INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY - 2008/04

PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2008年04月30日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:共一性と同一性:共一性言霊と同一性言霊
散歩の途中、+1をどう見るのか、考えていたが、-1が同一性=物質とするなら、+1は差異共振現象であるから、共一性と呼ぶべきではないかと思った。ということで、そうすることにして、検討を続けると、現象化において、共一性(光)と同一性(影)が形成されるとしよう。
 そう、その他思ったのは、同一性とは言語であり、ラカン精神分析の象徴界に相当するのではないかということであった。ここは難問の一つであると思う。ソシュール言語学のシニフィアン/シニフィエ、フッサール現象学のノエシス/ノエマ、等にも関わると思われるのである。同一性認識と言語の関係の問題である。
 問題をイメージ省察(像察)してみると、一番の問題点は同一性の発生にあるように思える。差異共振性が発現して、共一性(+1)が生まれる。しかし、このときには、同一性は発生していない。自己と他者の共一性があるのみである。では、どうして同一性が発現するのだろうか。
 共一性とは実は、身体(精神的身体)でもあり、そこでは、自己と他者が共振揺動しているだろう(ブラウン運動?、クリナーメン?)。いわば、夢の世界のようであるだろう。あるいは、心的故郷(心郷、魂郷)のようであろう。
 では、どうして、同一性への志向性が発生するのか。思うに、原同一性が根源にあるように思えるのである。簡潔に言えば、「何」である。原言語志向性と言ってもいいだろう。【ずいぶん、昔に、根源的発話発生について考えたことがある。そのときは、情動的発生論だったようだ。】
 ここで思考実験しよう。幼児がいて、遠くに見えるものが「何」かと思ったとしよう。幼児には、何かが見えているが、「何」かはわからない。これはどういうことなのだろうか。
 それが誰かに「山」であると教わるとしよう。これは、yamaという音声のシニフィアンである。yamaという音声にはとりわけ意味がないだろう。【もっとも、根源的には、音声には意味があるだろう。この点は今は看過する。】
 幼児はyamaと発音して、見えているものがyamaであると認識するのである。これはどういうことなのか。直感で思考実験しよう。実は、見えているものとは、同一性(-1)ではなくて、共一性(+1)ではないだろうか。共一性においてあるものが見えているのではないだろうか。だから、共一映像(共一像)と言ってもいいだろう。
 つまり、共一像において、「わたし」は他者である。この場合は、「山」である。「わたし」は「山」と共一である。だから、問題の根源は、「わたし」にあるだろう。これは、自己であろう。そして、これは、フッサールが説くように、ノエシスではないだろうか。ノエマは他者であろう。
 ノエシスは思うに、「わたしは知る」ではないだろうか。「わたし」は「山」と共一しているが、この「一」において「山」を知りたいのではないだろうか。他者認識である。そして、他者は「一」である。これが、原同一性ではないだろうか。
 そして、ノエシスは「わたしは他者を知る」共一性志向性と考えられるので、共一性の「一」への志向性に原言語志向性があるのではないだろうか。原シニフィアン性と言ってもいいだろう。そして、そこにyamaが入るのではないだろうか。
 そのように思考実験すると、言語は本来同一性ではなくて、共一性である。つまり、差異共振性の帰結である。光である。私は以前、言語は物質であると言ったが、それは間違いである。言語は差異共振性の帰結である共一性であり、精神である。言語精神である。【ここで言霊の問題が出てくる。確かに、言霊であると思う。私としては、言魂と表記したい。】結局、共一性としての言語ということになる。
 では、言語と同一性はどう関係するのか。それは、やはり、自己同一性主義の発生と関係すると言えよう。共一性の光に影が差して、影を投影して、同一性が発生するのではないだろうか。共一性にルサンチマンが発生して、共一性を否定・排除するように、同一性が形成されるのではないだろうか。共一性の一を否定して、その否定が外界へと投影されて同一性が発生するのではないだろうか。つまり、共一性の一の否定とは、内的同一性であり、それが投影されて外的同一性になるのではないだろうか。
 聖書で言えば、共一性がエローヒームであり、同一性がヤハウェではないだろうか。結局、共一性言語と同一性言語があるだろう。共一性言霊と同一性言霊である。
 先史時代から古代・中世までは、共一性言霊が支配的であり、神話や詩歌(韻文)が中心的であったろう。しかし、近代以降は同一性言霊(散文)が支配的である。
 ここで予見を言うと、トランス・モダンによって、共一性が回帰すると、いわば詩歌が回帰するだろう。これは何か。新共一性言霊とは何か。
 一つ言えることは、ブログが新共一性言霊であることである。差異共振精神からブログ言霊(「連詩」)が生まれるのである。

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2008年04月29日(Tue)▲ページの先頭へ
ハンナ・アレントの三分化論とPS理論:差異共振性とトランス・コミュニケーション理論
以下、toxandoria氏によるハンナ・アレントの三分化論は興味深い。プラトニック・シナジー理論(PS理論)の視点から考察してみたい。
 思うに、私は以前、この三分化論は読んだことがある。アレントの著書からか、それとも、なにかの解説か、忘れてしまったが。とまれ、そのときは、それほど興味をもたなかったが、PS理論から解明できそうに思えるのである。
 「労働/仕事/活動」の説明は以下を参照していただくことして、簡潔に分析してみたい。

1)「労働」は、物質的生活である。それは、同一性=物質を基盤とするので、-1であろう。

2)「仕事」であるが、それは、個の知的精神的な活動のことなので、内的な⇒+1、即ち、自己認識方程式であろう。

3)「活動」であるが、これは外的に、他者と共振することと考えられるから、外的な⇒+1、即ち、自己認識方程式であろう。ここでは、自己は外的な他者=差異と共振するのである。

問題は、2)の場合であるが、個の知的精神的活動が、近代合理主義である場合、それは、差異共振にならずに、同一性主義となり、1)と同様に、-1となるだろう。だから、アレントの三分化論が真に成立するには、差異共振理論であるPS理論の視点が必要であると考えられるのである。それによって、三分化が明確にされると考えられるのである。
 また、3)についてtoxandoria氏が説明されているコミュニケーション(以下、コミュ)であるが、これも、同様だと思う。同一性主義すなわち近代合理主義に基づくコミュは、当然、同一性の交換に留まり、3)の実質はなくなり、1)と等価になると考えられるのである。だから、コミュに関しても、差異共振性が必要であると考えられるのである。
 さて、因みに、私はコミュに関して、これまで違和感をもっていて、いつか解明しようと思っていたが、ここで少し考察したい。
 都合で簡単に言うと、コミュは、同一性のコミュと差異のコミュがあると考えられる。近代合理主義/近代的自我のコミュは当然、前者である。しかし、民主主義のコミュであるが、本来、後者でなくてはならないが、ネオコン/ブッシュのイラク「民主化」、その他を見てもわかるように、同一性のコミュとなっていると考えられるのである。倒錯・転倒があるのである。有体に言えば、同一性民主主義になっていて、本来の差異民主主義になっていないのである。
 結局、コミュは両者を明確に区別する必要があるということになる。同一性主義のコミュを同話・同言・同語とするなら、差異主義(差異共振主義)のコミュを差話・差言・差語と呼べよう。
 直感で言うと、ギリシア悲劇に、差異のコミュの原型がありそうである。オレステイア三部作やオイディプス三部作やエウリピデスの悲劇等に隠れているようである。勿論、アリストファネスの喜劇にも隠れているように思われる。また、ある意味でシェイクスピアの悲劇等にもあるように思えるのである。
 それは、先に、ゼウスとプロメテウスの和解で示唆したように、同一性と差異との調和に示唆されているだろう。-1と+1との調和である。それは、端的に、差異共振性によって可能になるのである。ギリシア悲劇や喜劇、さらには、シェイクスピア劇には、超越性が表現されているのである。神々である。これこそ、超越性である。ないしは、イデア性である。近代主義は、これを排除して、悪魔的破壊主義に陥ったのである。魔界としての西洋近現代である。PS理論は、創造的コミュニケーション理論でもあるのである。

 
********************

『ハンナ・アレント(Hannah Arendt/1906-1975/アメリカの政治哲学者・思想家)によれば、我われ人間の「活動的生活」(vita activa)の構成要素は「労働、仕事、活動」の三つに分けることができます。この「活動的生活」とは、我われ人間が、何らかの条件づけられた存在としてこの世に生まれた瞬間から周辺環境へ働きかける内発的な能力 のことです。そして、「労働」(labor)とは“我われが自らの身体の生物学 的プロセス (メタボリズム /新陳代謝 )への対応のために繰り返される活動”のことで、例えばそれは日常生活の衣食住を支える家庭内での活動などを指します。

いわば「労働」は人間と動物に共通する活動の一部であり、その特徴は“かぎりなく循環的で、かつ自然 的という意味で生物 としての人間に必然 的なプロセス”だということになります。一般に我われが馴染んでいる用語法では「労働」と「仕事」は殆ど区別がありませんが、アレントはこの二つの意味を峻別します。アレントによれば「仕事」(work)とは、「労働」が意味するところの“人間の個体維持のための消費”に抵抗しながら作用しつつ形あるものや諸制度・作品などとして、我われの死後にも継続して在り続ける「世界」(world)の材料を創り出す働きのことです。』

冷血・外道で悪徳まみれの『小泉・前首相のカムバック』に国民は何を期待するのか?(2)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080428/p1

toxandoria

toxandoria
『toxandoria の日記、アートと社会』

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+1と-1の関係:+1と構造主義との関係:-1/-0/Media Point/+0/+1
先の検討は、影-1と光+1と原光(+i)*(-i)という三元性を説くことになったが、まだ判明ではない感じがあるので、さらに検討することにしたい。今日は、簡単に触れるだけである。
 問題は、光(+1)と構造主義を一致させることになったが、それだと、構造主義と原光が関係することになり、整合性を欠くように感じられるのである。なぜなら、前者は本来、超越性が欠けていると思われるからである。この点をどう説明するのか、である。
 おそらく、光(+1)自体は構造主義と見ていいように思う。というのは、⇒+1となって、超越性が開けると考えられるからである。
 そうならば、先にレヴィ=ストロースの構造主義の「ゼロ記号」をMedia Pointの実軸のゼロ度と見たが、それと光(+1)とはどう関係するのか、説明する必要がある。
 「ゼロ記号」とは特異点であり、余剰・過剰であった。それは確かにMedia Point的である。では、+1はどうだろうか。これは、やはり、水平的な差異共振性であり、Media Pointは欠いている。しかしながら、⇒+1とすると、⇒がMedia Pointなので、光は言わば、崇高さを帯びるのではないだろうか。とまれ、⇒の先端がおそらく、「ゼロ記号」であろう。真に虚軸には開いていないのである。
 とまれ、さらに問題は、+1が光ならば、それはどういう光なのか。私は、宗教的に、エローヒームであると考えたが、どうだろうか。それは、端的には、正しくない。エローヒームは、端的に、自己認識方程式であろう。(+i)*(-i)⇒+1、これが光の神エローヒームの公式であろう。そして、この両辺を否定する自己同一性主義の公式、即ち、-[(+i)*(-i)]⇒-1、これが、影の神ヤハウェーの公式であろう。
 では、+1の光とは何か。構造主義の光とは何か、となろう。これは、なかなか、難問である。思うに、単純に日常目にする光でいいのではないだろうか。そして、-1の影とは日常目にする物である。あるいは、単純に前者は日常の自己であり、後者は日常の自我主義ではないだろうか。
 左辺が入るときに、超越性が入るのであり、天使的であったり、悪魔的であったり、狂気的であったりするのではないだろうか。だから、例えば、ネオコン/ブッシュとは、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。つまり、イラクへの差異共振性(+i)*(-i)⇒+1を否定しているのである。真の民主主義は差異共振主義にあるだろう。
 例えば、アメリカがイラクを真に他者=差異と認識するならば、差異共振性(+i)*(-i)⇒+1が成立するだろう。しかし、他者=差異を否定したので、-[(+i)*(-i)]⇒-1となったと言えよう。-1は、自己同一性主義=ロゴス中心主義(例えば、ロゴスとしての民主主義である)である。光=自己(+1)は排除されているのである。
 思うに、-1と+1はエンテレケイアと考えられいいのではないだろうか。そして、左辺はエネルゲイアでいいのではないだろうか。だから、光(+1)を構造主義と見るのは、正に、エンテレケイアとしての構造主義であり、結果としての二元的構造であろう。ここには、エネルギー作用の結果があるのみではないだろうか。
 だから、構造主義の「ゼロ記号」とは、+1とは異なるだろう。それは、デリダ的に言えば、痕跡ではないだろうか。やはり、Media Pointの実軸点であると思われるのである。
 しかしながら、「ゼロ記号」と+1は、結局は、同じことになるのではないだろうか。何故なら、構造主義(+1)の、言わば、支点が「ゼロ記号」であるからである。つまり、支点の「ゼロ記号」と+1とで均衡がとれているのである。「ゼロ記号」があることで、構造主義(+1)が成立すると考えられるのである。言い換えると、構造主義(+1)の原点・発生点・起点としての「ゼロ記号」である。
 ここでポスト・モダンについて言及すると、ドゥルーズは、「ゼロ記号」を差異としての理論化したのである。これでは、当然、差異が連続化されるだろう。何故なら、差異の対立がゼロ度で融合するのであり、正に、微分としての差異になるだろうからである。
 デリダは、先に述べたように、-1と+1の差異(ズレ)を差延と考えたように思われる。(これは、ほとんど、ハイデガー存在論を踏襲していると思われるのである。)
 今はここで留める。後で再考したい。

