負している。即ち、同一性主義を解体して、超越性をもつ差異共振性の根本性を説いたのである。同一性は差異に包摂されることになり、差異が主であり、同一性が従、いわば、差異主同一性従の理論が生まれたのである。
 これはまた、政治経済に対しては、自由主義と民主主義を共振化させることを説くものである。両者は本来、対立概念なのであり、それらが、先進諸国においては、併存する価値になっているが、それらは本来、異質な価値であると考えられる。即ち、自由主義とは、資本層にとって有利な考え方であり、下層にとっては、不利な考え方である。そして、民主主義は下層にとっても有利な考え方であり、資本層にとってもは、不利な考え方である。
 しかしながら、ブッシュの説くイラクの民主化というイデオロギーがからわかるように、民主主義は先進諸国のイデオロギーになるのである。つまり、民主主義は自由主義のイデオロギーになると考えられるのである。
 ブッシュの言う民主化とは、普通選挙のことであろう。(ならば、どうして、中国に民主化を説かないのか。首尾一貫していない。)それが普遍的な価値であり、それを他国に暴力的に押し付けるのは、どういうことなのか。
 思うに、少なくとも、二つの民主主義がある。以前にも述べたが、繰り返すと、形式的民主主義と内容的民主主義である。ブッシュのいう民主主義は前者に過ぎず、後者ではない。
 形式的民主主義は、普通選挙という形で明快であるが、内容的民主主義について考察しよう。
 端的に、内容的民主主義とは、国民・市民・民衆(以下、三つを含めて、個民とする)の物質的、文化的、社会的生活を向上させる理念である。個民の諸生活を維持し、向上させる理念であり、法的システムである。そこには、医療、福祉、教育、文化、起業等々の領域がある。
 だから、内容的民主主義とは、共同体民主主義と言えよう。結局、今日の世界は、政治経済的には、1)資本的自由主義と2)形式的民主主義と3)共同体的民主主義の三層を混淆していると考えられる。
 大事なポイントは、2と3を明確に区別することであり、また、1を単に自由主義ではなく、資本的自由主義と把捉することである。このように規定することで、今日・現代の問題が明瞭明晰になると考えられる。
 例えば、新自由主義は、1の中心化であり、3を阻害してきたのであることが今日明確になった。しかしながら、これまでの公共投資であるが、それは、一見、3の大義をもつようであるが、実質は1の強化であったのである。
 つまり、現代世界において、1が中心化されていて、2によって、3の実体が等閑にされているのである。
 では、このような傾斜した混淆した政治理念からどう脱皮できるだろうか。それは、広義の政治(単に間接民主主義形態だけではない)によって、共同体的民主主義のための公共投資を肯定する必要があると思われるのである。もちろん、資本自由主義の要素を活かすことが必要でもあるが、思うに、共同体民主主義理念に基づいて資本自由主義を機能させることが重要ではないだろうか。思うに、あえて言えば、共同体民主主義が主であり、資本自由主義は従である。
 これが、今の時点で私が考える実践的なトランス・モダン社会創造の理念である。自由民主主義ではなく、民主自由主義である。


2008年04月02日(Wed)▲ページの先頭へ
トランス・モダンの新しい位階の構築へ向けて:新しい霊主体従論
トランス・モダンの新しい位階の構築へ向けて:新しい霊主体従論