p.s. 以上の思考実験は、先の直感とはズレている。私は、+1を差異共振光と見たのであり、+1には差異共振性を見たのであり、構造的対立ではないのである。齟齬をどう見るのか、である。思うに、構造主義をどうみるのかが問題である。例えば、山口昌男の神話構造主義は、両義性の理論であるが、この両義性がいわば、+1の差異共振性であると考えられないだろうか。思うに、これは、また、メルロ=ポンティの両義性の身体現象学と通じると思われるのである。あるいは、初期デリダのパルマコン(ファルマコン)の考え方に通じるのではないだろうか。
 直感では、+1の差異共振性とは、一種の即非性であるが、不十分な即非性である。山口昌男の神話学では、例えば、スサノオは、光であり、且つ、闇であるという両義性を帯びる。これは、スサノオは光であるから、闇ではないが、同時に、闇であるという、即非の論理には達していないだろう。光であり、且つ、闇である、というのは、いわば、未分化の論理である。そう、だから、+1の差異共振性とは、未分化様態と言えるだろう。つまり、連続性を帯びているということである。ならば、+1の光=自己とは、未分化であり、連続性をもっているのであり、まだ、真の自己ではないと言えよう。左辺の差異共振性(+i)*(- i)を認識して、真の自己認識を形成すると考えられるのである。
 だから、+1の光とは、トワイライト(薄明)ではないだろうか。つまり、光と影、光と闇の中間的な「光」ということになるのではないだろうか。

p.p.s. 後で再考する予定であるが、ここで簡単に補足すれば、自己認識方程式において、右辺だけを取り出して、純粋に+1を見ると、それが意味するのは、Media Pointを介した虚軸性(超越性)の喪失(隠蔽)であると考えられる。あるいは、Media Pointの断絶である(参照:三島由紀夫の「断絃の時」)。
 だから、+1は、必然的に、自己同一性主義=自我主義(-1)の影響を被って、いわば、曇る、濁る、混濁すると考えられるのである。正確に言えば、混淆・混合化、そして、連続化である。
 精緻に見ると、自己認識方程式の左辺とMedia Pointが隠蔽されるとは、言い換えると、自己同一性主義(-1)が作用することである。差異共振性が否定されるときに、自己同一性主義(-1)が形成されるのであるからである。つまり、(+i)*(-i)が否定されると、当然、結果は、⇒-1となる。これは、Media Pointの否定・抑圧でもある。
 すると、-1より先行すると思われる+1はどうなるのだろうか。それは、これまで検討してきた通り、差異共振性は否定・抑圧・隠蔽されるのである。内的身体に隠蔽されるのである。正確に言えば、(+i)*(-i)⇒+1が内的身体に隠蔽されるのであるが、このとき、Media Pointを介した虚軸性=超越性が隠蔽されるのである。
 問題は、隠蔽された差異共振性が賦活されるときである。教養的形成や内省(端的にこれが哲学である)を伴う人生経験を経ることで、そのようになると考えられる。自己同一性主義=自我主義(-1)の支配にあって、その賦活された差異共振性はどういう様態をもつだろうか。
 当然ながら、活性化された差異共振性は、自己同一性主義=自我主義(-1)を否定するのである。ここに葛藤・内的闘争が生じると言えよう。(ロマン主義の問題、さらには、反近代主義等の問題はここに収斂するだろう。)即ち、

差異共振性VS自己同一性主義

である。これは、端的に、二項対立の闘争である。19世紀や20世紀初期の文化で言えば、ロマン主義(神秘主義)VS近代合理主義となろう。【ベルクソン等の、いわゆる、生の哲学は前者に入れることができるように思えるが。とまれ、構造主義は、この二項対立を乗り越えた、偉大な理論と言えよう。さらに言えば、フッサール現象学は、構造主義をも超えているだろう。ハイデガー存在論はそれを看過してしまったと私は考える。】
 この内的闘争において、問題は、差異共振性が先行してはいても、自己意識においては、自己同一性主義が支配的、優位であるので、差異共振性が従属的、劣位にあるという点である。このいわば転倒した倒錯した優劣性が支配的であることに留意しないといけない。
 言い換えると、否定性(-1)が支配的であると言えよう。だから、賦活された差異共振性は、内的身体に存しても、否定性(-1)が支配的であるために、その影響を被ると考えられる。自己同一性主義の影響を受けるのである。
 それは、端的に、反動化であろう。否定性を受けるのであろう。つまり、差異共振性は、自己同一性主義を否定して、「自己」を肯定しようとするのである。これは、-(-1)=+1 であろう。
 これは、確かに、差異共振性を意味するだろう。しかしながら、問題は、否定性の存在である。自己同一性主義=自我主義(=近代合理主義=近代自我主義)を否定しているので、物質性を否定することになると考えられるのである。極言すれば、一種、オカルト主義や神秘主義になるのである。【私はドゥルーズ哲学とシュタイナーの霊学は類似すると思っている。】
 何が問題なのか。実はこれこそ、不連続的差異論が問題にした連続性である。端的に、連続性とは、否定的連続性である。つまり、自己同一性主義という否定性が支配的であるので、賦活された差異共振性も正に反動的に否定性を帯びてしまい、連続性を帯びると考えられるのである。これは、非常に矛盾的な事態であると言えよう。
 差異共振性は本来、肯定的な事象であるが、自己同一性主義という否定性の支配下においては、否定性を帯びるのである。これは、どういうことなのか。本来の差異共振性が否定性を帯びるとはどういうことなのか。
 直感で言えば、矛盾した言い方になるが、自己同一性主義化された差異共振性であるということである。-1化された+1である。これは、何か。ここでは、推測ないしは作業仮説で言うが、和になるのではないだろうか。即ち、(-1)+(+1)⇒±0ではないだろうか。
 このゼロこそ、構造主義の「ゼロ記号」ではないだろうか。ゼロ度、ゼロ・ポイント、ゼロ場等々と言えるだろう。そして、これが、ドゥルーズの差異であると考えられる。連続化された差異=微分ということである。また、内在平面という考えも、ここから生まれるだろう。【何故、平面なのか。後で検討。】
 そのように考えると、+1が光であり、構造主義であると先に述べたことは、間違いであることになるだろう。+1が光であることは正しいのである。しかし、それは、構造主義ではないのである。構造主義は、やはり、ゼロ度に存すると考えられるのである。つまり、差異共振主義(+1)が連続的に否定されて(和算)、ゼロになると考えられるのである。
 整理すると、-1/±0/+1である。言い換えると、自己同一性主義/構造主義/差異共振主義である。これが、「内在的な」哲学の様相と考えられる。ドゥルーズ哲学は完全に構造主義の進展に過ぎないことがわかる。では、初期デリダ哲学はどうだろうか。先には、-1と+1の差異が差延であると言ったが、それも訂正されなくてはならない。
 デリダ哲学の源泉の一つであると考えられるハイデガー存在論はそれなりに複雑多様であるが、直感するに、いわゆる世界内存在とは、ゼロ・ポイントをもった自己同一性主義(近代合理主義)ではないだろうか。有体に言えば、ハイデガーの存在とは、ゼロ・ポイント(「ゼロ記号」)ではないだろうか。つまり、本来的存在がゼロ・ポイントであり、頽落した存在は、-1となるだろう。【ただし、構造主義とは異なり、自己意識がある。しかしながら、構造主義とは、差異共振性の連続化なので、そのゼロ度は、自己意識をもつと思われる。後でさらに検討したい。】
 そして、初期デリダは、これを継承して、脱構築主義理論を立てたが、その差延とは、結局、先に述べた+1と-1の差異ではなくて、-1と±0との差異であるように思えるのである。例えば、時間を例にとれば、現在は-1であるが、過去や未来が±0であるように思えるのである。そして、両者から差延が発生すると考えられるのである。
 整理すると、ポスト・モダン理論は、ハイデガー存在論と構造主義の影響下において、ドゥルーズは構造主義のゼロ度の進展として「差異」哲学、デリダはハイデガー存在論の進展としての脱構築主義を立てたと言えよう。
 最後に問題は、+1にあったと言えよう。これが、ポスト・モダン理論では把捉できなかったと考えられるのである。何度も繰り返すことになるが、フッサール現象学が、+1を現代哲学において明晰に認識したと考えられるのである。超越論的主観性とは、それだと考えられるのである。また、キルケゴールやニーチェが、特異性という視点で取り出したものは、不連続性であると思う。つまり、彼らは、不連続性という特異性を明確に指摘した大哲学者であると考えられるのである。不明確ではあれ、Media Pointを示唆した哲学者であると考えられるのである。

3p.s. 内在・即非・超越的哲学としてのPS理論を数的に図式化すれば、

      +i
      ↑
-1/-0/Media Point/+0/+1
       ↓
      -i


となるだろう。

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2008年04月27日(Sun)▲ページの先頭へ
色彩と差異共振性:色彩の構造主義とトランス構造主義
以下は、次の考察の最後の色彩の問題を取りあげて、考察を継続したものである。
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10091680213.html