今、私の心の中では、私の人生は、現象主義と心的共振主義の争いが中心のテーマであり、また、これは、マクロで言えば、現在の人類史の根本的テーマであるという思いがある。
 簡単に言えば、可視界と不可視界のどちらに価値中心を置くのか、ということである。感覚界なのか、精神界なのか、ということである。この二つの世界の間に人間は置かれている。そして、近代世界においては、前者が中心化されてきたのであり、唯物論に至っては、後者は否定されたのである。
 問題は、私も愚者の一人なので、精神界が主であり、感覚界が従であることをきっぱりと悟ることができないことである。イデア論を説きながら、感覚現象界に囚われることである。
 思えば、同一性(感覚性)を包摂した差異共振性を私は説いているが、これは、まだ必要十分な言い方ではない。根本的には、差異共振性が主であり、同一性は従であるという新しいヒエラルキー(位階)を説く必要があるからである。
 思えば、シュタイナーの霊学は、霊主体従を説いている。精神性が主であり、物質性・感覚性は従であるということである。私はシュタイナーのオカルティズムには批判的なので、その霊主体従論には批判的である。しかしながら、プラトニック・シナジー理論において、精神性をイデア性・差異共振イデア性として捉えると、それが中心化すると、感覚性・物質性は従・劣位の価値になると考えることになる。
 これは、思うに、いわば、新しい中世であろう。確かに、近代は、中世の宗教的ヒエラルキーを打破して、感覚・欲望を中心化した、近代合理主義を進展させた。そして、これが、唯物論的利己主義・「自己中心主義」を生んだのである。
 資本主義の発展もこの近代主義に基づくと言えるし、また、相乗性があると言えよう。
 結局、感覚性・物質性を中心化することは、悪魔的であり、社会・世界を破壊・破滅させることであるのである。
 このことは、頭ではわかっても、「解脱(げだつ)」的に開悟することができずに、自分の経験として、痛みを通して理解することしかできないだろう。もっとも、学びを介して、教養的に、精神性を涵養させることはできるが、決定的な契機は、自分の心身の痛みである。苦とは偉大である。苦を介して、精神の叡知を身につけるのである。
 これから、サブプライム問題等によって、資本主義経済が解体していくと思われる。資本主義は、感覚・物質性に傾斜した経済形態である。問題は、経済に精神性を取り戻すことである。近代合理性の極致がたとえば、サブプライム問題、新自由主義であると思う。
 経済に精神性を取り戻すことは、明らかに、トランス・モダンである。これは、精神進化である。
 教養とは、精神知性のことである。そして、苦を介して、人間は深刻真剣に学ぶのである。幸福とは何ぞ哉。幸福とは、感覚性・物質性に対する精神性の優位性の実現に基づくものである。
 後で、本件から派生する感覚美と精神美の問題を検討したい。


*****************

<長男絞殺>30歳の母親を逮捕 青森・八戸

4月1日21時1分配信 毎日新聞

 青森県警八戸署は1日、長男を絞殺したとして同県八戸市美保野、無職、西山未紀(みき)容疑者(30)を殺人容疑で緊急逮捕した。容疑をおおむね認めており、同署は動機を調べている。

 調べでは西山容疑者は1日午前9時ごろ、自宅2階の子供部屋で、長男拓海(たくみ)君(9)=市立美保野小4年=の首を電気コードで絞めて殺した疑い。拓海君には布団がかけられ、電気コードは室内で見つかった。

 西山容疑者は50代の父母と拓海君の4人暮らし。母親の通報で署員が駆け付けると、西山容疑者が家の中にいた。

 美保野小の長尾誠治校長らによると、学校周辺は工業化が予定され、新住民の流入が規制されているため在籍児童は増えないといい、07年度は3〜5年生の計4人で拓海君は最年少。7日に新1年生4人が入学予定で、拓海君は「お兄さん」になるのを楽しみにしていた。明るい性格で図書委員を務め、将来の夢は「電気屋さんになりたい」だった。

 学校は、子供の安全を考えて下校時は保護者が迎えに来ることになっている。西山容疑者も拓海君をよく迎えに来ており、3月26日の修了式にも出席し、変わった様子はなかったという。

 拓海君をよく知る男性によると拓海君は07年、仙台市の詩人・土井晩翠を記念し、小・中学生の詩作品を集めた第48回「晩翠わかば賞」で佳作を受賞。作品名は「おかあさん」で、男性は「(ふくよかな感じの)お母さんの体に触るとぷよぷよして気持ちがいい、という内容だった。目がくりくりして、人懐っこくて元気で明るい子だったのに……」と驚いていた。【後藤豪、喜浦遊】

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080401-00000164-mai-soci


四大(地水火風)・五大(地水火風空)と自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1:ポスト・モダン哲学の数理化とプラトニック・シナジー理論