******************

色彩の問題を検討したい。光と影の問題から、色彩の問題が派生するのである。先ず、光を白とすれば、影は黒である。しかしながら、影は光の同一性面である。光は差異共振光である。【用語を整理しよう。+1を光とする。そして、影を「光」とする。すると、光とは差異共振「光」である。】
 影は差異共振「光」の同一性であり、ここにおいて、色彩が生起するのではないだろうか。例えば、緑である。しかしながら、ゲーテの色彩論でわかるように、補色関係が生起するのである。これは、端的に、差異共振「光」の側面に拠るものではないだろうか。
 おそらく、本来、緑と赤が共振した光であり、それが、同一性化によって、緑となるのである。思うに、赤に傾斜したために、緑が排除されて、緑が反射して、緑となるのではないだろうか。
 これは、自己認識方程式で言うと、+iを赤、-iを緑とすると、赤*緑⇒光である。しかしながら、赤に傾斜すると、(+i)^2⇒-1となり、これが、緑ではないだろうか。本来の光は、赤*緑である。しかし、赤に特化したので、緑を排除しているのである。だから、内的身体はバランスを取って、網膜に、赤の残像を発現させるのではないだろうか。
 これは実に興味深い問題である。差異の赤は差異の緑を排除して、結果、同一性の緑色となるのであるが、しかしながら、同一性=緑の基盤には、おそらく、同一性=赤があるのである。そう、これは、正に、構造主義であろう。つまり、差異共振「光」がMedia Pointから放出されるが、現象化において、同一性主義の傾斜が生起する。それが、個別の色彩である。
 具体的に言えば、赤*緑の差異共振「光」があるとしよう。例えば、赤に傾斜するとき、赤が中心化されて、緑が排除される。即ち、赤と緑の二項対立が発生する。そして、排除された緑が色彩として放出されると言えよう。これを見る人が、緑と知覚するのであるが、見る人の内的身体には、差異共振「光」があるので、放出された緑の「光」は、差異共振化されて、緑*赤の差異共振力学によって、赤を発生させるのではないだろうか。この赤が残像となるのではないだろうか。
 精緻化しないといけない。色彩を影=「光」とすると、それは、差異共振「光」の同一性主義化である。それは、他者を排除するのである。他者とは、差異共振「光」である。差異共振極性があり、それが傾斜して、同一性主義化=色彩化するとしよう。この色彩を緑とすれば、補色的に、赤が潜在している。では、この赤とは何だろうか。
 差異共振「光」は対極的な「光」である。これは原型(これは、原光と呼んでいいと思う)である。しかるに、現象化するときに、-1と+1を発現する。例えば、緑は-1である。そして、思うに、緑*赤が+1ではないだろうか。それは、差異共振「光」である。しかし、虚軸では、原光であり、純粋な差異共振性である。
 つまり、問題の核心はMedia Pointの様態にあると思われる。Media Pointにおいて、虚軸の差異共振「光」、即ち、差異共振原光が発出するが、それは同時に、実軸化して、+1と-1を発生させる。+1は純粋な太陽光である。それに対して、同一性に傾斜した「光」=影が発生する。整理するため、+1を差異共振光と、-1を同一性光としよう。即ち、最初に、差異共振原光があり、次に、差異共振光と同一性光が発生するということになる。
 そして、差異共振原光とは、(+i)*(-i)であり、差異共振光とは、具体的に言えば、例えば、赤*緑のような補色的共振関係である。そして、同一性光が当然、個々の色彩である。
 ここで、本題に戻れば、緑の同一性光とは、見る人に対して、緑の視覚と同時に、残像として、赤の視覚を生む。この残像現象であるが、それは、差異共振光の原理に基づくと言えよう。即ち、赤*緑の差異共振光があり、緑の受容に対して、バランス的に、赤を発生させるということではないだろうか。
 だから、色彩論は三元構造である。差異共振原光⇒差異共振光⇒同一性光である。そして、差異共振光の項であるが、ここでは、補色の極性原理がある。これを二元論的な構造と見たのが、構造主義ではないだろうか。だから、ゲーテの色彩論は構造主義の前身であると言えるのではないだろうか。とまれ、整理すると、差異共振原光は、虚軸の垂直原理であるが、差異共振光は実軸の水平原理である。これを確認しておきたい。
 さて、ゲーテの色彩論が構造主義であるということが出たついでに、ゲーテの原植物論等の原型論を考えてみたい。これは、ルドルフ・シュタイナーの霊学(人知学)の霊の問題とも通じるのである。
 原植物とは、有体に、植物のイデアを想起する。都合もあるので、簡単に触れると、これは、色彩論と同様に、差異共振光のレベルに通じるのではないだろうか。つまり、言わば、実軸水平的差異共振原型ではないだろうか。つまり、+1の差異共振性である。言い換えると、Media Pointの実軸的な差異共振性である。そして、これが、理論的には、構造主義と捉えられてきたものと考えられる。そして、プラトンのイデアの一端もこの構造主義であると考えられるだろう。同一性としてのイデアである。
 そして、これは、同一性の構造であり、差異の構造ではないのである。差異共振性とは言え、この差異は同一性的差異に過ぎないのである。
 ここで、ポスト・モダン理論について触れると、結局、ドゥルーズは構造主義の発展に留まり、初期デリダは、思うに、構造主義内の差異に留まったのではないだろうか。おそらく、+1と-1の差異を差延として、-1の同一性主義を解体したのである。しかしながら、これでは、これでは、構造主義内のことではないだろうか。(思うに、ハイデガーもほとんど構造主義ではないだろうか。)
 結局、実軸の差異共振性=構造主義を乗り越える必要があったのである。【山口昌男の神話学も両義性の神話学ということで、結局、構造主義内部である。構造主義のもつ水平的極性を説明しただけだと思われる。】差異ないしは差異共振性の不連続化(即非化)が必要だったのである。この点は既述済みなので、これ以上言わない。
 最後に、シュタイナーの人知学であるが、これは、ほとんど哲学的である。霊的観念論である。彼の悪魔論はほぼ正確ではないかと思う。いったい何が問題なのか。それは、その二元論、霊主体従論にあるのではないだろうか。これでは、精神と身体が分裂しているのである。PS理論では、精神的身体である Media Pointを考えて、いわば、精神・即・身体である。これは、物質的身体の原型でもある。
 この精神と身体との一性(いつせい)があるのであるが、これをシュタイナーの人知学は否定していると思うのである。言い換えると、Media Pointがないのである。垂直性と水平性が分離しているのであり、垂直性が優位であり、水平性が劣位にあるのである。これでは、伝統的な二元論である。だから、それは、水平的な現実に働きかけることができないのである。いわば、逃避的なのである。これは、身体を単に物質的身体としか捉えていないことにも現われているだろう。物質的身体は精神的身体を核としているのである。

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+1と-1の「現象学」について:光と影の超越的現象学
「-1と+1の神学・哲学的意味について:ヤハウェとエローヒーム:闇と光:自我と自己」http://ameblo.jp/renshi/
entry-10091501933.html
先の以上の論考は我ながら、思考の赴くまま実験したので、これまでの考え方とは齟齬を来してしまっているので、ここで、もう一度「冷静に」、eliot-akira氏のコメントを参考にしながら、検討したい。
 先ず、eliot-akira氏の意見を見てみよう。

『■Media point と鏡像関係?

「+1と-1の二つの現象がある意味では同時生起するのではないか」

このあいだにゼロの両面鏡を置くことは出来るでしょうか?光と影はお互いの虚像を眺め合いつつある、と。

しかし光は影を作るが、影は光を作ることが出来ない。この不対称性にはどういう意味があるのでしょうか。

自己意識には何らかの「反射」と「屈折」が起こっているように感じます。直接の光(エロヒーム)ではなく、間接的な光(ヤハウェ)といえるかもしれませんね。
eliot-akira 』
http://ameblo.jp/renshi/entry-
10091501933.html#cbox

「ゼロの両面鏡」という考え方は刺激的である。また、光と影が相互に見つめるということ、光と影の不対称性(非対称性)、そして、自己意識の「反射」と「屈折」等も同様である。
 また、『 グノーシス主義においては、キリスト教で「ヤハウェ」と呼称される神以上に、さらなる神々の位階があるとされているそうです。ということは、不可知の根源から放出される光が、神々の媒体を通った後、ヤハウェによって「反射」または「屈折」され、その結果が我々の住む下界である、と見えるのではないかと思います。』
http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090935683.html#c10122297117
ということも、意味深長である。とりわけ、『ヤハウェによって「反射」または「屈折」され』という点が興味深い。(因みに、私はグノーシス主義はPS理論の観点から見直すべきように感じている。)
 「反射」と「屈折」、これがポイントであろう。私は先に、自己同一性の鏡像は差異のスクリーンに映出すると言った。これは、本来、+1の光を-1の映像に同化することではないだろうか。これが、同一性主義・自己同一性主義の発生ではないだろうか。
 このとき、当然、他者=差異は排除・否定されるのである。つまり、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。ここでは、明らかに、錯視があるのである。視覚の不思議である。しかし、不「思議」ではなく、明確に解明されるのである。つまり、本来、+1である光を-1の自己同一性鏡像=影として見てしまうということではないだろうか。
 これが、端的に、仮象としての現象界、ドゥルーズ的に言えば、模像(シミュラクル、シミュラークル)としての現象界である。【参考:http://matsuura05.exblog.jp/7663184/
http://www.asahi-net.or.jp/
~dq3k-hrs/simulacre/simframe.htm
因みに、偽装流行であるが、偽装とは、端的に、同一性仮象である。

 この仮象的現象界は、差異共振的光+1を排除しているのであるが、しかしながら、実際は、差異共振的光+1は生起しているのである。光を発現しているが、同時に、それを影=仮象・模像(シミュラクル)として、知覚するということではないだろうか。実際は光+1は発現しているのに、それを排除して影-1 として見てしまうということだろう。【この+1と-1との関係をどう公式化すればいいのか。後で検討したい。】
 この影による自己同一性=自我形成は、正に、自己陶酔(ナルシシズム)であるが、ここには、差異(差異共振)を排除する暴力があるのである。これを父権的暴力と言っていいだろう。原罪があるとするなら、これが原罪であろう。端的に、悪魔的である。悪魔的現象界である。
 この同一性主義メカニズムが、近代的自我主義、近代合理主義、封建的官僚制にあるのである。これが、また、差別のメカニズムである。ポスト・モダンが攻撃した二項対立のメカニズムである。
 この排除のメカニズムであるが、差異共振エネルギーを排除しているので、-1のエネルギーをもつと言っていいのではないだろうか。つまり、-1が+1のエネルギー(差異共振エネルギー、光のエネルギー)を排除すると考えていいのではないだろうか。【宇宙物理学で言えば、-1がブラックホールであり、それが、+1の光を排除するということと考えていいのだろうか。後で検討。】
 問題は、影(闇)が光を排除したとき、端的に、排除された光はどこに行くのか、何処に存するのか。何処に潜在するのか、である。思うに、内的光と外的光は共振する(共一という言葉を造語したいが)。そして、影が内的光・共一・外的光を排除するのであるが、直感で言えば、排除された光は、身体に潜在すると思われるのである。ここは微妙な問題である。排除された光はMedia Pointに潜在するとも言いたい気がするが、身体とMedia Pointとの関係を考えなくてはならない。
 その前に、確認しておこう。影とは実は、光の裏面ということではないだろうか。ここで、D. H. ロレンスの「われわれは光の背中を見ているに過ぎない」という言葉を想起していいだろう。つまり、dark sun(黒い太陽ではなく、不可視の太陽であろう。いわば、霊的太陽である。)こそ、真の光であるということである。光の現象面(仮象面・模造面)としての影ということである。これは、光と影の即非関係と見るのである。プラトン哲学で言えば、分有であろう。(こう考えると、これまでの考え方と整合化する。)
 では、いわば、光の先端である影が排除する光はどこに行くことになるのかという問題に戻ろう。光の排除とは、端的に、差異共振が否定排除されることである。だから、当然、Media Pointの排除である。私は先に、Media Pointにおいて、差異共振性は精神的身体を形成すると言った。だから、光の排除は精神的身体の排除であり、それは、端的に、内的身体の排除である。だから、排除された光は内的身体に行ったと考えていいだろう。
 そして、直感で言うと、Media Pointが差異共振的精神(心)であり、+1が差異共振的身体ではないだろうか。思うに、以前、モームの『月と六ペンス』の主人公の絵画や態度に関して(画家ゴーギャンをモデルとしたストリックランド)身体的霊性ということを言ったが、排除された光は内的身体における差異共振的精神であり、この身体的霊性に関係すると思われるのである。
 端的に言えば、排除された光は内的身体に潜在するということになるだろう。これで解明できたこととしよう。
 結局、光を排除する、影を中心化する同一性主義であるが、それは光を内的身体に排除しているということになる。そして、内的身体に、人間の徳、魂、精神、霊、心、善が存しているのである。プラトンの善のイデアは正に、ここに存するのであるし、カントの実践理性もここに存するのである。【カントは同一性知性批判(純粋理性とは、純粋同一性知性だろう)を原基としたので、差異共振性を不可知にしてしまったと考えられる。また、東洋哲学は、内的身体の哲学、即ち、内的身体哲学と言えよう。西洋哲学はトランス・モダン化するためには、東洋哲学の内的身体論を取り入れる必要があると考える。単に、抽象観念的知性では、差異共振性は捉えられないからである。鈴木大拙や西田幾多郎の理論は、禅という内的身体論に基づいているのである。また、ウスペンスキーは、東洋神秘主義から内的身体論に到達しているのではないだろうか。】
 だから、近代合理主義・近代的自我主義・封建的官僚主義とは、内的身体である善性を排除しているので、当然、悪性=悪徳=悪霊なのである。善性なき近代主義(もっとも、封建的官僚制は、純粋な近代主義ではないが、日本近代化においては、存続したのである。思うに、近代合理主義・近代的自我主義も官僚主義も父権主義という点では共通である。)なのである。【問題は民主主義や自由主義であるが、それは、基本的には、ルネサンス的Media Pointのエネルギーとプロテスタンティズムの含むイエス的差異共振主義を同一性的に基礎付けたものだと思う。だから、それは、基盤は内的身体=善性であると考えられる。端的に、自由とは、本来、この内的身体の精神性に存するのである。内的自由と言う方が明快であろう。】
 以上の検討から、本稿のテーマがより明快に解明されたと言えるだろう。結局、光と影(闇というより、eliot-akira氏の指摘通りに、影が的確である)の即非様相があるということである。これは、既述済みであるが、これで、これまで、私が経験してきた。差異共振的視覚経験をより明確に説明できるだろう。即ち、「私と立山連峰の銀嶺と一体である」という一種神秘的な経験は、影である銀嶺と「わたし」が内的身体の霊を介して、差異共振して、光(+1)を放出した精神現象であると言えるだろう。【そう、神秘主義はこの視点から確認されるべきである。反近代主義の芸術家は、多くが神秘主義的であるが、それは、差異共振的精神現象である光の体験を意味しているだろう。】
 ここで、銀嶺というのがポイントであろう。端的に、光が焦点化されているだろう。雪を頂いた山嶺は強度の光を放出していると言えよう。通常の影を超えて、光を放出していると考えられよう。この放出された光を私は視覚を介して、内的身体で共鳴して、差異共振体験を起したと考えられるのである。
 この銀嶺の強度の光とはどういうことなのだろうか。おそらく、単なる白い光では強度の光にはならないだろう。蛍光灯の白光を見ても、差異共振体験は起らない。何が異なるのだろうか。【ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を想起する。】
 思うに、白ということが一つのポイントである。これは、本来、色ではないのである。無色である。ということは、根源的な光、即ち、超越光を意味しているのではないだろうか。ここは実に微妙な問題である。先に、+1が光であると言い、それを影-1として見ると言った。だから、本来、光は差異共振エネルギーの現象化である。ということは、影を仮象ならば、光が超越光ということではないのか。ここは難問である。
 整理すると、影=同一性光とするなら、光=差異共振光=超越光である。用語が混淆してしまい、紛らわしいが、言わんとすることはわかるだろう。
 思うに、影=同一性光の場合は、色彩をもつのである。しかしながら、白光とは、本来、無色彩である。つまり、これは、根源的光、即ち、端的に、光ではないだろうか。
 銀嶺の白とは、この光を意味しているのではないか。だからこそ、「わたし」は視覚を介して、内的身体が賦活されて、銀嶺と差異共振化体験をもったのではないか。つまり、Media Resonance(メディア共鳴)であろう。即ち、雪を頂く山嶺におけるMedia Pointと「わたし」の内的身体のMedia Pointが共鳴したということではないのか。
 ならば、蛍光灯の白光はどうして当てはまらないのだろうか。端的に、強度の問題ではないだろうか。銀嶺の白光と蛍光灯の白光とは、強度が異なるのではないだろうか。端的に言えば、銀嶺は太陽の光を反射しているのであり、蛍光灯は光子を放出しているのである。確かに、銀嶺も光子を放出しているとは言えよう。同じ光子でも、何が異なるのか。
 強度が異なると言ったが、それは、言い換えると、Media Pointの開放の有無に存するのではないのか。思うに、太陽光の場合、Media Pointが開いた光であり、蛍光灯の白光は、Media Point が閉じた光ではないだろうか。いわば、後者は影ではないのか。この問題は難しいので、ここでおいておきたい。
 最後に問題は、色彩の問題である。光と影の問題から、色彩の問題が派生するのである。先ず、光を白とすれば、影は黒である。しかしながら、影は光の同一性面である。光は差異共振光である。【用語を整理しよう。+1を光とする。そして、影を「光」とする。すると、光とは差異共振「光」である。】
 影は差異共振「光」の同一性であり、ここにおいて、色彩が生起するのではないだろうか。例えば、緑である。しかしながら、ゲーテの色彩論でわかるように、補色関係が生起するのである。これは、端的に、差異共振「光」の側面に拠るものではないだろうか。
 おそらく、本来、緑と赤が共振した光であり、それが、同一性化によって、緑となるのである。思うに、赤に傾斜したために、緑が排除されて、緑が反射して、緑となるのではないだろうか。
 これは、自己認識方程式で言うと、+iを赤、-iを緑とすると、赤*緑⇒光である。しかしながら、赤に傾斜すると、(+i)^2⇒-1となり、これが、緑ではないだろうか。本来の光は、赤*緑である。しかし、赤に特化したので、緑を排除しているのである。だから、内的身体はバランスを取って、網膜に、赤の残像を発現させるのではないだろうか。
 これは実に興味深い問題である。差異の赤は差異の緑を排除して、結果、同一性の緑色となるのであるが、しかしながら、同一性=緑の基盤には、おそらく、同一性=赤があるのである。そう、これは、正に、構造主義であろう。つまり、差異共振「光」がMedia Pointから放出されるが、現象化において、同一性主義の傾斜が生起する。それが、個別の色彩である。
 具体的に言えば、赤*緑の差異共振「光」があるとしよう。例えば、赤に傾斜するとき、赤が中心化されて、緑が排除される。即ち、赤と緑の二項対立が発生する。そして、排除された緑が色彩として放出されると言えよう。これを見る人が、緑と知覚するのであるが、見る人の内的身体には、差異共振「光」があるので、放出された緑の「光」は、差異共振化されて、緑*赤の差異共振力学によって、赤を発生させるのではないだろうか。この赤が残像となるのではないだろうか。
 精緻化しないといけない。色彩を影=「光」とすると、それは、差異共振「光」の同一性主義化である。それは、他者を排除するのである。他者とは、差異共振「光」である。差異共振極性があり、それが傾斜して、同一性主義化=色彩化するとしよう。この色彩を緑とすれば、補色的に、赤が潜在している。では、この赤とは何だろうか。(長い論述となったので、稿を改めて検討したい。)
 

参照:
ゲーテの色彩論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

色彩論(しきさいろん Zur Farbenlehre)は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ が1810年 に出した著書。
ゲーテによる光のスペクトル
ゲーテによる闇のスペクトル

教示篇・論争篇・歴史篇の三部構成からなり、教示篇で色彩 に関する己の基礎理論を展開し、論争篇でニュートン の色彩論を批判し、歴史篇で古代ギリシアから18世紀後半までの色彩論の歴史を辿っている。


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eliot-akira氏から、たいへん刺激的な、有意義なコメントをいただきました
eliot-akira氏から、たいへん刺激的な、有意義なコメントをいただきましたので、ここで、新しい順に転載します。どうもありがとうございました。
 それぞれにコメントに対して、回答すべきですが、とても深い問題ですので、今は転載にとどめさせていただきます。できれば、後で回答したいと思います。

★★★★★★★★★★★★★★★

http://ameblo.jp/renshi/entry-100
91501933.html#c10123068157

■Media point と鏡像関係?

「+1と-1の二つの現象がある意味では同時生起するのではないか」

このあいだにゼロの両面鏡を置くことは出来るでしょうか?光と影はお互いの虚像を眺め合いつつある、と。

しかし光は影を作るが、影は光を作ることが出来ない。この不対称性にはどういう意味があるのでしょうか。

自己意識には何らかの「反射」と「屈折」が起こっているように感じます。直接の光(エロヒーム)ではなく、間接的な光(ヤハウェ)といえるかもしれませんね。
eliot-akira 2008-04-27 00:42:36

***************

http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090935683.html#c10122297117

■一神教の光

明月庵さんが扱われる題材はいつも刺激的で、興味深いです。そこで、自身の「無知の地平面」にも懲りずに、再びコメントさせていただきます。

グノーシス主義においては、キリスト教で「ヤハウェ」と呼称される神以上に、さらなる神々の位階があるとされているそうです。ということは、不可知の根源から放出される光が、神々の媒体を通った後、ヤハウェによって「反射」または「屈折」され、その結果が我々の住む下界である、と見えるのではないかと思います。

「不完全な神」とはうまく表現されたものだと感じます。光と闇が混合してしまっているんですね。

話は飛びますが、この差異性と同一性の考え方を、世界各国の通貨に当てはめれば、どう考えられるのでしょうか。たとえばユーロ通貨は同一性志向ですよね。貿易の流れを滑らかにする利点のほかに、問題点はあるのでしょうか。

言語についても似たような思考が展開できそうです。現在、英語教師の職に就いていますが、英語という言語が資本主義的な権力とつながっているのは、無視できない事実です。英語が世界言語として受け入れられてきている今、各地の言語が失われてきているのでは、と案じられています。

「言語的植民地主義」という造語が頭に浮かびました。
eliot-akira 2008-04-24 20:40:55



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http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090497975.html#c10121930545

■難解ですが興味深い・・・

海舌さんのサイトを訪れました。話の流れについていくのは難しかったですが、好奇心がくすぐられました。

ホワイトホールについて wikipedia で調べてみました。

「ブラックホールは事象の地平線を超えて飛び込む物質を再び外部へ逃さずにすべてを飲み込む領域であるが、ホワイトホールは事象の地平線から物質を放出する」

無の状態から物質や波動が放出されるというのは、熱力学上で不可能だと感じますが、ビッグバンの瞬間はどういう過程を通ったんでしょうか。不思議です。

「ブラックホールは最終的には蒸発することが予言されているが、このプロセスも時間反転に対して対称であるため、熱的平衡にあるブラックホールの時間反転解もブラックホール解である。そうならば、ブラックホールもホワイトホールも同じ物体として解釈され得る」

「時間反転」とは何なのか、具体的によく分からないのですが、数学的な操作でしょうか。正反対の働きをするものが、同じ物体として解釈され得るというのは矛盾しているようですが、つまりブラックホールとホワイトホールは連続する一つのものだという意味でしょうか。

「事象の地平線」とは詩的な表現で気に入ったので、追求してみると・・・

「情報は光や電磁波などにより伝達され、その最大速度は光速であるが、光などでも到達できなくなる領域(距離)が存在し、ここより先の情報を我々は知ることができない。この境界を指し「事象の地平面」と呼ぶ」

この事象の地平面を超えた領域は、我々の視点からは不可知なのだと理解しました。この領域は外側と因果関係を持たないとされています。

天の川銀河系の中心にブラックホールがあると読んだことがあります。これは我々の住む惑星は、不可知の暗黒を中心として旋回していると見られるのではないでしょうか。

全てを吸い込むブラックホールは虚界につながっているのかもしれませんね。とするとブラックホールの中心は一つの media point と言えるでしょうか。中心に接近するにつれて時空間が「引き伸ばされる」とも聞きます。これは「永遠の瞬間」に極限的に接近していくことだと見えます。
eliot-akira 2008-04-23 19:14:27

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2008年04月26日(Sat)▲ページの先頭へ
-1と+1の神学・哲学的意味について:ヤハウェとエローヒーム:闇と光:自我と自己
手元に邦訳がないので、原書の英文から引用する。

In the beginning Elohim created the heavens and the earth. The earth was without form and void, and darkness was upon the face of the deep; and the wind of Elohim was moving over the face of the waters. And Elohim said , "Let there be light," and there was light. And Elohim saw that the light was good; and Elohim separated the light from the darkness. Elohim called the light Day, and the darkness he called Night. And there was evening and there was morning, one day.
And Elohim said, "Let there be a firmament in the midst of the waters, and let it separate the waters from the waters." And Elohim made the firmament and separated the waters which were under the firmament from the waters were firmament Heaven. And there was evening and there was morning, a second day.