四大(地水火風)ないしは五大(地水火風空)について。四大とは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、+i、-i、(+i)*(-i)、(- i)*(+i)の四元で説明できないのか。そして、五大の場合は、それにMedia Point=空(くう)を加えたものということではないのか。また、+1と-1であるが、+1は自己同一性=自我=エゴであり、-1はポスト・モダン的差異、連続的差異のことではないか。
 思うに、これまで、ポスト・モダン的差異はゼロ・ポイントではないかと思ってきたが、ゼロ度とは、自己同一性と連続的差異(ポスト・モダン的差異)の中点ではないのか。ドゥルーズが言う特異性は正に、この中点であり、Media Point ではないだろう。そして、初期デリダの差延であるが、それは、自己同一性(ロゴス中心主義)=+1と連続的差異(ポスト・モダン的差異)=-1との中点・ゼロ度における同一性+1と差異-1との併存性を指しているのではないか。差延においては、同一性と差異とが混淆併存していて、一義的意味が決定不可能ということになる。
 さらに、ハイデガーの存在論的差異であるが、それは、ほとんど初期デリダの差延と等しいだろう。つまり、初期デリダは、ハイデガーの存在論的差異を借用・踏襲しているのではないだろうか。即ち、ハイデガーの存在論的差異とは、本来的存在と存在者(世界内存在)との亀裂を意味すると考えられるが、この亀裂とは思うに、中点・ゼロ度と考えられるのである。そう、初期デリダがハイデガー存在論に付け加えているものがあるとすれば、それは、連続的差異=-1を指摘して、それと同一性との差延を述べていることではないだろうか。つまり、ハイデガー存在論は中点というよりは、ゼロ度=存在としたのであり、連続的差異=-1(ポスト・モダン的差異)までは指摘していなかったということではないだろうか。
 【不連続的差異論やプラトニック・シナジー理論について言えば、前者は中点が不連続であることを発見したことにあるだろう。後期デリダは純粋差異(『死を与える』:「すべての差異はまったき差異である」)を発見したが、それに関連させれば、不連続的差異論は、純粋差異を不連続的差異、しかも、イデアとしての不連続的差異として把捉したことに意義があるだろう。因みに言えば、ここでイデア論が書き換えられたのである。同一性の原型としてのイデアではなく、純粋差異=不連続的差異としてのイデアがここで発見されたのである。これは、新イデア論であると言えよう。
 そして、プラトニック・シナジー理論であるが、それは、イデアである不連続的差異を、差異共振性として捉え直したことに中心的意味があるだろう。それはKaisetsu氏による数理化から、Media Point であることが判明したのである。】
 ということで、四大・五大の意味、そして、+1と-1の意味について、プラトニック・シナジー理論から試論的に説明してみた。

********************

桜花と星々

桜の花弁の中心に星形がある。桜の花は、星々が地上化したもので、地に向いている。桜花が風に舞い散る。それは、地面に落ちる。そして、腐敗する。春夏秋冬、時は循環し、また春が来るが、星々から桜の花がまた訪れるのではないか。

******************

検討問題1:神話の神々と超越エネルギー:神話と宗教の関係について:神話は宗教のイデア論的表現ではないか:神々は諸イデアではないのか

神々が諸イデアならば、占星術コスモロジーは、諸イデアの相互関係の宇宙を「体系」化したものではないのか。諸イデアの相互関係とはどういう力学で説明されるのだろうか。占星術や古代宇宙論では、神々と惑星は一致する。これを諸イデアとすると、諸イデア=神々=諸惑星となる。そして、原点として、原イデア=神=太陽となるのかもしれない。
 原イデアは、プラトニック・シナジー理論では、Media Point ではないだろうか。そうならば、諸イデア=神々=諸惑星はどういう力学から生起するのだろうか。
 先に、四大・五大のことを言ったが、四元論・五元論を考えると、四元要素ないしは五元要素が想定でき、要素間の独特の傾斜、あるいは、要素間の諸様相が、諸イデア=神々=諸惑星を生起させるのではないだろうか。つまり、四元論・五元論的イデア・コスモスがあり、それが、現象宇宙を生成消滅させているということになるのではないだろうか。
 そして、この四元論・五元論的イデア・コスモスが現象宇宙のイデアならば、地球・自然・人間界も当然、この原型をもち、それに影響される(influenceはもともと、星の力が流れ込むことを意味した)ことになるだろう。ここで、ヘルメスの言葉、「上にある如く、下も」が肯定されることになるのである。ただし、運命論というよりは、力学である。当然、偶然性があり、自由もあると考えられるのである。必然=運命があり、また、偶然=自由があると考えられる。これは、カントが言うようなアンチノミーではなくて、並存であると思う。必然の網があり、その網の目の透き間として、偶然=自由があると思う。思うに、網の目の透き間とは、Media Point =差異共振性ではないだろうか。言い換えると、神と人間の共振性・協働性があるということになろう。

*******************

検討問題2:差異は平等ではないのではないか:民主主義とトランス・モダン・ヒエラルキー:トランス・モダン民主主義?