Joseph Campbell The Mask of God: the Occidental Mythology. p. 111(『神の仮面:西洋神話の構造』山室静訳 青土社)

これは、聖書の創世記の冒頭の英訳であるが、瞠目すべきは、創造神が、エローヒームになっていることであり、ヤハウェではないことである。
 これで、先に、ヤハウェは闇(-1)の神であり、エローヒームが光(+1)の神ではないかと言ったことが裏付けられると考えられる。そして、ヤハウェが創造神ではないことを確認すべきである。(これだけでも、聖書から一神教を引き出すのは、虚構であることがわかるだろう。)ということで、ヤハウェを闇の神、エローヒームを光の神と仮説して、さらに自己認識方程式の意味の考察を深めたい。
 問題は、現象界のことである。+1と-1の二つの現象がある意味で同時生起するのではないのか、という考えが浮かぶのである。言い換えると、同一性形成の問題をここでは考えているのである。即ち、これまで検討を重ねてきたように、同一性志向性において、差異的同一性と差異否定的同一性の二種類が発生すると考えられるということである。前者が神話で言えば、イシスとオシリスの関係、あるいは、エローヒームである。即ち、(+i)*(-i)⇒+1である。それに対して、後者は-[(+i)*(-i)]⇒-1と考えられるのである。後者は神話では、ヤハウェであり、哲学的には、同一性主義ないしは自己同一性主義(自我主義)である。
 思うに、人間において、この現象の二重性が発生していると考えられるのである。(植物、動物一般は、思うに、+1だけのように思えるのである。この点は後で検討したい。)
 端的に言うと、自己同一性主義(自我主義)で見ている光とは何なのだろうか。光は、方程式から、+1であると考えられる。それを、-1で知覚するということになるのだろうか。
 思うに、-1は同一性=物質の現象界であり、+1は差異共振性の現象界ではないのか。詩人や芸術家や古代人(中世人も含める)は+1の世界を見ているのであり、俗人や近代人は-1の世界を見ているのではないのか。
 問題は、物質である。+1の現象界を見ていても、そこには、同一性=物質があるだろう。しかし、それは、-1の現象界の同一性=物質ではないだろう。前者を+1の同一性=物質、後者を-1の同一性=物質と仮に呼ぼう。
 思うに、物理学的に言えば、前者は量子力学の物質であり、後者は古典物理学の物質ではないだろうか。つまり、前者は量子の粒子であり、後者は唯物論の物質ではないだろうか。
 問題は、光の知覚である。自己同一性主義-1が見る光とは何なのだろうか。それは、本当に、+1の光を見ているのか。聖書にもどれば、エローヒームが+ 1の光を生む。それに対して、ヤハウェは-1の闇を生む。自己同一性主義(自我主義)は-1である。闇が光を見るということなのだろうか。
 ここで上述した二重の現象界という考えを展開しよう。つまり、現象界は-1と+1が重なっているのではないのか。-1の闇と+1の光の二重性の現象界ではないのか。ここで、比喩的な言い方をするなら、闇の光と光の光が存するのではないのか。これだと混乱するので、黒い光と白い光と言い換えよう。
 問題は、+1にとって、-1とは何か、あるいは逆に、-1にとって、+1とは何か、ということではないだろうか。
 直観で言えば、+1にとり、-1とは、暗い影である。そして、-1にとり、+1とは何だろうか。やはり、一種の暗い影ではないだろうか。ただし、その場合は「自己」の内面の暗い影が投影されているのではないだろうか。ユング心理学のシャドウに相当するだろう。
 そう、整理すると、-1は闇という「物質」であり、+1は光という「物質」ではないだろうか。おそらく、ブラックホールとは、-1に相当するのではないだろうか。そして、ホワイトホールとは、その反転の+1ではないだろうか。それは、一種回帰ではないだろうか。
 ここでこの考えを敷延すると、-1の闇が悪魔であり、+1が天使ではないだろうか。ヤハウェは悪魔的神霊(悪霊)であり、エローヒームは天使的神霊(善霊)となる。ゾロアスター教で言えば、光の霊のアフラマズダが+1であり、闇の霊のアングラマイユが-1である。
 思うに、ゾロアスター教の最後の審判は、いわば、合理的である。何故なら、光の霊が闇の霊に勝利するからである。しかしながら、キリスト教の最後の審判、即ち、ヨハネの黙示録の最後の審判であるが、それはどうだろうか。
 問題は「父」である。それは、端的に、エローヒームではなくて、ヤハウェであろう。だから、ヨハネの黙示録の神はヤハウェであり、それは、闇の霊(悪霊)であり、そして、逆に、悪魔が光の霊(善霊)となるだろう。
 つまり、キリスト教の最後の審判は、悪霊の善霊に対する勝利となるのである。悪の勝利である。思うに、これが、ネオコンやブッシュの発想にあると考えられるのである。キリスト教原理主義は、悪霊主義ということである。
 これならば、イラク侵略戦争の心的原因がわかるのである。悪霊に支配されているならば、当然、殺戮は「積極的に」行なわれるのである。(この宗教的意義についてはここで留めたい。)
 最後にもう一度、-1=闇、+1=光について考察しよう。先に述べたが、私が10代に終り頃に述べた「光は暗く、闇は明るい」という言葉についてであるが、「光は暗く」の光とは、-1=闇のことではないのか。そして、「闇は明るい」の闇とは、+1=光のことではないのか。
 ここで、根本的な重大な問題は、通常視覚する光であるが、それは、闇(-i)と光(+1)が混淆しているものであるのか、ということである。
 ここで、思考実験するというか作業仮説するが、通常目にする光は、実は、-1の闇ではないのか。-1の闇を光と知覚しているのではないのか。そして、なんらかの時に、+1の光を知覚するときがあるのではないのか。それが、例えば、阿弥陀如来(無量光如来)ではないのか。あるいは、大日如来、天照大神、アフラマズダ等ではないのか。
 思うに、通常、日常は、この+1の光は隠されているのではないだろうか。そう、私がこれまで超越光と言ってきたものは、+1ではないのだろうか。(そうすると、理論的な整合性が崩れるので、整理する必要がある。)
 わかりやすく言えば、内なる光と言われるものが+1ではないのか。あるいは、崇高に感じるときの光、夕焼け等が。
 ここでは、プラトンの有名な洞窟の比喩を考えるといいだろう。洞窟の壁のスクリーンの影像が、-1である。そして、善のイデアである洞窟外の太陽が+1ではないのか。つまり、影を通常においては視覚しているということではないのか。
 思うに、-1の世界が空間三次元であり、+1の世界が空間四次元ではないだろうか。何故なら、+1の世界は、虚軸次元が入るからであるである。高次元が入るからである。時間次元を入れれば、-1は時空四次元であり、-1は時空五次元であろう。(もっとも時間次元については、精察する必要があるが。)
 とまれ、思うに、そのように見ると、光と闇のパラドクスが生じていると言えよう。確かに、「光は暗く、闇は明るい」となるだろう。つまり、闇とは、この場合、光(-1)の世界では見えない光である。
 ここで飛躍して、新約聖書について考えると、イエスのいう光とは、正に、+1の光であり、この世は-1であろう。しかしながら、俗人は+1の光が見えないのである。私がいう平和のイエスはこのイエスである。この点では、確かに、キリスト教は一面、光の宗教であり、ゾロアスター教的であると言えよう。差異共振の宗教である。(しかし、父=ヤハウェ=-1=闇の要素が入るので、悪魔化すると考えられる。)超越光の宗教である。
 問題は、闇=現象光と光=超越光の様相である。前者は後者を否定するので、いわば、不気味であろう。そして、後者は前者を超越するので、幸福的であろう。私が狂気というのは、当然、前者である。
 問題は、視覚的美とは何か、ということである。もし、普通の光が闇ならば、視覚美とは闇の美である。これが人を幻惑するものではないだろうか。確かに、闇の美があるのである。魔的な美である。
 民話等で、美と醜との道徳的な話しがあるが、そこでは、醜に道徳性があることを述べている。これは、端的に、視覚美が闇の美であり、魔的美であることをいましめているのではないだろうか。
 ならば、本当の美とは何かとなる。それは、当然、光の美である。崇高美である。醜の美となるのではないだろうか。
 今はここで留める。以上は思考実験であり、後で、再考したい。

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2008年04月24日(Thu)▲ページの先頭へ
超越エネルギーと一神教:差異共振性の光と一神教の闇:トランス・キリスト教と新東西文明
先に、超越的叡知存在の感受に関して考察したが、多神教的感性と一神教的感性では違いがある。この点を精察したい。
 今思ったが、前者はハイデガー的存在的感性であり、後者は自我的感性ではないかということである。ただし、ハイデガーは後者に傾斜してはいると思う。
 言い換えると、存在論的感性と一神教/自我的感性である。しかしながら、ヤハウェは「我在りて、・・・」であるから、自我存在の神である。デカルトのコギトの前身のようなものである。だから、ハイデガーの存在論を前者に適用するのは問題がある。やはり、ハイデガーの存在論は後者の方に近いだろう。
 端的に言えば、後者はMedia Pointからの同一性主義志向性のエネルギーを指すと言えるだろう。これは、自己同一性=自我志向性であり、これは、Media Pointの差異共振エネルギーを反転させた同一性主義エネルギーと考えられる。つまり、差異共振性を否定抑圧した自己同一性(自我)エネルギーであり、この否定抑圧の力動は差異共振エネルギーに対する反動エネルギーであり、絶対的衝動であると考えられる。だからこそ、これが、一神教エネルギーと考えられる。差異共振性、多神教性を否定する一神教エネルギーである。
 これは端的に、狂暴なエネルギーである。野蛮なエネルギーである。これこそ、闇のエネルギーではないのか。聖書では「光あれ」というが、これは、闇ではないのか。問題は自己同一性主義志向性は光の放出なのか、それとも、闇の放出なのか、である。
 これは実に根本的問題である。自己認識方程式は、光の放出でもあるが、そこでは、自我が自己であることを確認することを意味しているのである。
 しかしながら、同一性主義志向性はそうではなくて、左辺を否定抑圧しているのである。だから、同一性主義志向性=自己同一性主義志向性=一神教的自我志向性とは、⇒+1ではなくて、⇒-1ではないだろうか。-1としてのヤハウェ(超越神・唯一神)ではないのか。
 思うに、-1を闇ないしは月と象徴していいのではないだろうか。そして、+1を光ないしは太陽としていいのではないだろうか。【イスラム教が月をシンボルにしているのが参考になるのではないだろうか。また、神道が太陽をシンボルにしているのも参考になるだろう。】
 そうすると、闇の神であるヤハウェが「光あれ」というのはどういうことなのだろうか。ずいぶん以前に、エローヒーム(神の複数)とヤハウェを区別したことがあり、そのとき、創造神はエローヒームではないかというようなことを言ったかもしれない。
 とまれ、ヤハウェを闇の神とすると、光の神は別に考える必要がある。それがエローヒームではないだろうか。この点の問題に関して、以前何度も考察したことがあるが、思うに、差異共振的同一性を形成する神があり、それは、例えば、イシスとオシリスであろう。イシスが差異共振エネルギーであり、オシリスが⇒ +1の光である。これが、母権多神教の「創造」=造化である。
 それに対して、一神教の創造神が発生して、差異共振エネルギー=イシスを否定し、当然、光のオシリスを否定して、天地創造を行なうが、このときの太陽神とは何か。例えば、バビロニア神話におけるマルクトによるティアマトの殺戮による天地創造と太陽神シャマシュの場合である。
 英雄マルクトと太陽神シャマシュを結びつけて考えていいだろう。この統合態の帰結に一神教形成を見ていいだろう。つまり、ヤハウェの形成である。ならば、太陽神シャマシュの光とは、本来の光ではなく、ヤハウェの闇ではないだろうか。
 自己同一性主義は闇であるが、光と表象されるのは、何故か。この自己同一性主義=自我主義とは自我合理主義であり、物質的合理主義に帰結すると考えられる。
 この自我合理主義=物質的合理主義が光と表象されるのであろう。言い換えると、本来、闇である-1が光と錯視されるのである。
 思うに、これは物質的光と見ていいだろう。同一性の光である。これは、古典物理学の光と見ていいだろう。ニュートンの光である。
 ということで、近代主義は、本来、闇を光と見ているということになる。ここで、私が10代終わりの頃言った「光は暗く、闇は明るい」【記憶があいまいで言葉が違っているかもしれない。光は冷たく、闇は暖かいであったかもしれない。もっとも、言わんとしていることは同じである。】というアフォリズム的な言葉が証明されるだろう。近代主義の光は実は暗く、反近代主義の闇の心性に本来の光があるという意味になる。
 とまれ、一神教の帰結である近代合理主義は闇であるとここで証明されたであろう。また、物質主義も闇である。資本主義も同一性交換価値を至上価値とする限り、闇である。
 最後に整理すると、一神教の問題は、結局、光と闇が混淆していることであり、また単に混淆しているだけでなく、倒立転倒倒錯していると考えられることである。光が闇となり、闇が光となっているのである。つまり、例えば、キリスト教のいう光とは本来、闇であり、闇が光になるということである。だから、ヨハネの黙示録の最後の審判は、悪魔主義的である。悪魔の最後の審判である。神が悪魔となり、悪魔が神となっていると考えられる(参照:D.H.ロレンスの『黙示録論』)。
 【キリスト教の問題は、複雑であり、既述したように、二種類のイエスを想定するのが妥当だと考えられるのである。一つは、闇のイエスである。自我主義のイエス、悪魔のイエスである。戦争狂のイエスである。もう一つのイエスは、光のイエスであり、差異共振性のイエス、天使のイエスである。平和のイエスである。言い換えると、ヤハウェの子のイエスであり、太母の子のイエスである。】
 結局、一神教によって、差異共振理性=叡知(ソフィア・般若)が否定抑圧されたのであり、そこで、人類の叡知文化が否定されたと考えられるのである。叡知文化は異教や異端として否定されてきたのである。悪魔的キリスト教が暴虐野蛮な世界を生んだのである。【p.s.  ここでは、やはり、筆が滑っている。民主主義とは、差異共振理性=叡知の同一性形式化と考えられる。差異を同一性化して、平等化したのである。ここでは、差異が同一性として肯定されているのである。しかしながら、差異自体が肯定されていないので、反動化するのである。】
 父権一神教の狂気にあって、差異共振理性=叡知は、少数者によって探求され、保持されてきたと言えよう。哲学者、芸術家、詩人・作家、宗教者、革新的科学者、真民衆等はこれらのために戦ってきたのである。
 しかしながら、近代・現代西洋文明にあって、一神教的同一性主義が中心化して(ロゴス中心主義)、全体主義が生起しているのである。資本主義、とりわけ、国家統制主義と結びついた巨大資本主義が、同一性主義を中心化させて、世界は牢獄的になっているのである。
 問題は、差異共振理性=叡知の喪失にある。これをこれまで、証明できなかったのであり、単なる理想としか理解されなかったのである。しかしながら、プラトニック・シナジー理論は、Media Pointという概念によって、この差異共振理性=叡知の実在性を解明したと考えられる。
 ここを精神の起点とすることで、キリスト教的西洋文明の分裂性を乗り越えて、トランス西洋文明、新東西世界文明が創造されると考えられるのである。

参考:

★ 2008年4月24日 木曜日 、8時更新
 今朝は大雨だが、やはり非常体感が続いている。八丈M5.6以降抑圧が続いていて、今夜にも解放があると思う。前駆微震らしきも続き、この数日は家屋のラップが絶えなかった。雨が上がり、気圧が上がってゆくなかでトリガー作用が発生する。
 震源は、行徳データくらしか材料がないが、やはり房総沖方面を予想している。

 地球温暖化現象について、炭酸ガスによる保温作用と、太陽活動説に二分化し対立が起きているようだ。
 筆者が、はじめて地球温暖化の深刻さに気付かされたのは1970年代、日経サイエンス誌上のレポートであった。正確な記憶はないが、今日、起きている北極融氷、ツバス水没など、ほとんどの現象が30年以上前に完全に予測されていたと思う。槌田レポートも1980年代に、今起きている事態を正確に予測していた。いずれも、炭酸ガス増加を基本原因と指摘していた。
 太陽活動説については、まだ明確なレポートに接しておらず、この数年、指摘されはじめたことで、筆者はよく分からない。分かっていることは、周期的な黒点活動であるサイクル24のレベルが、過去一度も観測されたことのないほど激しいものになりそうだということ。これと地球地殻変動と密接な関係がありそうだということだ。
 筆者としては、両者の複合的、相乗的作用だと認識しているが、「権力に都合の悪い情報が隠蔽される」という大法則からすると、実は、まだ公開されていない温暖化要因があると思っている。
 その最大のものが、原発温排水による海洋温暖化だ。海洋温度は、同じ1度で大気温度の数千倍の作用が起きるとされ、気象擾乱に大いに関係している。さらに、地殻変動による地熱との相乗作用もあるだろう。また中国やロシア旧東欧地域での環境負荷産業は、独裁政権の政治的思惑によりほとんど隠蔽されているといわれる。
 いずれにせよ、真実が明らかになったときは、人類滅亡の鐘が鳴り響いていることだろう。
 他人に対して「親子兄弟のように一緒に生きよう」 と考えず「自分たちさえ良ければ、他人は滅亡してもかまわない」とする独善的姿勢が人類滅亡を呼ぶのである。過ちを犯した加害者を自分の親子兄弟のように考えることができなくなって、「殺してしまえ」と叫ぶ人たちには滅亡がふさわしい。

 【旧住宅金融専門会社(住専)の大口融資先だった不動産会社に資産の差し押さえを免れるように指示したとして、強制執行妨害罪に問われた弁護士、安田好弘被告(60)の控訴審判決公判が23日、東京高裁で開かれた。池田耕平裁判長は、1審東京地裁の無罪判決を破棄し、罰金50万円(求刑懲役2年)の逆転有罪を言い渡した。
 判決によると、安田被告は、不動産会社社長(72)=懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決確定=らと同社の所有するビル2棟の賃料の差し押さえを免れるため、平成5年3月〜8年9月、ビルをダミー会社に転貸したように装い、計約2億円を隠した。 安田被告が、ビルを別会社に転貸して賃料を移し替えるというスキームを考案したことには争いはない。控訴審では、このスキームが強制執行を免れる目的で提案されたものか否か▽社長らとの共謀の有無−などが争われた。
 検察側は、安田被告が提案したビルの転貸は「結果的に強制執行妨害を生じさせることは明らかで違法」と指摘。共犯者の供述などからも「共謀が認められる」と主張していた。 一方、弁護側は1審の約1200人を大きく上回る約2100人の弁護団を結成。1審同様に「事件は捜査当局が作り上げたもの」などと無罪主張していた。 安田被告は、22日に広島高裁で死刑判決が言い渡された山口県光市の母子殺害事件など多くの刑事事件で弁護人を務めているほか、死刑廃止運動の中心的存在としても知られる】

 一審では完全無罪が宣告され、検察の陰謀さえ判決で指摘されたが、二審では見事に、権力のでっちあげ弾圧判決が復活した。筆者も、三井環事件と同じで、「ここまでやるか?」 と驚愕するしかなかった。これでは、全国の弁護士の、あらゆる弁護活動が犯罪として認定されることになる。詭弁を通り越して、まるで中国政権の傲慢なやり口を見ているようだ。
 「この国は、もうオシマイだ」と思ってはいたが、ここまで権力が腐敗すると、論評の意欲も失われた。死刑制度の本質が理解できる読者にだけ呼びかける。
 日本国民9割の死刑賛成者は、やがて来るべき警察国家、もの申せば獄中、処刑という特権階級の利権を守るための奴隷社会がやってくることを理解できない。説得可能なのは、死刑賛成者が6割程度までだろう。もうダメだ。彼らは、アメリカと同様、国民の1割が刑務所にぶち込まれる悲惨な奴隷社会を享受することになるだろう。
 逃げよ逃げよ、すべての都市から! ノストラダムスの警告が聞こえる。心ある者、他人を自分の親子兄弟のように思いやることのできる者たちは、今すぐ団結して、過疎の田舎で農業共同体を作ろう。貧しくとも連帯に支えられて暗黒の時代を堪え忍ぼう。
 やがて9割の死刑賛成者たちは死滅するだろう。累々たる焼け野原の跡に、人間解放のすばらしい時代を一から作り直そう。


 「組織と効率化がもたらす破綻」について、続けて余談連載するつもりだったが、重大な出来事が相次いで見込みがうまくゆかない。
 光母子殺人事件を端緒とする死刑論議について、あまりに論理的、人間的レベルが低い書き込みが続くので、筆者はうんざりして反論の意欲もわかない。ネット掲示板に意見を書き込む人たちは、「理性」について考えたことがないのだろうか?

 何度も同じ例を出して恐縮だが、道路で車を運転していれば、必ず人を怒らせるアホがいっぱい出てくる。誰もいないところでのスピードオーバーやコーナリングまで文句を言うつもりなどないが、危険な割り込み、追い立て、意図的なノロノロ走り、走路妨害など事故に結びつく自分勝手な運転には非常に腹が立つが、だからといって、いちいち文句をつけて、気に入らないからと感情のままに殴りかかってばかりいる人は滅多にいないだろう。

 そのときはカッとくるが、よく考えてみれば、自分でも他人の迷惑になる運転をしたこともあり、単に未熟なのかもしれない。また、危険運転常習犯は、いつか必ず事故を起こすにちがいないから、いずれ天が成敗するさ、などと考えて、我慢することが多い。
 いちいち感情の赴くままに怒って仕返ししたりすれば、今度は自分が、みんなの迷惑になってしまう。だから怒っても「ちょっと待て! どっちがトクか、よーく考えよう」 と落ち着いて最善手を判断するのだ。これを「理性」と呼んでいる。
 感情のままに行動する人を「未熟者」と呼び、全体の動静を見極めて、最善手を考えて行動できる人を「理性的」と呼んでいる。感情だけなら犬でも猿でもニワトリでも同じことだ。人間が、それらの動物と決定的に異なり、人間らしさをなしている本質が「理性」なのだ。

 筆者は、死刑問題について、この人間らしい理性をもって判断せよと主張している。
 悪質な犯罪に怒って、「犯人をやっつけろ!」と思うところが感情の作用である。何も怒るなとは言っていない。本村氏の立場にあって怒らない者がいるものか。しかし、そこで犯人を絞首刑にすれば、一時の感情、復讐心は満足するかもしれないが、それで問題が解決したわけでは決してない。
 大切なことは、未熟な18歳の少年が暴走し二人を殺害するような愚かな過ちが繰り返されないようにすることだ。少年をロープで吊して殺して問題が解決したと思うなら、それこそ真の愚か者である。今、掲示板に書き込まれている死刑賛成の論旨は、一見、理性的なように見えて、実は理性のカケラもなく、復讐、報復の感情の立場を一歩も超えていない愚劣なものばかりだから心底うんざりするのだ。

 もし死刑賛成者に理性があるなら、それが未熟な少年の暴走を、どう防ぐのか? 「やったら殺すぞ!」と恫喝して防ぐのか? それとも、少年が暴走に至った真の原因を分析し、少年たちが心安らかに社会に貢献できるよう、暖かい心を育てるために行動するのか? このメカニズムを分析し、社会にとって最善手を提唱するものになるはずだ。
 筆者は、人を恫喝し、恐怖心によって統制しようとする愚か者たちを批判し徹底的に軽蔑し、彼らと真正面から対決しようとしている。我々の目指す社会は、恫喝や恐怖で支配する中国や北朝鮮のような社会では絶対にない。
 未熟な少年たちを、暖かい心に育てるために、人を追いつめない暖かい教育を行い、他人の利益に奉仕することが、人生の喜びを産み出すことを教え、すべての人たちが、地球上すべての人間を、自分の親兄弟のように感じて、連帯して生きる楽しさを味わう社会なのである。

 今、掲示板に書かれている、死刑賛成の書き込みのなかに、そうした理性のカケラでも見いだせるだろうか? 悪に至った理由を考えもせず、「自分の命で責任をとれ!」 だけの、支配者に飼い慣らされた番犬の発想であり、他人の過ちを自分のこととして捉え、暖かく、愛情のなかで解決しようとする姿勢が皆無ではないか? これでは、すべての心は閉ざされる。人は短所を指摘され、けなされ、報復、制裁されることで、憎しみしか生み出さない。憎しみが社会の何を改善するというのか? こんなことが分からないで、馬鹿の一つ覚えのように「責任」を強調したがる者よ、君が失敗したとき。本当に責任をとったことが一度でもあるのか?
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm
   

東海アマ地震予知情報 ニュー東海アマ

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2008年04月23日(Wed)▲ページの先頭へ
eliot-akira氏のコメントに暫定的に答える、他
eliot-akira氏のコメントに暫定的に答える

テーマ:検討問題

以下、eliot-akira氏のコメントを転載します。とても、鋭い質問だと思います。後で答えたいと思います。
 今簡単に言いますと、以下の最初の質問に関しては、既に、Kaisetsu氏が説かれています。おっしゃる通り、二次元、三次元が可能になると思います。以下のKaisetu氏のブログを参照してください。
http://theory.platonicsynergy.org/

Theories for the Platonic Synergy Concept.

 また、二番目の質問はたいへん興味深いと思います。私は、ホワイトホールのことは考えていませんでした。
 「光を吸収する」ことと「闇を放出する」こととは、とても興味深い事柄だと思います。これも考え方の問題があると思います。例えば、電子を考えると、陽電子があります。電子の流れと陽電子の流れが正反対になると思います。これを使えば、「光の吸収」が「闇の放出」になるのではないでしょうか。(p.s. これは不明瞭な言い方です。電子・陽電子を考えるなら、「光の吸収」と「闇の放出」は同じ事態であっても、異なる事象になりますね。だから、次に言う別の事象という方が適切だと思います。)
 また、両者、別の事象と考えることも可能だと思います。後で、検討したいと思います。
 ホワイトホールですが、よくはわかりませんが、おっしゃる通り、ブラックホールが-1ならば、ホワイトホールは+1になりますね。そして、±0というのは、その通りだと思います。
 

*****************

■質問

Media point を一次元とすると、二次元の media plane や三次元の media space などが可能なのかもしれないと考えが浮かびました。どうでしょうか?