差異とは、正に、差異であり、それは個々は異なるということを意味する。問題は平等とはここにおいて何を意味するのかである。個の権利とは、差異の権利であり、それは認められるべきことである。個の権利とは平等なのだろうか。個は差異であり、平等ではないだろう。
 では、平等性とは何を意味するのか。私は個とは差異であり、差異のそれぞれの権利を認めることが必要であると思う。だから、差異共立原理・差異共生原理である。
 医者ならば、患者一人一人の個・差異を確認して、治療行為をするだろう。個・差異という単位においては平等ではある。だから、個・差異単位としての平等性はあるのである。
 しかしながら、個は正に、差異であり、平等ではないのである。つまり、差異単位平等と差異内容的不平等があるのである。
 ここで民主主義について考えると、それは、差異単位平等性に基づくものと言えよう。つまり、形式的平等性であり、内容的、質的平等性ではないのである。もっとも、後者が含まれてはいる。
 思うに、民主主義とは、根本的には、個・差異を確認して、共立する原理ではないだろうか。だから、個・差異がなくなれば、民主主義は衆愚政治になると言えよう。ここで近代民主主義が破綻することがわかる。
 しかしながら、個・差異を確認することは、精神的価値がないとできないのである。だから、近代的自我に留まる限りは、民主主義は不可能である。そう、近代民主主義は不可能である。
 精神化が必要なのである。それは、今のところ、少数者が可能なことである。とまれ、民主主義を可能にするには、トランス・モダン化が必須と言えよう。先に、トランス・モダン・ヒエラルキーについて言ったが、このヒエラルキーを基準とした民主主義となる。それは、精神的民主主義である。精神貴族的民主主義である。


2008年04月01日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:太母と太父の二重性とMedia Point:三柱の神の意味
テーマ:一神教/多神教

ヤハウェは、太母の陽化ではないのか:思うに、象徴比喩化における混乱があるのではないだろうか。太母は本来、太陽であり(天照大神)、月というのは、その変容様態を示唆しているのでないのか。とまれ、太陽が陰となったが、「父なる神」ではないのか。一神教の神は月が象徴である。それに対して、神道においては、太陽が象徴である。しかし、逆に言うと、太陰として、いわば、太父があるのではないのか。
 先に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺の倒置の可能性を述べた。即ち、(-i)*(+i)⇒+1である。前者の左辺が例えば、太母の「太陽」であり、後者の左辺が太父の「太陰」ではないのか。もしそうなら、二種類の原神が存するだろう。それは、神道の高産霊神と神産霊神に相当しないのか。それとも、イザナミ・イザナギであろうか。そして、根源の中点として、Media Pointとして、天之御中主神が存するのではないのか。だから、天照大神と月読みが太母と太父であり、スサノオがMedia Point に相当するのかもしれない。
 ここで聖書を考えると、ヤハウェが太母であり、エローヒームが太父ではないのか。二重神性である。
 その視点からイエス・キリストを考えるのは実に興味深い。彼は、ヤハウェの子であり、同時に、エローヒームの子となるだろう。つまり、精神的双子ではないのか、ということになろう。神話において、双子ないし兄弟の神話は多い。なにか、これと関係しないのか。これまでは、差異の二元性で説明してきたが。思えば、先に、二人のイエスないしは二重のイエスのことを述べたが、それは、以上の述べたことに通じる。
 しかしながら、以前は、ヤハウェを父、太母を母として、それぞれの子としてイエスを見たのであるが、以上の考察では、ヤハウェ=太母であり、エローヒーム=太父である。太陽の子と太陰の子としてのイエスである。そう見ると、戦争の子は前者であり、平和の子は後者となるのではないのか。
 私は太母が復活しつつあると言ったが、以上の視点から言えば、太母と太父の復活、端的に言えば、Media Point の開きではないだろうか。Media Point の黎明であることは既に述べたが、そこでの超越光とは、二重の超越光になるということではないのか。つまり、「太陽」と「太陰」の二重光ではないのか、ということである。
 この問題は後でさらに検討したいが、今、経験から言うと、真夏の海辺の太陽に陰影を感じたことであるが、この陰影が「太陰」に関係するのではないのか。
 言い換えると、太陽光には、明るい太陽と暗い太陽が重なっているのではないのか。二重光としての太陽光である。
 さらに言うと、ダーク・エネルギー、ダーク・マター、またブラックホールであるが、この二重性の「太陰」の方に関係していないのか。これまで、これらは、超越光、超越エネルギーに関係すると指摘してきたが、さらに超越的二重性に関係するのではないのかということになる。簡単に言えば、太陰がそれらに関係するのではないのか、ということである。
 ここで文学への興味から言うと、D.H.ロレンスのdark Godやdark sunであるが、それは、太陰を指しているのではないのか。また、『死んだ男』の宇宙の暗い薔薇であるが、それは一体何なのか。それは、Media Point ではないのか、等々、さまざま興味深い考えが浮かぶ。


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