もし不可能なら、なぜそうなのでしょうか。
eliot-akira 2008-04-21 03:38:16

http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090011698.html#c10121102357



■Whole=Black & White?

これは興味深い題材です。

「光を吸収する」というのは「闇を放出する」ことと同じでしょうか?

ブラックホールに対称するホワイトホールというものがあると聞いた事があります。前者によって吸収される物質や波動が、後者によって放出されるとのことです。これが +1 と -1 によって表現されているのでは?

ということは宇宙という等式において±0という究極的なバランスがある、と見なすことが出来るのかもしれませんね。
eliot-akira 2008-04-17 14:50:36

http://ameblo.jp/renshi/entry-
10089001746.html#c10119810222


********************

母子殺害と犠牲:差異をむき出しにする「神」:絶対的特異性と差異共振性

テーマ:法:憲法・法律・司法・裁判・検察・条約

ここで少し大胆な発想を許されるなら、もし、母子殺害を神が少年に命じたとするならどうだろうか。(それは神ではないという反論は当然あるし、私もそう考えるだろう。)
 ここで、有名なキルケゴールの『おそれとおののき』と考え合わせるとどうだろうか。神はアブラハムに子どものイサクをささげるように告げられて、正に、そうしようとした瞬間に神のストップが入ったのである。しかし、奉献しようとしたのは事実である。
 これを延長して、神へのささげものとして、母子殺害を命じられ、そうしてしまったとしたらどうだろうか。その神が絶対神としたらどうだろうか。神の正義は殺人を命じたのである。しかし、地上の正義は、それは悪とみなす。
 そう、デリダは『死を与える』でこの問題を論じて、結局、現代のわれわれは、日々、アブラハム的奉献を行っていると虚をつかれるようなことを述べている。
 「本土」人は、沖縄人(びと)をアメリカにささげている。原発では、地方の人を、経済のためにささげている。等々である。
 そうすると、この犠牲とはいったいなんなのだろうか、ということになろう。ここに示唆されているのは、きわめて深いアイロニーではないのか。そう、ゆるしの問題ではないのか。特異性=差異共振性の問題だと思う。【p.s.  ここでは、筆がいわばすべっている。アブラハムの場合は、犠牲が苦悩を伴うのであるが、沖縄や原発の場合は苦悩を伴っていない。後者の場合は、犠牲者のあり方が特異性になりうるだろう。差別された側にこの特異性の試練がありうると思う。そう、ヨブ記に似ていると思う。聖書はこの特異性の倫理のあり方を問うている。後で、整理し、再検討したい。p.p.s. もっとも、事実としてみれば、「本土」人が沖縄人を「捧げている」と言えるだろう。だから、キルケゴール/デリダの哲学的事態である。ならば、母子殺人事件はどうなのか。沖縄人を捧げているのとどう違うのか。いったい、裁く権利が我々にあるのか。ここで、カミュ的な問題に逢着する。後で検討を深めたい。】
 関係性が丸裸にされて、根源的な差異がむき出しにされるのではないのか。この根源的な差異が特異性であり、ここから、差異共振性、根源的差異共振性が発するのではないのか。いわば、絶望的希望である。地獄的天国である。
 同一性をすべて剥がされたところから始まる根源的関係性がここでは問題になっているのではないだろうか。そう、正に、絶対矛盾的自己同一である。ニーチェが憐れみを否定するのは、このような意味があるのだろう。

******************

<光母子殺害>元少年に死刑判決 裁判長は新供述「不自然不合理」、情状「斟酌する理由みじんもない」

4月22日12時27分配信 毎日新聞

<光母子殺害>元少年に死刑判決 裁判長は新供述「不自然不合理」、情状「斟酌する理由みじんもない」

拡大写真

光母子殺害事件の差し戻し審が開かれた広島高裁302号法廷=2008年4月22日午前9時55分、代表撮影
 山口県光市で99年4月、母子を殺害したとして殺人と強姦(ごうかん)致死罪などに問われた当時18歳の元少年(27)に対する差し戻し控訴審の判決公判が22日午前、広島高裁であった。楢崎康英裁判長は「強姦の目的や計画性も否定できない」として、求刑通り死刑を言い渡した。元少年が差し戻し審になって新供述を展開したことを「不自然不合理」とし、弁護側が主張した情状面について「斟酌(しんしゃく)する理由はみじんもない」と述べた。

【関連写真特集】 光母子殺害事件、元少年に死刑判決

 最高裁は06年6月、高裁が認めた情状酌量理由を「死刑を回避するには不十分」として1、2審の無期懲役判決を破棄し、高裁に差し戻した。

 判決によると、元少年は99年4月14日、光市のアパートに住む会社員、本村洋さん(32)方に排水管検査を装って上がり込み、妻の弥生さん(当時23歳)を強姦目的で襲い、抵抗されたため手で首を絞めて殺害。泣き続ける長女夕夏ちゃん(同11カ月)を床にたたきつけた上、首にひもを巻き付けて絞殺した。

 元少年は差し戻し審の公判で、弥生さん殺害について「甘えたい気持ちで抱きつき、反撃され押さえつけたら動かなくなった」とし、夕夏ちゃんについて「泣きやまないので抱いてあやしていたら落とした。首を絞めた認識はない」と述べた。

 供述を変えた理由については、「自白調書は警察や検察に押し付けられ、1、2審は弁護人が無期懲役が妥当と判断して争ってくれなかった」とした。

 判決は「弁護人から捜査段階の調書を差し入れられ、『初めて真実と異なることが記載されているのに気づいた』とするが、ありえない」と、元少年の主張を退けた。

 また、弥生さんの殺害方法について元少年が「押し倒して逆手で首を押さえているうちに亡くなった」としたのに対しても、「不自然な体勢で圧迫死させるのは困難と考えられ、右手で首を押さえていたことを『(元少年が)感触さえ覚えていない』というのは不自然。到底信用できない」とした。夕夏ちゃん殺害についても、「供述は信用できない」と否定した。

 また、元少年が強姦行為について「弥生さんを生き返らせるため」としたことについて、「(荒唐無稽こうとうむけい)な発想であり、死体を前にしてこのようなことを思いつくとは疑わしい」と退けた。

 判決は、「身勝手かつ、自己中心的で、(被害者の)人格を無視した卑劣な犯行」と断じた。

 1、2審は殺害の計画性の無さや更生可能性を重視して無期懲役を選択。最高裁は強姦目的や殺害方法などの事実認定を「揺るぎない」と判断し、情状面からも「量刑は不当で、著しく正義に反する」として審理を差し戻した。

 事件当時、元少年は18歳30日。少年法は18歳未満の被告に死刑を科すことを禁じている。2審の無期懲役判決を差し戻した死刑求刑事件は戦後3例目だが、他の2件は死刑が確定している。【大沢瑞季、安部拓輝、川辺康広】

【特集】 光母子殺害事件 判決の注目点を整理
【関連記事】 光母子殺害:【本村洋さん会見詳細】<1>「裁判所の見解は極めて真っ当」
【関連記事】 光母子殺害事件 検察側の弁論要旨
【関連記事】 光母子殺害事件 弁護側の弁論要旨
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080422-00000006-maiall-soci


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身体の欠陥と精神:心身関係:Media Pointの精神的身体性:心身相関

テーマ:医学・病気

うつ病は私の周囲にも多い。実母がもう10年近くのうつ病である。おそらく、治らないだろう。
 うつ病は心の病ということで、原因をストレスに見るのだろうが、私は、意外に、身体の故障から精神的障害が生じることもあるのではないかと、逆説的なことを思うのである。
 先に簡単に触れたが、結局、Media Pointが根源であり、ここは、いわば、心と身体が一如である。精神的身体、霊的身体、魂的身体であり、これが基盤・基底となり、物質的身体、肉体が形成されると今は仮説している。
 この根源的な精神的身体は、心であり、且つ、身体である。また、心であり、同時に、身体ではないという即非態でもあろう★。(スピノザの心身平行論は、この精神的身体を仮説すると簡単に説明がつくだろう。スピノザは、この側面を考えなかったのである。)
 だから、当然、心に乱れが生じれば、それが、身体へ影響するのであり、身体に乱れがあれば、心にも影響を及ぼすと言えよう。うつ病の場合は、一般には、前者の場合であり、私がここで述べたいのは、後者である。
 ここで話を拡大して言うと、近代的自我=近代合理主義の狂気と私が言うところの精神のあり方であるが、それは、意外に身体の欠陥から発しているのではないのかと思ったりするのである。
 そう、なんらかのトラウマの可能性はあるが、それ以外に身体の問題がないのかという考え方はどうかということである。
 たとえば、ストレスがあるので、胃潰瘍になるという風に普通は考えられるが、私の作業仮説は、もともと、胃に問題があるので、ストレスの影響を受けやすいのではないのかということである。
 そう、心身相関である。肝臓の悪い人は、どこか精神に問題を抱えていないだろうか。肺臓の悪い人、膵臓の悪い人、心臓の悪い人、等々である。
 私が言いたいことは、結局、きわめて伝統的な心身観(東洋的身体観)に返ることになる。心臓が感情の身体であるというような考えである。肝臓が肝(きも)であり、肝っ玉(大胆さ)を宿すということである。
 この考え方は、Media Pointが精神的身体であるという視点から必然的に出てくるものである。後で精緻に考えたい。

★ここの心と身体の即非性は、直感で言っているので、少し分析が必要である。Media Pointにおける差異=イデアが、心を生み、また、身体を生み出す。これは、同時であるが、様相は異なるのではないだろうか。
 少し、測深想像考察してみよう。Media Pointにおいて、差異共振性と同一性志向性が発生する。後者はフッサールの志向性(ノエシス)と見ていいだろう。それが意識、純粋意識である。しかしながら、前者の差異共振性であるが、それは、いわば、無意識になるのである。そう、無意識であり、身体を形成すると思われる。そして、一般には、身体を物質的身体と捉えるのである。しかしながら、これは、実際は、イデア的身体(差異的身体、差異共振的身体、霊的身体、精神的身体、魂的身体)である。
 だから、この点では、心と身体とは、確かに、即非関係にある。もっとも、この心は同一性的心である。同一性知性である。しかし、精神的知性がありうる。それはどういうものだろうか。
 精神的知性とは、差異共振性=無意識の知性である。それは、また、身体に通じている。端的に言えば、差異共振性=無意識/身体である。だから、精神的知性と身体との関係は、この場合は、イコールではないが、一如であろう。そう、微妙な点がある。
 いったい、差異共振的知性=精神と身体とはどう関係するのか。何故なら、差異共振性も身体であるからである。極言すれば、身体的知性が精神である。この点においては、精神・即非・身体と言うことができる。
 ここでついでながら言うと、Media Pointのもつ差異共振性であるが、それは、超越光の精神的身体(差異共振的身体)と言えるだろう。同一性知覚(通常の視覚)の見る光とは、この超越光の精神的身体から少し洩れる超越光の光輪のようなものではないのか。D.H.ロレンスは光が背を向けていると言っていたが、正に、そうだろう。超越光の背中をわれわれは、現象界において、見ているに過ぎないのだろう。
 思うに、仏像の光背は、超越光を表現しているのだろう。後光とは、正に、裏返しの超越光から洩れるものだろう。
 
*****************


うつ病治療、4人に1人が中断
 うつ病や関連の疾患で受診した経験がある人のうち、症状が治まっていないにもかかわらず、治療を中断するケースが少なくないことが、ファイザーの調査で分かった。精神医療の専門家は「患者が疾患を理解し、安心して治療に専念できる環境を創出できるよう、医師側の意識をさらに高めていく必要がある」と指摘している。(医療介護情報CBニュース)
[記事全文]


# うつ病の治療の基本 - 重症度の波。うつ病治療.com
# 心の風邪「うつ病」を休養と薬でゆっくり治そう - healthクリック
# 家族のための対応ガイド - NHK「うつサポート情報室 」

# 受診経験のある患者における受診行動調査 - ファイザー

# 20〜30代で急増する「社内うつ」 - 日経BP(2006年3月24日)

# 心のケア - Yahoo!トピックス
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/
domestic/depressive_disorders/

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2008年04月21日(Mon)▲ページの先頭へ
癌化抑制遺伝子と差異共振性:霊主体従と健康ver2
(最初に書いたものが支離滅裂だったので、書き直すことにする。)
健康維持とは差異共振性(差異共振エネルギー)によると考えると、病気とは、その否定である連続的同一性主義であることになるだろう。
 この考え方は、いわば、霊主体従(精神が主であり、肉体が従である)という考え方に通ずるだろう。(とは言え、病気の場合は、通常の物質的医学にかかることを私は勧める。この点については後で検討したい。)
 以下の記事に適用すると、癌化抑制遺伝子「p53」は、差異共振性と関係すると思われる。そして、連続的同一性主義(自我主義)の場合、⇒-1でこれが癌化と関係するということになるだろう。
 精神と肉体の関係は複雑であり、簡単には霊主体従とは言えない。ここでは、遺伝子と精神性のなんらかのつながりを示唆するに留めるものである。
 私は霊的治療はありえると思うが、基本的には、物質的医学を奨める。何故なら、物質的身体とは本来、精神的身体(霊的身体・魂的身体、つまり、 Media Point身体)であり、物質的医療は、その精神的身体の物質的末端に作用して、精神的身体を正常化すると思われるからである。つまり、霊主体従という言い方は語弊があるというか、ミスリーディングである。即ち、霊自体がMedia Pointにおいて、身体化するのである。そして、この身体を物質的医療が治癒すると考えられるのである。推測するに、物質的治療が、精神的身体の末端の物質的身体を介して、精神的身体を正常化するのである。
 もし、霊的治療(例えば、祈祷)を主にすると、この末端の物質的身体に関与することができずに、物質的身体が悪化して、病状が悪化すると考えられる。

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<がん細胞>増殖加速遺伝子を解明 日医大チーム

4月20日22時15分配信 毎日新聞

 がん細胞がエネルギー源であるブドウ糖を取り込む一連の仕組みを、日本医科大の川内敬子助教と田中信之教授(分子生物学)らが発見した。この仕組みを遮断する薬剤を開発すれば、「兵糧攻め」でがん細胞の増殖を抑えられることになる。

 研究チームは、細胞が、がん化するのを抑制する遺伝子「p53」に注目した。マウスの細胞でp53を除去すると、がん化するだけでなく、別の遺伝子「NFκB」の働きが活発になっていることに気付いた。

 詳細に調べると、NFκBが、がん細胞のエネルギー源であるブドウ糖を取り込む別のたんぱく質を増やし、がん細胞の増殖を加速させることを突き止めた。p53が働かなくなると、NFκBが活性化し、がん細胞へのエネルギー供給が進み、増殖するという流れを解明した。また、正常な細胞では、がん細胞の増殖に不可欠なブドウ糖分解を起こすNFκBの働きを、p53が「ブレーキ役」となって抑制している仕組みもわかった。田中教授は「p53の機能を回復したり、NFκBの機能を抑えれば、新しいがん治療薬の開発につながるだろう」と話している。英科学誌ネイチャー・セル・バイオロジー(電子版)で発表した。【奥野敦史】
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080420-00000080-mai-soci

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検討問題:イデア知性とイデア界の関係について
先にイデア知性とは、エネルギーを包摂している知(理念知性)であると言ったが、そうすると、イデアとMedia Pointとイデア知性とのかんけいはどうなるのだろうかと思うのである。
 イデアは虚軸上の超越的差異の様相である。問題は、イデア界とMedia Pointとの関係を明確にすることである。言い換えると、イデアとイデア・エネルギーとMedia Pointとの関係はどうなのか、である。また、私がいうイデア知性との関係はどうなのかである。これは、実に根本的な問いである。
 今は余裕がないので、検討できないが、一言いうと、イデア・エネルギー(エネルゲイア)は、Media Pointで発生するだろう。しかし、同時に、同一性志向性が発生する。正確に言えば、連続的同一性志向性が発生するのである。だから、通常、このイデア・エネルギーを同一性的に捉えてしまうのである。
 しかし、私が言うイデア知性とは、イデア・エネルギーを同一性とは不連続なものとして捉える知性である。だから、不連続的知性、即非的知性とでも呼べるものである。ここが大ポイントなのである。これを知性的に捉えたのは、これまで、鈴木大拙とウスペンスキー、他くらいであろう。(しかしながら、真の民衆はこれを直感的に捉えているものである。霊性である。)
 そう、一神教は、この、本来、不連続的なイデア知性を、同一性化してきたのである。とりわけ、キリスト教である。
 やや飛躍するが、ルネサンスとは、Media Pointにおけるイデア・エネルギーの発露であったろう。しかし、プロテスタンティズムの勃興によって、それが同一性化されたと思われる。もっとも、ルネサンス自体においても、自然発生的な連続性はあったろうが、プロテスタンティズム的な抑圧はなかったろう。近代西欧史は、この差異と同一性との争闘である。
 近代において、最初にイデア知性に近づいたのは、思うに、シェリングではなかったろうか。彼の同一性哲学と呼ばれるのは、実は、イデア知性哲学ではないだろうか。そう、シェリング以前では、スピノザとライプニッツをあげるべきだろう。また、ジョルダーノ・ブルーノ、他もあげるべきだろう。(思うに、ヘーゲル哲学は、Media Pointの原同一性を捉えているように思う。だから、観念論なのである。)
 では、端的に、イデア知性とは何か。それは、Media Pointがもつ純粋知性ではないだろうか。Media Point純粋知性ではないのか。
 同一性主義に囚われていると、イデア・エネルギーは非合理的になる。しかし、不連続化すると、純粋イデア・エネルギー=ディオニュソスになる。そして、そこに、イデア知性が生起すると思う。つまり、イデア知性とは、純粋イデア・エネルギーが内包する知性ではないのか。すると、これまで言ったのは逆に、エネルギーが知性を包摂するのではないのか。これまでは、エネルギーを包摂した知性と言ったので有る。
 思うに、純粋イデア・エネルギーとイデア知性とは同じものなのではないのか。つまり、後者はデュナミスではないのか。イデア・デュナミスである。知・即・エネルギーとしてのイデア知性ではないのか。後でさらに検討したい。

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2008年04月20日(Sun)▲ページの先頭へ
民主主義とは何か:民主主義を包摂するトランス・デモクラシーへ向けて:選挙・被選挙資格制度設置
民主主義とは何か:民主主義を包摂するトランス・デモクラシーへ向けて:選挙・被選挙資格制度設置

テーマ:自由主義・民主主義・全体主義・独裁主義

どうも、私の心の中で、民主主義に対する疑念がむかむか蠢いている。有体に言えば、私は民主主義が好きではないのである。直感では、トランス・デモクラシーがありえる。
 問題は、個・差異・特異性の価値の評価にある。封建時代は、君臣の上下関係が支配していた。身分制度である。しかし、近代は、個・差異・特異性を評価することを求めたと思う。しかしながら、それを平等という理念で表現したのだと思う。封建的上下観念に対して、平等的水平観念を提起した。
 それはそれで、歴史的意義があるのである。しかし、いったん民主主義が成立すると、今度は、本来の個・差異・特異性の価値の評価が問題になると考えられるのである。
 これは、民主主義では不可能である。何故なら、民主主義は個を平等と捉えているからである。思うに、チャンスを平等に与える点が民主主義の本来的なあり方ではないだろうか。多様な個人がいるが、それに対して、平等のチャンスを与える。これはこれで正しい。
 しかしながら、平等のチャンスを与えるのは、個・差異・特異性が発展するためである。個の可能性を開花させるためである。最初は前提として、平等にチャンスを与えるが、それは、個・差異・特異性の価値を目指してのことである。
 しかし、近代主義は、転倒していて、個・差異・特異性が発達せずに、近代的自我主義が生まれるのである。これは、個・差異・特異性を抑圧するのである。いわば、近代主義の自己否定性である。
 思うに、この時点で近代主義ないしは近代民主主義は終末をむかえたのである。そして、ここでトランス・モダンへの転換が始まるのである。
 これは、質的な転換である。近代の平等的同一性から差異性への転換である。これは、デモクラシーを乗り越えるもののように直感されるのである。だから、トランス・デモクラシーである。
 問題は、制度である。当然、民主主義制度は乗り越えられることになるだろう。では、トランス・デモクラシー制度とは何だろうか。哲学的には、差異主義、差異共振主義であるが、政治的にはどうなるのだろうか。
 差異価値のヒエラルキー(位階)がある。だから、差異価値の上位のものが指導する制度が好ましいのである。差異価値の下位の者は、差異価値認識が正しくできないだろう。
 思うに、条件としての平等性を保持する民主主義体制は維持されるだろうが、それとは別に差異価値体制が必要になるのである。それは何か。そう、トランス・デモクラシーとはデモクラシーを包摂した高次元の制度という意味にとらなくてはならない。
 やはり、差異共振主義である。これは、デモクラシーを包摂しているのである。すると、優れた差異を選択する制度が必要である。すると、当然、普通選挙は廃止となるだろう。選挙制度の差異化である。選挙・被選挙資格検定制度をつくる必要があるだろう。
 つまり、政治・経済・社会・文化教育を課さないといけないということである。その検定試験に合格したものが選挙・被選挙資格を得るのである。

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近代合理主義・唯物主義・近代的自我主義の帰結すること★トランス・キリスト教西洋文明と新霊知文明

テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義

近代主義的世俗主義の帰結が、たとえば、現代日本の末世状況である。しかし、一部少数の人には、「超克」の志向があるが、思うに、大部分(末期人)は、これまで通り近代主義的世俗主義の道を歩んでいる。いったいこの悪化は何に帰結するのだろうか。
 結局、没個の機械人間が蔓延して、携帯をやって、フリーターやニートをして、群れている世界となる。明らかに、日本は世界からは見放されて、馬鹿にされる。しかし、当人たちは、気がつかない、無関心である。
 思うに、こんな絶望的日本に私はどうしているのだろうか。生活や探求のためとは言えるが、他に積極的な理由があるのだろうか。
 思うに、私は、魂のことを言うが、東京ではほとんど絶滅状態である。魂は、東京等の大都市以外の地方の人たちに今でもあると感じている。それが、私が日本にこだわっている理由だろう。そうでなければ、私は、エクソダスして、他国に住むだろう。
 ここで、哲学的な考察をすると、結局、魂の喪失とは、西洋文明の圧力が原因である。これは、デリダが説いたようにロゴス中心主義=同一性主義=物質主義なのである。だから、どうしても、魂を喪失する。キリスト教自体が、そういう形式をもっているのである。トランス・キリスト教によって、人類の古代以前からの叡知が蘇るだろう。この叡知をキリスト教が簒奪して、歪曲してしまい、悪魔的唯物主義になったのである。
 そう、トランス・キリスト教西洋文明としての新叡知文明が生まれることになろう。
 
p.s. 思えば、ニーチェがしきりに価値転換のことを言っていたが、その通りである。キリスト教的西洋文明の物質主義的価値観から、新たな叡知価値観へとパラダイム・チェンジである。

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トランス近代日本人:米国植民地主義と売国奴権力の彼岸へ:魂知性・霊知性の教養教育

テーマ:ニッポン亡国の凶相

以下の記事から、後期高齢者負担制度の法案が小泉政権において成立したということであるが、これも、いわば自業自得ではないだろうか。
 魂知のある人間ならば、元小泉首相はパフォーマンス人間であり、誠実さがないことは直感できたはずである。私は、あの姿、あの話し方、言葉の内容(無内容ではあるが)、すべて胡散臭く感じた。それが認識できずに、投票したというのは、多くの日本人に、魂知性が欠落していること、即ち、亡魂人になっていることを証明しているのである。魂知性があれば、外見と内面との相違が認識されるのであり、外見を造っているかどうかは、直感的に認識されるのである。
 確かに、現在の後期高齢者負担制度は、弱者虐待制度で、日本は文化国家から野蛮国家へと逆戻りしたとは言える。しかしながら、元小泉首相を支持した日本人が多数いるということ自体が、野蛮国民(ダメ日本人)の証明である。日本人は、ルビコン川を渡ってしまったようだ。
 私は、賎民と知民に分けるべきではないかと思う。近代民主主義は乗り越えられなくてはならない。精神知性のない人間に選挙権を与えるのは、共同体破壊を起すのである。【p.s. やはり、近代OSを廃棄して、トランス・モダンOSへと変換することが必要なのである。今は、末法期である。トランス・モダン知性への転換期である。】
 いろいろ批判があるが、結局、近代主義が腐敗してしまったことを確認する